毛利衰退の原因は、元就が作っている件

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496人間七七四年:2011/05/28(土) 23:10:30.77 ID:WJc1/q53
郡山城に出兵してきたのを撃退してるな
まあ、これは大内の力が大きかったけど
497人間七七四年:2011/07/16(土) 14:18:55.45 ID:bCZgQhtd
大内の援軍が来るまで半年間ほど独力で戦ってるな
498人間七七四年:2011/07/16(土) 18:26:42.34 ID:whnG6D2q
地元の吉田歴史資料館の職員によれば
「最近の研究では、尼子側が毛利をあまり激しく攻めた痕跡が見られない」との事からや、
実際に尼子氏は本隊を動かした戦が殆どなく、
むしろ元就との直接戦闘を避けて大内氏との決戦前に
やっと本陣を動かしたことからも大内との戦いを待っていたようにも見受けられる。
また尼子方はこの後も美作三浦氏・備中中村氏攻撃の為に、遠征をしている。
つまり、郡山攻めの後も軍勢を展開出来たという証拠であり、
巷で言う程の損害が出たのかは不明である。
499人間七七四年:2011/07/17(日) 20:54:01.86 ID:aGagRqBk
>>498
どうせwikiからの丸写しなんだから決して関係ない話でもない事だし
都合の良い所で切らないで最後まで貼り付けてはどうなんだね

(>>498の続き)
しかし郡山攻め以降、尼子氏が不利になったのは事実であり、
その原因は、日和見的であった安芸国・備後国の
尼子傘下の国人や土豪が大内方へと転じたことである。
また、激戦が大内・尼子間で繰り広げられ、
結果的に尼子氏が撤退したことにより、
安芸での尼子氏劣勢は決定的なものとなった。
更に、大内義隆はこの機に乗じて尼子氏を叩くべく
室町幕府から尼子討伐の綸旨を出すように働きかけそれに成功、
尼子氏にとっては窮地に追い込まれてしまった。
この戦いの結果、尼子氏と大内氏の立場が逆転し、
膠着状態であった中国地方の勢力争いが大きく動くきっかけとなった。
また、毛利氏は安芸国での優位を確立し、
戦国大名として雄飛する第一歩となった。
500人間七七四年:2011/07/17(日) 21:49:29.34 ID:39kboqp6
>>499
尼子が郡山攻め後に安芸で尼子劣勢になったと言うのは完全に捏造。
実際は武田光和の急死により若狭武田からの養子が入る形で安芸武田が弱体化し尼子は安芸での影響力を失っている。
501人間七七四年:2011/07/17(日) 23:37:57.33 ID:0RMJGcEg
でも安芸武田氏が滅亡したのは吉田郡山城の戦いより後だよね
502人間七七四年:2011/07/18(月) 01:34:31.57 ID:B0XW34T6
>>501
若狭から来た武田信実には実権はなく
大内氏との講和を主張する家臣が実権を握ったために
内紛が勃発し、信実は若狭へ逃亡してしまう始末で
武田当主不在になってしまったことで
厳島神主家内も大内化が始まり完全に尼子の影響力は失われている。
503人間七七四年:2011/07/18(月) 05:01:41.22 ID:2/+Us52I
ん?つまり、尼子の安芸国内での勢力は完全に武田に寄りかかっていて、
武田が崩れた瞬間、影響力が消滅したってこと?
別に武田が安芸国内尼子派国人を支配していたわけでもないのに、
それっておかしくないか?
尼子派最大勢力だったのは間違いないだろうけど、各国人は個々に
尼子派になっていて、尼子が大きなダメージを受けたわけでもないのに、
なんでいきなりみんなそろって大内派になるのさ?
郡山合戦が大したことない戦闘で尼子の軍事力が健在なら、それを
後ろ盾に吉川とかが尼子派として光和を支援して、大内派家臣団を
討てばいいだけじゃないの?
504人間七七四年:2011/07/18(月) 11:06:31.65 ID:247PXhTP
>>503
時系列が理解できてないね。
光和が突然死んだから信実が養子として武田に来たわけだが。
死んだ光和を支えるとか意味不明でしょ。
そもそも大内の大軍が本国から東進するのをせき止めていたのが武田で
そのために大内は厳島経由で海上を迂回していたほどに不便な状況。
だから安芸や備後の支配は毛利に頼らざる負えなかったので加増しまくって毛利を優遇していた。
尼子は威圧で毛利を現形させようと(自軍派に転向させようと)狙っただけで
武力鎮圧を狙ったとする一次史料はまったく無い。
この時期になると尼子は武田を利用しての安芸支配を諦め、
毛利を尼子に現形させてることで安芸に影響力を残そうと妥協していて
同時期に厳しく攻められていたのは毛利でなく
尼子に半ば見捨てられて大内の大攻めを受けた銀山城の武田の方だから。
505人間七七四年:2011/07/18(月) 23:42:12.20 ID:7MTG3TK6
どっちにしても郡山攻め後に尼子傘下の国人や土豪が大内方へと転じた件については触れようともしないんだな
506人間七七四年:2011/07/19(火) 01:00:56.22 ID:lot6Vr+h
>>505
でさ、お前は安芸の誰が郡山合戦後に大内側へ転じたと主張してんの?
あとな、その時の尼子の目的は石見銀山であり
郡山城へ進んだのは陽動。ここで毛利の現形を待ちながら
小笠原長隆を後援して石見銀山を大内から奪取してから本国へ帰ってる。
その撤退でも尼子は大した被害を受けてない。
507人間七七四年:2011/07/22(金) 11:00:54.07 ID:42kW20pu
実際、尼子は上洛狙いで浦上らと争い播磨まで進出してたから安芸方面を長らく放置してきているうちに
安芸の国人達が大内の影響力を背景に利用していた安芸一揆指導者の家系の毛利に
大半が従ってきていた状況なので
次第に背後の不安定化が懸念される事態になってきており
毛利を潰すのが目的ではなく毛利を現形させて尼子に付かせることで
安芸で失われた尼子の影響力を復活させようとしただけだからね。
中国地方ってのは寄親寄子制なので威圧と領地加増のアメと鞭で交渉することで
地域指導者を現形させてオセロのように勢力をひっくり返すのが伝統的手法。
そう言うやり方だから主従関係が曖昧なまま大内も多数の国人を率いて上洛もできた。
508人間七七四年:2011/07/22(金) 21:15:35.88 ID:dFOa1FWA
>>507
んで、現形させようと郡山城を包囲してる間に、大事な尼子派だった武田が大内に攻撃されて、
どうしようも無くなって何の成果も得られず、臆病野州どのを犠牲にして逃げ帰った、と?

結果として、安芸国内の尼子派が衰退しまくって、毛利メシウマなわけだろ?

郡山城戦の結果として安芸国内における尼子のプレゼンスが低下して、毛利がのし上がった、
って因果関係は通説となんにも変わらないじゃないか?
509人間七七四年:2011/07/22(金) 23:20:55.20 ID:W6u9GmLR
嫡男人質に出してるから簡単にはひっくり返らないよ。
尼子の状況認識甘かったとしか言いようがない。
もっとも、元就が二股外交で晴久と兄弟の契りしたりしてたんで、脈ありと見たのか、そうだとしたら元就にしてやられたわけだ。
兵などの犠牲は少なくても、「敗走」と
周囲にみられたら、みんな雪崩をうって
大内に付こうとするよ。
510人間七七四年:2011/07/23(土) 12:30:31.27 ID:xBf/vlbq
毛利の小猿が調子づかなきゃ尼子さまが天下を統一していたのによ
511人間七七四年:2011/07/23(土) 18:31:27.33 ID:7WOLK9+1
>>508>>509
大事?すでに本領を失ってる武田を!?
だからね、尼子はもう安芸で支持を失って脱走してきただけの武田を見捨ててんの。
武田の代わりに毛利に現形してもらおうとしてんだから。
銀山城自体が旧武田親大内の勢力によって牛耳られていたんだから。
それで信実が帰国して銀山のみ奪回しただけの話で
それに対して大内から求められて毛利軍から児玉を監軍として
熊谷信直と香川光景が銀山城奪取を策す信実と戦ってんの。
そんで尼子の優先する目的は石見銀山なわけ。
(信実が銀山城から叩き出された時に石見銀山も大内に奪われていた)
さらに臆病野州なんてただの講談逸話レベル。
そもそもその逸話の元ネタは安西軍策の尼子比丘尼と呼ばれた話からきてる。
しかも軍策ではその臆病野州を討ち取ったのが宮崎の陣にいたはずの
元就の下人である中原が軍策曰く「どうやってきてたのかわからないが」
なぜか尼子本陣を攻める陶軍騎下にいて矢を額に命中させて殺したが
尼子軍が死体を持って陣に駆け込んで首は取れなかった。
などと書いてあってデタラメ過ぎる。
>>臆病野州どのを犠牲にして逃げ帰った
さらに軍策ではこの戦いのあとに戦果をチェックしたら尼子400討死・大内540討死
毛利と吉川の戦いは勝負付かずおのおの引き上げたと書いてあるわけだがw
>>結果として
はぁ?俺はことごとく論破されてるし、しかも俺が書いた質問も全て無視した挙句に
俺の書いた意見を自分の意見のようにまとめて
「結果として」ってなに言ってんだ?意味わからん。
大内が九州戦線を安定させて、いよいよ東に目を向けたから
安芸での大内の軍事的プレゼンスが増大したのであって
尼子の安芸での軍事的プレゼンスなんて武田光和死亡後にとっくに完全に失われているわ。
512人間七七四年:2011/07/23(土) 18:50:31.65 ID:7WOLK9+1
>>毛利がのし上がった
あくまで大内傘下での安芸における指導者としてだ。
陶の謀反に元就が加担し大内義隆を自刃に追い込んでから流れが変わる。
>>嫡男人質に出してるから
隆元1人と毛利家存続に較べたらな。。。
そのためにも元就はSEX魔王とも言うべきガキの大量生産をしていたのであろう。
もっとも正妻の子である元春と隆景までを人間扱いしてるが、
それ以下は虫けらと元就は呼んでるが。
しかし元就は長女を虫けらのように見捨てて高橋攻めをしている。
よって長女を見捨ててる前科がある以上は甘いとか意味がわからん。
>>「敗走」と周囲にみられたら
見られてないだろ。そんなソース見たことない大内が出雲遠征で大軍を催したから
相変わらず寄親寄子な心が移りやすい国人が褒美目当てで寄って来ただけで。
だから大内は裏切られ敗走することになるが。
そもそも高橋と佐々部領を併合していた毛利は単独でも尼子と戦える力を持ってる。
(1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上る)
>>元就が二股外交で晴久と兄弟の契りしたりしてたんで
塩冶興久の謀反が現実味を帯びる中の1530年5月28日の陶の書状から
大内と尼子も講和してて興久でなく経久を支持してるし、
1531年7月に晴久と元就が義兄弟の契りを結ぶというのも大内と尼子が和睦してるのでおかしくない。
(そもそも元就は尼子の後援を得て毛利の家督を継いでいるし、契りは妻の実家吉川の斡旋だし)
興久と婚姻している備後北部の山内氏領も戦場になる以上は
元就も関係なしと言うわけに行かないだろう。
(西条守護の弘中隆兼が南備後を支配していたが大内から毛利は北備後七郡の管轄を任されているし
1475年以来、北備後の伊多岐・重永・山中など世羅台地に毛利は3000貫の領地を持っている)
要するに元就は大内と尼子からも無視できない安芸一揆の盟主の家柄であり
両者の間で背反し遊泳してうまい汁が吸えた立場にいただけのこと。
別に二股外交と呼ぶほどスゴイ離れ業をやってはいない。
むしろ尼子が甘いのでなく、いろいろと経緯を見ると
毛利を厚遇して加増をしまくってきた大内こそ甘くて涙目。
もっとも信用ゼロだから大内は隆元を人質に取ったり、誓詞の交換を強要したりしてんだが。
513人間七七四年:2011/07/23(土) 19:52:58.04 ID:rtB9UtIz
また性懲りも無く長文珍説君が復活したのかよ
いい加減ウゼえな
514人間七七四年:2011/07/23(土) 20:47:11.93 ID:nN3LquzL
まだ元就が非力な弱小勢力スタートだと思い込んでるバカがいるのか…
515人間七七四年:2011/07/23(土) 20:49:39.51 ID:BmXIeo0L
うーむ、長いけど意味わかんないや、
珍説本の中の 人が書いてるみたい。
516人間七七四年:2011/07/24(日) 01:05:50.23 ID:Xd8Y+4g3
>>513>>515
珍説?理解力のない頭の悪い毛利厨乙w

おっと誤字になってるトコ発見
>>俺はことごとく論破されてるし
「俺にことごとく論破されてるし」に修正。
517人間七七四年:2011/08/08(月) 18:49:35.02 ID:lN7Nbulw
こんにちは( ̄▽ ̄)
私の家は長州の永代家老(毛利一門)の家系で、明治には華族になっています。

最近、ご先祖様の事をいろいろ調べるようになりました。大江家〜戦国時代〜幕末
ても、ここを読んでみると、皆さん凄く詳しいですね。
どうしてそんなに詳しいのですか?

私の一族なんて一応のざっくりとした歴史は知ってますが、◯◯の戦いは〜、動員兵力は〜、石高は〜、とか全くわからないです。(^◇^;)

とても参考になりますので、ちょくちょく見にきますね。
518人間七七四年:2011/08/08(月) 20:07:50.85 ID:tFWO4bzc
>>517
このスレに居座ってる長文珍説君はそらでものを言ってるだけだから本気にしない方がいいよ
519人間七七四年:2011/08/08(月) 23:25:31.96 ID:lN7Nbulw
>>518
了解です。
歴史は見る人によって180度評価が違ってくるので、面白いですね。
たとえば、元就が天才か無能か?
アンチも含めて議論を楽しく読ませていただきます。

520人間七七四年:2011/08/11(木) 09:53:58.23 ID:FDJT/oGt
その長文の人はちゃんと一次史料を明記して情報量も豊富である一方で
それを感情的に否定してる厨房側は一切一次史料を出さないで「〜と俺は思う」レベルの反論しかできず、
議論に負けると相手の人格否定の悪口中傷で必死に貶してる以上は
どちらが信頼できる書き込みをしてるかは議論を待たないけどな。
情報量の多さと一次史料を用いた書き込みを長文珍説と無理やり否定する不遜横暴な態度は好感を持てない。
521人間七七四年:2011/08/12(金) 11:57:25.67 ID:54U2MUy4
>長文の人はちゃんと一次史料を明記して情報量も豊富である
また性懲りも無く息をするように嘘を吐くなよ長文珍説君w
522人間七七四年:2011/08/14(日) 19:11:01.32 ID:p7pjEErP
>>521
下記のようにソース出してるんだが。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240453594/367

逆にお前は一度もソース出してねーじゃんwww
523人間七七四年:2011/08/15(月) 05:53:21.04 ID:XP7zVJ5s
ああいえば、ソースいう奴だな。
読んでやったが最初のどこそこの
所領貰ったとかのとこや、
熊谷に元春よろしく、とかの
話しだけじゃ無いかい?
しかも、謙遜して書いてるのに、
ストレートに元春ヘタレと解釈するとは、
KYにも程がある。
524人間七七四年:2011/08/15(月) 08:55:51.97 ID:p9qSTrsV
>>523
で、お前がソースを出したとするレスのリンクを貼るか教えてくれよ。
それに元春がヘタレなのは明白でしょ。
自分が絶対に勝てる国人風情だけを相手に選んで戦ってただけで
いざ互角の兵力を持つ織田軍が来ると徹底的に逃げ回ってただけじゃん。
525人間七七四年:2011/08/15(月) 10:19:23.99 ID:yjsBa3lZ
本当に謙遜なら「犬のように頼りない」なんて酷いこと書かないだろ・・・
526人間七七四年:2011/08/15(月) 13:04:26.16 ID:p9qSTrsV
まあリアルに穂井田元清以下の息子達を虫けら同然と書状に書くほどのDQN父親が元就だからな。
元就は長女を見殺しにしてるし、
元就のアスペが似たのか次女の五龍局も元春の妻をいじめてるし
確実に元就は性格や思考に難があるアスペだな。
隆元も元春も隆景もいがみ合って仲が悪いし
父親の教育がキチガイじみていた影響だろうな。
527人間七七四年:2011/08/15(月) 16:35:50.79 ID:StfJCKNd
キチガイ毛利アンチ
528人間七七四年:2011/08/16(火) 02:40:21.91 ID:lA/giBkB
義昭側近の一色昭辰も天正3年8/24に元春に
修理大夫一色義辰(一色義道)の本国丹後の儀につき
輝元御出勢の刻は本意に任せるので頼みます。
(毛利を)御馳走することは本望です。
などと言っていて毛利は丹後も傘下に収めているんだよな。
でも元春は援軍も出さずに同じく元春に
救援依頼した丹波の赤鬼の赤井直正兄弟同様に見捨ててんだよね。
ほんとヘタレだよ元春って・・・
529人間七七四年:2011/08/16(火) 04:06:36.60 ID:aZlCHDd0
元春って元就が死んだ時も出雲高瀬にいて葬儀をガチでシカトしたし
隆元が死んだ時も出雲白鹿にいて葬儀をガチでシカトしたぐらい親兄弟と仲が最悪レベルだったんだよな…
530人間七七四年:2011/08/16(火) 05:15:46.22 ID:XHEkx7Q8
>>524
長文のソースの話しで、こちらは、
ソースのいる書き込みはしてないよ、(笑)
長文が笑えるのは、散々元就たちを、
ウソつき捏造、ヘタレと散々こき下ろし
得意になってるが、その根拠のソースが
毛利側の資料って、どうやって捏造見分けてるんだ?
毛利家文書は、全て捏造の可能性あるよ、
長文君の解釈だとね。
531人間七七四年:2011/08/16(火) 06:44:31.35 ID:LY5OpnzT
毛利の資料は全部捏造なの?ソース全力
532人間七七四年:2011/08/18(木) 11:24:14.88 ID:NbwgiJ+h
>>530
日本語として意味不明。
現実が認められずに
お前ついに頭がとんだのか?
533人間七七四年:2011/08/19(金) 09:29:40.40 ID:0R8q54gQ
>>528
隆景や安国寺が義昭を毛利領に呼ぶのに消極的な一方で
積極的な元春が義昭との窓口をやってたから義昭も毛利が有利になるように各国を毛利方にしてたからね。
決断できない毛利に痺れをきらした義昭側近の六角義堯が義昭の越後行きを策したら
それを知った毛利は義昭の力によって今まで毛利方になった各国国人達が毛利に失望し一挙に離反するのを恐れて
急遽、義昭を毛利が奉ずるのはとても名誉があることだと言い出して義昭を急いで毛利領内に呼んだ。
534人間七七四年:2011/10/17(月) 16:06:59.02 ID:ZUYs4MMG
>>522
陶が村上水軍に冷たいのは
武田滅亡寸前の時に
厳島神主家が村上水軍による大内からの厳島奪回作戦が成功し、
毛利を助けに吉田に来て尼子と対陣した陶の背後が封鎖された恨みがあるんだよ。
威圧で毛利を従属させようとしていた尼子だったけど
隆元を人質に大内に出していた毛利が従属しないと悟り、出雲へ帰陣
(以前、元就が尼子服属を申し出たが、元就は信用できないと吉川に伝えていたから
すぐ元就は従属するとタカをくくっていた)
それで武田と神主家は滅亡。
厳島合戦では村上水軍には厳島攻略ノウハウがすでにあったんだよ。
しかも陶の謀反のときに桜尾城を元就と江良が陶の策で無血で収めていたが、
陶が石見津和野攻めに苦戦してる時に
旧武田勢力の銀山城の北に位置する山岳地帯から石見に至る周辺の山里国人一揆らが陶に謀反。
このチャンスに江良を桜尾城から元就は追放し、
孤立した銀山城も明け渡させて岩国まで毛利に服属。
このため陶は西安芸全域まで敵になっており、陸路から毛利攻め不可能となった。
厳島神主家と村上水軍による厳島渡海作戦時より、
百倍有利な展開で、
厳島合戦も村上水軍によって行われ
元就からしたら棚から牡丹餅状態で
ほとんど何もやってないのに、
一揆連合から推戴され祭りあげらた神輿として勢力が拡大した。
しかしこんな言い加減な主従関係すらない
烏合の衆では織田に勝てるわけもなく、
大内がかってやった将軍の権威を求心力にして、
主従関係でない
今となっては巨大一揆組織となった安芸国人を公儀のためと言う口実で、
家臣化を目指そうにも、
大友に大敗し博多も手に入らず、
山口の復興にも失敗し
領主のいない闕地もなく褒美すら与えられず、
輝元を周防長門に押し込めた叔父らは
山陰や山陽の領国化を目指し東進、
輝元に相談せずに闕地をみつけてきたら輝元に相談せずに安堵を開始していく。
535人間七七四年:2011/10/17(月) 17:13:20.00 ID:MlD7xqcF
>1
一番の原因は小早川家が乗っ取られてしまった事が原因だろう
536人間七七四年:2011/10/17(月) 19:18:16.13 ID:SSbJsGfa
>>534
おお、>>337の話に似た話が登場してる。
やっぱり元春や隆景の自立化っては本当なんだな。
ちなみに元就4男の元清も息子に秀長の娘を貰い自立化を図ってますよね。
秀吉は大名との対面でも、家康・利家・政宗・秀家・輝元らと秀元を同席させて大名との謁見までやってたくらい秀元の地位が高かった。
家康は元清の息子秀元の、父の遺領の相続に対して秀吉の遺令と称して毛利内での相続問題に介入してて、
そこに家康と領地をより多く奪おうとする自立を狙う秀元の連携が見え隠れしてて、輝元は元康と相談したりしてる。
家康側は「長門と周防の一部(出雲+伯耆+隠岐の合計石高分+周防元清遺領)と安芸・備後の元清遺領を
秀元に配分するべきだとして譲らず、福原が秀元に諫言したり秀元が周防の国人に騒ぎを起させて恫喝してる。
家康は秀元を利用して着々と毛利内の分断を図っていて、輝元は家康に対して怒り狂ってるのが見える。
そこで家康への対抗から輝元領の減少を食い止めるべく奉行と輝元による運命共同体の姿があるんだよね。
会津征伐ってのは家康の上杉弱体化分断工作がうまくいかなかったから実力行使に出ただけ。
クーデター側は反家康側内がどんどん分断化や協調体制の各個撃破されていくのを見ているはずなんだよ。
徳川内の分断化にむけた介入による反撃ができないところに反家康側の弱さがあった。
537人間七七四年:2011/10/18(火) 11:55:16.02 ID:Qr1uVJaz
息子兄弟を険悪な関係のまま
元就が無責任に逝ったのがすべて悪い。
538人間七七四年:2011/10/19(水) 12:55:53.02 ID:0xb46DuS
>>529
元就も隆元に
元春のことはもう諦めろと突き放してるくらいだから仕方が無い
539人間七七四年:2011/10/20(木) 13:46:15.88 ID:2bXrOAv4
元春が主張したように柴田と同盟して
秀吉を挟撃してたら
毛利が天下取れたのにな。
結局、隆景と如水と秀長に親子毒殺された元春。
540人間七七四年:2012/01/10(火) 08:13:57.42 ID:VmCCAuP1
>>537
優しさと弱さの区別が付かないのが、チョウセンヒトモドキ
541人間七七四年:2012/07/01(日) 01:42:02.55 ID:cktX4iLJ
重複に付き誘導

毛利元就って明らかに実力未知数だよね
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1226366549/l50
542人間七七四年:2012/07/01(日) 01:43:20.31 ID:cktX4iLJ
重複に付き誘導

毛利元就って明らかに実力未知数だよね
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1226366549/l50
543人間七七四年:2012/09/08(土) 20:58:32.35 ID:tueBF4wE
お前ら毛利をへたれとか言うなよ
その毛利に滅ぼされた家らはごみ同然になっちまうぞ
544人間七七四年:2012/09/27(木) 22:52:01.10 ID:4pKg2Bqf
毛利氏って、実は3回日本の歴史を変えてるんだよね・・・もっとかも知れんが
鎌倉幕府創立の時の「顧問弁護士」の大江広元と宝治合戦の毛利季光
戦国時代の元就と両川、関ヶ原の輝元・広家と小早川秀秋
幕末の長州藩
武家でこれだけ後世に影響を与えたのは他にいないと思う
公家の藤原家ぐらいだろう
545人間七七四年
上杉や伊達は幕末が残念すぎるし細川や佐竹は江戸以降は空気
自称()を除く鎌倉から続く名門としては、毛利は一番要所要所を抑えてるね
島津も活躍はしているものの、鎌倉は大江毛利ほどは目立ってはいないし