2 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/14 17:48
大内家が支えるために2ゲット
3 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/14 17:55
駿河今川家が一門衆として燦燦と3get
朽木スレッド乙
足利義輝様、五ノ太刀見参!
足利義尋が一色秀勝らとともに1に引き続き7もげっと!
9 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/14 18:30
忠臣蔵関連
吉良義定−吉良義弥(母は今川氏真の娘)−吉良義冬−吉良義央−上杉綱憲(吉良三郎)−吉良義周
吉良義周の死後吉良の家名は東条義叔(吉良義央の弟)の孫吉良義孚が継いだ
東条義叔の子義武、孫吉良義孚ともに養子であるが以下のとおりに吉良家の血を引いている
吉良義定−吉良義弥(母は今川氏真の娘)−吉良義冬−東条義叔(吉良義央の弟)=義武=吉良義孚−義勝−義渡−義質(義渡弟)
吉良義定−荒川定安(母は今川氏真の娘)−定昭−定由−定長−定政−定侯
吉良義定−荒川定安(母は今川氏真の娘)−定昭−柘植兄正室−柘植影正−晃正−正寔−正陽
吉良義定−荒川定安(母は今川氏真の娘)−定昭−柘植兄正室−東条義武(東条義叔養子)
吉良義定−荒川定安(母は今川氏真の娘)−定昭−柘植兄正室−柘植影正−吉良義孚(東条義武養子)−義勝−義渡−義質(義渡弟)
血統スレにも書いたけどここにも貼っときまつ
血統研究所<勝利の方程式>
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1075048855/l50
>>1 乙
ところで、京都から見て朽木谷の向こう側に居た
若狭武田家の武田義統は足利義晴の娘を妻にしてるね。
その間に生まれた元明は後に本能寺の変で明智方に付いてあぼーん。
>>8 日本史板なんか絡ませるなよ・・・それと前スレを責任以って埋めろ
日本史板の住人が勝手なことするな!
日本史厨はサッサと日本史板に帰りやがれ!!!
家康「おぬしは元綱を粗相人だと申したが 、そちの方が元綱より
粗相人であろう」
豊国「何故でござる」
家康「元綱は殿中での振る舞いで粗相があったが、先祖伝来の朽木を
守り抜いておる。しかしおぬしは”六分の一殿”と呼ばれる先
祖を持ちながら全てを失ったではないか。これ以上の粗相人は
おるまい」
豊国「まったくごもっとも。仰せの通りでござる。せめて先祖の十分
の一程の身代なりといただきたいものでござる」
家康「・・・・・・・・・・」
17 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 19:15
日本史厨は話についてこれないから放置。 足利の避難場といえば坂本城があるけどどう?
18 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/15 19:25
20 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 02:13
三戦から日本史厨を抜いたら、ゲーム厨しか残らないわけですが
21 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 18:24
細川忠興いわく「信長以降、家来の登用は出自から実力重視になった」そうだけど尾池玄蕃を召抱えてどんなメリットがあったのかね。
22 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/16 19:15
128 :世界@名無史さん :04/02/13 20:33
〜ウチとソト〜
人称代名詞は全体として
@「コ・ソ・ア等話し手からの距離で捕える言い方」
A「漢語系の貴とか拙とかの上下の扱い、あるいは人の性質を尊敬、または卑下する言い方」
漢語系による自己卑下の発想による代名詞はヤマトコトバには無い。
つまり日本語で最も古く根源的なのは、
人々が自分に近いか遠いかを軸にして人間関係を考える事。
上か下かの認識を大切にするのは漢字文化輸入による社会の階層化、
家父長的社会制度の成熟と関係がある。
by大野晋
古代漢人=皮革好み、畜肉食の遊牧民蔑視。
儒教=日本に厳しい身分差別、男性優位と女性蔑視、年齢秩序をもたらす。
韓国にも激しい差別ある様に、東アジアでの差別思想の根源は中国。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 09:04
義昭の子孫は会津藩士になったんだっけ?
戊辰戦争にも出陣したのかな?
必ず定期的に出てくる義昭さま子孫話w
義昭さんなら薩摩まで亡命したところで自殺・・・え、そっちじゃないって?
定期的・・・?
足利義嗣の子孫の話でもしますか?歴史の定期的ってことで(笑
26 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/18 17:33
>>21 高山よりは使える人物だったってことじゃないの<尾池玄蕃
足利満詮の事教えて。子孫も含めて。お願いします。
えーとね…生まれてから、それなりの人生を送って、死にました。
以上でつ。(・∀・)
29 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/19 23:34
何で義嗣の話はタブーなん?
家系が無いのか?
>>29 タブーじゃないんすよ。義嗣を祖とする鞍谷御所系図の信憑性が疑問視されてるだけなんす。
◆足利義嗣(1394〜1418)
義満次男、母は春日局。梶井門跡に入室するも父に偏愛されて退室、
応永15(1403)年2月童殿として元服前に異例の任官を受け、4月元服と同時に従三位参議に進む。
家督相続者に擬せられるが父義満の急死により実現されず、
応永23(1418)年の上杉禅秀の乱に呼応し挙兵を企てて失敗、高尾神護寺で出家、
だが捕らえられて仁和寺、のち相国寺林光院に幽閉されそこで殺害される。法号は円修院考山道純。
義嗣は謀反人ながらすぐには殺害されず、しかも出家した将軍が号する「道」の字を持っていたことからも、
義持にしては寛大な処置を義嗣に与えてたんでしょうね。
「看記」1月24日条には、放火脱出を謀るが失敗して殺されるとあります。
ちなみに鞍谷系図にはこの義嗣が脱出に成功して越前に逃れその子嗣俊が鞍谷を称すことになってますが、
当時、というか一貫した親幕府体制を敷いて越前に君臨した斯波家ならびに
それを拠り所に在地支配を強化していった守護代以下のいる越前に、
後ろ楯のない義嗣が容易に受け入れられたかは甚だ疑問ではあります。
そしてなにより、義嗣の話をすると自然に
我ら朝倉スレッド残党が集まってしまうという・・・
>>30 義嗣がらみでは、前スレッドに越前鞍谷以外にもなんか出てたような・・・
>>29 とにかく「義嗣の末裔で云々と出たらかなり怪しい」と理解してください。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/20 04:09
細川藤孝の実家の三淵氏はどうですか?義持の子孫という説もあるらしいですが。
>>30-31 そろそろ斯波スレ立てません?
>>31 幸手一色家のことでは?
ちなみに幸手一色家の場合は義嗣or義量と言われているが、いずれにせよ
胡散臭い話ではある。
斯波は名門シリーズ3でやろうよ
35 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/22 18:28
再チャレンジ!!
足利満詮の事教えて。子孫も含めて。お願いします。
自分で調べろ
>>31 残党らしく史板にでも逝きますか(ゎ
>>33 需要があればね。んで義嗣の子として文献に見えるのは清欽(修山)と梵修(香厳院)すケド、
名前以外に資料がないのでなんとも。。。
>>35 たぶん知ってると思いますが、基礎史料として続群書類従から足利満詮を逝っときます。
永和二年正月八日従五位下。康暦二年二月十八日左馬頭。至徳四年正月六日従五位上。
嘉慶二年十二月十二日従四位下、左兵衛督。応永九年正月六日正四位下、同三月二十八日三木。
八月二十一日従三位。同二十二日辞三木。同十年六月十四日権中納言。同十二月三日権大納言。従二位。
七日出家。号道智。二十五年九月十四日薨。贈左大臣。従一位。号養徳院。道号勝山。母同義満。
んで子に義運、持弁、義賢、持国、義快などいますが全て僧籍っす。
ではオヤツミー。。。
>>37 んじゃあ、近いうちに斯波スレ立てます。
当然、荒れるとは思うけどね。
斯波スレ立てたら、二度と立ち直れないくらいボコボコにします。
通報も聞きませんよ
40 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 00:12
>>37 サンクス。子は全員僧か。子孫はいないのか。紛争の元になるので強制出家させたな。
僧籍だからといって子がないとも限らず・・・
僧籍になっていたからといって還俗しないわけでもなく。
義昭だって・・・
42 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 21:46
義輝様の遺品が、テレ東に!
43 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 21:50
えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!
義輝ぅぅぅぅぅ!見ればよかったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
45 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 21:52
どうせ、義満あたりだろうと思って見て無かった……鬱だ。
>>43 この前、ヤフーに普通に売ってたよ
真贋は知らん。15000円くらいだった
権威が凋落した時代に
朝廷を守る将軍家の関係が機能してたんだな
皮肉なものだ
48 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 21:59
あの親父欲かきすぎ
49 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 22:01
そもそも、戦国マニアでもない限り、足利義輝なんぞ興味の対象にしかならないだろ……
精、一般人がありがたがるのは、尊氏か義満だけだろ
50 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/24 22:26
>>49 まあ、それはそうかもしれないけど、義輝の書には感動しました。
永禄元年の末、京都に戻ってきて以来の義輝は、天皇即位の儀式を取り行ったり、
小正月の左義長の儀式を復活させるなど、率先して朝廷の儀式を復活させていくことで、
幕府や自身の権威を高めていったと言われています。
もしかしたら、この書状も、そういった義輝の政治姿勢を傍証するものと言えるかも知れません。
いつまで残っているか、わからないし、画像も小さいけれど。
開運! なんでも鑑定団
http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/last_week/last_week0224/last4.html 足利義輝の書
鑑定依頼人 祝部 禧丸さん(滋賀県)
エピソード 依頼人のお宝は家に代々伝わるもの。依頼人の先祖は、
室町から戦国時代にかけて瀬戸内海一帯を支配した村上水軍の大将で、
依頼人が10年程前まで住んでいた家は、現在大津市の指定文化財なっているという。
家には目を見張るようなお宝が多数伝わっているが、その中でも重要文化財クラスだと
思っているお宝を是非鑑定して欲しい。
本人評価額 \5,000,000
鑑定士総評
お宝は、室町幕府十三代将軍足利義輝の手紙、本物に間違いない。
義輝は30歳で死んでいるので、ものそのものが少なく珍しい。
実務担当の専門の武将が書いたものに将軍が決裁を発給したもので、
花押だけは将軍が書いていることに間違いない。内容は、天皇が宮廷の
財政逼迫を何とかして欲しいと依頼してきたことに対する返事で、
このことは宮廷の女房の日記にも記されている。250万という値段は、
歴史的資料としては高い評価だと思う。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 04:30
祝部氏っていう水軍大将いたっけ?
ただ戦乱の世ゆえ、義輝にも限界があり、
朝廷の求め全てにこたえることもかなわず、
たとえば内裏の宮殿を修築することなどは、
できなかったようではありますが。
「内裏はもはや以前のように人々から服従されてはいないが、
全日本の絶対君主である。その宮殿は古く、ひどく破損していた。
というのは、先代の公方たちは、それを新築することに尽力せず、
御所のことにはほとんどまったく気を配らなかったからである。」
中公文庫 完訳フロイス日本史1 織田信長編I
「将軍義輝の最期および自由都市堺」松田毅一 川崎桃太訳
第一九章(第一部五八章)
「都の市街、およびその周辺にある見るべきものについて」
なお、この「日本史」の第一部七七章には、将軍義輝が戦死した後、
三好三人衆、松永久秀、篠原長房らのあらそいによって、
天下の情勢がますます混迷し、
内裏も、よりいっそう荒廃していった様子が描かれています。
「内裏は従臣たちが皆異教徒であるために、
彼らからまったく服従されもせず畏敬されてもいない。
それゆえ、その宮殿の中庭、広場、庭には樹木と雑草が生い繁るに至った」
「伴天連たちが都から追放された後、敵は都に進入し、
その地を破壊し、内裏の境遇は日々没落を深めつつあるのである」
中公文庫 完訳フロイス日本史2 織田信長編II
「信長とフロイス」松田毅一 川崎桃太訳
第二十九章(第一部七七章)
「司祭を都へ連れ戻すことに関して翌(一五)六八年にさらに生じたことについて」
55 :
無名武将@お腹せっぷく:04/02/27 11:47
>>54 関係なさそうだね。
自称海賊の末裔ってところだね。
>>53 義輝様は耶蘇教の保護に熱心だったんだな。
本願寺と将軍家との関係は大丈夫だったのだろうか?
フロイスの日本史だけを読む限りでは、
この当時、京都のイエズス会に対して、もっとも反感を抱いていたのは、
もちろん本願寺もですが、どの宗派よりも法華宗のようです。
1536年の天文法華の乱などで、京都から追放されるなど、ずいぶん力を失っていたとはいえ、
1560年代にはいると、すでに京都への帰還を許されていたことや、
町衆や松永久秀の支持を受けていたことなどもあって、かなり勢力を回復し、
また法華の乱では、叡山や一向宗など他の宗派との争いに敗れたこともあって、
どの宗派よりも、よそ者に対する警戒感を強めていた時期なのかも知れません。
法華宗を含めた仏教徒たちが、「彼らを都から追放してほしい」と義輝に訴えたとき、
義輝は「彼らは頼るものがなにもない異国のもので、とくに私を頼ってやって来た。
なんの罪もない彼らを追放することは私の名誉が許さない。
汝ら自身で、彼らとの討論会を開いて、彼らをうち負かしてはどうだろう。
汝らが勝てば、汝ら自身の力で彼らを追放するのは、たやすいことだろう」と回答。
法華宗の人々は、この回答に対して、とくに議論しあい、
将軍がそう言ってくださったのだから、さっそく公開討論会を開こうという意見もあったようですが、
結局、万が一やぶれては失うものがおおきいと、実行されなかったそうです。
(日本史第一部二九章)
ただ義輝とキリスト教については、
そこまで仲が良かった、というわけでもないようで、
「僧侶たちもキリスト教を激しく憎んでいるようなので、
そうなると自分にも不慮の出来事が起きかねないから、あまり訪ねてこないでほしい」
とも彼らに告げているようです。
このときはまだ存命だった政所執事の伊勢貞孝が、
「殿下はすでに、バテレンと二度もご引見なさったのですから、いま会うのをやめては、
彼らの本国では殿下に対してよい印象を持たないでしょう。
むしろ彼らの身分は位の高い仏僧にもおとるものでもないのですから、
回廊よりは、殿ご自身のお部屋でご引見なされるべきだと存じます」と、とりなされています。
(日本史、第一部三五章)
この数年後、伊勢貞孝は松永久秀と戦い、親子ともども討死してしまいますが、
イエズス会と義輝の関係自体は、これ以後、義輝が死ぬまで比較的良好だったそうです。
これを読む限りでは、義輝の宗教に対する政治姿勢は、
特定の宗派に肩入れすることなく、どの宗派とも一定の距離をとって、
むしろ彼らの争いの仲介者として振る舞おうとしていたのかも。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/03 10:20
html化記念
62 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/08 11:52
63 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/14 21:08
本家の意地を見せるあげ
64 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/15 23:11
このスレ=鞆幕府のようだ。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/16 15:11
武田信景って若狭の出身?
だれだそれ?信方なら若狭だが
67 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/17 03:41
信景って義昭の近臣だろ?
68 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/26 04:20
桃井直常は「なおつね」?「ただつね」?
69 :
無名武将@お腹せっぷく:04/03/29 05:26
斯波義銀の子に津田監物義忠がいるというのは本当だろうか?
津田監物っていうと根来衆みたい。
>>71さん、また保守AGE同然の苦しいネタ振りですか?
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
71 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/08 22:04
70 :無名武将@お腹せっぷく :04/04/05 17:52
>>71さん、また保守AGE同然の苦しいネタ振りですか?
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
72 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/09 23:28
ニセ公方よりスレが久しぶりに上がってると思ったらあらら。一気に浮上だぜ。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:04/04/24 22:36
あげます
見苦しいね、ネタもないのに
>>57-59 遅レスのうえに自己レスだけど、法華宗と足利義輝の関係について。
上杉本洛中洛外図は、足利義輝が狩野永徳に依頼して、制作させたという説があるのですが、
この説を提唱した瀬田勝哉たんの論文
『公方の構想 ──上杉本洛中洛外図の政治秩序』(平凡社『洛中洛外の群像』収録)には、
「そもそも上杉本では法華寺院の描写が目立つ」
(法華宗の有力寺院である)「本国寺などは五山の一つ相国寺に次ぐスペースがさかれ」
「上杉本では寺院の描き方という点で法華に対する親近感を感じとることができた」
などの指摘があります。
この洛中洛外図を制作させたのが本当に将軍であるかどうかは、わかりませんが、
この説が正しいとするならば、ここまで洛中洛外図のなかで重要視されている法華宗とは、
(法華宗の有力檀家であった)松永久秀とともに、
幕府の体制内になんとしてでも取り込んでおかなければならない対象と、
将軍は見なしていたのかもしれません。
かつて、天文法華の乱以前、法華宗は京都で大きな力を持っていました。
そのころ幕府は、法華宗の協力を取り付けることで、
彼ら信徒を大量の兵士として動員することを可能としたこともあったので、
もしかしたら将軍は、今一度そのような事を考えていたのかも知れません。
法華宗徒の動員と、天文法華の乱に至る流れにいては、下のレス。
堺公方〜阿波(平島)公方について語るスレ
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1071404950/299-305n
お、長文レスの が だ。いい加減、文章を纏める能力を(ry
長いわりには、肝心な箇所を書き落としているなど、
文意が判りにくいところがあるのも難点。
室町関係の番組みつけたから、これもリンク。
再放送は、今日の20時からNHK教育。以下は消えないうちにNHKのサイトから。
http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0502.html#04 新日曜美術館
「足利将軍の栄華を映す
〜東山御物の南宋絵画」
前9・00〜10・00
日本人の中国画愛好は、際立って南宋画に集中する。15点もが我国の国宝に指定されているほどである。
西湖を望む臨安府(現・杭州)に都を定めた南宋は、旺盛な経済活動を背景に、個性の自由な発露としての理想主義が台頭し、中国絵画史上特筆すべきほど、優れた画人を多数輩出した。李唐、馬遠、夏珪、梁楷など。
鎌倉時代後期から、禅林を中心とする日中交流の中で、唐物と総称される、水墨画や茶道具などの美術品への嗜好熱が高まっていく。14世紀末には、足利将軍義満によって、高級唐物は将軍家で集中管理され、「東山御物」と呼ばれる膨大なコレクションを形成する。
一方、室町時代から寄合の時代が始まる。行幸のような公式儀式から、身内での茶会まで、大小様々なイベントが催され、会場の飾りに趣向がこらされた。その目玉は南宋画などの唐物であり、日本人独自の評価が生み出され、定着していく。
牧谿、玉澗は、中国でのさほどでもない評価にもかかわらず、日本では、圧倒的な人気を呼び続けているのはなぜか? 南宋画と日本人の美術嗜好との特異な関係などを、茶の湯や禅などの文化背景から探っていく。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:04/05/16 10:41
阿波公方スレに勢いがなくなったのにこっちは、さらにだめになってる。