【疑問】スレ立てるまでもない質問 4【戦国時代】

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1人間七七四年
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【疑問】スレ立てるまでもない質問【戦国時代板】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150022967/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 2【戦国時代】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195567708/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 3【戦国時代】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234172504/

2人間七七四年:2009/09/02(水) 12:45:42 ID:lQXsF1Rv
前スレの続きな

で、信長が上洛の際に松永・三好三人衆を撃退し、取り返して
義昭に京の領土を与えたって事でOK?
3人間七七四年:2009/09/02(水) 12:48:25 ID:Lud+i24J
>>2
あたえたっつーか、回復だわな。
その代わり信長は足利将軍の権威で軍勢を集める事ができた。
4人間七七四年:2009/09/02(水) 13:00:50 ID:lQXsF1Rv
>>3
それは信長の方が弊害が大きかったんじゃないの?
義昭の馬鹿が信長を倒せとの御教書を諸大名のみならず
同盟者の徳川家康にまで送りつけたから
5人間七七四年:2009/09/02(水) 13:35:10 ID:Lud+i24J
>>4
別の時期の話を一緒くたに語られても困る
6人間七七四年:2009/09/02(水) 14:51:42 ID:WPUrKtH6
>>4
その点はもう日本政治史における宿業とみなすしかない。

後の徳川幕府の天皇家の扱いはずっと苦悩し続けている。
7人間七七四年:2009/09/02(水) 21:16:37 ID:TQnx1i8c
大阪の陣を豊臣側視点で描いた大河ドラマもしくは映画ってありますかい?
8人間七七四年:2009/09/02(水) 21:26:26 ID:Lud+i24J
>>7
『茶々 天涯の貴妃(おんな)』

淀殿が武装して馬に乗って家康のところに一騎がけする様な映画だが。
9人間七七四年:2009/09/02(水) 21:34:32 ID:TQnx1i8c
>>8
ありがd
それしかない?
真田や又兵衛の奮闘、
夏の陣で追い詰められての必死さ、
最後の秀頼・淀の自害、
そんな感じのが見たいんだが、検索しても見つからなくて。
10人間七七四年:2009/09/02(水) 22:25:12 ID:lQXsF1Rv
準大河ドラマなら『真田太平記』がそれにあたるのでは?
人形劇なら『真田十勇士』だね
11人間七七四年:2009/09/02(水) 23:54:33 ID:ZPSRhiHe
>>10
それも架空戦記だろ。
質問者と同じく俺もリアルな考証の大阪の陣の
映画やドラマを見たい。
12人間七七四年:2009/09/02(水) 23:56:41 ID:Lud+i24J
>>11
リアルな考証だと、信繁が白髪頭の腰の曲がった爺様になったり、
徳川によるだまし討ちでの内堀埋め立てがなかったりと、あまりドラマチックではなくなるなw
13人間七七四年:2009/09/03(木) 00:32:56 ID:UyvR10WZ
つか、真田の登場場面が激減すると思われ。
江戸時代の随筆家・神沢貞幹が、『翁草』で毛利勝永の活躍を賞賛し、
「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と記している。
14人間七七四年:2009/09/03(木) 00:39:52 ID:4MOMpRcG
「真田丸の奮戦」も、今は長宗我部隊の活躍のほうが大きかったと言われているしね。
15人間七七四年:2009/09/03(木) 00:51:26 ID:Mls7bNyE
堀を埋められ迎撃もままならず、
数も劣勢、
圧倒的多数の幕府軍を相手に苦戦の連続、
次々と討ち取られる将兵、
それでも奮闘し、劣勢ながらも必死で戦線を維持し、
ついには家康を追い詰めるが討てず、
燃えさかる大阪城で悲劇のラストシーンみたいな感じの夏の陣ドラマが見たい。
リアル考証じゃなくてもいいからさ・・・。
真田だけじゃなく、豊臣方の浪人集全体に視点を当てたようなドラマ・・・無いもんかな。
16人間七七四年:2009/09/03(木) 08:22:14 ID:vJQJl1DC
毛利勝永が活躍するのは確かに見たい。
17人間七七四年:2009/09/03(木) 19:52:47 ID:zmdDi2tr
>>7-16
大河板かドラマ板にでもいってこいw
18人間七七四年:2009/09/03(木) 22:05:10 ID:Mls7bNyE
こっちのほうが的確な情報が得られるだろうな。
19人間七七四年:2009/09/06(日) 19:56:53 ID:kqsFukCz
別に戦国時代に限ったことじゃない質問なんすけど、
今みたいに、どこの地域でも通じる標準語って無かったっすよね?
しかも、当然ラジオも無いから、他の離れた地域の言葉に触れる機会もさほど無かったはず。
だとしたら、例えば標準語を知らない津軽の人と薩摩の人が方言丸出しで喋ったら・・・って思うと、
日本語と中国語くらい、何言ってるか伝わらなかったって事は無いっすかね?
そのへんどうなんですか?

20人間七七四年:2009/09/06(日) 20:52:41 ID:x1DSn02G
>>19
喋りはまあ無理だろう。だが筆談はできる。
それ以前に合える確率はないわな。
2119:2009/09/06(日) 21:11:54 ID:kqsFukCz
>>20
レスありがとうございます。
>それ以前に合える確率はないわな。
例が極端でしたが、自分は北関東なんですけど、
新潟あたりの地元の爺さん婆さん同士が喋ってる言葉は全くわかりません。
先人はさぞかし不自由したのでは無かろうかと・・・。
22人間七七四年:2009/09/06(日) 21:15:22 ID:/z/lvNdB
>>19
> だとしたら、例えば標準語を知らない津軽の人と薩摩の人が方言丸出しで喋ったら・・・って思うと、

少なくとも武士の間には「武士言葉」と言うのがあった、具体的には「能」の言葉。
能で演じられる言葉は全国で通じたのだ。
23人間七七四年:2009/09/06(日) 22:18:43 ID:JDLe1wky
茨城県筑波学園都市の老人同士の会話は一言も理解できずまったく外国人だったな。
朝鮮出兵の時に言葉の壁はどうするとの問いに秀吉は朝鮮人に日本語教えりゃいいって言ったらしい。
秀吉からすりゃあ津軽と薩摩と朝鮮も同じ感覚だったのかもね。
24人間七七四年:2009/09/07(月) 00:03:47 ID:l2bm5yJf
足利尊氏が九州に落ち逃れた時、九州の言葉がさっぱり分らなくて通訳者を召し抱えていた
記録に残ってないだけで、通訳者が普通にいたのではないか
25人間七七四年:2009/09/07(月) 04:18:32 ID:fBhDVsOc
>>23
当時の日本人は日本以外に国が存在するという感覚が希薄。
日本と唐(中国)と天竺(印度)の認識がやっと。
だから、南蛮人が来たときは異常に驚いた訳で。
26人間七七四年:2009/09/07(月) 20:09:07 ID:e+b0oiAt
中国との交易を通じて、西には金髪碧眼がいるとか、南には黒漆のように真っ黒な人間もいるとか情報なかったの?
27人間七七四年:2009/09/07(月) 20:23:17 ID:gpNQVF2V
>>25
> 当時の日本人は日本以外に国が存在するという感覚が希薄。

んなわけないだろ。またヘンテコな日本人論信じてw

日本人は昔から東南アジアまで交易してるし、中国の史書などから海外の情報も得ているよ。
28人間七七四年:2009/09/07(月) 22:07:52 ID:yjeyOtWc
まぁ90%の人間は日本以外の国というと中国(朝鮮含む)ぐらいしか知らなかったろう。
天竺については中国とどう違うのかすら知らなかったのが大半だと思われ。
海外と交易していた商人は博多・堺を中心としたごく一部だし。
>当時の日本人は日本以外に国が存在するという感覚が希薄。
これは言い過ぎだと思うけどね。
中国が具体的にどこにあってどんな国なのかは知らないにせよ、
中国の故事や諺は庶民にも広まっていたわけで、
日本だけしか知らなかったということはない。
29人間七七四年:2009/09/08(火) 02:13:26 ID:ik2xD8pr
どうだろうな9割の日本人は読み書きも出来ないだろうし
日本と言う名前も知らないかも?

堺が交易港として大きくなるのは信長の頃からでやっぱり
博多出雲敦賀越後が主流なんじゃねえの?
30人間七七四年:2009/09/08(火) 02:18:58 ID:M4pLn4Hs
>>29
> 堺が交易港として大きくなるのは信長の頃からでやっぱり

何を言っているんだ
堺公方とかも知らんのか。最低限の歴史は勉強しろ。
31人間七七四年:2009/09/08(火) 02:23:40 ID:ik2xD8pr
堺より商業地としては岡山の方が規模がでかいと言うし
その岡山より出雲のが貿易港として発展してたというじゃない
32人間七七四年:2009/09/08(火) 02:38:41 ID:ZRgqCN4y
>>31
地域も状況も機能も全部違う
33人間七七四年:2009/09/08(火) 07:08:22 ID:Zs25aB/K
すいません
大友スレでも質問したのですが
一週間経っても人がいない&まともなレスがつかなかったのでこちらで質問します

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633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/01(火) 13:13:20 ID:ncCpdm9V
大友晴英って二階崩れの時に何をしていたの
宗麟と一緒に行動?巻き添えを食らわないために避難?
----

宗麟の動きは割と明らかになっているのですが
晴英の動きは特に書かれていないので気になっています

34人間七七四年:2009/09/08(火) 21:09:52 ID:CPs7RmxO
>>29
「日本」という字が書けなくても「にほん」が意味する地域は大半が知っていたと思われ。
読み書きはできなくても外国の存在は理解できる。
35人間七七四年:2009/09/08(火) 22:39:37 ID:M4pLn4Hs
つーか戦国期でも、庶民の間で読み書きはかなり広まっていた。
当時の記録から、庶民の間でも「文字知らず」というのが嘲笑の対象になってる。

つまり、文字を知らないって事が笑われるくらい、普通の人でもたいていは文章が読めたって事だ。
36人間七七四年:2009/09/08(火) 23:36:26 ID:chEIai1j
秀吉在世時代は、家康は250万石に対し秀吉は220万石ぐらいなどと言ってる歴史家がいたが
これはどう考えもおかしい
清正・正則ら子飼いの大名も含めてないのだから
彼等が別個の大名だというのなら、信長在世時代も既に秀吉は120万石ぐらい領有していたわけだし
37人間七七四年:2009/09/09(水) 00:16:23 ID:+a8FbIu6
>>36
秀吉の220万石は「実際の実入り」
つまり、年貢高が5割と考えれば、440万石相当の収入。
38人間七七四年:2009/09/09(水) 07:10:22 ID:xxVtoMtb
>>36
それに石高だけじゃなく、金山・銀山や交易の権益も持ってた
39人間七七四年:2009/09/10(木) 12:36:58 ID:g7+OLvf7
920貫って石高換算にすると、どれくらいですか?
40人間七七四年:2009/09/10(木) 12:47:37 ID:mcTPnbxJ
>>39
時期と地域による
41人間七七四年:2009/09/10(木) 12:49:48 ID:JtvXVSlW
>>39
地域によって度量衡がまったく違うので、それははっきりわからない。
無理やり出してるのはかなりいかがわしい。
42人間七七四年:2009/09/10(木) 13:01:10 ID:mcTPnbxJ
あと「貫」の価値も、地域と時期によって変化してる。
撰銭問題と言って、宋銭のみか、悪戦も含むのか、含むとすればどういう比率で含まれるのか、
等々。

どうしても石高換算したい場合は、その領地の太閤検地以降の石高と比較するか、
賦課された軍役の内容を見て判断するしかない。
43人間七七四年:2009/09/10(木) 13:03:00 ID:mcTPnbxJ
>>42
二行目、×悪戦 ○悪銭 ね。
明銭や私鋳銭などの質の悪い貨幣の事。
44人間七七四年:2009/09/10(木) 19:57:17 ID:t6jnm7xh
質問です。

戦国時代に刺身につけて食べていたタレのことなんですけど
確か、練った梅干と酒と・・・あと何か加えたり調理していたと思うのですが
よく覚えていません。
ご存知ないでしょうか。
45人間七七四年:2009/09/12(土) 07:55:22 ID:RAdNSZlR
>>28
『曾我物語』には日本の西の果てを「高麗・鬼界」と書いているが
46人間七七四年:2009/09/12(土) 15:05:56 ID:delLg4e9
>>45
「曾我物語」を読まない層の認識の話だから問題ないんじゃね?
47人間七七四年:2009/09/12(土) 15:57:30 ID:G5fEj6RR
>>46
曽我物語なんて当時のジャンプマンガみたいなもんだぞ。
誰でも知っているわ。
48人間七七四年:2009/09/13(日) 08:29:28 ID:nIW1e33P
>>47
じゃあその誰でも知ってるという典拠や論証よろしく
公家武家僧侶豪農商人なら誰でも知ってるという話じゃないからさ
49人間七七四年:2009/09/14(月) 18:49:57 ID:cg1U+9+M
昨日の天地人を見てなのですが、関が原合戦当時、秀頼の名で逆賊上杉を討つ名目で出兵したのに
今度は三成らが謀って秀頼の名で逆賊家康を討伐の挙兵をするなど
ああも軽々しく本当に秀頼の名で逆賊○○など使っていたのでしょうか?
50人間七七四年:2009/09/14(月) 19:10:28 ID:0D8apnLA
秀頼の名前は使われていません。

と言うか、秀頼周辺はむしろ光成ら西軍に対して冷たく、資金援助すら拒否しています。
51人間七七四年:2009/09/14(月) 20:03:45 ID:NsvMLTAH
>>49
家康は、豊臣政権の大老というか執権者として、政権への反逆者への討伐という意味で、秀頼の名前を使った。
三成も構図は同じで、クーデターによって政府中枢を掌握することで自分達こそ豊臣政権の執権者と位置づけ、
秀頼の名で豊臣政権の反逆者徳川を討とうとした。

結局のところ、秀頼自身が己の意思を発することが出来なかったから、名前を勝手に使われていた。

で、秀頼というかその周辺の豊臣家の人間にとっては、家康も三成もどちらも同じ狢なんで、一方に肩入れ
する気が無かった。
52人間七七四年:2009/09/14(月) 21:14:25 ID:ahkcaj2p
53人間七七四年:2009/09/14(月) 21:14:48 ID:ahkcaj2p
ああ、どうりで透明な筈だ
54人間七七四年:2009/09/15(火) 03:42:06 ID:ub3ErMpC
家康は上杉討伐の際に豊臣政権から援助として金をふんだくってるから資金面は豊富だった。
55仙台藩百姓:2009/09/15(火) 11:23:46 ID:ose7EeKm
家康の出兵は秀頼と朝廷から認可を受けているから正当なものだお( ^ω^)
だから上杉が処罰されるのは道理
56人間七七四年:2009/09/17(木) 13:37:55 ID:KAdiYsMM
織田信長が自ら指揮を執った最後の戦いは、どの戦いになるんでしょうか?
5756:2009/09/17(木) 13:39:55 ID:KAdiYsMM
あ、「本能寺の変」は除いて、ということです。
58人間七七四年:2009/09/17(木) 13:42:15 ID:rqRo20h1
>>56
天正5年(1577の)紀伊の雑賀・根来討伐じゃね?
5956:2009/09/17(木) 19:38:36 ID:KAdiYsMM
>>58
ありがとうございました。
60人間七七四年:2009/09/17(木) 21:10:10 ID:u702hAbU
>>56
78年11月には、荒木謀反を受けて有岡出陣しています。
翌79年3月に再び有岡出陣。ただし、この時は鷹狩とか観光とかばかり。

ここから82年の武田征伐まで信長自身による戦場への出陣はなくなる。
61人間七七四年:2009/09/17(木) 21:25:19 ID:maQXsRft
クレヨンしんちゃん作者の失踪、新興宗教がらみ?スレで議論中に戦国大名の子孫を名乗る
人が現れたんですが・・
・本家筋は瀬戸内 、南九州に分家筋(地侍クラス)
・苗字は一文字
・真言宗
・ヒントは「通」
これに該当する家はありますか?
気になってしょうがない
6261:2009/09/17(木) 21:27:50 ID:maQXsRft
すいません
今そのスレに戻ったら当人が回答してました。。。
苗字一文字っていうのは分家筋の話。
瀬戸内で「通」っていえばいわずもがなの家でした。

63人間七七四年:2009/09/19(土) 23:22:14 ID:T0LcpO6w
後北条家の水軍を率いた梶原景宗は、平安末期に頼朝の重臣として活躍した梶原景時の子孫ですか?
64人間七七四年:2009/09/20(日) 00:49:12 ID:pABZkpRs
>>63
景時の三男、三郎兵衛の子孫らしい
65人間七七四年:2009/09/20(日) 05:26:02 ID:PeUUG1ml
戦国武将の中で、真言宗に政治の手段や知識人の教養などでなく、
純粋にその教えに強く入れ込んでいたとされる人物はどのような方がいるでしょうか?
真言宗内での派閥や流派は特に問いませんし、
もちろん、人の本心など分からなくて当然なので「おそらくそうだったのではないか」ぐらいでかまいません。
66人間七七四年:2009/09/20(日) 19:23:57 ID:BzR7O4j7
石高一万石あたりの動員できる人数は
@150人
A250人
B350人
港や鉱山収入がまったくないとすれば、
どれが一般的でしょうか?
ゆとりなんで文章メチャクチャですがお願いします
67人間七七四年:2009/09/21(月) 01:46:53 ID:d3eC27Rw
>>65
今でもあらゆる宗派で法華系の信者が一番多いこと
でもわかるかと思いますが
当時はもう日蓮大聖人の仏法が
かなり日本国内で浸透していたので
真言亡国といわれる真言宗は縁起が悪いとして
信仰する人が非常に少なくほとんどの武将が
お題目を唱えていたことが知られています
特に代表的で偉大な法華行者としては
加藤清正公を挙げることができますね
>>66
その中ではBの350人が一番近いですね
一万石はけっこう多いです
68人間七七四年:2009/09/21(月) 02:05:55 ID:lYTDJw57
>>67
嘘つくな
69人間七七四年:2009/09/21(月) 05:56:26 ID:/mD0MwID
>>66
1万石だと>>67がいう3ではなく、
1〜2ぐらいが妥当。実際、佐和山19万石の石田三成が関ヶ原で動員したのはほぼ2に近い数。
一方、時代を遡るとどんどん1に近くなる。

だから、戦乱が続いてると1に近く、戦が少なければ2に近くなると思う。
7066:2009/09/21(月) 18:18:45 ID:KU6mnpr8
>>67
>>69
ありがとうございまする
71人間七七四年:2009/09/22(火) 20:36:59 ID:rv93ILWU
長尾景春が何をやりたかったのかさっぱり解りません。
山之内上杉内での地位に不満があって挙兵したはずなのに主家に敵対する
古河公方と共闘したり、公方預かり後は次々と両上杉に戦いを挑んだり。
少佐のように戦自体が目的になったのでしょうか?
72人間七七四年:2009/09/22(火) 22:33:21 ID:WnG1OqDm
>>71
研究者の中には、長尾景春の乱を、下克上だと解釈している人もいます。
すなわち山之内家の家宰職どころか、自らが関東管領になろうとしたのではないか、と。

が、残る資料を見ても、さすがにそれはありえません。

おそらくは最初の反乱があまりにも上手く行き、さらにその成功により山内家に不満を持つ勢力が
想像を超えた規模で合流してきたため、もはや戦う事を目的化する以外になくなったのではないか?
と思います。
73人間七七四年:2009/09/22(火) 23:21:18 ID:h/z3/e09
戦争の理由なんて、一旦始まれば最初の動機なんてどっかにいって抜き差しなら無くなるもんだしねえ。
74人間七七四年:2009/09/23(水) 03:05:17 ID:/Sr299ea
>>71
景春は反山内上杉ってことでは一貫してるから、
やっぱ山内上杉顕定が憎いってのが一番の目的では?
たぶん顕定から謝罪があれば和睦したと思う。
あの高慢で無能な顕定が一家臣に詫びを入れるなんてありえないから
長々と対立が続いただけで。
75人間七七四年:2009/09/23(水) 08:18:45 ID:TPMsW4lq
ちゃんと長尾景春のスレがあるのを知らないとか?
76人間七七四年:2009/09/23(水) 08:39:08 ID:LnhYU8yI
77人間七七四年:2009/09/24(木) 00:07:32 ID:3pDvVTx6
俗に言う一向一揆というのはそのほとんどが実際に本願寺などからの命令によって行われたのでしょうか?
当時の浄土真宗の信者の農民が一揆の団結を強めたり権威づけをするために真宗の名義で行ったり
大名などに敵対していた地元の寺院などが勝手に真宗の総意であるかのように
起こしていたという例もありそうな気がするのですが
78人間七七四年:2009/09/24(木) 00:37:46 ID:K2pSn0ts
>>77
つーか一向宗と言うのは集権体質ではまったくなく、地域性が非常に強い。
例えば尾張、美濃の一向宗は、早い段階で信長に服属しているし、その後
大阪の本願寺と信長の対立が強まっても、それに同調することはなかった。
そしてそれが、本願寺から非難された形跡も無い。

いわゆる「大阪戦争」はともかく、殆どの地域の一向一揆は、本願寺中枢の都合とは別の、
その土地その土地の国人地侍層と、それに同調した現地の一向宗組織の都合で
蜂起した物と考えるべき。
79人間七七四年:2009/09/24(木) 00:49:20 ID:if+oH01O
>>77
基本的に本願寺は、一揆を起こして俗世領主に反抗することを禁止していました。
地元側も、商売や団結のために宗教を利用しているような側面もかなり強く、
単純に領主と領民、なんて関係ではなかったようです。
信長との戦争以前の話なんですが、何かの騒乱時に河内の一揆衆を動員しようとしたら、
「そんな契約は無いので出陣する義理はない」と拒否られたなんてケースもあった。

長島や近江などは、織田ともともと敵対ないし利害の対立があり、それを織田との
開戦を決意した本願寺が、味方というか兵力欲しさに俗世領主との戦争を解禁した
わけです。だから、敵対する理由があった一揆は本願寺の指示というか扇動にのって
蜂起したし、理由がなければ>78で挙げられているように、織田との戦闘には参加しなかった。
80人間七七四年:2009/09/24(木) 01:18:47 ID:3pDvVTx6
ありがとうございます、つまり小説やゲームなどでたまにある
一向一揆という全国規模で統制された巨大な勢力が存在していたかのような描写は間違いということですね
では本願寺や一向一揆は何がそこまで恐れられていたのでしょうか?
何の横や縦の統制がそれほどなかったのなら他の寺社や一揆と別に変わらないと思うのですけど
ただ信長を苦しめたということで後世で過大評価されただけなのでしょうか
81人間七七四年:2009/09/24(木) 09:48:39 ID:K2pSn0ts
>>80
> では本願寺や一向一揆は何がそこまで恐れられていたのでしょうか?

まず、信仰としては恐れられていなかった。

一向宗と言う宗教自体を禁止したのは、島津など九州の一部くらい。
三河一向一揆の直後家康は、配下の武士には事実上の棄教を求めたが、領内で
それ以外の領民が信仰する分には禁止なんてしていない。
そして家康の勢力が拡大すると、一向宗の配下も普通に許容される。

多くの大名にとって、一向宗の信仰自体が脅威なのではなかった、と言うこと。

「一揆」と言うのは戦国期、多くの国人、地侍層にとって常態的な組織でした。
個々では弱い彼らは、一揆と言う組織化をして、守護大名、戦国大名に対して、その存在の確保と
権利の保護を要求したわけですな。
有名な山城一揆もそうですが、一揆を単位とした共同体、自治体も多く存在した。

で、本来的に室町〜戦国初期の一揆と言うのは、地縁的結合なんだけど、
戦国も後期に入ると、戦国大名権力が広域化するのに合わせて、それに対抗する(決して敵対とは限らない)
国人、地侍と言った層の連合も広域化の必要に迫られた。

その国人、地侍の、地縁血縁を超えた広域連合を可能にするコアとして、一向宗が
彼らのニーズに適合したわけだ(無論一向宗もそう言う売り込み方、布教の仕方をしている)

そういうわけで一向一揆は、広域化した大名権力を牽制、もしくは対抗する存在となり、その意味では
恐れられたと言っていいだろう。
が、それはあくまで自立した国人地侍の連合としての脅威で、彼らがやがて大名権力の中に
統合されていくと、その(大名権力にとっての)脅威も消えた。

一向一揆や本願寺のパワーというのは、大名権力に統合される以前の、国人、地侍の
パワーであると考えるべきかと。
82人間七七四年:2009/09/24(木) 11:31:51 ID:eawmUMzH
>>80
イスラムの自爆テロは怖いだろ?
敵を殺して自分も死ねば、極楽往生できる。
いくら殺しても次から次から沸いて向かってくる。
映画のゾンビみたいな集団。
83人間七七四年:2009/09/24(木) 19:50:55 ID:K2pSn0ts
>>82
そういう狂信的テロの要素は一向一揆には無い。勉強しなおせ。
84人間七七四年:2009/09/24(木) 20:54:34 ID:0Iim5F2t
>>79
>「そんな契約は無いので出陣する義理はない」と拒否られたなんてケース
事実としては間違ってないが、それは蓮如亡き後の後継争いが絡んだケースなので一般化できるかは微妙。
85人間七七四年:2009/09/25(金) 02:28:12 ID:4piuk0Qd
>>81
ありがとうございます
86人間七七四年:2009/09/25(金) 10:08:46 ID:vP0e8wqU
加賀の一揆だって、政元の意(政敵への牽制)を汲んで動いていたとも
87人間七七四年:2009/09/25(金) 11:18:27 ID:T489/zDC
富樫政親は将軍義尚の側近の一人だったからな。
政元は六角征伐などで、将軍権力の強化拡大を図っていた義尚の行動を陰に陽に妨害していたし、
本願寺との関係も非常に深かったから、加賀一揆の裏に政元が何らかの形でかかわっていたことは
想像できる。

少なくとも本願寺は、細川政元の承認なしに加賀で富樫を滅ぼすほどの一揆はできなかっただろうしね。
88人間七七四年:2009/09/25(金) 13:12:37 ID:OxBVkyty
太閤検地の時の石高はどのくらい正確ですか?
関が原後の国替えの時の石高とはかなりの違いがあるみたいですが。
89人間七七四年:2009/09/26(土) 12:50:25 ID:UsJBaUrL
>>88
手心加えて少なく記帳したり、大名の自己申告通りに記帳したり。
(中には見えを張って多目にしてくれと言う大名もいたり・・・)
それでも、米の収穫はまずまず1800万石チョイ超えだろう。
実収入はその5割増し以上/国営の特産品、交易品や鉱山、漁業、林業、
90人間七七四年:2009/09/26(土) 13:11:35 ID:rjul6MW8
直江兼続でなんで伊達政宗のことが大嫌いなの?
伊達家ってそこまで嫌われるほど上杉家になんか嫌なことしたっけ?
91人間七七四年:2009/09/26(土) 13:16:48 ID:SXoz/b1f
>>90
史実ではぜんぜん嫌いじゃありません。
直江と伊達が対立する有名な逸話(天正小判や背中しか見ていないと告げる嫌味)は
すべて江戸時代の創作です。
9290:2009/09/26(土) 13:25:42 ID:rjul6MW8
>>90
ありがとうございます。
93人間七七四年:2009/09/26(土) 14:16:06 ID:gKTVgodM
元々、大名と陪臣じゃあまり接点も無いだろうしな。
94人間七七四年:2009/09/26(土) 18:05:25 ID:5Pe1Q+sd
どっちかってーと、上杉家や直江の方が嫌われるよな。特に堀家とかから。
95人間七七四年:2009/09/27(日) 11:11:02 ID:dAy8uZ4/
加藤光泰について

とある本で、1582年の山崎の合戦の際に
彼は池田恒興隊に属していた、という記述を見たのですが

1・彼は本能寺前から秀吉の直臣で、この時はたまたま池田隊に付けられただけ
2・当時は池田家臣で、後に秀吉の直臣となった
3.誰の家臣というわけではなく信長の直臣だったので、当時はたまたま池田隊に属した

どれが正しいのでしょうか?
96人間七七四年:2009/09/27(日) 11:37:17 ID:ANrRgjeZ
>>90
むしろ伊達が、自分のもともとの所領である米沢に入った直江を恨むのは
わかるけどね。書状のやり取りはしているはずだし、面識もあったとは思
うけど。
97人間七七四年:2009/09/27(日) 13:10:59 ID:4/lMBqA4
>>95
正解は1番。
織田が美濃制圧時に浪人となり、藤吉郎にひろわれた。
98人間七七四年:2009/09/27(日) 21:11:06 ID:dAy8uZ4/
>>97
ありがとう。
確か秀吉の子飼い(の範疇に入る)武将だったはずだよなあ・・・と記憶があったので
何故、池田隊にいたのかなあ、と疑問だったんだよね
99人間七七四年:2009/09/27(日) 22:52:55 ID:USs38iQ5
歴史知らない俺に教えてください。
信長の野望をやってて思ったのですが、下総の大名が足利家→結城家に突然変わります。
足利家と結城家とはどんな関係なのですか?単に改名しただけ・・・?
wikiで見たんですが、情報が多すぎて良くわかりませんでした。
よろしくお願いします。
100人間七七四年:2009/09/27(日) 23:05:13 ID:FD+F7yxy
>>99
結城氏は秀郷流の藤原氏。
足利氏との関係は、南北朝のとき結城氏は、当時の多くの国人と同じように
庶流と嫡流で争っていて、南朝についた庶流結城氏に対し、嫡流家が北朝についたことによる。

で、下総の大名が足利家→結城家に突然変わる、ということだが、おそらくそれは、
「小山義政の乱」で活躍した結城基光が、下総守護に任じられたことを指しているのではないでしょうか?
10199:2009/09/27(日) 23:15:57 ID:USs38iQ5
>>100
「小山義政の乱」調べました!まさにこの情報を求めてました!
さすが歴史板の方です。素早い返答ありがとうございます!ためになりました!

(記載不足でスイマセン。足利が結城に変わるというのは、)
(1568年11月のゲームだと足利家、1575年6月のゲームだと結城家であるという意味でした・・・。)
102人間七七四年:2009/09/28(月) 00:57:51 ID:qhYkN4Th
信長の野望で下総の足利って言ったら古河公方足利家。
時代が早いシナリオだと下総を代表する勢力であるのだが
北条氏と上杉氏の抗争に巻き込まれて没落し、1560年代には大名としての勢力ではなくなる。
で、次にじゃあどの勢力を出すかってなると
千葉氏か結城氏になるのです。
で、千葉氏はほとんど北条の属国扱いなので北条家臣として登場したりするので
反北条の対抗馬として結城氏が代わりに登場するのだと思います。
103人間七七四年:2009/09/28(月) 09:03:19 ID:cECiS8fJ
1538年国府台合戦における小弓公方足利義明さまや真里谷武田氏は出てこんのか?
本佐倉城の千葉氏が劇的衰退したのは足利義明が千葉有力家臣の臼井城の臼井氏を寝返らせたり、原氏小弓城を奪ったからだろ。
原氏の代官だった高城氏も自立し北条に仕える方向性に傾いちゃったし。
原虎胤が甲斐に亡命してから、今川軍の福島正成を破り討ち死にさせるんだよな。
福島のガキが北条氏綱の養子になった北条綱成だし、武田五名臣と言われた原虎胤を失った千葉氏は勿体無いことをしたなあ。
104人間七七四年:2009/09/28(月) 10:40:49 ID:ShQ8HRVD
>>103
> 原虎胤が甲斐に亡命してから、今川軍の福島正成を破り討ち死にさせるんだよな。
> 福島のガキが北条氏綱の養子になった北条綱成だし、

しかしいつも思うんだが、なんで福島正成は、息子を主君の今川ではなく北条に送ったのかねえ?
105人間七七四年:2009/09/28(月) 11:10:16 ID:F7GXdRJ1
>>104
仲違いしていたらしい

あと、花倉の乱(今川家の家督争い)で義元の兄・良真の母親が正成の娘だったのもあるとかないとか。
106人間七七四年:2009/09/28(月) 11:20:08 ID:ShQ8HRVD
>>105
そうなるとその当時の福島は、はたして今川の武将だったのか?って疑問すらわくな。
107人間七七四年:2009/09/28(月) 11:22:49 ID:cECiS8fJ
そういや大河の風林火山はそんなとこまで描いてたから凄いよなあ。
108人間七七四年:2009/09/28(月) 11:29:28 ID:gBmP8o1U
>>103
小弓公方は時代的にまず出るチャンスはないよ
最新作では真里谷信応がいたと思う

下総東部の出身なんでメーカー製のゲームではいつも寂しい思いをするよ
だから過去作では白井入道を千葉配下に登場させて北条よりも先に関東制圧に奔走してた
109人間七七四年:2009/09/28(月) 11:57:42 ID:f8l7Y75w
利根川沿岸のゴタゴタは面白いが
ゲーム化するには政治状況が複雑すぎる
110人間七七四年:2009/09/28(月) 11:58:28 ID:qhYkN4Th
>>108
まあ、その辺は大体
里見か北条の1家臣扱いになってる事が多いよね。
111人間七七四年:2009/09/28(月) 12:07:43 ID:L0nonOvg
古株の人に聞きたいんだが

【日本史板】【戦国板】【歴ゲー板】【三戦板】と、それぞれが別れた理由と歴史を教えてくれないか?
元々は【日本史板】しかなかったって本当か?
112人間七七四年:2009/09/28(月) 12:13:01 ID:Mw16s9kT
>>111
もうそんなことも知らない人がいるんだな。俺が古すぎるのか。
はじめに日本史板があった、世界史板もあった。その前はこれらはなく、
ただ歴史板があった。
世界史板で三国志スレッドが乱立。これに憤る世界史板住民。
三国志スレッド住民は泣くなくお上(当時の管理人ひろゆき)に泣きついた。
「三国志板をつくってください」
願いは半分かなえられた。というのもなぜか「戦国時代・三国志」板となって作られたからだ。
ひろゆきが戦国時代が好きだったので日本史板から独立させたかったらしい。
それでもののついでにこれが合体して出来たのが戦国時代三国志板。
ところが真三国無双2のヒットでこの板が一気に低レベル化。
それでもしばらくはネタ職人と歴史研究生が頑張っていたけれど、耐え切れず戦国板は独立。
歴ゲーの話はよそでやれとこれも独立。
そうして三国志戦国時代板は空洞になりましたとさ。
113人間七七四年:2009/09/28(月) 12:17:16 ID:L0nonOvg
>>112
なるほど、面白いな

ありがと
114人間七七四年:2009/09/28(月) 18:32:42 ID:V2NpA7VU
野戦では夜は寝てたのですか?
それとも寝ずに徹夜ですか?
115人間七七四年:2009/09/28(月) 19:40:37 ID:NbsGPD9K
>>108
個人的には肥前や肥後ですら南北分割されるなら下総分割もありでいいと思うのだがな。

>>100
あと、結城基光が任じられたのは下野守護、下総は享徳の乱までは千葉氏が守護。
116人間七七四年:2009/09/28(月) 20:47:32 ID:qhYkN4Th
>>114
普通、野戦は早朝に始まり日暮れ前(半日)で終わる。
城攻めとか、例外はあるけど。
当時の闇は現在の比じゃないし、夜中に戦うの攻守どちらも非効率だから
117人間七七四年:2009/09/28(月) 20:55:13 ID:YXHS0ve8
秀吉が征夷大将軍にならなかったのは源氏を名乗っていなかったからとか出自が良くなかったから
という話をよく聞くのですが本当なのでしょうか?
それならば関白になるのも同じくらいに難しいのではないかと思うのですが
118人間七七四年:2009/09/28(月) 22:16:48 ID:xjt38ES3
>>117
秀吉が関白となったのは1585年。
当時征夷大将軍に任じられていたのは足利義昭(辞職は1588年)。
秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、現職の将軍足利義昭がいるため。
1584〜1585年当時の秀吉の状況では毛利氏の庇護する義昭を無理に辞職させることもできず、
このため武家政権の頂点である征夷大将軍に代わる存在として関白に目をつけ、
近衛前久の猶子となって関白になるための事実上の必須条件である藤原姓を手に入れ、
関白宣下を受けて関白となった。
先代関白の二条昭実は1585年に関白になったがすぐに辞職し、
ほぼ強制的に関白職を秀吉に譲渡させられる羽目となった。

要するに、当時の秀吉の権力なら源氏にも藤原氏にもなれたが、
源氏には友好勢力の庇護下にある現職者がいたため、
すげかえの可能な公家の頂点を実力で手に入れたってこと。
秀吉の出自は関係ない。
119人間七七四年:2009/09/28(月) 22:31:49 ID:YXHS0ve8
>>118
ありがとうございます
120人間七七四年:2009/09/30(水) 10:22:58 ID:9FMjXP+x
文治派は三成が筆頭格だと思いますが、武断派の力関係はどんな感じだったのでしょうか?

知名度の高い福島・加藤あたりがリーダー格だったのでしょうか
官位だと細川忠興が突出して高いですが、武断派内での序列のようなものはあったのでしょうか?
121人間七七四年:2009/09/30(水) 21:19:05 ID:stSiFlme
>>120
先ず文治派、武断派などと言った明確な派閥は存在しなかった。
その時そのときの政治状況の便宜上、そう分けていただけ。
当然、主導権は存在しても、誰がリーダーだとか序列がどうだとか、そう言うものは存在しない。
122人間七七四年:2009/09/30(水) 21:44:32 ID:9FMjXP+x
ありがとうございました。
123人間七七四年:2009/09/30(水) 23:40:23 ID:V+TbooO7
短パンマンて何で出るの?
124人間七七四年:2009/10/01(木) 00:41:25 ID:awjc5V8A
携帯からだとサーバに負担がかかるから。はい、次。
125人間七七四年:2009/10/01(木) 00:51:26 ID:KbOokuLG
>>124
そうなんだあ。どうもありがとうm(__)m
126人間七七四年:2009/10/02(金) 11:58:58 ID:kydPlD5L
本能寺で信長が自ら応戦したとか、内部の様子はどうやって周りが知ることになったのか。
信長が女達を逃がしたって話もあるが脱出してきた人が話したのかな?
あと将軍・義昭はバカっていう結論でOK?
127人間七七四年:2009/10/02(金) 12:22:31 ID:d+eYVH7j
まあ女官とかも含めて脱出した人間の証言だろうな。
ちなみに本能寺じゃ当夜信長は、十人位の女を寝室に集めて乱交やってたらしい。
本能事後秀吉が命じて編纂させた「総見記」にそう書いてあるw

あと義昭は別に馬鹿じゃないぞ。信長の弱点をたくみについて嫌がらせをしまくってた。
128人間七七四年:2009/10/02(金) 12:39:11 ID:fym5UbmG
>>126
攻めた明智方の兵の証言もあるだろう
明智光秀が討たれて明智勢が壊滅した後、
生き延びて他の大名家に仕官した元明智家臣は以外と多い。(秀吉に仕えた奴もたくさんいる)

あと義昭は意見の分かれるところだと思うが
有名な信長包囲網なども、義昭が作り上げたというより
土地土地の権力者が「将軍」という格を利用した神輿に過ぎなかったと思う。
大局的な戦術性はないし、野望だけは高くてあとはからっきし、ってイメージ。
個人行動は信長にほぼ完全に封じられてるし。(それでも「将軍」という肩書きがあったから信長も寛容だった)
将軍という箔がなかったら、どれだけの事ができたか・・・
129人間七七四年:2009/10/02(金) 12:47:17 ID:kydPlD5L
そんな事書いてあんのかw
義昭が色々やってたのは知ってるけど学習能力の無い女々しいヤツって印象。
信長だけじゃなく謙信・信玄等にも相手にされてなかったらしいな
名前だけの将軍のくせに口挟んだりするから…
こういう上司は今も昔も嫌われる。
130人間七七四年:2009/10/03(土) 12:38:56 ID:HYDDV50h
衆道って何するのですか?
アナルSEX?舐めあうの?添い寝だけですか?
男性のゲイってわからないから教えてくださぃ
131人間七七四年:2009/10/03(土) 12:44:48 ID:YjCBinhU
衆道という言葉は江戸時代のもの。戦国時代は男色な。
132人間七七四年:2009/10/03(土) 14:52:58 ID:TmOiL+4O
「稚児之草紙」でぐぐれ
133人間七七四年:2009/10/04(日) 07:48:12 ID:A/fXmtk6
キチガイ武将について語る形のスレない?
134人間七七四年:2009/10/04(日) 14:14:45 ID:S+CvMuJc
戦国時代に限ったことじゃないんだけど、歴史に名を残した人物で一卵性双生児っていたの?
135人間七七四年:2009/10/04(日) 14:43:56 ID:S6RuoUg7
>>134
ここに少し出てるが
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3007657.html

ほとんどが未熟児(死亡)、
家督相続問題、
宗教上の問題などで記録では残さないのが普通だった。
136人間七七四年:2009/10/04(日) 15:29:23 ID:NWLzJpOg
>90
北の関ヶ原の時、上杉領に侵攻して来た伊達政宗から和睦の申し入れがあったのに、最上との戦いの時の撤退戦の時に、その和睦を破って最上と一緒に攻めて来たから。
その他にもいくつかあるけど、嫌ってたというのは逸話だと思う。
客観的に見て、兼続が政宗を嫌う理由がたくさんあるから、そういう逸話が生まれただけだと思う。
137人間七七四年:2009/10/04(日) 17:41:54 ID:S+CvMuJc
>>135
なるほど、サンクス!
138人間七七四年:2009/10/04(日) 18:18:23 ID:IkAMbo3t
戦国時代では興福寺、比叡山、根来寺、高野山の中で最盛期の軍事力が一番高かったのはどこでしょうか?
139人間七七四年:2009/10/04(日) 18:53:12 ID:EyOoYpMF
軍事力は知らんが、金を持っていたって意味では

比叡山>興福寺>>>高野山>根来寺

こんなところだろう。
140人間七七四年:2009/10/04(日) 21:26:14 ID:eI0gniYD
>>136
上杉が会津移封の作業中のドサクサに伊達は会津に攻めてきて撃退されて敗走したりしてるように
隙があればすぐちょっかい出すからだろうね。
兼続が会津入部した際に伊達を瞬殺した報告を受けてるね。

あと逸話レベル話になるが政宗は旧配下を暗殺者として会津に残して蒲生氏郷や景勝を暗殺しようとして失敗した話があるね。
氏郷や景勝の度量の深さに暗殺者は感銘を受ける話。
141人間七七四年:2009/10/04(日) 21:53:01 ID:xfF4atso
>>134
俗説の域を出ないが家康には双子の弟がいたそうだ。一名を穎新恵最という。
もっとも母親の表記が違うのでたまたま同じ日に生まれた異母弟かもしれない
142人間七七四年:2009/10/04(日) 23:41:00 ID:IkAMbo3t
>>139
なるほど、ありがとうございます。
143人間七七四年:2009/10/05(月) 14:14:59 ID:5XV1Cs6D
>>141
双子の片割れは、すぐ他家の子供として育てられた。
5,6才になると僧籍に入ったが出生の秘密は本人は知る由も無い。
もしも兄が死亡し、他に跡継ぎが無いとなった場合、還俗して家督を継ぐこともあった。
厄介払いと一種の保険扱い。
寺に預けるのは一番安全な場所で、僧籍に入ると家は7代災いが無いと言われていたから。

家康の場合もそういう意味で双子疑惑は濃く残っている。
144人間七七四年:2009/10/05(月) 17:49:38 ID:S9R3Rkwh
武士の世界では双子は不吉と言われて忌み嫌われていたので、すぐ一方を殺すしていたらしいよ。
だから極端に双子が歴史上にいない。
それを不憫に思って当主に隠して、妻や家臣が密かに養育して僧籍に入れたり、下の者にあげたりしてたとか。
145人間七七四年:2009/10/06(火) 00:03:28 ID:qmM+agw3
>>141
大河「徳川家康」で同じ日に生まれた男子がいましたね。
仏門に入らせたとか。
146人間七七四年:2009/10/06(火) 11:58:42 ID:OT9A04Ib
生まれすぐに不吉だという理由で鉄仮面を被せられ、今まだ家の地下に幽閉されている双子の弟がいることを、「串カツのだるま屋」の源太さんはまだ知らない
147人間七七四年:2009/10/06(火) 18:13:36 ID:dN/IRQoh
森蘭丸が本能寺で死なずに生きのびて志賀某なる人物となり、
徳川時代にまで長生きしたという伝承の典拠は何でしょうか?
識者の御教示を鶴首致して居ります程に。
148人間七七四年:2009/10/06(火) 18:32:43 ID:jBlXylzn
>>147
なんでそあなたがんな事を知りたが
ってるのか、稲垣氏の愛読者か?
ちょっと興味があるね。その件は、
矢張家所有志賀氏由緒伝来書にほ
んの少しだけ書かれていたはず。
おれの記憶が間違っていたらすまん。
つか、稲垣氏は実在しない出典を出すので要注意な。
149人間七七四年:2009/10/06(火) 19:21:15 ID:zaXPGH6S
本能寺の変後の秀吉の経歴を見ると、
1583 賤ケ嶽の戦い
1584 小牧・長久手の戦い
1585 四国征伐
1586 徳川家康・上杉景勝を上洛させる
1587 九州征伐

1590 小田原征伐
となっていて1588-1589年はこれといって大きな戦いがありませんが、
なぜ九州平定のあと小田原征伐まで3年もかかっているのでしょうか。
なぜさっさと北条氏を滅ぼさなかったのでしょう?
150人間七七四年:2009/10/06(火) 20:00:50 ID:iBMPjB8G
北条氏自身が明確に敵対していたわけではないってのがまず大きい。

徳川と同じで、大人しく臣従してくるならそれでいいって考えの一派も豊臣政権にはいた。
後は内部の体制固めってのもあるな。
151人間七七四年:2009/10/07(水) 00:56:53 ID:ZWSuK1YG
秀吉に臣従した真田領を北条が突っついたせいで、フルボッコの刑を喰らったんだったか。
152人間七七四年:2009/10/07(水) 01:02:10 ID:6y4S17wS
あれはむしろ真田が突っつかせた作戦勝ち。
153人間七七四年:2009/10/07(水) 07:39:07 ID:4319tnbq
>>152
家臣である鈴木主水を自決させたのも?
息子の忠重は後の松代藩家老となるけど、結局は親父と同じ自決で世を去るんだよな。
(息子の場合は信之の死に伴う殉死だが)
154人間七七四年:2009/10/07(水) 13:03:18 ID:6y4S17wS
>>153
> 家臣である鈴木主水を自決させたのも?
こう言っちゃ何だが、昌幸ならそのくらいの事はするだろうな。
155人間七七四年:2009/10/07(水) 17:21:06 ID:8IH30/Eq
鳥居元忠と同じだよね
156人間七七四年:2009/10/11(日) 19:35:55 ID:i0+TXwCs
すみません。
戦国時代も今と同じように米を水でといて炊いて飯を食べてたのですか?
米以外にろくな食べ物もなくてよく栄養失調にならなかったと思うのですが。
157人間七七四年:2009/10/11(日) 19:41:46 ID:KESK4QTU
>>156
玄米はほぼすべての栄養が含まれているから、副食物が少なくても大丈夫だった。
ただ、そのかわり米を大量に食った。成人男子は普段でも1日5合くらい食っていたらしい。
158人間七七四年:2009/10/11(日) 19:53:03 ID:i0+TXwCs
>>156
日に5合も米を食べたら、どれだけ大量の大便を排泄することになるのか、
何万人という軍勢が移動したあとは人糞の山ですね。
でもそれに関する記述はあまり聞いたことが無い。
汚い話ですみません。
159人間七七四年:2009/10/11(日) 20:08:35 ID:KESK4QTU
>>158
それこそ兵糧と糞便の処理のため、戦国期では一地域に集中できる軍勢は
3万が自然限界だったらしい。
160人間七七四年:2009/10/11(日) 21:07:10 ID:aHm++ahi
糞は肥料にできるから何とかなる
161人間七七四年:2009/10/11(日) 21:22:38 ID:8ax2LBAS
一家揃って2ちゃん見ながらめし食ってる時間にきたねぇ書き込みすんなよな
162人間七七四年:2009/10/11(日) 21:22:48 ID:KESK4QTU
>>160
糞尿を肥料として用いるためには、それを汲み取り、農業地帯まで輸送しなければならない。
軍隊とは定住するものではない以上、それにかかわる人材を軍の中から出さねばならず、
それは軍隊にとって無駄でしかない。
農村のほうから言っても、近郊の都市から必要な時期に安定して供給してもらったほうがいい。

結論として軍隊の出す糞尿は、無駄糞。
163人間七七四年:2009/10/11(日) 21:44:15 ID:BFxljcqI
>>148
森蘭丸と問えば稲垣足穂しか発想出来ぬとは哀れな無下の阿呆ぢやのう!
憐れむべき哉!
164人間七七四年:2009/10/11(日) 21:55:22 ID:8ax2LBAS
>>163
ホモでロリは気持ち悪いから、家族揃ってめし食ってる時間に書き込みするな!
吐き気がする!
165人間七七四年:2009/10/12(月) 02:42:51 ID:Tp0IzJK4
禄高とは何ですか?
166人間七七四年:2009/10/12(月) 08:45:58 ID:T0ACtLyM
兼続って景勝に尻貸したって漫画で読みましたけど
本当なの?嘘ですよね?愛の人がそんな破廉恥な事しませんよね?

167人間七七四年:2009/10/12(月) 09:50:48 ID:I+wgq/D2
>>166
文書史料にそういう証拠は何一つない。

武将の男色関係なんてほとんど江戸時代に作られた俗談だよ。
大企業の社長と秘書が肉体的に結ばれているとかいうのと同レベルの与太話。
168人間七七四年:2009/10/12(月) 10:33:41 ID:nhnOIzl0
>>166-167
歴史ではなく創作の話をしたいのならよそでやって
169人間七七四年:2009/10/12(月) 10:45:36 ID:I+wgq/D2
>>168
170人間七七四年:2009/10/12(月) 10:53:21 ID:BOLcWOUB
>>168
何言ってるんだ?
171人間七七四年:2009/10/12(月) 10:54:08 ID:5Foi65W3
文書史料にそういう証拠は何一つない。

みんなで笑いましょう
172人間七七四年:2009/10/12(月) 10:56:44 ID:Z602SN7Z
173人間七七四年:2009/10/12(月) 12:31:48 ID:X19iwOll
上杉は衆道禁止令を出したけどな
174人間七七四年:2009/10/12(月) 12:39:53 ID:jRJJfgTv
禁止令をださなきゃいけなくなるほど流行ってたのか
175人間七七四年:2009/10/12(月) 12:51:42 ID:qiUahhDy
禁止令をだす=存在を示す史料
>>173はそういう意味だろうからな
176人間七七四年:2009/10/12(月) 13:53:10 ID:dI0g8lhj
戦国時代の武将の髪型って月代?を剃ってチョンマゲだったんですか?
177人間七七四年:2009/10/12(月) 14:08:18 ID:UTgLdO1o
武将でも官位のある人間は普段は公家風に総髪。
つーか、常に月代を剃っておくのは戦国中期くらいに畿内から広がったムーブメント。
178人間七七四年:2009/10/13(火) 06:39:47 ID:yhe2Ubo5
その説の根拠なに?
東北や西国の武士の肖像画は信長以前から
みんな月代してる。
総髪の肖像画なんて見たことないよ。
179人間七七四年:2009/10/13(火) 06:50:12 ID:X2LjssgT
鎧兜付ける人は月代にしないとってのはあると思うが
戦場へ行かない人はどういう感覚だったんだろね
180人間七七四年:2009/10/13(火) 07:35:45 ID:2iZVZeJ5
金森家の動員兵力について

主に柴田勝家の与力〜賤ヶ岳の戦い〜飛騨一国支配くらいまでの動員数を図る参考資料って
何かあるでしょうか?
賤ヶ岳も参加して前田隊の撤退を見て同じく撤退したとあるのみで、具体的な兵数がわからないし
勝家の与力として北陸で戦ってた時の動員数とかの記録とか何かないですかね。
あと、飛騨攻めなんですが、これは金森家独力(もしくは独力に近い程度の援軍の力を多少は借りて)で行ったのでしょうか?
それとも秀吉の援軍が大多数を占めたのでしょうか?
181人間七七四年:2009/10/13(火) 12:18:42 ID:ybk1hYpW
>>178
十河額なんて話があったりするけど、俺もよくわからないな。
ただ、総髪の肖像というと、丹羽長秀や浅野長政の絵などがあるけど。

質問なんだけど、三好実休(之康、義賢)が細川持隆を討った理由、背景って
何?よく持隆が足利義冬を擁立しようとしたのに、三好が反対し、それがもとで
持隆が討たれたというはなしがあるけど、どうもそれじゃ釈然としないんだよね。
182人間七七四年:2009/10/13(火) 12:23:20 ID:YR4zQCpX
江戸期のものではなく、狩野永徳が描いたっていう信長の肖像画を見ると、信長は
酷いM字ハゲみたいな髪型だな。これが月代なのかは解らないが。

写し
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/18-01.jpg
183人間七七四年:2009/10/13(火) 12:46:54 ID:LZDlxM/4
>>180
「一柳家記」によると、
賤ヶ岳の戦の柴田全軍で2万、
勝家本隊1万(勝家7千+不破・金森・徳山で3千)
ということで金森隊は1千というところか。

賤ヶ岳の戦の秀吉軍の兵力は「志津ヶ嶽合戦小菅九兵衛私記」というのが
大げさでなく信用できるらしい。

飛騨攻略戦は長近の独断という説もある。
配下の根尾清長が1000石、石徹白長澄が1500石を秀吉から直接知行としてもらっているから
計1500程度か
184人間七七四年:2009/10/13(火) 17:37:56 ID:xy3vp0a7
かなり三木氏は徹底抗戦してたようなイメージあるんだけど
金森単独1500程度で制圧できたのかな?
185人間七七四年:2009/10/14(水) 12:06:19 ID:rx1kbvDx
同盟していた佐々成政は秀吉の大軍を迎え撃たなければならなかったから、
三木は単独で戦わなければならなかったはず。
地元の豪族牛丸親綱なんかも金森軍の先鋒を務めているから、
三木の篭城戦力は数百程度じゃないか?
186人間七七四年:2009/10/15(木) 12:18:21 ID:wGqiDHRk
武士が日常での槍や弓、鉄砲の携帯を制限されたのは江戸幕府以降でしょうか?
それとも豊臣政権時でも既に日常での携帯に制限は行われていたのでしょうか?
187人間七七四年:2009/10/15(木) 13:00:55 ID:3Z7lu4AA
>>186
秀吉の刀狩令というのは、厳しく取り立てたわけではなくて、
いわば、庶民に対するお願いだった。
どの農家にも刀・槍は当たり前にあって、取り上げるなんて不可能だった。
(この時代農民が弱者だったというのはウソ)
それで、「あまり武器を持って外出しないでくれ、不要な武器があれば出してくれ」
というお願いだったわけ。
「戦もあまり無いようだし、余っているものがあれば差し出そうかな」そんな感じ。
刀を持って歩く人の数は減ったが、治安の悪い所を通る時や夕方以降は当然持っていった。

江戸期になっても、庶民は遠出をする時には、刀を持っていった。
(「東海道中膝栗毛」のヤジさんキタさんも)
ただし脇差1本のみ。
幕府は、武士と庶民を明確に区別するために、武士は必ず二本差と決めた。
武士の外出時はお供を一人以上連れ、その者には槍を持たせる決まりがあった。
(鉄砲は厳しく不可)
188人間七七四年:2009/10/15(木) 13:01:34 ID:hqyuj7r3
>>186
戦国時代といえども日常から槍や弓、鉄砲を持ち歩くのは、キチガイです。
189人間七七四年:2009/10/15(木) 13:37:05 ID:wGqiDHRk
>>187>>188
ありがとうございます。
イメージとしては、豊臣政権時代頃だと、
特定の主君に仕えてない牢人がかなりいただろうし、
そういう連中が自分の武器を持ち歩いて移動していた際、
それが規制されることはあったのかなあと。

あと、江戸幕府になってからだと、
割と早めにその辺りの規制が法度で出された印象がありますが、
慶長年代だと既にそうなっていたのでしょうか?
ざっと調べたところ、制限があったことだけはわかるのですが、
具体的にいつ頃、どういう規制が出たのでしょうか?
190人間七七四年:2009/10/15(木) 13:58:30 ID:QiLfIMvk
>>189
>戦国時代
具体的な規制は特にはなかったけど、社会の常識というか慣習で、
町中や村落に槍を包まず抜き身のまま、鉄砲を布で包まずそのままで入り込んだら、
敵対の意思ありとみなされてとっつかまるか最悪殺されても文句言えません。

この常識は、治安維持の担い手が現地の村落から幕府や藩が一括するようになる
江戸時代になっても、そのまま通り続けたと思っていいです。
191人間七七四年:2009/10/15(木) 14:09:27 ID:eG59yqJ0
黒澤の七人の侍
戦国時代にあの様に武装もせず盗賊に農産物全部取られる間抜けな
百姓たちがいるのでしょう?
192人間七七四年:2009/10/15(木) 14:39:31 ID:ZW+9XCRy
>191
農村武装論は戦国初期の畿内の村研究だけで成り立ってるから、
あの村を完全否定するのはどうかと思う。
村人全員が兵士になりえたわけじゃないし。

あの映画だと領主は領地の保護にやる気が感じられないから、
すでに滅亡の近い見捨てられた国の村だったんじゃないか?
193人間七七四年:2009/10/15(木) 14:55:16 ID:hqyuj7r3
>>192
そう言う場合は村同士で攻守同盟(一揆)を組んで防衛するし、領主が「頼みがたき」となれば、
その敵対している勢力に寝返るものだから、どっちにせよ無力この上ない七人の侍の村のような
状況は、全くありえない。

当時の惣村はミニ戦国大名だと考えたほうがいい。
194人間七七四年:2009/10/15(木) 15:00:55 ID:3Z7lu4AA
>>191
当時農村には莫大な量の武器(鉄砲含む)があった。
この映画は農民の時代考証という点では全くダメなんだけど、
(ありえない時代のどこかの国の話)
映画として面白いからそれでいいのだ、と言ってみる・・・

>>189
1645年かぶき者禁止令・・刀の長さ形、鞘の色、髪型・髯の形規制
1668年1684年・帯刀規制

それから、農民一揆で鍬や釜で暴動を起こすのも間違い。
そういう人もいたが、刀、槍が主な武器。
弓・鉄砲も当然保有していたが一揆側の自主規制で使われなかった。
規制側が鉄砲の一斉射撃で農民をバタバタ倒すなんてのもウソ。
(そんなことしたら、統治力無しとして改易、代官なら切腹)
名主と領主代行・代官との交渉で殆どが収まった。
今で言うデモ行進に武器を持って行ったくらいに考えよう。
195人間七七四年:2009/10/15(木) 15:45:13 ID:ZW+9XCRy
>193
>攻守同盟(一揆)を組んで防衛するし、
実例が畿内や一向衆のほかにどんなのがありました?

>「頼みがたき」となれば、
>その敵対している勢力に願えるものだから、
それは国境の惣村に限定される話では?

農村ガチ武装論は一部の目立つ例を出してそれが一般論にされているように思うんだよな〜。
地域性やこの村を取り巻く環境を考慮すれば、七人の侍村みたいなのは絶対にないと言い切れないんじゃないか。
映画ではなにもこの村が一般的な戦国の村とはしていないし、
勝四郎が「私なら農民に竹やりをもたせます」と発言しているのは、
彼がこれまで見聞きした村がやっていることを適応させようとしているとも取れる。

作り手が今の戦国研究に近い歴史認識をもっていたとは言わないが、
好意的解釈の余地を残すつくりにはなってると思うよ。
196人間七七四年:2009/10/15(木) 16:47:51 ID:UAK//k4r
>>185
本能寺の変直後に、三木氏は同じ飛騨豪族の江馬氏と戦ってる。
その時の兵力が江馬3000、三木2000。
結果は江馬の当主・輝盛が三木勢の伏兵に銃撃されて戦死、三木の勝利。
相手の当主が死んじゃったんだから、三木勢はそんなに損害を受けずに勝利したはず。
その後、牛丸氏などの他の勢力を駆逐して、飛騨統一戦で多少は消耗したかもしれないが
降伏した兵も当然いたはずなので、数百って事はないと思う。
金森1500程度だけと戦ったなら、そんなに簡単には負けないと思う。
まあ、後立てに秀吉とかがいるってわかって兵が逃げちゃったって事も考えられるけど
197人間七七四年:2009/10/15(木) 16:49:00 ID:QiLfIMvk
>>195
別に目立つ例だけではない。室町時代からの様々な訴訟や喧嘩沙汰、村争いなどの大量の記録を見れば、
町や村が基本的に自衛のための武力を持ち、構成員の生命財産を守るためにその発動をまったく躊躇わかった
こともわかる。むしろ、なんでこんな些細なことで、と現代人なら言いたくなるような理由で、あっさりと村どうし
町どうしで喧嘩>殺し合いが発生している。

もちろん様々な状況があり得ることだから、「七人の侍」のようなケースが日本全国に絶対に一つもなかった、
などとは断言できない。飢饉に疫病、戦を避けるための兆散など、村の軍事力が低下している時に、盗賊に
襲われるということもあるだろう。しかしそれらは異常事態であって、本来は村が武力を持っているのが普通。
198人間七七四年:2009/10/15(木) 17:07:58 ID:lJyHxuSm
実際に対抗できるほどもてたのかには地域差がもちろんあるだろうけど
獣や近隣の村、盗賊なんかに対する自衛ぐらいはしていたと考えてもおかしくないわな
今みたいにお巡りさんがいてくれる社会なら全くの無防備でも心配ないかもしれんが
199人間七七四年:2009/10/15(木) 17:24:02 ID:hqyuj7r3
>>195
戦国期の関東や越後などには、村落が横で繋がった一揆が、行政単位として認められてるね。
何も無ければ一揆を汲む必要は無いわけで、村落が同盟体を形成することで、
領主、あるいは外敵に対しての立場を強化した、と言うことはわかるでしょ?
200人間七七四年:2009/10/15(木) 17:54:58 ID:wGqiDHRk
>>190>>194
ありがとうございます。
妙な言い方になりますが、「みんなそれなりに自重してた」ということですね。
明文化された法規制は1645年以降と少し遅かったけど、
それまでは「用も無いのに槍を持ち出すのはどうか」みたいな暗黙の了解があったと。
201人間七七四年:2009/10/15(木) 18:56:48 ID:ZW+9XCRy
>>197
>>199
それは永原慶二の研究で理解してるつもりだけど、
七人の侍世界は一地域の天正中期時代で、
一般に出されている類例(それも具体例は限定的)とは異なるという話だよ。
町同士で喧嘩して殺し合いなどは畿内以外にちゃんとした例はあるのかとか、
そういう問題も残されているでしょう。
村落がどこまで非武装なのかは確定できない。
202人間七七四年:2009/10/15(木) 21:58:19 ID:QiLfIMvk
>>201
もちろん畿内以外にもありましたよ。記録が残っています。
戦国大名の分国法にも村町の争いの対処法が入っているのはその解決の為ですね。
念のためにいっておくと、分国法が制定されたなかった地域では争いがなかった、
なんてことにもなりませんから。
203人間七七四年:2009/10/16(金) 03:52:04 ID:4PpYDTFV
戦国時代の人の名前をみると、ある程度名前にも流行の文字や読みみたいなものがあったと思うのですが、
もしも主人と部下の名前の文字や発音が被ってしまったら、部下が名前や読みを変えさせられることはあったのでしょうか?
例えば信長の部下に親戚でもないのに「信○」・「長○」や字が違っても発音が「のぶなが」という名前の人、名字が「織田」の人
などがいたら改名させられたりする場合があったのかということです。
204人間七七四年:2009/10/16(金) 10:40:17 ID:SdV8WwO3
>>203
いみなはまず公式には使われない。口語で使用さえることも稀。
ほぼ文書上のみで使用される。それだって官位名や通称が多様される。

まあ憚って改名することもあるかもしれない。
205人間七七四年:2009/10/16(金) 15:08:45 ID:lfThVbzo
ついでに言うと、特定の人間を指す場合、名字も口頭ではめったに使用されない。
だいたい拠点とする場所+官位で言う。

織田信長なら「尾張上総殿」→「右府殿」→「安土殿」
徳川家康なら「三河守殿」→「「浜松殿」→「駿河大納言殿」→「江戸内府殿」→「公方様」→「大御所様」
206人間七七四年:2009/10/16(金) 16:44:10 ID:4PpYDTFV
>>204-205
ありがとうございます
つまり名字や名前が主人や権力者と被っても基本的に当時は普段の業務や生活にあまり支障はなく
それを理由に改名を命令されるようなことも原則なかったということですね
207人間七七四年:2009/10/16(金) 21:09:04 ID:JypkumIy
上から言われることは少ないと思うけど>>204の言う通り
下の人が主君を憚って改名、ってのは結構例があるような気がする。
208人間七七四年:2009/10/16(金) 22:02:45 ID:Ifb2YO3h
>>203
主君の実名を憚って改名した例は蒲生氏郷の例がよく知られてると思う。
元の名前は賦秀(ますひで)。
秀の字を下に置いていたため秀吉を憚って氏郷と改名した。
209人間七七四年:2009/10/16(金) 22:44:27 ID:iHIWsdjq
小早川隆景が従三位権中納言に昇り、清華成して五大老に就任して主筋の輝元と同格に
なったのは、金吾中納言秀秋を養子に迎えたことが大きな要因なのでしょうか?

210人間七七四年:2009/10/16(金) 23:51:28 ID:gxJZ0Z0u
武将一人が数千の兵卒を率いるような表現がしばしば見られますが、実際どのように指揮をとっていたのでしょうか。どの程度詳細な指揮が可能だったのでしょうか。
また、兵種ごとに数人単位で兵卒が動員されているような資料がありますが、運用されるときはやはり百人程度の単位でなければ正しく機能しませんよね。彼らはどのような手順を踏んで何人程度収束し、誰のもとに掌握されるのでしょうか。
211人間七七四年:2009/10/17(土) 01:35:30 ID:Ick/7Teu
>>209
秀吉は中国攻略時代から隆景を高く評価しているし
慶長・文禄の役でも、他の将が病欠で帰国を望んでも拒んだのに
隆景だけ「早く帰って来い」って手紙出してる。
(結局、隆景は秀吉の帰還命令を断って、病身をおして戦い続けたんだけど)
単純に秀秋を養子として送ったって関係だけじゃなく、個人的に評価してたんだと思う。
あとは毛利を分裂させる為とかだろうね。
上杉景勝から直江兼続を引き離そうと誘った話と同じで。
それだけ毛利家中でも重要な人物だと判断されていたんでしょう。

212人間七七四年:2009/10/17(土) 07:45:55 ID:mNe+WQd2
>>211
確か最初秀秋を輝元の養子に送りこもうとして、それを断る口実として隆景が希望したんじゃなかったっけ?
213人間七七四年:2009/10/17(土) 11:01:05 ID:YA745NMO
>>196
頼綱は戦で負けていたけれども途中で江馬輝盛を討てたことでの逆転勝利じゃなかったっけ?
戦後もあんまり余裕無かったんじゃないのかなあ
214人間七七四年:2009/10/17(土) 11:50:29 ID:xsgm+iKr
>>208 また小説話をw
215人間七七四年:2009/10/17(土) 14:41:06 ID:PJpliWyU
ありがとうございました。
216人間七七四年:2009/10/17(土) 15:33:56 ID:jySToZkj
>>210
よく知られている通り、
小者(雑兵)⇒者頭⇒足軽(ここから武士)⇒足軽頭⇒足軽大将⇒侍大将(ここから騎馬武者)⇒部将
ピラミッド型で数百〜数千
・采配・軍配・ほら貝、太鼓
・伝令将校(赤・黒ほろ衆、ムカデ衆が有名・幹部候補武将)の役割
・騎馬武者の構成単位
・陣形と兵種
というような事項で調べれば戦闘の流れとか、戦い方とかわかると思うよ。
217人間七七四年:2009/10/17(土) 15:37:40 ID:z4u6hAoJ
>>212
実際そんなこと出来たのかね?

百万石越えの大大名で一族も豊富にいるのに、跡継ぎを
無理やり押し込むだなんて。
218人間七七四年:2009/10/17(土) 16:18:54 ID:iRMpBJr6
>>216
回答ありがとうございます。恥ずかしながら足軽が最下級の雑兵だと思っていました。
おかげでいろいろイメージが固まりました
219人間七七四年:2009/10/17(土) 17:22:17 ID:pgxm5fPq
>>218
戦国の合戦における作戦単位は「備」。
本陣が指令を出すのはこの備の行動に関してであり、備の中に於ける戦闘指揮権は、
本陣からの作戦命令を元に、侍大将を足軽大将が補佐する形で執行されている。
220人間七七四年:2009/10/17(土) 20:05:57 ID:O4UqEw7B
備って何人単位ぐらいなんだろう?
豊臣の軍制だっけ?
221人間七七四年:2009/10/17(土) 20:25:53 ID:pgxm5fPq
>>220
作戦や陣構えによって違うが、一般的には300〜800名。

あと備は戦国初期から徐々に発展して、中期くらいにはほぼ完成を見た
軍隊編成であって、豊臣家が始めたものではない。
222人間七七四年:2009/10/17(土) 23:14:00 ID:O4UqEw7B
ためになる。
一般的に「備」という呼び方が一般的になったけど、他の国じゃどう呼んでたんだろうね。
223人間七七四年:2009/10/18(日) 00:13:52 ID:4w23fIKJ
>>222
スペインのテルシオや、ローマのレギオー(軍団)、コホルス(大隊)の様な意味か?
224人間七七四年:2009/10/18(日) 07:55:30 ID:a+Kj44i8
>>217
後北条だって滅んだし、やる気になれば出来るんじゃないの?
225人間七七四年:2009/10/18(日) 11:50:09 ID:hgH7e9kJ
>>224
後北条は停戦命令違反と、どうせ小田原に篭城すれば
切り抜けられると事態を甘く見ていたためだろ。

肥後の菊池みたいに弱体化して養子を入れられるなら
ともかく、こんな大大名に
「養子受け入れるか、さもなくば攻める」
なんて聞いたことがない。
226人間七七四年:2009/10/18(日) 12:22:44 ID:4w23fIKJ
>>225
事態を甘くなんて見てなかったよ<後北条
色々な掛け違いと、後は外交情勢の読み間違い。
227人間七七四年:2009/10/18(日) 12:29:07 ID:RFAtSSb6
ヘタレ政宗と協力しようなんて馬鹿さ加減が盲目北条の限界
228人間七七四年:2009/10/18(日) 17:11:46 ID:9EEdDtnw
>>191-195
wikiだと七人の侍は「時代考証も優れている」という評価があるそうなんだけど…。
229人間七七四年:2009/10/18(日) 17:14:58 ID:qJ8bat5+
>>228
服飾くらいなら。後は全部デタラメ。話にならん。
つーかwikiをまともに信じるな。
230人間七七四年:2009/10/18(日) 17:20:26 ID:kmk9vYul
間違いがあっても優れてるのは確かだろ。
映画であれに勝るのはクレしんぐらい。
231人間七七四年:2009/10/18(日) 19:02:21 ID:6sWu8X1J
>>228
「当時の」時代考証ではね
232人間七七四年:2009/10/18(日) 19:04:39 ID:0Ufe+kaF
銃の打ち方ですが
穴掘ってそこから顔出して打ったり
穴がないときは寝っ転がって打った方が敵の弾が当たりにくいと思います

なんで戦国時代の人はしゃがんだ状態で射撃していたのでしょうか?
233人間七七四年:2009/10/18(日) 19:10:45 ID:vObiI8Tp
>>232
腰に力が入らない、
寝ていては次の弾が込められない、
敵が迫ってるのに寝転がっていてはならない。

城攻めでは塹壕みたいなのを掘って撃っていたらしい。
234人間七七四年:2009/10/18(日) 19:12:06 ID:qJ8bat5+
>>232
> なんで戦国時代の人はしゃがんだ状態で射撃していたのでしょうか?

しゃがんで撃つ時はしゃがんで撃っても大丈夫な遮蔽物があったから。
つーか戦国後期の合戦なんて殆ど塹壕戦だぞ。
235人間七七四年:2009/10/18(日) 20:02:22 ID:hCm+IEHZ
横からすみませんが
どういう塹壕戦だったのか詳しく教えていただけますか?
236人間七七四年:2009/10/18(日) 20:52:17 ID:BYZMInlV
竹束立てたり、文字どおり普通の塹壕を掘ったりしてたらしい。
いわゆる仕寄りもそれか。
237人間七七四年:2009/10/18(日) 22:32:48 ID:0Ufe+kaF
ありがとうございます
ってことは映画とかでよくみる
寝っ転がって打っているシーンは
フィクションだからできる状態なわけですね。
そういえば殺陣で刀を軽々振り回す時代劇も多いですよね
238人間七七四年:2009/10/18(日) 22:34:03 ID:dN9mYqVc
戦国時代の映画で寝転がって撃つのは無いだろ
239人間七七四年:2009/10/18(日) 23:46:24 ID:Tw2mHDFI
関ヶ原で島津隊が1500程度というのはどこからの出典なのでしょうか(日本戦史除く)
どうも石田三成書状や合戦記を見ると3000〜5000程いたような気もするのですが
240人間七七四年:2009/10/19(月) 05:36:15 ID:bEUlaeBr
よくわかんないけど、関ヶ原本戦に参加した総数や
有名大名の率いた数すら誇張や憶測が入ってるから
はっきりした数字はわからんのではないだろうか
基本的にあの手のでかい合戦の兵数は大目に書くものだしね
241人間七七四年:2009/10/19(月) 12:53:45 ID:q+k/ML9Z
>>239
「惟新公関原合戦記」
「惟新公御自記 」 (両方共島津家史料集に)

たまたま義弘がわずかな兵を連れて上洛した時、伏見城の戦いが起こった。
そのとき東軍に付くつもりで伏見城に入ろうとするが拒否される。
その後三成に誘われ、島津忠久、新納旅庵を加え1000で伏見城を攻撃する。
大戦の様相を呈して来たため、本国に増援を要請するも断られるが、
義弘を慕う、阿多長寿院盛淳・山田有栄らが到着して1500になった。



242人間七七四年:2009/10/19(月) 13:55:04 ID:HBluiBgl
質問です。
転封先の城に入ったところ奥方が「化け物(?)が出る」と怖がった・・・・
という逸話は佐竹義宣のものだったでしょうか。
ご存知の方教えてください。
243人間七七四年:2009/10/19(月) 14:34:35 ID:3i5LoC2N
>>242
秀吉にも攻め落とした城でそんな話が・・・
某に逆らうと成仏できんようになると町に噂まで流して楽しんでる
244人間七七四年:2009/10/19(月) 15:06:02 ID:q+k/ML9Z
姫路城にもあったね
木下家定の時、宮本武蔵が妖怪退治をして、名刀「郷義弘」を授かったとか
245人間七七四年:2009/10/19(月) 16:04:51 ID:a4JG0ZnG
鳥取城にもそんな話が。

学校七不思議に近いはなしだわな。
246人間七七四年:2009/10/19(月) 17:23:59 ID:h6Oel9of
>>241
「島津家史料集」を読んだけどそういう話は無かった
数字が表記してあったのは
「自記」には味方が負けた時に旗本は200〜300騎しかいなかったとか、
「合戦記」に伊集院の謀反で在地が多く、伏見の際には200余だったとか、9月14日に豊久と物見に380人で行く
という程度

後は島津家古文書に義弘が忠恒に7000人の派遣を求め、その内半分を急いで寄越すように言った書状があった
(8月19日)
因みに合戦記で一番多い兵数は3000人だった
247人間七七四年:2009/10/19(月) 17:25:31 ID:h6Oel9of
>>246
>因みに合戦記で一番多い兵数は3000人だった
を修正
因みに合戦記に一番記述が多かった兵数は3000人だった
248人間七七四年:2009/10/19(月) 21:11:30 ID:unYUjUzr
>>242
佐竹義宣の弟・蘆名義勝のエピソードだと思う。
最初は小松山の中腹に住んだが、夫人が城の中で妖怪を見たと怯えたので麓へ引っ越した。
249人間七七四年:2009/10/19(月) 21:20:41 ID:h6Oel9of
>>246
自己解決しました
250人間七七四年:2009/10/19(月) 22:19:17 ID:a4JG0ZnG
まあ戦国期の山城はあくまで戦時の「要害」であって、普段は平野部の屋敷に住むのは
普通のことだけどな。
251人間七七四年:2009/10/20(火) 07:43:54 ID:K4r+oNLU
>>238
映画ではないが大河ドラマにそういった場面があった。
「葵・徳川三代」の関ヶ原で島津が中央突破した後、瀕死の鉄砲足軽がうつ伏せのままで射撃。
勝鬨をあげようとした松平忠吉の肩に命中させたというもの。
252人間七七四年:2009/10/20(火) 10:34:15 ID:MvQOQF3R
>>251
「映像的演出」だな。
当時うつぶせ討ちが完全になかったと言い切ることも出来ないが、一般的には近代になってからだ。
253人間七七四年:2009/10/20(火) 10:34:50 ID:zS1Ydn35
一矢を報いただけなんじゃ?
254人間七七四年:2009/10/20(火) 10:42:45 ID:O4ZA/HPT
戦国時代の武士は苗字なんてのは、なんとでも名乗れたのでしょうか?
255人間七七四年:2009/10/20(火) 11:41:23 ID:3MEPjaNs
苗字は江戸初期からで、戦国までは名字。
名字:平安末期から鎌倉の武士が、自分の所有地(名田)を名乗った。
土地を持たない下級武士は名前しか名乗れなかったが、
出身地やそこの通称を使うことが一般化した。
戦国時代は名字は自分の所属する「家」をあらわすものとなり、
転封や国替えなどが度々起こるようになると、
土地から武士を切り離すための政策として「苗」が使われるようになった。

とうわけで、下級武士ならなんとでも

ちなみに信長は「織田上総介平信長」、織田が名字、平は姓(出身)
256人間七七四年:2009/10/20(火) 13:53:25 ID:MvQOQF3R
まあ下級武士もだいたいは在地を名字にするな。
257人間七七四年:2009/10/20(火) 14:07:32 ID:iOWvHqD6
名家を名字にするとかはないの
258人間七七四年:2009/10/20(火) 15:02:51 ID:3MEPjaNs
>>257
主人が許さない。
証拠になるものがあればいい(伝来の家系図とか先祖の書付とか)
259人間七七四年:2009/10/20(火) 18:11:32 ID:HnIDwfdJ
秀吉家臣で高木守兼(守之とも。美濃高須城主)という人物がいるのですが
この人は、同じく美濃を勢力の基盤とした
高木貞久・差利・貞俊・貞友らの高木一族と同族でしょうか?
もしくは上記の高木一族の誰かと事績が被っているということはあるでしょうか?
詳しい人教えて下さい。
260人間七七四年:2009/10/21(水) 12:17:07 ID:k6FHlNtf
盛兼な。
本人の詳しいことは判らないが、貞久らの高木一族とは無関係だろうと。
理由は、関が原後、盛兼と親族は改易され鳥取に流されそこで没。
貞久らは旗本として美濃に一族で住み、代々川奉行を務めている。

261人間七七四年:2009/10/21(水) 22:55:12 ID:70djrpfm
>>260
すみません、盛兼ですね。
でも、盛兼は西軍、貞久一族は東軍なので
そういう処置になるのは当然かと・・・
一族で東西軍に分かれて命脈を保った例は多いですし・・・
同じ美濃で姓も同じだから、もしかして何かの血縁関係があったのかなあ、とか思ったんですが
262人間七七四年:2009/10/22(木) 00:38:29 ID:zmW7oBwt
上杉謙信と青苧について調べてみたんですが、ほとんどが

「「越後では青苧(あおそ)が日本一の産地であったと言う。
青苧とは植物の一種でカラムシとも呼ばれ
茎の皮から衣類、紙、さらには漁網にまで利用できる繊維をもっていた。
謙信はこの青苧に目をつけ、衣類の原料として海路をつかって
京の都などで販売し、莫大な利益を上げていた。

敵国の領土を奪う事なく数々の戦が出来たのも
こうして得た莫大な金があったからである。」」

と書いてあるだけです。具体的な疑問をあげると
謙信以前に青苧は主要な資金源では無かったのか
為景の時代に比べどの程度利益が上がったのか
莫大な利益とはどの位なのか
何時からこれを根拠に謙信の経済政策が見直され始めたのか
金や銀の産出国、畿内の経済力と相対的にみた越後の経済力

例えば甲州金は下記のサイトがありますが
http://blogs.yahoo.co.jp/hakusyunetto/22965679.html
同じように実際どうだったか解らないなりに
疑問を呈して考察してるようなサイトはありませんか?

263人間七七四年:2009/10/22(木) 01:02:22 ID:9rOyQ2b0
>>262
越後の青苧座が独自のものとして成立したのは、為景のころ。
それまでは三条西家が支配していた青苧座を否定して、御用商人の蔵田五郎佐衛門に独占させた。
それまでの青苧に掛けられていた通行税が一駄(一つの荷車に対してかな?)に20文と高額だったらしいから、
多少割り引いても相当の利益が長尾・蔵田両氏に集まったと思う。

ttp://proto.harisen.jp/mono/mono/aoso-echigo.htm
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%8B%A7%E5%BA%A7
264人間七七四年:2009/10/22(木) 01:13:20 ID:jPD57uc6
一駄だと馬の背中だと思う
駄馬、荷駄の駄
265人間七七四年:2009/10/22(木) 11:36:35 ID:EzSCeeQX
>>261
高須城が落城する時、親類である「高木正家」のところに逃げた、とあるが、
この正家の名が「貞久」らの高木一族の系図(東家・西家・北家)の中に無いんだよ。
266人間七七四年:2009/10/22(木) 13:31:47 ID:ZKBrn8R/
>>265
詳しくどうも。なるほど、じゃあ繋がりは薄いかもですね。ありがとうございました。
267人間七七四年:2009/10/23(金) 02:47:33 ID:IJITKmmG
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1232052587
↑リンク先「Yahoo知恵袋」に書いてありますが、掲載されている人物の生没年について
ウィキペディア以外のソースがあれば、教えて下さい。(知恵袋での回答でも結構です)

1・後藤高治の生まれ年
2・糟屋武則の生没年
3・津田信澄が1555年に生まれたとする説
4・伊勢貞興の生まれ年
5・小川祐忠の生没年
6・氏家行継の生まれ年
7・荒木氏綱の生没年
8・九鬼澄隆の没年
9・筒井順国の生没年
10・高山友照の没年齢(生まれ年)
11・武田元明の没年齢(生まれ年)
12・波多野秀治の没年齢(生まれ年)
268人間七七四年:2009/10/23(金) 20:45:34 ID:SpYdOryN
戦国時代の女性の名字はどうなってましたか?
この時代も夫婦別姓などいってる人がおりますが
秀吉の正妻は豊臣秀子と正式の名前で残っており
こんなのは例外中の例外として無視ですか?
269人間七七四年:2009/10/23(金) 21:01:54 ID:XXMVpJ23
>>268
苗字は基本的に父親のものを継承する。
ちなみに豊臣は苗字でなく、姓。
270人間七七四年:2009/10/23(金) 21:03:46 ID:XXMVpJ23
この時代の武家は夫婦別姓でよい。
家と家の橋渡し的な役割を持つから。
今の家族とは状況が違うね。
271人間七七四年:2009/10/23(金) 21:36:00 ID:EVGOtl2C
>>268
苗字と姓と氏の違いを認識するところから始めてはどうか?
272人間七七四年:2009/10/23(金) 21:44:18 ID:YPabc/3b
ちなみに「豊臣」は恩賜の新姓として創設されたものなので、かなり特殊な例。
273人間七七四年:2009/10/23(金) 22:18:08 ID:cPbR3gps
豊臣は五摂家じゃないのに摂関家なんだっけ?
それとも養子として関白なんだっけ?
もしかして秀吉は近衛とか名乗ったことがある?
274人間七七四年:2009/10/23(金) 22:23:16 ID:YPabc/3b
>>273
秀吉は関白になったときは、近衛前久の養子の「近衛秀吉」として就任した。
その後豊臣姓の下賜を受けて、豊臣が「新摂家」となった。
275人間七七四年:2009/10/24(土) 04:46:08 ID:OvEG+zcx
上杉謙信の衆道相手として著名な人物には、どんな人々が居るのでしょうか?
公卿・武家・僧侶を問わずリストアップして教えて下さいましな。
276人間七七四年:2009/10/24(土) 10:58:09 ID:jBZpowZD
>>275
夏目なんとかいう小姓がいたのと、あと有名なところでは
茶目伯耆守というのがいた。ただし実在しない人物。
んでもってもう一人実在する人物として相模出身で謙信の養子となった
氏康の子がいる。でも彼が謙信の衆道に関わったとする記録はない。
ねんごろにされた武将というのは他には特にありません。

http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1235388800/
277人間七七四年:2009/10/24(土) 15:40:05 ID:NTqM8DVi
戦国時代の野戦というのはどのような場所で発生したのでしょうか。
やはり、街道上で発生することが多かったのでしょうか。軍勢が行き違いになるようなことはなかったのでしょうか。
また、対陣するという表現がしばしば見られますが、具体的にどういう状況なのでしょうか。
両軍が射程外で展開して睨み合っているのでしょうか。
あと、兵站についてなのですが、荷駄隊はリアルタイムに補給線を往復するのではなく、必要な兵糧を持参して常に随行していたのでしょうか。

最後に、こうした当時の合戦の形態については、どのような史料に基づいて研究がなされているのでしょう?
ある合戦について詳細に明らかにしたいなら、着到状や感状以外に、どのような史料を捜し求めればいいでしょうか。
278人間七七四年:2009/10/24(土) 16:05:49 ID:JVvN8p+V
大歩危小歩危とか親不知とか難所で迎撃したら
それはそれで面白そうだがw
279人間七七四年:2009/10/24(土) 17:57:23 ID:IyYDo8TE
>>277
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E6%88%A6%E3%81%AE%E9%85%8D%E7%BD%AE
これを作成した時に調べた範疇で答えます
最初の質問については基本的にその通りで街道近くで行われます。また一般的に物見(偵察)を頻繁に行いますので、
行き違いは双方ともに偵察をしないという阿呆か、濃霧などの特殊気象条件下以外ではありえません。
対陣は例えば赤坂と大垣の対陣では双方とも柵を造って400〜600メートルで睨み合ったといいます。射程外といえるでしょう。
兵站は移動中は常に随伴し、対陣になったら後方からユソウスルトいう形になると思います。

足軽の戦い方については雑兵物語が基本的な史料になります。後は合戦記や軍学書を読み集めて、イメージのすり合わせを
行います。近世の大名が作成した陣立書も参考になります。

因みにそこら辺は私の研究内容と被りますがね「備」とか
280人間七七四年:2009/10/24(土) 18:06:23 ID:NTqM8DVi
>>279
わかり易い回答をありがとうございます。
荷駄は補給線を形成することもあるのですね。
雑兵物語は岩波のものがあるので、他の書籍資料についてこれから考えてみることにします。
281人間七七四年:2009/10/24(土) 18:35:25 ID:IyYDo8TE
追記
近書として「日本の軍事革命」という本をお勧めします
282人間七七四年:2009/10/25(日) 03:22:40 ID:fpIuELQg
城址にしばしば神社が建っていますが、何故なのでしょうか。
283人間七七四年:2009/10/25(日) 03:34:43 ID:9FryTaYt
一概にこうとは言えないなあ。
もともと城中に神社が建てられていた場合もあるし、逆にもと社があった場所に後から城が建てられたということも。
284人間七七四年:2009/10/25(日) 06:19:31 ID:v4+i2m1w
お市の方や淀殿は美人だったと言われますが、現代人が見ても美人だったのでしょうか?
285人間七七四年:2009/10/25(日) 08:48:52 ID:rpE1nJor
>>284
肖像画から判断してください。
286人間七七四年:2009/10/25(日) 10:43:52 ID:YAGu32KS
肖像画は、当時の描き方とかあったりするからな参考にならないかもね。
写実主義じゃないし。
それに生きているときに描かれた物は少ないんじゃないかな。
たいてい何回忌とかに描かせてお寺に奉納とか。
江戸時代や現代に描かれた絵がテレビやウィキペディアで肖像画として
扱われたりもする。宇喜多秀家とかね。
287人間七七四年:2009/10/25(日) 11:10:21 ID:oICP9TT8
否定のための否定なら他所でやってください
288人間七七四年:2009/10/25(日) 11:13:00 ID:Wa3iWJyV
風俗を研究した本によると
能面の変化や当時書かれた絵でだいたいの美人の基準が分かるのだそうだ。
それによると、戦国美人は
・ほっそりしたアゴで切れ長の二重の目ぱっちり型、という(そうだ)
289人間七七四年:2009/10/25(日) 11:56:07 ID:Ujrm56zx
絵画資料は少し慣れれば、だいたいいつ頃書かれたものか簡単にわかるよな。
290人間七七四年:2009/10/25(日) 22:17:04 ID:fpIuELQg
当時の武士の手による日記のような、日常の伺える史料はないのでしょうか。
現代語訳か書き下してあるものが出版されていたら併記して頂けると助かります。
291人間七七四年:2009/10/25(日) 22:37:44 ID:rWYOyY/7
上井覚兼…大日本古記録
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
のデータベースで閲覧可能
松平家忠…続史料大成
一部未収録品は
http://kindai.ndl.go.jp/
で閲覧可能
292人間七七四年:2009/10/25(日) 22:59:54 ID:fpIuELQg
>>283
>>291
回答ありがとうございます。
293人間七七四年:2009/10/26(月) 14:11:09 ID:xkAAUrcq
実子が幼少でも病弱でもなく生存しているのに養子が家督を相続した例ってありますか?
294人間七七四年:2009/10/26(月) 18:15:16 ID:mpUr/cPi
信長が乗っ取った北畠とか、なんぼでもあるかと。
295人間七七四年:2009/10/26(月) 21:36:23 ID:i2o9qqlE
歴史に詳しくなるにはどうすればいい?
296人間七七四年:2009/10/26(月) 21:40:51 ID:0zYZM9eD
>>295
好きなところから調べるといいんじゃないかな。
どのレベルを目指しているの?
297人間七七四年:2009/10/26(月) 22:09:02 ID:i2o9qqlE
ぷらっとさんレベル

どうやってしらべるの?
298人間七七四年:2009/10/26(月) 22:14:01 ID:0zYZM9eD
それならぷらっとさんに直接聞きにいけ。俺は彼がどれほど詳しいか知らない。
299人間七七四年:2009/10/26(月) 22:36:01 ID:mpUr/cPi
先ず好きな時代好きな歴史上の人物の一つくらいはあるだろうから、大き目の図書館に行って
その時代、人物について書かれた歴史書をとりあえず一冊読め。

で、興味を持った事や疑問点などが生まれたら、またそれについての本を探して読め。

それを1年くらい繰り返せばある程度歴史に詳しくなるさ。
300人間七七四年:2009/10/26(月) 22:45:18 ID:i2o9qqlE
ありがとう
301人間七七四年:2009/10/27(火) 06:41:12 ID:pnWPmw1V
家の近くに城跡があるのですが、そこは山を削っただけで10メートル四方くらいしかありません。
その周りは溝程度の堀があるくらい。
それって本当に城跡なのでしょうか?
かつてはそこに立派な建物があって殿様がいたのでしょうか?
302人間七七四年:2009/10/27(火) 06:45:12 ID:d2UpbAgI
10Mじゃあ城どころか砦でもなさげ
狼煙台とかじゃない?←適当
303人間七七四年:2009/10/27(火) 12:26:41 ID:RuBOY2P5
城址といっても色々あるからねぇ
城の名前を示す看板とかがあるならその名前を晒して欲しいが
304人間七七四年:2009/10/27(火) 14:33:22 ID:3JnXBDCH
城とはいっても95%は砦だから。
俺の町の近くにも城山(小高い丘)があるが、当時そこは普段は城主はいなくて、
戦になりそうになると丞主を派遣して、情勢を探らせた。
(付城とか出城とかという)
ちょっとした高台は狼煙台か見張り櫓だったそうだ。
305人間七七四年:2009/10/27(火) 14:47:53 ID:NYbZwPC0
小高い丘を柵で囲んだ程度でも城といってたからね
306人間七七四年:2009/10/27(火) 14:55:27 ID:Uucmbfzs

■■織田信成が織田信長の子孫って本当?■■

1 :氷上の名無しさん@実況厳禁:2009/08/29(土) 17:48:08 ID:Du7ELlvd0

めちゃくちゃ胡散臭いんだけど
だいたい何百年も前の人間の子孫だってどうやって証明するんだよ
家系図もいくらでも捏造できるし、織田という苗字だっていくらでもいるし
その苗字も後で名乗ったものかもしれないしな
天皇家や徳川家なら時代が近い分まだ信用できるけどな
織田家なんてちゃんと存続してるかどうかも怪しいってのに

あと親戚中『信〜』って名前をつけるとか
いやらしいにもほどがあるw
本人達もことあるごとに『織田の子孫』って自慢するし
どんだけ面の皮が厚いんだか
俺には詐欺師にしか見えない
皇族の名をかたる詐欺師によく似てるわ

http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1251535688/


307人間七七四年:2009/10/27(火) 15:26:31 ID:d2UpbAgI
信成の家は所謂ソーケ
308人間七七四年:2009/10/27(火) 16:09:00 ID:khcWuOvo
>>305
それどころか、戦国初期くらいまでは、特に畿内では普通の屋敷に櫓を上げただけで「城」と呼んでた。
309人間七七四年:2009/10/27(火) 17:08:05 ID:GSaucFZL
関ヶ原で東軍だった大名と西軍の大名との間に
その後手紙のやり取り等はありましたか?(親子・兄弟は除く)
同じく、大阪の役で徳川方・豊臣方にあった大名同士で
江戸時代以降に交流はあったんでしょうか?
310人間七七四年:2009/10/27(火) 17:38:14 ID:khcWuOvo
>>309
関ヶ原では何ぼでも。
例えば元東軍の細川忠興と、元西軍の立花宗茂や島津家久とは友達付き合いしているし、
伊達政宗も領地の近い元西軍の丹羽長重あたりと交流が深い。

あと、大阪の陣の豊臣方に「大名」なんていない。
兵卒として大阪方に参加した連中ならいろいろ。
311人間七七四年:2009/10/27(火) 17:42:51 ID:RTYtEVlv
>>309
毛利輝元と黒田如水とか

敗戦処理を任せられた大名なんかも多いから
西と東に別れたから一切交流が無くなるなんてことはまずない
312人間七七四年:2009/10/27(火) 18:57:29 ID:45Z1c4fI
最近の戦国物の読本に「伊達政宗に外国人の側室が〜」という記述が見かけるようになったんだが、
これってソースあるんですか? しかも内一人はスペイン系だとも。
急に現れた説(自分が見かけなかっただけか?)なのでちょっと気になりました。
313人間七七四年:2009/10/27(火) 19:25:58 ID:V/6Se9RQ
>>312
山岡荘八の小説じゃないかな
314人間七七四年:2009/10/27(火) 20:34:14 ID:4ILml1Qp
架空キャラだよ
315人間七七四年:2009/10/27(火) 21:56:05 ID:n04+qwjg
312を見ていると諏訪御寮人の架空の名前である湖衣姫や由布姫も、
へー、そんな名前なんだ〜、なんて思っていそうで少し怖い
316人間七七四年:2009/10/27(火) 22:02:30 ID:RuBOY2P5
名前といえば、黒田如水の妻の名はl幸園でいいのでしょうか。
たしか歌会の署名が唯一の手がかりなんですよね?
317人間七七四年:2009/10/28(水) 00:56:38 ID:uRcI/ksK
>>263
遅くなってすみません、ありがとうございました。
318人間七七四年:2009/10/28(水) 02:04:56 ID:IlX4Tek6
信長の側室といわれる「生駒吉乃」も、武功夜話の創作。架空の人物。
319人間七七四年:2009/10/28(水) 08:35:14 ID:+1//xfbw
武功夜記の発見が信長大河撮影の機運を盛り上げた功績はでかい。
バブル期の財力で戦闘など圧倒的迫力の名作大河。
しかし真面目に考証したために室内シーンがやたら暗くて、視聴者から室内シーンが暗すぎて見づらいから明るくしろ!と大ブーイング。
信長の父死後辺りから室内がやたら明るくなってしまう改悪がなされた。
320人間七七四年:2009/10/28(水) 08:52:38 ID:a/+388S3
光秀の継室といわれる妻木煕子も、「美濃国諸旧記」の創作。架空の人物。
321人間七七四年:2009/10/28(水) 11:55:55 ID:7UoHQ9mU
>>318
ハイハイ、信忠は木の股から生まれたのですか、そうですか
322人間七七四年:2009/10/28(水) 12:26:03 ID:IlX4Tek6
>>321
信忠の生母が生駒氏なんて、もうカビの生えた説だろ。
323人間七七四年:2009/10/28(水) 12:33:52 ID:7UoHQ9mU
なんなのこれ?
ID:IlX4Tek6
>信長の側室といわれる「生駒吉乃」も、武功夜話の創作。架空の人物。
>信忠の生母が生駒氏なんて、もうカビの生えた説だろ
324人間七七四年:2009/10/28(水) 14:36:16 ID:IlX4Tek6
>>323
生駒「吉乃」と言う人物が架空だと言っている事が、キミにはわからないのかい?
325人間七七四年:2009/10/28(水) 17:21:35 ID:NKtpDD7O
屁理屈こねこね
326人間七七四年:2009/10/28(水) 17:43:41 ID:weceUNpT
上杉謙信てどこら辺が軍神だったでしょうか?
327人間七七四年:2009/10/28(水) 17:47:24 ID:a/+388S3
本当に軍神なら簡単に信玄や信長を倒せて天下を取れてるよ
328人間七七四年:2009/10/28(水) 19:03:01 ID:b0FwqN0d
なんで最上厨はスレをむやみにageるの?
329人間七七四年:2009/10/28(水) 22:11:25 ID:38HvLEt9
>>324
架空なのは名前だろ
人物そのものを抹殺すんなよ
330人間七七四年:2009/10/29(木) 13:50:39 ID:4igCUbdy

【もし堀北真希が足利将軍だったら】
1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 13:06:03 ID:4eQuzdZe
天下は揺るぎなく治まっていたな

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164945963/




【もしも綾瀬はるかに将軍宣下がくだったら】
1 :幸松:2009/06/09(火) 13:23:13 ID:pDEWwAmF
以下の家訓を残し、子々孫々まで将軍家に忠節を誓います。
大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず


http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1244521393/





【もしも新垣結衣に将軍宣下がくだったら 】
1 :外様大名:2009/10/26(月) 13:16:20 ID:Wuwho10l
当家としては、どうすればいいであろうか?

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1256530580/
331人間七七四年:2009/10/30(金) 22:29:25 ID:MMEh4LKt
戦国時代の正室は絶対に1人だったのですか?
2人以上いた例ってのはないのですか?
332人間七七四年:2009/10/30(金) 22:43:15 ID:PcM/kFvS
>>331
正妻が死んだり離婚したりして、複数の女性が正妻の地位に付く、と言うことはあるが、
同時に二人の正妻がいると言う事はありえない。
333人間七七四年:2009/10/30(金) 22:44:07 ID:fZnuJ+p/
>326
最近でも70戦43勝2敗25引き分け、
昔は100戦無敗と言われていた。
そして自ら先陣に立ち、正々堂々と敵と向き合い、
臨機応変に作戦を変え指揮をする…
正に軍神!
334人間七七四年:2009/10/30(金) 22:56:46 ID:PUDwJ5cd
>>333
その戦歴は新潟の神主独自の計算だよ。
俗説に惑わされてはダメ。

謙信が軍神と呼ばれ始めたのは、
童門が毘沙門への逸話を捻じ曲げて伝えたり、光栄のゲームで最強キャラになってから。

軍神ではないが、日本無双の大将と信玄が絶賛したのは事実。
ま、本当に最強クラスの武将ではあったんだろう。
335人間七七四年:2009/10/31(土) 07:39:21 ID:+fdkOskL
ぷらっと(笑)
血統厨房はペット板にでも行ってろ
336人間七七四年:2009/10/31(土) 08:00:47 ID:AI8oV5DA
信玄は九州には鎮西一と呼ばれる道雪という大将がいるから会ってみたいと言ったとか。
毛利の使いが謙信にあった時にあなたが噂の大天狗の謙信公かと絶賛したとか。
京で上杉武田が最強だと言われていたとか。
337人間七七四年:2009/10/31(土) 09:18:00 ID:A/MwgRe4
武将が奉られているところの寺社の宗派と武将本人の宗派は同じでしょうか
338人間七七四年:2009/10/31(土) 09:48:53 ID:IV8STaEP
疑問というか質問なんですが。

最近そこかしこで書き込みが見られる
「一つの地域に展開できる兵員の数は三万が限度。何故なら糞尿の処理が〜」
という説を論じている学者かその論文を読んでみたいのですが、オススメの本とかありますかね?
339人間七七四年:2009/10/31(土) 10:00:04 ID:AI8oV5DA
糞尿問題は、論文じゃないが、たしか吉永正春が筑前戦国史2500円&筑前立花城興亡史1600円などに書いてたな。
あっでも毛利4万と大友3万の大軍だから兵数が合わないから違うか。
340人間七七四年:2009/10/31(土) 11:13:13 ID:4MECqVTj
>>338
バート・S・ホール「火器の誕生とヨーロッパの戦争」かと。
341人間七七四年:2009/10/31(土) 15:26:46 ID:lNbqPkYL
城や寺を建築するのに大工のほかに農民も動員されると思うのですが
給料は現金なんでしょうか?
342人間七七四年:2009/10/31(土) 15:31:33 ID:4MECqVTj
>>341
課役として動員された場合は基本的には無給。
そうでなく人夫として雇われた場合は当然賃金が出る。
343人間七七四年:2009/10/31(土) 23:02:25 ID:VePAiJK9
三好三人衆のひとり・三好政康について質問です。

三好政康について、畿内で織田信長に敗れたのち、大坂の陣に豊臣方で戦って
戦死したという記事をネットなどで見かけますが、その出典ってわかりますか?
『戦国三好一族』『国史大辞典』など研究者の文章では行方不明とする記載が
見られるほか、フロイス『日本史』では「奇禍にあって悲惨な死」を遂げたとも
書かれているそうで、信長に敗れた後の動向については触れられていないことが
多いので、質問しました。
344人間七七四年:2009/11/01(日) 19:51:20 ID:Y3Kd6tiY
信長には愛妾が3000人いましたが
秀吉にはどのくらいいたのでしょうか?
345人間七七四年:2009/11/01(日) 20:15:58 ID:egsGyAnf
>>344
日本の女子全員です
346人間七七四年:2009/11/02(月) 02:24:42 ID:3Jw6b48v
「○○左衛門」は「○○左(ざ)」という略称で呼ばれていたそうですが
「○○右衛門」の略称って何ですか?「○○右衛(え)」?

略称通称に詳しい方、昔の名前のよくある略し方教えてください
エリザベスならベス、セバスチャンならセバス、みたいな
347人間七七四年:2009/11/02(月) 05:00:26 ID:0hMSDYfo
>>346
キムタクみたいに、
黒田官兵衛は黒官。
こういう略し方がされていた。
348人間七七四年:2009/11/02(月) 05:03:41 ID:0hMSDYfo
犬千代丸→犬千代
弥七郎→弥七
新左衛門→新左
平八郎→八郎

こんな例もある。
349人間七七四年:2009/11/02(月) 08:57:14 ID:3Jw6b48v
おおお
ありがとうございます!
参考になりました。

で、肝心の「○○右衛門」はどのような愛称があったかご存じの方いますか?
五右衛門とか新右衛門とか伊右衛門とか
350人間七七四年:2009/11/02(月) 09:00:19 ID:UaqSJ1nA
「右衛門」は基本「右」を略して「えもん」とだけ読まれるので、
特に愛称、略称は無い。
351人間七七四年:2009/11/02(月) 09:07:10 ID:UaqSJ1nA
なので「えもん」自体が略称といえる
352人間七七四年:2009/11/02(月) 09:12:57 ID:wuGakYOJ
ドラえもんって名前が
なぜかやたら親しみやすい理由がわかった
353人間七七四年:2009/11/02(月) 12:29:42 ID:3Jw6b48v
へえ、そうなんですね。
じゃあ五右衛門を「ごえ」と呼んだり新右衛門を「しんえ」と呼んだりはしなかった訳ですか
354人間七七四年:2009/11/02(月) 12:44:04 ID:UaqSJ1nA
>>353
少なくとも文章の中でそう言う略しかたはしない。「クロカン」でもわかるように、通常右衛門に限らず、
略する場合は姓と名を縮める。

例えば五右衛門を「石川五右衛門」であるとすれば、略すときは「石五」と言う風にするし、
新右衛門が「蜷川新右衛門」であるとすれば、略は「蜷新」となる。

こういった人が、親しい人間から「ゴエさん」とか「新さん」とか呼ばれた、と言うことはありうるが、
そのあたりはもう、想像の分野になる。
355人間七七四年:2009/11/02(月) 20:51:16 ID:0iz08NZs
甲斐武田家=騎馬軍団というのは誤ったイメージであることは有名ですが、
だとしたらこのイメージは誰あるいはどの文献によって広まったものなのでしょうか?
356人間七七四年:2009/11/02(月) 21:23:39 ID:Jg3H6JRK
>>355
とこらが、やはり武田が騎馬隊を駆使していたのは事実ではという説も注目されつつある。
桐野の「検証・武田騎馬軍団不在説」を探して読むとよい。
信長公記、甲陽軍鑑、絵画史料などに武田の騎馬隊の姿が浮き彫りにされている。
357人間七七四年:2009/11/03(火) 12:44:00 ID:Fpayh+DL
>>354
片倉景綱も「かた十」って自称してたりしてますね。

>>355
馬の産地が東国に多かったのが由来、という説もあり。
358人間七七四年:2009/11/03(火) 16:39:43 ID:JELHXdkO
>>355
文献じゃなく映像じゃないか?
映画やドラマでの迫力を出すための誇張表現を額面通りに受け取っただけの人も多いような。
359人間七七四年:2009/11/04(水) 21:23:31 ID:jNFplyI2
>>357
武田より北条の方が馬を多用した、ってのも文献あるんだよな。
板東武者の伝統だろうが。
360人間七七四年:2009/11/04(水) 22:18:42 ID:z3zV7Z9K
>>359
文献と言うか軍役帳だな。関東の戦は馬を大量に投入している。
武田家でも、いわゆる「騎馬軍団」を担ったのは、武田に亡命した上野出身の
小幡信貞であったと言われている。
361人間七七四年:2009/11/04(水) 22:38:17 ID:rkUO73ug
戦国時代のセックスのやり方を赤裸々に書いた記録とかはないの?
362人間七七四年:2009/11/04(水) 22:49:14 ID:HIHIVbTA
秀次切腹の時
関係無い人が
お供しようとか言って
切腹したそうですが誰ですか
363人間七七四年:2009/11/05(木) 21:51:37 ID:nrQxioXq
>>361
みんなだいすき松永弾正が指南書のこしてなかったっけ
364人間七七四年:2009/11/06(金) 20:30:20 ID:yJLglxnj
「黄素妙論」だな。
ただこれは古典に属する本だから戦国時代のセックスと言えるかどうかは微妙かと。
確かに具体的に書いてあったりするけどなー。
365人間七七四年:2009/11/06(金) 21:30:48 ID:migtKY0a
フェラの仕方まで書いてある?
366人間七七四年:2009/11/07(土) 12:06:35 ID:aC9bTdUr
>>365
うんにゃ
男主体のものだから
ただし前戯から事細かく
ピストンも女の表情・反応にあわせて角度、深さまで懇切丁寧。
367人間七七四年:2009/11/09(月) 01:29:27 ID:0QJK0ze4
譜代と寄騎と母衣衆の違いを教えてください

あと子飼いの兵は一門衆と見られていたのですか?
368人間七七四年:2009/11/09(月) 01:52:10 ID:Wg/aIyqk
>>367
譜代は家中の中のポジション。
寄騎は同盟者から派遣された兵、もしくは君主が将につける兵の事
母衣衆は君主の親衛隊(旗本)のうち、特別に武勇に優れたとされたものたちへの名誉称号
子飼いと一門は意味合いとしてもかけ離れている。
例えば前田利家は信長の子飼いだが、彼は一門でもなんでもない。

つーかこんなの、辞書でもWikiでも見て調べたほうが早いだろ
369人間七七四年:2009/11/09(月) 16:33:40 ID:fFKoa0Gh
別に戦国時代だけでなく、平安後期から江戸時代にまで被る質問なんですが。

武士に与えられた知行ってどんな単位で与えられたんでしょう?
古代の制度に倣って郡や郷という単位ですか? それとも全然別な単位が用いられたんで
しょうか? また、その区切(知行ごとの区画)を調べるにはどういう資料を漁れば良いでしょうか?

あと、例えば戦国大名は勿論自身が直接統治する領地を幾つも持っていたと思うのですが、
こういう直領と家臣等の領地の割合ってどのくらいだったのでしょうか?
領国の半分が直領だったりする大名もあったのですか? それともほとんどは家臣に与えられ
てたのでしょうか?
370人間七七四年:2009/11/09(月) 17:39:45 ID:tP+aZlWP
戦国〜江戸だと貫高制・石高制が主流。
田畑の単位面積に対し、どれだけの収穫高を見込めるか算出する方法。
石高制で言えば0.1ha(1反)の田から150kgの米(150kg)が収穫が見込めるって考え方。

つまり知行は農地面積を単位として宛がわれる。
実際の収入は石高×税率(50%で五公五民とか40%で四公六民とか言われる)で求められる。
知行高百石で五公五民なら、米50石の年収ってこと。
貫高制は単位面積当たりの生産量を金銭に換算するだけでほぼ一緒。
調べるなら知行宛行状とかで調べれば出てくると思うよ、戦国なら小田原衆所領役帳がガチ
371人間七七四年:2009/11/09(月) 17:42:00 ID:tP+aZlWP
あと直轄領に関してはピンキリすぎてなあ。
たとえば、
関ヶ原後の最上義光なんかは57万石で取り分が五千石しかないし、
関ヶ原直前の島津家56万石のうち、は義久・義弘・家久+浮地で25万石(うち22万石ほどは無役)相当は島津家としての取り分。
372人間七七四年:2009/11/09(月) 18:11:46 ID:Wg/aIyqk
知行に関しては、数石〜数十石程度の小知であれば、実際に領地をもらうわけではなく
君主の蔵米からの給付と言う形。

で、実際に統治を任せられる「領主」となる場合は、戦国時代なら村落単位、室町までなら荘園単位で
与えられる。
373人間七七四年:2009/11/10(火) 14:33:51 ID:KusM1lWW
北条って、知行は細切れみたいにして一箇所に集中して与えるようなことはしてないんじゃなかったっけ
374人間七七四年:2009/11/10(火) 17:54:39 ID:JRW2rGsg
北条はもう、貫高制を確立させたあたりで、領地支配は小田原からの代官がやって、
支配下の武士は実態としてサラリーマンと化していた。
375人間七七四年:2009/11/10(火) 18:01:25 ID:VlMQevDR
領主権の否定って奴だね。
武士のサラリーマン化は江戸時代の特徴みたいによく言われるけど
376人間七七四年:2009/11/10(火) 19:47:16 ID:nBNS8tm0
よくいえば最先端すぎ、悪くいえば独善的すぎて、周辺領主が激しく抵抗したんだよな。
377人間七七四年:2009/11/10(火) 20:04:01 ID:VlMQevDR
それは違う。
他国衆の自治権はおかしてない。
378人間七七四年:2009/11/10(火) 20:13:17 ID:JRW2rGsg
>>377
他国衆に関しては北条の血を引くものを当主に据えることにより、徐々に「北条システム」の中に
組み込んでいくやり方ですな。
379人間七七四年:2009/11/10(火) 20:19:30 ID:nBNS8tm0
>>377
奪い取った伊豆相模を本国と呼ぶことが反発を呼ばないはずがない。
380人間七七四年:2009/11/10(火) 20:22:47 ID:JRW2rGsg
>>379
趣旨が変わってる。
君は北条を批判したいだけだろ。
381人間七七四年:2009/11/10(火) 20:37:47 ID:nBNS8tm0
>>380
批判的に見えたなら謝るけど、本国とされる伊豆相模は最先端の細切り知行システムを実施してるわけだよね。
それを他国に適応できなかったことを「周辺領主が激しく抵抗した」と表現したかったんだよ。
紛らわしくてすまん。
382人間七七四年:2009/11/10(火) 20:54:58 ID:JRW2rGsg
>>381
いや、適応してます。先にも言ったように北条の統治システムは、
他国衆を身内に取り込んでいくことにより、徐々に広がっていきました。

それに対する抵抗が、例えば他の地域で大小名、国人が、戦国大名の家中に
統合されていく過程に比べて、特に激しかった、と言う風な事もありません。
北条氏もいきなり見ず知らずのシステムを導入して、反感や混乱を招くような
マネはしません。
なるべく摩擦が起きない形で、徐々にシステムの中に統合する、と言うやり方をします。

383人間七七四年:2009/11/10(火) 21:48:51 ID:husqC0Sk
超高利貸しで土地を奪っていったんだよな。貫高制も高利貸しゆえだよな。
384人間七七四年:2009/11/10(火) 23:41:50 ID:CcAl2QVZ
事細かに回答ありがとうございます。

>>370-372
村単位、ですか。○○郡や○○荘が領地だったみたいな記録をよく見ますが、それは要するに
その土地単位の中にある村を支配していた(or知行として与えられていた)という意味なんですね。
少禄の武士は封建貴族と云うより官僚だったわけですか。

知行高百国、折半で五十石の収入の村なら、人口はだいたい50人くらいになりますよね?
50人くらいの村ならどこにでもあるでしょうが、200人くらいの村も無いわけでも無かったと
思えるのですが、知行高四百石(折半で二百石の収入)だと給付ではなく領地を与えられる
事になりますよね。という事は知行が村一つなんていう武士も結構いたわけですか。

>>373-383
北条氏の制度は(中央集権化という面から見ると)先進的だったんですね。
明治維新の時すら苦労したんですから、封建制最盛期だった戦国時代ならそのシステムを
適用させるのはかなり苦労したんでしょうね。
もっともその制度を例えば日本全国に拡大するとなると、主に交通の面から様々な問題
が起こったとは思いますけど(でも解決不可能じゃないですよね。古代の朝廷はやってたん
ですから)。
その割には北条早雲以外あまり有名でないのは気の毒としか…。
385人間七七四年:2009/11/10(火) 23:56:46 ID:aNx/1zDG
>>384
中央集権と言うより、北条のシステムは、いわゆる近世封建社会のシステムの原型と
考えたほうがいいです。
近世幕藩体制は、ほぼ北条のシステムを基礎としています。
幕府の旗本は勿論、諸藩もよほどの大身で無い限り、知行を給金として受け取るサラリーマンとなります。
386人間七七四年:2009/11/11(水) 09:52:29 ID:bVWsEaKn
具体例まったくなしで北条マンセー自演キモすぎてワロタw
387人間七七四年:2009/11/11(水) 17:18:15 ID:G+JQEiP0
自演とかマンセー以前に統治システムの話題だと北条の話にならざるを得ないだけなんだがな

なんなら伊達や真田の統治システムの話でもしてよ。
税体系とかどうなってたかとか是非。
388人間七七四年:2009/11/11(水) 23:04:23 ID:FTixTBcT
豊臣秀吉は朝鮮派兵を行う時にどのような大義を掲げたのでしょうか?
やはり国内外にそれなりの理由を説明して宣戦布告したとおもうのですが
389人間七七四年:2009/11/11(水) 23:12:03 ID:OAEXh/3K
そもそもの目的が朝鮮ではなく明。
朝鮮への出兵は、明に派兵するため朝鮮は日本軍に協力しろ、と言ったら
断ったので無礼だから、と言う理由。
390人間七七四年:2009/11/12(木) 05:44:00 ID:qmhZAlJ0
>>387
そこで真田の名前が出てくるところにちょっと笑った
いや規模違いすぎるだろう
391人間七七四年:2009/11/12(木) 13:24:48 ID:/wT5BWsA
運営能力に支障はあるかもしれないけど大名の規模とシステムの優劣は関係ないんじゃないかな
392人間七七四年:2009/11/12(木) 14:14:05 ID:VRa4pw0W
真田が戦国大名だったか否か、と言う事に関しては議論がありそうだな。
393人間七七四年:2009/11/12(木) 18:15:09 ID:edg/P1O4
小規模なら集権的な支配は楽だけど規模が大きくなると難しくなるもんじゃないの?
「信長は北条氏みたいな制度を布かなかったから遅れてる!」って意見が当てはまらないように。

いや、勿論家の規模だけじゃなくて家臣の領地や主君に対する認識とか色々あるだろうけど。
394人間七七四年:2009/11/12(木) 18:53:05 ID:VRa4pw0W
>>393
規模ある程度以上が大きくならないと集権できるほどの権力と組織が生まれない。
信長が遅れているというか、権力として未熟なのは、規模だけは大きくなるのにそれを運営する組織形態を
最後まで作れなかったというところだな。
395人間七七四年:2009/11/12(木) 19:57:04 ID:kreUsQT9
自分の苗字が前田なんですが
自分の先祖が利家の確率教えてください
福岡太宰府付近に江戸末期から住んでいます
それ以前のことはわかりません
396人間七七四年:2009/11/12(木) 20:51:45 ID:5M0yGdXq
長宗我部 元親が「鬼」「鬼若子」と呼ばれることがありますが
これのもともとの出典、由来の文献は何なのでしょう?
「姫若子」「土佐の出来人」なら昔から書籍で目にしてましたが
最近まで「鬼若子」の呼称を聞いた事が無かったもので・・・・
397人間七七四年:2009/11/13(金) 01:14:07 ID:RGBlQN4b
>>395
限りなくゼロに近いだろう。
夢見てないで現実を見ような。
先祖が利家に繋がるなら江戸末期以前のことがわからなくなるなんてことはない。
もし本当に確かめたいのなら本家の菩提寺に行って過去帳を当たれ。
菩提寺が無いならそこで終わり。
過去帳が無いならそこで終わり。
またその江戸末期〜明治初期の人物の住所を調べろ。
わからないならそこで終わり。
本家の墓所も調べろ。
墓所に入れないならそこで終わり。
ちなみにたいていの家は江戸末期までなら遡ることができる。
398人間七七四年:2009/11/13(金) 11:40:16 ID:NMEAYinN
>>396
元親記(日本合戦騒動叢書)
399人間七七四年:2009/11/13(金) 12:06:41 ID:lWKp8s4x
>>397
いちおう天保元年以前はわかりませんが
天保元年近くから同じ住所です
400人間七七四年:2009/11/13(金) 12:42:06 ID:NMEAYinN
苗字を付ける時に、寄子が頭首から同名をもらうということもあった
>>399は加賀前田の子孫ではないが、北九州に残った前田との関わりは
あるかも・・・しれない

>『寛永系図』には、道真公が筑紫にあって二子をもうけ、兄を前田と称し、弟を原田といい、
その後、前田が尾張国に移り住すという内容の記載がある
401人間七七四年:2009/11/13(金) 12:48:48 ID:NvpLWnTz
前田みたいなありふれた名字ではねえ
明智なら希少価値があるけどねえ
402人間七七四年:2009/11/13(金) 13:15:25 ID:5EmAW2gb
明智とかゲームのやり過ぎだから…
同和、部落、在日、核家族が多い中
江戸から住んでる先祖や親に感謝しなければならないな
オレなんか部落出身を代表する名字だし、何か?
403人間七七四年:2009/11/13(金) 14:48:46 ID:mt3kx9kb
俺の父方の先祖は、居を移った時今までの土地の名前を名字にしたらしいんだが(この
名字は今の俺の名字だけど、これだけで個人特定されるくらい珍しい)、昔の名字は栗栖
だったそうな。現代では復姓とか出来ないのかね。
まぁ、毛利氏に敗れた落ち武者の末裔らしいが。

ちなみに母方の祖先は浅野家の貧乏武士。何か和歌山の方の姫様が浅野家に嫁ぐとき、
姫様に付いて来た(?)とか。何それ。
404人間七七四年:2009/11/13(金) 15:03:15 ID:NvpLWnTz
> だったそうな。現代では復姓とか出来ないのかね。

まっとうな理由があれば出来ます。
405人間七七四年:2009/11/13(金) 19:46:53 ID:xeMGS0h1
歴史関連の板では「苗字」と使っていただきたい……
姓、氏、苗字と全部違うものなので
406人間七七四年:2009/11/13(金) 21:23:59 ID:IlMaydze
ここではそれを理解して「武田姓」とか書いているのが大半では?
407人間七七四年:2009/11/14(土) 00:05:00 ID:XTmANhCY
>>399
天保は所謂幕末〜明治にかけて生まれた「初代」の親父の代に当たるから、
成功した初代持ちだとそこまでは遡れるケースが少なくない
土地持ちだと住地の移動もほぼ無いから、それだけでは何とも言えん

まぁとにかくだ、何か前田家への由来自体はあるのか?
昔前田家に仕えた武士だとか、前田家の乳母や奉公人だったとか、
前田家を世話したことがあるとかないとか、前田家の末流だとか。

祖父や父、親戚から前田利家に関する話なんて聞いたこともありませんが、
同じ前田という苗字ですし、何か関係があると思いませんか?
なら
ねえよ!
としか言いようが無いぞw
408人間七七四年:2009/11/14(土) 00:25:08 ID:f8vH6OZu
発問4 松代藩は、なぜ「さらに身分の低い人々のきまり」をつくった
    のだろう。

 ・自分が農民よりも上だと気分がいい。ストレスが解消できる。
 ・農民が武士に対する不満をそらすためだったと思う。武士に不満があっ
  ても農民は「おれたちよりもまだ低い人がいるから、頑張ってみよう」
  という気持ちになる。
 ・グラフを見ると、武士が7%、農民が85%。いくら農民が武器を持っ
  ていなくても、一気に攻めてこられたら武士だってひとたまりもない。
  だから、さらに身分の低い人を作った。
 ・作った理由はあったと思う。農民はストレスがたまるから、農業ができ
  るようになった。
 ・農民の不満をそらすためだったと思う。農民は武士に言われっぱなしで、
  みんなで襲いかかってこられると困る。自分たちよりも身分が低い人が
  いれば、自分たちも結構えらいんじゃないかと思える。
 ・自分たちよりも低い人がいたら、農民は上の位の気持ちになれた。

話し合っているなかで「幕府って、頭いいねー」というつぶやきが聞かれた。

【 さらに身分の低い人々のくらし 】

1.家は決められた場所に建て、そこに住むようにせよ。
2.家は土間とし、土間にむしろをしいて寝起きせよ。
3.着物はもめんで青くそめ、おびのかわりになわでしばれ
4.かみの毛は草でしばれ
5.雨ふりでもカサは使わず、ワラジかはだしで歩け
6.夜は外に出歩くな、やむを得ず出る時はわかるように提灯つけよ
7.食事には、茶わんを使わずにぎりめしにせよ
8.百姓、町人と話をするときは土下座せよ
9.百姓の家へは、はだしではいり、土間にむしろをしいて用をたせ。
  物をもらうときは地面に投げ捨てたものをひろえ
10.勝手に奉公したり、結婚をしてはいけない
  ※奉公……他家に仕えること
409人間七七四年:2009/11/14(土) 00:34:28 ID:f8vH6OZu
身分制度の確立

http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/eidojidai/04_1edo_mibunseidoi.htm

江戸時代から日本人だと仮定して85%の確率で農民

平成12年度在日コリアン数
http://nidar.hp.infoseek.co.jp/souko/zenkoku.html

大阪、兵庫、京都は100人に1人が在日
410人間七七四年:2009/11/14(土) 00:40:36 ID:f8vH6OZu
武士だけに認められていた特権はあったの?

切り捨て御免といって身分秩序維持のため、
武士としてのプライドを傷つけられた時には人を殺しても許される(やむをえない場合や目撃者がいることなどの条件がある)
他にも名字や刀を持つ特権があったんだ。

http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/eidojidai/04_2edo_mibunseido.htm
411人間七七四年:2009/11/14(土) 11:32:05 ID:hbB5EWS8
部落の話はスレ違いじゃね?
厚生省にチクられるよ。
412人間七七四年:2009/11/14(土) 11:48:10 ID:QFUFZx1c
>>408->>410
なんだかわからないが・・・・
エタの主な仕事で皮関連がある(太鼓、三味線、鞄)
今の世の女性はみんなエタのシモベだな、ブランド高級バッグ(笑)

>やむをえない場合(あまりにもザックリだから少し解説)
・相手が抜刀している。
・自分の刀の鞘を握られた
・自分の刀をまたいで行った
・女が素手で刀に触れた
・★「侮辱を受けた」
 ある町人が武士に、背中に蚤が跳ねているのを見て、善意で注意したところ、
 いきなり切り殺されてしまった。
 蚤は畜生にたかる虫であり、武士と畜生を同一視したという理由だ。
 時代劇で「さんぴん」とか「浅黄裏」などと面前で馬鹿にするなどというのは
 無礼打の十分すぎる理由で、影で言うことはあっても面前ではない。
 
それと無礼打は目付けの下で裁判が行われ、謹慎、蟄居等の罰があった。
そのようなスキを見せたことに対する処罰。無罪は殆ど無い。
413人間七七四年:2009/11/14(土) 12:01:41 ID:099ehitj
>>412
皮革関係の仕事は、他国でも大抵被差別集団の仕事だったね
414人間七七四年:2009/11/14(土) 14:10:47 ID:IA9iMubb
抜刀して逃げられたり、負けるようなことがあったりすると、
処分を受けたし、よっぽどの事情でないかぎり処分(流刑や死罪)される
場合がほとんどのようだし、「武士の特権」という言葉は象徴的なもんでしかない
からなあ。武士の側からしてもリスキーすぎる
415人間七七四年:2009/11/14(土) 14:24:04 ID:2B2D7RdH
>>414
それでも特権であることには変わりないさ

たとえばヴェネツィアの都市貴族なんかは、政治に携わることが出来る以外の
特権を持っていなかった。しかし、それでも特権階級であることには変わりない。
それは「象徴」というより、「特権階級を区別する手段」というべきもの。
416人間七七四年:2009/11/14(土) 14:28:34 ID:D4tsbjvi
武士の特権といえば、一般に往来の通行に関しては「武士七分町人三分」と言われたらしい。
ただ、江戸などでは、町人であっても「将軍様お膝元の住民」と言うことで、そういうある種の権威も
余り通用しなかったらしいが。
つーか、江戸は武士の町である事は確かなのだが、江戸府内では、行列に土下座しなくても
いいことなども含めて、武士の特権がかなり制限されてた印象がある。

あと、武士による「切り捨て御免」ってのは、それこそ江戸時代に入るまでは普通に行われていますな。
戦国時代は勿論だけど、それなりに秩序が維持されていた室町時代でも武士は簡単に町人農民を殺す。

そう言う時代の転換はやはり、家康が将軍になって布告した最初の法令、いわゆる「郷村法令」の第七条、
『百姓をむさと殺し候事御停止たり』からでしょうな。
417人間七七四年:2009/11/14(土) 14:30:05 ID:1GO+XJxk
深掘事件
418人間七七四年:2009/11/14(土) 14:38:02 ID:ZON7ZTV+
>>416
というか、戦国時代では豪農と武士の境目は無いに等しいのではないか?
国人や地侍は、江戸時代には武士階級になった者と名主階級になった者と
に二分されたはずだし。

戦国時代の有徳人の中にも、付近に対する影響力から正規の家臣団に組み
込まれたりしてるし。
419人間七七四年:2009/11/14(土) 14:44:01 ID:D4tsbjvi
>>418
ん?
なんに付いて疑問をはさまれたのか良くわからない。
420人間七七四年:2009/11/14(土) 14:54:05 ID:IcK723W3
>>419
> 戦国時代は勿論だけど、それなりに秩序が維持されていた室町時代でも武士は簡単に町人農民を殺す
ここ

武士が〜〜
とか、身分が固定化されていない時代では、簡単に言い切れることではないのではないか。
421人間七七四年:2009/11/14(土) 15:33:11 ID:D4tsbjvi
>>420
いやいや、身分の区分は室町期もはっきりしていたよ?
その辺があいまいになったのは戦国に入ってから。
422人間七七四年:2009/11/14(土) 15:50:12 ID:VLwFm/oo
>>421
うん、だから
> 戦国時代は勿論
ここに突っ込み入れてるの
423人間七七四年:2009/11/14(土) 16:15:26 ID:D4tsbjvi
>>422
戦国期でも「曖昧な層」があるだけで、やはりはっきりとした武士と、町民農民の違いは存在したよ?
武士階級のものが「武士を捨てる」という行為はいろんなところで見られる。
424人間七七四年:2009/11/14(土) 16:23:50 ID:fPZoo1Xn
>>423
国人層には、鎌倉以来の御家人の家柄もあれば、地元の豪農だったり、経済力を付けた
商人層だったりすることもある。

その意味で、戦国時代以前のいわゆる「武士階級」と、江戸時代の「武士階級」には連続
性が無いと見られる部分も大きい(もちろん、連続性がある部分もある)。
簡単に「武士と町民農民の違いは存在した」とか断言できる状況ではない。
だから>>418な訳だが。
425人間七七四年:2009/11/14(土) 16:35:39 ID:D4tsbjvi
>>424
連続性があろうがなかろうが、「身分」として、武士とそれ以外の区別は
厳然と存在したと思うのだが?
426人間七七四年:2009/11/14(土) 17:02:57 ID:/8LJ3eA2
>>425
「身分」とは何か、構成員と特権、またそれを保障する権力・権威は何か。
を考えれば、「厳然と存在」とは断言できないことは理解できるはず。

実際、国人とは武士なのか農民なのか、その区別が明確であったことが
全国的に明らかにされてはいない。むしろそれを否定する事実はある。
427人間七七四年:2009/11/14(土) 17:14:46 ID:YYYXXj9v
武士による無礼討ちはその通りなんだが、一つ付け加えると、無礼討ちは武士だけの特権ではなかった。
農民や町民だって、無礼を受けたを感じれば、即喧嘩殴り合いから戦闘にまで発展している。
江戸時代になって多少は制限されたが、それでも農民町民の無礼討ち敵討ちは消えていない。
428人間七七四年:2009/11/14(土) 17:21:54 ID:099ehitj
>>427
仇討ちは古ゲルマン法やローマ法でも認められていたね。
個人の権利の自力救済ってのは、近世まではむしろ当たり前だった。

それを否定したのは近代以降。
429人間七七四年:2009/11/14(土) 18:13:08 ID:GU3YVIms
村落の寄合でその辺を解決をつけるようなことって無かったのかね。

あと、村落と領主の争いを仲介した司法機関(?)って戦国時代ではどんなものがあったの?
特に機関は無く、領主が仕える戦国大名があんまり争いが激しければ介入してたくらい?
430人間七七四年:2009/11/15(日) 00:55:41 ID:DrRHeoSN
質問させて頂きます。

九州のあたりの武士達の間で普及していた刀は、どこ産なのでしょうか。
銘なども教えて頂ければ幸いです
431人間七七四年:2009/11/15(日) 11:25:27 ID:4ZKuCLU5
>>430
名工、三池典太は北九州。
鉄の産地も北九州、国東半島、薩摩半島などたくさんあって、
典太の流れを汲む刀鍛冶も多くいただろう。
基本的にどの町にも必ず刀鍛冶はいたし、そこで大量生産されていた。
もちろんそれだけじゃなくて、備前・大和・山城・近江からの流通品も。
大名の指料は鎌倉、室町初期の名工のものが多く、家宝や献上品、褒美などに使われた。
432人間七七四年:2009/11/15(日) 12:33:29 ID:4ZKuCLU5
433人間七七四年:2009/11/15(日) 12:48:17 ID:VlaMpLET
>>429
村落と領主、もしくは村落同士の争いの司法的解決では、守護所、もしくは戦国大名権力のうち
それを受け継いだ機関が担当します。
北条、今川などの先進大名では、目安(訴訟)や民事裁判に関する制度などを早い段階で
整備するようになります。具体的には訴訟案件に関する、制度としての定期的な裁判の開催など、ですね。
434人間七七四年:2009/11/15(日) 13:25:34 ID:q9Mvd8Wq
>>432
徳島はうどんを茹でる水をよこせ
435人間七七四年:2009/11/15(日) 15:12:28 ID:gGNPNX5U
皆さん詳しいですけど、どのような書籍を読んでるんですか??
436人間七七四年:2009/11/15(日) 15:35:07 ID:5AqXaXS+
僕は歴史群像を読んでおります
437人間七七四年:2009/11/15(日) 15:38:25 ID:JEcyz6bV
一揆による自治でも、分国法を出した大名でもみんなその程度のことはやっていて、大してすごい事でも珍しいことでもない
438人間七七四年:2009/11/15(日) 17:31:20 ID:zeOSQR7J
ただし、司法を専門で取り扱う組織・部署は無かった。それは行政と一体化されていた。
これは江戸時代も変わらない。この点は鎌倉・室町と異なるところ。
439429:2009/11/15(日) 18:37:47 ID:/TfiI87p
詳しい話をどうも。
やっぱり日本の村落の最重要課題と云えば水なのか。
重要なだけに、そういう民事訴訟を専門に掌る機関が設置されなかったってのは意外。

行政と一致した司法というと、町奉行の御白州で行われた裁きなんかが有名かな。
三権分立なんて18世紀の思想だから分離してなくてどうこうとかいう気は無いけど(そも
そも鎌倉・室町の司法と行政の分離も近代的な意味でのそれじゃないし)、今まで分離
されてたのが統一されたのはなんでだろう。
一元命令的な中央集権が発達して、司法と行政が一致しても(為政者にとって)不都合が
無くなったからかな。
440人間七七四年:2009/11/15(日) 18:56:31 ID:agEeB5BW
>>439
日本の武家政権は、むしろ司法作用(争い事の仲裁)を期待され、担ってきた部分が
大きい(鎌倉政権が典型)。

だから、鎌倉〜室町〜江戸と司法と行政の一体化が進んだのは、政権内における行
政の重要性が高まり、政権の中心的な作用となっていったからでは無かろうか。
事後仲裁から事前調整へと政権のありようが変わっていったとも言える。
その意味では、まさに近世化、中央集権化の典型例ではあるのだろうね。
441人間七七四年:2009/11/15(日) 19:39:17 ID:eosL9CqZ
>>437
そうはいっても、地域ごとに背景も性格も異なるわけで、
そこを考慮する必要があるだろうし、すごいとかすごくないとか
それとだけは言えないだろうし。

>>440
水ってのは死活問題だからな。
三好氏の例だと、長慶が発給した文書といっしょに、水利の絵図
つけられており、それにはその相論に関与した奉行と長慶の花押が
据えられているな。
442人間七七四年:2009/11/15(日) 20:33:32 ID:/TfiI87p
>>440
なるほど。だから源氏は「武家の棟梁」なのか。
そもそも武家の台頭自体、地方の権利を守ろう!みたいな運動の結果だったわけだし。
443人間七七四年:2009/11/16(月) 15:06:31 ID:fXgYn24/
この時代大名に嫁いで来た女性の事を実家の苗字ををとって○○夫人とか○○御寮人って呼ぶのは普通でしたか?
どうも濃姫は織田家では齋藤夫人とかで呼ばれてたのではとういう気がするのですが…
444人間七七四年:2009/11/16(月) 21:45:25 ID:Ed2T9x7Z
質問です。
主君と家臣の衆道なのですが基本は主君が家臣に挿入する側なのでしょうか?
あと肛門は直接だと危ないですよね。当時の予防対策などはどうしてたのでしょうか?
445人間七七四年:2009/11/17(火) 07:41:12 ID:hIL4nrvA
>>435
通史で良いんでない?
446人間七七四年:2009/11/17(火) 12:25:30 ID:RF11abid
>>443
農姫は美濃一国を支配する斉藤家から嫁いできたという意味で
<格式の高い呼び名>「農姫」「美濃の方」と言われた。
「〜の方」は正室のみに許される呼び名。
家臣たちもそう呼んでいた。
当時女性たちの本名は旦那さんにしか名乗らなかったから、よほど緊密な家臣以外は
知らないことが多かった。
それで実家の名を付けて○○婦人と呼んだ。   と覚えている。

>>444
質問するスレが違うんでない?


447人間七七四年:2009/11/18(水) 07:37:03 ID:XNo/H2LN
戦国時代では、よく寺を戦争時の拠点として使ったと聞きましたがこれはどういう理由からなんでしょうか?
448人間七七四年:2009/11/18(水) 10:38:57 ID:irLoS4Ic
太刀を提げる時に使う、紐?のようなものの名前を教えて下さい。

また、あの紐?のようなものはどうやって装着するのでしょうか。鎧が前提でしょうか。
ならば、平時はどのようにして太刀を佩いていたのでしょう。
また、太刀と脇差しはどうやって同時に装備したのでしょうか。
脇差しは袴に挿して、太刀は提げていたのですか?
それだと刀の反りが逆方向だから、収まりが悪いような気がします。
449人間七七四年:2009/11/18(水) 12:57:36 ID:BtC+atVt
下げ緒のこと?
あれは太刀も差すようになっちゃったから、
役に立たないただの紐になりさがったぜ、宣教師達が指摘したようにね。
もっぱら装飾用で、それは流派によって違う。

そういえばへうげものでゲヒ様が平時に刀を佩く時に使ってたな、下げ緒。
450人間七七四年:2009/11/18(水) 13:34:13 ID:FE+WyjWu
>>447
・当時の寺は基本的に防衛機能を備えていた
・戦略の要衝にある
・多人数を収容できる

とりあえずはこんな理由。
451人間七七四年:2009/11/18(水) 17:38:45 ID:9qA+jRNM
今、読んでいる小説に「いかさま」と相づちをうつ言葉がでてきますが

いかさま=いかにも

なのでしょうか?
452人間七七四年:2009/11/18(水) 17:58:57 ID:FE+WyjWu
>>451
いかさま=如何様

「さもその様に見える、いかにも本物らしい」と言う意味で、
『その通りでしょうね』と言う意味になる。

これが転じて、「いかにも本物に見える偽物、インチキ」と言う意味にもなった。
453人間七七四年:2009/11/18(水) 18:39:30 ID:9qA+jRNM
>>452
ありがとうございます!
454人間七七四年:2009/11/18(水) 20:03:00 ID:KKw1GzFN
よく時代劇の合戦シーンで、鎧兜を着てるのに太刀で斬られるシーンがありますが、そこまで斬れるんでしょうか? あれでは鎧兜を着てる意味がないと思うのですが。
455人間七七四年:2009/11/18(水) 20:34:51 ID:QO+HOX11
>>454
実際には、鎧の隙間を狙います。時代劇はフィクションということで。
リアリティを追求すると、派手なアクションにならないんですよ。
456人間七七四年:2009/11/18(水) 20:53:15 ID:KKw1GzFN
>>455 やっぱりそうですか。 ありがとう。
457人間七七四年:2009/11/19(木) 21:01:45 ID:exIjgs1F
そもそも鎧兜で武装した相手に刀で応戦する意味は余り無い・・・ってことだよね?
えっと、槍なんかがあればそっちを使うってことで

458人間七七四年:2009/11/19(木) 21:20:03 ID:0hyxXCBD
何のために戦うかにもよると思うけど。

合戦での組合?村とかでの偶発戦闘?
勝つことが優先?逃げることが優先?

逃げるなら石とかの方がよっぽど有用な武器になるだろうさ。
戦う場合、介者剣術なんてものがあるように、鎧を着た状態での剣術もちゃんとあった。
でも槍を使い慣れてる人間なら刀より槍を使うだろうな。その逆もありえる。
ちなみに、大太刀や長巻みたいな刀は普通に合戦で使用してたって記録がある。
459人間七七四年:2009/11/19(木) 21:27:34 ID:q2fLs0JL
>>457
いいや、接近戦になると刀。
鎧の隙間や手首を狙う。
460人間七七四年:2009/11/19(木) 21:27:44 ID:0RJbfxTx
相手を殺傷するより、怖がらせて逃がした方が好ましい場合もあるよね
461人間七七四年:2009/11/19(木) 23:39:51 ID:MooIy1GP
>>457
コツが必要になるけど使える。
ただし455や459が指摘しているようにピンポイントへの攻撃が必要になる。
で、ピンポイントに鎧の隙間などを突き刺す必要があるわけだけど
日本刀は湾曲してるから狙い済まして突きを繰り出すのは難しい。
まあ完全武装の武士ばかりが戦場に居るわけじゃないからなんとでもなると思うぞ。
462人間七七四年:2009/11/20(金) 02:29:43 ID:nX3vnKBR
西洋の鎧だと手も足も出ないような気がします。
463人間七七四年:2009/11/20(金) 03:03:27 ID:1l2mm3HS
多分体中を覆うタイプの西洋鎧をイメージしてるんだろうけど、
あんな動きの取れないもの、接近戦になったら良いカモ以外の何者でも無いぞ。
囲まれてボコボコにされるだけ。
鎌倉時代の大鎧みたいなもんだ。
464人間七七四年:2009/11/20(金) 03:26:43 ID:Oxt1uKcL
何だろ…この話題、凄い既視感が…
465人間七七四年:2009/11/20(金) 10:07:03 ID:rq/k9PeA
>>464
前世?
466人間七七四年:2009/11/20(金) 10:32:38 ID:9z//w2gT
>>464 彼の名は歴団ひとり
467人間七七四年:2009/11/20(金) 12:18:23 ID:HMX+2DTa
まあ戦での死亡率も低いからね。
石、矢の順で死傷してるから。
刀を使うより、取っ組み合いして、力で組み伏して従者に首をかききらせる方が早い。
468人間七七四年:2009/11/20(金) 13:59:54 ID:1l2mm3HS
接近戦用に、「鎧通し」という、十手の先を尖らせたような武器もあった。
昔、知り合いに先祖が尼子の武士って家があって、そこに伝えられてた鎧通しを
見せてもらった事があったが、いかにも実戦武器と言う感じがしてちょっと怖かったことを
覚えている。
469人間七七四年:2009/11/20(金) 15:32:48 ID:oIuyPZlS
戦国時代の農民は、名字が無かったんですか?
また、農民の娘はどんな名前だったんですか?
470人間七七四年:2009/11/20(金) 19:42:31 ID:HMX+2DTa
名字がないってのは嘘で実際は庶民レベルでも持ってるやつは持ってた。
471人間七七四年:2009/11/20(金) 19:50:45 ID:1l2mm3HS
この時代女の名前は、農民にせよ武家にせよ、記録には殆ど出てこないな。
たいていは「女」(○○娘、○○妻)って記録されてる。

戦国時代は、日本の歴史上、女性の地位が最も低下した時代で、
その時代の風潮が、女の名前の記録にも現れている、そうな。
472人間七七四年:2009/11/20(金) 19:52:09 ID:Oxt1uKcL
というか、現代的な意味での「名字(苗字)」の意識っていつごろ出来たんだろうな。
士分、公家なら氏と苗字の違いははっきり意識しただろうし、姓について考えたことだって
あったかもしれないけど、庶民は? いや、「本当はうちは○○氏の末裔でな…」とかいう
農民は別にして。

どこどこ村の誰とか、なになに荘の某とか、そういう区分けのための呼び名が苗字に転化
したのはいつなんだろ。

いやまあ、そんな単純な話じゃないのは十分に理解してるけど。
俺の島根の実家でも、苗字より屋号でご近所さんや親戚を呼ぶ事の方が多い。皆苗字は
違うのに。
473人間七七四年:2009/11/20(金) 20:15:57 ID:1l2mm3HS
「現代的な意味」って言うのなら、それは江戸時代だろうな。
江戸期は庶民の間に、それまでの屋号から、「家族」の単位が小さくなった事により、
隠し姓などを含めた「名字」が表に出てきた。
幕府や諸藩も住民把握の必要性から、その流れを積極的に後押しした。
474人間七七四年:2009/11/21(土) 12:48:15 ID:ySeShkIO
田舎の農村や漁村なら、戦前まで「氏族」ってのは普通に残っていたけどな。
それが解体されたのは、実は戦後しばらく経って、農地改革と高度経済成長によって
田舎がズタズタになってから。
475人間七七四年:2009/11/21(土) 13:11:20 ID:wRuCMhhg
実は明治維新以降は、江戸期に解体しかかっていた「氏族」の復活した時期なのだそうな。
476人間七七四年:2009/11/21(土) 13:16:57 ID:/eZCR66M
日教祖左翼基地害が庶民の暗黒時代みたいな妄想ストーリーで名字ないって主張してただけ
寺の住民台帳に名字が記載されてないからと言って名字がなかったなんてことはない。
477人間七七四年:2009/11/21(土) 18:16:43 ID:rdxb0vEO
戦国時代から江戸時代にかけて武士の役職に「○○奉行」というのがやたらと多いですよね?
織豊政権・江戸幕府で天下統一された江戸時代以降はともかく、戦国時代までどこもかしこも
似たような職名を使っていた理由は何なんでしょう?
例えば小荷駄奉行を小荷駄頭と呼んでた家とか、侍大将を侍督と呼んでた家とかは無かった
んでしょうか?
「○○奉行」ってのは、現代で言う「○○長」程度の意味なんでしょうか?

例えば村の村長とかだと、西国で庄屋、東国で名主、北陸で肝煎と、違う呼び方をされてました
よね?
478人間七七四年:2009/11/21(土) 18:39:01 ID:wRuCMhhg
>>477
「奉行」はもともと動詞で、「奉行する」と使われた。これは今の官僚などが「執行する」というのと
ほぼ同じ使いかただと考えていい。
つまり奉行とは、主君、或いは上司から命ぜられた案件を与えられた権限において行う、と言う
意味であって、過去において普遍的な言葉だった。
で、後にこれが名詞化した。

だから正規の名称が何であれ、何らかの権限を与えられそれを執行する場合は
「○○を奉行する」のであって、すなわち「○○奉行」となる。
479人間七七四年:2009/11/21(土) 18:46:56 ID:1ixPBjdl
>>477
上杉謙信のところだと「奉行」は家老に相当する
480人間七七四年:2009/11/22(日) 00:10:27 ID:t+WGNqlX
奉行っていうと裁判をしきる人のイメージがある
481人間七七四年:2009/11/22(日) 00:30:44 ID:yRi9wOe3
奉行が家老…じゃあ他家で奉行って呼ばれてた役職は何て呼ばれてたんでしょう?
単に、そもそも役職を作ったり官名を付けたりするほど組織が発達してなかっただけ?

>>480
町奉行ですか。行政と司法の分離って結構最近の思想ですよね。上の方でも話題に
なってましたけど。
482人間七七四年:2009/11/22(日) 14:29:43 ID:vqUB0LrY
事業を担当統括する役目=奉行だから
領主や家臣からの信頼が厚くなければ、ということで家老格が任命されたという自然な人事。
ただし大掛かりな事業の場合は統括する奉行の下に各役割に応じた奉行が置かれた。
戦の場合、戦(統括)奉行の下に、兵糧担当、武器担当、馬担当、輸送担当など。
483人間七七四年:2009/11/22(日) 14:50:32 ID:vqUB0LrY
ついでながら安土築城の場合は
丹羽長秀が総奉行、普請奉行が森三郎左衛門、石奉行が西尾山左衛門など
484人間七七四年:2009/11/22(日) 15:33:31 ID:p3PkMTPF
「行いを奉じる(下命された事を恭しく実行する)」で「奉行」なわけだしな。
485人間七七四年:2009/11/23(月) 00:53:45 ID:xXt1atwe
奉行以外だと○○方という呼び方はあるな。勘定方とか
486人間七七四年:2009/11/24(火) 15:08:45 ID:++OOnnuU
戦国時代の資料とか見ると、船の上でも弓を構えている人もいました。
(戦国時代じゃないかもだけど、山田長政とかのも)
湿気とかひどくて弓を使うのは大変かと思いますが、どのような工夫をしたのでしょうか?
漆塗弓とか?
487人間七七四年:2009/11/24(火) 15:12:04 ID:mpINyi4b
あとは使用時まで油紙に包んでいるとか、そんな感じかと。
488人間七七四年:2009/11/25(水) 16:09:44 ID:+0Ua1jWW
>>483
江戸時代にも外国奉行の後の総奉行とかありましたけど、
当時だと「惣奉行」って書いたんじゃないでしょうか?

いえケチつけてるわけじゃないんですが、当時から総奉行って字を書いたんですか?
489人間七七四年:2009/11/25(水) 17:01:11 ID:BRieg55c
信長や家康は奉行の名称を使っていたが秀吉時代にはない?
五奉行って後世に作られた名称でしょ
490人間七七四年:2009/11/25(水) 17:12:19 ID:QAxoFcp1
当時の手紙には奉行とある
491人間七七四年:2009/11/25(水) 17:20:55 ID:BRieg55c
奉行とあるのか 失敬
492人間七七四年:2009/11/26(木) 01:34:46 ID:cy79hwus
例えば、一万の軍勢で出陣した場合、実際に戦闘に参加出来る武士は何人ぐらいなんですか? あと、軍勢の一割死傷者が出たら大敗と聞いたことがあるんですが、そんなものなのですか?
493人間七七四年:2009/11/26(木) 02:01:46 ID:7FiLlgLs
>>492
> 例えば、一万の軍勢で出陣した場合、実際に戦闘に参加出来る武士は何人ぐらいなんですか?
それは、君の言う「軍勢」が何を指しているかにもよるし(純粋に戦闘員だけか、
陣夫も含むのか?)、又戦況、戦場の状況にもかかわる。

ともあれ、基本的に実際の戦闘に出るのは、全体の3割くらいのものかと。
勝ちが確定した追撃戦で5割くらいかな?

> 軍勢の一割死傷者が出たら大敗と聞いたことがあるんですが、そんなものなのですか?

そんなもんです、2〜3割死傷すれば全滅扱いです。
494人間七七四年:2009/11/26(木) 09:50:29 ID:/xmMf+Z9
久保田正志の『日本の軍事革命』によれば、戦国日本の戦死者数:死傷者数は 1:1.5〜3

仮に、一万の軍で一割が戦死したとすると、戦死が1000人に、負傷者が500〜2000人で、
合計して一万人中、1500〜3000が戦闘参加不可能になる。
ちなみに時代や国・地域にもよるが、近代以前の軍隊は、4割〜5割くらいが非戦闘要員で
占められていたと言われる。(ただし、絶対に参加しないわけではなく、状況によっては参加する場合もある)

仮に5割として、一万の軍勢中、戦闘部隊員が5000人。そして戦闘続行可能人員が2000人。
また戦闘続けられる?続けようと思う?

ちなみに、同じく『日本の軍事革命』によれば、戦死傷率が上がる戦国後期において、
部隊の戦死率3%が、「戦闘継続に支障あり、要再編成」の目安だったそうな。
495人間七七四年:2009/11/26(木) 09:58:40 ID:O2A/YeZT
武田信玄は信濃一国征服するだけでなぜあんなに時間がかかったのですか?
アホだったからでいいのですね?
496人間七七四年:2009/11/26(木) 11:25:42 ID:cy79hwus
>>493 >>494 ありがとうございます。 考え直してみれば一割って大きいですよね〜。 もう陣形が保てないということかな。長篠の戦いなんかは、もう武田家は壊滅状態だったんでしょうね。
497人間七七四年:2009/11/26(木) 13:22:56 ID:8k4fGIIA
>>496
アメフトで言うと、壁が崩れた状態だな >一割の損害
後衛が無事でももう勝負にならん。
498人間七七四年:2009/11/26(木) 19:29:55 ID:RQrq5myN
双方7,8万の兵力を動員した関ヶ原ですら死者5000人くらいらしいからな。
日向の戦いで大友側の死者3000じゃほぼ全滅といっていい。
499人間七七四年:2009/11/26(木) 19:55:22 ID:Cnr880a/
川中島だけはガチ
双方に異常な戦意があってはじめて成立する合戦
500人間七七四年:2009/11/26(木) 19:59:34 ID:6v+FyA4F
耳川の戦いは大友の戦死者多すぎて
太平洋戦争の時より帰還できた男が少なかったとか
この戦で伴侶を失った女性は「豊後ごけ」と呼ばれたとか
501人間七七四年:2009/11/26(木) 22:29:13 ID:uJQjO22R
戦国時代前期〜中期の守護代って調べられるサイトありませんか?
502人間七七四年:2009/11/26(木) 22:58:18 ID:7FiLlgLs
戦国初期はともかく、中期くらいになると守護代なんて中間存在は殆ど消滅してるような。
最後まで残ってたのは京兆家と大内家くらいか?
503人間七七四年:2009/11/26(木) 23:08:24 ID:8k4fGIIA
大内家も京兆家もバリバリの守護ですがな。
守護代ってのは織田とか朝倉とか陶とか。
504人間七七四年:2009/11/26(木) 23:11:44 ID:7FiLlgLs
>>503
守護の元に守護代って存在が残っている、って意味。
織田や朝倉は守護代の位置から国主になったでしょ?
505人間七七四年:2009/11/27(金) 00:05:59 ID:geTLnLJC
守護は幕府の任命で
守護代は守護の任命であってますか?
たとえば守護代でもない新興勢力が国を支配した場合は幕府に守護なり、旧守護家に守護代なり任命させて
名目上の支配権を手にしていたと推測しますが実際はどうだったのでしょうか?
もしくは〜守とか地頭系の任官かも。
506人間七七四年:2009/11/27(金) 00:50:15 ID:IiICFUvM
基本的には守護代は守護の任命だが、将軍家が守護代人事に
介入する事もあった。
また、斯波家の甲斐氏や、土岐家の斉藤氏など、守護代ではあるが
将軍直臣、と言う家もあった。

室町幕府は、よく言えば融通が効く、悪く言えば原理原則が余り存在しない政府だった。
507人間七七四年:2009/11/27(金) 22:40:59 ID:r6dvUy32
>>501
越後守護代…長尾氏(守護:上杉氏)
佐渡守護代…本間氏(守護:上杉氏?)
越中守護代…神保氏(守護:畠山氏)
能登守護代…遊佐氏(守護:畠山氏)
加賀守護代…本折氏(守護:富樫氏)
加賀守護代…小寺氏・間島氏(守護:赤松氏)
越前守護代…甲斐氏・朝倉氏(守護:斯波氏)
上野守護代…白井/総社長尾氏(守護:上杉氏)
武蔵守護代…大石氏(守護:上杉氏)
遠江守護代…甲斐氏(守護:斯波氏)
尾張守護代…織田氏(守護:斯波氏)
美濃守護代…斎藤氏(守護:土岐氏)
飛騨守護代…多賀氏(守護:京極氏)
近江守護代…多賀氏(守護:京極氏)
近江守護代…目賀田氏(守護:六角氏)
河内守護代…遊佐氏(守護:畠山氏)
和泉守護代…松浦氏(守護:細川氏)
紀伊守護代…遊佐氏(守護:畠山氏)
摂津守護代…薬師寺氏ほか(守護:細川氏)
讃岐守護代…安富氏・香川氏(守護:細川氏)
阿波守護代…三好氏(守護:細川氏)
丹波守護代…内藤氏(守護:細川氏)
丹後守護代…延永氏(守護:一色氏)
伯耆守護代…南条氏・進氏(守護:山名氏)
出雲守護代…尼子氏(守護:京極氏)
播磨守護代…浦上氏(守護:赤松氏)
備前守護代…浦上氏(守護:赤松氏)
備中守護代…石川氏・庄氏(守護:細川氏)
周防守護代…陶氏(守護:大内氏)
長門守護代…内藤氏(守護:大内氏)
豊前守護代…杉氏(守護:大内氏)
筑後守護代…田原氏(守護:大友氏)
508人間七七四年:2009/11/27(金) 22:45:06 ID:r6dvUy32
ぱっと調べた感じなんで、これを元に調べるといいんでないかいな
一応15世紀中のものが大半で、ごく一部に1510年代がある
守護代にしぼったサイトはさすがに知らんので、参考までに
自分で調べるときはちゃんと論文や諸史料で裏を取って頂戴
509人間七七四年:2009/11/28(土) 00:27:08 ID:FO9RlrfP
>>508
おお、ありがとうございます
510人間七七四年:2009/11/28(土) 00:54:57 ID:zp6qLNeM
「守護代」は在京している守護の代わりに、任国の統治を担当していたのではない。
守護代とは守護の執事であり、守護と共に在京し、守護を補佐するのが主な任務であった。
江戸期で言えば江戸家老のような存在。

実際に在国していたのは、「守護又代、小守護」などと呼ばれた
守護代のさらに下の官。
511人間七七四年:2009/11/28(土) 01:00:26 ID:Pl9KTwHz
何その別当代とか課長代理補佐みたいな
512人間七七四年:2009/11/28(土) 09:50:40 ID:Urp4ZeVf
質問します

一石とは、現在の日本円に換算するといくらぐらいなのでしょうか?
また、家臣や足軽の給料はいくらぐらいだったのでしょうか。

よろしくお願いします。
513人間七七四年:2009/11/28(土) 10:14:58 ID:zp6qLNeM
>>512
一石=1000合
米1合が約150グラム
今のブランド米の買取価格が平均して、一俵(60キロ)で12000円くらいだと言うので、
1合が30円
30×1000=30000

つまり現在の米価で換算すれば一石が3万円となる。
と言うことは、100万石は三百億円の収入。正直、余り大したことも無いな。
514人間七七四年:2009/11/28(土) 10:45:46 ID:BxsFRTwK
>>512
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_faq.htm
上記のHPでも言われてるけど、
米価は江戸初期と明治初期で20倍もの価格差があるから、
米価基準は正直、あまり参考にならないと思うぞ。
戦国末期に米が貨幣みたいな扱いされていた特殊性も考慮すべきだしね。
515人間七七四年:2009/11/28(土) 11:03:29 ID:uLZdtVGe
>>513
米の価値が違う。
「値段の日本史」によると戦国時代は1石=10万円
例えば500石取り(知行とは違う)なら総収入5000万円。
配下数人+賄い人3人ほどに給金2000〜2500万円払って
残り2500〜3000万円で、馬、武具と衣食住で家族を養うわけだ。
516人間七七四年:2009/11/28(土) 18:44:02 ID:M/hlBiCE
武将の名前の中にある『○○守』っていうのは朝廷または室町幕府から貰った
官位なのでしょうか?

またそうだとしたどういう基準で決めているのでしょうか?

徳川家康の『三河守』とかはまだ分かるんですが(本拠地だし)
明智光秀の『日向守』とか・・・

日向は現在の宮崎県ですけど、光秀自体は日向とは何の縁も無いですよね?
517人間七七四年:2009/11/28(土) 18:48:44 ID:Pl9KTwHz
質問限定の俺でも、朝廷の官位は(形式上は)朝廷からもらうものだというのはわかる。
自称してた人もいたかもしれんが。

で、どういう基準で与えられてたのか教えて詳しい人。
518人間七七四年:2009/11/28(土) 19:28:39 ID:gegrPVDe
下賜された惟任の姓と関係あるのかな?
なんか九州縁の姓だってどっかで見たことあるけども。
519人間七七四年:2009/11/28(土) 19:39:44 ID:/gpMLN7B
大名自身は支配の正統性や侵略の大義名分のために献金して官位を貰ったりしてたが、
大名以外はほぼ自称と思った方が正しい。
家臣団まで正式に任官してたのは、保守系の大内家と
京の支配者で公家との交流も多い三好家や織田家くらい。

与えられる規準は、過分でなければ求められたものをそのままあげてたんじゃないかな。
日向守・筑前守の任官や惟任・惟住の賜姓はいくつか説があるね。
将来の九州侵攻を意図してとか、最終的な領土配分の構想とか、
東国の勢力にすでに九州まで支配してると思わせる策略とか。
(最後のはねーよと個人的には思うが)
520人間七七四年:2009/11/28(土) 21:59:43 ID:qwa0hmAq
家臣の任官が承認されたケースはそれほど知られていないが、
織田や三好の他にもある。大名が任官されると同時に授かった家臣とか、
上洛や献金の際に昇格した家臣たちはそのケースに当てはまると考えていい。
521人間七七四年:2009/11/29(日) 00:31:23 ID:ELojTUSg
長男なのに三郎五郎、二郎三郎、藤次郎などと名乗るのは何故?
家康(二郎三郎)の場合代々受け継がれてきた名称らしいが
他のもそうなのですか?
522人間七七四年:2009/11/29(日) 01:47:43 ID:iS/tQYS7
>>519
自称ってことは、ある家の家臣が別の家の家臣と同じ官位を名乗っちゃってた、みたいな
こともあるのかな?
523人間七七四年:2009/11/29(日) 01:54:36 ID:VRoN2tnx
伝統とか融通とか。

家の祖が八男(八郎)だと、
その長男が代々八郎を名乗ってみたり、
その次男は九郎を名乗ってみたり、三男以降一番初めに戻って太郎、次郎・・・となってみたり、
ひねくれものは次男を八郎次郎とか名づけちゃったり、
ずーっと時代が下れば新八郎にしてみたり、
まあ、色々です。
524人間七七四年:2009/11/29(日) 01:54:40 ID:uRg4LvjV
>>522
なんぼでもある。
例えば武田家の板垣信方と北条家の大道寺政繁は同時代の武将だが、
同じ駿河守。
525人間七七四年:2009/11/29(日) 06:38:23 ID:vW55gTdV
>>520
織田は三郎、長男は六郎が代々伝わる仮名。
御家を興した祖先がその仮名だったことにちなむことが多い。
526人間七七四年:2009/11/29(日) 10:50:56 ID:SEEX3E65
自称官位は仕える大名からもらうんだけど、
その大名の「あの国欲しいな、自分の領土だったらいいな」
という希望の現われ。
527人間七七四年:2009/11/29(日) 11:42:13 ID:b5bJ0qXa
位階があって初めて任官されるもの。
僭称や受領名だと位階が無いからすぐばれる。

なんですぐバレル嘘をつくんだとつっこまないこと
528人間七七四年:2009/11/29(日) 14:12:38 ID:iS/tQYS7
少納言とか式部大輔とか兵部少輔とかなら数があるから僭称してもばれにくいだろうに…
いやそんな官位僭称して何の意味が?って言われたらそれまでだけど。
てか京官は不味いのか。当時も誰か公家が就いてただろうから。

そういや渋江政光の通称が内膳だけど、あれも僭称なんだろうか?
529人間七七四年:2009/11/29(日) 14:37:45 ID:SEEX3E65
内膳は正式には宮内の食事の取り仕切り頭だが、
渋江政光のような場合、家中の兵糧・食料担当のトップということで、
宮内の役職名で呼ばれた。
まあ一種のかっこつけだ。
弾正なんかも大勢名乗っているが、これも朝廷の治安担当という意味で、
武士にはあこがれの役職で、家中の目付け役が名乗ることが多い。

と記憶してる。
間違ってたら訂正してくれ。

530人間七七四年:2009/11/30(月) 16:05:36 ID:8x5RokDC
質問。
大名の名前で「○○守」というのを見ますが、全て昔の国名
かと思っていたら先日「ウタノ守」というのを知りました。
大名が大勢になって国名が足りなくなってのことですか。
又、「ウタノ」って何ですか。
531人間七七四年:2009/11/30(月) 16:17:30 ID:6pwbTB9p
>>530
それは「ウタノ守」じゃなくて、「雅楽頭」(うたのかみ)

雅楽寮の長官で従五位上相当の官。
国司とは違う。
532人間七七四年:2009/11/30(月) 16:17:55 ID:SE3K3beG
〜かみの部分は守で間違いない?
同音の雅楽頭(うたのかみ)という官職があるけどそれではないだろうか。
ちなみにこれは雅楽の演奏と奏者の養成を担当する治部省下の機関ね。
533人間七七四年:2009/11/30(月) 17:17:12 ID:qs9UkTC1
当て字で「ウタノ守」とされる可能性はあるね。
兵庫頭を兵庫守と誤記するケースもあるし。
534人間七七四年:2009/11/30(月) 19:10:09 ID:90JqhRN2
〜かみ は長官
〜すけ は次官

漢字は違えどな。
535人間七七四年:2009/11/30(月) 19:24:59 ID:LS2bBvhn
何故判官と主典をいれないんだ…
戦国時代だとあんまり出てこないけど、源九郎判官義経とか言うじゃないか。

てかじょう、さかんで一発変換出来なかったんだけど…
536人間七七四年:2009/11/30(月) 19:30:42 ID:6pwbTB9p
日本の四等官

長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)
537人間七七四年:2009/11/30(月) 21:38:30 ID:PNY5MyW4
そういえば、武家の官位に少納言の人って聞いたことないんですが、存在しなかったのですか?
538人間七七四年:2009/11/30(月) 21:59:34 ID:wl/0ssFU
>>537
昔は要職だが時代を経ると共に蔵人が職務の大半を行っていたため、誰もつかないような閑職だったそうな
公家自身が使わないのだから僭称しようもないし、与えられることもなかった

ついでに江戸時代なら、武家は員外官(定員以外の任官。公家の官位の邪魔にならないようにするため)でなくてはならないが、
権少納言が存在しないので任官もなし(平安時代には合ったらしいが、江戸の頃はなくなってる)。
539人間七七四年:2009/11/30(月) 22:16:58 ID:PNY5MyW4
>>538 早速の解りやすいレスありがとうございました。 皆さんよく歴史をご存知ですが、どのような本を読んでるんでしょうか〜。ちょっと気になりました。
540人間七七四年:2009/12/01(火) 00:30:45 ID:rEu2Zko3
>>516
明智光秀に下賜された「惟任日向守」は、惟任日向守惟基にちなんだものと思われる。

官位僭称なら、斎藤正義や姉小路自綱の大納言僭称が最大かな。
541人間七七四年:2009/12/01(火) 02:48:10 ID:O/sWybm1
大納言を勝手に名乗るのはただの笑いものだけど
雷神を切ったと妄言を吐くとみんなに尊敬される。
同じうそつきでも評価が全く違うよな
542人間七七四年:2009/12/01(火) 08:24:50 ID:a6gBvP7J
>>531>>532>>533さん ありがとうございます。
自分の知識教養の無さを痛感しました。

ついでの質問で申し訳ありませんが御願いします。

「琉球守」と「蝦夷守」が無いのは、当該地は外国の
認識だったからでしょうか。
543人間七七四年:2009/12/01(火) 09:57:09 ID:rvKwpIBO
>日向は現在の宮崎県ですけど、光秀自体は日向とは何の縁も無いですよね?

信長の戦略の一つ
反信長の島津に対して光秀を日向守、秀吉を筑前守にして牽制した
544人間七七四年:2009/12/01(火) 11:32:26 ID:d7K69jqd
反信長とはいってもいろいろ交流はあった。
家久が1575年に上洛した時の接待役は光秀。
このとき光秀は惟任日向を名乗っていたから、信長の外交政策のひとつかな?
この頃島津は将来織田が九州に勢力を伸ばした時、どうするつもりだったんだろうと?
家久が義久に当てた手紙には織田に対する敵対心は全く見られない。
545人間七七四年:2009/12/01(火) 13:07:42 ID:C3NYlFdz
「センゴク」という漫画にて、火繩銃の火線が十字に交錯する地点に敵を誘い込む
「殺し間」という用兵を明智光秀が得意としていました。

史実でも明智光秀に限らず、このような用兵は行われましたか。
また、行われていたとしたら、どのような名称だったのでしょうか。
546人間七七四年:2009/12/01(火) 13:10:02 ID:ukZVi8Bv
>>542
Yes
だが、琉球に関しては亀井琉球守がいる
これは秀吉にお願いしてOK出たので僭称というわけじゃないんだが
当時琉球守自体が存在しないから、架空の官位を名乗ったというところ
亀井さんはこのあと台州守も名乗っているので逝っちゃってる人ですなw
モラトリアムなんぞ実施したい傍流の亀井さんはどうなることやら
547人間七七四年:2009/12/01(火) 14:00:12 ID:d7K69jqd
>>545
誘い出して十字砲火というのは第二次上田合戦で真田も使った。
大掛かりなものでは、釣野伏を完成させた耳川の最初の一撃。
548人間七七四年:2009/12/01(火) 14:45:42 ID:a6gBvP7J
>>546さん。
ありがとうございました。 勉強になりました。
549人間七七四年:2009/12/01(火) 16:44:39 ID:Klg78ApQ
>>545
喰違・枡形虎口の考えをそのまま野戦に持ち出しただけだと思う。
まあ長篠の特徴の一つは大規模野戦陣地の構築でもあるので、
野戦に攻城戦を持ち込んだって点では同じ発想。
550人間七七四年:2009/12/02(水) 07:45:26 ID:qocBvYfa
伊勢盛時と大谷吉継の家紋は、あれ同じですよね?対い蝶。

知人が「別物」とか言い出したので自信なくなった。
551人間七七四年:2009/12/02(水) 12:56:04 ID:vaU9PSUW
>>550
同じです(見た目)
552人間七七四年:2009/12/02(水) 13:55:59 ID:8vr1I7ew
史実に百合というかレズな人物っています?
553551:2009/12/02(水) 15:04:17 ID:vaU9PSUW
>>550
ごめんごめん、いいかげんなこと言っちまった。
ウェブ上で見つからないので、持っている本を見たら違うものだったよ。

・頭の形:大谷は素直な楕円、早雲はなにかビロンとしたものが右は下に、左は上に伸びている。
・羽の模様:「((○みたいなものの数」が大谷は2個、早雲は3個。
・触覚の曲がり具合。
・胴体:大谷はくびれがある、早雲は胸から尾まで同じ太さ。

で、大谷のは普通に「対い蝶」早雲のは特に「北条対い蝶」とよんでいる。
詳しくは本買って観てくれ。
554人間七七四年:2009/12/02(水) 16:56:35 ID:F9SVT6nX
まあ伊勢平氏の紋だわな
555人間七七四年:2009/12/02(水) 18:57:23 ID:uxFNImPd
質問。
「佐久間信盛追放理由」 と 「手取川の羽柴秀吉離陣事件」
を比べたとき、戦の直前にも係わらず離陣した秀吉の方が罪が
重いと思うのですが、何故しばらくして復帰できたのですか。

又、ドラマや映画では 信長公は猜疑心が強く残酷なイメージで
描かれていますが、部下に対しては追放や蟄居や初回の謀反反抗
は許したり、意外と即刻死罪は少ないように思います。
もしかして、本当は優しく寛容な方だったのですか。

最後に、秀吉のあだ名は「サル」ではなく「六つ」というのは
本当ですか。
556人間七七四年:2009/12/02(水) 19:00:43 ID:O9ob+lqd
>>555
前者についてのみ言いたいんだけど、罪に対しての罰は罪の重さだけで決まるもんじゃ
無いと思う。
当時の信長にとっての佐久間信盛の価値と羽柴秀吉の価値が違ったってだけかと。
勿論それだけが理由じゃないだろうけど。
557人間七七四年:2009/12/02(水) 19:06:44 ID:F9SVT6nX
>>555
> 「佐久間信盛追放理由」 と 「手取川の羽柴秀吉離陣事件」
> を比べたとき、戦の直前にも係わらず離陣した秀吉の方が罪が
> 重いと思うのですが、何故しばらくして復帰できたのですか。

簡単に言えば佐久間が処分された時は、彼の担当していた大阪戦線はもう決着が付いていて、
佐久間がいなくてもどうとでもなったが、
離陣事件の時の秀吉が担当していた中国戦線は未だ進行中で、秀吉を処分した場合
その影響が大きかったから。

あと、何でもかんでも直ぐ殺すのは「残酷」ではなく「キチガイ」と呼ぶべきもの。
信長はそう言うキチガイではない。ただ、信長は治世者と言うレベルにおいて、
「残酷」であり「猜疑心が強」かったのも確かだろう。
信長が死んだら、秀吉も含めた信長の家臣たちが一斉に
「信長公は疑い深く心が狭かった」と発言している。

秀吉のあだ名は知らん。多分指が6本、って話からのものだろうけど、
そんなもの、サルってのも含めて本当はどうかだったなんて確かめようも無い。
558人間七七四年:2009/12/02(水) 19:20:43 ID:kL0V0Lc9
>>557
秀吉が播磨に派遣されるのは手取川の後。
ある意味、「功を樹てて罪を雪げ」という懲罰の側面もあった。

佐久間折檻状にも「この上はさらに奮闘して功を上げるか、さもなければ全てを捨てて高野山へ行け」
というもので、見方によれば、秀吉と同じことを要求している、とも言える。
559人間七七四年:2009/12/02(水) 21:14:19 ID:HioiEtph
あだ名が「六つ」だったってのは何に書いてあったのか教えて欲しいな。
出来れば引用文つきで。
560人間七七四年:2009/12/02(水) 21:39:13 ID:tE2M1t1H
中務大輔って何って読むんですか?
なかつかさだいゆう?
561人間七七四年:2009/12/02(水) 22:05:57 ID:Vq5wZ1+Y
つか利家とか指を切り落とした方がいいよとか親切に言うトコとか秀吉的には「ふざけんな痛ぇよ」だろうな。
562人間七七四年:2009/12/02(水) 22:08:03 ID:jPRL1/Gx
秀吉のアダナというと、信長が禿鼠、京都の町民がサル、ぐらいしか知らんなぁ
禁教令発布後に宣教師が六ツとか呼んでもおかしくなさそうだな
563人間七七四年:2009/12/02(水) 22:08:23 ID:U/jJk9av
>>560
なかつかさだゆう
564人間七七四年:2009/12/02(水) 22:14:57 ID:HFBPNpGb
なかつかさたいふ

秋月中務大輔文種 古処山城主
草野中務大輔鎮永 鬼ヶ城城主
草野中務大輔鑑員 発心嶽城主

565人間七七四年:2009/12/02(水) 22:25:09 ID:tE2M1t1H
>>563-564
ありがとうございます
で、どっちですか?(;´Д`)
両方とも正解?
566人間七七四年:2009/12/02(水) 22:32:54 ID:U/jJk9av
>>565
んーぐぐったらどっちも出る
でもたいふの方が多いからたいふなんだと思う
567550:2009/12/02(水) 22:48:19 ID:M9OV2Cz7
>>553
どうもありがとう。
言われなきゃわからない。これ間違い探しのレベルだね。
568人間七七四年:2009/12/02(水) 23:06:10 ID:HFBPNpGb
大夫・太夫=たいふ、たゆう、だゆう
569人間七七四年:2009/12/02(水) 23:18:06 ID:tE2M1t1H
>>566-568
ありがとう
どっちも正解みたいだけど、タイフが一般的なのかな
570人間七七四年:2009/12/02(水) 23:30:51 ID:F9SVT6nX
>>567
盛時の伊勢氏は、分家の備中伊勢氏だった事が係わるんじゃないかね?
571人間七七四年:2009/12/02(水) 23:49:20 ID:HioiEtph
あまり知られてないが、秀吉の指は若い頃に切り落としてるよ
572人間七七四年:2009/12/03(木) 09:55:23 ID:RvpUTdEB
>>556 >>557 >>558 >>559 >>561 >>562 >>571 さん
ありがとうございます。 勉強になりました。
秀吉公の「六つ」のあだ名ですが、友人からその話を
聞き早速 「秀吉、あだ名、六つ」 でヤフー検索したら、
以外と多数ヒットしたので質問した次第です。

皆さん ありがとうございました。
良いお年を お迎え下さい。

573人間七七四年:2009/12/03(木) 11:07:07 ID:Wpuk3mXf
戦国時代の武士が話してることを、現代の人が聞けば、何を話してるのか理解出来るのでしょうか? 昔の文章を見ると、何を書いてるのか全然わかりませんが…
574人間七七四年:2009/12/03(木) 11:57:06 ID:WiyO50KF
>>573
君だって、書き言葉や話し言葉が一致していないでしょ?
例えば友人知人に書くメールと、社会で得意先や上司に出すメールでは書き方も文章も違うでしょ。
話す方だって同様。

それといっしょ
文章が読みづらくても、話し言葉まで難しいとは限らない。
575人間七七四年:2009/12/03(木) 12:07:37 ID:Wpuk3mXf
>>574 何を話してるのか理解出来ると考えて良いんですね。 ありがとうございました。
576人間七七四年:2009/12/03(木) 12:32:09 ID:BagW00t0
方言に死ねるよきっと。
577人間七七四年:2009/12/03(木) 13:57:10 ID:sDfQ0fZJ
>>575
逆に理解しづらいと思うよ。
書き言葉というか文書は書式書礼で決まりがあるので、地方が異なっても読解は出来る。
しかし口語は言語にもよるが基本的に変化しやすい。だからこそ方言がそれぞれに発達する。
まあ、意思疎通が図れないほどかけ離れているとも言えないけどね。
578人間七七四年:2009/12/03(木) 14:09:58 ID:wLHU0Ls8
>>577
方言をなめないほうが良い。
地方在住の明治生まれのジジババと話す時、会話が成立しないことがある。
579人間七七四年:2009/12/03(木) 15:05:11 ID:dFRAgMbK
>>578
それは言語不明瞭だから
580人間七七四年:2009/12/03(木) 19:42:31 ID:EPnbP4lG
戦国時代の動員人数ってかなり誇張があるように思えます
たとえば三河すら統一していない松平清康が1万人動員したとか無茶な話だと思います。
合戦の動員戦力などを検証しているスレがありましたら教えてください。
581奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/03(木) 20:00:54 ID:qyhW60Yk
そういえば以前はあったような気が。新しく立てたら如何か。
582人間七七四年:2009/12/03(木) 20:04:28 ID:EPnbP4lG
それはうれしい情報です。スレタイとか覚えてますか?
キーワードがわかれば過去ログを調べてみますが。
583人間七七四年:2009/12/03(木) 20:07:20 ID:BagW00t0
戦闘員は動員数の1/3以下と言われているね。
んで補給部隊を襲えば、大将が離脱するやつは斬るなんて言ったところで、軍隊はほぼ確実に離散崩壊する。
584奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/03(木) 20:17:01 ID:qyhW60Yk
>>582

ごめんなさい。板違うわ現存するわ盛り上がってないわ。
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1210524233/l50
585人間七七四年:2009/12/03(木) 20:20:26 ID:EPnbP4lG
>>584
ありがとうございます。難民板なんてあったんですね。
戦国時代板にも立ててみます。
586516:2009/12/03(木) 21:49:08 ID:rf0Zbaek
>>540さん、>>543さんを初めとして、
官位に付いての回答皆さんありがとうございました。

家紋に付いての質問なのですが、

織田家の『織田木瓜』と徳川家の『葵』は似ていますが偶然でしょうか?
587人間七七四年:2009/12/03(木) 21:52:07 ID:hjHTzJBv
588奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/03(木) 21:53:36 ID:qyhW60Yk
家紋に絡む数字ってのは何らかの意味を内包させられてるよな。
589人間七七四年:2009/12/04(金) 03:37:08 ID:OTtciomL
>>543は釣りだろw
590人間七七四年:2009/12/04(金) 11:32:56 ID:quMg+BhC
>>552
いたことは確実。
確率の問題にすぎないので。
しかしそれを史書に書いて後世に伝え続けるかというとはなはだ疑問。
591552:2009/12/04(金) 15:47:39 ID:PmRXEfGR
>>590
おお!まさか答えてくれる人がいたとは!!ちょっと感動しますた・・。
やっぱり「こういう人物がいた」みたいな事は分からないですよね。
592人間七七四年:2009/12/04(金) 16:57:47 ID:rAiR0wW/
歴史上の人物なら、実証されたわけでもなんでもないが清少納言と、
清少納言が仕えた中宮定子が百合関係だった、と言う説は一応ある。
593人間七七四年:2009/12/04(金) 17:57:33 ID:gq16K9Q6
愛姫と喜多
594人間七七四年:2009/12/04(金) 18:08:40 ID:DCe0bPeu
>>589
お前が釣り
595人間七七四年:2009/12/04(金) 18:41:06 ID:N4MMBIKm
一番槍の武士は、討ち取られても賞は貰えるのですか? 単騎で敵に突っ込むから、討ち取られる可能性が高かったと思いますが…
596人間七七四年:2009/12/04(金) 19:48:28 ID:V7EwplfT
>>595
貰える、「家」に対してね。
逆に言えば勇士に対してちゃんと遇さないと、誰も命を懸けて戦ってくれなくなるからね。
597人間七七四年:2009/12/05(土) 12:37:19 ID:oI1e1TE4
>>595
一番槍と一番乗りとは違うぞ
598人間七七四年:2009/12/05(土) 14:08:49 ID:ff4qwI1a
討ち死にした際の家督継承を認めてやることが褒美だったりする
599人間七七四年:2009/12/05(土) 15:52:10 ID:+7/Rvd2t
ウィキペディアには一番槍のほかに一番太刀もある、って書いてあるけど、
一番鉄砲とか一番弓もあったのかな?
600人間七七四年:2009/12/05(土) 16:24:18 ID:YfJTeRsl
一番首ってのもあるね
基本的に弓鉄砲は手柄として認められることは少ないな
601人間七七四年:2009/12/05(土) 16:25:24 ID:YfJTeRsl
↑あくまで個人の手柄としての話ね
602人間七七四年:2009/12/05(土) 18:51:45 ID:Kq10kdZA
よく合戦前のシーンで、単騎で敵陣に向かって、あっさり鉄砲で討ち取られるみたいなのがあるけど、本当にあったのかな? 無駄死ににしか思えない。
603人間七七四年:2009/12/05(土) 18:55:25 ID:irZ/5Kbc
>>602
状況による。
まあこの時代の鉄砲の、対処までかかる時間や命中率を考えれば、
現代の人間が思うほど無謀な事でもないが。
604人間七七四年:2009/12/06(日) 07:20:07 ID:4l/W2DqT
将軍が政治を司る法的裏付けが良くわかりません。軍事司令官がなんで政治するの?
摂政とか関白とかは何してたの?
605人間七七四年:2009/12/06(日) 08:03:20 ID:Gm9BLEDa
>>604
武家は戒厳令が常態化していると解釈させてるんじゃないの?
606人間七七四年:2009/12/06(日) 08:37:55 ID:4l/W2DqT
>>605
平安末期に戒厳令とか夜間外出禁止令とか憲法停止とか非常事態法があったの?
607人間七七四年:2009/12/06(日) 08:42:20 ID:dPNhTZig
>>604
「権門体制論」と言うのを調べなされ。それで大体解る。
608人間七七四年:2009/12/06(日) 09:36:43 ID:ZG9eRtHq
朝廷から頼朝がもらったじゃん
609人間七七四年:2009/12/06(日) 12:53:59 ID:LCYtw1z+
>>604
>摂政とか関白とかは何してたの?
摂関家だけでなく公家は文化や古典の伝承に特化していた。製本(出版事業)はずっと行っている。
荘園は殆ど無くなっているから、大名の家庭教師と官位奏上の手数料などで収入を得る。
信長や秀吉が公家の官位に応じた知行(300石〜1000石)を与えるまでは
スポンサーの大名(朝廷へのコネ確保)の所に居ることが多く、京にはあまり住んでいない。
610人間七七四年:2009/12/06(日) 14:51:40 ID:NkLVE9TN
関が原の戦い
慶長出羽合戦
文禄・慶長の役
本能寺の変
応仁の乱

戦い、合戦、役、変、乱の違いは何だろう?
遠征は役、謀反は変っていう感じはするけど
611人間七七四年:2009/12/06(日) 14:54:26 ID:Gm9BLEDa
役は、公権力が主導するもの。
変は、クーデター。
乱は、挙兵して上位権力に逆らうこと。
612人間七七四年:2009/12/06(日) 17:00:58 ID:IIeFK+zN
役は戦争
戦いは戦闘だと思ってた
小牧の役、長久手の戦いみたいな
関ヶ原は戦役全体か、関ヶ原の本戦か区別する気すらないような感じだけど
613人間七七四年:2009/12/06(日) 19:12:03 ID:NkLVE9TN
>>611
ありがとう
なるほど、納得した
614人間七七四年:2009/12/06(日) 19:13:58 ID:NkLVE9TN
そう言えば、大阪冬・夏の陣は、どうして「陣」なんだろう?
大阪の役とも言うけど、陣が一般的な気がする
615人間七七四年:2009/12/06(日) 19:16:02 ID:dPNhTZig
>>614
小田原だって「小田原の陣」と言うよ。

城を大軍で取り囲む戦いを「陣」と言うのでは?
616人間七七四年:2009/12/06(日) 20:26:20 ID:QgRssCsf
秀吉の朝鮮征伐はあちらでは壬申倭乱だよ
617人間七七四年:2009/12/06(日) 20:34:32 ID:ZG9eRtHq
西郷の名誉回復のために神風連の乱や佐賀の乱と違い、西南戦争と格上げされていたりする。
征伐は非文明や蛮族に対する差別語なので朝鮮征伐や蝦夷政宗征伐の時に使う。
618人間七七四年:2009/12/06(日) 20:44:57 ID:vdUqlV/z
>>611
うん、勉強になった。

ってことは、恵美押勝は"乱"でいいのか…
619人間七七四年:2009/12/06(日) 20:57:05 ID:LCAGwDjZ
西南戦争は単に規模の問題だろう
620人間七七四年:2009/12/06(日) 22:46:35 ID:ZG9eRtHq
そもそもロシアとの戦争を前に日本内部対立解消を名目に勝海舟の働きかけによって朝敵西郷の名誉回復がなされたのがきっかけ。
621人間七七四年:2009/12/06(日) 22:58:24 ID:QgRssCsf
>>620
いやそれは弟の従道が働きかけたんだよ
622人間七七四年:2009/12/07(月) 00:31:09 ID:lAxouRbB
義胤顕綱政詮景忠秀元
戦国武将にはこういう漢字が多いのはなぜ?
623人間七七四年:2009/12/07(月) 01:06:56 ID:w+S5aK3e
戦国時代にそういう諱が多いのは、やっぱり偏諱の一字拝領が常習化したせいだろうね
最初の人がどうしてそういう名前を付けたのかは分からんけど
624人間七七四年:2009/12/07(月) 01:43:25 ID:HoGJLdDD
義:これは足利将軍の通字なので、将軍から下賜るれた例が多い
胤:桓武平氏の通字の一つ。特に千葉氏。
顕:坂上田村麻呂子孫の通字の一つ。
綱:渡辺綱系源氏子孫の通字の一つ
詮:斯波氏の通字の一つ
景:桓武平氏通字の一つ
元:細川京兆家の通字

後はまあ、個々に理由はあるが、流行みたいな感じ




625人間七七四年:2009/12/07(月) 02:18:06 ID:lAxouRbB
わかりやすい例
ありがとうございます
626人間七七四年:2009/12/07(月) 09:44:46 ID:gY0qzADd
江戸時代に描かれた 「○○の戦い」 などの絵を見ると、
武将の鼻の下部分のヒゲは中央部分は無くて左右のみ
生やしていますが、本当にあのようなヒゲスタイルだったのですか。
(湯漬けを食うとき汚れない?)
627人間七七四年:2009/12/07(月) 11:11:42 ID:PUKvmcYZ
>>624
11代足利義春は名前を押し売りしたらしいぞ。
義が1000貫文、晴が300貫文。
「そなたに義を与えようぞ、これからは義久と名乗るがよい」
「(ええっ!迷惑だな・・・)はは!ありがたき幸せw」

「そなたには晴を与えよう、晴信と名乗るがよい」
「(まあ、しゃあないか・・・)ははっ、名誉この上なしと存知まする」
628人間七七四年:2009/12/07(月) 11:20:38 ID:PUKvmcYZ
あちゃ 足利義春⇒義晴だね
629人間七七四年:2009/12/07(月) 11:44:00 ID:lAxouRbB
>>627
金とるんですか!しかも高いw
630人間七七四年:2009/12/07(月) 12:00:48 ID:PUKvmcYZ
普通は将軍家や管領家などと深く関係を持ったり、縁戚になったりするともらえたんだけど、
かなりの献上品を持ってきた時にも与えたという。
ただし、これらはあくまでも大名からの働きかけによる受身で、
義晴は、使者を方々の大名に派遣し積極的に売り歩いたということ。
631人間七七四年:2009/12/07(月) 12:25:43 ID:lAxouRbB
>>630
なるほど。
烈風伝のように寄付しまくって官位もらうタイプと
革新・天道みたいに公家が寄付を催促して官位もらうタイプみたいですな。
後者だとがめつい印象が強いですよね
632人間七七四年:2009/12/07(月) 15:27:31 ID:7ja05cwf
押し売りといえば、戦国期の天皇の誰かも書物とか絵とかを押し売りしてなかったっけ?
式微極まる様子の涙を禁じ得なかった。
633人間七七四年:2009/12/07(月) 22:51:13 ID:WFaVJwmt
>>617
西南戦争が明治期最大の内乱であったことには異論ないところだが、
実は軍の動員規模では西南戦争>>>>秩父事件>>>>佐賀の乱だった筈。
634人間七七四年:2009/12/08(火) 02:16:02 ID:V0S4zP4u
信長の野望では
筑前の所有者が1550年には大内、1555年は大友になっています
んで毛利が大内を滅ぼしたころは豊前も大友領になっています。
たしか大内義隆のあとを付いだ大内義長は大友宗麟の弟ですよね?
ということは大内義隆や義長の死のどさくさに紛れて大内領に大友が攻め込んでいたのでしょうか?
もしそうなら父子や諏訪や今川ら縁者をを裏切り続けた武田信玄なみに大友宗麟は身内に容赦ないですね。
血縁をみると大友義鑑と大内義隆は義兄弟、義長は大友宗麟の実兄弟
その大内当主が攻められているなら助けるのが筋ではないでしょうか?
635人間七七四年:2009/12/08(火) 02:53:54 ID:KyVP8JRB
元就が大内義長を攻めるに当たり、大友宗麟と密約を交わしたとは聞くな。

まあでも、戦国だから仕方ない。
636人間七七四年:2009/12/08(火) 03:01:46 ID:HMi3oHHd
親子兄弟ですら血で血を洗うから戦国なのだ
637人間七七四年:2009/12/08(火) 03:15:35 ID:V0S4zP4u
>>635
>>636
ということは豊前のほうは毛利からの割譲ですかね。
俺が大友宗麟なら陶が厳島で死んだのをいいことに
弟(大内)を庇護下において全部併呑してしまうかな
638人間七七四年:2009/12/08(火) 03:47:21 ID:KyVP8JRB
>>637
それだけの力は大友にはない時期だったりする。
宗麟が二階崩れの変でドタバタしつつ家督継いで二年くらいだし、
毛利が防長の経略に時間がかかったのと同様、
豊前・筑前の平定にも毛利のちょっかいもあって結構な時間がかかってる。
とてもじゃないけど1555年にいきなり関門海峡を超えて進出できるだけの力はない。
639人間七七四年:2009/12/08(火) 06:02:59 ID:V0S4zP4u
>>638
なるほど。二階崩れの変ってかなり影響があったんですね。
wikiを見ると

>義鑑の義鎮廃嫡については、義鎮の生母は公家の坊城氏の娘、あるいは大内義興の娘とも言われ、
>家中からの大内氏の勢力排除のために計画された事であるとも考えられている。
>二階崩れの変は、一般的には追いつめられた義鎮派の一部による暴走であると考えられているが、
>義鎮が影で動いていたとも言われている。

大友と大内は婚姻があるわりに河野の内乱に関与していたり必ずしも良好な関係ではなかったですよね。
もしかすると大内は義鎮側に加担していたかもしれませんね。
翌年の大寧寺の変で大内義隆は大友を頼ろうとしていますしそれなりの交流はあったのかも。
そうだとすると大友義鎮は大寧寺の変で後ろ盾を失った危機をうまくチャンスに替えたことになりますね。
640人間七七四年:2009/12/08(火) 06:53:52 ID:16VQ9zuP
むしろ外部の介入を阻止しやすいこの時期を狙った陶氏の慧眼が賞賛に値する。
641人間七七四年:2009/12/08(火) 07:17:22 ID:Cfl5BGZv
しかし大友から養子を迎えたことで大内家中内部で問題が起きてるわけで
642人間七七四年:2009/12/08(火) 07:47:25 ID:7CfvCiow
> 大友と大内は婚姻があるわりに河野の内乱に関与していたり
っていつ頃の話を持ち出してる?

そんなものがなくても大友と大内は殺ったり殺られたりが続いてるんだけど、
この時期に目立つ伊予への介入なんてあったでしょうか。
643人間七七四年:2009/12/08(火) 08:25:54 ID:uUa8o/x3
伝統的に大友はそもそも中国地方に興味ないよ。
しかも大内は北九州で拡大を狙ってきて大友とは基本的に対立状態。
大内が大友領の国人扇動やりまくりで大友領支配は常に不安定。
これらの扇動はのちに毛利も踏襲してるし、島津も北上にあたりやっている。
そもそも義長の大内入りに宗麟は「当主になったからと言っても結局は陶の操り人形にしかなれないから危険止めとけ」と反対してた。
義長は「男として大家を継ぐのは誉であり、どのような結果になっても後悔しない」と主張を押し切ってる。
陶の反義隆の挙兵はそもそも毛利の内諾を得てから挙兵してる。
しかし陶の石見遠征の大苦戦を知り、背後を突いて毛利は陶を裏切った。
そのために大友に「北九州はそちらに譲渡するので、大内を支援しないで欲しい」と同盟の密約を持ちかけた。
大友にしても北九州領…特に大内の力の源泉たる博多の富を手に入れられるのに断る理由なんてないから了承。
しかし周防長門の平定を終えると、大内領の継承を唱えて毛利はいきなり同盟を破って門司を奇襲し博多を目指すことになる。
緒戦においては圧倒的な水軍力で海上封鎖をして船舶補給力で毛利は優位に立つが、結局は失敗敗退する。
644人間七七四年:2009/12/08(火) 08:42:38 ID:uUa8o/x3
しかも宗麟は水軍力の重要さに気づいて、水軍育成に力を注いだ為に最後の戦いになった毛利の国東半島封鎖では、
大友水軍が毛利水軍を撃破して封鎖を打破してしまった。
たびたび毛利が和議を破って奇襲してきたが、
これにより大友水軍が毛利水軍よりも強くなるまでに成長したために大友と毛利の戦いはついに集結を迎えた。
この水軍力は対島津戦でも活躍し、
島津は大友水軍に制海権を握られ続け、湾岸部に接する宗麟の丹生島城や杵築城は補給を受け続けて落ちず、
逆に岡城や角牟礼城や栂牟礼城を軸に後方遮断を策せられて、
島津は疲弊と補給困難に追い詰められ、大友の各郡軍区の要衝は以前として健在なまま豊前の龍王城にいる当主義統までたどり着けない状況に追い込まれ、
持久策の前についに島津兵の離散が相次ぎ戦力が時間を経るにつれて急激な低下を迎え撃退された。
九州では水軍力が戦いを左右したと言える。
645人間七七四年:2009/12/08(火) 09:04:14 ID:FkvCPx/D
大友のスレでやれボケ!!
646人間七七四年:2009/12/08(火) 09:04:49 ID:uUa8o/x3
そう言えば350年後の官軍による薩摩征伐では
戦略を理解できない芋侍の島津は350年前のデジャブを繰り返して、長崎を得るために熊本城攻めに戦力集中した挙げ句に苦戦し、
相手にいたずらに時間を与え、
固執して落ちないとやっと理解すると、
今度は兵力分散をして見事に消耗大敗すると言う対大友戦の二の舞の愚を犯したね。
647人間七七四年:2009/12/08(火) 12:12:00 ID:P9AN6FMf
かなり泥縄的に始まった反乱だからなあ
648人間七七四年:2009/12/08(火) 16:40:35 ID:HMi3oHHd
ID:uUa8o/x3はいろんなところで暴れているキチガイ。
649人間七七四年:2009/12/09(水) 01:24:06 ID:NHngfiy9
大友水軍指揮官の若林鎮興はもっと評価されるべき。
650人間七七四年:2009/12/09(水) 01:50:16 ID:VIsuXyu+
秀吉に潰された大友が、どうして関ヶ原では西軍に付いたのだろう?
651人間七七四年:2009/12/09(水) 02:10:46 ID:1hQOzQ0N
カエサルに占領されたガリアだって内乱の時裏切らなかっただろ?
652人間七七四年:2009/12/09(水) 02:43:51 ID:q35lZYQ9
関ヶ原は徳川vs豊臣の戦い


ではなくて、豊臣政権内の権力争いだからな。
むしろこの時期の豊臣政権=家康だから、
非主流派の西軍についたのは必然とも言える。
653人間七七四年:2009/12/09(水) 03:06:59 ID:VIsuXyu+
>>652
関ヶ原軍記大成とか読むと、家康は大友義統に、大名復帰の内諾与えてた
みたいなんだよね。なのに西軍に付いたのが不思議で。
654人間七七四年:2009/12/09(水) 07:06:51 ID:MSB0zaoh
西園寺充実はなにが充実していたのでしょうか?
655人間七七四年:2009/12/09(水) 08:00:38 ID:t/R9rAv+
実際に三成が金をくれ、毛利が水軍を出して後援してくれたから。
家康はなーんにもしてなくね?
大友再興軍に参集した武将たちは家康に付けと主張してたらしいが当主自身が毛利に洗脳されてたからね。
毛利としたら伊予攻略へ派兵したりしてるから、背後の九州をかき回されたくないからね。
家臣が家康に付けと主張したってのも、当時西軍に付いた大名らのほとんどにあるエピソードだから本当かわからんし。
10人の家老のうち徳川に買収された1人が言うだけでも話は成立するわけで。
656人間七七四年:2009/12/09(水) 15:50:48 ID:FjkFlCvk
質問!その関ヶ原で毛利は何がしたかったんですか?
総大将に推されたのに大阪城から動かず、結局何もせずに領地だけ削られる
というバカみたいな結末。教えて下さい!
657人間七七四年:2009/12/09(水) 16:50:41 ID:VIsuXyu+
>>656

三成たち奉行集や安国寺の口車に乗って西軍に参加してみたが、いざ西軍に参画してみると、
その内情が余りにひどいのでこれでは家康に勝てないと(あくまで毛利として)判断、
その後毛利家存続をかけての家康との交渉に入った。
と言うことだろう。

ちなみに、領地を削られなかった島津と比較する人間がいるが、一参加武将に過ぎない
島津と、「西軍総大将」である毛利とはその立場が明確に違い、総大将である以上
毛利は関ヶ原の合戦に係わる責任を全て引き受けなければならないはずだった。
普通に考えて当主当人の切腹、軽くても領地没収であったはず。

それを、家康の側で、関ヶ原を『奉行衆の反乱』と矮小化してまで、
(一般の参加武将並に)改易だけはしたが、毛利は大名家として存続し、毛利家の中で
誰一人責任を取らされる者はいなかった。
これは吉川広家の戦略的勝利と言える。

「領地を削られたから駄目だった」というのは、評価が一面的過ぎる。
むしろ「西軍総大将なのに家が、しかも大大名として存続した」という面に、
積極的な評価をするべきだと考える。
トータルで見れば、毛利の方針は(例え消極的であっても)成功であったのだ。
658人間七七四年:2009/12/09(水) 18:01:21 ID:oLEi57YY
幕府成立後の話だけど、東海道筋の尾張藩はともかく、
なんで水戸と紀伊に家康の子を置いたんだろう?
紀伊は大阪への牽制にしては土地が貧しいし、水戸は奥州の
押さえというなら、宇都宮とかの方が良くない?
微妙に枢要な場所から外れている気が。
659人間七七四年:2009/12/09(水) 18:50:17 ID:y+JxuM/C
>>656-657
西国の覇権拡大を狙っていたと思われる。
関ヶ原当時の毛利は九州や四国をひっかきまわしていて盛りのついた犬みたいに積極的。
大坂を動かなかったのは腰抜けだからといわれるけど、本当は西に目が向いていただけじゃないかね。
660人間七七四年:2009/12/09(水) 19:57:31 ID:e06rtTXM
>>659
>関ヶ原当時の毛利は九州や四国をひっかきまわしていて盛りのついた犬みたいに積極的。
661人間七七四年:2009/12/09(水) 21:42:50 ID:t/R9rAv+
その内情があまりにひどいので家康に勝てないと判断←毛利厨の妄想だろこれ。
さんざん西軍として派兵しまくっておいて何寝言吐いてるんだ?
662人間七七四年:2009/12/09(水) 22:35:49 ID:RzL8PI6M
関が原の1日でケリがつく、なんて想像してなかったんだろうね。
応仁の乱は10年かかったわけだし。
>>659の言うように、西国を抑えてその先考えるつもりだったんじゃないのかな。
西を抑えた上で、天下はいらないから、そろそろ手打ちしよっかー、くらいの気分でいたのかも、TERU様
663人間七七四年:2009/12/09(水) 22:43:20 ID:iGCcrZAs
小牧長久手みたいな長陣になれば秀頼を抑えた輝はキャスティングボートになる
664人間七七四年:2009/12/09(水) 23:17:50 ID:VIsuXyu+
西軍は家康が赤坂に出現した段階でもう、完全に腰が砕けている。
小早川、吉川、脇坂らの内通は家康が出てきた瞬間に決定していた。

小早川が最初から東軍だと考えれば、関ヶ原の布陣において死地に入ったのは
西軍の方であり、例え戦術レベルで多少、見るべきところがあったとしても、
西軍は負けるべくして負けたと考えるべきだろう。
665人間七七四年:2009/12/10(木) 11:12:07 ID:l3m1mysg
領地をあれだけ大幅削減されるなら、いっそガチで戦って家康ヌッ頃して、
返す刀で治部もヤッちゃえばよかったのにねー。
>>658
水戸は佐竹氏の後で、江戸に近くて豊かな土地だからまだしも、紀伊は
わからんね。貧しい上に雑賀衆とかいて難治の地だったのでは?
あれ雑賀は滅びたっけ?
666人間七七四年:2009/12/10(木) 12:21:52 ID:Yp5t4QoF
一応ね。
ただ雑賀孫市の子孫は水戸藩家老だからなあ。
667人間七七四年:2009/12/10(木) 12:30:50 ID:73Z5sUML
牽制のためだろ。
敵軍が山陽道からやってきて大坂が落ちても紀伊山地で南朝みたいに粘れるからじゃないか?
そのうち江戸を中心に友軍が集まってくるまでの時間稼ぎ
和歌山が健在では大坂をゲットした敵軍も東進に不安を抱えるし、大坂湾を封鎖されても和歌山には船舶補給も可能。
うまくやれば和歌山と尾張藩で挟撃体制も取れる。
668人間七七四年:2009/12/10(木) 13:34:48 ID:ucq3P3J7
池田のところあたりのがどうみても豊かでいいよね
669人間七七四年:2009/12/10(木) 13:54:53 ID:0EUTMoG7
大寧寺之變前夜の頃の大内は大村や龍造寺や島津や大友を従えていたようですが、
肥後の相良氏も大内に従っていたのでしょうか?
それとも大内と相良は対等な同盟関係だったのでしょうか?
670人間七七四年:2009/12/10(木) 14:18:56 ID:5ZMiuXtN
相良氏と相良武任とは関係あるのかな
671人間七七四年:2009/12/10(木) 14:27:02 ID:MXmm6FBM
>>670
肥後の相良の一族だろ?
武任の親父が家督争いに敗れて筑後に逃れ、大内に身を寄せて家臣となった。
672人間七七四年:2009/12/10(木) 14:30:01 ID:5ZMiuXtN
>>671
へ〜。もろに関係あったのか
673人間七七四年:2009/12/10(木) 15:12:46 ID:wQr6adjG
>>672
陶がやばいと思って逃げ出したときは本家を頼ったじゃないのさ
674人間七七四年:2009/12/10(木) 15:19:57 ID:0EUTMoG7
少しぐぐってみたが相良は大内の傘下という形で明と貿易したっぽいな
1546年に義隆は相良晴廣に遣明船の準備を命じたらしい


ttp://www.m-network.com/sengoku/digest/kawagoe.html
675人間七七四年:2009/12/10(木) 16:41:49 ID:l3m1mysg
>>666
まあ加賀だって一向一揆の国で織田軍が虐殺やらかしたし、秀吉が利家を封じた
のは嫌がらせという説もあるのに、治水に励んで百万石だもんなあ。
>>667
ただ、他の二家と釣り合いが取れないのが不審。尾張も水戸も豊饒の地だが
紀州はお世辞にも豊かとは言い難い。
676人間七七四年:2009/12/10(木) 17:12:39 ID:YBN5hhdf
一族庶流が豊かになりすぎても危険なのではなかろうか
677人間七七四年:2009/12/10(木) 18:53:16 ID:l3m1mysg
>>676
そこはバランスだな。一族を優遇し過ぎて謀叛を起こされた例もあれば
一族を冷遇して、いざという時味方がいなくてアボーンという例もある。
678人間七七四年:2009/12/10(木) 19:29:13 ID:YBN5hhdf
>>677
そうですね。だからあれでうまくバランスが取れていたんじゃないかな。
679人間七七四年:2009/12/10(木) 22:10:29 ID:l+ig5U/r
真田幸村は本名の信繁で呼ばれることが少ないのは何故でしょうか?

680人間七七四年:2009/12/10(木) 22:18:57 ID:l3m1mysg
講談じゃない?
681人間七七四年:2009/12/10(木) 22:29:28 ID:Ko8GlMGU
>>679
明智光秀が惟任光秀で呼ばれてないのと一緒
682人間七七四年:2009/12/10(木) 22:34:23 ID:vj95kYP0
学問の分野では「幸村」の名を使う事は皆無。
683人間七七四年:2009/12/10(木) 22:43:57 ID:Ko8GlMGU
>>682
俺の高校時代の教師には「幸村」と教えられましたが何か?
684人間七七四年:2009/12/10(木) 22:47:47 ID:Yp5t4QoF
「学問」と「教育」は別だぜ。
日本史の先生が戦国時代の専攻とは限らん。
685人間七七四年:2009/12/10(木) 22:54:09 ID:Yyv0eOn3
いや、小中学校はともかく高校で幸村って教えてちゃまずいだろ。

でも普通高校で日本史取るか?
686人間七七四年:2009/12/10(木) 23:11:31 ID:5ZMiuXtN
摂津ので勢力をふるっていたのはどの大名家なのでしょうか?
信長の野望のように本願寺が一国支配していたのでしょうか?
でも一向一揆が支配していた国は加賀だったはず。
687人間七七四年:2009/12/10(木) 23:13:01 ID:5ZMiuXtN
ついでに、紀伊ですが鈴木重意って傭兵集団ですよね?
そんな程度の勢力の大名しかいなかったのでしょうか?
688奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/10(木) 23:15:54 ID:ZQhZLLhy
畠山という旧態依然とした領主がいることはいました。
689人間七七四年:2009/12/10(木) 23:28:53 ID:vj95kYP0
摂津の実質的な支配者は
畠山→細川→三好→摂津池田氏→荒木村重

こんな感じか。
本願寺は一国を支配したわけじゃなく、石山と言う都市を根拠地にしていたと
考えた方がいいかと。

あと、紀伊の最大勢力は、紀三井寺、高野山金剛峯寺、道成寺、根来寺などの寺社勢力。
690人間七七四年:2009/12/11(金) 00:32:26 ID:b02yI4Yu
>>688-689
サンクス
管領家を忘れてました。
摂津に関しては細川等を、紀伊は畠山を大名にして
坊主連中を諸勢力にしたら史実に近くなりそうですね。
691人間七七四年:2009/12/11(金) 00:37:52 ID:G9MyxG9H
>>689
畠山が摂津守護になったことなんてあったんだっけ?
畿内では河内と紀伊、あとは山城を抑えた時期もあった、位で。

摂津は戦国時代に入ってからだとずっと細川系の被官が揉めつづけてるだと思うんだけど。
細川の内紛が始まってからは長慶の最盛期を除けば摂津一円を一括支配できた人はいないのでは?
692質問:2009/12/11(金) 05:40:19 ID:K8hwB1Fb
ドラマなんかで武将たちやその家族が「家を守ろう」などと叫んでるけど、
家を守ってどうするんですか?
693人間七七四年:2009/12/11(金) 05:56:18 ID:s5sQ0j6w
>>692
祖先信仰、伝統、家職、歴史観を永続させる。
国を守ろう、みたいなもの。
694人間七七四年:2009/12/11(金) 05:58:02 ID:s5sQ0j6w
徳川時代になってイエ個別の歴史観より、全国共通の歴史観が優位になったから、明治維新は可能になった
695人間七七四年:2009/12/11(金) 06:30:38 ID:cBqAkqSd
戦国期の「家、御家」は、おおむね「家中」を指す。

「家中」とはその大名の家族、一族のことのみではなく、その大名権力を構成する
家臣団まで含めた共同体の事。
基本的に家が続く限り、家中はその家への忠誠等の義務への対価として、
家政への参政権を含む各種の権利を持つ。

つまり「家を守る」とは、その大名家を頂点とする、構成員の家族まで含めた
共同体組織、およびその秩序を守る、という意味合いで考えるといい。
例えば忠臣蔵で大石内蔵助が求めた「浅野家再興」は、最低限でも「家中」が存続できる
規模での再興の事。家中が存続できなければそれは「御家」ではないのだ。

まあ、ある面のみだが、今の言葉で言うと「会社を守る」に語感としては近いと思う。
696人間七七四年:2009/12/11(金) 07:34:13 ID:SCM4zS9p
殿は一代、お家末代。
697人間七七四年:2009/12/11(金) 09:26:35 ID:PVk/He1g
>>692
この場合の「家」とは家族やあるいは建造物として家ではなく、一族から家臣領地領民まで含んだ共同体のこと。

現代で例えれば、会社組織みたいなものだと思いねえ。
698692:2009/12/11(金) 18:17:49 ID:K8hwB1Fb
みなさんあざーっす
699人間七七四年:2009/12/11(金) 20:38:15 ID:XawkJTnN
寺や神社の役割って、今と変わりなかったんですか?大小あちこちにありすぎですよね?
700人間七七四年:2009/12/11(金) 20:41:48 ID:LoKkSbzH
>>699
少し前までは公民館みたいな使われ方をしていました
701人間七七四年:2009/12/11(金) 20:59:15 ID:cBqAkqSd
寺社の役割はそれぞれによって様々でもある。

村落の儀式、祭礼をつかさどる公共の場であったり、
領主として存在していたり
布教の場であったり、
公益事務所であったり、
役所であったり。

まあ江戸期以降は、いわゆる大寺以外は、祭礼の場+教育機関+役所の戸籍科、
ってな感じ。
702奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/11(金) 21:12:34 ID:AZLXcObs
>>700
その説明、オレにはとても分かりやすいけど若い人に通じるのだろうか。
703人間七七四年:2009/12/11(金) 22:10:22 ID:LoKkSbzH
最近は寺で町内会のクリスマス会とかはしなくなったからな
704人間七七四年:2009/12/11(金) 22:13:38 ID:b02yI4Yu
1551年に起きた大寧寺の変は守護代との争いで劣勢だった諸国の守護たちを落胆させた
という内容を聞いたのですが、この時期の守護は
すでに今川のように守護大名から戦国大名化していたり、
守護代に破れているのかとおもいました。
どういった守護家がこの時期でも粘っていたのでしょうか?
705人間七七四年:2009/12/11(金) 22:19:14 ID:l+rqurUG
江戸時代は戸籍を管理をして幕府の民衆支配の出先機関。
そんでそこの所属する僧は階級支配の徹底のために部落の人の墓には人名ではない漢字が刻まれ葬儀の仕方も差別したり。
4歳くらいで死んだ女の子の墓に獣とか書いたりしてたらしい。
だから墓を見れば差別されてたかわかるらしい。
個人情報保護法の真の目的は部落を探し出せなくするため。
あとは城の最外郭に位置してて有事の防衛施設になったりする役割。
706人間七七四年:2009/12/11(金) 23:43:23 ID:PVk/He1g
>>704
能登畠山家はイロイロと頑張ってたな。最後は悲劇で終わったけど。
あと播磨の赤松家も長く権力を保持して守護代と闘争を続けた。
707人間七七四年:2009/12/12(土) 03:19:03 ID:6iJQFgEK
三国志でいう正史、演義のように、戦国時代について知るならこれを読め!って本ありますか?
708人間七七四年:2009/12/12(土) 04:05:20 ID:DwFBCdhh
何をどう知りたいかにもよるが、そう言う古典的な通史なら、日本外史でも
読んでみてはどうだろう?
709人間七七四年:2009/12/12(土) 10:25:21 ID:rR/szRuh
>>706
若狭武田家も忘れないでやって下さい
710人間七七四年:2009/12/12(土) 14:05:04 ID:OfRAaOhb
>>709
若狭武田家は守護代破ってるだろ
若狭武田の凋落は頼りにしてた細川の衰退と後継者争いじゃね?
711人間七七四年:2009/12/12(土) 15:04:52 ID:Naq+bXe9
1550年頃の管領・守護家

安東:蝦夷管領
伊達:陸奧
上杉:關東管領
甲斐武田:甲斐、信濃
今川:駿河、遠江
斯波:尾張
畠山:能登、越中、河内、紀伊
富樫:加賀
朝倉:越前
京極:近江、飛騨、隱岐、壹岐
六角:近江
仁木:伊賀
若狹武田:若狹
細川:管領
一色:丹後
山名:但馬、因幡、伯耆
赤松:播磨、美作、備前
尼子:出雲
大内:周防、長門、石見、豐前、筑前
河野:伊豫
大友:豐後、筑後、肥後
有馬:肥前
島津:薩摩、大隅、日向
712人間七七四年:2009/12/12(土) 15:45:29 ID:zrgjAorn
朝廷の地方官 → 国司(特に守)
室町幕府の地方官 → 地頭・守護・管領
だけど、江戸時代の藩主には幕府としての役名は無かったの?(藩は明治以降の呼び名だし)
713人間七七四年:2009/12/12(土) 17:51:45 ID:rR/szRuh
言われてみりゃそうだな。国司という身分は「日本の土地はすべて国家のもの」
という律令制のタテマエを踏まえてるし、守護は警察権の行使者というタテマエを
踏まえてるわけだ。江戸幕府の「タテマエ」って何だろう。
714人間七七四年:2009/12/12(土) 18:12:54 ID:DwFBCdhh
江戸幕府では、大名の統治は基本的に将軍の代官として権限を行使している事に過ぎない。
大名は代替わりのたびに将軍から領国の統治権を受命する必要があり、また、それが
大名の正当性の源泉にもなっていた。
715人間七七四年:2009/12/12(土) 19:30:59 ID:rR/szRuh
だが一方、明治初期の版籍奉還では各大名が個別に統治権を天皇に返還してる。
どっかでタテマエが変わっちゃったのかねぇ。
716人間七七四年:2009/12/12(土) 19:51:01 ID:DwFBCdhh
>>715
それは慶応3年の大政奉還で、それまで法理論上、将軍が天皇から委任されていた
大名の統帥権を朝廷に返上したため。
717人間七七四年:2009/12/12(土) 22:28:27 ID:zrgjAorn
大政奉還で正式に大名領が藩になって、大名が知藩事に任命された、って習ったなそういえば。

つまり江戸時代での幕府支配って中世的なシステムで無理やり近世的な社会を動かしてた
わけか。唐風に呼べば良いからわざわざ自分たちで名称を作る必要を感じなかったのかね。
718人間七七四年:2009/12/12(土) 22:34:21 ID:zrgjAorn
ん、おかしいな。調べてみたら知藩事の名称が使われたのは版籍奉還後だった。
不版権三部制の頃は大名はなんて呼ばれたんだろ?藩主かな。
719人間七七四年:2009/12/12(土) 23:35:58 ID:SdwKXVWU
>>711
サンクス
これはわかりやすいです
720人間七七四年:2009/12/13(日) 00:29:31 ID:HddKIcXf
>>719
ちょっと待て、711はかなり間違いが多いので注意しとけ
旧字の使用が徹底されてないから日本人ではなく日本史好きの外国人の書き込みっぽい

甲斐武田が信濃を領国としたのは永禄年間
京極が近江・飛騨・隠岐を領国としていたのは16世紀初頭まで
仁木氏の伊賀も南北朝時代
他にも色々変なのが混ざってる

守護や守護大名について知りたければ、
「越後守護」「紀伊守護」の各守護職名や「半国守護」「分郡守護」等でぐぐったほうがよい
721人間七七四年:2009/12/13(日) 01:01:56 ID:Zv+pxzqi
ついでにいうと、相模守護の北条も無いな。
多分他にも抜けているのがありそうだ。
722人間七七四年:2009/12/13(日) 01:25:55 ID:kec/cT0z
当時の衆道って、どんなことをやってたのでしょうか?
ぐぐっても全然出てこない…
723人間七七四年:2009/12/13(日) 01:44:04 ID:Zv+pxzqi
女とのセックスでケツの穴を使ってはいかん、
何故ならばそこは男同士で使う神聖な穴だから、みたいなことを書き残している奴がいたので、
アナルセックスです。
ちなみに口淫は女色男色とわずアウト。
724人間七七四年:2009/12/13(日) 01:45:54 ID:ZZXKtepy
ちょっと疑問に思ったんだけど、戦国時代の女性は無駄毛の処理とかは
どうしていたのだろうか。腋毛スネ毛ボーボーだったの?
ちなみに、ググったら戦国武将が無駄毛の処理等のサイトがわんさか出てくれて微妙なニアミスしてくれます。
725人間七七四年:2009/12/13(日) 01:52:47 ID:7OgVbK5o
>>722
「稚児草紙」でググれ

>>724
毛を剃ったのは遊女くらいだったと思われる。
726人間七七四年:2009/12/13(日) 01:54:11 ID:bXGPjLyy
へぇ、遊女は剃ってたんだ。
やっぱり毛が生えてるのは見苦しいとかそういう意識があったんだろうか。
727人間七七四年:2009/12/13(日) 01:56:32 ID:wyV4OHj/
むしろ汚い
728人間七七四年:2009/12/13(日) 02:10:02 ID:cTb1GxXF
江戸時代でも毛処理するのが嗜みだったとか聞いたことあるけど
実際はどうだったんだろう。
何でも毛切り石?とかいうものがあったらしいけど。
729人間七七四年:2009/12/13(日) 04:50:32 ID:lp7H/V8C
遊女が剃ったのは毛じらみ防止という身も蓋も無い理由。
江戸時代ならどんな貧乏な家でも剃刀の一本ぐらいはあったと聞いたが、
戦国の頃はどうなんだろうね。
730人間七七四年:2009/12/13(日) 10:42:12 ID:f6GOWHIx
>>687
雑賀って傭兵集団という認識でいいのかな?
土豪の一揆集団だと思ってたけど
731人間七七四年:2009/12/13(日) 10:54:25 ID:4hT+OGGk
>>730
その二つの要素を併せ持ってます
732人間七七四年:2009/12/13(日) 11:06:41 ID:kec/cT0z
>>723,725
ありがとう。見てみます。
733人間七七四年:2009/12/13(日) 14:57:40 ID:W5KFEJIq
>>720
> 京極が近江・飛騨・隠岐を領国としていたのは16世紀初頭まで

ぐぐってみたが飛騨や隠岐の守護は京極高吉って出たぞ
ttp://www.geocities.jp/kawabemasatake/douyo.html
734人間七七四年:2009/12/13(日) 17:11:25 ID:t5p3ewi8
>>733
そのググった先で高吉の先代に書かれている政秀は高吉の生前に死んでるみたいね。
ということで、実権を伴いうる守護職を失ったのが16世紀初頭というのは間違ってないのでは。

もっとも飛騨も隠岐も京極氏の本領でもなければ高吉が在国守護だったわけでもないので、
肩書きとして名目上の守護職を足利義晴におねだりして貰ったとしてもおかしくはないのかもしれないけれど。

それより>>711がひどいのは幕府の職制の管領と各国守護がごっちゃになってるところとか、
細川、畠山あたりの一族を一括りにしてるとことかと。
735人間七七四年:2009/12/13(日) 17:54:16 ID:kGZ/iC2/
よく首級をいくつも挙げたと武将プロフィールに出てきたりしますが、これはその武将が個人戦で獲た首でいいのでしょうか?
それとも配下の者が獲った首もカウントされるの?
736人間七七四年:2009/12/13(日) 18:16:58 ID:7OgVbK5o
>>735
合戦における武士、侍は通常、侍本人とその家臣、下人による
数人から十数人のユニットを組む

「武士の手柄」とは、そのユニットで上げた手柄の事。
737人間七七四年:2009/12/13(日) 19:23:03 ID:kGZ/iC2/
>>736
ありがとうございます。
つまり必ずしも個人対個人ではないと言う事ですね!
738人間七七四年:2009/12/13(日) 19:32:46 ID:7OgVbK5o
>>737
と言うか、合戦において「個人対個人」は殆どありえない。

これは武士の発生時点からそうで、よく「鎌倉武士は名乗りを上げて一騎打ちを〜」
などというのは、軍記物の創作にしか過ぎない。
実際は騎馬の士を中心としたユニットで戦闘していた。
ただ、戦国期まではこのユニットごとの戦闘の総体が戦、というのも実態だった。

戦国期はこのユニット最小単位とした「備」と言う部隊編成が行われた事が特徴。
739人間七七四年:2009/12/13(日) 22:26:10 ID:Dxwb2Wsn
豊臣秀次と秀頼や武田義信と勝頼みたいに後継者が変更になった例はほかにもありますか?
740人間七七四年:2009/12/13(日) 22:36:33 ID:Qhoeo/Rh
>>739
小早川秀包と小早川秀秋
毛利秀元と毛利秀就

俺が知ってるだけで二つあるから全国にはもっとあるだろうな
741人間七七四年:2009/12/13(日) 22:47:43 ID:SWNkdzvV
>>739
みたいにって、どうみたいに?
先の後継者が病死とか討死とかの仕方なしじゃなくて
大人の事情で変わった例?
742人間七七四年:2009/12/13(日) 23:04:23 ID:4hT+OGGk
>>739
南部家とか。あとまあ、変更しようとして廃そうとした跡継ぎに反撃くらったという例も多い。
斎藤道三と義龍や武田信虎と信玄、大友家もだね。

あと、豊臣政権から江戸時代初期にも多い。
743人間七七四年:2009/12/14(月) 01:11:50 ID:XRtDCaug
関が原の戦いに、バッファローマンのかぶとをかぶった武将がいると聞きました
知ってる人いますか?
検索した感じでは、黒田か福島かどっちかだと思うんですけど…
744人間七七四年:2009/12/14(月) 01:33:20 ID:Tem5VIxA
>>740-742
ありがとうございました。実子や後妻かわいさに・・・って怖いなーと思い、
怖いもの知りたさで質問しました。
名前を教えてもらったので彼らについて調べてみますー。
745人間七七四年:2009/12/14(月) 08:53:14 ID:mL3drj3H
>>743
水牛兜をつけていた可能性があるとしたら福島正則
746人間七七四年:2009/12/14(月) 11:46:56 ID:nPZeLro8
浅井氏を「あざい」って読むみたいですけど、昔は濁らなかったような
記憶があるんですがどうなんでしょう?
747人間七七四年:2009/12/14(月) 12:32:00 ID:uEk3gwvx
小和田先生だったかが
地元民はあざいと読むからあさいじゃなくてあざいだと主張してるだけ
748人間七七四年:2009/12/14(月) 12:52:12 ID:2cf3iHWF
>>743>>745
長政と正則が喧嘩して長いこと口も聞かなかったが、
仲直りのためお互いの兜を交換した。
際しくは「ちょっとイイ話のマトメ」で。

黒田家の水牛兜は2種類、そのうち、バッファローマンに似ている方を、
正則の一の谷兜と交換した。
正則は水牛兜は家宝として大切にし、戦ではレプリカを作って着用した。
749人間七七四年:2009/12/14(月) 15:29:34 ID:nPZeLro8
>>747
なるほど、「増田→真下」みたいな証拠があるわけじゃないんですね。
現在の読みが戦国時代そのままかも微妙ですしね。ありがとうございました。
750人間七七四年:2009/12/14(月) 18:10:57 ID:3LTWSrz2
いまは「あざい」とにごる方が定着してるね
751人間七七四年:2009/12/14(月) 19:41:34 ID:SNQym8pg
谷口克広氏ってどのくらい信用できる人なんでしょう?
信長の天下所司代は面白かったけど(村井春長軒好きだったし)

公家が来て雑談したり、天皇から松茸を下賜されたり、そういう場面想像するだけで
にやにやできる自分は異常かね。
752人間七七四年:2009/12/14(月) 20:02:08 ID:KfSvux06
大内さんが松茸を所望しています
753人間七七四年:2009/12/14(月) 20:09:11 ID:4/bigeqD
>>751
谷口さんは未だに武功夜話を資料として評価しているのは、研究者として
いただけない。
あと、これはある面仕方の無いところもあるが、研究対象である信長、および織田家について
やや過大評価気味のところがある。

そういった面を気をつければ、基本的には真摯に一次資料を当たる良い研究者だと思う。
754人間七七四年:2009/12/14(月) 20:43:46 ID:+44I9rOF
>>753
一応フォローすると、武功夜話も今ではあくまで参考の一種、他資料による裏づけはとれないが、こんな話もある、程度の扱いに留めている。
先に結論があって、その前提で資料を読むような悪癖もたまに見られるけど、基本的には資料批判をかかさず、資料を基にした論述を展開する、よい研究者の一人。
755人間七七四年:2009/12/14(月) 21:35:54 ID:SNQym8pg
>>753-754
なるほど。普通に優良な研究者なわけですね。

ただ、織田家の過大評価気味は気をつけないといけないかもしれませんね。
自分も織田家贔屓なので余計に。
756人間七七四年:2009/12/14(月) 23:35:22 ID:XRtDCaug
>>745
>>748
変な質問なのに、丁寧に答えてくださってありがとうございます。
確かに、福島正則の方がハリケーンミキサーとかやりそうな気がしますね。
757人間七七四年:2009/12/15(火) 00:38:30 ID:qhqeWjEj
ちなみに家康にもこんな兜がある

http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room1/image/01.jpg
熊毛植黒糸威具足

ついでに家康の、豊臣政権時代の異名は「関東の猛牛」
758人間七七四年:2009/12/15(火) 00:51:36 ID:L8cREEE+
牛角のかぶとって、意外と人気だったんだな
オレ的には、鹿の角の方がかっこよく見えるけど
759人間七七四年:2009/12/15(火) 00:55:42 ID:qhqeWjEj
信長も水牛角の兜をかぶっていたと言う説がある。
確かにあの時期の流行だった可能性がある。
760人間七七四年:2009/12/15(火) 00:57:37 ID:Os3z4Squ
横から失礼しますが、村井貞勝みたいなバリバリの能吏タイプ(吏僚タイプ?)って
他にどんな人達がいますかね?

江戸時代ならいっぱいいそう(というか活躍できるのが吏僚系の人ばっかり)だけど、
戦国時代だとオールマイティーな人はいても、吏僚としてのみ有能な人はあまり目立たない
ような気がして。
761人間七七四年:2009/12/15(火) 01:30:12 ID:pwPjoPSv
信長の下だったら他に松井夕閑とか、島田秀満、明院良政。
若手で菅谷長頼、大津長昌、矢部家定、万見重元。
塙直政も吏寮系の仕事で伸し上がった人物だなあ。
762人間七七四年:2009/12/15(火) 01:32:26 ID:uUMUGY6v
相良武任なんかは?
763人間七七四年:2009/12/15(火) 01:47:46 ID:v7/xqRIC
大久保長安は技術官僚かな
まあ武辺の人じゃなかったのは確か
764人間七七四年:2009/12/15(火) 11:24:34 ID:io2LKTmx
>>761
津田信澄を忘れないでくれ
765人間七七四年:2009/12/15(火) 13:25:02 ID:Hj0l+CZj
新庄つぼね(元春室熊谷氏)方へ文とも懇ろに御つかはし候へども、一圓とりあひ候はぬ
おもむきのよしうけ給ひ候、誠に其事にてこそ候へ(中略)此四五年、我等などへは一えん文とも
三くだりばかりにて候、尼子与州、弘中三河守などが状の類にて候、いかなるめんもく候哉

元主君の尼子経久はともかく、弘中隆兼って毛利に対して仲が悪いわけでもないだろうに
態度が悪い見本にされているのはなぜ?
766人間七七四年:2009/12/15(火) 14:42:45 ID:io2LKTmx
態度が悪いのは吉川の新庄婦人のことで、
 
「私への手紙の返事が3行くらいしか書いてないのは、
 まるで尼子経久様や大内家の重役の弘中様みたいな
 偉い人が(身分の低い者に対して)書いたような手紙で、もう頭へきちゃうわ」

という意味で、尼子経久や弘中隆兼を悪く言っているのではない。
古文にもっと慣れような。
767人間七七四年:2009/12/15(火) 14:50:28 ID:XBthTSjz
濃姫の最後ってどうなっているのだろうか

1)本能寺で信長もろもと死亡
2)本能寺の時には安土にいて
明智勢が来たときに退避
3)本能寺以前に死亡

資料が少ないですね
768人間七七四年:2009/12/15(火) 15:18:50 ID:RMB4B1Iy
>>767
「濃陽諸士伝記」にて1560年以前に死亡したと書かれてある
それと『美濃国諸旧記』には濃姫の母は早くに死亡したと書かれてあり
『言継卿記』には壺事件の後、信長がしゆうとにお礼に言いに行くと書いてあるから
濃姫とは関係のない別人が信長本妻になった
769人間七七四年:2009/12/15(火) 15:46:04 ID:Hj0l+CZj
>>766
そこなんですよ
尼子が毛利に対して格下に扱うのは当然として
弘中って毛利よりも格上だったのでしょうか?
弘中がどのあたりの地位だったかはよく知らないのですが
毛利は大内家中で扱いがよかったと思うのですが。
770人間七七四年:2009/12/15(火) 16:01:27 ID:uUMUGY6v
扱いが良くても所詮一豪族一外様。
弘中は代々大内家の重臣で、隆兼自身も岩国・安芸守護代。
大内傘下に入っている時期ならば、間違いなく格上の存在。

子会社の社長が、本社の重役に頭があがらないのと一緒。
771人間七七四年:2009/12/15(火) 17:01:28 ID:Hj0l+CZj
>>770
なるほど。わかりやすいたとえありがとうございます
772人間七七四年:2009/12/15(火) 18:39:38 ID:pwPjoPSv
>>168
>「濃陽諸士伝記」
この記述は解釈に問題があり、かつ事実関係にも疑問や錯誤が見られるので、あやしい。
773人間七七四年:2009/12/15(火) 19:05:02 ID:RMB4B1Iy
>>772
具体的にどこが?
いっとくけどあの時代全く誤りのない史料など存在しないぞ
774人間七七四年:2009/12/15(火) 19:11:30 ID:SwH6UmD9
成立時期はいつなの?
775人間七七四年:2009/12/16(水) 17:48:20 ID:9PyqSuy6
大阪の冬の陣で、豊臣がたは本当に勝てると思ってたんでしょうか?
織田信雄とか片桐とかが逃げ出す始末なのに。
あと夏の陣に至るまでに、国替えやら淀殿の江戸移住とかで
手を打つつもりはなかったんでしょうか?
徳川方は是が非でも滅ぼすつもりではなかったと思うんですが。
776人間七七四年:2009/12/16(水) 18:22:06 ID:q7i1u95e
一応、夏の陣直前に最後通牒が突きつけられて、
その内容がまさにそれ、追記すると浪人衆の放逐も条件。
もしおとなしく従っていれば、いずれ減俸されるかもしれないけれど、残ったとは思う。

ただ国替え・人質はともかく、浪人衆の放逐は不可能だけどな。
浪人衆を納得させるだけの一時金も用意できないし、武力で排除するのも困難だから。
777人間七七四年:2009/12/16(水) 19:03:29 ID:1c8fP1pu
うがった見方をすれば、豊臣方が承知しても実行不可能な条件を突きつけた、とも言えるが。
まあ、最終的に、残ったとしても十万石級の大名としては残されなかっただろうとも思うが。
778人間七七四年:2009/12/16(水) 20:35:25 ID:ORt1OHN8
大阪の冬の陣の開戦前は、大阪方、特に秀頼周辺の主戦派は、日本の大名の、
少なくとも半分は自分たちに見方をすると、本気で考えてたっぽい。

あと、冬の陣のあと、淀殿周辺は本気で牢人排除に動いていた。
しかしその中心人物だった大野治長の襲撃事件で、その動きがストップし、
牢人衆と組んだ強硬派に大阪城が牛耳られ、ジ・エンド。

大阪の陣は、秀頼の周りにいた、若く過激な反徳川派が主導した戦だと考えて良いと思う。
779人間七七四年:2009/12/16(水) 21:26:58 ID:GSKqtm4p
>>778
>若く過激な反徳川派
っていうとどのあたり?
780人間七七四年:2009/12/16(水) 21:33:58 ID:WOO0XLNW
というか関ヶ原から夏の陣に至るまでの豊臣家のグダグダぶりは何なんでしょうか。
781人間七七四年:2009/12/16(水) 21:39:43 ID:ic0nrZ6E
上杉征伐に徳川軍が向かいますが、具体的に、上杉と石田の戦略はどのようなものだったんですか? 上杉がただのオトリだったとすれば、結果的に西軍の挙兵が早すぎたのかなと思うんですが。
782人間七七四年:2009/12/16(水) 21:50:41 ID:q7i1u95e
>>780
今の日本の政権を見るとよくわかるだろ。
トップがしっかり舵を切れないとああなる。

>>781
上杉と石田がてを組んでいた証拠がありません。
783人間七七四年:2009/12/16(水) 22:04:11 ID:ic0nrZ6E
>>782 とすれば、上杉は何をしたかったんですか? 豊臣家に対する正義感と意地だったんですかね。
784人間七七四年:2009/12/16(水) 22:13:32 ID:ORt1OHN8
>>779
治長の弟の大野治房、道犬斎、渡辺糺、木村重成あたり。
785人間七七四年:2009/12/16(水) 22:23:33 ID:ORt1OHN8
>>783
> とすれば、上杉は何をしたかったんですか?

簡単に言えば北国は秀吉の在世時から決して安定はしておらず、
上杉は秀吉が死ぬと、それにつけこんで、地域に自家の影響力の拡大を計ろうとしていた。

無論、そう言うことをすれば必ず摩擦が起こる。で、当時中央政権の主宰者だった
家康にそこを目につけられて、上杉としては、自家の拡張策を放棄するかどうかの判断を迫られ、
上杉は、その時点での家康の権威は万全では無いと判断し(これは正しかった。
家康の出兵直後に三成のクーデターが起こった)、家康の北伐軍を受けるという事態に至った、
と考えるべきかと。


それから、この時期の政治情勢を、忠誠とかで判断するとほぼ間違うので
気をつけたほうが良い。
786人間七七四年:2009/12/16(水) 23:02:49 ID:ic0nrZ6E
>>785 ありがとうございます。 なるほど〜 思ったほど、盤石じゃなかったんですね。上杉としては、合戦まで至らず、うやむやに事収まると思ってたんですか。 伊達と変わりないですよね。
787人間七七四年:2009/12/16(水) 23:13:47 ID:ORt1OHN8
家康が1年ほどで収拾してしまったので、このへんは誤解されがちなんだけど、
秀吉が死んで、日本はたがが外れた状態になっていた。
各地の大名は、戦国的な自家の拡大策を模索し始めていた。
それを抑えるべき中央政権の担当者である家康も、おせじにも強い政権であったとは言えず、
家康の立場から見れば、他大名との婚姻や、前田征伐などで力を誇示するのは、
「豊臣政権の運営」のためにも、どうしても必要な事だった。

後に家康が徳川家の単独政権を樹立したのはあくまで結果論であり、関ヶ原以前の
家康は、豊臣家大老という立場の中において、現実的な対応をやっていたに過ぎない。
788人間七七四年:2009/12/16(水) 23:35:45 ID:ic0nrZ6E
>>787 豊臣家のために尽力していたのは家康の方だと、関ヶ原までは自分の天下の視野もなかったと言うことですか〜。 今まで読んできた本や、見てきて得たことが根底から覆されました。
789人間七七四年:2009/12/16(水) 23:45:50 ID:V+be3L7a
>>788
アホがこんな愚論にもう惑わされてるのか?
全て家康の権力欲でやったにきまっとるだろうがボケ!!!
790人間七七四年:2009/12/16(水) 23:47:11 ID:ORt1OHN8
>>788
「豊臣家のため」と考えるのも間違い。
「政務を委任された豊臣家大老と言う家康の地位のため」って風に解釈した方がいいかと。

今風に解説すると、関ヶ原までは基盤の脆弱な弱い内閣の首班である家康が、
その基盤に弱さに付け入ったいろんな勢力の策謀に対処しつつ、一方で基盤の強化も
図ろうとしていた。
そんななかクーデター騒ぎが起こって、政府はこのクーデターをどうにか鎮圧したものの、
その頃には政府機能自体が崩壊していた。そのため内閣を率いていた家康は、新たに
大統領制の新政府機関を作り、その初代大統領に就任した。

あくまで家康の視点から見た場合だが、こんな感じであったと考えられる。
791人間七七四年:2009/12/17(木) 00:08:08 ID:s4mYG3eB
>>790
はぁ?さすがタヌキ親父の支持者はとんだタヌキだな。
792人間七七四年:2009/12/17(木) 00:33:46 ID:2yR9Q8ol
家康が、豊臣家を滅ぼしたとたん死ぬなんて都合良すぎだよな。影武者じゃねえのか
793人間七七四年:2009/12/17(木) 01:02:01 ID:j1vh2hrv
家康が太閤との約定を違えて、弾劾されたことをどう正当化するつもりだよw

どうせまたアンチ上杉の伊達厨だろw
794人間七七四年:2009/12/17(木) 01:06:18 ID:ICocBwbg
戦国時代に散々戦争したんだから、せめて平成の2chでくらい仲良くしてろよ
795人間七七四年:2009/12/17(木) 01:46:03 ID:CSNOcYQF
狸だ厨だ言いはじめても何もならんのにな
796人間七七四年:2009/12/17(木) 03:03:43 ID:UJ+apD2Q
2chには無職のキチガイが多いんで
797人間七七四年:2009/12/17(木) 05:22:19 ID:JFQsDyzM
職有りの基地外の方が始末におえなそうではある
798人間七七四年:2009/12/17(木) 06:13:11 ID:zneK7k5y
先に秀吉の約定を違えたのは徳川より石田が先だ!
とかいうのも目にするけどどうなんでしょう?
799人間七七四年:2009/12/17(木) 07:18:41 ID:5D8NcVDf
そもそもORt1OHN8は家康が正義の味方だ、正当性を持ってる
なんて主張してないようだがなあ
自己の利権として五大老筆頭の地位・面子を守り
拡大し、のちに豊臣政権という枠を越えた

なんですぐ忠義や正当なんて話になるんだろ
800人間七七四年:2009/12/17(木) 07:27:59 ID:WKfhg8Bs
正義とか忠義とか、単純に白黒分けないと物事が理解できない程度の頭なんだろう。
801人間七七四年:2009/12/17(木) 08:17:11 ID:a701n243
上杉が野心で拡大路線を取っていたなど、ありえないから。
当時の上杉の状況を何も知らないんだな。
802人間七七四年:2009/12/17(木) 08:20:53 ID:WKfhg8Bs
ありえないわけないだろ。上杉は謙信の時代から(それ以前からもだが)拡大路線、覇権路線だ。
だいたい秀吉の死によって中央政権の求心力が弱体化した以上、
野心云々以前に安全保障上からも拡大路線を取るのは当然。
803人間七七四年:2009/12/17(木) 08:50:07 ID:I5lakAI0
関ヶ原の時は、黒田官兵衛なんか空き巣狙いの戦やってたな
804人間七七四年:2009/12/17(木) 08:57:34 ID:uMkVuisH
>>803
そりゃあ九州平定して家康と戦う為だもん
ところが関ヶ原は1日で終わり
悔しさのあまり、家康に握手してもらって喜んでる息子に
「お前の左手は一体何をしていてたんだ?」という人ですから
805人間七七四年:2009/12/17(木) 09:03:27 ID:nkaxJv81
>>802
国替えして国衆の統制はほぼ完了している。石高は増加。
あとは防衛体制や新領地の支配を完成させる段階なのにどうして領土拡大?
きみは思いつきやイメージ以外に何を根拠にそう主張しているの?
806人間七七四年:2009/12/17(木) 09:54:23 ID:WKfhg8Bs
>>804
小説とか俗説を信じるなよ。気の毒な人だと思われるぞ?
807人間七七四年:2009/12/17(木) 10:46:38 ID:jj1tUEPe
秀吉が会津移封と新城許可(大坂に続く規模で許可した広島城に続く神指城)
秀吉は西を毛利、東を上杉で鎮守させるための平城を作らせ領内整備をさせた。
このため神指城は佐竹の協力も得ている。
これに危機感を持ったのが三成と対立する家康。
大老自らが遺令を破り、大名との婚姻同盟を築いて対抗し、前田を恫喝したあと、各個撃破を狙い上杉へ因縁をつけた。
前田を恫喝した時点で家康への暗殺と言う私事でのことで権力拡大思考なのは間違いない。
大老として豊臣のためにやったと言う言い訳はできないどころか大乱を起こそうとしていたのは間違いない。

>>798
それ書いたやつにちゃんと具体的にどのような違反を三成がしたか書いてと要求したら逃走したよね。
808人間七七四年:2009/12/17(木) 12:57:05 ID:lWGDpT3N
>>807
時系列めちゃめちゃだな。
結論のために過程を利用しちゃいかんよ。
809人間七七四年:2009/12/17(木) 18:06:29 ID:LW3W28U9
秀吉の遺命と言われる「御掟」五箇条と「御掟追加」の九箇条
「御掟」五箇条
一、諸大名の間で、私に婚姻関係を結ぶことを禁ずる。
二、諸大名の間で、同盟関係を結ぶことを禁ずる。
三、喧嘩や口論を禁ずる。
四、讒言をした者はこれを糾し、成敗すること。
五、乗物などは許された者以外使ってはならない。
はネット上で見つかったのですが
全9ヶ条の「御掟追加」は見つけられませんでした
御掟追加の内容をお教えください。
810人間七七四年:2009/12/17(木) 19:16:27 ID:5dZQOH+T
戦国時代の足軽ではなくいっぱんの武将などが使う槍は
全長どのぐらいだったのでしょうか?
また武将などは長柄で槍以外でも使用されていましたか?
811人間七七四年:2009/12/17(木) 21:12:52 ID:Lwnc9xCi
徒士槍が2.5m〜3.5mほど
騎乗槍が2m〜2.5mほど
屋内用の槍が2mほど
812人間七七四年:2009/12/17(木) 21:14:03 ID:Lwnc9xCi
追記すると、
赤穂浪士が討ち入りの時に使った槍は、
屋内で取り回しやすいようにと1.5m程に柄を詰めて使ったそうな。
813人間七七四年:2009/12/17(木) 21:18:43 ID:WKfhg8Bs
ついでに言うと、武士の場合足軽と違って、武器は自分の使いやすいものを
自由に使ってよかった。なので槍のほかにも太刀、大太刀、長刀、棍棒、鎖鎌なんて例もある。
814人間七七四年:2009/12/17(木) 21:42:38 ID:5dZQOH+T
ありがとうございます
鎖鎌なんかも使われてたんですね
長柄などで中国でも使われてる方天戟のような物などは使われたのでしょうか?
815人間七七四年:2009/12/17(木) 21:51:08 ID:feBDXi4F
>>809

御掟追加
一、諸公家、諸門跡被嗜家々道、可被専 公儀御奉公事、
一、諸寺社儀、寺法社法如先規相守、専修造、学問勤行不可致油断事、
一、天下領知方儀、以毛見之上、三分二者地頭、三分一者、百姓可取之、兎角田地不荒様可申付事、
一、小身衆者、本妻外、遣者一人ハ可召置、但別の不可持家、雖為大身、手懸者不可過一両人事、
一、随知行分限、諸事進退可相働事、
一、可致直訴儀、於挙目安堵、先十人ヘ可申、十人衆訴人以馳走双方召寄、慥可被聞申分、直訴目安者、各別之儀候間、此六人ヘ可被申、以談合上、御耳ヘ於可入儀者、可被申上事、
一、衣裳、御赦免外、菊桐不可付之、於御服拝領者、其御服所持間者可着之、染替別衣裳、御紋不可付之事、
一、酒ハ可随様器、但大酒御制禁事、
一、覆面仕往来儀、堅御停止事、
 右条々、於違犯之輩者、可被處厳科候也、
    文禄四年八月三日              隆景(花押)
                             輝元(花押)
                             利家(花押)
                             景勝(花押)
                             秀家(花押)
                             家康(花押)
816奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/17(木) 21:59:16 ID:zrTG+dE8
隆景?
817人間七七四年:2009/12/17(木) 22:01:46 ID:cSbKqOhD
>>816
818人間七七四年:2009/12/17(木) 22:41:52 ID:BujvmsSk
勘合貿易
どうして足利以外の大名が明に相手にされたのでしょうか?
819人間七七四年:2009/12/17(木) 22:44:24 ID:s4mYG3eB
景勝が五大老になるのは隆景の死んだあとを次いでなので、連名はおかしいという事でしょ。
820人間七七四年:2009/12/17(木) 22:50:47 ID:Lwnc9xCi
>>814
鎌槍、いわゆる十文字槍あたりが該当すると思うが。
821人間七七四年:2009/12/17(木) 22:55:42 ID:feBDXi4F
>>819
文中でも分かる通り、「追加」では六人衆となっている
五大老五奉行の五の数というのは多分に気分的なものだったりする
822人間七七四年:2009/12/17(木) 23:08:10 ID:hBwhS3Gz
上杉征伐は豊臣公認らしいですが
勝手に動くなとか黙認は無理だったんですか?
823人間七七四年:2009/12/17(木) 23:16:12 ID:WKfhg8Bs
>>818
足利は大名ではなく公儀である。
細川、大内は幕府の命を受けての実務担当者に過ぎない。

>>822
質問の意図がよく解らんが、当時の豊臣政権とは徳川家康そのものだ。
824人間七七四年:2009/12/18(金) 00:28:32 ID:ko3nSQnf
堺が半ば自治権すら持つ戦国期の日本屈指の大都市だったのは有名ですが、それ以外に、
自治権みたいなものを許されてた都市は日本にはなかったのでしょうか?
また、堺程で無くとも、大都市と呼びうる都市はどんなものがあったのでしょうか?
京都は、公権が凋落したとはいえまだ大都市でしたよね?(ザビエルか誰かが寂れてるのに
驚いてたような気もしますが)

勿論、その都市のある地域一帯を支配してる大名の権力の強さにも拠るでしょうけど、大名の
力が弱かったから自治していたというよりも、その都市の強大さそのもので自治権を勝ち取って
いたような都市でお願いします。
自治とはいっても、無論、完全な自治というか、大名からの独立を意味してるわけではないです。
825人間七七四年:2009/12/18(金) 00:55:23 ID:xhNMOB53
>>824
まず、自治というのなら、規模の大小に関わらず、全国の惣村から交易都市、港まで、ほぼ自治だった。
その上で、政治的になんらかの勢力に従属したり、力が強ければ同盟関係を結んだりしていた。
それと、堺も実情を知らん宣教師の記録で誤解されているが、ここも都市内は自治でも、政治的には
室町時代をとおして細川家の勢力下にあり、後に三好長慶が台頭すると、三好に服属した。
信長が上洛して矢銭を要求されたときに蹴ったのは、独立を守るためなどではなく、単に政治的には
三好一党に属していたから。だから、三人衆の援軍を得て信長に対抗しようとしただけ。
826人間七七四年:2009/12/18(金) 11:48:36 ID:dEsDbuYc
まあポルトガル人が堺を見てヴェネツィアあたりを連想するのも無理はない。
どっかで「日本の政体は神聖ローマ帝国に類似している」というのを読んだな。
フロイスだっけ?
827人間七七四年:2009/12/18(金) 15:53:31 ID:7pgLiua1
合戦場にも、お金を持って行ってたんですか? そうだとすれば、何に使ってたんですか? 散々負けた時は、お金も放って逃げたんですかね。
828人間七七四年:2009/12/18(金) 16:06:17 ID:EysfihvK
>>822
質問の意味がよくわからないけど、豊臣奉行衆は家康に一度諌止状を送っていて
家康もそれを飲んだ。上杉も上洛する方向で調整していたけど、讒言した堀などの
詮議を要求したところ断られたので上洛拒否した。んで会津征伐。

三成が挙兵すると淀殿や豊臣奉行衆は家康に「早く帰ってきて、そして助けて」と手紙。
家康は福島らを先発させたが、やがて豊臣奉行衆が三成についた(豊臣公儀が三成についた)
ことを知る。逆賊が上杉から徳川に移る。
829奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/18(金) 19:44:21 ID:/VJP60tm
>>817
ごめん、「遺命」を秀吉の遺言だと脊椎反射して書いただけ。
830倭冦:2009/12/18(金) 20:13:05 ID:rLIO8US+
既出ならご容赦を

以前時代劇ドラマの中で、徳川家から石川数正が出奔した際、同家ではその人的損失より軍制上の機密流出を危惧し対応に追われるというシーンを見ました

何気にさもあらんと思いはしたものの、具体的な事例が浮かびません

どなたか上述のケースで急務とされる軍制上の変更項目についてご教示下さい。
831人間七七四年:2009/12/18(金) 20:41:25 ID:+KnLqQFE
>>830
軍隊なんだから例えば最初からある程度、どういう状況になったら誰が出てどういう行動をする、
こう言った部隊が出ているときはこう言う作戦が行われる、なんて決め事はなんぼでもあるわけで、
そう言うのが筒抜けになれば、相手に自分達が今どういう状況認識でいるか、と言うのが
まる解りになるわけだ。

つまり、決め事の類を全部、一から作り直さないといけない。
832奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/18(金) 20:43:43 ID:/VJP60tm
んでもって軍法を武田流に変えるというストーリーが付いて回ります。
833人間七七四年:2009/12/18(金) 20:45:35 ID:pyxlKd12
>>830
そこら辺の事情は「駿河土産」に記述がありますが、キッカケはその通りですが実際の変更の真意は
これまでその場その場で行ってきた家康の軍制が、駿・甲・信の領国の急速な膨張で対応できなくなり、
新たに統一した軍制を制定した際に、整備された軍制であることと先の三国に加え、その他の家康領国
の一部も武田領にあったので、導入しやすい武田軍制を採用したというのが真相のようです
834倭冦:2009/12/18(金) 21:29:08 ID:rLIO8US+
>>831

確かに、考え始めたら諸々の取り決めが危険要素になりますね

>>832-833

領土の拡充期にあった事を忘れていました。一家臣の出奔が無くても、いずれ軍制の改定の必要性があった訳ですね。
私はプロ野球選手(特にキャッチャー)の移籍時にチラッと話題になるサインパターンの変更と似た視点ばかり連想してましたが、そればかりでは当然ないですよね。

ありがとうございました。
835人間七七四年:2009/12/18(金) 21:31:38 ID:DpGU7KSH
室町末期の大大名って広域の版図を築いていたと思います。
最大でどのあたりまで支配していたのでしょうか?

以下勝手な予想

細川
山城・摂津・河内・和泉・大和・丹波・讃岐・阿波・土佐・淡路

大内
安芸・備後・長門・周防・石見・筑前・筑後・豊前・肥前

尼子
出雲・石見・隠岐・備前・備中・安芸・備後・美作・因幡・伯耆
836人間七七四年:2009/12/18(金) 21:50:15 ID:u8SKS3Wa
戦国時代最盛期とされる十六世紀中期に、武田信虎のように、
本貫地を離れて室町将軍に近仕した在京大名は何人かいたのでしょうか?
837人間七七四年:2009/12/18(金) 22:58:16 ID:wHjrI9+U
>>820
遅れましたがありがとうございます
838人間七七四年:2009/12/19(土) 03:10:27 ID:z81le9Om
>>827
鎧の草摺に貴重品入れ(通称金玉隠し)を拵えていたり、
兜の裏打ちに金を仕込んでいた武士もいたそうです(で丸儲けした考証家がいたとか)。

人間、いざという時にたよりになるのはやはり、金です。
839人間七七四年:2009/12/19(土) 08:47:36 ID:Y/2wUkQG
軍隊が行動する時にある程度の金銭を準備するのは常識。物資の欠乏が生じた場合に
全部略奪していたらさすがにヤバいので、金を払って買い取る。
840人間七七四年:2009/12/19(土) 11:27:31 ID:zaQRWFnl
>>827 >>838
それにな、戦場のそばには売春婦達の掘っ立て小屋(木の枠に蓆)ができるから
そこで使うんだよ。
841人間七七四年:2009/12/19(土) 13:39:33 ID:z81le9Om
>>840
使っていたら現代の考証家が発見できないじゃないかw
842人間七七四年:2009/12/19(土) 14:30:52 ID:zaQRWFnl
>>841
戦の直前に女は厳禁だ(軍法)
戦った後のお楽しみがあるから、張り切って戦えるんだよ。
>>現代の考証家が発見
いい思いをする前にやられちゃったんだよ。残念ながら
843人間七七四年:2009/12/19(土) 17:35:37 ID:z81le9Om
だがちょっとまって欲しい。
一つは、やられたら釘一本残さず戦場を漁る村人にやられて具足として後世には残らない。
二つは、勝利者なら乱取りヒャッハーでわざわざ秘蔵の金を出すことも無く、
奪って得た金で春を買うか、あるいは略奪ついでにゴーカーンでおk。
844人間七七四年:2009/12/19(土) 17:46:14 ID:mFUOeiIc
兵士全員がそんな事出来るほど略奪だらけの戦国時代でもあるまいに。
845人間七七四年:2009/12/19(土) 18:36:57 ID:eJeIdvj5
島津や伊達は略奪強盗横領撫で斬りばっか
846人間七七四年:2009/12/19(土) 19:44:38 ID:Y/2wUkQG
質問!戦国時代は足軽がモヒカンでヒャッハーだらけだったんですか?
847仙台藩百姓:2009/12/19(土) 21:39:14 ID:i9jkInIn
極端な例では上杉みたいに初めから兵糧揃えずに出陣する大名もいたしね( ^ω^)
848人間七七四年:2009/12/19(土) 21:45:36 ID:q1nN+eV0
上杉は兵站が特に貧弱だったから仕方が無い。
849人間七七四年:2009/12/20(日) 00:52:43 ID:6ZGU9JsX
>>778
とすると夏の陣では勝つ見込みなくても、反家康武将たちの
意地で闘ったようなもんですか?
淀殿周辺も最初に自分たちの方から浪人衆を招いた経緯があるし、
夏の陣ではどうしようも無かったってことかな。
850人間七七四年:2009/12/20(日) 02:37:47 ID:oWcdLz+U
上杉は沼田や厩橋から利根川を利用しての船舶輸送してたろ。
当時の利根川沿岸部は交通通商で栄えて、あちこちに船着き場がありましたよ。
関宿に至ってはその通行税から一国に値すると言われてましたし。
謙信と違い佐竹はその重要性をまったく理解できなかったようですが。
851人間七七四年:2009/12/20(日) 03:04:17 ID:2+xYXIBP
加賀の国は信長の平定まで一揆が支配してた国だそうですけど、その統治機構は
どうなってたんでしょう?
土豪や名主クラスの合議的な貴族民主制だったんですか?
852人間七七四年:2009/12/20(日) 03:32:42 ID:FtVc8Wph
「備中備前に至るまでなびかぬ武士はなかりけり」とありますが
大内氏の備前での影響力はどの程度だったのでしょうか。
853人間七七四年:2009/12/20(日) 03:37:25 ID:EX3RZcIh
>>851
一向一揆の支配と言うが実際には守護家富樫氏の人間が名目上の守護についていて、
支配体制も守護のシステムをそのまま使っていた。
基本その運営は合議だが、その合議のレベルは戦国大名が配下と合議で
国を運営するのと変わらない。

基本的には加賀は、一揆の支配と言うよりも、世俗領主たる本願寺が
守護職を任された地域、と考えた方がいいかと。
854人間七七四年:2009/12/20(日) 09:43:13 ID:N96zKgK1
>>852
相良氏は大内の部下でーすって明に勝手に名乗って
明と私貿易やってた
855人間七七四年:2009/12/20(日) 18:29:39 ID:aJ3PZvfx
写本って良く聞きますけど、原本を見て書き写すだけなんでしょうか??

写本とわかるようになってるんでしょうか??
856人間七七四年:2009/12/20(日) 21:07:33 ID:B8tyK6x7
何年何月何日何某が写すとたいてい書いてある。
857人間七七四年:2009/12/20(日) 22:03:33 ID:aJ3PZvfx
>>856
そうなんですか!
疑問が解けました!
ありがとうございます。
858人間七七四年:2009/12/20(日) 22:31:31 ID:DkBBDlcI
しかし写本を騙った原本もあるから侮れない。
成立時期を偽るのによく使われた手。
859人間七七四年:2009/12/20(日) 23:33:00 ID:2+xYXIBP
>>853
どうもです。
一揆支配とはいっても、実態は他の国とそう変わったものでもなかったんですね。
860人間七七四年:2009/12/23(水) 02:22:03 ID:zYl9kJWU
>>854
大内が遣明船の手配を相良に命じた節もあるようですね
861人間七七四年:2009/12/23(水) 05:58:55 ID:kqMu4Fqp
相良氏は明だけでなく朝鮮や琉球とも交易をしているからな
市木丸大活躍
862人間七七四年:2009/12/24(木) 02:06:15 ID:l2LCeDE5
戦国時代の教育機関について質問です。

足利学校ってすごく有名ですが、卒業生で有名な人ってあまり聞いたことがありません。
名前が残ってる人だとどんな人がいるんでしょうか? また、どんな活躍をしたんでしょうか?
あと、イエズス会の人間(ザビエル? フロイス?)が日本にある大学の中で一番大きいもの
が足利学校だと書いてたそうですが、つまり彼らから見ると大学に見える機関が他にもあった
という事ですよね? この他の大学とは、何のことを指してたのですか?

あと、大学寮はやっぱり戦国時代には完全に形骸化してしまってたんでしょうか?
それとも、多少は機能が残ってて、朝廷の下級官吏を養成したりはしてたんですか?
863人間七七四年:2009/12/24(木) 02:22:38 ID:C/k2ORiu
>>862
足利学校出で有名というと曲直瀬道三だな。
あと武田信玄が「足利学校も出ていないようなやつを軍師として雇えるか」って言った
逸話があるので、少なくとも武田家では、いわゆる軍師(戦の作法を指導し吉凶などを占う)は
皆足利学校出だったと思われる。
864人間七七四年:2009/12/24(木) 02:34:58 ID:l2LCeDE5
>>863
曲直瀬道三は初めて知りました。自分の勉強不足を痛感します…。
この場合の軍師というのは、いわゆる後世でイメージされるような参謀的な人たちじゃなくて、
軍付式部官みたいな人たちですよね?
兵士の士気を考えると当時の易経はものすごく重要だとは思うんですが、現代の士官学校
とか官僚学校で教えるような軍学や法学を足利学校で教えてたわけじゃないんですね。
どちらかと言うと技術系の学校みたいな感じだったんですかね。

何にせよ、戦国時代でも実用的な学問を教える教育機関はあって、そこの卒業生はちゃんと
重んじられていたわけですね。
武家の教育というとどうしてもOJTばかりのようなイメージがあったので。
865人間七七四年:2009/12/24(木) 02:37:36 ID:elobyPQ8
曲直瀬は遊学だから卒業にあたるのかどうかは知らないけど、その師である田代三喜が有名
866人間七七四年:2009/12/24(木) 02:39:08 ID:elobyPQ8
>>864
儒学・易学・兵学が講義内容だよ
867宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2009/12/24(木) 03:25:39 ID:/HiaM+zv
卒業生だと、7代玉崗瑞?の弟子で9代庠主の閑室元佶

保護を受けていた北条氏が滅亡し、豊臣秀次の援助を受けたが、
秀次事件の際に流された・・・などと、徳川実記にあったり、
以後は家康に仕えて、関ヶ原への出陣の日取りを占い、「学」という字の
指物を持って従軍したという事が下毛埜州学校由来記に書かれているみたいです。

ただ家康専属だったという訳でもないようで、関ヶ原後毛利輝元に頼まれ新しい城地の
候補地を選んだ時の事が毛利家文書に残ってる。

「戦国武将を育てた禅僧たち」に詳細が書かれてます。
868人間七七四年:2009/12/24(木) 11:39:48 ID:z26RTbUi
一般には「寺」
武将の子は5・6歳になると寺に通学した。
教師は僧や都落ちした公家(大名専属となることが多いが)
講義内容に医学(「救急救命士」の基礎・薬草の知識)もあった。
869人間七七四年:2009/12/25(金) 00:58:46 ID:yV6EENhY
足利学校では自分たちで食べる野菜や薬草を栽培していたそうだね
870人間七七四年:2009/12/26(土) 11:59:10 ID:YVYn2mlP
録画した大河ドラマの「天地人」を見てるのですが、
「兼続が私財を投じて作った学問所」のシーンで
コンクリートの階段が出てきます。

この時代にコンクリートってあったのでしょうか?
871人間七七四年:2009/12/26(土) 12:21:18 ID:/E/oXgMq
コンクリの種類によるが、セメントは紀元前七千年前の中東が起源とされ、
中国でも紀元前三千年前には使用されていた。ローマではよく多用されている。

日本ではよく判らん。19世紀中ごろにフランスで鉄筋コンクリートが発明されて、
末には日本でも鉄筋コンクリ使った建造物が立てられた。
幕末の頃にはセメントを国内製造開始したという記録もどこかで見たような。
872人間七七四年:2009/12/26(土) 12:50:22 ID:YVYn2mlP
>>871
ありがとうございました。
やっぱり江戸初期の日本にはなかったと考えていいですかね。
873奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/26(土) 12:58:24 ID:h0hgLeVL
漆喰なら室町時代には建築物に使われているし、古墳からも出土しているけどコンクリとは違うかね。
874人間七七四年:2009/12/26(土) 19:20:06 ID:9raAFg6L
階段にしっくいは塗らないのではなかろうか
875人間七七四年:2009/12/27(日) 21:59:05 ID:VQq+C7Ub
戦国時代にもやっぱり暗号ってあったの?
アルファベットの暗号だと、カエサル暗号とか有名だけど、日本だとどんなのがあったんだろ。
忍者文字(平仮名を偏と旁で表す奴)は見たことがあるけど。
876人間七七四年:2009/12/28(月) 00:07:20 ID:/m5zSggu
日本の場合は漢字仮名混じり文な上統一的な表記が出来ていないから、
現代人にわかりやすい「暗号」なるものは無かったんじゃないかな?
漢字の旧字・新字が明確に区別されるようになったのは戦後のことだし、
平仮名・片仮名が統一されるのは明治以降の話で、
戦国時代の文章は新字・旧字・別字・国字・片仮名・平仮名・変体仮名という、
7種類の文字が同時に混在する非常に難しい文体だった。
また、本来漢字で表されるべき個所を平仮名にしたり(「丹花」を「たんくわ」と表記)、
本来仮名であるべき個所を感じにしたりと(「あるまじく」を「有間敷」と表記)、
表記方法も作者によって統一性がなくバラバラで、暗号の素材としては非常に頼りない。

代わりに素養としての和歌や漢詩が暗号の変わりに用いられたような。
和歌の場合は本歌取り、掛詞などが暗号となりうる(現代ミステリーみたいに)。
あるいは文字そのものに頼らず、何かの道具を用いたりしたと思われる。
お市が浅井の裏切りを信長に教えたとされる小豆袋の話なんかはこれに当たる。
877人間七七四年:2009/12/28(月) 02:09:03 ID:XvFNtzYV
当然ながら符丁、隠語と言うべき、書状をやり取りする双方のみで理解出来る言葉で
書かれた文書は普通に存在した。

あと、戦国期の文書はその多くが内容を漠然としか書かず、『詳しくは使者に聞いてください』と
なっているものがほとんど。
変に暗号化するより、人間に口頭で説明させるのが一番安全だったと言うことだろう。

その為書状の使者というのは、どこの戦国大名でも非常に重要視された仕事だった。
書状を無事送り届ければ合戦での戦功と同等に扱われたし、その最中何らかの事故で
死亡すれば、それも合戦での討死と同一とみなされ、主人にはその使者の子や親類を
取り立て家を存続させることが、半ば義務となっていた。
878人間七七四年:2009/12/28(月) 02:14:46 ID:10qHx4GS
いや、暗号って使者とかに持たせるようなものなのかね?

例えば人質として他家に預けられてる大名の息子が、主家に今いる家の状況を知らせる際に、
普通の手紙に見せかけて使用したりするんじゃないの?
そういう事(駐在武官みたいな行為)があったのかどうかはしらないけど。
879人間七七四年:2009/12/28(月) 04:03:00 ID:J1q1OUsj
手紙だって結局使者が持っていくわけで
だったら口頭の方でよろしいでしょ
880人間七七四年:2009/12/28(月) 08:55:21 ID:/m5zSggu
>>879
>>878の例もあるように、使者は必ずしも味方じゃないだろ
881人間七七四年:2009/12/28(月) 11:26:35 ID:u+/xc6th
暗号といえば、信玄が家康に送った手紙。
(今川領をお互いで切り取ろうという誘い)

「啐啄」とだけ書いてあって、家康は禅僧に意味を聞くまでなんのことか分からなかった。
卵の中の雛が中から卵を突き割ろうとする。
親鳥が外から卵を割り雛を外へ出そうとする。
それを同時に行うという意味。
882人間七七四年:2009/12/28(月) 12:19:46 ID:QHjK3z9F
年を書かない書状なんかも、露見されたくない相手に渡ったとしても、いくらでも言い訳できるからとも言うな。
おかげで年代特定が大変なわけだが。
チュコチョコとサインや名乗りを変えるやつは分かりやすいが。
883人間七七四年:2009/12/28(月) 19:28:03 ID:2RbJEqsJ
大内義興や大内義隆には異名があったのでしょうか?
大内家は当時西国で最も危険な大名で周囲には恐れられていたことでしょう。
部下の陶隆房は「西国無双の侍大将」と恐れられているのに当主が異名すらないのは妙です。
884人間七七四年:2009/12/28(月) 20:48:46 ID:C3I2g2yf
>>883
大内義隆は「末世の道者」
義隆の死後すぐに書かれた大内義隆記という軍記にそういう記述がある
義興は分からない

つか西国無双の侍大将ってそれほどいい二つ名ではないと個人的には思う
隆房の将としての器が侍大将止まりと言ってようなものだから
885人間七七四年:2009/12/28(月) 21:05:00 ID:2RbJEqsJ
>>884
ありがとうございます
道楽で滅ぶまでは近隣だけでなく諸国の脅威の対象だったのに
なんとも哀れですな
886人間七七四年:2009/12/29(火) 01:03:14 ID:v6yVThC6
JRトラベルナビゲータの、ケータイ国盗り川柳のポスターの肖像画は誰でしょうか?
夏バージョンは伊達政宗でしたけど
887人間七七四年:2009/12/29(火) 01:10:10 ID:vSjj8t1P
聞きたければそのポスターの画像のURLをちゃんと貼ってから言えよ。
最低限のマナーだろ。
888人間七七四年:2009/12/29(火) 07:15:49 ID:XfYHd6gB
>>884
>隆房の将としての器が侍大将止まりと言ってようなものだから
どういう意味?
義隆の家臣である以上、最高の褒め言葉だと思うけど
889人間七七四年:2009/12/29(火) 07:31:39 ID:/vXoFOzU
>>888
のちに謀叛を起こして形だけの当主を立てて、実権を握っていた晴賢が
実質的な総大将として出陣した厳島の戦いで敗死する事を考えるとすごい皮肉が効いてる

この西国無双の総大将って誰が言い出したのかは知らんが
890人間七七四年:2009/12/29(火) 09:58:51 ID:1N56/n7/
陶の場合の侍大将は総大将の次席って意味じゃね?
どっかのゲームのような大名>宿老>家老>部将>侍大将>足軽頭って意味だと
酷い侮辱だがw
891人間七七四年:2009/12/30(水) 09:34:22 ID:DMjsVZL7
>>889
確かに皮肉ですね
総大将になったとたんに敗死とは
892人間七七四年:2009/12/30(水) 09:41:02 ID:6KgjKYwY
武田信玄だったかな?「名門家臣の子弟で使えない連中は侍大将にでもさせておけ。
実際の指揮は(実力のある)足軽大将にやらせるから。」って言ったのは。
893人間七七四年:2009/12/30(水) 12:25:21 ID:4jl7qa8j
「侍大将」の定義をはっきりさせないと水掛け論というか結論はでないでしょ。
単語が同じでも意味が違うなんていくらもあるのだし。
894人間七七四年:2009/12/30(水) 15:25:00 ID:4VR+ivc/
現代の軍隊の階級見たくかっちりしたものだったわけでもないだろうし。

英語の階級は日本語に直せば「頭」とか「親分」とか言ってるようなもんだけど。
895人間七七四年:2009/12/30(水) 16:18:23 ID:p3UQsu5Y
国によって意味がちがうだろうね
896人間七七四年:2010/01/01(金) 08:45:54 ID:iqLwo/io
戦国時代にも新年会とかあったのかな?
897人間七七四年:2010/01/01(金) 08:57:48 ID:dMCCpBL3
正月朔日は家臣が主君の居城で新年のお祝いをし、そのまま宴会ってのが普通。
挨拶の順番が通常、その家に置ける家内序列とされる。

家格や譜代、外様の違いにより、日を分けて正月の儀を行う場合もある。
898人間七七四年:2010/01/01(金) 10:25:51 ID:piAI3Iqf
御年玉や盃の儀式もあったね
899人間七七四年:2010/01/01(金) 10:26:26 ID:iqLwo/io
ありがとうございます。当時の宴会というと本膳とか式三献とか面倒臭い奴でしょうか?
900人間七七四年:2010/01/01(金) 13:23:21 ID:piAI3Iqf
献杯行事は上座の主君と盃を酌み交わす。
序列による順番や作法の違いが厳しい。
これが終わったら気楽な宴会だろうね。
御家によっては違うでしょうけど。
901人間七七四年:2010/01/01(金) 17:52:43 ID:iqLwo/io
日本人の宴会は非常にしつこく酒を勧め合うので泥酔者が多く出る(ルイス・フロイス)

フロイスの見た日本の宴会って武将クラスだったんでしょうか。
902人間七七四年:2010/01/01(金) 18:53:32 ID:dMCCpBL3
せいぜい地侍クラスかと。
903人間七七四年:2010/01/01(金) 19:34:33 ID:S3OBwF3u
貴族や大名重臣たちの宴会に招待される身分かってえとなあ。

大名レベルから歓待を受けたことはあっても、それは宣教師をもてなすためのものであって、普段やっているような宴会とはまた違っただろうし。
その場合は、宴会というよりは客をもてなす晩餐会?
904人間七七四年:2010/01/01(金) 19:41:52 ID:8UPMdpy0
でもフロイスは信長が運んだお膳で饗応されてるから、信長の宴会も見てるんじゃないの?
905人間七七四年:2010/01/01(金) 19:42:39 ID:iqLwo/io
むしろキリシタン信者の宴会でしょうか?
906人間七七四年:2010/01/02(土) 09:28:08 ID:FWLa2dJm
武田みたいな守護大名家と織田みたいな成り上がり大名家では宴会も違ったんだろうか
907人間七七四年:2010/01/02(土) 10:23:14 ID:VenamTkc
細かい点で言えば各家それぞれの特色があるが、基本は変わらないよ。

あと信長の弾正忠家もそうだが、伝統のない家ほど定型的。
908人間七七四年:2010/01/02(土) 21:32:16 ID:nMW6NrSi
昨夜やっていた『相棒』というドラマの中で
明の皇帝が日本国王宛に送った茶器という架空の話が出てきたんですが
ドラマ中の仮説によると
それが明による日本国王(天下人)のお墨付きの証になると言われていたのですが
そういうものが実在したとして、そういった価値はあるものなんでしょうか?
秀吉は朝鮮出兵時に明から日本国王に封じるという話を怒ったとか
蹴ったとも言われていますが
当時、日本で明という国は権威ある存在だったんでしょうか?
909人間七七四年:2010/01/02(土) 22:07:52 ID:VenamTkc
>>908
「茶器」に価値を認めていたのは日本独自の価値観なので、明の皇帝がわざわざ
茶器なんぞを送ることはない。

あと、明はたしかに地域最大の大国としてある種の権威を持っていたが、日本側は
足利義満の時代ですら、せいぜい貿易パートナー程度の認識しか持っていない。
しかも大内が滅んだ後は正式な国交は断絶した。

そのドラマの仮説は、実際の歴史に照らして言えば「荒唐無稽」の一言で済ませられる。
910人間七七四年:2010/01/02(土) 22:08:51 ID:4YCedGzv
権威以上に実利のある相手じゃないかなーと。
通商での利益もそうだが、当時の日本に流通してる通貨は大陸製だからな。
国内で銭を流通させるには銭は多くて困るってことはない、
というか大陸との通商が減り銭の供給がなくなってしまい、
銭の劣化が進行して撰銭が横行、貨幣経済が破綻したくらいだしね。

日本国王を望むってことは、冊封体制内に組み込まれると言う意思表示で、安定した通商の裏付けになる。
もちろんそれだけではないだろうけど、安定経済(自分の懐を肥やすのも込みで)ってのが足利義満が日本国王に封じられるを望んだ一因かと。

逆に秀吉はそんなの望んでないから、日本国王なんていらん訳で。
911人間七七四年:2010/01/02(土) 22:55:04 ID:5ya7yVlZ
大内義長が明と交易しようとしたところ
簒奪者として相手にされなかったんだよな
912人間七七四年:2010/01/02(土) 23:35:11 ID:60OUp+8A
んなこといったら、当時の明との朝貢貿易はすべて建前上は明皇帝から日本国王への下賜品だ

>>908
権威ってのが度の程度のことを指すのかによるが、よく説的な実利以上の権威はないよ。
現代日本人はローマ法王の権威を知っていても、だからって信徒でもなければ恐れ敬って畏まったりしない。
913人間七七四年:2010/01/03(日) 00:01:03 ID:lrnHU44B
四代将軍足利義持が、義満の政策ひっくり返して明との国交を断絶させると
明の永楽帝が
「てめえふざけるな俺を皇帝として崇めないなら貿易停止するぞクズ」
って言ってきて、これに義持が
「こっちはおまえなんかに頭下げる言われはないんだよ糞が」
みたいな対応して両国関係がそれはそれはギスギスした。

まあこの辺を見ればわかるように、貿易のことさえ考えなければ
日本は特に大陸王朝を尊重するような気持はさらさら無かった。
914人間七七四年:2010/01/03(日) 00:03:17 ID:CZ0dkYiZ
てか大陸側がそういうふうに交易の管理に厳しかったから、倭寇の大量発生なんてのが
起こったんじゃないの?
915人間七七四年:2010/01/03(日) 05:42:46 ID:c+Dfo/M2
倭寇って具体的には何者なんでしょうか?何とか水軍がやってたんでしょうか。
916人間七七四年:2010/01/03(日) 09:23:17 ID:lrnHU44B
>>915
「倭寇」は現在では、明の海禁政策を契機に、元朝の積極貿易政策でふくれあがっていた
日本、中国、朝鮮、さらに東南アジアにまで及ぶ、東シナ海で活動していた多種多様な民族の
貿易の民が、明の官吏に対抗するため九州をその拠点とし日本語を共通語として集合した
ハイブリットな海洋民集団だとされている。
917人間七七四年:2010/01/03(日) 10:48:04 ID:Pby5DWwA
嘉吉の乱の首謀者で、後に倭寇になって瀬戸内海を荒らしまわった赤松則繁が
有名かな。
918人間七七四年:2010/01/03(日) 13:45:28 ID:BNoorI4V
騎馬武者ってそれほどアドバンテージはあるんでしょうか?
足軽が槍ふすまをつくって、スピードを落として、そこを矢なり鉄砲なりで
狙えば楽勝かと思うんですけど。
つまり足軽槍隊+飛び道具のユニットが最強かなと。
919人間七七四年:2010/01/03(日) 13:56:17 ID:lrnHU44B
そんな卓上の作戦が通用するならモンゴルは世界征服しておらん。
騎馬兵の機動性と突破力をなめるな。
920人間七七四年:2010/01/03(日) 14:05:03 ID:BNoorI4V
モンゴルは本物の騎馬隊でしょ。騎乗から矢を射るという戦士ばかりで
編成されている部隊でしょ。
日本の場合は上級の武者に足軽がサポートするって感じだと思うので、
なら>>918の戦法で上級の武者をまず討ち取れば、そのユニットは
崩壊すると思うんだけど。
921人間七七四年:2010/01/03(日) 14:09:39 ID:zSZ9SBII
>>920
日本の武士もユニットとしてはもとは騎馬弓兵だってご存知?
922人間七七四年:2010/01/03(日) 14:16:26 ID:lrnHU44B
だいたいヨーロッパでも18世紀まで騎兵突撃が有効だったというのに。
923人間七七四年:2010/01/03(日) 14:19:13 ID:BNoorI4V
>>921
源平の頃はそうでしたよね。
戦国の頃は足軽の槍隊を大量に動員出来るので事情は変わってくるのではないかと。
モンゴルのように、全ての兵士が騎乗弓射出来るのなら、槍隊に接近して、
弓を射て、Uターンするという攻撃を波状的に仕掛けることが出来るけど
日本では騎乗弓射出来る人間の割合が少ないし、平原も大陸と違って少ないので
その戦法が使えないですよね。
924人間七七四年:2010/01/03(日) 14:33:53 ID:lrnHU44B
>>923
槍衾で待っているのなら回りこんで側面から攻撃すれば良いだけだってわからないかね?
そういうものが「騎兵の機動力」なんだが。
925人間七七四年:2010/01/03(日) 14:40:12 ID:RIwNMqhe
>>924
そう言うのは敵も百も承知だと言うのがわからないかね?
騎兵対策も込みで備え単位で陣を組むんだよ。

将棋と一緒でさ飛車角が敵陣を蹂躙できれば勝ちだけど、
相手もそれをさせまいとするだけ。
926人間七七四年:2010/01/03(日) 15:06:41 ID:BNoorI4V
>>925
ああ、分りました。ファランクスの弱点と同じですね
927人間七七四年:2010/01/03(日) 15:44:23 ID:m1gGq5ly
槍襖最強とか言ってるやつは、こっちに向かってくる珍走団の集団に、
仲間集めて竹槍か、モノホンの槍を持って待ち構えて見ろよ。
928人間七七四年:2010/01/03(日) 15:54:01 ID:BNoorI4V
馬はバイクと違って感情あるし
929人間七七四年:2010/01/03(日) 15:57:32 ID:CZ0dkYiZ
戦国時代の軍勢の戦法や戦術、編成何かを調べようとする人で、戦国時代自体にはそこそこ
詳しくても、軍事の基本は全然知らない人が多いのはどうしてなんだろう…。
930人間七七四年:2010/01/03(日) 16:02:41 ID:ABCRMV4p
興味が無い、これに尽きるんじゃないの
931人間七七四年:2010/01/03(日) 16:53:23 ID:BNoorI4V
え、ここって俺みたいな素人が素朴な質問をしてもいいスレでしょ?
932人間七七四年:2010/01/03(日) 17:17:10 ID:CZ0dkYiZ
>>931
ん、何か勘違いさせてたら悪いが、本来なら答えるべき人間に軍事の知識が無い人間
が多い、って意味。
933人間七七四年:2010/01/03(日) 17:33:07 ID:BNoorI4V
>>932
了解しました。
934人間七七四年:2010/01/03(日) 20:24:43 ID:+aA0kqGE
欧州の騎士は
上級のナイトにスクワイアがサポートするって感じだよ

現代戦では
上級の戦車に随伴歩兵がサポートするって感じだよ
935人間七七四年:2010/01/04(月) 01:44:23 ID:jrYwrYlI
京都御馬揃えの順番をおしえてください
936人間七七四年:2010/01/04(月) 01:47:59 ID:KNevrqkC
一番入場 丹羽長秀・高山重友・中川清秀・中川秀成・池田之助・池田照政・塩川長満・塩川国良?・武田元明・内藤重政・熊谷直之・粟屋勝久・逸見昌経・山縣元盛?・革島一宣

二番入場 蜂屋頼隆・多羅尾綱知・池田教正・野間長前・三好康長・寺田正家・松浦宗清・沼間清成・沼間興清・根来衆

三番入場 明智光秀・筒井順慶・上山城衆

四番入場 村井貞勝・根来衆・上山城衆

御連枝衆 織田信忠・美濃衆・尾張衆

御連枝衆 織田信雄・伊勢衆・織田信包・織田信孝・織田信澄・織田長益・織田長利・大橋信弐・中根信照・織田信氏・木下嘉俊?・織田信則?

公家衆 近衛前嗣・正親町実彦・烏丸光宣・裏松輝資・高倉永孝

公家衆 細川昭元・細川藤賢・伊勢貞為・一色義定?・小笠原貞慶?

御馬廻御小姓衆

越前衆 柴田勝家・柴田勝豊・柴田勝政・不破光治・前田利家・金森長近・原長頼・神保長住・佐々成政

御弓衆

信長本隊 織田信長・武井助直・楠木正虎・長雲軒妙相・松井友閑
937人間七七四年:2010/01/04(月) 02:18:59 ID:oipJTKXO
>公家衆 細川昭元・細川藤賢・伊勢貞為・一色義定?・小笠原貞慶
これは公家衆ってより、旧室町幕府関係者ってカテゴリーでは
938人間七七四年:2010/01/04(月) 02:21:21 ID:KNevrqkC
某サイトのコピペだしねぇ
939人間七七四年:2010/01/05(火) 01:16:22 ID:dsGKIi35
2ちゃんの可愛い奥様たちは政治にとっても詳しいんですよ。経済、韓国、マスゴミ、近代史にも!
他板の皆様も覗いて下さいませ。
【民主党の政策に不安を感じる奥様の雑談室】105
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1262185511/


         ∧_∧        大韓民国万歳!
         <`∀´>  ≡≡≡ 朝鮮民主主義人民共和国万歳!
        O┬Oc )〜 ≡≡≡  <ネトウヨ!ネトウヨ!
         (*)ι_/(*) ≡≡≡

ウンコリアンが沸いてると聞きまして。
   ∧∧
 彡(*゚ー゚)                       ΛΛ キムチくさっ!
                             (>.0<*)
      ∧_∧     ∧_∧
 …… <#u`∀´>     (´∀` ) 今日もバ韓国工作員通常運転モナw

.
940人間七七四年:2010/01/06(水) 14:43:00 ID:ymx4mbs/
通称について教えてください
代々当主が名乗るもの、土地に因んだものの他に
どんな理由で付けられるものがありますか?
あだ名とは別ですか?
941人間七七四年:2010/01/07(木) 00:44:32 ID:wGodgJFs
>>940
例を出せ例をw
君のいう「通称」や「あだ名」がそもそも何を指しているかすら不明だw
受領なのか官途なのか仮名(けみょう)なのか諱なのか?

一般的には、あだ名は鬼義重(佐竹義重)、独眼龍(伊達政宗)などを指す。
代々当主が名乗るものというと、武田太郎、細川六郎などの仮名(けみょう)、
土地に因んだものというと上泉伊勢守などの受領または官途になる。
通称というとそれらをひっくるめるから漠然すぎて回答できんぞ。
942人間七七四年:2010/01/07(木) 09:30:26 ID:cumJVHAK
>>884
大内義隆の「末世の道者」って
道楽・衆道に溺れて家を滅ぼしたって意味?
943人間七七四年:2010/01/07(木) 09:41:56 ID:hxpW6pz8
>>942
戦国時代なのに文治主義を推し進めようとしたからだろう。
944人間七七四年:2010/01/07(木) 12:43:35 ID:cumJVHAK
サンクス
末とか道とかを見て悪い意味かと思ってた
945人間七七四年:2010/01/07(木) 16:22:44 ID:Xo97Mxoh
>>941
レスありがとうございます
通称にどんな種類があるのか…という初歩的な事もわからなかったので
うまく質問できませんでした
受領、仮名などいろいろあるんですね

竹中半兵衛の半兵衛はどれにあたるのでしょうか?
それから濃姫は受領でしょうか?
946人間七七四年:2010/01/07(木) 16:25:54 ID:Xo97Mxoh
すみません、半兵衛は仮名ですね
女性の通称について教えていただけると嬉しいです
947人間七七四年:2010/01/07(木) 19:01:08 ID:jsMtEMeo
>>946
知らん
948人間七七四年:2010/01/08(金) 19:39:14 ID:j/uaMvxN
濃姫は、美濃からきた姫だから、濃姫。
で、女性に関する通称について教えてってどういう意味?
質問の意図がよくわからないから、答えようがないぞ。
949人間七七四年:2010/01/08(金) 22:37:35 ID:3pBylF2Q
こういうことか?

実名がねね(自署では「ね」)、関白の正室という意味(地位や住んでいる場所からつく呼び名)の「北政所」、
朝廷から賜った諱「吉子」、夫を亡くした後に出家して名乗った院号「高台院」ってこと?
950人間七七四年:2010/01/09(土) 04:57:07 ID:d3wUBU8h
例えば実名が『玉』洗礼名が『ガラシャ』だけど、女性の場合こういうふうに
実名が判明しているのは例外で、普通『明智光秀女』『細川忠興室』としか
呼ばれない、とか。
951人間七七四年:2010/01/09(土) 05:57:44 ID:28QCL8ij
戦国期は日本の歴史上最も女性の地位が下がった時代で、
母だろうが嫁であろうが娘であろうが、とにかく記録に名前が残っておらんのだそうな。
952人間七七四年:2010/01/09(土) 06:05:34 ID:XbSxka8u
下がったというか、前面に出る必要がなくなったというかね
953人間七七四年:2010/01/09(土) 10:42:19 ID:d3wUBU8h
なら『淀殿』とか『築山殿』って何だろう。
954人間七七四年:2010/01/09(土) 11:05:33 ID:SJdFf71q
どういう意味で下がったなんだろう?そうとも思えんが
955人間七七四年:2010/01/09(土) 11:46:52 ID:UV8z54r9
『淀殿』は淀城に住んでたからそう呼ばれたらしい
『築山殿』は家康正室が人質交換後に住んでいた家のあった地名か、住んでた城の曲輪の名称
956人間七七四年:2010/01/09(土) 11:48:54 ID:d3wUBU8h
>>955
そうじゃなくて、通称?
957人間七七四年:2010/01/09(土) 16:49:43 ID:RwXbNCO2
>>951
地位の低下というのなら明治期だと思うが、どういう根拠で戦国時代が最も下がったといっているんだ?

記録に女性の本名がないってのなら、それこそ明治では女性名がいくらでも記録に残ったが。
958人間七七四年:2010/01/09(土) 17:58:04 ID:Vc9kJYOx
戦国期の女性の地位の低下って資料見れば、名前も出なけりゃ個性も記録されずって
所から類推できるじゃん。殆モノみたいな扱い。多少の例外はあっても間違いなく戦国期は
男性原理の時代だよ。

まさか戦国期に、室町期ほど女性の地位が保たれていたとでも?
959人間七七四年:2010/01/09(土) 18:04:45 ID:8nBLEzWZ
女性の名前が残ってないのは平安期も同じなんだが…
960人間七七四年:2010/01/09(土) 18:16:31 ID:xn5/GvmK
>>951はキチガイなんだから相手にせず放置しておけ
961人間七七四年:2010/01/09(土) 18:59:31 ID:Wjxva0mu
名前がないんじゃなくて、名前(諱)で呼ばないだけじゃないの?
これに関しては男も女も同じ。
962人間七七四年:2010/01/09(土) 19:41:51 ID:wyXNj1sC
歴史上の人物を名字と諱で読む事が多いけど当時でもそんな呼び方してたの?
963人間七七四年:2010/01/09(土) 19:46:02 ID:kN754x4a
男だって受領名とか地名とかで呼ばれるのが多いんじゃないのか?
朝廷からの公文書だと別なのかもしれんが、女だとそういう機会も無いだろうし。
964人間七七四年:2010/01/09(土) 20:00:03 ID:kN754x4a
>>962
「西村博之」という、とある会社の代表取締役の社長さんがいたとして、
その人に対して、部下や取引先の人たちなんかは、本人に対して、
「博之くん」とか「西村博之さん」なんて呼ばないだろ?
普通は「西村社長」とか、「西村代表取締役」と呼ばれる。

今も昔も同じなのよ。
965人間七七四年:2010/01/09(土) 20:19:10 ID:uBkYlUJx
そもそも諱は「忌み名」で、他人がそれで呼称するのはタブーじゃなかったっけ?
966人間七七四年:2010/01/09(土) 20:29:02 ID:4iCNJFqk
石田三成の著作で、小和田教授も武功夜話の信憑性を認めたから信頼できるって書いてありましたけど、本当でしょうか?
967人間七七四年:2010/01/09(土) 20:36:29 ID:xn5/GvmK
>>966
小和田はキチガイだからスルーしなはれ
968人間七七四年:2010/01/09(土) 20:54:47 ID:wyXNj1sC
>>964
歴史小説を読んでると当時の人が「織田信長という人が〜」とか「信長公が〜」とか呼んでる風に書いてあるから当時の人もそんな組み合わせで呼んでいたのかと
969人間七七四年:2010/01/09(土) 20:59:45 ID:Wjxva0mu
信長が生きているときに「信長公」はないな
「右府様」だな
敵なら、「おのれ、信長め!」というのはあり
970人間七七四年:2010/01/09(土) 21:03:11 ID:8nBLEzWZ
>>968
少なくとも俺は、当時の人がそういう風に呼ぶ歴史小説を知らないんだけど…
「弾正忠殿が…」「上総守殿が…」「前右大臣が…」みたいに呼んでるのが普通だった。

朝廷の文章なら「平朝臣信長」とでも書かれてただろうし。
971人間七七四年:2010/01/09(土) 21:03:31 ID:xn5/GvmK
>>969
いやそれは右大臣になってからだよ
972人間七七四年:2010/01/09(土) 21:10:20 ID:d3wUBU8h
信長の「上総介」って僭称?
「弾正忠」は親父の信秀が朝廷から正式に任命されたんだよね?
973人間七七四年:2010/01/09(土) 21:26:50 ID:wyXNj1sC
今、Wikipedia見たら信長の通称は三郎みたいだな
>>970
俺の読んだ奴には載ってたけど、なんかまったく関係ない人が世間話で織田信長って呼んでたから
>>969
敵側が諱で呼んでたりするのはあるのか
974人間七七四年:2010/01/09(土) 21:27:12 ID:Wjxva0mu
>>971
当たり前だw
975人間七七四年:2010/01/09(土) 21:32:17 ID:RwXbNCO2
>>968>>973
小説をもとに言われてもね

>>958
室町期からは若干は下がったとも見えるけど、とてもじゃないけど日本史上で一番下がっていたとは言えないな
976人間七七四年:2010/01/09(土) 21:42:01 ID:wyXNj1sC
>>975
だから小説が事実かどうか知りたいと
多分、俺は違うと思うけど
977人間七七四年:2010/01/09(土) 22:45:12 ID:RwXbNCO2
>>976
その通りです。諱で呼ぶなんて敵対者でもまずやりません。
字は書状に記されるから判るけど、それを何て読むかは家族以外はまず外の人間は知れないから。

極端なこと言っちゃうと、「信長」も我々は「のぶなが」と呼んでますが、実は違う読みだった可能性だってある。
978人間七七四年:2010/01/09(土) 23:31:16 ID:wyXNj1sC
>>977
やっぱりそうなのか
謙信が謙信公とか言われるのは分かるけど信長が信長公とか言われるのは違和感があったから

江戸時代から信長公とか呼び始めたのかな?
979人間七七四年:2010/01/09(土) 23:56:54 ID:afSyH/D9
>>975・977
一応「信長」は「のふ」とサインしていたのは知られている。
高台院宛の手紙とかにしてある奴だな。

また「晴豊公記」(晴豊記・日々記とも)は「のふなか」と明記している。
部分「のふなかより御らんと申候こしようもちて」
現代語訳「信長より森乱丸と申す小姓を以て」
明らかに信長を指しているので「のぶなが」以外の読みは考えにくい。

残念ながら信長ほどにもなると名前が知られすぎて家族以外知らないなんてことはない。
これは秀吉や家康も同じことが言える。
980人間七七四年:2010/01/10(日) 00:07:25 ID:Ct3ebAC2
宣教師は信長の名前については一箇所も記してないの?

秀吉が「ファシバチクゼンドノ」と書かれてた、ってのはどっかで見たけど…やっぱり
名前は書かないか。
981人間七七四年:2010/01/10(日) 00:18:10 ID:VFaW1gqh
>>980
景勝の名前は書いてたよな?
982人間七七四年:2010/01/10(日) 01:57:49 ID:HWszEABz
フロイスは一貫して「nobunanga」と書いてるね。ノブナンガ?
983人間七七四年:2010/01/10(日) 04:52:07 ID:o5RcBDPm
読みがはっきり伝わって無いやつってそんなに多いのか?
少なくとも有名どころは確実なものだと思ってたが。

明石全澄とかは読み方が不明な人の代表格だけど。
984人間七七四年:2010/01/10(日) 04:54:33 ID:Ct3ebAC2
>>982
鼻濁音だろ。昔はが行はそっちで発音するのが一般的だったが、今は消えかけてる。
985人間七七四年:2010/01/10(日) 09:40:59 ID:HWszEABz
増田長盛が「ますだ→ました」は有名だな。「ますだ」だと思われていたのが
「真下」と表記された文書が発見された。
986人間七七四年:2010/01/10(日) 17:17:12 ID:HWszEABz
秀吉遺言状の宛名は、いえやす(徳川家康)ちくせん(前田利家)てるもと
(毛利輝元)かけか津(上杉景勝)秀いへ(宇喜多秀家)だな。
987人間七七四年:2010/01/10(日) 17:19:59 ID:20cO0w+7
なんで利家だけ諱を書かなかったんだろう?
親しみの演出なら秀家に対してもそうあるべきだろうに。
988人間七七四年:2010/01/10(日) 17:25:41 ID:xzEud7xN
>>987
「利家とまつ」では秀吉は始終「またざ」と呼んでたが
あれは本当なんか?
989人間七七四年:2010/01/10(日) 17:31:05 ID:20cO0w+7
>>988
あれはドラマの設定上「秀吉と利家は幼なじみ」ってのを
強調するための演出。
990人間七七四年:2010/01/10(日) 17:49:10 ID:PjR3kSSN
>>986
やだ…ひらがなだとかわいい…
991人間七七四年:2010/01/10(日) 18:04:02 ID:PjR3kSSN
次スレないな
立ててくる
992人間七七四年:2010/01/10(日) 18:04:50 ID:PjR3kSSN
あい
【疑問】スレ立てるまでもない質問 5【戦国時代】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/
993人間七七四年:2010/01/10(日) 18:33:14 ID:HWszEABz
>>992

しかし若い頃から親しい仲なら日常会話で又左と呼ぶのは自然な気がするが、
さすがに遺言状には『またざ』と書けなかったのかね。
994人間七七四年:2010/01/10(日) 18:45:42 ID:Ct3ebAC2
そりゃお前、例えば幼なじみを普段「ゆう君」と読んでたとしても、遺言状には
「悠一様」って書くだろ?
995人間七七四年:2010/01/10(日) 18:54:08 ID:20cO0w+7
秀吉は利家と昔なじみだったというのは後世の創作だし、
仮にそうだったとしても秀吉が太閤記の言うように下人上がりなら
利家のことを又左なんて言ったらそれだけでブッ殺されても仕方ない。
996人間七七四年:2010/01/10(日) 21:01:32 ID:VFaW1gqh
又三は通称だし清洲時代は家が隣同士だから普通にそう呼んでてもおかしくはないと思う
997人間七七四年:2010/01/10(日) 21:06:32 ID:xzEud7xN
>>996
> 又三は通称だし清洲時代は家が隣同士だから普通にそう呼んでてもおかしくはないと思う

今思い出したのが、秀吉と利家が若い頃親交があったという記録がないのだが
どの史料にそんな事が書かれてあった?
998人間七七四年:2010/01/10(日) 21:39:48 ID:BkWYW9uQ
>>995
城持ち豪族の息子だし、信長の愛人だもんな。
秀吉とはスタートラインが全然違う。
999人間七七四年:2010/01/10(日) 21:50:49 ID:UmObTxWv
能登に行ってからも相当年下の佐久間盛政から又ざと呼ばれてるでしょ
秀吉が又ざと呼んでいても何等不思議じゃない
1000人間七七四年:2010/01/10(日) 22:05:25 ID:p9f4QgtP
>>992さん乙です
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
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   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
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