>>11 >必要ないのなら、化土巻の中でなぜ十九願が教えられているのですか?
主流説と少数説があった場合、主流説を支持する者は少数説をほとんど議論する必要がありま
せん。しかし、少数説を支持する者は、主流説を十分に解説し、それを相手が納得するまで十二
分に批判を加え、その上で自らの少数説を開陳するのが常道です。
親鸞の時代、善導仏教は日本仏教の主流でした。最もオーソドックスな善導仏教は、興福寺、
東大寺などで研究されていました。無論、比叡山でもそうでしょう。これに対し、善導仏教内で
急進的改革を叫んだのが法然・親鸞です。従来の善導仏教は時代遅れだ。新しい善導仏教に切り
替わらなければならない。急進的改革派の親鸞はそう訴えています。
主流説はどうして時代遅れなのか、どうして今急進的に改革が必要なのか、急進的改革派はこ
れを保守主流派を理解させる必要がありました。オーソドックスな善導仏教を批判的に克服する
説明手法として、親鸞は議論の一部で十九願を議論しています
観無量寿経は十九願、阿弥陀経は二十願という発想は、親鸞独自の思想です。説明手法と
考えればいいでしょう。