>>261 > 僕は決して独自の親鸞観とは思っていません。日本中の古い一向宗寺院を探せば、江戸初期に如来禅をしていたという文献は必ずどこかで見つかると思っています。
坐禅念仏を実践している修行者は、居たか?、居ないか?は推測だけど・・・
>>262 >固執する理由?。親鸞仏教は、座禅して行うのが原則だと親鸞がそう言っているからそういうだけです?
文献のは、そういった記述がなされている・・・
こういう事なんでしょう。
つまりこれは、禅に喩えれば「只管打坐」に拘る人。それに拘らない人。
盤珪の「無修行の修行」というのもありますし。
山頭火の「歩行禅」というのもあります。これ全て禅です。
これは、ひとつボタンの掛け違いがありますと、相対立してしまいます。
念仏の方法が、一義的なるものか?二義的なるものなのか?
確か親鸞は、二義的に言っておられた記憶がございます。
そういった観点が、私の親鸞観のベースになっております。正誤の付けがたい理由です。