>>304 取りあえず一向宗の蜂起は1532(享禄5)年な
まー晴元と元長、義宜は厳密に言うと政敵というわけではないんだけどな
義宜の木沢長政に対する個人的な派兵に晴元が首を突っ込んでくるわけだから
まあ、この時点で長政が京兆被官となっていたと言えばそうかもしれんが・・・
1)享禄4年8月の畠山義宜、三好勝長らによる木沢長政の飯盛山城攻撃
2)晴元による畠山軍駆逐、さらなる攻撃を細川持隆に止められる
3)翌年享禄5年、柳本神五郎殺害、義宜への関与を晴元に疑われ元長出家
4)3月、元長の許しを得るため、持隆が晴元に陳述。が、晴元は拒否
5)持隆、これに怒って阿波に帰国。元長の有力な後ろ盾が消える
6)5月、義宜、勝長による第二次飯盛山城攻め。(元長関与?)
7)6月5日、晴元、木沢救援を決意、一向宗に協力を要請
8)15日、門徒二万、畠山軍を駆逐。義宜、勝長戦死
8)20日、門徒(10万とも言われるが・・・)堺顕本寺へ。元長戦死。足利義維は脱出
細川持隆が帰国することがなければ、あるいは門徒の蜂起はなかったかもな
やっぱ鍵は木沢長政か