>>316の966さん
>新しい世界や扉の存在を、まだ知らない人・・・
>新しい世界に行きたいけど、鍵が開いてることをまだ知らない人・・・
>新しい世界の解説だけして、扉や渡り廊下の存在を否定する人・・・
>新しい世界に行きたいけど、自分で扉を押す勇気のない人・・・
う〜む、どうやら開かれたこころが大切なような。
「私はそれをまだ信じることはできないが、それを信じる信じないということとそれが事実であるかそうでないかという問題は別に、可能性について真剣に』考えるということか。」
何時の時代にでも、開かれたこころが時代を進める。それらは最初主流的な考え方の中には存在しない。
だが、966さんの答えは私たちが既にその「場所」に立っていることすら気付いていないということ。
非常に相転移しやすい状況それが、現代と言うわけなのでしょうか。
318 :
○○○○ with"Ω"&L.A.P.:02/11/11 12:22
確かに、必ずしも「あの世を関知する能力」に長けていなくとも、
今生きている現世、これ自体が現在の我々にとって真に必要なものであり、
今をしっかり生きてその中でいつも何かを感じ、気づき、悟って
いく事ができれば、それも一つ重要な事なのではないだろうかとも思う。
ただ、少しづつでも学んで行く事も重要である事も間違いはない。
バランスの取れた両道が最上だろうか。
・・・深くアセンションを勉強していくと、
これは真の意味での「即身成仏」である様に思える。
319 :
名無しさん@1周年:02/11/11 12:52
因果応報などと簡単に言うが、どのような因でどのような果となったのか
特定するのは非常に困難。逆も又しかり。
同じ行為であっても違う結果となることはしばしばであるし、
同じ結果でもそれが同じ原因からのものであるとは限らない。
因果応報などというのは、その多くは後付の理屈にすぎない。
320 :
○○○○ with"Ω"&L.A.P.:02/11/11 13:06
>>319 同意。
さっき書いたばかりの哲学板の方のコメント。
名前:○○○○ with"Ω"&L.A.P. 投稿日:02/11/11 12:00
善いと思ってしている事が後に悪くなってしまったり、
大乗利他の人助けと思ってしている事がそのしがらみの中で余計に
自分の現世への自分の執着を増して波動を低めてしまう事がある。
また、逆に一般的に良くないと思う事でも自分が持っていた大きな
執着から逃れる良い手段になっていたり、「愛」を深めていたり、
悪と見える事が教訓となり、後々よりずっと大きな悪になる筈だった
者の芽を摘む「相対善」である場合もある。
良い事が悪くなるか、悪い事が良くなるか、これは未来を見通し、
あらゆるシミュレーションの出来る神仏の世界にしかわからない事。
善い行いをこころがけながらも、もう「善悪」や「光と闇」に
こだわるのは止めよう。
そしてクリシュナムルティの様に自らの内なるマスターの指導を
強く仰いで行こう。
善悪は立場によって全く変わる、非常に「相対的」なものでもあるから。
高い神の世界から見れば、我々の世界など全て「相対悪」から
成り立っている様にしか見えない位のレベルであろうから。
321 :
名無しさん@1周年:02/11/11 15:16
ぐはあ。
151周さん、966さん、いつもホントにベンキョになります。
お疲れさま。
俺もしばらく来れないで申し訳ない。
まだしばらくは放浪の旅を続けて行こうかと思っているんだけど、
ロゴススレシリーズの方にも、良かったら時々また顔を出してもらって
読者を含め、皆を導いては貰えないだろうか。
忙しい所申し訳無いが。
信頼するお二人にお願いでした。
俺もここにはまた時々来るよ。(^^
323 :
名無しさん@1周年:02/11/16 11:51
age .
>>322 しゃへるさん
了解いたしました。
今はゆっくりご自愛ください。
もちろん気づきと共感を大切にして、いずれまたご活躍下さい。
2元性の理解のお言葉、しかと承りました。
325 :
名無しさん@1周年:02/11/23 22:01
age
>>320 >そしてクリシュナムルティの様に自らの内なるマスターの指導を強く仰いで行こう。
この世界での悪とは、自らのこころを他人に明け渡すことです。
どのような高潔な人物、優れた博識、善良な人物であっても、その人と自分を同一視したり、
あこがれたり、崇拝するべきではないのです。(自灯明)
その意味で、内なる魂の声に人はもっと耳を傾けるべきでしょう。
そしてさらに付け加えるなら、マスターの声は、感覚的な楽しみ、個人的な利益の目標としばしば
食い違うことがあります。そこが、苦悩する領域です。
平たく言うならば、真実の声はなんらかの自分の向上や課題を含み得ます。
それ故、時にその声は苦いのです。
ですが、外的な甘い言葉が悪いと言う訳ではありません。苦いと見えるのは本当にその時点で
魂が欲するものが私たちには見えないからであって、無明にあるからです。
道はそれほど単純ではないし、近道も存在しません。鼻を掴んでいても、霊的行を積んでいても、
日常の生活に自然な善意(言葉において人を傷つけない、想いにおいて人を憎まない、行為において人を苦しめない)
や無害を顕せることが望まれます。
自分の生活の全てにおいてそれが出来始めるとき、私たちは得度への準備が整うでしょう。
その時、その人の生活に聖と俗の境界はなく、全ての生活が生き生きとした気づきとなるでしょう。
補足
>日常の生活に自然な善意(言葉において人を傷つけない、想いにおいて人を憎まない、行為において人を苦しめない)
や無害を顕せることが望まれます。
日常生活における身口意における善意、利他こそ霊的な進歩の骨子です。
ですが、大切なポイントは、それをプライドにしないこと。
つまり善意の結果を求めないことです。
善意とその結果の放棄、それが車の両輪です。
見えないところで、人に評価されない注目されないところでも善意を持って
生きられるかそこが重要でしょう。
もちろん肯定的な自分への評価まで放棄しろという訳ではありません。
それは素直に受け取って喜んでそれで終わりにするだけなのです。
あなたの周りに何故人が集まるのか、それは貴方の中の肯定的なハートに対する
人々の無言の評価です。
人々は貴方に同意を求め、否定的自我が癒される感じを喜ぶのでしょう。
貴方の特質は、慈悲なのでしょう。自分らしさの領域において貴方は成長する。
真理をうちに、上に求めます。
法はおっしゃるように自分自身のうちに見出します。そしてそれが視界を照らします。(法灯明)
597(スレ2代)魔男です。
しゃへる さんとver3.05さん、こんにちは、
崇拝するべきではないっという前提でも、
しゃへるさんとver3.05さんの周りに何故人が集まるのか?
それはしゃへる さんの中の肯定的な心使いに対する、人々の無言の評価を得たので、
どんな小さな一人でも信じてくれるのが、感心したのですから。
も一方は、ver3.05さんは「欲望」というものに対して、制御感を持っているっと見受けられ、
善悪の観念から来る「邪な部分」を厳しく批判ができていますから。
あくまで、個人的な主観な願望に過ぎないが、でも言ってみたいだけです。
つまりしゃへるさんとver3.05さんは同一人物かな、っとつい想像してしまいました。
こうなったら、慈悲と尊厳をともなって、スレがもっとスムーズにいけるかな。
誰か実在するのかを、知っていて欲しかったからカキコしただけです。すみません。
でも僕は、何よりも強い小さな一人が世界を変える力を持つんだ、っと是非信じていたいです。
597(スレ2代)です。
>しゃへる さん
自分のレベルは非常に浅いですが 、それでもみなさんのことがある程度を理解できて、
自分も自信をつけた、これて満足した、哲版の方の書込みレベルはやはり非常に低くのて
邪魔のところを無視させてもらいたい、どうぞ宜しく。
有り難うございます、本当にもう書き込みもうしないです。失礼しました。
>>327 如何にして内在した大いなる知恵に到達するか。
人間の仏性こそ、真理である。
各人が己が心の主であり、法則である。
外面的な教義は、背後にある真理に到達する梯子である。
梯子に登るだけで満足してはいけない。梯子は目的ではない。
内在した知恵は
1)周りの人々への慈悲や利他などの行為(喜びを与えるということ、人と共に生きる喜びを味わうこと。誠実に義務を果たすこと。)
2)真理への飽くなき探求(真理を実践して内的確信を得ること)
3)道を同じくする人々との切磋琢磨(必ずしも教団に属することではない)
であり、日常生活にその表現の場を求めるべきである。
私たちは自分自身がまず幸福であるべきである。自分を真っ直ぐ信じて生きていきたいものである。
あらゆる時代に目覚めた人はいた。
貴方の人生の中でも覚者との邂逅はきっとあったはずである。
真実、ハートにおいて自分を信じる気持ち、相手をいたわる気持ち、
他人の苦しみを理解する気持ちが日常において発揮される時、貴方を
導く大師は常にそばにおられるだろう。
人は肉体の大師を探そうとでもいうのか、貴方の大師は手や足よりも
近くで見つけることができるだろう。
ヨーガは鼻をつまむことではない。誰かのグルに盲目的に従うことが霊性修行ではない。
人生におけるあらゆる活動が霊性修行である。
貴方は、お金儲けが霊性かと問うかもしれない。
お金儲けが俗で、必死で神に祈ることが聖である、と考えること事態
とても狭量な見方をしてしまう。
神の目から見るならば、かの金の亡者も、慈悲なく形ばかりに囚われた信仰を続けることも
まったく同じレベルの執着に過ぎない。
333 :
名無しさん@1周年:02/11/30 22:26
保守あげ
>>331 うんうん、そういえばシャヘルさんは、周りの人をとてもいたわってられましたね。
感情に流されている人、自分の固定観念に引きずられている人にも皆平等に接していましたね。
人の苦しみを理解する気持ちがなければ、どんなに「正論」をぶっていてもどこか空しいし、
逆に苦しみを理解した上において真実の言葉、いたわり励まし、叱咤の言葉を正しく使うならば
逆に尊敬され愛されもする。
人間にとって難しい理論や修行よりまず人や自分の苦しみの原因を理解する気持ちが大切だと思いました。
仏陀も苦・集・滅・道の最初に苦を置いているわけです。
>>332 >慈悲なく形ばかりに囚われた信仰を続けることもまったく同じレベルの執着に過ぎない。
うーむ、何が慈悲なのか難しい面もありますが、私の若いころもひたすら霊性一本やりで他人への暖かい
配慮は全く欠けていました。その意味で反省はありましたね。
キリストが、もっともパリサイ人に指摘していたのはこういった点でしょうね。
信仰が自分の霊的境涯や地位、他人の尊敬を得る目的、世俗を分断し自分たちの優位性のみ
強調する時、そのようなパリサイ人のような行動が生まれます。
そして残念だが、今日そのような信仰はまだ続いています。
霊的「餓鬼」にならぬよう、また独善、自己満足に陥らぬよう自らの心に
常に注意を向けている必要はありそうですね。
>>330 内在への知恵の道は般若波羅蜜多の教えです。
智慧の本源は枯れることなく、むしろこの現世において顕現する機会を常に求めている
とも言えそうです。
それが仏陀の慈悲であり、内在する真我の目的と言っても良い。
例えば、何のために利他行をするのかという問題があります。
良いカルマによって良い結果を得るというのは多分間違ってはいないにせよ、
なにせ人のこころは増長慢に傾きがちなのです。
実は真実の慈悲の働きは、神仏あるいは真我に属するものであって、個人的な利他行は
神仏の慈悲を顕す突破口になっているのだと最近気づきました。
自分が善を成しているとうぬぼれてはならないようですね。
また、霊性修行としての瞑想もそのようなものでしょう。瞑想のきっかけは
むしろ真我のあり方に属します。もちろん肉体やこころが瞑想に入らなければ
魂も瞑想してこちらには注目しないでしょう。
瞑想が日常の行いとなったとき、人は瞑想するものは誰かということに気づきます。
自分が瞑想して霊性が上がるなどとうぬぼれてはなりません。
全ては真我が執り行うことであり、こころはそれをただ体験するに過ぎないからです。
その段階において、魔境がどうの光がどうの、境涯がどうのという空しい議論は
自然に消え去るでしょう。そこには魂の生き生きした活動があるだけですから。
因みに
般若心経では「観自在」というのが一番最初に来ます。
見る問いに私たちがどう取り組んでいるかは、この3文字で表されます。
「見る」「診る」「観る」「視る」「鑑みる」「看る」・・・
あらゆる点において人はまず自分のこころ、行為、言葉にもっと注目すべきです。
荒い言葉を出したとします。その荒い感情の元が何か、何故相手にそのような感情をぶつけるのか。
自分があいての同様な行動に反応しているのか、そのような同じ欠点は自分にも存在しないのだろうか。
怒ることにより何が生み出されるだろうか。・・・
瞬時に自分を観察した時、感情に囚われている自己とそれを観察する自己があることがお分かりいただけるでしょう。
感情に囚われる自己を観察することが出来るがゆえに、囚われずに物事を見る姿勢の
大切さも明らかになって行くでしょう。
その方向が大切です。
それゆえ「観自在」観るということは道の最初であり、方向付けにおいてとても大切なのです。
八正道でも「正見」がまず最初にくる所以でしょう。
338 :
名無しさん@1周年:02/12/01 22:37
age。
339 :
しゃへるwith"α∞Ω"&☆L.A.P.☆ ◆YWJXIc03eQ :02/12/06 22:30
久々に戻って来た・・・迷惑かけました。
151周さんも名無しさん達も何かとても凄いよ。
マジで覚醒してる様な気がするんだが。。
カキコしてくれてお疲れ様です。
966さんのカルマ論も一歩、歩を進められた今、
たいぶん理解出来る様になって来た。
「観自在」まず囚われずに観る事が道の第一歩か。
物事の本質を正しく観るという事は意外にとても難しい事だものね。
瞑想する姿勢の方向づけに関しても・・・深い。
(実はコメントのつけようが無い、みな受け入れるのみ状態でつ。。。)
皆さんのお話し、また聞きたいです。
マターリとお待ちしとりまふ。
おおお!
シャヘルさん、お元気でしたか。気配はなんとなく感じておりました。
気は隠せぬもの、りんごの木は香りで知られ、実で確かめられます。
私の書いているBBSに今度はニューエージャーが訪問しています。
シャヘルさんとのように楽しい話になればよいのですが(^^)
いやいやまったく。(^^;)
1)理解するということ
2)高級な諸体を操作するということ
3)奉仕などの実践(一種のワーク)
をしておられ、ご自身の理解力や実践力を結局は認めて欲しいのでしょう。
いやはや、まったくです。
私の関係する翻訳者への彼の不遜な批判が始まってしまいましたのでフォローが大変です。
まあ、私の立場としては回りくどく「それらの境地は錯覚じゃ」と言っておるんですが、そっちへは少しも理解力は及ばぬような。
木は実によって知られる、この高慢な学徒を旨くいい方向に向けられるか、シャヘルさんの謙虚さのつめの垢でも煎じて飲ませてやりたいところです(大笑)。
しかしながら、これは私自身の問題でもある訳ですな。
しゃへるさんが姉妹トピで、ある女性に説明されているような「否定的自我・(難しい言葉ですね。仏教には自我が無いために私にはより難しい概念かと)」すなわち「高慢」=「自分が認められたい、尊敬されたい」
というような煩悩が私にもあるので彼に対してもも不愉快を感じるのでしょう。
いや、よく理解してあげたいのだが、彼の常識の無さでその感情も犠牲になるのです。
まあ、自分の為に彼にはよく接してあげるつもりです。彼を自分と思ってね。(和良)
シャヘルさん
つかぬことをお伺いするが、貴殿はどちらにお住まいでしょうか。
手前は京都近辺です。
どういう訳か、最近は日本に対する悲観論が多すぎて正直閉口しています。
日本人が
(1)明治維新をどういう意図でどのように切り抜けたか
(2)ロシアや清の圧力とどう対処したか
(3)戦中戦後の混乱期をどう生き抜いてきたか
温故知新、我々は十分学んでいると思います。
もちろん日本は気づきの点でも大変良い位置にあると思うのです。
一度、シャヘル板関係者のメンバーでオフ会などを開きませんか。
この国に日本人はいなくなったのか。。。
日本人らしさと言う固有性を失ったのは痛かった。
今の政治屋さんの顔が良くない。あれでは国が危うい。
もっともそれらは表面の話で、本当はすごい潜在力を持ってるのが日本なんだが
すまそ、HN 遼ー>遷の間違いだわ
あげてみる
346 :
しゃへるwith"α∞Ω"&☆L.A.P.☆ ◆YWJXIc03eQ :02/12/11 00:26
151さん、こんにちは。
今度は困ったニューエイジャーなのだね。大変だ。
今書いているBBSというのは以前に”某yahooのスレ”と言っていた
所?
ちょっと見てみたくなって来ました。
ROMするだけだから、良かったらどこなのか教えて欲しいな。。
そして姉妹トピの件・・・いやいや、流石に151さんには
見破られてしまってる様だ。お恥ずかしい。
>しゃへるさんが姉妹トピで、ある女性に説明されているような「否定的自我・(難しい言葉ですね。仏教には自我が無いために私にはより難しい概念かと)」すなわち「高慢」=「自分が認められたい、尊敬されたい」
というような煩悩が私にもあるので彼に対してもも不愉快を感じるのでしょう。
>いや、よく理解してあげたいのだが、彼の常識の無さでその感情も犠牲になるのです。
>まあ、自分の為に彼にはよく接してあげるつもりです。彼を自分と思ってね。
いやいや、151さんいつもながら相当謙虚なお人ですよ。
実際感情に囚われず実行も出来る。
その煩悩に関しては俺も相当有るかも・・・汗汗
347 :
しゃへるwith"α∞Ω"&☆L.A.P.☆ ◆YWJXIc03eQ :02/12/11 01:09
>つかぬことをお伺いするが、貴殿はどちらにお住まいでしょうか。
手前は京都近辺です。
>一度、シャヘル板関係者のメンバーでオフ会などを開きませんか。
ありがたいお誘いなのだが、俺はへのっちと同じで北海道在住のヒグマなのです。
だからちょっと無理かも。・・・また、機会が有ればという事で。
誘ってくれてありがたいのだけど。
(いや、しかしいくら近くてもオフ会ってのはお断りするかも
しれない程、実は俺ってシャイな男なのです。。)
151さんは京都なんだ。・・・いいなぁ。
二度くらいか観光した事があるけれど(お寺巡り中心に)
とても好きな街です。自然と心が落ち着いてくる感じだった。
住んでみたいと思ったなぁ。。
>どういう訳か、最近は日本に対する悲観論が多すぎて正直閉口しています。 日本人が
(1)明治維新をどういう意図でどのように切り抜けたか
(2)ロシアや清の圧力とどう対処したか
(3)戦中戦後の混乱期をどう生き抜いてきたか
>温故知新、我々は十分学んでいると思います。
>もちろん日本は気づきの点でも大変良い位置にあると思うのです。
俺も同感です。島国だったと言う事、神風が吹いたと言う事で意外と
他国に蹂躙された事のない比較的希な歴史を持つ国で、
霊的気づきの点に於いても結構良いものが培われて来ている気
がするのだけれども。
ただ(1)から(3)の様な各論は俺、歴史オンチなので良くわからん
のです。良かったら教えてください。
歴史好きな先輩がいた(良く歴史雑誌なんて読んでた)ので
教えてもらっとけば良かったなぁ・・・
348 :
名無しさん@1周年:02/12/11 01:12
しゃへるさん
すっかりレスが遅れてしまいました。
大切な友人を病で亡くしました。地上での別れを悲しむより彼の更なる至福を求めたい思いです。
肉体は別でも魂はひとつ。でも、寂しくなるなぁ。
>>349 151周さん
そうだったのか、、それは気の毒に・・・。
また書ける気力が出たらカキコして下さい。待ってるよー。
昨夜は大勢の人が祈りをささげていたようだ。
何を信仰するかが重要ではなく、敬虔な態度、建設的な開かれた思考が
大切だと思います。
それぞれが仏性を内在した神聖なる存在です。
354 :
名無しさん@1周年:02/12/27 05:15
完全に邪悪なるものに神聖を目撃する
しゃへるさん、皆さん
新年、明けましておめでとうございます。
やはり正月のお休みはありがたいものがありました。
去年(馬)、今年は(羊)ですが、群馬県という地名は両方含むようです。
わたしの密教占星術(精度は悪い(和良))では、今年は天の気がますます強まり、
善悪、正邪、真偽は非常に明確になりうる可能性があります。
すなわち日ごろ陰徳に心がける人はますます善と喜びを見出します。
また、悪を隠しているものもその悪は天下に明らかになるでしょう。
大きなところでは、現在の経済のシステム(石油という化石燃料を基礎とする)
のエネルギー支配に変動の兆しがあるというところです。
まあ、かなり当てずっぽうな占星術なので、和良いながら見ていただければよいかなと。
2003年は2+3=>5であり、
α(1)とω(9)の中央です。あらゆることが天秤の上で計られるでしょう。
151周さん、みなさん 謹賀新年♪
・・また事情でなかなか来れない状態になってましてゴメンなさい。
というか、今後も暫く厳しいかもしれんのだけども。
最初に謝っておきます。
151周さんBBS紹介してくれてどうも!
かなりハイレベルな仏教哲学論議が交わされてるトコだね。
一時の哲板を思い出させる雰囲気。カコイイ。
時間があればまたROMらせてもらいます。
俺トコの霊能でも今後ますます正邪の区別がはっきりしてくると聞いてます。
「完全に邪悪なるもの」もそれはみ仏のある反面的な現れかとは思うが、
反面的なものの範疇を超えるものでもなく、まして人に勧めるべきものでもない。
こだわらない事は重要だが宗教家が神聖を目撃する、と言っては・・・
俺的には151周さん的な意見を聞くとほっとしますね。
これは総じてアセンションの可否に繋がっていきそうな気がしているのだけれども。
151周さん、密教占星術、また是非聞かせて下さい。
ではまた、いつか。。
しゃへる氏へ
もともとマターリなんで気の向いた時に書いてみましょう。
新ネタでも仕入れときますな。
しゃへるさん、名無し@151周さん名僧じゃない瞑想はご興味ありませんか。
人類の霊的中枢(センター)もある注目点に向かって常に瞑想しています。
私たち個人個人の瞑想も形式は別としてやがてそれにつながってい行きます。
瞑想者が瞑想する時、マスター(その人の魂)は、彼に注目します。
そして注目が気付きを生み出し、やがて瞑想者は瞑想するその人の魂と重なって行きます。
それを魂との整列と言います。
私たちは、札幌市の近くで伝道瞑想というものをしております。
瞑想は、形式よりも魂との整列度が重要です。
また瞑想は光を呼び起こします。
シャヘルさんも光をご覧になられたことがあるでしょうか?
アセンションという「現象」も実はアストラル次元に偏極した私たちの
意識をメンタル次元(五次元)に上昇させると言う意味では正しいものと私は
思ってます。
瞑想はこのプロセスを加速します。
それでは、続きはまた
890さん
私も瞑想にはよく参加します。このごろは御堂のほうは隙間風が吹きさらし
でとても長時間は座れないですが(藁)
はて、伝道瞑想とはどのような?伝道瞑想では何処に意識を置きますか。
私はアジナー(眉間)および全身の繰り返しです。全身に存在する気に注目しています。
まあ、各人の工夫やそれぞれの宗派?やグループによって異なりそうですな。
もち、貴方の言うように意識に漣しか起こさず、一点集中から更に深い自己と繋がるのは大切だね。
もっとも自己とは真我と言うべきか。
私は円が中心に向かって丸く周回しながら収束するイメージを使っています。
ある時点からは、内なる自己に委ねるようにしました。
肩肘張らず自然体が一番私には気持ちよく、長時間続けるには楽で合っていたようですな。
瞑想とはむしろ瞑想する内なる目撃者が行うように思えます。それが、890さんの言うところの
魂との整列なのか、近い意味を感じた次第ですな。
以後、宜しく
360 :
名無しさん@1周年:03/01/13 22:13
静なる夜に上げ
966さん、名無し@151周さん
亀レスで申し訳ありません。
151さんが、シャヘルさんに紹介されたHP私も観てきました。966さん、151周さんの見識に期待して
差し支えない範囲でいろいろここで話したい内容があり、是非乗っていただきたいのです。
(つうかマジレスで一局お願いしたい。)
広範囲のテーマになりますが、一つ宜しくお願いします。
まずは質問1ですが、人間の再生誕とカルマについてです。
ずばり人間はカルマに支配される存在といわれてきました。多くの宗教でそのように言われます。
そのようなカルマに私は少し疑問を感じています。1月17日の震災や同時テロでなくなられた方は
カルマによるものでは無いと私は思っております。
この点如何でしょうか。
>>890氏
まず、断っておきたいのだが、シャヘル氏の板趣旨から言ってもカルマというのは取り扱いが難しいのではないか。(そもそもキリスト教では認められていない)
そしてもう一点、質問はシンプルに徹して欲しい。貴方にとってカルマが重要な問題なのだろうか。神戸やニューヨークの犠牲者の方は勿論
そのようなカルマ論で言われるところの犠牲者ではない。
それは断言できると思う。
あらゆる宗教者(特に仏教関係者)が、不幸の原因をそこに求めてきた。すなわち運命とはカルマによって決定されているという見方は、ある種の虚無もしくは、恐怖を与える。
もう一歩進んで、考えてみよう。
死に学びはないのか。カルマ論が今日966氏の言うように変化しつつある現状を。
そして、何よりも貴殿がカルマ論に何を求めているのか。
カルマによる「報復」を恐れ、善行や精神修養に勤め霊性を高めるというのであれば、それは恐怖に基づく自分自身の支配に過ぎないだろう。それは、結局のところ他人に対する教義の強要というコントロールを齎す。
そもそも、2元性の中で恐怖は、我々の足元をすくう。これ以上恐怖は必要ないのだ。
ただ一点の主眼、すなわち私たちが、霊性を高める原理は何か。
「カルマ論」による恐怖の原理かあるいは「カルマ論」に依存しない、共感と喜びを分かち合う原理なのか。
そこを問うべきだろう。
そしてクリシュナムルティを持ち出すまでも無く、「恐怖」はそのてこではない。「恐怖」の存在するところに「愛、慈悲」はない。
しかし、どちらを選ぶかは自由なのだ。
尚、我々の集合意識の次元では、なお集合レベルのカルマのようなものは存在しうる。これは、自我意識をそのレベルまで上げることにより、知られるだろう。
今は議論することに余り意味はない。
以上はカルマに対する答えと思って頂きたい。貴方の役に立たない(恐怖や自己満足しかえられない)カルマの議論は無意味であるし、カルマの暗黒面を強調しすぎる。
神はそれほど、サディスティックではない。
久々に戻って来ました。
光の天使さん、カルマについては俺も151周さんに同感で、あまりnegativeな面を
強調しすぎない方がいいと思うよ。
良いカルマも悪いカルマと同等かそれ以上に存在する、と思ってるから。
でもね、敢えてその答えを求めるというのならば、俺も151周さんの言う「集合レベルのカルマのようなもの」
がそれに当たるのだと思う。
つまり言いにくい事だけど、国レベルのカルマ、地域レベルのカルマという個人のカルマに
完全に優先されてしまうものは有るよね。
俺的にはそういう理解になるのだけども、ただ、これは「じゃあっ・・・」って話しになるし
被害者の方々が実際に居られる訳だから、確かに議論の対象としては・・・
・・・・というか、もともと取り扱いの難しい問題だと思うよ。
あと、「伝道瞑想」折角誘って頂いたんだけど、ちょっと今環境的に全く出来る状態に
ないもので、是非今度、また誘って下さい。。
364 :
しゃへる with"Ω" ◆YWJXIc03eQ :03/01/29 00:32
俺的にはカルマって流れなんだね。
神がその個人を通して表現したい事、経験したい事の流れ。
だから幾転生にも亘って「大乗利他」、人を救う事を仕事としている存在もある。
カルマというものが個人にとって大きな事柄から小さな事柄まで複雑に絡み合って
それが「縁起」という事になるのだろうか、まっさらな白い空間にその人の住むべき
環境を複雑に描き出していく。
決して無秩序に個人の環境が与えられているのではない、という哲学的な方向性かな。
想像だにできない程恐ろしく複雑な網の目の様な。
言葉を換えると、意識せずしてはとても尋常な状態ではそこから抜け難い、
神から与えられたその個人の全身で請け負うべきその時々の「仕事」
とでも言うべきものだろうかね。
環境が整えられ、更にもともと完全なる仏性を持つ自己にその環境内で目的を達する様な
制限が課され、人格の形成とともに人生が紡ぎ出されていく。
しゃへるさん、151さんありがとうございます。
どちらかというとカルマの問題は思っていたより根が深そうですね。
>神から与えられたその個人の全身で請け負うべきその時々の「仕事」
とでも言うべきものだろうかね
請け負うべき仕事を認識し地道にやるしかなさそうですね。
個人の環境は、ちゃんと学ぶべき要素が盛り込まれているようですね。
そこから自分自身を知り、学んで行けと。
悪いカルマより言いカルマの方が多いと言うのは朗報ですし、あまり悲観的なのもいけないのでしょうね。
366 :
名無しさん@3周年:
人はよいカルマで自らを縛り、悪いカルマでその縄を地獄にくくりつける。