滅亡・改易大名家のその後

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1日本@名無史さん
大友・最上・朝倉・葛西・斯波etc教えてください。
2世界@名無史さん:2001/05/03(木) 01:55
最上家は旗本で残っていたと思うが。
3日本@名無し:2001/05/03(木) 02:02
最上家は交代寄合、近江大森(八日市)のあたりに所領がありました。
維新の時に官軍のお先棒を担ぎながら、山形に「復帰」しますが、
もう一度、大名という夢は果たされませんでした。
大友は高家、朝倉は分家が旗本、斯波氏は絶滅。
4日本@名無史さん:2001/05/03(木) 02:09
宇喜多家は維新まで八丈島でしょう。
5日本@名無史さん:2001/05/03(木) 14:41
五代北条家も小田原攻めで滅亡といわれてるけど、実は江戸時代に1万石の大名だった。
6日本@名無史さん:2001/05/03(木) 14:42
今川や赤松、一色の旧守護大名はどうよ?
7日本@名無史さん:2001/05/03(木) 15:56
葵三代に出てた忠長付きのお侍さん朝倉某が朝倉義景の子孫なんだって
8日本@名無史さん:2001/05/03(木) 15:58
>5
…確か、河内国の狭山藩でしたっけ?
9ジョーカー:2001/05/03(木) 15:59
福島正則は1619年(家康の死後)、
川中島に移され、正則の死後、福島家は旗本にまで転落。
10日本@名無史さん:2001/05/03(木) 16:05
なかなかいいスレだな
11日本@名無史さん:2001/05/03(木) 17:51
>>8
で、その子孫の北条浩は三島由紀夫と学習院
で同級生で池田大作の後任の創価学会会長(笑)
12日本@名無史さん:2001/05/03(木) 17:55
織田家も信雄筋と有楽斎筋で続いているよね。確か信雄筋は出羽・天童藩2万石でした。
13日本@名無史さん:2001/05/03(木) 17:58
息子の代に改易された両加藤家(清正・嘉明)と蒲生家はどうなったの?
14日本@名無史さん:2001/05/03(木) 17:59
高倉健は北条の末裔らしーじゃねーか
15日本@名無史さん:2001/05/03(木) 20:54
加藤清正の子孫は昔週刊誌で取材されていたな。
出羽に流されて、そこで幕末まで庄屋だったそうだ。
16日本@名無史さん:2001/05/03(木) 21:30
>>15
それって、旗本に転落した福島家より悲惨だね。
17日本@名無史さん:2001/05/03(木) 21:37
>>14
うそだあ、チョンだろ
18>16:2001/05/03(木) 21:42
あのな、オレの先祖も大将が滅んだので別の土地に流れて
江戸時代は庄屋になった。

悲惨で悪かったな!!
19日本@名無史さん:2001/05/03(木) 21:47
>18
そんな突っ込み入れてるお前の人生は悲惨だ
20日本@名無史さん:2001/05/03(木) 21:49
>>18
ばかだなー、そういう意味じゃないだろ(笑
庄屋が悲惨なんじゃなくて、大名→庄屋の落差が悲惨って言ってるんだろ(笑
21日本@名無史さん:2001/05/03(木) 21:49
>>18
あなたの先祖の大将ってだれ?
22天之御名無主:2001/05/03(木) 22:29
>>6
今川、一色は高家。
23天之御名無主:2001/05/03(木) 22:29
>>6
森鴎外の妻は赤松家の子孫。
24日本@名無史さん:2001/05/03(木) 22:58
高家は名族と聞くが、他にどんな家柄だったのか?
25天之御名無主:2001/05/03(木) 23:03
>>24
室町期の守護大名の子孫が多い。
吉良、今川、畠山、一色、最上、武田、大友など
26日本@名無史さん:2001/05/03(木) 23:24
>>25
なるほど、なるほど。ありがと。
27日本@名無史さん:2001/05/04(金) 06:35
細川の管領を嗣いでいた一族はどうなったの?
三好も知りたいな。
28日本@名無史さん:2001/05/04(金) 06:50
>>13
加藤(嘉明)家は嘉明の孫が取り立て、子孫は近江水口藩2万石。
29土佐守:2001/05/04(金) 06:51
長曽加部は?
30日本@名無史さん:2001/05/04(金) 11:30
長宗我部は、一応滅亡したけれど。
盛親系は無くなったけれども、他の兄弟が他藩で続いた。
何していたのかは知りません。

元親の弟が、香宗我部をついでこれは現在も続いています。

意外と、完全消滅は少ないかもしれませんね。
31無礼講:2001/05/04(金) 11:42
名字とかでも残ってる?
32日本@名無史さん:2001/05/04(金) 14:40
山名はどうよ。
33日本@名無史さん:2001/05/04(金) 14:51
完全消滅は今川氏。
34日本@名無史さん:2001/05/04(金) 14:55
>33
品川氏でつづいたんじゃなかったっけ?
35日本@名無史さん:2001/05/04(金) 15:03
>>33
今川氏真には子供はいなかったの?
36日本@名無史さん:2001/05/04(金) 15:12
豊臣も、秀長などで公家のほうに血だけは流れて残っているね
37日本@名無史さん:2001/05/04(金) 15:35
へー、そうなんだ。
みんな詳しいね。
38名無しさん@1周年:2001/05/04(金) 17:30
>>35
今川は、明治時代の当主に後継ぎがいなかったために無くなりました。
分家が34さんのおっしゃるとおり品川氏で続いているようです。

>>32
山名は江戸期は交代寄合。明治になって大名になって男爵。
明治期に嗣子なくして滅びそうになったが、養子が入って現在まで続いているとか。
39日本@名無史さん:2001/05/04(金) 17:32
品川氏は養子が入っていて血統的には繋がっていない。
40日本@名無史さん:2001/05/04(金) 21:48
>>12
信雄でも信良系は信敏の後、相馬誠胤の子供信恒が継嗣に入った
現在の当主さんは「血」で繋がってないみたい.高長系は家も血も続いてたはず
>>29-30
自分の祖父は「長宗我部伊豆守という人」と孫のお婆ちゃん(100歳ぐらい)がTVで写真を見せてた
41日本@名無史さん:2001/05/05(土) 00:31
どっかの名族の家系を買えないものだろうか?
廃絶しそうな家とかさ。。どっか知らない?
42神家:2001/05/05(土) 00:34
うちの売ってやろうか?
43日本@名無史さん:2001/05/05(土) 00:38
いいね。(笑)
44日本@名無史さん:2001/05/05(土) 01:18
松永久秀は?
松永貞徳が孫って聞いたけどその後が知りたい。
45日本@名無史さん:2001/05/05(土) 02:25
南北朝時代に勢力が衰えた桃井氏(桃井直常)
ここの末裔が桃井かおりになるのかな?
知ってるひと教えて!
46日本@名無史さん:2001/05/05(土) 10:47
あげ
47日本@名無史さん:2001/05/06(日) 02:49
名和長年はどうなの?
竹崎季長は?
48日本@名無史さん:2001/05/06(日) 12:04
>>47
名和長年の孫である顕興が肥後の八代庄に下向し
九州宮方として活動するも、降伏。相良氏の庇護を受ける。
戦国時代には、その相良氏と対立するも、結局秀吉の九州
征伐により、筑前に転封され、子孫は立花氏に仕えたという。
49日本@名無史さん:2001/05/06(日) 14:08
清和源氏、足利家の系統のはずの桃井氏はわかりませんか?
50日本@名無史さん:2001/05/06(日) 14:08
足利家の系統のはずの桃井氏はわかりませんか?
51日本@名無史さん:2001/05/06(日) 14:17
桃井って「もものい」って読むんだよね。
桃井かおりとはちょっと関係なさそうな気がするが。
52天之御名無主:2001/05/06(日) 15:15
>>47-48
名和家は、維新後に政府が子孫を見つけだし、男爵とした。

>>49
桃井家は、観応の擾乱で没落。
53桃井直和:2001/05/06(日) 15:25
>>50
で、なんか父上と俺に何か聞きたいことある?
54日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:09
北畠と畠山はどうよ?
55名無し:2001/05/06(日) 22:14
足利の正統に限りなく近い「平島公方」家が、
なぜ維新後に授爵されなかったんだろうか?
56日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:19
喜連川家は受爵してるのにな。
57日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:24
どんどんいきますねぇ
58日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:31
蘆名氏は、義広の子の盛幸が庭で転けて死亡したことに断絶。
しかし、5,6代前の盛滋の子孫が相続して。復活して、仙台藩士
として存続。
59日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:38
葛西氏は、晴信の小田原不参陣によって攻撃され滅亡。
息子信影が、南部氏に仕えた。他にも、氏信が上杉に仕える。

晴信の弟が、仙台藩に仕えて「飯野川葛西氏」を名乗る。
60日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:42
北畠氏のうち、浪岡北畠氏は、顕村の時津軽為信に攻められ滅亡。
顕村の叔父顕則が南部氏に仕えて盛岡藩士になる。
61日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:45
三好氏は、幕臣として存続しました。
62日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:50
滝川氏は、益一の死後長男の一忠が継ぐが改易。
その子一明が、旗本として存続しました。
63日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:53
三好は存続していたんですね。てっきり大坂の陣で滅んだものかと思ってました。
ずっと見てると、南部家ってけっこう藩士に名家?が揃っていますね。
もしかしたら、宮部長ヒロ(漢字が分かりませんでした・・・)の子孫も残ってるかも?
64日本@名無史さん:2001/05/06(日) 22:57
政康確かに、大阪の陣で死にました。
兄弟の政勝が、徳川方で参戦してそちらが存続したのです。
65日本@名無史さん:2001/05/06(日) 23:02
山名氏は、滅亡していません。
豊国は、落城後徳川家康に仕えて但馬村岡に領地をもらって交代
寄合になります。そして、明治になって藩主と認められて男爵位
をもらいます。
66日本@名無史さん:2001/05/07(月) 00:03
>>53
実はうちも桃井なんだよね、桃井さん・・
うちはもともとは京都らしいけど
‘もものい’と‘ももい’は単純に‘の’が抜けただけだから同じ系統ですは
桃井かおりとおやじさんの軍事評論家の桃井真氏も
足利桃井氏につながるのかなーって興味があります。
でも‘桃井’ってなさそうで結構あるけどね、名字・・
67日本@名無史さん:2001/05/07(月) 12:43
龍造寺はどうなのかな?
鍋島をはばかって一族が姓を変えただけでなんか残っていそう。
68日本@名無史さん:2001/05/07(月) 13:16
竜造寺一門の有力者って鍋島姓もらったりして
ほとんどそのまま佐賀藩士になったんじゃなかったっけ?
だからたくさんいると思うけど。
69日本@名無史さん:2001/05/07(月) 13:42
家老の多久家が竜造寺一門では?
70日本@名無史さん:2001/05/07(月) 13:47
長門の大内氏および筑前の少弐一族は完全に絶滅したのだろうか?
71日本@名無史さん:2001/05/07(月) 14:10
竜造寺氏は、佐賀藩に仕えました。
諌早・多久・武雄の三家はいずれも竜造寺隆信の子弟の子孫で、
諌早と多久は地名を家名としたが、武雄邑主だけは鍋島を名乗りました。
三家を揃って佐賀藩三国老といいます。
72日本@名無史さん:2001/05/07(月) 14:27
大内氏なんですが、四国で義隆次男の幾代丸が豊田氏と名を
変えて存続しています。
73日本@名無史さん:2001/05/07(月) 14:43
尼子氏は?
74日本@名無史さん:2001/05/07(月) 16:57
尼子氏は、晴久の次男の子供が継ぎ。佐々木氏と改姓して毛利家
に仕えました。直系は、明治になって絶えましたが。
分家などがたくさん残り以下のような事をしています。

「尼子一族大集会」
http://www.web-sanin.co.jp/orig/news/7-526c.htm
75日本@名無史さん:2001/05/07(月) 18:02
尼子氏は月山冨田城陥落後、三兄弟が毛利に降って軟禁されていたが、一応客将のようなかたちで知行をもらっていたらしい。山中鹿之介の蜂起がおこったり、関ヶ原の合戦後に減封されて毛利が苦しくなってからも待遇は変わらなかったという。
義久は結構長生きしている。のちに本姓(というか旧姓)の佐々木を名乗って旗本となり、義久に子がなかったため次弟倫久の子が家督を継いだ。
7675:2001/05/07(月) 18:04
かぶった…。すまん。
77日本@名無史さん:2001/05/07(月) 19:39
72さん、すごい情報ですね。
そうか・・・、大内義長から大内輝弘?の反乱で途絶えてしまったと思ってました。
ところで、土佐一条家に嫁いだ義隆の姉はどうなったのかな?
78天之御名無主:2001/05/07(月) 22:15
>>77
土佐一条家は滅亡。
79日本@名無史さん:2001/05/07(月) 22:19
河野氏はどうなったのでしょうか?
小早川隆景との関係で改易と聞きましたが・・・。
80日本@名無史さん:2001/05/07(月) 22:47
河野氏は、所領没収で安芸の国へ移りました。
毛利家についていったようです。
1999年8月8日付けの愛媛新聞には、「河野氏
子孫250名が集うシンポジウム」が載っています。
81日本@名無史さん:2001/05/07(月) 23:16
大名とはちょっと違うけど陶(すえ)氏って子孫はいるの?
82日本@名無史さん:2001/05/08(火) 01:07
これ、続くな〜〜
陶か・・・ 知りてぇ〜!


大崎氏や二階堂氏はどうなんだろか??
83日本@名無史さん:2001/05/08(火) 01:53
大名でなくてもいいのだったら、たとえば山中鹿之助とかは?
84日本@名無史さん:2001/05/08(火) 02:59
>83
鴻池家(三和グループ)の祖先じゃなかったけ?
85日本@名無史さん:2001/05/08(火) 03:05
戦国からは外れるけれど田沼意次は?
86日本@名無史さん:2001/05/08(火) 04:26
源義朝の血筋はどうよ?

頼朝の弟の希義の血筋が残ったって聞いたことあるけど
87日本@名無史さん:2001/05/08(火) 06:29
田沼家は1万石ながら大名として存続したからたぶん華族になってるでしょう。
88日本@名無史さん:2001/05/08(火) 07:04
宮本武蔵は?
89日本@名無史さん:2001/05/08(火) 09:16
>>83 84
鹿之介の兄の子(甥)の清六が清酒づくりをはじめて鴻池をつくったんじゃなかったかな?
90日本@名無史さん:2001/05/08(火) 12:46
鴻池→住友ってかんじですか?
91日本@名無史さん:2001/05/08(火) 14:12
山中鹿之助は、鴻池家です。鴻池と住友は関係ないですけどね。

宮本武蔵は、養子の子孫が健在です。最近、何かの研究で発表
しておられました。

田沼家は、大名家として存続して華族に列しました。
92日本@名無史さん:2001/05/08(火) 15:15
徳川忠長家老 朝倉宣正 2万7000石→改易
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Crete/6514/
93天之御名無主:2001/05/08(火) 15:18
>>90
鴻池→三和銀行です。
94清和源氏:2001/05/08(火) 17:27
>>86 希義の血筋は知らないけど、修善寺で氏んだ範頼の子孫は戦国時代まで存続してたような。
吉見氏だっけ?
95日本@名無史さん:2001/05/08(火) 20:36
希義の血筋は長宗我部に乗っ取られた土佐吉良氏
阿野全成にも子孫はいる(将軍継げよ

>>91
武蔵の子孫の方、新聞に出てましたね。ハエの遺伝子の研究
母方が新免姓らしい
96日本@名無史さん:2001/05/08(火) 23:06
吉見氏は毛利輝元によって滅ぼされました。しかも、家康が死んだ後に・・・。
せっかく戦国を乗り切ったのに。最後の当主は吉見広長。一族と共に滅んだそうです。
97名無しの権兵衛:2001/05/08(火) 23:27
>>92朝倉宣正の子孫は古河の土井大炊頭の上級家臣となっています。
98名無しの権兵衛:2001/05/08(火) 23:27
>>92朝倉宣正の子孫は古河の土井大炊頭の上級家臣となっています。
99日本@名無史さん:2001/05/09(水) 00:20
金森頼錦、中村一氏や田中吉政、堀尾吉晴はどうでしょうか?
断絶や改易だそうですが、一族はどうなの??
100日本@名無史さん:2001/05/09(水) 03:36
>99
中村の一族は歌舞伎の中村勘三郎家や赤穂藩浅野家家老の奥野家として生き残ってますね。
101日本@名無史さん:2001/05/09(水) 09:09
歌舞伎の中村って関係あるんだ・・・。
凄い発見ですね。
102日本@名無史さん:2001/05/09(水) 09:59
金森氏は、本家は取り潰しになりましたが。
分家が続いています。
103日本@名無史さん:2001/05/09(水) 12:33
塙保己一(群書類集だっけ?)の孫は伊藤博文が若い頃に殺されたって聞きましたよ。
104日本@名無史さん:2001/05/09(水) 12:43
尾張守護斯波氏は信長に追われた義銀が津川義近と名を改め、
秀吉に仕えている。津川一族に子孫がいれば、武衛家は存続したことになりますが。
105日本@名無史さん:2001/05/09(水) 17:24
波多野氏って信長に滅ぼされて、血筋は絶えたのかなぁ?
あと、六角とか一色とかも気になるけど、知ってる人いますか?
106日本@名無史さん:2001/05/09(水) 18:40
直江山城の家系はどうなったのだろう?
この板でときおりみかける与六氏は直系だったり
107日本@名無史さん:2001/05/09(水) 19:19
>>106
直江家は兼続の死後断絶したよ。再興されることはなかったし、
兼続夫妻の菩提寺も破却されたとのこと。
上杉家の内部事情によるらしい…
108日本@名無史さん:2001/05/09(水) 19:38
一色一族には金地院崇伝がいますね。その後どうなったのかな?
個人的には大谷吉継が知りたい。
大谷吉治と木下頼継が血統として残っていそう・・・?
109日本@名無史さん:2001/05/09(水) 19:41
>108
真田幸村を通じて血だけは残っていると思う。
110>108:2001/05/09(水) 19:56
「再現日本史」の創刊号に関ヶ原400年祭りに参加した、大谷吉継の子孫の写真が載ってるよ。
経過は分からないけど、現在は奈良県在住で歯科医をしているそうだ。
111日本@名無史さん:2001/05/09(水) 21:37
>104
津川義近のあと親行がいますが大坂の陣で自刃してます。
そのほかの縁者がいれば別ですが。
112日本@名無史さん:2001/05/09(水) 22:13
一色氏は
足利義満の子を嗣子に迎えた幸手の宮内少輔家は残ってるみたいだけど
織田に滅ぼされた一色氏はどうなんでしょう
113日本@名無史さん:2001/05/10(木) 12:34
前田玄以・増田長盛・長束正家・安国寺恵瓊はどうなんでしょうか?
114日本@名無史さん:2001/05/10(木) 12:36
>>55 足利の正統に限りなく近い「平島公方」家

詳しく教えておくれ。
115日本@名無史さん:2001/05/10(木) 12:39
安国寺恵瓊は坊主ですよね。

安徳天皇は?平敦盛は?平城天皇は?
源頼朝は?足利義昭は?
116>114:2001/05/10(木) 12:57
http://www.asahi-net.or/jp/~JT7T-IMFK/taiandir/x065.htm

参照されたし。
面白い存在でしょ?
117116:2001/05/10(木) 13:01
118116:2001/05/10(木) 14:20
訂正
119日本@名無史さん:2001/05/11(金) 00:45
>116
おもしろいですね、マイナーな人物も乗っていて興味深いです。
それでも出ていない人を知りたい!
120日本@名無史さん:2001/05/11(金) 00:51
>>114
平島公方家の末裔は90才近い御仁が京都におります。
中央大学学員会京都支部名誉顧問などをされています。
121名無しさん@1周年:2001/05/11(金) 11:45
南総の里見氏ってどうなったの?
あと徳川家康の次男の結城秀康の結城氏(越前にいったんだっけ?)
ってその後どうなったの?
122日本@名無史さん:2001/05/11(金) 13:12
本当なら戦国板にふさわしいが、
内容が為になるのでage
123日本@名無史さん:2001/05/11(金) 14:07
>121

結城氏(越前松平氏)の流れは主に四つあるけど

*嫡流
下総結城→越前北庄(68万石)[秀康の長男忠直の時に松平姓を称す。でも乱行で配流]
→越後高田(26万石)[忠正の長男光長。越後騒動で改易]
→美作津山(10万石)[名家の故を持って、光長の養子宣富が最高を許される]
→美作津山(5万石)[宣富の子が11歳で没し、無視改易の危機となったが、名家の故を持って甥の長熙が5万石での相続が認められる]
→美作津山(10万石)[美作津山藩7代目斉孝が将軍家斉16男斉民を養子に迎え10万石復帰。斉民の次は斉孝の4男慶倫が継いで明治。]

*次男の系統
上総姉ヶ崎(秀康の次男忠昌]→常陸下妻(3万石)→信濃松代(?)→越後高田(25万9千石)
→越前福井[北庄](52万5千石)[↑のほうの秀康長男忠直が配流なったので、忠正が入れ替わって北庄に入る。福居[福井]と改名。
→越前福井(45万石)[二代光通、兄弟二人に越前松岡5万石、越前吉江2万5千石を分知]
→越前福井(47万石5千石)[光通、松平越前光長の娘国姫(母は徳川秀忠の娘)を正室し、その圧力で婚姻全の側室との子を認知せず、
子は江戸へ出奔。国姫とは男児が生まれず、国姫自殺、光通も後追い自殺。結局、弟の昌親が分知されていた吉江2万4千と合わせて相続]
→越前福井(25万石)[昌親の相続には、越前松岡を分知された兄の昌勝や、光通の側室の子直堅もいたことから不平分子もおり、直堅派が脱藩。
昌親は昌勝の子綱昌に家督を譲って隠居するも、若い綱昌の素行が悪く、領国没収。先代昌親を藩主に戻させ、25万石。昌親は吉品に改名]
→越前福井(30万石)[吉品→昌勝六男吉邦→昌勝三男宗将。宗将は越前松岡藩5万石を継いでいたので、合わせて30万石]

宗将の次は結城秀康五男松平直樹の孫松平知清の次男宗矩が養子で継ぐが、これも実子なく一橋宗尹長男重昌が養子で継ぐ。
でもこの松平越前重昌も実子なく、一橋宗尹三男重富が養子で入り(10代目)ちょっと続くが、
13代目は徳川家斉24男斉善が養子で入り、その次が有名な田安斉匡8男松平越前慶永(春嶽)。
井伊直弼によって慶永が蟄居させられたあとは、越前徳川系の越後糸魚川藩主松平越前直廉(茂昭に改名)が継いで、明治。

糸魚川藩は、出奔した脱藩した直堅がこの直知が脱藩した直堅派家臣と江戸に逃れて、将軍家綱に家を認めてもらい、直知の養子直之の時に封じられたもの


直之は松平越前家の出雲松江藩の新田分知である出雲広瀬藩二代松平越前近時の三男。
124日本@名無史さん:2001/05/11(金) 14:08
*三男の系統
越前大野(5万石)→信濃松本(7万石)→出雲松江(18万6千石)[秀康の三男直政]。
以降、明治まで。

*五男(大和守系)
越前勝山(三万石)→越前大野(5万石)→陸奥山形(15万石)→播磨姫路(15万石)[ここまで結城秀康5男松平越前直基]
→越後村上(15万石)[幼少の為移封]→播磨姫路(15万石)→豊後日田[宗家の越後騒動に連座して減封すぐに次へ転封]→陸奥山形(9万石)→陸奥白河(15万石)
[ここまで直基三男松平越前直矩。]
→播磨姫路(15万石)[直矩の次男基知が継いだ後、直矩の三男白河新田藩主松平知清の長男義知(のち明矩)が白河藩を継ぎ姫路に転封]
→上野前橋(15万石)[明矩の長男朝矩が姫路藩を継ぐが11歳の為幼少転封]
→武蔵川越(15万石)[利根川侵食による前橋城崩壊、内高の少なさなどの問題で、朝矩は前橋藩領内の川越へ居所移転]
→武蔵川越(17万石)[前橋城修理と転封費用などでの財政疲弊から、4代川越藩主松平越前斉典、出羽庄内への移封を画策するも失敗。代わりに2万石加増]
→上野前橋(17万石)[7代川越藩主直克の時に、前橋城に戻る]
125123,124:2001/05/11(金) 14:08
すまん、長すぎた。
126123.124:2001/05/11(金) 14:18
訂正。すまぬ。
>糸魚川藩は、出奔した脱藩した直堅がこの直知が脱藩した直堅派家臣と江戸に逃れて

糸魚川藩は、出奔した直堅と子の直知が脱藩した直堅派家臣と江戸に逃れて

127日本@名無史さん:2001/05/11(金) 14:28
東郷元帥の子孫って何してるのですか?
128>121:2001/05/11(金) 15:25
里見氏は、秀吉からは安房9万石、関が原の功で3万石加増されたが、
大久保長安の不正事件に関連して大久保忠隣が罪を得たのに連座したのに連座して
伯耆倉吉3万石に減封、無嗣改易。
(里見忠義の義父が大久保忠隣だった)
129121:2001/05/11(金) 16:24
>>123,124 >>128
どうもありがとうございます。
130>:2001/05/11(金) 18:20

赤松は別所長治の下にあった赤松氏満の子氏置が家康は以下の旗本として2000石を持って石野氏を称して存続。
宝永年間に赤松氏に戻す。

畠山は、畠山政信が家康に使えて三百石、元禄時には五千五区まで加増されて高家。
能登畠山氏は三千百余石の旗本。
131123=124=128=130>:2001/05/11(金) 18:27
六角氏は六角広賢の孫広豊が綱吉に見えて表高家。

(なんか、足尾鉱毒事件の田中正造の主家が旗本の六角氏とか言う話を聞いたことがあるが、
これも一族かねぇ?)
132天之御名無主:2001/05/11(金) 19:08
>>130
森鴎外の妻・赤松登志子は、その子孫。
133日本@名無史さん:2001/05/11(金) 19:43
おれ兵庫県相生市のある学校出身なんだけど、
赤松って先生がいて、赤松氏の子孫って称してたよ。
134日本@名無史さん:2001/05/11(金) 19:44
>>56喜連川家は受爵してるのにな。

これも教えて。
135ちびた:2001/05/11(金) 20:46
喜連川家(旧古河公方足利家)は高家ではなく(性格的には極めて近いが、高家は旗本同様知行権は有していても領主権を有していない)10万石格の大名扱いだった(実際は5千石)ため子爵になれた。実際、弾左衛門支配領域(幕末には八州廻りの取り締まり領域でも)日光神領、喜連川領、そして三家水戸領は入っていない。ただ、本来は高家と明治以後の立藩に至らなかった交代寄合にも(その他石清水等なぜか受爵に漏れた家も)男爵を授けてしかるべきだったと思う。日清戦争期だと少将ぐらいで華族になれていることとのバランスから。
136日本@名無史さん:2001/05/11(金) 20:52
たしかに播州地方は赤松性が多い。
でもそれって子孫じゃなくて、ただ赤松の殿様がいた場所の地名で
それ明治時代に名字にしただけじゃないの?
プロ野球の別所毅彦や小早川みたいなもんだよ。
137天之御名無主:2001/05/11(金) 21:02
>>115
安国寺恵瓊は安芸守護武田家の一族出身。

平城天皇の子孫から、大江氏と在原氏が出ているので、公家のなかに子孫の家があるはず。
ちなみに、毛利家も大江氏の子孫。

系図上では、島津家初代当主の忠久は、頼朝の庶子とされている。

足利義昭の子孫は、孫の代で断絶。
(出家したため、子孫なし)

>>135
激しく同意。
138ちびた:2001/05/11(金) 21:05
すなわち、喜連川家は譜代大名は勿論、前橋、川越等の親藩より格上だったことになる
139ちびた:2001/05/11(金) 21:18
大江流の公家は一家だけで北小路子爵(同名同爵で藤原流の家有)、在原流は堂上家としては残念ながら残ってない。あと、義昭の子孫はないが、将軍家の子孫は徳島藩士として残っている(爵位も結局与えられなかった)が、冷遇され分家である喜連川家には勿論、高家となったその他の名家に較べて不憫だったといえよう。
140日本@名無史さん:2001/05/11(金) 21:22
>>136
童門冬二がなんかの本で
「当時ヤクルトにいた小早川選手は毛利元就の遠い子孫」
って話をしていたはず

誰か解説キボンヌ
141ちびた:2001/05/11(金) 21:30
>>137
弾左衛門家も先祖が頼朝と称してますよ(でも、実際、公文書では藤原頼兼と称してるんですが)
142日本@名無史さん:2001/05/11(金) 21:34
赤松の子孫は兵庫県某所でお医者さんやってるってよ。
143ちびた:2001/05/11(金) 21:40
赤松家は確か高家じゃなかったけど、功臣として男爵になってる家がありますよね
144116:2001/05/11(金) 21:45
京極家の子孫は医学部教授です。
145ちびた:2001/05/11(金) 21:49
京極は大名が4家で、その末流のかた?旗本にも多かったからな。そっちのほうでしょう。
146日本@名無史さん:2001/05/11(金) 21:50
147非公開@個人情報保護のため:2001/05/11(金) 21:53
鎌倉公方家が古河公方家、喜連川家と名を変えながらも存続し、現在に
至ってるのはすごいな。明治になって足利姓に復したのだったかな。
148ちびた:2001/05/11(金) 21:55
>>147その通り
代々足利○氏と名乗るようになった。
149非公開@個人情報保護のため:2001/05/11(金) 21:59
>>148
足利○氏かぁ。鎌倉、古河公方を彷彿とさせられる名前だなぁ。
150ちびた:2001/05/11(金) 22:24
大友、斯波、畠山、最上等高家衆は名跡を華族という形で残しておくべきだったと思う。細川(勿論熊本藩系、谷田部藩、嫡流じゃないけど)、山名(交代寄合→明治大名のパターン)は取り敢えず残ったから。
151日本@名無史さん:2001/05/11(金) 22:33
>ちびた氏

徳島藩士になった足利の末裔ってのは足利氏を称していたんですか?
152非公開@個人情報保護のため:2001/05/11(金) 22:49
>151 がいしゅつの平島公方家のことか?
153日本@名無史さん:2001/05/11(金) 22:55
>>150
1万石以上の陪臣(大藩の家老など)が男爵になっているのだから、
もっと官位が上の高家は華族にしてもよかったと思います。
山名や岩松(新田)など交代寄合の数家は、うまいことやって華族になりました。
154のーやん:2001/05/11(金) 23:26
北条得宗家は室町時代からどうなったんですか。誰か知ってる方おしえて。
155日本@名無史さん:2001/05/12(土) 00:03
>>154
執権北条高時の息子 時行が中先代の乱を起こし、
その後、新田氏とともに南朝側として戦いの渦に身を投じていたが、
1353年に処刑されました。
弟の泰家は幕府滅亡後、西園寺家に潜伏していましたが再挙をはかる前に
露見し逃亡。その後信濃にて南朝側として挙兵したが行方知れずに。
高時には2児いたらしい。

ちなみに東京狛江市の元市長石井さんゆう(バカラ賭博にて逮捕)は北条家の末裔だったらしい。
156:2001/05/12(土) 00:24
もう一人は鎌倉脱出失敗で殺された。
157ちびた:2001/05/12(土) 00:34
>>151 152の通りです。この10代将軍義植(タネ)系の平島公方家のほかに、義昭の弟・尾池玄蕃頭義辰の系統の西山家(肥後細川客分)があるがこれら両家とも北朝系ということで>>153の新田家(150石で、貧乏といわれる公家でも中堅以下クラスの公家より低いくせに明治17年早々に男爵となった)とは明暗を分けた
>>153 三家の付家老(おおむねが3万石前後の城主クラス、幕閣では老中になれる石高)や八代の城持ちの松井、白石の片倉は格式上当然、その他でも3万石以上の陪臣は(実際これらの家=先述の付家老を除く、が男爵を受けたのすら16年遅れ前後遅かった)成瀬以外も子爵にすべきだった。
158非公開@個人情報保護のため:2001/05/12(土) 00:42
北条氏は分家が多くあったし、得宗家以外にどこか存続している家系は無いのかなぁ。
159ちびた:2001/05/12(土) 00:54
>>155 前北条氏の末裔は今時代(劇)の人でもあるし、興味深いですが、聞きませんね。狭山(河内の)の北条子爵は早雲の系統だし、いくら名跡上(家紋等)、後北条氏が引き継いでいるっていっても、なんとなくしっくりいかない。
160日本@名無史さん:2001/05/12(土) 01:02
後北條氏って北條氏の血を引く女性を娶って
北條氏を名乗るようになったんでしたっけ?
161日本@名無史さん:2001/05/12(土) 01:15
小楠で有名な横井氏や、種子島氏が北条の一門を自称しているが、
根拠はない。種子島の一族には、御丁寧にも名越を名乗る者までいるから、
手が込んでいる。
北条、豊臣、少弐は絶滅したと思う。
楠木氏は以外に子孫がいるが、明治期に我も我もと宮内省に請願し、
結局は全部、爵位の対象外となった。
162>平島公方:2001/05/12(土) 01:17
しっかし江戸・幕末の京都へ室町幕府の再興を夢見て上洛するなよな。(ワラ
なんか,ドンキホーテみたいだぞ。
つうか、徳島でよっぽど頭に来る事があったのね。
でも堪忍袋の尾が切れるにしても我慢のしすぎだぞ,その期間の長さは。
163日本@名無史さん:2001/05/12(土) 01:19
足利系ってやっぱり逆臣のイメージがあるから
冷遇されたのかなあ。
164非公開@個人情報保護のため:2001/05/12(土) 01:25
>>161 ・・・豊臣・・は絶滅したと思う
九州の日出藩主(何氏か忘れた)の本姓は豊臣姓だったな。
もちろん、秀吉の子孫などではないが。他にも本姓が豊臣姓の者が
いたような気が・・・。
165名無し:2001/05/12(土) 01:27
パチンコ屋の専務やってる木下さんは?
木下利玄とか?
166ちびた:2001/05/12(土) 01:36
>>165 恵比寿の人こそ>>164の日出木下子爵です。利玄は同系の備中足守木下(これも子爵)の系統です。
167ちびた:2001/05/12(土) 01:45
>>162最初は紀伊大納言に仕官するはずだったらしいが、うまくいかず上洛した。そして、自分の先祖ゆかりの諸寺の扶助により生計をたて、(華族被列の)請願も通らず、主家もない浪人とみなされ、士族にすらなれず平民籍に編入された。
168日本@名無史さん:2001/05/12(土) 01:46
北畠は、子孫が浄土真宗(東)の坊さんになり、広島で寺の住職をしていた。
169名無し:2001/05/12(土) 01:52
>167

カワイソ過ぎる。泣けてくる
170ちびた:2001/05/12(土) 01:59
>>169
でも、それを不憫におもったのか、明治30年まで、徳川(紀州)侯爵家より年300円が送られている。
171ちびた:2001/05/12(土) 02:03
あと、山口の大内も気になるが(傍流が譜代牛久藩主山口氏として明治に至ってはいるが、肝心の本家の)その名跡は?
172名無し:2001/05/12(土) 02:07
>170

紀伊家,やはり仕官の約束を反故にしたのだな。
その為に名門・足利が平民になってしまった(涙
173ちびた:2001/05/12(土) 02:12
>>163旧幕時代は源氏称揚の時代だから、源氏を名乗る徳川氏が本当の源氏の主流に当たる足利氏を冷遇するはずはないでしょう。ただ、蜂須賀家(一応、足利一門たる斯波氏に系図はつないであるが疑わしい)が家柄へのコンプッレックスからそうしたんじゃ?
174ちびた:2001/05/12(土) 02:41
実際、足利氏を名乗ることを許さず、在の平島姓に変えさせ、100石しか与えず、それに憤懣して退国した。それに、同家は代々正室には水無瀬、持明院等の公家の娘を正室としておりやはり貧乏暮らしの公家の娘としては御台所御付等で江戸に下向し、大奥上臈として、また中堅親藩大名の室としてせめて優雅に半生を送ることもなく、名家ではあるが、下士すれすれの家の妻としての地位に甘んじねばならなかった。お陰で名門の体裁は保持できていたのだが、結局子孫は実を結ばなかった。ただ、徳島を退去してからは足利に復せたが
175日本@名無史さん:2001/05/12(土) 03:01
平島家ってのは普通の一藩士として扱われたの?
それとも表向きは客分みたいなもの?
お城に出仕して勘定方だの普請方だのそういった勤務もやってたのかね?
176日本@名無史さん:2001/05/12(土) 03:10
足利氏を冷遇した当の蜂須賀家の当主(女性だったと思う)は数十年前に外国に行って以来所在が不明だって聞いたけど本当なの?
そうだとしたら蜂須賀は絶家??
177のーやん:2001/05/12(土) 03:45
>155,156,158,159160>161
どうもありがとうございます。
 北条家は絶滅したのでしょうか?

 今京都にお住まいの足利家はどこの家系の方々ですか?
 以前笑っていいともにでていましたが?
178のーやん:2001/05/12(土) 04:18
黒田もタイにいるようですが?
179123:2001/05/12(土) 06:27
そういえば、常陸牛久藩の山口家は大内義弘の二男大内持盛の流れを汲んでいるらしいが、
ここと既出の豊田家との関係はどうなのだろう?
180日本@名無史さん:2001/05/12(土) 07:28
>>157
新田家は新田勤王党で明治維新のときに功績あげたからじゃ
ないかね。
これでもらえなきゃそのほうがおかしいような
181天之御名無主:2001/05/12(土) 12:11
>>176
蜂須賀家は、昭和初期に爵位没収。
現在は当主不在。
182日本@名無史さん:2001/05/12(土) 12:17
age
183天之御名無主:2001/05/12(土) 12:21
>>147
喜連川家には、江戸後期に水戸家から養子が入っている。

>>179
幕末の賢侯の一人の伊達宗城は、山口家から宇和島藩伊達家の養子に入った。
184日本@名無史さん:2001/05/12(土) 12:54
>>181 蜂須賀の女当主はアメリカで医療関係の仕事をしてるぞ
185日本@名無史さん:2001/05/12(土) 13:19
喜連川家は准国主の扱い
織田家も江戸前期は准国主の扱いだった
186日本@名無史さん:2001/05/12(土) 13:20
伊達宗城は結局、先代の息子に後を譲ったけどね。
187日本@名無史さん:2001/05/12(土) 14:09
ごく小さな存在とはいえ、足利氏と徹底的に対立した新田氏がなぜ存続し得たのかな?
あと、戦国時代の終盤まで存続できた北畠氏も。
188天之御名無主:2001/05/12(土) 14:16
>>185
織田家は、宝暦・明和事件で准国主の地位を失った。
189天之御名無主:2001/05/12(土) 14:19
喜連川家は、戦国末期の当主(女)が、自ら秀吉の側室となることで家を存続させた。
190>ちびた:2001/05/12(土) 19:01
詳しいですね。勉強になります。

平島公方家のこと,とても興味あります。
関連書籍などご存知でしたらお教え下さい。

平島公方家の子女はその名門故に大名家に嫁ぐ事は出来なかったのでしょうか?
191ちびた:2001/05/12(土) 22:02
(財)冷泉家時雨亭文庫司書 松田敬之氏の論文
「華族の選の洩れた士族たち」「堂上格・華族に関する一考察」
192ちびた:2001/05/12(土) 22:11
>>183斉昭の子「縄氏」ですね>>189取り立てられた当主・国朝はその子?兄弟?>>190同じ武家のカテゴリーでは郷士もどきのものが諸侯と婚姻はできないでしょう。
193日本@名無史さん:2001/05/12(土) 22:31
194新田:2001/05/12(土) 22:50
187>江戸時代、新田を名乗った岩松氏は途中から足利氏の養子。
195日本@名無史さん:2001/05/12(土) 23:35
岩松氏は北朝方で一族の裏切り者。
幕末にうまいこと勤王→新田末裔とイメージチェンジさせた。
196日本@名無史さん:2001/05/13(日) 00:46
絶滅ってトキじゃないんだし、あと血統って馬じゃないんだから。
少なくとも江戸期からは家社会だと思うんだけど。
197日本@名無史さん:2001/05/13(日) 01:05
196の意見も分かるが、血統と家の連続性って言うのは単純に興味があることでは?
何百年も前の血統が脈々と受け継がれてることへのロマンのようなものを感じますよ。
家が存続し続けることも並大抵のこととではないってことを知るのもまた歴史の楽しみでは?
単純に楽しみましょうよ
198日本@名無史さん:2001/05/13(日) 01:10
長谷川秀一・毛利秀頼・毛利勝永・伊丹親興・千種忠顕はどうなったのでしょうか?
199日本@名無史さん:2001/05/13(日) 02:48
華族の話が出ていたけど、一番ひどいのは朝廷の八社。伊勢、上賀茂、下鴨
上御霊、下御霊、岩清水、松尾、だけど、伊勢の度会を除けば、出雲の千家や、
熱田の千秋などが華族になっているのに、賀茂氏などは士族、多くの社家が田舎神主に左遷されたり、
神職を放棄しているのを見ると、地方の国学者あたりの作為すら感じる。
200>ちびた:2001/05/13(日) 08:18
ご教授有難う御座いました。
探してみます。

>196
賀茂氏の関係で「鴨脚(=いちょう)」氏ってご存知ですか?
鴨の足がイチョウの葉っぱに似ているから,という難読姓です。
下鴨の神社の神職であったようです。
知り合いに居りました。華族になり損ねたと言っていました。
201日本@名無史さん:2001/05/13(日) 15:13
織田秀信の家臣で百々綱家と木造具正のその後を教えてください。
あと秀信の弟もいたと思うのですが・・・?
202日本@名無史さん:2001/05/13(日) 23:22
畠山が元禄期に加増されて高家になった、と>>130にあるけど、
何でそうなったの? 忠臣蔵の関係?

あと今更の質問だけど、「交代寄合」って何?
知らないのでスマソ。
203ちびた:2001/05/13(日) 23:27
>>199,200明治華族制度の洩れは準堂上ともいえる六位蔵人等の廷臣、有位世襲の家司(諸大夫)等、(官位・領分の支配体制において)準諸侯ともいえる高家・交代寄合、199の各社家、幕府朝廷の正式の制度化にはなかったが名族とされるもの(北朝系という理由で)例えば、前出の平島公方家、西山家(義昭弟の末)、後鳥羽天皇末裔の備前の寺家尊龍院家、後醍醐天皇末裔の尾張津島神社社家氷室家等を男爵にしなかった点にある。あと、英国のように準男爵を男爵の下に設けも少し裾野を広げておけばよかった。これにはこれらの直近下位の家(宮廷楽人、地下官人・公家の家司のうち世々5位以上だった家、武家では陪臣・旗本問わず5千石以上の家、寺社家では199前段の社家等の直近下位の家でやはり世々5位以上だった家)及び勲功による者(勲一等旭日相当以上)を充てればよかったと思う。
204>ちびた:2001/05/13(日) 23:36
後醍醐天皇とか後鳥羽天皇,足利義昭弟の子孫って居るんですね。
勉強になります。
有難う御座います。
205ちびた:2001/05/13(日) 23:52
>>202交代寄合とは簡単にいうと万石以下の大名(陪臣でないこと)で広義では旗本であるが、特に由緒の深い家や大名の分家がこれに編入された。高家に近いが概して官職及び血統(例外もあるが)の点ではこれに劣るが、知行権ではなく領分(領主権)を持っていた。また、参勤交代を行い、格式の高い家は屋形号を持ち、道中でも公卿同様駕籠ではなく輿に乗れた。また、監察系統も諸侯や高家同様(無役でも若年寄支配でなく)老中支配であった。江戸城の詰め所も柳または帝鑑の間であった。石高は概して高禄(3千石以上)が多いが岩松のように150石の者もいた。
206日本@名無史さん :2001/05/14(月) 01:59
蒲生氏郷はどうですか?
207日本@名無史さん:2001/05/14(月) 02:44
>>201
関ヶ原の後、百々綱家は土佐山内家に、木造具正(具康)は安芸福島家に家老として迎えられた。昨日の敵は今日の雇い主になったというわけ。
秀信の弟(秀則)はどうしたんだっけかな…。
208日本@名無史さん:2001/05/14(月) 02:58
>>198
この面子はどういう基準で…?
とりあえず俺が知ってるのは毛利秀頼の遺領(信州飯田)を京極高知(婿だっけ?)が継いだことぐらいだ。
伊丹親興ってどういう人だっけ…。伊丹康直は直接関係ないよね?あと、伊丹城主になった池田信輝が恒興に名前を変えたのも関係あるの?
答えるつもりが疑問形ばかりになってしまってスマソ。
209日本@名無史さん:2001/05/14(月) 03:07
>>206
氏郷の死後、蒲生氏は取りつぶされて、関ヶ原後大名家(確か会津だったような・・・)として復活するが、その後又取りつぶされて、又福島県内の小藩として再度復活。
210日本@名無史さん:2001/05/14(月) 04:34
摂津の伊丹氏やら荒木氏、池田氏って同族じゃなかった?
摂津の池田と信長の配下にいた池田って
つながりがあるのかな?
211日本@名無史さん:2001/05/14(月) 20:35
>>206.209

蒲生家は氏郷死後、秀行、忠郷と宇都宮・会津と転々としますが、無嗣改易。
しかしながら、将軍家と姻戚関係にあった蒲生氏は、
忠郷の弟、忠知が伊予松山に入りますが、これも無嗣断絶。
蒲生氏はここに潰えました。
関ヶ原の蒲生郷舎は名字だけもらった元家臣です。
212日本@名無史さん:2001/05/14(月) 20:38
>>208
伊丹康直の父親は雅興。興の字がもしかしたらってかんじですね。
213208:2001/05/15(火) 01:29
>>212
康直は子供のころ落城して、乳母に連れられ駿河まで来て今川義元の家臣になったと聞いたことがあるけど、そのときに城を乗っ取ったのが親興なのかな?
>>211
俺いつも蒲生郷舎と蒲生真令(備中)を混同しちゃうんだけど、関ヶ原で織田有楽斎に討たれたのが蒲生備中で、郷舎は生き残ったんだよね?
214日本@名無史さん:2001/05/15(火) 01:43
松江の堀尾家は改易の後どうなったのでしょう?
215日本@名無史さん:2001/05/15(火) 17:14
>131
その六角家は戦国大名の六角とは直接関係ない。
公家出身の六角氏。
216131:2001/05/15(火) 17:34
>215
これは田中の主家の六角氏のことかな?ともかく多謝。
217日本@名無史さん:2001/05/15(火) 19:26
豊臣大名で宮部継潤・神子田正治・前野長泰?・平塚為広などが知りたいです。
218日本@名無史さん:2001/05/15(火) 20:12
>>183
宗城の祖父山口直清は宇和島藩主の実子
>>189
義氏の娘って秀吉の側室だったの?
秀吉が最後の古河公方義氏の娘・氏姫に小弓公方義明(義氏祖父の弟)
の孫を入婿させたんじゃなかった
始めは国朝、国朝が子を成す前に死んで、弟の頼氏が再入婿
それで頼氏の四代後に義氏の弟宮原晴直の五代孫が後継

水戸家出身縄氏の後を継いだのも宮原摂津守の子供
219日本@名無史さん:2001/05/15(火) 21:07
蒲生は氏郷の家は完璧に断絶したけど
氏郷の弟の家系(蒲生姓に非ず)は残ってたような
220ちびた:2001/05/15(火) 23:28
蒲生は高家・交代寄合としても残らず残念でしたね。一般の旗本にはいたような気がしましたが?>>215の通り>>131の六角は佐々木(宇多)源氏ではない。園伯爵支流の藤原氏、堂上家ではあるが30石の貧乏公家それでも明治に子爵。
221日本@名無史さん:2001/05/16(水) 00:29
管領細川氏はどうなったんでしょうか?
細川氏綱が最後の管領ってことは知ってるんですが、京兆家の流れを汲む
昭元や頼範をご存じありませんか?
222日本@名無史さん:2001/05/16(水) 11:34
宇喜多氏って八丈島に流されてその後どうなったか知ってる?
223日本@名無史さん:2001/05/16(水) 11:56
日本てどうして本家が滅亡しても傍流が後々まで残ってそれなりの地位でいられるのでしょうか?
よその国もそうなんでしょうか?なんかヨソの国だと、七代まで親族皆殺しというイメージがあるのだが。
224日本@名無史さん:2001/05/16(水) 12:22
>>222
http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/Rekishi/DramaticBlood/contents/ukita.html
 八丈島は江戸期を通して、約1800人余の流人が送り込まれたが、秀家一族は「宇喜多一類」「宇喜多流人」等と呼ばれ他の流人とは別格に扱われていた。そんなことで長男・孫九郎は代官奥山縫殿助の娘を娶った。
 孫九郎、小平次ともに二人の子供をもうけた、彼らの子孫は島の人々の中に溶け込み、島の娘と結婚して多くの家系を作る。秀家の妻の実家・前田家からは、明治に至るまで毎年白米70俵、金子、衣類、薬品、雑具など、多量の物資が八丈島の宇喜多家に届けられてはいたが、生活は決して楽ではなかったようだ。
 明治3年、新政府の恩赦により赦免され東京に入った。秀家が流罪になってから、実に260年以上たっている。この後一族は、士族に加えられ明治天皇より板橋に約20000坪の宅地を賜わっている。
225名無しさん:2001/05/16(水) 12:58
>>223
よその国って、それは中国だけだろ?
226名無しさん@1周年:2001/05/16(水) 13:17
>>225朝鮮もです。政争で負けた一派は、主要人物は八つ裂きにされ、家族は乳児にいたるまで、使用人もろとも長い棒に縄で首をくくられ、合図にあわせて棒を持ち上げる。これを断種断族の刑という。
北朝鮮では今でも粛清された幹部の家族・親戚は収容所にぶち込まれ、獄死させられる。
227世界@名無史さん:2001/05/16(水) 13:35
>226
朝鮮は小中華。中国の制度を取り入れていて当たり前。
228日本@名無史さん:2001/05/16(水) 16:58
>>中華の原則にのっとり、政敵一門を処断したのが幕末の水戸藩。
天狗・諸生とも、相手の頭目を抹殺した後、3歳の幼児まで三日晒しのうえ打ち首にしたり、1000石取りの上士のお嬢様を市中引回しのうえ磔にしている。
朱子学の連中が狂うと怖い。
229日本@名無史さん:2001/05/16(水) 19:36
>>225 そうだな。皇帝家で現在でも存続してるのは愛新覚羅家だけだもんな。
それ以外では明の朱家すら残ってない。あ、チンギス・カンの一族は残ってるか。
漢民族の皇室は全然残ってない。存続してるのは政治にあまり関係の無い孔家が
目立つ程度。
230日本@名無史さん:2001/05/16(水) 19:39
足利氏関連で、小弓公方、篠川御所、稲村御所なんかも教えて!
231日本@名無史さん:2001/05/16(水) 19:55
>>228

朱子学の連中が正義を行うと...、ではないですか。
232日本@名無史さん:2001/05/16(水) 23:28
平塚為広って関ヶ原で戦死してる。家系はわかりません・・・。
233日本@名無史さん:2001/05/16(水) 23:50
雑賀の鈴木家ってどうなったの?
現代の鈴木姓の人って子孫なの?
234日本@名無史さん:2001/05/16(水) 23:52
>>224
そういや板橋に加賀中学ってあったけど、その周辺に宇喜多さんって住んでるって噂聞いたけど関係あるの?
235日本@名無史さん:2001/05/16(水) 23:53
>>223
日本の場合、同じ一門が二つに割れて相争うのが殆どでしょ。
自家保全のために二つに分かれることもあれば、一族の総領の
地位を巡って骨肉相食むことになることもあると…
どっちが勝っても負けても家名は残ったわけだね。
236のーやん:2001/05/17(木) 01:48
欧米も生き残っている家系もあります。
サン・シモンはカール大帝の末裔。
トム・ハンクスはリンカーンの御子孫様。
アメリカの歴代大統領の数名はイギリス王家に連なります。
あまり関係ないけれど。
237日本@名無史さん:2001/05/17(木) 10:31
あんまり書いちゃいけないのだろうけど、根絶やしにする場合、武士であっても処刑は穢多・非人に手をかけさせる。秀頼の遺児は鴨川で非人に首を打たれた。明治初年に天狗の生き残りが水戸に戻って諸生党に報復をした時に磔にしたのも同じこと。
238日本@名無史さん:2001/05/17(木) 11:37
リンカーンの子孫って、なーんも価値なんか無いと思われ。
239日本@名無史さん:2001/05/17(木) 12:21
話を元に戻してくれ!
大名のその後を知りたいの!
別スレたててやって欲しい。
240日本@名無史さん:2001/05/17(木) 12:24
斯波家の流れをくむ最上が残ってるから、斯波の血統が途絶えたわけではないのかな?
もちろん、家は残ってないみたいだけど・・・。
三管領四職家のうち、斯波だけがないのかな?
一色は?
241ハールーン・アッラシード:2001/05/17(木) 12:42
>>240
高家として存続。
242ハールーン・アッラシード:2001/05/17(木) 12:43
>>240
細川の場合、大名として残ったのは、分家(和泉守護家)。
本家(京兆家)は、知らない。
243日本@名無史さん:2001/05/17(木) 13:14
>>233

雑賀の鈴木家はほとんどが行方知れず。
鈴木重朝が水戸徳川家に仕えたことが知られているぐらい。
244ハールーン・アッラシード:2001/05/17(木) 14:39
雑賀孫一は、大阪の陣で戦死。
245名無しさん:2001/05/17(木) 14:40
あげ
246日本@名無史さん:2001/05/17(木) 15:13
うーん、やっぱり日本人てなんだかんだ言っても名家好きなんだなあ。
247日本@名無史さん:2001/05/17(木) 15:15
一説によると世界一名家好きらしい。
248日本@名無史さん:2001/05/17(木) 15:24
李王家や琉球王家はどうなったんでしょう?
一応、名家好きの日本人は殺しはしなかったようですが。
249日本@名無史さん:2001/05/17(木) 15:29
尚侯爵家は今でも東京に残ってるよ。
60歳くらいになるお嬢さんがこの前まで沖縄県の
重い役職に招かれてたんじゃないかな。
井伊伯爵家に嫁いだお姫様はもう80歳くらいだと思うけど、
今もご健在で彦根の博物館を守っておられる。
250日本@名無史さん:2001/05/17(木) 15:39
李王家は一時、日本にいたけど戦後韓国に
戻ったというようなことを前テレビでやってた。
251日本@名無史さん:2001/05/17(木) 15:45
尚氏は沖縄板をみると県民に嫌われているらしい。
基地問題がらみで借地料を貪っているのが好かんらしいね。
252名無しさん:2001/05/17(木) 17:08
>>250
李王家に嫁いだ梨本宮方子女王は、十年程前にソウルの王宮で亡くなりました。
その後、王宮は、博物館として一般に開放されています。
また、現在の李王家の当主は、日本に在住ですが、カナダ人女性と結婚しているらしいです。
253(*゚Д゚)さん:2001/05/17(木) 18:00
>>249
尚弘子氏のことかな?
以前は副知事をなさっていたとか。
254日本@名無史さん:2001/05/17(木) 19:48
雑賀孫一について昔こんな話を聞きました。
秀吉によって紀州征伐を受けた後、彼は九州は肥後国に移っていたそうです。
その後の九州征伐、さらに肥後一揆などに反秀吉方として奮戦したそうです。
その後、縁あって入国してきた加藤清正の配下になって朝鮮出兵に同道します。
当時の朝鮮は鉄砲が伝播しておらず、苦戦を続けました。朝鮮側は使い手を敵方である日本から密かに募集します。
厭戦気分も漂い始めた戦線からの離脱者はかなりの数に上ったそうです。
その中に孫一の姿もありました。朝鮮の役にあって蹂躙される姿を自らの故郷を失った姿と重ねたのかも知れません。
その後、慶長の役のさい、ウルサン城の攻防でかつての主である清正が苦戦していたその時、孫一が使者を送ったのか、
翌日に総攻撃をかける旨を伝えたのです。清正は彼の寝返りを責めることなくありがたくその情報を頂戴しました。
清正の奮戦は別の項に譲るとして、孫一はその後朝鮮において重きを置かれたそうです。
彼の使ったとされる鉄砲が韓国に残っているし、彼の末裔もまだ健在です。
韓国名はサヤカという(漢字を忘れた!)そうです。
戦時中は韓国人でもなく、また日本からは売国奴・非国民として扱われたそうです。
255日本@名無史さん:2001/05/17(木) 20:23
>254

むかしNHKでやってたよね。
256日本@名無史さん:2001/05/18(金) 00:44
>>254
これって当時は結構感動しましたよ。
257日本@名無史さん:2001/05/18(金) 01:44
さいが=さやか
か?
258日本@名無史さん:2001/05/18(金) 02:47
沙也加=(韓国語)サイェゴ=才五/歳五。
259日本@名無史さん:2001/05/18(金) 02:49
降倭のスレ、建ててもいいですか?
260日本@名無史さん:2001/05/18(金) 09:40
話がずれてきたぞ。
261日本@名無史さん:2001/05/18(金) 11:38
>>252
>現在の李王家の当主は、日本に在住

やはり、日本は王家の住み良い国なのでしょうか?
タイ王家も万が一のことがあれば日本に来るでしょうね。
262日本@名無史さん:2001/05/19(土) 01:18
元に戻します。
姉小路や三木はどうなったんでしょうか?
公家として京都に一族がいそうですが?
263バロン曽志崎:2001/05/19(土) 01:22
国司姉小路が断絶したのをいいことに姉小路氏を僭称したのが三木氏。
三木(姉小路)自綱の末子が徳川家に使えて旗本になった事になっている。
264日本@名無史さん:2001/05/19(土) 01:39
カメハメハ王家も皇室と婚姻関係結んでおけば途絶えなかったのにねえ
265日本@名無史さん:2001/05/19(土) 03:04
>>229
明の皇室の子孫は、安徽省の鳳陽だけでも数万人残ってるよ。
清の康煕24年(1685)に「朱」姓に戻すように命じられたんだって。


266非公開@個人情報保護のため:2001/05/19(土) 07:02
>>229 孔家って孔子の子孫?そうなら実質的に日本の皇室より古い家系だな。
267日本@名無史さん:2001/05/19(土) 08:53
>>266

天照大神からつづく皇室のほうが古いに決まっているだろ。
268満州@名無史さん:2001/05/19(土) 11:35
>>265
愛新覚羅家はどう?京都大学に愛新覚羅ウルヒチュンて人いるけれど。
269日本@名無史さん:2001/05/19(土) 11:36
>>267 天照大神の即位(?)年は何時?
270日本@名無史さん:2001/05/19(土) 12:04
三木氏の奥方が上高地付近を通って逃亡する途中、地元民たちに強姦されて気狂いになり、のたれ死んだら祟りがあった。こういう伝説が長野県の島々地区に残っています。
271日本@名無史さん:2001/05/19(土) 12:55
>>268
清の乾隆帝の末っ子の末裔だよ。
ミャンマーのスーチーさんそっくりだよね。
272日本@名無史さん:2001/05/19(土) 12:58
「逆説の日本史」の作者、井沢元彦氏は陸奥の豪族、大崎義隆の
末裔なんだって。「日本史再検討3」で書いてた。
273名無しさん:2001/05/19(土) 16:22
>>266-269
エチオピア王家には、かなわないね。
274日本@名無史さん:2001/05/19(土) 23:35
大崎って秀吉によって取りつぶされたんでよね?
秀吉の取りつぶしの仕方って一族を残すやり方なの?
それとも秀次にしたように完全消滅を図るものなのかな?
どっちが一般的なのかな。
275日本@名無史さん:2001/05/20(日) 00:27
>>274
残すやり方なんじゃないの。
北条家とか残ったし。
276日本@名無史さん:2001/05/20(日) 00:42
>>268
香港の歌手「アイ・ジン」も愛新覚羅氏の出身。

277のーやん:2001/05/20(日) 02:47
北海道には案外OOの子孫というのがいるらしい。

 下山氏・安東氏の傍系が松前藩士になり、教育・文化の面で活躍。

 伊達支藩(厳密には家中という)のうち亘理藩・白石藩がそれぞれ現在の伊達市・札幌市白石区に入植。
 その他仙台藩から当別町・栗山町へも入植している。亘理藩主の御子孫様は現在19・20歳の大学生。

 予州河野家の一族の1人が現在の函館に移住し、その河野氏の館から「箱館」と改名される。上磯町
 七重浜から見ると館が箱の形になっていてため。明治時代に「函館」に改名。
 上記の河野氏はアイヌ民族の襲撃により滅亡。松前氏の家臣となる。

 松前氏は、若狭の武田一族1人武田信広が蝦夷地に移住。アイヌ民族との戦いに勝ち、同地の蛎崎氏
 の娘を娶り蛎崎氏と名乗る。その後松前氏に改名。幕末榎本武揚率いる「蝦夷共和国」軍と交戦し、
 敗れて津軽へ逃亡。明治に子爵となる。

というのがいま調べてわかったことです。入植地は数多くあるからまだまだいるはず。 
278足利@名無史さん:2001/05/20(日) 09:37
足利氏関連だけど、会津藩士に足利義昭の子孫がいたとか。
http://www.ksky.ne.jp/~atrbdg/siseki/asikagashougunkekeizu.htm
279大友豊後守義統:2001/05/20(日) 19:17
大友氏はわしの代で滅んだと思っている人が多いと思うけど、実は徳川時代にも嫡子の
義乗が旗本として存続しています。
280バロン曽志崎:2001/05/20(日) 21:31
>>279
義乗の子、義政・義親兄弟が早世したので嫡流は断絶している。
義統の弟・松野正照の3男・義孝が再興を許されて旗本大友家を復興させてはいる。
281日本@名無史さん:2001/05/20(日) 22:16
上杉家の家臣、上条政繁って畠山の一族って聞いたんだけど、その後はどうなったのかな?
畠山に戻ってるのかな?
282日本@名無史さん:2001/05/20(日) 22:32
>>273
シバの女王の子孫の?
天照大御神の子孫といい勝負でしょ。
283名無しさん:2001/05/21(月) 12:34
ソロモンの子孫でもある。
284名無しさん@そうだ選挙にいこう:2001/05/21(月) 15:08
>>209
蒲生家が会津120万石に転封されたのは氏郷の死後ではありません。
氏郷が伊勢松阪から奥州にまで転封されたのは、伊達をはじめとす
奥羽列強への抑えであったわけですが、氏郷がその剛勇を信長に愛
され娘をも与えられた「特別な格」の武将であったことから、辺境
へ追われたという見方もできます。
氏郷は、会津で大封を与えられたと聞いたとき、喜ぶどころか「我
こと終れり」と嘆いたそうです。
氏郷亡き後、後事を託された筈の秀吉は簡単に蒲生家を見捨て、代
わりに上杉氏(越後90万石)を会津に入れました。

285日本@名無史さん:2001/05/21(月) 15:29
>>284

あのさ、>>209さんは、秀行(蒲生家)以降のこと
言ってるんだと思うんだけど?

それとさ、誰でも知ってるようなことを垂れ流すなよぅ〜
君は最近知ったんだろうけど。
頑張って勉強してね。
高校受験はまだ?
286日本@名無史さん:2001/05/21(月) 18:16
足利直冬関連の情報です。
直冬には孫がいたらしく、冬氏と言いました。嘉吉の乱の時、赤松満佑に迎えられ、足利義尊と改名しました。
その後、幕府による追悼を受けるまでの間、御教書を発行し、諸大名の室町政権への反旗を期待しました。
しかしながら、呼応するものなく、さらに赤松氏が、敗北・壊滅してしまったことで、彼は逃亡します。
その後、畠山持国のところに行きますが、殺されたと言うことです。
その後の直冬系はどうなったのかは知りません。
287日本@名無史さん:2001/05/21(月) 18:25
>>285
あんたひどいな。
一般の歴史ファンをこの板から遠ざけているのはおまえ
のようなやつだよ。
誰もいない国の皇帝になってそんなにうれしいのか?
288日本@名無史さん:2001/05/22(火) 01:58
>>287
同感。
せっかく新しい知識を得てるんだからそれでいいじゃない?
歴史を骨の髄まで好きな人を基準に考えてる人ばかりじゃないんだから。
289日本@名無史さん:2001/05/22(火) 02:05
>>285は口悪いが、俺は同意しておく
>>284>>209の書き込みを読みきれてないからねぇ
罵倒されるのも成長の栄養だよ。

290日本@名無史さん:2001/05/22(火) 02:06
島原の乱で斬罪となった松倉氏は勝家の弟、重利が承応年間に恩赦により赦免。
一女は館林の徳川綱吉付きとなり、その娘鶴姫に仕える。
さらに初代重政の弟、重次の一女が綱吉家臣の小幡氏と結ばれ、その次男を養子とし、
松倉重勝となった。元禄年間に綱吉付きの小姓として旗本になりました。
291ちびた:2001/05/22(火) 14:10
>>290 昔、知り合いの女の子で六本木にある新教系のT女学院の高校にいってる松倉ってコがいたけど(父が牧師)もしかしたらその系統で先祖の贖罪してるってことなのかなぁ?
292日本@名無史さん:2001/05/23(水) 20:51
三好三人衆ってどうなったの?
293日本@名無史さん:2001/05/23(水) 23:56
>>221
>>管領細川氏はどうなったんでしょうか?

三春藩士になりました
294日本@名無史さん:2001/05/24(木) 00:54
>>293
詳細希望します
295名無しさん:2001/05/24(木) 12:42
室町幕府の三管領四職の中で、子孫がまったく残っていないのは、斯波と一色。
296日本@名無史さん:2001/05/24(木) 12:56
>295

一色さえは一色家の嫡流
297日本@名無史さん:2001/05/24(木) 13:41
>>296
つまんねーこと書くなよーーーー。
298名無しさん:2001/05/24(木) 14:52
>>297
これしか能がない奴に、そんなこといったら可哀想だよ!
299日本@名無史さん:2001/05/24(木) 17:03
斯波と司馬って同義?
300名無しさん脚:2001/05/24(木) 17:35
>>299
くそして寝ナ
301日本@名無史さん:2001/05/24(木) 17:44
>>299
司馬遼太郎は「司馬遷に遼(あやか)る」というごーまんな理由で
PNにしたいやな人。
302日本@名無史さん:2001/05/24(木) 21:01
一色って残っていないんですか?
崇伝が幕府に属してるくらいだからいそうな感じですが。
303日本@名無史さん:2001/05/24(木) 21:27
>>295
奥州探題の斯波氏は本拠地の大崎を名乗り、一時陸奥の大半を勢力下に置いたが、
伊達、芦名、最上などに圧迫されて衰退し、伊達氏に仕えた。
304名無しさん:2001/05/24(木) 22:20
>>302
崇伝がいましたね。

>>303
大崎家は、分家なので除外していました。
斯波家は、足利泰氏の庶長子(今の大河の桔梗の子)の家氏を初代とし、その曾孫の高経(新田義貞を倒した人物)が足利尊氏に仕えて越前や尾張の守護になります。
そして、その高経の弟の家兼が室町幕府の奥州探題となります。
その後、奥州探題から羽州探題が分離し、家兼の長男の直持の子孫が奥州探題大崎家に、次男の兼頼の子孫が羽州探題最上家になります。
大崎家は、義隆が秀吉の小田原攻めに参陣せずに改易となり、子孫は伊達家に拾われてその客将となりました。
最上家は、義光(よしあき)の代に戦国大名化することに成功し、関ヶ原の戦いののちまで存続しましたが、義俊の代にお家騒動を起こして改易となり、子孫は高家・交代寄合として存続しました。

大崎家系図
直持−詮持−満詮−満持−持詮−教兼−政兼−義兼−義直−義隆

最上家系図
兼頼−直家−満直−満氏−義秋−満氏−義淳−義定−義守−義光−家親−義俊
305名無しさん:2001/05/24(木) 22:41
>>304訂正
大崎家系図
直持−詮持−満詮−満持−持詮−教兼−政兼−義兼−義直−義隆

最上家系図
兼頼−直家−満直−満家−義秋−満氏−義淳−義定−義守−義光−家親−義俊
306303:2001/05/24(木) 23:17
>>304
かんさはむにだ〜。
307名無しさん:2001/05/25(金) 13:21
kam-sa-ham-ni-da.
308日本@名無史さん:2001/05/25(金) 18:30
崇伝は坊さんだから子供いないかも知れませんね。
そうなるとまったく伝わっていないのは一色だけになるのかな?
伊勢・三河・若狭あたりにいそうな気がしますね。
309日本@名無史さん:2001/05/25(金) 18:57
>>295
水戸の家中に一色という家があります。水戸の上士はけっこう名家の末裔が多いです。
たぶん、若狭守護の一族でしょう。
ただ、幕末に天狗ー諸生で陰惨な内訌をやっているので、絶家した家もあります。
310日本@名無史さん:2001/05/25(金) 19:00
一色を名乗る人物には2人会ったことあるなあ。まあ一人は
脚本家だから本名かどうかわからないけど。
一色なんて名前、わざわざ明治に姓のない人間が名乗るとは
考えにくいし、それなりに子孫はいるんじゃない?
311日本@名無史さん:2001/05/25(金) 21:05
>>310
明治時代のそうした流れは分からないですが、妙に説得力がありそうですね。
一色か・・・。確かにそうですね。
312303:2001/05/25(金) 21:11
しるれはむにだ〜。
313日本@名無史さん:2001/05/25(金) 23:02
宗尊親王や懐良親王はどうなの?
314日本@名無史さん:2001/05/25(金) 23:50
懐良親王は南朝のために戦ったはずなのに
太宰府を占領したら自ら日本国王と名乗って貿易を始めた。

宗尊親王は天台座主から還俗して信濃を転戦の後、
吉野に戻って「新葉和歌集」を編み、再度信濃に渡った。
315日本@名無史さん:2001/05/26(土) 00:04
安国寺恵瓊の一族というか家臣って知ってる方いますか?
またその後を知りたい。
316世界@名無史さん:2001/05/26(土) 00:07
>>314
宗良親王のことだと思うが。
子供がいたんじゃないかな?ちょっと今手元に資料がないけど。
317名無しさん:2001/05/26(土) 04:28
>>315
安国寺恵瓊は、安芸守護武田氏の出身。
318ヒマ人:2001/05/26(土) 07:01
このスレで結論が出てないのをまとめてみたよ。(順不同)
竹崎季長、田中吉政、堀尾吉晴、増田長盛、長束正家、安国寺恵瓊、織田秀則
毛利勝永、伊丹親興、宮部継潤、神子田正治、千種忠顕、前野長康、前田玄以
長谷川秀一、波多野家、二階堂家。

前野長康のところは息子の景定が秀次事件に連座したために滅亡。(長康本人も切腹)
長康の兄、孫九郎の子孫が尾張前野村で庄屋となり(吉田家)、孫九郎の孫にあたる孫四郎が「武功夜話」を書いたという。
ただし、一族の数人が切支丹だったために後に庄屋役をとりあげられた。
石田三成の家臣となり、関ヶ原で戦死した舞兵庫(前野兵庫)は娘婿。

前田玄以のところは滅亡してたっけ?
319日本@名無史さん:2001/05/26(土) 07:35
前田玄以は2人の息子がいました。長男はキリシタンで廃嫡されて、次男が確か福知山城主だったと思います。
その後発狂してしまい、改易されました。
ただし、どちらかの系統が旗本として残っているはずです。
明治を迎えたのかは不明。
320日本@名無史さん:2001/05/26(土) 07:42
長束正家は関ヶ原のあと、弟ともに水口で切腹。一族不明。
宮部継潤の跡を継いだ長熙(ながひろ)が改易されて盛岡南部家にお預けに。当地で死亡も血統までは不明。
田中吉政は柳川で死去した後、跡を継いだ忠政が改易。廃嫡された長男の家系が旗本であったはず。
長谷川秀一は子供がいなかったような?東郷侍従って言うけど越前のどの辺なのか?
以上、手元に資料がないので記憶で記入。間違いあったらすいませんです・・・。
321日本@名無史さん:2001/05/26(土) 07:47
なんでこんなに記憶してるの?
322日本@名無史さん:2001/05/26(土) 10:56
>>294

細川昭元の娘が秋田実季に嫁いでいまして、その縁で秋田家に世話になりました。
正式に家臣になったのは細川昭元から数えて5代目の忠元からです。50人扶持
でした。幕末では400石です。
なお、分家もありまして、こちらは300石で細川昭元から数えて3代目の義元の次
男から出てます。

細川昭元―元勝―義元―宣元―忠元―孚元・・・・・和元0,
          ―元明―元常―元憲・・・・・
       ―元冬―元貞
323日本@名無史さん:2001/05/26(土) 11:36
二階堂家ですか?須賀川のですよね?
こちらは、二階堂盛義には、蘆名盛隆と二階堂行親と二人の子供がいましたが、
蘆名盛隆は葦名家を継ぎ、行親は天正13年頓死しましたので、最後は二階堂
盛義の後室が女城主となりました。伊達政宗に攻められたあとは佐竹氏の世話
になりました。
 それ以前、蘆名盛隆の次女を養女としていましたが、佐竹義宣に嫁ぎ、岩瀬
御前と言われていましたが、のち離縁となり、余生は横手城で過ごしました。
 この岩瀬御前で正当の二階堂家は無くなります。
 その後、比較的血統が近かった箭田野義正・義則の子孫が明和4年頃に佐竹
家に嘆願し、二階堂家と改めています。
 伊達家においては保土原家が準一家となっています。


 参考
  茨城県十王町には二階堂行親には実は弟がいて、佐竹義重の庇護の元に成長し
 長じて、二階堂義賢と名乗った。その後裔と自称している家があります。
  これは眉唾でしょうけど・・・・
324日本@名無史さん:2001/05/26(土) 17:40
age
325バロン曽志崎:2001/05/26(土) 20:32
長谷川秀一長男則英、大坂の陣で戦死。次男瀬兵衛(吉左衛門)。子孫尾張藩士。

長束正家子半左衛門。長束を憚り田中を称す。子孫熊本藩士。後に復姓。
326バロン曽志崎:2001/05/26(土) 20:34
>>325
長谷川秀一長男則秀。ゴメン。
327日本@名無史さん:2001/05/26(土) 22:44
備中高梁の水谷氏はその後どうなったのでしょうか?
一族は?
328日本@名無史さん:2001/05/27(日) 00:17
桶屋の福島正則って、福島正成(北条綱成の父親)
と関係があるって昔、聞いたことあるけど
どうなんの?
329日本@名無史さん:2001/05/27(日) 00:28
村井貞勝の子孫は?
330日本@名無史さん:2001/05/27(日) 00:32
>>328
漢字で書くと同じ字だけど、読み方がちがうよ。
正則は「ふくしま」、正成は「くしま」。
331名無しさん:2001/05/27(日) 16:30
>>329
幕臣にいたような・・・・・?
332日本@名無史さん:2001/05/28(月) 01:00
松井友閑・武井夕庵は?
333日木@名無史さん:2001/05/28(月) 01:33
長谷川秀一の次男、瀬兵衛吉左衛門の子孫が、幕末に水戸家から一橋家
の家来になり、徳川慶喜、茂承らに仕えた。慶応四年の彰義隊に参加した
長谷川正助の子孫が、なんと安達(長谷川)祐実なんだって!
安達祐実の母親が「おしゃれカンケイ」その他でいうてた。

334世界@名無史さん:2001/05/28(月) 02:57
>>113
増田長盛の子孫は、大阪の陣に行かなかったほうの息子が、上野のどっかかの
譜代大名の陪臣になっていたはず。
そのせいで、群馬・埼玉のあたりで「増田」と書いて「ました」と読む家が
残っている。こう読むのは長盛の子孫だけ。

>>127
東郷平八郎の四代目の孫が、海上自衛隊で左官についている。
北欧に親善訪問に行った時「ゼネラルトーゴー」の子孫ということで
艦長よりも厚遇されたそうです。2年ほどまえの産経新聞にのっていましたよ。

>>176
蜂須賀氏は、明治時代に鉄道建設などのに出資をして羽振りが良かったが、
昭和始めの大恐慌で華族銀行といわれた第四銀行の倒産にあい資産の大半を
失い、さらに戦後のどさくさで残っていた土地も巻き上げられてしまいました。
現在は、最後の当主がもうおばあさん一人だけで子孫も無いので
近々に断絶する予定と思われ。
335日本@名無史さん:2001/05/28(月) 03:14
安国寺恵瓊は、安芸武田家が滅びた時点、幼年ですでに入門していたのて子孫無し。
336日本@名無史さん:2001/05/28(月) 03:41
北条家の家臣大道寺繁の子孫は、末子が津軽藩の家老職として奉職。
以後維新まで続く。

鍋島家の子孫は、現在有田焼を一手に扱う商社の社長。

伊予大洲の加藤家も、蜂須賀家と同じ最後の当主が女性で嗣子無し。
現在東京赤坂在住。

筑後久留米の有馬家の子孫有馬頼寧(よりやす)は、戦後JRAの理事長となり、
「中山でもダービーを!」と中山グランプリなるレースを創設。
昭和32年に急逝後、同レースを「有馬記念」と改名した。
その子、頼義(よりちか)は、昭和29年「終身未決囚」で直木賞を受賞。
以後、松本清張とならぶ社会派推理小説の第一人者として活躍。昭和55年没。
337名無しさん:2001/05/28(月) 03:59
鍋島家の現当主の直要は、よく長者番付に載ってるね。
338名無しさん:2001/05/28(月) 04:00
>>336
有馬頼寧は、戦時中に閣僚をやったことで、戦後公職追放になった。
339日本@名無史さん:2001/05/28(月) 04:09
越前松平家の子孫は、現在千代田区二番町にてビル経営。

足守木下家(豊臣秀吉の正室ねねの兄家定の次男・利房が初代)の子孫、
木下利玄は明治時代活躍した白樺派の歌人。
昭和49年にその子・利福が死去し後嗣なし。
日出木下家(家定三男・延俊が初代)については既出。

片桐且元の子孫は、五代目でお家断絶(無嗣に付き改易・収公)
且元に弟・貞隆の子孫は現在も健在。

脇阪安治の子孫は、江戸時代に老中も輩出した家柄に。
現当主は西宮市でビルメンテナンスの会社を経営。
100社以上のビルの清掃・警備をおこなう。
現当主の研之氏は、明治大学在学中学徒動員のため、岡山の陸軍部隊に
召集、二等兵となる。在勤中20歳になった氏に「子爵家相続につき従五位」
を叙爵するとの伝達が宮内省からあったという逸話がある。
なお、当時部隊長(大佐)でも正六位だったため、注目を浴びた。
340日本@名無史さん:2001/05/28(月) 04:15
やはり上手いことやってる元華族が多いんだね。
341日本@名無史さん:2001/05/28(月) 04:16
ちなみに、片桐貞隆(大和小泉1万石・後16400石に)の子・貞昌は
千利休の子・道安から茶道を学び、石州流茶道の開祖となる。
現当主貞光氏は、同流の16代目家元をつとめる。
342日本@名無史さん:2001/05/28(月) 04:51
徳川宗家

15代将軍慶喜は、江戸城引渡し(慶応四年4月11日)の後、水戸に蟄居。
同5月29日に、有栖川宮熾仁親王より六歳の田安亀之助に徳川宗家を
継ぐ沙汰が下される。名を徳川家達と改め、駿河府中70万石の
領主として同地に赴く。巷間では「16代様」と呼ばれる。
明治17年、華族令発令とともに公爵に。
貴族院議長も務め、大正時代の山本権兵衛内閣総辞職後、総理候補
になるが辞退。ワシントン会議の首席全権、日本赤十字社社長を勤める。
昭和15年、78歳にて逝去。

「17代」家正は、外交官として活躍。カナダ、トルコの公使を勤める。
昭和21年に、最後の貴族院議長をとなる。妻は、最後の薩摩藩主
島津忠義の九女。昭和38年没。

「18代」には、会津藩主松平容保の孫・一郎の子恒考(つねなり)が
養子として相続。母は家正の長女・豊子。妻は寺島宗従伯爵長女・幸子。
現在、日本郵船に勤務。

なお、現在でも家康の命日4月17日になると、古式ゆかしい衣冠束帯と
なり、一門・旧幕臣の子孫とともに盛大に法事をおこなっている。
興味がある方は、同日に芝の増上寺と上野寛永寺に行ってみてください。
あと、静岡と日光と上野の東照宮もね。
343日本@名無史さん:2001/05/28(月) 06:19
>>342
恒考→恒孝
だろ
344日本@名無史さん:2001/05/28(月) 10:24
どこの書き写してるのか知らんけど・・・

>>339
>越前松平家の子孫は、

山ほどいるッちゅーの。

345名無しさん:2001/05/28(月) 12:38
>>342-343
恒孝が正しい。
ちなみに、彼は、19代。
18代は、家正の子の家教。
家教に子がないために、その姉妹の家系に継承された。
346名無しさん:2001/05/28(月) 12:40
霞会館(昔の華族会館)発行の資料を見てみな。
旧皇族・旧華族のすべての家の現在の当主までの系図と現住所・電話番号まですべて載ってるよ。
347日本@名無史さん:2001/05/28(月) 21:32
>>346
一般の人(当然華族とも関係ない人)でも閲覧、もしくはコピーなどできるの?
住所はともかく、系図が見たい!
348バロン曽志崎:2001/05/28(月) 22:18
>>347
吉川弘文館から『平成新修旧華族家系大成 上・下巻』として販売されてるから
大きめの図書館に行けばあるかと。
在庫有るかは知らないが、金持ちなら買えば?各5万円。
349日本@名無史さん:2001/05/28(月) 23:50
>>347
大きな図書館ではレファンスできるよ
都立中央とか国会、日比谷など
350日本@名無史さん:2001/05/29(火) 00:06
うちの近くの市立図書館ですらあるよ。
あそこまでよく個人情報を載せていると驚いてしまう。
351日本@名無史さん:2001/05/29(火) 00:13
>>350
以前仕事で歴史上の重要書類の原典が某旧伯爵家にあるというのでその本を使って現当主に連絡付けて撮影させてもらったことがあった。
どうやって連絡先知ったか本人もおどろいてたよ。
352日本@名無史さん:2001/05/29(火) 00:19
本人たちが知らないところで情報が一人歩きしているのだとしたら
ある意味気の毒だね。
353日本@名無史さん:2001/05/29(火) 01:22
石田三成の子孫てどうよ?
概出かな?
354日本@名無史さん:2001/05/29(火) 02:31
>>339
>>越前松平家の子孫は、
>山ほどいるッちゅーの。
17代藩主松平茂昭の直系の子孫です。これでいい?
355日本@名無史さん:2001/05/29(火) 03:04
>>357
津軽藩士にいたよね。たしか家老になってるはず。
最近子孫が本出したよね。
356日本@名無史さん:2001/05/29(火) 08:56
>>355
353の誤りでしょ?
石田重家だったよね?確か。
関ヶ原で完全滅亡ってこうしてみると意外と少ないね。
石田・大谷・長束・増田・前田・宇喜多・・・・
あっ! 小西行長が不明です。情報希望!!
357ちびた:2001/05/29(火) 11:32
>>356これら全て悲しいかな華族にはなってません。博物学的観点からは残念です。あと、前田とは前田玄以のことを大谷とは大谷吉継のことを各々いっているものとしています。加賀前田系は侯爵はじめ数家ありますし、本願寺両大谷は伯爵。ともかく、これらの家も序列(旧幕時代の家格及び新政府等への勲功による)主義の五爵制(家格的に相応ながらこれ=男爵にすら洩れた100弱の家があることも忘れてはなりません)のもとでは上記の家は男爵になれようはずもないのですが、せめてその下に準男爵を設けてこの序列主義の臨界点(5千石以上の武家とか、その他朝廷・社家・寺家それぞれの序列で男爵の条件直近下位)の家とか序列主義ではエントリーできない家(上記のように昔のいわばヒーローの裔で零落してしまった家、楽人、能・狂言等特殊とされる家)をこれに加えて将来に残せばよかったのにと思います。
358ちびた:2001/05/29(火) 14:07
>>339その松平家だったのか(驚愕!!!!)知らなかった!まさに燈台下暗しそのまんま!実は、塾高の同期生(知り合いじゃない)に松平照康ってのがいて卒業者名簿の住所が二番町だった。そいつ(そのかたか?)はバブル絶頂期なのに就職もせず留学した。
359日本@名無史さん:2001/05/29(火) 14:11
>>358
実名はやばいっすよ。
360ちびた:2001/05/29(火) 14:12
ま、僕も就職しないで資格浪人して公認会計士になったんだけどね。いざ、独立してみると、最悪!!宮仕えのほうが僕の血にしみついてるみたい!
361ちびた:2001/05/29(火) 14:13
>>359すいません。
362名無しさん:2001/05/29(火) 15:12
>>358
あなたの出身大学は、K大学ですか?
363日本@名無史さん:2001/05/29(火) 18:53
松平某って結構多いような気がしますね。
ところで・・・
安倍貞任などの奥州の安倍一族ってどうなったの?
故安倍晋太郎代議士って関係あるって聞いたんだけど。
他の人はどうなったんだろう?
364日本@名無史さん:2001/05/29(火) 20:45
加藤義明・蜂須賀小六・・・乱世を乗り切り太平に絶家、悲しいな
>>339
これまた七本槍の子孫なのに二等兵
365日本@名無史さん:2001/05/29(火) 21:04
>>356

コニタンスレッドはどこだぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜?

そもそも誰も知らないかも・・・<コニタンスレッド
  
366日本@名無史さん:2001/05/29(火) 21:19
>>232
亀レスですが・・・

平塚為広、直系はわかりませんが為広実弟の
平塚善保の息子、清左衛門高政が
越前松平3代目の忠昌に取りたてられています。

>>110
その家系かどうかはわかりませんが、
大谷吉継の息子・治部卿泰重の、
さらに子供・助六重政という浪人が、
やはり越前松平忠昌に取りたてられています。

・・・・・・・・・越前家にて夢のコンビが!!!!!
どうりで越前家が幕府に虐められるわけだ(失笑)
367日本@名無史さん:2001/05/29(火) 21:27
越前家は「名士の子孫集め」が大好きだったようで、、、
少なくとも皆様おなじみの名前としては

山県昌景
安藤守就
真田昌輝(昌幸兄)
加藤清正(のいとこ系)
長野業正
蘆田信蕃
大道寺政繁

の一族が仕官・召し出しされてます。
続いたかどうかは未確認ですが、真田家は福井県に現存してるはず。
368日本@名無史さん:2001/05/29(火) 22:40
告知

荒らし防止のため、これからは以下の規制をこの板全体にかけたいと思います。
つきましては、ご異議のある方は取り急ぎ、「日本史版 風紀委員会」まで
ご意見をお聞かせください。

 <規制案>
proxy規制、ID表示、連続投稿禁止規制、連続スレッド立ち上げ禁止規制
<規制の趣旨>
アラシ行為の撲滅(スレ立てアラシ、スレ上げアラシなどの予防措置)
<異議の受付>
五月三十一日まで・風紀委員会へどうぞ
<規制の実施時期>
管理人に依頼し、できるかぎり早期の実施を予定。

日本史版 風紀委員会
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=990956059


369日本@名無史さん:2001/05/29(火) 23:23
阿蘇氏はどうなった?
370名無しにゃーん:2001/05/30(水) 01:07
>>369
新刊だっけ?
371日本@名無史さん:2001/05/30(水) 05:07
>>369
いまだに阿蘇神社の神主しているよ。もっとも直系じゃないかもしれんが。
以前、新聞に紹介されていたときの苗字が「阿蘇」だった。
372日本@名無史さん:2001/05/30(水) 08:39
>>364
>>339
俺の家は曽祖父の代まで播州龍野・脇坂家の家臣だった。
大恩ある脇坂(ワキザカ)の殿様をバカにするな!!
脇阪じゃない脇坂だ。
二等兵をバカにするな!!あの頃は皆、そんなもんだ。
むりやり軍隊に入隊させられただけなんだから。
拒めば「非国民」扱いされて、ヘタをすれば憲兵に暴行を受けリンチ殺人だ。
血筋が絶えてしまった大名家も多い中、脇坂の殿様はお家安泰・商売繁盛で
我々、旧家臣団も安心しているのだ。
373日本@名無史さん:2001/05/30(水) 09:05
赤座吉家(直保)は加賀で死んだあとどうなった?
374日本@名無史さん:2001/05/30(水) 10:14
>>372
あなたが脇坂さん本人なら面白かったのに・・・

というか、わたしはむしろ微笑ましく思ってます。
二等兵しかし貴族で位が高い。
直臣、ということですからね。

さぞや部隊長等、扱いに困ったことでしょう(ワラ

「脇坂二等兵殿、こちらへおいでくださいませ。
 誠にスイマセンが罰です。駆け足50周でございます。」

375日本@名無史さん:2001/05/30(水) 10:17
>>374
日本陸軍はそんな甘ちょろいとこじゃないよ。
俗世間の地位は関係ないんだからね。
「脇坂二等兵、歯をくいしばれい!」→鉄拳!
だったことでしょう。
376日本@名無史さん:2001/05/30(水) 10:20
>>373
同様に朽木・小川の裏切り大名も求む
377日本@名無史さん:2001/05/30(水) 10:35
>>372
その現脇坂家ご当主は、剣道七段の猛者でございます。
「槍の甚内」の名を辱めない、武道の達人でございます。
378日本@名無史さん:2001/05/30(水) 12:22
脇坂家、さすがですね・・・
武門の名に恥じないです。
379日本@名無史さん:2001/05/30(水) 13:02
わが先祖の主君古河藩土井家は、昭和初期に当主が映画に狂って破産。
息子は苦学して工業高校を卒業後、整備士として日本航空に入社。
コツコツと努力して取締役整備本部長になった時、123便墜落事故。
どうもついていません。分家の大野土井家の方が栄えています。
380日本@名無史さん:2001/05/30(水) 14:27
>>364
些末なツッコミだけど。
>>336にある加藤家は伊予大洲藩だから
加藤嘉明の系統じゃなくて加藤光泰の系統じゃないかと。
大洲藩には支藩があったからそっちが続いてるかもね。
加藤嘉明の家は近江水口藩だっけ?
381名無しさん:2001/05/30(水) 17:48
>>376
朽木は、明治維新まで大名として存続。
維新後、子爵。
382バロン曽志崎:2001/05/30(水) 19:34
>>373
子の加賀守孝治が家督を継いで加賀前田家に仕えた。
幕命により永原氏を称し、子孫は加賀藩中級藩士人持組に数えられる。
383364:2001/05/30(水) 20:23
>>372
いや、馬鹿にしてるんじゃなくて、
七本槍→諸侯として残った脇坂家の子孫が維新から数十年しか
経ってないというのに二等兵として徴兵されたのが悲しいな、とね

「これまた」で加藤・蜂須賀の「悲しいな」にカケたつもりだったんですが
384339:2001/05/30(水) 20:39
>>383
徴兵されたときは、子爵家の跡取といえども無位無官だから一兵卒
という原則論にのっとっているのでしかたがないと思われ。
二十歳になって叙爵してからだったら、士官学校に逝っていたと思われ。

ところで、この現脇坂家のご当主、戦中その剣道の腕を買われて
「義烈空挺隊」の隊員として選抜せれ、まもなく沖縄に突入!
というときにメンバーから外されて、一命を取りとめました。
隊員は全員戦死しているので、子爵家を継いでいなかったら
ほんとうに逝ってしまっていたと思われ。
385日本@名無史さん:2001/05/30(水) 20:57
歴史というか、血筋がこの若者を救ったということですか?
歴史のなせる技というかなんというか。
複雑です。
386バロン曽志崎:2001/05/30(水) 21:23
>>382
ゴメン、土佐守孝治ね。さすがに加賀守はまずいもんね。
387372:2001/05/30(水) 22:05
>>374
>>375
愚劣なる諸君らには何を言っても無駄だろうな。
脇坂の殿様は2chなど見ない。
大体、ご老体だ。
ただし、他の方の発言にもあるように武門の誉れ高い脇坂家ご当主
に相応しいお方である。
剣の腕も確かだが人を見る目も確かなお方だぞ。
会社経営者として世間の荒波に揉まれていらっしゃるからな。
388日本@名無史さん:2001/05/30(水) 22:09
旧家臣は社会のゴミである2チャンネラーなんだ。
389日本@名無史さん:2001/05/30(水) 22:19
武門の誉れって・・・・。脇坂って出来星大名じゃなかった?
七本槍かなんかの一人だっけ?その一事だけを持って武門の誉れ高い
○○家、ってのもなあ。
390日本@名無史さん:2001/05/30(水) 23:47
>>382
永原って幕末に水戸天狗党と折衝にあたった人物だっけ?
391日本@名無史さん:2001/05/31(木) 00:53
幕臣の久世家はどうなったの?
392372:2001/05/31(木) 06:25
>>389
脇坂安治公は、七本槍の一人として有名だがそれ以外にも活躍している。
明智光秀の丹波攻略戦に従い、「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正を討ち取っている。
単身、赤井家の居城の黒井城に乗り込み降伏を勧める。
赤井直正はその度胸に感心し、「降伏はせん。が、貴殿の度胸には感心した。よって
赤井家の家宝を与えよう。ただし、この家宝は2つで対になっている。うち1つをやる。
1つは俺が持っているから戦場で俺を討ち取って奪ってみよ。」と言い家宝の1つを与え帰した。
後日、戦となり安治公は見事、赤井直正を討ち取り残りの家宝の1つを得た。
朝鮮出兵の際は、淡路水軍(旧安宅水軍)を率いて水軍の将として活躍した。
同じ近江出身の他の秀吉子飼い大名(石田三成・大谷吉継)などと比べても武闘派と
当時から目されていた。
脇坂公に比べてエピソードのない大名の方が遥かに多いぞ。
そんな大名でも「武門の誉れ」という言葉は平気で使うぞ。

393日本@名無史さん:2001/05/31(木) 07:20
大楠公の子孫はどうなったのですか?
394>393:2001/05/31(木) 08:20
摂津の和田氏など。
でもまあ、自称。
395日本@名無史さん:2001/05/31(木) 10:59
>>393
昨日の「笑っていいとも」に子孫が出てたね。
東野幸司もその1人らしいが?
396日本@名無史さん:2001/05/31(木) 11:09
東野が楠公の末?
まあ、悪党らしいといえばそうだな(w
397名無しさん:2001/05/31(木) 12:48
>>393
楠木家の子孫は、明治政府が必死になって探したけど、確証のある子孫は見つからなかったらしい。
便乗して自分が子孫だと名乗り出た人は、たくさんいたらしいけど。
398日本@名無史さん:2001/05/31(木) 13:00
甲斐庄氏とかって旗本が楠木の子孫じゃなかった?
399日本@名無史さん:2001/05/31(木) 18:58
楠一族で最後に確認された人って織豊期の楠正虎かな??
400日本@名無史さん :2001/05/31(木) 23:50
>>399
楠正虎も自称に過ぎず、ニセモノの確度が高いと聞いたことがあるよ。
織田信長の北伊勢平定戦の際に、楠一族の嫡流が北伊勢の弱小勢力としており
滅ぼされたと思うけど。
ただし、一族根絶やしではなく降伏して追放されたはず。
401日本@名無史さん:2001/06/01(金) 00:29
南朝の勢力ってやっぱり残ってるのって少ないね・・・・
北朝も意外と少ないが。
402日本@名無史さん:2001/06/01(金) 03:51
大名の池田家も楠木落胤の子孫を名乗ってるね
403日本@名無史さん:2001/06/01(金) 08:49
越中の椎名家の情報求む!
404名無しさん:2001/06/01(金) 13:35
>>402
系図上は、美濃源氏かなんかだったような・・・・・
405喜連川左京:2001/06/01(金) 14:21
406喜連川左京:2001/06/01(金) 14:23
ゴメンナサイ。上の書き込み間違いでした。
http://www.tanutanu.net/roots/
こっちです。
407日本@名無史さん:2001/06/02(土) 06:54
池田氏もいくつかの流れがありますね。
408日本@名無史さん:2001/06/02(土) 18:57
朝倉宗滴の流れを知りたいです。
409日本@名無史さん:2001/06/03(日) 01:30
age

410日本@名無史さん:2001/06/04(月) 04:06
あげ
411日本@名無史さん:2001/06/04(月) 09:16
藤原北家の松殿家ってどうなったんでしょうか?
系図で見る限り、近衛と同じ時期に発祥してるみたいなのですが??
412日本@名無史さん:2001/06/04(月) 18:20
幕末の桑名藩に「服部半蔵」という家老がいて、家康に使えて有名な半蔵の子孫らしいです。
長安事件に連座して取り潰しされた(…曖昧な知識)以降の経過をご存知の方いますでしょうか?
なんか大坂の陣で戦死した半蔵もいましたよね…
ちなみに桑名藩の藩粗は松平定信のようです。
413日本@名無史さん:2001/06/04(月) 18:29
大阪の陣で死んだのは半蔵の次男だったような?
名誉回復のためとか口封じとかで死んだとか?
うろ覚え・・・
414日本@名無史さん:2001/06/04(月) 18:35
北畠、畠山とかどうなの?
415名無しさん:2001/06/04(月) 23:29
>>411
松殿家の直系は、2代で断絶。
傍流は残ってるかも。
416名無しさん:2001/06/04(月) 23:34
>>414
ガイシュツだと思うが、一応。
北畠は、戦国末期に織田信長により、滅亡。
但し、信長の次男の信雄が、最期の当主の具教の養子となっている。
信雄の子孫は、天童藩主として明治維新まで存続。
畠山は、家康に拾われて、高家として存続。
417日本@名無史さん:2001/06/04(月) 23:43
>>416
神戸や木造なんて方向に、傍流としては・・・残ってないですか?

木造って一族だったですっけ?
最終的に土佐(山内)藩に行ったような・・・。
418日本@名無史さん:2001/06/05(火) 02:21
>>416
具教の子の具房(長男、次男が長野次郎こと具藤)は生きてたような…。
京へ流れていったはず。
419日本@名無史さん:2001/06/05(火) 02:24
>>417
木造具政は具教の弟。具政の子の具康が織田秀信に仕えた。
関が原後、山内家の家老に。
420日本@名無史さん:2001/06/05(火) 02:30
ほいじゃ、
>>418で具房か長野家
>>419で木造が生き残っているのでは?
高家にはいないの?
421日本@名無史さん:2001/06/05(火) 02:38
>>420
長野具藤は長野家の家臣に追い出された後(代わりに織田から養子に来たのが信包)どっかで戦死した。
422日本@名無史さん:2001/06/05(火) 04:57
滝川雄利が北畠出身じゃなかったっけ?
423名無しさん:2001/06/05(火) 11:41
>>422
関が原で改易。
424バロン曽志崎:2001/06/05(火) 12:02
>>423
その後、旗本。
425日本@名無史さん:2001/06/05(火) 12:24
青森県に木造って地名があるけど、北畠の流れをくむ浪岡氏と関係あるのかな??
426日本@名無史さん:2001/06/05(火) 14:35
北畠の末裔だって人見たんだけど
なんだろう。滅亡してるんだよね?
427日本@名無史さん:2001/06/06(水) 06:38
>>426
だから滅亡してないんだって。
ちゃんとレス読め。
428日本@名無史さん:2001/06/06(水) 08:52
そもそも木造の語源はなんだろう?
本家が北畠、分家が木造なわけじゃないだろうし。もともとは伊勢の土着の豪族が北畠にのっとられたのかな。
429日本@名無史さん:2001/06/06(水) 11:09
417です。 googleうならせてきました。

北畠氏学講座
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake.html
   木造・田丸・神戸・滝川等、北畠一門情報
   http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake12.html

木造氏家伝
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/koz_kuri.html

名前の由来・木造城しょぼ〜ん・・・
(三重県久居市木造町)
http://village.infoweb.ne.jp/~kz16/kizukuri.htm

そんな久居市(どこやねん!?)ってば
http://www.city.hisai.mie.jp/index2.html
木造氏には一言も触れず終い・・・
http://www.city.hisai.mie.jp/machi/rekishi/index.html 廃絶大名総覧(北畠流滝川氏・雄利情報あり)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3268/haizetsu.daimyourireki4.html

430日本@名無史さん:2001/06/06(水) 11:15
乱れましたスイマセン。

北畠氏学講座
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake.html
   木造・田丸・神戸・滝川等、北畠一門情報
   http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake12.html

木造氏家伝
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/koz_kuri.html

名前の由来・木造城しょぼ〜ん・・・
(三重県久居市木造町)
http://village.infoweb.ne.jp/~kz16/kizukuri.htm

そんな久居市(どこやねん!?)ってば
http://www.city.hisai.mie.jp/index2.html
木造氏には一言も触れず終い・・・
http://www.city.hisai.mie.jp/machi/rekishi/index.html

  廃絶大名総覧(北畠流滝川氏・雄利情報あり)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3268/haizetsu.daimyourireki4.html

>>425の、
木造(城)の名がそもそも東北(青森)から来た説は
家伝サイトの
>北畠顕能の二男俊通が木造氏を称した
という点から多分正解ではないかと。

田丸氏の子孫は
関が原謎の西軍(笑)→加賀前田大聖寺藩士→現存らしいです。
431日本@名無史さん:2001/06/06(水) 11:26
あ、あと村上(水軍)家にも「源氏は源氏でも実は北畠系統説」があるそうです。
432日本@名無史さん:2001/06/06(水) 23:27
日野市の落川には朝倉の子孫が入植したらしく、朝倉姓がかなり多く見られる。
近くには石田というところがあり、そこは土方歳三の出身地である。
もしかしたら、土方歳三は朝倉の血が入っているかも。
433日本@名無史さん:2001/06/06(水) 23:44
ほんとかね?
434日本@名無史さん:2001/06/07(木) 00:26
>廃絶大名総覧
これ面白いね。
豊臣大名の信濃の所、毛利秀頼に毛利秀秋って豪華な名前だな。
435日本@名無史さん:2001/06/07(木) 19:36
age
436日本@名無史さん:2001/06/08(金) 01:17
>>399
江戸時代初期の由比正雪の軍学上の師匠の南木流の兵法学者の楠木不伝こと
楠木正辰も、楠木正成の子孫と称していた。
437日本@名無史さん:2001/06/08(金) 15:01
>274
取り潰しというのは、殺すことではないよ。
改易とか除封とかあるけど、いわばリストラみたいなもん。
438日本@名無史さん:2001/06/08(金) 15:17
一色氏は関東公方の臣下にいたため、関東には結構多い。
439日本@名無史さん:2001/06/08(金) 15:21
>323
秋田氏の家臣になった細川氏ってどの程度信憑性あるの?
細川京兆家は昭元(信良)の子の讃岐守頼範が大阪の陣以後に消息不明(または戦死)になっているけど。
それ以外に子供って確認されているの?
440日本@名無史さん:2001/06/08(金) 15:25
日向綾城の綾氏は細川小四郎義門の子孫らしいけど、義門という人は細川管領家と系譜的にどういうつながりがあるの。
441バロン曽志崎:2001/06/08(金) 19:37
>>439
秋田氏の家臣になった細川氏はその頼範の子孫だけど。
頼範の姉妹が秋田実季の正室だったため、大坂の陣後、秋田家を頼った。
信憑性は他のそれに比べれば、高い方じゃないの。
442日本@名無史さん:2001/06/08(金) 22:29
>>432

というか、わたしの母の実家はフツーに子孫で朝倉なんですが・・・
越前です。

443日本@名無史さん:2001/06/08(金) 22:30
>>442
朝倉本家滅亡後はどうしていたの?
444名無しさん:2001/06/09(土) 00:47
>>438
一色本家は、高家として存続。
さらに、家康の腹心の以心崇伝は、一色一族の出身。
445名無しさん@1周年:2001/06/09(土) 03:11
高取の植村家の子孫がテレビにでてたけど。
源氏の流れを組むらしいが、うそだろ。
446日本@名無史さん:2001/06/09(土) 04:08
>>443
このスレの王道な運命です。

・越前松平家に拾われて
・庄屋

です(爆笑)
一族でも末端らしいので、庄屋どまり、ってことでしょう。
本流近いなら旗本とか、藩士とかだったのかもね。
もう半帰農してたらしいし。
447転載:2001/06/09(土) 04:09
>>445
転載です。

32 名前: 投稿日:2001/06/08(金) 22:20

橘諸兄がいるだろコラ。

つか、源氏の子孫なんて腐るほどいる。
むしろ過去に源氏の血が一滴も入ってないほうが貴重でしょ。

そんな「俺は米の飯を食ったことがあるぜ!」程度のことを
自慢してる1に乾杯!!!
448名無しさん@1周年:2001/06/09(土) 04:15
孔子の子孫ですが、現在日本にいるはず。中国の新聞社か通信社の
在日代表です。子孫の名前は生まれる前からあらかじめ決まっているとか。
449名無しさん@1周年:2001/06/09(土) 04:19
伊予西園寺家の末裔がいます。
愛媛出身でいまは社会人です。別スレにあるとおりです。
伊予西園寺らしく、通字の実、公のどちらも使用していません。

一部西園寺で泰を使っているひともいます。
450ななし:2001/06/09(土) 05:14
藤原氏は
不比等の下で4家に別れますが
ちょっと時代が行くと北家の人しか(私は)知りません。

他の京家式家南家の血筋はどうなったのでしょうか?
451日本@名無史さん:2001/06/09(土) 05:37
>>450
>>447言うところの「米の飯」になりました。
452日本@名無史さん:2001/06/09(土) 13:38
>>450
吉川家は、南家の子孫。
453日本@名無史さん:2001/06/09(土) 17:26
>>446
差し支えない範囲で、朝倉氏の誰の子孫に当たるんですか?
戦国の武将とかで言うと?
454日本@名無史さん:2001/06/10(日) 04:36

>>450
南家ですが

藤原武智麿の子供、乙麿から、その子孫を進みます。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~wueki/taisei102.htm
から
http://www5b.biglobe.ne.jp/~wueki/taisei106.htm
へ移動します。

このページの中段付近に 祐次(子孫別家) というLINKがあります。

すると・・・某大名家へ・・・

455日本@名無史さん:2001/06/10(日) 04:47
式家は・・・百川は頑張ったんですけどねぇ・・・

http://tanutanu.net/roots/database/h/hujiwarasiki1.htm
ってな感じで中の下貴族。

456日本@名無史さん:2001/06/10(日) 04:59
京家は・・・更に平凡な貴族です・・・
457日本@名無史さん:2001/06/10(日) 05:01

458日本@名無史さん:2001/06/10(日) 05:53
>>453

えっと、朝倉の一族は、実はひそかに活動中です(笑)
海外からの再上陸を目指してます。

http://members.aol.com/asakura/fukkou.html

459日本@名無史さん:2001/06/10(日) 06:34
460日本@名無史さん:2001/06/10(日) 19:06
あげ
461日本@名無史さん:2001/06/10(日) 21:26
>>458
あなたがそのうちの一人なわけ?
462日本@名無史さん:2001/06/10(日) 23:39
>>461
>>461
すいませんが恥ずかしくて言えないような・・・です。
なのでこれ以上追及しないでください・・・

滅亡!なのに生き残り、というのは大抵そんなもの
じゃないでしょうか?(笑涙)
「放置しても問題ない」「大して重要でない」と判断されたからこそ
生き残っているのでしょう。
例として・・・
奇遇ではありますが、父方は富樫家の末葉です。
あの頃、一向一揆サイドに寝返った(保身を図って・降伏して)
らしく、そして今日のわたしがあります。
だから我が家は仇であるはずの浄土真宗です〜。
情けなくて笑っちゃいます。
がんばったね、ご先祖よ(ワラ

463日本@名無史さん:2001/06/11(月) 03:41
>>454
その大名だけでなく、井伊家も藤原南家と言っているよ。
http://leidenschaft.hoops.livedoor.com/i.htm
464日本@名無史さん:2001/06/11(月) 03:47
大宝寺氏や、村上氏(信濃)のその後を希望!
465日本@名無史さん:2001/06/11(月) 04:53
>>464
googleでも回してみたらどうかな?
「○○について興味を持ってgoogleうならせたらこんなサイト見つけたよ!」
ってな報告でいいからさ・・・

大宝寺氏って・・・由緒正しかったのですね・・・
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/north/s_dewa.html
いろいろあって、義興の跡を大宝寺義勝が、
上杉景勝の援助で家督相続。
一揆煽動の疑いで所領を没収された後、
朝鮮出兵に参戦して所領を安堵された、と聞いたことがあります。
その後は、上杉家に仕えたそうなので、与力→うやむやに家臣
ってやつでは?

村上氏はいろいろあった末に、やはり米沢上杉に引き取られた、と
思ったのですが・・・(山浦姓に改姓)

上杉家に移った後の情報は、上杉マニアな方の登場を待ちましょう。
で、どなたかに質問なのですが、ぽっと現れる秀吉大名の
「村上義明」と、村上義清との関係がよくわかりません。
見識者のご意見をお伺いしたいです。>ALL

466日本@名無史さん:2001/06/11(月) 05:05
・・・と言った矢先にみつけてしまいました。

村上氏のなんか悲しい末路です。
2家あります。
系図は     村上義清 - (山浦)国清 - 景国です。

浪人の村上氏の祖、景国は国清の子供であったが、国清が死んだときに幼少であったために
国清の養子となっていた高国(後述、水戸藩士村上氏)の後見を受けるが、高国が家督につこ
うとして景国を殺害しようとしたので母と共に出奔、各地を放浪して三河に着き、本多忠勝に預
けられて本多忠清と名乗ったという。
しかし忠勝と共に上洛したとき、人を殺害したために逐電、しばらく隠れていたが再び忠勝に預
けられ、のち真田信之に預けられて中風で死去(寛永十三年、1636)したという。
その子義豊は父の死後、その遺言で母と共に真田家を立ち退き、武蔵川越、江戸へ出て
松平信綱に頼って家名再興運動をしたが、信綱の死で願い叶わず、そのころ迎えにきた旧臣ら
に伴われて信濃に戻り、旧臣らに養われて川中島に居住したという。
この義豊は「村上家伝」を作成して信濃東部・北部に頒布した。
明治にも再びこの村上氏は家名再興を運動し、華族への取り立てを嘆願したという。

---------------------------------
迎えにくる旧臣・・・(涙)
家伝頒布・・・(涙)
華族嘆願・・・(涙)
467日本@名無史さん:2001/06/11(月) 05:08
そしてもう片方です。

水戸藩士村上氏は国清の養子、高国に始まるという。
国清に子供が居なかったので(景国は晩年の子という)、妹が嫁いでいた
会田清幸の子、高国を養子としたのだという。
高国は関ヶ原合戦の後、上杉氏が米沢へ減転封された時にも従ったが、
のち大坂に向かって豊臣秀頼に与し、大坂の陣のあとはしばらく伏見に
潜伏、そのあと旧臣に招かれて信濃へ行き、娘が水戸藩に仕えた縁で
水戸藩士となった。
子孫が一時五百石を給せられるまでになるが、十八世紀末に罪を得て
断絶、子が特に二百石を与えられて再興を許され、幕末まで続いた。
幕末の当主、道雪(節)は和歌・画をよくしたという。

----------------------------------
お、大阪入城!・・・(涙)
潜伏・・・(涙)
また迎えにくる旧臣!・・・(涙)
200石・・・(涙)

以上、転載でした。
http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/murakami.html
468日本@名無史さん:2001/06/11(月) 07:25
うちの先祖、越後の農民だけど元をたどるとどうも信濃村上氏の旧臣だったらしい…。
>>467のリンクの家臣団リストにも載ってないくらいの微細な家みたいだけど。

>>465
村上義明はお隣新発田藩の溝口氏と同じく丹羽長秀の旧臣。
義清の孫としている系図もあるけど、
それだと尾張・近江を地盤にしていた丹羽長秀と接点がないから、
尾張の出身かなにかの別の村上氏だったのが
系譜で信濃の名門村上氏に繋げられた可能性があります。

Googleで見つけた村上義清のご子孫のHP。
ttp://users.goo.ne.jp/muramasa30/
あまり情報はないですが。
469日本@名無史さん:2001/06/11(月) 15:59
>449
>伊予西園寺らしく、通字の実、公のどちらも使用していません。

伊予西園寺だって基本的に実、公だよ。
470日本@名無史さん:2001/06/11(月) 16:02
>441
でも322の系図では昭元の子は元勝になっているよ。
471バロン曽志崎:2001/06/11(月) 16:14
>>470
頼範=元勝
472日本@名無史さん:2001/06/12(火) 00:45
いぜんなにかで、村上義明は秀吉の命で義清の養子となったために実子国清は姓を山浦に変えたのだ、という話を読んだんだけど、これは年代的に違うよねえ。
秀吉が天下とったころには当然義清死んでるし。
473日本@名無史さん:2001/06/12(火) 14:48
>471
>頼範=元勝

ということだけど、頼範って大坂の陣で死んでいるのでは?
474バロン曽志崎:2001/06/12(火) 19:43
>>473
大坂の陣関係の史料は少ないからなんとも言えないけど、頼範が戦死したって
史料は見たこと無い。何に載ってるの?
系図関係はほとんど、大坂落城後、京都竜安寺に逼塞させられ、後に近江高島に移る。
その後、義兄弟の秋田実季に迎えられた。こんな感じなんだけど?
475日本@名無史さん:2001/06/13(水) 06:30
age
476ヤンカウスカス:2001/06/14(木) 01:12
新田義貞の子孫は神奈川県伊勢原市で
堀江姓を名乗っている
市長はその一族らしい
477日本@名無史さん:2001/06/14(木) 01:14
伊勢原市長のこと?
元の狛江市長は鎌倉北条氏の末裔だったし。
けっこういるんだね。
478日本@名無史さん:2001/06/14(木) 05:52
小泉首相も何かの末裔らしいね。
479日本@名無史さん:2001/06/14(木) 06:00
武蔵の子孫は武蔵の養子の子孫ということだが、
武蔵の養子のいおりは武蔵の親戚の子供らしい。
よって今の子孫は武蔵と血のつながりがあるのだそうだ。

本当らしいぞ。
480日本@名無史さん:2001/06/14(木) 06:03
忍者の子孫もいるね。
伊賀の上野には当然ながらいるだろうけど。
百地氏とか服部氏とか。NHKで紹介されてなかったっけ…
記憶違いかな…
481日本@名無史さん:2001/06/14(木) 06:14
百地氏の末裔は歌手デビューしたんじゃなかったっけ?
482日本@名無史さん:2001/06/14(木) 06:42
丹波哲郎も戦国時代から続く医者の家系だそうですよ。
彼の兄弟がまだ医師をしてるそうですからある意味凄い。
483名無しさん@1周年:2001/06/14(木) 07:04
>482
もっとまえ。
484日本@名無史さん:2001/06/14(木) 11:04
>482,483
男爵だっけ?
485厨房軍団:2001/06/14(木) 11:04


        ∫
    / ̄ ̄ ̄ ̄\
   /\   /  \ |
   | |   (・)  (・) |   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   (6-------◯⌒つ|< 貴様ッッ見ているなッ!!
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       |  |__三_.ノ__ | .| ト、_/  |
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      ⊆ っ            |  |    ̄`ー‐┬-‐'_/ ヽ__人_ノ
      ⊆ っ       
486日本@名無史さん:2001/06/14(木) 11:11
>474
いま手元に史料がない。すまん。
487日本@名無史さん:2001/06/14(木) 17:37
拙者は豊臣秀頼の子孫です。秀頼の父は石田三成です。
488名無しさん:2001/06/14(木) 23:44
>>487
大野治長だろ?
489日本@名無史さん:2001/06/15(金) 04:11

香宗我部家

親泰の子・親和は関ヶ原ののち浪人するもやがて寺沢氏を経て堀田氏に仕え家名を残す。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/busho/bu_0010.htm

 
490日本@名無史さん:2001/06/15(金) 04:17

つか、源氏の子孫なんて腐るほどいる。
藤原氏の子孫なんて既に腐れきってるほどいる。
むしろ過去に藤原氏の血が一滴も入ってないほうが貴重でしょ。

そんな「俺は米の飯を食ったことがあるぜ!」程度のことを
話してる>>476-484に乾杯!!!
491日本@名無史さん:2001/06/15(金) 04:23
>>490
藤原氏の子孫なんて滅多にいないよ。
藤原氏の子孫みたいなことを言う家は、旧華族や元公卿以外は、
藤原氏の荘園で働いていた部民(かきべ)の子孫で、藤原部と総称
されていた。君のいう「腐るほどいる」のは、藤原部の子孫であって、
藤原氏の子孫ではないということ。
492日本@名無史さん:2001/06/15(金) 04:29
>>482
丹波哲郎の家は代々医者。
父親は軍医だったが、日露戦争後画家に転向。
なんでも鑑定団でやっていた。
493477:2001/06/15(金) 05:10
>>491
激しく同意!
純粋に藤原氏の血を受け継ぐ一族はやっぱり名家と言われる家に限られるはず。
確かにピンキリではあるとは思うけど、一言で片づけるのは乱暴すぎるのでは?
494日本@名無史さん:2001/06/15(金) 05:55
age
495日本@名無史さん:2001/06/15(金) 06:04
>>491.493
宇都宮家は?
496日本@名無史さん:2001/06/15(金) 06:23
九州の名家、大友家のその後を教えて下さいまし。

497日本@名無史さん:2001/06/15(金) 06:58
>>279
>>280に大友でてるぞ

宇都宮はどっち?
九州? 下野?
498495:2001/06/15(金) 07:05
いやね、藤原氏関連の話題が出たんで、名家じゃなくても結構血筋的にいい方でしょ?ということをいいたかったのね。
499日本@名無史さん:2001/06/15(金) 12:40
先祖を藤原だって言ってる家の中に詐称が多いのは事実だが、本当に藤原の末裔
なのに、没落してしまった家だって数千やそこらはあるだろうよ。
500日本@名無史さん:2001/06/15(金) 13:21
>491
>藤原氏の子孫みたいなことを言う家は、旧華族や元公卿以外は、
>藤原氏の荘園で働いていた部民(かきべ)の子孫で、

おいおい変な信仰はやめようよ。
とくに旧華族がなんで特別視されるの?
藤原氏じゃないけど伯爵勝海舟だって出身は越後の農民だぜ。
誇るものかどうかはこの際別にして、自分の家系が誇れないからといって
特別視するのはやめなさい。
いくら厨房でも、そろそろそいいう幼い考えは卒業しなさい。

501日本@名無史さん:2001/06/15(金) 13:44
>>500
君こそ厨房じゃん。
>491は、「藤原氏の子孫は腐るほどいる」という発言に対して、
そうではない理由を描いているんだよ。
言ってることは、概ね当たっているよ。
勝海舟の例は何? 全然、話の本筋を理解してない証拠だね。
502日本@名無史さん:2001/06/15(金) 14:19
>501
>>491は、「藤原氏の子孫は腐るほどいる」という発言に対して、
>そうではない理由を描いているんだよ

だからさ、どこにその理由が書いてあるんだよ。
ただ自分の信仰を述べているだけじゃない。

藤原氏の子孫は滅多にいないって「滅多に」なんて逃げうってるし、
藤原氏の子孫=藤原部の子孫ということが証明されていない。

勝海舟の例は藤原氏でよい例が思いつかなかったので出しているだけ、
要は華族で藤原を称している人だって本当かどうかあやしいといいたいだけ。
503日本@名無史さん:2001/06/15(金) 14:34
>>502
では、貴殿は、藤原氏の子孫は「腐るほどいる」と
お考えなのですか?
504日本@名無史さん:2001/06/15(金) 14:41
>503
どこにそんなことが書いてあるの?
それに「腐るほどいる」の腐るほどってどのくらいのこといってるの。
505503:2001/06/15(金) 15:03
>>504
貴殿が批判している相手は、藤原氏の子孫が「腐るほどいる」という
発言に対して、「そうではない」と主張している。そこがポイントであり、
そのことを欠落させて、相手を批判することは、フェアではないですな。
藤原氏の子孫が「腐るほどいる」のか「そうでない」のか、それを
言ってから、では、その内容の詳細をめぐり、貴殿が批判する相手との
論議も成立するでしょう。
現在の貴殿の発言は、貴殿は自覚していなくても、「藤原氏の子孫は腐るほどいる」
の立場に組みしていることになります。
お分かりになりませんか?
506日本@名無史さん:2001/06/15(金) 15:05
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=991603736

こっちでは、藤原氏の子孫は少ないという事になってるよ。
507日本@名無史さん:2001/06/15(金) 15:12
>>506
同じでしょう。504氏が批判している相手は、「藤原氏の子孫は少ない」と言っているのだから。
508日本@名無史さん:2001/06/15(金) 15:24
>505
>貴殿は自覚していなくても、「藤原氏の子孫は腐るほどいる」
>の立場に組みしていることになります。

よく読んでよ。別に「腐るほどいる」かどうかで言ってるんじゃないよ。
だから厨房なんだよ。かってに決め付けないでよ。
以下502
509日本@名無史さん:2001/06/15(金) 15:37
>>508
言ってなくても、あなたが批判している相手の見方を否定していることになり、
それはあなたの意図を越えて、「腐るほどいる」説の応援団になっているのです。
これが、言論の政治性というものです。発言は、自分の意識や意図を越えた意味連関に
組着込まれてしまうのです。
510日本@名無史さん:2001/06/15(金) 15:48
>509
それは君の論理だろ。一般的じゃないよ。

それに忌み不明だよ。
>意味連関に
>組着込まれてしまうのです。
511:2001/06/15(金) 18:07
丹波哲郎の家はもとをたどると、漢王朝だとか。 昔、日本の丹波の国に住み着いたから、丹波となのるようになったらしい。
512:2001/06/15(金) 18:12
孔子の子孫は財閥をやっていたはず。中国の有名な宋三姉妹の長女がその家に
とついだ。ちなみに、他の二人は、それぞれ、孫文と蒋介石に嫁いでいたのでは?
 
513日本@名無史さん:2001/06/15(金) 19:41
丹波家は、平安ころから医者の家。
今昔物語だったか、藤原道長を呪殺しようとした企みを安倍晴明と阻止した。
514日本@名無史さん:2001/06/15(金) 22:20
>513
ほんとかね?
515日本@名無史さん:2001/06/16(土) 02:11
安倍晴明と丹波哲郎の霊界信仰・・・
似ている・・
世は移れどもこうも似るものか?
516日本@名無史さん:2001/06/16(土) 06:22
age

517日本@名無史さん:2001/06/16(土) 06:48
>511
そうなの丹波が?
高安?坂上?
518日本@名無史さん:2001/06/16(土) 07:31
519のーやん:2001/06/16(土) 13:19
(安東・松前氏)
 奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、葛西・宇佐美・曽我・工藤などの御家人を配置し
奥州総奉行などを置く。御家人を軸として鎌倉幕府に掌握され、再編成された。
 鎌倉初期に津軽地方が出羽国から陸奥国へ移管されたので、蝦夷ヶ島も陸奥の管轄
に入る。津軽の藤崎にいた安東氏は、執権北条義時のころ蝦夷管領に命ぜられる。
 安東氏は奥州俘囚の長・安部氏の子孫と称した。前九年の役に敗れた阿部貞任の子
高星(たかあき)は津軽に逃れ、代々藤崎で地方の土豪になり、安東氏を名乗った。
安東は安藤とも書く。
 安東氏は蝦夷管領になってからすぐに、十三潟の十三湊(とさみなと)に移り勢力
を伸ばした。
 安東氏は蝦夷ヶ島から下北半島・津軽一帯に勢力をひろめ、一族を各地に配置した
が、鎌倉末期に津軽大乱を引き起こした。
 宗家と庶子家の対立は七年におよび、鎌倉幕府の調停も容易に成功しなかった。こ
のことが鎌倉幕府滅亡の遠因になり、津軽地方における南北朝の戦乱の要因になった。
主流は南朝に属し、末期に南部氏に保護されていた北畠顕家の子孫を浪岡城に迎える。
 安東宗家は津軽下郡(しもごおり)十三湊に拠ったので下国(しものくに)家とよ
ばれ、南北朝時代末期に大光寺城に拠った分家を上国(かみのくに)と称した。
 室町時代に入ると、南部氏が津軽に進出してきた。

 長いので一旦終了
520日本@名無史さん:2001/06/18(月) 09:08
>>519
続きを希望!
521天之御名無主@東北人:2001/06/18(月) 16:14
522513:2001/06/18(月) 16:21
>>514
本当かって?
今昔じゃなかったね、古今著聞集だった。(518さんサンクス!)
でも、フィクションに決まっているだろ?
でも当時そういう話が作られるくらい丹波家と言えば医者の家柄だったってこと。
実在した晴明とか義家と並んでいるし。
あと、何かの史料に当時の一流の才能の持ち主の一覧があった。
そこでも医者(くすし)として丹波がいる。
ソース忘れた。誰か!
523日本@名無史さん:2001/06/18(月) 17:34
>>519
続きをきぼーん!
524日本@名無史さん:2001/06/18(月) 23:53
あげ
525確かに:2001/06/19(火) 05:04
ここに出てくる大名家・華族はもともとすべて同じ祖先をもつ>>サル
よって終了
526日本@名無史さん:2001/06/19(火) 07:16
525はいまだに猿から進化できていないようだな。
527なぜそれを?:2001/06/19(火) 12:04

ウッキー
528日本@名無史さん:2001/06/19(火) 13:00
高貴な血筋が大好きなアホ達へ



親二人

祖父の代4人

8人

・・・と倍倍していって、平安時代くらいまで考えてごらん。
そして、図書館いって、その頃の推定人口調べておいで。

あほらし。

俺も言っとく「腐るほどいる」。

529忠褌:2001/06/19(火) 13:30
俺の先祖は、江戸期には旗本2500石だったが、生活はそんなに裕福でもなかったみたい。
暴れん坊将軍なんかで、旗本なのに家臣が30人くらい出てきてるけど
侍としての家臣は5人位だったらしいよ。あと中間とか、使用人が5人くらいいたんだって。


530日本@名無史さん:2001/06/19(火) 16:27
>529 1万石の大名の1/4だろ。そんなに少ないことはない。
531日本@名無史さん :2001/06/19(火) 16:38
>>530
いやいや、軍役規定では何人召抱えって決まっていたけど、
実際問題、経済的に軍役規定通りの家臣を召抱えている武家は
まず、なかったよ。
532日本@名無史さん:2001/06/19(火) 16:45
今川の直系は明治期に断絶しましたが、男子がいなかっただけで
女子はいたので血筋としては続いています。
確か、一番直系に近い方は東京で眼科医をやっていらっしゃったと
思います。
533日本@名無史さん:2001/06/19(火) 16:52
>>531 行列など必要な時だけ町人などを雇ったらしいね。特に旗本や小身の大名。
534日本@名無史さん:2001/06/19(火) 17:29
>>533
そうそう、その通りだよ。by531
        
535忠褌:2001/06/19(火) 19:34
>530 万石の大名の1/4だろ。そんなに少ないことはない。

2500石というのは、あくまでも基本で、実際はそんなになかったみたい。
冷害とか飢饉とか財政赤字とかで、一番ひどい時で
実質600石という年も在ったらしいですよ。

あと役に付いた時は、それに加算されて貰えるんだけど、
足りなくて持ち出しの場合もあったらしい。
536日本@名無史さん:2001/06/19(火) 20:23
>>532
>今川の直系は明治期に断絶しましたが、男子がいなかっただけで
女子はいたので血筋としては続いています。

私の遠縁の家がまさにそれに該当するんだけど、その一家に眼科医は
いなかったと思うよ。
537日本@名無史さん:2001/06/19(火) 21:11
>>528
先祖スレへ行け。
ここは滅んだ大名のその後を語るところだ。
538日本@名無史さん:2001/06/21(木) 05:49
いいスレなのでage
539バロン曽志崎:2001/06/22(金) 00:20
すっかり滅亡・改易は関係なくなってきたね。
下野宇都宮は国綱の子・義綱の時に旧族の子孫ということで水戸藩に召されて
藩士となった。
城井宇都宮の子孫は福井藩士になってる。
ちなみに国綱の弟で結城家に養子に入っていた朝勝は徳川秀康が結城家に入った
ため追い出され、宇都宮宗安と称して秋田の佐竹の家臣となった。
それが理由か終始、反徳川を謳っていたとか。
またその弟で芳賀家に入っていた高武の子孫も水戸藩に収まってる。
下総結城家は秀康が松平に復して断絶したというけど、実は晴朝の実子・晴信が
水戸藩に召し出されたという話も残っている。
幕末の水戸藩で派閥争いから処刑された結城派の首領・結城寅寿はその子孫だとか。
そういえば水戸藩の山野辺家は最上義光の子・山野辺義忠の子孫だよね。
水戸黄門の第一話で黄門様が旅立つのを毎回諌めてる家老・山野辺はこの山野辺家
がモデルだろうね。
540日本@名無史さん:2001/06/22(金) 01:02
徳川一門(越前松平・水戸徳川)は名家をコレクション?するのが好きみたいだね
なんでなのかな??

隠岐の京極家ってどうなんでしょうか?全く分からないので。実際に任地に赴いたかも知らないのですが。
541日本@名無史さん:2001/06/22(金) 01:36
>>540

隠岐は少々難しいのですが・・・
どっかに「隠岐氏(佐々木京極・尼子?)」を扱ったページが
あったよ。

googleしてみな。
542日本@名無史さん:2001/06/22(金) 16:48
徳川一門は自分の家系に自信がないから名家を家臣に持つことによって自尊心を満たしていたと思われ
543日本@名無史さん:2001/06/24(日) 17:24
そうかあ?
544日本名無し話:2001/06/24(日) 20:30
俺が小4の時転校してきた福島某はあの福島正則の子孫だった。
545名無しさん@1周年:2001/06/25(月) 00:01
http://www.interq.or.jp/tokyo/toshizo/kesi.html
ここ見てくれ。その子孫の名前と職場が明記
546日本@名無史さん:2001/06/25(月) 16:53
すごい古い資料だなあ。死んでる人やリタイアしてる人が多いよ。
547日本@名無史さん:2001/06/26(火) 22:23
最近の霞会館からは旧華族の系図集出てないの?
548日本@名無史さん:2001/06/26(火) 22:25
もう今後は難しいんじゃないかなあ。
549日本@名無史さん:2001/06/26(火) 23:42
乞食になった大名って誰だっけ?
乞食になってからも、家臣が殿のために忠義を尽くし、
最終的にはどこかの家中になったような。
550日本@名無史さん:2001/06/26(火) 23:42
飫肥の伊東氏でしょ。
551日本@名無史さん:2001/06/27(水) 01:13
乞食じゃないけど立花宗茂が関が原のあと失領し、食う金に困って家臣が雑炊を出したのだが、
宗茂は「あらかじめそんなことをしなくても飯に汁ぐらい自分で掛ける」といったという。
彼が御曹司育ちだったので米が無い時の知恵ともいえる雑炊を知らなかったのだ、という話。
552日本@名無史さん:2001/06/27(水) 01:28
すごいマニアックですいませんが、戦国時代中期まで松平氏と織田氏のあいだにいた中条氏という豪族を知ってる人いませんか?
わかっていることは、
上で出た宇都宮氏の支族(八田知家/宇都宮朝家?の妻で源頼朝の乳母、近衛局が実家の成田氏から甥を養子にした。)
鎌倉時代に三河衣庄(今の豊田)に入った。
室町幕府の評定衆になった人物がいる。
松平家の四代目、親忠に負けて(井田野合戦)衰退した。
1561年、織田信長によって滅ぼされた。

この後どうなったのかが知りたいのですが…
553日本@名無史さん:2001/06/27(水) 01:42
>>545
毛利家の殿様は長銀だったんですか・・・。
554日本@名無史さん:2001/06/27(水) 08:02
age
555日本@名無史さん:2001/06/27(水) 08:22
>>549
最上家関連じゃなかったかな?
鮭延秀綱?
556日本@名無史さん:2001/06/27(水) 11:32
>555
そう。たしか土井利勝に召抱えられようとしたが、
5000石だったかをほとんどその旧臣に分け与えて
その家臣の家に寄寓してまわったという話。
557名無しさん@1周年:2001/06/27(水) 18:40
ソニーの常務が土井の子孫。
土井さんだね。
558日本@名無史さん:2001/06/27(水) 19:26
うまいことやってる人とそうでない人、さまざまだねえ>旧華族
559日本@名無史さん:2001/06/29(金) 01:46
age
560バロン曽志崎:2001/06/29(金) 16:16
すぐ下がっちゃいます。以下の子孫について語れる人お願いします。
小野寺家・・・傍流は藩士などとして散見できるのだが、義道配流後の直系はどうなったのでしょう?
赤松家・・・則英が関ヶ原の戦いで西軍に与して切腹した以降。何人か子供いたはず。
三村家・・・さっぱり。
561日本@名無史さん:2001/06/30(土) 02:28
>>560
三村は元親の子、勝法師丸も切られたので直系は絶えました。
家親の弟で成羽城主の親成はこのとき毛利方についたのでその子孫が残ってるはず。
562あは:2001/06/30(土) 02:44
「猫絵、探し中」
我が家臣の猫絵やろう「猫絵マターリ(仮名)」が行方不明です
2001/06/22(金) 22:29に出かけてから一度も帰っていません
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| aha〜、今なにしてんの〜? 訓練中?
\___  ___________
      ∨
      ∧無∧
     ( ・∀・)     γ^・⌒)
     ( つ~~つ~~~~~~/~~/~~
     (    )    / /
    γ⌒⌒⌒ヽ   / /
    /      ヽ_ノ /
    /         ノ
   (         ノ
  (( U U ̄ ̄U U
↑↑↑こういうやつです、頭も行動もおかしいのですぐにわかります、こいつが兵器
を平気で買い物してきて(プププププ)、後から「長岡藩
の河合継之助より、ガトリング砲4門、弾8000発の請求書、二万両頂戴する」
という馬鹿げた手紙(請求書)が届きました、うちの月の収入は二千両だから無理だ
っちゅーの!!(国力収入400両、今川、徳川から略奪400両ずつ、自国から
略奪600両)しかもこいつ、また勝手に「交通費でまた武器探しの旅にいってきま
〜す」だってよ!交通費4両で二万両の買い物しに行くなっちゅーの!!
怖いっちゅーの!!と、いうことで急いで捕獲して説教して丸焼きにします
見つけた方は「戦国板の掲示板」にすぐに報告を!報酬として4両払います!!
(猫絵マターリ、年齢不明、経験不明、出身不明、能力ー役立たず、性格ーマターリ
、のんびり、好きな食べ物ー魚、格好ー猫、動きー猫、しゃべり方ー猫、性別ー猫)
563日本@名無史さん:2001/06/30(土) 03:48
↑お前マジでいいかげんにしろよ!戦国板でやってる内はまだいいが…
564日本@名無史さん:2001/06/30(土) 09:34
元広島カープ監督の三村が三村氏の子孫。
565日本@名無史さん:2001/07/01(日) 00:55
age
566日本@名無史さん:2001/07/02(月) 05:38
広島カープってたしか小早川もその子孫だって聴いたけど?
あそこは旧家収集癖でもあるのかな?
567日本@名無史さん:2001/07/02(月) 12:45
単に広島ローカルなだけでしょ?
田舎に行けば結構いるんじゃないの?
その土地の出身有名氏族の子孫って。
568日本@名無史さん:2001/07/02(月) 14:36
三村は知らんが小早川は関係ないよ。断絶してるし。
たぶんあやかってつけたんじゃないの?
569日本@名無史さん:2001/07/02(月) 15:07
小早川家は明治になって特旨をもって復活してるけどね。
570日本@名無史さん:2001/07/03(火) 00:39
小早川の姓を名乗ったのは分家にもたくさんいるんだから
全く関係ないとはいいきれん。
あと毛利関連の小早川なら山口に一緒についていったんじゃないかな?
広島は浅野氏だし。
571日本@名無史さん:2001/07/03(火) 01:43
>>570
だから具体的には誰なのよ?
毛利系の小早川(というか他にいるの?土肥実平の子孫で本家筋近いところに相模の早川氏というのがいて、遠慮して小早川と名乗ったという。)は隆景の後を秀秋がついだが、嗣子なくして死んでいるし、
筑後の小早川秀包(元就の九男)は改易後毛利に復姓しているんで、この他に誰か小早川姓を下賜された家臣でもいない限り明治まで断絶してたはず。
それに広島の選手は代々広島在住者から取るわけでもあるまいに…
572日本@名無史さん:2001/07/03(火) 03:26
>>568

>>570でおれが言いたかったのは、
小早川氏は鎌倉時代から安芸国にいる武士だから
その子孫には帰農した人もいるだろうし
あやかってつけなくても元から小早川姓の人はたくさんいるだろうってことです。
>>567で既出だが。

全く関係ないことはない。
573566:2001/07/03(火) 04:58
俺は詳しいことは知らないが、それを前提にして・・・
小早川隆景は二つの小早川を統合して当主になったはず。
竹原の家をまず最初に継いで、その後、沼田の繁平をも相続した。
竹原の興景はどうなったか知らないが、繁平は盲目のため隆景に家を譲った後、
1574年まで生きてる(もちろん仏門に入っているけど)。
その間に子供が出来てることも否定できないと思うよ。かなり推測が入ってるけど。
その流れなら、毛利と一緒に山口に行く必要もないし、浅野家だってある意味成り上がりだから
そういった名家の家を残したとしても不思議ではないのでは??
まともな反論があればそれも聴きたいです。
574日本@名無史さん:2001/07/03(火) 06:01
>>573
これの元々は、広島カープの小早川があの小早川かどうかってことでしょ?
もちろん君の言う可能性もあるとは思う。が、別に彼が明治以降つけた苗字でもなんのおかしさも無いと思うが。(572がいってることのほうがまだ自然、吉川一族は結構いるし)
まともな反論が…とか言う前にまともな(というか確証のある)意見を述べてよ。
575日本@名無史さん:2001/07/03(火) 13:48
>574
そうだね。
鎌倉時代から居るんだし、本家しか小早川を名乗ってはいけないわけではないし。
576日本@名無史さん:2001/07/03(火) 16:28
>>571

俺んちは「滅亡した」はずの加賀富樫だ。

歴史の主流に出ないような、末葉の子孫もいるのだというコトを覚えといて欲しい。
577日本@名無史さん:2001/07/03(火) 16:47
>>576
加賀の富樫が国人として生き残ってるのは結構でてるよ。「大名として」成り立たなくなったけど。
傍流なら傍流で名が残るはず。(名字まで捨てて帰農した、と言う場合もあるけどそこまでいくとこのスレと外れてくるから追求しないが)
578577:2001/07/03(火) 16:51
ただ、血筋的には乃美氏や浦氏に残ってるでしょう。
579570:2001/07/03(火) 17:24
竹原小早川氏の末裔情報発見したよ。
http://www.mmjp.or.jp/askanet/samurais&castles-kimurajo.htm

小早川姓かどうかわからんけど
竹原小早川興景は嗣子のないまま病死したらしいから
傍流でしょう。
元就の姪が興景の妻だった縁から隆景が後を継いだそうです。
580573:2001/07/03(火) 21:00
>>574・575
俺は本家のことだけを前提に書いてしまったので、誤解というかいい足りないことが出てしまったみたいですね。
でも、ちゃんと推測が多いと断ってるんだから、まとも云々を言われる筋合いはないですよ。
結局、歴史に埋もれた家ってのは当人じゃなければ本当のところは分からないのでしょうね。
それを探すのも楽しみなんですが・・・。
581574:2001/07/03(火) 21:07
>>573
了解です。俺も書き方がわるいね。
まとも云々は573でそうかいてあるから…

で、結局広島の小早川のことがわかった人いる?(w
582日本@名無史さん:2001/07/03(火) 23:23
吉川コウジは吉川だという噂が絶えないが。
583570:2001/07/04(水) 09:33
>>582
吉川は滅んでねえつーの。毛利の支藩として残ってる。
山口岩国の錦帯橋に行ったことがある人なら見たと思うが
近くの山の上に岩国城ってのがあって、広家以来代々あそこの城主。

おれ広島に住んでるから電話帳調べてみたが
広島市内だけでも、小早川さんは約30軒
吉川さん(よしかわでなく、きっかわ)はそれより多い。
よしかわと読ませる場合(作家吉川英治がその例)もあるからもっと増える可能性あり。
市内だけでこの軒数だから、広島県全体での両氏の軒数は推して知るべし。
584日本@名無史さん:2001/07/04(水) 10:16
573さんも574さんもお互いに誤解が解けてよかったですね。

中国地方で話題が集中してるみたいなので・・・
清水や別所、小寺何かはどうでしょうか?
あと、大内家臣団も興味あります。杉や冷泉、青景など。
585バロン曽志崎:2001/07/04(水) 21:36
元広島カープが小早川氏の子孫かはちょっとわからないな〜。
なんか昔、Yahooの日本史板で小早川秀秋の庶子筋だって書いてあったの見た事が
あったような・・・。
秀秋の死で小早川家はいったん断絶したけど、明治12年、毛利長州藩14代元徳の
三男・三郎が小早川の名跡を継いで小早川家を復興させた。その跡は弟の四郎が
継ぎ、同17年、男爵を授爵。跡は甥の元治が継いでいる。その後も小早川家は続い
ているけど現在はどうなっているかしらない。ちなみに元治の後は「隆」の字を
通字に復している。
小早川毅彦の祖父か曾祖父の名前が解れば小早川男爵家に繋がっているかは解ると
思う。でもプライバシーの問題もあるしね・・・。
586バロン曽志崎:2001/07/04(水) 22:00
●吉川氏
岩国藩主家以外でも子孫は多い。元春の義父・興経の大叔父の系統
から石家、国衙家、江田家、筏家。叔父の系統から大塚家や市川家
が家老として採用されている。
●清水氏
宗治の長男・宗之は慶長五年、安濃津城攻めで戦死したので、弟の
景治が嫡流を継いでいる。子孫は萩藩士。幕末に清水清太郎(親知)
を輩出している。
●別所氏
有名なところでは幕臣の別所家。長治の叔父・重棟(宗)の系統という。
●小寺家
元家臣筋の黒田家に引き取られた。子孫、福岡藩士。
●杉氏
詳しくは存じません。毛利家に仕えるのを潔しとせず帰農したものが
多いとか。
●冷泉氏
隆豊は大内義隆に最後まで従って殉死したわけだけど、元就が忠臣の
子という事で探し出して家臣にした。長男・元豊が大友軍と戦って
戦死したので弟・元満が継ぐ。子孫、萩藩士。
587日本@名無史さん:2001/07/05(木) 07:36
age
588日本@名無史さん:2001/07/05(木) 08:03
別所毅彦は別所氏とは関係ないのかなあ。
589声ヲタ:2001/07/05(木) 12:14
小西行長→小西寛子
真田幸村→真田アサミ
590日本@名無史さん:2001/07/05(木) 13:06
>588
同じ名字だもん、どう考えても関係あるでしょう。
591日本@名無史さん:2001/07/05(木) 14:56
>>590

じゃ、長野の別所温泉は別所氏の湯治場か?

「別所」この地名は日本中に散在する。
592日本@名無史さん:2001/07/05(木) 19:18
>>589
そういえば小西行長の子孫の話は聞かないな…
如清とかの子孫かな?>小西寛子
593日本@名無史さん:2001/07/05(木) 23:40
細川隆一郎‥‥明智光秀の子孫
594日本@名無史さん:2001/07/06(金) 01:23
>>593
細川隆一郎って肥後細川氏の末裔みたいなこと言ってたけど?
ガラシャの子孫ってこと??
595名無しさん:2001/07/06(金) 05:17
>>594
細川忠興の長男で廃嫡になった忠隆(母はガラシャ)の子孫。
ちなみに、細川家を相続したのは、三男の忠利(やはり母はガラシャ)。
596日本@名無史さん:2001/07/06(金) 05:24
忠隆自身は廃嫡の後、どうなったんだろうか?
詳細希望
597日本@名無史さん:2001/07/06(金) 05:36
なんで廃嫡になったのか。
598日本@名無史さん:2001/07/06(金) 07:56
ガラシャが関ヶ原の折り、死んだにもかかわらず、忠隆の妻は生き残った。
そのため、ガラシャに異常な愛を注いでいた忠興は忠隆を憎み、その妻ともども離縁を迫ったらしい。
その延長で廃嫡らしい。
次男興秋は大阪の陣で西軍に参加、戦後自刃。
すべては忠興の異常人格のせいらしい。
599日本@名無史さん:2001/07/06(金) 08:07
600日本@名無史さん:2001/07/06(金) 16:43
細川忠隆の子孫は熊本藩の家臣だったから、本家はやはり護煕のほうでしょう。
601日本@名無史さん:2001/07/06(金) 20:41
大名ではないのですが、島津家中の長寿院、島津豊久系、島津歳久系、ご存じの方教えてください。
602バロン曽志崎:2001/07/06(金) 21:42
>>592
盛岡(南部)藩に小西行長の庶子を名乗る家がある。ちょっと嘘くさい。

>>601
長寿院氏(本来は阿多氏)は盛淳の孫(養子、藩主光久の子)の時に本姓の畠山氏
に復した。子孫、薩摩藩士。家禄150石余。
豊久の系統は養子の忠栄(喜入氏から)が継いでいる。
これも薩摩藩士で永吉家と呼ばれた。家禄は4400石余。
歳久の系統は養子の忠隣(義虎の子)が継ぎ、これも薩摩藩士。
日置家と呼ばれ、家禄は8700石余。
603日本@名無史さん:2001/07/07(土) 07:30
信濃の保科氏は結局、會津松平氏になって「保科」の名は残っていないのでしょうか?
保科一門でもいそうなものですが・・・?
604日本@名無史さん:2001/07/07(土) 07:39
コピペですが…

>正直の嫡子正光は高遠二万五千石を領した。正光は将軍秀忠の庶子正之を養子として家督を譲り、以後姓も松平、「御家門」として御三家・御三卿に次ぐ家格となった。寛永十三年(1636)には出羽二十万石、さらに三万石の加増を受けて会津若松に移された。幕末の松平容保はその後裔となる。
>正直の実子正貞は幼少より家康の側近に仕えたが、兄正光の勘気を受けて浪々、大坂夏の陣に加わって身を立て、慶安七年(1648)一万七千石を与えられ上総国飯野を居所とした。正直には実子の正景があったが出奔して行方知れずとなり、小出吉英の三男正秀を養子として迎えた。その後正景が家に戻って嗣となり、子孫は同所で二万石を領し、明治維新に至った。養子正英には二千石を分与して、旗本家保科氏として続いた。

ということで、名は残っているようです。

  
605日本@名無史さん:2001/07/07(土) 07:59
ちゅうか日本人の人口の95%以上が、額に汗して日本を支えた農民なのに
先祖がサムライだっていうやつがおおすぎて、比率が合わないな。詐称して
んのか?
606日本@名無史さん:2001/07/07(土) 08:03
95パーはオーバーでしょう。85パーぐらいじゃない?
607日本@名無史さん:2001/07/07(土) 08:11
まあオーバーかもしれないけど、なんかうちの先祖さむらいとかほざく奴
(特に歴史愛好家)奴を見るとほんとうかよって思うけどね。だって
俺の知り合いでも先祖サムライとかいうやつのほうが圧倒的に多いからな
サムライなんて5%もいたの?だいたい?
608日本@名無史さん:2001/07/07(土) 08:17
↑ちょっと日本語が変。
俺の知り合いでも先祖サムライとかいうやつのほう農民っていうやつより圧倒的に多いからな。
609日本@名無史さん:2001/07/07(土) 10:23
悪いけど、うちは本物のサムライの家系だよ
(証拠も残っている。巻物とか)

それにしても、なぜこのスレには俺の先祖(戦国時代に活躍)のその後
を聞くやつがいないんだ?
610日本@名無史さん:2001/07/07(土) 10:36
>>609
ご先祖はどなた?
611日本@名無史さん:2001/07/07(土) 11:53
>>605
どういう血統で「先祖」かによるのでは?
武士出身家と農民出身家の子とかもいまならいっぴいるでしょ。
612日本@名無史さん:2001/07/07(土) 16:50
名家の売買ってホントにあったんでしょ?
俺の会社の同僚の家はもともと橘を称して
たけど、先祖が金に困って墓や系図などと
共に売ってしまったそうだよ。

だから、今、名家を名乗ってる連中も
元をたどれば、どこの馬の骨か分からない
可能性もあるよね。
そもそも文献からしか辿れないのが無理が
あると思う。それいったら歴史学、そのもの
の存在が危うくなるけどさ。
613日本@名無史さん:2001/07/07(土) 21:33
↑同意、どうせ大概の人は姓氏図鑑とかみて、先祖は源氏だのいってんだろ。
614日本@名無史さん:2001/07/08(日) 00:21
>>607
まあ公家や侍でルーツが分からないとあまり先祖に興味がもてないんじゃない?
でも侍は結構いると思うよ。上杉領や薩摩では人口の25%が侍だったと言われてるし。
615日本@名無史さん:2001/07/08(日) 00:28
農家でも戦国時代までは武士・土豪だったって主張してる家は多いんじゃない?
616フランス外人部隊:2001/07/08(日) 01:16
戦前の卒業証書等には、氏名の前に”士族”や”平民”
と記載があったので、それ見れば?自分の祖父母が生きてりゃあ
覚えてるだろう。
617日本@名無史さん:2001/07/08(日) 03:30
↑へえ、そうなんだ、、。それぐらいなら、すぐ調べられるよね。
618日本@名無史さん:2001/07/08(日) 17:43
>602
阿多長寿院盛淳の父親って畠山氏らしいけど
管領の畠山家とどうつながるの?
619バロン曽志崎:2001/07/08(日) 20:10
>>618
阿多氏側の伝承では管領家の尾張守尚順の子に早世した昭国という子供がいて
その子の中務少輔頼国が薩摩に移ったとしているらしい。盛淳はその頼国の子。
ただし昭国以下、一般に流布している畠山氏関係の系図には見られない。
620日本@名無史さん:2001/07/09(月) 09:51
神皇正統記が書かれた小田城主小田氏治の流れは?
621日本@名無史さん:2001/07/09(月) 11:26
>619
ありがとう。
阿多氏はもともと藤原氏とどこかで読んだ気がするのですが。
622日本@名無史さん:2001/07/09(月) 15:26
>>603
先ずは調べよ。
そしてその経緯を報告して欲しい。
簡単に>>604の家は見つかるはず。

>>604
>・・・兄正光の勘気を受けて浪々
>・・・実子の正景があったが出奔して行方知れずとなり

濃い血だね(ワラ
623日本@名無史さん:2001/07/10(火) 00:41

大名じゃないけど・・・
サハリン飛行機墜落事故の4人のうち・・・山縣有○??


「関係者などによると、山縣さんは明治の元勲、山縣有朋の玄孫にあたる。(毎日新聞夕刊)」

だそうな。
624日本@名無史さん:2001/07/10(火) 01:20
>>623
俺もそう思ったけど、やっぱりそうだったんだね。
金あるな・・・
625日本@名無史さん:2001/07/10(火) 04:25
滅亡大名じゃあ、全然ないんだけど。群書類従を著した塙保己一の家系ってまだあるの?
なんか続群書類従なんとかっていう塙書房なる出版会社があるけど。日産社長の塙が
その子孫だって話しを、、、。
それと吉田松蔭あたりも子孫はいるのかな。
626日本@名無史さん:2001/07/10(火) 09:00
>>625
>>103を参照
塙保己一の孫が、伊藤博文の若かりしころ(博文と名乗る前)、
長州の危ない仕事に従事していた時、
何らかの邪魔になって殺されたって聞きました。
博文自身が斬り殺したらしいですが?
627バロン曽志崎:2001/07/10(火) 11:29
>>625
吉田松陰には子供はいなかった。甥の小太郎が吉田家を嗣いだけど若くして
死んだ。その養子も若くして死んだらしい。

>>626
暗殺されたのは孫ではなく子の忠宝ではなかったでしたっけ?
忠宝が仕事か趣味かはしらないが「廃帝」について調べていたとの噂がたって
時節柄、勤王派の連中に狙われて暗殺されたんだとか。
628日本@名無史さん:2001/07/10(火) 11:35
>忠宝が仕事か趣味かはしらないが「廃帝」について調べていたとの噂がたって
>時節柄、勤王派の連中に狙われて暗殺されたんだとか。

そんなことで、しかも「噂」で殺しちゃう奴らって・・
629名無しさん:2001/07/10(火) 12:18
>>623-624
山縣公爵家の現当主は、有徳。
630日本@名無史さん:2001/07/10(火) 16:58
>>629

落ちて助かったの、まさにそのヒトです。
631日本@名無史さん:2001/07/10(火) 17:00
勘違いしてるやつおおいけど。
ここは大名のスレだ。
632日本@名無史さん:2001/07/10(火) 17:11
>>627・628
今も昔もウヨは厭だね。学問の敵だ。理性じゃなくて感情でしか考えないもんね。感情と行動が直結してるなんて宅間みたいだね。
633日本@名無史さん:2001/07/10(火) 17:35
>632
何いってんだおまえ。
634日本@名無史さん:2001/07/10(火) 17:46
>>632
単なる煽りの相手するのもナンだが...
勤皇の志士たちは徳川幕府転覆させた分、
万年野党よりマシと思われ
横レスすまん<ALL
635日本@名無史さん:2001/07/10(火) 19:43
age
636日本@名無史さん:2001/07/10(火) 22:01
結局、長州のバカに殺されつつも、塙の子孫は続いてるのね。日産の社長の塙さんってやっぱり関係あるのかね。
637日本@名無史さん:2001/07/11(水) 08:48
ここは戦国に限らないんだよね。
室町・鎌倉もききたいです。
638日本@名無史さん:2001/07/11(水) 11:03
>>583
>近くの山の上に岩国城ってのがあって、広家以来代々あそこの城主。

岩国城は関ヶ原後の一国一城令で破却されて,広家しか城主ではない。今のは戦後,鉄筋コンクリートで復元されたもの。
また岩国が支藩になれたのは維新のとき。江戸時代を通じて毛利家の家老扱いだったが,将軍への謁見は出来た。ここは日本史板だから正確にね。
639日本@名無史さん:2001/07/11(水) 19:52
比企能員、大庭景親、山木兼隆、武蔵坊弁慶?
情報求む
640>639:2001/07/11(水) 19:58
>武蔵坊弁慶
熊野別当湛増の子孫なら、岡山にいたはず。
641日本@名無史さん:2001/07/11(水) 23:34
age
642日本@名無史さん:2001/07/11(水) 23:46
>>639
先ずは自分が調べたところまでのDATAを出せ。

調べてない?
先ずgoogleでも回せ。
643日本@名無史さん:2001/07/12(木) 00:27
>>638
>ここは日本史版だから正確に

同意です。
でも吉川なんてどうでもいい。
ここは「滅亡・改易大名家のその後」スレ。
644日本@名無史さん:2001/07/12(木) 09:05
>>642
文句言ってないでお前は調べたのか?
645日本@名無史さん:2001/07/12(木) 09:10
>>639
比企能員
一族の能本(よしもと?)なる人物が、鎌倉に妙本寺という寺院を建立してます。
全滅ではなさそうですよ。
薩摩島津氏も聞くところによると、比企氏の姉の末裔だとか?
広い意味では残ってるのでは??
646日本@名無史さん:2001/07/12(木) 11:10
比企理恵が比企氏の末裔
647日本@名無史さん:2001/07/12(木) 15:09
>639
ここは大名のレスだからね。
648日本@名無史さん:2001/07/13(金) 01:22
age
649日本@名無史さん:2001/07/13(金) 09:08
宮部継潤のその後を知ってる方、今したら教えてください。
>宮部継潤は72歳の天寿をまっとうしましたが、宮部家のその後はどうなったのでしょう。
 初め子どものなかった継潤は、秀吉の甥である信由(後の関白秀次)を養子にしています。しかし待望の長男長熈が生まれ、彼を後継者としました。長熈は、父の亡き後因幡四郡を譲り受けます。
 翌慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原合戦が勃発。最初、家康方である東軍に属していた長熈でしたが、途中で気が変わって石田方の西軍につき、伏見城や大津城を攻めました。戦いは東軍の圧勝となり、裏切った長熈は家康の怒りを買い、領地を没収されたうえ、陸奥(東北地方)の南部藩へ追放されてしまいました。
 寝返りが裏目に出たわけですが、父継潤のそれと比較するとなんとも皮肉な出来事です。この長熈の死により、以後の宮部家は、絶家となってしまいます。

直系は上記のように絶えてしまったらしいですが、一族などの関連があるかも?
650バロン曽志崎:2001/07/13(金) 10:28
長熈が盛岡で没した後、長男長之は藤堂家に仕えた。
次男長興は南部藩に召し出され666石。子孫は多賀氏を称し明治に至り宮部に復姓。
651649:2001/07/13(金) 12:22
>>650
バロン曽志崎さん、どうもありがとうございます。
ココのレスも最近、パワー不足になりつつあります。
何か起爆剤をお願いしたいのですが・・・
もちろん、多くの皆さんもお願いします。
652日本@名無史さん:2001/07/13(金) 23:55

長谷川秀一。

わたしには謎のこのヒトの業績・子孫の先を知りたいです。
653日本@名無史さん:2001/07/14(土) 01:01
おれは長宗我部一族のその後が気になるな。
同級生の女の子に長曽我部さんっていたが…
654日本@名無史さん:2001/07/14(土) 02:30
>>652
過去レス読んだ?
655日本@名無史さん:2001/07/14(土) 02:38
>>653
だいぶ前にテレビに出てたような。
バレエの先生してて、息子もその手伝いしてた。
故郷に元親の銅像を建てるとかいって、元家臣の
子孫と話してた。
656日本@名無史さん:2001/07/14(土) 02:54
足立七兵衛(長曾我部康豊)は実在の人物なのかなあ?
もしそうなら元親の血を伝える唯一の人物だけど。
657日本@名無史さん:2001/07/14(土) 22:31
小早川家はあのあと改易だったよね
658日本@名無史さん:2001/07/14(土) 23:18
>>656
それ誰ですか?どうか教えてください。
659656:2001/07/15(日) 00:23
>>658
司馬遼太郎の小説「おれは権現」に収録されている小説のひとつに登場。
長曾我部元親の六男にあたる人物が母親(伏見屋敷の下女だった)の実家で百姓の子として育てられるが、ある日長曾我部の旧臣が訪ねてきて、自分が元親の子だと知る。
大坂の陣が起こると、兄・盛親とともに大阪城に入るが落城。駿河に逃げる。
ある日殿様(たしか田中藩の酒井家)が狩りに出た際、狂人に出くわした。これを見た康豊がそれを取り押さえ、召し出されて酒井家に仕えた。
そのとき偽名で足立七兵衛と名乗ったが、後に長曾我部に復姓し、家老として出世する、という話。

このことは「長曾我部別記」と言う本に書かれているらしいけど、俺はこの本自体知らんので…
660日本@名無史さん:2001/07/15(日) 03:16

実在したの??
661日本@名無史さん:2001/07/15(日) 04:36
>>660
だからわからんというておろうに。
662バロン曽志崎:2001/07/15(日) 04:38
長宗我部家の直系はよく解りませんね。
盛親の末子に盛澄という者がおり、後の丸橋忠弥であるという話もありますが、
俗説の類でしょう。
信憑性がまだあるのは元親の弟で香宗我部氏を嗣いだ親泰の系統。
>>489にも出ていますが宗家は堀田家に仕えています。明治に入って直系は断絶
していますが。仙台藩にこの家の支流があります。
また、熊本藩の町氏は元親の次弟・吉良親貞の系統と伝わります。詳しい史料を
存じないのですが、祖の吉良左京進が細川家に仕え町源右衛門と称したとの事。
おそらく親実の子あたりに繋がるのでしょうか?明治に入り長宗我部氏に復して
います。
また元親の次男・香川親和の子孫を称する家も結構あるそうです。
663日本@名無史さん:2001/07/16(月) 01:50
筒井家
> 織豊・江戸前期の大名、キリシタン。大和生れ。慈明寺順国の子、筒井順慶の養子。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕える。初め養父の遺領をついだが、天正13年(1585)伊賀上野に移り、20万石を領す。文禄元年(1592)受洗。慶長13年(1608)松倉重政の忠告を聞き入れず、キリスト教を棄てなかったため、改易配流されたと伝える。元和元年死を命ぜられ、筒井家も断絶した。
これくらいしか分かりません・・・
ご存じの方いますか?
664日本@名無史さん:2001/07/16(月) 12:18
age
665日本@名無史さん:2001/07/16(月) 12:39
筒井家の末裔の一つは紀州家の家老
666日本@名無史さん:2001/07/16(月) 12:52
>663
直系は絶えた。
でも血族という筒井氏は町奉行に任じられるなど旗本としている。
だが、実際は別系統らしい。
その他、中坊氏なども旗本。
667日本@名無史さん:2001/07/16(月) 19:41
能登畠山氏の子孫は、
高家の畠山と高家の上杉の二つに別れたのは本当?
668バロン曽志崎:2001/07/16(月) 20:56
>>663
>>666さんがおっしゃるとおり旗本に順慶と同族という筒井家があるが疑問も多い。
寛政譜の家伝では祖の政行(順斎)を順慶の養子の一人慶之のに比定している向き
もあるが素人目にも事績に矛盾が見える。

>>667
一時、畠山義春(政繁か?)が上杉謙信の養子となって上杉氏を称していたという
事になっているので義春の子供達も上杉を称したという。
三男義真の系統が父とともに畠山氏に復した高家畠山家。次男長員は由緒あるとして
そのまま上杉氏を称した。これが高家上杉家。
ちなみに長男景広の系統も上杉氏のまま米沢藩士となった。
669日本@名無史さん:2001/07/17(火) 01:56
>>668
上条の姓は捨てちゃったの?
670日本@名無史さん:2001/07/17(火) 02:14
たしか上条はもともと越後上杉の分家、上条上杉氏。

だよね?(自信薄)
671バロン曽志崎:2001/07/17(火) 02:16
>>669
棄てている。畠山への復姓は徳川家康の命だとしている。
畠山義春が上杉家を去った理由に問題があると思われる。
畠山家側の伝承では直江兼続の讒言により出奔したとしているが、実際は上杉家
中での所領問題による対立が原因かと思われる。
672日本@名無史さん:2001/07/17(火) 03:22
>>659

田中藩の家臣一覧とかないかなぁ?
そこに「長宗我部」があれば・・・
673日本@名無史さん:2001/07/17(火) 05:23
>>672
田中藩というか酒井家だね。若狭へ転封になったらしいし。
674日本@名無史さん:2001/07/17(火) 07:43
http://www.hi-net.ne.jp/~rouage/sengoku/ichimon/yasutoyo.htm
どうやら実在の人物らしい
吉田康豊ってノブヤボに出てた様な気がする
675日本@名無史さん:2001/07/17(火) 07:45
>>674のwebmasterも信九郎物語からの知識らしい…鬱
676日本@名無史さん:2001/07/17(火) 07:55
http://www.dab.hi-ho.ne.jp/nobta/sub2.htm
足立七左衛門、若狭藩主酒井忠氏登場
1863/05/19(文久3)御先手者頭役を仰せ付けられ、これにより、50石御足高を下され置き、都合150石高を仰せ付けられ、足立七左衛門元組御足軽御頭と成され候。
やはり実在か?
677日本@名無史さん:2001/07/17(火) 11:11
>>674
>>675
そのWebサイト、むしろ盛親の息子達

長宗我部盛恒
長宗我部盛高
長宗我部盛信
長宗我部盛定
長宗我部某

がどうなったかのほうが気になるねぇ。
こんだけ一気に連座打ち首、ってことになるかなぁ?
真田(信繁)の子孫すら生き残ってるのに・・・

>>673
小浜の酒井でしたか!
678日本@名無史さん:2001/07/17(火) 11:19
>ちなみに三代将軍家光の乳母春日局は斉藤利三の娘です。
>元親の姪、信親、盛親の従兄弟に当たります

もう少し上手く立ち廻れればねぇ・・・(笑涙)
679日本@名無史さん:2001/07/18(水) 02:51
age
680日本@名無史さん:2001/07/19(木) 08:56
age
681日本@名無史さん:2001/07/19(木) 14:37
織田の家臣で坂井??っていたと思うのですが?
知ってますか
682日本@名無史さん:2001/07/19(木) 14:52
>681
坂井政尚
683日本@名無史さん:2001/07/19(木) 14:55
>>682
滅亡したの?
確か子供共々討ち死だったと思うが。
684日本@名無史さん:2001/07/19(木) 15:13
>682
滅亡はしてないでしょう。
一族門葉はたくさんいるだろうし。
坂井=酒井らしいし。
685日本@名無史さん:2001/07/19(木) 21:25
吉田松蔭は杉家の家系だったと思う
あの杉家は毛利の配下になって存続していたのかな
686日本@名無史さん:2001/07/19(木) 21:28
奥州の最上家はどうなったんだ?
687日本@名無史さん:2001/07/19(木) 21:42
>686
奥州じゃなくて羽州っていってね
688日本@名無史さん:2001/07/19(木) 21:46
>687
羽州人?
で、どうなったの?
689日本@名無史さん:2001/07/20(金) 00:28
江戸時代最後の改易大名の毛利家は
実力で改易を阻止しました。
690日本@名無史さん:2001/07/20(金) 01:57
>>686
交代寄合、所領は近江に5千石。
そもそもがいしゅつ(>>3)ですけど。
691日本@名無史さん:2001/07/20(金) 13:02
織田無道の先祖を洗わない?
自称、織田信長と徳川家光(←お江←市←織田信秀)の子孫
故に織田姓、三葉葵紋

家光の血が流れているってことは当時の大大名、公家クラス?
692日本@名無史さん:2001/07/20(金) 13:05

    _____________     モナー研究所ラボ
  /
  |  青汁吸虫の弱点が判りました・・・
  \_____________
          ____
      ΛΛ   ||:::::::::::||
     (   )―||:::::::::::||―――
     /   つ二二lニl       __________
   | ̄ ̄|__)―ΛΛ―――  /
   `ー┬‐''  (   )     < でも、出来るだけ解決を引き延ばしてください
     ┴   |  ヽ      \__________ (青汁飲むのやだもん)
          し___)〜
693日本@名無史さん:2001/07/20(金) 22:07
age
694那賀須泥毘古:2001/07/20(金) 22:07
シンリャクシャハ、ユルサナイヨ!♪(・∀・)〆
695日本@名無史さん:2001/07/20(金) 23:20
>691
ほかのスレさがしても沢山出てる話題だ。

結論を言うと一切がうそ。
そもそも織田無道の本名は青木だぜ。
696ななし:2001/07/20(金) 23:28
織田無道

反対から読んで
「ウド 無駄お」
697日本@名無史さん:2001/07/20(金) 23:47
織田無道の実家の青木家って本当は豊臣家と関係あるんだよね・・・・

「歴史読本」豊臣家の謎
「歴史読本」豊家崩壊
698日本@名無史さん:2001/07/21(土) 00:23
 ↑
699日本@名無史さん:2001/07/21(土) 00:47
>>697
その記事の詳細が知りたいですね。
青木一重の流れですか??
700日本@名無史さん:2001/07/21(土) 00:48
>>697
青木って越前の大名だった青木一矩の関係?
701日本@名無史さん:2001/07/21(土) 01:07
だいたいその青木家と家光がどう関係するの?
702日本@名無史さん:2001/07/21(土) 02:37
いやいやそれよりも無道の青木とその青木は本当に関係あるのか?
703日本@名無史さん:2001/07/21(土) 02:40
結構ありふれた名字だからなぁ
704日本@名無史さん:2001/07/21(土) 03:43
福岡、中州地区をジープで突っ切る。道ばたでは、生ごみが泥と混じって黒く変色し、異臭を放っている。 裸足の少年が紙くずをまるめたボールを追って、サッカーに興じていた。地元の非政府組織がストリート・チルドレンを集めて昨年つくった学校を訪れた。泥を固めたレンガの校舎に、長いすを並べただけの教室。窓から差し込むわずかな光で、子どもたちが本を読んでいる。児童・生徒は4歳から25歳まで、約300人に増えた。無認可のため、教師は全員本州からのボランティアだ。「メンタイコ!」子どもたちにカメラを向けると、博多弁のあいさつの大合唱が返ってきた。ハカタは、九州周辺にある10のスラムのうち、最も治安が悪いという。レイプや強盗が日常化し、伝染病もひんぱんに発生している。しかし、多くの善意に支えられ、子どもたちの表情はまぶしいほど明るかった。

福岡くさそ〜、実際くさいけどね(藁
705日本@名無史さん:2001/07/21(土) 03:44
福岡、中州地区をジープで突っ切る。道ばたでは、生ごみが泥と混じって黒く変色し、異臭を放っている。 裸足の少年が紙くずをまるめたボールを追って、サッカーに興じていた。地元の非政府組織がストリート・チルドレンを集めて昨年つくった学校を訪れた。泥を固めたレンガの校舎に、長いすを並べただけの教室。窓から差し込むわずかな光で、子どもたちが本を読んでいる。児童・生徒は4歳から25歳まで、約300人に増えた。無認可のため、教師は全員本州からのボランティアだ。「メンタイコ!」子どもたちにカメラを向けると、博多弁のあいさつの大合唱が返ってきた。ハカタは、九州周辺にある10のスラムのうち、最も治安が悪いという。レイプや強盗が日常化し、伝染病もひんぱんに発生している。しかし、多くの善意に支えられ、子どもたちの表情はまぶしいほど明るかった。

福岡くさそ〜、実際くさいけどね(藁
706日本@名無史さん:2001/07/21(土) 10:39
>702
無関係だよ
707日本@名無史さん:2001/07/21(土) 11:50
織田無道が荒らしてるのか?
708日本@名無史さん:2001/07/21(土) 23:51
>>704.705.無道
逝ってよし
709播州:2001/07/22(日) 01:31
1.仕事でよく兵庫県加東郡東条町ってとこ行くけど、六代将軍足利義教の首塚がある寺があって、そこの住職は、足利さんていうんですが、足利将軍家と関係ある人なんかな?
2.播州三木の別所長治の子孫は?旗本に別所氏っていたような気がするけど。あと、俳優の別所哲也って関係あんのかな?彼は、一応、慶応卒だからね。(慶応っていうとそんな人多そう)
710日本@名無史さん:2001/07/22(日) 01:43
>>709
別所長治の子孫はいないんじゃないかな。叔父で織田方についた別所重宗の子孫は残ってる。
711>710:2001/07/22(日) 01:47
なるほど。別所長治は若かったから、そうかもしれませんね。
どうもありがとうございました。
712日本@名無史さん:2001/07/22(日) 02:19
先般無くなった別所毅彦(元巨人の投手)は戦国時代の別所家ゆかりの
人だったらしいぞ。週刊ベースボールで読んだけど。
713日本@名無史さん:2001/07/22(日) 02:39
>712
名字が同じだとみんなそう主調するんだよ。
714日本@名無史さん:2001/07/22(日) 03:29
小田顕家って大名なの?
715日本@名無史さん:2001/07/22(日) 04:10
>>686
>>690

水戸藩の家老にもいるぞ。山野辺がさ。
716ななし:2001/07/22(日) 10:48
お寺の住職さんって
先祖を聞いてみると面白いかもね。

八丈島にも「源」姓の住職さんが居たが
鎮西八郎為朝伝説と関係あるのかな・・。
717日本@名無史さん:2001/07/22(日) 13:08
>>711
子供はいたが、全員殺された。
718日本@名無史さん:2001/07/23(月) 04:14
今日の大河ドラマ
北条時輔の子供ってどうなったの??
男子・女子いたけど。ドラマだから本当は殺されたのかな??
時輔自身逃亡説もあるけど。
719日本@名無史さん:2001/07/23(月) 04:33
>>718
ここには時輔の子は1290年に斬首されたとある。
ttp://member.nifty.ne.jp/jhforum/bu_kamakura.htm#houjiyou7
720日本@名無史さん:2001/07/24(火) 00:34
時輔系は残ってないのですね・・・
721日本@名無史さん:2001/07/24(火) 11:54

つか、鎌倉北条氏の子孫ってどのくらい、どういう風に残ってるの?
なんか存在感ないんだけど・・・
722722:2001/07/24(火) 12:59
JR目黒駅のすぐ近くに吉川のビルがある。
吉川の紋が大きくはいっているからすぐわかる。
うまいこと商売してんだな。
723日本@名無史さん:2001/07/24(火) 19:55
724日本@名無史さん:2001/07/24(火) 20:26
尾張の横井氏、相模の田中氏が自称北条氏後裔
725日本@名無史さん:2001/07/24(火) 20:48
>>723
そのサイトすごくいい!
726自称柴田の後裔:2001/07/24(火) 20:49
徳山秀現、原長頼、拝郷家嘉、毛受家照、山路政国の情報希望します。
毛受氏=毛受の子孫が賎ケ岳の戦いの後、前田家に仕えたという事。
 一端、三井姓を名乗り、江戸末期に再び毛受姓に戻ったと聞いています。
 現在、金沢市の野田山の前田利家の墓の隣に毛受姓の墓が5基ほどあるそうです。
 毛受姓の墓石には、毛受兼庵先生とか毛受大学と書いた墓があるようです。
 毛受兼庵先生、毛受大学について詳しくはありませんが子孫の方なのでしょう。
 情報を頂いた方の母方が毛受(めんじゆ)姓だそうです。

これくらいしか分かりません・・・
727日本@名無史さん:2001/07/24(火) 21:20
>>726
拝郷家嘉(五左ェ門)の子孫嫡男に治太夫。次男、孫十郎。
 治太夫は家嘉没後、落ち延びて後、丹羽長重に仕えた。
 浅井畷の合戦で戦死。
 孫十郎は尾張津島に落ち延び後に織田長益(信長弟)に仕え百貫文知行。
 2代経た正直が尾張徳川家に仕えて以降、代々尾張徳川に仕え現在に至る。

だそうです。
728727:2001/07/24(火) 21:29
>>726
原長頼については、
山岐安房守頼房の子で通称彦次郎、隠岐守を称す。はじめ織田信長のち豊臣秀吉に仕える。信長の下では荒木村重討伐、柴田勝家に属した賤ヶ岳の戦いでは先鋒を務め奮戦、能登末森城の戦いでは前田利家に属した。関ヶ原では西軍に属し活躍したが、敗戦後脱出して十月十三日に自刃した。
美濃太田城主三万石

ってこれ子孫の情報じゃないね。スマソ。
729日本@名無史さん :2001/07/24(火) 23:58
本多正信・正純の子孫は?
730日本@名無史さん:2001/07/25(水) 16:17
長宗我部に関して。

>京中を引き廻され六条河原で斬首。その首は三条河原にさらされた。享年41と伝わっている。ここに長宗我部氏の嫡流は断絶した。一節によるとその子息は仙台藩伊達氏に仕え、名を津田丹波と改めたというが明らかではない。

津田丹波?

http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/Rekishi/DramaticBlood/contents/chosokabe.html
731日本@名無史さん:2001/07/25(水) 17:10
>729
正純の直系子孫なし。
正信は正純の弟が越前松平家中で3万石。たしか男爵。
732鎮西奉行:2001/07/26(木) 00:32
少弐氏の家系は、どないなったの?
竜造寺に敗れたとか聞いたことあるような気がするんやけど。
733日本@名無史さん:2001/07/26(木) 02:16
>>732
少弐冬尚の代で滅亡したけど、松浦党に養子が行ったらしい。
筑紫氏も一族だけど…
734日本@名無史さん:2001/07/26(木) 03:45
少弐もあわれだな・・・
松浦党の養子の行方はどうなったのかな?
735日本@名無史さん:2001/07/26(木) 06:57
本多政重(正信二男)が前田家に仕えてます。
5万石で筆頭家老。
736日本@名無史さん:2001/07/26(木) 07:43
>>734
竜造寺にびびって寺に幽閉したらしい。その後は不明。
737日本@名無史さん:2001/07/26(木) 10:45
龍造寺にびびるってことは結局は戦国時代で少弐氏も終わったのですね。
残念。
でも、少弐って当主がコロコロ戦死してませんか?
738日本@名無史さん:2001/07/26(木) 11:11
鍋島も少弐一族だぜ。
739日本@名無史さん:2001/07/26(木) 12:10
鍋島は、自称佐々木氏でしょう。
740日本@名無史さん:2001/07/26(木) 12:31
>735
石高は一番多いけど筆頭家老ではないですよ。
741日本@名無史さん:2001/07/26(木) 13:20
>739
鍋島氏は自称少弐一族。
742日本@名無史さん:2001/07/26(木) 17:25
>>739 >>741
鍋島は、当初、藤原北家少弐流を名乗っていたが、後に宇多源氏に改姓(復姓かも)した。
系図纂要によると、系図上は、鍋島直茂は竜造寺隆信の養子になっていた。
743日本@名無史さん:2001/07/26(木) 18:24
>742
宇多源氏とのつながりはどういうもの?
744日本@名無史さん:2001/07/26(木) 18:25
いつ改姓したんだ?
745日本@名無史さん:2001/07/26(木) 18:30
>>743
佐々木は宇多源氏だろ?
746日本@名無史さん:2001/07/26(木) 18:36
>745
だからさ、佐々木氏でも宇多源氏でもいいけど
どういうふうに系譜をつなげているかってことをききたい。
747少弐 資時:2001/07/26(木) 20:51
福岡博?だったかで展示してる「少弐の館」に行ってみたいよ。
748日本@名無史さん:2001/07/27(金) 00:26
>>740
「前田家 筆頭家老」で検索しろ
749日本@名無史さん:2001/07/27(金) 00:35
 前田家の八家で家格が最上位は石高が最も低い前田土佐守家。
筆頭家老はその時々で変わるんじゃないの?
 土佐守家が家格が高い理由は血筋です。
利家次男の利政(母・芳春院)の子孫なので、ある意味で前田家の嫡流。
750日本@名無史さん:2001/07/27(金) 00:42
>748
検索したけど何か?
751日本@名無史さん:2001/07/27(金) 00:51
>石高は一番多いけど筆頭家老ではないですよ。
752日本@名無史さん:2001/07/27(金) 00:53
>751
753日本@名無史さん:2001/07/27(金) 00:59
>>750
本多政重家が筆頭家老ではないというソース希望
754日本@名無史さん:2001/07/27(金) 01:54
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/kankou/meisyo/kensyuhen/hondamu/hondaJ.html
金沢市のHPには筆頭家老って書いてあるみたいですが…。
755日本@名無史さん:2001/07/27(金) 04:13
鍋島の本当の先祖は不詳だよ。
756日本@名無史さん:2001/07/27(金) 07:48
少弐は話題として終わったの?
757日本@名無史さん:2001/07/27(金) 09:51
つまり、一族は除く、って表現なんじゃないの?


「豊臣秀長が豊臣家中で筆頭じゃん!」
・・・っていうとなんか・・・
「いやそれは弟だからおいといて、それ以外でさぁ」って気がしない?
758日本@名無史さん:2001/07/27(金) 12:47
>757
(禄高が)筆頭(の)家老(年寄) 本多家
(家格が)筆頭(の)家老(年寄) 前田家(利政系) 
759日本@名無史さん:2001/07/27(金) 13:04
筆頭家老って固定だと思っているオバカさん。
760日本@名無史さん:2001/07/27(金) 13:10
740は逃げたのか?
761日本@名無史さん:2001/07/27(金) 13:19
>760
失礼な!
前言を758のように修正させていただきました。
762日本@名無史さん:2001/07/27(金) 13:24
>761
だからさ、筆頭なんて言葉を使うからおかしくなるんだよ。
763バロン曽志崎:2001/07/27(金) 14:46
やー久しぶり。

>>677
盛親の子供達については詳しく知られていない。軍記物のレベルでは全員、捕縛
されて殺害されている。
大坂の陣の際に大野道犬につれられて脱出した豊臣秀頼の子・国松は後に捕縛さ
れて処刑されるわけだけど、実はこの国松は盛親の五男某であって身代わりになって
処刑され、国松は薩摩落ちしたとされている始末。にわかに信じづらい。

>>729
なんか本多家の事で荒れてるみたいだが、そもそも正純の系統は断絶していないが・・・。
正純の子・正勝は父に連座して佐竹家預かりとなり、子の正之が暫く成瀬正虎の
許で逼塞したあと赦免を受け禄米二千俵で寄合に召し出されている。
後に三千石となり旗本として存続しているが。子孫も現存されているはず。

>>730
たしかにそのいう話も聞いたことがあり調べた事がある。
仙台藩の津田家はたしかに祖を丹波と言うらしいが、もとは湯目氏といい、譜代の
家臣らしい。結局、長宗我部家とのつながりは解らなかった。

>>743
鍋島氏は系図上、宇多源氏系の佐々木流長岡氏からの発祥で、長岡経秀の時に
肥前に下向して鍋島を称したとしているんだよ。子の経直が少弐氏から養子を
迎え入れた。これが直茂の曾祖父・清直に当たる。
あくまで鍋島氏側の主張。

とありあえず、すぐ答えられるのはこれくらい。
764日本@名無史さん:2001/07/27(金) 14:49
>762
735に言ってくれ。
765日本@名無史さん:2001/07/27(金) 19:53
あはははは
766αジョーカーω:2001/07/27(金) 20:03
私事ですが、私の先祖は津野氏家臣で、
津野氏親族は地下浪人という(武士の)最下層身分に
なったらしいのに、私の御先祖は、山内氏入国の際に
便宜を図り浦戸一揆鎮定にも功が有ったらしく(あくまで
伝承です)、山内氏に取り立てられました。
当初は郷士百人衆(?)とかなんやらとして、
次いで上士の最下級たる留守居組格に。
山内氏に協力したのは浪人になりたく無い事や
主君を殺した長曾我部盛親への憎しみから
判るけども、肝心の旧主君の子孫が地下浪人じゃ・・・
767井沢元彦:2001/07/27(金) 20:09
AV女優時代の飯島愛は今の飯島愛と別人!。奇兵隊時代の大室寅之祐は明治天皇とは別人!)
768日本@名無史さん:2001/07/28(土) 03:37
>766
山内の政策って露骨だね。
769日本@名無史さん:2001/07/28(土) 20:21
w
770日本@名無史さん:2001/07/28(土) 22:32
age
771日本@名無史さん:2001/07/29(日) 07:45
関ヶ原の寝返り武将の脇坂・朽木・赤座・小川の緒将って
どうなったんだ?
772日本@名無史さん:2001/07/29(日) 12:40
>771
過去スレよんどけ。
773日本@名無史さん:2001/07/29(日) 12:47
↑ ヴァカ発見
774日本@名無史さん:2001/07/29(日) 12:59
>>771
赤座と小川は改易。
775日本@名無史さん:2001/07/29(日) 13:38
脇坂家はのちに堀田家から養子を貰って譜代格になり、播磨竜野に5万3千石。

朽木家は元綱が3人の子供に領地を分けたので子孫は万石を割り旗本に。
長男の家系は交代寄合、近江朽木谷に4770石。
でも3男稙綱は旗本から取りたてられて若年寄になり
子孫は譜代大名、丹波福知山3万2000石。
776日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:25
>773
なんで?
777日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:26
↑ ヴァカ発見
778日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:27
>777
なんで?
779日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:28
>777
なんで?
780日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:28
↑ ヴァカ発見
781日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:29
↑ ヴァカ発見
782日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:29
↑ ヴァカ発見
783日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:30
↑ ヴァカ発見
784日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:30
↑ ヴァカ発見
785日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:31
↑ ヴァカ発見
786日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:31
↓ ヴァカ発見
787日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:31
↑ ヴァカ発見
788日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:31
↑ ヴァカ発見
789日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:31
なんで?
790日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:31
↑ ヴァカ発見
791日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:33
↓ ヴァカ発見
792日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:33
>771
過去スレよんどけ。
793日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:33
関ヶ原の寝返り武将の脇坂・朽木・赤座・小川の緒将って
どうなったんだ?
794日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:33
なんで?
795日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:34
>>791
ナイス!!!
796日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:34
↑ ヴァカ発見
797日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:35
なんで?
798日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:35
↑ ヴァカ発見
799日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:35
↓↑  ヴァカ発見
800日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:36
↑ ヴァカ発見
801日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:36
たのしい?
802日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:37
わいはヴァカやない
プロゴルファー猿や
803日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:37
なんで?
804日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:37
↓↑  ヴァカ発見
805日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:38
↑ ヴァカ発見
806日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:38
なんで?
807日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:38
↑ ヴァカ発見
808日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:39
たのしい?
809日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:39
↑ ヴァカ発見
810日本@名無史さん:2001/07/29(日) 16:41
ゲイノナイヤツ
811日本@名無史さん:2001/07/29(日) 17:06
735に言ってくれ。
812日本@名無史さん:2001/07/29(日) 17:08
735出てこ〜い。
813日本@名無史さん:2001/07/29(日) 17:13
735← ヴァカ発見
814日本@名無史さん:2001/07/29(日) 18:57
ヴァカばっかり
815日本@名無史さん:2001/07/29(日) 23:30
>>777-814
多分、面と向かったら何にも言えないヤツなんだろうな。
816日本@名無史さん:2001/07/29(日) 23:47
↑ おまえもな。
817771:2001/07/29(日) 23:53
>>774-775
どもありがとう。
818日本@名無史さん:2001/07/30(月) 00:33
いやさ・・・
荒らすんなら、こういうマジメなスレ以外にしなよ。

で、

 
田丸忠昌の子孫どなたかご存知ないですか?
819日本@名無史さん:2001/07/30(月) 00:40
>818
田丸直昌とは別人ですか?
820771:2001/07/30(月) 00:50
言っとくが↑で荒らしたの俺じゃないぞ。
821735:2001/07/30(月) 01:33
>>740呼んだ¿
822日本@名無史さん:2001/07/30(月) 02:27
俺のじいさんが死ぬ間際しきりに「うちの家は細川越中守忠興だ!」
っていってたんだけど、ずっと栃木なんだよね・・・。
一応、九曜紋なんだけどどう思う??ほんとか??
823日本@名無史さん:2001/07/30(月) 02:29
>>822の訂正
「うちの家の先祖は細川越中守忠興だ!」
です。。。
824日本@名無史さん:2001/07/30(月) 02:55
>>823
細川前総理と交友はあるんですか?
825822:2001/07/30(月) 02:58
全くナシ!
826日本@名無史さん:2001/07/30(月) 03:09
細川総理は近衛の流れだしなあ。
822のじいさんが家紋が同じなら先祖!って思ってしまった可能性もないではないな。
827日本@名無史さん:2001/07/30(月) 03:09
細川忠興の弟興元の家系が
下野・常陸あたりで1万数千石かそこらの外様小藩だったはずだけど。
可能性があるならそっちかもね。
828日本@名無史さん:2001/07/30(月) 03:13
しかし、細川家ほどの家の子孫なら
家系図ぐらいあると思うんだが。
及び、親戚との関係とか。
829822:2001/07/30(月) 03:23
家系図やら刀やら鎧やらいろんなものが有ったらしいが、
骨董品屋に戦後すぐ売っちゃったらしい。
大名系なら親戚関係もあるだろうが、そんなのないから
あるとすれば家臣系なのかな。。近所の人に聞いたら
「あんたの家はれっきとした細川家だよ。」って言ってたが。
そして全く関係ないんだが戦争中、金鵄勲章もらえる基準って
そういう基準なの??関係なくてごめんね。
830日本@名無史さん:2001/07/30(月) 03:39
殿様に子供がたくさんいて、家臣になった筋かもしれないね。
831822:2001/07/30(月) 03:44
皆さんごめんなさい。ここ家系スレじゃないね。。
逝ってきます。
832日本@名無史さん:2001/07/30(月) 08:55
>>831
別にいいんじゃないのかな?
この議論で新しいこと分かるかも知れないし。
でも、
明治維新と戦後のどさくさで家宝は散逸した家って結構あるんですね。
833RE::2001/07/30(月) 10:27
>819
>>田丸直昌とは別人ですか?

 田丸直昌は関が原の戦で越後に追放になった後、2年後に許されて蒲生秀行に預けられました。
 その後、直昌は仏門に入り、100歳まで生きたと言う言い伝えがあるようです。没年月日、墓所等は不明とのことです。
 この子孫はわかりませんが、会津藩で、田中正玄、田中玄宰、田中土佐等を輩出した田中家は直昌の兄田中直茂(次郎右衛門玄儀)の子孫だと称しています。
834日本@名無史さん:2001/07/30(月) 10:54
>833
田丸忠昌と田丸直昌は同一人物かどうか知りたかったのですが。
835833:2001/07/30(月) 11:36
>834

インターネットで田丸忠昌を調べると直昌と経歴が似ているので、同一人物に思えるけど、私の知識ではわからないとしかいえません。
836日本@名無史さん:2001/07/30(月) 11:44
>835
そうですか。
ありがとうございます。
どちらもただまさと読めるので同一人物かな?と。
最初の質問は忠昌の子孫ということだったので・・・。
837日本@名無史さん:2001/07/30(月) 12:58
>836
田丸の実名は複数あります。
直昌、忠昌、具忠、直息など。
なぜかは知りません。改名したのか間違えているのか。
838日本@名無史さん:2001/07/30(月) 13:12
>>818
「戦国武将 岩村城主 田丸直昌と北畠・田丸氏の歴史」
という本があります。(読んだことないけど)
直昌の子直茂が前田利長に寄寓し、その子孫は前田家の重臣となった。
839日本@名無史さん:2001/07/30(月) 13:46
は、最初に田丸質問したものです。

手土産です。
http://www3.justnet.ne.jp/~tohrutj/tamaru.htm
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake.html
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake8.html

 
この人不思議ですよねぇ?
・国司北畠家の一族
・なので官位が中務太輔なんて結構な・・・
・蒲生氏郷と縁戚?
・豊臣期の目立った業績ナシ。
・家康による最初の領地換えの例(権力掌握の始まり)


・何故か西軍
840日本@名無史さん:2001/07/30(月) 14:27
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake17.html

に拠ると、なおまさのあとに
田丸直茂
田丸主膳

あと、田丸左門ってのがいますね。
841日本@名無史さん:2001/07/30(月) 23:24
>>839
 蒲生氏郷の妹(姉説もある)を娶ってます。結婚の経緯はわかりませんが、
氏郷の叔母や姉妹は神戸・関など伊勢に嫁いでいるのでその一環ではないかと。
842日本@名無史さん:2001/07/31(火) 00:06
田丸直昌って一人だけ小山から帰って西軍に付いたんだよね。
843日本@名無史さん:2001/07/31(火) 00:27
幕末の水戸藩に田丸直昌の子孫がいたと思うが。
844日本@名無史さん:2001/07/31(火) 04:32
品川辺りまで来て、やっぱり太閤の子には弓を向けられぬ。
と言う事で、江戸の家康に会いに行ったら、本田正信が
相手して、お好きな方につかれよといったが、
即座に田丸どういう人物か分らなかったらしい。
845日本@名無史さん:2001/07/31(火) 17:55
会津征討軍の武将で唯一の西軍寝返り。
846日本@名無史さん:2001/08/01(水) 01:38
田丸みすずと関係あるの?
847日本@名無史さん:2001/08/01(水) 02:55
石田三成と本を貸し借りする仲だったというのは本当かな?
848日本@名無史さん:2001/08/01(水) 06:36
エロ本まで貸し借りするほどのマブダチだったらしいよ。
武家事紀に載ってた。
849日本@名無史さん:2001/08/01(水) 07:37
日本人はきちんとした文化をもっていたということだ。
ロスケは何も残していないということだ。
精神文化とかはチェーホフやトルストイとかチャイコフスキーとか出ているが
あくまでもヨーロッパ部で貴族層のもの、庶民は何の文化も伝統もない。
850日本@名無史さん:2001/08/01(水) 07:38
前のは間違った、
851日本@名無史さん:2001/08/02(木) 10:56
age
852日本@名無史さん:2001/08/02(木) 10:58
せっかくだから、旗でも立てておこう。

 ___
│掠疾│
│如如│
│火風│
│不徐│
│動如│
│如林│
│山侵│
│――




853日本@名無史さん:2001/08/02(木) 11:10
>>845
真田昌幸もいますが?
854日本@名無史さん:2001/08/02(木) 14:46

なのにどうしてこうもマイナーなんだ田丸忠昌・・・

・計算の上で(当時の城地は、よく見ると結構重要なポジション)
・義理で

・故・蒲生〜石田ラインは有り得たか?
・単なる友情か?

・で、お前は強いのか田丸?

・・・・・・謎が多いですね(笑)
855日本@名無史さん:2001/08/02(木) 17:22
そこが魅力?
856日本@名無史さん:2001/08/02(木) 22:41
>故・蒲生〜石田ラインは有り得たか?

蒲生つながりなら秀行を助けるだろう。
857日本@名無史さん:2001/08/02(木) 22:47
 でも、蒲生秀行の寵臣の岡重正の妻は石田三成の娘なんだよ、なぜか。
で、この夫婦の孫が徳川家光の側室お振の方。
858日本@名無史さん:2001/08/02(木) 22:59
>・で、お前は強いのか田丸?

ワラタ。
859日本@名無史さん:2001/08/02(木) 23:01
>>857
秀行本人ならともかく家臣の話されても…
860日本@名無史さん:2001/08/03(金) 00:11
いやいや、寵臣ってのが怪しくないか? もしかしたら血縁関係があったかも?
861日本@名無史さん:2001/08/03(金) 14:20
秀吉から見た家格って、石田家=蒲生家じゃない?
岡家は陪臣でしょ?

仮に「近江閥的上下関係(蒲生>石田)」があるとしても・・・
それでも他所の陪臣に娘を嫁がせる・・・って

マイナーだけど、例えば上杉家における直江のような
扱いだったのじゃないかなぁ?<岡家
862日本@名無史さん:2001/08/03(金) 14:24
もともと秀吉の直臣で、蒲生付きになったんじゃないの?
863日本@名無史さん:2001/08/03(金) 15:07
 近江閥といっても、蒲生はもと六角家の重臣で、
石田は浅井家(京極家か?)の家臣だから、もともとは敵。
 岡家は蒲生家臣の中で特に地位が高いわけではない。
田丸・関は与力大名なので別格としても、坂・町野氏などのほうが
地位は上。岡重正は氏郷の代ではただの小姓だったようだが、
秀行の代のしかも関ヶ原後になって急に出世してる。
 秀行夫人(家康娘)とは不仲で、秀行没後に彼女と対立し処刑されてる。
864日本@名無史さん:2001/08/03(金) 15:14
>>863
じゃますますわからんねぇ。

そして強いのか田丸!?
865日本@名無史さん:2001/08/03(金) 22:31
 田丸は留守番任されていることが多いので、
強くはないけど信用はされてたのではないかと。
関が原で改易され一旦は越後に流されたが、すぐに許され
秀行のいる会津で生涯を終えたことを思うと、秀行との仲も
悪くはなかったのでしょう。
866日本@名無史さん:2001/08/04(土) 00:22
秀行の代に出世して、夫人と不仲…
まさか、おホモ達?
867日本@名無史さん:2001/08/04(土) 00:23
868日本@名無史さん:2001/08/04(土) 00:43
>>865
許されたって言っても立花君のように領地は貰えずだしねぇ・・・
やっぱり弱いのか田丸!
869日本@名無史さん:2001/08/04(土) 00:51
>>868
それは立花のほうが特殊。
870日本@名無史さん:2001/08/04(土) 01:32
>>869
大身(大名)じゃなくても旗本、陪臣クラスなら結構いるじゃん。
なのに、領地は貰えてないぞ。<田丸。

5万もあったのに。
871名無し:2001/08/04(土) 08:46
鎌倉末期に後醍醐天皇の倒幕に
参加した美濃の多治見国長の
末裔に就いて知りたいです。
結構名門のはずですが、以降多治見氏の
名を聞きません。
872日本@名無史さん:2001/08/04(土) 20:13

じゃオレも
壬申の乱の時の、天武側の幾多の武将、
特に重用されていたと思われる村国氏は一体・・・

成り上がりは地に付かないということでしょうか?
873日本@名無史さん:2001/08/05(日) 04:53
>>871
多治見氏
【清和源氏頼光流】
源満仲の長子、頼光にはじまる清和源氏諸流の正嫡の流れである。 摂津国多田荘に本拠を置いたことから摂津源氏、多田源氏とも称する。
ほかに摂津国太田荘、越後国小国保などにも支流が広がる。
頼光流の中で永く続いたのは美濃国土岐郡を本領とした国房の流れで、美濃源氏、土岐源氏とも称する。
同じ一族に不破氏があるらしい。

いまでも岐阜県には多治見さんはいっぱいいますね。
874名無しさん:2001/08/06(月) 13:43
871>>873
ありがとうございます。
多治見さんて一杯いるんですね。
失礼しました。
875日本@名無史さん:2001/08/07(火) 08:53
age
876多治見氏:2001/08/07(火) 09:26
現在の岡山県北部に定住した一族は、毛利氏の尼子残党狩りに
貢献して多大な田畑を所有する豪農となったが、残党狩りを主
導した当主は発狂して村人を大量虐殺、人々は尼子の落武者の
祟りとおそれた。
その後も家は絶えることなく栄えたが、戦後、当主が発狂して
大量殺人を犯した後に失踪。そのまた、数十年後に莫大な資産
を狙った大量殺人事件が発生し、直系の子孫は完全に絶えた。
現在は、資産を相続した親族が同地で石灰工場を経営している。
877日本@名無史さん:2001/08/07(火) 10:00
藤堂高虎は尼子の一族です。と言ってます。犬神人です。甲良です。
高虎はジャイアント馬場の先祖です。
878名無しのオプ:2001/08/07(火) 13:56
>>876
おいおい、八墓村かよ。
そういやあれも多治見氏だっけ?
879日本@名無史さん:2001/08/07(火) 23:34
多治見、恐るべし!
880日本@名無史さん:2001/08/07(火) 23:47
めちゃくちゃゆうとる。
881日本@名無史さん:2001/08/08(水) 04:33
>>872
壬申の乱の軍功によって中央進出の礎を築いた男依は
没後外小紫(従三位)、子の志我麻呂は従五位上、孫の嶋主は従五位下、
一族の子虫・虫麻呂・子老は外従五位下に至ったが、嶋主・虫麻呂・子老が
仲麻呂の乱に連坐し衰退した。その後は外従五位下息継、同数子、
陰陽師正六位上業世、その子天文生春沢が見える程度である。
美濃国各務郡村国郷(各務原市鵜沼)出身の地方豪族で
郡内に式内社村国神社・村国真墨田神社が存することからも
かなり有力な豪族であったことが窺える。おしいことしたなあ。
882日本@名無史さん:2001/08/09(木) 22:08
age
883日本@名無史さん:2001/08/09(木) 23:26
>>881
でも朝廷では優遇されてないよねぇ。
衰退するまでもなくだんだん・・・ジリ貧気味とでも言うか・・・

後世の受領の走りみたいなものか?
・地元があるから金&実力(軍事力)はある
・けど朝廷の官位は低い。
884日本@名無史さん:2001/08/13(月) 04:39
age
885学べ飽き房:2001/08/13(月) 11:21
新井白石の藩翰譜は出版されていないのでしょうか?
886日本@名無史さん:2001/08/13(月) 23:39
>>885
群書類集
887日本@名無史さん:2001/08/14(火) 05:20
いやあの・・・大名じゃないんだけど

今話題の在中国大使、阿南って
あの阿南大将の息子ではなかったですっけ?

・・・大胆人事!(笑)
888日本@名無史さん:2001/08/14(火) 09:03
888GET
889日本@名無史さん:2001/08/14(火) 09:16
>>887
まぁ、親と子は別人格だしね。
それに阿南大使は親中派らしい。
890日本@名無史さん:2001/08/14(火) 21:07
だが阿南は阿南だ・・・
あえて彼を配置し、
「帝國じゃない、日本国を見て〜」と晒す日本政府恐るべし・・・

森首相の仕業らしいけど・・・
891日本@名無史さん:2001/08/15(水) 05:18
あのさ、くだらなくて悪いんだけど

ヤン・ヨースティン(八重洲)
三浦案針

この子孫はいるのですか?
八重洲のほうは帰国した、と聞いたことがあるけどホント?
かなり無茶な人生だったらしいけど。
892日本@名無史さん:2001/08/15(水) 07:11
八重洲はフィリピンかどこかで殺されたのでは?
893日本@名無史さん:2001/08/16(木) 01:06
age
894日本@名無史さん:2001/08/16(木) 23:17
八重洲なんていう人間はいません。
895日本@名無史さん:2001/08/18(土) 00:20
oh,yes!!
896日本@名無史さん:2001/08/18(土) 00:48
>>891
ヤン・ヨーステンは南シナ海で遭難して消息を絶った…
と今たまたま読んでた「航海者」(白石一郎のウイリアム・アダムズ物)に書いてあったよ。ホントかどうかはわからんが。
897日本@名無史さん:2001/08/18(土) 12:10
岡重正=岡重政
898日本@名無史さん:2001/08/19(日) 03:29
岡平内
899あぼーん:あぼーん
あぼーん
900日本@名無史さん:2001/08/19(日) 04:47
900じゃ!
901日本@名無史さん:2001/08/19(日) 11:08
 ↑ ヴァカ発見
902まあ:2001/08/19(日) 14:52
親子は別人格という点は、中京は徹底してるかもナ。
903日本@名無史さん:2001/08/22(水) 20:19
age
904教えて:2001/08/22(水) 21:53
例えば、御三家のセガレとかって、3万石位もらったりするじゃない?
あと、柳沢家のように、どんどん出世したりとか。
こういう場合の家臣団ってどこから来るの?
やっぱ、旗本の次男坊とか?
905日本@名無史さん:2001/08/22(水) 22:50
>>904
来る波があれば
引く波もあるのです、、、(泪)
906日本@名無史さん:2001/08/23(木) 02:25
改易大名の子孫は、大抵、近隣の藩の中級藩士(500石〜1000石)
でしょう。
907日本@名無史さん:2001/08/24(金) 21:49
>>906
例えば?
908日本@名無史さん:01/09/04 03:56 ID:DbOR58ms
時代劇に出てくる浪人ってなんか先祖代々浪人やってそうだよね。
ところで新スレはいいのか?
909日本@名無史さん:01/09/05 19:33 ID:7ngQvkxw
age
910日本@名無史さん:01/09/10 01:04

仙台藩における葦名氏、米沢藩のける葛西氏
とかかな
911日本@名無史さん:01/09/11 01:17
蘆名家は秋田(佐竹家)藩士じゃなかった?
912日本@名無史さん:01/09/11 13:19
>911
たしか秋田の方は絶家。
仙台には、針生改め蘆名氏がいた。
913日本@名無史さん:01/09/17 07:10
個人的に好きなスレなのでageとく
914日本@名無史さん:01/09/17 08:41
>>912
その蘆名氏の子孫の方に城跡を案内してもらったことがあるよ。
でも、その方のおうちは仙台じゃなくて盛岡だった。
915日本@名無史さん:01/09/17 08:44
歌人・与謝野鉄幹(政治家の与謝野馨氏の先祖)と親交のあった
大阪の住職・河野鉄南は、伊予水軍・河野氏の末裔らしい。
916日本@名無史さん:01/09/17 08:49
大阪市平野区のある神社の神官が坂上氏で、坂上田村麿の子孫だと聞いたが、
現在も続いているのか?それともフツーの勤め人になったのか?
917日本@名無史さん:01/09/17 08:50
新スレきぼーん
918日本@名無史さん:01/09/17 08:55
大阪の薬品会社のオーナー一族に小西家というのがある。小西行長の直接の
子孫ではないだろうが、親の代かその前に分かれた筋と聞いたような気がす
る。行長の実家は薬種問屋。
919日本@名無史さん:01/09/17 09:03
914だけど、記憶違いだったかも。スマソ
920日本@名無史さん:01/09/17 18:59
新スレきぼーん
921日本@名無史さん:01/09/22 12:23
新スレきぼーん
922日本@名無史さん:01/09/22 12:31
>>916
坂上田村麻呂の子孫は東北の田村氏(伊達政宗の妻の実家)だったような…?
923日本@名無史さん:01/09/28 21:10
>894
そんなことは知ってるよ。
常識として分かるだろ?
924日本@名無史さん:01/09/28 22:17
>>923
腐スレに遅レス。カコイイ!!
925日本@名無史さん:01/09/28 23:17
sage
926日本@名無史さん:01/09/29 01:16
>>67
龍造寺の子孫は龍と名乗っているようです
腐るほどいます
927日本@名無史さん:01/09/30 04:21
大内家臣の陶・杉・青景・冷泉に興味あります。
何卒、末裔を御教授いただきたく候
928日本@名無史さん:01/09/30 04:22
秀吉の血脈はやっぱり現在には残っていないのか?
929筑前煮:01/10/02 01:26
秀吉の直系はないだろ?
鹿児島に生き残りがマジでいれば別だが。
930日本@名無史さん:01/10/02 23:23
政所執事の伊勢氏の子孫は?
後北條氏?
931日本@名無史さん:01/10/03 10:03
>>928
>>929
いやだから、木下、浅野でよければ・・・
932日本@名無史さん:01/10/03 10:30
そんなバッタモンは秀吉の子孫じゃないだろう。
兄弟の子孫ですらないし、むしろほとんど無関係だろう。
933日本@名無史さん:01/10/03 22:29
一応、公家の九条家が豊臣秀勝(秀吉の甥)の血をひいてるが……
934日本@名無史さん:01/10/03 23:49
>>933
それは木下弥ェ衛門の血を引いてるというだけで…
935日本@名無史さん:01/10/03 23:54
だれか927と930わかんないの?
936一応、ガイシュツ。:01/10/04 00:12
>>928
日出木下家、三代(?)利房の末弟、外記又は宗連と号す。
                    ・・・・秀頼。
利房弟、延俊二代俊治の弟、延由の後の延次。
                    ・・・・国松。
尚、この家は日出内に五千石をあたえられ

家紋は、”菱ニ十文字”だそうな。
937日本@名無史さん:01/10/04 00:36
尾張の斯波氏ってどうなったのよ?
義統の長男が斯波義銀、次男が毛利秀頼、三男が津川義冬でいいの?
938日本@名無史さん:01/10/07 02:43
>930
伊勢氏は直系が徳川家に仕えているよ。
939日本@名無史さん:01/10/07 02:47
>937
斯波義銀=津川義近だっけ?
それに毛利秀頼じゃなくて毛利長秀では?
940日本@名無史さん:01/10/07 02:49
豊臣を名乗ってるのは木下氏だけだよね。
941日本@名無史さん:01/10/14 21:00
age
942日本@名無史さん:01/10/14 21:41
sage
943日本@名無史さん:01/10/15 00:18
>>939
長秀が本当らしいんだけど、秀頼のほうがなぜか有名になっちゃって「信長の野望」とかにもこの名前ででてるよ。
ところで毛利秀秋って何者?今は無き「改易大名なんとか」ってサイトに出てたんだけど。長秀(秀頼)の関係者だろうか。
944日本@名無史さん:01/10/15 01:03
その長秀の息子だってよ
945日本@名無史さん:01/10/15 01:18
>>943
毛利秀頼でも間違いじゃないよ。
この人は信長在世時の文書では「長秀」と名乗っているが
秀吉の天下になってからは「河内侍従秀頼朝臣」と署名している。
その息子が>>944のいうように秀秋なんだけど
ヤバイ名前の親子だよな。
946943:01/10/15 02:46
>>945
なるほど。つーかパチモンみたいな名前だ(w >毛利秀頼・秀秋
飯田領は京極高知が継いだみたいだけど、秀秋ってすぐ死んだの?
947日本@名無史さん:01/10/15 11:30
>>945
細かいことをきくけど、その署名がある文書って何?
948日本@名無史さん:01/10/28 15:31
 
949日本@名無史さん:01/10/28 15:57
少弐とか大掾ってのは現存しないの?
950日本@名無史さん:01/10/29 03:04
種子島時尭は?
尚巴志は?
951日本@名無史さん:01/10/29 12:19
種子島は男爵
尚は侯爵
952日本@名無史さん:01/10/30 03:20
大掾は残ってるよ
953日本@名無史さん:01/10/30 21:07
大掾って名字で現存?カッコイイ
954日本@名無史さん:01/10/30 22:29
>>916
大阪市平野区の坂上氏は、坂上田村麻呂の次男の坂上広野の領地で、土地の名称(摂津国住吉郡平野庄)
から「平野殿」と呼ばれた坂上氏が統治。坂上氏は名字を平野と名乗り、そこから平野氏七家と
いわれる坂上氏の七つの番頭家が生まれ、筆頭が大豪商として名高い末吉家。大阪の道頓堀を掘ったのも、
坂上氏の平野七家の成安家と安藤家。
ここには、田村麻呂の娘で桓武天皇の後宮だった坂上春子が、桓武天皇の死後、弟の広野を頼って住み、
長宝寺は、春子以来、坂上氏の女性が尼僧となった尼寺。
坂上氏は、明治維新の時に東京へ移るが、坂上氏の分家一族は平野に残り、末吉家などは
現在も健在で、平野の坂上一族の歴史を伝えている。
末吉家は、大きなモータープール(駐車場)やマンション経営をしている。

>>922
東北の坂上氏は、田村麻呂の長男の坂上大野の子孫。坂上氏の子孫はたくさんあるよ。

田村麻呂の三男の坂上浄野の子孫は、京都で明法家としての坂上氏の系譜を伝える。
955日本@名無史さん:01/10/30 22:33
>>926
龍造寺氏の子孫は、会津藩預かりにされた嫡流の子孫は、
現在も龍造寺姓だよ。
956日本@名無史さん:01/10/30 23:00
馬場美濃守信春の子孫は、明治の頃は士族で、当時の大手企業の重役だったらしい。
957・・・:01/10/30 23:09
>>955
今でも、鍋島を憎んでるんだろうか・・・
958日本@名無史さん:01/10/30 23:43
私の知っている龍造寺氏の子孫(名前も、龍造寺○○)の人は
コンピューター技師で、日本史にはあまり興味はないみたい。
鍋島の名前とか、何をしたかは知っているみたいだけど、何ともないみたい。
龍造寺もさんざんひどいことしてきてるしね。
959日本@名無史さん:01/10/31 00:53
>>954
坂上おじゃるまるは?
・・・・御免、俺が悪かった・・・・。謝るから許して。
960VIVA:01/11/02 00:53
信長の孫の三法師(漢字間違いかも)はどうなったの?
清洲会議で秀吉が織田家の世継ぎに担いだのは知っているけど
そのあとどうなっちゃったの?
961日本@名無史さん:01/11/02 01:33
>>960
岐阜30万石、中納言にされるが関が原の合戦で西軍につき落城。
高野山に入ったが間もなく亡くなった。
962VIVA:01/11/02 22:41
>961
回答ありがとう!!
ところで成人したあとの名前って?
織田姓を名乗っていたんですか?
調べりゃ済むことをわざわざ聞いて悪いけど
知ってたら教えてください。
963日本@名無史さん:01/11/02 22:54
>>962
 織田秀信。

 
964VIVA:01/11/02 23:09
>963
なるほど。信忠の息子だから、この家系が
信長の直系だったわけか。
しかも関が原以降まで生きていたってことは
秀吉は自分の大義名分のために清洲会議で
担いだ三法師を、わずか30万石で置きとどめていた
わけだな。仮にも主筋の織田家直系をこんな
扱いにして、旧織田家臣の諸大名も秀吉に従ったんだから
やはり当時の秀吉の勢いはすごかったんすね。
965日本@名無史さん:01/11/05 01:08
江戸の先住民ともいうべき
江戸氏や太田道灌の子孫は
完全に滅亡したの?
966日本@名無史さん:01/11/05 01:37
江戸氏は水戸徳川家に
太田氏は幕閣にいちぞくがいますよ。
間違っていたらごめん。
967日本@名無史さん:01/11/05 16:54
>>964

ただし、官は「中納言」

御大層な扱いさ。
968日本@名無史さん:01/11/05 17:03
171 :名無しさんの声 :01/10/09 16:13 ID:eamS2whU
ひろゆきは何をやっても絵になるよ
あのオーラは神に近いよ

173 :名無しさんの声 :01/10/10 21:16 ID:nvPoR0V6
>>171
そのオーラ?てのはスポーツ選手のそれとは違うだろ?
幼児愛好者や万引常習者と同じやつじゃない?
人に言えない罪悪を抱えた人間だけが放つ異様な空気というか
こういう奴って刑務所の野生児達には生理的に嫌われるんだよね
はやく西村刑務所入らないかなあ(ワラ


186 :名無しさんの声 :01/10/11 17:34 ID:tIF7M0rI
>>173
確かにスポーツ選手のように肉体を酷使して得た境地じゃないね
同性愛を隠して生きてる奴にああいう雰囲気の奴はいるが
ひろゆき氏はホモではないと思うが、ひろゆき氏の女性的な思考が
信者には神秘的に見えるのでは?
969日本@名無史さん:01/11/06 02:19
広島大学に
頼先生という歴史学教授が居られるでしょう。
あの方は頼山陽の一族なのですか?
970日本@名無史さん:01/11/06 13:43
>965
江戸氏は、江戸氏改め水戸氏と喜多見氏がいて
喜多見氏は断絶している。
大名の太田氏は太田道灌の直系じゃなかったと思ったけど。
971日本@名無史さん:01/11/16 16:10
いいですね〜このスレ。戦国史の大好きな自分にはたまりません。
972日本@名無史さん:01/11/17 01:02
>>970
道灌の子孫だったと思うよ。
たしか家康の側室のお勝の方が太田家の出だし。(三楽斎の孫だったような)
973太田は一応清和源氏:01/11/17 01:11
一般的に上杉氏(関東管領)の太田市が有名であるが、
太田道灌には幾人かの子孫がいて、重正の流れが家康に
仕え、遠州掛川藩主として明治にいたっています。
974江戸:01/11/17 01:19
江戸氏には二流あって、桓武平氏流が後の喜多見氏。
藤原流がのちの水戸氏で徳川家に仕えています。
両者に血のつながりはありません。
975陶 晴賢:01/11/17 01:28
直系は厳島合戦で滅亡しました。
異流が讃岐にありますが・・・
976agr:01/11/18 00:13
age
977age:01/11/18 01:21
age
978age:01/11/18 20:43
age
979日本@名無史さん:01/11/18 21:13
>異流が讃岐にありますが・・・

江戸時代はどういう身分にあった家ですか?
980:01/11/18 21:19
残念ながらはっきりとはわあかりませぬ、もともと陶とは渡来人系の
氏であるが、おそらく別系統か、晴賢のかなり前にわかれたもの。
いずれにしても記するほどのことはなにも・・・
981日本@名無史さん:01/11/18 21:22
陶氏って元々大内氏でしょ。
982日本@名無史さん:01/11/18 21:24
大内は元朝鮮貴族です。
983:01/11/18 21:25
晴賢はそですが、一般的にということです。
まあ大内も渡来人系かとおもわれますが
984979:01/11/18 21:26
私の知ってる家系で伊予大洲藩士の菊山家というのがあって、
ここも陶氏の末裔で、この家から明治か大正ぐらいに陶姓の家に
養子にいっているようなので、菊山家以外に陶氏というのが存在して
いたのだなあ、と常々思っていて、あなたの言われる家がそれでは
ないかと思ったもので・・・。出典は何ですかね?
985:01/11/18 21:35
以前呼んだ「瀬戸内家計百科」(たしか?)やったと
986政宗の母:01/11/18 22:59
最上氏は義光の孫 義俊のときに改易。近江・三河で1万石、のち5000石
に減らされ交代寄合として明治を迎える
987日本@名無史さん:01/11/19 19:35
agw
988:01/11/19 19:40
989日本@名無史さん:01/11/19 20:11
長山っていう、大名いたか知ってる人いる?鳥取らしいんだけど。
990日本@名無史さん:01/11/19 20:17
尾張に熱田大宮司系で長山氏がいたけど?
991日本@名無史さん:01/11/19 20:29
>990
うーん、違う気がする、、、。
田舎に長山ほうきの守の墓があるらしい。13万石の殿様
らしいんだけど。でもなぜ四国の山奥に墓があるのか謎なん
だが、、、。
992日本@名無史さん:01/11/20 00:25
>991
何かの間違いでは・・たとえば中山ならわかるが・・
993日本@名無史さん:01/11/20 22:35
>991
時代はいつなの?
994日本@名無史さん:01/11/21 08:58
1です。
ここまで長く続くとは思わなかった・・・
パート2を作りたいので、やり方を知ってる方、手続きをお願いします。
そんでもって、ここまでレスを付けてくれた方、ほんとうにありがとう!!
995日本@名無史さん:01/11/21 09:57
>>994
最近のまったり具合からして、パート2はそう加速しないと思われ。

なので
・捜索依頼を持ち寄る
・みんなで全力で答える
などして、50レスぐらい一気に成長させねば。
996日本@名無史さん:01/11/21 11:17
俺が終わらせてやる。
997日本@名無史さん:01/11/21 11:19
金払え糞やろう!
998日本@名無史さん:01/11/21 11:19
金も体も嫌だからキョーギューニクコプーンで払います
ニクコプーン♪
  ∧__∧
ヽ(・∀・)〜♪
オレが終わらせてやる!
999日本@名無史さん:01/11/21 11:21
ニクコプーンとやらをおくれ!
( ´Д`)ハァハァ
1000日本@名無史さん:01/11/21 11:22
ここが祭りの会場?
 /■ \
(´Д`;)?
ワッショイ♪ワッショイ♪
オニギリワッショイ♪
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