952 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 07:51:12
>>948 間に生まれた梅宮は、内親王になれずに奈良の寺の尼になってる。
そこが、大正天皇の三笠宮の双子説の内親王がいたとされる。
953 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 11:16:40
女官が生んだ皇女が内親王宣下されないのは当然だわな。
同じく女官腹の妹二人は内親王宣下されてるけど
光子内親王は徳川家綱と婚約の話が合って東福門院の養女になって
常子内親王は近衛家に降嫁したから宣下された特殊例だからな。
同母の天皇さえいないのに内親王になれるわけがない。
東福門院が後の明正帝を産む前と、
産んだ後にできた子では、扱いに差異が生まれて当然。
955 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 19:56:02
>>954 江戸時代の皇女の多くは門跡に入れられ内親王宣下を受けない
摂家や宮家、そして将軍家などに嫁ぐ場合のみ嫁入りの直前
成人してから内親王宣下を受ける
子供のうちから内親王宣下を受けるのは
余程身分の高い母親を持つ皇女のみ
956 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 20:06:53
>>952 ちがうな。
梅宮は子供のころから強制的に寺に入れられていたのではない。
13歳の時に10歳年上の摂家の鷹司教平と結婚し、その正室に収まっている。
そのまま幸せな家庭を築くと思いきや、まもなく夫教平と離婚。
その後、世の無常を感じたのか、22歳の時に自分の意思で出家した(法名;文智大通)。
その翌年には京の修学院に草庵を結んだ。
のちに父後水尾上皇が修学院に離宮を築くことになり、文智は奈良の地に移った。
為さぬ仲の東福門院と交流があり、東福門院が将軍徳川家綱に願って
文智が門主を勤める円照寺に知行二百石が与えられた。
東福門院との交流はその後も続き、文智は東福門院の最期も看取っている。
>>951 ありがとう
亀寿が一番ましな人生を送ったように見えてきたよ・・・
あくまでも創作である杉本苑子の「月宮の人」だが
ここにいる者の薀蓄を聞いてるより、よほどタメになる。
960 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 12:59:45
何で、梅宮は奈良の寺にいったんや・
961 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 15:50:06
珍子内親王のその後は?
珍子・・・
まあそんなにつっこんでやるなよ。
ちなみに遙か後の世ではあるが「義珍」という名前を持った武将もいたことだし。
1001まで後39レスかな?
江戸時代編
・千姫:言わずと知れた徳川秀忠と小督(お江与)の方の長女
2人の夫に先立たれ(そのうち一人は実家との戦争による自害)、次々と近親者が死ぬという不幸に襲われるが
晩年はそれなりに安寧だったかも。
・国姫:松平光長の娘、松平光通の正室。
実家からの余計な口出しで夫婦仲がまずくなり、いたたまれずに自殺に追い込まれてしまった。
965 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 19:05:24
国姫って千姫の妹勝姫が死に追いやった感じだよね。
966 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 20:28:18
男子を産めなかった正室などごまんといるしさ
国姫に男子がなく側室腹の庶子は許さないというなら
他家から養子でも貰えばよかったんだ
江戸時代の大名家など養子だらけ
改易になるし何をやってんだか
967 :
日本@名無史さん:2008/09/02(火) 22:16:20
佐治なにがしと離縁させられて家康に嫁ぐことになった朝日姫は気の毒ではある。だが、40を越え、百姓仕事で肌はどす黒く、不美人で姥といっていい朝日を閨で愛撫するはめになった家康の苦労は偲ばれる
>>966 だからその養子という策も大姑の勝姫に封じられてしまったから
969 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 08:04:44
勝姫は国姫の実祖母じゃなかった?
ところで国姫が産んだ娘はいずこに?
970 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 13:00:07
勝姫って、結構気が強くて夫も不幸に導いた気がしてならん。
姉妹は、のんびりした気質が多いのに。
971 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 13:31:35
旦那はガチの基地害だからあんまり関係ないような。
勝姫は晩年に長女と過ごせてまあまあいい人生だったのではないか
972 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 14:44:44
諸説あるが、勝姫の息子をホモ時代の家光の後継者にすると
秀忠は約束していたらしい、それが反故にされて姫は恨んだらしいが。
前田利常の息子(母親は家光の姉・珠姫)も一時候補者だったらしい
最もホモ相手候補者なのではとも噂されたようだがw
(参考『遊びをする将軍踊る大名』山本博文)
家光・勝姫姉の珠姫は早くに両親と別れて政略結婚させられ、多産のために早世した姫様
微妙に不幸とは言いにくいかも知れないが、さすがに生ませ杉だな
利 常 自 重 汁w
974 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:01:53
>>969 勝姫は国姫の実祖母
孫娘に多大な期待をかけすぎてしまったんだろうな。
今に見ていてください、うちの孫娘は必ずやります、後継ぎを産んで見せます、
私がここまで応援しているのだから、お前(国姫)必ず頑張りなさいよ、って。
努力してもやれることとやれないことがあるのに期待ばかりが大きすぎた。
国姫の2人の娘
長女の布与姫は佐賀藩主鍋島綱茂の正室となった。
子供はなく、綱茂の後は養子(綱茂弟)をとることになったが、
布与姫は寂光院となり晩年は穏やかだったよう。
次女の市姫は嫁ぐことなく夭折している。
975 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:17:04
>>970 勝姫は10歳で忠直に嫁ぎ、15歳のときに第一子の光直を産んだのをはじめ
所生の3人の子はすべて10代のころに産んでいる
23歳の時に夫は蟄居を命じられ3人の子を連れて実家の江戸城へ帰ってきた
10歳で嫁いだ勝姫が夫の性格を変えたとは思えん
むしろ気狂いの夫のそばにいたために性格が変わったんだろう
江戸城へ帰れば3代将軍家光の実姉として待遇は良かったし
婚家での地獄を見たので楽園だったろう
姉の千姫のように再婚することもなかった
>>972 秀忠が庶兄秀康の系統に将軍位をやる気だったとは考えがたい
秀康は家康から徳川姓を名乗ることすら許されなかったからね
ましてや息子の忠直はまともではなかった
息子が将軍になったら何するか分からん
976 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:55:09
忠直は、大分で静かに余生を送ったらしいから勝姫にも原因アリじゃ?
977 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 21:57:34
>>975 秀忠の同母弟の忠吉にすら許されなかったからね。
978 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 10:57:22
何が許されなかった?
次スレどうする?
実は建てようとしたがはじかれました(´・ω・`)
なので
>>980よろしく
次スレのタイトル案として
・日本史のお姫様
あげときます
(理由は
>>909参考)
高貴なお生まれながら、
性格や逸話などが個性的な姫君たちについて、
思う存分語りましょう。
…辺りでしょうか?
984 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 23:57:47
駒姫伝説 悲劇のお姫様を語る
これでしょう
駒田伝説か
戦国時代になるが宇都宮鎮房の娘・鶴姫も悲惨
つか、黒田官兵衛親子黒すぎる
ちなみに官兵衛が鎮房・鶴姫をだました「長政とのケコーン話」だが
長政はその後2回ケコーンしているが、最初の1回は家康の養女と政略結婚するために離婚したそうな。
相手は蜂須賀家政の娘だったが、結局蜂須賀家も家康側についたから何のために離婚したのかよく分からない。
この長政元嫁も実家にかえってからどうなったかよく分からない。
988 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 02:22:01
姫と
989 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 04:27:26
次スレは、無しということか
990 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 07:40:34
>>987 鶴姫の話がなぜ途中で途切れている?
鶴姫は父親の和議の条件として黒田長政へ嫁ぐため
長政のもとへ向かったところ黒田親子の騙しにより実父は殺され
鶴姫も13歳にして磔にされ殺されたのが悲劇。
長政の最初の妻は豊臣秀吉の養女だったから
保身の長政はなんだってしただろう
離縁ならまだまし
長政に殺されなかっただけでも
991 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 08:58:02
やっぱし、築山御前だろ。
浜松城に家康の銅像を作る会の発起人全員が
短期間のうちに事故や病気で全員死亡してしまった。
これ、本当の話です。
浜松には築山御前の怨念が今も漂っているのです。
992 :
次スレ:2008/09/07(日) 10:29:39
993 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 10:52:30
おつ
1000 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 12:49:59
1001 :
1001:
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