堺公方〜阿波(平島)公方について語るスレ

このエントリーをはてなブックマークに追加
>>294
三好元長が死ぬあたり調べてみ
一向宗の蜂起が天文法華の乱につながるわけで、宗教戦争の様相を呈する
まあそこには晴元や木沢やらの思惑が多分にからんでいるわけだが
高国がマズったのは畿内国人衆を敵に回してしまったことだな、やっぱ
柳本なんかも後に対立するとはいえ元長やらの阿波勢と組んだんだもんな
畿内を押さえていくうえで畿内国人衆を敵に回すのはやっぱり厳しいと思われ
301無名武将@お腹せっぷく:04/03/02 23:11
足利・細川同族争いに六角・畠山・三好が絡み、
本願寺まで出てくるとは・・・。
国人衆も油断できず。大和の旧仏教派も怪しい。
益々、混乱の畿内情勢、複雑すぎ。
302無名武将@お腹せっぷく:04/03/03 15:12
本願寺も当初は直接的な軍事介入を避けていたよね。
>>298
専修寺の刺客キター!!





関東という”地方”で盛り上がってても、それは中央には関係なのです。
とかいって鎌倉公方がたに喧嘩売ってみたりして。
304無名武将@お腹せっぷく:04/03/03 16:36
細川晴元に踊らされた?一向宗門徒、法華衆信徒と、比叡山の三つ巴の争いだよね。

1)大永2年(1522年)6月、細川晴元が政敵である畠山義宣、三好元長を排除するため
  に本願寺の証如光教に迫り、一向宗門徒を動員させた。
2)勢いづいた一向衆門徒が各地で蜂起し、在地権力を脅かすようになったため、これに
  恐れを抱いた晴元は天文元年(1532年)8月、京の法華衆信徒を動員して一向宗の
  拠点・山科本願寺を攻撃させた。
3)山科本願寺を攻撃して勝利を収めた法華衆信徒は京において独自の自治権を掌握
  するようになるが、このような動きが領主や他宗との対立を生じるようになる。
4)晴元は法華宗の拡大に危機感を覚え、同じく法華衆に反感を抱いた比叡山の協力を
  得て、さらに三井寺や興福寺、本願寺にも協力を求めて法華衆包囲網を構築。
5)天文5年(1536年)7月に晴元方の六角軍、比叡山の軍勢が攻撃を開始し、この戦い
  に完敗を喫した法華衆信徒は京から泉州堺に逃れる。
6)天文16年(1547年)、法華宗信徒は六角定頼の斡旋で京に戻ることを許されたが、
  拠点である妙伝寺の破却、比叡山など山門に対する銭一万疋の上納、毎年3月の
  日吉神社祭礼料足の追納など、3ヶ条を約束させられ、京における勢力を完全に削
  がれることになった。

大体、こんな流れかな。
305無名武将@お腹せっぷく:04/03/03 18:18
>>304
取りあえず一向宗の蜂起は1532(享禄5)年な
まー晴元と元長、義宜は厳密に言うと政敵というわけではないんだけどな
義宜の木沢長政に対する個人的な派兵に晴元が首を突っ込んでくるわけだから
まあ、この時点で長政が京兆被官となっていたと言えばそうかもしれんが・・・

1)享禄4年8月の畠山義宜、三好勝長らによる木沢長政の飯盛山城攻撃
2)晴元による畠山軍駆逐、さらなる攻撃を細川持隆に止められる
3)翌年享禄5年、柳本神五郎殺害、義宜への関与を晴元に疑われ元長出家
4)3月、元長の許しを得るため、持隆が晴元に陳述。が、晴元は拒否
5)持隆、これに怒って阿波に帰国。元長の有力な後ろ盾が消える
6)5月、義宜、勝長による第二次飯盛山城攻め。(元長関与?)
7)6月5日、晴元、木沢救援を決意、一向宗に協力を要請
8)15日、門徒二万、畠山軍を駆逐。義宜、勝長戦死
8)20日、門徒(10万とも言われるが・・・)堺顕本寺へ。元長戦死。足利義維は脱出

細川持隆が帰国することがなければ、あるいは門徒の蜂起はなかったかもな
やっぱ鍵は木沢長政か