【カルト】聖シャーベル修道会/リトル・ペブル【2】
聖シャーベル修道会ニュース
2003年10月19日号 No.174
ナウラでリトル・ペブルさんから伝えられたことです。
(1)来年、日本に共同体(複数)ができる。共同体創立に着手すべき。
(2)来年、カトリック教会がミッションの支援を始める。
(3)来年、ミッション内部で最初から、そして20年来絶えず続いている分裂が解消し、
日本のミッションの一致が達成される。
(4)1994年8月15日以前をはるかに越える数の新しい幻視者たちが起こされる。
(5)来年、リトル・ペブルさんのミッションを通して、全国的な未信者の大規模な回心が起こる。
未信者に宣教すべき。堂々とリトル・ペブルさんへの支持を表明し、宣べ伝えるべき。
(6)来年、リトル・ペブルさんが来日する。
(7)来年、聖シャーベル修道会の第1部門の司祭が日本に与えられる。
(8)多くの日本人がナウラの聖地に行く。(移住も含む)
>>1の批判ページで公開されている、デルコル師によるリトル・ペブル批判「リトル・ペブル 警戒すべき偽預言者」の誤りについて
ttp://www.cultnews.jp/75-7.htm >教皇に選ばれるのは、独身の聖職者であるというのが、教会2000年の伝統です。だから、リトル・ペブルは決して教皇に選ばれる可能性はありません
教会法上、教皇になるためには男子信徒であればよく、枢機卿である必要も司祭である必要もありません。
(平信徒の場合、選ばれてから叙階される)また、独身である必要もありません。初代教皇ペトロは、結婚していました。
カトリック・エンサイクロペディアには、つぎのようにはっきり書いてあります。
ttp://www.newadvent.org/cathen/11456a.htm ” A layman may also be elected pope, as was Celestine V (1294). Even the election of a married man would not be invalid (c. "Qui uxorem", 19, caus. 33, Q. 5).”
ttp://www.cultnews.jp/75-b.htm >リトル・ペプルを「謙遜な犠牲の小羊」と呼ぶのは、なんとごうまんな態度でしょう?
原文を見れば明白ですが、ここで呼びかけられているのはペブルではなく聖シャーベルです。
>やっぱり何も起きませんでした。
啓示による予言は条件付のものであり、人間側が解釈したように実現するとはかぎらないことについて、
聖トマス・アクィナスは「対異教徒大全」第百五十四章12節で、イザヤ38:1におけるヒゼキヤ王についての予言を例に取りつつ説明しています。
英訳はSumma Contra Gentiles(University of Notre Dame Press)Book III,Part II,p.244参照
ttp://www.cultnews.jp/75-e.htm >沢山の人たちから、どれほど大きな財産を吸い上げてきたことでしょう
支持者が寄付をするのは彼らの自由意志による決定の結果に過ぎません。
過去の諸修道会も、信徒の寄付を受けてきました。
また、リトル・ペブルは寄付を修道会・共同体の土地や建物の整備のために用いているのであって、それで私腹を肥やしているわけではありません。
彼が私腹を肥やしていると主張する人は、それを証明する法廷的証拠を提出できるはずですが、彼らはそのようなものは何一つ出せません。
>マリアさまが女学生のように、かれらに従わねばならないというのでしょうか?
リトル・ペブルが聖母に「何日に来い」などと命令したメッツセージは存在しません。
聖母が「何日にある場所で出現を行います」とローキューションでおっしゃることは当然可能です。
その可能性を否定するカトリック教会の教義は、存在しません。
現に教会公認のファチマにおける聖母出現でも出現の予告はありました。
>>1の紹介するサイトで公開されている江原氏によるリトル・ペブル批判「リトル・ペブル運動への警告」(世のひかり社)の誤り
まず、引用されているマーレイ司教の声明に対するリトル・ペブル側の回答は以下のとおりです。
THE LITTLE PEBBLE and Natural Justice by Fr. Malcolm Broussard
ttp://www.littlepebble.org/documents/lp_bishop_murray_statement_1984.html 司教の声明が教義的に空疎で、ペブルの具体的命題・言動がカトリック教会のどの教義に違背するのか、なんら明示できていないことが、お分かりだと思います。
ttp://www.cultnews.jp/73-1.htm >リトル・ペブル運動にいたっては教会内部からじわじわとカトリックを筆頭に諸キリスト教会を崩壊させようと意図しているからである。
江原氏にどうしてそのようなことがわかるのでしょうか?人の内心を裁くのは神のみです。
リトル・ペブルがこのような意図を公演で言ったりメッセージに書いたりしたことはありません。
十分な根拠のない、こういう悪意の解釈は、邪推と呼ばれる罪です。
「私は次のように答える。以上においてのべられたように、十分な理由なく他の人々について悪く考えるという事実によって彼はその人を傷つけ軽蔑することになる。
さて、いかなる人も、重大な理由なしに、他の人を軽蔑したり傷つけたりするべきではない。
それゆえ、ある人物の邪悪さについて明白な徴表がない限り、私たちは彼を善人であるとみなすべきである。彼に関する疑わしいことを最善に解釈することによって。」
(聖トマス・アクィナス「神学大全」第二-二部第60問題第4項)