1 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :
2 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/04(日) 21:45:55
3 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/04(日) 21:48:15
4 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/04(日) 21:51:08
■◇■ 本スレのお約束 ■◇■
1.自作自演と言われても泣かない。
2.自作自演がバレても泣かない。
3.高校生の参加はほどほどにして、学校の勉強をがんばる。
4.大学生の参加はほどほどにして、学校の勉強と就職活動をがんばる。
5.他スレの人集めにはいちいち反応しない。
6.AAは厳選して面白いものを貼る。
7.煽り・叩きはできるだけ工夫する。
8.伸びそうなネタはみんな大事に扱う。
9.質問には誠心誠意答える。。
10.面白くない煽り・叩きは完全放置で。
○●○ お馴染みの話題 ○●○
1)本能寺の変の黒幕は?
2)昔の○○は今の貨幣価値に換算するとどれくらい?
3)姓と名字と家名の違いは?
>>過去スレへ
5 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/04(日) 22:11:26
6 :
日本@名無史さん:2010/07/05(月) 09:38:43
武陽隠士の知ったかぶりは異常
7 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/05(月) 21:24:30
天皇や朝廷の権限や立場が一番弱体化したのが江戸時代だと言われていますが、
なぜ幕末に尊王というムーブメントが起こったのですか?
幕府の力が弱体化したというのがひとつの要素としてあると思いますが、
他に何か理由はありますか?
9 :
あ:2010/07/07(水) 20:07:51
博士ではないけど、朱子学の影響もあるのでは。結局は幕府が治政に利用したけどそもそも朱子学では将軍なんて卑しい訳で。
クルセーダー
酒井雅楽頭っていう殿様はどんな人だったんですか?悪い人だったんでしょうか…教えて欲しいです。あと酒井は三本刀みたいな変わった家門ですよね?家門の意味とかも出来れば知りたいです
12 :
日本@名無史さん:2010/07/08(木) 07:28:13
徳川宗家16代家達公が男色好きだったのは有名ですが、その相手をつとめた男性たちの
名前は伝わっていないのですか?
さすがに武門の棟梁なりし家柄だけのこと、これありと感心させられる限りぢゃが、
他の大名諸侯華族でも衆道を愛好した人々は少なくなかったはず。
どんな人々が男色華族として著名でしょうか?
替地は何を目的としてやるのでしょうか?
14 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 08:51:41
15 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 10:11:21
摂政や関白は常時いるわけではなく必要に応じて置かれる役職だけど、
太政大臣や右大臣、左大臣はどうなの?
どの時代にもいる(いた)のですか?
16 :
日本@名無史さん:2010/07/11(日) 11:49:59
本日、歴史検定試験日本史3級を受けました。
小学生らしき受験生もいましたが、この試験の1級なら自慢できますか?
2級の日本史、凄く難しかった。
1問1分で解くなんてレベル高いのでは?
18 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/11(日) 18:37:16
>>8 尊王論【そんのうろん】
幕末に盛んになった,天皇を崇敬する思想。儒教的名分論から
「大日本史」などで主張され,幕末には,対外的危機意識を背景
に国学・水戸学を通じて夷狄観と排外思想として結びつき,尊王
攘夷思想の形で一体化し下級武士などに広がる。逆に天皇を
相対化して見る観念は諸大名の意見書などに一般的で,_戊午
の密勅も諸藩は形式としては受け取り,実際には拒否した。形式
としては拝命し,実行するか否かは現実的に判断するのが幕末
の尊王論である。雄藩は天皇の権威が政治的に有用であった
ことから尊王論を強化したが,摂関制を廃し,天皇親政を国家論
として主張する討幕派の構想は,当時の尊王論としては異端的
な構想であった。
文字通りの尊王ではないのよ
19 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/11(日) 18:43:10
>>11 複数いるから答えようがない
>>13 いろいろ。
たとえば、老中就任に伴う転封、に伴う石高調整。江戸賄い料の調整など。
藩が江戸周辺に領地を欲しがって幕府に働きかけて成功し、
その分をどこかの領地を減らされたりする(江戸周辺に増、どっか減)など。
20 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/11(日) 18:46:37
>>15 明治以前と以後に大別されるけど、
太政大臣は常設ではない。左大臣・右大臣は常設だけど欠員の場合あり。
>>16 今後次第。定番になるかどうか。現時点では知らない人が多いのでは。
クイズ番組の影響もあって漢字はみんな知っているけどね。
よっしゃこい
江戸時代に庶民の間で伊勢参りが流行しましたが、
伊勢から遠いところ、例えば東北や九州からも人は来たのでしょうか。
あと、江戸時代は今以上に方言がきつかったと思うのですが、
伊勢参りの庶民は苦労しなかったのでしょうか。
22 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 14:26:30
江戸時代から明治新体制、さらに廃藩置県になって、それまで藩邸があった土地などは、誰の所有地になったのでしょうか?
国・県の物になった部分と、旧藩主所有になった部分とに分割されました。
24 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 16:37:26
皇族や公家のことを「宮家」とか「宮さま」と呼ぶことがありますが、
この場合の宮とは何を指すのでしょうか?
25 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 21:51:19
時代劇の乱闘シーンとかでヤクザの親分は町人姿の子分には
「おめえたち、やっちまえ」とかぞんざいな口調で命令してるのに、
武士の格好をした用心棒には「先生方、お願いします」と敬語を使う。
下級武士くずれの子分の場合、親分はどう接していたんだろう?
用心棒は客分で「先生」だから、それに対する言葉遣いはわかる。
しかし、兄弟または親子の杯を交わした場合、
どんな風に親分は子分や弟分に語りかけていたのか?
まして、次郎長の代貸たる大政は次郎長より年長だし・・・
26 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 22:01:24
>>24 「宮」はもともと天皇や皇族が住む宮殿を指す。
転じて宮に住む皇族を宮さまと呼ぶようになった。
「殿さま」の「殿」が建物を指すのと同様。
「宮」の語源については住みかを著す「家(や)」に
丁寧語の「御(み)」を頭に付けた説があるが詳細は不明。
27 :
日本@名無史さん:2010/07/12(月) 22:20:37
28 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 13:44:27
律令制の国衙と国府って何が違うんですか?
辞書を見てもよくわかりませんでした
29 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 17:05:06
勝海舟が行った、長州征伐の具体的な和解案はどのような内容だったのでしょうか?
ドラマなどでも、勝海舟が停戦交渉を行う一方、慶喜は停戦の勅命を引き出し、時間稼ぎに
利用された事はよく描かれていますが、実際の停戦の協定の内容までは触れられていません。
30 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 00:30:47
江戸時代の将軍が日本を統治するのと平成の時代の総理大臣が日本を統治するのは
どちらが難しいと考えられますか?
31 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 01:28:05
おそらく平時なら、徳川将軍の方が統治は楽でしょう。
なぜなら家光以降通常の場合、将軍は政治に携わることはありません。
家継までは側用人、それ以降は老中が決断を行い、将軍は承認を行うのが職業となっていました。
32 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/14(水) 21:57:30
>>21 東北からも行きます。
少なくとも村役人層はいろんなところに旅行にいきます。参詣・湯治・観光。
村役人層は商人的側面を持つ場合が多いので、経営的な素養として必要なので、
家督を継ぐ前に旅行に行くのは一般的です。修業的な意味も込めて。
小前層は、出稼ぎや奉公で都市に出るのは一般的なので、他地域の人々と
交流するのは珍しくないと思います。東北なら江戸に出るのは珍しくも何ともないですからね。
東国の人にとって伊勢は遠いので、講を組織してお金を積み立てて、
クジで当たった人が参詣したりします。
でも、豪農の子弟だったら、単独で参詣に行きますよ。
また、参詣先には、地域や村ごとに馴染みの宿や御師がいたりします。
よっしゃこい
33 :
日本@名無史さん:2010/07/14(水) 22:16:21
よくあの時代の天皇や将軍はお飾りであり、実際の政治は○○らが取り仕切っていたと
いう話があるが、天皇や将軍の意思は微塵も反映されたりしないのか?
いくらなんでもそんなことはないと思うんだけど、実際どうなの?
将軍の場合は、原則として側用人または老中の決定に従い、これを承認しました。
しかし、意志に沿わない場合は承認を与えない場合もありますし、
取るべき処断について希望を告げる場合はあったでしょう。
特に、世継ぎ問題や幕閣人事について、将軍の意志が影響を与えた、
または将軍の意思を騙って政敵を葬った例は
(将軍重病後、死亡発表までに行われた「松平定信による田沼派粛清」など)
いろいろあるようです。
朝廷の場合は、王政復古までは摂関制があり、この場合も天皇親政とはいかなかったようです。
35 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/14(水) 23:00:29
>>28 律令制下の各国の官衙(役所)が国衙、官衙の回りに計画的に作られた都市が国府。
国衙=「役所そのもの」、国府=「役所のまわりの都市」。
ちょっと古い理解かもしれないが。
よっしゃこい
36 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/14(水) 23:19:48
>>29 雄藩諸侯による合議政体かな?
政策決定権を合議体に移すという点で慶喜と対立
よっしゃこい
37 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 00:34:07
坂本竜馬の有名な「船中八策」で、○○○これを統治し〜という文言がありますが、
この○には何が入る可能性が高いのでしょうか?
38 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 00:48:17
織田信長が幼少時〜若者時代にうつけ者扱いされていた逸話について博士はどう思いますか?
@本当にうつけ者だった。
A周りの目を撹乱するための高等戦術だった。
B本当はうつけ者扱いなんてされてない。後世の捏造。
Cその他
39 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 01:22:58
>>37 何も入らない。
大政奉還は坂本龍馬にとって、
1.対薩摩
・薩土盟約締結に向けた薩摩への手土産として、幕府を日本国政府の地位から引き摺り下ろす手段
2.対徳川慶喜
・慶喜の構想する、幕府に代わる新政府(一会桑+諸侯)へ、土佐が積極姿勢であると徳川慶喜に印象付ける道具
としての2面があった。
1については、幕府の地位を引き摺り下ろすための空証文とはいえ、
その中で徳川慶喜の盟主就任をそそのかした、という証拠はないほうが望ましい。
2については、徳川慶喜は自分が盟主になることしか考えていないので、
自分以外が入るとは思わない。
だから何も書いていない。ただ、徳川慶喜が勝手に自分の指定席だと思い込むように書かれている。
40 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 12:40:06
祖父がなくなったので遺品の整理をしていたら、
ダンボール2箱の古文書が出てきました。
家系図やら手紙のようなものが入っているのですが、
我が家に古文書が読めるような者は居らず、
手紙の内容はもとより、価値があるものなのか、
そうでないのかすらわかりません。
家族でどうしたものか。と困っています。
どのように扱うのがいいのでしょうか。
よろしくお願いします。
41 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/15(木) 13:29:16
>>40 今は時間がないので、夜に改めて書きます。
価値がないとかはありません。価値は必ずあります。
42 :
40:2010/07/15(木) 16:22:39
よろしくお願いします。
後だしですみませんが、
手紙のようなものの他に、ガラスのお侍さんの写真、
厨子に入った修験者のような格好をした20cmくらいの木像、
巻物や本、武士っぽい人の絵、
なども出てきました。
特に、木造は一般家庭に置いておくのも
どうなのか。と悩んでいます。
43 :
日本@名無史さん:2010/07/15(木) 17:55:06
昔の刑罰で死罪になると、死体の埋葬や弔いも許されなかった。と有りますが、
その遺体は誰が処分するのですか?また、葬式や位牌を仏壇に祀る事も出来なかったのですか?
44 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/15(木) 21:54:59
>>40 1)地元の市区町村の教育委員会に連絡し、教育委員会の
文化財担当(さらにその中の古文書担当)のところに回して
もらって相談。この場合に受け入れとなれば、その資料の
収蔵先は、市区町村立の博物館・文書館・資料館的なところ。
そういう施設は教育委員会の管轄。
問題は、その担当者が馬鹿だったり、古文書の知識がない素人だったり、
やる気のない世捨て人だったりする場合がある。
そういう人に当たってしまうと、この史料は価値がないのかあと勘違いしてしまいがちだが、
その担当者の問題であって、史料とは無関係と考えるべき。
博物館に直接連絡してみるという手もあるが、最初は教育委員会に連絡し、
博物館に電話するように言われたら、そのようにすればよいと思う。
つづく
45 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/15(木) 22:11:09
>>44 つづき
2) 史料などを受け入れてもらう場合、
・寄託(所有権はあなたのまま、保管場所がその博物館というだけ)
・寄贈(あげちゃう、所有権もその博物館に移す)
の違いがある。
あなたの好きなようにすればよいと思うが、個人的には寄託を勧めている。
どこかの博物館の展示に使われたり、論文にその史料が引用されたり、
図録に写真が掲載されたりすれば、「○○氏所蔵文書」とかと名前が出るからだ。
もちろん、本人が望まなければ、名前を出さないこともできるし、展示に使うなとか、
本に載せるなと言うこともできる。持ち主だからw
あげるのはいつでもできるのだから、最初にやらずに、ゆっくり考えてもいいのでは?と思い寄託を勧めることにしている。
館によっては、いろいろ言って寄贈を勧めるところもあるので注意が必要。悪気はないと思うけど。とりあえず・・・とか、ゆっくり考えますとか、親族会議を開きますとか言えば大丈夫でしょう。
2年とか3年とか寄託契約を結び、それを更新していきます。ちゃんと契約書を交わします。
つづく
46 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/15(木) 22:32:43
>>45 つづき
3)
・教育委員会の文化財の古文書担当に電話
・祖父の遺品から古文書類が出てきたので、寄託先を捜してる
・そういう施設があるなら紹介しろ(誰宛に電話すればいいのかも聞く)
↓
・紹介先に電話(市区町村立の博物館か資料館)
・寄託したいと相談
以上とは別ルートなんだけど
・県立文書館という手もある。教育委員会も馬鹿で学芸員も馬鹿な場合はこれ。
・同じように、県立博物館という手もある。
市区町村ルートが馬鹿だったり、時間がかかりそうな場合は、都道府県立博物館・文書館も視野に。
つづく
47 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/15(木) 22:39:24
>>40 あれ? ちょっと誤読していたみたい
すいません。書き直さないといけないですな。
預けるという話じゃないですね。
申し訳ない。
48 :
40:2010/07/15(木) 23:03:31
ああっ。
預けるです。預かって欲しいです。
誤読じゃないです。
名の知れた人物ならともかく、庄屋クラスでは古文書にほとんど値は尽きません。
町の歴史愛好家にでも診てもらった方が役に立つと思いますが・・・
50 :
40:2010/07/16(金) 00:14:12
まとまりのない文章、連投ですみません。
出てきたものは売るつもりではなくて、
誰かの役に立つなら、引き取ってもらって貰うなり、
預かって貰うなりしたいのです。
家にあっても、もてあますだけなので。
最近、「武士の家計簿」を読んだのですが、
私にはよくわからないものでも、
研究されてる方などには、もしかしたら価値があるのかも。
と思いまして。
51 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 00:31:09
52 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/16(金) 00:45:22
>>48 じゃー
・市区町村の教育委員会に連絡、相談(取扱方を相談したい、あるいは寄託先を捜している云々)
・市区町村立の博物館、資料館を紹介してもらう。学芸員やアーキビストを。そこでまた相談(取扱方あるいは寄託先)
↓
まじめに活動しているところなら大喜びで受け取って預かってくれるよ。
手が空いている日なら、午前中の電話で、午後飛んでくるとかのレベル(所蔵者の気が変わらないように)
※しかし、今は博物館運営は民間委託をしている場合がある。それだと断られるかもしれない。
その博物館の学芸員が、民俗学の人しかいないとか、考古学の人しかいないとかもあるからね。
学芸員の反応だけで史料の価値を判断しても駄目ですよ。
↓
都道府県立博物館、都道府県立文書館を紹介してもらう。都道府県立なら一応は機能しているはず。 ← でも都は駄目なんだけどw
区がしっかりしている
53 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/16(金) 00:55:47
>>49 郷土史家や歴史愛好家は、「○○郷土史会」「○○地方史研究会」
みたいなサークルを作っていて、その幹部が自治体の文化財関係
の委員になったり、博物館の行事(見学会や古文書講座)なんかに
協力するのよ。つまり、教育委員会と協力関係にあるのよ。
そういう適任者がいれば、教育委員会や学芸員が史料を見に
来るときに一緒に来るよ。郷土史家の人も。
よっしゃこい
54 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/16(金) 01:09:34
>>38 4
うつけのネタ元は信長公記だろうから、信長本人を知っている人々が存命中に
広まった話なんじゃないのかな? だから3じゃない
有名人の若いときの武勇伝みたいな話じゃないの
ただし、同時代人に比して、仏教や迷信を信じないとかちょっと変わっていた面はあったとは思う。
よっしゃこい
55 :
40:2010/07/16(金) 14:53:59
ありがとうございます。
早速、電話・相談してみます。
何か面白い発見があれば嬉しいですが。何が書いてあるのか楽しみです。
詳しく丁寧に教えて頂いて、本当にありがとうございました。
56 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/16(金) 19:39:28
教育委員会の人、博物館・資料館の人は中味を見る専門家じゃない場合が多いから、
すぐにどういう史料か答えが出ないことも多いですよ。
普通は、地元の史料の散逸を憂慮しているので、親身になって相談に乗ってくれるし、
預かってくれますよ。
ただし、どこにでも馬鹿ややる気のない世捨て人がいるので、
そういう駄目人間の言説に惑わされて、
その史料を捨てたり、焼いたりしないで大事にしてくださいね。
57 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 20:18:00
>>40 そういった古文書を解読したために、触れられたくない過去があからさまになることがありますよ。
公金横領の罪に問われた時の弁明初だったり、切腹を命じられた時の辞世の句だったり・・・
恨み辛みを書き連ねた言霊だったり・・・良い内容でない場合のほうが多いかと思います。
パンドラの箱のように開けなければよかったと後悔するかもしれませんね。
58 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 23:41:41
根拠のない私見で構わないんですが、日本史上、一番の強権(実権)を握った人物は誰でしょうか?
可能性のある人物を何人かリストアップしてもらえないでしょうか?
任期が九月迄だと誰もが思っている今の総理なら
後二ヶ月の間はやりたい放題
誰にも止められない
民主党政権には自浄能力が全く無いしなw
60 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/17(土) 01:56:39
>>57 ・前近代は公私未分離だから公金横領といっても内容は近代とは大きく異なる。
歴史学的に分析しないと何とも言えないし、言えたとしても現在の価値観で何か言っても仕方ない。
現在の価値観で明治時代や前近代を見ても仕方ないよ
そんなことをいうあなたが日本史板を見ているのが不思議でならない。
歴史に興味がないなら納得するけど。
61 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/17(土) 01:59:00
>>58 何度も出ている質問だが、まとまらない。
国制史的に中国の皇帝みたいなやつが出てこないから。
よっしゃこい
62 :
日本@名無史さん:2010/07/17(土) 10:59:27
>>58 卑弥呼
蘇我馬子/蘇我入鹿
藤原道長
平清盛
足利義満
織田信長
豊臣秀吉
徳川家光
昭和天皇(戦前)
あくまで候補
63 :
日本@名無史さん:2010/07/17(土) 12:00:47
峯相記の史料的信頼性はどれくらいありますか?
65 :
日本@名無史さん:2010/07/17(土) 19:44:40
全盛期の太閤秀吉じゃね?
財力&武力&権力どれも高い
信長くらいしか強権的な人間思い浮かばんなぁ
67 :
日本@名無史さん:2010/07/17(土) 20:45:44
小池一夫だったと思いますが、幕末の和宮を題材とした漫画で、
当時の天皇が自分のことを「み」という一人称で呼んでいたけど、
これって実際にあった一人称ですか?
歴史学博士さんに質問です。
壬申の乱で大友皇子即位説を採っている
主要な学者と史料を教えて下さい。
69 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/07/18(日) 12:41:28
70 :
日本@名無史さん:2010/07/18(日) 16:35:19
安政の大獄とは、後年、歴史を語る上で当時の攘夷派弾圧政策を安政の大獄と呼ぶのか
、政策の最中からやはり、安政の大獄と言ってたのでしょうか?
享保の改革も後に歴史を語る上で、享保年間に行った改革だから、享保の改革と呼ぶようになったのでしょうか?
称徳天皇(孝謙上皇)は、宇佐八幡宮の神託を聞きに行った和気清麻呂の
報告が虚偽だとして流罪にしましたが、
どうして称徳天皇は、その後、もう1回使者を立てたり、
真実の神託は「道鏡を天皇にせよ」と言い張って
譲位したりしなかったのでしょうか?
歴史学博士さんに質問です。
もしも、藤原仲麻呂が使者を送ってきて
「孝謙上皇があなたを退位させようとしています。
今すぐ、駅鈴と内印を持って、我が屋敷へ来て下さい」と言われたら
付いていきますか?
38 名前: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日: 2010/06/29(火) 20:47:23.87 ID:KTTQaBXL0
信長「アーチーチーwwwwwアーチーwwwwwwwwwwwwwww
燃えてるんだwww廊下wwwwwwwwww」
74 :
日本@名無史さん:2010/07/22(木) 03:36:33
先日、千葉さなが結婚していたとかいうニュースを見ましたがこれに限らず新資料が出てくるとなんで今頃・・・と思うことがあります
すでに分かってたものを大河に合わせて公開とはたまに聞きますが、そういうのは別として本当にまだ手をつけていない資料および発見すらされてないポッと出の資料はまだまだありそうなんでしょうか?
なんか上手く言えなくてすんません
>>74 そういうことってのは、広く一般に知られてなかっただけで、関係者の間では当たり前の知識として伝わっていたりするものだ。
大河ドラマなんかで間違ったことが放送されたりすると、「間違いは正さなくては」というので、初めて声が挙がる。
小早川秀秋は関白になりたかったの?
大河ドラマとか見てて疑問に思うんだけど誰か答えてくれ。
幕末にアメリカやイギリスとは兵器の差はあったのは理解出来るけど、あの時代に日本を攻撃して占領まで出来る程の戦力を上陸させて勝てる程国力の差は有るのか?
いくら海軍が強くったって、陸地では意味ないだろうし、大砲の弾も無尽蔵じゃないだろうし、何より江戸幕府の兵隊つまり侍に陸上戦で勝って降伏させるのは無理だろ?
よう解らんけどww
78 :
日本@名無史さん:2010/07/22(木) 22:03:59
近代戦とは心理戦です。
列強諸国は、既に心理戦を実戦で使って、植民地もほとんど戦わずして支配権を得ている。
いかに相手に威圧感を与え、戦うことが無駄だということを思い知らせることができるか、
抑止力とはそういうものです。
79 :
日本@名無史さん:2010/07/22(木) 23:33:37
>>77 幕末維新物でよくあるじゃん
「このままでは日本も清国と同じようになる」
って台詞
イギリスやフランスは清の全土を占領した事はないし、
海外派兵のための、そんな規模の陸軍力があったわけでもない
でも
>>78の言うような歴史になってるだろ?
いくら侍が強くても、玉音放送で、本土決戦なしにマッカーサーが厚木に来たようになってたかもね
江戸幕府が存続したなら、日本の欧米列強植民地化はありえたと思います。
理由は、武士と農民が乖離していたから。
植民地戦争の場合、相手の支配者階級と戦って、彼らから主権を奪って植民地とします。
この時支配者階級でない一般の人々が植民地化に抵抗すれば、占領軍は陣地で孤立し植民地化は起こりません。
植民地化を阻止するために必要なことは、地域にいる人々を国民国家の国民へと作り変えることです。
武士偏重に陥っていては、国民皆兵は実現しません。
国家を守るために、武士階級は消えるべきだったのだと思います。
武士階級の多くは職業軍人として生計を立てる道を選びました。
郷士の奥は警察官になったり役場に勤めたりしました。
教員になったものも多いみたいです。
83 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 22:43:38
日本史の歴史年表を作るとして、10項目しか枠がないとしたら、
どんな10項目が入るだろ
まさに日本史の一番重要な出来事トップ10みたいな
@大和朝廷成立
A大化の改新
B元寇
C秀吉の全国統一
D明治維新成立
E国会開設
F太平洋戦争開始(もしくは終結)
G日本国憲法制定
残り二つ何が入るでしょうか?
あるいは疑問、反論あれば教えてください
84 :
日本@名無史さん:2010/07/25(日) 23:51:14
>>80 それをしたのが高杉晋作の奇兵隊
高杉の流れをくむ長州藩は倒幕=幕藩体制
同じ倒幕でも薩摩は倒幕=江戸幕府
もう少し高杉や伊藤博文、井上聞多は高く評価されても良いと思う
85 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 01:02:10
>>83 古事記か日本書紀のどっちか入れるべきじゃない?
日本の歴史書の制定として
鎌倉幕府成立を入れたいなあ
武家政権の始まりだし
摂関政治(藤原家の栄華)
南北朝時代と合一(室町)
は重要過ぎるけどな
応仁の乱は入れた方が良いんじゃないのか?
神武天皇の軍隊は強かったのですか?
90 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 12:56:51
夏休みの自由研究で三英傑を調べようと思っています。
秀吉について質問があります。
秀吉は貧しい農家に生まれたと学校の授業で習ったし、
学研の歴史漫画にもそう書かれていますが、
秀吉の母の最初の夫も再婚相手も信長の父に仕えていた人です。
お城に勤めていた人が貧しい農家の人と結婚するということが
本当にあったのですか?
本当は農家でもわりと裕福な家だったんじゃないんですか?
そこが引っかかって先に進めないので僕に教えてください。お願いします。
91 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 15:15:50
>>83 大化の改新
平安遷都
鎌倉開腐
元寇
秀吉の天下統一(戦国乱世の収束)
江戸開腐(関ヶ原、大坂〜鎖国など一連の出来事ひっくるめて)
ペリー来航・開国
明治維新
憲法発布・国会開設(近代立憲国家の成立)
敗戦・新憲法制定(民主国家の成立)
開国〜憲法発布あたりは、ひとまとめにできるかもしれない。
92 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 17:37:11
ためしに略年表
4世紀中頃 ヤマト政権の国土統一(現在の日本の原型の成立)
645 大化の改新(古代国家成立の起源)
794 平安遷都(千年の都のはじまり)
1192 鎌倉幕府成立(武家政権のはじまり)
1274〜81 元寇(モンゴル帝国との激突)
16世紀末 天下統一(中世と戦国乱世の終了)
1603 江戸幕府の成立(近世のはじまり)
1853 ペリー来航(近世社会の終幕と欧米中心の世界経済への編入)
1868 明治維新(近代天皇制国家のスタート)
1945 敗戦と占領(大日本帝国の滅亡と民主平和国家のはじまり)
93 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 19:12:56
>>90 高校の日本史で一番シェアの大きい山川出版社の受験向け教科書「詳説日本史」では、
数年前から秀吉は「尾張の地侍出身」となっている。
東大の先生が執筆・監修に名を連ねている教科書なので、これが最近の通説なのだろうか?
確かに、地侍=半農半士の上層農民であった方が、これまでの通説である貧農の家庭よりは、
母の再婚相手が同朋(茶坊主)なのと辻褄が合うが。
94 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 19:18:27
>>82 明治初期の官吏や軍人・警察官のほとんどが元武士=士族だったのは事実だが、
士族の大半がそれになれたわけではない。
武士らしい仕事につけたのは1割ていどで、あとは売り食いの無職か農業。
商人になった者はあらかた失敗した。
旗本の多くは、人力車夫をはじめとする下層社会の都市細民に転落している。
95 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 19:37:44
明治時代の新聞では士族は政府から生活費貰ってて
参政権にふさわしくないとか武士が主君のために命を捧げるのは
家畜の豚のようだとか言いたい放題ww
96 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 20:10:35
97 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 20:55:46
分かる方、よかったら教えてください。
1『前期律令国家』と『後期王朝国家』の違い
:
2『主従制的支配権と統治権的支配権』の違い
:
3『歴史学における資材批判に』について
:
分かるのだけでもいいので簡単・手短に分かりやすく説明するとしたらどう答えるか教えてくださるとありがたいです。
よろしくお願いします。
98 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 22:34:12
>>83の年表を5枠にした場合、こんな感じですか?
@大和朝廷の成立(日本国の成り立ち)
A大化の改新(古代国家成立)
B天下統一(乱世の終結、近世へ)
C明治維新(近代国家へ)
D太平洋戦争終結(民主国家へ)
99 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 00:03:54
もし島津斉彬が長生きしていたらどうなっていたと思いますか?
講義で習ったのですが、自分の地元の図書館には資料がまったく残ってません。
よろしければ、どなたか回答お願いします。
当時、井伊直弼は政敵であった一橋派(水戸・尾張・越前・土佐・宇和島)の諸侯へ隠居命令を
出していました。島津斉彬は存命なら一橋派の中心人物の一人ですので、
彼にも隠居命令が下るでしょう。
倒れる直前の島津斉彬は、自慢の自らの洋式部隊(歩兵・砲兵)を閲兵していました。
何をしようとしていたのかは不明です。
が、後に島津斉彬の後を実質的に継いだ島津久光は、
斉彬の遺志を継ぐ、として江戸まで部隊を派遣し、幕府に圧力を書け一橋派諸侯を復権させ、
京都に諸侯の討議する場を幕府とは関係なしに設立しました。
これに対して西郷隆盛は、島津久光のやり方は尊王攘夷派を弾圧しており、
継いだのは形だけで実は斉彬の精神を踏みにじっている、と批判を繰り返しました。
このことから推測されることは、
・島津斉彬は、井伊直弼存命中に薩摩藩洋式部隊を京都あるいは江戸に派遣し、
井伊直弼の行動を覆すつもりだった
島津斉彬と井伊直弼が両方とも生きていたなら、
幕府と薩摩がこの時点で全面戦争になっていた可能性があります。
101 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 00:57:58
>>98 2〜3の間が開きすぎているのでそこに何かを入れたいが、
かといって1〜5で外すものがないんだよね
だからそれで妥当かも
102 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 01:04:20
なるほどです!
わかりやすい説明ありがとうございます。
個人的には、斉彬の死後、斉彬が計画していた事業がどんどん中止になって
いったと史実にあるので、もし生きていたら鹿児島はもっと豊かな県になってたのかも
と思っていました。
でも、洋式部隊については全く知らなかったのですごく為になりました。
そう考えると、やはり、薩摩は発展できない運命だったのかもしれませんね。
103 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 17:53:46
中国人や朝鮮人以外の外国人はどのくらいの昔から日本に来ていたんだろう?
たとえば、インド人やスリランカ人、ベトナム人、カンボジア人、ビルマ人らは
平安時代には、それらの外国人は日本に来ていたのだろうか?
誰か、教えてくれませんか?
>>103 インド人は遅くとも室町時代には来ていて
足利義満に仕えていた
105 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 20:04:59
1941年の産めよ増やせよってスローガンは
何年くらいまで続いたの?
というか団塊の誕生に重大な関与はあるの?
終戦で終了ですよ。
戦後は、食糧不足・引揚者増大・初期GHQによる工業立国の否定などもあり、
食糧増産運動による新規山間地入植・海外移民促進(中南米)などが行われました。
団塊世代の増大は、戦後の引き上げから始まります。
107 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:54:51
あらゆる質問に即答するには、前頭葉だけではなく側頭葉も鍛えておけよ!
108 :
日本@名無史さん:2010/07/27(火) 22:57:58
下世話な話ですが・・・
コンドームが流通する以前は避妊はほとんどなかったんですか?
平安や室町、江戸時代の人々は体外射精とかしていたのでしょうか?
薄い紙を水にぬらして膣内に入れておく。ところがこれが良く破れて
お子様がお出来になる。
そうすると水子にしてしまうという寸法。
110 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 05:53:05
>>104 >>インド人は遅くとも室町時代には来ていて
足利義満に仕えていた
ありがとうございました。
111 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 08:14:34
楠葉西忍とかいう天竺人だな。
幼名はムスル、父はヒジリ。
112 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 10:05:30
今の皇室は何かと制限がかかって窮屈な生活をされてると思いますが、
かつての皇室はどうだったのでしょうか?
江戸期が一番皇室が弱体化したとも言われますが、現在よりも縛られた
生活だったのですか?
何を以って弱体化というか不明だけど、ここでは経済力、要はお金の面から考えてみましょう。
注:政治力ではない。
律令制度化では公地公民の原則が定められていたにも関わらず、
皇室自体が私有地、つまり荘園をもっていた。長講堂領や八条院領
という膨大な荘園があるので、鎌倉末期までは皇室は強大な力を持っています。
その後南北朝期以降、荘園を武士に蚕食されたので経済的に没落し、
室町中期以降、大嘗祭や大喪が出せない天皇も出た。経済的に一番
苦しかったのはこのあたりです。
江戸期に入ると、禁中並公家諸法度によって皇室や公家はがんじがらめにされますが、
少ないとはいえ皇室・公家領合わせて10万石程度が認められたので、
生きていくことは出来た。
江戸期は弱体化ではなくて、完全に武家の統制のもとに皇室が取り込まれた
と考えて下さい。だから現代に近い感じです。『大人しくしている限り、食べさせてあげる』
というところ。武家の権威を保証するのは皇室だから、生かさぬよう殺さぬよう・・・。
114 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 16:31:38
皇室が禁中並公家諸法度に対して怒ったり、強硬に反対したりしたら、
幕府や将軍家によって取り潰されたり、島流しにされたりした可能性もあるのですか?
立場的には皇室>将軍、幕府ですが、その辺はどーなんでしょう?
115 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 19:38:24
>>114 天皇家は潰せません。形式的に将軍の任命権者だから。
過去に退位させられたり島流しになった天皇は、全部
個人的責任を取らされただけだということを理解して下さい。
どんな状況でも、代わりの自分たちの言うことを聞く天皇を
見つけてきて即位させています。
承久の乱でさえ、天皇家の存続は認められた。
公家諸法度に朝廷が強硬に反対したら、見せしめに天皇を
退位させて黙らせるまでです。
いつの世の中にも、反対する勢力と結んだ方が得だと思う人はいるのですから。
天皇とて例外ではない。
鎌倉幕府や室町幕府は、大奥制度がなかったそうで
側室などは後の大奥の長局の原型と思わしき「局」というプライベート空間を与えられており
また、公家などの正室は「北政所」などと呼ばれていたそうですが、
では、本題ですが、江戸時代の将軍家の「大奥」とか各藩の「奥」などのように
奥女中達の集まりのを指しているのであろう固有名詞のように、
鎌倉時代や室町時代の将軍家や大名家には女中達の集まりを指す何か固有名詞とかは、なかったのですか?
>>117 室町時代は女房衆と呼ばれていたんじゃないの?
119 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:05:51
>>116 >>公家諸法度に朝廷が強硬に反対したら、見せしめに天皇を
>>退位させて黙らせるまでです。
天皇が意地でも退位しなかったらどうなるの?
絶対に退位しないと言ってる天皇を無理やり退位させることができるのですか?
また、他の皇族や公家連中もみんなその天皇派だったら、将軍の言うことを聞く
天皇(候補)が見つからない。
>天皇が意地でも退位しなかったらどうなるの?
簡単なことです。皇室と公家の賄料を減らすのです。日々の食糧にも事欠くくらい。
幕府は皇室だけでなく公家も統制しているから、公家の賄料を減らせば
公家の中から『お上が関東に従ってくれなければ困る』という意見が出てくる。
天皇と言っても公家衆の中で存在しているのだから、取り巻きがみなアンチになっては
もうやっていけない。
このように対立する組織を統制するには、組織内で仲間割れを仕掛けられる
形にしておくのが一番好ましい。かつての朝廷の得意技ですね。
それに対し、幕末は皇室や公家が薩長の援助で暮らしていたことは
無視できないと思います。世の中やっぱりお金なのです。大義名分や理屈では無くて。
121 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 23:45:49
>>120 >>皇室と公家の賄料を減らすのです。日々の食糧にも事欠くくらい。
皇室や公家が強硬にその施策(賄料を減らす)に反対したらどうなるのですか?
行き着くところは武力衝突であり、武力衝突なら武家(幕府)が強いって理屈になるのかな
あのな?権威くらい理解してんのかなw
徳川安泰は分かるでしょ?如何に謀反を避けるかは勉強済みなのな
そこを苦心して方策を駆使したんだなw分かるかな?
中国の皇帝は天命を権威の根拠にしたけど
日本の場合は天皇を権威の根拠にした
それだけ
幕末の孝明天皇の例が参考になるかも知れないですよ。
お上が現実離れした攘夷に固執している矢先、
あら不思議、突如天然痘に。
日本は何と言っても『和』の政治の国なのです。最後は合意がモノを言う。
朝廷は日々の生活に困ったって
戦国時代のほぼ全期間を通して、舎人が関白袋を持ち、京の家々を回って
お米を少しずつもらって、それで食事をしていたんだから
その生活に戻るだけ
天皇になりたい者はいくらでもいるわけでね。
幕府には逆らえないのさ。
>>125 大嘗会も大喪も出せないよ。食えるだけではまだ足りない。
応仁の乱の最中、後土御門天皇と後花園上皇はどんな立場だったの?
やっぱり、ニート?
足利義政もニートだったのに
ニートの家に居候する天皇はもっとすごいなw
130 :
117:2010/07/29(木) 21:17:36
>>118 そうですか。ありがとうございます。
では、江戸幕府では、正室と その居住区の名称は「御台所」と呼び
女中達の居住区は「長局」と呼んで、それらを一括して「大奥」というそうですが、
鎌倉幕府や室町幕府の場合の、正室や側室や女中の各居住区を一括した固有名詞は、なかったのでしょうか?
たぶん「奥」ではないかと思うのですが、何か他に大奥を連想させないような別称とかなかったのでしょうか?
室町時代は花の御所に一緒に住む側室だけではなく
花の御所の外で、個人の屋敷を持っている側室もいたからな
132 :
日本@名無史さん:2010/07/29(木) 23:32:51
琉球人の起源は、日本列島で弥生人との覇権争いに敗れた縄文人が、
新天地を求めて沖縄に移民し、そこに定住した縄文人の子孫ですか?
133 :
日本@名無史さん:2010/07/30(金) 00:23:59
>>132 賛成です。宮里藍を見ていたら、そのたくましい精神力、世界と伍して戦う気概、
どれをとっても世界を股にかけて活動していた縄文人の姿と二重写しになります。
琉球列島の言語については明治以降の研究で日本語と祖形が同じであろうことが判明しています。
琉球列島の人々の遺伝形質については、縄文系との類似性を謳う人もいますが、諸説入り乱れています。
この場合、縄文系といっても縄文人がどこから来たのかということが問題となります。
旧石器人を消し去る形で縄文文化が日本列島に入ってくるわけですが、
彼らの元いた地域に関しては北方説(シベリア)・南方説(東南アジア)・朝鮮半島経由説とあります。
縄文早期の遺跡が南九州を中心とした地域にあることを考えると、
東南アジア由来説を私は現在のところ最もまともな説ではないかと思っています。
つまり、沖縄は中継地だったのではないか、ということになります。
135 :
日本@名無史さん:2010/07/31(土) 19:37:49
江戸時代の皇室と現代の皇室は窮屈度で比較するとどうでしょうか?
窮屈度が何に主眼を置いているかで全く異なってくる。
お金?後継ぎ?
ただ言えるのは、江戸期の朝廷は政治の中心地から離れた場所にあったので、
血なまぐさい政争に巻き込まれたりはなかった。(幕末は除く)
現代のように国事行為もないから、あっちこっち連れまわされることもないし。
また後継ぎについては一夫多妻制が認められていたから、現代よりは楽観できる環境。
何よりネットも週刊誌も報道会見も無いしね。
そういう意味では江戸期の方がずうっと自由だったと思うよ。
政治は徳川でやってくれて、自分たちはハイハイ言っていればいいのだから。
137 :
日本@名無史さん:2010/07/31(土) 21:36:20
武陽隠士さん たまには出てきてくださいよ!
お前の 話が聞きたいぞ! コラ!
朝鮮通信使一行を輿の上から見物していたというから、将軍とは別格だったにせよ外出の自由はある程度あった。
今の天皇ご一家は、マスコミを通じて国民に顔が知れ渡っているのでお忍びで外出も困難。
ローマの休日を楽しむなどということもできません。
139 :
日本@名無史さん:2010/07/31(土) 21:59:16
× 天皇ご一家
○ 天皇一家
140 :
日本@名無史さん:2010/07/31(土) 22:44:34
>>136 >>138 生活全般における規制や縛りの意味で問いました
江戸時代は幕府の許可がなければ京都御所から出られなかったと聞きます。
現代の天皇は外出はできますが、多忙な公務に忙殺されて自分の意思で
行きたいところへ自由に行けるわけではないですよね
その辺のところを総合してどうなんかな?と
>朝鮮通信使一行を輿の上から見物していたという
へぇ、それは初めて知った。歴代のどの天皇なんだろうね。
142 :
日本@名無史さん:2010/08/01(日) 06:28:55
143 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 01:05:43
参勤交代って江戸から遠ければ遠いほど負担が大きいと思うんだけどそうでもない?
負担は大きくなります。というかそれが幕府の狙いだから。
遠国の大名にカネを使わせて蓄財させない。つまり徳川に弓を引く
ことを出来なくする。
大名の配置が江戸基準で遠国ほど外様の大大名が多くなっていることから
参勤交代の意図が見て取れる。
145 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 07:05:59
豊後・日向あたりの小大名なんて大変だったろうな。
臼杵とか高鍋とか飫肥とか。
船でショートカットしてたのかな?
146 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 07:14:26
fgt
大名の石高に応じて行列の人数が決められていた。
小藩はそれなりに規模が小さくなるけど、出費があるのは変わらない。
また何も生まない出費だから、当然藩財政を圧迫する。
後は江戸の藩邸の維持にカネがかかる。そうなると、島津重豪、斉宣の2人の
隠居を江戸で抱えていた薩摩藩は、カネがいくらあっても足りないわけだ。
更に世子斉彬は蘭癖と来ている。討幕の気運は結局経済的困窮に起因する。
徳川初期の農本主義の時代に作られた諸制度が、時代を下って貨幣経済が
発展しても『権現様の祖法』ということでそのままの姿で残された。
ここに幕府崩壊の道筋がある。
どこかの国をみているようだ。どこだろ?
148 :
143:2010/08/02(月) 08:02:51
レスありがとう。近場のとことの不公平感を是正するために多少は別なところで帳尻を合わせてるとかもないの?九州は本当に大変そう。
対馬の宗氏だけは、遠いので3年に1度の参勤で済む決まりになっていた。
ただしこれも理由は後付けかもしれない。
秀吉の朝鮮出兵で断絶した朝鮮との国交回復に、対馬の宗氏の果たした
役割は大きいから。この部分のご褒美かも。
不公平感の是正というのは無いと思う。制度として『国替え』つまり転封があるから。
『もしかしたらあなたにも近場になれるチャンスがあるかもね』ということです。
また江戸だけを考えれば九州は損だけど、経済の中心地、天下の台所である大阪には近いわけだし。
年貢米を換金したり借財の申し込みには大阪が至便の方がいいよ。
150 :
日本@名無史さん:2010/08/02(月) 14:27:41
昔の人名には、内匠頭や内蔵太のように意味もなく「内」がついてるものが
ありますが、あれはどうしてなんですか?
151 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 20:00:48
徳川幕府は、御宅族と呼ばれる少数民族について厳しかったと聞きますが、
何故現代日本で、御宅族は徳川家の子孫に報復しないんですか?
152 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 20:30:09
>>150 もともとは朝廷の内匠寮や内蔵寮に由来する官途や百官名だから。
内は天皇家の内向きの仕事を表している。
御所の修繕係が内匠で、御所の経理係というか納戸係が内蔵。
153 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 23:54:54
かつて京都にあった朝廷、江戸にあった幕府は、
現代でいうところの霞ヶ関ですか?それとも永田町ですか?
どちらがより近いのでしょうか?
154 :
日本@名無史さん:2010/08/04(水) 08:01:49
霞ヶ関=科挙官僚のたまり場
永田町=土百姓の総代どものたまり場
なので、朝廷でも幕府でもないわ、ボケ
明智光秀が坂本と丹波合計三十万石の代わりに与えられる予定だった
出雲・石見って事実上どれだけの価値があったんですか?
太閤検地の石高だけで見ると坂本・丹波と大差ないように見えるんですが
何か付加価値があってすごく旨みがあったりするんでしょうか
石見は銀山
そしてこの地域はたたら鉄鋼があるんです
157 :
153:2010/08/04(水) 21:14:01
>>154サンクス
かつての朝廷、幕府を現代でわかりやすく例えたらどうなりますか?
だれか上手く例えてください
歴史学の論文って、なぜ書く理由や結論が明確じゃないものが多いのですか?
だらだらと書き連ねて、結局なんであるかが端的に書かれてないものが
多いように感じますが。
論文はメシの種なわけ。自分の研究の核心をホイホイ公開して
メシの食い上げにならないようにしているの。
歴史学で生活している人は一握りだからね。常に自己保身が働いている。
それに今まで知られていなかった史料が突然出てくる学問領域でもないしね。
どうしても一つの事象を角度を変えて何回も書かざるを得ない。
そうなると中身的には内容の無いものを膨らませることになる。
大学教授とか普通の学者よりも
歴史系のジャーナリストの方が同じ内容を何度も焼き直して
新書を出しまくっているよな
史学素人の作家が歴史を取り扱って権威のあるような顔をする
童門冬二、井沢元彦、藤沢 周平、司馬 遼太郎、陳 舜臣
歴史に限らず、経済関係の新書でもフリーのジャーナリストという肩書きの人が
多いけど、ほとんど無職と変わらないよなw
163 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 01:03:34
史学研究の大学院レベルの教育を受けていない小説家とかが
専門家きどりした上、本業の小説の業績で特任教授とかになると
さらに拍車がかかる
165 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 08:49:59
無職予備軍の院生や自称若手研究者の怨念がうずまくスレだな。
誰も一般人は、そんなこと気にしてないわなw
>歴史学の論文って、なぜ書く理由や結論が明確じゃないものが多い
一般人の印象だろコレ
あるいは底辺大学の日常かもしれんが(苦笑
怖いもの見たさでちょいと読んでみたい気もするが
具体的に誰のどの論文かと訊ねてもマトモなレスがつくとも思えん
167 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 10:59:25
江戸城内の東照宮について書かれた資料に
「御天守下」に東照社を造立したという文があるのですが、
これは天守の下(した)で天守台下を指すのか、天守の下(もと)で天守内部を指すのか
どちらがより適当でしょうか
>>161 史学素人の作家もあまり誉められたもんじゃないけど、それよりもっと酷いのが軍人崩れの奴ら。
過去の戦史を“専門家の観点から検証する”なんぞと偉そうなことを謳うが、その論拠としている“史実”ってのが歴史資料じゃなくて小説を基にしてたりする。
169 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 16:29:42
素人叩きに異常に熱心な自称プロ(というより、その卵やなりそこない)がキモイ。
>>169 素人が分かった顔して商売をする
そういう偽者を何故かありがたがる
本当に気持ち悪いことだと思いますよ
日本史の学者さんは軍事オンチなので、戦国時代の軍事なんかで頓珍漢な意見が多い
>>170 人の生き死にや安全にかかわる医学とか工学とかならともかく、
趣味的非実用的な学問の最たるものである史学ごときでプロ風吹かしたり、
非研究者を徹底的に蔑視する院生の方が、ずっとキモチワルイ。
要は自分たちのテリトリーを侵されるのがイヤなだけ。
>>172 生き死にじゃないからとか非実用的だから〜っていうのはただの暴論だよ
本質でもないし
なんでこういう低レベルなことしか言えないのかなぁ
テリトリーうんぬんにしか帰結できないようでは
普通の会社勤めの歴史好きな人でも、年輩の方になるほど
岩波新書・中公新書以外の新書は信用できないと思っている人が多い
歴史好きが高じて、新書を出しまくっている元新聞記者やジャーナリストも
学術論文を書く訓練を受けていないから、読みやすいだけでめちゃくちゃだとか
江戸時代のおじいちゃん先生が言っていた
176 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 23:17:45
まあ、いい加減なことを書き散らしてるライターの本は論外だが、
だからといって史学科の大学院出ていない者は歴史を語るなみたいな、
史学科原理主義の硬直した姿勢も感心できないね。
2chの歴史系のスレで「素人」を嫌悪してる史学科出身者って、
大体そういう論調の手合いが多いし。
177 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 23:27:05
しかし、いい加減なことをおおぴらにしゃべって「これこそ真実の歴史」と胸を張る馬鹿は多い。
例えば、幕末東北地方絶対正義説とか。
我々は絶対的に被害者で我々に他の人間は謝罪し償うべきなのです、とか。
星亮一あたりの会津東北正義説にはうんざりする。
あのような阿呆がのさばれば、いい加減素人は口を出すなといいたくもなる。
願望と利権と思想で歴史を捏造し歴史を語る左翼みたいなのも害悪だな
左だろうが右だろうが嘘をつく奴は嘘をつく。
右の嘘といえば、スタインの日本礼賛論がいつの間にかアインシュタインの日本礼賛論に挿げ変わった例など、
文春と産経に多い。
左は左で「縄文人は弥生人に虐殺されたのです」(事実確認不十分)だのいろいろと
でっち上げの被害者論が過去に撒かれた事例がある。
嘘は思想の左右を問わない。
嘘を掲げて嘘に巻き込まれたなら、その人間も嘘つきとなる。
プロでもアマでも嘘をつく奴はつく
それについては否定はせぬが
「真実の歴史」を謳う嘘つき連中にはくれぐれも用心
文藝春秋社
扶桑社
歴史春秋社 の本の中身はソースが得られないものが多く、信じるのは危険
>>179 圧倒的に嘘が多いのは左だな
いや左は基本的に嘘しかつかない
>>182 そういうふうに先入観で決め付けて、現実を見ようとしないから偏ってしまうのだよ。
左翼学者は今までの自虐史観だけでは国民を欺せなくなってきたからと
聖徳太子はいなかったとか言い始める始末
最近では某民族が倭人の起源まで主張しだす始末
「慰安婦は天皇制が作った性暴行システム」〜鈴木裕子『日本軍慰安婦問題とジェンダー』韓国で出版
日本社会運動史研究者の鈴木裕子(日韓の女性と歴史を考える会代表)は最近、韓国で出版した
<日本軍慰安婦問題とジェンダー>でアジア慰安婦問題の延長線上でカラユキさんを分析した。
彼女は慰安婦問題が日本社会で40年以上社会的に疎外された理由として「戦争責任意識不在」
「植民支配に対する無反省」「天皇の戦争犯罪・責任免責」等と共に「日本人の性意識」を挙げた。
近代日本の性文化・性意識と続いた国家管理売春システムの「公娼制」という女性を性的道具と
見る天皇制下国家権力の根本思想であり、このような思想とシステムが慰安婦問題に直結したと
分析した。
187 :
日本@名無史さん:2010/08/07(土) 12:46:34
ウソというのは自覚的につくものが、
日本史板の古代史スレに常駐しているコテハンなんかは、
ほとんど創作のmy古代史を本気で真実だと主張している分、
近現代史の左右のウソ吐きどもよりタチが悪い。
188 :
日本@名無史さん:2010/08/07(土) 12:48:45
>>187を訂正
× ウソというのは自覚的につくものが、
○ ウソというのは自覚的につくもの「だ」が、
ウソというのは自覚的につくものだが、
日本史板の古代史スレに常駐しているコテハンなんかは、
ほとんど創作のmy古代史を本気で真実だと主張している分、
近現代史の左右のウソ吐きどもよりタチが悪い。
フト○ニとかカラ○ツとかな。
189 :
日本@名無史さん:2010/08/07(土) 13:13:15
190 :
日本@名無史さん:2010/08/07(土) 21:12:31
>>188 正直、ああいう人たちは心臓に毛が生えてるような図々しさがあるから、
プロの学者や先行研究全否定の唯我独尊状態だからな。
オレ様を中心に世界が回っているといった天動説状態で手がつけられない。
古代史関係スレの多くは、そういうコテハンの珍説展示場と化している。
191 :
日本@名無史さん:2010/08/07(土) 23:40:14
低脳ウヨの世間話でクソスレになったな
192 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 08:27:31
いや、どちらかというと古代史スレで珍説を展開してる連中の方が、
記紀の記述を丸々信用してトンデモ古代史で妄想してるウヨだろ。
日本書紀・古事記をそのまま信用するくらいなら
まだマシな方で、竹内文書を信用性のある史料として
無批判で書いてある古代史の本もあるからな
194 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 08:48:36
>>161 このうち、マスコミから「歴史家」的な扱い受けてるのは司馬くらいでは?
(陳舜臣もそれに準ずる扱いか)
>童門冬二、井沢元彦、藤沢周平
童門は歴史をネタにしたビジネス書・処世術本、藤沢は市井を描く時代小説。
後期から晩年の「司馬史観」ともてはやされて、歴史エッセイ中心になった司馬とは、
スタンスがちがう。
井沢は・・・トンデモすぎる。
195 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 10:08:14
司馬遼太郎も初期から前期は忍者小説とか剣豪小説中心で時代小説色が強く、
通俗的なエンターテイメント色が強かった。「燃えよ剣」なんかはこの頃のもの。
後期になると地の文がやたら多くなって、「翔ぶが如く」や「坂の上の雲」などは、
途中からほとんど散文的な歴史エッセイと化している。
「街道をゆく」の長期連載もあって、この頃からエッセイの比重が大きくなって、
「司馬史観」などという言葉に象徴される、司馬の文化人化が進んでいった。
要は『自称』ではなく、周囲が文化人だと認めればそれでいいのです。
所詮この世界は他人の評価で全てが決まる。
どんなにダメ人間でも、1万人が『すごい』と言えば、すごくなるのです。
だから逆に、不当に低く評価されている人もいるわけで、その原因は
全て自己保身。自分の評価が下がるから、部下に仕事を渡さないなどね。
松本清張も司馬遼太郎並みの
強さはあるな
198 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 10:23:41
ただ清張は現代物のミステリーもやってるから、歴史物オンリーの司馬より、
世間的には普通の小説家って印象が強い。
そこが歴史物に特化した司馬とオールラウンドプレイヤーの清張のちがい。
鎌倉時代の分割相続だった頃には、女性にも所領の相続権があったそうですが
では、その所領相続した女性が、相続した当初は未婚だったのだが
後に結婚した場合は、どうなりますかね?
やっぱり、その夫は婿養子扱いになってから
その妻となった女性は所領の主の座を夫に譲って引退するんでしょうか?
さしずめ妻兼先代(御隠居?)ってトコで。
200 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 12:34:59
鎌倉時代の女子相続権は「一期分」といって本人一代限りのものなので、
その女子が結婚したとしても、本人が亡くなれば実家に返還されるのでは?
逆に言えば、本人が存命の間は、夫とは別に自前の所領を持つ女領主。
201 :
199:2010/08/08(日) 13:00:45
>>200 ありがとうございます。
では、とりあえず時代は江戸時代以前としまして
別に武家だけじゃなくて商家とかでもかまわないので、
一人娘が未婚の間に当主が死亡してしまったので、その一人娘が当主となったのだが
その当主となった一人娘が結婚すると、その夫(婿養子だよね?)に家督を譲って
当主の座を引退するっていう実例は なかったのでしょうか?
202 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 14:58:05
>>201 死亡ではなく隠居だが、立花道雪が娘のぎん千代に男子同様の通常の相続をさせ、
その上で立花宗茂が婿入りして、当主の座を譲られているのがそれに近い。
203 :
199:2010/08/08(日) 15:24:26
>>202 なるほど、ギン千代がいましたか。有力な情報をありがとうございます。
ところで、鎌倉時代後期は分割相続と単独相続が混在していたそうですが
実家が単独相続なため江戸時代で言う部屋住になった男性が
分割相続で所領を相続して既に一領主になっている女性と結婚したなんて場合は、どうなるんですか?
主に結婚後の所領主の地位とか……
204 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 17:51:59
ケースバイケースだが結婚しても領主は女領主のままだ
女領主の領地は息子に相続していく場合が多いが
205 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 17:56:01
鎌倉時代なら、それでもめたら、最終的には幕府に訴え出て、
その裁決に従うんだろうね。
206 :
199:2010/08/08(日) 18:53:52
ありがとうございます。
家臣の家臣は陪臣だけど
主君側から見た、家臣の家の一門衆は陪臣扱いになるんだっけ?
208 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 23:25:58
幕末の島津久光の例がある
薩摩藩主の実父で同族であっても将軍の陪臣として扱われて苦労した
209 :
日本@名無史さん:2010/08/08(日) 23:37:16
但し分家でも主君から取り立てられて直臣となっている場合もある
鎌倉時代では新田家の分家の山名家や里見家も御家人だった
210 :
日本@名無史さん:2010/08/09(月) 01:08:14
薩長同盟って西郷と桂が締結したけど、藩主の裁可を得ないでいいのか?
長州はそうせい候だったらしいけど、西郷は何の権限持ってたんだ?
211 :
日本@名無史さん:2010/08/09(月) 01:14:12
藩主の了解は取ってある
あの脚色多い龍馬伝ですらそこは描いてるだろ
よっしゃこい
>>208-209 要するに、いつの時代も
分家(庶家)当主ならば直臣になれることもあるけど
部屋住みたいなのだと、どう頑張っても陪臣のままだってこと?
あと、隠居した先代宗家当主は直臣扱い?
213 :
日本@名無史さん:2010/08/09(月) 15:09:41
隠居(先代当主)は、主君との主従関係においては当然直臣。
部屋住については、直臣・陪臣というより、直臣である当主の家族という扱い。
分家するなり他家に養子に出るなりして独立した一家を構え、家臣の列に下って、
はじめて陪臣になるんでは?
久光は藩主の実父ではあるが、藩主経験はなく、一門の重富島津家の養子となり、
いったん家臣の列に下っている。
なるほど。
それじゃ、鎌倉時代の大規模一族では惣領以外にも
一族のそれぞれが御家人だったそうだけど、
それはやっぱり、所領を相続して土地を持ちつつ一庶家として自前の家をたてて
はじめて御家人になれるのであって、
まだ所領を相続させてもらっておらずに土地を一つも持たず
自前の庶家も持ってない者は、御家人にしてもらえなかったの?
215 :
日本@名無史さん:2010/08/09(月) 17:54:41
分家の当主で領地があっても直臣になれるとは限らない
御家人のほうはわからん
216 :
199:2010/08/09(月) 18:39:57
あ……そうだ……
ふっと思ったんですが、戦国時代までは女性城主は結構いたそうですが
女性当主が完全に禁止されたという江戸幕府はともかく、
戦国以前である鎌倉幕府と室町幕府ならば、もし史実と違って、どうしても
繰り上がり当選的に女性を将軍に就けざるをえないなんて状況がありえたのならば、
ギン千代と宗茂みたく、女性が普通に将軍に就任しておいて、それから暫く後に
他家から婿養子を迎えて その女性将軍と結婚すると同時に、その女性は将軍職を引退して
婿養子である夫に将軍職を譲る……っていうシュチュエーションが
もしかしたら有り得ていたかもしれませんかね?
ちょうど室町幕府の場合は、さしずめ準一門衆ともいうべき守護大名がたくさんいましたし、
鎌倉幕府の源氏将軍が断絶したのは、実朝が死んだ頃の源氏は女子も含めて ほぼ全て他界か出家していて
唯一残った竹御所とやらは、実朝死亡時は まだ17歳で若すぎたし
という完全に八方塞がりな状況での断絶でしたから、
将軍家一門の状況が史実と違っていたならば、もしかしたら、ありえなくもないかなと思いまして。
それと、戦国以前の武家には、皇室のように 女性で当主(領主)となった者は生涯独身
既に未亡人である場合は、もう二度と再婚してはならない、という風に結婚とかについて
特に決められていたわけではないと判断しておいて間違いありませんよね?念には念を入れまして。
217 :
日本@名無史さん:2010/08/09(月) 19:13:59
>>214 鎌倉時代は「一所懸命」時代ですからね。
一人前の御家人として認定されるには、当然、自分の所領が必要でしょう。
もっとも、鎌倉後期になると借金のカタに土地を取られた無足御家人も出現しますが。
それでも、基本的には本領安堵であれ新恩給与であれ、地頭職への補任という形式で、
鎌倉殿から「御家人」に認定されるわけだから、自前の所領の存在は大前提ですね。
なお、女性将軍の可能性ですが、女子の所領相続が「一期分」だったことを考えれば、
史実の北条政子のように、幼君の後見役という形式が限界ではないでしょうか。
戦国時代の女大名の典型として挙げられる赤松家の洞松院尼も今川家の寿桂尼も、
形式的には息子や婿の後見役としてのポジションですし。
218 :
199:2010/08/09(月) 20:41:35
>>217 下
そうですか……一期分かあ……
……一応、さっきはギン千代と宗茂を引き合いに出したわけですが
男の将軍が死んで、将軍家一門には、もう女子しか残っておらず、その女子達は全員未婚ですなんて
事態に陥り、もう幕臣から婿養子をとるしかなくなってしまったのだが
将軍の空位期間を得て適当な将軍家女子が適当な幕臣家の男と結婚して婿養子に迎えて
将軍に就任してもらう……
……と、いった流れでは将軍家側としては何だが体面的に格好がつかないので
やむなく将軍家女子が将軍に就けざるをえない場合は、最初から
就任後なるべく近いうちに結婚して 幕臣家から夫を婿養子として迎えたら
それと同時に将軍職を退き夫に次の将軍になってもらう、ということを大前提とした上で
女性将軍として就任する……っていうシュチュエーションなら考えられませんかね?
飛鳥時代の女性天皇を応用しまして、
(実際には起こりえないでしょうが)一門の男子のストックが全て尽きた場合とかに
「中継ぎ」として結婚退職というか、必ず生存中に引退することを大前提としてとかならばと……
219 :
日本@名無史さん:2010/08/09(月) 23:25:44
>>218 五代将軍綱吉の後継ぎを決める時に
綱吉の娘・鶴姫の婿である紀州藩主徳川綱教が候補者としてあがったよ
あと本当に疑問なら自分で本か論文読んで調べなよ
この質問スレはただの補助であまりアテにはならんよ
候補として挙がったけど、血筋で言えば甲府宰相綱豊、家柄で言えば尾張綱誠がいた。
単に綱吉が娘可愛さに紀州出身の将軍を希望しただけ。
221 :
日本@名無史さん:2010/08/10(火) 07:35:07
一門が尽きても将軍家の場合とかは簡単に女系に移行したりしないだろう。
現に室町幕府も江戸幕府も最後まで男系で貫徹したし。
室町幕府の場合は、「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」
と言われていた。
実際に今川まで継承権がまわるかどうかはさておき、万一の場合は男系の同族に
後継者を求めるのが妥当だろう。
222 :
日本@名無史さん:2010/08/10(火) 12:05:37
武家政権が確立していなかった、いわば発展途上段階の鎌倉幕府と、
一応確立したあとの室町幕府(とくに義満以降)、さらにその完成形である江戸幕府、
それぞれの将軍位継承の事情は区別して考えるべきだろう。
武家の所領・家督相続の形態や女子の権利も時代によって変化してるしね。
一連の質問とそれへの回答は、その辺がいろいろゴッチャになってる感じがする。
223 :
日本@名無史さん:2010/08/10(火) 16:36:11
貴族の世から武士の世になると、政治も武家の手に渡るわけですが…となると、今までの政治の中心だった律令制太政官は有名無実な存在になってしまいますよね
とくに、武家政治になってからの中務省以下八省の各官庁は、その後どうなってしまったのですか?
一応幕末まで存在したのでしょうか?
よろしく教えてくたさい。
225 :
日本@名無史さん:2010/08/10(火) 20:00:04
室町以降は形骸化したけど名称は残った
例えば御三卿は一橋刑部卿、清水宮内卿の官位だった
226 :
日本@名無史さん:2010/08/10(火) 21:12:52
著名人で江戸時代生まれの最後の人物はいつ頃までいたのでしょうか?
田中舘愛橘 安政3(1856)- 昭和27(1952)
御木本幸吉 安政5(1858)- 昭和29(1954)
尾崎行雄 安政5 (1858) - 昭和29(1954)
牧野富太郎 文久2 (1862) - 昭和32(1957)
徳富蘇峰 文久3(1863)- 昭和32(1957)
小泉又次郎 慶応元(1865)- 昭和26(1951)
岩崎久弥 慶応元(1865)- 昭和30(1955)
若槻禮次郎 慶応2(1866)- 昭和24(1949)
宮武外骨 慶応3(1867)- 昭和30(1955)
柳原極堂 慶応3(1867)- 昭和32(1957)
宇垣一成 慶応4(1868)- 昭和31(1956)
>>225 > 室町以降は形骸化したけど名称は残った
> 例えば御三卿は一橋刑部卿、清水宮内卿の官位だった
>>225 ありがとうございます。
ついでに聞くと、形骸化したと言う事は、八省はもう実態がない存在になってしまった訳ですね。
各官庁で働く役人も、当然居なかったのですね
229 :
日本@名無史さん:2010/08/10(火) 21:47:32
鎌倉時代の時点で、律令制の官庁はかなり形骸化していたと思いますが、
完全に役所としての組織の実体を失うのは、やはり南北朝時代でしょう。
幕府に京都の市政権を接収され、実質的機能を失った頃です。
もっとも、官庁の実態はなくなっても、役人は任命され続けていたようで、
江戸時代に入ると、下級官人の官位は本来の地下官人や公家侍だけではなく、
御所や公家に出入りしている商人や職人にも与えられています。
戦国期には完全消滅してたみたいです。
江戸期になって、地下家(昇殿できない下級公家)が省を復興させてます。
と言って何か政治をするわけでなく、省の下級役人に庶民を指名し、
役職に合わせた官位もセットで貰ってやることで、礼金を得る商売にしてました。
あぁかぶっちゃった、失礼しました。
3 名前:世界@名無史さん 投稿日:2010/08/08(日) 15:23:54 0
この1週間の間に、百歳以上の所在不明者のニュースが世間を賑わしていますが、
著名人で江戸時代生まれの最後の人物って、いつ頃までいたんでしょうか?
(泉重千代のような単に長命しただけの一般庶民は除く)
ざっと検索して目についたのは、こんな感じですが。
田中舘愛橘 安政3(1856)- 昭和27(1952)
御木本幸吉 安政5(1858)- 昭和29(1954)
尾崎行雄 安政5 (1858) - 昭和29(1954)
牧野富太郎 文久2 (1862) - 昭和32(1957)
徳富蘇峰 文久3(1863)- 昭和32(1957)
小泉又次郎 慶応元(1865)- 昭和26(1951)
岩崎久弥 慶応元(1865)- 昭和30(1955)
若槻禮次郎 慶応2(1866)- 昭和24(1949)
宮武外骨 慶応3(1867)- 昭和30(1955)
柳原極堂 慶応3(1867)- 昭和32(1957)
宇垣一成 慶応4(1868)- 昭和31(1956)
4 名前:世界@名無史さん 投稿日:2010/08/08(日) 15:30:15 0
著名人の中では、チョンマゲで過ごしていた時期の明確な記憶のある世代は、 安政5年(1858)生まれで、断髪令の明治4年(1871)に満13歳だった
尾崎行雄とか御木本幸吉が最後の生き残りでしょうか。江戸時代生まれの最後の大物著名人は、昭和32年に亡くなった徳富蘇峰ですかね。
5 名前:世界@名無史さん 投稿日:2010/08/08(日) 17:26:12 0
岡野喜太郎 元治元年(1864)−昭和40年(1965) 駿河銀行創設者
ちょっとずれるけど
池田七三郎 嘉永2年(1849)−昭和13年(1983) 最後の新撰組隊士
林忠崇 嘉永元年(1848)−昭和16年(1941) 最後の大名
分部光謙 文久2年(1862)−昭和19年(1944) 最後の藩主(藩知事)
東久邇稔彦 明治20年(1887)−平成2年(1990) 宮様総理大臣
加藤シズエ 明治30年(1897)−平成13年(2001) 最初の女性代議士
13 名前:世界@名無史さん 投稿日:2010/08/10(火) 10:10:50 0
1919年没 板垣退助(82)、福岡孝弟(84)、前島密(84)
1922年没 大隈重信(84)、山県有朋(84)
1923年没 河野広中(74)
1924年没 松方正義(89)
1926年没 三浦梧楼(79)
1931年没 渋沢栄一(91)
1937年没 浅野長勲(95)
1939年没 田中光顕(96)
1940年没 西園寺公望(91)、徳川家達(77)
1941年没 林忠崇(93)
明治維新当時、歴史に関わった世代は1941年頃に全滅か。
14 名前:世界@名無史さん 投稿日:2010/08/10(火) 10:28:30 0
1850年代生まれ「を含めて」明治前半に既に名前の出てくる世代なら
1922年没 大井憲太郎(79)
1928年没 大倉喜八郎(91)
1928年没 益田孝(80)
1929年没 後藤新平(72)
1930年没 浅野総一郎(82)
1931年没 北里柴三郎(78)
1932年没 犬養毅(77)
1933年没 山本権兵衛(81)
1934年没 東郷平八郎(86)、伊東巳代治(77)
1935年没 坪内逍遙(76)
1936年没 高橋是清(82)、斎藤実(78)
1942年没 清浦奎吾(92)、金子堅太郎(89)
1944年没 頭山満(89)
関白と太政大臣って、どっちの方が権威があるの?
一条兼良は摂政になってから太政大臣だったけど
235 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 10:36:11
明治天皇が1940年代まで生きていたならば、
軍部の暴走や対中国戦争の泥沼化、対英米開戦などを
回避することはできただろうか?
戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争それぞれの
最後の兵士が無くなったのはいつ頃ぐらいですか?
>>234 権威は太政大臣の方が上。ただし実権は関白の方がある。
太政大臣は別名を『則闕の官』と言い、これの意味は
『適任者がいない場合は則(すなわち)闕(=欠)(か)く』です。
つまり余程の人でないとなれないから、権威があると言える。
逆に言うと、いつもいなくても回るわけだから、実権は無いということです。
平清盛、足利義満、徳川家斉 このくらいが太政大臣の例として浮かびます。
関白は一応平安前期まではいないこともあったけど、それ以上は
常置になっています。常置な分だけ値打も下がる。
だけどいつもいないと回らないのだから、実権はあったということ。
>>235 逆にもっと軍がやりたい放題していたかも知れません。
明治天皇は創業者の位置にいます。軍人告諭等も明治時代に出ています。
つまり『陛下の軍隊』という考え方が出来た時の天皇なので、
その天皇の下では軍隊の特権意識も相当強くなると思います。
帝国憲法は立憲君主制度だから、明治天皇といえども好き勝手に出来るわけではないです。
軍部がその気になれば、消してしまうこともできるのです。
239 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 18:30:35
日本に住む華僑の人は、どうして
王貞治(さだはる)、周富徳(とみとく)、陳建一(けんいち)とか、
孫正義(まさよし)などのように、下の名前が日本人風なんですか?
240 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 21:54:37
天皇が日本の中心として君臨していた飛鳥〜平安期、明治〜終戦期までと、
どちらかと言うと日陰の存在だった鎌倉〜江戸期、
そう考えると後者に属すのにやたら有名な後醍醐天皇は傑出した存在といえますか?
242 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 22:29:26
>>240 やったことの善し悪しは別として、
あの不屈の精神と行動力は評価してよいと思う。
歴代中では、傑出した人物だろうね。
243 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 23:06:35
>>242 やっぱりそうだよね
歴代天皇の中でも後世に永久に残る第一グループは、
推古、天智、桓武、後醍醐、明治、昭和あたりかな〜
白河、鳥羽、後白河、後鳥羽も残りそう。戦う天皇家という観点から。
245 :
日本@名無史さん:2010/08/11(水) 23:45:35
単純な疑問として、これからの天皇の中で、
後明治天皇とか後昭和天皇とか出てくる可能性もあるの?
それは無い。今は在位中の年号で死去後の呼び名にしているから。
後昭和天皇なんて大変だよ。戦争起こして負けなくちゃいけない。
現在では、一人の天皇の在位中に元号はひとつ、
そして元号は原則として重複させません(他国の元号との重複例は過去に存在した)ので、
現時点では未来永劫可能性はありません
昔は、一人の天皇の在位中に何度も元号は変えましたし、贈り名も変更された例もあります
顕徳院→後鳥羽院の例があるね。おくり名の変更。
>>242 行動力があったことは確かだが、その政策はあまりにもお粗末だったな。
ただ単に昔に戻そうとしただけ。
しかも真言立川流という乱交を旨とする邪教に狂った色きちがい。
現代風に言えば企業を倒産させた馬鹿社長。
>>243 天智天皇の名を上げておきながら、なぜ天武の名が無いのかな?
250 :
日本@名無史さん:2010/08/12(木) 13:02:48
昭和天皇が原爆の開発計画を中止させたというのは史実ですか?
ネット上では昭和天皇が以下の言葉で中止させたという記事が散見されます。
「数カ国が新兵器開発を競っているとの事だが、
日本が最初に完成し、使用すれば、他国も全力を傾注し完成させ、
使ってくるようになるであろうから、全人類を滅亡させることになる。
それでは人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか。
またハワイに投下する計画とのことだが、
ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地民とともに苦労し、
今日を築き上げたところである。そのような場所に新兵器を使用することには賛成しかねる。」
251 :
日本@名無史さん:2010/08/12(木) 15:19:20
詳説日本史図録(山川出版社)の225ページ、
日本と台湾というページの年表中に、
「台湾総督府条例を制定」というのが1895年の
出来事として書かれているのですが、台湾総督府
条例が制定されたのは1896年ではないでしょうか。
これについて分かる方がいらっしゃいましたら、
ご教授をお願い致します。
252 :
日本@名無しさん:2010/08/12(木) 17:11:30
応仁の乱で、山名方が、花の御所から逃走してきた足利義視と、
南朝側の小倉宮を呼んでいたけど、小倉宮は天皇として招いていたの?
254 :
日本@名無しさん:2010/08/12(木) 21:00:31
西陣南帝と呼ばれていた
正式に即位したかどうかはわからん
255 :
日本@名無史さん:2010/08/12(木) 21:59:32
>>249 天武天皇はネームバリューじゃ天智天皇に敵わないんじゃない?
まあ兄弟だから両方入れたほうがいいってことだろうけどね
256 :
日本@名無史さん:2010/08/13(金) 08:07:31
律令制時代におかれた各国の国衙ですが、どのような段階を経て消滅したのでしょうか?
ローカル線のように、時代を経るにつれ役人が一人二人と消えていき、最後には「もうどうしようもない」ということで解散したのか。
赤字で倒産した会社のように、矛盾を抱えながらもそれなりに機能していたところ、兵火に遭ってあっさり消滅してしまったのか。
できれば、なにか分かりやすい例を挙げて教えてもらえないでしょうか?
257 :
日本@名無史さん:2010/08/13(金) 21:22:25
258 :
日本@名無史さん:2010/08/13(金) 21:50:21
>>256 国衙領は公地公民を前提にした国有地です。だけど天皇家自身が荘園を
経営しているくらいなので、国衙領そのものがどんどん減って来る。
つまり平安末期にはまつりごとの対象となる領域が僅かしかなかった。
次に武士の時代になると、全国に守護地頭が置かれるようになって、
特に地頭が荘園と国衙領を横領し始める。何故って朝廷には武力が無いから。
国衙に派遣されてくる国司は、平安中期には早くも少なくなって遥任が
中心になって来る。国司は派遣されてきても4人しか来ないから、
国衙は最初から地元採用の有力者が実務を担っていた。これが在庁官人と呼ばれるもの。
伊豆の在庁官人北条時政なんてのがその例。
鎌倉時代になるとこの在庁官人が幕府から地頭に任ぜられることによって、国衙が消滅するケースがほとんど。
現代風に言えば、ライバル企業に支店ごと引き抜かれた感じ。
地元の有力者を使った間接統治しかできなかったということです。
南北朝の合一の時の条件に、つぎの3点があります。
1 皇位は両統迭立とする
2 国衙領を大覚寺統の領地とする
3 長講堂領を持明院統の領地とする
当時は国衙領など横領されてほとんど残っていないのに条件になっているのは、
既に八条院領も失地した南朝の顔を立てたからでしょうね。
こうやって浸食されていきました。
既出でしたらスミマセン、江戸時代の時刻について質問です
現在で言う二時間毎に鐘を鳴らして時刻を知らせていたのは解るのですが、では町人は半時(一時間)をどうやって計っていたのでしょうか?半時毎にも鐘を鳴らしていたとは聞きませんし…
それと、干支での呼び方(子の刻等)と数字での呼び方(暮六つ等)が混在していた理由が解りません
数字での呼び方は耳で時刻が解るようにする為と聞きましたが、ならば干支での呼び方は廃れても良かったのでは、と
無知で申し訳御座いませんが、何方かお答え下さればと思います。何卒お願いします
261 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 10:41:20
>>260 じゃ三十分は?二十分は?
そんな細かい時間は江戸の町人は気にせんのだよw
262 :
月孔雀:2010/08/14(土) 11:01:40
30分刻み。
丑一つは午前2時、二つは2時半、三つは3時、四つは3時半。
で、寅一つが午前4時。
263 :
260:2010/08/14(土) 11:05:58
>>262 江戸時代が不定時法だったことも知らん無知w
264 :
月孔雀:2010/08/14(土) 11:15:10
262は、平安貴族のものだったんか・・・
265 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 11:19:05
平安とは全く関係なし
日の出から日没を6等分、日没から日の出を6等分
その為季節によって長さが異なった
266 :
月孔雀:2010/08/14(土) 11:20:38
調べたけど、不定時法知ってたよ。
明るくなる時と暗くなる時で、時刻をくぎるってやつね。
最初に書こうと思ったけれど、難しいと思って書きませんでした。
当時の「一般的な」時計は香時計だと思うのですが、これって不定時法に対応していたのでしょうか
268 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 12:09:51
歴史学博士って身分詐称じゃないですか?
文学博士でしょ。
269 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 12:52:11
270 :
月孔雀:2010/08/14(土) 13:46:02
不定時法という言葉は知らんかった。
けど、理屈は、古語辞典に載っていた図で知ってたよ。
不定時法の時間の計り方は、僕も高校の時から不思議でした。
どうやってたのでしょう?
271 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 14:40:04
>>270 おまい自身の過去スレ参照のこと
嘘つきは恥ずかしいw
質問です。
「江戸時代」
・大名 ← “武家諸法度” 発布
・朝廷 ← “?????” 発布
朝廷にはなにを発布したか教えてください!
調べても"中並公家諸法度"などと出たのですがどれが答か分かりません><
273 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 15:09:23
>>273 "禁中並公家諸法度"だったみたいです。
お時間取らせて申し訳ありませんでした^^
275 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 15:37:46
明治になって西暦が使用されるようになる以前の人々は、
歴史上のできごとの年代を何年前か計算する場合どうやってたのだろうか?
干支は100年くらいなら一巡か2巡なので、それで十分だろうが、
たとえば江戸時代の人が平安・鎌倉まで遡って、何年前か計算する場合、
干支だけならものすごく面倒くさいのでは?
元号の何年が干支の何年に対応するか調べるのも面倒だし、
大年表とでもいうべき早見表のハンドブックでもあったのだろうか?
276 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 15:59:21
ググればすむ質問ばっかなのはなぜなんだ
277 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 16:48:50
>>276 前近代はググってもそんなに出てこないのよ
よっしゃこい
室町時代はいつ終わったの?
279 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 20:37:54
最高戦争指導会議の出席者は総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、
軍令部総長の6人だと思いますが、この6人は格付けするとどんな序列になるのですか?
おそらく1番は総理大臣だと思いますが、その次からの序列に興味あります。
誰か教えてください。
280 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 21:15:35
281 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 21:28:28
藤原仲麻呂が「一緒に平城京を出て戦いましょう」と
話し掛けてきたんだけど、どうすればいい?
283 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 22:43:16
284 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 10:56:59
285 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 12:28:52
286 :
284:2010/08/15(日) 12:36:55
ググッてみたらありました
ありがとうございました
287 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 14:45:32
288 :
284:2010/08/15(日) 16:31:16
>>287 ググったらありましたよ!
スレが荒れるので喧嘩腰は止めましょう
>>286 俺は
>>287だが、
確かに言われたとおり喧嘩腰は良くなかった
謝る。すまんm(_ _)m
ここは日本史に関する疑問をググるスレになりました。
足利義量から宴会に誘われたのですが
どうすればいいでしょうか?
292 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 22:38:04
>>290 ググッても回答出てこない質問すればいいだけのことじゃない?
よっしゃこい
>>291 ゆくべし!ゆくべし!ゆくべし!
「立つんだぁ〜ジョーぅぉ〜」
朝倉討伐へ行っているはずの織田信長がやって来て
「京に帰ることになった。一晩だけ泊めてくれないか?」と
言われたんだけど、どうしたらいいかな?
295 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 23:08:48
>>294 ガスパッチョのCFを参考にするといいよ
296 :
294:2010/08/15(日) 23:14:52
山本五十六は戦死しなかったら東京裁判で死刑になったでしょうか。
>>298 海軍将校なんだから死刑にならない
そもそも、東京裁判にも呼ばれないだろ
300 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 12:11:34
最高戦争指導会議の出席者は総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、
軍令部総長の6人だと思いますが、この6人は格付けするとどんな序列になるのですか?
おそらく1番は総理大臣だと思いますが、その次からの序列に興味あります。
誰か教えてください。
>>295 ワロスw
一条兼良が「菅原道真なんて学業も官位も政治実績も大したことがないのに
どうして、わしよりも知名度が高いんじゃ」とか愚痴をこぼしていて
「親戚が来るので、今日はこの辺で帰ります」と言ったら
「そうか。それじゃあ、続きは明日な」と言われました。
どんな風に答えればいいでしょうか?
302 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 19:51:05
日本のサンフランシスコ講和条約後に国会が戦犯の名誉回復決議に共産党などの左翼が賛成した理由は何ですか?
303 :
日本@名無史さん:2010/08/16(月) 21:21:58
自国の問題に関し他国が自国民を裁くことを認めては、自国の主権への自己否定となる。
主権国家は他国の強制に左右されない。自らで決定する。
304 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 13:13:02
>>279 >>300 この質問、いい質問だと思います。
首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の序列ですか!
首相から海相までは、内閣の一員つまり閣僚です。
参謀総長、軍令部総長は、軍部の軍令系統の長官です。
直線的に比べることは、できませんが、だいたいの判断基準というか指針はあります。
軍部長官に付きましては、
陸相は陸軍の予算・人事を職掌し、参謀総長は作戦・軍令系統を職掌します。
海軍も同様です。
伝統的に、陸軍は総長≧大臣、海軍は大臣≧総長だといわれていたそうです。
それと、戦前の日本は「軍部」が、他の行政各省より影響力が大といえます。
上記を考慮して(単純に比較することはできませんが)乱暴ですけどあえて序列を付けると、
首相>参謀総長≧陸相≧海相≧軍令部総長>外相
になると思います。
305 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 16:46:15
↑
デタラメじゃな
鎌倉幕府の北条氏はどうして将軍になれなかったのですか?
307 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 17:31:13
>>299 A級戦犯には嶋田繁太郎や永野修身といった開戦時のツートップが起訴されてるし、
終戦時の軍令トップの豊田副武も別の裁判で起訴されてる。
山本が終戦まで生存してたら、逮捕、起訴は免れないだろう。
308 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 18:08:37
>>304 戦前の国家機構の基礎知識(軍部を中心に)
天皇(元首)
首相(内閣の首班)
各省大臣(閣僚) ← 軍部大臣(陸軍大臣、海軍大臣)もこれにはいる。
<軍部>
陸軍
作戦・用兵のトップ(軍令系統という) 参謀総長(非閣僚)
予算・人事のトップ(軍政系統という) 陸軍大臣(閣僚)
海軍
作戦・用兵のトップ(軍令) 軍令部総長(非閣僚)
予算・人事のトップ(軍政) 海軍大臣(閣僚)
309 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 20:01:32
>>306 本郷氏などによりますと、
「ならなかった」し「なれなかった」とのことのようです。
「ならなかった」は、将軍を奉じてその権力を代行する方が統治がやりやすかった側面と、
「なれなかった」は、北条氏は御家人中でも家格が低く、将軍に就くべく伝統的地位が不足していた、
とのことのようです。
310 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 20:14:41
どうもバカが多いみたいだな
幕府←のそもそもの理解を知っていない吾人が多い
政権を執る執権もそうだがなw
これで理解出来なければ年号の勉強で何があったかレベルでよいのでは?
312 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 22:05:12
>>311 幕府の定義は時代によって違うのよ
よっしゃこい
313 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 22:56:21
征夷大将軍=源氏
なんてたまたま鎌倉、室町、江戸の幕府将軍が源氏だったからにすぎない。
実際に織田信長は平氏だが朝廷から征夷大将軍の就任打診を受けている
>>313 護良親王もいるでしょ?歴史研究者の間では常識よ
素人は知らないんだろうけど
よっしゃこい
315 :
日本@名無史さん:2010/08/17(火) 23:18:20
時代区分が安土大阪時代ではなく安土桃山時代なのは
政治の中心が伏見だったから そもそも豊臣=大阪の印象は大阪の陣から でOK?
だとしたらなぜ安土伏見時代じゃないの?
316 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 00:43:26
博士様。上杉家は西軍だったから幕末まで残れたものの、東軍についていれば場所や規模から最上家みたいに
加増の上で取り潰されていた可能性が高いと思うのですが、どう思われますか。
317 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 00:47:45
それと最上藩住人なのですが、最上家取り潰しは家柄や関が原の論功と比較してあまりにも厳し過ぎると思いませんか。
おかげで今では水戸黄門のうるさ家老くらいしか出番がありません。
318 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 00:49:51
何か別な理由が有ったのでしょうか。
319 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 01:11:43
>>318 諸説あるけど謎
史料にない以上答えられないのよ
よっしゃこい
320 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 05:09:39
>>319 ありがとうございます。博士様・・?コテ止めたのですか。
為政者の心理や政治状況などから導き出される博士の私案をお伺い出来ないでしょうか。
決定じゃなくて推測でいいんです。こう思う的な。
高卒無学の自分の私案ですと、山形に転封されて来たのは鳥居家、保科家、松平家、
そして幕末まで長く続いた水野家など幕府の主流派から陥落したビッグネームばかり。
つまりそこそこ要衝を任せられる譜代クラスで、無下にも出来ず、かつ中央に居られると
影響力が迷惑な大物を左遷楽隠居させる場所が必要だった。でぴったりの立地条件で、
加増し過ぎてやな感じだった最上家がゴタゴタ起こしてラッキー♪じゃないかと思うのですが。
>>320 俺は博士じゃねぇけどよ、俺の考えじゃあこうだ。
江戸幕府の初期の頃は盛んに大名の取り潰しを行った。
外様だけじゃなくて譜代や身内でも容赦なく処断した。
中には理不尽な言いがかりとしかいえないようなケースも珍しくない。
つまり、その時期には少しでも隙を見せたらアウトだったわけよ。
それにもかかわらず、危機意識の低かった殿様連中は軒並みやられたわけ。
最上もその中のひとつにすぎんと思う。
322 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 07:13:43
>>31 秀吉も足利義昭に将軍にしてくれって頼んだんだよね。
324 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 18:31:39
>>320 現存する一次史料を全部読み込んでからじゃなきゃ無理よ
素人の人はそういうことすらわかってない
よっしゃこい
325 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 18:37:30
326 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 20:09:47
>>320 実は事情があってトリップをなくしたのよ
キー読まれてたらなりすましが出るかもしれん。惑わされんようお願いするわ
よっしゃこい
>江戸幕府の初期の頃は盛んに大名の取り潰しを行った。
>外様だけじゃなくて譜代や身内でも容赦なく処断した。
>中には理不尽な言いがかりとしかいえないようなケースも珍しくない。
>つまり、その時期には少しでも隙を見せたらアウトだったわけよ。
江戸幕府初期の頃の特徴は完全な廃絶が少なく減俸とか旗本として家名存続が主流
くどくど書くのは面倒だからやらないけど高校程度だと未だに80年代以前の歴史認識なんだろうね
>>327 「減俸」って何だ?
大名ってのはサラリーマンじゃねぇんだからよお、「減俸」なんてこたぁありえんのよ。
俸給を支給されてるんじゃねぇんだからよ。
「減封」だぜ。覚えとけや。
江戸初期に潰された大名の数、ググッてみな。
それと4代以降の数と比較してからモノを言ってもらいたいもんや。
藤原定家に「今度、宴会に来ないか?」と誘われて
「和歌が詠めないから行けないよ」と答えたら
「別に和歌なんて詠めなくていいよ」と言われました?
宴会に行った方が良いでしょうか?
少し書き間違えた
藤原定家に「今度、宴会に来ないか?」と誘われて
「和歌が詠めないから行けないよ」と答えたら
「別に和歌なんて詠めなくていいよ」と言われました
宴会に行った方が良いでしょうか?
331 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 22:25:17
大日本帝国憲法下の天皇は立憲君主であり、政治的権力はなかったと言う説もありますが、
本当に政治権力はなかったのでしょうか?
また、天皇の意思や希望を政治家が汲み取って政治を動かす場合、
これは政治権力があると言うのでしょうか?
醍醐天皇と後醍醐天皇、嵯峨天皇と後嵯峨天皇、白河天皇と後白河天皇
このように後○○天皇が多いのはなぜですか?
また、オリジナルの天皇と後○○天皇との関係性はどうなってたのですか?
333 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 23:00:37
>>331 一般論でいえば、立憲君主といえども政治権力はある。
立憲君主制というのは、君主の無制限の権力を制限する「制限君主制」であって、
君主から完全に政治権力を剥奪するものではない。
大抵、後のほうの天皇自身が「あの天皇を手本としてあやかりたい」という理由で
在位中に退位後の名前を決定してしまう場合が多いです。
後醍醐天皇が典型です。
この場合、直系の祖先だったり、はるか昔の偉大な先祖だったりします。
後鳥羽上皇の場合は、実力があったのに戦争に負けて不遇であったことから、
死後の祟りを恐れて良い名を考えた結果です。
出家するのは政治的野心のない証だとされてたのに実際には頭を剃るだけで俗世で出家前と同じように振舞うのは何故ですか?
>>335 そんなこと、歴史の教科書に書いてあるぞ。
天皇ってのは日常生活全般にわたって、さまざまな「お約束事」に縛られてるわけよ。
連日のように儀式だの、祭祀だの、物忌みだので自由が無いの。
だから出家してそうした束縛から逃れて、自由気ままに振舞うわけさ。
たとえ出家しても、治天の君となれば絶大な権力があるわけで、天皇でいるよりはるかに美味しいのさ。
>>251 >>252 自己レスです。山川出版社に問い合わせてみたところ、
下記の回答を頂けて解決しました。ありがとうございました。
「陸軍が制定(軍政実施)したのが1895年8月,
勅令で公布したのが1896年3月となります。
小社の図録では軍政実施を採用しております。」
応仁の乱で、山名宗全は細川勝元たちと戦をしているだけで
足利義政自身に歯向かう気はなかったのですか?
大規模な戦になった後も、斯波義廉の管領下知状を使い
足利義政から全権を委任されたということにして
軍勢催促をしていたそうですが。
>>340 山名宗全にとっては敵は細川であって、義政などはただの旗印。
利用できるとなれば利用するだけのこと。
朝廷という存在がもうひとつ理解できないのですが、現代に置き換えてわかりやすく例えれば、
どういう存在なのでしょうか?
内閣ですか?
あるいは国会?
343 :
日本@名無史さん:2010/08/22(日) 09:46:03
内角であり国会であり裁判所でもありました。
344 :
日本@名無史さん:2010/08/22(日) 11:45:55
現代に置き換えることは出来ない
幕末の内乱時に何故日本は他国から侵略を受けなかったのでしょうか?
>>345 薩英戦争とか色々侵略されたけど、みんな撃退した
薩英戦争では、イギリス側の司令官の乗っている軍艦に大砲が直撃して
司令官が戦死して、撤退を余儀なくされた
>>342 抽象的だが、「政府」としか言いようがない
政治も司っていたわけだから宮内庁とは言えないだろう>>朝廷
350 :
日本@名無史さん:2010/08/22(日) 22:48:55
裁判的な調整もおこなっていたから、政府と言うほど限定的ではなかったでしょ
351 :
日本@名無史さん:2010/08/23(月) 12:12:06
>>342 朝廷VS幕府なんていいますね。
昔は、「三権分立」なんてないですから、
「政府」としてやれるものは何でもやっていました。
強いて言えば、天皇又は治天を頂点とする「公家政権の政庁」でしょう。
>>345 僻遠の地であったことが最大の理由。
それと欧米諸国も日本以外の方面で問題を抱えていたこともある。
たとえばアメリカではちょうど南北戦争があって、対外戦争どころじゃなかった。
>>352 朝廷=公家政権の政庁
幕府=武家政権の政庁
現代の政府=政党(今の場合は民主党)政権の政庁
この認識でおおむねOK?
354 :
日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:21:18
中心人物が何人か変わってるけど、明治時代の政府を通して「明治政府」や「明治維新政府」と
呼びます。
でも、大正政府や昭和政府とは呼びません。
この違いは何でしょうか?
355 :
日本@名無史さん:2010/08/23(月) 23:52:53
>>354 そうですよね!
思うに、直前が「江戸(徳川)幕府」ですから、
それとは違うことを強調して「明治政府」などと言っているのではないでしょうあか
か!
>>354 大正時代でも昭和に入ってからでも
明治政府と呼ばれているから、明治にできた政府という意味
明治憲法下での政府という分類分けでしょうな。
それならば、後世においては田中内閣も中曽根内閣も小泉内閣も含めて昭和政府って
呼び方をされるのだろうか?
200年後くらいには、そうなっているかも知れないな
ついでに、2ちゃんねるとか文化史の問題集に載っていたりしてw
戦後民主主義体制とか戦後民主主義政府とかそんなんじゃないか?
361 :
日本@名無史さん:2010/08/25(水) 05:42:15
昭和は戦前と戦後で分けないと全然違う体制だから、
昭和政府という括りは難しいと思う。
362 :
日本@名無史さん:2010/08/25(水) 08:47:19
「明治新政府」
鎌倉時代以来長らく(700年)続いた武家政権政庁「幕府」から、
明治になって近代国家政庁「政府」へ脱皮したので、
それを象徴的に表現して「明治政府」だろう!
だから「大正政府」「昭和政府」「平成政府」とは言わない。
「幕府」じゃなく「政府」だということを強調したいのだろう!
田中角栄や小泉純一郎は後世の日本史でどれくらいのビックネームになりますか?
でも鎌倉幕府とか室町幕府みたいに区別すると思うんだけど。
継続性のある政体かどうかで決まるんじゃないかな。
366 :
日本@名無史さん:2010/08/26(木) 01:01:18
関ヶ原の戦って数千人しか死んでないって聞いたけど、負けた方のてんでばらばらに足軽は歩いて帰るの?
いえいえ、隙あれば地元農民が身ぐるみ剥いで殺して
戦場になって土地が荒れた分の穴埋めを狙いますので、必死の逃避行ですよ
368 :
日本@名無史さん:2010/08/26(木) 12:08:51
>>362 その理解で良いんだけど
日本史が面白いのは明治政府という
これまでにない新しい政府ができたわけじゃない
外国の内戦と日本史の違う所だ
古代から続く朝廷が幕府を倒したんだよ
当時から新政府と呼ばれてはいたが、それでも朝廷に変わりはない
今も続く政府は朝廷の発展形だ
日本最古の歴史書といわれる「古事記」「日本書紀」は普段どこに保管されているのですか?
また、原本もしくはレプリカがどこかで公開されたことがあるでしょうか?(歴史展等で)
370 :
日本@名無史さん:2010/08/26(木) 21:38:26
原本は残ってないよ。今残ってる最古のものは写本。
>>370 その写本はどこに保存されてますか?
また、その写本かそのレプリカは公開されたことがあるのでしょうか?
>>371 専門は古代じゃないですが、出しゃばって答えます。
古事記は、近世には偽書説も流れるほど、
神道家にまで軽視された書物でしたので、
写本は南北朝以降のものしか残っていません。
「古事記」の写本は、稲葉通邦(宣長の門人)が発見した
伊勢の、えっと、真福寺(字はちょっと自信が無い)のものが
現在も底本として使用されています。
たしか14世紀後半のものだったかと思います。
現在の所蔵は存じません(調べればすぐ出るかと思います)。
「日本書紀」写本は、9世紀まで遡れるはずです。
奈良国立博物館所蔵だったと思います。
紙背に空海の『性霊集』の最古の筆写が使われていることで有名です。
見れる形で公開されているかは知りませんが、
国立博物館は図録もオンラインデータベースもあるので。
さすがに全部じゃないでしょうが、掲載されていると思います。
また、最古では無いと思いますが、
どちらも卜部氏にも代々伝わっていますから
相当古い写本があるはずです。
>>372 詳しい解説ありがとうございました
大和朝廷以前や飛鳥時代頃のことなどは古事記や日本書紀の記述による歴史ですから
日本史にとって本当に重要な史料ですね
374 :
日本@名無史さん:2010/08/27(金) 07:07:11
大久保利通の長男で跡継ぎだった大久保利和侯爵は子がないために弟に家督を譲って
隠居したといいます。
この大久保利和には男子も女子も生まれなかったのですか?
また彼の妻は何という名前だったのでしょうか?
教えて下さい。
倒幕・維新に関してですが、
当事者であった武士・公家階級より、更に現状に不満があったはずの農・工・商・穢が
改革に加わろうとしなかったのは何故でしょうか?
また、少数ながら
有力町人・富農・僧侶などから
討幕運動に参画した人物が居れば教えて下さい。
>>375 そりゃあ討幕運動なんて、基本的には社会上層部の権力闘争ですから、
そもそも民衆が加わらないのが理の当然というやつです。
(ええじゃないかとか、打ちこわしとかのことを「加わる」とは言っていなさそうですし)
たとえば、福沢諭吉は、「民権」という言葉が日本では通じないと、嘆いています(「西洋事情」)。
「権」は日本では「権力」の意味であり、「民」が「権」を持つという概念そのものがちっとも通じないと。
「民」と「政府」が一体となって「国家」を作るという近代的な国家観そのものが無いわけで、
それを落として近世を評価すると、
あたかも幕末の動乱が「国民全体」を巻き込んだかのようなズレた認識になってしまいます。
ただし、その「社会上層部」は武士・公家に限定されません。
近世通じて、士農工商の間に絶対的な断絶は有りません(身分的移動が頻繁)し、
当たり前ですが、商人や庄屋層は、武士の統治に密接に関わっていました。
また、懐徳堂朱子学に代表される「経世論」の流行等、
一部の商人・庄屋層に、政治主体としての自覚の成長があったことも事実ですから、
武士・公家以外の人物が幕末の政治動向に関わった例は少なくありません。
そもそも、志士達の財源を支えていたのは、京都や大坂の商人衆ですし、
大久保や西郷だって、一応武士身分とは言え、半分農民みたいなもんでしたし、
奇兵隊みたいな私兵組織もありましたし(一部は九州に流れ、倒幕運動を組織)、枚挙に暇が無いかと。
ただ、名前が残るような有名人となると難しいですね。
薩長同盟の現地ブローカー的な役割を果たした多々良孝平とか。
パークス襲撃に関わった三枝蓊とかが、もっともメジャーかなぁ。
きっちり答えるとえらく長くなってしまいました。
ついでに
>>374 たしか重野安繹の娘が嫁いでいたはずです。
大久保親子の墓は、青山霊園にありますので、
たぶん名前くらいは分かると思いますよ。
ここから先は、調べればすぐ出ると思いますので、
何かおわかりでしたら、また教えてください。
>>375 >>376 が言っている通りだろうな。
参加した者は大勢いただろうけれど、後世にまで名前が伝わっている例が少ないということだろう。
中にはかなり活躍して、当時の仲間内では知らぬものがいないくらいような存在でも、時代の流れとともに忘れ去られた者もいただろうしな。
坂本龍馬にしたところで、司馬遼太郎という人物がいなければ忘れ去られたままだったかもしれない。
大村益次郎なんかもそうだな。
伊藤博文なんかも、出自は卑しい。これは例外中の例外。
380 :
日本@名無史さん:2010/08/28(土) 09:02:18
まことに以て忝なう御座る。
各々方。
して、大久保利和には男女いづれの子供も生まれなかったので御座らうか?
調べる手立ては在るまいかの?
381 :
日本@名無史さん:2010/08/28(土) 11:55:24
明治維新後、薩摩藩主は華族になりました。
藩主の部下だった大久保や西郷は維新政府の
参議となり、維新政府の重責を担いました。
この場合、華族となった藩主と維新政府の参議になった
大久保、西郷はどちらが格上と解釈すべきなのですか?
権威…華族(藩主)
権力…参議(大久保西郷)
この解釈でいいのですか?
権威、権力ともに参議のほうが上?
>>380 家系図は、各伝記にもありますが、正確を期すならば、
大久保利通関係の資料集(『日記』、『関係文書』、『関係資料』)のうち、
『関係資料』に家系図があったと思いますので、これを見れば間違い無いでしょう。
ほとんどの大学図書館にはありますので、
ご確認戴ければと思います。
個人的には、さすがにここまで残っていないとなると、
存在しない可能性が高いんじゃないかな、と思いますが。
正確でない情報で申し訳ないですが、ご参考になれば。
>>383 誰にとってのどういう「権威」かも微妙ですし、
一部、三条実美初め、元勲たちに担がれる公家もいますので、
一概に参議が上とは言えない所ですが、
島津茂久(忠義)に関しては、どう頑張っても参議より弱い立場にあったと思います。
オヤジの影響か、洋装にチョンマゲで有名だったようですが、
結局明治に入ってから、「権威」や「権力」を発揮する場面は皆無でしたからね。
386 :
日本@名無史さん:2010/08/28(土) 16:48:58
>>368 明治新政府だけでなく、現在の政府も「朝廷」の発展形ですか!
納得です。
閣僚は、ナントカ大臣ですからね! 太政大臣、左右大臣の名残でしょうか!
387 :
日本@名無史さん:2010/08/29(日) 19:29:39
歴史やってる人間って大体文学博士になるんじゃね?
>>387 正式な肩書きとしてはそれしかないからね。
心理学なんかでも文学博士になる。
なれるとしたら。
389 :
日本@名無史さん:2010/08/30(月) 07:32:21
博士てほとんど来ないんだな
390 :
日本@名無史さん:2010/08/30(月) 21:01:41
>>368 現在の内閣や政府は朝廷の発展系であり、幕府とは根本的に違うということですか?
幕府と政府の根本的な差異はどこでしょうか?
今の政府は、三権分立した中の行政を司る行政府
内閣は、国会が作案した法律の範囲内であればどんな実効的な行政行為もできる権力をもつ
しかし、立法を司る国会は内閣に対して、国会の代議員からしか内閣信任が行えないという優位を
もっており、これが内閣の暴走をくいとめる役目を果たしている。いわゆる議員内閣制だ。
また国会議員について国民は選挙によって罷免する権利をもっており、
国家の建国意志を表す憲法について間接的に介入することができる。間接民主主義である。
幕府とは、軍の全権を天皇に委任された征夷大将軍によって開かれた幕下の政府。
たとえば、まつろわぬ蝦夷をほろぼしたあと当地の安定をもたらすため、いちいち都に連絡をとらず
緊急避難的に幕内で治安安定のための警察行為や食糧の配分などの行政行為も行える権限をもつ
あまりに遠隔地のために全権を委任する必要があるとき、征夷大将軍のような権限が与えられる。
たとえば総督府による軍政が幕府と同じ形態の政府であろう。
本来的には、天皇に統治権、統帥権があり、すべて委任という形で政府が存在するが
軍政下では、最終決断をしているのは軍の最高指揮官であるのに対し
今の日本国の国権の行使にあたり、最終的な裁可を下しているのは陛下である。
御名御璽が押されているのである。
という意味では、今の日本国の国家行為に対する重みは幕府のそれからしてちがうと言わねばなるまい
>>390 人の回答に口出しするのはマナー違反かもしれませんが、あまりにヒドいので。
幕府に対抗する形式上、天皇による統治という形式を明治新政府が取ったまでで、
それを「古代朝廷の発展形」と取るのは、完全に実態を無視した安易な議論です。
そんなことを言う近世史家・近代史家は
少なくともアカデミズムの世界にはまず存在しません。
幕府と政府の根本的な差異は、
>>362氏の言うように
近代的国民国家の要件を満たすか否か
(あるいは満たそうと志向するか否か)であって、天皇は本質的な差異ではありません。
>>391の議論は、近代国家日本の枠組みを
強引に近世に当て嵌めたものに過ぎません。
日本において「統治権」「統帥権」というものを
天皇が普遍的に持っているという前提に立って初めて
>本来的には、天皇に統治権、統帥権があり、すべて委任という形で政府が存在する
>たとえば総督府による軍政が幕府と同じ形態の政府
といった乱暴な議論が可能になります。
はぁ?ですね
明治新政府において憲法は民権運動に押されて作りましたし
そもそも社会契約論のような仮説をおく国民国家概念が
日本に定着した様子もないですからね
明治新政府が当初から、近代化をめざしたものだったかどうか
どう考えても否ですよ。
394 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 00:01:58
自演5963
中学生あたりが思いつきと引用だけで言ってるだけじゃね?
だから用語の使い方がいきあたりばったりで正しい使い分けができず
どう言えばどの手の誤解が生じ、どういうところが曖昧になるかということが分からない
基礎的な知識整理ができてないんだろう
397 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 00:45:00
ここはぜひ博士から
>>393 明治新政府が当初近代国家を志向していなかった、というのは
ちょっと驚きの「新説」です。
まさか、天皇親政こそが彼らの目的だった、とかそういうことでは無いですよね?
参考までに、もし何か典拠(先行研究)があれば教えて下さい。
>>396 私もそう思います。
私は明治維新が素晴らしかったと諸手を挙げて称賛はしませんが、
さすがに、維新期の政治家の苦労を考えると、
>明治新政府が当初から、近代化をめざしたものだったかどうか
>どう考えても否
などと言われると、彼らも浮かばれないんじゃないかと思います
えーと。あまりに馬鹿すぎて手におえないな
政府参画者による萩の乱や西南戦争はなぜ起きたのかな?
400 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 01:13:57
最近この板に会津系の人が出没しているから、記述がひが読みになってきているんだよ。
星亮一なんて痴呆人は「薩長の明治維新は全くの権力欲に基づいた野獣的な野望であり、薩長に日本を良くする意思などなかった」
が公式見解だからね。
それで、社会が良くなっていると挙げると「それは全て会津人と旧幕臣との努力である。薩長は阻害しただけだ」と主張が返ってくる。
何を指摘しても全て、会津バンザイ薩長破壊で返してくる阿呆だ。
実際のところ、明治維新で薩長が権力を得たいと思った根底には、社会を良くしたいという意思はあったし、
現に日本は世界にも類のない、ありえないほどの成功を収めた。
401 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 01:25:49
最近この板に長州系の人が出没しているのはわかった
>>399 明六政変と、維新後に冷や飯を食わされた士族不満分子が結託したから、
というのが一番オーソドックスな解答かと思いますが。
というか、明六政変を出すのであれば、
そもそも「留守政府」なんていうものが何故存在したのか考えれば
>明治新政府が当初から、近代化をめざしたものだったかどうか
>どう考えても否
というのは、明らかにおかしいと思います。
彼らは二年も国を空けてまで、何をしに行ったんでしょうか?
いずれにせよ、もしあなたが
>>393さんならば
明治新政府が当初近代国家を志向していなかったとする
何らかの根拠を示す必要があるかと思います。
ここで、史料批判など無理ですので、もちろん先行研究で問題無いと思います。
あるいは、近代国家で無いならば何を志向していたかを
はっきり書く必要があるのではないでしょうか?
>>400 もちろん、今までの近代史が、
まんま薩長史と言っても良いような偏向状態にあったのは事実で
それは最近あちこちで是正の動きが出ていますが、
だからと言って
>薩長に日本を良くする意思などなかった
というのは、明らかに陰謀論に近いと思います。
ほう。
一番西欧に詳しかった佐賀藩が下野しているのにですか?
失笑しかおこらないですね
大隈重信が聞いたら笑うしかないでしょうねプゲラ
>>402 少し聞きたいのですが、あなたのいうアカデミズムの体現者とその著作を教えていただけませんか?
浅学にして知らないものですから
>>403 第一に、確かに佐賀藩が西欧の医学や技術の情報を自覚的に入手していたのは事実ですが、
「一番」であった、というのは、誰がどのように評価した結果なのでしょうか?
第二に、明六政変の議論の焦点は、征韓論であって、
近代化云々には無いはずです。
ですので、仮に佐賀藩がたとえ一番西欧に詳しかったとしても、
佐賀藩が下野したから(そもそも佐賀藩士全員が下野したわけでは無いのですが)といって
明治政府が近代化に反していた証拠にはなりません。
>>404 アカデミズムの体現者、などと、私が何時言いましたでしょうか?
日本史関係の学会にいくつか所属していますが、
さすがに「明治新政府が近代国家を志向していない」という論者は
全く見たことがありません。
もしいらっしゃるなら、私の不勉強ですから是非教えて欲しいのです。
>>405 くだらない議論につきあってられないので早く著作をあげなさいな
誰でもいいならひとりぐらいあげられるでしょ。あなたの支持している先生をあげればそれでいいのですよ。
当時、西欧文物に一番理解があったのは佐賀藩士でしょう
長州薩摩の誰が西欧にくわしかったのですか?教えてくれませんか?
政治力以外でですよ
あと、議論をミスリードしてますが、誰が明治政府が近代化に反対していたなんて言ってます?
死んでほしいですね
近代国家建設のために薩長が倒幕運動を起こしたと言っているあなたのキチ外理論を論破してるだけですよ
私は、近代化は明治政府が西欧と互すために必要不可欠な手段としたためにとった行動であるとは解釈してるだけです。
407 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 02:33:11
>>406 >あと、議論をミスリードしてますが、誰が明治政府が近代化に反対していたなんて言ってます?
>死んでほしいですね
>近代国家建設のために薩長が倒幕運動を起こしたと言っているあなたのキチ外理論を論破してるだけですよ
>
>私は、近代化は明治政府が西欧と互すために必要不可欠な手段としたためにとった行動であるとは解釈してるだけです。
言ってもいない話を後付けして、過去レスの嘘をごまかすいつもの人
408 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 02:37:02
星亮一と一緒に根拠のない中傷を撒いている、高橋さんでしょ
>>406 当初の質問(「明治新政府」と「幕府」は何が違うか?)から
大幅に逸脱していますので、
これ以上の回答はスレ違いかと思います。
もし必要でしたら、別スレを立てられましたら、
時間の許す限りでよければお付き合い致します。
>>407 どうも。
おいおい今度は捏造か?
日本語理解できますか?
明治政府と幕府との違いは近代国民国家かそうでないかのちがいだっておまえは言っただろ
その定義がそもそもまちがってると言ってんだよ
明治政府は尊王攘夷を大義として倒幕しただけで近代国家を目的としたものじゃないし
幕府でも近代化は可能だよ。ドイツの例があるからな。ドイツにゃ貴族が今でも城もってるぞ。
おまえが国民国家に対してへんな妄想ふくらまそうと勝手だが周りを巻き込むな
411 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 03:12:29
>幕府でも近代化は可能だよ。
らしいね。俺は無学やからよー知らんけど、歴史板や政治板でその話はよく聞くね。
幕府のままでも近代化はしただろうって。
412 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 05:55:50
そうだよな江戸幕府なんか無くても室町幕府で近代化できたよな
413 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 11:53:46
長州1藩も成敗できず
参勤交代もしてくれず
朝廷に振り回されてる幕府じゃ無理だろ
414 :
日本@名無史さん:2010/08/31(火) 11:55:53
まず廃藩置県が幕府の力じゃ無理だね
構想はあったようだけど
>>414 上地令でさえ失敗しているからね。身内と目すべき旗本の土地なのに。
ただ廃藩置県は藩の借金がチャラになるという側面もあるわけで、
全部借金を幕府が被ると言えば、出来ないことは無いでしょう。
要は経済の観点から物事を考えられれば、改革の主体が誰であっても
おおよそは成功するのです。だって人は食べて行かなきゃならないから。
食べさせてくれれば、右でも左でも何でもいいのです。
龍馬伝見てて思ったんだけど、桂と西郷は藩主の全権委任状もらってるって解釈でいいの?
下手すると藩がつぶれるような条約を勝手に結んでるわけはないよな?
>>392 ふむ。
君のようなまともな人が居て良かった。
安心したよ。
竜馬の生活費が心配で眠れません。全部仕送りだとすれば、カッチョ悪いでつ。
>>411 ある程度の「産業化」は可能だったでしょうし、
事実幕府の技術力は(フランスの援助を受けつつも)
かなり高いレベルにありました。
しかし、近代化を支えるもっとも重要な要件が、「国民国家の形成」です。
民衆を「国民」として一元的に編成し、平時は産業化のための労働力として、
緊急時は兵士として動員可能な状態にしておくことが、大事なんですね
これは現在でも同じみたいですが。
明治政府が、なぜあれほどの抵抗に遭いながら、
特権階級を(制度上)解体し、徴兵令と学制を全国的に実施していったのか、
それはまさに「民衆」を「国民」に編成していこうとする強い必要性があったからですね。
一方で幕藩体制は、「国民」の存在を前提としていないどころか、
むしろそれと対立する体制ですらあります。
寛政期以降、「国民皆教育」みたいな構想もちょくちょく出されるのですが、
全て制度的な限界の中で失敗していきます。
その意味で、幕府がその体制を維持しつつ近代国家に変化していくことは
そりゃifを言い出したらキリが無いですが、
極めて困難なことだったでしょう。
>>416 龍馬伝見ていないので何とも言えませんが
長州の場合、軍事クーデターを経て、
この時点で藩内の実権はほぼ木戸らが掌握していますし、
毛利敬親は木戸らの路線を全面的に支持しています。
そもそも長州にメリットしか無い同盟ですから、藩主が反対することは実際有り得ない。
問題は薩摩ですが、描写されているかどうかは知りませんが、
京都の薩摩藩士は常に藩と連絡を取り合っていますので(書簡が残っている)、
「勝手に結んだ」わけではありません。
また、薩摩藩主と坂本竜馬は、西郷と大久保の紹介で事前に面会していますし、
国元での根回しはかなり綿密に行われていたようです。
>>417 どうも
電話ファックスのない時代にすべてを文書でっていうのはさすが無理があると思いますが・・・
兵は拙速を貴ぶと言いますし
ここらは阿吽の呼吸だと思いますね。もちろん西郷は切腹覚悟で自己判断してたとは思います。
薩摩の風習として大将はどんとかまえて責任だけとり、もっとも優秀なものに全権をゆだねるというものが
ありますが、薩摩に暗君なしと言われる所以がここらにあるのかもしれませんね
422 :
日本@名無史さん:2010/09/03(金) 19:52:40
んで、文書の一点二点くらい上げて議論する人間は一人もいないのか
>>422 そう思うんなら君が率先垂範すればいいじゃん。
>>390 幕府とは軍政政権。
だから、トップから側近部下に至るまで、殆ど全て「軍人」であり
幕府自体がイコール軍隊。
そして、幕府は家裁機関の延長として成立したモノ。
つまり公的な軍隊ではなく、もともとはトップの家の私軍。
だから存在のためには公認が要ったし、江戸時代末期はこの点で苦しむことになったのだ。
明治維新とは、「外圧に対応しうる日本の国家体制をどうするか」の迷走闘争です。
そして最終的な結論は「国家元首の権威を天皇に帰す」「身分上下を問わない公論の促進」
「それに基づく合議制」。王政復古でやったことの本質はここまでなんです。
実は「近代化」の根幹はここにあります。
でも、元勲達は近代化という概念を理解し意識していたかどうかわかりません。
きっと「近代化って何?洋風化ならわかるが」「リフォームのことなのか?まあそれなら」だったでしょう。
ここが論議の分かれ目。
海外の「先進的な」ものを取り入れる、というのもありますが、これは基本、通商・外交・軍事的対抗のためだったから。
あくまで補記的なもの。「軍は洋風化しないと勝てないし、事実、勝ったし」。
結局はいろんなものを入れざるを得なかったわけですが、本音は上から下まで、仕方なしだったのですよね。
「追いついたらまた鎖国」「洋才は使うが和魂でいく」「外国カブレは嫌い」「商売のネタを見つけないと」…
あげればきりがありません。
取捨選択のためにも、合議は必要でしょう。つまりは、合議のほうが重要だったのです。
ましてや、「明らかに旧すぎる制度の廃止」は、この補記の対偶に過ぎません。
尊王論が活発だった頃、論議の中では出てきたかもしれませんが、現実、天皇親政を目指した人は殆どいなかったでしょう。
「合議」の原則を破壊するだけですから。
426 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 13:44:27
>>425 天皇親政に意欲を持っていたのは元田永孚ですね。この人物は儒学者で
明治天皇の側学者の地位にもありましたから、宮内での影響力は小さくありませんでした。
その為、元勲らとの軋轢も少なからずありました。教育勅語作成にも草案段階で関わりましたが、
井上毅らが余りに儒学要素が強いとしてかなり手直ししています。要するにあからさまに
天皇を敬うような内容だったので、かなりマイルドにしたということですね。
また、元勲と言っても井上、山縣、伊藤、金子らの考えにはかなり幅がありましたし、
伊藤などは君主の権限を強くしたいと考えていた井上に苦言を呈していますし、
逆に金子は帝国憲法制定時に伊藤による「国体は立憲主義によって変わる」という発言に
噛みついていたりします。山縣と伊藤の対立が軍の統帥権独立条項に影響を与え、
政府の統制がきかないシステムになってしまったために、後の統帥権干犯問題にも繋がりました。
合議による適切な対応で改革していくのが重要なのですから、
実現できるのなら、既存体制の解体は最小限でよかったのです。
当初の公武合体論は、この姿勢の最たるもの。
末期には幕府自体が合議制を模索していたのですから、
幕府が倒れなくても、ある程度の近代化は叶ったかもしれません。
少なくとも、産業の近代化は。
しかし、社会的にはどうか疑問です。
最低限、諸藩から軍事外交権を取り上げ、国民軍を形成できないといけないでしょう。
国民軍を形成するために必要なものを幕府が提供するかどうかも、疑問が残ります。
>>426 元田永孚については反啓蒙主義者のイメージしかないのですが、
政体に対してどのような論を持っていたのでしょう…
>>426 龍馬で思い出しましたが、あの谷干城。
確か親政運動をやってましたね。いや失礼。
江戸幕府は、足利家みたいに逆賊になっても
適当な皇族を見つめてきて、
天皇として擁立しようとは思わなかったのですか?
431 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 23:14:44
>>426 金子は特に自由民権運動に関わってたからね
嚶鳴社憲法案は金子が主に作ったようなもんだ
>>428 元田も独自の憲法構想を提案している
天皇の力が相当強いが天皇を憲法の枠内に入れていたし
民選議会の存在は一応認めた
>>430 奥羽越列藩同盟が輪王寺宮をかついでやったよ
432 :
日本@名無史さん:2010/09/04(土) 23:15:29
決め台詞を忘れた
よっしゃこい
国民国家の概念て社会契約論じゃないの?
で、国民軍を形成するための徴兵制は参政権とセットだろ
何度も言うように、明治日本は社会契約論を導入してないと思うんだが
そもそも日本人は自然権についての考察がかけてるだろ?
普仏戦争でプロイセンが仏に買って、明治政府は軍制にかんして
陸軍はプロイセン、海軍はイギリスを模倣したし、
憲法についても、伊藤は王をいただいているプロイセン、イギリスを参考にしているよ
>>425 そう括ることは可能だとは思うが、結果論だよ
まず、幕藩体制を理解するところからはじめたほうがいいと思う。
体制内には、幕政と藩政の両方があって、諸外国との交渉、つまり外交権は幕府が一手に握っていた。
幕政については幕閣がこれを担当し、閣僚については親藩、譜代藩、旗本などから登用がなされた。
幕閣人事がどのようになされたかは時代によるようだが、
幕末、外交問題を徳川家存続を第一義として対処することが難しくなり、
四賢侯によって藩主の幕政参画が求められるようになった。
四賢侯はいずれも譜代藩の藩主であり、外様藩の長州は当然参加できていない。
このへんですでに幕政に不満をもつ譜代藩士が暗殺などを試みている。
幕府への批判が高まる中、相対的に朝廷の諸藩に対する権威は高まっていった。(譜代藩に対しても)
幕藩体制を維持するために朝廷の意向を無視することができなくなった幕府は
良識派によって、公武合体論へ移行する。
ちなみに、朝廷の力が浮上してくるとき、長州藩は公家を介して、日本史にようやく登場することになります。
坂本竜馬は、幕府が一諸侯に立ち戻り、公儀による朝廷を合議の場にした諸侯体制を望んでいたと
一般に言われますね。というか当時の志士たちの想像力でもそれが限界だと思います。
私が思うのは、長州藩の特異性です。毛利は当時の雄藩の中でも最左翼に属し、
幕府とは不倶戴天の仲にありました。薩摩藩との同盟は、日本有数の雄藩をみすみす改易させたくない
という判断から来たものではないでしょうか?が意に反して長州藩は勝ってしまった。
ここに日本の大激動の原因があると思います。
下関戦争、薩英戦争によってはじめて、軍制の改革が懸案として上がりました。
第二次長州征伐では、幕府と長州との軍制のちがいによる戦力差が浮き彫りになり
戊辰戦争、果ては西南戦争にいたるまで、日本の軍制は改革が行われ続けたと思われます。
このことは、政治への参画と攘夷対策を求めた公武合体論とは異なり、
求める政治構造と、その実証性の二つを備えた体制を用意したという面があると思われます。
明治新体制の改革の断行は、岩倉使節団という政治のトップによる先進国視察が
主な背景にあります。改革は、当初、尊王攘夷を唱えていた士族にすら異様に思えるほどの
西欧化であり、筆頭であった大久保は暗殺されることになります。
尊王は倒幕によってかないました。幕府以外の諸藩の国政への参画は幕府の破壊による
徳川300年の御恩と奉公の関係の廃棄、そこからの諸侯乱立状態が必要で、
明治維新はそれを十分に用意したと言っていいでしょう。
しかし、攘夷に関しては、イタリア、ドイツがそうであったように諸侯それぞれが独自性を維持した
状態でのそれでは極東の島国には遅すぎたと思われます。
国民軍の整備と近代兵器の開発、それにはドイツのとっていた富国強兵策が参考になったことでしょうが
日本はそれでも足りませんでした。それは欧州秩序への参画です。
欧州の会議、話し合いのテーブルにつくためにあらゆる礼儀作法をとりいれなければいけませんでした。
鹿鳴館でのダンスもそのひとつです。
それらを同時並行して実行するのにはやはり強固な中央集権体制が必要不可欠であったでしょう。
明治政府の近代化とよばれる一連の流れは攘夷をメインにすえた一大変革であったと
とらえるべきだと思います。
>>434 四賢侯のうちの薩摩と土佐って外様じゃないの?宇和島はどっちだっけ
437 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 08:00:06
>>428 元田が反啓蒙思想というのは仰るとおりですが、彼は天皇親政も望んでいました。
教育勅語についてはお伝えしたとおりですが、それ以前に彼は天皇親政運動をしています。
>>431 >元田も独自の憲法構想を提案している
元田の「国憲大綱」は、天皇親政を前提として、民選議会による議決は天皇の判断で
否決できるとする考え方でした。政府は天皇の判断に示唆を与える諮問機関としての
地位であるべきとし、天皇の徳政を説いた元田の論は井上毅からも批判されています。
本当だね。家格は外様の国主格だわ
薩摩は将軍家と代々懇意だし、土佐は関ケ原の功労で一気に国主格に大抜擢だし
伊達の宇和島は、外様だけどほぼ徳川新恩の譜代藩と見ていい、伊達そのものが徳川と懇意だし。
すべて、幕府に親和性の藩であるよう。意見するにもコネが必要なんだろうね
でも幕閣には参画できなかった。
どうも、幕閣は原則、譜代家臣から選ばれたようだ。
親藩や外様は参与できなかったらしい。
四賢侯の幕政参与は朝廷の圧力が背景にあるみたい。
アメリカに大砲外交されて、日本の外交方針を左右する事態に幕府があわてたのを
薩摩藩の斉彬の入れ知恵で幕府へ圧力をかけた。
斉彬はもともと他の三人と交友関係にあり、公武合体と開国武備をとなえていたようで
その結果として、雄藩による幕政参与をときの大老阿部某に認めさせた。
というのが事の顛末のようだ。
439 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 08:07:10
>>433 >国民国家の概念て社会契約論じゃないの?
国民国家の概念は必ずしも社会契約説に立脚したものとは言えません。
ウェストファリア体制によって確立したのが国民国家という概念で、
社会契約説は国民国家の概念を踏まえつつ、自然権を持つ国民が
国家と擬制の契約を結ぶというものです。
440 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 09:57:26
>>438 伊達や島津が徳川と懇意にしていたというなら
改易にされた加藤家や福島家も徳川家と血縁関係にあったよ
>>433 自由民権運動は国民に国政参加意識を持たせる運動でもあった
立志社建白でも徴兵制と議会設置はセットだと言っている
441 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 10:10:26
質問
博士はどこへ旅立ったの?
>>440 あれは豊臣恩顧の大名つぶしでしょう。
豊臣家に対する礼をやめなかったための仕置き
>>439 ウェストファリア条約によって確立したのは主権国家の概念ですね。
国民国家概念ではありません。国民国家形成の下地にはなりましたが。
(国家主権とは国家が一つの人格として国際社会で扱われるということです。
その国のことはその国で決めるということが許されます。
国民主権とは、国民が国家主権を握っているということです。
選挙権を譲るということは国家主権放棄にもつながる危険な行為です。)
フランス革命後、ナポレオン遠征によってヨーロッパに国民概念が広まり
同時に、民族意識を刺激し、民族主義が台頭しました。(そのころドイツはまだない)
国民国家には二つのパターンがあります。
フランスのように、国民と定義される存在によって国家が運営されるという社会契約論に立つもの。
もうひとつがドイツのように民族の自覚と、民族のための国家運営がなされるというもの。
しかし、民族主義による愛国運動であったナショナリズム(ナシオン=国民、国民主義)が
国家主義、全体主義的なものへ変化し、国民を圧迫する概念へと転用されるようになった経緯により分かるように
現在、ドイツや日本では後者は忌避され、民族自決の原理は無視されがちです。
いわゆる地球市民的な思考が知識人の間でもてはやされている。
フランスではフランス民族というものは徹底的に否定されますし、移民も認められていますが、
政治参加者はフランス語の習熟が必ず求められます。
要するに、国民国家の概念は今日では社会契約論的な使われ方しかほぼされていないということです。
444 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 13:06:56
>>443 国民国家の形成がウェストファリア条約を景気として概念形成されたというのは、
政治史では常識の範疇です。あなたの仰るとおり国家主権概念も、ウェストファリア条約によって
もたらされたものですが、国家を構成する要素としての国民という概念が欧州で形成されたのも
この時期からです。そもそも社会契約説によって概念化されたのは国民国家ではなく、
市民が国家運営に参加するというプチプルの権利請求です。英国にしろフランスにしろ、
封建制を追いやった市民による政治参加の段階では、「市民」はいますが「国民」はいなかった
と言われています。
445 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 15:24:39
446 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 15:39:39
『歴史学研究』2010年9月の書評を読んだのですが、
山本先生って学界の評価はどうなんだろう。
分野外なので、新書とか楽しく読んでたんですが。
447 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 15:41:55
わざわざ自演する理由がわからん…スレの活性化とかか?
448 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 15:54:25
>>446 いつも質問文体が一緒で立て続けに質問するのはナゼ?これもスルー?
以上素朴なギモン
>>444 >政治史では常識の範疇
だから、国民国家概念は主権国家概念の土台の上につくられているからでしょ?
450 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 16:22:32
>>449 やっぱ変w
自演までしたスレ活性化に意味あんの?まああんたの勝手なんだがなw
451 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 16:29:14
つーか自演するなら文体の書き分けくらいしよーぜw
452 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 16:43:47
>>449 >国民国家概念は主権国家概念の土台の上につくられているからでしょ?
そうですよ。そして、その概念の土台が作られたのはウェストファリア条約です。
その後の発展段階は国の状況によって様々ですが。
453 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 16:44:11
歴研の書評って何?
454 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 16:49:46
↑
自演wこのスレまじツマンネー
455 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 16:58:24
自演してる人に突っ込みたくないが
日本が主権国家に脱皮するのは幕末明治の国境線の画定作業が契機だろう
これまであやふやだった周縁地帯が整理整頓された
そして社会契約論を含む啓蒙思想が廃藩置県を終えた明治初期に
大量に流入し新聞雑誌の流行も相まって 日本という国への帰属意識と
国政への参加意識が芽生えて私擬憲法まで作ったと
456 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 17:08:25
>>455 自演はあんたw
自分に突っ込みいれてどうするよおw一連のレスのやりとりをあくまで自演と認めんのだな
しつこいが文体くらい変えよーや
457 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 17:24:47
俺は初めて書いたんだけど
ウエストファリアの人wじゃないよ
自由民権運動は土佐など中央の要職からくいっぱぐれた人間が
戦争じゃかなわないと、西洋の議会というものを見つけて騒ぎ始めたのがきっかけなんだがな
まあ、欧米も似たようなもんだが、日本の場合は西洋に馬鹿にされるぞっていう圧力のかけ方だった
ところが特徴的かな、文明開化まっさかりのころでした
まあ庶民は参政権なんて何も知らなかったろうな、まだ限定選挙の時代だし
せいぜい土地の有力者が紋付き袴で道を走ってるぐらいの様子は見れたんじゃないかな
新聞だって読めなかったろう、あれは主に旧士族の子弟が読むものだった
小説神髄見ればわかるように、日本語を英語風にどう組み替えるかが彼らの関心事だった
庶民なんかは
ごいんきょー、おかみから絹布のはっぴがもらえるそうで
ばかいっちゃいけないよ、はっつぁん
状態だったもんね
どうでもいいけど自演なんかしてないよ
被害妄想はやめなさい
459 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 17:50:51
きっかけは明六社のほうがやや古いよ
士族民権から脱却していったことは高校生ですら知っている
秩父事件も首謀者クラスは民権思想を持って動い意てる
もちろん田舎の貧民がどこまで知識があったかはわからんが
460 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 18:05:46
今でも日本がアメリカと戦ったことを知らない愚民もいるしな
461 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 18:13:18
462 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 18:31:54
ウェストファリア条約を語る辺りは自演だけど
その後は違うんじゃね
福沢は別格だな、門閥貴族は親の敵なりだからなw
はては脱亜論。
やつの西欧好きは度を越している
今から見ても先進的な思想のもちぬしだね
さすが一万円札にいまだにのるだけのことはしている
樋口一葉とはおおちがいだな
何度も言うように自演など一度もしてないから
一人粘着がいるがなにがくやしいのやら
今と昔は情報伝達力が違うけども、今なら政府の政策がリアルタイムで
「三位一体の改革」とか「友愛政治」とかの具体名で報道され、国民に浸透してます。
江戸や明治の頃はどうだったんでしょうか?
リアルタイムで「安政の大獄」や「王政復古の大号令」などの具体名で
呼ばれていたのでしょうか?
それともその具体名は後世の後付でしょうか?
明治以降の後付けです。
安政の大獄は、井伊直弼存命中やその後しばらく別の呼び名で言われていたけど忘れた
だいたいアノ時代には情報伝達の必要性そのものが否定されてたからな。
「知らしめず、依らしめよ」とか「ご政道に楯突くのかっ!」とかな。
467 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 06:28:23
安政の大獄のリアルタイムの呼び名は「戊午の大獄」ですね。
468 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 09:22:55
ぐぐれかす
469 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/09/06(月) 20:44:26
>>441 ここ数日の大規模規制に巻き込まれていた。
よっしゃこい
470 :
歴史学博士の俺様 ◆QOYuzJdqhs :2010/09/06(月) 20:54:01
ここは質問スレですよ。自説を大声で主張するスレではないからほどほどにね。
それぞれ巣があるでしょ。巣に帰って遠慮なくどうぞ。
471 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 20:55:39
いいえ
このスレは学会や学術雑誌で高い評価を受けなかった
人々が自分の学説を声高に唱えて自己満足するスレッドです
472 :
日本@名無史さん:2010/09/06(月) 20:56:47
博士は近代史知らないから
国民国家も一生懸命ウィキペディアを読んで勉強中
ウェストファリア条約もスイスが独立したぐらいしか知識がない
鈴木宗雄
475 :
日本@名無史さん:2010/09/07(火) 07:34:03
巣鴨プリズン内っぽい写真なので、近代史スレで聞いた方が良いでしょう
476 :
日本@名無史さん:
支那派遣軍総司令官の西尾寿造に似てるような違うような
よっしゃこい