生母に諸説ある六条天皇は基経子孫ではなさそう
五百井女王(?〜817:市原王の娘:母は光仁皇女能登内親王)
無位→従四位下(781)→従四位上(784)→正四位下(796)→尚縫→従三位(800)→正三位
(813)→従二位(815)→従二位尚侍(没時)
春原朝臣五百枝の同母兄弟で姉になるようだ。
母が光仁天皇皇女だったため、781年の勅で五百枝王(当時)ともども二世王待遇となり、
同年中に叙位された。なお783年の五百枝王の流罪には連座していない。
おそらくかなり早くから女官として仕えていたのだろう。出自の高さもあってか、当時の
女官としては異例とも言える二位昇進を果たした。
同母弟?の五百枝王が760年誕生なので、758年頃以前の誕生だろう。
母である能登内親王は733年誕生であり、750年頃以後の誕生と考えられる。
光仁天皇外孫故叙位時の年齢は規定の21歳に比較的近かったのではないかと思われる。
758年程度だろうか、名前が弟と対になっており、あるいは双子かも?
一応755〜758年頃の誕生と考えて大きな間違いはないと思う。
男系では天智天皇の来孫、川島皇子(志貴親王とも)の玄孫と言うことになる。
父兄はともかく光仁天皇外孫と言うそれなりのプリンセスだが女官勤め。
まあこの頃までは女王の女官勤めは珍しくないが、かなり異例の高位に至っている。
光仁天皇外孫・桓武天皇の姪(同母姉の娘)・平城天皇・嵯峨天皇の従姉という、歴代天皇
の近親であったこともあるのだろうが、後宮部局長である尚縫を勤め、最終的には尚侍に
まで至っており、やはり有能だっただろう。
昔の女王とか王って、同じ名前も結構ある。
それも雑ぱくと言うか即物的というかそんな名前。
対外は養育担当氏族の氏族名らしいけど。
確かに管理上は便利だとは思うけど、そんな適当な名前の付け方で良いんだろうか?
それともあれは仮名みたいなもので、真名は別にあるから良いのかな?
上の方でお江の産んだ姫の中では羽柴完子が一番幸せ、とあるが、九条家に
嫁いだ後は経済面での苦労はなかったんだろうか。
それ以外では確かに平穏で一番幸せな人生に思えるけど。
嫁ぐ時の支度は豊臣家が全面的に援助してくれて豪勢だったと言うし
徳川とのパイプもあったから経済的不自由は一切しなかったと思う
>>210 完子はいろいろ苦労したと思うよ。
生後間もなく実父と死別、幼女のころに実母は再婚で別居。
伯母の淀殿に引き取られるも養女ではなく猶子という形で
気を使いながら成長した。
結婚後は征夷大将軍となってぐんぐん官位を上げる家康に対抗して
夫に対して豊臣秀頼の官位昇格をはからせる役目を担わされていた。
豊臣家が滅びると今度は手のひらを返したように母の再婚相手である
徳川秀忠の養女に。
秀忠が完子を養女にしたのも完子の不憫さからというより
関白北政所に夫を通じて我が娘徳川和子入内の根回しを頼みたいという
下心があってのことだったし。
豊臣からも徳川からも一番政治的に利用された。
完子が一番幸せって言われるのは、「江の生んだ娘」に限定した中での
ことじゃないか?
それだと遠慮や苦労はあったかもしれないけど、豪華絢爛な大阪城で
伯母さんの淀どのの猶子として大切に養育されて摂関家の名門に輿入れ。
それからは直接戦に巻き込まれることもなく、子宝にも続々恵まれる。
関白である夫と不仲だったとか婚家に粗略に扱われたとも聞かないし、
二人とも長生きで添い遂げてって幸せな部類だと思う。
父親の違う他の兄弟姉妹(珠姫除く)や父方母方の親族ってそういう意味では
結構皆さん微妙。
214 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 00:11:25
完子は淀の方に可愛がられて成長したんでしょ?
「○○が一番の幸せ、不幸せ」みたいな考えって
結局はわかんないことなのにな・・・。
人によって見方も色々と違うだろうしさ。
>>213 江が産んだ完子以外の娘
・千姫=2人の夫と2度死別。最初に嫁いだ豊臣家は滅亡、
再婚した本多家では千姫に男子がなく本多家はお取り潰し。
未亡人となってからは江戸城で暮らし、将軍長姉として重んじられた。
・珠姫=前田家に嫁ぎ、15歳からほぼ年子で子供を産み続けて7人目の子を産んだあと24歳で早世。
・勝姫=松平忠直と結婚するも夫に殺されかけ、夫は配流。江戸城へ戻った。
・初姫=京極忠高と結婚、19歳で病没。葬儀に夫の一族の参列が認められなかったため不仲説があるという。
・和子=後水尾天皇の中宮。東福門院。晩年まで夫と添い遂げた。
一番幸せだったのは和子かな。
珠姫は毎年子供を産まされて24歳で死んだというのはそれほど幸せとも思えない。
不幸な結婚をしたとされる千姫や勝姫も父母のもとへ帰ってこれたのは
それはそれで気楽でゆう福な生活が保障されただろうし、一概には言えない。
19歳で死没した初姫、彼女が一番かわいそうかな。
・
勝姫は不幸って言うより本人が強烈な人だなって印象。
孫夫婦の後継ぎ問題に乗り込んで行って、結果的に自殺させちゃったりとか。
和子は和子で苦労が絶えない人生なような。
完子はいまいちどういう生活してたかわからないけど、いざと言う時に帰る
実家がないのは可哀想と思う。
姉妹よりも、弟の家光の正室になった公家の姫が気の毒かも。
何であそこまで疎まれたんだろう。
歴代御台所は皆不遇の様な希ガス
>>217 家光の正室鷹司孝子は御台所の江が養女にしていたため、
江と激しく対立した乳母の春日局が家光から遠ざけ、
江の死後は江戸城本丸大奥からも追い出して二の丸に移したというね。
春日局が激しく家光の正室鷹司孝子を嫌っていたことは
春日局自身が書いた祈願文からあきらかだが。
鷹司孝子は長生きで家光の子家綱・綱吉などからは尊敬されていたようだが。
家光次男綱重の正室は孝子の養女だった。
綱吉の御台所は孝子と同じ鷹司家の出身で、血縁者だったし。
大奥ドラマはお万の方も聖女様だったが実際は結構俗物できつい性格ぽい
まあ所詮創作物だからね
にっぽんぽん!
ウィキとかに千姫は美人だった、とあるけど、美人だったという信頼できる資料ってあるのかな。
それともとりあえずお姫様(特に薄幸な感じの)は美人にしとけってやつなのだろうか。
母方の祖母であるお市の方・その姉妹のお犬の方は本当に美しかったみたいだけど。
将軍家の姫君をブサとは言えないしな
大名の姫ってだけで平民よりは奇麗なのは確実だけどな
日に当たらないから色白で、生活環境も良いから髪や肌つやも良くふくよか
これだけで当時の美人の条件クリア
重労働をしていた色黒ガリガリ農民の娘とくらべたら当然美人に見えるよな
>>223 普通に想像できるだろ?
「歴史に名を残す姫はほとんど美人」ってお約束を。
劇的な人生や軌跡を残した女性ならヒロインとしてみな「美女」と
伝えたくなるものだしね。
現代だって事件の被害者等で、ブスでなければ「美人○○」になるのと
同じような世間一般の心情からくる伝聞。
小説や芝居のヒロインにされれば、否応なく美人設定になるだろうし。
資料云々以前のお約束みたいなもんだ。
あとWikiの中身なんて全面信用しないほうがいいよ。
226 :
日本@名無史さん:2009/11/16(月) 22:55:02
島津亀寿は悲劇の姫だけどブスとして有名
美人で魅力的で幸せだったんじゃね?と思われるのは久保姫。
228 :
日本@名無史さん:2010/01/07(木) 23:29:07
>>225 普通に想像できるだろ?
ブスだったとも限らないw
>>221 すごい亀な質問だけど、
なんでアンタがお万の方の「実際の性格」を知っているのか。
230 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 22:42:04
>>223 千姫は母方の祖母市に似てたら超美人だけど
父方の祖父徳川家康やらこれにそっくりな弟の徳川家光似だったら
とんでもない狸顔だもんな・・・・・
まあ、だけど、とんでもない不細工ではなかったと思うよ。
敵将豊臣秀頼の正室から本多家へ嫁ぎ、
さらに2度目の夫と死に別れて江戸城へ戻った時には
前田家へ3度目の降嫁の話もあったというし。
いくら将軍の長女であってもとんでもないオカメなら
ここまで次々とは縁談の話がわかないでしょう。
家光て狸顔なの?
以前から思ってることだけど、
結局のところはわからない女性の容姿を
いちいちに推測するのも不毛なことだよな。
男の容姿は問題にならないのにね。
まあ、この時代の女性が○○の妻という肩書しか持たず
政治の表舞台に出てこない場合、
夫から愛されたかがそのまま妻の評価になりかねず、
夫から愛されたかどうかの指標が美醜ということに
なってしまっているのだろうか。
でも、その美醜を明確に記した史料もないからな。
また夫から愛された云々の記述なども少ない、必要なかったのだろう。
夫婦仲の推量が好きな人もいるようだけど、
それもより不確かなことの憶測に過ぎないよ。
235 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 11:02:06
あの、お言葉だが、
いろんな状況証拠から、その人が少なくとも当時の基準では美人であっただろう、
って推測することは、必ずしもナンセンスではないよ。
(もちろん、そういう美醜を論じること自体が嫌い、というのなら仕方ないが、それは別問題。)
例えば天智・天武両帝に愛された額田王が美しい人だっただろう、と想像することは、恐らく正しい。
身分の低い中から選ばれて大名の子供を産んだりしている側室なんかも、ほぼ確実に美人だっただろう。
とは言え、世の中にはブデ専・ブス専・老け専など趣味色々だからなぁ・・・
あとブスではないけど美人でもないのにやたらと男好きするタイプもいたりするから
「多分美人だった」はともかく「確実に美人だった」というのは乱暴すぎる気がする
>>235 額田王は美女であったほうが絵面的にも断然美しいと思うし
想像も楽しいね。
だけど235さんは、
[天智、天武に愛された額田は美しい人だったのだろう]
と想像する場合、額田の出自や「宮廷歌人としての立ち居地」
(この点はわりと重要な点だと思うんだけどね)、
つまり人物の背景を、考慮の視点に入れている?
238 :
日本@名無史さん:2010/02/08(月) 21:16:10
>>235 額田王は大海人皇子が10代後半ぐらいのかなり若いころに
十市皇女を産んだのが確実なだけで後は不確実らしいよ。
それ以降は子供を産んでいないし。
「人妻ゆえに」の有名な歌は万葉集では大海人皇子の歌だとは書かれてなくて
「皇太子」の歌だとしている。
天智朝で大海人が皇太子だったというのは天武側の改編であった可能性も高く、
天智の後継者大友皇子が皇太子だった可能性が高く、
そうすれば妻十市皇子の母である額田王に「恋してしまうくらい美しいですよ、お母さん」
とお上手を言った歌になり、額田王が天智天皇の妻であった可能性もなくなるそうだ。
239 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 00:59:25
>>237 もちろん入れているつもりですが。なぜ?
あと、「楽しい」とか、そんな話は全くしていないつもりですが?
>>238 「大海人皇子は立太子しておらず、当時の皇太子は大友皇子だった」
なんていうのはそれこそ推測に過ぎないわけで、何の証拠もない。
その「人嬬故尓・・・」の作者が天武帝以外の人であった可能性もないわけではないが、
「天智の後継者大友皇子が皇太子だった可能性が高く、・・・」だからこの歌は天武帝の作ではないだろう、
と主張するのは、それこそ言い過ぎだと思うが。
その歌の他に、
額田王思近江天皇作謌一首/君待登吾恋居者我屋戸之簾動之秋風吹
というのがあるのを見ると(他にも天智天皇への挽歌など作っているが)、
額田王が天智天皇の女だったと考えるのはごく自然だと思う。
でもまあ、額田王が天智帝と肉体関係にあったという確証はない!と言いたいのなら、
そこでは別に争わなくてもいい。
自分がいいたいのは、単に
「仮にある女が複数の権力者から身体を求められ、そのうち一人の子を生んでいるような場合、
その女は美しい女だったと想像することは妥当だと思う」
従って、
「容姿に関する直接的な言及のない歴史上の人物の美醜を論じることはナンセンス」というのは正しくない、
ということなんだが。
>>238 額田の「茜さす・・・」に対する「紫の・・・」の返しも、
別に実際の恋愛関係をもとに歌ったわけではなく、
宴席での余興・・・というか古代の宴席でのおおらかなやりとり、
場を盛り上げるための歌の応酬であったのでは説もありますよね。
自分もなんとなくそういう流れを感じます。
>>239 自分の歴史断定に多少の疑問をなげられたくらいで、
そこまで食いつかなくてもいいのでは・・・
241 :
日本@名無史さん:2010/02/09(火) 21:25:14
>>239 万葉集って史書だったんだ・・・
歌会なんかで架空の恋を読みあったりするんだけど、
古今和歌集とか新古今もみんな史実、
自身の恋愛を歌ったものだとかいっちゃう人?
ほほう
243 :
日本@名無史さん:2010/02/10(水) 03:16:23
>>241 万葉集が史書だった、なんて一言も言ってないんだけどなあ・・・・
> 古今和歌集とか新古今もみんな史実、
> 自身の恋愛を歌ったものだとかいっちゃう人?
いっちゃう人じゃないです。当り前だが。
何か、話が通じてないねえ・・・orz
まあ、これ以上話してもまともな議論は帰ってこなさそうだ。もういいや。
素人相手に2chで少し真面目に議論すると必ず「必死だなwww」とか短く煽られて終るっていう良い例。
>>243 >何か、話が通じてないねえ。
>まともな議論は帰ってこなさそうだ。
>もういいや。
古代の王朝歌人として活躍し、宮廷に仕えた者のなかには
天皇の代弁で挽歌やその場を読んだりすることもあるし、
「三輪山を・・・」の歌とかもそうだっていいますよね。
額田ってそういう立場でもあったことを認めないまま去ってしまうのねw
まともな議論をしようとしているレスには応じずに、
自分にきたスレのなかでも理屈を述べていないものの対してだけ
「まともな議論ができそうもない」といって去っていく、
良くあるパターンですね。
241のレスにも、例えば
「想定やお題によってかりそめの色事を詠む場合もあるという事くらい、
勿論知ってますよ」とか、具体的に答えればいいのに。
もう、これ以上話してもまともな議論は帰ってこなさそうだw
周囲にいる自分から見ると、互いが言いたい事は、よく分かるし、
間違ってもないと思うのに、二人とも豪く喧嘩腰だねぇ・・・。
お姫様
248 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 18:39:24
愛子様
249 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 19:36:35
上村と里谷の見分けがつかない
言えてる。
251 :
日本@名無史さん:2010/06/01(火) 23:31:13
>>216 京極忠高が初姫の臨終に相撲見物に行っていたって話もあるけど、
将軍家の娘にそんな態度を取れるものかね?
下手すれば改易されかねない。
>>251 初姫死亡時に忠高相撲見物の話は、どっかの大名の日記に残ってたと思う。
娘を失った秀忠は怒ったらしいが
そもそもこの時代、藩主が妻の看病をするとかいう発想がないので、
改易は無理じゃないか。
秀忠自身、御台所のお江が死んだとき京にいた。
それは家光将軍就任挨拶と中宮和子の二条城行幸のためだから仕方ないとして
それが終わった後も葬儀手配のために息子の家光だけ先に江戸へ帰らせて
自分はその後1カ月以上物見遊山をして江戸に帰らずにいる。
若い藩主が嫁が病気の時に遊んだからって改易は無理じゃないか。
将軍秀忠の娘勝姫を殺そうとした松平忠直はさすがに改易だが、
それでも切腹などさせられていない。
殺人未遂ぐらい起こさないと改易は難しいだろう。
親としてはショックで怒りも感じるだろうけど、別に毒殺したとかの事件性も
なく、あくまで夫婦間の問題だからなぁ。
それもどちらに原因があったかもわからないし、お互いに悪気がなくても
こじれてしまうことだってある。
勝姫(千姫の娘)も最初は夫とぎくしゃく、亀鶴姫(珠姫の娘)も夫婦仲はどう
だか知らないけど亡くなった後にいろいろ揉めたみたいだね。
でも、球姫は前田利常と仲は良かったと言われてるよ?
父である秀忠に「参勤交代中の夫を早く加賀に返して」と
要望の手紙を送ってそれが現存してるし、亡くなったのも、
利常が自分に飽きたと勘違いしての衰弱死らしいし。
球姫の乳母が五女の夏姫を産んで体調を崩した彼女を隔離。
前田家に幕府の情報が漏れるのを恐れたかららしいけど、
事情を知らないまま夫に会えなくなり、飽きられたと思って
体調を崩していたこともあり、衰弱死。
事情を球姫の遺言で知った利常は乳母を蛇攻めにして殺したらしい。
>>254 蛇攻めは伝説(史実ではない)。
珠姫は3歳で結婚、15歳で鶴亀姫を産んで以来、
ほぼ年子で7人の子を産んでいた。
1822年に五女の夏姫を産んだ後、産後の肥立ちが悪く24歳で死亡。
出産が命の危険を伴う時代、産が原因で死ぬ女性もいるよ。
>>255 確かに、多産が原因も十二分に考えれるよね。
産後の肥立ちが悪くて亡くなった、と考えるのが自然だとは思うけど。
希望的観測で、夫婦の仲は良かった、と思いたい。