仏教 議論スレッド その3

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667神も仏も名無しさん:2010/06/07(月) 23:10:22 ID:lvv7RNGw
>>666 ほ〜〜〜〜、なるほど。
それなら、文面を額面どおり受け取ると間違えるか。
なにやら、今までとは変わった視点からの書き込みをする人なので
楽しみだ。(笑)
668神も仏も名無しさん:2010/06/07(月) 23:11:21 ID:1YzuuBu5
>>667
手強いですよw
669神も仏も名無しさん:2010/06/07(月) 23:13:08 ID:lvv7RNGw
>>668  それは、ますます楽しみだ。
とりあえずは宝珠あたりと、やりあって欲しいなあ。(笑)
670神も仏も名無しさん:2010/06/07(月) 23:13:14 ID:m/9esDpy
>>664
それは、自己の生存本能から発する、深層心理的な死への恐れである。

死体を見ると、不気味で、恐ろしい感情が生じるのが、その証拠である。

死体を見て、楽しいと思うのは、恐らく精神障害者のみであろう。

正常人が人を殺すと、例外なく良心の呵責が生じるが、宗教者にとっては、
異教徒・異教派を殺すことは、無上の喜びなのである。
671神も仏も名無しさん:2010/06/07(月) 23:26:26 ID:1YzuuBu5
>>670
アホだなぁ・・w
《君の大好きな「共同体」w》の安泰の為だよw
《「自分の死」に影響しなくとも、「共同体の安泰」を脅かす可能性がある》からだよ。
だから、「共同体の規定する儀礼を行なわない者、規定に従わない者」は
叱責や糾弾の対象となり、最悪の場合、放逐されるわけさ。

また、別件になるが、ここに何の概念が作用してると思う?w
霊的な、魂という概念だよ。
それこそが、君の言うような理想論以前の、
「生命」や「“生命由来の”思考」が生じさせる、『リアルな』『ヒト』の姿だよw
672神も仏も名無しさん:2010/06/07(月) 23:28:40 ID:1YzuuBu5
ああ、隠居の相手はもうやめたんだった・・w

宝珠待ちなんで、ついついレスを入れてしまうなw
673神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 04:48:33 ID:zQCFlGDI
この現象界(世俗)においては常に「行為とその行為主体」はセットである。
例えば「認識する」と言えば、必ずそこには「認識する主体」が(たとえ言及
されなくとも)暗黙のうちに了解されている。
この視点を「涅槃」に適用すると、@「涅槃の境地にいるのは誰か?」という
問いとなる。  ここに問題が生じる。

世俗の視点を「涅槃」に適用すること自体が、果たして妥当であるのか?
世俗の視点により「行為の主体を不可欠のもの」として要求することは必然
なのか?
これを考察してみよう。

この現象界(世俗)には、「時間」というものがある。これは変化に付随する
概念である。言い換えれば「変化のないところに時間はない。」
「何も生じることがなく、何も滅することがない。すなわち『変化』という
ものが全くない世界」があったとすると、そこには「時間という概念が存在しない」
「時間がないのではなく」  『時間と言う概念そのもの』がないのである。

また、この現象界(世俗)においては、「数の概念」は当たり前であり、誰もそれに
疑問を呈するものはいない。しかし、もし「唯一つのものよりなる世界」が
あったとすると、そこには2や3という概念はもちろん「1」という概念さえもない。
つまり「数の概念」そのものが存在しない。
674神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 04:49:26 ID:zQCFlGDI
では、「自己」とは?   これは「他者」がいて初めて成立する概念である。
自分ひとりしか存在していないのであれば、そもそも「自己」という概念自体が
あり得ない。『自己』と言う限り、自己と他者を分別する『個(我)』という概念がある。

それでは「涅槃」には、「自己と他者」あるいは「個(我)」という概念が成立
するのであろうか?
「涅槃」とは、「無我」を了解した上で成り立つのが大前提であり、そこには
変化もなければ、それに相依する時間もない。当然、「自己と他者」という『我』
も存在しない。そのような、あらゆる「識別、分別が存在しないこと」が『涅槃』
である。

であるならば、@の問い
「涅槃の境地にいるのは誰か?」  この問いにおける『誰か?』という部分が
矛盾していることになる。  「誰か?」という問いかけ自体が、それぞれの
「個(我)」の存在を前提としたものであるからだ。
「涅槃と言う《我の存在を否定≫した上でなりたつものに関して、≪我の存在を
前提とした問い≫を発すること自体が成立し得ない。」
すなわち、涅槃においては「行為に対する主体」を想定する事自体が、論理矛盾
となる。主体を想定した時点で、涅槃ではなくなってしまうからである。

さて以上は、セブンと宝珠のやり取りを見て、ちょっと「涅槃について」考えてみた
ことであるが、どうだろうか?
如何せん、仏教徒ではないもので涅槃に関しての勘違いや、あるいは論立て自体が
矛盾内包しているかもしれん。(正直あまりつめてない)
よって、間違いの指摘があれば幸いである。
675てすと:2010/06/08(火) 07:37:22 ID:ftR+hJ04
>>663

>既にイエスで狂った君の意見に過ぎない。

だからいつも言うけど、イエスがこの世に存在していたという科学的物証を出しなさい。
釈迦は墓が見つかるまでは非存在学派があった。

ご隠居は聖書という空想物語から演繹しているので、バチカンが「ごめん、聖書は実は巧妙な捏造ですたw イエスなんていねーよw」
といったら今までご隠居がイエスに捧げた人生の時間が無駄になるよ。
676てすと:2010/06/08(火) 08:09:36 ID:ftR+hJ04
涅槃も天国もないよ。

手の届かないところに人参の絵をぶらさげて、走らされているだけ。
遠くのゴールを目指すより、日々の雑事をこなしましょう。
677神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 09:44:06 ID:zQCFlGDI
>>675  あれれ?変だな。
>だからいつも言うけど、イエスがこの世に存在していたという科学的物証を出しなさい

隠居は、ちょっと前の俺とのやりとりで「釈迦もイエスも竜樹も歴史上の実在の
人物ではなく、誰かが創作した架空の人物である。」  と、このように
言っていたんだがなあ。  もしかして以前は、イエスや釈迦を実在の人物として
語っていたのかな?

>>676
>涅槃も天国もないよ。

天国は置いておくとして、「涅槃はない。」
このように断定できる根拠は何なんでしょうか?
また、「ない。」と言っているわけだから「涅槃が何であるか?」も
ご存知なのですね。 
「涅槃がなんであるかの解説もあわせて、何故それがないと言えるのか」
の説明をよろしくお願いします。
678神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 09:56:18 ID:tlP9saJP
>>675
今まで何度も言ったように、私は、クリスチャンが「実在」だと信じて止まない、
聖書という「フイクション上の」神やイエスを批判している。これは、すべての
クリスチャンをその妄想から目覚めさせるためには、無駄な努力ではない。

これは、釈迦仏教徒についても同じ。見つかった白骨が、釈迦本人のものとの証明
はない。どこかの行き倒れの人間か、犬猫の骨かもしれない。ましてや、釈迦の
「生前の行為」が真実であるとの証明は皆無である。生まれると直ぐ「天上天下唯我
独尊」と言ったことからも、嘘であることはバレバレ。

これほどの「有名人」である釈迦やイエスに、真筆や、同時代人が作成した彫像が
存在しないことは異常である。彼等よりもはるかに前の時代の人物であるエジプト
のファラオについては、同時代人による彫像や本人のミイラまで現存する。

679てすと:2010/06/08(火) 10:04:39 ID:ftR+hJ04
>>677

なんかここの過去レス読んだら、ご隠居のスタンス変わっているね。たぶん、俺のせいかな。。。
以前ご隠居が「イエスは大工の息子」といって馬鹿にしていたので、俺が「それなら大工道具はどこにあるんだ?証拠だせ。」と反論したんだよね。

>また、「ない。」と言っているわけだから「涅槃が何であるか?」もご存知なのですね。 
その論法がそもそもおかしいんだけど、存在っていうのは観測からくる帰納法で判断するものなにで、
先に涅槃とはなにかという定義をして演繹して存在のあるなしを示す事はしない。

例えば、「母」、「りんご」、「水」、が存在しているかどうかを示すときに、先に言葉の定義はしないで、
あるものを母、あるものをりんご、あるものを水と名付けるのが先であって、定義は時間軸で後になる。

神とか天国とか涅槃というのは観測されたことがない、ただの概念をそう名付けただけなので、
万人に共通な普遍的な観測による定義はできないし、主観による「宣言」しかできないので、「ない」という判断になる。


680てすと:2010/06/08(火) 10:07:32 ID:ftR+hJ04
とりあえず、涅槃という状態に達成したという人を目の前に連れてきて欲しい。

話はそれからだ。
681神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 10:12:50 ID:tlP9saJP
>>679
それは「聖書というフィクション上のイエス」の意味。クリスチャン
たちの妄想に付き合っていただけ。

君も、「教典にはない真実のイエス」を追い求めているのだろw。
682てすと:2010/06/08(火) 10:28:07 ID:ftR+hJ04
>>681

>君も、「教典にはない真実のイエス」を追い求めているのだろw。

君「も」って、ご隠居はやっぱり真実のイエスを追い求めていたのね〜〜〜
きんも〜〜〜

前にご隠居に指摘したの俺じゃんw 俺がいない間にいろいろパクッているようだね。
まあ、いいけどw
683神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 10:35:44 ID:zQCFlGDI
>>679 
観測、確認可能な物理量に関してならば、「現時点、および
観測可能域」において、その『存在の是非』を検証できる。
(これも、あくまでも現時点の技術に依存するが)

それでは、ある『心的状態を指示する概念語』
愛、悲しみ、怒り、不安・・・・
などは「存在しない」のか?これらは、勿論、外部検証不能であり、
お宅の言うように『主観による「宣言」しかできない』ものであるが、
存在しないと断定できますか? 勿論、そんなことはないですね?
では、数の多少の問題なのでしょうか?
愛、怒り、悲しみ、不安・・などは、多くの者がそれを自覚するから、
「ある」のであり、「涅槃という心的状態」は、それを自覚する者が
少数であるから、「ない」という見解なのですか?
684神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 10:55:14 ID:zQCFlGDI
この「涅槃」という語が指示するものとして、(宝珠がいうような)
『場』的なものであるならば、正に「そのようなものは観測、確認
されていないので、存在する可能性は限りなくゼロに近い。」という
結論に帰結させるのも妥当であると考えられる。しかし、「涅槃という
心的状態などない。」という断定は妥当でしょうか?
分子レベルにおける脳の解析が可能になり、それにリンクして「こころ」というものが
何であるのか完全に解明され、定量観測により、「涅槃という心的状態
などない。」と言うことが実証されたなら、まだしも、「現時点において」
そのような断定をくだすのは、いささか時期尚早なのでは?
685てすと:2010/06/08(火) 10:57:08 ID:ftR+hJ04
>>683

「悲しんでいる人」
「怒っている人」

は本当に悲しんでいるか、怒っているかはともかく、観測可能ですよね?

「涅槃している人」はどこにいますか?
「涅槃を目指している人」はたくさん観測できますが。

>数の多少

多少じゃなくて、ゼロです。
686てすと:2010/06/08(火) 11:03:32 ID:ftR+hJ04
ある時Aさんが「私は涅槃に到達した」といいました。

Bさんは涅槃というものを目指していましたが、
BさんからみてAさんが自分の望む状態なら
「あれはまさしく涅槃だ。俺ももっと頑張ってああいう人になろう。」
違うなら
「あんなのはAが勝手に涅槃と言っているだけで、真の涅槃は違う。」
と言うでしょう。

とりあえず、ID:zQCFlGDIさんからみて、涅槃状態になっている人をここに呼んでください。
普遍性はともかく、個人的にこれが涅槃だというものを提示してください。
687てすと:2010/06/08(火) 11:09:06 ID:ftR+hJ04
>分子レベルにおける脳の解析が可能になり、それにリンクして「こころ」というものが

いやだから、脳を解析するときに被験者が悲しんでいる時に機能する部分、
怒っている時に機能する部分は観測可能ですが、涅槃しているときに機能する部分は観測不可能です。

被験者が「あ、私いま涅槃しています。」と言えなくてはなりません。

ですから、

>「涅槃という心的状態などない。」という断定は妥当でしょうか?

この断定は妥当です。
688神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 11:11:53 ID:zQCFlGDI
>>685  ん?
「解脱者、覚者」と言われている人たちは、チベットなどには結構、
いるらしいですぞ。勿論、俺はそれらの人たちに会ったことはないし、
その人たちが「覚者」であるのか判断のしようもないが、当地の事情に
詳しい「縁起一代」という人物が、そのように語っていた。

さて、それではここに「悟っていると言われる人」がいたとしましょうか?
(事実、チベットにはそのように言われている人たちがいるわけだ)
彼らは
「本当に悟っているかはともかく、観測可能ですよね?」
これと悲しんでいる人が
「本当に悲しんでいるかはともかく、観測可能ですよね?」
との差異は何ですか?

また  >多少じゃなくて、ゼロです。  
このように断定できる根拠は?


689てすと:2010/06/08(火) 11:18:00 ID:ftR+hJ04
>>688

いやだから、そのチベットの高僧達は「私悟ってます」って言っているんですか?
690神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 11:29:21 ID:zQCFlGDI
>>686
>とりあえず、ID:zQCFlGDIさんからみて、涅槃状態になっている人をここに呼んでください。
普遍性はともかく、個人的にこれが涅槃だというものを提示してください。

はい、これは不可能です。なぜなら俺は「自分で涅槃といえるような
心的状態を『体験したことがない』からです。」 だから当然、
「涅槃という心的状態がある」 などと主張するつもりは全くありませんよ。
同様にあなたのように「ない」と断定することもしません。
自分で把握してない心的状態に関して「これがその人である」などと
提示するような無茶なことはできません。

>>687
>いやだから、脳を解析するときに被験者が悲しんでいる時に機能する部分、
怒っている時に機能する部分は観測可能ですが、涅槃しているときに機能する部分は観測不可能です。

これは「ある特定の感情とリンクする脳の部位が指摘されているに過ぎない
でしょう?」  人間の思考、感情、認識などその全てと脳のシステムの
全容が解明されていますか?  あなたが「血の赤色」を見たときに
抱く感情と「夕焼けの赤色」見たときに抱く感情の差異を脳の観測から
説明できるほど、その解析は進んでいますか?

>「涅槃という心的状態などない。」という断定は妥当でしょうか?

この断定は妥当です。

よってこのような断定を下すのは、まだ時期尚早であるというのです。

691神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 11:36:37 ID:zQCFlGDI
>>689
>いやだから、そのチベットの高僧達は「私悟ってます」って言っているんですか?

それはわかりません。なにしろ俺はその人たちに会って話をしたことが
ありませんから。  これは推測ですが、何人かは「自分は悟った。」
と言ってる人たちもいるのでは?
(あるいは『悟った』という表現を使用しなくとも、十分それと理解できる
表現で自己の心的状態を語る人はいるのでは?と考えますがね)
692てすと:2010/06/08(火) 11:41:32 ID:ftR+hJ04
>よってこのような断定を下すのは、まだ時期尚早であるというのです。
>なぜなら俺は「自分で涅槃といえるような心的状態を『体験したことがない』からです。」 

だからあなたではなく、誰が体験できるのですか?脳科学者がどうやって涅槃という心的状態を体験できるのですか?
高僧は体験できるのですか?100年経てば体験できるのですか?1000年ですか?
判断する時期は「誰が」決めるのですか?

>>691
>これは推測ですが、何人かは「自分は悟った。」と言ってる人たちもいるのでは?
これは推測ですが、涅槃や悟りはないのでは?
693てすと:2010/06/08(火) 11:50:28 ID:ftR+hJ04
>その解析は進んでいますか?


観測技術が進むまで判断保留じゃなくて、進んだら判断を変えればいいだけ。

「左にいこう」
カバンから望遠鏡が。覗いたら右に隠し扉が。
「んじゃ右にいこう」

「お前最初左に行こういっただろ。」
「はあ?それが何か?」

ID:ftR+hJ04さん

「カバンのポケット全部開けるのにどれだけ時間かかるかわからないけど、中身確認するまで、左にいくかどうか決めるのは時期尚早だ。」
694神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 11:50:38 ID:zQCFlGDI
俺の見解は「涅槃という心的状態がある」と主張するものではないので
誤解のないように。  俺が言ってることは
「涅槃」というのは少なくとも現時点では外部検証不能な心的状態である
ので、少数ながら「自己申告、あるいはそのようなはっきりとした自己申告が
なくとも、その他の言動から「そうであろう」という判断が十分妥当である
と考えられるもの達」が存在しているわけだから、
「涅槃などない」という『断定は不適切』である   というものだ。
つまり、「涅槃を体験したことがないものは」 「ある」と断定できないし
また同様に「ない」とも断定できない。
と、まあ、こういうものですが?
695てすと:2010/06/08(火) 11:54:29 ID:ftR+hJ04
>少数ながら「自己申告、あるいはそのようなはっきりとした自己申告がなくとも、その他の言動から「そうであろう」という判断が十分妥当である
と考えられるもの達」が存在しているわけだから、

だから具体的にどこの誰?そろそろ教えてよ。
696神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 12:09:09 ID:zQCFlGDI
>>692
>これは推測ですが、涅槃や悟りはないのでは?

だから「推測」といってるよな?
お宅は「推測」ではないよな?
「ない」と断定してるのでは?

>>693  だから、俺は
>>684 で
>この「涅槃」という語が指示するものとして、(宝珠がいうような)
『場』的なものであるならば、正に「そのようなものは観測、確認
されていないので、存在する可能性は限りなくゼロに近い。」という
結論に帰結させるのも妥当であると考えられる。しかし、「涅槃という
心的状態などない。」という断定は妥当でしょうか?

このように書いたよな?
観測、確認できる物理量であるなら、それが観測、確認できない
現時点では、それを「ないもの」として認識することは間違いではないの。
俺はこのことは今まで何度も繰り返し言ってきたわけ。
だから、霊魂などは現時点では「ないもの」と認識しているの。
では、愛は?怒りは?不安は?  これらは観測確認できませんよ。
これらも「現時点ではないものとして、観測できるようになってから」
あるものとして認識を「修正」しますか?
違うでしょ? 
お宅は「心的状態を表す概念語」と「その存在を検証可能な対象物」を
並列に扱うから、おかしなことになる。

697神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 12:12:38 ID:zQCFlGDI
>>695
>だから具体的にどこの誰?そろそろ教えてよ。

なんだ?これは。 今までの書き込みは無視で、このような
煽りを入れてくるような者なのかな? お宅は。
698神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 12:15:39 ID:zQCFlGDI
とりあえず、時間がないのでいったん落ち。
699てすと:2010/06/08(火) 12:17:53 ID:ftR+hJ04
>>696

>お宅は「心的状態を表す概念語」

だから涅槃というのがどのような心的状態を表しているの?そろそろ教えてよ。
愛、怒り、不安、これと涅槃は性質がちがうじゃん。

>>697

えええ、いちおう答えてるつもりだけど、どっか無視した?
俺は最初から涅槃に達した人を教えてくれって一貫してるのに、これが煽りなの???うそーん。
700てすと:2010/06/08(火) 12:33:11 ID:ftR+hJ04
「涅槃はない」
「断定いくない」
「だって涅槃してる人一人もいないじゃん。断定してもいいでそ。」
「少数だけどいるよ。」
「どこの誰?」
「なんだ?これは。 今までの書き込みは無視で、このような煽りを入れてくるような者なのかな? お宅は!!!」

「。。。。。(俺が悪いのか??一体どうしろと)」
701てすと:2010/06/08(火) 12:48:26 ID:ftR+hJ04
推測推測ばかりじゃ、宗教板がつまんなくなるだろ。
他人の否定ばかりして、自分の意見を投げない奴が大杉なんだよ。

宗教っていうのは独善と極論と断定のキャッチボールこそが醍醐味なんだよ。
究極の暇つぶしなめんなよ。

オチ ノシ
702神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 15:00:19 ID:s6md7Zth
隠居www

戦争がチンパンジーの社会が日々実践してるぞwww

ジェノサイトもやってるしw

似たような痕跡はネアンデルタールの遺跡から見つかる

戦争は生命の本源から生まれるのだよwww
703不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/08(火) 15:12:24 ID:gl4CnNcp
>>452 御隠居殿
>釈迦は、色蘊・識蘊はどこから発すると考えていたのか。
>
>それらはすべて生命から発し、生命の維持に不可欠な役割を果たしている。それらの
>否定は、己の生命の否定を意味し、本末転倒でナンセンスである。釈迦の「教え」は
>基本的に誤りであるということ。

十二縁起の考え方では、色・受・想・行・識などの五蘊(名色)は識によってあると考
えます(すなわち唯識)。その識は、行によってあり、また行は無明によってあります。

無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死・愁・悲・苦・憂・悩

御隠居が主張されるのは、「生命によって生命自身を否定しようとすることは、自己矛
盾でありナンセンス」ということでしょうが、十二縁起の考えと対照してみれば、御隠
居の考え方は、「無明」と「生」を混同・同一視したことによる誤りです。

まず、御隠居の「生命」と呼ばれる概念が、五蘊の根源であるという意味では、それは
十二縁起の「無明」に相当する位置のものであることがわかります。一方、「生命」と
いう名付け方から、それが十二縁起の十一番目の「生」をも意味していることがわかり
ます。仏教では、「生」は、あくまで、「無明」(五蘊の根源)から派生した下位のも
のであって、結果であって、「生」自体が根源そのものであるとは見なしません。

だから、「無明を滅することによって、生を滅しようとすること」は、「生によって生
を滅しようとすること」を意味しないので、本末転倒・自己矛盾などではないのです。

根源である「無明」が存在するとき、「生」があることは確かですが、それらが同時に
存在するからといって、同一視することは誤った物の見方です。唯物論は、六処のうち
の五感しか認めないという歪んだ認識ですから、その認識では、いきなり「生」からす
べてが始まっているかのように見えてしまうのです。基本的に誤りがあるのは、御隠居
の認識の方ではないですか。
704神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 16:01:17 ID:zQCFlGDI
>>701 
>・・・「なめんなよ。」

何ですか?この汚い言葉は。

『イヤだなあ、人を汚い言葉で罵倒するなんて。
品格が疑われますよ。 もっと、上品にいけないんですか?』

時間がないので続きは夜にでも。
(それまでは他の人と遊んでてね。)
705不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/08(火) 16:27:29 ID:gl4CnNcp
>>459,>>630
あなたのその「業論像」の想定自体が、確固たる「我」を前提として作り上げられた
ものであり、それだから「無我」と「業論」が衝突・矛盾するのは当然でしょう。そ
して、あなたが「提示しろ」と言ったり、「提示すると言ったわけだ」と一方的に決
めつけて言う、「論理構築されたシステム」というもの自体、(十二縁起的な)「有」
に捉われた概念の提示を要求するものです。

無我というからには、「Aさんが(犯した業)」とか「Bさんが(犯した業)」とい
った考え方がそもそも成立しません。その考え方をしているのはあなた自身です。

そういった自他の別(有)の次元による認識ではなく、無明から行があると考えるの
です。「自分」の犯した業を受けるのでもなく、「他人」の犯した業を受けるのでも
ない。無明から行があり、その行から識、……老死・悲・苦・憂・悩などがある。

Aさんが何らかの罪を犯した場合、その前提としてそのような罪を犯す無明があるこ
とが確実となる。だから、その無明によって、老死・悲・苦・憂・悩という結果(報
い)がもたらされることは自明の理である。──それが私の仏教的な「無我と業」の
考え方です。
706不説 ◆AnATTa/dJc :2010/06/08(火) 16:30:06 ID:gl4CnNcp
>>705続き
また、輪廻についても、同様に十二縁起的な表現で示すことも可能です。有も生も老
死も、無明によって生じた結果的な認識である。無明がある限り、何度でもそれら下
位の認識は生じてくる。その上で、一旦生じた、それら下位の認識だけでもって、そ
れ(今、生きてこうやって認識している状態)が絶対確固たるものだという思い込み
を前提にして、その中で納得する論理など求むべくもない、──というのは御隠居に
対して >>703 で答えたものと似たような話になります。

基本的に、《「無我」を前提とする》といった場合に、例えばこのあたりは閻魔大師
の方が好んで論じる点ですが、我という概念の存在を前提とした上で、その「我を除
外すること」を論じているわけではないのです。我による「自他の認識」を「前提と
しない」ことを言っているわけです。あなたの「無我」というキーワードに対する解
釈の仕方は、「我執」のある人特有の反応であり、「無我」という姿勢を得ている人
のものではないのです。それが、「世の中皆、我(自分の主義信条)がある。だから
互いに我を尊重して、干渉せざるべし」というあなたの主張につながるのでしょうが
(そのルールをまたあなた自身は他人に押し付け干渉しようとしていることに気付い
ているのでしょうか?)。
707神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 16:46:22 ID:IRIWkUaL
>>674
「変化」と「時間」の関係は、相似形として考察の種とはなる。
「『時間』というもの」が「『ものとして』或いは『固有のものとして』存在する」わけではない、という意味合いで。
だから、「『時間』などない。あるのは『変化』だけ」というスタンス・論立てと同様に、
>>676のように、「涅槃などない」という言明も成立する。
(また、そのスタンスを少し緩めれば(→【“ある”という言明の質を少し変容させれば】)、
それは、おそらく「生死即涅槃」や「般若心経の謂い」とシンクロする。)
ただ、一つ違う所(喩えとしての大きな不備が生じる所)は、
時間と変化は単純イコールで結ぶことが可能(たぶんw)だが(→「同義と見做し得る」が)、
涅槃には、「そのように比較考察対象として設定し得る(【同義として結び得る】【有為の】)
ものが無い」ということになろうか・・。

四諦八正道が行じられ、完遂されたところに、涅槃はある(見られる)わけだが、
それは、(以前も一度触れただろうか)、
《「苦の滅」が涅槃であるが故に、『論理的同時性』を有する(→無時間的である)》という側面を言う。
(中論は、諸法の縁起をもこのように見ている、ということかもしれない。)
「苦の滅」が成じた時、「そこに涅槃が顕現する」という謂いをしてもいい。
「苦の滅」と「涅槃」が同義である(涅槃の定義が(語源的にも)そのようなものである)というのが前提ではあるが、
この時、(涅槃は勿論)、「苦の滅」は『ものとして』『固有のものとして』あるわけではない。
上で見た『時間』の際の考察と同じだ。
(《『涅槃』が「苦の滅」の別称であり、「苦が完全に滅したところに『涅槃』が顕現する」》
というのは同義(同語)反復になるとしても)、
そして、《『時間』が「変化」の別称であり、「変化するところに『時間』が顕現する」》ように、
《「苦の滅(涅槃)」もまた、【「四諦八正道の観察と体現」の別称】であり、
 「四諦八正道が観察・体現されたところに『苦の滅(涅槃)』が顕現する」》と【言う】ことができるだろう。
 *(涅槃の語義上、「苦の滅」は「煩悩の滅」と置き換えても同様。)
708神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 16:47:24 ID:IRIWkUaL
>>674
そして、今一連のやりとりは、(縁起馬鹿が謙虚に発言していたように)、
伝統・伝承と、伝承者と、その言を「信」じる所からしかスタートしようが無いだろうと思う。
そして、伝承やその言の確認(≒検証)は、以前試論してみた通りだ。

☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート25
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/619
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/631-632
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/656-657

参:
【最終】輪廻転生説はどう扱うべきか!?【決着】4
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1260569824/698
【@規制】心と宗教板避難所総合【@鯖落】
http://sports2.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1262698032/42-48

(さらに参:http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1265848995/601-604
709神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 17:04:02 ID:IRIWkUaL
>>701
少し彼を擁護すれば、

当事者○ →← ●当事者

という論議の場があったとする。
この時、当事者同士は、貴方が言うように(「或るときには極論でもって」)「断定し合って」もいいし、
それが宗教の姿(≒面白味)だと言えるだろうが、ここに

当事者○ →← ●当事者
        ↑
        ■
       .外野

外野(観客席)が存在し得る。
(以前、貴方がスポーツの観戦に譬えたように―そして、今でも貴方の立ち位置は外野でしょう?―)、
外野は、理解は示せども、どちらの立場に組するでもなく、双方の言い分を【それなりに】受け止めながら
議論に参加することが可能だ。勿論、野次にしかならないという意見もあろうが、
それでも、議論に加わることは出来る。そして、外野の者は『(極論でもって)断定する必要は無い』ということだ。
『●に言わせれば、××だそうだよ』で十分だ。
(それを実証する義務が生じるとすれば、当事者の方であろう。(また、この件での以前の貴方の指摘は、
 まさに、その『当事者なればこその実証義務や言行一致が必要である』というものだったと思うが?
 『それをするのは「外野である自分たち」ではなく、「当事者(である仏教徒)」であるべき』というものだったと記憶する。))
で、当然、彼は外野の者だ。彼に対してそこまで追求することもあるまい?
また、
貴方は、(ディベートが如く)当事者の立場に自分の身を移設して発言することが多い筈だ。
だから、>>701のような発言になると思う。だが、皆が皆その手法を取らねばならないということもあるまい?
710神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 17:04:59 ID:IRIWkUaL
>>701
また、或いは、

外部の者□ →← ●内部の者

こういう図式も立てられる。この時もまた、対論者である外部の者は、
上で述べたような責務を負う必要は無い。相手の発言を理解する上で、
「●は××という風に言っているけれども、それについてはコレコレこうである」
【という評】をすることに何の問題も無い。
(勿論、「(自らが)証拠を探し出して検証する」という手法はあってもいいが)、
(絶対的なものとして)『証拠提出の義務』を負うことはない。
彼の立場はそういうものである、と許容できないかい?
(またこれも、以前貴方が指摘していた形式だと思うが・・?
 「外部の者が【歩み寄りとして】予習してあげてるのに、
 【きちんと説明せず(或いは「実践・実証」せず)】、相手の不勉強のせいだとするのは傲慢である、と・・。)

まあ、貴方が言うような
「つまらなくなる」「面白味の減少」、へと繋がるものでもあろうとは思いますが・・w


(また余談ながら、
 今の貴方の問いとほぼ同じ(或いは相似した)問いを、彼は既に過去しているよ。
 で、今は、それはそれとして、(そうした仏教内部の伝承(≒悟りの継承)を認めた上で)、
 じゃあ、どう考えられるのか、という考察をしているのだと思うよ。)
711神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 17:36:04 ID:9g1ekFQm
>不説氏へ

死者には、「行」以下は一切生じませんね。また、生命がなければ、11番目の生
も生じません。
釈迦は、己の説法自体が「生きている」からこそ出来るもの、己が「多くの他者によって
生かされているから」こそ出来るもの、ということに思い至れなかったのでしょうか。
己の「根源」を忘れるとは、単純ミスにしても大きなミスですね。彼が「故意に」生命
を否定したとしたら、それは人間界にあける最大の「悪」であることは自明でしょう。
どこの人間共同体においても、「殺人」は最大の悪です。
生命は、すべての人間に既に「押し付けられて」いるもの。「無為」の最たるものです。
釈迦は、その無為を、己の有為で動かそうとしたのでしょうか。これ以上の「思い上がり」
はありません。
根源である生命に従うことと、「苦」を押し付けることとは、いずれがより大きな「悪」で
あるかは自明でしょう。
釈迦も、大昔に「他者によって生かされていた」一人の人間に過ぎません。「誤りや欠陥
のない人間はいない」。これこそ「普遍の真理」です。あなたが、「釈迦の言ったことはすべて正しい」と結論する根拠は一体何ですか。現代人として、「釈迦の鬱病の症状」である
可能性を考えたことはないのですか。
大乗は、もはや「苦」は問題にはしていないそうです。日本は大乗仏教の国です。
あなたが日本人なら、「日本の仏教」としての大乗を少しは語ったらどうですか。
個人崇拝、個人の神格化は「偶像崇拝」であり、「知性の欠如」と「愚かさ」の
典型であることを、忘れてはなりません。
712神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 18:47:17 ID:NGzaEjlB
>>711
>死者、生命、他者、根源、ミス、悪、誤り、欠陥・・・・・
まるで仏教がぜんぜん分かってないじゃん!
あなた、アタマ大丈夫アルカ?
二項相対によってようやく成り立つ無反省な戯論概念そのまま振り回してるやんw
それを無明サンスカーラによる誤れる思い込み=アキメクラという。

⇒「俗物二項相対根源論がすべて正しい」と結論する根拠は一体何ですか。
  証明してください。
>もはや「苦」は問題にはしていないそうです。
そうです、だと?
証明してください。
三または四法印撥無の教義が仏教でありうるわけがない。

>「釈迦の鬱病の症状」
資格のある精神科医の診断書によって中傷ではないことを証明して下さい。
なんども認知症隠居に証明をお願いしているのですが、いつだされるのでしょうか。
なんなら、代わりにおまえでもええで、証明しろや。

>個人崇拝、個人の神格化は「偶像崇拝」であり
仏典にしても、釈迦にしても『筏』=手段にしか過ぎない。
彼岸に達したら、導師(釈迦)さえ捨てよとの教えの真の凄みが判っているなら、
おまえのような馬鹿論難など出るわけがない。
黒く描いて黒さを批判するサンスカーラ隠居教に毒されていますよw

よーするに、おまえはなにも掴めてはいない。

顔洗って出直して来い。

713神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 19:09:00 ID:NGzaEjlB
念のため、上記の筏の譬えは、中部経典二十二「蛇喩経」より。
執着切断のためとはいえ、ここまで徹底して説き切ったのはブッダしかいない。
神秘的なるもの、超越なるもの、アプリオリな根源wなるものとは無縁の峻厳さであって、
鎧袖一触だ。
714神も仏も名無しさん:2010/06/08(火) 19:30:28 ID:IRIWkUaL

仏教 議論スレッド その4
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1275992988/
715宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2010/06/08(火) 21:14:55 ID:mgKkGnJs
>>478 追記:
聞いてきました。以下が参考レスかな。
*もうすぐココ、いっぱいで投稿できなくなる?

『特に死ぬ前に一生の罪を悔い改め、神と和解することが大事である。
一瞬の深い反省でもたくさんの罪がゆるされる。教会は臨終にあたって司祭を呼び、
ゆるしと聖体の秘跡、病者の秘跡を受けることを強く勧めて、これを「ヴィアティクム」
(旅のための食糧)と言っている。司祭に来てもらうのが不可能であれば、そばにいる人は
一緒に祈り、死を迎える準備を手伝うことは非常に大事である。
そして世の終わり(神の国の完成の時)にすべての死者が復活し、イエス・キリストが再び
現れ(来臨)、愛を基準にしてすべての人を裁く(最後の審判)。』
(キリスト教質問箱)

『臨終のときに塗癒秘蹟を受けられなかったら天国に行けずに地獄に落ちてしまうん?
塗癒秘蹟ね プロテスタントにはない秘蹟ですから キリスト教全般のこととしては回答不能ですね』
(同)
716宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk
>>673-674
実に素晴らしい理解だと思いました。
こういうことであれば、私としても特に異議はないです。

ただ折角なので、
もし、強いていわせて頂くとしたならば2点ほど・・・。

>では、「自己」とは?  
>これは「他者」がいて初めて成立する概念である。
>自分ひとりしか存在していないのであれば、そもそも「自己」という概念自体が
>あり得ない。『自己』と言う限り、自己と他者を分別する『個(我)』という概念がある。

 自己を自己であるとして感じるところの“自覚”というものは、他者を他者であるとして認識すること
で初めて自己(他者との違い)として自覚できる、というものではないということです。
 この“自己意識”というものは、何か周囲の無機物をそれ(自己)として自覚したりすることも決して
起こり得ず、また誰に自分が自己であるなどと教わることもなしに認識します。よって、他者を認識し
てから、ということではないのです。
 他者とは“自己ではない者”をいい、自己が認識されて初めて他者であるとして認識できるのです。
従って、これは誰かに教わることなしに、初めて目にする人間を最初から他者(自己ではない別人)
であるとして自然認識します。何故なら、自己意識の自覚こそが一番、最初に生じるものだからです。
これが自我の神秘(生命の持つ意識の神秘)というものなのです。
 これが第一人称(わたし)というものです。他人であるところの第二人称は、必ずその後に生じます。
大抵、それは母親だということになります。