1 :
名無しさん@1周年:
2 :
名無しさん@1周年:02/06/01 10:25
ネムイ、くっーーーーーーーーーーーーーー
「直 指 人 心−じきしにんしん」
あれこれ考えずに、人(自身)の心を直ちに指し示せ(心を見つめよ)との意味である。
盤珪禅師は「人間の心とは、本来鏡のようなものである」と示された。
鏡はきれいなものを映せばきれいなものが映される。汚いものを映せば汚いものが映される。
人間の心とは、正に鏡のようであると。
636 :名無しさん@1周年 :02/05/30 01:28
ざっと読んでみて髑髏仮面は18時から23時半までずっと書き込んでいる。
ご本人は「自由自在の境涯」(自称)から「これもありです」と言うのだろうが、あまりにもあんまりじゃないのか。
空がわかればちょこっと仕事してあとは糞レス書き続けている人生も「あり」なのだろうか。
空がわかれば禅機のかけらも無い、道元の真似っこのような発言しか出来なくても「あり」なのだろうか。
「禅者っぽい」発言をしようと無理しているのがみえみえすぎて、滑稽を通り越してあわれだ。
勿論私は髑髏仮面が「空」を会得したなどと思っていない。
「般若心経」をちょっと勉強しただけで「すっかりわかってしまった!」と勝手に思っている人なり。
自分が一番経論臭い事言っているのに早く「気づき」なよ。ああ臭い臭いsage
637 :変人 :02/05/30 02:04
盤珪ふぁん だ!
6 :
名無しさん@1周年:02/06/01 11:38
キタッ--------------------------------------------!
>>3
7 :
北北北に進路をとれ!:02/06/01 11:47
北北北北
8 :
名無しさん@1周年:02/06/01 11:49
そもそも空って語れるものなのか?。
シューニアは無形なのでは?。
>>4 だから〜、君のためにカキコしておいたのよ。
↓
「直 指 人 心−じきしにんしん」
あれこれ考えずに、人(自身)の心を直ちに指し示せ(心を見つめよ)との意味である。
盤珪禅師は「人間の心とは、本来鏡のようなものである」と示された。
鏡はきれいなものを映せばきれいなものが映される。汚いものを映せば汚いものが映される。
人間の心とは、正に鏡のようであると。
10 :
名無しさん@1周年:02/06/01 12:17
キタッ--------------------------------------------------!
4 :↑ :02/06/01 11:36
636 :名無しさん@1周年 :02/05/30 01:28
ざっと読んでみて髑髏仮面は18時から23時半までずっと書き込んでいる。
ご本人は「自由自在の境涯」(自称)から「これもありです」と言うのだろうが、あまりにもあんまりじゃないのか。
空がわかればちょこっと仕事してあとは糞レス書き続けている人生も「あり」なのだろうか。
空がわかれば禅機のかけらも無い、道元の真似っこのような発言しか出来なくても「あり」なのだろうか。
「禅者っぽい」発言をしようと無理しているのがみえみえすぎて、滑稽を通り越してあわれだ。
勿論私は髑髏仮面が「空」を会得したなどと思っていない。
「般若心経」をちょっと勉強しただけで「すっかりわかってしまった!」と勝手に思っている人なり。
自分が一番経論臭い事言っているのに早く「気づき」なよ。ああ臭い臭いsage
637 :変人 :02/05/30 02:04
盤珪ふぁん だ!
12 :
名無しさん@1周年:02/06/01 23:23
>>636 >道元の真似っこのような発言しか出来なくても「あり」なのだろうか。
全然道元さんの発言にも似ていないんですが。
言っていることも道元さんの教えと逆の路線だし。。。。
カナピ-------------------------------------!
13 :
名無しさん@1周年:02/06/01 23:36
曹洞宗の禅は、教え全体としては、大般若経ベースだから、
慈悲も大事にするし、いわゆる中観思想との合致点も出てくる。
曹洞宗の禅定ばかりを捉えると、おかしなことになるのよん。
要するに、曹洞禅をやるにも、相当な仏教の文字の勉強も必要ってことさ。
まともな僧侶なら、修行後じゃなく、修行前から、弟子に文字と慈悲の大切さを口うるさく言う。
一般のイメージとは逆なのよ。
文字を使うなということではなく、文字を使う自分(衆生)の性質を理解して手立てとして使いなさいってこと。
マスターベーションに耽る自身に自己嫌悪して局部を切り落としても無意味なのと同じこと。
14 :
名無しさん@1周年:02/06/01 23:53
>8 名前:名無しさん@1周年
>そもそも空って語れるものなのか?。
シューニアは無形なのでは?。
それ、さんざん、前の板でやってたわ。
15 :
名無しさん@1周年:02/06/01 23:59
こっちでも、第一幕はまた「髑髏いじり」でっか(w
16 :
名無しさん@1周年:02/06/02 00:07
>3
「お題は涅槃寂静」が飽きられたんで、こんどは「直指人心」できましたな。
17 :
名無しさん@1周年:02/06/02 00:11
空ならば ただ紅の 鼻毛抜き
緑にしよう 柳屋のみせ
18 :
名無しさん@1周年:02/06/02 00:31
仏教のあらゆる面においてある程度の概念整理やある程度の概念把握を行う過程の大切さを受け入れること自体が、
空性と縁起の関係性、特に縁起の意味を概念上において大枠である程度正しく捉えていることを意味する。
要するに、適切な手続きを踏んで概念整理や概念把握を行う過程すらも、お釈迦様が縁起に即して衆生の現状を考慮することによって編み出した優れた1つの対治なのである。
それゆえ、ここで適切な手続きを踏むことをないがしろにするということは、空性と縁起の関係性、特に、縁起の意味を勘違いしている可能性が考えられる。
諸法が空性であり縁起するからこそ、仏道修行のあらゆる面において、適切な手続きを踏むことが必要になるのだ。
本来ならば、空性と縁起を概念把握することと、その過程を受け入れることの大切さを理解して、それはすばらしい教えと方法だと納得した上で、初めて仏教徒となる決意をすべきなのである。
19 :
名無しさん@1周年:02/06/02 06:54
>>18さんはあるべき姿を説いているが、あなたの「ここにある」姿が見えないのですが。
実践なさってみてはいかがですか、「いま、ここで」
キタッ--------------------------------------------------!
>>19
>>18 私が、前スレでA子よりB子を選んだ理由は、正にここにあります。
たぶん貴方はA子をえらぶでしょう。レスを読むとそう受け止められます。
よーするに主客未分化。ここのところを「無我」というふうに表記するんでしょうけど、
いわゆる仏教においての「核」の部分です。
>本来ならば、空性と縁起を概念把握することと、その過程を受け入れることの大切さを理解して
主体(認識)で把握しようとしても、それは認識の範疇「色」の妄想に陥りやすい。
ここのところを「主客未分化」と言うております。
22 :
名無しさん@1周年:02/06/02 09:05
それはどうかな。
ブス好きも結構いるからね。
23 :
名無しさん@1周年:02/06/02 09:09
24 :
名無しさん@1周年:02/06/02 09:42
>21 名前:髑髏仮面
よーするに主客未分化。ここのところを「無我」というふうに表記するんでしょうけど、
いわゆる仏教においての「核」の部分です。
A子にせよB子にせよ、選ぶってこと自体が、執着のあらわれではないの?
煩悩なり性欲なり恋愛感情があって、自が他に対して働きかけるのだから、主客未分化ではない。
無我ではなく、我がある。仏教の法の核ではなく、カルマや業の核でしょう。
25 :
名無しさん@1周年:02/06/02 09:52
この「空2」、前の板知らないで初めてきた人は、これ本当に「空」の話かいな、と思って帰っちゃうだろうねー。
26 :
名無しさん@1周年:02/06/02 09:58
中観哲学を生齧りすると「空無」に陥るという話が前のやりとり出てたけど、
禅を生齧りすると釈迦の法なしの「いま・ここ」に陥る可能性がある。
27 :
名無しさん@1周年:02/06/02 10:14
>21 名前:髑髏仮面
三宝帰依(仏・法・僧)ということを仏教では強くいいます。
しかし髑髏仮面さんのお話では、三宝への帰依そのものが「色の妄想に陥りやすい」ということになって、
結局は、自我そのものの半径を出られないのではないでしょうか? その狭い円の内側を髑髏さんは別名「いま・ここ」といってるのでは。
28 :
名無しさん@1周年:02/06/02 10:15
髑髏仮面、ぐわんばれっ!!! w
>>24 >A子にせよB子にせよ、選ぶってこと自体が、執着のあらわれではないの?
A子にせよB子にせよ、選ぶってこと自体が、執着のあらわれではないの?
>煩悩なり性欲なり恋愛感情があって、自が他に対して働きかけるのだから、主客未分化ではない。
自が他に働きかける→縁起→空→主客未分化→分別。ということです。
「色」のところをクローズアップされちゃうと迷ってしまう(w
30 :
名無しさん@1周年:02/06/02 10:49
>>29 主客未分化がどうして分化の後に出てくるんだよ。
「未」の意味わかってる?
最低限わかる日本語で書いてくれよ。
31 :
名無しさん@1周年:02/06/02 11:21
>29 :髑髏仮面
>自が他に働きかける→縁起→空→主客未分化→分別。ということです。
な、なんじゃこの論理は?しかもこの文脈の流れのなかで。
髑髏仮面 としてはどんな衝動に動かされてB子をえらんだのか
ということを問われているのではないの?
それと、そういった髑髏仮面の行動を、他者の行動として描写された場合、
初めてそれが「縁起}であり「空性}であると、他の人が「縁起の法」に則して見るわけで。
Bを選んだのは、Bの醜い魅力に心惹かれている髑髏さんでしょ。あくまで。
32 :
名無しさん@1周年:02/06/02 11:26
論理が完全に破綻しても、それでもなお語りつづけようとする執着心と妄執、
これだけでも髑髏仮面から、学ぶべきものがある!!
>>31 >Bを選んだのは、Bの醜い魅力に心惹かれている髑髏さんでしょ。あくまで。
だからこれは、前レスでもカキコしたよーに、わざわざ分別をマナ板に乗せている訳。
つまりねぇ。湯船につかりながら「風呂とは何ぞや?」と考えているようなもんです。
これがいわゆるA子的捉え方。
つまり「比喩」にて話を持っていっているんです。
>>30 意味が少し分からないですが・・・?
通常、認識は分別しているのではないでしょうか?
そこを分別→「無分別」主客未分化。→分別ですが。どー読みましたか?
そのほうが興味あります。
>>32 >論理が完全に破綻しても、それでもなお語りつづけようとする執着心と妄執、
これは難しいからね、そう簡単に分かるもんでもないよ(w
35 :
名無しさん@1周年:02/06/02 12:29
要するに、「主客未分化」をいうにしても、最初の喩えが適切でないのよ、髑髏さん。
だから全体が、不毛な議論になってる。ww
>>35 >最初の喩えが適切でないのよ、髑髏さん。
まあ、それは言えてるね。シパーイね。
つまり「真理を究めたい」。これは主体の範疇。
主客未分化とは、これを超越している。
ですから、求めよう(主体)としても得られるかどーかは分からんということでしょう。
この主体を外した時、その時はどーゆうもんか?分かる場合もある。ということなんでしょうか?
「気づき」なんかも、これに相当するかとは思っています。
これはなかなか難しいでしょうね。
「即今即所」。場所と時間をわきまえない。という事でしょうね。
>>33 「自が他に働きかける」
>>29 というところで、すでに主客が分化してるでしょう。当然。
どうしてそのあとに「主客未分化」がこれるのか、
全くわからないといってるのです。
未分化とは、いまだ分化されていない、という意味ですよ。
わかってますか?
38 :
名無しさん@1周年:02/06/02 12:55
ここは、髑髏という「マナ識」の実体化の板。
「空」からははるかに遠く…。
>>27 >三宝への帰依そのものが「色の妄想に陥りやすい」ということになって、
そういうことでなく、認識(主体)で空を捉えようとするところに無理があるんじゃないか?という事です。
認識を超える。というのは非常に抽象的なんですが・・・。
つまりは・・・
>自我そのものの半径を出られないのではないでしょうか?
自我を超越したところが、「主体を離れる」という事になるかもしれません。
つまりは「主体を捨てる」ことかと思います。主客未分化かと思います。
40 :
名無しさん@1周年:02/06/02 13:18
「主体を捨てる」といった時点で、
すでに主客は分化されてますが。
誰が主体を捨てるの?
>>37 >「自が他に働きかける」
>>29 >というところで、すでに主客が分化してるでしょう。当然。
私は「認識」、色で言っているわけですからね。
ですから「色即是空」の色は分別でしょう。
明確な差別相です、これを主客未分化にしてしまいますと、
全部ひっくるめて「空」ですと、これは話をもっていきよーがないですね。
42 :
名無しさん@1周年:02/06/02 13:29
分別の後には統合が来なければおかしいでしょう。
どうして、分別のあとに「未分化」がくるんですか。
まったくおかしいじゃないですか。
統合のプロセスが大切なんですよ。そこを曖昧にしないでほしいですね。
>>40 >誰が主体を捨てるの?
「誰が」。これがそもそも主体ですから。「誰が」が無いのが「主体を捨てる」でしょう。
44 :
名無しさん@1周年:02/06/02 13:32
「捨てる」という述語に対する、主部を聞いてるんですよ。
空が捨てるんですか。
それじゃ始めから、ただ、空、空、空と念仏唱えてるのと
同じじゃないですか。
要するに、いろいろ言ってるけど、あなたのは念仏だったんですね。
>>42 >どうして、分別のあとに「未分化」がくるんですか。
>まったくおかしいじゃないですか。
おかしいと思っても私のせいじゃないよ・・・。
分別→未分化→分別。これはしょうがない・・。私見に非ず。
>>44 >要するに、いろいろ言ってるけど、あなたのは念仏だったんですね。
念仏だろうか?そうでないのか?大変難しいですね・・・。
>「捨てる」という述語に対する、主部を聞いてるんですよ。
「捨てる」とは「無い」ということでして、主体も客体も無い。という事ことでしょう。
>空が捨てるんですか。
なになにが「捨てる」。という関係性はありません。
47 :
名無しさん@1周年:02/06/02 13:49
追い詰められた髑髏ちゃんへ。
髑髏、自分をすてることです。
おまえはちいさいときから、
いったん意地をはりだすと、どこまでもいこじになっていました。
我をはってはいけません。自説をすてることです。
雪国の母
>>42 >統合のプロセスが大切なんですよ。そこを曖昧にしないでほしいですね。
曖昧にしないよーに、あなたの意見を聞きたいもんです。
>>47 >追い詰められた髑髏ちゃんへ。
追い詰められている訳ではない。
仏教の基本のところがマダマダかと思います。
せめて・・・
「色即是空」「空即是色」これは学ばねば話になりません。
これをマスターしてからでも遅くはない。
髑髏語録〈現代に仏教は甦るか〉スレッドより
78 :髑髏仮面 :02/05/28 21:08
>>75 2ちゃんの人間は、全部ビョ−人と思えば良いんだよ。
まあ、あんまり硬く考えんでもいーよ。
気楽に逝こうぜ!
51 :
名無しさん@1周年:02/06/02 14:52
ほんとうに髑髏が坊さんにならなくて、よかったよかった
52 :
名無しさん@1周年:02/06/02 16:43
>>48 曖昧にしつづけているのはあなたです。しかも故意に。
わからないならわかりませんといえばいい。
あるいは知ったようなあいまいなことを言わなければ良い。
追いつめられるとすぐに人に振るのは悪い癖ですよ。
53 :
名無しさん@1周年:02/06/02 16:47
>>46 > >「捨てる」という述語に対する、主部を聞いてるんですよ。
> 「捨てる」とは「無い」ということでして、主体も客体も無い。という事ことで
捨てるとは無いと言うことではありません。
捨てるとは「誰か」が「何か」を捨てることです。
「無い」なら初めから「無い」と言えばいい。
捨てるという述語に対する主語はなに?
湯船に浸かって「風呂とは何ぞや?」と考えるよーなものでして、
大事なのは、「そう思う自分とは何ぞや?」。に気が付かねばならんかと思う。
さすれば「風呂とは何ぞや?」が分かるかと思いす。
もうちっと突っ込みを入れないと・・・
この「核」の部分に入っていけない。これがかなり難しい。
>>47 >髑髏、自分をすてることです。
これが出来てしまえば、カルマ、輪廻は直ぐ答えがでるかと思う。
>>53 君は心を形として目の前に出せと言ってるようなもの。
空を形にしなければ納得できないのだろう。
まぁ〜形にしても難癖つける輩だろうが。
言いっぱなしなので答えは無用。
56 :
名無しさん@1周年:02/06/02 17:04
>55
おやっ、じいさん、最近また子猫が縁の下に棲み付いたようだねえ。
そうかい、保健所でも呼ぶかい。
おおいやだ。なんの黴菌もってるか、わかったもんじゃないからねえ。
2ちゃんのどこかで、猫なんか、画像の上で処理してくれるところもあるらしいねえ。
あらやだ! 人様に聞かれるよ、そんな殺生なこといって。
>>52 >曖昧にしつづけているのはあなたです。しかも故意に。
>わからないならわかりませんといえばいい。
過去スレにおいては、充分に自論を展開しておりますよ(w
>>53 >「無い」なら初めから「無い」と言えばいい。
>捨てるという述語に対する主語はなに?
「無い」という意味では無い。現に「ある」のですから・・・
「捨てる」というのを主語、述語の関係で説明しょうとするところに無理がある。
たとえば・・・
「直覚」というのは、これは認識ではないでしょう。
つまり認識で「捨てる」わけではないですから、相対概念では意味が分からんでしょう。
その相対概念を捨てきったのを言うておるのです。
少し難しいですけど分かりますか?
58 :
名無しさん@1周年:02/06/02 17:12
だったら「捨てる」なんていわなきゃいいだろ。
「捨てる」は「無い」ということだといったのは、君だよ。
すぐ前に書いてある。
君の言葉遊びがいかに無責任で無内容で、言葉を大切にしている
人を馬鹿にしたものかを指摘してるんだよ。
(茶坊主がまた出てきたようだが。)
君のおしゃべりは徹頭徹尾「妄語」だと思う。こういうのを
仏教であるかのようにひけらかすのは非常に悪いカルマだ。
言霊が祟るぞ。
じき
>>58 つまりですね、こーゆーのは「以心伝心」。分かるもんですよ。
結論出るまじ→戯言。ということでして、あまり意味はなさない。
しかしながら、私としましても2ちゃんという板を使って説明しようとしています。
そういった事柄は分かっていますが・・・2ちゃんだから、それ相応に・・。
>君のおしゃべりは徹頭徹尾「妄語」だと思う。こういうのを
>仏教であるかのようにひけらかすのは非常に悪いカルマだ。
>言霊が祟るぞ。
ここのところが、本スレ最大のテーマである「直指人心」です。
つまりは、自らの手を自身に差し示せ。と、こういう事になるかと思います。
60 :
名無しさん@1周年:02/06/02 17:33
空不空。色不色。
61 :
名無しさん@1周年:02/06/02 17:39
れれれーのれえーっ
いつのまに、このスレの最大のテーマが、「直指人心」になっちゃったの?
62 :
へっへっへっ:02/06/02 17:44
9 :髑髏仮面 :02/06/01 12:10
>>4 だから〜、君のためにカキコしておいたのよ。
↓
「直 指 人 心−じきしにんしん」
あれこれ考えずに、人(自身)の心を直ちに指し示せ(心を見つめよ)との意味である。
盤珪禅師は「人間の心とは、本来鏡のようなものである」と示された。
鏡はきれいなものを映せばきれいなものが映される。汚いものを映せば汚いものが映される。
人間の心とは、正に鏡のようであると。
つまりですね・・・
牛を引っ張ってきて、品評会をやっているよーなもんですよ。
直指人心より→内省→気づき→八図。これが肝要。
とりあえずは、「直指人心」。これがテーマ。
それから徐々に中核部分へと駒を進めます。
64 :
名無しさん@1周年:02/06/02 17:52
>とりあえずは、「直指人心」。これがテーマ。
じゃなくて、
ここのテーマは「空2」でしょう。しらばっくれてのっとっちゃだめよん。
>>64 >ここのテーマは「空2」でしょう。しらばっくれてのっとっちゃだめよん。
そーでしたか。了解しました。
まだ牛の話が続くものですから・・・。
この先どーなるのかとおもいまして。
66 :
名無しさん@1周年:02/06/02 19:18
牛の話をしたがってるのは、髑髏クン、君だけだよ。
>>66 まだ話が分かっていないよーだね。
つまり・・・・
カルマや業、これを考える「自分とは何ぞや?」これを逝っているんで、
そういった諸々の概念の範疇は既に通り越している。
「捨てる」のは「それは主体か?」こういう話ではない。これは未だ迷いの範疇でしょう。
即ち、自分が「観えていない」。これを実証しちゃったよーなもんでしょう。
自分が観えなければ、当然、事象においてはトンデモ解釈になる。
まあ、いたしかたないでしょうが・・・。
68 :
名無しさん@1周年:02/06/02 19:50
なんか知らんが、退屈やのーお
69 :
名無しさん@1周年:02/06/02 19:57
>>67 自分が見えていないのはキミ自身のような気がして仕方ないがな。
それにしても
>>66に対する反応がこれか。(藁
いっぱしの禅坊主になったような気分かい?
>>69 >いっぱしの禅坊主になったような気分かい?
そーいう事を考える必要はないでしょう。
私は「禅坊主」で飯を喰うわけではないですから。レッテルはいらないでしょう。
自分とは何なのか?これについては前レスで表明しております。
他の方の表明は、未だ沈黙のまま(w
貴殿の表明は如何に?
71 :
名無しさん@1周年:02/06/02 22:29
なんか髑髏タタキとその応報ばかりで面白くないなあ。
ケムール人さん達、どうしちゃったんだろう?
72 :
名無しさん@1周年:02/06/02 23:34
>>70 妄語よりは沈黙がはるかに優れている。
キミのはまったくの妄語。
私は前スレで十分ケムール氏に教示していただいた。
人に語って聞かせる前に、自分がちょっとでもマシになる
ことを考えたほうがいいと思うよ。
あ。どもども。すっかりバスが遅れちゃって。麓の村でエンコしちゃいましてね。
というのは嘘で、♪子が開いてる「刹那滅スレ」とか、他の仏教系スレとか、わけわかんない宗教のスレ見てて楽しんでいたんです。
♪子のやつ、★とか☆のいっぱいあるコンペイトウみたいな店開いて、チーママになってて、面白かったよ。
あいつは、仏教の相対性理論よりも、量子力学に向いてるのかもね。
それと、♪子ママのスナック「刹那滅」に、どっかで見たような客がいてさ、よく見たら髑髏ちゃん。
凄いね髑髏和尚は。あちこち出没してんの。
まあ、それはともかく、どーですか? 釣れまっか?
……あれっ、なんか、今度は「牛」じゃなくて、「指」の話?
>>72 >人に語って聞かせる前に、自分がちょっとでもマシになる
>ことを考えたほうがいいと思うよ。
ここは2ちゃんだからね。そんな・・・「人に聞かせる」など大それた事を考えている訳ではないよ。
自分の好きなように、思ったままをカキコしている訳。
その中で、耳を傾けてくれる人、全く興味の無い人、それは当然の事でしょう。
それで充分かと思うよ。
タダで2ちゃんにカキコ出来るんだからネェ。それはとても有り難い事だよ。
まあ、私の事は随分気にかけてくれているみたいだけど。
「直指人心」。つまり、この事を大切に。
75 :
名無し仔猫@1周年:02/06/03 00:36
「示し得るのは、語り得ぬものだけである」
「語り得ぬことには、口を閉ざさねばならない」
ヴィトゲンシュタイン/「論理哲学論」
・・・中公の「世界の名著」版の「論哲」は、注釈者が禅の素養のある
人で、なかなか良いよ。今、新書サイズのバックス版が出てるけど、注釈
が別のページにあるから見にくいな。
いろいろ考えているんだネェ。
だけど私は語るであろー。タダだからね(w
まあ、中には私の話を楽しみにしている人もいるからね。
そーいう人がいる事も念頭にいれねばなるまい。
そーいう訳で、きょうは他板で随分ROMしちゃって、夜更かししてしまった。
日々是好日。
今日の最後の締めくくり。
求人広告!
「縁起」と「十二縁起」について、
@学問的 A体験的に語れる人、求む。
Aは、brownちゃん希望よん。
どっかの板でさ迷ってるから、誰か連れてきてくれませんかー。
78 :
名無し仔猫@1周年 :02/06/03 01:38
>>76 そうだね、おやすみ。
>>77 人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が
彼に生じる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが
生じる。怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱
が生じる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性
の喪失から、人は破滅する。
バガヴァット・ギーター
・・・参考までに(引用は岩文)。
79 :
名無しさん@1周年:02/06/03 03:07
>>76 > だけど私は語るであろー。タダだからね(w
> まあ、中には私の話を楽しみにしている人もいるからね。
>そーいう人がいる事も念頭にいれねばなるまい。
それなりにひけめも感じてるのかな。
合理化に苦心してるようだね。w
80 :
名無しさん@1周年:02/06/03 03:09
>>76 「私は話を聞いてくれる人がほしいんです。現実世界では誰も
相手にしてくれませんから」
って率直に言ったほうが、みんなもっと親切に接してくれると
思うんだけどね。
81 :
名無し仔猫@1周年 :02/06/03 03:28
>>79 >>80 鈴木大拙も、骸骨と似たようなことを言っておったが。
口先ばかりの論理的一貫性なんてくだらなし@
なんか、目がさえて、眠れない。あかんな。
>78
ああ、なるほどね。こんな一説、あったっけ。読みとばしてたなあ。
これは要するに、「無明→行→識→***→苦」へといたる十二縁起の
「バガヴァット・ギーター 」版みたいなものですね。
ありがとうです。
*
えーと、さっき、77で 「求人広告!」 うったんだけど(笑)。
あれだけだと何のことやらわからないので、
その問題意識の背景を書いておきます。
よく縁起とか縁起の法とかいいますが、「空と縁起」といったときの縁起と、
「十二縁起」といったときの縁起とは、
どうも感触が違う。般若とか中観の文脈で「空と縁起」といったとき、
それは「一切皆空」という、ある種、原理的な傍若無人な公式であって、全方位的。
そのターゲットは360度の対象物。
しかし、阿含経典に出てくる中心的な公式の「十二縁起」は、どうもそうではない。
むしろ一方通行の「業の発芽」と「悟り」のプログラムであり、
だからそれゆえにこそ、順観も逆観も意味を持つというべきもの。
「十二縁起」を体験しつつある主体がどっち向きかなのかに、大いに意味が出てくる。
で、中観の「縁起」は、縁起といっても、「十二縁起の法」という謎は避けて通っているようにも見える。
「十二縁起の法」は、ある意味で、X〈無明)という始原の別世界を想定しているような感じもある。
しかしこの辺にくると不案内になってしまいます。私のいいかげんな雑学だとそうとうに怪しいので、
知識的に、体験的に、語っていただける人がいればいーなー、
という広告です。具体的に質問させていただきますので。
もちろん、最終的には「空」は語れず、公式化できず、悟りの内容は言葉では語れない、
という正当すぎるほど正当な「正論」を、十二分にみとめたうえでの話なんですけどー。
これでいいのだー これでいいのだー
これでいいのだー
>>76 >それなりにひけめも感じてるのかな。
そういうことはない。
公共巨大掲示板にて、自論を展開できるだけでも有り難いことだ。という事です。
率直な自分の気持ちです。
>>80 >って率直に言ったほうが、みんなもっと親切に接してくれると
>思うんだけどね。
親切にしてもらうより、君達の率直な気持ちを私にぶつけてもらった方が良いのだよ。
仕事でフラストレーションが溜まったら、遠慮なしに私にブツケてくれたまえ。
そういう事で良いからね。
そういう優しいオジサン(本当は若い)なんだよ。
髑髏の人間性が垣間見えたか?
あーっはっはっは。
85 :
名無しさん@1周年:02/06/03 20:31
kimosugiru...
86 :
名無しさん@1周年:02/06/03 21:31
酒でもはいってるか
brownを呼んだ?
十二縁起は例のサイトに書いてありますよ。是非読んでください。
http://www.moon.sphere.ne.jp/brown/の ・縁起→諸法無我・実相
・十二縁起→十二縁起・無常
「体験的に」というニーズには為になると思うよ。でも,読書百遍努力して欲しい。
仕事が厳しくて,求人広告に思わず目が止まったよ。ほんと。
>84
面白い。よい調子ですね。結構。結構。
88 :
ケムール人 :02/06/04 09:46
おうおう、brownちゃん。よーこそ。
やっぱり広告って、出してみるもんだなあ(笑)。
HP見させてもらったんだけど、よくできていて感心しました。
それで、といっちゃなんだけど、「縁起の法」その他について、
インタビューしたいことがあるのね。
で、私がいままでいい加減な雑学のノリで仏典とか読
み齧ってて、いちばんのミステリーが、「十二縁起」の順観・逆観というやつ。
これは一説に、釈尊の悟りの内容そのものともいわれているんだけど、
確かにここから全仏教すべての流れが降りてきているかなあとも思われる。
もちろん、ここのテーマである「空」の問題も、元を辿ればここから発生してきている。
つまりガンガーという大河の最初の水滴、ヒマラヤの峡谷で垂直にほとばしる岩清水みたいなもの。
竜樹の「空」というのは、ある程度左脳的に理解できる。理解できないのは要するに読み込みが足らないというわけで。ところが、同じ縁起の法でも、「十二縁起」となると、通常の人間の精神領域を超えた次元から降りてきた情報という印象。
{十二縁起}■ 無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→苦(老・病・死)
89 :
ケムール人 :02/06/04 09:49
いうまでもなく、無明から始まり苦へといたる生き物のありさまが
説かれているんだけど、これは日常レベルで「ひとつの愚かな行動のはじまりから、
苦の生起にいたる過程」とも解釈できるし、「生命の冥い始原から物質的現象世界への出産」
とも解釈できる。あるいは、「本来、如来世界にいたはずの存在が、迷いによって三界にきてしまった」
というストーリーにも解釈できる。とくに前半を、どう解釈するか。
つけたせば、この縁起説を逆利用すれば、「苦の因を滅ぼし、悟りの因を生じることにより、
苦を乗り越え、解脱できる」(brown)ということになるわけだけれども。
……では、具体的な質問。
最初の「無明」というのは、
brown説では、「無明(空=空虚感)
内外に渡る全部分との調和なしには
何事も起こらないという智慧が欠けている(空)こと。
この調和の悟りは,煩悩のないサマディーの境地の中で,
無努力にして経験の各部分にもたらされる調和,
静寂の,神秘的体験(濾尽通)によって直接,
自然に知られるものであり,この体験者に虚しからざる実感を与える。
この調和の悟りが自然にもたらされないので,「行」が起こるのである。」
と解釈されている。
この最初の「無明」を空虚感ととらえ、そこから「行」が発生するというのは、
なかなか新鮮な説だと思うんだけど、この場合、当の主体はわかりやすくいうと、
どこにいるのですか? {十二縁起}の始発点にいる「無明」であるところの存在者は…。
おい、10を半分づつにしていくと、ホントにゼロになるのか?
「例」 10>5>2.5>1.25>0.625>0.3125>?・・・・・
91 :
名無しさん@1周年:02/06/04 15:29
自分の身がゼロになってゆくまでやればな
92 :
名無しさん@1周年:02/06/04 15:56
>>90 An = 10*(1/2)^n → 0 ( n → ∞ )
94 :
名無しさん@1周年:02/06/04 18:16
>>92 補足すると その「→」の意味が深遠だな(藁
>>90 ネタ?
アキレスは亀に追いつけるよな(工房or厨房数学? の級数)
95 :
名無しさん@1周年:02/06/04 18:20
>>94 数学って不思議だよな。
例えば、√3という解はあるが、その√3をつきつめてみると
結局∞に羅列する数なんだよな。
虚数ってのも、実数と反対で、現実には存在しないが、理論的なんもんなんだよな。
>>94 >アキレスは亀に追いつけるよな(工房or厨房数学? の級数)
オマエはバカですか?
97 :
名無しさん@1周年:02/06/04 18:28
>>95 虚数(複素数)について、面白いトピックスは ガウスが19歳のPh.D論文で
「代数学の基本定理」を証明したとき
「哲学者どものバカ騒ぎが五月蝿い」と言って
虚数を隠して1次2次に分解できる形で証明した話。
とんでもない天下りの数式が出てきて、周りはどうやって導いたか
よく解らない状態だったらしいが、今見ると、数式の行間に
複素数の式を入れると自然な式変形になるらしい。
98 :
名無しさん@1周年:02/06/04 18:31
99 :
名無し仔猫@1周年:02/06/04 18:32
点は、長さがゼロの線ではないよ。線は一次元の
概念だけど、点には延長がないからね。
どこまで行っても点は点、線は線。点を沢山つな
げれば線になるわけでもないし、線を細かく刻んで
行けば点になるわけでもない。
100 :
名無しさん@1周年:02/06/04 18:38
>>99 そう、
>>90,
>>92 は点のはなし。だから数式の右は→
アキレスと亀の話は線のはなし。
式の右に=がつく(つまり追いつく)
101 :
名無し仔猫@1周年:02/06/04 18:39
アキレスと亀の話は、議論の中から時間項が抜け
落ちてる。相対距離が縮まるごとに、その距離を半
分に縮める時間も短くなるから、差し引きゼロだ。
102 :
名無しさん@1周年:02/06/04 18:45
ゼロの概念はゼロではない。
極限に近い状態がゼロである。
103 :
名無し仔猫@1周年:02/06/04 18:51
>>102 呵々大笑! 一本取られたのう。時間項の話は
覚えて置いてね。あらゆる存在は、時間的な延長
を持つ現象であるってこと。
104 :
名無しさん@1周年:02/06/04 20:06
>この最初の「無明」を空虚感ととらえ、そこから「行」が発生するというのは、
>なかなか新鮮な説だと思うんだけど、この場合、当の主体はわかりやすくいうと、
>どこにいるのですか? {十二縁起}の始発点にいる「無明」であるところの存在者は…。
けむちゃん たら・・・・・♪
こんなカキコするから葉化にされるの☆☆
縁起というのは
色と眼の接触で生じた「識」が無明なわけ♪
この「識」が苦の因♪ なのであって☆
「識」以外に主体を立てないから無我なの♪
十二支縁起は釈迦の説でない(66%の可能性で)。
釈迦は 無明⇒苦 の二支縁起なの♪
>>104 >十二支縁起は釈迦の説でない(66%の可能性で)。
>釈迦は 無明⇒苦 の二支縁起なの♪
ソース きぼんぬ 。
あ、まちごうた
>>100の論法では、アキレスは亀に追いつかんわ
実際には追いつくし、10を「無限に半分ずつに
していく」というのが意味をもてばやっぱり0になる。
(時間の概念は入れなくても)
微分の基礎だ 鬱だ死膿
107 :
ケムール人:02/06/04 20:45
おっ、来やがったな♪子。
どうかね、自分の店持った感触は?
⇒ ♪子 ママの店/{☆スナック「刹那滅」☆}を、皆様よろしゅうごひいきに。
>こんなカキコするから葉化にされるの☆☆
茶化してんのは、オメーだろ(笑)
>十二支縁起は釈迦の説でない(66%の可能性で)。
なんなんだよこの66%って数字は。どうせこのことは必ずいわれるんだけどさー、
確率まで指定してきたのは、♪ 子が初めてだぜ。
それに、あと34%の可能性がありゃ、上等じゃないかよー。
♪ 子のオツムの中はともかく、
十二支縁起を釈迦の直説としている仏教学者だっていっぱいいるんだから。
あとな、俺はBrownちゃんのHP読んで、彼と漫才がやりたくなったのー。
いーじゃないかよお、導入部なんだから。イントロはね、謎が必要なの。
そんなことより、「刹那滅」は、わかったのかよ。
♪ 子の持論の「捏造説つじつまあわせ説」とさ、
「ビパッサナ体験説」と。
店の常連の間じゃ、どっちに傾いてるんだよ?
それにしても、あいかわらず、☆とか♪とかいっぱいつけて歩いてさー、
お前、ちょっと、化粧きつくない?
あと刹那滅ばかりやってると、顔面神経痛になっちゃうぞ。
>>106 物体を半分づつ近づけていくと、無限小でぶつからないのではないか?
109 :
名無しさん@1周年:02/06/04 21:18
>>108 あ、やっぱり時間の概念も必要かもだわ。
どっちにしても教養1年の数学の教科書ひっぱりだしだわ。
折れに聞かんで、モナーの口とか色々引っかきまわして
検証してくれ、
更に鬱だ豆腐の角で頭売って氏にたい。
111 :
名無しさん@1周年:02/06/04 21:34
>ソース
縁起は仏教独自の説ではない。
六師の中にも存在した。
縁起支は複数存在し十二支はその一つに過ぎない。
十二支は仏滅後100年以上遡れない。
☆宿題☆
すったにぱ-た より縁起支のバリエ−ションを抜き出してみよう♪
112 :
名無し仔猫@1周年:02/06/04 21:43
>>108 物体を半分ずつ近付けて行くってことは、
対象にぶつからないように、近付けてくこ
とだから、当たり前だ。
しかし、移動速度が一定なら、「半分」
の距離が短くなるにつれて、通過時間も短
くなる。「半分の距離」が無限小になれば、
それに要する時間も無限小になる。
>>111 >縁起は仏教独自の説ではない。
>六師の中にも存在した。
非想非非想処とかのことですか?
>縁起支は複数存在し十二支はその一つに過ぎない。
>十二支は仏滅後100年以上遡れない。
ブッダ入寂の時期については、学問的には確定されていないだろうが、
北方カシミール伝説によれば B.C.383 年だと言われている。
そしてこの『スッタニパータ』第四章と第五章は、
B.C.317 年から B.C.268 年の間に、成立したと思われるのである。
h
ttp://www1.odn.ne.jp/kharis/nipata1.html >☆宿題☆
>すったにぱ-た より縁起支のバリエ−ションを抜き出してみよう♪
快と不快とは、感官による接触にもとづいて起こる。
感官による接触が存在しないときには、これらのものもおこらない。
名称と形態とに依って感官による接触が起こる。
諸々の所有欲は欲求を縁として起こる。
欲求がないときには、<わがもの>という我執も存在しない。
形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。
h
ttp://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html 知れば知るほど、 宿題(お題)が増えていく 罠 。
寝ます 落ちます 失礼します 。
111さん、オイラが聞きたかったのは、十二支縁起と同等レベルの
修行の方法論としての縁起の成立の事なんです。
114 :
名無しさん@1周年:02/06/05 05:54
おはよ♪
.
>非想非非想処とかのことですか?
複数支を持つ縁起のことだよん♪
>そしてこの『スッタニパータ』第四章と第五章は、B.C.317 年から B.C.268 年の間に、成立したと思われるのである。
この時代にインドにパ−リ−五部が存在するわけないでしょ♪
>十二支縁起と同等レベルの修行の方法論としての縁起の成立の事なんです
だから、四諦があるでしょ♪(四諦が縁起の構造を持たないなんていわないよね♪)
115 :
名無しさん@1周年:02/06/05 09:07
>>114 希望ですが。
この♪さんも、何とかして欲しい。
髑髏氏とbrown氏と♪氏は、三大DQNですね。
116 :
ケムール人:02/06/05 09:46
うーん。どーなんだろ。
さすがに髑髏和尚と、
あとの二人をいっしょにしちゃあなあ。(どっちかに、失礼よw)
あと、「brown氏」に関しては、彼のHPを見て、見方が変りました、私は。
おーい、brownチャン、また来てよー。
いろいろ聞きたいことがあるんだからさー。
>>115 ほんとうにそう。
>>非想非非想処とかのことですか?
>複数支を持つ縁起のことだよん♪
なんてどッから出てくるんだろうか。
>>そしてこの『スッタニパータ』第四章と第五章は、B.C.317 年から B.C.268
>> 年の間に、成立したと思われるのである。
>この時代にインドにパ−リ−五部が存在するわけないでしょ♪
パーリのニカーヤは存在しなくても、そこに編入されるスッタニパータは存在したはずであるが。
特に古註が存在しない、後半部が
>>113氏の言うように、推定であるがいくつか成立年代を喧しく
されているというのも、たいていの人間には周知のことだろう。
>だから、四諦があるでしょ♪
アホとちゃいますか。
教学の成立から、学んだ方がよいのとチャウか。
118 :
名無しさん@1周年:02/06/05 18:10
>そこに編入されるスッタニパータは存在したはずであるが。
君達はドキュン本しか読まないから理解できないの♪
それから♪
十二支縁起だろうが十支縁起だろうが四諦の中に構造的に内在してると言っても☆
オカルトちゃんには理解は無理なのね☆
「縁起思想(順・逆観も含めて)は六師の思想中にもある」☆
仏教やるなら六師との思想比較ぐらいやれば☆
119 :
オカルトちゃん:02/06/05 18:28
>十二支縁起だろうが十支縁起だろうが四諦の中に構造的に内在してると言っても☆
オカルトちゃんには理解は無理なのね☆
これ、具体的に語ってほスイ
120 :
名無しさん@1周年:02/06/05 18:46
この人たちはきっと自己愛性人格障害なんでしょうね。
http://homepage1.nifty.com/eggs/narcis.html 御都合主義的な白昼夢に耽る。
自分のことにしか関心がない。
高慢で横柄な態度。
特別な人間であると思っている。
自分は特別な人間にしか理解されないと思っている。
冷淡で、他人を利用しようとする。
批判に対して過剰に反応する。
虚栄心から、嘘をつきやすい。
有名人の追っかけ。
宗教の熱烈な信者。
聞かれもしないのに、やたらと自分のことをしゃべりたがる人がいます。話が他へ移ろうと
すると、強引に自分の話に戻そうとします。話の内容は自慢話的なものばかりで、聞いてい
る方はうんざりしてきます。他人にはあまり関心がないので、相手がうんざりしていようとお
構いなしです。
自分は特別な人間だ、パンピー(一般のピープル)とは違うんだという意識から、小市民的
な生き方を軽蔑し、そういう人達と一緒にされることを嫌います。裏付けとなるものがなにも
ないのに、一目置かれる存在であることに非常にこだわります。
121 :
名無しさん@1周年:02/06/05 19:11
>これって、誰のこと?
122 :
名無しさん@1周年:02/06/05 20:41
>>118 ホントあほやな ♪← この人。
ただかき回していて何が楽しいのか?
123 :
名無しさん@1周年:02/06/05 20:48
第2の髑髏、出現か?
124 :
brown:02/06/05 21:53
>ケムさん
まず,ごめんね。ロジンツウの漢字,間違っているのに最近気付きまして,
「漏尽通」が正解。HP全部間違っています。直したものを未だアップしてません。
>この最初の「無明」を空虚感ととらえ、そこから「行」が発生するというのは、
>なかなか新鮮な説だと思うんだけど、この場合、当の主体はわかりやすくいうと、
>どこにいるのですか? {十二縁起}の始発点にいる「無明」であるところの存在者は…。
「えおさん」スレでも同様の疑問が提出されました。
まず,基本認識ですが,十二縁起はほぼ同時的に起こります。つまり,苦があれば
無明があり,無明があれば苦があります。それは互いに共存関係にあるのです。
よって,無明の我は,衆生が知っているそれです。
恐らく,ご疑念の「我はどこ?」はむしろ無明の反対の「明」の我でしょう。
仏教哲学では盛んに無我を主張し,無我を色々と解釈しているようです。
でも実際には無我は我と変わりはしないのです。一言で言うと,衆生が知っている
我と全く同じです。しかし,それは,全体でもないし,全てを統括するようなもの
でもない,ということです。
125 :
brown:02/06/05 22:00
あなたが引用したように,涅槃,あるいは無我の体験とは,経験各部分の間に,
その多様性とは矛盾する統一的調和が自然に生じている体験です。
勝義では,「我」は,そのうちの一つの部分としてあるのです。覆い隠される
ことなく,他を覆い隠すことなく,我と矛盾するもの「無我」とも「仲良く」
そこにはあります。世俗諦では,「我」は人格全体の中心に居座り,また,
人格全体を規程しています。しかし,勝義では,それは一つの部分に過ぎない
のです。それ故に,その「我」のために必要に迫られて何かを成し遂げなければ
ならないとするような脅迫観念(煩悩)が生じないのです。なぜなら,そのような脅迫
観念は,心全体の調和の中に,自動的に,放って置いても,何食わぬ顔で,
静かに消え去っていくことをただ観察することしか,そのときには起こりはしない
からです。
126 :
brown:02/06/05 22:26
カメの速度をa,アキレスの速度をb,進む方向を伴に同じ,b>2a,カメが最初,
アキレスより距離rだけ先を進んでいたとします。
このとき,アキレスがカメに追いつくのに要する時間Tは次のように表現されます。
すなわち,
T=r/(b-a) × A
A=1+a/(b-a)+a^2/(b-a)^2+・・・
=Σa^n/(b-a)^n(ただし,nはゼロから∞)
=(b-a)/(b-2a)(∵a^n/(b-a)^n→0 when b>2a)
よって,b>2aのときこの級数は有界。
よって,有限時間以内に追いつく。
よって,追いつく。
よって,追い抜く。
過ちに気づいても「静かに消え去って」「観察すること」もできないんだ?
「何食わぬ顔」は得意そうだが。
128 :
brown:02/06/05 22:30
126は間違いで,Aの等式の3番目は,「=」でなく「→」です。
よしよし、わかった、がんばれ、茶!
130 :
brown:02/06/05 23:01
では,「明」と伴に生起する縁起とは何でしょうか?
すなわち,明があれば,無為があり,無為があれば,五蘊が如実にあり,
五蘊が如実にあれば,五感に我が口出しすることなく直に知覚され,また,
感情的判断が自然に解脱し,五感と感情的判断が三昧と自然解脱にあれば,
(ないものを獲得したり,あるものを拒絶するなどと言う)現実とは相容れない
「理想」を追い求めることはなくなり(脱煩悩障),理想と現実との差異が
なくなれば,心が持続的に執着を設定する根拠がそもそもなくなり,
持続する心がなければ(誤った)習慣は設定されず,誤った習慣が設定されない
心はパターン化された行為を繰り返すことで望まない生き方をすることはなくなり
(五蘊盛苦あるいは行苦は消え去り),苦の正体は虚構であると暴かれる。
このようにして,衆生により実体性と実感された苦は,如来により虚構性として
認識される。この認識を勝義諦というのである。
以上
>>126 えっとおー 工房のlim とか → じゃなくてぇ
ホントの究極は? とかやるときはエプシロン・デルタ論法で
やらなきゃあ、
>縁起思想(順・逆観も含めて)は六師の思想中にもある
縁起の意味付けによる と思われ。
複数支を持つ縁起説
三支縁起、五支縁起、六支縁起、九支縁起、十支縁起、十二支縁起
>>>そしてこの『スッタニパータ』第四章と第五章は、B.C.317 年から B.C.268
>>> 年の間に、成立したと思われるのである。
>>この時代にインドにパ−リ−五部が存在するわけないでしょ♪
↑ 正解
>パーリのニカーヤは存在しなくても、
>そこに編入されるスッタニパータは存在したはずであるが。
↑ これも正解と思われ。
>君達はドキュン本しか読まないから理解できないの♪
↑ さらにオイラに限れば これも正解。
104=111=114=118さん 117さん ありがとうございます。
>>120 オマエガナ− ネタかけよ 横レスの時はせめてsageにしろ 。
横レスなので下げます。
133 :
brown:02/06/06 01:16
>131
では,悪乗りしてイプシロン論法で証明しましょう。
問題は,無限級数の収束にあります。
無限級数が収束するための必要十分条件は,部分和数列の有界性にあります。
つまり,数列{ (1-a^n/(b-a)^n) / (1-a/(b-a))}の有界性にあります。
これが証明できれば,イプシロン論法でアキレス腱が証明できたことになります。
ところで,この数列が有界であるとは,
あるΩがあって,十分大きなNをとれば,
(1-a^N/(b-a)^N) / (a-a/(b-a)) < Ω-ε
を任意の小さい,有限の,ゼロでない,正の実数εに対して成立せしめることが,
(無理やりでもなんでもよいから)できるということです。
ここで,Ω=1/(1-a/(b-a))とおきます。
すると,
(1-a^N/(b-a)^N) / (a-a/(b-a)) < 1/(1-a/(b-a))-ε
が成立することが任意のεについて証明できれば,アキレス腱。
すなわち,
(a^N/(b-a)^N) / (1-a/(b-a)) > ε
が成立することが任意のεについて証明できれば,アキレス腱。
すなわち,
(a^N/(b-a)^N) > ε × (1-a/(b-a)) (∵1-a/(b-a)≠ゼロ)
が成立することが任意のεについて証明できれば,アキレス腱。
実際に,
N=logε × (1-a/(b-a)) (ただし,logのテイはa/(b-a))
であれば,ゼロでないいかなる正のεに対しても成立→アキレス腱。
かえる=髑髏仮面
無理して丁寧な言葉使うのしんどくなっちゃったんだね。
135 :
名無しさん@1周年:02/06/06 07:25
405 :髑髏仮面 :02/05/27 21:37
A子という容姿端麗な娘がおりまして、一方・・・
B子という不細工な娘がおりまして・・・
まあ私とすれば、どちらかたいうとB子のほーが好きかなぁ。こんなところでしょうか?
これが私の「空」に関する答えです。
ζ
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ \
/\ ⌒ ⌒ |
||||||| (・) (・) |←髑髏仮面(変人)
(6-------◯⌒つ |
| _||||||||| |
\ / \_/ / <そうだ!バイオレット先生にビデオレター送ろう。
__ \____/
[| □ | | __/ ) ))
|__ ミ|___/|
_ | |
へ / \|/\__| ))
\ \ へ 丶 )
\ノ \/ /
)) / / ソローリ
\_ \
⊂__丿 ) )
ζ
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ \
/\ ⌒ ⌒ |
||||||| (・) (・) |←髑髏仮面(変人)
(6-------◯⌒つ |
| _||||||||| |
\ / \_/ / _______
__\____/\ | _ )
[| □ | | __/ ) | ∈ωノ / /
|__ ミ|___/ | 丿/ /_
 ̄ ̄/ / (__ ミ
(  ̄ ̄\
 ̄ ̄ ̄\_彡
138 :
名無しさん@1周年:02/06/06 07:46
ζ
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ \ センセイ ミテクダサイ 巛
/\ ⌒ ⌒ | ハァハァ ___| |
||||||| (・) (・) | / ___丿
(6-------◯⌒つ | / /
| # _||||||||| | / /
\ / \_/ /___/ / ジー・・・
\____/ | / __
/ | ∈ωノ [| □ |
/ __ ___ | 丿 |__|
(___| ミ / /
(  ̄ ̄\
 ̄ ̄ ̄\_彡
139 :
名無しさん@1周年:02/06/06 08:47
>>132 >>縁起思想(順・逆観も含めて)は六師の思想中にもある
>縁起の意味付けによる と思われ。
♪の場合は、当時の思想家共通の認識や似たものは全てひっくるめてゴミ箱
の中へ捨てているだけの発言だぞ。
刹那生滅スレでもDQNなこと言っているし。
ここでは縁起論と因果論の区別もできていない、だけだな。
140 :
ケムール人:02/06/06 09:06
>brownどの
どもども。詳細なレス、ありがとさんです。
えー、{十二縁起}。
■ 無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→苦(老・病・死)
>まず,基本認識ですが,十二縁起はほぼ同時的に起こります。つまり,苦があれば
無明があり,無明があれば苦があります。それは互いに共存関係にあるのです。
よって,無明の我は,衆生が知っているそれです。
ここでのポイントは、{十二縁起}は、「同時的」かつ「共存関係」であると。
また、「無明の我は,衆生が知っているそれ」であるということですね。
えーと、この前また例によって、淋しがりやの♪子がちょっかいを出しにきた
のだけれども、{十二縁起}は他にバリエーションがあると。阿含では{十二縁起}
になっているけど、これはまあ、阿含経典そのものが文献的にはいろいろいわれてるですから。
しかし、とりあえず「釈迦の正覚の内容」とされている。(ジロっ。とりあえず、な、♪子。
お前、ひとがさー、面白がって料理作ってるそのわきでさー、それはレシピが違うのだの、
その野菜は農薬入りで最初から全然使えないだの、いうなよ。いーとこなんだから)
で、「かえる」さんが調べてくれたところによると、「複数支を持つ縁起説 」
として「三支縁起、五支縁起、六支縁起、九支縁起、十支縁起、十二支縁起」
とバリエーションがあるということですね。
141 :
ケムール人:02/06/06 09:09
(140 続き)
まあ、これは「六支縁起、九支縁起、十支縁起、十二支縁起」であろうと、
同じなんですけれども、要するに、釈迦、もしくは禅定に入って{覚」を得た者の
「明」の内容というものが、ある煩悩の動きに対して、「行」の動きに対して、
瞬時に諸要素の集合として明晰に見えてしまう性質を持つ、ということなのでしょうか。
いいかえれば、この構造を一挙に把握してしまうのが「漏尽通」ということなのか。
――いいかえれば、「無明」と「十二縁起」と「漏尽・通」と、「明」との関係は、
どないなっているのか。
言葉で「覚」の内容を表現するということ自体に無理があり、この辺はすでに
「言葉のワナ」にはまり込んでいるのかもしれませんが。
お座敷があちこちかかってるみたいですが(笑)、ちょっとこの辺、よろしくです。
125 130のレスの「我」と「無我」のテーマ、心の執着の形成と崩壊、この辺のテーマについては、また後ほど。
※「理想と現実との差異がなくなれば,心が持続的に執着を設定する根拠が
そもそもなくなり,持続する心がなければ(誤った)習慣は設定されず,
誤った習慣が設定されない心はパターン化された行為を繰り返すことで望まない生き方を
することはなくなり(五蘊盛苦あるいは行苦は消え去り),苦の正体は虚構であると暴かれる。」
も、相当面白いですね。「心相続」とか「種子」の分析ですかね。
142 :
名無しさん@1周年:02/06/06 09:21
§ 無神論 § 「神様はウソをついている」
― あなたは神を信じますか?
― 霊を信じますか?
本当は、全部ウソです。
科学はそれを証明しました。
ここでは、より科学の「楽しさ」を知って欲しいために、超常現象が存在しない訳と、これを信じる権利のために、いろいろな根拠を挙げて説明したいと思います。
少々残念な表現かも知れませんが、悪い妄想を壊されたという感じで読んでみてください。
http://219.23.28.73:8080/esp.html ▼宇宙はイオンプラズマによって生まれた
その内容は、「宇宙は1つの大きなIF概念に存在している空間」である。
つまり、この空間を作り出したものこそ、イオンプラズマなのだ。
エネルギーE+波長S+連鎖C=100%とすると、
E:電子=50%前後
C:陽子=50%前後
となり、つまり、ビッグバンはEC=50%から始まった。
しかし、我々もまたSに属する一つの波長の一種であることが判明している。
とすると、Sは何処にいったのかという疑問が生じる。
この疑問を生めるのが、実はSは我々の霊的意識そのものであったのだ。
つまり我々は我々の一部を具体化してしまったので、閉じ込められた。
という解釈ができる。
例え地球が絶滅し、生命が絶滅し、宇宙が全滅しようとも、IF概念はそこに生まれてしまったので
我々は永遠に閉じ込められてしまい、「イマジネーション」することのみが、我々になった。
我々はイマジネーションなのだ。
ロボットでも、宇宙でも無い。
永遠に閉じ込められたイマジネーションだったのだ。
多次元膨張構造新理論
http://219.23.28.73:8080/atom.html
143 :
ケムール人:02/06/06 09:22
ありっ。
すいませーん。どーも、おかスいと思ったら、140と141の間に次の一節を挿入するのを忘れてました。
入れてやってくらはい。
140の後■
しかしこの「瞬時」に起る、といっていいのかなあ、{十二縁起}が、
なぜこのようなエレメントに分解された形で表記されるようになってしまったのか、
この辺がちょっとわかりにくいんですがねえ。これは、複数支あったためにそれを統一していく過程で、
経典編纂の作業過程で結果的にこういうことになってしまったという実もフタもないことなのか。
それとも、何かもう少し深い意味があるのか。■141ヘ続く。
>>142 神様がいないことの証明
可能な限り、客観性を重視し、先入観を排除する自然科学では
(可能なかぎり:人間のすることですから完全はありえない)
こういう主観に大きく依存する内容はそもそも扱いまへん。
無理やり、神が、存在する、しない を証明する理論はまず
「疑似科学」ということになります。
宇宙創生の理論の部分
現在主流の理論ではビッグバンの時には、電子も陽子も
まだ存在しまへん。
「ビッグバンはEC=50%から始まった」
なんて見たことも聞いたこともありまへん
>>133 わあ、brownさんワルノリにつきあってくれて素適!
146 :
brown:02/06/06 20:57
>145
うっ。間違ってるぞこれ。こっちが正解。
T=r/b × A
A=1+a/b+a^2/b^2+・・・
=Σa^n/b^n(ただし,nはゼロから∞)
=b/(b-a)(∵a^n/b^n→0 when b>a)
よって,b>aのときこの級数は有界。
ε論法の方は?
当然,Ω=1/(1-a/b)とおくべきで,
a^N/b^N / (1-a/b) > εとなるNを見つければよいから,
N>log(ε(1-a/b))(ただし,logのテイはa/b)because 1-a/b>0
となって,どんなに小さな正のεに対しても,Nを見つけることができるから・・・
こうでないと,アキレスがカメに追いつく常識的な解である,
T=r/(b-a)が得られませんからな。どうも飲みすぎてたようで。
147 :
brown:02/06/06 21:22
>ケムさんの方の宿題
(注意事項)
同じ行為に対する相互依存のエレメントはほぼ同時ですが,瞬時ではありません。
特に,執着が持続して心が形を持つところにはマクロな時間がかかります。
ここのところは極めて重要です。ここの理解が方便智と呼ばれる部分なのです。
(無明と明の関係・・・)
十二エレメントのそれぞれは,むしろ後からじっくり洞察すると,この経験は,
そういうエレメントが悟られたということなのだな,とわかるもので,
悟りの瞬間に全てを分析的に捉えるわけではありません。縁起肢の理解というのは,
悟りの「結果」です。残念ながらそのものではない。
悟りの中核になっているのは,「行←→無為」です。これと「苦←→苦滅」が
はっきりとした関係性をもっていることを「理解・解釈」ではなく「実感」
している状態です。ではなぜ「行(作為)」が起こるのか?が次にくる洞察
です。次の一刹那,「これが今までなかったから行が起こっていたのか」と了解
するのです。そのとき「これ」とは,そこに実感されている「空性大楽」
なのです。つまり,何も外に求めなくても,完全な満足が初めからある,と。
ならば初めから何も求めるものなんてない→作為なんて起こる必要がない
→起こる根拠が空だ→度一切苦厄→厭離一切転倒夢想(∵作為が苦や一切転倒の
元だから)となります。そしてこのことを明というのです。
148 :
brown:02/06/06 21:35
2つ理解しなければならないことのうちの一方を言い終わったのですが,
もう一度整理しましょう。無心になって以下を読んで御覧なさい。
全ての有情の心は,初めから完全に,大いに満足しています。
これを空性大楽といいます。つまり,何が無くとも完璧な喜びだと。
この場合,外界で起こる全ての現象は,ただ完璧な喜びとして実感されます。
現実=理想。
しかし,ここで,有情が,現実とは異なる理想を設定したとしましょう。
すると,現実と理想の間に差異が生まれます。これは,初めから存する空性大楽を
破壊してしまいます。しかし,この場合にも,心の本来の姿が空性大楽にある
こと自体に変化は起こりません。ただ,現実と異なる理想を設定していることだけ
に依存して,この破壊は生じているのです。無明とは,この異なるものの設定が
断ずることなく引き続いている状態なのです。明とは,そのような不自然な設定
のない,自然な状態,あるいは,不自然な設定をしているのかどうかによく
気が付いている状態なのです。ただし,自然な状態とは,空性大楽なのです。
149 :
brown:02/06/06 21:47
もう一つ理解しなければならないことがあるのですが,それは今回は置いておき
ましょう。次の問題である,「明と縁起の関係」に移りましょう。
衆生は世俗諦のみを知っています。如来は世俗諦と勝義諦の両方を知っています。
世俗諦とは縁起のことであり,勝義諦とは明のことです。
衆生の知る縁起と如来の知る縁起は,残念ながら違って見えるのですが,そこは
ともかく置いておきましょう。
このとき,如来の知覚は,明か縁起のどちらかに限定されると考えてはなりません。
常に,如とは,明と縁起との両方への双入であるのです。つまり,あなたのいう,
>「明」の内容というものが、ある煩悩の動きに対して、「行」の動きに対して、
>瞬時に諸要素の集合として明晰に見えてしまう性質を持つ、ということ
>なのでしょうか。
は,全く正しいのです。明と,煩悩や行,苦は矛盾しているように思えるかも
知れませんが,それはそのとき,「明晰に見えてしまう」のです。
150 :
ケムール人:02/06/06 23:27
>147
●>「十二支縁起は、「ほぼ同時ですが,瞬時ではありません。特に,執着が持続して
心が形を持つところにはマクロな時間がかかります。」
ハーア、なーるほどねー。
要するに「明」による直覚的把握体験と、その後でゆっくりと訪れてくる諸要素の吟味の結果とが、
微妙なズレ、デリケートな差延をみせながら、多層的な時間の中でやってくると。
あるものは、即座に明確になり、あるものはゆっくりと明確になる。最終的に、十二支縁起の諸要素が、
ひとつのシリーズとして全体性と相互依存を保ちながらも、部分的差異を明確化したものとして了解される。
つまり「行←→無為」の関係として。
したがって、その禅定の深さや「覚」の内容によっては、あるいは後の吟味と洞察によっては、
「六支縁起」であったり「九支縁起」であったり「十支縁起」であったりもするかもしれない。
24色のクレヨンは、不明瞭だと12色になってしまうかもしれない。
しかし「覚」の内容そのものとしては、同一のものである。まあ、正確な比喩ではないでしょうが。
>「むしろ後からじっくり洞察すると,この経験は,そういうエレメントが悟られたということなのだな,
とわかるもので,悟りの瞬間に全てを分析的に捉えるわけではありません。
縁起肢の理解というのは,悟りの「結果」です。」なるほど。
151 :
ケムール人:02/06/06 23:29
実は、私はさらにもうひと塊り、貼り付け忘れていた(バカですね)質問の文章があって、
それは以下のような文章だったのれす。
●「で、ここでbrown説に戻りますと、brownHPでは「無明→行→識→……苦」まで、
ひとつひとつの「支」がかなり詳細に記されてある。そうすると、「「同時的」かつ「共存関係」である」
という性質の縁起が、なぜ一般の解説書でも、brown説でも、こんな鎖の連鎖のような表現になってしまったのか、
なぜこんなに要素分解的なのか。あるいは、なぜ時間軸的に解釈されそうな表現なのか。
それがちょっと理解しにくいんですね。
これは、後世の編纂上の理由で、(釈迦の正覚の内容とは無関係に)こうなってしまったというのなら、
それはそれで話はわかるし、そこで話は終わるのですが。
しかし、行と学をパラレルに進めていくチベット仏教あたりでも{十二縁起}はそのまま導入されていたような記憶があります。
(ダライラマの本だったかな)それと、「無明」「識」「苦」はわかるとしても、
「名色」だの「六処」だの、なんじゃこりゃ、という感じなんですけど。
あるいは、ここまで分解することによって、「苦を超えられる」という逆手の治療法なのか。」
つまり、私の疑問は「悟り」とか「正覚」とか「明」とか直感的にいききそうなものが、
なんでこんなに要素分解的なのか、しかも経典にはある強い確信を持って記されてあるのか、
ということだったのです。これは、たとえ釈尊その人の体験の記述でなくとも、
釈尊その人が行っていたような禅定に入れれば、その追体験そのものとして確信しうる感触を得、
「まさしく、この風景に違いない」というような感動のもとに記されているような錯覚をすら覚えるわけです。
なるほどbrown説の「ほぼ同時ですが,瞬時ではありません。
特に,執着が持続して心が形を持つところにはマクロな時間がかかります。」
ということであれば、納得がいきます。
「十二縁起」の諸要素の明瞭化に、時間的ズレがある。
152 :
ケムール人:02/06/06 23:31
■十二縁起|無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→苦(老・病・死)
これらは一挙に把握されながらも、後に微妙に遅れて明らかになったり、形を持ってきたする部分がある。
そしてそのメカニズムが見えないまま「苦」→「集」のループを反復しているのが
まさに世俗に蠢くわれわれの生態であり、「明」によって「覚」によって、いいかえれば「行←→無為」の光線によって
照明されることが、ひとつの悟りであると。
そしてこの「行」の発生をごく自然に明の知によって落下させ、遮断するのが「滅」→「道」にほかならず、
それは無為と、空性大楽と、無我とのもとに、無努力に自ずと行われる。
要するにわれわれは「自我のシェルター/無明」をいつのまにやら設定し、
本来のリアリティであるところの「空性大楽」を阻んでいるがために、
無為に留まることができず、「行」を起こし、こともあろうに実際に行動してしまう。
そして新たなループへと迷い込む。それが、二重にも三重にも構造化し、無明はさらに深くなる。
ふうん、なーるほど。だんだん、なんとなく……。(笑)
いやあ、brownチャンは、2ちゃんねるの「宝」かもしれんなあ、ほんと。
149レスについては、またカキコさせていただます。ありがとうございました。
153 :
ケムール人:02/06/07 01:25
>147
なぜ「行(作為)」が起こるのか?が次にくる洞察
です。次の一刹那,「これが今までなかったから行が起こっていたのか」と了解
するのです。そのとき「これ」とは,そこに実感されている「空性大楽」
なのです。つまり,何も外に求めなくても,完全な満足が初めからある,と。
ならば初めから何も求めるものなんてない→作為なんて起こる必要がない
→起こる根拠が空だ→度一切苦厄→厭離一切転倒夢想(∵作為が苦や一切転倒の
元だから)となります。そしてこのことを明というのです。
えへへ……(笑)。
これはこれは、さりげなく「般若心経」の解説まで入れていただきまして、どーも。
作為の根拠が「空」ね。
五蘊(色・受・想・行・識)のさらにもう一つ背景にある「行」の空性、かな。
そしてこれは、「種子」に限りなく近い感じもする。
154 :
Vidyut:02/06/07 02:17
155 :
名無しさん@1周年:02/06/07 04:52
>>148 空性大楽を普遍的なものと捉えることで、無常という法が見えなくなって
いるように思えます。
仏教とは別物のような気がする。
明‐無明と無常とは不可分の関係にあるはず。
156 :
名無しさん@1周年:02/06/07 07:36
>>155 brownと♪と髑髏はDQNなので
正面きって受けとめない方がよいですよ。
157 :
名無しさん@1周年:02/06/07 07:55
>>156 brownは変人(=髑髏仮面)を毛嫌いして避けてるだけまだいいじゃん。
同列に並べるとさすがに失礼。
158 :
ケムール人:02/06/07 09:31
(横レスですけど)
なるほど、いろいろご意見が出ているようでありますが…(笑)
しかしまあ、これはある意味では、きわめて生産的な状態のような気も。
私自身は、「覚」についてとりあえずまとまった視点を持っているbrown氏に語ってもらうことで、
しだいに見えてくるものがあるかなー、と思っております。
まあ、個々の断片的知識のキャッチボールで罵倒しあい消耗するというのも(それが2チャンなんだろけどさ)
なんか単にマナ識を強化するだけのような気がしてきて(笑)。
あと、155さんのご指摘は、実は私も感じるところで、「空性大楽」というと、
「風/ルン」の飽和により作られてゆくもの、その最高値の条件下での内的法悦体験、と理解しておりました。
brown氏のように、初めから普遍的に存在していたリアリティという解釈は、なかったです。
その辺が今後、あるいは通底していくことになるのか、あるいはまたこれは別の解釈なのか、
そういったところもまた今後の見所かなー、と。
そしてさらには、155氏のおっしゃる「明‐無明と無常とは不可分の関係」が、
ひょっとしたら、この視点の延長線上に再確認されるやも知れず……などと、茫漠と考えておりますです。
いいかえれば、すでに「漏尽通とは、なにか?」という、
もうひとつの仏教ミステリーの解読が射程に入っているわけでして。……うひひひひ。
髑髏和尚は最近、物理学的宇宙論という新品のおもちゃに夢中になっているようで、
なかなか静かでよろしいような傾向です。w
159 :
名無しさん@1周年:02/06/07 09:48
160 :
名無しさん@1周年:02/06/07 10:12
ユダヤの知恵があれば、この二人を自滅させられるんだが。
そうだ、タルムードを読もう!
161 :
名無しさん@1周年:02/06/07 13:06
髑髏がそっちに行っちゃうよ、いいのかい?
こっちはいなくなって嬉しいけど。
162 :
brown:02/06/07 21:39
>155
>空性大楽を普遍的なものと捉えることで、無常という法が見えなくなって
では一つ聞きますが,あなたは「空性大楽」を現在,実感していますか?
・・・
そのようにして,空性大楽の「実感」は無常なのです。
なぜなら,それは,ただ自然にすることによってしか,実感されることがないから
です。なぜなら,それは,心の自然な姿だからです。なぜ,心の自然な姿が,
ただ自然にしておかなければ実感されないのか?それは,「ただ自然にしておかない
心のあり方」は,不自然なあり方だから。しかし,そのように心が静まっていない
ときでも,「もし心が静まれば空性大楽である」という性質を保持しています。
このことは,単に言葉によってでも理解可能です。しかし,これこそが,私たちの
奥深き究極の核心なのです。このヒントを元に,よ〜〜く考えてみてください。
色々な謎が解けるはずです。いつの日か,これをお読みになったたとえ一人でも,
こちらに来られることを深い敬信をもってお祈り申し上げます。
163 :
brown:02/06/07 21:57
>155
それからもう一つ。
>仏教とは別物のような気がする。
では仏教とは何でしょう?悟りとは何でしょう?それを誰が決めるのですか?
それこそオンプに聞いてください。
はっきりといいます。
仏教が何であろうと,私がそれと別物であろうと,悟りが何であろうと,
私が魔境であろうと,色即是空→空即是色だろうと,そんなことはどうでもよいのです。
仏教徒には申し訳ありませんが,そんなものはクソ食らえ,と。
私はこのように認識して疑わないので,
>brownはDQNなので正面きって受けとめない方がよいですよ。
というのは本当です。もし,「仏教」が大切なのなら。でもその場合の「仏教」
っていったい何なのでしょう?なぜ「あなた」がそれを決定できて,brownには
できないのでしょう? 私は,
ただ,自分で心から大切だと,心から信頼できる,心から求めて止まなかった,
それを知らずには死んでも死にきれない,生きても生ききれない,その全人格的な
探究心を成就したに過ぎないのです。私は釈尊の悟りが私と同じものであると確信
していますが,それは私の妄想なのです。どうやってそれを確かめるのですか?
私の体験は妄想ではありませんが,その解釈は,単なる解釈であろうと,文献的
検討であろうと,歴史的検討であろうと,別の覚者が認定しようと,全て妄想に
過ぎないのです。そのこともはっきりと承知しています。要するに,そういうふうに
して,私は,輪廻と涅槃への双入の中で生きているのです。
164 :
名無しさん@1周年:02/06/07 22:25
つまり茶色くんはイツマデモさまよってるってことだね
165 :
名無しさん@1周年:02/06/08 08:14
>>163 >仏教とは別物のような気がする。
>では仏教とは何でしょう?。。。。仏教徒には申し訳ありませんが,そんなものはクソ食らえ,と。
>私はこのように認識して疑わないので,
既存の哲学の表面だけパクって、陳腐な意見を語って、見苦しいNO。
上のただ饒舌なレスを繰り返して、ここはあなたの独演会場か。
レス立てたのが君なのか? それなら僕の方が出ていくだけだが。
>なぜ「あなた」がそれを決定できて,brownにはできないのでしょう?
ひとへに、「信仰」が真であるか偽であるか、それだけが問われているのだと
思うぞ。
「信仰」あるなら「クソ食らえ」なんて評価できる分けなかろうし、あなたの
一字一句が浅薄で、そのような態度が一々認められるから、あなた何様のつも
り、と問いたくなる。
>私の体験は妄想ではありませんが
どう見たって、妄想だよ。
自分の体験がそんなに他に勝るというなら、既存の宗教や、一般啓蒙書に見ら
れるような発言を借りないで、
#自分自身の言葉#
だけで語れよ。
166 :
名無しさん@1周年:02/06/08 09:28
皆さん、朝からとばしてますね。
167 :
名無しさん@1周年:02/06/08 09:34
荒れそうな予感
168 :
謎のレフェリーX:02/06/08 09:59
>165さん
>brownさん
おっとー! こうなってしまうかなあ。
せっかく問題そのものは、本質的なところに入ってきているし、165さんの155スレもそれ自体は意味あるものだと思うんですよ。
決して、無意味で表層的な罵倒ごっこではなく、仏教の本質的な問題にさしかかっている。
だから、「ここはあなたの独演会場か。レス立てたのが君なのか? それなら僕の方が出ていくだけだが。」
というのは、まだまだ早いのではないかと思います。
brown氏の「クソ食らえ」発言に関しましては、
これはもう、あちこちで彼がいっていることで、しょっちゅうDQNだの妄想だのと言われつづけていれば、
彼としては、こんな言葉のひとつも漏らしたくなるというもの。
(165=155さん/ですよね?)個人に向けられたものとは、
とらなくてもいいと思いますよ。これは彼の「スタイル」なのです。
饒舌なレスといえば、ここは饒舌さの花ざかり。
みんなお互い様というもので、字数制限があるわけではないので、主張のある人はどんどん書けばいい。
現に、「ケムール人」と称するバカ者は、えんえんと下手な文章を垂れ流して、ご近所迷惑をおかけしておりますが、
これとて見苦しいだけで、特に法律で罰せられたり、収容されたりするわけではござんせん。
それに、スレッドなど誰が立てようがいいではありませんか。カラオケと同じ。マイク持って歌ったもの勝ち。
読みたくなけりゃ、他のスレを見ればよい。
内容ある建設的な意見の対立なら、これはもうスレの活性化ですから、
どんどんやりましょう。ただし、感情論にならないように自己規制して。
多くの内容ある秀逸なスレが、感情論に陥ったために荒廃していくのを見るにつけ、もったいない思いがします。
その轍を踏まないようにしたいと思うのでありますが、
ご両者、いかがなもんで、ござんしょーかねえ……。
まあ、多少のスパイスはあった方が退屈ではないのですがネ。
169 :
名無しさん@1周年:02/06/08 10:24
>「ケムール人」と称するバカ者は、えんえんと下手な文章を
ケムンパスはかわいいとこあるんだね。
170 :
名無しさん@1周年:02/06/08 10:27
バカ、照れるじゃねーか。
ちぇっ、眼から汗がでらあ。
171 :
名無しさん@1周年:02/06/08 10:45
ケムさん、ホントいい味出しているよねー。
このスレ見ていると腹立つこと多いけど、救われるよ。
つまり仏教とは、受け入れることも肝心だね。
「全てを捨てる」。「全てを受け入れる」。おんなじ事だね。
173 :
ケムール人:02/06/08 11:46
あ、あ、まずい。これはシナリオになかった。
髑髏ちゃん、「ひも」のオモチャで遊んでたんじゃないの?
ほら、宇宙がひもでできてるとかいうの。
いーなー、「ひも」。面白そうだなあ「ひも」。
もう一回、おんもで遊んどいでよ。
多次元宇宙は、「ひも」が、イパーイ。
きれーだなー、ホラ、あっちのほうに、
いっぱいさがってるから。
174 :
名無し仔猫@1周年 ◆DMOUBKE2 :02/06/08 11:54
超ひも理論って、アイディアの原型は
遺伝子の形状にあるんじゃねーかと思う。
生命だけじゃなく、あらゆる存在の遺
伝子みたいなものがあったら便利だべなー
っていう科学者の夢想なんじゃないかと
思われ。
>>93-
>>103さんたちへ
インパいつでも戦争オッケイ状態の昨今、いかがお過ごしでしょうか。
世間が「ヴェルギー戦だYo!」と浮かれまくっていた6月4日18:00-20:00間、
レスをつける勇者はいるかと拝見したところ、あなた達がいたではありませんか。
「ここに真の求道者どもがいた!」と思ってレスを読んでみたら・・・・・・・・・・・・・・ゼノンのパラドックスかよ・・・・微妙にスレ違いだろ・・・・
しかし、個人的には懐かしきおもひでがよみがえってきました。
中学3年生の時、数学の授業中に先生が余談としてゼノンのパラドックスの話をしてくれました。
次の休み時間、クラスメートの一人が「俺はピストルで撃たれても当たらないYo!だって飛んでくるまでに永遠の時間がかかるんだろ」と得意げに言いました。
私は彼にそっと寄り添い、そして手に持っていた筆箱(鉄製)を彼の顔面に思い切り投げつけました。
10分後、彼は救急車に、私は職員室におりました。角膜が傷つき、失明寸前だったそうです。
私の「実験です」という言葉を先生たちは信じてくれず、ひどく怒られました。
大人は子供の「探求心」というものをこうして奪い取ってしまうのだな、とぼんやりと思ったのを覚えています。
以後、弟・妹も同じ数学の先生に教わりましたが「ゼノンのパラドックス」の話はしなかったそうです。
176 :
名無しさん@1周年:02/06/08 18:49
age
177 :
名無しさん@1周年:02/06/08 18:57
幻想論の精神分析学者、岸田秀も、
いっさいは幻想だという講義をしていたら、
「これも幻想か」といって学生に殴られたそうです。
>>168 ぼくは165さんじゃないですよ。
>>162 >そのようにして,空性大楽の「実感」は無常なのです。
>なぜなら,それは,ただ自然にすることによってしか,実感されることがないから
>です。なぜなら,それは,心の自然な姿だからです。なぜ,心の自然な姿が,
あなたの「無常」の定義は何ですか。
「実感が無常だ」というのは奇異ですね。
私は無常というのは客観的な理法だと思っています。
私は、人間は自然にしていれば、無常を悟るとは思いません。
リラックスすることはひとつの条件でしょうが、それだけ
ではまあ梵天の世界とでも言いましょうか。
無常を見極めるためにはなによりも、十分に覚醒していること
が大切だろうと思います。自己陶酔や夢想は覚醒を妨げる
ものだと私は思っています。
「気持ちよくなったら警戒しろ」というのを戒めにしています。
そういうわけで私は「空性大楽」というようなものはそもそも
求めていません。竜樹や中観派の「空」に理論的な関心はあり
ますが。
サンユッタニカーヤの「バカ梵天」の話を思い出しました。
>155さん
無常→客観的理法ですよ。
それを実際に認識(実感)するかどうか,は主観的な事柄です。
求道とは,その主観的事柄が問題になっているんですよ。
主観が客観に合っているかどうか。主観が妄想になっているかどうか。
いいですか?客観は初めから無常です。これは定まっている。自然です。
しかし,主観は自然ではない(ことがある)。それ故に,主観の方では,
無常になったり常になったりする。自然になったり不自然になったりする。
自然になれば,無常を悟ります。それは初めから定まっていることなのです。
これは,誰がどう思うの問題ではなくて,事実なんです。したがって,その事実
を知った者から見れば,明らかに,「自然にしていて無常を悟るわけでない」
と言う見解は妄想です。その妄想を乗り越えたとき,現実的な求道は始まる
のです。是非,がんばってください。
180 :
brown:02/06/08 23:22
(問題)「クソ食らえ」とはどういうことか?今日はそれを少し話して見ましょう。
現に,見性し,解脱し,悟後の人生を送っている方には,(ご自分でわかるでしょうが)
一つの例として,参考にしてくだされば幸いです。
あなたは,信心があればクソ食らえとはいわないという。しかしながら,私には
この上ない信心がある。なぜこのような矛盾が生じたのでしょうか?
私は,皆様方に宿り勝ちな,誤った見解への執着を解き放ちたいと心から
思っているし,実際,それに懸命なのです。
そのためには,病巣に切り込んでいなければならない。そのために,仏教徒に
対しては,当然,「仏陀とは単なるペテン師です」と断言するのです。
それで,単なる盲信に,ほんの少しでも亀裂,疑い,探求のメスが入れば,
儲けものですね。期待します。私は誰かを悟らせようとは思わないし,
逆に自分が潔癖でいようとも思いません。皆様は,brownのことをいくら探求しても
仕方がないのです。釈迦に説法ですから。私は本当に悟っているから,いくら
疑っていただいても,たまねぎの芯を探求するようなもので,空でないものを探求
するようなもので,カルマから逃れられる地を探求するようなもので,真理を
見解として探求するようなもので,その答えは,得られることがないのです。
そして,迷いとはまた,そのようなものなのです。感情とはまた,そのようなもの
なのです。思考とはまた,そのようなものなのです。
181 :
brown:02/06/08 23:24
165さんの思い通りにはならないが,brownはいつでも出て行きますよ。安心してね。
182 :
名無しさん@1周年:02/06/08 23:25
それぞれが、勝手な事言っているんでスレがメチャクチャだね。
183 :
名無しさん@1周年:02/06/08 23:32
そんなことないよ。他のスレと比べてみてもとくに荒れているとは思われない。
184 :
アボリジニ:02/06/09 00:00
青空も曇り空も、空を見上げて判断できます
釈迦もイエスも、空を見上げて覚醒しました
185 :
名無しさん@1周年:02/06/09 00:49
>>184 なかなか良い事言いますね。
貴方の考えが、最も仏教らしい。
そういったレスの方が新鮮味がある。
>>179 ずいぶんと先生面ですね。まあ良いですが。
せっかくヒントをあげたのに聞く耳はないようなのは残念ですね。
あなたのは妄想です。
魔境と言って良いでしょう。早く気づいてください。
私にはあなたの現在の境地が手にとるようにわかる。
覚醒に努めることです。
見たくないと思うものから目をそらすことなく。
あなたの段階では、心というものは理法を見たがらないものだ
と思っていたほうが良いです。
少し先を行く者として応援してますよ。
>>186 ちょっと違うな。
ホントに先行く者は、自分で言わない。
貴方は押し売り宗教になっている。
貴方こそ早く気づくべきです。と言えてしまう。
先行く者は、謙虚でありたい。ってネタですか?
188 :
名無しさん@1周年:02/06/09 01:11
宗教板は、どこ見ても末那識がゴロゴロ、
なんかさすがに、いやーになるね。
189 :
名無しさん@1周年:02/06/09 01:22
>>187 brownが反応する前にレスしちゃ駄目じゃない。
間の悪いやつ。
190 :
名無しさん@1周年:02/06/09 01:26
ここでロムしてるたいていの人は、brownよりは先を行ってるので、
言っても良いと思いますよ。
世間一般の水準からは遅れていることが多いでしょうが。
192 :
名無しさん@1周年:02/06/09 01:26
このスレッドは終了という事で良いでしょう。
たいした住民も居ないことだし。
193 :
名無しさん@1周年:02/06/09 01:33
あの手この手をつかってカキコしてるやつが、約1名いるな
194 :
名無しさん@1周年:02/06/09 01:37
お前らは、184さんが言うように。
>青空も曇り空も、空を見上げて判断できます
>釈迦もイエスも、空を見上げて覚醒しました
こう言う事だ!
直ぐパソコンのスイッチを切って寝ろ!
195 :
名無しさん@1周年:02/06/09 01:38
お前こそな
196 :
名無しさん@1周年:02/06/09 01:41
197 :
brown:02/06/09 01:44
まあ,馬耳東風ですな。馬の耳に念仏。豚に真珠。猫に小判。
あなたも好きですね,魔境,魔境って。相当深く叩き込まれたようで。
そういう妄想を解く方法は存在していません。
だから,そういう人に私は反論などしないのです。
せいぜい,「アホか」というぐらい。申し訳ありません。
198 :
名無しさん@1周年:02/06/09 01:45
いきなり怒り出すような必然性があるやつは……。
それを考えて、消去法でいくと「どうーでしょー?」 w
199 :
名無しさん@1周年:02/06/09 01:47
おや!手応えあり
200 :
名無しさん@1周年:02/06/09 02:49
>>199 ∫
∧,,∧ ∬ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミ,,゚Д゚彡っ━~ < おっめー楽しいか?ほか逝ってらっしゃい!
と~,, ~,,,ノ_. ∀ \_________________
ミ,,,,/~),│ ┷┳━
 ̄ ̄ ̄じ J ̄ ̄| ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ┻
>>172 :髑髏仮面 :02/06/08 11:29
つまり仏教とは、受け入れることも肝心だね。
「全てを捨てる」。「全てを受け入れる」。おんなじ事だね。
「全てを捨てる」→八図。
「全てを受け入れる」→八図における、なりきり、ありのまま。
↓
つまり仏教とは、受け入れることも肝心だね。
「全てを捨てる」。「全てを受け入れる」。おんなじ事だね。
202 :
名無しさん@1周年:02/06/09 07:59
,,,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,,,,,,
,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;---、;:;:;:;:;:,,,
/;;;;;;;;;;,-'''" ゙'''ヽ;;;;;;ヽ
/;;;;;;;;;''' ヽ;;;;l ←髑髏仮面(変人)
/;;;;;;;;;'" _ヽ、
i';;;;;;;;;;; ,,;;;;;;-=ヽ、 【ちてきしょうがいしゃ】
|;;;;;;;;;;| ,,,,,;;;;;;;;;-、 ‐'"゙_,,,,,,,_\
|;;;;;;;;/ /-─'''''''"ヽ "‐=二 ̄ヽ、 2ちゃんのきらわれもの
|;;;;;;| '",,,-==‐ ヽ " 、 ヽ
,┴、;| ==ニ-‐'" , ヽ、 ゙i ちてきといっても
|l |ヽl /l .)\ i
\|lノl /└-‐ヽ-‐' ヽ i あたまがいいわけではない
l、 ゙| / ,,---'ニ=メ i .|
ヽ-i i' /-l「ヽ┼+// ;; /
ヽ、 ヽ=ヽ─++-''ノ /、
,,,,\ ヽ ゙‐─''''''"~ / ヾヽ、
,,-''''" \ / )
\ヽ、 / /
\ ゙''ヽ 、,,,__,,;-'" /
ヽ、,,, ,,‐"
203 :
名無しさん@1周年:02/06/09 08:20
∫
∧,,∧ ∬ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミ,,゚Д゚彡っ━~ <おまえら、エロサイトに新着があるぞ。逝ってこい!
と~,, ~,,,ノ_. ∀ \_________________
ミ,,,,/~),│ ┷┳━
 ̄ ̄ ̄じ J ̄ ̄| ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ┻
204 :
ケムール人:02/06/09 10:26
えー、スレをざっと見わたしただけでも、「色即是空」。
相変わらず、バラエティにとんでますな、ここは。
さて、それはともかく、またbrown氏に質問させていただきます。
>124「実際には無我は我と変わりはしないのです。一言で言うと,衆生が知っている
我と全く同じです。しかし,それは,全体でもないし,全てを統括するようなもの
でもない,ということです」。
>125「涅槃,あるいは無我の体験とは,経験各部分の間に,
その多様性とは矛盾する統一的調和が自然に生じている体験です。
勝義では,「我」は,そのうちの一つの部分としてあるのです。覆い隠される
ことなく,他を覆い隠すことなく,我と矛盾するもの「無我」とも「仲良く」
そこにはあります」
以前いただいたレスのこの辺の言葉ですね。
「無我」と「我」というテーマがここに出てきている。この124については、
たとえばわれわれの通常の我(大拙センセイあたりだったら、生物我というのかな)が、
そのまま何からの条件が変ったものが無我であって、まったく別のものではない、
というあたりは何となくわかるようなところがある。
しかし125レス
>「経験各部分の間に,その多様性とは矛盾する統一的調和が自然に生じている体験」
>「勝義では,「我」は,そのうちの一つの部分としてあるのです。覆い隠されることなく,
他を覆い隠すことなく,我と矛盾するもの「無我」とも「仲良く」そこにはあります。世俗諦では,「我」は人格全体の中心に居座り,また,人格全体を規程しています。しかし,勝義では,それは一つの部分に過ぎない」
というのは、ちとわかりにくく、brownチャン独特の語法かも知れない。
この辺の我と無我、明と無明、世俗諦と勝義諦、個と全体の関係について、
よろしければもう少し砕いたご説明をお願いします。
漏尽通などとの絡みも含めていただければ、ありがたいです。
205 :
名無しさん@1周年:02/06/09 10:36
∫
∧,,∧ ∬ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミ,,゚Д゚彡っ━~ < おまえら、もういい加減にせぇよ!!
と~,, ~,,,ノ_. ∀ \_________________
ミ,,,,/~),│ ┷┳━
 ̄ ̄ ̄じ J ̄ ̄| ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ┻
206 :
名無しさん@1周年:02/06/09 11:05
,,,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,,,,,,
,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;---、;:;:;:;:;:,,,
/;;;;;;;;;;,-'''" ゙'''ヽ;;;;;;ヽ
/;;;;;;;;;''' ヽ;;;;l
/;;;;;;;;;'" _ヽ、 「空」の話はもういいよ。
i';;;;;;;;;;; ,,;;;;;;-=ヽ、
|;;;;;;;;;;| ,,,,,;;;;;;;;;-、 ‐'"゙_,,,,,,,_
|;;;;;;;;/ /-─'''''''"ヽ "‐=二 ̄ヽ、
|;;;;;;| '",,,-==‐ ヽ " 、 ヽ 違うこと話そうじゃーないか!
,┴、;| ==ニ-‐'" , ヽ、 ゙i
|l |ヽl /l .)\ i
\|lノl /└-‐ヽ-‐' ヽ i
l、 ゙| / ,,---'ニ=メ i .| エロについて・・・
ヽ-i i' /-l「ヽ┼+// ;; /
ヽ、 ヽ=ヽ─++-''ノ /、
,,,,\ ヽ ゙‐─''''''"~ / ヾヽ、
,,-''''" \ / ) どうよ、どう思う?
\ヽ、 / /
\ ゙''ヽ 、,,,__,,;-'" /
ヽ、,,, ,,‐"
>>185 そうか?
もっとも仏教らしくないぞ。日本人的発想ではあるが。
「釈迦が見明星時」というのは禅宗だけ。
208 :
名無しさん@1周年:02/06/09 11:32
>206 まず自分から話せよ
209 :
名無しさん@1周年:02/06/09 11:35
brownにやられたやつが、駄々こねてるぜ。
みっともねー。
210 :
名無しさん@1周年:02/06/09 11:39
>207
嫉妬に狂って、つまらんものを持ちあげたくなったと思われ
211 :
名無しさん@1周年:02/06/09 11:43
>210
何のことだろう?
212 :
名無しさん@1周年:02/06/09 11:49
>206 「ボクの初体験」スレでも立てな
213 :
名無しさん@1周年:02/06/09 11:57
>212 そんなのないから、
AAとか貼り付けて気を紛らわしてるんだろ。ガキがさ。 w
214 :
名無しさん@1周年:02/06/09 12:07
初体験か?
魚屋の娘だよ・・・・。
懐かしいな、あの頃。もう帰ってこない。
下手な仏教はなししているよっか女でもつくれよ。
その方がよっぽど良いぞ。
215 :
名無しさん@1周年:02/06/09 12:21
ここは空スレなんだよ、よそでやんな。
なに執着してこの板に張り付いてんだよ。
216 :
名無しさん@1周年:02/06/09 12:40
ルールを守らないとどうなるの?
△ ▽ ▲ ▼
削除されちゃいますです。。。
ほかにも、なにかが起こるかもしれないですよん。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ
明らかなルール違反や削除ガイドライン違反の書き込みをみつけたら、
削除依頼にご協力くださいです。。。
アスキーアート
顔文字板・モナー板・厨房板以外では、必然性がないと判断されれば削
除対象になります。
上記3板も含めた全掲示板で、連続投稿・コピー&ペーストに該当する
ものは削除対象になります。
217 :
名無しさん@1周年:02/06/09 12:55
>>215 > ここは空スレなんだよ、よそでやんな。
「空スレ」だったら、ホントマジにやったのが良いと思う。
218 :
名無しさん@1周年:02/06/09 12:59
初体験か?
魚屋の娘だよ・・・・。
懐かしいな、あの頃。もう帰ってこない。
初体験か?
魚屋の娘だよ・・・・。
懐かしいな、あの頃。もう帰ってこない。
初体験か?
魚屋の娘だよ・・・・。
懐かしいな、あの頃。もう帰ってこない。
ぷっ! 藁ロタ
219 :
名無しさん@1周年:02/06/09 13:08
初体験か?
魚屋の娘だよ・・・・。
懐かしいな、あの頃。もう帰ってこない。
初体験か?
魚屋の娘だよ・・・・。
懐かしいな、あの頃。もう帰ってこない。
初体験か?
魚屋の娘だよ・・・・。
懐かしいな、あの頃。もう帰ってこない。
ぷっ! 藁ロタ
220 :
名無しさん@1周年:02/06/09 13:20
「空スレ」 それは空家みたいなものですか?
>>217
221 :
名無しさん@1周年:02/06/09 13:22
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´Д` ) < マトモな方は居ませんか?
/, / \_______
(ぃ9 |
/ /、
/ ∧_二つ
/ /
/ \ ((( ))) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ /~\ \ ( ´Д` ) < 居ませんか?
/ / > ) (ぃ9 ) \_______
/ ノ / / / ∧つ
/ / . / ./ / \ (゚д゚) デテコイヤ! ヴォケガァ
/ ./ ( ヽ、 / /⌒> ) ゚( )−
( _) \__つ (_) \_つ / >
222 :
名無しさん@1周年:02/06/09 17:10
ここまで荒れちゃ。
一番の原因は♪。
二は茶。
真面目な学習しろよ。
223 :
名無しさん@1周年:02/06/09 17:34
十二縁起についてのお話がありましたが、
「十二縁起と輪廻」ということについて、どなたか教えていただけないでしょうか。
前回のコメントの中では、とくに輪廻との関係には触れられていないように思われましたが、
しばしば「縁起の法」は輪廻との関係を云々されます。
このあたりはどうでしょうか。
224 :
名無しさん@1周年:02/06/09 17:36
惨事のトドメが髑髏仮面ってか?
225 :
名無しさん@1周年:02/06/09 17:45
これ、荒らしてるのは特定の個人やろ。
226 :
名無しさん@1周年:02/06/09 17:53
♪ のいちゃもんは、まだかわいいよ。
いちおう仏教の範囲内でかかわってくるから。
ここまでウスラバカで芸のない荒らし方はしない。
227 :
名無しさん@1周年:02/06/09 17:56
呼び込んじゃっている、という見方は?
228 :
名無しさん@1周年:02/06/09 17:58
>>225 >これ、荒らしてるのは特定の個人やろ。
ワロタ。
「特定の集団」というのも考えづらい。
初体験か?
魚屋の娘だよ・・・・。
懐かしいな、あの頃。もう帰ってこない。
ぷっ! 藁ロタ
229 :
名無しさん@1周年:02/06/09 17:58
削除人に逆探知してもらうか。
個人情報、全部わかるんだろ。
230 :
名無しさん@1周年:02/06/09 18:01
バカが、出てきたな w
231 :
名無しさん@1周年:02/06/09 18:01
>>227 >呼び込んじゃっている、という見方は?
ぷっ! 藁ロタ
初体験か?
魚屋の娘だよ・・・・。
懐かしいな、あの頃。もう帰ってこない。
ぷっ! 藁ロタ
232 :
名無しさん@1周年:02/06/09 18:13
「忍」ってのにそっくりだな w
233 :
名無しさん@1周年:02/06/09 18:26
またバカが、出てきたな w
234 :
名無しさん@1周年:02/06/09 21:07
age
235 :
名無しさん@1周年:02/06/09 23:53
age
236 :
名無しさん@1周年:02/06/10 00:23
>>233 >またバカが、出てきたな w
ぷっ! 藁ロタ
>223
輪廻とは,十二縁起のあの過程が生じている現象をいいます。輪廻からの解脱
とは,そのような過程が生じない,あるいは,「明」の縁起として示された
縁起が生じている現象をいいます。輪廻では,「有」と呼ばれるカルマが,
「取」と呼ばれる執着によって確定します。一度確定すると,
本人の自然な心の働き(と勘違いして),「生」と呼ばれる特定の生存状況に
おかれます(実際には自らをその立場に置くようになります)。このようにして,
十二縁起は輪廻を説明しているのです。それが輪廻の正体です。
>ケムさん
もしあなたが,「わかりにくく」や,「わからない」と心から思うなら,それは
実に正しい状態です。なぜなら,わかるわけがないからです。なぜなら,矛盾
しているからです。私の言っていることは矛盾しています。しかし間違って
いません。衆生がこれを「わかる」方法は,ただ,そのまま信じることです。
すなわち,すべての対立項が,「私」がなんの計らいをすることもなく,自然に,
よい状態にあるような境地が存在し,それこそが心の本来の姿なのだと。
我と無我,輪廻と解脱,無明と明,思考と感情,煩悩と清浄,これら全てのものは,
一方が他方を打ち消すことなく,無理なく共存することができるのです。
なぜなら,もし,一方が他方を打ち消そうとしたとき,そのような「動き」は,
心自らの機能によって,自動的に消滅してしまうからです。そのとき,私が
消滅させたり,煩悩が生じてはならないと慌てたり,煩悩はよいとか悪いとか
考えたりすることはありません。しかし,たとえ考えたとしても,何の問題も
なく,やはりそのようなたくらみは,何食わぬ顔で,それら自らの性質として
消え去っていくのです。疑問や比較,苦や価値観,努力や無努力,これら全て
のものごとは,このようにしてその本性のままにあるのです。
これが,衆生に見られることのない,勝義諦の姿です。
漏尽通とは,煩悩が生じないと知ることです。
心が,全てを調和した状態にあるとき,そのようなさざなみが起こっている心
と全く離れたところに私がいるという経験をします。その私とは,五感のこと
なのですが,衆生が心のプロセスを通して五感に接しているのとは体験が
逆転しています。五感(私)がこちらにあって,遠くに心がある。その心は,
五感に何かの彩りを与えたり,変換したり,自分の都合のよいように解釈したり
しません。五感は五感のまま,極めて明晰にあります。直接体験,この見事さは,
舌を巻く。六・七年たってますが,いまだにその新鮮さは色あせることがない。
このように,生まれたままの新鮮な気分を味わいつづける状態にあります。つまり,
煩悩が生じる心から,私は本来離れてあるということを体験するのです。
心に生じている様々な事柄は,小さな波として把握されますが,その波の高さと
いったら,私が居るところと心との距離に比べてあまりにも小さいために,
決して心に犯されることがない,と知るのです。
240 :
ケムール人:02/06/10 01:07
brownどの
どもども。おこんばんわ。
お疲れさんです。
レスありがとうございます。
やや頭が、ボーっとしておりますが。
>237 の輪廻の話は、種子とアーラヤ識レベルで起っていることと考えてもよいのでしょうか。
要するに、言い方とか切り口が違っているだけで。
■ 無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→苦(老・病・死)
この中の「行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有」は日常生活の中で「業」として起ると同時に、
次の転生の背景としての「業」を蓄積するという意味にもとれるのでしょうか。
241 :
名無しさん@1周年:02/06/10 01:59
>>239 >漏尽通とは,煩悩が生じないと知ることです。
いいえ。
漏尽通とは、煩悩が生じなくなることです。
あなたのような都合の良い曲解が、日本的な生臭禅坊主仏教を
養っているのです。
>心が,全てを調和した状態にあるとき,そのようなさざなみが起こっている心
>と全く離れたところに私がいるという経験をします。その私とは,五感のこと
これははっきりいって、気の毒な妄想。居眠りのようなものです。
あなたが本気で覚醒したいなら、居眠りしないことです。
眠っているときに自分が眠っているとわかっていることが、ひとつの
指標になるでしょう。覚醒へのほんの入り口みたいなものです。
24時間覚醒しているのが悟りへの入り口であり必要条件です。
自然にそれができるようになってはじめて次の段階へ進めます。
このような覚醒を伴わない夢想や自己満足は、すくなくとも
仏教の悟りとは言えないでしょう。
242 :
名無しさん@1周年:02/06/10 06:50
>>241 貴方のレスには非常に同意します。
今後このスレのホストになって頂きたい。
差し支えなければステハンでも良いから名前を付けて頂けたら有り難い。
243 :
名無しさん@1周年:02/06/10 08:07
∫
∧,,∧ ∬ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミ,,゚Д゚彡っ━~ < 241さんの話を聞こうじゃ〜ないか・・・。良スレ予感。
と~,, ~,,,ノ_. ∀ \_________________
ミ,,,,/~),│ ┷┳━
 ̄ ̄ ̄じ J ̄ ̄| ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ┻
244 :
名無しさん@1周年:02/06/10 09:14
brownも滅茶苦茶だけど、
>241
はニューエージ系の思考。
>覚醒へのほんの入り口みたいなものです。
>24時間覚醒しているのが悟りへの入り口であり必要条件です。
>自然にそれができるようになってはじめて次の段階へ進めます。
経典論書にみられない発想。
245 :
ケムール人:02/06/10 09:22
おはよーございます。
えーと、とりあえず「見解」の対立ということになってきたようですね。
ちょっと最近、風景がパレスチナ状態で荒廃しておりますので(笑)。
私も、パイプ猫さんに同意して、241さんに、いくつか質問させていただきます。
(生活上の野暮な理由から、時間的に先に質問させていただきます。brown氏は深夜になると思いますので。
私の方の質問は、brown 氏のレスのあとでまったくかまいません)
>24時間覚醒しているのが悟りへの入り口であり必要条件です。
「24時間の覚醒」というのはとても興味深いのですが、具体的につまり生理的、
大脳生理的に、どのような状態なのでしょうか。
それとこの場合、「十二縁起」との関係はどうなっているのでしょう。
241さんは「漏尽通とは、煩悩が生じなくなること」、
brown 氏見解では「漏尽通とは,煩悩が生じないと知ること」となっていますが、
この辺は、興味がありますが、文章の流れもあるので
お二人が直接応酬した方がいいですね。
さて、ではこの「漏尽通」と煩悩と「知慧」との関係は、
具体的にどのようになっているのでしょうか。
よろしくお願いいたします。
あと、241さんは155さんでしょうか。
それなら、242 さんがいうように何かハンドルネーム名乗っていただけると、
議論の流がつかみやすくなると思いますので、その辺よろしくです。
それでなくてもここは「空をつかむ」話なので、
具体的なキャラがあった方が、なにかとよろしいかと思いますです。
246 :
名無しさん@1周年:02/06/10 09:33
単にbrownに対抗意識燃やしているだけ。中身なし。無視したほうがよい。
247 :
ケムール人:02/06/10 09:41
あっ、すいませーん!
申し訳ありませんが、
>さて、ではこの「漏尽通」と煩悩と「知慧」との関係は、
具体的にどのようになっているのでしょうか。
よろしくお願いいたします。
これを、
>さて、ではこの「漏尽通」と「煩悩」と「知慧」と「空」との関係は、
具体的にどのようになっているのでしょうか。
よろしくお願いいたします。
でお願いします。
248 :
名無しさん@1周年:02/06/10 10:54
∫
∧,,∧ ∬ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミ,,゚Д゚彡っ━~ < 241さんお願いします・・・。良スレ予感。
と~,, ~,,,ノ_. ∀ \_________________
ミ,,,,/~),│ ┷┳━
 ̄ ̄ ̄じ J ̄ ̄| ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ┻
249 :
名無しさん@1周年:02/06/10 11:13
>248 :名無しさん@1周年 ↑
えらそーに座ってねえで、おめえがなんか意見いえよ。バカ猫。
250 :
名無しさん@1周年:02/06/10 11:20
251 :
名無しさん@1周年:02/06/10 11:27
∫
∧,,∧ ∬ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミ,,゚Д゚彡っ━~ < みんな、ちゃんとやれちゃんと!
と~,, ~,,,ノ_. ∀ \_________________
ミ,,,,/~),│ ┷┳━
 ̄ ̄ ̄じ J ̄ ̄| ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ┻
252 :
名無しさん@1周年:02/06/10 11:53
>>251 ∫
∧,,∧ ∬ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミ,,゚Д゚彡っ━~ < オマエモナー
と~,, ~,,,ノ_. ∀ \_________________
ミ,,,,/~),│ ┷┳━
 ̄ ̄ ̄じ J ̄ ̄| ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ┻
253 :
名無しさん@1周年:02/06/10 11:57
>252
∫
∧,,∧ ∬ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミ,,゚Д゚彡っ━~ < くだらないAA貼ってんじゃねーよ。芸なしが。
と~,, ~,,,ノ_. ∀ \_________________
ミ,,,,/~),│ ┷┳━
 ̄ ̄ ̄じ J ̄ ̄| ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ┻
254 :
名無しさん@1周年:02/06/10 12:29
>>253 ∫
∧,,∧ ∬ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミ,,゚Д゚彡っ━~ < オマエモナー
と~,, ~,,,ノ_. ∀ \_________________
ミ,,,,/~),│ ┷┳━
 ̄ ̄ ̄じ J ̄ ̄| ┃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ┻
255 :
新奇溢れる、某氏のコピペだけど:02/06/10 22:01
悟り、それこそが、全ての求道者が求める究極の状態なのにです。
我々はGの言説に寄れば、全くの機械です。怒られれば喜び、貶されれば悲しむ。
私には、それがたまらなく嫌だった。例え憎しみであろうが、それが本人の意思したものであったなら、
因果の規範から外れたものであったなら。機械的な反応で得られるであろう愛よりも、
はるかにすばらしいものです。言っていることがわかるだろうか?
『悟りの道標』という本を書いた清水というのがいたが、彼は確かに悟っている。
だが、私には、それが、「単なる体験」でしか、なかったのを見抜いていたので、
手紙で、彼の思い上がりを正し、その体験を日常生活で、発揮する為の「意志」を手に入れる
行を彼に勧めた。するとどうだろうか、彼はなんと、白紙の手紙を送り返してきた。
もちろん、彼には白紙の意味に深意を込められル程の人物でなく、それは彼の、
「思い上がり」から来ている、不遜な気持ちからきているのを感じた私は、
そのことを指摘した。すると、今度は○と書かれた手紙が送られてきた。
…私は愕然としたよ。チベットでダライラマに会って、それを自分の本に堂々と
載せる恥知らず。しかも、一般人に対しても、自分を上と捕らえる常識のなさ。
私は彼にもっと言ってやりたかったのだが、彼にはそれを理解できないことを
知ったので、やめた。ともかく、彼の顔に現れている相、そのものが、未熟を表現していた。
彼は「人生塾」という精神道場を指導しているらしいが、詳しい情報を持っておられる
方がいたら、教えて欲しい。
取り留めのない話になってしまったが、恐ろしく簡単に言えば、悟りを人工的に作り出したとする。
その体験をとなりの加藤さんが体験したとする。そしてその体験が終わった。
果たして、加藤さんは聖人になっているだろうか? 答えは絶対に否だ。
それには、存在(霊格)が必要になってくる。そして、悟っただけで、指導者になったり、
道場を構える馬鹿がいるが、そういう愚考を犯すのは、やはりそれを指摘するだけの、
容量を持つ指導者がいなかったのだと思うのです。
256 :
brown:02/06/10 22:42
>240
「転生」というものを私は知りません。
あるとも言いませんし,ないとも言いません。
なぜなら,無知であるから。
257 :
名無しさん@1周年:02/06/11 08:18
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´Д` ) < マトモな方は居ませんか?
/, / \_______
(ぃ9 |
/ /、
/ ∧_二つ
/ /
/ \ ((( ))) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ /~\ \ ( ´Д` ) < 居ませんか?
/ / > ) (ぃ9 ) \_______
/ ノ / / / ∧つ
/ / . / ./ / \ (゚д゚) デテコイヤ! ヴォケガァ
/ ./ ( ヽ、 / /⌒> ) ゚( )−
( _) \__つ (_) \_つ / >
258 :
名無しさん@1周年:02/06/11 10:10
ということですので、あとはどうぞみなさんご自分で。
259 :
名無しさん@1周年:02/06/11 12:17
六種の神通力
六通(ろくつう)のこと
神足通(じんそくつう) 自由に欲するところに現れる能力
天眼通(てんげんつう) 自他の未来のあり方を知る能力
天耳通(てんにつう) 普通人の聞こえない音を聞く能力
他心通(たしんつう) 他人の考え方を知る能力
宿命通(しゅくみょうつう) 自他の過去世のあり方を知る能力
漏尽通(ろじんつう) 煩悩を取り去る能力
の、六種の特別な能力のことである。
神通力と「空」に関して、これを解説できる人間が居たとするなら、これは大したもんだ。
この話を持ち出した以上、やはり説明して欲しい。
よもや逃げることは無いでしょうね?
それとも・・・・
既に逃げてるのか?(w
260 :
名無しさん@1周年:02/06/11 12:30
という以前に、荒れすぎよ、もうここは。
261 :
名無しさん@1周年:02/06/11 12:32
さー、みなさん。
お好きなようにAA貼り付けましょ。
262 :
名無しさん@1周年:02/06/11 12:36
誰も「空」について論じることに興味なし。 ハイ、これで決定。
263 :
名無しさん@1周年:02/06/11 12:47
>214 名無しさん@1周年 :02/06/09 12:07
初体験か?
魚屋の娘だよ・・・・。
懐かしいな、あの頃。もう帰ってこない。
下手な仏教はなししているよっか女でもつくれよ。
その方がよっぽど良いぞ。
おい!
これ書いた奴。どこいったんだよ。
その後、語れよ。
お前の天下だぞ。
264 :
さかな屋・ギョギョッ:02/06/11 12:50
女体盛り女体盛り女体盛り女体盛り女体盛り女体盛り女体盛り女体盛り女体盛り女体盛り女体盛り女体盛り
265 :
名無しさん@1周年:02/06/11 12:59
ところで、「241 :名無しさん@1周年」はどうしたの?
質問にまだ答えていないのではないの。
266 :
brown:02/06/11 21:44
もし,「思考が生じない」,というのであれば,それは思考を忘却しています。
もし,「思考が生じる」というのであれば,思考の荒波に取り込まれています。
もし,「すべての思考を離れて悟りがある」というのであれば,無分別の迷妄
に陥ったのです。
もし,「思考が生じている」というのであれば,思考の妄想に取り込まれています。
しかし,涅槃とは,思考を観察しながら,思考が生じないことを知っているのです。
それが,輪廻と涅槃への双入であり,相対性のない絶対的な領域,
無住処な涅槃,大いなる完成,無常の波羅蜜多であるのです。
267 :
brown:02/06/11 21:50
もし,「煩悩がない」というのであれば,断滅性の迷妄に陥っています。
もし,「煩悩がある」というのであれば,下劣で,汚らわしい生存状態にあります。
もし,「煩悩がない」というのであれば,煩悩が忘れ去られており,煩悩が生じない
のとは異なっています。それは煩悩が生じないことを知り得ないことがらにあります。
しかし,「煩悩がある」というのであれば,煩悩に取り込まれて,翻弄され,
誤認し,終わりの無い探求の中にあります。
しかし,涅槃とは,煩悩を観察していながら,それが生じないと知るのです。
そのとき,「煩悩」が「生じない」とはっきりと知っているのです。
生じる原因と,生じない原因をはっきりと理解しています。
それを妙観察というのです。
それ故に,大いなる解決とは,輪廻と涅槃への双入であるとbrownは言うのです。
空を悟ると言いますか、気がつくと言いますか、知ることによって
どのようなメリットがあるのでしょうか?
また、多種多様な教えがある中で、共通している事はあるのでしょうか?
269 :
brown:02/06/11 22:03
>どのようなメリットがあるのでしょうか?
それは実は,あなた自身が知っています。
それはいかなる問題でも解決に導くものです。問題はあなた自身が知っています。
悟りとは,それが解決されるものだからです。
それ故に,何の洞察もない野狐禅は,「何も得るところがない」と仏陀はいう
のです。
>多種多様な教えがある中で、共通している事はあるのでしょうか
およそ,有用な教えの中で共通しているものとは,これです。
すなわち,「人生は価値があるのだ」と。
ただし,「なぜなら」に続く文言の「表現」はそれぞれ異なります。
なぜなら,そのような問題こそが探求されるに相応しい問題であるからです。
>>269 物凄く簡単なことだと思いますが、なぜ修行が必要か、または修行を
しなければなぜ悟れないか、悟れないとホントに価値を見出せないのか。
これは人によって価値観が違うように、求めるものが違うと答えも変わる
はずです。
私は悟ったと思っても、人によっては違うと考えても不思議ではないでしょう。
悟るとは、何かをまず覚らねばならないと思います。
>>245 すみませんが、毎日パソコンをやってるわけではないので
固定ハンドルは遠慮させていただきます。
正直いって仏教の理論には詳しくありません。
だから、論争をやっても負けるだけなのであえてやりません。
わたしは、瞑想をしていますが、理論的な勉強は簡単や仏典(岩波文庫など)
解説書、一般向けのチベット仏教(瞑想関係)の本などを読むぐらいですので。
ただ、煩悩は、欲望が生ずることとは違うと思います。
欲望はつねに生じつづけますが、それ(ゆえ)に「煩わされ悩まされる」か
どうかが問題だ、と自分で解釈しています。
生じた欲望を大きく育てることも、制限し、消滅させることも人間には
自在に出来ます。出来ないという幻想が煩悩のもとです。
欲望がいくら生じてもその正体がつねに見抜かれていて、いつでも自在に
制限し、消滅させられるということがはっきりした時、煩悩が消滅した
ということがわかります。
煩悩の消滅は客観的な事実ですから、それに気づくことはあっても、
「それ自体」は妄想ではありえません。
煩悩が消滅していない(煩悩がある)のに、消滅した(煩悩がない)と
勘違いしたら妄想と言えますが、
その場合でも、「煩悩がない」こと自体が妄想なのではありませんね。
私に言えることは、普通の悟性論理をもっと大切にすべきだということ
です。ひどい迷妄に陥らないためです。
そうした上で、日々、刻々、よく気をつけて覚醒に勤めるだけです。
それ以上に議論したり能書垂れたりすることは(私にとっては)意味が
ありません。
・ ____________
∧_∧ /
( ´∀`)つ < 地球はサッカーで盛りあがってるねえ
/ ̄ ̄ ̄ ̄.\ \
|) ○ ○ ○ (|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/″ \ <もうすぐ滅びるらしいけど…>
/________ \
((  ̄ ∪∪ ∪ ∪ ∪∪  ̄
273 :
名無しさん@1周年:02/06/12 08:30
>>271 >私に言えることは、普通の悟性論理をもっと大切にすべきだということ
そこまで言ったんだから、「普通の悟性論理」の説明もしてくれなきゃやだ。
なにが普通なんだか・・・
274 :
ケムール人:02/06/12 09:54
>271 :241
レスありがどうこざいました。
もちろん、あえて論争にする必要はありません。
またあえて、論争を抑圧する必要もありません。
241 さんの場合、文章の感触から、なんとなく後者の方を意志されているのかなあと感じたものですから、
幾つか質問させいただいたまでです。
体験的なアプローチから仏教や瞑想を語る方と、学問的なアプローチから仏教を語る方と、
本当はその双方の掏り合わせてができれば一番よいのでしょうが、なかなか難しいですね。
正否の判断はともかく、主張のある方がとりあえずそれぞれの見解を縁側に並べて眺めてみる、という程度で、
良しとすべきなのかも知れません。
まあ、スレの風向きを見計らって、いろいろアドバルーンあげてみてください。
275 :
名無しさん@1周年:02/06/12 16:18
>いいえ。
漏尽通とは、煩悩が生じなくなることです。
あなたのような都合の良い曲解が、日本的な生臭禅坊主仏教を
養っているのです。
>これははっきりいって、気の毒な妄想。居眠りのようなものです。
あなたが本気で覚醒したいなら、居眠りしないことです。
眠っているときに自分が眠っているとわかっていることが、ひとつの
指標になるでしょう。覚醒へのほんの入り口みたいなものです。
24時間覚醒しているのが悟りへの入り口であり必要条件です。
自然にそれができるようになってはじめて次の段階へ進めます。
このような覚醒を伴わない夢想や自己満足は、すくなくとも
仏教の悟りとは言えないでしょう。
ここまで言っておきながらも、ずいぶんトーンダウンしたもんだな、241よ。
276 :
brown:02/06/12 21:10
>275
で,あなたはは何も主張しないの?
それがあなたの「見識」なら,そういう態度もあるかも知れませんがね。
brownが違うというなら,その見解を述べてみよ。
「241」が違うというなら,その見解を述べてみよ。
なぜなら,思考こそが,一人の人を唯,一人の人に過ぎないとしない,
そのような自己超越であるから。
思考がないとき,悟りはない。煩悩がないとき,悟りはない。
そのように見るとき,可能性がある。
あなたは,ただ「違う」と思っているだけで,実は何もわかっていないのです。
あなたは,ただ「おまえはわかっていない」と考えているだけで,実は何も
考えたことがなかったのです。
それよりも,「よく考えること」,がより重要であります。
他を否定することで自身の立場を向上させようとするような無意味な探求に腐心
するのではなく,自分自身がより優れた見解を見出せるように精進しましょう。
277 :
名無しさん@1周年:02/06/13 16:38
色即時空 空即無色 。 無=無限大小。あるレベル以下の無限小の時空は反転しますょ。
樹の股から生まれたくせに、もっともらしく取り澄まして、存在の振りなどしちゃって
唐の昔にお釈迦(ポンコツ)ですよ、今迄よくもったものだ。
278 :
名無しさん@1周年:02/06/15 08:50
落ちているのでage
「空」を語る時、「縁起」という言葉がほとんど見受けられないのは
なぜなのでしょう。
「縁起」を突き詰めて「空」という考えに行き着いたんだと思うのだけれど。
280 :
名無しさん@1周年:02/06/16 02:43
「空と縁起」については前の板でやったので飽きているのでしょう。
十分かどうかは別として。
281 :
ケムール人:02/06/16 11:12
ずっと、「縁起」のことばかり問題にしておりますですよ。(笑)
ただ「空1」の方ではどちらかというと
中観派の「縁起」や「実体性」の非常に荒っぽい概略のようなものをあれこれ論じて、
「空2」で出てきているのは、十二縁起などのわれわれの生存の背景にある「縁起」の話が出ています。
私個人は、一仏教雑学オタとして、「空」と「縁起」と「戒律/倫理」と「リアリティ」と「輪廻」の問題が
どのように絡みあっているのかというところに、結局興味があるのですが、
すっきりとした見解に出会うのは難しいようです。
「学」の方では基本的な問題においても最終的なレベルとまで幾つかの説の平行線が続いているようだし、
「行」の方ではたちまち「不立文字」的なコメントが出てきてそこでストップしてしまう。
どうやらそれぞれが求めるしかないようですね。
282 :
ケムール人:02/06/16 11:31
ここのところ下がりっぱなしなのでマジレスしますと、
私の場合の関心事は「在家仏教徒」として納得しうる現代の仏教教義は何かいな?
というところにあって、その背景のもとに「空」とは何か「縁起」とはなにか「業」「死」とは何か、といった問題意識を持っています。
しかし、要するに、在家として、行く寺がないのですよ。w
うちは浄土真宗ですが、坊さんは阿弥陀如来への帰依ばかりといていて、まあそれはいいんですが、
じゃあ、釈迦仏教は何なのさー、とか、他の仏教と浄土真宗は教義的にはどうかかわっているのかとか、
さっぱり見えてこない。坊さん自身はいい人なんですけど。でも、戒名なんか檀家として何の意味も認められない。
要するに、理屈と心の双方を満足させてくれる寺として、行く寺がどこにもない。
「宗教は個人の問題」といってしまえば、それまでなんですけど。
しかし日本て、大乗仏教の国なんだから、阿弥陀信仰とか、法華経信仰とか、あるいは禅とか密教でもない
大乗仏教の哲学部分と死生観とセレモニーと釈迦仏教とを融合した仏教寺院
(まあ、これがとりあえず私の理想とする仏教です)があってもいいのでは、
と考えるのは、私の無知からくるものでしょうか。
もっとも自称「在家仏教徒」などとエラそーにいってみても、
私のように五戒の下の二つしか守れないんじゃ、話になりませんがね。
283 :
右や左の仔猫様 ◆DMOUBKE2 :02/06/16 11:42
小乗なくして大乗なし、大乗なくして小乗なし
と思われ。
284 :
ケムール人:02/06/16 12:03
ぼーっとして、さて飯でも食うかとか思ってたら、「283 :右や左の仔猫様 」のレスがはいったので、それについて。
これはあれですかね、日本の小乗的基盤が曖昧なまま、ここまできてしまったということですかね。
あるいは中観や唯識などの大乗仏教の哲学も、ひょっとして小乗的というふうに見られてしまったかもしれんなあ、と思います。
なにせ、戦後の日本の大乗というのは、マスゲームで行進したり、選挙運動したり、教祖さんの講演会に嫌がる友達ひっぱっていくことですから。
それにくらべりゃ中観や唯識をお勉強したりするのは、「小乗臭い」のであって、日本式の菩薩ではないんだろーなー。
ところで、「右や左の仔猫様」 は、「名無し子猫さん」とはちがうの?
285 :
名無しさん@1周年:02/06/16 22:38
age
>280 >281
最近ここを覗いたばかりなので申し訳ありません。
>282
「私」という存在は「空」であるということは言うまでもないのでしょうか。
さまざまな縁(条件)が「私」を形作っている。
逆に、縁が全く無い状態で「私」は存在しうるか。
「私」そのものというのは存在し得るのか。
287 :
名無しさん@1周年:02/06/17 00:24
あたりまえのことを、あたりまえに考える、
既存の宗教・哲学の思想に同化したり、飲み込まれたり影響されず
まず、自分のナチュラルな感覚で感覚的にも思考的にも捉える。
経験していない物や、自分では想像もつかないようなものを
無理やり外界からの思考・思想をひっぱりこみ、
何とか形のつくように「張りぼて」のような「偽者」の
自分の感覚を作り「これこそ、そうなのだ」と自らを騙すような行為は
しないこと。
それよりは、まだ、原点に近い自らのナチュラルな感覚の方が
ほんとうの正道からそれていないような気がする。
世の中には色々な思想・思索が存在するが、それも立場や
その「もの」を見る方向により変化する。
まず自分の視点、立場を明確にしその目を養い、それを主軸にした上での
はじめての、「他の考え」「他の思想・思考・視点」なのだから。
あまり、むやみに自分を軽んじるものではない。
288 :
名無しさん@1周年:02/06/17 00:31
>>287 そうだね、あんたは賢い。
激しく同意だよ。
289 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/17 00:36
私は、基本的にこのスレにはカキコしないと思っていましたが、カキコさせて下さい。
>>287 貴殿のレスに同意。
私のことはシカトして下さい。
290 :
名無しさん@1周年:02/06/17 00:47
信じるっていうのは、疑って疑って、疑い切れないことをいうんだと思う。
疑う余地があるやつは、本当の意味では信じてないんだな。
そういった意味では>287に同意。
291 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/17 00:52
疑わずんば信は見えず。
私のレスはシカトお願いne。
殴り書きのように、権威や力に縛られない感覚で
思いつくまま書きましたが、
私のような感覚を持つ方が多々居ると言う事に
安堵や嬉しさを感じます。人のナチュラルな感覚から生まれる
正しい、考えや思考(正義と言う意味ではなく)
それこそが人間、生命として生まれた者の
まず、原始的な羅針盤としての基礎だとも考えます。
ご賛同くださった方に、お礼申し上げます。
293 :
名無しさん@1周年:02/06/17 01:15
大乗仏教は利他行というのがあるけど、小乗では利他行はない筈なのに、
「慈悲の瞑想」とか盛んにするらしいね。
ぼくはリタ行というのが胡散臭くて嫌いで仕方がない。
利他行と「空」とかも、きっと関係あるんでしょうね。
でも全然わかりません。
仏教でいう「利」は、悟りにちかづいていくことの筈ですよね。
自分が悟っていない人がどうして人を悟りに導けるのかも疑問です。
どこかで聞いた話、溺ている人が溺れている人を救うことは出来ないって。
そうだとしたら、本当の利他は、自分がまず、なんとしてでも悟りを
開くことじゃないでしょうか。
294 :
ケムール人:02/06/17 01:16
>286 :279 さん
>282
「私」という存在は「空」であるということは言うまでもないのでしょうか。
いやあ、もちろん、そんなことないと思いますよ。
釈尊にとっては、「空」とは、禅定で知りえた五蘊無我という直感的真理、
後の比丘・比丘尼にとっては、師に教えられた真理という違いはあるかも知れませんけど。
いずれにせよ、世俗とはさかさまの見解なのではないでしょうか。般若心経の転倒夢想ですか。
みんな「空」どころか、本能的には、自分ほど実体がある存在はいないと思っているのではないですか。
世界がたとえ夢幻でも、自分にはリアリティがあると。世界が滅びても自分だけは一杯の紅茶が飲めればいいと。
295 :
ケムール人:02/06/17 01:17
で、この尊い私の素晴らしい欲望や執着や実感をなんとしてでも実現し、いったん実現したら永続させたい。
ところが、世界の構造は無常であるから、そこに「苦」というものが生じてしまう。その「苦」を逆算していくと、
「われとわがものの実体化」という「苦」の原因の真犯人が浮かびあがってくるのではないでしょうか。
それを禅定によって、教学によって、「空」という個体化以前の始原の状態にもっていこうとするのが、
仏教なのではないかと個人的には理解しております。
>さまざまな縁(条件)が「私」を形作っている。
これは十二縁起そのものですよね。
>逆に、縁が全く無い状態で「私」は存在しうるか。
縁起がなければ何事も存在しないから、存在しないでしょう。
>「私」そのものというのは存在し得るのか。
縁起以前の、あるいは縁起を越えた私ならぬ私というのが、
如来としての私、仏性としての私、法身仏としての私、もはや私というのがおこがましいような私なのではないいかと推測します。
推測ですよ推測、あくまで。
そういった意味では私のレスは完全にはりぼてなんです。287さんのいう「何とか形のつくように「張りぼて」のような「偽者」の
自分の感覚を作り「これこそ、そうなのだ」と自らを騙すような行為」をしている方向なんですね。
ただ、仏教徒というのは三宝帰依というのが前提としてあり、この三宝は仏・法・僧ですね。
私はあまり具体的な僧には帰依していないので、とりあえず二法かな。
「苦」と「無常」までは、人間世界の体験的実感としてある。
その後の張りぼて、空中楼閣については、「仏」の与えた「法」として理解するという方向を私自身は選択しております。
あとは個人の自由でしょう。
296 :
名無しさん@1周年:02/06/17 01:26
空間というのは「私」から四方八方へ等距離に存在するように思える。
宇宙にはてがあるかないかはアンチノミーだとしても、その中心は「私」のはず。
仮に物理的空間の中心がどこか別の所にあったとしても、それは所詮、物理的
空間に過ぎない。
さまざまな欲望や怒りへの執著からのがれることはできそうでも、直感的に、
「私」への執著からのがれるのは非常に難しい。
感性的直観としての「私」から逃れられた人はここにいますか?
297 :
名無しさん@1周年:02/06/17 01:32
仏に帰依しようと思っても、その仏は釈迦仏のみを指すのか、諸仏如来
すべてを指すのかで、議論になってしまう。
法に帰依しようとしても、何が正しい法なのかをめぐって、激しく口汚い
議論を避けてとおることが出来ず、とまどってしまう。
僧はいうにおよばず。
298 :
名無しさん@1周年:02/06/17 01:47
ところで、ちょっと閑話休題になりますが、
皆さんは怒りをどう処理していますか?
処理という言葉が不適切なことはわかっていますが。(対処と言っても不適切でしょう。)
怒りがまったく生じないという人は別です。
たとえば、
怒りが生じるとき、その兆候を見つけて事前になんとかするのか。
怒りが生じる瞬間に、それを何とかするのか。
怒りを生じるに任せて、それを観察するのか。
怒りが生じてしまう場合、それは抑えたほうが良いと思うか、抑えないほうが
良いと思うか。
抑えないほうがいいという人は、押さえるという行為が別のカルマをつくる、
(たとえばストレスを生む)ことを指摘すると思います。
抑えたほうがいいという人は、怒りがある意味で甘美なものであり、連鎖し、
増幅していく性質を持つから、早めに抑え込んだほうがいいと考えるので
しょう。
299 :
名無しさん@1周年:02/06/17 01:58
怒りはなかなか超えられませんね。それは宗教スレ全体を見ても、
とうていネット上のキャラとは思えないような怒りの発散ばかりですから。
それも、そこそこ高度な教義論争で。
ひとついえそうなのは、発散は抑圧よりもその後が荒涼としてくるような気がします。
ぶちまけているときは気持ちいいけど。
>295
「私」っていうのは、「いのち」として親から生まれた後に、
徐々に生まれてきたものだと認識しております。
だから、「私そのもの」というのは存在し得ないというのが
私の考えです。
それを、「私」=「空」と表現したつもりです。
301 :
名無しさん@1周年:02/06/17 02:01
怒りが生じるのは縁によって起こること。
別にニヒリズムを言うつもりではないが、
そのまま怒るという縁をいただけばいいんじゃないですか?
302 :
名無しさん@1周年:02/06/17 02:04
おお、素晴らしい。でも、その時点でもう、怒らないかも。
303 :
名無しさん@1周年:02/06/17 02:14
>>301 怒るということが更に業を作るという危険は?
「ブッダの教え」(スッタニパータ)を素直に読むと、なんとしてでも
頑張って怒りを抑えなさい、といってるように読めます。
修行して怒りを抑えられるような能力をつけなさいという意味かも
しれないけど。
304 :
名無しさん@1周年:02/06/17 02:24
確かに、怒りは癖になるな。
零細企業の社長なんかで誰も止めない環境だと、
つまんないことで毎日激怒しているじじい社長がいる。
浄土真宗系の考えかもしれませんが、
怒りを抑えることができるのも、
怒りを抑える縁をいただくからだと思います。
怒りを抑えなさいというのは、
怒りの状態では冷静な判断ができないからだと思う。
怒りの状態になる前から、
私というものは、縁さえあれば怒りの状態にいつでもなれる、
業の深い存在なのでは?
306 :
名無しさん@1周年:02/06/17 02:41
他力本願過ぎて、吐き気がします。
業は深いかもしれないけど、自分自身も毎日業を作っている
わけで、自由な選択に委ねられた部分を無視することは
おかしいと思う。
怒りは結構気持ちいいものですからね。
それに耽溺するんですよ。
性欲と同じで、刺激させていけばキリがないもの。
因があるとしても、できるだけ縁を避ける努力は出来るでしょう。
別にね、怒りの状態が良い、悪いの話をしているつもりは無いですよ。
怒りが業ならば、業ではない状態って何ですか?
何も考えていないこと?
308 :
名無しさん@1周年:02/06/17 03:28
>>307 悪い業と良い業がやっぱりあるんじゃないの?
相対的にだけどね。
業を作らない状態というのは、涅槃なんじゃないかな。
それを目指すのが仏教でしょ。
309 :
名無しさん@1周年:02/06/17 03:47
怒りのカルマを作りすぎると地獄に落ちるって本当ですか?
貪り→餓鬼道
怒り→地獄
嫉妬→阿修羅の世界
と聞いたことがあります。
310 :
名無しさん@1周年:02/06/17 03:56
>308
じゃあ、それを目指して努力してね。
ただ、消そうとしても消そうとしても燃え上がるのが煩悩だと思うよ。
消そうとしても消えない私が、どのようにして生きるのかを説いたのが
在家仏教だと思っていたのだけれど、いかがでしょう。
311 :
名無しさん@1周年:02/06/17 04:17
>>310 怒りを完全に消すことは出来ないとしても、弱めることによって
良い結果を得ることは出来るという考えはない?
煩悩一般の話にしてしまうと抽象論にしかならないけど、
皆さんが現実生活の中で具体的に「怒り」にどう対処して
いるかには興味があります。
312 :
名無しさん@1周年:02/06/17 05:02
>>311 抽象論にするつもりは無かったんだけどなぁ。
怒ったから、かえって通じ合えたことだってあるし。
もちろん、偶然だろうけれどね。
ただ怒りを弱めるために我慢するならば、それは自己満足でしょ。
えーっと、私の場合の怒りの対処法は、
そこに至った前後関係をはっきりする事。
これに尽きます。
313 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/17 07:24
>>300 >「私」っていうのは、「いのち」として親から生まれた後に、
>徐々に生まれてきたものだと認識しております。
盤珪の「不生禅」とはこのことですね。
生まれいずる事も解らねば、何で死ぬ先の事まで解ろうか・・・。
不滅とて無駄なこと不生にて調ふべし。
こういった良レスを、なんなく見逃す住人は大変痛い(w
貴殿は、いわゆるタタキ台を提示したと思う。
これを見逃すとは・・・(笑)
私はシカトでいいです。
314 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/17 07:35
同意。
現在、禅スレが盛り上がりません。
どうですか?コテハンでスレを立ち上げませんか?
禅に興味のある2チャンネラーは多いと思うんですが、どうでしょうか?
返事はいいです(笑
315 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/17 07:37
316 :
名無しさん@1周年:02/06/17 10:22
怒りの根拠、怒りの縁起、空。
自我と怒りの根源。
うーむ。一見離れているようで、直結している問題だなこれは。
317 :
名無しさん@1周年:02/06/17 11:43
>314 :髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/17 07:35
現在、禅スレが盛り上がりません。
あの論理の展開じゃ盛り上がりたくても盛り上がれないだろうな。
百聞は一見にしかず。
盛り上がらないというより、誰かが話の流れを潰している。
相手の問題ではないでしょう。
318 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/17 12:13
>>317 状況分析もそれなりに意義があるんでしょうが、誰かがスレを立てればその方が手っ取り早い。
その場合は、私は表面には出ないつもりだ。
あくまでもROMをメインにしたい。
貴殿がスレを立てたらどーでしょう?
私はサポートに徹します。マジで・・・。
と逝っても、書き込みは極力遠慮しますが。
そんでもって、300=301=305=307=310=312です。
>>314 申し訳ありませんが、
吐き気がするほどの他力本願の考えなので、
禅定の話題でスレは立てられません。
320 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/17 12:31
>>319 そうですか。了解しました。
今後の良レス期待しております(笑
321 :
名無しさん@1周年:02/06/17 13:56
319 :300=NB?
322 :
名無しさん@1周年:02/06/17 14:45
>>312 怒りを我慢することが自己満足かなあ?
我慢するときなにか理屈をつけたり、ほかにそらしたり
するなら自己満足かもしれないけど。
怒り自体が、一種の自己満足のような気がする。
怒りを抑えるのは結構難しいこと。しかし、怒りは放っておけば、
どんどん大きくなったり、「延焼」したりする性質があると思う。
だから、怒りは抑える努力をしたほうがいいと思う。
「我慢が自己満足」というのは、怒っているのにそうでないように
振る舞ったりすることのことでは?
そうでなく、自分の中に怒りが湧き起こってきて、膨れ上がるのを
抑えるという意味。
どんなときにいちばん怒るん?
髑髏もいよいよ「三界に家なし」、の状態かw
325 :
名無しさん@1周年:02/06/17 15:47
>>323 売春婦にチンポのことでバカにされたときとか。
カネ取ってるのにお客に偉そうにしてるとき。
326 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/17 15:52
>>321 NB氏とは文体が違う。
他力を内省へと深めている。
NB氏とは考え方も違う。
おお。髑髏和尚にしては高度な意見。
感心感心。
328 :
名無しさん@1周年:02/06/17 16:04
ママー、どくろ褒められちゃったあ。
うんうん、よしよし。がんぱるんだよ
髑髏よ・・・・
289 :髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/17 00:36
>>私は、基本的にこのスレにはカキコしないと思っていましたが、カキコさせて下さい。
>>287 >>貴殿のレスに同意。
>>私のことはシカトして下さい。
このレスから書き込みしっぱなしだな。さみしかったんだな、よっほど。
>>329 そうそう、思わずカキコしてしまいました。
このへんで失礼します。
良スレに期待しております(笑
331 :
名無しさん@1周年:02/06/17 16:40
>>322 もともと我慢という言葉は、仏教用語で自己満足を表すと思いましたが、
今回はそれを抜きに考えます。
怒りを抑えるのは、「たまたま」冷静になれたときに
できるんじゃないでしょうか。
しかしこれは抑えるというよりは、自然消滅に近いものです。
抑えようという意思が元来ある人でも無い人でも、
ハッと我に返る縁があれば、怒りはおさまるかと思います。
逆に、何でも無いときに怒ることができるのならば、
それは自己満足だと思われます。
しかし、それは有りうるのでしょうか。
自己満足である「怒る」という心の状態一つであっても、
縁が無い限りは私の思う通りには行かないものであると、
私は思うのです。
332 :
名無しさん@1周年:02/06/17 17:37
怒りは結構気持ちのいいものじゃないですか。
怒りやすい人というのは、意に反して怒っているので無く、
結構自分が怒れるネタを探しているんだと思う。
それに気づいていないと意味では思い通りに行かないといえる
かも知れないが、気づこうという努力もしていない。
縁というのは条件のことですよね。
条件は努力によって近づけることも出来るし、遠ざけることも
出来ると思う。
自分の心を習慣づけることも出来るはず。
習慣づけによってある程度は誰でもコントロールできる。
習慣づけの努力すら怠る口実として、他力本願を持ってきてる人が
多いような気がするんだけど。
333 :
名無しさん@1周年:02/06/17 17:45
物事が、思い通りにいかない
怒る
怒るから自分がますます思い通りにいかない
ますます思い通りにいかない自分にも、怒る
世界も自分も怒りの対象になる
怒りが自分をのっとる
それでも消えない自分が、またそれらすべてに怒る
怒りの自給自足で孤独になる
孤立した自分にも、また怒る
→なんか生き物でも、殺したるか
334 :
名無しさん@1周年:02/06/17 18:55
>>332 私が危惧するのは、あなたが書き込んでいる内容は、
すでに自分は関係が無いんです。
だれか別の人の話になっています。
自分が怒りのために苦しんでいるというリアリティが無いんです。
現時点で怒りの状態に無ければ、怒りの状態を語る上で
怒りをコントロールするのは簡単でしょう。
でも、それは机上の話になっちゃってるんです。
縁を遠ざけるといいますけれど、何が「怒り」の縁でなのかわかるのですか。
私だって、努力するなと言っているつもりはありませんよ。
ただね、怒りが気持ちのいいものであるという大前提が、私には無いんです。
怒りの後は、たいてい気まずいものです。
怒りだって、良く思わないから怒るんでしょ。
そのフラストレーションの開放として、
他のものに責任を転嫁するのであれば、
それは気持ちがいいかもしれません。
でも、それは表に出ている感情ですよね。
それが心の内に留めておけるようになって、
そのうち何が起こっても、怒るという感情が生じなくなるというのであれば、
それは、あなたが証明してみてください。
それと勘違いしているみたいですから書きますが、
他力ということを考えた場合に、
怒る、悲しむ、楽しむ、等々の縁をいただいて私があるのだから、
縁の所為にして、自分の責任を他に転嫁することはしないのです。
縁が私でなければ、私は存在もしないことになります。
だから、その縁全てが自分だとして責任を持っていく事が、
他力本願であると考えています。
335 :
名無しさん@1周年:02/06/17 21:32
age
336 :
名無しさん@1周年:02/06/18 01:54
怒りが甘美だっていうのは、お釈迦様も言ってなかったかな?
たいていの人は怒るために怒り、いかったあとが気まずければそれ
をまた怒る。
怒ることに理由はあまりないような気がする。
「よく思わない」=瞋=怒り、じゃないかな。
「よく思わないから怒る」ともいい切れないように思う。
>>334 このかなり激越なカキコをしているあなたの気持ちにもいくぶんか
怒りはあるでしょう?
怒り自体にある種の甘美さを感じませんか?
337 :
名無しさん@1周年:02/06/18 02:21
>縁を遠ざけるといいますけれど、何が「怒り」の縁でなのかわかるのですか。
それは個々人が経験からある程度わかるのでは?
そういう智慧も大事だと思います。
ひとつは「怒り」そのものだと思います。
怒りが怒りの条件になることがよくあると思う。
こういう考え方は叱られるかもしれませんが、なるべく他人と交わらないように
するというのも、ひとつのかなり有効な方法です。
またと交われば怒るから意味がないといわれるかもしれませんが、
怒りが怒りの条件となるとすれば、なるべく怒る確率を少なくしておくことが
怒り易い心の習慣を修正することのように思います。
>怒る、悲しむ、楽しむ、等々の縁をいただいて私があるのだから、
>縁の所為にして、自分の責任を他に転嫁することはしないのです。
この「縁をいただく」というのは、だれからいただいているのでしょうか。
「空と縁起」の話とも関係がありそうで興味があります。
338 :
名無しさん@1周年:02/06/18 03:12
>>336 うーん・・・
どちらかというと、悲しさを感じて書き込んだつもりなのですが。
どうも怒りの話は平行線をたどりそうですね。
>>337 だれから縁をいただくか。
教学的な表現をすれば、諸仏とか、阿弥陀とか言うんでしょうね。
別にヒトとはいってませんよ。
追加および反省。
激越と言われれば、確かにその通りでした。
もう少し淡々と、私の主張をまとめてみます。
(はじめは「やんわりと」と書いたのですが、後から見直すと
どう見ても「やんわり」ではなく「淡々」って感じでした。)
1.怒りという状態が、それ自体で成り立つのか。
2.怒りは自己満足か。それ以外の感情は自己満足ではないのか。
3.怒りが怒りを呼ぶというのは、怒りが静まる縁を持ち合わせなかった
だけではないのか。
怒りが怒りの縁になるとすれば、どのような場合にも
怒った者は怒った状態のままになるのではないだろうか。
4.怒りの状態にならないために、その縁を遠ざける生活が、
現実生活で可能なのか。
また、理想的にそういう状態にあっても、それで完全に
怒ることは無くなるのか。
3連続の書き込み、申し訳ない。
>>338の訂正。
諸仏=縁=私
こういう感じかな。
というのも、諸仏から縁をいただくという表現をとった場合、
私というものが先ずあって、そこに縁をいただくという意味になる。
しかし、私=空 であり、縁によって仮に形作られたものなのだから、
諸仏=縁=私 という表現が最もしっくりくるかと思う。
コテハン名乗った方がいいかな?
341 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/18 07:38
>>340 2ちゃんの有力コテハンになります。貴方は・・・。
>コテハン名乗った方がいいかな?
いいかと思います。
342 :
名無しさん@1周年:02/06/18 07:56
337さんの
「こういう考え方は叱られるかもしれませんが、なるべく他人と交わらないように
するというのも、ひとつのかなり有効な方法です。」
とのお言葉ですが、確かにこの方法も有りなのですが、緊急避難的な手法
なのだと思います。
あまりにもこのやり方が常用されると、本当は稀なやり方が
いつしか日常へと変化してしまう。
この変化もまた、その人間に沿った変化なのだと言われてしまえば
それまでなのですが、それとはまた違った変わり方を模索する上で
日常にしない方が私は好ましいと思うのです。
「怒る、悲しむ、楽しむ、等々の縁」とのお話も出てきましたが
私は単純に「怒る」「悲しむ」「楽しむ」「喜ぶ」など
その他の感情的なものを語るとき、単独で語るのは
人の一生から見れば時間的に切り取られた部分でしかないように思います。
色々な感情が、混ざり合ったり、繋がったり重複しての
感情的な流れ、時間の経過になると思うからです。
ですから必要な感情吐露を、不必要に抑えるのも後々
心理的歪み(後悔)のようなものが生まれるのではないかと思うのです。
ですから怒りをどのような形で、外に出し表現するか技術的な
問題にもなるのではないでしょうか?
343 :
名無しさん@1周年:02/06/18 08:20
続きを書かせていただきます。
「怒る」「悲しむ」「楽しむ」「喜ぶ」などの感情は
時には矛盾するような感情の同居も存在し、まさに表裏一体のような場合や
また状況の変転などにより、「愛情から憎しみへ」などと流れ変化する性質
を持つように思われます。あるいは「憎しみ・怒り・その吐露(伝達)・理解・和解」
のように流れの一端なのなら、その流れを途中で断ち切るのは
自らの歩みまで止めるに等しいのではないかと考えるのです。
人は何度も何度も、色々な失敗をしてしまいます(感情面でも他の面でも)
しかし、失敗をしてもまた同じような状況に当たりますし
層であるべきだと思います、そして何度も繰り返し、失敗もしながら
その間合いや、距離感、技術、あるいは相手の気持ちなどさえも加味して
理解できていく、そして自分もそれをマスター出来るように
なっていく。
しかし、あまりにも自分のみの感情に飲み込まれ、感情の嵐のように
なるような時は一時離脱して、距離を遠くに置いた方が良いのかもしれません。
そして相手と上手く冷静な形で自分の言い分を思う存分伝えれる様
表現出来るような、心の余裕、心の距離感を建て直しまた
広い世の中に出て見聞するのが好ましいのではないでしょうか。
344 :
名無しさん@1周年:02/06/18 13:19
>339 :334
1.怒りという状態が、それ自体で成り立つのか。
これを徹底的に凝視すべきかも。
345 :
336,337:02/06/18 18:24
>>339 >1
怒りの感情はそれ自体で成り立つと思います。心も働きのひとつの属性
というか、要素になってるような気がします。他の感情もそうですが。
>2
怒りを増幅させる働きは自己満足だと思います。
もしまったく増幅しなければ、生じた怒りは一瞬で消えると思います。
ほかの感情もそうだと思います。愛着も。
>3
それもあるでしょうが、智慧が足りないからでもあると思う。
自分が怒っていることにさえ気づかないこともあります。
気づいていてさらにそれを自分自身で焚きつけてる人もいる
ような気がします。
怒りが何を引き起こすか、どのように生じてどう消えていくかという
ことがよく見えてる人は、怒りの感情(の増幅)に気づくのも早いし
気づくことによって、自然に冷めてしまうのではないかと思う。
>4
完全を目指すなら、悟りを目指すしかないでしょう。
本気でそれを目指すエリート集団も必要だと思いますが(日本にはそれ
がなさ過ぎるように思う)、普通の人も相対的ではあってもそういう
悪い(不利な)縁を遠ざけることは出来ると思います。
完全がダメだからといってぜんぶあきらめるという必要はないと思います。
ステハンになるかもしれませんが、以下このハンドルで書き込みます。
>>342,343さん
同意
>>345さん
怒りという状態が、それ自体で成り立つのか。
これが成り立つと思うならば、「空」や「縁起」を見つめなおす必要があると思います。
それと、今までの書き込みを見て思ったのですが、
甘美なはずの「怒り」の状態を、
私も345さんも共通して嫌な事だと思っているのです。
嫌だと思っているのに縁があると怒ってしまう。
それが業というものなのではないかと思うのです。
業という定義が、私の中で曖昧だったのですが、
このような認識でよいのでしょうか。
>>342 人と交わらないというのは、完全にそうするという意味ではありません。
厳密に言えば、「嫌だ」と思うことにすでに「怒り」の端緒があるので
しょうが、自分が怒りの感情が生じそうな人をなるべく避けるようにする
ことは出来ます。
どんな人と付き合っても嫌悪や怒りを生ずることがないというのが理想で
しょうが、なかなかそうはいきません。
自分が付き合う人を選ぶこと、自分が直面する状況を選択することは
ある程度、自分の意思で出来ます。
逆にいえば、穏やかな人は、穏やかでいられるような人と付き合い、
そのような状況を選択する智慧がある人が多いと思います。
要するに、怒りは癖になるということを押さえて、対処する必要が
あると思います。
われわれが怒りを本当に厭なことと思っているのかも、私は疑問です。
私を含めた多くの人が、避けられるような怒りを避けようとしません。
また、怒りを嫌悪するなら、その感情も一種の「瞋」なのでしょう。
怒りの強い人に限って自己嫌悪も強いのかもしれません。
自己嫌悪したからと言って、本当に悔いたともいえません。対象は変わっても
心の働きとしては同じ「嫌悪・憎悪・怒り」の部類に属すると思います。
私は怒りという状態はそれ自体で成り立つと思いますが、空や縁起から理論的に
見るとどうなるでしょうか。
348 :
名無しさん@1周年:02/06/18 20:26
>>347 「怒りと言う状態」がそれ自体で成り立つわけないだろ
「怒りと言う状態」は働きである。はたらきということは
それ自身では起こらないことを意味する。
怒りと言う状態ではなく、「怒り」が存在するか
ととわれれば、俺には説明できないけど
349 :
名無しさん@1周年:02/06/18 22:24
>>348 「怒り」は心の状態であり働きでしょ。
心が前提にはあるけど。
心がそれ自体で成り立っているかという問題はあるが。
潜在的にはいつでも怒り得る性質が心には在ると思う。
350 :
名無しさん@1周年:02/06/18 22:54
>>349 要するに
心(感情)は時間の概念と不可分であると
俺は考えるからね。
君の言うように怒りの性質はあるが
それが表に出てくるためには時間という
概念が必要になってくると思う。
そういう意味で「怒りの状態」はそれ自体では
成り立たないのではと考えた。
351 :
brown:02/06/18 22:56
怒りを生じる心そのものが存在しないと知るべし。
352 :
名無しさん@1周年:02/06/18 23:03
>>351 それはあなたの日頃の説教と矛盾しないか?
存在するとか存在しないとか言えないんだろ??
あなたはデカルトにどう反論する?
現象としての心は確かに現象している。
もしかしたら、心しか存在しないのかもしれないとは思うが。
チョンが勝って面白くない。
今日はあいつら日本が負けて喜び、審判にカネ渡してイタリアに
勝って喜び・・・
それにしてもポルトガル戦と言いイタリア戦と言い、必ず相手に退場者
がでてるね。
心という現象は確かに現象してるな。
353 :
名無しさん@1周年:02/06/18 23:04
>>351 ではなぜ人は怒るのだ。
それを説明できなければその真理らしきものは無益だ
怒るという結果には、やはり原因と条件が必要かと思われます。
原因としては、怒る主体をあげようと思います。
主体は、
>>349-352さんたちの表現するように、心とすべきなのかもしれませんが、
今回は今までの書き込みを踏まえて、あえて「私」としておきます。
もちろん、「私」だけで怒るわけはありません。
「怒る」ための条件がそろわない限り、怒ることは無いでしょう。
条件1として、「友人が待ち合わせ時間に遅れて来た」を挙げます。
ただし、これだけでは怒るとは限りません。
条件2として、「連絡もよこさなかった」を挙げます。
しかし、これだけでは怒るとは限りません。
条件3として、「自分は5分前から待っていたのに」を挙げます。
まあ、きりが無いですね。
ちなみに、条件1の原因としては、「彼」の存在です。
彼だけでは遅れるとは限らないです。
条件一として、「電車に乗り遅れた」を挙げます。
・・・いや、このへんでやめときますね。
355 :
名無しさん@1周年:02/06/18 23:58
>>354 大体俺の考えてる事と一緒だな
働きと言った場合、そこには時間と空間と因果律
が含まれるとおもっています。
そして心が原因で表現というか衝動が結果なわきですよね
そこには時間と空間が含まれている。
時間が止まれば心は動かないわけで、空間がなければ
衝動もないでしょうし、因果がなければと考えれば
それ自身では何も存在し得ないことがわかると思う。
356 :
名無しさん@1周年:02/06/19 00:06
>>355 因果があるんだからどうしようもないじゃん。
>>356さん
恐らく、
>>355さんは「それ自身そのもの」は、
はじめから存在していたわけでは無い
ということを強調したかったのだと思います。
358 :
名無しさん@1周年:02/06/19 00:53
おかしなことに、「怒り」「喜び」「悲しみ」など他の感情にせよ
私は単独で存在するのは難しいと思います。
私がもしも皆さんに、「今ここですぐに怒れ!怒ってみろ」と言っても
皆さんは純粋に怒れるでしょうか?
まあ、昔のあるいは今現在何かくすぶるような思いを、ひっぱりだし
怒ることも可能でしょうが、やはり昔の「腹ただしい思いや」「その経験」
が連動してるのは否めないでしょう。
怒ったようなふりをする事も可能でしょうが、それは彼方の怒りに対する
イメージの「模倣」であり芯からの怒りではない。
そして私が彼方達を芯から怒らすことが出来るのは、私が彼方達の
生命・身体・財産・感情・真理(他にも有るかもしれませんが)等に対して
不利益、不愉快を及ぼした時だと考えます。
どなたかが、仰ってましたが私もこのもろもろの感情という物は
外界からの何らかの刺激、働きかけによる内面的反応なのだと思います。
個人の中では時間的な感情的な経験などの連動
そしてまたそれとはまた違う流れとして感情発生の連動性があると思います。
365さんの、仰った「因果」と言う物なのかもしれませんが。
物事には原因があるということなのでしょう、しかしその原因が
私達、ただ個人としての物や、生命としての物等、
現象の受けてとして、また行動者としての、私達の立場・性質などにも
係わってきてしまうのではないでしょうか。
359 :
ケムール人:02/06/19 11:28
なるほどねー。怒りというのはやはりなかなか深いテーマですなあ。
なにせ貧・瞋・痴の三毒のひとつですから。これ、克服したら、それなりのものですわねえ。
どうも私は、怒りというものが生ずる背景に、
「自己イメージ」および、「自己イメージと結びついたプライド」が控えていると思う。つまり価値の問題。
潜在意識の中に構造化された自己イメージ、そしてプライドが一定の、なんちゅうか、圧力みたいなものを持って、
空気袋のように埋まっている。
それが傷つけられると、反作用として、猛烈に怒りが生じるわけですね。
動物の場合も、縄張りの主といったスタイルでこれはあるだろうし、やくざ屋さんも、企業家も、これは一緒。
だから、言葉を変えると「自己に対する価値評価を侵害されたとき」、本能的に怒りというのが出てくることが多い。
「なめとんじゃねー、ゴルァ!」とか「何様だとおもっとんじゃ、ボケ」とか「オマエモナー」なんて
怒りや罵倒のときに応酬される会話そのものが、
自と他をめぐる価値評価のやりとりですね。
このときの怒りのエネルギーの変化を分析すると、「反発→威嚇→噴出→圧倒→陶酔→満足」
ということになるかな(笑)。
>>358 激しく同意。
前々から主張していますが、「感情」だけではなく、
「私」とか、「物質」とか、そういった一つ一つまでもが、
縁なくしては存在できない代物だと思います。
361 :
brown:02/06/19 20:59
>352,353
矛盾してますよ。でも,そのように見えて実は矛盾してないんですけどね。
うまく言えませんが言ってみるとこういうことになるかと思います。
すなわち,「存在する」とか「存在しない」とかいう判断など全てが心の領域の
事柄です。そのような思考,それから「怒り」とかの感情もそうです。
そのような心が虚妄なることは真実です。心は実際に,重みを持った存在ではあり
ません。しかし,虚妄として存在しています。
心が虚構であることと,それが虚構として存在していることの両方を同時に知ること
は可能です。そのような経験領域が実在します。
そして,このことが,「心は本当に存在しないと知ること」の意味です。
心という変数に,思考や煩悩,感情や身体を代入してみてください。
362 :
brown:02/06/19 21:06
353でおっしゃっているのは全くその通りです。別に「説明」する必要もないと
思いますけど。
「怒り」が認識されないときに「怒り」を超えることはない。「怒り」を実として
認識しているときに「怒り」を超えることはない。それ故に,怒りは観察され,
かつ,虚構として知られる必要があります。もし,怒りを滅してしまえば,怒り
の解脱を知る機会が失われたことになります。一方,怒りが生じたままにして
おけば,単に激情的人生で終わってしまいます。だから,怒りがはっきりと知られて
おり,かつ,それが虚構であると知られる必要があります。
このことを,「煩悩は不生であると知る」,あるいは,「心は実在しない」,
そして,「一切は空である」,というのです。
brown説もなかなか浸透してきたかと思います。
363 :
名無しさん@1周年:02/06/19 21:13
>>361 ちょっとわかりずらいのでたずねますが
あなたの論理から言うと
「肉体は本当は存在しないことを知ること」
という理屈も成立しますか?
364 :
名無しさん@1周年:02/06/19 21:30
>>361 茶坊主のカキコの致命的な欠陥は、茶における「心」を定義することなくエッセ−風に語るが故に批判さえ他者が投げかけることが不可能な事にある。
365 :
名無しさん@1周年:02/06/19 21:37
>>362 >「煩悩は不生であると知る」
般若・中観における「不生」は文字どうり生じないことを意味しているんだよ。
言語・用法を勝手に捻じ曲げるのは良くないぞ <茶坊主
366 :
brown:02/06/19 23:28
>363
茶坊主の見解によりますと,肉体は実在します。心は実在しません。
肉体だけでなく,全ての事物はその通りに実在します。
しかし,心は,事物を現在「そのようでない状態」に変化させようとするので,
現実には存在していないものと理解されます。
しかし,「全ては心の働きによる」とも言えるので,その意味では,肉体も
事物も存在しないでしょう。
367 :
名無しさん@1周年:02/06/19 23:30
>366
それって、
唯識論と反対のことをいってるわけ?
唯識論と結局は同じことなの?
>>363 「肉体は本当は存在しない」とすると、
単なる存在の否定のように感じるのですが・・・
肉体だと例がグロくなってしまうので別な例を出しますが、
たとえば「机」なんてどうでしょう。
「机」を買ってきた時には、私は「机」だと思っています。
しかし、電球を替える時など、机の上に立つ状況にあったとします。
すると、机は「踏み台」になっています。
ゴミ捨て場に机があったとすれば、それは机ではなく「ゴミ」と認識します。
色、形あるものでさえ、実は条件次第で変化する現象であると考えられます。
369 :
brown:02/06/19 23:48
トゥーオール
何度も言いますが,私が,「仏教の正しい解釈はこの通りである」と語っている
ように聞こえるのであれば,申し訳ありません。心よりお詫び申し上げます。
大変な誤解を与えました。私は仏教の何も知らないので,そのようなことは
一切ありません。単に,「私が知っている真実と仏教が説く真実が,同等である
とするならば,このようになるはずである」ということを語っているに過ぎません。
どうも私は言語能力が低いので,誤解を与えてしまいます。
仏教(を含め全ての宗教)は文化ですから,それは人類全てのものです。
皆が好きなように解釈すればよいし,「これが正しいから皆,この解釈に従え」と
人々に宣伝してもよいでしょう。好きにすればよろしいかと存じます。
茶傍の言うことなど信じる必要はないし,また拒絶する必要もありません。
私はただ,自ら確実に知ったことに基づいて,それは大変利益のあることである
から,知って欲しいと思ったに過ぎません。何も理論や考え方を述べているつもり
はありません。また,何も考察されない単なる体験を述べているつもりもありません。
体験に基づき,それにじっくりと考察を加えた,それを述べているのですから。
370 :
brown:02/06/20 00:02
>367
茶坊主の中観理解に関する批判がありますが,それ以上に唯識をわかっていませんが。
唯識がもし,極端説でないとするならば,同じことだと考えます。
なぜなら,「外界が実在する」と言おうが,「それは実は心だ」と言おうが,
同じことではありませんか。実在をなんと呼ぶのかということに過ぎません。
もし,それが心なのか,カント的な物自体なのか,という正確な判断にこだわる
なら,「それはこだわる必要のない」と言いましょう。しかし,それをどちらと
考えるかは,個人の好きにすればよいと私は考えます。
ただ,主観的な好き嫌いを言いますと,唯識的な考えを,brownは好みません。
昔,心以外に何も存在しないと考えていましたが,現実のありありとした実在に
触れてみると,そのような言い方は私には相応しくないと判断するようになりました。
それが大円鏡智なのか,物自体なのか,空性なのか,それは名称の問題,好き嫌いの
問題です。それをどちらが高い,どちらが低いというのは,はっきりと言いますが,
誤った見解です。ここでは関係ありませんが,大乗,小乗の区別もまたしかりです。
>370 :brown
>唯識がもし,極端説でないとするならば,同じことだと考えます。
なぜなら,「外界が実在する」と言おうが,「それは実は心だ」と言おうが,
同じことではありませんか。実在をなんと呼ぶのかということに過ぎません。
ということであれば、わかりますよ。
まったく唯識と同じと考えてよろしんじゃないですか。
「現実のありありとした実在に触れて」それを「識」といって、
それがリアリティということになるのですから。(367=ケム)
372 :
名無しさん@1周年:02/06/20 02:20
>>370 中間思想というのは実体(自性)は存在しない
と言う理屈でしょ?
すべてのものは、それ自身では存在し得ないもの。
それを空と言ってるんじゃないの?
だとすると上のレスの流れからすると「肉体はある」
といえるわけでしょ?「肉体は実在します」と
どうしていえるの?
もし間違ってたら中間思想の核となるところを教えて
ほしいのだが。
「心がなければ肉体もない、肉体もなければ心もない」
となるのが普通だと思うのだが?
373 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/20 06:13
身心一如
374 :
名無しさん@1周年:02/06/20 06:37
心身一元論、不二一元論、、経験一元論、
唯脳論、唯物論、唯心論、唯神論、唯識論
>>372 深読みのしすぎかもしれませんが、
>>370:brownさんは、
ここで「空即是色」を表現しているように読みとりましたが。
「無い」というと、やはり単なる有の否定としか思えません。
そこを「空」と表現した先人たちは、素晴らしいと思います。
376 :
名無しさん@1周年:02/06/20 07:49
唯空論
>>370へ
>>372のところの訂正「肉体はある」ではなく「肉体はない」の間違い
でも、無理して答えなくって良いから
378 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/20 09:46
光の妙。スクリーンの映像の如し。
よーーーーーし、みんなー、逮まる・逮まってないに拘わらず政治家のみなさんに
ご教示くだされーーーーー・・・。
ここでピターッと文句を決めるとまとまりがつくのだが、
いつも的はずれで、かえってまとまりつかなくしてしまうよね。
髑髏さん。
381 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/20 10:04
>>380 ああ、私のレスは無視(シカト)にしてくらさい。
独り言ですから。
レスの流れを変えるつもりはモウトウありません。
382 :
ケムール人:02/06/20 10:42
>372
できるだけ、このスレの流れに即して述べてみます。
●中観思想とは、現象世界が「縁起」によって成り立っていると説く思想。
つまり、物ごとは、それ自体に存在の核となるものがあるわけではなくて、
時間的、空間的に、「他の要素」の組み合わせ、あるいは因果などに、”拠って、成立”しているものである
という思想が中心かと思います。
それぞれの環境条件下に、一時的にそう見える「相」として存在しているというわけですね。
それゆえに、存在は「有」でもなく「無」でもなく、「空」と説く。分解可能である。
と同時に、これはあくまで仏教思想であるから、「苦の超克」を目的とする背景があって、
対象物を実体視(それ自体で素晴らしい価値を含み、執着するに値するものと美化する)ことを解消する策謀もあるかと思います。
(瞑想、禅定のときにスバラシイもの、例えば美人や豪邸や地中海のクルージング風景が「実体化」されてでてきたら、
高次の意識世界に入れない。)
●当然、少し前のテーマであった「怒り」などの感情も、時間的因果、怒りの背景にある人間関係などに、
”拠って、成立”している。どんなに強烈でも、それらの条件設定によって一時的に巻き起こっている感情エネルギーの
一時的ハリケーンですから、それ自体では成立しないと見るのが「中観思想」「空と縁起」的見方かと思いますです。
竜巻もまた、温度や風速、地理的条件などの「縁起」によって初めて起る、というのと同じですね。
383 :
ケムール人:02/06/20 10:44
●しかし、中観思想だけだと、物ごとの「相」の成り立ちと非実体性は説明できても、他の仏教的なテーマは説明しきれない。
「無でもなく有でもなく、空である。うん、それは正しいかもシンナイ。でも、それで何が説明できたわけ? 何があんた楽しいわけ?」
となってしまう。そこで、五官でまざまざと触れることのできる目に見える世界、現象世界、知覚世界とは何なのかを説く
唯識思想が、おっかけるようにして発生してきたのではないかと思われます。
●髑髏和尚の比喩を借りれば、スクリーンの上の映像がそれ自体で美しく映っているのではなく、
光、電気、役者、映画資本、その他いろんな要素の集合に、”拠って、成立”していると説くのが、中観思想。
現象世界という映像そのものが、本来はそこに実在しないのに、われわれの夢や願望や欲望やカルマの投影として
まざまざと現れている、それは心の投影している像である、と説くのが唯識思想。(あんまり、正確じゃねーなァ)
●私のうろ覚えの説明は、はなはだいい加減で、犯罪的ですらあります。
…というわけで、詳しい方、検閲と加筆をお願いいたします。
384 :
ケムール人:02/06/20 10:49
あとbrown ちゃんは、独特の語法を持っているので、彼がいう「実在」という言葉について、
もう少し説明してくれると、「有情」としてはうれしいな。
「わかるわけないのです」とか、つっぱねないでさー。(笑)
>>383 「無でもなく有でもなく、空である。うん、それは正しいかもシンナイ。
でも、それで何が説明できたわけ? 何があんた楽しいわけ?」
それで唯識が発生した。
という流れだとは思えません。
唯識について納得したからといって、やはり「何が楽しいわけ?」という論理に
行き着くと思います。
いわば、縁起も空も唯識も哲学的な意味であって、思想の根底(立脚地)に
あるとは思うのですが、それで終われば宗教ではなく哲学にて終わるかと思います。
縁起を認識しても、苦しいと思うことは苦しい。
縁起的存在である私が、どのように生きていけばよいか。
ここに、宗教と哲学の違いが現れるように思うのです。
ここから先が、宗派の違いでもあるんじゃないかとも思うし、
ここがスタート地点ではないですか?
386 :
名無しさん@1周年:02/06/20 17:35
中間でも唯識でも
いずれも、人はいかに世界を認識するか
という理屈ですよね。だからそれぞれの立場に
たてば論理的に正しいことが理解ができるはずだ。
つまり唯識は唯識の側で考えれば正しい事がわかるし
中間は中間の側で考えれば正しい事がわかる
さて、brownさんはどんな思想をもっているのか?
387 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/20 17:41
>>385 >ここがスタート地点ではないですか?
そうそう、そこが出発点。以下、私の他スレ、コピペ。
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/20 09:06
>>118 八図で、悟りたいとか、解脱したいとか、幸福になりたいとか、そういった全て(執着)を捨てるんかと思いますよ。
そして改めて「自分とは何ぞや?」を内省するんかと思いますね。
勿論そこで「一切苦」も捨てるんかと思います。
いわば仏教の出発点は八図にあると思うてます。
後は・・・・
>来て自分で確かめよ」という仏陀の言葉が自分は好きですね。
これなんでしょう。
仏教は、あまりお節介な事はしないですね。
<私の独り言、横レスゆえシカトでお願いしる>
388 :
ケムール人:02/06/20 21:37
>385
>387 :髑髏仮面
>ここがスタート地点ではないですか?
そうそう、そこが出発点。以下、私の他スレ、コピペ。
えーと、私は逆ではないかと思うのですよ。
「哲学思想にすぎない」のではなく、「禅定→三昧→知恵」というプロセスから得られるある禅定体験が先にあって、
そこから降ろしてきている論理を、何とか言語化、論理化しているのが、
ひとつは中観思想、空と縁起の思想。
しかしそれだけだと「存在には実体性がない」という側面からしかカバーできないので、
瑜伽行唯識派としての三昧体験の世界を言語化・論理化したのが唯識思想、
というアウトラインではないかと思います。
つまり、はじめに根源体験として、禅定ありきですね。(もちろん、師についた後の弟子たちにははじめに論ありきになる)
したがって、これらは初めから哲学ではない。哲学に翻訳された瞑想体験であると。
だから私の認識では、「それで終われば宗教ではなく哲学にて終わるかと思います」というよりも、
初めから宗教体験でしかないものを、なんとかそれを得ていない第三者に伝え、
説得(および論争、ディベート)のための論理的工夫を凝らした思想、
というふうなものではないかと思います。
これを別な角度からいえば、十二縁起でいうところの「無明→行→識」のあたりにすでに「苦」の根の発生があるから、
そこに禅定でアプローチしていく、ともいえるかも知れません。 中観も唯識も、そこのところの説明の体系。
389 :
ケムール人:02/06/20 21:38
だから、「楽しいわけ?」と問いかけてくるのは、もとより第三者ですね。
その中には、当時の非宗教的世俗的インテリも含まれているかも知れない。
しかし、禅定に入って三昧を得ている当事者は、最初から楽しい。
執着、感情の揺れ、期待、願望などから生じる苦というものを、半ば解決しつつある。
ただ、それを他者に伝える工夫として中観の論理を使う竜樹がいたり、
唯識の無着や世親が現れたのではないかと思います。
だからタケさんのおっしゃる
「縁起を認識しても、苦しいと思うことは苦しい。
縁起的存在である私が、どのように生きていけばよいか。
ここに、宗教と哲学の違いが現れるように思うのです。」
の「どのように生きていけばよいか」の部分は、ある程度決まっていて、
それは三宝帰依から始まり、四諦八正道、ということに仏教ではなるわけですね。
で、その八正道そのものの中に「禅定」はすでに、「正念」「正定」といった形でセットされていますから、
あとは八正道に即したライフスタイルと、その生活を背景として「正定」を深めていく、ということになると思います。
つまり、「縁起を認識しても苦しい」というよりも、
「苦」を超えるためにこそ縁起を認識するのであり、
「縁起」をより深く、さらに深く認識して習慣にまで定着させ(これと禅定の深度が平行すればよい)
次第に「苦」の程度を弱めて、
苦の根っこである外的価値への執着やプレッシャーを薄める。
そして禅定をさらに深めていくことにより、
ついには第三者、あるいは縁亡き衆生の「楽しいわけ?」という問いに対して
「もう、ずーっと、楽しいわけよ!」と答えることになるのではないかと思います。
まあその「楽しい」は、普通の意味での「楽しい」ではないかもしれませんけど。
390 :
brown:02/06/20 21:57
タケさん,ケムさんの仏教ならわかる。
どちらにも(表面的見解には差異が見られるが)苦の実感が本質にあります。
ご両者,現在どんな状況にいらっしゃるのか知りませんが,その苦を絶滅した
境地に至って欲しいものです。あなた方の問題設定は,解決し得る問題設定です。
そのような問題設定ができる知性をお持ちの,その徳に感謝すべきでしょうね。
それは宝ですよ。三つに分けると三宝。
仏教以前に生き方の問題でしょうね。素直に生きる,真面目に生きる,善く生きる,
とそういう生き方が先にあって,例えば仏教に接したとき,どのような解釈が出てくる
のか,どのような解決が出てくるのかと,こんなところかと思うわけです。
本当の生き方とは何か,真実とは何か,と言う種類の執着がなければ,何にも
なりませんからな。
お互い,そのこともわかってますよね?恐らく。
391 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/20 22:06
>>388 >しかしそれだけだと「存在には実体性がない」という側面からしかカバーできないので
存在に実体性がないと「カバー」出来ませんか?
存在に実体性があると「カバ−」出来ますか?
ですから、この相対概念こそが「問題」なんじゃないでしょうか?
私はそういう意味で最初から「既成概念の破壊」「我の破壊」を先ず「最初にありき」なんですよ。
「自分に問う」とは、「自分に疑問を向ける」ということでして、これがつまりは「内省」。
禅における「公案」は、まさに「我の破壊」ですよ。それが最初に「ありき」です。
全部破壊して、それから八図へと向かう訳です。
ですから、そこで既に「一般価値観」とは相容れない部分というのはあるかもしれません。
そこがまさしく私がトンデモに見られちゃうんかと思います。
392 :
brown:02/06/20 22:08
ケムちゃんね(恐らく年上の方に向かって大変失礼ですが),
「わかるわけない」発言がお気に触ったのなら,謝ります。
それは,「低い立場のあなた方にはわからない」というようなアホな意味ではなく,
「わかるわけがない」というあり方をしているという,説明です。
実際そうなんですよ。あっと驚くウルトラCですから。期待してください。
それは求める価値があるのですから。それは,本当にありありとした価値が明確
にあるので,虚無的にはなり得ません。心が虚構に過ぎないと知ったとしても,
恐れるに値せず,はっきりとした実在に触れます。それは,衆生に決して知りえない
ところにありますが,実は現にあなたの目の前に既にある,それなのです。
それは,感覚であり,肉体であり,思考であり,煩悩であり,感情である,それ
です。一切は虚構としてあるかもしれませんが,実は同じものが真実の姿で
実在しています。簡単なことで,迷えば虚構,悟れば実在としてあるのです。
それは,この世に多くある変化の過程の一つであり,迷いから悟りへの変化です。
であるから,虚構であったものが,実在であると,意見が変わってよいのです。
393 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/20 22:15
>>388 瞑想体験、宗教体験は、そもそもは「知る」という事が第一義であり、その他はあまり意味がないかと思う。
十二縁起も、無明→老病死で真ん中の部分はさして重要ではないかと思う。
つまりは「無明」も一つの道すじ。これも全部ひっくるめて円相でしょう。
394 :
brown:02/06/20 22:18
私は,いかなる質問にでも(真面目な問いには)答えます。はぐらかしたりしません。
神秘主義で終わりませんし,論理的に答えます。
何も隠すことがないので,はっきりと答えることができるのです。
ときとして,例えば,「わかるわけがない」という超論理発言が半分混じります。
それを聞くと人々は混乱します。実は,それがねらいですから。
「肉体が実在する」といえば,人々は恐れおののくかも知れません。
しかし,肉体が実在しない,というような「常識」は実は何の根拠もないことだ
と知る必要があります。それは,肉体は実在すると言う意見と同等に根拠がない
のです。智慧ある人々はしかし,そこまで読み取ります。そのような信頼を
私は人々との間に置いているのです。ある意味で,そのような人々にだけ語って
いるのですから。
395 :
brown:02/06/20 22:29
>仮面さん(391)
いや,388は,あなたのおっしゃることをいってるんですよ。
実体性があるとかないとかの範疇だけではいかんから,唯識に進むといってます。
この意図は,内省をどこまで,どの側面まで進めることができるかが,中間だけ
では怪しくなってしまうという388人の「内省」が働いているんですよ。
かといって,中観や唯識を全く以って捨て去る必要もありません。
それを,内省に活かせばよいのですから。
それを今度は,八図とか禅とか円相に持って来れば,仮面さんになります。
ただ,円相は,天台思想なのではないかと思いますが。
要するに,それらは,体を鍛えるのに,プールで泳ぐか,ジムに通うか,
マラソンをするかを選択するようなもので,しっかり鍛えて病気しないように
するのが重要なのでしょうな。
>>394 なるほど、相手を混乱させているわけですね。
それで相手に理解させる方法ですね。
あなたが一元論的考えをどこまで理解しているの
か、私は試してみました。
「肉体は実在あるなし」の問題はこの場での理屈では
ナンセンスな質問である事は最初から
わかっていました。
試してすまんな
ケムール人さんの考え、なるほどなぁ〜って、思いました。
考え方は違いますが、私の考えはこうです。
縁起的存在の私というものを認識したとしたら、
私は、私以外と思っていたものが私を形づくっている。
だから、いやな事があったら他のもののせいにしたり、
「これは自分では無い」と否定していったりするのではなく、
すべて私であると受け入れていくことができる。
苦もすべて私であると、責任を持っていける。
ただし、これは実生活の中で忘れてしまいがちです。
自分は「いいひと」になりたい。
だから「良い自分」と「悪い自分」を分けて、
「悪い自分」を否定していくのが私です。
つづき。
そこで、私というものは、縁起的存在である。
「私は、そういった無限性(時間的にも、空間的にも)の中の存在です。」
「そういう私が、今ここにいます。」
という名乗りをあげ、再確認していく。
それが、私は「南無阿弥陀仏」の念仏かと思うのです。
399 :
ケムール人:02/06/21 03:18
>392 :brown
>「わかるわけない」発言がお気に触ったのなら,謝ります
もう、いけずやわあ、brown ちゃんたら。
謝る必要なんてまったくないでしょ(笑)。
だって、こちらはいろいろ仕掛けて、ジャブはなったり、くすぐったりしているだけなんだから、わかってるだろうけど。
ケムも、brown も、虚構の空間の中に表出された虚構の自我ではないか。はじめから存在しているわけではない。
あるときわれわれがコテハンを発生させただけ。
謝るもくそもない。縁起による空なんだから(笑)。唯識の世界のマナ識なんだから。
パソコン画面のそちらとこちらにいるのは、後ろの正面だーあれ、みたいなもの。個体の虚構性。
あなたが言いたいのは、そんなことに近いんじゃないの。
要するに、俺はbrownちゃんにもっともっと語らせたいわけ。
不自由でも不完全でも、できるだけ他者の前で言語化して欲しいわけ。
やはり、あなたは何かを体験していると思うからね。
そりゃあ、はっきりと判定できるほど、俺の意識は高くないさ。
でも、あなたの愚直なまでの一貫性や、ところどころ示す直感的閃きみたいなものね。
そこから何かぼんやりとある空間が見えてくる。
だからあの手この手を使ってね、あなたの体験を引き出そうとしているわけ。
そしてそれは、他の人にとって、ひょっとしたら「想起」の作業でもあるかもしれないよね、あるいは。
もしそこに普遍性があるのなら、共有情報にしようではないか。あなたが望むように。
もっとも、ある深みに達したら、語ってはいけない領域もあるかも知れない。語ることが無意味になる領域があるかも知れない。
それは無記ということになるでしょう。でも無記という言葉を、誰かさんみたいに、だらしなく無自覚に機械的に使って欲しくない。
もちろん、あなたはそんなことないわけだけど。
もし、覚者が「わかるわけない…」といって涅槃に入ろうとしたら、「わかるように説け!」と首根っこをつかまえにくる
もろもろの諸天善神、梵天が現れるもんだよ(爆)
真面目なbrownちゃんには、ときには皮肉っぽくきこえる言葉があるかもしれないけど、まあよろしく。
400 :
ケムール人:02/06/21 03:49
>397 :タケさん
その考えが徹底できれば、やはりある意識の位相に入っていくのではないでしょうか。
結局は、いったん非識別智の意識状態に入っていくことのような気がします。
私のシロート仏教の方は、「南無阿弥陀仏」ではなくて、
原始仏教と大乗仏教哲学を、いい加減にブレンドしています。
大乗仏典の中で、私に一番しっくりくるのは、華厳経の中の「十地品」です。
関係があるかどうかわからないのですが、以前、ぎくりとした言葉があります。
「自己とは、自己以外のあらゆる要素の集合である」
これ、おそらく、裏返しもできるわけですよね。
401 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/21 05:43
>>395 >実体性があるとかないとかの範疇だけではいかんから,唯識に進むといってます。
範疇だけで「いかん」であっても・・・
範疇だけで「いかん」でなくとも・・・
そのまま突っ切るしかないんですよ。
般若心経の最後の方・・・
<即説呪日。羯諦 羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。 >
<菩提薩婆訶。般若心経。 >
ソレ逝けドンドン、ソレ逝けドンドン。ソレ逝けドンドン。
頭で考えることはないかと思います。
まあそんな訳で、とりあえずレス有り難う御座います。
暫くROMに徹します。
402 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/21 05:53
>>398 >「そういう私が、今ここにいます。」
>という名乗りをあげ、再確認していく。
>それが、私は「南無阿弥陀仏」の念仏かと思うのです。
成る程。その捉え方に同意。
念仏も、ある意味内省かと思っています。
>>400 : ケムール人さん
ちょっと解りかねる言葉があったので説明をお願いしたいのですが、
「ある意識の位相」と「非識別智の意識状態」です。
私は仏教を専門に研究している人ではないので、
仏教用語や専門用語に弱いです。
是非お願いします。
>>402 : 髑髏さん
同意ありがとうございます。
ただし、一つ付け加えていいですか。
内省の意味を勘違いしているかもしれませんが、
「そういう私が、今ここにいます。」は「内」だけにはとどまりませんよ。
>400 「自己とは、自己以外のあらゆる要素の集合である」
ですもの。
私はずっと縁という表現を用いてきましたが、
「ありとあらゆる縁が、今の私となってくださっている。」
これを、大乗の菩薩たちは、
「ありとあらゆる諸仏たちが、今の私となってくださっている。」
という表現をしたのだと聞いたことがあります。
404 :
ケムール人:02/06/21 11:02
>403
私は真宗の方の用語を知らないので、こんな言葉になってしまっています。(実家は真宗なのですが)
無分別智という言葉なら使いますか?
この文では、「南無阿弥陀仏」をとなえて「南無阿弥陀仏」と一体化するぐらいの意味です。
縁起を真宗の中でどう取り入れられているのか、
どう解釈されているのか知りませんので、
「私というものは、縁起的存在である」→「南無阿弥陀仏」の流れがよく了解されておらず、
少しズレたことを言っているかも知れません。
405 :
ケムール人:02/06/21 11:11
あ、今404 を書いてから、403 のタケさんから髑髏和尚へのレスを読んで、なんとなくわかりました。
うーん。そうか。
「縁起」は、真宗では阿弥陀仏や菩薩の設定してくれた「ご縁」になるわけね。
中観とかでは、もっとブッキラボーな存在の構成要素そのもののように読めるんだけど。
なるほど。参考になりました。
406 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/21 11:24
>>403 >「そういう私が、今ここにいます。」は「内」だけにはとどまりませんよ。
それは勿論そうでしょうとも(笑
念仏は、基本的には他力でしょうから、そこのところは分かっております。
妙好人のような、自力、他力に拘らないような捉え方も仏教の一つのありかたでしょうから・・。
私個人的には、妙好人は評価しています。
「内省」といっても、即「自力」という狭い範囲を意味するのではないにしても・・・。
>>404 : ケムさん
解説、どうもありがとうございます。
えーっとですね、
「南無阿弥陀仏」を称えて「南無阿弥陀仏」と一体化するっていうのも変な話で、
南無阿弥陀仏と称えなくても既に私は南無阿弥陀仏だという考えになると思う。
気がついていないだけでね。
その気がつく事を「南無阿弥陀仏と一体化」というのであればその通りだろうし、
元々違う何かが「南無阿弥陀仏と一体化」というのであれば、全く的はずれだと思います。
>>406 : 髑髏さん
レスどうもです。
やはり私が「内省」の意味を狭めていたみたいですね。
反省・・・
407の補足。
やばい。このままでは勘違いされてしまう気がする。
念仏する必要は無いって意味ではありません。
「南無阿弥陀仏」を称えるというのは、前に書いたように
名乗りみたいなものです。
だから、自分は南無阿弥陀仏だという認識そのときに、
南無阿弥陀仏という称名念仏があるといえるでしょう。
ゴメン。スレから離れてきたような気がする・・・
409 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/22 13:15
>>407 >元々違う何かが「南無阿弥陀仏と一体化」というのであれば、全く的はずれだと思います。
渡海氏の「坐禅念仏」は、このような事を示唆してるんかと思いましてね、
それなりに問うてみたんですよ。渡海氏は違うみたいです。
私は、個人的には貴方の捉え方は非常に素晴らしいかと思います。
つまり「対」として「南無阿弥陀仏」があるんじゃ〜なくて、
森羅万象、その当体が「南無阿弥陀仏」。
非常に仏教的(ここのところは抽象的ですが)に捉えているかと思います。
410 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/22 13:26
>>408 阿弥陀仏に帰依する為に「南無阿弥陀仏」。
やがて「気づく」。阿弥陀仏とは・・・。
大海に一滴の水滴を落とした如し。
自らが、その当体であることを・・・。
411 :
brown:02/06/22 17:06
南無阿弥陀仏というのは,わかる必要がない,ということです。
知る必要がない,悟る必要がない,解脱する必要がない,目覚める必要がない。
悪意を抱き,悪事をなし,悪口を日々の行とする。そしてただ口で表面的に
ナムアミダブツと唱える。それでよい。それ以上に何も求める必要がない。
それも人生でただ一度だけでよいのです。一度きり,ただ,悪意を抱きながらでも,
ナムアミダブツと音声を発すれば,弥陀の浄土に参ります。なぜなら,弥陀が
そのように決めたから。
412 :
brown:02/06/22 17:18
これは,覚者の深い智慧の現われです。
端的に言えば,何も求めることがない,ということになる。
覚者が悟る内容とは,この世そのものがきらめく常楽の世界だということです。
肉体は光り輝き,感覚は透き通って,感情は深い感動に喜び,思考は本当に
自由に遊び,私は,無限の時空の中で「今・ここ」を限定するかけがえのない
貴重さとして顕れる。
これは,凡夫の衆生が持っている所持品と同じものです。貧苦の者,無学の者,
修羅世界の者,全てが持っている物と全く同じ物が,悟りの内容であるのであれば,
他に何も求めることはない,そのままでよい。
しかし最低限,そのままでよい,と知る必要があるであろう。ナムアミダブツ。
勝者にして如来,阿羅漢にして無上の完成を得た仏陀,守護者阿弥陀の本願に
帰依すれば,これがたとえ大悪人であっても,そのままで救ってくれるので,
悪人(私)の方でなにごとをも思い煩うことはない。
413 :
brown:02/06/22 17:23
野の花を見よ,彼女らは何も思い煩うことがない。
鳥が種をついばんで,遠くに運ぶ。
さすれば,大地の養分を吸収して,大地にすでにある水分を吸って,芽が出,
芽が出れば,太陽の恵みを受けて,大きく育つ。育てばこれは見事な花を
咲かせる。
この美しくけなげに咲く花々を,ジーザスは褒め称えるのです。
あなた方はこの園の全ての樹から採って食べてよい。ただし,「智慧を知る木」から
は,実を採って食べてはならないと,我が主は言うのです。
アッラー アッラー アッラー アッラー アッラー アッラー アッラー アッラー
アッラー アッラー アッラー アッラーアッラー アッラー アッラー アッラー
アッラー アッラー アッラー アッラー
アッラー アッラー アッラー アッラー
415 :
名無しさん@1周年:02/06/22 23:53
>412 :brown
>悪意を抱き,悪事をなし,悪口を日々の行とする。そしてただ口で表面的に
ナムアミダブツと唱える。それでよい。それ以上に何も求める必要がない。
それも人生でただ一度だけでよいのです。一度きり,ただ,悪意を抱きながらでも,
ナムアミダブツと音声を発すれば,弥陀の浄土に参ります。なぜなら,弥陀が
そのように決めたから。
これはあれですか、例のbrown的反語?
それとも、文字通りそういう解釈?
416 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 07:23
つまりは、存在としての実体が「無い」というのを先ず前提とせねば混迷するばかりなり。
「実体がある」となれば、それが根本基準になりますからね、全てはそこから派生した事になってしまう。
派生するとか・・・これはつまりは唯物思考ですね。
唯物論者でなくても、この概念がこびりついてるのが問題かと思いますよ。
大乗非仏説説が支持されているのも、つまりは「道のり」かとおもいますね。
そういった「道のり」を経て・・・
羯諦 羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。
これで逝く他ないんじゃ〜ないでしょうか?
釈尊は、あまりクドイことは仰らなかった。
>そしてただ口で表面的に
>ナムアミダブツと唱える。それでよい。それ以上に何も求める必要がない。
>それも人生でただ一度だけでよいのです。一度きり,ただ,悪意を抱きながらでも,
>ナムアミダブツと音声を発すれば,弥陀の浄土に参ります。なぜなら,弥陀が
>そのように決めたから。
「パラダイス浄土」「方便仮土」かな?
でも、それが駄目だとは思わない。
いいじゃないか。それで救われるならば。
形の上でも救われる点でも、あんまり変わり無いし。
おいらの場合は、「信じる」って点で、素直に南無云々できなかった。
だから、先からの書き込みのような、長ったらしい考察を経て、
ようやく納得がいった。ある意味、愚かだと思う。
418 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 11:13
>>417 >おいらの場合は、「信じる」って点で、素直に南無云々できなかった。
そうそう、信じる事が出来ない「自分」が居る。
そのまんまで「南無阿弥陀仏」。分からんままで「南無阿弥陀仏」。
信じようとせずに「南無阿弥陀仏」。死んだ後もまかせて「南無阿弥陀仏」。
坐禅して「南無阿弥陀仏」。坐禅せずとも「南無阿弥陀仏」。
寝ながら「南無阿弥陀仏」。歩いていても「南無阿弥陀仏」。
419 :
名無しさん@1周年:02/06/23 11:51
>416 :髑髏仮面
髑髏仮面は、般若心経が釈尊の直伝の経典だと思っているのか?
420 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 12:41
>>419 大乗そのものが釈尊の「教え」から離れている。
般若心経も言語で説明すれば・・・との範疇で、いわば参考書みたいなもんでしょう。
つまりは、般若心経を突き抜けるくらいが丁度良いんでしょう。
色即是空も、空即是色もプロセスとして捉えるんじゃ〜なくて、もはや時空の概念もいらんでしょうね。
421 :
名無しさん@1周年:02/06/23 16:59
>420 :髑髏仮面
大乗そのものが釈尊の「教え」から離れている
どう離れているのかな?
422 :
名無しさん@1周年:02/06/23 17:03
>>421 人に聞いてばっかりいないで、自分の意見も言えって。
423 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 17:22
>>421 >どう離れているのかな?
メンドイから言わない(w
424 :
名無しさん@1周年:02/06/23 17:43
君たちは物理学をやりたいのか、それとも気の持ちよう、考え方の持ちよう
をいいたいのか、どっちだ。
いいか、「この世に実体があるかどうか」など、その定義なくしては語れない
ことを知れ。
もし定義した上で物理学として語りたければ物理学として議論しろ。
もし「感じ方」のためだとしたら、この無用な議論をやめろ。それは何をも
意味していないことを知れ。
もしたとえば、素粒子である電子の実体が本当はなく、波動現象の現れである
などと譬えば知ったとして、それが自分の根本的な考え方を変えて、それが
そく自分の不幸を解決したり、困難を解決したりするのかどうかだ。答えは
否だ。
もし仮に色即是空とかがそんな意味であったとして、それがなんだというのか?
その議論に意味があるのはそれは物理学としての意味でしかない。
あなたが今ここにいて自分が今何をなし得るのかへの回答にどうそれが寄与する
のか。たとえば、あなたはそれを知っても自分が突然超人になって頭上から
落ちてくる工事現場のスパナを念力でよけることができるとでも言うのか?
いいやそんなことはない。
もし空がそんなものならそれにはナンの意味もない。かつて宗教と科学が
未分化であった昔に物理学としての認識論を宗教に持ちこんだ言論がもし
これであったとしたら、それは現代では意味を持たないものになることに
気がつけ。それはもはや”板違い”なのである。
空とはとらわれのない心の状態を指しているだけである。どうしたらとらわれ
のない心になるのか?
それは電子が波動的性質を持ち、確率でしか示せないこと、などとは実際に
全く関係ないことに気がつきたまえ。そして無用の議論を今すぐやめたまえ。
425 :
名無しさん@1周年:02/06/23 17:47
物理的存在は誰がなんと言おうとも、客観的存在として明確に存在している。
人間原理のナントカなどと世迷いごとを垂れてはならない。大いに勘違いである。
人の心が現実を認識するにあたり、自分の受け止めようで、自分の心の持ちよう
が変わることを指して、空と呼んだだけである。勘違いはもうこの辺でやめよう
ではないか!
426 :
名無しさん@1周年:02/06/23 17:53
自然的世界が厳然として存在していることは誰にも否定できない事実である。
自然は明瞭な法則性を有し、昨日も今日も明日も、明後日も、そして誰が
死んでも生きても、それとは関係なくその法則性も変わらない。変わるのは
その法則の発見による人間の解釈の変化でしかなく、世界の存在はこの
法則性の普遍性によって証明されたといえるのである。
因みに、ケプラーの法則は一般相対論によって多少修正されたとは言え、
この法則は数十年たっても変化していないことは観測結果の記録によって
自明である。法則が厳然として存在していることがイコール世界の物理的
実在性の証明となっていることを知りたまえ。
したがって唯心論はもはや完全に明瞭に否定し得るのである。
427 :
名無しさん@1周年:02/06/23 17:58
ゴータマシッダールタは宗教家ではない。哲学者だ。彼の結局行き着いたとこるは中庸ってやつ。何かを一生懸命頑張ってどうにかなるもんではない。
428 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 18:07
>>426 そういった世界観も、一つのコンセンサスのある考え方でしょうね。
それはそれ良いんかと思います。
固定化した概念を、一歩突き抜ける事も一つの世界観かと思います。
ようは、自分で納得逝く世界観を構築するのが第一義なんでしょうね。
429 :
名無しさん@1周年:02/06/23 18:25
>423 :髑髏仮面
要するにわからないわけね
430 :
名無しさん@1周年:02/06/23 18:28
早稲田の大槻みたいな単純馬鹿が、一匹まぎれこんどるなあ
431 :
名無しさん@1周年:02/06/23 18:28
>>427 中庸の徳は自主独立の精神の賜であって、
ぬるま湯に浸ることではないのだが?
432 :
名無しさん@1周年:02/06/23 18:32
>>426 法則は経験的観察の産物であり、常に蓋然的だ。
科学厨房は帰れ。
433 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 18:44
>>429 大乗非仏説説と逝ってるんだからねぇ。
こんな事でレス付けて、スレの流れを変えるのはもったいない。
もっと興味のあるよーなレス付けてチョ(w
434 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 18:49
435 :
名無しさん@1周年:02/06/23 19:35
>>426 自然界に厳然として存在する法則性、
法則を法則たらしめているのは一体何でしょうか?
偶然性と進化論の積み重ねですか?
それとも?
法則性が存在すればこそ、天文学的高等数学を用いてロケットも飛ばせます。
法則性が存在すればこそ、太陽系も規則正しく運行します。
法則を法則たらしめているもの、
あらゆる法則の中で、法則それ自体で成り立つ法則はありますか?
436 :
名無しさん@1周年:02/06/23 19:43
この宇宙をかくも秩序正しく保たれる、我らが主は偉大なるかな!
401 :髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/21 05:43
>暫くROMに徹します。
毎度の事だけどさ・・・・
「徹します」と言った以上自分の発言に責任を持てよ。
なにが偉そうに「大乗非仏説説」だよ。それ以前に人間として最低限の社会性を身につけろよ。
世の中は信頼関係で成り立っているんだから
いい加減なことばっかり言ってがっかりさせるなよ、いつもいつも。
こういうところに人間性ってでるんだぜ。
「レスがついたから」とかくだらない言い訳するなよ。
そんなこと承知の上での発言だろ?
それとも「レスがつく」ことも想像できないほどアフォなのか?
438 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 19:51
>>437 ヤフーで検索かけると良いよ。
「大乗非仏説」でヒット間違いなし(ニガワラヒ
439 :
名無しさん@1周年:02/06/23 19:55
まま、お茶でも一杯。
440 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 19:55
>>435 スレの方向が良い感じです。
そのまま進展することに期待しております。
441 :
名無しさん@1周年:02/06/23 20:04
科学的につくったカップラーメンを
うまいと言っている奴が増えているのは
非常に残念なだ。
442 :
名無しさん@1周年:02/06/23 20:18
>433 :髑髏仮面
そうじゃなくて、髑髏仮面の大乗理解の中身をみてみたいわけ w
443 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 20:23
>>442 せっかくPC持ってんだから、活用したほーが良いかと思うよ。
スレの流れというもんがあるからね、空気を読まないとね・・。
444 :
名無しさん@1周年:02/06/23 20:26
格付け期間は科学的であるべきか?
科学をベースにしつつも主観がはいりまくり
つまり、これは科学が絶対ではないこと
哲学・人生観が入り込む余地があることを
意味する。
しかし、空の理論では経済を高度なものに
する事は不可能である。
僕ちゃんには経済的豊かさを捨てる勇気は
ありません。
438 名前:髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 19:51
>>437 >ヤフーで検索かけると良いよ。
>「大乗非仏説」でヒット間違いなし(ニガワラヒ
苦笑いしたいのはこっちだよ。
「苦しい時の本題から外れるよう話題スリカエだのみ」も毎度のことだ。
446 :
名無しさん@1周年:02/06/23 20:30
>>444 バガヴァット・ギーターを読みたまえ。空とは一切に対して平等の境地でもある。
そこに至って、己の義務(ダルマ)を遂行したまえ。
いつの間にか、スレがそういう方向に行ってるのね。
科学と呪術の違いでも書きますか?
別に書く必要もないでしょ。
法則っていうのは、「結果には原因がある」という哲学が
根底にあることくらいは解ってるんでしょ。
448 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 21:50
>>445 とにかく、貴方とのレスのやり取りは是で打ち切る。
スレの流れに興味がある。
ROMしたい。
449 :
名無しさん@1周年:02/06/23 21:56
Aという原因がBという結果を生むという具体的な知識は経験からしか得られない。
Aという原因がBという結果を必ずしも生むとは限らない。
そうやって、常に法則というものは修正しつづけられてきた。
完全なものは我らは認識できないかもしれない。
しかし、向かっている方向は合っているという自身があるから、
科学者は研究をやめない。
>>448 今度こそ大人しくロムしとけよ。言ったことは守れよ〜。
少しは人に信頼してもらえるような人間になるんだぞ〜。
仏教云々言うよりまずそこからだぞ〜。
452 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/23 22:32
>>451 >今度こそ大人しくロムしとけよ。言ったことは守れよ〜。
別に、貴方から指図は受けんよ(w
とにかく、他の住人に迷惑だから私へのレスは遠慮してくれよ(二ガワラヒ
私も極力レスは遠慮します。
>443 :髑髏仮面
という理由で逃げるわけね。よかったねえ、いろいろレスを遠慮する理由があって。
渡りに舟だな。
別に大乗仏教を正確に知りたければ、自分で本読むなり、検索するなりするさ。
話をずらすなよ。
454 :
名無しさん@1周年:02/06/23 22:38
>>450 人間の意志的選択は物理的な因果律とは違う地平にあるんじゃないか?
宗教は、偶発的な経験だけから学習することを拒否する。
455 :
名無しさん@1周年:02/06/23 22:42
科学がなにをいおうが、いずれにせよ「苦集滅道」はあるさ。
「そして無用の議論を今すぐやめたまえ。」などとほざいている424自身が、
その無知と無明から出られない。
「期間」ではなく格付け「機関」の間違いでした。
>>454 原因があり結果を生む という認識をしていこうというのが科学で、
結果には原因がある というのが、先から述べている縁起です。
「ロムに徹する」と言った矢先にレス連発。
言うこととやることが全く違う人間こそ社会の迷惑だろ。
しかも俺はなんにも指図なんかしてね〜。
おまえが勝手に「ロムします」って言ってるだけじゃないか。
俺は「発言に責任を持て」と言ってるだけだ。
それにしてもおまえ自身の人間性とかのレスつけると急にささくれだったレス返してくるけどさ、
仏教=人間性だろ?言葉と行動と心がひとつじゃなければ意味無いでしょ。
結局、おまえが勉強していることっておまえの人間性になんにもフィードバックされていないってことだな。
>>459 なるほど。参考になりました。
確かに、因果と縁起を取り違えていたみたいです。
えーっと、もうちょっと考察してからもう一度書き込みます。
461 :
名無しさん@1周年:02/06/24 00:49
因果と縁起、いずれもベースは変わらない
因果は縁起のバリエーション
縁起は因果のバリエーション
ごくシンプルに逝きましょう!
炭酸カルシウムの集まったやつはチョークである。
チョークは炭酸カルシウムの集まったやつである。
炭酸カルシウムが集まらないときチョークはなく、
チョークがないとき炭酸カルシウムは集まっていない。
チョークという事象はなく、それ自身がありのままにあるだけである。
ありのままのものに、我々はチョークという意味を付けている。
だから、チョークが無くなった場合に私は苦しむ。
ソウイウコトカ。
ごめん。チョークって所を、「私」と置き換えて読んでね。
追加補足。
ありのままのモノに、「私」という意味を付けている。
だから、老・病・死のような「私」の存在を揺るがすもので私は苦しむ。
私は私を構成するモノの集まったものである。
私を構成するモノの集まったものが私である。
読み替えます。
私は縁の集まったものである。
縁の集まったものが私である。
・・・ゴメン。出発点からして極微論だったからか、到達点も極微論だ。
464 :
名無しさん@1周年:02/06/24 16:42
>424
ぷっ。こいつには、フッサールもカントも釈迦も、ついに無縁だろうなあ。
ごくろーさん。
465 :
このスレよく読んでないけど、ちょっとたちより:02/06/24 16:45
>>464 フットサルならよくやってますが、何か?
466 :
名無しさん@1周年:02/06/24 16:48
>>457 物理学の世界で仏教の縁起に近いことを述べているのは、
アインシュタインの相対性理論だと思われ。そこから派生
するのは量子力学的世界像よりも、ミンコウスキーの「生
きられる時間」のような実存空間だ。人間は万物の尺度で
ある(プロタゴラス)。
467 :
brown:02/06/24 22:20
>462
お〜い。間違ってるよ。わざとかな。
やり直し!
>>467 まあ先の考察は、大前提からして A=B だったしね。
確かに原文を読む限りでは、A=Bとは一言も言っていない。
それと、皆さんは、sunyaの訳を、
「何もない」「空である」ととらえるか、
「ありのままである」「裸である」ととらえるか、
どちらが良いと思います?
>>468 やり直す必要はないよ
自分で経典なんかと照らし合わせて
理解すればいいと思うよ。
それとも、兄と弟はどちらが先に生まれるかというような
シンプルな考えの方がいいのかな。
471 :
brown:02/06/24 23:06
え?わからない?
>(命題1)炭酸カルシウムが集まらないときチョークはなく、
>(命題2)チョークがないとき炭酸カルシウムは集まっていない。
命題1は真ですよね?とりあえず。
命題2ですが,炭酸カルシウムがチョークとは別の集まり方をすることもある
でしょう?確かに炭酸カルシウムは何やら集まっとるが,チョークではないような。
例えば,ボロボロにほぐれるような団子として集まっている場合。これはチョーク
でない。とこうなります。459はそういうことですね。
472 :
brown:02/06/24 23:13
「では,チョークによって炭酸カルシウムがある」とは何か?
@炭酸カルシウムには白いという性質があります。
Aしかし,粉のままでは黒板にきれいに「細い」あのような字を書くことができ
ません。(チョーク的な字のことですよ。)
Bしかし,チョークにすれば,炭酸カルシウムはその元の性質である白いという
性質を活かして,黒板に文字を書くことが出来ます。
Cこのようにして,炭酸カルシウムはチョークに依存しています。
Dつまり,チョークと言うあり方の中にあって初めて,炭酸カルシウムの働きが
あらしめられているということです。
「私」に置き換えると,今ここにある生きている私と,私をすり潰して作った団子
は異なるものである,ということになります。物質的成分は同じでも,その間の
ありてあらしめる関係性がなければ,生きていることが成立しないということに
なります。このような関係性をよく分析していくと,・・・
初参加!!
てか、「空」って何ですか?
>>471-472 : brownさん
わお。丁寧にありがとうございます。
曖昧だった部分がさーっと溶けていった感じです。
ん。
また間違えていたら指摘してください。
つまりは、空は「存在」ではなく「意味」が空なんですね。
476 :
brown:02/06/25 21:54
>475
でないと意味がないからな。
477 :
brown:02/06/25 22:20
ありもしないものをあるといってはならない。
あるものをないといってはならない。
それが空性を分析するための実践的な修行です。
例えば,あなたの想い通りになることとあなたの想いの間の因果関係は存在しません。
しかし,あれやこれやの概念,あれやこれやの事物,次々に湧いてくる雑念,
世間の雑事や障害,これらは存在します。「あなたの想い通りになること」と
「あなたの想い」ももちろん実在します。しかしその間の因果関係は存在しません。
もちろん「ボールを投げたこと」と「ボールが飛んでいくこと」との間の因果関係は
存在します。不思議なことや不可解なことを思うでない。そんなものは禅僧のたわごと。
あるものをないといってはならない。ないものをあるといってはならない。
これをきちんと識別することによってのみ,真実は現れる。
なぜなら,真実を知るのに仮設や知りえないことを信ずることは,ただの一つも
必要なく,それは有害でしかないから。
478 :
brown:02/06/26 03:04
「あなたの想い」=女が欲しい
「あなたの想い通りになること」=オナニー、妄想
そして、あるものとないものを識別すると
真実は、オナニーは気持ちが良い、妄想は自由だ。
479 :
brown:02/06/26 03:20
さて、そこで問題です。
「オナニーする事」と「精子が飛ぶ事」では
因果関係は存在するでしょうか。
>>479 因果関係は存在する可能性もある。オトコ限定でね。
さて、
オナニーしても精子が必ずしも飛ぶとは限らないし、
オナニーしてなくても精子が飛ぶ可能性があるから、
(別に持って投げて飛ばしてもいいんでしょ。)
必ずしも因果が成立するとは限らない。
だから、どちらかといえば、
「オナニー」と「気持ち良い」が関係するのかな。
481 :
名無しさん@1周年:02/06/26 09:23
精子は飛ばねーよ。 精液だろ。
482 :
名無しさん@1周年:02/06/26 11:08
女性でしたら「潮」を飛ばすんですが、あれは本当に「潮」なんでしょうか?
私は、自分の身体のことがよく分からないんです。
自分では「おしっこ」と思っているんですけど。
実際あれは「おしっこ」と違うのかしらね?
恥ずかしいけど、2ちゃんの掲示板だから、っまいいか・・・・。
どれどれ、ワタシが口開けて、味見してあげるから
ほれほれ、ほれほれ、吹いてみなさい。 シャーシャー
484 :
名無しさん@1周年:02/06/26 15:28
性欲のコントロール制御が出来ない→オナル
>性欲のコントロール制御が出来ない→オナル
変な所にマジレスしますが、
性欲のコントロールのためにオナルのかと。
486 :
名無しさん@1周年:02/06/26 20:29
性エネルギーの使い道です
クンダリニーに翻弄されてはいけないということです
性欲の為に漏らすのはいけないということです
オナルのはダメ!!ということです
487 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/26 20:40
あーーーっはっはっはっは。
つまり、そういう事だったのだな・・・。
どーもスレの流れがオカシイとオモータヨ
488 :
brown:02/06/26 21:15
>478
その代入はおかしいよ。
>「あなたの想い」=女が欲しい
>「あなたの想い通りになること」=オナニー、妄想
ではなくて,
「あなたの想い」=異性が欲しい,オナニー,妄想
「あなたの想い通りになること」=異性を獲得した,妄想が現実になった
でしょ。
これであるものとないものを識別したらそんな結論にならないだろうが。
真実は、オナニーは気持ちが良い,しかし妄想は不自由だ。
489 :
名無しさん@1周年:02/06/26 21:29
>>488 名前を借りてすいまそ〜ん
結果は冗談としても
「あなたの想い」=理想
「あなたの想い通りになること」=現実
という構図で表してみました。
Brownさんの
「あなたの想い」=
「あなたの想い通りになること」=
の構図がちょっとわかりずらいので
もっと説明よろしく
490 :
brown:02/06/26 21:47
>489
>「あなたの想い」=理想
>「あなたの想い通りになること」=現実
>という構図
これは名推理。その通りと想定していますが,・・・あっ,そういうこと?
本当は女が欲しいんだが,現実はオナニーってこと?なるほど。じゃ,それで
いいや。そうだとすると,あなたは,「女が欲しい」ことの手段として「オナニー」
していることになります。「気持ちよくなりたい」ことの手段ではなくて。
であれば,オナッてせっかく気持ちよくなっても女が欲しいという想いは達成
されていません。それが心を不自由にするのです。
「構図」は全くおっしゃる通りですよ。その構図に則ってよくよくその間の
関係を分析されたし。性欲は激しい心の動きであり,癒しの源泉,喜びの素,
特に若者にとっては最大関心事ですからな。抽象的に,概念間の関係としてでは
なく,現実の自分の心情として考えた方がよいですよ。性欲をないとしたり,
未だ妄想に過ぎないオナニーを何かの達成としたりせずに,厳密にその関係を
よくよく分析することが重要です。
491 :
名無しさん@1周年:02/06/26 22:19
あるもの(存在)とないものと(非存在)の
識別というのは簡単そうで非常に難しい
とおもいますた。
それをよく理解した人を、悟りを開いた人
と呼ぶのでしょね。
理屈はわかっても府に落ちないというか
そこにリアリティーを感じない。
まだまだ、道は長いとおもいますた。
492 :
名無しさん@1周年:02/06/26 22:56
おナル、あナル、うナル・・・
493 :
名無しさん@1周年:02/06/27 07:11
無限大と無限小の零地点
それをよく体得した人を
悟りを開いた人というのでしょうね。
494 :
名無しさん@1周年:02/06/27 17:33
社会ニュース - 6月26日(水)20時2分
「2ちゃんねる」に賠償命令=中傷削除、管理者の義務−東京地裁
インターネットの人気掲示板「2ちゃんねる」の匿名の書き込みで名誉を傷つけ
られたのに、管理者が発言の削除を怠ったとして、東京都内の動物病院と経営者の
獣医師が掲示板の管理者を相手に計500万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決が
26日、東京地裁であった。山口博裁判長は「管理者は削除などの措置を講じる
義務を負う」と述べ、計400万円の支払いと発言の削除を命じた。
管理者側は「発言の公益性や真実性が分からない段階で削除義務はない」
と主張したが、判決は「権利を侵害された者が発言者を特定して責任を追及することは
事実上不可能で、管理者の責任を追及するほかない。
真実性などの立証責任は管理者にある」と退けた。 (時事通信)
空間の「空」って何?
496 :
名無しさん@1周年:02/06/27 20:58
空観の「空」と違うことは確かだが、何か?
レスの流れからアオ姦と読むことは髑髏以外は無いだろうが・・・
497 :
brown:02/06/27 23:42
>491
うん。よくよく自らの心の中の現実と妄想,あるものとないもの,聖なるものと
邪なるものを厳密に識別するように最大の努力を重ねていくと,初めは極めて
浅い判断力しか発揮できませんが,徐々に心の中がよりよく見えるようになって
いきます。現状より少しこの洞察が進むとき,現状より少し,より深い分析が
できるようになります。より鋭く,あるものとないものを識別できます。以前
あると思っていたものが実はないのではないか,以前ないと思っていたものが
実はあるのではないか,このように少しばかり洞察が進みます。この状態で
さらに最大限の努力を重ねていくと,さらに心は明らかとなり,また,以前より
少し,洞察力が鋭くなります。このように,心の明るさと,洞察力を両輪にして
徐々に進めていくことが重要です。これさえ理解すればよい,というような
究極的な理論があるのではなく,徐々に自らの心を明らかにしていくことが
現実的な道であるからです。その理解なしに心を理解しようとしても,スタティス
ティックな,構造的な分析となって,決して迷った自分が悟った自分に生まれ変わる
ダイナミックな性質をもつものに到達することはないでしょう。
しかし,実際に自己観察に執着的に取り組むことによってその道は達成されるで
しょう。何かを放棄してはなりません。しかし何かを手放さないでいつまでも
執着していてもいけません。結局最後まで残る執着が,いつまでもかすかに残る
この猜疑心,罪の意識,比較する心,絶望の彼岸のみとなれるとき,その結果,
どこにも行き場がなくなってしまったとき,それを徹底して徹底してさらに徹底
することなど絶対に出来ないような確信をも突き抜けて徹底したとき,手放す
ものは,道を求める執着心しかなくなってしまいます。そのとき初めて,それを
手放せば,それは顕れるでしょう。
空観は方便なんですか?真実はどこにあるだか?
ほうべん はう― 【方便】
(名)〔(2)が原義〕
(1)ある目的を達するため便宜的に用いられる手段。てだて。「うそも―」
(2)〔仏〕〔梵 upāya〕(ア)仏が衆生(しゆじよう)を教化・救済するために用いるさまざまな方法。
(イ)真実の教えに至る前段階として教化される側の、宗教的能力に応じて説かれた教え。
(形動)都合のよいさま。「ほんに御―な物でございます/滑稽本・浮世風呂 3」
500 :
名無しさん@1周年:02/06/28 15:20
般 羯 多 呪 多 得 想 掛 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
若 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
心 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
経 諦 説 一 神 多 涅 掛 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
提 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
菩 蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
提
薩
婆
訶
>>500 500にふさわしい見事なレスです。
早速コピペさせてもらいました。
>>491 私の考えとは少々離れるのですが、
ぶっちゃけた話、突き詰めても終わりが無い。
仏「道」という表現は、このへんから来ているんではないでしょうか。
503 :
名無しさん@1周年:02/06/29 00:25
偉大なる日本のヨーギ、ミラレパ正大師
ダルマに逝く
504 :
名無しさん@1周年:02/06/29 00:35
505 :
ナトー・グリーン:02/06/29 00:54
>>495 相対論的空間においては延長(長さ)と距離は次元の違うものだ。
>>506 いきなり禅スレから引っ張って来るなよ。混乱する。
508 :
名無しさん@1周年:02/06/29 22:53
>>432 >法則は経験的観察の産物であり、常に蓋然的だ。
>>447 >いつの間にか、スレがそういう方向に行ってるのね。科学と呪術の違いでも書きますか?別に書く必要もないでしょ。
法則っていうのは、「結果には原因がある」という哲学が根底にあることくらいは解ってるんでしょ。
>>449 >Aという原因がBという結果を生むという具体的な知識は経験からしか得られない。
>>454 >人間の意志的選択は物理的な因果律とは違う地平にあるんじゃないか?宗教は、偶発的な経験だけから学習することを拒否する。
>>457 >原因があり結果を生む という認識をしていこうというのが科学で、結果には原因がある というのが、先から述べている縁起です。
宗教家が未だに唯心論をなぜ持ち出すのか実際のところ不明である。
世界の法則性の証明は、過去ずっと以前からの自然の観測記録が
残されていて、それが人間の時代によらず、また人間の営為によらず、
そしてすでに存在している人間の作った理論によらず、明瞭に
存在していることが重要である。
今日私が測定した東京タワーの高さが仮に明日あなたが測定した
高さと50mも狂っていたとしよう。そうしたなら、私もすぐにでも
唯心論に帰依しよう。空でもナンでもほざいて構うまいと思う。
しかし、正しい測定方法であれば、誰が計ろうともその値は今日も
明日も明後日も、(ただし地面が陥没してしまったりしていない限り)
その値は測定誤差の範囲で一致した値を示すのである。
これは、人の個人差で物理的な量が変化していないことを保証する
のである。すなわち、物理世界は紛れもなく現実に「誰の」目の
前にも「存在している」のである。
およそ、これを「客観的、論理的に」否定する「空」なるものが
あるとするような唯心論は破綻しているのは誰の目にも明らかで
ある。
空とは単に、人の心の持ちよう、気の持ちようの世界を説いている
に過ぎない。くれぐれも勘違いしないようにしたまえ。
509 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 06:36
>>508 かつてのマルクス信奉者は、貴殿と同じような事を逝ってましたね。
1970年頃は私は未だ子供でしたが、新宿西口地下街では反代々木系がトグロを巻いていましたよ。
私は彼等とはよく話はしました。
その頃を思い出します。
結果的には、世界は債務国と債権国に分かれてしまいました。
唯物史観は大はずれ。まあ、結果論ですが・・・。
そんなもんですよ「信念」というのは。
だから私は、それならそうで良いけど「それを突き抜ける」と言うておるんですよ。
そうでなければ「観えてこない」。
イデオロギーとはそんなもんかとおもいますよ。
人間の考える思考というのはそんなもんですよ。
510 :
名無しさん@1周年:02/06/30 06:41
髑髏仮面 は、40代後半か50代なんだね
511 :
名無しさん@1周年:02/06/30 06:45
>>だから私は、それならそうで良いけど「それを突き抜ける」と言うておるんですよ。
ああ、そうそう、人間も、歴史も、その繰り返しだものね。
512 :
名無しさん@1周年:02/06/30 06:49
せっかく骸骨とタイムりーに話せると思ったのに
投げっ放しジャーマンならぬ、書きっぱなしジャーマンで
どっかに行ってしまったのか・・・
つまらんのう・・・
513 :
名無しさん@1周年:02/06/30 06:49
荒らしは来なかった。これは、鹿嶋の大きな大きな証。
鹿嶋の神様が、誰が荒らしているかを御示しくださったのだ。
北朝鮮と韓国との海戦みたいな、はっきりとした逆証も出たし、
何といい繕っても空しいね。
北朝鮮と同じということは、今の北朝鮮を状況に置きかえれば
いい訳だ。退会者は神様から救われたんだね
514 :
名無しさん@1周年:02/06/30 06:51
誤爆ですか?
515 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 06:52
>>510 1970年は、私は中学生です。
>>511 >ああ、そうそう、人間も、歴史も、その繰り返しだものね。
歴史が繰り返す。というのはマルクスの十八番ですね(w
516 :
名無しさん@1周年:02/06/30 06:57
デモさ、やっぱり人の成長として何かを打破したり
乗り越えるというのは、切っても切り離せないのではないかな。
マルクスに賛同する気は無いけど
部分的には間違いと正しいことが巧妙に絡み合ってるというか・・
517 :
名無しさん@1周年:02/06/30 07:01
やっぱり40代後半ですか
骸骨三手、お坊さんとかなんですか?
それとも、敬虔な仏教徒かなんですか?
518 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 07:04
>>516 >部分的には間違いと正しいことが巧妙に絡み合ってるというか・・
これもつまりは、マルクスの弁証法的「捉え方」になってしまうんかと思うんですよ。
間違い⇔正しい。どんどん「間違い」を滅して逝く。限りなく。マルクスはそう考えていました。
519 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 07:09
>>517 >それとも、敬虔な仏教徒かなんですか?
仏教徒となりますと、三法帰依とかの論法に発展しますので、まあそこのところは・・・。
520 :
名無しさん@1周年:02/06/30 07:10
でもそれは、思考の中と言うか理論上ということなのでは?
人間が介在する以上その計画がどんなに厳密に作られてても
ミスや、あるいは個々の人間の欲望のコントロールはできないんじゃないかな
そういう人間の人間たるやみたいな所の見落としが
有ったんではないのかな?
521 :
名無しさん@1周年:02/06/30 07:12
じゃあ仏教マニアと言う感じかにゃ?
522 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 07:27
>>520 ブルジュアジーとプロレtリアの対立を、世界観にまで押し上げたのが間違っていたんかと思います。
つまりは、これは「人間」の問題で、イデオロギーにはなりえなかったんでしょう。
人間の問題→つまりはこれでマルクス、エンゲルスは崩壊したんかと思いますよ。
>>521 >それとも、敬虔な仏教徒かなんですか?
そういった「レッテル」に拘らないところも、また仏教的捉え方かと思いますよ。
523 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 07:32
>>521 禅宗に傾倒している「禅宗くずれ」。
そう思ったら良いかもしれません(w
524 :
名無しさん@1周年:02/06/30 07:36
へー。そうなのか。
でも、どうやってたべてるの?
お仕事とかはしてるんですか?
あっなんか個人的なことを聞いてしまいました。
すんまそん。
525 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 07:41
>>524 私生活においては、私のゥオッチャ−は既に御存知なんですよ。
田舎くらしで、生活はセコイ感じですかね。
清貧を旨としております。
勤め人ではないですね。
526 :
名無しさん@1周年:02/06/30 07:49
ははははは。セコイって・・・なんだかなあ(笑
ウオッチャーてのも、すごーはははは
骸骨さん変人サンですよね、私は前に変人さんのときに
何度かレスした事有ります。
でも、どーして変人さんでも骸骨さんでも
あんなに、煽られるんですか?何か思想的相違からなのですか???
凄い理解に苦しむんですけど、・・
それとも、キャラ的にいじりやすいとか・・・(ごめん
527 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 08:54
>>526 >あんなに、煽られるんですか?
弁証法的選択概念を、外しちゃうと私みたいな「煽られやすい」人格になるんでしょうね。
>それとも、キャラ的にいじりやすいとか・・・(ごめん
そういうところに拘らないのも「一如の法門」かと思います。
このスレに多く見られる「輪廻はあるのか?ないのか?」。これも相対概念。
えてして仏教を学ぶことが、また相対概念に悩まされる。
つまりは、マルクス信奉者と同じ事なんですよ。本質のところが変わっていない。
528 :
名無しさん@1周年:02/06/30 09:24
>>509 ってか、あなたはなんでマルクスとか唯物史観とかと、
>>508を結びつけるの?
それと、信念とかって何が?
私の言ってるのはそんなことなのかなあ?
宗教家は理解力がどうもおかしいんじゃないのかいつもおもうんだよねえ。
特別とか別格とか言われ自分はそうなのかと、おもっていたが、人間に特別も別格
もあるか、と小耳にはさみ、ああそうなのかなとおもった。
530 :
名無しさん@1周年:02/06/30 09:34
>>528 外界世界は明瞭に「客観的な存在として誰の前にも存在している」と認める
べきだということは、信念じゃないんだけどね。何度も言うけど。
空の考え方の方が信念でしょう。「目の前に在る物」でも「ないと思って
生きろ」てのは信念じゃないの?
実在が実在であることが、人間の観念や思惟とかと無関係に、時代を超えて、
時間を超えて、場所を越えて、法則の厳然とした存在を誰にも認知されること
を持って、当然のこととして認められるということを言っているんだよ。
それが信念なの?どうもわからんなあ、わしゃあ。
531 :
名無しさん@1周年:02/06/30 09:35
色々な方が、続々参加してきた模様。
骸骨さん、お話どもでした
また、お話しましょう。
532 :
名無しさん@1周年:02/06/30 09:39
またしても具体的にいえば、ここでm[g]のものが落下する重力加速度
g[kgm/s^2]は、普通はあなたが計っても、私が計っても、測定誤差範囲で
いつも同じになる。
また、振り子の周期はこのm[g]によらずに、g[kgm/s^2]と振り子の
長さL[m]だけで決まることを、私が計ってもあなたが計っても証明する
ことができる。
これらは日本では理科教育でやってくれるね?そのことが納得できれば、
これだけで唯心論は崩壊するのがわからない?厳然とした事実なんだけど。
信念じゃなくてさ、。
533 :
名無しさん@1周年:02/06/30 09:45
唯心論なら人が変われば、気の持ちようで測定結果、つまり世の中の見え方
が変わっていいはずなのに、誰がやっても変わらないでしょう?これは
世界が実在であることを証明していて、それが人間の認識の側の内部に写った
映画のようなものではないことを当然ながら意味しているんだけど?
わかる?客観性ということの意味がさ。
「空」は気の持ちようの話なだけだよ。実在世界のことじゃないんだなあ。
昔は宗教と科学が未分化だったから、唯心論みたいなものが実在を否定した
理論を宗教に紛れこませただけだよ。そこを理解してミソ。
534 :
名無しさん@1周年:02/06/30 10:00
移ろい、無常で、実在性が疑われた「実在世界」。
しかし、原子の存在まではっきり証明されている現状は、客観世界の証明
になっているんだよ。
化学反応で色が変わっても、そこにある物質の究極は存在しているだろう?
それは原子というものが存在しているからなんだよ。そこまで古代人が知って
いたら、唯心論を諸行無常から結びつけたりして考えなかっただろうね。
だから現代人はこのように思考すべきなんだよ。わかる?
535 :
中国バージョン:02/06/30 13:26
羯 多 呪 多 得 想 掛 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観
諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自
羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
諦 説 一 神 多 涅 掛 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
提 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
菩 蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
提
薩
婆
訶
一切が抜けてますが、なぜ?
536 :
名無しさん@1周年 :02/06/30 13:56
仏教は、客観世界が存在しないということをいってるんですか?
どんなときでも、「主体と離れた客観世界」が成立しえないということでは?
だから、それ自体が見るものと見られるものとの関係による「縁起」だといっているのでしょう。
と同時に、見るものも、見られるものも、最終的な根拠としての実体があるわけではなくて、
「空」ということになり、我空・法空ということになるのでは。
なんかスレの流れを読むと、
仏教が単なる「唯物論に対抗する唯心論」にされちゃっているようで、変ですねえ。
>536
それ自体が=リアリティ自体が
538 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 14:03
>>534 60年〜70年代の全共闘世代は、貴方のような論法でアッサリ唯心論を捨ててマルクスに傾倒していったんだね。
実在する。ゆえに唯心論は間違いである。まあ、つまりは「唯心論は間違いである」←これが弁証法。
彼らの論法は、対立こそ発展の原動力になる。←これは社会主義においても変わらない。
スターリンの粛清は、いわゆる弁証法が行動原理になっている。
つまりこの論法で逝くと、どんどん粛清されて連合赤軍のような事になる。
いわゆる粛清がマルクスの名のもとに公然と行われるような社会になるんだろうね。
まあつまり私が言いたいのは、〇〇だから「唯心論は間違いである」。←この論法だね。
だから、それはそれ。そこんところをモット突っ込まないと「軽くは結論できない。ということなんだ。
歴史がそこのところを伝えているよ。
同じ道を繰り返すか?否か?ここのところが重大かと思う。
539 :
名無しさん@1周年:02/06/30 14:15
534は、宗教や仏教うんぬんよりも、
当たり前の哲学の認識論すら考えたことのない幼稚園児。
こういう素朴実在論を振りかざす前に、哲学の初歩の勉強をすべき。
540 :
名無しさん@1周年:02/06/30 14:16
>>538 あなたの言っていることは、本来的な唯心論の否定ということとに問題が
あるのか、それとも、
>スターリンの粛清は、いわゆる弁証法が行動原理になっている。
>つまりこの論法で逝くと、どんどん粛清されて連合赤軍のような事になる。
>いわゆる粛清がマルクスの名のもとに公然と行われるような社会になるんだろうね。
ということが問題なのかがはっきり分離していないのが問題でしょう。
なぜなら、
「唯心論の否定」→「対立こそ発展の原動力」→
「マルクス主義が唯一正しい」→「世界は対立して粛清されるべきだ」
これに元々なんの必然性もないことに気がつけば、唯心論の否定が何か
悪者にされなければならない理由があるのかってことだ。
なんか風が吹いたらなんとやらのお話をされてもねえ、ってとこだよ。
541 :
名無しさん@1周年:02/06/30 14:18
>>539 >こういう素朴実在論を振りかざす前に、哲学の初歩の勉強をすべき
しかし現に
>>538 のような反論がなされているがいかがですか?
彼は幼稚園児以下ということですか。なるほど?
542 :
名無しさん@1周年:02/06/30 14:18
>>539 >こういう素朴実在論を振りかざす前に、哲学の初歩の勉強をすべき
それなら、その初歩とやらを述べてみたまえ。研究してみようか。
543 :
名無しさん@1周年:02/06/30 14:27
>>536 >見るものも、見られるものも、最終的な根拠としての実体があるわけ
>ではなくて・・・
だとさ。ほら、ここですでに実在が否定されているじゃないか?
>見られるものに実体がない
と。どうして実体がないのさ?
だいたい仏教なんてそもそも「エンギ」だといった時点で釈迦のあたりまえ
の論理をいったことから反れてしまっているんだよねえ。釈迦は妄念を捨てて
ものごとを冷静に考えて世間に不幸の種をまくんじゃない、とこういう陳腐
だが、大事なことをただ当たり前のこととして述べただけだったのだよ。
スッタニパータなんかみれば一目瞭然、子供を病気で死なせた母親が狂乱して
いたのを譬えでいさめた話は典型だと思うねえ。
そういう当たり前のことを冷静に知りなさい、そして妄念から離れて物事
をそのまま受け入れて当たり前に見なさい、というそのことを言っている
だけだったんだよ。
それを、外道といわれた既存の宗教と混じらせてしまって、生まれ変わり
とかカルマの思想とかにまた戻ってしまったわけよ。ああだこうだ言って
エンギとか抜かしても所詮それは釈迦の教えじゃなくて、後でこういう
外道の宗教に擦り寄って回帰した結果にすぎないんだよなあ。わかる?
544 :
名無しさん@1周年:02/06/30 14:30
>>540 だから、昔の学生運動やってた連中の大勢がそんな風吹き桶屋論にだまされていた
だけでしょう?それはそれで科学的でもなんでもなかったってことでOKなん
じゃないの。わかる?
545 :
名無しさん@1周年:02/06/30 14:33
つまりアインシュタインが相対論を発見したときに使ったともいえる
弁証法ってのは、別に対立が歴史に不可欠だいうような論理じゃないと
思うけどねえ。
弁証法の意味しってる?二項対立を解決するために、ニ項以外の新しい
視点を導入して解決するところにその意味があるんだよ。わかる?
547 :
brown:02/06/30 14:50
私は実は,唯物論者(534)の意見に賛成です。
宗教と科学はアプローチが違う。宗教や哲学というものは,個人の信じるところ
から入っていきますが,科学は客観性から入っていきます。「客観性」ということ
を厳密に調べていくと無我になる。そこに私という他から切り離された存在は
認定できなくなる。「あなたもそう考える」,「彼もそう観察する」,「彼女もそう
思う」という確認が,個人的体験より尊重されなければなりません。実在性を量る
基準は客観性にあります。一方,宗教はより感情的なものなのであって,個人の
体験によって真かどうかが量られます。たとえ他人が客観性を以って認めたとしても,
また,たとえ論理的に何かが示されたとしても,個人が感情的に納得できなければ,
その「救い」は棄却されます。このとき,何かを客観的に確認しても意味がありません。
そのとき,苦しんでいる「彼」が実は苦しんでいないのだ,と証明しても,証明の後も
やはり彼は苦しんだままです。それ故に,客観的基準は採用できないのです。
548 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 14:58
>>544 貴方が、何を主張したいのか分からんのですよ。
唯心論が崩壊して、その後唯物論なのか?という事でもないみたいだし。
ただ、実在性というのを肯定しているのか?
で、その後はどうなるんか?
この実在性こそが絶対基準だから、それ以外のイデオロギーは無意味である。ということなのか?
う〜ん分からん。
549 :
brown:02/06/30 15:00
要するに,客観的事実と経験とは異なるものであります。仏陀曰く,
「ある男が喉の渇きを覚える時,
水を思考するだけでは渇きを癒すことができず,
ただ,水を飲むことによってのみ,
渇きを癒すことができる。」
物の実在性など客観的事実を量る際には,客観的知識体系である科学による必要が
あります。一方,私が生きているということ,その意味,実感する苦にどのように
対決していくかという問題を解くときには,体験的自己超越の体系である宗教に
よる必要があります。
550 :
名無しさん@1周年:02/06/30 15:05
>>547 主張の意味が不明ですがどうでしょうか?
それから、外界の実在の客観性を認めるということと、いわゆる唯物論とは
本来的に無関係なのです。もちろん、いわゆるいうところの唯物史観とも
無関係です。この辺に、宗教家の根本的な誤認識といえるでしょうね。
おわかりでしょうか?
551 :
名無しさん@1周年:02/06/30 15:08
>541
もちろん538は、なんでもごちゃまぜにしてしまう幼稚園児以下です。
552 :
名無しさん@1周年:02/06/30 15:08
>>550 は
>>548 へでも言えるでしょう。
別に、外界の存在が客観的に明瞭であると主張しても、それで唯物論になる
わけじゃないでしょう?その論理的な必然性は証明可能ですか?
また、唯物論か唯心論のどちらかを選択するように人間は責められているん
でしょうか?
不思議ですが。
553 :
名無しさん@1周年:02/06/30 15:11
世界の実在が証明されているのはこれまでの論証のように自明でしたが、
それで何かが変わらなければならないのですか?不明です。
554 :
名無しさん@1周年:02/06/30 15:15
>>548 >貴方が、何を主張したいのか分からんのですよ
ですから、唯心論になることもなく、ものに妄念を抱いて固執しないような
心持になることを、釈迦は言っただけですということで、空を「客観認識の
否定」なんかに持ちこむ必要性は何もない、ということです。
物理学と宗教は完全に別の世界に分けてしまうべきであり、空やら唯心論が
世界存在論を含むなんてことはするべきでない、ということです。
555 :
名無しさん@1周年:02/06/30 15:17
>>549 >私が生きているということ,その意味,実感する苦にどのように
>対決していくかという問題を解くときには,体験的自己超越の体系である宗教に
>よる必要があります。
それがつまり、こころの持ちよう、気の持ちようの世界ですよね。
それでいいでしょうね。同意です。
556 :
名無しさん@1周年:02/06/30 15:20
>543
「ほら、ここですでに実在が否定されているじゃないか?」などといっているが、
これが全然違うというのよ。全然わかっていない。
条件を変えるといろんなリアリティが出来てしまって
固定した不変のリアリティなどありえない、
ということを「実体がない」といっているんだよ。
だから無でも有でもなく、空だといってるわけでしょ。
外界が超・主観的なレベルで存在しているか存在していないかの議論は、
戯論ということでしょ。
釈迦は何よりも苦を克服することをテーマとした。
釈迦の言った「一切」とは、
感覚器官を通して入ってくる情報が「一切ス」だといっている。
それ以外に世界とか対象とかを実体視することから、
妄想が起こるといってるのさ。
「ああだこうだ言ってエンギとか抜かしても所詮それは釈迦の教えじゃなくて、
後でこういう外道の宗教に擦り寄って回帰した結果にすぎないんだよなあ。わかる?」
そもそも「苦の生起」そのものが縁起でしょ。四諦は釈迦の教説だよ。「わかる?」
557 :
brown:02/06/30 15:22
>552
あなた面白い人だね。
あなたは唯物論を主張しているということ?(だとしたら私の「主張」とはこれ違う。)
その際,唯物論って何でしょうか?
唯物論と唯物史観はちゃんと区別していますか?
唯心論の方を幾分でも理解されているのでしょうか?
唯心論と関係しますが,唯X論を主張する場合,その範疇に入らないかのような
物事をどのように処理するのか理解していますか?
そもそもこれらの質問にあなたは解答可能ですか?
558 :
名無しさん@1周年:02/06/30 15:24
>>556 それを、世界実在の議論が否定したとでも?
不可思議な論法。
559 :
名無しさん@1周年:02/06/30 15:25
>>557 >そもそもこれらの質問にあなたは解答可能ですか?
君の論理が不明だといっている以上、不能だね。
560 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 15:27
>>552 >外界の存在が客観的に明瞭であると主張しても、それで唯物論になる
>わけじゃないでしょう?
客観的に実在する。実在するんなら唯物論かと思いますが・・・
そこから派生したのが精神世界なんじゃないでしょうか?
そこのところが、貴方が唯心論を否定した時点で唯物論になるんじゃないでしょうか?
あくまでの「唯心論否定」が前提ですが。
唯物でもなく、唯心でもなく、第三イデオロギーでしょうか?
そこのところに深く興味があります。
561 :
名無しさん@1周年:02/06/30 15:37
認識だけが存在していて、それ以外は不明であるというのが唯心論の世界である
なら、私の苦とあなたの苦は「本来的、かつ本質的、かつ根本的に」別の世界だと
いうことになる。
しかし、たとえば精神病とかでも共通点がある。共通点を認識し得るということは
心の病なりに客観的な構造論が適用できるということであり、そこから病気の治療
ということも考えられてくる。それは即ち、構造の存在の肯定であり、構造の存在
イコールメカニズムの存在であり、法則の存在である。法則の存在は、それらに
関わる物質的なメカニズムを含めた心的作用の身体的影響力の存在の証明でもある。
これらはすべて客観的な研究の対象となりうるものであり、そして同じ人間種に適用
できると判断される医学に発展するだろう。これはすべての科学の研究と同様である。
ということは何かわかる?宗教も心理学の一種であるという視点ですよ。
気の持ちようと何度も言っているがわかりませんか?唯心論などと認識だけが存在する
などと嘯かなくても済むはずだ、というのが主張ですよ。何度も言ってますが?
562 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 15:39
>>554 つまり貴方は、唯物論に非ず、唯心論に非ず、それは一如である。
身心一如である。
これを説きたいのですか?
いわゆる、釈迦仏法をなんとなく匂わせているのでしょうか?
分からんです。少しは考えてみますが、なかなかムズイ論法なんで(w
563 :
名無しさん@1周年:02/06/30 15:42
例えば、矛盾という故事成語がありますね。この故事成語を公案として
解いてごらんなさい。
そこに空があるというなら、そこまででOKです。それ以上に「空」が格上げ
される必要はさらさらありませんね。そういう心の持ち方とか受け取り方、
ってのが「さっぱりした」気の持ち方というもので、空だというならそこまで
で終りです。公案を解くだけが人の残された仕事になりますね。どうでしょうか?
>>562 >そもそもこれらの質問にあなたは解答可能ですか?
そういう受け取り方も結構でしょう。しかしそこには世界存在論も構造論も
含まれていないならば許されましょう。そういうことです。
以上でいいかな。
>>565 訂正です。スマソ
--------------------
>>562 >身心一如である
そういう受け取り方も結構でしょう。しかしそこには世界存在論も構造論も
含まれていないならば許されましょう。そういうことです。
以上でいいかな。
567 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 15:51
唯心論は「認識だけが存在する」というのは不思議です。
いわゆる・・・
「認識と⇔認識する対象」→これの関係性を→唯物論、唯識論と逝っているんじゃないですか?
つまり対象の方が認識させているのか?
認識しいう作用があって認識できるのか?
どちらが優先するのか?なんじゃないでしょうか?
568 :
brown:02/06/30 16:01
なんかわけのわからんことになってきた。
外界も,客観的事実も,認識も,心理の客観性も全て実在すると思いますが。
客観的事実が実在するのにそれがないとするのもおかしいし,客観的でない個人
的な経験が実在するのにそれがないとするのもおかしい。一方,個人的経験を
無視したような唯物論は実在しないし,客観的事実を無視したような唯心論は
実在しない。このような妄想の上に虚構された認識の全ては,人々の思考や
感情の連鎖を複雑にしてしまう。要するに,ありもしない論敵を個人的体験領域
に作り上げて互いに罵りあうことになってしまう。「我はこのようにすばらしい
理論を説く」と主張するが,他人の言っていることは全然理解できないような
状態なので,複雑に絡み合う妄想をさらに複雑にしてしまうだけなのである。
単に,あるものをあると知り,ないものをないと知るだけで解決することなのだが。
客観的事実も実在するし,個人的体験も実在する。客観的事実のない個人的体験は
実在せず,個人的体験のない客観的事実は実在しない。
569 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 16:02
>>566 だいたい考えている事は分かりました。
つまり、唯心論を否定しちゃうところに問題のズレが出来ちゃうんかと思います。
唯心論→唯神論。これをごっちゃにしちゃったんかと思いますよ。
心と神。まあどちらもシンで間違いやすいですからね。
神とは違います、心で宜しいかと思います。
570 :
名無しさん@1周年:02/06/30 16:03
age
571 :
名無しさん@1周年:02/06/30 16:10
__,,,,_
/´  ̄`ヽ,
/ 〃 _,ァ---‐一ヘヽ
i /´ リ} あたまテッカテカ 濡れてピッカピカ
| 〉. -‐ '''ー {! それがどうした 僕皇太子
| | ‐ー くー |
ヤヽリ ´゚ ,r "_,,>、 ゚'} 大人の世界の 電動ロボット
ヽ_」 ト‐=‐ァ' ! どんなもんだい 僕皇太子
ゝ i、 ` `二´' 丿
ヽ===(テ)=="l 奇妙奇天烈 摩訶不思議
(l () () .l 奇想天外 自己挿入
l () l) 悶エ迅速 男ハ不要
l () l
l () l) 皇太子(ウィンウィン)
(l () l 皇太子(ウィンウィン)
l () () l ツウ販デカッタ
l () l) 通ハンデ買ッタ
〔liiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiil〕 皇太子
〈:..... .....:〉
〈:..... .....:〉
〈 .〉
l`ー―――‐‐'l
`ー――――'
572 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 16:17
では、自論です。
唯心論や唯物論の、「初めに心ありき」。でもないし「初めに物」ありきでもない。
これが「空」かと思います。
空とは、こういった概念では定義つけられないもの。
こういうイデオロギーの範疇外。こういうことかと思います。
573 :
名無しさん@1周年:02/06/30 16:41
法華経の梵我一如の梵てブラフマンのこと?
久遠実状の仏って、諸行無常・諸法無我から逸脱していない?
応えてCHU~~~(゚・^*)
574 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 19:02
>>573 私は基本的に般若心経←これです。
般若心経と法華経には一つのステップがあるものと思っております。
そこのところは、それ相応の方のレス、キボンヌ
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。
度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。
空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。是諸法空相。
不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。
無色 無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。
無眼界 乃至無意識界。無無明亦 無無明尽。
乃至無老死 亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩。依般若波羅蜜多故。
心無礙 無礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。
究竟涅槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。
得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若 波羅蜜多。
是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。
能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。
即説呪日。羯諦 羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。
菩提薩婆訶。般若心経。
575 :
名無しさん@1周年:02/06/30 19:46
>558 :名無しさん@1周年 :02/06/30 15:24
>>556 それを、世界実在の議論が否定したとでも?
不可思議な論法。
おいおい。
あのね、これを「不可思議」というの、あなたは。
この論法自体は、恥ずかしいぐらいに仏教の基礎的な論法で、
オリジナリティ「0」の伝統的な論法よ。
私のレスは単にそれを踏襲しているだけ。
繰り返しになるかも知れないけど、仏教の認識論、存在論は、
あなたがそう思いたがっているように、
「仏教の空概念=外界の実体性を否定している=外界は存在しない=唯心論」ということをいっているのでは全然ないの。
外界の知覚と主体の関係性の問題をいっているわけ。
それを「縁起」といっているわけ。あるいは「五蘊無我」といっているわけ。
あるいは「空と縁起」といっているわけ。
この流れにおいては、釈迦と竜樹は論理としては、直結するさ。
しかもその共通のモチベーションは、「苦の超克」だからね。
釈迦仏教と大乗仏教は、ここでつながっているよ。
釈迦が「現存在」についていっていることを、
竜樹は「世界内存在」のすべてについていっているという違いがあるだけ。
576 :
名無しさん@1周年:02/06/30 19:47
brown氏か゛言う通り、
「個人的経験を無視したような唯物論は実在しないし,客観的事実を無視したような唯心論は実在しない」わけ。
その個人的経験、個人的な知覚、個人的理解といったような(その主体は科学者でもいいよ)の主体の経験を通してしか、
一切の認識も物理法則もありえないでしょ。
たとえどんなに整合性を持つ高度に壮大な体系であったとしても。
だからまとめていうと、客観、客観といっていることが、往々にして、価値の実体視や、科学偏重につながったりしているわけで、
これこそが人間の煩悩や想像力の歪みや、理論信仰と結びついて
「実体視」そのものにはまりこむことが多いわけ。
釈迦の言う「一切」というのは、そういう人間の知性と感性の宿命的幻想に対する
きわめて厳しい批評的知性の表現なわけ。
あなたは、それをまったくわかっていない。
繰り返すけど、仏教は「外界の存在を否定している唯心論」だとあなたは思っているかもしれないけど、
それは大きな間違いで、
「(主体の、あるいは客体の)条件を変えるといろんなリアリティが出来てしまって、
固定した不変のリアリティなどありえない」
ということを「実体がない」といっているんだよ。
それは、「実在がない」といっているのではないんだよ。
だから無でも有でもなく、空だといってるわけでしょ。
その「空」は釈尊の「五蘊無我」から派生しているんだよ。「わかる?」
556=575=576
578 :
名無しさん@1周年:02/06/30 19:57
>>576 まあいいでしょう。
しかし、
>「(主体の、あるいは客体の)条件を変えるといろんなリアリティが出来てしまって、
>固定した不変のリアリティなどありえない」
>ということを「実体がない」といっているんだよ。
この「見方を変えると、客体の見え方が変化する」ということの実例を言ってみて
ちょうだいな。
すでに言っているのとどう違うの。
原子は厳然としてある実体だけどね。たしかに条件を変えると原子は分子になり、
また個体にもなれば、液体にもなるし、気体にもなる。昔はそういうのを見て、
外界や世界は無常で、実体がないと結論したんでしょう?春、夏、秋、冬と世界は
変化する、うつろうものだと。だから実体はないのだと。
だが、現代物理学ではその根底に原子があり、また素粒子があると、ちゃんと測定に
かかる現実に実体を見出しているではないのよ。それはいつも同じ条件で測定すれば
電子顕微鏡で金の結晶表面の原子を目に見せてくれるまでになっているんだけどね。
世の中には実体があるんだけどね。
579 :
名無しさん@1周年:02/06/30 20:05
>>576 >釈迦の言う「一切」というのは、そういう人間の知性と感性の宿命的幻想に対する
>きわめて厳しい批評的知性の表現なわけ。
いいよそれで、もちろん。だからそう言っているじゃないの。
釈迦は自分の世界に対する妄念を、当たり前の論理で知ることを知れ、
人は病気で死ぬことはある、それで自分の子供が死ぬこともあるし、
それで死んだらもう元には戻らない、いつまでも嘆き悲しんでしても
仕方がないのだよ、と、ではまだ死人が一度も出たことのないウチに
いってこいと言って母親を諭したのでしたよね。
ただそれで十分でしょう。そこに訳のわからない話をつけて、唯心論だとか
唯識論だとか言い始める隙は本当はないはずでしょう。
580 :
名無しさん@1周年:02/06/30 20:08
もしそうする隙があるのだとしたら、それは物理学で説明のできない
不思議な現象や能力といったものが現実にこの世の中にある、だからそれを
説明するためにそういう霊とか魂の力があるはずだというようなことから
理論が出てくるのなら、唯心論も心一元論も認識論もあっていいでしょうね。
そうでなければ論理の必然性に全然欠けると思いますが。
>>574 レスありがとうございます。
仏教って難解に考えれば考えるほど、いっそう難解になるんですね。
手前も現在、般若心経にはまっています。
堀田和成氏の般若心経ですが、空の捉えどころが神なんです。
この方、クリスチャン?
でも、神アレルギーを克服して読めば、著者の温かい人柄が伝わって
も来ます。
2chの宗教談義、皆様、難しいレベルで議論されるんですね。
いつも感服と戸惑いに泣かされる手前でありますです。
582 :
名無しさん@1周年:02/06/30 20:12
>>576 >「苦の超克」
ということでいうのなら、すべての宗教がそんなようなものです。
ただ、苦を諦めで超克するという意味であればそうでしょう。その方法は
単に、当たり前に考えろよ、ということでしかなかったのですが。
我々は単に公案に勤しむだけで結構なはずです。
空となるのは、空について論じることでは達成できない。無用の論理を
積み重ねて空について知った気になるだけが関の山のように感じますが。
583 :
名無しさん@1周年:02/06/30 20:16
>>573 >法華経の梵我一如の梵てブラフマンのこと?
>久遠実状の仏って、諸行無常・諸法無我から逸脱していない?
凡我一如なんて、それこそ空論でしかあり得ませんね。それについて知った
気になるだけのホッケ教なんて意味ありません。ホッケなんてカスみたいな
もんです。
釈迦とは無縁のヒンズー教の教典じゃないでしょうか?ウパニシャッドの
別名かと思ってますね。だから層化学会とか出てくるしまつでしょう。ホホホ
584 :
ナトー・グリーン:02/06/30 20:38
>>578 原子が厳然としてある実体だって? 原子レベルの
実体の概念って、どんな風だ?
585 :
ナトー・グリーン:02/06/30 21:00
物理学的な世界像は測定機器を通して眺めた世界だ。
586 :
名無しさん@1周年:02/06/30 21:14
「この世に絶対はない」と言うとき多くの人は
、その言葉に疑いを持たないでしょう。
「絶対」と言った場合、それ一つで完全なもの
完璧なものという意味があると思います。
そして、「存在はある」、あるいは「実体はある」
と言った場合、「絶対存在、絶対実体がある」と言う
意味では使われていないと思います。
なぜなら、宗教で言う絶対と言う言葉は絶対者
を意味し、それは「神以外に完全なものはない」
という考え方があると思われます。
だから、唯物論的な意味での絶対をどう考えて
いるかによってお互いの論理的な誤解は
免れるのではないかと思いますが。
587 :
名無しさん@1周年:02/06/30 21:53
>>583 法華経のこと知ってるのか?
たぶんおまえは髑髏。
もいっかいしらべといで(藁
588 :
名無しさん@1周年:02/06/30 22:10
法華経とは、法の華を主催した福永法源の語録
を集大成したスートラのこと。〜〜〜
♪ホー惚けキョ
589 :
名無しさん@1周年:02/06/30 22:14
↑
最高で〜す
590 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/06/30 23:02
>>581 参考までに・・・
私は、一応禅宗系に傾倒しているもんで法華経までは基本的に進まないんですよ。
しかしながら禅宗においても、江戸時代の白隠は大悟の後にほ法華経の紐を解くんですね。
これは、白隠の生家が法華経を教義とするお寺だった事や、幼少の頃に「地獄の恐怖」観念を植え付けられたのが
起因するんじゃ〜ないかと推測してます。
そういう訳で私は般若心経で充分。
しかしながら、それでも物足りない?というのであれ白隠のような進みかたもあるかと思います。
現在、臨斎正宗では白隠の伝統を継承して法華経は学ぶらしいです。
曹洞宗では、おそらく法華経はあまり重要視していないんじゃ〜ないでしょうか?
>>590 禅宗系から法華経に進むというのは、より鮮明に実在というか色を求める
ということですか。
白隠禅師という人、臨終の際、死にとうない≠ニ言い残して逝った人で
したでしょうか。そうだとすれば、きっと法華経の実存的影響を受けたか
らではないかと思ったりするんです。
断っておきますが、決して法華経が云々という訳ではありません。誤解の
ないように。
因みに、手前の生家も曹洞宗でございます。
↑
このレスは論理的展開がまったくなされていません。
果たして問題点は何ヶ所あるでしょうか。
誤爆した。鬱だ氏のう。
↑=590なり
594 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/07/01 00:11
>>591 >白隠禅師という人、臨終の際、死にとうない≠ニ言い残して逝った人でしたでしょうか
臨斎における「中興の祖」といわれる僧ですからね。
「死にとうない」とは言わんでしょう・・。 そういう事を言った禅師も居るというのは聞いたことがありますが。
しかしながら、白隠においてあまり詳しくはないですが・・・
>より鮮明に実在というか色を求めるということですか。
というよりも、菩薩道においての「実践」の色合いが強いんではないんでしょうか?
実在というのは既に超克しているんでしょう。白隠たる人物ですからね。
では、これにて落ちます。
595 :
名無しさん@1周年:02/07/01 00:12
髑髏は、すでに陥ちてるYO!
596 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/07/01 00:19
>>591 >きっと法華経の実存的影響を受けたからではないかと思ったりするんです。
十牛図、十図を考えても、これは想像できませんね。
しかしながら、白隠においての議論が出来るのであれば非常に興味があります。
そういう流れになれば宜しいんですが・・・。
597 :
名無しさん@1周年:02/07/01 00:35
科学の方法による信念の確立。
「ダイアモンドは硬い」=「他のあらゆるものと擦り合わせても、傷が付くことは無い」
598 :
TCのピート:02/07/01 00:45
落ちると言ったら、潔く落ちること。
599 :
brown:02/07/01 00:45
>579
本当にそれだけだと思う?
違うよ。釈尊は悟りを示した。神によることなく,客観によることなく,
永遠の実体によることなく,議論によることなく,特定の見解によることなく,
比較によることなく,いかなる所属によることのない安楽吉祥なそれは,
苦の滅せられた大いなる超越であると。
その超越に至ることは可能であり,そのためには「道」が存在する。
それは,迷った存在であるほかならぬ私が,激流を渡り,悟った存在である
ほかならぬ私に変化する過程であって,現実の存在についての話なのです。
それは,今この迷った現実の私が,見解や所属,優越感や劣等感を取り替えることに
よって何かが変わるというようなものではありません。気の持ちようとは違う。
「コップに水が半分あるとき」@まだ半分ある,と思うのとA半分しかない,と
思うので生き方が変わるなどという,気分の問題ではなく,徐々にそのような問題の
一切が静かに消え去っていく現実の体験とそれがもたらす洞察を言っているんです。
確かに,霊や超能力,神は存在しませんが,悟りは実在します。
それは決して客観的に確認することはできませんが,誰でも師(仏陀)と同じ境地に
達することができる道なのです。現に弟子(私)が悟りを成就することにより主観的に
確認するような仕方で実証される尊く深い感謝に裏付けられた伝統なのです。
悟りと気分の持ちようや無分別とは異なるものであることに注意してください。
それは,徐々に進むものであるし,また実際に体験する現実であることに注意
してください。
600 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/07/01 06:50
法華経について
層化のように、法華経の無量寿品をクローズアップして、一気に法華経に入るのは疑問ですね。
やはり基礎は般若心経かと思います。
そこから、法華経に進むのは良いとしても・・・
たぶん、心経で「お腹イパーイ」になるかと思います。
法華経は色々見解の分かれる経典かと思います。
それだけ、自分の判断というのも大切かと思います。
覚者の経典なのか? トンでも経典なのか?
601 :
名無しさん@1周年:02/07/01 07:56
>>594 「市にとうない」は一休ザンですYO!
白隠ザンの遺偈は無いみたいです。
602 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/07/01 08:14
>>601 >「市にとうない」は一休ザンですYO!
一休禅師は、ジョークの好きな方でしたからね。何となくニュアンスとしてピッタシです(w
一休の、自由は境涯を推測しております。
私の尊敬する禅師の一人ですね。
「生死などござらん」と逝って、立位のままで往生した禅師もおりますからね。
禅師の個性がしのばれます。
>白隠ザンの遺偈は無いみたいです。
どうもです。
盤珪は、たぶん往生際は良かったんかと思います。
「不滅など無駄なこと」と逝っちゃった手前・・・・(w
喪家が現在のように肥大したのは,心経を一足飛びして実践型に移行した
からでしょうか。いささか、前頭葉の欠落という負の部分を姑息な形で菩
薩道にシフトした感も否めません。
それはさておき、白隠禅師については私も詳しくは知りません。
十牛図に関して言えば、何故、牛なのか?ということです。古来より牛や
馬は役畜として人間と共に生活をしてまいりました。性格温和・従順な草
食動物を求道の譬えとして用いるのは安易じゃないか、なんて思ったりし
ます。百獣の王、ライオンのような肉食動物を自家薬籠中の物にするんで
あれば、それは大悟に値するのではなんてね。
604 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/07/01 17:01
>>603 >心経を一足飛びして実践型に移行したからでしょうか。
早く逝ってしまえばそんなところでしょうね。
鎌倉時代も現在も、人心の荒廃というんでしたらある共通性はあるんでしょうけど、
そういう事で、方便というんでしたらそういう考え方も寛大に受け止めることも大事かとは思いますが。
>草食動物を求道の譬えとして用いるのは安易じゃないか
「青い鳥」の話と共通するところがありますよ。
鳥を探しに旅に出る。最後には、青い鳥は自分の心の中に住んでいた。というストーリーです。
最終的には牛も鳥も「自分の心の所産」であったと。求めようとする「自分とは何ぞや?」
これを・・・実は求めていたんだと。
牛や鳥ではなかったんだと・・・
自分の心なんだと・・・
ああ、そうなのか・・・。こんな感じなんでしょうか。
法華経において「貴方は本当は仏なんです」「それを気づいていないんです」
それをいきなり説かれても困惑しますね。通常は・・・
そこで寿量品の肝心、一念三千の法門、南無妙法蓮華経の秘法がでてくるんでしょうけど。
ホッケは、呼吸法ですよ。皆さん。わかってますかあ?
ナンミョーホーレンゲーキョー
ってのは、ただカタカナで書いておいて読ませても効果があります。
釈迦の説いた悟りとは本質的には別に関係などないただのマントラムにすぎません。
それが理念とか思想とかいうものとも本来的には無縁です。
それは呼吸法ですので、唱えるリズムだとか、スピードだとかいうものと関係するに
すぎません。
漢字を当ててたまたまうまーだったというにすぎません。
何か願いごとを思って唱えて現実になると信じるのに勢いをつけさせてくれるための
道具でしかありません。
ですからこれは本来的に仏教とは無縁です。マントラムですからまあ、「真言」では
ありますね。ですから、仏教ではなく、ヨーガ、喩伽派から来たと考えるべき筋合い
のものです。
それを無理やりホッケの題目だと主張した痛い人が日蓮だったのです。
それがたまたま「願い事がかなったと信じるのにちょうど都合のよい暗示的効果」
をもたらす”道具”であったというだけのことです。
以上です。
ちなみにワタシはナントカ仮面さんではありませんぜ、えっ。
ホッケはウパニシャッドの別称です。
おわすれになりませんように。
へへへへへへへへへへへ
「一念三千の法門はただ法華経の本門寿量品の文の底にあり」と喝破なされた
日蓮聖人、法華経に帰依することによってのみ、元の来襲による日本国の滅亡
は免れると鎌倉幕府に迫ったにもかかわらず、時の天変地異、海上を荒れ狂う
恵みの大暴風雨の来襲は予見出来なかったみたいですね。、彼の識別智をはるか
に凌駕する悠久の大宇宙の法則、それこそが空ではないかなんて。
戦いの後にはいつも酸鼻きわまる地獄絵図、敵味方の区別なく、犠牲となった
兵たちの菩提を弔った執権、北条時宗の姿こそ、十牛図の第一、尋牛(発菩提心)
の顕れかと感じ入りました。
日蓮聖人、確かに偉いお坊様なのでしょうが、求道の集大成を焦りすぎたみたい
です。何もそこまで一つの経典に使命を背負わせなくても。道に終わりはないの
ですから、なんて思ったりします。
608 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/07/01 22:38
>>605 >それは呼吸法ですので、唱えるリズムだとか、スピードだとかいうものと関係するに
>すぎません。
うんうん。実は私もそうおもいますね。
「南無妙法蓮華経」は、これは流暢な三拍子ですね。
これを長く唱えれば確かにトランス状態に近くなるかと思います。
そういう事を考えた日蓮大聖人は、う〜ん、違う意味でたいしたもんですよ。
また・・・・
一気に法華経にすっ飛んじゃって・・・う〜ん、これもたいしたもんだと思います。
まあ、当時としたらドエライ事を考えたんでしょうね。
こういった事を考えた・・・というんでも、まあたいしたもんなんでしょうね。
当時とすれば、の話ですが。
>>605 ナンミョーホーレンゲキョーと仮名で書いて読んでも効果があるのなら、
なおさら読む側の心がけが重要かと。
邪な心で唱えて黒魔術効果が伝播されたらたいへんです。
みんな、空についてはどうでも良くなったのね。
ある意味、悟り!?
>>610 「空」と逝っても、中論、唯識、如来蔵みんな違うから難しいようです。
私はちなみに般若思想。いうならば・・・
そかし、こういったジャンルに分けるのもねぇ、可笑しな話(w
612 :
名無しさん@1周年:02/07/04 10:56
元ソバ屋である至道無難ってすごい坊さんなの?一流なの?正統なの?
>>612 その人の事はよくわからないけれど・・
正統とか一流とか、
本物の坊さんならどうでも良いことだと思います。
それは思想をよく考えて、あなたが決めたらいいことです。
法華経と道元さん
曹洞宗のことは詳しくはありませんが、
道元さんはどうやら法華経に大事していたようです。
もちろん日蓮さんの解釈を通した法華経じゃなくて、
「素(す)」の法華経ね。
「正法眼蔵」なんかにはたくさん法華経の引用が出てくるし、
道元さんは亡くなる直前に妙法蓮華経の神力品を唱えていたらしいよ。
法華経というお経を読んでみたら、
「空」の概念画ベースにあることは分かる。
般若心経なんかが説く「空」の概念で
世界を説明したときに、自分の人生自体に
何の意味があるのか分からなくなるが、
法華経には、なんで仏が仏の道を説いていて、
何で自分らが生きているのかという意味を
つかめる。
般若心経の内容はすばらしいけど、
般若心経だけでは自分の存在意義や
世界の存在の意味が分からない。
というか誤解する人がいる。
そう思います。
615 :
brown:02/07/06 23:46
法華経に説かれていることは無論,嘘ですが,より深い疑いに読者をいざなうトリック
ではあります。これは阿弥陀仏の救いも同じ構造を持っています。阿弥陀仏や
娑婆世界の釈迦如来は絶対的確信をもって「あなた方は既に救われている」と断言
する。@一つには,無為の悟りからすれば,「救われようとすること」を心から削除
すればよいのだから,既に救われているということにより問題自体をなくしてしまう
ことを目指していると捉えることは可能です。ジーザスもかく語りき。(411参照)
Aところが,この方針は私に言わせればきわめて人を馬鹿にした方針なのであって,
問題はただ無視したり,ただリラックスしたり,ポジティブに考えたり,意識の
捉え方の問題であるのではなくて,「現実にある」ものです。ただ坐っていれば
よい,ただ自然に帰ればよい,無心になって子供のようになればよいというのは,
お子様向けの定食に過ぎないので,自ら生きていることを自覚する大人には本来
向かないのです。大乗の方便は,観念としてはすばらしいが,大人にはお子様定食
にしか見えない。しかし,人々はときに自らの迷いに関して無自覚的になって
います。だからこそ,このお子様定食のソリューションを突きつけるのです。
「これでよいだろう」と。人々は,はじめそれに喜びます。しかしやがてこんな
馬鹿な話はないと気付く。こんなことで安心できるとは,人を馬鹿にした話だと
気付く。そうしてそれより深いところにある本来の疑問に到達するのです。
これがその作者である覚者がしくんだ意味深い智慧なのであって,たいていの
大乗経典はそのようにあまれているのです。
616 :
brown:02/07/06 23:53
つまり,これらは,貴族の享楽的な生活をしてきた釈尊の子供時代の追体験の
ようなものなのであって,それを経験して,それへの虚しさをしみじみと知って,
「ああ,虚しいなあ」というため息が本当に出てくる。現代の通常の人々は,普通
に幸せですが,虚しくなるほど幸せではない。そのぬるま湯から一度連れ出して,
決定的な幸福感の中に導くのが大乗の役割なんですね。
そこから求道者は,本来の疑問を起こす。「私は一体誰なのだ?」,「私はここで
何をしているのだ?」,「私はどう生きればよいのだ」,「最高の幸せがここに
あるのになぜ私は完全に幸福ではないのだ?」と。
おこちゃまAGE
619 :
東京ディズニー行きた〜い:02/07/06 23:58
北朝鮮の小太りさんと、そのムスコに考えてホスィ。
620 :
名無しさん@1周年:02/07/07 00:12
621 :
名無しさん@1周年:02/07/07 00:22
ageとく
622 :
名無しさん@1周年:02/07/07 03:32
>>610 >みんな、空についてはどうでも良くなったのね。
>ある意味、悟り!?
だいたい悟りました。
623 :
名無しさん@1周年:02/07/07 03:42
>>622 >だいたい悟りました。
悟りの内容を書いて下さい。
624 :
名無しさん@1周年:02/07/07 07:00
諸行無常、諸法無我。
625 :
名無しさん@1周年:02/07/07 07:58
>>620 読めねーよ。長すぎて。
般若心経くらいにまとめれ。
626 :
名無しさん@1周年:02/07/07 08:01
>>623 >悟りの内容を書いて下さい。
DQNばっかなんで今は言えません。
627 :
名無しさん@1周年:02/07/07 09:40
>>625 この世界が実は本当にマトリックスの様な「空」の世界だっちゅー主張です。
宇宙の根本仏が自分のために造り出した世界という訳ですね。
釈尊や空海はそういう事本当に信じてたんじゃないだろうか。
628 :
名無しさん@1周年:02/07/07 09:44
>627
それって、要するに映画の「マトリックス」じゃん。
ヒンズー教のマーヤ思想とどこが違うの?
629 :
名無しさん@1周年:02/07/07 09:50
>627
基本的にオウムの世界観はあなたがいっているものだよ。
ただし「宇宙の根本仏」が、シヴァ神になっている。
プロティノスなども「一者」から世界が流出するという点で同じ。
630 :
名無しさん@1周年:02/07/07 09:52
>>628 マーヤ思想はあんま詳しくはないんですけど、
「諸行無常」であり「空」であるわれわれの世界の奥に
「常」であり「色」である実存の世界、真実の世界、根本仏が座っている
という考えかたなんですが。
長いけど620読んでもらえれば。
631 :
名無しさん@1周年:02/07/07 09:57
>>629 そうだったのか、御指摘どうも。
そうするとあの教団ももとネタが神智学にあるのかな。
人殺していいとは決して思いませんが。
いろんな覚者の著述読んだり世界を見てみるとこの考えで良く説明もつく。
632 :
名無しさん@1周年:02/07/07 10:00
覚者、霊能力者、ヒーラーとしてのキリストについても実際にあったと
思える。
620に買いてます。
633 :
名無しさん@1周年:02/07/07 10:30
>631
オウムは神智学を入れてますよ。用語を見れば明らか。
マーヤ思想自体が危険というよりも、グルイズムが極端化したのでカルト化し、一線を踏み越えたのではないかと思う。
634 :
名無しさん@1周年:02/07/07 11:10
ということは、オウム真理教は正解ということだね。
この調子でオウムについて掘り下げてみよーではないか・・・。
スレの感じが良くなってきているね。
635 :
名無しさん@1周年:02/07/07 11:17
>>630 >「常」であり「色」である実存の世界、真実の世界、根本仏が座っている
やはり実存の世界があったんですね。
たぶんそうじゃないかとおもいますよ。
そこに根本仏が鎮座してると・・・。なるほど、そうゆう事ですね。
636 :
名無しさん@1周年:02/07/07 11:26
>>627 映画のマトリックスなら観たことないからわからんが、この世界が空というのには同意。
ただし
>宇宙の根本仏が自分のために造り出した世界
とは思わん。
ただ、空、だけでよかろう。
637 :
名無しさん@1周年:02/07/07 11:37
>>636 いやいや、根本仏が実存しているのですよ。
信じられないでしょうが。
これは「事実」です。「実存」ですから。
信じられないんならしょうがないですが、存在しているのですよ。
638 :
名無しさん@1周年:02/07/07 11:43
>636
620 =630 の場合は、「色」と「空」が普通の仏教と逆転しているように見えるけど、
この際、ヒンズー、釈迦仏教、大乗仏教、チベット仏教、神智学、オウムなどの
「色即是空・空即是色」の様相について考えて見るのはいいかもしれない。
ところで「ということは、オウム真理教は正解ということだね」これはネタか? w
639 :
名無しさん@1周年:02/07/07 11:45
>637
その根本仏とは、あなたでしょう。これはマジレスだよ。
640 :
名無しさん@1周年:02/07/07 12:05
尊師の抜きん出たところは、釈迦が説いた十二縁起を、書物上の観念からではなく、
実際に瞑想をとうして弟子たちに伝えようとしたことです。
そこのところが、ただ闇雲に題目を、しかも病気平癒とか酒乱の夫から逃れたいと
かの理由で題目を唱える他の宗教とは一線を画する教えなのです。
我が身の不幸を嘆くまえに、不幸の原因である病気や酒乱の夫を仏や菩薩の化身と
考えられるような智慧が大切です。
641 :
名無しさん@1周年:02/07/07 12:43
わかった。わかった。もう帰ろうね。
642 :
名無しさん@1周年:02/07/07 13:24
>>637 脳内に存在してても、しょうがないわな。
>>638 >「色」と「空」が普通の仏教と逆転している
ってどういう意味?
色が空で空が色なら逆転してもおんなじやん。
643 :
名無しさん@1周年:02/07/07 13:34
>>640 >我が身の不幸を嘆くまえに、不幸の原因である病気や酒乱の夫を仏や菩薩の化身と
考えられるような智慧が大切です。
ここにはかなり同意。
644 :
名無しさん@1周年:02/07/07 13:40
つまり根本仏一人ではなにも出来んから分身沢山想像して育てて楽しんどる
ちゅー事ですか。
今の状態=即身成仏状態
レベル100=梵我一如、か。
>>639 >その根本仏とは、あなたでしょう。これはマジレスだよ。
広義においてそうゆう事にんるでしょう。
>>642 >脳内に存在してても、しょうがないわな。
そーでは無いんだね、難しいけど。
存在は別なとこだよ。
646 :
名無しさん@1周年:02/07/07 14:09
>>640 >尊師の抜きん出たところは、釈迦が説いた十二縁起を、書物上の観念からではなく、
>実際に瞑想をとうして弟子たちに伝えようとしたことです。
麻原は、なんか人とチョッと違うかとオモ−テタけど、やはりそうゆうとこが違うんだね。
凡人には、なかなか麻原の良い面は理解できないからね。
そこのところを理解しちまえば簡単なんだけど。
なんとなく理解できそうな気がしてきたよ。
麻原を尊師とは言えないけど、友達くらいには思えてきたよ。
オウムに入る気はないけどね。
>>638 普通の仏教と逆ですか。そう言われればそうかなあ。
でも、釈尊はこの見える世界が「空」で
目も耳も鼻も舌も体も「我」としての小さい人間の心も実は無かったんだ。
とのたまわってる様に思いますね。
色即是空、空即是色。般若心経の意味として
ただのロールプレイングゲームの主人公みたいな。
輪廻転生してく時の使い捨て。
そうすると人間の構造としてモナド(超高我)以上の根本仏、絶対者に近い
部分のみが本当に存在する「我」でそれ以外は「諸法無我」。
648 :
名無しさん@1周年:02/07/07 14:19
649 :
名無しさん@1周年:02/07/07 14:27
>>647 >そうすると人間の構造としてモナド(超高我)以上の根本仏、絶対者に近い
>部分のみが本当に存在する「我」でそれ以外は「諸法無我」。
つまり、シヴァ神だね。眼から鱗(うろこ)ですよ。
今まで仏教を変に誤解していたみたいです。
650 :
名無しさん@1周年:02/07/07 15:03
>>649 なんで”つまりシヴァ神”なの?
教えて?
651 :
名無しさん@1周年:02/07/07 15:16
649
>>650 オウムからすると→シヴァ神。
念仏からすると→阿弥陀如来。
密教からすると→大日如来。
いずれも同じようなもんかと思います。
レスの様子だとオウムのようだし→シヴァ神。とゆう事です。
652 :
名無しさん@1周年:02/07/07 15:59
普通、大乗仏教の場合は、最終的に「空」がでてきてそこで終わるんだけど、
密教系の世界はヒンズーが入っているせいか、
秘密主とか、金剛サッタとか、普顕菩薩とか、いろいろな人格神的根本仏が出てくるよね。
大日如来も、そうなんだけど。
しかもそれらも化身であって、「色」として現れることもあるし、「空」になりえる存在となる。
大日経と金剛頂経とか、秘密集会タントラとかは、もうこの辺の世界だもんね。
だからとてもわかりにくい。
もちろん、三法印だけを純粋仏教とする見地からは、
この路線は単なるDQNになっちゃうんだけど。
ところで、
637 が「いやいや、根本仏が実存しているのですよ。信じられないでしょうが。これは「事実」です」
とまでいえる確信の背景は、何なの。
瞑想とか啓示とかの体験?
それとも、神智学の読書の知識?
653 :
名無しさん@1周年:02/07/07 16:10
「空」って、「無自性」って事なんだと私は仏教の先生に習いました。
654 :
名無しさん@1周年:02/07/07 16:14
>653 それはもちろん正しいです。
しかし経典によっては、「無相の意識空間」の意味もあるようです。
>>654さん、ありがとうございます。
「無自性」って事は、「他者との関係無くして存在出来るものなど、
自分の中には何一つ無いんだ。」という事だとも習いました。
そしてそれを知る事が「縁起」を知る事なんだ、とも。
しかし、それを知ったからといって、全ての存在に対して感謝出来る
ようになるかというと、私はなかなかなれませんけども・・・
しかし、アサハラショーコーこと松本智津夫被告(松本のちづちゃん)は、いかんせん
潔さに欠けてますなぁー!
凡人のほうが、よっぽどイサギいい人いぱーい、いますなぁー!(W
657 :
名無しさん@1周年:02/07/07 17:09
>>656 じゃあ、あなたは潔い人なんですか?
凡人だからこそ、潔くないんじゃないですかね?
ただ、松本ちづおチャンは、仏にすがるよりも、自分が仏になっちゃった
もんだから、ああなっちゃったんだと思いますけどねえ。自分が凡夫だと
思えない人こそ、本当に救われなきゃどうしようもない存在のように思い
ますねえ。私は自分の事を凡夫なんだと到底自覚できないっす。
658 :
名無しさん@1周年:02/07/07 17:37
地図緒さんが潔さにかけているといいますが、実はマハームドラーによって
弟子たちを引っ張っているんです。
密教の世界では、世間の常識や倫理を超越した空間が存在します。
659 :
ふくながほうげん:02/07/07 17:48
捕まっちまって、コーチショの中、入れられてからが本当の修行なされてる
とは、皮肉なことよのう・・・(最高の教えだ!!!)
660 :
名無しさん@1周年:02/07/07 18:52
麻原焼香は、まだ生きているから人気がないんで、
これが処刑で死んだら大変、一気にカリスマ性が発揮されるでしょう。
歴史の偉人というのはそんなもんだね。
願望と妄想
にほんも、アメーリカみたく、これとあれとそれと
ほんでもって、それもぜ〜んぶ、たして計497年のチョーエキ とかって考えないといけませんね!
664 :
名無しさん@1周年:02/07/07 23:59
殺人者は死刑だろうよ。
665 :
名無しさん@1周年:02/07/07 23:59
焼香なんてチャンコロの餌にすればいいじゃん!
666 :
名無しさん@1周年:02/07/08 05:01
あらら、いつのまにかAUMスレに。
>637 が「いやいや、根本仏が実存しているのですよ。信じられないでしょうが。これは「事実」です」
とまでいえる確信の背景は、何なの。
この質問、よろしく。
668 :
名無しさん@1周年:02/07/08 05:28
637
>>667 マトリックのような世界観でしたら、帰納的にたどれば「実在」として浮かび上がりますね。
マトリックというのは「実在」を前提にする訳ですから。
もし、実在というのが無いんでしたらマトリックも無いという事になるでしょう。
ですから「実在」⇔「マトリック」は対で考えるべきかと思います。
>>620は、そういう事を論じているんではないでしょうか?
それとも空論でしょうか?
空論でしたら論じる意味もないでしょう。
669 :
名無しさん@1周年:02/07/08 05:46
マトリックって、なによ?
670 :
名無しさん@1周年:02/07/08 06:07
マトリックというのは、夢の中の世界という事。
一応マトリックという映画は、夢を見ている実在というのが存在している。
「空の空、すべては空、なにもかも空しい」ってソロモンが
聖書(伝道者の書)に書いてたね。もっとも、
「あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えよ」って
念をおしてたけど。
672 :
名無しさん@1周年:02/07/08 07:05
空違いです。
意味知らないでしょう。
オームねぇ・・・・
どんな理由であれ人に危害を加える事を認める宗教って
血みどろの抗争を続けていくことは歴史が物語っているしなぁ・・・
憎しみを産み出すだけなんじゃないのかなぁ・・・
スレ違いな発言だなぁ・・・
前科者は宗教立ち上げちゃだめなんだよ。
デーンパミンゾク ♪ デーンパミンゾク ♪
♪ ドドンガドンドン ♪ ドドンガドンドン
∧ ∧ ,,──,−、 ♪ ∧ ∧ ,,──,−、 ♪
(,,゜Д゜) / (: :( ) )) (,,゜Д゜) / (: :( ) ))
|つ/つ `ー─``ー' |つ/つ `ー─``ー'
〜| | ┣━━┫┨ 〜| | ┣━━┫┨
U U ┠┤ ┣┫ U U ┠┤ ┣┫
>>668 「無」が世界を創造しようと働きを起こした時、それが「有」としての
宇宙の創造者、根本仏、神となるんですが、その根本仏が一段階自己限定して
自分をいくつかに分けた(神智学では7つと言われています)時、
一つ下の霊界(この場合神界)が生まれる訳です。
この場合の自己限定とはつまり次元を一つ下る事です。
例えばある人の影が地面に映った時その影だけの存在に自分を一つ縛って下げる。
そしてその自己限定を何回も(一説には6回)繰り返すと一番下の霊界(アストラル界:感情界)
となり、更にそのアストラル界の影だけの世界がこの物質界、となるんです。
だからこの世はあの世の出来の悪いコピーという意味で「うつしよ」
と言ったり、神様の「影」の世界なんでいいことがあると神の「おかげさま」
と言う訳です。
プラトンもイデア論で同様の事を述べてます。
概念としての真実の世界が存在してそれに比べたらこの世界は
真っ暗な洞窟にすぎない、と。
そしてたまに外の真実の世界を覗いて来た人がそのすばらしさを洞窟の中の
人に話してもバカにされて相手にされない、と。
だから僕らにとって「色」と見えていたこの世界が実は真実の世界にはるか
遠い「空」の世界で、全く誰にも見えなかった「空」の世界こそ
真実の「色」の世界だったのだ、と釈尊は言いたかったのではないか
と理解しています。
そして、その世界は「有」の世界で僕らには見えない次元にあるが
見る覚者が見ればちゃんと存在していた、という事なのではないでしょうか。
それをどの宗教も色んな表現方法で書き表したのではないかと。
679 :
名無しさん@1周年:02/07/08 11:36
>670
じゃなくて、マトリックスでしょ。
680 :
名無しさん@1周年:02/07/08 11:42
空概念はいわゆる般若経典群あたりで確立してくる概念ではないのですか?
素朴な疑問。
681 :
名無しさん@1周年:02/07/08 11:43
>676 :620
でもこの種の知識というのは、神智学でさんざんやっていることでしょ。
ただそれがどういうふうに検証できるのさ。
「宇宙は*次元といわれている」というのは、幻覚を見た自称教祖や、霊能者はよくいうし、
すべての宗教はぜーンブ、おんなじなんてこともいう。
プレアデスだのなんだの騒いでいる一部のニューエイジおたくがいっていること。
要するに、雑学の共通項だけで、それだったらすでにいろんなところで書かれている。
あなた自身には「その世界を見た」体験はないわけね。
>>673 同感です。
この世に存在するあらゆる複雑な神の表現のうちの暗黒面の一つとは思います。
それもつらい、神を表現する神に対する一つの仕事とは思いますが、
それに使われきる体にならない様にしないと、とは感じてます。
ちなみに僕はオウムさんとは全く無関係です。
>>681 そうです、自分自身では全く見た体験はありません。
完全な本学問です。
ただ、数多くの霊能者とのまじわりを通して実感したことは多々あります。
そして、そう言ってもらえるとかえってほっとするんですが、確かに
あらゆる人(関係者も関係ない人も例えばたまたま幽体離脱した人が
基礎知識無くありのままに書いた本とか)が「みんな同じ事を言っている」し、
「その同じ事が神智学では学問として確立されている」という事なんです。
だから今の段階ではエベレストの事が知りたかったらエベレストに
登った人の言う事を聞け。いつかそこを中継でもしてくれるいい機械が
発明されるさ、というスタンスです。
ただ僕自身は体験上確信してますが。
>683 :620
あらっ、怒るかと思ったら、ひょうしぬけ。w
仏教を、厳密に三法印のみと限定する立場(たとえば2ちゃんだと電波男氏)と、
あなたのように一種の「戯論」や「形而上学」を展開してしまう立場と、
真理とか世界観というものに対するスタンスとして、両方あるとは思うんだげどねえ。
(まああなたは仏教というつもりはないかもしれないが)
それを両方みくらべて、自分の世界観を作っていくのはひとつの方法だとは思う。
何がいいたいかというと、仏教を、三法印のみに限定しても、人間て想像力旺盛だから、
厳密ではない非学問的・非文献学的世界の精神世界のロマン(笑)にどうしても走っちゃうところがある。
ストイックな文献学の成果を前にしても、逆に、「無記」となっている世界に抑圧を感じて、
死後の世界や、絶対者や、霊界について、語らしめちゃう。この辺の調節の難しさ、ですな。w
で、文献学で査定された釈迦仏教の「三法印と形而上学の無記」のみならず、
さまざまな大乗仏教、チベット仏教、タントラ、ヒンズー、
さらには神智学が、芋づる式に出てきちゃう。面白いからね、お話としては。
ただねえ、それやったのが、やっぱりオウムなんだよなー。困ったもんだ。
685 :
レーノーシャ・ぎぼぎぼ:02/07/08 13:13
言ったモン勝ち、ワタシもこれで、おカネ儲けさせてもらってます!
686 :
名無しさん@1周年:02/07/08 13:23
>>671 『しかし私はあなたがたに言う。栄華を窮めた(きわめた)ソロモンでさえ、このような
花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日あっても、明日は炉になげ込まれる野の草さえ、
神はこれほどに装って下さるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがある
であろうか、信仰の薄い人たち。』(マタイ福音書6章29,30節)
ダビデの後を継いだソロモンは、人間が可能とするあらゆる栄光を手にいれました。しかし、
イエスはそのソロモンの栄華でさえも、たった1輪のゆりの花の美しさには及ばないと言及して
おられます。
野に咲くゆりは、決して他者と競いません。
野に咲くゆりは、決して己を誇示しません。
ただひたすらに、太陽に向かって美しい花を咲かせるだけです。
何千年とただひたすらに。
687 :
名無しさん@1周年:02/07/08 13:47
670
>>679 >じゃなくて、マトリックスでしょ。
そうでした・・・。スマソ
マトリックスです。
688 :
意地悪くん:02/07/08 14:00
あの映画、登場人物がジーザスを連発してて、
神道モチーフの降格鬼道態が人気があったのを
払拭したがってるのがミエミエだね。
>>676>>677>>678 620さん
そういう考えでしたか。なるほど随分参考になりました。
つまり「次元」の問題でしたね。
私の考えが、あさはかでした(笑
690 :
名無しさん@1周年:02/07/08 14:38
平穏なこころ・穏やか〜なこころ=天国
「天国とは、あなたの心の中にあるのです!」
こういう使い方で天国という概念を用いているのなら
ワタシは、キリスト教を信仰するのですが。クリスチャンになるのですが。
こういうことでしょうか???
691 :
名無しさん@1周年:02/07/08 15:12
>>690 >ワタシは、キリスト教を信仰するのですが。クリスチャンになるのですが。
>こういうことでしょうか???
そうゆう考えが一番いいかと思います。
>「天国とは、あなたの心の中にあるのです!」
ここのところが素晴らしい。
拍手です・・・・。
693 :
名無しさん@1周年:02/07/08 23:39
>>692 なかなか、考え方としては興味があります。
そうゆう展開になれば仏教も理解しやすくなりますねねぇ。
スッレッドを見た感じだと大変良いです。
694 :
名無しさん@1周年:02/07/09 00:20
>>678 般若心経には、色即是空、空即是色、色不異空、空不異色、とある。
この世界の他に何か真実の世界があるとは主張していない。
色と空とは同次元だよ。色が空なんだよ。
それから、まっとうな宗教は同一の世界をそれぞれの言い方で表現したのではなく、同一の経験を表現したのだと思うな。
>>694 >それから、まっとうな宗教は同一の世界をそれぞれの言い方で表現したのではなく、同一の経験を表現したのだと思うな。
同一の宗教経験という事?
あと、前半の部分もう少し詳しく、具体的に教えて下さい。
696 :
名無しさん@1周年:02/07/09 08:12
>>615 遅レススマソ
今救われていない場合、いつ救われるんですか?
697 :
名無しさん@1周年:02/07/09 09:18
>>694 補足。
同一の経験=同一の宗教経験。
色=空、空=色。
別物ではないよ。
別の世界があると主張されるのはけっこうだが、
仏教はそんなことは主張していない。
少なくとも般若心経はね。
さて、ここで問題です。
「最新50」のうち、髑髏仮面君は何回発言しているでしょうか。
ヒント 2桁だよ。
髑髏マニアのみなさんはもうわかったよね。じゃ またね!
699 :
名無しさん@1周年:02/07/09 09:51
>697
だからその
色=空、空=色。
というところの意味を具体例をあげてわかりやすく説明してくれよ
ってことじゃないの?
700 :
名無しさん@1周年:02/07/09 09:56
678の方がよっぽどスジとおっててはなしがわかりやすいぞ。
そのあたり
701 :
名無しさん@1周年:02/07/09 10:07
>697
別の世界があったとしても、その別の世界「=色」がそのまま「空」だということをいってるんだろ、神智学などでは。
だから多次元的な夢(色即是空、何者かによって生成される夢)になるという話じゃないの。620がいっているのはその系統だよ。
仏教の場合はそこのところ(他の世界や死後や形而上学的世界観を語っても)は、
「苦」の脱却から見たら無意味だから「無記」にするという、修業上の実戦的方法論。
ただし、「他の世界」について、全く語っていないかというと、色界、無色界、とか、欲六界とか「他の世界」はいくらでも出てくる。
もちろん文献学を持ちだして、それらは後世の操作、編集だということもできるが。
そもそも般若心経の彼岸に行くとは、何か? 彼岸に到達すればそこは此方の岸になってしまうけどね。
702 :
名無しさん@1周年:02/07/09 19:08
>>700 >678の方がよっぽどスジとおっててはなしがわかりやすいぞ。
>そのあたり
そう、分かりやすいと思う。
講釈師、見てきたような嘘をいう・・ってね。
703 :
名無しさん@1周年:02/07/09 20:01
age
704 :
名無しさん@1周年:02/07/10 01:04
>>695,699
般若心経を挙げて具体的に示したつもりだったけど、足りないのかな。
色と空と、二つあるわけじゃないということだよ。
色が空で、空が色で、一つだということだよ。
>>701 神智学でどう言おうと興味はないけど、
>>678が色と空とを別の世界のように書いていたから、
仏教では違うと書いただけだよ。
また無色界とかは、
>>678でいうなら「色」の世界に相当する。
ここでは関係ない。
705 :
名無しさん@1周年:02/07/10 03:23
>704
「だから僕らにとって「色」と見えていたこの世界が実は真実の世界にはるか
遠い「空」の世界で、全く誰にも見えなかった「空」の世界こそ
真実の「色」の世界だったのだ、と釈尊は言いたかったのではないか
と理解しています。」
とか620が書くから、変な混乱が起こるのよ。w
無理に678を基準にしなくてもいいのよ。
706 :
名無しさん@1周年:02/07/10 05:59
なんだ???「空」が分かっていないのか?
一人だけ、上手く説明している人間がいる。
まあ、これでは話か噛みあわない罠。
戯言を延々続けなさい・・ってこった(w
707 :
名無しさん@1周年:02/07/10 06:03
708 :
名無しさん@1周年:02/07/10 06:25
>>704 >神智学でどう言おうと興味はないけど、
禿道。
神智学=オカルト。
709 :
名無しさん@1周年:02/07/10 06:48
『中論』でも読みなはれ。
『龍樹』−中村元−(講談社学術文庫)は読みやすくていい!
710 :
名無しさん@1周年:02/07/10 08:14
まあ、読んで学べってのもあるけれど、
読んだ後に自分の理解したように
ここに書くのも良いかと思う。
間違いにも、気がつかせてもらえるかも。
711 :
名無しさん@1周年:02/07/10 08:34
>>710 そうだね・・。
中論を論破してもらいたいね。オカルト論で。
どこまで迫れるか?
そこが見どころかと思う。
神智学。ガムバッテもらいたいものです。
712 :
名無しさん@1周年:02/07/10 08:39
オカルト論を始める前には、
その大前提を疑う必要があるのでは?
でない限り、中論に迫れるどころか・・・
確かに。
「中論」まず勉強してきます。
龍樹菩薩ですよね。ちょっと論破する気にはなりませんが・・・
間違いに気づくのも自分の勉強のためなんで。
ただ中論ではどの様に述べられてるのか、704〜712さんで、
どなたか少し簡単に教えてもらえませんか、忙しいでしょうが。
あと、706さん「ひとりだけ上手く説明してるがいる」ってどのレスですか?
読んでみます。
教えてくんですみません。
714 :
名無しさん@1周年:02/07/10 09:53
715 :
名無しさん@1周年:02/07/10 10:00
>>713 >ただ中論ではどの様に述べられてるのか、704〜712さんで、
>どなたか少し簡単に教えてもらえませんか、忙しいでしょうが。
中論は、突っ込まれた時説明がメンドクサイでしょう。
めんどくさがらない人、レスおながいします。
716 :
名無しさん@1周年:02/07/10 10:52
「上手く」というより、教科書どおりということよね。
717 :
名無しさん@1周年:02/07/10 11:19
>>716 その通り。
問題は、これを突っ込まれた時「どう答えるか?」。でしょう。
これがなくては話が進まない。
718 :
名無しさん@1周年:02/07/10 11:40
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´Д` ) < 龍樹を語れる人居ませんか〜。
/, / \_______
(ぃ9 |
/ /、
/ ∧_二つ
/ /
/ \ ((( ))) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ /~\ \ ( ´Д` ) < 居ませんか?
/ / > ) (ぃ9 ) \_______
/ ノ / / / ∧つ
/ / . / ./ / \ (゚д゚) デテコイヤ! ヴォケガァ
/ ./ ( ヽ、 / /⌒> ) ゚( )−
( _) \__つ (_) \_つ / >
719 :
名無しさん@1周年:02/07/10 11:43
>718
AA貼り付けてないで、おめーが語れや、ヴォケガァ。
720 :
名無しさん@1周年:02/07/10 12:16
神智学オタの620が、仏教の「色即是空」と自分の持っている情報とが、
どういう関係性を持っているかってことを問うているわけでしょう。
それを、「神智学=オカルト」とか、「『中論』でも読みなはれ」、とか「なんだ???「空」が分かっていないのか?」とか、
「戯言を延々続けなさい・・ってこった」とかいって退けるのは、仏教スジ(藁)にとっては簡単なわけよね。
だから、620さん、発言しなくなっちゃったじゃないの。w
721 :
名無しさん@1周年:02/07/10 12:33
>>720 >だから、620さん、発言しなくなっちゃったじゃないの。w
それは大変なこった!
すぐ、620さんにワビを入れも戻ってくるように説得しなはれ!
大変なことしてしも〜た。
やばいこった・・・。
して、スレには何人残ってる?
722 :
名無しさん@1周年:02/07/10 13:33
突っ込みエキスパートの龍樹を語って突っ込まれるより、まず620氏が龍樹に
突っ込みを入れられるほうが先でしょうな。
723 :
名無しさん@1周年:02/07/10 13:38
遠路はるばるこられたお客さんは、大切にあつかうことだね。
それでは、李小龍じゃなかった、小龍樹、登場キボンヌ。
わてが、小龍樹でんねん。なにか、「縁起」のいい話、しまひょか?
725 :
名無しさん@1周年:02/07/10 13:43
>724 死ね
726 :
名無しさん@1周年:02/07/10 13:47
>>724 >わてが、小龍樹でんねん。なにか、「縁起」のいい話、しまひょか?
宜しくお願いします。
>all
いや、すいません。
僕の考えはコンノケンイチ氏の著書とかにかなり影響されてて全くの
逝っちゃってるオリジナルという訳ではないんですが、やはり
伝統仏教されてる方々には異端的に見えて絡みずらいだろうと思います。
前に自分の立てたスレかもしかしてまた別のスレ立てるかもしれませんが
そこで持論をとくとくとマターリと語ったりしたいと思います。
あまりすれの雰囲気を壊したくないんで・・・
728 :
名無しさん@1周年:02/07/10 14:32
>>727 ついに帰ってきましたか。随分心配しましたよ。
なかなか龍樹を語る人がいないもんで、貴方が好きなように語ればいいんですよ。
自論をどんどん展開してくらさい。
729 :
名無しさん@1周年:02/07/10 16:21
つーか、中観帰謬論証派っちゅうのは、相手がいないと何も突っ込めないわけ。
女のいない男みたいなもんで、それ自体だと不毛なのよねー。
漫才だって、ボケとツッコミが必要だし。w
730 :
名無しさん@1周年:02/07/10 18:57
>>729 そうだねー、「空」スレだから中観派が居ないと話が進まんねぇ〜。
とりあえず620さんがガムバルつーから、しばらく神智学の勉強しましょうよ。
731 :
名無しさん@1周年:02/07/10 19:10
ま、わけあいあい、マターリやりましょう。
732 :
名無しさん@1周年:02/07/10 19:43
中観派がいないとゆうのは、餡子の入ってない饅頭のよーなもんだけど、それでも喰えないわけではない。
もしかしたら、皮饅頭のほうが上手いかもしれない。
733 :
名無しさん@1周年:02/07/10 23:17
「なんだ???「空」が分かっていないのか?」の706や、
「ひとりだけ上手く説明している」
>>694 >>697 >>704 が、とりあえず602に中論のアウトライン語ってやったらどうなんだ?
734 :
名無しさん@1周年:02/07/10 23:55
>>727 君の考えは仏教の異端というわけじゃないよ。
仏教じゃない、それだけ。
735 :
アウトライン:02/07/11 01:25
『中論』冒頭の「帰教偈」でも…
[宇宙においては]何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずること
なく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不
常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身におい
て分かたれた別のものであることはなく(不異義)、何ものも[われらに向かって]来
ることもなく(不来)、[われらから]去ることもない(不去)、戯論(形而上学的論議)
の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のう
ちでの最も勝れた人として敬礼する。
736 :
名無しさん@1周年:02/07/11 07:46
>>733 中論は、相手が理解できなけりゃ壁に向かって話ししているようなもの。
スレッドにそれだけの素地というもんがあるんなら、それ相当な人物がレスしてくると思う。
そういった素地もないスレに中観派が名乗りを上げるはずがない。
おそらく
>>694 >>697 >>704は、それを分かっていて引いたかとおもうね。
彼(彼女)の反応に、レスあまりにもドキュソなんだよ。
あれだったら誰でも引くと思うね。それにこりずに参加してくれたら良いけど。
737 :
名無しさん@1周年 :02/07/11 09:52
ジサクジエン
738 :
名無しさん@1周年:02/07/11 09:56
>>736 髑髏さんよ、おまえ自身がDQNなのに
わかったようなこと言ってんじゃねえよ!
739 :
名無しさん@1周年:02/07/11 10:37
>>724 >わてが、小龍樹でんねん。なにか、「縁起」のいい話、しまひょか?
>>725 >>氏ね
つまり中論が分かってないと、DQNな答えが返ってくるという「良い見本」。
「縁起」の話は大事なところでしょうに・・・。
742 :
名無しさん@1周年:02/07/11 10:44
>739
724や725には、あとでこちらからよーく言って聞かせておきます。
まあ、ここは大学ではなくて、2チャンということで。
では、あらためて739 さん、「中論」の解説、お願いします。
743 :
名無しさん@1周年:02/07/11 11:05
739
>>742 724 :小龍樹 :02/07/10 13:42
わてが、小龍樹でんねん。なにか、「縁起」のいい話、しまひょか?
この方↑は中観派の代表でしょうね。
それをDQN扱いにするのは如何なもんかと・・・・。
744 :
名無しさん@1周年:02/07/11 15:04
すいません。変なことになってるな。
>>724 >わてが、小龍樹でんねん。なにか、「縁起」のいい話、しまひょか?
>>725 >>死ね
これは両方とも同一人物(私)の自作自演です。スマソ。
アホなので、こういう馬鹿なやりとりしかできません。
743さん、私にかまわず、まともな中論の解説の方、おながいします。まともに伺いますので。
745 :
名無しさん@1周年:02/07/11 15:17
>>744 たしかに、レスの表記タイムをよく見てみたら「一分違い」になっていた。
しかしながら「縁起」は中核になるところ・・・。
中論は、微妙な言葉のニュアンスを「受け止める」感性というのも重要。
こういったデリケートなところを孕んでいる。
746 :
名無しさん@1周年:02/07/11 15:23
つーか、そんなことより、中論はじめてくらさい。
age
748 :
名無しさん@1周年:02/07/11 15:31
そうだ!!そうだよ。もう能書きなどいいんだよ。
早く始めてもらわないとスレが沈没しちまうよ!
中論、中論。
僕の頭はチュウロンでイパ〜イなんだよ。
チュウロンといえば・・・・
そうだ、チュハイを思い出した。
少し飲もうかな・・・。スマソ
>>735 ありがとうございます。
懲りずに戻ってきました(笑)。
僕はかなり頭悪いんで噛み砕いてもらってもやっぱり難しいのですがその意味として
「何ものも無常の理の中で見たそのまま、ありのままの姿であり、
それ以上の深い存在意義などはないから形而上学的な論議をしても
全く意味は無い」
という事でしょうか?
まず、勉強してから来なきゃいかんのですが、すいません。
750 :
名無しさん@1周年:02/07/11 15:39
>749 :620
どぞどぞ。
まあ、748 さんがチューハイみんなにおごってくれるらしいから、
イッパイやりながら745 さんの中論講釈聞きましょうよ。あなたが理解したものについてはそれとして。
745 さんの話終わってから、あなたの神智学情報との相互検証に入りましょうよ。桶?
最初に逝っておきますが、私は中論を語る器ではありません。
>それ以上の深い存在意義などはない
とか
>形而上学的な論議をしても全く意味は無い」
とかは、あくまでも結果的に導きだされるのでしょうから、そこが議論なのではないでしょうか?
論客の出現を待っています。
>>750 いや僕の神智学情報もたいした事ないんですよ。
でも桶です。
しかし「真我のみ独存し、それ以外は空の世界」と考える人でもっと詳しい人は
他にも居そうな気もしますけど、いませんか?
753 :
名無しさん@1周年:02/07/11 17:21
>>452 >他にも居そうな気もしますけど、いませんか?
この板におりますよ。
私は違いますけど。
754 :
名無しさん@1周年:02/07/11 22:07
色即是空!
755 :
名無しさん@1周年:02/07/12 02:10
スレ進みませんな。
ほな、眠いけどちょっとやりますよ。オーソドックスな「空と縁起」。(中論の解説というほど大それたものではありません)
「空」というのは、世界、およびさまざまな事物が、それ自体の内部に自足した意味や機能や目的をもって成り立っているのではなく、
部分的構成要素や他との相互関係性に依存して初めて成立している、いいかえれば「縁起」によって成り立っていると見る考え方です。
この事物に固有の実体がない(無我)で、相互依存性による、構成要素に依存している、あるいは条件によってさまざまな相を変える
(水、氷、水蒸気)などの状態は、事物が「有」でもなく「無」でもなく、「空」というあり方だというわけです。
別の角度からいうと、われわれの思考を成り立たせているあらゆる「名詞」は、社会生活の便宜上、
仮に(ひとつの焦点を結んだ名詞観念として)人間が無意識のうちに成り立たせているにすぎないということになり、
これを暴露して解剖してしまう思考法が、「空と縁起」ですね。
756 :
名無しさん@1周年:02/07/12 02:11
つまり、その時点時点で、意識がどう対象物にフォーカスするかで、何と何とをまとめて一束として概念化するか
による結果であると。何らかの意図や欲求や自己都合(煩悩・執着)によって、ひとつの名詞で囲って、
対象を考えているに過ぎないということですね。
普通、「薔薇」とか「美人」とかいった場合、われわれはその対象について、ある価値感情を抱きますが、
それらの名詞そのものが、習慣上われわれが惰性で認めてしまっている虚構だというのが、「空と縁起」の立場です。
肉眼で美人を見るのか、分子レベル原子レベルで調べるのか、航空写真で美女を上空から撮影するのか
……知覚装置の条件設定によって、対象の見え方はまったく違う。なぜなら主体の置かれた状態が違っているから。
同じ対象を、美人と見、肉の塊、細胞の塊といい、地上の点と見る。
名詞を付着され対象とされたもの(美女も薔薇も)は、構成要素(五体、細胞)に依存して成り立っているものであり、
分解可能でもあります。
薔薇というまとまったイメージは、われわれが人間だから持っている共有のイメージであって、
蟻からみたらわれわれのいう薔薇ではないでしょうし、烏から見てもそうですね。
あるいは、薔薇の実体、薔薇の中心、薔薇のコアというのも、美的見地、栽培という見地、
販売店の見方、それぞれ違うわけですね。
757 :
名無しさん@1周年:02/07/12 02:15
つまり、本質とか実体とか思われているものは、すべて人間の主観の空想の産物であり、
何らかの条件の下で捏造されたフィクションということですね。
すべての名詞、および名詞で指示された対象イメージは、各構成要素に分解可能(縁起)であるため、
それぞれの名詞が示している何らかのイメージは、ある設定下で主体から客体を見たときの虚構にすぎない、
したがってそこに付加される価値も、意味も、虚構である――ということが縁起の発想のひとつですね。
固定した客観的な世界だと思われていたものは、自己と対象物との関係の結果たまたま出現している自在な光学的風景に過ぎない。
「男と女」「昼と夜」といった対概念の場合も、相関関係によってはじめて男の意味も女の意味も昼と夜の意味も
浮かびあがってくるので、これも「縁起」によって成り立っていると見ます。
要するに、われわれがそれ自体で意味や価値をもっている、ものそのものが価値を内在させていると勘違いしている対象物
(名詞的存在。言語表現された対象物)が、そうではなくて、構成要素や、他との関係や、比較や相互連動性によって、はじめて機能し、
成り立っていると再確認することで、もろもろの名詞に共同幻想化されている「価値」の幽霊の正体を見破り、対象それ自体への執着をなくすことが、
「縁起」の考え方でありと思われます。ここに仏道と言語哲学を結びつける目論見があるということですね。
まあ、普通の感性からすれば、非人間的といえば非人間的だわ…。
758 :
名無しさん@1周年:02/07/12 02:17
しかしこの「空と縁起」の考え方は、普段、名詞と野合しているわれわれの習慣的思考そのものを解析していくことで、われわれの意識や心を、現世的価値への執着から解き放つ働きがあります。
これを思考のみならず、知覚レベルで見ていくと、いかに瞬間瞬間にわれわれが、
「共感・反発」などのパブロフの犬的価値感情に
隷属した世界にいるかということが見えてくるわけですね。
「行」とか「識」のレベルで習慣化されてしまっている。これも「無明」の一種。
「縁起」の理解は、これをときほぐし、禅定に入りやすい柔軟な心を作っていくわけです。
……読み返すと、なんか、繰り返しが多くてくどいなあ。ま、いいか。
もちろん、これが「縁起」のすべてではありませんし、ましてや「空」のすべてではありません。
いわば「空」の左脳的説明ですね。「空」には、もっとふくらみのある右脳の部分がありそー、ですね。
このあと、般若心経の「色即是空」とか「色不異空」とかについては、誰か付け足してくらはい。
759 :
名無しさん@1周年:02/07/12 06:53
>>757 >まあ、普通の感性からすれば、非人間的といえば非人間的だわ…。
>>758 >いわば「空」の左脳的説明ですね。「空」には、もっとふくらみのある右脳の部分がありそー
大事なのは無分別智であって、そこをクリアすれば何ら問題はないかと思います。
しかしながら、本来そのネックのところがクリアされませんと全て空論かとおもいます。
空論となるかどうか?そこがポイントかと思います。
果たしてその推移はどうなるでしょうか?
期待しています。
日本人は「空」をプラスに考えるけど、ヨーロッパ人はマイナスにとらえますね
「空」はプラススと考えるのか、マイナスと考えるのか。
はたまた、どちらとも言えないのか。
議論はまさに深くなるばかり。
762 :
名無しさん@1周年:02/07/12 10:37
プラスやらマイナスやらの二辺を離れた中道=空
>>755〜758
論理的に非常に分かりやすく説明してもらってありがとうございます。
納得できました。
つまり
「ものごとには本質的、客観的な姿があるが
個々の人間の主観的な色眼鏡を通してそのものを見ると
どうしても歪められた姿として認識してしまう。
そういう感情とか偏見とかに左右されない見方に近づく様
にするのが修行だ」
という意味合いかと思います。
(違ってたら言って下さい。)
ここで僕は以下に述べますが、釈尊が般若心経のなかで本当にそういう
意味を語っていたのだろうかな?と思います。
764 :
名無しさん@1周年:02/07/12 11:57
>>762 中道は、空即是色かとおもうよ。
>>763 >ここで僕は以下に述べますが、釈尊が般若心経のなかで本当にそういう
>意味を語っていたのだろうかな?と思います。
ここの住人は、そんなこと思ってないよ。
違うこと考えているよ。
そういう事では、考えが貴方と似てるよ。
誰かも上で言ってましたが、確かに大前提をどうするかによって
当然議論は分かれてしまうのは当たり前だと思います。
見えないものをどう扱うか、だと思います。
具体的には
1宇宙の根本仏、毘廬遮那仏が本当に居る、と思っているか。
2その毘廬遮那仏と自分たちとの関係が確立されているか。
そこに至る道がはっきり示されているか。
3見えない世界(霊界)や霊能力をどう考えているか
等々、これら前提となる話が全然違えば話も違うでしょう。
だから西洋哲学も同じだと思うのですが、神秘主義者と唯物論者との
議論と同じなのではないかな、と感じます。
僕自身としては釈尊や十大弟子は多分サハスラーラチャクラやアジナーチャクラが
開けていたのではないかと思うのですがみな「清らかな天眼」をもって
いて霊視力、仏の威神力を通して数々の奇跡を行ったと伝えられてますし、
霊界で苦しむ目蓮尊者の母を釈尊が霊視してその力で救った、などという
話を聞いても神智学、トランスヒマラヤ密教と同じ霊的方法でこの世の
真理を直知するにいたったのでは、と神秘主義寄りに理解してます。
以下にまたのべますが、「照見五蘊皆空」も、
766 :
名無しさん@1周年:02/07/12 12:46
>>765 >1宇宙の根本仏、毘廬遮那仏が本当に居る、と思っているか。
「居る」という表記は、いわゆる「色」の概念ですね。「居る」⇔「色」。
>2その毘廬遮那仏と自分たちとの関係が確立されているか。
そこに至る道がはっきり示されているか。
関係性からいえば、あきらかに「色」です・
>3見えない世界(霊界)や霊能力をどう考えているか
これも「色」ですね。
ですから、初歩のところで既に「捉え方」が違う。
私は通りがかりな人間ですから、いわばギャラリー発言として聞き流してもいいですが・・・。
たぶん、あなたの発言に同調する人間はいるとおもいます。このスレに。
スレが盛り上がると良いですね。
いろいろ勉強させていただきます。
>>764 >ここの住人は、そんなこと思ってないよ。
>違うこと考えているよ。
>そういう事では、考えが貴方と似てるよ。
そうなのですか?違うと言われた様に思ってました・・・
誤解してました。すません。
(続き)
「照見五蘊皆空」も、「観自在菩薩は深遠なる波羅蜜多を行じた時に
存在するものの五要素はみな空であり、実体がないものであると見極めたもうた」
とその言葉のまま解釈した方が「主観的な見方を通しているので真の姿ではない」
とするよりも自然だし、より意味が深いかと考えます。
別な言い方をすると、全ての物質は毘廬遮那仏の「意識の点」から成り立っており、
仏がその意識の集中を解くと世界は一瞬にして消滅してしまう。
テレビ画面の様な仮想的な世界というか二次現実的な世界で「おまえを悩ませるおまえの目の前に現れる憎い敵も
色香立つ女性も苦しみも病いも老いも全て自分自身一段上がるための修行のために仏が複雑な縁起を通して
おまえのために準備した実体のない「空」の世界、ステージなんだ」とこの様に考えています。
>>766、ありがとうございます。
(続き)
だから、その「空」の世界に惑わされて敵を敵として戦うなよ、相手は自分の内的世界の鏡だぞ、
色情的な世界や金や名声に執着してそのカルマに落ち込むなよ、
その奥深くに潜む真実の世界に気付け、須菩提尊者の様に「空」を悟って「空」を生きろ、
という事だと理解してます。
だから「色即是空」にしても
「見えるものはすべて色眼鏡を通してみたもので曲がった真実だ」
とするとこれは理解できるのですが、そうすると、逆の
「空即是色」が意味が分からなくなってしまうしわざわざ繰り返して逆に言う必要も無い。
やはり僕は前に言った「真実の世界、根本仏の体内、涅槃の世界、彼岸の世界がある」と
した方が自然だし、
「無眼耳鼻舌身意」:「眼で見るものも耳で聞くものも・・・・・この体やこの心でさえ
実は無かったもので真実の自分、真の思考者たるモナド(一人一人に分け与えられた毘廬遮那仏の一部、
つまり仏性)の仮にまとった一時のよろいの様なものにすぎない」
という意味でも理解しやすいかと僕は考えています。
(ちょっと用事で今後やや遅レスになります、すいません。)
>>767 よく、文献学者タイプ?の人は「空の世界」という言い方しますね。
そこが私にはどうも分からないのです。
そこのところはこれから勉強していきましょう・・・。
オーソドックスな「空と縁起」を一端上のスレ(755〜758)
で区切っておきます。
755〜758は、釈尊とか般若心経というよりも、竜樹ですね。
以下は、763 :620
「ここで僕は以下に述べますが、釈尊が般若心経のなかで本当にそういう
意味を語っていたのだろうかな?と思います。」と
「767 :620 」「照見五蘊皆空」も、「観自在菩薩は深遠なる波羅蜜多を行じた時に
存在するものの五要素はみな空であり、実体がないものであると見極めたもうた」
とその言葉のまま解釈した方が「主観的な見方を通しているので真の姿ではない」
とするよりも自然だし、より意味が深いかと考えます。
に対するレスです。
ところで、758の「「空」には、もっとふくらみのある右脳の部分がありそー、ですね」と加えた部分なのですが、
これは右脳とか左脳とかいうのはもちろん方便で、止観、禅定によって入っていく全存在的な空の世界という方が
正しいかと思います。
763 :620 の「ものごとには本質的、客観的な姿があるが個々の人間の主観的な色眼鏡を通してそのものを見ると
どうしても歪められた姿として認識してしまう。そういう感情とか偏見とかに左右されない見方に近づく様にするのが修行だ」
の後半は正しいかと思われますが、より「縁起」の思考に即していえば「ものごとには本質的、客観的な姿がある」と思われている客体イメージや、
言語表現そのものが、実は何らかの条件設定の上での仮のホログラムのようなもの、ということではないでしょうか。
名詞や実体化された概念そのものが、幾らでも因数分解可能だということです。
さて、では620さんの神智学的情報と仏教とはまったく異質なものなのか、クロスする部分はないのか、それとも何からの共通項はあるのかという問題に入りましょう。
>765 :620
1宇宙の根本仏、毘廬遮那仏が本当に居る、と思っているか。
2その毘廬遮那仏と自分たちとの関係が確立されているか。
そこに至る道がはっきり示されているか。
3見えない世界(霊界)や霊能力をどう考えているか
この辺については、大乗仏教の中で密教になってくると扱うようですが、釈迦仏教の場合は触れていません。
厳密に仏教を考える人たちにとっては、三法印(諸行無常・諸法無我・一切皆苦)がベースとなっていて、
釈迦の教えは何よりも「苦」の超克がテーマであり、死後の世界や他の世界についての論議は戯論ということになるようです。矢が刺さって痛みが走っているのに、矢の性質や種類や、どこから飛んできたかについてあれこれ論議しても意味がないというわけです。
620 さんの世界はまったく仏教ではないとレスは、この立場からの指摘ですね。
「僕自身としては釈尊や十大弟子は多分サハスラーラチャクラやアジナーチャクラが
開けていたのではないかと思うのですがみな「清らかな天眼」をもって
いて霊視力、仏の威神力を通して数々の奇跡を(中略)神秘主義寄りに理解してます。」
この部分はヨーガ、密教系仏教から仏教を考えている人たちはわりとすんなり同意するでしょう。
文献学をやっている人から見ると、非仏教であり、後世付け加えられた要素、あるいはヒンズーの影響が入ってしまって
本来の釈迦仏教を歪めた要素と見るようです。
般若心経そのものが、後世の創作経典であり、あきらかにあることを否定することがひとつの目的であると読めます。
そのあることとは、「空」解釈をめぐる新旧の対立ですね。
般若心経で、仏弟子舎利子に語りかけているのは、釈尊ではなく「観自在菩薩」です。
この観自在菩薩というのが曲者で、さりげなく(=釈尊)と同一視するのか、
別存在と解釈するのかは意見の分かれるところでしょう。もちろん釈尊の教えの中にすでに五蘊無我
(人間の現存在/色・受・想行・識に実体がない=空/=照見五蘊皆空。)のような後の空思想に通じる思想はあったわけですが、
般若経典や大乗仏教の経典では、小乗仏教の優等生をからかうエピソード、菩薩が教え諭すエピソードがよく見られます。
はなはだしいのは「維摩経」ですね。完全に菩薩の理想形である在家の維摩居士に、舎利子などの出家した釈尊の高弟たちが、おちょくられている。
したがって、般若心経も、そのような論争の書、小乗批判の書として読むことができるかも知れません。
つまり、「仏弟子の舎利子(シャーリプトラ)よ、あなたは戒律や空、あるいは色を、狭くとらえているかもしれないが、より高次の理解が必要だ。
空を体得すれば、「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色」なのだよと。さらには、「無無明亦 無無明尽」無明もなく、無明が尽きることもないのだぞ」と。
小乗(上座部)の修行者にとっては、まさに空恐ろしい爆弾発現を投げかけるわけです。修業を無化するようなことを。
それをいわせるのは、さすがに創作経典の作者といえども気がとがめたのか、釈尊その人ではなく、
それと対等らしき架空の存在、観自在菩薩として設定しておいた……と、考えることもできる。
少なくとも、歴史的釈尊がこの話をしたのでないことは、明らかですね。
しかし、誰がそれを説こうと、勝義(最終的な真理)では「一切皆空」だから、当然そうなるわけですね。
修行中の声聞の弟子や阿羅漢になりつつある者が見ている世界と、般若の知恵と「空」を体得した菩薩が見ている世界は、
根本的に違うわけです。(遠離一切顛倒夢想)つまり、菩薩の実存の生命位相は、すでに個体の枠組みを離れつつある
(といってしまうとDQNでしょうかw)そしてその意識レベルの差異とは、般若心経のまさに最初の場面設定における
「行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空」にあるわけです。
これは五蘊無我という「考え」をインプットして瞑想するというレベルではなく、
「般若の叡智によって、まざまざと真理が見えてしまう」、直接的体験わけですね。そしておそらくこれは、仏教とかヒンズーとかバラモンとかいうよりも、
ニュートラルなテクニックとしてのヨーガ体験なのですね。
ここの部分が上記の文脈に即していえば、左脳の「空と縁起」の理解をはるかに超える全存在的な「般若智」による「空」理解ということになるでしょう。
そしてその世界には形象のあるものはなんにもない、無相であるということになる。あるいは、真如、法界、自性静浄心といいかえてもいいかも知れません。
「是故空中。無色 無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界 乃至無意識界。無無明亦 無無明尽。乃至無老死 亦無老死尽。無苦集滅道。
無智亦無得。以無所得故。」
ということは、大乗仏典の中でも比較的神秘的要素の少ないと思われる般若心経ですら、
かなり神秘的な要素が入っていると解釈できるわけです。
しかも、最後の「羯諦 羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶」の呪は、
完全にマントラ(真言)ですし、三法印の枠組みをはみ出している。
呪力のパワーへの信仰を強要しているわけですから。
むしろバラモン教の習俗に近い。
なにをいいたいかというと、大乗仏教そのものが、どれほど高度な哲学を中心に持っていたとしても、
すでにヒンズーやバラモン教的要素が入りこんでいるのであり、宿命的に三法印以外のものが、
いたるところにこびりついているだろうということですね。
さらに続きますが、いまはこの辺で。
疲れたのでもうやめますが(笑)この架空の観自在菩薩は、禅定修行者その人の理想形であると見ると、
さらにはこの般若智の体験、空体験を深めて、無相の世界、真如の世界へと入っていった末に、
それを「大日如来・宇宙の根本仏、毘廬遮那仏との一体化」という禅定修行者が出現したとしても、
まんざら遠い世界の話しではなかろう…というわけです。
そしてチベット仏教や、密教経典の場合は、それをも「空」というわけです。
その場合は、実は、仏教はヨーガから「梵我一如」を密輸しているのではなかろうかと思います。
ここでやっと、最初からの話がつながってくるわけです。あー、しんど。
775 :
名無しさん@1周年:02/07/12 18:26
>>764 『中論』第24章18
「どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであっ
て、それはすなわち中道である。」
『廻諍論』
「空と縁起と中道とを同一の意義をもったものだと説き給うた、かの無比なる仏に
敬礼し奉る。」
776 :
名無しさん@1周年:02/07/12 18:30
620氏は常見論者ですな。
仏性って空ですよね?
ところで、一切衆生悉有仏性といいますが、植物にも仏性はありますよね。
では、その植物の花がちぎられたら、仏性は花と根どっちにあるんですか?
>>755さん、
大変お忙しいのに浅学な者に丁寧に教えて下さってありがとうございます!
竜樹の立場とかも凄くよく納得できました。
しかも773以降では620で僕が別スレで展開してた論まで立てて頂いて
(駄文読んでもらえてたのですね。)恐縮しました。
”それを「大日如来・宇宙の根本仏、毘廬遮那仏との一体化」という禅定修行者が出現したとしても、
まんざら遠い世界の話しではなかろう…というわけです。”
とも言ってもらえて自己主張したい心がちょっと救われました(苦笑)
自分の考えは考えとして温めときながら、とにかくまだまだ不勉強という自覚がわいて
きてるので、、ちょっとまず勉強もしながら続けて書き込みもしたいと思います。
780 :
名無しさん@1周年:02/07/12 19:23
>>779 >”それを「大日如来・宇宙の根本仏、毘廬遮那仏との一体化」という禅定修行者が出現したとしても
ここのところが貴方とピッタシです。ョカータネ(w
781 :
名無しさん@1周年:02/07/12 21:37
>その場合は、実は、仏教はヨーガから「梵我一如」を密輸しているのではなかろうかと思います。
こんな話とっくに言ってるではないか。ありがたそうに最後につけるような
話かいね?
そもそもいくらへ理屈こねても無駄、無駄。
(A)「神(ブラフマンも神だよ)」を信じるのは有、
露に表現された「霊知」や「霊」を信じるのは有、
それに対して、
(B)釈迦の理知に始まったあたリ前のことを当たり前に知ることから敷衍された
無常観は空、空は悟りの境地で無、ウでもムと思って気にしないのが空、
これだけのはずが、この(B)に無理やり(A)を輸血した奴がいて仏教は七変化
しただけ!本来はこの二つは二つでいられるもののはずだったんだ。
やっぱりさびしいんだろうなあ、(A)がないとってかあ?この辺がインド人や
日本人のチュウトハンパなところやね。中国人の何人は禅で悟りきって(A)の
混ぜモノしないのがいたのが偉いなあ。
もっと言えば、(B)は(A)に対して寛容になり得べきものなんだが、チュウト
ハンパに(A)をいれたホッケなんかがいたからややこしくなったとこういうわけ
だ。
わかる?
782 :
名無しさん@1周年:02/07/12 21:49
で、何がいいたいのよ。
783 :
名無しさん@1周年:02/07/12 21:53
>781 釈迦の理知に始まったあたリ前のことを当たり前に知ることから敷衍された
無常観は空、空は悟りの境地で無、ウでもムと思って気にしないのが空、
もう少し、正確に。「ウでもムと思って気にしないのが空」とはどういうことかね。
784 :
名無しさん@1周年:02/07/12 21:53
中道を仏性として解釈したのは、中国で三論宗を確立した吉蔵です。
もっとも、吉蔵は西域人だけど、天台大師智だって、近いことを
言っているんじゃないっけ?
785 :
名無しさん@1周年:02/07/12 21:54
>>783 わかるようなわからんような。でも、
>ウでもムと思って気にしないのが空
これはウケた。
787 :
名無しさん@1周年:02/07/12 22:05
>781
755は620に教えてあげてただけでしょう。
今頃になって出てきてなに言ってるのじゃ、あなたわ。
だいたい、<わかる?>って、わからないよ何がいいたいのか。
788 :
名無しさん@1周年:02/07/12 22:32
660は、ある程度の基本スタンスというのがあるように見受けられる。
755は、殆ど660に近い考え。しかし確信というのが持てない。と見た。
789 :
名無しさん@1周年:02/07/12 22:34
↑ × 660
○ 620
レスがついているようなので、私の仏教に対する考えをまとめておきますと、
基本の三法印をベースにしながら、釈迦仏教と大乗(中観・唯識)周辺ののいいとこどりをしようというスタンスです。
般若心経と華厳経が、総合的視野で見られればと思っているいい加減なものです。
また真言(この中にはもちろん南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経・ヨーガ系)の効果もあるのではないかと思っている者です。
神智学はブラバツキー以来、多くのアイディアを東洋の密教やヒンズーから吸収しているので、
620さんの思考が密教に似てくるのは当然ですね。
755〜758、770〜774のながったらしい話は、仏教と、620さんの神智学との間の不完全な地図のようなつもりです。
私の主張というよりも、膨大な仏教の情報の中で、それぞれが確信を持てる「仏教」なり「世界観」を選択したり、
再構成したりすればよいのではないか、ということですね。
>781 :名無しさん@1周年 :02/07/12 21:37
その場合は、実は、仏教はヨーガから「梵我一如」を密輸しているのではなかろうかと思います。
>こんな話とっくに言ってるではないか。ありがたそうに最後につけるような話かいね?
とくにここにポイントを絞って書いたわけではありません。別に「ありがたそうに」は書いてないですね。
*
要するに、仏教のような多種多様な精神史的蓄積のある場合、「それは仏教ではない」という場合、
かならず指摘した者が、自身の「仏教」がなんであるのかが問われてしまうということですね。(これ自体が自と他の縁起ですねw)
その人の「仏教」から見れば、その指摘は納得しうるものであるかも知れないし、そうでないかもしれない、というところが議論の出発点です。
相手の世界観や信念体系として「間違っている」ということは、即座に断定しにくいわけですね。
文献学について上で誰か触れていますが、もちろん個人の信念体系ではなく、文献学という客観的な学の場合は、より”検事的”な検証が求められるし、
それは当然のことだと思います。2ちゃんでは電波男さんか゜この立場から発言されていますね。
791 :
名無しさん@1周年:02/07/13 13:20
792 :
名無しさん@1周年:02/07/13 13:25
>>791 そうだね。
中観と唯識の良いとこだけ拾って仏教を考えるのも素敵だね。
もしかしたら、名スレになるかもしれない。
今後に期待します。
793 :
名無しさん@1周年:02/07/13 17:12
>>790 神智学の立場から色だの空だの言ったところでそれは神智学であって仏教ではないと思う。その仏教ではないという場合、特に仏教の立場を明示する必要はなく、どうしてもそれが仏教からも肯定されるというなら、仏教の立場に立ってから説明しなくてはならない筈だと思う。
つまり、仏教からは、それは仏教ではないといえば足りることで、証明すべきは神智学の方ではないかなと、思うんですが。
794 :
名無しさん@1周年:02/07/13 20:10
>793 [空]は仏教徒だけのためにあるんじゃないよね。
795 :
名無しさん@1周年:02/07/13 20:33
>>794 そうだね。
仏教徒だけに「空」があるのではないから、「空」だけ拝借してしまうのも良い考えだね。
そこから色々なものを継ぎ足して、新たなイデオロギーを構築すれば良いことだし。
ニューエージ的発想かと思う。
796 :
名無しさん@1周年:02/07/13 20:52
別に「空」を言うのは構わないが、
>>678のように、仏教を代弁するなってことだよ。
仏教じゃないんだからさ。
>>796 実は私は貴方に禿道です。
そもそも「空」の概念が違うのですから「空」がどうでこうで・・というのは全て戯言です。
これと全く同じようなスレの流れが「刹那滅スレ」。
こればかりは自分自身の問題ですから、自分で考える以外にない。
798 :
名無しさん@1周年:02/07/14 00:01
>797 これと全く同じようなスレの流れが「刹那滅スレ」。
全く同じようなスレの流れというのは具体的にどーいうこと?
799 :
名無しさん@1周年:02/07/14 00:40
そうなると755がしっかり語ってくれてる様だけど
やはり空は仏教として中観派にビシッと語ってもらいたいなぁ。
800 :
名無しさん@1周年:02/07/14 00:43
良スレになるようにがむばって!
801 :
名無しさん@1周年:02/07/14 06:26
>>799 755は、↓のような発言をしている。
>>757 >まあ、普通の感性からすれば、非人間的といえば非人間的だわ…。
こういう捉え方というのは、そもそも仏教的では無いと思いますよ。
この先が肝心なのですから・・・。
802 :
名無しさん@1周年:02/07/14 06:36
>>798 刹那滅スレは、
相撲の力士と、レスリングのレスラーが格闘しているようなもん。
面白いといえば、面白い。
ようは実力の差が問題ではない。
遅レスになりました。
僕のスタンスというか、自分では仏教徒だと思ってます。
毎日ではないですが良く座って真言唱えたり般若心経唱えておつとめしてます。
南無大師・・・・と唱える密教ベースです。お大師さまはやはり天才だった、と思ってます。
しかし、それだけではなく、伝教大師の態度や円密戒禅念仏、と総合的に見る目も素晴らしいと思うし
また大日如来の一側面だと僕は考える阿弥陀仏念仏や絶対他力の考え方にも強く惹かれます。
光明呪などもビローチャナブッダへの念仏的に唱えてます。
只座る姿が即身是仏だ、とする曹洞禅にも魅力を感じ僕の場合は心身を空しく
して小さな自分を破り大きな仏と合一したいという願いで時々座ってます。家も曹洞宗だし。
三法印を仏教だとする見方やナーガールジュナについても奥が深そうで良く勉強しなくてはと感じています。
だから自分としては基本的に仏教哲学者ではなくアマチュア仏教徒だと思ってます。
ただ、真理を求める気持ちが強いのでその枠にとらわれず、広く色々な見方を
知るために神道や神智学やニューエイジ系やちょっとだけキリスト教も覗いてます。
それぞれに素晴らしい所はある。 そんなスタンスです。
だから誰かを論破したいと思ってるのではなく日々更新される自分の真理に
対する見方をいいものにしていくためによく分かったその筋の専門家の胸を
ちょっと借りて取り入れたかったという訳です。
755さんには色々教えて頂いたし僕の様な仏教の形もありだよ、と言ってもらえたのでかなりほっとしてます。
中観派の方のお話もまた聞ける時もあるだろう、と思って勉強できるので楽しみにしてます。
804 :
名無しさん@1周年:02/07/14 12:44
>>803 貴方のレスを読んで、思い出したのが「統一協会」。
あの団体の基本スタンスというのが「万教帰一」。
キリスト教のカラーだが、仏教にも通じると謳っている。
いろいろ宗教というものの考え方があるから、それも一つの考え方だろうね。
805 :
名無しさん@1周年:02/07/14 16:59
>>803 忠告するが、一定の見解を得るまでは、あちこちつまみ食いするのはやめた方がいい。般若心経を読んでいながら、色と空と二つの世界があると考えるようでは、いくら勉強したところでものにはならない。
的をしぼるべきだ。
806 :
名無しさん@1周年:02/07/14 17:01
アマチュア仏教徒と自称しているけど、なかなかですね。
ブラフマンとの合一を目指して居られる。
ブラフマンとの合一を目指すなら、ブラフマ・ランドラの孔より
意識を抜け出せるようにならないと。
仏教徒の弊害は、煩瑣な観念論を弄ぶあまり、その能力は失って
しまったことだ。
808 :
名無しさん@1周年:02/07/14 18:24
>>807 そうだね。それだけしっかりしたイデオロギーがあるんなら、なにも仏教を持ち出さなくても良いんだね。
ましては「空」など意味がないかと思う。
仏教は神秘主義でもないし、あたりまえの事を、あたりまえに受け止める。それが仏教かと思う。
809 :
名無しさん@1周年:02/07/14 22:25
>808 あたりまえの事を、あたりまえに受け止める
で仏教になるかね?
810 :
名無しさん@1周年:02/07/14 22:40
>>809 禅の捉え方だよ。
まあ一応は仏教のなかのひとつではあるかな。
ちなみに808は髑髏だ。気付よ。
>>809 私は、自分の考えを人に押し付けるつもりはないし、
755さんや、620さんの考えはそれでそれ・・・良いのではないかと思う。
>で仏教になるかね?
「それが仏教かと思う」(808レス)という事ですから、そのとおりに受け止めれば良いかと思う。
貴方が「仏教ではない」というのでしたら・・・
貴方にとっての「仏教」を確立すれば良いかと思います。
>>810 おいおい、私は髑髏ではないぞ!(ワラヒ
813 :
名無しさん@1周年:02/07/14 23:28
クローンか。
814 :
名無しさん@1周年:02/07/14 23:39
梵我一如は厳密には仏教とは言い難い。
仏教に取り入れられたのであるから、
仏教の一部分とはなっているが。。。
815 :
名無しさん@1周年:02/07/14 23:53
>>梵我一如
戯論だな。仏教は有・無、常・断の中道を説きます。
816 :
名無しさん@1周年:02/07/15 00:42
またこれだよ。w
で、それを総合するような結論が出ないんだ。いつも。
バラモンの梵我一如から仏教へ。
それを解き放ったのが仏教。
818 :
名無しさん@1周年:02/07/15 08:14
で、衰弱したからまたヨーガと密教へ。
不一不二
一つで非ず。二つで非ず。
仏であり、仏で非ず。即心即仏の位相これ非心非仏で調うべし。
820 :
名無しさん@1周年:02/07/15 11:42
問題は、釈尊が否定したのが、「我」なのか、「真我」なのか。
@人間と現象の実体としての我なのか、
Aウパニシャッドなどの「真我=非実体的で大きさを持たない意識主体=空」なのかということ。
ヨーガで出てくるアートマンは、「真我=空」。それが宇宙の「空」に溶解する。
意識することにおいて「我」の概念が生ずる。
もともと幼少期には意識をせずから「我」の概念はなし。
序々に芽生えてきて「反抗期」に至る。この時期が「我」の認識の始まり。
つまりま、もともと無いものが「認識」するようになる。
ここにおいて「我」の概念で迷う事になる。
真我は不生不滅なるかな?
この概念がわからぬ?
「我」があると仰るなら、とくと私が拝見いたそう。
これが公案。
824 :
名無しさん@1周年:02/07/15 13:41
「真我」などという形而上学概念に関しては戯論として無記。
行為主体としての「我」は一応設定するが、その中に「アート
マン」のような不滅の実体の存在を認めず。
825 :
名無しさん@1周年:02/07/15 13:44
822 :808は図式的なんだよ。w
仏教の教科書通り反応。
実際にヨーガの瞑想やってるやつに、聞いてごらん。
826 :
名無しさん@1周年:02/07/15 13:45
823 :808も
824 も、
三昧の入り口にすら入ったことがないな。
827 :
名無しさん@1周年:02/07/15 13:54
下手に三昧などに凝りだすと魔境に陥り、ただのヨーガジャンキーになっちまうぞ。
せっかく公案だしたのに、もったいないです。
「我」という認識は単独では認識できない。
ある関係性をともない、そこで認識できる。
つまり「我」の認識とは何ぞや?
829 :
名無しさん@1周年:02/07/15 14:19
公案というより、そのまんまでしょう。
>公案というより、そのまんまでしょう。
そうそう。で、関係性から認識へ。空→色。
色即是空、空即是色。
「空」と「色」は「相」の違いであり同体。同じ世界。
世界は「色」であっても、それがいわゆる「空」であるという事でしょうね。
空は「無自性」であり関係性(縁起)により「色」→認識する。
831 :
名無しさん@1周年:02/07/15 19:42
>830
あのね、基本的な仏教の「色即是空、空即是色」の認識と違っているのは、620だよ。
「無自性」であるところの「我」がそのまま「空」であり、
同時に認識する「色」であるといいたいのなら、
結局、アートマンと変らないのでは。
その場合のアートマンとは、(自称純粋)仏教徒が、ヒンズー思想との差別化のために誤解したがっているような
実体化された「我」ではなく、
「…ではない、…ではない、…ではない」とヴァカバットギーターで叙述されているところの
実体、中心、輪郭のない「空」「無相」であるところの「我」なのれすよ。
これは釈尊の色界を超えた無色の禅定と、変らないのでは。
つまりシューニャであるところのアートマン。
ただし、アートマンの場合は、一般に「輪廻の主体」とされているために、もうひとつの問題が生じてしまう。
ここで仏教の方は輪廻の無記をいい、あるいは刹那滅するところのアーラヤ識説をとるのではないかな。
しかしこの輪廻の問題は、また別の大きな問題だし、仏教でも勝義諦と世俗諦では見解がわかれている。
前半の主体の問題に関する限りは、(あなたのいう「我」の認識に関する公案)は、結局、同じではないの?
832 :
名無しさん@1周年:02/07/15 19:45
エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
833 :
名無しさん@1周年:02/07/15 19:46
じゃあ、カキコもすんなよ。
>>831 >「無自性」であるところの「我」がそのまま「空」であり、
で、あるから・・・・
貴方が考えるアートマンというのも「関わり」のなかでもたらされた概念でしょう?
「関わり」が無ければ、「アートマン」という概念も無し。
即ち、そういった何らかの関わりが無ければ「概念」も生じない。
「関わり」をもたらすもの?作用?意味?→説明のしようがないが、これが「空」。
「関わり」(縁起)によって、アートマンがあると思えたり、無いと思えたり。
いわゆる「概念」は「関わり」においてもたらされる。こういう事です。
アートマン以前に「空」を考えませんと、その概念によって「空」が観えなくなるのでは?
835 :
名無しさん@1周年:02/07/16 22:51
空をいくら語っても語り尽くせません
実体なきものをどうして語り尽くせましょう
836 :
名無しさん@1周年:02/07/16 23:00
またそれかい…。
837 :
名無しさん@1周年:02/07/16 23:13
>834
「関わり」というのは、この場合「知覚」という意味でいってるんですか?
>「関わり」をもたらすもの?作用?意味?→説明のしようがないが、これが「空」。
意味不明です。これは縁起ということでいってるの?
>アートマン以前に「空」を考えませんと、その概念によって「空」が観えなくなるのでは?
ここに至っては、何のことか…。「その概念」とはアートマンをさしてるんですか?
838 :
名無しさん@1周年:02/07/16 23:19
>>837 たとえば物を見る場合、対象を認識する→という「関わり」があって、初めて成立しますね。
これを縁起というんでしょう。因果といっても良いかとおもいますよ。
つまりは、こういった「関連性」があって初めて認識できる訳ですから。
「知覚」は、そういった関連性(縁起)によって成立するもんじゃないでしょう?
>意味不明です。これは縁起ということでいってるの?
「空」は、説明しようがないけど、あえていうなら「縁起」の本質?としか言いようがない。
アタマでは思うことが言語には表せない。
つまりは「縁起」を成立たせるもの?まあ。こんなようにしか説明は出来ないでしょう。
>ここに至っては、何のことか…。「その概念」とはアートマンをさしてるんですか?
「空」でしたらアートマンの概念は、もはや問題ないんじゃないでしょうか?
つまり、貴方が言いたいような「梵我一如」の顕現?みたいな見性体験でしたら、
ある程度の禅僧なら、貴方が言わなくても既に体験済みかと思いますよ。
そこに「悟後」というのがあるんですから。それを乗り越えていくんですからね。
なにも禅僧はぼんやりしている訳ではないんです。
それなりの葛藤みたいなものを克服していくんですからね。
× 「知覚」は、そういった関連性(縁起)によって成立するもんじゃないでしょう?
○ 成立するもんじゃないでしょうか?
>>839、808
久しぶりに見に来ました。803以来書き込んでないので808さんが839で言ってる
「貴方」ってもしかしたら僕の事指して書いてるだったら別な方だと思いますよ。
皆さん色々アドバイスもありがとうございます。
確かに僕も以前から熟達した禅僧は体験しているよな、と感じてました。
だってその境地を「身心脱落」って言ってますし。
というのはこれは完全に僕の個人的な意見なんですが(前にも書きましたか?)
体と心を空しくして完全に無くしてしまえばそこに残るのは「ただ仏だけ」ですから。
なぜなら僕は体の構造を大ざっぱに体、心、魂(=広義の真の自分)と考えてますので。
小さな自分をからにしてしまえば、というか真の自分は自分事だけ考える自分
ではなく大乗利他を心がけ、更に現世的な物への執着を絶った上で長い期間座れば
今は全然出来てませんがいつか遠い未来には僕も心身脱落出来るのではないかと思ってます。
でもこれも専門家から見るとやっぱり解釈が全然ちがいますか?・・・
>>841 >「貴方」ってもしかしたら僕の事指して書いてるだったら別な方だと思いますよ。
これは、755さんですね。
道元さんの身心脱落は、即今即所、ところ構わず瞬時に起きたらしい。
これは予想は出来ないかと思います。
白隠さんんの見性体験というのは、説明の段階では梵我一如そのものですよね。
これより何度かの大悟を経ていますから、梵我一如は概念の世界そのものと解釈してます。
843 :
名無しさん@1周年:02/07/17 15:40
梵我一如の門ひらけ、無二無三の道直し
無相の相を相として、行くも還るも他所ならず
無念の念を念として、詠うも舞うも法の声
三昧無礙の空広く、四智円明の月冴えん
このとき何をか求むべき
寂滅現前する故に
当所すなわち蓮華国、この身すなわち仏なり
844 :
名無しさん@1周年:02/07/17 18:50
議論に加わりたいなぁ〜。
でも、ここのレス読むの、普通以上に疲れる。
わけわからんくなってきた。
何が議論のポイントなのか、ここいらで、
話の流れとポイントをまとめてくれると有り難いのですが……。
あまえすぎですね。
空だよ空、、、空とはなにか?でしょ、つまりは。
「無とはなんぞや」と一緒、言葉違うだけ、分別盲像の世界。。
じゃ、俺が教えてやる。空とはなにかを。
お前だよ!
847 :
名無しさん@1周年:02/07/17 19:03
>>841 >なぜなら僕は体の構造を大ざっぱに体、心、魂(=広義の真の自分)と考えてますので。
身心脱落の「身心」が、「体、心、魂(=広義の真の自分)」だとは考えないのかね?
>>847 >身心脱落の「身心」が、「体、心、魂(=広義の真の自分)」だとは考えないのかね?
考えます。その通りだと思います。
究極的な意味では本当は宇宙には根本仏ただ一人しか存在しないとは思いますが。
人間に近い所から考えると肉体に一番近い感情体(アストラル体)、数字の計算や
論理的な考えをする体である精神体(メンタル体)そしてその奥の無意識の領域に
含まれる魂(真我)とそれを包むコーザル体。
ここまでが人間です。輪廻転生する過程で姿の変わる体です。
そしてそれを全て統括していて根本仏と同じ創造力をもって内側から人間の出会う人々、
環境、身に降りかかる事故、因縁のつけを払わせるなど複雑な各個人の世界(これが縁起でしょうか)
を整え、自分の分身たる人間にあらゆる悟りをもたらす存在、モナド(超高我)。
これが内なる仏、仏性、真の思考者、真の自分だと考えます。
だから上の人間の領域に含まれる表面的な心や一部の無意識の領域や
魂の一部に至るまで脱ぎ捨てるべきは狭い意味では魂も含みます。脱ぎ捨てると仏が表面に現れてくる。
ただやはり究極的にはその仏も根本仏の一部で、今まで通って来た記憶を持った
まま根本仏に溶け込んでいる存在と考えます。
根本仏がドラクエ7もやったがFF10もやった、そのドラクエ7をやった記憶が
一人一人の人間の全輪廻転生に亘る記憶に当たると理解してます。
849 :
名無しさん@1周年:02/07/18 06:42
>>848 身心脱落の「身心」には、
>内なる仏、仏性、真の思考者、真の自分
も含まれる。
表面に現れてくるような仏など初めからないよ。
まあ所詮は脳内ゲームなんだがね。
850 :
名無しさん@1周年:02/07/18 06:48
/\ /\
/ \ / \
/ ゙'----''"´ ヾ
/ `:、
/ `:
| i
| ノ ' |
| .,___., .,___., i もうだめぽ
、 ''"´`:、 υ /
`丶,:' 、. . )___Д____,,.,_,,.;''"
/ / ο
>>849 その初めから無いはずの仏がある、と訴えていたのが空海大師だと考えてました。
または虚空蔵菩薩求聞耳法でしたか、宇宙の情報を得る力も出てくる、と。
熟達した禅師も意識の拡張など通して同様の境地にいたると理解してたんですが・・・
849さんは「身心脱落」とはどの様な状態だと教わってましたか、あるいは
考えてましたか?
すいません、教えて下さい。お忙しいでしょうが。
852 :
名無しさん@1周年:02/07/18 09:01
また戯論の陥穽にはまっとるな(藁
853 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/07/18 09:17
横レススマソ。
仏性というのは「ありのまま」の位相でして、
これは「有」「無」の概念では無いとおもいますよ。
つまりは形而上の解釈はいらないかと思います。
即心即仏
非心非仏
同じ事です。
854 :
名無しさん@1周年:02/07/18 12:43
>850
かわいいな、それ、つくったんか?
855 :
名無しさん@1周年:02/07/18 19:26
>>851 禅も密教も究極的には同じところに至りつくかも知れない。
しかし禅の修行に三密加持があるかね?
密教の修行に只管打坐があるかね?
「身心脱落」と禅の用語を使うなら、禅の文脈で考えるべきだと私は思う。
密教の文脈でそれを言い出したら本来の意味が違ってくると私は考える。
「身心脱落」したことがないのでそれがどういう状態なのかは私も知らないが、849で知ったふうな事を書いてしまったので考えてみよう。
しばらく待たれよ。
856 :
名無しさん@1周年:02/07/18 20:14
>>855の続き。
身心脱落とは、
「宇宙の根本仏」だの「アストラル体」だの「メンタル体」だの
「真我」だの「コーザル体」だの「輪廻転生」だの「縁起」だの
「モナド」だの「内なる仏」だの「仏性」だの「真の思考者」だの
「真の自分」だの「空海大師」だの「虚空蔵菩薩求聞耳法」だの
「宇宙の情報」だの「身心脱落」だのがからりと捨てられた状態。
はっきり言うが、いいかげん脳内ゲームの電源を切って、自分の心臓の音でも聴いているがよい。
857 :
brown:02/07/18 20:59
ただ一人の根本仏は存在しません。
個々人を結びつける共通的無意識も存在しません。
したがってその記憶も存在せず,超自然力も存在しません。
次に,輪廻「転生」は存在するとも存在しないとも言えず,
仏性も存在するとも存在しないとも言えません。
これらについては議論しても結論はでません。
また,個人は存在し,概念も存在します。
したがって,個人が真の自己を発見したり,概念を理解したりすることも存在します。
これらを無視したり,理解しようとしない場合には,誤った考えを抱いたり,
誤った行動を起こすことになります。
あるものをないといってはならない。
ないものをあるといってはならない。
これが諸仏の教えなのです。
859 :
brown:02/07/18 21:27
>858
きわめてよい質問です。
ところであなたは,基準は何だと思います?
>>859 知覚が基準にある思います。
見えるもの、聞こえるもの、話す事ができるもの。
861 :
brown:02/07/19 00:10
>860
全くその通りですよ。知覚が基準にあります。
「話す事ができるもの」とおっしゃってる意味が少々(私には)わかりにくい
ですが,「考えることができるもの」・「信じることができるもの」・「信頼
できるもの」ということでしょう。
結局,それは,その人の良心のことですよ。
「確かにそれを信じているのか?」と自分に問い掛けてみたとき,崩れ去るもの
なのかどうか,ということですね。
ものの存在感は全く知覚者の良心にかかっていましてね,それが明晰な人にのみ
よりはっきりとした存在が見えるようになる。
世間をより深く洞察し,検証が深まっていくにつれて,意見は変わっていくかも
しれませんが,最終的に何も残らなくなってしまいます。
しかし,決して乗り越えることのできないそれを乗り越えていくと,
「あるものが全くある」という「確信」が,命に歓びを吹き込みます。
空であるものが何もなくなったときに,あらゆる迷妄は妙分別智の一撃によって
根こそぎ,打ち砕かれてしまいます。
「仏教」や「般若」なるものはある意味でこれと逆のことを言っています。
でもそれは,私に言わせれば,人類5000年の迷妄なのです。
いわゆる「脳内ワールド」ですね。
俺の家は禅宗だぜよ。
ただ頭の中を空っぽにしたいだけなら眠ってる方がまだましです。
相手とうまく譲り合って人間関係を築くだけなら話し方教室にでも行った方がまだいいでしょう。
なにもかもあるがままに受け入れて苦しくても殴られても動じなくなるの
なら白痴になるので十分です。
年をとれば誰でも多かれ少なかれ寛容にはなるでしょう。
だれかも少し前のレスで”それで楽しいの?”って言ってましたが禅師はそんな事が目的で座ってたんでしょうか。
只管打坐とは悟りを得るためでしょうがそんな底の浅いものが悟りでしょうか?
この世界、出会う人々を偶然の産物と見ている内はいつまでたっても悟りには至らないと思いますが・・・
よく見ていると全ては大師の言う衆生秘密だと思いますね。
確かに非常に強力に作られている。実感します。
肯定するか自分の目に見る能力が無いから否定するか。
ここが違えばもう議論の仕様がないのですよね、確かに。大前提です。
僕は見える沢山の人との交流やその著作を多く読んだため100%肯定しますが。
衆生秘密、本当に強力だと実感します。そこにつきますね。
また学ぶ事があれば・・・。
瞑想してるとなんか一つのエナジーと繋がってる感じになることがある。
アレは何だろうな。なんか全てといってしまいたくなるほどの恍惚感を味わったことがある
866 :
名無しさん@1周年:02/07/19 01:55
自由にそういった感覚になれるように訓練せよ
ラジャー!! (`Д´)\
868 :
名無しさん@1周年:02/07/19 02:45
「空」はオカルトでもトンデモでもないのだ。
まあ、僕もちょっと神智学用語使い過ぎました。
ただ、その方が色々と構造をぴったり理解しやすかったもので。
禅の境地を考えた時にただ空(から)になったり心が落ち着き日々をより良く生きていける
のを境地だとするか、その時に仏の智慧が出てくるのをそれ、とするか、
それとも一歩進んで仏の威神力が出てくる所までをそうとするかは立場はそれぞれありますよね。
それぞれの立場で自分の領域について語れば良い訳です。議論の場なのだから。
その時、これは僕自身にも言える事ですがなじみのない言葉や考え方を見た時に
それに対して目障りだ、そんな事は絶対にない、俺の常識世界の常識が絶対だ、
と切り捨てるのはまあ、ここの管理人でもあれば出来もしますでしょうが。どうでしょうか。
特に自分自身の意見、考え、というか対案を出せない場合は特に。
こんな不思議の固まりの様な宇宙に生きてて「絶対に無い」ってのは言えないですからね。
現代社会をみたらたった300年前には「絶対に無いはずだった」ものばかりで溢れかえってます。
僕自身もあまり独善的で排他的にならぬ様に気をつけたいものだと思いますね。
870 :
名無しさん@1周年:02/07/19 13:22
>>860 >知覚が基準にある思います。
>見えるもの、聞こえるもの、話す事ができるもの
舎利弗よ。色は空なるが故に悩懐の相なく、受は空なるが故に受の相なく、
想は空なるが故に知の相なく、行は空なるが故に作の相なく、識は空なるが
故に覚の相なし。
871 :
名無しさん@1周年:02/07/19 20:29
諸天もその低き座より彼を羨み、三界の残骸も彼をゆすぶる能わず。
彼のために全ての生は生きられ死なれたり。業ももはや造らず。
新しき家々を、何物をも求めずして、彼全てを得る。
我を捨つれば、宇宙 <吾>となる。
涅槃とは消滅なりと教ゆる者あらばその者に云え、汝の言は妄語なりと。
涅槃とは生くることなりと教ゆる者あらばその者に云え、涅槃を知らず、汝誤まてりと。
彼、破れしランプの彼方に光の照らすものを知らず、
生命なき、時間なき、至福を知らざるが故に。
872 :
名無しさん@1周年:02/07/19 20:42
>>864 どうやら自己陶酔モードに入ったようだ。
>僕は見える沢山の人との交流やその著作を多く読んだため100%肯定しますが。
見えないものが見えるようにでもなったのか?
これは電波の告白かね?
873 :
名無しさん@1周年:02/07/19 20:44
>>865 β-エンドルフィンが分泌されてるんだろう。
自分で座って確かめてみるのが一番ですね、ちょっとしばらく座ってみます。
5〜10年かかるとも言われてますがいつか何か自分で感じた物が
どちらになるか、自分で確かめてみますよ、それが自分にとっての真実でしょう、きっと。
また学べる事があるなと感じたら質問します。
今後も是非実りある議論を・・・
875 :
名無しさん@1周年:02/07/19 23:02
衆生秘密て何?
876 :
名無しさん@1周年:02/07/21 13:24
>>875
空海の衆生秘密:人間の本性みなの本性は仏で大日如来のカケラである
アラヤ識をを持っているのにそのことに愚かにも気づかずに本性を隠し
てしまって誰も決してわからない。人間の誰も知らない自分自身の秘密
これを衆生秘密というのだよ。密教の教えとは人間の閉じられている心
の庫を真言で開いて本当の宇宙の姿を見せてくれる。この本当の秘密を
教えてくれるから密教というのだね。密教の即身成仏とは誰でも大日如
来のカケラをもっているので生きたまま仏になれるという意味だよ。
>>876 上の文章は、何に書いているの?ソースは?
それとも あなたの妄想?
「人々ことごとく道器なり」 [伝光禄]
「身心自然に脱落して、本来の面目現前せん」 [普勧坐禅儀]
[坐禅用心記]の冒頭は「それ坐禅は直に人をして心地を開明し、本分に安住せしむ。これを本来の面目を露わすと
名付け、また本地の風光を現すと名づく。身心ともに脱落し・・・」で始まる。坐禅とは一切の諸縁を捨て放ち、
真実の自己を明らかにしてそこに安住する事だという。真実の自己とは「玲瓏明白にして自照霊然たり。」
清く澄み切った真心を指す。是非、善悪などのこだわりから解放され、身も心も抜け落ちて、虚空にあるが如し。
これを「三昧王三昧」という。坐禅はあたかも、さまよっていた人が家にたどり着き、穏挫するようなものだ。
ただし、真実の自己を明らかにするのだから、なまじの気持ちで坐禅を行ってはならない。
・・・とある。
879 :
名無しさん@1周年:02/07/21 14:10
880 :
名無しさん@1周年:02/07/21 14:14
>>877 というか密教の基礎中の基礎だよ、あなた本当に真言密教??
881 :
名無しさん@1周年:02/07/21 14:17
日本人はアートマンとかブラフマンと言う言葉を
知らなくても神は自分の心にいるものだ
と漠然と考える人って結構いるね。
キリスト教の人は別だけど。
882 :
brown:02/07/22 22:29
>865
いいですねぇ。
その「秘密」を解き明かすには,「瞑想」してちゃだめですよ。
でもその大楽の扉を開くあなたなりの鍵を瞑想として持っているなら,それは
活用すべきでしょう。
@できるだけ強くその快感を直に感じる必要があります。
Aできるだけ長くその快感を保ちつづける必要があります。
Bそのことに十分に慣れた場合,そこから迷いを起こす必要があります。
C迷いを起こすことに慣れた場合,そこから大楽を戻す必要があります。
D両方になれた場合,「瞑想」を十分深めた後,そのまま日常生活に入り,
そこで起こることを何度も分析する必要があります。
E分析に慣れてきた場合,「瞑想」の深度を徐々に浅くする必要があります。
F徐々にその意味は明らかになっていきますが,瞑想という操作を取り除く
必要があります。その状態で日常生活を分析する必要があります。
G日常生活の分析が直接大楽をもたらすまで分析を続ける必要があります。
H日常生活の分析が直接大楽をもたらしたとしても気にかけずに,気が狂うまで
分析を続ける必要があります。
I分析を取り除く必要があります。そのときに,その「秘密」は明らかになる
でしょう。
883 :
名無しさん@1周年:02/07/26 16:56
賛成
884 :
名無しさん@1周年:02/07/27 09:19
ブラウンさんに,質問.ブッダが木の下で悟りを開いたときは
882レスの1のときでしょうか、10のときでしょうか
それとも空見を得たときでしょうか?どう思いますか?
885 :
brown:02/07/27 17:34
>884
難しい質問ですねぇ。
でも,「あなたはどう思うの?」というご質問ですので思うことを述べましょう。
歴史上のかの偉大な王子が成道したとき,それはあるquestionに対する答えで
した。つまり,「人はなぜ完全に幸せでないのか?」という。それは快楽の度合い
の問題ではなく,完全性の問題でしょう。つまり,疑問が確信的に解決されたこと
です。それは,「このようにすれば解決する」という方法論ではなく,「解決した」
事実です。あらゆる疑問が解決しているその境地は,何かのプロセスが介在した
ものであってはならないことが最後には知られます。その境地は,何かの方向付け
が介在してはならないことが最後には知られます。その境地は,出来事と理想との
間の差異を生み出さないものであることが最後には知られます。その境地は,さらに
上や,大きいもの,深いものを求めることのないものであることが最後には知られ
ます。そのような解決とは,単なる客観的知識でも,体験でも,大楽でも,見方
でもなく,「自然本来」であることが最後には知られます。その自然が,Iであると
言えます。それ故にあらゆる仏陀の確信は揺らぐことがないし,いかなる人々も,
困難も災厄も不幸も見解も宗教も哲学もそれを取り除いたり,比較したり,異なる
理想を掲げたり,知識によって上回ろうとしたり,罠をしかけたり,網で捕らえようと
したりすることはできないのです。
886 :
名無しさん@1周年:02/07/27 18:16
>>885 それは まっ、人生こんなもんさ、うちのダンナもこんなもん
ていう近所のおばさんでも知ってるあきらめとどう違うの??
887 :
名無しさん@1周年:02/07/27 18:30
>>885 なんかクリシュナムルティ(だったかな)の本読んだことあるんだけど
似たような事言ってるような気がする
ま、本格的に読んだわけじゃないから 違うかもしれないけど
>>886 >その境地は,出来事と理想との間の差異を生み出さないものであることが最後には知られます
とあるわけだから 理想像と現実の比較などはしないんだろうね
あきらめとは比較の末に 現実と理想の間のギャップがいかなる努力によっても
埋められないことが分かった上での事だろうから・・・
何か違うような気もしないでもないが
10ですか。自分にはあまりにも遠すぎて、いつになることやら。
それでも前に進みたいとおもいます。
完成には、日 暮れて 道 遠し。一切顛倒夢想 究境涅槃
紀伊国屋で本を買い外のベンチに座ると、空気が熱されていてものすごく暑い。そ
こで本を開き読み始めると、ふいに、涼しくなった。なんだろうと、顔をあげると
旗がいっせいになびいている。風があたりの熱い空気を吹き飛ばしたようだ。旗で
風が○神社のある山から吹いてきたのがわかる。風が扇子がわりになった(諸葛孔
明のようだ)。ちなみに、本は、神こう記(一二三著)、おすすめ。
890 :
brown:02/07/28 22:15
>886
あなたが「それでよい」というのならそれでよいのですよ,あなたは。
つまり,それはあらゆるquestionに対する答えなんでね。
もともとquestionがあなたのレヴェルであれば,その解決もそのレヴェルのもの
となってしまう。
それでよければそれでよい。他人の知ったことでない。私の知ったことではない。
無上の解決は無上の質問から産まれると知りなさい。
891 :
名無しさん@1周年:02/07/29 07:14
無上の質問とは 空 とは何ぞや?と言うことか?
892 :
横レスくん:02/07/29 10:17
無上とは悟りの境地であれば、質問という属性は
持たないのでは。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶 般若心経
今日思いついたことを一つ。‘生原稿、一枚のみが本物、残りのコピー用紙にコピー
されたものは本物そっくりでもにせもの。’
あっ、真上にもコピーがあった。失礼。
ただ、仏教の戒は重要。沈黙は金(これで不悪口などをカバーできる)ぐら
いは守っておくと後々いいです。金と銀では価値が全然ちがいますからね。
620さんの書き込み、面白かった。(枝葉のこまごましたところは、こま
かすぎて頭痛くなりますが)
897 :
brown:02/07/30 00:45
>891
「空とは何ぞや?」
そんな質問はあり得ません。
もし空が何かを知っていたら質問する必要がなく,
もし空が何かを知らないのなら,疑問など初めから対象にならないのです。
もっともっと素直になることです。
私は一体何をしりたいのだと。
898 :
名無しさん@1周年:02/07/30 06:18
もしかしたらだが、
「空」の対極に当たるのが「陰陽の合体」なのじゃないか?
陰陽の合体とは隣の国の巴旗を見ればわかるが、
安易に陰と陽を合体させるのは簡単には簡単だ、
韓国系呪術に空の概念があるだろうか?
日本古来のものでも多かれ少なかれ一歩間違うと
安易に逝ってしまうのでは?
あまり「空」の概念を説く外国宗教は見当たらないが、
空の状態に陽だけ入ってくれば、それに越したことは無いのでは?
899 :
名無しさん@1周年:02/07/30 07:15
このスレは、空とはなんぞやについて語るスレ
色即是空、空即是色。
900 :
♯shapshap:02/07/30 07:17
900
901 :
名無しさん@1周年:02/07/30 07:38
両手で手を打つと音がする。
さて片手だけだとどんな音がするか?
こたえ 拈華微笑
私は一体何を知りたいのだ?
こたえ その私とかゆうものが在るのなら連れて来なさい。
902 :
名無しさん@1周年:02/07/30 08:08
903 :
名無しさん@1周年:02/07/30 08:10
904 :
ケムール人:02/07/30 13:31
よっ! brown ちゃんおひさしぶり。
やってるねえ、あいかわらず。
ところでこれってどういうこと。もう少し砕いていうと。
>861
「仏教」や「般若」なるものはある意味でこれと逆のことを言っています。
でもそれは,私に言わせれば,人類5000年の迷妄なのです。
いわゆる「脳内ワールド」ですね。
神、かみだよ、カミ。物理も政治も宗教も、カミを抜きに語れるか。
906 :
brown:02/07/30 22:18
よっ!ケムちゃんおひさしぶり。
やってるねえ,あいかわらず。司会。
ところで,
>「仏教」や「般若」なるものはある意味でこれと逆のことを言っています。
>でもそれは,私に言わせれば,人類5000年の迷妄なのです。
は,「空」のことです。逆とは,実のこと。
唯識の無分別智だの,般若経の空だのを持ち出して何かが「無い」ことがありが
たいことだと思っている。それはね,ありがたくも,悟りでも何でもないんで
すよ。無分別とは,暗闇で物を見るようなもので何も見えないことをいいます。
何も見えないことが重要なのではなく,よく見ることが重要なのですね。
「空だ」,「無だ」,「無分別だ」というのは,「全ては神の為せる技だ」と
いったり,「超能力が得られる」と言っているのと本質的に変わらない。
それは,人類5000年続いてきた伝統です。
907 :
brown:02/07/30 22:33
照見五蘊皆空 度一切苦厄
とは,「一切の知覚のプロセスが『これまで』妄想に覆われていたとわかったので,
『これまでの』一切の苦もまた妄想であるとわかった」と言う意味です。
五蘊不異空 空不異五蘊 五蘊即是空 空即是五蘊
とは,「『これまでの』一切の知覚プロセスは妄想であった。妄想により
『これまでの』知覚プロセスは私にとって確固たるものとして成立していた。
しかしそれは,これまでたとえ確固としたものとして成立しているように見えて
きたとしても妄想に過ぎないことが明らかになったし,妄想に過ぎないものが
こうして確固たるものとして成立してしまうプロセスも明らかになった」
と言う意味です。
是諸法空相 無・・・
とは,「このようにしてすべての実在は妄想によって覆われていたので,
六根六境六処十二縁起十二縁滅四諦・・・はことごとく明らかにされなかった。
ああ,このようにして無明に覆われていたのだ,私は。このようなことでは
何も得ることがないし,ただアホらしい人生を生きるだけである。何とかせねば
ならん。」ということです。
908 :
brown:02/07/30 22:44
以無所得故 菩提薩タ依般若波羅蜜多故 心無ケイゲ 無ケイゲ故 無有恐怖
厭離一切転倒夢想 究竟涅槃
とは,「これではだめなので真実を理解する努力をすれば,心に何か固定した
わだかまりの一切がほどけ去り,心がどこにも留まることなくあらゆる変化と
一体となれば,何の障害もなくなり,一切の逆転した知覚(妄想が真実だと
認識していた知覚プロセス)が裏返しになって,究極の安らぎに到達する」
と言う意味です。
そのようにして一切の仏陀は無上の完成を得たし,これからも得るであろう。
そのためには注意深くあらゆる対象を生み出すこの縁起のプロセスをじっくりと
観察すべしと説いています。
909 :
brown:02/07/30 22:49
無分別智とは,何かを考えなくなることでも,私がいなくなったり,わざわざ
つれてこなければ私の存在すらわからなくなることなのではなく,はっきりと
私や対象や全ての物事が明らかになっているので,何か特定のものだけをとり
上げて努力してその特徴をわざわざ明らかにする必要がない,といった感じ
の意味です。何かをわざわざ取り上げる余地なく全てがありのままにあるという
ことです。それが妙分別智です。
910 :
brown:02/07/30 22:54
ついでに,「心の対象化過程」や「概念化」とは,
対象があったり,概念があったりすることではなく,
ある対象や概念に肩入れするあまりに,それとは別の対象や概念が知覚の枠から
抜け落ちてしまうことです。
十分「噛み砕いた」説明になったかな?
この人、自明灯、がないね。
細かぁ〜、重箱のスミですね。
そんなスミつついて、どうするの。
914 :
名無しさん@1周年:02/07/31 00:21
>910
おー、ずいぶん丁寧にありがと。
般若心経。
またいくつか聞きたいことあるけど、
これから旅の用意があるんで、
明後日にでも、ゆっくりレスします。
…とりあえずお礼まで。
915 :
名無しさん@1周年:02/07/31 00:22
914 =ケムール人
916 :
名無しさん@1周年:02/07/31 00:26
ままっ、白い鳩ぽっぽさん。
もう、かれこれ14年前になりますか。ソウル・オリンピック開会式。
開会を祝う白い鳩が解き放たれ、聖火点灯という栄えある歴史的一瞬が
訪れたその瞬間、悲劇は起こったのれす。
大空へと飛び立ったハトたちが、鳥の習性でどうしても高くそびえる聖火台
へと行っちまい、次の瞬間、聖火に包まれ、焼き鳥になっちまった と・・・
あの焼死された平和の象徴である白い鳩ポッポさんたちに祈りましょう。安らかにお眠りくだされ と・・・
鳩にも、魂は、ある。知ってますか?
918 :
名無しさん@1周年:02/07/31 05:12
39 :名無しさん@1周年 :02/07/10 19:24
そこから止観の意味が出てきます。
心を集中して静止させ、寂静の状態で対象が現れない状態にする。
つまり、シャマタ(止)とヴィパッシュヤナー(観)を繰りかえして、心生滅(心の動き)を静止ざていくこと。
「一切の現象は心のみであって、外界の対象は存在しない、そしてそのように思う心自体もまた、
固有の相はなく、刹那ごとに生滅し、知覚できないと知るべきである。」「大乗起信論」
大乗起信論よりコピペ
919 :
名無しさん@1周年:02/07/31 05:33
聖霊か?
920 :
名無しさん@1周年:02/08/01 07:47
おいおい司会かよ 説法じゃないのかよ?
かわいそうなケムさん(T_T)
無量音声仏預って何?どんな仏様?
大変だ・・・・
全ての事物、(自分含む)は自分の心の何かでむにゅむにゅ造られ出てるYO!
心の奥から・・・けど>871みたいに照らす光はまだわかんないよーー!
凄いよ。心の奥の奥の奥からずうううううっとなにかながれてるみたいで。
924 :
名無しさん@1周年:02/08/02 20:15
我を捨つれば、宇宙 <吾>となる。
金も★けりゃ女もほしいアタシャ も少し背がほしい。
命短し〜〜恋せよ 乙女ーー
捨てる我も無し
925 :
ケムール人:02/08/04 13:07
>906 :brown
…レスおくれてしまった。スマソ w
「空」とか「実」とかいっているのは、この文脈では、
要するに「知覚」の問題というわけね。
では、こういう解釈でいいのかな?
これはbrown氏の体験に対する私の「言語的解釈」に過ぎないんで、
これはこれでひとつの妄想になってしまうわけだけど。
*
われわれの日常の慣性的惰性的知覚の構造というのがすでにあって、ウチラはそのパターンの内部で生きている。
これは「妄想」に覆われた状態であり、知覚の鮮度そのものもはなはだ曖昧である。
しかも、おのおのの性向とか欲とか煩悩とか心の癖によって、注目する対象も限られていて、構造化されていて、
さらにそこに分別知がかってな癖をつけてしまう。
それもまた妄想を強化することになる。そのような世界に、覚醒以前の人間は棲んでいる。
これは「無明」の状態であり、「一切転倒夢想」の状態であり、条件反射的に形成されてしまう十二縁起の状態である。
それは何らかの背景の衝動によって、ある対象を特化して、実体化して、結局は迷妄の世界をエンドレスで再生産し続けることになる…と。
しかし、この状態を超えたもうひとつ上の「知覚」の位相がある。
それは対象を無意識的に、条件反射的に、実体化したり特化したりするものではなく、
変化しつつ無常でもある外界に対して、全方位的に明晰に知覚する位相である。
その状態は、いわゆる「あるがまま」の状態てある。
この鮮烈な知覚の世界には、しばしば概念化された「空」によって拘束された「仏教徒」の意識では、なかなか入りづらい。
*
926 :
ケムール人:02/08/04 13:07
まあ、これも文章化して言語化しているわけだから「妄想」なんだけど。
>何かをわざわざ取り上げる余地なく全てがありのままにあるという
ことです。それが妙分別智です。
ナルホド。
よく坊さんや仏教学者が「ありのままに見る」とか「あるがままの世界」とか自著に惰性的に書いているんだけど、
そのためにますます読者は混乱し、わからなくなっちゃうのよねー。
たぶん本人も、大してよくわかってねーんじゃねえかという疑いを持っているんだけど。w
単なる現状肯定の言葉で、自分の属するギルドに異をとなえないことの弁明のように聞こえたりして。
というわけで、この知覚革命みたいな意味でのbrownちゃんの「あるがまま」
「何かをわざわざ取り上げる余地なく全てがありのままにある」知覚の状態を、もう少しよく知りたいです。
「妙分別智」の描写を、何か例えを出してやっていただくと、大変ありがたいです。
927 :
名無しさん@1周年:02/08/05 01:04
age
928 :
名無しさん@1周年:02/08/05 08:45
再びage
929 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/08/05 10:20
>>928 ガムバってるね。
brown氏のコメントを待ちきれないのかな(^^)
930 :
名無しさん@1周年:02/08/05 10:27
妙分別智とは、般若の智慧だからね〜。
931 :
名無しさん@1周年:02/08/05 20:27
あら!
932 :
brown:02/08/06 01:23
>925
そんな感じでピッタンコだと思いますよ。
>926
すみませんが,今日は時刻が遅く,明日報告がありますんで時間下さい。
ケムール人氏のおっしゃる「喩え」というのをなんか考えときます。
そういえば,その一つとしてこういうのがあります。
目の前に,10円,100円,千円があります。目の前にある中からどれか一つを選んで
もらってよい!となったとき,どれをもらいますか?という質問。
「妙分別智」とは7月19日にbrownが作った言葉ですが,仏教学問の中に
既にあることばなのでしょうか?どうか?
933 :
brown:02/08/07 00:16
あんまりよい「喩え」なんて思いつきませんね。
生きています。
このとき「〜だから幸せだ」と考えたとします。それがないことが「あるがまま」
です。それがなくて何なのか?その答えは体験の中にあります。しかし,その
体験を言葉で表現しようとすると,要するに,「何がなくても完全に幸せな」
となります。たとえ災害が起ころうとも,たとえ愛する者が死んだとしても,
たとえ自身が死にゆくとしても,たとえこの日常がずーと続いていったとしても,
そのすべてを貫いて,何がなくても生きているだけで完璧に幸せなということです。
女は私にとって強烈な喜びをもたらします。しかし,それがあろうとなかろうと,
至高体験の中にあります。それは,女と私のあらゆる関係性,つまり,出会いや,
片思いや相思相愛や生き別れや死に別れといった全ての体験を貫いて経験される,
完全な幸福です。この体験は途切れることなく変化とともに常に続いていきます。
何か特殊なアイデアや作業,所属を付け加えたり差し引いたりすることなく,
全く何もないままで,どこかにある永久機関から供給されるかのような幸せです。
私は何か一風変わった,あるいは「brownのように特殊な徳を持った者のみが
到達できる境地」の話をしているのではないのです。私はきっぱりと断言します。
それは,あらゆる生命に宿った命の本性なのだと。それは求道に専念することに
より,あらゆる人々が体験し,理解することが出来ます。
934 :
brown:02/08/07 00:34
そのメカニズムも私には極めて明快です。それは完全な理解を伴うので,苦行や
瞑想,薬や突発事象によって体験されるものではないのです。それは何か特殊な
ものではなく,明確な知です。明確な理であり,明確な事実です。それは作り上げた
理論ではなく,ファクトなのです。あまりにもはっきりとしたこの世の真実の一つ
です。それはあたかも「万物が引力を持っている」というのと等しく事実なのです。
それは神や信仰の概念でもなく,東洋的な道の概念とも異なります。何かしなければ
ならないことや規範などなく,ただただ真実なのです。
一切衆生の認識は何かがおかしいのです。でも,何がおかしいのでしょう?それは
実際にこの「おかしくない状態」を体験しない限り分かりません。なぜなら,分かる
仕組み自体が既におかしいからです。それはあたかも細菌に触れた手で無菌のもの
を触ったとしてもその時点で既に無菌のものは無菌でなくなってしまうようなもの
です。でもでも,たとえ「本当に分かる」ということがないとしても,それを理解
しようとしたり,方向性を理解したり,そこに至る方法を理解したりすることは
可能です。衆生の体験領域一切の外があるということです。それは常にあなたの
そばにありますが常に知りえない状態にあるものです。それはあなた自身の本性
ですが,その本性はある構造によって常に壊され続けています。そしてその構造
をあなたは常に支持しています。そこに「問題」があります。これを取り除いた
場合に,それは本性ですから,ただ現れるのです。
935 :
brown:02/08/07 00:44
この「問題構造」は,二重構造になっています。一つはあなたがその問題を作り
出しているところにあります。常にやむことなく問題を作り出し続ける習慣
が身についています。もう一つは,一度問題が作り出されるとそれはしばらく
引き続いてしまうところにあります。たとえ一瞬「突発事象」によって問題を
作り出すパターンがはずれたとしても,その持続構造があなたに代わってこの
問題を支持します。それはなぜだか知りませんが,心というものがもっている
性質なのです。それはなぜそうなのか知りませんが心の性質に関する事実なのです。
このようにしてこの二人の破壊者は,問題が決して解かれないようにがんばっている
のです。そしてこのようにして「あるがまま」の驚くべき貴重な新鮮さ,生命の
始まりの喩えようのない美しさは跡形もなく破壊されるように仕組まれている
のです。それは,人類全てに仕組まれた欠陥なのです。
936 :
名無しさん@1周年:02/08/07 10:16
理外の理、空なのに色、色なのに空、理解不能
でも、体験可能。?????????????
寂滅現前の向こうになにがある?
くうねるあそぶにかまけて、そこまでいけません?
もっともっとしたい.あれがしたい、これがしたい、
もっともっとしたい。あれがほすい、これがほすい、
もっともっとほすい。Hもしたけりゃ、かねもほしい
そして真理もほしい。何もしないで頭の中で遊んでる。
ブッダはやって到達したのか?考えて到達したのか?
右手に金を持って、Hしながら、完成することは
無理でしょうか?ブラウンさん?
937 :
名無しさん@1周年:02/08/07 10:30
>>932 日常生活の中で使われる分別智に対して、至高体験、観自在菩薩が
深い瞑想に入りて会得した般若の知恵だから無分別智→妙分別智と
いう論理で申した訳でして。しかし、妙という音感には、法華経と
か日蓮さんがシンクロされちゃいます。それにしても、ス薔薇スィ
創作語には違いありません。
938 :
brown:02/08/07 23:01
>936
「右手に金を持って、Hしながら、完成することは」
とありますが,「ながら」は無理でしょう。
順にやればいかがですか?金儲けをしたら完成できなくなるとか,Hをしすぎたら
駄目だとか言うことは一切ないと思います。どんどんやりましょう。別に悪い
ことでもないし。ただ同時期に二つ求めることは不可能です。
なぜなら,完成には全人格をかけてなおかつさらに一歩進みきる何かが
必要だから。
ああ,別に逆順でもよいと思いますよ。完成してから金儲け。完成したら金儲け
に意味がなくなって無味乾燥な人生になることは決してなく,金儲けを通して
そのすばらしさを味わえます。ただしそのときには金儲けの苦しみも味わいます。
もし金儲けやHで満足を得たい場合には中途半端にやる必要があります。
もし金儲けやHを完成のために使いたいのであれば徹底的にやる必要があります。
完成したい場合には徹底的になる必要があります。
ラジャー!! (`Д´)\徹底的行尽
仏に捨身してから、理趣鏡が与えられるべきで
でないと行に溺れちゃうよ、知行や、性行。
道元に真魚がしたように。
溺れるのがこわいよう。
942 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/08/08 09:50
理趣鏡。
鏡に女体が映っちまったんだろうね。元天台僧は。空海が口をすべらしちまったんだね。
ポルノグラフィーじゃないんだからね。
943 :
ケムール人:02/08/08 10:39
あら、ナニ、理趣経まで行ってんの。
はあ…。
brown師は938章において、いよいよ奥儀の左道タントラをお説きあそばされたって?
*
えー、brownどの、レスさんくす、です。
>何か特殊なアイデアや作業,所属を付け加えたり差し引いたりすることなく,
全く何もないままで,どこかにある永久機関から供給されるかのような幸せです。
ふうむ。これは楽とか、大楽とかいうやつのことかな。対象を求めない至福感ね。
>一切衆生の認識は何かがおかしいのです。でも,何がおかしいのでしょう?それは
実際にこの「おかしくない状態」を体験しない限り分かりません。なぜなら,分かる
仕組み自体が既におかしいからです。
般若心経の「転倒夢想」か。
「実相→ 鮮烈な「色」 → その「色」それ自体が「空」」ということになるかな。
>衆生の体験領域一切の外があるということです。それは常にあなたの
そばにありますが常に知りえない状態にあるものです。それはあなた自身の本性
ですが,その本性はある構造によって常に壊され続けています。そしてその構造
をあなたは常に支持しています。そこに「問題」があります。これを取り除いた
場合に,それは本性ですから,ただ現れるのです。
これが「あるがまま」という状態なわけね。この辺、核心部になるかな。
…ところでこの壊し続ける習性、メカ二ズムは、何なのですか?
>もし金儲けやHで満足を得たい場合には中途半端にやる必要があります。
これは途中で弱くなっちゃって女になじられるのとは違うわけね。(なに言ってんだろ)
なるほど、おかげさまでだいぶ、イメージとしては見えてきたような。もちろん概念レベルですけど。
やはり、われわれが「(実相にふれることを)壊し続ける習性、メカ二ズム」は、何なのか?
これですね。ここをさらに聞いてみたいです。
944 :
brown:02/08/08 23:21
>ところでこの壊し続ける習性、メカ二ズムは、何なのですか
それは心です。
釈迦仏陀曰く,それは煩悩です。
それは第二の意識であり,それは作為です。それは常に「私の」という自己編成
であり,それは自己が意図した通りに環境を解釈しようとする企みです。
それは運命否定であり,迷妄です。それは自分がやっていることを自分自身よく
わかっていないことであり,不安です。それは虚しさであり,比較です。それは
散漫であり,意識の流れの固定です。それは思い込みであり,責任転嫁です。
それは習慣であり,条件付けです。それは「何かがあるから私は幸せだ」という
対象化であり,自己限定です。そして,それは心なのです。
心から自由になるとき,それから自由になります。
945 :
brown:02/08/08 23:39
944は二重構造の内の顕在構造ですが,さらに深層構造があります。
それはやはり心です。
釈迦牟尼曰く,それは業(カルマン)です。
それは心の可塑性です。心には可塑性があって,一度ある形にするとしばらく
その形を保ちます。形とは,パターンであり,条件付け,習慣,意識の流れの
固定,執着です。ある特定の外環境にある特定のパターンの反応を保持すること
です。それは,好きなものに対しては何が何でも受け入れ,嫌いなものに対して
は何が何でも排除するというような,自己中心性です。
人は無反省になるとその自己中心性を見失います。見失うと心の深層構造は
見えなくなり,顕在構造のみが顕れます。礼節や落ち着きを失うと顕在構造
も見えなくなり,ただ本能的,激情的になってしまいます。多くの衆生はその
ように暮らしています。しかし,求道者は礼節や落ち着きを持って顕在構造を
明らかにします。そしてそのようにした賢者は,内省的になり,絶望的になり,
行き場のない地獄に陥ります。行き場のない地獄にはもちろん行き場がありま
せんし,求道心すら無化されてしまいますが,ありえないほど求道心が強い
場合に無でも微妙に残る求道心が,無意識的な,無意図的な「私」をどこかに
連れ去ります。つまり,解脱です。それは私が意図して到達したのではない到達の
初めての体験となります。生まれて初めて私が意図することなく何かを達成
します。それが空性です。それが無努力であり,無為です。それは自然であり,
あるがままなのです。
946 :
brown:02/08/08 23:45
輪廻とは,あるパターンから別のパターンへと移り変わるが,この心の構造だけ
は不変で,ただAパターンの苦界からBパターンの苦界に移ることしか選択肢が
ないことを言っています。
カルマとは,心の深層でこの構造を支持している心の厄介な性質のことです。
すなわち,執着です。
しかし,この執着を滅却すればパターンの輪廻から解脱することができます。
947 :
brown:02/08/08 23:58
>936(941)
>溺れるのがこわいよう
理屈ですが,溺れるのは怖くありません。
もし,女に溺れて還ってこれなくなるというならそれでいいじゃない?
いってらっしゃいよ。なぜって?それで満足なんでしょう?女に溺れて満足
ならそれでいいと思いますよ。女に溺れられないアホ(brown)は全てを捨てる
しか道がなくなってしまう。
私の信念によると,あなたがたとえそのような仮説を立てて「徹底的行尽愛欲」
をやったとしても満足できないと思いますが。本当のところはよくわかりません。
でも,このような信念があるから,「完成には徹底が必要,満足には中途半端
が必要」というのです。徹底的に愛欲を求めても絶望が待っているだけです。
それが完成への道のチャンスでしてね。どうせならそこまで愛欲に狂ってもらいたい
ものです。
---
追伸:
ほどほどにね。
brownの裏側にある社会人より
>しかし,この執着を滅却すればパターンの輪廻から解脱することができます。
そのあと、どうなるんだい?
根無し草のようにふわふわ漂うのかい?
そして、全てを見渡せる位置に立つのかい?
逝って来ます。ラジャー
950 :
名無しさん@1周年:02/08/09 10:03
一人だけ悦に浸ってニルバーナするよりも、敢えて衆生救済のために
苦界に輪廻して利他行に励む菩提の道こそ尊いと思われ。菩薩様は、
決して完成途上にあるののではありません。涅槃に至るライセンスを
お持ちなのです。本当は。
951 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/08/09 10:13
諸行諸遊楽
遊びたわむれる、そのままのお姿。
952 :
名無しさん@1周年:02/08/09 10:16
それ、誰にいってんの?
菩薩概念そのものが曖昧だから、いまさらのように「悟り」とか「覚醒」について改めて明確にしたいってわけでしょ。
日本には、ブラスバンドで行進したり、投票を強制したりする「自称菩薩」が多すぎるから、
個の悟りである「阿羅漢」とは何かをハッキリさせなきゃならないわけ。
どっかの教団のマニュアルや、仏教入門の能書きをここでくりかえしてもしょうがないの。
953 :
名無しさん@1周年:02/08/09 11:42
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
954 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/08/09 16:11
>>952 >菩薩概念そのものが曖昧だから
「こうあるべき」とか「こうあってはならない」とか・・・
そうゆう事では無いとおもいますよ。
入てん垂手。そのものが菩薩なんじゃないでしょうか?
「何をするから」→菩薩とか・・・
「何をしないから」→菩薩でないとか・・・
ソーユー事では無いかとおもいますよ。
いわゆる、この概念から外れちまってんでしょうからね。
955 :
brown:02/08/10 01:04
>954
>「こうあるべき」とか「こうあってはならない」とか・・・
>そうゆう事では無いとおもいますよ。
そうですね。なければならないことがないことが解脱です。
>950
>決して完成途上にあるののではありません。涅槃に至るライセンスを
>お持ちなのです。本当は。
そういうのを完成途上と言うんですよ。
ライセンスがあるとかないとか。つまり未だ,形の魅力に縛られている。
ニルバーナにライセンスなどなく,固定した特典も何もない。
何もないけど不断に顕れ続ける,求めないけど得られている,
というのがニルバーナです。
前にも言いましたが,「950」にいうような大乗的概念というものは,
お子様ランチのようなものです。
依存心や虚栄心が高い大衆向け,子供向けに合わせて創られた理論です。
956 :
brown:02/08/10 01:08
>948
>そのあと、どうなるんだい?
自由になるんだよ。
957 :
名無しさん@1周年:02/08/10 08:18
金が絶望に近い,と言うのは理解できます。
666の約束手形や300の使えない約束の米債が
人類を絶望に追いやりやがて目を覚ます。
でも愛欲にもそんな力があるのかいな?
絶望に追いやり,目を覚まさせてくれるんだろか?
本読んでいくら考えても解からんわなの罠。
958 :
名無しさん@1周年:02/08/10 08:20
自由に成りたい。
959 :
名無しさん@1周年:02/08/10 08:22
貪愛
960 :
ケムール人:02/08/10 08:49
>944 955 brown
酢薔薇水レスを、ありがとう!
>それは第二の意識であり,それは作為です。それは常に「私の」という自己編成
であり,それは自己が意図した通りに環境を解釈しようとする企みです。
>それは心の可塑性です。心には可塑性があって,一度ある形にするとしばらく
その形を保ちます。形とは,パターンであり,条件付け,習慣,意識の流れの固定,執着です。
ある特定の外環境にある特定のパターンの反応を保持することです。それは,好きなものに対しては何が何でも受け入れ,嫌いなものに対して
は何が何でも排除するというような,自己中心性です。
この辺、仏教の専門用語よりもわかりやすいかもね。
結局、「我と我がもの」、
「無明→行→識」、
このあたりの心のパターン化が、実在に触れることを阻んでいるということなのかな。
brownちゃんはさ、ときどき「仏教」を否定しているようなことをいうけど、つまりは仏教そのものなんだよな。
ときおり更新しないと、「仏教」はいつのまにか型を持ってしまう、ということなんだろうけどね。w
怖がられる人→全身の震えが苫蘭。
大日教によると、心は六十種類あるらしい。
963 :
brown:02/08/10 16:48
>957
>金が絶望に近い,と言うのは理解できます。
>でも愛欲にもそんな力があるのかいな?
>絶望に追いやり,目を覚まさせてくれるんだろか?
うん。私は愛欲にもそんな力があるんとちゃうかと思う。
ところで,そう思うわけは次の通りです。
仏陀曰く,感情とは到着点のないドライブです。全てを消耗して走り続ける
ドライブです。
愛欲でも金欲でも権力欲でも,どこにも完成のしどころのない,決して解決可能
な満足を得ることができない猛進です。それは常に我々を駆り立てますが,
結局どこにもたどり着きません。
いかなるきらめく恋愛の結末も,待っているのはいらだちと倦怠,そして憎悪
です。それは途中には「馬の頭の先ににんじんをぶらさげたような」「満たされない
満足」を得ることができますが,それは次の探求を生み出します。そして走り
続けます。
一体なぜなんでしょう?この監獄は?誰が人々をこのような監獄に閉じ込めたので
しょうか?
それは,「満足を生み出すことを目的として作られた心と言う機械の,故障した
状態」なのです。満足を生み出す仕組みが汚染されているために,満足を結局
生み出さないからです。人間は,喜びや愛,芸術,尊敬,幸せ,快感,理解,調和を
楽しむために生まれてきますが,これを感じ取る装置(心)にどういうわけか故障を
抱えています。それを治療しなければ,それらの善性はことごとく,駆り立て,
失う恐怖,所有,奪い合い,闘争の目的,根拠になってしまいます。
それは何か人間性が悪いとか,しなければならないことをしていないとか,そういう
ことなのではなく,単に不幸なのです。仏陀は人々に「このようにあれ」と命令
することはなく,「このようにあると幸せだ」と方角を知らせているだけなのです。
964 :
brown:02/08/10 16:53
>960
>brownちゃんはさ、ときどき「仏教」を否定しているようなことをいうけど、
>つまりは仏教そのものなんだよな。
>ときおり更新しないと、「仏教」はいつのまにか型を持ってしまう、
>ということなんだろうけどね
ばちあたりな仏子の「意図」はまあそういうことです。
今やこの時代,どうやら仏教を否定することを通してしか仏教をうまく伝えられ
ないのではないでしょうか?
965 :
名無しさん@1周年:02/08/10 17:01
>955
>>954へは、そうですね。なければならないことがないことが解脱です。
と回答しながら、
>>950には、どういう訳かお子様ランチの大乗概念は駄目!!と比較の分別智
剥き出し。どうせなら、そんなお子様ランチといったランク付けにも拘るべ
きではないのにね。二元性や相対性の罠に嵌っていますね。そういう支離滅
裂な状態を完成途上といったりして。
せっかく、【ニルバーナにライセンスなどなく,固定した特典も何もない。
何もないけど不断に顕れ続ける,求めないけど得られている,というのが
ニルバーナです。】と、無念、無想、無為、無作為の立場を言明しながら、
残念至極です。
自由になれる。
子供の頃の時のようにかい?
子供も子供なりに人間関係や自分の将来や、
それなりのご時世的な物欲や
感情があるけれど
それでも何か時々、この世界を感じ
自由な心になる、そんなかんじかな?
大人になれば、もうこんな歳だから
〜しなければならない、とか しなければならないんじゃあ?
と言う気持ちが頭をもたげる。
しかしこれも、周りの人間や そういう風潮、からの
プレッシャーであり、また時間と言う物が限られているがゆえの
プレッシャーでもある。
もしも自分が千年の寿命なら、誰もが今の時点では
自由な心を持ち合わせてるような
気もする。
967 :
brown:02/08/10 17:29
>965
まあね,大乗や空見には,それに対する解毒剤があるってことよ。
大乗の迷妄から救い出すことを仏陀が意図した場合,「未完成な」様式の行動を
仏陀はとります。小乗の迷妄から救い出すことを仏陀が意図した場合,「未完成な」
様式の行動を仏陀はとります。衆生を不幸せな状態から救い出そうと仏陀が意図
した場合,「未完成な」様式の行動を仏陀はとります。
なぜなら,「未完成な様式の行動をとってはならない」という形への執着が仏陀には
欠けている(空)からです。
このようにして,仏陀は未完成な様式を採用するのです。
よく,「950」と「955」と「965」を並べて読み返してご覧?
菩薩の方便智というものがどういうものなのか具体的にわかるでしょう。
解き放たれた色・受・想・行・識の五蘊をうまく用いる柔軟性,これを菩薩行と
いうのです。大乗の教えの本来とはそういうものです。
ちょうど愛欲そのものに問題があるのではなく,心という機械の故障に問題が
あるように,大乗という対象そのものに問題があるのではなく,その理解に問題
があるのです。大乗に対する理解は,清浄に対する理解によりもより多くの
問題が潜むので,むしろ「仏教」や「大乗」は否定されなければなりません。
私は愛欲そのものに、惑わす力があるのかどうかは
疑問視してる、愛欲に惑わす力があるのではなく
何かに既に惑わされた心、足を捕られた心が、愛欲に逃げてるか
それで誤魔化そうとしてるのではないかと思うからだ。
答えの見つからない、苦痛を愛あるいは愛欲で薄め
緩和しようとしているのではあるまいか?
まるでカンフル剤のように。しかしその原因が解決されなければ
愛欲の中に見を投じたとしても、どうしても拭いけれない
忘れきれない何かが存在する、
しかしまるで痛み止めのように、愛欲を求めたのだから
愛欲を手放せば、また答えの見えないものと対峙しなければならない、
それを避けるためにも、手放せなくなる悪循環
なのではないかとも考える。
そういう物を愛と呼ぶのなら愛というのにも
あまりにも落差が有るのだと思う。
そういうもの愛というならね。
969 :
brown:02/08/10 17:46
>966
あなたの言っていることには説得力があります。
しかし,私は別の意見を持っています。
なぜなら,大人には理解力があるからです。
自由とはある意味で我々大人によるよりも,子供にある面もありますが,
仏陀の自由はむしろ大人の自由です。つまり理解です。
何も考えなかったり,考える必然性が周囲の環境にないから自由なのではなく,
それらがたとえあったとしても,それらにがんじがらめになっていたとしても,
そこから自由な,大いなる発見です。
女を知らないから愛欲から自由なのではなく,女に対する歓びが私に負担をかけない
自由です。社会を知らない厨房が自由・気ままに生きているのではなく,悩み多く,
もだえ苦しむ大人どもが,悩みを手放した自由です。悩みはそこにありますが,
そこからの自由です。
それはむしろ,子供時代の,ややこしい社会的悩みのない時代に対するあこがれ
からの自由です。子供時代のようにしがらみがない状態を求めなくても,
しがらみの多い中で生ける自由です。
それはむしろ,輪廻の煩いがないことに対するあこがれからの自由です。
本当に自由なことには,輪廻の中にあっても自由が見出されるからです。
解脱(自由)とは,全ての実在が調和して,それ本来のあり方をしていながら
しかももたらされるものです。
>>968 とも思ったが、そこに支えあいと言う物があり、その関係の中でも
自らの疑問空逃げるのではなく、その答えのでリ時を待つている
あるいは考えているというのなら
それは何かの一つの形なのかもしれない。
そうできるか、溺れ逃げ込むかは、やはりその個人の心のありよう
姿勢に掛かってきてしまうのかもしれない。
やはりこれも、あくまでも個人の心の中の葛藤というものと
自分が、どう向き合うかと言う事に行き着くのかもしれない。
心が止まらないよーーーウワーーーーーーン
失礼。こりゃあひどかった・・・
>とも思ったが、そこに支えあいと言う物があり、その関係の中でも
>自らの疑問空逃げるのではなく、その答えのでリ時を待つている
自らの疑問から逃げるのではなく、その答えの出る時をまっている・・・
のまちがいね、
973 :
名無しさん@1周年:02/08/12 09:56
971
やりたい、でも怖いじゃ心も止まらんだろう?
974 :
名無しさん@1周年:02/08/13 08:13
自由自在に成りたい.生,死,金,性,自分,他人
社会,家族、言葉,行動,知識,空.無明,識,悟り
こころはいつも、なぜにこれらを追い求める?
般若心経に答えが書いてあっても、なんべん読んでも
こころは,なぜに追い求める?
975 :
名無しさん@1周年:02/08/13 08:23
ダーカーラー969擦れを100回読みなさい
976 :
名無しさん@1周年:02/08/13 10:42
心はじゃんけんピョンナのか?勝つことはできる
しかし満足は得られない.実体はないのに存在する。
心はグーチョキパーを創り,じゃんけんをし続ける。
0=1とし1をグーチョキパーに分け,大は球,穴ひとつ
穴二つ以上の紐理論から、小は素粒子,時間,波エネルギー
これらはグーチョキパーそのもので三つ巴フラクタルじゃんけんぴょん
ナのか?自我も女も金も言葉も神も宇宙もグーチョキパーなのか?
俺はパーで0=1だったのだ。バカボンのパーパーなのか?
そこまで理解してもまだHをしたい俺は、本物のパーらしい
グーチョキパーの心を手放したら、過去仏,未来仏が現れるんだろか?
977 :
620:ロゴスと真理と暗黒面:02/08/13 11:09
978 :
名無しさん@1周年:02/08/13 11:17
無明だからです。
縁起の始まりを無明としているからです。
最初から無明なのに、どうして悟れましょう。
979 :
名無しさん@1周年:02/08/13 11:48
無明という素材があるから、悟れるんだよ(笑)
980 :
名無しさん@1周年:02/08/13 16:40
最初から無明で迷う者には悟りはありません。
最初に悟っていた者にこそ悟りもあるのです。
迷いの因縁は途中から生じ、悟った者が色の生活に慣れるに従い、
これに執着するにつれてカルマを生み、カルマの深淵に身を落とし、
物事が不明になったというのであれば別ですがね。
981 :
名無しさん@1周年:02/08/14 08:32
シバさんこの方向でいいのかな?
意見を聞きたし。
982 :
名無しさん@1周年:02/08/14 08:36
AUM
983 :
名無しさん@1周年:02/08/14 09:45
>最初から無明で迷う者には悟りはありません。
最初に悟っていた者にこそ悟りもあるのです。
誰が何の権威でこんなこといえるんだね?
984 :
名無しさん@1周年:02/08/14 09:47
空
985 :
名無しさん@1周年:02/08/14 11:57
万物が迷いという無明の因縁より生じたとするところに
問題があるのでは。
迷い迷い迷い迷って、恒河の沙に等しき迷いを重ねても、
迷いは迷いしか創らず
追伸:う〜ん、我ながらなかなか詩人ではあるの〜
986 :
brown:02/08/14 21:44
無明という原因によって迷いが生じたのではない。
無明があるときに迷いがある。
明という原因によって悟りが生じるのではない。
明があるときに悟りが生じている。
無始の過去からの迷いという表現は,時間的に無限の過去から迷いがあるという
意味ではなく,迷いとはなれて無明はなく,無明とはなれて迷いはないということ
をいっておる。つまり,「初まりに無明という原因があった。その原因から
迷いが生じた。」とか「初まりに悟りがあって,無明が覆ったので迷いが生じた」
などの「初まり論」が成立しないことをいっています。
なぜなら,無明とともに迷いがあり,明とともに悟りがあるから。
>無明とともに迷いがあり,明とともに悟りがあるから。
つーことは、無明=迷い
明=悟り、ではないが
無明は迷いと 明は悟りと くっついてるということか
988 :
名無しさん@1周年:02/08/14 22:19
>無明は迷いと 明は悟りと くっついてるということか
コインの裏表のように・・・
などという、brownの陳腐な答えが来そうな予感(藁
989 :
brown:02/08/15 00:16
>988
砂場でお山を作るだろう?
そのとき上半分は下半分に支えられてある。
同様に迷い・苦しみは無明に支えられてある。
山の上半分は下半分があるときにあるし,山の下半分は上半分があるときに,
山の下半分としてのあり方がある。
このように,無明や執着,対象化過程があるときに迷いはあり,迷いは無明や
執着があるときに迷いとしてのあり方をする。
このように,無明と執着と迷いが共にあることを集諦という。
これが仏陀が悟りの体験より論理的に帰結した内容の半分です。
>>989 broさんの個人的思索にケチつける肝ないけど、
>このように,無明と執着と迷いが共にあることを集諦という。
集諦をこのように解釈する経典があるわけ?。
アメマスは渓流をさかのぼり、自分 たちの世界を獲得したのち
海へと向かいます。
円というのは無限に開いているがゆえに
一転の切れ目があります。それを螺旋とよぶかは我々の
世界観にかかっているような気がします。
知ってる権威をもちだす必要はかならずしもないわけです。
992 :
名無しさん@1周年:02/08/15 08:11
↑
さぱーり、わからん
993 :
名無しさん@1周年:02/08/15 08:51
じゃんけんピョン,明,無明、じゃんけんピョン自,他
じゃんけんピョン0,存在じゃんけんピョン悟り,迷い
じゃんけんピョン空,色じゃんけんピョン想,非非非非想
最後の勝負は頭の理解じゃなくて,実践離欲だったのねのね。
ころころこころの、無始無明じゃんけんピョン大会でした。
994 :
名無しさん@1周年:02/08/15 08:54
アイコもあるでよーーー
995 :
名無しさん@1周年:02/08/15 09:04
じゃんけんピョンてあるのないの?
996 :
名無しさん@1周年:02/08/15 09:06
<<995
拈華微笑
997 :
名無しさん@1周年:02/08/15 09:07
さ、子供は帰った帰った。
998 :
名無しさん@1周年:02/08/15 09:15
<<996
ブッダは無明やめちゃったんだ。
999 :
名無しさん@1周年:02/08/15 09:17
空ってあるのないの?
1000 :
名無しさん@1周年:02/08/15 09:18
馬鹿がまた無明はじめたよ
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。