毛利衰退の原因は、元就が作っている件

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367人間七七四年
>>344 訂正 元就が主張した出雲国への不介入→元就が主張した石見国への不介入
>>325 毛利は総領光房以外に4人が連署に加わったほどの発言力を有していた・・・
毛利光房・平賀妙章の一揆中心人物が義満の一揆討伐軍派遣を逃れる為に降伏交渉しており
山名氏を通して降伏し七通の赦免の御教書を出してもらう予定だったが時期に恵まれず
特に毛利光房がたびたび懇願していたのにも関わらず義満が死去で沙汰止み。
1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上るとしていた・・・
毛利家文書151・252号によれば1475年備後国伊多岐・重永・山中など世羅台地にも毛利は3000貫を獲得し備後国にも発言力を持っている。
大内の元就への加増は毛利家文書253〜255号などにも見られるが、
幸松丸が鏡山城先陣を勤めたのは毛利家文書239でわかるが鏡山城攻防に信頼できる史料は無く
平賀氏は鏡山城落城の現形の功で東西条616貫を経久から与えられてる(平賀家文書61号)
義興による加増の由来が毛利家文書251号に書かれているが元就が過去を振り返って書いているので、
安芸の大半が尼子になびいたが毛利だけが大内に忠勤したとかデタラメが書いてある。
ここに尼子がやってきた時に幸松丸が死んで元就が継いだと書いており、なぜ死んだのかまったく触れてない実に不審である。
毛利家文書239号に元就が跡を継ぐのは尼子の承認ありの証拠。1525年に大友1万の大軍が大挙して大内軍として参加ってのは、
1527年7年3月に豊前守護代の杉興重が大友兵を同伴しての仁保島や日地島攻撃して帰った行動(一万田文書)と混同していると思われる。
この広島湾の島への攻撃の影響もあり白井膳胤降伏するも総領白井備前の府中城は
武田光和の後詰めもあり落ちず尼子の南下の阻止のため陶や杉らを派遣し備後へ。
1529年には高橋と佐々部領を併合した毛利は国人領主から脱皮し尼子に対して互角に戦えるほど成長している。
大内から加増してもらった大恩を忘れ大内を裏切り1532年7/10に尼子晴久と元就が妻の実家の吉川の仲介で兄弟契約してる(毛利家文書210号)
大内は厚遇してきた挙句に大国化した毛利の背反によっては致命的なことに成りかねないほど、その動向が無視できない存在になっており
1537年6年12月から4年間隆元を大内へ人質に出させたり、1539年9月に義隆と改めて誓言の交換をさせたりしている。
1541年に武田滅亡し7月の論功行賞において預けられていた可部・温科の代所として&隆元人質在国4年を賞し(毛利家文書303号)
さらに南方の佐東郡も加増されてる佐東や安南に合計1000貫の所領をもらった(毛利家文書258号)
さらに毛利は1542年11月武田の一族判氏の遺領である判の地も貰い武田の佐東川川口の川内衆水軍を毛利直属にしてる(毛利家文書251号・260号)
毛利は佐東川下流に所領を得て広島内海進出の足掛かりとなった。ほぼ安芸一国支配を確定させた。
1543年後半から備後攻略をはじめ神辺城攻略が開始され大内氏の西条守護の弘中隆兼が備後管轄したが、
内郡と呼ばれた備後北半七郡直接支配は元就に委ねているなどますます大内義隆の元就への厚遇ぶりが窺える(「譜録」渡辺三郎左衛門)
陶の謀反に同調した元就は陶が厳島接取した同日8/20金山城を手に入れ、
さらに陶から己斐河以東の左東郡を与える約束をしてもらっている。また9月には義隆側の西条木追山城も手に入れる(二宮俊実覚書)
陶は義隆を滅ぼし上関(堺)での村上氏の特権を認めず騎下の米良船を自由に通過させ
1552年2月厳島に掟を下して港に立ち寄る諸回船から警護米を取り立てるのを禁止。
さらに4月義隆時代に能島村上武吉の叔父で後見人の村上隆重を通して村上一門に与えていた特権も否定。
厳島で京・堺商人から駄別安堵料を受領することを禁止し、京堺商人から礼銭の献上を要求し村上水軍は反抗的態度になる。
元就が元春を犬のように頼りないから熊谷が助けてやってくれと言っている(熊谷家文書126号)元春はヘタレ無能だったのがわかる。
万代記 厳島合戦日記 1555年9月29日のところ   厳島渡海する時、前日より西風もってのほか吹き荒れ時雨あり。朝、河ノ内衆召し出し、
今日暮れに堤ノ浦へ富り手人数15000ばかり有り一時に漕ぎ渡ると申され…9月廿九日 大江元就 ※元就は4,000どころか1万5000の兵力を動員している事実。