日本史のお姫様

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1日本@名無史さん
高貴なお生まれながら、
性格や逸話などが個性的な姫君たちについて、
思う存分語りましょう

実質的な前スレ
悲劇の☆お姫様伝説☆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1055001525/l50
2日本@名無史さん:2008/09/07(日) 10:34:28
関連スレ

女官について語るスレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1217599510/l50
▲▼皇后・国母・女院を語る▼▲Part2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1199023998/l50
★江戸時代の武家貴婦人について★
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1115977268/l50
【男子禁制】大 奥 vol2【女の園】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1150687234/l50
側室の家柄、血筋について
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1134824863/l50
【百花繚乱】戦国女性を語れ!【壮絶運命】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1148912288/l50
明治〜昭和天皇の皇女と女官についてのスレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1219235177/l50(日本近代史板)
姫さま総合スレ  in  戦国時代板
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150038398/l50(戦国時代板)


3日本@名無史さん:2008/09/07(日) 12:49:02
純白のドレスに身を包んだ金髪白人美少女の姫がいないから日本の姫は萌えない。
4日本@名無史さん:2008/09/07(日) 14:13:25
関連スレ追加

◇藤原道長とその娘たち◇
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1181800682/l50
5日本@名無史さん:2008/09/08(月) 07:11:53
過去関連スレ
【清楚】お姫様・プリンセス・王女【可憐】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1072162124/
6日本@名無史さん:2008/09/09(火) 15:17:37
姫様萌え
7日本@名無史さん:2008/09/09(火) 16:09:18
江戸時代って大名家だけでもと姫さまは数百人以上はいたはずなのに影薄いね。
大名の姫様でなにか業績を残した姫はいないのかな?
政治でも文学芸術の世界でもいいから活躍した姫さまが知りたい。
8日本@名無史さん:2008/09/09(火) 17:30:04
東福門院が、自分や娘や女官達の着物を図案したという話なら聞いたことがある。
徳川秀忠の娘だから、生まれながらの姫様だよね。
9日本@名無史さん:2008/09/09(火) 18:01:04
才女の姫様といえば後桜町院とか
でもこの人女帝になっちゃったから、このスレのカテゴリーから外れるかなw
10日本@名無史さん:2008/09/09(火) 20:24:02
>>9 ソースは?

貴人で才媛は、持統天皇だろ。
11日本@名無史さん:2008/09/09(火) 20:42:07
>>9-10
スレ違い

以後こちらへ
【推古】 歴代の女性天皇について 【後桜町】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1220695432/l50
12日本@名無史さん:2008/09/10(水) 09:18:24
>>7
残虐非道極悪糞蟲徳川蛆虫の参勤交代搾取のせいで、疲弊しきった大名が塩鮭をご馳走と呼んだ時代。
そのくせ汚泥徳川の女は、ちっとも華やかでない。豊臣の淀君とは大違いだ。
13日本@名無史さん:2008/09/10(水) 09:40:36
萌と言われると、モデルのドブさ萌を思い出してしまうので即萎
燃え〜にしてよ どうなのよ リアルキモブサ顔デカリアル萌はさ
あんなのはいいとして、篤姫は写真などとらなきゃよかったのにね
淀も、秀吉の血統血筋マニアにはたまらないというだけで、見た目は肖像画の通りのたいさたものじゃないよ
まーよくてリアル真央が淀クラスだろ
14日本@名無史さん:2008/09/10(水) 09:41:54
悲劇の姫じゃないのかよ。
15日本@名無史さん:2008/09/10(水) 09:51:43
姫好きってことは、やっばエロビデオもクノイチものや大奥もの借りてシコッてんの?
16日本@名無史さん:2008/09/10(水) 10:00:20
小笠原ありさタンはまさに姫顔だな
超〜萌〜〜〜

17日本@名無史さん:2008/09/10(水) 15:41:56
江戸時代って女性も庶民の時代なんだよな。
平安時代ほどではないけど、江戸も女性で文学芸術の世界で名を残した人いるけど
ほとんどが中流以下の生まれで姫さまは正親町町子ぐらい。
平安時代の皇后定子、選子内親王みたいな高貴な生まれで
サロンの女王のような才能豊かな姫様が全くいなくてつまらん
18日本@名無史さん:2008/09/10(水) 16:18:05
酒井ミーコ
19日本@名無史さん:2008/09/10(水) 17:05:42
子作りマシーン、おてんば珠姫さま!
20日本@名無史さん:2008/09/11(木) 16:51:33
江戸時代とか、家の違う姫様どうしって顔を合わせる機会あるの?
21日本@名無史さん:2008/09/11(木) 18:18:00
その家同士に縁戚関係がないとむずかすぃだろう。

縁戚関係があっても日頃住まいしている藩邸からよその藩邸に出かけるというのは
事前に家臣達が折衝していろいろ決めるなど、かなり面倒な物
よって「顔を合わせる機会は全くなかったわけではないが、そんなしょっちゅう出来る物ではなかった」
というのが実体かと。
22日本@名無史さん:2008/09/13(土) 16:41:17
珠姫がおてんばだったソースは?
23日本@名無史さん:2008/09/14(日) 18:22:14
篤姫
24日本@名無史さん:2008/09/14(日) 18:39:36
世上最も有名なお姫様と言えば、内大臣家の瑠璃姫であろう
これを妻にした旦那さんも大変である
25日本@名無史さん:2008/09/14(日) 19:05:51
来年の大河は常盤貴子の船姫が主役。
シスコン謙信の姉貴も登場。
上杉家影の実力者たちである。

実は謙信も姫。(外国の国王への書状に明記)
あと公文書でも景勝を謙信の姪と明記している。(上杉家文書)
つまり上杉家はアマゾネス帝国。
26日本@名無史さん:2008/09/15(月) 10:54:20
豪姫
27日本@名無史さん:2008/09/15(月) 16:53:56
>>24
吉野の君は危ういとこで助かったんだね。
28日本@名無史さん:2008/09/15(月) 19:42:05
>>27
ちょwwwジャパネスクじゃねwww
29日本@名無史さん:2008/09/15(月) 20:32:50
一条朝子姫 好みだ
30日本@名無史さん:2008/09/18(木) 19:57:59
どこらへんが好みかも語ろうぜ
31日本@名無史さん:2008/09/28(日) 00:22:20
10日ぶりにあげてみる
32日本@名無史さん:2008/09/28(日) 07:18:04
目が大きくて丸いとこ。良子とは正反対だ。
33日本@名無史さん:2008/09/28(日) 12:41:15
亨子タソがあんなに頑張ったのに孫の百合子は一体何なんだ
34日本@名無史さん:2008/10/04(土) 20:54:37
満天姫かわいそす(´・ω・`)
35日本@名無史さん:2008/10/06(月) 23:33:22
満天姫はかわいそすだが
石田辰子さんも、幸薄い人であった部分が多い。

どちらが幸福であったかは、本人にしかわからない・・・
36日本@名無史さん:2008/10/09(木) 21:48:15
辰姫
石田三成の三女
9歳で父親と実家あぼん、父親は謀反人扱い
家族生き別れ状態
育ったのは京の高台院のもと
ちょっと遅めの19歳で津軽家に嫁ぐ
兄やその息子たちと津軽家の分領(現群馬県)に居住
翌年(3年後?)、津軽家に徳川家から満天姫が嫁いでくる
27歳で多分初妊娠、28歳で長男出産
30歳くらいで母子ともに幽閉され32歳で死去
津軽家分領に葬られ20年以上たってから津軽に改葬
子供はその後も1年ほど幽閉続行

満天姫
徳川家康の姪で養女
秀吉の遺命を破った政略結婚で福島正則(21万石→50万石)の養嗣子に嫁ぐ
夫が狂乱(一説ではでっちあげ)を理由に幽閉され死去
男子がいたにも関わらず、子供と一緒に実家へ帰される
政略結婚で奥州最果て津軽家(5万石以下)に嫁ぐ
辰姫とその子を幽閉
別の側室が産んだ一つ年下の次男を自分の嫡出子として扱う(母親は家臣へ下げ渡し)
夫が辰姫の子を跡継ぎにしたいと命に関わる荒行とかやり始める
結局、辰姫の産んだ長男が嫡男に
辰姫の子と自分の姪との間に縁組を整える
夫に先立たれる
津軽家家臣になっていた実子が福島家再興を言い出したため、
津軽家が巻き添え食らうのを恐れ、思い余って毒殺
翌年、姪が津軽家に入輿、さらに翌年49歳で死去
戒名に「ものを閉じ込める」という意味の漢字が使われていたらしい(後あらためられた?)


まさに薄幸とかわいそすな感じだ
37日本@名無史さん:2008/11/07(金) 00:10:39
保守あげ!
38日本@名無史さん:2008/11/07(金) 01:32:13
辰子が高台院に育てられたとか、幽閉されたとか
何に載ってるんだ?
39日本@名無史さん:2009/01/07(水) 14:55:36
亀鶴姫
前田利常の長女で徳川秀忠の外孫。
森忠政の嫡子忠広に嫁ぐが、結婚後わずか三年半で子を残さずに病死。
忠広もそのショックからか遊興に耽り、父忠政に幽閉され、
亀鶴姫の死の二年後に変死を遂げる。
40日本@名無史さん:2009/03/02(月) 11:07:37
age
41日本@名無史さん:2009/03/02(月) 12:42:15
井伊弥千代姫。
井伊直弼の娘で「やちにゃん」のモデル。
マスコットになった珍しいお姫様
42日本@名無史さん:2009/03/02(月) 13:00:26
>>7
京極伊知子。
忠高の娘。息子が実家の跡取りに決まって、
その嬉しさと別離の悲しみを綴った「涙草」を残した。
43日本@名無史さん:2009/03/02(月) 14:12:07
>>41
でもやちにゃん、父親の暗殺が原因で離婚されて出戻ったんじゃなかったっけな・・・
嫁入り道具の一つであった豪華な雛人形が何故か実家のあった彦根市に残ったのもそのせいだったような。
44日本@名無史さん:2009/03/02(月) 15:32:36
>>43
離縁されて実家に戻ってから10年ぐらいたってまた婚家に戻ったらしい。
雛が実家にあるのは、再婚するときに新しいのを誂えたからと彦根城のパンフレットにあった。
これの縁で彦根城と婚家の高松城は姉妹城になったみたい。
やちにゃんの雛道具を見たことあるけどめちゃくちゃ豪華だった。
45日本@名無史さん:2009/03/02(月) 17:25:16
再婚したのか それはよかった
しかし井伊家にとっては維新で物いりの時に二重出費で最悪w
46日本@名無史さん:2009/03/19(木) 06:09:51
過疎り気味?

>>22 おてんば珠姫さま、っていう漫画だか何かがあったらしいよ。おそらく、その漫画の天真爛漫さと、子沢山(しかも出産時に体調を崩して早逝という悲劇)のイメージが噛み合わない、からのレスだとオモ。

一の台。菊亭晴季の娘で豊臣秀次の継室。
秀次の継室になる前は秀吉側室、さらにその前は三条顕実?だっけ?と結婚。
その時生まれた娘お宮まで秀次の側室になり、秀次切腹の後、連座して娘共々処刑。

この時代女性まで死ぬことは珍しいような気がする。悲劇。
47日本@名無史さん:2009/03/19(木) 09:46:54
一の台については、
「秀次は一の台の娘のお宮まで手を出して非難を浴びた」とか、
「本来、秀吉が一の台を望んでいた」、とかの話は残っているけど
>秀次の側室になる前は秀吉側室
そう書かれているものを読んだことが無い。
秀吉の上淫はよく語られる話だが、一の台に手をつけたというのは初見だ。

それに、一の台どころか秀次の妻妾・子ども・使用人三十数人が
三条河原で処刑されたのはあまりにも有名な話だがな。今さら。
48日本@名無史さん:2009/03/23(月) 02:41:42
一の台については、秀次正室の池田恒興の娘若政所が助かったのに一の台他が処刑、ってのは悲劇だし、あまり知られていないかと。

しかも詳しくは忘れたが、菊亭家といえば日野家(富子の)とかと同列以上だよね。その貴族出身の女性が処刑になった、ってのはかなり衝撃的ではなかったかな。
49日本@名無史さん:2009/03/23(月) 14:32:42
戦国女性史好きな人には知られている女性だと思うけど、一の台は。

菊亭家とは今出川家のこと。
今出川家は清華の家だから、五摂家に次ぐ家格。
で、日野家は「名家」。

摂家 清華 大臣家、羽林 名家 諸太夫
これくらいは覚えてないと・・・
50日本@名無史さん:2009/03/25(水) 21:21:51
今出川は最後の将軍慶喜の妻の実家だろ
51日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:23:44
慶喜室の美香子は今出川公久の娘。一條家の養女になって嫁いだ。

なんで急に幕末に話が飛ぶんだか
52日本@名無史さん:2009/03/27(金) 00:49:51
虫愛づる姫君
53日本@名無史さん:2009/04/07(火) 19:01:50
のびないねこのすれ。何となく理由は分かるが。
54日本@名無史さん:2009/04/10(金) 15:53:04
>>46-49
結局一の台は秀次の正室だったのかな?
以前は正室とされていた本が多かったと思うが
池田恒興の娘が正室にいるというのがわかって
そしたら正室が2人という事になるし・・・

わけわかめ。
55日本@名無史さん:2009/04/10(金) 17:38:56
>>54
前に見た本だと池田氏先妻、一の台継室となっていたが
仮にも関白夫人なのに二人とも忌み名すら分からないのはなんとも。
56日本@名無史さん:2009/04/10(金) 19:29:38
>>54-55
自分が見た本では、一の台は秀次の側室だった。
「若御台」と呼ばれていた池田氏が秀次の正室。
秀次が没するまで池田氏は健在で、
一の台が繰り上げで継室に納まった事実はない。

処刑された秀次の妻妾達の中で公家の姫である一の台がいたことで、
後の人が劇的にするために一の台を正妻のように書いていたのかも。
一の台らとともに処刑されたお宮は一の台が先夫三条顕実との間に
儲けた娘だと伝わりまだ13歳だったが、
母娘で秀次の寝所を分け合っていたとか言われてるくらいだし。
57日本@名無史さん:2009/04/11(土) 15:52:36
>>55-56
トン楠

ミネルヴァからでた『淀殿』では北政所も淀殿も正室!
・・・という変わった説を唱えていたから(その後福田さんへの賛同者はでたのかなぁ)
秀次もそういう可能性があるのかなと思っていた。
58日本@名無史さん:2009/04/11(土) 17:32:31
なにをもって正室とするからだよね。
長年夫婦をしているから正室なのか。妻側で一番身分の高いものを正室とするか。屋敷をまるまるもらえれば
正室なのか。

秀次の場合、一の台との婚姻年がわからないからはっきりしたことは言えないけど
池田氏は尾張時代からの妻で正室でしょう。一の台は関白就任前後の箔付け婚姻だろうから
扱いとして二人とも正室。もしくは一の台を正室にして、池田氏を側室扱いにしたか。どっちにしたんだろう。

本によっては信長の妻の濃姫(斎藤氏)と生駒氏ふたりとも正室だって本もあるし。(ただ、一次史料ではなく
小説の類でしかお目にかかったことないけど)

ただ、関白の妻って「北政所」って称号を朝廷からもらったり、位をもらったりするもんではないのか?
ねねだって秀吉の関白就任時に従三位もらっている。
そういう史料がでてくるといいんだけどね。

59日本@名無史さん:2009/04/12(日) 10:22:57
>>58
秀次の妻たちの中で官位をもらった人はいないんじゃないかな。
官位を受ければ「三位殿」のように何らかの史料に出てくるはず。
むしろ、呼び名からすれば、
「若御台(将軍家では先代正室と当代正室の2人の御台所がいる場合、
先代当主の正室を大御台と呼ぶのに対して当主の正室を若御台と呼んだ。
武家出身の秀次の後宮では以前より将軍家になぞらえる呼び方が
あったと考えられないか)」
と呼ばれた池田氏が正室だったとしたほうが問題は少ない。

秀吉自身、高貴な姫君を次々我がものにしながらみな立場は側室に置き、
糟糠の妻である身分の低いねねを正室の座にとどめておいたのに、
豊臣家内でかつての正室が身分が低いからと言って側室に格下げすることなどあり得るのかな?
それに、菊亭家は豊臣家がわざわざ箔付けのための婚姻をお願いするほど高貴な家だというのには疑問が残る。
清華家である菊亭家は早くから秀吉の官位昇進に一役買ったりと、
初期の段階から出世頭の秀吉に目をつけてあれこれと恩を売っていた家。
かねてより秀吉一族に恩を売ってきた菊亭家が、娘を秀次の側室に差し出しただけのような。
本気で関白家の正夫人として家柄だけが高貴な姫がほしいのならば、
五摂家から迎えるとも不可能ではなかったはず。
菊亭家はそれほど豊臣家に対して強い立場の家ではないし、
長年よしみを通じてきた池田家も正室を格下げなどしたら不穏な関係となりそうなものだが。
60日本@名無史さん:2009/04/13(月) 13:55:50
それ以前に、不義などの不祥事がなく、正室が格下げなんて例は知らないがなぁ?
格下げにするくらいなら、離縁するだろ、普通。
家同士の繋がりが必要なら、改めて側室とればいいだけだし。
61日本@名無史さん:2009/04/13(月) 15:05:43
加藤清正の正室・正応院とか?
清正が家康の養女を正室に迎えたので玉突き状態で押し出されたとかいう
62日本@名無史さん:2009/04/15(水) 03:06:46
一の台に関しては、一の御台、という読み方もあったみたいだし、正室が実質的に2人いた、と考えられていたが故に、色好み、とも言われたみたい。

右大臣の娘が側室、というのはやっぱりまずいだろうし。

ぐぐってみたら、昔のドラマのあらすじに、(一の台の)輿入れの行列が…みたいなのがあって、嘘かホントか分からないけど、
政略的な魂胆があったなら正室級だった可能性が強いんじゃないかな。
63日本@名無史さん:2009/04/15(水) 10:05:14
一の台はいろいろと興味深いポジションの人のようですね。
といっても秀次があんな形であぼーんじゃ
これからも一の台の立場がわかりそうな
まともな史料はでてきそうにないけれど・・・
64日本@名無史さん:2009/04/15(水) 11:29:14
>>62
池田氏が妻として正室の座を保っているうえでの、
菊亭氏も >一の御台 的な捉え方を自分もずっとしていた。
階層の異なる出身の、妻として重さのある二人、という感覚でしたが。

あと秀次の色好みというのは、単の妻妾の数の多さというのでもなく、
一の台の連れ子をも寝所に侍らせたという風聞があったせいもあるのではと。
「畜生塚」というのはその件をも含むのだという文章を読んだことがある。
65日本@名無史さん:2009/04/16(木) 01:01:40
秀次が若御台と結婚したのはいつなんだろう?18歳(19歳?)の時に小牧・長久手の戦い1584で若御台の父親である池田恒興を敗死させてるよね。
それ以前なのか以後なのか?

一の台が秀次に見初められたってのが、北野大茶会1587だから、正室級の女性がもう一人、ってなったらいい気なもんだ。

あと、畜生塚の名前の由来は一の台とお宮の他にも、左衛門ノ後殿とお松、という母子2組を自分のモノにしてたのがまずかったんだろうと思う。
66日本@名無史さん:2009/04/20(月) 11:09:37
>>65
質問です。
>左衛門ノ佐殿 って、
『太閤さま軍記のうち』に名があがっている女性のなかの誰なんでしょうか?
67日本@名無史さん:2009/04/24(金) 02:09:53
きっと、「太閤様軍記のうち」なんて読んだことも無いので、
そういうちゃんとした質問をされても答えられないんだと思うよ。
68日本@名無史さん:2009/04/24(金) 21:12:39
>>66 ごめん。67のとおり、読んだことなくて分からない。ってことで、>>67、答えてね。

瑞泉寺か何かでぐぐったような記憶があるんだけど…。だれそれの娘、とか詳しい記述はなかったと思う。
69日本@名無史さん:2009/04/25(土) 20:41:11
>>62
>右大臣の娘が側室、というのはやっぱりまずいだろうし。

秀吉は右大臣織田信長の娘を正室ではなく側室にしていたがな。
それに、菊亭家が秀次に正式に室を差し出すのであれば、
なぜ未婚の娘にしなかったのだろうか。
養女でも何でもその気になれば用意できたはず。
こぶつきの未亡人で、しかも秀次より4〜6歳年上だったとみられる一の台を関白豊臣家の正室に押しつけるほど、
菊亭家の権力がものすごかったのだろうか?
むしろ、一の台は、懇意の菊亭家に未亡人がいる、と聞いた秀次が召出しただけの女性じゃなかったか。

現実に、秀次切腹、一の台が三条河原で斬られると、
一の台の実父菊亭晴季はこれに連座して越後に流されている。
菊亭家は右大臣だと言おうが、
豊臣家の権力を前にこれをどうすることもできなかった。


70日本@名無史さん:2009/04/26(日) 02:00:13
親子丼がしたかっただけちゃうかと
71日本@名無史さん:2009/04/26(日) 04:26:30
明智光秀の正室である妻木ひろこは絶世の美女だったらしいな。
そんなひろこだが顔に痘痕ができ、ひろこにとってはお先真っ暗であったが
光秀は生涯ひろこを愛し、側室を一人とて抱えることはなかったとさ。
痘痕も笑窪よ 痘痕も笑窪とは光秀の言葉から生まれたものらしい。
72日本@名無史さん:2009/04/26(日) 04:51:57
身分の高い女性はなんで美人?

身分が高い→食べ物が良い→栄養しっかり→美容と健康が保てる
不美人→夫から愛想を尽かされる→捨てられ、低い身分となる

これにより上流階層は常に美人だけが存在する!
73日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:54:39
>>71
最近の研究では熙子は継室だったらしいし、
光秀にも側室がいたらしいけどね。
74日本@名無史さん:2009/04/26(日) 23:42:13
>>71
今さら・・・、戦国の女性好きなら普通にみな知ってるようなことを。
75日本@名無史さん:2009/04/27(月) 21:14:52
お犬の方(信長の姉あるいは妹)は切れ長のパッチリお目めで華やかな雰囲気の超美人
詳しくは肖像画を見よ。
76日本@名無史さん:2009/04/27(月) 21:16:39
面長なところとかが信長に似てるよね
77日本@名無史さん:2009/04/28(火) 01:51:15
>>69
秀吉はねねに子種がなかった。秀次には確実に子種があるこぶつきってことだろ。
78日本@名無史さん:2009/04/28(火) 04:12:42
>>7
つーか今の時代、昔は常識だった日本の古典知識がほとんど廃れてしまってるからね
「むかしばなし」でさえ有名どころの桃太郎金太郎の話だってまともに知ってる人少なそうだし。
79日本@名無史さん:2009/04/28(火) 18:57:53
姫様を○○姫って呼ぶのがスタンダードになるのは江戸時代以降だっけ?
当時は全く違う呼ばれ方が普通だったお姫様も多いような気が。
80日本@名無史さん:2009/04/28(火) 19:36:01
やんちゃ姫
81日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:23:07
>>77
だったら、秀吉もねねを格下げにしてこぶつきを正室にとればよかっただろ。
実際に、秀吉の後宮にはこぶつきの女もいた。
秀吉が淀殿とともに戦地に呼ぶなど大層かわいがっていた側室の
京極竜子は前夫との間に2人の男子を生んでいる。
だが、竜子は秀吉との間に一人も子を産んでいない。
近江源氏の名家の生まれだから、ねねなど出し抜いて正室でも良いような
姫だったが。

誰かも言ってたけど、秀吉以外の男との間に子を生んでいる側室は多い。
82日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:26:31
竜子じゃなくて龍子が正しいのです。
83日本@名無史さん:2009/04/28(火) 21:26:41
>>79
高貴な女性を○○媛と呼ぶ呼び方は「日本書紀」の時代からあるよ
藤原道長の母も藤原時姫だし村上天皇の皇位に藤原祐姫なんて人もいる
江戸時代も公家の姫君は○君という呼び方だったし
だけど実際には女性が実名で呼ばれることは少なかったんじゃないか?
文献に出てくる名前は記録用だし
84日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:01:08
姫っていうのは接尾語の尊称になるんだよね。
日本書紀の時代の「姫」「媛」「比売」は名前の一部になるのか接尾語になるのか。
時姫や祐姫は名前の一部でいいのか?
85日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:48:04
>>84
「日本書紀」の時代には男性尊称である「日子(彦)」もあって
これが接尾語だとなると「山彦&海彦」は「山」と「海」が本名かという
ややこしい話になる。
時姫なんかは「藤原時姫」の名で宮中から位階まで受けているから
これが正式名なんだろう。

江戸時代の徳川実記なんかは千代姫君、天璋院様、和宮様、と書かれてあるから
ちょっと尊称つけすぎな感じもあるが。
86日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:19:30
山幸彦と海幸彦じゃなかったけ?
87日本@名無史さん:2009/04/29(水) 02:25:19
>>81
>秀吉の後宮
後宮・・・

88日本@名無史さん:2009/05/26(火) 20:25:55
>>87が無内容な下らないイチャモンレスをしたばっかりに
良スレが一か月近くも停滞してしまった
チネイ!
   _,,_
 ( ゚д゚r┐  \从/        _       ;・;.※。; ヒィー
 /_{{{二ijjjj=て; ;:そ ─ ─      ̄ ─_#;´;ω;)
  |  ヾ,>  /Y^ヽ        ̄ ─    /(つY>つ>>87
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   

話は変わるが、主に民放の時代劇ものに於いて千姫や秀忠正室や春日局などが髪を結い上げているのは
時代考証が完全に嘘っぱちなので信用しないように。
89日本@名無史さん:2009/05/27(水) 00:07:38
88は81さんなんですか。


春日局の髷姿なんてのが史実でないのはそうなんだけど。
あの時代を描いた映像では、映画、民放、大河
みな考証が面倒らしく、垂れ髪と髷が混在してたり
ほとんどが皆適当なんだけどね。
9088:2009/05/27(水) 00:53:07
私は81じゃないよ。
確かに大河の『春日局』からして後半は髪型が変だけど
一般の人としては、江戸時代=日本髪という図式が既成概念なのかな?
初期の風俗なんかは戦国の頃とあまり変わらないのにね。

同じ垂髪でも、結構バリエーションもあるのに、お姫様の髪型なんかは
カツラの都合なのか、平安期〜江戸初期まで同じものが使いまわしだったりするし
衣装だとこうはいかないだろうに・・・
91日本@名無史さん:2009/05/27(水) 05:47:01
戦国が終わって時代が変わった
江戸城大奥って言う視聴者に分かり易いイメージなんじゃないか髷髪は
92日本@名無史さん:2009/05/27(水) 13:49:42
妖説太閣記に秀吉の後宮と言う表現あったし
おかしい使い方では無いのでは?

千姫の有名な肖像画は髷結ってるが、あれは後世の物なのか?
千姫は凄い美人だったらしが今の感性で見たらなんか森三中大島みたいだよな…
93日本@名無史さん:2009/05/28(木) 14:13:54
>千姫はすごい美人だったらしが
今の世でも話題に残るような史上の姫は、たいがい「みな美人」
時代のうねりに翻弄されたり悲劇的な人生を歩む姫は、とくに美人。
そういう事になっている。
94日本@名無史さん:2009/05/28(木) 20:20:14
同時代の、千姫が侍女たちと一緒に居る絵(髷を結ってる有名なヤツではない)見たら、
おてもやんそっくりで激しく萎えた
「当時の価値観での」美人だったのかな・・・
95日本@名無史さん:2009/05/29(金) 09:30:45
上の方で出ていた秀次処刑の時、11番目に処刑された駒姫があまりにも
かわいそうだ。伊達政宗の母方のいとこにあたる姫。
15才の美少女だという事で秀次が側室として呼び付けた。
故郷を出発した直後に事態が一変し、処刑場へと向かう羽目になる。
父親の最上義光があんまりだと北政所まで動かして処刑中止を訴えて、
秀吉も中止でよいと早馬を出したが、間に合わなかったそうだ。
最近この事件について調べて、あまりの凄惨さに衝撃を受けた。赤ん坊まで処刑
され遺体を埋めた場所に「畜生塚」と書かれた木が立てられたとか。
96日本@名無史さん:2009/05/29(金) 09:53:30
嬉しげに書いているが、生駒氏はこういうスレではすでに有名人で
今更な話を書いていることに気づかないのだろうか。
秀次の妻妾処分の逸話だってそう。
97日本@名無史さん:2009/05/29(金) 10:00:59
>>96
嬉しげですいませんね。
98日本@名無史さん:2009/05/29(金) 13:55:59
姫話題それるが、秀次て美男子だったそうだな
あの秀吉の甥だからブサと思ったら
99日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:19:43
父親側に似たんだろ
100日本@名無史さん:2009/05/29(金) 21:30:42
>>99
秀次の父親はもと農夫で秀次からみても頼りなく容ぼうも良くなかったそうだよ。
案外、秀吉兄弟は似ていなくて秀吉の姉とも(秀次の母)はそこそこ綺麗だったんじゃないだろうか。
所詮は肖像画とはいえ、秀吉の妹で徳川家康と再婚した朝日姫も、そこそこ綺麗に描かれていて
けして秀吉の肖像画のような猿顔じゃないぞ。
101日本@名無史さん:2009/05/30(土) 01:53:41
浅井3姉妹も全員が美人じゃなかったらしいからな
兄弟内でも格差は出来るかもな

浅井姉妹は末っ子の小督は美人と言われてるが
器量が残念だったから一番早くに嫁に出されたと言う説も
聞いた事あるが実際どっちだったんだろうな
102日本@名無史さん:2009/05/30(土) 03:32:55
美醜なんてしょせんはわからない事なのに、
なんで白黒つけたがるんだろう・・・
103日本@名無史さん:2009/05/30(土) 11:24:19
政略結婚は相手の顔見て決めるわけでなし、
大事なのは血筋であって顔の美醜ではないよ。
姉妹の中で一番きれいなら一番夫から愛されるわけでもなし。
お市の方に姉妹で一番似ていたから秀吉が側室にした、
絶世の美女であったために男たちをとりこにし、
三成までぞっこんだった、と後世造り伝えられる淀殿だって、
肖像画では母のお市に全く似てないし、それほど美人でもない。
104日本@名無史さん:2009/05/31(日) 02:03:46
信憑性のある史料文献で浅井家の茶々の容貌を誉めているわけでなし。
>お市の方に姉妹で一番似ていたために
>絶世の美女であったために
そう言う事柄からして、憶測推測に過ぎないからな。

同じような憶測推測なら、長女とくに第一子は父親に似ることが多いので
「茶々は父親長政に似ていた説」のほうがよほど信用しやすい。
105日本@名無史さん:2009/05/31(日) 14:56:25
>>104
>長女とくに第一子は父親に似ることが多い

それって、茶々がお市に似ていた以上に信憑性低いような・・・
茶々がお市に似ていた説はいろんな俗世本に出てくるけど
長女が父親似って、ほとんどそんな本出てないのでは?
信憑性も低いし。
106日本@名無史さん:2009/06/01(月) 01:14:15
第一子の長女は父親似が多いってことは、
現代でもごく普通に言われてるような。
(周囲の大人何人かに聞いてみたら?)

また茶々は浅井長政似で大柄、作りの大きい顔だと
推測していた作家たちは何人もいるけどね。
長政の肖像画と、伝淀殿肖像を見ると、
おおまかな顔立ちという類似点は感じるよ。
107日本@名無史さん:2009/06/01(月) 11:48:32
>>105
桑田忠親は、古文書の署名からねねの呼称を「おね」と主張したり、
またその著書の内容もまた現在では古いものになったりはしているが、
やはり戦国女性史の研究を語る上では非常に重要な学者。

その桑田がしるした吉川弘文館の人物叢書「淀君」(昭和33年初版)で、
「女子の風貌は男親似という遺伝学・・・」
「むしろ、父親似」などど、書いている。

ちなみに「淀君」という書名だが、
それが江戸時代についた呼称であることも充分に承知のうえで
淀殿の評伝を「淀君」という書名にしている。
108日本@名無史さん:2009/06/01(月) 21:56:43
京極高次の妻になったはつはどっちに似てたのかな?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%AB%98%E9%99%A2
顔立ちは市に似てるような気もする。
市ほど目鼻立ちは整ってないけど、美人の部類だったような。
109日本@名無史さん:2009/06/03(水) 08:58:25
>>92
「妖説太閤記」ってさ、山田風太郎の小説だろ?
風太郎はすごい創作者だけど、現代の小説での使い方を言われてもね。
110日本@名無史さん:2009/06/07(日) 01:27:46
http://srntaku.org/talent/1000010116
☆お姫様対決☆投票所
111日本@名無史さん:2009/06/10(水) 04:07:55
サーヤ
大名家とか公家とかもっといい家にとついで欲しかった
112日本@名無史さん:2009/06/10(水) 19:15:07
>>109
司馬遼太郎の「太閤記」にも秀吉の後宮という言葉がある。
日本史板では現代語を使っちゃいけないなら、
お前さんのレスも全文古語で書いてもらわなきゃいけない。
113日本@名無史さん:2009/06/11(木) 01:12:54
>全部古語で
こりゃまた極端な
114ひこ根じゝ:2009/06/19(金) 00:19:15
つまんねー揚げ足取りに終始してんじゃねーよ、このきちがいどもめ。氏ね!

そんなことより、再来年の大河ドラマは秀忠正室の浅井氏(崇源院)が主人公らしい
戦国期の有名な姫様はことごとく出演するんじゃね。楽しみだ。

2011年の大河ドラマは「江 〜姫たちの戦国〜」に決定!
ttp://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/21488.html
115日本@名無史さん:2009/06/19(金) 09:19:23
ごめん、そんなとっくに知ってるってw

116日本@名無史さん:2009/06/19(金) 17:13:06
家康の娘達

長女亀姫…奥平信昌に嫁ぐ。本多正純失脚の原因となった釣天井事件の黒幕。
次女督姫…池田輝政に嫁ぐ。輝政先妻の子、利隆の毒殺未遂説がある。
三女振姫…蒲生秀行に嫁ぎ、秀行死後に浅野長晟に再嫁。長晟の嫡子光晟を出産後、高齢出産が原因で16日後に死去。
四女松姫…夭折。
五女市姫…伊達政宗の嫡子忠宗と婚約するも、夭折。
117日本@名無史さん:2009/06/19(金) 17:19:02
ニワカちゃんがどんな資料本から写したのか知らんけど、
抹殺された北条氏直、哀れw
118日本@名無史さん:2009/06/19(金) 17:33:04
督姫は輝政の前に北條氏直にも嫁いでるだろ。
利隆毒殺未遂は年代的にも合わず説というよりただの逸話。
こういう逸話ができるぐらい確かに仲は悪かったようだが
督が池田家のために動いた内容を考えれば毒殺なんてナンセンス。

仮に利隆を毒殺しようとしていたというなら督ではなく
むしろ将軍家あたりだろうよ。
119日本@名無史さん:2009/06/19(金) 20:06:11
ウィキから写したのかな?
振姫は最初の夫との間にも2人の子があり、光晟は3人目の子。
36歳での出産は高齢っちゃあそうかもしれんが
この時代の女性は40代頃まで生んでるよね。
お江与も30代後半まで生んでるし。
120日本@名無史さん:2009/06/19(金) 20:46:39
前田のまつが子供10人以上産んだのが最高記録と言うのは見たこと有るけど
この時代の高齢出産て沢山いるの?何歳くらいまで産んでるんだ
121日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:04:05
督姫は44歳で産んでる。
122日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:27:44
>>121
多分46歳の間違い。末子の池田輝興は1611年生れ。
どちらにしても現代でもかなりリスクが伴う高齢出産だから
輝政も督姫も凄いの一言に尽きるw
123日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:28:15
日秀(秀吉姉)は45歳
124日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:32:46
その頃の時代ならもう老人の年齢だよな
しかも美容だの健康だのも整って無かっただろうし
今よりずっと老けてるであろうに頑張るな〜
125日本@名無史さん:2009/06/19(金) 23:34:27
前田利家とおまつは実際はドラマの様に円満夫婦でも無かったらしいが
それでもあれだけ子作りするって凄すぎ
126日本@名無史さん:2009/06/20(土) 14:47:09
秀吉の姉ちゃんは九十幾つまで長生きしてるよね
超高齢出産も果たしてるし、すごく生命力の強靭な女性だったのか・・・
秀吉や秀長や旭とはもはや別種の生物としか思えないw
127日本@名無史さん:2009/06/20(土) 14:49:53
とりあえず、秀長や朝日とは父親が違うし
128日本@名無史さん:2009/06/20(土) 15:16:29
日秀を除く大政所の子供たちの父親が誰かについては諸説あるから断定はできないんだけど。
129日本@名無史さん:2009/06/20(土) 16:18:44
つーかこの時代だって今のアフリカとかと同じで成人しちゃえば
普通に長生きしてる感じだけどな。乳幼児の死亡率が高かっただけで。
130日本@名無史さん:2009/06/20(土) 16:26:31
>>126
天下餅の三傑に揃いも揃って偉大なおっぱい様と呼ばれ
大切にされた養徳院(信長の乳母)も90越えの大往生だお。
131ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/06/20(土) 18:25:09
江がマシなできでありますようにっと
132日本@名無史さん:2009/06/20(土) 21:16:00
家光を愛し側室とその子も慈しむ慈悲と慈愛に満ちたお江様になるよww
133日本@名無史さん:2009/06/20(土) 22:06:31
前夫秀勝の娘、完子はどういう扱いになるんだろうか
134日本@名無史さん:2009/06/21(日) 17:30:53
>>132
お静と保科正之なんてどうせ歴史上は完全な脇役だし。
登場させなくてもよいくらいだろ。
やたらお静ファンのマニアがいて出せ出せとうるさいかもしれんが
今までが大きく取り上げすぎ。
135日本@名無史さん:2009/06/22(月) 03:45:49
とりたててお静の方や保科正之の贔屓でもないけど
134の書き様もかたよっているような気がする。
136ひこ根じゝ:2009/06/22(月) 15:52:50
どっちでもいいよ。

最近、ドラマや映画では崇源院の諱は小督と書かれているのが多いように思ったけど
再来年の大河ではお江なんだな。オエじゃない、オゴウ。
137日本@名無史さん:2009/06/23(火) 02:08:55
小督 お江 そしてお江与、それこそどっちでもいい。
普通、>オエ なんて読まないよ、歴史好きは。
138日本@名無史さん:2009/06/23(火) 08:39:16
お江って濃姫の「美濃の姫」みたいに「近江の姫」って感じの呼び名じゃないの?
で、おこう(おごう)が当て字で小督(おこう、こごう)。
139日本@名無史さん:2009/06/23(火) 16:09:12
一番意味不明なのはオエヨ
140日本@名無史さん:2009/06/23(火) 18:28:13
test
141日本@名無史さん:2009/06/23(火) 18:43:35
江戸(徳川)に与えるでお江与、となにかで見たが本当かは知らん
142日本@名無史さん:2009/06/23(火) 18:59:15
その説聞いた事ある
子供ポコポコ産んでくれた功労者に相応しい名前と言えばそんな感じするね
143ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/06/23(火) 19:33:44
予想
・ヒロインは22〜26歳
・売りは豪華な夫役たち
・秀忠だけ江より若い
・市=淀もあり
・家光はいじめない、稲葉の娘はいない

でいつ江なんて名前になるんだろな。
144ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/06/23(火) 20:19:31
稲葉じゃなくて斉藤さんだ。
145日本@名無史さん:2009/06/23(火) 20:24:04
普通に「春日局」って書きゃあいいのに・・・

146日本@名無史さん:2009/06/23(火) 21:26:00
>>144
・齋藤の娘は江と家光の中を裂く悪女
147日本@名無史さん:2009/06/25(木) 16:57:55
政治力で特に傑出した日本史上の姫って

・北条政子
・寿桂尼

ぐらい?
148日本@名無史さん:2009/06/25(木) 20:37:59
政治力なら持統天皇とか元明天皇とかだろ
もっと前なら卑弥呼もいる
中世以降となると難しいがな
149日本@名無史さん:2009/06/25(木) 20:59:34
日野富子は?
150ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/06/25(木) 21:45:35
阿茶局も、あと

・この子の息子は天下に号令をかけるであろう・・という天のお告げ
151日本@名無史さん:2009/06/28(日) 16:32:25
>>148
baka.
152日本@名無史さん:2009/06/28(日) 16:40:35
どいたかこ
153日本@名無史さん:2009/06/28(日) 18:08:13
>>152
土井たか子はお姫様じゃありません。
154日本@名無史さん:2009/06/28(日) 20:06:08
龍造寺隆信生母の慶ギン尼もなかなかの傑物。
鍋島直茂の父清房に再嫁して隆信死後に政家から直茂への政権移譲を平和裏に実現させた。
155日本@名無史さん:2009/06/28(日) 22:21:44
156日本@名無史さん:2009/06/29(月) 14:04:16
>>154
戦国九州の女としては妙林尼も強烈だよな
ほか有名どころではギン千代か

157日本@名無史さん:2009/06/29(月) 18:51:44
無名だが井伊直政の養母の井伊直虎
名前からして強烈な印象がある
158日本@名無史さん:2009/06/29(月) 18:52:32
洞松院は?弟の方が先に力尽きちゃった感があるけど、姉の方は弟の後ろ盾がなくなった後もしぶとくがんばった気がする。
北条政子はどちらかというとお飾り的(シンボル?象徴?)なイメージで、実務的なイメージだと、やっぱ寿桂尼とか日野富子とかの方が暗躍したイメージがある。実際はよく知らないけど。
159日本@名無史さん:2009/06/29(月) 21:59:29
妙印尼も結構凄い
160日本@名無史さん:2009/06/30(火) 17:48:05
合戦や籠城で戦ったり指揮を執った姫って結構沢山いるよね。
161日本@名無史さん:2009/07/23(木) 22:07:25
鈴木京香に松の丸殿を演じてほしい。
162日本@名無史さん:2009/07/24(金) 00:06:45
豊臣家最後の生き残り 豊臣完子
163日本@名無史さん:2009/07/24(金) 00:48:13
北白川宮房子妃はカワイソウ
長生きしたけど、夫、息子、娘二人にも先立たれるという不幸
164日本@名無史さん:2009/07/27(月) 21:51:39
>>162
豊臣家の女子は完子が最後じゃない
秀吉の弟秀長娘がいたし
秀頼の娘天秀尼も生き残っている
165日本@名無史さん:2009/07/27(月) 22:34:38
房子妃と次女の佐和子女王はめちゃくちゃ長生きだったけど
子供達に先立たれるのは可哀想だな
166日本@名無史さん:2009/08/02(日) 12:22:52
姫様といってもピンからキリまでいる。
篤姫もドラマじゃ姫様呼ばわりされていたけど
もともとの身分は家老の娘程度に過ぎなかった。
大名や公卿、まして宮様からみたら姫様どころか平民だよ。
167日本@名無史さん:2009/08/03(月) 01:44:23
>>166
そんなわかりきってる件を今ごろ書かれてもw

で、>家老の娘程度 というより、薩摩の支藩の家の娘。
168日本@名無史さん:2009/08/03(月) 12:11:51
支藩じゃなくて分家
薩摩藩は支藩は佐土原藩しかない(これも実態を見ると支藩かどうかアヤシイ)
169日本@名無史さん:2009/08/03(月) 12:19:56
「○○姫」って名乗っていいのはどのくらいの身分から?

藩主の分家のおk?家老の娘は?上士は?
公家なら半家でもおk?神職は?僧侶の娘はどの規模の寺の大きさからいいんだろう?
170日本@名無しさん:2009/08/03(月) 12:34:41
>>169
「姫」は元々公認の号ではなく、女子を示す一般名詞からただの敬称に転じたものだから、
そういう種の規定はなかったと思われ。芸子でも「なんちゃら姫」といわれることもあったし
今でもそう。
171日本@名無史さん:2009/08/03(月) 17:38:19
江戸時代には成文化された既定はなかったけど暗黙の了解というか幕府の圧力があって
「○○姫」という呼称は
・将軍のお姫様
・御三家のお姫様
・御三卿のお姫様
に限定されていたようです。

公家のお姫様は「○○君」と呼称するのが定例だったようです。
(以上は徳川美術館のパンフレットがソース)

まあ後期になってきたら「高輪下馬将軍」と言われた島津重豪が自分の娘に「○○姫」なんてつけたり
幕府との結びつきが深い人は前例無視してやりたい放題だったようですが。
172日本@名無史さん:2009/08/03(月) 21:04:59
>>166
篤姫は島津家分家の生まれだが、父親は島津本家からの養子。
篤姫と、篤姫を養女にした薩摩藩主島津斉彬は従兄妹同士に当たり、
血縁はかなり近い。
173日本@名無史さん:2009/08/03(月) 21:35:14
房子内親王(北白川)は、夫、子供に先立たれ
悲劇だが、末の妹の聡子内親王なんか、夫長生きしすぎのうえ
痛すぎでこっちのがかわいそうだ!
174日本@名無史さん:2009/08/03(月) 21:46:12
>>171
江戸時代、藩主の娘も○姫の墓、みたいに残ってるよね?
前時代には戦国大名の娘も○姫だったのに
習慣なんて急に代わったんだろうか。
あんみつ姫もおあんみつと呼ばれないといけないのか?
175日本@名無史さん:2009/08/03(月) 22:12:02
>>174
>「○姫の墓」
後世の人がいうときにはその方がすわりがいいから
その当時の人が墓を指すときには法名を使う

あんみつ姫はマンガの話だからこの板の例に出すにはそぐわないと思うな
176日本@名無史さん:2009/08/03(月) 22:40:19
高禄の旗本の家の娘でも「お姫さま」とよぶこともあるのだが。

何でも画一的には断じられないよな。
177日本@名無史さん:2009/08/04(火) 18:56:07
kwsk >>176
178日本@名無史さん:2009/08/04(火) 21:20:54
保科正之なんかは我が娘に○姫という名をつけているよね。
保科正之が徳川幕府に逆らうとは思えんのだが、
いつから始まった風習?
公家の姫の○○君は幼名というか、未婚女性の呼び名だね。
皇族が○宮と呼ばれるのと同じで、現在の皇族でもある。
宮家を構えたり、官位を受けたり、結婚した時点で名をつけ、
それ以後は幼名(○君)では呼ばれない。
179日本@名無史さん:2009/08/14(金) 00:29:11
尾張藩の例では結婚後も「○君」といわれているのだが
180日本@名無史さん:2009/08/22(土) 11:43:51
天璋院の輿入れの頃の古文書がどっかの旧家?から見つかったって
去年のニュースでやってたけど、その消息文の中では、天璋院のことを
『篤君』って書いてあったよ。
181日本@名無史さん:2009/08/22(土) 12:51:12
公家・近衛家の養女になってるから
182日本@名無史さん:2009/08/22(土) 20:06:59
>>180
「徳川実記」で婚礼のために江戸へやってきた天璋院を「篤君」と呼んでいるよ。
天璋院は何度も改名している。
島津家と摂家の近衛家は近い姻戚で、斉彬の姉が近衛家に嫁いでいた。
島津から出た11代将軍家斉御台所広大院が近衛家の養女となって将軍に嫁いだ例にならい、
近衛忠煕の養女になった際に「篤君敬子」と名を改めた。
天璋院のもともとの名は一(かつ)、
島津斉彬の養女になった際に、島津から出た11代将軍御台所広大院の島津時代の名である
篤姫に改名していた。
183日本@名無史さん:2009/09/14(月) 23:40:17
豪姫の肖像画ってある?
旦那の秀家はすごく濃ゆ〜い顔のがあるんだが・・・w

イケメソの利家とメタボってるゾンビみたいな芳春院の間に生まれたら
どんな遺伝すんのかしらん
184日本@名無史さん:2009/09/15(火) 03:50:59
芳春院がメタボって晩年の肖像画でしょ
若いころは信長にあの禿鼠(秀吉)にはもったいない美貌だと言われた高台院すら
晩年の肖像画&像はメタボってる
185日本@名無史さん:2009/09/15(火) 08:16:39
有名な信長の手紙はどうみてもねねへのお世辞だし、肖像画も木造もゴリラみたいでかなりのブスじゃん
まつにしても、子供を10人以上産んでるしし残ってる肖像画や像もアレだから、
失礼ながら超安産型のブーヤンだったことはほとんど確実だよ

あの時代の美人といえば、お犬の方やお市の方、松の丸殿などのことを言うんだよ。
186日本@名無史さん:2009/09/15(火) 08:24:06
お犬の方の肖像画は、現代の美的感覚で言ってもかなりの美人だと思う。
187日本@名無史さん:2009/09/15(火) 19:43:13
>>185
そんな不細工な妻でも秀吉は最後までねねをお前が一番だと持ち上げ続け、
利家はまつに欲情し続けて11人も子を産ませたわけか。
両者ともブス専だったの?
188日本@名無史さん:2009/09/15(火) 20:48:44
吉川元春はブス専
189日本@名無史さん:2009/09/15(火) 22:08:10
>>187
当時の美人の基準は今とは隔たりがあるからね。
栄養状態の悪い時代だったから、長い間、良く言って
ふくよかな人、ありていに言って巨ピザデブが美人ともてはやされていたらしい。
そういう人の方がお産も軽くて子供を沢山産むことができる傾向も関係してる。

秀吉と利家にとっては、ねねとまつも美人でイイ女と映ったかもよ。
190日本@名無史さん:2009/09/16(水) 09:40:12
>>183
タボとか、現在の基準視線で・・・・。
「豊頬」とか言い換えればいいじゃん。

>>189
食物が豊富にない時代、豊かな体つき上層な暮らしの証しだよね。
それに何より、ねねやまつは賢夫人として評価を受けていたのであって、
美貌を喧伝されていた女性ではないのだし、今さら容姿なんて・・・
191日本@名無史さん:2009/09/16(水) 21:06:36
>>178
『日本の女性名』のあった資料だと家譜などには
○姫型と於○型の二パターンがありますね。
池田家などは○姫型、宗家などは於○型。
古い時代は於○型、時代が経つにつれ○姫型表記の家譜もあり様々。
○君は公家の女性の通称に使われます。
女官なって官位を得るか、公家の正室になる以外は、忌み名を持たないのが通例なので
武家に嫁ぐ姫などは結婚後も○君と呼ばれます。
192記憶喪失した男:2009/09/18(金) 09:29:31 BE:664747362-2BP(0)
193記憶喪失した男:2009/09/18(金) 09:43:49 BE:553956825-2BP(0)

「ひめ」=「日女」
と思われ、本来は天皇家の娘かと思われ。
194日本@名無史さん:2009/09/27(日) 23:13:17
かなり意味不明なんですがw
195日本@名無史さん:2009/10/04(日) 08:55:03
お江の方の名前って確か達子だよね
196日本@名無史さん:2009/10/04(日) 13:22:41
中宮実母と言うことで官位をもらうときに位記に書く必要があるので付けた名前が「達子」
これは男性の実名(徳川家康の「家康」など)に当たる物。

男性には字(通常の呼び名)と実名があるのは常識として広く知られているけど
女性は公式の場で働いたり、まして官位をもらうことは男性に比べて少なかったので
室町時代以降で実名を持っている女性も当然少ない。
公家の女性でも結婚などの機会に父や兄弟の実名から一字もらって便宜的に付けることが多かったようだ。
例:後陽成天皇女御・近衛前子(父・近衛前久)

この辺に関しては『歴史読本』2009年4月号で分かりやすくまとめている小論が載っていた
197日本@名無史さん:2009/10/05(月) 21:22:43
大化後大宝前の一時期、親王(当時はそう呼ばないが)や王の娘を姫王と呼んだらしい。
198日本@名無史さん:2009/10/05(月) 21:33:16
多分日本史上至上のプリンセス
朝原内親王(779〜817、39歳:桓武皇女:母光仁皇女酒人内親王)
 斎宮(782、4歳)→斎宮解任(796、18歳)→三品(796、18歳)→安殿皇太子と結婚
 (796以後)→平城天皇妃(806、28歳)→妃を辞す(810、32歳)

朝原内親王系図
天智天皇―――┬施基親王――――┬光仁天皇――┬桓武天皇―┬朝原内親王
越道君伊羅都売┘        │      │     │
紀朝臣諸人―――紀朝臣橡姫―――┘      │     │
?―――――――高野朝臣乙継――┬高野朝臣新笠┘     │
土師宿禰富杼?―大枝朝臣真妹――┘            │
天智天皇――――施基親王―――――光仁天皇――┬酒人内親王┘
文武天皇―――┬聖武天皇――――┬井上内親王―┘
藤原朝臣宮子―┘        |
県犬養宿禰唐――県犬養宿禰広刀自┘

舒明天皇―――――┬天武天皇┬―――草壁皇太子┬文武天皇┬聖武天皇
斉明天皇―――――┘    |        |    |
天智天皇―――――┬持統天皇┘        |    |
蘇我遠智娘――――┘             |    |
舒明天皇―――――┬天智天皇┬―――元明天皇―┘    |
斉明天皇―――――┘    |             |
蘇我倉山田石川麻呂―蘇我姪娘┘             |
藤原連鎌足――――┬藤原朝臣不比等┬藤原朝臣宮子――――┘
車持君娘与志古娘?┘       |
賀茂朝臣?―――――賀茂朝臣比売―┘
199日本@名無史さん:2009/10/05(月) 21:34:24
上記系図を見れば明らかなとおり、先祖が天皇だらけという大変高貴な女性。
祖母・母・本人の三代が内親王というのは空前絶後だと思う。
つまり、父・外祖父・母の外祖父が全員天皇と言うことになる。
ちなみにこの内親王三代全員が斎宮で、これも空前絶後だろう。
父方で天智天皇玄孫なだけでなく、母方からも三重に天智天皇の血が流れ込んでいる。
母方でも玄孫であり、かつ玄孫の孫にして玄孫の曾孫というややこしさ。
しかも母方は天武系なので、舒明・斉明両天皇夫婦の血が実に五重に流れている。
おまけにこの夫婦自体が叔父姪関係という、数世代にわたって続いた近親婚の賜物。
ある意味ではもっとも純粋な敏達天皇の後継者といえよう。
更に母の外祖父聖武天皇の外祖父不比等には、天智天皇落胤説があると言うおまけ付き。
もっともあちこちでかなり身分が低い血統も混ざってはいる、特に父方は。
もし平城天皇との間に皇子ができていて、その皇子が即位していたとすれば、おそらく史
上最高の純粋な皇親系天皇と言うことになっただろう。
あまりに天皇家の血が凝縮されすぎていて、どこかしらに異常が出そうでもあるが。
200日本@名無史さん:2009/10/05(月) 22:47:17
たしかに、朝原内親王の血統はスゴそうに見えて、所々雑多な血が多く入っている。
その点、血の濃さ度では後三条天皇の同母姉・良子内親王と娟子内親王がダントツ。
6親等まで遡っても、先祖が合計46人しかいない。
201日本@名無史さん:2009/10/06(火) 19:02:45
>>199が指摘する通り、
朝原内親王に関して特筆すべき事は、三代続いた伊勢斎宮であり、
かつ三代続いた皇妃であったということではないかと。
(井上・酒人・朝原)
これに該当する内親王は、歴代天皇が産み出した
夥しい数の皇女の中でも、彼女一人しかいないからね。

井上内親王が持つ天武直系の血筋と、
光仁に流れる天智系の血の融和の結果として生誕した
酒人内親王と、その娘である朝原は、
桓武天皇在位の正統性を(血統上で)高めることになったから。
202日本@名無史さん:2009/10/08(木) 10:59:24
>>195
出た「○○の本当の名は×子」だよね厨の知ったかクン。
でもそれは生まれた時からのものでもなんでもなく、
また極端に限られた部分でしか用いられないものだからね。
203日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:43:50
>血の濃さ度では後三条天皇の同母姉・良子内親王と娟子内親王がダントツ。
>6親等まで遡っても、先祖が合計46人しかいない。
このころは藤原兼家と時姫の血が凝集しているのが天皇家だもんな。
ちなみにふと気になって調べてみると、
第61代朱雀天皇から第75代崇徳天皇までの全天皇の生母って基経の子孫なんだな。
御堂流はもちろん閑院流も村上源氏も基経子孫だし。
美福門院もどっかで基経の血が混ざってそうだなあ。
204日本@名無史さん:2009/10/09(金) 21:48:06
みんな詳しいな
205日本@名無史さん:2009/10/09(金) 22:23:52
>>203
混ざってる。
藤原基経−忠平−師輔−兼家−道長−尊子−源俊房−方子−美福門院
206日本@名無史さん:2009/10/10(土) 09:52:24
ちょっとスレの趣旨からずれるけど、それじゃ天皇生母が基経子孫じゃなくなるのっていつから?
このぶんだと公家流平氏も平安後期までには基経子孫になってそうだし。
207日本@名無史さん:2009/10/10(土) 10:51:20
生母に諸説ある六条天皇は基経子孫ではなさそう
208日本@名無史さん:2009/10/12(月) 10:05:37
五百井女王(?〜817:市原王の娘:母は光仁皇女能登内親王)
 無位→従四位下(781)→従四位上(784)→正四位下(796)→尚縫→従三位(800)→正三位
 (813)→従二位(815)→従二位尚侍(没時)
春原朝臣五百枝の同母兄弟で姉になるようだ。
母が光仁天皇皇女だったため、781年の勅で五百枝王(当時)ともども二世王待遇となり、
同年中に叙位された。なお783年の五百枝王の流罪には連座していない。
おそらくかなり早くから女官として仕えていたのだろう。出自の高さもあってか、当時の
女官としては異例とも言える二位昇進を果たした。
同母弟?の五百枝王が760年誕生なので、758年頃以前の誕生だろう。
母である能登内親王は733年誕生であり、750年頃以後の誕生と考えられる。
光仁天皇外孫故叙位時の年齢は規定の21歳に比較的近かったのではないかと思われる。
758年程度だろうか、名前が弟と対になっており、あるいは双子かも?
一応755〜758年頃の誕生と考えて大きな間違いはないと思う。

男系では天智天皇の来孫、川島皇子(志貴親王とも)の玄孫と言うことになる。
父兄はともかく光仁天皇外孫と言うそれなりのプリンセスだが女官勤め。
まあこの頃までは女王の女官勤めは珍しくないが、かなり異例の高位に至っている。
光仁天皇外孫・桓武天皇の姪(同母姉の娘)・平城天皇・嵯峨天皇の従姉という、歴代天皇
の近親であったこともあるのだろうが、後宮部局長である尚縫を勤め、最終的には尚侍に
まで至っており、やはり有能だっただろう。
209日本@名無史さん:2009/10/12(月) 21:24:34
昔の女王とか王って、同じ名前も結構ある。
それも雑ぱくと言うか即物的というかそんな名前。
対外は養育担当氏族の氏族名らしいけど。
確かに管理上は便利だとは思うけど、そんな適当な名前の付け方で良いんだろうか?
それともあれは仮名みたいなもので、真名は別にあるから良いのかな?
210日本@名無史さん:2009/10/24(土) 10:18:50
上の方でお江の産んだ姫の中では羽柴完子が一番幸せ、とあるが、九条家に
嫁いだ後は経済面での苦労はなかったんだろうか。
それ以外では確かに平穏で一番幸せな人生に思えるけど。
211日本@名無史さん:2009/10/24(土) 10:48:59
嫁ぐ時の支度は豊臣家が全面的に援助してくれて豪勢だったと言うし
徳川とのパイプもあったから経済的不自由は一切しなかったと思う
212日本@名無史さん:2009/10/24(土) 11:59:40
>>210
完子はいろいろ苦労したと思うよ。
生後間もなく実父と死別、幼女のころに実母は再婚で別居。
伯母の淀殿に引き取られるも養女ではなく猶子という形で
気を使いながら成長した。
結婚後は征夷大将軍となってぐんぐん官位を上げる家康に対抗して
夫に対して豊臣秀頼の官位昇格をはからせる役目を担わされていた。
豊臣家が滅びると今度は手のひらを返したように母の再婚相手である
徳川秀忠の養女に。
秀忠が完子を養女にしたのも完子の不憫さからというより
関白北政所に夫を通じて我が娘徳川和子入内の根回しを頼みたいという
下心があってのことだったし。
豊臣からも徳川からも一番政治的に利用された。
213日本@名無史さん:2009/10/25(日) 08:50:50
完子が一番幸せって言われるのは、「江の生んだ娘」に限定した中での
ことじゃないか?
それだと遠慮や苦労はあったかもしれないけど、豪華絢爛な大阪城で
伯母さんの淀どのの猶子として大切に養育されて摂関家の名門に輿入れ。
それからは直接戦に巻き込まれることもなく、子宝にも続々恵まれる。
関白である夫と不仲だったとか婚家に粗略に扱われたとも聞かないし、
二人とも長生きで添い遂げてって幸せな部類だと思う。

父親の違う他の兄弟姉妹(珠姫除く)や父方母方の親族ってそういう意味では
結構皆さん微妙。
214日本@名無史さん:2009/10/26(月) 00:11:25
完子は淀の方に可愛がられて成長したんでしょ?
215日本@名無史さん:2009/10/26(月) 14:32:51
「○○が一番の幸せ、不幸せ」みたいな考えって
結局はわかんないことなのにな・・・。
人によって見方も色々と違うだろうしさ。
216日本@名無史さん:2009/10/28(水) 01:50:37
>>213
江が産んだ完子以外の娘

・千姫=2人の夫と2度死別。最初に嫁いだ豊臣家は滅亡、
    再婚した本多家では千姫に男子がなく本多家はお取り潰し。
    未亡人となってからは江戸城で暮らし、将軍長姉として重んじられた。

・珠姫=前田家に嫁ぎ、15歳からほぼ年子で子供を産み続けて7人目の子を産んだあと24歳で早世。

・勝姫=松平忠直と結婚するも夫に殺されかけ、夫は配流。江戸城へ戻った。

・初姫=京極忠高と結婚、19歳で病没。葬儀に夫の一族の参列が認められなかったため不仲説があるという。

・和子=後水尾天皇の中宮。東福門院。晩年まで夫と添い遂げた。

一番幸せだったのは和子かな。
珠姫は毎年子供を産まされて24歳で死んだというのはそれほど幸せとも思えない。
不幸な結婚をしたとされる千姫や勝姫も父母のもとへ帰ってこれたのは
それはそれで気楽でゆう福な生活が保障されただろうし、一概には言えない。
19歳で死没した初姫、彼女が一番かわいそうかな。
217日本@名無史さん:2009/10/28(水) 19:20:37
勝姫は不幸って言うより本人が強烈な人だなって印象。
孫夫婦の後継ぎ問題に乗り込んで行って、結果的に自殺させちゃったりとか。
和子は和子で苦労が絶えない人生なような。
完子はいまいちどういう生活してたかわからないけど、いざと言う時に帰る
実家がないのは可哀想と思う。

姉妹よりも、弟の家光の正室になった公家の姫が気の毒かも。
何であそこまで疎まれたんだろう。
218日本@名無史さん:2009/10/28(水) 19:31:07
歴代御台所は皆不遇の様な希ガス
219日本@名無史さん:2009/10/28(水) 20:15:07
>>217
家光の正室鷹司孝子は御台所の江が養女にしていたため、
江と激しく対立した乳母の春日局が家光から遠ざけ、
江の死後は江戸城本丸大奥からも追い出して二の丸に移したというね。
春日局が激しく家光の正室鷹司孝子を嫌っていたことは
春日局自身が書いた祈願文からあきらかだが。

鷹司孝子は長生きで家光の子家綱・綱吉などからは尊敬されていたようだが。
家光次男綱重の正室は孝子の養女だった。
綱吉の御台所は孝子と同じ鷹司家の出身で、血縁者だったし。
220日本@名無史さん:2009/10/28(水) 22:37:41
大奥ドラマでいい人イメージが強い春日局だが
井上正就の息子の縁談に横やり入れて正就殺す原因作ったりとか
基本は痛い人のような気がする

姫様ネタじゃないので以後関連で何かあれば乳母スレで
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1196407095/
221日本@名無史さん:2009/10/28(水) 22:44:51
大奥ドラマはお万の方も聖女様だったが実際は結構俗物できつい性格ぽい
まあ所詮創作物だからね
222日本@名無史さん:2009/11/03(火) 17:09:09
にっぽんぽん!
223日本@名無史さん:2009/11/05(木) 15:32:06
ウィキとかに千姫は美人だった、とあるけど、美人だったという信頼できる資料ってあるのかな。
それともとりあえずお姫様(特に薄幸な感じの)は美人にしとけってやつなのだろうか。
母方の祖母であるお市の方・その姉妹のお犬の方は本当に美しかったみたいだけど。
224日本@名無史さん:2009/11/06(金) 23:59:38
将軍家の姫君をブサとは言えないしな

大名の姫ってだけで平民よりは奇麗なのは確実だけどな
日に当たらないから色白で、生活環境も良いから髪や肌つやも良くふくよか
これだけで当時の美人の条件クリア
重労働をしていた色黒ガリガリ農民の娘とくらべたら当然美人に見えるよな
225日本@名無史さん:2009/11/12(木) 22:41:24
>>223
普通に想像できるだろ?
「歴史に名を残す姫はほとんど美人」ってお約束を。
劇的な人生や軌跡を残した女性ならヒロインとしてみな「美女」と
伝えたくなるものだしね。

現代だって事件の被害者等で、ブスでなければ「美人○○」になるのと
同じような世間一般の心情からくる伝聞。
小説や芝居のヒロインにされれば、否応なく美人設定になるだろうし。
資料云々以前のお約束みたいなもんだ。
あとWikiの中身なんて全面信用しないほうがいいよ。
226日本@名無史さん:2009/11/16(月) 22:55:02
島津亀寿は悲劇の姫だけどブスとして有名
227日本@名無史さん:2009/11/19(木) 20:46:12
美人で魅力的で幸せだったんじゃね?と思われるのは久保姫。
228日本@名無史さん:2010/01/07(木) 23:29:07
>>225
普通に想像できるだろ?
ブスだったとも限らないw
229日本@名無史さん:2010/01/08(金) 01:06:40
>>221
すごい亀な質問だけど、
なんでアンタがお万の方の「実際の性格」を知っているのか。
230日本@名無史さん:2010/01/29(金) 22:42:04
>>223
千姫は母方の祖母市に似てたら超美人だけど
父方の祖父徳川家康やらこれにそっくりな弟の徳川家光似だったら
とんでもない狸顔だもんな・・・・・

まあ、だけど、とんでもない不細工ではなかったと思うよ。
敵将豊臣秀頼の正室から本多家へ嫁ぎ、
さらに2度目の夫と死に別れて江戸城へ戻った時には
前田家へ3度目の降嫁の話もあったというし。
いくら将軍の長女であってもとんでもないオカメなら
ここまで次々とは縁談の話がわかないでしょう。
231日本@名無史さん:2010/01/30(土) 01:53:21
家光て狸顔なの?
232日本@名無史さん:2010/01/30(土) 02:13:07
以前から思ってることだけど、
結局のところはわからない女性の容姿を
いちいちに推測するのも不毛なことだよな。
233日本@名無史さん:2010/01/30(土) 20:23:56
男の容姿は問題にならないのにね。
まあ、この時代の女性が○○の妻という肩書しか持たず
政治の表舞台に出てこない場合、
夫から愛されたかがそのまま妻の評価になりかねず、
夫から愛されたかどうかの指標が美醜ということに
なってしまっているのだろうか。
234日本@名無史さん:2010/01/31(日) 02:32:41
でも、その美醜を明確に記した史料もないからな。
また夫から愛された云々の記述なども少ない、必要なかったのだろう。

夫婦仲の推量が好きな人もいるようだけど、
それもより不確かなことの憶測に過ぎないよ。
235日本@名無史さん:2010/02/06(土) 11:02:06
あの、お言葉だが、
いろんな状況証拠から、その人が少なくとも当時の基準では美人であっただろう、
って推測することは、必ずしもナンセンスではないよ。
(もちろん、そういう美醜を論じること自体が嫌い、というのなら仕方ないが、それは別問題。)

例えば天智・天武両帝に愛された額田王が美しい人だっただろう、と想像することは、恐らく正しい。
身分の低い中から選ばれて大名の子供を産んだりしている側室なんかも、ほぼ確実に美人だっただろう。
236日本@名無史さん:2010/02/06(土) 12:41:14
とは言え、世の中にはブデ専・ブス専・老け専など趣味色々だからなぁ・・・
あとブスではないけど美人でもないのにやたらと男好きするタイプもいたりするから
「多分美人だった」はともかく「確実に美人だった」というのは乱暴すぎる気がする
237日本@名無史さん:2010/02/08(月) 03:00:44
>>235
額田王は美女であったほうが絵面的にも断然美しいと思うし
想像も楽しいね。
だけど235さんは、
[天智、天武に愛された額田は美しい人だったのだろう]
と想像する場合、額田の出自や「宮廷歌人としての立ち居地」
(この点はわりと重要な点だと思うんだけどね)、
つまり人物の背景を、考慮の視点に入れている?
238日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:16:10
>>235
額田王は大海人皇子が10代後半ぐらいのかなり若いころに
十市皇女を産んだのが確実なだけで後は不確実らしいよ。
それ以降は子供を産んでいないし。
「人妻ゆえに」の有名な歌は万葉集では大海人皇子の歌だとは書かれてなくて
「皇太子」の歌だとしている。
天智朝で大海人が皇太子だったというのは天武側の改編であった可能性も高く、
天智の後継者大友皇子が皇太子だった可能性が高く、
そうすれば妻十市皇子の母である額田王に「恋してしまうくらい美しいですよ、お母さん」
とお上手を言った歌になり、額田王が天智天皇の妻であった可能性もなくなるそうだ。
239日本@名無史さん:2010/02/09(火) 00:59:25
>>237
もちろん入れているつもりですが。なぜ?
あと、「楽しい」とか、そんな話は全くしていないつもりですが?

>>238
「大海人皇子は立太子しておらず、当時の皇太子は大友皇子だった」
なんていうのはそれこそ推測に過ぎないわけで、何の証拠もない。
その「人嬬故尓・・・」の作者が天武帝以外の人であった可能性もないわけではないが、
「天智の後継者大友皇子が皇太子だった可能性が高く、・・・」だからこの歌は天武帝の作ではないだろう、
と主張するのは、それこそ言い過ぎだと思うが。

その歌の他に、
額田王思近江天皇作謌一首/君待登吾恋居者我屋戸之簾動之秋風吹
というのがあるのを見ると(他にも天智天皇への挽歌など作っているが)、
額田王が天智天皇の女だったと考えるのはごく自然だと思う。


でもまあ、額田王が天智帝と肉体関係にあったという確証はない!と言いたいのなら、
そこでは別に争わなくてもいい。
自分がいいたいのは、単に
「仮にある女が複数の権力者から身体を求められ、そのうち一人の子を生んでいるような場合、
その女は美しい女だったと想像することは妥当だと思う」
従って、
「容姿に関する直接的な言及のない歴史上の人物の美醜を論じることはナンセンス」というのは正しくない、
ということなんだが。
240日本@名無史さん:2010/02/09(火) 18:34:46
>>238
額田の「茜さす・・・」に対する「紫の・・・」の返しも、
別に実際の恋愛関係をもとに歌ったわけではなく、
宴席での余興・・・というか古代の宴席でのおおらかなやりとり、
場を盛り上げるための歌の応酬であったのでは説もありますよね。
自分もなんとなくそういう流れを感じます。

>>239
自分の歴史断定に多少の疑問をなげられたくらいで、
そこまで食いつかなくてもいいのでは・・・
241日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:25:14
>>239
万葉集って史書だったんだ・・・
歌会なんかで架空の恋を読みあったりするんだけど、
古今和歌集とか新古今もみんな史実、
自身の恋愛を歌ったものだとかいっちゃう人?
242日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:37:48
ほほう
243日本@名無史さん:2010/02/10(水) 03:16:23
>>241
万葉集が史書だった、なんて一言も言ってないんだけどなあ・・・・

> 古今和歌集とか新古今もみんな史実、
> 自身の恋愛を歌ったものだとかいっちゃう人?

いっちゃう人じゃないです。当り前だが。
何か、話が通じてないねえ・・・orz
まあ、これ以上話してもまともな議論は帰ってこなさそうだ。もういいや。
244日本@名無史さん:2010/02/10(水) 04:04:51
素人相手に2chで少し真面目に議論すると必ず「必死だなwww」とか短く煽られて終るっていう良い例。
245日本@名無史さん:2010/02/10(水) 12:09:38
>>243
>何か、話が通じてないねえ。
>まともな議論は帰ってこなさそうだ。
>もういいや。

古代の王朝歌人として活躍し、宮廷に仕えた者のなかには
天皇の代弁で挽歌やその場を読んだりすることもあるし、
「三輪山を・・・」の歌とかもそうだっていいますよね。
額田ってそういう立場でもあったことを認めないまま去ってしまうのねw

まともな議論をしようとしているレスには応じずに、
自分にきたスレのなかでも理屈を述べていないものの対してだけ
「まともな議論ができそうもない」といって去っていく、
良くあるパターンですね。

241のレスにも、例えば
「想定やお題によってかりそめの色事を詠む場合もあるという事くらい、
勿論知ってますよ」とか、具体的に答えればいいのに。
もう、これ以上話してもまともな議論は帰ってこなさそうだw
246日本@名無史さん:2010/02/11(木) 22:37:47
 周囲にいる自分から見ると、互いが言いたい事は、よく分かるし、
間違ってもないと思うのに、二人とも豪く喧嘩腰だねぇ・・・。
247日本@名無史さん:2010/03/12(金) 12:45:28
お姫様
248日本@名無史さん:2010/03/14(日) 18:39:24
愛子様
249日本@名無史さん:2010/03/14(日) 19:36:35
上村と里谷の見分けがつかない
250日本@名無史さん:2010/03/20(土) 03:08:05
言えてる。
251日本@名無史さん:2010/06/01(火) 23:31:13
>>216
京極忠高が初姫の臨終に相撲見物に行っていたって話もあるけど、
将軍家の娘にそんな態度を取れるものかね?
下手すれば改易されかねない。
252日本@名無史さん:2010/06/06(日) 22:00:06
>>251
初姫死亡時に忠高相撲見物の話は、どっかの大名の日記に残ってたと思う。
娘を失った秀忠は怒ったらしいが
そもそもこの時代、藩主が妻の看病をするとかいう発想がないので、
改易は無理じゃないか。
秀忠自身、御台所のお江が死んだとき京にいた。
それは家光将軍就任挨拶と中宮和子の二条城行幸のためだから仕方ないとして
それが終わった後も葬儀手配のために息子の家光だけ先に江戸へ帰らせて
自分はその後1カ月以上物見遊山をして江戸に帰らずにいる。
若い藩主が嫁が病気の時に遊んだからって改易は無理じゃないか。
将軍秀忠の娘勝姫を殺そうとした松平忠直はさすがに改易だが、
それでも切腹などさせられていない。
殺人未遂ぐらい起こさないと改易は難しいだろう。
253日本@名無史さん:2010/06/20(日) 21:57:57
親としてはショックで怒りも感じるだろうけど、別に毒殺したとかの事件性も
なく、あくまで夫婦間の問題だからなぁ。
それもどちらに原因があったかもわからないし、お互いに悪気がなくても
こじれてしまうことだってある。
勝姫(千姫の娘)も最初は夫とぎくしゃく、亀鶴姫(珠姫の娘)も夫婦仲はどう
だか知らないけど亡くなった後にいろいろ揉めたみたいだね。
254日本@名無史さん:2010/07/21(水) 17:22:13
でも、球姫は前田利常と仲は良かったと言われてるよ?
父である秀忠に「参勤交代中の夫を早く加賀に返して」と
要望の手紙を送ってそれが現存してるし、亡くなったのも、
利常が自分に飽きたと勘違いしての衰弱死らしいし。
球姫の乳母が五女の夏姫を産んで体調を崩した彼女を隔離。
前田家に幕府の情報が漏れるのを恐れたかららしいけど、
事情を知らないまま夫に会えなくなり、飽きられたと思って
体調を崩していたこともあり、衰弱死。
事情を球姫の遺言で知った利常は乳母を蛇攻めにして殺したらしい。
255日本@名無史さん:2010/07/31(土) 22:37:26
>>254
蛇攻めは伝説(史実ではない)。
珠姫は3歳で結婚、15歳で鶴亀姫を産んで以来、
ほぼ年子で7人の子を産んでいた。
1822年に五女の夏姫を産んだ後、産後の肥立ちが悪く24歳で死亡。
出産が命の危険を伴う時代、産が原因で死ぬ女性もいるよ。
256日本@名無史さん
>>255
確かに、多産が原因も十二分に考えれるよね。
産後の肥立ちが悪くて亡くなった、と考えるのが自然だとは思うけど。
希望的観測で、夫婦の仲は良かった、と思いたい。