1 :
考える名無しさん:
環境問題に関わる自然科学を専攻する学生です。
人文科学系の知識も教養として身につけようと努力中です。
これまで、
『環境倫理学のすすめ』(加藤尚武、丸善ライブラリー)
『現代思想としての環境問題』(佐倉統、中公新書)
『自然の権利』(ロデリック・F・ナッシュ、ちくま学芸文庫)
を読んでみました。これらについての巷の風評、
その他お薦めの本、環境倫理学そのものへの批判など、
自由に展開していただけると参考になります。
2 :
考える名無しさん:03/11/19 14:31
>>1 あなたの書いた内容から、私は特に知的な刺激は受けませんでした(だって内容が稚拙だもの)
さらに具体的な論点を何一つ提出していないくせに、
まるで御大層な問題提起でもしたかのような語調にかなりうんざりしました。
「発言すること」に酔って、自分の主張の内容も省みることもなければ、
応答不可能のコミュニケーション(笑)を垂れ流している見苦しさにもまるで気づいていない
あなたのような方の相手まで親切にしてあげなければ「逃げた」と罵られるのでしょうか?
結構、そうしたければそうするといいでしょう。
私はそれが恥ずかしいことだとは思いません。
誰にだって、応答不能の内容を掲示板に書き殴って喜んでいる程度の
人間とのコミュニケートを拒否する権利はあるからです。
私のこのレスを読んでまた、「発言したい欲望」が沸きあがり、
あなたは顔を真っ赤にしてキィボードを叩くでしょう。
しかしあなたは気づくべきです。
その「発言したい欲望」があなたを愚劣にしているのだと。
これ以上のレスは結構です。
私は、あなたの発言にも考えていることにも興味がありません
↑
コピぺだぞ!気にすんな1
4 :
考える名無しさん:03/11/19 17:55
>>1 あのー。しつこくて申し訳ないが、自分のそういう態度が何を意味しているか
理解してますか?
話の流れ、文脈、読めてますか?
一連のスレの主旨についてのレスは、このスレの存在の妥当性を問うているので
はありませんよ。
スレ発案者のあなたから、スレの主旨を勘違いしている、との指摘を受けたので、
私なりにとらえたこのスレの主旨を明示した上で、あなたにこのスレの主旨を説明
することを求めているのですよ。
スレの主旨はスレ発案者の脳内にあるのが大前提ではなくて、その主旨が発案者
以外の多数に共通に理解されていることが、スレが成り立つ大前提ではないですか?
その共通理解を得ぬまま、また得るための努力を怠ったまま、スレ主個人の思惑で
スレを立て、運用することは、まさにスレの私物化、閉鎖的利用ですよ。
ここまで理解したうえでそういう態度をとっているのですか?
そうであるなら、あなた自身がスレの閉鎖的利用を認めているということに
なりますよ。
そうでないなら、スレの主旨を説明してください。
たびたびこのスレに対する批判が繰り返されているように、私以外にもこのスレ
の主旨がわからない人は多数いるはずです。
スレを立てたからには、その主旨が共通理解を得るよう努力すべきです。
それを無視して、自分もしくは一部の人間が主旨を理解してればいい、という態度は
繰り返しになりますが、閉鎖的利用です。
スレの主旨に対する説明は、同スレ内で行われるのが妥当だと思います。
スレの主旨に対して共通理解ができた上で、
その主旨のスレが日本史板に存在することが妥当かどうかの議論は、
あなたの誘導したスレでなされるべきでしょう。
5 :
考える名無しさん:03/11/19 18:00
>1さんはロリコン趣味の環境にひたってはいませんよね
私の顔は真っ赤になった。怒りからではない。恥ずかしさからだ。
知の2ch的転回に向け、日夜探求を続ける屈強な戦士たちの集団に、
彼らの誇りを傷つけるような言葉を私は述べてしまったのだ。
私は自分の愚かさを呪い、そして空を見上げた。私は驚いた。
「空がこんなに青いなんて、今まで気づかなかった。」
つぶやくと同時に、大粒の涙が頬を濡らした。
7 :
考える名無しさん:03/11/19 18:13
↑お前1じゃねーべ?
環境倫理学って、新手の詐欺ですか?
ご声援ありがとうございます。これくらいでくじけてはいられません。
がむばります!議論の幼稚さは我慢していただいて、、、
自分の印象では、環境問題にたずさわる自然科学者は、
メカニズムの解明によって、あるいは、技術によって、環境問題を
解決しよう、また、それで万事OKという素朴な考えを持っている
方が多いような気がします。このとき、環境をめぐる倫理的・
文化的な側面は、「科学の問題ではない」、
「人それぞれ意見が違う」ということになり、あまり議論の
対象とはなりません。工学的発想というやつでしょうか。
自分もそんなふうに考えていたときもあります。そういう立場で
「現代思想としての環境問題」などを読むと、DNAメタネットワーク
とかの議論についていけず、非常に好き勝手に語っているように
見えてしまいます。
しかし、いろいろ考えるにつれ、倫理的・文化的側面が、
問題の解決の方向を左右する重要な議論のような気もしてきて
いるんです。つまり、現在の自然環境ブームの原因への問いです。
ただ単に「自然破壊→人間が困る」というだけなのか、または
一過性のブームなのか。それとも、ひょっとしてポストモダンと
呼ばれる思想状況と密接に関わった、既存の思想・文化の枠組みを
再編成する大きな潮流としてとらえうるのか。このへんをどう
考えたらいいのかな、と。
>>10 貴方が主張している点は同意できる所が多いように思う。
>「人それぞれ意見が違う」
というのは,そもそも
>ポストモダンと呼ばれる思想状況
がもたらしたものだと言えます。もう少し細かくいうとポストモダン
以前から「人それぞれ意見が違う」ということは言われていたがポスト
モダン的な思考の枠組みによって「人それぞれ意見が違う」という主張が
論理的に強化されたのです。
もう少し自分の思うところを
書いてみて下さい。それについてレスをつけます。
私もこの問題に少し興味があります。E-mail欄にsageと入力して
sage進行しませんか?荒らしが少なくなるので。
かなりまじめに考えたんだけど
自然破壊ってなんでまずいっていわれるのか分からない。
>>1は環境問題って問題だと思う?
>>12 この指摘は重要ですね。1さんの以後書かれることに沿って
12さんも一緒に考えてみませんか?
あと問題点を具体的に絞ってみると分かり易くなるかも。
例えば「ダイオキシン」は環境倫理的な視点から見ると,どのような
問題として捉えることができて,どういう風に言えるのか?とか。
たぶん授業でもそういうのあるんじゃないかな。それそのままでもいいし。
その中から
>環境問題って問題だと思う?
か考えてみましょう。ゆっくり待ちますので1さんお願いします。
ちなみに1さんの自分の主張が間違っているとか,幼稚だとかは気にしないで
下さい。レスの応答の中からで少しづづでも解ることがあればいいじゃない
ですか。
相手をしていただき、ありがとうございます。
みなさんの問題意識とかみあっているかはわかりませんが、、、
自然科学を学ぶ私は、「人それぞれ意見が違う」という科学者の
一般的な意見に対し、フェアな印象を持つと同時に、そう言いながら
「自然と人間の関係」をめぐって、実際には、思考をめぐらせば
疑いうるような諸前提にとらわれていることに気づいていないような
印象を持っています。一方で、環境倫理学におけるいろいろな論争が、
「俺はこう思う」「思わない」という不毛さからいかにして脱する
ことができるのだろうか?という疑問も持っています。自分はその
狭間で右往左往しているんです。そこで、どちらかというと、
自然環境をめぐるそうした議論を成立させている状況が、
何によってたっているのか、という点に興味があります。
えーと、少しずつ分けて投稿します。
自分が環境をめぐる文化的な問題が大事だと思った動機には、
いろいろな本を読んで触発されたということもありますが、
自分の身近な人が、会社を退職してから田舎で自分の畑を
持って農業をしている、しかも大変幸せそうにやっている、
といった体験も大きいです。そして、こういう人がどうも
増えている。自然破壊が進んでいると言われ、
まあ、確かにそうだとも思うのですが、日本の過疎地域などを
考えると、けっこう自然がたくさんある。そういう状況を
見ていると、環境ブームは、人間の心理的・文化的側面の
変化によっている部分も大きいのではないか、と思ったんです。
例えば、スローライフという言葉がでてきたり、アウトドアブーム
とかがあったりする。あるいは子どもたちの中で貧乏旅行が
はやったりする。こうした動向と環境保護ブームがつながって
いるように思われ、そういう意味で、環境思想というものが、
ポストモダン的な文化状況の進行と一体的に進行し、既存の思考の
枠組を再編成しつつあるんじゃないか、と考えてみたわけです。
>フェアな印象を持つと同時に
この部分,否定的ニュアンスを持たせてると思うけど,私もそう感じることが
あります。最近感じるのは,対話の場面で感じますね。自分で自分を指す言葉
(俺・私・自分…)が文字どおり自分を指すんじゃなくて「俺はこう思う。だから
これ以上入ってくるな」って感じのメタ・メッセージとして使われてると感じる
ことがあります。(「人それぞれ意見が違う」を前提とすると)それはそうかも
しれないが,その前提だと対話が成立しなくなると感じることがたまにあります。
>実際には、思考をめぐらせば
>疑いうるような諸前提にとらわれていることに気づいていないような
>印象を持っています。
同意。
>「俺はこう思う」「思わない」という不毛さからいかにして脱する
>ことができるのだろうか?
この点は,竹田青嗣さんの著作が参考になると思います。竹田さんは
この「不毛さ」からの脱出の試みとして現象学を手法とし,エロスという
キーワードでこの問題に挑戦しています。(『意味とエロス』『現象学〜』)
竹田さんはこの板で評判が悪いけど,1さんの問題意識を考慮に入れて読む
とやってることのすごさがわかると思います。ちなみに竹田さんの著作は,
売れてるのでブックオフでたまに百円で売ってるのを見る。沢山著作があるから
どれか読んでみるといいですよ。
>環境ブームは、人間の心理的・文化的側面の変化によっている部分
なるほど。
>環境思想というものが、ポストモダン的な文化状況の進行と一体的に進行し、
>既存の思考の枠組を再編成しつつあるんじゃないか、と考えてみたわけです。
なるほど。
>会社を退職してから田舎で自分の畑を
>持って農業をしている、しかも大変幸せそうにやっている、
>スローライフ
>アウトドアブーム
この点について,社会学の「逸脱行為」(肯定的意味で)という言葉と,それに
ついての考察が参考になるかもしれません。もしかしたらこの状況は,今ある
価値観からの積極的逸脱であるかもしれません。
まず「ポストモダン的な文化状況」について考えてみませんか?
この言葉はいろいろな状況を含むので,具体的に1つ1つ挙げてみましょう。
私も今度書くとき幾つか提示してみます。
>竹田さんはこの「不毛さ」からの脱出の試みとして現象学を手法とし,
>エロスというキーワードでこの問題に挑戦しています。
環境倫理から離れて、より普遍的な問題としても、多元的価値観の
もとでの対話の不在をどう考えたらよいかは、とても興味が
あります。
>まず「ポストモダン的な文化状況」について考えてみませんか?
そうですね。自分では1960〜70年以降の文化状況を漠然と述べたものと
理解しています。確かに、ポストモダン的な状況とは、多様化という
側面があると思うので、これ自体を自然環境ブームと重ね合わせるよりは、
自然環境ブームは「ポストモダンが含む潮流の一つ」くらいに思った
ほうがいいのかもしれません。
ポストモダンと環境についての自分の問題意識をもう少し書くと、
環境思想が一般の人に広く受け入れられた時期が、いわゆるポストモダン化
の時期と一致していることが気になります。それ以前にも、ソローとか
レオポルドなどがいたけれど、普通の人からみたらマニアックな存在で、
あまり相手にされなかった。それが1960年ごろを境に変わってくる。
これは、単に高度成長によって公害問題があちこちで発生したから、
と理解することもできるかもしれません。しかしまた、いわゆる
モノの量から生活の質へ、機能的なものから心理的なものへ、
自明視されていた科学技術の進歩や経済成長への疑念、といったものが、
いっぺんに出てくる。環境思想はこうしたものと共鳴しながら
成長してきたと思います。もちろん、いまでもマニアック視されることは
あるわけですが、30年以上たっても一過性のブームで終わったようには
見えず、むしろ浸透しつつある。この変化は人間学的に見てどのような
変化なのか。環境思想は一部の人のマニアックな思想なのか、それとも
もっと普遍性を持ったものなのか、そこをどう考えるかで、だいぶものごと
が違って見えてくるということがあります。
21 :
考える名無しさん:03/11/21 00:06
1さんへ
環境問題なんて人間がいなくなれば全て解決なんじゃない?
22 :
考える名無しさん:03/11/21 00:10
アフォの山形が翻訳している
「環境問題を煽ってはいけない」とかいう本は読んだのかい?
23 :
考える名無しさん:03/11/21 00:13
煽るとどうなるって?
24 :
考える名無しさん:03/11/21 00:16
25 :
考える名無しさん:03/11/21 00:22
山形はアフォだけど、
倫理倫理とかいってちゃんとデータ踏まえて議論してんのかゴルァ!
と足元をすくわれないようにしなきゃね。
26 :
考える名無しさん:03/11/21 00:30
資本主義の流れにまかせて、
金かけて対策たてた方が有効なんじゃないか?
っていう考え方もあるわけよ。
市場原理にまかせとけば、
環境問題考えてる企業が勝ち残っていくから、
変に制限なんかせん方が良いとか。
アウトドアとかスローライフとかなんてのは、
「森の生活」からC.W.ニコルまでポストモダン云々以前から
普通に考えられたライフスタイルで、
大きな社会変化の反動からそういう人がちょっと増えはするんだろうけど、
それはほとんど少数の趣味人の問題であって、
そんな倫理とやらで環境危機が回避できることはないと思う。
二酸化炭素をちょっとぐらい減らしたところで変わらんよ
ってことはロンボルグの本に書いてる。
だからといって、アメリカ流にやりゃ良いってもんじゃない
と浅田彰が下のサイトで書いてる。
http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200311/index.html
倫理により環境危機を回避するという発想は、
規律訓練型、(環境に対する)道徳観を教育とかで個人個人に
内面化させようという試みになるのかな?
でも、それはもう無理じゃないかな、と思う。
環境を破壊しないですむようなアーキテクチャを
開発するという方向で社会は進むと予想します。
ちなみにナチの構想は、
平日はハイテク都市で働いて、
週末はアウトバーン使って田舎に行って、
大自然と触れ合うみたいなもんでしたね。
『環』っていう雑誌がある。
環境危機をあおってはいけない
って最低最悪のタイトル訳だよな。
山形以外のまともな学者が
クールにやれば良かったのに。
内容的には重要な部分も多いわけだし。
>>19 >多様化という側面があると思うので、
うんうん。この点は「ポストモダン的」なものの最大のキーワードになる
かもしれません。
>>20 >環境思想が一般の人に広く受け入れられた時期が、いわゆるポストモダン化
>の時期と一致していることが気になります。
なるほど。その関連性は興味深い所だと思います。
>>22 >>24 ご指摘ありがとうございます。今後ともご意見を参考にさせて下さい。
>>25 >倫理倫理とかいってちゃんとデータ踏まえて議論してんのかゴルァ!
痛いところを突かれました。データを踏まえないと説得力を持ちませんね。
>>26 この意見は見方によれば全面的に賛成できます。
ごめんなさい。アゲてしまいました。間違えました。
>>27-29 勉強になります。要約がわかり易いです。
>倫理により環境危機を回避するという発想は、 規律訓練型、
>(環境に対する)道徳観を教育とかで個人個人に
>内面化させようという試みになるのかな? でも、それはもう無理
>じゃないかな、と思う。
なるほど。たしかに私も無理じゃないかとは思います。もしも評論家
なんかが安易にそのようなことを主張してたら「だったらどうやって
やるんだ」とツッコミを入れたくなりますね。
>>30 こんど図書館ででもチェックしてみます。
>>31 たしかに。山形さんは『クルーグマンの〜』の評判が良かったので
その第二弾をねらったふしがありますね。表題自体で読む気がなくなる
ことがあります。
>>22 ロンボルグの本は、自分の分野に関係あるところを拾い読みした
くらいです。自分の専攻分野については、これまで議論になっていた
ことを部外者にしてはよくまとめたなあという印象で、とくにこれに
よって足元をすくわれたということはありません。ただ、環境って
安易な議論が横行しやすいように見えるので、そういうのにチクリ
とやった意義は大きいのかな、と思いました。
それから、私自身はけっこうリアリストで、環境問題を解決する上で、
技術の果たす役割、経済政策の果たす役割がやっぱり大きいと
思っています。ただ、技術も万能ではないし、経済政策にもいろいろな
方向があるわけですから、その中でどういう政策を採用するのか、
つまりは、どこまで自然を保護し、どこまで自然破壊を容認するのか、
ということについて、考えざるをえない。それを考えようとすると、
やっぱり思想の問題になってくる。私が環境倫理に首をつっこんでみた
理由はここにあります。で、結局最後は「人それぞれ」だから、それを
調整する枠組みを考えるということなのでしょうが、これで議論を
終わりにすることには違和感があります。
つづきです。違和感の理由は、
1、人それぞれはいいとして、自分の今の思想なりフィーリングは、よく
考えられたものではないので、哲学的な議論に接することで変わる可能性が
あると思っている(自分の問題として)。
2、人間の対自然感覚は、そんなに変わらないものなのか?例えば、
日本でも近世あたりに大きな転換があったと聞きますし、現在は第二の
転換中だと見る人もいる。また、キリスト教・仏教など、地域の文化構造
によっても違っている。こうした違いはどうして生まれるのか?そして
現在はどういう状況と定義できるのか?
ということを考えているからです。
現在のヨーロッパ型環境対策と
アメリカ型環境対策を整理してみよう。
ヨーロッパ型は「法」(京都議定書のような)と
「倫理」(スローライフが良いよ派)によって
環境危機を解決しようとしているのかな。
アメリカ型は、一見何も考えてないというか
「市場」まかせで解決できるということだろうか。
金が問題を解決する技術を開発するだろう、と。
(人がどんな倫理観をもっていようが環境は守られる
「アーキテクチャー」を作ることで問題解決)
個人的には、環境問題解決にはやはり技術革新が必要なんだと思うけど、
それを促進する世論形成のために、
「法」とか「倫理」の力強い後押しが必要なんじゃないか、という意見だな。
1さんのような立場の人には、
やはり技術面でおもいきり頑張ってほしいと思うんですが。
いまの日本人にむかしの対自然感覚を説くことに
どれほど意味があるかは疑問だな。
清貧の思想みたいな話で終わるのがオチとおもわれ。
立松和平とかCWニコルに共感するとか(w
39 :
考える名無しさん:03/11/22 00:03
環境問題は科学技術ですべて解決する。その考えのどこが悪い?
以上
異論・反論一切受け付けません。
環境問題って具体的にどういうものを想像すればいいのかな
温暖化とか?
まあ、あまり興味を持たれないのかもしれませんが、もう少し整理すると、
自分は、倫理によって環境を解決するとかいうんでなく、技術や
経済的誘導に依拠しても残されてしまう思想的な問題を考えてみたかった
わけです。
40さんのおっしゃるように少し具体化した方がいいかもしれません。
例えば温暖化なら、技術革新が確かに大事なのですが、CO2濃度を現状で
維持するのはほとんど不可能に近いと思われていて、結局どのレベルで
安定化させようか、ということになります。また、開発に伴う自然破壊
などは、公害みたいのは技術でなんとかできるでしょうが、森林伐採とか
エビの養殖によるマングローブの破壊(そしてマングローブを核として
いた地域生態系の破壊)みたいなものは、やっぱり人間の経済活動と
どう折り合いをつけるかという話になります。そうすると、これは
人間と自然との関係をどう考えたらよいのか、という問題になってくると
思ったんです。
そこで、経済学者の中には、所得最大化の原理に従って環境をコントロール
することで、「共有地の悲劇」を避ければよいといった考えが出てきます。
それはそれでありうる選択だとは思います。
ただ、そんなにモノばっかり増やして人間は幸せになれるの?と考えたり、
自然の文化的・心理的な価値に比重を置く方向もあるはずで、僕はこれも
ありうるんじゃないかと思っちゃったわけです。そもそも、私、モノが
たくさんあってもあんまり幸せに思えませんし、人間/自然という対立を
前提とするのが近代やキリスト教の特質だとしても、未開社会とか
東洋思想の中にはそうでないものもたくさんあったわけですし、
そもそも近代が自明視していたものを問い直すという作業が、昨今の
有力な思想潮流のようにも見えますし。
そこで、自分自身が自分の専門分野でがむばるのはいいとして、
このへんのことを「科学の問題ではない」として何も考えず、素朴な
思考形態のままであり続けるのは、なんとも頭が悪いような気がして
調子が悪いのです。最終的にどう考えるかは別として、自分の考えが
何を前提にしているかについて自覚はしておきたいと。
そこでいろいろ勉強してみると、環境倫理では動物の権利、自然の権利の
是非みたいなものが議論になっている。『現代思想としての環境問題』を
読むと、自然/人間の二項対立をやめて、DNAメタネットワークとかミーム
とかの概念を使って、「人間」とか「主体」とかを解体させる方向で議論
している。
実は、正直言うと、これらの議論をあまり面白いとは思えなかった
んですが、聞きかじった話では、フーコーなども「人間の終焉」という
ことを考えていて、その先にあるヒューマニズムとは何かということを
考えていたらしい。それ聞いて、ひょっとして面白いのかな?と思ったり、
よくわからないのです。それで哲学をやってる人はどう思ってるのかな?
と思ったのですが・・・。
それともう一つの関心は、前から書いているように、60〜70年以降の
自然環境ブームの性格です。環境倫理について哲学者がいろいろ議論した
としても、それが哲学者の中だけのものになってしまうならば、「そういう
考えもあるのかなあ、あるかもなあ、しかしなあ・・・」ということに
なってしまうけれど、ある程度多くの人にインパクトを与えうるのだと
したら、環境問題の行く末について、ちょっと違った見通しになります。
「そんなのは一部の人の趣味」という考えもありだとは思うのですが、
自分としてはそうであるともないとも断定する気になれず、そう主張する
根拠というか、分析のツールに関心があるのです。まあ、こういう議論は
難しいのかもしれませんが。
>正直言うと、これらの議論をあまり面白いとは思えなかった
佐倉統さんの著作は私もいくつか読んだ事がありますが,ミーム云々は
科学の新しいトピックで,結びつけはいいかげんだと思います。
前のほうに
>環境思想は一部の人のマニアックな思想なのか、それとも
>もっと普遍性を持ったものなのか
とありますが,今日では思想すらも商品になり消費される時代
なので,環境思想もそうなる可能性には敏感である必要がありますね。
フーコーの話がでましたが,フーコーは今日自明とされているいくつかの
観念が,たかだか一九世紀からはじまったものだということについて
系譜学的な仕事を残してます。系譜学と言うのはその観念がどのような
歴史をへて,今考えるような観念になったのかを現在から逆向きにたどっていく
というような方法論です。フーコーはニーチェ主義者だと自分でも言っていますが
この系譜学というのはニーチェが『道徳の系譜』でおこなったものです。
環境という言葉が歴史的にどのようなイメージを持って使われてきたか,系譜学的に
見ていくのも,環境思想を考えるうえで役に立つかもしれません。
> ミーム云々は科学の新しいトピックで,
> 結びつけはいいかげんだと思います。
なるほど。概して不評のようですが、この本を名著だと言う人がいます。
うーん、わかんない。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0358.html > 今日では思想すらも商品になり消費される時代なので,
> 環境思想もそうなる可能性には敏感である必要がありますね。
これはその通りですね。「環境」のイメージが消費されている側面は
大きいと思います。そこで、何となく今の自然環境ブームは、以下の3つ
に源泉があるような気がしてきました。
1)狭義の人間中心主義:自然破壊→人間の経済活動・生存を危うくする
ことへの危機感。
2)イメージの消費、メディアによるセンセーショナリズムなど
3)スローライフ、人間回復(ポストモダンの潮流の一つ?)
> 環境という言葉が歴史的にどのようなイメージを持って使われてきたか,
> 系譜学的に見ていくのも,環境思想を考えるうえで役に立つかもしれません。
こういう仕事をする人があれば、大変面白そうだと思います。
ところで、最近、オギュスタン・ベルク『風土学序説』を読んでいます。
ハイデガーの存在論を駆使しつつ、風土が人間存在の構造に参与するという
内容で、面白いと思いました。自然認識の系譜学みたいなところが
あるかもしれません。
47 :
考える名無しさん:03/11/28 05:49
なんで日本には環境政党がないんだろう。
環境思想や環境倫理に興味をもっています。
レスを読ませてもらって、
また、意見を書かせてもらいます。
50 :
考える名無しさん:03/12/22 15:57
良スレage
1、もっと書き込んでくれ
あ、いつのまにかあがってる。
> 50
しょせん乱読による知識なので、調子にのって書くとボロが出ますが、
私の関心を今一度整理すると、以下のような感じです。
自然認識の系譜について整理しつつ、そこから近代やポストモダンといった
概念について、そのへんとの関わりを整理し、自然と人間との関係を
めぐる現代の議論に照明を当てることはできないのかと。
その上で、気になるのはまず時間軸について、狩猟採集社会・
農耕牧畜社会・工業社会・ポストモダン、とどのように自然認識が
変遷するのか。例えばアメリカ先住民の中には、自然を道具化することに
強い抵抗があったり、自然破壊=神殺しだったりすること。また、
農業にはかつて自然からの贈与としての感覚が見られたが、近代的な
農業になると、自然を駆り立てて搾り取るような感覚になること。
また、空間軸については、西洋と東洋との違い。すなわちキリスト教
が自然を道具とみなしたのに対し、東洋では自然と一体化する思想
や文化が見られること。
そして以上のテーマは、存在論的な議論と深い関わりがあるということ。
加藤尚武氏が最近、ハイデガーの技術論を気にしていることや、
オギュスタン・ベルクがハイデガーや和辻哲郎を引き継ぎつつ、
風土をめぐって深い思索を展開していること。中沢新一氏もこのへんを
うろうろしているように見え、日本古来のモノ論や、モースの贈与論、
マルクスの疎外論やラカンとくっつけたがっている(?)。
また、以上のテーマは宗教体系とその変遷にも関わりがあること。
アニミズムが自然調和的なのに対し、多神教では神(そして自然)の
間に序列が発生し、一神教では自然は被造物とされたりする。また、
日本では近世にこれまで畏敬の対象であった自然が、征服の対象に
なるが、仏教の大きな変化と機を一にしているようで、興味深い。
そして、近代というのは、このような自然に対する存在了解という
視点で見ると、自然の道具化の極にあるように見えること。それが
いわゆるポストモダンに入るとやや変化の兆しが見られる(?)こと。
フーコーの「人間の終焉」以後のヒューマニズムの模索や、最近の
人間と機械(モノ)との絶対的な区別を疑問視する思想傾向との関係
も気になります。
と、このようなことに最近とりつかれており、最近は一生懸命
オギュスタン・ベルクを読みつつ、ハイデガーを知らなきゃ何も
わからないことに気づいて『存在と時間』に手を出したりして
おります。こういう関心、はたしてそれなりに意味があるもの
なのでしょうか。
53 :
考える名無しさん:03/12/25 04:35
将来環境NGOにでも入るの?
>>52 それはあるんじゃないかな。加藤尚武みたいな優秀な人も
環境倫理って言ってるし。
>>53 研究がしたいです。ものになるかはわかりません・・・。
>>54 肯定していただき、ありがたいです。でも私の関心、環境倫理というより
環境文化論とでも言ったほうがいいのかも。
56 :
考える名無しさん:03/12/25 18:54
どうやって現状を変えていくの?やっぱ環境教育の方に進むのかな?
それともそのつもりはないの?
57 :
考える名無しさん:03/12/25 20:40
宗教観によって左右されるから、宗教学をすべし。少なくとも、西洋思想か東洋思想に焦点をしぼって。
>> 56
最初に書いたとおり、理工系ですので、その方面でがんばることを
通じて、ということではないかと(ものになれば)。また、以上に
書いたような、自然認識の系譜を整理し、普及するということができれば、
今生きる人に、もう少し多様な選択肢を示せるような気もし、それは
けっこう大事なことではないかと思います。
>> 57
宗教学、自分の関心にとってとても重要だと感じます。
エリアーデや井筒俊彦がやったような比較宗教学みたいな
アプローチに非常に興味がありますが、やっぱり一度焦点を
絞らないとダメでしょうかねえ。
59 :
考える名無しさん:03/12/28 01:12
>>58 > 今生きる人に、もう少し多様な選択肢を示せるような気もし、それは
> けっこう大事なことではないかと思います。
頭でっかちになりそう。気をつけてね
60 :
考える名無しさん:04/01/01 19:04
( ̄ー☆キラリーン
62 :
考える名無しさん:04/01/03 03:29
63 :
考える名無しさん:04/01/07 22:18
カトちゃん、ここでは割と評判いいよね。
でも、本はあまり面白いと思わなかった。選び方が悪いのかな。
64 :
考える名無しさん:04/01/07 23:29
まあ何はともあれこの分野にとっては重要な人だからね
65 :
考える名無しさん:04/01/25 15:10
66 :
考える名無しさん:04/01/27 05:28
ども。「自然の権利」半分くらい読んだけど難しいですね。
ちなみに僕は環境経済学をかじってるんですけど
環境問題を改善していくには、環境教育だけではもう遅いと思いますよ。
必要不可欠ではあるんですが効果が出る前に手遅れになる可能性があります。
そういう点から考えて環境倫理のアプローチとしてはマスメディアが
とても重要なウエイトをしめていると思うんだけどう?
67 :
考える名無しさん:04/01/27 14:56
>>66 近年のたわけた「スローフード・スローライフ」ブームを見る限りマスコミなんて全然役にも立たないと思う。
68 :
考える名無しさん:04/02/03 21:13
浮上
1さん研究は進んでますか?
私は10年ほど前に卒論で四苦八苦しました。まあオッサンです(w
造園系の学科で環境論に近いものをテーマにやってましたので、少し近い線を勉強
されてるみたいで少々嬉しくなりました。理系の癖にほとんど文系の卒論になって
しまいましたが・・・
多分今色々と読まれている思想系のものとは、少し毛色は違うと思いますが、
「言語ゲームと社会理論」/橋爪大三郎/勁草書房
は、お勧めです。
言語ゲーム的観点からみれば、事実/規範の対立が解消されるという話は役に立つ
かもしれません。環境倫理学にアンチテーゼとしての「自然主義的誤謬」批判にカ
ウンターとして提示できる一つのルートだと思います。
それと環境問題を社会的ジレンマとして解くという社会心理学の仕事があります。
(環境問題は、典型的な社会的トラップの利得構造をしています。)社会心理学の
入門書程度もご一読することをお勧めします。
既読ならスマソ。
では頑張ってください。
70 :
考える名無しさん:04/02/06 22:26
実践あるのみ
71 :
考える名無しさん:04/02/07 05:19
「事実から規範を導くことができない」という「自然主義的誤謬」が誤謬であるのは
そうなんだけど、それはあくまで言語ゲームの内側においてだけの話かと
1がんばれ
余談で、個人的には実際問題その研究結果をどうやったら活かしていけるかに関心がある。
社会に環境問題を研究している人はそれこと星の数ほどいるわけだけれど、正直その研究が現状の改善にうまく繋がっているとは思いがたい。
せっかくの研究結果も、政治の荒波の中で変に解釈されたり、誤解されたり、あるいは骨抜きにされたり、そっちの方が問題なんじゃないかなぁ、と。(例、京都議定書、ダイオキシン規制法など)
過去に環境NGO(自称)に入っていたことがあるけれど、そこで行われていたのは自分たちの活動を維持していくためのエサとして環境問題が使われていただけだし、環境環境と騒ぎながら車に乗りまくってたりしてましたよ。
そこで加藤尚武の勉強会なんかもやったけれど、やっぱり話のネタとして使われていただけの感が強い。
>>71 >それはあくまで言語ゲームの内側においてだけの話かと
うーん。
71は多分判っている人だと思うから、他の人のために書くね。
言語ゲーム論に従わないという観点ならば、その通りだね。「自然主義的誤謬」は
「自然主義的誤謬」のままだ。
だけど言語ゲーム論に従うと、ある「事実/規範」のユニットは、ある「ゲームの
外部的視点/内部的視点」の違いに置き換えられる。そしてそれもまた新たな個別
の言語ゲームの誕生でしかないので、どこまでいっても言語ゲームは「外部」をも
たないことになる。したがって言語ゲームを採用すると言語ゲームの外側は語りえ
ないものとなってしまう。
だから
>>71の「内側」って言葉は間違っているというのじゃなくて、ちょっと注意
をしたほうがいい。言語ゲーム論を採用すると、言語ゲームを総体としてとらえ
て、その「内側」があるというような、外部的足場が存在するとはいえなくなる。
(正確にいえばいえるんだけど、それも新たな言語ゲームとなる。)
「自然主義的誤謬」へのカウンターを示さねばならないとか、言語ゲームを採用せ
よとか、強引にお勧めしてるわけでもないし、環境倫理学の研究に役に立つかどう
かは、なんだか自信がなくなってきたがw、一つの考えとしては言語ゲームは面白
いと思うよ。
74 :
考える名無しさん:04/02/08 08:06
あがっているとは知りませんでした・・・。
>>66 > 環境倫理のアプローチとしてはマスメディアが
> とても重要なウエイトをしめていると思うんだけどう?
倫理的なアプローチになるのかどうかはわかりませんが、メディアの
分析はとても大事だと思っています。それは、メディアが環境意識を
高めうるという意味もあると思いますが、一方で、メディアの
センセーショナリズムみたいなものによって、真の情報がゆがめられて
いくことをどう考えるかという視点も必要かと思います。これは、
環境に限らずあらゆる社会問題に共通するとは思いますが。
環境問題の解決の方向性は、人びとの価値観の変化によっても変わるし、
不確実性をどう考えるかもあるから、専門家の意見だけで政策決定される
べき性質のものではないと感じます。にもかかわらず、相互討議的な
性質を持たない、メディア受容的な一方通行のメカニズムによって、
現実から遊離したイメージが再生産されている様子には、もどかしさが
あります。
>>69 >>71 >>73 言語ゲームの話、ありがとうございます。自然主義的誤謬という
概念すら、よく知りませんでした。事実と規範の対立が解消される
という話は興味がありますので、すぐにとはいきませんが、おいおい
読んでみたいと思います。簡単に言うとどういうことなのか、
説明していただけると助かります。
>>72 > 実際問題その研究結果をどうやったら活かしていけるかに関心がある。
> エサとして環境問題が使われていただけだし
先のメディアの議論とも関係しますが、真摯な相互討議が、政治に、
運動に、メディアに持ち込まれると、そこでの力学に巻き込まれ、
からみとられていく様子は、いたたまれないものがあります。
ただ、その力学が非常に強力なものであるだけに、おそらく自分も
その立場にいたら同じことをせざるをえなくなるのだろうな、
と、そういう「場」ができているのだろうな、とも思います。
そういう意味で、単純に、学問的に特権的な立場から、現場の人を
非難すればすむことでもないような気がし、なんだか非常に
難しいです。
>>77 まったくその通りだと思う。
環境の問題は、難しい問題でアドバイスは出来そうにないけど
この問題は誰かが考えないといけない所まで来ているとも思う。1には頑張って
ほしい。
>>69 >1さん研究は進んでますか?
私は10年ほど前に卒論で四苦八苦しました。まあオッサンです(w
造園系の学科で環境論に近いものをテーマにやってましたので、少し近い線を勉強
されてるみたいで少々嬉しくなりました。理系の癖にほとんど文系の卒論になって
しまいましたが・・・
多分今色々と読まれている思想系のものとは、少し毛色は違うと思いますが、
「言語ゲームと社会理論」/橋爪大三郎/勁草書房
は、お勧めです。
言語ゲーム的観点からみれば、事実/規範の対立が解消されるという話は役に立つ
かもしれません。環境倫理学にアンチテーゼとしての「自然主義的誤謬」批判にカ
ウンターとして提示できる一つのルートだと思います。
いや、それはないwまじで貴方の頃ならともかく、ないw
>>82 うーん。まあ私の場合、80年代でその手の話題をフォローするのをやめてしまいま
したからねえ。実際考え方が古いと思います。ただ、環境倫理学への「自然主義的誤
謬」批判やホーリズム批判は、この学問のアポリアだと当時は考えてました。
そんなときにみつけたのが言語ゲームだったのですが、もっといい乗り越え方が何か
ありますでしょうか?ご存じでしたら後学のためにも教えてください。
救助age
環境倫理を学問としてやろうとしたらどういう学部がいいんですかね?
哲学系の倫理学科だと形而上の話に終始しちゃいそうだし、
かと言って自然科学系の学部だとそこまで理論は重視されないだろうし。
本来は自分でバランスよく研究できればいいのはわかってるんですけど・・・。
87 :
考える名無しさん:04/04/23 23:18
>> 86
環境経済なんてどうでしょ。
自然の内在的価値についての研究がけっこうホットらしいよ。
そおなのか? 俺今ネカマにはまってさ。某板で痛いキャラをつくり
あげて大笑いしているよ。カヒミに似せようと思うんだが、そう言う服
ってどんな雑誌に載ってるの? オリーブ?
91 :
考える名無しさん:04/06/09 23:20
保守
保全
93 :
考える名無しさん:04/06/13 04:04
保存
>87
まあたしかにその話題はホットだが、経済学者の関心はあくまで
「人々がその環境(たとえば尾瀬)にどれだけの非使用的価値を
見いだすか」ということであって、人類が存在しなければ存在しなく
なるような価値でしかない。その意味では環境倫理でいうような
価値論とはちょっと毛色が違う。
94 :
考える名無しさん:04/07/31 20:38
捕手
95 :
考える名無しさん:04/08/09 05:37
96 :
考える名無しさん:04/08/09 07:10
私は、地球全環境を1つの熱機関のように考えているのですが。
97 :
考える名無しさん:04/08/09 07:23
最も単純な描像は、太陽を高熱源、宇宙空間を低熱源として、その間で作動する熱機関です。
それはあんまり倫理と関係ないね。
99 :
考える名無しさん:04/08/10 03:34
>>98 地球の環境がとれる状態の「幅」は、まず、この入力と出力によって物理的に規定され、それ以外の「空想」をしても意味がない、
環境倫理にも、あらゆる文化的要素にも、自由度は予め制限されているってことです。
M・ブクチンの『エコロジーと社会』読まれた方どうでしょう?
102 :
考える名無しさん:04/10/03 23:07:53
たしかとりごえなんとかという人がいいことをいってたが、もう忘れてしまったな
103 :
考える名無しさん:04/10/19 17:31:27
保守
104 :
考える名無しさん:04/10/20 12:29:20
地球環境は複雑系だよ。地球内部の現象も地上にかなりの影響を与えている
ことが、最近分かってきている。
複雑系の環境だから、複雑系の生物が生まれたんだろうね。
で?
106 :
考える名無しさん:04/10/20 17:27:03
環境アセスメントって、詐欺師の集まりじゃなかったの(わら
107 :
考える名無しさん:04/10/20 17:34:07
何がおもしろいんだか。
108 :
ブッシュ大統領:04/10/20 19:36:13
京都議定書なんて、くそよ、糞。
CO2減らせ言うなら、おまえの息を止めてから言え。
109 :
考える名無しさん:04/10/20 20:42:08
そういうブラックジョークすきよ
あはは、おもしろいですねー(棒読み)