1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 18:47:37 ID:W2amA0hM
3 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 21:08:56 ID:BWQ+Kla3
CSで大河の徳川慶喜観てたら、慶喜の台詞に、徳川は400万石と言われていますが実は200万石程です というのがあったんですが本当ですか?
4 :
人間七七四年:2011/02/01(火) 22:35:24 ID:wlQ4e7q9
日本史板で聞きなよ、ここは戦国時代の疑問だよ
5 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 00:45:33 ID:8f6AXqus
戦国期っていつまで?1615年まで?
6 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 01:04:59 ID:tKaF4vUN
学問的には明応の政変(1494)から信長の足利義昭追放(1573)まで
広義でとると応仁の乱(1467)から大阪夏の陣(1615)まで
統一という概念でとると小田原の陣(1590)まで
近世に対する中世末という意味でとると関ヶ原(1600)まで
国内内戦の終結、という意味で島原の乱(1638)まで取る見方もある。
7 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 08:09:05 ID:ZVvoUxsG
へ〜、秀吉の刀狩で終結は?
自分は家康将軍宣下がしっくりくるな。
8 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 11:43:44 ID:oyY957j0
>>7 刀狩りはあくまで大規模一揆などに対する対処法であり、全国で行われたわけでもなく
また実地も不十分で、これを時代の分岐点と観るのは無理がある。
そもそも「刀狩り」は秀吉以前から、戦国大名が一揆を平定した場所で行われていた
ごく普通の政策
刀狩りや太閤検地、もしくは兵農分離などというものをあまり大きく捉えないほうがいい
9 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 11:51:06 ID:qENLAr1/
>>8 柴田豊臣以前の刀狩りの例をご教授してもらっていいですか?
10 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 16:01:51 ID:+HxDmzX8
この場合「刀狩り」なんて言うから何だかわからなくなる。
ため込んでいた武器を没収した、程度に考えよう。
「法」として出したのが、柴田勝家であり次が秀吉だった。
11 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 16:35:53 ID:TZTXqmEo
>>8 なるほどなぁ。
刀狩りというか、総無事令は一応天下人が全国に戦闘終結
宣言をした、という感じで評価してるのを見たことあるもんで。
山本じゃないけどね。
家康も将軍就任第一号令ぐらいでそういうのを出してたはずだが
それを近世の緒とするなら、秀吉の方に分岐を持ってくのもどうかなと
思ったんだ。
結果論かもしれないが家康の将軍宣下がとりあえず統一政権の
誕生とするならそれも明解にも思うし。
戦国の定義に寄るんだろけどね。
12 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 16:45:21 ID:jGjPKTZL
時代って序々に変っていくものだし、この日を境に、ってのは無理でしょ
13 :
人間七七四年:2011/02/02(水) 20:55:28 ID:mBJoCfo4
1615年元和偃武の後は一揆を除いたそれなりの規模な戦いってこのくらいか?
1637年島原の乱
1837年大塩平八郎の乱
1863年天誅組の変、生野の変、薩英戦争、下関戦争、第一次長州征討
1864年天狗党の乱、禁門の変
1865年第二次長州征討
(1867年大政奉還)
1868年鳥羽・伏見の戦い
江戸幕府の安泰ぶりはすごいね
14 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 09:56:26 ID:qJ2Ck581
幕末50年を抜かせば平和すぎてビビる
15 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 14:23:51 ID:3LEQfAy8
1600後半にそば16文で200年後にやっと20文ということは
政治軍事のみならず経済的も安定してたということでしょう。
これはやっぱりすごいよね。
元禄のあの隆盛が関が原と同じ1600年代というのにもビビる。
普通は2〜3代目はポシャるとしたものだが、そっから安定が確実に
なったということは、いかに家康当たりの初期設定が優れていたかと
いうことなんだろなあ。
16 :
人間七七四年:2011/02/03(木) 15:39:56 ID:ZAjTOUER
不安定だと桂昌院あたりのバカ女のせいで破綻していただろうね
17 :
人間七七四年:2011/02/13(日) 21:47:46 ID:LOwnHLE+
石山本願寺って10年持ちこたえたと言われていますが
休戦期間を考慮すると実際の戦闘期間は何年くらいだったのでしょうか?
あと鉄砲のイメージが強くなっていますが、
一揆の主体である国人や坊主や百姓が鉄砲や火薬を調達したり、取り扱ったりできたのは不自然に思えます。
石山や加賀の一揆連中には鉄砲に関する運用や調達に関する何らかの工夫があったのでしょうか?
18 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 15:09:15 ID:ldT9RDI+
第一次1570年9月〜11月
第二次1573年4月〜11月
第三次1574年4月〜1575年10月
第四次1576年4月〜1580年閏3月
細かく見ていけばこんな感じで6年ほど
一般にイメージされる籠城して強固に反抗したといわれるのは
ここでは仮に第四次としてる最後の4年間が実質当てはまる
鉄砲の扱いついては他の大名家でも主力は国人や半農半武士であり
本願寺勢のそれらが鉄砲を扱っていても何ら不思議はない。
調達に関してはもともと近畿は鉄砲の大産地であり又一向宗門徒も多い
たまたま鉄砲を多く持つ門徒に必死にお願いした系で工夫と言えるかどうか
19 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 15:10:52 ID:omyINWEN
>>17 簡単に書くとこんな感じ。
雑賀、根来は鉄砲傭兵として各地に転戦して莫大な金を得た。
その金はその後ひたすら鉄砲製造に使われた。
硝石は輸入以外になかったと言われたことがあったが、
国内(海に面した)大名や豪族は硝石を作ることができた。
輸入品は織田が押えていた部分が大きかったが、国内生産も大きくなっていった。
火薬(黒色火薬・硝石)の製造方法は大友宗麟が献上したものが残っている。
石山合戦の最初のころ(1570年)は、雑賀も根来も織田の援軍として参加している。
「信長公記」には「援軍2万、鉄砲3千丁」と書かれている。
あと詳しくは雑賀、鉄砲で調べて
20 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 16:11:53 ID:GJsMzNPH
火縄銃の弾丸はどのように製造するのですか?
西洋では高い塔の上から、溶融した鉛の液体を
ポトリポトリと下の水槽に落として造ってたと聞いたのですが・・・・
21 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 16:30:25 ID:STc4wb/o
鋳型を使う
22 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 16:36:26 ID:ldT9RDI+
玉型というペンチの先に半球状の凹みがある物を使います。
ペンチを閉じると半球の凹みが合わさって球体の空間ができる
溶かした鉛を小さな穴から流し込む、冷えたらペンチを開いて弾を取りだす
小さな穴やペンチの隙間からはみでた部分のバリを削り取る。弾完成
23 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 16:37:02 ID:omyINWEN
ごく普通に、たこ焼の鉄板みたいなのを重ねる(蓋になる方の上には穴が開いている)
そこに溶けた鉛を流し込み、固まったら蓋を外す。
バリを削って完成。
24 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 17:30:11 ID:GJsMzNPH
25 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 17:52:27 ID:2KVPjvMM
>>24 ただし戦陣で合戦の合間にもできるし、女子供でも容易に行える作業で、それなりの熟練と
技能が必要な矢の製造よりこの面でも楽だった。
26 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 18:01:38 ID:STc4wb/o
石ころとか陶磁器のかけらとか代用品もあるでよ
27 :
人間七七四年:2011/02/15(火) 23:05:03 ID:t5r73+OV
戦国板は基本過疎っていますが、住人の数はどれくらいだと思いますか?
28 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 05:50:09 ID:bYH9EnJ8
八王子だったかでは土弾も出土してなかったっけ?
29 :
人間七七四年:2011/02/16(水) 14:34:27 ID:Vxvyu2x5
>>27 だいたい1日500レスぐらいだしそれ以下の人数、多分200人以下で回してると思う。
30 :
人間七七四年:2011/02/19(土) 20:37:32.00 ID:deL9bvDV
四国の知人から「山本勘助は四国の生まれ」と聞きました。
以前たしか山本勘助は三河の出身だとテレビで言っていたはずですが
最近は四国説になったのでしょうか?
31 :
人間七七四年:2011/02/21(月) 21:55:43.95 ID:lEbvG9Pb
>>30 山本勘助が「参州」の出だ、というのが「参州=三河」ではなく「讃州=讃岐」の
書き間違いだ、という主張が江戸時代からあって、それが山本勘助四国出身説。
正直牽強付会の強い、言葉遊び以上の意味は殆ど無い説だと考える。
32 :
人間七七四年:2011/02/21(月) 22:03:00.18 ID:E4/wU8nu
やっぱり水乞食の捏造でしたか
うどん喉につまらせて死ねばいいのに
33 :
人間七七四年:2011/02/22(火) 01:54:48.31 ID:o7ij/NMw
ござ候を否定形にした場合はござそろわずでいいの?
34 :
人間七七四年:2011/02/22(火) 02:00:18.01 ID:mzsiaKZS
>>32 全くの捏造ではない。毛利の「萩藩閥閲録」に讃岐出身の山本勘助が山口で
大内に仕え、その後武田信玄に仕えた、と言う山口の山本家に伝わる話が収録されてるの。
35 :
仙台藩百姓:2011/02/22(火) 08:19:45.98 ID:5O48GOX7
典型的な捏造パターンじゃんお( ^ω^)
閥閲録は読んだ事ないけど恐らく山本氏は家系図のみだと思うお( ^ω^)
偽造書状が付けられていれば良い方だお( ^ω^)
36 :
人間七七四年:2011/02/22(火) 10:59:12.07 ID:T1WsQSaH
同様な話で山県昌景も山口辺出身とかあるな
毛利は武田にあこがれでもあるのか
37 :
人間七七四年:2011/02/22(火) 13:38:26.57 ID:QUoufZ3H
>>36 山県は山口じゃなくて安芸だw
安芸武田家はそれなりに甲斐の本家と交流があったらしいからな。
そこからそう言う伝承ができたんだろ。
38 :
人間七七四年:2011/02/22(火) 14:06:05.46 ID:xyBoWi+t
>>35 そういえば捏造といえば
仙台藩の捏造・誇張話の類はすさまじいよなあ
見栄っ張りだからってどんどん尾ひれ付いているし・・
39 :
人間七七四年:2011/02/22(火) 15:16:51.14 ID:mzsiaKZS
40 :
人間七七四年:2011/02/22(火) 15:31:42.24 ID:xyBoWi+t
>>39 仙台がマズイのは当人だけでなく子孫がどんどん話を膨らませているところ
41 :
人間七七四年:2011/02/22(火) 15:48:49.35 ID:QUoufZ3H
>>40 そりゃ真田も一緒や。10万とか20万の敵と戦ってんだぞあの家の家譜w
42 :
人間七七四年:2011/02/22(火) 16:52:07.12 ID:T1WsQSaH
どこも同じようなものだろ島津の明朝鮮20万とか
>>37 安芸だったね、ありがとう。
43 :
人間七七四年:2011/02/22(火) 21:07:34.48 ID:ZrcSSIip
日本の歴史の場合は「捏造」っていう言葉はあまり当てはまらない気がするがな
44 :
人間七七四年:2011/02/22(火) 22:09:46.54 ID:T1WsQSaH
大袈裟に言うのはもともとは中華の史書の影響だろ
自分や主君の御先祖様の実績を書くんだから盛るのが礼儀だろみたいな
45 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 05:22:09.18 ID:qlRH1x6N
東北民はいろいろ誇張したがる傾向が強いけど地元の会津(仙台も?)はとりわけ顕著で
地元でも誇張と知らずに真実だと信じきっている層も少なくない。
早川元市長とか天下り先が白虎隊関連ということもあり
創作の内容を真に受けて山口地方に大人げない誹謗を繰り返しているしなあ。
46 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 08:07:38.65 ID:nx6n+v06
真田幸村について
『真田信繁』が『真田幸村』にとなったのは17世紀中ごろに出版された
「浪速戦記(?)」が初だと思ったのですが、さらに元ネタはどこまでさかのぼりますか?
一説には兄の信之が幕府に憚って『真田幸村』という架空の先祖をでっちあげて
葬儀をおこなった、と聞くが?
それと仙台藩の伊達綱村はアニオタの走りで幸村から字をとった、というのは本当ですか?
47 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 09:24:26.65 ID:GxmhlQDB
難波戦記な
48 :
仙台藩百姓:2011/02/23(水) 10:15:34.70 ID:1y/lzSpl
島津、上杉(長尾)、武田、後北条何かの捏造はファンタジーと化しているじゃんお( ^ω^)
妖怪が出て来たり生首が空飛んだりお笑いもいいところだお( ^ω^)
でも全国一は上杉(長尾)でしょお( ^ω^)
江戸時代の妄想小説真に受けて何がなんでも謙信が神の如き人物でないと気が済まず
上杉関連書籍は冷静さの欠片もなくひたすら謙信を持ち上げてて非常に気持ち悪いお( ^ω^)
米沢市などは全ての小中校に謙信と鷹山の肖像画飾っているぐらいで
この平成の世になっても上杉家を崇拝させようと必死で北朝鮮そのものだお( ^ω^)
だいたい鷹山はともかく謙信は米沢全く関係ないというのに┐ (´ω`) ┌
49 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 15:57:51.56 ID:KHK3KEpr
奇形児の伊達政宗はキモいですか?
50 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 16:22:49.61 ID:jrDx+YPk
恥ずかしながら会津藩兵が北越で略奪していた時の事だが
米沢藩は「旧領民を見捨てられない」と奥羽越列藩同盟の会津藩と交戦も辞さない覚悟で
救援に赴いて北越を救ったという。
越後時代への想いは何百年たってもかなり熱いものが残っていたようだね。
51 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 18:41:43.07 ID:vdPdQ0B1
>>50 > 米沢藩は「旧領民を見捨てられない」と奥羽越列藩同盟の会津藩と交戦も辞さない覚悟で
> 救援に赴いて北越を救ったという。
という名目で越後に介入しあわよくば越後回復を目論んでいたらしい。
幕末には色々なことがあったが、混乱に乗じた領土拡大を志向していたのは米沢藩だけだな。
52 :
仙台藩百姓:2011/02/23(水) 22:17:26.91 ID:1y/lzSpl
しかも上杉家は降伏後、新政府軍に加わって旧幕軍や列藩同盟の残党を討伐すると言う
イタリア並に節操の無い事言い出し非難を浴びて慌てて取りやめるという恥の上塗りをしているお( ^ω^)
53 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 22:40:09.56 ID:Yi7RmoDT
>>52 吉良と秋月の末裔なんだからその程度のことは当たり前
54 :
人間七七四年:2011/02/23(水) 23:22:53.00 ID:1Ayxh4NY
>>53 幕末は当主より家中だろ。
染み付いた上杉の体質。
55 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 00:36:01.93 ID:S7TMgBmT
____
/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\
/ ⌒(__人__)⌒ \ 飢饉さえなければ200万石を超えていた
| |r┬-| | 仙台は日本一の都になっていたはずだ
\ `ー'´ /
56 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 01:08:04.67 ID:3wMCgDfq
太郎太刀についてた窓ってどんなもんなのよ
いまいちピンとこない
57 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 01:39:27.39 ID:8Fly0/Wg
58 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 18:13:36.67 ID:XUFA4x80
天皇に男子が沢山産まれたと思いますが、跡継ぎに関係ない子供らはどこにいって何をしてたんですか?
59 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 18:23:43.62 ID:8Fly0/Wg
60 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 18:46:51.08 ID:8v72flGa
源氏
61 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 19:07:55.83 ID:fWu0rgyi
>>58 臣籍降下して賜姓皇族(源氏、平氏など)になる場合もある
62 :
人間七七四年:2011/02/24(木) 19:40:23.69 ID:4Rh7VDEG
>>48>>52 百姓は上杉関連のコメントをもうちと感情剥き出しに語ることなく出来るようになれば、
この板での認知、理解度も上がると思うんだけどなあ
上杉伊達関連以外の薀蓄はわりかし面白くて良い
63 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 05:30:34.29 ID:Lh0P9qdg
>22
仙台藩もだろ
64 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 05:38:32.57 ID:YDWHFPQA
↑22× >52○
の間違い。
65 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 06:37:08.09 ID:QJxk8kb5
仙台藩って武士の数が最大とか威張ってた割に
半分くらいが武士と認められない水増しだったんだよな
虚仮威しというか竜頭蛇尾というか独眼竜w
66 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 16:14:36.80 ID:hR7+0HrV
んなこと言ってると糞コテ百姓が涌いてくるぞ
67 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 17:14:08.73 ID:B+BjYaNz
民主党の赤松議員 (口蹄疫問題で大臣クビ) は、戦国時代初期の
赤松氏と関係が有りますか?
68 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 18:40:34.10 ID:S4F2SHBo
>>67 どっかの流れで繋がりはあるんじゃない?播磨守護赤松家に繋がっているのかどうかはともかく。
69 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 20:08:03.93 ID:4XWzXjp+
>>67 旧社会党出身の左翼が名門武家の流れを汲むわけないだろw
帰化朝鮮人だろどうせ
70 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 20:12:25.00 ID:qPboOMYr
出ました朝鮮認定w
71 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 20:33:27.66 ID:4XWzXjp+
>>70 現実を見ようぜ
実際に旧社会党は在日の巣窟だっただろ
っていうか日本は今や単一民族国家ではない
身の回りに日本人しかいないと思ったら大間違い
俺の昔の家庭教師も日本名を名乗ってたが在日だったし
Wikipediaの日本の住民の欄にも【日本人、中国人、朝鮮人】と書かれてる
日本は日本人だけのものではなくなってる
72 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 20:44:20.41 ID:S4F2SHBo
>>71 解ったからお前は早く病院に行ってカウンセリングしてもらえ
73 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 20:48:21.80 ID:qPboOMYr
74 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 20:49:50.46 ID:qPboOMYr
気に食わない日本人は何でも在日って
ちょっと活躍した日本人を何でもウリナラ同胞認定する朝鮮人と一緒だと解らんのか
75 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 20:52:43.62 ID:6OxbGprZ
76 :
人間七七四年:2011/02/25(金) 21:38:50.01 ID:4XWzXjp+
>>72 おいおいw
精一杯の反論がそれか?
何回も言う【日本は日本人だけのものじゃない】
与党だった時の自民党の中山大臣の「日本は単一民族国家」発言が波紋をよんで罷免にまで至ったのを覚えてないのか?
もし日本に少数の韓国人しかいないなら、そこまで一大事に至らなかったはず
今は国際社会の時代なのに・・・
77 :
人間七七四年:2011/02/26(土) 01:25:11.44 ID:uRCyZ/oe
>>67 普通に明治新姓のような気がするな
この板に赤松氏のスレがあったからそれ読んでみれば?
確か赤松氏のこと研究してる人が子孫末裔について詳しく追ったレスをしてたはずだから
78 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 09:30:30.16 ID:li+FApXY
>>69 まぁ、後北条の子孫が公明党の書記長やっていたのだから、事実でも驚く水準じゃない。
それを言うなら、共産党の志位の祖父は帝国陸軍少将だし。
79 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 14:08:33.58 ID:CYl4+V7C
大友氏って九州一の大大名ですが
菊池をのっとったり大内や毛利から割譲されたいわば政治的な拡張ばかりで
軍事的に広げた版図ってどのくらいあるのでしょうか?
立花道雪や立花宗茂など猛将がいて国力も他大名を圧倒していたわりに
今山や耳川で敗戦していますしすごいのかすごくないのかよくわかりません。
政治的に割譲された土地>自力で広げた土地だと
ただの棚ぼた大名ではないでしょうか?
80 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 16:16:31.59 ID:Ymtb2BOA
軍事は政治の一部にすぎない
軍事力の裏付けがあるから政治力で圧力をかけれる
これは現代でも同じ
81 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 19:58:42.75 ID:qv8+zZ8f
戦国鍋を語るスレってないん?
82 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 22:08:04.60 ID:YTjmV3bA
割譲なんてされてねーし。
大内ってたぶん陶のことだろうが
陶が義隆を討った後も北九州を支配してるし
陶に謀反した毛利は一時的に大友と手を組んだフリをしたが陶を討った後にさっそく北九州に攻め込んでるし。
旧大内領の豊前筑前の国人たちはみんなガチガチの反大友の鬼ばかりだったといっていい。
博多を維持すべく西の大友と呼ばれた出先機関の立花城や隣の宝満城は陸の孤島状態。
それでも立花道雪死去寸前では筑前を安定させ筑後でも柳川城攻撃までやってる。
大友本隊も豊前をほぼ鎮定してるし。
ちなみに今山の戦いは局地戦であって龍造寺の戦略的不利は覆ってない。
83 :
人間七七四年:2011/02/27(日) 23:41:09.08 ID:AAIskiqg
>>81 もう見つけてるかもしれないけどテレビ番組カテにあるよ
でも文末に顔文字つけるコテハンみたいな人がいて心底ウザイ
84 :
人間七七四年:2011/02/28(月) 02:05:58.19 ID:L6V18igv
九州は武威を見せ付けて平伏させる感じで、
信長や信玄みたいにぶっ潰しての領土拡大をイメージするとちょっと違う感じになるな。
とりあえず強いものに付く、不利になったら降った振りをする、それで許される。
潰された訳じゃないから、隙あらば反抗し、もっと強いものが現れれば雪崩を打って臣従する。
そんな九州戦国時代。
85 :
人間七七四年:2011/02/28(月) 02:18:48.98 ID:8p5mK6lm
>>83 おー、ありがと
ザッと見たけどNGIDにすればだいじょぶかと思う
86 :
人間七七四年:2011/02/28(月) 09:31:49.13 ID:sVMfAV2w
大友ってガチンコでやって毛利に負けそうになって
大内や尼子残党を利用してなんとか追い払った無様な状態。
その後も龍造寺・島津に要所で敗北し、秋月(笑)ですら台頭できるほど九州には隙ができた。
東日本ではありえないな。
87 :
人間七七四年:2011/02/28(月) 18:51:26.76 ID:0pUpnrMk
>>86 大友に毛利がボロ負けしただけ。
ナンデそんなに必死なの?
大内や尼子残党を使う以前に
立花道雪によって小早川隆景隊が大破され毛利勢はすでに追いつめられてたわけだが。
88 :
人間七七四年:2011/03/01(火) 00:32:03.82 ID:QJ4yJBx0
門司城から負けまくって筑前まで押されていて
局地戦で勝ったことをほこられても・・・
89 :
人間七七四年:2011/03/01(火) 02:05:22.31 ID:qvdN4o7e
局地戦なわけねーだろwww
大友と毛利が全軍をあげて決戦してただろ。
そもそも筑前&豊前の国人たちは旧大内配下で反大友なやつらばかり。
毛利はなんら苦労も努力もなく彼らの協力を得られている。
しかも毛利は制海権があり長門周防からの補給も簡単…つか目と鼻の先で対岸見えてるし。
逆に大友は豊後から豊前の敵地である山谷ばかりの地を抜けて長駆補給されてきていた。
結局、大友に撃破され毛利は戦略目標だった商都博多を手に入れることすらできず完全に大失敗。
しかも毛利はこれによる国人たち大動員の褒美や加増ができずに財政をさらに悪化させたまま元就は死去。
90 :
人間七七四年:2011/03/01(火) 06:31:32.01 ID:RzNyh9pt
91 :
人間七七四年:2011/03/01(火) 10:28:01.59 ID:cdeKKpvu
おつ
92 :
人間七七四年:2011/03/01(火) 12:52:47.17 ID:ADQjCDor
本当に大友が強ければ毛利ごときに九州を上陸されることもないわけで・・・
そもそも後年になって織田と対峙して困窮していた毛利を後ろから挟撃している割に
長門周防を攻略できなかったのは情け無いにもほどがある。
西日本の大名は質が低すぎる。
93 :
人間七七四年:2011/03/01(火) 14:06:10.12 ID:qvdN4o7e
>>92 当時はまだ毛利に制海権があったから上陸するのは自由だしw
後年の毛利の田原親貫支援の国東半島沖で大友水軍に毛利水軍が大敗した後は制海権も失われたが。
それと信長が島津と大友の和睦を斡旋してたし、挟撃する前に本能寺の変が起きたのも知らんとはバカ過ぎる。
そもそも焼け落ちた山口の都の再興に失敗した毛利が博多を手に入れたくて大友を攻めてきたが、
大友にしてみたら長門や周防に何の魅力も感じてない。
94 :
人間七七四年:2011/03/02(水) 00:26:10.40 ID:74cYmbFG
95 :
人間七七四年:2011/03/05(土) 10:54:39.54 ID:k56FlJuC
かなりの有名人だったはずだったんだけど松井友閑はどこに消えたの?
96 :
人間七七四年:2011/03/05(土) 12:49:03.22 ID:/w5bRdoR
97 :
人間七七四年:2011/03/05(土) 15:11:46.30 ID:tRqiPi7Z
98 :
人間七七四年:2011/03/05(土) 15:14:22.60 ID:tRqiPi7Z
あと秋月って少弐か大友かどこかの家臣でしたよね?
99 :
人間七七四年:2011/03/05(土) 15:21:13.90 ID:vWdLUPRO
>>97 明確に独立したのは秀吉の奥州仕置き辺り
大名になったのは江戸中期
100 :
人間七七四年:2011/03/05(土) 15:23:19.46 ID:tRqiPi7Z
>>99 ありがとうございます。津軽とおなじような境遇なんですね。
101 :
人間七七四年:2011/03/05(土) 16:27:37.04 ID:cDQlARAJ
102 :
人間七七四年:2011/03/05(土) 16:34:24.94 ID:vWdLUPRO
仮想シナリオでその辺は全くの適当だそうだ
103 :
人間七七四年:2011/03/05(土) 16:54:00.92 ID:/JfN4q6l
蒼天録の北条早雲シナリオは神過ぎる。
104 :
人間七七四年:2011/03/06(日) 16:09:28.64 ID:Xot+VGf4
光秀=天海?
105 :
人間七七四年:2011/03/06(日) 16:58:16.94 ID:wHsYteyK
違う
106 :
人間七七四年:2011/03/07(月) 03:24:35.93 ID:8wXhm24i
>>97 なんだ1511年の船岡山合戦かよ。
蒼天録にあった下記のシナリオも入ってるなら購入確定なんだが。
1495年 駿河の梟雄 小田原城奪取した早雲
1507年 三人の養子 細川政元暗殺
個人的には1486年 当方滅亡!(道灌暗殺)なんてのを入れて欲しい。
107 :
人間七七四年:2011/03/07(月) 14:31:16.95 ID:PswEvpXb
関東戦国乱世突入と言えば長尾景春謀反自立
108 :
人間七七四年:2011/03/07(月) 21:31:37.69 ID:oqhOsmNs
戦国関連の本の人物紹介などで、○○藩主とかって書かれたりするんですけど、藩云々って江戸幕府が出来てからですよね??
109 :
人間七七四年:2011/03/07(月) 21:39:46.55 ID:mANAbvO9
>>108 江戸時代まで生き残った人物なんじゃないの?
たとえば誰に書いてあるんだ?
110 :
人間七七四年:2011/03/08(火) 15:37:55.92 ID:AChvKMWc
そもそも藩という言い方が一般化したのは明治になってからで、
坂本龍馬も「土佐藩士」ではなくて「山内土佐守家中(または家来)」と言われた。
と言っておこう。
111 :
人間七七四年:2011/03/08(火) 15:50:03.13 ID:DY233kST
ただ自分が所属している大名家を「藩」と呼ぶのは江戸後期に漢学を学んだ若い学生や
インテリの間には広まっており、龍馬自身は「藩」と言っていた可能性は高い。
一人称としての「僕」の使用と似たような感じだな。
112 :
仙台藩百姓:2011/03/08(火) 17:55:47.77 ID:fa1P9gAN
藩翰譜というものもあるものね( ^ω^)
大名を差す言葉としては古くからあるものだお( ^ω^)
113 :
人間七七四年:2011/03/08(火) 18:35:09.58 ID:UlYaPVSI
古くって日本では何時からだよ。
114 :
人間七七四年:2011/03/08(火) 18:51:23.25 ID:f/OsFQRc
少なくとも新井白石の頃にはあったわけだ
115 :
人間七七四年:2011/03/08(火) 21:26:06.62 ID:ymsPAwBM
新人物往来社の事典だと、豊臣大名にも平気で「藩」を使っているな。
116 :
人間七七四年:2011/03/08(火) 22:10:03.64 ID:UyAF+X7L
大便をした後に尻を紙で拭く習慣って戦国時代にはあったの?
117 :
人間七七四年:2011/03/08(火) 22:20:10.42 ID:yT26CVFQ
あったが紙が高価だったので一般的ではない
118 :
人間七七四年:2011/03/09(水) 14:13:10.62 ID:jbd1imxs
>>116 縄だよ縄。
前後にゴシゴシこするんだ。
119 :
人間七七四年:2011/03/09(水) 14:18:10.75 ID:jbd1imxs
>>116 あ、追加で、スプーンみたいな木のヘラで糞を取るという方法もあった。
「そっぺら」と呼ばれていた(前田慶次の逸話の中にその話がある)
120 :
人間七七四年:2011/03/09(水) 23:46:20.13 ID:HYtFrZE7
秀吉時代の大坂城内では、そこら中で立ち小便したり啖を吐いたり非常に汚かったと何かの本で読んだ事があるのですが本当でしょうか?
事実とすれば犯人は誰と思いますか?
121 :
人間七七四年:2011/03/10(木) 13:32:52.13 ID:ufhgWC2N
さすがに大はほとんど無かったと思うよ。
人が大勢出入りする場所だから、小はかなりあったんだろうな。
江戸城では、そうならないように現在の金額で数十万円に相当する罰金を科していた。
大阪城の犯人は男も女も全員じゃねえの?
上方の女は立ちションをするといって江戸っ子が驚いたという話もある。
122 :
人間七七四年:2011/03/10(木) 15:16:41.69 ID:AoYJ5krG
室町幕府で重きをなした名門といえば
三管領・・斯波氏、畠山氏、細川氏
七頭(四職)・・(山名氏、一色氏、京極氏、赤松氏)、土岐氏、上杉氏、伊勢氏
武者頭・・吉良氏、今川氏、渋川氏
これらがあげられますが
六角氏や武田氏や佐竹氏などの源氏の名門や
地方の有力者である伊達氏や少弐氏や大内氏や大友氏などには
なにか呼称はないでしょうか?
123 :
人間七七四年:2011/03/10(木) 16:07:00.18 ID:NjN3kGqd
>>122 > 七頭(四職)
七頭の存在は現在否定されています。室町幕府の序列は
三職・御相伴衆・国持衆・准国持両人
であったとされる。
で、御相伴衆が
山名・一色・阿波細川・能登畠山・赤松・京極・大内
の七家家督に限定。
六角は「国持衆」に含まれる。
甲斐武田や佐竹は鎌倉公方の管轄下の「国持衆」だな
少弐や大友は九州探題管轄。伊達は大永三年(1523)以降は陸奥国守護家、でいいと思う。
124 :
人間七七四年:2011/03/10(木) 16:12:25.92 ID:ufhgWC2N
関東八屋形(御屋形様と言うのはここから)とか管領代とか、
125 :
人間七七四年:2011/03/10(木) 16:14:08.71 ID:AoYJ5krG
ありがとうございます。
地方の有力者にも序列があったのですね。
126 :
人間七七四年:2011/03/12(土) 15:53:06.09 ID:GWoWLBQf
おーい 仙台百姓 生きてるか?
127 :
人間七七四年:2011/03/12(土) 17:07:18.70 ID:g0mSb/Jq
東北の人の無事を祈るのみです
128 :
人間七七四年:2011/03/14(月) 09:50:49.42 ID:3QydruoC
質問いいでしょうか。風魔小太郎の伝承についてです。
小太郎の外見についてなんですが、昔どこかで女性の様な外見で老人の様な声だった
という伝承を見た記憶があるのですが、詳しいことは忘れてしまいました。
グーグルで調べてみても巨体だった等の伝説以外拾えずお手上げです。
誰か詳しい人がいるでしょうか。
129 :
人間七七四年:2011/03/14(月) 12:53:36.00 ID:EJUvCXII
江戸時代に講談の中の一人物として書かれたものだよ。
受け狙いのためには、怪物にした方がいいから。
風間出羽の守という武将はいたのは当然承知と思うが、
服部半蔵と同じく忍者ではなく、忍者を率いた元締め。
講談「真田十勇士」で超人的忍者が持て囃されたこともあってこうなった。
当たり前のことしか書けない、あしからず。
130 :
128:2011/03/14(月) 13:20:54.36 ID:3QydruoC
返答ありがとうございます。
妙齢の女性の外見で老人の声という伝承は他所物に姿を特定させない為の
工作に尾ひれがついた結果かな、と個人的に思っています。
知りたいのは私が昔聞いたその話の元ネタです。
多分光栄系のゲームの人名ファイルあたりだと思うのですが、
適当に書かれたものでなければ元になった資料なりがあると思います。
そのあたりご存知の方はいないでしょうか。
131 :
人間七七四年:2011/03/14(月) 13:46:20.76 ID:EJUvCXII
5代目小太郎
『北條五代記』・「三十九 関東の乱波智路の事」
それ風摩は二百人の中に有てかくれなき大男、
長七尺二寸、手足の筋骨あらあら敷、こゝかしこに村こぶ有て、
眼はさかさまにさけ、黒髭にて、口脇両へ広くさけ、きば四つ外へ出たり。
かしらは福禄寿に似て、鼻たかし。
声を高く出せば、五十町聞え、ひきくいだせば、からびたるこえにて幽なり。
132 :
128:2011/03/14(月) 18:28:07.19 ID:3QydruoC
>>131 重ね重ねレスサンクス
やはりそれしか伝承はないのか。
とすると何らかの思い違いだったのかな?
わざわざ答えてくれて有難う
133 :
人間七七四年:2011/03/15(火) 01:20:29.49 ID:yEPea1lz
織田信長が上総介を僭称(追認されたけど)したのは有名ですが
どうせ畠山氏の世襲官位を僭称するなら尾張守を僭称したほうがいいとおもうのですが
なぜわざわざ尾張と関係ない上総介を僭称したのでしょうか?
134 :
人間七七四年:2011/03/15(火) 10:34:26.17 ID:lwwF2jTP
上国の尾張に比べ大国で親王任国と格が高いからじゃねかに、
135 :
人間七七四年:2011/03/15(火) 13:55:16.13 ID:xwk8d+RW
尾張守は義輝の時の最初の上洛で貰えたんじゃなかったか?
>>132 影武者徳川家康では小柄な優男だったね。
「ひきくいだせば、からびたるこえにて幽なり」
(老人が諭すような奥深い声で話す)からいろんな小太郎が生み出された、と
136 :
人間七七四年:2011/03/15(火) 14:51:20.47 ID:Gcm1jiOY
信長が上総介を名乗ったのは元服直後の家督相続前からであり、
その時点で尾張守を名乗るのは流石に他の尾張国内の勢力に対し挑発的すぎるからかと
137 :
人間七七四年:2011/03/15(火) 16:04:20.30 ID:64bNwiX6
>>136 上総守と名乗ってた辺りそこまで深く考えてない気がする
138 :
人間七七四年:2011/03/20(日) 00:32:03.72 ID:C+FfimhF
正義の戦ってありますか? またはありましたか?
139 :
人間七七四年:2011/03/20(日) 07:35:15.90 ID:sal0heWR
>>138 誰も皆自分の信じる正義の為に戦ってる。
140 :
人間七七四年:2011/03/20(日) 12:30:39.38 ID:Pi/w1yaA
今織田信忠を調べているのですが
信忠を学問的に研究していて尚且つ手に入りやすい資料ってありますか?
141 :
人間七七四年:2011/03/20(日) 12:37:47.05 ID:eDImjFgV
今は調べる=人に聞く
って構図なのかな?
142 :
人間七七四年:2011/03/20(日) 14:51:44.56 ID:zpstknIl
秀吉はほんとは猿って渾名じゃなく禿鼠って呼ばれてた説が主流だけど、猿説はどっから出てきたの?
猿って書かれた当時の資料はほんとにないの?
143 :
人間七七四年:2011/03/20(日) 15:39:34.94 ID:2p0uaeyg
資料と言わず「史料」と書いてくれ。
一次史料の手紙や貴族の日記には一件もない。
「信長公記」にも宣教師の記録にも載ってないね
144 :
人間七七四年:2011/03/20(日) 16:32:05.28 ID:VceSdsiH
>>142 聚楽第に書かれた落書き
「まつせとは へちにはあらし木の下の さる関白を見るに付けても」
他にも日吉大社の神の使いは猿だからとも。
145 :
人間七七四年:2011/03/20(日) 16:46:43.26 ID:lHL41evB
冠つけた猿の項羽の故事に重ねてる。
146 :
人間七七四年:2011/03/20(日) 17:47:48.62 ID:FiDCeB1I
秀吉が猿というのは宣教師の記録に出てくる。
あとまだ織田と毛利が対立していない頃の、京に出張した毛利家の家臣の記録で、
秀吉の出陣風景を見て「話しに聞いてたけどたしかに猿そっくり」って書かれている。
147 :
人間七七四年:2011/03/21(月) 11:12:54.66 ID:jSOWxYbm
>>142 そもそも禿鼠は世間からではなく信長からのあだ名である事に注意な。
148 :
人間七七四年:2011/03/21(月) 12:24:58.25 ID:u/nQO53v
朝鮮出兵を聞いた蒲生氏郷
「猿め、死に場所を失うて狂うたか」
149 :
人間七七四年:2011/03/21(月) 22:55:30.53 ID:wgzyXpan
江北に国友村という一大生産地があったにもかかわらず
浅井や近隣の朝倉、斎藤といった大名家の戦記もので
鉄砲隊を編成して戦闘を行った記述があまり見受けられないのですが
織田家の支配下に収まるまでは生産力はあまり無かったのでしょうか
150 :
人間七七四年:2011/03/21(月) 23:00:38.22 ID:1Ly9naeR
滅んだ家の記録は残りにくい。
あと鉄砲を使うのがあまりに普通のことだったから記録されなかっただけです。
151 :
人間七七四年:2011/03/21(月) 23:13:44.68 ID:wgzyXpan
>>150 なるほど、ありがとうございます
浅井や朝倉、斎藤家にも鉄砲の名手なんかがいたら記述も残ったのかもしれませんね
152 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 14:02:44.77 ID:Em/ZISRY
浅井、斉藤が健在のころの鉄砲は、戦いを始める合図のようなもので、
本格的に殺人兵器として活用されたのは信長台頭のころからだよ。
それまでは、鉄砲隊の指揮官にされたと言って恥じる武将が多かった。
記録に残っていないのはそんな理由も。
153 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 14:14:25.70 ID:vBQBXqLw
大谷吉継の幼名ってけいまつなんですか?のりのすけなんですか?
154 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 15:01:56.30 ID:FVw2YyFe
>>152 ないない。三好長慶の時代にはすでに大銃撃戦が繰り広げられておる。
155 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 16:32:25.51 ID:IcoXmZnZ
織田厨はデタラメはくから相手にしない方がいいよ。
信長云々以前から紀州の坊主どもが鉄砲の使い手として関東にまで技術を伝播させてたしな。
156 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 16:42:45.38 ID:jIBgJF++
信長が使い始めたと言うのならデタラメになるけど、
信長が台頭したころから各地で使われたというのならそれほど間違ってもいない
157 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 16:54:35.69 ID:+zQ8+Ds8
信長の台頭(時期)の定義による
158 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 21:28:32.13 ID:nycl53nE
安房里見氏は小田原の役で秀吉に与したのに、なぜ上総領を没収されたんですか?
159 :
人間七七四年:2011/03/22(火) 21:32:43.61 ID:23FVCgio
小弓公方再興なんて余計なことをやってたから。
160 :
人間七七四年:2011/03/23(水) 05:46:10.82 ID:8BamesrP
そもそも鉄砲を豊後の猟師が使用してるのを見て
それを学んだ薩摩商人の岸和田が創始した岸和田流の炮術があってだな、それを関東に広めていったと言われている。
また根来衆の杉房や二王坊という者もおそらく同時期くらいに関東に広めてると思われる。
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信長が道三との会見で鉄砲を大量所持していたとしても
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのか疑問。
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富はとてつもないものだったろう。
161 :
人間七七四年:2011/03/25(金) 20:05:57.14 ID:tjtgJUiJ
織田信長亡き後、織田家の家臣達はあまり織田家を大事にしていないというか守ろうとしていないような感じがします。
織田宗家の遺領を家臣達が分配した事に関しても当時の僧が書かれた「多門寺日記(?)」にも痛切に皮肉られているし。
信長と幼馴染と言われていた丹羽長秀、前田利家、池田恒興等も秀吉の織田家簒奪に早い時期から手を貸しています。
その理由は信長が恐怖で支配していたせいで人望が無かったせいなのでしょうか?
162 :
人間七七四年:2011/03/25(金) 20:24:16.40 ID:D3qnQPAP
>>161 簡単にいえばそうするしか無かったため。
そもそも信長の体制は組織や仕組みが殆ど未整備で、よくも悪くもその地域を任された人間が
個人的技量で統治する、というものだった。
信長が生きていたときはそれらを信長が統帥していたのだが、信長という核がなくなった以上、
個人的技量による統治を拡大せざるを得ない。そのため、無論諸将の欲得の面もあるが、
現実問題としても織田家勢力圏を保持したいのなら、その分割という手段を取らざるを得なかった、
と考えていいかと。
163 :
人間七七四年:2011/03/26(土) 00:49:18.24 ID:QGQHEGxH
質問です。
戦国時代にはキリスト教が広がっていく中で国内に教会が存在したと聞くのですが、
それがどのようなデザインの建築だったのかわかる絵などは残っていないでしょうか?
西洋そのままのデザインだったのか日本風になっていたのか気になるのですが。
164 :
人間七七四年:2011/03/26(土) 01:05:58.52 ID:L9tlkcyw
>>163 仏教の寺と同じ。なのでヨーロッパから来た宣教師の一部から現地化し過ぎだと
文句が出ておる。
165 :
人間七七四年:2011/03/26(土) 09:19:06.35 ID:b8OUVB0W
>>163 最初の教会である山口の大道寺は廃寺を改築したものとか・・・
166 :
人間七七四年:2011/03/26(土) 10:16:23.72 ID:QGQHEGxH
>>164 >>165 ありがとうございます。
では教会と言ってもせいぜい十字架がついてる程度の寺ってイメージでいいんですね。
167 :
人間七七四年:2011/03/26(土) 10:41:21.85 ID:vtgtd3H4
>>163 ありがとうございます。勉強になります。
信長は絶大な権力を持っていたけど、実の所は彼のカリスマ性によって支えられて
いた脆さのある危ういものだったんですね(まあ独裁というのはそういうものでしょうし、
信長は軍事的勝利優先で内政までは手がまわらなかったのでしょうが)。
もう一つ伺いたいのですが、信雄が家康へ助力を求めた事によって小牧・長久手の戦いが起きますが
家康が信雄に手を貸したメリットは何なのでしょうか?
勿論家康も信雄を利用して権力拡大を狙っていたとは思うのですが、当時秀吉は光秀、勝家に勝利し日の出の勢いが有り、
信長から引き継いだ圧倒的な軍事力、兵力に経済力がありました。
信雄の単独講和という結果になりましたが、秀吉が全力で攻めれば負けていた可能性が高いと思います。
結果論秀吉は家康は自分を高く売る事が出来ましたが、下手したらヤバかったかもしれません。
168 :
人間七七四年:2011/03/26(土) 11:12:12.58 ID:jOyJhmuJ
>>167 >秀吉が全力で攻めれば負けていた可能性が高いと思います。
秀吉はそうは思わなかったから信雄と単独講和に持ち込んだ訳ですが。家康にとってはむしろ
今秀吉を叩いておかないと手をつけられなくなる、という絶妙の機会だったと思います。
三方原の事を思えば一度も手合わせする事無く、秀吉に臣従するはめになるのはいやだった事でしょう。
169 :
人間七七四年:2011/03/26(土) 12:14:07.53 ID:L9tlkcyw
>>167 家康側の理由としては、本能寺後の天正壬午の乱での甲信への介入も「織田政権」『公儀』の
意思として行っており、事実家康の軍事行動は「織田政権」、信雄、信孝、秀吉、柴田勝家、
丹羽長秀などの全面的な支持と援助のもと行われている。
家康の甲信進駐の名分がそうであった以上、その安定も「織田政権」の支持を必要とする。
特に真田、木曽、小笠原といった大名クラスの勢力が多い信州ではそうだった。
そしてこれは案外知られていないが、賤ヶ岳の過程で秀吉、丹羽長秀、池田恒興は
清洲体制の崩壊と共に三法師の擁立を断念。天正11年10月28日、新たに
織田信雄を織田家家督に据えた。
この事は秀吉から家康にもその同意を求める書状が送られている。
賤ヶ岳の結果信孝も滅亡し、公的にも事実上も織田家を代表するのは信雄となった。
つまりかつての織田徳川同盟の流れから言っても、また新領地の支配安定のためにも
家康に取っても、信雄との同盟は現実的に必要だった。
その証拠に小牧長久手の後秀吉と信雄との間に単独講和がなると、信州の小笠原、木曽、真田は
秀吉の側からの工作もあってすぐに家康から離反している。徳川の支配のための名分と
バックアップが崩れたためだ。
それでも秀吉への臣従まで甲信を保持し得たのは家康の器量だが、とにかく家康にとっても、
信雄を助けるのはその生存に関わる重要性を持っていた事は理解されていい。
170 :
人間七七四年:2011/03/27(日) 01:42:46.99 ID:nl7jDLQN
気になったのですが、
例えば父親が源氏でも母親が平氏だからと平氏を名乗ったりなど、
母系を根拠に氏姓などを名乗ることはできたのでしょうか?
もちろん、名乗ることは自由だったでしょうがそれが文化的にある程度は
正当性があると受け入れられたのかという意味です。
171 :
人間七七四年:2011/03/27(日) 01:48:00.18 ID:5bFMKcw+
母方の実家に養子に入るパターンとは別にってこと?
172 :
人間七七四年:2011/03/27(日) 02:44:48.63 ID:kEHtfynE
家の血統は父系だからなあ
正直、通常はまずないと思う
173 :
人間七七四年:2011/03/27(日) 12:27:16.73 ID:krstTaR/
174 :
人間七七四年:2011/03/28(月) 05:54:43.10 ID:yckgLFyE
堀越公方や古河公方と仲が良い関係者がよくわかりません。
北条だけでなく幕府や両上杉や武田信虎とか周辺の大名だけでなく
遠方の大内もどちらかの派閥だったそうですね。
それぞれの派閥に与した勢力を教えてください。
175 :
人間七七四年:2011/03/28(月) 08:39:03.01 ID:EJrOCVgE
>>174 時期によってずいぶん変わるが、堀越公方だと
・初期
堀越公方-山内・扇谷上杉-今川-幕府
・中期
堀越公方-扇谷上杉-甲斐武田
・末期
堀越公方-甲斐武田
古河公方だと
・初期
古河公方-結城-小山-宇都宮-那須-小田-千葉-真里谷武田-里見-長尾景春
・中期(河越夜戦以前)
古河公方-山内上杉-北条
・後期(河越夜戦以後)
古河公方-北条
176 :
人間七七四年:2011/03/29(火) 07:27:27.48 ID:HvNNJ5gm
>>175 ありがとうございました
やはり情勢はめまぐるしく変わってますね
177 :
人間七七四年:2011/03/29(火) 16:43:28.25 ID:C7A/BqTr
>>176 【安房・上総】里見氏を語るスレ2【関東副将軍】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1260625858 102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/08(金) 20:20:54 ID:JogweBBA
古河公方の影響力がほとんどなくなるのは何年あたり?
そのあとは誰が和睦調停をやったの?
166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/25(木) 21:23:49 ID:p2nffH7V
>>102 調べた。
古典的な研究だが1986年の『古河公方の権力基盤と領域支配』市村高男 によると
天文末から永禄半ばまでは佐竹・結城・那須・小山・江戸らの年頭挨拶が確認できる。
しかし、天正二年の関宿陥落と、北条氏康による古河公方権力の吸収以降には
里見・佐竹・宇都宮・那須の出仕は確認できないとのこと。
これ以後は北条傘下の諸氏だけが出仕したそうな。
房総で言えば臼井・国分・千葉・高城・村上・大坪ね。
ただし、結城・山川・常陸行方衆に限っては、北条に対立する勢力にも関わらず
天正5,6年まで出仕が確認できるとのこと。
彼らは独自に古河公方と強力な結びつきを持っていたのがその理由。
いわゆる天正六年の佐竹=結城=宇都宮=那須の反北条同盟が契機になってるみたいだな。
178 :
人間七七四年:2011/03/29(火) 20:20:03.62 ID:83LJXN1N
戦国時代の性生活について質問
・男女それぞれ何歳くらいで褥をともにしていたか? 特に前田利家は鬼畜と言われなかったのか?
・結婚できる続柄の限界は? 伯父姪、伯母甥で夫婦になったのもいるが?
・某小説で家康は早漏と描写されていたが当時はそれが普通だったのか?
・質問じゃないんですけど横山マンガで雑兵がレイプの順番をちゃんと守って
行列してたのが可笑しかった。
179 :
人間七七四年:2011/03/30(水) 07:21:39.59 ID:OQeVMWPf
新潟県の津川城は戦国・江戸時代は陸奥国所属と思ってたんですがこれは間違いですか?
ぐぐってみたら越後津川城って書いてる場合が一番多く、次が会津津川、陸奥津川
は0でした。
180 :
人間七七四年:2011/03/30(水) 13:47:14.36 ID:OUkTet3U
>>179 ちゃんと調べた訳じゃないけど、会津領だから陸奥国になるって事じゃないでしょう。
国境と何処の支配なのかは全く無関係です。
181 :
人間七七四年:2011/03/30(水) 19:06:09.17 ID:OQeVMWPf
182 :
人間七七四年:2011/03/31(木) 16:50:34.96 ID:1wKeE7UB
>>178 ・当時結婚は女13歳が平均的な年齢だから、松が12歳というのはそう珍しいことじゃないだろ。
初潮が始まるまで床入りは控えるという武将もいたようだが。
・太古の昔は兄妹もあったが、宗教や儒教の普及で伯父姪が限界。
・家康の側室は年増とロリの両極端がいて、年頃(10代後半)てのがいない。
ロリが年頃になると興味を失いまた、若いのを求める(と想像する)。
それが家康の興奮を高める女の条件、興奮度合いが高ければ早くイクわな。
183 :
人間七七四年:2011/04/01(金) 17:18:17.72 ID:htBb5gn1
続柄に関しては宗教や倫理よりも
婚姻によって家同士を結びつけるのが最重要課題だから
近すぎる間柄と結んでも勿体無い、という面の方が大きかったんじゃなかろうか。
184 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 07:33:00.96 ID:aJyyvUBO
森成利(蘭丸)って講談やらのイメージが優先されてるだけで、特に優秀だった訳では無いとよく言われますが
嫡子でも無く、めちゃくちゃ名門という訳でもないのにあの歳で城主になり
かなりの領地を与えられたのは、やはりなかなか優秀だったからなんじゃないでしょうか
それとも、同じような例は他にいくつもあるのでしょうか
185 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 09:29:30.15 ID:MQ8PMRJe
>>184 取次役は色々な能力が要求されるから無能では務まらない。
だから相応の能力があったことは間違いない。
が、森家の場合は可成の討死までの一貫した忠義もあって特別扱いを受けている側面もある。
何より活動期間が短すぎて総合的な能力を評するにはデータが少なすぎるんだよな。
186 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 13:27:29.63 ID:ZcG8zz5e
信長の申次は何人もいるが、森乱丸は信長最末期には最重要地域である畿内関係を
一手に引き受けていた感がある。
信長による森家重用方針があったのは勿論だが、それを置いてもやはり優秀だったのだろう。
187 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 17:42:42.97 ID:aAyQqeEM
>>186 それは流石にソースを聞きたい。
谷口などは現存する史料からは大した事はしてないとしてるが
188 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 17:51:51.38 ID:HJPqIWrh
よく、信長がもし天下を取っていたら日本は朝鮮の一部まで領土にしていたはずとか、
日本ではこんな政治が行われていたといった内容が書かれている本がありますが、
ああいったものは何を根拠に書かれているのでしょうか?
生前に信長が天下を取ったら海外遠征したいとか、海外と貿易を活発化させたいなど
彼の政治の青写真のようなものが記された史料が存在するのでしょうか。
189 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 18:02:29.03 ID:piQ+elsC
>>188 ほとんど誇大妄想であり
はっきり言うと著者の願望でありデタラメ
190 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 18:47:48.98 ID:VCdIm5IM
もし〜だったらっていうのだから妄想以外の何者でもないよなw
191 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 18:51:30.69 ID:HJPqIWrh
ありがとうございます。
信長が生きてた場合のシミュレートってほとんど妄想だったのですか…
信長がどんな形で日本を統治し政治をしたはずとか
一体どうやって分析してるのか気になってたのですが。
192 :
人間七七四年:2011/04/02(土) 19:56:56.27 ID:1oo6Dm0e
>>188 フロイスの日本史で
「日本を制圧したら一大艦隊を率いて〜」がある。
それしかない。
そもそも、信長の政治の実態も、軍の実態も、確実なことは何も分からないのが現状。
193 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 06:53:17.06 ID:8bYzQONm
大阪城の浪人衆で真田信繁だけが幸村として神格化され有名になったのは何故でしょう?
大阪の役での功績ならば毛利勝永や明石全登も劣らないはずでし、
キャラクター性というならば長宗我部盛親や後藤基次の方がキャラが立ってると思います。
194 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 09:12:42.26 ID:z95C7d5d
徳川軍を撃退した事がある真田昌幸の息子だからじゃないの
195 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 10:47:41.42 ID:JE/8rt2b
幕府軍を苦しめた大阪城の出丸が、信繁が作ったわけでも無いのに何故か「真田丸」と
呼ばれたためだろうな。はっきり言ってそれだけだと思う。
ちなみに「真田丸」の主力は長宗我部勢。
196 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 10:55:54.94 ID:ZOKqIO92
>>193 実際に徳川陣に最も深く侵入したのが真田だった事(ただし家康本陣は全くの無傷)と
冬の陣での真田丸での活躍もあり、まぐれでは無いとされた事
これらにより、もしかしたら、あと一歩進めたらと、
想像を膨らませるのに真田が最適だった訳やね
197 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 11:31:03.99 ID:9gUms4wk
ロマンとしては武田軍略の栄光の残照として
講談としては甲府や信濃や上野の山河を根城に活躍した忍軍の頭目として
滅びの美学を描くのに最大限の効果があったから。
198 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 14:29:35.78 ID:tmSPoxXn
子孫が生き残ったのも大きいな。
仙台藩に仕官し、のちにインダビューを受けてる。
199 :
人間七七四年:2011/04/03(日) 18:33:17.15 ID:EspPTfbp
ほんとに片倉守信が信繁の血を引いてるのかねぇ?
すごい怪しいけど。
200 :
人間七七四年:2011/04/04(月) 22:06:22.76 ID:q+I/C7KC
>>199 片倉重長の後室に真田信繁の息女が入っているし、その係累で召抱えられて片倉氏を称したというのも
そう不自然でもないし、信じていいんじゃないか?
201 :
人間七七四年:2011/04/05(火) 06:54:56.49 ID:GqC8k9EV
その息女も充分怪しい
伊達の自称だし
202 :
人間七七四年:2011/04/05(火) 20:51:38.58 ID:DfTN+Ncr
花押とは現代で言うと、印鑑みたいな物なんでしょうか?
203 :
人間七七四年:2011/04/05(火) 21:02:47.89 ID:5BduoJx7
署名やね
204 :
人間七七四年:2011/04/06(水) 00:44:05.24 ID:ER2OZLeh
武田家の家臣における城主と城代の違いは、重臣の格の違いだけですか?
205 :
人間七七四年:2011/04/06(水) 00:47:18.67 ID:Gxi8CuwB
>>204 城主はその地域の領主でもあるが、城代は役人、軍務官僚だ。
206 :
人間七七四年:2011/04/06(水) 01:02:46.84 ID:ER2OZLeh
>>205 それで高坂さんも最前線の城ということで城代なんですね。
ありがとうございました。
207 :
人間七七四年:2011/04/06(水) 17:40:18.22 ID:F6hzjLnA
加藤清正が文禄の役の時に李臣舜が水軍で指揮を採っていて追い詰められた時に隙を見て水中から指揮を採り敵の李の船を撃沈させた話がありますが、加藤清正は今で言うウェットスーツみたいな物を着ていたのですか?
どうやって水中から指揮を採ったのですか?
208 :
人間七七四年:2011/04/06(水) 23:19:28.89 ID:Gxi8CuwB
>>207 当時の「水中」は「水の中」という意味ではない。
水に浸かった状況で、とかその程度の意味だろう。
209 :
人間七七四年:2011/04/06(水) 23:23:44.19 ID:tRWhGo/2
戦国時代の青銅製前装砲に触れた書籍はありますか
210 :
人間七七四年:2011/04/07(木) 19:14:58.53 ID:2NU7wpkk
戦国時代に蠣崎氏がアイヌと何度か紛争を起こしていたと聞いたのですが
当時のアイヌ民族の武器というのはどういったものだったのでしょうか?
あまり銃や刀をなどを使ってそうなイメージはないですが。
211 :
人間七七四年:2011/04/07(木) 19:46:48.25 ID:dN9l59Ec
212 :
人間七七四年:2011/04/08(金) 15:39:16.39 ID:ceQjqxKT
>>211 ありがとうございます。
吹き矢ですか、確かにそう言われると使ってそうな雰囲気がしてきます。
213 :
人間七七四年:2011/04/08(金) 18:37:52.49 ID:736FH7ov
主力はアイヌ短弓、槍類、アイヌ曲刀な
214 :
人間七七四年:2011/04/09(土) 20:31:54.81 ID:DUkXCfM2
合戦で、「先に動けば不利」というのは、どういう状況なのでしょうか?
215 :
人間七七四年:2011/04/09(土) 21:16:48.89 ID:HLEolBKd
>>214 「先に動けば不利な状況」としか言い様がない。
個々それぞれに様々、だよ
216 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 05:15:04.86 ID:qBPAFGT9
後出しジャンケンをすれば先出しに対して対策を立ててから行動できるから。
しかし先出し側が罠をはってる場合はその限りじゃない
217 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 12:38:14.75 ID:9CAyBMCj
夜になったらお家に帰れる状況
218 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 12:42:14.88 ID:3Hd5XTfb
夜襲ってたいてい仕掛けたほうが勝っているよな
219 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 12:56:36.78 ID:eJNZJ7yo
物語上ではね
220 :
人間七七四年:2011/04/10(日) 13:29:07.81 ID:HSQpv5Zj
実際、真っ暗で目の前すら見えないので同士討ちをしたり
迷子になって敵にバレたり、
示し合わせた時間に到着できなかったりで
夜襲なんてやらない。
やるのは明け方の寝込みを襲撃だから。
221 :
人間七七四年:2011/04/11(月) 02:42:32.75 ID:d8aAadya
勢力の大小によって、価値は変わるけど、敵の大将首って、実際はどれぐらいの価値だったんだろう?
下っ端の足軽でも、大将首取ったら、村や町が一つ二つ貰えたぐらい?
222 :
人間七七四年:2011/04/11(月) 08:37:36.75 ID:lvNgAyPo
223 :
人間七七四年:2011/04/11(月) 21:46:30.43 ID:d8aAadya
>>222レスどうも、じゃあ、下っ端はそのボスからどれぐらい貰えるんだろう?
224 :
人間七七四年:2011/04/11(月) 22:03:20.72 ID:LuUInu8N
侍に取り立てられるくらいはするんじゃない
225 :
人間七七四年:2011/04/11(月) 22:36:24.72 ID:AgdK8ivA
足軽でも直々に恩賞ぐらい与れないの?
226 :
人間七七四年:2011/04/11(月) 22:46:42.21 ID:LNgFXJt+
具体例挙げた方がよくね?
大将首上げた実例がそもそも乏しいわけだし
227 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 01:03:25.46 ID:hcb0G+Yb
敵陣に突っ込むのは侍の役目。
落ち武者狩りはともかく足軽が大将首上げる事はまず無いんじゃ。
228 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 14:24:58.92 ID:PgE6i0J+
桶狭間のとき、毛利新助の身分はどのくらいだった?
229 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 18:33:20.07 ID:sD8G39HW
馬廻り。親衛隊士のひとり。
230 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 19:38:05.76 ID:9J7qTH/f
>>223だが、皆レスサンクス。
ふと『どれくらい褒美が貰えるのだろう?』と思って聞いてみたけど、やっぱ、下っ端の足軽が手柄立てるのは難しいんだな…
231 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 19:54:12.64 ID:sDxIXdnN
雑兵から出世するなら、先ず経理部門(奉行)から
232 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 20:21:42.81 ID:4nJDp+eN
じゃ、落ち武者(割と大物)を狩った百姓はどれぐらい恩賞にあずかれるのかな?
233 :
人間七七四年:2011/04/12(火) 20:38:27.91 ID:LaKUvIAJ
どういう状況かにもよるが、基本落ち武者狩りは惣村の共同作業なので
落ち武者を殺したり捕らえたりした村には納税の免除など負担の軽減が与えられる場合が多い。
234 :
人間七七四年:2011/04/13(水) 05:07:09.32 ID:szTwUTY2
明智光秀の水色桔梗の「水色」というのは現代人が想像する水色と同じものなのでしょうか?
ドラマやアニメなどを見ていると非常に鮮やかな色になっていますが。
235 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 11:51:15.07 ID:GdMpPXVG
徳川は関東では他所者にも関わらずなぜすんなり統治出来たの?
国人の反発とかなかったの?
236 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 12:10:12.49 ID:yEyey1wz
風魔の跳躍など一部北条旧臣の反抗はあった。しかし基本的には北条の支配機構を
そのまま組み入れたため大きな反発はなかった。
あと北条はプレ近世大名と言われるほど進んだ機構を要し、国人の家中への取り込み、つまり
国人の役人・官僚化が進んでいたため、徳川としてもむしろそれを積極的に取り込むことができた。
237 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 12:14:35.56 ID:GdMpPXVG
一応反発はあったけど小規模だったんだ
国人の役人・官僚化ってどういう状態からどういう状態になったの?
238 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 15:41:28.75 ID:IBC0OLpg
家康たんのケツ毛はどうしてあんなに瑞々しいの?
家康たんの菊門はどうしてあんなに締まりが良いの?
239 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 18:24:23.67 ID:1QlWxmfk
>>237 組合に所属する自営業から、会社に所属するサラリーマンへ
無理やり現代に当てはめればこの途中まで行ったという事
240 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 18:36:58.11 ID:I0Q0kNCW
>>237 端的に言えば北条は検知と貫高制の確立により、それまで武士とは領地という「空間」と
不可分だったものを、土地を生産性という「数値」に置き換えることで、武士それ自体も
その数値により管理される存在へと転化させた。
>>239が言っているように、「どこどこの〇〇商店」という屋号で把握されるのではなく、
その収入額によってのみ評価される存在になったわけね。
これにより武士の在地性は限りなく薄くなり、多くが家中に組織化された。
武士の近世化とはこの過程だが、それが最も早く進んでいたのが北条。
241 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 19:03:35.86 ID:GdMpPXVG
>>239-240 なるほど…
ありがとうございました
北条によって土豪の在地性が薄かったから徳川が入ってきてもすんなり行ったんですね
242 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 19:28:59.30 ID:tgULMNer
>>241 ちょっと違う。
もっと長いスパンで見る必要がある。
相模・武蔵は鎌倉時代に幕府の北条得宗家領として再編され、地生えの豪族が成田氏除いてほぼ壊滅した。
南北朝時代以降は鎌倉府と山内・扇谷上杉氏らによって、
領主が何度も入れ替わるサラリーマン的な土地が長年かけて形成されて来た。
後北条氏みたいな新参がすんなり相模武蔵を制圧できた理由はまさにそこにある。
上野は、微妙に違うのだが、謙信と氏康の長年の戦争の結果、
旧来の一揆・荘園体制が崩壊し、「領」に再編されて、相模・武蔵と同様、治めやすい土地に変わった。
そうやって鎌倉時代以来長年ローラーをかけられた土地に徳川が来たから、すんなり受け入れられたということ。
243 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 19:31:00.07 ID:GdMpPXVG
>>242 北条だけではなく鎌倉以来の蓄積の結果ということか…
d
244 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 19:31:26.40 ID:P5CoEOOS
で、ソース付きで具体例を箇条書きしてくれないか?
そんな空虚なデタラメ妄想は勝海舟だけにしてくれ。
245 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 19:34:52.37 ID:GdMpPXVG
野暮な事を言う
ソース付きの解答が聞きたいなら最初から書籍を紹介してもらうさ
246 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 19:37:59.15 ID:tgULMNer
>>244 とりあえず『「領」と戦国大名』則竹雄一でも読んで見たら?
247 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 20:19:41.38 ID:P5CoEOOS
いやだから転記してくれよ。
平気でデタラメのソースを出すやつがいるからな。特に北条厨が。
248 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 20:27:46.27 ID:tgULMNer
>>247 一体何が知りたいんだ?
「何が分からないのか分からないけど転記しろ」というのはよしてくれ。
おれも
>>236や
>>240にソースがあるのかは知らんよ。
>>242の内容は峰岸純夫や池上裕子などが長年主張し続けてきたことだよ
249 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 20:48:50.27 ID:esssbQH8
250 :
人間七七四年:2011/04/14(木) 20:49:00.81 ID:1QlWxmfk
subこそたまにはソース出してみろよw
251 :
人間七七四年:2011/04/15(金) 06:51:10.83 ID:Cg0DIfeQ
なんだ転記できずににげるのか
252 :
人間七七四年:2011/04/15(金) 08:20:45.30 ID:POuSQn0J
戦国時代末期に各地方は統一の兆しをみせていますが
東北のみ伊達ですら地方統一には遠く及ばない状態
いわば群雄割拠が残っていました。
これはせっかく戦力を動員できる農閑期になっても
冬に閉ざされる東北の環境が戦闘を困難にしているせいかと思います。
かつては奥州藤原氏という東北に覇を唱えた巨大勢力もいましたが
なぜ奥州藤原氏は厳冬という困難を克服して勢力を伸ばせたのでしょうか?
戦国時代と平安時代の違いなどがあればお教えください。
253 :
人間七七四年:2011/04/15(金) 10:27:36.88 ID:Cg0DIfeQ
厳冬期でも必要とあらば戦闘してたし
例えば厳冬期に政宗が幼君の二本松城を攻めてるが輝宗が指摘していた通り堅城過ぎて失敗してる。
奥羽は親戚関係でなあなあだったから下克上がほどほど発生しない甘い地域。
小田原参陣に遅参したりで秀吉が改易しまくったのに政宗を始めとして驚いたのも奥羽の幼稚な精神からの甘い観測によるもの。
朝鮮出兵で名護屋にきた安東が
「上方の組織は縁故や家柄よりも、いかに主に役にたったかで引き立てられる」と驚き奥羽のやり方を廃れものと自嘲していたように思考が遅れていた。
成実曰わく「奥羽の流儀」である親類による和睦仲介の中人制度で
幼君を擁立していた諸将や佐竹や石川を始めとした親類たちがほどほどのところで和睦斡旋をしてあげるなど甥っ子に甘く接していた。
254 :
人間七七四年:2011/04/16(土) 17:22:26.72 ID:pwDvMjiG
謙信と信玄、どっちが虎で どっちが龍?
255 :
人間七七四年:2011/04/16(土) 18:02:03.57 ID:W2diQyFL
残念ながら二人とも人間です
256 :
人間七七四年:2011/04/16(土) 19:09:07.38 ID:K9eSCwiq
>>252 戦国時代は国人の力が強まって来てたからじゃないかな。
例えば浪岡北畠氏なんかはそれ程広い版図を有してなかったにも関わらず
幕府を介さずに朝廷に出入りしてたし。
257 :
人間七七四年:2011/04/16(土) 19:39:53.98 ID:bprr2Fvo
南部家って永く続いてるのに地元からは
あまり愛されてないのはなんででしょう?
津軽氏、佐竹氏、伊達氏、最上氏に比べるとなんだか可哀想。
258 :
人間七七四年:2011/04/16(土) 23:54:10.29 ID:C/+2/zhk
>>253>>256 なるほど。
周囲がみんな婚姻関係で攻めにくいというのも変動しにくかったことや
かつての平安時代のような国司や地頭?の関係ではなく
国人という勢力があったこともも統一勢力が輩出しにくくなった要員として
納得できますね。
259 :
人間七七四年:2011/04/17(日) 00:10:29.11 ID:RHNkqcDu
>>258 ただねぇ。中国地方の毛利はその国人から婚姻関係を利用して勢力を拡大して戦国大名化し、
ついには中国地方を制覇するに至る訳で。
260 :
人間七七四年:2011/04/17(日) 09:28:04.27 ID:6sbxvSPL
>>259 元就の中国地方統合は輝宗の南奥羽統合と類似している。
261 :
人間七七四年:2011/04/17(日) 14:02:25.83 ID:8n1JvVA1
家康は何故あれだけ清洲同盟を遵守したのでしょうか?
初期は対武田、今川等に対抗する為だとは思うのですが、後に信長包囲網が作られた
時ですら彼は律儀に信長に味方をしています。
信玄上洛の時は信長もある種覚悟を決めてたらしく、信玄が死ななかったら信長も家康も危なかったと思います。
援軍の要請も度々あってこき使われ、そのくせ家康が援軍を要請しても信長はあまりよこさない。
武田へと乗り換える手もあったと思うのですが(まあ信玄は有名な同盟破りなのでアレですが)。
家康がいかなる状況下でも信長に味方し続けたメリットは何なのでしょうか?
262 :
人間七七四年:2011/04/17(日) 19:58:30.13 ID:SGH09vmX
>>261 清洲同盟ばかりに目が行きがちだが、家康は清洲同盟をてこに最初は対今川侵攻のための
武田との同盟、そして武田との抗争が始まると今度は対武田のための北条、上杉との同盟を
形成している。
これらは織田との同盟という基礎があってこそ強い意味を持ち、そのような外交的メリットを
享受している以上家康が清洲同盟を破棄する理由は、少なくとも信長の在世中は無かった。
263 :
人間七七四年:2011/04/17(日) 20:20:31.01 ID:4TahnbNO
高野山に追放とか出奔とか、結構な大物がやってますけど、
彼らはそこでどんな生活をしていたんでしょうか?
お経を読み、托鉢とかしながら謹慎という感じなのでしょうか?
264 :
人間七七四年:2011/04/17(日) 23:05:08.14 ID:66JuNrRW
>>260 この時代はどこも寄親寄子でしょ。
中央集権という支配方法を確立したのは秀吉が最初。
265 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 00:36:51.38 ID:loA50VQk
>>262 ナルホド、理解しました。ありがとうございます。
当然そういうメリットがあるから同盟維持したんですよね。
家康はマゾかと思ってました。
266 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 01:25:29.41 ID:vliX5u6C
>>263 高野山は、というかどこの大寺でもそうだがそれらは都市を形成しており
多くの俗人も住んでいた。なので女や酒などには一定の不自由があったものの、
金さえあればそれなりの都市生活を享受できた。
267 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 01:33:02.63 ID:X5ErnAA5
でも織田秀信、オメーは駄目だ
268 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 09:50:14.46 ID:s2tQiBJ5
戦国時代に限りませんが
けっこう大名が他の勢力に調子のいい時期に病死したり
争いに負けて隠居させられた人がすぐに病死したりすることがありますが
当時でもそういうのは暗殺されたのではという噂は流れたりしたのでしょうか?
269 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 10:58:54.75 ID:vtw19t/B
加藤清正や浅野幸長なんかは代表例かと
270 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 17:24:50.72 ID:4N3o/IRr
家康たんの一番の性感帯はどこだと思う?
271 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 22:10:03.36 ID:tkgONsEQ
>>268 付け加えるなら結城秀康にもそういう噂があった。
272 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 22:13:16.52 ID:/KDbrktR
ぶっちゃけ毒殺の可能性も50%はあると思う。
273 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 22:18:09.07 ID:zGastDzI
274 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 22:19:02.34 ID:vtw19t/B
ないない
朝鮮や名護屋在陣時に羅患した梅毒
275 :
人間七七四年:2011/04/18(月) 23:12:13.40 ID:s2tQiBJ5
276 :
人間七七四年:2011/04/19(火) 00:30:57.75 ID:IvUUzrV3
そう簡単に毒で、しかも証拠も残さず大名が殺せるのなら誰も苦労せんわな。
あのへんの毒殺説は一種の陰謀論と一緒だな。
277 :
人間七七四年:2011/04/19(火) 01:07:16.99 ID:2BIfx+gw
問題は本当かどうかではなく
同時代の史料に暗殺の噂が書かれているかどうかだろう
278 :
人間七七四年:2011/04/19(火) 06:52:54.37 ID:3/BUIa9W
宣教師が吉川元春と島津家久を秀長が毒殺したと記してるよな。
279 :
人間七七四年:2011/04/19(火) 09:16:37.42 ID:TuD0S3fA
家康だって暗殺の噂が流れている
外国人の記録は噂と前置きしてはいるが、そのまま記述しているからね
280 :
人間七七四年:2011/04/19(火) 17:58:59.05 ID:Lv4/mDUP
質問です。
豊臣秀吉は中国や朝鮮では外交上ではどういう立場と記されていたのでしょうか。
天皇の臣下である秀吉という形式だったのでしょうか、
それとも日本の君主かのように形式的にもなっていたのでしょうか。
281 :
人間七七四年:2011/04/19(火) 18:42:51.20 ID:IvUUzrV3
>>280 基本的には室町将軍がそうであったように「日本国王」
ただし当時の東アジア世界的には公認されていないので「事実上の日本国王」と言うべきか。
282 :
人間七七四年:2011/04/19(火) 21:13:18.67 ID:P6nqVhBb
>>279 朝鮮の記録だが秀吉の死因は毒殺で朝鮮人医師が毒を盛った(薬だと偽り互いに毒薬を飲んだ)という。
しかもその医師を紹介したのは前田利家だというトンデモ展開。
動機は…思い当たるが吹っ飛びすぎかと。
283 :
人間七七四年:2011/04/19(火) 23:44:57.02 ID:7EZJ9XPA
安土桃山時代は暗殺や毒殺が隠蔽されてると思うな
信長や秀吉や家康ってあまりにも良いタイミングで脅威になりかねない奴等が死にすぎ。
284 :
人間七七四年:2011/04/19(火) 23:59:50.25 ID:IvUUzrV3
>>283 当時そんな簡単に人を毒殺できる毒薬はない。
そもそも毒殺できるほど対象者の近くに自分の操る人間がいるなら、
もっと効率的な殺し方が出来る。
285 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 00:22:32.46 ID:gCh2Sy2z
戦国から江戸にかけて大名が毒見にあれだけ気を使ったのは毒殺を恐れてた証拠だろ。
まあ、今も昔も、殺しを行うのは大抵身内だけどな。
286 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 00:24:47.02 ID:N6zpLPsG
>>285 毒見というのは毒薬の他に、食中毒への心配の面も大きい
287 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 02:21:07.61 ID:1fX9z5mY
織田信康の子で織田重長なる人物が居たらしいですが、詳細知ってる方いませんか?
長定と名乗っていた時期もあるそうで、幼名は小八郎。
左京亮とも呼ばれていたらしいです。
288 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 06:39:31.47 ID:WC7f0fBs
暗殺されたりしても公式発表は病死だろうしね
289 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 07:41:38.13 ID:mKz5u4lN
>>257 wiki見ればわかるような事を聞くなよ。
「盛岡藩」てググって見てみろ。
まあ、簡単に言えば酷い政治をしていたからだな。
それで、ずば抜けて一揆や飢饉が多い。
天命・天保の飢饉レベルの飢饉が南部領では恒常的に起きていた。
原因はいろいろある。
冷害が非常に起こりやすい土地柄で冷害に強い品種の米もなかった時代に
稲作を主要産業として奨励したため、数年に一度は飢饉に襲われたことや。
そういう状況なので人頭税のような年貢の安定かつ強制的な搾取が行われたため
領内は毎年のように死屍累々。
こんな状態で「かわいそう」もなにもないだろう。
まあ幕府が賦役を押し付けてくるというのもあったけどな。
290 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 08:03:32.12 ID:WC7f0fBs
>>289 それは仙台藩も同様。
やはり大河ドラマで渡辺謙の南部信直をやってもらうしかねーな。
派手な三日月鎧と眼帯のキャラ付けの信直とか演出すべき
291 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 13:14:15.28 ID:pXntqkmY
>>287、自己解決しました
犬山織田氏の柘植与一、織田大炊助という方だったみたいです
292 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 20:16:58.00 ID:jT8syV7f
気になったんだけど、伊達政宗に長く子供が出来なかったのは
徳川家光みたいに男色だったから?
293 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 21:02:21.16 ID:MiLU+Ag8
戦場での使番の扱いについて質問です。
「合戦中に使番は狙わないのが暗黙のルール」という話と、
「敵軍に情報が回らなくするため使番は始末するなり捕まえるなりする」
という話を聞いたのですが、どちらが正しいのでしょうか?
もしかして時代によって多少扱いが違ったり、
「ここにいる時は攻撃して構わないが、ここにいるときは駄目」
のような暗黙の了解があったのでしょうか?
294 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 21:12:43.66 ID:ioDcr9qR
>>293 両方正しいが基本攻撃してはいけないものとされる。上はフェアプレイの精神だけど、下はそれよりも優先することがある場合。
例えば、完全に決裂させることで兵達に腹を括らせる必要があるとか、とんでもない挑発でむしゃくしゃしてやったとか。
295 :
人間七七四年:2011/04/20(水) 22:10:40.35 ID:+LIBJ7dX
296 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 00:33:46.06 ID:x2gHniFJ
297 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 00:47:18.37 ID:k3MxyiEg
歴史小説で、秀吉がお市の方に恋心を抱いていた、という話をよく見ます
これはそういう逸話が残っているのでしょうか?
それとも、後世の小説家のでっち上げ?
298 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 00:56:24.37 ID:J4vpITsk
299 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 01:07:23.48 ID:k3MxyiEg
>>298 ありがとうございました
やっぱり作り話かあ
そのわりには、デファクトスタンダードのように浸透している気が…
300 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 01:26:14.37 ID:E4/W7KOE
>>299 その方が後の淀との関係が因縁めいて面白くなるからだ。
301 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 13:45:13.68 ID:YJ92nyO4
お武家さま、教えて下さいませ。
過去の人物が成した事に対し、他地方や当事者でも無い、関係無い方々が罵倒や卑下するのは何故でございましょうか?
また、そうする方々はどんな心持ちなのでしょう…。
私は知りとう存じます。
302 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 15:48:26.23 ID:AmOdyGW4
史料に比喩表現や皮肉の類ではなく怨霊や神の祟りで死んだ
と記述されている武将はいるでしょうか?
もちろん、史実でなくてかまいません。
303 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 17:10:42.27 ID:J4vpITsk
>>301 本来自分とは何の関わりもないスポーツ選手やタレント、あるいは実存しない創作上の人物でさえ
そこら辺中で罵倒や卑下している奴が居るだろう。本質的にはそれと一緒だ。
304 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 19:12:01.11 ID:tqnRlHFm
お市の方の話題が出たのでついでに聞きたいのですが。
お市の方と言えば「戦国一の美女」というフレーズがよく使われますが本当にそうだったんでしょうか?
織田一族は美形揃いだったので彼女も美人ではあったとは思うのですがそこまで凄い美女だったのだろうかと。
残された肖像画ではなく当時の文献なりにそういう記述があるのでしょうか?
「戦国一の美女」=「お市の方」という定説は織田信長の妹で浅井三姉妹の母であり二度の落城の上自らの命を絶つという
ドラマチックさが変な言い方ですが彼女の美貌を過大評価させたのではないかと思うのですが。
ついでですが織田信長が美形であったという記述は当時の宣教師の手紙なりその他の文献に残っているのでしょうか?
305 :
293:2011/04/21(木) 22:05:58.80 ID:6o8vFy2+
>>294 ありがとうございました!
場合によってはむしろ積極的に狙われることもあるとは、
ただでさえ危険な役回りなのに、かなり大変だったんですね。
306 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 23:31:30.41 ID:x2gHniFJ
>>304 美醜に関しては個人の感性が大きいので何とも言えないかと・・・
ただフロイスの日本史では信長は筋肉質の痩身と書かれています。
お市の方は分りません。
307 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 23:39:05.84 ID:J4vpITsk
>>304 > お市の方と言えば「戦国一の美女」というフレーズがよく使われますが本当にそうだったんでしょうか?
後世の作り話です。美人にしたほうが大衆受けがいいから。「織田一族は美形揃い」ってのも
もちろん後世の作り話。多分司馬遼太郎当たりが発端。
信長もその死から近い時代に書かれた「リアル」な肖像だと
ひょろっとして顔の長い、あまりカリスマを感じないおっさんだよ。
308 :
292:2011/04/21(木) 23:45:13.67 ID:mV88wyiN
やっぱり政宗の子供ができた時期ってのが腑に落ちないんですけど。
長い間子供が出来なかったのに急に歳を取ってから子供を量産するって、なにかあったんでしょうか。
309 :
人間七七四年:2011/04/21(木) 23:50:21.96 ID:GOLMj26e
>>308 単純に運の問題だろ。
そう言う意外に君の疑問を完全に解決する答えはどこにもないよ。
310 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 00:23:45.20 ID:EMgsAqog
戦国大名が領土を拡大しようとしてたのは
やっぱり支配地からの朝貢のためだったのでしょうか?
というか寄親寄子制では朝貢は成立しにくいと思うのですが。
一方寄子が他勢力から攻められたら救援しないとならないし
考えれば考えるほどこんがらがってきた。
311 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 00:33:19.51 ID:4XA++rq6
そもそも朝貢って何だよ。戦国大名は中華帝国じゃねーぞ。
戦国大名の領土拡大はそもそも応仁の乱、明応の政変以降の惣村レベルでの自立化、自治化と
それに伴い政治状況や自然環境による高い流動性があって、在地勢力は当時の生産力
そのものである惣村の取り込み、定着のため安全保障の提供を必要とした。
つまり簡単にいえば戦国時代というのは戦国大名による「農民の奪い合い」という状況があり、
農民を自分の領地に定住、定着させるためには強力な権力にならざるを得ず、近隣地域を併合し
権力の拡大をはかり、またそういった目的の権力同士が接触すると戦争になったわけだ。
312 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 00:51:48.03 ID:S20EaFBQ
>>306 307
ありがとうございます。
小説家の影響力ってやっぱりデカイですね。
313 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 00:54:45.31 ID:Ie2aPNrt
絶世の美女が後世の小説家の作り話なら、逆もありうるな
つまり、吉川元春さんの奥さんも普通に美人だった可能性も…
314 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 01:04:04.45 ID:SdXJE/U6
前にテレビで一般的に教科書に載っているような信長の絵とは違う
西洋人が描いたらしい信長の肖像画というのをみたのですが、
これはどの程度に信頼がおけるものなのでしょうか?
信長の死後数百年後に描かれたとか全くの別人の絵ということはないのでしょうか。
315 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 01:26:11.53 ID:4XA++rq6
>>314 信雄の家に伝わったもの、と言われてはいるが、
信長の当時、生前に肖像を書くことは不吉極まりないことであり、当の信長の肖像画も
生前に書かれたものは一切存在しない。
しかもアレは明治になって突然現れたもので、幕末から明治にかけて捏造されたものと
考えていいだろうね。
316 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 01:45:13.17 ID:hq3QXbFe
すると家康の肖像として有名なしかみ像も偽物なのか?
317 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 02:05:46.34 ID:4XA++rq6
>>316 しかみ像は記録がちゃんと残ってる。
本当に例外的な、生前に書かせた肖像画。
318 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 05:47:54.96 ID:SdXJE/U6
>>315 ありがとうございます。
和同開珎より古いお金発見みたいな
歴史の新事実か何かかと思ったらかなり胡散臭いものだったんですね。
319 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 06:47:01.67 ID:eg5FQ8QS
>>308 政宗の場合は衆道に熱心だったからだろう。
愛姫とは不仲だったわけだし衆道に精進していた。
衆道のハマりっぷりは浮気を疑い嫉妬して激怒したり
片倉息子と衆道したい小早川秀秋の意を汲んで片倉父にお前からも説得しろと何ら抵抗なく命令の手紙を出してるくらいだし
320 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 09:42:33.42 ID:c9jBs9ax
>>316 当時の慣習で正面から写した肖像画などありえないと言ってる人もいる
321 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 10:20:12.49 ID:34j0Bu4g
322 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 11:28:05.27 ID:c9jBs9ax
>>321 本山一城というボンボンで「スーパーマリオ」の漫画書いてた人
323 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 12:10:49.72 ID:eg5FQ8QS
正面もなにも西洋人には関係ないべ
324 :
人間七七四年:2011/04/22(金) 23:56:50.18 ID:Z9HIhfxk
アンチ政宗・アンチ伊達藩の妄想が酷すぎる。
325 :
人間七七四年:2011/04/23(土) 00:30:29.41 ID:0TT4EGfa
>>324 チートと言っても過言じゃないくらい豊かな土地抱えていて
津軽南部と大差ない餓死者とか出してるし仕方ないだろ。
326 :
人間七七四年:2011/04/23(土) 00:35:59.30 ID:WcPBv1xf
>>325 そうだったのか。島津や沼田真田とかは知ってたけど。
他にどういう大名が圧政してたか教えていただけるとありがたいです。
327 :
人間七七四年:2011/04/23(土) 00:36:16.08 ID:QTs71zTs
他所でやれクズども
328 :
人間七七四年:2011/04/23(土) 16:07:49.95 ID:3VpQoo+U
>>324 その伊達も妄想に近い妄言を残しているからなあ
329 :
人間七七四年:2011/04/24(日) 18:49:27.74 ID:b+JF51gO
スレ違いだが快男児とか良い武将、いくさびと、爽やかな武将など
そのほか世間的に好意的に見られている大名・武将とかって、
案外、内政では農民の暮らしを圧迫するような酷い政治をしていたりする。
真田、伊達、福島、立花、毛利、上杉、佐竹、武田、豊臣などがそう。
逆に徳川とか最上とか池田とか嫌われる傾向のある大名、武将が逆に民に対して良い政治してたりする。
原因はおそらく、そういう武将は「家臣に対して厚く思いやりがある」だと思われ、
自分の配下の家臣や武士たちに愛情を持ち厚遇するあまりに、
さらにその下にいる農民から過剰な収奪を認めてしまうんだろうね。
つまり「配下の武士を厚遇する」と「領内の農民を厚遇する」ってのは対立する行為なんだよね。
武士を厚遇すれば収奪が酷くなった農民の暮らしが酷くなり、
農民を厚遇すれば農民からの租税が少なくなった武士が困窮する。
といった具合に武士への厚遇と農民への厚遇は対立構造で「あちらを立てればこちらが立たず」になりやすいんだよね。
330 :
人間七七四年:2011/04/25(月) 18:18:15.66 ID:hktAnjnI
>>329 ええと、質問ですが、立花宗茂が関ヶ原の後、柳川に篭城しますが、衆寡敵せず開城した際、地元の
農民たちが「一緒に戦いますから、開城しないでください」といった話や柳川が田中の領地になった時に
宗茂に米を援助してた名主が磔になった話とか、柳川に復帰したときに農民に歓迎された話とかは
すべて捏造ということでしょうか?
それと棚倉時代の立花の政治については、林業などの産業振興に尽くしたりして、虐政の半紙がないの
ですが、これも捏造なのでしょうか?
331 :
人間七七四年:2011/04/25(月) 18:20:17.55 ID:hktAnjnI
半紙は話の間違いでした。申し訳ありません。
332 :
人間七七四年:2011/04/25(月) 22:39:29.92 ID:D8zszO3l
>>330 武田氏の場合は、勝頼期の場合だけど、連年の軍事行動のために軍役などの領国内の
負担が重くなっており、武田家が滅亡した際には百姓たちが家を焼いて織田信忠のもとに
勝頼の悪政治を訴え、内心織田領になってほしいと思っていたので、この機会に
上下とも忠節をつくすべく参上した(=領民が勝頼を見限った)という話がある。
ただ、一方で勝頼は湯治へ出かけた先で押しかけたと思われる領民の求めに応じて山争論の裁決を行い、
家臣からの報告を受けた上で自身の親族(信豊の姪婿)を敗訴とする判決をくだしている(このへんの流れは
笹本正治『武田勝頼』に詳しい)。
大名の支配について一概に善政だの悪政だのとはなかなか言いづらいとは思うけど、ただ、いかに戦国大名と
いえど、求められれば(たとえ湯治中でも)裁決を下さなければならなかったし、強権を発動して恣意的な、百姓の
意向を無視するようなまねはできず、家臣だけでなく領民にも縛られている面も持っていたことは考慮に入れていいと思う。
よく統治手腕について語られる後北条氏も、城郭内に領民を避難させたり「目安箱」の設置などなどの政策を通じて
領民や村の存立(治安やインフラ、裁判等)を保障しているけど、一方でそれらの政策を通じて村を大名支配の末端に
組み込んでいったし、いざというときは後北条氏の支配する「国家」のためという名のもとで、領内への動員をかける
体制がつくられていったわけで、やっぱり一概に善悪政云々とはいいがたいし、領主層と被支配層が常に対立関係に
あったともいいにくいんじゃないかと。
333 :
人間七七四年:2011/04/25(月) 22:46:34.74 ID:UI6JXi+n
334 :
人間七七四年:2011/04/25(月) 23:15:51.62 ID:itI1QL7/
>>330 なるほど、立花は農民には良くしてたのではないか?
しかしそれなりに忠誠を働こうとした名主が磔になったのだから、
どこかに皺寄せはあるだろう。ない袖はふれない。
>>332 そういう、どこかの村で公正な採決を下したとか、
貧しい村の年貢を免除したとかいう話しは気まぐれみたいなもんで蚊ならす゛しも全体とは関係ない。
あと、目安箱設置が善政の証明にはならない。
盛岡藩のように目安箱が反乱分子探しの証拠にされてたそうだし。
目安箱の周りにこっそりと監視者が隠れていて、誰が投書したかしっかり把握されてたわけだ。
当時の為政者とて偽善行為はするし、表向きの評判は気にしてたろう。表だって悪政はしにくい。
現代の話で申し訳ないが、みちのくプロレスのサスケが十年もマスク代金を滞納してる
震災者義援金とか震災者マッチをしてるのを見て債権者は偽善としか思えなかったのではなかろうか。
335 :
人間七七四年:2011/04/25(月) 23:27:19.69 ID:itI1QL7/
単に百石取りの武士に「四公六民」を許可すれば武士の収入は四十石にしかならないが、
「六公四民」を許可すれば武士の収入は六十石になる。
武士の利益を取るか農民の利益を取るか難しいところだ。
しかも武士の多くはカツカツの生活をしている。
しかし、これは江戸時代の武士の話であって、
戦国時代には単純に武士の収入が多ければそれだけ戦力UPするわけで、
武士のやる気向上にも繋がるというだけでなく、
武士は収入で馬や鉄砲を買ったり、雑兵や小者を雇いいれることができるわけで、
戦国時代は戦のためにやや武士偏重であったことは容易に推測できる。
336 :
人間七七四年:2011/04/26(火) 00:55:58.46 ID:UdadENcb
江戸時代の武士と農民のイメージを取り払うところから始めよう
戦国時代の大名と農村は規模の大小はあるが極めて近い存在の時代だと
337 :
人間七七四年:2011/04/26(火) 02:22:58.29 ID:wt5KIiSr
>>334 戦国の目安箱って匿名のチクリ箱じゃなくて
実名入りの訴状受付箱だぞ
338 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 12:58:10.32 ID:9wdQyX8x
今でさえ無理なのに
戦国期の一番金がかかりまくる時代に
善政を期待するなんてそもそも無理だから
北条の善政なんて創作でしかない
339 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 13:07:59.05 ID:pMbM9yA4
段々sageの論理がお粗末な理屈になってきているな
元からか
340 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 18:22:59.24 ID:gLKQHk1u
いや、北条は少なくとも北条氏康まで善政だったよ。
北条氏康の逸話に
氏政がある日、食事中の氏康に検地が不十分で農民が多くの隠し田を持っていると思われるので
さらに徹底的な検地をするように氏康に盛んに換言した。
それを氏康は食事の中の煮魚を指してこう答えた。
煮魚は盛んに箸でつつき回していると壊れてしまう。
農民も同じで盛んにつつきまわして隠し田を出させると壊れてしまう恐れがある。
為政というのは煮魚と同じであまり執拗につつきまわさぬのが肝心なのだと。
氏康自身も何度か検地を実行したが
意図的に穴を作って農民に隠し田を一定量残しておいたようだ。
341 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 18:28:35.75 ID:dbER3CO6
逸話ばっかりで美化しまくるキチガイ超高利貸し北条893組
342 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 18:36:54.99 ID:oSW6eTyZ
>>341 お前が来るべきはここじゃなくてカウンセラーのところだ
343 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 18:39:12.65 ID:gLKQHk1u
>>341 氏康までは良い政治してたと言いたいだけだよ。
氏政以降は強引な検地や何かと賦役を要求したからよくなかった。
有名な「領内の14歳から70歳までの全男子」に動員令をかけた件もそうだろ。
344 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 20:12:25.42 ID:dbER3CO6
345 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 20:14:16.10 ID:w8lo1kGS
>>344 ここはお前の気持ち悪い書き込みを晒す場所じゃねえ
346 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 20:17:37.95 ID:9wdQyX8x
層化信者の北条厨は
気持ち悪いから出てってくれ
347 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 20:22:55.27 ID:qN7xnvWC
こんばんわ
甲越和与の甲は甲斐武田、越は越後上杉ですよね?
じゃあ甲江和与(武田・織田不戦協定)の江ってなんですか?
348 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 20:32:48.22 ID:9wdQyX8x
安土城のある近江
349 :
人間七七四年:2011/04/28(木) 20:34:36.81 ID:qN7xnvWC
>>348 さっそくのお返事ありがとうございます!
350 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 02:47:10.52 ID:58NGBcTQ
質問させて下さい。
徳川家光は鬱病気味なタチで、昔自殺未遂まで起こしたという話をそこかしこで見るんですが、これって信憑性のある話なんでしょうか?
351 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 03:51:23.12 ID:obOgZBML
>>343 検地は領国体制や大名権力の強化なので、むしろやらないと生き残れない
あと動員令は非常時の特例であっていつもやっていることではない
例えば徳川家康も小牧の役の時には同じことやって逃亡者や自殺者を出している
が、この一例を取り上げて「徳川領国ではいつもいつも大量動員をかけていたのだ」
なんて言って悪政をしていた証拠にはならない
352 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 08:05:43.67 ID:gWumNjXj
>>344 すごい悪政やってたんだな北条。
武家の天下覇業の地たる大関東平野を本拠地にしながら天下も取れずに
ダラダラしてたのも民衆の支持が得られなかったからだろうな。
堀越公方が伊豆で金を採掘して幕府に献上してたのに
北条は技術集団金堀衆も持ってないから掘り出せないし、
永楽銭の大量偽造で経済崩壊させた疑いあるし
治水土木すらやってなかったとか信玄にすら及ばないな。
353 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 09:32:41.06 ID:xbITXqQX
subしつこいぞ
354 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 10:08:50.46 ID:o7hj7FD1
355 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 19:37:22.13 ID:B3VhSyy9
>>350 鬱気味だったというより、病弱だったから気鬱がちになってたと思うけど
自殺未遂は春日の狂言だからなあ
356 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 19:52:26.39 ID:LofaQbrm
>>352 永楽銭の大量偽造を克服できなかった江戸幕府も大概だけどな
357 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 19:55:09.26 ID:I92P4rqy
北条氏康の永禄三年の九箇条の徳政令について質問です。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3161.html 1.この年の年貢は半分だけを銭ではなく米で収めること
(この頃年貢はほぼ銭だった)
2.御年貢銭の半分は精銭で、半分は他の質の劣る銭で収めてもよい
3.借りた銭や米などはリセットしちゃって良し
4.妻子、下人の年季売りは取り戻して良し
5.田畑の年季売りは契約年季の三分の二は無かったことにして良し
6.ただしこれまで未納の年貢のうち、代官・奉行が立て替えた分は百姓が払うこと (利息分は返済を免除する)
7.ただし、うち(北条)の蔵銭から貸し付けた分は無かったことにしません
8.民間の無尽銭(寺社などが営む高利貸し)も徳政の対象にできません
9.田畑の永年売りは本来違法ですが、今回だけ見なかったことにします。
なんかトラブルあったら氏康に手紙で相談してね
上記は天文十八年に起きた巨大地震の対策と
猛烈な飢饉・凶作にあえぐ百姓からの嘆願によるものとなっていますが
だとすると下記のような疑問があります。
1.
いつもは銭で納めてるのに凶作・飢饉の年に限って米で納めろはおかしいです。
米が無いからこその飢饉なのに・・・百姓に飢死しろと言ってるようなものです。
押し付けがましく半分でいいと言っていますが、飢饉・凶作なら米の相場は高騰してるはずです。
半分でも十分儲かるとの思惑が透けて見えます。
逆に言えば例年通りの銭納なら、僅かな米を売るだけで年貢が払えて百姓は大助かりだったのではないでしょうか?
3〜8.
早い話が北条家と関係有る借金は取り立てますが、北条と無関係の借金はチャラにしますと言うことでしょうか?
これって北条(政府)の懐を痛めず、他人(民間)の財布で徳政しますと言うことですよね?
9.
「違法行為を働いてでも年貢を納めろ!文句を言う奴がいたら・・・」と言ってるようにしか見えません。
はっきり言って、とても善政には思えません。
氏康はこの徳政に自信を持っていたそうですが正気を疑います。
北条氏康という人は精神に深刻な障害を抱えていたのではないでしょうか?
358 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 20:36:28.80 ID:B3VhSyy9
北条アンチスレでやってくんないかな
359 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 21:44:50.66 ID:dKG3VviG
>>357 氏康自身は、別に善政とか一言も言っていません。
『善政』は後世の人が作った伝説に過ぎません。
360 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 22:34:37.60 ID:Gi/sO0RJ
>>357が頭脳または精神に障害を抱えているだけの話です
361 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 23:05:37.62 ID:gWumNjXj
いや坊主相手に氏康は善政を自慢して政治についてエラそうに語ってるだろw
たぶん高利貸しに対しての善政だと思うけど
そもそも氏綱も他人どころか敵側からも金を献金させまくって鶴岡八幡宮を再建させただけなのに俺が再建させたキリッ
などとふざけたことを宣言する搾取家。
362 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 23:40:57.51 ID:y9972JMs
飢饉になるとコメの価値が上がって相対的に銭の価値が下がるのはその通り
しかし飢饉は一時的なものなので、結果どうなるかというと精銭の流通量が著しく下がる
その状況で「年貢をいつも通り精銭で払え」ってのは無理があるからこの徳政になる訳で
363 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 23:47:26.65 ID:1ItE25mC
ええと、ここは質問スレなので、質問します。
大久保一族の没落の原因ですが、4万5000石もの高禄を得たのが原因だという説がありますが、どうなのでしょうか?
友人によると、関東移封時の徳川家臣団の最高禄高は4万石で鳥居元忠。
これ以上の禄高の者は、秀吉の指定によるもので三傑と大久保が該当する。三傑は家康子飼いだから問題ない。
これに対して、大久保は、大久保党ともいうべき氏族集団を形成しており、更には大久保長安という金蔵を持ち、要衝の小田原に
本居を構えている。さらに後継者の秀忠の後見役もしている。
いわば秀忠と大久保一族は、頼朝と北条家、北条得宗家と内管領、足利と高家、後漢と曹操、魏と司馬一族という関係である。
家康にしてみれば、自分の死後を想定した
364 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 23:50:09.81 ID:1ItE25mC
すみません。途中で投稿してしまいました。
家康の死後、秀忠を傀儡化して大久保執権(強化版酒井忠清)体制を築きかねないので
処分したというのが友人の主張ですが・・・・
365 :
人間七七四年:2011/04/29(金) 23:55:23.63 ID:r8OidUp/
>>357 それほどの圧政を布いても民が逆らえない事に自信をもっていたのでしょう。
白頭山の輝ける星にして百戦百勝の鋼鉄の将軍・北条氏康公マンセーな感じです。
366 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 00:23:42.97 ID:FjcePvjQ
地上の楽園☆北条鮮
367 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 00:30:32.97 ID:jxxRZULE
368 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 00:30:51.91 ID:j/lAM0+L
>>364 大久保一族の凋落は幕府内の権力闘争が
大きい要因だったと思います。
岡本大八事件や宇都宮吊り天井事件に代表されるように
この頃は徳川譜代間の権力闘争が激化してた時期でしたから。
369 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 00:33:38.71 ID:lGyfj7hG
>>367 お前みたいにID変えながら自作自演している人間のほうがよほど気持ち悪いのだが。
370 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 00:39:47.66 ID:FjcePvjQ
心の小田原城にカ・エ・レ
371 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 04:32:38.96 ID:gLiBBD7K
大久保忠隣と本多正信の権力闘争ですね
どっちも家康の大のお気に入りでしたが、3人集まれば権力抗争と言うぐらいで、
やはりどちらかが身を引かざるを得ない話なのでしょうか
でも正信は一度徳川家を出ており、帰参がかなったのは忠隣の父、
大久保忠世のおかげなんですよね
372 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 09:03:43.74 ID:Q/0Ta5XC
>>363 額面の石高だけでなく寄騎衆の動向も見なければなりません
当時の大久保家は小田原のみならず、大久保長安以下の津金衆・武川衆といった
関東南西部の徳川直臣層を寄騎としていていました
この状況下では大久保と小身といってよい正信のどちらかを切る場合、残ったほう
の権勢が拡大するのは必然ですので、そうなると大久保を切った方が影響は最小限
で済みます
また忠隣と正信の争いは武功派と吏僚派と見るより、江戸政権と駿府政権の主導権
争いと見るべきとも言えます
もっともそれはあまり大げさなものではなかったでしょうが、家康としては豊臣家に
対し、最終的解決を考えていたのであえて大鉈を振ったといえます
373 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 12:46:30.92 ID:VLSkhtvG
政宗に関わったせいで大久保事件や本多正純事件に連座した大名は悲劇的ですね。
正純に対して百万石の約束をたびたび政宗が持ち出して陳情していたら正純事件が勃発ついでに最上も連座改易w
そのため政宗は今度は大久保に接近。
すると大久保が金山利益で財力あり、忠輝と政宗と組んでクーデター計画してると噂される。
政宗は正純にも百万石のお墨付きの陳情してたって言うし、政宗の動きが原因で長安と正純が失脚したんだよな。
ついでに大坂陣での政宗の失態により忠輝に戦功を奪われるのを嫌がって消極策を政宗が勧めたせいで
忠輝も失脚するハメになるし政宗と関わるとロクなことにならない
374 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 16:07:22.15 ID:vXHk5IPu
>>372 >>373 なるほど、大久保党だけではなく、その他の与力衆が大久保忠隣の配下にいたわけだから
排除するなら、腸腐れと憎まれている本多より、諸大名、旗本にも大人気の大久保を排除
したほうが、家康的には、秀忠への政権移譲を行う上でもプラスになると判断したわけですね。
こう考えると、関東移封時に引退した酒井忠次は利口だったな。
息子の家次は、幹部クラスの最高石高の3万石を貰えたし、政権中枢からうまく抜けたことで
派閥争いからも無縁でいられる立場に酒井家を置けたわけだし、大久保忠世も同じように隠居
して、忠隣に家督を譲れば、大久保党壊滅の事態は避けられたかもしれないな。
375 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 16:21:47.14 ID:jxxRZULE
政宗は常に謀反が疑われていたから
秀忠の政宗討伐の噂を細川が報じていたりで、
忠輝を旗頭に政宗と財力ある大久保が手を組んで謀反する可能性から大久保失脚になったんだろ
政宗は疫病神だからな
376 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 19:05:25.44 ID:nbjLSasr
伊達にそんな影響力ねーよ
馬鹿だから新興勢力に見境なくホイホイ付いてって結果負け組みになってるだけ
つか新興くらいにしか相手にされなかった訳で
377 :
人間七七四年:2011/04/30(土) 19:06:55.62 ID:AdA6Giy6
大久保忠隣は、親豊臣派でもあったから
豊臣との対決反対でついに家康から切られたという説もあったな
秀忠が後年忠隣に戻ってきてほしいと言っても
戻れば家康様の意見が間違っていたということになってしまう、それは絶対にいけない
このままでいい と言って結局戻らずそのまま亡くなったと聞いて、凄く切なくなったなあ
378 :
人間七七四年:2011/05/01(日) 10:16:21.92 ID:bjsVKLS3
大坂って秀吉が居城にする前は何て呼ばれてたの?
379 :
人間七七四年:2011/05/01(日) 10:26:28.24 ID:nHvxWG63
石山本願寺
380 :
人間七七四年:2011/05/01(日) 12:28:28.36 ID:SN3lWbJm
小阪(ヲサカ)、さらに前は難波(なにわ)
381 :
人間七七四年:2011/05/01(日) 12:36:09.82 ID:1pysGJm2
えっ 大坂って秀吉がつけた名前なんですか?
382 :
人間七七四年:2011/05/01(日) 12:53:10.21 ID:MjweZdAa
ちゃう
383 :
人間七七四年:2011/05/02(月) 11:09:15.38 ID:ZrkNkMKJ
蓮如のころに大坂の呼称が定着したそうだよ
384 :
人間七七四年:2011/05/02(月) 19:32:47.44 ID:Q6LbcKzI
謙信女性説って色んな本に載ってたりテレビで見ますが、
あれって実際にはそんなに学術的に市民権得てる説なんでしょうか?
こじつけっぽい理屈が多い気がするのですが。
385 :
人間七七四年:2011/05/02(月) 20:17:41.85 ID:Refvpm/f
キチガイの雑説。資料的裏付けは皆無。
386 :
人間七七四年:2011/05/03(火) 10:04:08.23 ID:GiUWgUGo
謙信がよく腹痛になるのは生理だからとか主張してたよね。
そんで婦人病が死因だとか。
女人禁制のトコも入り込める女謙信と言う最大の疑問が解決できないから
にわかに信じがたいけど面白い視点だと思うよ。
387 :
人間七七四年:2011/05/03(火) 10:15:53.40 ID:B3b/p1db
>>384 家康影武者説=家康双子説=家光は家康と春日局の実子説>>>>>>越えられない壁>>>>謙信女性説
ということでトンでも説の最極だな。
388 :
384:2011/05/03(火) 15:27:45.59 ID:vFw1qno6
ありがとうございます。
初めて知った時に提唱者は小説の読み過ぎじゃないかと思いましたが、
実際にそういうレベルの説だったんですね。
389 :
人間七七四年:2011/05/03(火) 15:36:00.30 ID:B3b/p1db
>>384 まあ 謙信女性説=家康朝鮮人説>>>>>>>越えられない壁>>>>秀吉=明国の科挙落第者=中国人説
くらいの信憑性と可能性はある有力な説だ。
390 :
人間七七四年:2011/05/03(火) 15:39:45.14 ID:VwXdItSa
つまらん
391 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 01:09:55.83 ID:P8FeLj6Y
甕棺を開ければ一発でわかるんだけどね
392 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 04:18:55.96 ID:CVEoEYzm
うちのじいちゃんの山が室町時代からの城跡らしいんですけど、勝手に発掘とかして良いんですか?
393 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 09:10:00.32 ID:85clyw/e
山がじいちゃん個人の持ち物でじいちゃんの許可もらえてれば
問題ないべ?
394 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 09:22:12.48 ID:9NeyyLrr
自治体の教育委員会に確認して、特に史跡指定とかされてなければ大丈夫でないかい
でも素人の発掘作業は破壊活動に直結しかねないからその点は注意
395 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 10:16:16.95 ID:IcN5MiOL
間違ってもスコップなんか使うなよ。
土壌の表面の数cm下は当時の土であり
シャベル一掘りで普通に遺跡破壊になるからな
本来は素人がやるもんじゃないし、やるなら箒とハケと手で気長にやれ。
396 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 10:25:18.20 ID:X4B2dpp1
自治体や管理団体も観光の為に有りもしなかった建物建てたり城削って道路造ったり破壊しまくってるじゃん
自分の土地なら好きにすればいいさ
何か金目の物出てくるかもしれないぜ?w
まあ、法的にどうなるか調べる必要はあるが
397 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 13:18:23.07 ID:CVEoEYzm
398 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 17:47:23.16 ID:FoZQT17j
つーか、ある程度、位の高い武将の鎧って基本、アホみたいに重いけど、あんなの着て長時間、動けるものなの?
それとも、慣れれば意外と動けるとか?
399 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 17:51:00.77 ID:nnu4rXcF
ある程度以上の地位だと現地で動く回るわけじゃないからな
400 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 19:19:02.14 ID:FoZQT17j
>>399レスサンクス、でもそれなら、尚更、糞重い鎧を着る必要なくね?
401 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 19:55:34.28 ID:YV7o9LZT
402 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 19:58:04.73 ID:IcN5MiOL
戦場では小型や紙製軽量の鍬形に変えたりとかはしてた。
403 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 19:59:47.51 ID:P8FeLj6Y
非常時に首相や首長が着ける防災服みたいなものかな
404 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 20:31:53.56 ID:CWyAhJ1e
最前線に行くとき以外は割と軽装だったはずだよ
405 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 21:22:32.56 ID:X4B2dpp1
戦闘が始まる前は甲冑を着けていないのが普通
時代劇なんかでは城にいる内からフル装備してるから誤解を生むのだわ
406 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 21:26:29.45 ID:cYrjQdhY
407 :
人間七七四年:2011/05/04(水) 22:45:55.12 ID:40wx+Ush
本多正信→佐渡守
馬場信春→美濃守
のように、その人物と全く関係ない地名が名に入ってるのは何故なんでしょうか
しかも同じ地名が何人にも使われてますし
408 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 13:01:00.79 ID:ahko5zfx
○○守は朝廷から国司(地方長官)に任じられていることを表す
美濃守なら美濃国の長官という意味
国司以外の役職もあって、例えば武田信玄は大膳大夫(朝廷の食事係の一つ)をもらっている
ただ、戦国期には形骸化しているので実際にその国を治めているとは限らないし、食事係の仕事をしているわけではない
同じ役職が何人もいることがあるのは、戦国期の役職は大半が自称で、勝手に名乗っているだけだから
例えば、本多佐渡守は朝廷から正式にもらっているが、馬場美濃守は自称
409 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 13:07:34.80 ID:JSHwzTQJ
足利幕府の幕職もあるでよ
410 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 13:37:19.75 ID:8agLdJAa
>>407 同じ官職が何人にも使われてるように見えるが
ひとつの家中では、絶対にかぶらないように注意が払われている。
官位は深く追求していくと面白い。
411 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 13:45:54.28 ID:G5qGVE75
>>408 分かりやすい説明ありがとうございました
412 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 19:08:22.31 ID:PsBnqV5x
とある小説の話だが、本多正信と藤堂高虎が同じ佐渡守と呼ばれていた時期
佐渡守を呼べと言われて、どっち? て疑問に思われていたのが何か和んだ
実際被ってた時期があったのかな
413 :
人間七七四年:2011/05/05(木) 23:08:23.56 ID:/dh0vh60
大坂城の御殿に入るのに身分の規定はあったんですか?
例えば、輝元の家臣で身の回りの世話をする50石取りの者とか
414 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 02:48:08.22 ID:MHG6fzuX
地頭や守護は幕職
415 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 04:25:50.66 ID:VYYQw4LV
勘違いかもしれないけど、「〜守」の官位って京に近い国のもの程良いみたいな話を聞いたことがあるな
416 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 05:11:06.84 ID:GMfaQu2k
基本的には距離より国の格によってだね
例えば山城守より陸奥守や肥後守などのほうが格が高い
それに大名は自国の守職を欲しがる場合が多い
417 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 16:00:41.96 ID:htHIni4d
質問です。
年貢や知行についてなんですが、
織田信長の家臣であった明智光秀や秀吉など領地を貰っていたのは当たり前なんですが
そこから上がる税金(年貢)はやはり主従である織田家にいくらぐらい収めていたのですか?
また徳川時代の各藩主もやはり徳川家に毎年何割ほど税を献上してたのでしょうか?
お願いいたします〜
418 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 16:53:50.14 ID:W06AjGsh
>>417 織田家については知らないが、徳川幕府の場合はない。藩の収入は全部藩のもの。
関が原後の諸侯が豊臣から徳川に簡単に鞍替えした理由の一つに、
自分の領内にあった豊臣家の蔵入地を我が物にできたという点がある。
ただ、この制度は徳川幕府にえらい負担を強いることになった。
つまり、幕府は日本の何分の一かの天領の収入だけで、
日本全土の統治に責任を負わなければならなくなったから。
初期の頃は直轄地にした鉱山収入があったので問題なかったのだが
中期の頃にははやくも鉱山が枯れ始め綱吉あたりから幕府は財政に苦しむことになる。
419 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 17:18:31.86 ID:htHIni4d
>>418 ご返答ありがとうございます。
蔵入地って天領のことですよね?家臣に与えた領地内に蔵入地(天領)なんてあるものなんですか?
長崎や堺といった莫大な金を生み出す港は元々天領ですし、金銀山はたしかに天領だったは有名です。
戦国時代から石高を与えられた家臣は(10石とか弱小家臣から100万石大名まで)主家に対しては税を
収めるという考えは無かったと考えた方がよいということなんですかねぇ〜
となると明智光秀の畿内5ヶ国の太守とか、豊臣時代の徳川260万、毛利200万石、上杉前田伊達など
全部税は自分のものになるならすごいですね
420 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 17:35:10.36 ID:7rikEdgu
蔵入地は豊臣家の領地であり家臣に与えたものではない、
ただ管理を任せていただけ。
同様なものは規模は小さいが江戸幕府にもあった。
明智光秀の領地は丹波と滋賀郡のみ、他は各々の領主の土地。
また「全部税は自分の物になる」という考え方は違う。
軍役という税を納め無くてはならなく、
そのための必要経費の財源として土地を与えられていたと考えるべき(御恩と奉公)
421 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 18:02:12.27 ID:htHIni4d
なるほど、御恩と奉公ですか、鎌倉幕府の御家人制度ですね
この制度が江戸幕府終了まで続いたっていうがある意味すごいですね
確かに戦国時代は常に隣国との争いに備え家臣も軍役に蓄えを費やして主家に奉公するわけですが
主家にとっちゃ戦が無いと家臣の謀反が恐ろしくなりますね、この制度。
なんか室町幕府のあの謀反の多さは御恩と奉公この制度せいで幕府の家臣である守護大名が使い道のない
蓄えがどんどん増えていき(又は守護大名の家老クラス)隣国に攻めていったんでしょうかねぇ
平和になれば謀反が怖くなるっていう矛盾した制度なんですかね
422 :
人間七七四年:2011/05/06(金) 18:32:08.26 ID:7VWAuuU8
>>421 その辺は幕府と諸大名の力関係で決まる。室町幕府は関東公方が勝手したりと幕府の力が弱かったから
有力大名の力を削ぐ事が出来なかった。江戸幕府は強いから参勤交代とか天下普請で諸大名の力を
削ぐ事が出来た。
423 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 16:37:36.69 ID:Zf0n3U1J
躑躅ヶ崎館ってツツジが咲いてたのかな?
424 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 19:49:36.07 ID:RaNVWv7C
秀吉が信長の草履を懐に入れて温めてた
みたいな逸話の出典ってなんでしょうか?
史実ではないと思いますが
425 :
人間七七四年:2011/05/07(土) 22:17:37.83 ID:Hv78qrdd
絵本太功記。
江戸時代の大衆小説。
426 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 10:17:32.38 ID:snxCNwL0
江戸時代に庶民にまで流行った男色ブームで
懐で温めてくれた草履を履くと言うシチュエーションも生まれた
リアル文化なのかな?
427 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 20:59:23.01 ID:GAx8T8eY
>>425 ありがとうございます。
そもそも史書でもない小説出典だったんですね。
428 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 23:56:12.21 ID:MPhRhWab
秀吉が資に際して家康に命じたのは伏見での「諸職御肝煎」とは
どういう仕事なのでしょうか?
429 :
人間七七四年:2011/05/08(日) 23:58:13.27 ID:MPhRhWab
資× 死○ すみませんでした。
430 :
人間七七四年:2011/05/09(月) 00:04:53.01 ID:F5te5dpi
431 :
人間七七四年:2011/05/09(月) 00:17:25.37 ID:57vZ7gf5
>>430 ありがとうございます。つまり豊臣公儀における朝廷との折衝を一任されたわけですね。
具体的には、浅学なので、このような例しか浮かばないのですが、これ以外にもありますでしょうか?
1,官職の推薦権(家康が窓口になって朝廷に奏上、認可を得る)
2,朝廷の諸儀式における費用の負担を豊臣家が担う際の折衝
3,朝廷の要求を豊臣公儀に伝達し、討議した回答を朝廷に伝える。
432 :
人間七七四年:2011/05/09(月) 01:37:52.65 ID:F5te5dpi
>>431 それで問題ない、5大老のうち利家には秀頼の傳役任せ大阪城の西の丸に入らせた
もう1人の家康には大阪城から遠ざけるために伏見に入る必要の有る朝廷との折衝を任せた
433 :
人間七七四年:2011/05/09(月) 01:41:58.35 ID:Ca13vKuG
つーかそもそも秀吉にとっても天下政治の中心地たる政庁は伏見城で、大阪城は
豊臣家の私的な居城でしか無い。
434 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 05:28:21.17 ID:Nyb/GoDG
僧兵は、武者修行などで諸国を巡ったりしたのでしょうか?
またその際はどういう出で立ちだったのでしょうか?
435 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 10:22:06.64 ID:B9BSK99t
>>434 僧兵というのは武士以上に主家である寺社と密接な存在なので、武者修行というのは
考えづらいが、各地をめぐっったというのはある。
勧進帳をイメージするといいかと。
436 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 13:56:15.80 ID:0BbY2bRe
僧兵といってもほとんどは僧籍には入ってはいない。
雑役夫や寺関連の仕事をやっていた人、地元の百姓なんかが武器を持って寺の警備にあたっていた。
これが江戸時代になって「僧兵」と言われるようになった。
(武士の侍大将に当たる者は僧籍に入っていたようだが)
弁慶みたいな姿を全員がしていたわけではない。
それぞれの寺に武芸の訓練場があってそこで訓練をやったわけで、
武者修行には行かなかった。
根来みたいに傭兵衆を送り出したところもあった。
>>435のように出張はあった、弁慶もそれを装って関所を通ろうとしたんだし。
437 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 09:19:26.14 ID:aO9hZ+UJ
婚約者が病気で顔が醜くなってしまったので、代わりに妹と結婚してくれと言われたのを
「顔で選んだわけではない」みたいなことを言って予定通り婚約者と結婚した武将がいたはずなんだけど、誰でしたっけ?
438 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 13:20:24.01 ID:liNs66rT
>>437 紹運のこと?
代わりに妹と結婚してくれってのは知らないなあ
439 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 14:20:03.43 ID:ZjKPeTyG
>>437 これは明智光秀だな。
お見合いで煕子とはわずかの間だけの対面時間だったが、黒子を覚えていて、
代わりに来た妹を本人ではないと見破り、事情を聴いてなお煕子との結婚を望んだ。
という逸話がある。
440 :
437:2011/05/17(火) 19:04:29.10 ID:aO9hZ+UJ
ありがとうございます。
すっきりしました。
441 :
人間七七四年:2011/05/17(火) 19:33:23.31 ID:LtE2l3w7
ていうか作り話なんだから・・・
光秀にも紹運にも全く同じ逸話があるだけのこと
442 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 03:35:27.94 ID:I3mSioSR
戦国時代に限らないですが
よく分家が本家を倒してしまうことがありますけど
その場合は自動的に分家が本家を継いだ扱いになるんですか?
それとも本家がなく分家だけが残っているという扱いになるんですか?
443 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 09:53:13.57 ID:frFeDv+Y
>>442 佐竹や里見が典型だが、基本分家が嫡流を継いだという形にする
444 :
人間七七四年:2011/05/18(水) 12:10:43.55 ID:J0kT910s
島津もそうだな。ただ織田家のようにそういった形跡のないケースもある。
445 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 21:29:55.88 ID:cvYtawAe
砦と城の違いは何ですか?
446 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 22:35:58.67 ID:mWINSonv
>>445 砦は城の一種でもある、軍事目的に特化した城、と理解すればいいかと。
砦を城と呼ぶ場合も多い。
城という言葉には、戦国時代も色々な概念が入りすぎているので、城の定義のほうが難しい。
447 :
人間七七四年:2011/05/21(土) 23:16:28.88 ID:cvYtawAe
>>446 ありがとうございます。
軍事目的の城ですね。イメージ的には、自然の地形を利用して、余り手を加えず、兵を溜めておく平坦な地が二、三あるぐらいかなと思ってました。
代官屋敷みたいなものでも城と呼ばれることもあるようですし難しいですね。
448 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 02:55:47.16 ID:O9y3CtQ4
細川護煕って細川忠興の子孫だっけ?
てことはガラシャの子孫でもあって、明智光秀の子孫でもある?
449 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 04:45:40.15 ID:AmqOrm6E
>>448 分家筋から何回か養子が入ってるけど血はつながってる
450 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 09:17:10.56 ID:1J67Q7wl
まあ世間によくある、明智姓の自称光秀の子孫よりもよほど確実に繋がってるな。
451 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 15:34:09.26 ID:yoZlCGBM
某マンガの『三河物語』で「平助彦左衛門」と名乗っていますが、通名を2つ並べることはあったのでしょうか。
また大久保彦左衛門忠教(名字+通名+諱)、大久保相模守忠隣(名字+官職+諱)といった長い名乗りは実際にあったのでしょうか。
452 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 15:53:38.55 ID:I9tl9vZA
453 :
人間七七四年:2011/05/22(日) 21:16:43.64 ID:1J67Q7wl
>>451 平助は通名というか、幼名だな。普通はその二つを並べることはない。
> また大久保彦左衛門忠教(名字+通名+諱)、大久保相模守忠隣(名字+官職+諱)といった長い名乗りは実際にあったのでしょうか。
殿中など公の場ではある。朝廷関係の場だとさらに姓も入れて、例えば忠隣なら
「大久保相模守藤原忠隣」
となる。
454 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 00:30:36.38 ID:oLYsUNPV
>>448 細川家的には側室の子の子孫なだけど、嫁に行ったガラシャの娘の血を引いている。
井伊直弼、近衛公爵家を経由しての流れ、煕の字は光秀夫人煕子でなく近衛家からもらったと思われ。
455 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 04:17:05.52 ID:0JnCit78
ここ数十年の総理大臣じゃダントツの血筋だな細川護煕は
天下とった期間が短いのも似ているな
歴代総理だと三条実美、西園寺公望のつぎくらいの血筋かな?
黒田清隆は黒田官兵衛の子孫なのかな?
456 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 05:41:56.82 ID:Pi93NDg/
457 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 15:00:49.92 ID:2qPZsFmN
細川が政権を投げ出してから日本はおかしくなった。
近衛が下手打って戦争に突入したも同じだし
ロクなやつらじゃない
458 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 18:35:29.55 ID:NQ2UDL4s
仏教の中でも日蓮宗や浄土真宗などは教義上の問題で
他の宗派や宗教とは相いれない部分が比較的に強くありますが、
戦国時代にそうした信仰の問題が原因で謀反や出奔した武将っていますか?
459 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 18:46:32.47 ID:jFDGvGak
460 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 19:04:50.59 ID:D6eiyjGv
日蓮宗は戦国初期に延暦寺にコテンパンにやられちゃってるから、門徒もそんな元気は無さそう。
461 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 21:04:46.11 ID:oLYsUNPV
>>458 本多正信
一時出奔して一向一揆に加わっていた。
462 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 23:35:26.91 ID:rVqVOpnR
正信ってその一揆の総大将だったって本当?
一揆側に回った家臣はみんな許されたけど
自分は総大将だから許されはすまい…と思って出奔したと聞いたが
463 :
人間七七四年:2011/05/23(月) 23:40:27.53 ID:jFDGvGak
>>462 嘘。
一向一揆の総大将は基本一向宗寺院のうち本願寺門主に近い立場の人間がつく
464 :
人間七七四年:2011/05/24(火) 01:53:42.28 ID:R0Q3u2Wq
ああやはり嘘だったんだな
あまりにも出来すぎだろその話 とは思ったからようやく納得できた
465 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 18:14:43.65 ID:S/pixvAv
九条忠栄が後に九条幸家に改名するけど、これはどういう意図だったんだろうか
公家の人が改名する理由を誰か教えて下さい
466 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 18:51:35.17 ID:T4zBUTx8
>>465 改名時期で色々考えなきゃならんが、パッと見思いつくのは2代将軍になった秀忠の諱の
忠の字が重なることを避けたため、じゃないかね?
公家の場合は自分の諱の文字が、新天皇や新将軍の諱と重なったりすると改名する事が多いな。
467 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 19:10:58.38 ID:S/pixvAv
>>466 それも思いましたが、改名次期が1631年に幸家に改名したとあったので(wiki情報ですが)
その一年後に秀忠は亡くなっていますし、その理由ならもっと早くから改名したんじゃないかと思って
他にも上の人に同じ字の人がいたんでしょうかね? どこから調べればいいのやらと…
468 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 21:44:29.13 ID:T4zBUTx8
469 :
人間七七四年:2011/05/25(水) 22:37:30.06 ID:S/pixvAv
おお、こういうのもあるんですね
高すぎてちょっと手が出せないけど、地元の図書館で探してみます
ありがとうこざいます
470 :
人間七七四年:2011/05/26(木) 00:15:50.13 ID:sIT91vvi
>>466 仮に、秀忠が将軍就任時期に名前を改名したとして
幸家「将軍と重なる名前だったので、幸家に改めました」
秀忠「それはご苦労 ところで三代将軍の名前を家光にしてみた」
幸家「えー」
コントか
471 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 12:27:32.75 ID:qnYyu3EO
秀吉までとは行かなくても、身分の低い出身(農民・足軽等)から大名クラスまでに出世した武将って、どれだけいるのだろう?
472 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 12:37:14.19 ID:EweZDkB2
473 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 12:45:14.87 ID:iMnsynLZ
474 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 13:29:39.06 ID:JW+4YFyR
当然ながら秀吉周辺は小土豪や浪人から大名になったものたちは多いな
475 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 13:53:11.62 ID:mrlzOMh3
小西行長は薬屋の息子だが宇喜田家に仕官できるくらいだからどうだろ?
476 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 16:21:08.47 ID:BKxdllWM
大名ではないが、三成の家臣の渡辺半介も農民出身だった気がする
477 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 16:33:08.48 ID:CZphT1tF
>>475 ただの薬屋じゃないよ。
海運も盛んに行ったし、なにより屈強の警護軍をもっていた。
当時の豪商たちはみんな荷を守るため自前の兵を抱えていた。
土豪の生業が農業+治安維持なら、港を拠点とする豪商は海運+海賊という図式。
478 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 19:12:26.70 ID:lqmyVF/8
織田信長は上総介だったときあったけど
今川義元や氏真も上総介だったと思うけど何人も就任するものなのですか?
上総が職場なのに上総にいかなくていいんでしょうか?
479 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 19:46:41.19 ID:o5U6IjPT
>>478 その時代の官職は箔付けの為であって実際の仕事がある訳ではない。しかもその多くは自称にすぎない。
信長もそう。義元は知らない。
ちなみに平安時代でも陸奥の守に任命された貴族が現地に行かないなんて事はよくあった。
480 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 19:53:47.77 ID:lqmyVF/8
その国の領主という訳じゃないんですね
でも自分の治める地域のを名乗れば治める名分がたちそうなのに
織田なら尾張守とか
あれ? 尾張守護=尾張守?
481 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 20:14:17.82 ID:EYLDMUfM
尾張守は国司なので朝廷が任命する
守護は幕府が任命するものなので別物
482 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 20:53:15.00 ID:eik7HvQS
城砦の 「堀」 についての質問。
1 水堀は晴天が続くと空堀になるのですか。
2 水堀は蚊による病気や悪臭などは無いのですか。
3 元々「掘り」というものは空堀の事ですか。
4 水堀は 水が漏れないように防水してあるのですか。
5 「水堀+石垣」 の 石垣の下には、石垣用の基礎があるのですか。
(基礎が無いと石垣下部が水に洗われて、石垣崩壊の気が・・・・
以上、よろしくお願い致します。)
483 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 21:00:41.75 ID:mJ177SaO
>>482 > 1 水堀は晴天が続くと空堀になるのですか。
水堀は河川と繋がっている。河川が枯れる事態になればそうなる
> 2 水堀は蚊による病気や悪臭などは無いのですか。
定期的に水さらいされる。城はメンテナンスが大事
> 3 元々「掘り」というものは空堀の事ですか。
そもそもは文字通り「掘った場所」
昔から水堀も空堀もあった。水の有無の問題だな。
> 4 水堀は 水が漏れないように防水してあるのですか。
水堀は城の周囲をめぐらした一種の運河だと思うといい
> 5 「水堀+石垣」 の 石垣の下には、石垣用の基礎があるのですか。
石垣の下の土が水に流される、ってこと?水堀にそれほどの水流はないし、
石垣自体は自重で安定しているので、石垣崩壊するようなことはほとんど考えられない。
484 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 21:50:16.54 ID:RqXbhkHP
この時代、陸は各大名がそれぞれ関所を設けていましたが
海はどうだったんでしょう?
485 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 21:57:34.42 ID:GIFlIxTU
484 港とかに設けてたと思う。実際海側にも関所はある。(義政の時代なのでカット)
486 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 22:16:14.96 ID:RqXbhkHP
ということは一隻ごとに身分証明を求めていたということですか?
487 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 22:17:26.00 ID:/pbA5iPc
>>486 いや、一隻ごとに臨検して荷物に応じて関銭(通行料)を徴収された
488 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 22:23:37.58 ID:BC7ZVDqM
どうすれば山口県を幕末以来の日本の主役にできますか?
489 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 22:57:20.15 ID:o5U6IjPT
>>484 瀬戸内海辺りじゃ船を見かけると村上水軍の小舟が寄って来て通行料取られたんじゃないかな。
490 :
人間七七四年:2011/05/28(土) 23:06:40.95 ID:rXz7WzDq
武田勝頼はどうやっていたら人並みの幸せになれたかな?
491 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 00:28:24.25 ID:80Jm7aBv
>>484 海でなくて湖だが、琵琶湖の水運は堅田が支配していて、通る船には堅田衆の案内人が乗り込んでいて
彼らに払う案内料が実質通行料になっていたそうな
で、堅田衆の案内人が乗っていない船は焼き討ちして積荷没収船員鏖ごろしとか
492 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 06:44:22.75 ID:sgU+w6th
>>491 その手の水の案内人は単なる迷惑な存在というだけでなく、
通行料を払った人間を命賭けて守る義務があったのだが。
賊の襲撃とかだけでなく、天災とか水難からも。
493 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 18:03:46.54 ID:ff91/Hb0
信長が本能寺で死ななかったら朝鮮征伐をした可能性はありますか?
そういう信長の言行が残ってたりはしないのでしょうか?
494 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 18:14:43.61 ID:Wj7jtXba
本能寺の半年後のフロイスの書簡に
信長は日本統一後はシナに攻め込む決意をしていたとの記述はある
ただ、その他の記録にはまったく無い。
495 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 18:29:00.51 ID:X3T22Y2v
フロイスもほんと罪な記録残してくれたよなあw
496 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 18:46:43.50 ID:1+0g1riy
492が堅田衆の水先案内人としての義務について詳述されていますが、瀬戸内の水軍は
関銭を取るだけで、積み荷の保護などはしなかったのでしょうか?
497 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 19:05:04.07 ID:iBjJTCdL
この時代は七人の侍みたいな半分フリーターのような輩が
万単位でいたから天下統一したら大量の失業者が出るのは誰でも分かる。
唐入りは秀吉じゃなくてもやってたでしょうね。
498 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 19:25:57.84 ID:GUTbggYm
信長の日本統一とは一体どういう意味なんだろう
ある意味ではもう天下布武は終わってたと思うんだけど
大陸に勢力を伸ばそうとしてたとは到底思えない
499 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 21:21:30.52 ID:u+XtSaY3
>>496 当然関銭の支払いはその船の安全保証とのセットだよ。
500 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 21:28:20.51 ID:ahiMQ8rq
>>496 「誰に断わって商売してんでぇ!」と因縁つけて所場代せしめるヤーサンだって所場代払えば
便宜を図ってくれます。当然、村上水軍や他の水軍だって同じです。
501 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 21:33:45.87 ID:Chm7itrH
河尻秀隆は本能寺の変後、どうして甲斐にとどまったのでしょうか?
滝川や森みたいに、すぐに放棄して逃げ出すことは考えなかったのでしょうか?
502 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 22:06:42.70 ID:k4MVpi4Q
>>501 滝川も合戦に負けた挙句だけどな。
河尻も「どうにかなる」と思っていたんだろ。政治状況に対する判断ミス。
503 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 22:11:06.60 ID:X3T22Y2v
滝川だって最初は守ろうとして失敗した
504 :
人間七七四年:2011/05/29(日) 23:58:28.73 ID:Chm7itrH
>>502-503 ありがとうございます
しかし、滝川一益はよく逃げ帰って来られましたね…
505 :
人間七七四年:2011/05/30(月) 00:52:01.57 ID:FtHh/XoU
506 :
人間七七四年:2011/05/30(月) 21:37:45.16 ID:4GSRHiVX
>>497 というかそういうのって大名の仕事じゃね?
ならず者はいたとは思うが
あんな戦みたいなことしょっちゅうやってたわけじゃないだろ。
507 :
人間七七四年:2011/05/31(火) 00:08:47.21 ID:uoweimYG
違う。ここでいったフリーターの仕事っていうのは
軍役の請け負いということ。
どっかの書状にもマトモな奴を出せとあったからな。
508 :
人間七七四年:2011/05/31(火) 07:32:50.28 ID:sz384HCP
信長の野望で本願寺の坊主が鉄砲を使うのが上手な設定になっています。
本願寺の雇っていた雑賀根来ら傭兵が鉄砲を使っていたみたいですが
実際に本願寺の坊官たちも鉄砲をつかっていたのでしょうか?
あと一向一揆って貧乏人の集まりが坊主に騙されて蜂起したものだけど
そんな連中に鉄砲みたいな高級品を扱わせても大丈夫だったのでしょうか?
俺なら脱走して鉄砲を金に換えますが・・・
509 :
人間七七四年:2011/05/31(火) 09:39:30.28 ID:6ou96sCR
>>508 > あと一向一揆って貧乏人の集まりが坊主に騙されて蜂起したものだけど
> そんな連中に鉄砲みたいな高級品を扱わせても大丈夫だったのでしょうか?
根本的に認識を間違えてる。本願寺に集まった連中は貧乏人ではなく小ブルジョアとも
言うべき階層であり、また、むしろ信長と戦うため本願寺を担ぎ上げた、戦争主体だと言っていい。
なぜなら信長はひどい重税政策で庶民から金をむしりとっていたからだ。
510 :
人間七七四年:2011/05/31(火) 16:08:17.26 ID:/9CDoOYG
豊臣秀吉の出自って実際はどの程度と言われているんでしょうか?
武士ではないといってもあまりにも貧しいと
武器の調達も難しいし最低限の教養もなく出世しにくいと思うんですが
劉邦みたいに地元の親分くらいの地位では最初からあったのでしょうか。
511 :
人間七七四年:2011/05/31(火) 21:24:48.62 ID:uoweimYG
512 :
人間七七四年:2011/05/31(火) 23:13:34.38 ID:62eh05Tj
>>510 明国の資料によると、秀吉は中国人、ただし漢民族じゃないマイノリティ民族出身で
明の科挙試験に落ちた、落ちこぼれエリートで日本に渡って信長に仕え(以下略
513 :
人間七七四年:2011/05/31(火) 23:23:51.12 ID:UUiXg/JH
米をお金に替える時代ですけど、米って、そんなに売れるものだったんですか?
全国で考えると一千万石以上あれば、米余りで値が付かない事もあったと思うんですけど…
514 :
人間七七四年:2011/05/31(火) 23:37:48.31 ID:ueYMBJWp
>>513 江戸時代になったら見事に余ったね・・・
でも、当時は誰も米余りなどという事態が起こるとは予想もできませんでした。
515 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 13:22:31.08 ID:ooPA2lWw
>>513 当時は小氷河期で慢性的な食糧不足だったから米はいくらあっても困らない。
酒だって米でつくってたし、当時はサツマイモは日本になかったんだから。
地球の気候が安定してきたのはだいたい江戸時代辺りから。
516 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 15:29:13.26 ID:05bKv18h
>>513 室町時代から各地の荘園から年貢+米がより高く売れる京に米が集まり地方に米が無い状況になった。
商人に米を売っぱらった現金で守護らは生活必需品を消費してた。
すると京の商人たちは米の出荷を押さえて米価の釣り上げを行い
人工的な飢饉を作り出した。
各地の飢餓流民が豊かな京に流れ込み
これらの層により土一揆や徳政強訴の始まった。
実は江戸期もそうだが、食料生産量は人口を維持するには充分な量があって
餓死が出るほどの飢饉ってのは人工的に作られる人災。
ちなみに平安京時代までの日本人は身長も世界並みに高く、
身長が一番低くなるのが鉄器加工や灌漑農業が全国普及した徳川江戸時代。
商業の発展とともに日本人の栄養状態はどんどん悪化している。
517 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 18:22:18.82 ID:BGXzuNAQ
>>516 どこでそんな珍説効いてきたんだか…
> ちなみに平安京時代までの日本人は身長も世界並みに高く、
> 身長が一番低くなるのが鉄器加工や灌漑農業が全国普及した徳川江戸時代。
嘘です
オカルト界隈は知らんが、考古学的にそんな統計は一切存在しない。
518 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 19:35:49.26 ID:gP6fCfdZ
米が駄目なら麦があると思うが何故この時代の日本は
米にこだわったんですか?日本の小氷期がどの程度かはわからないけど
少なくともヨーロッパよりは暖かいのでは。
519 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 19:38:48.79 ID:PEX8+RtA
>>518 麦も作っている
麦より米のほうが生産性が高い
前近代の日本人はほぼ、大量の米(玄米)と少量の味噌などの副食物を食べて生きていた。
520 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 19:47:33.12 ID:gP6fCfdZ
米は麦よりも不作や凶作のリスクが高そうな気がするんですが…
521 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 19:51:15.44 ID:/z/EeIVZ
米不足でもブレンド米が売れなかったのと同じ理由
522 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 19:54:07.25 ID:PEX8+RtA
>>520 君は勘違いしているようだから言うけど、麦の収穫期と米の収穫期は別だぞ?
農民は同じ田畑で麦→米→麦というローテーションで栽培する。
米を作っているところは、麦も作っている。
523 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 19:56:41.02 ID:oz/p/Zyz
麦は痩せた土地や寒冷地でも育ちやすいが米に比べ生産力がかなり劣る
ヨーロッパのような痩せた土地ならしょうがないが
日本のように米を作りやすい環境なら米を作らない理由がない
まぁ商品価値が高いので無理して作ってた東北の一部は不作だと悲惨に事になったがね
524 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 20:44:20.56 ID:05bKv18h
>>517 発掘された人骨を調べた結果だよ。
石高制が確立した後はそれが国力を現すだけでなく
幕府内での家格や序列を現すようになったことも大きい。
島津や伊達や津軽や南部あたりは無理やり厳しい検地をやり過大な石高を算出している。
デタラメ石高で幕府に家格向上を願う口実に使える。
ただ農民は過酷な取り立てで餓死者大量に出た。
伊達に至っては武士まで餓死者が出たほど
ただ南部や津軽は岩木山噴火と言う天災もあるから同情はする。
525 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 22:23:37.61 ID:EhSvnTHH
家格向上を図るのは単なる大名の見得のためなのだろうか?
経済的にはデメリットの方が大きい気がするんだけど(参勤交代やお手伝い普請)
526 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 22:43:43.80 ID:BGXzuNAQ
>>524 > 発掘された人骨を調べた結果だよ。
だからそういう統計結果はどこにも存在しない。
有るというのならその根拠の資料をしめせ。
>>525 武士は「名を惜しむ」生き物ですから、家格が下がったと言われると
生きづらくなるのです。
528 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 22:54:02.01 ID:EhSvnTHH
>>527 dクス、武士とはめんどくさい生き物なのですね
529 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 23:05:48.02 ID:EcSnWBks
530 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 23:34:04.22 ID:az/vFZHM
ブルドッグでいい?
531 :
人間七七四年:2011/06/01(水) 23:54:17.10 ID:PhpcR2nr
おたふくでお願い
532 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 00:04:25.46 ID:s+cdPj0G
広島の方ですか?
533 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 01:27:43.90 ID:EGeog3+J
収入がイマイチなために、経営破綻した大名や小領主っているのかな?
534 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 01:38:41.48 ID:jrhUHJt9
535 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 10:17:52.40 ID:tW1x+F2V
>>534 それは飢餓祭の事だろ。平均身長じゃない
536 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 11:08:21.66 ID:s+cdPj0G
今川義元は上洛の途中で織田信長に討たれてしまったけど、長尾景虎は上洛や帰郷の途中で他の武将に襲われなかったの?
537 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 11:21:16.10 ID:WooLvEwZ
>上洛の途中
現在の研究では否定説が大勢。
「信長公記」にもそんなことは書いてない。
信頼性の低い甫庵の「信長記」にはあるけど。
だいたい上洛しても京には将軍義輝がいるのに、何をするの?
538 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 11:31:18.25 ID:fpbrc/am
>>537 お前はどうでもいいことに反応して質問には答えてないのな。
後何でもかんでも「信長公記」っていうと馬鹿に見えるからやめたほうがいいぞ。
あれも基本的には信長記と変わらん、あくまで後世の2次資料だ。
>>536 謙信の上洛はあくまで「旅行」
あと上洛までに通り道の勢力とさんざん交渉して通行安全の保証を取り付けておる。
539 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 12:29:41.70 ID:WiUaHE1s
軍を引き連れた武装上洛じゃなく、10人とか20人で行う非武装上洛のとき、
なぜ襲われないかってのはわたしも不思議に思ってました 信長公もやってますし、
たくさんの武将がやってます あ、信長公の場合、京の都で斉藤義龍の刺客に
襲われたとか襲われなかったとか・・・
基本、室町将軍や京の帝に呼ばれたのでご挨拶にいく、というスタイルなので、
そっちのほうの権威から道中の大名に襲うなよって指令がいってるとは思うのですが・・・
540 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 14:50:29.82 ID:s+cdPj0G
回答ありがとうございます
いくら交渉しても戦国の世に軽武装で他国の領土を旅行するのは不安な気はしますが…
かなり散財したらしいから財物も多量に携帯してただろうし
なんだかんだで足利幕府の威光はまだまだ健在だったという事かな
541 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 15:05:50.20 ID:1buKfsAh
幕府だけじゃなく六角や本願寺等にも根回ししている
ぷらっと行って帰ってきたと言うわけではなく一大事業であったわけ
542 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 18:29:08.93 ID:pUmYeIQg
>>535 飢餓祭?意味不明
身長の話はリンクにあるのでは?
>>536>>539 日本海を船で敦賀まで行ったから北陸道使わず安全。
あとは事前に話を通してあるから
各地の大名から通達が出てて通行の安全や馳走(宿泊の準備とか)もしてもらってるのが普通。
将軍や天皇に挨拶すると言う理由なら普通は邪魔しない。
>>537>>538 信長公記の翻訳出版した角川が第一級の史料に値すると自賛したから素人歴史マニアが誤解するようになっただけで
信長公記はデタラメが多い。
ただ謙信が死んだ辺りからは年号も正確になってきてるから参考史料にはできるようになる。
>>540>>541 記憶が定かじゃないけど伊勢神宮に参拝したいから道中の便宜お願いしますって奥羽から出かけた話もあったような。
543 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 19:09:59.83 ID:1buKfsAh
>>542 島津家久が伊勢神宮に参拝ついでに京見物して明智光秀に接待されたり
その話は分からないが、その手の話はいくらでもあると思う。
幕府の力が衰えて群雄割拠になったとはいえ、別に日本が無法地帯になったわけじゃないからな
544 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 19:25:24.68 ID:WiUaHE1s
昔は身分隠して行動してたと思ってたけど、それだと逆に変なのに襲われて危ないよね
どっちみち京の都に行けば将軍や帝にあいさつして貢物を渡さないといけない
やっぱりお忍びとかじゃなくて、ちゃんと話を通して堂々と上洛してたんだろうか
545 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 19:29:11.33 ID:jDE22Ux0
大内って室町時代に何度も地方から軍を伴って上洛しているよな。
応永の乱や応仁の乱では中心的に暴れまわっているし、
足利義稙擁立の時も上洛している。
管領でも四職でもないのに中央志向が極端に強い一族だよな。
546 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 19:37:36.91 ID:pUmYeIQg
大内は細川と貿易利権で争ってばっかだからね。
547 :
人間七七四年:2011/06/02(木) 19:41:34.01 ID:S3XG2Pvh
そういえば島津家久が帰国した後、入れ替わりで歳久も上洛してたのはあんま知られてないよね
548 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 00:16:29.66 ID:Io+4pa7T
桶狭間のときの信長の勢力について質問です。
今川勢25000に対して、織田勢は3000人くらいの動員兵力
だったして
1万石に対して200〜300人動員できたとすると
信長の勢力は10〜15万石
尾張藩が61万石の表高でしたので、それを参考にすると
当時の信長は尾張うち、多く見積もっても1/4くらいしか
支配できていなかったと思ったのですが、どうでしょうか?
いい線言っていると我ながら思うんですけど、つっこみあったら
お願いします
549 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 01:36:32.83 ID:DoKn+9f0
前提としている兵数の正しいかどうかがまず分からん。
前提が間違ってれば答えなんか出ないってのはわかるな?
550 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 09:21:59.54 ID:rp4E/emS
戦国時代の時の外国の呼び名を教えてください
アニメ へうげもの で信長が「明、ホクテキ、セジュウ、南蛮を落とし〜〜」
とか言っていますがホクテキとセジュウってどこのことですか?
他にも分かる国や地名があったら教えてください。
あと下記の知識はあってるでしょうか?
中国 明(みん)
韓国&北朝鮮 朝鮮(ちょうせん)
インド インド(現代と呼び方同じ?)
イギリス エゲレス
スペイン イスパニア
ポルトガル 南蛮(なんばん)(ただしヨーロッパ全体を指す事もあり)
オランダ オランダ(現代と呼び方同じ?)
551 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 09:27:55.44 ID:6mJBbxJC
>>548 その計算式を今川に当てはめて、天正でも慶長でもいいから
駿遠三の石高合計と見比べてもう一度考えてみたら?
552 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 10:26:33.83 ID:22gNDs48
>>548 >信長の勢力は10〜15万石
父信秀のころに既にこのくらいの勢力。
伊勢湾交易からの上がりを加えればもっといく。
それとここ↓
>尾張藩が61万石の表高
尾張『藩』は領地に美濃、信濃、三河の一部を含めてるから尾張一国では47万石くらい。
553 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 11:18:02.37 ID:rLKH/cDh
>>550 北てき・・・モンゴル
西戎(せいじゅう)・・・チベット
ついでに言うと
明、北てき、西戎、南蛮
と言ってるなら、この場合の南蛮はヨーロッパではなく東南アジアのことを指す
554 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 11:18:43.59 ID:PVPHlQ2+
>>550 北狄、西戎は東夷、南蛮と合わせて古代の中華から見た四方の蛮族の事。戦国時代に
何処を指してたかは知らん。ヨーロッパ人は南のフィリピンとかインドネシアとか経由で来る
んで南蛮と呼ばれた。
インドは天竺(てんじく)と呼ぶ。いわゆる『三国一の花嫁』という時の三国は日本と中国と天竺の事。
オランダは和蘭陀。これはホラントに由来するがホントの国名はネーデルランドだから覚えといて。
555 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 16:32:47.35 ID:cwpUwA2J
>>550 明や朝鮮は王朝の名前であって、
現在の中国・朝鮮に当たる地域を呼ぶときには
唐(カラ)とか高麗(コマ)の方が使われてたんじゃないか
556 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 17:48:17.30 ID:1RmGdy6t
>>551 今川の場合は、尾張を落とせる分収入が増えると見込めるし
その勝ち馬に乗りたい勢力もそちらにつくから
支配する石高以上の動員出来ると思うけど
557 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 18:49:34.83 ID:rp4E/emS
>>555 あれ? 唐も王朝の名前だけど唐滅亡後も中国を指す言葉として用いられたっていうふうに聞いたんだけど違うの?
(ウェブ漫画の注釈書きに書いてた)
高麗ってコウライって読むんだと思ってたけど当時はコマだったの? コウライって平成での読み方?
558 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 18:56:51.65 ID:yqYDn3UM
>>557 西方では唐王朝の滅亡後も中国本土のことを長いこと「タウガチュ(唐朝)」と呼んでいるな。
559 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 19:08:39.13 ID:dw86+cjs
>>548 石高はあくまでも目安。
大抵の国人は敗色濃厚な方には付きたくないものでしょ。
560 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 19:11:40.16 ID:LpO8x5Od
そもそも信長はその末期になってすら、石高(貫高)による軍役制度を導入できずに終わった
561 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 22:33:40.89 ID:W8ZLu8ni
急激に支配地を増やしたからな。
あと石高=兵力ではなくGDPと思った方がいい。
562 :
人間七七四年:2011/06/03(金) 22:42:42.18 ID:mJVgROXC
信長は統治することをせず従う国人に次々に軍役をかけて休まず戦わせただけ
だから秀吉みたいに算学ができる者がトップに立つと
武が文を軽視する風潮が薄れ輸送力が組織化する。
今までの織田軍は軍団制で派遣され
あちこちで次々と敵を作ってまわり
各国で現地食料調達方式のために
大軍集中で敵を潰す方式が不可能だった。
言わば兵を喰わせていくために戦略無く無計画に敵を作り侵略を繰り返していたのが織田軍。
秀吉時代は輸送概念が生まれ、必要に応じて敵を絞って戦略集中の遠征が可能になった。
だから時間を浪費し殺戮大会をやっていた信長と違い
効率的運用であっという間に西国をくだして家康を上洛させ土下座させた。
朝鮮出兵が可能になったのも秀吉の文武両道さが理由。
563 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 00:06:10.29 ID:3K/3Uetl
いいから巣に帰れ
564 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 00:34:10.84 ID:rwHfK+J2
東北に目を向けてみると安東が6000の兵を動員したり
南部が10000を動員したとある。共に石高は糞みたいな数字だが
このことからも石高で兵の動員数を語るのはナンセンスと言わざるを得ない。
兵力を語る上で大事なのはその土地への支配力。
565 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 00:44:07.19 ID:3K/3Uetl
その動員数は信頼できるのか?からだろ
566 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 00:53:35.97 ID:qe5gum2f
567 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 01:02:31.07 ID:aISMjbHe
>>565 んなこと言い出したら何も語れないだろ。お前こそ巣に帰れ
568 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 09:15:50.46 ID:8VPdk5t3
>>557 だから555も唐と書いて『から』と読んでるんだろう。王朝名としては『とう』だが、唐王朝に限定しない
中国を指す時は『から』と読む。秀吉の明遠征も『唐入り』だし。
高麗も王朝名としては『こうらい』だが、王朝名を離れた和訓では『こま』とも読まれる。
569 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 12:23:34.32 ID:J0Q0Qxsf
漢字は同じでも読み方で王朝名か国名か分けてたのか、情報感謝
570 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 13:57:28.88 ID:5Dg63WT4
幼名を名付ける場合、信玄の子達のように太郎、二郎、三郎と
1つの名前をつけるのは理解できるけど、対して二郎三郎や四郎三郎と
いった2つの名前を1つにして名付けるケースがとても多い。
この2つの名前を1つにして名付けることはどういう意味あいがあるのですか?
571 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 14:13:22.61 ID:J0Q0Qxsf
意味はないかもしれません
というのも生まれた順に一郎、次郎、三郎とつけるという価値観は近代のモノであって
中世日本においては名前に使う漢数字と生まれた順はなんの関連性も無く
長男に次郎や三郎とつける場合も普通にあって当時の人達からすればただの名前は名前でそれ以上でも以下でもない
ヒロシやケンタと同じ普通の名前です
(信玄は生まれた順ですがそれは信玄がたまたま関連付けただけでソレが普通だったわけではない)
だから次郎三郎さんに「なんで次郎と三郎両方ついてるの?」と聞くのは、
健太郎さんに「なんで健太と太郎くっついたみたいな名前してんの?」と聞くようなもので
本人からすれば「いや、次郎三郎は次郎三郎って名前で別に二つつけたわけじゃないんだけど」
となるのではないでしょうか?
間違ってたらすいません
572 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 14:43:27.42 ID:3K/3Uetl
二郎三郎というのは、基本的には次男(父)の三男(子)という意味です。
名前を重ねた理由は、一郎、次郎と名乗るのが慣例で分家が多いは親戚中が
同じ名前だらけになってしまうので分かりやすくした場合や
次男である二郎が家祖だったり著名人だったりで名を残したかった等が考えられます
また通称や幼名は代々受け継ぐ習慣もあったので家祖が二郎三郎と名乗っていた場合は
子孫は長男の嫡男なのに代々二郎三郎と名乗ったりもします。
573 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 14:58:54.80 ID:AJLsLx8m
次郎が当主になってる家なら
代々の当主予定者が次郎だったのがわかる。
後世の人も兄弟のうち嫡男扱いされていたのが誰だかわかるんだよ。
逆にその法則から外れている場合は
謀反や早世などが疑われる。
勝頼なんてまさに嫡男予定者じゃなかった。
574 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 16:08:14.81 ID:lNvbYMYM
二郎さんが早くに亡くなってしまい、その後生まれた三郎さんには二郎さんの分まで生きて欲しいと願いを込めて二郎三郎とつけるケースもあったみたい。
575 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 16:22:44.66 ID:DPVS9A7s
鎌倉期くらいまでは排行名といって、財産相続権の順番に
「太郎、次郎、三郎、四郎…」(女子なら姉子、二子、三子、四子…)
となっていたが、鎌倉末〜南北朝期くらいに、社会全体で旧来のルールによる相続の行き詰まりや
社会の騒乱状況から、基本嫡男相続に変化し、排行名は使われなくなった。
576 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 18:23:22.31 ID:1BunV23O
>>571-575 返答ありがとうございます
象徴的な意味合いだけでなくそれぞれの家の事情によって変化したんですね
次男の三男だから二郎三郎だったり
それに分家が多いから区別のためにというのも納得です
577 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 19:05:22.32 ID:Hiiwdl8o
578 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 19:58:21.72 ID:Vj2OdUJJ
その、くっついた名前の人ってたくさんいるのかな
徳川次郎三郎家康
茶屋四郎次郎
くらいしか思い浮かばない
579 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 20:23:37.49 ID:XYJEkVkn
「ゑニコニコちゃわん」ってなんぞ?
580 :
人間七七四年:2011/06/04(土) 22:24:57.96 ID:JDdOj8zM
581 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 00:51:32.71 ID:vKLLrMTc
>>578 戸沢九郎五郎政盛、最上太郎四郎家親、国分五郎次郎盛氏、河田九郎次郎重親、
大宝寺四郎次郎義氏、大宝寺四郎次郎義勝、岩城二郎太郎重隆、岩城四郎次郎貞隆、
岩城四郎次郎宣隆、岩城四郎次郎吉隆、真里谷八郎五郎信清、真里谷八郎五郎信応、
武田六郎次郎信豊、甘利三郎四郎信景、勝沼次郎五郎信友、真田次郎三郎幸隆、
三木四郎次郎良頼、松平十郎三郎康孝、小笠原十郎三郎信嶺、阿部四郎五郎忠政、
渡辺次郎四郎氏綱、遠藤三郎四郎慶隆、遠藤三郎四郎慶勝、織田三郎五郎信広、
織田三郎四郎信衡、明智二郎四郎光忠、香川五郎次郎之景、香川五郎次郎親和、
池田三郎五郎信正、池田八郎三郎勝正、有馬九郎三郎則頼、有馬四郎次郎則氏、
尼子三郎四郎晴久、尼子三郎四郎義久、赤穴九郎太郎光清、吉川次郎三郎経基、
吉川次郎三郎国経、吉川次郎三郎元経、吉川次郎三郎興経、吉川次郎五郎広家、
龍造寺六郎次郎周家、龍造寺六郎次郎長信、伊東六郎五郎祐兵、相良四郎太郎義陽、
相良四郎次郎頼房、肝付三郎四郎兼護、島津三郎太郎実久、島津三郎太郎義虎、
島津三郎四郎忠隣、新納次郎四郎忠元、喜入三郎四郎季久
582 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 04:15:59.72 ID:w7EhkbAw
演芸場の出演一覧かいな
583 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 09:46:39.97 ID:PYFJLOIO
太平三郎四郎
584 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 21:37:11.44 ID:5Vd2j4kV
長宗 我部元親
585 :
人間七七四年:2011/06/05(日) 23:42:25.61 ID:Ojmldvqp
中国は春秋戦国時代において食客を抱えるということが
ブームになっていたと言いますが
日本の戦国時代ではあまり聞かないのはどうしてでしょう?
確かに役に立たなければ単なるごく潰しに過ぎませんが
大名の財力や権威を示すという意味では普通に発生しそうな気もするのですが。
586 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 00:10:43.36 ID:l2KWx7BE
>>585 食客とは言わないけど客将とかよくあるんじゃない。
587 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 00:24:27.80 ID:sajkXiT1
働かず者食うべからずという考えが強かったとかかな。
588 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 00:28:30.30 ID:ZZpxC4oJ
武士と言う名の私兵が大量に居るのに
食客と言う名の私兵を区別した上で別に養う意味が分からない
589 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 00:29:12.33 ID:1VzcmvIF
戦国大名も一応同じ職種を雇ってたよ、食客みたいなスマートなやり方じゃなく
露骨に坊主や忍者として抱えてたけど
590 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 02:51:45.22 ID:GKQLRO5O
>>585 大内は客の公家や相良がでしゃばって滅んだなあ
591 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 14:19:29.43 ID:RMBhPoKh
中国戦国時代の公子らのあれは暗殺から身を守る為に雇ってた一芸に秀でた輩なだけ。
はっきりいってその遊び人たちの生活を支える貧民が可哀想レベル。
単なる無駄な浪費に近いし公子の趣味が反映された採用基準。
食客3000人とかバカバカしい。
しかも食客で歴史に名を残すほど役にたったのはわずかだし
それもかなり講談臭が激しい。
孟嘗君とかアホ過ぎ。
592 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 17:18:18.79 ID:+8pDCe54
食客ってのは私兵でもあるけど、基本的には諜報員だからね
趣味や見栄じゃなく、高位の貴族にとって必要不可欠な人員
593 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 18:13:13.64 ID:4DVT0ReI
普通に考えたら、日本の方が中国よりも「家」が重んじられ、
結社だのパンだのといった横の関係は比較的軽視されたからじゃないの?
家紋というものは、日本とヨーロッパにしかないしな。
594 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 18:59:18.64 ID:1VzcmvIF
というより、食客を担えるだけの人材が多くなかったから
忍者や僧侶や修験者や商人などが食客よりも貴重な存在として扱われた。
595 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 19:06:11.28 ID:j6NsOZSB
寺社建てたり寄進したりして集まるようにしてるな
596 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 19:44:30.33 ID:ikPMXndP
>>593 > 普通に考えたら、日本の方が中国よりも「家」が重んじられ、
んなわけねーだろ。どう考えたっていつの時代も中国のほうが家や家格を重視してる。
中華の結社やパンを過大視しないほうがいい。
597 :
人間七七四年:2011/06/06(月) 20:09:54.21 ID:RMBhPoKh
日本と違い中国や韓国は先祖代々の家系図を持ってるし名字が少ないのも
韓国で偽家系図作りしてみんな両班の子孫になっているのも家柄が重視されてるからだよ。
日本は一家庭レベルで姓を捏造した家系図を家系図業者に作成依頼しなくても就職差別されない。
598 :
人間七七四年:2011/06/09(木) 07:49:28.42 ID:fIEpQkvK
>>597 えっ、鼻紙に残されていた家系図を写し取って源氏であることを証明した徳川将軍家……
599 :
人間七七四年:2011/06/09(木) 09:19:57.14 ID:DlNqjy6h
>>598 そんなアホ反徳川伝承信じてるのかお前。救いがたいな
600 :
人間七七四年:2011/06/09(木) 11:41:25.91 ID:ZC925UNy
鎌倉幕府滅亡後、源を氏とする人がいなかったのは何故ですか?
601 :
人間七七四年:2011/06/09(木) 11:44:45.05 ID:DlNqjy6h
602 :
人間七七四年:2011/06/10(金) 00:50:13.77 ID:16QCWMhY
戦国時代は家や名を守り、次代に継がせることが重視されたと思うのですが
同時に功績のある家臣に絶えた名跡を継がせたりしています。
この場合、他家の名跡を継ぐことで自分の本来の名や家が絶えることは
構わないのですか?
例えば飯富氏も由緒ある伝統的な氏のようですが、
山県姓を継いだ昌景は自分本来の家である飯富姓を次代に繋げたいとは
思わなかったのでしょうか?
603 :
人間七七四年:2011/06/10(金) 00:57:17.71 ID:rXEDitCl
>>599の悪事も第二のsenngoku38によって暴かれるんだけどな
604 :
人間七七四年:2011/06/10(金) 01:03:44.75 ID:8lbvU9V9
>>602 結果家格が上がるのならそれでOK
先祖に対しても誇りと成る。
605 :
人間七七四年:2011/06/10(金) 01:13:26.37 ID:F4Xx5THR
伊達政宗って、本当に眼帯を付けていたのでしょうか?
肖像画を見ても、ぜんぜん眼帯してないっぽいんですが…
606 :
人間七七四年:2011/06/10(金) 01:20:53.11 ID:oDUWNXRj
607 :
人間七七四年:2011/06/10(金) 01:22:50.56 ID:XwUCVmcO
眼帯はつけてない。
おでこがたれ下がり目が飛び出てて大変見苦しかったと言う記録がある
608 :
人間七七四年:2011/06/10(金) 08:24:03.04 ID:pdC3Eqwb
>>607 ____
/__.))ノヽ
.|ミ.l 無 能 i.)
(^'ミ/.´●.〈・ リ
.しi r、_) | やかましいわ!このヤロー!
| `ニニ' /
ノ `ー―i´
609 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 00:02:12.72 ID:5TOu98hg
そういえば漫画などでは革や金属製っぽいお洒落眼帯が主流ですが
実際は布とかな気がしますがああいう眼帯ってあったんでしょうか?
610 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 12:21:44.78 ID:SWZZZume
611 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 13:27:46.57 ID:+Zwk2DKH
612 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 13:42:10.00 ID:Q0Epd0Ko
というより、病気を患い眼帯をしていなかったら…ここまで持ち上げられてはなかったように思えますが、如何か?
613 :
人間七七四年:2011/06/11(土) 14:06:19.94 ID:FIKGJKLJ
眼帯なんて付けてなかったから
614 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 22:02:40.91 ID:XBfdAEW7
一向一揆について教えてください。
大友宗麟はキリスト教を優遇する一方で旧来の宗教を弾圧しています。
焼き討ちのような信長同様の弾圧を行なっているわりに
大友宗麟が一向一揆で苦労した類の話を聞きません。
九州には一向一揆は起きなかったのでしょうか?
615 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 22:04:29.17 ID:Co10XWAI
616 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 23:03:50.48 ID:WN7hjJfR
浄土真宗の浸透が遅かったというべきだな、九州で流行っていた時宗一向派と混同するから
617 :
人間七七四年:2011/06/13(月) 23:06:37.75 ID:C9FCF1uQ
本やネットを見ると、文明三年に古河公方・成氏が堀越公方・政知を攻めたとありますが実際どこまで攻め込んで行けたのでしょうか?
上杉の支配領域の中、伊豆どころか相模に入ることすらできそうにない気がするのですが…。
618 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 00:22:37.54 ID:ZMdu6VO5
『御内書符案』に、千葉・小山・結城が三島まで攻め込んだむねが書いてあるね。
この時代、戦国後期のような『支配領域』は、まだまだ発展途上。
領主は荘園の所々を抑えていただけで、面的支配は実現できてない。
はるか後年でも伊勢宗瑞の軍が東上総の茂原まで攻め込んだり、扇谷が平塚を焼き払ったりしてる。
大規模な敵方の軍勢が攻め込んで来ても、個々の小領主の軍勢では手出しすらできず、容易に奥深くまで攻め込まれてしまうってこと。
その点、まだ南北朝時代の戦争と大して変わってない
619 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 01:00:29.88 ID:UGQ7L3iQ
関東平野は遮蔽物ないしなあ
氏康も謙信と信玄に小田原城まで攻め込まれてるし
620 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 01:51:21.61 ID:Uh0DB7Ou
なるほど、そういうものですか。
しかし箱根を越えて三島まで行ってたとは驚きました。
もしかして扇谷や相模の大森、三浦あたりは政知と確執があったし本気で政知を助ける気はなかったのかなと妄想。
621 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 02:10:40.36 ID:H8hZiaIL
秀長軍の淡河城攻めの時、淡河氏が牝馬を放って秀長軍を混乱させた逸話がありますが、この話に限らず、最終的に負けた側の派手な逸話は史実の可能性が高いと思いますか?
622 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 05:27:43.16 ID:VtxOP1JB
623 :
人間七七四年:2011/06/14(火) 09:43:42.64 ID:QKi/1Sof
624 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 09:50:37.93 ID:d1EEN9Yb
自分の棺おけを担がせて出陣した武将って誰のエピソードでしたっけ?
うろ覚えで安国寺恵瓊が関が原の合戦に出たときの話かと思ってましたが
調べたら勘違いっぽい
625 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 10:08:35.41 ID:fHWPCw/o
626 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 13:26:40.73 ID:NDyjXz4D
便乗。同じような感じで白髪を染めて出撃したとか、
香を炊いて出撃した武将って誰でしたっけ?
627 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 13:54:56.71 ID:NrGdBXWL
>>626 別にだれということはない。
生きて帰らない覚悟であることを敵味方両方に知らしめるための装い。
侍大将なら皆といってもいい。
628 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 14:09:30.08 ID:xcnnbldE
白髪を染めては斎藤実盛
香を炊いては木村重成
大元の逸話は中国古典
629 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 14:34:07.39 ID:mc1NcsSh
大河ドラマで三成の息子、重家の「家」の字は家康からの諱だとなってましたが、あれはフィクションですよね?
630 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 15:11:13.95 ID:NrGdBXWL
下につく諱など無い。
つく場合は必ず上。
三成の子は重家、重成、でもしも諱があるなら重の方。
歴史音痴の脚本家は困ったもんだよ、まったく。
631 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 16:52:03.25 ID:NDyjXz4D
>>628 ありがとうございました。一方は源平合戦のころのはなしだったんですね。
632 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 16:52:44.28 ID:c32gt/gH
信玄の没後、武田勝頼が同盟を結んだ相手って謙信?
それとも、御館の乱後の景勝となんでしょうか?
633 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 17:04:22.51 ID:MdvhtYmp
>>632 景勝とですな 御館の乱の途中でどんどん接近し、乱の後に北条が怒って武田北条の同盟が
崩れてしまうと上杉武田の同盟を結んで対抗したと思います 婚姻関係も結んだかな
634 :
月孔雀:2011/06/15(水) 17:05:02.05 ID:BFxDfeI0
信玄死後、遺言通り、勝頼は、謙信を頼り、
甲越同盟したらしい。
635 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 17:11:35.66 ID:c32gt/gH
ありがとうございます。ここらへん調べてもやや曖昧で、
>>633さんのように、御館の乱のあと「景勝と」同盟した、
>>634さんのように、信玄の遺言通り「謙信と」同盟した、
の2通りの説を耳にするので、どちらなのかな…と思いまして。
636 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 17:14:52.82 ID:MdvhtYmp
いろんな説が成り立つから面白いんでしょうね 戦国時代は
637 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 17:18:47.28 ID:xcnnbldE
信玄の没後に信長包囲網の一環として不戦協定
御館の乱後に軍事同盟である甲越同盟
638 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 17:19:45.42 ID:CGSEpr5j
謙信死後越後内乱で
同盟リセットどころか
北条と一緒に景虎を支援することになったって言う経緯があるからじゃないかな
639 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 17:24:38.13 ID:hKufVc6C
>>634 嘘を言うな。北条との同盟を破棄してない以上、それと敵対している謙信との同盟を
勝頼が出来るわけ無いだろ。むしろ勝頼は関東での謙信の利権を蚕食する政策をとっている。
勝頼自身が出陣して、越山して北条を攻める謙信の行動を牽制することもしている。
ちなみに武田家的には、天正元年4月に死んだ信玄が、翌天正2年9月まで生きていることになっている。
信玄の遺言云々は軍記物のつくり話だ。
640 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 17:33:38.50 ID:CGSEpr5j
信玄末期に義昭によって甲越和与が成立し
謙信が上洛戦をする時期には改めて義昭の配下の六角義堯によって謙信と勝頼と氏政の間に和睦がなっているはずだけど。
641 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 17:34:51.21 ID:S8cRsYLM
城跡に、半分埋まっている瓦の破片は当時の瓦でしょうか?
642 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 17:37:13.19 ID:c32gt/gH
皆さん、回答ありがとうございます。目下の自分の認識としては
↓勝頼、織田&徳川対策として謙信と(同盟ではなく)休戦協定
↓手取川で上杉が織田を破るも翌年、謙信急死。御館の乱発生
↓当初は景虎の要請で勝頼挙兵も、のちに景勝側へ。景勝勝利
↓武田は上杉と同盟するが、北条を敵にまわすことに。
↓疲弊した上杉に援軍求むも断られ、結局勝頼は三方を敵に囲まれる
なのですが、だいたい合っているでしょうか?
643 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 17:39:27.19 ID:OoAIlTzW
小学生みたいな質問だな
644 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 17:41:47.78 ID:xcnnbldE
大体その流れでいいけど、
上杉は援軍を出してる。まったく間に合わなだけ。
645 :
上杉謙信:2011/06/15(水) 18:07:37.26 ID:BFxDfeI0
上杉は、いつも義理堅いのだ。
646 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 18:17:08.07 ID:y3udp/3D
義理堅いというかお人よしというか…
おかげで腐れ縁の真田には、いつも煮え湯を飲まされてるイメージの上杉。
647 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 20:52:12.70 ID:sWcE0jKH
>>618にも書いてあるけど、伊勢宗瑞が小弓公方を支援して房総に渡ったって本当にあったこと?
その割にはその後、後北条は一貫して小弓公方と対立しているけど。
648 :
人間七七四年:2011/06/15(水) 22:03:48.18 ID:un3Y+H5s
相馬家臣・泉田胤雪が伊達政宗率いる軍勢を撃退したというのは本当ですか?
649 :
618:2011/06/15(水) 23:05:04.53 ID:oRr56f0E
>>647 「上総藻原寺文書」北条が出した制札4通が現存している。
そのうち該当するのは
・永正13年11月 伊勢宗瑞制札
・永正16年7月 伊勢氏綱制札
宗瑞自身が渡海したかは分かりようがないが、彼の軍勢が三浦制圧直後に上総に侵攻したのは確かだ。
一貫して対立してるように見えるのは、その後、氏綱・氏康が古河公方晴氏を担ぐことに成功したからで、
古河の味方をすれば、自動的にその宿敵である小弓と敵対することになる。
650 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 06:25:26.85 ID:HN7ldyqB
wikiの北条早雲の小田原城奪取の項目で
>小田原城奪取など早雲の一連の行動は茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあった
>と見られていた。だが近年の研究では足利義澄-細川政元-今川氏親-早雲のラインと、足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信虎のライン、
>即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。
信虎ってずいぶん早いころから生きていたんだなあ。
651 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 11:09:12.14 ID:7Sf806Te
それは表記がおかしい
信虎も生きてはいたけど生まれたばかりだ
そこは信虎じゃなくて現当主の信縄にすべき
652 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 12:30:10.42 ID:JuzL5zUB
信縄は病弱らしいし、国人たちのまとめで手一杯だと思ってたがなあ
653 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 13:10:54.63 ID:mDZWfABY
義材と茶々丸が繋がってたん?
早雲はむしろ義視→義材と繋がってんじゃないの?
654 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 14:40:31.07 ID:Gr26SLRr
>>653 この頃京兆家と幕府政所伊勢氏は連携しているから、伊勢氏の庶流である宗瑞も当然このライン。
655 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 19:39:43.95 ID:5QweaFEk
当時の人が天下や日本という場合は
北方はどこまでが日本の範囲だと思っていたのでしょうか?
656 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 19:43:20.26 ID:cAB8nhct
>>655 いつの「当時」か知らんが、秀吉の時代くらいまで「天下」の範囲は畿内近国、
広げても加えて東海、北陸、瀬戸内沿岸、くらい。
657 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 20:01:13.03 ID:D/njnzn5
これが古代の遺物、西国人という奴だね
658 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 22:19:38.25 ID:PzT6wAUX
鎌倉時代ですら蝦夷から薩摩まで日本だったわけだが
659 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 22:44:13.39 ID:IsHevJYj
天下の概念があやふやだから天下=日本にはならないしな
室町幕府的な感覚だと幕府将軍の威光が届く範囲までが『天下様の天下』
それは畿内周辺に限定されたもの
660 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 22:49:01.51 ID:Gr26SLRr
川角太閤記の頃でも、秀吉が小田原征伐から京に凱旋したときの記事に
「天下にご帰還された」と書かれている。
つまり関東は「天下」の概念に入っていなかったということだ。
661 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 23:12:03.15 ID:ELutz5Qm
そもそも「天下」ってのが統一された一つの定義のみの言葉だとは限らないのでは?
662 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 23:23:17.51 ID:IsHevJYj
あと天下は『天皇陛下のお膝元』の意味合いで使われる事もあるか
この場合の天下は京そのもので、その天皇の下に居て京を治めている人間が『天下人』
663 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 23:37:33.45 ID:D/njnzn5
無いな。「天下一」の呼称は北海道を除いてほぼ全国の意味で天下を使ってる
664 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 23:40:52.96 ID:G0Y/dKok
天下が日本全土という意味になったのは江戸時代
665 :
人間七七四年:2011/06/16(木) 23:59:49.48 ID:5QweaFEk
みなさんありがとうございます。
私はだいたい戦国時代の人が今でいう東北地方や北海道のどこら辺まで
日本だと思ってたのかというような趣旨の質問だったのですが、
「当時」や「天下」と曖昧な言葉を使ったせいで色々と難しい話になってしまったようで、
すみませんでした。
666 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 00:14:24.62 ID:sALZ6gEW
>>665 大雑把な(曖昧な)認識で東北まで、北海道の存在は知られてない。東北地方を具体的に
認識してるかどうかは各個人の知識によると思う。和歌の知識があれば歌枕の地は知ってるだろうし。
667 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 00:19:10.08 ID:MZ4vVsMu
>北海道の存在は知られてない
ひどいデマだw
668 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 01:14:38.52 ID:weO1eS3F
北海道の存在は知られてないが北海道とは頻繁に交易していた
669 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 01:23:57.55 ID:rSOOApYP
蝦夷地が奥羽以外の人間や一部の知識人意外に認知されていなかった可能性は高いよ
欧州人が伝聞と簡単な測量を元に描いたであろう日本地図でも
17世紀も後半までは北海道部分がすっぽり抜けた地図になっていて
蝦夷地が描かれて以降も、蝦夷はとにかく広大といった感じでぼかして
蝦夷地、北海道が島であるとは認識していない
つまり、陸奥の更に奥にも土地が続いているのは知っていたが
それが具体的にどういうt土地なのか幕府が測量しに行くまで知る者はいなかった
670 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 02:20:57.92 ID:WjnExlJJ
安東や柿崎を通じて知ってたはずだぞ
671 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 02:28:18.23 ID:sALZ6gEW
安藤やカキザキ自体の知名度がどれだけあるのか。
672 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 03:02:11.00 ID:weO1eS3F
京都と交易してたし、日記だか何かにもちょくちょく言及があるけど
673 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 03:29:37.04 ID:JuT6AHqM
明智光秀が本能寺の変を何故おこしたのかは多くの説があるようですが
公的には内外にどのような理由だと説明していたのでしょうか?
いくら戦国時代でもそれなりの正当化を図ったとは思うのですが
674 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 08:32:36.52 ID:9PSGSm+4
>>669 それは知る知らないじゃなく
単に国制に組み込まれてない外国扱いだっただけじゃないのか?
675 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 08:37:50.46 ID:MZ4vVsMu
いちいち説明するのも面倒くさいから
東大の中世史教授村井章介の「海から見た戦国日本」でも読んどけ。
平安末・鎌倉時代から蝦夷で和人の居住と貿易が始まり
幕閣の記録や日蓮の説法に「東夷」が登場するようになる。
フロイスの日本史にも「蝦夷島」の記述はあるし、
蝦夷島を北上すると「オランカイ人の土地」現在のロシア沿海州に着き、
「オランカイ人の地」は朝鮮北東部に接しているとされている。
676 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 19:05:24.92 ID:QuTiGvl+
>>671 知名度が高いかどうかの問題じゃねーよw
677 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 19:18:17.61 ID:y2Wuanvb
すまない聞きたいんだが、戦国の始まりがいまだにわかんないんだが、
足利以降西日本の勢力 九州以外
がまだ不安定で南北?とかの動乱もあいまって、山名とかチョン大内(にせものとされる)
が反乱おこしまくる。で最後収集できないような状況になって、足利分裂しかける。
で最終的に分断地方政権みたいになったのが戦国の始まり
ないし、今川が足利分離したとき、ないし信長が本格的な全国布武
やった40〜50年?あたりが戦国の始まり
という解釈でよろしいか?
結局西日本の分断勢力と、今川分裂と、名古屋のアホな農民が始めた戦争と
かなりGDGDで応仁とかわかりにくいけど、西日本のクソが始めた戦争という解釈でOK?
元々政府、朝廷の辞令、指令なしで好き勝手にやってたのは西日本だけだよな。
そして、西日本以外の日本には全国的に武士が普及したけど、
西日本は厳密には武士でもない農民地方勢力みたいなもんだったんだよな。
で名古屋ではクーデターが乱立すると
678 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 19:20:08.44 ID:y2Wuanvb
極端な話
山名、大内を完全につぶしてれば
今川が分裂しなければ
名古屋農民が反乱おこさなければ
もっとちがってたよな。
おそらく足利政権で通貨普及とか地方分断(実質地方任せ)
とかしてたよな。
679 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 19:26:39.64 ID:y2Wuanvb
今川が
オレは足利をやめるぞーーー
YOSHIHARU-------------------
を地でいって失敗した人
多少北条とかも絡んでくるのかな?
680 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 19:54:08.97 ID:gj3rZjrW
>>624 吉川元春
棺おけじゃなくて首桶だったと思う
681 :
人間七七四年:2011/06/17(金) 22:48:56.76 ID:n+cbfFqc
>>653 義材の対抗馬の生母を殺したのは誰かを考えれば自ずから分かるだろう。
>>649 後北条が晴氏を選んだと言うよりも、後北条が三浦半島から江戸城まで制圧したことで、房総諸氏(小弓・里見など)の海上支配が揺らいだために反北条勢力と連携して東京湾岸の海上支配を回復しようとした。
近年では中世末期の利根川の本流は現在の隅田川であったという説が有力視されているから、江戸城は利根川河口にあったことになる。つまり、江戸城を支配されると東京湾の制海権は後北条が握ったのと同じ効果がある。
682 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 00:06:40.79 ID:RZWwTpha
>>677 夜が明けたら精神科行って虹色のお薬貰って来い
683 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 00:23:09.81 ID:RMmSJs62
>>677 何をどうしたらこんな考えに至るんだ…
ここで質問するより、中学の教科書でも読んだ方がいい
684 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 01:54:18.45 ID:CL2GOMIH
>>680 それは元春じゃなくて吉川経家だね
首桶を持って鳥取城に入ったが秀吉に攻められて自害した。
685 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 07:05:12.54 ID:Y+coqAFT
>>677 よろしいか?
って言葉は目上の人間が目下の人間に使う言葉。
質問する人間の態度ではない。
686 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 08:17:04.10 ID:ZeZmsXjo
スルーすれば済むのにそんなにも集中攻撃しなくってもいいじゃないかww
687 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 08:29:32.06 ID:MNM6/x97
688 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 09:42:57.47 ID:R/h8h4Hk
>>687 姓が同じというだけで平野綾が俺の嫁といい、
マイケルジャクソン級の弁護士団揃えて、結婚
しようとする奴が毎日飲んでいる薬
689 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 09:53:39.53 ID:AUnueU1Q
>>677 マジスレしたる
通説では“戦国時代”のはじまりは応仁の乱とされているが、関東ではそれ以前から戦乱の火が上がっていたのは知ってるな?
これは私見だが、戦国という『室町幕府の権威低下と好き勝手を始めた地方領主』時代は足利義教のころ、結城合戦あたりではないかと。
690 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 14:32:39.36 ID:7Ga2uee4
義教のころは無いわ
691 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 19:47:32.02 ID:I6bm+MzQ
所で、堀越公方はなんで鎌倉入りを反対されたんですか?
692 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 21:06:43.46 ID:Ag/wtQST
>>691 鎌倉周辺の安全がどう考えても不安定だから。
693 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 22:23:18.69 ID:fBBJxEr5
>>691 ・鎌倉が戦乱で焼き尽くされてた説
・古河に移った足利成氏とその与党からの攻撃を恐れて説
694 :
人間七七四年:2011/06/18(土) 22:41:19.15 ID:GheWhaVO
戦国時代に活躍した武将や文化人の中で
明、朝鮮、琉球などから来日した人は誰かいませんか?
秀吉が朝鮮派兵の時に連れてきたような人は抜きだとありがたいです。
695 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 00:33:49.07 ID:2UirCImv
>>694 蘭渓道隆ら高僧の来日は鎌倉時代まで盛んで禅宗の興隆に寄与していたけど
室町以降は見られなかったとおもう。たしか大陸では儒教が重んじられて仏教が絶賛弾圧中だった影響?
でも九州・山口の各地や東は小田原に唐人町が多く見られるので民間の渡来人は少なくなかったと思われ。
戦国時代に日本を訪ねてきた大陸人といえば
倭寇の五峰王直
灰吹法の吹大工の宗丹・慶寿
2800石で大内に仕えたとされる張忠・張思朝(張六左衛門)親子などいます
696 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 01:45:23.54 ID:jTPnuKZM
>>691 あと、相模国主の扇谷上杉氏と関東管領・伊豆国主の山内上杉氏との調整が上手くいかなかった説もある。
そのためか、関東執事に任じられた渋川義鏡が扇谷上杉の重臣が幕府に謀反を企んだと讒言をして問題になっている。
697 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 01:46:46.54 ID:jTPnuKZM
>>695 儒教の高まりもあったけど、民間では明代には道教の方が優位で皇帝から保護された道士もいた。
698 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 11:49:18.97 ID:Ch0JmLUW
そういえば時代は下るが、柳沢吉保のブレーンの中にも中国人僧侶がいたな。
699 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 17:34:44.59 ID:UEhqzIvK
江戸時代は割といるんじゃないかな
水戸徳川家では朱舜水という明の高名な儒学者がいた
700 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 20:21:55.18 ID:a6VpUrrs
意思疎通どうしてたんだ
筆談?
701 :
人間七七四年:2011/06/19(日) 22:41:21.40 ID:u/si33Uz
中国語でしょ、今の日本人が馬鹿みたいに英語教えてるのと一緒
702 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 14:41:32.24 ID:xWaC5SL9
足利学校に通訳くらいいたろうね。
703 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 14:53:37.42 ID:WxASVOQn
∧∧
/ 中 \
( `ハ´ ) ワタシ謎の中国人
(´__]l[__`) 珍宝アルヨ
. |__|__|
(_,,X,_)
704 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 14:57:45.52 ID:6sK6CohI
ぜんぜん関係ないけど英語は大切だってはなしで、標準語の北京語?を使う中国人と
南部の言葉をつかう中国人ではまったく言葉が通じず、結局英語で会話をしている、と
聞いたことがあります 現在でもそんなザマでは中世の中国はどうだったんでしょうか
標準語とかあったんでしょうか
705 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 16:15:18.42 ID:opoh//qm
当然ない
日本語だって明治以前はかなりの地域差があったしね
でも武家が言葉通じなかったと言うのは嘘っぽいよな
坊主あたりから京言葉とかを習っていたと思う
706 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 16:36:18.62 ID:HbeDwmr9
後中世の武家は能狂言で一種の「共通語」を学んでいた。
武士が能狂言に熱心だったのはそういう実用的側面もある。
707 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 16:49:01.86 ID:Rkdpa6S1
>>704 いまの沖縄県人と北海道人がお互い方言同士で喋るならそうだろうねw
中世(後漢〜唐)中国は現代中国と違って、女真的中国語が標準じゃないよ
708 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 19:07:23.76 ID:xxA2/r0g
>>705 京言葉は知らんが、江戸藩邸では共通の山の手言葉が使われていたらしい。
709 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 19:32:57.46 ID:kvHisVOs
さすがに江戸時代まで行けば藩主はみんな江戸生まれの江戸育ちだし
参勤交代のおかげで江戸で流行った物は1年後に地方でも流行るという
文化伝播システムがあった時代でもある
710 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 20:02:02.59 ID:xxA2/r0g
それでも国元では方言バリバリでしょ。
711 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 20:06:58.75 ID:HbeDwmr9
地方の大名も殿様とその側近団が基本江戸育ちなんだから、少なくとも上層部は
江戸弁が主流。あの薩摩でも島津斉彬なんてバリッバリの江戸弁。
侍に限れば国元でも方言バリバリってのは、下級の層まで行かないと無かったのではないか?
712 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 20:19:29.39 ID:xxA2/r0g
そうかなぁ。側近は江戸弁でも、そんなのは一部だと思うけど。現代でも関西人とか九州人は
標準語話せても地元では使わないでしょ。ああいう感じだと思う。
江戸育ちの殿様と側近団が江戸弁であろう事は同意するけど。
713 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 20:24:11.33 ID:HbeDwmr9
>>712 「バリバリ」という部分への意見な。あと「侍に限れば」って所も勘案してくれい。
714 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 20:50:05.98 ID:xxA2/r0g
>>713 侍でもみんなが江戸詰めを経験する訳でもないと思うんだ。
715 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 21:52:41.12 ID:kvHisVOs
江戸詰めした地方下級武士の日記もいくらが残っているが
言葉が通じなかったってのはさすがに無いな
716 :
人間七七四年:2011/06/20(月) 22:11:52.34 ID:drSzZZQY
地方差と言ってもしょせんは訛りだからね
文法は同じだし単語だって良く聞くと理解出来ない事はない
初めは戸惑うだろうけど少し生活していれば慣れるのは間違いない
717 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 03:23:30.21 ID:5aIgVBTn
幕末の志士同士が言葉が通じなくて漢文で筆談したなんて話を聞いた事はある
ソースも醤油も無いが
718 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 05:42:58.01 ID:9WVBwI/R
江戸時代なら江戸に通う大名は、標準語位を作法として身に付けてほしい。
戦国時代は方言の弊害で困る様子が萌えるw
719 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 06:08:30.19 ID:iJT59+dx
江戸時代の武家の教育の中にある程度は武家会話があったんじゃないか。
武家の女性だってかな言葉で手紙書いてるの読むと方言はあんまり感じないぞ。
ただ幕末には江戸育ちの藩主らは討幕に大反対だったってのがあるが。
720 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 09:12:06.62 ID:5Ofv0xUy
>>719 話し言葉と書き言葉は別だよ
言文一致が始まるのは明治から
721 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 14:57:33.57 ID:hmLZG5a/
方言が強いつっても、聞き取りづらいだけで
外国語と違い聞き取れないわけじゃないからな
722 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 15:02:28.88 ID:yB+5tSnw
いや、俺は福島で祖母さんは新潟だが全くに近いくらい聞き取れなかったぞ。聞き慣れない上に早いんだ。
マジで外国語並み。
723 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 15:25:54.98 ID:iJT59+dx
茨城県つくば市の老人から話しかけられたら
東京人がまったく理解できない外国レベルだぞ
ガチガチの地域語をナメたらアカンよ。
語尾だけ違う地域ならまだマシだ
724 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 15:27:19.53 ID:xA9ylxtT
能や狂言のセリフが日本中どこでも通じる言葉だった。
普段は信長や秀吉も「にゃ〜ぎゃ〜」喋っていたんだろうが、公式の場では武家言葉というのがあった。
今でも普段の会話言葉と公式な文書に書く文書言葉は全然違うように、しっかり使い分けていた、
たしかに発音(に・ぬ、や、ざ・だ、などなど)は地方によって様々だけど、
武家言葉で話すからしっかり通じるはずだ。
と明治の初期の言語学者が書いたものがあるよ。
725 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 15:40:51.97 ID:Yl9PrLaK
いいから連れてこいず!
このくらいなら日本語として通じる。
726 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 16:00:41.67 ID:hmLZG5a/
>>722-723 適当に聞いてればな、仕事で聞くのとただの雑談じゃ比較にならない
方言は所詮同一語の方言、外国語とはまったく別物
727 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 20:00:12.17 ID:yB+5tSnw
>>726 「スイカタベルラカー」が俺にギリギリ聞き取れた限界だった。それ以上は無理。
728 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 20:22:11.44 ID:iJT59+dx
>>726 仕事でつくばに行ったら現地の老人の会話が何一つ分からなくて愕然としたわけだが。
729 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 20:37:41.93 ID:Eq1VBXwV
方言は一定の法則があるから、それさえ理解すればどこの方言でも簡単に理解できるよ
それに方言は大概が古語なんだよね
だから古典好きなら直ぐに理解できる
勿論、慣れない方言だと初めは聞き取り難いけど
ゆっくり話してもらえば初めから9割方は理解できる
間違っても会話出来ないレベルではない
茨城弁なんかは固有の単語が極僅かだからかなり簡単だよ
沖縄弁あたりになるとかなり難易度高いけど
730 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 20:46:07.13 ID:S3FcMuXO
>>728 本気で意思疎通したいなら、なんとでもなるレベル
731 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 22:09:26.91 ID:iJT59+dx
いやだから全然わからねぇんだって…
732 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 22:16:55.25 ID:PulTCqB8
>>731 それはお前がわかろうとしなかったし相手もわからせようとしなかっただけの話だ
733 :
人間七七四年:2011/06/21(火) 22:19:33.22 ID:yB+5tSnw
そりゃ本気でコミュニケーションしようと思えば外国人とでも通じ合えるのはTVのバラエティを見ても判る事だ。
734 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 00:45:54.78 ID:FY1c3s4t
おれも茨城県民だが、
ID:iJT59+dx ID:yB+5tSnwの言うことに賛成。
>>726 >>729 >>732は
話し相手が頑張って標準語話者にわかるように話してくれた言葉を
現地の方言だと錯覚しちゃったんだろうな。
そのうえに、「現地の言葉を理解できたおれはコミュ力高い」とか二重の勘違い起こしてるみたいだね。
735 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 02:25:54.61 ID:SE2LAs00
>>734 方言も理解できないなんてコミュ力と言うより学力が低すぎる
どうせ地元の方言すらよく理解出来ていないのだろ?
言葉の意味を知ろうとしなければ理解出来るわけがないわな
736 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 03:32:43.13 ID:sudZZC3k
豚切ってすみません。質問させて下さい。
初歩中の初歩で申し訳ないんですが、一級史料に見られる「〜申候事」とか「〜也」とかの文体の呼び方は「古文」で良いのでしょうか?そしてこれを勉強するのにお勧めの本などを教えて頂けるととても嬉しいです。どうか宜しくお願いします。
737 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 04:29:51.10 ID:PFNyfl+5
一級資料なんてアホが勝手にそう認定してるだけのシロモノをよくそんな臆面も無く
738 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 04:35:04.00 ID:YMj+dNYa
超一級史料こそ無敵、一級史料では太刀打ち出来ない
739 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 05:20:23.98 ID:uuFsEBwH
>>736 「ーー候」みたいな文章は候文(そうろうぶん)とも言う。読み方を勉強する手掛かりにするキーワードとしてなら
古文書の方が適切かもしれない。ちなみに俺は勉強した事無いので本は知らない。
740 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 07:33:10.63 ID:1YV4lkbC
中国ではよく禅譲という体裁で地位を奪い取られる皇帝や王がいますが、
日本の戦国時代に表向きは禅譲ということで家臣に国を取られた大名はいますか?
741 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 08:40:40.07 ID:a3VvsdOt
742 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 09:25:24.42 ID:xZTKH3rJ
>>740 とりあえず一族内で庶流が宗家を覆し、表向きは平和裏の権力移譲、ということにしたものなら
佐竹、里見、毛利、島津などがあるな
743 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 09:54:51.63 ID:pqF1lfvY
あくまで目下の他氏族に譲る事だからそれらは当てはまらないかと
鍋島氏はレアケース
744 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 10:41:25.91 ID:Jg+rtLuS
>>734>>735 俺だけじゃなく一緒に来た人も理解出来なかったわけだが。
マジでわからん外国語レベル。
津軽の現地語とかもわからんぞ。
745 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 10:45:02.56 ID:xZTKH3rJ
746 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 11:07:42.23 ID:AID7MkeK
747 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 11:11:28.70 ID:D0I7wPHj
一門は言い過ぎ、外戚だよ
748 :
736:2011/06/22(水) 12:30:33.36 ID:sudZZC3k
>>739 有り難う御座います!「候文」に「古文書」ですね。両方答えて頂けてとても助かりました。
古文書について図書館で調べてみようと思います。
本当に有り難うございました。
749 :
人間七七四年:2011/06/22(水) 20:02:37.85 ID:u+qT63vp
>>747 親の再婚で義兄弟になったこといってんだろ。
750 :
人間七七四年:2011/06/23(木) 01:30:32.55 ID:0p9/h1bg
>>749 1.直茂の継母=隆信実母→外戚関係
2.直茂の実母=隆信実父の妹→親戚関係
準一門としてもいいんだけど、そうすると
龍造寺との続柄が鍋島と同等な馬場や千葉も一門扱いになるので
1.のアドバンテージがある鍋島は外戚と言った
751 :
人間七七四年:2011/06/23(木) 02:22:06.08 ID:SeSZLpmQ
馬場や千葉はふつうに一門でしょ、敵対しただけで
752 :
人間七七四年:2011/06/23(木) 02:46:47.71 ID:0p9/h1bg
一門というのは同氏族とそれを起源として分派した宗家分家の同族集団でしょ
馬場は父系から明らかに少弐一門
千葉は千葉一門
鍋島は龍造寺の分家が立てた家じゃない
753 :
人間七七四年:2011/06/23(木) 21:37:42.82 ID:mZPfajcZ
御一家、一門、親類衆がごっちゃになってるだけじゃん
754 :
人間七七四年:2011/06/23(木) 23:12:08.03 ID:eu5H9PD6
筑紫一門
筑紫惟門
筑紫広門
755 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 00:29:59.35 ID:zjdgER42
戦国時代は武士道って概念はあったのですか?
756 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 02:10:33.33 ID:toclH5O3
あったよ、ただし、江戸時代や明治以降や現代で考えられているようなモノとは内容は異なったけど
757 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 08:13:49.98 ID:LztzqLfq
やっぱり騎士道みたいに後から美化されたのでしょうか?
758 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 08:29:10.74 ID:FNq6u9UQ
>>757 美化と言うか、時代毎に求められた価値観の違いかな。
群雄割拠、自力救済の時代と
幕府が無事を担保して生涯予備役の時代とじゃ
是とされる武士観も全く違ってくるからな。
759 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 08:50:52.25 ID:RTNHZ4No
一応、近世武士道の原型は室町期に既に出現している。
今川大草紙などの当時の武家被官の心得を表した本は、近世の武士道に繋がる内容と
なっている。
760 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 09:06:18.89 ID:csdyv8dK
ないです。
そもそも武士道という単語自体、新渡戸稲造の造語です。
>>755
761 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 09:13:59.31 ID:RTNHZ4No
>>760 「武士道」は造語だが、それまでの武士に求められた概念を新渡戸稲造がまとめたものに過ぎない。
例えば「一期一会」は井伊直弼の作った言葉だが、それ以前から茶道には一期一会概念が
存在したことは自明である。
それに鎌倉期から「侍の道」「武士の道」「男(武士のこと)の道」という言葉は存在している。
概念とそれを表す言葉の関係を逆にしてはいかん。
762 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 09:19:14.77 ID:csdyv8dK
>>755 >>761 >「侍の道」「武士の道」
ちなみにこれらの用語の意味は「弓馬の芸」のこと。
要するに侍が身につける武芸のことしか意味していません。
精神適な意味はありません。
「男(武士のこと)の道」なんて言葉は知らんけどね。
763 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 09:38:19.80 ID:Ub7GnrZ/
こういうメンドクサイ奴来ると思った。
764 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 09:45:41.37 ID:RTNHZ4No
>>762 > 「男(武士のこと)の道」なんて言葉は知らんけどね。
おまえ古い文献にまともにあたったことないだろ?「おとこの道」って言葉は
室町〜戦国の文献に頻発する語句だぞ?
765 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 10:02:40.17 ID:LztzqLfq
('A`)衆道を連想してしまってスミマセン
766 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 11:12:04.36 ID:+fy3qX9A
武士道が新渡戸稲造の造語とか馬鹿じゃないの?
葉隠の有名な一節も知らんのか
767 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 11:32:34.71 ID:LztzqLfq
葉隠と聞くといまだに許せんことを思い出す。
安くて美味いことで九州では人気があっためん類製造メーカーの「はがくれ」(本社・佐賀県多久市)は
「腐敗臭がする。カビが生えている」とクレームをしたキチガイ女のせいで10万食を自主回収することになり
その影響で倒産した。
なお、後に防腐用の酢をキチガイ女が勘違いしていたことが判明した。
768 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 12:14:30.54 ID:kItyo8g5
あーそれが事実なら一企業に大損害を与えてて犯罪レベルだな…賠償問題になんないのかねぇ。
俺はマンナンの昔のこんにゃくゼリー食べたいよ。
これは岐阜のこんにゃくゼリーも作ってるメーカーを助けるためだって言うしな
769 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 12:54:45.12 ID:orGmMx4H
>>766 760も761も共に知らんらしいから信じるに足りんな。
770 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 13:53:00.97 ID:ySC5L9Ux
武士道は韓国から伝わった朱子学を元に徳川幕府が作ったものだからそれ以前にはないよ
771 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 14:03:15.98 ID:kItyo8g5
朱子学の流入が南北朝時代への呼び水になったんだろ。
そもそも鎌倉幕府は悪政をやってなかったのに突然ひっくり返ったと言われてるからな。
772 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 14:19:56.60 ID:7mXZCbzZ
この問題は諸説あります以上の解答はなさそうだね
思想は歴史的な連続性があるから
いつ始まったとか断言できないのも多いし
「武士道」って言葉の誕生を武士道の誕生と同一視もできないし
773 :
人間七七四年:2011/06/24(金) 15:02:50.62 ID:kItyo8g5
いや普通に武士道の前身としての思想は忠武として漢籍と共に日本に入ってきてたから。
774 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 08:46:11.09 ID:XpfFOQun
武士と武士道は生い立ちが違うでしょ
武士道とは大江さんが闘戦経を書いてからでしょうに
これは大陸の考え方を否定する事から始まる書物
他国から武士道が伝わったと言うのは納得できん
775 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 12:05:07.58 ID:+wPy8F18
いいかげんにしろ
776 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 15:24:55.56 ID:XpfFOQun
寝言の放置は許さない
777 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 15:53:06.97 ID:jLRe8hfP
後奈良天皇時代は献金による任官が渋いのに対して
57年以降の正親町天皇時代は
上洛した織田関係者だけでなく献金に対して任官されやすくなっていますが、
これは大口スポンサーの大内義隆が没して
献金が一時激減して財務に困っていたことも関係あるのでしょうか?
778 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 16:54:37.21 ID:aK88c3OV
>>774 無い無い、江戸前期まで常に進んでいた大陸から模倣し続けたのが日本なんだから
779 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 17:20:29.08 ID:wHtM+evY
>>778 >
>>774 >無い無い、江戸前期まで常に進んでいた大陸から模倣し続けたのが日本なんだから
常にでは無いな。菅原道真は、もはや大陸から学ぶものは何も無いと遣唐使を廃止した。
780 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 18:38:41.56 ID:aK88c3OV
菅原道真の頃には民間でも交易船が来るようになっていたので
わざわざ国が送る必要は無くなり遣唐使を廃止した
そもそも、製錬も陶窯も建築も牧畜も数学も天文学も全然学びきれなくて
技術的なことで学べたのは、養蚕と稲作くらい。冶金は独自進化
781 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 18:40:44.82 ID:fjgmS3+n
中国に武士って居たの?
782 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 18:41:54.55 ID:ldgDke1A
当然いたよ
侍って意味でなら江戸時代の日本だけしかいなかったけど
783 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 18:54:41.78 ID:wHtM+evY
>>780 あれ?遣唐使を廃止した事で国風文化が花開いたと教科書には書いてあったけど、おかしいな。
784 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 19:08:21.53 ID:fjgmS3+n
>>781 中国の武士はどのようなものだったか教えてください。
785 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 19:10:35.27 ID:fjgmS3+n
786 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 20:34:06.21 ID:/92/mfY+
さむらい さぶらう人 公家の従者
つわもの 武器を扱う人
もののふ 物部氏
武士という言葉は何時頃から、誰が使い始めたのでしょう?
787 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 20:48:29.27 ID:+wPy8F18
武士という言葉だけなら、奈良時代初期には既に。
養老5年(721)正月・元正天皇詔「文人と武士は国家が重んじるものである」
788 :
人間七七四年:2011/06/25(土) 23:31:29.67 ID:aK88c3OV
>>783 古い教科書とか学説は、裏付け無しになんとなくそう思う
って理由で書いてた時代だから、間違い多いよ
789 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 01:14:04.70 ID:zvY6UFvy
最近は鎖国でなく海禁政策なんじゃないかとか
鎌倉幕府は1185年に成立したんじゃないか
って書いてある教科書や資料集もあるしなぁ
歴史教育にちょっとしたカルチャーギャップを感じる
790 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 01:36:12.45 ID:2NWuGSlx
昔から鎖国の記述は変わらんだろ
鎖国=完全封鎖みたいな事言ってる人いるけど、それこそ何処でそんな話し聞いたのかと不思議だわ
791 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 03:03:42.53 ID:zRmNcHvL
鎖国という言葉から広がった裏付けのない妄想だな>鎖国=完全封鎖
アポロが月に行っていない(実際には偽装工作をする方が費用が掛かる)のと同じレベルの話
792 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 03:16:57.07 ID:+dE472sn
>>777 別スレの過去ログを調べてみたけど当時の朝廷の収入について。
御料所の横領が相次いだせいでその収入は1割程度まで下がっていたらしい。
室町後期の皇室御収入(1521〜1569)の平均収入額は御料所620貫文、禁裏御修理費125貫文、合計で750貫文ほど
100疋=1貫文=1石=5万円〜10万
とすると低く見積もると4000万円弱くらいしか収入がなかったことになる。
幕府が経済面の援助を行っていたが幕府の権威が失墜すると援助が望めなくなり、即位式が20年も遅れることとなった。
後柏原天皇 1500践祚→1521即位
それで後奈良天皇のころから諸侯の献金に依存するようになる。
天文の内裏修繕費(織田信秀4000貫 今川義元500貫 麻生興益(大内被官)300貫 本願寺100貫 阿蘇惟豊100貫)
後奈良天皇 1526践祚→1536即位(大内義隆2240貫 朝倉義景100貫 長尾為景100貫 土岐頼芸10貫)
正親町天皇 1557践祚→1560即位(毛利元就2000貫 朝倉義景100貫 三好長慶100貫 北畠具教20貫)
一見すると大内の穴埋めを毛利が行なっているので問題無いように見えるが
即位式以外にも事あるごとに朝廷へ献金をしていた大内義隆の失脚はダメージが大きかった。
献金を行うには幕府や公卿の仲介を必要とし、そういった関係者へも金が廻っていたため
関係者が叙任のために必死に動いたものの後奈良天皇が却下する場面も見られたが、
正親町天皇時代になるとなりふり構わず謝礼を期待して官位叙任の手紙を書いている。
官位濫授の原因は財政的に厳しいことに加えてバランス面も考慮していただきたい。
守護代や豪族クラスにも守護以上の官位を叙任してしまうと守護の献金に対しても極官以上を叙任する必要が出てくる。
よって全体的に従来よりも官位は上昇し続けることになります。
なお、多くの大名は御料所の税を滞納した状態で献金して恩を売っていることに注意。
なので献金が多い=勤皇というわけではありません。
793 :
人間七七四年:2011/06/26(日) 11:50:49.68 ID:klUe16DY
>>787 そんなに古いんですか!
ありがとうございました
794 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 00:59:31.82 ID:OESIUM2D
織田信秀は多額の献金により三河守の官位を獲て西三河侵攻の大義名分としています。
尾張兵一人に対して三河兵三人で互角なんて言われていたけど
織田信秀にとって下克上で尾張を統一するよりも
松平の三河へ侵攻したほうが楽だったのでしょうか?
795 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 01:03:03.78 ID:je93VRw7
その頃の信秀は満州事変での関東軍みたいなもんだと思えばいい
796 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 04:31:22.12 ID:z5QBOOVK
小さな城跡にも神社や祠がよくありますが、あれって祟り除けですか? 昔の城主を奉ってるんですか?
797 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 12:45:22.48 ID:5OzUQKns
>>794 そもそも西三河を纏め上げていた松平清康が、織田信秀勢力圏へも影響力を拡大
していたからな。信秀としては防衛上も戦わざるをえない。それに西三河は清康によって
ある程度まとまったとはいえまだまだ不安定。
798 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 13:12:25.14 ID:1EFRjjUH
武将の名前を語るとき、ほとんどは
徳川家康、伊達政宗のように、姓+諱で言うことが多いと思います。
ただ、中には
大谷刑部、古田織部のように官位名で言ったり、
竹中半兵衛、服部半蔵のように通称で言ったりした方が
一般的な人もいます。
大河ドラマなんて、いつも不自然なくらい諱で呼び合ってるのに、
黒田官兵衛だけ通称で呼んでたりします。
この違いはだたーこから来るのでしょうか?
799 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 14:10:45.97 ID:CMJF3mP/
「だたーこ」って何だろう?
たぶん講談とか歌舞伎とかに由来する慣習だと思います。
800 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 14:22:20.35 ID:s/hWvxZF
>>796 @一国一城令で取りつぶした後、神社に寄進、戦で死んだ人の魂を鎮める為に立てられた。
A落城、破壊の後、以下同文。
小さな城(砦か)は人の行き来がしにくい、生活に適さない場所に造られることが多かった。
しかも死者の魂の集まるところは人々は敬遠。自然に寺社が管理するようになった。
現代でも、宅地・マンションなんかは地鎮祭やお祓いをする。
そんな感じかな。
801 :
人間七七四年:2011/06/27(月) 22:45:14.00 ID:1EFRjjUH
>>799 ありがとうございます。
講談ですか。納得しました。
「だたーこ」は「どこ」の打ち間違いです。
802 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 21:25:33.60 ID:6sS72W7X
>>800 現在の城跡の土地の所有者にしたら、少々厄介な土地なんですかねぇ
ありがとうございました。
803 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 23:38:39.63 ID:+rkPqNCv
通称が諱よりはるかに有名だからかな
官兵衞と半兵衞は。他にそういう人いるかな
後藤又兵衛、時代が違うけど柳生十兵衛あたり?
804 :
人間七七四年:2011/06/28(火) 23:53:06.87 ID:wxLu71tG
伊達政道
通称小次郎。伊達政宗の実弟で小田原の役の際兄に殺されたといわれる。
政道という諱も死後200年以上経ってつけられたと思われる(生前の資料に政道の名が無い)。
805 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 00:40:39.21 ID:pk/I7FUz
806 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 00:47:34.05 ID:zOkQz1tb
作左衛門と彦左衛門
807 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 00:59:58.67 ID:sBD2NjZy
島左近とかもか
808 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 01:45:11.08 ID:yk+nYHkh
片倉小十郎
毛利小平太
山中鹿介
809 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 03:33:02.02 ID:N31pvr5e
織部とか実休とか
810 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 12:15:16.62 ID:IiDPUD7x
>>796 城主一族の信仰と関係していたりもする
千葉なら妙見とかね
811 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 14:50:04.48 ID:WXiMNsG5
812 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 15:38:18.31 ID:HDL767LR
島左近の左近は親父も名乗っていたから島家の通称のようだね。
右近・左近は何となく意味が解る(将棋の飛車角みたいな両翼の重鎮)
黒田「官兵衞」というのは何か意味があるんだろうか?
幼少からの名前の変遷でも出てこないし、なぜ官兵衞と呼ばれたんだろう?
813 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 16:25:23.87 ID:9UH6PoVU
兵衛府というのがあって(左兵衛府・右兵衛府)これの兵卒が兵衛
兵衛の官人だから官兵衛
814 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 16:42:39.25 ID:yk+nYHkh
ちなみに基礎知識だけど、黒田 官兵衛は「くろだ かんべえ」ではなく、「くろだ かんひょうえ」な。
815 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 17:00:52.09 ID:pk/I7FUz
>>812 右近、左近もさかのぼれば左近衛府、右近衛府だな。
816 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 21:21:26.22 ID:bEahCG3x
土百姓の権兵衛も元は由緒ある兵衛の権(ごんのひょうえ)の僭称
817 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 21:24:43.46 ID:r04g3e46
>>814 竹中さんとコンビで「にべえ」て呼ばれてたんじゃないの?
818 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 21:44:21.76 ID:LcRnVXXZ
正しくは「知らぬ顔のはんひょうえ」だったのか
初めて知った
819 :
人間七七四年:2011/06/29(水) 23:20:19.94 ID:Sw6kg4hL
司馬遼太郎先生の本にも乗ってたな 宣教師が本国に送った報告書に、
官兵衛のことをカンピョウエと書いてあったとか
ただ今はもうみんなカンベエと言ってるのでカンピョウエとは言いづらい
とくに詳しい人にいうと、そんなのみんな知ってるよって怒られそうで怖い
820 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 00:02:05.94 ID:hFy0+Ryr
821 :
人間七七四年:2011/06/30(木) 00:05:10.79 ID:Mcry97v5
太閤記辺りが出た以降に呼ばれたんじゃないの。
822 :
812:2011/07/01(金) 14:41:33.38 ID:KKBeCU4P
いろいろありがとう。
日本語は読み方がいろいろあって、昔の名はほんとの発音が解らないものが多い。
宣教師は耳で聞いた通りに書いたんだと思うから、
「かんぴょうえ」と呼ばれていたんだと自分のなかでは納得しました。
823 :
人間七七四年:2011/07/01(金) 17:50:27.86 ID:KX1RcR6S
正確に言えば「かんのひょうえ」だな。
竹中半兵衛も「はんのひょうえ」
仙石さんもゴンベエではなく「ごんのひょうえ」
824 :
人間七七四年:2011/07/01(金) 19:19:21.71 ID:JTgzC9mD
そりゃ正確じゃないだろ
文語じゃ濁音・半濁音は表現しないんだから
825 :
人間七七四年:2011/07/01(金) 20:13:54.10 ID:lNu7SJeC
山本権兵衛の読み方を間違え恥をかいた過去を思い出した
826 :
人間七七四年:2011/07/01(金) 22:00:49.98 ID:tg44zzBZ
山本はごんべえであってるよ
827 :
人間七七四年:2011/07/01(金) 23:19:55.47 ID:lNu7SJeC
ただしくは ごんのひょうえ
じゃない?ごんべえで笑われた。
828 :
人間七七四年:2011/07/01(金) 23:30:38.25 ID:vQQjgNYh
ごんのひょうえは通称、ごんべえが本名
829 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 00:37:21.23 ID:yqOGU18r
ひょえー、そうだったのか
830 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 04:12:44.15 ID:mOQG8ztO
大名クラスの力があるのに側室を持たなかった超絶愛妻家ってどれ位いたのかは
831 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 09:08:30.99 ID:rQdU4OIq
古い時代、たとえば戦国時代の街道って、どの資料を見ると載っているものでしょうか?
自分は、高校生向けの日本史図説ぐらいしか思いつかないのですが。
よろしくご教示ください
832 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 10:05:12.95 ID:WIMKDD5u
>>830 まっさきに浮かぶのは徳川秀忠と直江兼継だけど浮気の記録あり。
833 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 10:23:32.87 ID:BSgZN1rs
恐妻家では?
834 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 10:44:20.73 ID:12QBTWzY
>>831 資料って、戦国時代の全国の街道を網羅的に紹介したような本があるかってこと?
そういう本はない、ですね
あったら欲しいしw
地域別ならいくつか手に取りやすいものが。
斎藤慎一『中世を道から読む』 これは関東の道限定
榎原 雅治『中世の東海道をゆく―京から鎌倉へ』
論文の形なら沢山ありますが、いずれにしろ中世の街道についてははっきりしない部分が非常に多いです
835 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 15:01:56.03 ID:PCpVtptZ
836 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 15:18:24.30 ID:IlHjBDrJ
837 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 15:38:37.97 ID:Wx2sJ4+P
838 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 16:55:19.14 ID:C0Z+DDAi
戦国時代の物は無いからな、近い時代のもので代用しろって感じだろ
飛騨街道みたい桃山時代にルートが変わってるところもあるけど
839 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 17:56:55.10 ID:i4w0EXKr
フツーにゴウグル地図で地元の道をみたら昔の道の名前もところどころに飛び飛びに
出てくることもありますね へー昔はここが国道?だったんだーとびっくりします
今では信じられないほど田舎を走ってます
840 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 21:40:37.05 ID:zPD/hSxK
10月に新潟へ出張に行くのですが、新潟で戦国時代の名残を残す史跡とか
何かないでしょうか?
旅行ガイドブックを読んでも、そのものズバリ書かれているものがなかなかなくてもどかしいです。
841 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 21:50:13.14 ID:Wx2sJ4+P
新潟県は東西にかなり広いから出張先が
上越、中越、下越のどのエリアか教えてくれないと何とも言えないよ。
842 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 21:55:20.27 ID:zPD/hSxK
今の時点では新潟のどの辺りか、までは詳しく教えてくれませんでした。
たぶん新潟市あたりだと思います。
佐渡には行けないでしょう。
843 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 22:26:38.12 ID:EOhRLcxB
新発田城
844 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 23:16:25.97 ID:5gEfy7Vu
おいおい史跡よりまず山本五十六記念館だろ
845 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 23:46:34.64 ID:v/aCH3Ne
でも新発田城は江戸時代の近世城郭の趣だと思う。天守代わりの三階櫓に鯱が3匹乗ってるのが
珍しくて見所になってる。
846 :
人間七七四年:2011/07/02(土) 23:54:19.85 ID:EOhRLcxB
847 :
人間七七四年:2011/07/03(日) 00:23:04.58 ID:ByKWXYm8
地図みたら新潟県って長いな〜〜
西と東じゃ別の国ってかんじじゃない?
848 :
人間七七四年:2011/07/03(日) 11:17:30.74 ID:txzUFUpd
いや、元から同じ国だ
849 :
人間七七四年:2011/07/03(日) 12:34:59.56 ID:2MfhYmpO
与板城&兼続お船ミュージアム(長岡市与板歴史民俗資料館)前にある
直江兼続の像でも見てくれば?
駐車場 約20台
長岡駅大手口バス停12番線よりバスに乗車
与板「仲町バス停」下車 徒歩7分らしい。
※長岡城は遺構を破壊尽くした後に建てたものなので見なくていい。
それか栃尾城&秋葉公園の上杉謙信公の銅像
こっちもたぶん長岡駅前からのバスだと思う。
こっちは資料館無さそうだからバスも極端に少ないだろうなぁ。
まぁ所謂、15歳の謙信が兄によって最前線の敵地ど真ん中の栃尾城へ派遣され
敵方が「長尾の小倅ごとき何するものぞ!瞬殺してくれるわw」な状況で
栃尾城を拠点に峻烈な戦いをした謙信に中条藤資が大ファンになったとか・・・
850 :
人間七七四年:2011/07/03(日) 17:32:56.68 ID:glfxrlwZ
山城跡は自然を膨大な労力で兵器に改造した人間の営みを感じさせてくれる場所だわな。
851 :
人間七七四年:2011/07/04(月) 19:35:00.44 ID:tUdLz6+Q
皆様ありがとうございます。
石垣好きなのでお城をメインに回ってみようと思います。
852 :
人間七七四年:2011/07/04(月) 22:33:23.54 ID:n91DIM4T
山城って、数人の兵なら容易に城内に潜り込めて暗殺ぐらい出来そう
853 :
人間七七四年:2011/07/04(月) 22:37:05.49 ID:jddVtIYZ
無理。
というか山城はまず、当時は樹木が完全に伐採された状態だったことを考える
854 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 01:50:21.84 ID:KTEF+r8+
当時は血なまぐさい世界ですから、山城に勝手に登って捕まったら絶対殺されますよね
こいつは遊び半分に登っただけとわかっても見せしめかなにかのために念のため
殺しちゃうだろうなあ ほんとにすぐ死刑の時代だもの・・・
855 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 13:26:35.36 ID:FwKziYIg
>>853 木をを伐採するとか言う人よく見かけるけど、どこから出て来た話しなの?
単に現代の見易く縄張りを書いた復元図を見て誰かが言い出しただけとしか思えない
856 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 13:45:47.78 ID:O34glHQZ
逆に木がぼうぼうだったと言ってる人いるのか?レベルの話だぞ
857 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 14:18:32.21 ID:FwKziYIg
>>856 古絵図を見ると普通に木が生えている
幕末の写真を見るとかなり木が鬱蒼と繁っている
縄張りについて書かれている書物にも城内に木を植える事が書かれている
などによって山城には木があるのが普通だと思っていたのだが
858 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 14:29:36.84 ID:O34glHQZ
どの古絵図かな?木がぼうぼうなのは見たことが無い。
250年たってる幕末が参考になるかどうか。春日山城だと昭和に植林されるまで禿山だな。
859 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 15:11:34.12 ID:dq9Br3wa
山城の役割を考えれば、木が生えてるなんざ百害あって一利無し。
860 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 15:41:53.95 ID:kyAlX4Cf
木が生えてると攻撃側にとって盾になるからな
守備側は切り取って弓や鉄砲の射撃の邪魔にならないようにする
篭城に備えて松や梅を植えたのは曲輪の中
861 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 15:45:08.42 ID:KTEF+r8+
NHK教育テレビあたりの番組でお城の跡を散歩するみたいなやつ見てると、
よく今は木がいっぱいですけど当時はなかったんですよってのはよく見る
862 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 16:28:03.85 ID:QdLvQymR
>>857 もし木がぼうぼう生えてたら火攻めであっという間に落ちるよね?
863 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 16:43:51.80 ID:6NRi36LW
フルボッコな
>>855に助太刀しようと考えたが
どう考えても無理だわ
864 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 16:50:50.03 ID:VlR1YjFk
仙台青葉城には防衛のために伐採が制限された「御裏林」ってのがあるよ
今は東北大の植物園として残ってる
865 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 17:20:04.18 ID:pfyvOkCU
そういえば籠城戦で城から落とす投石や倒木やウンコは戦い直前に準備していたのでしょうか?
それともある程度備蓄されていたのでしょうか?
866 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 17:46:16.31 ID:aaZO0zT1
>>865 石や木はともかくウンコはもう使う直前くらいだな。普通は伝染病予防のため、城内で出された糞便は
毎日遠くの廃棄場まで持って行って捨てられる。
867 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 17:50:33.83 ID:6NRi36LW
ウンコ落としたのって真田と畠山くらいじゃないの?
868 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 18:11:36.33 ID:R+iwLLxC
じゃあ
>>853 >>855を擁護しとくよ
ttp://www.geocities.jp/vrmurakami/nazo/nazo7-1.html 上杉博物館蔵の村上城絵図
慶長年間に描かれた『唯一』の城の絵図で
大坂の陣以前に描かれた城の絵図は、これ以外現存していない。
『関東の名城を歩く 北関東編』 峰岸純夫・齋藤慎一(2011)
p.F [城の暴風雨対策]
「城の敵は攻め寄せる敵の軍隊だけではなかった。初夏梅雨時の長雨、あるいは秋の暴風雨などがある。
これによって城が崩落してしまう危険にさらされていた。
この際に城を守るために、貯水池や排水設備が必要であるが、自然の樹木や草類もその役割を担った。
これらによって城の安全が確保されていたので、郭平面や展望台の櫓周辺は除いて樹木は自然のままに生い茂らせていた。
城郭に樹木無し、城郭の整備には樹木の皆伐が必要などと説くものも少なくないが、
城郭に樹木無しというのは自然環境を理解しない者の迷信である。」
869 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 18:12:42.21 ID:R+iwLLxC
870 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 18:16:00.04 ID:wONh9to2
北条氏が雨降ると郭の地面が凸凹になるから(堀切なんかも当然)
定期的にメンテしろっていう労役を広く割り当ててるけど
871 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 18:20:45.27 ID:aaZO0zT1
872 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 18:46:39.85 ID:fQbKCMS6
>>862 生木はちょとやそっとじゃ燃えない
だいたい、城の中に火を付けられるようになったら木が云々以前に終わってる
>>871 どうみてもいっぱい生えてるやんw
生えてないの崖と平作地だけだし
873 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 18:58:50.16 ID:aaZO0zT1
>>872 > どうみてもいっぱい生えてるやんw
主観の問題だとも思うが、俺には最低限だけ残してあとは丸裸、にしか見えん。
あと君の出したこれだが
> 『関東の名城を歩く 北関東編』 峰岸純夫・齋藤慎一(2011)
> p.F [城の暴風雨対策]
> 「城の敵は攻め寄せる敵の軍隊だけではなかった。初夏梅雨時の長雨、あるいは秋の暴風雨などがある。
> これによって城が崩落してしまう危険にさらされていた。
> この際に城を守るために、貯水池や排水設備が必要であるが、自然の樹木や草類もその役割を担った。
> これらによって城の安全が確保されていたので、郭平面や展望台の櫓周辺は除いて樹木は自然のままに生い茂らせていた。
> 城郭に樹木無し、城郭の整備には樹木の皆伐が必要などと説くものも少なくないが、
> 城郭に樹木無しというのは自然環境を理解しない者の迷信である。」
当時の城というものが、戦略、戦術の必要性によって常に増改築や大規模な改造がの行われていた
物であると言うことをこの筆者は理解していないんじゃないか?
戦国期の城はあくまで戦略、戦術上、あるいは政治的要因で常に変化が求められる構造物で、
近世の城のような永続性は二の次だ。だから毎年毎年城のメンテが行われている。
> 城郭に樹木無しというのは自然環境を理解しない者の迷信である。」
これこそ、戦国期の城が自然と共存していたなどというとんでもない迷信だわ。
城は大規模な自然破壊以外の何者でもないよ。
874 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 19:23:02.12 ID:ZW+LrntB
そもそも排水用の暗渠掘って固める時点で大規模に自然破壊するしな
875 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 20:53:10.28 ID:fQbKCMS6
丸裸というのは何もない状態を言うのだが
876 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 21:10:59.41 ID:ZW+LrntB
パンツ一枚だから厚着だよな
877 :
人間七七四年:2011/07/05(火) 23:02:08.69 ID:pfyvOkCU
>>866 サンクスです。
やっぱウンコの処理は毎日行われていたんですね。
878 :
人間七七四年:2011/07/07(木) 21:14:04.35 ID:vy+T4DOk
真田信繁は豊臣姓を貰いましたけど、この場合、父親の昌幸も豊臣姓を名乗ってもいいの?
879 :
人間七七四年:2011/07/07(木) 23:02:09.31 ID:BpgdNro8
真田家に与えられたわけではないので無理です
この場合、名乗れるのは信繁の子供ら等
信繁が真田家の当主になれば他の親族も名乗れる可能性はある
880 :
人間七七四年:2011/07/08(金) 10:37:22.77 ID:K7A2lEAM
ぶっちゃけ豊臣姓や羽柴姓の扱い方は、名誉称号というのは間違いないにしても、
豊臣氏がごく短期間に滅んでしまったためにどういう扱いをしたのか全体的に良く解らん。
881 :
人間七七四年:2011/07/08(金) 21:23:41.38 ID:bxfggVPw
姓を貰うことで、身内や他の大名の対応が変わってくるのかな
882 :
人間七七四年:2011/07/08(金) 22:20:57.14 ID:VYQkxJe3
真田ノ豊臣ノ信繁
or
豊臣信繁 どっちが清海入道?
883 :
人間七七四年:2011/07/08(金) 22:37:04.25 ID:iu8JdrcA
>>882 さなださえもんのすけとよとみのあそんのぶしげ
884 :
人間七七四年:2011/07/11(月) 09:17:31.20 ID:NbW9OCVH
雑兵って戦の時野太刀持たせられてないよね?
885 :
人間七七四年:2011/07/11(月) 09:37:19.88 ID:y814LiCc
総大将の護衛なんかはそういう部隊がある
それを雑兵と呼ぶかは微妙だが
886 :
人間七七四年:2011/07/11(月) 10:35:30.70 ID:B67hnvIS
合戦図なんかを見ると野太刀を担いだ足軽部隊みたいなのいるよね
887 :
人間七七四年:2011/07/12(火) 19:17:35.38 ID:fYksskgS
野太刀は鑓よりも高いからな
888 :
人間七七四年:2011/07/12(火) 20:27:24.40 ID:T9GvPwmo
刀身が長い太刀は扱いが難しく、本来は技量の長けた上級武士が馬上で使う為の物。
ただし、そういった武士の太刀持ちで雑兵が持っている事もあるし、
刀身の根元から紐で巻いて握る部分を長くして扱いやすくした「中巻野太刀」なんかは
技量の低い者でも簡単に扱える上に威力も高かったので、雑兵にも使わせた例は多い。
また、徒歩の雑兵が馬の足を掃うのにも威力を発揮したようだ。
889 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 08:52:10.02 ID:ChVqXCdf
最大規模の下克上は、
「織田信長の死から羽柴秀吉の全国制覇の間」って
助教授が言ってたのですが、当たってますか?
890 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 11:30:31.79 ID:R/XGHchM
>889それでいいと思う。
秀吉の日本統一後は、身分が安定化したと思われる。
しかし、家康と三河州の下克上はあったかな。
主家の豊臣家を滅ぼしたわけだから・・・
891 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 12:15:14.03 ID:OElQQwxw
足利>織田 権力の衰えた将軍家を擁立のち追放で近畿制圧
織田>豊臣 旧織田勢力圏を簒奪
豊臣>徳川 全国政権を簒奪
織田の将軍追放後の勢力拡大や、
豊臣の全国統一戦は普通は下克上に含まれず
全国政権を簒奪した唯一の勢力である徳川が最大だと思うが
その助教授が下克上の定義をどのように設定したかによるな。
892 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 12:48:44.42 ID:hlh+l9RM
歴史には内戦といっていい規模の親子喧嘩がよくありますが、
戦国時代最大の親子喧嘩はなんなのでしょうか?
893 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 13:07:49.61 ID:9zcmEpyB
894 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 14:24:20.22 ID:ChVqXCdf
895 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 14:37:36.18 ID:ZWItgn7k
>>891 徳川は簒奪ではなく「別の公儀」を打ち立てたと見るべき。
少なくとも征夷大将軍就任と共に豊臣公儀から離脱している。
簒奪というのは鎌倉北条氏が事実上鎌倉幕府を乗っ取ったとか、ああいうことを言う。
896 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 14:51:15.97 ID:YIkMt2LD
だよね。
劉邦は元々項羽の下にいたけど
独立して覇権を争っても下克上とは言わない
897 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 15:12:48.47 ID:OElQQwxw
>>895 二重公儀とか言いたいことは分かるが
その理屈だと織田>豊臣も下克上にならないんじゃないか
898 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 15:19:52.87 ID:sSsId1lJ
>>895 いや、主家を差し置いて別な公儀を打ち立てる事自体が下剋上だし
あくまで豊臣政権下で将軍職を全うするならともかく、豊臣氏から政権を奪ったわけだから完膚なきにまで簒奪だよ
そもそも幕府自体が簒奪だし
899 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 15:27:58.35 ID:8McqVbLg
細作をさいさくと呼ぶのは間違いだそうですが、本当はなんと読むんですか?
900 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 15:31:57.64 ID:YIkMt2LD
>>898 主家じゃないよな、家康は一度も秀吉の家臣になってない
901 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 15:33:23.44 ID:YIkMt2LD
>>897 織田>羽柴は主家から与えられた家領を奪ったのだから当然下克上
902 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 15:35:56.80 ID:ZWItgn7k
>>898 下克上と簒奪は別だろ。徳川公儀は豊臣公儀の、全国支配のために重要だった蔵入地や
それを運営する奉行などの支配システムをほとんど引き継いでおらん。
関ケ原とその後の戦後処理の結果豊臣家を凌駕する権威を持つに至った家康が、
自己の権威権力を体制化したものと考えるべきだと思うよ?
簒奪というなら、室町幕府システムを濃厚に引き継いだ信長こそふさわしいな。
903 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 15:37:29.85 ID:pJ77q0Va
>>900 秀吉に従った時点で家臣も同然。
しかも秀頼を後見し守り立てていく約定までしてるのが家康
904 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 15:42:55.57 ID:ZWItgn7k
>>903 豊臣公儀への臣従と豊臣家中への参加は別問題でしょ。
家康の臣従はあくまで豊臣公儀への臣従の形だった。
それに実際問題として家康は関ヶ原後、将軍就任以後でも官位昇進などで秀頼を守り立てている。
秀頼と対決したのは、二条城会見で秀頼は徳川公儀に臣従したにもかかわらず、秀頼が明確に
徳川公儀に反逆したためだよ。
905 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 16:11:13.49 ID:YIkMt2LD
>>903 秀吉の天下に従っただけで、豊臣家に臣従したわけじゃない
豊臣家に天下を担う力量が無いなら、徳川家が天下を望んでも簒奪とは言わない
906 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 16:17:56.60 ID:OElQQwxw
関ヶ原スレみたいになってきたな。
907 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 16:22:47.94 ID:JB7b8JxW
通りすがりに
たぶん家臣の意味をわかってない人がいるに3ドゥカート
908 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 16:25:35.79 ID:WX4J39LJ
では家臣の定義を現状に即してどうぞ
909 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 16:36:09.69 ID:JzfQhjyu
>>900 大嘘つくなよ
豊臣政権の役職について、城下に屋敷を貰い、人質を差出し、豊臣政権の発給文書に書名している人間が家臣じゃないなら
少なくとも日本に主従関係は存在しなくなる
ちなみに秀頼に仕える事もハッキリと署名しているから秀頼との主従も成立している
そして正式に臣下から抜ける事はしなかった
910 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 18:09:27.47 ID:YIkMt2LD
>>909 鎌倉時代以来、朝廷から役職を貰った封建領主は五万といるが当然主従関係にはない
城下に屋敷を作っただけで、外国の一時滞在の使節も城下に屋敷を貰う事はあった、況して家康は住んですら無い
秀吉は家康に人質を差出したから家康の家臣である事は明白である(キリッ
豊臣家としての発給文書に家康が署名した事なんて無いよね
911 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 18:23:31.32 ID:pJ77q0Va
旧領を没収されて
新たに関東を給付された分際で
家臣じゃないとか負け惜しみ過ぎてワロタw
912 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 18:59:39.32 ID:SvlO4iBu
大幅に加増されてるけど
913 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 19:38:22.93 ID:9zcmEpyB
豊臣恩顧大名じゃないから家康は秀吉配下じゃないなんて
そんな論法が成立するなら江戸幕府の外様大名はみんな家康の家臣じゃねぇじゃん。家康の家臣は譜代だけ
914 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 19:43:36.62 ID:aVAR+d05
どうも関ケ原スレが無くなって行き場の無くなったあのキチガイがこっちに来たらしいな。
ここは質問をするスレで議論する場所じゃない。よそで遊べ。
915 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 20:03:27.44 ID:8yI+EB2R
>>910 アホか
日の本に朝廷と主従関係にない統治者などいない
主に統治の許可を得る為に役職を貰っていたのだから
朝廷の臣下でないのなら役職など何の意味もないし貰う必要性など全くない
外国人は朝廷にも幕府にも属さない者だから日本の法制にはとらわれる必要がなく全く関係ない
秀吉が家康のもとに母を送ったのは「証人」とする為だ
その証拠に家康が大坂へ登った後は秀吉のもとへ帰っている
家康が伏見屋敷、向島、伏見城、大坂城にいた事も知らないのか?
あれだけ大事件が多発した家康の屋敷も知らないとはいくらなんでも無知過ぎるだろう
文禄2年7月12日付の起請文(毛利家文書)で家康は秀頼への「御奉公」と豊臣家の法令に従って坂東の仕置をする事を誓っている
文禄2年8月3日には五ヶ条の御掟が布告され五大老の一人として家康も署名している(加藤家文書)
慶長3年8月5日付の起請文でも秀頼への「御奉公」と豊臣家の法令に従う旨を誓っている(武家事記)
916 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 20:29:42.36 ID:8yI+EB2R
>>915 >外国人は朝廷にも幕府にも属さない者だから日本の法制にはとらわれる必要がなく全く関係ない
これは間違い
訂正しておく
外国人だろうと何だろうと「当主」が伺候し城下に屋敷を貰えば臣従した事を意味する
使者とかは関係ない
徳川も使者だけが大坂や伏見に上って家康は動かなかったと言うなら臣従ではないが
917 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 20:34:19.51 ID:SvlO4iBu
>>913 外様大名は家臣じゃないよw
封建制くらい理解しろ、というか関ヶ原スレとやらに帰れw
918 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 20:43:00.16 ID:ZcwG2yGW
豊臣家の直臣というと七手組とかあの辺か?
919 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 21:26:52.12 ID:zowYkuC1
>>917 おいおい、電波過ぎるぞ。封建されるのは主従関係が建前だろう。
封建の枠外に居るんなら家臣じゃないけどさ。
920 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 21:34:05.99 ID:pitDV4c0
日本の家臣は家人からの発展だから
家中の人間でないものは家臣には含まない
公儀の下についている外様の大名は公儀の手下、あるいは部下とする方が妥当
921 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 21:39:42.27 ID:SvlO4iBu
>>919 見返りを負わない封建には、冊封も含まれる
>>919的には唐帝国の領国は羈縻州を遥かに超え、冊封王侯を含み
日本から東南アジアの多くを含み更にトゥーラーンから中央アジアをぶち抜いて
カスピ海までが唐の領国となる。アホか
922 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 22:00:17.30 ID:JB7b8JxW
>>908 通りすがりに質問スンナwww
家臣じゃないといいたい人のは譜代じゃないからって意味だろ?
たまにいるんだ信長家臣秀吉、豊臣家臣福島なんかを家臣じゃないって否定する人がね
923 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 22:32:24.78 ID:zowYkuC1
>>921 冊封と封建は違うだろ。それに日本の封建制に冊封は無い。
924 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 23:41:48.15 ID:aVAR+d05
そもそも日本の武家体制が封建だと言い出したのは江戸中期くらいの儒者からである。
それ以前、日本人は自分たちの体制が封建というものだとは考えてもいなかった。
925 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 23:42:23.71 ID:OElQQwxw
続きは他でどうぞ。ここ質問スレだから
926 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 23:49:03.67 ID:38NAUjDg
続きはwebで!
927 :
人間七七四年:2011/07/14(木) 23:56:24.86 ID:SvlO4iBu
>>923 封建制は曖昧模糊とした、というか出自が色々な単語に対して全部同じ訳当てちゃったアホ語だからな
実際問題、江戸幕府の封建制は羈縻と冊封の中間くらいに分離的
というわけだから、いい加減関ヶ原スレに帰れ
928 :
人間七七四年:2011/07/15(金) 00:54:22.59 ID:uXxYvJUT
もうどっちも帰れ。
質問スレで議論すんな
929 :
人間七七四年:2011/07/15(金) 10:46:51.18 ID:P/Yl3HFk
もはや実態とかけ離れた言葉遊びの屁理屈クダラネ
五大老が秀吉から家臣扱いされてたのは事実じゃねぇか。
930 :
人間七七四年:2011/07/15(金) 11:20:26.51 ID:kURujalb
家康が家臣で無ければ全国統一されてないことになるだろ。
秀次と家康は秀吉の命で秀吉が会津から帰国後も
奥羽仕置きをしてるんだが
これは秀吉の命令じゃなかったのか?
しかも三河・遠江・駿河・信濃・甲斐を没収されて
泣き入れている最中で関東の経営もさせてもらえないうちに。
しかもその後、まもなく今度は秀吉の命で
政宗の居城予定の岩出山城の築城まで家康はさせられているのに。
931 :
人間七七四年:2011/07/15(金) 11:32:29.90 ID:w4WKCjbm
ID:P/Yl3HFk ID:kURujalb
お前のID変えながら珍文を書く芸には飽き飽きなんだよ。
巣に帰れ。
932 :
人間七七四年:2011/07/15(金) 13:13:52.85 ID:q2Fq7lRt
俺はID:zowYkuC1だがその二つも書き癖が違うのが判らんとは、余程の莫迦だな。
933 :
人間七七四年:2011/07/15(金) 13:38:58.39 ID:P/Yl3HFk
反論できなくなると相手を自演呼ばわりする法則w
934 :
人間七七四年:2011/07/15(金) 18:49:56.10 ID:PjJ8UXTb
では質問を家康の作らせた
駿府城の天守は石垣の上でなく、法隆寺のように礎石の上に建っていたというのは事実でしょうか?
935 :
人間七七四年:2011/07/15(金) 19:39:22.79 ID:yN9ukKkH
936 :
人間七七四年:2011/07/16(土) 22:17:54.05 ID:/GPVMPyy
新しく築城するのに、どれくらいの金がかかったという資料はありませんか?
937 :
人間七七四年:2011/07/16(土) 22:19:20.08 ID:f/wwxMmH
>>936 規模にもよるし時代でも違ってくる。どう言った規模の城を想定しているのか?
938 :
人間七七四年:2011/07/16(土) 22:49:16.07 ID:/GPVMPyy
>>937 ありがとうございます。
想像なんですけど、信長や秀吉なんかは、ちゃんと金を払ってるイメージあるんですけど、例えば勝頼が築城した新府城なんかは金もろくに払わず、人夫に強制労働させてるような気がします。
中央、地方の大名関係なく賃金は似たようなものだったのですか?
939 :
人間七七四年:2011/07/16(土) 22:58:32.45 ID:f/wwxMmH
>>938 > 想像なんですけど、信長や秀吉なんかは、ちゃんと金を払ってるイメージあるんですけど、例えば勝頼が築城した新府城なんかは金もろくに払わず、人夫に強制労働させてるような気がします。
想像に過ぎない。信長も秀吉も軍役として支配下の武士や村落に人員の供出も含めて
負担させている。
信長の安土城は近江全域の村落に過大な軍役、夫役をかけ、そのため民衆は大変苦労した。
940 :
人間七七四年:2011/07/16(土) 23:04:58.19 ID:/GPVMPyy
>>939 そうなんですか。
大名自身はお金は払ってないということですね。
築城好きの秀吉はさぞ疎まれたことでしょう…
ありがとうございました
941 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 00:52:52.92 ID:39kboqp6
家康もかなり築城普請させまくってるよ。
特に豊臣大坂城なんて石垣レベルまで一度完璧に破壊した後に
もう一度作り直しさせてる。
942 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 01:18:48.37 ID:dL1UR5g1
943 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 07:17:04.46 ID:xsEKnSnK
>>940 金を払っていないうより、肉体労働で税金を支払わせていたというのが実像かも。
余談だけど、中国の戦国時代では犯罪者は死刑にならなくても死ぬまで国のために兵士として動員されるか、公共工事に動員されていたそうな。
944 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 09:30:52.41 ID:n5dQDl6B
権力者が公共事業好きなのはいつの時代も同じ。
945 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 10:46:15.40 ID:39kboqp6
中国で権力が生まれたのも大規模治水と異民族からの防衛のためだと言われてるからな
築城と治水を必死にやるのは本来の目的に添っている。
946 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 10:48:04.69 ID:be25rEQ+
というか権力者は公共事業をやる義務がある
947 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 11:16:47.89 ID:xW9Bj6Vg
徳川に比べれば豊臣はそれ程、治水とか利水には注力していない
太閤堤とて家忠日記を見ると徳川家が作ったようだし
948 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 11:28:05.43 ID:Lw7gVm/Z
秀吉の城への水攻めノウハウから考えても
治水経験は豊富にあるだろ。
そもそも琵琶湖のある長浜城主でいた期間も長い。
田畑を切り開き検地を進めるには
治水はセットだからな。
949 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 11:31:14.12 ID:xW9Bj6Vg
その点についてはどうも軍事目的にしか用いていない節がある
やっても築城のついでという感じで
950 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 11:37:14.80 ID:39kboqp6
んなことないぞ。
豊臣政権の吏僚で三成や小西らの派閥にいて武断派から憎まれていた
寺沢広高は松浦川の流路変更の治水や
暴風林の植林保護をして現在の虹の松原を残してるし
清正も治水の名人だぞ。
豊臣政権の人材ってのは治水に明るいやつらが多い。
951 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 11:46:41.37 ID:xW9Bj6Vg
>>950 松浦川も唐津築城の一環だろうし、清正堤も熊本築城の一環
もちろん技術はあったのだろうが、少なくとも秀吉に治水や利水「のみ」を
主眼とした工事を行う考えは希薄だったかと
952 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 12:48:08.90 ID:Lw7gVm/Z
築城と城下町整備と治水はセットだろ。
どれを欠けても人は集まってこない。
953 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 13:08:31.11 ID:iUDWk05i
>>951 禿同!
治水や利水「のみ」を主眼とした秀吉の工事の実績が乏しい。
954 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 13:15:08.81 ID:FgBd5tMT
築城あきりで序に治水するんであって、江戸初期の開拓事業とは違うだろ
>>943 死刑一歩手前の場合は、官奴にされて死ぬまで懲役
そこまで行かない罪だと辺境労働5年が一番重い、あとは出身地方で懲役4年とか
955 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 13:19:35.61 ID:39kboqp6
なんだただのアンチ秀吉のチョンが相手だったのか…
956 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 13:24:50.55 ID:xW9Bj6Vg
>>954 つまり秀吉は築城以外の利水や治水に興味なしと言うこと
957 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 13:39:33.96 ID:Gtyv19Ao
石田三成なんか治水工事は超一流だよな
忍城攻めを見ればよく分かる
958 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 13:41:24.90 ID:39kboqp6
まるで治水の手抜きをしたとか
片手間だったとかそんな論調だなw
すごい妄想力だわ。
「のみ」と分ける意味もわからん。
秀吉貶すために必死過ぎてワロタ
959 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 15:54:03.63 ID:olYbGGqf
960 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 17:09:09.30 ID:Lw7gVm/Z
そもそも家康の治水ってなにを指してんの?
961 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 17:25:47.20 ID:be25rEQ+
利根川じゃ?
962 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 17:25:59.92 ID:dL1UR5g1
963 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 17:27:42.32 ID:xW9Bj6Vg
>>960 会の川締切りとか、矢作川の付け替えとか、備前掘・代官堀開削等々
他にも冨士川・大井川・高瀬川等々の開削も行っている
964 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 18:33:48.96 ID:zLlTpgbI
なんか変な奴らが居ついたな
質問スレだぞ
965 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 18:42:10.78 ID:Lw7gVm/Z
あっ?利根川?なんだよ。江戸城開発のオマケじゃねぇかよ。
>>矢作川の付け替え
そんなレベルで言いなら秀吉の淀川治水たる文禄堤とかはなんで否定されるわけ?
そもそも冨士川治水も信玄堤の延長だし
信玄流の治水ノウハウの伊奈忠次ネタとか持ち出すのは良いとか意味わからん。
大坂と違ってただ単に北条がほとんど手を出してなかった未開の江戸城域開発でしかねぇじゃん。
966 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 18:56:40.16 ID:xW9Bj6Vg
>>965 その理屈なら文禄堤も手掛けた西国大名の功績で、秀吉の功績ではなくなりますな
967 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 19:05:41.14 ID:iUDWk05i
気がついている人もいるだろうけど
ID:Lw7gVm/Zはあっちこっちのスレで難癖つけている痛い奴
スルーするのが吉だな
968 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 21:16:24.98 ID:39kboqp6
>>947 もう無茶苦茶だな
計画した秀吉の命で徳川が普請をやらされたら
家康がやったことだから秀吉関係ないのかw
そもそも太閤堤は前田なども参加してるわけだが。
969 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 21:26:12.36 ID:xW9Bj6Vg
970 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 21:58:18.18 ID:H0K6L5oY
Subってまだいたのか
まあ、キチガイだから死ぬまで居座るつもりだろうけど
971 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 21:59:25.13 ID:39kboqp6
972 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 22:59:00.24 ID:FgBd5tMT
>>970 これが無知故に人格攻撃しか出来ない哀れな無知って奴か
973 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 23:20:01.52 ID:xW9Bj6Vg
>>971 全くその通り、秀吉は築城の一環として治水や利水を行い
それを主目的とした事業は行っていない
974 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 23:40:19.69 ID:CTbzU2Qd
城郭が都市生活空間と密接にリンクした織豊期にとっての「築城」は
前後の時代とは異なる要素を多分に含んでるんだがそこは無視かね
975 :
人間七七四年:2011/07/17(日) 23:52:39.29 ID:dL1UR5g1
>>974 前時代の築城が都市生活空間とリンクしていなかったとでも思っているのか?
「城下町」は戦国を通じて漸進的に発展したものであり、織豊時代にいきなり登場したわけでも
大きく変化したわけでもない。
976 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 00:16:57.19 ID:9zdw06pD
いいからお前ら全員帰れ
ここ質問スレ
977 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 01:21:09.54 ID:B0XW34T6
978 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 02:34:50.39 ID:p5btCC55
>>976 煙硝って実際問題どうしてたの?
学者もどきの馬鹿文系教授共のせいで全く実態不明に陥ってるけど
979 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 03:35:32.75 ID:pIkaRq6X
治水をやらない為政者は存在価値が無いからな。
生産力や経済に直結するし
980 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 07:38:27.63 ID:cjG3iNbh
キチガイはスルーしましょう
981 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 10:29:20.00 ID:247PXhTP
治水は河川流通経済や交通路としての整備と城下町の大洪水を防ぎ財産保全するのが主目的で
増水時対策で流路の変更や分散化と付け替え、
大都市化による生活用水確保による城下町郊外における灌漑や埋め立てが副次的に達成される。
そして秀吉は瀬戸内海から大坂を経て京までを船舶経済路として河川で接続させたのは偉大過ぎる。
この事業は徳川幕府に模倣され家康死後にはなるが幕府による堀削による利根川東遷事業と印旛沼埋め立てによる田地化による石高向上が開始されるが
幕府の政争に利用され特に後者は完成を見なかった。
また東遷事業も当初予定からは不充分な計画にされ江戸の街はたびたび台風の到来とともに大洪水に襲われた。
982 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 10:29:53.31 ID:dFsgjRdI
硝煙は外国から輸入してたとも人糞牛糞馬糞から精製してたとも言われてる。
983 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 10:43:59.81 ID:OyDLWphw
太閤堤は大坂陣から解るように有事に決壊させて、水城にするのが目的
左岸のみ整備したのはそれが理由
984 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 11:01:40.63 ID:akXbPCoP
右岸でも発掘されてんだろ間抜け
985 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 11:14:23.89 ID:OyDLWphw
規模が全然違う
986 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 11:19:40.72 ID:akXbPCoP
見つかったのが一部ってだけに決まってんだろキチガイ
987 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 14:18:36.60 ID:UJUJCYiY
見つかってないものを「決まってる」とかアホちゃいまっかw
じゃあ北は千島から西は与那国まで全国で治水してたよ
見つかってないだけでそうに決まってるキリッ
988 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 14:28:51.84 ID:247PXhTP
蛇口が見つかっただけだから水道があったとは限らないと言うくらいムチャクチャな意見だな
989 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 14:32:09.04 ID:yAKsUnpn
遺構の一部が見つかったらその一部だけしかないとかどんだけキチガイなんだよ
990 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 14:46:42.04 ID:UJUJCYiY
見つかるまではこの世に一片たりとも存在しないのだよ
遺構そのものじゃなくても他の裏付ける資料なり何かしら無い限りはね
根拠の無い論はただの妄想と言う
991 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 14:54:02.11 ID:KT8wrO/c
スレ違いの議論で埋めるつもりなのかお前ら
992 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 15:29:50.45 ID:yAKsUnpn
>>990 部分的な発掘調査を行って遺構が発見されたら、それを元に規模を推定したり、
それまでの説の裏付けとするのが普通なのは理解出来るかな?
逆に部分的な発掘調査で発見出来た物だけが全てだなんて
主張してる馬鹿がいたら教えてほしいんだけど。
993 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 15:42:46.82 ID:p5btCC55
>>992 その通り、そして右岸の堤防は小規模なものと推定される
994 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 16:10:01.61 ID:3ggBPPqC
もう考古学そのものを否定しているような人は放っとけよ
995 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 16:10:31.84 ID:UJUJCYiY
>>992 そりゃ資料に存在が記載されていて、発掘調査したら一部が見つかった
と言うなら全体の推定がなされるけど
小規模な遺構が発見されただけで、実はもっと大きいものがあった!なんていうのはただの誇大妄想
996 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 17:01:44.11 ID:yAKsUnpn
発掘された物は直線的に400m続く護岸の一部だって言われてんだけど。
一体何の根拠があって発掘された一部が護岸の全てだって言い切ってるわけ?
それこそ妄想以外の何物でもないって理解出来るかな?
997 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 17:25:08.17 ID:Wt6dcRUz
戦乱中には大きな土建事業は余裕がないためかあまりみられないけど
戦乱が収まると各地で築城や土木工事が見られるね。
戦国末期の武将は合戦と土木の両面で活躍できたのでとりわけ優秀に見える。
998 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 18:45:49.46 ID:OyDLWphw
太閤堤の右岸は伏見城周辺のみで、左岸はそのまま文禄堤に接続している
左岸に注力しているのは大坂城を水城しする為
999 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 18:46:07.42 ID:p5btCC55
400mって、ほんのちょびっとじゃんw
1000 :
人間七七四年:2011/07/18(月) 19:18:46.84 ID:yAKsUnpn
右岸の堤自体が400mだって言ってる訳じゃない事くらい理解しようよ。
つーか左岸だけが整備されただなんて言ってる研究者って誰だよw
1001 :
1001:
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_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
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/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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