【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】11
以前、この板に因果応報に関するスレが立っていた。(PART5くらいまで続いてたか?)
御想像の通り(?w)、そこでは
「理不尽な殺害、災害、事故等による死(死傷)は、如何なる因によるのか(≒悪業の結果なのか)?」
という問いが主軸であった。(意外なことに、どちらの意見も仏教色は薄目だったように記憶する。)
私はそこで、「仏教として」や「仏教では」という形でなく、
「人は、事象の中に見られる因果を“どのように拾い上げるのか”」という点でのレスを入れた。
「仏教という枠を設けずとも、人は事象に因果を見る」からだ。
乱暴に略記すれば
「或る事象に於いて、《何を因と見、何を(その)果と見るか(どこに因を見、どこに(その)果を見るか)》は恣意的なものである」と。
そこには必ず「(主観的)枠組み、基準が必要」だということでもある。
※実際には、《「或る事象」という切り取り》からして恣意的であり、分別の第一歩であるわけだが・・・。
ヒトという生物の“認識に於ける切り取りの基準”は(生物学的・文化的社会的制約を含め)哲学的考察の範疇ともなるので措くとしても、
いずれにしろ、「そこに線引きが為されている」ことに変わりはない。
その線引きの基準は(個々人の用いる枠組み、既得の(前例としての)基準、顕著な差異への着目、
知り得る範囲、考察・類推可能な範囲等)種々あろうが、因と果を拾い上げる際にどうしても要請されるものだ。
もっと言えば「拾い上げるという行為そのもの」が「線引き(取捨選択)」に他ならないからだ。
差異の捨象や無分別、一相、無相など、そのような包括的視線もあり得る。が、それは「現実的対処」には力不足だ。
我々は、何らかの基準で因果を拾い上げなければ日常生活を送れない。社会生活が成り立たない。
(それが、“世俗”というものであろうし、“世俗と接して生きる”ということでもあろう。)
※ちなみに、
原始佛教 その23
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1175249680/ の終盤、及び
原始佛教 その24
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1177993402/ の序盤には、このスレ的にも面白いレス群が散見されると思いますよw
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仏典中、具体的に、明瞭に、因と果が結び付けられて語られている場面はある。(特に“修道”の面に於いては。)
が、「おしえの主軸として述べられる時は、抽象化・普遍化・一般化された形で述べられているのではないか?」
(まさしくアッサジが援用したように・・・。)
それは、場面場面で因果の拾い上げ方に幅が(違いが)生じることを含意してはいないだろうか。
勿論、絶対的基準は「涅槃に資するかどうか」「人道的にどうか」等ではあろうが・・。
・・・・・・いや、これはさすがに(現段階では)妄想が過ぎるな。忘れてくれw
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他、付随する形では(仏教的語義としてでなく一般的語義として)「直接因」と「間接因」の問題もある。
自動車事故という果を拾い上げた時、その因を
「スピードの出し過ぎ」と見ることもできるし「運転手のイライラ・焦り」と見ることもできる。
「昨夜の降雪で、路面が滑り易かった」かもしれない。「歩道を歩くお姉ちゃんのおっぱいに目を奪われた」からかもしれないw
「家族の危篤の知らせを聞き、運転の際に必要な自制をしなかった」と見ることもできる。
また、「イライラ」を因として『イライラしてたから事故を起こした』とするか、
イライラを引き起こした「恋人との喧嘩」を因として『恋人と喧嘩したから事故を起こした』とするか・・・。
どちらも、因果の拾い上げ方として成立する。
また、「事故という事象を果と見る」か「車の大破を果と見る」か「怪我を果と見る」か
「後悔や怖れ、今後への不安を果と見る」かによっても、その因の選定に違いが出よう。
これは仮定の話なのでどうとでも言えるが、尼崎の列車事故ともなれば事態はもっと複雑だろう。
たとえば、乗車位置によって生死が分かれたと見たなら(→「乗車位置が直接因(直近の因)であるなら」)、
その因は何か?「前世の悪業がその位置に立たせた」のか?他に理由はないのか?
或いはトリアージによって後回しにされたからかもしれない。「前世の悪業がトリアージの順を決めた」のか?
拾い上げだしたらキリが無い・・・w
また、普段乗らない列車だった人もいるかもしれない。
『財布を忘れたことに気付き、一本遅れて事故電車に乗り合わせた』のかもしれない。その時の死の因は何か?
→≪前世の悪業により、財布を忘れさせられたのか?≫
『途中、町内会長に話しかけられ、一本遅れて事故電車に乗り合わせた』のかもしれない。その時の死の因は何か?
→≪前世の悪業により、町内会長に話しかけられたのか?≫
『余裕をもって早目に家を出たら、一本前の事故電車に乗り合わせた』のかもしれない。その時の死の因は何か?
→≪前世の悪業が、早目に出かける気を生じさせたのか?≫
里帰りする孫を迎えに行くために乗ったのかもしれない。ライブを見に行く予定だったかもしれない。
→≪前世の悪業が、“その日にその用事を生じさせ”“それを彼に履行させ”“事故列車に乗り込ませた”のか?≫
(※「これらは全て《縁》である」と言うことも可能だ。そして、「《因》は《前世の悪業》である」と・・・w)
それにしても、
《或ること(果)》と《因》とを結びつける【文脈】は、果たしてどれほど決定的なのか?
スパンが長くなればなるほど、『文脈の重要性』は増す。
さて、『【文脈無しに拾い上げる】ことは可能だろうか・・?』
『三世に跨る業果・業報』を語る御仁達は、自分達の「因果の拾い上げ方の基準」について自覚はあるんだろうか?
※反感を買いそうなw事例をもう一つ二つ挙げておこう。
・朝、いつもは左足から履く筈の「靴を右足から履いた」。
.昼、職場の「段差で(右足から)つまずいた」。
.夜、「右靴下の先が破れている」ことに気がついた。
・(昨日、友達と喧嘩した。)
.朝、(腹いせもあって)通学途中、路駐してる「車を500円玉で擦った」。
.昼、購買部の前に来て、「500円玉が無い」ことに気がついた。
.夜、「家の車に硬貨で擦られたような傷が付いていた」。
いずれも、ここに有意な関連性を設けるのは、荒唐無稽で、およそあり得ない考察だ。
おそらく誰もが、このような『因果の拾い上げ』は却下するだろう。
しかし、ここにも「因果を【見ること】は可能」だ。 そう。 【見ることだけ】は・・・。
(もしかしたら、本当に全て連なって生じた事象群かもしれないが・・・www)
人が、こうした関連性にさえも因果を見る癖があることは、「地鎮祭」や
「赤子の初参り」「七五三」「厄落とし」等が今でも多く続けられていることからも推察できる。
時代劇でよく見られる「外出前の火打石」も同様の側面を持つ。
そう、「どちらの足から靴を履くか」と類似した側面を・・。
「或る行為をすることによる、どのような果が期待されているのか」。
「或る行為をしないことによる、どのような果が恐れられているのか」。
私は、『三世に跨る業果』について、上の二つの例と同じ構図を見ているのだ。
上の二つのような例と、ベトちゃんドクちゃんの例(→彼らが、前世の業によりあのように生まれたということ)と
どこに違いがあるのか?
こうした結び付け方が「同じ構図でない」というなら、その違いを、明確に、論理的に説明してほしいものだ。
「上記二例のようなこと」と「前世の業&今生の果」が同じでない理由を・・・。
(ロングパスとしても長過ぎやしないか?・・とw)
おそらく一直線とはならず、枝のある形・複数経路の離散集束のある形かもしれないが、
これらを時系列的に(ドミノ倒し的にw)因果の連鎖として並べることは不可能ではない。
(勿論、その先頭(最初のドミノ)に「前世の悪業」を持ってくることも・・・。)
そして、このような時の因果の拾い上げ方が、
法律上の解決、保険制度上の認定基準、運行システム・体制・制度等鉄道会社の予防策、
“遺族の納得”等等、目的(行う作業)によって変わってくる。
当然、宗教的(仏教的)な拾い上げ方もあるだろう。(それが前世の業かどうかは別にして・・・。)
いずれにしろ、「並んだドミノの駒を、【どのように拾い上げるのか】」が肝となる。
この「拾い上げ方」を(枝の無い一直線のものとして)巧みに利用しているのが、霊感商法等の行為なのだろう。
※おそらく、これを ≪拾い上げるのでなく、並んでいるドミノを並んでいるままに、そのままに見る≫
というのが、仏教的視座となるのだろうし、(いや、ここまで来たら、ドミノという捉え方からして顛倒妄想か?w)
そのスパンを永く永く捉えれば、輪廻の中にある因果の連鎖ということになるだろう。
(その意味で、今生のみを見て拾い上げ、輪廻を捨てる行為は、伝統仏教からすれば外道であり断滅でしょう。
伝統的な仏教という枠で考えるならば・・・。)
また、拾い上げる基準を、
常に【善なること、良き未来へ繋がること、教訓となること、涅槃に資すること】という設定にするのが、
仏教的な拾い上げ方なのかもしれない・・・。
(※「善なること」とは、《自己・他者問わず「ためになること」「害とならないこと」「苦(の因)とならないこと」
「(未来を志向する)向上(の縁)となること」》等と言えるだろう。)
さて、
上(
>>665)で、《「或る事象」という切り取り》もまた恣意的である、と述べた。
これは、スパンの取り方(区切り方)にも言い得る。
このスレで言えば、前世・今生・来世という区分がそれにあたる。
重要なことは、
【この区分の基準は“肉体に拠っている”、或いは“肉体の機能に拠っている”】
ということと、
【前世来世は、“通常”知覚され得ない、知り得ない】
ということだろう。
この2点をもってして、人は三世を区分する。(ドミノで言えば、目の前に見えている駒だけが判断材料となる。)
※(おそらく、これ以外に区分の方法はない。)
脳死(&臓器移植)の問題も、「死」という楔をどこに打ち込み、その人の「(生物的)生」をどう区分するか」
ということに他ならない。 『ヒトという生物は“いつ死ぬのか”?』。
前世・今生・来世という区分にしても、『(勝義に於いて)、そこに境目はなく、連続した一繋がりの「生」である』
と宣言したところで『そこに「肉体の滅」(肉体の機能の滅)が見られる』ことに変わりはない。この楔は強敵だ。
脳死・心臓死などよりも、はるかに明解だ。「受精・細胞分裂」から「肉体の滅(肉体の機能の滅)」までの区分は、
「今生」を切り出すに際し、もっとも解り易く、もっとも明解で、もっとも強力なものだろう。
(※厳密に言えば、ここで「他者(の今生)」と「自身(の今生)」との別を考慮すべきだろうが、今は措く。)
いずれにしろ、
《「前世の業」は、このように切り出された“「今生」以前のもの”であり、それが、どのように「今生」に表れるのか》
→(「或る今生の果」が「前世の業」によるものだとして、その関連性は『見い出せる(特定できる)』ものであろうか?)
《「来世の果」は、このように切り出された“「今生」以後のもの”であり、それが、どのように「今生」に表れるのか》
→(「或る今生の業」が「来世に於いて結実する」ものだとして、その関連性は『見い出せる(特定できる)』ものであろうか?)
スパンの取り方が恣意的なものでなく、(半ば強制的に)上記2点のような基準に拠っているとしても、
そのような三世に跨る(三世を貫く)作用とは如何なるものか。
「行為の潜在力」が、温存され、継続し、時を異にして(熟し)表れるとはどういうことか。
上の方で触れた「因果の拾い上げ方」と絡ませれば、
『或る行為Aの潜在力が、(それが“異熟し表われるもの”だとしても)A´という果を特定して表れるのはなぜか?
そこに、どんな必然、“他の果とならなかった”どんな理由があるのか?
〔朝、右足から靴を履いたから、右の靴下の先が破れた〕 ということと、どこに違いがあるのか?
〔夜に爪を切ると親の死に目に会えない〕 などとどこに違いがあるのか?
「A´という果」は、本当に「或る行為A(の潜在力)」によるのか?
このような逆算、遡及は果たして正当なのか?
(朝昼夜というスパンの取り方も、前世今生来世というスパンの取り方も、さほど変わりはない。
「知覚し得ず、想定し得ず、因果の鎖を見出し得ない」点で、余計に性質が悪いw)
『釈迦国が瑠璃王に攻め滅ぼされた時、その理由は何だったのか?』
『オーストラリアの山火事で何百人も亡くなった、その理由は何だったのか?』
『「因果の拾い上げ」は、このスレで言われるような形で為されるべきものであろうか?
そうではなく、(たとえそれが、自身の(心の)外のことであっても)、
《「(注目すべき、見据えるべき)果」→「因・縁」→「因・縁」→「因・縁」→・・・・・・》という
厳密な、理にかなった逆算・遡及が為されるべきではないのか?
ベトちゃんドクちゃんの例等で言うなら、米軍による枯葉剤以外の因や縁を持ちだす“必要”がどこにあるのか?』
また、
『通常知覚し得ない前世来世について、そのように【個別に】、【具体的に】、
【それ以外にない必然として】結びつけて語れるのはなぜか?
お釈迦さんは、そのような具体的述べ方をしていたのか? もっと言ってしまえば、
ゴータマ・ブッダが(=解脱者が)、《障害児は過去世の業により障害を持って生まれた》と弟子たちに説いていたのか?』
(※三世に跨る業果は、その全てが
《「報復を期待・希望・切望するベクトル(想い・願い((『想』)『行』))」と、
「現状の不満・不幸に蓋をし、対処法を放棄するという姿勢(ギブアップの意味の“あきらめ”)」》
に端を発していないか? また、
《因(縁)と果の間が空き過ぎていないか? 「異熟」という概念・考え方は、その間隙を埋め得ているのだろうか?》 )
このように考える時、以下、
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1228627644/55 > >さらに、前スレ88 のときもスルーされてしまいましたが、「障害をもって生まれてきた子は、
> >前世において、その子自身、またはその両親の悪業が原因であると断じるのですか?」
> ごめんなさい!無視するつもりではありません。しかし、他の方からの同様な指摘を受けた中で、
> これは繰り返し述べてきたと思います。
> では、もっと正確にいうと、すみませんがそれは100%ではない。中には前世の悪業の報いではなくて、
> もっと別の理由があってそういう苦難の中に生まれる場合も在り得るからです。それは分り易くいうと「試練」というものであり、
> その人が成長するために必要な体験として課せられた困難苦難という場合がそれに該当します。意味は分りますでしょうか?
> しかしながら、もうこのような領域の話になってくると・・仏典からの判断ではどうしても限界がある。
> 我々のレベルでは個々の事例に対して、つまり、その人のその過去世を見たり確認することができないからです。
> これは仏陀のような境地に達した存在にしかできないのです。
> しかし、まず基本的理解として必要なこととは、業報による因果論と輪廻転生。
> 自分の行為は必ず自分に返ってくるという基本的な真理についてです。それは死んで済むということではないのです。
> これが自分の行為に対する責任意識に繋がり、人と人との正しい人間関係の形成を生むものなのです。
> 死んで終わりという発想は、「好きなことした者勝ち!」という地獄の理論(倫理)に他ならないのです。
【>それは100%ではない】【>もっと別の理由があって】
【>このような領域の話になってくると・・仏典からの判断ではどうしても限界がある】【>確認することができない】
【>仏陀のような境地に達した存在にしかできない】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1228627644/140 >必要な受けるべき果報は避けられない。その前に死んで避けるということはできない。
>死ぬ前にイベントが起きて避けられないか、もしくは仮に死んで逃げたとしても無駄であり、
>次の転生の機会には再びイベントの機会が巡ってきて確実に逃げることはできない。
>ですから、この避けられないのが業報の作用なのです。これはゲームではないのです。
【>必要な受けるべき果報は避けられない】【>次の転生の機会には再びイベントの機会が巡ってきて】
【>この避けられないのが業報の作用】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1228627644/141 > >過去の業によって、その肉体が規定されるのならば、重度の障害をもって生まれてくる子は、
> >その原因は過去世における悪行である。 このような結論になりますね。
>基本的にはそうです。 >しかし、例外としては「試練」というのもある。
【>基本的にはそうです】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1228627644/142 >個々のケースについて判定することは我々(解脱者でなければ)には不可能です。
>しかし、地域の大災害の場合、その死傷者の多くは過去世の業ではない場合が多いと思います。
>一つは当人にとっての試験の機会として、そこに巡り合わせられます。
>また、自然災害の場合には、人類全体としての悪しき想念が自然界に作用したものであるケースが多いでしょう。
>重要なことは、必ず全員が理由あってそこに居合わせているということ。偶然ということは在り得ないのです。
>全ての出来事の背後には必ず理由が存在します。
【>個々のケースについて判定することは我々(解脱者でなければ)には不可能です】
【>その死傷者の多くは過去世の業ではない場合が多いと】
【>必ず全員が理由あってそこに居合わせているということ】【>偶然ということは在り得ない】
などの発言、考え方は興味深い。
上(
>>669末尾)で述べたように、区分の為の楔を打ち込むことなく、在り様をあるがままに見る姿勢こそが
仏教的には求められる視線であろう。それを総体的に言表したのが「輪廻」ということになるのかもしれない。
とどまらず、途切れず、【区分できず】、変転し続け、(業の)力が作用し続ける、
そのような「生存(存在)の在り様」を表したのが「輪廻」ということになるのかもしれない。
しかし、種々の言説(記述)は上記(
>>6706)2点の区分に則って為されている。
もし、勝義としての輪廻に対する視線が上記のようなものであるなら、
《三世に跨る輪廻》は、「勝義としてでなく世俗の言辞として説かれている」ことを意味しないか?
また、「三世に区分され、過去の悪業が拾い上げられ、現在の果の説明(=因)とされる」ことも、
「輪廻」が世俗の言辞(価値観)に属することを意味しないか?
そして、≪仏教に限るものでなく、およそ「倫理道徳を説き、善を勧め、教誡・教訓を用意する価値観・思想」
全てが共用する言辞≫であることを意味しないか?
三世云々(過去世の)悪業云々等は(勝義に於いては)、
捨象されるべき「世俗の基準」「世俗の価値観」「世俗に於ける迷い」に他ならないのではないか?
──────────
(余談:「内縁起外縁起」という表現と絡んで。)
個人的には、「おしえの根幹としては、(―“気付き”や“きっかけ”、“事例”として外縁起を見ることは必要だと思うが―)
“内縁起こそが中心とされ、外縁起はその拡大・応用”というスタンスが保持されねばならない」
と考えるわけだが、輪廻や《特に転生は、この構図で言えば「外縁起」を中心として語られている》と思うのだ。
(いや、『外縁起しか語られていない』と言うべきか・・・。)
それらは、あくまで「援用・応用」でしかなく、「本義ではない」(→「涅槃に資するものではない」)と思うのだ。
だから、文脈により、状況により、「スパンの取り方」・「果や因の拾い方」に、
個々別々の(→その場面場面で、より適切な、より良き未来へと向かうベクトルとしての)拾い方が許容されるのだ、と。
676 :
神も仏も名無しさん:2009/03/07(土) 21:07:29 ID:mPIqkLCn
7氏大乗部会?
──────────
さらにまた余談かもしれないが、
「宿命通」に関しては「記憶」との関連もある。
過去幾千の前生の詳細な想起は、如何にして可能なのか?
三世の区分が>>◆6で言うような2点に拠るものとすれば、肉体に(肉体の機能に)依拠するものではなさそうだ。
《「記憶」もまた「業」或いは「業の潜在力」である》という言辞が成立したとしても、(そうした側面は確かにあると思うが)、
「業が(業の潜在力が)継承される」とはどういうことか?
過去世の生存の【詳細】は、なぜ、知ること(見ること)ができるのか?
詳細(→微細な差異)は、如何にして保存され、継承されてゆくのか?
(※物理・科学等の分野では4つの力」という括りがあるようだが、
『同様な《力の存在の仕方》《成立の仕方》《作用の仕方》として、そこに(仏教的には)「業力」を加えるという手』もあるw
霊魂等“別モノ”を設定することなく、(身口意問わず)行為の影響力の存続・継承・伝達を、
無理なく成立させる為の有効な手法の一つかもしれない・・・。
検証、確認は至難の業かもしれんが・・・w (けど、面白い試みだと思うが、誰かやってる人いるのかな?))
(※仏典に於いては、回数こそ述べられていても、その【詳細な】記述・【必然たる理由】の記述は為されていない。
それがされているのはジャータカ群のみではなかろうか。)
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これらを考察するには、(特に“仏教として”どう考察するかには)、多くの論書を参照せねばならないのでしょう。
代々の仏弟子達が、どのように考え、どのように解決してきたかの足跡が、論蔵、論書という集大成なのでしょう。
私個人が、「転生(或いは輪廻)」を信じることは吝かではない。
ブッダが、過去の弟子達が、そのように伝えてきているのだ。
それを継承してゆく姿勢は、三宝に帰依するならば必要なものではあろう。
だが、(宝珠氏を例に挙げるまでもなく)、世間には(このスレでも誰かが触れていたが)「悪しき業論」や、
カルトの脅し・商売に直結する「転生(或いは輪廻)」が蔓延している。
過去のものとなりつつはあるのかもしれないが、差別問題と直結していた面もある。
ただ単に「輪廻」や「転生」を口にするだけでは、そうした『負の輪廻思想』に飲み込まれ、現代人からは敬遠されるばかりだろう。
私は、ここに必要な言葉をまだ見つけられていない。だから、「転生(或いは輪廻)」には否定的・懐疑的姿勢をとっている。
(だから、「輪廻」や「転生」には殆ど触れずに仏教を語ってきたし、(今のところw)今後もこのスタンスは変わらないだろう。)
(このスレで、そうした部分へメスを入れる《真に“涅槃にふさわしい”或いは“善き視線”としての「業報」の受け止め方》
に出会えるかと思ったが、どちらかと言えば宝珠氏支持がメインストリームとなっていて、少しがっかりした。
サンプル収集場としての2chの位置付けは変わらないが、些かゲンナリしないでもない・・。)
また、多くの論書がその答えを記していたとしても、そのまま使うことはできない。
それが、勝義に於ける勝義の言葉で語られているならば尚更だ。
(それは、机氏的言辞を重ねることにしかならないだろう。また、そうした論書は、詭弁の謗りを免れ得るだろうか。
「勝義に於いては」という前置きは、どれほどの有効性を持ち得るだろうか。)
(個人的には、室内や提唱でない以上、そこには世俗への翻訳が必須だと思っている。)
現代に於いては、
“誤解されている『負の輪廻思想』やそれに纏わる言辞”との、
はっきりとした、峻別が可能な、明確な、力強い、説得力のある、業論・業報、そして輪廻を提示し得なければならない。
そこでなされる『負の輪廻』『悪しき業論』への批判・指摘が、批判者に返ってきてはならない。
同じ「輪廻」同じ「転生」であるが故に、批判の言辞はそのまま批判者の説への批判となって返って来ざるを得ない。
もし、負の側面が抜き難いものであるなら、(そのような冷酷さを仏教が内包しているなら)、
そこをフォローする言辞が必要だろう。
それがなければ、第三者から見れば≪どちらも同じ≫にしか見えないだろう。
────────────────────
私は、
≪「業報が三世に跨ら【ねばならない】」というのは「願望であり、ファンタジーである」≫
(→≪「生物学的な“ヒトの誕生”」を認めるならば、「今生に於いて完結する業報」で十分である≫)
※≪併せて言えば「(世俗に於いて(凡夫に於いて))来世がなければならない」というのも「願望でありファンタジーである」≫
≪因(縁)と果は、(直接的にしろ間接的にしろ)連鎖を経ていなければならない。
「たとえスパンを永く取るとしても、その際には」、その“間”は(確認された上での)省略であるべき。
たとえそれが確認困難であっても、類推し、推定し、理に適った連鎖を見るべき。
その意味で、直結の難しい(→スパンを永く取り過ぎ、因果としての影響力連結力が弱い)因と果のコネクトには反対する。≫
≪業報は(特に、果報或いは報復の意味を持つ業報は)、一個人の中でのみ考察・判定・結審されるべきであり、
他者のそれへの当て嵌め・断定があってはならない。(類推による「助言」「異見の提示」は可。)
また、その果の価値付けも、自身によらねばならない。決して他者が価値判断すべきものではない。
ましてや、断定的に「貴方の今の《その果は》、過去世のコレコレが因である」などと言うべきではない。
それは、(過去世であろうと今生のことであろうと)
『自身が、見、観察し、「確かにそうである。確かに、これによってこの果がある」、と明らかに知られるべき』である。
果が公平であるかどうかを第三者が判断してはならない。(類推による「助言」「異見の提示」は可。)≫
と考える。
━━━━━━━━━━━━━━━━
勢いも落ちてきて、スレ終了のお知らせが出そうな頃合なので、
満を持して、中学生の読書感想文を投下して区切りとしよう。
せめて高校生レベルまでは持って行きたかったが、所詮この辺が精一杯だw
これで、長文短文レス含め、今現在感じていることは、ほぼ言い尽した形となる。
あとは、宝珠氏の問いかけ幾つかと、少しツッコミたいもの幾つかが残るだけとなったが、
それも、もういいか・・という感じがしないでもない。
メモパッドには残しておくので、まだ暫くスレが続くようなら、また作文してみるかもしれない・・。
冷やかしのつもりが、いつのまにか住人になってしまっていて、なんともバツが悪い・・・w
これでまた冷やかしに戻れるかどうか・・・?w
682 :
初代スレ7:2009/03/07(土) 21:40:07 ID:MTHwq+9q
>>676 もし、今回の私の書き込みを「顛倒だ」「理(理屈)に惑っている」と切り捨てるなら、
それは、
『仏教は、世俗(≒時代の変化、都度都度の“現代”)に対する言葉を持ち合わせていない』という敗北宣言と同じだ。
世俗へ(≒『今』へ)届く言葉のない仏教は、梵天勧請を断わったも同然であり、
釈尊が菩提樹下から立ち上がらなかったに等しい。
683 :
初代スレ7:2009/03/07(土) 22:03:00 ID:MTHwq+9q
>>682に少し補足するなら、
『仏典(経)は(≒如是我聞で始まるものは)、出家者への言葉である(凡夫への(→世俗への)言葉ではない)』
ことも、頭の隅に留めておくべきだろう。
※〔
>>677中のアンカーは、
>>670のこと。 校訂ミス申し訳ない・・orz 〕
684 :
宝珠愚者:2009/03/07(土) 22:11:09 ID:GfgIGsns
>どちらかと言えば宝珠氏支持がメインストリームとなっていて、少しがっかりした。
全く、そんなことはないのでは?
ただ伝統仏教としての立場からは業報輪廻が説かれるのは当然のことですが・・。
でもまぁ〜この私からの業報カルマ論についての非常に個人的な説明に対して、
特にその他の(伝統仏教者ら)からの「それはチト違うだろ!!」
という投稿は殆ど見られなかったように思う。
完全に同意はしないにしても、
特に積極的な意見投稿(解説を意図した)はなかった・・のは事実。
>だが、(宝珠氏を例に挙げるまでもなく)、世間には(このスレでも誰かが触れていたが)「悪しき業論」や、
>カルトの脅し・商売に直結する「転生(或いは輪廻)」が蔓延している。
この私から見ても、一部の僧侶たちによってなされている水子供養については疑問視。
生命の弔いという意味では了承するとしても、
中には(いや多くの場合には)水子の霊障という脅しによる商売なども
この世界では確かに存在している。
>>682 う〜む、さすがに上手な文句だと唖然としました(笑)
旨いなぁ.....
*私には無理なので、
もっと仏典の内容に詳しい方はこの7さんの提示する疑問符に対して
回答、説明してあげて欲しい。
仏典からの明確な引用を期待したい。
685 :
神も仏も名無しさん:2009/03/07(土) 22:36:26 ID:pgomO3gM
>>仏典からの明確な引用を期待したい。
それが、方法論として誤りなのだよ。「大法輪」でも、君のように原始仏典
の「言葉」に執着している論者は誰もいない。皆、それぞれに、現実との対比
において論じている。イエスとは全く異なり、仏陀は「妄想患者」ではない。
現代にも充分に通用する「現実性・合理性・科学性」が、仏教の卓越した特長
であることを、忘れてはならない。超オカルト宗教としてのキリスト教や神智
学とは対極にあるもの。
君のように、仏教を、オカルトで汚そうとすることは、絶対に許されない。
686 :
初代スレ7:2009/03/07(土) 22:37:45 ID:MTHwq+9q
>>682へ、もう一つ補足。
『仏典は、過去の弟子たちに対し、その都度その都度説かれたものであり、【(2009年の)現代の者に説かれたものではない】』
ということも、頭の隅に留めておくべきだろう。
それは言い換えれば、
『現代には、現代に即した言葉が紡がれねばならない』ということだ。
『現代の(世俗の)状況に関しては、“仏典に依拠しきれない”』ということだ。
『仏典に触れ、仏教の何がしかに触れた者は、
それを【自分の力で、現代(=“今”)に生きる人に届く】形で翻訳しなければならない。
それを伝え得る【言葉】を、(一人一人が)見出さねばならない』ということだ。
「お経には、こう書いてあります」なんてのは、猿でも言える。
しかし、それでは意味が無い。
それを、どう受け止め、(今後の人生に)どう活かしていくか、を提示できた時に、
その時初めて、その人は仏教者足り得るのだろう・・・・・・。
687 :
宝珠愚者:2009/03/07(土) 23:09:34 ID:GfgIGsns
>>685 よくわからんが・・あなたがご隠居?(笑)
>「大法輪」でも、君のように原始仏典の「言葉」に執着している論者は誰もいない。
あっそ!買ってきて読んでるよ。
だから〜思想は自由。
しかし、仏典に基かないものは「仏教」とはいわないんだって!
何も、古代の文章を字一句一句そのままに適応するとはいっていない。
現代に相応しい解釈と教えの適応というのはあるでしょう。
ただし、それは本質的に同じである場合に限る。
あなたのような主張を
世の中では「歪曲」「デタラメ」と呼ぶのです。
>仏教の卓越した特長であることを、忘れてはならない。
>超オカルト宗教としてのキリスト教や神智学とは対極にあるもの。
>君のように、仏教を、オカルトで汚そうとすることは、絶対に許されない。
このような中傷など屁でもないが・・・。
私は仏教徒ではなく、ちゃんと神智学徒であるとして公言している。
ただし、神智学は仏意を反映している近代の教えです。
688 :
宝珠愚者:2009/03/07(土) 23:12:28 ID:GfgIGsns
>>687 訂正
×あっそ!買ってきて読んでるよ。
○あっそ!買ってきて読んでみるよ
689 :
神も仏も名無しさん:2009/03/07(土) 23:20:45 ID:WCKvSaVm
>>687 神智学のどこに、仏教のような「現実性・合理性・科学性」があるのかね。
神智学の創始者は、すべてクリスチャン崩れではないのかね。
690 :
宝珠愚者:2009/03/07(土) 23:59:54 ID:GfgIGsns
691 :
宝珠愚者:2009/03/08(日) 00:02:16 ID:GfgIGsns
>>690 訂正
×大佐がスリランカでの著作『仏教教理問答』は大きな評価を得た。
○大佐のスリランカでの著作『仏教教理問答』は大きな評価を得た。
692 :
不説:2009/03/08(日) 02:40:55 ID:T+ll8bj3
いいえ、それは私ではないです。もしかして真言氏ではないでしょうか?
ちょっと今、確定申告やら、微妙に締切が迫った物事が積み残されていて、ちゃんとした回答ができません。
あと、スレ的に、神智学関係は、このスレとは直接関係のない個人的な興味の面が強いので、直接メールな
りでやりとりした方がいいかもしれませんね(たしか過去スレでメアドを晒されていましたっけ?)。
このスレ的には、初七さんの話題の流れも(今はむしろそちらの方が)、引かれるものがあります。今晩、
家路の途中、偶然、交通事故現場に遭遇しました。事故の瞬間とは少し間があったのですけど、まだ救急
車も警察も到着しておらず、事故時に居合わせた通行人の女性が、看護婦さんらしいのですけど、救命活
動を必死になってされておりました。中年〜初老の夫婦が自転車の二人乗りをしていたところに、運送業
者のトラックがぶつかったようです。看護婦さんが心臓マッサージをしながら、婦人の方に呼びかけてい
ましたが、ちょうど心停止されたばかりのようでした。
半ば呆然と、憔悴しながら、電話して、立ち尽している運転手。口の周りを血で染めながら人工呼吸を行
う、二十代半ばの看護婦さんと、傍らにいるその彼氏らしき若い男。そして、数人の野次馬。
私にできたことと言えば、警察が到着するまでの間、脇を通り過ぎる車に徐行するよに注意を促すくらい
のことでした。
この場に居合せたそれぞれの人もまた、何らかのそれぞれの縁によるものなのでしょうか?
死に際する人に対して、我々はどのような態度を取り得るのでしょう?
また、この身も遅かれ早かれ、何らかの形で死ぬ身であり、それは妄想のような離れた物事ではなく、今
現在も内包している事実なのであります。それについて我々はどのように考えるべきなのでしょう?
ゴータマ仏陀はそういうことについて重要な教えを示してくれているのではないかと思います。
693 :
不説:2009/03/08(日) 02:45:46 ID:T+ll8bj3
>>692の最初の部分は
>>623の宝珠愚者さんの
>不説さんなのでしょうか?南方などには名前は出せないがいると述べ
>た方は?
このコメントに対する返答です。
694 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/03/08(日) 08:30:08 ID:1H9agFAc
>>693 >この場に居合せたそれぞれの人もまた、何らかのそれぞれの縁によるものなのでしょうか?
偶然にそこに居合わせてしまった。ってことなんでしょうね。
そして、各自経験的に状況判断をし、自分なりの行動へと移行する。
非日常的光景を周囲の人間と共有することになる。
これが縁なんでしょうね。
交通事故に遭遇しないのも縁ですし、
また遭遇してしまったのも縁。
悪果であれば、そこに不条理を感じて、何らかの合理性を求めたいのが人間。
(実際にはそういうものはない)
<花は紅、柳は緑>by沢庵
しかしそれでは納得がいかない。これも人間。
業報輪廻思想は、人間の理性が追及した合理的思想である。
(納得がいくための方法論)
695 :
神も仏も名無しさん:2009/03/08(日) 09:09:09 ID:UNH4+vgF
>>692 >それについて我々はどのように考えるべきなのでしょう?
「考えるべき」ことなどありません。あなたを含め、現場に居合わせた数人の
方々が、被害者の「生命」を助けるべく全力を尽くされた。それがすべてです。
それ以外の「思考」を介入させてはなりません。これがまさに釈迦の「毒矢の
たとえ」です。
このような場合、普段から培った医学の知識が大いに役立ちます。宗教者を初め、
国民全員が、「大宇宙」などという「何の役にも立たない」ことを考えるのは
止めて、「人体」という「小宇宙」について充分な知識を得ることに努力すべき
です。人体に宿る生命が喪失すれば、その人にとってはもはや「大宇宙」も存在
しないのですから。
696 :
初代スレ7:2009/03/08(日) 09:31:03 ID:k6ViyEwH
もう一つ校訂ミス。 orz
>>670下から2行目訂正。
> 《「来世の果」は、このように切り出された“「今生」以後のもの”であり、それが、どのように「今生」に表れるのか》
↓
《「来世の果」は、このように切り出された“「今生」以後のもの”であり、それは、どのように「今生」と繋げ得るのか》