1 :
名無しさん@社会人 :
2006/07/22(土) 23:17:17 続きです
2 :
名無しさん@社会人 :2006/07/22(土) 23:18:25
2をget!
3 :
前スレ :2006/07/23(日) 01:55:15
日本社会を見たことも経験したこともない過去の遺物の概念が、 社会学で生きていることが、社会学にとっての不幸だ。 ヴェーバーはいらない。過去の人だ。 君自身が現代日本を見て判断しろ。それが正しい。
5 :
名無しさん@社会人 :2006/07/25(火) 00:09:26
ヴェーバーは(その理論体系が)未完成だから魅惑的なのだ。 それを補完し、再構築する責任は、21世紀のヴェーバリアンに 課せられている。解釈学だけではダメ。 明日の‘誤謬’に向かって進め。(風車に突進せよ〜満身創痍なろうとも) 誤謬は真理に近づく一里塚。
6 :
名無しさん@社会人 :2006/07/26(水) 00:31:13
名無しさん@社会人 age
7 :
名無しさん@社会人 :2006/07/26(水) 00:38:32
1864年、Mヴェーバーはエルフルトで生まれた。母の母乳の出が悪かったので、 近所の社会民主党員の奥さんから乳を貰った。 大きくなってヴェーバーが何かにつけて国民党(ビスマルク)に反旗を翻したのは、 赤子の時、社会民主党員の母乳を飲んだからだといわれている。w
8 :
名無しさん@社会人 :2006/07/26(水) 05:10:58
何で前スレ落ちたの?
9 :
名無しさん@社会人 :2006/07/26(水) 18:58:33
↑確かにあと11残ってたのに。
10 :
Z :2006/07/28(金) 20:23:17
これからもよろしく。
980越えで自動的にdat落ち。
12 :
Z :2006/07/29(土) 21:20:20
大塚久雄博士は、マルクスのいう「生産のみが‘価値’を創造する・・・」に、あまりにも 執りつかれ過ぎ。 ヴェーバーがVorbemerkunngで「近代的経営産業資本主義」と言ったのは、 マルクス=「生産のみが‘価値’を創造する・・・」とは何の関係もない。 大塚氏は、その点を誤解しているのではないか?
13 :
Z :2006/07/31(月) 11:19:31
↑もっとも、ヴェーバー+マルクス=大塚史学だ、というのならそれでよいが・・・。 でも、どうも無理があるように思う。
14 :
名無しさん@社会人 :2006/08/01(火) 16:07:16
まあそれはわかる。 ヴェーバー+マルクス=折原でしょ
15 :
Z :2006/08/04(金) 23:59:11
ニヒリズムにつて ヨク悲観的なことや否定的なことをペチャクチャしゃべる人を、 あの人はニヒルな人や・・・と云う。果たしてそうか。 そうではない。 その否定・悲観を Dennoch(それでもなお〜あえて) 「受けいれる」のがニヒリズム である。ニヒリズムと実存主義は楯の両面である。 ヤスパースはヴェーバーを‘実存的人間’として観ている。 ハイデッガーのいう預言者不在・神の不在を“dennoch” 受け入れる〜 それがニヒリズムであろう。イチぬーけた!〜などはニヒリズムとなんの関係もない。 ニヒリズムの克服は、先ずそれらを受け入れてからの問題である。あるいは それを受け入れるのが克服なのか? 『プロ倫』の最終に書かれているのは、そのニヒリズムである。
16 :
名無しさん@社会人 :2006/08/10(木) 23:33:13
問題になるもならないもニヒリズムなんてもはや問題にすらなってないでしょ
17 :
Z :2006/08/11(金) 01:29:08
↑坂口安吾の『堕落論』でも読んでみろ。 (1946年〜昭和21年のわが国の世相をイメージして) “戦争に負けたから堕落するのではない。人間なるが故に堕落するのだ・・・” “堕落するなら、とことん堕落せよ。そこから何かが見えて来るだろう〜” (安吾説) これも一種のニヒリズムの受容であり、ニヒリズムの克服である。
18 :
Z :2006/08/11(金) 01:41:41
終わりなき日常を生きろ”(宮台真司) これもニヒリズムか 〜なにが真で、なにが偽かわからない この世の中(日常)を生きぬく事。 ちなみに云うと、イスラム教では「この世〜現世」を‘偽りの世’と、している。 (『バーブル・ナーマ』参照)
安吾を語る社会学者っているの?
20 :
Z :2006/08/12(土) 08:16:07
↑ 私だけです。 人が言っている事をペチャクチャ言うより、己がこうだ、と 思った事は、自己の責任において堂々と述べることです。 こんな事言ったらバカにされるだろうとか何とか 思って、クヨクヨして エライさんの言っている言説ばかり並べている学者先生が 日本には多い。 ナサケナイ
ちなみにそれは学問ではないよ。
22 :
名無しさん@社会人 :2006/08/14(月) 19:33:56
彼についてレポートかかにゃならん。むずい…
23 :
Z :2006/08/14(月) 22:03:04
ヴェーバーは『プロ倫』の最後にいろいろ書いているが、 注目すべきは‘人文主義的合理主義(Humanistiche Rationalismus)’であろう。 ニヒリズム克服には、これしかないだろう。 ちなみに云うと、マリアンネ・ヴェーバーは『M・Weber〜Ein Lebens Bild』で、 夫はハムレット型でなくドン・キホーテ型だといっている。
24 :
Z :2006/08/14(月) 22:24:39
最近、映画『バルトの楽園』が上映された。内容はご存知だと思います。 亀井勝一郎という文芸評論家が、第一次世界大戦終結後すぐ、ドイツへ行って Mヴェーバーに会っている。そのとき、ヴェーバーは亀井に対して、 「今次大戦での、日本軍のドイツ軍捕虜への処置が、‘騎士道精神’に適っていた」 ことに対して心から礼を述べたそうです。(住谷一彦氏談) ヴェーバーには、根底に騎士道がある。これはカソリックの産物だが・・・
25 :
Z :2006/08/18(金) 19:08:52
ニーチェの「永劫回帰」は、勿論ニヒリズムである。それは歴史でなく、無歴史 である。ヴェーバーはそれには賛同しなかった。
26 :
Z :2006/08/21(月) 22:44:11
ステファーヌ・マラルメの詩に『骰子一擲』(トウシイッテキ〜サイコロひとふり)がある。 “骰子一擲 いかで偶然を廃棄すべき” これは反語で、‘偶然は廃棄すべきでない!!’といている。 ところで、マルクスは、歴史に一元的必然論を持ち込んだ。(ダーウィン進化論からヒントを得て) 「原始共産制→専制主義→封建主義→資本主義→社会主義・共産主義」である。 上記では、マルクスは「資本主義→社会主義・共産主義」の必然を主張するために、全人類の歴史を必然化した。 すなわち、「資本主義→社会主義・共産主義」とアンサーが出るような数式=方程式を逆算したのである。 それが史的唯物論として一世を風靡した。 ヴェーバーは歴史に‘偶然’を認める。運命的とか逆説的というのがそれである。 善→悪、悪→善を認める。「善が善を生み、悪からは悪しか出てこない」というのは幼稚な考えである…と、言っている。 (『職業としての政治』) 運命的・逆説的の代表は『倫理』(プロ倫)であろう。
27 :
Z :2006/08/21(月) 23:01:26
ヴェーバーの著作の読み方。これは色々あるだろう。 以下に述べるのは‘邪道’であるかもしれないが。 『倫理』では、先ず最後の結論(大塚氏の翻訳最後の数頁)を読む。 そして、最初から読み進んでもう一度、最後を読む。 大塚・生松訳『宗教社会学論選』は、全ヴェーバーの結論であるから、彼の諸著作 を読んでから読むべきものであろうが、そこのことを念頭において『論選』をよめばよい。 ヴェーバーの主要著作は、この邪道的読書法も効果があるだろう。 これは何といわれようが、私の読書法である。
28 :
名無しさん@社会人 :2006/08/22(火) 06:03:47
コーランの読み方に近いな
なんのこっちゃw
30 :
Z :2006/09/04(月) 21:35:57
今日9月4日、日本経済新聞に、香西 泰 氏が「歴史の教訓〜次期首相、試される指導力」 を執筆している。読まれた方もあるでしょうから、内容は省きます。 ヴェーバー『職業としての政治』の現在日本への適応です。 “今の日本に響くヴェーバーの声”として、カリスマ的指導者と非カリスマ的職業政治家 を対比しています。 解説じゃなくして、私なりの補足を致します。 *第一次大戦の講和条約については ケィンズ『講和の経済的帰結』 (「ケィンズ全集」:東洋経済新報社にあります) 必読。 *香西氏はカリスマ的指導者の代表として、19世紀の英首相グラッドストーン を挙げていますが、19世紀後半に2大政党制を作ったのは彼とディズレィリーです。 伝記『ディズレィリー』灘尾弘吉監訳(旧:大蔵省印刷局出版)があります。必読。 ディズレィリーは、英国で唯一のユダヤ系首相でした。 19世紀の宰相では、英:ディズレィリー、独:ビスマルク、仏:タレランです。
31 :
Z :2006/09/04(月) 21:57:36
Mohr(Paul Siebeck)書店 日本の岩波書店に相当する。チュービンゲン市 第5版 M.Weber全集を全部で3,000部刊行中、その内2,000部を日本が購入。 因みに云うと、ドイツ国内では600部、残り400部を全世界の学術機関・個人が購入。 1919年、この書店の2F会議室で、約200人を前にしてM.ヴェーバーが 『職業としての政治』を2日間に亘って講義した。聴衆は震え上がったそうです。 その聴衆の一人に、K.シュミットがいました。
32 :
名無しさん@社会人 :2006/09/05(火) 18:29:29
>Mohr(Paul Siebeck)書店 日本の岩波書店に相当する。チュービンゲン市 第5版 M.Weber全集を全部で3,000部刊行中、その内2,000部を日本が購入 ソースは?
33 :
Z :2006/09/05(火) 22:06:37
>第5版 M.Weber全集を全部で3,000部刊行中、その内2,000部を日本が購入 未来社のPR雑誌『未来』に載ってたよ。もう何年前になるかなァ。 そのすじの人は、皆ヨク知ってるよ。
35 :
Z :2006/09/07(木) 21:15:10
↑Thanks !!
36 :
名無しさん@社会人 :2006/09/23(土) 03:04:37
>第5版 M.Weber全集を全部で3,000部刊行中、その内2,000部を日本が購入 全部で3000冊ということはないから、これは全冊購入予約3000セットということだろうけど、 一冊2-3万する本を50冊くらい十数年に渡って購入するのは大学、公立図書館だろう。 しかし、日本に2000機関も全冊購入するところがあるだろうか? nacsisで調べると所蔵しているのは200機関くらいしかない。 全冊購入でも一冊購入でも同じ1顧客とカウントして、全顧客中での割合なら わかるわけだけど、そうなると、他があまりに少ない。 日本からの購入が多いことはまちがいないが(大学と名乗る学校が多い)、 この数字はおかしい。 >未来社のPR雑誌『未来』に載ってたよ。 だいたい、なんで日本の未来社がドイツの出版社の顧客名簿を見れるのか?
37 :
名無しさん@社会人 :2006/09/23(土) 03:07:38
>> その聴衆の一人に、K.シュミットがいました。 だれそれ?
38 :
名無しさん@社会人 :2006/09/23(土) 03:36:39
これだな。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Current%20Significance%20of%20Weber 's%20Problem.html
>> ウェーバーの重要性は、しかし、ある意味で日本における
社会科学の特殊性に根差している。それは例えば、一九八四年
以降の新しい『ウェーバー全集』の初巻の約三分の二が、日本に
おいて購入されたという点からもうかがえる。残りの三分の一は
他の国々において購入されたのであろうが、ドイツ本国で購入された
『全集』の量は、全体の六分の一にも満たないかもしれない。
とすれば、極めてドイツ的であると思われているウェーバーの世界は、
実際にはドイツよりも日本で受容されたのであり、日本のウェーバー研究は
>>現在、世界的にみて最高水準に達しているとも考えられる。
もとの文章でも、根拠が示されていない。
第一冊目のある時点での売上げ、あるいは予約の2/3が日本であったと
しても、最終的な売上げとは違うし、1984年の時点で刊行を知っていた人に
日本人が多いというだろう。だいたい内訳にドイツ国内が入っているのかもはっきりしない。
筆者は購入が多かったことから、日本のウェバー研究水準が高いなどと
言っているが、意味不明であり、こういうやつの言うことは信用できない。
プロ倫のできの悪いパロディみたいな文章だな
40 :
Z :2006/09/23(土) 10:10:13
>>37 Kシュミットはカール.シュミット(1888〜1985)。
ドイツの政治学者。一時、ナチスに加担した。
詳しく言えばキリがないが、Mヴェーバーのパトス
を受け継いだのではないか?(エトスを受け継いだのは
Kマンハイムだろう)
2ちゃんねるに、Kシュミットのスレが一つぐらいあっても
良いのではないか〜と、思うぐらいだ。
*ヴェーバーとナチスの間…
ヴェーバーは1920年に亡くなっているが、もし
もう10〜15年生きていたら、どうだったろうか?
日本のエライさん達(M.Weber関する)は、「ヴェーバーがもう10年
生きていたら、ドイツにナチスは勃興しなかったであろう」と、
言っていた。
41 :
名無しさん@社会人 :2006/09/23(土) 21:00:32
42 :
名無しさん@社会人 :2006/09/23(土) 21:04:22
43 :
Z :2006/09/24(日) 01:26:59
>>40 そうだった。Carl.Schmittだった。スマソ。
私が、学者でいわゆる「頭の良い」(外の点は別として)人物だと思ったのは、
わが国では 本居宣長
外国では、C.シュミットとJ.R.ヒックス。
J.M.ケィンズやM.ヴェーバーは、先ず急所を突く。そこから問題を拡げていく。
F.ブローデルやW.ゾンバルトは、広く大きく囲う。そして問題を絞っていく。
シュミットは明快で解りやすく、アレッ!! という論理を展開する。
惜しい学者だ。ホッブスと同じく、一時期人生に躓いた。
彼らをもっと究明しなければ、「民主主義とは何か」が解らないと思う。
マキャヴェッリもそうだ。
ヴェーバーの『職業としての政治』は、『君主論』を念頭にしたものだ。
構成が同じだから。
民主主義とは、口当たりの良い甘口のワインでなく、辛口のそれだ。
44 :
世界@名無史さん :2006/09/24(日) 01:41:04
Cシュミットは民主主義を否定はしていない。 無邪気に(Mヴェーバーの常套句)民主主義を振り回す輩を 批判しているのだ。
45 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2006/09/24(日) 22:43:49
>>40 Kシュミットはカール.シュミット(1888〜1985)。 ドイツの政治学者。一時、ナチスに加担した。詳しく言えばキリがないが、Mヴェーバーのパトスを受け継いだのではないか?(エトスを受け継いだのはKマンハイムだろう)
なるほど、そうですか?
私はKマンハイムに私淑しているので、その代表的コンセプトの「第三の道」をスレッドに立てたのですが、寂れています。
ぜひご参加下さい。皆様。
46 :
世界@名無史さん :2006/09/24(日) 23:37:37
質問です。 ヴェーバーの弟、A・ヴェーバーの本って邦訳されてますでしょうか? ご存知でしたら教えてくださいm(__)m
48 :
Z :2006/09/25(月) 01:28:59
Aヴェーバー『文化社会学』(B6版173p)昭和33年刊:創文社(絶版) 経済地理では必ず出てくるが、一般には兄に隠れて損をしている。 この二人は、仲が悪かったそうである。 Aヴェーバーは、兄がなれなかったハイデルベルヒ大学の総長にもなっている。 1958年、90才で没。 彼はゾンバルトやマリアンネと同じくノン・ナチス(アンチ・ナチスではない)であった。 だから、第三帝国で生き延びた。
49 :
名無しさん@社会人 :2006/09/25(月) 10:32:34
感謝です!
50 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2006/09/25(月) 10:43:12
51 :
Z :2006/09/27(水) 21:05:27
ヨク「うちの親父は保守的だ」とか「わが社の社長は保守的だ」とか云う。 “保守”というコトバを、一般にはこのような幼稚なレベルで使っている。 保守とは‘擁護する’に較べて、もっと強い印象を与える。 民主主義を擁護する・自由を擁護する〜などより、保守は もっと積極的な行動=行為である。 積極的に擁護=保守するためには、 その時代に応じるよう、改革・改良しなければならない。 資本主義経済〜市場経済を擁護〜保守するためには、 その時その時に適合するよう、飽くなき改革・改良を継続する必要がある。 その一つが技術革新。Fブローデルは、「産業革命は今でも続いている。 もしそれが止まったら、資本主義は崩壊するであろう」とい言っている。 それに市場の改革などなど。保守とはシンドイものだ。 それに比べたら、西欧にしろ日本にしろ社会民主主義は、 いまでは既存の「福祉政策」にただしがみつき、現状維持を主張するばかりだ。 どちらが保守で、どちらが革新か主客転倒している。
52 :
Z :2006/09/28(木) 18:43:05
「第三の道」の根幹は‘結果の平等でなく、チャンスの平等’と観てよいでしょう。
日本ではプロテスタントの香具師を 思い上がらせる効果しかない学者。
何をいまさら。ソチニ派への弾圧は有名な話だろう。
56 :
Z :2006/09/28(木) 21:59:16
昭和35年安保条約成立後、岸内閣は退陣し、池田内閣が成立した。池田は「所得倍増」 宣伝した。10年後国民所得は倍増どころか、3〜4倍になった。しかも、 所得格差は縮まった。これが後に「国民総中産階級」という共同幻想を生んだ。 一方、今の中国は高度成長したが、それは分配なき成長である。日本とは逆に、格差が 増大した。「水・土・空気・火=エネルギー」の四大元素の環境破壊、汚職の蔓延は、 日本の高度成長期のそれと桁違いに大きい。結果の平等を標榜する共産主義社会の パラドックスである。チャンスの平等を無視〜軽視したからだ。
57 :
Z :2006/09/28(木) 22:52:02
「結果の平等」と「チャンスの平等」を両方とも達成したら良いではないか、という 無邪気な御仁が多い。これこそタチの悪い、床屋談義政治家〜政治評論家である。 Mヴェーバーが最も嫌った種族である。 騙されるな! そんな連中に限って “何事も話し合いによって〜人道主義の立場に立って〜民主的に…”と云う。 アホカ!! ヴェーバーが云う“職業としての政治”の職業は「プロ意識」を持った者のことだ。 プロ野球選手などなどの如く、冷めた情熱・責任観念・先見能力を持った者である。 *出版社:創文社のPR雑誌「創文」9月号に、小林盾「学歴かコネか」が載っている。
59 :
名無しさん@社会人 :2006/10/03(火) 03:10:26
中2病
日本では米帝の日本支配に 貢献する効果しかない学者。
61 :
Z :2006/10/04(水) 00:38:34
↑ベルリンの壁崩壊以前の発想。
62 :
名無しさん@社会人 :2006/10/04(水) 01:57:50
田舎学生の中2病
いいから黙ってドイツ語で論文書いてろ
64 :
名無しさん@社会人 :2006/10/15(日) 10:48:38
ユダヤ人と経済について書いた社会学者いないの?
65 :
Z :2006/10/16(月) 00:38:31
↑ゾンバルトにある。『ユダヤ人と資本主義』 イスラムについては、 『イスラームと資本主義』Mロダンソン著(山内訳)岩波書店刊 を読め。
66 :
64 :2006/10/16(月) 18:50:13
トンクス 勉強してくる
67 :
Z :2006/10/31(火) 22:25:19
「第三の道」というのがあります。 この根幹は、‘結果の平等ではなく、チ ャ ン ス の 平 等’です。 チャンスの平等の範囲内での結果の平等です。 保守(修飾語でなく「動詞」)と旧来の革新(時には“いわゆる”リベラル) との中間の思考です。
韓国資本主義の精神の本ってないん?
69 :
Z :2006/11/02(木) 18:05:57
Googleで、「韓国資本主義の精神」を検索してみたら。
韓国ではプロテスタントが20%超えて さらに増殖しまくってるから日本より資本主義の精神が育ちやすい環境にある
71 :
名無しさん@社会人 :2006/11/02(木) 22:36:46
折原浩が、馬鹿の上塗りのような、本をだした。 大衆化する大学院-なんたらかんたら、とかいう題名だったと思う。
72 :
名無しさん@社会人 :2006/11/02(木) 23:17:25
羽入辰郎のほうが、正しい気がする。
73 :
Z :2006/11/03(金) 01:03:55
>>70 今更そんな事は無い。16〜17世紀じゃあるまいし。
新教徒は「企業人」たらんと欲した。21世紀の現代人は、
企業人‘たらざるを得ない’のだ。
ところで最近‘EU’に学ぶ「東アジア共同体」が論議されている。
如何なものか?
共同体繋がりですか。 民族すら違うんだから大ドイツ主義とか汎スラブ主義よりも無茶なような。
75 :
Z :2006/11/03(金) 01:30:55
自由党もそうだが、民主党は「EUに学べ〜」などと無邪気にいっている。 それよりも反面教師として学ぶべきは、かの悪夢の旧ソ連を中心とした 東ヨーロッパ共同体(コミンテルン)だ。ハンガリーやチェッコスロバキア が脱退しょうとしたら、事もあろうにソ連が戦車で押しつぶした。 ただ、一般には旧ソ連が東欧諸国を搾取した…といわれているが、 必ずしもそうではない。ソ連は東欧諸国に石油・ガスを低価格で供給していた のである。それにもかかわらず、ソ連・東欧諸国共に何のメリットも無かった。 システムが悪かったのである。 東アジア共同体も、よく考えて。 歴史は二度繰り返す。最初は悲劇として。二度目は喜劇として〜K.Marx
いい落し方だなぁとは思ったが 初っ端の「二度」は不要のようだ。
>>73 21世紀の現代人でも、発展しない国々は、何が問題なんだろ。
発展してる国は、韓国などの一部だけで。
先進国って殆どがキリスト教圏なんだよな 誰もが認める先進国の中では、日本ぐらいか。非キリスト教の国は。
偉大なる韓国も基督だしね
80 :
Z :2006/11/03(金) 11:19:24
これは結果論かもしれないが、封建制度を経験した国が先ず先進国となった。 マルク・ブロック『封建社会』(みすず書房〜最近、岩波書店からも刊行された) では、封建国家としては、Occident=西欧以外では日本しか出てこない。 この本に、乃木大将夫妻の殉死が出てくる。
81 :
名無しさん@社会人 :2006/11/03(金) 22:09:12
頼朝ばんじゃい
82 :
Z :2006/11/04(土) 00:14:46
山之内靖氏が「ニーチェ〜ヴェーバー」を云うのは、祭司集団より武士集団 を重視している事である。 封建社会の成立については、アンリー・ピレンヌ(『中世都市』)と マルク・ブロック(『封建社会』)では異なる。 前者はイスラムに重点を置き、後者は北方民族の南下に重点を置いている。 フェルナン・ブローデルはトルコの侵攻を重視している。 M.ヴェーバーはどうか? ローマ帝国の崩壊による古代社会の終焉に力点を置いているようだ。 (M.Weber『古代社会没落の社会的諸原因』と荘園の成立) これについては、私は調査中。
市民革命を起こしたことのない国が本当に近代化・民主化できるのかという疑問が よく投げかけられるが、封建制度の経験は近代化の十分条件なのかな? 司馬遼太郎も「武士は開拓農民(下層)が武装化したもの。関東武士の蜂起は 公家化し武士団の権益を代表しなくなった中央の平家にNOを突きつけたもの。 我々はこの歴史を誇りとすべきだ」みたいなこと言ってた。 このスレの住人的には司馬の発言は的を射てるの?
韓国については、金聖佑「プロテスタンティズムと韓国社会の近代化」(『思想』2005.10、p103-)という 論文があるね。 この中でなるほどーと思ったのは、日韓併合と韓国でのキリスト教拡大とを論じた箇所。 そこの韓国においてはプロテスタンティズムとナショナリズムの関係が、相乗的に働いたというような指摘。 この論文はおもすれー。 でも、例えば韓国内でもプロテスタンティズムが広まった地域とそうでない地域があるはずで、 その地域間の関係というものが見えなかったのはある。ウェーバーの場合はそれがあるのに。 近代化について地域間での格差があってもなくても、(現代のデモクラシーに関する「地域主義的分裂」に ついては触れてあるにもかかわらず)そのことと韓国におけるプロテスタンティズムの関係が見えないのが残念。
やはり先進国になるほどの経済発展するには、 資本主義の精神があるとかなり有利になるということが分かるな
韓国でプロテスタントが急激に増えてきたのは、 戦後しばらくしてかららしいよ、都市部に人口が移ってきて、 その都市部に移ってきた人を中心に急激にプロテスタントを増やしたって。 その中でも女性が多いそうな。急激な右肩上がりで増えていった。 最近は勢いが落ちて緩やかになってきたけど。
韓国。最初はハングリー精神だったけど 都市部に流入してくる若者を中心にプロテスタントが 勢力を伸ばし、そいつらを中心に 資本家に必須な勤勉な労働者となって 経済発展の原動力になったって言う感じかな 一部は経営者になったりして
>>85 ネット漁ってたら、そのような主張してるサイトがあった。
非キリストの日本に占領されたのが大きいみたいね。
90 :
Z :2006/11/04(土) 23:27:03
朝鮮半島については日韓合併後、重化学工業が発展したのは主として北部 であった。南部は依然として農業が主であった。戦後も北は日本が残した 施設で1970年頃までは北朝鮮の方が経済成長が伸びていた。 以後20〜25年間で完全に逆転した。即ち北が停滞→没落した。 北は日本が残した施設を食い潰していただけだった。それは、政治経済 システムが旧日本のシステムに依存していただけだった。 木村光彦著『北朝鮮の経済〜起源・形成・崩壊』(創文社1999年刊)
91 :
名無しさん@社会人 :2006/11/05(日) 01:58:00
予定説をガチで信じるような中世末のプロテスタンティズムの経済に対する影響と 「神が死んださかい」以後のそれって同列に語れるの?
92 :
Z :2006/11/05(日) 02:06:46
↑同列に語れないから、ヴェーバーは『プロ倫』を書いたのだ。 「企業人たらんと欲する」と「企業人たらざるを得ない」の違いだ。
同列に語れなくても現代でも非常に影響があることは確かだ
94 :
名無しさん@社会人 :2006/11/05(日) 02:47:34
まあ、現代でもプロテスタントは予定説をガチで信じるらしいけどな
一度資本主義が作動してしまうと精神がなく骨抜きになっても 形骸化した資本主義として形としては残る。「企業人たらざるを得ない」だ しかし、発展しない国々の多くの人々は 「企業人」とまで呼べない無縁な世界で生きている そしてなんらそれを恥じない当たり前のこととして生きている。社会的にも
96 :
名無しさん@社会人 :2006/11/05(日) 05:22:51
アメリカは階級社会である 中流下の階級の大多数がファンダンタリストであって、 信仰あつく、正直で勤勉、禁欲的で論理的、教育水準も高い 当然そういった人たちであるから 「企業人たらざるを得ない」形骸化した資本主義の主人公たちのいる 中流上の階級を追い上げて差がなくなって社会の中核になってきている (カトリック教徒もそれぞれの階級にいるが) ファンダメンタリストとは、日本マスコミのいうキリスト右派というより 福音書に記されていることを、 そのまま100パーセント事実だと信じる人々のことを言う 「企業人たらんと欲する」を今も持ち続けている人たちである このことは国単位でもいえることではないだろうか? 資本主義の精神を今も持ち続けている人たちのほうが有利ではないだろうか?
ヴェーバーは『プロ倫』が現代でも生きているっていうのがアメリカか。
ヴェーバーの『プロ倫』が現代でも生きているっていうのがアメリカか。 訂正
99 :
名無しさん@社会人 :2006/11/05(日) 06:24:33
予定説って、仏教でいう輪廻転生みたいなもんで、信者なら信じるのは当たり前じゃないの? 輪廻転生なんて、仏教徒でなくても信じてる人多いのに。
100 :
名無しさん@社会人 :2006/11/05(日) 06:30:40
>>99 江原が前世とかいって
電波ふりまいているからなw
韓国でも、ファンダメンタリストが増えているらしい。
>>89 で占領されたのが大きいと言ったのは、
キリスト教の布教は、日本のおかげと言った意味ね。
>>90 で、経済だと勘違いしてそうなレスがあったので一応…。
103 :
名無しさん@社会人 :2006/11/05(日) 11:24:14
>>91 大塚久雄によると、イギリス病もそうだって。
104 :
Z :2006/11/05(日) 22:28:06
ヴェーバーは『プロ倫』で、 @「今や資本主義の精神は滅んだ」・「企業人たらざるを得ない」としている。 実存主義は、 A「神の不在」・「預言者の不在」をいう。 この@Aの関係〜それを結びつけるものは? ニヒリズム? ここで“ヴェーバー〜ハイデッガー”関係が浮上する。 因みにいうとヤスパースはヴェーバーを実存的人間と見ている。
105 :
名無しさん@社会人 :2006/11/05(日) 23:49:05
伝統主義から脱却するにはキリスト教のような強烈な麻薬が必要ではないかな
106 :
Z :2006/11/05(日) 23:56:56
伝統も理性の内。過去の理性を伝統と云う。 (それが通用するかしないかは別として)
107 :
名無しさん@社会人 :2006/11/06(月) 00:54:13
伝統への呪縛から逃れられたらなんとかいけそうだが その伝統というのがやっかいやね
108 :
名無しさん@社会人 :2006/11/06(月) 11:40:01
プロテスタントの国がメシまずいのは 「料理やグルメにうつつをぬかすなんて神の御心にそわない。そんな暇や金は事業(天職)に傾注すべし」と思ってるから?
>>108 それは昔からよく言われてるね。
ちゃんとした論文も探せばあるんとちゃう?
そういや「バベットの晩餐会」って映画があったなあ ただただ料理が出てきて食うってイメージの映画だけど、実はプロテスタントの国の一村落に カトリック国から来た女性が料理振舞うっていう設定が生きてるんだよな
111 :
Z :2006/11/06(月) 21:02:36
>>108 そのような先入観は私もある。しかし、日本は世界一料理の美味い
国だから。(各国の超高級レストランは別にして)
外国人が日本に来るのは料理が美味いからだそうだ。
プロテスタントの料理は質実剛健という感じがする。(あくまで感じだけだが)
「アメリカ田舎料理」がそうだ。
アイルランドはカソリックだが、北アイルランドのプロテスタントのお祭りは、
プカプカドンドンの行進ぐらいだ。(家庭内で祝福するのだろう)
それに較べスペインのお祭りは、マリア様のミコシを担いで街中を練り歩く。
日本でも、「門徒」(浄土真宗信者)の仏事と、他宗教の仏事の違いのようなものだ。
サービス残業、少ないバカンスなどで欧米から「非人間的生活」と言われることも多い日本だが 「美味いものがある」「多くの人間が美味いものを食いたいと思ったり工夫したりしている」という点では「あまりに人間的」なため なんとかバランスが取れてやっていけてるのかも。 これでプロテスタントなみにメシがまずかったら・・。
113 :
名無しさん@社会人 :2006/11/07(火) 02:29:41
鉄の檻の中でクサい飯を食う国
114 :
Z :2006/11/07(火) 20:04:07
マルクスが「アジア的形態」(アジア的生産様式)と云う場合、 江戸後期の日本は入っていない。中国とインドぐらいだ。 ヴェーバーにしても、明治維新以降の日本の経済発展など、 具体的に日本を論じたレポートは無い。 日本の封建制に言及したのは、マルク・ブロックが最初だ。
115 :
名無しさん@社会人 :2006/11/07(火) 21:51:28
韓国ってそう考えるとすげーな 今や先進国だもんな 2つに分かれて、朝鮮戦争までやって 戦後復興遅れたのに
>>115 分かれたり戦争したりしたから今まで時間がかかっちゃったんだろ?
118 :
名無しさん@社会人 :2006/11/09(木) 20:19:42
おい、プロテスタントでもないくせにアホみたいに働いて、 本家のプロテスタントからも笑われている日本の秘密を探ろうと思えば何読めばいい?
119 :
Z :2006/11/09(木) 21:34:53
>>118 さん江
R・N・ベラー著『徳川時代の宗教』(岩波文庫=青版)
120 :
名無しさん@社会人 :2006/11/09(木) 23:28:33
韓国に経済発展は、プロテスタントが増えたことが要因だったんだな
121 :
名無しさん@社会人 :2006/11/09(木) 23:42:18
↑アホか!!
122 :
名無しさん@社会人 :2006/11/09(木) 23:46:04
プロテスタンティズムとナショナリズムの関係が 奇跡的な韓国の経済発展を成し遂げた
123 :
名無しさん@社会人 :2006/11/10(金) 00:08:30
急速に広まったプロテスタンティズムによって、西洋化=近代化が容易にしやすくなったんだろ
124 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2006/11/10(金) 15:25:59
R・N・ベラー著『徳川時代の宗教』(岩波文庫=青版) は私も愛読しているので、一言コメントを。
pp.369-370より
“日本の宗教に近代日本の驚異的な勃興に貢献したという「信任状」を与えるとするなら、
われわれはまた、1945年に頂点に達した不幸にも貢献したという「非難状」を日本の宗教に
与えねばならない。”
もう一つ、ロバート・N・ベラー「心学と二十一世紀の日本」より
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00196/contents/038.htm “倫理的生活についての梅岩の解釈に固有なのは精神的な大きさであり、
これを梅岩は孟子から引用した明確なことば「性を知る」あるいは「放心を求む」と表現しています。
梅岩にとって重要なことは、単に生き残るとか、富と力を永遠に追い求めるということではなく、
人生にはより大きな意味があるということでした。
梅岩はこの大きな意味の源を儒教だけでなく仏教や神道の中に見い出しました。”
125 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2006/11/10(金) 15:27:43
続けます。 “梅岩が一番懸念していたのは、今日のアメリカの若者にとって最も問題になっていることのように思えます。 そして日本の場合も同じなのではないかと思うのです。 それは、私たちが満足感を感じられる他人との関係を通じて得られる、大きな意味と理解の意識です。 私が言いたいのは、増大する経済的圧力の世界の中で私たちがどんな社会に住みたいかを考える時、石田梅岩のような人物から学ぶべきところがまだ多くあるということなのです。” “最後にどの国が「ナンバーワン」であるかという概念がいかに早く変るかという点を指摘したいと思います。 すでにお話しましたが、21世紀には日本がナンバーワンの国になり、アメリカは日本に追いつくために日本の真似をしなければならないだろうという説が1985年に出ています。 しかし今日アメリカはまたナンバーワンとなっているようであり、他のすべての国々はアメリカを真似るように言われています。 しかし、日本が1980年代末につまずいたように、そう遠くない将来アメリカもつまずく可能性があるのです。 21世紀に成功する社会のモデルはありません。それぞれの社会が自分の道を探さなければなりません。 しかし、それぞれの国は偉大で普遍的な宗教的伝統が持つ倫理的、精神的源泉に頼るとよいでしょう。 この意味において、日本でよい社会を探し求める上で心学はまだ発言権があると思います。” 終わり
126 :
Z :2006/11/13(月) 00:27:11
↑>中葉さんの件については、 C・P・キンドルバーガー著『経済大国興亡史』(1500〜1990)上・下 岩波書店刊 が参考になると思います。
127 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2006/11/13(月) 10:32:55
Zさん、ご教示ありがとうございました。 折を見て図書館で読んで見ます。
128 :
名無しさん@社会人 :2006/11/15(水) 21:36:02
韓国と基督教については興味深いとはいえるけどね
129 :
名無しさん@社会人 :2006/11/17(金) 11:27:36
130 :
名無しさん@社会人 :2006/11/17(金) 18:34:12
韓国。1つは伝統主義を基督教のような強烈な麻薬によって、 打破出来たのが大きいんではないかな。伝統主義を打破するのは並大抵では不可能だから。
131 :
名無しさん@社会人 :2006/11/17(金) 18:36:46
韓国。1つは伝統主義を基督教のような強烈な麻薬によって、 打破出来たのが大きいんではないかな。伝統主義を打破するのは大変だから。
132 :
Z :2006/11/18(土) 01:12:57
伝統主義というコトバは何となく耳慣れない。
「伝統を守る」と云う意味なら、それは欧米文化の基本である。
韓国〜朝鮮には、封建制度は無かった。
>>131 の言われるのは、儒教的氏族制度ではないか?
かのモンゴルの…。(堺屋太一『世界を創った男〜チンギス・ハン』日経新聞連載 参照)
133 :
Z :2006/11/18(土) 01:15:53
↑氏族制度と云うよりも、部族制度と言った方が適切かも知れないが…
134 :
名無しさん@社会人 :2006/11/18(土) 01:28:22
大塚がヴェーバー研究で、欧米人でも伝統主義を打破するのは大変といっているね カルヴァン主義のようなものすごく強い宗教運動によって打破出来たと言っている
135 :
名無しさん@社会人 :2006/11/18(土) 02:56:25
>韓国 俺無知だから近代化に伴うアノミーから宗教(キリスト教)に走ってるのかと思ってたよ
136 :
名無しさん@社会人 :2006/11/18(土) 05:31:04
伝統主義 人々は昨日まで正しかったことは、そっくりそのまま正しいとしたがる。その力は物凄く強い。 時代にあわなくなってきたり、環境が変わっても関係ない昨日まで行われてたことが 全て正しいこととして行動してしまう 伝統が良いか悪いかは関係ない昨日まで行われてたことが重要である。 で、OK?
137 :
名無しさん@社会人 :2006/11/18(土) 05:54:31
カルヴァンの神学は「福音主義」(端的に、聖書主義、信仰主義)といわれるものである。 「予定説」ばかりが強調されるが、それはルターをはじめ中世末期のキリスト教思想家に ある程度共通に見られた傾向であり、カルヴァンの著作を読めばわかるように、 彼が「予定説」をことさらに教義の中心においた箇所を見いだすことは難しい。 カルヴァン神学(つまりはプロテスタンティズム)の中心内容はいうまでもなく福音主義である。 人間の自己の自覚(人間が有限・不完全であることの自覚)も人間の救いも、 ただ神という基準によってのみ可能であり、地上の完全でも正しくもない権威、 伝統・伝承、制度(具体的には教皇)によるのではない。 なぜならあらゆる人間的なものは、どれほど正しく善に見えても不完全、 有限、さらには無価値であるからである。このように人間を、 個において、一人一人において、その存在の根底からあくまで徹底的に理性的に追求するという態度は、 人間を「人の間」とする東洋の関係主義の伝統とは大きく異なり、 この精神こそが西欧近代をはぐくむことになったのはいうまでもない。
138 :
Z :2006/11/18(土) 23:28:39
明確なるスレ有難うございます。 世間一般に、西欧は物質主義(あるいは物質文明) ・東洋は精神主義(和魂洋才)と言われています。 私はどうも逆ではないかと思っています。 東洋には、古典ギリシャの「幾何学(ユークリッドのような)」が発展しなかった。 その理由は何か? 私は古代ギリシャ文明とユダヤ教との関係、古典ギリシャのキリスト教への影響 に関心があります。
139 :
名無しさん@社会人 :2006/11/19(日) 00:14:56
ふむ。勉強になるな。 利潤を最大限に引き出すことに当たって、伝統主義ほど邪魔なものはない。 伝統主義を捨てても、後ろめたさがなく、正しいことと確信して、 悪しき伝統に縛られずに自由に活動してこそ、利潤を最大限にあげられる。 目的合理的精神・・・伝統や慣習などに縛られず、目的に対して合理的に行動すること。 ってとこかな? 日本人は、労働の自己目的化は強かったが、目的合理的精神が弱い。
140 :
名無しさん@社会人 :2006/11/19(日) 01:46:23
あのね、 目的合理性って概念のは目的が何かを規定しないから、 目的合理性イコール利潤の追求、ではないのだよ。 ウェーバーだって、合理性はいろんなとこにあると言ってる(別に近代西洋だけに合理性があるという話ではない)。 ウェーバーが考えたのは、 なぜ近代西洋的な合理性だけがこんなにも強力に(彼の言葉では、「普遍的」に)なったのか、ということでしょ。
141 :
130 :2006/11/19(日) 06:12:00
>>140 そうそう。目的合理性=じゃないよ。
知ってるよ。でも目的合理性と伝統主義は無関係ではないことも。
142 :
130 :2006/11/19(日) 06:13:44
色んな所に現れるが利潤追求にも効果があると。
143 :
130 :2006/11/19(日) 06:16:01
144 :
名無しさん@社会人 :2006/11/19(日) 07:14:06
上のほうで韓国の経済発展の話が出たので 話の流れで経済発展の要因の1つとして話をしてたのだろう
145 :
130 :2006/11/19(日) 07:37:03
今は自己目的化してしまってることが多いけど、 本来は、ただ黙々と現世内禁欲として働いた結果としての利潤なんだけどね。
146 :
名無しさん@社会人 :2006/11/19(日) 10:35:32
韓国の経済発展は奇跡といっていいね
147 :
Z :2006/11/19(日) 23:05:07
本来、「伝統」それ自身が無いのに、どうしてそれに縛られるのか? 無いものに縛られる〜論理矛盾 韓国の経済発展は、底辺の教育向上が原因ではないか?
朴政権の頃の日本の保守政治家の援助が大きそうな気もするが・・
149 :
名無しさん@社会人 :2006/11/20(月) 02:59:02
プロテスタンティズムによって、 伝統や慣習などから抜け出せたのが、 韓国は大きいだろうな。 日本からの経済、技術援助を、最大に、 いかせる社会システムが出来上がっていた。
事大主義から抜け切れてませんが何か? 未だに人糞で食い物作ってますが何か?
151 :
名無しさん@社会人 :2006/11/20(月) 18:50:43
まあ、韓国もプロテスタントが20%ぐらいだから 仏教徒と互角ぐらいだからな それでも他国から資本と技術を援助してもらって 完全とまではいかないが伝統主義からある程度は脱出して 生かしきれる土壌はあったんだろうな
152 :
名無しさん@社会人 :2006/11/20(月) 19:31:00
世界を呪術から解放するという宗教史上のあの偉大な過程、すなわち、古代ユダヤの 預言者とともにはじまり、ギリシャの科学的思考と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を 迷信とし邪悪として排斥したあの呪術からの解放の過程は、ここに完結をみたのだった (「プロテスタンティズムの論理と資本主義の精神」大塚久雄訳 岩波文庫 157頁) 「世界を呪術から解放」するという宗教的合理化は、禁欲プロテスタンティズムの カルヴァン派によって完結をみた。この完結を持ってはじめて、資本主義の精神は発生しうる と大塚久雄氏は述べている
153 :
名無しさん@社会人 :2006/11/25(土) 10:02:14
カルヴァン先生は、福音主義を唱えたそうですが 実際は文盲で聖書を読めなかったですよね?教会などで説教を受けたのでしょうか?
154 :
名無しさん@社会人 :2006/11/25(土) 10:03:01
カルヴァン先生は、福音主義を唱えたそうですが 実際殆どの信者たちは、文盲で聖書を読めなかったですよね?教会などで説教を受けたのでしょうか?
155 :
名無しさん@社会人 :2006/11/25(土) 16:58:04
創6:5/ 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計らっているのを ご覧になって、地上に人を作ったことを後悔し、心を痛められた。 自分で予定して、自分で後悔してるんだけど カルヴァン先生は、これをどう思ったですかね?おかしいと普通思いますよね。
156 :
名無しさん@社会人 :2006/11/25(土) 18:52:07
カルヴァン神学では、 呼吸を一息吸うところまで細かに予定しているのですかね? 救済されるかどうかは予定しているが、そこまで細かな人間の行動を予定はしていない? どの程度、予定していた枠をはめていると考えていたのだろうか?
157 :
名無しさん@社会人 :2006/11/25(土) 19:09:19
どの程度、予定していた枠をはめていると考えていたのだろうか?
↓
どの程度、神が予定していているのだろうか?
>>155 を見ると、多少は自由度があって、この世界?では
何度か皆殺しにあったりしているようだけど
158 :
名無しさん@社会人 :2006/12/05(火) 03:53:38
内藤湖南は魏晋南北朝唐宋を封建制だといったな
159 :
Z :2006/12/09(土) 17:51:23
↑科挙で官僚制が普及している場合は「封建制」は存在しない。 政権の変わり目には、一時的にはあるかもしれないが… 結局、漢民族以外の他民族が支配しても、官僚制に戻っていく。 現在の中国は漢民族支配だが、まだ軍部支配の陰が残っている。 いずれ、旧ソ連の二の前になるかも。 旧ソ連も五ヵ年計画で、名目上は発展した。 それが、ノーメンクラトゥラのような精神・心情のない官僚支配によって、 最後には崩壊した。
160 :
Z :2006/12/09(土) 17:59:08
中国は儒教の国だと云うが、それは一部のエリートだけだ。 一般庶民は仏教〜道教を影響を受けている。 エリート(儒学)は道教を知らなくても、何らさしつかえはない。 今、そのエリート階級は「出世意欲」に燃えている。 これが精神のない専門人・心情の無い享楽人を生む。
161 :
Z :2006/12/09(土) 18:18:56
今日までに云われて来た。い わ ゆ る 「資本主義の基本矛盾」・ 「資本主義の全般的危機」のようなものは、皮 肉 に も‘市場社会主義’を 標榜する国において起こるかもしてない。 マァ 2008年のオリンピックが終わってからが勝負だ。 もっとも、中国のエライサンもバカではないから…。
162 :
名無しさん@社会人 :2006/12/10(日) 05:40:48
中国及び中国人の本質は儒教でも道教でもない。 韓非子の法家思想と荀子の性悪説が本質。 民衆は常に無知蒙昧の単なる搾取対象に過ぎなかったが 度を越すと「易姓革命」を大義名分に蜂起する。
163 :
Z :2006/12/10(日) 19:25:50
今の調子で行けば、中国は2045年頃にはGDPでアメリカを追い抜く事になっている。 今から半世紀以上前、1950年代頃に、「ソ連は1970年代後半に GDPでアメリカを追い抜く〜」事になっていた。 モスクワ派マル経学者は、当時それを声を嗄らして吹聴していた。 現実は、この1970年前後からソ連の政治・経済がガタ落ちになった。
>[4]『日本マックス・ウェーバー論争(仮題)』橋本努・矢野善郎編、ナカニシヤ出版(予定) まとめ本かな?
165 :
名無しさん@社会人 :2006/12/11(月) 01:07:24
日本もバブルの頃は、今頃アメリカ経済抜くとか言うレポートあったなあ・・・ あまり大きな声じゃなかったけど
166 :
名無しさん@社会人 :2006/12/11(月) 01:09:26
日本もバブルの頃は、GDPで2006年頃には、 アメリカ経済抜くとか言うレポートあったなあ・・・ あまり大きな声じゃなかったけど
168 :
Z :2006/12/11(月) 19:53:43
最近、「東アジア共同体」と云うことが無邪気に言われています。 この共同体は、大塚久雄氏の言っているそれとは大いに違うでしょう。 そこでM.ヴェーバーの登場です。
169 :
名無しさん@社会人 :2006/12/12(火) 19:55:24
ヴェーバーを真に理解するには通常20年から30年かかるからなあ 皆、分かったつもりになるのは仕方がない
170 :
名無しさん@社会人 :2006/12/13(水) 03:11:07
そもそもドイツ語が読めないからなあ
171 :
Z :2006/12/15(金) 22:28:15
現在の中国で欠陥が出るとすれば、それは社会主義の欠陥ではなく、 初期資本主義の「欠陥」が出るであろう。 要注意!!
172 :
名無しさん@社会人 :2006/12/18(月) 23:59:19
韓国は、上の者が見て無いと突っ立って喋ってるだけ
173 :
名無しさん@社会人 :2006/12/19(火) 18:48:56
じゃあ20年分の読書リスト出せる?
174 :
名無しさん@社会人 :2006/12/19(火) 19:07:49
>>70 ウエーバーは資本主義を「金儲け」と定義するなら古代から存在したと言った。「冒険
資本主義」者は地獄の炎で帆船が焼かれても、金儲けに行くぞと言う。「近代資本主義」
は禁欲的プロテスタントの諸教派によって基礎付けられたとは言ってるが、「資本主義の
精神」は「時間は貨幣である」というアメリカ合衆国のフランクリンのような人々に体現
され、「近代資本主義は宗教の外殻をとりはらわれた」と言っている。つまり、「資本主
義の精神」自体はすでに宗教に基礎を置いてはいない。
韓国や中国の資本主義はたぶん「近代資本主義」ではなく、枠組は「近代の技術」で組織
されていようが、根本は「冒険資本主義」だろう。いくらプロテスタントが多くても。
175 :
名無しさん@社会人 :2006/12/19(火) 20:11:32
>>137 それは、現在のプロテスタントの牧師らの言い草だ。(小室直樹「宗教言論」)
予定説はそのころの人々に甚大な影響を持った。「俗説」として退けるカルヴァン研究者
もいるが、「救われているのか、いないのか、永遠の昔から予定されている」との教えは
A神の万能を信じている
Bカルヴァンの教えを信じている
1.自分は救われている側の人間にちがいない。
2.しかし、救われているかどうかは誰も知らないので、現世の中で「救いの確かさ」
を求め続けるしかない。(信仰の無限軌道)
3.「救いの確かさ」は上記の@―Bに加え、「救いの側に予定されている」から善を
なす人々はほかならぬ自分だ。ゆえに自分は救われていると確信する。かれは「決
して悪をなさぬ」。救いの確かさを得るために。
4.この世に神の栄光が増すとしたら、私が隣人愛を実践するプロセスで、利潤=富が
増してゆくに違いない。私が誠実に商売(多くの人の必需品だが多くの人は持って
いないものを商う)をして、その結果富が蓄積されたとしたら、自分は救われてい
る。
こうして、カルヴィ二ストたちは企業家たらんと欲した。
176 :
名無しさん@社会人 :2006/12/19(火) 20:16:44
それは、現在のプロテスタントの牧師らの言い草だ。(小室直樹「宗教原論」) 予定説はそのころの人々に甚大な影響を持った。「俗説」として退けるカルヴァン研究者 もいるが、「救われているのか、いないのか、永遠の昔から予定されている」との教えは人々をして救われている条件を作り上げさせた。 @キリスト教を信仰している(キリストの復活を信じている) A神の万能を信じている Bカルヴァンの教えを信じている
177 :
名無しさん@社会人 :2006/12/19(火) 21:53:43
日本。2006年の一人当たりのGDPは第18位。 2007年にはイタリアにも抜かれそうなペースで下落中。 もう日本も中進国へ。イギリス病ならぬ日本病。
178 :
名無しさん@社会人 :2006/12/19(火) 22:18:07
韓国は、プロテスタンティズムとナショナリズムの関係が 奇跡的な韓国の経済発展を成し遂げた。
179 :
名無しさん@社会人 :2006/12/19(火) 22:55:55
日本もソ連と一緒で、没落していくだけか。 冷戦崩壊までだったな。本当日本の繁栄は。
180 :
名無しさん@社会人 :2006/12/20(水) 07:46:38
>>177 プロテスタントの国から見たら負け組でも
スペイン・イタリアみたいな生活を楽しむ国に日本もなってほしい。
もう経済大国という看板背負ってあくせく働くのは真っ平だ。
ウェーバーもイタリアによく旅行して、カトリック国の精神や風土にある種の憧れを持ってたんじゃないか?
>>180 スペイン、イタリアねぇ…
日本人とあいつらとは遺伝子レベルで違うからねぇ…
日本人には真似するのは無理だし、
あんなに自己中でアバウトでしかも小ずるい奴等ばかりの社会は耐えられんね。
最近、日本でも知事の汚職がどうのこうのとか喧しいが、
あの程度でブーブー言ってる奴がイタリアみたいな社会に耐えられるのか?
中国人や韓国人の方がまだイタリア人に近いね。
182 :
名無しさん@社会人 :2006/12/21(木) 08:07:08
そんなイタリアに抜かれたくねぇぇ
183 :
名無しさん@社会人 :2006/12/21(木) 12:34:25
鉄の檻から逃れようと思ったらニートになるしかないんでつか?
イタリア人はのんびりしているように見えるかもしれんが、 日本みたいに振り込め詐欺にあっさり引っかかるような甘ちゃんはいないと思うよ。 そういう意味では、日本の方がよほどマッタリしてる。
185 :
名無しさん@社会人 :2006/12/24(日) 07:56:53
プロテスタントは神を内面化して自らを律して勤勉に働くんだろうけど 日本人は世間を内面化して勤勉に働くの?
阿部謹也氏ならそう理解するんだろうか
187 :
Z :2006/12/26(火) 22:12:02
>>185 わが国では、江戸時代から「法」の整備が整っていた。
ヨーロッパと同じく、封建制度が整っていたからだ。
明治維新以降、ヨーロッパの法思想(ローマ法やフランク法)が
すんなりと輸入され、実用化された。
これが一番の要因だ。
(参照『新井白石と裁判』山口繁 著 西神田編集室 刊)
188 :
Z :2006/12/26(火) 22:14:43
新井白石に注目。彼は日本のマキャヴェッリだ。
189 :
名無しさん@社会人 :2006/12/27(水) 21:44:02
Z氏は在野の研究者ですか? それとも大学研究職?
190 :
名無しさん@社会人 :2006/12/28(木) 02:18:05
もう俺は就職したから、Z氏みたいに本読んでる暇ないや
191 :
名無しさん@社会人 :2006/12/29(金) 19:12:50
法家じゃないの
192 :
Z :2006/12/30(土) 22:59:13
江戸時代、幕藩体制が長崎を通じて交流していたのはオランダと清国ですが、幕末には アメリカ・イギリス・フランス・ロシアがやってきました。幕府はぺリーがやって来るのは、 オランダを通じて把握していました。 そして、諸外国が一様に誉めていたのは、坂本竜馬・桂小五郎・西郷隆盛の維新の志士ではなく、 徳川幕府の高官〜その為政能力の優秀さでした。 勿論、幕藩体制が崩壊の危機に曝されているのも事実ですが。 江戸幕藩体制と‘近代’日本(このコトバは、私はあまり好きではない)は 連続しているのです。 近代アメリカとか近代英国とか近代フランス・ドイツ〜など、言わない。 もし、そう言いったら、それこそ 「お笑い草」 だそうです。 (ドイツのシュヴェントガー氏=M.Weber全集刊行に従事 によると)
要するに「ウリナラマンセー」ってか。 恥ずかしい奴だな。 列強にいい子いい子してもらえるウリナラは素晴らしい!だってよw
194 :
名無しさん@社会人 :2006/12/31(日) 07:16:57
外国の評価を最重視するのはウリナラマンセーとは違うような。
「植民地にされた日本憎し」だけじゃなくて 「あの時代植民地にされないためには、いかなる政治・外交を行うべきだったか」みたいな朝鮮の議論や本ってないの?
197 :
Z :2007/01/01(月) 12:42:07
あけましておめでとうございます 本年もよろしくお願い申し上げます。 2007年 元旦 明治維新後、わが国は多くのものを受け入れました。 それを受け入れる“ハコ”があったからです。 そこが、他の多くの国々との違いです。
198 :
Z :2007/01/01(月) 23:41:16
大学は、というよりも大学院は‘知’=知恵と知識(ソフトとハード)を教える機関か? それとも、その知を入れる「ハコ作り」を教えるところか?
美しい国日本 Aさん:ホワイトカラー・エグゼンプションが導入されても関係ないな、定時帰りが基本だし。まさに働く女性様の天国。 そしてそのツケは真面目に働く男たちへ。 Bさん:だから男が家庭に入るから女が働いてサービス残業してくれよ。もう疲れたよ 男女平等なのになんで女が定時に帰って男がサビ残なんだよ。どう見てもおかしいだろ 同じ給料で仕事量の割り振り間違ってるぞ Cさん:国家公務員だが、性別で仕事に対する偏見をもったことはない ただ、女性は義務や責任よりも自身の権利を主張するんだよな さすがに2週間に一度の生理休暇はないだろ Dさん:家事専業にしても外で仕事するにしても、本当に男女平等の意識を持っているなら問題はない。 実際はそうじゃなく、しわ寄せを男に及ぼそうとする女が多い。 男の方はとかく問題になりやすいが、女が問題がないという発想自体が問題。 女性活動家で男女平等の奴がいないのなんか、一つの現われだと思うが。 Eさん:ウチの女管理職に酷いのがいる。中途採用者を徹底的にいじめる。 勤務初日に何の説明もなしでいきなり 「○○やってきて」と社内でしか通用しない言葉で命令。新人が聞き返すと 「あなたは何を言っているの? わが社はあなたを経験者・即戦力として雇ったのよ そんな事が分からないなら条件が違いますよね? もう来なくていいです。」と言って辞めさせる。 ウチの女管理職はみんなこんな事をする。 役所から何度も怒られて、裁判になったこともあるのにクソ女どもは何の処分も受けていない。 Fさん:化粧品会社でそんな場所がある。 が、営業 だ け は、何故か男性社員が居るというおかしな点。その理由は 「営業の女性社員は直ぐに挫折し、辞めて行く為。」アフォくさ・・・男女平等とか言ってる割に 面倒くさい仕事や汚い、キツイ仕事は相変わらずやらんしな。
_ ,r─v'::´:::::::ミヽ、 //フ_,、_:::::::::::::::::\ /::::::::/ ` ‐-- 、::'i {::::::::::ゝ ', } _l::::::::l __ , 、 |7 !ヽ!::::::! イ,rッ‐i!r'.iゞッ.'"{,! {、l:::::ヽ. ゙゙ .:::::l ゙゙ .l `!::::::::ヽ,,_ {,;;ヽ,,, ,' ',:::::::::::::::丶,イ夊ト、,,,/l _/ ゞ:::::::::::::::::::::: ='ミヾ;/ /;;;;;\\:::::::::∫从卅夂 /;;;;;;;;;;;;;;ヽ、ヽ::::::从仆ヒ彡 ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ゞ:::::::入r' ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ. ',/ ト、 ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`t─i;;;;\
201 :
Z :2007/01/05(金) 22:45:17
合理性と非合理性 矢野善郎氏は「合理性」を4つノカテゴリーに分けて論じている。 (『マックス・ヴェーバーの方法論的合理主義』創文社〜これは1999年「マックス ・ヴェーバーと近代日本」フォーラムでのレポートが基礎になっている) ヴェーバーにおいて一番非合理性の基本は宗教であろう。彼はその宗教の合理化を 云う。それは‘呪術’からの解放である。 神については、 例えば鳥が2羽・馬が2頭・花が2輪・山が2座・・・これらはすべて「2」である。 人類がこの抽象的な‘2’を知ったのは大変な進歩であった。 これと同じく、山ノ神・大地の神・獅子が神であったり、 蛇が神であったり・・・。そうではなく「神」それ自身を崇める宗教= 古代ユダヤ教が生まれた。キリスト教・イスラム教もその影響を受けている。 その宗教の根本は、‘純粋’な非合理性と言えるであろう。 ヴェーバーは『職業としての政治』で、 “「善は善から生まれ、悪は悪しか生まない」と考えるのはバカげた事である” といっている。 合理・非合理についても、非合理性から合理性が生まれ、 合理性から非合理性が生まれる事だってある。(『プロ倫』 の最終におけるドンデン返し〜精神のない専門人・心情のない享楽人) マルクスは抽象的人間を神と考えた。新井白石は「神は人なり」と言っている。 合理性の研究も重要だが、もっと真剣に「非合理とは何か」を追求すべきだろう。 マキャヴェッリ曰く、“天国への道を知りたいならば、 地獄への道を徹底的に究明すべきだ”。
202 :
Z :2007/01/06(土) 00:25:28
宗教〜理神論〜哲学〜数学 数学は確かに合理的であろう。1+1=2 2×2=4 これから先の高等数学は無限である。 勿論、それは合理性が貫かれているとしても、 それを生み出すものは、はたして合理的動機だろうか? 案外、非合理的な「情熱」から生まれるかもしれない(思考の根源として)。 ☆参照 ドッズ『ギリシャ人と非理性』みすず書房 刊 合理性の反対が非合理だと考えるのは、ちょっと幼稚すぎではないか?
203 :
ん :2007/01/07(日) 19:59:13
ヴェーバー自身は極めて非合理的人間でしょ
204 :
Z :2007/01/07(日) 21:02:18
合理的人間って、結局は「合理的な愚か者」(アマーティア・センのいう) だろうなァ。 ヴェーバーは、奥さんのマリアンネによれば、ハムレット型 ではなく、ドン・キホーテ型だそうだ。 (Max Weber:Ein Lebens Bild によれば) (偉人にハムレット型なんていない)
> 合理性の反対が非合理だと考えるのは、ちょっと幼稚すぎではないか? 今さらこんなことを言う方がずっと幼稚だと思われ。
このZって人ずいぶん前から見るけど(五年位?)あいかわらず痛い奴だね。 こんな単なる言葉遊びの「連想ゲーム」に明け暮れて何が楽しいのかねw まあ本人は言葉遊びだと思ってないんだろうけどね。
>>206 こんな板でいまさらそんな事を書く方が痛い。
たわごとめいた人文教養的御託で武装している人は必要。
仮想敵としてね。
209 :
Z :2007/01/08(月) 18:16:07
>>205 〜7
多分、そういう反論がくるだろうとは思っていた。
『ソクラテスの弁明』ならぬ、一言いわねばならないと思う。
>>209 弁明し終わったら潔く毒杯でも呷るんかい! とか煽ったりしてw
211 :
名無しさん@社会人 :2007/01/08(月) 18:32:49
212 :
Z :2007/01/08(月) 18:52:31
Mヴェーバーは、学問の闘争において、その最中に死去した学者である。 特に、主著『経済と社会』は彼の死後刊行されたものである。その第T部は おおよそ出来上がっていたらしいが、それでもその構成については折原浩氏 を始め、異論がある。 (「合わない頭をつけたトルソ」から「頭のない五肢体部分へ」参照) これはマルクスの『資本論』に似ている。それでもマルクスは 『資本論:第1巻』は生前に刊行し、なおかつ改訂版まで出している。 ヴェーバーはそれが出来なかった。この事は、先ず念頭に 入れておくべきである。 つづく
213 :
Z :2007/01/08(月) 21:04:07
ヴェーバーは合理性を、@目的合理性とA価値合理性に分けている。 では、非合理性についても @目的非合理性とA価値非合理性に 分けたであうか? それは解らない。(死人に口なし) もし、彼が二つに分けたとしても、 ‘目的合理性 Vs 価値非合理性’とはしなかったであろう。 また、芸術(絵画・彫刻・音楽などなど)や文学(小説・詩・脚本などなど) は、合理的であろうか? そんなもの、面白くも可笑しくもない。 感動もしない。 あるのは、純粋非合理性であろう。 むしろ芸術や文学は、合理的なものをも、非合理的にしてしまうだろう。 アポロンVs ディオニソス 〜 合理性Vs 非合理性 つづく
214 :
Z :2007/01/09(火) 00:19:26
『家畜人ヤプー』の著者:沼正三に『ある夢想家の手帳から』がある。 ここでサド・マゾが論じられている。 一般には、サドとマゾは正反対なものとして捕らえられているが、沼正三は、 この二つは全く別物だと言っている(彼はマゾヒスト)。その詳細は省く。 合理性・非合理性についても、それに似たことがいえるのではないか? ヴェーバーは、必ずしもこの二つを正反対のものとして 取り上げているのではない。また、全く別物ともしていない。 ヴェーバーの本心は解らない。 そこまで行く前に、彼は亡くなった。 その学術的解明は、ヴェーバリアンの責任(〜あくまで自己責任) に委ねられているのではないか? 残りは明日に
>>214 サド・マゾが対称的なものではないことは、
ドゥルーズも論じてたね。
216 :
Z :2007/01/09(火) 18:45:46
どうも皆さんは合理・非合理を、かつての写真の「ネガ」・「ポジ」と 混同しているのではないか。
まだまだ続くZクンの妄想伝説w
218 :
Z :2007/01/10(水) 00:36:29
「言葉遊び」・「連想ゲーム」・「人文教養オタク」・「仮想敵」・ 「痛い奴」・「妄想伝説」 新年の‘お年玉’として頂戴いたします。Dank'schoen !
誰だよ新スレなんか立てたの?
Zさんの参照文献、論文が知りたい
221 :
Z :2007/01/18(木) 17:29:41
@合理性VS非合理性の問題には、 A責任倫理Vs心情倫理が絡んでいる。 この@、Aは全く別のものではない。 どのように、@とAが絡んでいるか? とかくMヴェーバーのキーワードを、あまりにも個別に 論考しすぎた。
222 :
Z :2007/01/18(木) 17:35:29
ヴェーバーは「体系なき体系」と言われている。 それは、学問の闘争中に亡くなったからだ。
223 :
名無しさん@社会人 :2007/01/25(木) 17:15:45
アメリカにスポ根マンガってある? 主人公のディランがプロテスタンティズムの倫理で 数々の苦難やライバルとの戦いを乗り切る、みたいな。
224 :
名無しさん@社会人 :2007/02/14(水) 23:43:48
ロッキー
225 :
Z :2007/02/25(日) 23:01:36
先日から「日経新聞」〜やさしい経済学=名著と現代に、 Mヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が 連載されている。(東大教授:岡崎哲二さん執筆) 参照の事
226 :
Z :2007/03/03(土) 00:36:04
>>203 の云う如く、ヴェーバー自身は、一見非合理的に見えるかもしれない。
しかし、それは彼のエトスとパトスの問題ではないか?
近代的・合理的というエトスの背後に、『国民国家と経済政策』で述べている
‘誇り高きゲルマン民族の歴史と文化・・・’のようなパトスがあるようだ。
第一次世界大戦でドイツが宣戦布告したその晩、ヴェーバーは軍服(堅信礼で着た)
を着て皆の前に現れたそうだ。これには皆、あいた口がふさがらなかったそうだ。
(マリアンネの『M.Weber:Ein Lebens Bild』より)
要するに彼にとっては、エトス(醒めた頭脳)とパトス(熱情の心)は一体なのだ。
227 :
Z :2007/03/03(土) 00:39:34
やっぱりヴェーバーは、マリアンネの云う如く、ドン・キホーテ型である。
228 :
名無しさん@社会人 :2007/03/03(土) 14:27:38
自明な事柄だが重要だな。
229 :
Z :2007/03/03(土) 20:33:30
Mヴェーバーの『儒教と道教』について。 ‘儒教資本主義’をいう人がいるが、華僑や中国の商人の多くは道教(仏教の混じった)であった。 儒教の基盤は君子(紳士=ジェントルマン)や清朝のマダリン(高級官僚)であった。 ヴェーバーが中国に近代的合理的な資本主義が成立しなかった〜と云うのは、 その原因は儒教でなく道教ではなかったか? 現実の道教は拝金主義のようである〜極端に空想的な宗教が、極端に現実主義と絡まっているのは、 面白い現象である。
230 :
Z :2007/03/03(土) 20:38:12
マダリンでなく「マンダリン」。 スマソ
231 :
Z :2007/03/04(日) 22:57:30
先週後半から、中国の株安が世界を一周した。 これも中国における、一つの初期資本主義の欠陥が表面に出た例だろう。 今週はどうなるだろうか? 明日の東京証券市場が見ものだ。
232 :
名無しさん@社会人 :2007/03/04(日) 23:26:19
本当に楽しみだ。 ところで、ゾムバルトのお勧めの論文ないかな?
233 :
Z :2007/03/05(月) 00:37:14
あるでェ。 すぐ手に入るのは『ブルジョア』(中央公論新社)
234 :
名無しさん@社会人 :2007/03/05(月) 00:41:21
Zさんって何者なんですか?
235 :
Z :2007/03/05(月) 21:20:45
236 :
名無しさん@社会人 :2007/03/05(月) 23:57:29
マックス・ウエーバーによる官僚制の理論 合理的な組織 組織を構成するメンバーの職務行動は規則によって規定される。 このことは組織内では「人」は「機能」として扱われる。 組織には階層が存在し、上位の職位にある者は、下位の職位にある者に、 命令する権限を有する。 職務遂行の中心には文書があり、遂行のプロセスは記録される。 職務遂行に当たっては、専門的な訓練が必要となる。 各人は、その組織へ専従する。
237 :
名無しさん@社会人 :2007/03/06(火) 08:43:32
ゾンバルトもなかなか面白い
238 :
名無しさん@社会人 :2007/03/06(火) 14:27:58
ヴェーバーと同時代だから比較しやすいですよね。
239 :
Z :2007/03/06(火) 21:51:32
>>236 の “ このことは組織内では「人」は「機能」として扱われる。” について。
1940年代、一方にナチス・ファッショがあり、他方スターリンの共産主義があった。
自由主義は何だか色あせた感じがした。そこで、米スタンフォード大の
ホールデン・スミス・フィッシュが『トップ・マネージメント』(ダイヤモンド社刊)を
出した。 この本は我が国でも経営のバイブルとして、S20年代後半〜30年代に
読まれた。
一方、エルトン.メイヨーは組織にHuman Relation(人間関係)を持ち込んだ。
その後にドラッガーの思想が日本に入ってきた。そしてトップから平のビジネスマン(技術者も含めて)
高度成長路線を突進した。勿論、アメリカ・ECもそうだ。
これに反し、ナチスやファッショは崩壊し、共産主義は旧態依然に固執していた。
その結論が「ベルリンの壁崩壊」である。
傍からみれば意味不明な「狂人の戯言」そのものだが、 きっと書いてる本人は『俺って天才』とか思ってるんだろうなw
241 :
名無しさん@社会人 :2007/03/06(火) 22:13:55
242 :
Z :2007/03/07(水) 00:30:58
Mヴェーバーの資本主義の“精神”と、Fブローデル(アナール派)の “マンタリテ(心象)”とは、どこが同じでどこが違うかを ハッキリしておかねばならない。 ヴェーバーが近代資本主義は西ヨーロッパにおいてのみ(Nur im Occident) 成立したと云うのは、その精神のことを言っているようだ。 しかも「その精神はブルジョワだけでなく、労働者階級の精神でもある」と 大塚久雄氏が云っているのは正しい。 しょせん、経済は上部構造である。 (マルクスは逆立ちしていた〜私は唯物史観を支持しない)
243 :
Z :2007/03/08(木) 01:26:11
最近の文化人類学では、「しぐさ」が注目されている。 ヴェーバーの総体系を‘文化人類学’の見地から再構築(Restructure) するのも一つの方法だろう。 因みに、シュッツは現象学でそれをやっている。
244 :
名無しさん@社会人 :2007/03/30(金) 21:28:22
245 :
名無しさん@社会人 :2007/03/31(土) 03:52:25
間違ってはいないな
246 :
名無しさん@社会人 :2007/04/01(日) 18:19:14
1950年代、当時は全てマルクス・レーニン(それにスターリン)の時代だった。 「資本主義の全般的危機」だの、「危機における日本資本主義〜云々」だのがはやっていた。 そんな時、青山秀夫著『マックス・ウエーバー』(岩波新書)を読んで、 ‘資本主義の精神’というコトバが何だか‘新鮮’な感じを受けた。 戦後日本におけるヴェーバー勃興に、青山氏の著書がいかに大きかったかを いまさらながら痛感します。
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
248 :
名無しさん@社会人 :2007/04/08(日) 01:36:28
>>246 >「資本主義の全般的危機」だの、「危機における日本資本主義〜云々」だのがはやっていた。
東大の研究室じゃ今でも全盛だってw
249 :
名無しさん@社会人 :2007/04/10(火) 00:18:25
マックス・ウェーバーの理論を 暴走するグローバル資本社会の現代に その解決策と新たな世界観の構築に応用出来ないの? また、それに取り組んでいる人がいたら教えてくれ。
250 :
名無しさん@社会人 :2007/04/10(火) 00:28:19
154 :名無しさん@社会人:2006/11/25(土) 10:03:01 カルヴァン先生は、福音主義を唱えたそうですが 実際殆どの信者たちは、文盲で聖書を読めなかったですよね?教会などで説教を受けたのでしょうか? 恐らく、そうだろうね。聖書さえ一家一冊ってのもなかなか無かっと聞いた。 19世紀ロシア「罪と罰」のラスコーリニコフさえも、持っていない位、庶民には手に入りにくかったとある。
251 :
Z :2007/04/11(水) 20:56:02
↑『聖書』が手に入りにくい(金銭的に)というよりも、文盲が多かったのではないか? だから一般大衆は、日曜日には教会に行って、神父(カソリック)や牧師 (プロテスタント)の説教をヨク聴いた。 ところでSピープスは、説教を聴くのが好きで、色々と批評(酷評)している。 (もっとも、彼はケンブリッジの出身だが)
ヴェーバーの国家論「政治的共同体」(『経済と社会』2巻8章)の 翻訳出ますたね。「述」1といふ雑誌。萱野某のネタです。
253 :
名無しさん@社会人 :2007/04/13(金) 09:52:46
フリードリヒ・フォン・ハイエクは、資本主義の基盤を作ったのはイエズス会 (サラマンカ学派)の教義であって、カルヴァン派の教義ではないと主張している。
254 :
名無しさん@社会人 :2007/04/13(金) 10:22:57
>>223 いばった奴は嫌いだぜ!
そっくりかえったデッカイつらの鼻を明かして奴のが趣味さ!
(ざまぁ見ろい!)
デッドボールの一つや二つカエルの面にションベンだい!
(はぁ〜(゚∀゚)イイ気持ち!)
こっちとら海で鍛えた土佐っ子だ〜い!
バンババン バンババン 見たか侍ジャイアンツ!
255 :
名無しさん@社会人 :2007/04/14(土) 07:52:26
世界は光と闇、又は善と悪によって成り立っている。 人間は自らの意志と努力によって善か悪の側に立つことができる。 世界における善と悪との戦いこそが歴史である。 善神アフラ・マズダは正義を伝えるために人間の中に救世主や預言者を送り救いをもたらす。 死後、魂は「審判の橋」で審判を受け善人は天国へ行き、悪人は地獄に落とされる。 やがて善と悪による最終戦争、最後の審判、そして世界の終末が訪れる。 この戦いに善が勝つ事は善神によって預言されており、悪は滅ぼされる。 この時魂が救済されるためには火を祭って善神に奉仕しなければならず数々の義務を果たして 善行を行わなければならない。
257 :
名無しさん@社会人 :2007/04/20(金) 05:55:58
259 :
名無しさん@社会人 :2007/04/29(日) 08:37:50
>>257 述1 (発売・明石書店) ◆サブタイトル 特集 国家論 ◆本体価格 1900円 ◆刊行年月 2007.03 ◆サブタイトル 特集 国家論 ◆編集 近畿大学国際人文科学研究所 ◆内容構成 国家というタブロー――マネ『マクシミリアンの処刑』をめぐって[岡崎乾二郎(口絵解説)] プラトン『国家』を読む[岡崎乾二郎] 政治的共同体――[マックス・ヴェーバー(訳と解題)・紺野 馨] なぜアメリカ人を殺さねばならないのか――一九九八年のアル・カーイダのファトワー分析[保坂修司] 国家とアンペイド・ワーク[大越愛子] 長き革命――毛沢東の社会主義[韓毓流(訳と解説)・阿部幹雄] ヘゲモンの生誕――六〇年代初頭の知識人界と「国家論」への道[糸圭(すが)秀実] 天に唾して時を得て…… 書評:藤原正彦『国家の品格』[渡部直己] 道具箱を前にして 書評:柄谷行人『世界共和国へ』[池田雄一] 刑法と言語 書評:井田良『刑法総論の理論構造』[青木純一] 文芸批評批判序説[中島一夫] リアリズムという「信仰」――ゴダール『映画史』をめぐって[石川義正] 册
よくみたら明石かよw
261 :
名無しさん@社会人 :2007/05/04(金) 22:55:53
訳なかったのか。
262 :
Z :2007/05/06(日) 16:40:24
Mヴェーバーの『Wirtschaft und Gesellschaft〜Politische Gemeinschaft』は、今日までに翻訳されるべくしてされなかった論考である。このたび、『述1』で紺野馨 氏が訳され、慶賀にたえない。 内容は 『政治的共同体』 第一節 政治団体の本質と「合法的」 * 政治的共同体は、土地・海域・領民の保全が目的 * 政治的共同体は、盗賊国家・福祉国家・法治国家・文化国家・・・ * 政治的共同体は、物理的強制としてアンシュタルト。合法性として国家(法秩序がアンシュタルトの合法性 第二節 政治的利益社会関係の諸発展段階 * 国家の基本機能=立法・警察・司法・行政・軍事・・・ * 未開社会では、自由とは武装の権利と同一 * 政治的共同体は、強制機構の独占化により権利保護のアンシュタルト化した * 政治的共同体の、市場共同体・宗教共同体との和解〜 平和と市場 第三節 力の威信と「大国」 * 外部に向かう武力組織としての政治的共同体 * 大国について
263 :
Z :2007/05/06(日) 16:42:02
第一節 「帝国主義」の経済的な基礎 (補説)* 古代のそれは、現代の帝国主義のような経済的意義は少なかった。 * 帝国主義的利害感心について〜その収益と平和的な資本主義の収益との関係次第である。公的経済と私的経済の需要充足関係は、政治的共同体に支えられた経済的膨張傾向のあり方を大きく既定している。 * 植民地の略奪資本主義について * 「帝国主義的」資本主義は、これは昔から資本主義的利害が政治に及ぼす影響力の通常の形。 第二節 ナツィオーン(ネーション) * 力の威信がネーションの理念となる * 言語共同体とネーション * ネーションは血縁の共同性ではない * ユダヤ人とネーション * 同胞感情とネーション 第六節 共同体内における権力配分 階級・身分・党派 あらためて
264 :
Z :2007/05/06(日) 16:46:33
第四節 主義」の経済的な基礎 (補説)* 古代のそれは、現代の帝国主義のような経済的意義は少なかった。 * 帝国主義的利害感心について〜その収益と平和的な資本主義の収益との関係次第である。公的経済と私的経済の需要充足関係は、政治的共同体に支えられた経済的膨張傾向のあり方を大きく既定し「帝国ている。 * 植民地の略奪資本主義について * 「帝国主義的」資本主義は、これは昔から資本主義的利害が政治に及ぼす影響力の通常の形。 第五節 ナツィオーン(ネーション) * 力の威信がネーションの理念となる * 言語共同体とネーション * ネーションは血縁の共同性ではない * ユダヤ人とネーション * 同胞感情とネーション 第六節 共同体内における権力配分 階級・身分・党派 あらためて
265 :
Z :2007/05/06(日) 16:53:35
>>263 は間違いです。
なお
>>264 の第四節は 「帝国主義」です。
以上ミス 相すみませんでした。
266 :
Z :2007/05/06(日) 18:14:56
第六節 共同体内における権力配分 階級・身分・党派 “法秩序”は、権力をも名誉をも保障する〜名誉の配分=社会的秩序 (階級について) * 階級の基本的カテゴリーとしての有産と無産 * 奴隷は階級ではない〜身分である * 階級は共同体ではないが、階級状況は共同体でのみ発生する。 * 現代の階級闘争(労働市場での価額競争)ブルジョワ対プロレタリアート * 古代・中世の階級闘争=債務闘争 (身分について) * 身分は共同体である。 * 身分と名誉 * カーストは身分の極である * カースト的区別〜水平的 民族的区別〜垂直的 * 騎士身分について * 生活様式化は身分的な起源がある * 身分の高いほど類型的特徴がある * 市場=即物的インタレストは名誉とは全く関係ない。成り上がり者について * 自由な市場発展の阻害要因としての身分 (党派について) * 階級は経済秩序を、身分は〜社会秩序や名誉を、党派は「権力」を、 それぞれ故郷とする。 * 党派は古代・中世にもあった
267 :
Z :2007/05/06(日) 22:02:38
政治的共同体から見て、現代の「ニート」とはなんだろうか?
268 :
Z :2007/05/06(日) 22:35:35
『政治的共同体』では、‘民主主義’は一切出てこない。 それは『国家社会学』(石尾芳久訳:法律文化社刊)で初めて出てくる。 この‘国家社会学’は、『経済と社会』第4版で初めて上梓された。 第3版までは『経済と社会』に無かった。 現在の‘第5版’ではどうなっているのだろうか?
269 :
名無しさん@社会人 :2007/05/07(月) 04:51:17
そういえば『国家社会学』ってみたことないな
270 :
Z :2007/05/07(月) 13:53:07
天野敬太郎編『日本マックス・ヴェーバー書誌:第二版』(新泉社1972刊)によれば、 ‘Politische Gemeinschaften’が、浜島朗『権力と支配』みすず書房 :昭和29年刊に翻訳されている〜と、載っていた。
271 :
名無しさん@社会人 :2007/05/07(月) 20:34:49
あ
272 :
名無しさん@社会人 :2007/05/11(金) 01:06:13
正直翻訳が多すぎてマニアしか関心呼ばない
274 :
Z :2007/06/15(金) 23:07:03
最近、シュッツ『社会的世界の意味構成』(木鐸社)と 『シュッツ=パーソンズ往復書簡:社会理論の構成』(木鐸社)を読んだ。 永年のギモンが解けたように思う。 厄介な問題だが、何回かに分けて書いてみる。 「社会学」というのは、案外新しい学問であるという事だ。19世紀の後半に 学問のカタチが出来上がったようだ。 パーソンズの『社会的行為の構造』(木鐸社)では、四人の社会学者を挙げている。 @Aマーシャル(1842〜1924) Aパレート(1848〜1923) Bデュルケム(1858〜1917) CMヴェーバー(1864〜1920)である。 あとは次回に。
275 :
Z :2007/06/15(金) 23:27:55
かつては、新しい学問は‘哲学〜哲学者’の理論で補強〜権威づけをした。 例えばマルクスはヘーゲルで。彼はケーゲルは逆立ちしていると言ったが、 本当はマルクスが逆立ちしていたのでは? 社会学は20世紀の初めには一本立ちするようになったと思う。 そんな時に、シュッツがフッサールの現象学を持ち出したのに、 パーソンズは違和感を抱いたのではなかろうか? ‘パーソンズ=シュッツ:往復書簡’では、結局は何の成果もなく 物別れになった。パーソンズはシュッツの提案に、これという反論もしなかった。
276 :
Z :2007/06/15(金) 23:48:35
しかし、シュッツにしてみれば、フッサールの現象学で補強〜権威付けしょうなどという 気は全然なかった。1920年代には、現象学‘運動’があらゆる面で興っている。 我が国でも和辻の『風土』や九鬼の『「いき」の構造』などが刊行されたように、 ものの見方に対する変化(運動)が興っている。 シュッツのMヴェーバーの理論体系に対する一つの考え方だったのである。 ただ問題なのは…… これが重要なので 後ほど
おることはおるみたいやね 「給料が少ない」とか(笑)
278 :
Z :2007/06/25(月) 22:29:16
フッサールの「現象学」はご存知と思います。 “現象”(我々がまのあたりに観るもの・在るもの〜行為・動き・世界) にこそ、本質がある…というのが現象学です。 だから、現象を体験した人の主観を重視します。 主観を否定する哲学はありません。 勿論、唯物史観でもそうです。 客観が科学的で、主観が非科学的〜のような幼稚な発想は、 ここでは無視しましょう。 現象学は「現象はそうだが、本質はこうだ…」 という唯物史観(超観念的)とは違います。 あくまで現象の中に本質を見出すのです。 そして、ここで現象の追求を、一旦停止し、別の見方をする〜 それが‘現象学的還元’です。 “蕭々と雨の中を、自分は濡れながら峠に向かっている… それを雨に濡れてあァイヤだと思わずに、 一人の旅人が秋雨に濡れて歩いている… と考えたらどうだろう。 漱石は、そこに詩が生まれ、絵が生まれる〜”といっている。 これも一つの現象学的還元でしょうか? そう観れば、1920年代に起こった‘現象学運動’は、 思想的な「時代の流れ」と見られるでしょう。 シュッツはそういう意味でヴェーバーの社会的‘行為’を取り上げたのです。
279 :
Z :2007/06/25(月) 22:59:32
シュッツはヴェーバーの社会的「行為」の規定が、あいまい だといっています。 そして、その行為を、こまかく分類しています。それは、あまりにも 重箱の隅を突くような、微に入り細に入ったものです。 私は、そこまでしなくても良いと思います。 こまかく規定するほど科学的だとは言えません。 パーソンズは、それに不快感を抱いているようです。 私はヴェーバーが曖昧だとは思いません。 勿論、ヴェーバーが全て正しいともいえませんが。 1970年代ころから、再び現象学運動が勃興しました。 1980年代に、旧ソ連の経済は回復不可能になっていたのと、 唯物史観の没落とは関係がありそうです。 今また、シュッツも見直されているようです。 シュッツの着眼点はスバラシイですが、 しかし、今では『社会的世界の意味構成』通りではないでしょう。
ヴェーバー初心者です。質問があります。 価値合理的がよくわかりません。これが感情的や伝統的と区別されるのが分からんのです。 素人目には 価値合理的は計画的、感情的は無計画、 伝統的は伝統に価値を見出す、価値合理的は伝統以外に価値を見出す、 といった感じのように思えるのですが・・・。
281 :
Z :2007/07/02(月) 22:41:41
「価値合理的」は「目的合理的」に対していわれたものです。 価値と目的の違いです。 価値>目的 のニュアンス(大いに価値判断)があります。 青山秀夫氏は、「実質的合理性」・「形式的合理性」といいます。 例えば、複式簿記は資本計算 〜 営利行為のための最高の形式合理性です。 しかし、資本計算~営利が良好だからといって、人間の幸福(Aマーシャルのいう) に適っているかどうかは、別問題です。 ヴェーバーがいう資本主義の合理性は、形式合理性です。 一般に合理性と言う場合は形式合理性です。 実質合理性が重要な事は、ヴェーバー自身が一番よく知っているはずです。 しかしそれは‘価値判断’が入るから彼は具体的にはいいません。
>>281 ありがとうございます。
目的合理性は分かりやすいのですが、価値合理性がよく分からなくて・・・。
教えていただいた実質/形式の区分はもっと分かりません。
岩波文庫版『社会学の根本概念』p39で
「目的合理的行為。これは外界の事物の行動および他の人間の行動について或る予想を持ち、この予想を、結果として合理的に追求され考慮される自分の目的のために上条件や手段として利用すること」
・・・ふむふむ。現代の経済学における合理性と似た感じですね。
女性にモテるためにオサレに気をつけるのは目的合理的と。
「価値合理的行為。これは、或る行動の独自の絶対的価値−倫理的、美的、宗教的、その他の−そのものへの、結果を度外視した、意識的にな信仰による行為である。」
・・・なんでこれが合理的なのかは分からないけれど。
文字通りに素朴に理解すると、アキバ系が萌え〜とフィギアを眺めて一日を過ごすのは価値合理的行為だ!と理解できます。
フィギア萌え>オサレ、とか、オサレが形式的で、フィギア萌えが実質的という感じは特にしません。
特に分からないのは、ヴェーバーが呪術を合理的行為に分類しないことです。
他人の呪詛を狙う呪術は目的合理性? 呪術としての念仏は価値合理性?のような気がしますのですが。
283 :
Z :2007/07/03(火) 18:20:09
人間は全て合理性のみで生きているのではない。純粋の蒸留水(H2O)ばかり飲んでいると死んでしまうそうだ。『プロ倫』でも、非合理性から合理性が生まれ、またそこから非合理性が芽生える事を如実に書いている。 ヴェーバーにとって、最大最強の非合理性は“宗教”であった。 太陽が神であったり、大地が神であったりしているのが、神それ自身(Itself)を崇める宗教が生まれた。それが古代ユダヤ教〜その後継のキリスト教である。キリスト教は、その中から呪術を取り除いた(呪術からの解放)。 ユダヤ教・キリスト教・回教は抽象的神の一神教。ヒンズー教・仏教は抽象的な神の多神教。儒教は神が無く抽象的人間が中心。道教は具体的な神の多神教。 ところが親鸞の浄土真宗は、阿弥陀如来の一神教である。 南無阿弥陀仏〜念仏は呪術でも呪文でもない。 キリスト教の「アーメン」に相当する。 (余談になるが、回教でも、最後に‘アーメン’という)
284 :
Z :2007/07/03(火) 18:31:37
価値合理的行為 価値合理性を求める場合、その求め方は却って、目的合理的行為によって達成される場合が多い…のではないか? マキャヴェルリは、「目的のためには手段を選ばず…」とは言わなかった。 一般にはマキャヴェリズムは誤解されているようだ。 むしろ、目的達成のためには、手段を選ばねばならないのではないか? 感情的行為・伝統的行為 については省きます。 (ヴェーバーは、最終的には上記二つです)
ヴェーバーの学説の現代的意義ってどういうことなんでしょうか? また現代的意義とは、現代社会における問題点を学説から導く、っといった感じなんでしょうか?
286 :
Z :2007/07/04(水) 15:56:35
>>285 これはMヴェーバーだけでなく、全ての学説についていえることです。
いかに高尚な学説でも、現代「世界」の分析用具として役に立たない
ものは無意味です。
小咄を一つ。 次回に。
287 :
Z :2007/07/05(木) 18:46:16
参考資料 雑誌「未来」6月号(未来社のPR雑誌) 『宗教とグローバリゼーション』 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・グラーフ著
288 :
Z :2007/07/22(日) 09:11:39
前に言い忘れましたが、 Mヴェーバーが、「目的合理性」例として、 「グレシャムの法則」をあげています。 今、一両小判、AとBがあるとします。 A→金80%〜鉛20% 含有 B→金50%〜鉛50% 含有 皆さん。どちらを取りますか?
もう「Z様がヴェーバーの薀蓄語るスレ」でも立てて そこでやった方がいいんじゃないの? 「Zちぇんちぇいのヴェーバー講義スレ」でもいいよ
290 :
Z :2007/07/22(日) 12:02:32
植場村塾でも創りませう。
291 :
名無しさん@社会人 :2007/07/22(日) 17:43:33
ヴェーバーを本当に理解するのに数十年かかるからなー
292 :
名無しさん@社会人 :2007/07/24(火) 01:14:31
ちょっと質問なのですが、 「精神のない専門人」の“精神”と、「資本主義の精神」の“精神”は 同じ意味で使われているのでしょうか? ウェーバーが使っている精神とは例えばディルタイの言う精神と同じですか? それから「精神のない専門人」とニーチェの「末人」は同じ意味?
294 :
Z :2007/07/24(火) 15:50:44
↑ A5版2段組で約9Pほどです。 フリードリッヒWグラーク氏は、この10月に来日予定。 各地でシンポジウムがあるそうです。 エアフルト大学:Mヴェーバー研究所教授。
Mヴェーバーが関わりを持った社会調査を教えてもらいたいのですが・・・。 宜しくお願いします。
296 :
Z :2007/07/26(木) 08:35:20
>>295 『工業労働調査論』Mヴェーバー著1965翻訳刊(日本労働協会)
以前、古本屋で買いました。
いまさら、学問的価値があるかどかわかりません。
297 :
Z :2007/07/26(木) 08:39:39
↑翻訳刊行は、1975年でした。訂正いたします。 あくまで、『…調査‘論’』であって、調査集ではありません。
「資本主義の精神」について当のウェーバーがどう価値判断をしていたかについては 肯定的に捉えていたという見方(大塚久雄が代表?)と、人間を疎外するものだと 捉えていたという見方(宮台真司がそう書いているのを読んだことがある)があるようだけど、 どちらが正しいのだろう。 まあ本当のことは本人を黄泉から召還する以外に知りようがないだろうけど。
299 :
Z :2007/07/26(木) 22:07:37
「人間を疎外するものだ」と捉えていたのはKマルクスです。 (カール・レヴィット著『ウェーバーとマルクス』) そんなものは、どちらが正しいかは、現実〜歴史(ベルリンの壁崩壊)が 判断してくれた。 でも、これから先はどうなるか解りません。
>>282 理解のために挙げている例と解釈がチンミョーなのでヘンなことになってるだけだな。
女性にモテるためにオサレに気をつける・・・は、少なくともオサレの点だけが目的合理的
なんであって、「女性にモテるため」は、価値合理的だとはっきり説明されている
(p41。経済学における「合理的人間」ほどにバカな考え方はしてないってことだね)。
ただ、オサレは、むしろ価値合理的な側面が大きい。オサレに気をつけたって「自分が」
モテるとは予想できないが、モテたいから、結果を度外視してオサレに気をつけてしまう
面が強い。
目的合理的行為ってのは、女性が好む対象が一般的に分かれば、個々の例はともかく
それにビジネスを結びつけてお金儲けができる、お金がたまれば、過程はどうあれ自分の
メリットになる。女も金でついてくる。だから、それをやる、みたいな行動のことです。
オサレにムリヤリひきつけて言えば、ヤるためにはモテるか買うかしかないが、自分には
カネがないので、モテるしかないのでモテるために必要な対処としてオサレに気を使う、
みたいな話です。
Zさんは
>>283 みたいなこと書いてますが・・・この人は意味分かって書いてるんでせうか・・・。
>>292 ウェーバーがいう「精神」は、歴史的に見て当初追求されていた意図とは
違う領域に生じた効果に対応する形で生じた自覚の生むとは無関係な合理化の
ことを言っているのに対して、ディルタイの「精神」は、了解(自覚が前提)を基盤に
した歴史的な継承を追求する態度のことを言っているから、両者は同じ意味ではないと思う。
最後の行については分からない。
>>292 へのレスを書き直しましゅ。
>>292 ・ウェーバーがいう「精神」は、歴史的に見て、当初追求されていた意図とは違う領域に
生じた効果に対応する形で生じた、自覚の有無とは無関係な合理化のこと
・ディルタイの「精神」は、了解(自覚が前提)を基盤にした歴史的な継承を追求する態度
のことをそれぞれ言っているから、両者は同じ意味ではないと思う。
最後の行については分からない。
>>298 正直、誰が何を書いていたかということは、よくわからんですが、
資本主義の精神を肯定的に捉えられないことは、「啓蒙の弁証法」を
念頭に置けば、原則的には明らかといえるのではないかなあ。
資本主義の精神が肯定的に捉えられるということは、合理性を追求することに
何の歯止めもかけなくていい、グローバル資本主義という建前さえあれば、
それがどこが主導してようが全て合理性追求の歴史的過程における誤差で
すべてカタはつくってことになるわけで。
合理的な個人を前提にした合理性の追求のはずが、結果的にただの弱肉強食の
追認になってしまってるでしょ。
303 :
298 :2007/07/27(金) 19:23:22
304 :
Z :2007/07/27(金) 22:05:01
「資本主義の精神」について。下記のことを前提と致します。 @ オサレ・フィギア萌えなるコトバは「ファッション(このコトバは哲学用語 として、市民権を得ています)」においては認知されているかもしれませんが、 このスレでは、未だ異様に感じます。 A ヴェーバーが‘資本主義の精神’という以上、そこには‘騎士道精神(本来は カソリックが起源)’が含まれています。 B 新古典派(経済学における)は、目的合理性を基盤としています。勿論、 価値合理性はヨク知っています。どうも価値合理性を外部経済と観ているようです。 しかし、アマルティア・センが‘コミットメント’という場合、それは日本語の 義侠心的なものが含まれているように思われます。 C 複雑系経済学は、その外部経済〜価値合理性(時には、価値非合理性)をも 経済学の対象にしています。 D 「精神のない専門人、心情のない享楽人」は、皮肉にもかつての旧ソ連の ノーメンクラトゥーラにピッタリです。(ヴェーバーは夢にも思ってなかっただろう)
305 :
m :2007/07/28(土) 01:20:33
マックス・ヴェーバーの政治批判と文化批判ってどういうことなんですか? マックス・ヴェーバーの政治批判と科学批判について、一般的レベルと個別的(ドイツ的)レベルのそれぞれについての説明を教えてください。
306 :
Z :2007/07/28(土) 08:35:16
>>301 さんの書かれた、デュルタイの「精神」は解るのですが、
“・ウェーバーがいう「精神」は、歴史的に見て、当初追求されていた意図とは違う領域に
生じた効果に対応する形で生じた、自覚の有無とは無関係な合理化のこと”
上記:ヴェーバーの「精神」の意味が解りにくいです。何を言わんとしているのか?
それから、かきこナンバーだけでは同一人か・別人か解りませんが、
‘オサレ’や‘フェギア萌え’を「ファッション」内で育て上げ、
価値合理的・目的合理的に対応さすのが先決だろうと思います。
だから価値・目的合理性を介して、資本主義の精神に限らず(ヴェーバー・デュルタイの)
精神とオサレ・フェギア萌え関係を論ずるのは即拙なのではないか?
なお、ホルクハイマー・アドルノ著『啓蒙の弁証法』(1947刊)はフランクフルト学派の
古典ですが、マルクスに関する部分は今では通用しないのではないか?
307 :
名無しさん@社会人 :2007/07/28(土) 11:33:21
ヘンな例えから離れろよw
308 :
名無しさん@社会人 :2007/07/28(土) 12:19:06
>>306 >ヴェーバーの「精神」の意味が解りにくい
>>292 の質問に対応させて答えているだけだろ…。
>価値・目的合理性を介して、資本主義の精神に限らず
>(ヴェーバー・デュルタイの)精神とオサレ・フェギア萌え関係を論ずる
誰もそんなこと書いてない。
Zは、全然他人のレス読まないな。
タームを並べてるだけで意味不明な文ばっか書いて何が楽しいんだ。
309 :
名無しさん@社会人 :2007/07/28(土) 12:45:54
素人だが、ウェーバーの言う精神って 例えば「憲法の精神」とか「創業の精神」などと 使う時の精神と同じ使い方だと思ってたんだが。
310 :
名無しさん@社会人 :2007/07/28(土) 12:54:48
>>301 ということはヘーゲル的な精神とも違うな。
311 :
Z :2007/07/28(土) 16:20:46
>>301 の
・ウェーバーがいう「精神」は、
“歴史的に見て、当初追求されていた意図とは違う領域に
生じた効果に対応する形で生じた、自覚の有無とは無関係な合理化”
のこと。
上記は 何のことか、サッパリ解らないですョ。
>>311 そりゃZが「タームを並べてるだけで意味不明な文ばっか書いて」る
ただのペダントだからだろう。
>>306 とかまるきりアホだし。
相手がウンチクに全然ビビらないからって、「何のことかサッパリ
解らない」とか逆切れすんのはみっともねーぞw
ていうか、お前のウンチクなんて、誰も相手にしてねーぞ、
いい加減気づけや。
313 :
名無しさん@社会人 :2007/07/28(土) 21:36:20
>>309 ウェーバーの「精神」は、「憲法の精神」や「創業の精神」みたいに
自覚を促す概念ではないと思うよ。
「何のことか、サッパリ解らない」で済ませるためのウンチクなんじゃない? むしろ、ウンチクを並べれば、そういう態度が認められると勘違いように見える。 もっとも、ウンチク並べることをしなくても、そういう態度をとる人はよくいるんだけど。
315 :
Z :2007/07/29(日) 00:04:10
図星だったようで。 なんだかなあ。
「Zを怒らせるなよぉ。本気出しちゃうかもしれないぞ;p おならプーってするぞ! 必殺ワザのウンチクボンバーを放つぞ! 3、2、1、ウンチ!!発射!!!! ウンチクボンバー不発でした。乙。 サッパリ解らないですョ。ウヒ。」 ・・・並に意味不明だな、Zのレスは。
318 :
名無しさん@社会人 :2007/07/29(日) 22:35:09
Zちぇんちぇいの放縦を今までずっと放置してた癖に、 「空気」が変わるとワッと叩き始めるんだね。 まるでどっかの国の有権者の投票行動と一緒だなw 俺が日本人の国民性で最も嫌いな点の一つだな。
319 :
Z :2007/07/30(月) 00:00:39 0
>>318 讃江
ボクは空気が変わったとか、叩かれているとは思っていませんので、
ご安心ください。
後半は同感です。
320 :
名無しさん@社会人 :2007/07/30(月) 02:27:19
どうせ
>>318 は開票速報が民主寄りになってて、いやいや自民はもっと伸びるよ
マスゴミはしょーもないなとか言ってて、その後顔真っ青になった自民支持者だろw
日本人の国民性を云々する前に、お前の頭の悪さを何とかしろ、バーカ。
321 :
名無しさん@社会人 :2007/07/30(月) 02:33:26
322 :
名無しさん@社会人 :2007/07/30(月) 02:36:39
>>320 その手の馬鹿は、かなりいそうだ…
出口調査でだけ民主党と書こう!、などと煽ってる馬鹿がいたしな
323 :
名無しさん@社会人 :2007/07/30(月) 09:07:24
325 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :2007/07/30(月) 22:54:17
マックスウェーバーの一番の間違いは、哲学。ニーチェの言ったことを無茶苦茶に解釈してる。 社会学者に暗い感じの人が多いことはそこらへんから生じていると思う。 特にあのアホ宮台の生みの親。形而上学(根本の哲学)と社会の表面上の変化を一緒にしているところがおかしい。 いや表面的なんですよ。意識は表面なんです、ってあのアホ宮台は言うが、観念論の問題ではなく、(それでも違うが)お前の言っていることは浅薄だと。 まあウェーバーは宮台よりはしっかりした社会学者で面白いところはあるが、哲学は最低。 社会学までそこが浸透している。ニーチェが理解できる社会学者がいるとは考えられない。今でも。
新キャラ登場w
Zがひかってるね
328 :
名無しさん@社会人 :2007/08/02(木) 12:28:31
いやニーチェとは無関係ですよ。
329 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2007/08/03(金) 11:09:36
上海万博(2010)までにウェーバーの呪縛を解くことはできるでしょうか? ウェーバーが提起した謎は、 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の最後の以下の文章です。 “こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」《letzte Menschen》 にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、 心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない 段階にまですでに上り詰めた、と自惚れるだろう」と。―― ただし、ここまでくると、我々は価値判断や信仰判断の領域に入り込むことになる。 が、そこまでは、この純粋に歴史的な叙述に求めるべきではあるまい。 むしろ、われわれのなすべき仕事は、以上の素描でその一端にふれたにすぎない 禁欲的合理主義の意義を、さらに社会-政治的倫理の内容について、 すなわち、私的集会(Konventikel)から国家にいたるまでの 社会的諸集団の組織と機能のあり方について、明らかにしていくことだろう。 その次に、禁欲的合理主義の人文主義的合理主義とその生活理想や 文化的影響に対する関係、さらには哲学上ならびに科学上の経験論の発展や 技術の発展に対する、また精神的文化諸財に対する関係が分析されねばならないだろう。 (岩波文庫版 pp.366-368)” 私たちは、 万博で開催した7月8,10日2回の「持続可能なコミュニティづくり」シンポジウム そのT.「持続可能なコミュニティづくり」―組織とマネジメントからの問題分析 そのU.「持続可能なコミュニティづくり」―文化と価値の創造をめざす問題解決 において、正にウェーバーが提起した謎と悪戦苦闘し、その後も悩み続けてきました。 でも、もうタイムアップです。 何とか、操作的な結論を出しましょう。
↑なんかいかにも文系馬鹿丸出し、って感じw 「ウェーバーの呪縛」とかさ こういう奴はたとえば「ニュートンの呪縛」とか「アインシュタインの呪縛」 という表現を誰かがつかっても何も違和感を感じないのだろうか?w
331 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2007/08/04(土) 12:29:10
いや、私は理系の馬鹿だから、「ウェーバーの呪縛」とか言って見たり、するんだと思いますよ。 文系の馬鹿だったら「ウェーバーの呪文」を唱えるのではないでしょうか? いずれにせよ、この言葉を見て違和感を感じるのは、学問にコンプレックスを感じる人だと思います。
>>330-331 「呪縛」という言葉だけとらえて短絡的に反応するのも、
文系・理系というカテゴライズにあっさりのっかるのも、似たり寄ったりだ
どっちもいかにもバカ丸出しだ
言葉だけを捕らえたのではなく、329の馬鹿がもっとも顕著に表れている点を 指摘したに過ぎんがね。 まあ、332も「ウェーバーの呪縛」という言い回しに何も違和感を感じられない 馬鹿なんだろうから理解できないだろうけどね
334 :
名無しさん@社会人 :2007/08/04(土) 23:50:31
>言葉だけを捕らえたのではなく >「ウェーバーの呪縛」という言い回しに何も違和感を感じられない馬鹿なんだろうから 333は、俺様が違和感を感じるから言葉だけ捉えたわけではない!!とでも言うつもりなのか?? ヴァカ確定だなw
ネタの落ちを解説するほど野暮なことはないが、可哀想だから少し解説してやるとするかね。 当たり前のことだが、人間は物理法則(例えば万有引力)に縛られている。 君はじゃあこれを「ニュートンの呪縛」というのか? だが、別にニュートンが人を地球に縛り付けているわけではないぞw 物理法則の呪縛、あるいは万有引力の呪縛、と言わなければ意味不明だろう。 ここまで誘導されれば馬鹿な君でも329の滑稽さがわかるでしょ。
確かにニュートンは自分で自然哲学者と名乗ってたしな。 もちろん物理学なんて近代の言葉を誰にも知られず、実は独創で 考え使用していた可能性もあるようだな、このスレによれば
337 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2007/08/05(日) 14:41:30
皆さんが駄弁を弄していらっしゃる間に、おかげさまで、
>>329 ウェーバーが提起した謎と悪戦苦闘し、その後も悩み続けてきました。
ウェーバーが提起した謎は解けました。しかるべき専門家グループに報告しておきます。
ご支援、ご協力、ありがとうございました。
>>335 >当たり前のことだが、人間は物理法則(例えば万有引力)に縛られている。
>君はじゃあこれを「ニュートンの呪縛」というのか?
>>329 (=
>>337 )をフォローするつもりは 全 く ないが、329にいう呪縛は、
理論間の問題に関して言われていることで、理論が示す帰結について言われていることではないだろ。
ネタの落ちを解説するつもりで馬脚あらわしてちゃ世話ないよ。
>>337 おまえZだろ? 2日で解ける謎と悪戦苦闘ってどういうセンスしてるんだよ一体・・・
------------------------
やっぱどっちもどっちだろw
339 :
Z :2007/08/05(日) 21:23:54
>>338 さん江
「
>>337 おまえ‘Z’だろう?」
何でこんなところへボク=Zが出てくるんだろう?
冗談でしょう。
>>338 >理論間の問題に関して言われていることで、理論が示す帰結について言われていることではないだろ。
君これ自分で自分の言ってる意味わかる?
「だから」どうして「ウェーバーの呪縛」という言い方が奇妙ではないと言える訳?
ウェーバーが何者かを縛ってるわけでもないのにねえw
まったく意味がわからないよ。
日本語苦手なら英語でもいいから説明してみて。
ちなみに「英語に訳せ」っていうのは訳のわからない文章を書く学生に大学のセンセが
よく指導する台詞なんだけどねw
341 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2007/08/06(月) 16:00:09
こうやって、特定の人格的傾向(肥大したプライド)を持つ人間は 「キチガイのふりをするキャラ」を演じることに追い込まれるんだねw そんなキチガイのフリなどという恥ずかしい行為に及ぶぐらいなら、 自分の未熟さや無知をとっと認めたほうがよほど精神的に楽なんじゃねえの? と俺なんか思うんだが。
>>340 ああ、そういうリアクションでくるわけか。
お前がやってることは、お前が理解できない/認めたくない記述について、
一方的に、「記述した人間」が理解できるかできないかに話を限定して
形式的に自己正当化をはかろうとしているだけだろ。
俺はその部分を理解して書いてるし、お前以外のまともな頭したやつは理解するから、
いくらお前が強がってみせたところで無意味だぞ?
お前は馬鹿すぎてそういう計算ができないようだが。
それに、「〜の呪縛」という日本語を、「〜が呪縛している」という意味に限定して
理解しなければならないなんてことはない。
結局のところ、頭の悪い中学生みたいな言いがかりつけてるだけだろ、お前。
>>339 >>341 なんなんだこいつ・・・
>>342 が339,341のことを指してるんだったら、全く同感。
なにがリアクションだかね >それに、「〜の呪縛」という日本語を、「〜が呪縛している」という意味に限定して >理解しなければならないなんてことはない。 こういうのが、「文系脳」かね いやそんな言い方をしては文系の人間一般に失礼かもしれないw 確かに、例えば徳川家康が作り出した体制がもたらした文化的・精神的な 遺産(あるいは負債?)に現在の日本も縛られている面がある、という意味で 「家康の呪縛」という言い方をする場合はあろう。 だが、社会法則・物理法則に縛られる様を、その法則の発見者の名前を使って 「ニュートンの呪縛」だの「ケインズの呪縛」だのと表現する用法は見たことも聞いたこともない。
345 :
名無しさん@社会人 :2007/08/06(月) 21:14:47
>>340 完全に君の方が間違ってるよ。
「ウェーバーの呪縛」は、確かに「理論間の問題に関して」使われている。
科学の例でいえば、ガリレオの落体運動の法則に対して、「アリストテレスの考えに反しているから、間違っている」と答えるような場合だ。
左のような場合を「アリストテレスの呪縛」と表現するのは、心の働きが自由でない状態を指しており、全く普通の日本語表現だろう。
君は、法則の帰結に正しく従うことを呪縛と呼ばない、という理由で、「ウェーバーの呪縛」という表現がおかしいと反論している。
しかし、そもそも法則の帰結に正しく従うことは、誰も呪縛とは呼ばないので、それは反論にならない。
>>344 実際
>>343 の指摘どおりに見えますが>リアクション
なんか激しく頭悪いくせに随分偉そうだねこの人。
>>345 全く同意。
「社会法則・物理法則に縛られる様を、その法則の発見者の名前を使って
「ニュートンの呪縛」だの「ケインズの呪縛」だのと表現する用法は見たことも聞いたこともない。」
って、そりゃ誰もそんな用法で使わないもんね。こんなに頭悪い人見たのは久しぶり。
348 :
名無しさん@社会人 :2007/08/06(月) 21:23:32
文系脳とか言い出す人間の脳は何脳なんだろうな 2ちゃん脳か?w
350 :
名無しさん@社会人 :2007/08/06(月) 21:25:16
「ニュートンの呪縛」だの「ケインズの呪縛」だのと表現する用法は見たことも聞いたこともない。w 「ニュートンの呪縛」だの「ケインズの呪縛」だのと表現する用法は見たことも聞いたこともない。w 「ニュートンの呪縛」だの「ケインズの呪縛」だのと表現する用法は見たことも聞いたこともない。w 「ニュートンの呪縛」だの「ケインズの呪縛」だのと表現する用法は見たことも聞いたこともない。w 「ニュートンの呪縛」だの「ケインズの呪縛」だのと表現する用法は見たことも聞いたこともない。w イタ杉w
>>348 確かに、リアルで文系脳などと発言する人には、お目にかからないよね。
352 :
344 :2007/08/06(月) 21:31:10
>>345 なるほど、完全に同意はしかねるが、
>>343 (君と同じ人?)の言いたいことは
その説明で理解することはできた。
つまり、ウェーバの偉大さに幻惑されて、あるいはウェーバの提示した枠組みに
囚われて、一種の思考停止状態に陥っている、という意味で「呪縛」といっているのだ、
と
>>338 =
>>343 はいっている訳か。
確かにそういう用法であれば、ありえないとまでは言えないと思う。
>>329 がそういう意味で「呪縛」といっているかは微妙な気がするが。
それに、そもそも
>理論間の問題に関して言われていること
こんな人を惑わす、意味不明な表現をするからいけない。なんだよこれ。
355 :
344 :2007/08/06(月) 22:00:45
そこは断固反対させてもらうよ。
>>338 は、たまたま似たようなことを考えていたことがあったために「シナプス形成」
が出来ていた人間でもない限り理解できない文章ではある。
356 :
344 :2007/08/06(月) 22:02:59
できた場合でも、それを「理解」と呼んでよいかどうか疑問だな。 むしろ強引な推測に近いものを言わざるを得ないだろう。
理論間の・・・という表現は普通に使うよ。 社会学板で断固反対は馬鹿すぎでしょ。 負け惜しみはほどほどに。
>>344 >>330 >>333 の「「ウェーバーの呪縛」という言い回し」に「違和感」の方がよっぽど意味不明だよ。
344が言いたいことって、呪縛という言い回しのおかしさじゃなくて、呪縛の用法間違いだったんじゃないの?
「言い回し」に固執したから、
>>338 の反論が理解できなかったんじゃん・・・
いや、むしろ「言い回し」に固執した(忠実だった)のは、
>>344 に反論してた側でしょ。
>>344 は、ウェーバーの呪縛という表現・言い回し・言い方が
おかしいと書いてたわけだけど、それに忠実だったから、
>>338 みたいな指摘が出てきたわけでしょ?
344が
>>329 について
>>330 と書いたときに意図してた内容
自体は、正しかったと思うよ。
360 :
Z :2007/08/07(火) 19:19:14
>>329 の中葉さんの「ヴェーバーの呪縛」云々が延々と続きましたが、
ヴェーバーを理解する何か有益なアンサーが出たでしょうか?
中葉さんや一部の方を除いて、‘名無しさん@社会人’の一人相撲のよう。
八百長じゃないか?
もうこの辺で、意味不明な 論議(それに値するかどうかもギモン)は止めにしよう。
へー、Zちぇんちぇいの「独り言」みたいなレスは意味不明じゃないんだw
362 :
Z :2007/08/07(火) 21:39:55
「心情倫理」というコトバについて。 独語では、‘Gesinnungs-ethik’である。 森嶋通夫氏は、これを「信條倫理」といっている。 「信念倫理」と訳する人もいる。 大塚久雄氏は「心情倫理」と訳しているが、‘情’には「なさけ」の意味があるから、 何となく弱い感じがする。 Gesinnungs-ethik’は、‘信念倫理〜信條倫理’の方がその意味をヨク伝えていると思う。 『プロ倫』で大塚氏は、“精神のない専門人、心情のない享楽人”となっている。 旧版:梶山力は、“〜感性のない享楽人”と訳している。 英訳では、精神=Spirit 心情=Sense である(英:アレンandアンウイン社刊) また、大塚氏の‘心情のない享楽人’よりも、梶山氏の‘感性のない享楽人’ の方が適切である〜と思う。
うわ、まだZがんばってるのか キモス
364 :
Z :2007/08/08(水) 08:47:28
世間では、義理・人情という。 義理には「責任倫理」の意味が含まれているが、 人情は心情に近い。そこには信條〜信念は含まれていないだろう。 心情<信條<信念 と強くなる。 Gesinnungs-ethikは、「信條」が もっとも適切だろう。
365 :
Z :2007/08/08(水) 08:58:19
なお付け加えれば、 ヴェーバーの学術用語は「日常性のターム」が多い。 これがヴェーバーの大きな特徴である。しち難しいコトバはない。 そういう意味ではベルグゾンと似ている。ベルグゾンは仏蘭西のM.Weber だといわれている。
366 :
名無しさん@社会人 :2007/08/08(水) 17:52:56
>>360 なあ、Zは
>>329 の呪縛の使い方が正しいと思うのか?
多分Zと中葉ぐらいしか(この意味わかるよね)、
正しいと思わないんじゃないかと思うんだけど。
368 :
名無しさん@社会人 :2007/08/10(金) 16:18:56
呪術の誤植だろw
369 :
Z :2007/08/11(土) 17:53:24
Mヴェーバーが何故、“発展段階論”に賛同しなかったか? それは、おそらくMヴェーバーの最後の講義となったであろう 1919〜1920年にわたってミュンヘン大学での、『一般社会経済史要論』 講義で論じられている。 発展段階論については、ヴェーバーは二つ挙げている。 @ 歴史学派:シュモーラーの「発展段階説」 A マルクスの「唯物史観」 どちらも、価値判断論争にかかわっている。(価値判断を含んでいる) Aは、いうまでもないが、 @はチョットややこしい。 ドイツの大学行政にも絡んでいる。 詳しくは、上山安敏 著『ウェーバーとその社会』で。 (ヴェーバーは、ドイツの大学行政に反旗を翻していた。 20世紀初め神経症からの回復時期、夫妻でアメリカを訪れ大学をも訪問した。 そのとき彼はアメリカの大学を、 エンタープライズ! と喝破した。自国ドイツでは考えられぬシステムだったから。 大学についても、彼は20世紀全体を見抜いていた)
370 :
Z :2007/08/12(日) 00:18:13
合理的(形容詞)と合理性(名詞)の違い 目的合理的行為=zweck-rationales Handeln 価値合理的行為=wert-rationales Handeln 形式的合理性=formale Rationalität 実質的合理性=materielle Rationalität 即ち、ヴェーバーは 「合理」が形容詞の場合、‘目的'合理的行為・‘価値'合理的行為 と使い、 「合理」が名詞の場合、‘形式的'合理性・‘実質的'合理性 と使う。
371 :
Z :2007/08/15(水) 00:08:35
↑上記少し訂正いたします。 岩波文庫Mヴェーバー著:清水幾太郎:訳『社会学の根本概念』p41で、 目的合理性・価値合理性とあります。 原本『Wirtschaft und Gesellschaft』p12では、それぞれ Zweckrationalität・Wertrationalitätとなっています。 形式的合理性=formale Rationalität 実質的合理性=materielle Rationalität は、 原本『Wirtschaft und Gesellschaft』の第2章:「経済の基本的カテゴリー」 9)formale und materiale Rationalität p44にあります。
372 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2007/08/17(金) 09:21:54
>>369 大学についても、彼は20世紀全体を見抜いていた
という観察には同感です。しかし、21世紀についてはどうでしょうか?
少なくとも、
>>329 “こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」《letzte Menschen》
> にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、
> 心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない
> 段階にまですでに上り詰めた、と自惚れるだろう」と。――
> ただし、ここまでくると、我々は価値判断や信仰判断の領域に入り込むことになる。
> が、そこまでは、この純粋に歴史的な叙述に求めるべきではあるまい。
> むしろ、われわれのなすべき仕事は、以上の素描でその一端にふれたにすぎない
> 禁欲的合理主義の意義を、さらに社会-政治的倫理の内容について、
> すなわち、私的集会(Konventikel)から国家にいたるまでの
> 社会的諸集団の組織と機能のあり方について、明らかにしていくことだろう。(岩波文庫版 pp.366-368)
この中間の段落、つまり断絶を良く見、良く考えると、
彼は21世紀を21世紀の人間に完全に託し、自分自身は放棄したように思われてならない。
Zさんも同様ではありませんか?
ひとり相撲って楽しいのか?
374 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2007/08/17(金) 11:47:00
あはは、あなたには独り相撲に見えるんだ!あわれ 本質的な立脚点が全然違うことが判らないんだ。
>>374 そこで区別つけてるわけじゃないし。
語るに落ちてるよ。
まああえて擁護(本人「たち」はその必要性を認めないだろうけどw)すると、 スレのタイトル的に言って人格類型的に似たタイプ(i.e.訓詁学大好き)が 集まってるとしても不思議はないのかもね。
377 :
Z :2007/08/17(金) 19:13:21
>>372 中葉さん江
いかなヴェーバーでも、21世紀を見抜くことは無理でしょう。
それは21世紀の我々ヴェーバリアンに託された責任だと思います。
それから、中葉さんや一部の‘名無しさん@社会人’を除いて、
>ひとり相撲
>語るに落ちてる
>訓詁学大好き
云々…
など、論破にも反論〜解明にもなっていません。
具体的な論考をレスしてくれませんか。
「操作的な結論」とか、「具体的な論考をレス」とか 書き込むセンスを持つ人は、そんなにいないのでわ。 ウェーバーがどうのとか言う前に言葉のセンスを 磨いたほうがよさげ。
379 :
Z :2007/08/17(金) 21:54:34
そういえば、大塚久雄氏は文章がなめらかでした。 吉川幸次郎氏もそうです。 両氏ともあまりにも名文家でスラスラ読めるものですから、 要点を見逃してしまう事があります。 学者は悪文家の方がわかりやすい。 書き込むセンスも良し悪しです。
Zって、なんていうか、基本的な部分がおかしくないか?
>>378 に
>>379 って、頭おかしいだろう、普通に考えて。
381 :
名無しさん@社会人 :2007/08/21(火) 22:23:58
エートス・エーティック・倫理という3つの言葉の明確な違いがわからないなぁ。 あと精神のない専門人という箇所はニーチェの末人と照らし合わせると よくわかると思う。
382 :
名無しさん@社会人 :2007/08/21(火) 22:29:38
「わたしはあなたがたに最低の軽蔑について話そう。おしまいの人、末人のことを…… 『愛って何?創造って何?あこがれって何?』――こう末人は問い、目をまばたかせる。 そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。末人は全てのものを小さくする。この種族はのみのように根絶できない。末人は一番長く生きる。 『われわれは幸福を作りだした』――こう末人たちは言い、目をまばたかせる。 彼らは生き難い土地を去る。温かさが必要だから。彼らは隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける。温かさが必要だから。 病になること、不信を抱くことは、彼らにとっては悪となる。彼らはいつも警戒し、ゆっくりと歩く。なぜなら石にけつまずくもの、人間関係で摩擦を起こすものは彼らにとって馬鹿者だから! 彼らはほんの少しの毒をときどき飲む。それで気持ちの良い夢を見る為に。そして最後には多くの毒を。そして気持ち良くなって死んでゆく。 彼らもやはり働く。なぜかといえば労働は慰みだから。しかし慰みが身体に障ることのないよう彼らは気を付ける。
383 :
名無しさん@社会人 :2007/08/21(火) 22:31:11
彼らは貧しくもなく、富んでもいない。どちらにしても煩わしいのだから。誰がいまさら人々を統治しようと思うだろう?誰がいまさら他人に服従しようと思うだろう?どちらにしても煩わしいだけだ。 既に牧人さえなく、畜群(※)だけ!飼い主のいない、ひとつの蓄群! 誰もが平等を欲し、誰もが平等であることを望んでいる。みなと考え方が違う者は、自ら精神病院へ向かってゆく。 『昔の世の中は狂っていた』――と、この洗練されたおしまいの人たちは言い、目をまばたかせる。 彼らは賢く、世の中に起きる物事をなんでも知っている。そして、何もかもが彼らの嘲笑の種となる。彼らもやはり喧嘩はするものの、じきに和解する、――さもないと胃腸を壊す恐れがあるのだから。 彼らも小さな昼の喜び、小さな夜の喜びを持っている。しかし、彼らは常に健康を尊重する。 『われわれは幸福を作りだした』――こう末人たちは言い、目をまばたかせる。 ツァラトゥストラの言説は、ここで群衆の叫びと歓喜にさえぎられた。「われわれにその末人を与えよ、おお、ツァラトゥストラ、われわれをその末人たらしめよ。そうすれば超人はおまえにゆだねよう」 そして群衆のすべては歓呼し、舌を鳴らした……。」 ※「蓄群」―家畜化された現代人の生態;人間の矮小化、創造力の喪失
384 :
名無しさん@社会人 :2007/08/21(火) 23:51:10
385 :
Z :2007/08/22(水) 09:14:29
>>382 ・
>>383 讃江
久しぶりに実のあるレポート有難うございます。
ニーチェ:おしまいの人(末人) ましな人 超人
孔 子 :小人 君子 聖人
何か関係あるのでしょうか?
386 :
Z :2007/08/24(金) 23:27:36
ニーチェは孔子の『論語』を読んでいたに違いない。彼は元々文献学者だったから。 しかし、それにヒントを得たかは判らない。 ニーチェは勿論、己は末人とは思っていない、ましな人とも思っていない。まし てや超人とも思っていない。あくまで第三者的傍観である。この知的差別をナチスが 換骨奪胎した。民族的差別だ。 孔子は、自分は君子だと誇りを持って信じていた。しかし、聖人とは思っていなか った。彼は当時(春秋時代)の魯をはじめ衛や楚・斎…などを訪れて、君王に聖人 たらんことを欲した。しかし、それには成功しなかった。 ヴェーバーは『論語』を読んでいた。“われ未だ生を知らず。いずくんぞ死を知ら んや…”は、『儒教と道教』のメインテーマである。彼も一面ドン・キホーテ的な面 はあるとしても、己自身は君子〜騎士と思っていた〜だろう。また、そのように 行動した。 (ドン・キホーテは君子〜騎士である)
387 :
Z :2007/08/27(月) 17:45:56
「精神のない専門人、心情(感性)のない享楽人。この無のもの(dies Nichts)は、 人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」 の英語版(Tパーソンズ訳=英Allen and Unwin社刊)では “Specialists without spirit, sensualists without heart; this nullity imagines that it has attained a level of civilization never before achieved.” となっている。
388 :
名無しさん@社会人 :2007/08/31(金) 15:37:52
いや論語の訳がないって
389 :
Z :2007/09/03(月) 10:57:51
『論語』の英訳・独訳は申し訳ないが、まだ観ていません。 勿論あるはずです。
Zって、なんていうか、基本的な部分がおかしくないか?
>>378 に
>>379 って、頭おかしいだろう、普通に考えて。
Zって名乗るぐらいだから「終わる一歩手前」あるいは「行く所までイッテしまってる」 のは自覚してるんでしょうw でもいいじゃん別に過疎ってるスレなわけだし。
392 :
Z :2007/09/04(火) 20:25:42
雀部幸隆 著『公共善の政治学〜M.Weberの「政治的科学」の再構成』 松井克浩 著『ヴェーバー社会理論のダイナミックス』 (「諒解」概念による『経済と社会』の再検討) 共に‘未来社’10月刊
393 :
Z :2007/09/05(水) 11:09:27
↑追加 前川輝光 著『マックス・ヴェーバーとインド』 も、復刊されます。 (未来社より)
394 :
名無しさん@社会人 :2007/09/07(金) 21:14:45
age
395 :
Z :2007/09/09(日) 10:04:56
塩野七生 女史の『ローマ人の物語』(15巻〜ローマ世界の終焉)を読んだ。 塩野女史は、ローマ崩壊(西ローマ帝国)の原因はローマ学者の数だけある と言う。だから、彼女は崩壊の原因を明言していない。 その最後の参考文献に、 M.Weber Die sozialen Gründe des Untrgangs der antiken Kultur 1896 (“古代文化没落の社会的諸原因について”〜『社会経済史論集』に所収) を挙げている。 塩野さんの『ローマ人の物語』は表題の如く人物(ローマ人)だから、 個人名が多く出てくる。社会・経済システムは、あまり出てこない。 ウェーバーのこの論文は、古代ローマの社会・経済システムが中心である。 ヴェーバーはローマ帝国が滅びる前に、その文化が滅んだ…という。 はたしてそうか?! 私は疑問におもう。 この論文では奴隷が 重きをなしている。そして、その奴隷の不足が没落原因としている。 そこが疑問〜問題である。 因みに言うと、塩野女史の『ローマ人の物語』は、紀元前800年(ローマ 建国〜推定)からAD476年西ローマ帝国崩壊までが主に扱っている。 以後、 1〜2世紀の概略も述べている。 ギボンの『ローマ帝国衰亡史』は、2世紀頃のトラヤノス・ハドリアヌス帝の いわゆる五賢帝(アントニヌス朝)から、東ローマ帝国滅亡(AD1453年) までを書いている。 なお、上記M.Weber論文では、ローマ帝国は市場経済だったのが、没落寸前 では実物経済化していた…とある。市場がなくなったわけではない。 落ちぶれた市場を支えていたのがユダヤ人だった(ローマ帝国全域 〜及び蕃域に)。
>>395 >彼女は崩壊の原因を明言していない。
塩野七生を歴史学者とでも思っているのだろうか?ただの歴史小説家だよ。
史学科・歴史家から見ると、 池田理代子と同じ。
397 :
Z :2007/09/10(月) 21:26:32
>>396 たしかにその通りですネ。
塩野女史が言うには、ローマ帝国の崩壊は、人間でいえば「つかれ」
が出たのだといっています。
でも、 池田理代子女史と同列に観るのは、かわいそう。
>かわいそう
なんじゃそら。
>>395-396 と何の関係があるんだ。
396には「史学科・歴史家から見ると、」って書いてあるだろ。
そういうレベルの話であることすら分からずにウンチク垂れてるのかよ・・・。
399 :
Z :2007/09/11(火) 11:11:51
21世紀になって、経営学などで‘アントプレーナーシップ’というタームが 流行語のようにもてはやされている。しかし、このアントプレーナーシップ (企業家精神)をはじめて言ったのはMヴェーバーである。経営学ではヴェーバ ーを探求しないし、また社会学では経営学に関心がない。その点、ドラッガーは 違う。ただ、ヴェーバーとの学問的な関連はわからない(名前ぐらいは知って いたであろう)。 二言めには‘アントプレーナシップ’を振りまく連中に、ヴェーバーについて を尋ねたところ、名前すら知らなかった。最近の経営学は…? スキデルスキー著『JMケインズ伝』(MacMillan社刊)の第2巻“救世主として の経済学者”で、 「ケインズは企業家精神を重く見ていた。これは、Mヴェーバーの資本主義の 精神に通じる。しかし、彼はMヴェーバーの著作は読んでいかかったであろう」 と書いている。
401 :
Z :2007/09/11(火) 19:57:41
402 :
Z :2007/09/11(火) 20:10:54
403 :
名無しさん@社会人 :2007/10/08(月) 06:34:07
kじゅfygvぎkh
ジンメルにレンブラントってあったよね?
405 :
Z :2007/10/09(火) 12:32:39
かつて「谷川徹三」氏は、日本のゲオルグ・ジンメルだと言われていた。
406 :
名無しさん@社会人 :2007/10/14(日) 13:57:01
誰もが認める先進国で、非キリスト圏は、日本しかないね カトリックは、フランスとイタリアだけ。イタリアも先進国としては劣等性だね。 フランスだけは、なぜプロテスタントに負けないぐらい発展しているんだろう? フランスのカトリックの国でも何か特殊な事情があるんだろうか アメリカ・・・・・・・プロテスタント、メソジスト、モルモン教、中南米系カトリックなど 英国・・・・・・・・・英国国教会(プロテスタント系)、カトリック、クエーカー教会、ヒンズー教など ドイツ・・・・・・・・プロテスタント、カトリック、シーア派系イスラム教など フランス・・・・・・カトリック、ユグノー系新教、スンニー派イスラム教など イタリア・・・・・・カトリック、スンニー系イスラム教など(スペインもほぼ同じ) 北欧諸国・・・・・福音ルーテル派新教(プロテスタント)など 中部欧州・・・・プロテスタント、福音ルーテル派系新教など カナダ・豪州・・・プロテスタント、カトリック各諸派など
407 :
名無しさん@社会人 :2007/10/14(日) 14:12:02
フランスは日本と同じく特殊な国かもしれんな。
408 :
名無しさん@社会人 :2007/10/14(日) 14:50:38
フランスは、ヨーロッパで一番宗教色が薄い国。つまりかれらは、 カトリックの規範にそって動いていない。避妊と中絶を禁じてるはずなのに人口が増えないのが証拠。理由は、フランス革命でカトリック教会が反動の象徴とされたから。
フランスがカトリックの国ってそんなに簡単に割り切って言えるの本当w 俺の記憶じゃユグノー戦争ってのを世界史の時間に習った記憶があるんだが。。
410 :
Z :2007/10/15(月) 00:07:02
>>406 大まかではそれでいいのですが、
中欧では、
オーストリアはカソリックの牙城です。ポーランドも。
ドイツは、プロテスタント60%強、カソリック30%強、その他(ユダヤ強など)
ミュンヘン周辺はカソリック。今のローマ教皇はミュンヘン出身です。
411 :
Z :2007/10/15(月) 00:11:54
なお、カルヴァンはフランス人です。フランス生まれ、スイスで活動。
412 :
Z :2007/10/15(月) 00:24:30
もう一つ追加。 カルヴァンを無知蒙昧のようにいう人もいますが、 彼は正当な神学・法学を学んでいます。 『セネカ「寛仁論」注解』も書いています。 フランス・ユマニスムを基にした神中心主義者です。
413 :
名無しさん@社会人 :2007/10/15(月) 00:34:53
カトリックで長い間先進国っていうのはフランス、イタリアだけだね アイルランド、オーストリアも最近でこそ豊かな国になったけど前は中進国だったからね。 最近はEUのおかげか加盟している国は宗教に関係なく発展していっているね
だから、フランスがカトリックの国とか単細胞なこと言ってる奴は ユグノー戦争も知らんのか
415 :
名無しさん@社会人 :2007/10/15(月) 02:13:46
カトリックではフランスが一番発展しているな
416 :
名無しさん@社会人 :2007/10/15(月) 02:25:00
フランスはカトリックが6割を占めているが 意外とイスラム教徒は次にもっとも多い
417 :
名無しさん@社会人 :2007/10/15(月) 02:27:03
418 :
名無しさん@社会人 :2007/10/15(月) 03:16:51
なんだかんだ言ってフランスはカトリックの国だが、特別な国なんだよ。
419 :
名無しさん@社会人 :2007/10/15(月) 06:47:00
>>414 あんたもしつこいなwユグノー戦争って一体いつの話だよw
ここでカトリックと言っているのは近年の話だろ?フランスで現在プロテスタントはたった2%だけだよ
今やほとんどゴミみたいな勢力だよ。カトリックが圧倒的多数を占めているのには間違いないよ
420 :
名無しさん@社会人 :2007/10/15(月) 07:37:23
ユグノー戦争があったからって・・フランスがカトリックが多数なのは今も昔も変わらん 一度もプロテスタントが優位に立ったことは無い。れっきとしたカトリックの国だよ
まあ、今も昔もプロテスタントは、 フランスでは少数。 フランスをプロテスタントといったら、 それこそおかしいだろw ユグノー戦争?だから何って話だな
フランスにおいてプロテスタントは少数派ではあったが、 初期において資本主義を発展するにおいて大きな役割をしたということだろう。
確か前スレでも話題に出てたよ フランスはカトリックの国だけど、 資本主義勃興の上では、少数のプロテスタントが入ればいいということだった 当時もフランスも10%まではいかないけど、それなりにプロテスタントはいたから そいつらが担い手にとなったということのこと
ナントの勅令でフランスから出て行ったのが 数十万程度だから全体の%からいったらたいしたことないな
425 :
名無しさん@社会人 :2007/10/15(月) 13:11:17
>>423 10%もいないよ。フランスには3〜5%程度しかいなかった。
現代のフランスよりちょっと多いぐらい。
今フランスにいるイスラム教徒より少ない。
426 :
Z :2007/10/15(月) 16:02:50
Mヴェーバーに対し、Wゾンバルトは、“近代資本主義はカソリックから生まれた…” と言っている。また、“近代資本主義はフィレンツェが発祥の地だ…”とも言っている。 (Wゾンバルト『ブルジョワ』中央公論新社刊) それには、それなりの理由がある。 一度、『ブルジョワ』を読んでみて下さい。
427 :
Z :2007/10/15(月) 16:20:18
Mヴェーバー『社会学・経済学の「価値自由」の意味』木本幸造訳について。 社会学・経済学について、 社会学原理・理論経済学(新古典派・ケインジアン・マルクス学派などなど)と、 社会思想・経済思想がある。 ヴェーバーは、社会学原理・理論経済学に、社会思想・経済思想を持ち込む事を 否定したのではないか? 理論と思想の違い〜Aマーシャルが言う如く、 醒めた頭脳が理論・原理であり、熱き心が思想ではないか? 熱き心=思想は、学者の内面にあるものであろう。 ヴェーバーは 政治家はしての基本は(『職業としての政治』)@責任観念・A洞察力・B情熱 だと言っている。 学者と政治家の違い
まーたZちぇんちぇいの(誰にも望まれてない)講義の時間が始まったw
429 :
Z :2007/10/15(月) 20:05:42
経済学のゲームの理論 例えば「囚人のジレンマ」について。 この「囚人のジレンマ」は、あくまでゲームである。その点を忘れないように!! この「囚人のジレンマ」の解説は、皆さんがご存知だから略す。 そこで 政治家は、あえて価値合理性(Wert-rationalität)あるいは実質的合理性 (Materielle Rationalität)を、デマゴーグとして宣言し、実行しなければならない。 それは、時には非合理性に繋がる。 学者は目的合理性(Zweck-rationalität)あるいは形式的合理性 Formale Rationalität)でもって「囚人の〜」を解する。 したがって、アマルティア.センの言う如く‘合理的な愚か者’を甘受 しなければならない。(Aセン著『合理的な愚か者〜経済学=倫理学的探求』勁草書房刊) 政治家はコミットメント=義侠心を持ち(Wert-rationalität)、 学者はそれを、心の内にしまって置く。
430 :
Z :2007/10/15(月) 21:12:00
↑企業家〜経営者も目的合理性(Zweck-rationalität)あるいは形式的合理性 Formale Rationalität)である。当然のこととして。 現代人は全て「合理的な愚か者」?〜あるいは、そうたらざるを得ないのか?
プロテスタントってヘンリー8世がエリザベス1世の母アンと結婚したかったから作ったんでしょ。 で、カトリックの国(スペイン)は自殺が少ないんでしょ。協会で日曜日ミサするからでしょ!
432 :
Z :2007/10/16(火) 21:36:34
本年度のノーベル経済学賞(スウェーデン国立銀行賞)が発表された。 数理経済・ゲームの理論 分野。米国人:ハーウィッツ・マスキン・マイヤーソンの3人。 いま日経新聞の「私の履歴書」に執筆している青木昌彦氏は、ハーウィッツに師事したそうだ。 ところで日本人はノーベル経済学賞だけは、未だ貰っていない。 日本人は著名な外国の経済学者の解説・解釈はスバラシイのだが、 新しい理論を創造することが何ともみすぼらしい。 解釈学ばっかしでは、ノーベル経済学賞が貰えないのは当然だ。 このスレでもMヴェーバーの解釈だけでなく、新しいレポートを書こう。 たとえ青臭くても良いではないか。
433 :
名無しさん@社会人 :2007/10/17(水) 09:30:02
434 :
Z :2007/10/17(水) 18:40:55
2ちゃんねるからMヴェーバーのスレ、いくつあるか 一覧表 たのむ
435 :
名無しさん@社会人 :2007/10/17(水) 18:47:08
Zちぇんちぇいは頼まれてもいないのに他所でも迷惑かける気かw
438 :
Z :2007/10/17(水) 22:16:57
>>436 他の‘ヴェーバー’スレも頑張っています。
このスレも頑張らなくっちゃ !!
439 :
Z :2007/10/18(木) 00:11:34
経済学における新古典派・ケインジアンも含めた新古典派総合・ゲームの理論 などは、みな目的合理性(Zweckrationalität)、したがって経済活動は 目的合理的行為=zweck-rationales Handelnである。 これに対してマルクス主義〜経済学は価値合理性(Wertrationalität)、 したがってその経済活動は価値合理的行為=wert-rationales Handeln である。 Mヴェーバーは、実質的合理性は非合理性に繋がるという。(これが重要) 旧ソ連は、「結果の平等」を徹底しようとして市場原理を軽視し、実質的合理性 にこだわった故、ヴェーバーのヨクいう‘予期せぬ結果’が起こった。 即ち、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る…が、 必要に応じて働き、能力〜権力に応じてぶん取るとなった。 「チャンスの平等」を軽視して、「結果の平等」にこだわったからだ。 チャンスの平等と結果の平等は両立しない。 それが両立すると言い張り、己は 無邪気 にもリベラルだ、と自惚れている エコノミストが多い。
440 :
Z :2007/10/18(木) 00:16:51
↑実質合理性=価値合理性
このスレも頑張らなくっちゃ !! ↑この書き方はまさか…
442 :
Z :2007/10/18(木) 18:13:05
↑ これは私、Zです。 スマソ
443 :
Z :2007/10/18(木) 22:35:24
Mヴェーバーの没価値性〜価値自由 について。 @ 一般には、ヴェーバーは“価値判断をしてはいけない…”と、いっていると 誤解している。そんな事ではない。 彼は実践的な評価〜価値判断と、 学問の因果的合理性とを‘区別’せよ、といっているのである。 Aそもそも、彼が没価値性・価値自由を言ったのは、ドイツの大学行政についてだった。 ご存知のように、統一ドイツが成立したのは19世紀後半〜宰相ビスマルクによってだ。 国家としては後進国だった。だから、富国強兵がが最大目標となり、その頂点が優秀な人材 を養成する‘ベルリン大学’である。総長は歴史学派のグスターフ・フォン・シュモラー。 彼はその任務を果たした。日本も明治時代の目標は富国強兵であり、その頂点は東京大学で あった(それに陸士・海兵)。現に、いまの中国がそうである。優秀な人材を世界の大学〜 ハーバード・MIT・スタンフォード・オックスブリッジ等に送っている。 共産主義の勉強のためではない。 Mヴェーバーは、そのシュモラーのやり方(堂々と価値判断を学問に含ませる〜 富国強兵)に反対した。彼は、もっとリベラルな文化的な養成を望んでいた。 それが南西学派(ミュンヘン・ハイデルベルク)だった。 皮肉にも、南西地方はカソリックの牙城だが…。
444 :
Z :2007/10/18(木) 23:32:53
↑ 訂正 X 南西(ドイツ)学派→〇 西南
446 :
らばるす :2007/10/19(金) 03:23:21
プロ倫おもしろいですよね。
447 :
Z :2007/10/19(金) 11:29:42
ゾンバルトが“資本主義はカソリックから生まれた…”という意味。 近代資本主義⇔プロテスタント が通常となっているのに、 なぜ、資本主義⇔カソリック を持ち出したのか? 彼はカソリック だったか否かは私は知らないが。 多分、プロテスタントの味もそっけもない 文化・習俗に飽き足らなかったのかもしれない。 彼は、近代資本主義の 発祥地はフィレンツェだと言っているのは、経済だけでなく、文化も視野に 入れていたのではないか? 奢侈についても書いている。 (資本主義の飽くなき競争に疲れて年金生活に逃げる。そこから奢侈が生まれる…)
448 :
なんばりょうすけ :2007/10/19(金) 12:14:03
>>446 らばるすさんお久しぶりです。大学卒業してどうしてたんですか?
マックスウェバーをよんだりしていた?
449 :
Z :2007/10/19(金) 15:50:27
↑ Wゾンバルト著『恋愛と贅沢と資本主義』(講談社学術文庫 刊) 経済史の“知”(知識・知恵)については、 知識ではゾンバルトが横綱なら、Mヴェーバーは小結か前頭筆頭だろう。 知恵〜思考では判らない。 ( )内はゾンバルト『ブルジョワ』の結論から。
450 :
Z :2007/10/19(金) 20:05:30
Mヴェーバーは「価値自由〜没価値性」についておもしろい事を言っている。 大学の講義で、純粋理論を述べているときは学生は静かに聴講しているが、 その理論の実践的評価(価値判断)を述べると、俄然、彼らの眼が生き生きと して来る…と。 そらそうだろう。 やはり学生はそれが聴きたいから。 だからこそこの二つは、はっきりと区別すべきだという。
451 :
Z :2007/10/19(金) 20:32:53
今日(10/19)の日経新聞夕刊に、EUが大統領制を導入すという。 通貨統合(ユーロ)の次は、政治統合(あくまで緩やかな)である。 正に‘帝国’だ。それは植民地支配の帝国主義ではない。(レーニンは古い) いまや21世紀の帝国は、貨幣(カネ)と技術(テクノロジー)で支配できるから。 これもグローバライゼーションだろう。
452 :
名無しさん@社会人 :2007/11/01(木) 19:00:49
マックス・ヴェーバーの『プロ倫』を読んだあと、大塚久雄氏の諸作をいくつか読んでみたのですが、最近の流れではこれは誤ったものらしいですね。どこが誤っていたのでしょうか? この掲示板には知識人が数多くいて、勉強のできない私など知識が全然及びません。そうした学識あふれる諸兄の知識の一片を私にご披露願えませんでしょうか?よろしくお願いします。
453 :
名無しさん@社会人 :2007/11/01(木) 20:11:51
折原浩先生の著作を読むことからヴェーバー学は始まる
454 :
Z :2007/11/01(木) 21:55:40
>>452 大塚氏のヴェーバー解釈が間違っているのではなく、今ではヨリ進んでいると
言うべきでしょう。
例えば、ニュートンの‘万有引力の法則’が全く間違っているのではなく、
‘量子力学’やアインシュタインの‘特殊・一般相対性理論’でヨリ深く
探究されているのと同じです。
上山安敏氏の『ウエーバーとその社会』(ミネルヴァ書房刊)を読め。
(もっとも、上山さんのは中級向きだが…。初心者にはむずしいかも〜)
455 :
名無しさん@社会人 :2007/11/02(金) 03:53:28
>>452 折原氏の著作ですか。読んだことないですね。読んでみます。
>>454 なるほど。より深くということですか。
『ウェーバーとその社会』読んでみます。
わざわざレスありがとうございました。
所詮個人の主観基準(読み手しだい)で評価が変わっちゃう、 どこまでいっても人称性の付き纏う訓詁学と、 物理学のように論理と実証で人称性から自由な科学を一緒にしてよいものかね。
457 :
Z :2007/11/02(金) 21:36:57
>>456 リッケルトが『文化科学と自然科学』でいっているように、当然のことだろう。
458 :
名無しさん@社会人 :2007/11/13(火) 21:02:48
ウェーバーの特集号立ち読みしてきたお
459 :
名無しさん@社会人 :2007/11/13(火) 22:00:07
なんという雑誌か?
460 :
名無しさん@社会人 :2007/11/13(火) 22:03:58
461 :
Z :2007/11/14(水) 21:23:12
>>460 山之内靖氏がヴェーバー〜ハイデッガーを書いているのが気にかかる。
何十年か前、山之内氏が日本で初めてヴェーバー〜ニーチェを論じたが、その当時
外国では、それは一般的であった。
ヴェーバー〜ハイデッガーも、外国では昨年あたりから言われている。
我が国では初めてだろうが…。
462 :
Z :2007/11/18(日) 09:58:52
青土社刊:『現代思想ー臨時増刊』〜「マックス・ネーバー」\1,400- 今日の日経新聞:書籍広告に載っていた。 日本人は何故こんなにM.Weberが好きなのか? マルクスが没落したから? ヴェーバーの解釈学は別にしても…。本居宣長が200経っても学問的価値 (たとえ反面教師としても)があるのに似ている。 ヴェーバーは彼自身にとっても完成していなかった。 ‘宗教社会学の最後にマリアンネは、「これは、まだ続く」と書いている’ (マルクスの資本論第3巻末に、「原稿はここで切れている」とある〜感激!!) マルクスは『資本論』(第一巻)を生前に出し、改訂版も刊行した。 ヴェーバー『経済と社会』は死後3年後に出た(現在は第五版)。 その未完成が人気の原因だろう。 今ではかれの解釈学の時代は過ぎ、発展学の時代だ(教師にしろ、 反面教師しろ〜これが大切)。
463 :
Z :2007/11/18(日) 10:01:45
マックス・ネーバー→ウェーバーの間違い。スマン
464 :
名無しさん@社会人 :2007/11/22(木) 04:29:37
レスがあるだけありがたい、d
465 :
名無しさん@社会人 :2007/11/28(水) 01:39:29
まあどうでもいいんだけど、 「ヴェーバー」より「ウェーバー」の方が打ち込みやすくて良いと思う。
466 :
Z :2007/11/28(水) 19:39:07
山之内靖氏とヨハネス・ヴァイス。 J.Weiβ『ニーチェ、ヴェーバー、ハイデッガー』〜ニヒリズムの刻印を受けた思考 (「未来」:未来社PR誌'05:7〜8月号記載) 「現代思想」(青土社刊)'07:11月臨時増刊“総特集〜マックス・ヴェーバー” に山之内氏が、“「時間の諸相」をめぐって〜MヴェーバーとMハイデッガー” を載せている。 「時間の諸相」とは、彼の『Mヴェーバー入門』(岩波新書)第四章:古代史発見〜 回帰する時間の社会学からの引用だそうです。ここでは、彼はハイデッガーを 出してはいない。 山之内氏の「現代思想」論文は、この特集の巻頭言敵役割を果たしている。 内容は、ハイデッガーがヴェーバーにすり寄っているような感じがする。 ヴァイス論文は、ニヒリズムを中心として、ヴェーバーとハイデッガーの 類似性を述べている。 なお参考として、FWグラークの『宗教とグローバリゼイション』 (「未来」'07:6月号に記載)。 これは辛口の素晴らしい論考である。
467 :
Z :2007/11/28(水) 19:47:06
F.W.グラーク氏はエアハルト大学のMヴェーバー研究所々員です。 エアハルトは、現ドイツ東西南北の中央に位置し、 Mヴェーバーが生まれたところ。
468 :
Z :2007/11/28(水) 21:27:38
F.W.グラーク氏は今、日本へ来ており、各フォーラムに参加しているようです。 10〜11月に。
グラーフ?
470 :
Z :2007/12/01(土) 21:36:51
FWグラーフだった。スマソ。
471 :
名無しさん@社会人 :2007/12/02(日) 17:48:17
羽入辰郎の新刊あげ
472 :
Z :2007/12/02(日) 18:04:19
>>471 『マックス・ヴェーバーの哀しみ』 羽入 辰郎 著 2007/11 \735 PHP研究所
これの事か?
473 :
Z :2007/12/02(日) 18:14:30
PHP社の内容広告の一節を下記に。 …本書は従来の解釈とは全く異なる観点から、 彼の精神疾患に光を当て、深い哀しみの理由を解きほぐす。 鍵は、その苦しみのさなかに書かれた 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 の中に隠されている。 資料の改竄やでっち上げまでしても書かざるを得なかった 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中に……。 『マックス・ヴェーバーの犯罪』(第十二回山本七平賞受賞作) で衝撃をもたらした著者が、文献と想像力を駆使して、 大胆かつ繊細に謎を解く。
474 :
Z :2007/12/02(日) 18:19:45
羽入は性懲りもせずに、まだこんな事を言っているのか? まぁ、一度読んでみよう。 多分、前著の二番煎じだろうが…。
475 :
Z :2007/12/03(月) 23:58:26
山之内靖氏は、上記
>>466 「現代思想」Mウエーバー特集で、
マルクスが『資本論』第一部を刊行しながら、第二部・第三部がほとんど
出来ているのに刊行しなかった事について、彼はその内容に疑問を持ち
始めたのではないか?…と言っている。確かにそうかも知れない。
476 :
名無しさん@社会人 :2007/12/04(火) 01:46:04
マルクスとウェーバーの政治思想の比較について、参考になるホームページ(HPだけじゃだめなのは百も承知)があれば紹介してほしいのですが。 どなたかお願いします。
477 :
名無しさん@社会人 :2007/12/04(火) 18:08:52
Googleで検索してみたら。
478 :
名無しさん@社会人 :2007/12/04(火) 18:12:11
「徳川時代の宗教」以外で何が日本人の勤勉性の元になっているか 社会学的・宗教社会学的に考察した良書ないですか? 周囲の人間が過労で心療科通いしてるんで、切実に知りたいです。
ロシア共産党のHPは参考になるよ。厳密には ヴェーバー、レーニン、プーチン三者の比較だが。
480 :
Z :2007/12/04(火) 21:08:29
>>478 江戸時代の我が国の農業は小家族・労働集約で、世界でもトップの生産性
をあげていた。
日本経済史関係では、速水融『近世濃尾地方の人口・経済・社会』が良い。
社会学・宗教社会学とは関係ないが。
〜それは、やっぱりベラーだ。
481 :
Z :2007/12/04(火) 21:53:32
ヨーロッパで近代資本主義が勃興するまで、英国(ブリテン)はヨーロッパ 随一の農業国だった。マルクスはそのことに慧眼だった。 日本も江戸時代の農業は小家族・労働集約で生産性が高かった。それに 初等教育だ。どんな山奥にも寺子屋があった。読み・書き・ソロバンが出来なければ 丁稚小僧にモなれなかった。 勤勉と教育とは何か関係があるようだ。 熊さん・八っつあんが無学文盲だというのは落語でのことで、本当はそうではない。 明治5年、初等教育(小学校)が発足した。明治末期には、日本は世界有数の 就学率だった。これがヨーロッパ(アメリカ・カナダを含む)以外で、唯一 近代国家になった原因である。それと封建制。 ヨーロッパのそれはレーエン、我が国はプフリュンデの違いはあるが。 (ヴェーバー及び大塚史学よれば…)
482 :
名無しさん@社会人 :2007/12/05(水) 20:44:52
じゃあ日本の勤勉性って最初から宗教的動機なんてなくて功利的なものだったんですかね? ヴェーバーはプロテスタンティズムから資本主義が立ち上がるものの やがて宗教的動機が抜け落ちて人間が合理性や官僚制の鉄の檻に 囚われることを危惧してたと思いますが 宗教的動機なんてはなから持たない日本が鉄の檻に囚われるのは必然だったんですかね。
>>483 そもそもそれって本当にウェーバーが言ったことなの?
前にも書いたけど(
>>298 )、ウェーバー解釈として、相反する
(1) ウェーバーはプロテスタンティズムを生み出したプロテスタントの精神性に肯定的だった。
というのと、
(2) ウェーバーはプロテスタンティズムは人間を強迫するものとして否定的だった
というのがあるそうじゃないか。(この辺りが訓詁学の訓詁学たるゆえんだね)
個人的には圧倒的に後者が正しいと思うんだけど。
485 :
Z :2007/12/06(木) 18:35:04
『マックス・ヴェーバーの哀しみ』(副題=一生を母親に貪り食われた男) を読んで。 まァ驚いた。 第一章を読み始めて、なんだ〜これはギリシャの‘オイディプス伝説’ (ソポクレース)じゃないか?…と。 オイディプス伝説は人間としての‘業’である事は事実だ。男には大なり小なり それはある。 羽入氏のこの本は、小説(小さい説):「マックス・ヴェーバーの哀しみ」である。 それも三流週刊誌に載るそれ。 一々例を挙げるのも馬鹿々々しい。 読んでいくと、コレどうもおかしいゾ〜 と思う箇所がいくらでもある。 一例 『プロ倫』でカルヴァンの予定説について、ミルトンがこれに反撥して “たとえ地獄に堕されようと、こんな神を私に尊敬させることは絶対出来ない” と言ったのは有名である。これをMヴェーバーは「プロ倫」に書いている。 羽入氏は、それを引用した事自体、ヴェーバーが価値判断をし、 カルヴァンを貶めたと、非難する。 ヴェーバーがミルトンの言を「プロ倫」に引用した理由や前後の文章の経緯を書かずに…。 その外、色々あるが書くのが面倒くさいからやめる。
486 :
Z :2007/12/06(木) 18:44:33
羽入氏は 『学問とは何か〜「マックス・ヴェーバーのその後〜』(ミネルヴァ書房) を近日刊行するそうだ。 ここで、色んな批判に答えるそうだ。 それを期待しています。
487 :
Z :2007/12/06(木) 18:53:30
オイディプス伝説は皆さんもご存知の様に 「父親殺し」と「母親との姦淫」である。 もっともそれは‘象徴:シンボル’であるが。
488 :
Z :2007/12/06(木) 19:00:13
>>485 で、
三流週刊誌云々はいい過ぎだった。取り消す。
『マックス・ヴェーバーの哀しみ』は面白かったが、再読して素朴な疑問と して感じたのが、 (1) ヴェーバーは結局、厳格なプロテスタントであった母親の言いなりで あったまま、母への反抗・批判など考えもせぬ男として生涯を閉じた。 (2) 主著『プロ倫』では「宗教的価値判断をしない」と言いながら、それ に反するような「プロテスタンティズム(カルヴィニズム)に対する貶め」 を表現し、またこれは、そのためにこそ書かれ、捏造が加えられた論文で あった。 という、本書の主張(1)と(2)は、単純に矛盾せんかいな、という点。これを 無意識の悪意というには(2)の論文は長すぎるし、著者の言う「手口」が周到 すぎやせんか。
490 :
Z :2007/12/09(日) 09:56:43
『マックス・ヴェーバーの哀しみ〜一生を母親に貪り喰われた男』
を小説〜フィクションと見れば、
>>489 さんの(1)は問題ない。
たとえ魑魅魍魎が出てきてもかまわない。
‘性交渉のない夫婦’・‘愛されなかった子の叫び’を書いても良い。
ただ、いかに小説と言っても、論理整合性というと硬くなるが、世間一般の
スジ=理屈は通っていなければ…。(2)はどうもそれに反する。
こんなのが所々にあるような気がする。
それから、ここには“ミナ・トープラー嬢”とMヴェーバーとの交遊
(いろんな意味での)が書かれていない。暴露の羽入氏としては残念。
>>490 Z氏が指摘されている「ミルトンの意見」ですけど、(諸研究を参照しないで
思いつきを述べれば)ヴェーバーは
「このような意見が出るほどのこんな恐ろしい信仰がなぜ広まり、また民衆
の間に定着し得たのか。諸氏はまず、そのことを疑問に思われるかもしれな
いが、そのことはとりあえず置いておき、定着した結果どうなったかを問題
にしたいのだ」ということを言いたくて引用したんじゃないのかなと思うん
です。それがつまり「価値判断はしない」という意味であったと。
…で、ここからZ氏の言う「小説」を展開すると、ぜんぜん違う物語になるw
「お母さん、あなたは信仰を受け入れたゆえの犠牲者だったのです。ことは
あなた個人の生き方の問題どころか、時代的な巨大な変容に関わる問題だっ
たんですから。だから、ぼくはあなたを恨まない…。その結果だけを受け入
れて生きてゆくこととしますから…」
…なんていう「母の罪を巨視的に相対化した上で許す、泣かせる息子の話」
にもなっちゃったりw
492 :
Z :2007/12/09(日) 17:11:55
493 :
Z :2007/12/09(日) 17:28:42
羽入氏のPHP新書版は「伝記‘小説’」だと、私は思っています。
だから、
>>491 さんの後半部分のようであってもいいんじゃないか。
494 :
Z :2007/12/12(水) 21:54:11
Mヴェーバーと「虚栄心」について。 ヴェーバーは‘行為’について、四つの理念型をあげている。 @価値合理的行為 A目的合理的行為 B伝統的行為 C感情的行為 ここで重要なのは@とAである。(経済学ではA。メカニズム・デザイン では限定合理性という) ‘価値’を一切考慮せず、目的合理性で経済行為を行えばどうなるか? それは「純粋利得至上主義」である。そこには人間の感情は全く無い といわれる。はたしてそうか? 精神のない専門人、感性(心情)のない 享楽人が、ただ思想や感情のない無に等しい人間なら、毒にも薬にも ならないだろうが(沈香も焚かず、屁もひらず)、しかしそんな人間 かぎって、虚栄心に満ちている。 ヴェーバーは『職業としての政治』で、政治家の最大の敵は‘虚栄心’ だと言っている。それは企業家〜ビジネスマンでも同じ事であろう。 経済学では、虚栄心は外部だが、社会学・社会心理学ではメインテーマ である。鉄の檻に閉じ込められた企業家〜ビジネスマンこそ、 虚栄心の塊であろう。 今年、NHKの企業ドラマ“ハゲタカ”の人間感情は、虚栄心であった。 大なり小なり、人間だれしも虚栄心はあると思う。業だ。
495 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2007/12/13(木) 17:16:14
>>377 >>372 中葉さん江
> いかなヴェーバーでも、21世紀を見抜くことは無理でしょう。それは21世紀の我々ヴェーバリアンに託された責任だと思います。
それはそうかもしれませんが、、、もう一人、私が尊敬するカール・マンハイムは、最後の著書「自由・権力・民主的計画」の最後にこう言い残しています。
その内面的な意味は別としても、これからさき、動的宗教は社会秩序の中で次のような三つの重要な機能をもっている。すなわち(1)過渡期の社会を診断すること、(2)重要な問題に注意を焦点づけること、および(3)社会生活のいろいろのレベルで人間の行為を統合すること。*
*注。ここでマンハイムの原稿は切れている。しかしながら、著者は進歩的な宗教のこの統合的機能を精巧化する意図があったのかどうか、このことについての指示は残されていない。(編者)”(「自由・権力・民主的計画」 未来社版 p.516)
496 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2007/12/13(木) 17:20:44
一方、20世紀後半について、ドラッカーは言っている。 “歴史にも境界がある。目立つこともない。その時点では気づかれることもない。 だがひとたび越えてしまえば、社会的な風景や政治的な風景が変わり、気候が変わる。 言葉も変わる。 「新しい現実」が始まる。1965年から73年の間のどこかで、世界はそのような境界を越え、新しい次の世紀に入った。 われわれはそのとき、過去一世紀あるいは二世紀にわたって、政治の信条、公約、権力構造としていたものから卒業させられた。そして、道しるべのない未知の政治の世界に入った。” また、加藤周一は言っている。“私自身が1968年を理解できた、見定めたという、これが一番本質的な部分だということを、はっきりできていないんです。 だからもっと研究したいというのが私の希望です。だけど一人じゃできないから、日本の論壇というか、思想界が1968年を追求する姿勢を取るのを望んでいるんですけどね。 解釈のしようによっては、1968年が本質的に戦後を二つに分けると言えるかもしれない。改めて分析する価値があると、私はとても強く感じるな。” 実際、私もあの時代に感じた言いようのない焦燥感は何だったのだろうと思う。 東大の学生たちが正門から安田講堂にかけて座り込みを始めたとき、私は自分勝手に東京に出張して現場まで出かけ、学生の一人一人に座り込んでいる理由を聞いてまわったものだ。 K・ケニストンがあの頃の米国大学生の実態を調査した報告書は、その頃の経験と照らし合わせて今でも新鮮である。
497 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2007/12/13(木) 17:26:01
今や21世紀も9年目に入ろうとしており、ウェーバーは遠くなりにけりです。 私も77歳になります。今しばらく楽しむこととしましょう。 皆さん、よろしくお願いします。
498 :
Z :2007/12/13(木) 20:35:37
1955年(昭和30)日本。もはや戦後ではない。 1960年(昭和35) 安保条約改定成立・所得倍増計画 1968年(昭和43) 東大安田講堂攻防(kれを契機に学生運動衰退) 1989年(昭和64〜平成元年)ベルリンの壁崩壊・バブルで日本経済低迷 1991年(平成3)共産圏消滅〜米ソ対立消滅 2001年(平成13)ニューヨークWTO壊滅 以後、米国、アフガニスタン・イラクに侵攻、そのツケ未だに残る。 EU拡大、統一貨幣ユーロ実施、Towardsヨーロッパ帝国へ!
499 :
名無しさん@社会人 :2007/12/14(金) 22:05:13
TBSはこうして在日朝鮮人に乗っ取られた。 窓際社員の独り言です。 (1)1960年代 テレビ放送が始まってまもなくの頃、放送中のちょっとした言葉づかいの問題(例えば「朝鮮民主主義人民共和国」を"北朝鮮"と呼んでしまった、など)に対して、 朝鮮総連から会社及び経営幹部の自宅に対して脅迫に近い抗議行動が繰り返される。抗議行動に対する「手打ち」として、採用枠に"在日枠"が密かに設けられる。 総連幹部の子弟を中心に入社試験無し(カタチだけの面接)での採用が毎年続く。 在日枠の密約を所轄官庁に対して内密にしてもらうよう局側から総連に「お願い」をしてさらに弱みを握られ身動きがとれなくなっていく。 (2)1970年代 政府を叩きさえすれば世論が喝采する狂った時代。 在日社員の「反日番組」を「権力に対するペンの戦い」「調査報道」と勘違いした経営幹部が社内で在日を積極登用。 「日本人社員と在日社員に昇進の差別があってはならない」などと理想論を述べたのは良かったが、 しかし昇進差別をしなかったのは甘い日本人幹部だけで、課長、部長と昇進した在日社員は、帰化した在日二世を理不尽なまでに優遇する逆差別人事を徹底。 異を唱えた日本人社員は徹底的にマークされ、営業や総務など番組制作の第一線から退けられる。 (3)1980年代---90年代 昇進した在日社員が主要な報道番組のプロデューサーや報道局長など、決定的なポストを占める。 某サヨク週刊誌の在日編集長をキャスターに迎えたニュース番組が、 学生時代に学生運動に没頭した団塊の世代の視聴者の支持により高い視聴率を得る。 1989年の参議院議員選挙では「土井社会党」「マドンナブーム」を援護。あからさまな社会党支持。
500 :
名無しさん@社会人 :2007/12/14(金) 22:05:55
(4)1990年代---2000年代 偏向報道、捏造報道、取材情報を特定の勢力に提供するなど、報道機関として存在を否定されかねない不祥事が続発。 朝日新聞、系列のテレビ朝日が、どちらかといえば「北京の意」を汲んだ報道が多い。 バブル崩壊以降の景気低迷でただでさえ厳しい広告収入が、「サラ金」と「パチンコ」に大きく依存。まさに、在日朝鮮人の資金で在日朝鮮人が運営しているのがウチの放送局。 在日の局長が在日のスターを「作り上げる」ような番組制作が為され、その証拠に「筑紫哲也の番組名」が未だに存在する。
コピペ君って馬鹿だな、まで読んだ。
おいおいハルヒスレなんて見てる馬鹿は灯台のやつか?wwww
『マックス・ヴェーバー―ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』 今野 元 Radkauの分厚い伝記も読み終わってないのにまたデカイ伝記が… 『ヴェーバーとリベラリズム―自由の精神と国家の形』 佐野 誠 読んだ人いますか?
504 :
Z :2007/12/21(金) 19:22:56
↑上記2冊、出版社はどこですか? Books or jp で探したが見つかりません。
505 :
Z :2007/12/21(金) 19:23:19
↑上記2冊、出版社はどこですか? Books or jp で探したが見つかりません。
>Zさん マックス・ヴェーバー―ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯 (単行本) 今野 元 (著) 出版社: 東京大学出版会 (2007/12) ISBN-10: 4130362305 ISBN-13: 978-4130362306 ヴェーバーとリベラリズム―自由の精神と国家の形 佐野 誠 (著) 出版社: 勁草書房 (2007/12/19) ISBN-10: 4326351403 ISBN-13: 978-4326351404 です。 上の方の伝記はまだパラパラとめくった程度ですが、かなり詳細に情報が書かれており、 手許においておきたい感じです。印象的には「政治」に重点が置かれています。 下の方はつい先日出版されたばかりのようです。私もまだ実物は見ていません。 折原先生のご本も出ましたし、正月は読書が楽しみです。
東京大学出版会に勁草かよ ウェーバー大人気だなw
508 :
Z :2007/12/22(土) 01:04:04
マックス・ヴェーバー ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯 今野 元 主要目次 序 論 西欧主義の脱構築 第1章 政治的人格の形成 1864年−1892年 1 生育環境/2 政治的古典との対決/3 政治史叙述の試み/4 学生組合への加入/5 軍隊生活の体験/6 ドイツ内政の考察 第2章 プロイセン・ユンカーとの対決 1892年−1904年 1 「非常に純粋なブルジョア」の貴族批判/2 ポーランド人農業労働者論の展開/ 3 取引所論の展開4 フリードリヒ・ナウマンとの連携/ 5 フライブルク講演「国民国家と経済政策」/ 6 神経症の苦悩 第3章 ドイツの人間的基礎への批判 1904年−1914年 1 「市民層の封建化」論/2 「官僚制」論/ 3 アメリカ旅行による刺激/ 4 ロシヤ政治の分析 第4章 第一次世界戦争での奮闘 1914年−1918年 1 政治的学者の「出陣」/2 戦争目的論の展開/ 3 東中欧民族問題への取り組み/ 4 アメリカ合衆国参戦回避の運動/5 ドイツ帝国及び連邦諸国の内政改革構想 第5章 失意の死 1918年−1920年 1 ドイツ帝国の崩壊/2 ドイツ国民国家保全の闘争/ 3 ヴァイマール共和国の国制構想/4 最終局面 結 論 知性主義の逆説
509 :
名無しさん@社会人 :2007/12/23(日) 12:27:48
>>489 さん
>(1) ヴェーバーは結局、厳格なプロテスタントであった母親の言いなりで
あったまま、母への反抗・批判など考えもせぬ男として生涯を閉じた。
>(2) 主著『プロ倫』では「宗教的価値判断をしない」と言いながら、それ
に反するような「プロテスタンティズム(カルヴィニズム)に対する貶め」
を表現し、またこれは、そのためにこそ書かれ、捏造が加えられた論文で
あった。
母親と実務家であった父に似た資質を持つ自分を「和解」させる試みが『プロ
倫』執筆だ、というのが羽入さんの推測ですね。
でも結局、失敗した、というのが羽生さんの見立て。
この本は「知的誠実」を強調してやまないマックスさんが「なぜ『プロ倫』
で道を外したか」ということの解明の試みですが、「無意識の」動機のせい
で、「プロテスタントの倫理」も「資本主義の精神」も歪曲され、資料も操
作された、というのが羽入さんの主張。
まあ、「無意識の動機」とか持ち出せば何でも言えるわけで、“だから歪曲
したのだ”といわれてもですね・・・。
『マックス・ヴェーバーの犯罪』に比べると、この本はあまり感心できませ
んでした。前著が『プロ倫』への内在的批判、今回がその動機の解明なら
次作はいよいよ本命「ヴェーバー方法論」への全面批判でしょうか。
楽しみですね。
510 :
Z :2007/12/23(日) 20:13:11
羽入さんは、いつのまにフロイディアン(フロイト主義者)になったんだろう。 羽入さんは、ヴェーバーに‘オイディプス伝説’(父親殺しと母親との姦淫)を 観たのでなく、羽入論説の正当化のためにヴェーバーをオイディプス伝説に 強引にはめ込んだ。そう感じられる。 来年は「源氏物語」千年紀。ここにもオイディプス伝説がある。 なんでもオイディプス伝説で解明出来るとはかぎらない。 今野元さんの『ヴェーバー伝』(東大出版会刊 \9,750-)を、早く読んでみたい。
511 :
名無しさん@社会人 :2007/12/24(月) 06:26:11
>>12 Zさん
>大塚久雄博士は、マルクスのいう「生産のみが‘価値’を創造する・・・」に、あまりにも
執りつかれ過ぎ。
この文に質問です。一つは「生産のみが‘価値’を創造する・・・」とはどういうことを言うのでしょう?二つ目は何を以って大塚久雄がそれにとりつかれすぎ、ということがいえれのでしょう?
この二つに対して具体的に論じてほしいです。ずいぶん前の記事で申し訳ございません。お暇なときでいいですのでよろしくお願い致します。
512 :
名無しさん@社会人 :2007/12/24(月) 07:30:22
>>484 483さんは『プロ倫』(岩波文庫)のP365「外物についての配慮は、ただ『いつでも脱ぐこと
のできる薄い外衣』のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。それなのに、
運命は不幸にもこの外衣を鋼鉄のように堅い檻としてしまった。今日では、禁欲の精神は
―最終的にか否か、誰が知ろう―この鉄の檻から抜け出してしまった。」
の所をいってるのでは?本人がそう書いているから確かなことでしょう。
関連でいくつか引用します。
P341「・・・ピュウリタンのばあいには、人間の虚栄ではなく、神の栄光と自己の義務だけ
がその動機だった。今日では、『職業』に対する義務だけがその動機となっている。」
P352「ここでジョン・ウェズリー自身の一つの文章を引用してみたい。というのは、この
文章は、禁欲的信仰の指導者自身が、今述べてたような一見逆説的な関連をば十分に、
しかも、われわれが説明したのとまったく同じ意味で、明瞭に知っていたことを示している
からだ。ウェズリーは次のように記している。
『・・・宗教はどうしても勤労と節約を生み出すことになるし、また、この二つは富をもた
らすほかはない。しかし、富が増すとともに、高ぶりや怒り、また、あらゆる形で現世への
愛着も増してくる。・・・こうして宗教の形は残るけれども、精神は次第に消えていく。・
・・』」
P362「中世の手工業者は、『自分の創作物』への『喜び』を味わいながら多くのものを作った
・・・それはともかく、禁欲はいまや労働からこうした現世的・世俗的な刺激をとりさって―
今日では資本主義がそれを永久に絶滅してしまった―来世へと方向を変えた。」
513 :
訂正です :2007/12/24(月) 07:35:32
最後の引用は間違えました。
514 :
名無しさん@社会人 :2007/12/24(月) 14:33:26
プロテスタント的禁欲は、「天命」に基づくもの。 資本主義的禁欲は、「求利・蓄財」が動機。 ヴェーバーが言うように両者に行動面での相似性があったとしても、 その動機は月とすっぽん、行動の相似性をもって「プロテスタントの 倫理」から「資本主義の精神」への移行を「説明」することは出来ない。 そもそも、「天職」であるはずの手工業などから資本家・事業家への 「天職移動」は、ヴェーバー的「プロテスタントの倫理」においてなぜ 可能なのか? さらに、資本家に「天職」を変更したプロ信徒はその後どんどん「資本 主義の精神」に染まっていったことになるわけですが、 この二つ、ヴェ^−バーさんの論法で説明できますか?
コピペ君って馬鹿だな、まで読んだ。
517 :
Z :2007/12/24(月) 21:55:23
>>514 ヴェーバーは『プロ倫』で、「資本主義的‘禁欲’」というコトバを
使っていないと思うが。
518 :
Z :2007/12/24(月) 22:47:32
>>511 讃江
マルクスの『資本論』は、あくまで資本主義分析です。
その劈頭から「市場」が出てきます。(こんな経済学書は未だにない)
10ヤールのリンネル=1/2の上衣(この1/2がくせもの=これに注意)
これは価値形態です。何故交換されるかといえば、“たがいに労働生産物であるから”
と彼はいっています。即ち、唯物史観は労働史観であるからです。
19世紀後半の工場〜生産は、石炭を焚いた煙が濛々と出ていた時代です。彼は
エネルギーとしての石油を知らなかった。ましてや電力・原子力は知らなかった。
コンピュータも。
労働者が「菜っ葉服」を着て工場へ出勤するのしか知らなかった。(〇経学者は
今もその域を出ていない)資本論第二巻の‘流通費用’として、商業・運送(交通)・
保管(倉庫)について、商業は別として運送・保管についての論説がアイマイである。
(生産労働なのか、単なる流通費用なのか?)
519 :
Z :2007/12/24(月) 22:52:54
↑つづき 今、新日鉄と三菱商事を比較してみよう。前者は生産で後者は商業(流通)である。どちらも コンピュータを使っている。新日鉄のコンピュータは価値を生む生産で、後者の それは価値を生まない…。また、前者にも後者にも会計部や庶務部・人事部がある。 前者のそれは価値を生み、後者は生まない…。これはおかしい。それらを全て価値 を生まないとすれば、新日鉄で価値を生む労働者は高炉で鉄を造っている僅かの 労働者だけ。外はコンピュータ操作である。 現代は、情報が全てを支配する時代である。生産・流通・金融の区別があいまいに なってきた。即ち、労働価値論が崩壊した〜と観て良であろう 「10ヤールのリンネル=1/2の上衣」云々を、紅葉理論でじゅうぶん説明できる。
520 :
名無しさん@社会人 :2007/12/24(月) 23:29:15
>>514 >そもそも、「天職」であるはずの手工業などから資本家・事業家への
「天職移動」
これはどういう意味ですか?よくわかりません。手工業が天職だという
のは何に書かれているのでしょう?しかも、資本家・事業家が後代、天
職になったというのはどういう意味でしょう?主語=人、述語=仕事、
主語=述語で人=仕事になりますよ?しかも、それはどこに書かれている
のでしょう?あと、資本主義における資本家・労働者は天職などもっ
ておりません。あるのは、一定の禁欲的行動の外側からの強制です。
「ピュウリタンは天職人たらんと欲した―われわれは天職人たらざるを
えない。」『プロ倫』岩波文庫p364
>資本家に「天職」を変更したプロ信徒
天職を変更したと何に書かれているのですか?しかも、登場人物が資本家
と実業家しかでてきてないですが、労働者がでてこないのはなぜでしょう
か?資本主義を成り立たせるには資本家と労働者が要りますよ。資本主義
の精神をもっていたのも資本家と労働者です。
よくわからないことが多々ありまして勉強不足を痛感しましたが、より詳
細に書いてくださるとありがたいです。
>>515 「報道会社にとって異国人の犯罪を報道するなど
倫理を全く知らないといってさしつかえない」
>>519 普段は冷静なZさんが発狂なされたのですか。
冷静っていうのは誉め殺しのつもりかw 悪いがかなりの狂人にしか俺には思えんが。
524 :
Z :2007/12/26(水) 01:12:27
「現代思想」(青土社)11月号=マックス・ヴェーバー特集号で、 山之内靖さんが、“マルクスは『資本論』第一巻を出して第二〜三巻を出すのを 手控えていた。(ほとんど出来上がっているのに)それは、理論的に迷っていたのではないか?”と いうような事を書いていた。私もそう思う。本当はマルクスじかに聴かねば判らないだろう。 今では、それは判らない。 ‘労働は神聖なり’は私も決して否定はしない。新古典派(〜綜合)が効用理論を 棚上げしているように、〇経も労働価値説を棚上げしているようだ。今では。
525 :
名無しさん@社会人 :2007/12/26(水) 08:24:16
>>520 さん
表見同じように見える「プロ的倫理」と「資本主義的精神」はその内実・動機
において「月とすっぽん」だということはよろしいですよね。
@プロ信徒にとって職業=天職ならば、プロ信徒の手工業者にとって手工業=
天職ですね。
Aプロ信徒の手工業者が資本主義的事業家へ転職したとします。
この転職は、「プロ的天職理論」からどう説明されるのか? というのが問題。
手工業者から資本家に転職したプロ信徒にとって、「手工業」は天職の地位から
失墜したのか否か?
彼にとって新しい「資本家」という立場は「天職」なのか否か?
「天職ではない」とすれば、新しい立場はプロ的にはどう位置づけられるのか?
その時、彼の天職はいったいどこに行っちゃったの?というような疑問が湧くの
でありまして。
「どこに書いてあるか」といわれますが、書いてなかったようだから「あれ?」
と思う次第です。
526 :
名無しさん@社会人 :2007/12/26(水) 14:48:24
M・ヴェーバーが 仏教=現実逃避と批判してるというのは本当?
ウェーバじゃなくても実際そうでしょ。 世界宗教の中じゃ一番思想的に浅いと思う仏教は。
>>527 それ日本仏教なのかインド仏教なのか?
もはや両者は異物同士だお
529 :
Z :2007/12/28(金) 00:15:41
今日、今野元氏の『マックス・ヴェーバー』伝を買ってきた。 この書は、今までのヴェーバー伝にあまりなかった‘政治’という 切り口で書かれている。 ちょっと読み出したが、正月休みに読む積もりだ。
530 :
考える名無しさん :2007/12/28(金) 18:29:32
age
531 :
名無しさん@社会人 :2007/12/29(土) 08:17:57
Zさん 先輩に薦められて読むことになりました。 「マックスヴェーバー 方法論の生成」テンブルック 未来社 1985 (Zさんにならって目次を紹介してみます) 問題の所在 一 方法論者マックスヴェーバー 二 客観性論文 三 自然主義と歴史主義 四 文化科学と方法論 五 ヴェーバー思想の生成 六 局圏突破 七 理念型 八 追記 先輩にいろいろ脅かされています。 Zさんは読まれましたか? 読む上で気をつける点があれば教えてください。
532 :
名無しさん@社会人 :2007/12/29(土) 10:33:25
しかし何やってる人なんだろ 普通のリーマンじゃとてもじゃないが読めないよな
533 :
名無しさん@社会人 :2007/12/30(日) 09:47:44
このスレにテンブルックが出てくるとは・・・ ヴェーバーとマンセーは、方法論という問題が理解できませんから、 マンセーでテンブロックを読んでる人はいないかも。 この本は、ヴェーバーの方法論を考究しているかのような体裁ですが 実は‘ヴェーバーにはみるべき方法論がない’ことを論じています。 そういう方面に興味があるなら、これよりも羽入がすぐ出すと予告し ている本に期待しましょう。 テンブロック読んでる先輩にヴェーバーで議論ふっかけるのは無し、 ですよw
マンセーなんて学者がいたかな?社会学者?経済学者?歴史学者かな? 寡聞にして知らない。
そりゃヴェーバー学だけやってりゃしらんだろ むしろお前は世界の社会学者、経済学者、歴史学者の中堅所は全部抑えてるのかっつーのw
536 :
Z :2008/01/01(火) 23:41:51
あけましておめでとうございます。 本年もヨロシク。
537 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/01/02(水) 21:22:14
こちらこそよろしく。
ウェーバーが提起した最後の課題、
>>329 :中葉 ◆22bKXenR5Q :2007/08/03(金) 11:09:36
上海万博(2010)までにウェーバーの呪縛を解くことはできるでしょうか?
ウェーバーが提起した謎は、
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の最後の以下の文章です。
“こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」《letzte Menschen》
にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、
心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない
段階にまですでに上り詰めた、と自惚れるだろう」と。――
ただし、ここまでくると、我々は価値判断や信仰判断の領域に入り込むことになる。
が、そこまでは、この純粋に歴史的な叙述に求めるべきではあるまい。
むしろ、われわれのなすべき仕事は、以上の素描でその一端にふれたにすぎない
禁欲的合理主義の意義を、さらに社会-政治的倫理の内容について、
すなわち、私的集会(Konventikel)から国家にいたるまでの
社会的諸集団の組織と機能のあり方について、明らかにしていくことだろう。
その次に、禁欲的合理主義の人文主義的合理主義とその生活理想や
文化的影響に対する関係、さらには哲学上ならびに科学上の経験論の発展や
技術の発展に対する、また精神的文化諸財に対する関係が分析されねばならないだろう。
(岩波文庫版 pp.366-368)”
の答えがほぼ出ました。今年1年かけてノンビリ詰める予定です。
538 :
Z :2008/01/02(水) 22:00:00
>>537 中葉さんの言われる解決問題点のなかには
‘環境問題’も入ると思います。
例えば、中国のCO2問題。今すぐでなくても、ここ1〜2年に
先進国並みに規制すべきである。
539 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/01/03(木) 23:59:50
問題の全体像を考える場合、胡錦涛国家主席が提唱した「和偕社会の建設」が 環境解決問題点のなかに閉める位置付けは非常に大きな比重を占めるものと思われる。
540 :
名無しさん@社会人 :2008/01/04(金) 10:32:29
現代の学者で日本の勤労意識の起源について研究してる人いないん?
541 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/01/04(金) 12:08:27
徳川時代の宗教って評価高いんですか? 自分はあまり腑に落ちなかった記憶が。 日本は集団主義であるという既知のイメージを くどくどと再確認させられているような。
543 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/01/04(金) 23:39:22
おっしゃるように、徳川時代の宗教は、鎌倉時代に比べると相当退歩していると思います。 しかし、現在と比べると多少ましという程度ではないでしょうか?
そんなのモノサシ次第でしょ。 少なくとも自分が使ってるモノサシを自覚してない人間が進歩とか退歩とかって それこそ知的退廃じゃないのか?w
ベラーは丸山に批判されて論を撤回してなかったっけ?
丸山は何と言ってたんですか? やはり一神教もなく、プロテスタントみたいに個人として神に向かいあうことがない日本に ヴェーバーを当てはめるのは無理があるんじゃないでしょうか。 予定説なんて多神教やアニミズムの国から見たら共感不可能なぐらい強烈な宗教感情から出てきてるわけでしょう。 なぜ日本人は勤勉か?は なぜ普段はおとなしくヘタレな日本人が天皇陛下万歳といって諸外国が呆れるほど勇敢に戦ったか? に通じるものがあると思いますが自分にはこの謎を解く鍵はわかりません。 でも、ある特定の宗教や宗教感情が重要な要素であるとは思えません。
547 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/01/05(土) 13:11:40
> 丸山は何と言ってたんですか? 丸山が言ったこととベラーの自己批判と似はズレがあるので説明困難です。 岩波文庫版の「ペーパーブック版まえがき」のほとんど全部が丸山批判への弁明です。 買ってもいいし、図書館で借りてもいいし、本屋で立ち読みしても用は済みますから、読んでみてください。 私が一番重要だと考えるのは岩波文庫版のp.26の以下の部分です。 “本書の最大の弱点は、日本と特に関係があるのではなく、私の拠っている近代化理論のもつ 弱点とかかわっている。つまり、私の見落としたのは、富と権力の限りない蓄積からは 良い社会が招来しないどころか、むしろ発展し得るどの社会にも必要な諸条件が否定されがちな ことである。私は、目的と手段とを取り違える過ち、すなわち、手段を目的にしてしまう 過ちを犯してしまった。” もう一度、お勧めします。まえがきだけでもお読み下さい。
548 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/01/05(土) 13:12:28
> 丸山は何と言ってたんですか? 丸山が言ったこととベラーの自己批判とにはズレがあるので説明困難です。 岩波文庫版の「ペーパーブック版まえがき」のほとんど全部が丸山批判への弁明です。 買ってもいいし、図書館で借りてもいいし、本屋で立ち読みしても用は済みますから、読んでみてください。 私が一番重要だと考えるのは岩波文庫版のp.26の以下の部分です。 “本書の最大の弱点は、日本と特に関係があるのではなく、私の拠っている近代化理論のもつ 弱点とかかわっている。つまり、私の見落としたのは、富と権力の限りない蓄積からは 良い社会が招来しないどころか、むしろ発展し得るどの社会にも必要な諸条件が否定されがちな ことである。私は、目的と手段とを取り違える過ち、すなわち、手段を目的にしてしまう 過ちを犯してしまった。” もう一度、お勧めします。まえがきだけでもお読み下さい。
549 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/01/05(土) 13:14:30
すみません。ミスを直そうとして二度書きしてしまいました。
550 :
名無しさん@社会人 :2008/01/11(金) 18:54:14
age
551 :
名無しさん@社会人 :2008/01/12(土) 09:14:25
羽生先生の新書、馬糞のような書物で、とても読めなかったです。
552 :
sage :2008/01/12(土) 12:29:12
前提能力が欠けていると、シュークリームを馬糞と見間違えることが あるかも知れない 「あ、馬糞だ」と口に出してしまうのは“どうして馬糞なんかがショー ケース内に陳列されているのか? という単純素朴な疑問を抱く能力が 欠けているからかも知れない
553 :
名無しさん@社会人 :2008/01/12(土) 12:48:40
その通りです。教えられました。羽生人間はひとにされたことを、やがてするわけだ。偉くなったものである。
554 :
Z :2008/01/12(土) 18:52:03
今野元氏の『マックスヴェーバー〜ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』 を読んでいます。今、最終章。‘政治’を切り口に、ヴェーバーの 政治(理論と現実)と人生を重ねて論じた、ユニークな伝記〜彼の政治論発展史です。 ヴェーバーは価値判断を否定したのではなく、価値判断と没価値性を明確に区別したのです。 例えば、本居宣長は「学問に秘伝なし」と言っています。一方、彼は医師でした。 頭痛の薬や、下痢の薬などを考案しています。それらは、ハッキリと‘当家の秘伝’の薬と言っています。 学問・理論には秘伝はなく、技術(テクノロジー)は秘伝と言います。 江戸時代には‘特許制度’が無かった。 おいおい『マックスヴェーバー』の内容を説明していきます。
555 :
Z :2008/01/12(土) 18:56:03
今野元氏のヴェーバー伝は、政治を切り口にしたからこそ書けたのであって、 宗教社会学や経済・法学では無理でしょう。
556 :
名無しさん@社会人 :2008/01/12(土) 19:01:48
557 :
Z :2008/01/12(土) 19:33:42
↑谷沢永一なんて、本当にMヴェーバーを知っているのか? そんな対談に意味があるのか?
558 :
名無しさん@社会人 :2008/01/12(土) 19:42:12
偉いよ 羽生は 彼がやってることは やられたことの 繰り返しに過ぎない 凄い人です 学問の詐欺というけれど 羽生にも研究者として 決定的にかけている資質がある 羽生が知っているかどうか こころもとないけれど
559 :
sage :2008/01/12(土) 20:51:56
>>557 対談をチェックした上での発言でしょうかな?
谷沢風に言えば、“谷沢なら対談での発言などはヴェーバーを読んでなくても
出来る”わけだが、もちろん、谷沢はヴェーバーを読み込んでいます。
というくらいのことは、対談を一読すれば理解出来ると思われるので、つまり
zさんはくだんの対談をチェックしないまま発言していらっしゃる・・・?
561 :
Z :2008/01/12(土) 23:15:10
勿論、羽入氏は「和辻哲郎賞」を貰っているし、ドイツ語については ソン所そこらのヴェーバリアンと比較にならないほど堪能な方です。 ただ、論理思考にフィクションを混ぜすぎだ。 (価値判断をこっそり忍ばしているのではないが…)
562 :
名無しさん@社会人 :2008/01/13(日) 08:34:32
要するに、ゲスの墓暴きだよ。羽生のやってることは。
563 :
sage :2008/01/14(月) 12:49:09
新書は、ヴェーバーの『倫理』の執筆動機及び以降の職業人生についての 羽入式「説明」ですね。推測が入っていてもそれは当然。 批判したかったら、とりあえず、 @内的な整合性は貫徹されているか A外部に反証材料があるか というあたりをまず考えてみるべきではないでしょうか。 @、Aに関する作業の結果、欠陥が見いだされ、その原因を追求してみたら 「価値判断」が“忍ば”されていたからだ、ということが論証されれば、 「新書の失敗は価値判断が忍んでいたから」と批判することが出来ます。 著者の執筆動機とは無関係に『倫理』も『新書』も読むことが出来ますし、 批判も可能ですからね。 価値判断の有無によって主張の正否を判断することは出来ないことは言う までも無し。
564 :
Z :2008/01/14(月) 14:00:18
>>563 sageさんのように、
“価値判断の有無によって主張の正否を判断することは出来ないことは言う
までも無し。”
と言ってしまえば、何事も批判は出来ないでしょう。
また@について、価値判断を忍ばせて‘内的な整合性を貫徹’すれば、どうなるか?
Aについても見解の相違とみれば、批判は出来ない。
ヴェーバーは、反論に対しては再反論するが、
卑劣は反論に対しては、「決闘」を申し込んだ例があります。
(マリアンネの『Ein Lebens Bild』より)
もしヴェーバーが生きていたら、羽入氏に決闘を申し込んだでしょう。
565 :
sage :2008/01/14(月) 16:57:55
Zさん、「価値判断を禁じている主張の内容はすべて正しい」とお考え ですか? 「価値判断を禁じている主張でも、主張の内容によって正しいものと 正しくないものがある」とは考えられませんか? もし、とするならば、「価値中立の維持は当該主張の正当性の根拠には ならない」ことになるわけですが。
566 :
Z :2008/01/15(火) 00:23:37
>>565 sage さんえ
価値判断と論理正合性とは別問題です。
没価値性だから正しいとは言えません。
ヴェーバー『社会学・経済学の「価値自由」の意味』で、
価値判断とそうでないものとを、はっきり区別せよ、とヴェーバーは言っている
のです。
政治評論では、ヴェーバーは価値判断を堂々としています。当然のことです。
今野元『ヴェーバー伝』では、そのものです。
羽入氏の論説で問題なのは、価値判断でなく、フィクションです。
羽入氏『マックスヴェーバーの哀しみ』は価値判断でなく、
‘オイディプス伝説’にヴェーバーを強引に押し込めた点です。
だから、「小説〜ヴェーバー伝」になってしまった。
小説ならそれでよいでしょう。それを史実とはみなさない。
あたかも『仮名手本「忠臣蔵」』は、赤穂浪士の史実でないのと同じです。
567 :
名無しさん@社会人 :2008/01/18(金) 12:22:16
プロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神を生んだというのはもはや定説で それに対する決定的な反論や対論は現代では存在しないのですか?
対論としてはマルクスの唯物論ないしマルクス主義の唯物史観かな?
資本主義があって、その対処法みたいなものにプロ倫、 個人的には、ものあり様は、唯物論を支持してる。 キリスト教の汝の隣人を〜は、上記では、否定だが。 資本主義に対する枠組みをプロ倫に規定し、 資本となすものは個人の所有に帰すと唯物論を考え、 資本主義であり唯物論。 資本主義の投資が、上の考えの唯物論とソゴ。
けっきょく因果律的に、心か物か、自我か環境かの、どっちが先か後かみたいな話になっちゃうね。 昨今の構造主義的マルクス主義はその両方を止揚しようって試みなんだろうけど。
>>570 > 昨今の構造主義的マルクス主義
よかったら、概要と代表的な論者を教えて。
572 :
名無しさん@社会人 :2008/01/19(土) 23:08:44
流れ切って質問で悪いのですが ヴェーバーは名望家をどのようなものとして認識していたのですか?
573 :
Z :2008/01/20(日) 01:41:45
>>568 さんえ
マルクスは『資本論』第一巻・第一章・第四節:商品の秘密とその物神性で、
ヴェーバーより半世紀も前に
“資本家的生産に最も適した宗教は、抽象的人間を神とあがめるキリスト教、
中んずく、中小商工業者の信じるプロテスタント及び理神論である…”と言っている。
この第四節は、『資本論』で一番有名。哲学者はここだけ読む。
もっとも、マルクスはその理由は述べていない。
ヴェーバーがそれを知らなかったはずはない。
>>573 理由述べてないんだったら意味ないんじゃないの?
理由無しだったら、どんな仮説もぶちあげられる。
575 :
名無しさん@社会人 :2008/01/20(日) 11:40:55
>>567 定説というか、そうだと思っているのはごく一部、勉強不足の人たち。
少なくともプロテスタンティズムが無かったら資本主義は発生しなかった
ということを論証している人はいません。
「反論」といわれても「論証」が先行していないのに反論する人がいる
ワケがない。
576 :
Z :2008/01/20(日) 12:41:57
>>574 それはマルクスの直感でしょう。
‘直感’のない学者なんて魅力がない。
ヴェーバーは、マルクスからヒントを得たのかも
知れません。ヴェーバーは一切そんな事を言っていません。
577 :
Z :2008/01/20(日) 12:51:01
>>567 ゾンバルトは、近代資本主義は「カソリック」から
生まれたといっています。そして近代資本主義は
フィレンツェから始まったといっています。
(『ブルジョワ』中央公論社刊)
それでいて、『プロ倫』の結論と『ブルジョワ』の結論は
全く同じです。相互に刺し違えても、違和感はありません。
578 :
Z :2008/01/20(日) 13:06:24
@マルクス・ヴェーバー・ケィンズ と Aゾンバルト・ホイジンガ・Fブローデル の違い。 @は、急所をブスッと突いて、それを広げていく。 Aは、事象を大きく囲って、それを締めていく。
>>573 マルクスがそこで言っているのは、
>>575 さんのいう意味の「Aという条件が無かったらBは決して
生まれようが無かった」というのではなく、「AはBにとって適していただろう」という意味のことだよね。
>>575 そもそもウェーバーは
>>567 みたいなことを論証しようとしてないもんな
>>579 ウェーバーもマルクスと同じ意味のことを論証しただけだよ
581 :
名無しさん@社会人 :2008/01/20(日) 14:58:18
マルクスはあくまで唯物論者だろうから(?)、資本家的生産という下部構造には、 抽象的人間を崇拝し、現世的利益を唱える宗教(イデオロギー)が乗っかりやすい、 ということが言いたいだかなんだろうな。
だか → だけ
583 :
Z :2008/01/20(日) 17:06:01
今野元著『マックスヴェーバー〜ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』 を読んで。 一般には、特に我が国では、リベラルとナショナリズム(国民国家に対する) は相反するとされてきた。おかしい話だ。 このヴェーバー伝を通じて、この二つは相乗効果をもたらすものと観ている。 リベラル、リベラルと日本人は無邪気に言っているが、何のためのリベラルなのか? ケインズは『若き日の信條』(DHロレンスの‘ゴキブリ野郎’云々が書いてある。) で、“水面下では水流が渦を巻いてうねっているのに表面は静状で、そこをすいすいと 優雅に泳いでいるミズスマシ…”と、酷評している。 日本のリベラリストは正にこのミズスマシにか過ぎないのではないか? つづく
この人の正確な記述を調べてみるのも面白いかもね。 系譜的には、→ビスマルク→ヒットラーだと思ってるけど。
585 :
Z :2008/01/21(月) 01:10:30
↑ とんでもない! 19世紀後半に統一ドイツを成立させたのはビスマルクだ。 ヴェーバーは『政治論集』で、ビスマルクを200年に一人出るか出ないかの 政治家だと言っている。 Mヴェーバー著『国民国家と経済政策』 参照 ただヴェーバーはリベラルの点で、ビスマルクに対決したんだ。
>>583 表現が文学趣味すぎて、いったい何が言いたい文なのかさっぱりわからん。
588 :
:名無しさん@社会人 :2008/01/21(月) 20:34:29
>584 ビスマルク→ヒットラーの系譜なんて、初めて聞いた。 ビスマルク 怒るぞォ!
ヘンリー・フォード → ヒトラー なら、いまや有名なのにね。
590 :
Z :2008/01/21(月) 23:25:48
フォード・システムの「光と影」
591 :
Z :2008/01/22(火) 00:00:33
「鉄の檻」をアングロ・サクソン風にいえば「Iron Cage」。 GeとHause(英語でハウス・家)ウムラートがついて häuse Gehäuse=ゲホイゼ〜入れ物・殻の意味である。 ‘Gehäuse’を‘鉄の檻’と訳している。 『現代思想』(青土社)M.Weber特集:「殻の中に住むものは誰か」 荒川敏彦 参照。 つづく
592 :
にわか :2008/01/22(火) 22:02:48
ヴェーバーは日本の近代化についてまとまった発言・著述はしてますか?
593 :
:名無しさん@社会人 :2008/01/23(水) 00:33:16
していません。
594 :
Z :2008/01/24(木) 20:57:36
Mヴェーバーには、アンビヴァレンスAmbivalennce両面価値 やアンチノミーAntinomy二律背反(共に矛盾)がある。それが魅力である。 特に政治に関しては学問の王道をのらりくらりと行くのでなく、 刑務所の塀の上を歩いているようだ。どちらに堕ちるか? Cシュミットもそうだ。彼は一度、内側に堕ちたが、また這い上がってきた。 Mヴェーバー=西欧派ドイツ・ナショナリストとは、 自由主義的帝国主義者ともいえる。(今野元『マックスヴェーバー』東大出版会刊) ただ、ヴェーバーにはニュアンス(nuance仏)がない。 Cシュミットにはそれがある。
595 :
Z :2008/01/24(木) 21:02:30
学問に‘ニュアンス’は必要か否かは、わからないが… 丸山真男には、ニュアンスがチラチラする。それを素人は アカデミックと勘違いしている。
596 :
名無しさん@社会人 :2008/01/25(金) 22:59:34
俺は学問したいわけやない。 ちょっとかわいいサブカル女の前で知識をひけらかしたいだけ。
597 :
名無しさん@社会人 :2008/01/26(土) 21:55:58
>>514 「天職」話が決着していなかった。
手工業者のピューリタンがいたとする。もちろん手工業は彼にとって天職だ。
この人が資本主義的企業家に転職したとする。
さっそく起こる問題がこれだ。
彼にとって天職は一体どっちだ?
P的天職というのは自分の都合で転職できるのか?
彼が資本主義的企業家に転職するにあたって活用した資本は、前の天職時代に
それと意図せずに蓄積されたものだが、さて、これを使って転職することを
是とする「プロテスタントの倫理」の論理構造はどうなっているのか?
「天職の転職」の倫理と論理、誰か教えてください。
説明できた人は、ヴェーバーの上を行くかもw
598 :
名無しさん@社会人 :2008/01/26(土) 21:57:02
コピペ君って馬鹿だな、まで読んだ。
600 :
Z :2008/01/27(日) 17:08:42
鉄の檻と、人間の自己疎外 カール・レヴィットは、『ウェーバーとマルクス』で、 マルクス=人間の自己疎外 @ ヴェーバー=近代的・合理的〜その結末(精神のない専門人 ・感性のない享楽人) Aを述べた。 己、自ら、安逸と保全のために鉄の檻に入るのはどれか? それはAだろう。 社会主義〜共産主義は‘結果の平等’である。それは意図しない結果を生む。 「必要に応じて働き、能力=権力に応じて受け取る」である。 そのようなノーメンクラトゥーラ=末人が己の安楽・体制維持のため、 鉄の檻に逃げ込む。 そういう国家が倒産しないはずがない。
601 :
Z :2008/01/27(日) 17:11:38
チャンスの平等と結果の平等は両立しない。 Entwedere-orderである。
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」 というマルクスの言葉を転倒させたわけか
603 :
名無しさん@社会人 :2008/01/31(木) 11:57:59
>>600 Zさん
その「鉄の檻」とやらですが。
「プロ的倫理」が「資本主義の精神」を経由して「鉄の檻」に収容されて
いくプロセスの理路はどうお考えですか?
『倫理』の中心課題ですけど、ヴェーバーは究明してるでしょうか?
してなければ、羊頭狗肉ですよね。
>>603 ウェーバーは、参考書。もしくは、疑似科学。
現代で、どういう扱いか分からないけど。和訳も適切か分からない。<歴史書参照
経由は置いといて、
鉄の檻を是とするか否とするか。
倫理は、・・・なにカトリックだっけ?
605 :
Z :2008/01/31(木) 22:28:43
>>603 さんにお答えいたします。
鉄の檻というと、動物園のライオンや虎の檻を思い出します。
この「鉄の檻」には、強制の意味と、保護の意味があります。
『プロ倫』では、
@“今日では、禁欲の精神はこの鉄の檻から抜け出してしまった。”
とあります。 そして
A“将来この檻の中に住むものは誰か?”といっています。
私が書いたのは、Aについてです。あくまで私の意見です。
したがって、ヴェーバーの訓詁学ではありません。
‘保護’としての鉄の檻です。
参照:『現代思想』Mヴェーバー特集〜荒川敏一「殻の中に住むものは誰か」
またくだらない言葉遊びが始まったな。
どうでもいいが
>>603 は頭悪すぎ。
どこが羊頭狗肉なんだろ意味が分からないよ。
それにマジメに回答する(それが回答になっているかどうかは疑問だが)
連中の知的水準も推して知るべしといわざるを得ないな。
607 :
名無しさん@社会人 :2008/02/01(金) 17:05:58
>zさんへ >「鉄の檻」には、強制の意味と、保護の意味があります これをもう少し敷衍していただきたい。強制の意味での鉄の檻はどう定義されますか? また、保護の意味での鉄の檻の定義とは?定義づけをしていただくとよりわかりやすく なるのでお聞きしたいです。 それと603さんではないですが、「プロ的倫理」が「資本主義の精神」を経由して 「鉄の檻」に収容されていくプロセスの理路についてはどうお思いですか?
608 :
Z :2008/02/01(金) 19:34:58
>>607 なかなか鋭い質問です。
ヴェーバーは‘保護’とか‘強制’とかは言っていません。私の解釈です。
そもそも「檻」と訳するのは無理があるようです。貝殻の`Shell'が適切のようです。
最近の日経新聞科学欄に、400年も生きている貝が発見されたとありました。
驚きです。シェルの中にうずくまっていたから、400年も生きているのでしょう。
質問:「資本主義の精神」を経由して
「鉄の檻」に収容されていくプロセスの理路についてはどうお思いですか?
ですが、これへのアンサーはむずかしいです。まだそこまで考えていません。
ヴェーバーは、A“将来この檻の中に住むものは誰か?”といっています。
>>600 は、一つの私なりの解答です。
ミッツマン『鉄の檻』によると、ヴェーバーが“父Mヴェーバーは‘鉄の檻’に安住している…”と。
609 :
603 :2008/02/02(土) 11:35:06
Zさん >質問:「資本主義の精神」を経由して 「鉄の檻」に収容されていくプロセスの理路についてはどうお思いですか? ですが、これへのアンサーはむずかしいです。まだそこまで考えていません。 なるほど、そうですか。 ところで、同じ問題について、ヴェーバーはどのように論じていますか? 簡単にご教示いただければ幸いです。 『倫理』中、該当個所など示していただくといっそう有り難いです。
610 :
Z :2008/02/02(土) 19:19:53
>>603 さんへ
ヴェーバーは、“今日では、禁欲の精神はこの鉄の檻から抜け出してしまった。”
といっています。禁欲の精神は資本主義の精神でしょう。ここでの「鉄の檻」は
一種の‘司令塔’のようです。その司令塔から、禁欲の精神が抜けたのです。
残るのは、禁欲の精神の‘残骸’でしょう。
“将来この檻(Shell)の中に住むものは誰か?”
ヴェーバーは、それはわからない…と言っています。
父ヴェーバーもそこに安住しています〜しかし、もうそこ(鉄のShell)から抜けられない。
ノーメンクラトゥーラ=末人もこの鉄の殻から抜けられない(安住の心算ではいったのに)。
現在は、デジタルの時代です。‘価値’はデジタル化できるのか?
それとも価値なアナログなのか?
IQは、人間の知能(それも極一部分)をデジタル化しました。
それを‘価値’といえるかどうか?
デジタル化は、価値の序列を、いとも簡単に出来ます。
価値の多様化(美しいコトバ)は価値の序列化をきたします。
そして、それは鉄の檻にほり込まれる〜?
「鉄の檻」と「神々の闘争」は密接な関係がある〜と思う。
「鉄の檻」については、岩波書店;大塚久雄訳『プロ倫』の索引で調べる
しかありません。 いまさらプロ倫を全て読み直すのはどうも…。
それに『儒教と道教』(創文社刊)も。
611 :
Z :2008/02/02(土) 21:07:58
いわゆる「老人ホーム」は鉄の檻だろうか? そうしてはならない事は百も承知でしょう。 しかし、実態は? 動物園の鉄の檻に住むライオンは、アフリカの草原を駆け巡って獲物を獲る 困苦はない。
くだらね。 意味伝達のための道具に過ぎない言葉やフレーズ自身に意味があるとでも思ってるかね この言葉遊び君は。 自分がやってることがただのフェティシズムだと分からんのかね。 ウェーバーより西部邁がお似合いだよ。 あれもあれの読者層も空虚な言葉遊びに萌える変態さんだからね本人たちは自覚してないけど。
612 612みたいに「言葉は意味伝達のための道具に過ぎない」と言い切るだけで 後の始末を何もしないような態度が横行すると、言葉が意味伝達のための 道具として機能するのに必要な条件が失われると思うよ 君の発言自体、言葉やフレーズ自身に対する意味にすごく頼ってて、 人のこと全然言えないように思うしね。「読者層」「空虚な言葉遊び」 「萌える変態さん」、言葉遊びもいいとこじゃん・・・・
614 :
603 :2008/02/03(日) 13:17:20
Zさんは、「プロ倫〜精神〜鉄の檻」というテーマには余り食指が動かれない
ようですね。
ヴェーバー的には「鉄の檻−禁欲」で残るのは「むき出しの資本主義・市場
原理」ではありませんか?
>>607 さん
横レス失礼しました。
プロ倫〜資本主義の精神〜鉄の檻という移動プロセスをプロテスタント出自
の資本家・事業家が歩んでいくとしたとき、その倫理と論理はどう説明され
るのか?
ヴェーバーは説明していないと思います。
「天職の転職」もしかり。
P的倫理と精神の表見的類似性を陳列したからといって移行プロセスの倫理
と論理の説明にはなりません。
折原さんが「救済」にチャレンジしています。
『ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理」論文の全論証構造』
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Japanese%20Home%20Index.htm 肝心の論証段階で言われていることはヴェーバーと同じレベル。
行動規範として、プロ倫<精神<鉄の檻 という関係がなぜ成立するのか?
この論文をもって、ヴェーバーが論証していることが論証された、と納得
する人は少ないのではないかと思うのですが。
615 :
名無しさん@社会人 :2008/02/04(月) 19:29:42
『プロ倫理』で、 面白かったのは、 フランクリンの 「日めくりカレンダー」かな?
616 :
Z :2008/02/04(月) 23:46:44
>>603 さんへ
ヴェーバーは、“今日では、禁欲の精神はこの鉄の檻から抜け出してしまった。”
と言っています。
〜残るのは、禁欲の精神の‘残骸’でしょう。
私は
>>610 でそう書きました。
>>614 で、残るのは「むき出しの資本主義・市場 原理」ではありませんか?
とのアンサーですが、
‘むき出しの’とはどうでしょうか? 私は、純粋の「資本主義・市場原理」だと
思います。それは「目的合理性」だと思います。
ピュウリタンが、“企業人たらんと欲した”から“〜たらざるをえない”への変化です。
青木昌彦氏は、それを限定合理性といっています。『比較制度分析に向けて』で。
『プロ倫』のヴェーバー経済学から、現実の経済学〜メカニズム・デザイン(新制度学派)
への移行でしょう。
617 :
Z :2008/02/05(火) 00:33:53
「鉄の檻=The Iron Cage」が、これだけ有名になったのは、ミッツマンの同名の書 によるのだろう。 彼の書においては、どこまでがヴェーバーの本心で、どこからがミッツマンの ヴェーバーへの思い込みか渾然としている。そこが『鉄の檻』の魅力でしょう。 特異なヴェーバー伝です。最後まで、つりこまれてしまいます。 それに較べて、羽入さんは…。(彼もこのThe Iron Cageを基にしているんだが… 『MWの哀しみ』は〜)
618 :
Z :2008/02/05(火) 00:34:32
「鉄の檻=The Iron Cage」が、これだけ有名になったのは、ミッツマンの同名の書 によるのだろう。 彼の書においては、どこまでがヴェーバーの本心で、どこからがミッツマンの ヴェーバーへの思い込みか渾然としている。そこが『鉄の檻』の魅力でしょう。 特異なヴェーバー伝です。最後まで、つりこまれてしまいます。 それに較べて、羽入さんは…。(彼もこのThe Iron Cageを基にしているんだが… 『MWの哀しみ』は〜)
619 :
603 :2008/02/05(火) 11:12:41
Zさん。 私が使った「むきだしの」は、あなたの「純粋の」と同じかも知れませんね。 鉄の檻に残ったのは「精神の残骸」だけですか。残骸って何ですか。 鉄の檻に入っているのは、「精神」が抜け出した・「むき出し(純粋)の 資本主義」にとらえられている人間ではありませんか? あなたは「純粋の資本主義」=目的合理性といわれますが、資本主義 (的人間?)が目的合理的に追求する「目的」とは何でしょうか? 「・・・たらんと欲したら」、それとは異なる「・・・たらざるを得な くなった」そうですが、どうしてでしょうか? こういう話をするには、問題にする「資本主義」とはなにか、共通の理解が 必要だと思いますが、如何ですか。 さて、そもそもヴェーバーは自分が論じる「資本主義」についてどこかで 定義していましたっけ。 と、これには別にお答えいただかなくて結構です。
620 :
Z :2008/02/05(火) 22:21:48
ヴェーバーは『宗教社会学論集』の第1巻劈頭に‘序言’(Vorbemerkunng) に、 近代資本主義を〜賎民資本主義(ユダヤ的)・古代資本主義(ヨゼフ・ザルヴィオリ著) でなく〜“自由な労働の、合理的な組織をともなった市民的経営(産業)資本主義” といっています。ここでは、‘自由な労働’と‘市民的経営’が重要です。 目的合理性とは、価値合理性に対する概念です。(以前、このスレでドイツ語で書きました) ヴェーバーは目的合理性の例として、‘グレシャムの法則’をあげています。(これも以前に説明) 価値合理性は真実の(究極の)合理性です。この‘価値’を追求していけば、 非合理性に繋がります。目的合理性は青木昌彦氏のいう(経済学で)‘限定合理性’だと思います。 (ゲームの理論〜例えば‘囚人のジレンマ’) 現代の経済学(〇経派は別として)〜広い意味での新古典派経済学は、 ヴェーバーのいう目的合理性の範囲内での学問だと思います。 ヴェーバーの『プロ倫』やゾンバルトの『ブルジョワ』の帰結と、 新古典派の結合が経済社会学です。 ヴェーバーやゾンバルトの帰結だけでは、現実の経済分析は不可能です。 新制度学派〜青木昌彦(彼は安保闘争の頃は共産ブンドでした)やDノース (経済史で初めてノーベル経済学賞を受賞1994?)は、ヴェーバーは 知っているはずです。
621 :
607 :2008/02/05(火) 23:54:05
>zさん レスありがとうございます。 理路に関して、zさんのお考えを是非お聞きしたかったのですが。 >597(=603?)さん 「天職の転職」についてですが、 マックス・ヴェーバーは、『プロ倫』でルッターの天職観念については 「各人の具体的な職業は神の導きによって与えられたものであり、 この具体的な地位を充たせというのが神の特別の命令」で、 「その職業と身分のうちに止まる」と考えておりますが、 プロテスタンティズムの天職観念については、ルッターのそれとは異なり、 その天職観念においては「つねに重点が置かれていたのは」 「職業における禁欲の方法的な性格」であって、ルッターのそれのように 「神がひとたび与え給うた」職業にいつまでも従事しなくてはならない、 というものでなく、「職業の変更さえも決して排斥すべきものとは 考えられていなかった」と書いてますね。 したがって、マックス・ヴェーバーによると、プロテスタンティズムの倫理 にとっては、転職した職業が天職なんでしょう。そうした意味では、 自分の勝手に転職できるんでしょう。ただ、それには条件があるようです。 それは、「いっそう有益な職業をえらぶものでなければならなかった」そうです。 (ここで「職業の有益さの程度」と「神によろこばれる程度」はイコールだそうです) プロテスタントの論理構造に関しては、 自分の職は転職だろうが何だろうが、かまわなかったんでしょう。 それが神によろこばれる職業=収益性のある職業あれば。 「信仰の深いキリスト者は」「神の天職への召命に応じなければなら」 なかったそうです。
622 :
603 :2008/02/07(木) 21:27:58
>>621 さん
遅くなりました。興味深い視点を有り難うございます。
Pさんが資本主義を発明したわけでは無いでしょうから、その転身は求利機会
としての優位性を求めての飛び移りということですね。
そうしますと、言われているP的倫理(天職忠実性)よりも、求利(収益性)
のほうがより根元的(P的倫理)になるのではないかという気がします。
ヴェーバー的にそれでよいのでしょうか?
資本主義的合理性(ヴェーバー的)は、資本主義の論理でしょうから、資本
主義が発明されれば、その内部から生まれてきて、他の態度を制覇していくと
思われます。
そうしますと、ヴェーバーの時代において、資本主義的関係における成功者に
Pさんたちが多かった、ということがあったとすれば、それはP的従業心理が
新しい資本主義的関係になじみやすかったという、ただそれだけのことであっ
て、P的理念が資本主義を準備したとか、資本主義はP的理念が先行しなけれ
ばあり得なかったといった類のことは主張できませんね。
結局、『倫理』が言っているのは、Pさんたちは資本主義になじみやすかった、
ということでしょうか。
それだけなら、ふ〜ん、そうだったんだ、ということでしょうか。
経産次官「デイトレーダーはバカで無責任」 講演で発言 2008年02月08日03時05分 経済産業省の北畑隆生事務次官が講演会で、インターネットなどで株売買を短期間に 繰り返す個人投資家のデイトレーダーについて「最も堕落した株主」「バカで浮気で無責任」 などと発言していたことが分かった。北畑氏は7日の記者会見で発言内容を認め、「申し訳ない」と陳謝した。 講演会は1月25日、都内のホテルで開かれ、経産省所管の財団法人・経済産業調査会 が主催。企業関係者ら約130人が無料で参加し、北畑氏が買収防衛策などをテーマに約2時間話した。 北畑氏はデイトレーダーについて「経営にまったく関心がない。本当は競輪場か競馬場に行っていた人が、 パソコンを使って証券市場に来た。最も堕落した株主の典型だ。バカで浮気で無責任というやつですから、 会社の重要な議決権を与える必要はない」と発言。デイトレーダーに適した株式として、配当を優遇する 代わりに議決権のない「無議決権株式」を挙げ、上場解禁を唱えた。 米系投資ファンドのスティール・パートナーズを名指ししたうえで、「株主、経営者を脅す」と発言。 「バカで強欲で浮気で無責任で脅す人というわけですから、七つの大罪のかなりの部分がある人たちがいる」 などと話した。 北畑氏は朝日新聞の取材に対し「激しく言い過ぎたかもしれない。講演会で眠い目をした人に難しい話を しているのだから、少しはおもしろく言わないと聞いてくれない。適切ではなかったが、そこだけ取り上げら れるのは本意ではない」と語った。 これはウェーバー?マルクス?
624 :
名無しさん@社会人 :2008/02/09(土) 12:28:16
>これはウェーバー?マルクス? どっちもどっち。 >「最も堕落した株主」「バカで浮気で無責任」 マルクス、ヴェーバーと彼らの亜流さんたちに、倫理的・論理的に鼓舞された 人たち、です。
625 :
Z :2008/02/11(月) 01:06:39
>>620 で、ヴェーバーの近代資本主義の定義(大まかな)を書きました。
‘自由な労働’には、転職もふくまれていると思っています。
>>623 > これはウェーバー?マルクス?
意味がわからん
627 :
Z :2008/02/18(月) 22:26:25
平成20年2月19日より、日経新聞*やさしい経済学 シリーズ〜21世紀と文明 で 北海道大学准教授:橋本努 執筆“資本主義と倫理”が 8回にわたって掲載されます。
社会学、経済学、政治学、 歴史学、倫理学、 大変だなー
629 :
名無しさん@社会人 :2008/02/20(水) 05:43:00
>>626 歴史上全ての経済学説はヴェーバーもしくはマルクスに全て書かれたって奴か。
70年代初頭によく聞いた。
630 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/02/23(土) 17:02:22
>>495 著者は進歩的な宗教のこの統合的機能を精巧化する意図があったのかどうか、このことについての指示は残されていない。
マンハイムはここで終わった。やはり、衣鉢を継ぐのはフリードマンだろう!
632 :
名無しさん@社会人 :2008/02/24(日) 11:47:13
行動経済学もそうだったのか!!dk!?
633 :
Z :2008/02/24(日) 16:44:29
>>630 やはり、衣鉢を継ぐのはフリードマンだろう!
フリードマンって、シカゴ学派の大御所:ミルトン・フリードマン
のことでしょうか?
634 :
Z :2008/02/25(月) 00:02:37
ロシアのプーチン大統領(そのうちにロシア首相になるらしい)は、 Mヴェーバーを学んだことがあるのか? なにか資料があれば、お教えください。
635 :
Z :2008/02/25(月) 00:20:11
ヴェーバーを「自由主義的帝国主義者」という場合、 その‘帝国主義’は、レーニンのいう単細胞的な帝国主義でよいのだろうか? 右翼も左翼も帝国主義はレーニンのそれしか知らない(特に右翼がそうであるが)。 どうもおかしい。 民主主義と独裁は、一般には両極端とされているが、それでいいのか? むしろ、この二つは背中合わせ〜楯の両面のような気がする。 そこで登場するのが、C.シュミットである。 今、シュミット・ルネッサンスといわれている。 (ヴェーバールネッサンスといわれたのは、もう何十年も前だった)
636 :
名無しさん@社会人 :2008/02/26(火) 19:50:50
ごめん、教えてほしいんだけど・・・。 いま、「職業としての学問」を岩波文庫で読んでるんだけどどうしても意味がわからないところがある。 P53の11-12行目 >客観的に与えられたものとして前提された目的のための手段を論じる場合を別として ↑これの意味がまったくわからんのです。 私の日本語力が無いといえばそれだけなんだけど、意味が気になるので教えてください。
637 :
名無しさん@社会人 :2008/02/29(金) 13:23:41
638 :
Z :2008/03/01(土) 19:53:32
↑
>>637 さんへ
じゃあ、アントニオ・ネグリの理論〜思想を
ここで展開してくれヨ。
639 :
V :2008/03/01(土) 20:23:06
>>636 まず翻訳が悪いな。
日本語になってない。
どの言葉がどこにかかってんのか
ぜんぜんわからん。
640 :
Zさんへ :2008/03/02(日) 12:27:08
>>635 “レーニンがいう単細胞的な帝国主義”とありますが、レーニンはどこで
「単細胞的帝国主義」と言ってるのでしょうか。出典を教えてください。
また、「単細胞的帝国主義」の特徴を簡単に教えてください。
“そこで登場するのが、C.シュミットである。
今、シュミット・ルネッサンスといわれている。”
ということですが、この後「シュミット・ルネッサンス」を紹介し、それに
ついての所見を開陳される、という展開を期待してよろしいですか?
>>638 “アントニオ・ネグリの理論〜思想をここで展開してくれヨ。”
はぁ? ホンキでおっしゃってますかぁ?
641 :
Z :2008/03/02(日) 18:34:38
>>640 さんへ
レーニンが自分の事を‘単細胞’なんていう筈がありません。
あくまで私の見解です。
「シュミット・ルネッサンス」については、
今野元『ヴェーバー伝〜ある西欧派ドイツナショナリストの生涯』
野口雅弘『闘争と文化〜マックス・ウェーバーの文化社会学と政治理論』
などに、頻繁に出てきます。(肯定的意味で〜教師であろうと、反面教師であろうと)
私は、いまだA.ネグリ(ちくま学術文庫など)を読んでいません。
教えてください。
642 :
名無しさん@社会人 :2008/03/02(日) 21:28:33
>>639 私だけじゃなかったのですね。
社会学的には典型的な議論の形式かな、と思って悩んでいました。
ドイツ語が出来ないだけに原書にも当たることもできず、ここは諦めます。
レスありがとう。
643 :
Z:641さんへ :2008/03/03(月) 08:47:04
>レーニンが自分の事を‘単細胞’なんていう筈がありません。 それはそうでしょうけど、そんなことは話題になっていませんよ。 話題は、あなたが > レーニンのいう単細胞的な帝国主義(635) と書かれたので、私が >レーニンはどこで 「単細胞的帝国主義」と言ってるのでしょうか。 出典を教えてください。(640) と質問してスタートしました。 それに対して >レーニンが自分の事を‘単細胞’なんていう筈がありません。 あくまで私の見解です。(641) では答えになっていないと思いますが・・。どうでしょうか。 >635の該当個所は訂正されますか? >私は、いまだA.ネグリ(ちくま学術文庫など)を読んでいません。 教えてください。 論点をずらさないように。
644 :
名無しさん@社会人 :2008/03/03(月) 10:30:21
(´∀`)
645 :
Z :2008/03/03(月) 15:32:09
>>643 とにかくA.ネグリの考えを、教えてください。
レーニン『帝国主義論』については、私の考えを述べます。
ヨロシク。
646 :
640=643 :2008/03/03(月) 16:09:22
Zさんへ >レーニン『帝国主義論』については、私の考えを述べます。 必要ありません。 私は「レーニンの帝国主義論」についてのあなたの考えを聞きたいと 言っているのではありません。 642の該当個所を再掲します。 >レーニンが自分の事を‘単細胞’なんていう筈がありません。 あくまで私の見解です。(641) では答えになっていないと思いますが・・。どうでしょうか。 635の該当個所は訂正されますか? 私がお聞きしているのは「レーニンのいう単細胞的帝国主義」の出典です。 >とにかくA.ネグリの考えを、教えてください。 人違いです。 当掲示板上で“アントニオ・ネグリの理論〜思想をここで展開してくれヨ。” というのはスゴイ注文だな、と思って、「ホンキでおっしゃてるのかな?」と と聞いて見ました。 ホンキなんですね。 で、あなたの要求は満たされるとお考えですか?
647 :
Z :2008/03/03(月) 19:44:59
↑“あなたの要求は満たされるとお考えですか? ” 満たされるかどうかは、A.ネグリの理論の如何です。 だから、教えてくれ〜と言ったんです。私も何から何まで、全て知っている 訳ではありません。
648 :
640=643 :2008/03/04(火) 13:07:34
“あなたの要求は満たされるとお考えですか? ” と言う質問は、あなたの “アントニオ・ネグリの理論〜思想をここで展開してくれヨ。” という要求に対するものですね。 つまり、「ここで展開」してもらえるとお考えなのかどうか?ということ。 毎度のことながら、話をずらさないようにお願いします。 それから 「レーニンのいう単細胞的帝国主義」の出典話はどうなりました? もう一つw >私も何から何まで、全て知っている訳ではありません。 そんなことは誰も思っていないと思います。
649 :
Z :2008/03/04(火) 19:29:43
Das GehäuseとIron Cage について。 T.パーソンズが言い、ミッツマンが彼のヴェーバー伝である 『鉄の檻』の原題はThe Iron Cageである。大塚久雄氏訳の『プロ倫』 でも、Das Gehäuseを‘鉄の檻’と訳している。 ドイツ語で Gehäuseはnで家屋の集合を意味する。Haus n(中性名詞) が元名である。Gehäuseは‘函・入れ物’をも意味する。 それ以外に、殻(かたつむり)や繭(かいこ)を意味する。貝殻(Shell)もそうだ。 これには、もう一つ Kern m(男性名詞)の意味もある。即ち、 ‘核・芯’→‘核心・真髄・骨子’の意味がある。これは中国語の‘中心(Center)’ でもある。 つづく
650 :
Z :2008/03/04(火) 20:17:14
鉄の檻というと、動物園の虎やライオンの鉄の檻を思い起こすのが普通だろう。 本来の虎やライオンは、シベリアの雪の奥地やアルリカの草原で、腹を減らして 獲物取りに必死になっている。動物園の檻では、エサは充分に与えられるから 悠々安楽である。その代わり自然から遮断され、囚われの身である。 鉄の檻は、この‘安楽’と‘囚人’を連想する。ヴェーバーは、父ヴェーバーが この檻に入っていると言う。ゾンバルトは、現実の経済競争に耐えられず年金 で安住し、それが奢侈を生むという。これらは安楽の面であろう。 一方、マルクスは資本制生産社会 (マルクスは‘資本主義’というコトバを一切使わない) における人間の自己疎外を言う。これは囚人の面であろう。 つづく
651 :
Z :2008/03/04(火) 20:42:52
もう一つある。それは『プロ倫』でヴェーバーはDas Gehäuseから ピューリタンの世俗内禁欲が抜け落ちた…と言っている事である。 もうDas Gehäuseには資本主義の精神は無い。 この意味の‘鉄の檻’は、Kern〜核→Center→司令塔の意味があるのではないか? このDas Gehäuse・鉄の檻・司令塔には、安住する末人=精神の無い専門人・ 感性の無い享楽人が住み込むのか? 誠実な経済人もこの司令塔にいるだろう。彼等は市場経済のメカニズムデザインで、 限定合理性(ヴェーバーのいう目的合理性か?)を追求する。 これが現代ではないか? 本当は、鉄の檻〜司令塔から、末人を追い出さねば ならないのだが…。
652 :
607 :2008/03/05(水) 05:04:07
>636 「客観的に与えられたものとして前提された目的のための手段」とは、 聴講者が何らかの立場に立つためには避けては通れない、その目的実現 のための知識のことです。(この知識は教師から与えられます) そんなん言われてもなんのこっちゃ?という感じですね。なので、 少しずつ説明していきますね。 まず、この文脈の中で、筆者の言いたいことは、「政策は教室で 取り上げられるべきではない」(p.47)=「教師」は「教壇の上から 聴講者に向かってなんらかの立場を」「強いるようなこと」をしては いけない(p.49)ということです。 次に、では教師は実際に何をすればいいのか=教師のすべきこと= 教師の役割について書かれてますね。教師の役割は「事実の確定、 つまりもろもろの文化財の数学的あるいは論理的な関係およびそれ らの内部構造のいかんに関する事実の確定」(p.49)をして、その「知識や 学問上の経験を[引用者注ー教えることによって]聴講者らに役立たせる」 (p.50)ことにあるのであって、「文化一般および個々の文化的内容の価値 いかんの問題および文化共同社会や政治的団体のなかでは人はいかに行為 すべきかの問題に答えること」(p.49)=「自分の政治的見解(引用者注ー ここでは政治となってますが、政治だけでなく、もっと広い意味での自己 の価値観です)をかれらに押しつけ」(p.50)ることではないと書かれて います。 要するに、教師は事実の確定によって得られた知識・経験を教えるのはOK、 自分の価値観を教える(=押し付ける)のはNGということですね。
653 :
607 :2008/03/05(水) 05:07:02
こうした文脈の中で 「実際上の立場を「学問的に」主張することができないということは 、−客観的に与えられたものとして前提された目的のための手段を論じる ばあいは別としてーもっと深い理由によるのである」(p.52) と書かれています。 この文は、「実際上の立場を「学問的に」主張」はNG、 「客観的に与えられたものとして前提された目的のための手段を」 論じるはOK、ということを言っています。 そこで、さきの段落のOKとこの段落のOKを、また、さきの段落の NGとこの段落のNGとを、それぞれ対応させてみると次のようになります。 OK 「事実の確定、つまりもろもろの文化財の数学的あるいは論理的な関係 およびそれらの内部構造のいかんに関する事実の確定」(p.49)をして、 その「知識や学問上の経験を[引用者注ー教えることによって]聴講者らに 役立たせる」(p.50)こと[引用]=「客観的に与えられたものとして前提 された目的のための手段を」論じること NG 「文化一般および個々の文化的内容の価値いかんの問題および文化共同 社会や政治的団体のなかでは人はいかに行為すべきかの問題に答えること =「自分の政治的見解をかれらに押しつけ」(p.50)ること[引用]= 「実際上の立場を「学問的に」主張すること」 したがって、「客観的に与えられたものとして前提された目的のための手段」 とは、「事実の確定」をして、それによって得た「知識や学問上の経験」を 教えることとなり、かつまた、この知識・経験は聴講者らに役に立つもの です。
654 :
607 :2008/03/05(水) 05:09:14
(ちなみに、聴講者に役立つといっても、なぜ?その疑問に答えるために 引用します。「もし諸君がこれこれの立場をとったならば、諸君はその 立場を実際上貫徹するためには、学問上の経験からこれこれの手段を 用いねばならない」(p.62)つまり、「諸君は目的(引用者注ー自分が 何らかの立場に立つこと)とそのための不可避的な手段との間の選択を 行わなければならない」(p,62)のです。要は目的に達するには、学問上の 経験から得られる=教師から与えられる知識=手段がいるということです。 そして、教師はこの手段を教えるべきであって、「目的は」「われわれ教師 のばあいには与えられない」(p.63)のです。つまり、聴講者は自分が 何らかの立場にたつには、その目的実現のために手段がいるのです。 そして、その手段は教師が教えることなのです。だから、教師の知識・経験は 聴講者に役に立つのです。自己の立場形成のために)
655 :
607 :2008/03/05(水) 05:11:23
しかし、「客観的に与えられたものとして前提された目的のための手段」 とは、「事実の確定」をして、それによって得た「知識や学問上の経験」 のこととなり、かつまた、この知識・経験は聴講者らに役に立つもの・・・ と言われても、「客観的に与えられたものとして前提された目的のための 手段」という文自体の意味がわかりません。頭の中で両方の文の意味の整合が できないです。 そこで、この「客観的に与えられたものとして前提された目的のための手段」 自体の分析をしましょう。果たして両者の意味は整合するのか? (しなかったら大変ですね。ここまで私の駄文を読んでいただいた方々に 申し訳ないですから)まず、「客観的に与えられたもの」というのは何か? それは、教師の行う「事実の確定」によって得られた「明確さ」のことです。 客観=明確さ。なんでそうなるの?上にも書きましたが、「〜手段」は教師が 教えてもいいことです。教師の教えることは、事実の確定によって得られた知識 ですよね。事実の確定=明確さです。「われわれ(引用者注ー教師のことです) は、明確さということのためになしうる学問の最後の寄与に到達するのだ。」 つまり、教師が学問するのは事実の確定=明確さのためということです。 ですから、こうも言い換えられます。「明確さを前提とした目的のための 手段」と。
656 :
607 :2008/03/05(水) 05:13:40
しかし、試しに「手段」にかかっているととらえるとわかりやすくなります。 「明確さを前提とした手段」。こうなります。明確さを前提とした手段とは なんぞや?上にもかきましたが、経験・知識です。明確さを前提とした知識 ・経験?なぜ知識・経験が明確さを前提にするの?教師は事実の確定をする ので。それによって得た知識・経験は明確さを前提にしています。じゃあ、 手段っていうけど何のための手段?何の手段?それは目的のための手段です。 目的って何?それは自分が何らかの立場に立つことです。要するに、「客観的に 与えられたものとして前提された目的のための手段」とは、自分が何らかの立場に 立つために、教師から与えられる、明確さを前提とした知識のことです。 そして、それは目的実現のためには不可避なものなのです。
657 :
607 :2008/03/05(水) 07:04:36
上、すごく長々となってしまいましたが、また、最後のくだりは急ぐあまり 雑になってしまいした。わかりにくく感じた方、申し訳ございません。 私の駄文をここまで読んでいただいた方がいらっしゃれば、ありがたいです。 どうもありがとうございます。
658 :
607 :2008/03/05(水) 07:06:00
>603さんへ レスありがとうございます。 ここ最近忙しく、しばらく見ることできなったので、 レスをしていただいたにもかかわらず、返信がずいぶん遅れ、 申し訳ありません。次に書き込めるのはいつになるかわかりませんが、 レスを読ませていただいて、私なりに思ったことを書かせていただきます。 >そうしますと、言われているP的倫理(天職忠実性)よりも 求利(収益性)のほうがより根元的(P的倫理)になるのでは ないかという気がします。ヴェーバー的にそれでよいのでしょうか? 私はそれでよいと思います。603さんの仰る天職忠実性というものが どのように定義されるものなのか、わかりませんが。少なくとも ヴェーバーは『プロ倫』p.310において「神にいっそうよろこばれる ような天職」を「いっそう有益な職業」としており、それを選ぶ基準として 三つ挙げており、それらは@「道徳的基準」Aその「生産する財の「全体」に 対する重要度(引用者注ー貢献度)」Bその結果として必然的に生ずる 「私経済的「収益性」」であり、これらの中でもBが「いちばん重要なもの だった」と書いておりますので、プロテスタントにとって収益性というものは 非常に重要だったものと思われます。この収益性の肯定、いわば利潤追求の 肯定は、実際に、予定説による強迫観念とともに後に資本主義を用意する ことになった要因の一つですし、プロテスタントにとって重要なことかと。
659 :
607 :2008/03/05(水) 07:16:49
第二段落ですが、これは資本主義(原因)→合理性(結果)ということで しょうか?私は、むしろ、因果が逆ではないかと思われます。合理性 (魔術からの解放)→資本主義ではないでしょうか。あるいは、私の思って いることが603さんの意図していることと全く見当違いなのかもしれません。 第三段落ですが、「P的従業心理が新しい資本主義的関係になじみやすかった 」と仰りますが、よく意味がわかりません。このセリフが多くてすみません。 どういうことかといいますと、あくまで私なりの解釈ですが、この文から 察すると、資本主義的関係が当然視されているように思われます。つまり、 資本主義時代とそれまでの時代とのつながりをきっているように思えるの です。つまり、因果関係が無視されているように思えるのです。時代は 流動的に流れており、決して固定的ではありません。連続性があります。 そこに少しずつ差異が見られるようになり、その差異の程度が甚だしく なった時、恣意的な名づけというものが行われます。差異化・区別化 のために。しかし、そのように世界を切り取ったとしても、たとえば、 「ここからここまでが資本主義時代で、ここまでは賎民資本主義」と 区切ったとしても、現実につながりが消えるわけではありません。 時代は常に連続的です。資本主義的関係と呼ばれるものも同様です。 いきなりパッとでてきたわけではありません。連続した時代の中から 生まれてきたものです。そこには因果関係があります。Pが用意した ということとは無関係に、前の時代と純粋に因果関係は必ずあったと 思われます。その点についてどうお思いでしょうか? 最後はわかりにくいことを意味がよくわからないことをたくさん 書いてしまいましたが、次回いつ書き込めるかわからないので、 ひたすら今思ったことを書いてしまいました。何回も連続してすみません。
660 :
607 :2008/03/05(水) 07:23:38
656の訂正です。次の文が抜けてます。 『次に、修飾語が問題です。これが「目的」にかかっているのか、 「手段」にかかっているのか、よくわかりません。』
661 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/03/05(水) 11:04:19
>>605 『プロ倫』では、 A“将来この檻の中に住むものは誰か?”といっています。
これに続いて、以下のように、興味深い文章が続きます。
文化発展の最後に現われる「末人たち」にとっては、
次の言葉が真理となるのではなかろうか。
「精神のない専門人、心情のない享楽人。
この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに上り詰めた、と自
惚れるだろう」と。
・・・・われわれのなすべき仕事は、以上の素描でその一端にふれたにすぎない禁欲的合理主義の
意義を、さらに社会-政治的倫理の内容について、すなわち、
私的集会から国家にいたるまでの社会的諸集団の組織と機能のあり方について、
明らかにしていくことだろう。
その次に、禁欲的合理主義の人文主義的合理主義とその生活理想や文化的影響に対する関係、
さらに哲学上ならびに科学上の経験論の発展や技術の発展に対する、
また精神的文化諸財に対する関係が分析されねばならないだろう。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫版 pp.366,368)
多分、この紹介は2度目でしょう。済みません。
662 :
Z :2008/03/05(水) 21:49:15
→Tパーソンズ・ミッツマンの「鉄の檻(The Iron Cage)」人間の自己疎外 Das Gehäuseが →Mヴェーバーのいう殻(Shell)〜核(Center司令塔)〜安住の場所(末人の)
663 :
Z :2008/03/05(水) 21:54:28
『プロ倫』のDas Gehäuseは、「鉄の檻」と関係ないのでは? 「鉄の檻」は受動的。殻(Shell)〜核(Center司令塔)は能動的。
664 :
Z :2008/03/06(木) 12:03:33
>>648 さんへ
ネグリの理論・思想を、このスレで述べられるか否かは、あなたのご自由です。
好きなようにしてください。
‘単細胞的’帝国主義論 〜その出典? 〜その「出典」は私自身の頭脳です。
私は今日まで、このスレに自分の考え(諸著作の孫引きでなく)を述べて来ました。
それに対して幾多の方々から、反論や攻撃を受けました。それは、本当に有難いことと
感謝しています。 あなたも出典云々なんていわずに、堂々と自己の意見を
述べられたら?
私は、昨日の誤謬には立脚いたしません。しかし明日、誤謬となるかも知れない
事象については積極的に、それに取り組みます。なぜならば、誤謬とは、真理に近づく
一里塚ですから。
誤謬を恐れては学問が出来ません。 出典で己の権威を付けるなんて、もってのほか!!
665 :
Z :2008/03/07(金) 23:46:36
ハイデッガーは、“In der Welt Sein”(世界内存在)を言う。 それは、われわれが生活し、存在しているところ。したがって、 われわれの住むところはそれしかない。そこからの脱出はありえない。 地球から脱出できないのと同じである。この地球がイヤだからといって、 火星の世界に行けないのと同じ。そのIn der Welt Seinが「鉄の檻」 であり、殻・核である。この世のなかのどこかに「鉄の檻」 が在るのではない。‘この世の中’それ自体(itself)が檻なのである。 ヴェーバーが『プロ倫』で、禁欲が檻から抜け落ちた…と言ったのは、 消滅したのである。残ったのは、純粋な資本主義〜市場経済〜 メカニズム・デザインの経済である。それは「末人経済」 (資本主義の全般的危機としての)では決してないが。 資本主義の精神の欠如した市場経済〜したがって、 サブプライムのようなのが発生する経済である。
666 :
640=643 :2008/03/08(土) 11:21:32
zさん。 学問をやっておられるそうですが。 「レーニンのいう単細胞的帝国主義」の出典を聞かれると、「出典は自分だ」 といい、「“単細胞的”帝国主義」と書きなおすのも学問のうちですか。 >私は、昨日の誤謬には立脚いたしません。しかし明日、誤謬となるかも知れない 事象については積極的に、それに取り組みます。なぜならば、誤謬とは、真理に近づく 一里塚ですから。 そうですか。 間違うほど真理に近づくわけですか? 「誤謬とは、真理に近づく一里塚」だと論証できますか?
そんなに絡むなよ。
>>666 レーニンの理論・思想を、このスレで述べられるか否かは、あなたの自由ではありません。
自重してください。
669 :
名無しさん@社会人 :2008/03/12(水) 11:42:07
age
670 :
Z :2008/03/13(木) 13:52:59
野口雅弘氏の『闘争と文化』で、M.ヴェーバーの観方は‘遠近法主義’だといっている。 遠近法と言えば、ボッヘマの「並木道」を思い出す。 それにダ.ヴィンチの『モナリザ』もそうだ。 学問の方法論としての遠近法=パースペクティーヴ(Perspective) について考えてみよう。 これによって、ヴェーバーのアンビヴァレンスやアンチノミーが 解ってくるだろう。 つづく
671 :
Z :2008/03/13(木) 20:21:27
絵画の遠近法は、もう御存知だから省く。(江戸時代には、わが国にも入って来ている) 思考における遠近法について。 ダ.ヴィンチの絵画でも、一つの絵に二つのフォーカス(焦点)がある。 哲学・思想でも、一つの論考に二つの焦点が並立している場合がある。 M.ヴェーバーがそうだ。そこに、アンビヴァレンスとアンチノミーが 同居している場合がある。 例えば、Das Gehäuse〜The Iron Cage〜‘鉄の檻’〜殻〜Sell〜‘核(Kern)’。 いかにも、どのようにも解釈できるコトバである。 父M.ヴェーバー、禁欲の精神(世俗内禁欲〜それがGehäuseから抜けてしまう)、 末人、企業家たらざるを得ない人々…。 それから‘自己疎外された(あるいは、己自身からそうなる)人々’ Das Gehäuseはハイデッガーの、“In der Welt Sein”(世界内存在) なんだ。
672 :
Z :2008/03/13(木) 20:32:40
いま、青木昌彦(新制度学派)著『比較制度分析に向けて』(NTT出版 2003k刊) に悪戦苦闘している。 Mヴェーバーはでてこないが、どうも青木氏はヴェーバーを読んでいると 思えてならない。 ヴェーバーが一言も出てこないのが、その証拠かもしれない。 (彼は若き頃〜安保闘争の頃、共産ブンドだった〜姫岡玲治として)
673 :
Z :2008/03/14(金) 11:24:52
ヴェーバーの「遠近法主義」であるが、彼自身は自分の思考を遠近主義とは 行っていない。(ニーチェは‘遠近法的なるもの’と言っているが…) それから、ヴェーバーの経済〜経済学であるが、彼は理論経済学者ではない。 経済史については、最後にミュンヘン大学で講義している。 『一般社会経済史要論』(岩波書店刊)である。 彼は、制度学派(ヴェブレンのような)と観て良いのではないか。 青木氏の‘新制度学派’のウルである。 (中央公論社刊:世界の名著『ウェーバー』所収=経済行為の社会学的基礎範疇)
674 :
Z :2008/03/14(金) 11:36:51
遠近法につて、 追加 岩波『哲学・思想事典』には絵画としての‘遠近法’は載っているが、 思考としての‘遠近法〜…主義’はない。
675 :
Z :2008/03/17(月) 00:26:59
明日から一週間、豪州のアデレイドへ行ってきます。
オーストラリア!銛を打ち込まれないように気をつけてねw
677 :
Z :2008/03/27(木) 20:59:21
昨日、Adelaideから帰って来ました。
678 :
Z :2008/03/27(木) 22:51:46
行き帰りの飛行機の中などで、青木昌彦『比較制度分析に向けて』を読んでいた。 「p86 道徳律」の項で、反ヴェーバー的な仕方として、 “道徳律は慣習の結果であって、その反対ではない…アリストテレス”とあった。 アリストテレスは‘道徳的善は慣習の結果である’と言っている〜そうだ。 ヴェーバーは‘初めに道徳ありき’なのだろうか?
679 :
Z :2008/04/05(土) 21:35:07
Mヴェーバーはキリスト教プロテスタントであるが、 文化においては一般の西欧文化人と同じく、当然のことながら多神論〜 ギリシャ文明のゲマインに属している。 (彼の母親=ヘレーネとは、全く違う) イスラム教では、そうはいかないであろう。 イスラム教は宗教は勿論のこと、文化・経済・政治・日常=慣習まで入ってくる。 ヴェーバーは、ついに「イスラム教」を書かなかった〜書く時間がなかった。 もし、彼がイスラム教について論考を書いたとしたら、どのように書いたであろうか? ヴェーバリアンは‘推測’すべきであろう。
680 :
名無しさん@社会人 :2008/04/27(日) 11:29:56
amazonの文庫版プロ倫のレビューに 「この本の論証が実証的研究から否定された今でも、出発点としてのこの本を読むことは それ以後の資本主義論を読むうえでは欠かせない前提なのである。」という一文を見つけました。 「プロ倫の論証を実証的研究から否定した」本と「プロ倫以後の(すぐれた)資本主義論」とをそれぞれ教えていただけないでしょうか?
681 :
Z :2008/04/28(月) 00:54:33
上記の「文庫版レビュー」のなかで、‘実証的に否定された…云々’はどうかと 思いますが、ヴェーバーは確かに「資本主義の理念」として書いたことは 事実でしょう。 『ヒューマニズムの経済学』の著者:レプケは、「プロ倫」に触発された著作として トーニー『宗教と資本主義の興隆』(岩波文庫)を挙げています。 ベラー『徳川時代の宗教』(岩波文庫)もプロ倫に触発された論考でしょう。 参照:レプケ『自由社会の経済学』日本経済評論社 刊 なおレプケはA.Rüstowの『Ortsbestimmung der Gegenwart』を も挙げていますが、私は未だ知りません。GoogleでA.Rüstowを 検索してみて下さい。
682 :
Z :2008/05/06(火) 21:29:15
余談になりますが、 W.レプケ(1899〜1966)は戦後、西ドイツにおける‘奇蹟の復興’をもたらした 経済ブレインの一人です。ヨーロッパでは高名な経済学者です。
683 :
Z :2008/05/06(火) 21:56:30
つづき Wレプケは ナチスに反旗を翻し、ヒトラー政権下ではトルコやスイスに 亡命していました。
684 :
名無しさん@社会人 :2008/05/07(水) 23:48:16
プロ倫自体が反証もされず、かといって論証もできこっない ひとつの偉大な「仮説」ってこと?
685 :
Z :2008/05/08(木) 00:35:37
「仮説」というコトバは、両義性があります。 良い意味にでも悪い意味にでも、どちらでも使えます。 たとえ仮説としても、それを明言したのはヴェーバーが最初です。 (もっとも、彼よりも50年前にマルクスがチラッと言っていますが…) ヴェーバーは、新教の倫理から「資本主義(そのもの)」が発生した 〜とは言っていません。 資本主義の精神(理念)と新教の倫理の相似性を論じただけです。 現代では、もはや仮説ではなく、×か〇かどちらかでしょう。 即ち、反証も論証・実証もされ過ぎるほど、なされています。 私は‘〇’に加担します。
686 :
Z :2008/05/08(木) 00:41:17
羽入氏は、『プロ倫』そのものを否定してはいません。 論考過程おける、些細なミスを拡大鏡で増幅したに過ぎません。
687 :
名無しさん@社会人 :2008/05/09(金) 23:34:34
レプケについてもっとkwsk
>>680 それはこういうことです。
ウェーバーが明らかにしたのは、こうした、「近代」経営資本主義の内面的成立過程なのだ。
「理念型」として索出された思想像なのだ。なぜなら、実際の西ヨーロッパのプロト工業化社会
から農村工業が発展し、地域的市場圏が成長し、国内市場が成立し、産業革命が起こり、
ヨーロッパが工業化してゆくというプロセスの実証的な数量経済史の諸研究は、ウェーバーが描いた
思想像とはかなりの隔たりがあるのだ。たとえば、禁欲的プロテスタントが全くいない地域でも、
農村工業が発展し、産業革命後に中心的な工業都市となるという事実もあった。
>>688 宗教改革が起こり、ルターが展開し、カルヴァンが徹底した教説に預定説がある。
それはそのころの人々に甚大な影響を持った。「救われているのか、いないのか、
永遠の昔から予定されている」との教えは人々をして救われている条件を作り上げさせた。
@キリスト教を信仰している(キリストの復活を信じている)
A神の万能を信じている
Bカルヴァンの教えを信じている
1.自分は救われている側の人間にちがいない。
2.しかし、救われているかどうかは誰も知らないので、現世の中で「救いの確かさ」
を求め続け無限軌道)
3.「救いの確か上記の@―Bに加え、「救いの側に予定されている」から善を
なす人々はほかならぬ自分だ。ゆえに自分は救われていると確信する。かれは「決
して悪をなさぬ」。救いの確かさを得るために。
4.この世に神の栄光が増すとしたら、私が隣人愛を実践するプロセスで、利潤=富が
増してゆくに違いない。私が誠実に商売(多くの人の必需品だが多くの人は持って
いないものを商う)をして、その結果富が蓄積されたとしたら、自分は救われてい
る。
>>689 こうした禁欲的プロテスタンティズムは理念型だ。
実際、カトリックの支配的な地域であるイタリアでも
経営資本主義は成長した。
株式会社はイタリア諸都市から発展したものだ。
ゾンバルトが言うのも全くの間違いとは言えない。
イギリスの産業革命は別にピューリタンが始めたわけではない。
ただ、労働倫理は確かに禁欲的プロテスタント諸教派(Zekte)の
生活態度=精神構造==Ethosから確立された。
この労働倫理は「資本主義の精神」そのものである。
フランクリンの「時間は貨幣である」という考えは「資本主義の精神」
の本質といえる。
691 :
名無しさん@社会人 :2008/05/11(日) 15:05:44
結局マキシーの与太話だったのか
692 :
Z :2008/05/14(水) 15:52:13
693 :
東京の大学生 :2008/05/14(水) 23:30:11
イデオロギーは内的要因ではなく外的要因により規制、拘束される。 イデオロギーは本来、観念諸形態として政治的、意識的な概念に内在化しているものである 。それらは自然発生的にではなく、個々人の自由な思想、発想により後天的に生じたもので あり、第三者による介入を受けない純粋なる意識形態である。しかし、人間は現代社会機構 の支配下のもとに暮らしている以上周りの諸環境の影響を受けずに生きてはいけない。また、 近代の階級社会構造や発達した国家制度の飛躍により、イデオロギーは主観的顕在観念としての 独立性を失っていった。それは、権力者の支配機構の基盤を支える根源意識として社会に同化し、 民衆の自発的服従を促す包括的権威想念の様相を呈していた。
694 :
名無しさん@社会人 :2008/05/16(金) 15:09:13
アメリカの田舎の老人って、日本のそれの何倍も保守的で閉鎖的で狂信的(聖書に書いてあることは全部本当だと思ってる)だからな。 例えるなら、村人が全員キリスト教徒の八つ墓村みたいな感じ。 それに自国以外のことには無知で、特に日本についての誤解は著しい。 (ジャイアント馬場が初めてアメリカに遠征した時、田舎で日本と戦争してたことを知らないという老人に会ったそうだ)
695 :
Z :2008/05/16(金) 17:20:56
アメリカでは、3/4がプロテスタントで、1/4がカスリックだそうだ。 ↑の老人はプロテスタントだろう。
696 :
Z :2008/05/19(月) 22:28:10
>>693 「愛国心」というコトバを戦中 軍部が好き勝手に、自分に都合の良いように
曲げてしまった。だから今でもこのコトバは偏見を持って観られる。
それと同じように、「イデオロギー」も、教条的〜(マルクス)・レーニン・
スターリン的に歪曲したから広松渉氏の努力にもかかわらず、偏見観が抜けない。
残念だ。
青木昌彦氏の著書にヨクでてくるDノース(ノーベル経済学受賞)は、
“経済史において重要なのは、財産権・国家・イデオロギー”の3つを挙げている”
697 :
Z :2008/05/20(火) 00:53:00
Mヴェーバーは『プロ倫』を書いたからとて、プロテスタントの信奉者とは かぎらない。むしろ、ゲーテ・ニーチェの様に、多神教にも傾いていたと思われる。 彼の母と混同しないように…。 ヴェーバーは亡くなる一年以上前から、ミュンヘンに滞在している。『職業としての政治』 ・『〜の学問』の講演は全てミュンヘンであった。居心地が良かったのだろう。 ミュンヘンは、ドイツにおけるカソリックの牙城でもある。 ドイツ西南地方はカソリックが多い。例外として、ハイデルベルヒだけはプロテスタント の街である。
すなわちプロテスタントは原理主義だということだ。
699 :
Z :2008/05/22(木) 22:45:55
近代的・合理的でヴェーバーを探求する時代から、 ヴェーバーを「自由主義的帝国主義者」・「オクチデンタルな ナショナリスト」として、政治・経済・文化を論ずる‘今’となった。 だから、ヴェーバーとナチスの関連がありや否やが論ぜられる。 その場合、ナチスに対する見かたが、合いも変わらずズサンである。 厳正・価値自由なナチス観がない。信条的ナチス罵倒でもって ヴェーバーとの関連の是非を論じているのが現状である。 ヴェーバー観は決まりつつあるものの、ナチスに対する世界観は、 まだみすぼらしい。 勿論、私は如何なる理由があろうとも、ナチスに加担する ような考えは持っていないが…
700 :
名無しさん@社会人 :2008/05/22(木) 23:16:53
宮台真司爆殺祈願d=(^o^)=b
701 :
名無しさん@社会人 :2008/05/24(土) 19:45:10
ミュンヘンにいたのはビールがおいしかったからだと思うけれど
702 :
Z :2008/05/25(日) 00:08:58
>>699 の結論を先に述べてみたい。
それは、
@ナチスの対外政策と、
A国内におけるドイツ官僚の経済政策・社会政策
とを分けて観るべきではないだろうか?
Aは、ナチスの成果ではなく、優秀な官僚の成果であろう。
それは丸山真男が、「ナチスの政策には柔軟さがあった…」と言っていた。
即ち、ある政策に欠陥を見出せば、即時に改良をしたそうである。
それはナチスの功績ではなく、ドイツ官僚の功績である。
農業においても、戦後の西ドイツでは食糧不足は先ず無かった。(旧ソ連との違い)
それが、あの奇跡の復興をもたらした。
ナチスは、ユダヤ人や反ナチスには過酷だったが、ノン・ナチス
(ゾンバルトやアルフレッド・ヴェーバー=マックスの弟)には案外緩やかだった
ようである。それは、Fブローデルは開戦すぐ捕虜になったが、仏将校捕虜として
優雅な生活をしていた。だから、『地中海』を戦後すぐ(初版は1947年刊)刊行できた。
参照:『ブローデル伝』藤原書店刊
この件については、もっと詳しく述べたい。
703 :
Z :2008/05/25(日) 15:01:09
マリアンネ夫人もノンナチスである。
704 :
名無しさん@社会人 :2008/06/10(火) 08:10:23
705 :
Z :2008/06/13(金) 22:35:34
ナチスの国内政策 〜そんなものは有りはしない。 アウトバーンはヒットラー唯一の功績という人もあるが、そんなバカなことは無い。 あれはドイツ国内行政‘官僚’の功績である。 ヒットラーは、対外侵略とユダヤホロコーストだけである。 ナチスは、国内行政は官僚任せだった。 「一介の伍長」に何が緻密な国内行政が出来るものか。 このような件は、我が国の明治年間の行政についても言えるのではないか? これについては、又。
官僚と、政府の間に関係がほとんどない、ってのは日本にも言えますよね
707 :
Z :2008/06/15(日) 20:58:45
明治維新の、いわゆる勤皇の志士の‘日本の近代化’について、 かれらのパフォーマンスを私は決して否定はしない。 重要なのは‘メンテナンス’である。 幕末の諸外国の来航者〜ペリーにしろハリスにしろその他各国の軍人・外交官 が一様にして褒め称えているのは、幕府の高官=高級武士の思考・行動である。 こんな国を植民地に出来るはずはない〜と思ったのではないか。 ペリーが来るのは、長崎オランダ商館から情報が幕府に早くから入っていた。 明治維新後、幕府や各藩の与力・同心が相当、官僚として維新政府に入っている。 (鹿児島藩では、多くの下級武士が警察官になって、東京に来ている) テレビで見る‘水戸黄門’や‘大岡裁き’の様に、悪代官と商人の結託は 無きにしも非ずだが、幕府・諸藩の行政武士はそんなものでは決してない。 『大坂編年史』(全26巻=大阪中央図書館刊)をみて見ると、与力(同心も含めて) の裁き(江戸時代は三権{行政・立法・司法}同一だった)はスバラシイものである。 250年もの平和時代をもたらした、幕府官僚の優秀性を見逃してはならないと思う。 それが明治維新後のメンテナンスの基盤である。‘勤皇の志士’を誉めるのもよいが、 それだけで日本が、欧米以外で唯一近代化した国家になったのではない。 それと経済(農業経済)である。 これは 又。
708 :
Z :2008/06/15(日) 22:41:10
Mヴェーバーはドイツの官僚をどう観ていたか? それは、かれの‘価値自由’と関係がある。(特に、文部官僚と) 上山安敏氏の『ウェーバーとその社会』に詳しい。 ヴェーバーは、ドイツ官僚を「ダラ官」とは決して観ていなかった。むしろ、 水も漏らさぬ完璧な(プロイセン)官僚行政を実感した。そして、それに 対決したのである。 この官僚は、ビスマルクが育てたと云ってもよいだろう。 これはドイツの伝統である。 1920年代の、社民党や国民党のだらしなさが、ナチス(それにドイツ共産党も) を育てた。社民党や国民党は、ナチスに眠らされたのでなく、自ら眠りこけた。 そして、社民党や国民党はナチスを台頭させた。
709 :
Z :2008/06/16(月) 01:34:50
もしヴェーバーが十年生きていれば、ナチスは生まれなかった…と云われている。 ヴェーバーはヒットラー〜ナチスの本質(張子の虎)を必ず見抜いたであろう。 ヴェーバーの特質は、急所をブスッと突き刺す〜そしてそこからひろげていく、 即ち、そこから一般化して行く。 ヴェーバーがもう10年生きていれば…は、真実だと思う。
710 :
名無しさん@社会人 :2008/06/19(木) 02:01:57
ペリーが来るのはわかってたっていうけど 幕府の優秀なお役人さんは何か手を打ってたっけ?
711 :
Z :2008/06/20(金) 00:18:31
徳川幕府は神奈川条約や下田条約を結んだ。ペリーの後の、ハリスは純粋の 外交官である。彼は幕府に同情的であった。それは幕府高官の思考や行動を 高く評価していたからだろう。 尊皇‘攘夷’派は維新後は、外交に関しては幕府路線を踏襲している。 欧米との不平等条約改定には30年近くかかったが、その主役は伊藤博文などの 幕末に欧米へ留学した官僚である。 とにかく、尊皇攘夷派と欧米との接点を求めるのは難しい。 ペリーが来日して日本の平民が右往左往したのは、江戸時代には護民官 (トリビューン)が我が国には無く、したがって国民の意見を纏める「日刊新聞」も 無かったからだ。読み売り的なものはあったが、それは今の‘週刊誌’みたいに 煽るだけのものである。オピニオンの媒体は無かった。 歴史を観るときは、冷静でなければならない。
出典は?
713 :
Z :2008/06/21(土) 20:35:05
デマゴーグ(人)・デマゴギー(発想) このスレに参加されている方々は、上記のコトバと、いわゆる日本語の‘デマ’ (そんな話しはデマだ!〜)と混同される事は無いだろう。 古典ギリシャの政治家:ペリクレス(BC490〜429)はデマゴーグであるが、 同時代のクレオンはデマゴーグにあたいしない。 そのチガイは責任観念の有無である。 ヴェーバーは『職業としての政治』で、政治家の本質はデマゴギー(煽動) だといっている。但し、責任観念を伴ったそれである。 デマゴギーと 責任観念〜実行可能性 は楯の両面である。 ヒットラーはそれを知らなかった〜それが無かった。だから彼はデマゴーグ に値しない。彼をデマゴギーの天才の如くいうのは間違いである。 ヴェーバーがヒットラーの時世に生きていれば、即座にその欺瞞を見抜いたであろう。 一般のドイツ国民は騙された。その責任の半分はドイツ国民にある。 1960年代、池田勇人は、首相就任と同時に「所得倍増〜10年間に国民所得を2倍する…」 を打ち出した。 これが本当のデマゴギーである。(現実には、名目上3〜4倍になった)
714 :
Z :2008/06/21(土) 20:39:28
↑にも、出展を明記しなければならないのだろうか?
715 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/06/22(日) 16:27:26
ウェーバーの後継者は、Karl Mannheim、続いて、John Friedmannと続いた。 次は日本から出るだろう! 先ず、マンハイムを聞こう。カール・マンハイム曰く: その内面的な意味は別としても、これからさき、動的宗教は社会秩序の中で 次のような三つの重要な機能をもっている。すなわち (1)過渡期の社会を診断すること、 (2)重要な問題に注意を焦点づけること、および (3)社会生活のいろいろのレベルで人間の行為を統合すること。*) *)注。ここでマンハイムの原稿は切れている。 しかしながら、著者は進歩的な宗教のこの統合的機能を精巧化する意図が あったのかどうか、このことについての指示は残されていない?(編者)” (「自由・権力・民主的計画」 未来社版 p.516)
716 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/06/22(日) 16:29:38
続いて、ジョン・フリードマン曰く: 問題提起 NGO(非政府機関)の役割の増大を吟味し、オルタナティブな開発を批判的に検討し、 それらの機関が国家と貧困者の間に立つ官僚組織になったら(実際そうなっているものもある)どうなるかを考察した。 そして外部の機関からの関与を受けない、コミュニティに基礎を置く闘争を肯定的に評価した。*) 貧困、排除、「力の剥奪」は貧困国だけでなく、富める国でも存在することに注意をし、 特に第三世界における経験が富める国に対して示唆している問題を提起した。 すなわち、オルタナティブな開発にはラディカルなプランニングが必要である。*) *)ジョン・フリードマン著、斉藤千宏他訳「市民・政府・NGO」 1995、新評論社版 p.29
717 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/06/22(日) 16:31:52
続いてジョン・フリードマン曰く: 問題解決 MRP(Mediations of Radical Planning)による取組み: オルタナティブな開発にはラディカルな実践が必要であり、 実践は適切な理論によって方向付けられなければならない。 以下に列挙するような構造改革の理論によるバックアップと媒介とがなければ、 ラディカルな実践は定着できないであろう。 *) 1.資本主義社会の構造的問題(人種差別、父権社会、資源枯渇、貧困、疎外など) 2.システムの暗黒面を繰返し再現する現実を批判的に解釈する。 3.対抗し、改革する運動がないとしたら社会がどうなるかの未来予想チャート 4.解放のための実践に基づく望ましい詳細な未来イメージを練り上げる。 5.多くの人が望む未来の実現に対する既得権側からの抵抗を克服する戦略を提案。 *)John Friedmann: Planning in the Public Domain: From Knowledge to Action, 1987, Princeton UP, p.389
718 :
名無しさん@社会人 :2008/06/22(日) 16:55:53
日本から出る後継者って、このスレのZのこと?
719 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/06/22(日) 19:11:50
いや、ウェーバーを超える人でないとね。
720 :
名無しさん@社会人 :2008/06/22(日) 20:04:36
ウェーバー超えなくてもいいから 日本人の中から日本近代化のエートスを説明してくれる人間が出ないものか。 「徳川時代の宗教」ではいまいちだ。
721 :
名無しさん@社会人 :2008/06/24(火) 02:57:44
ラインハルト・ベンディクスによればヴェーバーは学び始めてから 25年目ぐらいからやっと分かり始めるであろうと言われている。
若い人は伝記の決定版などかけないということですね。わかります。
723 :
名無しさん@社会人 :2008/06/24(火) 19:15:06
ヴェーバーはね
724 :
Z :2008/06/27(金) 20:39:32
>>713 池田勇人のデマゴギー=所得倍増論には、御存知と思うが‘下村治’氏の
綿密な「成長理論」が背景としてあった。(デマゴギーの内容として)
ノーベル経済学賞に値するものである。
ヒットラーにはそれが無かった。 彼はしょせん一介の伍長だ。
725 :
アドルフ :2008/06/28(土) 14:06:05
「君はPCの前でのんびり腰掛けてただけじゃないか。 私は前線を知っている。」
726 :
Z :2008/06/28(土) 18:00:35
美術館の守衛はその歴史的宝物を護っているが、その美術品の価値は知らない。
727 :
Z :2008/07/13(日) 22:43:08
7月10〜11日、第15回:東京国際ブックフェアに行ってきました。 羽入辰郎著『学問とは何か』を、2割引で買ってきました。 本文は未だ読んでいませんが、‘はしがき’は読みました。 あいも変わらず…です。 本文を読めば、また書きます。
728 :
Z :2008/07/14(月) 11:39:15
極右と極左が重なっているように、折原浩氏と羽入辰郎氏は全く似ている。 どちらにも加担しないのが良い。現に、ほとんどのヴェーバリアンは 両氏に無関心だ。
730 :
名無しさん@社会人 :2008/07/16(水) 19:18:14
羽入本、相変わらず「女房が・・・」連発だけど、東大山中湖事件のエピソードとか、 なんか鬼気迫る感じだな。169頁の「五人殺して」なんて、言っていいことなのか?
ミネルヴァも行きがかり上だろうけど あんな分厚い駄本を出すとはなあ 序文立ち読みしたけど、ほとんど週刊誌レベルの ゴシップ垂れ流しじゃん
732 :
Z :2008/07/21(月) 13:32:13
>>731 正にその通りです。学術論文だからムヅカシク書け…!
と言っているのではない。折原氏を週刊誌的に罵倒しても意味がない。
それより、己の論説を、変な価値判断を捨てて、素直に主張をすれば
それで良いのに〜
ヴェーバーがウソをついたの、ごまかしたの、と〜。
そんな事は、読者が判断するものだ。
733 :
名無しさん@社会人 :2008/07/21(月) 15:33:58
こんな書き方されたら、もはや学術的な応答は不可能。 それを狙った高等戦術か?というのは考えすぎだろうな。 奥さんと相談するうちに暴走してしまったというのが実際のところだろう。
734 :
Z :2008/07/21(月) 19:49:03
羽入氏はヴェーバーを‘ごまかし’・‘詐欺師’と決め付け、挙句の果てに 「学問の誠実性」(ヴェーバーの言〜『職業としての学問』)を持ち出す。 それを持ち出したのは、ヴェーバーの全業績を葬る心算があるのではないか? 羽入氏の指摘は『プロ倫』にとってどの程度の欠陥になるかは(多分、 タバコで畳を焦がした程度か?)別として、彼の全業績には関係ないだろう。 『マックス・ウェ−バーの哀しみ』(PHP新書)で、母ヘレーネに蝕まれた男と して画いているが、ヴェーバーは宗教について、ゲーテやニーチェと同じく 一神教だけでなく多神教にも興味を持っている。 『Vorbemerkung』(大塚・生松訳:宗教社会学論選)母ヘレーネの影響は微塵 も無い。 それからエルゼとの関係だが、羽入氏は妻マリアンネに秘密にしている…と、 いっているが、どこの世界にそんな事を奥さんにペラペラしゃべる男がいるものか。 しかも羽入氏は、エルゼについて‘オットー・グロース’の件は一切述べていない。 これはオカシイ。 『リヒトフォーヘン姉妹』(みすず書房刊)を読んでいないのか? エルゼや妹フリーダを論ずるとき、O,グロースは不可決であるのに。 (エルゼがヤッフェの妻になったとき、O,グロースの子を孕んでいた ヤッフェはそれを知っていたどうか?〜彼は、御人好しでもあった)
>>731 「あの手堅さに定評のあるミネルヴァが」+「分厚い本を出したのに」→「・・・」
訴訟とかいうヘンテコな結末だけは勘弁。
学会の分野が違うのが論争が続く理由か。
ウェーバー自体が「知的誠実性」とか書いてたりするのが 火に油注いでるのかと
一読した限りは折原のかなり強引なヴェーバー擁護に詳細に反論できていると思われるが。 なんか、記述内容以前の先入観や嫌悪感でレッテル貼って 批判した気になったコメントばかりでがっかり。 まあ所詮2ちゃんですか。
739 :
名無しさん@社会人 :2008/07/23(水) 19:27:57
ヴェーバーとマルクスの階層論の違いについて教えてもらえませんか?
740 :
名無しさん@社会人 :2008/07/24(木) 14:25:35
amazonのレビューもぼちぼち出てきました
741 :
Z :2008/07/25(金) 21:11:29
>>739 マルクスは「階級論」。ヴェーバーには階級‘論’はない。マルクスに対応する
ような階層‘論’はない。
現在では、マルクス主義においても‘階級論’を振り回す学者は、もういない。
最早、階級論は「分析用具」たり得ない。もっとも、階級論を否定はしていないが…。
広松渉を読め。 物象化論!
新古典派経済学でも‘効用理論’を否定はしていないが、分析用具たり得ないのと同じ。
マックス・ヴェーバー研究はもういいから、社会学研究しろよ。
743 :
空しき虚人 :2008/07/28(月) 13:03:50
羽入辰郎氏は自信過剰というか、言葉の強さで内心の弱さを隠しているようだ。冷静に対応すればもっと生産的な結果を生むだろうに。氏にとっては残念なことだと思う。
744 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/07/31(木) 23:08:54
> マックス・ヴェーバー研究はもういいから、社会学研究しろよ。 ご声援、ありがとうございます。 鋭意やっているので、よろしくお願いします。
745 :
名無しさん@社会人 :2008/08/03(日) 11:54:52
>738 昨日淳久堂でちょっと立ち読みしました。 『プロ倫』は学問ではなく評論だと思っていますので、この論争には あまり興味がありませんが、羽入さんの「学問論」はぜひ読みたい。 懐と相談しながらなるべく早く買います。
746 :
名無しさん@社会人 :2008/08/03(日) 12:56:40
その意味じゃヴェーバーはほとんど評論だろ。 ヴェーバーを「学問」の典型とするなど、 ありえないことだ。 論理の飛躍もあるし、孫引きもあるだろう。 しかし、そのヴェーバーの方が「学問」 よりはるかに面白いよ。
747 :
名無しさん@社会人 :2008/08/03(日) 13:22:54
「その意味」が意味不明ですが。 本人も追随者も評論とは思っていないわけで、面白くないです。 @学問のつもりなら、第一章問題の一及び二については、「学問的」 アプローチが必要で、 Aプロ倫で取り上げている問題が学問たり得るには、もちょっと、 手続きが必要だったが、 Bもちょっと手続きを踏むとプロ倫は成立しなかった。 というわけで、プロ倫は方法論がダメですから羽入的検討は無用です。 他に面白い本はいくらでもありますからね。ドット『世界像革命』とか。 何を今さらプロ倫ごときw
ドット?. ああドットかwww なぜカスとゴミを比較するのか理解に苦しむ。 まあお前がカスだからだろうけれども。 もっとまともな革命書を挙げてください(苦笑
749 :
名無しさん@社会人 :2008/08/03(日) 22:05:52
ウェーバーとデュルケームの社会観における対立とは具体的に何でしょうか? 教えてください。
750 :
Z :2008/08/04(月) 21:54:51
羽入氏は、『学問とは何か』(2008刊)ミネルヴァ書房 P395で、 「資本主義の精神」を“貨幣の獲得のみを現世において自己目的に思考する” としている。 ヴェーバーこそが、そんな資本主義精神論に反対だったのである。 これは ヴェーバー入門 のイロハである。 つづいて大塚批判で、「フランクリンの文章にはピューリタニズムやカルヴィニズムが ‘内容的’(羽入氏はこのコトバの意味を意識的に曲解している)には一杯詰まっている…」を 白々しい批判をしている。(p397) 大塚氏は‘誤読’など一切していない。 羽入氏は‘内容的’というコトバの意味を 知らないのだろうか?
751 :
Z :2008/08/04(月) 22:07:13
世間〜巷間で、“しょせんこの世はカネだ!!” と、いかにも現実を真摯に見つめた ような事をいう人に限って、案外オカネを持っていない 〜いつもぴぃぴぃしている場合が多い。
誤読が云々されるのは訓古学に陥ってるからだろうね。
夏休み暇だからウェーバー読んでみたけど意外に面白く、 このスレに辿りつきました。 前スレと本スレ有益なこと多く、ためになりましたです。 とくに前スレ22 >「規律の精神」として読み替えて、国民国家論→ファシズム論に応用しようとする方向 >「鉄の檻」概念の解釈 についてアレコレ考察したら面白そうでした。 あと著作のなかで『理解社会学のカテゴリー』が一番面白かったのですが、 アルフレッド・シュッツ以外で他にお奨め本ないでしょうか?
754 :
名無しさん@社会人 :2008/08/06(水) 07:44:04
浜井修『ウェ−バ−の社会哲学』
把握!サンクス
756 :
Z :2008/08/12(火) 01:15:13
カルヴァン(1509〜1564)の‘予定説’(予定的恩寵論)はルターの福音主義を 基礎に云われたものだが(特に英米に影響)、18世紀後半〜19世紀初頭には、 もうなくなっていた(カントの時代)。否定されたわけではないが…。 ヴェーバーが「資本主義の精神はもう無くなった〜」と言ったのは、上記の時期 のことであろう。 カントはカルヴァンの予定説に組しなかった。 だから‘資本主義の精神’は、カルヴァンが1542年改革運動を指揮した 16世紀半ばから17世紀〜18世紀初期ころまでだろう。 英国に産業革命が起こった18世紀半ばには、現実の資本主義になっていた… と見るべきだろう。
>>756 >カルヴァン(1509〜1564)の‘予定説’(予定的恩寵論)はルターの福音主義を
基礎に云われたものだが
そんな珍説は初めて聞いた。カルヴァン派の予定説はルターとはおよそ無関係。
758 :
Z :2008/08/13(水) 10:07:09
>>757 さん江
マルティン.ルター(1483〜1546)は1517年、「福音主義」を掲げて
ヴァチカンに反旗を翻した。 カルヴァンもそれに賛同し、
福音主義+予定的恩寵論を掲げたのです。
予定的恩寵論はルターの福音主義を基にしたものと、いわれています。
ルターの思想を、ヨリ発展させたと言うべきでしょうか。
カルヴァンはルターの福音主義を 無視 したのではありません。
これはプロテスタント宗教史の常識です。
759 :
Z :2008/08/13(水) 10:14:54
↑ ルーテル教会にとってはカルヴァンの「予定説」は無関係でしょうが、 カルヴァン派にとって、「福音主義」は無関係ではありません。
>>758 予定的恩寵論ならカトリックにすら元々あるもので、カルヴァン「派」の予定説は「二重予定説」でカトリックともルター派とも違う。
カルヴァン派と福音主義は確かに無関係ではないが、福音主義から二重予定説は直接派生しない。
761 :
名無しさん@社会人 :2008/08/17(日) 09:16:22
Z出てこいよ
762 :
Z :2008/08/17(日) 22:08:02
↑出てきました。 プロテスタントは、その根幹はやはりルターです。福音主義です。 ルターは最後はカソリックの強権に屈したのです。 (死の直前、強権によってルターは放棄させられた) しかしルターの死後、ルター派を初め雨後の筍の如く、 カソリックに‘プロテスト’する教派が出てきた。 それらは、ルターの福音主義を基本としながら、敬虔主義とか、再洗礼とか、 色々でてきた。その一つがカルヴァンであり、カルヴァン派は‘予定説’を掲げた。 問題は、ルターの福音主義@とそれぞれの特徴Aとの関係です。 だから、@とAとは決して無関係では無い。
>>762 あまりに恥ずかしい事を書き散らすのは止めたらどうですか。
カルヴァンはたまたまルターと同時期にプロテスタントの論客として登場するけど、相当なレベルの神学者であるカルヴァンと田舎の修道僧であるルターではかなりレベルに差があり、カルヴァンがルターの影響を受けているなどと言う人はまずいない。
ルターの聖書重視についても、ルターは四福音書とか、ローマ書などは重視するが、二重予定説につながるようなヨハネ黙示録は毛嫌いして、自分の翻訳の中ではページ番号をわざと振っていない。
この点で、ルターの聖書重視主義は、たとえば現代のエホバの証人なんかの聖書無謬主義とはまったく違う。
カルヴァンが「キリスト教綱要」を最初に刊行したのが1536年で、ルターが死ぬ1546年のはるか前。
ともかくZ氏がプロテスタントについてはまったく理解していないのに、知ったかぶりを書き散らしていることはよく理解しました。
まったくこんなのがいるから羽入レベルの似非研究者が跳梁跋扈するんでしょう。
>>762 いい加減に適当な珍説を書き散らすのは止めたらどうですか。
>ルターは最後はカソリックの強権に屈したのです。
何をアホなことを書いているのか。ルターは農民戦争で農民側を裏切るようなことをしたが、カトリックに屈したなどという事実はまったくない。
また、カルヴァンは錚々たる神学者であり、田舎の修道僧であったルターの影響などほとんど受けていない。
また、ルターの聖書重視主義といっても、たとえばヨハネ黙示録などは、毛嫌いしており、現代のエホバの証人なんかの聖書無謬主義とはまったく違う。
こんな人がいるから、羽入のような似非学者が跳梁跋扈するんだろ。
765 :
Z :2008/08/18(月) 01:43:10
>>763 >>764 重箱の隅をほじくるような些細な事を並べてとやかく言うのは、まさに
羽入式です。ルターと予定説を並べたって、ルターはいかなる予定説にも関係ありません。
カルヴァンが進学者として、エリートであることは皆知っています。
ルターがカソリックの強権に屈したのは、あたかもガリレオ・ガリレイが
地動説を強権によって破棄させられたのに似ています。
勿論、ルターがローマ教皇によって思考を破棄させられたのは事実です。
‘それでも地球は廻る…’と同じです。
重要なのは、それでもプロテストが沈静するどこか益々火の手が各地で上がったことです。
>763〜4こそ、羽入式揚げ足取りでしょう。
>>765 >ルターと予定説を並べたって、ルターはいかなる予定説にも関係ありません。
>カルヴァン(1509〜1564)の‘予定説’(予定的恩寵論)はルターの福音主義を
基礎に云われたものだが
って書いたのはお前だろ。
>ルターがローマ教皇によって思考を破棄させられたのは事実です。
ってそこまで言うならちゃんと論拠を示せよ。
まったく自分が不利になると、「揚げ足取り」とか誹謗中傷に走るのは羽入そのもの。
767 :
Z :2008/08/19(火) 23:07:11
ルターが強権によって思想が破棄された件。 私は十数年そう思っていた。岩波『哲学・思想事典』や新教の本を調べたところ、 そのような件は載っていなかった。私は何かで、それを読んだ気がする。 ボクの勘違いか!! したがって、 それは取り消します。 御迷惑を、このスレの皆様にお掛けした点は、申し訳なく思います。スマン。 もう一度、調べてみます。
>>767 ちゃんと誤りを認めるだけ、羽入よりマシ。
そこは評価する。
ルターはフスの二の舞になる可能性があったが、実際には諸侯に支持されることになったのは当時の政治状況の結果だろ。 ローマ教会と手切れをしたい諸侯としては絶好の機会をルターが作ってくれた。 ルターがそう読んだわけじゃないだろうが。
フスは火あぶりになったけど、自分の思想は最後まで放棄していない。 ルターは、現世秩序重視で反乱農民殺しを指示して、ルターを支持した農民を裏切ったけど、反カトリックは最後まで変えていない。
771 :
中葉 ◆22bKXenR5Q :2008/08/23(土) 22:57:49
772 :
Z :2008/08/27(水) 18:36:51
日本のマルクス経済学が振るわなくなったのは、ベルリンの壁が崩壊したから だけではない。結局日本の 〇経 は、解釈学だった。それも大切な事ではあるが…。 チョット新しい事をいうと、ヤレ修正資本主義だの、ヤレ流通主義的偏向だの…と、 言って新芽を刈り取ってしまう。 ヴェーバー学も、解釈学から脱却しなければ…。 今野元『M.ヴェーバー』・野口雅弘『闘争と文化』では、ヴェーバーを 西欧派(Ocidenntal)ドイツナショナリストと観たり、自由主義的帝国主義者と観ている。 ただ、我が国では、「帝国主義」というと、レーニンのそれしか知らない。 レーニンの『帝国主義論』は一つの観方でしかない。(多くの帝国主義がある) 古代ローマ‘帝国’が残した最大の遺産はヒューマニズム(仁)を基にした 「ローマ法」である。 帝国主義を、ヴェーバーの立場から展開すれば、どのようなカタチになるだろうか?
>>772 もっとわかりやすく書けばいいのに。
「ヴェーバー学とは、ヴェーバーの真意をつかみ取る努力に過ぎないものであり、科学とは別物だ」とか。
それになあ…
> 帝国主義を、ヴェーバーの立場から展開すれば、どのようなカタチになるだろうか?
そんなこと考えたって解釈学以外のものにはならんだろうが。
いったい何がしたいのか。
774 :
X :2008/08/28(木) 20:51:58
和製マキシーにケチつけるんじゃねえ!
775 :
Z :2008/08/29(金) 13:11:05
蝸牛角上の争い。(荘子) ミネルヴァ書房から羽入氏の本が出版され、今またナカニシヤ出版から 橋本・矢野編『日本マックス・ウェーバー論争』が、今月出ました。
>>773 何がしたいかって・・・パート1から見てればわかるだろ。
マルクス主義経済学とレーニンの復興にきまってるだろ!
日本のアカデミズムの昔から現在まで変わらない伝統だよ。
呼び方こそころころ変われどね。
777 :
Z :2008/08/29(金) 21:44:45
マルクス主義経済学とレーニンの復興。 今どき、中国(中華人民共和国)でもそんな事いわない。 中国は優秀な若者をハーバード・スタンフォード・オックスブリッジへ 送り込んでいるのは、〇経を勉強させるためではない。 中国はマルクス経済学者を一ヶ所に集めてインスティテュート するらしい。 〜姨捨 !!
778 :
Z :2008/08/29(金) 21:50:05
そのうち、中国でもヴェーバー ルネッサンスが起こるかも知れない。
>>775 ろくに世界史の知識もないような奴が偉そうなこと言うんじゃねえ!
780 :
Z :2008/08/31(日) 10:07:25
封建制度とM.ヴェーバー
ヴェーバーは封建制度を「Lehen」と「Pfründe」の二つに分けている。
(詳細は、青山秀夫『M.Wの社会理論』参照)
M.ブロック『封建社会』みすず書房・岩波書店では、封建制度を
ヨーロッパ(Occident)と日本だけしか載せていない。
今から30年前、山之上靖氏が、‘ヴェーバーvsマルクス’から
‘ヴェーバーvsニーチェ’に重点を移した(ミッツマン『鉄の檻』による)。
それは、封建制度の再構成〜再認識ではなかったか。
経済史においては、封建制度が重要。
http://hisao-hidaka.hp.infoseek.co.jp/newpage11.htm
781 :
Z :2008/08/31(日) 11:37:41
>>780 >ヴェーバーは封建制度を「Lehen」と「Pfründe」の二つに分けている。
Lehenは日本で言えば知行制のような「封建制度」、これに対してPfruendeは「現物供与」「役得供与」のような報酬のことで、この2つは対概念。
ヴェーバーは、Pfruendeで土地を与える場合に、Lehenにもっとも近づくと書いているだけ。
いつものことだが、なんでこいつはこんないい加減なことばかり書き殴るのか…
783 :
Z :2008/09/01(月) 19:33:34
↑ 御指摘 有難うございました。 これからもヨロシク。
784 :
Z :2008/09/02(火) 13:21:00
>>782 「Pfründe」で土地を与える場合に、Lehenにもっとも近づく…
と、いう意味で日本の封建制度はLehenと言うよりも、Pfründeに近い。
要するに、封建制的叙任の内容である。マルク.ブロック『封建社会』を
もう一度調べてみる。
785 :
Z :2008/09/02(火) 17:12:19
社会学に、法学、経済学の「契約の理論」・「ゲームの理論」を導入しては? 例えば、マルクスの‘価値法則’“10ヤールのリンネル=1/2の上着”が、 契約理論・ゲーム理論で解明出来るように。 ‘囚人のジレンマ’は、社会学にピッタリだと思う。 ゲーム理論は経済学の新古典派や新制度学派(例えば青木昌彦) だけのものではない。 ヴェーバーの「理念型」はゲーム理論に近いのでは…? 『プロ倫』もゲーム理論としてみれば、羽入氏のような批判から免れるのでは?
786 :
Z :2008/09/02(火) 17:16:07
↑シュッツがヴェーバー理論を現象学で再構築したように。
な・・・なんか・・・すげーな・・・ このスレ・・・
788 :
Z :2008/09/02(火) 22:12:25
学問のセクショナリズムという“Iron Cage”に閉じこもっている、 いわゆる学者先生から見れば、↑ はバカバカしい事だが… 誤謬を恐れるな!!
>>785 ゲーム理論の社会学への適用など、動物行動学などでかなり昔から行われている。
私見では「遺伝子の戦略」とか言い出してから生物学はおかしくなったんだが。
御本家の経済学でも、最近はゲーム理論みたいな単純なモデル化には限界が出てきて、むしろヴェーバー的理解社会経済学といったものに向きつつあるように思うが。
>>785 ゲーム理論の社会学への適用は動物行動学などで既に行われている。
私見では生物学は「遺伝子の戦略」とか言い出しておかしくなったように思うが。
ご本家の経済学でも最近はゲーム理論みたいな単純なモデル化には限界が出て、
むしろヴェーバー的理解社会経済学といったものに向きつつあるように思う。
>>785 社会学へのゲーム理論の導入など、動物行動学などで既にある。
私見では、「遺伝子の戦略」とか言い出してから生物学は変な方向に行きだしたんだが。
経済学でも、最近はゲーム理論のような単純なモデル化は限界に来ている筈。
むしろヴェーバーの理解社会学的アプローチの方が最先端かも。
スマソ。サーバーの反応が遅くて重複カキコになってしまった…
793 :
Z :2008/09/03(水) 08:03:17
↑確かにそうだ。「囚人のジレンマ」だけがゲームの理論ではないが…。 青木氏は、比較制度分析(Comparative Innstitutional Analysis) を主にして、ゲーム理論をそれに沿わしている。
794 :
Z :2008/09/05(金) 15:10:19
欧米の学者は「解釈学」をし、それを基に「再構成」を論文として発表する。 我が国では、解釈学それ自身が「学術論文」となる。 何かにつけてそうだ。 だから、ノーベル経済学賞が貰えない。
別に経済学みたいな「疑似科学」のノーベル賞なんかもらえなくてもいいと思うが… 「経済政策学」化しているから、経済政治大国の学者じゃないと、ほとんどもらえないだけだと思うが。
先人の業績を「再構成した」とか「乗り越えた」とか言って、 その実その先人よりも低いレベルに戻る、ということを繰り返した来たのが 今の社会学なんじゃないですか。 はっきりいって、最近の「××社会学」と言う名の社会評論もどきより、 ヴェーバー、ジンメル、デュルケームと言った黎明期の巨人の著作を読む方が はるかに知的刺激に富んでいる。
797 :
Z :2008/09/05(金) 23:51:09
最近、有斐閣から出た『社会学』(A5版・600頁・¥3,675-)では、 社会学者として最初に、ヴェーバー・デュルケム・ジンメル の3人を挙げている。 長谷川公一・浜日出夫・藤村正之・町村敬志 四人の共著 本屋でチョット立ち読みしたが、なかなか良く出来ている。
798 :
Z :2008/09/08(月) 08:06:40
自民党の総裁選が近づいてきました。 ここで、ヴェーバーの政治理論(あらゆる)を基にして考えてみよう。
自民党総裁選、どの顔も、首相にふさわしいとはとても思えない。 本人たちも本当に自分が首相としてふさわしいと思っているのだろうか? また、1年も持たなかったりして…
800 :
Z :2008/09/08(月) 18:59:36
民主党の小沢一郎氏はどうか? 彼には、騎士道精神がない。
801 :
Z :2008/09/08(月) 19:10:29
小池女史には、残念ながらヒラリー・クリントンほどのパワーが無い。 ‘女 小泉(純一郎)’になって欲しいんだが…。
小泉劇場を真に受けてるなんて高校生か? そのレベルで政治理論なんかを考えても無意味と思うが。
50年とは言わないが、せめて20年先の世界を考えて政策を立てる人でないと…、 1年しか持たない首相ではどうにもならないではないか。
804 :
Z :2008/09/09(火) 00:26:48
戦後、日本の宰相としては、先ず吉田茂・池田勇人・佐藤栄作だろう。 それに続いては小泉である。田中角栄も入るか? 人物としては大平や福田赳夫も〜。しかし、政治家としてはどうか? ヴェーバーは、政治家はデマゴーグ(責任観念を伴った)と言っている。 今回の立候補者にはデマゴーグがいない。勿論、民主党にもいない。
805 :
Z :2008/09/19(金) 13:45:08
最近のサブプライムによる世界金融騒動(恐慌ではない)と、三笠フーズの‘不良コメ’ の撒き散らしとは、「構造主義」的に似ているのでは? 経済社会学か、社会経済学で分析すればどうなるか? ヴェーバーの解釈学だけでは解決しないだろう。
806 :
Z :2008/09/19(金) 13:48:12
多分、そんな問題はこのスレでは関係ない! という方のいらっしゃる だろうが…。
「構造主義」的か何かはしらんがw その通り同じマッチポンプだよ。 米政府が自分で作って自分で騒ぎ立てるサブプライム。 日本政府が自分で作って自分で騒ぎ立てる食品偽装問題。
808 :
Z :2008/09/19(金) 22:19:30
『列子』に‘朝三暮四'・‘朝四暮三'がある。猿にトチの実を、朝3つ夕方に四つ やったら、猿が怒った。それで、朝4つ夕方三つ やったら、猿は喜んだ… サブプライムの利子は、最初は低く、後になるほど高くなっている。 日本では、住宅金利は最初は高く、徐々に下がっていく。これが通常だ。 アメリカの低所得の住宅購入者は、『列子』の猿のようだ。 又そんな目先だけの良い「融資」を売り出したのが間違い。売らんかなの卑屈な手法だ。 そしてこの融資を商品化〜デリバティーブとして売った。買った金融機関は、それを含めた 金融商品を、また売った。これの繰り返し。 一方、三笠フーズは‘汚染米'を‘純米’として売り、買ったところは又それを売り (中にはそれと知りながら売買して)… 色んな食品メーカーに売った。そして色んな汚染食品が市場に出回った。 一方は金融恐慌を生み、他方は食品恐慌を生んだ。 アメリカの金融行政の失策。 一方、農水省の検査のズサンさ(バカ官僚)。
こういう低レベルな社会評論もどきを学問とは言わないと思うが… 結果だけ見て後からもっともらしい説明を付けるのは誰でもできる。 必要ななのは、むしろ未来を予見することで、 ヴェーバーは比較歴史・比較文明の膨大な研究を通じてそれをするための道具を 整備しようとしていた。 それは残念ながらというか、当然のことながら途中までしか出来ていないが、 その志を継ぐものを「ヴェーバー解釈学」とかいう単純なレッテル貼りで 批判したつもりになっている連中が多いのは嘆かわしい限り。(Z氏を含む。)
810 :
Z :2008/09/20(土) 18:26:04
卵のそこをコツンと凹まして立てるのは、確かに誰でも出来る。 「未来を予見する事」 → そこには、どうしても価値判断が入り込む。 その良き(本当に〜良き)見本がマルクスである。
↑マルクス系の社会科学者が価値判断を学問に持ち込んだのを批判しているのが ヴェーバーであることは常識だが… 相も変わらず、焦点のぼけたおっさんであることよ。
812 :
Z :2008/09/20(土) 21:59:11
マルクスの『資本論(第一巻)』には、巧妙に価値判断が隠されている。 それは階級理論〜プロレタリア独裁である。 未来社のPR雑誌:「未来」の今年9月号に、小林康夫氏がマル経学者:ポストーンによる 『資本論』の再構成を論評している。
813 :
Z :2008/09/20(土) 22:38:12
>>811 さん江。ヴェーバーであることは常識だが…
常識というのなら、未だこのスレでヴェーバーのマルクス批判を展開した方は
いません。
常識だが… で済ますのでなく、貴君が展開してみませんか?
最近このスレで、どうもこんな発言が増えています。
おちょくりが多いです。自分のオピニオンは言わずに…
>>813 あんたはわざわざ常識を解説してもらわないとわからないのですか?
おちょくられるような低レベルな発言を続けるのには付き合いたくないです。
815 :
Z :2008/09/21(日) 10:06:40
たとえ低レベルでも、無心に書くべきです。 付き合いたくなければのこのこと、ここに出て来なくていいです。
816 :
Z :2008/09/21(日) 10:17:06
Mヴェーバーの現象学的再構成はシュッツがしていますが、マルクス系で
フッサーリアンも以前から多くいます。マルクーゼとか、メルロ=ポンティなど。
>>812 のポストーン氏もその一人だと思います。
現象と本質を分離しない。現象そのものを本質として分析する…
広松渉氏もその傾向があるようだ。彼は哲学者だからフッサールは知っているはずだ。
>>815 >付き合いたくなければのこのこと、ここに出て来なくていいです。
あんたこそ、こんなところで能書きたれていないで、自分の仕事しろ。
>>816 「本質とは何か」といったプラトン的な思考を「棚上げ」するのが現象学であり、
批判にもコメントにもなっていない。
819 :
名無しさん@社会人 :2008/09/21(日) 18:46:29
zさんに質問しても無駄ですよ。 質問と答えが一致していない。 ここに存在するのは、本の孫引きと 読解力の欠如からくる、zさんの愚劣極まりない 考え、というか何ら論理的ではない感情的な 妄想があるだけです。
820 :
Z :2008/09/21(日) 19:05:54
Mヴェーバー『ヒンドゥー教と仏教』深沢宏訳:日貿出版社 を読もうとおもって索引を調べたら、ジプシーやロマはなかった。 当然といえば当然だが…。残念。 フンドゥー教や仏教については、このスレではあまり論じられていない。
821 :
名無しさん@社会人 :2008/09/21(日) 19:24:54
あの〜なんと言いますか、2chで学術的な論議を期待するほうがどうかと思うんですけど
822 :
名無しさん@社会人 :2008/09/21(日) 21:39:40
田村正勝
823 :
Z :2008/09/21(日) 21:53:15
Mヴェーバーと本居宣長 価値判断(価値自由)について 誰も言わない vs ですが。 価値判断(価値自由)については皆さんもヨク御存知と思います。 本居宣長は‘学問(Science)に秘伝なし’といいます。 一方、彼は医者でした。それは彼の亡くなるまで続いていました。 医者だから、頭痛の薬や、腹痛・下痢などの薬を作っています。 それらの薬は「自家秘伝の薬」だといっています。 彼はScienceにおいては‘秘伝なし’と言い、Technology(技術)では ‘秘伝’といいます。 ScienceとTechnologyをきちんと分けています。 江戸時代には特許制度はありません。 本居宣長は日本のMヴェーバーか? 彼は最後に『ういまなぶみ』を書いています。 そこでは 「学者(Scientist)は価値判断をしてはいけない〜という意味のことを書いています」。
824 :
Z :2008/09/21(日) 22:05:23
本居宣長の『うい山ふみ』は、Mヴェーバーの『職業としての学問』に匹敵します。
一度、お読みください。(岩波文庫[黄]にあり)
>>823 『うい山ふみ』が正しい。失礼
825 :
名無しさん@社会人 :2008/09/22(月) 09:05:28
zさん 価値判断について教えてください。
826 :
Z :2008/09/22(月) 16:48:18
マキャヴェリ『君主論』 vs Mヴェーバー『職業としての政治』 ヴェーバーの『〜政治』を読まれたら、『君主論』を是非読まれんことを!! 詳しくは改めて。
827 :
Z :2008/09/22(月) 21:29:51
『君主論』を読み始めて、アレッ〜これ『職業としての政治』の真似し じゃないか!!? と一瞬そう思った。
828 :
名無しさん@社会人 :2008/09/22(月) 22:39:40
年代的に逆でしょう。
829 :
名無しさん@社会人 :2008/09/22(月) 22:44:16
>>823 価値判断=自分本位に考えていい、ということですよね。
それなら本居宣長を出すまでもなく、
そもそも誰でもやってますよ。学者如何問わず。
830 :
Z :2008/09/22(月) 22:59:49
マキャヴェッリというと @目的のためには手段を選ばず といわれていますが、彼はそうはいっていない。 A結果が良ければ、手段は常に正当化される とはいっていますが… @とAはニュアンスが微妙に違う。@はスタート Aはゴール。 目的は当然、 国家〜人民=公共の利益 公共善(Mヴェーバー)です。
831 :
Z :2008/09/22(月) 23:00:27
マキャヴェッリというと @目的のためには手段を選ばず といわれていますが、彼はそうはいっていない。 A結果が良ければ、手段は常に正当化される とはいっていますが… @とAはニュアンスが微妙に違う。@はスタート Aはゴール。 目的は当然、 国家〜人民=公共の利益 公共善(Mヴェーバー)です。
832 :
名無しさん@社会人 :2008/09/22(月) 23:29:24
では、マキャヴェッリはスタートに関してはどういうスタンスなんですか?
833 :
Z :2008/09/23(火) 01:55:15
↑とにかく『君主論』中公文庫・岩波文庫を読むこと。これしかない。 塩野七生『わが友マキアヴェッリ』中央公論(新)社もある。大著ですが…
834 :
名無しさん@社会人 :2008/09/23(火) 02:01:30
zさんは読んだのですか? でも、たとえ読んだとしても人に説明できないなら、全く身に付いていないんですね。無意味。
835 :
Z :2008/09/23(火) 09:21:17
マキャヴェッリは何事も国家と人民の眼差しで見ている。彼の出自は決して 高貴な家柄ではありません。高等教育(例えばボローニャ大学)を受けていない。 でも、外交使節として仏をはじめ色んな国を訪れています。それが彼の基盤です。 15〜16世紀はルネッサンスです。ダ・ヴィンチやミケランジェロと同世代です。 ルネッサンスの多くの担い手は、高僧(カソリック)や大学出ではなかった。
836 :
Z :2008/09/23(火) 09:24:56
彼はルネッサンス期の、偉大なる異端児であった。
837 :
名無しさん@社会人 :2008/09/23(火) 09:33:01
結局、何が言いたいのですか? 結論は最初と最後にきちんと書いてください。 もちろん、論理的に整合された文章で。
838 :
名無しさん@社会人 :2008/09/23(火) 09:34:40
訂正です。 結論ではなく、zさんの言いたいこと、ですね。 すみません。
839 :
Z :2008/09/23(火) 11:23:38
ヴェーバリアンはマキャヴェリから何を引き出すか?又、何を捨てるか? 人それぞれ違うでしょう。 ヴェーバーを「オクチデンタルなドイツ・ナショナリスト」と規定したり、 あるいは「自由主義的帝国主義者」としたりする、その内面にはマキャヴェリ を念頭に置いているように思う。 マキャヴェリの発言は全てシビアです。しかし、その背後には公共の利益= 公共善 ‘国家’と‘人民’のため〜という、現代風に言えばヒューマニズム が確かにある。 〜と、私は思います。マキャヴェリの思想は、21世紀になっても、 価値があると思います。 ただ、彼の思想は論理整合性ではあるが学問上体系的ではない。 だから塩野七生女史が情念をもって取り上げている。 やはり彼は実務家であった。
840 :
Z :2008/09/23(火) 11:33:10
マキャヴェリ曰く“天国へ行く最も確かな方法は、 地獄へ行く道を熟知する事である…” などは、Science(カント的な)ではない。かといって宗教でもない。
841 :
名無しさん@社会人 :2008/09/23(火) 13:05:08
zさんは本に書かれていることの断片を つぎはぎに貼り付けるだけですね。 少しは自分の頭で、論理を以って、 考えたらいいのに。
>>841 あなた、いい加減にしてくださいよ。
ここは学会でも研究室でもないんですよ。
Zさんを貶していじめて何が面白いんですか?
843 :
名無しさん@社会人 :2008/09/23(火) 14:07:08
>>842 zさんを貶めている気はさらさらありません。
ただ、ここは匿名掲示板。
スレを見て自由に質問・感想を書いているだけです。
844 :
Z :2008/09/23(火) 14:32:07
>>873 ・
>>843 さん江
人には「論理的に整合された文章で〜」とか「自分の頭で、論理を以って、
考える〜」とかを要求されて、
己は 「スレを見て自由に質問・感想を書いているだけ〜」とは。
これでマキャヴェリについては、一旦終わります。 何か質問があれば〜どうぞ。
また、なにか新しいのを考えます。
>>843 あなたは自由に意見を述べているというより、
自分の意見を他人に押し付けてるだけですよ。
見ていて、至極不愉快になる。
846 :
名無しさん@社会人 :2008/09/23(火) 15:14:12
>845
意見など言っておりません。
感想と書いているでしょう。
押し付けもしておりません。
読み手にわかりやすい文章を
書くことは学者だけでなく、広く大人の常識です。
845さんとzさんは学生でしょうか?
845さんはわかりませんが、zさんはそうかもしれませんね。
文献が邦語ばかりですから。
>>844 =zさんへ
>人には「論理的に整合された文章で〜」とか「自分の頭で、論理を以って、
考える〜」とかを要求されて、
己は 「スレを見て自由に質問・感想を書いているだけ〜」とは。
鈍いですね。
あなたと同じことをしているだけですよ。
あなたも自分の愚劣きわまる妄想と本の孫引きで
自由に書いているだけでしょう。
あと、あなたは私が要求しても全く論理的に書いていないですね。
というよりも、むしろ書けない、といった方が正しいですね。
大学受験の現代文の勉強をされることをお勧めします。
今は良い参考書がありますよ。
最後に、私は最近になって書き始めたわけではございません。
何回もzさんとvsしています。757とか640とか。
文体を変えたらわからないからな。
>>846 そうおっしゃるあなたは大学教員なんでしょうか?
匿名掲示板とはいえ、そこまで口汚く他人を罵倒するなんて、
さぞかし、大学では敬遠されている事でしょうね。
848 :
名無しさん@社会人 :2008/09/23(火) 16:46:31
>>846 そこまでおっしゃるのであれば、
論理を以って考え、
論理的に整合され、かつ読み手にわかりやすい文章を
まず、あなたご自身が御手本として示されてはいかがですか?
そうでなければ、Z氏も納得がいかないでしょうから。
849 :
Z :2008/09/23(火) 18:45:36
>>848 さんに賛成!
貴殿が書かれた、サンプルのナンバーを教えてください。
>>846 は自己の価値観を絶対視するあまり、Z氏のような在野の人に対する配慮が完全に欠落している。
これは、つまりは人間性の問題。
おそらく、今までアカデミックな研鑽は積まれてきたのであろうがね。
851 :
Z :2008/09/23(火) 19:27:46
>>846 さんは「アカデミックな研鑽」はされていないと思う。
もしされていれば、上記の一連のような発言はされないだろう。
852 :
Z :2008/09/23(火) 19:30:39
そこで次はI.カント vs Mヴェーバー。
>そこで次はI.カント vs Mヴェーバー 以前も書きましたが、「ヴェーバー Vs 何とか」というのはもううんざりです。 無理矢理ネタを作らなくてもいいです。 Z氏の書き込みでインスパイアされることは皆無です。
>>853 あなたは他人に「インスパイア」されたいから、2chに来てるんですか?
だったら、お門違いというものではないでしょうか?
それに、他人に一方的に要求はされるが、その御自分は他人の要求にはお応えする気がおありにならないときてる。
非常に自分勝手な御性格の持ち主のようですね。
それでないとおっしゃるならば、早く「論理を以って考え、 論理的に整合され、かつ読み手にわかりやすい文章」の
御手本をZ氏にお示しなさいよ。
>>854 正論馬鹿、いい加減ウザイから消えてください。
オレは「論理を以って考え、 論理的に整合され、かつ読み手にわかりやすい文章」
など要求していない。そんなことがZ氏にできるとは最初から思っていない。
>>855 それならば、はじめから書き込まなければいいだけの話ではないですか。
それから、この流れからすれば、消えるべきなのはあなたのほうではないでしょうか?
857 :
Z :2008/09/24(水) 11:13:23
>>853 ・855 さんの発言は、非常に‘羽入辰郎’氏に似ている。
相手のスキを見つけたらスグ
「論理を以って考え、 論理的に整合され、かつ読み手にわかりやすい文章」
を要求される。
人に要求する以上、「先ず、隗(カイ)より始めよ」です。
それに、もっと おコトバを慎みなさい。ゼントルマンとは決して思えない。
理性・悟性・感性(〜カント)が無い。
正論を嫌うとは、さすが2chw
859 :
Z :2008/09/29(月) 20:02:15
昨日、クリスタ.クリューガー著 『マックス・ウェーバーと妻マリアンネ』徳永洵 訳 B5版・P322 を買ってきました。 各々の章のタイトルがユニークです。 序章:「私は婚約したつもりでいるんですが」 〜 終章:「偶像や神像の瓦礫の山」
860 :
名無しさん@社会人 :2008/10/01(水) 05:13:46
11 三郎 2008/02/19(Tue) 00:00 ウェーバー研究がたいへんなことになっている。 私はこれまでの自分のウェーバー理解を根本的に再検討する必要があることに 今更ながらに気が付いた。 12 名無しさん 2008/05/18(Sun) 19:17 >11 何かあったんですか? 13 名無しさん 2008/05/30(Fri) 17:07 @まあ、要するに、『理解社会学のカテゴリー』が重要であること。 『支配の社会学』の冒頭で「ゲマンインシャフト行為」概念が出てくる。 ここで多くの読者がつまずく。訳注を見てもわからん。 しかし、『理解社会学のカテゴリー』の冒頭の概念内容を押さえれば わかるということ。これになかなか気付かなかった、 いまでも気づかない人が多数いるわけだ。 「ゲゼルシャフト行為」も「ゲマインシャフト行為」の一種なんて 私にはわからんかった。正しく『理解社会学のカテゴリー』を読めばわかる。 ただし、岩波文庫版(林道義訳)はダメ。 ウェーバーの著作で『社会学の基礎概念』(角川文庫)は、内容的に、『理解社会学のカテゴリー』と 違うんですね。前者の「社会的行為」が後者の「ゲマインシャフト行為」と同義なんです。 以上、折原浩の新著に出ています。 ウェーバーのいう「ゲマインシャフト」や「ゲゼルシャフト」をテンニース的に 理解してはならない。これをしている人はいつまで経ってもウェーバーがわからない。 要するに、『支配の社会学』は、『理解社会学のカテゴリー』の概念構成で読まねばならない。 それから同じく、『理解社会学のカテゴリー』における「諒解」概念の重要性の 発見。正当性も「諒解」との関わりで初めて理解できるということ、 これらについて私はつい最近まで知らなかった。 松井克浩の『ヴェーバー社会理論のダイナミクス』がこの点を明らかにしている。 あわせて、大塚久雄流のウェーバ解釈の誤り、「鉄の檻」論が好んで引用されるような ウェーバー論への批判も含んでる。
861 :
Z :2008/10/01(水) 07:37:37
↑のスレを読んだが、 客観的に見てzさんには何らの非難もない。 zさんには、これらのことは一切気にせず、 その溢れる知識を披露してくれることを望む。
862 :
Z :2008/10/01(水) 12:22:35
>>861 上記の「Z」は、私=Z(一連のZ) ではありません。 念のため。
863 :
Z :2008/10/02(木) 20:49:09
>>862 上記の「Z」は、私=Z(一連のZ) ではありません。 念のため。
864 :
Z :2008/10/04(土) 02:28:26
ワロタw
865 :
Z :2008/10/04(土) 10:16:09
『マックス・ウェーバーとマリアンネ〜結婚の光と影』 を読んだ。 筆者は社会学者でなく、女性の作家・翻訳家である。マックスとマリアンネの伝記。 マリアンネの伝記は珍しい。執筆者の‘思い込み’は全くない。 ヴェーバーの理論の勉強にはならないが、マリアンネのモノの見方・考え方の解説にはなる。 19〜20世紀の激動に翻弄され、そしてそれを乗り越えていく夫婦の物語である。 各章のタイトルが変わっている。 でも、奇を衒う内容でないのが良い。 通り一篇の編年史風でなく、急所々々は詳しく書かれている。 訳者:徳永洵の解説は必読。
866 :
名無しさん@社会人 :2008/10/04(土) 23:17:17
プロテスタントのマドンナ、ことマリアンネとヴェーバーの間に、 性交渉が一度もなかったというのは本当なんですかね。 もしそれが事実で、またそれがマリアンネの何かの欠陥?によるものならば、 ウェーバーが若くて美人の教え子エルゼ・ヤッフェと不倫したのは無理もないと思うんだけど。 ピューリタンの羽入センセはそれが「許し難い」と、昔の少女漫画の登場人物みたいなことを 言うんですが。
867 :
Z :2008/10/05(日) 11:10:51
↑ クリューガー著『マックス・ウェーバーと妻マリアンネ〜結婚生活の光と影』 には、性交渉が一度もなかったなどとは一言も書かれていません。
868 :
名無しさん@社会人 :2008/10/05(日) 22:47:24
↑ A・ミッツマン『鉄の檻 マックス・ウェーバー 一つの人間劇』 に出ているらしい。もっとも羽入のトンデモ本にそう書いてあるだけで、 原本は見てないけど。
869 :
Z :2008/10/05(日) 22:58:55
↑かしかにミッツマンはそう書いている。但し、わずか半行ほど。勿論、はっきりは 書いていない。頼りない書き方だ。
870 :
Z :2008/10/05(日) 23:04:16
ミッツマンも書く以上、その根拠を明示すべきだった。
871 :
名無しさん@社会人 :2008/10/06(月) 07:27:04
↑ 根拠って、本人に聞け、とでも言うんですか…
悪魔の証明か…
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神も 世界では、あまり相手にされてないって聞いた
874 :
名無しさん@社会人 :2008/10/08(水) 13:35:53
↑ 相手にされてないと書く以上、その根拠を明示すべきだった。
875 :
名無しさん@社会人 :2008/10/09(木) 02:50:55
↑ 根拠って、本人に聞け、とでも言うんですか…
876 :
名無しさん@社会人 :2008/10/09(木) 06:54:15
教え子との不倫って、さらに有名なのではハイデガーとハンナ・アーレントの例もあります。 まあ、ケンブリッジのホモグループより、男としては健全(?)だと思いますが…
877 :
名無しさん@社会人 :2008/10/09(木) 12:55:48
最近、フランスでchristian jacq(小説家じゃなく社会学者の方ね)が アレクサンドル・デュマ・フィスとヴェーバーとの関連性を指摘した。 ヴェーバーの筆致がデュマ・フィスの筆致と酷似、また、 両者がプロテスタントの研究に通じていたことが根拠らしいが・・・ どういなんだろ? 小説家と社会学者との関連って・・・
878 :
名無しさん@社会人 :2008/10/10(金) 15:39:41
「アメリカ人」は読まない ただ合衆国はWASPばかりではない 東海岸のユダヤ系は多少知っている 南部や中西部だと、一部のファンダメンタリストがチラ見 過剰な不買運動反消費運動でお祭り騒ぎ 西海岸は・・・
879 :
三郎 :2008/10/13(月) 21:08:02
雀部幸隆『公共善の政治学―ウェーバー政治思想の原理論的再構成』 という本が出ている。 しかし、ヴェーバーの政治理論は、その中心的な部分において、 「公共善」の政治学として特徴づけることが可能であろうか。 「権力」とか、「支配」に焦点を合わせる政治理論は、 「公共善」の政治理論とは異質ではないだろうか。 むしろ、「支配の政治学」とでも呼ぶべきではないだろうか。 雀部の本は、ヴェーバーの政治学ではなくて、雀部ご本人の政治学が入っている。
880 :
名無しさん@社会人 :2008/10/17(金) 23:31:24
>> 879 > 「権力」とか、「支配」に焦点を合わせる政治理論は、 >「公共善」の政治理論とは異質ではないだろうか。 何のこっちゃ。それこそこじつけでしょう。 ヴェーバーが権力志向が強いとか、教権支配主義者だとかいいたいのですか? 雀部氏の本では、ヴェーバーの政治学がアリストテレス以来の西洋の伝統の国家学にのっとっていて、 公共善を志向するものだと、いう指摘をしているもので、別に雀部氏による偏向した解釈とは私は思いません。
881 :
名無しさん@社会人 :2008/10/18(土) 01:11:30
Zさんはどこへ?
Tさんにイジメられてどっかでいじけてるんでしょ
883 :
三郎 :2008/10/19(日) 01:13:40
>ヴェーバーが権力志向が強いとか、教権支配主義者だとかいいたいのですか? 別に、そんなこと言いたくないです。 そんなことにはまったく関心はありません。 ヴェーバーの政治理論を瞥見すると、 権力、そして権力のひとつのあり方である支配に強い関心がある、 ということが見て取れる。 そして、これは政治的なものの核心をついているというか、 政治のもっとも重要な部分に眼を向けている、ということで 素晴らしいということであります。 >ヴェーバーの政治学がアリストテレス以来の西洋の伝統の国家学にのっとっていて、 >公共善を志向するものだと これってどういうことなんでしょうか。 そういうことに何か、価値があるのでしょうか。
884 :
名無しさん@社会人 :2008/10/19(日) 13:12:40
>>883 雀部氏の本は、W・J・モムゼンのヴェーバー批判、
つまりある意味でのドイツ的な自虐史観に基づくウェーバー批判を再批判したものです。
モムゼンの批判は、「ヴェーバーは民主主義者ではなかったため、ワイマール共和国の初期において
欠陥をもった大統領制を提唱する一人となり、のちにナチスの権力独占に道を用意した」
というものです。
この批判によって、「ヴェーバーの政治学」を語ることが長い間ある意味タブー視の
ような状態になっていたものを、雀部氏は、ヴェーバーの政治学はアリストテレス以来の
公共善を志向するまっとうなものであり、モムゼンの批判は的外れである、と
いうものです。
ウェーバーの支配の正当性に関する議論は「経済と社会」の中で、
合理化の発展に進展して共同体とその支配・権力形態がどう変化していくか
ということに関連づけて述べられているものと私は思っています。
なのでそこだけ取りだして「政治学」とする議論には私は賛成できません。
885 :
三郎 :2008/10/21(火) 00:44:01
>884 モムゼンのヴェーバー批判? そんなに問題なんでしょうか。 わたしは、モムゼンに対するヴェーバー擁護という特殊な 文脈には興味はありません。 たいして意味があるとは思えないのです。 わたしは、ヴェーバーの政治学は、「公共善」の政治学とは思えないと言っているだけなんです。
886 :
三郎 :2008/10/21(火) 00:44:55
フランスの政治学者モーリス・デュヴェルジェは、 「政治は『ヤヌスの双頭神』である」と書いています。 ……その2つの頭(顔)とは、 〈力・支配・闘争〉の顔 〈統合・公共善・調和〉の顔 ……です。 デュヴェルジェは、この2つの顔をもつのが政治であり、2つをともに押さえておく必要があるというのです。 (しかし、「2つ」だけではなく「多数」の顔がある、という議論もできるわけで、 そういうこという人もいる。たとえば、ビル・ジョーンズ。) ヴェーバーも政治のいくつもの「顔」に目を配っていると言えるんでしょうけど、 彼が注視しているのは、あくまでも〈力・支配・闘争〉の顔の方なんですね。 ご存知のように、『職業としての政治』のなかで、政治を権力闘争、権力の分配をめぐる活動として規定していましたね。統合とか調整とか、ましてや善の実現とかいう見方ではありません。 また国家についても同様です。 国家を善や倫理や理性によって規定するようなことは一切ありません。 乾いた手つきで、ザッハリッヒに国家の「暴力」性をトロツキーの名を挙げながら、強調していました。 これらはヴェーバーは、その政治についての基本的な観点において、 「公共善」的な見方を積極的に退けているということです。 ヴェーバーの政治論に価値があるとすれば、 こういった政治的リアリズム部分だと言えます。
887 :
Z :2008/10/21(火) 18:42:18
4日ほど前から、パソコンが故障していました。 今、やっと回復しました。 なかなか、盛り上がっていますネ。 オメデトウ 私も頑張ります。
パソコンが故障していたのですか。 いじられて いじけているのではと心配しましたよ。
889 :
名無しさん@社会人 :2008/10/21(火) 20:53:50
>>885 人の批判するなら、タイトルだけ見てないで、中身を少しは嫁。
890 :
Z :2008/10/21(火) 21:22:54
私は雀部氏の本を、まだ読んでいませんが、‘公共善’とは、やはりカントの 影響でしょう。 話は変わりますが、ビザンチン帝国では、公共善があったようです。 帝国というコトバは深いです。 これから雀部幸隆著『公共善の政治学』を読むところです。
891 :
名無しさん@社会人 :2008/10/21(火) 23:27:43
>>890 読まないで適当なことを書く奴がここにも約1名…
892 :
名無しさん@社会人 :2008/10/21(火) 23:49:50
雀部氏の本で言っている「公共善」は、ラテン語のRes publicaの原義、 つまり英語に直せばpublic matter、誤解を恐れず平たく言えば「国益、国民の利益」。 西洋の政治学、国家学の伝統はこのRes publicaの追求で、その実現の ために民主制が最善とは限らずむしろ伝統的には排除されてきて、 ヴェーバーの政治学もその基本姿勢を共有するもの、それを民主主義 万歳的立場から批判するモムゼンは的外れだ、というもの。 ヴェーバーの政治的著作は「国民国家と経済政策」以来、「Res publicaの追求」を しているということにはまったく異論がない。
893 :
三郎 :2008/10/23(木) 02:06:34
>ヴェーバーの政治的著作は「国民国家と経済政策」以来、「Res publicaの追求」を >しているということにはまったく異論がない。 ヴェーバーの政治的著作というのは、時論的な文章のことですね。 わたしは、理論的な著作を念頭に置いています。 >誤解を恐れず平たく言えば「国益、国民の利益」。 ドイツ人、ドイツ国家の国民であるヴェーバー個人が、自国の「国益」を追求するというのは、 当然のことではないですか。そのことに関連して、別に「公共善」なんてラテン語からきた言葉を 使う必要はないです。 理論家ヴェーバーが、職業政治家、「ヘル」が「国益」や「公共善」なるものを 追求しているなんて、もちろん思っていません。 それらは、さまざまな利害関心で動いている彼らの、「自己義認」の主張の際、 出てくる言葉であっても、政治学、社会学の理論的概念ではない。 雀部さんも、あなたも、あまりモムゼンとやらに振り回されないほうがよろしい。
894 :
三郎 :2008/10/23(木) 02:07:15
それからres publica は公共の事柄を意味し、 古代ローマ共和国では、 「res publica は、res populiである」と言われました。 後者は、民衆の事柄を意味します。 公共とは民衆的、民衆に開かれているという意味につながり、 ここからrepublic ということば、つまり公共体(ただし、民衆的な公共体) を意味し、それが「共和制」「共和国」につながっていく、という 系譜もあります。 そういう思想史的、理論的な問題と切り離して、ヴェーバーの政治理論を 論じたらいいと思うのですが、まあ、モムゼンが気になって、 「公共善」を云々するとは、余計はことをする人もいたものです。
895 :
名無しさん@社会人 :2008/10/23(木) 07:25:28
>>893 >>894 「ヴェーバーと政治」を論じるのであれば、モムゼンの批判を
どう捉えるかは、避けて通れないというのが理解できない人に
何を書いても無駄のようです。
それから、res publica の系譜など先刻承知で、常識だから
書かなかっただけです。
つまらないことを書いてないで、自分自身でヴェーバーの政治学を
論じたいなら、読みもしないで人の本を批判するより、どうか
そうなさったらいかがですか。
896 :
名無しさん@社会人 :2008/10/23(木) 07:36:27
>>893 「国民国家と経済政策」より引用。
------------------------------------------------------------
「この科学(注:政治科学)は政治の侍女です。しかし、たまたまそのときに支配権を握っている独裁者
や階級がおこなう当面の政策に仕えるのではなくて、国民の永続的な権力的価値関心に使
える侍女なのです。」
「その究極的な価値基準は『国策』です。(中略)究極的・決定的な裁決を与えるのは、ド
イツ国民とその担い手であるドイツ国民国家との、経済的および政治的な権力的価値関心
でなければならない、という要求です。」
------------------------------------------------------------
上記を読めば、ヴェーバーの「公共善」志向がわかるし、政治的時論と
理論的な著作についても連続したものとして理解すべきなのは明白。
897 :
名無しさん@社会人 :2008/10/24(金) 21:37:48
雀部氏が、ヴェーバーが国家をAnstaltとして捉えていると言うのは正しいでしょう。 Anstaltはドイツ語では公共の機関とか企業という意味ですが、 ヴェーバーは「理解社会学のカテゴリー」にて、「目的結社」(Zweckverein)と Anstaltを対になる概念として提示します。 目的結社は、あくまでも参加者の自由意思での参加が前提で、その結社と考えが 合わなくなれば、出て行く自由も一応あります。 そに対して、Anstaltは本人の意思とは関係なく、人為的な秩序とそれを維持するための 強制機関を備えた団体の中に「放り込まれて」しまう性格のものです。 そういう意味でヴェーバーは国家をAnstaltとして捉えています。 ハイデガー風に言えば、"in-den-Staat-goboren-sein"(国家の中に産み落とされた)と いうことになります。 モムゼンが民主主義万歳的立場から、ヴェーバーを批判するのが的外れという雀部氏の 批判はそれなりの理があります。でもだからといってモムゼンの批判の意義が無いかと いうとそれも違うんじゃないかと。ヴェーバー個人に責任を帰すのは行き過ぎでも、 やはりワイマール時代の精神風土、もっと言えばドイツの精神風土に問題があったから、 ナチスのようなものを生んだ、というのは正当な指摘のように思います。 民主主義の国々が憲法等で前提としている「社会契約説」は確かに、何らの歴史的事実 ではない、虚構・おとぎ話です。そうではあっても、「社会契約説」を信奉する国の国民は、 多少とはいえ、盲目的に国家秩序に服従するのではなく、積極的に国家に関わっていこう、 という気概が感じられます。 それに対して、国家をAnstaltとして捉えると、「長いものには巻かれろ」「既成秩序に従え」 というのが基本的な心性になります。実はこの心性は、基本的にはルターの伝統主義に由来します。 (ルターは現世の秩序を神が作り賜うたものとして重視し、30年戦争で農民を反乱の暴徒として 扱ってその期待を裏切りました。) どういう言い訳をしようと、600万人ものユダヤ人を粛々と死に追いやっていた、ということに 対し、何故それを「社会として」止められなかったのか、という「説明責任」をドイツ人は 世界に負っています。私はモムゼンのヴェーバー批判はそういう文脈で捉えたいです。
898 :
名無しさん@社会人 :2008/10/24(金) 21:48:28
ちなみに、そのハイデガーはナチスマンセ−をやってしまった訳ですが、 有名な"in-der-Welt-sein"(世界内存在)という言い方の他に、 "In-die-Welt-geworfen-sein"(世界の中に投げ込まれた存在)という言い方が あります。Anstalt的国家觀とある意味共通性があります。
899 :
三郎 :2008/10/26(日) 23:59:11
引用によると、ヴェーバーは、政治学を「国民」と「国家」に奉仕する学問としてとらえる。 そして「国民」「国家」を「権力的価値関心」を軸にとらえていることになりますね。 ……これが「公共善の政治学」というわけですか。トホホ そいじゃあ、ナショナリズムも、モーゲンソーやキッシンジャー流の現実主義の国際政治学も、 みんな同じですよね。 「権力」(マハト)とは、自己の意志を、他者の抵抗に逆らってまでも、 押し通すチャンス・可能性でしたよね。 国家の権力もこの意味でとらえるべきでしょう。 ヴェーバーにとっては、この意味での「権力国家」という性質は、国家が持つ重要な性質です。 政治は、そのもっとも重要な部分において、「権力」(マハト)をめぐる諸活動です。 そして「支配」とは、その「権力」のあり方です。 こういうところがヴェーバーの政治学(政治社会学?)の核心の部分であって、それを「公共善の政治学」なんて言っちゃあ、おしまいです。ヴェーバー先生は、お笑いになるでしょう。
900 :
三郎 :2008/10/27(月) 00:15:03
「アンシュタルト」というのは、ひとびとが選択の余地の無く、そこに産まれ込み、 そこで生涯を過ごす団体です。国家は「アンシュタルト」です。 教会もそうです(昔の教会ですね。先祖代々の教会)。出入りは自由ではありません。 それに対して「フェアアイン」は、英語で言えば、「アソシエーション」です。 人々があつまって目的を設定して、お互いに一緒に設立する団体は「フェアアイン」です。 加入と脱退は、原則的に自由です。 社会契約論は、国家の起源については「フェアアイン」として捉えますが、 いったんできた国家は「アンシュタルト」として理解されています。 ところが20世紀初めになると多元的国家論が出てくる。 これは断固として国家を「フェアアイン」→「アソシエーション」としてとらえるんですね。 ラスキやコールがそうです。まるで現実離れした理論です。 といっても、ラスキたちは、国家の強大化に抗してあえて国家を「アソシエーション」 としてとらえるのです。いや本当は、かれらとて、現実の国家が「アソシエーション」で ないことはわかっているはずです。現実の国家(一元的国家)を変革し、 それを「アソシエーション」化(多元的国家化)しようという志向があって、 そういうことを言うのです。 ここでは現実の国家の「アンシュタルト」としての性格がしっかりと押さえられていません。 もし現実の近代国家を変革しようというのなら、 それは「アンシュタルト」としての国家の揚棄が必要だということをしかと認識すべきだったはずです。 ラスキもコールも1930年代にはいると、多元的国家論を放棄しました。
901 :
三郎 :2008/10/27(月) 00:34:08
ヴェーバーもラスキも「公共善の政治学」なんでしょうか。 シュミットもモスカも「公共善の政治学」なんでしょうか。 「公共善」とか「公共善の政治学」とかいった言葉は、 20世紀、いや21世紀の地平で政治や国家や、 そして政治学を論じる上で、有用な概念とは思えません。 ヴェーバーの理論を「公共善の政治学」と言ったところで 何の意味もなく、無益で、混乱を生むだけです。 雀部氏はそこのところがおわかりではない。
902 :
名無しさん@社会人 :2008/10/27(月) 07:31:35
>>901 だから〜、批判するのは少しは読んでからにしたらいかがですか。
馬鹿馬鹿しくって(雀部氏に代わって)反論する気にもなれません。
903 :
名無しさん@社会人 :2008/10/27(月) 19:58:04
どうでもいいけど、この人「職業としての政治」しかまともに 読んでいないんじゃ。 だってそれ以外の引用出てこないし。
905 :
三郎 :2008/10/27(月) 22:20:05
>>902 >だから〜、批判するのは少しは読んでからにしたらいかがですか。
読んでいないから、批判は有効ではないとおっしゃるのですか。
ではもしわたしがすでに読んでいたのならどうでしょうか。
「公共善」の概念とはいかなるものなのか。
そしてヴェーバーの政治の理論は、「公共善の政治学」と言えるのか。
仮にそういえるとしても、そう規定することにいかなる意義があるのか。
踏み込んで論じてみてください。
906 :
名無しさん@社会人 :2008/10/27(月) 22:29:18
>>905 これまでのやり取りからあなたが読んでいないことは自明です。
もし読んでいるなら読解力が0に等しいということになります。
>「公共善」の概念とはいかなるものなのか。
> そしてヴェーバーの政治の理論は、「公共善の政治学」と言えるのか。
> 仮にそういえるとしても、そう規定することにいかなる意義があるのか。
これはすべて明確に雀部氏が書いていること。
何度も同じことを書かせないでください。
読まないで批判できるとしたら、あなたはきっと超能力でもお持ち
なのでしょう。オカルトは学問ではありません。
907 :
名無しさん@社会人 :2008/10/27(月) 23:05:55
雀部氏が、ヴェーバーが国家をAnstaltとして捉えているのを 正しいでしょう、と書きましたが、もうちょっと考えてみる必要が ありそうです。 ヴェーバーの同時代の「国民国家」にはAnstalt的国家観はぴたりと はまるでしょうが、統一前のラントの集合としてのドイツとか、 ルネサンス期の北イタリアの都市国家とか、必ずしも類型的な Anstaltとして捉えるのは無理があり、ヴェーバーもそうしていない ように思います。 奇しくもモムゼンは、ヴェーバーの「都市の類型学」を、支配の諸類型の 中に紛れ込んだ異端物だと捉えているということです。 このあたり、モムゼン的ヴェーバー観と雀部的ヴェーバー観の対比で 「都市の類型学」を読み直すと面白いかもしれない。 取りあえず今日は思いつきのレベルですが。
908 :
Z :2008/10/28(火) 22:33:45
今月、10月の後半から 雀部幸隆『公共善の政治学』を中心に 「三郎氏」vs「 名無しさん@社会人(多分、複数)」とのディスカッション が華やかです。最近にない内容の充実した討論です。 そもそもMヴェーバーは“Res Publica'レース・プーブリカ”なるコトバ を使っていないようです。(もし使っていたら教えてください) これは雀部氏の、ヴェーバー再構築の一環として言われたコトバでしょう。それには敬意を表します。 岩波『哲学・思想事典』にも項目としては載っていない。ただ2回ほど「公共」・「福祉」の 項目に出てきます。『広辞苑』にも公共善=公共のためになす善としてあります。 雀部氏の著作は‘公共善の政治学’で、主題は政治学で公共善は修飾語になっています。 それにしても公共善について、もっと詳しく論じて欲しかった。経済政策や、 特に社会政策などに関して。 AnstaltやVereinについてはのちほど。
909 :
Z :2008/10/29(水) 01:20:16
国家については、契約説(J.J.ルソー)などによる国家観(Verein)と、Mヴェーバーによる アンシュタルト国家観がある。雀部氏は勿論、アンシュタルト国家観である。雀部氏は 上記の著作〜序論でこの二つの国家観(Anstalt)を述べている。AnstaltやVereinは「独和辞典」 の意味でなく、ヴェーバーの意味に準じる。 Wモムゼン(テオドールの曾孫)はVerein派である。モムゼンのヴェーバー批判も 上記の雀部著作に書かれている。 簡略に言えば @議会制民主主義の軽視 A‘目的合理性’としての民主主義 批判 の二つについて 私見を述べる。 @について。…だから、ナチスを生み出したとヴェーバーを批判するが、 ヴァイマール憲法の生みの親の一人として、ヴェーバーは決して議会制を軽視していない。 Aモムゼンは民主主義を「価値合理的」に信奉する。 ヴェーバーは『社会学の根本概念』(経済と社会)で 価値合理性は‘非合理性’に繋がると言っている。現代の経済学でも 「限定合理性」(青木昌彦『比較制度分析に向けて』)で均衡を求めている。 C.シュミットについては、又
910 :
Z :2008/10/29(水) 01:42:26
最近の世界金融恐慌と「国家」について。 米国のサブプライム問題を契機にグローバルの何たるかをイヤというほど 見せ付けられた。 新聞やテレビでは、政府 政府 と言っているが、‘国家’である。 アンシュタルト(国家)でも、経済はVereinである。しかし、いざとなれば 国家が全面に出てくる。
911 :
Z :2008/10/29(水) 15:24:56
日本銀行は形式的にはAsociationだが、やはり国家の配下にあるものである。 今回のグローバル金融恐慌に対し、国内外に十数兆円の貸付を行った。 政治だけでなく金融・経済・文化・科学などなどを、国家の配下に置く〜 全体的に国家に束ねる〜のが‘全体国家’である。(Cシュミットのいう) 今ここでは、全体国家の「価値判断」(特に心情的な)をしないでおく。 なにかCシュミットの言っているよな情勢になって来た。 Mヴェーバーは、ヴァイマール憲法に、「大統領の大権」(委任独裁)を盛り込んだ。 しかし、ナチス・共産党以外の中間政党(社会民主党など…)は委任独裁を拒否した。 1929〜1932の早い段階に委任独裁=大統領の大権行使をして置けばよかった。 彼等は眠りこけていた。遂に、1933年1月、大統領:ヒンデンブルクはヒトラーを 首相に任命した。その後ヒトラーは総統=主権独裁になった。 テロ:ヒトラー・ユーゲントは70万人。その出自は19世紀末の‘ワンダーフォーゲル (さまよえる小鳥)’の分れの、そのまた分れである。 MヴェーバーやAヴェーバーはワンダーフォーゲルに属していた。特に、アルフレッドは 熱心なメンバーだった。 上山安敏『世紀末ドイツの若者』(講談社学術文庫)
当方社会学素人で低レベルの質問になるかもしれませんが、 「私的官僚制」という言葉が「新秩序ドイツ議会と政治」(世界の大思想23だとp329) に出てくるのですがこれはどの程度一般的な用語なのでしょうか? ワイマール期のドイツや現在の日本を考える際に、とても重要な概念のように感じています。 ウェーバーの他の官僚制を論じたものにもあまり出て来ないような気がするのですが。 また、私的=公的のカント的逆転の発想(『啓蒙とは何か』)にどの程度ウェーバーは意識的だったのでしょうか? ウェーバーのマルクスの経済決定論への対抗意識は明白ですが、カントの存在はあまり重要ではないのでしょうか?
913 :
Z :2008/10/29(水) 18:56:31
20〜21世紀の現在まで、実際に「委任独裁」を施行した国家があるだろうか? 発展途上国でそれに似た独裁はあったが、成功したという事実はない。 委任独裁について、Cシュミットは『独裁』(未来社刊)であまりにも巧く書き記している。 誰が読んでも納得がいく。(それは自由主義・民主主義との両立について) 紙上論と現実とは違うだろう。 ヴァイマール時代のドイツは、委任独裁を見逃した。それがヒトラーの‘主権’独裁を許した。 その期に、Cシュミットはヒトラーの主権独裁に賛同し、ナチス党員となった。 かれの真意〜心理状態がわからない。 戦後、敢然と彼は復活する。(自己反省もなく) 『政治的なものの概念』(1927初刊)を、1963年にそのまま再刊した。 その1963年版の「まえがき」が『カール・シュミット論集』(木鐸社刊)に載っている。 なんら反省なしに…。
914 :
三郎 :2008/10/29(水) 21:21:47
>>912 >「私的官僚制」という言葉が「新秩序ドイツ議会と政治」(世界の大思想23だとp329)
に出てくるのですがこれはどの程度一般的な用語なのでしょうか?
きわめて一般的に使用される言葉です。
(a)英語の「ビューロクラシー(bureaucracy)」(ドイツ語の「ビューロクラティ
ー(Bürokratie)」)の日本語訳が「官僚制」だが、 「ビューロ」とはもとも
と事務机、そこから事務部門を意味した。
(b)「ビューロクラシー」という英語は、国家、政府、行政機構に関して使われ
ることはいうまでもないが、しかし、民間の組織、例えば、巨大な株式会社
や労働組合や政党内部の「ビューロクラシー」についても語られる。
915 :
三郎 :2008/10/29(水) 21:54:46
「読んだとか、読んでないとか」いったハナシはバカバカしい。 もっと内容的、実質的なギロンをしたいですね。 「公共善の政治学」というのを考えてみましょう。 「公共善」。英語で言えば、public good ですね。 public はprivate との関係性においてある言葉ですね。 一般的には、「公的」と「私的」ですね。 good は「善」の意味と「利益」の意味がある。 「善」とすると道徳的、倫理的な含意が入っている。 「善悪」の「善」ですな。 「利益」は物質的な利害、さらに広く取れば精神的な利害も意味される。
916 :
三郎 :2008/10/29(水) 21:58:18
政治……政治的な行為、政治的な共同体(国家)を 「公共善」概念で捉えるとどうなるか。考えてみましょう。 まあ、「政治(政治的行為、統治にかかわる行為)は、公的な善・利益で動かされるべきで、私的な善・利益によってゆがめられてはならない」……という理屈が出てきますよね。 私的な善・利益で想定されるのは、統治者の私的な善・利益、あるいは私人・私的団体(企業や利益団体など)です。「国王の私的な利害はいかん。特定業界の要求に左右されてはならない」、ということですね。 公的な善・利益の観点から国家も把握できる。 「国家は公共善を具体化するものでなければならない」という考え方になりますね。 ここで利益よりも、「善」概念の部分を強く押し出すと、 「国家は政治的であるだけでなく、同時に道徳的ないしは倫理的な共同体だ」ということになる。 まあ、全体として、「公共善の政治学」は、政治や国家を規範的、 倫理的な観点を機軸に据えてとらえる政治学ということになりますね。 そうだとすると、ヴェーバーの政治学とういのは、ちょっと筋が違うような気がするのですが、いかがですか。
917 :
三郎 :2008/10/29(水) 22:00:39
政治、政治的な行為、政治的な共同体(国家)を 「公共善」概念で捉えるとどうなるか。考えてみましょう。 まあ、「政治(政治的行為、統治にかかわる行為)は、公的な善・利益で動かされるべき で、私的な善・利益によってゆがめられてはならない」……という理屈が出てきますよね。 私的な善・利益で想定されるのは、統治者の私的な善・利益、あるいは私人・私的団体(企 業や利益団体など)です。「国王の私的な利害はいかん。特定業界の要求に左右されてはな らない」、ということですね。 公的な善・利益の観点から国家も把握できる。 「国家は公共善を具体化するものでなければならない」という考え方になりますね。 ここで利益よりも、「善」概念の部分を強く押し出すと、 「国家は政治的であるだけでなく、同時に道徳的ないしは倫理的な共同体だ」ということに なる。 まあ、全体として、「公共善の政治学」は、政治や国家を規範的、倫理的な観点を機軸に 据えてとらえる政治学ということになりますね。そうだとすると、ヴェーバーの政治学と ういのは、ちょっと筋が違うような気がするのですが、いかがですか。
918 :
三郎 :2008/10/29(水) 22:04:08
政治、政治的な行為、政治的な共同体(国家)を 「公共善」概念で捉えるとどうなるか。考えてみましょう。 まあ、「政治(政治的行為、統治にかかわる行為)は、公的な善・利益で動かされるべき で、私的な善・利益によってゆがめられてはならない」……という理屈が出てきますよね。 私的な善・利益で想定されるのは、統治者の私的な善・利益、あるいは私人・私的団体(企 業や利益団体など)です。「国王の私的な利害はいかん。特定業界の要求に左右されてはな らない」、ということですね。 公的な善・利益の観点から国家も把握できる。 「国家は公共善を具体化するものでなければならない」という考え方になりますね。 ここで利益よりも、「善」概念の部分を強く押し出すと、 「国家は政治的であるだけでなく、同時に道徳的ないしは倫理的な共同体だ」ということに なる。 まあ、全体として、「公共善の政治学」は、政治や国家を規範的、倫理的な観点を機軸に 据えてとらえる政治学ということになりますね。そうだとすると、ヴェーバーの政治学と ういのは、ちょっと筋が違うような気がするのですが、いかがですか。
919 :
三郎 :2008/10/29(水) 22:05:55
スイマセン、なかなか書き込みができず、 結果的に、重複してしまいました。
920 :
名無しさん@社会人 :2008/10/29(水) 23:10:41
> 「読んだとか、読んでないとか」いったハナシはバカバカしい。 > もっと内容的、実質的なギロンをしたいですね。 > まあ、全体として、「公共善の政治学」は、政治や国家を規範的、 > 倫理的な観点を機軸に据えてとらえる政治学ということになりますね。 あなたが勝手に「公共善の政治学」という言葉尻だけを捉えて何を 言おうと勝手ですが、それに関連して雀部氏の名前を出したり批判する のはまったくもってフェアではないですね。 「政治や国家を規範的、倫理的な観点を機軸に据えてとらえる政治学」 などは雀部氏の主張から大きく外れたあなたの勝手な解釈です。
921 :
名無しさん@社会人 :2008/10/29(水) 23:16:44
今の肥大化した巨大金融システムは、もはやVereinなどという人間の意思で ある程度コントロールできるような代物ではもはやないのでは。 むしろ国家すら超えて、一体自分が参加しているという意識もないままに 強制的にその枠組みの中に捉えられていってしまっている、超巨大Anstalt ではないのでしょうか。それを「鉄の檻」と形容するとここでは陳腐ですが…
922 :
名無しさん@社会人 :2008/10/29(水) 23:33:18
極論を言えば、西洋の社会科学はすべて公共善を志向しているのではないか。 アダム・スミスの「国富論」は元々道徳学として書かれている。
923 :
名無しさん@社会人 :2008/10/30(木) 00:04:16
ヴェーバーは、「支配の社会学」は論じているけど、「支配の政治学」という論は 見あたらない。あくまでも「経済と社会」であって、「政治と経済」でも「政治と社会」 でもない。 ヴェーバーが支配にこだわるのは、制定律と強制装置を備えたゲゼルシャフト関係の 団体にあっても、それだけでは安定的に存在するのは難しく、成員の諒解行為を心理的に 規定している「支配の正当性」の概念が、成員間に広く行き渡っていることが必要だと いうことからだろう。そこから、有名な「合法的」「カリスマ的」「伝統的」という 正統的支配の三類型が出てくるのだが、そこだけ切り離して政治学的に読むべきでは ないと私は思います。
>>914 >
>>912 >>「私的官僚制」という言葉が「新秩序ドイツ議会と政治」(世界の大思想23だとp329)
>に出てくるのですがこれはどの程度一般的な用語なのでしょうか?
>
> きわめて一般的に使用される言葉です。
早速のレスありがとうございます。
ただ残念ながら『官僚制』(恒星社)でも『社会主義』(講談社学術)でも「私的官僚制」という概念は充分に、
というかまったく展開されていないのではないでしょうか?
(ウェーバーの他の本で「私的官僚制」に言及しているものがありましたらご教示下さい。)
ウェーバーは現実的にワイマールの官僚制への対応に精一杯で、主題を展開する余裕がなかったということだと思います。
ちなみに、民主主義から独裁制への移行は、この官僚制の硬直化(ウェーバーは貴族制に喩えている)を念頭に入れないと
民衆の反動的なポピュリズムへの傾斜と独裁の手段の簡易性といった面からの説明がつかないと思います。
925 :
名無しさん@社会人 :2008/10/30(木) 00:29:03
>>924 「経済と社会」の「支配の諸類型」、日本語訳P.21の後半に、
「私立病院における官僚制も、慈善財団や修道会の経営する病院の官僚制も、
原理的には同じものである。」以下、詳述とは言えないが、論じられています。
「私的官僚制」という言葉自体は使っていませんが。
926 :
Z :2008/10/30(木) 01:06:01
EUというのは、巨大な‘国家’ではないだろうか? たしかに「ヨーロッパ共同体」というが、日本人がイメージしている共同体と、 EUの人々が思っているそれとは、格差というか内容が違うのでは? 日本人がイメージしている共同体は、多分にマルクスの(あるいは大塚久雄の) 影響があるのでは? EUを国家と見る場合Anstaltなのか、J.J.ルソーのいう契約国家〜Vereinなのか。 最初は「鉄鋼石炭共同体」として出発した。今は全てではないが貨幣=ユーロを通貨 としている。そして暗黙の内に中世〜ルネッサンス以来の伝統文化がある。 それは全体的な国家なのか?(C.シュミットを念頭において) 全体国家を心情的な価値判断をしてはいけない…と、いったのはそういう意味も含んでいる。 この全体国家は、自由主義や民主主義とは両立する。 かつての大東亜共栄件とは違う。 また 「東アジア共同体」とも違うだろう。 (東アジア共同体という言葉は、アンチノミー)
927 :
Z :2008/10/30(木) 01:15:21
↑共栄件 × 〇 共栄圏
>>920 雀部氏はもともとスターリン・マルクス主義の研究から公共善どころか
救済としての政治学をやっているよ。
お前過去の論文もちゃんと読んだのかい?
929 :
名無しさん@社会人 :2008/10/30(木) 02:12:31
マックスウェーバーについて仕事で調べています。 以下の類似文章はウェーバーの言葉とされていますが、調べてもわかりません。 そもそも本当にウェーバーの言葉なのかも怪しく感じはじめています。 どなたか、どの本に記載されているかをご存知の方はいらっしゃいますでしょうか。 もし、ご存知の方だいれば教えていただければ嬉しいです。 一国の政治はしょせんその国の国民の民度以上に出るものではない。 一国の政治は、その国の国民の民度を出ない。 一国の政治のレベルは、その国の国民のレベルに比例する。
930 :
名無しさん@社会人 :2008/10/30(木) 07:38:15
>>926 EUが目指しているのは、最終的にはヨーロッパ合衆国
(Die vereinigten Staaten von Europa)であり、「国」であることは明白。
ヴェーバーは確か「カテゴリー」論文だったと思ったが、Anstaltが
「自発的に形成される」場合もあると述べていた。
ちなみにAnstaltとVereinは対概念のように書いたが、正確には
AnstaltはVereinの上位概念。
931 :
名無しさん@社会人 :2008/10/30(木) 07:47:10
>>928 雀部氏の本は今回が初めてです。
私は別に雀部氏の学問の全体像を問題にしているのではなく、
「公共善の政治学」という本を取り上げて、その書物の
内容、文脈を無視してタイトルだけで勝手な批判をするのは
氏に失礼だ、と言っているだけですが、何か?
「公共善の政治学」は十分にそれだけで独立して読める本です。
>>929 「職業としての政治」を読んで得られる教訓をまとめると大体そんな感じになると思います。
ただ、「民度」という言葉はウェーバーが使う言葉ではないんじゃないかな・・。
933 :
929 :2008/10/30(木) 23:53:05
>>932 教えてくださってありがとうございました。こちらの書込みを職場で見て
帰りに購入してきました。薄い本で400円だったので非常にリーズナブルです。
言葉については確かに「民度」という表現をしていないものもあって
その場合、
一国の政治は、その国の国民の国民以上に良くはならない、というのもありました。
これから早速読んで、その言葉の時代背景や状況を自分なりに考えてみようと思います。
ありがとうございました。
934 :
三郎 :2008/10/31(金) 03:08:16
>あなたが勝手に「公共善の政治学」という言葉尻だけを捉えて何を >言おうと勝手ですが、それに関連して雀部氏の名前を出したり批判する >のはまったくもってフェアではないですね。 言葉尻ではありません。 「公共善の政治学」とはそのようなものなのです。 雀部氏が「公共善」概念を明らかにしないので、 わたしのほうで、まあこんなところだと、書いてみたのです。 アリストレスやルソーやヘーゲルは、「公共善の政治学」があると 言えるかもしれません。でもヴェーバーは違う。
935 :
三郎 :2008/10/31(金) 03:08:52
(1)雀部氏は、ヴェーバーの「国益第一の視点」は、歴史をさかのぼると「公共善」の概念 を継承しており、ヴェーバーの政治学(?)は「公共善の政治学」だという。 「……そもそも政治と向き合うウェーバーの根本観点は、すでに見たように、『国益第 一』の視点であった。これは……じつは、アリストテレスの『ポリテイヤ』、キケロの 『レース・プブリカ』につながる視点である」( 雀部『公共善の政治学』未来社、79 頁) これは正しくない。「国益」は、「ポリテイヤ」「レース・プブリカ」(雀部はこれらが 「公共善」という)とは、別次元の概念なのだ。 「国益」概念は対外政治・対外政策における概念であり、絶対主義国家の時代にまず「国 家理性」概念として産まれた(国際政治学、国際関係論では常識)。だからアリストテレ スとは、直接関係がない。 それとアリストテレスの『政治学』は外部を捨象したかたちで理論が構築されている。対 外的な国家利益として「ポリテイヤ」が語られているわけではない。 アリストテレスにとっては、「ポリス」は「最高善」を実現する共同体であった。 「最高(の)善」です。それは「公共善」を実現する国家なのです。 しかし、ヴェーバーにはそんな観念的、理念的な国家観はない。 国家は、暴力、領域、正当性……などによって定義され、まことにザッハリッヒである。 アリストテレスはイデアールである。 ヴェーバーの政治学(?)を「公共善の政治学」なんてとらえるなんて、私は書店の書棚 の前で驚愕した。 (つづく)
936 :
名無しさん@社会人 :2008/10/31(金) 07:58:30
>>935 ようやく、書店でぱらぱら眺めただけでいい加減なことを書いたことを
告白したか。買えないんだったら図書館にでも行ったら?
「国家」の概念が確立していなければ「国益」という概念も使えない
のは当たり前。しかしながらアリストテレスの時代の都市国家に
だって、「国益」に相当する概念はある、それらの総称で
「公共善」という言葉を使って何が悪いのだろうか。
アリストテレスの国家学の背景には当然ながらプラトンの
二元論(現実とイデア)があり、ヴェーバーに限らずほぼすべての
西欧の思想家はこれを継承している。
ただ、私は雀部氏がヴェーバーを「20世紀最大の政治学者の一人」
とするのには賛同しない。
937 :
三郎 :2008/10/31(金) 11:14:16
>しかしながらアリストテレスの時代の都市国家に >だって、「国益」に相当する概念はある、それらの総称で >「公共善」という言葉を使って何が悪いのだろうか。 近代国民国家では、子どもも女も国家の構成員であり、 国民総体の中に入っているが、古代ギリシアではポリスの構成員ではなかった。 ポリスが家や村と違って、善(「公共善」)を実現する共同体であるとしても、 女、子ども、それと奴隷も、その構成員ではなかった。 ほう「公共善」とは、「国益」のことなんですか。 まあ、麻生さん、中曽根さんにおかれては、 日本の「公共善」(イコール「国益」)のために頑張って頂こう。 小林よしのり先生や西部先生も、思考の土台にアリストテレスにまでさかのぼる 「公共善」(イコール「国益」)の観念があるというわけですね。 ヴェーバーと同じですね。 わたしが言いたいのは、「公共善」なる概念を(それもその概念内容を あいまい化したうえで)持ち出すことに何の意味もなく、 かえってヴェーバー理解を混乱させるだけだということです。 雀部氏は『ウェーバーと政治の世界』の第1章「ウェーバーにおける国家理性の理念」 でも同じような誤りをおかしている。その誤りが新著ではさらに拡大した感じだ。
938 :
三郎 :2008/10/31(金) 11:17:50
(2)ヴェーバーは、「国益」とともに「国家理性」を語り、同じ文脈で「権力国家」 について語る。「権力国家」とは「マハト・シュタート」です。 これは、ヴェーバーの「権力」の定義(『社会学の根本概念』)を踏まえて言えば、 これは〈自国の意志を他国の抵抗があっても、貫こうとする、他国に押しつけようとする貫こうとする国家〉です。 こういう国家は「公共善」の国家とは言えない。「公共善」の国家とは、公的な善を実 現する(あるいは公的な善を目的とする)国家であるはずです。ヘーゲルの「倫理的国家」 (人倫国家)概念は「公共善」概念がベースにあると言っていいですがね。 繰り返すが、雀部は間違えたが、「公共善」は「国益」ではない。雀部は「公共善」概 念の倫理的性格、公と私の関係、善と悪の関係の含意性に言及していない。
939 :
三郎 :2008/10/31(金) 11:25:24
(3)ヴェーバーは「権力利害」ともいう。 つまり自国の権力を追求し、拡大することへの利害関心と言うことでしょう。 明け透けですね。なぜ権力を追求するのか。国家の政治的、軍事的、経済的な利益・利害 (「国益」)を維持、拡大するには、国家間の権力をめぐる闘争に生きのび、勝ち抜いて いく必要があるからです。 その際、統治者が政策決定あたって発見し、従わなければならないのが、「国家理性」 です。マイネッケは「国家理性とは、国家の行動の基本原則、国家の運動法則である」と いってます。 マイネッケは中心的な主題として扱っているのですが、「国家理性」(国益)には、非道 徳的性格があります。「国家理性」に従って行動するためには、あるいは「国益」を守る ためには、場合によっては、道徳(善悪の問題ですね)や宗教や法にさえも、無視し、踏 みにじる必要があるというニュアンスがあります。非道徳的とはそういう意味です。 「国家理性」は、断じて、「公共善」とは異質の概念なんです。 マイネッケが、著書『近代史における国家理性の理念』(中公、世界の名著)の本論を マキャヴェッリから始めていることからわかるように、「国家理性」は政治・国家を道徳 ・倫理・宗教と完全に切断した上で出てくるわけです。ヴェーバーは、自覚的にこのこと を踏まえています。 ヴェーバーは、ドイツが近隣の大国との権力政治(マハト・ポリティーク)のなかで生 き抜き、国益を守るためには、もちろん軍事力の行使は不可避だし、自国の国家形態のあ れこれにこだわっていてはダメだ、と考えています。これはもちろん「政治的プラグマテ ィズム」(雀部、79頁)ではありません。立派な国家観であり、政治的経綸であります。 それをマキャヴェリではなく、アリストテレスにさかのぼってはイケマセン。
940 :
名無しさん@社会人 :2008/10/31(金) 20:34:12
>>939 ひどいね。ようやく少しは読んだかと思ったら、今度は筆者の文脈を
ねじ曲げた恣意的引用ですか。
雀部氏はここでは、「その発言は、しばしばヴェーバーのたんなる
政治的プラグマティズムを表すものと受け取られてきたが」、そうでは
ない、と書いているのですが。
マキャヴェッリについても、ヴェーバーがマキャヴェッリを含めた
西洋的国家学の伝統に連なる、とちゃんと書いている。
雀部氏の使っている「公共善」の意味は、「普遍的な倫理」などではなく
「国家、政治体の利害」でしかないのに、それを勝手な解釈してあれこれ
雀部氏にからんでいる、というのが三郎氏の一連の議論です。
はっきり言ってこんな頭の悪い、かつ性格のねじ曲がった人とこれ以上
議論しても無駄でしょう。
少しはまともな反応があるかと思ってここのところ色々書いてきたけど、
やっぱり2chは2chということか。
941 :
Z :2008/10/31(金) 21:43:30
>>940 さんが云われている事は良くわかるが、雀部氏は国家については綿密に
論考を重ねているのに較べて、「公共善」についての具体的な論考が足りない。
国家についてと同じぐらいのボリュームで「公共善」を展開して欲しかった。
雀部氏は国家の修飾語として公共善を持ち出した以上、
もっと詳しく公共善を論じて欲しかった。
942 :
三郎 :2008/10/31(金) 22:01:48
(4) 雀部もヴェーバーの「国益」「国家理性」「権力利害」などの概念に言及し、関連箇所を引用もしている。 しかし、彼は、ヴェーバーに見られる「国益第一」の主張に「公共善」観念を見いだします。 繰り返しになりますが、これは誤りです。 それと、無知な読者にここで出てくる「国民」「国民的」が、そのまま民衆ないしは民 衆的を意味しているかのように誤解させかねないような書き方を雀部がしているのも問題 です。 どの国も、西欧国家体系(ウエストファリア・システム)にあっては、 ナツィオナール(ナショナル)な利害を追求する。「国益」(ナショナル・インタレスト)ですね。 「国益」とは、「国家」の利益であり同時に「国民」の利益です。 それは、「国家」と「国民」(各個人ではなく、ひとつの全体としての国民)とが重なり 合う「国民国家」の利益です。ヴェーバーにとってもそうです。 重要なことは、「国益」は必ずしも直接的にピープルの利益と一致するわけではない、 ということです。 雀部は、ヴェーバーの使う「国民の生活利害」という言葉をしばしば引用しますが、ナ イーヴ(無知の婉曲表現)な読者は、これを誤解してしまいます。 「生活」はレーベンスで「生命」や「生存」の意味ありもあります。国家の「生存」にか かわる利害をも意味しかねない言葉なんです。 ナチスは「生存圏」という言葉を使いましたが、 これは「レーベンス・ラウム」です。訳しようによっては「生活空間」ですが。
943 :
三郎 :2008/10/31(金) 22:20:42
(5) 雀部氏は、ヴェーバーの対外政策論に、いまのおおかたの戦後日本人が、なにか 違和感を感じることを心配している。……“ヴェーバーはアリストテレス以来の政治学の 伝統にある「公共善の政治学」の流れに立っているので、そんなにヘンなことを言ってい るわけではないので、安心してほしい”……というわけだ。余計なお世話である。 それと雀部氏には、モムゼンからの「批判」によってダメイジを受けたヴェーバーのイ メイジをなんとか修復したいという気持ちにも突き動かされた。(これまた余計なことだ) 戦後民主主義や戦後平和主義のなかで、戦後日本人は、政治的に「成熟」どころか「退 行」してしまった。そんな戦後的退行を打破し、あらためて日本人が政治的に「成熟」す る上でヴェーバーは有用だという見方も可能かも知れない。 「権力政治」や「国益」や「権力利害関心」など、現実政治の当たり前の姿ではないで すか。それらを直視し、日本の「国益」――それは領域、安全、自由と繁栄だと思う―― を断固守りつつ、同時に、コスモポリタンな世界を志向する、これが政治的成熟の方向性 だ。 ヴェーバーの研究者や読者が、「退行」した地平で、ヴェーバーに出てくる「国益」や 「国家理性」に違和感や困惑を感じているようではしようがないがね。 (終)
944 :
名無しさん@社会人 :2008/10/31(金) 23:13:46
私は議論の最低限のマナーやルールも守れない人と、いかに2chとは いえ、ここで無駄な議論を続けるつもりはありません。 妄想につきあっているほど暇ではありませんので、私はもうここに 書き込むのは止めます。皆さん、さようなら。
945 :
Z :2008/11/01(土) 00:51:50
私は
>>926 で、全体国家は自由主義や民主主義と両立する… と書いたが、
それは ある条件の下で のことです。
それにしても、両立するかどうか? Cシュミットは自由主義は‘政治’とは
別物としている。 『政治的なものの概念』で。ここには、民主主義という
コトバ(少なくとも、それを論じた)は出てこない(議会主義はあるが)。
946 :
Z :2008/11/01(土) 22:04:26
EUが国家=合衆国になるとすれば、Anstalt国家でなく、J.J.ルソーの 社会制約説的 Verlin の様な「自由・民主国家」だろうか。 そこには、フェルナン.ブローデルが云うところの共通の‘マンタリテ’がある。 即ち、オクチデンタルな封建制度(マルク.ブロックのいう)時代から現代までの‘文化’。 ヴェーバー Anstalt 国家でなく、世界初めての契約国家が出来る。 たとえ全体的な国家であっても、自由と民主主義は護られるだろう。 ただ対外諸国家に対しては 帝国主義的な国家だろう。 勿論、帝国主義といっても、レーニンのそれではなく、古代ローマあるいは ピザンチンのそれであろう。
947 :
名無しさん@社会人 :2008/11/02(日) 23:33:14
猪口孝ほか編『政治学事典』弘文堂、平成12年、1148-1149頁。 (見出し語)「レス・プブリカ[羅]res publica」 (語義) 「国家もしくは共和国と訳される。 一方で私なるもの(res privata)とは反対に公益、公法を指し、 他方で個人的権威に基づく王政、元首制と対比される概念。 古代ローマでキケロMarcus Tullius Ciceroにより政治共同体の嚮導理念 として確立され、中世のレスプブリカ・クリスティアーナ(キリスト教共同体)、 ルネサンス期以降のリパブリック、近代フランス共和制などの概念母体となった。 時代、場所、思想家により意味内容が一貫しているとは言い難いが、 一般的にいえば、近代以降に花開く権力政治的、現実主義的理解に 立つ国家(state)概念と一線を画し、なお国家の本質を「公共善」の求め、 被治者による同意や参加を重視する思想家が手掛かりとする理念である。 ●押村 高 [関連項目]キケロ、M.T. 」
948 :
Z :2008/11/03(月) 00:27:27
↑ 御礼 有難うございます。 公共圏(ハーバーマス)についても、お調べください。 Zより
949 :
名無しさん@社会人 :2008/11/04(火) 00:41:04
このスレって何人くらいが見てるのかな?
950 :
Z :2008/11/14(金) 18:45:12
植民地主義(スペイン・ポルトガルのそれと、英・仏などのそれとは違う)と、 帝国主義(レーニンのそれだけが帝国主義‘論’ではない)はどう関連し、どう違うか? それから「全体主義」と、自由・民主主義は両立するか? あるいは、全く相反するものか?(C.シュミット・Mヴェーバーを中心として)
951 :
名無しさん@社会人 :2008/11/14(金) 20:14:19
ヴェーバーの著作で一番とっつきやすく、論理が明快で、 すぐにでも人生に益するような本はなんですか? 小説家の平野啓一郎は、「職業としての政治」を薦めていたのですが・・・
952 :
名無しさん@社会人 :2008/11/14(金) 22:48:30
入門書になるが、 山之内靖のが熱くてよい。
>>950 レーニンの帝国「主義」は敗北主義や日和見主義と同じ意味だから。
当時の日本人がクソ真面目にとって今でもそうなだけ
954 :
名無しさん@社会人 :2008/11/15(土) 02:53:40
ドイツ語で読めねえてめえらがWeberを語る資格なし
ただしラテン語は読まなくていいぞ
956 :
Z :2008/11/16(日) 02:01:39
EU本部の、加盟国に対する規制が厳しくなっているようだ。 これはジョークだけれど、「EUは、バナナの曲がり方まで決めるのでは?」と。 統一貨幣ユーロを施行して以来、EUは、加盟国を全体的に拘束する様になる のでは? (全体的な国家〜ヨーロッパ帝国に) 一方、自由主義・民主主義は基幹として守るだろう。 自由な民主主義的全体国家って、ありうるだろうか?
957 :
Z :2008/11/16(日) 02:09:19
もう一度、Cシュミット〜全体主義 国家を、真摯に再研究しなければならない。 ヴェーバー=自由主義的帝国主義者という意味も。
ヴェーバーは帝国主義じゃなくて専制君主制だぞ。当時のプロイセンが 一体どこに拡張しようとしていたんだよw
959 :
Z :2008/11/17(月) 18:37:31
君主制での帝国主義と共和制下の帝国主義とは、どこか違うようだ。 Mヴェーバーは第一次対戦中、ヴィルヘルムU世を罵倒していたが、 最終的には君主制支持だった。 ロマノフ王朝の帝国主義やルイ王朝のそれと、旧ソ連の帝国主義とは違う。 ルイ王朝を倒したロベスピェールは結局、恐怖政治に繋がった。また、ソ連の スターリンも。 ルイ16世は、ヴェルサイユ宮殿に攻めてきた自国民に対し、発砲させなかった。 ナポレオンは後々、セントヘレナに幽閉された折、「なんとバカな!」といった。 君主制には、なにか‘人情’があるのでは?
960 :
三郎 :2008/11/17(月) 20:21:01
「民主制」がもし人民の支配を意味するのならば、 ヴェーバーにとっては「民主制」は不可能ということになる。 欧米の今日「民主制」と呼ばれている統治形態は、 ヴェーバーにとっては、少数者支配の一つの形態ということになるだろう。 ヴェーバーは、 (1)支配する人物=ヘル(支配者) (2)その命令を実行し、支配を遂行する人びと=行政幹部、行政スタッフ (3)被治者大衆 の三つのレベルを設定している。 ヴェーバーの理論では、「独裁制」であれ、「民主制」であれ、 この三つのレベルが存在するわけだ。 人口の大多数を占める人びとは、どんな統治形態であれ、 基本的には「被治者大衆」ということになる。
961 :
名無しさん@社会人 :2008/11/24(月) 17:12:08
三郎氏のレスは勉強になります。感謝。
962 :
三郎 :2008/11/24(月) 18:58:38
モスカ、パレート、ミヘルス。 この3人は、一般に「エリート論」者といわれています。 しかし、モスカはこの語を使っていないし、ミヘルスも使っていないと思います。 使っているのはパレートだけですので、 3人を一緒に「エリート論」(エリーティスト・セオリー、エリーティズム)と 呼ぶのは好ましくないように思います。 要するに、3人は、少数者支配の理論です。 文明社会に関する限り、いつの時代にも、支配は存在し、 そして支配は常に少数者による多数者の支配でしかあり得ない、というわけです。 ヴェーバー研究者はあまり論じていないような気がするのですが、 ヴェーバーの理論もこの少数者支配の理論に立つものだと思います。 ヴェーバー好きには、不愉快かも知れませんが。
963 :
Z :2008/11/24(月) 19:04:08
現代の民主主義は議会制民主主義であるから、一般庶民は一票を投票する権利 を持つのみである。但し、“自由”な立場で。(この自由が大切〜選挙者・被選挙者ともに) そういう意味では「被治者大衆」だろう。現代の民主主義はこれ=議会制のそれ以外にあるだろうか? 日本の戦時中は、大政翼賛会なる官憲による‘政党?’のみだった。 これは形式上、民主制〜エセ民主主義であった。 議会制民主主義は、ヴェーバーによれば「公開(情報)」の自由と「討論」の自由が根幹である。
964 :
Z :2008/11/24(月) 19:21:05
Cシュミットのいう「自由」(彼は自由を反論する)と、われわれが抱いている ‘自由’とは段差がある。
965 :
名無しさん@社会人 :2008/11/25(火) 02:01:44
966 :
Z :2008/11/25(火) 16:47:59
>>961 三郎氏のヴェーバー解釈は正解だと思います。
それを基盤として、新しい発言(たとえ些細な事でも)をしていただきたいです。
967 :
Z :2008/11/25(火) 17:00:23
「自由」は人間〜人類の根幹です。 一方、「民主主義」は政治形態の一つです。例えば、 啓蒙専制君主制(ハプスブルク帝国のヨーゼフ二世など)とか、独裁制とか… それは、国家における“人民〜国民”に対する制度です。 人間〜人類と、(国家における)人民〜国民とのちがい。 自由(主義)と民主主義の(基盤の)ちがい。 リベラル、リベラルと無邪気に言っておられる方々。 自由と民主を 混同している。 この二つを分けて考えるべき…。
968 :
三郎 :2008/11/25(火) 20:20:17
>この二つを分けて考えるべき…。 まさに、その通りだと思います。 「自由化」と「民主化」とは密接に関係する。 しかし、区別しなければならない。 「民主化」ということで、暗黙のうちに、同じ一つの言葉に 「民主化」と「民主化」とを区別せずに含ませるのは危険です。 非民主国の政治変革で、 まず人身の自由、移動の自由などの基本的な自由の確保し、 次ぎに結社の自由、表現の自由も、確保することが必要でしょう。 しかし、“危険な団体”の自由は制限する必要があります。 イラクにおいて、米占領軍とその傀儡政権は、 慎重に部分的な自由化と部分的な民主化とを進めるべきでした。 それをかなり拙劣にやってしまって、混乱を招きました。 ファリード・ザカリア『民主主義の将来』阪急コミュニケーションズ、2004年。 ザカリアはインド人で国際関係論専攻。『ニューズ・ウィーク』国際版編集長。 この本の主要なテーマが「デモクラシー」(民主制)と「自由」との区別です。 冒頭の「プロローグ」からこの区別が強調されています。 原題は、Future of Freedom(『自由の将来(未来)』)なんですが、 訳書のタイトルは『民主主義の将来』になっているのですねぇ。 こちらのほうが読者受けするというわけでしょう。
969 :
三郎 :2008/11/25(火) 20:21:51
(誤)「民主化」と「民主化」とを区別せずに含ませるのは危険です。 (正)「民主化」と「自由化」とを区別せずに含ませるのは危険です。
970 :
三郎 :2008/11/25(火) 20:56:02
>三郎氏のヴェーバー解釈は正解だと思います。 わたしはZさんほどはヴェーバーに精通していません。 Zさん、そして皆さんからイロイロ学ばせてほしいと 思っています。
971 :
Z :2008/11/26(水) 18:31:20
自由主義と民主主義の対立は、最近のアメリカにおける金融危機〜 自動車産業=ビッグ3に対する支援について。 自由主義〜(マキャヴェッリは「商人には自由をあたえよ。貴族には権力 をあたえよ。この自由と権力は均衡せよ。どちらが多くても少なくても いけない」という)ビッグ3を公的資金で救済をせまる。 一方民主主義は‘平等’(チャンスのそれにしろ、結果のそれにしろ) ビッグ3のみの救済は不平等と観る。 しかし、救済しなければ世界恐慌がおこるかもしれない。 アメリカの自由と民主の対立は、世界をまきこむ。
972 :
Z :2008/11/26(水) 18:59:54
民主主義が一般化するためには、国民の政治的成熟が基 盤である。 さもなくば、悪しきデマゴギーが民衆の心理に興奮 をもたらす。ヒトラーがその見本。 ヴェーバーがいちばん懸念していたのはドイツ国民の政 治的未熟であった。 第二次大戦後、アフリカ・アジア・(中南米=半独立)の 発展途上国が独立したが、それらの諸国の擬似民主主義 がけっきょく悪しき独裁を生んだ。その結果は泥沼の内 戦であった。 ヴェーバーは、安直に「民主主義」というコトバをつかわ ない。
973 :
Z :2008/11/27(木) 22:43:14
z
974 :
名無しさん@社会人 :2008/11/27(木) 22:52:13
975 :
Z :2008/11/28(金) 22:05:14
C.シュミットとの出会い 私がシュミットを知ったのは、『陸と海と』と『ハムレットも しくはヘカベ』(みすず書房刊)であった。それまでは私もシ ュミットといえば、ナチスの御用学者ぐらいにしか観ていな かった。上記の二冊を読んで驚いた。彼の叙述は明解でわかり易く、 アレッと思う思考の展開を見せてくれる。 私の知っている学者で頭脳明晰なのは、三人。それは本居宣 長・経済学者のJ.R.ヒックスおよびCシュミットである。 ( 頭脳明晰だけが学者の規範だとは決して思っていないが) 上記の二冊は彼の専門ではないが、一般の歴史家や文芸学者 を凌駕している。
976 :
名無しさん@社会人 :2008/11/29(土) 00:56:12
977 :
Z :2008/11/29(土) 12:19:05
前にも言ったかも知れないが、本居宣長『うひやまふみ』とMヴェーバー 『職業としての学問』とは似ているところがある。 和洋双璧の学問論である。
978 :
三郎 :2008/12/01(月) 20:08:26
ヴェーバーやシュミットは、現代政治をよくとらえているということ
でしょう。
しかし、同じドイツの学者でもヘルマン・ヘラーとなると
ちょっとわかりにくい。『国家学』(未来社)という本もいまひとつピンとこない。
特殊な概念が出てくる。
フランツ・ノイマンも同時代というか、少し後になるが、
事故で早死にして、書き残したものは多くない。
『ビビモス』(みすず)、
『民主主義国家と権威主義国家』(邦題『政治権力と人間の自由』河出書房)、
ぐらいであろう。前者は読んでないが、後者のいくつかの論文は、
政治学入門にぴったりだ。
『政治権力と人間の自由』は絶版。ときどき古本屋で見かける。
http://www.msz.co.jp/book/author/14834.html
979 :
名無しさん@社会人 :2008/12/01(月) 23:00:30
980 :
名無しさん@社会人 :2008/12/06(土) 20:23:36
ウェーバーの権力論はどうですか。 最近は影が薄いのかな。
>>978 概説書の多さが理解度と正比例するんでそ。
982 :
名無しさん@社会人 :2008/12/06(土) 23:50:48
>>981 概説書が多ければ多いほど、
よりよく、より多くの人に理解されるということですか。
983 :
名無しさん@社会人 :2008/12/07(日) 22:15:49
>981、982 逆、じゃあないですか。 概説書が多いということは、それだけ理解度が低いということ。 理解度が低いから、概説、解説が多くなる。 しかし、それでも理解できない、ということだわな。
984 :
名無しさん@社会人 :
2008/12/07(日) 22:20:27 世間では、最近は、権力論と言えば、フーコーなんですよ。 ヴェーバーではなくて、フーコー。 だから、ヴェーバーの権力論は影が薄くなっている。 しかし、正直言って、フーコーって何を言っているかさっぱり わからない。解説しているひともわかっていないのじゃあないですかね。 権力論はやっぱりマックス・ヴェーバーです。