1 :
考える名無しさん :
02/01/02 19:10 人間の脳は物体、物質であり、物理法則に従う。 したがって、自由意志はない。 という決定論を否定する奴はいるのか?
こんなスレ前になかった?
人間の脳は物質だけど 意志はモノじゃないので物理法則には従わないよ。 精神と肉体は全く別物だよ。 これは数十年前にベルグソンが証明したよ。 『物質と脳』という本に書いてあるよ
じゃあ、仕組みはどうあれ問題になるかぎりで意志を決められることを <自由意志>って呼べばいいじゃん。コケ。
6 :
考える名無しさん :02/01/02 19:30
>>3 意志は脳に起因する現象で、脳が物理法則に従うんだから、
意志も物理法則に従うという考え方が自然だろ。
8 :
考える名無しさん :02/01/02 19:38
>>7 >サーバ無駄遣いすな
貧乏くさい発想。死ね
精神と肉体が別物なわけないだろ。 肉体を伴わない精神は存在しないが精神を伴わない肉体は存在する。 これを否定する奴は神秘主義者だな(w
11 :
考える名無しさん :02/01/02 19:44
続きは
>>5 のリンク先でお願いします。
このスレは重複スレとして、削除依頼に提出します。
14 :
考える名無しさん :02/01/12 19:21
>1 正解。人は自由意思が あると錯覚してるだけ
14はだまって前スレ読んどけ。
17 :
考える名無しさん :02/02/19 02:26
否定できん
18 :
考える名無しさん :02/02/19 03:16
>>3 :yong :02/01/02 19:19
>人間の脳は物質だけど
>意志はモノじゃないので物理法則には従わないよ。
>精神と肉体は全く別物だよ。
>これは数十年前にベルグソンが証明したよ。
>『物質と脳』という本に書いてあるよ
この意見はトんデモに思えるが。
そんな「証明」できたならすごいって。
19 :
考える名無しさん :02/03/10 05:09
ねえ。
>>5 のスレもう書けないYO!
ちゃんと読んどくからここにカキコしていい?
って逝ってみるtest.
20 :
考える名無しさん :02/03/10 05:31
宿命論(全ては決定済み)というのと、無因論(全ては決定されていないから無限に自由) という発想は、どちらも同質の誤謬。 世界が決定的であったとしても、(また、少なくとも世界の実相がどうであろうと 認識の段階では決定的にしか考えられない、というのは、「全ては決定されていない」と考えた場合、 決定されていないことが決定していると考えることになってしまうから) どうして決定内容の全貌が、決定されている世界の内側にいる我々に分かるの? 真に絶対のものは、「これこそ絶対だ!」なんていわずともはじめから既に常に現実化している。 またそうでなければ真の絶対ではない。(これはいつか独我論関係のスレでもいったが、 真に独我存在は自己を独我存在とすら認識しない、何故なら比されないし、比す動機をもたないから 絶対とはそういうもの)宿命論と無因論(と付け加えるなら根本動因・不動の動者・神)が 同質の誤謬だといったのは、それを主張するものが、 真の絶対、決定内容の全貌が何故か自分には分かるのだとしているから。 前者なら全ては決まっているということが絶対的に分かっていることになるし、 後者なら全ては決まっていないということが絶対的に分かると主張することになるから。 結局経験していない領域まで分かると主張するから矛盾する。 ゴータマ・ブッダの「十四難無記」やカントの「アンチノミー」で指摘されていること あるいは、現代の複雑系科学で言われていること。
21 :
考える名無しさん :02/03/14 17:20
自分は、限られた範囲内での自由意思の存在を肯定する新一年生です。 >5のスレも(大雑把に)拝見して、改めて感じる事は、1氏のような 一元論を主張する方々の「自由」の概念って、一体、何ですか?
22 :
考える名無しさん :02/03/22 05:30
age
結果的に計算できるというのは 意味ないもんね 自由意志はあるよ☆
自由意思はない! 日本の刑法は間違ってるのだ!わがはいに刑罰を科すことはできないぞ!
25 :
考える名無しさん :02/03/22 06:12
獣医師は いない
26 :
考える名無しさん :02/03/22 12:30
>23 アキレスとカメみたいなものですか?
>>26 そうかもね
いまいろいろ考えたけど
時間的にじゃなくて物理的にそうかもね
ふしぎ☆
きにしないでよろしい。
30 :
考える名無しさん :02/03/23 02:29
観測問題がある以上、世界が決定的であるか否かの言明は しちゃダメなんだろうけど、こんな空想は無意味なんだろ うけど、われわれよりも少しだけ観察力・認識力に長けた 存在にとっては「粒子」の振る舞いは決定的なんじゃない だろうか? 俺はそう思ってる。ゆえに世界は決定的だと思う。
>>26 やっぱり時間もそうかもね
そのほうがなんかいいし
意志を計算することなんかできないのよ
アキレスとカメのようになるのよ
運命は占うけど
意志は占わないし
きっと運命を持つ自由意志なんだ
そのほうがなんかいいでしょ☆
>>31 なんでこの問題でアキレス&カメがでてくるんだYO!
世界はきっと離散的なんだよ。それで解決。
俺は世界が決定的でないと気持ち悪いんだYO!
なんとかしてくれYO!
くそーsageちゃったYO! ageとくから誰か俺を救ってくれYO!
34 :
考える名無しさん :02/03/24 20:16
あの子に顔射する自由くらいあるだろ。 無責任が科学的実証によって寛容されるなんて夢の話しだな 親父狩りをする奴もそういうロボットといことですね
決定論は正しいと思うが、皆完璧に未来を予測できないので、 そこに自由意思という考えが出てくると思う。
36 :
考える名無しさん :02/03/24 20:55
>>35 予測できないから自分の意思で行動するには変わりない
でもそれは自由意思とは呼べないんじゃない?
37 :
something like that :02/03/25 11:05
時代の空気によって全ては決まってゆくので自由意志はないと思う。自分の意志で人は生まれてきたのか確証できない、<範疇外のこと>というのもある。 20の”決定内容の全貌”をいいかえるとそれは”シナリオ”のことであり、その台本に従い我々は生まれてから死ぬまで演じ続ける演者ということ。
素粒子にさえ自由意思があるかもしれない
>>38 わたしもそう思う
物理的機能の限界が
逸脱を許さないだけ
私達は精神ではなく
人間だから
運命を持つ自由意志
夢見る歯車☆
40 :
考える名無しさん :02/03/25 16:35
時間のある世界に認識など必要ない。 食って寝てやっとけば万事成功!
41 :
( ´∀`)さん :02/03/25 20:03
パスカルに従うならば、天使と動物の中間に来るのが人間です。
そして、天使は精神はあるが肉体はなく、動物は精神はなく肉体はある
存在です。天使については稲垣良典やモーティマー・J・アドラーの
天使論でも読んでください。
で、人間は両者の中間にいるわけです。
>>10 神秘主義者にひとくくりするとは、懐疑的精神の乏しい人ですね。
43 :
楽に行こうや :02/03/25 21:31
とんだお笑いだな、お前らは昆虫の羽根や足をむしりとっていって最後に現れる昆虫の死を 恐れているようなものだな。おまえらの見ている世界は文化とともに作り上げてきた世界なのに その中に生まれた世界観が、なぜ生まれたかも考えずに言うことも聞かず 世界を包む布を取り去ろうと努力している そこにあらわにされた世界の骨組みを見ていまさら死の恐怖におびえているとは お前らのその無機質な世界で人ひとりでも救えるのか?
おれ、哲学とか知らない(今日、なんとなくこの板をはじめて見た)んだけど、 おれもこう考えていた。 脳は物理法則に従う。だから、自由意志はあるが、それは電気や物質に物理的 な反応によるもの。だから、未来も決まっていると考えていた。 こういう考え方は異端なのでしょうか?
45 :
考える名無しさん :02/03/25 23:14
あげ
46 :
( ´∀`)さん :02/03/25 23:23
>>44 君の考えが異端かどうか以前に、哲学する方法を学んでから来たまえ。
異端以前に短絡的な論だと言っておこう。ところで、君の考えを
異端とするなら、正統があるはずだが、それは誰が決定したのだ?
異端じゃないよ。正論だよ。 いろいろややこしいこと言う物理学者もいるが、みんな心の中では 決定論を支持してるんだよ。きっと。
48 :
( ´∀`)さん :02/03/25 23:32
>>47 哲学板なのに哲学的ではないですね。最後に「きっと」と
つけている辺りが特に。あと、迂闊に「みんな」と使わない方が
いいですよ。揚げ足取りでもなく、「みんな」とは誰か?という
質問が出るのが哲学なのです。
さすが、哲学板。細かいところ突っ込まれますね。 私はこう考えますが。突っ込みどころ満載な厨な意見かもしれんけど。 コンピュータの人工知能に興味があり、プログラミングなどを学んでいたため こういう考えを持っています。 人間の思考や自分自身の認識が脳の神経細胞を走る電気信号ならば、 ある問題に対する選択は、過去の経験とデータベースの中から選択 される。 選択による自由な意思でさえ、脳の神経網での物質の振る舞いであり、 ある問題に対する答えを決定するルーチンは決定していると。 意思以外の物体は物理法則に従う。↑の意思が脳内での物質のふるまい という仮定が正しければ、未来はすでに決定されている。すべては物理 法則にしたがっている。 この世界の外に超高速な計算機があり、私たちの住む世界の物質ひとつ ひとつをエミュレーションすることができれば、時間軸を進めて未来を 知ることができると。
>>30 決定論というのですね。私が高校生の時になんとなく意識したこと
なのですが、同じように考えている方がいるんですね。
>>49 その計算機は、計算機によって未来を知った人間の行動までも
計算しなければならないのでムリですね。
問題は、意識や意思が物質の振る舞いなのかどうか?という部分ではあるんですが
>>51 ですので、「この世界の外に」とは、まったくの別世界という仮定です。
計算した結果を反映できない別世界に超高速の計算機を置ければ‥という
仮定でです。
54 :
考える名無しさん :02/03/26 00:00
自由意志などなくて結構 強い者の勝ち。誰にも見つからないで奴を殺し埋める。 勝者は君だ
20でいったことを理解してくれてるのは、あちょーさんだけみたいだな。 科学のように主観から無関係の客観を想定して考えるのが無理。(だから量子力学よりも社会学の方が比喩としては良い) 無因論も宿命論も世界と自己との関係を全く無関係な二つの実体のように捉えるところから始まる。 世界内在性についての比喩なら量子力学の観察問題よりも社会学の観察問題の方が良い気がするけど。
自由意志についてですが思考が物質の振る舞いなら、”自由な”意思ですら すでに決定されていると思いますが、でも、その意思は当人にとって自由だ とも思います。
57 :
考える名無しさん :02/03/26 00:06
>>49 コンピュータは文脈を理解できません。
知ってる?フレーム問題って言うらしいんだけど。
>>57 フレーム問題というのは知りませんが、文脈を理解できないのは知っています。
しかし、コンピュータの計算というのは、人間の意志のシミュレートではなくて、
あくまで物質の振る舞いのエミュレーションを考えていますので。
たとえば、数万個程度の簡単な物質の振る舞いを計算することはできます。
もし、この世界中のすべての物質の重力・斥力・質量やエネルギーなどを
すべて計算できれば、脳内の電気信号などもコンピュータで真似できる
と考えています。
59 :
考える名無しさん :02/03/26 00:19
>>58 その電気信号の意味を特定できなければ意味なくない?
それに情報理論や科学その他って対象が人間の方にシフトしてるんじゃないのかな?
それともすでに不可能なものとしてあきらめられてるのか。
哲学初心者が言うのも悪いですが、20さんの考え方って屁理屈に 思えてしまいます。 >認識の段階では決定的にしか考えられない、というのは、「全ては決定されていない」と考えた場合、 >決定されていないことが決定していると考えることになってしまうから これは、つまり決定されていないということではないのでしょうか? 「決定されていないことが決定されている」=決定されていない ではおかしいのでしょうか?煽りじゃないですよ。ごめんなさい。
58の書いていることは、 この世界とは別の時空間に、我々の住んでいる世界のすべての物質の 現在位置と初速とベクトルを入力すれば、後は時間軸を進めればこの 世界を同じ結果になるのかどうか?ということです。 物体は問題ないですが、意思を持つ生物の意思を計算できるのかどうか?
「すべてが決定されていない」という「ひとつが決定されている」 なら大丈夫では?
決定論と物質法則を念頭に置くのが誤り。 物質は未来へのベクトルなぞ持たない。 今、ひたすら回ってるだけ。 確かに人間は物質で構成され電気刺激で思考するけど、 通常の物質の挙動から察すれば無駄が多すぎるわけ。 物質は楽な方楽な方へ動く。まあ安定性とか。 そのくせ人間は目の前の即席麺より美味しい物を 食べにいったりする。無駄な動きばかり。 無駄=自由意志でイイ! 決定論なんて何が決めるわけ?主体が無いだろ。 物質は何もきめないよ。 ロボットがプログラム以外の動きを見せた時 人間臭さを感じることは無い? 逆に善人が決定論に従う物質の固まりに見えることない? 非効率的なバグなんだよ。物質から構成される意志は。
64 :
考える名無しさん :02/03/26 00:27
完全に計算し尽くせるっていうのが幻想なんだよ。 未来に凄い計算機があって、全て計算させようとするとする。 全てを計算し尽くすために、まず自己以外を全て計算できたとしても、 計算しているその自己についても当然その計算の中に含めねばならないから、 それについても計算しようとする、だがここで矛盾が発生する、 進行形で計算していることを更に計算しなければならず 無限に計算を反復せねばならず、何処まで言っても答えを提出できない。 結局自分が世界から独立してないから不可能だ。
>>60 相対主義のスレに
そんなこと少し
書かれてた☆
すべての物質はベクトルを持っていますよ。 無駄=自由意志だとしても、その自由意志ですら物質のふるまいならどうでしょう? ロボットがプログラム意外の動きを見せることはありません。すべてプログラムに 書いたとおりに動きます。人工知能AIは人間の書いたプログラムに随時データベース が追加されるため、生物くさいですが、すべて書いたプログラムとおりに動いていますよ。
>>64 じゃないんです。計算できなくてもいいんです。何度も書いていますが、
我々の世界とは別の系の、計算結果を我々の世界に反映できない世界で
の計算機です。我々の世界の計算機ではありません。
それから、問題の本質は「物体及び意思は物質の振る舞いなのか?」と
いうところです。計算できなくてもかまいません。
また、計算結果が我々の系に反映される計算結果は意味をもちません。
問題は、すべてが物理法則に基づいているのかどうか?というところです。
69 :
44(哲学初心者) :02/03/26 00:37
つまるところ、唯物論か観念論か?ということでしょうか?
持ってるのは運動のベクトルだろ。未来はない。 どこかへ向かう可能性すら、消える想定である未来へのベクトルは無い。 通り道だよ。いくつもの刺激通過過程があるのに、 無駄に動くようにし組まれてる部分がメタなバグなんだよ。 別に物質がこうこう動くプロセスじゃ無くて、 こうこう動くシステムは物質法則じゃ作れない。 むしろ法則と呼んでいるそのものが意志に置き換わる寸法。 プログラム通りに発生するバグなど、それを意図してやらない限り つまり別問題にしてやらない限り無い。
>これは、つまり決定されていないということではないのでしょうか?
「決定されていないことが決定されている」=決定されていない
ではおかしいのでしょうか?煽りじゃないですよ。ごめんなさい。
認識が「全てを疑ったとき疑ってることを疑えない」という
デカルト、その応用である現象学的な考え方を少し使っただけ。
全ては相対的だといったとき、そのことを絶対化してる矛盾と同じで、
認識のある瞬間を考えるとき特定の認識対象を持たないことは
ありえない(志向性)ということからの応用。
客観世界の実相が決定的かどうかを問題にしてるのではなくて、
より厳密に認識の段階を問題にしてる。
>>68 、69
>唯物論か観念論か?
という対立軸自体が問題と思う。
認識主体と認識対象がバラバラにあって、どちらかをどちらかに還元しようとする考え方、
二元論的に考えてるところに問題があるように思う。
主観は己の外に出られないのにどうやって客観に的中することを問えるか?という基礎的な問題。
極端に例としては、「眼は自分自身を見れないのに、(鏡に映せば見れるというのは
答えにならない、鏡の映像が見えているだけだから)自分自身を見れない「もの」が「対象」を見れるのか?」
ということ。例えば「木を見る」という場合、認識主体である私(眼)は認識対象である木を見ると普通は考えるよね。しかし、存在するのは本当は「木だけ」であって、認識主体と認識対象を完全に分かつ(実体化する)のは
問題があるんだよ。要素還元論的な考え方が批判されて現象学の影響を受けた
複雑系科学が注目されるのはるのは、この辺りからだと思う。
>>44 に「先に哲学する方法を学べ」とケチをつける奴がいたが、
>>44 に書いてあること自体は、古典的な哲学者の多くが主張している。
現在でも支持者は少なくない。異端ではないので安心しなさい。
補足 眼は自己を見れないのに、“自己”の「外にある」自己と無関係な独立自存の“対象”を どうして見れるのか? 自己と対象を完全に分かつという考え方が無理。 「木だけ」というは、認識主体と認識対象に分かったときの認識対象の「木」という意味ではないよ。 認識している行為から無関係に認識対象があるという考え方の 延長上に、世界から独立の視点(神の眼)から世界を眺められるはずだという考え方が生まれる。 だから主観と客観を実体視する考え方と、自由の問題は極めて関係があるんだ。
では、本題の未来は決定しているのでしょうか? 計算できなくても、私たちの予想ができなくてもかまいません。
20でもいったけれど世界の実相、つまり客観的に決定されているかどうかは問いようがない。 まずは『「複雑系」とは何か』講談社現代新書 『生命論パラダイムの時代』レグルス文庫 この辺りをあたってみると良いと思うよ。新書系だから読めると思う。
複雑系ですか。おもしろそうですね。ぜひ読んでみたいと思います。 もう少し勉強してから、また、書き込みしにきます。 いや〜、初めてここの板来ましたけど、こういうこと考えるのって 楽しいですね。
>>76 複雑系?だまされちゃだめだよ。
カオスったって結局非線形の方程式だからな。
根本を見つめるあなたは正しいんだよ。
人間を含めこの世にあるものは粒子とエネルギーでもって構成
され振る舞ってるんだよ。そしてそれは唯一の法則で規定され
る。ブレることのない美しい法則でね。そしてそれはわれわれ
には決して知ることはできないんだけどね。
法則ってのは形をつくってて、それに限られてるからその中での自由ってとこになるのかもね。 自由って概念はそれを制限するような対立項があるだろうし 決定してるなら、それ以外のものはどうなんの? とりうる可能性のある範囲での自由だね 決定っていう概念が変なんじゃないのかな。 時間が絡んでくるよな
世界の 多様性 そのものが 自由を 示唆している☆
80 :
考える名無しさん :02/03/26 15:12
全く関連性が無いものなどこの世界に無いのだから 内外からの影響を受けない環境など存在しないだろう。 影響を受けたその時点ですでに「自由がない」と判断するのか? 人間的状態に拘束されている我々には自由が無いとでも言いたいのか?
81 :
考える名無しさん :02/03/26 22:43
例えば君はさっき、腹が減り、何か食おうと思って、様々な料理を思い浮かべ、 結局親子丼を食べた。子供が親に強制されていやいやにんじんを食べるのと比べる なら、それは自由意志による選択(自発的な選択)にもとづくものといえる。 しかし自発的・自立的・能動的に選択したと意識する場合でも、よく考えてみると、 つねに他律的・受動的な過程が先行していないだろうか。ふりかえってみよ。まず 君の脳裏にはカレーのイメージと親子丼のイメージが思い浮かんだ。思い浮かべた のではない。思い浮かんだのだ。 「しかし俺が後者を選んだのだ。俺の自発的な選択だ」と君はいうかもしれない。 しかしなぜ親子丼だったのだ? 君は総合的な判断として後者により多くの魅力を 感じたから、後者を選んだのだろう?「魅力を感じる(feel)」ということは 完全に受動的な事態である。 たしかに君は最後の最後には、「親子丼にしよう」と「みずから決意した」と いえそうではある。しかし、「親子丼にしようと決意する」といえば能動的行為 に聞こえるが、「親子丼にしようという気になる」事と一体どうちがうのだ? そもそも親子丼を食べようと決意した時、君は誘惑に負けたのだ。親子丼を 食べたいという欲望が他者に由来するという事実も考えてみよ。 親子丼をがっつく君。それは欲望の奴隷だ。主体性は、少なくともあまりない。 自由に、自分の意志で選んだという意識は錯覚である。錯覚以上のものではない。 しかしこの錯覚は不可避である。地面(地球)にすわっている人が自分は静止し ていると思うことが不可避な錯覚であることと似ている。
82 :
考える名無しさん :02/03/27 01:35
モーション全てが何者かに操られてるとでも? 拒食症の人間を薬で治した奴はいない。(ゆえに治せなければ死に至る病でもある) かかった人はみな周りの暖かい誠意ある援助のかいあって 自分の意志力を奮い立たせ回復させた者ばかりだ 彼らは何者かに操られていたのか? 何者かのおぼしめしによって快復に至ったのか?
83 :
考える名無しさん :02/03/27 01:43
縛られてるとしても 縛られているものも 縛られているのでは?
『私はやってない♪潔白だ〜♪』
思考とは物質の振る舞いなのでしょうか? 複雑系についてですが、複雑系って要素が多すぎてシミュレーションできない 分野を統計学を用いて解決しようというジャンルでしたっけ? 思考が物質のふるまいならば、未来は予測できなくてもある一点に向かって 進んでいると言えそうですね。 ところで、物理学者の間では宇宙空間は収束するのは発散しているのかが 研究されていますが、もし収束しているならば、いづれこの世界は一点に 集まってしまうのですね。
>モーション全てが何者かに操られてるとでも? 操られているのではなくて、意識とは物質の運動の結果なのかどうか?というところがポイントですよね
要は「こうでしかありえない」という命題を否定できるか否かですから、関係ない 話題は出さないでください。
89 :
考える名無しさん :02/03/27 11:04
自由意志は無いと思ってる人は非常識と呼ばれるような価値観を抱く?抱かない? 自分の場合、対人関係における愛情は消えた。 例えば愛情を引き起こす原因は相手の意思ではなく物理的な現象なのだから物理現象に愛情は湧かない。 それか、生命を持たない物理現象にも愛情を持つようになるか。
90 :
考える名無しさん :02/03/27 12:00
意識の生じるとこ全て物質の運動の結果だと思いますよ。 ある環境を作り出すことによってそこから意識なり力が生まれるはずです。 人間の命の本質は「脳」のある部分の環境によって発生していると思うので 人工的にその環境を作り出すことができれば 意志的なロボットを製造することも可能だと思います。 (ロボットにとっては幸か不幸かわかりませんが) しかし作ってしまったが最後、「手に負えない」という結果を招くかもしれません 自分で自分を改造することや、命令に容易に逆らうことも可能でしょうから。
決定論って,ヒトの意思の否定になるのだろうか?
>>89 >自由意志は無いと思ってる人は非常識と呼ばれるような価値観を抱く?抱かない?
俺は常識人です。パチンコもします。あきらめもよくない(w。
>自分の場合、対人関係における愛情は消えた。
マジデすか?スゴイね。俺は幻想とは思いつつ燃え上がってしまう。
未来については決定していると思うけど、それを知る事はできないとも思ってるから、
「どうせ決まってる事だから」とは考えない。
過去については「こうなるって決まってたんだな」とは思う。
自由意志とは、自由「感」から抽象された概念です。自分の行った行動が、 自分の自由意志によるものだと思える、ということが自由「感」を基礎付け ている。自分は右手を上げようと思ったのに、体は物理法則に従わずに 左手が上がったり、右足が上がったりすれば、その人まったく自由「感」 を感じずに、この世に自由意思などあるものか、と思うでしょう。この例 で明らかだけど、(当然ながら)、世界が一定の法則(物理、化学、生物 学的法則)に従って動いているということは、人間が自由「感」を抱く、 基礎的条件の一つです。 この他に重要な条件としては、他からの強制を感じないこと等があります が、このような条件下で、人は自由「感」を感じ、ここに後付け的に 抽象化された「自由意志」が「あるということに」なります。
94 :
(-_-)さん :02/03/29 16:27
それでは今の世界は望まれて出来たものなのだろうか?
自由意志があるの、ないの、って考えて居られる そのことを自由と呼ぶか、呼ばないか、は自由だぞよ。
96 :
考える名無しさん :02/03/30 02:03
自己に対し影響を与えている要素や事柄を完全に読みきれないから そこから自由があると想定することができるだけだろう。 たとえ自覚化できている自己へ影響を与えている要素や事柄であれ、 そもそも要素や事柄というものは、 現時点までの経験や知識に基づいて解釈された要素や事柄であって 自己へ影響を与えている客観的世界そのものを捉えているではない。 だから必然的に完全に予測することができないんだ。 そこから自由を想定可能になる。
97 :
考える名無しさん :02/03/30 02:06
自己のそれまでの知に基づいてしか判断のしようがないから以前の投稿で 自己の認識(経験や知識)から無関係の世界の想定は不可能なのだといった。 ただし不可能だといったのはこれだけが理由ではない。主な理由は上の通り。
98 :
考える名無しさん :02/03/30 02:08
だから必然性と偶然性は同居している。どちらの方向へも極端化可能なもの。
なんか「自由意志がない」にはみんなよく反応するな(w 「気持ちいいことしかしない」奴等ばかりだろうに。
一日100回セックスしたい
101 匹わんちゃん物語 ワン !
ラプラスの悪魔ですか。 なんかこのスレで議論してる何人かの人は ちゃんと哲学史を踏まえた上で発言してるのかなと思いました。 自分で考えるのも大事だけど、せっかく先人の思想という財産があるのだから、 参照してあげましょうよ。
そう思うけどね。それで済めば楽だろね
104 :
考える名無しさん :02/03/30 17:05
今、生きてる哲学者って誰よ?
選択肢を選ぶ、ではなく、それを設定すること、に自由を感じることはある また「だから」などの接続詞を使って、関係性を曲解したり断定したり 他の自由を拘束することに自由を感じることもあるが コレはたぶんネガティブな自由であろう、と。 どちらかといえば冒頭の0→1って感じの能動的な自由を探してる方が 趣味的には楽しいかも・・・
106 :
考える名無しさん :02/03/31 17:28
>89 > それか、生命を持たない物理現象にも愛情を持つようになるか。 これならポジティブでいいんじゃないですか。 あらゆるものに魂が宿っている、とか。
よくわかってないが適切な答え
>>106 命が宿っている、ってのはたぶん
同情の飛躍なんだろうが・・・
それを人の力。と断言できる
また、自然を理解する手段でもある
いつ、人類は有害な泥水にしか見えなかった石油を分留しようと思ったのだろう?
水の蒸発を知って「例えば〜」とか思ったのかもしれない
「例えば」の後に続く言葉には
自由というかなんというか・・・いつも人間を感じる
>>あいたん
ハアハアハアハアハアハア・・・。
109 :
考える名無しさん :02/04/13 06:27
>>63 >逆に善人が決定論に従う物質の固まりに見えることない?
無いぞ、ジコエンやめれ。キモ
110 :
考える名無しさん :02/04/13 06:53
自由意志はない。何故なら、本来的な自己は、認識するのみだから。
111 :
考える名無しさん :02/04/14 17:03
age
112 :
考える名無しさん :02/04/15 17:56
>>110 だから馬鹿は哲学板にくるんじゃねーっつーの
113 :
考える名無しさん :02/04/18 00:38
常々思うことだが決まっていることが大衆に受け入られたらどうなるだろう? 愛情などの感情は消えるかな?憎しみも「仕方ないんだ」って割り切っちゃう? どう思う?さほど影響はない?
受け入れられるような大衆がどんなものかってことだろ。 受け入れられて変わるようじゃ。受け入れられないんだからよ。 もしそうなるんだったら、もうかなり俺達とは違う社会だろうなあ。 愛情とかそれ以前に人間がどうやって存在しているかも 俺達にゃ想像できないような社会に違いない。
115 :
石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/04/20 00:15
kikaironage
117 :
考える名無しさん :02/05/04 07:36
おまえらバカですね
118 :
観る ◆NsuXIPsw :02/05/04 08:26
物理的に同じ状態が、精神的に同じ状態であることを示さねば、
精神活動を物理法則で縛れませんよね。
>>51 でも、読めちゃう解だって、まだ排除されていませんよね・・・
>1 夜、眠って・・・ 翌朝、目覚めるのは何故か? それに応えてみれ。 夜中に、逝ってまっても、ちっともおかしくないぞ、 君の心臓は、君が意識的に動かしているわけではない。
120 :
カン梨華 ◆RIKAwz.6 :02/05/07 19:26
防止あげ
121 :
ルサンチマンな名無し :02/05/07 20:42
世界のあり方と人間の能力では,決定論と自由意志は分けて考えたほうがいいと思います. 私が学んだあのお方(「万人の万人に対する闘争」を述べたお方)は決定論の立場をとりつつ自由はあるととんでもないことを言っていました. 親子丼を食べることはあらかじめ決定されている。 しかし,親子丼とカレーの間でどちらにしようか人間は悩む。どのように悩むかはすでに決定されているが,決定論でも悩むのです.(カレー→親子丼→カレー→やっぱり親子丼,と言うように) そして,その悩むという過程を「自由」と呼ぶのです. したがって,世界のあり方は決定論だが,人間は自由を持っているのです.(やつの理論はなんかむちゃくちゃな理論だが・・・)
122 :
考える名無しさん :02/05/07 20:46
>>121 悩むこと自体は「決定」されてるんじゃないの?
悩む過程の何がどう自由なのか説明がいる。
123 :
ルサンチマンな名無し :02/05/07 21:02
確かに悩むこと自体は「決定」されています。 しかしあのお方によると,「自由」と言うのは「外的障害がないこと」。 悩む過程においても,悩む過程を妨げる障害物が存在しないから,カレー→親子丼→カレー→やっぱり親子丼と悩めるから「自由」なのです. ただし,悩んでる最中に鈍器で殴られたりして悩むことを妨げられたら,自由はない,強制されている,と言うのです.
124 :
考える名無しさん :02/05/07 21:05
>>123 上の方からずっと議論されてる「決定論的」というのは、
脳ミソの中も自然法則で動いていれば、
思考は「決定論的」ってことなんじゃない?
もちろん、思考が脳の産物であればの話だけど(さすがにここを疑ったらオシマイ)。
125 :
考える名無しさん :02/05/07 21:07
126 :
ルサンチマンな名無し :02/05/07 21:19
>>124 >上の方からずっと議論されてる「決定論的」というのは、
>脳ミソの中も自然法則で動いていれば、
>思考は「決定論的」ってことなんじゃない?
確かにそのとおりです。
ただし,決定論には二つあって,目的論的決定論と作用因的決定論の二つがあることを注意すべきです.
今論じているのは作用因的決定論のほうで,目的論的決定論は「善き」秩序のためにとか,神の善いと思うようにとか,というように目的が決定されていて,その目的のために人は行為する,と言うものです.(中世のキリスト教父が議論していた)
127 :
考える名無しさん :02/05/07 21:22
脳が物理法則に従っても、精神が物理法則に 従うとは限らない。 物理法則は再現可能な統計的事実。 精神が物理現象から生まれるとするなら、それは しばしば一度限りの偶然の産物。
128 :
アウグスティヌス :02/05/07 21:25
>>1 〜
>>1000 一体、どこからその話が・・
その基となっている文献をあげてください、神よ。
数学は、真理のみならず美も備えている。彫刻のように冷たく 質素な美を。 バートランドラッセル
130 :
考える名無しさん :02/05/07 21:34
>>126 脳の中は作用因的決定論のお話じゃないの?
131 :
ルサンチマンな名無し :02/05/07 21:34
>>128 面白い文献としてはトマスホッブズの『自由と必然』を挙げます.
ホッブズと坊主のブラムホールの論争だが,ちぐはぐな水掛け論で面白い。
132 :
ルサンチマンな名無し :02/05/07 21:38
>>126 訂正,中世のキリスト教父よりはストア派のほうが有名でした。
133 :
考える名無しさん :02/05/08 01:26
>>10 >肉体を伴わない精神は存在しないが精神を伴わない肉体は存在する。
どうやって精神の在・不在を確かめたのか教えて欲しいです
134 :
考える名無しさん :02/05/08 02:14
>>1 物理の法則は古典的な意味では決定論ではなくなってきている。 たとえば統計熱力学とか。 哲学しか知らん人だったら 「物理法則=決定論」っていう ニュートン力学みたいな考え方でもしかたがないとはおもうが、 その前提が間違っている。 脳や心の基礎が物質なのは当然だけれど だからといって自由意志がない、 と自動的に結論できるわけではない。 物理勉強してから「物理法則」とかいいましょうね。
135 :
考える名無しさん :02/05/08 04:29
>>1 >人間の脳は物体、物質であり、物理法則に従う。
>したがって、自由意志はない。
すでに十分議論された意見かもしれませんが、っていうか
>>134 さんともかぶってますが、
↑の
>>1 には
明らかな論理の飛躍がありますよね。
全ての物体の運動が先々まで決定されたものでないならば
たとえ意識がモノの働きに依存するとしても
自由意思がない事にはならないですよね。
ともかく意思による選択・決定・努力などが
結果に影響を及ぼしているように見える限り
個々人が自分の意思に責任を持たなければならない事に変わりない。
>>1 とは違うけど。。
たとえばある程度以上オシャレな人でも、
洋服の流行を気にしないというような事を言う人がいるけど、
「現在流通してる服の中から」「似合うと思う」服を選んでいるという事は、
どのような人にどのような服が似合うのか?という感覚も
流通している情報に左右されるものだし、
結局今現在の主流の流れ、流行に左右されているんだよね。
そういう事を考えていくと、
ある程度選択の自由があるにせよ完全にオリジナルな発想とかいうものは
存在しないのかなと思う。
ある情報が入ってきたときのそれまでの知識との関連性による理解とか、
その後の忘却とか、ほかの知識との結びつきとかによる
バグとか情報の劣化と言ってもいいような部分がオリジナルな意思が
生まれる余地なのだろうかと思う。
決定されているわけではないけれど、完全に自由でもない という状態を考えればいいんじゃないか。 例えば水の流れを考えたときに、 流れがどのようであるか、という可能性はいくらでも開かれている。 すなわち自由である。 しかしながら現実に水のその自由に開かれた流れを 議論するためにはまず水が存在することが必要で、 物質として不可能な状態もあるわけです。 水に油のような挙動をしろと操作しても限界がある。 その意味では不自由。 行為としての自由と存在としての自由、とでもいえばいいのか。 このあたりは解剖しながら議論しなくてはいけない。 一方で>135さんみたいに、 事実上私と世界の因果関係を感じながら次の一歩を選びながら 生活しているわけで、この事実を抽象的に排除して現実の生活をしたら 犯罪者か基地外になるわけです。 ただしこれは議論の階層が違うので、 一緒くたにしてはいけない。 抽象的な議論はそれでいいのだと思います。 だから形而上なわけで。
138 :
ルサンチマンな名無し :02/05/08 16:55
>134 自由意志を認める議論というのは論理的に問題が生じてしまいます。 人間の行為が何の原因にも左右されず自由だったら、「無から有が生じる」ことを認めなければなりません だからといって人間の行為に先立つ原因を認めたうえで自由意志があることを認めようとしたら(原因→自由意志→行為)、自由意志がどのように行為に影響を与えたかを説明しなくてはならず、議論は苦しくなります。 一番楽な・説得力のある議論は「決定論」でしょう
139 :
ルサンチマンな名無し :02/05/08 19:21
>137 137の議論はストア哲学者の議論です。 彼らは決定論の中に自由意思を認めようとした。 世界が秩序にしたがって存在している上で,人間はその秩序を認識して,その秩序に則って生きなければならない。 「秩序に則って」という部分に人間の限定された自由がある。 でもこの議論はいろいろ問題がありそうです。
140 :
考える名無しさん :02/05/08 21:37
>138 哲学のいろいろな考え方に詳しいようなので、 良い機会だと思っていろいろうかがいますね。 (荒らされるのであげないほうがいいとおもいます) 原因のないことが自由の定義であるが、 原因のないところに意志を生じさせるのは無理だ、ということでしょうか。 私もそう思います。 例えばそこまで突き詰めなくても、意志が自由であるとしたら 死んだり生き返ったり自由にできる、ということになりますよね。 (「無から有が生じる」のいいかえになります) 逆に決定論は因果関係を重視するわけです。 現象Aと現象Bの間を原因と結果の玉突きとして考える。 しかし現象Aから現象B’現象B''、、(まとめて有限の事象B)が起きる可能性があるとき、 実際に事象Bのうちなにが起こるかはわからない。実際の物理現象はそんな風になっています。 だとしたらこれは決定論ではないのではないか。そんな風に思うわけです。 実際に自由意志を仮定することとは(「無から有が生じる」ほどではなく) 、上の段では有限の事象Bとした結果が無限にある ということを仮定することではないでしょうか。 私はこの意味で決定論を排除しつつ しかしそんなに自由でもない、と思うのです。 >139 世界の秩序にしたがって、という表現だとどうも固定した法則 を思い浮かべてしまいます。 世界は有限である、といういいかたではどうでしょうか。 世界は有限だから人間の自由は限定されている。 しかしその有限な中では自由に行為することができる。 これもやはりストア派的でしょうか。 だとしたらオススメの本ありますか。 興味あります。
142 :
ルサンチマンな名無し :02/05/08 22:24
>140 脳の中のは作用因的決定論になります。 刺激によって脳内で行為が決定される。そのとおりです。 出来事にたいする情報を感覚神経を通して脳内に通して,それを運動神経によって筋肉を動かす・・・。 人間の身体のメカニズムはよくわかりません とにかくそんな感じでしょうか。
143 :
ルサンチマンな名無し :02/05/08 23:26
>しかし現象Aから現象B’現象B''、、(まとめて有限の事象B)が起きる可能性があるとき、 >実際に事象Bのうちなにが起こるかはわからない。実際の物理現象はそんな風になっていま >す。だとしたらこれは決定論ではないのではないか。そんな風に思うわけです。 この問題について,現象Aは果たして現象B’現象B”、、を生み出す可能性があるのか? 実は突き詰めて考えたら,現象B’を生み出した原因は現象Aによく似た現象A’かも知れま せん。実際の物理現象においても,実は我々の認識能力が未熟なゆえに、現象Aと現象A’ が同じであると勘違いをして,現象Aは現象B’と現象B”のどちらかを生むのだ,とも言えます。 人間の行為についても,現象A→自由意志→現象B’or現象B”だという主張も同様に,現象A は現象B’しか生み出さないのにもかかわらず,われわれはよく似た現象A’→現象B"という過 程をすでに知っていたがために,勘違いをして,現象Aから自由意志によって現象B"を生み出 した,といっているのかもしれません。 これについてはスピノザの『エチカ』第一部付録を参照したらいいでしょう。 >世界の秩序にしたがって、という表現だとどうも固定した法則 >を思い浮かべてしまいます。 >世界は有限である、といういいかたではどうでしょうか。 これについては,ストア派は世界の秩序=固定した法則なのです。 世界大百科事典によればストア派の説明は次のように書かれています。 >ストア学派の思想によれば,あらゆる認識の基礎をなすのは感覚である。世界は感覚的 >認識の総体であり,それゆえ物質的存在である。しかしその中には物質に還元できない >英知が宿っており,それが物質世界に一定の秩序を与えている。この事物を秩序立てる >力を〈神的火〉,または〈運命〉と呼ぶ。人間は内在する英知を自覚することによって,世界 >という秩序(コスモス kosmos)を認識しなければならない。人生の目的は,この自然の秩序 >にのっとって生きることであり,それが最大の幸福をもたらす。 なぜ、ストア派は決定論と自由を両立させているのか?というと,ストア派の決定論は目的論 的決定論だからです。ストア派のリプシウスの議論は,「全てのものは第一原因(神)に関して 必然的,第二原因に関しては全てのものが必然的であると言えない。」人間の自由はこのよう にして保持されているのです。 ストア派に関する直接的な文献は正直言ってわかりません。私はホッブズの『自由と必然』と いう書簡からかじっただけです。
>143 前半 なるほど、もっともな指摘です。 この問題を「現象設定の解像度問題」と名づけておきます。 この点に関してもうすこし考えますね。
>143後半 第一原因と第二原因を考えるところに、まさに今の科学の源流を 見る思いがします。神を科学的な原理に入れ替えればよいわけで。 とはいえ世界の秩序を固定した法則と捉える ところに今の科学との違和感を感じます。秩序というのはいってみれば システムをスタティックに構成する際のルールといえると思いますが 物質自体、固定した構造ではない。常にダイナミックに運動や反応を 繰り返している。 こうした運動や反応を平均化して境界を観察者の立場からあたえて 静止したとても固い物質の構成を想定しているのが古典的な 物理学です。この観察者による想像上の物質は、境界が存在するから 性質がある。その性質から演繹されるシステムはやはり固くて静止している。 途中ですがこのまま書くと支離滅裂になりそうなので、 続きをもう少し考えてから書きます。
145の続きをかきます。 静止した物質(決定された秩序・運命)に対して 実際の世界はそんなに決定していない。 毎年の季節の移り変わりを見ても、春分の日にはかならず温度が25度である、 というようなことはありえないわけです。惑星の運行にしても、 理論的な計算からずれる。 つまり、自然界の秩序は、おおまかな秩序でだいたいあっている、 程度の話なのです。神がリゴラスに設定した、というほど 美しい世界ではない。 これが違和感の源です。 実際に物質的な基礎を考えると、繰り返しになりますが、 「だいたいこんな感じである」というのが本当のところです。 物質的な基礎の現在の理解は確率的な認識を基盤にしている。 こうした物質像から構成される世界は、静止した秩序とは 相容れず、大体こんなかんじ、の自然のあり方により合っている。 多分ストア派と違うのはこの点だと思います。
147 :
ルサンチマンな名無し :02/05/09 12:05
>134 少し議論を進めてみたいのであなたの考えを正当化してみようと思います。 そうしたら,正当化する過程で乗り越えられない「何か」が見出されるでしょう。
148 :
ルサンチマンな名無し :02/05/09 12:15
>134 これまでの議論を整理すると、134の考えは「大まかな秩序の中で制限された自由がある」というものだと思います。 常識的に考えると、「石が次の瞬間人間に変わる」というような突拍子もない因果連鎖は起きない。その点では大まかな秩序が維持されている。 しかし、「石が割れる」ということを考えたとき、二つに割れるか、三つに割れるか・・・という点では自由を保持したい,確率的なものだ,ということでしょうか?
149 :
ルサンチマンな名無し :02/05/09 12:39
>134 134の考えを正当化するためには、どうやら「現象設定の解像度問題」は避けては通れない問題です。 AはA'でもA”でもない、Aであることを人間が完璧に認識できるということが保証されなければ、134の考えは正当化できないように思われます。 正当化できたら、A→B’∨B”はありえる。
150 :
考える名無しさん :02/05/09 13:43
たとえ世界が決定論的に振舞か否かがわかったとしても どうしようもない。なんの価値観の転換も起きない。 問い自体がナンセンスなのではないでしょうか。 個人的には世界は決定論的に振舞っていると考えています。 過去は常に一つであるからです。 (過去が常に一つと言うのも異論があるでしょうが...) 我々が「自由意志」と呼称するものは決定論的に振舞っていると思います。 矛盾しないでしょう。
151 :
ルサンチマンな名無し :02/05/09 13:53
>150 そーんなニヒリズムみたいなことを言ってしまったら困っちゃう。 「自由意志」は人間の願望だよ。 それを否定されてしまったら、「明日パチンコに行っても負けてしまう」ことが必然になって、人生がつまらなくなっちゃうじゃないか。 ただし、「自由意志論」はどんなに議論しても問題が出そうだがね。
152 :
考える名無しさん :02/05/09 18:35
153 :
考える名無しさん :02/05/09 19:08
>>138 >人間の行為が何の原因にも左右されず自由だったら、「無から有が生じる」ことを認めなければなりません
カントの第3アンチノミーのテーゼで似たようなこと言ってませんでした?
>だからといって人間の行為に先立つ原因を認めたうえで自由意志があることを認めようとしたら(原因→自由意志→行為)、自由意志がどのように行為に影響を与えたかを説明しなくてはならず、議論は苦しくなります。
自然による原因、自由意志による原因、結果としての行為の関係は、
カントやら中島義道やらが躍起になって説明してるけど、それはどうでしょう?
>>141 >私はこの意味で決定論を排除しつつ
>しかしそんなに自由でもない、と思うのです。
ほんの少しでも自由を認めてしまえば、物理法則は総崩れだと思います。
>>134 氏
飛ばし読みなので読み間違ってたら指摘して頂きたいが、
決定論とは、
>>134 氏が考えているようなものではなく、
「時間にそって現象が一通りに決まる」というものではないの?
人間がそれを法則化できるかどうかではなく、
結局一通りとなる、というのがエッセンスだと思うのだが。
たとえば、確率に関しても、確率で石の割れ方が変動するにしても、
現象の可能性を1つに決定した何かがあるわけではない。
つまり、何らか自体によってが石の割れ方が決まったわけではない(自体によって=理論上の自由)。
時間の流れに沿って考えると、一通りであるわけだから。
水の状態を何通りでも想定できることは、水の状態の自由を保証するものではありえないんじゃない?
いくら想定できたとしても、具体的な各々の水を時間に沿って見れば、状態は確実に一通りであるから。
154 :
ルサンチマンな名無し改めルサンチマン伊藤 :02/05/09 20:56
>>152 改めて私の立場を明らかにしたいが,私は作用因的決定論者です.
目的論的決定論について述べた意図は決定論を作用因と目的論で混同しないためです.
155 :
ルサンチマンな名無し改めルサンチマン伊藤 :02/05/09 21:47
>>153 別のスレでカントの第三アンチノミーについて言っていたが良くわからなかった.(カント嫌い)
ただ,カント以前に,ホッブズもまた『自由と必然』において自由意志のこの問題について示唆していた.
>自然による原因、自由意志による原因、結果としての行為の関係は、
>カントやら中島義道やらが躍起になって説明してるけど、それはどうでしょう?
このへんについてはもう少し説明をお願いします.
難しい哲学の理屈はわかりませんが、
>>149 のルサンチマンな名無しさんのおっしゃることはあべこべな気がします。
人間の世界認識が非常にいいかげんなものだからこそ、
同一の刺激に対する反応にも幅が生じ、
それを意思と言うんだと思いますが??
157 :
考える名無しさん :02/05/09 23:04
>>151 >「明日パチンコに行っても負けてしまう」ことが必然になって
たとえ決定論的に世界が振舞っていても、
我々は未来を知りえないのだから
スリルをもってゲームに勝負できると思います。
>148 (ルサンチマン伊藤氏) 石が割れる場面の比喩でよいと思います。 割れ方は決定されていない。大体こんな感じ、 というような結果の収束の仕方です。 だから破壊力学はとても難しい。 このことに関して150氏と153氏(同じ方でしょうか)が、 事態が生じたあとから見たら、起きた事態はひとつしかない、 これは事態が決定されているということではないか、 と疑問を提しています。 結果から過去を眺めたときに事態が決定されていることはその通りです。 過去はひとつしかない。 しかし、それはその事態が既に決定されていたということではないと思います。 今という時点で目の前に石がある。 この石は2つに割れるかもしれないし、3つに割れるかもしれない。 脳は物質から構成されている、他にはありえないと私は考えます。 そこでこの石の比喩、割れ方の可能性が開かれている部分を自由と私は考えます。
159 :
ルサンチマンな名無し改めルサンチマン伊藤 :02/05/10 00:45
>>156 自由意志を認めるには,まず,AがBやB’やB”といった複数の結果を生じる可能性があることを認めなければなりません。
ここでもし人間の世界認識がいいかげんだったら「現象設定の解像度問題」ではねられます.
あなたがAだと思っている出来事は本当にAなのか?A’またはA”ではないのか?このように反論されるのです.
では人間の世界認識が非常にいいかげんなものであることを認め,同一の刺激に対する反応にも幅が生じることを認めましょう.(A→自由意志→B∪C∪D)
しかしこのときこの「私」は果たしてAをAとして認識していたのでしょうか?
AをA’またはA”として認識していたのではないでしょうか?
したがって,実際にはA’と認識してCと行為する,またはA”と認識してDと行為する,という決定論は保持されるのです.
160 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/10 00:53
>>157 そうかなー?たしかに未来はわからないがすでに決定されていることはわかるからそれだけでも嫌になるよ.
「パチンコに勝てば自由意志,負ければ決定論」
161 :
いまさらだが :02/05/10 00:55
>149 現象設定の解像度問題に関してA(ルサンチマン伊藤氏への応答) つらつらと原因Aの解像度に関して考えていました。 次のような考えにまとまりました。 昔大学などでよく跋扈していた「原理」サークルの勧誘などで使われていた 理屈から始めます。 物質とその構成要素を考えてみます。たとえば蛋白質。 蛋白質は分子が構成要素です。 分子の構成要素は原子です。 原子の構成要素は陽子や電子です。 といように物質の構成要素をたどっていくといくらでもミクロになっていく。 じゃあ究極の構成要素は一体なんであるのか? 究極の構成要素が究極であることをいかにして証明できるのか? 科学にはその証明をすることができない。 だから科学では世界を説明できない というような理屈で「原理」サークルは勧誘していました。
>149 現象設定の解像度問題に関してB(ルサンチマン伊藤氏への応答) この理屈と科学的な認識の違いは次のようにいえると思います。 自然界は階層になっていて、ミクロからマクロ、現象の規模はさまざまです。 科学は、マクロの現象を、ミクロな現象の組み合わせで説明する、という行為です。 これを還元主義ともいいます。 このときに、ミクロが究極の根本現象である必要はない。 社会集団の行動を、原子から説明しようとする科学者はいない。階層が離れすぎていて ミクロとマクロを関係付けることができないからです。 人間の行動から社会集団の行動を説明することはまだ可能です。 人間にはもっとミクロな構成要素(器官、組織、細胞、、、)があるのは当然です。 しかし、あえて人間を原因として社会集団を結果として説明する。 人間、という階層を抜き出して、ひとつのまとまりとしてかんがえるわけです。 人間という階層のレベルがミクロとして設定される。 したがって構成要素はかならずしも究極の分割不可能な因子である必要はない。 ミクロとマクロの関係を結びつけることができれば、どの階層をとりだしてもいいのです。
>149 現象設定の解像度問題に関してc(ルサンチマン伊藤氏への応答) 原因Aに戻りましょう。私達が分解不可能と考えている原因Aが実は構成原因A’、構成原因A’’ 構成原因A’’’などから構成されていて、単に我々が原因を設定する際に現象認識の解像度が 低いためにこれらの根源原因の差を認識することができない、というのが 現象設定の解像度問題でした。 我々は根源原因A’とA''の違いを認識することができない。 そもそもそのような違いがあるかどうかもわからない。 しかしこれらの根源原因は原因Aというグループに属するということはいえます。 そもそも原因A自身を我々は認識しているのだから、想像上の構成原因A’、A'’、、、は 原因Aのグループであると断言できる。 原因Aの中にさまざまな要素があるかもしれないが、原因Aの性質としてはまとまりがある。 したがって、ここで上の段で言ったことを参照にしましょう。 原因Aにはさらに究極の原因A’やA'’に分割できるかもしれない。 原因Aというグループが結果Bというグループをもたらす 因果関係があるとします。Aは変数であり、Bも変数である。 いずれの変数にもあるまとまりがあり、規定がある。 こうした状態でも、原因グループAと結果グループBの因果関係があるならば、 それはメカニズムです。 究極原因A’を知ることは決してできない。いわば判断不可能である。 したがってA’とB’という関係が決定されているかどうかも不可知です。 したがって、現象グループAと現象グループBの関係、という考え方を導入します。 そしていずれにも現象に幅がある。大体こうなっている、という幅です。 この幅が自由なのではないか。
165 :
考える名無しさん :02/05/10 01:01
>>159 えーと、ですから、Aという刺激をA’と認知したりA''と認知したりできる時点で
決定論から逃れてますってば。
決定論が正しいなら刺激Aはいつも同じモノとして受け取られないといけないのでは?
↑なんか書いてみたら「したがって」 だらけで恥ずかしいなあ。 文章の良し悪しは甘くみてください。
>>134 物理学は、自然法則の決定論的な解明を目指しているとおもう。
1さんのいう物理法則は間違いではないとおもう。
168 :
考える名無しさん :02/05/10 01:19
>>167 目指しているという事と自然が決定論的な法則を持つと言う事は全然違う。
あほ。
>165 私も賛同する指摘です。 さっき書いたことにしたがって次のように言い直してみます。 刺激Aグループ → 反応Bグループ グループというレベルでは決定しているが Bグループにバリエーションがある。 Aフループの構成要素は不可知なので、決定不可能。 (なんか無理がある言い方ですが) 話は変わりますが、 刺激Aがなくても反応Bが突如起きたりします。 神経生理学では自励発振といいます。 自励発振を心理学のレベルまで持ち上げると 「想起」になるかもしれません。 哲学的には「自由」の一部でしょう。
170 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/10 01:29
>>153 >>158 決定論と言うのは,一つの説として(ホッブズが考えているだろうと私が考える仮説),
現在から過去を眺めたときの現在の出来事と過去の原因の因果関係を認めることからはじまり,
では未来から現在を眺めたときも,現在を原因として未来の結果もすでに因果関係によって決定されているはずだ,
という推測から成り立っています.153氏の指摘もこの辺と関連があると思います.
蛇足としてもう一つ私が知っているのはスピノザの説で神(即自然)の証明から決定論を導く説です.
171 :
考える名無しさん :02/05/10 01:34
>>170 学者の名前を並べて逃げようとしてるね。
>>168 > 目指しているという事と自然が決定論的な法則を持つと言う事は全然違う。
それはそうです。
>>171 そういう意地の悪い野次馬みたいな言い方は
止めましょうね。
174 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/10 01:43
>>165 確かにこのままでは決定論から逃れてしまいますな・・・。
しかし,AをA’として,またはAをA”として認識することを認めた上で,
さらに私がいつどこにいたかどのような状態だったかによって,
AをA’として,AをA”として認識する理由を求めることは出来ます.
このようにしたら決定論は保持されるはずです.
175 :
考える名無しさん :02/05/10 01:44
>>173 挑発したら応答があるかと思ったんですけど、たしかにお行儀わるでした。
すいません。
176 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/10 01:46
>>170 ごめんなー。ちょっと僕も自分の言動に苦しくなってきたんで.
177 :
考える名無しさん :02/05/10 01:47
>>174 条件が違うのだから同一刺激とは言えません。
それは結局一つの刺激には一つの認知しかないと言っているのと同じです。
タバコを一本吸っている間に 自分の言ったことの問題点にひとつ気が付いたので 書いておきます。 実際に根源原因A’ー>グループBのうちの結果B’という ゆらぎのない関係性(決定された関係)あるということと その関係性を観察者が判断できない、 関係性が不可知であるということは別の話であり、 私の議論はこの点をあいまいにしている。 ただし関係性が不可知であるならば、 事態は決定しているかもしれないし、 そうでないかもしれない。
179 :
考える名無しさん :02/05/10 02:00
>>178 そですね。
結局、決定論的なのかどうかはわからない。
どっちともとれる。
「因果」はわかりません。「相関の高さ」は統計でわかりますけど。
理論による予言がのちに証明され。。
ってパターンも、たまたまそうだったのかどうかは知りようがないし。
180 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/10 02:02
>>178 どうやら決定論について認識論と存在論がごちゃ混ぜになっているようだが。(私もその可能性あり・・・)
181 :
考える名無しさん :02/05/10 02:10
>>158 (
>>134 氏)
>今という時点で目の前に石がある。
>この石は2つに割れるかもしれないし、3つに割れるかもしれない。
>
>脳は物質から構成されている、他にはありえないと私は考えます。
>そこでこの石の比喩、割れ方の可能性が開かれている部分を自由と私は考えます。
決定論は、単純に「幾つかある可能性を前以て1つに絞り込んでおけ」と説くものではなくて、
「幾つかある可能性のうち、1つしか起こりえない」という経験に基づき、
「世界は1通りに決定されている」と主張するものだと思います。
つまり、
>>134 氏の考えは、決定論の中に包摂されても何ら支障はないですよ。
また、石の割れ方に「自由」を見出すのは、
カント的な(って言えるほどカント知らないが)「意志の(理論的)自由」からのアナロジーじゃないですか?
現代物理学の観点からは暗黙裡に、石の割れ方の可能性は、1つ以外は排除される方向にありますし、
確率に「自由」を求めるなら、その「自由」は「何の自由」なのかを言わなければなりません。
要は、確率のランダムな可能性のなかから、石の割れ方を決定したものはいったい何なのか、を言わなければなりません
(これは「意志の自由」からのアナロジーでなければ尚更追究されなきゃならんと思われる)。
182 :
考える名無しさん :02/05/10 02:13
「世界は1通りに決定されている」→「世界は1通りに決定されていく」
>180,181 存在論としてはやはり究極因子@原理サークルについてマジメに考えてみる ということになるのだろうか。 しかしそうするとどうしても(繰り返しになりますが) 不可知であり、どうなのだかわからないです、 ということになる。 こうした不可知論(あるいは無限後退) から逃れるためにミクローマクロの階層抜き出し論を 上で導入したつもりです。 感覚としては数学的帰納法にちかい。 関係性だけ抜き出してシステムを説明する、という点で。 ただし説明が上のようだと混乱している部分がある。
>181 石=意志という指摘がとてもブリリアントですが さて、冗談抜きに >確率に「自由」を求めるなら、 >その「自由」は「何の自由」なのかを言わなければなりません これがたぶんポイントでしょう。 考えてみます。
>181 難しいので目下挫折しています。あらら。 「カント的な意志の(理論的)自由」 について知っている限りでいいですから説明お願いします。 今日はもう仕事しないといけないので、また。 ではでは。
186 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/10 02:45
>>162 >>163 >>164 134氏は「現象設定の解像度」を勘違いなされている.
私が言おうとしたのは,単に認識論の問題で,人間の認識のいいかげんさによって,人間に自由意志があると錯覚しているのではないか,と言うことです.(ただ私が143で「突き詰めて」と表現したのが誤謬の原因となっているのなら申し訳ない。)
さて,決定論と自由意志の問題は存在論で語るべきでしょう.「自由意志がある」と「自由を感じる」は分けて考えるべきです.
「自由意志」の不備については私が先ほどお答えしたとおりです.
>>143 .149.159.174参照
187 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/10 02:48
さて,そろそろ私も今日大学があるのでもう寝ます.おやすみ。
188 :
考える名無しさん :02/05/10 02:56
「自由意思があるかどうかはわからない」で決定。 人物1が条件AにおいてBという意思またはB’という意思を生じる事ができるのか、 それとも条件AにおいてBという意思を生じ、条件A’においてB’という意思を生じるのか知る手段はありません。 ただし、恣意的に「自由」とか「意思」の定義を操作する事で むりやりどちらかへ決着する事は可能でしょう。
189 :
考える名無しさん :02/05/10 03:08
一元論と捉える限り個々の人間に完全なる自由意志はないだろうね。 二元論以上と捉えるなありそうだが。 個人的には人の意志なんて決定論的であってほしいと思う。
190 :
考える名無しさん :02/05/10 03:13
>>185 カント
>>125 何の自由か、について。
(1)自然(石とそれをぶつけたものが中心)
(2)ぶつけた人(人じゃなくてもいいが)
(3)観測者(割れ方の可能性を考えた人)
(3)は論外。別に石が割れることに携わってない。
(2)は、この場合(1)の自然に含まれる。
割ることの一連の流れに携わっているだけ。
(1)によって決定されているなら、それは単なる決定論。
自由を委ねるものがないと思うが。
考えるなら意思の自由を考えた方が。
191 :
考える名無しさん :02/05/10 03:31
>>189 それってただ単に世界が決定されたものなら自由意思はないって言っているのと同じじゃないの?
用語を使えばいいってもんじゃないのよボウヤ。
192 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/10 11:14
>>188 >「自由意思があるかどうかはわからない」で決定
そんな簡単に終わらせたらつまらなくなっちゃう。
自由意志があると証明するのは、決定論であると証明するより分が悪いのです。
>人物1が条件AにおいてBという意思またはB’という意思を生じる事ができるのか
まず、BとB’が条件Aから生じることを証明しなければなりませんが、
このときAはよく似たA’でもA”でもないAであることを証明してはじめて自由意志を問う資格ができるのです。
例えるなら、宇宙に行ってもないのに「地球は青かった」なんて証言するのがおかしいようなものです。
193 :
メタリカ伊藤政則 :02/05/10 21:39
名スレ。
194 :
考える名無しさん :02/05/10 23:26
自由意志なく、その場その場の脳の現象で将来に至るのか?
今日の晩御飯何食べようかは、自由に選んだように見えて実は脳に支配されている、
(例えば)脳が欲しがる養分を含んだ食べ物を自然に選ばされているレベルなら自由意志はないでもよいと思うよ。
でも、将来何をしたいか、どう生きて、どう死にたいかも脳に支配されているの?
魂はないの?あるっていったらだめなの?
脳は魂が操るコンピューターだ、っていったら神秘主義者だと馬鹿にする?だめ?
快楽、欲望を抑えて修行したりすることは自由意志の、魂の表れではないの?
断食とかさ。そんなことしたことないけどさ。
http://www.hpfree.com/utuutu/utun.htm
物理法則をつかさどる神(仮)にとって 自由意志などという概念すら存在しないでしょう。 その概念を理解できるのは人間だけです。 では人間の立場にたって見てみましょう。 存在します。なぜなら存在すると信じるからです。
さらにこれはもっとシニカル。
「議論継続のための「擬似問題」であって、最終的な解決は原理的にあり得ない。」
そうです。
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/SYAKAI/6.html 「言説過程」
「… このような他者との関係は、問題の共同仮構と、議論の絶えざる継続によって
維持される。問題の共有とこれをめぐる果てしない議論にって形成される共同体、い
わば「議論共同体」が、探究する精神たちが相互の「理解」を通じて実践性への契機
を不断に自己の内部に繰り込む場なのである。
ここで言う問題とは、たとえば「社会の自然状態」という仮構の設定を介して繰り
広げられる社会秩序形成の原形式をめぐる問題であり、あるいは「運命」という観念
の舞台上で展開される自由意志と決定論の相克をめぐる問題のことである。これらは
いずれも議論継続のための「擬似問題」であって、最終的な解決は原理的にあり得な
い。探究する精神たちはこれらの問題をめぐる議論を通じて、あらゆる事象に理解可
能性の刻印を刻みつけ関係性の管理を及ぼすことによって、科学法則に関する命題で
あれ社会現象に対する仮説であれ──あるいは伝説・民話・神話・スキャンダルであ
れ──なんらかの「説話」を共同制作し、「説話」自体を新たな問題としてとらえ直
し、さらなる議論の過程へと繰り入れるのである。そしてこの永久運動的な探究を通
じて、個々の精神は議論共同体の外部に論証不可能な、しかし確実に存在するものと
して高次の精神を見出し、そこから無尽蔵の力を自己の内部に汲み取るのである。」
とはいえ、歴史的に皆さん頭をなやませてきたわけで。
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/TETUGAKU/4.html 霊性の学としての組織論
「 実在としての組織は生きている状態にあるかぎり部分の総和を超えており、そこ
に力を供出する人々に「言葉で説明できないような劇的、審美的な感情」(p.xxxiv)
を経験させる。バ−ナ−ドはそれを「組織感 the sense of organization」、 「共
同体意識 communal sense」(p.170)あるいは「全体感 the sense of the whole」
(p.235)と表現する。諸部分がその独自性を失わず全体との弁証法的対立を経て一つ
の実在のうちに融合しているとき、そこにはかつてレヴィ=ブリュルが未開人の原始
心性を説明するために提唱した「融即律 principe de participation」(3)に似た原
理が作用しているであろう。このような融合の最高段階において協働をめぐる自由意
思と決定論の相克はパラドキシカルな関係をとり結び、人々は神との合一を意味する
キリスト教カトリックの儀式である聖体拝領が象徴する「精神的結合 communion」の
状態へと移行するであろう(pp.295-6)。」
「議論継続のための「擬似問題」であって、最終的な解決は原理的にあり得ない。」 なんて断言されると、 まさにここの状況を指摘されているような気になります。 とはいえ、なぜ「原理的に無理」 なのか。 ひとつはどなたかがおっしゃたように 「自由は無に等しい」 というパラドックスでしょう。だとしたら意志はどこにあるのだ、 ということになるから。 原理的にはそうだけれど、再び私の問題を書いておきます。 決定されているけれどもなんとなく自由ではある。 (実感) これを論理的に説明するにはどうしたらいいんだ?? というわけで昨日の課題はまだうちゃってあります。
201 :
ルサンチマンな名無し :02/05/11 00:32
>>194 決定論は脳に支配されているんじゃないよ。
もっとたち悪いことに「過去の出来事」に支配されているんだよ.
>魂はないの?あるっていったらだめなの?
>脳は魂が操るコンピューターだ、っていったら神秘主義者だと馬鹿にする?だめ?
>快楽、欲望を抑えて修行したりすることは自由意志の、魂の表れではないの?
たとえ決定論だとしても,自由を感じたりするのは確かだ。
認識論的には自由がある・自由を感じる,と言う事は否定できない。
しかし,今僕は存在論的に人間の自由意志を認めることは出来ない。自由意志論は論理が破たんしてるから。
自由意志の存在を整合的に論じて説得してみてください。
場合によっては宗旨変えするかも?
>186 ルサンチマン伊藤氏 「人間の認識が甘いために自分は自由であると勘違いしているのではないか。」 という点ですが、私は勘違いしていないつもりですが。 (って本人に勘違いしているって いわれている手前買い言葉みたいですが、以下) 先日の考え方 グループA−>グループB というあいまいな因果関係を許容すれば 「だから自由である」 ということになりませんか。 このあたりから181氏の問題を掘り下げることができればよいのだが。
203 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/11 00:37
>>200 134氏へ
あせらずに考えてみてください。まだ時間はありますから。
しかし,今日は今日のバイトのためにもう寝ます。おやすみzzz
>203 そうですね。 議論の土俵をカテゴリー化して整理するところからしたほうが いいかもしれない。 「この立場だったらこうである」 という分類が可能なはずです。
205 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/11 01:12
>>201 134氏へ
寝ようと思ったけどレスがきたので返答します.
>「人間の認識が甘いために自分は自由であると勘違いしているのではないか。」
これは「人間の認識が甘いためにその人間自身が自由であると錯覚しているのではないか」と言う意味です.
>グループA−>グループB
>というあいまいな因果関係を許容すれば
>「だから自由である」
>ということになりませんか。
この意見は存在論的に論じているのでしょうか?
もしそうだとしたら,
A(A1∩A2∩A3・・・)→B(B1∩B2∩B3・・・)という式が成立するはずです.
これでも結局はA→B=(A1→B1.∩.A2→B2.∩.A3→B3・・・)という可能性を否定できないんです.
ただし,A1→B1とかのミクロな因果関係は不可知であるかもしれないが。
けれども,不可知だからといって因果関係は存在する。たとえ明日人間だけが滅んだとしても,氷が水になる現象は否定できないから.
したがって,ミクロの世界に目を向けたときの決定論は依然残ります.
さてそこで,181氏が述べておられた自由は認識論的な自由なんです.
たとえ決定論であっても,人間が自由を感じる,自由を信じることは別の話ですから.
このようにして決定論と自由は両立するのです.
206 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/11 01:14
134氏へ タイミング悪かったね。 ゆっくり考えてといいながら返答してしまいました。 今度こそ寝るから。おやすみ〜。
>205 了解です。 とてもよい説明です。わかりました。 わかりましたというのは二重で、 私が何を説明したいのかもわかりかけてきた。 何度もルサンチマン伊藤氏が繰り返し指摘してくれたように、 私の議論は認識論と存在論があいまいなようになっている。 どちらかというと、認識論が存在論に浸潤している誤謬です。 しかし私が説明したいのは存在論として あいまいな処理(グループ処理) を考察することが必要なのではないか、という点なのです。 ここを攻めなくてはいけない。
自分向けでもあるのですが、 今思っているヒントを書いておきます。 今頭のなかで想像しているのは超分子構造です。 Proteomicsと最近では言ったりしますが。 このところの生物学は20年来分子生物学的に 蛋白質を網羅してきたけれども、その蛋白質の 機能からたとえば細胞の機能を直接説明できなかったりします。 あるいは同じ機能をもつ異種の蛋白質があったりする。 そこで、蛋白質個々をみつめるのではなく いろいろな蛋白質が集合した状態(超分子構造) を、その集合した状態そのままで扱わなくてはいけないのではないか、 と考えられ始めている。 ポイントは、超分子構造として考えないと 説明できない性質がある、という点です。 ここまで書いて今日は冷却。 ではでは。
もうひとつメモ。 グループとしてのみ立ち現れる性質(現象)は グループの構成要素を前提としたときにも 無から現れた有であるといえる。
難しい言葉は嫌いだ。やさしく論じよう。 で、決定論っていうのはなに?過去に人間が支配されていると言うこと? 過去の出来事が脳にインプットされていてその判断があたかも自分ですべてを決めているかのようになるってこと? じゃあ僕は断食したことはない。明日からしようと思う。でする。 それは魂による肉体・脳(欲望)への反抗と僕は考える。魂を肯定しているから。 で、脳がすべてだとするなら、それは今までしたことのないことをしてみる時期になったと言う判断を脳が下したということになるのかな? で、それがあたかも自由意志に感じてしまうと。 なんか変でない?明日から断食するかもしれないししないかもしれない。そんなもん自由意志じゃん。さじ加減じゃん。 でも葛藤はある。食べたいと思うし、何の意味もないからしないほうがいいとは考える。 心のという現象は魂と肉体からくる欲望との葛藤ではないのかと思うんですが。 人間には魂が宿っている。だから本能に対抗できる。本能のままに生きること、快楽に流される生き方をしていればそれは 肉体(脳)に魂が負けていると言うことでは? 魂の肯定をしたほうがいいのでは?科学的に考えすぎるあまりなんか見失ってるのでは?現在の哲学は。 プラトンがただしいのでは? これが僕の考えです。
こういう言葉で書くと馬鹿っぽいのかな。難しい言葉で何を言ってるのかわからないので誰かやさしい言葉で 自由意志・魂を否定してくれたらうれしいです。面白そうだから。
プラトンは魂の優劣をつけましたよね。よりよい魂はこの世にないものを求めると。 イデアの記憶が多く残った魂か。それによっていろんな生き方があると。 魂があるからこそ人間は愛だとか友情だとかにこだわってしまうんではないかと思うんだけど。 どうですか?プラトンのイデア論とかは。古い?(笑)
>210 他人の言葉はむずかしいですよね。 まあ、だから自分の言葉で考えて納得しようとするわけで 私もさんざん自分流の言葉でいろいろ書いているわけです。 つんさんもだから自分のことばで説明しようとすればいいわけです。 >211で、誰かやさしい言葉で魂を否定して欲しい、と書いていますが、 もっとも簡単に納得する方法は自分で考えて自分なりに納得すること だと思います。言葉はなんであれ、論理的だったらよい。 ただ考えるのには一人で考えるより だれかがいたほうがいい。他人に説明しようとしているうちに 自分が説明され始めるのです。
>210 意志は自由か、決定されているかという問題はどうやら歴史的に何度も 繰り返されてきた議論です。しかし最後にはいつも 結論はでない、という話になってきた。 だからこのことを考えるのは無駄だ、という考え方もある。 しかし、それは誰か他の(過去の)人間の結論であって 私やあなたの結論ではないのです。 同じ結論に至るとは限らない。 さて、そんなわけでこんな質問をします。 ちなみに「だってそうじゃん」ではダメです。 >210では肉体と魂が敵対するものとして書かれています。 なぜ肉体と魂を分けて考えるのでしょうか。 魂は肉体の一部である、とはいえませんか。
215 :
考える名無しさん :02/05/11 03:34
216 :
考える名無しさん :02/05/11 04:48
>>215 なぜどうしてどのようにそう思うのかを書かずにそんなつぶやきだけ書くと、
実は一元論も二元論も知らないのでは?とか思っちゃうぞ。
>>215 =
>>189 ?プッ。からかわれた意味がわかったらちゃんと意見せよ。
217 :
考える名無しさん :02/05/11 05:16
(占いを好む人が多いという事は、決定論が好きな人って多いのかな。)
自分の頭で考えて納得した結論が魂が脳みそ(肉体)とは別次元のものなんじゃ?っていう二元論(?)なんですよね。 でもそんなこといったらただの神秘主義者なんでしょ?現在では。 だから現存の哲学好きたちに魂なんて肉体なしには存在しないっていう意見をわかりやすく証明して欲しいんですよね。 どうして魂がないと言いきれるのか。科学は何を証明したのか。できてないんじゃないのか?と。 簡単な心の現象だけだったら脳みそだけでも納得できるんです。 でも自由意志とか、自分の生き方を思考するとき、魂が別次元にあるんじゃ?とか思ってしまうわけです。 みなさんはすべて脳が起こす現象だ自由意志など思い込みだと思ってるんですか?所詮肉体の快楽、脳が満足いくように動かされていると? 性欲を考えるとたまにそんなことも思うけど。 どうなんでしょうか。魂持ち出したほうがいろいろ納得できるんですけど。
脳でもなんでも良いけど、決定論的機械上には「決定論」を 直接表象し得ない。「可能性」を直接表象できないからだ。 したがって、思考が決定論的基盤を持つという前提は、思考 が非決定論的に振舞う可能性としての自由意思の一面を、否 定できない。 この矛盾を回避するのに、二つの処方が考えられる。 1:各表象の同一性を前提としない 2:自己言及を禁止する 後者の処方は、恣意的な二元論の入り込む余地を残すので、 私は前者を支持する。
うーんむずい。辞書持ち出さないとよめん。どなたか自由意志に関するお勧めの本教えてください。 こども時代を考えるとやはり魂は肉体、脳の成長からくるものなのかな。 うーんわからん。 昔の哲学者はなぜ魂を持ち出したのですか?科学が発達してなかったから?
>>218 =
>>215 =
>>189 ?
「『心身二元論』を支持する自分としては、心・意思は肉体から独立しており
たとえ肉体が決定論的に動作しようとも意思は自由でありえると思う。
心身二元論を支持する理由は自分なりに考えたつもりだけど
理屈じゃ説明できません。ドンと辛苦。フィーる!!」
と言いたかったわけか。はいはい。
そう聞いてみるとたしかに
>>191 のコメントは間違えたよ。すまん。
思っていたよりもっとアホ草い。
ついでに私もフィーリングで話してしまうと、
魂っていうのは根本的な性質であって表面的な心理的現象とは違うと思うのだが。
子供のときも今も根本的なキャラってあまり変わらない気がするんだが、
そういう自分らしさを生み出している根本みたいなものを
魂と呼びたい。
だから肉体とともに成長ってのは違和感を覚える。
心は成長するだろうけどね。
えーとつまり肉体のゲノムに対応するものとして
精神の魂を考えるという具合。
ドンと新句!ふぃーる!
しかし基本的な思考パターンっていうのもやはり、幼時から
徐々に作られていくものなのかな。
222 :
考える名無しさん :02/05/11 17:12
>>220 Th.ホッブズ『自由と必然』
I.カント『純粋理性批判』
H-L.ベルクソン『時間と自由』
中島義道『時間と自由』
植村恒一郎『時間の本性』
223 :
考える名無しさん :02/05/11 18:22
存在論的自由と認識論的自由の違いが解らないのですが、 とりあえず「意志が自由たりえること」と「意志が自由だと感じること」の相違について。 物理学や実証的心理学など(の大部分)のように、決定論の立場からすれば、 意志の自由は、人間がそう感じているに過ぎないものとなります。 私は、意志の自由は、人間が内側からの視点をもつ限り、必ずあるものだと考えます。 ここで「内側」は肉体的な比喩であって、別に身体に魂が入っているとか考えてるのではありません。 「行為の主体となるような意志を持つ限り」ということになりますが、 これは「意志を持つその人が行為の主体になる限り」ということを指すわけではありません。 結果的に同じことだとしても、まず初めから混同してはいけないと思います。 「意志の自由」から「行為」までは飛躍があるからです(ただしこの主張において、ってことになるけどね。下の段落参照)。 混同すれば、話は早いわけで、ホッブズの言い分どおりになります。 意志の自由は、人間が内側からの視点をもつ限り、必ずあるものだ、ということを言い換えると、 人間が「我」(と呼ぼうとしている)である限り、アプリオリなものである、ということです。 で、意志の自由は、時間性はないと考えます。 例えば、歌うという行為を考えてみると、歌うそのときに意志の自由が成り立っている、 つまり、歌うそのときに無条件で自由意志の因果関係が成り立っています。 「歌うそのとき」に時間の厚みがあるかどうかは関係ありません。 私たちが「歌うという行為が自由だ」というようなとき、 その意志の自由を考えると、このようなのがいちばん実感に近いように思いますが。 ただし、行為自体は、時間の流れに沿い、また(脳を含めた)身体内部の諸反応は決定論的です。 このように考えると「意志の自由」から「行為」までは飛躍があることになります。 時間性がないことに懐疑的に思う人がおるかもしれませんが、私たちは時間を意識しすぎだと思います。 だから「意志の自由は、人間がそう感じているに『過ぎない』」とか、 「意志の自由は『錯覚』である」というような言明が出てくるのではないでしょうか。 そのような否定的な言明の内容は誤ってはいないと思いますが、それを否定的に捉えることは、 時間とか、自然科学的な経験的な因果関係の偏重であると思いますが。 確かに時間は大事ですけど、それにのめり込んだばかりに起こったのが、飛ぶ矢のパラドクスじゃないでしょうか (時間の意識しすぎの例であって、自由意志の問題とは特に関係はないです)。 ある瞬間において矢は静止しているから、時間を通して飛べないということですが、ある瞬間における矢の静止はありえません。 瞬間においては動も静もないですから。 つまり、時間性のないケースに、時間性のあるケースと同じ態度で臨んでるのがヘン。 自由意志の問題でも、同様の誤謬のせいで、自由意志が錯覚に貶められたり、 決定論と同格で張り合えばいいのに、決定論の余地でしか成立させてもらえなかったり。
224 :
考える名無しさん :02/05/11 18:23
「我」(と呼ぼうとしている)→「我」(と呼ぼうとしているもの)
その根本的な性質である魂が肉体に宿ってるって考えたほうがしっくりいくから二元論支持なのかな。 肉体とは別次元のものがあるような気が。幽霊とかにつながっちゃうんだろうけど。 その189とかは僕じゃないですよ? 222さんどうもです。その辺の本が難しくないことを祈ります。せっかちだから一回で理解できないといらいらして(笑)
>このように考えると「意志の自由」から「行為」までは飛躍があることになります。 補足すると、意志の自由→行為の関係と、決定論的な行為の因果関係は、時間に沿っては同時に捉えられず、 ホッブズは上述の混同によって、意志の自由の方を、時間に沿う流れにキレイに押し込んでいるように見えます(かなり検討不足だが)。
いい女を目の前にしてHしたいと思った。 これくらいなら意思なんて脳が生み出した現象だって思えるんだけど。 そんな単純な生き物でないからなぁ。 でもそんなことしか考えてない人もいるわけで(悪いとはいわないけど)それは馬鹿とかよりやっぱ 魂のイデアの記憶が薄いとかそういうほうが自分では納得できたわけで(プラトンです) 魂が外側からやってきて肉体に宿っているわけではないならどうして魂というか その我?主体はどこからきてどこにあるんですか?やっぱ脳ってなるの? 脳は思ってるよりすごいんだと。まるで脳(欲)と意思(魂)が別次元にあるように感じさせるほど すごいという意見なのかな? とりあえず本読んでみます。どうもでした。
228 :
考える名無しさん :02/05/11 18:38
哲学ロボットの群れ。
229 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/11 20:16
>したがって、思考が決定論的基盤を持つという前提は、思考
>が非決定論的に振舞う可能性としての自由意思の一面を、否
>定できない。
確かにそのとおりです。たとえるなら,私は自分の中に流れている血液の流れ,胃の運動,脳の刺激と反応を感じることは出来ない。
>1:各表象の同一性を前提としない
これについてはもう少し説明をお願いします。
>>221 >魂っていうのは根本的な性質であって表面的な心理的現象とは違うと思うのだが。
>子供のときも今も根本的なキャラってあまり変わらない気がするんだが、
>そういう自分らしさを生み出している根本みたいなものを
>魂と呼びたい。
魂はその人自身の本質を表す,という説を取るのですか。肉体のゲノムに対応した精神の魂。
しかしこれだと精神の神秘性がなくなり,心身二元論の意味がなくなります。
>>223 ホッブズの「意志」というのは次のような意味なのです.
「熟慮」において,直接に行為あるいは行為の回避につながる最終的な欲求あるいは嫌悪を,私たちは「意志」と呼ぶ。
つまり、店に行ってメニューにカレーと親子丼があった。
そこでカレーと親子丼のどちらにしようか考える。
カレーがいいな,いや親子丼も捨てがたい,でも,カレーの匂いがしてきたからカレーにしようか,いやでも隣で食ってる人の親子丼もうまそうだ。
このようにカレーと親子丼の間で「熟慮」するわけだ。
「意志」と言うのはその熟慮の最後の瞬間で,店の親父に「カレー一つ」と頼む(行為する)直前の最終的な熟慮の状態(このときはカレー)を指すに過ぎない。
ホッブズにとって「意志」に特権性はない。
それと,ホッブズの「熟慮」と「意志」が時間性にとらわれるかどうか,というのは重要な問題です。
しかし少なくともホッブズは「熟慮」と「意志」が時間性にとらわれることを明言していない。
この辺は研究の余地があるでしょう。
230 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/11 21:09
231 :
考える名無しさん :02/05/11 21:41
>>229 >ホッブズ
なるほど。ちょっと考えてみます。
>>229 思考機械の状態・状態遷移と、思考過程とのあいだを結ぶ関係を、アプリオ
リとしない。
ということです。例としては、再認とその脳内表象との関係、アナロジーと
しては紙幣の機能とその物理的構成基盤との関係を想像していただけると、
解かり易いと思います。
確認したい点がひとつあります。 このスレ上、つまり自由意思を論ずる文脈で「決定論」というとき、 原理的決定性のみならず原理的非決定性をも含む としてよろしいでしょうか? 読み落としていたらごめんなさい。
234 :
考える名無しさん :02/05/12 01:20
人間は、あらゆる状況に突き動かされていると思う。(と思う。以下省略) あらゆる能動(と思い込んでいるもの)は根本的な受動に動かされている。 例えば、ここにケーキがある。貴方ならどうするか。 もし食べるなら、それは自由意志で選んだ(つもり)だろうが、 ケーキが好きな場合、満腹でない場合(満腹でも別腹ってのは置いといて)、 品質保持期限が切れていない、などの あらゆる「状況」に(深層的に)突き動かされた筈である。 もし食べないを選択した場合はその逆である。 コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我在り)の(デカルトの)言葉すら、 考える事象がある。疑問に思った(その事象があったから)。 という状況に動かされて「考えた」のである。 時に考える「状況」、時に選択を求められる「状況」、時に発言する「状況」 あらゆる事象にあらゆる原因がある。 原因の無い出来事はないのである。 それは人間の行動一つとってもそうである。 自由とは元々存在しない物である。
235 :
考える名無しさん :02/05/12 01:42
>>234 ホッブズへの反論にもカントへの反論にもなってないし、
cogito ergo sumを誤解してもいる、と思うのだが……
すいません。 どっちにも反論したつもりはありません。
237 :
考える名無しさん :02/05/12 02:09
スピノザ、ゲーテなんかは一元論的汎神論になるのかな? 仏教の無我に似ている。 ウィトゲンシュタインなんかの無主体論なんかも同じようなものか。
238 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/12 21:02
>>233 存在論的に自由意志を認めるなら,原理的非決定性を認めなければならない。
逆に存在論的に決定論ならば原理的決定性を認めなければならない。
それはさておき,存在論的な自由意志をどのように正当化するか,ということだが,
可能世界を用いたらどうだろうか。ライプニッツの可能世界論をわかりやすく説明してくれる人大募集。
あげておきます。 つんさんへのレス >218 つんさんが納得する際のボトムラインはなんでしょうか。 「納得する」「しっくりする」というように つんさんが納得するときの最終的な確証のえかたは? それぞれの人間の納得の仕方はちがいます。 「ああ、わかった!」 というときに、その理解のしかたは人によって違うので Aだから私はBと理解した、と他の人に説明する必要があります。 >225 「せっかちだから一回で理解できないといらいらして(笑)」 そうですね。 数学の問題集でも、解答を先に見てしまえばイライラしない。 しかし、先日も書いたように、この問題にはまだ解答が存在しないのです。 >227 「いい女を目の前にしてHしたいと思った。 これくらいなら意思なんて脳が生み出した現象だって思えるんだけど。」 これくらいなら、というけれど かなり高度な情報処理です。 たとえば「いい女」はどうやって選択しているのか。 「女ならだれでもいい」のだったら問題がすこし簡単になりますが、 言葉にできないだけにそのことを根源的に考えるのはかなり深い問題です。 「とりあえず本読んでみます。」 まずは肉体と魂を分離して考えるとなぜ自分は納得するのか、という疑問を ベースにして本を読んだらいいと思います。 視点がないままで本を読むと、ただの受け売りになります。
礙礙礙さん >219 「思考が決定論的基盤を持つという前提は、思考 が非決定論的に振舞う可能性としての自由意思の一面を、否 定できない。」 基盤と振る舞い、を分ける点に特徴があると思います。 物理で言えば状態と過程ということでいいですか。 「この矛盾を回避するのに、二つの処方が考えられる。 1:各表象の同一性を前提としない」 ルサンチマン伊藤さんも質問しましたが再び。 この回避方法についてもうすこし説明してもらえますか。
>221 「魂っていうのは根本的な性質であって表面的な心理的現象とは違うと思うのだが。」 魂は生体の作動過程の表象だと私は思っています。 グループ処理で考えたときに、無から有が生まれる部分に対応します。 ところで、この間208−209で金曜日に書いたグループ処理の話、 2週間ほどしてから書いてみます。 ネットにおそらくアクセスしないので。 面白い議論ができそうなので時間が空くのが残念です。
受け入れられるかどうか判りませんが・・・
私は、自由意思を論ずる文脈で「決定論」というとき、原理的非決定
性をも含みます。確率を用いて総てを汲んだ記述が完結するからです。
あぁ、完結性と言い換えるべきなのかな?ともあれ、隠れた法則の在
り得ないことが保証されるのなら、これもまた自由意思の対極にある
のは、明らかですよね。ロシアンルーレットを強要されるのですから。
したがって、グループ処理の話は、仮に境界をぼかしても、それだ
けだと決定論側(完結記述の存在)に取りこまれます。
私は、この問題の本質は、
基盤システム(生化学現象)の完結記述が得られたとしても、その
上の現象(意思)に記述不完結性が生き残る余地はあるか?
だと思います。
議論の余地は、基盤システムと、その上の思考過程との関係の結び
付けに在ります。この結び付けが、まさに両階層の間にアプリオリ
に在る、すなわち、自己言及を禁ずるなら、恣意的な二元論でかた
がつくでしょう。そうではなく、それが上の階層にあるとするなら、
恣意的な二元論を排除したままで、自由意思の生存が計れます。「各
表象の同一性を前提としない」とは、そういう意味です。「解釈」と
したほうがわかりやすかったかもしれませんが、チョット避けたい問
題があったので、一気に「同一性」にしてしまいました。
>>219 では、これを言わんとして、再認の例や紙幣のアナロジーを
持ち出しました。
脳の前に世界が存在しました。 よって脳を形成したのは神であり、精神です。 従って精神が脳に先行します。 脳が全て規定する前に精神性が脳に指令を与えます。
244 :
考える名無しさん :02/05/14 00:42
物理学では当然の話なんだけど、 安定的な均衡状態と不安定な均衡状態とがあって、不安定な均衡状態では どのような結果が起こるのかは予想不能(針山の上に静止した金属球がどこに 転がっていくかなど) 脳内のニューロン活動が分子レベルでは不安定な均衡が10^10乗 レベルで巨視的反応を起こした結果意識を生じているわけで 分子活動レベルからでは予測不能。つまり決定論的には決まらないと いう意味で自由意志なるものは存在しているといってよい。
245 :
考える名無しさん :02/05/14 01:33
自由について考えるなら、対象化されたものを前提して議論するのはまずいと思う。 って同一性云々ってでてるから既出だな。
246 :
考える名無しさん :02/05/14 01:38
そもそも、意志という行為自体そのものが外部からの強要が あってはじめて成立する行動様式なのでは無いだろうか? 意志が外部性を持つのであるのなら、主体を支えるはずの意志 の有り様そのものが自由で無いことになるだろう。 ゆえに自由意志はあり得ないと私は考えるのだが如何であろうか?
247 :
考える名無しさん :02/05/14 01:42
外部からの強要が無い/常識的な自己にとって環境に当たるものがない状況は ありえないんじゃないの? 自己はただ周囲の環境との連関としてしかありえないと思うけど
248 :
考える名無しさん :02/05/14 01:58
自由意志がないと困る人たちが多いから 希望的観測?みたいなことを言う人が後をたたないんだろう。
249 :
考える名無しさん :02/05/14 02:06
>>248 でも、ニーチェもフーコーも登場したことだし、
司法制度も行き詰まっていることだし、自由意志
の神話があちらこちらで破綻しているから、そろ
そろフツーのおばさんもこの問題。少しは考えない
とヤバいんじゃ無い?
250 :
考える名無しさん :02/05/14 18:37
>>244 >決定論的には決まらないという意味で自由意志なるものは存在しているといってよい。
この場合「決定論的に決まらないこと」と「自由意志」との関係が問題なわけで、安易に繋いではダメだと思うが。
>>246-247 既出レスに、決定論的であっても自由意志の余地はあるという主張があるが、それはどうか?
決定論的であることを認めても、自由意志の否定にはならないのだが。
251 :
考える名無しさん :02/05/14 18:53
自由とか自由意志の定義がほしいところ。 しかし、「自由意志がない」というのは「自由」という概念そのものが存在できない ことと同義なんですかねぇ?
252 :
Real工房 :02/05/14 19:11
>244さんの言う通り、脳内ではカオス的な反応が連続していますので、 殆ど運と言えるレベルで"思い付き"なるものも発生します。 意外にそういうものは人生に多大な影響を及ぼすもので、 そう考えると自由意志とは、"運"なのではないか?と思ったりするのであります。 また、それとは相対しますが、ホーキング博士は未来は最初から決まっている、 と主張しています。 それが正しければ、化学反応も運もなく、 意思とは、時間の流れに付随して人間の物理運動の方針を決める、 "進行役"のひとつに過ぎないのではないかと思います。 意見・批判等頂けたら光栄です。
253 :
考える名無しさん :02/05/14 21:01
たとえ神がサイコロを振っているとしても、 プランク定数が許す範囲の自由しか存在しない。 神経細胞はそれに大きく影響されるほどレベルが低くない。 生物は神の気まぐれに影響を受け自らの意志を不正確にし、 誤った思考を増やすように、自らを進化させるであろうか?
254 :
Real工房 :02/05/14 21:24
>たとえ神がサイコロを振っているとしても、 プランク定数が許す範囲の自由しか存在しない。 本当ですか?もし根拠のある話なら、俺の間違いでした。 ごめんなさい。 >プランク定数が許す範囲の自由しか存在しない。 もしよろしければ、その根拠も書き込んでいただけますか? >神経細胞はそれに大きく影響されるほどレベルが低くない。 何のレベルですか?
255 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/14 21:36
昨日決定論と自由意志の問題で師匠からコメントをもらったんですが, 「自由意志と非決定論を一緒にすべきではない。」とのことです。 それで私なりの考えでは,決定論と自由意志の問題には次のタイプがあります。 1,決定論で自由意志は存在しない。 2,非決定論で自由意志は存在する。 3,非決定論で自由意志は存在しない。 (決定論で自由意志は存在するというパターンは矛盾する。 なぜなら, 決定論:世界に生起するできごとは,なんらかの形で元来決定されている,と考える立場 非決定論:世界に生起するできごとは,決定されていない。 自由意志:外的な強制・支配・拘束を受けず,自発的に行為を選択することのできる意志のあり方) 1は決定論,2は自由意志論,3は確率の世界 1と3の問題点 1と3の立場では行為の責任を問うことができない。 1の場合では行為が先なる出来事に支配されていて,私が自発的に行為をしたことにはならないから。 3の場合でも,行為が決定されておらず,さらに自由意志が存在しないから,私の行為は偶然の賜物であり,行為に対する責任を問えない。
256 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/14 22:06
255補足 決定論で自由意志は存在するというパターンは矛盾する。 なぜなら,決定論と自由意志の意味から双方が両立する余地はないから。
257 :
考える名無しさん :02/05/14 22:49
自由ってば<○○に対しては>自由〜という風にしか言えないものじゃ ないでしょうか。 自由意志とか非決定論的世界とか、結局「この世」以外の世界に 問題を持ち越しているだけのような気がします。 自分の内側(自発)って、どこから来るのか。魂??? マトモに考えて力強く肯定しようとすると 何かサブサブですわん。
258 :
考える名無しさん :02/05/14 23:15
>>256 カントでは矛盾しませんが?
カント嫌いと仰っていましたので、繰り返すようなことはしませんが。
ただ、1つ言うと、
>決定論:世界に生起するできごとは,なんらかの形で元来決定されている,と考える立場
は「なんらかの形、ただし自然的な形で」ってことでしょうね。
259 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/15 23:37
>>258 私が聞くには,カントの場合,意志は原因と行為の事実関係から意志があるものとして認めているのではないしょうか。
そして行為をし終えた後,「他にやりようがあった」と思うこと,それがカントの意志の自由ではないでしょうか。
違ってたら,批判願います。
そうすると,確かに決定論には矛盾しませんが,これまで語ってきた自由意志とは問題が異なるようです。
でもそんなの本当に自由意志なのかな?
私もカントにもう少し手をつけてみようと思います。
やっぱり『純理』『実理』読まなきゃいけないのかな?気が滅入りそう。
260 :
考える名無しさん :02/05/16 00:49
>>259 そういった事実関係に認められるだけで、事実関係そのものが根拠というわけではないと思われますが……
人間が統覚的主体である時点で、既に自由意志を持つ、とカントは考えていたみたいです。
行為後に「他にやりようがあった」と確認を取りうるということを考える必要はないでしょう。
先の事実関係を確認することもないからであり、また人間が統覚的主体である以上アプリオリであるからです。
でも、証明のしようはないので、結局、納得するかしないかの問題ですけどね。
私はこれまで問題とされてきた自由意志であると考えますが。
261 :
考える名無しさん :02/05/16 04:36
虚無主義者には自由意志がありそうだw 自由意志信者って天動説信者に似ているかも 自分を起点にしたがるところが
262 :
考える名無しさん :02/05/16 14:11
思惟の自己活動性は?
263 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/17 12:07
>>260 俺の付け焼刃ぶりを見てくれ!
石川文康の『カント入門』読んだぞ。
カントは、第三アンチノミーの解決のために、超越論的観念論を用いて、
物自体の英知界と空間時間の制約がある感性界を分けて考えてるな。
人間は英知界と感性界の両方にまたがって存在していて、
感性界では事物の因果関係を認めている、
英知界では時間的空間的支配を免れていて、事物の先なる出来事(原因)は原理的にありえず、
人間には事物の究極原因という意味で自由が保証されており、
人間は英知界の部分から感性界の部分へと影響を与えている。
(超越論的観念論→科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,
すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,
この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,
経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,
意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjekt である。)
でも問題はどうやって英知界から感性界へと影響を与えているんだ。
(皆さんごめんな、どうやらここの掲示板で立てるスレではないようだ)
264 :
考える名無しさん :02/05/17 14:03
>>263 「英知界」ということばはカントにありました?
265 :
考える名無しさん :02/05/17 19:26
>>263 mundus intelligibilisを英知界と訳した段階でアウトだと思いますが…
対象が現象でないとき、悟性や理性が幾分かでも使用されるかどうか、という
議論で、その対象の領域を先回りして英知界というわけにはいかないのでは?
英知というなら、Ich denke(我思う)の諸段階を追い、Ich existiere als
Intelligenz(われ英知者として在り)が出てくる論理を追わないと。
カントへの道は長く険しいもんですね。
>>263-265 確かに「英知界」とか「叡智界」という訳語は、
伝統的ではあるけど、現代人の教養の在り方からすると、
非常に誤解をあたえやすい言葉ではありますね。
あと、カントにとって、実践理性が要請する「自由」とは
「理性の事実」であると、遡及を断念せざるをえない地点だと考えます。
>>しかし、先日も書いたように、この問題にはまだ解答が存在しないのです。 これだけ聞いて安心しました。魂というものが脳、肉体とは別次元に存在し、それが自由な意思を持っているという 可能性はあるんですね??言っても神秘主義者だと馬鹿にされないんですね?? 信じますよ?? そいういう哲学の現在みたいなことが知りたかったのでうれしいです。 プラトンを支持するなっていったらもう相手にされないのかと。されてないのかな。。。 >>「納得する」「しっくりする」というようにつんさんが納得するときの最終的な確証のえかたは? どうなんでしょうね。しっくりきてるのは自分自身の感覚なんで人には説明できないから 直観した、としか言えないですね。 感情を排して理屈だけで納得したとかしっくりしたわけではないです。希望も入ってるように思われます。 そのほうがよい!というか。魂を信じたい。人間は脳の快楽のためだけにはいきてない。本能から逃れられる自由意志があると思いたい。 というか。でも修行とか考えるとそうだと思うんですけどね。
プラトンを支持するなんていったら、に訂正です。
>魂というものが脳、肉体とは別次元に存在し、 >それが自由な意思を持っているという可能性はあるんですね?? ちなみに、カントにとっては、このような言い方は否定するでしょうね。 自由であるのは、実践的な理性、すなわち意志なわけですから。 有限ながらも理性的な存在者である我々が自由なわけです。
270 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/17 21:46
>>265 >>266 石川文康の『カント入門』には英知界のことを理性界とも言ってますね。この場合,
理性界という訳のほうが現在のカント研究者の間ではトレンディなのでしょうか?
一般的にmundus intelligibilisを「理性界」と訳すなんて、 何か特別な意図が無ければ考えられません。誤解を招きかねませんし、 スコラ以来のintellectusとratioとの区別もありますし。 mundus sensibilisとの対応から、「叡智界」「可想界」といったところが 伝統的に一般に用いられる訳語ではないでしょうか。
決定論者へ・・・ 法則というのは、渺茫とした平原に敷かれたレールのようなものだ。 なにもレールの上にレールを敷くこともあるまい。
274 :
考える名無しさん :02/05/19 03:27
「自由意志はない」というのが嫌だという気持ちはわかるが、 「すべては自由意志だ」とすると責任や罪というのがより絶対的になり、 ちょっとしたミスや失敗で絶望せざるを得ない場合がでてくるかもしれない。
>「すべては自由意志だ」とすると責任や罪というのがより絶対的になり、 話は逆じゃjないか? 基本的に自由意志を認めておかなければ、 責任を問うことは一切不可能になり、 まして人の行為を罪に問うなんてこと、正当性を持ちえなくなる。 現実にそうであるように、 まずは自由意志を推定して、 特異な場合や、情状が酌量できる場合は、 個別に考える方が実際的ではないか。 自由意志を認める議論では、全ての行為が自由意志に基づくとは 言っていないのだから。
礙礙礙さんは、"知覚世界は一致するか"スレのあの人だろうか。 そして、254の問いは無視されたのだろうか。
278 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/19 20:15
>>274 責任逃れで決定論が支持できるわけではない。
決定論でも責任を追及するやつは追及する。
ホッブズは決定論でも責任を追及してるぞ。
>>275 質問です。
あくびや生理現象は自由意志で行うのでしょうか?その辺の返答をお願いします。
>>276 はい。そうです。あちらのスレッドとこちらのスレッドでは、「可能性」
について、ちょうど裏表から攻めていて、面白い。
280 :
考える名無しさん :02/05/20 00:04
自由という言葉の言葉自体が、既に、非自由と比されて実現している以上、 無制限の自由はない、と同時に、完全な決定論も無理。
281 :
考える名無しさん :02/05/20 00:12
難しい話はやめて盛り上がろうぜ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
282 :
考える名無しさん :02/05/20 00:14
>>278 >あくびや生理現象は自由意志で行うのでしょうか?
公式な席であくびを我慢していて、その席が終了後にあくびをしたとしたら、
我慢は、明らかに自由意志でしょうし、
その後のあくびも、自由意志で行った、と本人は考えるかもしれませんね。
しかし、傍から見たら、それは単なる生理反応にしか見えないでしょうし、
理論的に記述しようとすれば、自由な意志の選択など入る余地が無いのかもしれません。
カントは、このような人間の生物的な在り方を、「傾向性(Neigung)」と呼んでいますね。
284 :
考える名無しさん :02/05/20 19:27
>>281 決定論でうごく機械系と、その上の情報系との関連付けをする対応表が、
情報系の側にあるのではないか?といいたいのです。
>>282 解っていただけますか。
286 :
考える名無しさん :02/05/21 04:32
原因(主)→結果(従) というような捉え方から解放されない奴が多い。 恣意性ってやつは厄介だな。
287 :
考える名無しさん :02/05/21 04:34
ま、ライプニッツですべて解決さ! モナドロジー読め!
>>287 窓が無いなんて、ダメダメ。
誰が何と言おうが、
窓はオレ様のもの!
289 :
考える名無しさん :02/05/21 05:01
290 :
考える名無しさん :02/05/21 05:04
因果律論より東洋の縁起説を学ぶズラ
291 :
考える名無しさん :02/05/21 19:56
>>275 >基本的に自由意志を認めておかなければ、
>責任を問うことは一切不可能になり、
>まして人の行為を罪に問うなんてこと、正当性を持ちえなくなる。
なぜ?
決定された行為であろうと罪に問うという社会慣習があるなり新規立法するなりす
ればよいだけだろ。
292 :
考える名無しさん :02/05/21 19:59
クラゲの脳味噌
>>291 何を主張したいのか意味不明。
その行為が決定されたものだとすれば、
行為者が「私に責任は無い」と主張するのは合理的態度であり、
責任の無いものを罪に問うとすれば、法の信頼も成り立たず、法たり得ない。
法により賞罰を個人に与えるというのは、
その個人が、自由な選択によって、その行為に至ったというのが前提。
でなければ、そもそも賞罰を与えるということの意味をなさない。
もしくは、それはもはや賞罰とは言えない。
>>257 決定法則で記述され尽くすことから逃れるという自由に対して、
この自由は、裏側の自由ですね。窓が開いているが、外からは
いじられないという。どちらも大事だと思います。
決定論に対して、単純に非決定性に自由の拠所を求めてしまう
と、この裏面の自由が損なわれます。なぜなら、完全な非決定
的要素から得られるのは、純粋に一方的な出力であり、どこに
も帰属しないからです。自分に帰属しないものに未来を支配さ
れるのです。
したがって、この、裏側の自由が損なわれた非決定系にも、
「責任」は問えません。
「どっちでもいいんじゃない。」 みつを
296 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/22 00:19
>>291 >>293 パトカーが違反車を追いかけた結果,違反車が踏み切りなり交差点に突っ込んで事故を起こしてしまうということがある。
このとき,必ずしもパトカーに責任が生じるわけではない。パトカーは無理のない追い込みをかけた,という解釈が成立すれば,
パトカーに責任は生じない。しかし,因果的に考えれば事故の第一原因はパトカーであることは明白である。
法の解釈と因果的解釈は異なることがある。その人に責任があるかないかは法の解釈であって,因果的解釈とは異なる,という立場をとることもできる。
ただし,法の解釈と因果的解釈は大雑把なところでは一致しなければならないが。
>>296 何を主張したいのか不明確。
「法の解釈と因果的解釈は異なることがある。」
であろうが、「法の解釈」という文では、
一般に法律の条文をどう解釈するのか、という意味になるぞ(ワラ
もちろん、法(司法)による事実認定と、それに基づく責任の所在の判断のことだとは思う。
しかし、この場合の事実認定も因果関係が明確に説明できるのは当然要求されるし、
その説明での因果関係が矛盾していれば、もちろん事実として認定することはありえない。
例のパトカー追跡においても、違反という事実が先行するゆえに、
もし適切な行政執行であれば、法律の定めるところにより免責されるわけであり、
もし違法な捜査や執行であれば、すなわち危険で無理な追跡をしていたと事実関係が認定されれば、
もちろん法律によって、行政官といえども責任は追及され罰せられる。
ここに因果関係の破綻はあってはならない。
そもそも、「因果的解釈」とは、何のことなのか全く不明瞭。
解釈というのだから主体が想定されるのだろうが、何の言及も無い。
298 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/22 01:59
>>296 確かにそうだ。
法の解釈ではなく,司法による事実認定だ。
因果的解釈という言葉も間違いだ。事物の因果関係としたほうがいいのかな?
>しかし、この場合の事実認定も因果関係が明確に説明できることは当然要求されるし、
>その説明での因果関係が矛盾していれば、もちろん事実として認定することはありえない。
人間の因果関係の把握は優秀なのだろうか?人間の能力には限界があるのではないか?
その限りで司法の事実認定にも穴があると思う。
しかしそれでも,司法の事実認定(いいかげんなものにしろ正しいものにしろ)の結果,
警察に責任はない,と認定すれば責任はないし,警察に責任はある,と認定すれば,責任はある。
そしてこれは事物の因果関係と完全に一致するものではない。
認識論と存在論は違うということかな?
とにかく、私の言いたいのは,決定論でも責任は問える,ということだ。
責任という概念が必ずしも自由意志でないと生じない,とは思えない。
責任があるかないかは実は認識論や存在論を離れて考えることもあるのだ。
ホッブズしか知らないからホッブズの話をすると,
ホッブズは決定論の立場をとりながら,各人に責任があることを認める。
ホッブズも責任の根拠を自由に求めるわけだが,この自由の意味は選択肢があることに他ならない。
(ただし選択肢があっても選ぶ道筋はあらかじめ決定されているが)
この選択肢は言語の性質から生じる。
「明日雨が降る」という言明からは,「明日雨が降らない」という言明も「明日雨でないものが降る」という言明も考えることができる。
こうした性質が選択肢を生じる。
さて,このように考えると,ホッブズの責任論は言語哲学から生じている。
以上のように,責任という概念を自由意志以外からでも論じることはできる。
>人間の因果関係の把握は優秀なのだろうか?人間の能力には限界があるのではないか? これはD.ヒュームの議論があるので、省きます。 >事物の因果関係と完全に一致するものではない。 法的な処分の結果が、因果関係と一致する保障はもちろん無いが、 法的な事実関係の認定は、因果関係に沿ったもので無ければ認められず、 矛盾をきたしていることが指摘できれば、却下される性格のものである。 法の体系と、その執行も、事物の因果関係を人間が把握できることを前提としている。 >ホッブズも責任の根拠を自由に求めるわけだが, >この自由の意味は選択肢があることに他ならない。 まず、責任という概念の発生根拠として、自由の概念を先行させざるをえない点に注意。 法による賞罰には、その個人が自由であったことが要件だということは認めるわけだね? 自由とは自らの意志が原因足りうることが一般的な定義だが、 これを「言葉の性格による当人の錯覚である」風な「言語哲学」で再定義しようとも、 自由意志を排しても法的に賞罰を問えるとする議論には非常に苦しい。 恣意的ともいえる「自由」概念の再定義ではなく、そもそも最初から自由概念など用いずに組み立て無ければ、 ほとんど説得力を持ち得ない。 行為者本人は、意志があり、行為を選択した、と考えているのだから。
300 :
考える名無しさん :02/05/22 02:32
自由意志を前提とする社会の方が不幸が多いような気がするんだよね。 思いきって自由意志はないという前提で社会をつくってはどうかな。 みな寛容になったり謙虚になったり 仏様のようになったりして意外といい社会ができるかもしれない。 「罪を憎んで人を憎まず」ってやつです。
301 :
びたみん ◆BWLMxAG. :02/05/22 02:34
>>300 行為に責任払わなくていいから、社会は成り立たないんじゃない?
認識を徹底させると違うかもしれないけど…。
302 :
考える名無しさん :02/05/22 03:22
スピノジストがまだ登場してないね。
303 :
通り菅井きん :02/05/22 22:50
物理板は自由意志派が多かったと思ったけど 哲学板は決定論者が多いのかな。
>>303 物理板の人は不確定性原理とか知ってるからね。
>不確定性原理とか知ってるからね。 不確定性原理についてのと、 自由意志についての議論とを ちゃんぽんにする愚かさよ。 オカルトや電波に、まっしぐら(ワラ
306 :
通りすがきや鍋うどん :02/05/23 01:49
物理板では決定論者が電波扱いされてたよ。 物理学で決定できないのにどうやって「決定」するんだ?
>決定論者が電波扱いされてたよ。 そりゃ仕方ない。常識的態度だ。当然だと思うな。 しかし、議論のためには、そんなこと言ってたら始まらん。 それに、305が指摘するのは、 両者を関連づけて議論することの危うさ。 >物理学で決定できないのにどうやって「決定」するんだ? そりゃ物理学という枠組の中では決定不能な話に過ぎない。 物理学が全知全能だと考える電波が届いてりゃ、話は別かもしれんが(ワラ
308 :
通り姿三四郎 :02/05/23 02:51
物理学が全知全能だと考えてる人が決定論者じゃないの? 1にもそう書いてあるよ。
309 :
考える名無しさん :02/05/23 05:10
なんでそんなに自由意志を肯定したがるのだろう。 なにものにも影響を受けない独立した意志なんてものがあるのか? といって全否定するつもりはないが。心情的な問題か。 このての議論っていつもどうどう巡りのループ状態だ。
>なんでそんなに自由意志を肯定したがるのだろう。 自由な意志を否定したら、法や道徳などで、 マズイことになるからだろ。
311 :
考える名無しさん :02/05/23 07:07
決定論が実証できないから。
312 :
考える名無しさん :02/05/23 09:08
このスレでは、物理板のようなサービスエース、リターンエース合戦
じゃなかったですよ。堂堂巡りのループが、徐々にほぐされて展開さ
れて、完全無欠と思われた循環にも、結構ほころびが見えてきたとこ
ろです。
>>242 とか。
>>1 そんなこと決定しても人生つまんなくなるだけだとおもうが・・・・・・
314 :
通りすがり :02/05/23 10:22
>>313 どうせ決めるかどうかも自由意志ってんだから・・
315 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/23 12:43
>>299 ははは氏へ
やりとりありがとうございます。
>責任という概念の発生根拠として、自由の概念を先行させざるをえない点に注意。
確かにそのとおりです,と言いたいところですが,あれからホッブズの著作を読み直すと,
少し付け加えなければならないことが出てきました。
責任という概念の発生根拠に,自由の概念は先行するのですが,自由の概念の根拠には欲求・意志という概念と
言語の性質が絡んできます。これについてはまた後程述べたいと思います。
>法による賞罰には、その個人が自由であったことが要件だということは認めるわけだね?
この点に関して、「その個人が自由で責任を持つ」ということは法による賞罰を行う上で必要です。
ところがホッブズの論理は,罰するということに関しては,「その個人が自由で責任を持つ」という根拠だけでなく,
「法に基づいて罰するのはその人が社会に対して害悪だから」という根拠も先行してあるのです。
ホッブズは決定論者であり、社会契約論者でもあります。
決定論を保持した上で,個々人の安全のために国家が個人を管理することを正当化しようとしています。
>行為者本人は、意志があり、行為を選択した、と考えているのだから。
はじめに述べたところの続きですが,ホッブズの自由という概念は,言語の性質の観点からは「選択肢があること」が作り出し,
欲求・意志の概念では,Aという対象とBという対象の間でのエネルギーの揺らぎがあることから作り出しています。
このときエネルギーの揺らぎ(ホッブズの中ではコナトゥスの揺らぎと言う)は二つの対象の間でどちらを選ぶか欲求が揺れ動くさまを表していて、
意志はその対象のうちのどちらか(3つ以上の場合はどれかに)に落ち着いたことを示しています。
対象を壁に見立てたピンボールの運動のような状態を自由と言ってもいいと思います。
さて,決定論の中でも行為者本人は,欲求があり,意志があり,行為を自由に選択したと言うことはできます。
だから不条理・理不尽に思えても,行為主体には責任があるのです。
316 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/24 11:48
>>315 補足
>さて,決定論の中でも行為者本人は,欲求があり,意志があり,行為を自由に選択したと言うことはできます。
>だから不条理・理不尽に思えても,行為主体には責任があるのです。
決定論であっても、人は欲求があり,意志があり,行為を自由に選択しているから,と言うのを補足。
あと,欲求のピンボール運動もその跳ね方はすでに決定されている。
人間は遺伝と環境の中で作られるので 自由意志は存在しないし、責任も問えない。 こんなこといまどき小学生でも知ってると思いますよ。 責任概念とは過去から永遠と続く因果関係を、 一人の人間の中に自由意志というフィクションを設定することで、 せき止め単純化し感情回復をはかるものだと思います。 ぼくは台風の責任と一緒と思います。
>>317 単なる信仰告白は結構
台風なら黙ってれば?(ワラ
319 :
考える名無しさん :02/05/25 00:35
>>317 最初の三行は蛇足だ。
残りの四行は、これだけではあまりに陳腐だ。
因果関係がせき止めなければならないほど永遠に続くような
アイデンティティのうちで、非自明なものがひとつでもある
のか?
320 :
考える名無しさん :02/05/25 01:12
「自由電子」の「自由」と、「自由意志」の「自由」は同じ意味なのだろうか? 違うとしたら何が違う?
自由があるかないかを考えることができるほどに ほどほど自由じゃないのかね。 おばかさんたち。
322 :
考える名無しさん :02/05/25 12:31
右手を動かせばパンを口に運べるのに それを知らずに餓死する奴がいたとしたら哀れだね。 呼吸することさえ始めから強制されていて自由ではない。 それを踏まえた上で少なからず融通の利く部分があるだろう。 明日君の家に赴いて御茶を入れることもできるし 君の意に反して殺すことも可能だよ。 俺がお前を殺した際は「定められた運命」だと思って我慢してくれ(w
323 :
2ちゃんねるで超 〜有名サイトだよ :02/05/25 12:35
324 :
考える名無しさん :02/05/25 12:45
赤ん坊を泣きやませる術があるとすれば それは首を絞めて殺すこと
325 :
考える名無しさん :02/05/25 13:03
自由意志が無いからどうなんだ?
今日俺は金を払ってもしゃぶしゃぶが食えないのか?
ならばこっちもそれないりに考えるが
人間的感覚に基づいてやりたいこと思う存分やらせてもらってるんで
別に世間を恨む動機はない。
「地球環境を破壊し続けている人間には一切責任などない。
なぜなら我々は拘束の身であり大宇宙の命令に基づいて行動しているからだ」
なんて主張しても、それは甘えであり逃避だろうな。
>>1 で、質問するが
自由意志が無いからどうなの?
俺は毎日楽しいよ(^∇^) アハ!
何の啓蒙にもならんことを言うなって
326 :
考える名無しさん :02/05/25 13:08
>>1 自由意志があってもなくても、未来を決めるのは貴方自身です。
何も思い悩むことはありません。
327 :
考える名無しさん :02/05/25 13:31
自由意志が無くても人間は幸せに生きていけます。 宇宙を認識し、探索し、知識を増し より一層の快適な生活を営んでいくことでしょう。 終わり
「獣医師」が、いなくなったら困るニャー それは、「じゅういし」だろ ! ・・・
>>1 『だからぁ?』のレベルを抜け出てないよ
その次が大事なんちゃう。
無いことがわかったからどうなのか? そこを述べよ
330 :
考える名無し仔猫 :02/05/25 13:43
自由とは自らに由(よ)ること〜、・・・ららら♪
>>315-316 いやはや、レスが遅くなってごめん。
なんだか問題がズレてきたので、一旦整理するね。
まず、おいらの出発点は
>>275 (おいらだよ)の
とにかく基本的に自由意志を認めておこうよ、
という点です。
この場合、「認識論が先行するはずなのに、それを不問に附そうと言うのか!」
と批判されそうですが、その場合には、それなりに応える用意はありますし(アヤシイかも)
しかしながら、問わないという選択もアリ、だとも思っています。
それは、実際、みんなは自由だと思って日々行動しているわけですし、
もし自由や自律的決断を否定してしまっては、法や道徳において、
様々な困難が生じてしまう、てことであり、
>>275 なんかで言おうとしたわけですね。
で、具体例の後、
>>298 で「決定論でも責任は問える」と主張されたわけですが、
ここから、ちょっと混線していますね。
そもそも、このスレの
>>1 は、「決定論が正しければ自由意志は成り立たない」
という主張を自明のものとしていますが、私はこれを支持しませんし、
そもそも決定論が正しいかどうかの議論は横に置いといても、
自由な意志は認めよう、でなけれは責任を問うことが出来なくなるから、
という話です。したがって、
「決定論でも責任は問える」かどうかは、そもそも問題ではなく、
「自由意志を認めなくても責任は問える」かどうか、が論点だったわけです。
よって、
>>298 の後半にはじまって、
>>315-316 で言及されてますように、
「人は欲求があり,意志があり,行為を自由に選択している」
と認められた時点で、議論は終結しているわけです。
もちろん「罰するということに関しては,「その個人が自由で責任を持つ」という根拠だけでなく」
という点も同意しますし、それだけで根拠が必要十分だとも考えていません。
ただ、自由意志をヌキにして、それを考えることは不十分だと主張したかったわけであり、
ホッブズの議論においても、それが如何なる質の自由であれ、
その概念を条件にしている点が重要だと言いたかったのです。
本当はここから、ホッブズの主張する自由の概念について論ずるところでしょうが、 このスレは決定論についてのものですから、自粛します。 もちろん、文脈からも察していただけるでしょうが、 ホッブズやJ.S.ミルらの論ずる自由の概念、 極論すれば「事実形成が可能なやり方として表象が可能な(複数の)選択肢があること」 一般的に「消極的な自由」(なんだかバイオスかかってそうな呼び方だけど(笑))と呼ばれる概念、 では、不十分であるとは、おいらは考えています。 が、それがホッブズの認識論(決定論なのかな?)からの必然的帰結なのか、 などは勉強不足で・・・ごめん。何とも言えません。 とりあえずは放っておいてもいいと考えるのは同様です。 では、よい週末を。
>>218 「魂」という言葉は、それが神秘志向的な法衣を纏わされている
ために、表立って使いずらのだと思います。
準備や覚悟・度胸の足りない場合は、またそうすべきでもありま
しょうが、「魂が肉体と別次元」という考え自体は、神秘に頼ま
ぬ決意に反するわけではありません。
私には、魂が肉体からの働きかけを遮断できないこと、魂に身体
性の焼印が無数に押されていることで、魂が肉体の奴隷であるこ
との証明に足るとは思えません。
335 :
考える名無しさん :02/05/26 02:05
そうなんだよね ひょっとしたら感情とか認識と言うのは 決定論の結果をそのときそのときで 受け取っているだけなのかも知れない 選択肢はあるのだろうか?
336 :
考える名無しさん :02/05/26 02:06
運命の奴隷なのか? 自己決定権があるのか?
>>333 バイオス → バイアス(bias)だね。
338 :
考える名無しさん :02/05/26 07:12
簡単に考えれば 自由意志の割合が多い→責任が重くなる→ミスったら絶望的になりやすい 自由意志の割合が少ない→責任が軽くなる→ミスっても希望が見出せる バランスよく両立していればちょうど良いと思う。
339 :
考える名無しさん :02/05/26 11:51
ビッグバンにな〜んの動機がなくても もう動き出しちゃったもんは止められないよね 肉つまめば痛〜し、酸素なくなれば速攻死ぬし、 生きたいと栄養たらふく背負い込んでも150年もたん この定められた中でどう生きるかだよ。 大工になりたくてコックになった奴はいない。 脳が正常に機能しなければ、世界を誤認したまま生涯を終わるであろうし 脳の環境ももちろん、心臓の動きももちろん、視力ももちろん 胃腸のコンディションももちろん、意志も、さわやかさを印象付けるイメージも 人間にとっては大事だよね。 自由が夢想にすぎないということは ミクロ的に分解していって生命などくだらん物質で何の取り柄もなく 電子的なよせ集まりの気まぐれな馴れ合いにすぎないと判断した後 自分の子供を前にして「私の子供ではありません」と言っちゃうもんよ 自由的行為などありえない中にポツンと子供が前にいる。それを否定する。 それぐらいの権利はあるよね 自己決定権があるかないかなんて笑わせるなよ 俺は王様に「ひざまずけ」と言われても「なんで?」て言い返すよ。
340 :
考える名無しさん :02/05/26 12:06
食って生きなきゃいけないのは人間の自由ではない。 もうすでに法則として定められている。 しかし食事が嫌いって奴はいないだろ? プログラムに空腹になり食することは 最高の快楽になるようにインプットされてるからね その”快楽”にも自分にとっては不都合と法則に牙をむくのならば 君はもう生命を享受するに値しない。 目も耳も心臓も脳も骨も肺も肉も全てはぎとって 音楽、遊び、会話、食事、セックス、学習。観戦、鑑賞、読書 睡眠、旅行、研究、探検、創作、ファッション全てを 地の果てに追いやり、真っ暗な孤独の世界にでも行ってらっしゃい。
面白い議論になってますね。ちょっと違う感じの意見を云ってみたいと思います。 物理法則が、自然数論を基礎にした数学に従うとしたら、次のように 考える事が出来ると思います(自然数論を基礎にしているのは当然です)。 論理学者ゲーデルが証明した「不完全性定理」を要約すると、 「自然数体系の解の中には、無矛盾であり、それが真であるか、偽であるか、 一意的に断定できない(証明できない)命題が存在する」となります。 これを「決定不可能命題」などといったりします。これは 高々自然数論の中にでさえ、決定不可能命題が無限に存在することを 云っているのです。このようなことから、単純に次のことが推論できます。 物理法則が無矛盾な数論の体系に依存するならば、 自然数論に決定不可能命題が存在する故に、 物理法則にも決定不可能命題が存在する可能性がある。 物理法則が無矛盾な数論の体系に依存しないならば、 エネルギーや運動を予測できない故に、 決定論的ではない。 従って、ここで云えるのは、物理法則が決定不可能命題を含まない形で モデル化(理論)されたものに限り、決定論的であるということになります。 しかし、現在ある物理理論は自然数論に比べるとはるかに複雑な形態を 有しており、これらの物理理論の中に決定不可能命題が含まれていないと 考える事はかなり不自然でしょう。 お馴染みのニュートン力学や相対性理論では、 全ての運動に対して一意的な解釈を与える事が出来るモデルであることから 決定論的であると云えますが、物理法則の全てを含む理論でないのは 周知の通りです。実際全ての現象を記述出来るような究極の統一理論が モデル化されたときに、その体系内に決定不可能命題が存在するならば、 ありとあらゆる物理現象を全て予測出来る訳ではないので、非決定論と いうことになります。また、究極理論が原理的に不可能であるならば、 物理現象について一意的な解釈を与えることが不可能になるので、 「物理法則」は非決定論になる、と云わざるを得なくなります。
またこんなバカな話続けてんのか。 過去スレでさんざん自由意志の無意味さについて説明したのに。
>>341 関係ないかもしれないけど、
ラプラスのニュートン力学的決定論的世界を完成させるのは、
帰納法における確率だと聞いたことが。
人間の未熟さを帰納法における確率論で補おうとしていたみたいだが。
実際ラプラスの確率論は後代に影響大。
断っておきますが、私自身なるべく物理学以前の前提で話を進めました。
345 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/26 21:27
>>331-333 どうも〜ルサンチマンです。
確かにあなたの言うように,「意志の自由を認めなくても責任は問えるか」と言えば,ホッブズは無理だと言うでしょう。
私も無理だと思います。
>「事実形成が可能なやり方として表象が可能な(複数の)選択肢があること」
>一般的に「消極的な自由」(なんだかバイアスかかってそうな呼び方だけど(笑))と呼ばれる概念、
>では、不十分であるとは、おいらは考えています。
>が、それがホッブズの認識論(決定論なのかな?)からの必然的帰結なのか、
ホッブズの自由はあなたの言うように「消極的な自由」でいいんです。
ちょっと説明しとくと,決定論も自由もホッブズの自然科学に関する論文からの帰結です。
ホッブズもまた哲学者であり,科学者でしたから(17世紀の流行!)。
実は『リヴァイアサン』を書く前にガリレオの影響を受けて科学論文(工学や弾道学など)を書いてたそうです。
346 :
ルサンチマン伊藤 :02/05/26 21:29
>工学ではなく光学ね。確か光の屈折に関する研究。
347 :
考える名無しさん :02/05/27 02:34
腕の筋肉は自分の意思で伸ばしたり縮めたり出来るわけだけど、 心臓の筋肉を自分の意思で伸び縮みは出来ない。 きっと生まれてから死ぬまで、心臓の筋肉は、脳の命令に従わないんだろうな。
348 :
考える名無しさん :02/05/27 02:50
>>347 それは人間の意志とは関係ないだけで
脳の命令にはちゃんと従っているんだよ。
機械は、 思ったとおりには動かないが 命令したとおりには動く。 精神のドメインと、そのインフラストラクチャのドメインの違い。
考える名無しさんって、複数いらっしゃるのかな? ”自由意志”と”意志の自由”の違いわかりますか?
条件が整わなければ生命は発生しない。 私達は条件が整うからこそ人間であり続けることが出来る。 人間という恰好の条件が整った状態においては もはや自由であろうが不自由であろうがいささか関係ない。 髪を切りたいと思ったらヘアサロンへ行けばいいし 小腹がすいたら飯屋に入ればいいんだ 誰にも遠慮するな。 人間のリアクションなどほとんど同じなわけで これといって個性も大差もない。 君が望むようにふるまえばいいんだよ、それだけ 感じた事、思ったことの大半は誰もが感じるし思うことでもある。 他人の快活さを妨害することなく 好きなように生きなさい。
>>351 その条件とか生命とはどういうものでしょうか。
353 :
考える名無しさん :02/05/29 02:45
物理法則って、観測事実に振り回されてどんどん書き換わっていく のが身上だっていうじゃないですか。 う〜ん・・・そんなもんで縛ってもなぁ・・・
>>353 いや、物理法則が時間に対して不変かどうかは別問題にして、
あなたの言っているのは「物理理論」のことだと思いますが。
355 :
考える名無しさん :02/05/29 19:10
>>354 このスレにおいて、それらはどう違うの?
>>355 この世界で、エネルギーのあり方がある一定の様相を呈するなら、
それは「物理法則」に従うからだと仮定する。
そのような「物理法則」を前提とした観測結果において、
観測事実と矛盾しない形で形式化された体系を理論と呼ぶ。
とこんな感じでよろしいでしょうか?
357 :
考える名無しさん :02/05/29 19:26
仮定で縛ってもな〜
>>356 まあ、仮定といっても物理学は基本的に全部「仮定」ですから。
とりあえず、エネルギーや運動って、ある枠組に沿って成り立つ
ものですよね。その枠組はいつまでも変らない(或いは変らないと
信じている)。これが法則。
で、先にある理論が、後に出た観測と一致しない場合には、理論
を修正する。
だから、法則自体は変らないが、理論はどんどん改良される。
今度はいかがですか?
359 :
考える名無しさん :02/05/29 19:56
それじゃ、物理学パラダイムに沿った、自明な言明になっちゃう じゃないですか。それとも、法則は「存在する」のですか?
>>359 そりゃ、自明だと思いますよ。自明っていうか、前提でしょう。
そもそも自然科学は経験論ですからね。
物理の法則は、ただ論理規則や数学に近似しているように見えるから
形式的な学として成立したという方があっているんじゃないですか?
法則が「存在する」かどうかは、神のみぞ知るのか、それとも
人間が究極理論を発見して解決するのか。
ただ、語として「法則」と「理論」の区別はつける必要がある
でしょう。例えば、同じ結論を導く為の、幾通りかの方法が
あるようなもんです。
もし
>>1 の云っている「物理法則」を、「物理理論」で置き換えたら、
>>人間の脳は物体、物質であり、「物理理論」に従う。
したがって、自由意志はない。
となってしまいます。
362 :
考える名無しさん :02/05/30 03:12
思った通り選択できるならそれでいいんじゃないの? 何か不足か? 女見て勃起することに異議を唱える男もいないよな だから自然のプロセスに畏敬の念を抱きなさい。 メッチャカレー食いたいのに、口が勝手に「きつねうどん一つ!」なんて言うかハゲ! 動機付け(人間の動機はどこから来るか)に夢中の奴は 男である自分の人生をダイナミックに表現することすらためらう者でもある。 そもそもいっぱしの男なら女の裸を見れば気持ちよくなるってもんだ この持って産まれた才能的動機を自分の満足と切り離してしまうと 結構不幸だぞ。好きなものに無我夢中でかじりついていたほうがよっぽど幸せ 自然の流れに沿って満喫してれば人生◎!
363 :
考える名無しさん :02/05/31 01:02
なんだ、自明(トリビアル)か。
百歩譲って、物理パラダイムを受け入れるとして、じゃぁ
>>118 の問いはどうなるんでしょう?
364 :
考える名無しさん :02/05/31 01:47
>>362 フロイトの「錯誤行動」について勉強シロ。
物理法則と因果則の絡めワザならば哲板よりも物理板でやってほうが有意義な気がするが
366 :
考える名無しさん :02/05/31 04:06
自由意志にフロイトは効力なし。 量子力学は決定論。
このスレ見て思った事 「普通に決定論哲学、心脳問題扱ったテキスト見た方がいいや」
魂・理性(イデアの記憶)→→心・思考←←脳・肉体からくる本能 ↓(葛藤) ↓ ↓(決意) ある行動 @魂・理性よりの行動 A脳・肉体より(本能)よりの行動 二つの選択肢があるため人間には自由意志があるし、魂もある。ように感じる。 例えば パンを半分分け与えるのが道徳心だ 腹が減ってどうしようもない 葛藤 行動(分けるか一人で食べるかどっちをとるかが自由意志) 魂や理性とするものが実は脳からくるものであるという可能性を考える 理性を生み出す脳の一部→→心・思考←←本能に近い脳 ↓ ↓(葛藤があるが自由意志で決定) 行為・行動 本能を優先するか理性・道徳心を優先するかその決定権は自由意志では? その決定が自由意志のように見えてじつは脳の対決による決められたシナリオなのではないか? そうだとする。 では漠然と将来こうなりたいと思った。漠然と自由意志について考えた。 そういうことを考えをはじめるきっかけは??脳が勝手に反応をおこした? 神が人間を生み神が脳を創ったそして脳が神を殺し神は。。。混乱してきました。 結論。 どっちでもいいけど、つんには意思がある。自由意志かどうか知らない。でも2ちゃんは 猫事件で嫌いになったからもうこない。これでさいご。意思により決定する。 ではさらば。
370 :
考える名無しさん :02/05/31 04:45
>>1 >人間の脳は物体、物質であり、物理法則に従う。
> したがって、自由意志はない。
>という決定論を否定する奴はいるのか?
同じように機械論やら運命論やらこの種の意見を持ち出してきても、
(理由がなんであれ、勘違いであれ)否定する自由意志はあると思うが。
結局、主観・客観二元論に陥るだけのような気がする。
371 :
考える名無しさん :02/05/31 04:54
意識はフロイトや哲学の自然言語ではなく今世紀はだんだん科学言語で 示されてくるでしょう。 昔、哲学は物質の事なんて言ってた?属性だなんだとわけ分からんうんちく 並べてたでしょう? 哲学も科学を学ぼうよ。言葉の遊びでなくさ。 意識の問題にE=m*c^2;これくらいのインパクトが哲学は 与えられるだろうか?無理です。 バイオ/ゲノムで問題になる事を哲学は議論したら? 意識は哲学の出る幕は今世紀はだんだん無くなるでしょう。
372 :
考える名無しさん :02/05/31 05:06
>>371 君こそ自然言語を学んだらどうだ?文章がおかしいぞ。
373 :
考える名無しさん :02/05/31 05:19
そうつっこまず。 そんなに変か?いいたい事は通じる程度は自然言語は出来ているけれど。 哲学の領域を出るなといいたいだけです。 物質の事なんて説明してた?哲学は。昔。 意識は?脳の処理は?今も昔と同じ状態だね。 領域外の事はしてもいいけど、 科学の領域に口ははさんでくれるな。 少なくとも科学を学んでから批判して欲しい。 それ以外は私も好きだが。 世界観の解釈なんて哲学の領域だろう。 現代物理の世界観を物理を学んでどう考えるのか? 哲学畑の人は? 世界は全て個々人で相対的なのだと。どう考えますか? 聞きたいですね。 意識についても、もちろん。 また、過去と未来の間の流れる時間での「今・現在」という感覚は 人は必ず持つので意識・自由意志を持つのだが、どう考えるのか? 人の脳ではどう「今」の意識を把握しているのか? --->結局、自然言語でなく科学的言語で示すしかなくなる。
374 :
考える名無しさん :02/05/31 05:24
これから人の主観性も解明されてくるので、哲学も科学学ばないと 時代遅れのこと発言する事になるよ。
375 :
考える名無しさん :02/05/31 05:28
>>1 物理法則に従うから自由意志が無いの??
俺が今、物質を作るために化学反応起こして採取する行為はこれいかに?
日常の自然環境の流れの中では絶対発生しない物が現れる。
これは何者の仕業??
あらゆるものを理解し行為に移し法則にのっとったルートにおいて
好き勝手に世界を変容する力が人間には備わってるよね。
自由意志を否定するってことは
ともあれ、このルートにしかのっとれない能力に挫折感でも覚えるのか?
376 :
考える名無しさん :02/05/31 05:33
選択できることが自由意志とはいえないでしょう。 その選択肢はどうやって知ったのか。 客体の情報によらない選択は可能か。 記憶によらない意志決定はあり得るか。 あと、意識と意志は違うってことはわかっているよね。
377 :
考える名無しさん :02/05/31 05:44
法則にのっとったルート以外は不可能だとして だから何なの?
378 :
考える名無しさん :02/05/31 05:47
法則を認識し生かしまくれる生命=人間
>>378 それが自由意志の力で無くとも
既にその能力があるだけで十分ではないか
380 :
考える名無しさん :02/05/31 06:35
意識はどのようなプロセスか考えねば。
今という感覚はどうして出てくるのか。
脳の処理は?
どう答えるんです?
>>375 だから意識がどのようなプロセスで起こるのか?
プラトンの三角形は脳の中で本当に完全な形で
在るのか?
もしくは意識のプロセスの中で関係として在るので
物理世界の物質は使うがそこに出来る関係は、
プラトン的か?
>>378 認識とは?脳のプロセスでどのように考えられるか?
そこを今一歩踏み込まないと自由意志なんててんで
構成仕切れない。
目でみた三角形は脳でどのように置かれているのか?
それはプラトンの言うイデアの世界にある三角形か?
381 :
考える名無しさん :02/05/31 06:35
>>363 >>118 でおっしゃっているような、
「物理的に同じ状態」や
「精神的に同じ状態」とはどう解釈すべきなのでしょうか?
このスレの趣旨であるような機械的宿命論では唯物論的立場に則る訳ですから、
精神を物質と区別することを必要としない
「一元論」を主張していることになります。
即ち「精神的に同じ状態」がどのような意味を持つかに関わらず、
「精神活動も物質の運動で定まり、法則に従うから決定的であるが故に
自由意思は存在しない」と
>>1 は主張しているのです。ラプラスの魔として
親しまれる有名な話です。
>>118 「物理的に同じ状態が、精神的に同じ状態であることを示す」
これは、鍵カッコ内の意味如何に関係無く、
スレの主旨からいってその必要性は全くありません。
また、物理法則の存在が自明であるかどうかを問うことも関係ありません。
「世界は全て物質から成り、物質は全て物理法則に従う」・・・前提
「人間は全て物質である」・・・前提
「故に人間は全て物理法則に従う」・・・結論
という論理があるだけです。精神ははじめから関係ないのです。
で、今更申し訳無いのですが、私は当然この機械論には懐疑的です。
別に擁護するつもりはありませんし、あなたの論敵でもありません。
私が最初に云ったのは、語用の区別の問題だけです。
>>361 で云うようなことだけです。
長たらしい文章より 言いたいことをスパっと述べて下さいよ。
384 :
考える名無しさん :02/05/31 08:20
なんか言葉の言い換えで進展がない。 結局機械論には懐疑的で・・・・。 又は機械論だ〜〜。一元論だ。二元論だ。 そればっかり。 意識が無きゃ自由意志なんか無い。 もっと生理学・脳科学・物理的機構・化学物質について 突っ込まないと、賢者の言葉のお遊びになってしまう。 何故こんなことが出来るか? 今だはっきりとした共通のコンセンサスがないから なにいったって言い訳できるから。 哲学者は質量を何て言ってました? アインシュタインが逃れられない結論を示した。 E=m*C^2 物資はエネルギ−と等価と。強烈なインパクトです。 この事も機械論的で懐疑的だって? いま電気使っている40〜60%はこの法則を使って 出来ているんですよ。 また、だから太陽は燃えている。 太陽が燃えるのをなんて言ってました?哲学者は。 脳のシステムの解明は、哲学では限界がもう来てしまっている。 精神は物質によるか依らないかは、例えば 心にうかんだ三角形という心像は、脳でどう生み出されるのか? それが、理想的な三角形なのか? これに答えられるのは、脳が意識下でどののように概念を心像化 しているかにかかっている。 動物と人間の違いは、確実に脳科学から解決されます。 そこに生物学も哲学も入り様が無いんです。 だから、哲学者も脳に関する事にはちゃんと勉強する 必要がある。 賢者の言葉遊びではないんだから。
385 :
虚しいループ :02/05/31 08:23
「俺はここにいる。言えることはそれだけだ」 とホザく奴を吹き矢で殺す。 「フっ存在すら証明にならねーよ(W」 そう言って立ち去るあいつ
386 :
考える名無しさん :02/05/31 08:34
精神や意識問題に今や哲学は多くのことは言えなくなっている。 生科学・医学・物理的機構・化学物質・・。 現実の事実が分かって来ているから。言葉の遊びじゃんだ。 脳問題は。 価値観や観念のみ考える資格がある。哲学は。
ついでに私自身この問題について考えるとすれば・・・。
「自由意思」の定義が形式的にならないから
>>1 のような論理では証明できない、ということ。
この種の問題はフロイトとは直接関係無いということ。
量子論が決定論であるのはシュレーディンガー方程式までであり、観測時の
波形収束には多様の解釈が存在する為に、因果関係全体を指して決定論である
とは云いきれないということ。
>>373 アインシュタインも哲学好きだったって知ってますよね?科学者兼哲学者も
ザラにいますよ。科学と哲学は対立する必要も無いし、科学を哲学的に
考える事について批判されるのもおかしい。問題はかの「ラプラスの魔」で
あって、この問題意識を持つこと自体は不自然なことではありません。
ラプラスの魔は論理的に構築された問題ですから、反駁なさるのであれば
論理的になさるのがスジかと思いますがどうですか?
>>少なくとも科学を学んでから批判して欲しい。
それ以外は私も好きだが。
別に批判していないと思いますよ。あなた何か勘違いしてるんじゃないですか?
388 :
考える名無しさん :02/05/31 09:13
>>387 いいえ、違います。ラプラスの魔はもう時代遅れなんです。
アインシュタインの哲学はスピノザで更に、世界がどう数
式で表せるかに重点が置かれています。単なる哲学づきと
は違います。
以前書きましたが、哲学の領域は価値観と観念であって、
科学のように客観的事実に口は挟めないと言う事。
だから、世界観の捉え方は哲学だと言ったでしょう?
エルンスト・カッシ―ラって知ってます?
世界観について理論を展開しています。1920以降のね。
数学も哲学では無いです。強いて近いとすれば言語学・
記号論理学かな。
脳の精神の問題も今世紀で哲学の出る幕は少なくなるでし
ょう。
もう一つ。
観測問題が入っても量子論は決定論的理論です。
よく間違えるんですけど。多くの人が。
389 :
考える名無しさん :02/05/31 09:21
>>387 20世紀前半。
哲学に何千年も無かった実在(リアリティ−)の概念が科学によって
注入されたんです。知ってました?
人間の思考なんて、自然の世界観を考えるほど高度でないんです。
実験/観察によって見出されたんです。
そして、それに”気づく”能力がそなわっているのが人間です。
つまり、人間の思考はそれほど高度でないが、非論理的に”気づく”
能力はあるって考えてます。
その事は
人間は既存の世界観からは論理的に(つまり思考では出て来ないが)
出て来ない事実を自然から観察する事で”気づき”、自身の世界観を
広げられる事から分かる。
これが出来るのが人間の脳なんです。
21世紀はもう脳を”科学”する時代なんです。
>>384 >>この事も機械論的で懐疑的だって?
いま電気使っている40〜60%はこの法則を使って
出来ているんですよ。
また、だから太陽は燃えている。
太陽が燃えるのをなんて言ってました?哲学者は。
あなたちゃんとレス読んでるんですか?機械論って云ってたのは
「古典的機械論」のことを指しているのは文脈から見てわかるでしょうに。
こんなの科学者だったら知ってて当たり前のことなんですよ。相対性理論
のことには一言だって触れてないじゃないですか。相対性理論に懐疑的
だなどという誤解がどうやって生じてくるのか全く疑問ですよ。
科学史をもうちょっと勉強した方がいいんじゃないですか?
それと、今の電気機械の技術は、別にE=mc^2の法則を使って
出来ている訳じゃないですよ。実用レベルで質量とエネルギーの
等価性の式を考慮するような技術は加速器などの実験施設の話では?
物理板でそんなこと云ってたらトンデモ扱いされますよ。
太陽が燃えている原因にしろ、例の式の産物であるというよりは、
核融合後の質量欠損と、それによる各種発生エネルギーの総和の関係が
E=mc^2に近似することで、改めて相対論の正しさを実証したと
いう解釈でとらえるのが普通です。
適当なことを云わないでください。
391 :
考える名無しさん :02/05/31 09:52
>>390 原子力はE=m*c^2の”理論”を使ってます。
太陽が燃えているのもそういってかまわないでしょう。
その理論が基盤にあるんです。無ければ出来ないし分からない。
哲学者はどういいました?
と言う事に主題がありました。
>>390 機械論は脳の機構に機械論が入ることが懐疑的ということに
ついての言葉でした。
機械論というのは物理的機構という意味で使いました。
主題は自由意志ですので。
>>384 >>386 >>388 >>389
ジョン・L・キャスティ 『ケンブリッジ・クインテット(The Cambridge Quintet)』 藤原正彦/美子訳 新潮社(1998.9.30発行) 1,900円 哲板の人なら、この本読むと良いかも。
>>387 ああ、いちいち書かなきゃならないのは面倒ですが、アインシュタイン
がスピノザやマッハに傾倒していたのは知ってます。私も確信犯的に云って
るんだから見逃してください。ラプラスの話が古典的な話だから懐疑的
だって、既に前のレスで書いてあるでしょ?
客観も含めて哲学は考えるでしょう。現代なら哲学者でも
科学の大筋や、その他あらゆる学問の未解決問題まで知っていたり
しますよ。
あと、数学が哲学じゃないのは勿論、論理学が哲学じゃない、というのも
知ってますよ。で、私が「哲学派」の旗をかかげて「科学駄目」って
云っているのとも違いますよ、念のため。
話が堂堂巡りになっているので元に戻したいんですが、
スレの根本の話から云って、科学哲学的な話題なので
今更学のカテゴリーを問うことでも無いと思いますがどうでしょう?
私はエルンスト・カッシーラを知りません。
最後に。量子論の観測問題を含めて決定論であるというような解釈がある
ことは、私の読んだ文献が古いせいか、聞いたことがありません。
どう解釈すれば、決定論になるのかご教授願えないでしょうか?
394 :
考える名無しさん :02/05/31 10:45
最近現れた人たちよ、
>>242 が、クリティカルな問いを発しているぞ。
このへんどうなんだ?
>>391 まあいいでしょう。「太陽は石炭で燃えている」っていうのがありました。
面白いですね。でも、私には関係無いです。
私は科学も哲学も好きで、どっちの肩を持つ訳でもありませんが、
「哲学も科学を学べ」という発言に対して、それは哲学者に失礼な
話だと思っただけです。現に現代の哲学者には論理学者が多く、
数学に精通するものも多く、物理学をよく知る人も少なくないからです。
また、様々な哲学的な問題提起は、これまでの科学に対しても
充分寄与してきたと思います。
私がなぜこのような議論をする必要があるのか心当たりが無いのですが、
只最初に「スレからして物理法則と物理理論は区別しないと妙だ」と
云っただけなんですよ。
>>機械論は脳の機構に機械論が入ることが懐疑的ということに
ついての言葉でした。
機械論というのは物理的機構という意味で使いました。
>>384 ではそんなこと触れていないし、私も触れてません。
>>E=m*C^2
物資はエネルギ−と等価と。強烈なインパクトです。
この事も機械論的で懐疑的だって?
どうやっても
>>391 の発言と関連がありません。しかも私が「機械論」の
言葉を使っているのは、「機械論的宿命論」を指しているのであって、
脳の機械論的還元とは直接関係ありません。論点が違います。
>394 ワラタ!
>>393 論理学って哲学じゃないのか?
辞書で引くと「哲学の分野」みたいに載っているのだけれども
>>394 いえ、元々俺はこの話題とは無縁だよ。でもまあいいや。面白いから。
前半は、世界の全てを含む波動関数の話ですよね。
しかしハイゼンベルクの式に従う限り、位置と運動量のとり得る値は互いに
無限通りの組み合わせがあるとしか解釈出来ないのです。観測問題
が生ずる限り、粒子的な因果律を基準にするか、波動の因果律を基準にするか
の壁は依然として存在するでしょう。
後半は、上の階層について述べられていますが、「上の階層」という語義に
ついての理解が困難です。仮に「メタ」と解釈するとして、
この階層は論理的な階層について述べておられるものですか?
>>397 論理学自体昔からあってアリストテレス時代から受け継がれて今に至るが
哲学的な側面は強い。現代ではもっと形式化されて記号論理学になった。
しかし哲学と完全に同義に扱えるとは云いがたい。
記号論理は人類史上最も完成された純粋な学であり、科学的な側面も
強い。
余談として、昔は音楽も数学の一分野として扱われた。
純粋哲学には、そもそもハッキリした範疇は無い。
400 :
考える名無しさん :02/05/31 17:09
何度も言うけど自由意志が無いからどうなのさ? その次を言ってくれよ 全く発展性がないよ。 「宇宙は生きてない」というのが仮に事実だとしても おいらにとっては痛くもかゆくもないんだよ。
401 :
考える名無しさん :02/05/31 18:58
>>373 科学でどうやって存在論を論じるのか。
取り敢えず、哲学が言葉遊びにしか見えないなら、哲学やらなきゃいい。
俺は優秀な脳外科だ。今まで何度も脳にメスを入れたが、意識なんて物はなかったよ。古いジョークさ…
何事にも結果があればその原因がある。 世の中は決定論で動いているのでしょう。 しかし、誰もが全知全能ではなく有限の存在なので 未来を完璧に予測できない。 予測できないから自由意志を持っていると感じる。
「自由意志」はある。 これから証明する。
405 :
考える名無しさん :02/05/31 21:38
自由意志なんてあまり意味のない言葉だな。自由ってなんだい?
406 :
考える名無しさん :02/05/31 21:42
>>405 お前が考えてることが
本当にお前の意思か?ってこと
こういうスレが立ち関心がこれほど集まるというのは おそらく人間の主体性、「意思の自由性」の存在に対しての「確信」 に危機を感じるからだと思う。この時点で生きている中で「意思の自由性」 を確信を感じていた(意思に不自由性を感じていなかった)ということになるから 証明されているくさいけど。。。 とりあえず 続き しかし自由意志を否定している方たちはこれまで意思に不自由性を感じていましたか? ある外部からの情報が無く選択肢が一つしかなかった場合。 これは人間の能力の限界等の問題で自由意志とは関係ない。 選択肢が幾つか与えられこのなかで選択する場合 これは人間は「完全に自由に」選択することができる。(分かりやすい例で、どのカードに触れるか。その選択に意味・価値の違いがない) それで「選択した結果が結極物質の法則に従っていた」 これ何の意味があるの?これって「この本、島根県で作られていたんだ〜。で?」 っていうのと同じじゃない? あ それともこれ前提?
>>406 それに逆らおうとして(自由意志を獲得しようとして)なんらかの 選択肢を選んだ場合。これ自由意志だよ。
409 :
考える名無しさん :02/05/31 23:26
410 :
考える名無しさん :02/05/31 23:39
生命というのは一種の重力だろう。
411 :
考える名無しさん :02/05/31 23:49
>>1 人間生命の核心をつかめないからって、そう焦るなよ
一次作用として利己的遺伝子の仕業でこの世界が成り立っているとしても
人間による第二次作用のアクションによって
今まで利己的遺伝子が地道に構成してきた世界を一瞬にして破壊する
力が人間にはある。
412 :
考える名無しさん :02/06/01 00:01
>>392 一週間本屋で立ち読みして読みました。
下手な言葉遊びの哲学者より本質に迫った
事を言ってて難しいがいい本です。
皆さん読んだ方が良いですよ。
413 :
考える名無しさん :02/06/01 00:14
>>411 それが可能な人間の脳ってやつはどうやら特別中の特別ですね。
414 :
考える名無しさん :02/06/01 00:22
>>1 物質が物理法則に従っても、その間の”関係”はプラトン的で
はないかと考えられませんか?
三角形を我々がイメ−ジする時、脳の物理的機構がどのようにして
生み出しているか[心像問題]を考えないと、一般的精神や自由意志
はいきなりじゃ困難で、自由意志や意識・精神と言う言葉を使って
の話になって前に進まない。もう少し客観的事実の言葉もいてれ議論
してはどうか?
「脳の活動は、少なくとも脳のニュ−ロンのシナプスの発火(電気信号)
であり、幾つかの脳内物質によっても精神が変化する部分があるとい
う事が分かっている・・」
少なくとも科学的言語を使って精神や脳の活動を議論している。
そのシステムが本当のところどうなっているかは、まだ誰も
わから無いが、科学的根拠での議論。
自然言語では決定的な共通のコンセンサスを持っては解決できない。
脳の関連の問題は。
415 :
考える名無しさん :02/06/01 00:27
惑星を爆破してキャッキャっと笑うことが出来るのも 人間の特徴だろう。 こんなひでーこと計算ずくでやる奴は人間しかいない。
416 :
考える名無しさん :02/06/01 00:31
「質量とは何か?」 哲学者は色々考えをこねくり回して 「形質の一つだ」 「質量の軽い物質は地上には無く天上に属する」 ・・・・・・・。 こんなうんちくの感じで、脳関連の問題に有無を言わせない強制力を 持って答えられるか? 脳の関連の問題;意識・自由意志・心像・精神・・がこんなうんちくで どうやって共通のコンセンサスを持って解決できます? これじゃ 「脳はうんちくの塊である!!」 となってしまいかねない。 「動物と人の脳の違い」 これについてどうやって答えるんです? 現実の事実のみをかたる科学のみが、 進化の過程での脳の進化の違いにメスを 客観的事実として答えられる。 意識や自由意志と言う言葉を使ってそのもの自身を 語っても進展はしない。 「質量とは?」の議論の様に。
417 :
考える名無しさん :02/06/01 01:06
哲学の事はどうでもいいんだよ 科学的研究を行った結果 人生を自由に操作する力(意志)など無いってことが判明した場合 どうなんよ? 「それでも地球は回っている」ってか? だったら始めから討論すな!ダヨネ
士農工商の世界じゃあるまいし 自分のことは自分でやれよ
419 :
考える名無しさん :02/06/01 01:37
>417他 …何のためにこの板来てるんだ?
>>382 あぁ、それなら納得がいきます。
「自由意思はない」を、物理パラダイムの決意表明として捉えるわけですね。
421 :
考える名無しさん :02/06/01 01:48
意識下にあるものを統制する能力も責任もないのなら 犯罪者に罪は無い。『罪を憎んで人を憎まず』>1さんにできるのかなぁ?
422 :
考える名無しさん :02/06/01 02:36
>>416 中世哲学と現代哲学は違うんだよ。
哲学って「考える」ことなんであって、それ自体実害はないだろ。
そりゃ、昔は実害もあったかもしれんが、今は違うよ。
韓国人に「日本人は昔酷い事をした。あんたもその血を引いているから
同類だ」って言われたらどうすんだ?
君が言っているのは範疇誤謬なんだよ。論点違いなんだよ。
>>414 ペンローズの本かなんかで読んだの?
プラトニックな世界観を用いるのは、いかにも哲学的じゃないのかい?
科学思想などをいかに含めて概念化をするのかが、哲学だから。
哲学は科学を無視しない。科学も哲学を無視しない。
>>プラトン的だとは考えられませんか?
って言っても、それではどうしようもない。
あなたの理屈を使うと、「物質は物理法則に従う。物質は観念的関係によって、
物理法則に従う。」だぞ。君は純粋哲学的な思考法を取るのか?
自分を見失っているんじゃないのか?
もしプラトニックな関係が科学言語で記述されたら「客観的事実」になるんだぞ。
無限機械自身が、それより上位のシステムを独自に構築して、
下位のシステムに矛盾が無い事を証明する方法はあるのか?
上位のシステムは、定義上プラトニック的関係と言えるが、
その機械がアウェアネスを引き起こして上下関係を把握する機能を有するか
は問題だぞ。君がその本読んでいるならわかるはずだ。
科学であっても、関係概念については、哲学になるんだよ。
言葉遊びなんかしてないぞ。
>>420 いえいえ、ちょっと待ってください。
>>384 で云っているのは、1の云っていることがあの三段論法と同じだと
いうことです。厳密には。
「全ての物理現象は物理法則に従う」
ということが自明的言明であるに過ぎません。
自由意思が無いっていうのは、ちょっと飛躍しているように思います。
問題は、自由意思がないと云う結論が適当かどうか、です。
だから、これを否定する根拠があれば、ビシバシ叩くのが主旨です。
426 :
考える名無しさん :02/06/01 10:12
望遠鏡及び地球が丸いことすら確認されていなかった時代に いくら地動説を力説してもアンチテーゼを出されれば 却下になってしまうのがオチであろう。 自分の興味としては自由意志があるかないかよりも 世間的にまかり通っている”霊”というものが実在するのかどうかを知りたい。 しかし現段階ではどうもがいても証明にたどり着く事はできないだろう。 新しい装置が開発され、その援護に預からないことには まだまだわからないことが多すぎる。
427 :
考える名無しさん :02/06/01 10:21
>>426 証明できる範囲としては今のところ自由意志も霊も無いと言った方が正解です。
428 :
考える名無しさん :02/06/01 10:54
>>427 「証明」じゃなくて、「実証」ですよね。
証明できることの方が、むしろideal。
429 :
考える名無しさん :02/06/01 11:11
>>416 意識や自由意志と言う言葉を使ってそのもの自身を
語っても進展はしない。
いやぁ、物理法則を直輸入する前に、物理法則を傍らに置いて、
わき目に見ながら、意識や自由意思に関する議論を鍛えなおす
のなら、それは良いことだと思いますよ。
たとえば生物学は、そういうスタンスで展開してきたように思
えませんか?
430 :
考える名無しさん :02/06/01 11:12
>>421 『罪を憎んで人を憎まず』ができそうにない人がほとんどだから、
自由意志を肯定し、責任を問い、
人を憎む前提を保証するような社会を続けたいわけか?
たまには無我論や無主体論でも勉強してくれ。
431 :
考える名無しさん :02/06/01 11:21
法則が無我でも、現象が無我とは限らない。 現象を中心に規約を作るか、無我の法則を中心に規約を作るか。 後者だと、条文に「人」の字が出てくるのは、いったい何ページ 目になることやら。
433 :
考える名無しさん :02/06/01 19:00
>>「神を信じるのか?」という問が発せられるとき、 「神」の何を信じるのか?「神」をどう信じるのか? >>という前提がいつも無視されているのではないか? 前提を敷く議論は遊戯でシュッシュッという雑音を 気にせずに良くなりますね。 駄目とかではないと思います。特にこの様な論題には。 私はそう考えたければ/信じたければそれで良いという考えなんで。 神について「何が/を」と言うのは僕は使いません。
434 :
考える名無しさん :02/06/02 00:03
決定論は究極の悟りになり得るね。 善も悪も無い。すべては物質と物質とが織り成す必然的な神秘。 たとえ暴漢に襲われ殺されたとしても、あるいは誰かを殺すとしても それは大いなる物理の法則によりもたらされるもの。 自由意思の無い世界。究極の免罪符を持つ決定論者。 そしてこの世のあらゆる罪を愛を持って許してあげて下さい。
435 :
考える名無しさん :02/06/02 05:35
では、決定論は悟りであり愛である、ってことで終了しましょう。
436 :
考える名無しさん :02/06/02 06:29
世界が解析力学で表せるとなると自由意志はなくなる。 これって解析力学の範疇で証明出来るの? 考えきかせて。
437 :
通りすがすがしい朝@ :02/06/02 18:32
「無・我=自由・意思」という罠。
438 :
考える名無しさん :02/06/02 22:45
科学の有効性は認めるけれど、 科学は物質が「いかに」存在するかは実証できるかもしれないが、 物質が存在するとは「いかなることなのか」を解明することはできない。 それを考えるのが哲学なのだと思う。 したがって、科学も哲学も、どちらも無視できない。
>>438 何を読んできたんだ?今まで。
それを考えるのが量子論だろうに・・・。
『無のゆらぎ』から、偶然発生したのが物質宇宙なのに、 システムが動脈硬化しないように安定を模索して、 さまざまな形態に変化し続けるのが宇宙なのに、 条件に依って、粒子になったり波動になったり確率分布したりするのに・・・
442 :
考える名無しさん :02/06/02 23:27
自由意志が決定論であるとしても、普通の生活で自分は自分の考えで 動いているという感覚はどこからくるの?
443 :
考える名無しさん :02/06/03 00:03
自由意志はプランク定数の向こうにあります。
445 :
考える名無しさん :02/06/03 02:55
この世は無限の可能性のうちの1つ(つまり1/∞)だから、 無限の通りのうちの1つ、ということで未来は無限通りに決まっている とは言えないかな? それとも1通りじゃなくちゃダメ?
>>445 その前に、なぜその世界観が妥当であるか示さないと駄目ですな。
俺はこう考える。 今この現在からほんの次の瞬間 自分の脳内も含めて宇宙の あらゆる原子が違う位置に移動している。例えば俺が次の瞬間窓の外を眺めよう と思えば席を立つし 疲れていたので寝ようと思えばそのままベットに横になる。 同じ横になるでも自分の体を構成している原子の軌道の選択肢はそれこそ 実質的に無限だ。 ということを推し進めて考えていくと 実はこの宇宙には(この 場合あの世といってもいい) ほんの次の瞬間の選択肢はほとんど無限に近い 更に そのほんの次の瞬間の選択肢は更に複雑になり無限大になる。それらの全ての軌道が ハードディスクのように宇宙のどこかの別次元の領域にデータとして保存されており 自分の心がそれらのデータの中から瞬間瞬間でたった一つのルートを選択していると 考えてもいいんではないかと。宇宙には全ての選択肢(原子の軌道も含めて)が用意 されているので あたかも決定論のように物質の動きの一環として心も説明できるよう にみえるが 実はその心自体が次の瞬間の全宇宙の全ての物質の軌道をワンセットとして 選択しているので本質的には非決定論なんではないかと思ったりする。 この論理で いくと 未来予知などの特殊能力も説明できる。
448 :
考える名無しさん :02/06/03 10:36
世界はあらゆる可能性が綿密にプログラムされた高度なゲームであり、人々はそれぞれの 主人公として暮らしている。主人公たちは自由な意思を持って行動していると思っているが それがプログラムされたものだとは夢にも思わない。 だがある時、世界にしくみに疑問を持つ主人公が現れた。彼は悩み考えぬいた末 この世はすべてプログラムされた”つくりもの”であることに気づいた。 そして、それに空しさをおぼえた彼は深いため息をつき死を選ぶことにした。 その一部始終を見ていた画面の外にいるプレイヤーは、何故自分の思い通りにゲーム が進まないのかと深いため息をつくとリセットボタンを押した。 さらにその一部始終を見ていたこのゲームのプログラマーである存在は、どうしてみんな こんなに簡単なゲームをクリアー出来ないのかと深いため息をついた。山ほどの攻略本を 配ったはずのに・・。聖書に論語、まんが道・・。
449 :
考える名無しさん :02/06/03 14:17
要素還元論とそれに則って一対一対応的な因果論に基けば確かに宿命論を考えられる。 しかし、人間の認識は相対的だから、変化する世界を相対的にしか捉え得ない。 相対的な一つの見え方に過ぎないものに依っては未来を完全に予測することはできない。 だから要素還元論(認識されたものが完全に客観を言い当てている)は破綻する。 よって、一対一対応的因果によって考えることはできない。 世界が決定的であっても完全に世界の変化の様を予測できない。 何故なら我々自身が変化(自然・社会・歴史でも同じこと)に内在的であるから。
450 :
考える名無しさん :02/06/03 14:20
人間の大脳が形成される道のりは電子のきまぐれによって生じたもの 俺達はラッキーなだけ、まあ中にはアンラッキーな奴もいるが
一個の対象に一個の対象が対応している因果というのが一対一対応的因果論、 しかしこの「一個」というのが、実は自己の既存知に依った相対性と、 北とみるとき、同時に南を見れないのと同種の相対性の二つの相対性により 絶対的なもの=客観を言い当てる事にならない。 と同時に、相対的であっても、未来を予測しないということもまたありえない。 常に相対的な知で未来を予測することになる。そして外れること=期待通りにならない、 ことがあるから、そこから自己の思考は相対的でそれに対し絶対的なものがあると考えることになる。
宿命論は、二元論的に、器としての世界や因果とその中にいる 中身としての私を想定するから起る。 世界から無縁の自己を想定し、それが世界を観察できれば、 なるほど客観的で完全な知になるが、実際には我々の存在も世界だし、 我々の行為も世界であって、器とその中身と言う関係ではない。つまり内在的。 例えば宇宙船地球号という考え方があるが、 器としての地球とその乗員としての生命や人間という発想だが、 そうではなく、我々自身の総和が地球であり、我々の行為の総和が地球という変化の過程である。 無機物有機物というのは相対的な恣意的な見方に過ぎない。
完全な自由論=無因論も完全な決定論=宿命論も成り立たない。 この二つは違うように見えて実は同質上の方向が違うだけ。 何故なら、前者は因果性はないから自分が完全に決めると称し、 後者や因果によって決定しているから行き着く先で 何をしても意味がないという類を口走るが、 どちらも二元論的に、絶対ではないはずの自己に 何故か例外的に未来をつくる=未来が分かると称しているからだ。
二元論は変化の過程としてある世界を停止させて捉える時に派生する。 予測測行為(目的・意志・欲等々)によって これから何をしようかと考えるとき、「何もしていない私が何かをする」 というように考えてしまう。「私は見る」と考えるとき何もしていない私が何かを見る と考えてしまう。私は見ると述語付けられる以前に見つつある私としてあるはずだ。 何もしていない私=独立自存の私が、同じく独立自存の世界に何かするということになる。 これが二元論に繋がる。生きることは変化の過程を停止させて捉える営みの連続に他ならない。 だから二元論が派生する。
455 :
考える名無しさん :02/06/03 18:48
456 :
考える名無しさん :02/06/03 19:33
>>440 スマソ、哲学を専攻したいと考えている厨房です。
今の時代、哲学で語る場合でも、科学の知識は必要かなと考えています。
量子論で存在論を論じることができるのですか?
参考図書があれば教えていただきたいです。
>>456 高校や大学教養レベルの数学や物理などをしっかり身につけておく事。
もちろん、論理学や英語などの語学、歴史や文学などの教養も当然。
それからでも、けっして遅くない。
基礎のない連中が論じようとすると、ここのようなハメになる。
>>449 書くことほとんど無くなってしまった…
>>398 =
>>354 氏へ、
>>449 ,
>>451-454 をもって、お返事とさせて
いただいてよいでしょうか?
繰り返しになりますが、精神の状態・働きと、その物質的基盤との間の
対応関係をアプリオリとする、大胆不敵なパラダイムが、このスレを太
らせてきた諸問題を引き起こすのです。その結びつけは、自己言及を許
すパラダイムならば、精神の働きに帰すべきなのです。
さて、暗礁を避けたところで、批判的な考察はこの辺にして、では、自
由意思の設計図はどの様に引いたものでしょうか。
鍵は、もちろん自己言及にあります。
自己とは、自己の構成基盤が、自己を認識し、それに基づいて自己を 構成する働きの、歴史的連なりである、という、弱い主張から出発しま しょう。このつながりは、検証にかけられない一回性により、シャノン的 情報である必要がありません。これは、大きくくびれてしまった神経系を もつものが背負わされる、不可避の条件です。このため、因果の連なりは、 混じりけの無い純粋な因‐果である必要は無く、何がしかの非自明性さえ あれば、contingency が混じっていてもかまわないのです。 なぜなら、ここから急に欲張って、自己矛盾する存在を記述対象から 締め出すべく、この自己再構成の運動を循環、あるいはせいぜいアト ラクタへの収束過程に限定するならば、物質基盤と精神との結びつけ は凍結する運命にあります。カオスを持ちこむことは、一見糸口に見 えるかもしれません。しかし、カオスに巡回軌道と確率的遷移過程を 見ようとしたり、無限に細切れにされた表象空間を求めたりするなら ば、とたんに同じ罠に陥ります。この主張は、強すぎます。
しかしこのままでは、果てしなく広い内部空間を、あてど無くさ迷う ことになってしまいます。かといって、定常的な淘汰圧や本能、基本 情動といった外部要因に、すべての方向付けを預けてしまっては、元 の木阿弥です。 そうではなくて、ここで自己を見つめる自己を、考えます。大きくく びれ、通信能力をはるかに上回る表象能力を潜在的に持ってしまった 神経系は、その矛盾を許された自己再構築過程のなかに、歴史的自己 同一性に密航していたcontingencyを燻し出す作業すらできるほど、 暇を持て余すのです。そして、一気に虫干しできない以上、この瞬間 こそは、また新たなcontingencyの潜り込む機会でもあり、すなわち、 自己が刷新されるときなのです。
一方、系統発生過程において、現在下等と目されていた頃に獲得した 脳機構の一部は、旧態然とした機能を人間においても発揮します。 ただし、その置かれる空間は、かつて圧倒的な強制力を持っていた感 覚器からの求心神経の入力だけではなく、それをはるかに上回る規模 の、自己矛盾しつつ発展する、内部表象の空間なのです。 自己保存傾向を備え、本能的衝動に駆動され、実践的・効果的な行動 を生み出し、つつましくも推論し、しかも決定論的には記述され尽く さない、自由意思、とは、そのように成り立っているのだと思います。
462 :
考える名無しさん :02/06/04 00:02
なんか言葉を言葉を重ねているだけって感じ・・・。 大風呂敷を広げないで、日のあたる部分で議論しようよ。
463 :
考える名無しさん :02/06/04 07:46
>自己言及 >自己を見つめる自己 自己ではないものを自己だと感じて それを言及したり見つめていたりしているのではないのか。 思考も記憶も客体的なものだと思うのだが。
464 :
通りすがりの野茂 :02/06/04 14:02
他者ではないものを他者だと感じて それを言及したり見つめていたりしているのではないのか。 思考も記憶も主体的なものだと思うのだが。
ここらで改めて「自由意思」の定義を考えてみては? すでにあるなら引用させてもらうとか。 定義不可なら、自由意思を語ることは無意味となる。
467 :
考える名無しさん :02/06/04 21:05
>>466 よ、そう急くな。define と divine は、紙一重だぞ。
468 :
通りすがりの野茂 :02/06/04 21:15
>自由意思 「自由」から生まれた「意思」じゃないの? でも、「自由」を理屈で規定するのは不可能かも、 論理の限界、というか自己矛盾というか、、、 しかし、それが「自由」の存在の証明にはならんかな
自由意思=永続的な主体=魂
ん〜自由意志ですか・・・。 性欲とかって本能に従ってるからプログラムな感じ。 選好や考えかたって経験から来ると思うから受動的だと思う。 俺はビュリダンのロバなんでしょうか。
471 :
考える名無しさん :02/06/05 09:58
願望や信仰やポエムのような意見だけの奴が 議論をループさせている原因だな。
472 :
考える名無しさん :02/06/05 10:10
>>463 >>464 >>459 における「自己」は、自他分離が完結していない
のではないでしょうか。だとすると、お二人の問いかけ
は、全く同じということになりますね。この問いかけを、
自ら行うのだ、というのが、
>>460 の主張だと思います。
ループの中でループ
474 :
考える名無しさん :02/06/05 10:32
誰かループを破ってくれないですかねぇ・・・
475 :
考える名無しさん :02/06/05 12:43
責任や罪なんていう概念で対処しようとするから無理があるんだろう。 被害者意識のある犯罪者は多い。 そのような者に 「おまえの責任だからおまえを罰する」と言っても 「生まれ育った環境が俺を犯罪者にさせたんだ俺も被害者だ」などと言って 効果ないでしょう。 だからといって犯罪者を野放しにしたり好き放題にさせたりするわけではない。 責任や罰ということではなく、措置とか更生ということで対処すればいい。 自由意志論的な概念ではなく、社会契約論的な概念で対処した方がスムーズ。
476 :
考える名無しさん :02/06/05 13:05
物理法則=覆されないmight の前で、社会契約論は 説得力を持たないのではないか?
477 :
考える名無しさん :02/06/05 15:45
ちょっとためしに、視座を整理してみます。 @有るように感じられる。 「無いんだ」と、他に主張し、自ら言い聞かせなければならないほどに。 A物理法則をもってしても、無いことは確認されない。 自己言及してる人たちの立場ですね。 B社会契約を論ずるにあたり、必須の概念である。 責任とか、論じているときですね。 まだあるかもしれませんが、これらの視座の間を跳躍するのは、 基本的にご法度とすべきだと思うのです。なぜなら、それぞれ の視座で、自由意思の存在の可否を認定するための、周辺材料 があまりに異なるからです。 いかがでしょうか?
478 :
考える名無しさん :02/06/05 19:35
つまり、
>>476 は、視座Aから視座Bへの越境攻撃につきペケ、と?
479 :
考える名無しさん :02/06/06 06:06
>@ 自己感覚、自由感は不思議としかいえない。 >A 自分の眼を自分の眼で見ることができないのと同様に、 自己言及や自己認識は不可能ではないのか? 物理法則(客観的?)でも自己言及(主観的?でも実は客観的?)でも 主体の確認は困難だと思う。
480 :
ダメだこりゃ〜 :02/06/06 06:25
前田は『沈黙するソシュール』。 以上3つと『ソシュールの思想』は良かった。
481 :
考える名無しさん :02/06/06 07:27
まず、どの体系で議論するか明確にしないと・・・・。
482 :
シェイクスピア :02/06/06 16:37
天と地のあいだには、おまえの哲学では及びもつかないことがあるのだ。
483 :
考える名無しさん :02/06/06 18:42
量子力学的不確定性まで持ち込んだら、 決定論には陥らない。
484 :
考える名無しさん :02/06/06 18:55
485 :
考える名無しさん :02/06/06 20:28
神がサイコロを振るという解釈が、コペンハーゲン解釈。
486 :
考える名無しさん :02/06/07 01:48
神が振るサイコロに従う、それで自由なんか?
487 :
考える名無しさん :02/06/08 04:16
自分はどこにいる?どこにある? 自分の主体も、他人の主体も、神の主体も、アートマンやブラフマンも、 不確定だとすると無主体の可能性がありますな。 起点・基点のない世界。
488 :
考える名無しさん :02/06/08 15:14
物理学における不確定性をもちこんだところで、 自由意志は守れないよ。 自由意志を守るためには「決定されていること」から 逃れるだけじゃ駄目。つまり決定論を叩くだけじゃ駄目。 だって、体が法則的な予想に反して、ただでたらめに 動き出しても「自由だ」とは言わないでしょ?
誰かこのスレ内の議論のループ数、カウントしてみてくれ。
490 :
考える名無しさん :02/06/08 17:57
林ますみの行動は自由意志では無いと?
491 :
考える名無しさん :02/06/08 18:02
究極的にはあれもまた自由意志ではない。法のレヴェルでは自由意志。
492 :
考える名無しさん :02/06/08 18:08
都合の良い時だけ自由意志かよ(w アホらし
493 :
考える名無しさん :02/06/08 18:09
宅間 守の行動は自由意志では無いと? ネオむぎ茶の行動は自由意志では無いと? 酒鬼薔薇聖斗の行動は自由意志では無いと?
494 :
考える名無しさん :02/06/08 18:17
可能性と実在性についてそれぞれ分岐、単線を 考えればモデルはすっきりする。
495 :
考える名無しさん :02/06/08 18:19
つーかよぉ 林ますみが死刑で殺される現象も 自由意志の入る余地はないのか?? あいつは自然現象の風任せで死に至るのか? いやいや、俺らが殺すんだよ。
496 :
考える名無しさん :02/06/08 18:20
死刑執行人が殺します。
497 :
考える名無しさん :02/06/08 18:20
宮崎駿の行動は自由意志では無いと?
498 :
考える名無しさん :02/06/08 18:23
499 :
考える名無しさん :02/06/08 18:26
社会的、法的にいえば自由意思だが、もっと大きな視点でいえば自由意思ではない。いわば宇宙膨張の展開のいちエピソードにすぎない。一種の自然現象。
500 :
考える名無しさん :02/06/08 18:27
林被告のサジ加減で人々は死に絶えました。
501 :
kd;ヴぁん; :02/06/08 18:45
んkl;vんj@あp@、こぱ@c、うfmぎおr;z
502 :
考える名無しさん :02/06/08 20:49
>>499 本来「自然」という言葉自体が、意志を自由とはさせないものである。
よって、自然現象であるとして自由意志を否定するのは、一種の論点先取の誤謬。
503 :
考える名無しさん :02/06/08 21:35
>>494 >>可能性と実在性についてそれぞれ分岐、単線を
>>考えればモデルはすっきりする。
これだけじゃ分かんないYO
気になるので説明してね
倫理ってものを除けば、人殺すのも、マラソンに出るのも一緒だと思うんだけど。
505 :
考える名無しさん :02/06/08 22:41
>>500 ワロタ。
調味料としてヒ素入れたらいけないよな。
506 :
考える名無しさん :02/06/08 22:49
自由意志なんてのは、オカルト同然で論外。 意識は脳の過程の追認的なものでしかない。 但し量子力学的不確定性まで持ち込んだら、 選択の自由度が残されて、決定論には陥らない。
>>506 >但し量子力学的不確定性まで持ち込んだら、
>選択の自由度が残されて、決定論には陥らない。
量子力学的不確定性をこのスレに持ち込む方が余程オカルトだというのは既出ではなかったか?
508 :
考える名無しさん :02/06/08 22:55
>自由意志なんてのは、オカルト同然で論外。 >意識は脳の過程の追認的なものでしかない。 意識と意志の違いにもズサンな思考しかできないなんて、 オカルト同然で論外。 (ワラ
509 :
考える名無しさん :02/06/08 23:08
>>494 ループ脱出の糸口となるか!?
物理法則は決定されてなく、これからも決定されることはない。 人生に定説なんて無いように・・・(-.-)
511 :
考える名無しさん :02/06/08 23:23
決断に至るまでの思考過程という先行的心理過程を ひとまず措いたまま言えば、 自発的起動のエージェントとして「意思」(こころ)なる 非身体的な衝ハク者を立てる必要はない。 ”引き金装置の発動”は、身体的機制の一部で 「こころ」はそれを感受するだけでも済む。
たしかに代理人は紙切れ一枚で済む場合がある。 その紙にこころを感じるのはたしかに不自由でしょうなぁ・・・
513 :
考える名無しさん :02/06/09 05:39
自由意志がなくともますみちゃんは死刑! だって楽しいでしょ死刑。 悪い事した奴殺せるなんて最高じゃん。
514 :
考える名無しさん :02/06/09 07:34
諸行無常、諸法無我、万物流転、永劫回帰、滋養強壮、家内安全、無果汁、、、 我々は変化し続ける鏡のようなもの。
515 :
考える名無しさん :02/06/09 23:01
ワールドカップ・スレにて、 決定論が却下されました。
516 :
考える名無しさん :02/06/11 10:31
自由や冒険が好きそうなマーク=トウェインでさえも 自由意志には否定的だった。
517 :
考える名無しさん :02/06/12 01:52
マーク=トウェインが? それはショック。 俺も否定しようかな・・・
518 :
考える名無しさん :02/06/12 02:07
マークトウェインは『人間とは何』で 人間を機械と断じている。
519 :
考える名無しさん :02/06/14 00:52
520 :
考える名無しさん :02/06/16 03:26
>>519 時間の流れを前提にするかしないかでなにがどうなるの。
スレ違いかもしれんが、
死後は天国や地獄にいくわけでも無になるわけでもないと思う。
意識や魂というものがあるとして、
死後は人として生きていたときの世界観の変化、
つまり知覚・感覚などが変化するってことだと思う。
知覚・感覚が変化するってことは想像もつかない世界を認識することになるだろう。
521 :
考える名無しさん :02/06/16 03:57
科学でも哲学でも自由意志は否定的なのに なんで現実社会はいつまでも自由意志を前提にしているのか。 道徳や倫理のため?秩序のため?宗教団体のため? だったらほかの概念でもなんとかなるのではないのか。 原理レヴェルで「ない」ようなものを 現実レヴェルで「ある」とすることに問題はないのか。 (あくまでも自由意志がないとした場合の話だが)
522 :
考える名無しさん :02/06/16 04:43
最後で放り投げてどーする (^^;
523 :
考える名無しさん :02/06/16 04:47
おお。見てたら、いつの間にか上がってた。
524 :
考える名無しさん :02/06/16 06:18
>>521 哲学だと自由意志に対して肯定的と否定的なのの両方があるでしょ。
自然哲学においては、自然哲学の「自然」というタームがそもそも、
「自由意志の否定」の傾向を持つものである。
自然科学でも自由意志を否定する限りでの哲学でも、
その立場に立って発言してるでしょ。
>>521 さんは。
525 :
考える名無しさん :02/06/16 06:19
>>524 2行目の自然哲学→自然科学に訂正。(恥
あんま意味は変わらないが。
526 :
考える名無しさん :02/06/16 16:40
>>521 不自由の中の自由を求めているだけ。
誰だって石の壁を素手で壊せない事は知っている。
思うか思わないかは自由。
できるかできないかは確定事項。
527 :
考える名無しさん :02/06/16 19:03
>林ますみの行動は自由意志では無いと? >都合の良い時だけ自由意志かよ(w アホらし >宅間 守の行動は自由意志では無いと? >ネオむぎ茶の行動は自由意志では無いと? >酒鬼薔薇聖斗の行動は自由意志では無いと? これらの「自由意志」を「自分のせい」と置き換えた言葉はよく耳にする ひっきーや鬱病の人にも投げる言葉だ 都合のいいときだけの「自由意志」の使われ方は 「“自己完結した自分”のせい」となる “自分のせい”の「自分」は自分を取り巻く環境を含めて 「自分のせい」だと思う 「自分の犯した罪」と「自分」は別次元で、罪を憎んで人を憎まず という言葉もあったような気がする
528 :
考える名無しさん :02/06/16 23:21
ミルズ刑事が撃ったのは自由意志ですか?
浅い考えかもしれませんが。。。 自由意志が存在する、あるいは、ある行為に自由意志が介在することを 証明する簡単な実験は考えられないものでしょうか? 別のスレッドで も書きましたが、存在が証明されていないものを存在すると言う場合、 まずその人がその存在を証明するところから議論を始めなければなりま せん。 自由意志なるものを定義するのも難しいと思いますが、「ある範囲の自 由度のなかにおいて任意の行動が選択ができるもの」ぐらいの大きなく くりで考えるとして、結局結果的には取りうる状態は一つなのだから、 いくら本人が自由意志で選択したと宣言しても、意味がありませんね。 行動の選択という意味に限定してでもいいですし、それ以外でもいいで すが、自由意志なるものを検出する簡単な実験を思いつく人がいたら、 教えてください。
たとえば通常、
手を動かそう、と思えば動かせるが、
手よ動いてくれ、と思えど動かない。
前者は手を主体的に、
後者は手を客体的にとらえている。
主客や自他の境界は意識次第。
>>529 >行動の選択という意味に限定してでもいいですし
限定すると
>都合の良い時だけ自由意志かよ(w アホらし
となりそうだね。
521さん、レスありがとうございます。 こちらの言葉足らずで、上手く伝わっていないようです。 そもそも自由意志なるものがあるかどうかの検出方法を聞いている ので、主体とか客体とかは問題としていません。同じ行動を文脈で 使い分けるという事も関係ありません。 521さんの例えで言えば、「手を動かそう」と思っているのが果た して自由意志なるものなのか、それともそう思っているのも決定 論的な脳内物質の化学反応によって必然的に起こっているだけな のかということです。 「意識次第」と書かれてあるその意識に自由意志なるものが含ま れるかどうかという問題だと思います。 引き続き、テストを思いつく人は教えてください。
532 :
考える名無しさん :02/06/18 04:36
「自由意志」にしても、「決定論」にしても、 概念規定を厳格にすると、こんなに発展性のある論議は産まれなかったんで しょうから、用語について述べるのも今更って感もしますが。 まず、「自由意志」の議論は大昔(中世ヨーロッパの神学論争)から 昔(ヨーロッパ啓蒙時代のニュートン力学成立頃)までは概ね、 人間には行為選択の自由が内在的に備わっているという事を自明とした上で その自由は、一体、外在世界の必然性とどうマッチしているのか?ってな議論 だったんではないですかね。 つまり「自由意志」の存在は議論の余地なぞなかったんではないかと思いますが。 ベーコン辺りからでしょうか、科学者が哲学者を兼務するようになったのは。 おっと、ベーコンは法学者でもありましたかね。 科学というよりも、内燃機関などの技術発展に対する驚きが「人間機械論」を 生み出す土壌になったんでしょうし、「因果律」コーザリティなんてのを 人間にも適用して見ようって気にもなったんではないかと思いますが。 その後も、19世紀から20世紀の加速度的な科学技術の発展にはそれこそ 「人間の自由な意志」の発現を見た人の方が多かった筈ですから、 当然「自由意志」なるものの存在を疑う論者は極く少数だったんでしょう。 その少数派ってのは、古くはトルストイなんかでしょうが、 2次大戦でのかつて無い非戦闘員を巻き込んだ大量殺戮経験の ニヒリズムから生まれたエグジスタンシャリズム[実存主義]を境に 一般化したんじゃないかと睨んでいますがね。 でも、概念規定が厳格になって論議されだしたのは、同じく2次大戦の落とし子 でもあるコンピューターがきっかけでしょう。ご存じのチューリング・テストも。 ここまで来れば、お分かりでしょうか? 存在を自明としてきた「自由意志」 という用語が、このスレッドには余り相応しくないと言う事が。 現在の時点で論議するならば、その存在が危うくなってきた『意志の自由』を 問うべきでしょう。 つまり『人間の主体性の自由』の存否が問われていると言う事です。 次に「決定論」という用語が相応しくない事を述べようと思いましたが、 眠くなりましたので、結論だけ挙げて、後日に回します。 認識された1事象が時間的に先行して認識された他の1事象乃至数事象により 惹起された、という素朴な因果律を淵源とする「決定論」は、 先に述べた大昔と昔の議論です。 この場の議論のような『全称命題』を論ずる議論では、人間の関知する あらゆる分野を視野に入れてしかるべきですから、当然、科学全般、特に 物理学、認知科学などの重要な論議も視野に入れていなければ、空論に帰す 恐れがあります。 素朴な「因果律」がハイゼンベルクとアインシュタインによって破綻しようと 認識の根幹を成すのは『存在の必然性』の措定です。 従って「決定論」ではなく『必然性』を『意志の自由』の対概念とするのが このスレッドには相応しいのではないかと思いますが如何?
533 :
考える名無しさん :02/06/18 04:45
>>531 >521さんの例えで言えば、「手を動かそう」と思っているのが果た
>して自由意志なるものなのか、それともそう思っているのも決定
>論的な脳内物質の化学反応によって必然的に起こっているだけな
>のかということです。
「決定論的な脳内物質の化学反応によって必然的に起こっているだけ」だと、
なぜ自由意志が否定されるのかが解らん。
要は意識が生理反応であることが解ったとしても、
そこから自由意志を肯定も否定もできないと思うんだが。
>>532 詳しい説明をありがとうございます。用語について、また今までの流れが大筋で
つかめました。今後は、スレッドの「自由意志」、「決定論」を、「意志の自由」、
「必然性」と置き換えてよろしいでしょうか。
議論の流れから、私の念頭にはずっとご指摘の「人間機械論」がありました。
このスレッドでの扱いでは、すでに「自由意志」は、自明なものではありませんで
したね。
# 余談ですが、ベーコンのくだりは、哲学者が科学者を兼務、ではないでしょうか?
物理学や認知科学も含めて議論するというのは、興味深い方向です。ただ、この
スレッドにもありましたが、不完全性定理を持ち出して、素朴な因果律が破綻する
場合があったとしても、それが「意志の自由」とは直接つながっていきませんよね。
観測者がいていも、その人に「意志の自由」があるかどうかは関係ないですもん
ね。
私が素朴に思い描いていた検出方法というのは、乱数とかカードとかサイコロとか
そういうものを組み合わせて、実験ないし、問題提起や記述ができないかな、と思
ったんです。私は思いつきませんが。。。
またいろいろ教えてください。
536 :
考える名無しさん :02/06/19 00:43
>>532 なんとも、はんなりとした文章で・・・
>>535 擬似乱数に思いを致すと、「意思の自由は、存在するならば一般に
は検出不可能」という定理の方が、見こみがありそうな感じです。
537 :
529=535 :02/06/19 01:26
>>536 >
>>535 > 擬似乱数に思いを致すと、「意思の自由は、存在するならば一般に
> は検出不可能」という定理の方が、見こみがありそうな感じです。
そんな感じがしています。証明するストラテジーはないでしょうか。。
538 :
考える名無しさん :02/06/19 03:48
>>535 揚げ足取りで悪いが「不完全性定理」は「不確定性原理」のことでOK?
俺はどっちも理解してないが。特に後者。
俺の感覚でモノを言うので申し訳ないが、科学的には証明できないと思うよ。
自分が意志の自由(と思ってるもの)を感じ、
それが科学的状態(の変化)として記述されたとしても、
意志の自由のない場合(人間で言えば、膝蓋腱反射のような)と比べて、
従っているはずの法則に違いがあるようには思えないから。
539 :
考える名無しさん :02/06/19 06:00
>>537 なんとまぁ、自由意思にふさわしい定理(予想)であること。
>>535 >>538 不確定性原理は一時、科学信奉科学者(ってのもへんてこだけど)が、
今後この儘科学で何でもかんでも解明されちまったら、人間の全てが
法則の実例でしか無くなっちまう、と怯えて、
精神活動の尊厳の維持を図るすべとして飛びついたツールだったように
記憶しています。
きょうびは、こんな実直な科学信奉科学者は居ないので、さすがに
論としての主張はないようですが、『自由支持派』の科学者の中には
意外にこの不確定性原理を持ち出せば事足りると考えている人たちも
いるようですが、『免罪符』の域は越えていないのではと思います。
かたや、論理学者でジャーナリストでもあるホフシュタッター辺りは
ピューリッツァー賞を受賞した、例の『ゲーデル・エッシャー・バッハ』
[白揚社の厚っこくて持ちにくいハードカバーの翻訳で有名です]と
その続刊で同じく厚っこくて持ちにくい翻訳が出た『メタマジカル・テーマズ』
(邦題はなんでか「メタマジック・ゲーム」)で、
真剣で緻密な論の積み重ねの結果、『意志の自由』問題の重要性に触れて、
彼独自の回答を出していたと記憶しています。
うろ覚えなので正確さを欠きますが、それは、
脳内の意識処理の『階層』を設定して、[通常は断絶している事によって
階層が成立している]そのレベル間での相互フィードバックが生じる事が
『意味』の成立であり、意味が成立するが故に『自由意識』も生じる。
ってな具合の論だったと思います。
当然の事ながら、人間の言語活動は『意識主体の自由な行動』が
自明の理としてインプリシット[埋め込み含意]されていますから、
すべて『自由派』肯定論を記述するようなものと言って良いと思います。
従って、日常言語で『自由』を否定するのが殆ど不可能になる訳けですが、
かたや『必然性』を、これまた『自明の理』としている科学にとっては、
必然性に従わない自由なんてのは目の上のたんこぶ以上に厄介な訳けで
普通は『ホッタラカシが最善』なんでしょう。
しかし、AIが産業上も不可欠なインフラになりそうな時代では
そうも言っていられませんから、ホフシュタッターのような論理学者が
難題を扱いながら、努めて平明に記述した本がベストセラーになったんだと
思います。[私は素晴らしい本だとは思いますが]
必然性に対置して人間活動とその集約としての意識活動、
更にはその前提としての意志の自由を説明するのに
大原則として熱力学の第2法則『エントロピーの増大』を、
そして、生命系をその特殊形態=『非平衡な定常開放系』
として説明するのが、近年の良心的学者だと思います。
[エントロピー学会の成立が生態系との共生を重視する『反原発』を
きっかけとしている事が象徴的です]
恐らく『複雑系』学者たちも認知学者たちも、『主体的存在としての人間』を
『必然性いのち』の科学の中でどう位置づけるかで四苦八苦しているのでしょう
それは、突き詰めて簡略化すれば、このスレッドの疑問に平明に答える事が
出来るかどうか、じゃないですかね?
若干上げ足とりの話なので sageるけど、 不確定性理論自体の有効性と、 それを自由意志存在の根拠とすることの有効性は切り離して考えるべきだろう。 後者の否定は前者の否定に繋がらない。
>>538 レスありがとうございます。
>
>>535 > 揚げ足取りで悪いが「不完全性定理」は「不確定性原理」のことでOK?
> 俺はどっちも理解してないが。特に後者。
すみません。間違ったまま送信していました。
> 俺の感覚でモノを言うので申し訳ないが、科学的には証明できないと思うよ。
> 自分が意志の自由(と思ってるもの)を感じ、
> それが科学的状態(の変化)として記述されたとしても、
> 意志の自由のない場合(人間で言えば、膝蓋腱反射のような)と比べて、
> 従っているはずの法則に違いがあるようには思えないから。
検出テストの場合は、自分をテストするというのは、主観が入り込む可能性が
あるので、難しいと思います。従っている法則に違いは無いでしょうね。上の
議論にあったように、ある自由度の中で選択ができることが果たして意思の自
由になるのか、単なる脳内のランダムな選択や擬似乱数的な処理の結果なの
か他人を客観的に検証できるテストがないかなぁと、素朴に思っていました。
>>539 > なんとまぁ、自由意思にふさわしい定理(予想)であること。
「意思の自由は、存在するならば一般に は検出不可能」というよりは、「意思の
自由は、存在するとしても、一般に は検出不可能」でしょうか。。。
>>540 今回もとても参考になりました。ありがとうございます。
> かたや、論理学者でジャーナリストでもあるホフシュタッター辺りは
> ピューリッツァー賞を受賞した、例の『ゲーデル・エッシャー・バッハ』
> [白揚社の厚っこくて持ちにくいハードカバーの翻訳で有名です]と
> その続刊で同じく厚っこくて持ちにくい翻訳が出た『メタマジカル・テーマズ』
> (邦題はなんでか「メタマジック・ゲーム」)で、
> 真剣で緻密な論の積み重ねの結果、『意志の自由』問題の重要性に触れて、
> 彼独自の回答を出していたと記憶しています。
『ゲーデル・エッシャー・バッハ』は、前から気になっている本でした。続刊と併
せて近いうちに読みたいと思います。紹介ありがとうございます。
> 当然の事ながら、人間の言語活動は『意識主体の自由な行動』が
> 自明の理としてインプリシット[埋め込み含意]されていますから、
> すべて『自由派』肯定論を記述するようなものと言って良いと思います。
この部分がよく分かりませんでした。言語活動は「意識主体の自由な行動」か
らしか成り立たないものでしょうか? 相手の言葉を聞き、持っている情報と照ら
し併せて、(間違っていることは多々ありますが)論理的に比較、判断などをし
た上で何らかの言葉を表出する、というのは、感情などは別にして、割と機械
的処理できてしまうように想像してしまいます。
例えば、認知科学などでは、この手の処理をフローチャートのようにして書け
るのではないでしょうか? 浅はかでしたらすみません。
> 必然性に対置して人間活動とその集約としての意識活動、
> 更にはその前提としての意志の自由を説明するのに
> 大原則として熱力学の第2法則『エントロピーの増大』を、
> そして、生命系をその特殊形態=『非平衡な定常開放系』
> として説明するのが、近年の良心的学者だと思います。
言語活動と同じく、意識活動も前提として、「意志の自由を」必要とするのでしょ
うか? 例えが古くて恐縮ですが、意識および意識活動というのは、「機械の中の
幽霊」と例えられるように、脳の情報処理過程において、生ずるある種の「余剰
物」であるという考え方は、もうされていないのでしょうか?
544 :
540=532 :02/06/21 05:10
>>543 『言語活動』と表記したのは、
『言語』とすると、なにか、情報が客体として実体化された(まさに、
主体を捨象しても成り立つ)オブジェクトのように思う人がいるからです。
言語と貨幣との類似性は夙に指摘される処ですが、
いま、貨幣そのものが貨幣による売買対象の雄となって、世界経済の
根幹を左右する時代となっている事態は、他山の石とすべきかも知れません。
疎外化という概念を価値観抜きで評価するとすれば、
カネほど疎外化の実効性を証明するものは他にないとも言えますが、
言語がみずからがその聖嫡子である『意味』と、出来過ぎとも言える
子供達としての『情報』に挟まれながら、依然として毅然としていられるのは
単純には客体化されようもない、『言語活動』に支えられているからだと
思っています。
その、言語活動は言うまでもなく、出自も現仕様も社会的な人間活動の根幹ですが、
社会的な行為はおよそ全て『目的論的』です。
目的は主体を前提としますし、主体は自由な選択を要請します。
『自由な選択』が『社会的概念』であろうが『哲学的概念』であろうが、
簡単に言えば、『自由』がなくちゃ、この世の全ては成り立たない、
てのが、言語[意味体系]をインフラに持つ社会の大前提でしょうか。
従って、地球上の全ての言語は、人間をも含めた必然性を、正確、厳密に
記述するには余り向いていないと思います。
[この論点は重要で、柄谷行人もホフシュタッターに触発されたかは別にして
ある時から、ゲーデル的な『自己言及矛盾』を論点にし始めたようです]
過去、言語及び言語活動が、余りにも『目的論的』な桎梏を強いるという論は
誰も述べませんでしたので、以上の論は一見、奇矯に思えるかも知れませんが、
ちょっと『ことば』を素朴に眺め直せばすぐ解るのではないかと思います。
因みに、英国のデヴィッド・ボームは、この論とちょっと違いますが、
英語族の『名詞』中心の意味体系が動的な事柄把握を妨げていると考え、
なんとかという『動詞』中心の言語体系を提唱したと思いますが、誰かられ
相手にされず終わっている筈です。
[ボームは有名な物理学者ですが、一時期、脳の高次意識作用の解として
ホログラム理論を唱えましたが、その後撤回したと承知しています。]
諸現象の首尾一貫した連続性、数限りない事情のもとでの それらの永遠の回帰、それらの同一性と可変性が直観され是認される。 そしてそれらの確定性が承認され、人間精神によって再び確実に規定される。 法則のみが我々に自由を与えてくれる。
手をε型に組んでるときって、例えば右手の人差し指を動かそうとしても、 中指が動いたりするよね、 これって意志で動かしてるっていえるの?
547 :
( ゚д゚)ポカーン :02/06/21 17:46
>546 脳から手へ動かすように電流が流れる。その電流の経路が馴れてなくて 使われていない時、未発達であるため、間違う事もある。
548 :
( ゚д゚)ポカーン :02/06/21 17:48
訂正 脳から手へ動かすように促す命令の電流が流れる。・・・以下同
脳細胞だって物質で出来ていて物理法則にしたがうんだから 自由意志なんてあるわけない。 どうするかに迷った末、有る選択をしてそれが脳から指令されたとします。 この過程が最初から最後まで意識上でおこなわれているわけではないと思うんです。 どこかの部分でかならず無意識のところがある。 しかし、それを勘違いして全部意識上でやっているように感じてしまう。 だから、意志決定を完全に制御できる気がする。 こう考えれば、なぜ無いはずの自由意志を有るように感じてしまうのか 説明できますが、どうでしょうか。
550 :
考える名無しさん :02/06/21 18:04
物理一元論・・・
551 :
( ゚д゚)ポカーン :02/06/21 18:09
自由意思そのものが物理法則にしたがっている・・・かもしれない。 ーーーーーーー終了ーーーーーー
552 :
考える名無しさん :02/06/21 18:10
もっと哲学やる人が、悩む部分を科学にアウトソーシングして、 欝になって死ぬ人がいなくなればいいなと思います。
553 :
考える名無しさん :02/06/21 18:46
554 :
529=543 :02/06/22 01:21
いつも丁寧なレスありがとうございます。私にとってはとても難しい内容で、532さんの
レスをきちんと理解できたとは言えませんが、
>>544 「言語がみずからが(中略)、依然として毅然としていられるのは 単純には客体化され
ようもない、『言語活動』に支えられているから」
「言語活動は言うまでもなく、出自も現仕様も社会的な人間活動の根幹ですが、社
会的な行為はおよそ全て『目的論的』です。」
「目的は主体を前提としますし、主体は自由な選択を要請します。」
という、流れで、「自由な選択」 = 「意志の自由?」 が存在すると仰っているわけですね。
> 『自由な選択』が『社会的概念』であろうが『哲学的概念』であろうが、
> 簡単に言えば、『自由』がなくちゃ、この世の全ては成り立たない、
> てのが、言語[意味体系]をインフラに持つ社会の大前提でしょうか。
言語を持つ社会は「意志の自由」がないと成り立たない、というご意見ですね。
> 従って、地球上の全ての言語は、人間をも含めた必然性を、正確、厳密に
> 記述するには余り向いていないと思います。
言語は、必然性を正確に記述するには向いていないから、人間の行動は「意
志の自由を持つ」という意味ではないですよね? これでは理由になっていませ
んので。もっと違うことを仰りたいのだと思いますが、うまく理解できません。
> 過去、言語及び言語活動が、余りにも『目的論的』な桎梏を強いるという論は
> 誰も述べませんでしたので、以上の論は一見、奇矯に思えるかも知れませんが、
> ちょっと『ことば』を素朴に眺め直せばすぐ解るのではないかと思います。
「意志の自由」を認めない立場の人というのは、「目的」「主体」「意味」などという
抽象概念を考えたり言語化したりする過程そのものも意志の自由が介在しない
必然性で説明できると考えているのではないでしょうか?
555 :
考える名無しさん :02/06/22 01:30
夢が物理法則に従って作られるのか?想像することも物理法則に従ってるのだろうか? 考えることも物理法則なのかな? 意識は物質の中にあるということなの?
まだアフォなことを・・ だから主体性を問う前に主体を確定してみろよ。
557 :
とおるちゃん :02/06/22 14:24
意思の自由を客観的な理屈で確定なんかできないよ。 すべてが必然で決定されているってことを否定していくだけでよいかと。
558 :
( ゚д゚)ポカーン :02/06/22 14:27
まずどんな飲料、食べ物を摂取するかによる。その中に含まれる 有機物の分解により活動エネルギーや体の組織の全てを構成する 自由意志ではない、無意識(無知)の作用が加わる。以上 ーーーーーーーーーー終了ーーーーーーーーー
559 :
考える名無しさん :02/06/22 14:32
560 :
( ゚д゚)ポカーン :02/06/22 14:34
ラプラス?専門用語はようしらんが、太陽系の惑星の構成を論理ずけた人?
561 :
考える名無しさん :02/06/22 14:35
>>558 今更そりゃないだろう。超おもしれーよ。
563 :
考える名無しさん :02/06/22 16:17
564 :
とおるちゃん :02/06/22 19:48
無意識って必然なのか?
565 :
考える名無しさん :02/06/23 15:28
物心一元論 すべては可変的主体であり(汎神論) 同一的主体はない(無我論) ブッダ、スピノザ、ライプニッツ万歳!!ってことでいいではないか。
我々は自己近似的存在に心(主体性や自由意志)を感じる。 自己近似的←------------------------------→非自己近似的 (心を感じる)↑ ↑ ↑ ↑ ↑ (心を感じない) 自分 他人 動物 植物 鉱物 一般的に普通の人は動物までが心があるように感じるのだろう。 唯心論の人などは鉱物にまで万物万有に心を感じるのだろう。
感じ方の問題だから、 動物や他人を心のないロボットのように感じることもできる。 独我論の人や病的な人などは自分にしか心がないと感じてしまうのだろう。 自分にも心がないと感じる人は、はたして偉大な悟者かトンデモな異常者か。。
568 :
考える名無しさん :02/06/27 14:27
>>567 トンデモ異常者の典型です。現代の異常者は法治主義を曲解→自らを心のない裁判官と妄想
という発達コースを辿るようです。
快→没我・無我 快を目指す過程はエゴの状態だが到達点は没我の状態 没我の状態に近似すれば快 通常の我→→→→→→→→→→→→→→→没我 (苦) ↑ ↑ ↑ (快) 社会的快 生理的快 死? (食欲・性欲・睡眠欲) 通常、死とは避けたいものであり恐れるものであるが 実は知らずに目指しているもの気づかずに欲しているものなのか 「死への欲動」とはよくいったものだ
人間が快楽を求めている・・・というのが間違いで、 「自分の求めているものを拒否し始めると歯止めがなくなって死んでしまう」 という部分合理化全体不合理化という話。最近ではオートポエシスなとというが 昔はクンダリニー(グンダリ←字がでない)と言ったそうだ。まあ「死(へ)の衝動」が 一番詩的にはキャッチーでよい。
バタイユ、フロイトなどは「死への欲動」(タナトス)を根底におく。 たとえば、性行為は一種の死(没我)の体験であり、 「生の欲動」(エロス)は死に至る過程の高揚といえる。 フロイトは「死の欲動」は「生の欲動」に先行すると考えていたようだ。
シュタイナーの「自由の哲学」は意外と名著。興味ある人は必読。
574 :
考える名無しさん :02/06/30 17:50
「これがしっかりと読めれば、ほかの自著は必要ない」と言ってたらしい。
モノー「偶然と必然」白水社に明確な回答があったような気がしますが、 今は覚えておりません。要は「なるほどそう考えれば完結するな」といった たぐいの立論ですが、当時は面白かった。 「独我論」ではないけれど、「自由意志はない」と決めつけられても、次の 瞬間に自由に(それが「自由」という言葉の定義だから)思考している自分 がいるからです。 シュタイナーではなく、シュティルナーが「唯一者とその所有」で同じよう なことを書いています。 昔の左翼批判に「革命が歴史的必然なら座って待っていても良いはずではない?」 というのがありましたね。
576 :
考える名無しさん :02/07/01 02:54
クオリアスレッドにもおこしあれ
思考している自分というのは、 飛躍せず慎重に内観とか自己観察とかしてみると 何が自分なのか、どこに自分があるのか、 というように自分自身の不確定性を感じると思いますよ。 まず、この段階での感じ方で意見が分かれてくる。 「諸行無常」や「諸法無我」というように 自分自身も不確定な存在と感じる人もいるし、 「我思う故に我あり」というように 自分自身はとりあえず確定的と感じる人もいるでしょうから。
578 :
考える名無しさん :02/07/01 21:17
>>577 「諸行無常」や「諸法無我」=不確定な存在とは言えるけど、=自分自身の不確定性は言えないよー
仏教では因果律に従わないものは無いから、不確定と発想はないよ。
age
万物が因果律に従っても、五感が人間の外から刺激を受け取り、 多少五感を断っても内面が常に激流の様に揺れ動いているから(現代的に言えば低エントロピーが残されているから) 自由意志が人間内のある範疇であってもよい、という理屈。 霊魂実在説が主流だった時代にそれに反論したので社会問題になったが、言っていることは極まとも>仏教
581 :
考える名無しさん :02/07/02 09:22
>>580 これこれ、仏教哲学と名乗るものがウソ付いちゃいかんよ。仏教は決して決定論的ではないけれども、
「自我」そのものを認めてないだろ? 自我とは、五感(五蘊)の仮和合(けわごう)だよ。
ついでに低エントロピーも全然使い方間違ってるよ。
582 :
考える名無しさん :02/07/02 09:48
実験心理学者に聞く問題を、 ここでぐだぐだやっても仕方ないんじゃない? とうか、この問題を哲学的の捉えるのは遊びとして面白いけど、 本気で考えるには方法論として不適格。
583 :
考える名無しさん :02/07/02 09:52
誤字脱字、ひどいので訂正。 スマソ 実験心理学者に聞く問題を、 ここでぐだぐだやっても仕方ないんじゃない? というか、この問題を哲学で捉えるのは遊びとして面白いけど、 本気で考えるには方法論として不適格。
>>583 実験心理学は、伝統的な質問、たとえば「自由意志があるとして、それは
人間の中の何かの要因によってもたらされるのか、それとも外部との接触によって
もたらされるのか」といったものに対して姿勢を決めないでモデルを作るから
基本的なところで記述があいまい。
585 :
考える名無しさん :02/07/02 10:03
ん? 基本的には外部との接触でオペラント(条件付け)だとおもいます。 Xを食べてみた(刺激)→美味しかった(反応) →この行動が条件付けられる です。 で、人間のほとんどの行動は過去の条件付けによって成立します。 だから、あまり自由意志ってのは「ない」までは言いませんが、 あっても「ほんのちょっと」だとおもいます。
自由意志はないよ。
しかし、
>>1 とは理由は異なるが。
真の意味での自由は人間の精神が理想的なありうべき存在になるとき。
しかし、そのありうべき状態はあらかじめ定められているので
決定論ということになる。
>>1 のいう、脳が物質とか物理法則などといったものはあまりにも
矮小化された法則だ。
ただし、人間が真の意味で自由になるとき、自由の持つ意味が質的に
変わるので注意を要する。
自由になる前に感じていた自由が実は放縦であり、束縛であり、
自由になった後に感じる自由は一なるものへの合一であり、絶対なる確信である。
束縛から逃れるという意味では自由だが、まったくの恣意的な精神を持つわけではない
という意味では自由意志とは言いきれまい。
「自由意志」という概念は、いまだ真の意味において自由になりきれない
人間一般が想定できる仮想的な、目標設定のようなものだ。
500以上もレスがあるから誰か俺と同じことを言っているとも
思われるが、がいしゅつだったら悪しからず。
587 :
日本仏教哲学100年の集大成 :02/07/02 10:17
586の書き方だと、「自由意志の根拠になるような無限の裁量性は人間の内部にはないよ」となり、 585で、オペラント条件付けにおける条件を全てコントロールすることはできない、という意味での自由意志がある ということと同じ事をいっていると思われます。 自由意志がある/ない と 自由意志がある根拠は人間の内部にある/外部にある ってのは別の議論で、前者はそもそも後者の議論を避ける為に使われる場合が多い様です。 動機はわからないのですが、実存的に自由意志について考えている人、教えてください。
588 :
考える名無しさん :02/07/02 10:27
>585で、オペラント条件付けにおける条件を全て >コントロールすることはできない、という意味での自由意志がある >ということと同じ事をいっていると思われます。 「絶対にない」と言い切ることは出来ないという意味で、使いましたので 違います。 あと、 A「自由意志がある/ない 」 と B「自由意志がある根拠は人間の内部にある/外部にある」 が違うのはわかりますが、 Bは「自由意志がある根拠は、内部か、外部か」といなっていて 納得できません。 これでは、「自由意志がある」ことを前提に議論しています。 重要なのは存在問題で、 「存在するか、しないのか」はっきりしないうちに、決め打ちするのは まずいのではないですか?
>>585 の言う「ほんのちょっと」が人間にとっては大事なのだよ。
>自由意志がある根拠は人間の内部にある/外部にある
答は人間の内部だ。
しかし、「人間の内部」はいったいどこからもたらされるのか、
あるいは、真に自由になったとき「人間の内部」はどうなるのか
まで考えを進めていけば完全に「人間の内部」だけとも言えない。
物理的な内部、あるいは外部からの刺激について言っているのではない。
ここも注意を要する。
そもそも内部になければ、その者は人間ではない。
俺の議論がこのスレにおいて新鮮なものであればこれからちょいちょい
顔を出すよ。
>>588 あなたは正しい。しかし間違った人を説得する方法をあらかじめ考えながら
物事を進めないと、結局何の役に立たなかったということにもなりかねませんよ。
まずは、「自由意志」や「自由」の定義から始めなければなるまい。
592 :
考える名無しさん :02/07/02 10:46
私が、自由意志に否定的なのは、実利的な意味もあります。 「意志が弱い」「自分はダメだ」という思考は、 「自由意志が存在して」「自分の自由意志の質が低い」 という絶望的な解釈なんだとおもいます。 それに対して、 「自由意志は無い」「過去の条件付けで行動や意思は制御されている」 とすれば、 「自分の意志の弱さ」という問題を、 「間違った条件付け」として捉えることが出来ます。 そうすれば、「正しい条件付け」で行動をかえることが出来るわけです。 (問題行動を修正するために条件付けをするものを 行動療法ってのがあります)
自由意志=責任担当能力、でとりあえずいいのでは?
594 :
考える名無しさん :02/07/02 10:52
運転の下手なドライバーが。「おれはなんて下手なんだ」 って悩ませるのが「自由意志存在論」 それに対して、 「俺がならったやりかたがまずかった」「修正しよう」 って解決志向に迎えるのが「自由意志否定論」だとおもってます。 皮肉なことに、自由意志否定論であれば、 自分で行動を修正することにより、擬似的な自由意志(行動?)を えられるってことです。
595 :
考える名無しさん :02/07/02 10:53
>>590 説得のための戦略ということですか。ふーむ。
594の文脈では、「自由意志」=「内面の自由、意志に与えら得るとする無限の裁量」という意味ですかね。 そんなものがないのは考えれば明らかにそうなので、それを否定するのは結構なのではないでしょうか。
597 :
考える名無しさん :02/07/02 10:55
>>596 そうです。
100年さんの定義ってどういうものですか?
>>595 ええ。(なんかえらそうですが)特定の専門分野に関して、自分より劣る人を
自分並か、弟子であればそれ以上の判断が出来るように引き上げる事が可能だという事が前提になって
専門職と世代を超えた専門性を指し示すカテゴリ名があると思われます。
>>592 難しい問題だな。
後者の療法でも、「後天的な努力でなんとかなるよ」ってことで
前者とまた別の追いつめられ方(「自分は努力が足りない」)
になりはしないのだろうか?
問題行動を矯正する目的に限定して、ということなんだろうが。
602 :
考える名無しさん :02/07/02 11:02
これもあるのか怪しいですよ。 ある行動が過去の条件付けによるとすれば、 その行動によって起きた責任が本人にあるのかは、 究極的に怪しいと思います。 社会行動では、しらずしらずのうちに他人に同調してしまうのは、 研究されています。 つまり、 集団から完全に切り離された場合においては 行動は過去の条件付けの産物であり、 集団の一部として行動した場合には、 条件付け+集団における相互依存によって意思や行動はきまります。 責任能力に関しては、そういう概念をおかないと社会が成り立たなく なるための弁法じゃないのでしょうか?
603 :
考える名無しさん :02/07/02 11:08
>難しい問題だな。 >後者の療法でも、「後天的な努力でなんとかなるよ」ってことで >前者とまた別の追いつめられ方(「自分は努力が足りない」) >になりはしないのだろうか? 正確には、後者だと 「努力する、という行動をうまく条件付けられなかった」 ということになります。 「なにか努力する→努力してイイことがあった→努力するという行動が条件付け」 ってなります。 とすれば 「何か努力してもらう→ご褒美を上げる」というふうに周囲がコントロール すれば、新しい努力するという行動を身に付けられます。 それと逆に行動を消去するばあいではれば、アメリカの幼児性犯罪者につかって いるという、 「好みの幼女の写真みせる →鼻がひん曲がるようなにおいの薬品かがせる →不快になる」 っていうのを繰り返して、最後には、そういう幼女を見ただけで避けたくなる ようにしてるらしいです。 つまり、「幼女→性犯罪したい」という意思を強引に消去できるのです。 問題行動を矯正する目的に限定して、ということなんだろうが。
>>601 「責任」=罰せられた場合に、罰せられる原因になる行動を抑制する機能
でどうでしょう
605 :
考える名無しさん :02/07/02 11:11
>問題行動を矯正する目的に限定して、ということなんだろうが。 日常でも、自分の行動を制御すること出来ますよ。 何かの目標を達成するための行動を身につけるなら、 「ほんのちょっとずつ努力→ご褒美」というハードルを低くした課題で 条件付けを繰り返していくと、 条件付けられて身に付ければいいのです。
「小さな成功体験を積み重ねてサクセスする」 「自分で自分に目標を立ててそれを実現する」 という程度の内容ですが、これで解決する問題も多いのがトホホです。
607 :
考える名無しさん :02/07/02 11:26
私的な問題の大部分は、 「やろうと思っても出来ない・物事が続かない」 ってことだろうとおもいます。それを自由意志の問題にすれば 「俺ダメ人間だからだめ」になって余計悪化します。 結局、人生は小さい行動の積み重ねだから、 小さい行動を修正する方法を使えればかなり解決しちゃうんです。 私はトホオとはおもいません。かなり本質的なことだともいます。 っていつのまにか、自由意志のはなしじゃなくて、 「わたしは何をやってもダメな人間でした、 でも自由意志を否定して、条件付けを使ってから、 女性にもてもて、仕事も成功しまくり、感謝してます みなさんも、条件付けでいっしょにサクセスしましょう」 というマルチのせんでんみたいになっちゃいました。ごめんなさい。
608 :
考える名無しさん :02/07/02 11:28
>>607 その論法だと他人の自由意志を全否定する方向に向かいがちなので、いわゆる「マルチ」っぽい雰囲気になるんでしょうね。
609 :
考える名無しさん :02/07/02 11:33
>>608 論法っていうよりも、実験データー―から裏付けられてます。
大体心理の共通基盤です。何十年も前に基礎的な研究は終わり、
今は応用の対象です。
610 :
考える名無しさん :02/07/02 11:35
611 :
考える名無しさん :02/07/02 12:18
何かを考える時、その時の気分なんかの慣性がかかって 絶対的な客観で物事を考えようとする事ってできなくない?
>>578 >自分自身の不確定性は言えないよー
自分自身の不確定性とは自我とか意識主体の「あやふや」さってことで。
誤解されやすい書き方ですまん。
>>585 >あまり自由意志ってのは「ない」までは言いませんが、
>あっても「ほんのちょっと」だとおもいます。
これくらいの感覚がちょうど良いと思います。
>>592 そうそう。自由意志を肯定しすぎると、
人(自分も含め)を追いつめたり絶望させたりするように
結果的に不幸を助長するようになってしまう。
613 :
考える名無しさん :02/07/02 21:56
「自由」の意味はデジタルですか?「意味」の意味はデジタルですか? 「100%に近い自由意志を行使している瞬間」と 「偶然性の奴隷になっている(自由意志なんて5%くらいしか感じられない瞬間)」 とがあるのであって、「ある」「無い」という区分けは「自由意志」に関する立論 として、適切であるか疑問になってきております。 ビジョンを見ている神秘家と、月曜の朝、雨の中を会社に向かうサラリーマン では、「自由意志のレベルが違う」と思いますが。 動物を観測しても、ある程度の「自由意志」は持っているように見えます。 要は程度の問題では? 「脳内の化学的反応の必然性」を論じるならば、それはまた「別の話」ですが、 宗教の話が出たり、「社会的レベル」の話が出たりしていて、論点の土俵が ずれていると、話は噛み合いませんよね。
みなさんにお伺いしますが、 『自由意志』の反対概念としての意志ってのは何なんですかね? 『非自由意志』とでも表現するんでしょうか? そんなもんはあるんでしょうかね。 もし、この言語矛盾に気付かれた方はご一報を…。
だから「程度の問題」であって「A」と「非A」の問題ではなんだと 言っているんではないか。
616 :
はてな?=532 :02/07/03 02:13
>>631 あなたの論にレスポンドしているのではないのですよ。
更めて みなさんにお伺いします。
617 :
考える名無しさん :02/07/03 03:38
>>613 (意志の自由が)ある/なし=デジタルじゃないよー。比喩で言わんとするところは分かるけど。
意志の自由の程度を自覚している働きも必然性かもしれないし、思えます、見えます、も同じことだね。
どの論点にしても土俵にしても、少しでもあると言うなら、それなりの根拠を示してちょ。
618 :
考える名無しさん :02/07/03 03:44
>>614 「反対概念としての意志」っていうのが、そもそも混乱を招きますねー。
意志の反意語だったらいろいろ出るんだろうけど、反対概念に意志という言葉をくっつけなきゃならんのですかね。
「自由」や「自由意志」を定義してみてくれ、と軽々しく言ったが
実は想像以上に難しいということが確認された。
こういう場合は、定義することをいったん棚上げにしておくのも
一つの方法かとも思う。
しかし、これだけは間違いないと思うのが、人間はみんな「自由」にいくばくか
関心を持ち、できるだけ「自由意志」を持ちたがってる傾向にある、ということ。
ここまでの議論でも、自由意志を持つことに何かポジティブなイメージが
付与されており、逆に決定論、自由意志はないとする者の語り口はどこか
諦めというかそういうイメージになっている。
我々人間は道標のない完全な真空の直中に置かれては不安でしようがないが、
かと言って誰か別の存在にコントロールされている状態を嫌うものでもある。
ではなぜ、我々は「自由」について論じたくなってしまうのか?
行動療法の話は俺もトホホだと思ったな。
世の中に哲学者が稀少な理由だな。
本当に自由を求めてる人間は極めて稀だということか。
そもそも、
>>592 は
>私が、自由意志に否定的なのは、実利的な意味もあります。
ここで話が終わってるよ。
実利など度外視して思索するのが哲学者ではなかったか?
「自由意志」はある特定の存在(霊魂や精神)と言うより、
自由になろうとする気構え、姿勢、志向状態のようなものかもしれない。
ある状態からある状態へと変容しようと志向している状態が自由意志。
「人間は自由の刑に処せられている」サルトル
「地獄とは他者である。」同上。引用は↓
http://www.ne.jp/asahi/village/good/sartre.html 柔らかい方としては、
「人間にとって最もつらいのは他者の存在に耐えることである(うるおぼえ)」
バスターミ(ぎりぎりOK。グルジェフと同じ)もハッラージ(アウト。ハッラージ)も
内的な体験は同じだが、表現(=エクリチュール(!))が異なるのであろうというのが
牧野大先生のご感想です。二度も名前を引用してしまったので天罰が下ることでしょう。
うるおぼえの引用はグルジェフ(神学生→舞踏団経営者)。 歴史に汚名を残したのはハッラージとサルトルです。誤タイプすみません。
622 :
考える名無しさん :02/07/03 14:29
カオスの中にも物理法則に従ったエントロピーがある。 全ては相対的なものだと考えることにより、 世界は予定調和へと向かう。 自由意思の介在する余地はない。 だとしても、この愛の結果が壊滅へと結果づけられているとは思いたくない
>>617 >少しでもあると言うなら、それなりの根拠を示してちょ。
世界が機械論的だとして、
その頂点にいる支配者(唯一の能動者)なるものを想定しない場合、
(起点のない永久機関みたいなもの)
各々の歯車は受動的と同時に能動的と捉えることができると思う。
624 :
考える名無しさん :02/07/04 01:17
>>623 残念ながら、根拠に全然なってないよー。
必然性の世界観において、頂点も支配者も想定する必要なし。主体も主観に過ぎないので、
受動・能動を考える必要もなし。アンド、そういうものを想定しても、なお意志の自由なるものが
存在する根拠にはなんないよ。主観的に見たとしても、そういうものすら必然性のなかに含まれうるからね。
625 :
考える名無しさん :02/07/04 01:27
>>624 そのような完全無欠な必然は、必然を必然たらしめる、その背景としての
可能性の虚構すら排除するので、「必然」を宣言することの放棄と等しい。
したがって、それは自ら跡形もなく消えて無くなるほかない主張なのだ。
完全無欠の必然は、主張しないことでしか宣言し得ない。
626 :
考える名無しさん :02/07/04 02:55
>>625 もっともらしいこと言ってるように見えるヤシもいるかもしれんけど、まったく意味不明だよー。
「背景としての可能性の虚構」って、具体的に言うと、どんなもの?っていうか、背景自体必要としないんだけど。
「 完全無欠の必然は、主張しないことでしか宣言し得ない。」もまったく根拠不明だねー。
哲学者より、物理学者が先に答えを出すだろうね。
628 :
考える名無しさん :02/07/04 03:52
「実在論を主張するアインシュタインは スピノザを信じ、シュレーディンガーは ショーゼンハウエルを、コペンハーゲン 解釈を主張するボーアはキルケゴールを 、ハイゼンベルグはインド哲学を信じていた。 それぞれの哲学の内容は、彼らの主張する 内容と「ぴったり」一致するのである。つまり、 物理学者はその人の信じる哲学に理論を 左右されてしまうのだ。各哲学は一つの パラダイムを与え、人がある事実を見る時に その人の持つパラダイムに即して考えて しまうのである。
629 :
考える名無しさん :02/07/04 04:13
>>628 まぁ、そういう側面がないことはないけどな。
「ピッタリ」ということは全然無いぞ(笑)
好んだとか傾倒したぐらいは言えても、「信じた」ってのは、ちょっと違うし、
理論が左右されたわけでもない。その時代時代を取ってみると、観測技術や実験技術なんかの
制約で、そうならざるを得なかっただけの話。決定的な間違いが無い限り、パラダイムとやらが変わった
ところで、新しい理論は前の理論を近似として含んでいるんだよ。言いたいことは分かるんだけどね。
>>624 支配者や受動能動ってのは
このたとえ話だとこれらを想定する人が多いから、
このように書いただけ。(それくらいくんで欲しい)
主観客観から意見違うようだし、必然性があると存在しないという
感想だけでは説明になってないよ。
631 :
考える名無しさん :02/07/05 02:29
>>630 くんで欲しいなんて甘えはダメっすよ。ちゃんと分かるように説明してね。
それから、意志の自由ってのが、存在するか分からないんだから、存在するって言ってるヤシが
キッチリ存在証明を出さないといけないのよ。オカルト論争と同じ。
では、張り切ってどうぞ。
>>631 あらら、、このパターンって嫌だね。
キッチリ存在証明なんてできるかっての。
あなたこそ必然性が自由意志の不在につながるって根拠を述べてよ。
まあ述べなくてもいいけど。
面倒だからこれ以上レスしないでね。(逃げではないよー)
633 :
考える名無しさん :02/07/05 11:04
前スレで、意思の自由の有る無しはパラダイムだ、という結論が出ている。 パラダイムを宣誓するなら、もっとセンセーショナルにやらねばな。 で、無数の旁証で、周りを固め、敵対者の進撃を絡め取るのだ。
意志によって何かを行うとはどういうことか? それは自分の考えたこと(思考)と外界の動きの一致である。 それゆえ思考と外界は同じ法則の二つの面に過ぎない、という議論が散見される。 外界の動きは物理法則に従う。 物理法則とは何か? 諸々の動きの観察から帰納的に考えられた動きのパターンのことだ。 先に法則があってそれに動きが従うという見方は、人間の主観的な見方に過ぎない。 様々な動きにはそれら独自の固有性があるのであって、それらに共通するものを 一般法則と呼んでいるというのが正しい。 短く言えば物の動きは皆似ている。しかし一つとして同じ動きと言うものはない。 これは人間の心にも言える。世界認識について共通する部分を客観と考えるなら、 記憶や行動については複数の人間の意見の一致がなければならない。 しかしその先、記憶、行動などが個々人によってどうのように感じられているのか、 については本人にしかわからない。 更に自分の直観における多様なもののどれをとって他人と共通なものと考えるべきか、 については本人にすら理解不能である。 完全に主観的な領域と、共有可能は部分の分離は、論理的に考えうるものではなく、 経験によって半ば無意識に分けられるものである。 意志はまず心の動きであり、動かそうとして動かすことである。 ところがこれは脳などの外からの観察によっては、予測することと区別できない。 科学的な思考では、脳は自分の行動のパターンを知っていて、 特定の条件下の自分の行動を先読み(予測)することができる。 自分が動かそうとして動かすというのではなく、すでにそう動くことを知っていて、 その上で体を動かすのが意志である、とこのように考える。 これはニューロンの観察でわかることなので、不確定性原理を持ち出す程度のことではない。 ところが、本人の心ではそんなことは考えていない。 意志は意志であって予測ではない。 動き、現象が全て一般法則で説明できるというのは1+1=2から1+1=3というのが 出てくるというのと同じだ。確かに1+1=2を否定するなら1+2=3の論理も 崩れるだろうが、それは現実を否定するということであって論理の否定である。 同じ論理が1+1=2と1+2=3の背後にあるというのは誤りである。 1、2、3は数として別で、それぞれを成立させているものは その固有性の中にしか求めることはできない。 要するに何が言いたいのかというと、物事を説明する法則というのは、それが説明する 物事が異なれば本質的に違うものになる、ということ。 私と貴方の動きは共通するものもあるが、それはたまたま重なっているだけだ。 法則は私と貴方それぞれ別個に推論される。 これを自分の意志と外界の関係にも応用するなら、先ほどあったように、 意志とは自分の思考と外界の動きの一致であるわけだから、 ここで思考内容と外界の動きには共通して捉えられるものがあるということになる。 つまり、外界が勝手に動き、思考は思考で動く。 その中で重なるものが意志ということになる。 その重なる機会を把握するのもまた人間の意志である。 それが把握できなければ意志はあり得ない。
636 :
考える名無しさん :02/07/05 18:56
この世のことは全て私の自由意志である。 モノの動き=意志といってもよい。 物理法則とは私の意志に後から説明をつけたものに過ぎない。 その中で人間が意識できるもののことを狭い意味での意志と呼ぶ。 本当は気が付かない所で、全てを私が動かしているのだ。 つまり、決定論=自由意志論。 どっちに転んでも大した違いはない。 この文の中の「私」を全部「神」に言い換えれば決定論だし、 そのままであれば自由意志論となる。
>>626 あっぱれ。
そうして、「なにいってんだか解りません」というのが、
必然的世界観を標榜する者の、無矛盾な実践的態度だ。
あなたは、私が
>>625 で主張した「沈黙」を、文字通り実践したのだ。
638 :
考える名無しさん :02/07/07 04:11
決定論も自由意志も幻想である
決定論も自由意志も幻想であると言いきることはニヒリストの戯言。
640 :
考える名無しさん :02/07/07 05:31
ループじゃない目指すのは上に上がる螺旋だよ。 ここじゃ、ストレンジアトラクタが関の山かなw
642 :
考える名無しさん :02/07/07 05:49
ストレンジアトラクタってなんやねん。
643 :
考える名無しさん :02/07/07 06:01
644 :
考える名無しさん :02/07/07 17:55
そのためには、前通った軌跡を踏んで一段上がらねばな。 どっちかっつーと、下降ラセン形成しとらんか?
645 :
考える名無しさん :02/07/08 01:48
これこれ。検証できないものをあると言ってるヤシが根拠を先に出す義務があるのよ。オカルト論争と同じ。 必然性という考えは、自由意志なるものがなくてもまったく問題ないわけ。 存在証明はちょっぴりかわいそうだから、自由意志が成り立ちそうな根拠だけでもいいから、あげてみそ。 逃げないで、帰ってきてちょ。
意志とは、人間の思考と物体の動きとの間に何の関係もないことについての感覚である。 それ故、物を動かすときの人間の意志はあらゆる必然性と無関係であり自由である。 この逆説により、本来反対のものである必然と自由とが意志に於いて一致するのである。
647 :
考える名無しさん :02/07/08 03:08
徒然草にしろ、方丈記にしろ、 日本人には『必然性』をそのまま受け入れる素地がある。 かたや、欧米の『死ぬまでの自己実現』なんてのは『自由』希求で がんじがらめ。 必然性なんてのは誰の造語か知らぬが[西周じゃない] 英語はinevitability、独語はUnbendigkeitといずれもアタマに 否定辞をつけるしかないのがその証拠。
>必然性なんてのは誰の造語か知らぬが[西周じゃない] >英語はinevitability ??? もしや、英和辞書で調べたとか?(w
649 :
考える名無しさん :02/07/08 08:04
>>645 >これこれ。検証できないものをあると言ってるヤシが根拠を先に出す義務があるのよ。オカルト論争と同じ。
>必然性という考えは、自由意志なるものがなくてもまったく問題ないわけ。
>
>存在証明はちょっぴりかわいそうだから、自由意志が成り立ちそうな根拠だけでもいいから、あげてみそ。
>逃げないで、帰ってきてちょ。
各々の人間が、自分が意志するときに、意志するのが自分によるものであると感じられるということを根拠としては?
検証って言うけど「客観」的論証は無理だと思うんだけど。
「客観」的論証ができる自由「意志」って、どういうものか解らない。
650 :
考える名無しさん :02/07/08 10:41
651 :
考える名無しさん :02/07/08 15:28
「いかなる問題も、 その問題を生み出したと同じ意識によって解決することは不可能である。」 アインシュタイン ↓ 自由意志の問題を生み出したと同じ意識によって解決することは不可能である。 「厳密な証明による真理保証のシステムが安全であるということを、 それより安全と思われるシステムを使って証明することはできない。」 ゲーデル ↓ 『主観的に意志の自由を感じる』 という真理保証のシステムが安全であるということを、 それより安全?と思われる『客観的に意志の自由を検証できない』 というシステムを使って証明することはできない。 とりあえずの結論:最終的にはその人のセンスによるしかない。
>>645 わからない人だね。
頭でっかちとはまさにあなたのような人なんでしょうな。
ではこの世界が運動・変化・流転などしている原因はなんだと思う?
(錯覚とか幻想とかいうのはなしで)
まったく自由のない世界で運動が生じるならそれこそオカルト。
もうレスはしないよ。
653 :
考える名無しさん :02/07/09 00:01
>>649 レスどうもです。「自分が意志するときに」と書くとき、既に自由意志を前提してません?
そういう自覚やら思考やらも、脳の働きから生じるのだし、脳の働きというのは、生化学的な複雑な
反応の結果だし、その反応というのは、複雑すぎるからシミュレーションなどはできないにしても、
反応の過程は化学反応や物理運動のみで説明できるので、「必然性」という考えがあるのです。
客観的論証は無理と知ってて書いたんですけどね。逃げられちゃいました(笑)
意志を前提としないで、根拠付けられますか?
654 :
考える名無しさん :02/07/09 00:05
>>652 帰ってきてくれて嬉しいけど、ちょっと自爆気味ですねー。
世界が運動・変化・流転している原因ですか? 物理的な説明を聞きたいのですか?
> まったく自由のない世界で運動が生じるならそれこそオカルト。
???。。。
そんなことはどうでもいいから、自由意志の存在を主張するんなら、どんな立場の人でも
知的に理解できるような説明をしてちょ。レスやめるのは、それから。
655 :
考える名無しさん :02/07/09 00:25
>自由意志の存在を主張するんなら、どんな立場の人でも >知的に理解できるような説明をしてちょ。 あなたア○か?
656 :
考える名無しさん :02/07/09 00:38
>>653 客観的論証は無理だと書いたはずですが……そう
>>653 さんも仰ってますし。
意志以外のものを用いての意志の根拠づけ≒客観的論証ですよ。
要は、自由意志がその本質において意志以外のものに依拠することは、
それが自由であることと矛盾するわけです。
つまり(もし俺の
>>649 を論点先取の自家撞着と言うなら)、
意志以外のものによって意志を根拠づけるという方法は、
方法の時点で目指すべき結論と矛盾を起こします。
なお、そういった意志が仕組みにおいては脳の働きに依拠することは否定しません。
ただ、それは自由意志の本質からは外れていると思います。
657 :
考える名無しさん :02/07/09 01:04
>>656 丁寧にどうもです。「根拠づけ≒客観的論証」じゃないと思うよ。そして、
> 要は、自由意志がその本質において意志以外のものに依拠することは、
> それが自由であることと矛盾するわけです。
も、ちと違う。根拠付けは必ずしも「意志以外のものに依拠すること」ではないよ。必然性のみ
で説明できる世界に「なぜ」自由意志を持ち出す必要があるのか。そこを聞きたい。自己撞着
以外にも語りうるはずだと思うんだけど、どうです?
まさか、自由意志の存在を主張している者がみんな「意志してると感じるから」なんて理由だけで
言ってるんじゃないと思うけど? そういう感覚に拠らない説明ってできない? それを根拠とか客観的に
と書いているので、そんなに厳しい要求じゃないと思いますよ。
脳の働きうんぬんは、それだけで説明できるから、自由意志の存在を仮定しなくてもいいよって言う話なので、
本質から外れているとかいうのは、的外れです。
あなたもしつこいね。(といいつつまたレスしてしまう私は単純?)
>>612 でレスしたように
「ほとんどないけどちょっとはある」というのが私のスタンス。
証明なんかできそうにないのわかっているから
>>623 で一応たとえてみたんだけどピン!とこなかった?
こなければそれまででいいよ。適切なたとえが浮かばなかったんでね。
歯車が全部で60億(10ケイでも500ナユタでもいいが)あるとして
1つの歯車には平均60億分の1の自由度があるのではないか?という直感だから
「根拠になってない」とか「意味不明」とか「義務がある」とか言われてもねえ。
はじめからマジに説明するつもりはないから
>>632 で「面倒だからこれ以上レスしないでね」と言ったの。(もうかんべんして)
>必然性のみで説明できる世界
ここがわからないんだよね。
>自由意志の存在を仮定しなくてもいいよって
自由意志が存在する可能性を探っていることが暗黙の前提ではないのか。
単純のため、いま仮に現実なるものが唯一あるとして、 二つの正反対の立場、 「この現実は、制約が少ない」 「この現実は、自由が少ない」 は、対等な立場です。何故ならどちらも、その度合いにおいて 唯一の現実以外の虚構の中に、現実を位置付けて論じているか らです。 また、程度を離れた完璧な制約や、完璧な自由の立場は、互い を自らのうちに表象できませんから、議論にすらなりません。 「検証」という作業も成立しません。 でも心配には及びません。科学が「検証」に重きを置く限りにお いて、一切の恣意的な境界条件を認めない、ということはあり得 ません。
660 :
考える名無しさん :02/07/09 02:42
>>658 ありがとう。ずいぶん分かりよくなったよー。
60億の歯車。。。。
> 1つの歯車には平均60億分の1の自由度があるのではないか?という直感だから
う〜ん、どうしてそうなるかな。歯車の自由度って。。。平均60億分の1の自由度って。。。
1個だけどこにあるか分からないけど、自由に動ける歯車があるという発想かな。。。
ひょっとして、電子の自由度とかの連想で何か「ひらめいた」んでしょうか。
> >必然性のみで説明できる世界
> ここがわからないんだよね。
要は、自由度を持ち出さなくても、この世界を記述できるってことです。
> >自由意志の存在を仮定しなくてもいいよって
> 自由意志が存在する可能性を探っていることが暗黙の前提ではないのか。
もちろんあると前提しているから主張しているんだろうけど、あると前提しているから、ある
などと言ってはイカンよ。なんでも前提して考えれば、あるなんて話になっちゃうからね。
661 :
考える名無しさん :02/07/09 02:52
>>659 > 「この現実は、制約が少ない」
> 「この現実は、自由が少ない」
対等なのは当たり前でしょ。なぜならどっちも程度の差こそあれ自由意志が存在すると
言ってるんだから。もともと正反対ではない。何かを論じようとすれば、現実そのものでは
ないのは当たり前。だからといって虚構かどうかは分からないよ。
> でも心配には及びません。科学が「検証」に重きを置く限りにお
> いて、一切の恣意的な境界条件を認めない、ということはあり得
> ません。
恣意的な境界条件および設定位置を「なぜ」そこに置いているのかを知りたい。
662 :
考える名無しさん :02/07/09 02:58
非自明な言明というのは、須らく虚構の中の特異例として 成立するからです。 そして、科学が検証に頼む以上、仮説は排除される虚構との 対比でのみ、把握されます。検証には恣意的に操作できる境 界条件が必要です。完璧に必然的な世界描像においてこれら が所与であるなら、仮説は永遠に憶測の域を出られません。
664 :
考える名無しさん :02/07/09 03:20
>>663 >非自明な言明というのは、須らく虚構の中の特異例として
> 成立するからです。
ここでいう「非自明」は、科学の立場のことですか?
> そして、科学が検証に頼む以上、仮説は排除される虚構との
> 対比でのみ、把握されます。検証には恣意的に操作できる境
> 界条件が必要です。完璧に必然的な世界描像においてこれら
> が所与であるなら、仮説は永遠に憶測の域を出られません。
あのなー、仮説は膨大な追試実験によって証明されるんだよ。科学的な世界観の
枠組みそのものが虚構であるとか言うのならまた違う議論になるんだろうけど、
そもそも自由意志に関して言えば、「仮説」すら立ててないのよ。
「仮説は永遠に憶測の域を出られません。」は、そっくりそのまま自由意志があると
仮定しているほうでしょ。哲学だって、科学だって何らかの言語で記述するんだから、
そんなこと言い出したら、どっちでもダメでしょ。
ですから、
>>659 で対等だといったのです。
私がここで警鐘を鳴らすのは、完璧な必然的世界観です。
それは「検証」の放棄の自己申告であり、科学とは無縁だということです。
>>651 自由は感じてあらまほしきもの
必然は思ひてやがて哀しきもの
<<666 その徴章は獣の名、もしくはその名の数字なり。 知慧はここにあり、こころある者は獣の数字を算えよ。 獣の数字は人の数字にして、その数字は六百六十六なり。 [666〜Six Hundred & Three Score & Six ヨハネ黙示録13.17〜13.18] 註:オーメンに非ず。『アフロディテス・チャイルド』⇒ヴァンゲリスの出自の ギリシャのロック・グループもデビュー2枚組LPのタイトルにしたので日本人の 若者も多少興味を覚えたか。プロテスタント、カソリックを問わず、クリスチャンは ガキでも知っているが、敢えてこの意味を読み取ろうとしないのが『黙契』。
>>660 歯車の運動が必然にみえてもいいんです。なぜ運動が生じているのか?
運動を時間としてもいい。時間を力学的に捉えるような感じ。
時間論になってよけい混乱しそうだが。
>あると前提しているから、あるなどと言ってはイカンよ。
>なんでも前提して考えれば、あるなんて話になっちゃうからね。
あると前提しているのとはちょっと違う。
可能性を探っているだけ。
どちらかというと、ないという前提からはじめたかな。
>>657 >必然性のみで説明できる世界に
>「なぜ」自由意志を持ち出す必要があるのか。そこを聞きたい。
>>660 >要は、自由度を持ち出さなくても、この世界を記述できるってことです。
ひょっとして、
自らに由る存在や現象があっても自らに由るという必然性で説明できるから
自由を持ち出す必要はない、ということですか?なんか疲れちゃうなあ。
670 :
考える名無しさん :02/07/10 17:48
>>657 いえいえどうも。
>「根拠づけ≒客観的論証」じゃないと思うよ。
こっちの書き方が悪かったですね。
「意志以外のものを用いての意志の根拠づけ」≒「意志の客観的論証」
と書いたつもりだったもので。
>根拠付けは必ずしも「意志以外のものに依拠すること」ではないよ。
じゃあ意志自身に依拠してもいいんじゃん。
>必然性のみで説明できる世界に「なぜ」自由意志を持ち出す必要があるのか。そこを聞きたい。
よりしっくりくる説明をしたいからかと。
逆に、なぜ必然性のみによって説明しなければならないのかを訊きたい。
>自己撞着以外にも語りうるはずだと思うんだけど、どうです?
ここの意味が解らないです。。。
自由意志があるかないか解らないものは、
あると言う側が存在証明をしなければならない必然性はないですよね。
更に、実際に私たちは物事を考えるのは自分が考えたいように考えてます。
その意味では、自由意志があると言う側に分があると思えるので、
ないと言う側が非存在の証明をする方が合理的であると思うのですが。
必然性ですべて片がつくので自由意志の存在は不必要というのは、
非存在の証明にはなってないですよね。
「必然性ですべて片がつくので、自由意志はいらない」
という流れのなかに、必然性を既に前提としているところが見受けられると思います。
実際に私たちは物事を考えるのは自分が考えたいように考えてます、と述べましたが。
決して「考えたいから⇒考えた」というようなものではなく、
説明しにくいですけど……後から思い返すと自由に思索していた、というものです。
経験的に自明だと思いますが、どうでしょう。
それまで受けてきた他者の考え方・それまで形成されてきた自分の性格に影響を受けていても、
それで考えていたのが自由であったという実感を否定するものではありません。
脳の生理的・化学的反応によってそれを説明できたとしても、その自由の実感は否定されません。
>そういう感覚に拠らない説明ってできない?
感覚による説明がいちばん的確であると思うし、
感覚によらない存在の説明って、思いつかないのですが。
>>670 自由の感覚とは何でしょうか?
自分で自分の思考を観察した時、それが自由に動いていると感じることは理解できます。
しかし、それは自由の定義について曖昧な感覚的説明をするものであり、
ある意味では自由さとは曖昧さと同じことと言うことになってしまうのではないですか?
逆に自由なものを、自分自身によって反省された自分の思考の動きといっても
良いのではないですか?
自分の考えていることは自分にしかわからない。
これは明白だと思います。
他人の思考の脳の生理的・化学的反応による説明とは
観察者が自身の脳との類比によって他人の思考を推測するものであって、
他人の立場で思考できるということは意味しません。
他人の顔色からその人の気持ちがわかるというのと大差ありません。
自分の思考の動きは客観的な観察によっては不可知であり、自分にとっても曖昧なので、
それ故、自分自身の思考とは具体的に知覚可能な世界の中で唯一自分にも他人にも
把握できないものと言えるでしょう。
又、思考とは反省されて初めて存在するもので、どこかに決定された思考があり、
我々がそれを曖昧にしか観察できないというものではありません。
思考とは時間的なもので、瞬間的な思考というものはありません。
物の位置や動きは瞬間に固定して考えることができ、
そのために全てがその瞬間に於いて決定されていると言うことが可能になるわけですが、
それ自体が時間的にある幅を持って存在し、時間的な流れの中でしか認識されない
思考は、絶対的に不確定なものと言えないでしょうか?
思考は流れることによって存在し、瞬間における観察が不可能なものです。
観察しようとした瞬間に、思考は別の物に変化してしまうので。
そして思考とは常に思考にとっての思考でしかないので、
誰にとっても観察可能な瞬間的な思考というものは有り得ない。
思考に対するこのような考え方が、自由という概念の基にあると思いますが、
如何でしょうか?
672 :
考える名無しさん :02/07/13 02:27
>>671 極めて平易な言葉と概念で、明晰な洞察を示して居られると思いますが、
『感じられる自由』は思考だけに限定されず、広く、意識一般に伴うのでは?
それと、思考だけでなく、瞬間で決定されていると措定される現象一般も、
モデルの中だけにしか存在しないのではないんでしょうか?
しょうか。
673 :
考える名無しさん :02/07/13 06:21
>>671 思考のインフラストラクチャであるところのもの、
・・・脳なり、人工知能ならばコンピュータなり・・・
の、仕組みが詳らかになったときにも、同じ個とがいえるのでしょうか?
674 虚しい
>>672 、673
「自由」という概念を私は不可知性と一緒に考えています。
必然性とは、何かについて細部まで決定されている、又は決定していくことが
できることについての概念だと思います。
何かを明確に知る事ができるということはそれが決定されていると言う事を意味する。
そのため決定不能なものが、自由という考え方に常に付いて廻るのではないでしょうか。
物の位置や動きが決定されているというのは、実際固定された瞬間を考える事ができる
からと思います。
物の動きには速いもの、遅いもの、止まっているものとありますが、その延長で
一切の動きが停止した状態を考え、これを無時間と言い換えることができる。
そんな状態をモデルとして実際考える事ができる。
この無時間の状態が複数並び、結合することが動きであり、変化である。
無時間の断続的な結合を時間として考えるような立場です。
これは物の観察では考える事ができますが、思考や意識の観察では
瞬間に固定した意識は存在しないのと同じことですから、
モデルとしても考えることは不可能と思います。
つまり、決定されているか否かはモデルとして考えることができるかどうかの
違いであると思います。
続き ご指摘の通り、決定の不能性は思考のみならず、 意識全体に拡大して考える事ができるようです。 例えば、自分が赤い色を赤いと言う時ののこの「赤さ」は、 自分にしかわからないものと言えるでしょうか。 他の人間が赤いという言葉で表現するものは、実は自分が青いと感じるものを見て 赤と言っているのかもしれない。 「客観的に赤い色とされるもの」を見た時に人間の脳に共通して見られる反応を 抽出できたとします。 脳の観察者は、この反応が見られたとき、観察の対象である人間が赤い色を見ている ということは認識できるかもしれません。 更にその人間が実際どんな赤を見ているのか、まで知ることができるでしょうか? その人間が見ている赤の独自性も、脳の中のその人間特有の反応パターンとして 考える事ができるものなのでしょうか? つまり、観察者の脳が赤を見たときの反応と、 観察の対象である人間の脳が赤を見たときの反応の違いを考える事によって、 他人の見ている赤までも知ることが できるものなのでしょうか? これを「できる」とする考え方が、脳、人工知能等の仕組みを解明したときに その観察によって意識の内容を全て決定できるという立場なのだと思います。 一般に人間の脳から、個々人の脳を単なるバリエーションとして意識の中身までも 全て推測し得るものなら、個々人の意識ではなく意識一般について通用する 脳と意識の関係を考える事ができるという考え方です。 これを個々人の意識に対する決定論と言っても良いと思います。 これはまた、次のような問題として考える事もできると思います。 自分の脳と全く同じ生理反応を他人に人工的に起こす事ができたとします。 その場合自分と他人が全く同じ世界を体験すると言えるのでしょうか? これは自分の意識を他人の意識とどう区別するかという問題と絡むと思いますが、 とりあえず自分にとって存在そのものと同義であるような意識、 つまりデカルトが我思う、故に我ありという言葉で表したようなものを 自分の意識と考えるとします。 その場合他人の意識は自分の意識の存在によって推測されるだけで、他人の意識を 直接経験することは定義上不可能な筈です。 経験した時点でそれは他人の意識ではなく、自分の意識ということに なってしまいます。 ここで自分と他人の経験するものが全く同じであるということは、 どういうことになるでしょうか? どのような視点からそんな判断が可能になるでしょうか? ここで一致の決定を不可能と考えると、個々人の意識の持つ決定不能性を 決定論に対して考える事ができると思いますが、如何でしょうか?
なぜ事物が私にとって謎めいた現われ方をするのか。 その理由はその事物の成立過程に私が立ち会わなかったからである。 私は出来上がった事物を眼前に持っている。 けれども思考だけは、それがどのようにして作られるのかを私は知っている。 だから宇宙の出来事を考察するとき、 思考以上に根源的な出発点はどこにも存在しないのである。 最後に生じたものをその出発点にしようとするときにのみ、 彼は目標に到ることができる。
678 :
考える名無しさん :02/07/17 20:02
自由意志について考えるてみるといろいろなことに気づかされる。 どこで生まれるのか、誰と出会うのか、どの本やマンガやテレビ番組をみるのか、 どの学校へいくのか、どの仕事に就くのか、どの娘に興味をもつのか、 どこで転んでケガするのか、どのような思想に興味をもつのか。 悟りをひらくのもバカでいるのも、善人か悪人かも、何にこだわり何に悩むのかも、 自分ではどうにもできないという可能性。 そもそも自分自身が、自我や意識主体というものが、あやふやなもの。 不確定な世界に不確定な自分、、、?
679 :
考える名無しさん :02/07/17 20:41
自由の解釈を因果に完全に支配されていない自由だとする。 つまり、それ自体で自由。 意志の解釈をすると意志は因果に支配されている。 よって自由意志という言葉は矛盾する。 だから自由意志はないと言える。 自由を一般的な意味で使うなら、意志は因果律に 支配されつつも自由であるとも言える。 これは疑いようのない事実。 証明になってないかな。
680 :
考える名無しさん :02/07/17 20:57
最近プリゴジンの物理化学的な方から出した結論だと ベルグソンとかホワイトヘッドが出した結論と一致したってよ 時間とは創発してくるもの とか
681 :
考える名無しさん :02/07/17 21:01
682 :
考える名無しさん :02/07/17 21:20
>>681 未来はまだできてないのよ
ラプラスの魔物なんてもうはいってこれないわ
683 :
考える名無しさん :02/07/17 21:45
>>680 ベルグソンとかは「自由」をどう解釈してるんですか?
人それぞれ自分なりの考え方があるから 『自由意思』なんじゃないの?
685 :
「哲学的」者 :02/07/17 22:53
また言葉の定義の周りで堂々巡りしている。 「自由意志」を定義してから論じなければ、「意味無い」。 土台が固まらないから『賽の河原の石積み』になる。 それが楽しいならそれでもいいけど、テツガクは「定義」することに 99%の言葉を使うガクモンのはずですが。
>「自由意志」を定義してから論じなければ、「意味無い」。 まあね。 でも、「自由意志」や「意味無い」ということが何か「定義」出来た時、 実質、議論は終結してる罠。 義を定めることに成功したことになりますからね。 >テツガクは「定義」することに99%の言葉を使うガクモンのはずですが。 と指摘されているように。 まあ、手探りで「共通概念」を探せればいいんじゃない? そのためには「方法」が大切なのは当然ですが。
687 :
考える名無しさん :02/07/18 00:02
688 :
考える名無しさん :02/07/18 00:07
自由意志なんて冗長な説明概念。 それを用いなくても世界を説明する事が可能だ。 でも、自由意志は存在していると思う。 神が存在する事と同じレベルで。
689 :
考える名無しさん :02/07/18 02:25
自由意志を不必要とし、必然性ですべてを説明する立場でも 自由意志を存在するとする立場でも、 どちらも超越論的な前提のようなものが必要なのではないかと思われ。 でも、後者の場合はその前提=自由意志であるのに対し、 前者の場合はそれが何なのか分りにくい。 というか、前者の場合、そういった超越論的な前提はほんとに全く必要ないのか? 必然だけですべてかたづくのであり、理論に先立つ前提というものが全く存在しないのか? そう考えるならば、先の論調で、 自由意志がオカルト的なのだから、 存在すると主張する方が立証責任を負うという主張は 責任の押し付けということにならないか。 どちらも超越論的前提が必要なのだとすれば、 立証責任は双方が負うはず。 だから、必然性だけですべてかたづくとする側は、 超越論的前提がなくてもよいのか、という点を説明し、 立場を明確にしてもらいたい。
なにも意志に限らなくてもいい。自由を問えばいいではないか。 世界がどう流転するかは因果法則によるが、 流転すること自体は自由=時間の力であるという直感。 時間と自由について考えてみた人はいないのか。
>流転すること自体は自由=時間の力であるという直感。 なんだか、よく分からん。意味不明。 丁寧な説明を請う。
692 :
考える名無しさん :02/07/18 14:05
693 :
考える名無しさん :02/07/18 14:59
あとベルグソン
694 :
考える名無しさん :02/07/18 18:29
あと中島義道。
695 :
考える名無しさん :02/07/18 20:11
>>690 「それ自体」と言うものがないんだってば
だからあるとすれば、不自由意志。
696 :
506と511 :02/07/20 22:15
これは、心身問題なんだけどなあ。
697 :
考える名無しさん :02/07/20 22:38
知ってることだけ言うな。
698 :
考える名無しさん :02/07/20 22:43
確率論でしか記述できない世の中で、なんで決定論なの?
699 :
考える名無しさん :02/07/20 22:44
論理展開は決定的だぞ。
700 :
考える名無しさん :02/07/20 22:49
701 :
考える名無しさん :02/07/20 22:52
>>698 >>698 確率論でしか「記述」できないだけであって、「観測結果の確定ができない」
ということでしょう?
合格結果が張り出されている掲示板を「見ていない」うちは、
「合格しているか決定できない」けど、「合否は既に決定されている。」
という事実に変わりはないと言うことではないんですか?
702 :
506と511 :02/07/20 23:02
知らないことは、話せないよ。
703 :
考える名無しさん :02/07/20 23:05
>>702 相手の言ってることを聞き、その場で理解した所を話せ。
704 :
考える名無しさん :02/07/20 23:06
705 :
考える名無しさん :02/07/20 23:09
>>701 その程度のベイズ推定でも、全事象の確率の和が1だという事を
論理的に言うことはできるだろ。
706 :
「哲学的」者 :02/07/20 23:10
707 :
考える名無しさん :02/07/20 23:12
>>706 まあ、蓋然性が高い、か、観測できないとしてよい、かだな。
708 :
「哲学的」者 :02/07/20 23:13
>>705 >全事象の確率の和が1だという事を
論理的に言うことはできるだろ。
それは1=100%としますという決めごとを言っているだけで、
「言説の意味」はないと思いますが。
709 :
考える名無しさん :02/07/20 23:16
>>708 そういう定義の積み重ねで、次に確率を定義するんだ。
そういう定義に従った使い方をしている時だけ確率という語に意味を認める・・・
という作業を続けると、確率モデルというのができて、それを共通の知識とした
コミュニケーションが可能になる。
710 :
506と511 :02/07/20 23:45
ぼくは、人間はもともと間主体的だとおもいますが。
711 :
考える名無しさん :02/07/20 23:45
話がずれてる。この世は決定論じゃないんだよー。 信じてよ。
712 :
考える名無しさん :02/07/21 14:36
>時間とは創発してくるもの 時間と自由、存在と時間、が繋がってくる
713 :
考える名無しさん :02/07/23 03:23
必然性を深く把握するには先入見のない鍛えられた自由な感性が必要。 自由を深く味わうには必然性に対する深い洞察が必要。
714 :
考える名無しさん :02/07/23 04:12
必然性→把握 自由→味わう 何故この組みを?
715 :
考える名無しさん :02/07/23 06:56
必然性→物事の理(ことはり)→言語(ことのは)による概念化を要請 自由→五感の十全な機能発現→生命系の『いとなみ』の基盤→言葉以前の『いみ』
716 :
考える名無しさん :02/07/23 07:04
生物に自由意志はありません。 自然界に乱数はありません。
717 :
考える名無しさん :02/07/23 08:53
クレジット、デビットカード、ポイントカード、通信販売、レンタル店、 水道、電気、ガス、電話、銀行、役所、交通、運輸、郵便、宅配、旅行、 住基ネット、ユビキタス、ICカード、自動○○装置、、、 個人情報が記録管理されまくる。 利便性と引き換えに個人情報が詐取されるわけです。 携帯電話にカメラやマイクがつけば手軽に盗聴盗撮ができてしまう。 電子マネー機能やGPS機能がついたら、 携帯電話を持ってるだけで現在地を把握され、おまけに所持金も把握されてしまう。 プライバシークライシス。 個人の趣味趣向、学歴、職歴、病歴、家族構成、人間関係、貯金額、 どこでいくら何に使ったか、どこの駅でおりて誰とあってどの店へいったか、 誰とメールしてどんな内容の文章を打ったか、どこのHPにアクセスしたか、 そのうち遺伝子情報までも、全部一元化してわかるようになるという。 指紋認証、顔認証システムなどの機械がもうすぐ実用化され町に置かれる。 イギリスのように町中が監視カメラで溢れるかもしれない。 その情報は役所や金融機関、一般企業はもちろん、個人の手中にまでわたるという。
同意
自由と必然は数学の集合論をもとに考察すべし
個人の人生にしろ企業にしろ国家にしろ発展の奥義は、719にある。 知恵のあるものは解くがよい。
要素を自由、集合を必然と考える。いつも集合の集合、全体としての必然性を考えるようにするとよい。
>>717 しかしそういう情報の取り扱いに例外を設けると、例外にあたる人が特権階級になってしまうぞ。
723 :
考える名無しさん :02/07/24 14:16
世の中カオスだよ
725 :
考える名無しさん :02/07/24 19:09
自由ってなんなんですか、と問うことと、考えてうだうだ遊んでる しかできないもんですな、結局。
726 :
考える名無しさん :02/07/24 19:11
ミクロとマクロをごちゃごちゃにしてるぜよ
727 :
考える名無しさん :02/07/27 02:34
>>681 創発とは、観測対象と記述方法が、共に立ち現れること。
728 :
考える名無しさん :02/07/27 03:32
日韓WCによると、アル1−0ナイ(バティストゥータ) ゆえに、あるといえる。
729 :
考える名無しさん :02/07/27 04:17
存在するものは 物質的なもので有れ精神的なもので有れそれ意外の何かであっても 必ず何らかの法則によって成り立つと思われる よって存在するものには究極の意味での自由はない つまり例えば 物体が一切力が加わっていないのに 突然ある方向に運動をはじめたり 別な場所に移動したりすることは有り得ないように・・・ しかし「自由落下」などという言葉があるように ある存在がある条件下において生じる力、意志、欲望等によって引き起こされる運動が 障害に出会わずに達成される状態を自由と呼ぶならば 世の中に自由意志はありふれているだろうと思われる
皆さん、この題材はなかなか難しい問題で相当長い討論になると思われましゅ。 なので方法的懐疑で疑いのあるのを省いたらどうでしょう? 疑いの余地のないものがでるかどうかは断定できませんが、いい方法だと思いますよ。
731 :
おしえてくん :02/07/29 09:09
730もレス読むのめんどいので誰か答えて欲しいんだけど そもそも意志って存在するの? 人間は意志ではなく、常に反応で動いてるような気がするのですけど・・・。
732 :
考える名無しさん :02/07/29 13:44
意志とは反応に次ぐ反応の末に形成される 一種の行動指針といえるかもしれませんね で、それに自由がつくとどういうことになるかというと その意志が自分が真に望んでいるものであるかどうかということなのではないでしょうか つまり顕在意識で認識できる範囲内にその意志が形成された原因が明示的に有るということ またその意志がいかなる否定的な感情、思考から影響を受けていないということ 多くの場合こういう意志を自由意志と呼ぶのではないかと思われます
733 :
hungry yellow :02/07/29 18:44
生成流転する時間とゆう限定された所に自由な意志なんてありえない。意志は あっても自由な意志は存在しない。人間とゆうのはあくまで行為主体だとおもう。 例えば意志をもって選択するというが選択とゆう言葉に既に限定の要素がある わけで、不自由の上の自由ならあると思うけど、でもなんでもやれるぞとか 思ってるほうが楽しいし、気が楽でいいわなー
734 :
考える名無しさん :02/07/29 20:20
自由意志があると言う人の自由や意志の解釈では コンピュータやロボットにも自由意志があると言えてしまう 時代がきていると思う。
735 :
考える名無しさん :02/07/29 21:43
安全かみそりはない・・・
>734 然り、というか、 今更そんなこと言ってるようでは時代に取り残されるよ
737 :
考える名無しさん :02/07/30 02:33
>>734 コンピューター、ロボット等には意志は無いと思う
意志があるという場合 そのもの自体に「自分はこうしたいんだ」と自覚し
それを感じる「何か」が無ければならないように思われる
精神というべきか 宗教的な表現をすれば霊魂か・・・
機械に生物が持つ「自らの生を体験するもの」を発生させることが出来れば(あるいは結びつけることが出来れば)
意志を持たせることが出来そうだ と思います
(しかし それを確認する方法は無いw)
自由という言葉を聞いて 何でも簡単に出来る状況を思い浮かべる方がほとんどと思われますが
実際に自由に近づくには「出来る」ことよりも「なぜ」それをしたいのか
ということを解き明かしていく必要があるように思われます
738 :
考える名無しさん :02/07/30 11:46
うわ、またエライ浅瀬に上がって来たなぁ・・・
739 :
考える名無しさん :02/07/30 23:13
>>737 では、機械ではなく、人間には意思はあるでしょうか。
あなた以外の。
>>739 さぁ・・・ 厳密に言えば確認する方法はありませんが・・・
多分あるんじゃないでしょうか(結構投げやり
741 :
考える名無しさん :02/08/04 06:40
いわゆる、肉体的な能力の発展は自由獲得の実感の最たるものだろう。 例えば、弾けなかったフレーズが或る瞬間遂に弾けたとか、 超えられなかった跳躍の壁の5センチが超えられたとか、 解けなかった問題が遂に解けたとか。 プリゴジーヌも良いし、ベルタランフィも良いが、自由のなんたるかも 問わずして、必然と自由のモグラ叩きは意味が無い。 カントもスピノザもホフシュタッターもクオリア論者のあの人も、 存在の秘密には答えて呉れないと思うよ。
742 :
考える名無しさん :02/08/04 06:44
>>741 それを言ってもケテー的反駁になっとらんのだよ。
「必然の流れの中でその現象が起こったのら」と言い返されて終わり。
743 :
考える名無しさん :02/08/04 17:00
>>742 「必然の流れの中でその現象がおこったのら」ってのは
じぇ〜んぶ『自由』を前提にした人間の認知『行動』の謂い。
どだい、命題を主張するってのは『自由』をば前提にした『意識』の
れべる3位の『かつどう』としか表現できないんだな。
つまりは、『自由』をどう説明するかって事さ。
『必然』は言ってみれば『当たり前』のこんこんちき。
決定論の是非って、論証する方法あるのでしょうか。事象に「規則性」がある のかどうかの議論なら可能でしょうが、規則性の有無と「決定されているかどう か」とは別だと思います。「ランダムな動きをするように(神によって)決定 されている」とも言えるわけで。 決定論というのは文学的に表現するなら「永遠の相の下で眺めれば、宇宙は静止 している」という意味で、少なくとも「過去」については自明のことだと思えます。 「未来」について自明であってもなくても、実質上何も変わりはないのではない でしょうか。 「自由意志」というのは、「決定するエネルギーが自己の内部から湧いてくる」 という「感覚」のことだと一応理解しております。
745 :
考える名無しさん :02/08/06 22:45
前レスで、「パラダイムの違い」ということになったようです。
746 :
考える名無しさん :02/08/06 23:20
>>745 クーンのパラダイム論自体が検討すべきものなのに、そんな安易に終われるハズないし。
747 :
Kurihara :02/08/06 23:38
僕は頭が自由な人です。
748 :
考える名無しさん :02/08/06 23:48
ぼくも頭が自由な人です。
ぼくは目が不自由なので、2chが見れません。
750 :
考える名無しさん :02/08/07 00:33
ぼくは自由なので2ちゃんねるが楽しいです
751 :
考える名無しさん :02/08/07 00:47
>>745 ん?でも、反復を除いて、反論見かけませんが・・・私的には、納得しました。
すごく気になるんですけど。 決まっているなら、決定されている因果の最初を何が決めたんですか? それには自由意志は有るんですか? 決まってないなら、何が意思を決めてるんですか? それには自由意志は無いんですか?
753 :
考える名無しさん :02/08/11 13:52
自由意志はない、
なぜなら、人間は何らかの法則に縛られているから
>>752 全知全能の神は当然、自由意志を持っています。
自然や生物、人間はそれの表れにすぎません。
全知全能の神は完全であり、自由なんです。
何からも、縛られる事はありません。
754 :
考える名無しさん :02/08/11 14:11
>>753 そうですか?私も自由意志はない、と思いますが、神については同意できません。
神は自由なだけで意思があるかどうか分からないのでは?
つまり神は何にも縛られなく、因果を発生させますが、自身に意思は無いかも。
『命題を主張する事が、自由を前提にした意識のレベル3位の活動としか 表現できない』という命題主張の後付け弁明。 〜認知に関わる三つの意識〜 レベル1−覚醒[arousal or vigilance] レベル2−知覚[awareness] レベル3−自己意識[self consciousness or recursive『再帰的』consciousness] 〜『意識とは何か』芋坂[おさか]直行著 岩波 科学ライブラリー36 1996より〜 この小冊子自体は別に大した事を言っている訳ではないが、 そこに転がっていたのでちょっとめくったら 後追い弁明に便利な当たり前の事が描いてあった。 まあ、再帰性もメタも『遠い標的への至近距離』を目指す試みかな。
756 :
考える名無しさん :02/08/11 14:30
757 :
考える名無しさん :02/08/11 14:41
>>757 おっと、又間違った。老眼はいやだ。
『からむし』か、草冠に佇むの旁だな。
760 :
考える名無しさん :02/08/11 16:00
自由意志 人間のうちにあって、自然の因果の 必然によって規定されずに自発的に 発動する能力が自由意志である。 そうした能力の存在は、選択とか 意志決定の自由として意識される。 もっとも、スピノザによれば、人間が 自由意志をもつと信じるのは行為の 真の原因について無知であることに よるので、人間の意志や行為もすべて 因果の必然によって規定されている ことになる。このように自由意志の存在を 否定するのが決定論で、現代の科学者や 科学哲学者のなかにも決定論者は多く存在する。
761 :
考える名無しさん :02/08/11 16:03
ないものが見える
762 :
考える名無しさん :02/08/11 21:27
あの、決定論なのに何故人は他者に感情を抱くのでしょう? 全ては物理法則なのだから現象だけを考えて生きればいいんじゃないですか? それともこういう質問は哲学ではなく他板でするべきですかね。
決定論と自由意志の問題
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/philo/1028798291/l50 脳内が決定論的に観察されると考えてる人でも、↓のように言える。
脳内の化学反応の現われである意識(これは観察されるものではなく内面的)が、
脳内の化学反応を介して次の思惟なり行為なりを引き起こす。
ここで、脳内の化学反応は外面的な分析にすぎないので、内面的な意識にとっては、
意識が次の思惟なり行為なりを引き起こすことになる。
で、これが「内面的な意識にとっては」事実。
化学反応を介するということは、内面的な事実ではないから、
内面的にそれを考慮に入れることはできない。
内面的には、意識の方が実在的であり、化学反応の方が観念的であるのに対し
(化学反応ということを考えなくても人間が思考できるというような意味であって、
化学反応が妄想の産物と言っているのではない)、
外面的には、化学反応の方が実在的で、意識の方が観念的。
内部の意識=外部の化学反応 内部の意識=内部において非決定 || 外部の化学反応=外部において決定 つまり自分自身は自由意志をもっていると思っていても 結局は一意にきまっているわけだ。
765 :
考える名無しさん :02/08/11 23:11
いやだから、内面的には化学反応の方が観念的であっても、 >外面的には、化学反応の方が実在的で、意識の方が観念的。 ということを知っているわけですよね。 なのに、何故、内面の観念に従うんですか? 決まっているから人や機械は同じだとか、 何をやっても責任は物理法則にあるとか、そう考えないんですか?
766 :
考える名無しさん :02/08/11 23:27
>>765 「観念的」という言い方はおかしかった。
一方では、自分(意識)が化学反応を身を以って知ることができるのは、
「それを対象とした場合のみ」=対象的な場合である。
他方では、(解りやすいため生理学的な言い方をすれば)
化学反応は自律的な反応であるため、その意識にとって現われることはない。
つまり、化学反応が内面にとって現われることはない。
現われるとしても、それは対象的な場合であり、
当の意識を起こしている化学反応が現われているのではない。
767 :
考える名無しさん :02/08/11 23:28
つーか、自然科学の階層構造の問題とメルロ=ポンティなんかの身体論の問題の交叉点に見えてきた。
768 :
考える名無しさん :02/08/11 23:45
>>765 >決まっているから人や機械は同じだとか、
>何をやっても責任は物理法則にあるとか、そう考えないんですか?
この考え方は、決して機械論に矛盾するもんでもないし、
すべてが決定論的物理法則に従うことを否定するもんでもないよ。
769 :
考える名無しさん :02/08/11 23:53
765です。ここで聞くのはスレ違いかもしれませんが、 決定論が人間社会にどう影響を与えるかを知りたかったわけです。 内面的には自由意志は否定されていなくても、やはり内面的に >外部の化学反応=外部において決定 ということを認識しているわけですよね。 自分や他人の行為に対する善悪、などの観念に影響を与えないのでしょうか?
フフン! オマイら糞に衝撃に事実。 自由のイイ(・∀・)ところは、不自由もヤれるってところに在るんだぜ!
771 :
考える名無しさん :02/08/12 00:01
機械論的世界観の問題なら、哲学で世界観に与えた影響は大きいが、 倫理面に大打撃とは聞いたことない。
772 :
考える名無しさん :02/08/12 00:41
宅魔君と言う殺人犯も殺人と言う行為に至った 化学反応の部分を説明できなくて四苦八苦 しているようだね。 あの殺人は衝動なのか?それとも自由意志なのか? 俺には計画性はあったとは言え、衝動的な行為 だと思っている。
773 :
考える名無しさん :02/08/12 00:47
決定論、非決定論は認識の問題になるだけだよ 決定されていると思考しないと因果関係が説明できない 決定されているとしてもその決定の全てを知ることは不可能、ラプラスでもない限り どっちでもさほど変わらないと思っている
久々にこのスレきたが、レヴェル下がったね。 というか前の方のレス読んでないんだね。
775 :
考える名無しさん :02/08/12 18:19
>>774 2chのスレはどこもこんなもんだぞ。
2ch初心者か?
>>774 このスレは、最初からレヴェルが高かった事など一度も無い。
自由とレヴェルとageの関係や如何に・・・?
778 :
考える名無しさん :02/08/19 14:43
自由意志とか自我とか主体の問題って重要なのに、多くの人が棚上げしてるというか先送りしてるね。 たとえば、夢をみているときの自分は、 夢だからいきなり突拍子もない環境状態におかれるが、 その夢の環境状態にあまり疑問をもたなかったりする。 ずっとそれが続いていたかのように、うまく馴染んでしまっている自分がある。 目覚めてから、その夢の設定に疑問をもったりする。なぜだろうか?
779 :
考える名無しさん :02/08/19 14:46
なるししずむ
780 :
考える名無しさん :02/08/19 14:50
>>778 >自由意志とか自我とか主体の問題って重要なのに、多くの人が棚上げしてるというか先送りしてるね。
何をもってそう判断したのか疑問。
781 :
考える名無しさん :02/08/19 14:55
>>780 「自分の自分たる原因はなんだろうか?」とか一般人はあまり考えないでしょう。
782 :
考える名無しさん :02/08/19 14:57
783 :
考える名無しさん :02/08/19 15:11
意志は外的要因に左右される ↓ 外的要因には物理的制限がある ↓ ゆえに意志にも制限がある
784 :
考える名無しさん :02/08/19 15:14
外的要因も意志に左右されr
786 :
考える名無しさん :02/08/19 15:17
意志は外的要因に左右される ↓ 外的要因はランダムなものである ↓ ゆえに意志もランダムなものである
787 :
考える名無しさん :02/08/19 15:25
ランダムという法則性に左右される?
788 :
考える名無しさん :02/08/19 15:28
ランダム [random] (名・形動) (1)無作為にすること。任意にすること。また、そのさま。「―に選び出す」 (2)ランダム-サンプリングの略。
789 :
考える名無しさん :02/08/19 15:30
ガンダムを左右したい
ランダムかどうかがランダム
791 :
考える名無しさん :02/08/19 15:32
792 :
考える名無しさん :02/08/23 22:07
アゲルヨ!
793 :
考える名無しさん :02/09/14 02:43
久しぶりに観たらスカスカで今にも無くなりそうな様子なので、 少しだけ問題提起を。 かつて、「自由意志と決定論」という提示はちょっと杜撰なので 「意志の自由と存在の必然性」と表現した方が良かろうかな、と 提案した者ですが、そのココロは 科学的思考[指向、嗜好、試行のどれでも可]のれーぜんでーとると その行く末は『必然性』への全面的帰依にあると思いましたので、 『必然性』に真っ向から衝突する概念としての『意志の自由』を 科学的思考の枠組みの中でどう解決するかに興味があった訳けです。 私事になりますが、おおよそ40年近くはこの問題が頭から離れる事は ありませんでしたし、自分自身では『自由』を『必然』にびるといん する作業も30年ほど前に終えましたが、今もってこの問題に真っ向から 取り組んでいる人は極少ではないかと感じます。 このすれっどは、「専門ばか」の「専門与太」も少なく、実に本源的な 疑問を持つ人たちが小疑問を提示する貴重な場ではないかと考えています。 コンピューターの発展を待つしか無かったマンデルブロートのフラクタルが 認識作用[敢えて行為とは表現しません]の根源であるアナロガスな基なのか、 存在そのものの属性なのか、 カオスは本当は決定されているのか、など まだまだ、この問題が投げかける『存在の秘密の鍵』は数多いのではないか と考えていますが如何ですか?
794 :
考える名無しさん :02/09/14 03:00
>>793 あなたが何歳なのかはさておき、
意志と必然性に関する基本文献と言ったらなにですか?
スレも空気も読んでません。あと何日か家をあけます。
すべての心的活動には意志(志向性)の要素がある。 心的活動は目的を持って流れるか、それとも全く流れないかのどちらかなのだ。
>>794 基本文献は私にはありませんが、ひとはカントの純粋理性批判の
「アンチノミー」などを挙げるようですし、スピノザもかなり人気が
上がっているようです。
私自身はローベルト・ムシールの『特性の無い男』
Der Mann Ohne Eigenschaftenのサブ・テーマ になっている
モールスブルガーの殺人自認と裁判との本源的相剋[精神耗弱者の減免]
などが大好きでしたが。
トルストイの『戦争と平和』の巻末エピローグの自由と必然論も
なかなか奥深いものがあったと思っています。
早速どおも。 正直、アンチノミーはそれぞれが説得的なのかどうかがいまいち飲み込めないんです。 だから純理の衝撃というのがいまいち分からんです。 ネタ仕込んでまた来ます。 数日堕ちます。
798 :
考える名無しさん :02/09/17 20:30
ムージルage
799 :
考える名無しさん :02/09/18 04:03
>>794 シャノンの情報理論の基礎部分は、必須と思われます。
科学における検証のスキームが、その基盤に相互情報量
を用いるからです。
そこから、
>>663 にあるような、ジレンマが導き出されます。
800 :
考える名無しさん :02/09/20 03:58
なるほど。全然分かりません。 私立文系に分かるように言うとどおなりますか>799 ついでに800げと
801 :
考える名無しさん :02/09/20 08:25
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」ですべては解決すると思われ。
802 :
考える名無しさん :02/09/24 00:21
>>800 科学の作法において、
再現的予言能力のあるなh1なる仮説を支持するには、
h2, h3, h4, ... といった、異なる結論にも帰着しうる検証手続きを用い、
恣意的に操作しうる複数(多数)の境界条件でふるいにかける。
再現的予言とは、境界条件と観測結果との間の、シャノンの情報論
における相互情報量が非自明に大きな言明である。
したがって、このとき、境界条件の設定に当って、
検証対象から純粋に分離された恣意性が要求される。
つまり「万物の法則」の検証には、原理的に適用不可能な作法だ。
もしも、この分離が完全でないままで検証を行うならば、
真の法則だけでなく、境界条件設定ー観測操作のループさえ閉じれ
ば、すべてが生き残る候補となる。これでは、疫学調査と変わらない。
それを避けるために、たとえば、定義域を粗視化し、全探索する手法
が一般的であるが、粗視化自体が共有されているかどうかということ
自体、科学的検証の対象とはなりえないし、もとより、粗視化すること
で、意思のような、情報の表象が求められるケースには、無力となっ
てしまう。
ただし、弁証法的世界観においては、それを避ける必要は無いため、
かならずしも致命的な問題とはならない。西田の絶対矛盾的自己同一
も、こちら側の立ち位置にある。
803 :
考える名無しさん :02/09/25 00:44
>>802 これで私立文系に分かるのかな?
雑だし。
I( X ; Y ) -> Max のとき、
I( X+Y ; X-Y ) -> 0
という事態は、文系の人には、どう説明したものか。
804 :
考える名無しさん :02/09/25 01:07
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>これで私立文系に分かるのかな? 当たり前の様に一文も理解できません。 世界の諸要素が全部所与だったら、世界に関して各々説得的ではあるけど、 両立不可能な二つの説明体系のどちらが正しいのかを 検証する術が無かろう、色々条件を変えてみて生き残るのはどっちだ、 ってできないから。ということですか? そういうことなら、それとなく。 分かった気になりそうなファジーな1/fな感じがしますが。
806 :
自由意思否定派 :02/09/25 04:00
社会生活において自由意思は存在しなければならない。 今までの社会生活が自由意思の存在を肯定するから脳が錯覚しているのでは? 自由意思を否定すると自己の存在を否定することになる。 ↓ 自由意思を肯定することによって自分の存在を肯定できる。 ↓ 脳にとって一番つじつまが合う。 ↓ 従って自由意志は存在する。 ま、根拠は無いのですがこんなところだろうと私は考えます。 人間も物質に過ぎないので自分はこの空間において特別な存在などと 考えるのはあんまりよろしくない。
自由意志だと思ってるものは、複雑な因果関係の中で予め決定されている、 けど、脳はそう思ってない、ということでしょーかー>806
808 :
考える名無しさん :02/09/25 04:11
>>802 べつに弁証法なんか持ち出さなくても、
心身二元論でいいじゃないですか。
809 :
自由意思否定派 :02/09/25 04:25
自由意志を肯定することで脳にとって脳の存在を肯定していると 言いたかった。
>>808 科学の真に恐るべき力は、全ての素朴な神秘が、等しく
銃を突きつけられることで発揮します。
全ての神秘を叩き潰して万物の法則を顕現するのは前述
のように、原理的に不可能だけれど、その神秘も、いつ叩
き潰されるか分からない。したがって、もはや神秘は、「出
る杭は叩かれる」を恐れて、分をわきまえねばならない。
つまり、心身二元論は、科学の鎖でがんじがらめ、ではな
いが、科学の鎖を引っ掛けるフックは、無数に設置されつ
つある。
弁証法的な展開を伴う現象や、絶対矛盾的自己同一は、
この呪縛から自在にすり抜ける。
811 :
自由意志否定派 :02/09/25 04:29
てかさっきから字まちがってら・・・。訂正します。
>>810 誤: その神秘も、いつ叩き
正: どの神秘も、いつ叩き
なんでオマッ、800?
814 :
考える名無しさん :02/09/25 14:16
>>806 それは自由意志を否定していることにはならない。
決定論と自由意志が並存できない、という文脈においてなら、
そうやって論じることで自由意志は否定できるだろうが、
決定論と自由意志が並存できる、という文脈においてなら、
そうやって論じることは、逆に自由意志の肯定を支持することになると思われる。
815 :
考える名無しさん :02/09/25 20:57
ちょっと視点を変えるが、「自由意志」が無くても特に問題は無いよなぁ?
自由をテーマにするとヒトは戦いつづけることが出来る 現実世界における退屈の根源が有限な肉体に在る、とする場合 内的なものに無尽蔵を求めるのは道理だ また、 ヒトは不自由をやれるくらいには自由でなくてはならない、当然。
運命が決定してるかもってことに気が付いた人間だけが運命に逆らう方法を考えることができる。 なんか方法があるかも知れないよ、宇宙の外に出てみるとか。タイムマシン作るとか。
>人間の脳は物体、物質であり、物理法則に従う。 >したがって、自由意志はない。 >という決定論を否定する奴はいるのか? 物理法則って人が宇宙を説明するために発明した思想で、 宇宙そのものじゃないし、完成にするか不明だし、 不完全なものだし、 宇宙は、物理法則で表せ、従うか不明であり、 したがって、自由意志はないとはいえない。
819 :
考える名無しさん :02/09/26 14:04
運命の話なのか物理学的必然性の話なのか分からないんですけど
820 :
名無しのルサンチマン :02/09/27 09:17
「意志」がいつ問われるか?というと行為した後である。 殴る意志があったから殴ったのではなく、殴ったから殴る意志があったのである。 「殴るつもりはなかった」と言っているのに殴ったら、それは殴る意志があったのだ。 意志が自由が必然か、という問題に関して言うと、意志は行為の結果で問われるのであって必然的であると思う。
821 :
考える名無しさん :02/09/27 13:31
世の中すべて理屈で割り切ることができれば自由意志は無いんじゃない?
>>820 アメリカのプラグマチズム[ジェームス辺りから発した]系の行動主義に
似た発想のような気がするが。
大陸系発想の『内省』の要素を嫌い、観察されるものしか論じないという、
ある意味で、科学的方法を心理学に適用しようとしたと言えるかも知れないが、
観察主体の認識の構造を論じられないので廃ったような気がするよ。
>>197 (134氏)
偶々その本を読んだ所なのでいろいろ思う所があります。
このテの議論は一人で考えているとツライもんがあります。
824 :
名無しのルサンチマン :02/10/02 21:13
>>822 まだまだ私の中では廃ってないんだよ。
それに観察主体の認識の構造はどうやって知るんだ?
自分で自分の認識の構造を知るのか?その場合、やはり独断の域を抜け出せない。
また他人の認識の構造から自分の認識の構造を類推するには、
まず他人と自分の認識の構造が同じであることを証明しなければならない。
それこそ神の存在証明でも行って自分と他者の構造が同一であることを証明しようか。
観察主体の認識の構造を論じるのは難しい。
>>118 物理的に完全に同じ状態なら、
両者はあらゆる意味で完全に同じ物なんじゃない?
置かれた環境の違いでその直後にはもう別物になってしまうか知らないけど。
>>1 に即して言うなら。
826 :
考える名無しさん :02/10/06 02:44
俺は、そうは思わない。そこを押さえる科学的検証が得られるまでは。
827 :
考える名無しさん :02/10/30 08:24
でさぁ、お前らいつ自由意志使ってるよ? カルーアミルクとカシスソーダどっち飲む? って迷ったときに どっちを選んだにしても それを選んだ理由があるとしたら その理由にしばられてるわけだから 自由意志じゃないよな そっちを選ぶのが必然だったわけで お前らが本当に自由意志を使ってるときっていつなの?
828 :
考える名無しさん :02/10/30 09:35
827に答えられるのだろうか?誰か。
829 :
考える名無しさん :02/10/30 10:32
自由意志派沈黙かよ?
830 :
考える名無しさん :02/10/30 14:52
>>827 >それを選んだ理由があるとしたら
>その理由にしばられてるわけだから
>自由意志じゃないよな
どうして?
理由に縛られているものは、何が選択されるかという行動であって、
その「理由で縛る」ということをしたのが自由意志。
行動の必然性を与えたのが自由意志であって、
自由意志がそれを選択した動機は、自由意志を制限するような理由にはならない。
行動面では「一方を飲めばもう一方を飲むことはない」(両方飲むというのは無視)ということが成立するが、
動機面ではそういうことはまずない(好き嫌いなどは別にして)。
>カルーアミルクとカシスソーダどっち飲む?
カルーアミルク。
831 :
考える名無しさん :02/10/30 14:55
>動機面ではそういうことはまずない(好き嫌いなどは別にして)。 つまり「一方を飲む動機があるからといって、もう一方の飲む動機がないわけではない」ということです。
832 :
考える名無しさん :02/10/30 15:50
>>830 >「理由で縛る」ということをしたのが自由意志
「理由で縛らない」という選択肢もあったわけですか?
833 :
考える名無しさん :02/10/30 17:43
>>832 どちらを飲むかという「選択肢」と、
理由で縛るか縛らないかという「選択肢」は別。
理由で縛らない=行為に必然性を与えないことは、
どちらを飲むかという場面に出くわした時点で、無理かと思う。
そのときに「飲まない」とするとしても、
それは理由で縛らないということではなく、
前者の「選択肢」を1つ増やしただけであると考えられます。
834 :
考える名無しさん :02/10/30 17:53
>>833 そもそも「理由で縛る」ことと「理由で縛らない」ことを
自由意志で選択することが可能とお考えなのかどうかを
お聞きしたかったのです。
835 :
考える名無しさん :02/10/30 18:29
>>834 不可能だと思います。
そういった選択肢を考えることは、思弁的に過ぎず
(その意味では意味があるかもしれないけど)、
現実世界ではあまり意味のあることではないでしょう。
その場面に遭遇すれば、もはや後の行為に必然性を与えなければならない
=理由でしばらなければならないし、
その人が前以て(自由意志か何かで)その場面に遭遇しないようにできたとしても、
そのことを、行為に必然性を与えることを回避した=理由で縛らなかったと考えるのは、
その場合は飲み物選択の場面が架空にすぎない以上、
理由で縛るかどうかを考えること自体が無意味であるからです。
836 :
考える名無しさん :02/10/31 01:46
>793=796さん 『戦争と平和』のエピローグ第二編、読みました。米川訳。 もしかしたら21世紀に何よりも復活すべき人がレフかもしれませんね。 とまれ決定論の優位は動かないでしょう。問題はですから、決定論を認めた上で それでもなおかつ「ある」といえるような「責任」、という問題でしょう。たとえば 元総長・蓮実重彦は最近の本で、若い日本人に直接の責任はないが、だからこそ負うべき 「責任」があるというようなことを言っています。ドゥルーズ「ニーチェと哲学」 に出てくる「うるわしい無責任」がひとつのソースかもしれませんが。 時の人カラヤンは、決定論者スピノザにはそれでは責任ということがいえなくなる というblinsnessがあるという(トラクリ・倫理21)。しかしそれは誤解 ではないでしょうか。決定論と「責任」は両立するはずです。
837 :
名無しのルサンチマン :02/10/31 19:17
>836 私も決定論と「責任」は両立する立場です。 自由意志というのを、「カルーアミルクを飲むぞ」と意志したとき、 それが何かに妨げられず(この状態を消極的な自由と呼ぶ)、カルーアミルクを飲むという行為を行うとき、 というように解釈したら。 こうすると、カルーアミルクを飲むという行為は決定論でありながら、自らの意志を妨げられず「自由」に行っている、 だから「責任」も問える、と言えます。 ストローソンという哲学者は、実は「責任」は、行為が決定論であるかどうかということとは別問題だと言っています。
妨げる? 人にカルーアを飲むことを妨げられた場合でも、「飲むぞ」と意志 することはできますよね。つまり意志することは妨げられていないわけです。 しかしその場合でも、その意志は自由=自己原因性ではないでしょう。 私が「責任」にカッコをつけたのは、決定論に立つ限り ふつう人々が考える責任というものは、成立しないからです。 しかし実は、それとは異質の、無根拠な、しかしある意味でもっと厳しい、「責任」 というものがありえる。そしてそれは決定論と両立する、と思うのです。 ストローソンは読んでいません。彼のいう「責任」はどのような意味なのでしょう? ちなみにハスミンの発言は「私が大学について知っているニ三のこと」にあります。 最近の本とは「知的放蕩論序説」で、そこで漢字にしにくいスガ氏が前者に言及 しています。
839 :
名無しのルサンチマン :02/11/01 09:58
>>838 お互い「自由」のという言葉の意味が異なっているようです。
私は「自由=自己原因」をとりません。
「自己原因」は自らを原因とするのだから、決定論が成り立たなくなるから。
意志が自由であるというのは、先程も述べたように、
行為に移行する際に妨げるものがないこと、を指します。
そして意志は普通決定論を採るならやはり先なる原因によって生じるのです。
確かにその意志や行為は決定されていたかもしれないが、その行為は妨げられず、
意志に基づいてした限り、「責任」が帰するのです。
ストローソンの「責任」というのは我々が思っているふつうの意味です。
殺人をした加害者には、殺人を意志的にした限り、その殺人という行為に対し「責任」がある、
だから罰せられる、という意味です。
840 :
考える名無しさん :02/11/01 11:48
自由意志は存在せず 選択の余地はないが 責任の余地はある。 殺人者は裁かれ、刑に服するが それは「罰則」ではない。 といったところでしょうか?
841 :
名無しのルサンチマン :02/11/01 12:23
>>840 「自由=自己原因」という解釈での自由意志は存在しない。
選択肢はあるが、そのどちらを選択するかは先なる原因によりすでに決定されている。
補足:すでに決定されているにもかかわらず、選択肢があり、
そのどちらを選択するかを「熟慮」できるということも、「自由」であると追加したい。
自らの意志で行為した限り責任はある。
訂正:原則として、殺人に対する「罰則」が刑に服することの条件ではある。
しかし、「責任」の有無も罰を与えるときの条件になる。
例えば、催眠術をかけられて殺人をした場合、直接殺した人間に責任があるのか、
それとも催眠術師に責任があるのか、と考えたら、普通は間違いなく後者だろう。
したがって、殺人者は裁かれ、刑に服するが、それは「罰則」≪だけ≫ではない、ということを言いたかった。
842 :
考える名無しさん :02/11/01 19:50
>殺人をした加害者には、殺人を意志的にした限り、その殺人という行為に対し「責任」がある、 >だから罰せられる、という意味です。 ええっ? それと意志せず、ついうっかり人にけがをさせた場合などでも、 僕なら責任とるよ。ましてうっかり人を死なしめた場合にも。「意志にもとずいて」 いるかどうかは責任の有無と単純に対応しない。結果責任ということをどう見ます? それに、行動を妨げられるかどうかは、重要とはいえないのではないでしょうか。 ↑ 催眠術師が主犯というケースと見るべき。かけられた方は無実。
843 :
名無しのルサンチマン :02/11/01 20:21
>>842 この場合について、どんなうっかり具合かはわかりませんが、
たしかに人にけがをさせようという意志はないでしょう。
しかし、直接けがをさせようという意志はないが、
人にけがをさせるかもしれない行為をする、という意志を持つならば、
十分その責任は「意志に基づいて」いると考えられる。
業務上過失傷害・致死もやはり「意志に基づく責任」があるから罰せられると考える。
催眠術師の場合は、催眠術師単独の犯行であり、責任は催眠術師に帰せられる。
催眠術にかけられた方の責任を問うのはおかしいと考える。
844 :
名無しのルサンチマン :02/11/01 21:04
補足: あと、責任というのは、意志的に良いことをした場合でも、 その行為に対して責任は生じる。その場合は罰はなく、賞賛や報償が待っている 責任(responsibility)は別に悪い行為を糾弾するためのものではない。
845 :
名無しのルサンチマン :02/11/01 21:34
訂正:「人にけがをさせるかもしれない行為をする、 という意志を持つならば」というのは、おかしい。 ここの箇所は「ある行為がけがを引き起こす出来事の原因になったことは確かであり、 その行為を意志的に行ったならば」と訂正。 「歩いてうっかり人にぶつかってけがさせた」場合、 「ぶつかる」という出来事の原因である「歩く」という行為は、少なくとも意志に基づいて行ったのだから けがをさせることの責任は「歩くという意志」から生じる、と考えられる。
846 :
考える名無しさん :02/11/02 11:59
君ねえ、「すみません、歩こうとした私がいけなかったんです」とは言わ ないでしょ? 自分の不注意ゆえに「責任」があるのにきまっているでしょ? ヒトラーも麻原もある意味では完全に責任はない、ということはいえる。 前者に関してはウィトゲンシュタインが似たことをいっているが、同じことを 言いたいのかは知らん。 彼らに責任有りとする気持ちの背後に復讐心があることを考えよ。
847 :
名無しのルサンチマン :02/11/02 18:08
「すみません、歩こうとした私がいけなかったんです」とは言わないが、 「すみません、“ここ”を歩いた私がいけなかったんです」とは言えるのではないか? 自分の不注意ゆえに「責任」がある。 しかし、その不注意を引き起こした行為は「意志」に基づいてないか? >彼らに責任有りとする気持ちの背後に復讐心があることを考えよ。 確かに「復讐心」という要素も責任を問うメカニズムに含まれるだろう。
848 :
名無しのルサンチマン :02/11/20 13:13
「責任」を問うにはどんな要素が必要なのか。 自らの意志に基づいて行為すること。 行為をしなかったこともできたこと。 自分が何をやったか理解できること。 とりあえずこの三つを満たすことができたら、「責任」は問えると思う。
849 :
名無しのルサンチマン :02/11/20 13:33
決定論の中で自分の行為に責任は問えるか?という問題について考える。 三つの立場がある。 「強固な決定論」と「両立主義」と「自由意志論」の三つ 「強固な決定論」と「自由意志論」は二つまとめて「非両立主義」とも言う 「強固な決定論」は、自由な行為を認めず、行為の責任は問えないとする。 行為が全て出来事になる。「私は扉を開けた」ということも、「私の手が伸びた」→「扉が開いた」となる。 「両立主義」は決定論であるが、自由な行為を認め、行為の責任が問える。 行為と出来事を分けて考える。両立主義の問題点はどのようにして人間の自由な行為を認めるかである。 考え方としては常識的であると思う。「私は扉を開けた」とき、普通その理由を問えるからだ。「暑かったから、扉を開けた」というように。 「自由意志論」は人間の行為に関しては非決定論である。だから、人間の自由な行為は認められるし、行為の責任は問える。 問題点は、人間の行為について科学的な説明ができなくなる点である。究極的には「自己原因」が介在しているからだ。
851 :
名無しのルサンチマン :02/11/20 23:22
852 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 00:02
決定論の中で責任が問えるかではなく、 「行為の因果関係」を認めたとき、責任を問えるか、ということであることがわかった。 決定論でも非決定論でも因果関係を認めることはできるからだ。 決定論の場合、ある原因からはある結果しか生じないことで因果性が認められる。 非決定論の場合、ある原因からは多くの結果の可能性が生じ、 その中から一つが無作為に選ばれ結果となることで、因果性が認められる。 そして決定論も非決定論についても、因果性が「行為者自身の力が及ばない」ところで共通している。 だから「行為の因果関係」を認めたとき、因果に関して行為者は無力なのに責任は問えるか、ということになる。
853 :
考える名無しさん :02/11/21 00:08
>だから「行為の因果関係」を認めたとき、 >因果に関して行為者は無力なのに責任は問えるか、ということになる。 殺人を許せば、殺人事件が増えます。 行為者は無力ではありません、因果関係の内にあり、力を持っています。
>>852 検証不可能な可能性にまで、自己同一性のドメインを拡張することにより、
絶対法則に則った状態や力、運動では束縛されない自由度が生じる。
その世界の中では、絶対法則を満たしつつも、絶対法則からは解き放たれ
た力が存在しうるので、蓋然的因果には必然的な束縛力が必ずしも無い。
このとき、責任が局在し得る。行為者は無力ではないからだ。
日常の文脈、法廷においてさえ、このような自己同一性のドメイン設定は
認められるのが通常だ。
>>852 と
>>853 854風に言えば。
答が違うのは矛盾で議論ではない。
なぜ矛盾が起きたのか原因を探るに、
852の論点(求める答)は多くの事に対して、
間違いのない説明を的確にする事。
853の論点は、一部的な、その場合によるケースである。
そう言う訳でどちらかが論点を合わせてあげないと議論は成り立たない。
…偉そう?
ごめんなさい。
857 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 00:36
>>853 >行為者は無力ではありません、因果関係の内にあり、力を持っています。
なかなか興味深い答えが返ってきた。もう少し語ってみてくれ。
行為者は因果関係の内側にあって、どんな力を持っているのか?
>>854 「絶対矛盾的自己同一」について、
単純に考えると、「矛盾」を反映するには共通の土台が必要であって、
自己同一とは土台が共通していることを指しているのではないか?
「矛」はどんなものも「貫く」、「盾」はどんなものも「防ぐ」、
「貫く」と「防ぐ」はどちらも、物理的運動の表現という点で
共通の土台を持っている。
>>1 か、悲しすぎる!!人を機械みたいに言っちゃってさ(泣
…あ。 ちょっと誤解を生みそうなので、付け加えます。 852の書いた事は全てのケースを的確に見た答だと思います。 そして、その全てのケースの中に、853の書いた事が含まれるでしょう。 例えば、殺人を犯した時、明らかに死亡の原因が「分かっていても」 一定の時間がたてば、完全な殺人事件とは認められません。 これを852の言葉で言えば、因果関係がある。と言う事ではないでしょうか。 しかし、病院での緊急手当て、環境によるダメージ、様々なポイントがあるので、 因果関係としか言えないのではないでしょうか。 責任とかの問題になってくると、因果関係の推測される量というのがポイントなのかな?
860 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 00:45
>>855 すまない。もう少しわかりやすく教えてくれ。
>>857 物理的運動の表現
と書かれましたが、
この話の前提は
「絶対通さない盾がある」
と
「絶対突き抜ける矛がある」
ではないでしょうか。
論点は
「矛で盾を突いたらどうなるか」
だと自分は認識します。
答は、論点の答は「前提事は有り得ない」
だと思います。
したがって答は@の、
完全な間違いか、嘘。
となります。
(テキストファイルであっぷしてごめんね)
862 :
考える名無しさん :02/11/21 00:49
>>859 100でないなら0だとでも?
自由否定派ってのは、もしかして絶対の自由を求めてるのか?
いえ、 自分は自己否定派ではありませんが、 分かっている事を決定付ける方向で書いています。 つまり、100>X>0 Xが因果関係の部分です。
864 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 00:56
>>853 例えばだよ、
私が殺人をしたとき、
因果によって殺人をせざるをえない(必然的である)ことがわかった。
そのとき、殺人を許せば、殺人が増えるという理由で私が罰せられるのはたまったものじゃない。
「私は罰せられる」ということは、因果の中で私が持つ力だろうか?
865 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 01:00
「責任」とは何かを問うには、まず「行為」することが前提であると考えられる。 「行為」とは何だろうか?「出来事」とどう違うのだろうか?
866 :
考える名無しさん :02/11/21 01:02
>>863 因果関係が生んだ結果、100の内のXが自由。
>>864 ?
そんなことしたら暴動が増えるでしょ?
どうして100か0で物事を考えるんですか?
>「私は罰せられる」ということは、因果の中で私が持つ力だろうか?
力を持たない物に、力を加えることなんて出来ません。
867 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 01:03
「「ばくだんいわ」が爆発した」ことについて考える。 「ばくだんいわ」の爆発は行為か出来事か?
「行為」や「出来事」は、 人が持ち合わせるもので認識したものだと思います。 でも、ここまでの話で、それが100ではなく、100未満で因果関係がある。 と言う所あたりまで進んでいる。 責任感とは、行為をおこなう人の感情かな。? 罪や罰とは、政治的に不利益とみなされたので 見せしめってことだよね。?
869 :
考える名無しさん :02/11/21 01:05
>>867 両方。
勇者の攻撃(行為)に対しての、爆弾岩の行為が生む出来事。
↑あ、番号消すの忘れた。 868はレス的には関係なし。
871 :
考える名無しさん :02/11/21 01:07
>行為をおこなう人の感情かな。? つっこむのも面倒ですが、感=感情ではありません。
>>864 罰は政治の中に存在する因果で、
行為は個人にある因果だから共存しないのではないでしょうか。
政治の中に個人が含まれると。
当たり前すぎるレスですが…
ボツ?
自分は、意識した論理なしで、 論理的説明が自分ではっきり出来ないく、 さらに感覚的に来るものを 全部感情と呼びます、ごめんなさい。
874 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 01:21
とりあえず、私の立場を述べると、 「責任」を問うには「意志」に基づいた「行為」をすることが必要である。 「意志」のない「出来事」で「責任」は問えないと思われる。 「罰」というのは、法律に基づいたものであり、 「罰」を与えるとき、行為者の「責任」がなければならない。
875 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 01:25
誰か「行為」と「出来事」の違いを表してくれ。 なるべくなら「意志」という言葉に頼らずに教えてほしい。
>>874 言ってしまえば、
なんとなく、これは「意思による」行為だな、と判断されて、
意思のないと思われるような出来事は、政治的に罰する意味が特にない。
そこに政治的な責任があると定義されて教えられる…
また当たり前っぽすぎる事を書いてしまいました。
>>875 これも当たり前っぽすぎるんですが。
行為によって出来事が生まれる。じゃダメですか?
それと、「違い」と言うのは、
どういった意味での違いかを教えてくれればもっと具体的に書けると思います。
878 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 01:32
これがまた、行為と出来事の違いを「意志」のあるなしで区別すると、 今度は「意志」って何だ?という問題が噴出してしまう。
>>875 試案
運動→結果の連鎖について、
結果を所与とし、運動を蓋然的とする見方が「出来事」
運動を所与とし、結果を蓋然的とする見方が「行為」
880 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 01:35
>>877 行為と出来事を分ける基準といえばわかるかな?
例えば、「私は扉を開けた」というのは「行為」。
「扉が開いた」というのは「出来事」。
この違いについて教えてほしい。
881 :
考える名無しさん :02/11/21 01:35
…意思があろうがなかろうが、出来事は出来事だ。
>>878 つまり、意思のある行為と、
意思のない行為の違いかな?
当たり前すぎる答なら書けるけど、
興味深いので878をもう少し詳しく聞かせて頂きたいです。
>>880 ごめん、なぜその二つが混同されるのか
自分には良く分かりません…
あ、なんとなく混同された理由が分かったような。。。?
期待に添うかは分かりませんが、
>>880 は、
人間の感覚上、
開かせる力を与えたものと、
与えられた物、ではないでしょうか。
また、与えられた物は、「出来事」なので、時間進行形となり、
開いた。
と言う言葉になるのでは?
こんな解答ではダメですか?
出来れば、なぜ二つは混同されたのかも聞きたいです。 あと、その理由からくる「意思」と言う言葉を突きとめなければならない理由も。
886 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 01:52
今、「出来事」と「行為」の違いについて次のように考えている。 行為と出来事は外的原因のあるなしで区別されるのか? 「寒かったから私は扉を閉めた。」 「私は扉を閉めた。」 どちらも行為として考えられるから外的原因のあるなしは関係ない。 行為と出来事は「私」という「動作主」が原因であるから区別されるのか? 「私は扉を閉めた」 「私のせいで扉が閉まった」 どちらも「動作主」が原因であるが後者は行為とは言えそうにない。 今のところ、行為と出来事を分ける決定的な基準が見つからないんです。
「私のせいで扉が閉まった」 これは主語が扉にあるからでは? 「閉まった」だから、出来事を指す。 やっぱり、行為から出来事が発生するみたい。 「私のせいで扉がしまった」 の時の私は、 ふりかけみたいな役目じゃないかな。 あと、「せい」と言う言葉は、因果関係が少なくなってくる。 直接自分で閉めた事は一切書かれていない。
888 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 02:00
>>885 行為と出来事が混同される理由というのは、
「私が扉を開けた」という行為が
「扉をみた」→「脳が反応した」→「運動神経が働いた」→「手が伸びて扉に当たった」
→「扉が開いた」というように出来事の連鎖として記述できるからです。
だからといって行為は全て出来事であって、
「責任」は問えない、とするのは非常識だと思ったからです。
>>888 ちょっと究極の質問だけど、
その責任とは「法的責任」?
だとしたら、話がだいぶ変わってくるよ?
890 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 02:06
>やっぱり、行為から出来事が発生するみたい。 「私のせいで扉がしまった」 の「私のせい」というのも、 場合によっては出来事になるんです。 例えば「私のせいで扉がしまった」というのが「私のケツが当たって扉が閉まった」 ということを指すのならば、「私のケツが当たる」ことも出来事です。 つまり出来事から出来事が生じます。
891 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 02:09
>>889 「法的責任」ではない。
もちろん今問題にしている「責任」は「法的責任」の根拠になると思われ。
「私のケツが当たって扉が閉まった」 やっといいたい事が分かった。 「行為と言うのは人が起こした出来事ではないか」 と言うわけだ。 どうやら自分の考えは浅はかだったようです。 ちょっと考えるから待って… 何時に寝る予定?
893 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 02:14
894 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 02:20
確かに「行為と言うのは人が起こした出来事ではないか」と言える。 しかし、我々は行為と出来事を区別することができる。 その区別の根拠というわけだ。 そして、その区別の根拠=意志のあるなしであると推測している。
取り敢えず、 責任を「追求するため」の行為と出来事だけ。 出来事は責任を問うための直接注目する点。 これを出来事と認識する。 行為は、責任を追及すべき出来事を起こした もっとも因果関係の深いと見られる「人為」 その因果関係の深さで罪のあるなしが決まる? 多分、出来事と行為の厳格な区別は無理なような気がしてきた(まだ考えるけど) 取り敢えずこれだけ送ります。
896 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 02:31
どうだろうか? 行為とは後で「しなかったこともできた」と釈明できることではないだろうか? 「私は扉を開けた」というのは「開けなかったこともできた」と言い訳できるから行為であり、 「私のケツが当たって扉が閉まった」というのは、 「私のケツが当たらなかったこともできた」「扉が閉まらなかったこともできた」 と言い訳できないから出来事ではないか? 言い訳できる/できないが意志のある/なしの基準ではないか?
>>895 概ね賛成なのだが・・・意思や責任の材料とすべく議論をするのに、
先回りするのはどうかと。
で、
>>879 としたのですが、何かまずいでしょうか?
898 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 02:33
>>896 訂正:釈明→言い訳
どっちを使ってもいいんだけど。
>>894 確かに、出来ていますね。
全部憶測ですが、
人間は人間を特別視します。
人間が動いた事は、行為であって、出来事とは認識しません。
そして、その言葉の意味を定義付ける時、
能内、及び体の中を伝達する信号の事までは普通考えません
出来事は、人以外の物が動いた時に言う言葉ではないでしょうか。
よって、出来事が出来事を起こすこともあります。
つまり、人が動いたその物を行為と言うのでは?
責任追及などの議論の対象が最終的に注目すべき
「出来事」になるのでは?
これが議論「前提」となります。
そして「出来事」を起こした因果関係が深いと思われる人的要因。
これが責任追及でないでしょうか。
これが議論の「論点」です
もちろん責任追及以外にも、発生します。
前提:出来事があった。
論点:誰が悪いか(行為)
900 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 02:43
>>899 ちょっと待ってくれ。
人間だけに「行為」を適用するのはどうかと思う。
ばくだんいわがメガンテを唱えるのも、爆発するのも、
また犬が噛みつくのも行為ではないのか?
>>897 例を用いて、もう少し説明してみてくれ。
901 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 02:47
>>897 いやあ、はずかしながら「蓋然性」という言葉の意味がわからなかったよ。
>>900 では、人がある程度知能をもった動物だと思った、それ(動物)が起こした出来事。
または、その動物が出来事を起こした際に、
その動物が出来事を把握するだけの知能を持っていると認識した場合。
>>897 その通りに感じます。895は少しおかしいですね。
>>896 ちょっと待って。
俺も分からなかったので調べました…苦笑 蓋然性。。。 多分そうであろうと思われう事や、度合いらしいですね。 便利な言葉だと思いました。 恥ずかし。
904 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 02:57
>>902 出来事の把握というのは、まさに重要な点だと思う。
>>896 とあわせると、出来事を把握できて、なおかつ「やらなかったこともできた」と言い訳できる。
それが「行為」じゃないかな。
言い訳できる/できないが意志のある/なしの基準ではないか? 取り敢えず、 「ケツが当たったせいで扉が閉まった」 は、扉が主語だから、出来事だと書いた。 それに扉は物なので、出来事なのは疑う余地がない。 「私のケツが当たらなかったこともできた」「扉が閉まらなかったこともできた」 だから、出来事。 一番上に書いた、「言い訳出きる」と言うのは、 自分が起こした行為以外の言い訳は存在するだろうか? 存在しなければ、自分が言い訳するのは、自分が起こした行為(人)だからだといえる
>>900 車庫入れしようとして、人を轢きました。
いま、単純のため、事件の真相が唯一在り、全ての人があいまいさ
無く共通認識を持っているとします。
ここで、事実と合致するような、可能性の総体を考えます。
まず、車に引かれた被害者の存在に関する情報まとめます。
この情報を一切用いずに、全ての可能な運動の総体を想定し、次に
情報を用いて可能な運動の総体を想定します。この、ふたつ間の差
をもって、この事件にあたるならば、それは「出来事」としての捉え方
となります。
逆に、車に対してどのように制御信号を与えたかという情報をまとめ、
この情報の有無が、想定される可能な結果の総体にどのような違い
をもたらすのかを考えるならば、それは「行為」としての捉え方と成増。
907 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 03:07
>>905 「行為」が何か、という問題について何とかけりがついたみたいだ。
自分が起こした行為以外の言い訳は存在しない。
だから行為は言い訳できるし、出来事は言い訳できない。
次回は「意志」について深く掘り下げてみるか。
そんじゃおやすみ〜
>>904 「やらなかったこともできた」の
「やる」と言う意味がそもそも知能を持った生物あてではないかな。
これを物に言いかえると、
「そんな事実はなかった」
じゃないかな。
やはり、902が正確のような気がするのだけど…
でも、
「そんな事実はなかった」
という言葉あるため、行為は出来事として言う事もあるみたい。
事実は、出来事だから。
>>907 あら。おやすみなさい。
楽しかったのでまた来ます。
レスあんまみてないけど発言ねー。 決定論、しかもここでの決定論は 自然科学的な法則による決定が出発点だよね? ならとりあえず 自然法則が法則である第一の根拠には辿り着けていない。 ということで、終了。一つ一つの法則を超越した 見えざる運命や神の手にまで言及されると色々難しい とは思いますが。物理法則って、その法則の永続性を 保証するものがないので、あくまで「そう見える」という 限界は超えていないハズー
912 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 13:28
877&882&883 >> 読ませてもらいました。 それぞれのコメントを。 まず、行為について、 【人がある程度知能をもった動物だと思った、それ(動物)が起こした出来事。 または、その動物が出来事を起こした際に、 その動物が出来事を把握するだけの知能を持っていると、説明側が認識した場合。】 これを簡潔に言うと、 @自らを原因として生じる A自分が何をやったか把握できると見なされる。 という二つになると思う。 しかし、これだけだと、 やはり「○○のケツが当たって扉が閉まった」という出来事が行為になってしまう。 ○○のケツが当たって扉が閉まったことを、○○は把握できるから。 やはり B「やらなかったこともできた」ことを自覚できると見なされる。 を付け加える必要があると思われる。 これによって出来事を完全に分離することができる。
913 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 13:39
意志について
【ある目的があり「行為」が実行されるまでの「過程」を「意思」とする】
問題は、「行為」が実行されるまでの「過程」が時間で計れるか、と言うことです。
実はこれについては
>>820 で少し書いたんだが、
「行為をしたとき意志があったと見なされる。」という考えでいいんじゃないかな。
914 :
名無しのルサンチマン :02/11/21 14:03
責任について 「責任」(responsibility)は、 「response+ability」の組み合わせでできています。 直訳して「反応可能性」であると。 犯罪を糾弾するための基準だけでなく、 良いことをして賞賛する場合の基準でもあるんじゃないかと思われる。 私は「責任」について次のように考える。 @行為すること まずは、行為しなければ責任を問うことはできない。 二人羽織の状態で私がある人を殴るように強制されたとき、私に責任はないとする。 私が催眠術をかけられて、その結果人を殺害しても私に責任はない。 A行為をやらなかったこともできたと見なされること 人を殺すよう脅迫されて、殺さなかったら自分の命がなくなる場合、 脅迫された人は、自らの意志で殺人という行為をしたと見なされるが、 責任は生じるのか? B自分がどんな行為をしたのか理解できると見なされること 星新一の小説にあるのだが、N氏が男たちに拉致され、どこかの部屋に連れ込まれた。 その部屋にはボタンが一つだけあって、N氏は男たちにそのボタンを押すよう頼まれた。 N氏は早く帰りたかったからそのボタンを押したが、実は核ミサイルのボタンだった。 N氏の知らないところでその核ミサイルは発射された。 N氏には、「核ミサイルを発射した責任」はあるのか? これについて、ボタンを押した責任はあるが、核ミサイルを押した責任はないと考える。
915 :
877&882&883 :02/11/21 23:38
916 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 01:26
【行為について】 >【人がある程度知能をもった動物だと思った、それ(動物)が、ある「目的を持って」起こした出来事。 または、その動物が「目的を持って」出来事を起こした際に、 その動物が出来事を把握するだけの知能を持っていると、説明側が認識した場合。】 それに付け加えると、 ある動物(人も含む)が「目的を持って」いたと認識するのは、「もし「私」がその動物だったら、 その出来事が生じたとき、「目的」を持っていただろう、と推論する」ということだと思う。 【意志について】 殺人未遂は「行為したが失敗した」ということであって、行為に及ばなかったと言うことではない。 >【行為を起こすまで、または起こすための考え】が「意志」の定義となる。 参考までに、ホッブズは「意志」というのを次のように考えている。 「意志」は「熟慮」の過程における最後の瞬間、行為の直前の原因である。 また「熟慮」というのは善悪の結果を推論したときに生じる「欲求・嫌悪」の推移。 この考えと比べると、877&882&883 氏は「熟慮」の部分も「意志」としているようだ。 私は「意志」をそこまで広い部分でとる必要はないと思う。 また、次のようにも考える。 私はトイレに行く度ごとに、 「トイレに行く」という考えを持ってトイレに行くか?と言うことである。 身体の方が先に反応する場合もあるのではないか? >「行為をしたとき意志があったと見なされる。」 >と書かれていたが、この文はどっから見ても「定義」ではない。 まさしくそうであって、「定義」不可能ではないかと思うのだ。 あるのは、意思があったかどうか見分けるのに、手っ取り早い方法、それだけである。
917 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 02:18
今日はここまで
ところで「877&882&883 氏」と呼ばれるのもなんなので名前をつける。 【行為】 >ある動物(人も含む)が「目的を持って」いたと認識するのは、「もし「私」がその動物だったら、 >その出来事が生じたとき、「目的」を持っていただろう、と推論する」ということだと思う。 そうそう、そこまで書こうと思ったけど、妙に長くなるからやめたの。
【意思】 【行為を起こすまで、または起こすための考え】 俺はこれで良いと思う。 そこまで瞬間的にしてしまっては、 「この考えを貫き通す意思がある」 「海外で勉強する意思はある?」 と言った言葉が使えなくなってしまう。 あと、行為と言う定義の中に目的が含まれる。 だから意思は目的にたどり着きたいための考えとも言えるだろう。 つまり、この考えとは、○○をしたいと「思った」 トイレに行きたいと「思った」 などの、「思った」と言う言葉も考えとして適用される。 つまり無意識であれ考えていると言える。 この考えとは論理的な考えではなくてもいいのだ。 実行が難しい意思に対して初めて論理的な考えが生まれる。 これが熟慮と言うヤツだろう。 熟慮は意思ではない。意思があったから、熟慮する。 で、意思の定義を書き換えて、 【行為や、行為をおこなうのに必要な熟慮を 起こすためのキッカケや元となる考えや思い】 ではどうだろうか。
920 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 02:45
Sa氏 了解。 しかし、これでいつでも論文が書けるぞ。
【殺人未遂】 >殺人未遂は「行為したが失敗した」ということであって、 >行為に及ばなかったと言うことではない。 行為はおこなったが、殺人行為はしていない。 結果的に、人が死んだ時「あとから第三者の目によって」 殺人行為か未遂行為かが決まる。 もちろん、法律上はこの二つを区別する。 もし、殺す意思があっても相手が死ななければ殺人行為はしていないのだ。 殺す意思を持って未遂行為をしたとなる。 行為者の視点で書くと、殺す目的で行為をしたが、 実行出来なかった。(失敗に終わった)となる。 さらに、殺す意思がなかったと断定された場合は、 殺人未遂でもなく、傷害事件などになる。
922 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 02:53
【意思】について 「海外で勉強する意思がある」というときの意思は、 「海外で勉強したい」という欲求ではないのか? 意思と欲求の違いを区別する必要が出てきた。 【殺人未遂】について どうも法的責任の方に傾いてきてしまった。 なんかちょっとややこしいな。 実際には殺人、殺人未遂、傷害致死、過失致死とかいろいろあるから。 この話についてはもうちょっと待ってくれ。
>>920 ルサンチマン
論文書く気があるなら、書いてあることまとめて
HPにして載せてくれ。
(ギャグではない)
924 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 02:55
わかった。 書いたら載せてみよう。
>>922 欲求とは違うな。
意思というのはもうスデに決まっている。
その時にする熟慮は意思を実行させるための熟慮である。
欲求に対しておこなう熟慮は、
選択肢を選ぶ熟慮である。
>実際には殺人、殺人未遂、傷害致死、過失致死とかいろいろあるから。
そうだな、よく考えると種類が多いな。
ちょっと考えてみる。 殺人>殺す目的で殺した。 殺人未遂>殺す目的で殺せなかった。 傷害致死>怪我を負わせるのが目的だったが殺した。 過失致死>全く殺す意思はないが殺してしまった。
意思があるかないかで責任も変わるのなら、 926は当然だと思うがどうだろう。
928 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 03:13
問題を整理すると、 行為というのは、欲求→熟慮→意思→出来事という過程で生じるものを言うんだな? 私は、行為は「推論→出来事」の因果で、 「熟慮(=(欲求の連鎖))→意思」が、行為があったとき、 それがあったものとする規約なんだよ。
929 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 03:19
「殺人未遂>殺す目的で殺せなかった」 というのは、なぜ殺せなかったのか? 1説得されて、武器を引っ込めた。 2直前になって取り押さえられた。 3ナイフを刺したが致命傷に至らなかった。 1は武器を引っ込めることを意志して行為した。 2と3は殺そうと意志して行為したが達成できなかった。 同じ殺人未遂でも2種類あることがわかる。
>行為というのは、欲求→熟慮→意思→出来事という過程で生じるものを言うんだな? ちょっと違う。 欲求があった時、人はマズどうするか考える。 その時、なにをやったらどうなるか。 と、論理的に考える事がある。 結果として、それを「実行する」と決めた時に意思になる。 さらに、意思になっても熟慮が続く場合がある。 この二つの熟慮は極めて似ているが、 動機の「名目」は異なる。 欲求が動機の熟慮か、意思が動機の熟慮。 基本的には後者の方が具体性を持った熟慮になるだろう。 つまり、熟慮の順番はハッキリとは決められないし、 存在するとも限らない。
>>929 >1説得されて、武器を引っ込めた。
最終的には、殺す意思がなくなったと。
細かい罪状については…
めんどくさい事間違いなし。
↑ああ、それに未遂行為もギリギリでしていないと見なされるんじゃないかな。
>>928 の後半
達成させたい意思=行為の目的
ちょっと適当な図だけど、
今までの定義だとこうなるよ。
行為をおこなった者を第三者が見るとき、
やはり何を目的とした行為だったのかを考えなければならない。
そこからそににあった意思も理解できると言うもの。
934 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 03:31
「欲求→意志→行為」 「欲求→意志→熟慮→行為 「欲求→熟慮→意志→行為」 「欲求→熟慮→意志→熟慮→行為」 の4パターンを考えているんだろうか?
936 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 03:37
次回はそろそろ問題の本質に入りたいと思う 「決定論」のなかで「行為」は成立するか?ということ。 それではお休み。
んじゃ、おやすみ。 あと、今さら言うのもなんだけど、 俺は矛盾の所で初めて登場した人だからそれ以前の流れについては分かっていない。 そこらへん勘弁ね。
決定論が成立したとしても、完璧な予測は不可能だから 行為は「哲学的・科学的」には無根拠だが、 「実践的・日常的」には意義がある。 といったところでしょうか?
939 :
考える名無しさん :02/11/22 04:22
× 自分とは全体の服従者である。 よって自由は存在しない。 ○ 自分とは全体の一部である。 よって自由は存在する。 終了。
>>937 もうちょっと殺ぎ落とさないと、明晰さに欠くと思います。
「未必の故意」の議論が抜け落ちているように思うが・・・
なぜ、幼児には責任を問わないが、幼児並みの非社会的志向
を持つ大人には、責任が課せられるのか、とか、考えてみると良
いかも。
と、いうわけで、社会規約の話になってしまったので、私は興味
を失いました。退散。
941 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 12:08
決定論はいろいろな形があるが、とりあえず、次のようなことを決定論と言う。 目の前にスクラップ状態の車があるが、この車がなぜそうなったかという原因があることは明白である。 たとえ私がその原因を知らないとしても。 さらに、その原因もそれを引き起こす原因があったはずだ。 そのようにして、スクラップ状態の車は「原因によって決定されている」と言える。 また今ここにあるスクラップ状態の車は、それを「原因」とすることで結果が必ず決定される。 私はその結果を知りようがなくても。 問題は、決定論すなわち因果関係に縛られて、人間の「行為」は成立するかどうかである。 先ほどまでとは別の切り口だが、 将来私が何をやるのか私には理解できなくても、 何をやるのか決定されているのなら、「行為」したといえるのか? できることなら、私は「行為」する実感がある限り、決定論の中でも「行為」したと言いたい。
942 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 12:29
>>938 >決定論が成立したとしても、完璧な予測は不可能だから
ゆえに「行為」できるんだ、といいたいようですが、
完璧な予測が成り立っていても「行為」することがある。
ナイフを突きつけられて「金か命か」と迫られているときは、
完璧に次の予測をしているから金を差し出す。
でもこのことを「行為」と呼ぶ。
>942 その程度の予測は可能ですよ、もちろん。 ってゆーか、完璧な予測じゃないじゃん、それ。 未来が決定されていても、どのような未来かについては 日常的には知りようがないから、行為の概念に意義は残る、ということ。
944 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 13:34
>943 なんていうのかな・・・ 「予測不可能」だから行為の概念に意義が残るというのは、 どうも安易な気がするんだよね。
>944 肯定的に言ってるんじゃないよ。 だから「成立する」と言わず「意義は残る」と言ってみた。 ひとびとは説得されないであろう、ということです。
最初から思っていたんだけど。 1は物理現象なら自由はないって言ってるよね。 でも、この世のあらゆる事は物理現象ってのを見たことがある。 それが本当だと仮定すると、自由は物理現象の種類って事になるよね。 物理現象があるゆえに自由があるんじゃないのか? 1と同じ次元で話をするとこうなる。 では、自由と呼べるその範囲を探してみるのも面白いと思うのだが。
947 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 16:53
自由は「外的障害の不在」であるという考えもある。 物が下に落ちるのは、落下する物を妨げる要素がないから。
>>947 物が下に落ちるのは自由かな?
俺は、意思や行為に関係すると思うんだけど。
つまり、物には意思もなにもない。
その時、物が下に落ちるのを妨げられたのを自由ではないという?
少なくとも、人が自由を語る時、意思や知能と認識したものを対象に語る。
949 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 17:01
「行為が自由である」というのは、行為を妨げる要素がなく、 素直に遂行できるから。 「俺は自由だぜ」というとき「俺の行為が邪魔されていない」ことを意味する。 「道が自由である」というのは、「人々が邪魔されずに歩ける」ことを意味する
では、俺は妨げる要素を持つ物も、意思などを持つものだと思う。 まっすぐ歩きたいのに壁に邪魔された。は、おかしいから。 妨げるものも、意思を持った存在。 その存在に邪魔をされた時、妨害された。 と言う言葉を初めて使うのでないかな?
951 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 17:05
>>948 どうかな?
「自由落下」というときは、
物が邪魔されずに落ちることを意味しているじゃないかと思うが。
私は「自由」という言葉は人だけでなく、物も対象にかたると思うが
自由落下は、落とした人の考えじゃないの?
953 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 17:11
>>951 人だけでなく→意志をもった存在
>>950 「まっすぐ歩きたいのに壁に邪魔された」は別におかしくないと思うが
「まっすぐ歩きたかったが壁に阻まれた」という意味だろ?
「邪魔」は、 そもそも行為。 「まっすぐ歩きたいのに壁に邪魔された」 は、語り手が壁の存在を強調するために、 ある種の憎しみのような物を込めている。 つまり、壁をまるで知能のある生物のように語っているだけ。
955 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 17:18
>>952 自由落下
1,自由に落ちる
2,自由に落とす
「敵の銃弾が飛行艇とコンテナをつなぐ鎖を切った。
コンテナは「自由落下」していった」
という風に使わないかな?
そうだな、では、コンテナが落ちるのは見た人にとって、 下に落ちるのが目的のように見たてているんだよ。 もちろん、その目的とはコンテナ自体が下に落ちようと思った目的とはいいがたい。 語り手の主観。
目的がない物に対して妨げるもなにもないからね。 あと、ここに物があったら邪魔だ。 と言う表現は、 その物をそこに置いた人や、 物の所有者などの、責任者に語りかける言葉じゃないかな。
958 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 17:26
>>956 「自由」を語るのに、「語り手の主観」を用いるのは、一考に値します。
もう少し「自由」について自由に語ってください。
二時間ほど留守にしますので。
言われた事に対して、言葉の整理をする(矛盾など)のは得意だが、 自分から疑問や問題を探すのは得意でないの。 よって、何か言ってもらわないと俺も何も語れない。 すまんね。
960 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 19:58
[西欧社会における自由の概念] 自由という言葉はきわめて多義的に用いられており,定義することは困難であるが, 一般的にいえば,あるものが他のあるものによって拘束や制限を受けることがなく, その性質にしたがって活動をなしうる状態を指すといえよう。 これらの諸自由のうち,とりわけ問題になるのは人間における自由である。 人間は環境に適応するとともにそれを変革していく動物であるとすれば, 人間と環境との相互関係はたえず変化するものであり,したがって, いかなる行為ないし行為しないことがどの程度において自由であるのかは, 時代と社会と個々人とによって異なるのであって, 自由の概念をその内容によって一義的に定義することはできない。 さらにいえば,人間と環境との相互関係においては, 人間は自由であると同時に自由ではありえないのであって, それは古くから〈自由意志〉論と〈奴隷意志〉論との間で 論争が繰り返されてきたことに示されるとおりである。 そして,自由がこのような論争的な概念であるとすれば, 人間の自由について考えてみるためには, それを思想史の文脈において検討してみることが必要であろう。 (C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 一応世界大百科事典から抜粋してみた。
961 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 20:16
ホッブズの考える自由について ホッブズの自由は決定論・機械論の枠内で論じることのできる自由。 因果関係と矛盾しそれを妨げない自由。 >自由は運動に対する外的障害の欠如であり、 >それは理性を有する被造物のみならず、 >非理性的被造物や無生物にも適用しうる。 世界の名著『リヴァイアサン』P140参考
>>960 じゃあ、順番に考えていこう。
>その性質にしたがって活動をなしうる状態を指すといえよう
性質とはなにか。
性質と言う言葉その物からして語り手の主観である。
だが、一つの物にも様々な性質があると言える。
例えば、物が右から左に動く時、
そこに物理運動が発生するが、
語り手はその物理運動がその物の目的だと思って語る。
この時、正確に話す気があるなら、
物その物と物理運動をバラバラに意識しなければならない。
その物理運動がもし、何かに妨害された時、
それは物「その物」が妨害されたのではなく、物理運動が妨害されたと思うだろう。
妨害の事だが、妨害も行為である。
妨害「する」
と言う言葉なので。
よって語り手も妨害物を知能生物として語っていると言える。
>>960 の続き。
さて、それ以下の事だが、これは非常に政治的意図から生まれた意味が強い。
つまり、為政者達が国内を治めるのに都合良く定義した自由が絡んでいる。
ここまで話を広くすると語りようがない。
そこで、行為が妨害されたと「思った」時、又は行為が認められない時に自由でなくなる。
ではどうだろうか。
ちょっと問題なのが、「認める」と言う言葉。
いったい誰に認めてもらうのだろうか。
ちょっと歴史の話を出すが、
完全な王権制度を思い浮かべてほしい。
王未満の人物は王が法なので、王に権利を与えられ、
その権利の分の活動を認められていたとする。
しかし、王は自由なのか。
となってくると全然そうではない。
964 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 20:37
>例えば、物が右から左に動く時、 >そこに物理運動が発生するが、 >語り手はその物理運動がその物の目的だと思って語る。 「水が上流から下流へ流れる。」ときも、 語り手は、水が下流へ向かって流れるという目的を持っている、と思って語ると言うことか。 >正確に話す気があるなら、 >物その物と物理運動をバラバラに意識しなければならない。 物そのもの(物自体とも言える)と物理運動を切り離して考えられるだろうか? 物理運動することが存在意義という物もあると思うが。 分子は分子運動と切り離して考えられるだろうか?
では、王の目的を考えてみよう。 一般的に王や政治を動かすほど高い身分の人間(以下貴族と言う)は、 国を整える事を目的とする。 つまり政治だ。 しかし、権力を持っていようと、乱用してしまえば国、ないしは身を滅ぼす結果になる。 この事を王や貴族は、自分達は自由ではないと表現するようだ。 これは、欲求の先が二つ以上あり、それを全てかなえる事の出来ない状態の事だ。 あれもこれもしたい、と言う欲求が空間のルール(?)によって叶えられない時にも 自由に行動できない。と表現するようだ。 この事を、俺は普段、空間に認められなかったと言う事がある。 だが、認めるとは知的生物がおこなう事なので、正確には間違った表現だろう。 ここまでを整理すると、最低でも 自分の欲求や意思が通らない時、自由ではないと言えるのではないのか?
>物そのもの(物自体とも言える)と物理運動を切り離して考えられるだろうか? >物理運動することが存在意義という物もあると思うが。 >分子は分子運動と切り離して考えられるだろうか? これは、現実にそうなっているとかそうゆうのより、 概念上の物が強い。 「存在意義」とは語り手が決めるのだと言う事を理解してほしい。 流れる水は、正確に言うと、水の目的ではなく、 「流れる」その物が目的だと想定している。 流れていれば、水ではなくても良いのだ。 つまり、水その物の目的を想定して語っているのではなく、 「流れる」の目的の想定である。 流れるは物理運動。 だから、正確に言うなら切り離して考える。
967 :
考える名無しさん :02/11/22 20:56
Sa氏は、自由意志と自由意志とのぶつかり合いのことを 言っているのでは? それが「自由意志はない…決定論」とどう関係するのだ?
>>961 >自由は運動に対する外的障害の欠如であり、
>それは理性を有する被造物のみならず、
>非理性的被造物や無生物にも適用しうる。
これは、一見正確に表現しているようで、かなりあいまい。
>運動に対する外的存在の欠如
とあるが、言ってしまえば運動とは様々なエネルギーから来るものである。
その運動は、当然一つの物質内で種類豊富におこなわれている。
では、自由を語る時、そんな物を全部想定して語るのか。
NO。
やはり、これも語り手の主観による「物質の目的」ではないだろうか。
エネルギーや物質運動その物を語るのなら、
その語り手の主観で勝手にエネルギーの目的や
物質運動が進みたがる方向を目的と想定して語る。
言ってしまえば、語り手の論点により、物理運動の目的も変わってしまうのだ。
大事なのは、その語り手の論点を把握する事だと思う。
>>967 1は物理運動なら自由意思は有り得ないと言った。
だが、全ては物理運動。
しかし、自由と言う言葉は、確かに存在するのだから、
自由は物理運動の種類と言う事になった。(俺の中では)
今は、自由の範囲を議論している。
970 :
考える名無しさん :02/11/22 21:06
>全ては物理運動。 という時点であなたとは議論できそうもないな。 理系の人?
>>970 >全ては物理運動。
専門書に書いてあった科学的なものは、自分では覆せないので
信じる事にしています。
間違っているのかどうかは知りませんが、
それは絶対なのだ、と仮定して話を進めます。
972 :
考える名無しさん :02/11/22 21:45
>自由落下
物体自身の特性を以って落下しているので…。
原因と結果が物体自体に由来しているので、自由落下と呼ぶ。
自由落下と呼べなくなるのは、原因と結果が他に由った場合。
>>970 それを前提にしないと話しが進まないだろ。
973 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 21:45
「全ては物理運動」 その点では納得する。でないと科学を語ることができないから。
974 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 21:48
>>972 ちょっとたとえ話を入れて説明してほしい。
なんか重要なことを言っていることはわかるんだが。
>>972 どうだろう。
>>966 を参考にしてほしい。
>物体自身の特性を以って落下しているので
物自身の特性で落下しているのかもしれない。
だが、その特性により何らかの物理現象を受け入れることが出来た。
が
>>966 ので説明したい事の一つになる。
その時、落下させる要素となるのは、物自身ではなく、
受け入れられた何らかの物理現象と言う事になる。
>原因と結果が物体自体に由来しているので、自由落下と呼ぶ。
>自由落下と呼べなくなるのは、原因と結果が他に由った場合。
俺は語る側が、物理現象の目的を推測すると書いた。
では、自由落下の目的は何なのか。
それは引力による、ごく自然体の落下である。
語り手はこれがおこなわれる事を、物理現象(自由落下)の目的と考える。
>>974 自分も物体も全体から抽出された「例え」なのだということです。
それに由るのが自由だと。
>>975 >その時、落下させる要素となるのは、物自身ではなく、
>受け入れられた何らかの物理現象と言う事になる。
重力だけで物は落ちません。
物体と重力、両方があるから落ちるんです。
万有引力の法則であって、天動説なんかではないのですよ。
977 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 22:11
>>976 972よ、あなたは自由=自己原因説をとっているんじゃないかな。
スピノチストか?
>>976 すまないが、もう少し読んでほしい。
引力から、落ちると言う自由落下の語り手の目的が想定される条件だ。
受け入れるのは、決して「物自身」ではなく「質量」になる。
質量があれば、全て自由落下を起こす事が可能なわけである。
つまり、自由落下を論点とした場合、
受け入れる要素が質量で、作用するものが引力である。
つまり、自由落下は重力にそなわる目的である。
この時、別に物がなにであろうと、
自由落下と言う言葉の前では差し支えがない。
979 :
考える名無しさん :02/11/22 22:40
Sa=螺旋蒼月@=心理学板の多重コテハン ぽいね。
980 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 22:42
>>978 うーむ、なんか話がややこしくなってきたぞ。
1は量子力学をしらないな。 ニュートン力学ではそうだが量子力学では電子の動きが確率でしかいえない不確定性原理というのがあり、それによって人間の自由意志があるのですよ。
>>977 では自由とは何でしょうか?
他から干渉しなければ、されもしない状態でしょうか?
それなら結局意味する所は同じだと思いますが。
>>978 >性質と言う言葉その物からして語り手の主観である。
主観とそれが観る対象、どちらが欠けても関係は成り立ちません。
ちなみにニュートン力学の現象は量子力学でも説明できるので ニュートン力学が実数とすれば量子力学は複素数のような存在です。 そこから私の複素幸福論が導き出されます。
984 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 22:46
>>981 不確定性原理について詳しくご教授願えないでしょうか
結局自由というのは確立でしか言えない現象ですよね。
だれか次のスレたててね。 簡単に言うとボールを投げると初速度などのデータを入れるとどこに落ちるか100%にわかるわけですが電子は確率でしかいえないんですよ。 つまりこの辺に50%、この辺に50%とかね。 まあそういうことです。 この確率でしかいえないというのは結局人間も脳から電子情報とか送っているので自由意思になるわけです。
988 :
考える名無しさん :02/11/22 22:52
>数学好き ログ読み直してこい。
989 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 22:54
>>982 例えば、ビリヤードのキューで玉を突くと、玉は転がると思うが、
このとき玉は何かに邪魔されない限り転がり続ける。
この転がり続ける状態のことを「自由」と呼んでいる。
ただし、原因(キュー)→結果(玉)という因果関係は成立するが。
>>979 コテハンは初めてです。
(捨てハンだけど、初めて)
>>980 別に複雑だとは、思わない。
もっと分かりやすく言うと、
自由落下の語り手から見る目的は、物自身にあるのでなく、
「落ちる」にあると言う事。
989さんへ そうですか? わたしは確率でしかいえない状況が自由だと思います。
992 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 22:59
自由という考えにはいろいろあって、 自由は「原因から自由である」という考えもある。 自由意志論者は自分の意志は自己原因であるという考えをとり、 自分の意志の原因を認めない。 そういう意味で自由意志は自由である。
ところで、新スレ立てる時は題名変えてほしい。 古い話題が入ってくるので。
>>989 俺はその言葉の使いかたはおかしいと思うんだよ。
「自由に玉が転がる」
と、ただそれだけ聞いたらなにを想像すれば良いのか。
目的がなければ自由は使えないと思うんだよ。
995 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 23:06
新スレは「自由と必然」でどうだろうか。
>>989 一応、それは前提に置いていたつもりですが。
特に異論も反論もありません。
「玉に与えられたエネルギー」の取り扱い方が違っただけかと。
必然の意味は? また、自由は存在するかどうかの話しになってきそうだよ。 その前に自由の定義を絞りたい。
998 :
名無しのルサンチマン :02/11/22 23:11
「自由」を語るには「必然」について語る必要があると思うから。
999 :
考える名無しさん :02/11/22 23:13
次スレ「自由と必然」で立てますので、よろしく。
もう立てちゃった。
1001 :
1001 :
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