81 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :
機の深信と法の深信のほどよい中道さ加減というのは、まあそれほど難しい話じゃないんだが、
こういう話の回答者は、本当は僕よりもっと適任者がいる。例えば、マリナースのイチロー選手な
んかの方が、本当は適任なんだろう。野球の選手に限らない。例えば歌舞伎の中村勘三郎さんなん
かは、当然、同じように資格があるだろう。ハンカチ王子の斉藤選手なんかは、まだ早すぎるだろ
うが、西武の松阪選手なんかはもう分かっていると思う。ただ、ああいう人は、体では分かってて
も、それを表現する言葉まで持っているかというと、それは聞いてみないと分からない。体は分か
っているということと、その表現の巧みさとは別の問題だ。表現する言葉を貰うと、機の深信と法
の深信の非常にいい伝達者になるかもしれない。
機の深信と法の深信というのは、善導大師の言葉だが、多分、武道とか、絵画とか、舞踊とか、
そういう世界で巨匠、名選手、大御所などと言われれるような人に出会い、そういう人から教わっ
た概念かも知れない。一流の人の心に通じる普遍的な心だ。
僕らが子供の頃、川上監督が率いる巨人軍が破竹の勢いで連戦連勝していた。そのころの巨人軍
の中心選手は、王・長島だった。王は、荒川コーチから一本足打法を教わり、その後それを繰り返
し繰り返し練習してたそうだ。練習漬けと言うと、イチロー選手も大変な量の練習をしているそう
だ。
82 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/09/30(土) 10:08:20 ID:qh3pjatJ
世界的に通用するような実力の持ち主というのは、みんな大変な努力を重ねている。機の深信と
法の深信というのは、そうした努力家達の努力を支える中身の断面を切り開いてくれた言葉だと思
う。断面だから、切り方によっては様々な別の情景がみえることもある。断面が違えば様々な表現
法ができる。機の深信と法の深信というのは、様々な表現法の一つ。表現の一つだけど、努力家達
の心の核心を突いているということも事実だろうと思う。ソフトバンクの王監督などに「選手時代、
どうしてあんなに激しい練習をしたんですか」と質問すると、うまくすると機の深信と法の深信の
本質を、だれよりも完璧に回答してもらえるかもしれない。監督が選手を今、指導しているその心
も、監督独特の今の機の深信と法の深信なんだろうと思う。
王監督に実際に聞けばどんな回答が出てくるか知らないが、ここではそんなことを想像しながら
書いてみよう。(続く)
83 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/03(火) 00:36:25 ID:jYj5gWBv
まあ、僕は王監督とは面識がない。そんな人がどんな風に応えるのか、お前に分かるのかと言わ
れれば、実は返す言葉がない。僕の勝手な想像に、王さん自身が不快に思うかも知れない。まあ、
もし不快に思ったら、そこは有名人の宿命と思って勘弁して貰いたいものだ。王という架空の別人
がいるんだと、ご本人には思って貰った方が、ご本人の精神衛生上は、いいかもしれない。こうい
うものの切り口は様々にある。切り口は様々だから、僕の切り口と王さんの切り口は全く違うとい
う可能性は大きい。切り口が違えば、表現は違ってくるだろう。
「王さん。なぜあんなに苦しい練習を続けられたんですか」
「そりゃ、練習しなかったら、野球が上手くならないからだよ。人間、生まれながらに野球の上手
い人はいないんだ。生まれながらのままでは、みんな下手なんだよ。
練習しないで下手だったらどうなると思う?。我々はプロ野球なんだ。試合は宿命なんだ。試合
で負けるだろう。
的確な動作をしようと言う意思と、的確な動作を向けた行動で試合いに臨んで試合を始めても
(生)、思いは変わらなくても動作がそれについていかない(病)、的確な動作をしても、思いが
そこに調和しなくなる(老)、やがて的確な動作をしようという意欲もなくなり、動作もちぐはぐ
になる(死)。これじゃ試合に勝てないだろう。試合を、何回やっても、何回やっても勝てない。
繰り返し繰り返しやっても、いつもその連続になる。まさに生まれながらの我々自身というのは、
そういう存在なんだ(機の深信)。だからこそ、練習をするんだ」。
「生まれながらのままでは下手なんだ。だから練習する。それで苦しくないですか」
「そりゃ苦しいときもあったよ。でも楽しいときもあったよ」
「どうして?」 (続く)
+ . .. :.... .. .. .
+ .. . .. . +..
.. :.. __ ..
.|: |
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.(二二X二二O
|: | ..:+ ..
∧∧ |: |
/⌒ヽ),_|; |,_,, さようなら、渡海難
_,_,_,_,,〜(,, );;;;:;:;;;;:::ヽ,、 死んでくれて、世界は平和になったよ。
"" """""""",, ""/; 地獄で苦しめ、お前が死んでもかなしむ者はいない・・
"" ,,, """ ""/:;;
"" ,,""""" /;;;::;;
85 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/03(火) 12:57:31 ID:1Aawrtvh
2,3日、多忙。カキコ不能。
いやね・・・・・
基本的なトコ突っ込むと・・・・
世の成功者(イチロー・王)が なむあみだぶ を信心歓喜して
称えて無かったらどうするつもりなのかと・・・・・
それに「成功者」の例だと過去の妙好人の存在はどうなってしまうのかと・・・・
87 :
名無しさん@3周年:2006/10/05(木) 00:11:56 ID:bKHXvLIU
教えてください。
この教えは何時ごろ誰が確立した教えですか。
<そこに真実を探し求める心(道心)があれば、そのままそれが悟りに至る道です。日常の生活にもそれは言えることです。>
宜しくお願いします。
88 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/06(金) 20:05:42 ID:rQjB8CO8
>>86 >称えて無かったらどうするつもりなのかと
なるぼど、そういう読み方もある。狙いを決めて楽しみにして見てくれているファンがいるというのは嬉し
いものだ。
>「成功者」の例だと過去の妙好人の存在はどうなってしまうのかと
残念だが、僕は過去、本願寺が認定した妙好人なんてものには、皆目興味がないんだ。
>>87 回答不能。心当たりがありません。でも、これは日本仏教ではかなり普遍的に共感を得られる考えなんじゃな
いかと思いますよ。
「悟りに至る道です。」というより、多分禅者などは「それがそのまま悟りだ」と言い切ると思うよ。
89 :
愉然:2006/10/07(土) 03:23:46 ID:rUQ5NH0+
渡海さん、ストレートな質問なんですけど、私は何故生まれてきたのでしょうか。
そこがすっきりしないと、念仏していてもむなしくなるんです。
毎日、坐禅しながら念仏しています。念仏している間に幸福感が訪れたり、いい
アイデアが浮かんでくることも確かにあります。けれども、人生に辛さを感じることの
方が多く自殺を考えることもよくあります。阿弥陀様に救っていただけるということも、
そもそも私が生まれなければそんな問題は発生しないわけだと思うんです。
何だか上手くまとめられなくてすみません。
90 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/07(土) 20:06:29 ID:rOKgA8RT
>>83 「うん。そう。楽しいときもあったよ。辛かったけどね。
確かに、僕は野球を上手くなりたいと思っていたんだ(双樹林下往生)。野球を上手くなりたい
う僕の思いに、荒川先生は応えてくれた。でも本当は、僕の気持ち以上に、荒川先生の方で、『こ
いつにホームランを打たせないでおくものか』という、おそらく不退転の決意(果遂の誓い)が生
まれていたんだと思う。実際、一本足打法は、最初はほとんど、先生の熱意に押され、僕の方は半
信半疑で始めたんだ(難思往生)。
練習していくと変わってくるんだよね。最初は筋肉系に変化が現れた。体つきが変わってくる。
そうすると、それまで出来なかったことが出来てくる。はっとするような気づきも出てくるんだ。
言葉じゃうまくいえないけど、これなら打てるという自信みたいなのが出てくるんだ。言葉じゃ説
明できないけど、荒川先生は、これを僕に伝えたかったんだなと頷けてきたんだ。先生とものすご
い連帯感が生まれてきた(難思議往生)。
でも、人間だからそれでもいろいろスランプはある。僕も、随分波があった。毎試合ホームラン
を打ったり、一試合で複数本のホームランを打てたときは問題ないんだけど、何週間も打てないと
きもある。僕はホームラン王と言われたけど、押しも押されもしない三振王だからね。三振の数で
も記録保持者なんだよ。
三振ばっかりの時は気が滅入る。気が滅入った時は練習する気もしない。でも僕は、そんな日で
も、やっぱり練習した。そんな日は、荒川先生が教えてくれた基本中の基本に徹底して戻るんだ。
そして、一回でもいいからと思って素振りする。一回も練習しなければ先生との連帯が切れると思
った。でも、一回でもやれば連帯は続くと思った(乃至一念・法の深信)。
一回でもやれば連帯は続くと思って一回素振りすれば、もう一回ぐらい出来る。もう一回できれ
ば、もう二回できる。三回できる。スランプの時ほど、基本に戻って回数多く練習した。すると頭
の中はスランプでぐちゃぐちゃでも、試合の瞬間になると、そんなことも忘れて自然にホームラン
が出た。そのときスランプを脱していた。人には、無意識に働く意識というのがあるんだろうね。」
続く
91 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/07(土) 20:09:03 ID:rOKgA8RT
>>89 >私は何故生まれてきたのでしょうか。
僕には回答不能。
多分、生き甲斐のある人生が歩めてないだろうね。生き甲斐のある人生が歩めればこういう問い
は出てこない。生き甲斐のある人生が歩めていれば、その中に自分の存在意義が見つけ出せる。
やっていて楽しい。やっていて嬉しい。自分も喜べて他人にも喜んでもらえるもの。貴方は、そ
れを探すことが今、一番大事なんだろう。どうですか。
>そこがすっきりしないと、念仏していてもむなしくなるんです。
虚しい念仏も南無阿弥陀仏。虚しくない念仏も南無阿弥陀仏。同一念仏無別同故。
虚しいか、虚しくないか、基本的には念仏には関係ないことだけど、虚しい念仏だと、持続性が
ないよね。続かなくなるよね。
続かないなら、止めてもいいんだけど、何かもったいないよね。これは、念仏だけ考えていても
駄目なんじゃないか。生きていて充実感がなければ、念仏していてもむなしくなる。むなしさは、
念仏していないときにも多分、底流にあるんだろう。
貴方は、自分がやりたいことを見つけることが必要なんだと思う。これは危機管理の問題じゃな
い。親鸞仏教は、生き甲斐の見つけられない人に生き甲斐を見つけてきてくれるようなサービスは
ない。生き甲斐が見つからないというのは、それだけでは、人生の危機ではない。世間道の問題だ。
92 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/07(土) 20:10:04 ID:rOKgA8RT
>念仏している間に幸福感が訪れたり、いいアイデアが浮かんでくることも確かにあります。
二念は追わない方がいい。念仏しながら、湧いてきたことは、どんどん忘れることも大事だ。念
仏しながら感じた幸福感、アイデアは、どんどん忘れよう。ほとんどが妄想だ。
>阿弥陀様に救っていただける
阿弥陀様が救う?。これは大きな妄想だ。忘れよう。
生き甲斐がみつからない。自分は今後何をしていったらいいか分からない。そんな漠然とした悩
みがあれば、一人孤独に念仏を称えているだけじゃなく、いろんな人と腹を割って話をする機会を
作った方がいいだろう。
世の中、お釈迦様、仏様、親鸞様だけが相談相手じゃない。パン屋さん、お巡りさん、理髪店さ
ん、主婦、学生、いろんな人が色んな知恵を持っているものだ。そういう人と、腹を割った色んな
話を聞くといいと思うよ。
僕は、昔からエンカウンタグループを薦めている。カウンセリング理論を体系化したアメリカの
カール・ロジャーズ博士が数十年前に発表したカウンセリングの発展形だ。これは、グループダイ
ナミズムという心理的な働きを使ってその人の潜在力を導く。
餅は餅屋。親鸞は危機管理が専門だ。消火器一本あれば人間の全ての問題が解決するなんてこと
はない。仏様じゃなく、普通の人からいろんな話を聞くと言うことも大事なことだ。プライバシの
ない掲示板は、プライバシが絡む話はできないからね。
93 :
>>86:2006/10/07(土) 20:15:19 ID:0MbWTgJT
消化器で消すための「火」に当たる物事は、なんですかと前スレから聞いているのですが・・・
94 :
いつ死んでもいい男:2006/10/07(土) 23:35:52 ID:GSy7MOYG
95 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/09(月) 00:31:35 ID:DjDOrVBB
>>93 >「火」に当たる物事は、なんですかと前スレから聞いているのですが・・・
そうそう。思い出した。思い出した。これは、そんなに難しいかな?。考えれば気が付くんじゃない
の?。ちょっと自分で考えてみない?。
消火器というのはこっから取ったんだ。出典はわかる?
衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯す。かくのごときの愚人、僧祇物を偸み、現前僧物を盗
み、不浄に説法す。慚愧あることなし。もろもろの悪業をもってして自ら荘厳す。かくのごときの罪人、
悪業をもってのゆえに地獄に堕すべし。命終わらんと欲る時に、地獄の衆火、一時に倶に至る。 〜
この人、聞き已りて八十億劫の生死の罪を除く。地獄の猛火、化して清涼の風と為る。
火が出てくるだろう。この火を消して清涼の風としようというわけだ。
>>95 俺とはかんけーない事が解った。
だって八十億劫の生死の罪を除かれたらしいので・・・
ってゆーか、誰にでも当てはまる事でないと
「あっそ」って思われるんじゃない?
まあその調子で細木数子の所に乗り込んで
「不浄に説法して、慚愧あることなし」っていったら少しは話が見えるけど
97 :
自閉:2006/10/10(火) 01:06:34 ID:obUt3pST
>>94 ぼくは、地獄往き間違いないしそれを回避する気概さへない(僕がですよ)
これじゃあ念仏ぐらいしかないなあって感じです
まあ地獄でみんなで念仏一揆しても良いし、一人だけだったら阿弥陀さんや
親鸞さんに念仏で悪態をつきます
98 :
名無しさん@3周年:2006/10/10(火) 02:52:54 ID:Rvn4GixO
渡海 難さん、前法務大臣が大谷派の信者で『任期中は死刑執行書にサインを
しない』と仰ってました。
浄土真宗は死刑を認めていないのですか?
また認めていないのなら、悪人は阿弥陀様のみが裁き救済するといった思想なのでしょうか?
不勉強ですみませんが、ご教授下さい。
99 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/10(火) 19:42:39 ID:MA3Xm5Id
>>94 >みなさんの琴線に一番響いた解釈はどんな解釈でしょうか?
自分は、牧師さんの解釈が一番心に響きましたよということでしょうか。まあ結構な話でしょう。
>この世に生きることそのものが地獄なのだと解釈されました。
まあ、人それぞれ好き好きがあるでしょう。
>この世は地獄のようなものだから、その現実を受け止め、受け入れて生きるべきだということで
しょうか?
牧師さんの解釈への疑問は、牧師さんに直接なさったらいかがでしょうか。その方のホームーペー
ジには、メールアドレスも書いてありましたよ。
100 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/10(火) 19:45:28 ID:MA3Xm5Id
>>96 >俺とはかんけーない事が解った。だって八十億劫の生死の罪を除かれたらしいので・・・
世の中には医者いらずという人は少なくない。同じようなもので、宗教なんか全く必要ないという
人も多い。生涯、宗教などには全く関与しないで、立派な人生を全うしていく人は決して少なくない。
宗教に振り回され、宗教で不幸のどん底に落ちたという人は、宗教で救われた人の何十倍、何百倍
と多いだろう。宗教は阿片だというのは、僕は決して否定しない。宗教は恐ろしい。
宗教が本当に必要という人は少ない。しかし僕はそういう人は存在すると思う。そういう人には、
正しい宗教が正しく説かれると、実に素晴らしい人生が開けるだろう。しかし逆に、インチキ教義がデ
タラメに説かれると、やはりそういう人にも悲惨な結果がやってくる。
誤解に基づく判断だったとしても、結論として自分は宗教に触れるのは止めようという選択は決し
て間違った選択ではない。No96は、宗教など全く必要なく、危なげのない人生を歩んでいけるこ
とを祈るよ。
不幸にして、万一、宗教が必要になったときは、正しい宗教が正しく説かれる縁と正しく出会える
ことを祈っている。
>まあその調子で細木数子の所に乗り込んで
存じ上げない。一面識もないもない方だ。
>少しは話が見えるけど
あなたは、宗教などに興味を持たず、自分らしい自分の人生を歩む方がいい。
101 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/10(火) 19:47:41 ID:MA3Xm5Id
>>97 >ぼくは、地獄往き間違いないしそれを回避する気概さへない
地獄往きなんていう夢物語はどうでもいい話だ。今考えなけりゃならんことじゃない。それよりも、
身体が健康な間は、命尽きるまで全力を尽くすことが大事だ。
>地獄でみんなで念仏一揆しても良いし、一人だけだったら阿弥陀さんや親鸞さんに念仏で悪態をつ
きます
絵本のお伽噺は絵本の中だけにしておきなさい。
102 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/10(火) 20:00:17 ID:MA3Xm5Id
>>98 >浄土真宗は死刑を認めていないのですか?
そんな話は聞いたこともない。
>悪人は阿弥陀様のみが裁き救済するといった思想なのでしょうか?
そんな話は聞いたこともない。
ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。死刑の執行は是か非かは、法律・政治・民主
主義・法治主義・人道主義・社会倫理・社会正義という立場で考えればいい。親鸞の往生極楽の道
とは関係がない。
法務大臣が死刑執行のゴーサインを出さないとはどういうことか。死刑判決を、事実上終身刑に
切り替えたというということでしょう。
日本では終身刑がない。なぜなら、生涯刑務所に入れておくことは人道主義に反すると考えられ
ているからだ。だからこそ、無期懲役受刑者は、十五年位で出所する。死刑判決が出ているのに、
死刑を執行しないというなら、死刑受刑者でも刑務所から仮釈放しないと、これは人権侵害になる。
死刑制は、死刑が刑の執行内容であり、収監は刑の執行項目ではない。死刑執行まで暫定的に短
期間(6か月以下)収監することは法の予定していることだろうが、無期限に収監するという収監
刑を死刑囚に執行することは予定していない。死刑囚の収監は、死刑を執行するための身柄確保で
あり、もし死刑の執行をする予定がないなら、さっさと家に帰宅させなければならない(居住の自
由)。
行政府の長が独断で死刑判決を終身刑に切り替えることは、法治主義・三権分立・人道主義・社
会正義・憲法に反する。死刑囚を、正当な手続き無く、長期間収監し、が死刑にならず刑務所で天
寿を全うした場合、奴隷的拘束と苦役の禁止(憲法18)と居住・移転の自由(憲法22条)違反
になるだろう。死刑囚の遺族が、憲法違反を理由に国家賠償請求してきたら、ああいう法務大臣は
どう言い訳するんだろう。阿弥陀様の命令でしたとでも言うんだろうかね。
103 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/11(水) 09:58:38 ID:0kWO1uLG
機の深信と法の深信のほどよい中道さ加減とはどこか。かつての王選手にとっては、例えば一本
足打法の習得に向けて果敢に練習を重ねて行くところだったろう。現代の朝青龍関などにとっても、
果敢に練習を重ねて行くところだろう。歌舞伎の勘三郎さんなどには、歌舞伎の道で基本的な練習
というのがあるはずだ。
なぜ練習をするのか。もともと我々自身は、野球が下手。相撲が下手。歌舞伎が下手なんだ(機
の深信)。基本的な練習形態には、そんな自分たちを何としても上達させずにおくものかという先
人の不退転の決意が込められている(法の深信)。だからこそ、一流を目指す人は練習を重ねる。
一流と言われる人々は、みな練習、訓練を重ねて育っている。
王さんには王さんなりの機の深信と法の深信のたて方があったろう。朝青龍関には朝青龍関なり
の機の深信と法の深信のたて方があるはずだ。中村勘三郎さんには、中村勘三郎さんなりの機の深
信と法の深信のたて方があると思う。ある人は、バッティングであり、ある人は相撲であり、ある
人は歌舞伎である。その外にも様々なたて方がある。人それぞれで、形が違う。学術研究の中でた
てる人もいる。絵画の学習の中でたてる人もいるだろう。そば職人はそばの作り方の中でたてるだ
ろうし、パン職人はパンの作り方の中で機の深信と法の深信をたてるだろう。
善導・法然・親鸞に連なり、善導・法然・親鸞流の仏道をたてる者には、また相応の機の深信と
法の深信のたて方がある。たち方がある。我々はそれを称名念仏でたてる。
104 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/11(水) 09:59:21 ID:0kWO1uLG
念仏は座禅して称える。結跏趺坐、半跏趺坐が極楽浄土の正式な着座法だ。観無量寿経の仏達は
結跏趺坐する。略式的には僕はアマチュアの家庭では椅子禅という形もあるだろうと考える。正座
はだめかと聞かれることがある。僕にはあれはだめ、これも駄目という資格はない。ただし、結跏
趺坐、半跏趺坐が極楽浄土の正式な着座法ということだけ認識があればいいだろう。
姿勢を正し、呼吸を整えながら念仏を称える。僕は最近、五会念仏を始めた。これまで五会念仏
は、儀式用の念仏方法だろうと思っていた。だからほとんど見向きもしなかった。しかし、やって
みると、非常に効果があることが分かってきた。あれ儀式のためのものではない。個人が、単独で
実践的に念仏するときの非常に効果のある方法だと感じてきた。法然も親鸞も、間違いなく五会念
仏を教えていたんだろうと確信できる。五会念仏は、次のように行う。
第一の会は平声に緩く念ず 南無阿弥陀仏
第二の会は平に声を上げて緩く念ず 南無阿弥陀仏
第三の会は緩に非ず急に非ず 南無阿弥陀仏
第四の会は漸く急に念ず 南無阿弥陀仏
第五の会は四字に転じて急に念ず 阿弥陀仏
(五会念仏法事儀讃 略抄 <親鸞作>)
105 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/11(水) 10:00:21 ID:0kWO1uLG
親鸞は関東の弟子に言った。念仏三昧は、無上深妙の禅門であると。座禅のない念仏は、腹を空
かした人が自分に向かって吹いてくる風を思いっきり腹の中に蓄えようとするものだ。これでは腹
の足しにはならん。念仏は座禅して称えよ。座禅して行えば十種の益(信の巻)を得る。
善導・法然・親鸞に連なる念仏者にとって、機の深信と法の深信のほどよい中道さ加減とは、か
つて王選手が繰り返し繰り返し一本足打法を練習したように、我々にとっては、可能な範囲で座禅
しながら繰り返し繰り返し五会念仏を実践していくことだ。一本足打法によって王選手はホームラ
ン王の道を歩んだ。念仏からは我々には十種の益が開けてくるだろう。
<二種深信 終わり>
106 :
名無しさん@3周年:2006/10/11(水) 15:00:45 ID:lK02MTIQ
渡海さん、こんにちは。
東条英機(大谷派信者)が死刑執行日に、自身があの世で救われるよう
『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と必死に唱えていたそうです。
これで救われるというならば、いくら人を殺めたとしても『南無阿弥陀仏』と唱えさえすれば
救われるということでしょうか?
つまりは、この世でどんな悪事を働いたとしても『悪人正機』で阿弥陀仏の本願により
救済されるということなのでしょうか?
>>106 戒律を議論した後で論じてみたいと思います。
108 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/15(日) 11:01:51 ID:duwSUG0u
>>53 >南無阿弥陀仏と唱えることが戒律なのではないでしょうか?
善導は、仏教における戒律の地位を後退させ、その代わりに称名念仏を前面に出したけど、称名
念仏を戒律にするという考えは、浄土教にはないだろう。法然にも、一遍にも、融通念仏宗の良忍
にもないと思う。
無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連に等しくて 供養恭敬を薦めしむ
(正像末和讃)
末法濁世の今時の衆生無戒のときなれば、たもつものもなく、破するものもなし(口伝抄)。
親鸞は、無戒の僧という自覚を持っていた。無戒とは、戒律がないといことだ。しかし無戒とい
う概念と僧という概念が並立するのか。ここは、大いに議論があるところだ。なぜなら、無戒とは、
僧としての最低条件がないといことだからだ。今後、もうちょっと考えてみよう。
109 :
名無しさん@3周年:2006/10/15(日) 17:27:04 ID:3XTBIzbR
>>108 >>親鸞は、無戒の僧という自覚を持っていた。無戒とは、戒律がないといことだ。しかし無戒とい
>>う概念と僧という概念が並立するのか。ここは、大いに議論があるところだ。なぜなら、無戒とは、
>>僧としての最低条件がないといことだからだ。今後、もうちょっと考えてみよう。
なんかパラドックスが生じますよね。
たとえば、『人間は無欲になれるかどうか』。
人間が無欲になろうとするのも『欲』であるので、
結果的に人間は無欲になれないみたいな。
自分で非僧非俗を名乗ってたじゃないですか。
111 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/16(月) 00:17:01 ID:0hAVYc3h
>>109 >人間が無欲になろうとするのも『欲』であるので、結果的に人間は無欲になれないみたいな。
ここはちょっと違うと思うよ。
親鸞の無戒は、無戒になろうとしてなったんじゃない。
主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。 〜 罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐
す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。
親鸞の場合、いわば冤罪で僧籍を剥奪された。このとき、僧としての受戒の効果が全て剥奪された。
まあ、本当に冤罪だったかどうだったかは、僕は知らない。歴史家じゃないからね。誰かを庇っ
て身代わりになったかも知れない。いずれにしても、国家によって無戒の身にされたんだろう。
通常の優婆塞であれば、自分の意思で出家するという選択肢もあるが、いったん剥奪されれば、
当時のことだから名誉回復などと言うことは考えられなかったろうと思う。
>>110 >自分で非僧非俗を名乗ってたじゃないですか。
ここは大事なとこだよね。ところで、無戒なんだから、当然「非僧」は分かる。それでは、「非
俗」とはどういう意味なんだろうね。問題はここなんだ。非俗とは僧という意味だ。しかし、非僧
だと言っている。親鸞に連なる法流では、僧が僧であるといえる根拠は何かといことだ。ここは
大きな問題だろう。
112 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/16(月) 10:32:14 ID:0hAVYc3h
浄土真宗を学ぶ場合、親鸞仏教と法然仏教との原理的根本的相違というものを認識しておく必要
がある。法然仏教は破戒を許容する。しかし、そこに無戒という考えはない。仮に無戒という言葉
を使っていても、それは親鸞が言う無戒ではない。破戒と同じような意味と考えるべきだろう。
親鸞仏教にも破戒という言葉が登場するが、しかしその意味内容の実体は無戒である。親鸞仏教
は無戒を本質とする。破戒と無戒とは似たようなものと思うかも知れないが、全く違う。破戒は破
るべき戒律がある。つまり有戒なんだ。無戒とは、その破るべき戒律もない。そういう意味で全く
違う。
親鸞仏教は流罪を原点としている。法然仏教には流罪事件の影響が全くない。なぜなら、法然仏
教は流罪事件前に完成していたからだ。流罪事件前に完成した法然仏教は、流罪事件によって変動
するようなものではなかった。ところが、親鸞仏教は流罪事件から始まった。親鸞仏教は流罪事件
を原点にする。そのため、親鸞仏教は法然仏教と別異の道を歩んでいる。
親鸞仏教の大きな特徴は無戒という概念だ。これはその後、日本仏教全体に大きな影響を及ぼし
た。現代の日本仏教は、事実上無戒仏教化している。もともと釈迦仏教は三学を基礎とする。三学
とは、戒律と禅定と知恵だ。戒律が崩れれば三学はなくなる。三学が無くなれば、仏教は仏教でな
くなる。無戒仏教というのは、限りなく外道に近い。つまり、外道に転落する紙一重のところにあ
る。
113 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/16(月) 10:35:32 ID:0hAVYc3h
親鸞の無戒の論理が正しく伝わって無戒化したなら、これは時代の流れとして、日本仏教にいい
結果を生んだと思う。しかし、浄土真宗は、日本仏教全体には、無戒という結論だけを軽薄に伝染
させた。残念なことに、他の既存諸宗は、この浄土真宗が発した猛毒に抵抗力がなかった。現代で
は日本仏教は、全体が事実上外道と化している言ったら言い過ぎか。最も外道と化しているのは、
無論、その発信地である浄土真宗であるという、実に残念な結果が生じていると僕は思う。
最近、東南アジアから非常に戒律に厳しい上座仏教の坊さんが来日し、日本で多くの支持者を集
め出しているようだ。一方で、日本古来の律宗などは、非常に衰退しているようだ。ここで改めて
戒律が見直され、日本全体に例えば戒律が根付くなら、浄土真宗の猛毒から日本仏教を救うという
意味で、社会にいい結果を生み出すかも知れない。しかし、このとき、仮にも大乗仏教全体が否定
されるようなことになれば残念なことだ。
我々の先人達は、小乗仏教と激しい論戦を行い、大乗仏教を選んできた。将来の人々が小乗仏教
を選ぶというのであれば、それはそれで自由な選択だろう。しかし、先人が大乗仏教を選んできた
理由を知らないで、単に古着を脱ぐように大乗仏教全体を使い捨てるようなことがあれば、これは
残念なことだ。
日本仏教全体を無戒化した発信源、張本人として、親鸞における無戒とはどういうことなのか、
浄土真宗の立場の人は、改めて親鸞の本当の無戒の思想を明確化し、発信し直すことは必要だろう
と僕は思う。親鸞における無戒の思想とは、決してアナーキーではない。その実体は厳しく持戒を
守ろうとする仏教原理主義に近いということも、やがては理解して貰えるだろうと僕は思う。
(2,3日休みます)
114 :
名無しさん@3周年:2006/10/16(月) 11:55:29 ID:XOfrWI0O
人
(::::::) 渡海 難 ◆Fe19/y1.mIの正体
(:::::::::::::)
(:::::::::::::::::::::) 小中高といじめられてきた。その扱いはまさに虫けら以下だった。
(:::::::::::::::::::::::::::) 高校を中退してからは、一日中家の中に引き篭もっている。
/:::::::::::::::::::::::::::::::\ 50歳過ぎた今でも無職。友達も恋人もなし。PCだけが俺の世界。
(:::::::::::::::::|_|_|_|_) 更に、肥満、腋臭、若禿、脂症、ニキビ面、インキン、真性包茎・・・
|;;;;;;;;;;ノ \,, ,,/ ヽ どうして俺だけがこのような惨めな境遇なのか・・・。
|::( 6 ー─◎─◎ )
|ノ (∵∴ ( o o)∴)
/| < ∵ 3 ∵>
::::::\ ヽ ノ\
:::::::::::::\_____ノ:::::::::::
>>113 ちょっと多忙です。戒の続きは来週から書きます。
116 :
名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 08:12:29 ID:HpzZZRIG
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ┃
┃【今日のピークパフォーマンス方程式】 ┃
┃ ┃
┃ ■私たちは日々大量の情報に触れるが、100のうち100すべてが ┃
┃ 入ってくるわけではない。無意識に自分の脳というフィルタ ┃
┃ を通して、必要と判断されたものだけが入ってくる。 ┃
┃ ┃
┃ ■1000万部、数百万部の全国紙が読まれているが、誰一人 ┃
┃ 同じ量の情報を受け取っていない。 ┃
┃ 十人十色どころか、100万人100万色、1000万人1000万色だ。 ┃
┃ ┃
┃ ■情報取得量は、立てているアンテナの高さと本数に比例する。┃
┃ アンテナの高さとは、目標の高さ。 ┃
┃ アンテナの本数とは、情報収集しているジャンルの数。 ┃
┃ 可能な限り高い目標を可能な限り多く掲げたい。 ┃
┃ ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━「平成・進化論。」━━┛
117 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/22(日) 13:12:30 ID:hcGrd32h
親鸞仏教は、流罪事件を原点とする。親鸞はこのとき、自らが僧籍を奪われるという経験と、法然
上人が僧籍を奪われるという事実を目撃している。法然は天皇の戒師を勤めるほどの天台宗の高僧で
ある。戒律の時代は終わったと親鸞が悟ったのは、恐らくこのときだろう。
戒律が無くなれば、仏道入門者は、授かる戒律がない。授かる戒律がないということは、大衆には
仏道に参画する余地が無いということだ。仏教は戒・定・恵という三学を基礎とする。戒律がないと
言うことは、三学がないと言うことだ。三学がないということは、仏道が成立しないことを意味する。
仏道は終わったのか。仏道に終わりがあったとすれば、それは仏道自体に生老病死があったという
ことだ。生老病死があっとすれば、仏道は迷いの中にあったということだ。つまり仏道は生死を分断
できていなかったということだろう。真実の教えではなかったということではないか。
仏道が真実の教えであったとすれば、それは生死を分断しているはずである。輪廻を断っているは
ずである。輪廻を断っていれば死は無いはずだ。仏道に終わりは無いはずである。戒律が崩れ、仏道
はどのように継続するのか。親鸞は、僧籍を奪われても仏弟子としてのアイデンティティをなくさな
かった。戒は生老病死のある仮の教え、無戒の教えこそ、生死を超えた真実の教えである。親鸞はそ
う考えたのだろう。
仏曰く、もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下
十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ。
118 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/22(日) 13:14:22 ID:hcGrd32h
五逆の者も、正法を誹謗する者も、等しく救うぞ。親鸞は、中国の高僧、善導が提唱したこの考え
に真の仏教の可能性を探っていく。
親鸞仏教は流罪を原点とする。越後に流罪になるにあたり、禿と名乗る。自らを剃髪者と称すれば、
これは僧を意味する。そのような名乗りは僧籍を失った親鸞には許されなかっただろう。しかし、禿
という名には、朝廷はこれを禁止する理由がなかったようだ。
清盛の召使はるゝ禿とさへ云へば、道を過ぐる馬、車もよけて通り、内裏の御門を出入するにも何
者ぞと咎むるものもなく、まことに都方にて威勢あるやうな人も目を側めて萬事見ぬふりをせられた
と申す(天草平家物語)。
平家の時代、「禿」と名乗る平家親衛隊がいたようだ。平家が滅亡し、鎌倉幕府の力が京都政権を
凌駕するようになってくると、京都には平家への郷愁が戻ってくる。禿という名を名乗りたいという
親鸞の申し出は、平家を倒した鎌倉幕府に対する京都政権の微妙な心理を読んだものではないか。し
かし、この禿の中に、親鸞は剃髪者すなわち僧であるという意味を込めていたことは間違いないだろ
う。
『月蔵経』巻第八「忍辱品」第十六に言わく、 〜 その時にまた一切天・龍、乃至一切迦た富単
那・人非人等ありて、みなことごとく合掌して、かくのごときの言を作さく、「我等、仏一切声聞弟
子、乃至もしまた禁戒を持たざれども鬚髪を剃除し袈裟を片に着ん者において、師長の想を作さん。
護持養育してもろもろの所須を与えて乏少なからしめん。もし余の天・龍、乃至迦 富単那等、それ
悩乱を作し、乃至悪心をして眼をもってこれを視ば、我等ことごとく共に、かの天・龍・富単那等、
所有の諸相欠減し醜陋ならしめん。彼をしてまた、彼等と共に住し共に食を与うることを得ざらしめ
ん。また同処にして、戯笑を得じ。かくのごとく擯罰せん。(化身土巻)
119 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/22(日) 13:15:42 ID:hcGrd32h
月蔵経は言う。天・龍を始めとする世界のあらゆる精神達あるいは命達は、釈迦の説法を聞き、新
たに誓いを建てた。仮に釈迦の戒律を守っていなくても、髪とヒゲを剃り、袈裟を着ているだけの形
ばかりであっても、形が僧の姿をしていれば、自分たちはその人を先生と考え、必ず守り育てます。
必要なものを与え、経済的に決して困らないようにしてあげます。もし、間違った心を起こし、誰か
がそれを蔑むようなことがあれば、そいつを思いっきりぶん殴ってやりましょう。一緒に食事をする
こともなく、談笑することも控えましょう。
親鸞は、流刑の地に月蔵経のこの言葉を抱いて赴いたのだろう。流刑地で、僧服を着ることは許さ
れなかったと思うが、時折髪は剃ったかもしれない。晴れれば荒れ地を開墾し、魚を捕り、雨の日に
はあばら屋で念仏を称えていたことだろう。そんな親鸞の下には、やがて近くの腕白坊主共が覗きに
やってくる。子供達に都の子供の遊びを教え、自分の名前の書き方を教え、算術を教えれば、次には
大人もやって来る。
鎌倉時代、雪深い北陸で流刑人が持戒の生活を維持することは不可能に近かったろう。髪も剃れず、
無精髭もそのまま、それでも念仏を称えるだけの一介の元天台僧の下には、多くの支援が集まってき
たようだ。
仏教の戒律は無くなった。それでは仏道者は無頼漢でいいのか。倫理道徳はいらないのか。僧の使
命は何か。僧の社会的責任。僧の義務は何か。親鸞の考えをさらに考えていこう。
恵信尼は越後に所領を持っており、経済的に困窮することはなかったと思われ。
121 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/25(水) 00:48:26 ID:76AhV3G8
>>120 >恵信尼は越後に所領を持っており、経済的に困窮することはなかったと思われ。
面白いことを考えるんだね。
代官「親鸞さんよ。それで、これから貴方には越後に行ってもらうんだが、越後はいいところだ
ぞ。三善為教という豪族がおる。娘はちくせん(恵信尼)という。可愛い娘御だ。あなたは将来、
浄土真宗をお開きになるのでしょう。かわいいちくせんと結婚し、越後では楽しく暮らせる。いい
住むところも、着るものも、食べるものも、何の不自由もない。三善為教は大金持ちだ。ああ、う
らやましいなぁ」
親鸞「そうでございましたか。お代官様。それでは、わたくしは早速越後に楽しく出かけ、その
かわいい娘と夫婦になり、三善為教と何不自由なく暮らしましょう。おいしいものを沢山たべ、何
の苦労もしないで笑って楽しく過ごしたいと思います。そしてわたくしは、やがて浄土真宗という、
大きな宗派を作ります。そしてその宗祖となります
越後に到着すると、可愛い顔をしたちくせんが道ばたで待っている。
ちくせん「あ〜ら、親鸞様。ようこそいらっしゃいました。それでは二人は早速結婚して、仲良く
楽しく暮らしましょう。おいしいものも、たくさんたべましょうね。浄土真宗というおおきな宗派
を楽しく作りましょう」。
親鸞は、越後で何不自由なく、毎日毎日楽しく笑って過ごしましたとさ。
ひょっとして、こんな風にでも考えるんでしょうか。
122 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/25(水) 00:49:56 ID:76AhV3G8
宗祖親鸞は、越後に向かうに当たり、何を考え、また流刑囚として何を感じ、経験したか、親鸞
の記録から、合理的、創造的に思索を巡らすのは、親鸞に学ぶ者の務めだと思いますよ。
日野家の記録には、恵信尼を、三善為教女と書いてある。女という字では、三善為教の娘か、下
女か、居候か分からない。娘というのが通説らしいが、これを肯定する特別な証拠はないんだろう。
否定する証拠もない。
三善為教は豪族だったらしいが、仮に三善為教の娘だったなら、流刑囚の身分で地元の有力者の
娘と夫婦になるには、余程の信頼を得たのだろう。その陰では、親鸞には大変な苦労があったろう
と考える。下女か居候だったなら、三善家から援助はなかったろう。
親鸞思想の原点は、教行信証の化身土巻に行間に書かれていると考える。
>>121 突っ込み所は沢山ありますけど、面白い面白くないで言えば面白くないので止めておいて、ちょっと違う質問をしてみたいと思います。
あなたは念仏者はすべからく富貴であってはならないとお考えなのでしょうか?
もしそうだとしたら、それは究極的には何も持たないこと(無一物)を指向するのか、それともしないのか?
それはどのような理路を辿って導かれる真理なのか?
或いは、富貴であるとか無一物であるとか、そういった対立概念は重要でないのか?
重要でないなら
>>121のレスはどのような存念をもって書かれたのか?
あなた自身の考えに基づくのか親鸞の教説に基づくのかも明記した上で、是非ともご教授願いたい。
124 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/26(木) 00:08:15 ID:7HoMJpn+
>あなたは念仏者はすべからく富貴であってはならないとお考えなのでしょうか?
およそ考えたことがない。関心もない。コメントできない。
>そういった対立概念は重要でないのか?
およそそのような種類の思考を巡らすことがない。関心もない。思考
も巡らない。
>是非ともご教授願いたい
ご依頼に応えられず申し訳ない。
>121のレスはどのような存念をもって書かれたのか?
お気に障れば無視して下さい。親鸞が見たもの、感じたもの、考えたことなどを、できるだけ親
鸞の視点で考えてみようという提案をしたかったんだと思ってください。
125 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/27(金) 00:53:23 ID:HGmj2IQk
親鸞は関東から帰京するにあたり、関東のお弟子さん達に次のような文書を残している。
(専修寺 宗祖真筆)
浄肉不浄肉の文 涅槃経に言わく。人、蛇、象、馬、獅子、狗(いぬ)、猪(いのしし)、狐、猿、
驢(うさぎうま)、十種不浄肉。
又言、三種浄肉。見・聞・疑。見といふは、わが目の前にて殺す肉を食するなり。聞と言うは、我
が糧に採りたるを食するを言ふ。疑といふは、我が糧かと疑ひながら肉食をするとを言ふなり。この
三つの肉食を不浄と言ふ。この三つの様を離れたるを三種の清き肉食と言ふなり。
口伝抄のエピソードを紹介しておこう。
聖人、別して勇猛精進の僧の威儀を正しくましますことなければ、ただ世俗の入道、俗人等に同じ
き御振舞なり。よって、魚鳥の肉味等をもきこし召さるること、御憚りなし。ときに鱠を御前に進ず。
これをきこし召さるること、常の如し。
この文は何を意味するのか。無戒の親鸞の戒律に対する考えが非常によく現れていると思う。今日
は時間がない。後に、詳細に論じよう。
126 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/10/29(日) 00:57:21 ID:DZHutE80
親鸞が鳥や魚を食べること自体に余り抵抗が無かったというのは、口伝抄から見る限り事実なん
だろう。しかし、親鸞を、例えば公然と肉食妻帯した高僧だと言って、盛んに持ち上げている人な
どがいる。そういうのを見ると、親鸞聖人が、草葉の陰でお風邪でも召し、くしゃみでもされてな
ければいいがなぁと、僕などは心配したくなるときがある。
徳川時代は東北が稲作の北限だった。鎌倉時代は鎌倉当たりが北限だったのではないか。親鸞が
暮らした北陸、あるいは北関東は、米はなく、おそらく自生していた粟・稗・麦・栗などを食べ、
主食は狩猟した鳥や魚などではなかったか。北陸、あるいは北関東で、肉食をしてはならないなど
と言えば、民衆は飢えて死ねということでは無かったか。この辺は、歴史家の意見を聞きたい。
口伝抄を読む限り、関東在住時、親鸞は鳥や魚を食べることに抵抗は無かったようだ。しかし、
浄肉不浄肉の文を読む限り、親鸞は鳥や魚を食べることでも飽くまで仏教の戒律の枠にこだわって
いる。ここは注目すべきだろう。
浄肉不浄肉の文は誰に向かって書き残した物か。恐らくこれは、関東教団の出家者に向かって書
き残したものだろう。関東には、漁師もいた、狩人もいただろう。そういう人々に向かって浄肉不
浄肉の文を送ったとは考えられない。
ここで二つの意外性がわき起こる。親鸞は無戒ではなかったのか。無戒でも、戒律を守れとはど
ういうことか。しかも、無戒といいながら、関東教団の中に出家集団の存在を示唆している。口伝
抄からは、親鸞は僧(出家)として扱われている。これは一体何を意味するのか。親鸞の無戒とは
一体どういうことなのか。これは親鸞仏教の重要な論点である。考えていこう。
127 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/02(木) 10:57:25 ID:Z21Uvzog
無戒でも関東では僧として扱かわれていた。これは、結局、私度僧という扱いだろう。行基菩薩
のように大衆を動かすような僧が、政府の統制外で出現するようなことは困る。そこで、政府は中
国から鑑真和上を招き、東大寺、国分寺、国分尼寺を全国に建てた。しかし、僧の国家管理が行き
届いていたのは、京都・奈良を中心にした関西圏だけであり、特に関東、東北などには国家の統制
を受けない多くの私度僧がいただろうと思う。
私度僧とは、師匠を持たないで勝手に出家宣言した僧である。仏教は、出家得度にあたり、原則
は師匠から戒を授かり、戒律を守ることを誓って入門するという方法を採る。しかし、経典は師匠
の無い人には自分一人で僧になる道を認めている。鑑真和上以前の僧は全て私度僧であり、空海も
30歳までは私度僧だった。空也も正式に得度したのはかなり遅く、長い間私度僧として活動して
いた。
私度僧は、師匠がなくて勝手に出家した僧である。手続きは、例えば梵網経などに詳しく書いて
ある。ただし、非常に厳格な要件が必要だ。経典は命がけの修行条件を求めている。恐らく過去の
多くの私度僧達は、そのような条件を満たすことなく、勝手に僧宣言を行い、僧に近い身なりで、
僧のような生活をしていたのだろうと思う。そういう人々も、僧として関東では処遇されていただ
ろう。
親鸞の時代、関東の大名は、みずから一切経を集めるなど、京都に対向できる文化圏の創設を目
指した。比叡山で二十年間修行を積み、さらに数年間法然の下で修行を積んでいたという親鸞が、
関東では僧として遇されても何ら不思議はないだろう。受戒の効果は流罪によって消滅したと言っ
ても、それは京都文化圏での話である。新興文化圏には新興文化圏なりの価値観がある。特に、法
然教団には熊谷直実がいた。熊谷直実は、義経と共に平家と戦った源氏の武将である。熊谷直実は
その後法然の下で出家し、親鸞はその熊谷直実とともに法然教団にいた。熊谷直実と昵懇であれば、
京都政府からは追放された身でも、関東政権からは厚く遇され、関東在住の私度僧のリーダのよう
な地位が与えられていたのではないだろうか。
128 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/03(金) 10:45:01 ID:PJS5kbcM
親鸞の考えは、新興の文化圏では幅広く受け入れられたようだ。親鸞思想は無戒という考えにあ
る。無戒とは、戒律がないということだろう。戒律がないと言うことはどういうことか。従来の戒
律を否定するということでも、従来の戒律に反抗すると言うことでもない。飽くまで、戒律がない
ということ。つまり制度的、形式的には命脈が尽きたと認識しようということだろう。
命脈が尽きれば受戒は意味を失う。つまり、受戒という形式に意味が無くなったということだろ
う。受戒が意味を失えば、出家・在家という境はボーダレスになる。戒律を守って生きていけば、
それだけで人々の尊敬を受け、人々を指導できる信頼的基盤が得られるということもなくなる。そ
のことは、法然上人が捕縛され、流罪になったという事実から明らかである。国家そのものが、持
戒の高僧に対する尊敬を失った。
受戒が制度的に意味を失ったということは、そこに書かれていることが無意味になったというわ
けではない。人を殺してはいけないと教えていた戒律が無効になれば、人を殺してもいいことにな
ったのか。そんなことはない。嘘をついてはいけないと教えていた戒律が無効になれば、嘘をつい
てもよくなったのか。そんな馬鹿な話はないのだ。
国には憲法がある。法律がある。市町村には条例。会社には社内規、学校には学則、町内には町
内規約がある。何が善、何が悪。現代はそんなことを仏教が、仏教の看板で教えなければならんよ
うな時代ではない。お坊さんに教えて貰わないと、善悪が分からんなどと、人々がそんなことを言
う時代じゃないんだ。
129 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/03(金) 10:46:16 ID:PJS5kbcM
お釈迦様の時代から二千年以上たっている。大昔の、しかも外国(インド)の物差しをもってき
て、これをしなさいとかあれをしては駄目と言ってみても意味がない。パン屋さんにはパン屋さん
の取り決めがある。うどん屋さんにはうどん屋さんの取り決めがある。パン屋さん、うどん屋さん
は、パン屋さん、うどん屋さんの取り決めを守ればいいし、取り決めを破れば、取り決めに基づい
て制裁を受けるだろう。
法律や条令を破れば、法律・条例に基づいて人は罰せられる。悪を行って法律・条例で罰せられ
れば、仏教はそれに追い打ちをかけるように重ねて弾劾はしない。地獄に堕ちるぞと、脅迫して威
嚇することもない。そんな必要もない。そんな時代ではなくなったということだろう。
受戒がその意味を失えば、出家と在家とはボーダレスになる。ボーダレスになっても、出家が必
要ないということではない。人々が無明の中でケダモノになり、鬼になり、あるいは有頂天になる
というこの十二因縁の事実は、昔も今も変わりがない。人々が人生の危機を迎えるというリスクは、
昔に比べれば、時代と共に比較的少なくなってきた。しかし、解決不能の危機というのは誰にでも
厳然とある。人々に人生の危機管理の方法を伝えるという僧の教育者としての社会的役割は、釈迦
の時代に比べてもいささかも小さくなってはいない。前に生まれた者が後を導き、後に生まれた者
は前を訪うという、この連続は決して断ってはいけない。
パン屋さんにはパン屋さんの取り決めがある。うどん屋さんにはうどん屋さんの取り決めがある。
パン屋さん・うどん屋さんは、それぞれの取り決めを守ればいい。それでは、人々に危機管理を教
えようとするその教育者はどうなのか。教育者にはルールはいらないのか。悪人こそ救われるので
あり、悪人正機のお救い教ということであれば、破廉恥の無頼漢になり、拝み屋シャーマンという
社会の寄生虫になれば幸福なのか。そんなことは決してない。やはり厳しく戒律を建てるべきだろ
う。
130 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/03(金) 10:47:35 ID:PJS5kbcM
受戒そのものに意味が無くなっても、戒律の中で記載されているもの全てが無意味になったわけ
ではない。現代では意味を失った条項もあるだろう。しかし、現代の価値観に照らして妥当するも
のは決して少なくない。多くのリスクを負いながら、十二因縁の束縛の中で生きている人々に向か
って危機管理の知恵を発信していこうとするなら、現代でも妥当する条項については、やはり守る
べきだろう。
法然上人の破戒と親鸞の無戒とは、大きく異なると考える。法然上人の破戒は、自らは僧として
厳しく戒律を守りつつ、他の人々が仮に反戒律的な行動に出ても出来る限り大きく包容していこう
とするものだろう。すなわちこれは、他者の反戒律的な行動に視点を向けている。親鸞の無戒は、
逆に自らに視点を向けている。受戒というものが既に意味を失った以上、可能な限り自律的に戒律
の中身を守っていこうとする考えだ。かつて、大乗の菩薩にとって戒律を守ることは、人々からの
尊敬を直接確保する重要な手段だった。しかし親鸞には、人々からの尊敬を確保するための手段と
いう観念はない。戒律を保持すれば、それだけで反射的に人々の尊敬を受けられるという観念は全
くない。しかし、その親鸞でも、教育者には人々からの尊敬が無用であるという考えも無い。それ
は、浄肉・不浄肉の文書から明らかだろう。あの文書は、不浄肉を食べれば人々の尊敬を失うぞと
教えるものだ。教育者であろうとするものは、人々からの尊敬を忘れてはいけない。そう教えてい
る。
社会教育者であろうとすれば、その場その場で人々の尊敬を受けられるように努めることは必要
だ。教育の地盤は人々の尊敬にあることは、昔も今も変わらない。人々の尊敬を受けようとするな
ら、戒律の条項には多くのヒントが隠れている。無用なものもあるがヒントもある。僧を自認する
なら、戒律は参考になる。教育者のアイデンティティの問題として、結果的には戒律条項の保持と
いうものを親鸞はかなり厳格に求めていると考える。 続く
131 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/04(土) 10:48:01 ID:4slV/c35
持戒・座禅を正法と名づく(行の巻)。親鸞は自らを無戒名字の比丘と言う。しかし、その親鸞
が、持戒が正法なんだという。
法然上人の捕縛・流罪という事実は、戒律に対する社会的な評価を白日にさらした。戒律を守っ
ても、社会はそれを決して評価しない。親鸞自身も、流刑囚となれば、僧としての受戒の効果を失
った。しかし、それでも戒律はその全てが現代では意味を失ったわけではない。社会的な評価もな
く、受戒もなくても、親鸞は、いわば孤高を持して戒律の中身を保持しようとする。自らが受戒の
効果を失った身であれば、自らが進んで人々に他人に「戒律」を総論的に説くことはなかったろう。
戒律だからというだけで、現代はそれを機械的、盲目的に堅持する時代ではない。親鸞は、個々の
項目を一つ一つ吟味しながら、主体的、自覚的、自律的にその実体的な中身を守ること、親鸞はこ
れを正法として重要なことと考えている。
正法は、座禅と持戒である。念仏三昧は、これ真の無上真妙の禅門なり。これを如来禅という。
二乗外道の禅ではない(五会法事儀讃略抄 親鸞作)。念仏は座禅して行え(行の巻)。親鸞は達
磨大師から伝わる正当な禅法「如来禅」を説く。
極楽浄土では結跏趺坐して着座する(観無量寿経)。行住座臥 不問時節久近。念仏は動きなが
ら行ってもいい。止まって行ってもいい。座って行ってもいい。寝て行ってもいい。時間も問わな
い。暫くぶりに行っても、頻繁に行ってもいい。しかし、絵画は額を付けて鑑賞するのが作法、生
け花は花瓶に挿して見るのが作法、飯は手づかみではなく箸を使って食べるのが作法、そうであれ
ば、念仏はできるだけ座禅して称えたいものだ。
132 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/04(土) 10:55:04 ID:4slV/c35
親鸞は、如来禅こそが正法だという。ただ、誹謗正法は除く(大経)。持戒・座禅を誹謗する者
は除く。持戒・座禅を誹謗する者は極楽浄土に往生させない。大無量寿経はそう言う。しかし「こ
れは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。彼に生を得といえども、
華合して多劫を径(へ)ん。」(行の巻)。極楽浄土に往生しても、長い間、花は開くことがない
だろう。親鸞は、いまし還りてこの正法を聞く。悪と慢と蔽と懈怠とは、もってこの法を信ずるこ
と難し(総序)。
禅律いかんぞこれ正法ならん(行の巻)。座禅・戒律がどうして正法でないということがあるだ
ろうか。本願寺教学では、「座禅をすることは、結果として有害無益でお勧めできません」と説く
(浄土真宗やっとかめ通信)。残念なことだ。
念仏は声声に仏種を下す。座禅持戒は真功を用(もちい)てなり。汝若し修せずして作仏すとい
はば、喩(たと)へば飢(き)け人の空(ひろ)く風を掩(おお)うが若(ごと)し(五会法事儀
讃略抄 親鸞作)。
念仏は、一声一声に仏になる因を実現させる。しかし、念仏は座禅して行え。戒律を保て。これ
は、観念的なことではなく、実利(十種の益<信の巻>)を得よというものだ。座禅も持戒もない
念仏を称え、これで自分は仏になったと言ってみて、そこにどれだけの実利があるのか。座禅持戒
の無い念仏を称えると言うことは、腹を空かした人が、自分に向かって吹いてくる風を思いっきり
腹の中にため込もうとするようなものだ。これでは腹の足し(十種の益)にはならんだろう。
本願寺教学は、腹を空かした仏になれと言うのか。そこにどれだけの意味があるのか。腹の足し
にならん仏教より、腹の足しになる仏教を求めよ。親鸞は腹の足しになる仏教を説く。極楽浄土で
多劫を径て長い間花の開かない仏教ではなく、すぐに花開く仏教を学ぼう。座禅と戒律に関する親
鸞の考えは、正確に受け止めていきたいものだ。
133 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/05(日) 10:21:30 ID:O3ppcYQD
戒律に関する議論は、一応ここで終わりにします。
もっと続けようかと思いましたが、ここまででも予想以上に長く成りすぎた
感じがします。
戒の話で残っているのは、親鸞の結婚の問題ですが、これはそれだけでもまた
長くなりそうなので、機会を別にします。
134 :
106:2006/11/05(日) 19:24:42 ID:rcIcy+oI
渡海さん、ありがとうございました。
多忙かと思われますので暇なときに106の質問も宜しくお願い致します。
135 :
名無しさん@3周年:2006/11/05(日) 19:38:32 ID:/BBRnsu4
136 :
名無しさん@3周年:2006/11/05(日) 19:47:45 ID:61l8z75/
137 :
106:2006/11/05(日) 22:22:41 ID:rcIcy+oI
>>135 この質問の大事なところは
戦勝国と敗戦国の価値観の相違ではありません。
親鸞思想に基づいた上で
『この世でどんな悪事を働いたとしても『悪人正機』で阿弥陀仏の本願により
救済されるということなのでしょうか? 』
というところです。
139 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/08(水) 10:18:34 ID:sta8FcLi
多忙。2,3日 カキコ不能
140 :
106:2006/11/10(金) 00:13:29 ID:z9X7BCgh
渡海さん、こんにちは。106です。
>>国には憲法がある。法律がある。市町村には条例。会社には社内規、学校には学則、町内には町
>>内規約がある。何が善、何が悪。現代はそんなことを仏教が、仏教の看板で教えなければならんよ
>>うな時代ではない。お坊さんに教えて貰わないと、善悪が分からんなどと、人々がそんなことを言
>>う時代じゃないんだ。
渡海さんが仰るように、悪人は現世において、憲法等により罰せられます。
この罰せられたことで、現世の罪は相殺されて、死後に阿弥陀仏に救済される
ということでしょうか?
とはいえしかし、現世における最高刑(死刑)等を<<受けさえすれば>>、
救済されるのでしょうか?
これなのであれば、「どうせ救済されるのだから」と自らの欲求を抑制せずに
罪を犯す者もいるはずだと思われます。
すみません、勝手に解釈してしまいました。
渡海さんの回答を待つことにします。
141 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/11(土) 00:22:54 ID:6Rijf3Za
>>140 >現世における最高刑(死刑)等を<<受けさえすれば>>、救済されるのでしょうか?
別に、最高刑等を受けなくても救われるんだよ。
106さんは、救いとは何かという、その救いの概念について、誤解があるんだろう。106さん
が救いと考えているものは、仏教が言う救いではない。仏教が救いと考えているものは、恐らく
106さんにとっては救いではないんだろう。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲
ば、遠く宿縁を慶べ。
仏道に参加できること。仏道ができる身となるということ。仏道と出会う道が無かったものが、
仏道と出会えたということ。仏道のできなかったものが、仏道をできる身となったということ。
仏弟子になるということ。これが仏教の言う救いだ。
仏道には、106さんがまだ体験したことのない世界がある。106さんが体験するときっと
見えてくるものがある。仏教が言う救いというのは、実は生の体験に立った非常に生々しく、ど
ろどろしたものだ。僕はそう考えている。その辺をもっと突っ込んで考えていこう。(続く)
142 :
106:2006/11/12(日) 19:47:32 ID:0IzOne1F
私が考えていた『救済』とは
死後に阿弥陀仏が浄土へ向かわせることだと思っていました。
当然、それは楽なものではなく、人間にとって苦痛なことだと私は思っています。
他宗教で悪人というのは地獄へ落とされると聞きます。
この地獄とは、たとえば火で身を焼かれて死んでも、また生き返らされて
これが永遠に続くようなものだというイメージを私は持っています。
これは永遠の苦しみですから、『救済』はないです。
対して、親鸞思想は『悪人正機』というのがあります。
人間はすべて悪人で、阿弥陀仏の本願は悪人を救済するところに
あるとされています。
ですから、勘違いしてしまったんだと思います。
親鸞思想において、永遠の苦しみなんていうのはありますか?
まだ、頭が整理できてません。
143 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/13(月) 00:31:19 ID:tt+DbfPA
>>142 >死後に阿弥陀仏が浄土へ向かわせることだと思っていました。
こういう言い方もできる。確かにできる。ただしその場合、多分貴方の考えている阿弥陀仏の定
義、浄土の定義と、親鸞が考えている阿弥陀仏の定義、浄土の定義とが同じじゃないと思う。貴方
が考えている阿弥陀仏や浄土は、親鸞に言わせれば阿弥陀仏でも浄土でもない。親鸞が考えている
阿弥陀仏や浄土は、貴方に言わせれば阿弥陀仏でも浄土でもないんだろう。多分そこがずれている
と思うよ。
>他宗教で悪人というのは地獄へ落とされる
悪人は地獄に堕ちる。確かにそうなんだ。しかし、地獄と何かとなると、ここにも定義の違いが
ある。貴方が地獄に堕ちていくと思っている人は、必ずしも仏教では地獄に堕ちていくような悪人
ではない。貴方が地獄に堕ちていかないと思っているような人が、仏教では地獄に堕ちていく。多
分そんなずれがあると思う。
大王、たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。 〜 大王、それ「衆生」は
出入の息に名づく、出入の息を断つがゆえに、名づけて「殺」とす。諸仏、俗に随いて、また説き
て「殺」とす。乃至
その時に、世尊、阿闍世王を讃めたまわく、「善いかな、善いかな、もし人ありてよく菩提心を
発せん。当に知るべし、この人はすなわち諸仏大衆を荘厳すとす。
時間がないから口語訳は書かないけど、地獄の問題は教行信証の信の巻、阿闍世段で詳細に議論
されていると僕は考える。もし読解力があれば、穴の開くほど読んでみるといい。
144 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/13(月) 00:32:28 ID:tt+DbfPA
>親鸞思想は『悪人正機』というのがあります。人間はすべて悪人で、阿弥陀仏の本願は悪人を救
済するところにあるとされています。
悪人正機は歎異抄の中にある。歎異抄とは、異を嘆いて書いた本だ。言い換えれば、親鸞の思想
の中に異議を生み出すような原因があったわけです。
異議を生み出す親鸞肉声の教えは何だったのか、そこをまず掘り起こし、そこからどういう異議
が生じ、悪人正機になっていったか、そのルートをきちんとたどる必要があると思います。
>親鸞思想において、永遠の苦しみなんていうのはありますか?
弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし(序文)。
自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁
あることなき身としれ(歎異抄)
145 :
名無しさん@3周年:2006/11/13(月) 00:47:38 ID:jQ1xD+n6
───────── ヽ从人∧人∧人∧人从人从/
───────── ― ) とっとと逝けぇー!! (
─── /⌒ヽ, ────丿VVVvVVVVVVVvvVVvV\
 ̄ ̄ / ,ヘ ヽ∧_∧  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ , ” ' ‐ ,
 ̄ ̄ i .i \ (il|l ゚Д゚l|)ヽ,___,, __ _ ,, - _―" ’’・ ∵, ’・, ∧_∧
── ヽ勿 ヽ,__ j i~"" _ ― _: i ∴”_∵ (∵)゚∀。)
______ ヽ,, / / __,,, -- "" ─ "ー ・,. ; ; - 、./つ渡海つ
─────── ヽノ ノ,イ ─── ― - / / /
─────── / /,. ヽ, ── .(._.ノLノ
______ 丿 ノ ヽ,__,ノ ___ _ _ _
j i
_____ 巛i~ ____ _
146 :
106:2006/11/13(月) 00:55:43 ID:9Trmtm3j
う〜ん、私には読解力がないのでちょっと読めないです。。
単刀直入に聞きますと、
『南無阿弥陀仏』と唱えれば浄土に行けますか?
また、その浄土とはどのような所ですか?
浄土が場所ではないとしたら何なのでしょうか?
そして、浄土は死んだらどのような手続きで行けるのでしょうか?
私が本来、本当に知りたいのは以上です。
すべては親鸞思想上の質問です(当然ですが)。
よろしくお願いいたします。
147 :
106:2006/11/13(月) 01:00:25 ID:9Trmtm3j
付け足しますと、
私は『浄土』とは、いわゆる『天国』(幸福が満ちて苦痛のない場所)だと
思っています(ました)。
148 :
106:2006/11/13(月) 01:11:35 ID:9Trmtm3j
私のような質問は、本やHPで載ってると思います。
しかし、私は渡海さんの解釈が聞きたいんです(以下、24のレス)。
>>外のスレで、渡海難は坊さんなんじゃないかと書かれています。坊さんではありません。坊さんではあり
>>ませんから、本願寺などとは違った考え方をしています。
いくらでも待ちますので、時間があるとき御願いします。
149 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/14(火) 10:09:04 ID:nVLYpsUJ
>>146 簡単な質問なので簡単に答えます。
>『南無阿弥陀仏』と唱えれば浄土に行けますか? 行けます。
>その浄土とはどのような所ですか?
広い意味では、釈迦がおり、龍樹・世親などがおり、善導・法然・親鸞がおり、空海・最澄・
鑑真・行基など、名前を歴史に轟かした無数の高僧達がいる世界です。
狭い意味では、空海・最澄・鑑真・行基などはいないかもしれない、特に日蓮聖人はいないか
も知れない。でも、善導・法然・親鸞などがおります。仮に末席とは言え、同じテーブルで、全
く同じ椅子に座ります。
>浄土は死んだらどのような手続きで行けるのでしょうか?
鬼籍に入れば足ります。
150 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/14(火) 10:12:14 ID:nVLYpsUJ
>>147 >私は『浄土』とは、いわゆる『天国』(幸福が満ちて苦痛のない場所)だと
思っています(ました)。
幸いあるところ:原語スカーヴァティー(Sukhavati)の訳。漢訳では安養浄土・安楽・無量寿
仏土・無量光明土・無量清浄土・蓮華蔵世界・清泰国ともいう。阿弥陀仏が成道したときに、西
方充万億の国土を過ぎたところに構えた世界であって、苦難なく、安楽のみある処という。〈岩
波浄土三部経〉
貴方が幸福と思っているものは、先人達は幸福とは思っていない。貴方が苦痛と思うことは、
先人達は苦痛とは思わない。
先人達が幸福と思うものを、貴方は幸福とは思わない。先人達が苦痛と思うものを、貴方は苦
痛とは思わないのでしょう。貴方と先人との間では、恐らく認識に開きがあるでしょう。
諸仏、俗に随いて、また説きて「殺」とす(化身土巻)。
真実を知っている人は、阿闍世王に父王殺害があったとは思っていない。しかし一応、多くの
人々の認識に合わせ、仮に「殺害があった」と言う表現をする。
たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非
無にしてまたこれ有なりといえども、慙愧の人はすなわち非有とす。
悟りは、有でもなければ無でもない。それでいて、有である。殺すと言うことも同じ。有でも
なければ無でもない。それでいて、有である。釈迦は、阿闍世に、慙愧のある人に対する話をす
る。
幸福は存在しない。しかし存在しないわけでもない。それでいて存在する。先人達は、一応、
多くの人々の認識に合わせ、仮に幸福という言葉を使い、苦しみという言葉も使う。
防災の専門家が大事なことだと思うことを、一般の人は大事なことだとは思わない。防災の専
門家が大事ではないと思うことを、一般の人は大事なことと思う。
一般の人が大事なことと思うことを、防災の専門家は大事なことだとは思わない。一般の人が
大事ではないと思うことを、防災の専門家は大事なことと思う。
家に消火器を用意し、日々点検しておくことは、防災の専門家は大事なことだと思う。一般の
人は大事なことだとは思わない。商品売り場に足の踏み場もないほど商品をきらびやかに沢山な
らべることを一般の人はいいことだと思う。いったん火災になれば逃げ道がないじゃないかと、
防災の専門家は眉をひそめる。一般の人は、火事のことなんか考えちゃいられないと反論する。
153 :
106:2006/11/14(火) 16:47:37 ID:+Li/A9o3
回答ありがとうございます。
私が考える死後の『幸福』とは
例えば両親、恋人、友人など『愛する人に会える』ことだと思っています。
また『苦痛』であると考えることとは、『孤独』です。
私が考えている『幸福』と『苦痛』は
先人達が考えている『幸福』と『苦痛』に当てはまりますか?
また、先人達が考えている『幸福』と『苦痛』は
私にとって(現代人にとって)、『幸福』と『苦痛』に成り得ますか?
消火器の比喩は不完全であるから辞めたほうがいいのでは・・・・・
また、先人達が考えている『幸福』と『苦痛』は
私にとって(現代人にとって)、『幸福』と『苦痛』に成り得ますか?
証の巻と文類抄を読むと解りやすいよ。
155 :
106:2006/11/15(水) 02:23:08 ID:trJQu34M
ぅ・・・手元になにもないんです・・・。
読解力もないし・・・。
本気でやるなら仏教の基礎からやったら?
四苦八苦が仏教・釈尊の探求の出発点だよ
生老病死に人間は苦しむ
なぜ人間は四苦に苦しめられるのか?
その解決は?
お釈迦さんは抜苦与楽の道を見いだし、その延長線上に親鸞さんはいる
防災屋は、消火器を置くと幸せになりますよと言う。
消火器を知らないで買った人は、「消火器を持つと、サンタクロースがやってきて、おかしや
おもちゃを沢山貰え、ジングルベルが鳴り、シンデレラの舞踏会が始まり、花火が鳴って、道化
師がやってきて、みんな踊り、歌い幸せになるんだ」と思う。
防災屋はそんなものを幸福とは思っていない。人はいつどんな時に火事になるか分からない。
しかし、消火器一本で安全が守れることがある。幸せになるとはそういうことだ。だから消火器
を持とうという
しかし、普通の人はそんなことは考えない。火事があるなんてことは、全く考えない。火事に
なったら危ないなんてことは考えたこともない。だから、消火器を持つとジングルベルが鳴って、
サンタクロースがお菓子をもってきてくれるんだと思いたいと思う。
防災屋は、相手の言葉に合わせて、仮に「幸福」と言う。幸福の意味内容は全く違う。苦しみ
という言葉も意味が違う。普通の人は、あしたサンタクロースが来ないこと。あしたジングルベ
ルが鳴らないこと。これが大変な苦しみだと思う。ところが、防災屋は、そんなことは考えない。
百年に一度でも、火事で焼け出され、あるいは焼死することを苦しみと考える。
あしたのサンタクロースを夢見るという意味の幸福という言葉を、防災屋は、相手の言葉に合
わせて、100年のとりあえずの一応の安全という意味で使用する。安全と言っても、化学消防
車や、消防ヘリコプターが来ないと対処できないという、そんな火事まで想定しているのでもな
い。サンタさんが来ないという意味の苦しみと言う言葉を、100年に一度の火事という意味で
使用する。幸せと苦しみの意味は、全く違う。
158 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/15(水) 09:14:18 ID:DrL/O1aa
>>153 >私が考えている『幸福』と『苦痛』は先人達が考えている『幸福』と『苦痛』に当てはまりま
すか?
(━_━)ゝウーム。僕はまだ先人になった経験がないんで、よく分からんが、愛する人と生き
ている内で会えなくて、死んで会えるようになるかなぁ?。死んだ先のことは分からんが、死後
のお楽しみにしておいた方が、夢があっていいんじゃないか?。
会うんなら、むしろ生きている内にどんどん会うように努力したらどう?僕は、死ななくても
親鸞に既に出会ったと思ってる一人だが、こういう出会いは、出会ったことにはならんのか?。
相手は死んでいても、自分は生きている内に出会っちゃいかんのか?。
甲府に行くと、信玄堤というのがある。武田信玄は、400年、500年後の人々のことまで
考えて治水をしている。武田信玄は、将来生まれてくる我々と、既に生きている内に出会ってい
たんじゃないのか。死んだ人だけでなく、今生きている人、これから生まれてくる人々とも、自
分が生きている内に出会うように努力したらどう?。死んでからのことは、その後のお楽しみで
はまずいか?。
孤独?。難しいな。まあ、先人の答えではなくて申し訳ない。
>先人達が考えている『幸福』と『苦痛』は私にとって(現代人にとって)、『幸福』と『苦
痛』に成り得ますか?
愛する人とは別れにゃならん。嫌な奴とは会わねばならん。
ほしい物は手に入らん。世の中で苦の種にならんものはない。
再起・挫折・再起・挫折の連続はどこかで断ち切らにゃならん。こういうのは昔も今も同じで
しょう。
159 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/15(水) 09:49:17 ID:DrL/O1aa
>>156 >本気でやるなら仏教の基礎からやったら?
仏教なんかは、小手先でちょこっとやれば、十分だと思っているよ。
東大寺の管長さんになろうとか、延暦寺の座主さんになろうというんじゃないんだろう。まあ、
せいぜい、介護福祉士さんとか、警備員さんとか、パン屋さんとか、不動産屋さんとか、家庭の
奥さんとか、そういう人になろうとするんだろう。それなら、基礎なんか全く必要ない。仏教な
んか、小手先でちょっとやれば、一生それで十分だ。話を聞いて貰えれば、2ちゃんねるの僕で
も十分伝えられる。
例えば、ラーメン屋さんは、ラーメン屋さんになれば十分であり、別に仏様になる必要はない
んだ。生きている内も、死んでからも仏様になる必要はない。要するに、自分の生きていく中で
困難に出会ったとき、仮に最善の選択肢でなくても、最悪の選択肢以外の選択肢を何とか自力で
見つけ出せるようになれば、仏教はもうそれでいい。常に最悪の選択肢以外の選択肢が選べてい
ければ、苦しくても道は最低限、なんとか開けるだろう。それ以上のよりよい選択肢については、
ラーメン屋さんはラーメン学校で、不動産屋さんは不動産屋さん屋さん学校で教えてくれる。
複数の選択肢があった場合、その中で最悪の選択肢だけは選ばないようにするということにつ
いては、仏教は面白い知恵を持っている。それ以外のことで、ラーメン屋さんや介護福祉士さん
や警備員さんなどが仏教から学ぶことは無くていい。僕はそう思っている。その程度なら、仏教
は、小手先でちょこっとやればすぐ分かる。僕は、まあ、2,3日だと思っている。
それ以上の仏教を学びたいと思えば、それは別だ。もし、相手と議論して、相手に「参りまし
た!」と言わせられるようになりたいとでも思うなら、まあ、勝手にたくさん勉強すればいい。
それでも、そういう仏教は、ラーメン屋さんや警備員さんの腹の足しにはならんだろう。
相変わらず冗長だな
釈尊が抜苦与楽で言うところの苦と楽とは何か?
ここを押さえないで議論しても仏教の話にならない
法然さんや親鸞さんの問題意識も、すべてここに基づいている
>>106さんは土台となる基礎知識を欠いている
その上での思索が無意味とは言わないが、本気でやるなら基礎を押さえるべきだ
お釈迦さんの問題意識と生涯について、本を二・三冊読むなり、ネットを検索するなりした方がいい
まあ、あんたが仏教の基礎をわかりやすく教えるというのでもいいだろう
四苦八苦、三法印、四諦八聖道、大乗の空、あたりのキーワードを押さえてね
161 :
106:2006/11/15(水) 23:28:47 ID:EzQW2aF8
>>僕は、死ななくても 親鸞に既に出会ったと思ってる一人だが、
>>こういう出会いは、出会ったことにはならんのか?。
>>相手は死んでいても、自分は生きている内に出会っちゃいかんのか?。
確かに、死んだ人の愛や恩恵を私も受けています。
でも、死んだ母親にまた会いたいですね。
>>死んでからのことは、その後のお楽しみではまずいか?。
また会いたいですね。
>>本気でやるなら仏教の基礎からやったら?
>>
>>106さんは土台となる基礎知識を欠いている
ごもっともです。
つい最近、自分の宗派を知った無知な私です。
162 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/16(木) 10:16:36 ID:eO7DmU2Y
>>160 >相変わらず冗長だな <ご批判は拝聴しておく。>
>釈尊が抜苦与楽で言うところの苦と楽とは何か?
汝若し修せずして作仏すといはば喩へば飢け人の空(ひろ)く風を掩(おほふ)がごとし
坐禅持戒なく、作仏の因の念仏だけで仏になると言うなら、空腹の人が風を思いっきり吸い込
んで腹の足しにしようとする様なことだ
苦と楽とは何かが分かっても、腹を空かしたときの腹の足しにはならん。まあ、警備員さんや
ラーメン屋さんの場合、満腹の時のおしゃべりの余興、他人への優越感の足しにはなるかも知れ
ん。ただし、回りから浮き上がらないように注意するといい。下手するとひとりぼっちになる。
>ここを押さえないで議論しても仏教の話にならない
坐禅持戒なく、議論だけで仏になると言うなら、空腹の人が風を思いっきり吸い込んで腹の足
しにしようとする様なことだ。
空腹の時の余興にするというなら、回りから浮き上がらないように注意するといい。
163 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/16(木) 10:18:06 ID:eO7DmU2Y
>その上での思索が無意味とは言わないが、本気でやるなら基礎を押さえるべきだ
坐禅持戒なく、基礎を押さえるだけで仏になると言うなら、空腹の人が風を思いっきり吸い込んで腹の足しにしようとする様なことだ
>お釈迦さんの問題意識と生涯について、本を二・三冊読むなり、ネットを検索するなりした方
がいい
坐禅持戒なく、本を読んでネット検索だけで仏になると言うなら、空腹の人が風を思いっきり吸い込んで腹の足しにしようとする様なことだ。
>四苦八苦、三法印、四諦八聖道、大乗の空、あたりのキーワードを押さえてね
坐禅持戒なく、キーワードだけで仏になると言うなら、空腹の人が風を思いっきり吸い込んで腹の足しにしようとする様なことだ。
信心のひとに劣らじと 疑心自力の行者も如来大悲の恩を知り、称名念仏はげむべし
坐禅持戒しながら称名念仏に励めば、おしえざれども自然に真如の門に転入する
聖道門は、知恵を磨いて成仏す。浄土門は愚痴に戻りて往生する
164 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/16(木) 10:20:07 ID:eO7DmU2Y
>>161 >確かに、死んだ人の愛や恩恵を私も受けています。
やはり、ちょっとずれたようだ。
>でも、死んだ母親にまた会いたいですね。
お袋さんを亡くされたようですね。葬式を仏式でやって、仏教に興味を持ったんでしょうか。
死んだ人は帰ってこない。死んだ人にはもう、二度と会うことはできない。
自分も死んだら会えるか。会えると言えば、それはまあ、気休めだろう。ただ、何となく寂し
くて落ち着かないというなら、念仏を称えてみるといい。念仏には精神安定剤の効果がある。繰
り返しやってみるといい。
足を結跏趺坐、又は半跏趺坐に組む。結跏趺坐、又は半跏趺坐に組むのが極楽浄土の正式な着
座法だが、足が痛くて落ち着かないとなれば、正座でもいいだろう。僕は普段は椅子に腰掛けて
やっている。
目は閉じても開いてもいい。総持寺の坊さんは、坐禅の時、目を開くことを勧めていた。上半
身の姿勢を正し、手は臍の位置で組む。鎌倉の大仏さんの姿勢だ。鎌倉の大仏さんは阿弥陀像だ。
腹式呼吸しながら、五会念仏(ごえねんぶつ)を称える。仏壇があればその前で行うのもいい。
以前、僕は、小さな声で単に繰り返すだけということを言っていたことがあったが、今は考え
を変えた。五会念仏がいい。親鸞が関東のお弟子さんに教えた法照禅師流の称名念仏だ。
抑揚を付けず、単調にゆっくりと南・無・阿・弥・陀・仏と称える。
半音程度声を上げ、抑揚を付けず、単調にゆっくりと南・無・阿・弥・陀・仏と称える。
普通の速度で抑揚を付けず、南無阿弥陀仏と称える。
南無を普通の速度、そのまま続けてやや速度を上げて阿弥陀仏と称える。
速度を上げ、阿弥陀仏と称える。
この五回の称名を1サイクルとして繰り返す。
最初は1回でも、2回でもいい。お袋さんに会えるとは言わないが、繰り返せば、寂しいとき
の精神安定剤の効果はあるだろう
>つい最近、自分の宗派を知った無知な私です。 <無知は往生の邪魔にはならん。>
165 :
お大師様かまってチョ♪:2006/11/16(木) 10:21:39 ID:Co6eYTkf
かいどさんこんにちは
(´∇`*)いつも空き家荒らさせ貰ってまふ
因みに質問です
海渡さん
海渡さんはお経は読まれまふか?
般若心経の空
この空の意味はどのように解釈されてまふか?
166 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/16(木) 10:29:24 ID:eO7DmU2Y
>>165 コメントは次回。 なお、数日間、カキコ不能。
167 :
106:2006/11/16(木) 18:34:02 ID:5XFWSQOW
渡海さん、回答ありがとうございます。
164のことを実践してみたいと思います。
ちょっと図々しいですが、また何かあったら質問したいと思います。
>>164 渡海さん はじめまして これってヨーガで結跏趺坐してマントラを
唱える修行がありますよね(ジャパ) 同じように速度を上げたり下げたり
するんですが何が違うのですか?
一心に弥陀の「名号を専念」して、行住座臥、
時節の久近を問わず、念々に「捨てざる」をば、
これを「正定の業」と名づく、
かの「佛願」に順ずるがゆえに。
もし「礼誦等」に依らざれば、
すなわち名づけて「助業」とす。聖典p217
>>162-163 今度は壊れたテープレコーダーみたいだな
>汝若し修せずして作仏すといはば喩へば飢け人の空(ひろ)く風を掩(おほふ)がごとし
法照禅師の言葉だね
>坐禅持戒なく、本を読んでネット検索だけで仏になると言うなら、
>空腹の人が風を思いっきり吸い込んで腹の足しにしようとする様なことだ。
まず、私は仏教で説く苦と楽を知識として知るだけで解脱できる、などとは一言も言っていない。
こちらが言ってもいないことを批判されても、ただあきれるしかない
(いつものことだが)
> 苦と楽とは何かが分かっても、腹を空かしたときの腹の足しにはならん。
といっているが、しかし
>>153で出された質問は
>私が考えている『幸福』と『苦痛』は先人達が考えている『幸福』と『苦痛』に当てはまりますか?
だ、こう聞かれれば、釈尊の苦と楽についての見解を紹介するべきだろう。
仏教における先人は、まず釈尊だからな。
>>106さんはその辺のことについて何も知らない。
>仏教なんかは、小手先でちょこっとやれば、十分だと思っているよ。
と豪語するのだから、その小手先で学んだ基礎的なことを教えてあげればいいんだよ。
具体的には、四苦八苦、三法印、縁起説、四諦八聖道、大乗で説く空あたりだ。
(まあ、小手先で理解できたと思えるような人間には無理なのかもしれんがね)
さて、法照禅師についてだが
行巻
>正法よく世間を超出す。持戒・座禅を正法と名づく。
>念仏成仏はこれ真宗なり。
>仏言を取らざるをば外道と名づく。
>因果を撥無する見を空とす。
>正法よく世間を超出す。禅・律いかんぞこれ正法ならん。
>念仏三昧これ真宗なり。
>性を見、心を了るはすなはちこれ仏なり。
>いかんが道理相応せざらん。{略抄}
ところで正法について化身土巻には
>ゆゑに基の『般若会の釈』にいはく、
>〈正法五百年、像法一千年、この千五百年ののち<<正法滅尽せん>>〉
>と。ゆゑに知んぬ、以後はこれ末法に属す。
真聖全2 P170 註釈版P420
とまあ、ここには正法は末法には滅尽するとある
持戒座禅は正法だが末法の凡夫には修しがたい
しかし、念仏は
化身土巻
> 浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
真聖全2P166 註釈版P413
と、真宗である念仏は持戒・座禅などの正法と異なり、末法まで通じる。
ところで法照禅師は
>仏言を取らざるをば外道と名づく。
と仰ってるね。
仏の言葉を知ることは大切なことだ
>>106さんが聖道門を行くか、浄土門に入るかは別にしてだ。
それとグダグダと料理屋の話をしていたが、マールンキャ経の毒矢の譬でも出せってんだ
釈尊は形而上的な議論は時間の無駄であると無記とした時に出したあの譬だ
もっとも苦と楽について探求することは仏教の基礎であり、
毒矢の羽や毒の種類のようなどうでもいいことではないがな
174 :
106:2006/11/17(金) 21:42:06 ID:C02E/m4X
>>bL4IXyh9さん
ありがとうございます。読んでみます。
>>改めて言うけど、本気で仏教をやりたいなら小手先でちょこっとやっただけで、
>>知ったような口をきく半可通の言うこと(私もそのたぐいに毛の生えたようなものだが)
>>に耳を傾けるのではなく、まともな本を二・三冊でも読むべきだ。
本を読むことは、とても大事なことです。
しかし、渡海さんの話を聞いて私は良かったと思っています。
渡海さんは無償で丁寧に答えてくれます。
こういう方はあまりいないと思いますよ。
bL4IXyh9さんの仰るように、本も読んでみたいと思います。
175 :
恩:2006/11/17(金) 22:25:22 ID:ddZ3V34D
本に京都にいけば法名を戴けると書いてありましたが、普通の人でも戴けるんでしょうか!?
当方は家柄、真宗です。
kwskおながいします。
176 :
名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 22:41:28 ID:FkxFE3A+
177 :
恩:2006/11/17(金) 23:07:17 ID:ddZ3V34D
>>176 ども、丁寧にありがとうございまつ。
(´・ω・`)
178 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/19(日) 10:35:19 ID:YuHn7dvJ
>>165 > (´∇`*)いつも空き家荒らさせ貰ってまふ
( '-' )( ,_, )( '-' )( ,_, ) はいはい。どもどもです♪ドーーモ\(∩_∩ ) ( ∩_∩)/ ドーーモ♪。
.
>かいどさんこんにちは
はいはい(^コ^)(^ン^)(^ニ^)(^チ^)(^ハ^)
僕をかいどさんと言ってくれるのは貴方だけなんだけど、何か意味アリ?
.
>海渡さんはお経は読まれまふか?
まあ、読んでませんよと言っても、信じてくれないでしょう。
読んでますよと、胸を張れるほどでもない。まあ、そんなところか。
.
>般若心経の空この空の意味はどのように解釈されてまふか?
ものごとには、断面の切り口の違いでさまざまな言い方がある。有を有という言い方で説明す
る方法と、有を無という言い方で説明する方法がある。無を、無という言い方で説明する人もい
れば、有という言い方で説明する人もいる。
有を無という言い方で説明するのが般若心経の空、無を有という言い方で説明するのが輪廻思
想。実際には、有ではない。非有でもない。非非有でもない。非非非有でもない(百非の譬え)。
般若心経の空と浄土教の輪廻は、同一の客体を別の言い方で説明したものだろう。どっちかとい
うと、空の方が若干概念が広いのかなというのが僕の印象です。輪廻の方が初心者は分かりやす
いと思う。
179 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/19(日) 10:38:55 ID:YuHn7dvJ
>>168 >マントラを唱える修行がありますよね(ジャパ) 全く知りません。聞いたこともない。
.
>同じように速度を上げたり下げたりするんですが何が違うのですか?
.
念仏と瑜伽と何が違うのかという質問ですか?。僕は瑜伽を知りませんので、比較できません。
法照は五会念仏を禅の一種と言っています。達磨大師は中国に禅を伝え、達磨禅は中国ですぐ
に南北に分かれます。一方は北方禅、他方は南方禅です。曹洞禅・臨済禅というのは、みな南方
禅です。北方禅は天台宗の中に入り、最澄などは北方禅を学んだと聞いたことがある。真偽は知
りません。善導禅師、法照禅師など、念仏系の禅師は北方禅なんじゃないかと、僕は勝手に想像
しています。
禅は、インドで瑜伽から分かれ、分かれた後の禅が中国に入ってます。唯識法相宗は、瑜伽を
実践します。玄奘三蔵はインドから中国に瑜伽を伝えています。日本法相宗は瑜伽をやらない。
理由は知りません。瑜伽と禅の違いを調べれば、貴方の問いも答えが出るでしょう。
釈迦は、瑜伽行者だったのでしょうか、禅行者だったのでしょうか。考えてみると面白い。ち
なみに、北方禅と南方禅は何がどう違うのかも調べるといい。瑜伽と五会念仏の違いについて興
味があるなら是非研究してみてください。一生を賭けるのにいいテーマかも知れません。親鸞は
瑜伽行者だったという結論を導けると、本願寺の坊さん達はどんな顔して怒り出すか、想像する
だけでも面白い。
180 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/19(日) 10:41:28 ID:YuHn7dvJ
法照禅師は、五会念仏法事儀讃というボリュームのある書物を書き残しています。仏教系の図
書館に行けば、大正大蔵経があるでしょう。五会念仏法事儀讃はその中に入っているはずです。
全文漢文です。歯ごたえがある。興味があれば是非研究してみてください。唐ではどうして仏教
が盛んになったか、その理由も分かるでしょう。貴方が研究成果をこの2ちゃんねるで公開して
くだされば、興味をもって読ませて頂きます。
.
五会念仏は、唐の代宗皇帝の前で実演し、それから中国全土に広まったそうです。実践してみ
ると分かりますが、禅定に入るのが非常に早い。それでいて、深く入りすぎない。妄想を打ち消
してくるので素人がやっても安全性が高いのでしょう。
.
なお、164で書き忘れていました。五会念仏の最後は、速度を上げて「阿弥陀仏」と称えま
す。「南無阿弥陀仏」と称えるのではないという注意書きを落としていました。
.
>>169 言いたいことがあったら、自分の言葉で主張したらどう?。切り抜き短冊の陰に隠れてるだけ
じゃ、他人からは貴方の主張が全く見えない。
>>178渡海さん…( ̄□ ̄;)!!
失礼しますた
因みになんて読むんでせう?
あとレスありがとございますた
>>179 丁寧な回答どうもありがとうございます
ところで本家インドではどのような修行形態だったと予想されますか?
僕は某会のような聴聞一本やりではなく渡海さんの方法の方が近いと思います
そう言えば香港のカンフー映画で少林寺の坊さん(確か北方禅でしたね)が
「南無阿弥陀仏」
と唱えてました その時は「なんで?」と思ったんですが
お釈迦様は出家して6年間最初2人の仙人に瞑想(ヨガの原型?)習ったらしいです
それでは完全でないと・・いわゆるヴィパッサナー瞑想(この間の世界不思議発見の
タイ特集でお坊さんが実際やってましたね)で悟りに到ったそうです
先の瞑想が土台になっているので単純に苦行を捨てたという話でもなさそうです
今アショーカ・K・バンカーの現代版「ラーマーヤナ」読んでるんですけど
(羅刹軍団が攻めてくるお話)読んでみて法華経ってちょっとだけこれの
パクリではないですか?(笑)いろいろ面白いです・・
>181
因みになんて読むんでせう? Toumi Katasi
184 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/21(火) 00:34:53 ID:eX0Tru1J
>>170 >今度は壊れたテープレコーダーみたいだな 苦笑
>私は仏教で説く苦と楽を知識として知るだけで解脱できる、などとは一言も言っていない。
なるほどね。仏教の目標は解脱にあるという、まあ通俗的なコンセンサスを前提にしたんだが、
議論は粗雑だったかも知れないね。まあ、落としどころに急ぎすぎた。
>こちらが言ってもいないことを批判されても、ただあきれるしかない
なるほどね。粗雑だったね。
>こう聞かれれば、釈尊の苦と楽についての見解を紹介するべきだろう。
貴方はいったい誰に向かってものを言っているつもりなんだい?。僕は貴方の考えで動いてい
る貴方の代理人ではないんだ。それは分かっていますか?。こうした方がいいと思うことがあれ
ば、それは貴方がすればいい。
「先人達が考えている『幸福』と『苦痛』に当てはまりますか?」この問いには僕は答えてい
るよ。回答不能だと。僕は先人じゃないから答えられないんだよ。
>仏教における先人は、まず釈尊だからな。
僕に対し、釈尊になりかわれとでも言うの?。馬鹿を言うのも休み休みにしたらどう?(苦笑)
185 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/21(火) 00:38:05 ID:eX0Tru1J
>小手先で学んだ基礎的なことを教えてあげればいいんだよ。
小手先で分かればいいこと。「本願を信じ念仏申さば、仏になる」。この他に何か知ってお
くことがありますか?。
将来の人生の危機に備え、ちょっと仏教を勉強しよう。そう思ったら仏教を教わればいい。何
を教わるのか。「本願を信じ念仏申さば、仏になる」。
警備員さんになろう。ラーメン屋さんになろう。介護福祉士さんになろう。そういう人は、こ
れだけで分かればもう十分なんだ。これが他力なんだよ。
普通なら、基礎から勉強しなけりゃいかん。ところが、親鸞さんは基礎はいらんと言ってくれ
た。「本願を信じ念仏申さば、仏になる。この他何の学問かは往生の要なるべきや」。本願を信
じ念仏申さば、仏になる。これだけわかれば、この後ラーメン屋さんは簿記の勉強でもしなさい
よ。介護福祉士さんは、介護方法を勉強した方がいい。仏教はもう卒業だ。親鸞さんはそう言っ
てくれている。それが他力本願なんだ。不足分は、仏さんが勝手に見繕って補充しておいてくれ
るだろう。
念仏は座禅してしなさいよ。五会念仏を称えなさい。親鸞はそうお弟子さんに勧めていた。そ
れじゃそれをやろうじゃないか。
仏教はこれで全部だ。「本願を信じ念仏申さば、仏になる」。さあ念仏を称えてみようじゃな
いか。これ以上、一体何が必要だい?。
初心者は、数を数えるといいかも知れないね。何事も目標を決めてやればやりやすい。
仏教に興味のある人は、数珠を持っていることがある。僕の数珠は珠が23こある。五会念仏
は5回が一サイクルになっている。1サイクル称えたら数珠の珠を一つ動かしていくと数珠1周
で115回になる。例えばその115回を目標にして称えるのもいい。その1/4を目標に称え
てもいい。数を数えるのは、先人も勧めている。
186 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/21(火) 00:40:06 ID:eX0Tru1J
>> 106さんはその辺のことについて何も知らない。
そんなことは、知ってても知らんでもいいことだ。
>四苦八苦、三法印、縁起説、四諦八聖道、大乗で説く空あたり
馬鹿馬鹿しい。ラーメン屋さんがこんなこと知ってても、ちっとも偉くない。パン屋さんはこ
んなこと知らなくても、全然困ることはない。知りたければ、自分で勉強すればいい。僕が2チ
ャンネルで話すことじゃない。 続く
187 :
名無しさん@3周年:2006/11/21(火) 01:18:30 ID:K3P5GZnw
/∵∴∵∴\
/∵∴∵∴∵∴\ /::::::::::::::::::::::::::\ ←渡海
/∵∴∴,(・)(・)∴| \\\ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ ◎
|∵∵/ ○ \| \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
|∵ /. ミ | 彡 | _ \\ \;;;;;;;;;;ノ \,, ,,/ ヽ
|∵.| \___|_/|. \ \\\( 6 *)─◎ ),・∵
\| \__ノ /__ \ 彡\ノ\ )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
\___/ \ \ |\ )))∵ 3 ∵>;、・∵ '
/ _ ` ー一'´ ̄ / _{ ヽ;;_ \ ヽ ノ
(___) / .| ゝ〉 〉 〉ノ_ \__ ∵::__ノ ;
| |消えろ蛆虫 | __|;、・∵:: ;
188 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/22(水) 09:37:37 ID:4Ua51mpL
>>171 >持戒座禅は正法だが末法の凡夫には修しがたい
自分にはできないという人はしょうがない。座禅したらどうですかという話は、座禅できる人に言って
いる。私にはできませんという人にまで勧めているわけではない。「座禅は自力だ」とノータリン教義で
洗脳されている人には、座禅などできるわけがない。外道に染まった悲劇だな。
持戒と言っても、授戒の僧を立て、仏になる必須の要件として受戒するということじゃない。親鸞だっ
て、無位無冠無名無戒の私度僧だった。元流刑囚の無戒の私度僧の親鸞が戒律を守ろうと言ってい
るんだから、要するに現代社会の倫理・道徳・常識をきちんと守ろうということだろう。
現代社会の倫理・道徳・常識に反した戒律まで守れと言っているわけじゃない。戒律になければ、赤
信号の交差点を車で走ってもいいなどと、現代社会のルールを破ってもいいと言っているわけでもない。
ラーメン屋さんならラーメン屋さんのルールを守る。パン屋さんならパン屋さんのルールを守る。無戒
の私度僧とは言っても、僧を名乗るなら、他人から後ろ指さされ、背中から笑われるようなことをするも
んじゃない。仏教は危機管理の教えだ。自分から危機を招くようなことをしてはいけない。世の中には、
背中を指さされ、笑い物になっているノータリンボーズなど山ほどいる。現代社会の倫理常識など、自
分には守れませんというノータリンにまで、余計なお世話でアドバイスする暇人はいない。普通は「他
人に誤解されるようなことはしてはいかん」というが、誤解ではなく、それが本物である人物には、誤解
を招くなと言ってみても意味のないことだ。
189 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/22(水) 09:42:12 ID:4Ua51mpL
>真宗である念仏は持戒・座禅などの正法と異なり、末法まで通じる。
正法は、末法に通じないと言うことか!?
「念仏成仏」、これは真宗だという。それでは、「念仏成仏これ真宗」というこの言葉は、
bL4IXyh9にとって、正法なのか、正法ではないのか。
摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証 序文)
摂取不捨の真言は、正法なんだろうか、悪法なんだろうか(苦笑)。持戒座禅が正法だと言
えば、摂取不捨の真言は正法でないような錯覚をもつようだ。
まあ、質問するのも面倒くさい。所詮、ろくに仏教を知らん奴の寝言だ。要するに、倫理・道
徳・常識に縛られるのは嫌。座禅は嫌いといっているだけだろう。外道の坊主は座禅が嫌い。倫
理・道徳が嫌い。勝手にするがいい。
>仏の言葉を知ることは大切なことだ
社会のルールを守り、座禅して五会念仏を称えようというのが、仏の言葉に反しているという
のは、ノータリン浄土真宗のノータリンボーズくらいなものだ。
世世に善導いで給い 法照少康と示しつつ 功徳蔵を開きてぞ 諸仏の本意遂げ給う
持戒座禅して五会念仏を称えようと言うのは、親鸞が聞いた法照禅師の提案だ。親鸞が肯いた
法照禅師の提案を外道という。まあ、呆れかえってものも言えん。
190 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/22(水) 09:44:42 ID:4Ua51mpL
>>172 >度海難は専修念仏じゃないという批判は大昔からあるが聞く耳持たない
まあ、何とでも勝手に言えばいい。
念仏は念念に仏種を下す。坐禅持戒は真功を用いてなり。汝若し、修せずして便ち作仏すといは
ば、喩へば飢け人の空を掩(おほふ)がごとし。(五会法事儀讃略抄)
念仏申せば仏になる。善導は戒律を守ることを仏になる要件から外した。だからと言って、坐
禅・持戒は不要と言っているわけではない。坐禅持戒をうち捨てて真功の無い空腹を抱えた仏に
なって、どんな意味があると言うのか。愚かなことだ。
>>173 >マールンキャ経の毒矢の譬でも出せってんだ
今か今かと話題が出てくるのを待ちかまえていたが、なかなか出てこないのでしびれを切らし
たか。僕は貴方の手の上で踊っているんじゃないんだ。目を覚ませ。
191 :
名無しさん@3周年:2006/11/22(水) 10:53:33 ID:ycE8U8zY
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192 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/23(木) 21:20:57 ID:ABSxvJG6
>>182 >ところで本家インドではどのような修行形態だったと予想されますか?
まあ、多分祇園精舎にも禅室があって、そこで結跏趺坐して称えていたんだろう。
中国伝来の浄土教では、阿弥陀仏だけ称えるけど、古代の仏教では四方に無数の仏さんがいる。
そうした無数の仏の名を次々と称え、その姿をイメージしたんだろうというのが僕の想像なんだ。
釈迦は、大無量寿経で、過去・現在・未来の仏を念じている。龍樹の易行本を見ると、無数の
仏が登場する。その辺の記載から、想像しているんだ。
193 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/23(木) 21:21:55 ID:ABSxvJG6
至道抄という書き物がある。存覚が書いた物だ。
おほよそ仏法修行のところはみな道場といふ、いはゆる真言をおこなふ所をは三蜜瑜伽の道場
といひ、妙法を行ずるみぎりをば法花三昧の道場といふ。念仏三昧の道場もその義おなじかるべ
し。されば、念仏の行者、うちに信心をたくはへて心を浄土の如来にか(掛)くといふとも道場
をかまへて功を安置の本尊につむべし。自行化他の利益これにあるべきなり。
〜 この道場は、そのかまへをいふに、仏閣にあらずといへどもこの所におひて仏像を安じ、
その体をいふに人屋たりといへどもこの所にをひて念仏を勤行す。念仏の中には衆悪を遠離して
衆善に親近し、世間舎をいでて出世間舎に住する功力をそなへたり。かるがゆへに念仏を行ずる
所は道場なり。 〜 大経の正宗に弥陀如来の因中の願をとくには、其の衆奇妙にして道場超絶
せられといひ 〜 穢土なれども浄刹に准じて道場といふなり。〜 されば自作教他ともに最上
の善根なれば、誠心をぬきんでて道場をかまへ、同行を会して念仏を行ずべきなり。
194 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/23(木) 21:24:39 ID:ABSxvJG6
真宗寺院の多くは、当初、念仏道場と言われていたものが、やがて寺院化している。在家が、
近在の人に念仏道場として自宅の一角を開放し、代を重ねる中で寺院化した。
道場は穢土に設定されているが、浄土に准じて道場といふ。極楽浄土は、結跏趺坐が正式の着
座スタイルだ。昔の念仏道場では、それぞれ仏像を安置した。仏像を安置できない人は名号を安
置したんだろうが、念仏道場として家を開放できるような人は、仏像くらい用意できたんだろう。
人々は、日時を決め、その時に合わせて道場に参集してくる。到着した人から順に、思い思い
に結跏趺坐・半跏趺坐を組み、思い思いに五会念仏を称え始め、一時を過ごす。称えながら外の
人が集まってくるのを待ったんだろう。
みなが揃えば、文字の読める人が宗祖の手紙や和讃を読み上げ、あるいは到着した蓮如のお文
を読み上げる。暫く互いの了解を言い合うと、その後は生活に関わる各種の取り決めを話し合っ
たんだろう。
人々が、互いに座禅を組みながら同じ五会念仏を称える様子を想像すると、そこではグループ
力による強烈な仲間意識が生まれても不思議はない。スポーツチームが、スポーツをするとき、
盛んに声を出し合う。声を出し合うというのは、人々の心理的な結束を強化する。一向一揆がい
いか悪いかは別にして、一向一揆を盛り上げたあの人的結束エネルギーは、深い禅定状体の中で、
互いに五会念仏を称え合うその作業から生まれたものだろうと思う。
195 :
名無しさん@3周年:2006/11/24(金) 21:44:02 ID:LfDcKYw0
いろいろお聞きしたいのだが。アミダさんの浄土に生まれるためには、浄土に
生まれたいと思い、信じて念仏をとなえればいいのか。
196 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/25(土) 00:45:13 ID:Azyj5v5V
197 :
名無しさん@3周年:2006/11/25(土) 12:50:18 ID:68zikrym
アミダの浄土が優れているのは分かるが、浄土に生まれたいという菩提心が
凡夫におこせるのかどうか。
198 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/25(土) 17:07:14 ID:Azyj5v5V
>>197 >アミダの浄土が優れているのは分かるが
これは本当ですか。アミダの浄土が優れていると、貴方にどうして分かるのですか。
人がそう言っているからですか。
自分がどうしてそう思うのか、一つ一つ検討していくことも大事でしょう。
>>195-196で、念仏を唱えればよいとありますが、念仏を唱えるとはどういうことですか?
200 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:44:31 ID:NG49KXLn
>>197 >アミダの浄土が優れているのは分かる
アミダの浄土が優れているかどうか。こんなことは分からんのよ。同じものでも、ある人は素
晴らしいと言うが、別の人に聞けばつまらんものだということもある。
他人が素晴らしいと言っていることは、必ずしも自分もそう思うということじゃない。他人が
素晴らしいと言っていれば、「そうか素晴らしいんだろうな」と、共鳴して思うのは自然だが、
そこを通り越して「素晴らしいことは分かる」などと、こう言い出すと、自分の判断力は迷路に
入る。
他人が、「浄土は優れているところだ」と言えば、それは飽くまでその他人の思いであり、決
して自分と同じ価値観であるということではない。
なるほど、親鸞さん。アミダの浄土が優れていると貴方が言えば、それは貴方には優れている
所なんでしょう。しかし、それは親鸞さん、貴方の思いですよね。貴方の思いは、貴方の思いで
あって、私の思いではありませんよ。私にとっても優れている所かどうか、そんなことは分かり
ません。私にとって優れてないところかも知れません。あなた方が悪いところだと言っている地
獄の方が、ひょっとして実は私にとっては優れているところかも分かりません。なぜなら、私は
まだ地獄にも極楽にも行ったことがありません。そんなところは見たこともありません。本当に
そんな所があるのか、作り話か、私には全く分からないんですよ。
浄土とは何か。仏道を求めようとするなら、まず自分のスタンスをしっかりと持とうじゃあり
ませんか。
201 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:45:38 ID:NG49KXLn
>浄土に生まれたいという菩提心が凡夫におこせるのかどうか。
菩提心などいらんのよ。
比叡山延暦寺に入り、千日回峰行をやろう。永平寺に入って二十年、三十年、冬の暖房も断っ
て粗食に耐えて修行に励み、やがては永平寺の貫首様になろう。そのように思うなら、それは菩
提心が必要でしょう。しかし、自分はラーメン屋さんになろう。洗濯屋さんになろう。自分には
警備員さんが向いているから、警備員さんになろうなどと思っている人は、菩提心など、全く必
要はない。
菩提心があれば、それはラーメン業の修行に向けなさいな。洗濯屋さんの洗濯業の修行に向け
なさい。一人前のラーメン屋さんになろうと思えば、ラーメン業の修行に向けた菩提心が必要だ。
一人前の洗濯屋さんになろうと思えば、洗濯業の修行に向けた菩提心が必要だ。一人前のラーメ
ン屋さんも、一人前の洗濯屋さんもみんな、菩提心を以て修行をしている。しかし、浄土に生ま
れたいという菩提心をもって仏道修行をしたラーメン屋さんというのは、まあ、余り余り聞いた
ことがない。
比叡山で、生死を彷徨うような千日回峰行を修行した人が作ってくれたラーメンなら、比叡山
の中腹で観光客として食べさせて貰うのはいいだろうが、その人が自転車に乗って三丁目からわ
ざわざ出前してきてくれたら、食べる気も失せるだろう。
202 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:46:57 ID:NG49KXLn
仏道と言っても、先人達が行っていた仏道は、大変厳しいものだ。まして、そんなものは、ラ
ーメン屋さんが片手間で出来ることではなく、パン屋業の合間でできるようなものでもない。し
かし、仏道と言っても非常に幅が広い。色々なものがある。初歩の初歩、仏道の入口の修行法さ
えも、我々の手の届かないものだと思う必要はない。
仏道の入口は称名念仏である。中国の高僧、初等教育学の専門家善導大師は、仏道界の頂点に
立ってそう言ってくれた。善導がいう初心者の称名念仏は、千日回峰行ではない。常行三昧でも
ない。いつ称えてもいい。久しぶりに称えてもいい。寝ながら称えてもいい。歩きながらでもい
い。そういう修行法なんだ。仏教の右も左も分からない初心者が、始めて行う修行方法だから、
これは自由にやっていい。善導大師はそう言ってくれている。
通常、仏道の修行は、高僧から受戒し、戒律を守ることを誓って開始する。ところが、善導大
師は、称名念仏について、その戒律さえも必要ないと言ってくれている。それじゃ、初心者のた
めのその称名念仏だけやってみようじゃないか。
普通は、入口を過ぎればその先に進むんだが、ラーメン業をしているラーメン屋さんには、そ
の先はいらん。警備業をやっている警備員さんには、その先はいらん。善導大師はそう言ってく
れている。仏道というのは、その入門の修行法だけでも、素晴らしい効果がある。善導大師はそ
う言ってくれている。
203 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:51:43 ID:NG49KXLn
(順番逆転 202は無視してください)
極楽浄土は優れたところか優れてないところか、まあ、そんな話はどうでもいいことだ。笑い
話として聞き流せばいい。浄土に生まれたいという菩提心が必要なんじゃないか。まあ、そんな
ことを思う必要はない。ただ、仏教は、多くの優れた教育者を育ててきた。鑑真和上は、日本に
戒律を伝え、奈良時代の人々に、善悪という価値観があることを教えてくれた。奈良時代には、
多くの留学僧が日本に先進の学問をもたらした。空海は、多くの経典・医学・薬学・天文学など、
国家にとって非常に重要な知識をもたらし、その後継者達はやがて全国に散り、各地に土木・建
築・美術・医学などを伝えた。
徳川時代、全国の小寺院は寺子屋と言われ、農民・漁民の子供達に読み書きを教え、それが明
治維新を作った。
極楽浄土は優れたところかどうか。まあ、僕はそんなことは知らない。そんなことは僕は考え
たこともない。そんな話じゃなく、僕は、鑑真和上・弘法大師・伝教大師・道元禅師等々、こう
いう人々は実に優れた人々だったと思う。こうした素晴らしい彼等を育てたのは何か。それは釈
迦以来の仏道だったんだ。
無論、我々は、彼等と同じようになる必要はないし、なれると思う必要もない。自分たちの仕
事はラーメン屋さんでいい。パン屋さんでいいんだ。警備員さんでいいんだ。介護福祉士さん、
不動産屋さんでいい。しかし、われわれがラーメン屋さんを営む、パン屋さんを営むという話と、
仏道には素晴らしい可能性があるということとは、矛盾する話ではない。
204 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:53:11 ID:NG49KXLn
(202と同文です)
仏道と言っても、先人達が行っていた仏道は、大変厳しいものだ。まして、そんなものは、ラ
ーメン屋さんが片手間で出来ることではなく、パン屋業の合間でできるようなものでもない。し
かし、仏道と言っても非常に幅が広い。色々なものがある。初歩の初歩、仏道の入口の修行法さ
えも、我々の手の届かないものだと思う必要はない。
仏道の入口は称名念仏である。中国の高僧、初等教育学の専門家善導大師は、仏道界の頂点に
立ってそう言ってくれた。善導がいう初心者の称名念仏は、千日回峰行ではない。常行三昧でも
ない。いつ称えてもいい。久しぶりに称えてもいい。寝ながら称えてもいい。歩きながらでもい
い。そういう修行法なんだ。仏教の右も左も分からない初心者が、始めて行う修行方法だから、
これは自由にやっていい。善導大師はそう言ってくれている。
通常、仏道の修行は、高僧から受戒し、戒律を守ることを誓って開始する。ところが、善導大
師は、称名念仏について、その戒律さえも必要ないと言ってくれている。それじゃ、初心者のた
めのその称名念仏だけやってみようじゃないか。
普通は、入口を過ぎればその先に進むんだが、ラーメン業をしているラーメン屋さんには、そ
の先はいらん。警備業をやっている警備員さんには、その先はいらん。善導大師はそう言ってく
れている。仏道というのは、その入門の修行法だけでも、素晴らしい効果がある。善導大師はそ
う言ってくれている。
205 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:58:20 ID:NG49KXLn
まあ、そこまで言うなら、騙されたと思ってやってみようじゃないか。いつ称えてもいい。久
しぶりに称えてもいい。寝ながら称えてもいい。歩きながらでもいい。そんなラクチンなら、騙
されたと思ってやってもラーメン業の邪魔にはならんだろう。パン屋さんの邪魔にもならんだろ
う。金を取られるわけでもない。所詮、入口の修行法だ。仏道の右も左も分からん人に向かって
勧めている修行法だ。厚い菩提心など必要はないそうだ。気楽にやればいい。
入口の修行法でも、仏道修行を始めれば、それだけで、仏道修行者の仲間の一人となる。仏道
修行者の仲間と言えば、そこには鑑真和上・伝教大師・弘法大師など、無数のきらびやかな人々
が含まれている。我々もそのグループに、末席の末席とは言ってもその一角に入り込むんだ。善
導大師はそう言ってくれている。
鑑真和上・伝教大師・弘法大師など、無数の高僧達も参加しているそのグループの中に入れて
もらえるとんだというなら、まあ、あまり恥ずかしいことはしないでおこう。入口の修行法と雖
も、我々にできる唯一の修行法であれば、余り疎かにはしたくないものだ。いつ称えてもいい。
久しぶりに称えてもいい。寝ながら称えてもいいとは言っても、一応作法があるならできるだけ
作法に則ってやってみようじゃないか。
206 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 11:12:23 ID:NG49KXLn
鑑真和上・伝教大師・弘法大師など、無数の高僧達も参加しているそのグループに入れて貰え
るというなら、あまり恥ずかしくないようにしよう。まあ、礼儀も知らない山猿がキャッキャ、
キャッキャと称えるんじゃないんだから、それじゃまあ、多少心を落ち着かせ、坐禅して称えた
らどうでしょう。坐禅は、仏道修行者の正式な着座スタイルだ。
鑑真和上や伝教大師のようになれるなどとは、夢にも思ってはいかん。しかし、これはきっと
素晴らしい効果があるだろう。ラーメン屋さんとして念仏を称えても、それで後世に評価される
ということは絶対に無い。絶対にないけれど、ラーメン屋さんとして自分の人生の中で苦難にぶ
つかれば、その後それを思い出して自分なりにはきっと満足できる評価になるだろう。
207 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 21:56:10 ID:NG49KXLn
208 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 21:59:38 ID:NG49KXLn
結跏趺坐・半跏趺坐が極楽浄土の正式な着座法。蓮華座ともいう。当然だが、念仏道場でもこ
れが正式の着座法だ。
結跏趺坐や半跏趺坐は足が痛い。坊さんでもなく、在家が自分一人でやるばあいには、正座で
も、胡座でもいいだろう。僕は椅子に座って背筋を伸ばす。自分が一人でやるときは椅子でもあ
ぐらでもいいが、蓮華座が極楽浄土、道場の正式な着座法だということは常識として知っておき
たい。
鎌倉の大仏さんは少し猫背だ。もう少し首を立てた方がいいだろう。
念仏は声をだす。五会念仏は5回を一サイクルとする。
最初の南無阿弥陀仏は、少し低めの声でゆっくり南ー無ー阿ー弥ー陀ー仏と称える。抑揚を付
けない。
次ぎに、半音程度上げる。ゆっくり南ー無ー阿ー弥ー陀ー仏と称える。抑揚を付けない。
3回目、自分の普通の速度で南無阿弥陀仏と称える。抑揚を付けない。
4回目、「南無」は普通の速度、阿弥陀仏を早く称える。
5回目、阿弥陀仏と称える。南無を付けない。早く称える。
これを繰り返す。
209 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 22:04:58 ID:NG49KXLn
腹式呼吸を行う。呼吸の速度と称名念仏の声とは、自然に調和させる。
坐禅の時は眼を開けた方がいいそうだ。総持寺の坊さんはそう言っていた。僕の場合、生理的
に瞳孔の奥が収縮して目が閉じる。無理して開けようとすれば、薄目になる。
昔、長島監督が現役選手時代に巨人軍の監督だった川上哲治さんは、夜寝る前に坐禅すると言
っていた。僕はSOHOの自営業だから、普通は仕事を始める前に行う。夜寝る前にすることも
ある。それ以外でもまあ、ちょくちょくとやっている。
親鸞さんは仏像などの本尊を置いてその前でやることを勧めている。仏壇があれば、その前で
行うのもいいが、そんなもの無くてもできる。インターネットで仏さんの写真をダウンロードし
てもいいだろう。
数珠なんかなくてもいいが、数珠があればそれで数を数えて行うのもいいだろう。1サイクロや
れば、珠を進める。最初は5サイクル程度を目標にしてみるのもいいだろう。
なお、「天台小止観」位は読むといいかも知れない。坐禅の古典的入門書だ。あの本は、親鸞
もあれは読んで勉強していただろうと思う。
210 :
199:2006/11/26(日) 22:40:50 ID:eJap0Kd9
>>209 ありがとうございます。
念仏を唱えるというのが、僕のイメージする「南無阿弥陀仏」と唱えることとは違った意味合いがあるのかと思って質問しました。
親鸞さんは「念仏を唱えることよりも、まず説法を聞くことが大事だ」と言われたと聞きました。
これはどういうことでしょうか?
また、念仏を唱えることは幸せになるために何の効果があるのでしょうか?
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|ノ (∵∴∪( o o)∴)
| < ∵ 3 ∵>
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\\___) ヽ
†渡海 難 ◆Fe19/y1.mIの正体†
頭髪 :似つかわしくない茶髪、ボサボサロンゲ、ボウズ、フケ、シャンプー使ってない。
顔 :アンパンマン、なすび、無精ヒゲ、二重アゴ、目脂、吹き出物、歯糞、-=・=- -=・=-、サイクロプス。
服装 :ダサダサのバンダナ、安物の水色シャツ、アニメキャラプリントシャツ、ヨレヨレのジーパン、ブリーフ(シミ付き)、スニーカー。
身体 :デブ、チビ、もやし、短足、皮膚病、多汗症、腋臭、爪に垢。
股間 :短小、包茎、早漏、梅毒、尖圭コンジローム、インキン、チンカス、童貞。
アクセサリ :汗だくのタオル、オタク系携帯ストラップ、ダサダサ眼鏡、野球帽、リュック、ポスターサーベル、ポータブルCD/MDプレーヤ(ヘッドギア)、
:膨れた財布、盗撮用デジカメ、スタンガン、アルカリ電池、ノートPC(CD革命、駅すぱあと、他オタク好みファイル)、バイブ。
臭い(ニオイ):口臭、体臭、イカ臭い、酸っぱい、砂煙臭い、プゥ〜ン。
性格 :挙動不審、人間不審、丸丸、多重人格、屁理屈、根暗、引き籠もり、ロリコン、変態、キチガイ。
特技 :妄想、傷の舐め合い、自作自演、被害妄想、掲示板では強気、妙な言葉遣い、揚げ足、ああ言えば上祐。墓穴を掘る、レイープ。
趣味 :2ちゃんねる、座禅念仏、真宗叩き、僧侶叩き、WinMX、アニメ、ゲーム、ギャルゲ、エロゲ、同人誌即売会、CD-R、アキハバラ/日本橋(電気街)。
好きな物 :スナック菓子、うまい棒、コーラ(炭酸系)、吉野家、ガスト(ドリンクバー)。
愛読書 :教行信証、ネットランナー、ゲームラボ、メガミマガジン、同人誌、完全自殺マニュアル、週刊少年雑誌、エロ本。
恋人 :ブラウン管に映るキャラクタ、美少女フィギュア、心/脳内(仮想の彼女)、右手、コンニャク、つーか彼女自体いない。
ペット :シラミ、ノミ、ゴキブリ、蠅、蛾、毬藻、堀江由衣、ダッチワイフ、大腸菌。
最終学歴 :中学、工業高校、3流大学、代々木アニメーション学院。(虐めで中退有り)。
212 :
名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 13:06:01 ID:gmVYLpJk
ff
213 :
名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 17:42:09 ID:gmVYLpJk
問題はそこなんだよな−。字が称と言う字だもんね。唱なら口でとなえるんだろうけど
称となると別の意味があるんじゃないのかな−。
アミダの浄土が優れているのは簡単に言えばあらゆる諸仏方が褒め称えていることでも
分かるんじゃないか。
おそらく経にも アミダの名号を聞いて往生を願う者を救うとか
アミダの名号を聞いて喜び満ちあふれるものを浄土に往生させるとか
まあ念仏を唱えるんじゃなくて名号を聞くことによって救われるんじゃないのかな−。
そうなると念仏を何回唱えたとか唱え方とか腹式呼吸がとうだとかあまり関係ないんじゃないのか。
214 :
名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 18:41:02 ID:gmVYLpJk
209
親鸞さんは仏像などの本尊を置いてその前でやることを勧めている つて書いてるけど
どこにそんなこと書いてるのでしょうかね−。親鸞という人が座禅を勧めているとは聞いたことが
ないけど。
215 :
名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 22:11:09 ID:gmVYLpJk
199へ
たぶんオレのカンだけど名号をとなえるのじゃなくて、名号を聞くんじゃないかと思うわけよ。
その聞名を説いているのが大経なんじゃないかな。アミダ経でも聞説アミダ仏、執持名号−−−と
アミダの説くを聞いて名号をたもて−と説かれてるから、名号をきいてそれを忘れずに保てばいいんじゃないか。
216 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/28(火) 00:53:10 ID:pGqPceYh
>>210 >親鸞さんは「念仏を唱えることよりも、まず説法を聞くことが大事だ」と言われたと聞きまし
た。これはどういうことでしょうか?
法を聞けと言うことを、非常に口酸っぱく繰り返し繰り返し言っているのは、親鸞ではなく、
蓮如だと思います。親鸞と蓮如の立場の違いを理解すべきでしょう。
仏法には、世間のひまを闕きてきくべし。世間のひまをあけて、法を聞くべきように思う事、
あさましきことなり。仏法には、明日と云う事はあるまじき(一代記)
信心の原則は親鸞にあります。親鸞のスタンスを考えましょう。
摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。(序文)
必ず救うぞと言っている真実の言葉、滅多にない世を超えた正しい教え、これをよく聞き、そ
の上で考えて欲しい。引っ込み思案でためらっていてはいけない。
217 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/28(火) 00:54:33 ID:pGqPceYh
自分で考えるということのない聴聞に対しては、親鸞は強い警告を発する。
信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、
思より生ぜず、このゆえに名づけて信不具足とす。(化身土巻)
信心は聴聞から生まれる場合と、思索から生まれることがある。ただ聞いているだけではだめ
だ。自分で考えないと本当のことは見えてこない。
真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。(信の巻) 真実
の信心があれば、そこには必ず名号がある。つまり信心があれば名号が必ず口から出る。ただし、
名号が口から出ているからと言って、必ずしも信心がある人とは限らない。信心が無くても、名
号が口から出ているひとはいる。しかし、名号が口から出ない人で、信心のある人は、存在しな
い。
218 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/28(火) 00:56:38 ID:pGqPceYh
「念仏を唱えることよりも、まず説法を聞くことが大事だ」
これは、念仏を称えないでもいいから、仏法を聞きにきなさいということでしょうか。念仏を
称えないということは、信心がないということです。信心が無くても念仏は称えられるんです。
念仏は称えないが、私には信心がありますというということは決してありえません。念仏を称え
ださない限り、信心などは決して生まれない。
まず念仏を称え、称名念仏をする中で聴聞し、思索することで信心が見えてきます。
消火器屋さんの話を聞くのが先か、消火器を買うのが先か。これは入口の議論でしょう。本当
は、消火器をしっかり設置し、日々点検し、消火器屋さんの話も聞き、レバーはどこだ、ホース
はどうなっているのかと、自分で現物をよく確認して、始めて非常時に備えられる。消火器を買
わないで、消火器屋さんの話を聞いても、それじゃ火事に間に合わない。
消火器は買わなくていいから話だけ聞いてくれと言うのは、まあ商売だからそれもいい。しか
し、消火器を買わないと言う客に代金を請求したら、これは詐欺師だろう。
念仏を唱えることよりも、まず説法を聞くことが大事というなら、念仏を称えない客からは代
金は取らないという考えを徹底すべきだろうね。 (続く)
219 :
名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 01:43:58 ID:hyCEaLDx
称という字はハカリ知ることと言う意味が強いと思われます。それに対して唱という字は
口に出して唱えることと言う意味ですね。親鸞さん多分よくこの意味をご存じで、称の字訓に
ハカリと書き込んでおられますね。そういった意味で称名とか念仏を称えるとか言った場合は
念仏とはなにか、名号とは何かをハカリ知っていくと言う意味になるんじゃないかな。
ハカリしるとは聴聞思かな。聞は字のごとく外から聞こえてくる、聴くはこちらから注意してきく
思はおもいはかるという意味かな。真宗の仏道は言葉を換えて言えば聞名道と言ってもいいように
聴聞に極まるみたいだね。これは釈迦の原点に返ったともいえるね。だつて釈迦は耳ある者は聞けと
いったというし、初天法輪でも釈迦が真実の法を説いて5人の比丘がそれを聞いて悟ったんだろ。
次に問題になるのは名号とは何だということだね。阿弥陀如来とは何だということだね。
>>218 消火器で消す火は何だろう?
火が出るので、消火器を使う必要が出てくる。
消火器は南無アミダ仏だろう。
火の正体が分かれば、アミダ仏の正体も推理できるかもしれない。
馬鹿森の話を聞くのは少なくとも釈迦の原点ではない
222 :
199:2006/11/28(火) 08:28:22 ID:ECKdzl9U
>>220でも聞かれていますが、
消火器が南無阿弥陀仏だとすると、その消火器で消す火事とは何のことを指すのですか?
また、南無阿弥陀仏を称えることでその火事を消せるというのは、どういった仕組みで火事を消すに至るのですか?
223 :
名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 11:52:11 ID:hyCEaLDx
まあ喩えがよく分からないというか。消化器なんかにたとえなくても良いと思いますが。
しかし消化器を設置して説明をきいていざ消そうとしたら中身が空っぽというのもあります。
賞味切れだったり。中身の入っていない消化器は空消化器ですね。
224 :
名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 13:05:12 ID:hyCEaLDx
まあ無理して消化器で言うなら、買う必要なんてないんだよ。もうすでにあるというか、来ているというか、
届いてるのよ。それが分からないんだな。
226 :
名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 23:44:11 ID:jLZAAfqs
要するにアミダさんの徳を賛嘆して褒め称えて名を呼び念じているのが諸仏たちで
、その諸仏達が褒め称えているのを聴聞するのが凡夫である私達という構造何じゃないか。
それでこの国の諸仏の一人は釈迦なのか。親鸞さんにとっては法然さんや7高僧も諸仏方に
なるみたいだね。
227 :
名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 00:16:38 ID:tDpy3Grq
質問です。
(株)チューリップ企画 という浄土真宗の教えやら、親鸞聖人・・・云々
と言って講話や研修会を公民館、市民会館などで開催している、宗教法人でなく
株式会社ですが、どうなんでしょうか?
ご存知な方、詳細情報きぼん。
知り合いがハマりかけております。このまま放置して良いやら、
止めさせた方が良いか??アドバイス宜しくお願いします。
228 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/11/30(木) 00:21:48 ID:h8UBPzGX
2,3日カキコ不能
229 :
名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 12:12:20 ID:h8UBPzGX
231 :
疑問:2006/11/30(木) 21:12:39 ID:6dnmU7H2
疑問なんだが仏教は出家をして布施で生きるとしたら、世の中みんな仏教徒になって出家してしまったら
子供は出来ず、人類は滅びてしまうんじゃないのか。そうすると仏教は人類滅亡の教えと言うことにならないか。
二つに出家をして戒律を守り修行をした者が悟りをひらき救われて在家で戒律は守れず修行も出来ない者は救われない
のかどうか。その在家が出家者に布施をしてるんだろ。在家の救いはどうなる。
三つに生き物の殺しはどう考えればいいのか。仏教は生き物の命を殺すなというけど
それじゃどうやって生きるのか。出家の僧は生き物を殺さないといっておきながら、在家が殺した生き物や穀物をもらって
しっかり食べて自分は命をつないでるだろ。それじゃ生き物を殺し食べたり布施をした在家が地獄に行くのなら、出家者は罪を在家に
押しつけていることにならないか。
>>231 非僧非俗、肉食妻帯の親鸞聖人のスレッドでその質問はないだろう。
〇森先生に聞いてみたらどうですか?(笑)
>世の中みんな出家して仏教徒
そんなことありえませんので あなたにとって無駄な思考です
あなたもあなたの子供も寿命がくれば滅びますよ
>在家の救いはどうなる
あなた本当に自分以外の事心配してますか 嘘つきは泥棒のはじまりですよ
泥棒や不倫のはじまりでもありますよー お母さんに言われませんでしたか(笑)
>生き物の殺し
あなたインドでジャイナ教徒になって裸で森で餓死しなさい(笑)
あなたも他の生き物もウンチしてセックスして子供育てて淡々と生きてるんですよ
感謝しましょう
234 :
疑問:2006/11/30(木) 23:48:39 ID:afmTNRIl
232や233みたいに結局浄土真宗の特色は都合の悪い質問は質問に答えられないから
質問自体を間違っているとか、質問者を問題にするのが特徴だね。
>>232 その質問は真宗どころか、お釈迦さんの時代からあったらしい
(詳細は忘れた)
どっちかというと仏教質問スレか原始仏教スレの方が専門的な回答が期待できるだろう
>>234 少々乱暴な答え方かもしれませんけど、あなたがおかしいと思ってる事を親鸞もおかしいと考えた訳です。
それで念仏以外の事はせんでもええという結論に達したんです。
まぁ
>>235の言うとおり別のスレできいたほうがいいね。
通仏教的な解釈だとスレ違いになっちゃうし。
237 :
名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 01:25:19 ID:rfcWQSUp
238 :
疑問:2006/12/01(金) 01:48:27 ID:45J+O5R0
なんだここは質問をする板じゃなかったんだ。私はてっきり親鸞の教えが仏教の極致だと
なんとなく思っていたのでここで質問すれば回答があるとおもったよ。
関係ないが士農工商エタヒニンという江戸時代の身分制度も部落差別の大きな要因と昔、企業研修会で
聞いたが、疑問に思うのはみんな今は平等平民というけど、よく考えてみると武士の上に公家、天皇がいるから
天皇、公家、士農工商、エタヒニンじゃないのかな。で現在は天皇、皇族、平民。
これって天皇制とか王政があるかぎり階級とか差別なんか基本的に無くならないんじゃないのか。
まあ、そんなのはどうでもいいけど、そういった当時の世間の最底辺の人間扱いされてなかった人々に手をさしのべたのは
真宗だと思うけど。そういった意味じゃ真宗は人間としての尊厳をとりもどせる、人間として自立出来る教えでも
あるんだろうね。
239 :
疑問:2006/12/01(金) 01:53:59 ID:45J+O5R0
追伸
渡海さんはまだ書き込むことができないんですか。はやく復帰出来ることを
願ってます。
ここは渡海難が自作自演で質問したり回答したりするスレだ
まともな答えを期待するな
>>231 あなたの質問は親鸞というより、
むしろ根本仏教に対する疑問ですね。
まず一つ目の疑問ですが、
根本仏教において、在家がいなくなれば子孫ができないというより、
そもそも出家も全員生きていくことができません。
そして出家とは釈迦の言うように、
布施してくれるものが誰もいなくなれば
そのまま飢え死にしても構わないと、そういう人達なのです。
従って全員が出家すれば人類は滅びますが、
出家することだけが道でもありません。
二つ目の疑問、
そもそもあなたの考える救いとはなんでしょうか。
根本仏教の教えとは、簡単にいえば
世の苦しみから離れて生きていくための人生哲学のようなものです。
そこには輪廻も極楽も地獄もありません。
在家でも釈迦の教えを聞き、戒を守って生きることはできます。
出家と違い子供も作れれば肉も食べれますが、
それでも教えに触れ少しでも実践していけば、
それだけこの世の苦しみから離れることができるわけです。
三つ目の疑問、
当初の出家は生き物だけでなく、
果物なども自分でとることはできませんでした。
肉はダメですが在家が傷をつけた果物は死果といって食べてもいいと、
そういうような戒律だったわけですね。
これは生き物にたいする慈愛の精神から、
命を奪うようなことは極力しないでおこうという意味なのですが、
もちろん出家がくれた死果は食べているわけですので
意味が無いと言われるかもしれません。
けれども同じような疑問に、中国の思想家孟子も答えています。
ある君主が王宮の台所に足を運んだ所、
たまたま今日料理される予定の鹿を目にした。
それを見て哀れになり、その鹿を殺すのをやめさせて
代わりの家畜を料理させることにした。
これは明らかに意味が無いことだ。
しかし、意味が無くても目にしてしまった以上殺すには忍びない。
それが最も大切な仁の心であると。
うろ覚えですがそういう感じですね。
釈迦の言いたい事もそういうことなのでしょう。
以上はかなり簡単に答えただけですので、
わからない所があればご指摘ください。
孟子の話、鹿ではなく牛でしたね。
この話の結論は肉を食べるにしても仁者は見てしまった以上情が移ってしまう。
だから、「君子庖厨(料理する場所)を遠ざかる」であるという、
有名な成語のもとになった故事です。
244 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 06:55:08 ID:wsRkokpR
>>210 >また、念仏を唱えることは幸せになるために何の効果があるのでしょうか?
僕の場合、人生の危機に立ったとき、最悪の選択肢以外の選択肢が見つかってくること
があるという言い方をしておきたい。
親鸞はこんなことを言っている。
一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏
護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つ
には知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。(信の巻)
「冥衆護持の益」見えないところで、様々な人々が協力してくれるようになる。
危機に立つと、自分でも回りが見えなくなる。ところが、念仏して安心感が出てくる
と、周囲の様々な支えが見えてくる。協力してくれているとき、それを受け入れる余裕が
でるんだろうね。無我夢中で自分のことで精一杯なら、なかなか僕なんかにはあまり実感
がないけど、気づかないところでそういうことはあるだろう。
まあ、奥さんに逃げられてもおかしくない状況になっても、不思議と夫婦円満に助け合
えるということはあるだろう。
245 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 06:56:02 ID:wsRkokpR
>>213 >そうなると念仏を何回唱えた
もし始行の人の念は、数を記する、また好し。これまた聖教に依るなり、と(行の巻)。
初心者は、称えた数を数えていくのもいいでしょう。これも聖教に書いてある。
>腹式呼吸がとうだとかあまり関係ないんじゃないのか。
五会念仏を称えると、自然に腹式呼吸になる。肺呼吸では難しい。
246 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 06:56:59 ID:wsRkokpR
>>214 >どこにそんなこと書いてるのでしょうか
念仏、誰か一万遍に限れと定めし。精進の機ならば、ひめもすに称うべし。念珠をとら
ば、弥陀の名号をとなうべし。本尊にむかわば、弥陀の形像にむかうべし(唯信抄)。
大方は、唯信抄・自力他力の文 〜 、これらを御覧じながら、〜おおくの念仏者達の、
弥陀の本願をすて参らせ合うて候らんこと、申すばかりなく候(血脈文集)。
道場を構へて本尊を安置し、同行を会合して念仏を勤行すべきなり(至道抄 存覚 著)
>親鸞という人が座禅を勧めているとは聞いたことがない
王いま座禅してただ当に念仏すべし(行の巻)
念仏三昧は、これ真の無上真妙の禅門なり
(愚禿親鸞見聞集 伊勢専修寺蔵宗祖真筆本 五会法事讃略抄)。
貴方に師僧がいれば、師僧の選択を誤っているようです。
247 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 07:35:09 ID:wsRkokpR
>>222 >消火器で消す火は何だろう?
長い人生には、様々な苦難がある。人生で困ったことがあれば、色んな人に相談すると
いい。法律問題で困れば、弁護士に相談するといい。健康問題で困れば医者に聞く。その
外にも、市役所、区役所には様々な相談窓口がある。その外にも、親・兄弟・親戚など、
世の中には、思わぬ所で様々な知恵を持っている人がいる。
色んな書物を読みあさるのもいい。本屋にも、図書館にも本はたくさんある。現代では、
本以上に強力なツールがある。二十年前には考えられなかったと思うが、インターネット
での検索はものすごい力を発揮する。
ところが、そうした手段でも力が及ばないことがあるだろう。相談する相手も尽き、探
すべき本もない。インターネットにも書いてない。
駅前の一等地で、高い地代を払ってパン屋さんを開業していたが、郊外に突如、街のよ
うに大きなスーパーマーケットができた。車を持っている人は、みんなそっちの方に買い
に行く。駅前は閑散としてきた。地代は嵩む。さあ、店を移転すべきかどうか。
中小企業診断士の先生三人に相談しても、三人が三人とも別の考えを言う。唯一共通し
ているのは、「何とも言えません」ということだ。そんなときどうすればいい?。
248 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 07:36:18 ID:wsRkokpR
親が突然倒れた。自分も長くは会社を休めない。親を残して会社にはいけない。介護人
さんを雇う金ははない。区役所に相談しても、全くらちが明かない。いっそ、右手に刃物
をもって、親の胸に突き刺そうか。ここで、いくら治療を続けても、老い先短かい親は、
このまま寝たきりが続くと、医者は悲観的なことばかり言う。しかし、胸に刃物を突き刺
せば、心臓から真っ赤な血が噴き出し、それは天井まで届くだろう。
体が動かないとは言っても、全身は「生きたい、生きたい」と思っているのだ。それな
ら、いっそ自分が先に死んでしまおうか。自分が死ねば、親は恐らく二日と持たないだろ
う。それならいっそ、親を殺して、自分も死のうか。
いやいや、親さえ死ねば、自分は死ぬ必要はないんじゃないか。しかし、親を殺して自
分だけ生きていけるだろうか。
こんな話は、世間でいくらでもあるだろう。こんな八方ふさがりの時、親を殺してはい
けませんとか、いいですとか、そんなこと誰が答えられるだろうか。世の中の常識でどん
な結論が出せるだろうか。いい方策など、どこに書いてあると言えるだろうか。
相談する先がない。自分で考えても分からない。そんな時こそが、本当の宗教の出番な
んだ。ここで糞の役にも立たない宗教じゃどうしようもない。このようなときに、もし糞
の役にも立たないような宗教があれば、それは捨てなさい。
もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一
日、もしは二日、 〜 もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん。
249 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 07:37:28 ID:wsRkokpR
周囲の状況が激変し、今までの環境の継続が不可能になってきたときどうするのか。最
悪の選択肢しか選択の余地が無い場合、結局は最悪の選択肢を選ぶしか方法は無いかも知
れないが、ひょっとして、最善ではなくても二善、三善の策があるかも知れない。
不幸な環境状況は、実は自分が一番よく知っている。念仏してみても、新たな情報は入
ってこないけど、忘れていた情報を思い出すことがある。何かのこだわりで、情報と情報
とがつながりを嫌っていたなら、そんなこだわりも無くなるかもしれない。
本当に困ったときには、ぜひ座禅して念仏してみなさいな。人間、逆境に落ち込めば、
判断力は通常の一割、二割に落ちる。それが、座禅して念仏する中で、仮に、通常時の三
割に回復すれば、人の能力は、一倍半から三倍に増大することになる。それでも、通常時
の判断力には及ばないかも知れないが、やってみる価値はあるだろう
本当に最悪の選択肢しかなかったなら、その選択肢を選んではいかんとは僕は言わない。
しかしそれ選ぶなら、その前に半日でも、一日でも必死に念仏称えてみなさいな。どうせ、
最悪の選択肢を選ぶなら、それが、半日、一日遅れても、罰はあたるまい。親鸞聖人の教
えとは、そんな危機管理の教えだと僕は考えている。
250 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 07:54:43 ID:wsRkokpR
>どういった仕組みで火事を消すに至るのですか?
座禅して念仏していると、横隔膜が大量の空気を吸収し出す。脳は、体の構造の中で、
最大の空気消費器官だそうだ。
座禅している場合には、下半身の血流が非常に少なくなる。その分、上半身に大量の血
液が循環し出す。大量の血液が、脊髄血管を激流のように上昇し、これが脳を内側からポ
ンプのように圧迫する。心臓の鼓動に合わせ、いわゆる脳に按摩効果が及ぶんだろうと僕
は勝手に思っている。
脳の中で惰眠を貪っていた細胞組織などは、停滞していた古い血液が押し流され、新し
い血液が流入して目を覚ます。
僕などは何度も経験しているが、座禅して念仏していると、反射的に背筋が伸びること
がある。同時に、脳は、脈動を開始する。脳の解剖図を見ると、色々なブロックに分かれ
ている。脳が、心臓の鼓動に合わせて脈動を開始するとき、前頭葉、後頭葉、右脳、左脳
など、あのブロックごとに動き出すから面白い。無論、脳全体が脈動を開始することも少
なくない。
眠っていた脳細胞は、眠りから揺り起こされると、危機意識が、脳の一部だけから体全
体に波及する。特に、横隔膜当たりが感じ出す。自分が非常時にあることを、全身が察知
する。こうなると、忘れていた情報が思い出されてくることがある。つながりが悪かった
情報がつながることがある。
僕などは、本当に困ると、二日でも三日でも、ぶっ通しで念仏を称える。すると、夜は
熟睡しながらも脳は、活動を継続している(不眠ではない。熟睡しているのだ)。明け方、
突然、誰かの声が聞こえて飛び起きる。声は言う「くよくよしていてもしょうがないだろ
う」。この声が聞こえた瞬間、一気に気分が変わる。まあ、そんなこともあった。
251 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 07:57:22 ID:wsRkokpR
昔の人が、神の声を聞いたとか、仏の声を聞いたといっている。恐らく同じような経験
だろうと僕は思っている。まあ、あれは脳の中の自分の声なんだろう。それが、あたかも
他人の声のように錯覚する余地がある。とにかく、一瞬の声だ。
脳漿を絞るという言葉がある。辞書にも載っている。あれはたとえ話ではない。現実に
僕などは、脳中で霧吹きのように脳内麻酔が噴出した経験を二、三度もつ。脳内で液体が
吹き出る感触がはっきりと分かる。この瞬間、気分が一気に変わる。
人生の苦しみの中にあっても、解決策が何もない場合がある。そんなとき、少なくとも
麻酔だけ噴射して気分だけでも良くしておこうというそんな防衛機構が脳にはあるようだ。
これも座禅しながら念仏しているときに起きる。
>>223 >中身の入っていない消化器は空消化器ですね。
汝若し修せずてすなわち仏になるといはば喩へば飢えたる人のひろく風を掩〔おほふ〕
がごとし(五会法事儀讃略抄)
持戒座禅しないで、念仏だけ称えて自分は仏になると言う人は、空腹を抱えた人が、自
分に向かって吹いてくる風を思いっきり腹の中に詰め込もうとするものだ。
消火器の中に薬が入っていない。腹の足しにならん念仏とは、坊さん達の念仏だ。
No231以下は後日。
252 :
疑問:2006/12/01(金) 18:14:02 ID:UOk1iGWG
わお−渡海さんまた書きこみ出来るようになったんですか。よかったですね。
座禅して念仏の件なんだけど、親鸞聖人の本典行巻の引用ですね。そこは座禅が問題ではなくて
お釈迦さんも念仏を勧めていることを言いたかった所じゃないかな。文の前後からするとね。
それで親鸞さんや法然さんが注目してるのは座禅ではなく一心専念弥陀名号 行住座臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」(散善義)
の文だと思われます。念仏は行住座臥 不問時節と以前聞いたのですが。
あと真宗に限らず仏教は不殺生が極めて重要な教えなんだが、この不殺生をどう理解すればいいのか。
253 :
疑問:2006/12/01(金) 19:50:17 ID:UOk1iGWG
不殺生を生け贄などの供儀の禁止という意味ならわからなくもないが、生き物の命を殺すな。
殺させるなとなると、生きていけないだろ。釈迦は托鉢に出てるわけだけど、在家の信者から
食べ物をもらっているよね。それは在家が生き物の命を奪ったものだろ。その一部をもらって食べているわけだ。
不殺生だから釈迦自分自身は手を下さないかも知れないけど、それだと随分身勝手と言うことになる。
現にドイツ仏教でも五戒のうちこの不殺生以外は受け入れているのをみると
まだこの不殺生の意味の問題が解決されていない。親鸞さんも狩人や漁民など命のやりとりをして生きていく
人々の救いに興味を持っているようだけど。
>疑問氏
土を掘ると土中の小生物を殺してしまうため、
仏教には掘地戒というという戒があります。
出家は土を掘ることも掘れと命令することもできないわけですが、
それを厳格に守れば生活ができないので、
ゼスチャーによって在家に気を利かせて掘ってもらっていたようです。
何故そこまで細かい戒律があったのかというと、
仏教においては、私の命は私のものではなく、
あなたの命もあなたのものではなく、
生き物の命も全て仏からの預かり者なのです。
仏から預かった命をむやみに絶つことができないのは当然です。
肉食に関する考え方は、
分かりやすいものを挙げればこういう釈迦の説話があります。
「父母と子供の3人が旅をしていた。
しかし砂漠を横断していた途中で迷い、
何日も飲まず食わずで砂漠を彷徨うことになってしまった。
このままでは必ず3人とも死んでしまうと、
父母は泣きながら我が子を殺しその肉を食べ、
砂漠を渡りきることができた。
この話で、その父母は我が子の肉を喜んで食べたのだろうか。
そう考えると肉食を離れることができる。 」
つまり釈迦は肉食そのものを明確に禁じていたわけではありませんが、
慈悲の心からできるだけしないでおこうという努力目標にはしていたわけですね。
もちろん生きるために在家からいただいて食べている例があるわけですが、
それが意味が無いかあるかという論点は
すでに「君子房厨を遠ざかる」の故事を引用して説明しているので割愛します。
そして大きな誤解されていると思われる点は、
仏教において布施とはただのプレゼントではありません。
布施をさせるほうが感謝するべきものではなく、布施をするほうが
「功徳を積ませていただいてありがとう」と感謝する性質のものなのです。
つまり出家が布施を貰うのは自分のためではなく、
在家に悪業を被せているわけでもなく、
換言すれば在家に功徳を積ませてあげているという善行なのですね。
少し補足すれば、
肉食というのは仏から預かっている命を、
生き物同士が分け与えあっているという状態なのです。
食物の制約は様々な宗教にあり、
イスラム教は豚肉食、ヒンドゥー教では牛肉食を禁じ、
ユダヤ教でも様々な制約がありますが、
共通しているのは「何故」という疑問はタブーなことです。
そういった疑問が発生する事自体神に対する不信だからですね。
仏教が違う点は、仏教において戒律は厳格な制約ではなく、
できるだけしないでおこうという目標なのです。
出家には出家だけが守るべき戒律、
在家には在家も守るべき戒律というふうに
戒律が分けられているのはそういう理由なんですね。
257 :
疑問:2006/12/02(土) 00:32:36 ID:NNwwZR1K
出家者に食事を布施をしようとして植物や動物を殺して捧げた。これは
功徳を積んだのか殺生戒になるのか。
もちろん功徳です。
掘地戒や壊生種戒は出家者だけの戒律ですので、
在家のものは守る必要がなかったのです。
もちろん在家の者でも不殺生戒など5戒は守らなければなりませんが、
戒とはサンスクリット語でシーラといい、習慣や傾向という意味です。
つまり絶対守らなくてはならない規則ではなく、
出来る限りそういう習慣を持とうという自発的な目標以上のものではありません。
なので、戒を破っても罰則などはありませんし、
狩猟を生業としているような者なら守れなくてもしかたがありません。
そしてそういう肉しか布施できないような人にも功徳を
積ませてあげなければなりません。
だから、例外的に出家者でも肉を食べることがあるのです。
>>226 >それでこの国の諸仏の一人は釈迦なのか。
>親鸞さんにとっては法然さんや7高僧も諸仏方になるみたいだね。
地球上に現れた仏は釈迦一人だけでは?
また、凡夫が聞けるのはその釈迦が説いたこと(仏教)であって、
それは善知識(法然や7高僧などの仏教を正しく伝える人)によって伝えられるという形では?
>>229 >親鸞会からは、精神病患者も出ています。
考え方として、生きがいという崩れてしまう幸せを生きる目的であると勘違いしては本当に幸福にはなれない、
しかもそれが人間である、と。
てことなんだから、中には自分の人生のことを真剣に考えて精神を病む人が出るもので、
親鸞会が悪いとは言えないのでは?
>>247-250 消火器=念仏、火事=人生の様々な困難という例えなわけですね。
つまり座禅して念仏することは、現在世の枝末無明に対してのみ効果があって、
肝心な後生の一大事(根本無明)には効果なしということですか?
260 :
258:2006/12/02(土) 02:07:40 ID:thjvCINO
誤解を招くといけないのでもう少し説明しておくと、
戒は守らなくても罰則はないといいましたが、出家者は話が違います。
戒律は本来、「戒」と「律」とで分けて考えるべきもので、
律とはサンスクリット語でヴィナヤ。規律という意味です。
在家と違い出家者はこのうちの「律」のほうも守らなくてはなりません。
要するに250戒ですが、これを破れば教団追放などの罰則があります。
これは仏教教団の中で修行という共通目的をもち集団生活をする以上、
当然組織としての規則、規律が必要となってきます。
そのための特別な戒律なので、
出家在家問わず守らなくてはならない戒とは区別しなくてはなりません。
遊女であるために不邪淫戒を守る事のできないアンバパーリーが、
熱心に釈迦に教えを聞いたという話がありますが、
釈迦も彼女の供養を優先して受けています。
このように戒律については釈迦自身が融通の利いた判断をしておられるので、
戒だ律だと必要以上に執着して拘っておられるのも
あまり意義のあることではないのではないでしょうか。
親鸞の悪人正機説というのも、原点はここにあるような気がします。
261 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 20:44:51 ID:ickjmA/D
>>231 >疑問なんだが仏教は出家をして布施で生きるとしたら、世の中みんな仏教徒になって出家して
しまったら子供は出来ず、人類は滅びてしまうんじゃないのか。そうすると仏教は人類滅亡の教
えと言うことにならないか。
疑問なんだが、高等学校はほとんど結婚禁止だ。少なくとも推奨はしない。子供ができちゃう
と、後ろ暗い気持ちで堕胎を勧められる。この状況は、大学もおおよそ同じだ。大学生で結婚し
ましたと言ったら、周囲は余り祝ってくれない。みんな、高校や大学に行きだしたら、人類は滅
んでしまうんじゃないか。そうすると学校は人類滅亡の教えと言うことにならないか。
まあ、こんなこと言って人類の滅亡を心配する人はいないよね。出家仏教の一番古い形は、上
座部系に残っている。タイ・ミャンマー・スリランカなどのお寺では、還俗というのは日常茶飯
事だ。一生の内、一回は半年程度出家して仏教を学ぶ。まあ、一生に一回は高等学校に入学して
一般知識を学ぶというのと同じだ。
一度出家したら、生涯出家を守るというのは大乗仏教だ。上座部系では国民全てに出家を呼び
かけるが、大乗仏教にはその考えがない。大乗仏教は、有志が他を代表して出家して仏教を学び、
その内容を在家の人々に伝達する。その代わり、子作りは在家の人に任せる。仏教で人類が滅亡
する心配はないだろう。
262 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 20:46:54 ID:ickjmA/D
>出家をして戒律を守り修行をした者が悟りをひらき救われ
教師は、学生がちゃんと物事を理解できるようになって、始めて職務が遂行されるんだ。在家
(学生)が救われないうちに、出家(先生)だけが勝手に救われるという発想は、大乗仏教にな
い。
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念
せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。
これはそういう意味だろう。
>生き物を殺し食べたり布施をした在家が地獄に行くのなら、出家者は罪を在家に押しつけてい
ることにならないか。
殺生戒に対する見解が杓子定規に過ぎないか。
これは、律宗の坊さんに聞くといい。貴方のような杓子定規の考えではなく、律宗の坊さんな
らもっと血の通った話をしてくれるだろう。
ぼくが好きなホームページを紹介しよう。ここの坊さんは、言っていることは筋が通っている。
http://www.horakuji.hello-net.info/kairitu.html 最澄・親鸞などに対する見解も、フムフムと、非常に頷けてくる。どうやらまだホームページ
としては完全には完成してないようだが、戒律の考え方はよく分かる。
メールアドレスも公開している。貴方の問いに直接解答している記事はないようだから、一度
質問してみたらいいだろう。じかに訪問して聞いてくるのもいいかもしれない。
ノータリン真宗坊主が勝手な思いこみで吐いてる暴論よりも、戒律についてはその専門の坊さ
んから直接聞くのが一番いい。
僕などは、こういうお寺なら、いつかゆっくり話を聞きに行きたいものだ。
263 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 20:47:51 ID:ickjmA/D
>>252 >念仏は行住座臥 不問時節と以前聞いたのですが。
貴方は何のために仏法を聞こうとするんでしょうか。貴方が仏教を聞く目的は何ですか。
貴方と僕とは、仏法に向かう目的が違うようだ。僕は、人生の危機管理として、目的を持って
聞いているんです。
座禅して念仏せよとは、まさにその危機への向かい方を教えてくれている。自分には、人生の
危機はあると考えるのか、無いと考えるのか。そこを切り分けるといいだろう。
自分が聞いた解答は、自分が聞きたいことに応えているかどうか、そこをチェックしたらどう
でしょうか。
僕は在家。外に仕事がある。人生に危機なんかないと言う前提に立てば、僕なんかは仏教なん
か、全く聞く必要はない。
264 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 20:51:08 ID:ickjmA/D
>真宗に限らず仏教は不殺生が極めて重要な教えなんだが、この不殺生をどう理解すればいいの
か。
パン屋さんならパン屋さんのルールがある。うどん屋さんならうどん屋さんのルールがある。
パン屋さん、うどん屋さんはそのルールに従えばいい。
食肉加工場の人には食肉加工場の人のルールがある。漁師さんには漁師さんのルールがある。
裁判官さんには裁判官さんなりのルールある。死刑執行刑務官さんには、死刑執行刑務官さんな
りのルールがある。それぞれの社会には、それぞれのルールがある。人はそれに従えばいい。そ
れらのルールを破ってでも殺生はいかんと仏教が言っていると言うなら、それは仏教が間違って
いる。
真宗坊主は、基本的には私度僧だ。私度僧と言っても、自ら僧を名乗るなら、できるだけ、戒
律を重んじるべきだ。あいつは坊主のくせになんだと、背中を指さされ、嘲笑の的にならないよ
うできるだけ戒律を守れ。
生き物を殺すなと言っても、体の中に寄生虫が発生すれば、それを殺してはいかんとは言わな
いだろう。寄生虫を駆除したら、背中を指さして嘲笑する奴がいれば、嘲笑する奴がおかしい。
町中にペストが発生したから、お寺でもねずみ取りを仕掛けるだろう。それを非難する奴はいる
はずもない。
血を吸いに来た蚊を追いかけて殺しちゃいかんなどと、そんなこと言う奴はおらんだろう。
ただ、無闇に生き物を殺せば、これは可愛そうだ。生き物は、無闇に殺すものじゃない。坊さ
んの服を着て、鉄砲担いで鳥撃ちにでかければ、眉をひそめる人は多いだろう。ただ、町内に野
生の熊が出没し、市や県でその駆除を決議すれば、その決議の範囲内で坊さんも参加して熊を駆
除すれば、ご苦労さんと言って貰えても、非難されることはない。
265 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 20:53:13 ID:ickjmA/D
まあ、坊さんであれば、釣りとか狩猟とかは趣味にすべきではない。僧侶を死刑執行刑務官と
兼職するというのも、あまり感心はしない。しかし、きちんと合理的に理由があれば、生き物を
殺しても悪いことじゃない。ただ、その合理性は、それぞれの帰属社会で違いがある。坊さん社
会では、合理性の基準を高めにすべきだろう。人間と人間以外の動物、家畜、昆虫、植物で、合
理性に差異があるというのも当然だろう。
死刑執行刑務官が、法務大臣の命令で死刑囚に対し死刑執行することは正しいことだ。しかし、
それ以外の場で、人を殺すことがあってはいけない。
念仏は座禅持戒して称えよという法照禅師の言葉は、そのように聞いている。戒律の専門的な
ことは、律宗の坊さんに聞いてくれ。
>>257 >これは功徳を積んだのか殺生戒になるのか。
自分が食事を布施するときに考えたらどうですか。
狩猟が趣味で、鳥撃ちに出かけ、狩猟場の近くに坊さんを招待し、撃ち落としたばかりの鳥を
さばいて相手に馳走すれば、僕などは眉をひそめたくなる。しかし、坊さんが肉屋にカレー用の
肉を買いに行っても、それを悪いとは思わんよ。
客が生け簀の魚を指定し、店側がその注文に応じてそれをさばいて刺身にする料理屋がある。
そういう店に坊さんが出入りしていれば、あまり感心はしない。
雑貨屋に坊さんがねずみ取りやゴキブリほいほいを買いに行っても、これはおかしなことじゃ
ないだろう。
戒律の専門的なことは、律宗の坊さんに聞いてほしい。
>>259 >肝心な後生の一大事(根本無明)には効果なしということですか?
あなた方の宗教とは、後生の一大事(根本無明)というものの概念が違うんだろう。
あなた方の宗教が言う無明は、僕に聞こえてきている無明ではない。僕に聞こえてきている無
明は、あなた方の宗教では無明ではない。
まあそれだけの話でしょう。
266 :
なんでも信じる:2006/12/02(土) 21:02:46 ID:cj+QAYkz
>264
仏教は仏教のルールがあります。
仏教から見れば、そのルールが正しい。
他宗教から見れば、そのルールが間違いかもしれません。
だから、どの宗教も自分の宗教に閉じこもれば正しいでして、
他宗教にもって行くと間違いかもしれません。
267 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 23:07:54 ID:HM5NbSy9
>>266 >仏教は仏教のルールがあります。仏教から見れば、そのルールが正しい。
どんなに合理的に書かれているルールでも、読む人が杓子定規に解釈すれば、ルールは
死んでしまう。
ルールは言葉で書いてある。言葉には表現に様々な制約がある。合理的に血の通った解
釈をすることは、どんな場合でも大事なことだ。
268 :
名無しさん@3周年:2006/12/03(日) 00:32:21 ID:vi8GrDlk
/∵∴∵∴\
/∵∴∵∴∵∴\ /::::::::::::::::::::::::::\ ←渡海
/∵∴∴,(・)(・)∴| \\\ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ ◎
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|∵ /. ミ | 彡 | _ \\ \;;;;;;;;;;ノ \,, ,,/ ヽ
|∵.| \___|_/|. \ \\\( 6 *)─◎ ),・∵
\| \__ノ /__ \ 彡\ノ\ )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
\___/ \ \ |\ )))∵ 3 ∵>;、・∵ '
/ _ ` ー一'´ ̄ / _{ ヽ;;_ \ ヽ ノ
(___) / .| ゝ〉 〉 〉ノ_ \__ ∵::__ノ ;
| |消えろ蛆虫 | __|;、・∵:: ;
269 :
疑問:2006/12/03(日) 02:18:39 ID:+bYIScgI
う−んやっぱり今ひとつ納得してない自分です。
五会法事〜読みましたよ
ごくごく普通に渡海さんの説が正しいです 親鸞上人ってすごく伝統的な仏教です
全然違和感ありません
念仏は座禅して唱えるものだったんですね
インド系の宗教は全て瞑想法とセットですから
272 :
疑問:2006/12/03(日) 20:02:54 ID:+bYIScgI
おいおい大丈夫か。上人じゃなくて聖人だよ。親鸞聖人。まずね親鸞と呼び捨てに
するのは論外。次が親鸞聖人、次が宗祖親鸞聖人、それからご開山、ご開山聖人、親鸞さんと。
ちょっと特殊なんだけど愚禿釈親鸞、愚禿鸞で論議をすることもある。親鸞聖人によって
体解され開顕された真宗をとおして真実にふれていこうとする者にとって、呼び捨てすることは
ないんだよ。まして御名を間違えるなんざ、ありえない。
なんて言っておきながら私も呼び捨てにしてしまうときも結構ある。
行院の指導員は平気で呼び捨てにしていましたが
まあ真宗の行院ではありませんが、真宗の教えも学びましたね
275 :
疑問:2006/12/04(月) 00:33:05 ID:l3Lta3OK
行院は何宗なんですか。
276 :
疑問:2006/12/04(月) 01:27:38 ID:l3Lta3OK
1−−−きちんと合理的に理由があれば、生き物を
殺しても悪いことじゃない。−−−と渡海さんはいうけど、その合理的理由は戦争にしても
お互いの国にとっては合理的な理由でやったんだよ。こちらの合理的理由は相手にとっては不合理的な理由なんだよ。
2−−−パン屋さんならパン屋さんのルールがある。うどん屋さんならうどん屋さんのルールがある。
パン屋さん、うどん屋さんはそのルールに従えばいい。−−−それは仏教が間違って
いる。 −−なら、仏教は世界宗教で無く真実の法でもないことになる。真実真理は一つだとおもうがね。
3−−−真宗坊主は、基本的には私度僧だ−−についてはそれについては真宗以外の宗派や僧が国家ボウズだったんだろうな。
国家の試験に受かって仕事は国家護持と祈祷。これじゃ国家を相対化できないな。と言うことは民俗宗教レベルだ。
親鸞によって日本は初めて国家に支配されない僧、まさしく出家どころではない出国僧が誕生したんだろうな。
だから私は国、や天皇から試験を受けて合格して国に忠誠を誓う僧ではなく釈迦に帰依をする僧であるといって
国家僧ではないから非僧といったんだろ。釈迦に帰依してるのか、もしくは国家に帰依してるかの違いだな。
277 :
疑問:2006/12/04(月) 01:35:28 ID:l3Lta3OK
寺領についてもこれは言える。当時土地はすべて国天皇のものが基本だ。だから寺院は
国から寺領をもらってる。これを福田というのよ。山をもらったりもしてる。
で寺はこの土地をさらに増やして裕福になろうとして終いには寺同士があらそってたんだな。
山法師とか雇ってね。真宗は信者即ち門徒を持って福田とするんだよ。この門徒も国家に縛り付けられてる
民衆ではないから非俗というわけだね。
278 :
疑問:2006/12/04(月) 01:38:20 ID:l3Lta3OK
親鸞上人ってすごく伝統的な仏教−−−−そのとおり。というより釈迦の教えの原点にちかづいてる。
そういう意味では伝統的だな。
279 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/04(月) 19:54:02 ID:F61hCSbI
>>276 >その合理的理由は戦争にしてもお互いの国にとっては合理的な理由でやったんだよ。
それがどうした!?。
イラク戦争が正義の戦争か、大義無き不正義の戦争か知らんが、国民は銃をもって戦わなけれ
ばならん時はある。
>真実真理は一つだとおもうがね。
馬鹿も休み休み言うもんだ。何が善、何が悪か。善悪の判断は時代・社会で変化する。ルール
は人間が作るものだ。
二千年・三千年も昔、赤道近くのサバンナで妥当した価値観が、二千年・三千年後の雪降る北
方の国々で妥当するとは限らんだろう。二千年も三千年も昔、赤道近くのインドで、ラーメン屋
さんがあったと思うか?。うどん屋さんがあったと思うか?。道路に赤信号があったと思うか?
赤信号の時は、出前で急いでも止まらなければならん。二千年・三千年も昔のルールには、赤
信号で停止しろとは書いてない。当たり前の話だ。それじゃ、ラーメン屋さんは赤信号で停止す
る必要はないのか?。
二千年も三千年も昔、赤道近くのインドで、ゴキブリやねずみが病気を媒介するなどと言う知
識があったか?。無かったろう。ゴキブリは赤痢、疫痢、ねずみはペストを媒介する。そういう
知識があっても、釈迦は、ゴキブリやねずみを殺すなと言ったと思うか?。
ラーメン屋さんやうどん屋さんは、厨房にねずみやゴキブリが徘徊していたら、きちんと駆除
するのが常識だ。
生き物を殺すな、殺すなと言って、腹に回虫が寄生しても、虫下しも飲めなくなるそんな馬鹿
馬鹿しい善悪基準にどんな意味があると思うんだ?。
ルールは、人が幸せになるような内容であって始めて意味がある。人が守れる現実味があって
始めて意味があるんだ。ルールは人が作る。凡そ、常識的な人間が守れないようなルールを作り、
「悪だ、悪だ」と血も涙も通わない心ではやし立てて、何か意味があるか?。馬鹿も休み休みい
うもんだ。
善悪の判断は、時代、社会で変化する。ルールは時代・社会に合わせて変わっていく。当たり
前の話だろう。馬鹿馬鹿しい。
280 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/04(月) 19:55:26 ID:F61hCSbI
>真宗以外の宗派や僧が国家ボウズだった
?? 私度僧とは、戒師を立て、受戒して出家した僧ではないという意味です。
僧は、授戒僧から受戒を受けて始めて正式に僧として認められる。
確か、鑑真来朝以来、明治維新までは、受戒後その名を朝廷に登記して正式に僧になった。
釈迦の戒律を守ることを誓うことで、釈迦族に加わえてもらう。これが出家です。
出家の作法は真言・天台・律などの坊さんに聞け。
僕は詳しくは知らん。
>>277-278 コメント不能。
281 :
疑問:2006/12/05(火) 01:58:47 ID:S0USR7vP
しかしブッタ釈迦は生き物を殺すなと言った。
疑問さんが何を疑問に思っているのか、むしろそのほうが疑問ですね。
生命への慈しみをもち、生き物を無闇に殺さないこと。
それは釈迦がいうまでもなく、倫理的に当たり前のことではありませんか。
もちろん生きている以上は、やむをえず他の命をうばわなくてはならない場合はあるでしょう。
だから釈迦は、命令のような形で絶対殺すなといっているわけではありません。
無闇に殺さない心がけを持とうというのが戒の精神です。
釈迦は999人の命を奪った殺人鬼アングリマーラですら、
前非を悔いれば側に置かれ仏の道に入ることを許されているのです。
284 :
疑問:2006/12/05(火) 12:19:44 ID:S0USR7vP
私が分からないのは生き物を殺すなという内容なのです。
生き物は命のやりとりをして生きていくわけでしょ。単に戒だから努力目標という意見なら
生き物をなるべく殺さないようにしましょうとなる。
2つに生き物に慈しみをもてということなのか。慈しみのその心があるかないかをもんだいにしているのか
3つに殺してはいけない。殺さないんだという絶対的なものなのか。釈迦は自らも実行して、また出家者にも
守らせたのか。もしその場合出家者は出来るかも知れないが、出家者に食を布施する在家者は
生き物の命を奪う行為をしてしまう。
4つに生き物の命を奪うことが罪であり悪とする。しかしその行為を悔いたりある行為をすれば罪や悪は滅してしまうのか
これは後に念仏が滅罪の利益があるというのに発展している。
>>284 そうやって疑問点を纏めていただけると答えやすいですね。
我々には「人を殺を殺してはいけない」という通念がありますが、
なぜ殺してはいけないのでしょうか。
あなたも「違法で罰せられるから」とか「恨みを買うから」といった
損得勘定のみで殺してはいけないと思っているわけではないでしょう。
それだと殺した方が得なら殺していいという話にしかなりません。
人を殺すという行為は重大な背徳であるという意識がまず
先に来るのが普通だと思います。
この場合、人を殺してはいけないのか、
慈悲の心があるかないかの問題かという議論はナンセンスでしょう。
親鸞の言葉を借りれば、両者は一体不ニです。
慈悲というのはあらゆるものに平等にそそがれるものです。
仏教では涅槃経にあるように、
「山川草木悉有仏性」と言って、生きとし生けるもの全てに
仏性が備わっているという考え方をしています。
虫けらでも仏となる可能性を秘めているわけなので、
人と他の生物の間には根源的な命の軽重の差がない。
つまり「全ての生き物を殺してはいけない」というのは、
「人を殺してはいけない」と同じ意味ということになります。
しかし、相手が人であっても正当防衛などでどうしようもなく
殺してしまう場合もないとはいえません。
釈迦は「自灯明」「法灯明」と表現しているように、
不殺生戒は罰則規定のない自律的な性格のものですので、
どの程度厳格に守るかは個人の受け取り方に委ねられているわけですが、
少なくとも普段から心がけていれば
やむを得ず殺してしまった時にも罪悪感を感じ、
次からは守っていこうという戒めになる。
戒(習慣性)とはそういうことでしょう。
釈迦や出家者は数多くの非常に厳しい戒律を守らなくてはいけません。
代表的なものは淫戒、盗戒、殺戒、妄語戒の「波羅夷」といって、
これを破れば教団追放されます。
五戒と一部重複するものがあると気づかれたことと思いますが、
それがより限定的で厳しくなっています。
こういった出家者専用の戒律は比丘で250、比丘尼で348もあり、
これは修行や集団生活、組織の規律のための戒律なので、
在家者は守らなくてもよく、また守れるようなものでもありません。
それを守らなくてよい在家者であれば食物を布施しても
戒を破らなくてもよく、また肉を布施する場合でも、
僧に布施するために捕られ料理された肉は布施することはできないので、
布施のために特別に不殺生戒をおかす心配もありません。
アングリマーラは贖罪のために、
街に托鉢にいくよう釈迦に命ぜられました。
その度に恨みをもった民衆から暴行され何度も死ぬ思いをしています。
懺悔したから途端に罪が消えたのではなく、
懺悔したからそこまでのことができたのです。
そして念仏で滅罪するなど親鸞が教えているでしょうか。
滅罪ではなく、悪人のまま成仏できるという考えですね。
287 :
疑問:2006/12/05(火) 19:15:02 ID:S0USR7vP
まずはお答え頂きお礼をもうします。随分理解しやすいです。
念仏滅罪の件なんですが親鸞は現世利益和讃に最澄の文をかりてなも阿弥陀仏を称えれば
七難消滅することを利益としてあげてます。また本典の例えば行巻には八十億こうの罪を滅する
だの八十億こうの生死の重罪を除滅するだの、諸仏の名号を称すること功徳無量なれば罪障を滅すだの
観経下品や下々品にも念仏滅罪は説かれてますので、親鸞さんも注目はされてたのではないかと思うんです。
だから命を奪うこと殺すことは罪であるけど念仏によって滅罪すると言うのであればある程度納得は出来ます。
観経で釈迦が説いてますので。しかしどうして弥陀の御名を称えたら罪が消えるのかは考えないといけませんが。
288 :
疑問:2006/12/05(火) 19:28:26 ID:S0USR7vP
これらを考えると、やっぱり命を奪うのは殺生戒で罪であるという絶対的なものじゃないかとおもうんです。
だから出家して殺生をするなということじゃないかと。出家が当然の事として当時のインド社会にあったのではと思うんです。
人生を3つに分けて、勉強の時期、妻をもらい子を産み育て社会のために尽くす時期、そして出家とあって
みんなほとんどがそういった人生を送っていたというか理想の人生だったのかなと。
それであるならば在家より出家の方がすぐれていますね。
これなら人生第3期に出家しても、第2期で在家で妻をもらい子をもうけ社会に尽くしてますから、人類は滅びませんよね。
289 :
285:2006/12/05(火) 21:30:12 ID:dXNqpSgE
仰るとおり経典には滅罪すると書いてありますが、
親鸞の滅罪に関する考え方は『歎異抄』の第十四段で明確にされていますよ。
一年まうせば、八十億劫の罪を滅ぼし、
十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといふ。
これは十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といへるか。
滅罪の利益なり、いまだわれらが信じるところにをよばず。
ようするに滅罪の利益など我々は信じなくてもいいと。
なぜ信じなくていいのか、十四段を読み進めば理解できるはずです。
簡単に説明すれば、
念仏のたびに罪を消そうと考えるのは自分で罪を消そうという努力することである。
しかし人間は一生のうちに考えることは、
全てわれわれを生死の苦しみの世界に結びつける罪のようなものであるから、
それでは臨終の瞬間まで怠り無く念仏を唱え続けてやっと往生できるということになる。
しかし人には宿業というものがあって、どんな出来事にあうか分からないし、
病に苦しんで正気を失ったまま臨終を迎えることになる。
その時は念仏ができないが、ではその期間の罪はどうして消す事ができようか。
罪がが消えなければ往生できないのか。
そうではなく、我々は衆生を救いとりたいとの阿弥陀仏の誓願にたよるからこそ、
どのような不慮の罪業をつくって、しかも臨終に念仏ができなくても、
すぐに極楽往生させていただけるのである。
罪を消すというのは自分の考えであって、その考え方は臨終に称える念仏に
最上の価値を見出す考え方につながり、他力の信心ではない。
つまり、親鸞は滅罪というような教え方はむしろ否定しているのですね。
290 :
285:2006/12/05(火) 23:19:18 ID:dXNqpSgE
読み返して気づきましたが、
>>286の最後の行は成仏でなく、往生ですね。
自明のはずのことを、どうして書き間違えたのか自分でもいまいち謎です。
291 :
疑問:2006/12/06(水) 01:13:51 ID:HHfkJULe
まったくそうだ。歎異抄の14にあるんだよ。まずこの書物をどう考えるかだ。
親鸞さんが書いた書ではない物をどう見るか何だ。弟子の唯円だろうと言われているが
親鸞さんではないという事実が一つと、それじゃ親鸞さんの書いた書物には
14条のようなことが親鸞自身書いているのかというとないんじゃないのか。
二つに念仏滅罪を考える場合、根拠は観経の下品だろうけど、はたして臨終に善知識にあうだの、
念仏もうすことが出来ればいいけど、出来ない場合もあるんじゃないのか。すると臨終の死に際の
姿が問題になるね。
292 :
259:2006/12/06(水) 11:25:33 ID:rFxSnkAH
>>265 ありがとうございます。
僕が聞いたのは浄土真宗のお話で、無明の闇には枝末無明と根本無明があると聞きました。
それと渡海さんの宗教とで概念が違うというのは、同じ浄土真宗でも教えが違うということですか?
仏教=釈迦の教えだと思うのですが、しかも同じ浄土真宗なのに、どうして違ってしまうのですか?
それはやっぱり個人の体験の差じゃないでしょうか
スポーツをやったことないのにスポーツを語るとほとんど誤解だし
楽器ができないのに音楽を語るとほとんど誤解なのと同じです
お経や人の話も同じです
だから少なくとも親鸞上人はまず座禅して五会念仏しなさい
唱えてる自分がなくなるまで集中しなさいと言っているのです
その上でこれも無常であるから 普段は聞法しなさい 考えなさい
念仏しなさいと・・ 僕はそういうふうにとらえました
ですから親〇会のようなのは完全な邪見ですね
人の体験の話はどこまで聞いても読んでも自分の体験ではありません
言葉遊びです
295 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/06(水) 22:31:07 ID:v9KYC82s
>>285 >つまり「全ての生き物を殺してはいけない」というのは、「人を殺してはいけない」と同じ意
味ということになります。
ここは、何か意味があってこういう説明をしているんですか。
生き物を殺すな 五戒、十善戒 不殺生戒
人を殺すな 四分律波羅夷法 殺人(せつにん)戒
自分も含めて凡そ人を殺すな 梵網経 一重戒
凡そ生き物を殺すという行為と、人を殺すという行為とは明らかに扱いが違う。蟻を殺すなと
いう意味と、人を殺すなという意味とを同列に扱うという考えは仏教にない。
人を殺すなという意味と、自分を含めて人を殺すなとも扱いが異なる。
先人の思想は、丁寧に追っていきたいものです。
>>286 >淫戒、盗戒、殺戒、妄語戒の「波羅夷」といって、これを破れば教団追放されます。
回虫を殺す虫下しを飲んだら教団から追放されるという、そんな馬鹿な話はない。
殺人(せつにん)戒を破れば教団追放になるが、回虫を殺しても追放にはならない。
>相手が人であっても正当防衛などでどうしようもなく殺してしまう場合もないとはいえません。
仏教に正当防衛などという論理的な考えはない。殺すことがやむを得ないことであれば、許さ
れるという、非常にアバウトな考えをしているようだ。
296 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/06(水) 22:32:37 ID:v9KYC82s
>>287 >しかしどうして弥陀の御名を称えたら罪が消えるのかは考えないといけませんが。
うん。確かにここは考えてみる必要がありそうだ。僕も、納得できそうな答えがすぐには見つ
からない。
ただ、一つヒントのようなものはありそうだ。疑問さんは、仏教の善悪が、人道的普遍的な価
値観にもとづいて決められていると考えているんだろう。僕は違うと思う。
仏教の戒律は、仏が決めている。仏道を学びたいなら、これだけのことを守れと言っているに
過ぎない。釈迦のルールと毘盧遮那仏のルールと阿弥陀仏のルールは異なる。松下電器の社内規
とトヨタ自動車の社内規と、早稲田大学の学則と、慶応大学の学則とは異なっても不思議はない。
飲酒運転をしたら、即懲戒解雇という規定を設けるのも、各企業の自由。飲酒運転をしたら罰金
1万円と決めるのも各企業の自由。様々な考えがあっても不思議ではない。
>>293 >親鸞上人はまず座禅して五会念仏しなさい <これは正しい。>
>唱えてる自分がなくなるまで集中しなさいと言って
こんなことは言ってない。
>その上でこれも無常であるから 普段は聞法しなさい 考えなさい
聞いて欲しい。考えて欲しいとは言っている。「無常であるから」というようなことは言って
297 :
名無しさん@3周年:2006/12/06(水) 23:08:51 ID:Wnoo7V42
/∵∴∵∴\
/∵∴∵∴∵∴\ /::::::::::::::::::::::::::\ ←渡海
/∵∴∴,(・)(・)∴| \\\ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ ◎
|∵∵/ ○ \| \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
|∵ /. ミ | 彡 | _ \\ \;;;;;;;;;;ノ \,, ,,/ ヽ
|∵.| \___|_/|. \ \\\( 6 *)─◎ ),・∵
\| \__ノ /__ \ 彡\ノ\ )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
\___/ \ \ |\ )))∵ 3 ∵>;、・∵ '
/ _ ` ー一'´ ̄ / _{ ヽ;;_ \ ヽ ノ
(___) / .| ゝ〉 〉 〉ノ_ \__ ∵::__ノ ;
| |消えろ蛆虫 | __|;、・∵:: ;
こんばんわ「三昧」とはなんでしょうか?
主体客体の合一です
林檎に集中すれば己が林檎になり マントラを唱え集中すれば己がマントラになる
実際五会念仏はヨーガのマントラ修行とそっくりです
「仏法僧を准念して更に雑念なし 念は則ち無念仏の不二門なり」
この境地が無常であるかどうか・・ちょっと思索中です
二乗外道の禅にあらず・・というのがヒントのようです
299 :
疑問:2006/12/07(木) 00:05:14 ID:OiAheBJ2
渡海さんお久しぶりです。どうされてるのかと思ってました。元気そうでなによりです。
さて、
疑問さんは、仏教の善悪が、人道的普遍的な価値観にもとづいて決められていると考えているんだろう。ってことですが
全くその通りにかんがえてます。例外なし。あらゆるすべてと考えてます。
理由は結構簡単で外的には、と言っても勝手に外的と言っているのですが真実の法であるならすべてのものが含まれ宇宙を貫いているだろうと
思ってます。喩えが悪いけどこの法は釈迦が作ったのではなく、見いだしたのだと思ってます。ニュ−トンが万有引力を作ったのではなく、
ニュ−トンがこの世に居ようがいまいが引力はあるのであって、たまたまニュ−トンが見いだし、立証し多くの人に伝えたように、
釈迦が出ようが出まいが法として真実はあって釈迦はそれを見いだしたと思うんです。だから釈迦以前にもこの法を見いだし悟り仏になったのも
居たんだろうとね。そしてすべてのものはその法の中にあるんだろうと思ってます。
内的には例外がなくすべてが含まれ普遍であると言うことは、逆に自分からすれば、私はその法から漏れてないというか、私も法の中にあるということ
と思ってます。
300 :
渡海 難 ◇Fe19/y1.mI:2006/12/07(木) 00:14:38 ID:irxO/LdF
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) ) 渡海 難が300ゲットぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
301 :
285:2006/12/07(木) 00:24:41 ID:5DBAswCJ
>>295 私は幾度も戒と律とは違うと説明してきたつもりですが、
難しい部分であるのか、なかなか理解していただけないようですね。
まず不殺生戒など五戒は、
出家者はもちろん在家者にも守る事が薦められてきた仏教の基本理念です。
ここでは人と他の生き物の区別無く殺さないことが定められていますが、
人は歩けば虫を踏むわけです。
厳格に守ろうとすれば、空気中の小生物を吸い込まないようマスクをしたり、
生命を奪わないよう断食をして死ぬことが美徳とされるような、
ジャイナ修行僧のようになるのですね。
それでは苦行とかわらないので、釈迦の本意ではないでしょう。
だから五戒は自らをもって戒むるという自律的な性格のものであって、
どれだけ厳格に守るかは自分で判断することなのです。
次に他をもって律する、いわゆる律の話ですが、
これは理念ではなく、あくまで組織としての教団を統率するための律法です。
仏教教団は当初この律のようなものはありませんでした。
それは理念を守っていれば問題をおこす出家者もいなかったからです。
しかし、少しずつ教団が大きくなって出家者の数も増えてくると、
色々と教団内で問題をおこす者がでてきます。
その度に問題を解決するため定められたのが律なのですね。
最初に定められたのは淫戒だといわれていますが、
最も重要な律である波羅夷罪の淫戒、盗戒、殺戒、妄語戒なども、
当然ながら全て定められるきっかけの事件があったのです。
302 :
285:2006/12/07(木) 00:27:27 ID:5DBAswCJ
この殺戒というのを誤解されているようですが、
私があらかじめ五戒と違い“限定的”だとことわっていた理由は、
例えば殺戒の場合、これは殺生ではなく殺人を禁止したものであるという点です。
これが制定された理由は、修行僧の1人が厭世的な気持ちをおこし、
他人に殺してもらうよう頼んで衣服を謝礼に渡したという事件が
きっかけだといわれています。
その嘱託殺人を引き受けたものは味をしめ、
追剥のようになって人を殺したといわれています。
生き物の命はすべて平等であるというのは理念です。
理念は基本でも、
蟻を踏んだり蚊を叩いたたびに教団追放では組織はやっていけません。
だからといって人を二三人殺人しても蚊を殺したのと同じ扱いをしていては、
これまた組織としてやっていけないでしょう。
人間とは社会的な生き物であって、
国家では法律、学校では校則、会社では社則というように、
人との関わりの中では、理念以外にも特別な規則がいるのです。
規則=理念というのは間違いなのと同じように、
律で殺人だけ特別扱いであるから、
理念としても人は特別なのだという受け取り方をするのは誤りです。
303 :
285:2006/12/07(木) 01:33:35 ID:5DBAswCJ
>>291 『歎異抄』は弟子の唯円が書いたものですが、
これは唯円個人の考えを書いたものではなく、
唯円が覚えていた親鸞の言葉を記したものである
というのは真名序に書いてある通りです。
もちろん嘘だったり記憶違いだったりする可能性も皆無とはいいませんが、
親鸞の弟子は唯円だけでなく、多くの弟子がその教えを聞いているわけです。
その中で教えに逆らうことを親鸞の言葉として書いていれば
すぐ問題となって、書が後代まで残されることもないと思います。
正しさを証明することなどできませんが、
そもそも経典ですら釈迦の書いたものではありません。
聖書にしてもコーランにしてもイエスやマホメットの書ではありません。
それは信じるかどうかは論理ではなく、信仰です。
釈迦の教えが虚言でなければ、善導大師の注釈にも誤っておらず、
善導大師の注釈が正しければ法然上人の教えもむなしくない。
法然上人の教えが正しければ親鸞聖人の言葉もむなしいわけがない。
歎異抄のが正しいかどうかも、つまるところは同じでしょう。
304 :
285:2006/12/07(木) 02:38:14 ID:5DBAswCJ
>>295 特に重要なものではないと思いますが、
ついでに正当防衛云々についてもコメントしておくことにします。
もっとも普通に読めばわかると思いますが、
正当防衛というのは喩えで例に挙げただけです。
法律には条文と判例というものがあります。
煩雑になりすぎるため条文には細かな条件など書いてありませんが、
実行に移す際の逐一の基準は、条文とは別にしっかりあるものです。
『四分律』などには、
男の僧が男の僧に性器を口に含められた場合淫戒に当たるかなど、
色々な具体的状況を想定して、
釈迦が波羅夷罪であるかないかを判断している記述があります。
アバウトなのはあくまで条文の文章のほうであって、
それを判断するにはアバウトではない確たる基準があるわけですね。
それと私が、
「250戒を守らなくていい在家者は食物を布施しても戒を破らなくていい」
と言ったことを波羅夷の殺戒と混同して
誤解されているのかもしれないので補足しておきます。
在家者も250戒を守らなくてはならないのだとすれば、
食物を布施すると戒を破らなくてはいけません。
しかし、それは殺戒ではなく壊生種戒に当たるからですね。
壊生種戒は植物でもとってはいけないという戒律です。
ただし刑法でも量刑に軽重があるように、律の場合も軽重があります。
壊生種戒は破っても軽罪なので、即教団追放になったりはしません。
305 :
285:2006/12/07(木) 04:21:39 ID:5DBAswCJ
>>296 少し疑問に思った点があるのでこちらからも質問させていただきます。
私は他宗の教師なので真宗の細かい教義などはよくわかりませんが、
親鸞は好きなので知人の真宗の住職と親鸞について議論したこともありました。
その際にお互い歎異抄を親鸞の言葉という前提で話していたので、
歎異抄は真宗でも重要視されている書物だと思いこんでいたのですが、
滅罪についてその十四段を無視して「考えてみる必要がありそうだ」と
仰っている点に意外な驚きを感じました。
渡海難さんは真宗坊主たるものの心構えなどを語っておられたので
真宗坊主の方なのだと思いますが、
真宗では歎異抄をどういう位置付けで扱っているのでしょうか。
306 :
疑問:2006/12/07(木) 10:59:02 ID:OiAheBJ2
歎異抄についてあれこれと私なりに思っていることとたたき台をかきます。
まず前半部分は明らかに親鸞さんのお側にこの作者はいつも居たんだろうなと思うほど親鸞さんの言葉に
リアリティ−と迫力があると思う。
2−言葉は作者が耳の底にとどまるところを書いている。おそらく長い年月多くの事を親鸞さんから聞いたのだろうけど
ほとんど忘れた中で、忘れようたって忘れることの出来ない言葉を書いてるわけだから、肉が落ちて骨の部分だと
思う。
3−この書の時はまだ真宗が教団という形をとってなかったのではないか。教団にとっては都合の悪いことが述べてある。
例えば弟子一人も持たずなんて言葉もある。だからこの書を門外に明治時代までださなかったのではないか。
4−多くの人がこの歎異抄をとおして親鸞さんにふれ、真実なるものにふれている。例をあげると20世紀世界の頭脳といわれた
ドイツのハイデッカ−や司馬遼太郎などだ。つづく
307 :
疑問:2006/12/07(木) 11:05:48 ID:OiAheBJ2
司馬さんは1996年に同ししゃ大学で行われた記念講演で自らは仏教徒であり、仏教の中でも親鸞の教えを
信じていると告白して、この歎異抄を是非読んでほしいと言っている。
ドイツの哲学者ハイデッカ−は最晩年この書物に初めて触れて帰依をした。その時の手紙がある。
「今日、英訳を通じて、初めて東洋の聖者親鸞を知った。
もし、十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったなら、私はギリシャ語や、ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び、親鸞の教えを聞いて世界中に広めることを生き甲斐にしたであろう。だが、おそかった。
自分の側には、日本の哲学者や思想家が三十名近くも留学していたが、誰一人日本にこんな偉大な人がいたことを聞かせてくれなかった。
日本の人たちは何をしているのだろう。日本は戦に負けて、今後文化国家として世界文化に貢献すると言っているが、私をして言わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。
何もいらないから、親鸞の教えを世界に宣伝していただきたい。
商売人、観光人、政治家であっても、日本人にふれたら、何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。
そうしたら世界の人々がこの親鸞の教えの存在を知り、それぞれにその教えをわがものとするであろう。
その時初めて、世界平和の問題に対する見通しがつき、二十一世紀文明の基礎がおかれる」
308 :
疑問:2006/12/07(木) 11:21:07 ID:OiAheBJ2
まだまだ多くの方がこの書に触れ真実に目覚めておられるが私にはこの二人だけで
十分心強くかんじる。なお司馬さんの講演はテ−プで世にでている。
5−親鸞さんを生んだ法然さんの選択本願念仏集、親鸞さんが生んだ弟子の唯円さんの書いた
歎異抄という見方をしたらこの親鸞さんを挟んで前と後、即ち選択本願念仏集と歎異抄は
よんでみる必要もあると思う。
6−なんでもこの書物は声にだして読まなくてはならないらしい。司馬先生が言ってた。
思うことをざっと書いてみたけど、最後に私が歎異抄の中でこころを惹かれる言葉はいくつもあるが
その一つは−−ひとたび業縁がふけばいかなるふるまいもしてしまう−という所です。
309 :
疑問:2006/12/07(木) 11:34:02 ID:OiAheBJ2
司馬遼太郎−−以下無用のことながらの本の中から
歎異抄はじつにいい文章です。明晰な論理と修辞に富んでいます。
日本語で思想が述べられたものとしては歎異抄が最初のものでしかも、
傑作というべき名文です。親鸞の思想をつきつめて考えますと、阿弥陀如来への
感謝ということに尽きます。阿弥陀如来は空の別名であってつまり数学上の0です。
だから親鸞は御名だけを称えよ。礼拝の対象としては彫刻の阿弥陀如来はこのましくないといいました。
つまり親鸞によってガンダ−ラ以前の原始仏教にかえったというべきでしょう。
大乗仏教はもっとも純粋で本質的なかたちで十三世紀の親鸞においてもっとも鋭く単純化され再生したと思ってます。
と司馬先生はいわれてます。
>>294 >人の体験の話はどこまで聞いても読んでも自分の体験ではありません
>言葉遊びです
しかし親鸞聖人はその体験や真実の自己がどんなものか、無碍の一道がどんなものなのかを書き表されて、それを説法されてきたのではないのですか?
お勤めで正信偈を読むのはその一つだと聞きました。
そして「仏法は聴聞に極まる」と言われており、善知識からこれらのお話をお聞きするのはまず最初に大切なことなのではないのですか?
>だから少なくとも親鸞上人はまず座禅して五会念仏しなさい
>唱えてる自分がなくなるまで集中しなさいと言っているのです
これはどこに書き表されているのですか?
311 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/07(木) 17:16:00 ID:82CatKY7
>>299 >全くその通りにかんがえてます。例外なし。あらゆるすべてと考えてます。
戒律について、僕は突っ込んだ議論を控えるけど、こういう考え方をしていると、仏典の随所
で引っ掛かるだろうと思う。
>>301 >私は幾度も戒と律とは違うと説明してきたつもりですが、難しい部分であるのか、なかなか理
解していただけないようですね。 〜 例えば殺戒の場合、これは殺生ではなく殺人を禁止した
ものであるという点です。
貴方は、議論の運びが悪い。
「人と他の生物の間には根源的な命の軽重の差がない。つまり『全ての生き物を殺してはいけ
ない』というのは、『人を殺してはいけない』と同じ意味ということになります」。
「人と他の生物の間には根源的な命の軽重の差がない」という議論を先行させ、続けて、
「『代表的なものは淫戒、盗戒、殺戒、妄語戒の『波羅夷』といって、これを破れば教団追放さ
れます。』」という議論をすれば、 殺戒は殺生戒だと読み手が読んでも不思議はない。
ここは2ちゃんねるという、不特定多数のひとが野次馬のようになって斜め読みしているとこ
ろです。なかなか理解していただけないんじゃなく、貴方は説明方法、書き方が悪い。
312 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/07(木) 17:17:12 ID:82CatKY7
>>291 >その中で教えに逆らうことを親鸞の言葉として書いていればすぐ問題となって、書が後代まで
残されることもないと思います。
本願を信じ念仏申さば仏になる。歎異抄の思想は、信が行に先行しています。
親鸞の思想は、教行信証という名称から明らかなように、行が信に先行しています。
歎異抄と親鸞の思想は、思想の骨格が違います。骨格が違うと言うことは、遺伝子が違うとい
うことです。
遺伝子が違っても、そっくりな生き物はいくらでもいます。
その外にも、僕が気が付いている中で、歎異抄には親鸞の考えを勘違いしているところがある。
僕は、歎異抄は余り評価しない。むしろ蓮如上人聞き書きの方が数段しっかりしている。
>>303 釈迦の教えが虚言でなければ、善導大師の注釈にも誤っておらず、善導大師の注釈が正しければ
法然上人の教えもむなしくない。法然上人の教えが正しければ親鸞聖人の言葉もむなしいわけが
ない。歎異抄のが正しいかどうかも、つまるところは同じでしょう。
こんな馬鹿話は、信じなさんな。
釈迦の教えが正しくても、別異の人格である善導大師の注釈が正しいとは限らん。
善導大師の注釈が正しくても、別異の人格である法然上人の教えが正しいとは限らん。
法然上人の教えが正しても、別異の人格である親鸞聖人の言葉が正しいとは限らん。
こんなことは当たり前のことじゃないですか。詭弁を弄してどうするの?。
313 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/07(木) 17:18:14 ID:82CatKY7
>>305 >私は他宗の教師なので真宗の細かい教義などはよくわかりませんが、
ものごとは、合理的、論理的に考えるべきです。
>仰っている点に意外な驚きを感じました。
あたりまえのことでしょう。観無量寿経は、唯円よりさらに数百年昔に書かれている。観無量
寿経は、唯円が書いたんじゃないんですよ。つまり、唯円とは、別異の人格がその著述に関わっ
た。
観無量寿経は、その著者の主張を第一に考えていくことが一番大事。小説「坊っちゃん」は、
夏目漱石の主張を考える。源氏物語は、紫式部の主張を考えながら読んでいく。著者の主張を考
えないで、その数百年後の誰かが「ああだ、こうだと」言えば、数百年後のひとの感想が正しい
ことになるなんて、そんな馬鹿な話があるわけないでしょう。
>真宗坊主の方なのだと思いますが、 <誤解です。>
>真宗では歎異抄をどういう位置付けで扱っているのでしょうか。
真宗ではなどと、個人の人格を無視した十把一絡げの馬鹿な質問はしなさんな。もっと、生き
ている人一人一人に注目したらどうですか。
314 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/07(木) 17:20:11 ID:82CatKY7
>>307−308
やれ、ハイデッカーだ、司馬遼太郎だなどと、そんな名前に騙されなさんな。
聞思するというのは、自分で聞いて、自分で考えると言うことです。これが大事なんです。ハ
イデッカーさんに感心して貰っても糞の価値もない、司馬遼太郎がどうこう言ってるなんて、そ
んな馬鹿話に踊らされたらだめなんだ。
宗教は、自律的、自覚的に求めていかなければ、騙される。恐い宗教は世の中にいくらでもあ
る。宗教ほど恐い物はない。
315 :
疑問:2006/12/07(木) 20:43:50 ID:OiAheBJ2
渡海さん大荒れですね。まさに難渡海ですな。もう少し言葉を慎む事を考えられては
いかがでしょう。宗教は主体的に求めるのは当たり前として、多くの先人や各人の尊敬する
人も歩んでいった道は勇気づけられ励ましになりますよ。親鸞さんにしても法然さんや七高僧の
方々の先人の歩かれた道、言葉をたよりに行かれたんじゃないでしょうか。
先に生まれた者は後を導き後に生まれた者は先を訪ねてきてほしい。連続してとぎれないようにして
みんなで無辺の生死海を渡っていこうと親鸞さんもいわれてます。
>>307 なんかハイデッカー云々って・・親〇会臭がしますね(笑)
野球観戦暦何10年の人が何人集まっても薀蓄を語っても聞いても野球をやったことがなければ
少年野球の小学生にかないません
クラッシック鑑賞暦何10年の人が何人集まって薀蓄を語っても聞いても楽器をやったことが
なければ弾き語りのストリート小僧以下です
だからまず座禅して念仏しなさい・・と
別の世界が開けますよ
下手糞ですが阿南尊者らと同じですよ と親鸞上人は言ってるのです
読んだ本の内容を掲示板にうつしても意味ないですよ ということです
317 :
疑問:2006/12/07(木) 20:56:02 ID:OiAheBJ2
私も僧侶ではなく単なる会社員ですから専門的なことはよく分かりませんが、
結局大乗仏教というのは釈迦がどうして布教して多くの人の苦しみを解こうとしたのか。
釈迦を動かしたのは何か。そこを注意深く確立させていったのではないかと思うんです。
そこに阿弥陀如来という働きを見たのではないでしょうか。釈迦の仏教は教があり信じて行をして悟りを得ると
いう教信行証ですね。信と行をするのは私です。阿弥陀の仏教は教行信証で行も信もこれは弥陀がするんですよ。
本願を信じ念仏申さば仏になるの前に弥陀の働きによって行も信も回向されているのがあって初めて私に届いてるわけです。
他の人はどうか知らんが・・・
疑問さんの文章は面白く感じます。
心が動いた言葉を人に「正確に」伝える事は、
意味が有るか無いかは解らないが、私には大切だ。
319 :
名無しさん@3周年:2006/12/07(木) 22:00:13 ID:7CE1DDBn
その昔、南無阿弥陀仏第三部(?)でしたっけ、NBさんに
教えて頂き2ちゃんにいました。それこそ遠い昔です。
お元気そうでなによりです。NBさんも元気かな?
(笑)より。
320 :
285:2006/12/08(金) 07:05:03 ID:bVp8mLqX
>>307 司馬氏の親鸞評はよく存じておりますが、
ハイデッガーがそのように評価しているとは過分にして知らず、
彼の思想に興味をもって『存在と時間』など
著書を読んでいたこともあるだけに大変驚きました。
なるほどあらためて考えてみれば親鸞とハイデッガーは、
存在性に対する考え方など通低するものがある気がしますね。
321 :
285:2006/12/08(金) 07:06:34 ID:bVp8mLqX
>>311 律の中でも波羅夷は最も重要なもので、
調べていただければすぐわかるので改めて解説の必要は無いと思ったのですが、
説明の仕方が悪いと言われれば、
ただただ申し訳ありませんというしかありません。
ただ仏教の理念の話の後に律の話をもってきたのは理由があります。
疑問さんの質問の仕方が1、2というふうに
個別に仕分けしてあった為というのも1つにはあり、
また、そこで波羅夷等の律は理念と「一部重複する」と
あえてリンクさせて語ったのは、淫戒、盗戒、殺戒(殺人)妄語戒(悟ったという嘘)。
これらは五戒の不殺生戒、不妄語戒、不偸盗戒、不邪淫戒に全て内包されていて、
理念が純粋な形で守られていればそもそも律の大部分は必要ないもの
であるということをいいたかったためです。
>>312 教行信証については善導大師のいう就行立信の解釈に関係してきます。
釈迦の教えを受け信じて自ら行をすることによって証を得る。
教信行証はむしろ私のような聖道門の人間に当てはまり、
絶対他力という真宗の立場にたてば、
教えを受けて阿弥陀仏の行に触れ、信じることで往生の証を得る。
念仏(行)を唱えているのは自分ではなく、
阿弥陀仏のはからいで唱えさせてもらっているわけです。
つまりそこでの行とはあくまで阿弥陀仏の本願の回向であって、
自力で行うものではないのですね。
行はすでになされているわけなので、改めて云々するまでもない。
「口で唱えるもよし心に思うもよし」となるわけです。
322 :
285:2006/12/08(金) 07:07:45 ID:bVp8mLqX
そして信仰とは愛するのと同じで理由を問わないものです。
詭弁ではなく、親鸞聖人を信じるということは、
親鸞聖人の信じる法然上人を受け入れることであって、
またその拠所の阿弥陀仏に至る善導大師や釈迦の教えを
全て受け入れるということです。
>>313 私が真宗ではと聞きましたのは、
けしてあなた個人の人格を無視しているわけではなく、
日本人の大半は歎異抄によって親鸞の教えに触れているのに、
本家の真宗では軽視されているというのなら
ある意味面白い構図だなと興味をもったからです。
誤解であれば失礼しました。
323 :
疑問:2006/12/08(金) 09:43:11 ID:G/MOemND
聖道門なんですか。質問してもいいでしょうか。
出家されてますか。あの−つまり家をすて独身で財産もなく−−−
2つにこの世で悟りを開いてブッタとなるわけですか。それはどの教によるものですか。
宗派は知りませんが涅槃経で釈迦が私の手はいつもひらいていたといってますが
要するに隠し事や秘密の教えはないと語りますが密教とか秘仏とかあるのはどうしてですか。
あとこれはちょっと下品なしつもんなんですが、女性にたいして−−−
私はセックスのあとは割ととらわれないのですが、ないとムラッときますけど、その辺は
最後に極楽浄土は方便だと私はおもっています。凡夫を導いていくのに。
自転車しかのれない人にいくらロケットや飛行機の構造をおしえてもとべないでしょ。人間の機と教えがあっていないと
いけないのではとおもうのですが。
324 :
285:2006/12/08(金) 12:47:21 ID:bVp8mLqX
私は教師資格は持っているので世間的には僧とみなされますが、
まだ受戒することのできない若輩者なので厳密には正式な僧ではありません。
もちろん出家者の中には家を捨てて独身で財産もなく
厳しい修行に励んでいる人もいますが、そういう人は一握りですね。
ほとんどは家を出ないために出家するというのが実態だと思います。
前者であればそもそもネットに書き込みなどできるはずがないので、
やはり私も後者のほうです。
宗派は天台宗なので円教、所謂法華経の教えが基本とされています。
しかし当宗は仏教の総合大学といわれるように、浄土三部経あり、
密教あり、禅ありと、実に様々な教えが取り入れられていて、
どれかが間違った教えであっても、
他宗と比べて成仏できる確率は一番高いわけです。
最も重要であるとされている法華経は、
一切の衆生は必ず仏になるという大乗の教えですが、
ただ煩悩を捨て悟りをひらいて仏となるのはあまり困難な道です。
どれだけ厳しい行を積んでいる行者でも、
この世で仏となろうと思っている人はまずいないのではないでしょうか。
この世で少しでも功徳を積み、来世でもまた積み、そうやって
功徳を積み重ねていつの世にか仏になろうというのが普通の考えですね。
325 :
285:2006/12/08(金) 12:49:25 ID:bVp8mLqX
簡単に説明しますが、
仏教では「密教」と「顕教」とに教えを分けて位置付ける見方をします。
毘盧舎那仏という沈黙の仏がいて、
この仏は自分で説法をしない代わりに教えを説く身代わりの仏をつかわします。
これが釈迦牟尼仏、つまり釈迦ですね。
釈迦が人の姿で人の言葉を使って衆生に真理を説くのが「顕教」です。
次に大日如来という毘盧舎那仏とは逆に常に真理を説いている仏がいます。
この教えはどこにいても接することができますが、
ただ我々の言語とは違って特殊な記号のようなものをつかって
説かれている教えなので、それを解読する特殊な技術をもっていないと
秘密の教えなわけです。この大日如来が「密教」の仏ですね。
ゆえに顕教と密教とで真理に到達するまでのアプローチ法が違うわけです。
セックスの後に性欲に捕らわれないというのは、
それは捕らわれていないのではなく満たされた状態というのではないでしょうか。
爾後のコミュニケーションも大事にしてください。
私も煩悩を断ち切ることのできない凡夫なので熱情も動きます。
極楽浄土が方便かどうか、法華経ではそういう教えをしていますね。
でもそれをどう判断するのかは誰でもないあなた自身の問題です。
326 :
疑問:2006/12/08(金) 18:36:25 ID:G/MOemND
叡山はなぜ女人禁制だったのでしょうか。最澄さんは中国で莫大な経典を持って帰ってきました。その大部分は
手がつけられずそのまま残ったために後の僧が、いろいろ独自な解釈をしたんだけと、かえってこれが純粋に仏教を
摘出することが出来たのかもしれませんね。天台には5時八経判があると思うけど
現実いまはお経は釈迦の没後何百年たって出来上がってきたことは歴史的に分かってますよね。中国でも随分お経が
つくられた。その中で法華経が最高の経だというけど、その理由がお経の中の言葉だったり、釈迦が晩年に解いたお経だから
最も思想が深いだのという理由は成り立たなくなりませんか。
あと法華経は大乗菩薩道をといたお経であって凡夫のためのお経ではないのじゃないですか。
327 :
名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 00:21:15 ID:WA875/n0
328 :
285:2006/12/09(土) 13:27:55 ID:JVN+y2iK
比叡山というのは欲を絶ち行に打ち込むための修行の場ですので、
女性が入り込むと修行の障りになるというのが女人禁制の最大の理由です。
阿含経の油鉢の喩えにあるように、修行とはどれだけ絶世の美女がいても
一瞥もくれないほど打ち込むべきものですが、
禁欲的生活を送る男の僧が尼僧に心を乱され、戒を破って
強引に犯してしまうという事件は釈迦の時代の仏教教団にも例があります。
そして行というのは本当に半端じゃありません。冗談抜きで命がけです。
さらに一度始めた行は途中で投げ出すことを許されず、
厳しいものになると行を始める前に短刀と縄を渡され、
最後までできないと思えばこれで死ねと言われるものもあります。
まあそうでも言わないと誰も最後までやり遂げられないからでしょうが。
だからそういうヤバイものを尼僧といっても女性にさせるわけには
いかないという配慮は今でもありますね。
釈迦が直接説いた教え以外は認めないというのは小乗仏教の考え方です。
実際は小乗仏教の経典の中にもそうでないものがありますが、
一応はそういった建て前です。
それに対して大乗仏教は、長い年月を経て生まれた沢山の経典も、
釈迦が時代を超えて啓示している真理だと受け取ります。
その数多くの経典の中でどれが最も優れているかと問われれば、
代々宗論が行われてきたテーマですので
私としても五時八教を示す以上の手段をもちません。
純粋に凡夫のためといえるような教えは浄土門くらいでしょう。
禅宗や密教などは煩悩をはらんだまま仏になる教えだと
いう捉え方もできるかもしれませんが、
厳しい行を要求される点では同じなので凡夫には険しい道です。
329 :
疑問:2006/12/09(土) 14:51:01 ID:lD6tCXYD
釈迦は苦行修行を放棄したのではないですか。その方向に悟りはないと、至らないという
ことで、なのにどうして苦行修行をするのですか。これって根本的に釈迦を追体験して悟りを
得ようということですか。
テーラワーダ協会はテーラワーダ協会で問題があるらしいがな
>>328 >純粋に凡夫のためといえるような教えは浄土門くらいでしょう。
>禅宗や密教などは煩悩をはらんだまま仏になる教えだと
>いう捉え方もできるかもしれませんが、
>厳しい行を要求される点では同じなので凡夫には険しい道です。
天台本覚法門はどうですか?
平安末期の天台本覚法門は、修行なしでも煩悩即菩提を主張したと聞きますけど
333 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/09(土) 18:25:16 ID:0nHhJwD1
ここのスレッドは、親鸞仏教に限定したいと思うがどう?。
天台宗など、その他の宗派についての議論は、どこで終わる
かその終期を見据えてほしい。
334 :
疑問:2006/12/09(土) 19:11:13 ID:lD6tCXYD
そうですね。真宗に戻しましょう。ところで親鸞さんはいつから愚禿という字を
自ら名のられたのでしょうか。あと浄土に往生してすぐ仏になれるのか、それとも浄土で
修行のようなものがあって仏になるのですか。
335 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/09(土) 21:59:06 ID:0nHhJwD1
"o(-_-;*) ウゥム…貴方の質問に答えるのは簡単なんだが、どうも脈絡無く矢継ぎ早に質問が出
てくる感じがする。モザイクのような知識の切り刻みでいいんだろうか。本当は何を聞きたいの
か、一番聞きたいところどこなんでしょうね。
336 :
疑問:2006/12/11(月) 11:07:08 ID:HZBkBSlW
えっ仏教は問いから始まるんじゃないの。だってお経でも問いがあって釈迦が
答える形式だと思いますが。無問自説のアミダ経もありますけど。
337 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/11(月) 19:59:15 ID:O6emdQDy
>>336 >>だってお経でも問いがあって釈迦が答える形式だと思いますが。
(゜口゜;)うっ!??・・・・・ まあ
(;^_^A アセアセ・・・。そう。なるほどね。
そうだな。ただ、仮初めにも、間違いでも、渡海難と釈迦とを同じテーブルで議論するなよ。
冗談でもそんなこと考えたら、とんでもないことになるからな。
この点はこどもでも分かる常識で考えろよ。お釈迦様なら的確に応えられることでも、僕には
手も足も出ないことはざらにある。僕なんかが得意満面になって長時間、滔々と説明していたこ
とが、お釈迦様から見ればとんでもないデタラメで、お釈迦様なら一瞬の微笑だけで真意を完璧
に相手に伝えていくということもあるかも知れん。相手の器量の違いを絶対に間違えるなよ。
まあ、質問するのはいいだろう。しかし、お釈迦様ほどの先生は世の中にもう出ないぞ。それ
なら、相手に聞くということも大事だろうが、話し手の器の大きさを少しは考え、それを自分の
思索で補っていかないといかん。自分で考えるということは、とても大事なことだ。
↑あんたが顔文字使うと気持ち悪い。煽りではなくマジ。
339 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/15(金) 22:27:46 ID:lkUooE85
340 :
南無大師遍照金剛:2006/12/17(日) 13:59:41 ID:ZNnvT0g8
341 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/22(金) 18:31:00 ID:kuEp4pik
話題提供をしておきたい。「無上真妙の禅門」親鸞は、五会念仏法事儀讃略抄で浄土真宗をそ
のように規定している。
親鸞の禅門とは何か。これは、伝教大師が日本にもたらしてきた禅門であると考えるべきだろ
う。
禅門は、インドから中国に達磨大師が伝えた。中国禅は達磨大師を一祖とし、達磨→慧可→鑑
智僧粲→道信→大満弘忍へと法灯が継承されていく。
大満弘忍の弟子に、玉泉神秀と大鑑慧能とがいる。大鑑慧能は南宗禅の祖となる。玉泉神秀は
北宗禅の祖となる。曹洞宗・臨済宗は全て南宗禅の流れである。
北宗禅は、中国では消滅したと言われているが、伝教大師はこの北宗禅を学んで日本に持って
きた。北宗禅は、中国では社会の貴族階級に伝わり、南宗禅は大衆に広がっていったらしい。親
鸞も法然も、比叡山ではこの北宗禅を学んでいる。
北宗禅については、インターネットで勉強させて貰った。興味深いことがいろいろ書いてある。
北宗禅の神秀と、南宗禅の慧能との悟りの境地の違いが偈文に現れているそうだ。
神秀の偈
身はこれ菩提樹、心は明鏡の台のごとし 時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること怱れ
(汚れなき心の垢を取りのぞき本来空の身をば保たん)
慧能の偈
苦提もと樹なし明鏡また台にあらず 本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん
(汚れなき心と身をば尋ぬれば昨日の空に飛ぶ鳥のあと)
神秀は、座禅を継続する中で、徐々に徐々に悟りを開いていくという考えを採ったらしい。南
宗禅は、本来執すべき一物も無い、何も無い、一切空であり、絶対無という主張をしたようだ。
浄土真宗では、信心を得ることはあるが、自分は悟ったとは言わない。曹洞宗・臨済宗のなど
の日本の禅宗では悟りを強調する。浄土真宗で、悟りは極楽浄土で開く。今生で悟りを開くこと
はない。ただし、極楽浄土には即往生する。
浄土真宗は、曹洞宗・臨済宗とは異なる北宗禅の系統を思想的に継承していることが見えてく
る。
342 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/22(金) 18:43:26 ID:kuEp4pik
追加
なお、五会念仏は、法照が唐の代宗皇帝に披露してから中国全土に広がったようだ。
その意味で、法照は中国では貴族階級と親密で、恐らく北宗禅の高僧だったんだろうと
考える。
中国の北宗禅は、朝廷の交代とともに衰微していったんだろう。その点、大衆に根を
張った南宗禅は、朝廷の交代に影響を受けなかったのかもしれない。
343 :
名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 01:29:41 ID:qsQ886n5
/∵∴∵∴\
/∵∴∵∴∵∴\ /::::::::::::::::::::::::::\ ←渡海
/∵∴∴,(・)(・)∴| \\\ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ ◎
|∵∵/ ○ \| \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
|∵ /. ミ | 彡 | _ \\ \;;;;;;;;;;ノ \,, ,,/ ヽ
|∵.| \___|_/|. \ \\\( 6 *)─◎ ),・∵
\| \__ノ /__ \ 彡\ノ\ )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
\___/ \ \ |\ )))∵ 3 ∵>;、・∵ '
/ _ ` ー一'´ ̄ / _{ ヽ;;_ \ ヽ ノ
(___) / .| ゝ〉 〉 〉ノ_ \__ ∵::__ノ ;
| |消えろ蛆虫 | __|;、・∵:: ;
344 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/23(土) 10:07:01 ID:Fh+h4RBG
達磨 382年?-532年 曇鸞 476年-542年 慧可 487年-593年 僧粲 不明年-606年
道綽 562年-645年 道信 580年-651年 弘忍 601年-674年 神秀 606年-706年
善導 613年-681年
達磨大師から神秀禅師までの禅者の生没年と、浄土教七高僧の内、曇鸞大師・道綽禅師・善導
禅師を組み合わせてみた。
曇鸞大師は達磨大師より若く、達磨大師が中国にいた時代、曇鸞は同時代に中国で生存してい
た。しかし、達磨大師は、慧可禅師を唯一の弟子としていたから、曇鸞大師は達磨大師から禅を
学んでいないと思う。慧可禅師が大成したころは、曇鸞大師も既に大成したと思われるから、慧
可禅師からも学んでいないと思う。曇鸞大師は、座禅を学ぶことなく、おそらくヨーガ行者とい
う部類に入るだろう。
345 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/23(土) 10:09:07 ID:Fh+h4RBG
道綽禅師は、僧粲禅師、道信禅師などと同時代であり、達磨流の禅を修行していたと推定でき
る。善導禅師は、道信禅師、弘忍禅師、神秀禅師などと同時代である。弘忍禅師、神秀禅師など
から達磨流の座禅を学んでいたのではないか。
北宗禅の祖の神秀は、95歳で則天武后に招かれているようだ(ウィキペディア)。北宗禅は
唐朝廷に深く入る。唐の代宗皇帝の前で五会念仏を披露した法照禅師などは、当然この北宗禅の
流れに入ると思う。北宗禅は唐朝廷と運命を共にした。唐が滅びると中国では排仏運動が起きる。
北宗禅は、中国で多分このとき消滅したのだろう。
北宗禅は、中国で消滅しても日本では命脈を保った。遣唐使留学僧は国費留学生であり、中国
朝廷の下で学習する。最澄は中国で国分寺行表禅師から北宗禅を学んで日本に持ち帰る。以後、
日本では天台宗がこの北宗禅を継承する。しかし、比叡山は信長の焼き討ちによりその勢力を喪
失し、天台宗からも北宗禅の系統はほとんど消滅した。
鎌倉時代の法然・親鸞は、最澄が持ち帰ったこの北宗禅を大衆に教え、その考え方は蓮如まで
続いた。しかし、浄土真宗は、禅は自力であるという邪道の理屈が幅を利かすようになり、徳川
幕府の操縦によって変質し、浄土真宗は禅を捨てた。このとき、北宗禅は日本でもその命脈が尽
きた。
鎌倉時代、日本天台宗の北宗禅に飽き足りなさを感じた僧がいた。栄西と道元である。彼らは
中国に私費留学し、中国で全盛を誇っていた南宗禅を学んで帰国し、現代ではそれが世界中に広
がっている。
346 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/23(土) 10:14:48 ID:Fh+h4RBG
追加
教行信証には、禅定博陸という言葉が出てくる。禅定博陸とは、関白九条兼実のことである。
法然は、上は関白太政大臣から下は遊女まで幅広い支持を受けている。関白太政大臣に教えてい
た禅定は北宗禅流の禅定であることは間違いない。
347 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/23(土) 16:09:56 ID:Fh+h4RBG
>>345 訂正(インターネットのにわか勉強で申し訳ない)
誤 最澄は中国で国分寺行表禅師から北宗禅を学んで日本に持ち帰る。
正 最澄は、中国で北宗禅を学んで日本に帰国した国分寺行表の下で
得度している。
348 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/24(日) 18:51:31 ID:n1YTQ8Hc
話が止まらなくなってきた(笑)。<仮説です>
「念仏三昧は、これ真の無上真妙の禅門なり」。親鸞が力を尽くして関東の門弟達に書き残し
てきた五会念仏法事儀讃は、ほとんどこの言葉から始まる。
法然、親鸞、蓮如と継承された禅門は北宗禅だろう。南宗禅は栄西が南宋に留学し、日本に持
ち帰った臨済宗が最初だ。延暦寺を中心とする既存の日本仏教教団は栄西を危険視し、その排斥
に動いている。親鸞は末燈鈔で、「仏心宗というは、この世にひろまる禅宗これなり」と呼んで
いる。これは栄西の臨済宗のことだ。このころ栄西の臨済宗は大衆の共感を受けている。法然・
親鸞が栄西に南宗禅を学んだという事実はない。
法然・親鸞が学んできた禅は日本天台に伝わっていた禅宗だ。これは、臨済宗などの南宗禅と
は考え方が対立する北宗禅であると考えて間違いないだろう。栄西以前、日本には南宗禅は入っ
ていなかったと考える。北宗禅の立場では、南宗禅は危険思想なのだ。
日本が遣唐使を廃止したのは894年。以後、日中貿易は継続していたと思うが、中国に仏教
を学びに行ったのは、恐らく栄西が最初ではなかったか。遣唐使は、国費留学生であり、唐王朝
に派遣する。当然、唐王朝の公式の学問を学んでくる。南宗禅はいわば草の根の大衆仏教であり、
唐王朝が採用する仏教ではなかった。唐と言えば中国仏教の全盛期である。全盛の中国仏教を支
えていたのは北宗禅であり、遣唐使を通じて日本にはこの北宗禅が入っていた。
349 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/24(日) 18:52:12 ID:n1YTQ8Hc
南宗禅は型破りな考え方をとるのに対し、北宗禅は非常にスタンダードな考え方を採る。親鸞
が傾倒していた法照は、そのような北宗禅の人だろう。親鸞の五会法事儀讃略称を読む限り、法
照は禅だけでは悟りに至らないと考えているようだ。釈迦は、戒律と禅定と知恵の三学を説いた。
禅定が仏教の全てではない。やはり戒律を守り、知恵も学んで併せて禅定を修め、それによって
悟りを開くという考えだ。知恵を学んで行くには時間がかかる。北宗禅は徐々に悟りに近づくと
いう考えを採るようだ。その立場は非常に倫理的であり、儒教的な考え方にも近いのだろう。こ
れは、学問をする余裕と時間のある為政者向きの考えだと思う。北宗禅は、日本政府が、遭難の
危険を冒し、莫大な国費を使ってでも優秀な貴族・僧侶達に学びに行かせるのに値する十分な内
容のある考え方を提供していたのだろう。これに対し、南宗禅は、不立文字、教外別伝、只管打
坐を主張する。これは仏教のアウトローであり、三学にとらわれる考え方がない。ゆっくり本を
読んで学問を積んでいく余裕のない在野の人々に受け入れやすい考え方を取っていると言うべき
だろう。
350 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/24(日) 18:54:34 ID:n1YTQ8Hc
面白いことに、南宗禅・北宗禅の立場が日本に入ってくると逆転する。道元は南宗禅の一派で
ある曹洞宗を移入してきた。南宗禅の別の一派である臨済宗は、非常に多くの留学僧を中国に送
り、また中国から高僧を招いて多くの派ができる。南宗禅は、公家に対抗して新興勢力を延ばす大
名に共感を受けた。一方、北宗禅は、法然・親鸞・蓮如によって大衆に拡散し、やがて一向一揆
のエネルギーを生み出していく。
大名達に好まれた南宗禅は、不立文字といいながら日本では膨大な量の書籍を生産する。一方、
親鸞の北宗禅は、戒律を末法という概念で抽象化する。知恵の学習は極楽浄土の問題として棚上
げし、事実上、不立文字、教外別伝、只管打坐と同等の境地を大衆の中に開いていく。
かつて、中国の北宗禅は、唐王朝の公式学として栄え、唐王朝の滅亡と共に消滅した。この北
宗禅が、日本では在野に拡散する。これは、やがて一向一揆という形で為政者と衝突し、徳川幕
府の開幕によって事実上息の根を止められた。
中国では在野に拡散した南宗禅は、日本では武家政権で為政者に好まれ、武家時代が終わった
後、在野に教線を拡大しつつ、今は世界に広まっている。
351 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/25(月) 19:07:07 ID:Jc0oP3tw
全く話が止まらなくなってきた(笑)。
念仏無間、禅天魔。日蓮聖人はそう言って念仏宗と禅宗を批判する。法然の念仏宗は末法とい
う概念で戒律を抽象化した。このため、法然の教義を曲解した人々の中には造悪無碍を繰り返し
た人がいたようだ。禅天魔とはなにか。これは、恐らく北宗禅の立場から南宗禅を批判するとき
のキーワードではなかったか。教外別伝・只管打坐。座っているだけで俺はこんなに悟ったぞと
言えば、それは悟りではない。単に天魔になったに過ぎない。北宗禅は南宗禅をそのように批判
していたのだろう。
北宗禅は、仏教本来の立場に立った非常にスタンダードな考えをする。非常にスタンダードな
考えをするということは、穏やかで温厚であるということを意味しない。南宗禅は、型破りな考
えをする。しかし、それは必ずしもラジカルであるということを意味しない。北宗禅は、少なく
とも日本では人々に非常にラジカルな行動を焚きつけ、歴史を動かし、そのラジカル性の故に滅
んだように考える。一方、少なくとも過去二千年近い歴史の中で、南宗禅が歴史の表舞台に立っ
て歴史を動かしたいう事実を、僕は思い当たらない。
352 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/25(月) 19:08:26 ID:Jc0oP3tw
北宗禅は、日本には天台宗延暦寺に伝わったと考える。北宗禅は南宗禅と違ってそれだけで単
独の宗派を作ることがない。戒律と知恵の修学とともにあくまで三学の一つという立場を採るか
らである。南宗禅は、以心伝心・不立文字という主張を行うことから、単独で一派を形成できる
のとおおきな違いである。
平安時代から戦国時代まで、天台宗延暦寺は日本の政治に大きな発言力をもち、政治に対し責
任を負ってきた。武装集団を擁し、武力で自らの主張を実現してきた。武力集団を僧兵という。
僧兵は高位の僧ではない。人数は多いが階位は低い。天台宗で高僧になるには、千日回峰行と
か常行三昧とか、命を賭けた非常に激しい修行を非常に長期間行う。そういう修行を、人数も多
い僧兵達がやっていたとは考えにくい。僧兵達は、武闘訓練と共に、平時は経典読誦と、おそら
く北宗禅の座禅をしていたことだろう。少林寺拳法は北宗禅から生まれ、北宗禅をその思想的バ
ックボーンとしている。命知らずの延暦寺の武闘派の僧兵の熱情も、そうした北宗禅から生まれ
るものだろう。僧兵は、しばしば歴史を動かしてきた。だからこそ、信長の鉄砲軍団に敗北した
延暦寺が、その後、禅を失っていったことは自然のことではなかったか。
武闘派の北宗禅は浄土真宗が継承し、浄土真宗はこれを大衆に拡散し、為政者と激しく衝突し
た。日本の北宗禅を最終的に滅ぼしたのは誰か。それは一人の天台僧ではなかったか。僕は天海
という名を挙げる。天海は天台宗の大僧正である。中国で消滅した北宗禅を日本で守り続けたの
は日本天台宗である。しかし、その北宗禅に、世界で最後のとどめを刺したのも、日本天台宗だ
ったとすれば、これはまた大きな歴史の皮肉のように感じる。
353 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/25(月) 19:09:31 ID:Jc0oP3tw
大衆に拡散した北宗禅は、武田騎馬隊を粉砕した信長の鉄砲隊でも破ることはできなかった。
しかし、北宗禅を打倒することは、北宗禅を知り尽くした者には難しいことではなかったのかも
知れない。単純な話だ。座禅する場所を奪えばいいのだ。そうすれば北宗禅は壊滅する。
浄土真宗の門徒は、二六時中座禅をしているわけではない。通常時は、家事を行い、畑仕事を
している。座禅は、人々が寄り集まったところで行う。5人10人という人が寄り集まることを
禁止すれば、人々は禅から遠ざかる。キリシタンについては徹底的な弾圧政策を採り、浄土真宗
については懐柔策を採りながら、徳川幕府は人々の寄り合いを禁止した。浄土真宗は、この政策
で音もなく崩壊していった。
このような知恵のある者は、決して数多くはないだろう。歴史の中で必ずや名を残しているに
違いない。徳川時代初期、歴史的な宗教政治家と言えば、僕は天海以外に知らない。天海は、明
智光秀の血縁であるという説がある。徳川家康に権現の名を送り、東照宮を建設し、上野に寛永
寺を建設した傑僧である。謎の童謡「かごめかごめ」を作って大衆に広めたのも、天海ではない
か。天海は、天台宗大僧正の立場で、初期徳川幕府の宗教政策の基礎を築いた。浄土真宗は、こ
の天海の知恵によって事実上息の根を止められ、北宗禅はこの事実上地上から消滅した。
354 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/28(木) 23:15:28 ID:5Yfvw6S3
一度書き出すと自分の中で止まらなくなってくる。いったいこれはなんなんだろうね。仕事で
忙しいときに、次ぎ次ぎと仕事以外の考えが涌いてくる(笑)。
親鸞禅と法照禅とは同じか。違うのか。親鸞禅は、法照禅を非常に面白い形で継承している。
ここは非常に味わい深い。
五会念仏略法事儀讃略抄は言う。「念仏三昧は、これ真の無上真妙の禅門なり」と。ところが
これが教行信証(真筆本)に引用するときは「念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり」に変わ
っている。略抄を書いているときに参照していた原本(五会念仏略法事儀讃)と教行信証を書い
ているときに参照していた原本とが違っていたということはないだろう。ここには、法照禅と親
鸞禅の違いが実に意味深く現れているではないか。
五会念仏と何か。法照はこれを禅法として捉えている。法照にとって、念仏を称えるというの
は、座禅(禅定行)の補助なんだろう。五会念仏を称えてみると分かる。念仏は呼吸を整えてく
る作用がある。念仏はなくても座禅はできる。しかし、五会念仏を実践すると非常に滑らかに呼
吸が整い、深すぎず浅すぎない禅定が維持されてくる。だからこそ、法照禅は五会念仏を真の無
上真妙の禅門と言っているのだろう。法照はあくまで禅の行者なのだ。
355 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/28(木) 23:16:07 ID:5Yfvw6S3
親鸞はその法照から何を学んだのか。親鸞は念仏の称え方を教わったのだ。法照は、非常に効
率的な座禅の方法を教えた。それを聞いて親鸞は「なるほど、念仏というのはこうやって称える
ものだったのか」と、念仏を中心にして受け取ったのだ。そこで、教行信証では「禅門なり」と
いう言葉から「禅」が落ちて「門」と言い切ったのだろう。
親鸞は「真」も「深」という字に変えている。つまり五会念仏は、「深」ではあるが「真」で
はないという意味だ。つまり、法照の議論は、念仏に関する方法論であるという扱いだ。意義論、
核心論ではない。あくまで、どのようにして称えたらいいでしょうかという、方法論である。だ
からこそ、「深」の議論ではあるが「真」を論ずる議論ではないという主張をしているのだ。
絵画には額を付けようじゃないか。絵画は額が無くてもいいんだが、やはりあった方がよりよ
い。折角あるなら、額を付けよう。法照の観念では禅が絵画で念仏は額となる。親鸞の観念では
念仏が絵画で禅はその額となる。親鸞禅と法照禅はそのように意義付けにおいて考え方に相違が
あると言うべきだろう。
356 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/28(木) 23:30:11 ID:5Yfvw6S3
法照は、「真妙の禅門」と言っている。これはどういう意味か。法照禅には本質的に意義論は
ない。どのようにして行えばいいかという方法論で議論が尽きる。その中で法照は、五会念仏を
称えながらするのが絶対にいいと言っている。
親鸞の念仏論には、意義論がある。なぜ念仏を称えるのか。念仏を称えるということはどうい
う意義があるのか。釈迦は三学を説いた。戒・定・恵である。戒・定・恵の中には念仏がない。
念仏は戒ではない。定でもない。恵でもないのだ。だからこそ、称える意義が問題になる。その
意義論で親鸞は真仮論を立てた。意義論に比べ、方法論は従属的な位置にある。
法照にとって、なぜ座禅をするのかというようなことは問題にならない。だから、一番いい座
禅の方法が真妙の禅門となる。
357 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/12/31(日) 20:21:47 ID:K4ezP5xU
今年も残りわずかです。
みなみなさま、いい年をお迎えなさることを祈念します。
358 :
南無大師遍照金剛:2006/12/31(日) 20:46:22 ID:mVRjMcR2
結婚してないの(・_・;)
360 :
南無大師遍照金剛:2006/12/31(日) 21:09:02 ID:mVRjMcR2
(・_・;)童貞?
運
362 :
南無大師遍照金剛:2006/12/31(日) 21:23:14 ID:mVRjMcR2
今度一緒に風俗いこか(笑)
割り勘だけど(ΘoΘ;)
ヨシ(吉)
364 :
南無大師遍照金剛:2006/12/31(日) 22:32:54 ID:mVRjMcR2
俺も実は童貞なんだ(笑)
やっぱりさ
初めては好きな娘じゃなきゃ…って思ったけど
トク(徳)
謹賀新年
>>355 誤 親鸞は「真」も「深」という字に変えている。 〜 相違があると言うべきだろう。
正 <削除>
>>356 <削除>
いやはや、新年が去年の訂正から始まってしまった。
頭の中にちらちらしてきたものは、すぐに吐き出さないと気が散ってしょうがない。
だからと言って、忙しいときに、ろくすっぽ確認もしないで書き込むと、後で後悔する。
親鸞の書き換えは、禅門→門だけでした。
あげ
すこし流れとは違いますが失礼します。
前のスレが使えないとのことなので改めてここに書かしていただきます。
私事なのですが質問させてください。
現在私は仕事で奈良にいるのですが実家は三重のお寺(お東)です。
いずれ実家に戻って継ぐ事になるのですがいまいち作法や声明があやしいです。
まだ私は本格的にお寺に関わっていないのでよくわからないことが多いのでよろしければ教えてください。
堂衆や准堂衆といった声明のプロフェッショナルな人々がいると言うのは知っているのですが、いったいどういう手順を踏んだらそういったものになれるのですか?
勉強してなれるものなら将来のため挑戦するのも一つの道だなぁと思っています。
なんか大阪でそんな勉強会があるとか、中央声明講習?とかいうの受けないといけないとか
いろいろ噂は聞くのですが、よく知らないので教えてくださればうれしいです。
ネットで検索してもいまいち引っかからないのでよろしくお願いします。
371 :
名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 21:27:45 ID:+4+G5HYL
age
>>372 その程度の事ができても、社会じゃたいして役に立たないけどね。
匿名性の強いネットだからこそ言葉遣いに気をつけろ、といいたいけど
まぁこんな時代じゃ無理だろうなぁ。
ところで真宗って今ドンくらい別れてんの?
真宗10派とかいってるけどいまはもっと多いの?
377 :
名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 03:08:50 ID:Mlfp+Gp4
渡海さんの念仏のとなえ方と呼吸の仕方を詳しく教えていただけないでしょうか。
参考にしたいのですが、お願いします。
私の場合
まず息を吸います、そして最初の南無阿弥陀仏を称えます。(息を吐ききるぐらいのゆっくりのテンポです)
息を吸います、半音上げた南無阿弥陀仏を称えます(息を吐ききるぐらいのゆっくりのテンポです)
息を吸います、3回目4回目5回目の念仏を一気に称えます。そして最初に戻る。
の3呼吸のリズムで行っています。
378 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/01/18(木) 13:23:41 ID:tccqsxE5
>渡海さんの念仏のとなえ方と呼吸の仕方を詳しく教えていただけないでしょうか。
一会 南無阿弥陀仏<ゆっくりと一呼吸 低め>
二会 南無阿弥陀仏<ゆっくりと一呼吸 半音高め>
三会 南無阿弥陀仏<普通の速度一呼吸 普通の高さ>
四会・五会 南無 阿弥陀仏阿弥陀仏<やや早く 一呼吸 >
僕は4呼吸リズムで念じています。
379 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/01/18(木) 19:55:30 ID:J1OMjqrG
380 :
名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 00:43:05 ID:YgM4r0o/
377です 渡海さん、ありがとうございます。
もう一つ質問があるのですが、息を吸うスピードはどうなさっておられるでしょうか。
普通の腹式呼吸みたいに、息を吸う時間が息を吐く時間(念仏を称えている時)と同じ
ぐらいのスピードだとリズム良く念仏を刻みにくい感じがします。念仏と念仏の間に
変な間ができてリズムが崩れます。
だから、息を吸うのは少し瞬間的にしているのですが、渡海さんはどのようになさって
おられるでしょうか。
381 :
渡海 堅 ◆Fe19/y1.mI :2007/01/20(土) 10:18:46 ID:iaiErlKF
折角のカキコがあったので、改めて調べてみました。
一会 呼気 約8秒 吸気 約1秒
二会 呼気 約8秒 吸気 約1秒
三会 呼気 約4秒 吸気 約1秒
四,五会 呼気 3秒 吸気 約1秒
僕の五会念仏は、4呼吸で1サイクル、30秒弱
手持ちの数珠は、球の数が20個
1周すると5会×20個=100会称えたことになる。
この間約10分足らず。
1時間称えると600会以上称えたことになる。
まあ、多分、親鸞も、蓮如もこんな風にして称えていたんじゃないかと、勝手な想像をしていま
す。みんな自分がやりやすいようにすればいいんだと思います。
法照が念仏に緩急を設けたのは、腹式呼吸を自覚的に調節させ、大脳に送る空気量を最大限にす
るためではないかと、勝手に想像しています。
382 :
名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 14:27:00 ID:YgM4r0o/
渡海さん、ありがとうございます。
初心者には具体的な参考があればやりやすく、とても感謝しております。
384 :
名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 23:18:06 ID:PGE9AaAy
初歩的質問
南無阿弥陀仏をうまく唱えるのが、お坊様の仕事なのですか?
>>382 実験的に一緒に念仏を称えてみようか。五会念仏は、複数の人が一緒に称えるのが原則のようだ。
うまくいくかどうか分かりません。でも、昔は絶対にできなかったことが、今はできることが多
い。昔は、多くの人が一緒に称えるには、一箇所に集まる必要があった。今は一箇所に集まる必要
がない。
skypeなどを使い、互いの五会念仏の声だけをインターネットを通じて交換し、
別の人の念仏の声を耳で聞きながら、それぞれはその瞬間に自宅で思い思いに相手を感じながら座
禅して念仏する。
各自は、結跏趺坐、半跏趺坐、胡座、正座、椅子でもいいだろう。他人を気にする必要はない。
交信は実際にうまくいくかどうか分からないが、互いに、上半身を正し、呼吸を整え、深い禅定状
体の中で同じ声を同時に共有できれば、これはとても意味のあることだ。それだけで心が通い合う
かもしれない。800年前、親鸞が関東で開いた念仏道場、500年前、蓮如が大阪で開いた念仏
道場が、現代ではインターネットを通じて実現するかも知れない。
自分一人じゃ念仏できないという人でも、他人と一緒ならできそうだという人もいるだろう。ス
カイプは定員5名。5人以下なら、互いの念仏の声を交換できるかもしれない。時間を決め、その
時間だけパソコンの前に座って五会念仏を称える。精々一回十分、その後雑談しても全体で30分
位だろう。
定員2人以上、5人以内。自分も実験に興味があるという人がいればメールしてみてください。
メール
[email protected]
386 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/01/22(月) 20:44:21 ID:BxjuKsDf
387 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/05(月) 00:29:41 ID:yVMvhaAL
歎異抄の思想と親鸞の思想とは同じなのか違うのか。違うとすればどこが違うのか、僕に直接メ
ールをくれた方とやりとりをする中で、この問題について書きたくなりました。
歎異抄と親鸞の思想とは、思想の骨格が違う。親鸞は教行信証という形を取る。歎異抄は教信行
証という形を取る。教行信証なのか教信行証なのか。教行信証と教信行証は何がどう違うのか。親
鸞を自分の師と仰ぐ者は、ここはやはり明瞭にしていく必要があると思う。
親鸞と歎異抄との間ではもう一つ重要な違いがある。それは念仏に対する考え方だ。歎異抄は
「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」と言う。親鸞聖人はそのように
仰ったというのが歎異抄の立場だ。ところが親鸞はそんなこと言ってない。「他力には義なきを義
とすとしるべきなり」と言っているのだ。「他力には義なきを義とす」と言えば、「念仏には無義
をもって義とす」と言ったことになるのか。そんな馬鹿な話はないだろう。念仏と他力とは別個の
概念だ。親鸞は「念仏には無義をもって義とす」と言い、さらに「念仏には無義をもって義とす」
とも言っているのか。僕は「念仏には無義をもって義とす」と親鸞が言っている証文を読んだこと
がない。「念仏には無義をもって義とす」とは多分言ってないだろう。なぜなら、教行信証こそ、
念仏を徹底的に議論している書だからだ。教行信証であれだけ念仏を議論している人が、「念仏に
は無義をもって義とす。不可称不可説不可思議」などと言うとは僕には信じられないのだ。
「念仏には無義をもって義とす」というのと、「他力には義なきを義とす」とは何がどう違うの
か。恐らく唯円の勘違いだろうと思うが、この点についても、順次議論していってみたい。
388 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/08(木) 00:13:05 ID:Vye0xqJs
歎異抄は、本願を信じて念仏申す。本願を信じるという行為は、念仏を申すという行為に先行す
る。つまり、歎異抄によれば、本願を信じながらも念仏は称えないという状態も考えられるのだ。
これは、親鸞の考えと矛盾はないのか。
教行信証は行の巻きで言う。「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せ
ざるなり」。親鸞にあっては、信心は無いが、念仏は称えているという状態はある。しかし、念仏
を称えませんが、信心はありますというそういう状態は、凡そ考えられないのだ。この点からも、
親鸞の思想では行は信に先行する。本願を信じて念仏申すということはあり得ない。本願は信じて
いるが、念仏は称えないなどと言うことは、さらに凡そ想定外の問題なのである。
念仏を称えると言うことはどういうことか。念仏を称えると言うことは、普通の念仏を称えると
いうことである。普通の念仏とは、一度称えたら、次にも次にも南無阿弥陀仏が重ねられていくこ
とが当然予定されている念仏である。一度称えたら、後にも先にもそれ一度きりなどという、そん
な特殊な念仏ではない。念仏は無限の連続性をその本質とする。念仏を称えるということは、南無
阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と、繰り返し繰り返し称えられていくであろうそういう念仏を称えると
言うことだ。そのような念仏を称えていく中で、信心というのは育ってくる。
念仏を称えるのは、本願が信じられるようになってからでいいなどということは、およそ浄土真
宗では考えられない。念仏を称えていくと、未知の自分と出会い、様々な発見がある。そんな中か
ら先人が念仏を勧めてくれた心も知れてくる。先人が念仏を勧めてくれた親切心が知れてくる。親
鸞が言う信心とは、先人が念仏を勧めてくれたその親切心が、念仏を称える中で共感的に味わわれ
てくるそんな心なのだ。
389 :
ミトラ:2007/02/08(木) 08:29:25 ID:w5/3Wg20
名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり…
誰の何の為の名号か?を聞く事だと思います。
390 :
名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 09:47:06 ID:Dt1EedW3
お経聞いてると失神しそうになるんだけど…
392 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/10(土) 14:03:50 ID:P4UR4Xut
歎異抄は間違っているんだと思って読むことは感心しない。思想の体系が違っていると
言うことは、間違っているということを意味するものではないのだ。親鸞と唯円とは、別
のことを言っている。唯円には唯円の思想上の立場があり、親鸞には親鸞の立場がある。
違いをきちんと理解して読んでいくべきだろう。
親鸞には、行に先立って信はない。行は信に先行する。それでは、信のない行がありう
るのだろうか。親鸞の文書類を読むとそんな疑問が湧いてくる。信が無くても行が立つな
ら、本願寺の坊さんなどはみんな立派に念仏の行者になっているだろう。ところが、本願
寺の坊さんにはほとんど念仏がない。それだけじゃない、親鸞をいろいろ論評している評
論家も、ほとんど念仏がない。梅原猛さん、吉本隆明さんなどはその代表だろう。こうい
う人々には念仏がない。だから、こういう人には念仏の信心などかけらもない。なぜ信心
がないのか。当たり前の話だ。念仏を称えないからだ。それじゃ本願を信じ念仏申すとは
どういうことか。唯円はどういうつもりでこの言葉を書いたのか。ここを考えてみたい。
浄土真宗には二つの信と二つの誤解がある。二つの信と二つの誤解がきちんと理解でき
ると、話が見えてくるだろう。
浄土真宗には信が二種類ある。ここは大事な点だ。浄土真宗では第一の信を真門という。
第二の信を真如門という。本願を信じ念仏申すと言っているときの信と、真実の信心は必
ず名号を具すと言う場合の信とは質が違う。これを、同質の、同一の信と考えるから話が
ごちゃごちゃになる。人は、第一の信を与えられて行に入り、行から第二の信が与えられ
てくる。親鸞は真如門を指して必ず行を具すと言っている。唯円は、真門を指して本願を
信じて念仏申すと言っている。
393 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/10(土) 14:04:35 ID:P4UR4Xut
誤解の一つは、第一の信を第二の信と思ってしまうこと。第二の信を第一の信と思って
しまうことだ。念仏を称えない人は、しばしばこの真如門と真門とがごちゃごちゃになっ
ている。梅原猛さんや吉本隆明さんには真如門はない。近所の床屋に入り、真門を遠くか
ら眺めているだけの人には、真如門は全く見えないのだ。
真如門は、念仏を称えない人には見えない。しかし、真門は、念仏を称えない人にも見
える。だから梅原猛さんや吉本隆明さんも商売ができる。真門が見えない人はたくさんい
るから、そういう人は真門で話に乗ってくる。真門は、要門という門の中にはいると見え
やすくなる。もっとも、要門をくぐらなくても真門をくぐることはできる。梅原猛さんや
吉本隆明さんほど知識が無くても、真門が見えている人は少なくない。
要門をくぐると、要門をくぐってない人よりも真門は見えやすくなる。しかし、見えや
すくなるということと、真門をくぐるということは別だ。要門をくぐって真門を見ると、
確かに見えやすくなるが、真門をくぐる上では障害になることがあるようだ。真門を見て
いるということと、真門をくぐったということとは違う。真門を見、床屋談義で真門をあ
げつらえば、あたかも真門をくぐった気分になる。これが誤解の二つ目だ。真門をくぐっ
た気で床屋さんが真門を説明してくれていると、木戸銭を払ってそれを聞き、それで自分
が真門をくぐった気になる。これは二つ目の誤解の一部だろう。
唯円はいう。本願を信じ念仏申す。これは真門をくぐろうといっている言葉だ。真門を
くぐるとはどういうことか。これを考えてみよう。
これもかなり興味深いです。
395 :
名無しさん@3周年:2007/02/11(日) 01:36:51 ID:ALGYYU+K
念仏を称えるのは諸仏だろ。坊さんが称えるんじゃないんだよ。
諸仏に念仏を称えさせてるのはアミダだろ。17願に書いてあるぜ。
諸仏が称えてる念仏を凡夫は聞くわけだ。
「はい、これが結論です」というのいいですがそれよりも
念仏者がたどる心の道筋の解説のほうが興味あります。
>念仏を称えるのは諸仏だろ。坊さんが称えるんじゃないんだよ。
単に職業的な意味での「坊さん」なら、まったくそのとおりだと思います。
議論が混乱しそうなので、私の書き込みはスルーしてください
398 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/11(日) 11:43:41 ID:OpRbCjSd
>>395 >念仏を称えるのは諸仏だろ。坊さんが称えるんじゃないんだよ。諸仏に念仏を称えさせてるのは
アミダだろ。17願に書いてあるぜ。諸仏が称えてる念仏を凡夫は聞くわけだ。
まあ、坊さんは称える必要ないといえばそうだろう。坊さんは金だけ貰えば話は済む。坊さん達
は、唯信鈔を捨てたんだろうね。
一切の善悪の凡夫、等しく生まれ、共に願わしめんが為に、唯阿弥陀の三字の名号を称えんを、
往生極楽の別因とせんと、五劫の間深くこのことを思惟しおわりて、まず第十七に諸仏にわが名字
を称揚せられんという願をおこしたまえり。この願、深くこれを心得べし。名号をもって、普く衆
生を導かんとおぼしめすゆえに、かつがつ名号を誉められんと誓い給えるなり。(唯信鈔)
(阿弥陀仏は、)全ての人々を等しく(極楽浄土に誘おう、極楽浄土の人として)誕生させよう
(と思っているのである。そのためにどうすればいいのか。あらゆる人々に)共に(極楽浄土を)
願って貰えるようにするため、(阿弥陀仏は)五劫(という非常に長い)間、深く(深くこのこと
を考えたのである。)考え抜いた結果、(順番を思いついたのである。四八願の内、)まず(手始
めとして第十七願を起こしたのである。)第十七願をもって、諸仏に阿弥陀仏という名を賞讃して
貰おうという願を起こしたのである。(諸仏が阿弥陀仏という名を賞讃してくれれば、諸仏以外の
あらゆる人々も、それを聞きつけて阿弥陀仏という名を称えてくれるだろう。そう思ったのであ
る。)この(第十七)願(を)、深く(深く)心得ることが大事である。名号をもって全ての人々
を導こうと思うからこそ、さしあたって(手短なところから)名号を諸仏に賞讃して貰おうと誓っ
たのである。
399 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/11(日) 11:45:57 ID:OpRbCjSd
唯弥陀の名号を称え、一重に弥陀一仏を念ずる、これを専修と名づく。
阿弥陀仏の名号を称え、ひたすら阿弥陀一つを念じる。これを専修念仏という。
専修の者は、百に百ながら生まれ、千に千ながら生まるといえり。
専修念仏の者が百人いれば、百人が(極楽浄土に)生まれ、千人いれば千人が(極楽浄土)に生
まれると(往生礼賛では)仰っている。
念仏、たれか一万遍にかぎれとさだめし。精進の機ならば、ひめもすにとなうべし。念珠をとら
ば、弥陀の名号をとなうべし。本尊にむかわば、弥陀の形像にむかうべし。ただちに弥陀の来迎を
まつべし。なにのゆえか、八菩薩の示路をまたん。もっぱら、本願の引導をたのむべし。
(称名)念仏は一万遍を上限にしなさいなどと、誰が決めたのでしょうか。(「よし、自分は)
一生懸命念仏を称えよう」とそう思うような器量の人であったなら、一日中称えたらどうですか。
念珠に触れば阿弥陀仏の名を称えなさいよ。(飾りじゃない。道具として使ったらどうですか。)
本尊に向かうなら、阿弥陀の仏像、仏画に正対しなさいな。(その場で正対してその場で)阿弥陀
仏をお迎えしたらどうですか。八菩薩がやってくることをどうして待たなければならないんですか。
一重に仏の本願の誘いに乗りましょう
まず、専修念仏というて、もろもろの大乗の修行をすてて、つぎに、一念の義をたてて、みずか
ら念仏の行をやめつ。まことにこれ魔界たよりをえて、末世の衆生をたぶろかすなり。
(浄土真宗は、)専修念仏(の教えである)と言うことで、まず念仏以外の大乗仏教の全ての修
行を捨てる。次に、一念の義が正しいと言って、自分から念仏の行さえ止めてしまう。これはまさ
に魔界からの指示で現代の人々を騙すことに他ならない。
400 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/11(日) 11:47:34 ID:OpRbCjSd
この説ともに得失あり。往生の業、一念にたれりというは、その理まことにしかるべしというと
も、遍数をかさぬるは不信なりという、すこぶるそのことばすぎたりとす。
一念の義は、いいところと悪いところがある。極楽往生は、一念の念仏で足りるということは、
確かにその通りである。だからといって、何回も何回も回数を重ねるというのは信心がないという。
これは言い過ぎである。
一念を少なしと思いて、遍数を重ねずは往生し難しと思わば、真に不信なりというべし。
たった一念では不足だ。回数を重ねなければ往生しない。もしそう思えば、これは確かに信心が
ない。
往生の業は一念にたれりといえども、いたずらにあかし、いたずらに暮らすに、いよいよ功を重
ねんこと要にあらずやと思うて、これを称えば、終日に称え、終夜称うとも、いよいよ功徳を添え、
益々業因決定すべし。
往生の業は、確かに一念の念仏で足りる。しかし、今まではただ意味もなく明け暮れしてきた。
これからは意味のあることをやっていくことが必要だろう。そう思って念仏を称え、一日中称える
ようになれば、いよいよますます人徳が備わり、ますます極楽往生が確定していく。
善導和尚は、力の尽きざるほどは常に称念すといえり。これを不信の人とやはせん。
善導大師は、力があるかぎり念仏を称えると言っている。善導大師は果たして信心のない人だっ
たのだろうか。
一重にこれを嘲るも、またしかるべからず。
ただ、こういうことを決してバカにしてはならない。
401 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/11(日) 11:53:39 ID:OpRbCjSd
一念といえるは、すでに経の文なり。これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。
一念で足りるという言葉はお経の中の文である。一念では足りないと思ってこれを信じなければ、
これは仏の言葉を信じてないことである。
このゆえに、一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなくもうすべきなり。
だからこそ、極楽往生は一念で足りる信じ、その上で、一生不断に念仏を称えていくことが大事
である。
これ、正義とすべし。念仏の要義おおしといえども、略してのぶることかくのごとし。
これが正しい教えである。念仏の教えはたくさんあるが。簡単に言えば以上の通りである。
これを見ん人、さだめてあざけりをなさんか。しかれども、信謗ともに因として、みな、まさに
浄土にうまるべし。
この文章を読めば、人々はきっとバカにするでしょう。それでも、信心と誹謗とを因として、一
緒に極楽浄土に誕生していこうじゃありませんか。
安居院法印聖覚作 寛喜二歳仲夏下旬第五日 以彼草本真筆 愚禿釈親鸞書写之
唯信鈔、ようようの御文どもは、いまは、詮なくなりてそうろうとおぼえそうろう。よくよくか
きもたせたまいてそうろう法門は、みな詮なくなりてそうろうなり。慈信坊に皆従いて、めでたき
御文どもは捨てさせ給いおうて候と聞こえ候こそ、詮なく哀れに覚えそうらえ。よくよく、唯信鈔
・後世物語なんどを御覧あるべく候。
唯信鈔などの様々な文書類は、今は全く意味が無くなったのでしょうか。一生懸命書いて持たせ
た書き物はみな意味が無くなったのでしょうか。慈信坊の言葉を信じ、素晴らしい文書類を全て捨
ててしまったと聞いております。全く悲しみに耐えません。どうか、よくよく唯信鈔・後世物語な
どをお読み戴きたいと思います。
402 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/11(日) 15:11:36 ID:n5W+MOB6
>>398 >坊さんは金だけ貰えば話は済む。坊さん達は、唯信鈔を捨てたんだろうね。
まあ、こんなこと言っちゃいかんな(こういうことを言うから僕は嫌われる)。浄土真宗には、
唯信鈔を捨ててない坊さんもいるだろうし、念仏を称えることを忘れてない坊さんもいる。唯信
鈔を捨て、念仏を捨て、金に群がるだけの坊さんもいる。
>> 365さんよ。親鸞さんは、唯信鈔を読んで欲しいと、手紙で繰り返し繰り返し言っているんだ。
幸い唯信鈔は現代に残った。唯信鈔は、歎異抄より素晴らしいことが書いてある。これは穴の開
くほど読むと、親鸞さんの真意がきっと見えてくるだろう。
403 :
名無しさん@3周年:2007/02/11(日) 18:20:32 ID:ls9+Z0wq
お念仏となえられない時でも大丈夫、
お念仏となえられる時も大丈夫だよと
言うのが浄土真宗です。
となえないのが正しいとか、必ずとなえないと駄目だとか、
そういう風に決めないのが浄土真宗です。
そうしたら助かると言うんじゃ無いからです。
助けるのは弥陀ですから。
私達がお念仏するにしても、それは報謝の念仏
にほかなりません。
私達は、既に成就しているご本願を聞くのです。
聞く前に既に在るご本願を聞くのです。
聞いたから助かると言うんじゃ無いからです。
しかし、聞く事で、自分のはからいが無力になるのです。
聞く事が救いの条件にはならないけども、聞く事で「聞く前にご本願
が成就していた」と聞くのです。
後はご報謝の念仏だけです。
404 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/11(日) 23:39:45 ID:IO4SVVTQ
お念仏となえられない時でも大丈夫、お念仏となえられる時も大丈夫だよと言うのが浄土真宗です。
<まあ、聞く方も話す方も、所詮気休めということが了解済みだから、気楽なもんだよね。>
となえないのが正しいとか、必ずとなえないと駄目だとか、そういう風に決めないのが浄土真宗です。
<だって、もともと中身なんか最初から無いんだもん。真剣に聞いたらばからしいよね>
そうしたら助かると言うんじゃ無いからです。
<助かろうなんて、誰も思って聞いてる人なんていないもんね。>
助けるのは弥陀ですから。 <お伽噺の中だもん。いろんな化け物が登場するんだ>
私達がお念仏するにしても、それは報謝の念仏にほかなりません。
<おまじないと思えばいいんですよということです。>
私達は、既に成就しているご本願を聞くのです。
<夢の中のお伽噺のお話です。>
聞く前に既に在るご本願を聞くのです。
<意味不明でも、聞き流すのがこつです>
聞いたから助かると言うんじゃ無いからです。 <まあ、所詮、夢遊病者の気休めです>。
しかし、聞く事で、自分のはからいが無力になるのです。 <夢を見ましょうというお話です。>
聞く事が救いの条件にはならないけども、聞く事で「聞く前にご本願が成就していた」と聞くのです。
<ここがお伽噺のクライマックスですよ。桃太郎さんもビックリでしょ。>
後はご報謝の念仏だけです。
<ありがたや、ありがたや。これでお伽噺もフィナーレです。目出度し目出度し。 (⌒∇⌒)>
405 :
名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 00:03:29 ID:ls9+Z0wq
渡海さん、お念仏はおまじないじゃありませんよ(笑)
大行です。そのまま報謝行になるのです。
お念仏が口から出ると言う事は、有難い事です。
>>405 「報恩報恩」とよくいうけれど、「報恩の念仏です」と説かれて
私は「はい、そうですか、ああ有り難いなあ」と念仏できるのでしょうか?
私はちっとも全然ありがたくなかった。如来の誓願ってホンマかな?
と思った。そんな私の念仏が報恩になっているとは
とうてい思えないんですが。
疑いながらの念仏も大行・報謝の行なのでしょうか?
407 :
名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 11:05:57 ID:9JOdShBI
疑いながらでも、有難いと
思えなくても、報謝の思いが
無くても、お念仏が出ると言う事自体が、
お念仏の不思議なところでもあり、
有難い所ではないでしょうか。
408 :
名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 11:10:09 ID:9JOdShBI
ありがたくない、報謝の思いも無い、
それに気付きながら、それでもお念仏を
となえられる事に、お念仏のありがたさが有ると思います。
でもねえ。疑っている、南無してないのに南無阿弥陀仏なんて
ウソついているような気がしますが。
何か変だ。この状態にとどまって有り難がるのはおかしいじゃないか。
もっと先があるのじゃないか。そういう予感に支えられて
お念仏して(法を聴かしてもらってい)るのです。
有り難いからしているのではないです。
410 :
名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 12:09:40 ID:9JOdShBI
本当にお念仏に関心の無い人は、
>>409さんの
ような疑問も起こらず、お念仏もとなえる
事はありません。
>>409さんがお念仏をとなえられるのは、
私はそれだけでお念仏が409さんに届いている
証し、だと思います。
ただ、409さんは、それでは満足出来ない
だけなのだと思います。
僕もそうですよ。だから時々、お念仏を
となえて何かその先にあるものを求めようと
します。
でも、本気で証しが欲しいなら、比叡山の僧侶になって、
常行三昧を行うしか無いと思います。
そうすれば、お念仏を一心にとなえた後で
何か証しをえられるかも知れません。
もちろん、素質の有る人で有れば、でしょうが。
私はそこまでして証しを求めようとも、欲しいとも
思いませんけど。
お念仏となえつつ日々を暮らす。それはそれで
幸せかなあ、と思います。
411 :
名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 12:38:13 ID:9JOdShBI
お念仏をとなえて、すぐに喜べる人もいれば、
全く喜べ無い人もいるけれども、これは理由が有るのだそうです。
お念仏をとなえても、喜べず、大して嬉しくも無いのは、
生まれる前に居た、地獄や餓鬼の世界での
罪が消えてないからで、それでも
構わずお念仏をとなえて行けば、罪も消えて自然と喜びも湧いてくると、
法然聖人は言ったそうです。
親鸞聖人は、お念仏をとなえても喜べないのは煩悩のせいであり、
そういう私達凡夫の為の誓願だから、喜べない事はかえって
私達の往生が決定してる、頼もしい、と言いました。
喜べたら、逆に私達には煩悩が無いのではないか、
と不審に思う、とも言いました。
法然聖人は、お念仏を喜べないのは、地獄や餓鬼界にいたころ
の罪が消えてない証拠だと言い、
親鸞聖人は、お念仏を喜べないのは往生決定の証拠だ、
喜べない私達の為の本願だから、と言いました。
だから、私や409さんがお念仏をとなえても
喜べ無いのは、極楽浄土往生決定の証拠だと言う事です。
喜べなくても往生決定。
喜べるようになっても往生決定。
どっちにころんでも往生決定。死んだ後の事は心配無用。
後はこの世界でそれぞれどう生きるか、だけですね。
412 :
名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 10:06:27 ID:oZ3ctGwO
簡単に言えば念仏を称えるのは諸仏だね。これは17願にあるわけだから。諸仏が
アミダ如来を説いて誉める訳よ。阿弥陀如来は空の別名だから要は縁起の法を諸仏が
誉め説いてるわけね。この世の諸仏のひとり釈迦も縁起の法を説いたわけだ。
それを衆生は聞くわけだ。正確には聞いて思して観察して忘れずに専心するわけね。
そうすると二つのうちどちらかの利益が得れるわけ。それは現世における悟りか、
煩悩の残りが有るならば迷いの生存に戻らないかの、どちらかの果報があるのよ。
親鸞は煩悩の残りがあるから現世正定聚といってもう後戻りしない位につくといったのよ。
これは親鸞が勝手に言ってる訳じゃないんだよ。ちゃんと最古の原始教典に説いてあるんだよ。
413 :
名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 10:17:56 ID:oZ3ctGwO
およそ苦しみが生ずるのは縁によって起こるというのが一つの観察の法である。
しかしながら縁が離れ消滅するならば苦しみの生ずることがないと言うのが二つの
観察法である。この二種を観察して怠らずつとめ励んで専心しているものは二つの果報の
うちいずれか一つの果報が期待される。
現世におけるさとりかあるいは煩悩の残りがあればこの迷いの生存に戻らないことである。
−−−−これが原文ね−−。だから釈迦が縁起の法を説いたのが17願の成就ですね。
縁起は簡単に言えば空でアミダのことね。で私かそれをつまり阿弥陀に心を専心することで
この世で悟りかもしくは迷いの世界に戻らないかどちらかの果報があるわけ。
親鸞は後だった。
414 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/14(水) 20:28:17 ID:z5w03XU7
信心には二つある。それは真門の信心と真如門の信心だ。浄土真宗は門としてもう一つ、要門
という概念を立てるが、要門については信心という概念を立てることはない。
信心には二つあるというと、意外な感じを持つ人も多いだろう。しかし、理屈が分かれば奇想
天外な主張ではない。
例えば、日本人大リーガーの一人にイチローという選手がいる。あの人は、子供の時から非常
に野球の練習が好きだったらしい。最初はお父さんから教えられ、人一倍バッティングの練習を
していた。まあ、少年野球の子供達というのは、大概そんな風にして練習を始める。親や監督さ
んから指示されて練習を開始する。そうして強くなっていく。つまり、大人の言葉を信じて練習
する。
今のイチロー選手はどうか。まさか、親や監督さんが、手取り足取り、あれをしろとか、これ
をしろなんて言わないだろう。大リーガーのコーチ陣は、練習の大枠を作るだろうが、基本的に
は本人の自覚に委ねられているはずだ。ああいう人は、自分からわき起こってくる何かがあって
大いに練習をする。そして、今になって、昔、親や少年野球の監督さんなんかがいろいろ教えて
くれたことの言葉の深さをしみじみ味わっているんだろう。
子供の時のイチロー選手と大リーガー時代のイチロー選手とでは、こみ上げてくるものがちが
うはずだ。同じように一生懸命練習していても、もしかすると子供の時の方が、大リーガーの現
在よりも、真剣さでは上だったかも知れない。しかし、心の質は違うはずだ。
415 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/14(水) 20:29:16 ID:z5w03XU7
真剣に向かいながらも、心は質が違う。浄土真宗はこの心の質の違いに着目している。かつて、
祇園精舎の素晴らしさを聞きつけた若者が多くの国々から祇園精舎に集まってきた。心躍らせな
がら集まってきた人々は、やがて祇園精舎の中でさらに多くの発見をする。心躍らせた思いは、
やがて質的に大きく変わっていったろう。浄土真宗は、ここに、真門という概念と、真如門とい
う概念を立てる。
本願を信じ念仏申さば仏になる。バットの素振りを一生懸命やってごらん、今まで打てなかっ
たボールも打てるようになる。少年野球の少年達は、子供達を強くしようと願う監督さんの言葉
を信じ、夢中になって練習する。
「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」。「そうか、こ
ういう風なタイミングでこうやってバットを振ると、これだけ広い範囲の球を打てるんだったの
か」。球を打つ技術は、練習する中で会得され、これが自信・確信に変わっていく。「こういう
練習をすると、こんなことも分かってくるのか。そうか、こういう練習がいいんだな」
選手としての練習に対する自信・確信は、練習する中からわき起こってくる。これは、他人が
簡単に言葉で伝えられるものではない。真の自信、確信は、やってみて分かる。必ず行が先行す
る。練習をしよう、練習をすればこんなことが分かってくる。練習こそ全ての基礎だ。練習で培
われた自信は、教・行・証を深く敬信する選手に育てる。そんな中から、かつて自分を導いてく
れた両親、監督さんの言葉も、非常に懐かしく覚えてくる。先人の心も見えてくる。親鸞は、念
仏の行から教行証を敬信する心を培われ、先人、特に如来の恩徳の深きことを知った。親鸞は、
哲人、賢人、一流選手などの一級の人々の共通の心を公開してくれている。
416 :
名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 22:17:42 ID:oZ3ctGwO
まあなんと言ったらいいか、私は喩えがよくわからん。知っているのは親鸞さんの唯信心と言う言葉と
その意味だ。唯とはこのこと一つを言う言葉なり。また二つ並ぶことを嫌う言葉なり。
親鸞は唯信心と言ったんじゃないのか。その信心は裏表の二種深心なんだけど、
これも二つある訳じゃなくて1つなんだよね。座布団は一枚だけど裏と表があるだろ。
417 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/14(水) 23:38:38 ID:L1cAII4W
唯円は「本願を信じ、念仏申す」と言っている。親鸞は、「真実の信心は必ず名号を具すという。
名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」という。
親鸞の信と唯円の信とは、同じものかどうかというところが議論の原点です。ここで、親鸞の信
と唯円の信とは座布団の裏表、本質は同じだと考えるかどうかということです。
座布団の裏表、本質は同じだと考える考え方もあるでしょう。本質は同じだと考えれば、僕の議
論は意味を持たなくなります。しかし僕は、座布団の単なる裏表と考えるには、余りにも違いすぎ
るじゃないかという考えを採ります。
二つの考えが、別の概念だと仮定すると、選択肢は四つあります。親鸞も唯円も共に間違ってい
るという考え。親鸞は正しくて唯円は間違っているという考え。親鸞は間違っていて、唯円が正し
いという考え。親鸞も唯円も正しいという考え。この四つです。
僕は、親鸞と唯円の信は違うんだけど、両方とも正しいという仮説に立ちます。親鸞と唯円とは
別の人格を持っています。親鸞は唯円に賛同しなければならない理由はなく、唯円は親鸞に賛同し
なければならない理由はありません。二人はそれぞれ独自の確信に立っている。そう考えたわけで
す。
418 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/14(水) 23:39:18 ID:L1cAII4W
それでは、二つの信を共に肯定する統合的な考えはどういうものか。僕はそれをイチロー選手を
引き合いに出して考えてみたわけです。彼は子供の時、人一倍練習をしていたそうです。人一倍練
習すると言うことは、それなりに何らかの確信があったのでしょう。そして今のイチロー選手も人
一倍練習している。ここにもやはり確信があるはずだと思ったわけです。
子供の時確信と、今の確信は違うはずです。唯円の信心と親鸞の信心をそこに投影すると両者は
見事に当てはまる。僕はそう思う。
親鸞が唯信心と言っていたのは、大リーガーの時代の今のイチロー選手の確信、これこそが本物
だという立場でしょう。子供時代の確信はあくまで途中段階に過ぎない。大リーガーの時代の今の
イチロー選手の確信に学ぼう。親鸞ならそういうのでしょう。世の中には、哲人、巨匠、大家など
と呼ばれている人がいます。親鸞はそういう人々の共通的な精神を明らかにし、それを唯信という
言葉で教えてくれている。
しかし、哲人、巨匠、大家でなく、少年期の確信だって決して捨てたものじゃない。これは入門
者にとっては大事な確信だ。唯円は親鸞が斥けた確信にスポットライト当ててくれている。そう思
うんですよ。
難しい話をしているつもりはないんだけど、分かりにくいですか?。
419 :
名無しさん@3周年:2007/02/15(木) 01:17:18 ID:gO5/LHPI
そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないの。唯えんも親鸞もあんたも
如来より賜りたる信心でいいんじゃないのか。
420 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/15(木) 13:26:26 ID:xG6xkfcm
>>419 >難しく考えなくても 〜 如来より賜りたる信心でいいんじゃないのか。
マイコン坊主のための典型的すり込みデンパ注入洗脳教義。
421 :
名無しさん@3周年:2007/02/15(木) 13:55:32 ID:40XzeuTS
信心って何なの?
喜べないと信心無いの?
念仏しないと信心無いの?
如来からもらったと思わないと信心じゃ無いの?
真門とか真如門とか分けないと信心じゃ無いの?
名号は必ずしも願力の信心を具せざる
って言うけど、名号は何なの?
422 :
名無しさん@3周年:2007/02/15(木) 14:26:01 ID:40XzeuTS
俺にとっては名号が願力の信心だ。
名号で願力の信心を得ようとする人は
願力の信心を知らないだけだと思う。
願力の信心は名号だ。それが願力の信心だろ。
423 :
名無しさん@3周年:2007/02/15(木) 17:14:47 ID:40XzeuTS
名号となえ続ければ
信心得られる
とか思っていたら、いつまでも
信心なんて得られないと思う。
名号が信心であり、名号以外に信心は
無いと、俺は思うよ。
424 :
名無しさん@3周年:2007/02/17(土) 02:10:39 ID:QTuND7A6
何、信心を知らないのか。二種深心のことだよ。簡単に言えば名号、すなわち
南無阿弥陀如来を聞いてその働きにうなずくと同時に、その働きの中にありながら
正しい見方が出来ずに苦しむ愚かな自己に気づくこころの事だよ。
もっと簡単に言えば阿弥陀如来と空、縁起の別名だから因縁生起の世界に頷くと同時に
それを忘れ自己中心に生きてる自分に気がつく心だね。前者を法の深心、後者を機の深心
と言ってるのよ。たとえれば光と影が同時に知れるわけだ。仏教の話を聞けば
聞くほど光が益々確かな物に強くなると同時に影も益々濃いくなる。この歩みを
往生と言ってる。衆生は諸仏が空縁起の法を説く、言葉を換えれば諸仏が阿弥陀如来を誉め称えるのを
聞いて縁起の法を知り、自己を知るんだよ。
しかしすぐ忘れるから念仏をして忘れないようにしてるのよ。念仏するたびに縁起の法を思い出すわけだし
自己中心的なものの見方で苦しむ自己に気づくわけだ。
425 :
名無しさん@3周年:2007/02/17(土) 08:26:00 ID:U5rjKFFr
それは理解できる。
426 :
名無しさん@3周年:2007/02/17(土) 15:48:43 ID:QTuND7A6
この自己を罪悪深重と知ることというか内容は縁起の法を知りうなずけるのに
すぐ忘れ自己中心に考える、死ぬまで怒り嫉み妬み喜び悲しみしている愚かな自分に
気づくことは、阿弥陀の本願に沿うことなのよ。だってそのような凡夫のために
本願を建てたわけだから。凡夫に気づけといってるわけだから。
問題はどうして縁起の法を知ったのに心がそのごとくみれないかだよ。
そこで釈迦が言ったわけよ。縁起の法を知ったものは二つのうちどちらかの利益を
うける。1つはこの世で解脱できる。2つは煩悩の残ってる者は解脱出来ないけど
後戻りしないという訳ね。後者が親鸞だったんだよ。
427 :
名無しさん@3周年:2007/02/17(土) 15:57:01 ID:QTuND7A6
この後戻りしないというのは、釈迦は流れに入るとか迷いの世界に戻らない
とか言ってるよ。親鸞は正定じゅといってる。解脱できない者にとって後戻り
しないことはとても大切なのよ。解脱すると心身一如になるらしい。
如というのは縁起の法のことね。それと身と心がピッタシ合うと言うんだが、
身は縁起の法則に沿って生死変化しているよね。問題は心だね。
真門・真如門というのと、第20願・第18願はどのように関係しますか?
430 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/18(日) 10:25:38 ID:pZVchcMb
>>409 >もっと先があるのじゃないか。そういう予感に支えられて
うんうん。そうそう。まあ、そんな予感はいずれ木っ端微塵に粉砕されるんだろうけど、結論は
決して急ぐ必要はない。予感がささえてくれているなら、支えてくれているその予感は大事にした
い。大人びた僕の99%の予想の方が、実は木っ端微塵に粉砕される可能性だってある。
青い鳥は自分の家の軒先にいた。それは夢から覚めて気がつく。夢から覚めないと気がつかない。
夢を見ることを馬鹿にしてはいけない。夢を見るときには夢はしっかり見ていくこと。これは大事
なことだだ。それがないと、軒先の青い鳥にも気がつかないかもしれない。
希望を捨てないでしっかり求めていけば、きっと何かが得られるだろう。果遂の誓い、まことに
故あるかな。親鸞聖人も、大人びた老獪な僕のような人間の99%の予想を木っ端微塵に粉砕した
そんな人だったんだろう。
>お念仏して(法を聴かしてもらってい)るのです。
念仏するということと、法を聞くと言うことはしっかりと別のことと考えるといい。消火器屋さ
んから消火器の使い方、管理方法をしっかり聞いて内容を体得すると言うことと、自ら自主点検し
て火災に備えるということとは、密接に関連しているけど別のことだ。
消火器屋さんから消火器の使い方、管理方法をしっかり聞かないと、常時の自主点検はできない
けど、消火器屋さんから消火器の使い方、管理方法をしっかり聞いているだけでは、自主点検にな
らない。法を聞いているだけでは、念仏を称えていることにはならないから、これは別の概念とし
て考えていきたいものだ。
431 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/18(日) 10:26:57 ID:pZVchcMb
>>410-411 >私はそれだけでお念仏が409さんに届いている証し、だと思います。ただ、409さんは、それでは満足出来ないだけなのだと思います。
>お念仏となえつつ日々を暮らす。それはそれで幸せかなあ、と思います。
410さん。貴方が仏教に触れ目的は何なんでしょうね?。貴方の話に、僕は人間味が感じられ
ない。人間の体温が感じられない。
体温が感じられないというこの僕の感触は貴方に伝わりにくいだろうか。仏教に触れたい。是非
このために仏教を学びたい。そんな思いが伝わってこない。そう申し上げれば、少しは理解して貰
えるだろうか。貴方の心に思い当たる点はあるだろう。
自分は、この目的のために仏教を学んでいくんだという思い、それが伝わってこない。この人は
いったい何のために仏教を学んでいるんだろう。仏教を学ぶこの人の目的は何なんだろう。そんな
思いが湧いてくる。だから貴方の言葉には、生きた人間の息吹を感じられない。409さんの方が、生
きた人間の息吹を感じる。魂が感じられ、共感を覚える。
化石ではなく、人間であれば血を通わせたい。ぬくもりを持ちたいものだ。そんな思いが湧いて
くる。
>>412 >ちゃんと最古の原始教典に説いてあるんだよ。
大凡聖教には、真実権仮共にあい交わり候なり。権を捨てて実を取り、仮を差し置きて真を用い
るこそ、聖人の御本意にて候え。構えて構えて聖教を見乱らせ給うまじく候。
お伽噺は行間が大事。行間を読み、眼光紙背に徹して読まないと読み間違うだろう。ちなみに貴
方が考えている原始教典をもう一度手にし、前後からしっかり読み直すと、考えが変わるかも知れ
ないね。
>>413 言っていることがちんぷんかんぷんだ。
>>429 <後日>
432 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/18(日) 12:52:30 ID:4jzJa7ic
>>431 そうだな。>> 410-411は、100円入れると規定どおりのジュースが出て
くるような、自動販売機が話をしてくれているようで、血も涙も感じないと
言えば分かりやすいだろう。
最近は、自動販売機でも色々なタイプもあるが、10年位前の自動販売機
は本当に心がなかったよ。
433 :
名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 13:11:29 ID:TobG5imE
421-413
これはね、仏教というとこの世で解脱して悟りを得ることなんだけど親鸞はこの世で
現生正定聚の位に定まるといった訳ね。これは親鸞のかってな解釈じゃなくて原始教典に
すでに釈迦がそのような事を言ってるわけです。
真宗は浄土三部経を根本に成り立ってるんだけど経そのものは釈迦没後何百年たっていろいろな思想を
うけ成立したわけね。じゃ一番古いのは今残っているのはスッタニパ−タだろ。
大経にさまざまなものが入っているのを遡って原始教典を訪ねていけば源流がわかってくるぜ。
その一つにスッタニパ−タに大いなる章のなかの二種の観察のところの文を中村元先生が訳されたのを
書いたのが413番だよ。ここに親鸞がいうこの世で退転しない正定聚の原型があるわけです。
>>430 レスありがとうございました。
お聖教も同時並行的に読ましてもらっているという意味だったのですが
私の書き方がまずくて伝わらなかった。429も私の質問です。
とかい氏の書きたいテーマと重なるのであればお願いします。
>>433 スッタニパータ自体は当然、親鸞聖人は読んでおられないと思うけど、
釈尊のお心・お悟りにつながっていたということでしょうか。
435 :
名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 23:50:27 ID:hJ/yew1b
俺は、 阿弥陀さんにお願いすると、叶えて
くれると思う。
436 :
名無しさん@3周年:2007/02/19(月) 02:51:34 ID:fcuEeFO0
アミダさんに何をお願いするんだい。
437 :
名無しさん@3周年:2007/02/19(月) 08:56:48 ID:H9kxe1y0
家族と自分の幸福とか、貧乏や病気になりませんように
とか、災難に逢いませんようにとか
みんなが幸せでありますように、
みんなが心安らかに暮らせますように、
とか、そんな事。
浄土真宗では否定するけどね、
でもどうしようもない。
災難とか貧乏とか病気とか、やっぱり嫌だもの。
仏さんのものさしではどうかわかんないけど
嫌なものは嫌だもの。なりたくないもの。
阿弥陀様だけで心が安心して、幸福を感じれれば
いいけど、そうじゃないでしょ。
438 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/19(月) 10:48:16 ID:dxzjBM19
>>412 >簡単に言えば念仏を称えるのは諸仏だね。これは17願にあるわけだから。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>諸仏がアミダ如来を説いて誉める訳よ。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>阿弥陀如来は空の別名だから要は縁起の法を諸仏が誉め説いてるわけね。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>この世の諸仏のひとり釈迦も縁起の法を説いたわけだ。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>それを衆生は聞くわけだ。正確には聞いて思して観察して忘れずに専心するわけね。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>正確には聞いて思して観察して忘れずに専心するわけね。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>そうすると二つのうちどちらかの利益が得れるわけ。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>それは現世における悟りか、煩悩の残りが有るならば迷いの生存に戻らないかの、どちらかの
果報があるのよ。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>親鸞は煩悩の残りがあるから現世正定聚といってもう後戻りしない位につくといったのよ。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
439 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/19(月) 10:49:51 ID:dxzjBM19
>>413 >およそ苦しみが生ずるのは縁によって起こるというのが一つの観察の法である。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>しかしながら縁が離れ消滅するならば苦しみの生ずることがないと言うのが二つの観察法であ
る。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>この二種を観察して怠らずつとめ励んで専心しているものは二つの果報のうちいずれか一つの
果報が期待される。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>現世におけるさとりかあるいは煩悩の残りがあればこの迷いの生存に戻らないことである。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>−−−−これが原文ね−−。
ちんぷんかんぷん。
>だから釈迦が縁起の法を説いたのが17願の成就ですね。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>縁起は簡単に言えば空でアミダのことね。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>で私かそれをつまり阿弥陀に心を専心することでこの世で悟りかもしくは迷いの世界に戻らな
いかどちらかの果報があるわけ。
意味不明。宇宙人の寝言、うわごと、怪電波。
>親鸞は後だった。
ちんぷんかんぷん。 意味不明。
本気で親鸞のことを勉強したいなら、マイコン宗教デンパ教義を洗い流せ。
440 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/19(月) 10:51:33 ID:dxzjBM19
>>421 >信心って何なの?
教行証を敬信する心だ(教行信証)。
念仏を称えようと言う教えと、念仏を称えるという行為と、称えたことで得られてくる諸々の
効果、これらを非常に大事にする心、これが信心だ。これは、人が人として生きていく上で、人
々に非常に意味のある確信、自信をもたらしてくる。
生きていく上で非常に意味のある確信、自信と言えば、例えば仕事上の自信、確信などがある。
経営者としての自信、確信などがある。職人としてのプライド、あるいは挑戦者として戦いに臨
む意欲などがある。これらはみな、人として非常に大事な心だ。仏教が言う信心は、その中でも、
人生にとって非常に汎用性のある、応用性の広い自信、確信の一つだと言っていいだろう。
世の中には、哲人、賢人と言われる人々がいる。巨匠、大御所と呼ばれるような人々もいる。
哲人・賢人・巨匠・大御所達、あるいは世界の一流のスポーツ選手達は、ある共通的な心を持つ。
釈迦は、そうした人々の共通の心を万民に開示しようとしてくれている。釈迦を先生と仰ぐ人々
は、釈迦を通して古来、その哲人、賢人達の心を学んできた。僕は今、そう思う。
釈迦は、哲人、賢人達の心を学ぶ方法を弟子達に公開した。イチロー選手は、ひたすらバット
の素振りでバットの感触を学んだそうだ。松阪選手はキャッチボールでボールの感触を学ぶ。画
家はひたすら絵筆を握り、天文学者はひたすら望遠鏡を覗く。
素振りでもいい。キャッチボールでもいい。絵筆でもいい。望遠鏡でもいい。ひたすら打ち込
んでみるといい。ひたすら打ち込んでみると、打ち込まない人には見えなかった世界が広がって
くる。
実に多くのものが様々に教えてくれている。画家は花から美の神髄を学び、生命学者は花から
生命の起源を学ぶ。包丁をもってバスに乗り込み、乗客を殺して運転手を脅迫した少年の舌に、
検察官は事件の動機を学び、心理学者は少年の闇の心を学ぼうとする。
441 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/19(月) 10:55:09 ID:dxzjBM19
実に一切の者が様々に、様々に真実を教えてくれている。花でもいい。石でもいい。自分の仕
事でも、友人でもいい。嘘っこでいい。嘘を承知であだ名を付けるといい。相手に気づかれない
ように、そっと「先生」というあだ名をつけるといいだろう。
腰を落とし、姿勢を正し、「先生、先生」と繰り返し繰り返し念じてみるといいだろう。阿弥
陀とはサンスクリット語で先生という意味だ。仏とはこれも先生という意味だ。かつて、釈迦の
弟子達が釈尊先生から最初に学んだことは、先生を先生と呼ぶことだった。
去来現の仏、仏と仏と相念じ給う(大無量寿経)。祇園精舎の建設に成功した釈迦は、その成
功を決して自分一人の手柄とは思っていなかったようだ。過去の開拓的な先人達、現在の無数の
優れたリーダー達、未来の賢人・哲人を目指す努力家達、こうした過去・現在・未来の多くの人
々に支えられ、それで成功したのだ。だからこそ、釈迦は絶えずこういう人々の事を心に思って
いた。世界の哲人・賢人達の共通の心、それは去来現の仏、仏と仏と相念じ給う心ではないのか。
釈迦の弟子達は、人生で困ったときには、静かに腰を落とし、釈尊先生のように、先生、先生、
ああ先生、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念じたことだろう。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念じてみよう。念仏を称えようという教え、念仏を称えるとい
う行為、称えたことから見えてくる効果、これを非常に大事に思えば、過去・現在・未来の哲人
達・賢人達が互いに心を交流し合っている世界が開けてくるだろう。哲人達・賢人達が心を交流
し合う世界、それは、あらゆる人々に対し、人生に非常に力強く自信と確信とをもたらして来る
に違いない。
念仏を称えようという教え、念仏を称えるという行為、称えたことから見えてくる効果、この
三つを非常に大事に思う心、これはあらゆる人々に素晴らしい世界をもたらしてくるだろう。ぼ
くはそう思っている。
442 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/19(月) 16:41:27 ID:lA7siPoy
世界の一流のプレーヤー達は、どうやって一流プレーヤーの心を得ていくのか。松坂選手など
は、キャッチボールが大事なんだというその教えと、それに従ってキャッチボールを行うと言う
ことと、キャッチボールをやってそこから得られてくる諸々の発見とを大事にし、その大事に思
う心を育てることで一流のプレーヤになっていったんだろう。イチロー選手は、素振りは大事だ
というその教えと、それに従って素振りを行うことと、素振りをやってそこから得られてくる諸
々の発見とを大事にし、その大事に思う心で一流のプレーヤになっていったんだろう。彼らには、
阿弥陀さんも17願も18願も、全く関係がない。信心というのは、阿弥陀さんの問題じゃない。
17願でも18願でもない。教行証を敬信するとは、まさにそういうことだ。
自分はラーメン屋さんになろう。自分はガードマンさんになろう。そう思う人は、野球がうま
くなる必要はない。だから素振りもキャッチボールも必要がない。ただ、実に一切のものが様々
様々に教えてくれている。だからこそ、自分の回りの者に、嘘っこでいいから先生とあだ名をつ
け、阿弥陀仏とあだ名を付け、念じてみるといい。
念仏を称えても、野球は上手くならないよ。野球のボールの手応えなどは分かるようにならな
い。大リーグの野球場でプレーできるようになるなんてことは決してない。それでも、自分が忘
れていた様々な事を思いがけず発見することもあるだろう。
念仏を称えようという教え、念仏を称えるという行為、その行為から発見されてきたもの、そ
れらを大事していこうじゃないか。それは、あの松坂選手が、イチロー選手が上っていっている
一級の哲人、賢人達の世界に通じる道だ。
443 :
名無しさん@3周年:2007/02/19(月) 16:46:23 ID:DhtnYRLP
444 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/19(月) 19:41:23 ID:lA7siPoy
>>443 ウム。よし。そうか。なるほど。
仏教を真剣に学ぼうとなんていう気持ちは、露塵ほどもないようだ。
葬式坊主の典型だ。
445 :
名無しさん@3周年:2007/02/19(月) 19:57:47 ID:Rm6b+s98
/∵∴∵∴\
/∵∴∵∴∵∴\ /::::::::::::::::::::::::::\ ←渡海
/∵∴∴,(・)(・)∴| \\\ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ ◎
|∵∵/ ○ \| \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
|∵ /. ミ | 彡 | _ \\ \;;;;;;;;;;ノ \,, ,,/ ヽ
|∵.| \___|_/|. \ \\\( 6 *)─◎ ),・∵
\| \__ノ /__ \ 彡\ノ\ )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
\___/ \ \ |\ )))∵ 3 ∵>;、・∵ '
/ _ ` ー一'´ ̄ / _{ ヽ;;_ \ ヽ ノ
(___) / .| ゝ〉 〉 〉ノ_ \__ ∵::__ノ ;
| |消えろ蛆虫 | __|;、・∵:: ;
>>413 あなた一言でいうと「馬鹿」ですね
渡海さんにあやまりなさい
447 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/19(月) 23:53:25 ID:dxzjBM19
>>446 >渡海さんにあやまりなさい
いやいや、謝る必要なんかない。>> 413は、>> 443を念頭に置いているのかな?。
相手に刃を向ければ、同じ刃が自分に降りかかる。ブーメラン効果だ。「意味不明。宇宙人の
寝言、うわごと、怪電波」と言ったのは僕の方だから、同じ言葉が僕に戻ってきても不思議じゃ
ない。
僕は、時に遠慮ない発言をしている。今、僕が言っていることが分からなくても、心の隅に残
って欲しいからだ。辛辣な発言に対する相手からの反発は、こっちも覚悟はできている。僕が遠
慮無い発言をしているときは、僕に遠慮無い発言をしてくれて結構なんだ。
まあ、いつもおなじみの445のポンチ絵なんかはもう飽きたけどね(苦笑)。
2,3日カキコ不能。
阿弥陀の誓願は寝言だから切り捨てていいとなると、「南無阿弥陀仏」という名号の根拠が無くなるのではないですか。
念仏は18願を根拠にするという理解以外には無いでしょう。
そうでないと「南無阿弥陀仏」は良くて「いろはにほへと」はダメだという理由がありません。
449 :
名無しさん@3周年:2007/02/21(水) 00:04:49 ID:cTdyzigs
誓願を切り捨てる事は、阿弥陀の誓願が説かれた無量寿経を
切り捨てる事につながるから、それは行き過ぎだと思うけど、
誓願が成就して、南無阿弥陀仏になっているのだから、
南無阿弥陀仏だけで充分だと思う。
それで誓願知りたければ知れば良い事だし。
誓願そのものが重要ならば、誓願文をとなえる必要が有ると
思うけど、そうじゃ無いし。
南無阿弥陀仏で仏に成れると思って称えれば、大丈夫なんじゃ
ないかな?
南無阿弥陀仏だけあればいいんだとして、その根拠になる浄土三部経を
破棄したり、読まなくていいんだとか言うのは問題だと思うけど。
>>449 その称名の根拠は18願にあるというか、それのみだと考えています。
451 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/22(木) 00:57:23 ID:EjiCXU1L
>>421 >喜べないと信心無いの?
他力の悲願は、かくの如きの我らが為なりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。
421は、自分に喜びはないが、信心はあるぞと言いいたいのか。喜びがあることは、何ら信心
の証明にはならんが、喜びもない、嬉しくもない、楽しくもない信心があると言われても、僕に
はそれこそ全く信じられないね。
>念仏しないと信心無いの?
野球には、野球をしたことのない人には分からん楽しさがあるだろう。柔道にも、柔道をした
ことのない人には分からん楽しさがあるだろう。念仏をしないで念仏の何が分かるというんだ
い?。信心を、野球の観戦と勘違いしなさんなよ。
>如来からもらったと思わないと信心じゃ無いの?
これは、真剣に念仏を称えていた人が、念仏を称える中で得た実感を自分の言葉で語った言葉
だ。念仏を称える中で得た実感を語る言葉には、人によって様々な表現があるだろう。ところで、
おぬしはどんな言葉で自分の実感を表明するんだい?
452 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/22(木) 00:58:48 ID:EjiCXU1L
>真門とか真如門とか分けないと信心じゃ無いの?
思想の構造が異なる歎異抄と教行信証を橋架け的に理解しようとするなら、この二つの概念の
理解は不可欠だろう。
真門と真如門を分けないで、貴方はどんな風に歎異抄と教行信証の矛盾を説明するんだい?
>名号は何なの?
口で称え、声になって具現する南無阿弥陀仏。
>>422 >俺にとっては名号が願力の信心だ。
理解不能、意味不明
>名号で願力の信心を得ようとする人は願力の信心を知らないだけだと思う。
理解不能、意味不明
>願力の信心は名号だ。それが願力の信心だろ。
理解不能、意味不明
>>423 >名号となえ続ければ信心得られるとか思っていたら、いつまでも信心なんて得られないと思う。
定散自力の称名は 果遂の誓いに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する
>>429と一緒に考えていこう。
453 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/23(金) 00:44:30 ID:dSOlDycB
>>424 >何、信心を知らないのか
信心を知っているのか。現代では珍しい坊さんだな。
>二種深心のことだよ。 ほう。大した物だ。難しい言葉を知っているんだな。
>簡単に言えば名号
簡単に言えば名号?。何のこっちゃい?。深心は名号?。そんな話を何処で聞いてきたんだ?
>南無阿弥陀如来を聞いてその働きにうなずくと同時に
南無阿弥陀如来を聞いてその働きにうなずく?。なんのことだい?。その働き?。「その」は
何を指している代名詞だい?。
>その働きの中にありながら 正しい見方が出来ずに苦しむ愚かな自己に気づくこころ
おいおい。夢でも見ているんじゃないか。正しい見方が出来ずに苦しむ愚かな自己?。どこの
自己?。腹でも壊しているのか?。
掲示板は残るんだよ。ここに書くときは、酔いを覚ましてから書くか、酒を飲む前に書くとい
い。ここは酔っぱらいがくだ巻くところじゃないんだよ。
深心は観無量寿経の中の言葉。観無量寿経は、方便の経、19願、双樹林下往生を明らかにし
ている。親鸞が提起した問題の所在、なぜ深心が問題になるのかを確認し、そこから親鸞の信心
を考えてみたい。 後日書きます。なお、真門・真如門は、深心論の後にします。
454 :
南無阿弥陀仏:2007/02/23(金) 08:28:37 ID:0cOBiQfq
このように、渡海さんや皆さんが、南無阿弥陀仏
とか信心について語れるのは、どうしてなのか、
渡海さんは考えた事はありませんか?
455 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/23(金) 10:28:30 ID:r23Q3y1E
広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く。しばらく疑問を至してついに明証を出だす。
誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。浄邦を欣う徒衆、穢域を厭う庶類、取捨を
加うといえども、疑謗を生ずることなかれ、と。
自分は、大無量寿経・阿弥陀経・観無量寿経という三つの経典を教わり、そこかに「一心」と
いうキーワードを発見した。一心というこのキーワードの意味に自分はしばらく苦しみ、そして
やがてその本当の意味に気がついた。この言葉の中には、先人達の深い心が込められている。こ
れは、法然上人にはなかった自分のオリジナルの主張である。今まで誰も主張した者はいない。
私の主張を聞けば「そんな馬鹿なことがあるか。お前の考えは間違っている。とんでもない奴
だ」と、このように誹謗するかもしれない。自分は、こうした誹謗、中傷があれば、それは甘ん
じて受けよう。しかし、極楽浄土を願う人々よ。今生の迷いの世界からの脱出を求める人々よ。
仮に、何かの考えを加え、あるいはまた何かを削除することはあっても、疑惑と謗りとを生じて
はならない。
話を聞くだけで深く考えないということがあってはいけない。自分勝手に考えているが、人の
話をほとんど聞かないということがあってはいけない。方法論はあると信じながら、その方法論
を実践している人がいるということを信じないことではいけない。実践している人がいると知り
ながら、その人の方法論には関心をもたないということではいけない。これらは全て信不具足と
いう。これが疑惑である。疑惑の心を持って真実を中傷してはいけない。さあ、一心の意味を考
えていこうじゃないか。
三経の一心とは何か。それは、阿弥陀経に出てくる。「一心にして乱れざれば、その人、命終
の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん」。一心不乱に名号を
執持つまり南無阿弥陀仏を一心不乱に称えれば、絶体絶命の時であっても、阿弥陀仏はもろもろ
の聖衆共に救いにやってくるという。
456 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/23(金) 10:29:06 ID:r23Q3y1E
これがなぜ問題のなのか。大無量寿経は言う。「心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、
乃至十念せん」。つまり、至心・信楽・欲生という三つの心が浄土往生の条件であるという。も
し大無量寿経が言うところを信じれば、阿弥陀経では、「三心不乱に念仏を称える」とならなけ
ればならない。しかも、大無量寿経は、至心・信楽・欲生というが、観無量寿経は「かの国に生
まれんと願ずれば、三種の心を発してすなわち往生す。何等をか三つとする。一つには至誠心、
二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具すれば、必ずかの国に生ず」という。ここで
は至誠心・深心・回向発願心を起こせという。至誠心・深心・回向発願心は、至心・信楽・欲生
と同じなのか、違うのか。阿弥陀経の言う一心とは、至心なのか、信楽心なのか、欲生心なのか、
至誠心なのか、いったいどれなんだろう。それとも、全部ひっくるめた心なのか。それとも、阿
弥陀経は嘘を言っているのだろうか。
信心とはどういう心を言うのだろうか。法然は、大無量寿経の三心と観無量寿経の三心とは同
じだという考えを採る。それじゃそれは、阿弥陀経の一心とも同じなのか。阿弥陀経の一心と大
無量寿経の三心、あるいは観無量寿経の三心と同じなら、阿弥陀経の一心不乱は、三心不乱とい
いうことなのか。それでは、世親についてはどう考えたらいいのだろうか。「世尊よ。我一心に
尽十方無礙光如来に帰命します」と言っている。大乗仏教で釈迦に次ぐ高僧である世親は、「世
尊よ。私は三心に尽十方無礙光如来に帰命します」と言っているのだろうか。
極楽浄土に往生する心、信心の中身は一体何か。親鸞はこの問題で苦しんだようだ。二種深心
とは、この核心部分の主張である。親鸞の主張の結論では、一心不乱の一心こそが信心であると
いうところに帰着してくる。イチロー、松坂などを例にしながら、親鸞の議論の論証を追い、哲
人達、賢人達が持っている共通の精神世界を仮説的に考えていきたい。
457 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/23(金) 10:31:48 ID:r23Q3y1E
>南無阿弥陀仏とか信心について語れるのは、どうしてなのか、 渡海さんは考えた事はありませんか?
他力真宗の興行はすなわち、今師の知識より起こり、専修正行の繁昌はまた、遺弟の念力より
成ず。
他力真宗の教えは親鸞・法然という高僧方の深い認識に発し、それを無数の善男善女が支えて
きた。無数の善男善女、信心のあった人も無かった人も含め、真実を求めようとしてきた無数の
人々のその思い、心、それが時間空間を超えて今伝わってきてくれている。まさに遺弟の念力に
よる。重みのある言葉は深く味わっていきたいと思う。
以後、議論は深心論を展開します。2,3日、カキコ不能。
458 :
名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 09:28:58 ID:7PJlr85J
>>454 454は何が言いたいのだろう。
言いたいことは、きちんと最後まで言った方がいいよ。
スレをご覧の皆様こんにちは。突然ですが
>>409です。
疑いの心でちっともありがたくないと書きましたが、
今は有り難い、を飛び越して、ただただ驚いています。
もう驚くばかりです。なむあみだぶつ。
ありがとうございました。
461 :
名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 14:38:49 ID:tpoYJi5q
私達が南無阿弥陀仏を
語れるのは、親鸞・法然、大勢の方々のお陰であり、
浄土三部経のお陰であり、
浄土三部経を説かせ書かせた
「大いなるもの」のお陰である。
それが「南無阿弥陀仏」である。
南無阿弥陀仏が既に存在して、私達に働きかけていた、
だから私達は南無阿弥陀仏について語る事が出来て、考える事が
出来るのである。
選択本願の行信、
誓願不可思議一実真如海とは、
誓願成就の南無阿弥陀仏の事だと思う。
462 :
名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 14:49:54 ID:tpoYJi5q
仏説無量寿経の宗致は本願、
すなわち仏の名号をもって仏説無量寿経の体とするなり。
選択本願の行信は、
仏説無量寿経の宗致、
他力真宗の正意なり。
至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
463 :
名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 01:27:03 ID:PI/LEbxb
ありがたいだのお陰だのなんかウソくさいと思うぜ。
親鸞が言ったのは罪悪煩悩具足の凡夫じゃなかったのか。
464 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/25(日) 09:24:13 ID:PF2jXKUD
イチロー選手や松坂選手はどうやって世界の一流選手に成長していっているのか。まあ、生来の
天分もあったんだろうが、人一倍練習もしてきたんだろう。ソフトバンクの王監督の選手現役時代
の練習は、鬼気迫るものがあったらしい。スポーツだけではない。芸事も、上手くなるにはただ練
習あるのみというのが本質だろうと僕は思う。
ただ練習という場合のただには二つの意味がある。「いたずらに」という場合のただと、「ひた
すらに」という場合のただである。一流の人が、一流の世界に参入していく場合の「ただ」は、ひ
たすらという場合のただである。
ひたすらというのは一心不乱という意味だ。余念を挟まず、一心に練習にはげむ。何事にも、特
にプロスポーツの世界では、一心に練習に励む以外に王道は無い。それではその一心の中身は何か、
これを考えよう。
イチロー選手や松坂選手、僕は彼らに一面識もないんだが、テレビなどで見るあの二人は実に笑
顔がいい。練習に一心に励む中身は何かと聞けば、あの二人などははにかんで笑い、上手く答えて
くれないかもしれない。まあ、代わって答えれば、答えは単純なことだろう。練習しなければ上手
くならないと深く信じているのだ。また、正しく練習すれば上手くなると深く信じているのだろう。
まあ、そういうことだろうと思う。このことを深く信じ、よく理解しているのが、一心不乱の練習
に反映する。それがああいうプロスポーツの世界の人々だろうと思う。
465 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/25(日) 09:26:57 ID:PF2jXKUD
練習しなければ上手くならない。正しく練習すれば上手くなる。練習しなかったら上手くならな
かった。正しく練習したから上手くなった。つまり、一心不乱の中身は、二つのことを深く信じて
いるのだ。練習しなければ上手くならない。練習してこなかったら上手くならなかった。これがそ
の一つである。正しく練習すれば上手くなる。正しく練習してきたから上手くなった。これがもう
一つである。この二つは、実は一心不乱の表と裏であり、一心不乱はこの二つが支えている。
浄土真宗が言う二種深心は、スポーツの世界、芸事の世界、学問の世界、そういう世界の一級の
人々のその心を開示してくれている。練習しなければ上手くならない。浄土真宗はこれを機の深信
という。機とは器に通じる。つまり器量という意味だ。われわれの器量は、最初から野球の上手い
やつはいない。われわれはもともと、練習しなければ上手くならないというそういう器なのだ。こ
れは、十二因縁の法則に通じている。正しい方法で練習すれば上手くなる。道理にかなった練習、
法則に沿った練習をすれば上手くなる。浄土真宗はこれを法の深信という。仏教の原点である四諦
の教えに通じる。
一心不乱の一心は、仏教の原点である十二因縁の法則と四諦の教えを本質とし、因果の法則、釈
迦の悟りと密接に通じている。ただし浄土真宗はこれを悟りと言わず信心と言う言葉で表現してき
た(続く)。
466 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/25(日) 10:13:42 ID:PF2jXKUD
>>463 しかし「世の中で起こることが何でもかんでもありがたい」とか
「何が起こっても結構、結構」とかいうような、「ありがた屋」に
なってしまうわけではないので、安心してください。
怒り、悲しみ、嘆き、嫉妬、物欲、こういう感情は無くなりません。
なくならないどころか、自分自身にとっては
ますます明らかなものになります。
469 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/26(月) 00:11:31 ID:tiBKg/Pe
練習しないと上手くならない。スポーツ選手のこの認識は、自分の器量に向けた観察だ。自分
の器量を観察するというのは非常に大事なことだ。浄土真宗では、これを輪廻で考える。例え
ばそれは、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に沈み、常に流転して、出
離の縁あることなき身」という言い方をする。きちんと練習しなければ、今度こそ勝てるんじゃ
ないかと再起して試合に臨んでも敗北して挫折し、試合に臨んではまた敗北し、臨んではまた敗
北する。再起(生)挫折(死)、再起(生)挫折(死)、生死生死をいつまでもいつまでも繰り
返す。我々とはまさにそういう器なのだ。
獣の心で獣の行為をする者を獣という。鬼の心で鬼の行為をする者を鬼という。人は時に、鬼
となり、獣となり、有頂天になったかと思えば、地獄にも堕ちる。意思と行動が変化われば、そ
の節々で再起と挫折がある。バカだった、バカだったと後悔し、後悔しても後悔しても、その次
の瞬間にはやはり同じように悪魔の手先になることもある。人はしばしば鬼となり、獣となり、
真人間から有頂天になり、地獄にも堕ちる。釈迦の十二因縁則は無明から始まり生老死で終わる。
再起(生)挫折(死)を繰り返す。原因は無明にある。
今私の生・死・生・死の迷いは、自分が生まれる前から過去無数の人々が繰り返し繰り返し経
験してきたその生・死・生・死と本質はいささかも違いはない。自分が死んだ後も、今後無数の
人々が繰り返し繰り返し経験していくその生・死・生・死と本質はいささかも違いはない。私の
無明は、私の生まれる前、無限の過去から、無限の未来に向かって継続する。練習しなければ、
放っておいただけでは決して途切れない。練習しないと野球は決して上手くならない。試合に勝
てるようにならない。一流選手が練習に掛けていく意気込みというもの、イチロー選手、松坂選
手などが練習にかける決意は、釈迦が二千数百年昔、菩提樹の下で認識したその認識と、本質は
いささかも異なるものではないだろう。僕はそう思っている。 (続く)
2ch管理人ひろゆきが常々口にする
「嘘を嘘と見抜ける人でないと(2ch掲示板を使うのは)難しい」
という2chのキャッチフレーズからも分かるように、
そもそも2chはそれぞれの板の趣旨に沿って、
既にある程度の知識・経験を持っている者同士が話を
深めていくところなのであって、
初心者の質問は板においてはオマケに過ぎない。
手間も時間も費用もかけずにタダでイージーに知識や情報をゲットしようなんて甘い、
初心者の質問は無視されても仕方が無い。それが2chの基本。
でも、
「2chの人達ならばこの問題を解決してくれるかもしれない」
と思って2chを訪れる善意の人たちのために、
多くの板ではあくまでも 《 厚意で 》 質問専用スレを用意している。
なのに、
「質問スレだと解答が遅い」
「単発スレのほうがレスが早く着く」
などのふざけた理由で単発スレを立てるヴァカが引きも切らない。
もし、単発スレにいちいち解答していたとしたら、
勘違い厨房が
「やっぱり単発スレの方がすばやく解答をもらえるじゃないか」
と感じて毎日毎日10個も20個も単発質問スレが立ってしまい、
5分前に立った似たような単発スレすらも見付けられないだろう。
そもそもこういう自己中なヴァカは過去ログなんか絶対チェックしない。
そのうちに板内はその手の単発質問スレで埋め尽くされてしまうだろう。
そうなればパート●●とか続いている名シリーズ・スレすらもどんどんDAT落ちしてしまうだろう。
と言う事ぐらい、5秒も考えれば分かりそうなもんだ。
以上のような思いを簡潔にまとめると【 渡海 難 ◆Fe19/y1.mIは死ね 】ということになる。
471 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/27(火) 00:45:21 ID:CSEbSmCK
人はなぜ輪廻転生するのか。もともと輪廻転生は、バラモンの思想ではなかったか。バラモン
教は霊魂不滅を信じ、霊魂が輪廻転生すると考えるようだ。しかし、仏教はこの考えを採らない。
霊魂の存否は不知とし、釈迦は輪廻転生の原因として、無明という概念を立てた。100年前に
死んだ人が生前冒した全く同じ失敗を、50年前の人が全く同じ意思と同じ行動で再度同じよう
に冒し、現代の人が全く同じ意思と同じ行動で重ねて冒し、50年後の人がまたその上塗りをす
る。どうしてこういう事がおきるのか。これは霊魂の問題ではない。物事の真実が見えていない
からだ。霊魂ではない。無明がつながっているのだ。
無明は、始め無き始めから始まり、終わり無き終わりに向かって続いている。無明は欲を押さ
えただけでは消えない。しかし、無明は決して恐いものではない。なぜなら、その実体は空だか
らだ。無明は、空をその本質とする。空をその本質とするからこそ、無明は、知恵によって霧散
霧消する。
472 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/27(火) 00:47:54 ID:CSEbSmCK
実に一切の物が、様々、様々に真実を教えてくれている。花は画家に美の神髄を教え、生命学
者には生命の起源を教えてくれている。物事の本質を知り(苦)、その原因を知り(集)、正し
い方法論を立て(滅)、それを実践(道)すれば、無明は消える。道理に叶ったただしい練習を
すれば野球は強くなる。スポーツの一流選手などは、みんなこのことを知っている。四諦などと
いう言葉は知らなくても、二種深信など知らなくても、彼らは、正しく練習すれば無明は切れる
ことを体で知っている。正しい方法論は、しばしば先人達が知っている。イチロー選手は河村健
一郎打撃コーチと二人で振り子打法を見つけ出し、王貞治は、荒川博打撃コーチから一本足打法
を学んだという。苦集滅道との出会いを、浄土真宗では、「束縛の業をもちける身にてありける
を、たすけんと覚しめしたちける本願のかたじけなさ」という表現を使う。仏は、球が打てない
で苦しんでいるなら、この方法を練習したらどうだと教えてくれる。仏は、打撃コーチとして現
れ、あるいは投げる一球一球の球として現れ、一振り一振りのバットという形で顕現してくる。
実に一切の物が教えてくれている。
苦集滅道の四諦と十二因縁則は、表裏一体の関係にあり、それは一心において真実性を顕現す
る。二種深信とは、一心を二つに切ってその正体を示している言葉なのだ。
釈迦に次ぐ大乗仏教第二位の高僧である世親は、浄土論で「世尊、我一心」と表明した。これ
は、自らの器は無明を本質をしていることを認識し、正しく物事を実践すればかならず無明が晴
れることを認識し、その思いを表明している言葉である。親鸞は教行信証でそう教えてくれてい
る。
473 :
名無しさん@3周年:2007/02/27(火) 01:54:00 ID:FJoxugPz
渡海 難よ、わるいが論理がメチャクチャというより、成り立っていない。
というより何を言いたいのか、言ってることの意味がわからないんだよ。
これは致命的だな。喩えの話もよくないな。あちらこちらから持ってきているけど
意味がつながっていなかったりしている。
例えば仏は野球をやらない。野球の話にたとえなくてもいいんじゃないのか。
474 :
名無しさん@3周年:2007/02/27(火) 18:23:27 ID:I/XZxdNm
お経を読む日
毎日、お経を読んでいます。
475 :
渡海 難 ◇Fe19/y1.mI:2007/02/27(火) 21:15:46 ID:R95pmj45
今、日テレ「NEWS ZERO」に渡海が出てた。
患者として。
477 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/28(水) 00:14:55 ID:vqcxbLWK
>>459 >今は有り難い、を飛び越して、ただただ驚いています。
「有り難い」「驚き」という単語を使わないで感動を他人に伝えられるようになるといいね。
驚きが安っぽく聞こえる。
>>460 >ありがとうございました。
自動販売機のテープレコーダみたいだな。100円入れると、心もなく「ありがとうございま
した」と言う音が跳ね返ってくる。機械仕掛けだね。
>>470 >【 渡海 難 ◆Fe19/y1.mIは死ね 】ということになる。
ここの記載だけは、気持ちが非常にストレートに伝わってくる。 (´▽`*)
「2ch管理人ひろゆきが常々口にする 〜 思いを簡潔にまとめると」の記載は全くちん
ぷんかんぷん。<苦笑>
478 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/02/28(水) 00:16:20 ID:vqcxbLWK
>>473 >言ってることの意味がわからないんだよ。
「わるいが 〜 というより、 〜 というより 〜 」
二回も出てくる「というより」ってどう言う意味なんだい?。掲示板に書いてあることを理
解しようと思ったら、先に正しい日本語を勉強してくるといいだろう。
>>474 >お経を読む日 毎日、お経を読んでいます。
一心専念弥陀名号 僕は五会念仏を勧めるよ。お経を読む半分の時間でも座禅して念仏すると
いいだろう。
>>385 >>475 勝手に僕の名前を使わないで欲しい。
一心と三心の関係に関する議論はさらに続きます。信心論は、まさに親鸞の独演場だ。
>>473 >渡海 難よ、わるいが論理がメチャクチャというより、成り立っていない。
あなた自身自分の「信仰」というものになんの実感もないということがわかってるでしょう
473さん あなたは嘘つきです
まさに腹のすいた仏ですね
一生頭の中だけでコロコロ論理やらをころがしてなさい
あなた私生活でなんかうまく行かないことがあるんですね
>>479 繋ぎ変えてIDを変えてまで名無しで書き込みするなよ渡海難。
陳腐な表現でない新鮮な響きで表現するのは
なかなか骨が折れます。
骨を砕いても・・・というお言葉もありますが(^^;
ありがとうございました。は、
このスレにもお世話になりました、という意味です。
ではとかい氏&皆様ごきげんよう・・・。
482 :
名無しさん@3周年:2007/03/01(木) 05:52:25 ID:VmZPm7qD
確かに信仰には理論も教学も必要かもしれないが、
それを越えた物でもある事は確かだと思う。
483 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/01(木) 23:25:37 ID:+/JWTU+o
世親菩薩の一心とは何か。教行信証の記述から追ってみよう。親鸞は曇鸞の論註を引用する。
世親菩薩の原文の浄土論は既に存在しない。恐らく親鸞の時代以前に歴史の中で散逸してしまっ
たのだろう。現在伝わっている浄土論は、曇鸞の論註が引用している中から再構成した漢文訳だ
けである。その意味で、曇鸞の思想と世親の思想とを区別して扱うことは、少なくとも親鸞のフ
ィルタを介する限りほとんど意味をもってこない。世親菩薩の真意は曇鸞を介して理解するとい
うのが、親鸞フィルタを介する場合の理解方法なのだ。
曇鸞はこの一心をどのように言っているのか。
論の註に曰わく、かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実
のごとく修行し相応せんと欲うがゆえにといえりと。
論註は言う。阿弥陀如来の名を称え、阿弥陀如来の光り輝く知恵の姿のように自分もなろうと
思うからである。名は体を表す。まさに阿弥陀仏という名が示すように、実際に修行し、まさに
自分も阿弥陀仏の化身になろうと思うからである。
曇鸞浄土教と善導浄土教とは考え方が根本的に違う。曇鸞浄土教にとって、阿弥陀仏は自らそ
れを体現する目標である。大乗仏教は自らが仏になることを目標とする。曇鸞浄土教にとって、
阿弥陀仏は抽象的な存在ではない。それは自分たちの具体的な目標である。阿弥陀仏の化身とな
り、自分が人々を教育指導する。つまり教育者になる。これこそが大乗の菩薩達の使命であり、
目標なのだ。だからこそ、かれらは身(行為)、口(言葉)、意(意思)において阿弥陀仏その
ものを自分に体現するように修行を実践する。
484 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/01(木) 23:27:32 ID:+/JWTU+o
三種の不相応あり。一つは信心淳からず、存せるがごとし、亡せるがごときのゆえに。二つに
は信心一ならず、決定なきがゆえに。三つには信心相続せず、余念間(へだ)つるがゆえに。こ
の三句展転して相成ず。信心淳(あつ)からざるをもってのゆえに決定(けつじょう)なし、決
定なきがゆえに念相続せず、また念相続せざるがゆえに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆ
え心淳からざるべし。
行為と言葉と意思において、経典に書かれている阿弥陀仏と一致させよう。もし相違があれば、
自分は真の教育者、すなわち完成された仏とは言えない。
一つは信心淳からず。すなわち自らが阿弥陀仏の化身になろうという心が薄い。情熱が存在し
たり消えたりする。これでは阿弥陀仏の化身になれない。信心一ならず。不統一である。阿弥陀
仏の化身になろうという思いが、時によってぐらつく。つまり余所に興味を持つようになる。三
つには信心相続せず。気持ちに継続性がない。阿弥陀仏の化身になろうという心にあきらめが早
い。この三つが関連し合って、阿弥陀仏の化身になる道が閉ざされる。
これと相違せるを「如実修行相応」と名づく。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり、と
世親菩薩が、一心という言葉で表しているのは、この三つの心を断ち切った心を現している。
世界の一級の選手達が練習に励む一心不乱とは、自分も強くなろうという厚い心、自分が強くな
ろうという不動の心、自分が強くなろうという継続の心、この三つを備えているのだ。一つでも
欠ければ、それは一心ではない。
485 :
名無しさん@3周年:2007/03/01(木) 23:36:44 ID:yPzHQRUZ
〈`ー─-、_ノ^j
`> <__, ─-、____
/ j / ̄ ̄ ̄Tー‐─┬''⌒ヽー-- 、
r' /、 1 / | 5 | 7 | |9
└---─、 / ` ー──/ 3 | │ | l |
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し个 、 / | ハ〈
| ` ーl─‐┬─----------──┬─イ´ ̄ヽヽヽ
| /ヽ | | ハ 〉 〉 〉
| / | | | / │ / 〈ノ
| | | | | / | /
__/ | __/ |10 __/ | __/ |10
(__」 ゙ー-‐' ゙ー-‐'(___」 人
(__)
(__)11
1:肩ロース 6:ヒレ
2:肩 7:ランプ
3:リブロース 8:そともも
4:ばら 9:テール
5:サーロイン 10:すね
11:渡海 難
486 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 00:07:21 ID:OwdCkyo2
仏も神社の神も両方信じているんですけど、かまいませんか。
487 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/02(金) 09:56:09 ID:3UTtaxpG
阿弥陀経は言う。「一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろ
の聖衆と現じてその前にましまさん」。環境が悪化して危機的状況となり、従来の意思と行動
を継続することが不可能となり、いよいよ終わりに近づいたとき、厚く、一直線の持続的思いで、
一日、二日、三日、ないし七日ひたすら南無阿弥陀仏を称えてごらん。進むべき道がきっと何か
見えてくるはずだ。阿弥陀経はそんなふうに言っている。
阿弥陀経は一心と言うが、大無量寿経は、「心を至し信楽して我が国に生まれんと欲う」とい
う。至心・信楽・欲生とはどういうことか。これも、一直線の持続的思いということだろうか。
親鸞はここで大胆な仮説を立ててくる。至心は疑蓋雑わることがない心、信楽も疑蓋雑わること
がない心、欲生も疑蓋雑わることがない心である。その中で、一心に通じる心は信楽である。こ
れは非常に面白い考え方だと思う。
イチロー選手は河村健一郎打撃コーチから振り子打法を学んだ。王貞治は、荒川博打撃コーチ
から一本足打法を学んだ。イチロー選手と河村健一郎コーチとは意気投合し、時には酒を飲み交
わしたり、冗談も言い合うこともあったろう。二人は互いに相手の気持ちを知り尽くすような肝
胆相照らす中だったろうと思う。それでは、互いに相手の気持ちを知り尽くす中で、二人の心は
全く同一だったのだろうか。それとも相違があったのだろうか。親鸞は、一心不乱に念仏を称え
る念仏者と肝胆相照らす中の阿弥陀仏の心を、疑蓋雑わることがない心として大無量寿経の三心
の中に見いだしてくる。
信楽は一心であるというのは、至心・欲生はどうなのか。一心なのか、一心ではないのか。至
心・信楽・欲生は疑蓋雑わることがない心であれば、一心は疑蓋雑わるのだろうか。親鸞の仮説
は師弟関係の本質を突いており、極めて大胆であり、興味深い。 (つづく)
488 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 20:52:51 ID:wDCh/MLR
本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、
信を生ずることあたはず、仏智を了らず。
かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、
報土に入ることなきなり。
489 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 20:56:16 ID:UvF9Aejd
つまり己の行から信は出てこないぜ、ちゅー意味ですかな?
>>488
490 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 20:58:55 ID:wDCh/MLR
順彼仏願故
かの仏願に順ずるが故に
491 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 21:07:38 ID:wDCh/MLR
本願の名号をとなえながら、
その本願がなぜ建立されたのかを
知らない為に、せっかくの名号を
自分の善根にしてしまう、という事でしょう。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
渡海 難 ◆Fe19/y1.mIの立てたスレッドは、痴呆老人(渡海)とシルバー介護士によるやりとりです。
キーボードを叩くことによって脳を活性化するトレーニングなので
一般の方の書き込みはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
493 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 21:29:33 ID:UvF9Aejd
494 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 22:33:42 ID:PhrJrflb
果て、阿弥陀経はそんなこと487の渡海 難のことだけど、説いてたっけ。
正確には阿弥陀仏を説くを聞いて名号を執持すること、もしは1日−−−だろ。
これってまず聞くことが一番で名号をしっかりと、とりたもつことだよね。
487の解釈はちょっと浅くないかい。聞くことが大切なんじゃないか。
495 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 22:48:40 ID:Bu4/tGky
ちょっと聞きたいんだけ、高森先生の「白道燃ゆ」はまだ有るの?
496 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 22:50:50 ID:wDCh/MLR
また一向名号をとなふとも、信心あさくは
往生しがたくそうろふ。
されば、念仏往生とふかく信じて、
しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の
往生にてあるべくそうろふなり。
「往生を不定におぼしめさんひとは、
まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし」
自分の往生が確かでないなーという場合は
自分の往生のことを思ってお念仏をしてもいいんですね。
だめなのかと思ってた。
「往生を不定におぼしめさんひとは、
まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし」
自分の往生が確かでないなーという場合は
自分の往生のことを思ってお念仏をしてもいいんですね。
だめなのかと思ってた。
操作ミスで連投してしまいました。
失礼。嵐ではないです。
500 :
渡海 難 ◇Fe19/y1.mI:2007/03/03(土) 19:00:01 ID:U+uARtPL
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) ) 渡海難が500ゲットぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
>>497-499 馬のションベンで顔洗って出直してこ〜い!
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
501 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/04(日) 15:04:09 ID:zEFHzkna
「至心・信楽・欲生して乃至十念」、これが往生極楽の条件である。大無量寿経はそういう。至
心も信楽も欲生も疑蓋雑わることがない心である。親鸞はそういう。それでは、疑蓋雑わること
がない心が往生極楽の条件であるというのか。ほんとうにそうなのか。大無量寿経は本当にそう
言っているのか。親鸞はそういっているのか。考えてみよう。
至心はすなわちこれ真実誠種の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。信楽はすなわちこ
れ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心
なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。欲生はすなわちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心
なり、大悲回向の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。
真実誠種の心であれば疑蓋雑わらない。真実誠満の心であれば疑蓋雑わらない。願楽覚知の心
の心であれば疑蓋雑わらない。これは一体どういう理屈なんだろか。疑蓋雑われば真実誠種の心
ではないのか。疑蓋雑われば真実誠満の心ではないのか。疑蓋雑われば願楽覚知の心の心ではな
いのか。この議論については、僕の方には、これを否定する材料も肯定する材料もない。僕の方
では、敢えて積極的に支持するつもりはない。否定するつもりもない。議論はパスさせて貰おう。
ただ、親鸞が、至心・信楽・欲生は疑蓋雑わらない心だと言ったその結論だけを預かろうと思う。
502 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/04(日) 15:04:51 ID:zEFHzkna
疑蓋雑わらない心とは何か。これは、至心・信楽・欲生に戻って、真実誠種の心・真実誠満の
心・極成用重の心と言ってもいいんだろうが、それでは議論が進まない。親鸞が信不具足という
概念を説明している箇所がある。
信じているが、自分から推求しようとしない。自分から積極的に求めようとしないなら、信は
あるといっても、実は信がない。話を聞いているが自分で考えようとしない。自分では考えてい
るが、他人の話を聞かない。いずれも信不具足である。方法論はあると認識している。しかしそ
の方法論を実践している人がいることを知らない。これを信不具足という。
因果の法則があると知り、仏・法・僧が存在すると思えば、これは正しい信心である。因果の
法則があると知りながら、仏・法・僧が互いに別々のものであると考える。これは信不具足であ
る。因果の法則があると知りながら、これによって正しい認識を得ている人がいることを信じな
い。これは信不具足である。 続く
信巻のあの個所ですね。
504 :
名無しさん@3周年:2007/03/04(日) 23:19:18 ID:loJQXn7R
一つ一つはなにかの解釈本みて書いているんだろうけど、それが上手くつなげていないというか、
全体になると、バラバラになるのが、渡海 難の特徴だな。
バットやボ−ル、手の動き、足の動き等々習っても、バッタ−ボックスに立ったときの構えが
野球じゃなくて、違う形のようなものなんだよね。
そういえば像のようなものだ。全体の像がイメ−ジされてるといいんだが、
目をつぶってしっぽをさわってこれを像とおもってるようなものだな。
505 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/05(月) 00:56:35 ID:zK7ZWV3F
異論・反論にはとりあえず応答しないで議論を進めます。
疑蓋雑わらない心は、疑蓋雑わる心が解れば見えてくるだろう。疑蓋雑わる心とは信不具足の
心だ。親鸞はそうはっきり言っているわけではない。渡海難の仮説だ。多分、この仮説は間違い
ないと思う。
面白いのは、親鸞が言う疑念の内容だ。往生極楽の道はただ念仏することだ。方法論が解って
いながら、念仏を称えない。これを信不具足という。人が生死生死する迷いの根元は無明である
と、悪因悪果の原理を学び、さらに苦集滅道の四諦を教わって善因善果の原理を学びながら、仏
・法・僧が互いに別々のものであると考える。これは信不具足である。これは面白い考えだ。仏
と法と僧とは実は一体なのだ。十二因縁の法理や四諦が解っても、三宝の一体性が理解できなけ
れば、これは信不具足である。また、十二因縁の法理と四諦を学びながら、それを実践している
人がいることからは目を覆う。これも信不具足という。
疑蓋雑わらない心はこれをひっくり返せばいいだろう。自ら信念をもって推察し、求めていく
心。人の話を聞きながら、しかもよく考える心。自分でよく考えるが、しかも人の話をよく聞く
心。方法論があると知れば、それを実践している人がいることを疑わない心。十二因縁の法理・
四諦の法理をよく理解し、仏・法・僧の三宝があると理解し、しかも仏・法・僧の三宝は渾然一
体であると理解している心。十二因縁の法理・四諦の教えによって正しい認識を得ている人がい
ることを疑わない心。これを、疑蓋雑わらない心という。至心・信楽・欲生とはまさにそういう
心である。親鸞はそう考えているんだろう。
ここで難しいのは、仏・法・僧の三宝が一体であるということか。仏教の原理を考えながら、
王・イチローの世界で検証しつつ議論を進めたい。 (続く)
506 :
名無しさん@3周年:2007/03/05(月) 01:31:15 ID:hYUrivSu
おまえ、会ったのか?
作り話ちゃーうんか?
えーかげんな事うだうだ書くな!
507 :
渡海 難 ◇Fe19/y1.mI:2007/03/05(月) 09:27:08 ID:Nb+tVb6D
。ρ。
ρ
mドピュッ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
>>506のようなノータリンアホタレ坊主はスルーして議論を進めるよ〜ん。
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/
508 :
名無しさん@3周年:2007/03/08(木) 08:33:06 ID:y9VK8hvL
親鸞の誕生日はいつですか?
1173年4月1日(太陽暦5月21日・ 降誕会)
510 :
名無しさん@3周年:2007/03/10(土) 00:34:46 ID:AmhCDPnE
あっちのスレは書いちゃ駄目だったのねスマソ。
で、質問。
覚信尼や恵信尼は「尼」が付くけど、僧籍あったの?
>>510 こっちのスレも書いちゃ駄目です。
ここは渡海難専用の独り言スレなので一切スルーしてください。
512 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/12(月) 20:08:45 ID:SwkTFNcu
仏・法・僧の三宝が一体である。これが、三者別々という考えは信不具足である。親鸞はそう
いう。ここを考えよう。
仏とはなにか。これは考え方の切り口で様々に表現できるが、一応、教育者と考えよう。仏陀
とは教育者である。こういう考えは決して突飛な考えではない。「仏は法王として、尊きこと衆
聖に超えたまえり。普く一切天人の師と為りて、心の所願に随いて、みな道を得せしめたまう(
大無量寿経)」。仏陀は天と人との師であるというのは、仏教の基本的な考えである。
法とは何か。法は様々にあるが、ここでは十二因縁の法理と、四諦の法を例に挙げておこう。
真理・真如・知恵・法・悟り、同じような意味の言葉が仏教にはたくさんある。その内、法とは、
おおよそ、文字や言葉で表現できるものを指すときに使っているようだ。
僧とは僧伽の略である。僧伽は、和合衆と訳されている。原則は4人以上が集まって形成して
いる僧侶集団である。教団という概念より広いだろう。
三人寄れば文殊の知恵という。真理を学び合おうとすれば、互いに役割を交代しながら瞬間瞬
間には、教える者、教わる者ができる。二人、三人では少ないが、四人以上となればそんな関係
が生まれるだろう。仏とは役割を交代しながら、そんな中にいるのだ。四人も集まれば真実が見
えてくる。十二因縁などという言葉を知らなくても、四諦などという言葉を知らなくても、普遍
的な真実は真剣に真理を学ぼうとする人々の中に具現する。人を教え導く者は、学ぼうとする者
を離れて別の世界に独立して存在する者ではない。釈迦に学ぼうとする者を離れれば釈迦は存在
しない。阿弥陀に学ぼうとする者を離れれば、阿弥陀は存在しない。真剣に仏道を学ぼうとする
者は、仏陀を離れて存在する者でなく、仏陀は、真剣に仏道を学ぼうとする者とともに存在する。
513 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/12(月) 20:12:52 ID:SwkTFNcu
真理は、教える者と教わる者との間に介在する言語に乗って法の形で伝搬する。真理は、言語
で表記されて始めて共有化される。法は、教える者、教わる者を離れて存在するものではなく、
法を離れて教える者・教わる者は存在しない。信心とは、仏・法・僧のこの関係を正しく認識す
る心だろう。
新人時代の王選手は荒川コーチから打法を学んだという。王選手と荒川コーチとの関係の中で
は、陰日向に支えて取り巻く人々がいたはずである。
王選手が荒川コーチから学べば、学んでいるその王選手から荒川コーチが学ぶことも多かった
ろう。二人の真剣なぶつかり合いから、それを取り巻く人々はさらに多くのことを学び、学んで
いる取り巻きの人々から、二人が学ぶことも多かったろう。
互いに相手が仏陀となり、自ずから和合衆ができる。対話があり、互いの中に真実が明らかに
見えてくる。教わる者は、教える者に仏を見い出し、教える者は教わる者のその心に仏を見出し、
互いに尊敬し、衝突しあい、火花を散らす。十二因縁、四諦などの法はその中で沸騰する。互い
の尊敬・信頼関係の中身を分解すれば、そこには十二因縁と四諦の法が存在する。
野球の世界は仏教ではないから信心とは言わない。野球の世界で信心という言葉を使う必要は
全くない。信心という言葉を使えば、野球の本質が見えにくくなるだろう。しかし、仏教の先人
達が信心という言葉で表現しようとしている世界は、野球の世界にも普遍している。
仕事でも、友人でも、石でも、花でもいい。嘘っこでいい。仮に先生とあだ名を付け、阿弥陀
仏とあだ名を付ければ、それがその瞬間・瞬間に役割が変わり、先生となり、阿弥陀となる。あ
あという感嘆詞を付け、あるいは南無という感嘆詞を付け、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無
阿弥陀仏と念じれば、石が、花がそのまま阿弥陀仏になる。そこに法が具現し、僧伽ができる。
法がある。親鸞に仏教を学ぶ者にとって、そのように念仏を称えていくことを離れて、仏も法も
僧もない。これが念仏の信心である。親鸞はそのように教えてくれている。
514 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/12(月) 20:14:54 ID:SwkTFNcu
>>510 >覚信尼や恵信尼は「尼」が付くけど、僧籍あったの?
こんな話は、歴史上の事実だから、歴史資料に詳しい人が正確に答えてくれると思って待って
いたんだが、答えてくれる人はいないみたいね。
恵信尼に関する資料は、恐らく一つだけだろう。大正時代に西本願寺の書庫から見つかった彼
女の手紙だ。これは真宗史上、画期的な発見だった。これで、親鸞の妻が恵信という名の女性だ
ったということが判明した。この日、徳川時代以降噂されていた玉日姫という伝説が消滅した。
恵信という名はこの手紙の中のサインで分かった。しかし、彼女が出家していたという記述は
その中にない。恐らく正式は僧籍はなかったと思う。尼というのは、後代の門徒が勝手に送った
尊称のようなものだと思う。
覚信尼は分からない。本願寺に資料があるだろう。僕の想像では、出家していなかったろうと
思う。出家してれば子供を産めないと思う。
猿にもわかる糞スレの立て方
1、板の趣旨を念頭に置かないでスレを立てる
2、思いつきでスレを立てる
3、文章を推敲しない
4、類似スレの検索はしない
5、極私的な話題を扱う
6、立て逃げする
以上に1つでも当て嵌まるとそれは糞スレです。
2つに当て嵌まると糞スレを超えた糞尿スレです。
3つ以上に当て嵌まるスレを立てた
>>1は糞厨房です。←渡海
ご注意下さい。
師を仰いで練習してコツをつかむのと
念仏は違うような気がするけどなあ。
念仏しても別に何かが上手になるわけでもないし。
517 :
名無しさん@3周年:2007/03/12(月) 21:36:07 ID:XOPZcfuI
法名に「尼」を入れるのは男女差別だからヤメレと言う一方で、覚信尼・恵信尼ですか。
渡海 難さん、どう思います?
518 :
名無しさん@3周年:2007/03/12(月) 21:45:01 ID:IRTuNSrp
おいおい渡海 難よ、ちょいと聞くが
仏・法・僧の三宝が一体である。これが、三者別々という考えは信不具足である。親鸞はそう
いう。と最初に書いているが、まずこれってどこで親鸞がいっているのか。
あまりにも文章がいいかげんだからまず1つ1つ確かめていくぞ。
>>517-518 精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。
▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)
※以下の文を10回暗誦して反省してください。
荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
520 :
名無しさん@3周年:2007/03/12(月) 22:28:23 ID:IRTuNSrp
つぎに大経の文を引用しているが、このようなときはもっと詳しく場所を書いてやれよ。
例えば仏説無量壽経の下巻の弥勒の領解の文によると−−−−−と書くわけだ。
この時の仏は世尊、即ち釈迦のことだな。ちなみにここら辺の文章の大切なところは
世尊に会うことが出来てさらに無量壽仏の御名を即ち名号を聞く事が出来たこと、そのような
身になったところなんだよ。
521 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/13(火) 00:37:17 ID:UAjvNSqd
>>518 >文章がいいかげんだからまず1つ1つ確かめていくぞ。
丁寧な読解を感謝する。
>>520 >このようなときはもっと詳しく場所を書いてやれよ。
ご教示感謝する。
522 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/13(火) 00:41:12 ID:UAjvNSqd
>>517 >法名に「尼」を入れる
僕に抵抗はない。
>男女差別だからヤメレと言う
全く興味がない。
523 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/17(土) 01:17:27 ID:K7GUjd/i
師弟間には、しばしば肝胆相照らす関係というのがある。弟子は師匠を心の底から尊敬し、信
頼する。師匠は弟子を心の底から愛し、自分の未来を心の底から託している。この場合、師と弟
子とは全く同じ心なのだろうか。それとも互いに違う心を持っているのだろうか。この問題に8
00年も昔に仮説的に一石を投じたのが親鸞だ。師と弟子とは、かぎとかぎあなの関係、相補的
に噛み合う心を抱く。
師の心はまさに疑蓋雑わらない心である。親鸞はそれを、真実誠種の心、真実誠満の心、極成
用重の心、審験宣忠の心、欲願愛悦の心、歓喜賀慶の心、願楽覚知の心、成作為興の心、大悲回
向の心という。熟語の意味解釈はもう不要だろう。そこに踊っている漢字の意味から親鸞の視点
を読み取って欲しい。
こうした心こそ、自ら信念をもって推察し、求めていく心。人の話を聞きながら、しかもよく
考える心。自分でよく考えるが、しかも人の話をよく聞く心。方法論があると知れば、それを実
践している人がいることを疑わない心。十二因縁の法理・四諦の法理をよく理解し、仏・法・僧
の三宝があると理解し、しかも仏・法・僧の三宝は渾然一体であると理解している心。十二因縁
の法理・四諦の教えによって正しい認識を得ている人がいることを疑わない心。すなわち、疑蓋
雑わらない心として躍動する。
師弟関係では、弟子と師との心は支え合う。師がまさに師の心を持てば、弟子は弟子の心を触
発される。それが二種深信だ。二種深信は、自らの器に十二因縁の原理を見定め、一切の物に四
諦を見いだす。弟子が自らの器に十二因縁の原理を見定め、一切の物に四諦を見いだしそれを師
に投げ返す。師はそれに触発されて疑蓋雑わらない心をまた抱くだろう。
師は、しばしば弟子によって育てられる。それは、弟子の二種深信の中に疑蓋雑わらない心を
見いだす瞬間だ。弟子の二種深信の中に疑蓋雑わらない心を見いだし時、師は我が弟子を逆に師
と仰ぐ。このとき、師の中には逆に二種深信が成立する。
524 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/17(土) 01:18:20 ID:K7GUjd/i
大無量寿経は言う。設い我仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれん
と欲うて、乃至十念せん。もし生まれざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とを除く、と。
「心を至し信楽して我が国に生まれんと欲え」。師は弟子に発信する。大無量寿経は言う。「無
量寿仏の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念もせん。至心に回向してかの国に生まれんと願
わば、すなわち往生することを得」。
弟子が至心に回向してかの国に生まれんと願えば、往生を得る。つまり師と同じ心になって弟
子は師の精神界を共有する。大無量寿経の原典はそう言うのだ。
しかし、親鸞はここを書き直していることに注目すべきだろう。親鸞は教行信証でこう書き替
えた。「至心に回向したまえり」と。こうなると、至心に回向するのは師であり、弟子ではなく
なる。
つまり、至心・信楽・欲生の三心は飽くまで師匠の心だ。師は師の心を持って弟子に接してく
る。このとき弟子には二種深信が生まれる。乃至一念は二種深信を本質とする。我が名を称えよ。
師はそういう形で師の心つまり疑蓋雑わらない心を投げてくるのだ。これによって、弟子には二
種深信が生まれ、「我が名を称える」という形で呼応する。
素振りをしてみよ。恐らく荒川コーチは王にそういったのだろう。素振りをしてみよという内
容をもって疑蓋雑わらない心王選手に投げた。王はその投げられた心を、回りの誰もが驚くよう
な猛烈な練習でこたえた。そこには王選手なりの二種深信が立っていたはずである。
525 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/17(土) 01:21:03 ID:K7GUjd/i
>>516 >念仏しても別に何かが上手になるわけでもないし。
この問題は、これまで何度も書いてきたから繰り返さない。
自分で積極的に念仏を称えてごらん。それで何も変わらなかったらもう一度聞いてくれ。
「何も変わらなかったぞ」と。その場合には、基本に忠実になって、親鸞が言っている座禅の
姿勢で五会念仏を称えてみてくれ。
坊さんなら、一日2,3時間は称えてもいいだろう。1週間様子を見ろ。
526 :
名無しさん@3周年:2007/03/18(日) 01:12:23 ID:6SJw2Wm+
渡海 難よお前はまず、御文を間違えてどうする。それも最も大切な−−−
念仏をしても変わらないとな。まさか口に唱えてるんじゃないだろうな。
それじゃダメだ。称えるのよ。ハカリしることだ。簡単に言えば阿弥陀如来とは何かと
聞いて思唯することだ。
527 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/18(日) 21:16:11 ID:TJuDLUsw
>>526 見ず知らずの人に言葉を掛ける場合には、名前の後に「さん」くらい付けるのが常識だろう。
「御文を間違えてどうする」などと言うなら、自分はどこの誰だか名乗ったらどうよ?。自分の
名前も恥ずかしくて名乗れない名無しの権兵衛か?。「御文を間違えてどうする」などと言うなら、
言葉の責任の所在を明確にしてからにするといいだろう。
「阿弥陀如来とは何かと聞いて思唯することだ」。聞いて思唯(惟?)したら今後はどうするん
だ?。聞いて思惟した貴方の結論は何だったんだ?。今後はどうするんだ?
>> 525の文章は急いで書いた物だから下手くそで、誤解を招きかねない。>> 526は僕の真意を読
み違えている可能性もある。>> 525を以下のように書き直す。
この問題は、これまで何度も書いてきたから繰り返さない。
自分で積極的に念仏を称えてごらん。その場合には、親鸞が言っている基本を守って欲しい。座
禅の姿勢で五会念仏を称えてみてくれ。坊さんなら、一日2,3時間は称えてもいいだろう。阿弥
陀経は7日間という数字を挙げているから1週間毎日称え続けてみるといいだろう。念仏を称えて
何か変わるものか、何も変わらないものか、その時に分かるだろう。念仏しても別に何かが上手に
なるわけでもないという言葉は、その時までお預けとしよう。
貴方が五会念仏を毎日2,3時間、これを7日間称えた上での発言なら、こちらも貴方の話に耳
を貸そうじゃないか。
528 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/20(火) 00:58:29 ID:k1Q/nsbl
観無量寿経は、至誠心、深心、回向発願心を持てと教える。法然は、観無量寿経の至誠心・深
心・回向発願心と、大無量寿経の至心・信楽・欲生とは同じだと言う。親鸞はこの考えに異議を
唱える。至心・信楽・欲生は師の心であると。それでは至誠心・深心・回向発願心とは何か。
至誠心とは何か。身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念
し観察す。おおよそ三業を起こす。必ず真実を須いるという。
至誠心は、身(行動)と口(言葉)と意(意思)の三つで現す心である。行動を持って礼拝を
行い、言葉を以て仏を賛嘆、称賛し、心に仏を観察する。観察とは、仏像・仏画をの形状を心に
イメージすることである。
ここで非常に重要なことがある。親鸞は原文を書き直しているのだ。原文は善導による。原文
は言う。「およそ三業を起こさば、必ずや真実なるが故に至誠心という」とある。つまり善導は、
行動を持って礼拝を行い、言葉を以て仏を賛嘆、称賛し、心に仏を観察せよ。そうすれば、これ
は必ず真実の心だから極楽浄土に往生すると説いた。
親鸞はこれを書き直した。身・口・意で至誠心の三業を起こすなら、必ず真実つまり仏の如く
よというのだ。これは一体どういう意味か。
529 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/20(火) 00:59:15 ID:k1Q/nsbl
深心とは何か。深心とは二種深信だけではない。文の意を案ずるに深信について、七深信あり、
六決定あり。七深信とは、第一の深信は「決定して自身を深信する、」すなわちこれ自利の信心
なり。第二の深信は「決定してかの願力に乗じて深信する、」すなわちこれ利他の信海なり。第
三には、決定して『観経』を深信す。第四には、決定して『弥陀経』を深信す。第五には、ただ
仏語を信じ決定して行に依る。第六には、この経に依って深信す。第七には「また深心の深信は
決定して自心を建立せよ」と。
深心には、二種深信の外に、観経深信、弥陀経深信などがある。この経に依って深信するとは
大無量寿経をいうのだろうか、ここはよく分からない。
回向発願心とは何か。また回向発願して生ずる者は、必ず決定して真実心の中に回向したまえ
る願を須いて得生の想を作せ。
回向して発願する。親鸞は回向発願心として二河白道を紹介している。「必ず決定して真実心
の中に回向したまえる願を須いて得生の想を作せ」。ここも親鸞の重要な書き直し部分だ。
観無量寿経の三心はじっくり考えていこう。
530 :
神も仏も名無しさん:2007/03/20(火) 01:53:39 ID:NKCcir8o
まあ座禅にしても2つあるのよ。ちょいと偉そうに書くけど−−−−
1つは釈迦当時も有ったような座禅の仕方ね。こころを1つの事や一点に集中する
やり方だよ。しかし終わってしまえばもとのもくあみ。座禅しているときだけ心が
静まるわけだ。これは昔からある座禅のやり方。仏教の釈迦がやる座禅にもうひとつ
釈迦オリジナルの座禅があるんだよ。それは常に心の動きや体の動きを認識していくやり方なんだよ。
心の動きはものすごく速くて光の七倍ともいうけどね。心の動きの認識といっても
確認、確認、確認と動きをとらえるやり方だね。しかしこれらは悟りへの早道や手助けにはなるが
悟るのに直結はしていないんだよ。悟りはあくまで聞と思によって悟り、さらに悟りは深まっていくんだよ。
ヴィッパサナー瞑想ですか?
体の動きを認識するというのは天親菩薩の瑜伽行学派にも
通じていますね
532 :
神も仏も名無しさん:2007/03/20(火) 13:17:41 ID:NKCcir8o
そうだ。また聞によって悟れと教えてるのは無量壽経だ。この経は聞によって貫かれている。
阿弥陀如来を聞くわけだ。阿弥陀如来とは空の別名、即ち縁起の法そのものだ。
これ、作家の司馬遼太郎がいってた。仏教的に言えば無我無常の道理だ。
これを聞いてうなずければ、預流果の位に入る事が出来る。1500有る煩悩の内、3つが消える。
それも根こそぎ消えてるんだ。たった3つだけど将来を決定づける煩悩だ。
縁起の法に対する疑いの心と、我が有るという有身見の考えと迷信を離れる心の3つだよ。
これを別名、不退転という位なんだ。この3つが消えたために二度と悟りの流れから退転しない。以前に
戻らないんだよ。いつかといっても7回生まれ変わる間に必ず涅槃に入る。
しかし問題は残りの煩悩1497個は残ってる。怒り欲、妬みの煩悩はまったくそのままだ。
だから親鸞は仏智不思議、即ち縁起の法に対する疑いの心は全くない。迷信も排除している。有身見もない。
これは業縁の身といってる。その一方で臨終の一念に至るまで怒り嫉みといったり煩悩具足の身とも言ってるのは
まったくあたり前の事だ。さらに念仏の行者はこの世で不退転に住すともいってる。
しかしさすがに親鸞。いろいろな雑や当時の俗信の混じっている無量壽経からみごとに原始仏教の真髄を見つけ出してる。
533 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/20(火) 19:54:23 ID:4lGfpzJC
>>530 >ちょいと偉そうに書くけど
偉そうなことを言いたければ、信心決定してからにしたらどうよ。
教化するひと、まず信心をよく決定して、そのうえにて聖教をよみかたらば、きくひと
も信をとるべし。
>悟りはあくまで聞と思によって悟り、さらに悟りは深まっていくんだよ。
難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。
悟りは聞と思では得られない。悟りは信楽に基づくというのが、親鸞流の考えだ。なお、
「難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる」という部分について、本派は「疑いを除
き徳を獲しむる」と言っていると思う。「疑いを除き証を獲しむる」というのは、大谷派
の写本だ。真筆本(坂東)は、関東大震災でこの部分だけ燃えて、痕跡が分からない。徳
ではなく、証を獲しむると考えた方が合理的だろう。ちなみに証は、しょうとも読むが、
さとりとも読む。
もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
聞思は疑網を破ってくる。疑網に覆われていれば、曠劫を径歴す。つまり、輪廻輪廻を
繰り返す。しかし、疑網が破れただけでは証はない。証果は信楽に基づく。乃至一念のな
い聞思に証はない。
信楽は何によって作用してくるのか。それは信と行による。
「真仏弟子」と言うは、「真」の言は偽に対し、仮に対するなり。「弟子」とは釈迦・
諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信・行に由って、必ず大涅槃を超証すべきがゆ
えに、「真仏弟子」と曰う。
534 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/20(火) 19:55:23 ID:4lGfpzJC
真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに
論主建めに「我一心」と言えり。
信心は、南無阿弥陀仏を具す。具すと言う場合の名号は信心ではない。信心ではない南
無阿弥陀仏とは何か。それは南無阿弥陀仏の行だ。つまり信心は必ず南無阿弥陀仏を称え
るという行為を伴う。
信心は無いが南無阿弥陀仏だけは口で称えていると言うことはある。しかし、信心はあ
りますが念仏は称えていませんということは、親鸞仏教には絶対にあり得ない。これを忘
れるな
おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。行の一
念と言うは、いわく称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す。
いま弥勒付嘱の一念はすなわちこれ一声なり、一声すなわちこれ一念なり、一念すなわ
ちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行なり、正行すなわちこれ正業なり、正業すなわち
これ正念なり、正念すなわちこれ念仏なり、すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。
釈迦は一念を弥勒に預けた。弥勒に預けた一念は一声なんだ。つまり、声なんだ。口か
ら出す音。口から音にして発するということのない一念はありえない。
一声でも称えるということは、一声以上称えるということだ。一声も称えないと言うこ
とではない。一声とは、南無阿弥陀仏の、「な」から始まって「つ」で終わる一声だ。
称える一声は、空前絶後、後にも先にも称えるのはそれ一回きり。そんな特別な一声で
はない。称える一声は、次にも次にもその次にも南無阿弥陀仏が重ねられていくことが当
然予定されているそういう南無阿弥陀仏だ。当然予定されている南無阿弥陀仏だから、一
度南無阿弥陀仏を称えたら、次にも次にも、音声となって口から次々と発していく。これ
が乃至一念だ。
もし始行の人の念は、数を記する、また好し。これまた聖教に依るなり、と。
535 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/20(火) 19:56:37 ID:4lGfpzJC
>>530 ID:NKCcir8oのような初心者は回数を数えながら称えるといいだろう。これは経
典にもしっかりと書いてある。今日は10回、明日は20回と称えるといいだろう。
王よ、まさに座禅して念仏申すべし。親鸞流の称名念仏の作法は忘れたくないものだ。
まあ、初心者以前、座禅も嫌、念仏も嫌という人に向けて言っている言葉ではない。
この信・行に由って、必ず大涅槃を超証すべきがゆえに、「真仏弟子」と曰う。真仏弟
子は、座禅して南無阿弥陀仏を声にして称え、称え、称え、信行によって必ず大涅槃を超
証する。
定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転
入する。
信はなくてもいい。念仏を称えてみよ。果遂のちかいに自覚的・主体的に身を投じてみ
なさいな。果遂のちかいに身を投じるとは、果遂のちかいに身を委ねることだ。念を我が
国に係けて、もろもろの徳本つまり南無阿弥陀仏を称えるということだ。そうしていけば、
自ずから真如の門、悟りの世界に入っていくだろう。
聞と思によって悟るなど、聞いたような偉そうなことを言うのは五百年早い。坊主辞め
たらどう?。
>>531 >ヴィッパサナー瞑想ですか?
親鸞は北宗禅、法照禅師の五会念仏。これは円仁大師が中国から持ってきた修行法だ。
根本は如来禅。達磨大師の禅風だ。
536 :
神も仏も名無しさん:2007/03/20(火) 20:33:14 ID:7n2r8nUX
,.:'゙゙':., ,.:'゙゙':.,
,.:'゙ ゙':., ,.:'゙ ゙':., | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,.:'゙ ゙':., ,.:'゙ ゙':, .|
>>1頭に蛆虫沸いてんのか?_
,.:'゙ ゙':.,......,.:'゙ ゙':., .| クククッある意味スゲェよオマエ。
;:゙ ゙:; | 絶対真似したくねーけどな
;:゙ :::: : ゙:; .|
;:゙´ ○ ::::: :. ○ ゙:;  ̄ ̄ ̄ノノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
;:゙ :::::: : :;
.;: * ;;::: : :;
;: ( ヽ、_________:: :; ニヤリ
:;: ヾ + + + + + +ノ ゝ .:;
゙:; ` -------------' ;:゙
゙:; ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;' ;:゙
゙:; ''''''''''''''''''''''' ;:゙
,:" .;
,:゙ :;
,:゙ :::::::: :;
教行信証を理解できない脳髄には、歎異抄も理解できない。
ということが赤裸々に告白されていて興味深い。
バカはバカなりに完全だ。
539 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/21(水) 00:55:32 ID:oVhrLz6s
>>537 教行信証も歎異抄も理解できない奴はバカということか?
教行信証も歎異抄も理解できなくても、立派な人はいくらでもいるだろう。
教行信証や歎異抄を理解していても、馬鹿な奴はいるだろう。
真性バカは、他人をバカという537本人なんじゃないのか?
540 :
神も仏も名無しさん:2007/03/21(水) 01:44:25 ID:osGlFmMJ
それだけじゃないぜ。文脈を読めてないんだな。以前も称えるをよく唱えると書いてるから
注意してやったけどそれは直ってるみたい。でも意味を教えるのを忘れてたから、口でとなえることだと
思ってるみたいだね。まあぼちぼちいこうや。
>>532 すると馬鹿森会長は預流果の悟りに入っておられるわけですね(笑)
馬鹿森の悟りの内容↓
どうせくだらんところにしか使わない金だ。
それらの金銭を真実の仏法を弘める為に布施をさせるのが仏法の重さを知らされた者の責任ではないか。
酔生夢死の人生を過ごそうとしている人々に尊い仏縁を与える為に金の使い方を教えてあげる、
これが真の仏法者の務めである。何不自由もない釈尊が一生涯托鉢乞食行をなされた精神は、
くだらんところへ散在する金品を吸い上げ、召し上げて彼らに仏縁を結ばせる為ではなかったか。
(中略)親鸞会に布施せられた財施のみが十方衆生を生かし末代の宝として生きかえるであろう。
顕正新聞 昭和53年10月
542 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/21(水) 09:30:21 ID:oVhrLz6s
>>540 >それだけじゃないぜ。
「それだけ」のそれは何を指しているんだい?
見ず知らずの相手をいきなりバカ呼ばわりするノータリンは相手にする必要はない。まあ、普
通は無視すればいい。ただ、540ID:osGlFmMJは信心の核心部分に関わる問題でキチガイじみたノ
ータリンの主張をしているんで、誤解を防ぐ意味でこれだけは指摘しておこうと思う。
>以前も称えるをよく唱えると書いてるから
僕が「唱える」と書いたのは一回だけだよ。その時は意識的に書いた。それ以外は無いよ。あ
れば、複数の証拠を出してみな
唱名念仏というのは、別に間違った用語ではない。
これに因りて各本願を持ち、名号を唱えて、いよいよ二尊の悲懐に協い、仏恩を戴き、師徳を
荷いて、特に一心の懇念を呈わすべし(報恩講私記)。
必ず最初引接の利益を垂れたまえ。よりて各他力に帰して仏号を唱えよ(報恩講私記)。
念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる(横川法語)。
そのほか、選択集でも唱うという言い方をしている。
話の相手が先に唱名念仏と言ってきたら、それを敢えて称名念仏に書き直す必要があるのか?。
大きなお世話じゃないのか。
ただ唱名念仏と言えば、賛嘆(称賛)という意味が無くなる。曇鸞大師は念仏に賛嘆の意味が
あると言っている。その意味では称名念仏と言った方が正確だろう。僕も通常は称名念仏と言っ
ている。
相手が唱名念仏という言葉で質問してくれば、それを間違えだなと言いはしないよ。
543 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/21(水) 09:32:36 ID:oVhrLz6s
>口でとなえることだと思ってるみたいだね。
口で称えるんじゃなかったら、どこで称(とな)えるんだい?。
善導和尚は、深くこのむねをさとりて、本願の文をのべたまうに、「若我成仏 十方衆生 称
我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(往生礼讃)といえり。十声といえるは口称の義をあ
らわさんとなり(唯信抄)。
もし定心三昧および口称三昧を得れば、心眼すなはち開けてかの浄土の一切の荘厳を見ること、
説くとも窮尽することなし (観念法門)
本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」という。「鈔」は、すぐれたることを
ぬきいだし、あつむることばなり。このゆえに「唯信鈔」というなり(唯信抄文意)。
無色を語りては則ち真色を捨て、無声と論じてすなわち梵声を厭う。無為と号して行を生じ、
失道と称せるは、即ち顛堕の邪山なり(五会法事讃略抄)。
真実には色はないと言っては、真の形状を捨てる。真実には声はないんだと言っては、声を出
すことを嫌う。何もする必要はないと言って何かを行えば、それを失道と言って非難する。これ
は本末転倒である。
問うて曰く。五会念仏はどこに出在せりや。答へて曰く。「大無量寿経」に云う。(乃至)
「清風時におこりて五会の音声を出す。微妙の宮・商・自然に相ひ和す。皆悉く念仏・念法・念
僧なり。それ、音を聞く者は深く法忍を得、不退転に住して仏道を成るに至る(五会法事讃略抄)。
五会念仏は大無量寿経が根拠である。極楽浄土では、清らかな風が吹き、微妙のドレミファが
互いにハーモニーを作る。それは、ことごとく念仏・念法・念僧である。その音を聞く者は、深
く法忍を得、不退転に住して仏道を成るに至る。さあ、五会念仏を称えよう。
是を以て如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙げて謂く、父の王に曰く、「王今坐禅し
てただ当に念仏すべし。
>まあぼちぼちいこうや。
まあ、唯信抄を捨ててしまった坊主とは話が合わないよ。
バカはバカなりに完全だ。というのは誉めてるんだよ。
バカだけど立派だと言っているのではない。
バカだから立派だと言っているんだ。
> 真性バカは、他人をバカという537本人なんじゃないのか?
そのとおり。
だから渡海も真性バカだということが自己証明されている。
545 :
神も仏も名無しさん:2007/03/21(水) 11:10:37 ID:osGlFmMJ
やはり法と機の念仏がごちゃ混ぜになっている。
546 :
神も仏も名無しさん:2007/03/21(水) 11:16:20 ID:osGlFmMJ
唱についても親鸞以外の処から持ってきてもダメね。
唯信鈔は親鸞のわざわざ書いた注釈書があるからそれをとおしてよんでね。
547 :
神も仏も名無しさん:2007/03/21(水) 16:11:24 ID:osGlFmMJ
渡海 難ってこいつ僧じゃないのか。今日は彼岸の中日だろ。私らは会社休みだから
昼間からやってるけど、度海はお参りしてるんじゃないのか。
548 :
神も仏も名無しさん:2007/03/21(水) 17:48:54 ID:hfiwGO07
弁理士試験なんかとっくに合格しているはずだよ。
なにしろ、座禅して念仏して脳を活性化できちゃうんだぜ。
550 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/22(木) 19:55:44 ID:ZKrspR/m
>>545 >やはり法と機の念仏がごちゃ混ぜになっている。
南無の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。次に「阿弥陀仏」という四つの字のいわれは、
弥陀如来の衆生をたすけたまえる法なり。このゆえに、機法一体の南無阿弥陀仏といえるはこのこ
ころなり。
ごちゃ混ぜになっているとは、何を言いたいのかよく分からん。ただ、こっちから聞いてもどう
せ満足に答えられないだろう。宇宙人の寝言、夢遊病者の譫言と付き合わされるのも迷惑な話だか
ら質問する気にもならん。回答はいらない。僕の話だけ聞いて、頭の隅に置いておきなさいな。十
年後にでも思い出せば、幸せになるだろ。話を聞く耳もないなら無視しなさいな。貴方が聞かなく
ても外の人は聞いてくれているだろう。
親鸞流の念仏は、機法一体なんだ。まあ、何がごちゃ混ぜに見えたか分からん(言っている本人
も分かってないんだろう)が、機法一体の南無阿弥陀が、節穴から見るとごちゃ混ぜに見えるかも
知れない。ごちゃ混ぜは念仏にあるんじゃなく、>> 545の頭の中だ。
法の念仏と機の念仏と、世の中に二種類の念仏があるわけじゃない。法・機の念仏と、それ以外
の念仏と、二種類の念仏があるわけじゃない。同一念仏、無別道故だ。法は釈迦が悟った四諦の教
え、機は釈迦が悟った十二因縁に基礎があるというのが、僕の仮説だ。南無阿弥陀仏は機法一体。
十二因縁の法と四諦の法が、その本質において一体になっているんだ。
>>546 >唯信鈔は親鸞のわざわざ書いた注釈書があるからそれをとおしてよんでね。
唯信鈔、様々の御文どもは、いまは、詮なくなりて候と覚え候。よくよく書き持たせ給いて候法
門は、みな詮なくなりて候なり。慈信坊に皆従いて、目出度き御文共は捨てさせ給いおうて候と聞
こえ候こそ、詮なく哀れに覚え候え。よくよく、唯信鈔・後世物語なんどを御覧あるべく候。
551 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/22(木) 19:57:29 ID:ZKrspR/m
唯信鈔など様々な文書類は、今はもう無意味になってしまったようです。大切に書いて持たせた
のですが、みんなそれも無駄になりました。慈信坊に踊らされ、大事な文書類は捨ててしまったと
聞いております。全く残念でたまりません。どうか、どうか(もしどこかに残っていれば)唯信鈔
・後世物語なども(もう一度)お読み下さい(親鸞)。
唯信鈔を捨てるんなら、浄土真宗の坊主なんか、辞めたらどう?
>>547 >渡海 難ってこいつ
僕は、見ず知らずの人間からいきなり「こいつ」などと言われる筋はない。インターネットを介
しても、言葉は少し慎んだらどう?。
>>548 >渡海はアンチ僧侶だよ。知らなかった?
見ず知らずの相手をいきなり呼び捨てにし、「お前」と呼んだり(>> 526)、「こいつ」と言っ
たり(>> 547)する奴が僕は大嫌いなんだが、こう言うと、渡海はアンチ僧侶ということになる。
非常識な奴は大嫌いだといえば、世の中の真宗坊主全てまとめて敵に回るということか(苦笑)。
見ず知らずの相手には、きちんと「さん」づけにする。余程に気心が知れた相手でない限り、相
手のことを「お前」とか「こいつ」などとは言わない。そんな常識のある人は真宗にはいないとい
うことか。みんな敵に回る。通常の常識をもっている人は真宗坊主にはいないということか。
坊主の常識は社会の非常識、社会の常識は坊主の非常識。世の中にはとんでもないノータリン集
団が存在する。坊主自らが開き直っているんじゃ、どうしようもないものだ(苦笑)。真宗坊主と
は、現代社会の最も最低の非常識ノータリン集団なんだよと、坊主から言われれば、僕にはそれを
否定する材料などは、何もない。
座禅を忘れ、戒律を忘れ、念仏まで忘れた真宗坊主の精神は、臍の芯まで腐りきり、精神構造は
もうめちゃくちゃということか。
>みんな敵に回る。
うん、まあ仏教では自業自得と呼ぶんだがね。
554 :
射奈河 田奈:2007/03/23(金) 19:15:14 ID:CNJt2mK2
よしなにw
釈迦は至誠心、深心、回向発願心を持てという。親鸞は、至誠心と深心と回向発願心のいずれか
を持てと言っているんだと釈迦の言葉を解した。さらに。これを対機説法つまり相手の器量に合わ
せて言っている言葉だと読んでいる。
世の中には様々な人がいる。自分はガードマンさんになろう。自分は老人介護のヘルパーさんに
なろう。自分は、沢山の人にラーメンを食べて貰えるラーメン屋さんになろう。そう思っている人
は決して少なくない。一方では、自分は比叡山延暦寺で天台宗の座主さんになろうと思う人もいる。
東京大学・龍谷大学・大谷大学で仏教学を講義する大先生になろう。あるいは、高野山の金剛峰寺
で真言宗の管長さんになろう。そう思う人もいる。多くの人に話をする場合、お釈迦様が話す内容
は当然異なってくる。
お釈迦様が「信心を持て」と言う場合、介護老人ホームの二級ヘルパーさんに言う内容と、天台
宗や真言宗の頂点に立ち、発言には強い影響力がある人に対して言う言葉には違いがある。「至誠
心と深心と回向発願心の三つ」を持たなければ不十分である。釈迦がそう言っている相手もいる。
逆に、「深心」さえあればそれだけで十分だと言われている人もいる。立場、立場で異なってくる。
いわば当たり前の話だろう。
「至誠心と深心と回向発願心の三つ」を持て。比叡山延暦寺の天台宗の座主さん、あるいは高野
山金剛峰寺の真言宗の管長さんなどは、「至誠心と深心と回向発願心の三つ」を合わせ持ってほし
いものだ。将来に向かって伝灯護持に絶対に間違いがないようにするには、至誠心と深心と回向発
願心の一つでも欠ければ狂いが生じるだろう。浄土真宗は日本最大の仏教教団だなどと言い、世界
中の高名な宗教家と様々な付き合いがある本願寺の門主さんなども、深心だけあればいいというこ
とではない。至誠心が無い、回向発願心がないそんな門主には会いたくないものだ。私は凡夫でご
ざいます。至誠心はありません、回向発願心などもありませんなどと言っているんじゃ、鼻持ちな
らず、ただ臭いばかりの飾り物、塵芥、およそ仏教者の風上にも置けない。一刻も早くその職を辞
すべきだろう。しかし、離島などにある小さな介護老人ホームの二級ヘルパーさんなどは、そんな
ものは必要ない。ささやかに深心だけあれば、もうそれだけで仏様の仲間になる。深心だけで極楽
浄土の住人になる。
真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり、と。乃至 不善の三業をば、必ず
真実心の中に捨てたまえるを須いよ。また、もし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したま
えるを須いて、内外・明闇を簡ばず、みな真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく
これは善導大師の一文である。原文は漢文である。原文を見てみよう。
真実有二種一者自利真実二者利他真実{乃至} 不善三業必須真実心中捨又若起善三業者必須真
実心中作不簡内外明闇皆須真実故名至誠心{抄要}
真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。不善の三業は必ず真実心の中に捨
つべし。もし善の三業を起こさば、必ず真実心の中でなすべし。内外明闇を選ばず。みな須(かな
ら)ず真実なるが故に至誠心と名づく。
親鸞は能動態自動詞「捨」・「作」を受動態で読んだ。これによって自動詞「捨・作」の主語を
転換した。不善は捨てよ。それは真実を実践する仏が捨てる物、それと全く同じ不善を捨てよとい
う。善を行え。それは真実を実践する仏が実践する全く同じ善を行えという。これは模倣という意
味ではない。仏の行為をできるだけ真似しなさいということではない。仏が行っている行為そのも
のを真似ではなく、丸ごと実践するということである。
親鸞の読替によって、仏法の本質が非常にはっきりしてきた。真実に二つある。自分で求めてい
く真実と他人に明らかにする真実である。人間にはしていいことと悪いことがある。身(行動)と
口(発言)と意(意思)の三つで考えよう。行動と発言と意思においてやってはいけないこと、そ
れは、仏陀自らがやってはいけないことして排除しているもの、それを排除するということだ。行
動と発言と意思においてしなければならないこと、それは、仏陀自らがしなければならないことと
して実行しているもの、それを実行するということである。心に裏表があってはならない。光と陰
があってはならない。賢人・哲人の行動そのものを行動し、賢人・哲人の言葉そのものを語り、賢
人・哲人の意思そのものを持て。まさにこのように実行していく心、これが至誠心である。延暦寺
の座主さん、金剛峰寺の管長さん、東京大学・龍谷大学・大谷大学の大先生、本願寺の門主さんな
どに釈迦が仏道者として要求している心とは、まさにこういう心、賢人・哲人の心そのものだろう
と、僕も思う。
至誠心は、仏の真似をするということではない。似ていればいいということではない。まさに、
仏そのものの行為を行え。親鸞は、そのように釈迦の言葉を理解した。逆に、このことから、二級
ヘルパーさんやラーメン屋さんに求められている心の内容というものが、僕は非常にはっきりして
してきたと思う。二級ヘルパーさんやラーメン屋さんには、そんな心は全く要求されていない。仏
道修行の条件には、全くなっていないということが分かってくる。
渡海氏は「安心論題」って読んだことありますか
この世には親鸞さんを理解できない人が多勢いる。
親鸞さんの教えに接することの無い人。
親鸞さんの教えを否定する人を信じている人。
親鸞さんの教えに接しても、それを受け入れない人。
渡海の場合は、
親鸞さんの教えに接しても、それを曲解してしまった人だ。
カルトの親鸞会と同列だが、違いは信者の有無だろう。
4000円の会費で募集していたこともあったようだが、
最初から性格に無理があったのか現在でも信者はいない。
弁理士試験に落ち続けて、試験は憲法違反だという妄想に取り付かれてしまったように、
仏教オタクのとんでも説が生まれる過程には、やはりなんらかの事情があったのだろう。
今となっては誰一人知るものはいない。
渡海はバカだという者がいる。
渡海はハクチだという者もいる。
座禅して念仏して脳を活性化してこの程度かと笑う者も多い。
しかし、愛すべきはその道化的存在にこそあるのだ。
バカでもハクチでもないことを証明しようとして、ますますドツボにはまる姿。
そのキャラクターは今後も宗教板で屈指のコテとして高い評価を得ていくであろう。
渡海難よ、永遠なれ!
>>558 >渡海氏は「安心論題」って読んだことありますか
ありません。それは、誰がいつ頃書いたものなの?。
インターネットでざっと見たけど、言っていることの核心は、表だってはずれてないと僕は思
う。貴方はどうですか?。安心論題が言っていることと僕の主張と、どの辺がずれてると思いま
すか?。
まあ、安心論題は、念仏の方法論、つまり念仏はどう称えるのかという問題は扱ってないよう
だ。極楽浄土の着座スタイルは、正座か結跏趺坐(座禅)かも議論してないね。五会法事讃略抄
が提起している問題も扱ってないようだ。
さしも確かなる証文を、力を尽くして数あまた書きて参らせて候えば、それを皆捨ておうてお
座しまし候後、自分たちに都合の悪い文書を捨てた人々が書いた書なんだろう。言っている範囲
では大きな間違いはないようだけど、大事な議論は欠落している。そうなると、議論の重心はず
れてくるだろう。
肉食はどうすべきか(浄肉の文〔親鸞真筆 専修持蔵〕)などは、坊さんにとって切実な問題
だろう。婚姻は是か非かというのは、まさにその延長で考えるべきなんだろう。でも、そういう
議論も落ちているようだ。
561 :
神も仏も名無しさん:2007/03/25(日) 13:20:07 ID:PH/sS5d/
| 丶 _ .,! ヽ
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j".、'ヽ,".、".、"`''`ー、._、、、
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562 :
神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 17:27:05 ID:7zN1fIzP
肉食はどうすべきか(浄肉の文〔親鸞真筆 専修持蔵〕)−−−どう書いてあるのか書いてみろよ。
次に釈迦は至誠心、深心、回向発願心を持てという。親鸞は、至誠心と深心と回向発願心のいずれか
を持てと言っているんだと釈迦の言葉を解した−−−−−とかいてあるが
どこにそんな理解がかいてあるのか
563 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/26(月) 22:34:45 ID:oO1uyvYz
>>562 自分が知らないで他人に教えてもらおうと思ったら、口の利き方があるんじゃないか?。こう
いうことを言うと渡海はアンチ坊主ということになるそうだ(笑)。>> 561も同じだが、坊主と
いうのは、一つの社会としては、日本でもっとも常識が無く、躾がだらしない日本の最低恥部か?。
「書いてみろよ」とはなんという言いぐさだ。僕は、挨拶も知らんノータリンの山猿に命令さ
れる言われは無い。他人に命令口調で質問するしか口の利き方を知らないんなら、自分で調べた
らどうだ?。僕はあんたの家庭教師じゃないんだ。山猿には信心なんかいらん。あんたに仏法な
んかいらん。先に口の利き方を教わってこい。
貴方が知りたいと言っていることは、既にこの掲示板に書いてある。
>どこにそんな理解がかいてあるのか
これから説明する。 (数日 カキコ不能)
564 :
神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 22:50:27 ID:QHDuWU9d
>>563 >自分が知らないで他人に教えてもらおうと思ったら、口の利き方があるんじゃないか?。
つーか渡海難の方こそ口の利き方がなってない。だからみんなお前を軽蔑する。
ここは便所の落書きとさえ言われてる場所ですから、書き込みに品位を求めるのなら他へ行くべきですね。
566 :
神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 23:18:57 ID:7zN1fIzP
いつもちょっと都合がわるくなると度海はすぐこれだ。しかしこの間にいろいろ調べてくるから
まあ−いいか。
567 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/03/30(金) 00:53:58 ID:NrRbYzYs
顕浄土真実信文類すなわち、浄土における真実の信を明らかにする文類で親鸞は言う。
また云わく、「何等為三」より下「必生彼国」に至るまで已来は、正しく三心を弁定してもっ
て正因とすることを明かす。
観無量寿経では、「何等為三」以降、「必生彼国」までで、三心が極楽浄土往生の正しい因で
あることを明らかになっている。
すなわちそれ二つあり。一つには、世尊機に随いて益を顕すこと、意密にして知り難し、仏自
ら問いて自ら徴したまうにあらずは、解を得るに由なきを明かす。二つには、如来還りて自ら前
の三心の数を答えたまうことを明かす。
ここには二つの意味がある。釈迦は対機説法で真実を明らかにしているのだ。聞き手の器量に
応じて話を変えている。従ってその真意はなかなか分かりにくい。釈迦が自らその真意を明らか
にしない限り、大無量寿経で三心を明らかにしているにもかかわらず、それとは違って観無量寿
経で別の三心を明らかにしている理由は確かに分かりにくい。また、釈迦は、ここで三という数
字を挙げていることは明らかである。それでは、釈迦が明らかにしている極楽浄土往生の正しい
因は何か。
経に云わく、一者至誠心。 〜 二者深心。 〜 三者回向発願心
観無量寿経は言う。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心である。親鸞は、観
無量寿経が言う三心を、方便の教えとは考えてない。釈迦の真意は測りがたいけど、至誠心、深
心、回向発願心があれば必ず極楽浄土に往生すると言う。しかも、これは対機説法で語られてい
る真実の教えである。至誠心、深心、回向発願心を起こせ。少なくとも釈迦はある特定の人、具
体的な人間に向かってにそのように言っている。その相手というのは、決して単なる空想上の存
在、たとえ話ではない。これが親鸞の受け取りである。しかし、それが誰であるか親鸞は明らか
にしていない。知り難しと言うにとどまる。親鸞仏教が相手にしている対象者ではないからだろ
う。 続く
静かに坐って光り輝く阿弥陀様を観想しています。
569 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/03(火) 15:41:21 ID:R8qDz8LZ
至誠心・深心・回向発願心はいずれも浄土を顕す顕浄土の真実信である。親鸞はそう考えてい
る。善導大師・法然上人などに教わった考えである。しかし、親鸞の主張はそれだけでは終わら
ない。至誠心・深心・回向発願心の三つの中にも差異がある。駐在所の横で店を開いているラー
メン屋さん、離島の老人施設で老人介護をしている二級ヘルパーさん、照りつける真夏の太陽の
下で厚地の制服・制帽を被り、工事現場で工事車両の交通整理をしているガードマンさんにとっ
て必要なのものは、至誠心や回向発願心ではないだろう。深心だけあればいいはずだ。ラーメン
屋さんや二級ヘルパーさんやガードマンさんには至誠心も回向発願心もいらない。親鸞はそういう。
親鸞は、教行信証の信の巻で、至誠心と深心と回向発願とを詳しく説明した後、再び深心につ
いて繰り返す。親鸞はここで、貞元の新定釈教の目録という書を引用する。
貞元の新定釈教の目録 巻第十一に云わく、 〜 二つには深心、すなわちこれ真実の信心な
り。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、
弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、
一念に至るに及ぶまで、疑心あることなし。かるがゆえに「深心」と名づく、と。
よく読むと、引用元の原文「貞元の新定釈教の目録」は深心だけを説明しているのではなさそ
うだ。善導の三心釈を解説しているようである。要するに親鸞は、前後の脈絡無く、議論の一部
を引き抜いてきて、これを至誠心・深心・回向発願心を詳述した後に置いた。通常の常識ではま
さに木に竹を接ぐような手法を取っている。こうなると、引用元の原文の主張は死んでしまう。
親鸞は、原文の主張を換骨奪胎し、自らの主張を込めた。至誠心・深心・回向発願心を詳述した
後に再び深心の議論を持ってくることで、至誠心・深心・回向発願心の中で、ラーメン屋さんの
核心は深心であると、そのように宣言したのだ。
570 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/03(火) 15:42:44 ID:R8qDz8LZ
それでは、詳述している中の深心と結論で述べている深心との間に議論のズレはないのか。考
えてみよう。
詳述部で親鸞は言う。
1 「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、「自
身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」
と信ず。二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなく
かの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。
2 また決定して深く、「釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依
正二報を証讃して、人をして欣慕せしむ」と信ず。
3 「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生まるることを得」と
深信するなり
4 また深信する者、仰ぎ願わくは、一切行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決
定して行に依って、仏の捨てたまうをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうをばすなわち行ず。仏
の去てしめたまう処をばすなわち去つ。
5 また一切の行者、ただよくこの経に依って行を深信する者は、必ず衆生を誤らざるものな
り。
571 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/03(火) 15:44:10 ID:R8qDz8LZ
結論の方の深心論では、2以下が欠落していることに気づいて欲しい。つまり親鸞は、深心と
言ってもたくさんあるんだが、ラーメン屋さんには深信も2以下はいらないと言っているのだ。
駐在所の横のラーメン屋さんは、1だけでいいと言っているのだ。
1の深信について、古来、これを二種深信と言ってきた。愚禿抄で親鸞は「今この深信は他力
至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり」と言っている。ラーメン屋さんや二級ヘルパーさんや
ガードマンさんに必要なのは、二種深信の深心つまり、他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海
である。
釈迦は、対機説法で相手の器に向かって話をしている。だからこそ至誠心・深心・回向発願心
を持て言う。しかし、灼熱の太陽の下、大汗をかきながら工事車両の交通整理をしているガード
マンさんには、仏教に対する真実心などは全くいらない。真実心があれば、それは通学児童の横
を走行する工事車両の走行方向に、警備のプロとして向けなさいよ。このまま走っていって、子
供のランドセルを引っ掛ける心配はないだろうか。そういう注意に向けなさい。二級ヘルパーさ
んも、仏教に対して真実心などは全くいらない。二級ヘルパーさんは、仏様の真似をする必要は
全くない。真実心があれば、それは身寄りもなく一人寂しく余生をつないでいるお年寄りに話し
かける優しい言葉の中に込めなさい。ラーメン屋さんも二種深信だけ持とう。二級ヘルパーさん
は二種深信だけ持とう。親鸞はそう提案している。では二級ヘルパーさんに持とうと提案してい
る二種深信何は。教行信証は言う。
今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信
知して、一念に至るに及ぶまで、疑心あることなし。かるがゆえに「深心」と名づく、
十声、一声でも念仏を重ねていけば必ず幸せが来る。そんな思いで一声、一声の南無阿弥陀仏
を重ねていく。これがその全てある。
572 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/03(火) 15:53:38 ID:R8qDz8LZ
仏は、十声、一声でも念仏を称えよという形で至心・信楽・欲生心をもって疑心の無い心を投
げてくる。これを受けたのが深心の二種深信である。そうか、十声、一声でも念仏を重ねていけ
ば必ず幸せが来る。そんな思いで一声、一声の南無阿弥陀仏を重ねていく心、これが二種深信の
深心だ。親鸞は、ガードマンさんやラーメン屋さんの信心というものを、このように明らかにし
てくれている。それはかつて、荒川コーチが王選手に一本足打法を教え、王選手が真剣になって
それを練習したその心と、深心おいて本質は全く変わりはないだろう。
念仏を称えても野球が上手くなるわけではない。一本足打法が上手くなるわけではない。野球
が上手くなるには、野球に向けての至誠心・回向発願心が必要だ。バットを握り、繰り返し繰り
返し練習することが必要だ。しかし、荒川コーチと抱いた師弟関係の肝胆相照らす心は、野球に
向けた至誠心・回向発願心ではなく、それは深心にあったはずだ。肝胆相照らす深心は、野球だ
けの世界ではない。心はあらゆる世界に存在する普遍的な心なのだ。
ラーメン屋さんにはラーメン屋さんの立場で、二級ヘルパーさんは二級ヘルパーさんの立場で、
ガードマンさんにはガードマンさんの立場で、二千年昔の釈尊と、千五百年昔の善導大師と、八
百年昔の親鸞と、肝胆相照らす心を持つこと、これは決して不可能ではない。ラーメン屋さんは、
比叡山の天台座主になる必要はない。高野山の管長になる必要はない。ラーメン屋さんは、作り
たてのラーメンを片手に出前するその生き様において、釈尊と肝胆相照らす心を持てばいい。そ
の時こそ、見るもの、聞くものが、釈尊と、善導大師と、親鸞と同一の価値観世界で見えてくる
ものがきっとあるだろう。 (続く)
>>572 誤 世界ではない。心はあらゆる世界に存在する普遍的な心なのだ。
正 世界ではない。深心はあらゆる世界に存在する普遍的な心なのだ。
親鸞も はだしで逃げ出す 渡海教
575 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/03(火) 18:02:19 ID:R8qDz8LZ
576 :
神も仏も名無しさん:2007/04/05(木) 01:42:37 ID:7kw3D7QM
ミ ,-――-、 ウェーハッハッハ
ミ ::::::/ ∧_,,∧
:::::::l <ヽ`∀´> 儲かったニダ。
:::::::ヽ、_ フづと)'
:::::::::::::::人 Yノ:::::
::::::::::レ〈_フ:::
577 :
神も仏も名無しさん:2007/04/05(木) 12:57:56 ID:FmnAT9aw
\
::::: \ 渡海難の両腕に冷たい鉄の輪がはめられた
\::::: \
\::::: _ヽ __ _ 外界との連絡を断ち切る契約の印だ。
ヽ/, /_ ヽ/、 ヽ_
// /< __) l -,|__) > 「刑事さん・・・、俺、どうして・・・
|| | < __)_ゝJ_)_> こんなスレ・・・たてちゃったのかな?」
\ ||.| < ___)_(_)_ >
\| | <____ノ_(_)_ ) とめどなく大粒の涙がこぼれ落ち
ヾヽニニ/ー--'/ 震える彼の掌を濡らした。
|_|_t_|_♀__|
9 ∂ 「その答えを見つけるのは、お前自身だ。」
6 ∂
(9_∂ 渡海は声をあげて泣いた。
578 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/09(月) 00:26:17 ID:+MyLLe/I
三丁目交番の前のラーメン屋さんには、仏教に対する至誠心はいらない。仏教に対する回向発
願心はいらない。仏教に対しては深心だけあればいい。村営老人施設で老人の食事を作っている
二級ヘルパーさんも、仏教に対する回向発願心はいらない。仏教に対しては深心だけあればいい。
ここはもう少し説明しよう。
ラーメン屋さんもヘルパーさんも、一社会人として常識的に恥ずかしいことさえなければ、仏
教に対し、あるいは仏様に対しては誠実に接する必要はない。常識的に恥ずかしいことをすれば、
仏教が制裁を加えないでも、社会が指弾をしてくれるだろう。
仏教書などは、真面目に読む必要はない。常識的に恥ずかしいことさえなければ、仏教に対し
てはちゃらんぽらんでいい。比叡山の座主さんや、高野山の管長さんとはそこが違うところだ。
比叡山の座主さんなどは、ちゃらんぽらんでは困るだろう。しかし、ラーメン屋さんは、仏教に
対してはことさら真面目になる必要は全くない。立派な念仏者になって人々の尊敬を受けるよう
になろう。沢山の知識を身につけて、仏教上のどんな問いにもたちどころに答えられるような物
知り博士になろう。そんなことを考える必要は、全く無いと言うことだ。
ラーメン屋さんが仏様に対して真剣な心を寄せる。まあ、そういう心があれば、それはそれで
悪いことじゃない。しかし、ラーメン屋さんが仏様に対していくら真剣な心を寄せても、誰も誉
めてはくれないだろう。坊さんは喜ぶかも知れないが、坊さん以外には喜ぶ人はいない。仏様が
喜ぶなんていう保証はどこにもない。しかし、そのラーメン屋さんが顧客に対して乱暴な態度で
接していれば、それは困った話だ。残念なことだ。ラーメン屋さんは、仏様に対してではなく、
店の客に対して誠実な人になることの方が、仏様に対して誠実になることより、何倍も何倍も大
事なことだ。
579 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/09(月) 00:27:49 ID:+MyLLe/I
仏教について沢山の知識を身につけ、仏教の集まりではみんなから尊敬を受ければ、それはそ
れで悪いことではないだろうが、仮にそんな二級ヘルパーさんが老人介護の方法を十分に知らな
かったら、それは残念なことだ。二級ヘルパーさんは、老人介護の方法をしっかり学ぶことの方
が、仏教の本を沢山読んで仏教物知り博士になることより、何倍も何倍も意義のあることなのだ。
ただ、そんなラーメン屋さんも二級ヘルパーさんも、念仏だけは称えるといい。念仏は、誰にで
もできる人生の危機管理なのだ。
三丁目交番の前で十五年間もラーメン屋を開き、近所の評判を得ていても、突然、東京の大資
本チェーン店が近代的なデザインの建物で巨大なラーメン屋さんを出店してくることがあれば、
地元のラーメン屋さんは心穏やかではないだろう。二級ヘルパーさんだって、一緒に散歩に出か
けた老人が突然石に躓いて転倒し、骨を折ったと言うことになれば、心穏やかでいることはでき
ないだろう。昨日までの意思と行動が突然続けられなくなることがある。昨日までの価値観・判
断力で突然間に合わなくなることがある。再起・挫折・再起・挫折の繰り返しは、誰だっていつ
起きるかも分からない。相談先があればそこに相談すればいいが、常に相談先があるとは限らな
い。ラーメン屋さんも二級ヘルパーさんも、相談先が無いことがあるというまさにそういう存在
として生きている。だからこそラーメン屋さんも二級ヘルパーさんも念仏が必要になる。
580 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/09(月) 00:30:39 ID:+MyLLe/I
念仏を称えるとどうなるのか。念仏は五会念仏が一番いい。座禅して身を正し、ゆっくりと五
会念仏を称えだすと、呼吸が整い、ほどよい大量の酸素がに脳に送られていく。忘れていた情報
が思い出され、つながらなかった情報間にリンクができる。精神的にパニックになって、思考力
が通常の二割、一割まで落ちていたときでも、判断力は三割、四割に回復するだろう。人生の危
機にあって、必ず最善の選択肢が思い浮かぶという保証はないが、最悪の選択肢だけは選ばない
で済むことは多いだろう。先人達は、自らの経験に基づいて念仏の素晴らしさを絶賛し、これを
勧めてくれている。外にもっと良い方法があると自分で思えば、それをすればいい。念仏以上に
良い方法はないと思えば、念仏をすればいい。危機管理など必要ないと思えば、やらなくてもい
い。念仏は、必要と思う人がやればいい。必要ないと思う人は、やる必要がない。
深心とは、いつどこでまた再起・挫折・再起・挫折を繰り返さなければならないか測り知れな
い存在なんだと自分を認識するこころだ。自分の器を深信するこころだ。また、念仏は多くの先
人達が危機からの脱出法として勧めてくれているんだと認識し、方法論を深信する心だ。仏教は、
そのような心を深心という。ラーメン屋さんも二級ヘルパーさんも、この二つの心だけをもてば、
仏教はもう卒業だ。後は自分で念仏を称えていけばいい。親鸞さんはそう教えてくれている。
581 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/09(月) 00:33:28 ID:+MyLLe/I
ラーメン屋さんは、一社会人として常識的に恥ずかしいことさえなければ、仏教に対してはち
ゃらんぽらんでいいんだ。二級ヘルパーさんも、一社会人として常識的に恥ずかしいことさえな
ければ、仏教に対してちゃらんぽらんでいいんだ。いつどこでまた再起・挫折・再起・挫折を繰
り返さなければならないか測り知れない存在だということは、ラーメン屋さんにとって、争う余
地のない紛れもない自分の真実。二級ヘルパーさんにとっても、争う余地のない紛れもない自分
の真実。念仏は多くの先人達が危機からの脱出法として勧めてくれているということは、ラーメ
ン屋さんにとって、争う余地のない紛れもない真実。二級ヘルパーさんにとって、争う余地のな
い紛れもない真実。ラーメン屋さんが仏教に対してどんなにちゃらんぽらんになっても、この真
実だけは覆い隠すことはできない。念仏を称える限り、念仏は、我が身に真実を成就してきてく
れる。だから、ラーメン屋さんも二級ヘルパーさんも、しっかり念仏を称えていけば、それ以上
の真実は、仏教に対しては用がないのであり、ラーメン屋さんはちゃらんぽらんでいい。二級ヘ
ルパーさんもちゃらんぽらんでいいのである。これを二種深信の深心という。仏と肝胆相照らす
精神世界である。 続く
582 :
南無大師遍照金剛:2007/04/10(火) 10:09:33 ID:AzOx9EfG
渡海タマタマ
自力と他力とはなんでそ?
お猿でも分かるように優しくお願いしますm(_ _)m
>>582 >自力と他力とはなんでそ?
その質問は渡海には酷というもんだ。
この世には二種類の人間がいる。
曰く、他力を理解できる人間とできない人間だ。
他力が腹に落ちていないと、経論をいくら積み上げてみても、
カルト親鸞会やお笑い渡海教にしかならない。
まして、座禅して念仏して脳みそを活性化したけれど弁理士試験程度にも受からない、
かわいそうな人なんだよ、渡海は。
>自力と他力とはなんでそ?
だからその質問は渡海には酷というものだよ。
584 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/11(水) 00:45:19 ID:pmgTk/4I
>>582 >お猿でも分かるように優しくお願いします
お猿?。難しいな(苦笑)。僕はお猿さんとは縁がないんだ。まあ、人間に分かるように
することで勘弁して貰おう。
こういう相談もあるんなら、いずれ日光にでも行って猿語を教わってくるよ。
議論の流れはタイミングがいいんで、すぐに他力論に入って、その後、元の予
定の議論を続けていきたいと思います。
2,3日後。
渡海はチンパンジー以下だけどな
586 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/14(土) 01:01:08 ID:V6g1/gX1
のここのレスの流れの中の意味で考えてみたい。
親鸞仏教を考える場合、比叡山の座主さんにとってはとても大切なことでも、駐在所の隣のラ
ーメン屋さんには必要のないことがある。比叡山の座主さんが知らない。あるいは経験していな
ければ、とても恥ずかしいことでも、駐在所の隣のラーメン屋さんはそれを知らなくても、経験
してなくてもちっとも恥ずかしくないことがある。つまり、仏教上、比叡山の座主さんや、高野
山の管長さんなどが知っていなければならないこと、経験していなければならないことと、駐在
所の隣のラーメン屋さんが知っていなければならないこと、経験していなければならないことと
には、大きな違いががある。
自分で店を切り盛りしているラーメン屋さんなら、仏教に関して知っていて欲しいことは一つ
しかない。それは本願を信じ念仏申せば仏になるということだ。仏教については、念仏を称えよ
うということ、これだけ知っていればもう卒業だ。後は、自分で念仏だけ称えていればいい。仏
教としては、ラーメン屋さんにはもうそれで十分なんだ。それ以上のことは何もいらない。あと
は、簿記やパソコン会計法でも一生懸命勉強することが大事になる。
ところが、比叡山の座主さんや高野山の管長さんなどはそれだけでは足りない。僕なんか名前
も知らないようないろんなお経を沢山読み、内容を理解していなければならない。護摩を焚く方
法も知らないと困るだろう。断食だって何度も経験していないといけない。比叡山の座主さんと
ラーメン屋さんとは、知っていなければいけないことは月とすっぽん程も違う。ところが、この
二人が揃ってお釈迦様の前に行くとどうなるか。
587 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/14(土) 01:02:21 ID:V6g1/gX1
念仏だけ称えていればラーメン屋さんは、お釈迦様から大歓迎されるだろう。おお、よく来た。
釈迦の時代から二千年も三千年後も後の人で、しかもインドから何千キロも離れた北方の国ジパ
ング、そこで仏教とは関係のないラーメン屋さんを営業しながら、念仏だけとは言っても自分
(釈迦)の教えを良く守ってくれている。ラーメン屋さん、貴方は世の宝だよ。社会の手本だ。
正法の時代で考えれば、まさに弥勒君に匹敵するような宝だ。素晴らしい仲間だ。目蓮君、舎利
弗君と同じ仲間だ。お釈迦様は、念仏しか称えてないラーメン屋さんでも、そんな風に迎え入れ
るだろう。
比叡山の座主さんや高野山の管長さんはどうだろう。まあ、お釈迦様は暖かく迎えるだろうけ
ど、例えば、法華経の一部をど忘れでもしていれば「なんだお前は、比叡山を預かる身でありな
がら、法華経も録に覚えてないのか」と怒られるかもしれない。
ラーメン屋さんは法華経を知らなくても、涅槃経を知らなくても弥勒君と同じになる。比叡山の
座主さんなどは、法華経の一部をど忘れでもすれば怒られる。この差は何か。念仏しか称えな
いラーメン屋さんが、万巻の経典を読破し、苛酷な修行を経験した修行者と同列になる。これは
なぜか。
念仏しか称えないラーメン屋さんと、万巻の経典を読破し、苛酷な修行を経験した修行者とが
同列だというのは、お釈迦様が仰って下さるから重みがある。これを、二流三流の軽薄な自称哲
学者・評論家などがペン先で「同じだ」と言えば、バカにされて、笑われるだけ。この言葉は、
お釈迦様が言うから初めて意味がある。
588 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/14(土) 01:02:53 ID:V6g1/gX1
ラーメン屋さんは、念仏だけで弥勒菩薩に匹敵する。これは、お釈迦様の評価。ラーメン屋さ
んに向けたお釈迦様の評価において、ラーメン屋さんは弥勒菩薩に匹敵する。しかし、弥勒菩薩
のようになるには、普通は大変な修行と学問を積まないといけない。ラーメン屋さんはそれがい
らない。実に不思議な話ではないか。こうした不思議を説明するための説明上の概念、これが他
力という言葉だ。
ラーメン屋さんが積まなかった修行は、末法の時代にはお釈迦様が免除してくれる。お釈迦様
が免除してくれるという概念の裏返しで、お釈迦様が代行してくれている考える。まあ、お釈迦
様は代行屋さんではないから、親鸞はそこに阿弥陀という概念を持ってくる。代行してくれると
いう考えは、決して突飛な考えではない。大乗仏教には昔から代受苦という概念がある。他力観
の本質はこんなところだ。 続く
>>586 冒頭で一行飛びました。 ↓ これを挿入します。
親鸞が言う他力とは何か。この言葉には色んな意味が多面的に込められてあるけど、いままで
590 :
南無大師遍照金剛:2007/04/14(土) 11:44:02 ID:1imsEd0h
お猿は文字が読めません(ノ_<。)
てか
渡海さんありがと
>>586-589を要約すると
渡海はかつてラーメン屋を開いたが、渡海が作ったラーメンがあまりにもまずかったので全くお客が来なくてすぐに廃業。
それで今でもラーメン屋に対して恨みを持っていて、同時に借金を返済できていないってことだな。
渡海がラーメン屋を例えに出すのはそのため。
自力でも他力でも弁理士になれなかった渡海難にラーメン屋は無理だろう。大笑
593 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/16(月) 09:46:32 ID:3IrcK8+H
三願転入論が終結しました。
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1175090063/236-238,341-346,352,355,358,386,411-413,473,513,696-697,700
594 :
神も仏も名無しさん:2007/04/16(月) 10:45:28 ID:TdXfr+VC
>>593 昔、駐在所の隣のラーメン屋で食い逃げして捕まったって本当ですか?
だから渡海さんの話はラーメン屋を例に出してるんですね。
>>594 マジですか!?
それが、渡海難が公務員を辞めた理由ですか?
597 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/19(木) 09:33:26 ID:IrW7iGgR
ラーメン屋さんには、仏教に対しての誠実さは必要がない。真実を求めようとする熱情も必要
がない。ただ、再起・挫折・再起・挫折して人生に迷うことがラーメン屋さんに無いかといえば、
そんなことはない。迷うことはしばしばある。それは、比叡山の座主さんも、高野山の管長さん
も同じだ。生きている限り人生には迷いが尽きない。迷っても、迷っても、複数の選択肢がある
限りは、ラーメン屋さんはできるだけその中の最悪の選択肢だけは常に選択しないでおきたいも
のだ。最悪の選択肢だけは選択していかないというそんな生き方は、できないものだろうか。常
に最悪の選択肢だけは選択しない、そういう生き方は人生の達人に学ぶといい。
ラーメン屋さんはお経を読む必要はない。声明を勉強する必要もないんだ。ただ、念仏だけは
してみたらどうですか。ラーメン屋さんには念仏がいい。2級ヘルパーさんにも念仏がいい。最
悪の選択肢だけは選択しないで済ませようとする生き方をしたければ、念仏だけしたらどうでし
ょうか。お釈迦様はそういう。それなら、念仏だけやってみようじゃないか。それで、最悪の選
択肢だけは選択していかないという生き方ができれば儲けものだ。
598 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/19(木) 09:34:01 ID:IrW7iGgR
>>429で質問があった。この問いにはまだ応えていなかった。いまここで応えよう。ラーメン
屋さんは高野山の管長さんではない。比叡山の座主さんでもない。だから、ラーメン屋さんには
仏教に対して至誠心はいらん。仏教に対しては回向発願心もいらない。そして、実は、深心もい
らないんだ。深心もいらないから深心もなしで念仏を称えてみなさいな。そう教えてくれている
のが第20願です。念仏とは、窮極の危機管理法の提案だ。念仏さえ称えていけば、最悪の選択
肢以外の選択肢をなんとか選択していけるそんな生き方が見つけていけるだろう。念仏はその方
法論を提示する。
お釈迦様は念仏がいいという。念仏がいいというなら、その念仏には何かお釈迦様の心が籠も
っているんだろう。しかし、称えても、称えても、お釈迦様の心などは簡単にはなかなか分かる
ものではない。お釈迦様の心が分からなければいかんのか。お釈迦様と肝胆相照らす心が持てる
ようにならんと人はいかんのか。そんなことはないんだ。お釈迦様の心が分かるようになること
より、最悪の選択肢だけは選択していかないという生き方を、ラーメン屋さんができるようにな
ること。そのことの方が遙かに遙かに大事なことなんだ。いくらお釈迦様の心が分かるようにな
っても、最悪の選択肢を選んでいくような残念な生き方しかできなければ、お釈迦様は残念に思
うだろう。お釈迦様の心など全く分からんでもいい。お釈迦様の心など全く分からんでも、誰も
困らん。ラーメン屋さんが最悪の選択肢だけは選ばない生き方ができるようになる。それ以上に
素晴らしい話はどこにもない。
599 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/19(木) 09:34:53 ID:IrW7iGgR
お釈迦様と肝胆相照らす心をもてと言われても、出前と調理に忙しいラーメン屋さんにそんな
話が通用するはずもない。お釈迦様などと肝胆相照らす心を持つようになる暇があれば、少しで
も簿記の勉強でもすることが先だ。パソコン会計の勉強でもしなさいな。盆暮れの休みがあれば、
子供と一緒に旅行でもしたらどうですか。お釈迦様と肝胆相照らすようになるのは、急ぐ話では
ない。そう教えてくれているのが第20願です。
ラーメン屋さんは念仏を称えればいい。その外には仏教上は何も要らない。確かにそうだ。だ
からといって、これが全てだともし思えば、それはまた少し残念なことだ。お釈迦様は、念仏を
称えなさいよと教えてくれている。お釈迦様がそう教えてくれているところには、お釈迦様の心
がある。折角念仏を称えるなら、そんなお釈迦様の心を汲み取れて称えていきたいものだ。お釈
迦様と肝胆相照らす心をもって称えられるように、少しはなりたいものだ。18願はそんなこと
を教えてくれている。折角称えるなら、真の仏弟子となり、念仏を勧めているお釈迦様のその心
と肝胆相照らす心を持とうじゃないか。それが18願の教えである。しかしその心は、称えつづ
けていけばやがて見えてくる。安心して称えていきなさい。そう言ってくれているのが20願。
親鸞聖人は浄土真宗の心として、そんなことを教えてくれている。
教行信証と親鸞が言う場合の信、それは称えていくことで見えてくる18願の信を言っている。
歎異抄が「本願を信じ、念仏申せば仏になる」と言っているのは、20願の信を言っている。2
0願のお誓いを信じてただ念仏を申していけば、仏と肝胆相照らす心を持つようになるだろう。
歎異抄はそう教えている。教行信証と歎異抄とは思想の骨格が違う。18願を大事に思うか、2
0願を重視するか、その違いだったのだ。
念仏の信心、
>>387から始まった浄土真宗の信心の話は、ここで一応ここで一区切りとします。
あげ
あ
>>597-599を要約すると
無断欠勤が多く学歴詐称があったという理由で公務員を解雇された渡海はお金に困って駐在所の隣のラーメン屋で食い逃げをして逮捕されたってこと。
603 :
南無大師遍照金剛:2007/04/23(月) 07:10:49 ID:U5T2HI5b
ヽ(´∇`)ノ
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605 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/29(日) 00:32:40 ID:5O5jpkVk
606 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/04/30(月) 00:46:40 ID:Ugn42Qoz
>> 768-772
ビックリした方もいると思います。
渡海難を追っているストーカです。10年近く前の2ちゃんねるの一瞬の一言が忘れられない
で心に引きずっています。かなり粘着質ですが、相手しなければ人畜無害です。
本派の坊さんのようです。たくさんいるヤクザ坊主の一人でしょう。
>>767さん。
渡海難からのコメントを待っていますか?。
私がこれをここで議論し出すと霊魂論が寸断されそうです。外の方がこのスレッドで議論する
のは一向に構いませんが、私の方は控えさせて下さい。私は霊魂論を続けたいと思います。霊魂
論が終われば、引き上げるつもりです。私は心と宗教板の住人と決めていますので、そちらに戻
ります。
お布施については、 ↓ ここで提起してくだされば、渡海難はコメントさせて頂きます。
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1157628310/
正像末和讃に「自力疑心の行者は称名念仏にはげめ」と
書いてありますね。やはり称名念仏あっての獲信なんですなあ
わかってみればこんな当たり前の話なのに、
「信心正因・称名報恩」という一人歩きした公式(?)に
惑っておりましたことです。
609 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/05(土) 00:19:19 ID:dikp8+0K
610 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/05(土) 00:20:12 ID:dikp8+0K
愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永
く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しか
るにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難
思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩
を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を拾うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。
(化身土)
私は、曇鸞大師が書かれた浄土論註を拝読し、善導大師の勧めにより、ずっと以前に万行諸善
を積む双樹林下往生を離れ、善本・徳本つまり南無阿弥陀仏を称えようという真実の門に入り、
永くここに親しみ、難思往生の心を抱いてきました。しかし、今、方便であった真実の門を抜け
だし、選択の願海に転入しました。真実の門という方便の難思往生の心をできるだけ速やかに離
れ、難思議往生の世界に到達しようと思います。阿弥陀仏は、20願で果遂の誓いを起こしてい
ます。必ず成し遂げよう、もし成功しなければ、自分は大乗の仏になったとは思うまい。そのよ
うに誓っています。選択の願海に転入し、先人達の深い心が見えてきました。先人達の親切と優
しさとご苦労に報いるため、真実の宗の核心部分を抜き出し、永遠の偉大なる世界を称賛し、心
に念じたいと思います。
611 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/05(土) 00:22:13 ID:dikp8+0K
双樹林下往生・難思往生・難思議往生 (教行信証)
諸行往生・念仏往生 (末燈鈔)
正念往生・狂乱往生・無記往生・意念往生 (安心決定鈔)
即得往生・臨終往生 (浄土真要鈔本)
体失往生・不体失往生 (口伝抄)
往生という言葉は、様々な概念が付属していますが、親鸞に仏教を学ぼうとするなら、双樹林
下往生・難思往生・難思議往生の概念を認識し、そこから諸行往生・念仏往生・正念往生・狂乱
往生・無記往生・意念往生・臨終往生という概念を考えていく必要があるでしょう。これらには、
双樹林下往生・難思往生・難思議往生などの概念と部分的に重複しています。
また、往生の本質を考えるとき、
「前念と後念と因と作る。穢土の仮名の人・浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異
を得ず。前心・後心またかくのごとし。何をもってのゆえに。もし一ならばすなわち因果なけん。
もし異ならばすなわち相続にあらず。この義、一異を観ずる門なり(行の巻き)」。これは往生
観の本質的前提になると考えます。
ここでは、双樹林下往生・難思往生・難思議往生の本質を考察するのに留めます。
親鸞はこの三つの往生について次のように言う。
邪定聚機=双樹林下往生、不定聚機=難思往生、 必至滅度の願=難思議往生
続く
612 :
神も仏も名無しさん:2007/05/05(土) 00:44:59 ID:fmf11bM8
中年太りのキモヲタ真宗禿・渡海難
渡海のバカも、最初は親鸞会を目の敵にしていたようだが、
そのうち容認するようになったのが笑える。
類は友を呼ぶんだな。
615 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/09(水) 17:52:39 ID:uqYvccsE
双樹林下往生・難思往生・難思議往生という場合の往生とは、仏道を学ぶ世界に加わるという
ことだ。通学している自分の学校の学園祭で観客に向かって歌を歌っても、芸能界に入ったとは
言わないが、自分が歌った歌をレコーディングし、流通機構を介してCDを販売すれば、芸能界
に入ったと言われるだろう。通学する学校の同人雑誌に小説を投稿しても文壇に入ったとは言わ
ないが、芥川賞、直木賞を受賞すれば文壇に入ったことになるだろう。芸能人の世界を芸能界と
いう。作家の世界を文壇という。仏道修行者特に浄土教仏道修行者の世界を極楽浄土という。芸
能人は芸能界にデビューする。作家は文壇にデビューする。仏道修行者は極楽浄土にデビューし
て往生する。
往生は、輪廻を断絶する。まず、分かりやすい輪廻から考えよう。
獣の心で獣の行為をする者を獣という。鬼の心で鬼の行為をする者を鬼という。人間の心で人
間の行為をする者を人間という。生きとし生けるものには、意思と行動がある。意思を「願」と
言い、行動を「力」という。
昨日まで人間の心で人間の行動をしていた者が、今日は鬼の心で鬼の行動をしだすことがある。
さっきまで有頂天でいた者が、突然に獣となり、さらには地獄にも堕ちる。地獄の底で真人間に
なることを誓ったものが、ほとぼりが冷めると再び獣となることもある。
馬鹿だった。馬鹿だった。人はしばしばこのように後悔する。後悔して、後悔して、後悔し、
舌の根の乾かない内に、次の瞬間には鬼の手下になって鬼となる。鬼になって有頂天になること
もある。
616 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/09(水) 17:53:10 ID:uqYvccsE
鬼となり、獣となり、あるいは真人間になり、そして地獄にも堕ちる。節目節目で人は意思と
行動が変わる。意思と行動が変われば、人は人格が変わる。人間が変わる。古い自分が死に、新
しい自分が誕生する。新たな人格を持ち、新たな決意で再起し、新たな行動を起こして新たな人
生をスタートしても、やがて人は彷徨する。心は急ぐが、行動が言うことを利かない。何をして
いいのかわからない。あるいは人は疲弊する。行動は惰性で続いていても、心は早々と変わって
しまう。意思が変わり、行動も継続を放棄すれば、挫折する。
人は、生(再起)・病(彷徨)・老(疲弊)・死(挫折)を繰り返す。再起と挫折を繰り返す。
生・死・生・死を繰り返す。中途半端に再起すればやがて中途半端に挫折する。中途半端な挫折
は、中途半端な再起を生み出すだろう。仏教ではこれを迷いという。
釈迦の十二因縁の法則は、無明を原点にして生老病死に至る。人は生死・生死を繰り返し、生
死・生死の一こま一こまの中で獣となり、鬼となり、有頂天になったかと思えば、地獄にも堕ち
る。獣が鬼になっても、獣の中の霊魂だけが鬼になったのではない。獣の全人格が鬼になったの
だ。鬼が天を舞うように有頂天になれば、鬼の霊魂だけが有頂天になったのではない、鬼の全人
格が鬼になったのだ。
617 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/09(水) 17:54:30 ID:uqYvccsE
人は、自らの無知と無能を本質とし、再起・挫折・再起・挫折を繰り返す。今のこの私の再起
・挫折・再起・挫折、生・死・生・死は、私の肉体の誕生で始まった物ではない。肉体の消滅で
終わるものでもない。今のこの私の再起・挫折・再起・挫折は、無明を本質とし、過去、無数の
人々が始めなき始めから繰り返してきた再起・挫折・再起・挫折の無明と寸分の違いもない。今
のこの私の再起・挫折・再起・挫折は、無明を本質として生・死・生・死を繰り返す。無明は霊
魂だけの問題ではない。精神だけの問題ではない。肉体だけの問題でもない。これは、私の意思
と行動の全ての本質である。その同じ無明をもって、やがて今後も無数の人々が寸分の違いもな
い同じ再起・挫折・再起・挫折を経験していくだろう。今、この私が無明を本質として、鬼とな
り、獣となり、地獄にも堕ちていくこの道は、かつて、無数の人々が、私と同体の無明(霊魂で
はない)を本質とし、繰り返し繰り返し浮沈を繰り返してきた同じ道である。今後も無数の人々
が、私と同体の無明(霊魂ではない)を本質として繰り返していく同じ道である。
私の無明は、決して私で始まった物ではなく、私の死で終わるものではない。無限の過去から
無限の未来に向け、とどまることなく続く同体の無明の一本道の一部を、今、私は私の生老病死
として経過しているのにに過ぎないのだ。
千年の暗室であっても、一本の蝋燭の火で破れる。無明は一度破れれば、二度と戻ることはな
いない。さあ、光に向かおう。浄土教はこのように、光の世界への移行(往生)を勧めてくる。
つづく
僕は2ch.netに出会ってから、人間の汚さ、醜さをこれでもかというぐらいに痛感した
顔も名前も知らない人間同士の対話・議論の場では、
普段自分を抑えつけている「理性」という名のリミッターが解除される。
人間の胸の内に秘めた「本音」が留まることなく垂れ流されていく。
罵詈雑言、中傷、名誉毀損、時には犯罪予告・・・
この2ch.netという環境は、容赦なく人間を壊滅の方向へと突き落としてくれる。
だから・・・、2ch.netという世界で、どれほど汚れた人間を見ても驚かないと・・・思っていた
しかし、それは間違いだったよ。
今まで2ch.netで培ってきた人間観を根本から覆す、自分の想像力を遥かに超えた、
「キチガイ」という名の、修復不可能な領域にまで達した宇宙のゴミを・・・
それはお前だ、渡海 難。
スレッドタイトル、本文だけで、お前という人間の壊れっぷりが容易に想像しえる。
感情を剥き出しにし、客観的論理を完全に無視し、自分の主張欲を満たすだけの「糞スレ」というやつだ。
まるで推敲されていない稚拙な文章がその威力を引き立てる。
俺は心底恐怖した。日本のどこかに、超A級危険人物が潜んでいるという事実に。
そして、間接的にとはいえ、そいつと関わりあってしまった自分に・・・。
更に、その事実によって俺の中で二次的な恐怖を生じた。
そう、渡海のように、2ch.netによって「キチガイ」が量産されてしまっている・・・。
カゴの中に1個の腐ったリンゴと、9個の新鮮なリンゴを入れると、その9個のリンゴも腐ってしまうように・・・。
「キチガイ」が「キチガイ」を生むのだ。嗚呼、恐ろしい。
そして究極の恐怖は、既に俺もこのキチガイを生み出す網目に取り込まれているということ・・・。
早めに自覚してよかったよ。これ以上2ch.netにいると俺まで壊れてしまう。
渡海はそのことを気付かせてくれた。それだけは感謝しよう。
今このスレッドをみている君も、一刻も早くブラウザを閉じて、健全な生活に戻るんだ。今なら間に合う。
さあ、タイトルバーの左端をダブルクリックするんだ
620 :
親鸞様:2007/05/09(水) 22:53:12 ID:Rr1fvSXk
>>619 このスレを荒らせばよろしい。
それで我慢しなさい。
621 :
神も仏も名無しさん:2007/05/10(木) 23:32:04 ID:FGEW5o5C
こ ん な ス レ を 立 て る こ と が あ な た の 楽 し み で す か ?
こ ん な 人 間 に す る た め に カ ー チ ャ ン は あ な た を 生 ん だ の で す か ?
こ ん な あ な た を 見 た カ ー チ ャ ン は 何 て 言 う と 思 い ま す か ?
J( '-`)し
( )\(∀` ).
│| (_ _)ヾ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
5月13日は母の日です。今まで親孝行できなかった人も、
ずっとしていた人も、母の日には親孝行しましょう。
あなたの「ありがとう」の一言がカーチャンには一番の贈り物です。
622 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/12(土) 10:49:14 ID:1+S6sTBS
神社仏閣板の真宗系スレで輪廻が問題になっているので、仏教が言う輪廻を説明しておきたい。
人間には霊魂があるかどうか、そんなことは僕は知らない。人間に霊魂があるのかないのか、
その存否について、僕は全く知見がない。現代の僕が知らないんだから、800年昔の親鸞が知
っていたとは思えない。2000年以上も昔の釈迦は知っていたなどとは凡そ考えられない。仮
に知見もっていたとしても、そんなものはヤマカンの類で、全く信用に当たらないだろう。だか
ら、仏教では、死んだら霊魂はどうなるかなど、答えられるはずもない。
ただ、仏教には輪廻論があるという。輪廻論とは、空を有という概念で説明する説明手法だ。
空論とは、有という概念を空という概念で説明している説明手法だ。
輪廻が分かれば空が分かる。
往生論に戻る前に輪廻に触れておきたい。まず簡単な表を提示する。後で表の説明をする。
623 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/12(土) 10:52:27 ID:1+S6sTBS
□□□┃意思│行動│知見│休息│欲望│無明│我│悟┃仏界〔輪廻がない〕
━━━┃━━│━━│━━│━━│━━│━━│━│━┃ (仏・菩薩・二乗)
仏□□┃○□│○□│○□│○□│×□│×□│×│○┃三乗(菩薩・声聞・縁覚)
菩薩□┃○□│○□│○□│○□│○□│×□│×│○┃一乗(菩薩)
声聞□┃○□│○□│○□│○□│○□│×□│×│○┃二乗(声聞・縁覚)
縁覚□┃○□│○□│○□│○□│○□│×□│×│○┃三界(欲界・色界・無色界)
━━━┃━━│━━│━━│━━│━━│━━│━│━┃六道〔輪廻がある〕
無色天┃○□│○□│大□│×□│×□│○□│○│×┃(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)
色天□┃○□│×□│大□│○□│×□│○□│○│×┃天界(無色天・色天・欲天)
欲天□┃○□│大□│大□│○□│○□│○□│○│×┃無色界(無色天)
人□□┃○□│小□│中□│○□│○□│○□│○│×┃色界(色天)
修羅□┃×□│大□│中□│○□│○□│○□│○│×┃欲界
畜生□┃○□│○□│×□│○□│○□│○□│○│×┃(欲天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)
餓鬼□┃○□│○□│×□│×□│○□│○□│○│×┃三悪道(畜生・餓鬼・地獄)
地獄□┃○□│×□│×□│×□│○□│○□│○│×┃
悟(十二因縁) 知見(悟を除く智慧) ○(あり) ×(なし) □(余白)
624 :
神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 12:00:32 ID:uUAq0kt1
□□□┃意思│行動│知見│休息│欲望│無明│我│悟┃仏界〔輪廻がない〕
━━━┃━━│━━│━━│━━│━━│━━│━│━┃ (仏・菩薩・二乗)
仏□□┃○□│○□│○□│○□│×□│×□│×│○┃三乗(菩薩・声聞・縁覚)
菩薩□┃○□│○□│○□│○□│○□│×□│×│○┃一乗(菩薩)
声聞□┃○□│○□│○□│○□│○□│×□│×│○┃二乗(声聞・縁覚)
縁覚□┃○□│○□│○□│○□│○□│×□│×│○┃三界(欲界・色界・無色界)
━━━┃━━│━━│━━│━━│━━│━━│━│━┃六道〔輪廻がある〕
無色天┃○□│○□│大□│×□│×□│○□│○│×┃(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)
色天□┃○□│×□│大□│○□│×□│○□│○│×┃天界(無色天・色天・欲天)
欲天□┃○□│大□│大□│○□│○□│○□│○│×┃無色界(無色天)
人□□┃○□│小□│中□│○□│○□│○□│○│×┃色界(色天)
修羅□┃×□│大□│中□│○□│○□│○□│○│×┃欲界
畜生□┃○□│○□│×□│○□│○□│○□│○│×┃(欲天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)
餓鬼□┃○□│○□│×□│×□│○□│○□│○│×┃三悪道(畜生・餓鬼・地獄)
地獄□┃○□│×□│×□│×□│○□│○□│○│×┃
━━━┃━━│━━│━━│━━│━━│━━│━│━┃
渡海難┃×□│×□│×□│×□│○□│○□│○│×┃基地外(問題外)
悟(十二因縁) 知見(悟を除く智慧) ○(あり) ×(なし) □(余白)
625 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/13(日) 09:57:37 ID:Cu6sT2aX
仏教の輪廻論は六道の本質が分かれば理解しやすい。六道は畜生道から理解していくのが一番いい。
畜生とはなにか。畜生には意思がある、行動がある。特に野生の動物には必ず意思がある。この場合
の意思とは、複数の選択肢を考え、その選択肢に対する選択的思考だ。ライオンは目の前に獲物がい
ても、それを追うか追わないか、必ず選択する。選択して、追うと決めるとそれを追いかける。追わ
ないと決めたのに体が勝手に追いかけるということはない。
畜生と人間との違いは知見の有無だ。人間には合理的な判断、理性というものがある。畜生にはそ
れがない。裁判所の傍聴席から、被告席に向かっていきなり罵声が飛ぶ。「ケダモノ!」と。一人娘
を殺された親にとって、娘を殺した犯人は人間ではない。人間であれば理性がある。道徳がある。考
えるということがある。既に人間的な知見を忘れた被告席の犯人は、ケダモノ以外の何者でもない。
合理的にものごとを考えることを忘れれば、人はそのまま畜生に転落する。
畜生には休息がある。ライオンでも、腹が満腹になれば休む。魚でも眠くなれば寝るそうだ。しか
し、人間的な知見もなく、一寸の休みもなく執拗に自らの欲望を追いかけていく者がいる。食っても
食っても常に腹を空かせ、休むことがない。その存在はまさにライオン以下。これを餓鬼という。
子供を餓鬼と言うことがある。これは、大人にとって、まつわりついてくる子供をうるさいと感じ
たとき、その不快感を込めて言う言葉であり、本当は子供が餓鬼であるはずはない。
欲望のまま、休み無く動いていけばやがて動きたくても動けなくなることがある。欲望は紅蓮の炎
のように燃えさかり、雪だるまのように膨張していく。しかし欲望実現に向けて体は微動もしない。
これを地獄という。衆生界で行動がないというのが地獄の特徴である。
626 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/13(日) 09:58:22 ID:Cu6sT2aX
人間には意思がある。行動がある。知見がある。休息も欲望もある。まさにそういう存在である。
これに対して阿修羅という存在がある。最古の仏典には阿修羅はないそうだ。もともとは人間の一形
態であったが、後に独立した一形態になった。阿修羅と人間との決定的違いは意思の有無である。阿
修羅には意思がない。通常、衆生界は自らの意思で行動する。行動の裏には必ず意思がある。しかし、
その意思を奪われている存在がある。分かりやすく言えばこれは軍人である。行動は他人の意思に支
配される。命令あれば嫌でも戦地に赴き、人間兵器となって敵艦に体当たりしていく特攻攻撃もしな
ければならない。興福寺には阿修羅像がある。阿修羅像は顔が三つある。阿修羅には自分本来の固有
の意思が存在しない。高級軍人は海底の奥深くに住み、下級軍人は山間僻地あり、常に雷鳴に脅かさ
れている。往生要集はそう説いている。高級軍人は通常、ほとんど社会に顔を出すことがない。人民
に顔を出すのは政治家である。下級軍人は国境で警備に当たる。軍人は、命令があれば命に代えて外
敵軍と戦う。
人間は通常、自らの意思実現に向けた行動に大きな制限がある。しかし、その制限がほとんど無い
者がある。天才は、しばしば意のままに自在に驚異的な絵画を描き、彫刻を表現する。政治家は軍事
力を発動し、圧倒的な力で人民を支配する。これはすべて天である。天の最高位を有頂天という。
627 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/13(日) 09:59:40 ID:Cu6sT2aX
人はしばしば、この六道を廻る。昨日は有頂天であった者が、今日は地獄の底で塗炭の苦しみを受
けることがある。ケダモノとなり、あるいは鬼となる。これを迷いという。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天、ここには共通点がある。全て欲望を持つ。欲望を断てば迷い
はなくなるだろう。欲を断とうじゃないか。そういう提案がなされる。しかし、欲を断って清らかな
生き方をしても、所詮それは現実性がない。これを絵に描いた餅という。理想主義は現実味がない。
このような理想主義を色天という。形はあるが実行性がない。つまり行動がない。これでは物事は動
かない。色天は、無欲でかつ思考がある。知見がある。意思もある。しかしそこには満足な行動性が
ない。本質的にはこれも地獄・餓鬼・畜生界、つまり三悪道とつながっていた。
理想主義ではだめだ。理想主義は結局絵に描いた餅。三悪道とつながっている。当然そういう批判
もあるだろう。こういう主張は、しばしば無政府状態になる。反理想主義は破壊主義に走る。そこに
は計画がない。つまり一定の形がない。これが無色天である。理想主義はだめと言って、それでは形
をなくす破壊主義に走れば何か解決があるのか。そこにもなんら解決はない。破壊の限りを尽くして
も解決はない。これも三悪道とつながっている。
人は、再起・挫折・再起・挫折を繰り返す。今のこの私の再起・挫折・再起・挫折、生・死・生・
死は、私の肉体の誕生で始まったものではない。肉体の消滅で終わるものでもない。今のこの私の再
起・挫折・再起・挫折は、無明を本質とし、過去、無数の人々が始めなき始めから繰り返してきた。
自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あ
ることなき身である。
輪廻とは、霊魂が生まれ変わることではない。まさにこのようにして無限の過去から、無限の未来
に向け、とどまることなく再起・挫折・再起・挫折を繰り返すことをいうのである。
再起・挫折・再起・挫折を繰り返すこの迷いから脱出する道を探そう。これが仏道である。
628 :
神も仏も名無しさん:2007/05/13(日) 10:07:57 ID:8CxZBHas
こんなスレッド立ててるんじゃ
キモオタとか肛門とか言われるのも
仕方ないね♪
ζ
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/||||||||||\ \ | わはははは
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|||||||||||||||(6------〇つ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| / _|||||||| < オナニーばかりしおってけしからん!
\ \_/ \____________
// ,,r'´⌒ヽ___/ ,ィ
/ ヽ ri/ 彡
/ i ト、 __,,,丿)/ ____
| ! )`Y'''" ヽ,,/ /∵∴∵∴\
! l | く,, ,,,ィ'" /∵∴渡海∴∵∴\
ヽヽ ゝ ! ̄!~〜、 / ∵∴∵∴∵∴∴|
ヽ / ̄""'''⌒ ̄"^'''''ー--、 :::| ∵∴∵∴∵∴∴∴|
Y'´ / """''''〜--、∴∵∴∴ )
( 丿 ,,;;'' ....::::::::::: ::::r''''"" ̄""ヽ |
ゝ ー--、,,,,,___ ::: ::,,,,,ー`''''''⌒''ーイ /
ヽ \  ̄""'''"" ̄ \____/-、
ヽ ヽ :::::::::::::::::::: / `ヽ
ヽ 丿 ) / ノ ゝ ヽ ,〉
ゝ ! / ∀
! | / 人 ヽ ヽ
| ,;;} !ー-、/ ヽ _,,,-ー'''''--ヘ
|ノ | | / Y ヽ
{ | | j ) ヽ
〈 j ト-.| / )
Y''""'i'~ |,__| / 人 __,|
| | ,-ーイ__j /'""⌒""'''ノ Y''""" |
L_トァ ::: ̄ ̄::::::::::t
630 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/13(日) 11:50:14 ID:Cu6sT2aX
>>630 仕事もなくて一日中部屋に引き篭もってPCの前でセンズリかいてる50過ぎのおっさんに言われてもねぇ。
632 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/05/13(日) 12:03:49 ID:Cu6sT2aX
なるほど。(´▽`*)
633 :
神も仏も名無しさん:2007/05/13(日) 12:16:09 ID:f9LFzXoS
↑
キモっ!
634 :
神も仏も名無しさん:2007/05/13(日) 12:25:22 ID:f9LFzXoS
神社仏閣板の「真宗はなぜ嫌われるか?」スレから来た者だが、このスレ全体的にキモすぎ。
さすが、真宗禿もどきの渡海さんのスレは糞スレだな。
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我々は渡海難が何故このようなキムチ臭い糞スレを立てたのかという
疑問を解決するため、渡海の故郷である南朝鮮に向かった。
「まだ日本の隣にこんな国があったのか…」と思わず口に出してしまった私は
同行の報道特臭・鬼瓦上司から「常識だぞ」と注意された。
風が吹いただけで倒れそうにも見える、ただ巨大なだけの
味気ない手抜き高層建築物、日本の流行を外見だけパクッた服を
自慢げに着る鮮人の若者たち、「デーハンミングック!」「ウリナラ、マンセー!」と
狂った様に集団で絶叫する人々。そして彼らはヨソモノで身なりの
いい我々を監視する様に見詰めている。
4サマフィーバーだの、キムチパワーだの、南朝鮮ドラマブームだのと、
電通が裏で糸を引きながら日本のマスゴミが人工的に作り上げた
エセ友好の雰囲気の中で浮かれていた我々は、改めて南朝鮮の
お粗末な現状を噛み締めさせられた。
我々が渡海のボロ屑のような家に到着した時にそこに居たのは
醜く老いた母親一人。我々を見るなり全てを悟ったのか、
「アイゴー!!ウェノム!!」と叫びつつ走り寄って来て「チョッパーリはウリナラに対する
謝罪と賠償と反省と、竹島→毒島と日本海→東海の承認と・・・」等、
延々と我々に対してズーズーしい要求を行った挙句に
「土下座して詫びるニダ」と言い放った。
我々はこの時初めて渡海の様な白丁を含めた南北の鮮人はアジアのガン細胞
である事を悟った。誰が悪い訳ではない、鮮人の卑しさエゲツナサが全て悪かったのだ。
我々は道端の物売りから脅迫まがいに強引に売りつけられた
寄生虫入りキムチを手に打ちひしがれながら日本へと帰路についた。
帰りの機内で「中田と中村、ついでにジダンとベッカム、トドメでロナウジーニョも
ウリナラ同胞ニダ」と、キムチをクチャクチャ噛んでる糞餓鬼がホザいていた。
まったく こいつはとことん腐っている
>>1の精神はまるで病人
その病気とは 「いつどんな時も、とことん真剣になれぬ」という病だ
自分が特別な存在なのは人間なら当たり前だが やつはあまりにそれに溺れすぎ
自分の空想と現実をごっちゃにする甘ったれだ
いつだって 許されると思っている クソスレを立てようと
極論 板を飛ばしたとしても 自分は悪くない 自分は許される なぜなら
いま起こったこの事態はあくまで別の自分が招いたことで
本当の私の預かり知らぬこと そう考えるからだ 嘘じゃない
2chでは無駄なスレッドは立てるなど散々書かれているはずなのに
やつは自分の都合でそれを勝手にねじ曲げる 気分次第で破ってもいいようなものに作り変えてしまうんだ
つまり真剣でない 現実をしっかり見定めようとしないのだ 根っこが腐っているとしか言いようがない
通常やつのような人間は 生涯その仮から目覚めない
愚鈍に寝たいだけ寝て 半ば眠っているような意識で日々を繰り返す
退屈を忌み嫌いながら その根本原因病理には ほおかむり
少し熱心になる瞬間といったら くだらない友人と低俗な遊びに興じる時や
どーでもいい男の気を引く時など 目先の快楽を追っている時位
なぜそんな糞おもしろくもない気分で この人生の貴重な一日一日を
塗りつぶせるのかというと いつどんな時も現実は
偽の自分が行うことだからだ。つまり「仮」
「こんなものが本当の自分のはずがない」やつはそう思いたいんだ ゆえに 30、40になろうと
やつは言い続ける 自分の人生の本番はまだ先なんだと「本当の人生」に至ってないから今はこの程度でいいんだと
そう飽きずに言い続け 結局は 老い・・・・死ぬ!!
その間際嫌でも気づくだろう 今まで生きてきたすべてがまるごと「本物」だったことに
生きる上で、偽者の自分なんていやしないし、偽物の人生なんてものもない。
当然だ。人生はいつだって本物なんだ。
肝心なのは、その当然をいかに自覚しているか。真に覚醒しているかどうかだ。
ヤツはしょっぱなからそれをカン違いしているから、能力以前にダメなのだ
_,. -‐1 ,. - ‐:‐:‐:‐:‐- 、
_,. -‐:'´: : : : : | , :'´::.::.::.::.::.::.::.::.::.::.::.::.丶
,.イ ,.-:'´: : : : : : : : : : : ! /::.::.::.;.ィ::; ヘ::.::.::.::.::.::.::.::.::.:\
/: ∨: : : : : : : : : : : : : : :l'/l:/::./ ,':/ i::.:ト、::.l、::.:!::.::.::.::.',
,. -:' : : : : : : : : : : : : : : : : : : : -┴-'.._l/ l:| i::| i::l::.::.::.::.::i
ー‐ァ: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :`ーァ l| l| l:|::.::.::.::.::|
/: : : : : : : : : :
>>1: : : : : : : : : : : : : : : :/ ー‐‐---、!ヘ::.::.::.::|
,': : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :/ ┬--、 }::.:/::.!
! : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : ;.イj {辷リ ′/::/!::/
>>1 ここはテメエの日記帳じゃねえんだよ。
ノ: : : : : : : : : : : : : : : : : : :.:.:.:.:.. : :、/ ; /〃ノ:/
´. .:.:.:.:.:.:.:.: : : .:.: : : .:.:.:.. : : :.:.:.:.:.:.:__:.:.ヽ r―-, /-:'´::;′ チラシの裏にでも書いてろや。
`ー---;.:.:.:..:.:.:.:.:..:.:.:.:.:.:.:.:...:.:.:.:.:.:.:.V ̄`ヽ、 `ー‐' ィ;、:::∧:{
/:.:.:.:._:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.|'´ヽ rく` ト、. -‐'´ | `:く `
厶-‐'´ |:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ト、:.:.:.| _,.-‐! \ __,,. -‐''´ }‐:、
_l;.ィ´ヽ:./ヽ:|'´ ,>‐'´: : く ∨ > \
_,r{`7  ̄{ ̄} ̄¨`‐く__ヽ_;,: -‐; :\ _,.-:'´: : : : : :>、
,.イ | 〉´ ̄ ̄ ̄:  ̄`ー‘v'´>‐_く : : : \___,,. -‐:'´: : :ト-、_;,.-'´ ヽ
r'l ! ,し′: : : : : : : : :}_ノ/ __,,.ヽ: : : : : : : : : : : : : : V l
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