401 :
ケムール人:
>400
あ、髑髏のおやじ「400get」
く、くやしーっ! (←馬鹿。数字の実体化の典型。ありもしないものに価値を見出している)
おれのこだわり
403 :
名無しさん@1周年:02/05/27 18:28
>ケムール人
ナーガルジュナは「空を」説いたんですかね。
「空とは」などという設問を許したでしょうか。
いろいろなことをあげて「実態がない」ことを証明していっただけでは?
「〜は空だ」というかたちで。
「空とは」という問自体ケロンじゃないかと思うんですが。
「実体がない」ということと、「相互関係で成り立っている」ということ
との論理的な関係を教えてください。
実体がないのに因果関係があるって、本当は良くわからないんですが。
A子という容姿端麗な娘がおりまして、一方・・・
B子という不細工な娘がおりまして・・・
まあ私とすれば、どちらかたいうとB子のほーが好きかなぁ。こんなところでしょうか?
これが私の「空」に関する答えです。
果たして、ケムール人さんはどういう答えをするんでしょうか?
もし議論が噛み合うようだったらレスを展開します。
駄目でしたらこれ以上はしませんが(w
406 :
名無しさん@1周年:02/05/27 22:01
>「空とは」という問自体ケロンじゃないかと思うんですが。
『廻諍論』を先によみましょう♪
「論争の超越」というタイトルで「世界の名著2」に日本語で収録されてる。
さらにチャンドラギルティ-とバヴィヤの論書もおまけとして付いてます。♪
オカルトさん♪みたいに「知識論」が理解できないコマッタちゃんは読んでも無駄☆
407 :
名無しさん@1周年:02/05/27 22:11
>>406 >チャンドラギルティ-
チャンドラキールティだろう。
基本的なことはクリアしましょう。
408 :
ケムール人:02/05/27 22:15
>403 うわー、どうすんべ!!!
これ、無茶苦茶長くなっちゃうよ。
まあいいや、えーい、やっちえ。
なんか来たら、やり返すから(笑)
● ナーガルジュナは「空を」説いたんですかね。
「空とは」などという設問を許したでしょうか。
いろいろなことをあげて「実態がない」ことを証明していっただけでは?
「〜は空だ」というかたちで。
「空とは」という問自体ケロンじゃないかと思うんですが。
えーと、これは基本的には、あなたが言う通りだと思いますよ。
いま、ちゃんと「中論」(本棚の奥に押し込まれて、最近読み返しとらん)
を開いて答えた方がいいんでしょうけど。
●簡単にいうと、ナーガルジュナは「中論」では、「非実体性」と「縁起」を
説いたんだと思います。その世界像(といえない世界像)が「空」ということになるのかな。
だから、最初から「空」というものを実体化して、それを絵解きしたのではないと思います。
ただそれを、一般的に「竜樹が説いた大乗の空」と習慣的に言ってしまうわけですね。
(これもうろ覚えで、すまんです)当時すでに「般若経典」群というのが一方にあって、
その中で、「空」「空」「空」「空」いってるんですよ。
言葉の連なりだけ見ると、それこそ「空」の実体化(笑)。
当然、天才的な思索力を持つ龍樹は、宗教書である「般若経典群」
(これ、いっぱい種類がある。当時の仏教的神秘家が、過去の仏典の人物に託して、
自らの体験を物語化したようなテキストだと思います)の中心的キーワードの明確な定義化、
ということを、仏教の思索家としてもくろんだのではないでしょうか。
要するに右脳的な「般若経典群」の内容を、左脳的な表現に、変えた(笑)。
そういった意味では、「般若経でいう空とはなんだろう?」という設問をし、
その言語的明確化という作業の目論見があったかも知れないと思います。
というより、最初から竜樹は、難解な般若経典の作者たちが、
一体何を言いたいのか、直感的に体験的によくわかっていたわけです。
「空」はケロンではないけど、公共掲示板ですから竜樹の文献でも引っ張り出して
カキコしたほーが無難かもしれませんね。
私とすれば、自分の肉声でレスを付けたいんですが、機が熟すればそういう方向が望ましい。
スレの流れで、コンセンサスを得られるようでしたら深いところまで語りたい。
とりあえずは「無難」なところが宜しいでしょう・・・。
「知識論」の詳しい方。その方法で宜しくお願いします。
410 :
ケムール人:02/05/27 22:21
>403(他の人には悪いけど、続き)
また般若経典でも、金剛般若経だったか、
「空は空であって、空ではない。だから空と呼ばれるのである」
「菩薩は菩薩であって、菩薩ではない。だから菩薩と呼ばれるのである」
というような、わけわからん記述があったかと思うのです。
これは、やはり同様の思考で、実体化を分解するわけですね。
名詞としての「空」とか「菩薩」の実体視を一回崩壊させた上で、
はじめて「空」なり「菩薩」なりが裸形でわかる、ということではないでしょうか。
●「実体がない」ということと、「相互関係で成り立っている」ということ
との論理的な関係を教えてください。
実体がないのに因果関係があるって、本当は良くわからないんですが。
まず、なぜ仏教で「実体化」を否定するかというと、やはり「煩悩」「執着」のエネルギーの集中的投影として、
われわれがある対象(ベンツとか、高級マンションとか、社会的ステイタスとか)を
「価値」化してしまう無意識の習慣があるわけですよね。
ベンツが高級車で、これに乗ったあなたは幸福な一流の社会人なんてのも、
メルセデスやヤナセのマインドコントロールですね。
これが、環境や条件の変化で(たとえば倒産して財産を失うなど)われわれの首をしめることになり、
猛烈な「苦」が生じるわけです。要するに価値観を背景とした葛藤が起るわけです。
しかし、すべては無常であるから、変化するのは当たり前。
その無常の視線の下で見れれば、財産が絶対的価値ではないわけです。
すべてが「相互関係の影響により変化していく」というのが仏教の世界イメージですから。
「実体がない」というのは、もちろん「存在していない」というのではなく、
条件を変えてしまうとすべてが変化する相にある―ということを表現しているわけですね。
モノそのものの中心的コアなんて、本当はどこにもないわけです。
あるように見えても、環境や条件を変えれば、それは存在物の中心的なコアではない。
(つまり、知性のフィクション。名詞がそもそも、ある意図的選択にすぎませんね)
411 :
ケムール人:02/05/27 22:28
>403 (非常識だが、また続き )
また、幾つかの相互依存関係によって、林檎なら林檎が成立している。
そもそも、われわれという主体の知覚力との相互依存関係によって、
林檎の「知覚像」すら、立ち現れているわけですから。
これが、見る側の主体が巨大すぎたり、小さすぎたりしたら、
林檎の林檎たるゆえんはなくなってしまいますね。
知覚現象そのものも、主体との共作による「縁起」です。
「ある条件下でそれがXとし存在して、同時に知覚されている」
という様式のことを言っているわけですね。Xそのものは、わからない。
客観なんて、ない。
「有」でもなく「無」でもない「空」である――というのはそのことですね。
人間は「ダイヤモンド」というものの”本質”を「透明な美しさ」としたり
「硬さ」としたりしている。つまり「本質」という言葉そのものが、
一種の主観的な「文学」なわけですね。つまり、知性のフィクション。
背景に、こちら側の欲求があり、それが対象の中心部で意味や価値などの像を
結んでいるのが、「本質」ということになる。
それ以外に、本質とか実体なんて、ない。
われわれにとって、ベンツの「本質」というのは
「高級車としてのステイタス」であったり、
「乗り心地のよさ」であったりします。
それも一種の主観的な「文学」、虚構、ブランド
というフィクションなわけです。
つまり、知性と感性によるフィクション。
だから、「知覚する」→「大切に思いつつ知覚を反復する」
→「主観的に対象物(ベンツ)の濃度が増してしまう」→
「世にも大切なものとなってしまう」→
「私は、ベンツに乗ってる人物だ!(笑)」
↑
煩悩を背景とした「価値」{意味」を崩壊させて、
「対象と自分」との関係を、内部崩壊させてしまうわけです。
*
412 :
ケムール人:02/05/27 22:32
>403
●「実体がないのに因果関係があるって、本当は良くわからないんですが」
これは覚者でも阿羅漢でもない、単なるケムール人の私はよくわかりませーん(笑)。
また、因果というのも、結局はひとつの視点からの「幻想」だと思いますので。
因果関係といっても、どこにスタート地点を設けて、
どこにゴールを設けるのかにもよるし、それ自体が、
あるテーマによって現象を見ているわけですから。
物理学というテーマに即した因果関係と、
生物学とか社会学とか心理学とかに即した因果関係と
、また違ってきますよね。そんなものの膨大な多次元的因果関係を
総合しながら、現象世界が時間軸に沿って(この時間という考えも
相当あやしい)展開しているとしたなら、これはもう「因果」といっても、
どこまでリアルなものやら。
「A」から「A´」への変化といっても、ある知覚しやすい特徴に
人間が注視して、意識ですでに「編集」して変化といってるわけですよね。
コウモリやイルカは、彼等の知覚によって、人間とはまったく別の自然界の
変化や因果関係を見出している可能性は、十分にありえる。
だからねえ〜。
結局、仏教のポイントとしては、現象における「因果関係」の発見にあるのではなく、
どんなに素晴らしいものでも、「因果関係によって今現在成立しているにすぎないのだから、そこに最終的な価値や意味を見出したり、依存したりしてはいけないよ」というところにあるのだと思います。
結論としては、「実体」概念も人間が化作した虚構であるのみならず、
「因果」概念も、現在の五官を背景として「化作」したものかもしれない。
(←この辺は相当あやしい)
*
413 :
ケムール人:02/05/27 22:35
>403 (終わります。ご迷惑でした>ALL)
――それはともかく、ポイントは、こうした認識論、存在論をレーザーメスとして、
人間の認識の固執病を取り除くことで、執着からはなれ、主体としてのひろがりの
ある無色相への「空」へと至るということが、最大のポイントではないのでしょうか。
(どっちにしろ、「因果」そのものに対する思考は、時代のサイエンスととともに、
より高度で精緻になってしまいますから)
あと……これは余談ですが、「刹那滅」っていう仏教によく出てくる概念と、「因果」の関係も、よくわからないんですよ、私。それを明確に語っている学者の本も、残念ながらみたことがない。
*
だから、すべては覚醒に至るための地ならしであり、「苦」からの治療法としての
思考習慣作りなんですね、仏教の思考法は。
その解放への思考とか、ライフスタイル作りが、「法/ダルマ・ダンマ」ということです
その後でやっと、無思考、非識別知へと至る「禅定」→「知恵」へと入っていくわけです
あと、細かいことだけど「実態」でなくて、「実体」ね(笑)。
*
ケムール人にわかるのは、ここまで、あるよ。
あとは、このスレに棲みつく「覚者」や、「涅槃寂静」体現者、
もろもろの賢者に、聞いてちょーだい(笑)。
>ケムール人さん
大変勉強になります。
日頃いちばんわからないと思っていたのが、最後の質問(実体がないのに
因果関係があるって…??)だったのですが、凡夫としてはわからなくても
おかしくないと言うことのようで、少し安心しました。
因果関係の認識と言うのは、無常ということを真に明確に知るプロセスで
出てくる現象ぐらいの意味なのでしょうか。
一刹那一刹那、生じては滅するリアリティというものを明確に知ることが
出切るほどの人にとっては、因果関係と言うのはもう意味がないということ
でしょうか。「薫習」なんてことももうないでしょうし。
無常と言うことを前提とした上で、因果的に生起すると言われる現象世界には
客観的な実在性はあるのでしょうか。それは意識とは独立に生起するもの
なのか、つまり、早い話が物質性はあるのか、それともあくまで意識の世界の
なかの出来事なのでしょうか。
林檎は人間にとっては林檎で、バクテリアにとっては糖だとかアミノ酸以上の
ものではなく、巨人にとっては砂粒でしかないとして、また、昨日泥だった
ものが今日林檎になり、明日また別の泥になるとして、それらに共通する
いくつかの元素が、つねに組み合わせを変え現れ方を変えながらも、客観的に
存在しているといえるのでしょうか。
お暇があったら、ぼちぼち教えてください。
415 :
ジョン・オノ・レノン:02/05/27 23:27
Living is easy with eyes closed misunderstanding all you see...
う〜ん、成る程。さすれば「一如の法門」は認識(色)で全てが説明できるのですね。
なかなか貴重な御意見です。
私とはかなり考えが違いますが、せっかくケムール人さんがレス付けてくれましたから、
この流れで考えて逝きたいと思います。
私の考えは、今のところ差し控えておきます。
随分、今日は夜更かししてしまいました(w
418 :
名無しさん@1周年:02/05/28 00:07
419 :
名無しさん@1周年:02/05/28 00:12
>>418 違うけど、もう放っておきなよ。めんどくさいし。
>>418 認識する→見る(形のあるものが色というよりも確認した「識」が「色」ですね。
同じように、聞く、味わう、触る、嗅ぐもそうです。
まあ、そこんとこはどーでも良いよメンドイ。はっきり逝ってメンドイよ(笑
421 :
名無しさん@1周年:02/05/28 07:45
またトイレか?
縁起の理法にのとって、現象となったものを「見たり」「触ったり」して確認している。ということなんだろう。
あたかもスクリーンに映った映像のように。これが縁起の妙というやつなんだろう。
ここが唯物論と大きく違うところだと思う。
たぶん
>>419さんの発想は、マルクスエンゲルスに近いのではないか?
唯物論と、ごっちゃになって混沌としている。
唯物弁証法は、相対するものをその都度選択していく。その繰り返し。
際限なく続けられる。
この考えは、ある種合理性を持って受け入れられた。
既成概念がそれを受け入れるベースになっていたからだと思う。
424 :
名無しさん@1周年:02/05/28 09:08
>>410 龍樹はハッキリ「空」を思想として説いております。
『金剛般若』は「空」(s'u~nya)という言葉を用いない経典です。
念のため。
425 :
ケムール人:02/05/28 10:12
>424
はー、そうでしたっけ。
不正確ですんませーんー(w)。
426 :
名無しさん@1周年:02/05/28 10:23
空とは、有るもの無いものを全て受け入れた姿。
だと思う。
427 :
ケムール人:02/05/28 10:32
>414 :403
かーなり、難しいところに入り込んできてしまいましたねえ(笑)。
「2ちゃんねる」で、こんなことやっていいのかなあ、という感じ。
やっぱり、「2ちゃんねる」の掲示板は、不朽の名作スレ「集え!/あつまえ!」のような神々しさがないといけないのかなー。と
しかし、これはそもそも最初の「空」スレの設定者が、悪い!(笑)
…と、責任転嫁しておいて、ちょっと、思考の筋道を整理してみましょうか。
403さんは、
@無常の世界における現象や、自我の「空=無我」は納得する。
A「現象=無我」だから、拠り所にできるような不変の価値がなく、
実体を持たないわけであるから、その生命世界の全体構造が「苦」であると
了解し、厭離して「法」へ向かうというプロセスも納得する。
「苦・集→滅・道」
Bしかし、それはそれとして、外的物的存在は「客観的に」存在しているや、否や。
その外的存在を支配している「因果関係」は存在するや、否や。
そもそも、仏教ではどう説くのか。といったようなあたりの疑問でしょうか。
ご質問のポイントは、以下の部分ですね。
●「因果的に生起すると言われる現象世界には(ア)客観的な実在性はあるのでしょうか。それは意識とは独立に生起するものなのか、つまり、早い話が物質性はあるのか、
(イ)それともあくまで意識の世界のなかの出来事なのでしょうか。」
428 :
ケムール人:02/05/28 10:37
仏教の「認識論/存在論」としては以下の二つの典型的な考え方があるのではないでしょうか。
■a「喝ーっ!」コース → それは修行を妨げる戯論である
客観的存在「X」などというものは、あろうがなかろうが、どうでもよろしい。
問題は、「苦」を超えることである。すべてが「縁起」によって成立していることは
間違いない。世俗のもろもろの価値は、われわれの煩悩と知性が野合して捏造したも
のであるから、そこに喜びを見出したり、意味を見出すべきではない。
「存在or非存在」の思考は、戯論である。そんなことより、「四諦・八正道・十二縁起」
「六波羅密」を理解し実践し、禅定に努めよ! 喝ーっ!
■b「夢幻」コース → 欲六界に、客観的な実在性などない
客観的存在「X」は、そもそも存在などしていないのである。唯識哲学の「二空」で
説くように、われわれの自我も「空」であるならば、対象物も「空」である。
この場合の「空」とは、中観派でいうように「縁起」「無我」として実体性がない
という意味で理論上「空」であるのみならず、もともとほんとうに、存在など
していないのである。つまり「識」(一瞬一瞬の知覚体験)としてしか、
知覚されないのである。まさに「唯心」であり「唯識」である。
そして何者かの「知覚」を超える「存在」など、断じてない!
現象世界とは、どれほどリアルにもっともらしく見ようが、
われわれの「業」の描く魔法のような世界である。
映画のスクリーンの映像である。欲六界そのものが、
なんと、このような構造を持っているのである。
429 :
ケムール人:02/05/28 10:38
(続き)
しかし科学者がしているように、個々の因果関係を綿密に調べ上げ
分析していけばいくほど、それに対応した微細な因果関係世界の曼荼羅が、
いくらでもあらわれてくるので、われわれは説得されてしまうのだ。
しかしこれもまた、われわれの知性の自作自演のトリックである。
この世界は、すべてアーラヤ識の描き出す「夢」の世界である。
マーヤーの織物である。中有や夢の構造と、なんら変わりはないのだ。
例えこれをオカルトといおうが、そもそも現代物理学は、
ますますわれわれの主張を補佐していく方向にあるではないか。
物質とは、空間の歪みだという。波動だという。
その空間の変態作用を、われわれの知覚は「モノ」として認識しているのだ。
しかるに欲六界とは、映画「マトリックス」の世界である。情報の投影である。
さあ、この「夢」から覚醒しよう!
・南伝のテーラヴァーダ仏教、禅系、チベット仏教ゲールク派などは、
どちからというと、a「喝ーっ!」コースっぽいですね。
・ヒンズー教、チベット仏教カギュ派、ニンマ派などは、b「夢幻」コースっぽいです。
まあこれは便宜上で、実際には「待機説法」で、ときと場合にあわせて適当に合成していると思います。仏教では、唯物論はとりません。
*
(ひとりごと)
しっかし、たまっている仕事をほおっておいて、
こんなことやってるわしって、なんやろ?
2ちゃんが身を滅ぼすって、ようやくわかってきたような……。
しゅうーにゃあーたあ〜〜あ〜あ、……脱力(w)
文献派が、同じよーなコースで悩み苦しみますね。
哲学では越えられない一線というのは、こういうことなんかと思います。
私としても、たぶんスレの流れはこういうふうになるかと想像しておりました。
まさに的中しております(w
この論法を延々続ける訳です。弁証法みたいに。
私としても、何らかの答えを見出せれば宜しいかとはおもうのですが、いかんせん難しい。
とどのつまりは、八図に帰結するのかなぁ?なんて事を考えてしまいます。
431 :
ケムール人:02/05/28 11:02
>430
あーのーなあ〜。
あんたは、ほおーんと、楽でえーえわなあ〜。
……脱力。
認識論、存在論は八図で大きく変わるかと思います。
色即是空、空即是色。この認識も大きく変わるかと思います。
いわゆる「プロセス」として思推しがちな「空」「色」の捉え方が一気に八図で変わるかと思います。
この流れとして「涅槃寂静」があるかと思います。
「存在」という認識自体が淘汰されるのではないでしょうか?
433 :
名無しさん@1周年:02/05/28 11:13
「存在」という認識自体が淘汰されることすら受け入れる許容。
これではないかと。
>>433 そうかとおもいますね。つまり・・・
世界は常住であるかどうか。
世界は無常であるかどうか。
世界は有限であるかどうか。
世界は無限であるかどうか。
これは全て「無記」でして、相対立するゆえ結論でるまじ迷うばかりなり。ということでしょう。
これを超越したのが円相そのものかと思います。
435 :
名無しさん@1周年:02/05/28 11:30
髑髏注意報発令!
>432-434
すべて髑髏。
436 :
ケムール人:02/05/28 11:36
>435
だろーね。
かわいーとこ、あんのよ。w
437 :
名無しさん@1周年:02/05/28 11:37
>>434 すばらしい。
覚るとは全てを受け入れ、全てを認めることだと考えております。
無も有るのうちであり、空を受け入れ、空を認める。
これこそ空の姿かと。
438 :
名無しさん@1周年:02/05/28 11:37
はい
>>433さんは、私ではないよ。
逝っておくけど・・・・。
440 :
名無しさん@1周年:02/05/28 11:45
髑髏注意報発令!
>437-438
髑髏の自作自演。ただし別人格だそうである。
441 :
名無しさん@1周年:02/05/28 11:48
442 :
ケムール人:02/05/28 11:51
>437 :名無しさん@1周年
>438 :名無しさん@1周年
どうせこの辺も髑髏ちゃんの自作自演なんだろーけど。
これさあ、このまま認めちゃうと、悪しき意味での「本覚思想」になるんじゃないか?
お釈迦さんなんか、もともと存在しなくていいような世界。
要するに、日本の仏教に、なーんとなく漂っている゜
「これで、いいのだ!」のバカボンパパ仏教。
それに大体、
438 :名無しさん@1周年 :02/05/28 11:37
はい
って、なんだよ。
誰が誰にいってんの?
>>437 涅槃寂静というのは、やはりこのことかと思いますよね。
観念的思推ではどーにもならないかとおもいますよ。
444 :
名無しさん@1周年:02/05/28 11:56
>>442 分かってておっしゃっているのだろうけれど、念のため。
438の部分は
髑髏がハンドルネームを換えるのを忘れたために、誰が誰がに言っているのか
分からなくなっている。
髑髏にはハンドルネームの換え忘れは多い。
445 :
名無しさん@1周年:02/05/28 11:57
446 :
名無しさん@1周年:02/05/28 11:58
447 :
ケムール人:02/05/28 12:00
>445 そういう芸当、しない、あるよ
448 :
名無しさん@1周年:02/05/28 12:01
>>444 >誰が誰がに言っているのか分からなくなっている。
「誰が誰に」の間違い、スマソ。
449 :
名無しさん@1周年:02/05/28 12:06
なんだかなー
自作自演とわかって煽るから面白いのに
酸欠キミになったカレー
>>442 >これさあ、このまま認めちゃうと、悪しき意味での「本覚思想」になるんじゃないか?
ケムール人さんの自論をドンドン展開してもらって、スレを盛り上げて下さい。
まだ結論が出た訳ではないでしょうから、そのうち私も議論を展開します。
「現象するものには実体がない」(カントの「物自体」があろうとなかろうと)、
ということを「空」といっているのだとすれば、
「空とは」(これこれである)とか、
>>437「空を」受け入れ、「空を」認める。これこそ「空の姿」
なんてことは、不用意に言えなくなるはずじゃないか、というのが
私
>>403の問題意識だったんですが・・・
議論の流れを、(オナニー大会から)、言葉の限界をわきまえた上で限界いっぱい
言葉によって表現する方向に、変えたいということも、願っていたけど、
難しいようですね。
ケムールさんは以前、「思考法」によって悟ることが出来るはずとも言われた。
私ははじめ懐疑的でしたが、「思考習慣作り」という意味ならそうかもしれない
という気がしてきました。
>>413 > だから、すべては覚醒に至るための地ならしであり、「苦」からの治療法としての
>思考習慣作りなんですね、仏教の思考法は。
という意味で。
もとより、「最後の詰め」は言葉を超えたものでしょうが、大事な
ことは場所をわきまえることなのでしょう。
言葉だけの場所で没論理にふけってはいけないと思います。
絶対的な空間と言うのは存在しないわけだし。
イエスが喩えをもちいて語る理由を述べていますが、ああいうのは
濃密な師弟関係の空間でのみ有効だと思います。
452 :
名無しさん@1周年:02/05/28 15:09
髑髏仮面さんにはさ、悪しき本覚思想よりもこっちのほうを、もちょっと
深ーく展開してほしいですね。このスレ一の傑作レスかと。
>>405 :髑髏仮面 :02/05/27 21:37
> A子という容姿端麗な娘がおりまして、一方・・・
> B子という不細工な娘がおりまして・・・
> まあ私とすれば、どちらかたいうとB子のほーが好きかなぁ。こんなところでしょうか?
>
> これが私の「空」に関する答えです。
> 果たして、ケムール人さんはどういう答えをするんでしょうか?
>>452 縁起により、容姿端麗の娘もいれば不細工な娘もおります。
「どちらが好きか?」。これも縁起です。
縁起によって結ばれることもあります。
そこに実体があってもなくとも、それが「空」ですね。
つまり「空」といのは、「色」と離れた関係でなくて殆ど一体?是を「空」かと思います。
ですから・・・・
> A子という容姿端麗な娘がおりまして、一方・・・
> B子という不細工な娘がおりまして・・・
> まあ私とすれば、どちらかたいうとB子のほーが好きかなぁ。こんなところでしょうか?
このものズバリが「空」でしょう。
現象面は「色」であっても、これが「空」なんでしょう。ですから難しいのかもしれません。解釈が・・・。
>>451 私の考えの意味が不明とか、全然違うよとか、認められないなど
全て空であると私は言いたい。
議論し、受け入れることも空であり、受け入られないことも空であると。
議論しても答えがでないのは、議論そのものが空であると。
また、生きるも死ぬも空であり、善しも悪しも空であると。
物凄く都合の良い考えだが、私は納得している。
455 :
名無しさん@1周年:02/05/28 16:03
>>454 それでも批判されると反論したいと言う押さえがたい欲求が
生じますね。
空だと言うのは簡単だが、空をつかむような話。
議論そのものが空だといいながら、議論をやめようとはしない。
だからこそ、「空」という言葉のイメージで分かったつもりに
なってはいけないと思う。
「空である」ということの構造を理解する努力が必要のはず。
456 :
名無しさん@1周年:02/05/28 16:08
>>453 「容姿端麗」と「不細工」には実体があるんだ。
難しいね。
どうしてA子をえらばずB子のほうを好むということが
「空」になるのかさっぱりわからないんですけど。
そういうのは空じゃなくて「趣味」というんじゃないんですか。
457 :
名無しさん@1周年:02/05/28 16:12
>>453 >そこに実体があってもなくとも、それが「空」ですね。
実体がないことが空じゃなかったんですか?
>つまり「空」といのは、「色」と離れた関係でなくて殆ど一体?是を「空」かと思います。
あなたのいう「色」の意味(定義)を説明してください。
>>455 言いたいことは良くわかります。
しかし、どうでしょう、構造を理解は哲学や思想家に任せては。
悟るとは、心の問題だと考えてますが、あくまで私なりにですが。
>「空」という言葉のイメージで分かったつもりに なってはいけないと思う。
私はそんなもので良いと思ってます。
わかって理解しても、人の役に立たなければ意味がありません。
若く体の自由があるうちに、行動したほうが良いと思います。
おそらく「空」の答えが見つかるのは一切の自由が奪われた時ではないでしょうか。
459 :
名無しさん@1周年:02/05/28 16:21
.
>一刹那一刹那、生じては滅するリアリティというものを明確に知る
刹那滅は有部・経量部・唯識瑜伽行派は肯定する立場です☆。
一方、中観派はこれには否定♪
中観派のように「刹那滅」を否定し、且つ 「無自性・無実体」を主張するするとどういうことになる?♪。
現象が成立しない。
一切が変化しない。
因果も時間のない氷った世界。
どう? オカルトな世界でしょ♪
コピペデスカ
>>456 >「容姿端麗」と「不細工」には実体があるんだ。
実体というより、眼球に映された「像」でしょう。実際は分からん像(しゃれ)。
>どうしてA子をえらばずB子のほうを好むということが
>「空」になるのかさっぱりわからないんですけど。
相対概念による選択で「色」ですね。それで選びます。
つまり「選ぶ」というのは、なんらかの縁起がある訳ですよ。
昔の彼女に似てるとか?もともと狐顔が好みとか?
選択する手法の段階には、それ相応のプロセス(因果縁起)がある訳ですから、
それを全部ひっくるめてその「果」として選択するわけです。
ですからそれも縁起、「空」です。
>そういうのは空じゃなくて「趣味」というんじゃないんですか
趣味も結果の所産ですよね。これも縁起「空」ですよ。
462 :
名無しさん@1周年:02/05/28 16:28
>「現象するものには実体がない」(カントの「物自体」があろうとなかろうと)、
ということを「空」といっているのだとすれば、
ど〜みても♪
これは中観派の認識ではなく経量部の認識に近いです♪
>>457 >実体がないことが空じゃなかったんですか?
「有る」「無い」の未分化。
つまり、有るでもないし、無いでもないし、両方有るでもないし、両方無いでもない。
>あなたのいう「色」の意味(定義)を説明してください。
知覚できるもの全て。
眼球に映る像とか、音楽、発音、触覚、味覚とかそんなもんでしょう。
>>26 今日、ここに初めてきました。
最初の方しか読んでいませんので、誰か答えておられるかも。
ゼロ=絶対0
空は何もない状態ではあるが、その中に、何か生まれる要素を含む。
識は空、識は色を生む。
識と業。
コピペデスカ
466 :
ホーキング博士:02/05/28 17:01
ブラックホール
ブラックホール
ブラックホール
467 :
ケムール人:02/05/28 17:08
>459 ♪ 子先生!
☆ここ面白そうだから、もう少し展開してください。♪
>>458 >おそらく「空」の答えが見つかるのは一切の自由が奪われた時ではないでしょうか。
一行の文脈からだと判断しかねるが、何らかのアクシデントとよる「気づき」というのは肯定的に捉えております。
つまりは、既成概念を瞬時破壊した瞬間ですね。
哲学用語の「直覚」というやつですね。
つまり、認識をはるか超えた「覚」ですね。
認識というのは、やはり限界というのはあるでしょう。
469 :
名無しさん@1周年:02/05/28 17:24
>>461 >
>>456 > >「容姿端麗」と「不細工」には実体があるんだ。
> 実体というより、眼球に映された「像」でしょう。実際は分からん像(しゃれ)。
で、その「像」には「容姿端麗」や「不細工」が固有なものとしてあるわけ
ですね。「容姿端麗な像」や「不細工な像」が客観的に存在しているというわけで
すね。
「眼球」が実在するかまでは問いませんが、
あなたによれば、人が「縁起により」容姿端麗に生まれたり、不細工に生まれたり
するそうですが、「容姿端麗に」見えることや「不細工」に見えることは
縁起の外にあるわけですか。
>>468 人のことですので、絶対はありません。
やれる事からやるというのが私の考えです。
数字に限界があるか、という問題で、ある訳がないとも言えるし、数字の
概念その物が間違っているとも言えます。
なにが正しいかは、その時の判断で決めるしかないと思います。
認識の限界が神や仏なのかも知れません。
>>469 >容姿端麗に」見えることや「不細工」に見えることは
>縁起の外にあるわけですか。
「縁起の外」とか「縁起の内」とか、そういう分別はありませんでしょう。
また、そういう発想自体の意味が分かりませんが・・。
「像」というのは「結果」かとおもいますよ。またそれが「因」にもなるんでしょうけど。
つまり女性は、眼球に良く映像?が映るように化粧をほどこすんでしょう。
もともとは狸顔かもしれませんよ。しかし化粧したそのものが映るんですから、
よもやその中身が「狸」とはおもわんでしょう。それが人間というんじゃないでしょうか?
「狸」であることを「知る」のは、化粧した女性自身でしょうから、
まあ、女性というのはそのてん騙す智慧というのは内在していると言わざるをえません。
どうでしょうか?
472 :
名無しさん@1周年:02/05/28 17:44
> 「縁起の外」とか「縁起の内」とか、そういう分別はありませんでしょう。
> また、そういう発想自体の意味が分かりませんが・・。
そのとおりです。わからないのはこっちのほうですよ。
だから聞いているのです。
分別してるのはあなたのほうだと言うことにも気づきませんか?
あなたの理屈だと、縁起の外にあることになってしまうと言っているのです。
あなたは自分で言っていることの意味も全くわかっていないようですね。
「容姿端麗」「不細工」ということを無前提的に扱っているのはあなたで
しょう。
473 :
ケムール人:02/05/28 17:46
>471
もともとは狸顔かもしれませんよ。しかし化粧したそのものが映るんですから、
よもやその中身が「狸」とはおもわんでしょう。それが人間というんじゃないでしょうか?
「狸」であることを「知る」のは、化粧した女性自身でしょうから、
まあ、女性というのはそのてん騙す智慧というのは内在していると言わざるをえません。
どうでしょうか?
髑髏和尚の禅問答も、佳境に入ってきてどうやら怪談じみてきたなあ。w
しかしこれは「空」とか「縁起」とかいうより、
「業」というテーマやねえ。
474 :
名無しさん@1周年:02/05/28 17:47
酔っ払いオヤジに禅問答を禁止する法律を作ってほしい。
>>470 >数字に限界があるか、という問題で、ある訳がないとも言えるし、数字の
>概念その物が間違っているとも言えます。
大事なことは、既成概念というのを一端壊してみる。ということなんでしょう。
最も合理性があると思われる「数字」においても、やはり概念自体に柔軟性というのを持つことが肝要かと思います。
そこのところが、やさしいようで非常に難しいのかと思います。
476 :
ケムール人:02/05/28 17:52
>474 いやあ、それを言うと「メディア規制法」になっちゃうから。w
477 :
名無しさん@1周年:02/05/28 18:01
>もう少し展開してください。♪
中観派の「刹那滅は無眼遡及になる」という、つっこみが入って☆
それ以来世界は、生じることもなく滅することないままになちゃたみたいね♪。
>>474 >分別してるのはあなたのほうだと言うことにも気づきませんか?
説明するには全部分別しますよ。
「良い女」「悪い女」。これも分別ですし。
それを選ぶのも分別です。
ですから、私がわざわざ「分別」を設定して「容姿端麗」「不細工」をマナ板の上に乗せたのです。
これを選択(分別)するのも、わざわざそういう設定をしくんだんですよ。
「化粧する」「化粧しない」これも分別です。すべて「分別」のオンパレードですよ。
しかしながら、この分別もいわゆる「空」。無分別というのを説明しているのです。
>>475 普通はそこまで考えなくても、主要先進国である日本では
充分幸せに暮らせるはずなんですが・・・
数字を壊して得るものが大きければ壊すべきでしょう。
数字も人が創ったものですし、絶対とは言い切れませんから。
480 :
名無しさん@1周年:02/05/28 18:04
>>458 > しかし、どうでしょう、構造を理解は哲学や思想家に任せては。
前に出た「思考習慣」をつけていくためには必要だと思います。
>わかって理解しても、人の役に立たなければ意味がありません。
なぜ人の役に立たなければ意味がないのでしょう。
当たり前のことだといわれるかもしれませんが、そこまで考えて
おかないと、本当に人の役に立つことも出来ないだろうと思います。
481 :
ケムール人:02/05/28 18:08
>477 ♪
あれさー、仏教の「刹那滅」の概念て、
どの辺から入ってきてんの?
「無常」概念の微分化?
それとも、もともとインド的思考にあったわけ?
☆★☆★☆★☆
(刹那滅)
482 :
名無しさん@1周年:02/05/28 18:12
>>477 刹那滅は最近の物理学で証明されたと聞きましたが。
>>480 なるほど。
「思考習慣」をつけていくためには、けして無駄ではないですし、
それぞれの考えで行えば良いと思います。
結果がでないと人の役に立てない訳でもないはずですし、今何か
できることは無いか、それも考える必要があると思います。
人の役に立たなければ自己満足だけで、議論する必要も無いのでは
ないでしょうか。
484 :
名無しさん@1周年:02/05/28 18:15
上座部の人はヴィパッサナを徹底的にすれば、
刹那滅は手にとるように見えてくると言ってました。
485 :
ケムール人:02/05/28 18:19
>484
ということは、
釈迦生存か、その直後あたりの上座部の
体験的知恵から、「刹那滅」はすでに出てきている――ということですか?
486 :
名無しさん@1周年:02/05/28 18:23
>>483 仏教はもともと、自分が苦から救われることが目的だったのでは?
人の役に立つことがどうしてそんなに必須なのかわかりません。
自己満足でも、本当の本当に満足できていれば、人に害を及ぼすこと
もなくなるでしょう。むしろ、それだけでもまわりにいい影響を
及ぼすはずです。
この世の害悪のほとんどは、みんなが自己満足できないことから
生じています。
自分が本当に自由でなければ、他者を幸せにすることなど出来ない
のでは?
487 :
名無しさん@1周年:02/05/28 18:23
刹那滅(の理論)→非仏説☆
部派アビダルマの捏造(と思う)☆
刹那滅の論証→うまくいったとは思えない♪。→中観派の勝ち→戯論寂滅→オカルトの誕生♪
>>486 このように、考え方の違いは何処にでもあります。
この違いを解決することを優先するか、それより
人のために何かできないのか、それぞれ自分の思う道を
歩むべきでしょう。
私ができなくても、貴方にならできるかも知れません。
人を思う気持ちは同じだと信じます。
489 :
名無しさん@1周年:02/05/28 18:48
>>488 たしかに、勝ち負けのようなことにこだわって議論するならそうかもしれ
ませんが、ここでの議論もいろんな点で役に立ちます。
違いを解決する必要はないですが、議論することは無意味ではないと思います。
あなたは人のために何かをすることに関心があるかもしれません。
一方私は、自分自身のために何かすることに関心があります。
自分の心が安定しておらず、怒りっぽく、嫉妬ぶかく、欲張りで、ひとの
幸せを心から喜べないような状態であるならば、
それをごまかして、「人のため」と称して何かしたとしても、その場限りの
ことで、偽善に終わるだけでなく、相手のためにもならないと私は思います。
490 :
ケムール人:02/05/28 18:52
>487
有部アビダルマとか「倶舎論」てのはさあ、
なんでそんなに「刹那滅」にこだわったわけ?
たとえば「無常」概念だったら凄く日常的に体験できて、
「無常」が「苦」を生じるというのはわかるし、必要な思想だと思うけど。
そういうおざっぱでマクロなレベルでなくて、
生活にはほとんど必要のない「刹那」という概念での「滅」の論証というのは、
なぜそんなに必要だったんだろーか?
やはり、上座部的な修行体験内容の言語化ということ?。
491 :
名無しさん@1周年:02/05/28 18:54
素粒子論でしたっけ、私はオカルト本でちょっと
みただけだけど、素粒子が一瞬一瞬生じては消えしている
とかいてありました。
しかも、観察されるとその影響を受けるそうです。
ただ、観察している(他に働きかけはしない)だけで、その
影響を受けるそうな。
あくまでトンデモ本の知識ですが。
自分自身の心の安定が必要と思い、そのために悩み努力し
前へ進もうとすることは大切です。
自分が安定し、人助けにその教訓が活かせれば尚良いと思います。
正直、偽善すらできない人も入る中で、自分には何ができるか私は
考えてます。
相手の気持ちは解りません。ただ、必要としている物を送るだけです。
494 :
ケムール人:02/05/28 19:05
>491
かなり唯識論的になってきますよねえ。
要するに「識」そのもの、
あるいは「アーラ意識」そのものが、”刹那滅”している。
*
「アラヤ識の刹那滅を否定すれば、アラヤ識はもはやアートマンに等しくなる」
↑
これあるサイトのコピペなんだけど、ちょっとギョッとしますねえ。
495 :
名無しさん@1周年:02/05/28 19:10
.
刹那滅オタクは有部より経量部の方が重症☆。
刹那滅の捏造は無我の論証・理論化のための要請☆
無我VS有我 の仏教外部(バラモン系哲学諸派)論争の発生☆
つきなみだけど♪
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497 :
名無しさん@1周年:02/05/28 19:13
.
>「アラヤ識の刹那滅を否定すれば、アラヤ識はもはやアートマンに等しくなる」
必死で「刹那滅の論証」がはじまっちゃうわけね・・・・♪。
498 :
ケムール人:02/05/28 19:18
>495 >484
なーるほど。ここで、
@刹那滅の捏造は無我の論証・理論化のための要請☆
という ♪ 子説と、
A上座部の人はヴィパッサナを徹底的にすれば、
刹那滅は手にとるように見えてくる
という「484 :名無しさん@1周年」説が、
並んだわけだな(笑)
499 :
名無しさん@1周年:02/05/28 19:21
>>494 トンデモ本によれば、熟読した訳ではないですが、
物質と意識の共通の元素に当たるのが、刹那滅を繰り返す「素粒子」で、
人間の意識による観察が物質世界に影響を及ぼすのもそれゆえ。
この明滅と観察者と対象の相互干渉関係が、無常ということの本質だそうな。
この理屈を前提とすると、深い瞑想によって心の働きが寂滅すれば、
心の元素たる「素粒子」の刹那滅だけが見えるということになるかも。
500 :
ケムール人:02/05/28 19:28
>499
ということは、(この説をそのままとるならば)
上座部の冥想家は、禅定で、
「深い瞑想によって心の働きが寂滅し、
心の元素たる「素粒子」の刹那滅だけが見えてきた」
にもかかわらず、
その言語的論証に失敗して、論争に負けた――
ということになるんでしょうかねえ?