自由意志の定義を創る ver 0.99

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8717:02/04/21 04:27
>>84
物理的因果性が狭義の因果性であるとしても事態は変わらないよ。
広義の因果性を破る能力以前に狭義の因果性すら破れないのだから、
いずれにせよ多世界解釈もコペンハーゲン解釈も自由意志の否定になるよ。
8884:02/04/21 10:02
>>87
違うと思うが。
カントそのままというわけにもいかないだろうけど、
「自由の因果性」っていうのがヒントになるだろう。

>広義の因果性を破る能力以前に狭義の因果性すら破れないのだから、

因果性という言葉の意味を狭めてるから、
自由意志と因果性とが対立してるように見えるだけ。

自由による因果性は、時間の経過に依存する因果性(狭義の因果性)とは関係ないみたい。
エヴェレット解釈もコペンハーゲン解釈もよく知らんのですが、
両方とも「時間発展がシュレーディンガー方程式で記述されるから」決定論的
……でいいのですか?
それなら、それらによって自由の因果性は否定されないはず。

逆に、物理の世界が非決定論的であるとしても、
自由意志とは直接的な繋がりとはならない。
89考える名無しさん:02/04/21 12:50
今朝からずっと『純理』の先験的弁証論読んでるけど、なんかすごいぞ。
圧倒的におもしろい。
感性論は退屈だったし分析論は読んでないけど、先験的仮象の論理は生々
しい切実な問題だ。
やっぱカントは必修。
哲板では、あれこれ手をつけないでまずカントを読むべき、というような
カキコがたまにあるけど、本当だったんだよ。

ということでしばらくカントに没頭することにする。
90あちょー:02/04/21 13:54
自由意志 = 未来を予測できない意志
91考える名無しさん:02/04/21 13:55
運命とは、固体と並んで歩んでいるもんだとして。
味方にも敵にもなる。現時点で、固体には選択肢があり。
心には選択肢をつくる力もあり、つぶす弱さもある。
発想という自由意志の塊ではないでしょうか?
コロンブスの卵みたいな。幼稚な事言ってすいません。
92考える名無しさん:02/04/21 14:25
勉強につき閉店sage
93素人:02/04/21 15:28
>>88
確かに物理的世界が決定論か非決定論かは自由意志とは
関係ないと思う。いずれにせよヒトの行動が物理、化学
あるいは分子生物学に相反することはないんだし。だか
らといって、予測可能とは限らないけど。
不確定性原理が自由意志の基盤だという考え方は昔から
あるようだが、勘違いだと思っている。
94考える名無しさん:02/04/21 16:46
物は超不自由
心は超自由
95考える名無しさん:02/04/21 20:16
>>23

因果律を破る必要はないんじゃないか?
つまり、主体が原因を意識できなければ「自由」だと思うんじゃないか?
その意味で、自由意志は決定論と両立する。
96おおよそ:02/04/21 22:53
そもそも定義などしようという発想はやめた方がいい。
定義できることなど極めて限られており、
定義できないからこそ哲学があるんじゃないのか。
定義するより、その「もの」について語れ。
9717:02/04/21 23:29
>>88
因果性という言葉の意味を取り違えているようだから
ここでハッキリさせておくけど、
自由意志とは、
原因なしに事を起こす能力、
あるいは原因なしに結果を引き起こす能力、
あるいは因果性を破る能力、
あるいは原因を作る能力、
あるいは因果性を開始する能力、
というふうに言い換えられるよ。
だから確率的世界観(コペンハーゲン解釈)も
決定論的世界観(多世界解釈)も
自由意志を否定しているよ。

>>95
それは自由だと本人が錯覚しているだけで
自由意志でも何でもないよ。
9817:02/04/21 23:39
もう一度解説すると、
行為が原因に基づく結果であれば
それは必ずそうせざるをえない因果必然性があったわけで、
その必然は自由と対立する概念だろ。
だから意志が自由であるためには原因からの結果ではなく、
原因なしの結果でなければならない。
したがって自由な意志とは原因なしに事を起こす能力でなければならない。
事を起こすというのは結果を引き起こすということ、
あるいは原因を作るということね。
9984:02/04/22 01:10
>>97-98
カントは読まれました?
第3アンチノミーだけでいいのですが。
10084:02/04/22 02:23
確かに、>>98の意味では、自由意志はあり得ないでしょう。
そんなものがあったら、世界の物理的な整合性がなくなってしまうから。
これはカントの第3アンチノミーでも指摘されていたと思います。

17さんは、エヴェレット解釈なりコペンハーゲン解釈なり、
あらかじめそういった物理世界の因果律(カントの自然による因果性)に反する形で、自由意志を定義しているから、
自由意志は須く否定されるべきという結論を得たんじゃないかと。

ただ、>>88の意味では、自由意志はあるでしょう。
自由意志は物理的な因果律を破るものではありません。
私たちが単純に「自由に何かをやっている」と感じるときでも、
物理法則を裏切ったことは決してないでしょ?

物理法則に即すれば、それは単なる「錯覚」だろうけど、
その「錯覚」がどんなものかを議論してるわけだから。
それを「錯覚」として捨て去るなら、ただ世界が決定論的であるという主張をしてるだけで、
自由意志の議論をしようとしてるとは言えないんじゃないかな。

他の人はどう考えるか知らんが、自由意志は、自然による因果性に反するものではないと思う。
自由による因果性は、別に自然による因果性に割り込み、断絶させるものじゃなくて、
それはそれで自由意志を持つ(とされる)人間の世界に備わっているのでは。
10184:02/04/22 03:01
>>97
>因果性という言葉の意味を取り違えているようだから
>ここでハッキリさせておくけど、

どう取り違えているのかよく解らなかったので、教えて下さい。

>>98
>行為が原因に基づく結果であれば
>それは必ずそうせざるをえない因果必然性があったわけで、
>その必然は自由と対立する概念だろ。

確かに。
ただこれは、具体的な行為が物理的な因果性から逃れられないことを意味するのみです。
17さんがここで仰る「因果必然性」は行為に必然を課すだけのもので、
意志に必然を課すものではないです。

>だから意志が自由であるためには原因からの結果ではなく、
>原因なしの結果でなければならない。
>したがって自由な意志とは原因なしに事を起こす能力でなければならない。
>事を起こすというのは結果を引き起こすということ、
>あるいは原因を作るということね。

賛成です。



以上、どうでしょ?
102考える名無しさん:02/04/22 22:17
age
103考える名無しさん:02/04/22 22:53
>>97
>だから確率的世界観(コペンハーゲン解釈)も
>決定論的世界観(多世界解釈)も
>自由意志を否定しているよ。

自由意志を否定するのは物理還元主義。
それは量子力学には限られないでしょ。

>>98
>行為が原因に基づく結果であれば
>それは必ずそうせざるをえない因果必然性があったわけで、

>>97であなたが確率的な因果性を認めているのと矛盾しているよね。
104考える名無しさん:02/04/23 01:47
age
105考える名無しさん:02/04/23 13:03
自由意志の定義とは面白い。
 第一の定義は、全能の神に対して、人間は主体性を持てるか、というキリスト教で議論されている自由意志。
人間に自由意志がなければ、罪も責任もないからね。しかし至善の全能の神から生まれた人間の自由意志が、悪を行えるとすると、自由意思は因果律を破れなくてはならない。至善から悪は生じないからね。
 問題は全能者を仮定したことにあるんだ。普通、人々は自分が自由意志を持っていると感じている。ある状況にいる時に、いくつかの行動の選択ができると感じ、ある行動を選ぶ。この選択が自由意志の第二の定義だろう。
 外の状況が同じでも、意識の内部が違えば選択は違ってくる。意識の内部に対しても因果律は効いている、だから説得などできるが、生まれてからの全ての蓄積をコントロールすることなどできないため、人の意識内部には常に他人に知ることの出来ない部分がある。
自分の意識の内部は他人にわからないからこそ、自らコントロールしなくてはならない。そこで自らの選択に責任が生まれてくるのではないのかな。


106考える名無しさん:02/04/23 13:24
まとめ 意識にも因果律は効いている。
    全能でない人間は意識内部の因果関係を述べ尽くすことはできない。
    意識によって選択をするとき、自らの意思によって選択したと感じる。
    他人も、自由意志による(固有の判断による)選択と感じる。   
107考える名無しさん:02/04/23 14:01
自由意志以前に「意志」の定義が必要じゃないの。
1081 ◆4dZRkpkg :02/04/23 16:05
皆さん、議論ありがとうございます。
もう一度、このスレの目的を述べたいのですが、初めに『自由意志の定義』
を作る事です。自由意志があるか無いかという問題は当然誰もが興味を持つ
話題なのですが、その前に皆が『議論の土俵』を割らないように『定義』を
定めることにしてみた訳です。どうぞご理解、よろしくお願いします。

今まで、提出された定義を列挙します。

1、『自由意志』とは主体が「原因」なしに「結果」を引き起こす場合、
その主体が保持するものとする(17氏)
2、『自由意志』とは主体が「行動」の「原因」を意識できない場合、
その主体が保持するものとする(95氏&84氏)
3、『自由意志』とは主体がある行動の撰択に際し、幾つかの行動の撰択が
出来ると感じる場合に、その主体が保持するものとする。(105氏)

並べてみると、2と3はかなり『似ている』ように思えます。
この際まとめても良いと思うのですが95、84、105の各氏いかがでしょうか?。
この1、2、3のうちどちらが『自由意志の定義』としてふさわしいと思われる
か、理由も付してどちらの指示(又は新しい提案)なのか意見して下さい。

残念ながら、毎日レスを付けることは出来ないのですが、2、3日に1回は
まとめも兼ねて書き込みますので、出来る限り素人(近所のおじさんおばさん
をイメージして頂ければありがたいです)にも『分かりやすい』かつ
『ハッキリ』した議論をお願いします。
今のところは、『自由意志の定義を創る』事に集中して頂けると幸いです。
的が多くなると議論も分散してしまいますので。

>>96
そうなのかも知れませんが、ここではまず『定義を創る』事にこだわります。
その定義に乗っ取って、その後の『自由意志は存在するか』『自己責任』…
などの問題に付いて議論したいと思います。

>>107
「自由意志」=「意志」と考えて頂いて結構です。
10984:02/04/23 20:49
>1、『自由意志』とは主体が「原因」なしに「結果」を引き起こす場合、
>その主体が保持するものとする(17氏)
>2、『自由意志』とは主体が「行動」の「原因」を意識できない場合、
>その主体が保持するものとする(95氏&84氏)
>3、『自由意志』とは主体がある行動の撰択に際し、幾つかの行動の撰択が
>出来ると感じる場合に、その主体が保持するものとする。(105氏)

私の考えとしては、
主体が、その行為をなすかぎり、
原因(この場合は自然的・物理的・生理的)を意識しているかどうかに関係なく、
主体には自由意志がある。
もちろん、主体と言っても「水が沸騰する」とか、
シンタクティカルなものじゃなくて、
意志を持って行為するものを指すけど。
1101 ◆4dZRkpkg :02/04/27 12:01
>>109 84氏
>シンタクティカルなものじゃなくて、意志を持って行為するものを指すけど。

これは、『自由意志の定義』の中に『意志』を含んでおり循環的な定義
となっております。訂正をお願いします。
また、シンタクティカルの説明をお願いします。
11184:02/05/05 03:00
>>110

経験的に知り得る(はずだ)から、循環的に定義しても構わないと思ったんだけど。
自発的に何かを考えるとか、そんな感じです。

シンタクティカル=文法的な語の配列に従った場合の。
11284:02/05/05 03:01
参考までに。
急いでテキトーに読んだので、大間違いしてたら申し訳ない。
解らないところは自分で調べて。
アラビア数字は、俺が便宜上ふった番号。



カント『純粋理性批判』
 第2部 先験的弁証論
  第2章 純粋理性のアンチノミー
   第2節 純粋理性の矛盾論
    第3アンチノミー(先験的理念の第3の自己矛盾)
     正命題
     反対命題
     第3アンチノミーに対する注
      I 正命題に対する注
      II 反対命題に対する注



正命題:
自然法則だけでなく自由も現象の原因性(因果性)となる

証明:
1 自然法則のみを原因性と仮定する。
 1.1 生起する一切は先行する原因性を前提とするが、その原因性自体、より以前に先行する原因性を前提とする。
 1.2 このようにどこまでも遡ることができるので、比較的な始まりはあるが、第1の始まりはない。
 1.3 原因の系列は不完全である。
 1.4 しかし、自然法則においては、先験的に規定された原則がなければ、なにものも生起しない。
 1.5 矛盾する。
2 先験的自由を新たな原因性として提示する。
 2.1 それは何かを生起させるが、それに先行する必然的自然法則を前提としないものである。
 2.2 つまり、絶対的自発性であり、自然法則の系列を始めるものである。
 2.3 この自由は、原因の系列を完全とするのに必要である。


反対命題:
自由はなく、すべて自然法則で説明ができる

証明:
1 先験的自由を仮定する。
 1.1 この自由という原因性には、それを規定する恒常不変な法則を前提としない。
 1.2 しかし、作用の始まりは、まだ作用していない原因の状態を前提とする
 1.3 また、作用の力学的な第1の始まりが前提とするのは、それ以前の状態と因果関係を持たないことである。
 1.4 自由は因果律に矛盾する。
 1.5 自由は経験の統一を不可能にし、空虚な思惟物にすぎない。
2 世界の関連と秩序は自然のうちに求められる。
 2.1 自由は自然ではないので、それを法則として原因性であると考えることはできない。
 2.2 自然は合法則性を持ち、自由は無法則性を持つ。
 2.3 自然の合法則性には原因の遡及という困難があるが、経験の統一を可能にする。
 2.4 自由を考えた場合、無法則性により、前の状態との関連はなく、経験の統一は不可能である。
11384:02/05/05 03:02
第3アンチノミーに対する注

I 正命題に対する注

1 先験的自由の承認(1)
 1.1 自由の理念は、行為の絶対的自発性である。
 1.2 当の自由というものは、先験的である。
 1.3 自由が現象の系列を自ら始める能力はどうして可能かについて、解答を与える必要はない。
 1.4 それは、自然法則に従う原因性をア=プリオリに認識するだけで満足せざるを得ないのと、同様である。
 1.5 実際、現実の因果関係は、論理的にではなく経験的に知る。
2 先験的自由の承認(2)
 2.1 現象の系列の第1の始まりは自由によると、正命題の証明において証明した。
 2.2 その始まり以降は、自然法則に従うとしてよい。
 2.3 時間における系列にこのように認めると、さまざまな系列において自由を認めることができる。
 2.4 「あらゆる系列には、比較的な始まりはあっても、絶対的な第1の始まりはない」という誤りに陥ってはならない。
 2.5 なぜなら、それが正しいにしろ、ここでの問題が、時間ではなく原因性に関する絶対的な第1の始まりだからである。(*)
3 自由と理性
 3.1 理性は、自由による第1の始まりを自然の系列の中に位置づける。
 3.2 それが、古代の哲学者たちが第1運動者を想定したわけである。

(*) 2.5に関して

例えば、本文にあるとおり「椅子から立ち上がる」場合を考える。
立ち上がる意志と行為との関係を考える。
ただ、意志=脳の状態→(対内の反応)→行為、を考えているのではない。
椅子から立ち上がろうという意志と、立ち上がる行為とは、時間的には同じ時点で起きる
(この自由の原因性は、あらゆる人間の行為に付きまとう)。
また、椅子から立ち上がるのが、尿意などトイレに行かせるようなことを原因としていたとしても、
尿意→(対内の反応)→立ち上がる意志、というつながりは自然法則の原因性であり、自由の原因性とは関係ない。
つまり、どれだけ脅しでやらされたことでも、その人がやったことなら、その人の自由となる。
意志と行為とが内容の上でしっかり結び付いており、意志が行為に記述の上で先行する(時間的には同時)。
そのとき、自由による原因性(因果関係)を考えることができる。
また、脅し→立ち上がる、という関係も自然法則の因果性である。

II 反対命題に対する注

1 力学的な第1のものと、そこからの変化の系列
 1.1 力学的な第1のものを原因性に関して求める必要はない。
 1.2 だからといって、変化の系列は経験によって知るほかないため、その謎を放棄してはならない。
2 自然による因果性と自由による因果性
 2.1 自由という先験的理念は世界の外になくてはならない。(*)
 2.2 世界においては、自然法則の斉合性が消失するため、そのような先験的理念は認めてはならない。

(*) 2.1に関して

思惟の自発性としての理論的統覚的自由は、没時間的であるということを指す。
114考える名無しさん:02/05/06 22:35
age
115考える名無しさん+:02/05/08 04:42
何だろう、ずいぶんと難しいお話をされているようだけど、
これが真摯に哲学をするという態度なのか? 
と、納得と感動を味わって拝見しておりました。

私にとって、自由意志とは、
全能たる神=創造主に対する反逆の意志
を持つことが、人類には許されてる
と、いうことです。

神などは、存在しえない、
という主張すらも認める、
というような…
116考える名無しさん:02/06/09 21:48
117考える名無しさん:02/06/09 22:52
例えば人格(意識?)とは何なのか
人間以外の生物にもあるのか
118考える名無しさん:02/06/09 23:57
>>108
定義1だと自由意志と偶然の区別がつかなくなるのでは?
因果律から逃れられても好きなように意志できなくなる。
119考える名無しさん:02/06/10 00:03
なるほど。
「内因性」についての議論なら、郡司ペギオ-幸夫が解り
易くて良いんじゃないか?特に、工学バックグラウンドの
人は。
120考える名無しさん:02/06/10 00:07
このスレ初めて見ました。僭越ながら僕の意見(というか思弁的理解^^;)を1つ。

人間には、意志という存在自体が本質として備わっており、
意志自体とは即ち行為への傾向性であると思います。
この意志とは様々な形でもって人間自身に訴えかけてくるのではないでしょうか。

[行為への傾向性が働きかける際、物理的原因を受けない場合]
個人が自己意識を自覚するならば、それは自由。
個人が自己意識を意識しないならば、それは本能ないし習慣。
[行為への傾向性が働きかける際、他からの物理的原因を受ける場合]
個人が自己意識を自覚するならば、それは強制。
個人が自己意識を意識しないならば、それは本能ないし服従。

真摯な議論の場を汚してしまい申し訳ありませんでした。
121考える名無しさん:02/06/10 00:21
あの、とてもくだらない事で申し訳ないんですけど、
意思ってどこから生まれるのか不思議でなりません。
例えば今「2chに書きこもう」とか思う意思はどうして
生まれてきたのかわからないです。
122考える名無しさん:02/06/10 02:46
>>121
「自由意志」の定義についてまだここでは決定してないからコメントしづらいのですが・・・。

2chを見て疑問ができた(原因)→2chに書き込む(行動)
実際はもっと複雑な原因が絡まりあっていたと思うのですが、
この例だと自由意志は無いということになると思います。
では、どのようなものが自由意志なのか?という事をまず決めようとしてます。
123考える名無しさん:02/06/10 02:55
>>120
あなたの文章中どうしても理解できないのは
>個人が自己意識を自覚するならば、それは強制。
という部分です。
「自己意識を自覚する」というのは、
換言すれば「自己意識を明確に意識する」ということもできると思うが、
「自己意識」をこうしてメタレベルで意識する事態を具体的にどう捉えればいいのか分かりませんし、
さらに、こうした事態がなぜ強制といえるのか、私には分かりかねます。
124考える名無しさん:02/06/10 07:55
>>123
((((((((((;゚Д゚))))))))ガクガクブルブル…コワヒ…

>「自己意識」をこうしてメタレベルで意識する事態を具体的にどう捉えればいいのか分かりませんし、

現象的に捉えれば、行為を行うに当たり自分がどの様な状況や立場に居るのか把握した上で
その行為を自らが行うものと感じ取る事、と言えますかねぇ。
強制と言うのは語弊があったかもしれません。
選択、もしくは選択的追従とか言うべきものなのかな。

125オナン:02/06/10 17:37
自由意志の定義には、それが唯一無二であるのかどうかについての言葉は必要ありませんか?
また、自由意志は、人間もしくは生物にのみ適用されるべき言葉なのかどうかも気になります。
126考える名無しさん:02/06/10 17:38
自由意志など実在しないよ〜ん アヒャヒャ
127考える名無しさん:02/06/10 23:42
>>1
自由意志は解析力学の範疇で定義できるとしたら、
自由意志は存在しないんだ。

大風呂敷広げないで、この場合は何々と議論しよう。
あと、自由意志を定義するのには脳科学等の実例が
少なすぎる。間接的な心理学や自然言語では定義で
きないと思うよ。冷静に考えると無理な事がわかる。
128考える名無しさん:02/06/10 23:51
>>127
君には「自然主義的誤謬」というタームを調べてみることをお勧めするよ。
129考える名無しさん:02/06/10 23:54
設問が矛盾してるような気がするんだが、
定義した瞬間に自由ではなくなるのではないか?
130粗拳:02/06/10 23:55
自由に関しては
認識レベルでの自由と
形而上学レベルでの自由があると思う

どちらも実証主義にはさほど興味が無い話だけど
おいらは形而上学的に自由であると信じる
信仰だけどね
131考える名無しさん:02/06/11 01:59
>>127
「冷静に考えると無理」ということは、脳科学等の実例
を持ち出すまでも無くわかるの?
132考える名無しさん:02/06/11 02:21
そういう意味じゃないのは良く考えれば分かる。
あと間接的な心理学や自然言語ではこれ以上
議論が進み様がない。
事実として脳科学や科学の結果が必要となっているという事が
冷静になって考えれば分かるという事。
133考える名無しさん:02/06/11 06:42
>>127
「脳のフィジカルな仕組みが解る(解析力学で記述される)⇒自由意志はない」
この論理上の飛躍はどう埋めるのか。
134考える名無しさん:02/06/11 08:00
物質的なものと精神的ものの繋がり・・・?
ん〜、難しいね・・・
135考える名無しさん:02/06/16 20:51
>>130
カント的な意味ででっか?
形而上学とひとまとめにされると困るYO
実証主義的な形而上学だってあるんだし。
136考える名無しさん
>>132
でも、昔の哲学者はあらゆる物はいくつかの単純な物質で構成されている
ということは直感的に見抜いたよね。結局、ドルトンが証明するわけだけ
ど、ある程度の方向性は見えるんじゃないかな。