1 :
神奈川県民改め三重県民 :
2008/01/24(木) 21:51:34 魏志倭人伝に記されてる謎の人物。 その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。 倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。 名付けて卑弥呼という。 鬼道に事え、能く衆を惑わす。 年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。 王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。 ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。 宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。 この謎の女王卑弥呼は誰なのか。そして邪馬台国の位置は? まだ解き明かされてない古代最大のミステリーにいどむ!
2 :
神奈川県民改め三重県民 :2008/01/24(木) 21:58:51
A 邪馬台国は九州にありそのまま消滅した。 B 邪馬台国は九州にあり東遷して大和朝廷になった。 C 邪馬台国は近畿にありそのまま消滅した。 D 邪馬台国は近畿にありそのまま大和朝廷になった。 E 邪馬台国は九州、近畿以外の地域にありそのまま消滅した。 F 邪馬台国は九州、近畿以外の地域に有りそのまま大和朝廷になった。 G 邪馬台国は幻の国で実在しなかった。
3 :
日本@名無史さん :2008/01/24(木) 22:11:27
4 :
神奈川県民改め三重県民 :2008/01/24(木) 22:16:29
太国さん・・・A 九州説で倍暦を唱える。記紀の系図を信じ卑弥呼は祟神天皇の時代。 プラムさん・・・B 魏志倭人伝の解読に力を入れ漢字にはめっぽう強い。実はこの人、 卑弥呼は先代、次代が有り天照大神で東遷説というのは余り知られてない。 サガミハラさん・・・A 邪馬台国は佐賀県小城市甘木で小城公園内桜ケ岡が卑弥呼の墓だという。 邪馬台国関連、本の著者でもある。 唐松山さん・・・B 卑弥呼は景行天皇時代の人物。『ほつまつたゑ』を中心に論争。 九州ですがさん・・・AB 邪馬台国は九州。神社の由来とか、吉野ヶ里遺跡などを調べる。 愛知県民さん・・・B 畿内説⇒九州説。卑弥呼は祟神天皇以前の時代で台与=万幡豊秋津師比売 だという。宇佐の比売大神が気になるらしい。 古代さん・・・A 邪馬台国の時代の大和朝廷は九州〜畿内まで影響を与える。 卑弥呼は大日婁貴とする。 横槍さん・・・D 卑弥呼=天照大神(大日霊女貴命)で女神とする。出雲=投馬? ローガン・・・D 畿内説で箸墓は卑弥呼か 壹輿の墓とする。 美濃もんたさん・・・EF 近代史〜古代史まで興味を持ち、岐阜の山に伝わる伝承を調べる。 邪馬台国は弁韓(百済、任那)の弥鳥邪馬国のこと。 正月○鹿さん・・・不明 記紀で言えば卑弥呼は「天照大神」がイメージ的には合う。 ご参考までさん、汽笛一声さん、天之御名無主さん、日本@名無史さん・・・不明
* * * うそです + n ∧_∧ n + (ヨ(* ´∀`)E) Y Y * このスレは以後、終止符!スレ13として維持されます。 終止符!スレ12は終止符!−とならないことが確定しますたww
6 :
神奈川県民改め三重県民 :2008/01/24(木) 22:35:13
841 :日本@名無史さん:2008/01/19(土) 19:07:08
このスレの住人さんは、女王国=邪馬台国 or 女王国≠邪馬台国
どちらが多勢なのでしょうか??
素直に解釈すれば前者になりますが。
981 :三重県民:2008/01/23(水) 19:20:36
>>841 >このスレの住人さんは、女王国=邪馬台国 or 女王国≠邪馬台国
>どちらが多勢なのでしょうか??
みなさんどうなの?
7 :
神奈川県民改め三重県民 :2008/01/24(木) 22:36:24
えええええ だめなの〜?
___________
> .|
>________ .|
 ̄ .|./_ _\ | |
>>7 そんなにスネるなよ。
| / ヽ/ ヽ | |
. | | ・ | ・ | V⌒i ちょっと辛抱するだけだよw
_ |.\ 人__ノ 6 |
\ ̄ ○ /
. \ 厂
/ _____/
 ̄ ̄, -/へ/\/`- 、
/./ ./o i. \
9 :
神奈川県民改め三重県民 :2008/01/24(木) 22:45:12
今日は踏んだり蹴ったりだしもう寝ようかな。。。。
それと〜
>>6 の内容を別の人の意見ききたいですね。zzzz
10 :
神奈川県民改め三重県民 :2008/01/24(木) 23:04:34
>>5 >>8 >このスレは以後、終止符!スレ13として維持されます。
スレ13と確定しませんのでみなさんカキコ宜しくです!
11 :
ローガン :2008/01/25(金) 14:40:42
>>10 おや、なんかややこしいけど。
あらためさんちはコチラですか?
では、ここに書きます。
12 :
ローガン :2008/01/25(金) 15:18:11
>>6 前スレの宿題…
三小帝紀に「倭国女王俾彌呼遣使奉獻」とあるので、女王国とは倭国で良いのではないでしょうか?
倭人伝に書かれている「女王国」については狭義、広義の混用があると思います。
前後の文でそれぞれを判断すべきと思います。
ただ帝紀にはっきり書かれているので、女王国=倭国でしょうね。
13 :
ご参考まで :2008/01/25(金) 15:27:32
三重県民さんの分類で不明の者です。三重県民さんのなかなかの労作の書き込み 感心致しました。以後、参考にさせていただきます。ところで私は九州説です。 さて最近の私は魏志倭人伝記事の誇張誇大表現説を唱えておりますが、 ご反論の向きも多いので、一度その根拠証拠を、整理して書き込みます。 そもそも、魏書第三巻明帝紀景初二年の詔勅記事に次のとおり記されております。 「最初、明帝は、司馬宣王を公孫淵征討伐に差し遣わすのに、四万の軍勢を進発 させようと提案した。議論にあずかった臣下は、多過ぎて戦費まかない難しと 主張した。明帝は、『【四千里】の彼方に征伐に赴くのだから、たとえ奇策を用いる といえども、やはり軍事力に頼るべきである。』」と言った。 つまり、洛陽から公孫淵の遼東までの里程は【四千里】と明記されているのです。 地図帳を是非とも御覧下さりませ。洛陽から遼東半島の襄平までの里程は【四千里】 と帝紀に記してあるのです。俗にいう「魏晋短里説」は明白な誤りと判ります。 しかるところ、帯方郡-7000里-狗邪韓国-1000里-対馬国-1000里-壱岐国-1000里- 末盧国と倭人伝において陳寿は記しています。地図帳を是非とも見て下さい。 洛陽と遼東の間の4000里と、帯方郡(ソウル付近)と狗邪韓国(半島南岸)の間の7000里 壱岐対馬間り1000里等等、の記事において、その里程記事が明らかに誇張誇大表現で あることは、ここに明白であります。
14 :
ご参考まで :2008/01/25(金) 15:34:58
魏書には、洛陽と遼東間の行程日数さえも、ちゃんときちんと記されています。 無論、水行十日陸行一月よりも、ずっと短く記されております。 サガミハラハラ氏より一度尋ねらましたが、あえてあえて御教示しませんでした。 こういう根拠並びに証拠は、自ら、読みかつ見つけてこそ、意義があるのです。 嘘は申しません。間違いなく書いてありますよ。 よって、この水行十日陸行一月も、明らかな陳寿の誇張誇大表現であることに なる次第なのであります。
15 :
ご参考まで :2008/01/25(金) 15:46:23
プラムさんへ、念の為に書きます。連投で恐縮です。 九州在住の長短が無いとは申しません。 が、対馬から半島は望めます。見えるのです。 むろん、もちろん、陳寿の昔も見えたはずです。 対馬から壱岐も見えますよ。壱岐から九州も見えますよ。 両方1000余里と陳寿は記してはおりますが・・・。 これが、誇大誇張でなくて何なのでしょうか。あえて付け加えますが 帯方郡から狗邪韓国までの7000余里は、魏使からのみ聞き及んだ訳では ないですよね。 韓の諸国も魏に朝貢したと陳寿は書いておりますからして・・・。
16 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/25(金) 16:43:08
>>15 さん
その千餘里が誇張であろうと謙遜であろうと、実際はたいした事ではないのです。
貴方が言われるように、千餘里が誇張だとした場合
誇張ではない、実測距離が存在するはず
実測された距離が存在しなければ、誇張も何もありません。折角誇張し書いた千餘里が、実測してみたら実寸法だったという、笑い話がオチとなりますか(^O^)/
で、誇張と主張する値に対しての実距離は何里なんですか?
当時の史料でお答え下さい。
17 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/25(金) 17:21:59
>>15 さん
当時(魏晋時)誇張拡大とは、実数に対し
どの程度で、誇張拡大と捉えられているのでしょうか?
18 :
改め :2008/01/25(金) 19:16:50
倭=三十國または列島 女王国=邪馬壹國 邪馬壹國=女王之所都 女王国=三十國は違うとしてるんですが、間違ってたらごめんなさい。
19 :
改め :2008/01/25(金) 19:19:15
従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 ここだけを読みと韓国も倭ではないかと思ってしまうんですが。 他の人はどう思いますか?
20 :
改め :2008/01/25(金) 19:24:22
南至邪馬台国、女王之所都。 水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳て。 可七萬餘戸。 南、邪馬台国に至る。 女王の都する所なり。 水行十日、陸行一月。 官に伊支馬(いきま)有り。 次を彌馬升(みましょう)と曰(い)い、 次を彌馬獲支(みまかき)と曰(い)い、 次を奴佳て(ぬかて)と曰(い)う。 七萬餘戸可(ばかり)あり。 邪馬壹國=三十國とする人もいるが、 わたしは上の文からそれは違うとします。
21 :
改め :2008/01/25(金) 19:45:35
>>12 >女王国=倭国でしょうね。
私と考えが異なってるわけだがなぜそう思ったのですか?
自郡至女王國萬二千餘里。
皆統屬女王國。
はどう説明するんですかね。
>>13 >以後、参考にさせていただきます。
ご参考までさんが「参考」て何故か笑えてしまった(笑)
>その里程記事が明らかに誇張誇大表現で
>あることは、ここに明白であります。
わたしは「誇張誇大」とは思いません。
「誇張誇大」ではなく「大ざっぱ」ならわかるが・・・。
22 :
日本@名無史さん :2008/01/25(金) 19:52:09
23 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/25(金) 20:37:16
>>18 >女王国=邪馬壹国
もし、この公式が成立してしまったら
男王が国を治めた時は名無しの権兵衛さんですか?
倭人伝に登場する女王国とは、魏時に女王の影響が直接及んだ範囲であり、一時的な代名詞です。
邪馬壹(臺)国とは、大陸側の時代変化とは無関係に推移した
後漢時〜魏時に跨がり、王朝との国交を続けた三十国の総称です。
ごちゃまぜにしてはいけません。
倭に関しても
対象となるものが変化すればその意味合いも変化し、確立固定された名詞ではありません。
24 :
ローガン :2008/01/25(金) 20:50:08
>>21 統屬ですから、支配や服属といった上下関係ではなく、広域倭国の一構成国という感じかなと思います。
黄忠伝に「統屬」の例があります。
25 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/25(金) 21:11:29
>>21 >女王国=倭国
倭国が正式に史書に登場するのは宋書から
それ以前の倭国名称は、外交上使われた便宜的な名称です。
だから
女王国=倭国という縛りはありません
26 :
改め :2008/01/25(金) 21:20:41
プさんに突っ込まれてしまったが(笑) 「女王国」 これが邪馬壹国を指すのか三十國なのか実は難しい。 女王国=邪馬壹国及び三十國という考えもあるが、 女王国=邪馬壹国というのがよく耳にするところではないでしょうか。 >男王が国を治めた時は名無しの権兵衛さんですか? というのはよく分からないが・・・ >倭人伝に登場する女王国とは、魏時に女王の影響が直接及んだ範囲であり、一時的な代名詞です。 >邪馬壹(臺)国とは、大陸側の時代変化とは無関係に推移した >後漢時〜魏時に跨がり、王朝との国交を続けた三十国の総称です。 なるほど。なかなか素晴しい答えが返って来ましたが、 自郡至女王國萬二千餘里。 プさんの考えだと〜女王の影響を受けた 『對馬國』まで萬二千餘里と考えなのでしょうか? お答え願いたい。
27 :
改め :2008/01/25(金) 21:34:34
>>24 私の質問の仕方が悪かったのかな・・・「統屬」の意味解釈を聞いたのではないです。
女王国の範囲とか〜の意味です。
では>26のプさんに質問した
「『對馬國』まで萬二千餘里と考えなのでしょうか?
お答え願いたい。 」
これをあなたにも質問しましょう。
28 :
改め :2008/01/25(金) 21:45:17
>>25 はわたしへの返答ですか?
わたしは 倭=三十國または列島としてます。(参考:>18)
>倭国が正式に史書に登場するのは宋書から
>それ以前の倭国名称は、外交上使われた便宜的な名称です。
確かに「三國志卷三十 魏書三十 東夷傳」には『倭国』という文字はみえませんね。
わたしは「倭人」、「倭女王」とかの『倭』を指したんですよ。
『女王国=倭国』とかは言ってない。
では質問しましょう。
上記の倭とはあなたはどう考えてるのですか?
29 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/25(金) 21:46:58
>>26 改めさん
この『自郡至女王國萬二千餘里』は
ここは『自と至』が読めなければ永久に間違った解釈になります。
(郡庁を基とし、女王の支配域は萬二千餘里に納まる)
です。
>>23 「南至邪馬壹國女王之所都」
とあるんだから、三十国の総称ではないよ。
三十国の総称なら、女王の都する所のはるか手前で、邪馬壹國に至っていなければならない。
「自女王國以北其戸数道里可得略載」
とある。戸数道里が記録されているのは、對馬國〜邪馬壹國まで。
もし、「女王国=邪馬壹国及び三十國」なら「自女王國以北」とは書けない。
なぜなら、女王國より北には、戸数道里を記録すべき国が無くなってしまうから。
だから、邪馬壹國=女王國であって、三十国の他の国は女王國ではない。
それよりも、「統屬女王國」というのが、本当に「女王國に服従していた」という意味なのか、ちょっと疑問に思っている。
「統屬女王國」と書くと、「女王國を所管する」という意味になる方が普通だと思うんだが、
伝統的には「女王國に服従していた」という意味に解釈されている。
気分的に、何か引っかかってる。
31 :
改め :2008/01/25(金) 22:06:36
>ここは『自と至』が読めなければ永久に間違った解釈になります。 自分とかの「自」、至るとかの「至」ですが、特別な読み方があると 言いたいのですか? >(郡庁を基とし、女王の支配域は萬二千餘里に納まる) 上記、あなたのレスをみて 「萬二千餘里までが女王の支配域」といいたいのか考えてしまったんだが、 そう解釈してもよいんですかね?
32 :
横槍 :2008/01/25(金) 22:11:44
中国語には受動態が無くて、能動態で書くのが普通と聞いたけど、 文法的には、目的語の前に動詞が来るから 「女王国を統属する」じゃないかな 間違っていたらゴメン
33 :
改め :2008/01/25(金) 22:21:12
プラムさん 邪馬壹國(三十連合国家)てどうゆう意味なのでしょうか? わたしには理解出来ないのですが、 笑わないのでこの際、ご説明お願いできますか。(笑)
>>29 改めさん
>『女王国=倭国』とかは言ってない。
そうでしたか、これは失礼しました。
>上記の倭とはあなたはどう考えてるのですか?
はい、倭=列島 と言うのはいいんですが、これも時と場合によりけりです。
地理記事に記載されている「倭」は当然列島と解釈してもOKですが、外交記事の場合に登場する(倭女王)などに使われる「倭」の場合は、
若干ニュアンスを変える必要があるかと考えます。
「倭女王」の場合=倭の地の女王 です。
外交は当然 国対国 の付き合いで、女王など個人対国の付き合いは成立しませんから
女王が倭の代表であり、その時統治者であっても魏朝にすれば新参者であり、正式には未だ国交相手ではないため「倭國女王」と書けない事情が
景初二年六月時点です。
つまり
正式な国交相手国に対しては、外交上「倭」ではなく「倭國」です。
でも、形式上は「倭国」と書いても、宋書までの史書は決して倭国伝と言うものは書かなかったということです。
これは余談ですが
卑弥呼は「親魏倭王」の称号を受けたが、「親魏倭国王」ではなかったという事が、外交記事を読む上で面白い所でもあるんですがね
35 :
改め :2008/01/25(金) 22:29:44
>>32 の横槍さんは
>「女王国を統属する」じゃないかな
>間違っていたらゴメン
「皆統屬女王國。」の意味解釈 ?
36 :
横槍 :2008/01/25(金) 22:33:49
コピペ 単純な構成 この点で、英語は中国に次いで簡略化が進んだ言語だといえましょうが、 たとえば今の「格」の話だけでなく、冠詞をつけるようなことを考えればやはり中国語とは全く異質な言語体系に属すると言えます。 だいいち受動態もなく、時制もありません。 受動態の代わりをするのは主述関係を示す漢字の前に、「被」などの特定の語を置くだけです。 未来や過去もないわけで、 それらは文脈で分かるはずであり、 ただ一つ動詞や文の最後につける「了」だけが物事の完了を示すことができます。
37 :
30 :2008/01/25(金) 22:37:14
すみません。さっきの「統屬」の件ですが、 ローガンさんの黄忠傳の指摘もあり、もう一度三国志の他の用例を見てみました。 李嚴傳の「皆統屬嚴」というのがあって、これは文脈から考えて、 どうあっても「皆が嚴を統屬する」ではなくて「皆 嚴の指揮下に入った」のようです。 「統屬某」が「某を所管する」という意味になるのは間違いないのですが、 「某に所属する」というような、逆の用法もあるようです。 何となく、まだ釈然としないのですが、お騒がせしました。
38 :
横槍 :2008/01/25(金) 22:41:13
>>33 改めさん
>邪馬壹國(三十連合国家)てどうゆう意味なのでしょうか?
この三十と言う数字は帝国発表の数字だから、本当に三十だったかは今に至ってはどうすることも出来ないので
三十と言う数値をあえて使います。
邪馬台国は三十国を総称する帝国側の総称であり、実際に列島に存在していた国ではありません。
現代に例えると、関東地方というようなもの
だからいくら国内の古文書を探しても、邪馬台国なるものは登場しないのです。
帝国と国交していた地域には、三十人の男王たちが共同(合議制)でリーダーを作り地域を運営しいた地域の総称が、帝国側で邪馬台国と言う名前になったのです。
だから
国が乱れていても、もともと合議制の基盤があったからこそ女王共立という離れ業もこなせるのです。
余談ですが
この邪馬台国の国内名は『ヒ』 その名残は(日成国)として紀に残り
現在でも『肥前、肥後』としてその一部が残っています。
40 :
改め :2008/01/25(金) 22:48:20
>>30 さん
もう一度ジックリ原文読んでよ。大事な『東行』を無視しちゃ話が変になるよ
42 :
河内王朝 :2008/01/25(金) 22:53:00
コピペですがよろしく 2本立っているのでどちらかにしないと・・ 邪馬台国初心者です。推理小説のようで、毎日、楽しんでいます。 在住的には畿内説としたいのですが、やはり相対的には九州とりわけ中部筑紫 平野にあったのではないかと考えています。 狗奴(クナ)国も熊襲国と推測できれば、「狗古智卑狗」は菊池彦とも音読み ができ、熊本にある「キクチ」との関連でも妥当だと思います。 多くの九州説の方も同様に言われています。また、邪馬台国が九州の西南西 に位置したことから、便宜上も、大陸の玄関口の伊都国に一大率を置き、 連合国の統率を図ったとすれば理解できます。 卑弥呼は狗奴国との争いに敗れ、死去し台与がその後、継承して日向国で 力を付けてから、北上し宇佐から吉備を経由し畿内にいつの時代かに東遷 したとも考えられます。(東遷説ではありません。) しかし、この場合でも、やはり引っかかるのは、道程が郡からの連続式から 急に伊都国から「放射式」としなければならないことです。 魏志倭人伝は、三国史の魏書、烏丸鮮卑東夷伝倭人条の一部であって、他の 列伝と考えを異にすることはできません。 よって、同じく道程において「連続式」から「放射式」になっている事例が あれば、自分の気持ちも安定します。 三国史魏書のなかで他国の道程で類似のケースについて、ご存知の方は、 お教えいただけませんでしょうか。
43 :
ローガン :2008/01/25(金) 23:02:04
>>31 改めさん
>自分とかの「自」、至るとかの「至」ですが、特別な読み方があると
言いたいのですか?
ゴメン。今日はあまり漢字の説明したくないんだ
別に特別な読み方ではないことは確か
それよりも、『自』と書かれたらどうして直ぐ(〜より)と反応しちゃうか
こっちが逆に聞きたいくらいなんだ
あっ
それに、『自分』の(自)と 一文字単独の『自』はチョットちがう
『自分』の(自)には意味があるけど
単独『自』には意味がないんだよ
45 :
横槍 :2008/01/25(金) 23:07:21
>>40 dクス
統属は受動詞ですね。
正解は『皆、女王国に統属(従属)する』に決定ですね。
46 :
30 :2008/01/25(金) 23:09:53
47 :
改め :2008/01/25(金) 23:11:05
>>39 私の投げかけた、
>>邪馬壹國(三十連合国家)てどうゆう意味なのでしょうか?
に対し、
>この三十と言う数字は〜〜(以下略)
さすがプラムさん!論争慣れしてるだけあって返答の仕方もシッカリして最もだ!と
絶賛したいところですが、実はまるっきり空振り状態なのです。
南至邪馬壹國
この『南』という一文字が入ってるだけで全然その考えは成り立たないのですよ。
いいですか!方角の『南』とはその前に基準があり、その基準は倭の地域内!
(以下、よく論争で使われてる言葉なので省略していい?)
最終的に『對馬國』は倭の地域内ではないんですか?と言いたいわけですよ。
まだ邪馬壹國(三十連合国家)など偽りの言葉をのべるつもりですか?プラムさん
>>46 さん
>プラムさん
「以北」は真北じゃないよ。
私、真北なんて言いましたか?
この『以北』は、経緯度的に北ですよ しかも女王國ではなく女王の都を基とし『以北』
>>47 改めさん
貴方ももう一度原文読み直してください。
絶対に忘れてはならない『東行』の文字を省いて説明されても無意味ですから
話はそれからです。
50 :
改め :2008/01/25(金) 23:26:19
>>42 河内王朝さん
はじめまして!宜しくです。
>卑弥呼は狗奴国との争いに敗れ、死去し台与がその後、継承して日向国で
>力を付けてから、北上し宇佐から吉備を経由し畿内にいつの時代かに東遷
>したとも考えられます。(東遷説ではありません。)
台与が日向国→畿内へ東遷
その台与と大和朝廷との関わりはどのように考えてるのでしょうか?
51 :
30 :2008/01/25(金) 23:28:20
>>49 じゃあ、「東行」を入れて貴方の説を説明してよ。
52 :
日本@名無史さん :2008/01/25(金) 23:29:12
倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。 從郡至倭,循海岸水行,歴韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里, 始度一海,千餘里至對馬國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。 所居絶島,方可四百餘里,土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。 有千餘戸,無良田,食海物自活,乖船南北巿糴。 又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。 方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴。 又渡一海,千餘里至末盧國,有四千餘戸,濱山海居,草木茂盛,行不見前人。 好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之。東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支, 副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。 東南至奴國百里,官曰兕馬觚,副曰卑奴母離,有二萬餘戸。 東行至不彌國百里,官曰多模,副曰卑奴母離,有千餘家。 南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戸。 南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。 官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,可七萬餘戸。 自女王國以北,其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶,不可得詳。 次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國, 次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國, 次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國, 次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,次有烏奴國, 次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗, 不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。
>>47 改めさん
>最終的に『對馬國』は倭の地域内ではないんですか?と言いたいわけですよ。
ちゃんと原文に倭の限界地と書いてありますよ
あっ 韓伝からも探れます。
『度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乘船南北市糴』
『其toku[偏水旁賣]廬國與倭接界』
對馬國も倭地ですよ
54 :
日本@名無史さん :2008/01/25(金) 23:32:58
51 名前:30 :2008/01/25(金) 23:28:20
>>49 >じゃあ、「東行」を入れて貴方の説を説明してよ。
プラムさんに説明してよお願いするわけだからちゃんと貴方の考えも先にのべるか、
礼儀としてあとで説明するしてくださいね!30さん
55 :
ローガン :2008/01/25(金) 23:35:29
やっぱり改めさんやね!向こうと全然違いますね。 上手く誘導してくれますね。読みやすいので助かります。感謝!
>>51 >>54 さん 説明してもいいですけど長くなりますから
もしかしたら幾つかのレスに分けてとうこうします。
『東行』とは
『東行』は不彌國だけに掛かるのではなく
奴國を発点に『東行』(至不彌國)
奴國を発点に『東行』(南至投馬國水行二十日)
『東行』(女王之所都水行十日陸行一月)
『東行』(自女王國以北)次有斯馬國→→烏奴國→→着点(発点)奴國(一連の東行は発点に戻り、完了)
水行三十日陸行一月(六十日)+1500餘里
これが南部狗奴(南至邪馬壹國/つまり狗奴國も邪馬壹の一部)を含む九州島の規模です。
奴国→→→→→→不彌国→→→→→→奴国
「東行」は必ず目的地からまた発点に戻り成立する言葉
(会社に行く)(学校に行く)(東に行く)
奴国から東に視線を向けると不彌国(ここには移動手段も距離すらも記載がない)つまり 目線の移動だけ、だから「東行至不彌國」なの
で、次は「南至投馬國水行二十日」
ここには不彌国と違い(移動手段も距離)も記載がある
しかも先ほどの「東行」の記載が実行されず保留のまま、当然(移動手段と距離)の記載がある「南至投馬國水行二十日」で「東行」は実行されなければならない・・・・・「(東行)(南至投馬國水行二十日)」発点は当然『奴國』となるわけ
そして水行二十日とあるから、ここで奴国には港が存在できうる地域であることも同時に確定するわけ
⇒奴国から南へ進むじゃなく(東行きは、奴国から南に位置する投馬は水行二十日の位置へ)と意訳します。このことから、絶対に奴国から南に進むことだけはないという事も『南至投馬国』で確定します。(現代の地図を見ずとも、文章だけでこれだけのことが解るいい例ですね)
ここまで
理解できましたか?
57 :
改め :2008/01/25(金) 23:50:47
>>49 >貴方ももう一度原文読み直してください。
>絶対に忘れてはならない『東行』の文字を省いて説明されても無意味ですから
>話はそれからです。
東行至不彌國百里
これですか?プラムさん
この「東行」ですが
循海岸水行、始度一海、又渡一海、東南陸行、東行至不彌國百里
ここまで「行く」ということですよ。
この「動詞」を省いて説明なんてしてませんし重要な部分です。
>>51 >>54 さん 『東行』
では続き
奴国から(東行きを目的に)水行二十日にて、奴国の南に位置する投馬国に
次は『南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月』
(投馬国の南に邪馬壹の範囲)
(女王の都は投馬国から水行十日陸行一月)
『南至邪馬壹國』は不彌国の時と同様(移動手段、距離)がありませんから当然、視線だけの移動となります。
『女王之所都水行十日陸行一月』は『南至邪馬壹國』とは違い(移動手段、距離)が記載されているので、未完である『東行』が有効になり、この文は『(東行)(女王之所都水行十日陸行一月)』と言う文章になる。
⇒投馬を起点に(東行き)女王の都は水行十日陸行一月
投馬国から女王の都への進路方向が文中に記載されていないのは『東行き』という当初からの設定があるからで、奴国から南の投馬に移動した(東行)は、投馬から女王の都へ移動する水行十日陸行一月の間に進路が投馬国より東側に移動することが確定するからです。
つまり
女王の都は
奴国----投馬国と引いた南北ラインよりも東側に位置することが、この文中にて確認されるわけです。
女王の都は(奴国の東側)(投馬国の東側)と言うことで、『東行』の東が女王の都を意味していることがわかります。
ここまで理解できたでしょうか?
59 :
改め :2008/01/26(土) 00:00:25
>>56 >『東行』は不彌國だけに掛かるのではなく
どこに全てにかかると書いてるのでしょうか?また得意な妄想ですか?
>奴國を発点に『東行』(至不彌國)
>奴國を発点に『東行』(南至投馬國水行二十日)
東南至奴國百里
奴國への動詞がありません。
この点はどう説明するのですか。
(わたしは奴國へは「行かない」とする考えです)
以上のことから「奴國を発点」というのは成り立たない。
今日は疲れたので このへんでおひらきにします。 それほど難解ではないので、できればここまでは理解してください。 おやすみなさい zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
61 :
改め :2008/01/26(土) 00:05:24
>奴国→→→→→→不彌国→→→→→→奴国 「行って帰ってくる」という表現らしいがどこに「戻る」とか書いてるんですか? というかこの板みてる人達へ「笑い」を誘ってるんですかね? 漫画ですか?プラムさん
>>59 改めさん
>奴國への動詞がありません。
この点はどう説明するのですか。
だからすばらしいんじゃないですか
郡使定期往来は伊都国までと記載してあるし、私が以前から言ってるように
この記事はそもそも文章にての地図
前文の流れを断ち切り、文の流れを本来の目的に戻すには最高の内容ですよ
63 :
30 :2008/01/26(土) 00:12:06
>>54 既に
>>30 に書いてあります。読んでないなら、読んでみて下さい。
プラムさんは、いつも他人の説を否定するときに、
自分の説明を出し惜しみする癖があるので、要求したのです。
>>60 では、明日時間があったらまた。
64 :
改め :2008/01/26(土) 00:12:12
同じく疲れたので一旦休憩する。 まあ、プさん〜あっち行ったりこっちで忙しいのに付き合ってくれたので 「お疲れ!」て言いたい! では zzz
>>61 >>奴国→→→→→→不彌国→→→→→→奴国
「行って帰ってくる」という表現らしいがどこに「戻る」とか書いてるんですか?
というかこの板みてる人達へ「笑い」を誘ってるんですかね?
漫画ですか?プラムさん
漫画ですよ
いままでの書き込みは(夢のまた夢)
では、メリークリスマス
>>63 >自分の説明を出し惜しみする癖があるので、要求したのです。
出し惜しみしているわけじゃありません。
自分で見つける楽しみを味わってもらいたいために、いつもキッカケだけの書き込みにしているのです
67 :
30 :2008/01/26(土) 00:48:55
>>66 そのお気遣いは痛み入りますが、その気遣いが意味を持つのは、貴方の説が絶対的に正しく、
私たちが、その教えを授けていただく立場という場合に限られます。
例えば、貴方が漢文学のお師匠様で、私たちが弟子で、貴方が知っている絶対に正しい解答をお教えいただくというのなら、
貴方のご配慮は、まさになされるべきものでしょう。しかし、私たちは、貴方の弟子ではありません。
師匠が弟子に接するようなお気遣いは、全く必要ありません。
貴方の説が間違っていれば、私たちが正しく考えれば考えるほど、貴方の説から遠のいていきます。
そもそも、貴方の説が正しいとは思っていませんので、自説を曲げてまで、
貴方の書いたキッカケによって、貴方の想定している正解にたどり着こうと努力する理由がありません。
ですから、キッカケだけを書くという貴方のご配慮は、まったく無駄です。
今後、貴方が、自説を理解して欲しいか、他人の説の間違いを証明したいのなら、
遠慮せずに、根拠を挙げて論理的に説明してください。
そうしなければ、噛み合いません。
68 :
ローガン :2008/01/26(土) 00:50:03
プラムさんに、アンコウ鍋の事ききたかったけど、(去年のケンチン汁に続いて…)。 ききそびれた。 俺も寝よ。zzzz…
ぷ氏は基本的には携帯ユーザなので (インタネット喫茶の)PCの前にいなければ 長文のレスは書けないのだ思う。
70 :
愛知県民 :2008/01/26(土) 12:37:56
おや? スレが二つ立ってますが? こちらに書き込みます。 卑弥呼は魏志だけでなく、後漢書や三国史記にも出て来ます。 鮮卑の英雄・檀石槐が、霊帝光和年間に東の倭人国を撃った(後漢書鮮卑伝) 高句麗の大祖大王(宮)の弟・後の次大王(遂成)が倭山で田猟した(三国史記・高句麗本紀) この倭人国・倭山とは何でしょうか。 鮮卑族は鮮卑山に発祥したと言われますが?
71 :
古代 :2008/01/26(土) 13:10:52
倭山は満州あたりの山で、鮮卑族はモンゴル人の祖であるとされるので鮮卑山もこのあたりかな。 ここでいう倭人とは背が低い小柄な民族という意味で後の時代の倭人とは区別するべきではないかと思う。 しかし、後漢書地理誌に奴国が倭国の極南海と紹介されているので南朝鮮から北九州あたりまでを倭国と呼んでいた可能性がある。
72 :
唐松山 :2008/01/26(土) 13:30:03
2世紀後半 倭人は、半島でも稲作を始めた、196年の凶作時には、大挙して渡海。 半島に 倭人が稲作を持ち込むまで、米は作られなかった。 田猟=秋刈り入れ時 攻めて 収穫を奪う。 水田稲作の豊凶の分岐点は、平均気温が20℃ 上回れば 収穫あり。 半島の稲作は、陸稲か水田か 解りません。 田=畑です
73 :
愛知県民 :2008/01/26(土) 13:32:39
ここまでのレスでも「倭」が話題になっていますが、
中国(支那)から見れば「倭人」=「倭奴」であり、
倭人の自称は「山人(やまと)」=「倭面土」=「邪馬臺」ではないかと。
>>71 「倭国之極南界也 光武賜以印綬」については前スレでも書きましたが、
「倭国の極南界なり」ではなく、「倭国の南界を極むるや」と読むべきでは?
倭国が南界を極めたから金印を与えたと。
後漢書の裸国・黒歯国は明らかに魏志からの引用なので想像しかできませんが、
たとえば喜界が島まで到達して、南の産物を献上したのかもしれません。
74 :
古代 :2008/01/26(土) 13:42:40
南朝鮮から北九州あたりを倭国と呼んでいた線は結構あると思ってます。 後漢の「説分」に「倭は順なる貌をあらはす」とあるので大人しく朝貢してきた地域を倭国と呼んでいたと思います。
>>73 >「倭国之極南界也 光武賜以印綬」については前スレでも書きましたが、
>「倭国の極南界なり」ではなく、「倭国の南界を極むるや」と読むべきでは?
それなら「極倭国之南界」じゃないとおかしいよ。
76 :
愛知県民 :2008/01/26(土) 14:06:28
77 :
愛知県民 :2008/01/26(土) 14:14:10
>>75 いや、倭国の南界ではなく、倭国が世界の南の果てを極めたという意味ですが?
『晋書』の「宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帶方朝見」と同じで。
78 :
愛知県民 :2008/01/26(土) 14:30:49
宣帝(司馬懿)が公孫氏を平定したとき・・・の意味でしょう?
79 :
75 :2008/01/26(土) 14:39:06
>>77 >倭国が世界の南の果てを極めたという意味ですが?
ああ、そうでしたか。
これは、とんだ早とちりで失礼をしました。
でも、「其地大較在會稽東冶之東」にあるくらいじゃ
「世界の南」を極めたとは認められないと思いますよ。
当時の倭國を言うなら「東」か「東南」の「極」ですかね。
80 :
愛知県民 :2008/01/26(土) 14:52:45
>>79 「大較」は大雑把に比べてという意味ではないですか?
裸国などが東南へ船行一年といえば、それは南界と言ってもよいのでは?
エクアドルの縄文土器の例もあるし、これは極端ですが。
81 :
75 :2008/01/26(土) 20:30:17
>>80 大較と言ったって「會稽東冶」と言うピンポイントと比較してるわけだし、
會稽と言うのは今の浙江省の辺りだろう。
当時だって、もっと南方の国々は知られていたわけだから、
南に限って言えば界を極めたとはいえないね。
82 :
30 :2008/01/27(日) 01:37:43
>>56 過疎ってるので、投下します。プラムさんへ
1、>「東行」は必ず目的地からまた発点に戻り成立する言葉
東行は、東に着いたら終わりです。出発点に戻りません。
「会社に行く」には、往路の意味しか含まれていません。
「行く」と「帰る」が対になっているとしても、対は両方揃って初めて対です。
「行く」だけで「往復」の意味は表しません。
「会社に行く」は、会社に着いたら、それ以上どこにも行けません。復路は「家に帰る」です。
「会社に行く」と言って、家に戻ってきたら、働けとヨメに殴られます。
「会社に行く」ことと「家に帰る」ことは、対ではあっても別の事柄で、
「会社に行く」だけで両方は意味しません。
博多発東京行き新幹線は、東京までしか行きません。東京からは、博多行きになります。
環状線新宿駅を北行きに出発して、環状線の反対側、
東京駅を南向きに走りながら、俺の進路は北行きだなどとは言いません。
「東行」と言えば、必ず出発点に戻るというのは、
「行ったら帰るはずだ」という貴方の思い込みと、最初の奴國と後の奴國を同じにして、
その間を輪にしたいというご都合主義にすぎません。
そうでないというなら、論理的に証明してください。
2、略載が問題になったときに、「次有斯馬國」以下が女王國の北に無い事は証明済みです。
だから、「自女王國以北」で「次有斯馬國→→烏奴國→→着点(発点)奴國」とはならず、
たとえ「東行」が出発点に戻って成立すると証明できたとしても、
略載の問題の反証に成功しないと「一連の東行は発点に戻り、完了」しませんよ。
3、「東行至不彌國百里」を >ここには移動手段も距離すらも記載がない と考えるのも、貴方の思い込み。末盧國で上陸している。末盧國から伊都國まで陸行している。 次に水行するまで、当然陸行している。解りきったことを、わざわざ書きません。 貴方の好きな、文字数最小にして情報最大です。 その一番自然な読みをしないというのなら、それ相応の合理的な必然性が必要です。 百里を道里ではない、不彌國の行政単位の大きさだと主張するなら、それも証明が必要。 ごく自然に読めば、對馬國〜邪馬壹國まで戸数道里を略載しているのだから、 百里は道里にあたると考える。その自然な読みを敢えてしないのなら、これも合理的な必然性が必要。 その証明をせずに、ただ移動手段も距離すらも記載がないというだけでは、説得力皆無。 以上から、目線の移動だけだから「東行」が全部に掛かるというのは証明されていません。 だから、「南至投馬國水行二十日」の出発点が奴國であることも証明されていません。 >(東行きは、奴国から南に位置する投馬は水行二十日の位置へ)と意訳します。 「東行きは」と「投馬は」で、主語が二つ。 無理な解釈を重ねているから、日本語になっていないでしょう。 しかも動詞が無い。「南至投馬國水行二十日」は、一文として完結しているのに、 日本語訳の方は尻切れトンボになっています。これでは意訳とも言えません。
84 :
30 :2008/01/27(日) 01:38:51
>このことから、絶対に奴国から南に進むことだけはないという事も『南至投馬国』で確定します。 論理的な証拠が何も無い断言のみを重ねて、 変な日本語に訳しても、なにも確定されません。 貴方のすべき事は、以下の四つです。 1、略載の問題を解決すること。略載された戸数道里とは、どれのことなのですか。 2、「東行」が必ず目的地からまた発点に戻り成立する言葉であることを証明すること。 3、東行至不彌國が陸行ではなく、百里が道里ではないことを証明すること。 これらの論理的証明なしに、従来説は間違っていると断言するのも、 この先の説明をするのも無意味です。 4、意訳するにしても、日本人が読んでわかる日本語にしてください。 古代の言語のことですから、1〜3について完全な論理的証明は無理かもしれません。 それでも、結果の訳に無理がなく、従来説よりも整合性が高ければ良いのですが、 通じない日本語になっているので、まったく説得力がありません。 この先の議論は無意味なのですが、あえてもう一つ挙げれば、 貴方の主張は、「邪馬壹國=王朝との国交を続けた三十国の総称」のはずでしょう。 (投馬國の南に邪馬壹の範囲)だと、投馬國は邪馬壹の範囲外になりますよ。 投馬國は、邪馬壹國に含まれていないのですか。 おわり
85 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 01:49:44
42 :河内王朝:2008/01/25(金) 22:53:00
>魏志倭人伝は、三国史の魏書、烏丸鮮卑東夷伝倭人条の一部であって、他の
>列伝と考えを異にすることはできません。
>よって、同じく道程において「連続式」から「放射式」になっている事例が
>あれば、自分の気持ちも安定します。
>三国史魏書のなかで他国の道程で類似のケースについて、ご存知の方は、
>お教えいただけませんでしょうか。
河内王朝が倭人伝と類似のケースをお探しのようです。(参考:
>>42 )
誰か何か参考アドバイスできる方教えてやってください。
86 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 10:37:20
>>82 さんの投稿に対する回答
>「会社に行く」には、往路の意味しか含まれていません
「行く」と「帰る」が対になっているとしても、対は両方揃って初めて対です。
「行く」だけで「往復」の意味は表しません。
一見すると正論のように見えますが、「行く」と表現される時の視点地と、「帰る」と表現される
視点地は異なりますので
私の意見との比較は出来ません。
「行く」の視点地は出発地からの表現ですが、「帰る」と表現する視点は「行く」とする目的地から表現される言葉です。
「帰る」という表現を「行く」と同じ出発地からの表現にする場合
「行く」⇒「帰る」ではなく 『行き』⇒『帰る』です。
よって、以降の貴方の意見は最初から矛盾点をはらんだものですので、修正を願います。
87 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 10:55:28
>>85 さん
つまり、
『行く』という表現には目的地に到達するという意味は含まれていないという事です。
『行く』という言葉は、出発地とする地点からの表現であり
『帰る』という目的地到達以降に発生する言葉ととの組み合わせは、表現点の移動を伴わない『行く』とは分けて考えるべき言葉と言うことです。
だから『往復』という熟語も(行く帰る)ではなく (行き帰り)でしょう。
違いますか?
私の日本語が変なのではなく、貴方の誤認識が生んだ矛盾だったのです。
88 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 11:23:36
>>71 >倭山は満州あたりの山
くわしいですね。何て名の山か分かりますか?
89 :
ローガン :2008/01/27(日) 11:30:33
>>85 なかったと思いますよ。私が知らないだけかもしれませんが。
直接の回答ではありませんが、梁書(639)北史(659)が引用している魏志倭人伝の記述、太平御覧に書かれた魏志倭人伝は、刊本以前の魏志倭人伝を写しています。
これらの書は邪馬台国迄の行程を「又〜又〜」で繋いでおり、直前に書かれた国からの行程です。
前述の書が、テキストとした魏志倭人伝が、刊本以前であり、オリジナルに近い姿をしていたと考えれば、放射説は考えられないですね。
付け加えると、「水行10日」又は「陸行一月」という読み方の前例はありません。
日本語がおかしいのはウラル・アルタイ語系のツングース族の子孫であるあかし。 何千年たっても、日本語にはなじめないんですよ。たぶん。
91 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 11:43:11
ハテ・・・?! 昨夜、向こうは荒れてたみたいですね。 まあ、気にせずレスしましょw とばっちりを受けますwww 九州甘木市にある「卑弥呼の里あまぎ」 卑弥呼の温泉とかある施設なんだがパンフレットには 古代史に夢とロマンをはせるとき そこに邪馬台国があった。 王朝文明に確かな記録を遺し、そして消えた邪馬台国。 君臨する女王、卑弥呼。 歴史を辿る旅は、いつしか甘木に近づき、 不思議な引力の中で旅を終える。 とあります。 現地の人はそこに邪馬台国があったと確信してるのでしょうかね。
92 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 11:55:17
そんなことわかるわけないだろう。 卑弥呼なんてインチキ祈祷師。 もう、最初から、細木数子と同じ世界ですから。 ネタとして受けて、客が来ればいいだけの話。
93 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 12:00:12
甘木・朝倉といえば安本美典氏(産能大学教授)。 氏の説を要約すると古事記以来の記紀を事実として仮定し、天皇の平均在位年数、 天皇の継承方法、政祭の形態などを整理していく中で系図(天皇家)の延長線上にある 天照大御神と卑弥呼がほぼ同年代に位置し、この二人がともに女王的な存在であり 宗教的な権威をもちい夫がなかったこと、そして天孫降臨の地が高天原で北九州と推理 され天照大御神=卑弥呼という結論を導き出したそうです。
94 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 12:01:48
わたし個人は安本美典氏(産能大学教授)説を信用してないので 誤解のないように〜笑
95 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 12:12:17
安本美典氏は甘木・朝倉地方と大和地方の地名の一致に着目してるようです。 甘木・朝倉地方には大和朝廷郷のまわりの地名とを見比べてみると、 21の地名のうち17までは発音がほぼ一致してるそうです。 地名の配置もほぼ同じ。 大昔、民族が移動する場合には、その地名を持って移動したとされたそうです。 甘木・朝倉地方には、邪馬台国時代の遺跡が数多く点在していることなどから、 邪馬台国は甘木・桜井地方に存在し、それが東遷し、大和朝廷の母体となったと 安本美典氏は考えてるぽいです。
96 :
横槍 :2008/01/27(日) 12:20:14
邪馬台国北九州説だと倭国連邦が凄く小さいんだよね。 東夷の小国の一つぐらいにしかならない
97 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 12:22:05
>>73 >倭人の自称は「山人(やまと)」=「倭面土」=「邪馬臺」ではないかと。
多くの人たちがその考えを支持してるらしいですね。
>>42 >>85 自分も何年か邪馬台国を調べてきましたが聞いたことないですね。
もし類似のケースがあればすでに耳にはいってるだろうし
もっと簡単に謎が解けてると思います。
98 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 12:23:45
わたし個人は安本美典氏(産能大学教授)説を信用してないので 誤解のないように〜笑
99 :
30 :2008/01/27(日) 12:34:41
>>86 「行き」の対は「帰り」です。『行き』⇒『帰る』ではないですよ。貴方も
>だから『往復』という熟語も(行く帰る)ではなく (行き帰り)でしょう。
と(行き帰り)を使っているでしょう。
ついでに言うと、「往復」を名詞ととらえると「行き帰り」ですが、
「往復する」となると「行く帰る」です。漢文は、「する」がなくても動詞になりますよ。
それから、あなたの日本語が変なのは、「東行」の解釈の問題ではなく、
>(東行きは、奴国から南に位置する投馬は水行二十日の位置へ)
で、「主語が二つあること。述語が無いこと」です。
日本語は、主語(主部)と述語(述部)から成り立っています。貴方の意訳を分解すると、
「東行きは」(主語)、
「奴国から南に位置する」(投馬にかかる修飾部)
「投馬は」(主語)
「水行二十日の位置へ」(述語にかかるであろう修飾部)
主語が二つあって、述語が無いでしょう。これでは、読む人は理解できません。
貴方の意訳を読むと、述語が無いので、「東行きはどうしたの?」「投馬はどうしたの?」
と、疑問しかおこりません。貴方も、普通の文章は、
>「私の意見との」(修飾部)「比較は」(主語)「出来ません。」(述語)
と、ちゃんと主語・述語がそろった文を書いているでしょう。
今、ちょっと忙しいので、後でまた詳しくレスします。それまで、良く考えておいてください。
100 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 12:46:21
また、「卑弥呼の里あまぎ」のパンフレットから引用するんですが、 甘木・朝倉地方にある大己貴神社。 大己貴神社は大神(おおみわ)神社ともいい、 御神体は大神山(おおみわざん・三輪山)。 奈良県にある大神神社(三輪神社)と相似点を考えるとき、その背景、 名称などから、大己貴神社から遷座したものが奈良・大神神社ではないかと 推定されてるらしい。
だいたい卑弥呼なんて名称からして「卑しい巫女」、 東夷の小国の女占師を蔑視した呼び名でしかない。 卑弥呼が正式な呼称だと思っているとしたら相当の間抜け。 倭国も同じ。倭人国にという一般名。 海の向こうで自国に侵略してくるわけでもないし、 そんな野蛮人の住む小国を支配しても何の利益もないとなれば、 どこにあろうが全くどうでもいいわけで、 話のネタくらいに書き添えていただけでしょう? そんな意味のない歴史書に傾倒している人って、暇なんでしょうね。w
102 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 13:12:32
103 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 13:22:57
104 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 13:31:50
>>95 >安本美典氏は甘木・朝倉地方と大和地方の地名の一致に着目してるようです。
安本美典が主張する「地名の一致」なるものは、これであろう。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu3.htm 安本は次のように述べているのだが、全く馬鹿げておる、としか言いようがない。
「結論からいえば、これは北九州の邪馬台国勢力が東に移って大和朝廷をたてたさいに、
もとの九州の地名を畿内に持っていったんだとわたくしは思います。」
遠隔の地名が一つか二つほど一致するのであれば、少しは耳を貸してもいいか、ぐらいには思うが。
だが藤原京以降の計画的な条坊制都城ならともかく、かようなランダムなる二十幾つもの地名の一致は、
逆に朝倉邪馬台国の東遷説なるもののいかがわしさを、小生などは感じるのである。
諸賢は冷静になってよく考えてみていただきたい。
仮に4世紀の古代人が大集団でもって、九州から畿内に大移動したとしよう。
しかし新天地に、二十幾つもの地名をあの図の如く相対的位置関係を保ったまま命名することなど、
あり得よう筈がなく、全く不自然極まりない話ではないか──諸賢はそう思われないか。
106 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 13:32:29
>>82 のプさんへのレスで横やり
>1、>「東行」は必ず目的地からまた発点に戻り成立する言葉
>東行は、東に着いたら終わりです。出発点に戻りません。
>「行く」だけで「往復」の意味は表しません。
同じくそう思います。
>「会社に行く」と言って、家に戻ってきたら、働けとヨメに殴られます。
まさにそのとおり(笑)
107 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 13:43:26
>「結論からいえば、これは北九州の邪馬台国勢力が東に移って大和朝廷をたてたさいに、
>もとの九州の地名を畿内に持っていったんだとわたくしは思います。」
安本美典氏なんで人気あるのか私にはわかりません。
その言葉にしてもただの感想言ってるだけに聞こえてきますしね(笑)
まあ、わたしも九州説ですが、安本氏とは違う別の線で考えております(笑)
>>104 なるほど それか(笑)
108 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 13:43:48
>>102 読み物としては面白いが、
そもそも、古事記なる書物が600年前の事実を正しく書き表しているとは思えない。
口伝は、伝承されていくうちに形式化、混同が起こり、もとの事実が伝わらなくなる。
したがって、年代や内容が一致するといってもたいした意味はない。言葉の遊びに近い。
109 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 13:49:50
>>86 へ槍
>行く」⇒「帰る」ではなく 『行き』⇒『帰る』です。
>よって、以降の貴方の意見は最初から矛盾点をはらんだものですので、修正を願います。
ま〜だそんなこといってるの?
30さんは「行く」と「行き」の違いを言ってるんやなく「帰り」が含まれないことを
いってるんだよ。観念せい〜(笑)
110 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 13:59:10
>>106 >(笑)
笑えませんよ
既婚の人には対象となりますが、未婚の人には怒ってくれる嫁は居ません。
111 :
きき :2008/01/27(日) 14:02:59
卑弥呼って子供はいたんですか? 子供の話など詳しく載ってないみたいなんで知っている方、教えて下さい
112 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 14:06:21
>>53 プラムさん
>對馬國も倭地ですよ
上のプさんのレスは
>>47 の私の↓に対しての返答ですが、
>レスは最終的に『對馬國』は倭の地域内ではないんですか?
地域内⇒三十國内 三十國内に入ってるのではないんですかと言いたかったわけですよ。
ま〜〜だ懲りずに「邪馬壹國(三十連合国家)」いうんですかね。
113 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 14:16:00
>>110 お〜〜プラムさんまだ未婚ってことですか〜?
実はわたしもでして妻が居たら〜て想像で笑ったまでですよ。(笑)
>>111 >卑弥呼って子供はいたんですか?
>子供の話など詳しく載ってないみたいなんで知っている方、教えて下さい
後漢書卷八十五 東夷列傳第七十五
年長不嫁
三國志卷三十 魏書三十 東夷傳
無夫婿
子供の事は書かれてないですが、その内容から「無」と解釈してもよさそうですね。
114 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 14:16:36
>>105 それはどうかな。地名の一致は大事な史料ですよ。
たとえば、東北地方でアイヌ語の地名が伝承されている
土地というのは組織的な入植がなかった土地です。
集団で入植する場合、もと住んでいた郷ごとに集落を作り、
もとの集落の名前をそのまま名乗る場合が多いのです。
これは、なにも鎌倉時代だけではなく、例えば、昭和の
満州開拓団でも同じように信濃郷と言うように、出身母体
の名前をつけています。
それが共同体意識を作るのに役立つからです。
115 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 14:26:31
>>113 改めさん
既婚ですよ。
昨日二十六日が結婚記念日でした。
116 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 14:37:54
>>56 プラムさん
>奴国から東に視線を向けると
それは奴国をだよ
>>65 あなたとサガミさんとの論争でボタンを掛け間違えたサガミさん自ら
自滅してましたが(前スレのじゅんそう?)それと同じことあなたもしてますね。
>漫画ですよ
とうとう認めてしまったか(笑)
117 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 14:51:43
>>99 さん
「行き」の対が「帰り」になるのは
「行き」と表現した表現地の移動をせずして「帰り」と表現する時に限り、「行き」の対が「帰り」になります。
そして
「行き」の対が「帰る」になる時の条件は
「行き」と表現する表現地と、「帰る」と表現する表現地が異なる場合に対関係となるわけです。
私は移動がないとする考えから
「行き帰り」と言ってます。
118 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 14:58:44
プラムさんご結婚おめでとう。 あなたはわたしと年が近いかもですね。 さて、わたし改めは犬の散歩やらで忙しくここら辺で失礼します。 また今夜来るかもなのでそのときはよろしくお願いします。 では。。。。
>>105 地名が似てるだけなら、大和が本で、九州に同様の地名を付けたという可能性もあると思うんですが。
なんで安本さんは、九州→大和って断定したのですか。
それと、彌呼って、巫女か御子かわからないんじゃないでしょうか。
120 :
30 :2008/01/27(日) 15:06:05
>>117 すいません。まだ、ちょっと忙しいんで、レス待ってください。
そのために、事前に質問ですけど、「表現地」というのは何ですか。
広辞苑にも載っていない、初耳の日本語なので、意味が解らないと反論できませんので。
>>114 >それはどうかな。地名の一致は大事な史料ですよ。(略)
無論、地名の重要性は小生も認識するところである。
だが小生が
>>105 で申したのは、奈良・京都・大阪と、かなり飛び飛びにある二十幾つもの地名に対し、
それらは東遷に伴って朝倉邪馬台国の故地の地名を新天地で再命名されたもの、
と見ることの不自然さである。
新天地と故地の二十幾つもの類似する諸地名が、相対的位置関係を一見保ったままであることが、
逆に不自然さを覚えるのである。
言及された満州開拓団の場合等は、
たとえば信濃出身の開拓団がを満州の某地に「信濃郷」を名付ける、
たとえば越後出身の開拓団がを満州の某地に「越後郷」を名付ける、
たとえば加賀出身の開拓団がを満州の某地に「加賀郷」を名付ける、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、そのようなことはあり得たであろうし、実際この通りではなくとも、よく耳にする話ではある。
だが問題は、
日本における信濃・越後・加賀・・・の相対的位置関係の通りに、すなわち、
越後は信濃の北に、加賀は越後の西に・・・と、故地における諸地名の相対的位置関係を保ったまま、
これらの開拓団が新天地満州の地で、「越後郷」は「信濃郷」の北に、「加賀郷」は信濃の西に・・・と
居住地の場所を規定して移り住めるものであったかどうか──、小生はそのことを問うておる。
ましてや安本が例示した地名は二十幾つ、なのである。
折角の
>>114 氏の反論だが、氏は満州開拓団でもアメリカやオーストラリアでも何処でもいいから、
二十幾つもの地名が、故地と新天地で相対的位置関係を保ったまま再命名された歴史的に
確実な例を出さない限り、なんら説得力を持たないであろう。
>>120 「表現地」は起点、或は発点と捉えて下さい。
えらく大時代な文体の人、最近ときどき来てるみたいだよね でもかなりの論客だと思うぜ、この人は。 ま皆さんも、負けずに頑張ってくださいよ
125 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 16:18:03
何を負けるのかよくわからんし、勝って何の意味があるのかもわからん。
美濃もん太よかマシ、ってことさww でも最近あいつ来ないみたいだね んにしても邪馬台国と徳川将軍はスレ乱立しすぎ
127 :
30 :2008/01/27(日) 16:49:18
>>117 即レスは、まだちょっと難しいかもしれませんが、とりあえずボチボチと。
なんだか、いまいち解りにくい日本語ですが、要するに、
A地点からB地点に「行く」と言うとき、発言者がA地点に居るときは、
A→Bの移動を「行き」B→Aの移動を「帰り」と表現する。
発言者がB地点に居るときは、B→Aの移動を「帰る」と表現するという意味ですか。
それと、「行き」と「帰り」「帰る」が対応するなら、「行く」は何とどう対応するのですか。
「行き」と「行く」の違いは何ですか。
体言・名詞形(連用形)と用言・動詞形(終止・連体形)
129 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 17:44:34
そのとおりだな
130 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 17:48:40
>>128 用語だけで意味がわかりますか?
>>127 >「行き」と「行く」の違い
これだけで捉えれば、視点の違いがあげられます。
「行き」は「行き」とするものや移動行為を外から(第三者的に)見た視点であり、移動し目的が範囲と言う面になります。
一方
「行く」は「行く」とするものや範囲が限定され、移動対象が特定され
移動目的範囲も限定されます。
つまり
「行く」は終止形という性質上、どうしても様々な範囲が限定される。
131 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 17:56:24
>>121 >二十幾つもの地名が、故地と新天地で相対的位置関係を保ったまま再命名された歴史的に
>確実な例を出さない限り、なんら説得力を持たないであろう。
要するに、「偶然の一致」は、その数が多いほど偶然性が高まると言うことでしょうか。
普通は逆ではないでしょうか?
偶然が続けば必然と疑うのが普通だと思います。
特に、山の名前が位置関係を保ちながら移っていることは、無視できないですよ。
>>130 「行くよ」と「行きますよ」の違いを説明できますか?
もう一つ「行き方」と「行く方法」の違いもお願いします。
出来ればで結構です。
出来なければスルーしてください。
133 :
横槍 :2008/01/27(日) 18:23:55
安本氏の説は、面白いと思うけど 卑弥呼を天照大神とする説と 邪馬台国を甘木とする説は、全く別問題じゃないかな? 甘木周辺の遺跡は、邪馬台国時代のものなのかな?
134 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 18:45:48
>>132 >「行くよ」と「行きますよ」の違いを説明できますか?
「行くよ」の場合(いーくーよ)と、三分割
「行きますよ」の場合(いーきーますーよ)と、四分割
これを正確に分析比較するのは時間が必要ですから、少し時間を下さい。
>もう一つ「行き方」と「行く方法」の違いもお願いします。
この場合、「行き」と「行く」の比較には程遠く、先ずは(方)と(方法)の違いを調べ
それから順番に調べなければなりません
それにここでは「方」や「方法」の文字が優先され、それに伴い「行き」「行く」という動詞活用が組み込まれ変化しますから
135 :
30 :2008/01/27(日) 18:49:40
>>130 すみません。せっかく説明してくれたのですが、意味が良く解りませんので、
お手数ですが、もう一度お願いできますか。具体的には、
>「行き」とするものや移動行為
「とする」の用法が、普通の日本語と違うので良く解りません。
>移動し目的が範囲と言う面になります。
「移動し」の主語が何かわかりません。
「目的が」は主語ですか。述語は、「範囲」ですか。それとも「面」ですか。
どちらにせよ、見慣れない主述関係で、意味が良く解りません。
>「行く」は「行く」とするものや範囲が限定され、移動対象が特定され
>移動目的範囲も限定されます。
(「行く」とする範囲)
(「行く」の移動対象)
(移動目的範囲)
とは、それぞれ何ですか。
本当に5,6回読み返したんですが、意味が解りません。
抽象的な言葉ではなく、私が127で書いたように、A地点からB地点に甲さんが移動するのように、
具体的に説明してくれると、このような手間は省けるでしょう。
ところで、
>>127 の、A地点やB地点を使って質問した部分ですが、特段にレスがないということは、
貴方の意見を、あのように理解して良いのでしょうね。
>>135 >「移動し」の主語が何かわかりません。
「目的が」は主語ですか。述語は、「範囲」ですか。それとも「面」ですか。
どちらにせよ、見慣れない主述関係で、意味が良く解りません。
当然主語はありません。何故かと言うと、『行く』『行き』という語を対象としていますから当然主語はありません。
>「目的が」は主語ですか。述語は、「範囲」ですか。それとも「面」ですか
範囲=面 とし、範囲という語を(面)という語に置き換え、分かりやすくしたつもりなのです。
『行き』や『行く』は(い)+カ行 であり
周りの環境(文章)によって(カ行)は変化しますから、当然一つの例文で表せるものではありません。
>>132 さんが提示してくれた「行くよ」と「行きますよ」・「行き方」と「行く方法」なんかが
いい例じゃありませんか?
137 :
30 :2008/01/27(日) 19:26:32
>>136 >当然主語はありません。
もの凄い、衝撃発言。日本語は、○○は、△△だ。という主述関係で文が出来てます。
貴方自身も、直前に、「「行き」は〜視点であり」と主述関係のある文を書いてるでしょう。
>>90 さんの言うように、本当にウラル・アルタイ語系のツングース族の子孫かなと思ったけど、
虫説を解説する部分以外は、普通の日本語を書くしなあ。
あのですね、貴方の説明では「移動し目的=範囲=面」という文だと言うことになりますよ。
範囲も面も名詞ですが、「移動し目的」が名詞句になるとは、どういう日本語ですか。
「移動し目的」って、どういう意味ですか。
138 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 19:57:32
>>137 >衝撃発言
なぜ?
「行く」「行き」
この何処に主語があるのかな?
こっちが逆に聞きたいくらいのトップニュース
139 :
30 :2008/01/27(日) 20:30:43
>>138 「行く」「行き」は単語でしょう。
「移動し目的が範囲と言う面になります」は文でしょう。
それは、解るでしょう。
140 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 20:31:33
>>137 30さん. みんなみてるからプに教えてあげて。俺はプの言う事は全く相手にしないけど、教えてあげて。日本語。
141 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 20:43:04
>>139 単に
「行く」「行き」の違いを分かりやすく説明した時に使用したもの
この説明に不備があるなら、訂正取り消す事は吝かではありません。
取り消した方がいいですか?
>>131 山の名前が位置関係を保ちながら移っている、無視できないですよ、ってさ、
ほんとに朝倉→畿内と移ったって証明できる?
逆かもしれないだろ
それとさ水間と三潴は無関係って123は言ってるけど反論しないの?
143 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/27(日) 20:49:07
>>140 人に頼らず自分で説明しなよ
君が私の代わりに「行きと行く」の説明と正しい日本語を皆に伝えてくれ
ヨロシク
私は暫く口を挟まずROMります。
144 :
30 :2008/01/27(日) 20:56:13
>>141 単純に取り消すのでは解決にならないんですよ。
というのも、「移動し目的」のような言い回しが、貴方の説明に散見されるんです。
以前から、それは気になっていました。
ですので、
「移動し目的」がどういう意味なのか。
「移動し目的が範囲と言う面になります」
という文の、主語述語修飾語の関係がどうなっているのか。
この文によって、貴方はどういう内容を私に伝えようとしていたのか。
それを貴方が説明できないと、他の議論でも、
また、日本語が解らないという壁で止まってしまいます。
もし、これが特殊な虫用語や虫言い回しなら、
そのような特殊集団内でしか通用しないような言葉ではなく、
ごく普通の日本語で説明できるように努力してください。
一億三千万人の日本人に、虫語は通じないからです。
それは、虫説を信じない我々が悪いのではなく、
普通の日本語で説明できない側の責任です。
>>144 「行」と言う文字に(い‐く)(い‐き)と言うように、い+カ行
和語を充てる場合、必ずその周りの環境(文章)は、行に移動環境を求めるからです。
お分かりのように
「行」は
い‐か‐ない
い‐き
い‐く
い‐け
い‐こ‐う
と、言うように
周りの文章に左右され様々に変化します。
ここまでで間違いは?
146 :
古代 :2008/01/27(日) 21:24:12
大己貴とは大国主の別名なはずだけど、神社のHPにそういう説明は出てきませんね。はて? 三輪氏が九州から大和へ流れた一族なのかもしれないですね。 三輪氏は古代豪族の中では比較的新しいといわれているので、大和に力を持つ前は九州に根付いていた一族とも考えられます。 これと邪馬台国を結びつけるのは早計な気がします
>>144 さん
別に虫説云々を学ぶ必要も無いし、それを学ばないから云々もありませんよ。今までの国語で十分対応出来るなら
それで十分ですよ
私はそれ押し付けるものではありません。
ただ
今の国語教育は間違ってると感じたから、虫説を学びそれを伝えているだけです。
摩擦当然あるでしょう。
だって
その教育で育った人達が相手ですから(私もその一人ですから)
148 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 21:44:34
>>121 さま
地名の一致が多すぎて逆に不自然だというのは、多分、
その作者の方が自己の主張の正当性を証明しようと過剰反応したためではないでしょうか。
しかし、だとしたら、それをもって東遷の事実を否定する材料にはなりません。
一度つけられた地名というものは、そこに住んでいる住民ごと駆逐するといった強硬手段を
取らない限り、変わらないものなのです。その辺の事実認識をお持ちなら、そのような反論
には、さしたる意味がないことに気づかれるかと思います。
149 :
ローガン :2008/01/27(日) 21:49:19
魏志倭人伝によれば、240年に多数の銅鏡が日本に来たようですね。 (百枚が現実の数字かどうかはわかりませんが…。) 九州説支持のかたは、3世紀中頃日本に来たとされる多数の銅鏡が、その後どういう経緯を経たとお考えなのでしょう? 私は畿内説支持なので、漢末の鏡が大和を中心とした地域に出土している事を考えれば、容易に説明がつくと自分では思っています。 よければ畿内説、九州説問わず蘊蓄をお聞かせ願えれば。
150 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 21:52:23
プラムさん・・・B 魏志倭人伝の解読に力を入れ漢字にはめっぽう強い。実はこの人、 卑弥呼は先代、次代が有り天照大神で東遷説というのは余り知られてない。 サガミハラさん・・・A 邪馬台国は佐賀県小城市甘木で小城公園内桜ケ岡が卑弥呼の墓だという。 邪馬台国関連、本の著者でもある。 唐松山さん・・・B 卑弥呼は景行天皇時代の人物。『ほつまつたゑ』を中心に論争。 九州ですがさん・・・AB 邪馬台国は九州。神社の由来とか、吉野ヶ里遺跡などを調べる。 愛知県民さん・・・B 畿内説⇒九州説。卑弥呼は祟神天皇以前の時代で台与=万幡豊秋津師比売 だという。宇佐の比売大神が気になるらしい。 古代さん・・・A 邪馬台国の時代の大和朝廷は九州〜畿内まで影響を与える。 卑弥呼は大日婁貴とする。 横槍さん・・・D 卑弥呼=天照大神(大日霊女貴命)で女神とする。出雲=投馬? ローガン・・・D 畿内説で箸墓は卑弥呼か 壹輿の墓とする。 美濃もんたさん・・・EF 近代史〜古代史まで興味を持ち、岐阜の山に伝わる伝承を調べる。 邪馬台国は弁韓(百済、任那)の弥鳥邪馬国のこと。 正月○鹿さん・・・不明 記紀で言えば卑弥呼は「天照大神」がイメージ的には合う。 ご参考までさん、汽笛一声さん、天之御名無主さん、日本@名無史さん・・・不明 馬鹿は削除
151 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 21:55:36
安本氏はくいつきあったみたいだが 市杵嶋姫 (いちきしまひめ)〜人気ないね・・・・。
152 :
古代 :2008/01/27(日) 22:05:21
市杵嶋姫の宇佐神宮は天皇家と縁が深いようだ。道鏡事件の時に伊勢ではなく、わざわざ宇佐神宮に託宣を得に言っている。 市杵嶋姫=卑弥呼とすると、卑弥呼は天皇家と深い繋がりがあるということかな?
153 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 22:06:54
邪馬台国=北部九州説の武光誠氏。 首長霊信仰から始まる日本統一 氏は日本統一の動きは、近畿地方から始まり、縄文文化の中心は東北にあり 弥生文化は北九州、そして三世紀初頭に奈良盆地で第三の文化が生まれたと書く。 まあ、ほかの人達も同じでこの東北⇒北九州⇒近畿という文化発展は誰もが知っている事だろう。
154 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 22:09:46
市杵嶋姫=卑弥呼 あ〜わたしはないと思ってます。笑 単なるソースと思ってもらえばいい。ww
155 :
ローガン :2008/01/27(日) 22:13:51
>>152 あれは先に宇佐から、「次は道鏡に…」って言ってきたから、キヨマロが、真為を確かめに行く話ではなかったですか? 間違ってたらすみません。あまりよく知らないものですから
156 :
古代 :2008/01/27(日) 22:22:09
ええとー、孝兼天皇が「道鏡を次の天皇にしろと宇佐八幡のお告げがあった」と託宣を得て、それを確かめに宇佐に向かっているのですが。 ここでは、宇佐八幡が天皇の継承問題に関わる存在として認知されていたという事が注目されますね。皇祖神天照のお告げでもよかったはず、というかそちらの方が自然
157 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 22:23:00
>>148 >一度つけられた地名というものは、そこに住んでいる住民ごと駆逐するといった強硬手段を
>取らない限り、変わらないものなのです。
んなこたねえってんだ!
江戸が東京に変わったとき明治政新府は
大江戸八百八町の住民をぜ〜んぶ追い出したんか?
将軍江戸を去る、だっただけだろよ
最近の開発とか区画整理や合併とかでも
新地名いっぱい出来たけど、
そいで旧地名全然使われなくなったりするけど
ありゃあ強硬手段で住民ごと駆逐したんか?
んなバカな!
158 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 22:31:54
武光誠氏のこと〜もう少し書いておこうか。 彼は邪馬台国を九州北部の筑後川周辺とし西暦330年頃、大和朝廷の西進によりいとも簡単に 併合されてしまったとしている。 そして邪馬台国東遷はありえないとも言っている。 纏向遺跡が西暦220年ごろと明らかになったためとしているが 青銅器などの出土品などをみていってるのだろうか。
159 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 22:34:53
武光誠氏の本読んだことある人いますか? というかみなさんどの本読んでるんだろうか。
160 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 22:37:46
>>157 何とおっしゃるうさぎさん♪
江戸も東京も既に、もとからの住民はほとんど駆逐されて、三河武士とか、職を求めてやってきた
新住民に駆逐された田舎ものばかりの街です。旧住民の多い街は、町名変更に頑固に反対して、
旧町名を保持しているところが多いものです。
勉強が足りませんね。がんばってください。
161 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 22:38:46
>>135 30さん
それはプラムさん的〜ごまかしなのであまり突っ込んじゃあ可哀想ですよ。w
162 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 22:47:27
おっと〜
>>149 の畿内説ローガンからし質問がきてますよ!九州説のみなさん
>九州説支持のかたは、3世紀中頃日本に来たとされる多数の銅鏡が、
>その後どういう経緯を経たとお考えなのでしょう?
九州説の方だれか答えてやってください。
伝統的な 九州説 VS 畿内説 熱いバトルがみられるか!
>>161 改めさん
>それはプラムさん的〜ごまかしなのであまり突っ込んじゃあ可哀想ですよ。w
貴方がごまかしと判断出来るという事は、私の代わりに説明できるということですね
当然、ごまかしと判断できるには
ごまかしと捉えられる能力があるからこその表現、しからばしばし私の代わりにごまかしではない説明を
>>30 さんにして下さい。
よろしくお願いします。
164 :
日本@名無史さん :2008/01/27(日) 22:51:50
大和朝廷は九州ではさしたる力のない一豪族だったけれど、東遷してから 急速に力をつけたと考えることもできます。いわゆる乗っ取りですね。
165 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 23:05:23
>>146 >大己貴とは大国主の別名なはずだけど、神社のHPにそういう説明は出てきませんね。はて?
>三輪氏が九州から大和へ流れた一族なのかもしれないですね。
>三輪氏は古代豪族の中では比較的新しいといわれているので、大和に力を持つ前は九州に根付いていた一族とも考えられます。
>これと邪馬台国を結びつけるのは早計な気がします
えっと〜何のことを言ってるのでしょう。
三輪山の大物主、大国主、事代主のこと誰か説明しておもってるんですかね。
166 :
古代 :2008/01/27(日) 23:18:41
事代主はこの場合関係ないですね。 九州の三輪山信仰が畿内に持ち込まれたとするならば、邪馬台国が九州から畿内に移ったと考えるより三輪氏が九州から移ったと考えた方が自然であるということです。
167 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 23:22:20
30さんへ
プラムさんにかわりご説明しましょう。
東行至不彌國百里
これを略すと東行し不彌國に至る百里
東の不彌國までいくということです。
しかしプラム氏の先生は変わって「戻る」というのが見えるらしいんです。
プラム氏はその影響を受けておりそのまま「戻る」とだけを教えられてるので
自分でもおかしいと思いながらも↓こんなので誤魔化してるだけなのです。
>>奴国→→→→→→不彌国→→→→→→奴国 (「東行」は必ず目的地からまた発点に戻り成立する言葉)
わたしのレス(参考
>>59 >>61 )
>「行って帰ってくる」という表現らしいがどこに「戻る」とか書いてるんですか?
>というかこの板みてる人達へ「笑い」を誘ってるんですかね?
>漫画ですか?プラムさん
に対し「漫画ですよ」 と認めてしまってるわけです。
だからこれ以上きくな!っとプラムさんは心の中で思ってるのです。以上ww
168 :
素人ですが :2008/01/27(日) 23:26:52
九州説・畿内説とも伊都国を前原市付近に比定している説が多いと思う。 私もその一人ですが、その場合、伊都国から水路10日陸路1月であれば、 北部九州に邪馬台国は比定できません。 中部九州?の甘木や久留米であっても4km/日でのんびり歩いても突き抜け てしまう。 少なくとも連合30ケ国内は交易もあっただろうし、互いの国で行き来がなかった とは考えられない。連合国である以上・・ であれば、やはり宮崎あたりに邪馬台国を比定しないと倭人伝の行程にあわな い気がする。 日向なら、隼人がクナ国と比定すれば問題もない。あとは、考古学的に実証 される遺物がでてくれば良いのだが・・ 東に1000里で倭種ありもここなら 納得できます。 「倭地温暖冬夏食生菜」も北部九州の冬は以外と雪も多く寒いんだよね。 中部の内陸部にあっても、盆地で冬は今よりもっと寒かったはずです。 その点、宮崎はまさに温暖でしょうね。 長安や帯方郡と比べればどこも温暖となるわけですが・・
170 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/27(日) 23:32:30
>>149 >>162 倍暦計上にて、その鏡は大半が
238年=景初2年=崇神即位2年
に、朝廷で行われた崇神天皇の同床共殿による鏡奉斎のことから、
畿内人民が右へならえ式に各自で祀るようになった鏡だよ。だから
卑弥呼の鏡とは別物。
171 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 23:36:07
>>168 >やはり宮崎あたりに邪馬台国を比定しないと倭人伝の行程にあわな
>い気がする。
いえ 宮崎だと逆に長いのです。
自郡至女王國萬二千餘里
九州北部という結果になるわけです。
倭地温暖冬夏食生菜
基準が向こうですからね。
九州も寒いと思うんですけどね・・・
172 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 23:42:24
おゃ〜太国さん久しぶりじゃん どこほっつき歩いてたんでしょうねw この終止符スレをホームグランドにしている人いっぱいいるし 彼らのことも少しは考えてやったほうがよいかと思います。
173 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 23:45:06
しかし〜太国さん帰ってきたところですが、時間なのでわたしは落ちなければ いけません。 ある程度ソースはだしたつもりなのであとはお好きに〜どうぞ。 では〜〜落ち↓
175 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/27(日) 23:48:15
あれ・・・太国さんの偽者が出没したってことですか?
176 :
30 :2008/01/28(月) 00:06:49
>>147 プラムさん
ちょっと、別のことをしていて、遅くなりました。
>今の国語教育は間違ってると感じたから、虫説を学びそれを伝えているだけです。
伝えようとしているんでしょう。伝わらない言葉を使っていてはしょうがないじゃないですか。
内容で摩擦が生じるのは、大いに結構。議論を楽しめます。是非、摩擦したいですw
しかし、言葉が伝わらないのじゃ、どうしたら良いかわかりません。
以下、失礼な例えですが、解りやすいのでお許しください。
駅前で、名前も聞いたことのない弱小宗教教団が、特殊な用語と理論で布教していたとして、だれか振り向きますか?
仏教やキリスト教のように、権威が確立されたものなら、難解な用語も理論も、
その先に悟りがあるはずだと信じて頑張って理解しようとします。
でも、聞いたこともない宗教の理解しがたい文章を、頑張って理解しようと思う人はいないでしょう。
伝えようと思うのなら、万人が理解する普通の日本語を使わなければなりません。そうすれば信者が増えますよ。
釈迦もイエスも、平易な言葉で教えを説いています。
>>167 改めさん
「東行」に「戻る」が見えてしまうのを、日本語で説明してくれると良いんですけどねw
177 :
古代 :2008/01/28(月) 00:50:44
横からですが、卑弥呼の鬼道について 「後漢書」では「鬼神の道を事とし・・」とあります。中国で鬼神とは祖先霊の事とされます。 さらに「魏志」馬韓の条に鬼神の説明があります。 「田に種をまき鬼神(祖先)を祀る。群集歌舞し酒を飲み〜・・・農事を終え、同じ祭りをする」 「国は鬼神を信じ、一人を立て、天神をまつらしむ、この巫を天君という」
178 :
むこうのスレの208 :2008/01/28(月) 00:56:52
>>177 誤爆じゃねえの?w
いや俺が聞いて知っていたのもそう言う内容だった。
(そこまで詳しく知っていたわけじゃないけど…)
この場合の「鬼」と言うのは現在の「鬼籍」の「鬼」に近いのかな?
せっかく犬国のトンデモ説が聞けると期待していたのにwww
179 :
古代 :2008/01/28(月) 00:59:50
失礼。なぜか間違えてこちらに・・卑弥呼関連だからいいかなっと。
180 :
ローガン :2008/01/28(月) 01:40:07
>>156 そのお告げを天皇に奏上したのは、太宰帥である道鏡の弟。天皇が宇佐神宮に神託を求めたわけではなかったのではないですか?
181 :
日本@名無史さん :2008/01/28(月) 03:31:58
そもそも邪馬台国=大和=現代の天皇の先祖。 っていう直感が働いたから、日本書紀書いた人や 本居宣長をはじめ、多くの人の間で魏志倭人伝が有名に なったんじゃないの?そういう「時代を超えた多くの人の直感」 ってまず真実を大幅にハズしていないと思うんだよね。 九州説にはそういう理論を越えた第六感的なもの 感じる人がいるの?
182 :
素人ですが :2008/01/28(月) 06:56:27
>>171 郡〜女王国→12,000里・帯方郡〜伊都国→10,500里
よって、伊都国〜女王国→12,000里−10,500里=1,500里
というやつですね。
でも、水行20日や水行10日陸行1月はどう考えるのでしょうか?
もしや、郡からの行程とされるのでしょうか??
仮に北部九州に比定した場合、
「自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
の解釈が困難となってきます。
伊都国は郡の使者が常に留まるところなのに、不可解です。女王国の北側
なのに旁國遠絶だから。また、
本来、魏(郡)にとっても、一番大切であろう女王の都とする邪馬台国がリアル
に描写できていない。さらに、
東に1,000里渡海すればまた倭種ありも、北部九州ではどのように補正され
るのか・・またまた、理解不可能となりますが。
183 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/28(月) 07:52:16
>>178 お前、むこうのスレの208だということがどうして証明されるのか? それは
わからん〜。 その208だという証明が無い。これはオカルトか??
>鬼に近い
これは理由がマルでない。これこそお前の豆脳の狭小なる話であり、デタラ目
遊戯の日本記録更新である。
>鬼籍
これこそオカルトだ?? お前の話は支離滅裂の宗教的であり、史離滅裂と
言うのが至当であろう。これではス〜グ精神病院の重猫棟入りだな。診てもらえ。
つまり邪馬壹國が大和国に通じるのと同じで 鬼籍は奇跡に通じる。 つまり鬼道は奇道であり 奇は普通と違っていること つまり当時の中国側からみて普通ではなかったことである。
185 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/28(月) 11:14:27
>>182 素人ですがさん
何処に残り1500里が水行三十日陸行一月なんて書いてありますか?
これは読み手が勝手に描いた幻想にすぎません。
第一
倭人伝の中に、距離と時間を書いた箇所なんて他に存在しますか?
無いはずですよ
記録に残す場合、距離も時間も同じ意味です。
一日に進む距離は統一されていて、距離があれば時間も分かり、時間が分かれば距離も分かる。
それが、記録に残す合理性と言うものです。
”・・・皆統屬女王國郡使往來常・・・” 通常、ここは歴代の伊都国の王が女王国に従ってたって感じで訳されますが 女王国が歴代の伊都国の王に従ってたとは読めないでしょうか?
187 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/28(月) 12:16:47
>>186 読めない!
と、言う以前に
「歴代の伊都国の王」何て何処にも書いてないから
>187 あ!世有王の解釈って”代々王有り”的な解釈じゃないってことですね。 うーん難しいな。もうちょっと調べてみます。 ありがとです。
189 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/28(月) 14:33:42
>>188 そうだよ
「世有王」
これだけで(代々王有り)と解釈しちゃダメ
前後の文章を把握してから和訳しないと(代々王有り)になっちゃうよ
190 :
日本@名無史さん :2008/01/28(月) 17:57:32
行ったら帰るの証明 『うちの嫁、買い物に行くって出てったきり帰らないんだ。』 行って帰らないのは異常事態。
191 :
30 :2008/01/28(月) 18:18:14
>>188 >世有王の解釈って”代々王有り”的な解釈じゃないってことですね。
それで間違っていません。
プラムさんは、漢文の基礎を知らない人に倭人伝の読み方を習っているんです。
その人の説によれば、世の異体字が三十の意味の丗に似ていることから、世有王を丗有王として、
「三十王有り」と読んでしまっているのです。たとえ「世」が「丗」であっても「三十王有り」とは読めません。
漢文が得意な子なら高校生でも知ってることです。
たくさんの人に、間違っていると指摘されても、いまだにこの説を信じ込んでいるので
>「歴代の伊都国の王」何て何処にも書いてないから
などと仰るのです。あとは、ご自分で判断して読んでください。
>女王国が歴代の伊都国の王に従ってたとは読めないでしょうか?
これも、そう読めます。
私が
>>30 で、「統屬」の伝統的な解釈に疑問を呈したのは、まさにそのことが言いたかったのです。
ただ、「統屬」には、「監督する」と「所属する」の両方の使い方があり、
これだけで、どっちとも決定できません。それで、とりあえず伝統的解釈に従っておくということで、
「統屬」の疑義を引っ込めたわけです。
もし、伊都國に女王國が所属していたというなら、倭国大乱の間に、
力関係が逆転したことになって面白いのですが。
192 :
30 :2008/01/28(月) 18:29:33
>>190 異常事態、ご愁傷様です。
行ったけど、帰らないという事態が起こりうるのは、行くに帰るが含まれないからです。
行くに帰るが含まれるなら、買い物に行った嫁は、必ず帰ってきます。
だったら安心して待っていられますが、世の中には、そのまま帰ってこない嫁も何人かいるのでしょう。
帰らない嫁が買い物に行けるのは、行くに帰るが含まれない証明です。
例えば、Aさんが、アメリカで友人Bさんに出会った。
A「B君、これからどうするの」
B「これから、イギリスに行くんだ。それから日本に帰るよ。」
Bさんは、アメリカに「帰る」ことはありません。
「行く」といっても、自動的に出発点に帰る事を意味しません。
193 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/28(月) 18:53:46
>>191 倭人伝の「世有王」を(代々王有り)と読みたい人は、それでもいいんじゃない。
ただね
「世」を代々(よ・よよ)と和訳する時は、漢文も
(時間)世有王
〈例文〉
春秋世有王(春秋の世、王有り)
必ず「世」の時間範囲を具体的に表す語句が付加します。
と言う形になる事ぐらい知った上での発言だよね?
194 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/28(月) 18:59:17
>>192 何故「行く」に限定した話しをし、自分に都合のいいコントロールしてるの?
「行」を和訳するとき
文章によって
・行き
・行く
・行け
・行こう
があり、それぞれ意味が微妙に異なる。
195 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/28(月) 19:10:35
大事な事書き忘れたから追記すると 「行」を(行く)と和訳した場合でも、 ・行く ・行くと という広がりを考えないと(行く)(行くと)では、これまた微妙に意味が違ってくるから
196 :
30 :2008/01/28(月) 19:29:50
>>193 >必ず「世」の時間範囲を具体的に表す語句が付加します。
そんなルールはありません。
>春秋世有王(春秋の世、王有り)
これ、「春秋の世、王有り」なんでしょう。
そう読んだら、この「世」は「代々」ではなくて、春秋という一つの時代という意味になるよ。
「世」の時間範囲を具体的に表す語句が付加したら、「代々」の意味に読めないという例だよ。
なんで、わざわざ自分の主張を否定する例文を引っ張ってきたの?ちなみに、引用元は何の文献ですか。
>>194 いつまでも、そんなことを言うのなら、まずは
>>130 の貴方の書き込みを、日本人に解る日本語で説明しなおしなさい。
>>「行き」と「行く」の違い
>
>これだけで捉えれば、視点の違いがあげられます。
>「行き」は「行き」とするものや移動行為を外から(第三者的に)見た視点であり、移動し目的が範囲と言う面になります。
>一方
>「行く」は「行く」とするものや範囲が限定され、移動対象が特定され
>移動目的範囲も限定されます。
>つまり
>「行く」は終止形という性質上、どうしても様々な範囲が限定される。
>>196 >春秋世有王(春秋の世、王有り)
これ、「春秋の世、王有り」なんでしょう。
そう読んだら、この「世」は「代々」ではなくて、春秋という一つの時代という意味になるよ。
「世」の時間範囲を具体的に表す語句が付加したら、「代々」の意味に読めないという例だよ。
なんで、わざわざ自分の主張を否定する例文を引っ張ってきたの?ちなみに、引用元は何の文献ですか。
その前に
「・・世有王・・・」を代々と人物の時間経過を表す「世」の和訳は常に(よ)であって(よよ)とは和訳できない。
この場合(よよ)と和訳する漢文の形は「世世」です。
だから例文も「・・・世有王・・」は(よ)の例しか出せません。
・・春秋世有王・・・は(十三経)からです。
>いつまでも、そんなことを言うのなら、まずは
>>130 の貴方の書き込みを、日本人に解る日本語で説明しなおしなさい。
別に貴方に命令されてまで書き込みする必要はないよ
>>197 訂正
「・・世有王・・・」を代々と人物の時間経過を表す「世」の和訳は常に(よ)であって(よよ)とは和訳できない。・・・・(誤)
「・・世有王・・・」と人物の時間経過を表す「世」の和訳は常に(よ)であって(よよ)とは和訳できない。・・・・(正)
失礼しました
プラムさん。 中身は別として、書き方にいらついて、スレが荒れそうなので、 結論を先に書いて、同時に理由も全部列挙してください。 後付けで理由と結論を考えながら書いているようにも見えます。
200 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/28(月) 20:34:13
201 :
日本@名無史さん :2008/01/28(月) 20:35:24
>>198 「世」一字には名詞と動詞の働きがあるんです。
それで、日本語の「よ」は名詞であって、動詞ではないの。
だから動詞として「世」を読むためには「よよす」でなければならなわけです。「よす」じゃあ変でしょう。
別に意味的には「あいつぐ」と読んでもいいけれど、習慣として訓読は「よよす」と読むのです。
「世」の和訳が常に「よ」であるなら、「世」の動詞としての働きを否定することになる。
でも、現実に「世」を動詞として使う文はある。つまり
>「世」の和訳は常に(よ)であって(よよ)とは和訳できない。
>この場合(よよ)と和訳する漢文の形は「世世」です。
というのは、間違った思い込みです。本当に、どれだけ嘘を教え込まれているのか。
貴方の為に、言語虫という人に腹が立ちます。
>・・春秋世有王・・・は(十三経)からです。
例のサイトで検索したけど、十三経注疏には無かったよ。近い者は、左傳の疏の
然春秋之世有王之卿士無采地者
しかなかった。
>別に貴方に命令されてまで書き込みする必要はないよ
伝えたいんでしょう。だったら、通じる言葉で書かなきゃ。
>>201 >「世」一字には名詞と動詞の働きがあるんです。
それ、興味ありますから
もう少し説明してもらえませんでしょうか?
私は漢字一文字(名詞として代用されるものは除く)では意味は発生しないと考えているもので、当然動詞活用もないわけです。
>>201 >というのは、間違った思い込みです。本当に、どれだけ嘘を教え込まれているのか。
貴方の為に、言語虫という人に腹が立ちます。
虫さん本人に直接言われたらどうですか?
それに虫さんはキッカケだけを提示するだけ、後の解釈は私のオリジナル
私は二年ほど前、貴方と同じ感情で直接彼を潰しに行った一人です。
204 :
素人ですが :2008/01/28(月) 22:14:33
>>185 プラムさん了解しました。
では、魏書の他の東夷伝又は烏丸・鮮卑伝でも同様な行程記述がなされて
いるのでしょうか。
長安から某国の全体距離(○○万里)を記載し、その後にそれに要する日数表示
をしている例があればご教示ください。
倭人条だけが特別ではなく、あくまで東夷伝の中の一つで記述されている
わけですから・・
他にも例があるはずです。でないと、プラムさんの見解も単なる
「読み手が勝手に描いた幻想にすぎません。」状態になりますよね。
205 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/28(月) 22:30:21
>>204 素人ですがさん
地理記事において距離を記載し、尚且つ同時に時間も記載したモノは
私の記憶にはありません。
206 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/28(月) 22:40:49
>>204 素人ですがさん
>行程記事
微妙な表現ですね
私はあの記載を行程記事とは考えていません。列島の位置関係を文章にて表した、文章地図と考えています。
そして、文章地図に行程文を重複させたのは
あくまで倭人伝の特異性
他に類を見ない外交史を記載したが為の伏線と考えます。
208 :
ローガン :2008/01/28(月) 23:10:59
>>30 さん。ひょっとしたら別のところで、冊府元亀 朝貢についてご教示くださった、どくだみ酒さんと違いますか?
その節はありがとうございました。
あ!違ってたらごめんなさい。
HP『曲学の徒』さんって有名な人なんですか? なんか著作は有りますか?
211 :
ローガン :2008/01/28(月) 23:30:10
>>149 予想通りでした。誰からも返事なし。やはり銅鏡とかは、九州説にとっては邪馬台国の事を考える上で全く関係のない話なのでしょうね。
自レスにアンカーつけるとは。トホホ。
212 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/28(月) 23:33:11
>>210 太国大々先生も顔出しまくりじゃないですか(汗
214 :
ローガン :2008/01/28(月) 23:48:31
>>170 で書かれた「その鏡」って何をさすのですか?
240年に届いた銅鏡のその後について、尋ねたつもりだったのですが。
もしよかったら、私などでも判るようにかいてくれませんか?
215 :
日本@名無史さん :2008/01/28(月) 23:53:28
太国すごいじゃないか!ガンばれ!応援しているぞ!寝るな!
>>213 このバイタリティーには頭が下がります。
217 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/28(月) 23:56:29
>>214 それはおおざっぱの意味ですよ。一個の出土の鏡を特定して言って
いるわけではないです。それがしは考古のほうは存在外ですからね。
景初2年に相当する崇神2年に、天皇が鏡剣を御殿内に安置して
いるんですよ。そのお達しから畿内住民が同様に鏡を自分の住まい
に祭祀したからうんと出るんだと思いますよ。倍暦から238年ですね。
これだとよく説明が出来てると考えます。例外はあるでしょう。
218 :
ローガン :2008/01/29(火) 00:04:50
わかりました。
219 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/29(火) 00:08:49
>>216 その掲示板は確か征東大将軍さんのやってる板だと思います。彼は
このごろこのへんに書きこんでないところをみると。病気療養中とか
外国へ行ってるとか、そのへんか?と思えますが??
ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・
220 :
30 :2008/01/29(火) 00:50:24
>>202 とうぜん、一文字の話ではなく、文中でのことです。
史記の周紀に「我先王世后稷以服事虞?夏.・・・」とあり、
その注に「父子相継曰世(父子相い継ぐを世と曰う)」とあります。
これを「我が先王の世(よ)は、」と読んでも、まったく意味が通りません。
周紀の内容は、「周の先祖は、代々后稷(農業大臣)を継いで、虞王朝・夏王朝に仕えてきたが、
夏が衰えると、農業を軽んじたので、その官職を失った」
(我が先王、后稷を世(よよ)にして、以て虞夏に服事す・・・)
というものです。つまり、親から子へ、子から孫へと伝えることが「世」です。
訓読は、多分、世代を表す「よ」という言葉を重ねることで、
世代から世代へ伝えるという意味を表そうとしたのでしょう。
だから「よよ」「よよにす」とよむのだと思います。
(思いますというのは、理由の推測であって、読むことは確定しています。念のため)
その一番ありふれた例が「世吏二千石」などの伝に使われる定型句です。
「吏二千石をよよにす」と読んでもよいし、
動詞から副詞に派生したと考えて、「よよ、吏二千石たり」と読んでも良いです。
>虫さん本人に直接言われたらどうですか?
こちらに来られれば、レスしても良いですが、わざわざ押しかける積りはありません。
なるべくなら、そんな面倒なことには関わりたくないですが。
世の問題は、言語虫さんのホームページに書いてあることなので、貴方の考えではないでしょう。
そのほかに、可方式の測量なるものを説明していたところの例文も、
よりによって、なぜ絶対違うとわかる例文を引くかなと、ガッカリした覚えがあります。
もっと、判断の難しい文は、山ほどあるのにね。
漢文を読めないのか、読まないのか。
ローガンさん
どくだみ酒です。やっぱり、解ってしまいますよね。長文多いから。
邪魔にならないように、なるべく過疎ってるときに書き込むようにしています。
221 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/29(火) 01:00:49
>>220 さん
つまり
貴方のおっしゃる事が全て正しく、虫さんの考えは間違ってると言う事ですか?
222 :
30 :2008/01/29(火) 01:13:44
>>221 「世有王」が「三十人の王がいる」ではない、ということに関しては、その通りです。
>>211 九州説からはこんなところか。
1、銅鏡100枚の出土率を10%とすると現時点で10枚前後が出土している。
2、故に、三角縁をこれに当てる説は論外。出土が多すぎる。特鋳などオカルト。
画文帯は呉の系統で魏では僅少で、出土も多すぎるため除外。
3、なお、九州説の安本の挙げる「魏晋鏡」も出土が多すぎる。
しかも、彼の言う「魏晋鏡」の大半は古墳からの出土であり、彼の年代観とも合わない。
また、魏晋鏡が魏の初めの頃に全部出回っていたとする考えも不合理。
4、平原王墓は、方形周濠墓、割竹木棺、朱の使用、巨大鏡、国産鏡、墳丘墓などの
いう新しい要素が多数あり、環濠集落の時期の終末以後となる。
卑弥呼の時代が環濠集落の時期とする九州説からは、平原は卑弥呼より後の
時代となる。
5、平原では、安本のいう「魏晋鏡」が出ていないがこれは、この時代に「魏晋鏡」が
来ていないため、国産の対象ともならなかったからと考えられる。
6、以上から、内向花文鏡、方格規矩鏡が、卑弥呼が魏から下賜された鏡の候補となる。
なお、西川の主張するように王のための特別な鏡が数枚含まれる可能性は否定しないが
九州からも畿内からも出土していない。
>>223 新井宏氏の鉛同位体比分析も九州説補強材料に加えては駄目?
225 :
素人ですが :2008/01/29(火) 06:15:46
>>206 地理的には、「計其道里當在會稽東冶之東」が記載されており、ほぼ其の道里を
計るにまさに会稽の東冶の東と解すことができますね。
東冶は現在の台湾の北西対岸、會稽は奄美大島付近の西あたりでしょうか。
陳寿は倭国を朝鮮半島よりかなり南と理解してこの倭人条を記載したのでは
ないでしょうか。
狗邪韓國から2000里(180km)程度にあるような地理的感覚ではなかったはず
ですが・・
226 :
75 :2008/01/29(火) 07:55:08
韓地自体も巨大化されて認識してるから、 狗邪韓も倭人伝では南方にずれていて、 そこらの辻褄は合う。
227 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/29(火) 07:56:57
>>222 >三十人の王
何だか話しが飛んじゃっていますね。
私は未だ三十人の王などと言う発言はしていませんよ。
倭人伝記載の「世有王」を(代々、王有り)とは和訳出来ないと言ってるのです。
このあとに続く文章を見てください。『丗有王皆統屬女王國』と
ここにある“皆”は当然“王”に掛かり、皆と言う事で、単一じゃない複数である事がわかります。
そして
この“皆”の文字は通常(条件付加が無い)、同時系列上の複数の時使用します。
だからこの皆を代々とする、時間経過に於ける複数の世代交代に使用する事は出来ません。
当然ですよね
代々としている段階で、複数ですから
228 :
日本@名無史さん :2008/01/29(火) 08:20:14
世有王、皆統屬女王國 世は世代交代の約三十年間を表してる。 これは十を三つ繋げたという世という字の成り立ちから来てる意味 ただここを三十年と読むとあとが続かない。 世世ではないので代々もおかしい。 で、一度世代交代が行われたがと読み 皆は”みな”ではなく”ともに”と読めば意味が通じてくる。 とかどうでしょうか?
229 :
日本@名無史さん :2008/01/29(火) 08:25:47
あ、あと上で話題になってる”東行”ですが 東の道って訳すとかはどうでしょう? 東行至不彌國百里 東の道は不彌國に至る。百里 自然な感じが僕はしますが。
鉛同位体比分析は分布が重なっているため 分離が事実上出来ないという結論ではなかったでしょうか
232 :
223 :2008/01/29(火) 11:16:39
>>231 それは、△の鉛同位体比の分布が偏っている、つまり国産と舶載の区分が
不能だから全部国産ということでしょうか。
新井は「魏晋鏡」の同位体比をA、B、Cの3グループに分けて、その出土分布を
調べているが、古いとされる同位体比のグループ(A、B)は九州中心の分布で
新しいとされる同位体比のグループ(C)は畿内中心の分布とする。
たしか、Cのなかのさらに狭い領域に△が含まれるということだったはず。
Aは舶載、Cは国産だろうけど、Aが入ってきたのが邪馬台国時代つまり、卑弥呼が
もらった鏡がAに含まれるとすると、Aの大半が古墳出土という問題が残ります。
九州説からは、Aは邪馬台国時代のあとに入ってきたと考えるのが合理的という
のが、
>>223 での考えです。
233 :
30 :2008/01/29(火) 13:13:59
>>227 >何だか話しが飛んじゃっていますね。
貴方が、虫さんの考えは間違っていると言う事ですかと聞くから、
言語虫さんのホームページに書いてある「三十人の王がいる」は間違いですと言ったのですよ。
>この“皆”の文字は通常(条件付加が無い)、同時系列上の複数の時使用します。
そんなルールはありません。(これ書くの、昨日に続いて二回目w)
史記・五帝本紀・帝舜
虞舜者,名曰重華.重華父曰瞽叟,瞽叟父曰橋牛,橋牛父曰句望,句望父曰敬康,
敬康父曰窮蝉,窮蝉父曰帝??,??父曰昌意:以至舜七世矣.
自從窮蝉以至帝舜,皆微為庶人.
昌意―??―窮蝉―敬康―句望―橋牛―瞽叟―虞舜=重華
という親子関係の系図の中で、窮蝉から虞舜までの六世代の人間が「皆」微賎で庶人であったとあります。
伊都國の代々の王が、「皆」女王國に統屬するのと同じ事情・表現です。
検索すれば良いんだから、これくらい、数分で調べられるでしょう。
同じような例は、他にたくさんあるんだから、見落とすはずもない。
>必ず「世」の時間範囲を具体的に表す語句が付加します。
とか、
>到官のあとに倭が必要とか、
とか、言語虫さんに教え込まれたのか、自分でお考えになったのか知りませんが、
書き込む前に、自分で確認してください。
こちらも、反証を書き込む手間が省けます。
こちらも、反論を書く手間が省けます。
234 :
30 :2008/01/29(火) 13:32:42
>>228 >世世ではないので代々もおかしい。
上にも説明してあるとおり、おかしくありません。おかしいと言っているのは、プラムさんだけです。
昨夜の説明で、「世吏二千石」を「吏二千石をよよにす」でもよいと書いたのは、「世」以外に動詞が無いからです。
「世有王」の動詞は「有」で、「世有」では、「王」に対する動詞になりえません。
だから、ここの「世」は副詞的に「よよ」と読むしかありません。
もし「有王、世」なら、228さんの仰るように「王有り、せいす」とでも読んで、一世代の交代と解釈できないこともありません。
>東の道は不彌國に至る。百里
放射説を採るなら、その解釈も出来なくはないかなという感じです。
私は、基本的に放射説は採っていないので、東の道とは読みません。
235 :
30 :2008/01/29(火) 13:41:11
>>233 は、原文をワードにをコピペして、それをまたコピーしてスレに書き込んだので、
とかが重なったり、最後の行が重なったりしてますね。ごめんなさい。
236 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/29(火) 13:41:37
>>234 『…丗有王皆統屬女王國…』の“丗有王”の和訳は
(よ、おうあり)です。
>>236 (よ、おうあり)の(よ)は、代々の意味でなければ、どういう意味ですか。
238 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/29(火) 14:01:13
>>237 『よ』
この倭人伝は魏書の一部
だったら当然、魏之丗
>234 ありがとうございます。 >世 文法的に世世と解釈してよい というかせざるを得ないってことですね。 >東行 放射説ならですか。 個人的にはまだどちらとも決めかねてる段階です。 で、不躾なのですが>30さんだけではなく ここを御覧の皆様に質問させてください。 奴国以降で不彌國にだけ”行”が使用してあるのは どういった理由からだとお考えでしょうか? 今のところ僕の意見としては”道”があったのではと思っています。
240 :
186 :2008/01/29(火) 14:19:55
>238 あ、魏の世ですか! 気付きませんでした。 色々な読み方があるんですね。
241 :
サガミハラハラ :2008/01/29(火) 15:03:04
東南陸行伊都国にいたるですから伊都国にいきます。 東南奴国にいたるで行がついていないので奴国にはいきまsぜん。 東行不弥国にいたるですから不弥国にいきます。 つまり、ここまでは行がついていればその国に行くのです。 次の投馬国と邪馬台国は別の話なのです。 不弥国までの行路記事は漢の時代の資料から記したものです。 投馬国と邪馬台国については魏使の報告によるものです。 つまり鎮守が引用した資料には二種類あったということです。
242 :
ローガン :2008/01/29(火) 15:57:20
>>223 特鋳でないなら既存の鏡という事ですね。
ではなぜ、出土数の多い鏡が論外や除外になっちゃうんでしょう?とっても不思議です。
寺澤さんによれば、平原1号は200年前後(王権誕生p230)ですね。
庄内並行期になるかならないかの西新式なのでしょう?
卑弥呼以前ですね。もうその頃、九州では、舶載鏡を手に入れる事が難しかったのでしょう。
岡村編年によれば、7期第二段階の鏡の中心は、畿内ですね。
243 :
ローガン :2008/01/29(火) 16:11:33
>>225 素人ですがさん。
何故2000里が180kmになるのですか?
>>242 △を魏から下賜された鏡とする説は、中国では枚も出土しない△は、日本向けの
特鋳であるとします。
しかし、「100枚」が下賜されたとあるのにすでに500枚以上出土しています。
舶載説はその過半数を特鋳としますが、出土率を10%とすると2500枚以上が
日本向けに特別に作られたことになります。
このような大規模な特鋳を想定することはあまりにも無理であると考えます。
素直に△の全部が日本製と考えるべきでしょう。
また、画文帯などの神獣鏡は、主として呉の領域で作られたもので魏の領域の
鏡ではないので、これを下賜したと考えるには無理があります。
245 :
サガミハラハラ :2008/01/29(火) 18:24:32
1里67.6mですから2000里は136kmです。
>>242 平原王墓(1号墳)の年代について
古墳時代を200年ころからとする説では200年頃になるということですね。
この考えでは、200年ころには環濠集落は終焉したことになります。
しかし、魏志に出てくる伊都国、奴国、末盧国は、基本的には環濠集落の時期に
栄えていたところで、古墳時代には西都原などに比重が移っています。
邪馬台国を環濠集落の時期であるとする考えの九州説では、平原はその終末以降
となるので、だいたい280年よりは後の時期となります。
卑弥呼の居所の描写や、狗奴国と対立して魏が檄文などで支援したことや、各地域が
「国」と呼ばれていたことなども、環濠集落の時期とする側に有利であると思います。
そもそもが魏と国交のある倭国の国が30国はあるわけで その中で記録に残されてるというか魏志倭人伝に記載されてるのが 邪馬台国なだけでしょ? 鏡の出土で解る事はその当時、魏なり後漢なりと国交があったかもって事で 金印とかならともかく鏡が多いから邪馬台国って話になる方がおかしいと思うんだけど。
248 :
古代 :2008/01/29(火) 19:34:27
鏡が話題になるのは卑弥呼が鏡を「100枚」下賜されたと記述があるからです。 だから鏡「100枚」が邪馬台国の決め手の目安になると考えられている。 で、現在発見されている鏡の多くは国産かあるいは晋や呉のものと思われ、魏の鏡「100枚」は見つかっていない 特注なら話は別だが・・・
249 :
日本@名無史さん :2008/01/29(火) 20:23:23
246さんに反論します。鏡は私には難しすぎるのでそれ以外で。 邪馬台国時代はもう古墳時代ではありませんか? 卑弥呼女王が亡くなったとき100歩以上もある大きな墓を作ったと 魏志倭人伝にはちゃんと書いてあったでしょう。 これはまず古墳と考えるのが自然なのではありませんか? それから、邪馬台国でもそうですが、伊都国、奴国、末盧国でも 環濠があったなんて倭人伝には一言も書いてなかったと思いますが、違いますか。 246さんは考古学に詳しいようですが、文献も重視するべきです。 魏志倭人伝は3世紀のことが詳しく書かれたたいへん貴重な文献です。 文献に書いてない環濠をあるようにしたり、 文献に書いてあった卑弥呼の墓を無視したりするのは、 いくら考古学が発展したといっても全然おかしいやり方だと思います。
!ひらめいた! 『倭面土国王帥升』なんだけど、 倭は委の誤り 面は、図の誤り(旧字体は、似ている) 土は毛の劣化コピー と言うことで 出雲国王スサノオ ってのはどう?
251 :
ローガン :2008/01/29(火) 20:46:47
>>247 そうですね。確かにピンポイントで邪馬台国に近づくとは思えないですね。
しかし、残りの良い遺物ですから、ものさしとして、利用したいと思いますよ。
>当時、魏なり後漢なりと国交があったかもって事
つまり、広域倭国を考える上でひとつの傍証であるといえましょう。
252 :
75 :2008/01/29(火) 20:53:21
>>246 >しかし、魏志に出てくる伊都国、奴国、末盧国は、基本的には環濠集落の時期に
>栄えていたところで、
栄えていたところとは、具体的にどこを想定していますか?
福岡市博多区から春日市一帯は、縄文・弥生から古墳時代以降へ切れ目無く繁栄してますよ。
>古墳時代には西都原などに比重が移っています。
西都原古墳群周辺が、弥生時代の北部九州のようなセンター機能を持っていたんでしょうか?
>>252 例えば、ほとんどが古墳から出土する画文帯をみたとき、九州のなかで
伊都国、奴国で多く出土するという事実は認められないですね。
むしろ、この地域からの出土は少ない。
つまり、魏志で重視されている伊都国の扱いと合わないですね。
伊都国に近く人口が多いとされる奴国の扱いにも合わないですね。
これは古墳時代はこの地域は九州のなかでの優位性さえなくなっていると
考えた方が良いと思います。
254 :
素人ですが :2008/01/29(火) 21:28:13
>>243 当時の魏では、434m/里と考えられていたらしいですが、
「帯方郡から狗邪韓国に至る 水行」が 7,000余里で実測で約700km弱
また
「狗邪韓国から対馬国に至る 一海を渡る」が 1,000余里で実測
が約100km弱なんで、便宜上、90m/里と検証してみました。
あなたなら、そのくらいの説があること自体知ってのことだと思いますが。
>>249 「径100余歩の墓」というのは、たしかに古墳時代に有利ですね。
これをそのまま読むと、直径160m前後の円墳ということになりそうです。
しかし、それに合う古墳は見つかっていません。
原文には「塚」とあり、「墳」とはなっていないので、いわゆる「古墳」ほど
の大きな墳丘があるようには読めないという指摘もできます。
「塚」レベルの高さならば、吉野ヶ里の北墳丘墓なども当てはまるので、
この点では古墳時代に限ることはできません。
そうすると、「径100余歩」という部分のみが古墳という根拠になりますが、
100余人の殉死者を埋めたとする部分を含めての径とすると、卑弥呼の
ための部分はそれほど広くないのかも知れません。
また、「径100余歩」、「奴婢100余人」、国中が服さず「1000余人」が
殺されたという大雑把な書き方なので正確な数値でないとも言えます。
256 :
日本@名無史さん :2008/01/29(火) 22:36:32
なんだか、「サザエさん」(英訳)を読んで日本文化を 研究している西欧人のような、間抜けな感じのする スレですね。
257 :
ローガン :2008/01/29(火) 22:57:38
>>253 246とおなじ方?
古墳時代はいつからとお考えですか?
さっきのレスとニュアンスが違うので…
違う人ならごめんなさい
258 :
ローガン :2008/01/29(火) 23:19:06
>>254 ああ、なるほど。実測は確かですね。
しかし、記述の里数は果たして正しいのでしょうか?
(こう尋ねると九州説支持の方に、「陳寿の記述に絶対間違いなどない!」って何度か言われました。w)
これではお話になりませんね。
>>256 サザエさんには長谷川町子という日本人の原作者がいた
では魏志倭人伝はどうか
比喩的表現を気取ったつもりだろうが、あまりに不適切
後漢書 倭奴國 金印 漢委奴國王 魏書 奴國 委奴國と奴國どっちが正しいの?
261 :
30=どくだみ酒 :2008/01/29(火) 23:52:19
>>258 ローガンさん
距離については、
>>13 >>14 >>15 の、ご参考までさんの意見が、かなり有力だと思いますが、如何ですか。
陳寿が誇大に書いたのか、もとの資料が誤っていたのかは別にして、
ご参考までさんの書き込みを読むと、確かに、倭人伝の距離は、ちょっとなと思いました。
262 :
古代 :2008/01/29(火) 23:58:06
434m/里で全てを当てはめるととんでもない数字になるので 短里を用いるのが妥当では?短里を用いる人が多いと思うけど。
263 :
古代 :2008/01/30(水) 00:03:01
260 昔は奴國と考えられていましたが、最近では委奴國と考える人が多いようですよ。 さらにその後の倭国大乱を考えると、魏志の奴國は別の国と考える方が自然です
>>263 しかし、魏書の中の奴國の付近で金印が発見されたのは何故でしょう?
奈良時代の「なの県」は元、奴國ではなのでしょうか?
後漢書の倭奴國は委奴國の間違い?
委奴國は「イナコク」?「イト」とは読めないと思いますが
魏書の奴國が委奴國の間違いでは?
265 :
日本@名無史さん :2008/01/30(水) 00:19:25
卑弥呼は卑弥呼でしょう?神話では、日(火)の巫女(御子)=天照大神。壱与は、神功皇后で北九州から近畿に東征しヤマト朝廷をつくった。古墳時代の始まり。しかし倭王武(雄略)で前期が終わる。後期は、継体と蘇我から始まる。ダメなの?
266 :
223 :2008/01/30(水) 00:21:39
>>257 同じです。
基本的には、環濠集落の終焉は280〜300年頃に段階的に
終焉していったと考えています。
その後に環濠集落の外に居住域が広がり、墳墓も巨大化していき、
石塚などの初期の前方後円墳が作られるようになったのは、
330年頃からであると考えています。
イ、イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・ イヨタン………
268 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/30(水) 00:31:51
>>260 委=倭 音は「イ(ヰ)」で同じ。
委奴國と奴國はどちらも正しい。視点が異なる立場における表現方法の違い。
後漢書では東夷の倭の奴國であるから倭奴國。
魏書では倭人伝に書かれているから奴國。
もし倭人伝以外に書かれていれば倭奴國となる。
たとえば、魏書韓伝では弁辰狗耶國、しかし魏書倭人伝では狗耶韓國。
上記は、学校で1組のA君を1組の担任の先生は「A君」と言うが、
2組の担任の先生は「1組のA君」と言うがごとし。
>>267 おい、どうした?、しっかり汁!
なんか悪い夢でも見たんか?
おまえは「イヨタン」「トヨタン」しか言わんから
何を考えとるのかさっぱり分からんわな
270 :
古代 :2008/01/30(水) 00:41:58
264 委奴國をイト国と読んで伊都国を指すという人もいますよ。自分は支持してませんが。 魏書の奴国が那の津とか儺の県とかの地域であることは異論はないと思いますよ。 確かに金印が見つかってますね。あとは想像なので同じとしても違うとしても間違いとは言えないかな。 イ音は発音しないことも多いので委が取れて奴國になったとか。
271 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/30(水) 00:51:42
>>260 魏書「奴國」は後漢書「倭奴國」と全く別の国。
魏書に「世有王皆統屬女王國」とあるので、
魏書「伊都國」は後漢書「倭奴國」の後継國でしょう。
即ち、伊都國は弱体化した倭奴國です
伊都・倭奴の音は「イト」で、同じかよく似ている音と見ていますが。
272 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/30(水) 00:52:37
>>260 魏書「奴國」は後漢書「倭奴國」と全く別の国。
魏書に「世有王皆統屬女王國」とあるので、
魏書「伊都國」は後漢書「倭奴國」の後継國でしょう。
即ち、伊都國は弱体化した倭奴國です
伊都・倭奴の音は「イト」で、同じかよく似ている音と見ていますが。
273 :
ローガン :2008/01/30(水) 00:55:47
>>261 お!そろそろ寝ようと思ってたら、どくだみさんからのレスが!
同意します。よって不正確な里数と実測値の対比から、1里が何mとだという考え方が理解出来ません。
以前、正月〇鹿さんが書かれていたのですが、倭人伝冒頭の記述は、誰かの紀行文ではないないって事に同感なのです。
例えが悪いと思いますが、ガイドブックとでも言いますか。
その記事の末尾に漢書粤地からの引用記事を記した上で、「計其道里當在會稽東冶(治)之東」と記述してますね。
読み手に南方を意識させた上で、俯瞰した倭の位置を書いているように読めるのです。
オリジナルの資料が間違っていたか、魏志の先行史書の間違いか、陳寿の錯誤か、はたまた、意図的なものかはわかりませんが、
行程の記述から、女王の都を見つける事は出来ないって思います。
そうそう、「…其余旁国遠絶不可得詳…」。
(倭国は)遠絶なため、周辺の国については詳しい事迄わからない。 と読みたいのでですが。
いかがでしょう?
では、お休みなさい。
>>268 >たとえば、魏書韓伝では弁辰狗耶國、しかし魏書倭人伝では狗耶韓國。
それだと、なぜ奴國は倭奴國なのに、狗耶國は韓狗耶國ではなく狗耶韓國なのかという疑問が生じますね。
275 :
日本@名無史さん :2008/01/30(水) 02:36:58
>>266 >基本的には、環濠集落の終焉は280〜300年頃に段階的に
>終焉していったと考えています。
かように実年代を出して来るが、根拠有るんかね?
「基本的には・・・・と考えています」では、自分がそう思っておるちゅうだけで何の根拠にもならんぞよ。
他人に自説を認めてもらいたくば、遺跡名を具体的に列挙しきちんと根拠、理由を述ぶるべし
>石塚などの初期の前方後円墳が作られるようになったのは、
>330年頃からであると考えています。
石塚とは纏向石塚古墳かな?
ここも先程と同様で、纏向石塚が330年頃との証明が聞けん。
古墳築造の、(相対年代ではなく)実年代を割り出すのは、そう簡単とは思えんが
しかし貴殿が纏向石塚が330年頃と主張するからには、
さぞきちんとした根拠や理由があってのことじゃろ。
ぜひそいつを聞かせてくれ。
「纏向石塚は330年頃」の証明をやってくれ給え
巻向石塚で議論があるのは知ってるが 実年代330年って、庄内の編年がすごいことになりそうな
277 :
日本@名無史さん :2008/01/30(水) 03:33:13
>>265 >おまえは「イヨタン」「トヨタン」しか言わんから
>何を考えとるのかさっぱり分からんわなwww
ロリコン厨は
>>265 に反応したんじゃよ。
「壱与は、神功皇后」・・・・・のところにな
そりゃイメージが合わん、壱与と神功皇后とは。
少女で即位した壱与と、夫仲哀天皇が急死うけ摂政位(実質的には女帝)となった神功とは、合わん。
>>265 じゃなくとも、俺だってびっくりだ。
>>265 に聞きたいが、壱与=神功皇后説は、誰かの受け売り? それとも貴殿の創見?
神功皇后は、確か父方はオキナガ氏、母方は葛城氏じゃなかったか?
神功は九州・朝鮮の事跡以前から、畿内の大和・山背や北近畿の近江・丹波に関係があった婦人のように思うが。
それに卑弥呼〜壱与の間の男王は誰だ? まさか仲哀天皇とするんか?
278 :
素人ですが :2008/01/30(水) 07:06:19
遥か昔、紀元前200年頃に、秦の始皇帝は臣の徐福に命じ、東の海に蓬莱・方丈・瀛洲 という三神山があって仙人が住んでいる国にある不老不死の薬を求めて、3000人もの 老若男女の大集団を派遣した。 しかし、船は難破し倭の国々の各所に漂着し、地方各所で族長(弥生人)となり、 原住民であった一般住民(縄文人)と混血し現在に至っている。そして、大陸との交易は 北九州の国々を介して継続されていたが、後漢王朝滅亡期の2世紀中頃に大陸より多数 の避難民が倭国に移住してきた。 その中の一人に物部の祖饒速日尊が居た。彼らは大乱に明け暮れる北部九州に嫌気を さして、東へと進み、安住の地であった河内・大和にたどり着く。そこで地の神であった 長髄彦の妹を娶り、畿内に物部政権(三輪王朝)を確立させる。 その頃、また一方で倭国大乱の際に敗北した中部九州(筑紫平野)にあったヤマト軍(邪馬台国) は南に逃亡し日向国(高千穂久士布流多気)に第二次邪馬台国を樹立する。 そこで、国力を附けて再度北上し、宇佐(中津)に至り第三次邪馬台国を樹立する。国力を増強 させ、多数の兄弟と兵士を従え、筑紫国岡水門・吉備を経て、数年の歳月を費やし、その子孫と なる神宮皇后と武内宿禰夫妻は遂に畿内に至るが、そこに先住者であった饒速日尊の子(子孫) である宇摩志麻遅命(事代主)が待ち受ける。 そこで、国譲りの談判に成功し、物部一族は出雲や諏訪地方に落ちていく。強引な談判により敗北 し深く恨む物部氏を出雲や三輪山で厚く祀ることで大王家(ヤマト朝廷)の平穏が願われた。
>249 九州説ではないし>246さんでもありませんが 依山島為國邑の邑という字には 城壁で囲まれた都市国家って意味もあります。 しかし、当然城壁があるわけはないしそんなものも見つかっていません。 で、頭に浮かぶのが吉野ヶ里遺跡です。 環濠集落が邑でさらにその集合体が國 あるいは國の集合体が邑というは読み方できないのでしょうか? そもそも卑弥呼の下に連合してるとはいえ、 いつまた争いがおこるかわからない緊張状態の中で なんの対策もなかったとは考えられないのですが いかがでしょうか?
280 :
日本@名無史さん :2008/01/30(水) 10:45:32
大雑把だけど 帯方郡:現在のソウル近辺 狗邪韓國:朝鮮半島の南岸の何処か 對馬國:対馬 一大国:壱岐 末盧国:佐賀県松浦市〜唐津近辺 九州説/畿内説に関わらず ここまでは大体同じだと思うが違うよって人いる?
281 :
松本成長 :2008/01/30(水) 12:01:04
ここの掲示板、レベルたか。
282 :
日本@名無史さん :2008/01/30(水) 12:02:44
帯方郡ってソウル近辺か?もっと北じゃねっ
283 :
日本@名無史さん :2008/01/30(水) 13:12:47
>>275 違う考えなら自分の説と根拠を言えば良いのでは?
自説の証明をすれば、それと違う説は排除される訳だから。
284 :
サガミハラハラ :2008/01/30(水) 13:19:07
漢の時代の楽浪郡は京畿道から忠清道の北部までありました。 公孫氏はその南部の地を分けて帯方郡を設置したというので、この京畿道と忠清道の一部でしょう。 郡庁はソウルの南を流れる漢江の南にあったとおもわれます。土城のあとが何箇所かあります。
>282 沙里院とか安岳郡とかも含むということならOK?
286 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/30(水) 14:03:27
>>274 >たとえば、魏書韓伝では弁辰狗耶國、しかし魏書倭人伝では狗耶韓國。
>それだと、なぜ奴國は倭奴國なのに、狗耶國は韓狗耶國ではなく狗耶韓國なのかという疑問が生じますね。
其の疑念は尤もです。
しかし、しかし「狗耶國」は辰韓弁辰条で「弁辰狗耶國」となっています。
又「弁辰瀆廬國」は韓伝のラストで「其(弁辰)瀆廬國」ともなっています。
これらの表現方法から、「弁辰狗耶國」を再掲する場合
「狗耶韓國」としないで「韓狗耶國」とすれば、
これら両狗耶國は別の国となってしまいます。
これは簡潔に表現する陳寿の筆法ではないでしょうか。
>>233 さん 火傷の為熱がありレス遅くなりました
>そんなルールはありません。(これ書くの、昨日に続いて二回目w)
史記・五帝本紀・帝舜
虞舜者,名曰重華.重華父曰瞽叟,瞽叟父曰橋牛,橋牛父曰句望,句望父曰敬康,
敬康父曰窮蝉,窮蝉父曰帝??,??父曰昌意:以至舜七世矣.
自從窮蝉以至帝舜,皆微為庶人.
昌意―??―窮蝉―敬康―句望―橋牛―瞽叟―虞舜=重華
という親子関係の系図の中で、窮蝉から虞舜までの六世代の人間が「皆」微賎で庶人であったとあります。
伊都國の代々の王が、「皆」女王國に統屬するのと同じ事情・表現です。
この用例は変ですね
私が提示した、同時系列上に対し
あえて文中に(昌意〜重華)までの縦関係の記され、横関係ではないと念を押したような文を提示して
「皆」にはそんなルールはないと否定する。
そりゃ、こんな縦関係を記した文章に横関係が入り込む余地なんて一分もありませんよ
しかも
>伊都國の代々の王が、「皆」女王國に統屬するのと同じ事情・表現です。
どこが同じなのでしょう?
貴方が提示された文章には、伊都国の代々に相当する(昌意〜重華)は具体的に名を記し、年代も推定できるもの
一方伊都国の代々とは、具体的に何時から何時までの設定であり、その王の名前を設定することが可能なんでしょうか?
貴方には、私の提示した「皆」の解釈を否定するにあたり、この用例が適切と判断しての提示でしょうから
その辺具体的に示していただきたいと考えます。
>>283 ↑こいつがもし
>>266 と同一人物だったら、
「石塚330年は俺の勝手な想像。俺には証明できない」
て言ってることになるね。ww
289 :
ローガン :2008/01/30(水) 17:37:53
>>266 了解しました。現在概ね支持されている年代感とは、100年程開きがあるようですね。
290 :
素人ですが :2008/01/30(水) 17:53:27
>>273 「…其余旁国遠絶不可得詳…」
(倭国は)遠絶なため、周辺の国については詳しい事迄わからない。
私もこの解釈を以前から主張していました。相手にされませんでしたがね。
291 :
186 :2008/01/30(水) 18:46:09
>287 プラムさん大丈夫ですか? 無理はならないように御自愛くださいませ。 質問なのですが>238で仰ったようにここの"世"を魏の世と読む事に異存はないのですが 魏の世(文帝からでも45年)の間、伊都国にも王がいたという事で その後に皆が来ていることから一人ではないと判断でき これを仮に代々と読んだとしてもあまり全体に影響はないのではないでしょうか?
292 :
古代 :2008/01/30(水) 18:54:29
278 物部氏の子孫が事代主というのはどこから来たんでしょうか? 大物主が物部氏の神であるという説は聞きますが。 饒速日はスサノオの子である大歳神で出雲の神であると言う説があります。 一方事代主は出雲風土記に名前がないのでもともとは出雲の神ではないのではないかという説もあります。
>>291 さん
御心配おかけします。
低温火傷を馬鹿にし放っておいたら、痛みと熱が激しく出、昨日医者に怒られました。
ところで
先程の、代々としても大意に余り影響がないと言う話しですが、大意以前に
はたして四十年程で代々という表現が使えるかどうかの検証が、文献にて可能か?
そして
代々や皆と言う漠然とした複数用語を並べる理由がないということです。
代々なら皆等と言う語は必要ないです。皆を使うなら、代々に当たる部分を具体的に明記し、それらに対し皆を使う可きと考えます。
大意に影響ないから
おおざっぱOKではないと考えます。
294 :
ローガン :2008/01/30(水) 19:24:28
295 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/30(水) 19:31:26
>>290 素人ですがさん
認められるには
傍らの国の何が遠絶なのか説明すればいいんです。
>>273 ローガンさん
>よって不正確な里数と実測値の対比から、1里が何mとだという考え方が理解出来ません。
洛陽から襄平まで4000里という明帝紀の記述は、本紀の記述ですし、
三国志が編纂されたのは晋であり、その始祖ともいうべき
司馬宣王が実際に通った道程ですから、
かなり信頼してもいいのではないかと思います。
それで、洛陽から襄平の実測距離と4000里から、一里が何メートルかを考えるのが良いように思います。
>「…其余旁国遠絶不可得詳…」。
私見ですが、
自女王國以北 其戸数道里 可得略載
其餘旁國 遠絶 (其戸数道里) 不可得詳
という対比で文が構成されていると思います。
ですので、其餘旁國=三十国のうち女王國より北以外の國=遠絶
ということで、倭国全部が遠絶ということではないだろうと思います。
297 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/30(水) 20:20:12
晋魏度量衡 一尺=約24p
298 :
横槍 :2008/01/30(水) 20:25:10
>>272 奴=トは、倭人伝の他の固有名詞を観ても無いと思いますが、
奴=ナorヌorネorノあたりが妥当では?
隋書では、一〇七年の朝貢は委奴國になっていますね
倭面土国は本来は、委奴面土国(イナミャトゥこく)ではなかったかと推測します。
即ち、宗像市稲元
299 :
30 :2008/01/30(水) 20:37:45
>>287 熱がでたというので、ひどい火傷なのかと心配しました。それにしても、低温火傷も熱が出たりするんですね。
とにかく、充分ご養生ください。
ひとつ確認ですが、普通、時系列と言うと、過去から未来への一本の時間の流れを意味しますが、
プラムさんの説の流れから、
>この“皆”の文字は通常(条件付加が無い)、同時系列上の複数の時使用します。
というのは、同時代に並列した横関係の人や物に対して「皆」を使い、
世代を異にする人を並べた縦関係の場合「皆」とは言わないという意味だろうと解釈しました。
もし、その理解が間違っているのなら、ご指摘ください。
それで、233に挙げた例は、世代の異なる親子関係を並べて「皆」を使用している例です。
まさに、伝説の王舜が誕生するまでの代々の当主を「皆」と言っています。
だから、「皆」は横関係にしか使えないというルールはありませんという証拠です。
これをもって、皆を使ったものが、全部縦関係ということではありません。
「皆」は、時間的に縦とか横とか関係なく使用できる言葉で、「皆」があるからといって、「世」の読みは決定できません。
それから、舜は、三皇五帝という伝説上の王様の一人で、年代も何も推定できません。
それに対し、伊都國は、陳寿の同時代に存在している国です。
我々が、イギリス王室の代々の王という場合、具体的に何時から何時までの設定かわからないから
代々とは言えない、などと考えるでしょうか。
もう一つ、代々というときに何時から何時までという区切りを表す言葉が必要と言うのも、貴方の思い込みです。
どこかの老舗の始まりが何時の時代かは知らなくても、「代々の御当主は」と言えます。
当たり前です。目前に存在するものには、必ず始まりがあります。単に代々というとき、
その始まりから、代々と発言したその時点までという区切りが既に存在しているからです。
逆に、春秋世と時代区分を明記した場合、「春秋のよよ」とは読めないことは、前に書いたとおりです。
(魏の世)については、昨日レスを書いていたのですが、投下するタイミングを逸してました。
このレスも長くて読むのが大変でしょうし、(魏の世)に対するレスも長文ですので、
1時間くらい空けて、スレの様子を見つつ投下しますね。
300 :
素人ですが :2008/01/30(水) 20:38:20
>>292 フィクシヨン小説なんで流してほしいのですが。あえて理屈をつければ、
事代主を物部としたのは、出雲の国譲りの神話は単に三輪王朝(物部王朝)
の出来事であったろうと推定しているのでそのように書き込みましたが、
他に古事記では、事代主は「宗像神」と「出雲神」の子とされているよう
です。
また、宗像大社の伝承には、宗像(神)の子が住吉(神)でその子が宇佐(神)
との伝承があるらしく、よって、事代主=住吉神と推定することも可能
となります。
住吉大社伝承では、神宮皇后と住吉神(事代主)が密事ありとされ夫婦の
関係を示唆しており、その子が応神であり二つの伝承は裏付けられる。
というトンデモ小説でした。
301 :
ローガン :2008/01/30(水) 20:51:18
>>296 すみません。言葉が足りませんでした。
魏志倭人伝に書かれた里数と実測値って言いたかったのです。
三國志全体を見れば、概ね、400m見当ではないでしょうか?
韓伝、倭人伝のみ、大きく書かれています。
「遠絶」の件、ご教示ありがとう。やっぱりきちんと学ばないとダメですね。撤回します。
302 :
30=どくだみ :2008/01/30(水) 21:02:19
>>301 お役に立てたとしたら、嬉しいです。
ついでですが、
自女王國 以北 其戸数道里 可得略載
其餘旁國 遠絶 (其戸数道里) 不可得詳
これって、字数がピッタリ合っているでしょう。
倭人伝の記述って、こういう同字数の対を意識した記述が散見されます。
倭人伝に限らず、漢文は対句表現が多いですし、
私は、読みに迷ったら、そういうリズムも、ちょっと考えるようにしています。
303 :
唐松山 :2008/01/30(水) 21:07:33
ホ27053 ハラミヤの クニテルをつぎ アマテラス ニギハヤヒキミ モにいりて 物部の祖饒速日尊は 天照神でもあった? 10年の治世でニギハヤヒキミ崩御、 この時 神武 45才手研耳 を産む 事代主(ワニ彦)100と8才 妹 イススヨリ姫10と5才 後の神武の后 108才と15才では 有りません 100と10は 振り 神武 45才は増し 翌年 神武東征に出る 天照大神の誕生は 是より 約600年前の出来事です。 本物の 年数は ただいま計算中。
304 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/30(水) 21:10:53
>>299 長文の御心配は無用です。他所でなれてますから
直径4p程の低温火傷なのですが、ばい菌が入り昨日は40度の熱がでました。
さて
時系列と申したのは
魏時に四十年ほどの縦幅を持たせるがための事です。そして
「皆」を横軸限定としたのは
貴方の提示された用例のように、縦軸に対して皆を使う場合
必ず縦の対象物を具体化させ、皆とするからです
単純な皆は全て対象が横と言うことです。
それに
何故縦軸を明確に説明しなければならないか?
それはこの倭人伝が紀伝体を基とし書かれているからです。
老舗の始まりと紀伝体で書かれた史書を同レベルで扱われても
そして陳寿は倭人伝の最初の頃「今(魏時)」と
念を押すかのように……
305 :
日本@名無史さん :2008/01/30(水) 21:13:45
>>296 この場合、倭国全部は遠絶ではないでしょうが、少なくとも 女王国以南
は詳細がわからないほど遠絶ということでしょうか。
306 :
古代 :2008/01/30(水) 21:20:34
303 クニテルをつぎとはなんでしょうか? 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊はニギハヤヒの別名ですがアマテルとクニテルが見えますね。 天照=ニギヤハヒ論はよく耳にしますね
>>304 横からすいません。
> 時系列と申したのは
> 魏時に四十年ほどの縦幅を持たせるがための事です。そして
> 「皆」を横軸限定としたのは
> 貴方の提示された用例のように、縦軸に対して皆を使う場合
> 必ず縦の対象物を具体化させ、皆とするからです
> 単純な皆は全て対象が横と言うことです。
高熱の上に更なる熱のこもった弁を述べられていらっしゃいますが、
「横」でも「縦」でも読み手に「皆」の中身が伝わらなければ文章として
意味を成さないですよね。
「世」に「代々」の意味があることは貴方も認められますよね。
ならば、「条件付加」は成立し、読み手には「皆」の中身が伝わります。
>通常(条件付加が無い)、同時系列上の複数の時使用します。
これはおかしいです。
具体的であろうと大まかであろうと「読み手に伝わる情報(条件付加)」が
無ければ「皆」とは書けません。
書かれても読者は何のことだか理解しようがありませんから。
では、「世」に「30」と言う意味は有るのか、無いのか。
魏「代」、魏「時」等の意味で使われる用法があるのか。
残りの論点は、そこら辺りじゃないですかね。
308 :
30 :2008/01/30(水) 23:08:11
>>304 昨日40℃の熱が出たのに、きょうレスなんかして大丈夫なのですか。
とりあえず、いい感じに過疎っているので、書き込みますが、
レスは二三日休まれて、体調が回復してからにしてくださいね。
ところで(魏の世)なら、三十人の王より議論のし甲斐があります。
文脈を無視すれば、文法的には成り立つから。
虫説が進歩したのか、プラムさんが呪縛から脱しかかっているのかわかりませんが、
どちらにせよ、喜ばしいことです。
貴方の説によれば、「世有王」は「魏之世有王」もしくは
「魏世有王」の省略された形ということになります。
その主語は、「魏(之)世」、動詞が「有」、賓語が「王」です。
ところで、これは伊都國の話をしているので、わかりきった事は省略されます。
つまり、上記の文は、どこかに「伊都國」が省略された文なのです。
可能性は二つ。一つ目は、
「魏之世伊都國有王」から「伊都國」が、省略された形か、
「魏之世有伊都國王」から「伊都國」が省略された形。
まず、前者から。
これは、省略前の文の主語は「伊都國」、省略後の文の主語は「魏之世」と
主語が変わってしまいます。
なぜなら、「世有〜」の形は、「世に〜有り」の意味でよく使われるので、
「世」と「有」の間に、省略された主語があるとは、読者はまず想定しません。
省略は、文中の構成が変わらない形でしか行われないので、これは無いと思います。
私も、全ての漢籍を読めませんので、
断言はしませんが、99%くらい無いと思います。
もし、そんな例を見つけたら、是非お教えください。
そういうわけで、この形の省略は無いと考えて良いでしょう。
309 :
30 :2008/01/30(水) 23:08:41
さて、次に「魏之世有伊都國王」から「伊都國」が省略された形の場合。
このとき、上記のように、主語は「魏之世」です。
つまり、直訳すると「魏の世が、伊都國王を所有する」で、
筆者の視点・叙述の中心が「魏之世」になります。
ここまで、辺境蛮夷の倭のうちの一国にすぎない伊都國の国情や官職名を書いていたのに、
突然、「魏の皇帝が支配する時空間には」伊都國王が存在する、と述べ、
また次の文で、「伊都國には郡使が往来する」と述べます。
つまり、視点が、辺境→帝国→辺境と脈絡なく変化するのです。
もう一点、魏之世に伊都國王が存在するといっても、王が複数かどうか、
個人か抽象的な位を指しているのかすら、この文脈ではわかりません。
ですから、皆という言葉に繋げるのは、ちょっと苦しいですね。無理とは言いませんが。
それに比べ、「世」を「よよ」と読む場合、
「伊都國世有王」の主語が省略された形です。この省略は、読者に想定可能なのです。
なぜなら、「世吏二千石」は定型句で、「某家世吏二千石」の省略の形になっているからです。
「世○有〜」の○は省略できないけれど、「△世有〜」の△は省略できるということです。
さて、「世」には動詞的または副詞的に読まないと意味が通じないことがあるということ。
日本語では、動詞なら「よよす」副詞なら「よよ」で、「よ」は名詞の意味しかない。
だから、世は「よよ」「よよす」と読まなければならないことがある。
ということを、
>>201 あたりから、繰り返してきましたし、
「皆」が「代々」を受けられることも説明しましたが、
納得できましたでしょうか。
310 :
ローガン :2008/01/30(水) 23:10:19
>>302 ありがとうございました。どくだみさん!
おかげですっきりしましたよ。「リズム」のご教示も…
大事に考えるようにします。
でも、まだ、「八年朝貢主がイヨタン」には賛同したわけではありませんので(笑)。
(悪あがきとは思いますが、又別の機会に)
311 :
30 :2008/01/30(水) 23:15:45
>>307 正月○鹿さん
「世」の元の意味は、人間一人の活躍期間30年です。
うろ覚えですが、40歳で仕官して70歳で退官するというような文献があります。
一世三十年とする考え方は、其の辺りから来ているのかもしれません。
魏「代」、魏「時」という意味の用法はあります。
例えば、漢の時代という意味で、「漢世」と言ったりします。
ただ、上記の説明のように、この文脈で、この「世」は、そのようには読めないと思うのです。
>>310 ローガンさん
イヨタンの件は、またいつか話題に上ったら考えましょう。
312 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/30(水) 23:25:29
>>307 さん
>>308 さん
私もスーパーマンじゃないので流石にしんどいです。
その場に居る限り、即答が私のスタイルとしているのですが、今回の回答だけは時間を貰ってもよろしいでしょうか?(マジしんどい)
イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・・
314 :
ローガン :2008/01/31(木) 00:33:35
>>266 の方。
>>275 の方の疑問ごもっともだと思います。
私も、古墳時代のはじまりを4c中頃とされる根拠を貴方から学びたいと思います。
315 :
223 :2008/01/31(木) 01:11:36
>>314 長々とした説明はいやなので、要約すると・・・
1、邪馬台国を環濠集落の時期とする(理由はスレの上の方)。
2、崇神稜、箸墓は伝承とおりの被葬者であると考える。
3、崇神の在位を330〜360の間のうちの15年前後とする。
(神功皇后を390年頃からとして遡る。)
4、崇神稜は崇神の即位頃、箸墓はその10年ほど後に作られたが、
モモソヒメが先に葬られ、崇神がその後に葬られたとする。
(前方部の発達の程度などを重視、特殊器台→埴輪)。
5、崇神稜と規格が類似する石塚、矢塚、ホケノ山等は崇神稜と同じ
頃に築造された(土器の違いは埋葬時期の違い)。
6、呉の画文帯が日本に来るようになったのは、呉の滅亡後、朝鮮を経由
してきたと考える(300年以降に日本に来た)。
7、安本のいう「魏晋鏡」も画文帯とほぼ同じ頃に日本で流通が始まったと見る。
(どちらも古墳からの出土が大半であり、初期の出土傾向が類似する)。
8、以下略〜ZZZZZZZZzzzzzz
>>311 久々に新鮮な論者さんの参入なので楽しみに読ませていただいております。
> 「世」の元の意味は、人間一人の活躍期間30年です。
> うろ覚えですが、40歳で仕官して70歳で退官するというような文献があります。
> 一世三十年とする考え方は、其の辺りから来ているのかもしれません。
> 魏「代」、魏「時」という意味の用法はあります。
実は、そこら辺の議論も過去スレ等でプラム氏は経験済みなんですね。
御当人もそれを踏まえておられるとは思いますが、「世」の話から、
縦だの横だのと言う話に論点がズレそうなので突っ込ませていただきました。
倭人伝の「世有」と同じ用例は舊唐書の婆利國条に有りますね。
> 王姓刹利耶伽名護路那婆世有其位
プラム氏に訓み下していただきたいところです。
>>315 >崇神稜と規格が類似する石塚、矢塚、ホケノ山
ハァ?
こりゃ、安本信者だなwww
安本信者だからといって 対話を拒否する理由にはならないのでは。 ○○信者とかであろうがなかろうが。
批判殺到の悪寒だニャ〜 ──v──────── ∧,,,,,,∧ ミ,,´∀`彡 ミ ミつ ミ,,,○,,,,,,,,,ミ
>>317 この部分は寺沢でしょ。寺沢信者wwwww
あんポン必死だポ
322 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 10:33:31
倭人伝「誇大誇張記述」の続き 投馬国の五万余戸、邪馬台国の七万戸・・・。 日本の10世紀の平安京の人口は約11万人・・・ つまり邪馬台国の人口は後世の平安京に勝る・・・。 方位のみは、はたして、正確かとの疑問が湧くが、方位の作為はありやなしや・・・。
>>316 さん
> 王姓刹利耶伽名護路那婆世有其位
プラム氏に訓み下していただきたいところです。
いいですよ
(婆利國の)王の姓は刹利耶伽、名は護路那婆代々王の位に有る。
これでいいですか?
でも?この文と倭人伝の文の何処が同じ用例となるか私にはわかりません。
どちらかというと、
>>309 さんが提示している「世吏二千石」と同じ(世=よよ)の使われ方ではないでしょうか?
簡単に(よ、よよ)の使い分けを説明すれば
「よ」=(よ)の対象となるものが単一的なもの
「よよ」=対象となるものの範囲が単一的に括ることのできないもの
そしてこの「よよ」にも(世)とするもの(世世)の二通りあり
「世=よよ」は単一的に括ることが出来ても、その単一的に括られた内面は複数に時系列的に繋がりがある場合
例えば
>>309 さんが提示された○○家、などはその典型ですね
家は何代続こうが○○家として単一で括ることが出来ますが、そこに脈々と続く当主達は個人という複数です。
つまり、○○家が「世」でありその中の複数の当主たちが「よよ」と言うわけで、「世=よ」ではなく「世=よよ」と和語化されるのです。
もう一つ
「世=よよ」とする場合
単一的な一人の個人が、何世代にも渡り活躍するときなどの時にも使いますね(余り多く使われることは無いと考えますが)
○○△△という武将は、四代の将軍に仕えたとか(普通三代までの場合数字にて三代としてしまうため)
だから
>>309 さんの提示された「世吏二千石」も(世=よよ)と和訳されるのです。
隠れている某家は某家として一つに括れるが、禄二千石は某家の家督を継いだ者が代々吏として二千石の家だったのではないでしょうか
>>322 さん
以前から申している通り
誇張拡大する場合は、当然実寸法を把握しての誇張拡大でなければ意味が無いんですよ
実寸法も知らずに適当に拡大したと判断し記載したが、実寸法は誇張拡大した寸法と同じだったという
落語の世界になってしまいます。
325 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 10:57:16
実寸法云々・・・理解に苦しみます。 洛陽遼東間の里程が4000里、しかるに、帯方郡から狗邪韓国間の里程が7000里 との、陳寿は記しているのです。 地図帳でご確認して下さいませ。 落語か漫才かは、しかる後に・・・。
326 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 11:00:15
ついでながら、七万余戸の実人口を把握なさっておられるのでしょうか。 ご高説をたまわりたく・・・。
>>324 ご参考までさんは、陳寿が当時の実測値を知った上で、誇張拡大したと言っているわけではないと思う。
明帝紀の【四千里】の記述と比較すれば、到其北岸狗邪韓国【七千里】は、
現在の地図上に落としてみると、明らかに長すぎる。
結果として、現代の実測地より誇張した数字になっていると言っているのではないか。
比較対照の実測地は現代の数値。陳寿の時代の実測地記録を要求しても無意味。
328 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 11:20:29
司馬懿配下の魏の軍勢が韓で乱が起こった折、つまり太守弓遵が戦死した折 魏軍は半島南岸まで制圧接収したと、陳寿は記しています。 ならば当然、その折の半島の詳細な地理知識は、魏帝室にも魏晋の史官にも もたらせられていたはずあることは、客観的事実としなくてはなりません。
>>327 さん
それは全て承知の上でのヤリです。
>>326 さん
>ついでながら、七万余戸の実人口を把握なさっておられるのでしょうか。
七万余戸と書かれているものをどう人口と結びつけるのです?
当時の戸里制に照らし換算しますか?
http://www.agent-m.net/Book/1/O-1-002-2.htm >>327 さん
>現在の地図上に落としてみると
国土地理院発行の地図が世に出るまでは謎だったということですか?
>比較対照の実測地は現代の数値。
しかし陳寿の書いた数値は現代の数値ではありませんよね
現代の数値と当時の数値のギャップを埋める作業が省かれていましたので
>洛陽遼東間の里程が4000里、しかるに、帯方郡から狗邪韓国間の里程が7000里
つまり
起点とする帯方郡と着点とする狗邪韓国の位置が正確に把握されたということでしょうか?
>>328 >司馬懿配下の魏の軍勢が韓で乱が起こった折、つまり太守弓遵が戦死した折
魏軍は半島南岸まで制圧接収したと、陳寿は記しています。
ならば当然、その折の半島の詳細な地理知識は、魏帝室にも魏晋の史官にも
もたらせられていたはずあることは、客観的事実としなくてはなりません。
客観的な事実であるからこそ
韓域方可4000余里や水行7000余里が、より現実的な数値なんでしょう
当時の度量衡の問題ですから 先ずは当時の度量衡を虱潰しの如く徹底的に吟味し、その後誇張拡大説を唱えるが 最良と考えます。 ごめんなさいね 別に悪気があるわけじゃないんです。 ここ二年間と言うものそんな資料検索ばかりしていたし、そんな環境で議論していたもので ついここでも要求しちゃうんですよ
332 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 14:06:11
当時の度量衡を無視して重要ではない、などと言っている訳ではありません。 私が申し上げたきは、洛陽遼東間の里程は4000里と陳寿が明記しています。 しからば、韓伝の「方四千里」は、それから比準いたしますならば、韓諸国は インド半島かアラビア半島ほどの巨大な陸地となってしまいます。 したがって、自然に普通に考えて、誇張誇大だと言っている次第なのです。 確証とお受取になるか傍証とお受取になるか、判りませんが 非常に、ご参考となる一文を次に掲げます。 ご承知かと思いますが、「張華」という人物についてです・・・
333 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 14:24:44
張華(232-300)は、明帝のいわば主席補佐官であった劉放の娘を娶った縁で 司馬懿の二男の司馬昭の私設秘書となり、司馬昭の息子の炎が晋の武帝へと 即位すると、次席秘書官に任命され、重要な決定に参画しました。 282-287年には幽州に赴任し東北方面軍総司令官の要職に就き業績を挙げます。 『晋書』の「張華列伝」には、張華は朝鮮半島の開拓に力を入れたと、あります。 ご存知のとおり失職失脚していた陳寿を拾い上げ引き立てたのが、この張華です。 司空となった張華のおかげで、陳寿の三国志がこの世に出たのもご承知でしょう。 つまり要するに、陳寿は、この張華から相当詳細に半島の地理を聞き知っていた ということになる次第です。 しかるに、方四千里とあえて書いたのは、先般来、私が書いているとおりです。
>>332 さん
>洛陽遼東間の里程は4000里と陳寿が明記しています。
しからば、韓伝の「方四千里」は、それから比準いたしますならば、韓諸国は
インド半島かアラビア半島ほどの巨大な陸地となってしまいます。
そんなこと今更疑問に思わなくても、後世の史書編纂者は気付いていると考えますよ
逆に誰も気付かず今日まで来たと考えるほうが不自然です
しかし誰もそれを直したり註訳することはなかった。
ここがミソなんですよ
つまり
この陳寿の表記は決して間違った数値を記載していないからこそのスルーと思いませんか
当時は常識的な数値であり、時代と共に忘れられてきた記載方法
あとそれに この里数値って、陳寿のオリジナルではないですよね
336 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 14:47:05
恐縮ですが、プラムさん。異を唱えさせていただきます。 陳寿の『正史三国志』は、晋帝室のもとで、晋帝室の為に、晋帝室の史官として つまりは、晋帝室を第一の対象読者として、書かれたものですよね。 晋帝室の創業者は誰ですか。晋帝室の創業の地は何処ですか。 ⇒司馬懿です。⇒公孫淵を討伐した遼東であり東夷の諸国ですよね。 さすれば、晋帝室を第一読者とする正史三国志において、東夷の諸国の領域並びに 里程を誇張して記すことは、当然至極のことであります。 正史三国志の帝紀は、要するに魏から晋の政権簒奪を禅譲と書き換えたものです。 これこそに陳寿は心血辛苦したものです。三国志演義とは違います。 晋帝室の創業者司馬宣王様(司馬懿)が征服した領土は広かった。公孫氏の討伐に因り 朝貢して来た倭は万二千余里もの遠絶の地である、と記して、当然至極です。
337 :
日本@名無史さん :2008/01/31(木) 14:50:30
>>336 さんは
まずこの里数値が陳寿オリジナル限定を証明することが先決かと
オリジナルでなく、陳寿と同時期或いは以前に同じ数値をしていた文献が存在していたら
陳寿の思惑云々なんて意味ありませんから
339 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 14:56:56
オリジナル云々につきまして。 陳寿ならずとも、晋帝室の史官たる立場であれば、誰に限らず、そのように 書きますよ。 陳寿がおうたとされている、ほぼ同時の人で魚拳が書いた魏略逸文にも 例の里程は七千里と記してありますからね。 当然なことです。
340 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 15:04:51
『正史』とは正しい歴史という意ではなく、単に『公式』のという意でよね。 日本の歴史書の『大鏡』にしろ、『今鏡』にしろ、正しい歴史記録書では 無論、ありませんから。
>>339 >陳寿ならずとも、晋帝室の史官たる立場であれば、誰に限らず、そのように
書きますよ。
陳寿がおうたとされている、ほぼ同時の人で魚拳が書いた魏略逸文にも
例の里程は七千里と記してありますからね。
当然なことです。
二人で示し合わせたかのよに数値が一致
なるほど
で、その中国の正史と日本の大鏡とを比較することに何の意味があるのですか?
編纂者が実は一緒だとか?(それなら納得しますが)
342 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 15:21:59
そもそも、中国の史書において(という程の学識はありませぬが)、 『万余里』という記述表現は、前漢書においてなどは、無茶苦茶に多く 西域諸国の国々は、殆ど全て万何千余里と、似たり寄ったりの里程にて 記してありますからして、 『万余里』とは、とにかく遠いという距離の誇張の意だと 松本清張氏も説いていますね。
>>342 さん
さてさてその
>『万余里』という記述表現は
一万余里
万二千余里の万里
万余里
これらを区別意識しての書き込みでしょうか?
344 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 16:19:43
おつきあいしますよ。プラムさん。区別意識しての書き込みか否かについて。 時間の許す限りは・・・と申しましても・・・いや、頑張りましょう。 次の程度は知って書きました。漢書にては、漢に服属し朝見する国はすべて 一万里未満と記してあり、漢の直属国になっていない西域諸国の首都は、 万二千里と記してあります。もっとも、正確に言えば、罽賓国と烏弋山離国が ともに「万二千二百里」と記してあることは、無論同じ距離ではなく 後者の国が倍以上遠いにかかわらず、かく、記してある理由は、つまり万二千里が 中国の直接支配を受けていない國の王都がはるか絶遠の地に在るという意です。 「漢書」の書例にならった陳寿が、これを「魏志」の鮮卑の条や倭人の条に真似て 万二千余里と記したものと、私は解しております故に プラムさんの言われる「区別意識」する必然必要は無い、としておりますから当然 区別意識しての書き込みではありません。 なれど、ご高説は謹んで拝聴仕ります。
>>344 さん
では何故に「万余里」ではなく「万二千里」なんですか?
その説明なくして
ただこうだからというのでは説明になりません
「万二千里」というのに何か意味があるのでしょうか?
そして「万二千二百里」という二百里ほどはみ出ている理由は?
346 :
ご参考まで :2008/01/31(木) 16:33:24
プラムさん、ところで、さて、ではございますが、 相手がプラムさんだから申し上げるのでありますが 日本の今鏡の編者と中国の正史の編者が同一などとは、もとより、言ってはいませんよ。 「正史」であれば、似通った姿勢で書かれている、と言いたかったのですよ。 たとえば、「信長公記」が全て正しいとは評価されていませんでしょ。 川中島の戦いにしても、武田方と上杉方から書かれた記録は違うでしょ。 そういう意味ですよ。あえて申し上げる要も無いですが。 プラムさんの言葉とも思えませんでしたので・・・以後も宜しく。
347 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/31(木) 16:54:01
>>346 さん
いいえ
あのレスはマジレスです。
詰まり、統計的な観点から考えて大鏡や今鏡は、国境を越えてもそう考えることが出来るという
貴方の考えを踏まえてのマジレスです。
歴史に可能性を求めないのが、私の信念でして
可能性は過去ではなく未来に求めるもの
過去に於いて、分からないことは分からない です。
348 :
30 :2008/01/31(木) 19:51:16
プラムさん
お体は、もう良いのですか?昨日の今日ですから、あまり無理してレスし過ぎないようにご自愛ください。
ご参考までさんとプラムさんの議論、興味深く読ませていただきました。
ひとつだけ、
>>323 の
>(婆利國の)王の姓は刹利耶伽、名は護路那婆代々王の位に有る。
これは、有るの読み方が間違っています。
世有其位に王の文字はありませんし、「王の位にある」なら「在王位」でなければなりません。
ご参考までさんとの議論が一段楽するまで、私はROMってますので、その間に考えておいてください。
349 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/31(木) 19:56:13
素盞嗚尊
『古事記』によれば、神産みにおいてイザナギが黄泉の国から戻って禊を行った際、
鼻をすすいだ時に産まれたとする。
『日本書紀』ではイザナギとイザナミの間に産まれたとしている。
イザナギは、天照大神に高天原を、月夜見尊に夜を、スサノオに海原を治めるように言った。
『古事記』によれば、スサノオはそれを断り、母神であるイザナミのいる根の国に
行くと言い始め、イザナギは怒り近江の多賀に引きこもってしまった。
スサノオは根の国へ向う前に姉の天照大神に挨拶をしようと高天原へ行った。
天照大神はスサノオが高天原に攻め入って来たのではと考えて武装してスサノオに応対し、
スサノオは疑いを解くために誓約を行う。
誓約によって潔白であることが証明されたとしてスサノオは高天原に滞在するが、
そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。
そのため、スサノオは高天原を追放されて葦原中国へ降った。
《Wikipediaより》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA
350 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/31(木) 20:17:34
351 :
改め〜卑弥呼 :2008/01/31(木) 20:33:53
>>201 >>203 少し遅れてるわたしですが〜w
>私は二年ほど前、貴方と同じ感情で直接彼を潰しに行った一人です。
んで潰されて帰ってきたらせわないわなww
以前、わたしも潰し?に行ったのですが(何ヶ月か前)、わたしの言った事〜
左の耳で聞いても右の耳から抜けるようです。
左の耳で聞いたならそのまま止めとけよ思うんですがね・・・。w
(あれは最強!聞かないんだもんw)
まあ、今度またぶった切り行くつもりです!よかったら観戦でもしてくだされ。
>>323 > でも?この文と倭人伝の文の何処が同じ用例となるか私にはわかりません。
話題の文中に続く「皆」は言わば再帰代名詞的なものです。
その意味がどうだとかは「世」の読み方が決まってからの話です。
そして「世」は代々と読めるわけでしょう?
要は倭人伝の「世有王」の「世」をどう読むかだけが論点なのではないですか?
それが言いたかっただけの横レスでございます。
あと、ついでの様に書き散らして申し訳ないが、
> 家は何代続こうが○○家として単一で括ることが出来ますが、
これは理解できます。
> つまり、○○家が「世」でありその中の複数の当主たちが「よよ」と言うわけで、
こちらは、しっくりとしない解釈ですね。
「世」からは時間的広がりとそれから派生したのであろう空間的広がりはイメージできますが、
「家」のような比較的矮小なまとまりについて「世」を用いるのには違和感がありますね。
実際に使われた例も無いんじゃないでしょうか?
353 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/31(木) 21:00:04
>>348 さん
お気遣いいたみいります。昼間チョットはしゃぎすぎたため、正直今晩は程々に
ご指摘の「有る」の読み下し、もっともな指摘です。私も朝方の半寝ぼけでレスいれたため
指摘されるまで全然忘れていたし、気付きませんでした。
あそこは
(代々王位をたもつ)ではどうでしょうか?
>>320 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/01/31(木) 09:47:59
>>
>>317 >> この部分は寺沢でしょ。寺沢信者wwwww
こういう詐欺師な表現が出てきてしまうところは、やっぱアンポンだね。
355 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/31(木) 21:06:48
>>351 たぶん
今は普通のネタじゃスルーされるのがオチ
スルーされないネタは万葉集だな
倭伝掘り返しているより
言語弄っていたほうが面白いし、 ね
356 :
ローガン :2008/01/31(木) 21:17:01
>>315 安本さんの説が論拠という訳ですか。
私とは見解が異なります。北九州では弥生後期後半から鏡の副葬が見られますね。
甕棺編年によると、2C初めに5期鏡、中頃に6期鏡のようなので、あまり、伝世が見られません。供給が安定していたのでしょうね。
鳴門萩原1号墓をみても画紋帯に余り伝世を考える事は出来ません。
画紋帯神獣鏡も作られて余り時をおかず日本に入ってきたのでしょう。
神獣鏡は呉の領域…
と仰いますが、魏でも神獣鏡を作っていたようですよ(正始五年鏡)。
「黄初二年銘」の同向式、なんてのも有ります。
7期第三段階斜縁の流れを汲む三角縁も、中国鏡でしょう。
もし国産なら、魏の年号の説明が難しくないですか?
>>352 さん
>こちらは、しっくりとしない解釈ですね。
「世」からは時間的広がりとそれから派生したのであろう空間的広がりはイメージできますが、
「家」のような比較的矮小なまとまりについて「世」を用いるのには違和感がありますね。
実際に使われた例も無いんじゃないでしょうか?
しっくりこないと思います。
私が説明したのは「世」を和語(よよ)とした時の和語に関する説明になっているからと考えます
当然「世」は漢語であり(よよ)は和語
その間にギャップが生じたとしてもなんら不思議ではないと考えています。
「世」と言う漢語を正しく伝えるためにはやはり
漢語を用いて説明するのが最良なんですが、なんせ漢文なんて別世界ですので
トホホということになります。
ま、日本語自体も危ないと指摘されていますが
日本語もムズイです (伊都国王)と捉えるか(伊都国に王)と捉えるかによって
意味が全く違ってきますから
358 :
ひっと :2008/01/31(木) 22:20:51
魏志倭人伝の里程がデタラメなのは「ご参考まで」さんの言うとおりですね。 晋書張華列伝では韓半島の地理がほぼ正確に書かれているのに三国志では誇大に書かれている。 これは陳寿がどうしても司馬懿の功績を大きく書きたかったということが如実に伺えますね。 魏志倭人伝で邪馬台国の位置など解るわけもなく、倭人伝の里程を短里だとか長里だとか無駄な議論ですよ。
359 :
30=どくだみ :2008/01/31(木) 22:30:32
プラムさん
ちょっと、意地悪い書き方ですが、
>家は何代続こうが○○家として単一で括ることが出来ますが、そこに脈々と続く当主達は個人という複数です。
国が何代続こうが○○国として単一で括ることが出来ますが、そこに脈々と続く王様達は個人という複数です。
だから、家の当主に対して、「世」=「よよ」と使えるのなら、国に使えるはずです。
家と国が違うとする理由はなんですか。
>つまり、○○家が「世」でありその中の複数の当主たちが「よよ」と言うわけで、
これは違います。家は「世」に当たりません。
一人の当主の活躍期間が「世」で、複数の当主がいるために
「世」が重なり「よよ」になるのです。
史記・平準書に「世家子弟富人或鬪鶏」の注に「世家、世世有祿秩家」とあります。
「家」が「世」であれば、「世家」は、同じ意味を重ねた熟語になり、この注は当てはまりません。
同時に、この注は「世」=「世世」であることも示しています。
>>351 改めさん
たしか、あちらの掲示板でローマ字つづりのHNで書き込まれてましたっけ。
なんだか、読んだ記憶があるような気がします。
私は、あちらは、あまり見ませんし書き込む気は無いですが、
改めさんが、そのうち行かれるのなら、ときどきは覗いて観戦させて頂きます。
360 :
223 :2008/01/31(木) 22:43:45
>>356 ちょっと意味不明です。
>安本さんの説
>>315 の1、2、はよくある考え。3は安本より古めで水野祐以来の年代観
とも近い。4は私の考え。 5は寺沢の提唱した考え(崇神稜は別)。
6は安本より新しい年代。7は安本説と違う。
>北九州では弥生後期後半から鏡の副葬が見られますね。
中期後半の誤り?
>甕棺編年と鏡の伝世
鏡の伝世を認めない編年を理由に伝世がないとするのは循環論法ですが、
鏡以外の指標を用いるのでしょうか?
古墳出土の内向花文鏡や方格規矩鏡は伝世鏡ではなく国産と考えるのでしょうか。
私は基本的にそのように考えますが。
>鳴門萩原1号墓をみても画紋帯に余り伝世を考える事は出来ません。
理由が不明です。まあ、私も伝世を否定して340年頃と見ていますが。
>魏でも神獣鏡を作っていたようですよ。
神獣鏡の大半が呉の領域で、呉鏡との顕著な類似性を王仲殊は指摘しています。
但し、王は同向式は日本製であると明言しています。
>三角縁も、中国鏡でしょう。
中国で0枚、日本で500枚以上出土の状況でそれは無理では?
361 :
30 :2008/01/31(木) 22:58:27
>>334 プラムさん
ご参考までさんが、いらっしゃらないようなので、倭人伝の距離について、ちょっと横から。
>しかし誰もそれを直したり註訳することはなかった。
>ここがミソなんですよ
>つまり
>この陳寿の表記は決して間違った数値を記載していないからこそのスルーと思いませんか
>当時は常識的な数値であり、時代と共に忘れられてきた記載方法
例えば、司馬遼太郎の小説に数値の間違いがあったとして、あなたは、間違ってるからといって勝手に修正しますか。
それと同じ事で、三国志に明らかな間違いがあったとしても、後世の歴史家は、それを修正できません。
また、誤っている部分全部に注釈が付くこともありません。
例えば、清の趙翼という人は、著書の中で三国志の誤りを書き出しています。
一つ例を挙げれば、武帝紀で建安元年に殺されたと書いてる黄巾賊の劉辟が建安五年にまた叛乱を起こしている。
などのような、明白な間違いが列記されています。
明の顧炎武にも、三国志の間違いを列記した文が残っています。
現行の三国志には、それらについて何も注記はありません。一千数百年間、スルーされてきたわけです。
顧炎武も趙翼も、帝紀や重要人物の伝にしか言及していません。
倭人伝など、検証する気にもならなかったのでしょう。
362 :
サガミハラハラ :2008/01/31(木) 23:10:28
>>358 今のところ魏志倭人伝でしか邪馬台国の位置は特定できません。
そして解読した結果邪馬台国の卑弥呼の都は佐賀県小城市甘木にありました。
卑弥呼の墓はその近くの桜ヶ岡です。
これに間違いありません。違うという方は理路整然と私の説に反論してください。
364 :
ひっと :2008/02/01(金) 00:09:52
>>362 魏志倭人伝では邪馬台国の位置は特定できません。
里程及び風俗そのものが捏造されているのですから、そこから答えは導き出せません。
漢書、三国志、晋書、宋書、そして参考のため日本書紀と三国史記を総合するしか方法はありません。
九州論者の方々はどうにか里程を短くしたいとの一念で短里などというものを創り出していますが、
捏造に捏造を重ねるだけで、仮に邪馬台国が本当に九州にあったのだとしても誰も信用しなくなります。
短里だと言い張っている人々は、倭人伝に書かれている「里」と晋書に書かれている「里」の整合性をきっちり説明
してから短里を主張してください。
365 :
ローガン :2008/02/01(金) 01:15:48
>>360 三角縁神獣鏡が中国で0…
鏡の分類に振り回されていらっしゃる?
三角縁も神獣鏡も、三角縁神獣鏡も中国で出てる事はご存知のはず!
「日本規格」の三角縁神獣鏡と近くても、様々な条件をクリアしないと三角縁神獣鏡と分類されないから、中国では出土しないって結論になるだけ。
他の鏡では縁の形状、内区の図像、外区の文様、大きさ等結構アバウトでも同じ鏡に分類されますよね。
三角さんだけは、やけに厳しいのですよ。
錫の含有量とかを、指標にしたら…とか思いますね。
三角縁神獣鏡群の景初四年鏡が、時代のくだる国産なら、実在しなかった(もしくは、消された)年号を銘文に入れた事をどうお考えになりますか?
仕事の都合で暫く落ちますが、時々覗きますのでお暇な時にカキコお願いします。
366 :
223 :2008/02/01(金) 01:18:44
>>363 相対編年だけでは実年代は分からないですよね。
橋口は出土した鏡を手がかりに実年代を推測していますが、
それとは別の方法で実年代を出す人がいるのでしょうか?
>>365 三角縁の定義については、舶載説でも定まっていて広げていないことや、
その狭い定義で日本で500枚以上、中国で0枚という事実があります。
この状況で、定義を広げる理屈は難しいと思います。
>錫の含有量
泉屋博のスプリング8のことでしょうか。あれは支持する人は皆無に近いのでは。
出土地の不明確な博物資料を用いていることで議論の遡上に載せることも困難で
はないかと思います。
むしろ鉛の同位体比で見る方が一般的ではないかと思います。
同位体比では舶載と国産の区別は不可能で三角縁は全体として一つの分布域に
属しています。
>年号
紀年鏡は4世紀後半以降の古墳から出土したものしか存在しないので、伝世を
認めずに素直に考えれば、後世に年号を書き入れたことになると思います。
368 :
日本@名無史さん :2008/02/01(金) 07:56:00
369 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/02/01(金) 08:42:12
>>361 さん
確かにそれも考えられます。否定する理由はありません。
ただ
比較だけで誇張拡大を主張するのは早計と言いたいだけです。距離を語るなら最低限距離についての十分な検証をしてほしいのです。
何故「里」が出来たのか?とか
大陸の王朝では古くから度量衡の整備がされていますし、様々な記録も残っています。
中には
周時に「里」の文字の有無を確認せず“周里”などと主張する人もいますから
370 :
日本@名無史さん :2008/02/01(金) 09:35:58
ホケノ山が4世紀の訳がない! タハ−
371 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/02/01(金) 09:45:45
>>362 サガミさん
>卑弥呼の墓は桜ヶ岡で間違いない。
未だそんな事言っているのですか?
アキラメが悪いですよ
372 :
日本@名無史さん :2008/02/01(金) 10:10:34
鏡はよく判らないので質問なのですが 卑弥呼の時代に一部の地域だけではなく権力者の墓ならば必ず鏡を副葬する 習慣がすでにあったのでしょうか? また卑弥呼の墓であれば鏡は副葬されていないといけないのでしょうか? 高句麗伝では金銀財宝を死者に送ると記されていますが 倭人伝をから鏡を含めなにかを副葬する記述もした記述も見つけることが出来ません。 そもそも何の為に鏡を副葬したのでしょうか?
373 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/02/01(金) 10:37:55
>>372 貴方の鏡に対する疑問は、貴方が最後に提示した疑問
>何で鏡を副葬したの?
この疑問が解決すれば、大体は解決出来ると考えます。出土品は何も語らず、語るのは出土以降の人ですから
「かがみ」の語源は
・反対に写し出す
これが所謂「かがみ」です
同様の言葉に
・かがまぬ
・かがみ
・かがむ
・かがめ
・かがもう
が、あります。
374 :
日本@名無史さん :2008/02/01(金) 10:49:55
カガミの語源は、「屈む」と関連するとの説もあるかもしれませんが 「輝く」の語幹で光と影の両者を意味する「かが」、 これと関連する「かげ」、そも「影見」から「かがみ」に なったのですね。大野晋説(本人または本人が紹介)です。
376 :
古代 :2008/02/01(金) 11:03:01
鏡については諸説ありますが 魔よけとか,死者の霊をしずめるため、死者の魂を封じるため・・ さて後漢鏡は、不老長寿への祈りを込めた文が刻まれ、その鏡を持った人は長寿や子孫の繁栄が約されるというものだった。とあります。 三角縁神獣鏡は神仙思想と結びついているといわれます 大きさは中国古尺で九寸、道教でいう「九寸のお守り」です。 九寸の明鏡を用いて仙人になる(不老長寿になる)という思想から来ているものです。 ただ三角縁神獣鏡は棺の外側に列をなして埋納されているので、棺の中に入れられる鏡とは趣を異にするのかもしれないですし そのような思想を当時の人が知っていたのかは謎です。
377 :
ひっと :2008/02/01(金) 11:08:18
>>369 確かに、度量衡の問題は昔も今もいろいろ議論されていますが、陳寿が書いた
東夷伝に関する道のりは誇張です。
「三国志、東夷伝」も「晋書、張華列伝」もどちらも張華による報告を基にしているのだから
度量衡が違うなどと考えるほうが不自然です。
また、大月氏との均衡、呉国との関係のためにも陳寿は邪馬台国を遠方に置かざる得ない事情が
あったことを留意すべきです。
378 :
ご参考まで :2008/02/01(金) 11:20:25
『里』とは田社のあるところをいう。 里はのち行政の単位となり、条理・里数の意となるが、字の原義は田社のあるところ、 そこを主宰するものを里君といった。 周制は、三百歩の距離、のち三百六十歩。
379 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/02/01(金) 11:46:06
>>378 さん
そうではなく
何故三百という数値が当て嵌められたのか?
「里/さと」は元々面積関連の単位、それをなにゆえ距離と結び付ける必要があったのか?
そういう根本的な事です。
380 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/02/01(金) 12:22:48
>>377 ひっと さん
魏書の度量衡は当然魏朝度量衡ですよ
381 :
ご参考まで :2008/02/01(金) 13:18:06
「里/さと」は元々面積関連の単位 との、ご高説ではありますが、間違っていませんか、プラムさん。 プラムさん、行政単位として周は二十五家、とものの本にありますが・・・。 ご確認いただきたく存じますが。
>>381 さん
>「里/さと」は元々面積関連の単位
との、ご高説ではありますが、間違っていませんか、プラムさん。
プラムさん、行政単位として周は二十五家、とものの本にありますが・・・。
ご確認いただきたく存じますが。
間違っていませんよ
それに、確か周時にはいまだ「里」文字の確認はとれていません
確か「里」の字意は(範囲に重なる基準)
383 :
372 :2008/02/01(金) 13:28:16
>373 つまり”かが”の意味を調べろという事ですね。 かがみが反対に写し出すということは かが=反対/み=写し出すと言うことでしょうか? 墓に副葬する意味は 生の反対が死→死の反対は生→復活の祈り 卑弥呼は鬼道を使うの→鬼道とは死者との交信で 鏡はその道具だったから埋葬されているはず。 そしてこの時期に鬼道が存在していたので 少なくともその影響下にあったところでは鏡が副葬されているはず。 といった解釈になるのでしょうか? あ、でもこれじゃその後の同様云々が意味をなさないか。・・・うーん >375 インフォシークの辞書にもそう書いてありますね。 >376 神社で御神体になっている事からも 神聖な物であることは想像できるのですが 神社と同じように御魂を移して祀るならともかく 墓に副葬する意味が解らないんです。 不老不死、神仙思想・・・やっぱり復活を願っての事なのでしょうか。
>>383 >>373
つまり”かが”の意味を調べろという事ですね。
かがみが反対に写し出すということは
かが=反対/み=写し出すと言うことでしょうか?
それが一番の近道かと
>かが=反対/み=写し出すと言うことでしょうか?
ここでは詳しくいいませんが
「写し出す」よりも「写し出すモノ」と考えたほうがいいかもです。
これは、鏡を見れば一目瞭然ですから
「み」については、「み」と訓じた漢字を調べるのも一考かと (身)や(実)もそうですね
日本では、そういうものだから「かがみ」と言われ
中国での「鏡」の用途とは一線を引くべきでしょう。
用途で言えば、日本には「かがみ」はあったが「鏡」はなかった。一方中国では「鏡」はあったが「かがみ」はなかった
385 :
古代 :2008/02/01(金) 14:36:57
383 鏡を不老不死の道具として使う時 鏡に自分の姿を写し常にその姿を思い描いていれば身体の中の神が呼応し不老不死を得る この場合、身体の中の神が悪いものを寄せ付けない。が考えの根本であったようです。なので魔よけでしょうか。 先にも書きましたが古代の人がその思想に沿っていたかは疑問ですけどね。 それに、初めに埋葬されていた鏡は故意に割られていますしね。 ある時から鏡の役割が変わったとも考えられます また鏡の銘文の中の一部が”鏡文字”と呼ばれる逆文字があります。 一部が逆文字なのでここに呪術的な意味を見る人もいます
386 :
ご参考まで :2008/02/01(金) 14:37:01
プラムさんへ。周初の金文〔令藜〕に 「明公、朝に成周に至り・・・里君と・・・」とあると 『字通』で白川静先生は書いていらっしゃいますが・・・。
387 :
ご参考まで :2008/02/01(金) 14:39:57
プラムさん、周時において、『里』文字の確認は、とれている次第であります。 念の為、ご確認くださいませ。・・・念の為。
>>386 私も随分と調べたつもりでしたが、周時に製作された金文に「里」文字がありましたとは
これはいい勉強になりました。
感謝します。
で、その「里」と距離を結びつけるものはありましたか?
389 :
ご参考まで :2008/02/01(金) 15:28:16
失敬ながらプラムさん、プラムさんの質問の意味が解りません。 白川静先生は、のちに「里」は行政単位として用いられ、距離として用いられた と書いて居られます。それ以上、拘る理由が認められませんね、私には。 春秋戦国時代の孔子にも「千里を遠しとせず云々」とかの用例はあるでしょう。 漢書にも多々多数の用例がありますね。 だから、それでよろしい、というのが自分の見解ですがね。 いずれにしても、感謝の辞は、痛み入り奉ります。
390 :
ひっと :2008/02/01(金) 15:28:22
そうすると、当然三国志東夷伝と晋書張華列伝の「里」は同じ単位ということになります。 張華は、張華列伝の中で北京から韓半島の端まで4千余里と言っているのだから、三国志 東夷伝が帯方郡から狗邪韓国までが7千里というのは、張華も陳寿もデタラメな距離であること は十分承知で書いていることになります。 元をただせば、曹爽(親魏大月氏王)と司馬懿(親魏倭王)の権力争いで、司馬懿が勝利した結果 邪馬台国は大月氏より大国なのだと主張するための里程になっているだけのことです。
>>382 >確か「里」の字意は(範囲に重なる基準)
「虫説では」とか、断っといた方が良くないか。
長くいる者には、いつものこととわかるけど、
新しい人が、それを通説と勘違いしたら可哀そう。
鏡の語源も、虫説だろう。
>>389 さん
>春秋戦国時代の孔子にも「千里を遠しとせず云々」とかの用例はあるでしょう。
周代に書かれたものにそんなのありましたか?
不勉強のようで、私には思い当たりません
>>391 私の基本はいつでもそうですよ
しかし、若干虫さんとは異なるところもあるから一概に虫説とは言い切れないところも
>「虫説では」とか、断っといた方が良くないか。
長くいる者には、いつものこととわかるけど、
新しい人が、それを通説と勘違いしたら可哀そう。
鏡の語源も、虫説だろう。
その意味もこめて、そろそろ「プラム」のコテも封印し
より「虫」を表面化させますか
>>391 やっぱりこれでいきますは
これからはこれで遠慮なく行かせて貰いますは
395 :
日本@名無史さん :2008/02/01(金) 16:16:24
>>394 独自説を開陳するのは、ぜんぜん構わないよ。2chだもん。
ただ、ここのところ、新しい人っぽい書き込みもあるので、
たとえば、「と私は思う」とか、
通説とは違う独自説だと、解りやすく書いた方が親切かなと思った。
>>395 そういう見方も否定できませんし、言ってることも理解できました。
今までよりは気遣いに注意してみますよ
397 :
改め〜卑弥呼ちゃん :2008/02/01(金) 18:04:05
さ〜て 今日は週末だし存分レスできる。 向こうのお馬鹿さんは注意しても聞こうとしないので決別するしかなさそうだね。 神奈川県民がお怒りなのががわからないのか。 「僕の知ってる神奈川県民て・・」よっぽどいい人思われてんだねw 常連同士仲良くしたいんだが無理だね。 さて邪馬台国についてでも語ろうか。
398 :
改め〜卑弥呼ちゃん :2008/02/01(金) 18:24:29
<三十の王> 東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。 有千餘戸,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。 この「世有王」と「郡使往來常所駐」この二つはあわせて読むべきではないと考える。 したがって原文の「V」は「世」だが三十國の王が駐在したなどないとする。
399 :
唐松山 :2008/02/01(金) 18:24:57
一文字一文字 楊枝の先で突いていたので 出る幕がなかった。 九州と大和の距離 景行のクマソ征伐の時の 日数 ホ38105 アフミヅキ クマソそむきて ミツギせず ヲシテさゝけて ミカリこふ ハヅキモチより ミユキなる ナのヰカいたる スハウサバ 8月15日出発 9月5日 宇佐付近に到着 20日ほどの里程。 この距離を 皆様は どの様にお考えですか?
400 :
改め〜卑弥呼ちゃん :2008/02/01(金) 18:28:19
失せろ〜おまえ 唐松山
401 :
河童 虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/01(金) 18:45:57
>>399 唐松山さん
ホツマはなお一文字一文字が大切なのでは?
402 :
唐松山 :2008/02/01(金) 18:50:43
常連同士仲良くしたいんだが無理だね。
>失せろ〜おまえ は、ひどい言い草だね、ったく・・・・。 まるで聞き分けの無いガキ大将だな、こりゃ。ww ネット掲示板は、誰でも参加できるんだから、 私物化して意のままにな〜んて思っちゃだめよ。
404 :
唐松山 :2008/02/01(金) 20:36:20
401さんへ 全て 一字一句大事です 漢文のにがてな私には 一字一句をさらに精査する 能力がないので 傍観するのみ。
405 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/01(金) 20:57:36
唐松山氏もそうなのか?〜〜なんだが? その「一月」っていうので、だいぶの者が騙されるんだ。確かに厳密に陳寿が 騙そうとしたという意味合いではないがw、畿内説への強信の道を突き進む 先入観の基点たるものの一つなんだろう。 女王国へ行った者は何も女王国という確固たる目的があってそこへストレート式 に突き進んで行ったものげはなく、北九州の状況はある程度覚知していたが、 その向こうの奥九州はどのような場所なんだろう? という興味から半島を渡って 北九州へ来たということだ。だから目的は最初から女王国行きという明確さでは なかったわけで、いろいろ九州を巡ってどんな所だか見聞しようという考えで いたんだろう? だから最初からメインは観光目的だったということであろう。 物珍しさもあってか上陸当時は北九州の一帯を観光していたが、それもだいたい 見終わったので、そろそろ奥へ行ってみようということになって、北九州あたり で数日か十日か経ち、まあその辺でかぶらぶらと奥九州へ入りこんだが、結構あ っちこっちと見巡って調べながらのんびりながらも前方を塞ぐ何らかの障害もあ って途方に暮れながら右往左往で前進して行って、いつの間に二十日もそれ以上も 日数が経過して来た。もう疲労困憊の最中、ある日とうとう森山を進んでいると、 突然前方が拓けて木製建造物の立ち並ぶ国で到達し、狂喜した。 国も人々と意思を手まねとかで通じ合って、そこが未発見の卑弥呼の国であること を初めて知ったとか、真相はおそらくこんなんだよ。
406 :
改め〜卑弥呼 :2008/02/01(金) 23:27:39
407 :
改め〜卑弥呼 :2008/02/01(金) 23:30:56
>>313 イヨタン・・・サンヘ
「ドン来い」はどうしたんですか?
どこへ行ってしまったドントコイ
408 :
改め〜卑弥呼 :2008/02/01(金) 23:33:12
>>400 >>403 は撤回します。
わたしも機嫌良くない時があるので気をつけたほうが良い。 唐松山さん
409 :
改め〜卑弥呼 :2008/02/01(金) 23:39:58
410 :
改め〜卑弥呼 :2008/02/02(土) 00:01:12
>>355 >たぶん
>今は普通のネタじゃスルーされるのがオチ
>スルーされないネタは万葉集だな
なるほど!スルーされるわけだ。
わたし万葉集はあまり知らないが、天武天皇以降ってイメージある。
卑弥呼の謎、そして邪馬台国の解明に熱をあげるわたしは記紀とかよりも
あまり重要視してないんだが、どうなんですかね。
411 :
改め〜卑弥呼 :2008/02/02(土) 00:06:59
>>403 プさんとか愛知県民さんがすれ作成者の気持ちを読んで行動してるのに対し、
怒られた方々はまったくその気配がない。
多少は怒られても当然と思うのはわたしだけでしょうか。ww
どう思う?利用者の方々。
改めさんのキレ方には、 みなあまり関わらないようにしてるんじゃないかと思う。 「わたしが作った人気スレ」みたいな感覚は 2ちゃんでは苦笑されるしかないように思います。 改めさんは別の掲示板などに活躍の場を移されてはいかがか
>>411 >怒られた方々はまったくその気配がない。
って、その上から目線はなんやねん?
「怒られた」とか、なんか根本的に2ちゃんを誤解してる気がするんだが
>人が人気を高めてきた終止符すれでおたくら何がしたいわけ? スレをパクってやろうとか悪どいことはやめてくれない? とかの人か。 自分でおかしいと気づかなかったらそれまでなんだろう。
魏志倭人伝の里程がデタラメなのは悪徳不動産屋の手口とおなじ 歩いて8分、飛んでも8分。騙されて移り住もうとした秦氏とか、 移民には相当苦労した。 まあ、秦氏のほうも、秦の始皇帝の末裔とか、でたらめ言っているけれど。
416 :
ご参考まで :2008/02/02(土) 09:09:08
里程記事がデタラメではなく、実は「誇張」と、私は申し上げているのです。 尤も、デタラメも誇張も五十歩百歩という向きもあるかもしれませんがね。 ともかくも、正史三国志においては、「西域伝」が立ててありませんよね。 しかるに、西域諸国からの朝貢は漢時代と比較して遜色は無いと、陳寿は記しています。 この「西域伝」を陳寿があえて立てなかった理由を今一度考察すべきでしょう。 さらに言うなら、陳寿は「司馬懿伝」なるものは、立てておりませんね。 以上の二つの理由探求そして当該事実は、倭人伝読解に必要不可欠と思料します。 そこを把握理解すれば、里程が誇張されている理由も解ります。
417 :
ローガン :2008/02/02(土) 09:10:59
>>412 同感です。馬鹿馬鹿しいので、もうきません
418 :
ご参考まで :2008/02/02(土) 09:27:17
私は、「方位」においても、陳寿の作為は当然に存すると考えます。 南へ、南へという感じですからね。無論、私は九州説ですが。 時折、この理由は敵国の呉を意識したものと曲解されておりますが、失当です。 理由は、陳寿が正史三国志を著していた時点では呉は滅んでいます。(280年) さて、魏晋時代の地理知識についてですが、皆さんご承知のとおりでありまして 漢の時代のシルクロード(海の道も含めて)にて、相当広く周知されていたはずです。 四郡が半島に設置されていたのですから、貨泉の出土分布からしても、中国商人は 古くから倭の地へ来訪していたことになるのは必然であります。半島も無論です。 しかるところ、陳寿はあえて、司馬懿配下の母倹丘らが半島全てを制圧したことに因り 換言すると、高句麗王の位宮を追い回したことに因って、東夷諸国の地理風俗が詳らかに なったので東夷伝を立てるとその序文に記していますね。 これをもって、私は、東夷伝特に倭人伝が、司馬懿顕彰記事だと申し上げている次第であるのです。
なんで、ドン来いが立たないの?
420 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/02(土) 09:35:52
>>418 さん
おはようございます。
>南へ南へ
最初に「倭人在帯方東南大海之中」と書かれているので、これが全ての基です。
421 :
ご参考まで :2008/02/02(土) 09:50:08
そうですよね、河童虫さん。 その一文からして、倭人は、今の日本列島は勿論、台湾や石垣島、韓国南岸 その他に広分布していたからこそ、あえて倭『人』と記したものでしょうね。 古来、揚子江を境にして北の中国の人々は水を避け、湿潤な土地でさえも、 忌み嫌うと言いますからね。 海の道で、中国には早くから東南アジア諸国の地理風俗は知られていたでしょう。 倭を巨大な国と誇張するには、冒頭総序の記事は重要だと 陳寿も当然に意識したに違いないでしょう。
422 :
河童虫 ◆TOfHBAKZgM :2008/02/02(土) 10:15:21
>>421 さん
「倭」ではなく「倭人」と記したのは
より魏時をより強調するためと考えます。
遠く離れた異国の地の情勢が帝国と比例し、時を同じくするはずもなし
王朝が滅びても異国の情勢は変化しません。
当然地形も変わらないですよね
しかし魏朝に始朝献し時より、交易関係に携わる「人」とその流れを書くことにより、魏時に限定し書き連ねる唯一の方法だからではありませんか?
だから倭人伝の文頭近くに
「…(今)使譯所通三十國…」
“今”と限定出来たと考えています。
423 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/02(土) 10:30:03
>>421 “ご参考まで”さん
私は
・所謂、倭人伝方位
・所謂、倭人
を「倭人在帯方東南大海之中」
「…今使譯所通三十國…」と言う
誰でも目に見える文書を使い、その所謂を説明しました。さすれば“ご参考まで”さんも
皆が見える位置にて
・司馬懿顕彰の事実
・呉に対すする牽制
を、説明していただけないでしょうか?
424 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/02(土) 13:06:17
倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。 自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。 其大倭王居邪馬臺國。 樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。 其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。 邪馬臺國とは邪馬台国の事なんですが、 樂浪郡徼,去其國萬二千里 後漢書東夷伝には「其國(大倭王居邪馬臺國)萬二千里」とあります。 この「郡より万二千里」は九州北部としている私ですがご意見のある方は いますか?
三国史をコピーしただけの文章なんだから、 ピンポイントでどこかなんて范曄は考えてないと思うよ。
426 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/02(土) 13:38:55
>>412-414 >「わたしが作った人気スレ」
神奈川県民も言い過ぎた反省してること。ご勘弁してください。
>>417 >「同感です。馬鹿馬鹿しいので、もうきません」
どうぞご勝手に!
もともと古代史スレが乱立する中からあなた方が選んだんではないんですか?
文句があるようでしたら別のところへ書き込んだらいいこと!
こちらへどうぞ
「邪馬台国」「邪馬台国ドンと来い!」「天皇総合スレpart5」
「なぜ邪馬台国を大和と認めないの?」「【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その2」
「※ 九州王朝 ※ 12」「 君は邪馬台国はどっちにあったと思う?」「卑弥呼の墓か 福岡で円墳確認」
「ここだけ邪馬台国に時空移動しているスレ」「結論→邪馬台国は捏造」
>>419 >なんで、ドン来いが立たないの?
わたしへの質問でしょうか?
わたしに聞かれても分からないのですが・・・w
ドンと来いさんへ聞いてみたらいいかかでしょう?
向こうの>7>12レスを見るかぎり来てるようですが・・・。
427 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/02(土) 13:50:15
>>425 425さんは「三国史をコピーしただけの文章」
ただそれだけとお考えなのですか?
私はというとただコピーしただけとは考えておらず
「後漢書東夷伝」も魏志倭人伝と同等ぐらいの価値ある古文だと考えてます。
>>425 >三国史をコピーしただけの文章なんだから、
そう考える根拠わ?
430 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/02(土) 14:29:51
東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。 有千餘戸,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。 「世有王」の「世」は「丗」と同じ意味。 皆統屬女王國 「皆」という字がみえるので「世有王」は「代々」と訳しても良いと考えてるわたしです。 「丗」の字が三十という意味を持つのはプラムさんの言う通りでしょう。 でもこの場合はそれではなく 「代々」と考えるほうが順当ではないかと思うのですが他の人の意見は?
>>429 >68 名前:プラム ◆RvhHf7kqyY [] 投稿日:2006/02/10(金) 17:25:49
>范曄は、陳壽のカキコした『魏志 倭人伝』を参考に、『後漢書倭伝』をカキコした。
>425はこの程度の意味だよw
432 :
愛知県民 :2008/02/02(土) 14:42:06
>>427 後漢書によると、自女王國東度海千餘里至拘奴國とありますね。
狗奴国=熊襲説を支持する人は多いようですが、熊なら「奴」でなく「馬」のはず。
本居宣長の伊予河野説が正しいのではないでしょうか?
狗古智卑狗は河野氏の祖と伝えられる河野越智彦でしょう。
433 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/02(土) 14:49:14
「古事記」の神代 天地が初めてできたとき、高天の原に現れた神の名は天之御中主神。 次に高御産巣日神。次に神産巣日神。 この三柱の神は、みんな独神で、身を隠された。 次に国が若く浮いた脂のように、クラゲのように漂っているときに生まれた神の名 は、宇摩志阿斯訶備比古遲神。次に天之常立神。 この二柱の神もまた、独神となって、身を隠した。 以上の五柱の神は、天つ神の中でも特別の神である。 次に現れた神の名は、國之常立神。次に豊雲野神。 この二柱の神もまた、独神となって身を隠した。 次に現れた神の名は、宇比地邇神、次に妹須比智邇神。次に角杙神。次に妹活杙神。 次に意富斗能地神、次に妹大斗乃辨神。次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神。 次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。 以上の國之常立神から伊邪那美神までを、あわせて神世七代という
>>431 つまり
自分の考えではないと、いいたいのかな?
それに参考とは書いてあるが、コピーとは書いてないよね
>>430 >「丗」の字が三十という意味を持つのはプラムさんの言う通りでしょう。
なんだか
誤解された情報が一人で勝手に歩き出してるみたい
436 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/02(土) 15:01:35
愛知県さんへ <狗奴国について> 魏志倭人伝より 次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。 其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。 後漢書東夷伝より 自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。 わたしは以上の文から狗奴国は女王国の南にも有り、東にもあった倭種。 としています。そのまま解釈してるのです。
>>432 > 狗奴国=熊襲説を支持する人は多いようですが、熊なら「奴」でなく「馬」のはず。
/n/も /m/も子音として有声の鼻音に分類され、
両者の違いは調音部位が歯茎の位置にあるか、両唇になるかで決まります。
とても近い位置にあるため、相互に転化しやすく、また聞き間違いも多い音です。
例えば、私たち現代日本人は「まんま」と書いても、その発音は/mamma/であることが
多いですね。
ですので、「狗奴」が後世「熊」になってしまうことは不自然ではありません。
同時に他の音素変化によって「狗奴」が「河野」に換わったという主張もできますが。
438 :
愛知県民 :2008/02/02(土) 15:02:25
「世」の件は私には難しいですが、伊都国に魏の時代に王がいたのでしょうか? 名前も書かれていませんし。 魏から見れば、親魏倭王卑弥呼以外に王はいないはずです。 狗奴国についても、地理記事では「官・狗古智卑狗」が書かれているのに 歴史記事では男王・卑弥弓呼が出てくる。 地理記事では倭地の説明をしているのに、歴史記事では倭の女王卑弥呼と並んで書いてある、 つまり倭でないという扱いで男王と記しているのか? このあたり、どうなんでしょう?
>>434 > つまり
> 自分の考えではないと、いいたいのかな?
> それに参考とは書いてあるが、コピーとは書いてないよね
違うよ。
私の使った「コピー」の意味を貴方に分かるように説明しただけ。
ストレートに書いたつもりだけど「読解」できないかんか?
440 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 15:08:58
卑弥弓呼って、彦命という説が強い。 これは、尊称であり、 おそらく女王国の人間からも 尊称で呼ばれていた男王だということが分かる。
441 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 15:09:34
狗奴國(この國)は許乃國(この國)のことだから 京都の宇治あたりの国。 ここの領主の卑弥弓呼(彦命)の武埴安彦命は 開化天皇の庶兄であり、 狗奴國王の乱(武埴安彦命の乱)は 皇位継承をかけた大乱だったことが分かる。 武埴安彦命の母方は河内彦の家系。 魏略には、狗奴國の官は拘右智卑狗と出てくるが、これは河内彦。 狗奴國王の乱(武埴安彦命の乱)では、山城と大坂から大和を 挟み撃ちにしている。記紀によると。
442 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 15:10:33
>>437 >例えば、私たち現代日本人は「まんま」と書いても、その発音は/mamma/であることが
多いですね。
じゃあmammaと発音されたものはどう表記される可能性があるの?
そしてmanmaと発音されてものはどう表記されるの?
444 :
愛知県民 :2008/02/02(土) 15:16:31
>>436 狗奴国の中心はどちらにあったとお考え? やはり熊襲説?
>>437 ご教示ありがとうございます。
「クナ」は上古音、「コウノ」は中古音と聞いたことがありますが、上古音で読むべき?
>>438 県民さん
>伊都国に魏の時代に王がいたのでしょうか?
私はそう読みました
>>438 >魏から見れば、親魏倭王卑弥呼以外に王はいないはずです。
そこが「王」のちょっと難しいところですね。
中国で「王」と言えば諸侯の最上級に位置する皇帝臣下の官名、
いわゆる「諸侯王」の爵位ですが、これとは別に土着の王権君主にも
「王」と言う言葉を当てます。こちらは普通名詞的に「王」の用法ですね。
それ以外にも儒教思想上の「王」などと言う概念もあり、漢文に挑むに
あたって苦労させられることとは思います。
ですので、倭人伝に出てくる「王」表記のうち、「親魏倭王」は爵位の王、
「女王」は恐らく普通名詞としての王(任官前の倭地)と任官後の爵位の
王の両方、伊都の王、狗奴国王はともに普通名詞としての王だと思います。
447 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/02(土) 15:32:34
>>435 以前、あなたも言ってたかと思ったが違ってましたか?!
>>438 >地理記事では倭地の説明をしているのに、歴史記事では倭の女王卑弥呼と並んで書いてある、
>つまり倭でないという扱いで男王と記しているのか?
>このあたり、どうなんでしょう?
魏志、後漢書「倭人伝」なので男王・卑弥弓呼も倭人なのでしよう。
わたしは倭国ではない倭種としてみています。
>>443 ハァ〜〜〜〜 何が言いたいの?
おじさん、こう見えても忙しいんだからわけの判らんこ言って困らせないでね。
人の文章を普通に読めば判るようなことを本気で訊いてるのかな?
もし、本当に判らないなら、近くに居る大人の人にでも説明してもらいなさい。
>>448 忙しく、自分のレスへの質問にもこたえられないなら書かなきゃいいじゃん
ただそれだけ
450 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/02(土) 15:55:16
<三貴子> 「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」 伊耶那岐命が左目を洗った時に生まれた神。 高天原(天界)を治めるよう指示される。 皇祖神(天皇家の祖)。 「月読命(ツクヨミノミコト)」 伊耶那岐命が右目を洗った時に生まれた神。 夜之食国ヨルノオスクニ(夜の世界)を治めるよう指示される。 天照大御神、建速須佐之男命と違って、これ以降の神話に全く登場しない。 「建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)」 伊耶那岐命が鼻を洗った時に生まれた神。 海原を治めるよう指示されたが、それに逆う。 ヤマタノオロチ伝説などで有名。
>>449 否、
返事をするに価しない内容だったけど、
貴方の将来を慮って、意味不明のレスだと教示してあげているんだよ。
本当に忙しいんだからこれでもう返事は書かないよ。
貴方も2chばかりやってないで、勉強もしっかりやりなさいよw
じゃあね。
452 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/02(土) 15:58:18
>>447 何だか三十と言う数詞だけが独り歩きしているみたいでして……。
どうして皆さんは
この三十という数詞に拒絶反応するんでしょう?
丗の基本がこの三十からきていることを知りながら
プのレスって 「1+1の答えはな〜に」レベルの問いか いきなり「1+1の答えは3だけど解かるか?」みたいなのが多いよなw
>>454 彼には独特のリズムがあるからね。
どうせ、ここはヒマつぶしだろうから、
自分流の回りくどさを楽しんでるんだろうね。
まともな話になれば直ぐに逃げるしw
>>451 貴重な時間を潰して頂きありがとうございました。
でも
忙しい中、2ちゃんにアクセス出来、しかもレスする貴方もある意味
【ネ申】
457 :
愛知県民 :2008/02/02(土) 16:13:35
三十国という数から、邪馬台国の位置も見当がつくと考えます。 対馬、壱岐は「国」でも「郡」でもない「島」ですが、 末盧国(松浦郡)、伊都国(怡土郡)、奴国(那珂郡)から考えて 魏志倭人伝の国は郡程度と思われます。 九州には九十余の郡がありましたから、大きめに見ても九州の範囲を出るのは不自然です。
>>455 待ってましたと言わんばかりに、また湧いてきたね
まともな話にすらならない貴方よりはナンボかましかと
459 :
愛知県民 :2008/02/02(土) 16:44:37
伊都国について、翰苑の魏略逸文では「其国王皆屬王女也」となっていて、 王女は女王の誤りでしょうが、「世」はないんですね。 ちょっと気になるところ。
460 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 17:55:50
>>444 倭人伝の記述は、書かれた時代から考えて中古音で読むべきなんだけど
西暦57年(上古音の時代)から中国と印綬をもらう関係にあった奴國は
上古音の時代にそういう漢字名をつけられたので
それが慣習となって、中古音の時代にも引き継がれやすい。
だから、奴國は上古音で「な國」と読むべき。
が、狗奴國は、おそらく西暦247年(中古音の時代)にその国名が
中国側に初めて知られた可能性が強いので、これは中古音で漢字名がついた可能性が強い。
よって、狗奴國は、「こうの國」「この國」って中古音で読むべき。
で、狗奴國の正体は
>>440-442
461 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 18:03:20
>>460 それで、あたり?
たしかに、今まで気がつかなかった。
462 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 18:07:53
>>460 三世紀半ばに新発見狗奴国なのに、なぜ後漢書に登場するの?
463 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 18:14:36
>>262 博多湾岸にあった「な國」は、
57年に中国側から印綬をもらっただろう?
その時代は上古音の時代だから、上古音の発音で「な」となる漢字が当てられ
「奴國」という漢字名で中国側に有名になる。
この場合、普通、後に漢字の発音が変化しても、
慣習として引き継ぐことが多い。
倭人伝が書かれたのは完全に中古音の時代だが
「奴國」という名前は有名だから、中古音の新しく「な」とする漢字名を
わざわざ付け直すと、混乱するから、そのままなんだよ。
464 :
愛知県民 :2008/02/02(土) 18:18:59
465 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 18:26:28
奴國は金印も発見されているから、西暦57年の上古音の時代につけられた漢字名で 奴國「な國」と解釈するのは正しいと思われる。 で、中国側では、倭国といえば、奴國というぐらいに有名になる。 この場合、上古音の時代から中古音の時代に変化しても わざわざ中古音で新しく「な國」の漢字名がつけられることは少ない。 新しくつけると混乱するからだ。 よって、博多湾沿岸にあったであろう奴國は「な國」であり 後の「那の県」との関連もみえてくる。 が、倭人伝自体は中古音に書かれた書籍。 よって、倭人伝が書かれた時代に知られた名称は当然 その時代、最先端の中古音でつけられた可能性が強いのだ。
>>464 >>460 さんの説は、非常に説得力があるが、確かに後漢書になぜ拘奴国がでてくるかは、解決すべき問題ですね。
後漢書は、晋の陳寿より150年くらい後の時代の范曄が著したものだけど、
後漢の時代に、拘奴国が中国に知られていたと言う資料がなければ、
ただ、三国志に載っているというだけでは、後漢書の記載しないと思いますよ。
それと、後漢書の邪馬臺國の注に「案今名邪摩堆,音之訛也.」とあるように、
後漢時代に邪馬臺と呼ばれていたものが、唐代では、邪摩堆と呼ばれていたと言うことで、
音の変化につられて、文字の変化もあったかもしれません。
まあ、これは、直接奴國の話ではないし、後漢から唐までの時間経過がかなり長いので、参考程度にしかなりませんが。
467 :
愛知県民 :2008/02/02(土) 19:13:25
>>466 後漢書倭伝は魏志倭人伝の丸写しに近いと思っていましたが、違うようですね。
范曄は現存しない多くの後漢史書を見ていますから。
自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。
ここまで後漢時代に知られていたのだろうか。
468 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 19:36:13
後漢書が引用した史料は複数あって 時代もバラバラだったんじゃないのかな? だから、時系列とかもコンガラガッテ いる可能性がある。
469 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/02(土) 19:56:18
>>464 五世紀に書こうが、二十一世紀に書こうが
後漢時を書くから後漢書です。
少しでも魏時以降事情を書き込めば「范曄の大予言」と言うことで、出版が“たま出版”になるでしょう
470 :
河童虫 ◆TOfHBAKZgM :2008/02/02(土) 20:07:00
>>467 だって
帝国の主権が変わろうが、変わるまいが、異国の倭事情が変わるわけじゃないだろう。
地形だって、帝国の主権移動で変化するわけじゃないし、
陳寿が先に倭人伝で地理記事を書いたなら、それ以前の記録とする後漢書に書く必要ないじゃない
ましてや後漢書は後発なんだから
後は陳寿が書かなかった事の補足や、変化があったものを書くだけでOKでしょ
471 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 20:24:36
「でしょ」って言っても現実にそうはなって無いわけだが。 また、何かお笑いネタでも思いついたのかな。
>>471 凄い!
>現実にはそうは……
完璧に読み切った人だけが言える台詞だな
はいはい
あんたは凄い。
473 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 21:17:44
プラム氏は何のためにここにいるのだ? 言いたいことが有るなら、さっさと自説を開陳すればよかろう。 もともと、ここでもトンデモ扱いされてるあなたなんだから、 思わせぶりに餌をまこうとしても誰も食いつかない。 くだらぬ揶揄を受けるだけ。 毎度毎度、同じような展開にしかならないことに気づいて欲しい。
474 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 21:54:44
>>460 「こうの」と本当に読めるのかな。
「匈奴」の発音は、「フンヌ」で「ヌ」は鼻から抜けるような感じの発音(ヌァ)。
匈奴はヨーロッパでは「フン族」。
奴国の「奴」は、この発音をもとに「ヌァ」、それが「ナ」の本当の発音と
考えられる。
狗奴国は「クヌァ」の国で、「クマ」に転じ易い音でそれ故にクマソとの
発音の共通性が注目される。
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/02/01(金) 08:42:12 河童虫 ◆TOfHBAKZgM :2008/02/02(土) 10:15:21 河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/02(土) 10:30:03
477 :
ひっと :2008/02/02(土) 22:58:25
>>418 呉国のことは十分意識して書いてますよ。呉国があったかなかったかは問題ではありません。
今も昔も戦いにおいて挟み撃ちというのは最も有効な戦術です。陳寿は、司馬懿の素晴らしい
手腕で呉国を挟み撃ちにして勝利したんだということを国内に発信する意味も少なからずはあった
はずです。
また、呉志には「夷洲及び壇洲を求む・・」の下りがあります。陳寿は、
この夷洲よりも遠い東南の大海に邪馬台国があり魏国と友好国なのだと訴えたいのです。
そうすることによって、司馬懿の功績(親魏倭王)を正当化したものです。
距離と国内規模は大月氏に合わせ、方位は呉国に合わせた。この2つがあって初めて
陳寿の捏造里程が理解できるのです。
478 :
日本@名無史さん :2008/02/02(土) 23:26:27
倭人伝が、中古音というのは、 漢文・文献の専門家の森博達先生が言っているから かなり説得力があるよ。 この先生は邪馬台国論争には殆ど関係せず 邪馬台国論争に対しての思い入れは殆ど無く 純粋に漢文の専門家としての発言だから。
479 :
愛知県民 :2008/02/02(土) 23:55:15
美濃もん太さんは最近来ないようですが、大伽耶の「弥烏邪馬国」は気になりますね。 「みわやまこく」と読むのはトンデモ説? もし読めるなら、大和の三輪山、朝倉の三輪山(現・目配山)、ひょっとしたら高句麗にあったという 倭山とも結びつくかなと思うのですが。
480 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 00:30:12
其南有狗奴國。男子爲王。其官有狗古智卑狗。不屬女王。
その南に、狗奴国がある。王は男である。
狗奴国の官を“狗古智卑狗”という。女王に従わない国である。
女王に従わないのは何時のことか。狗奴国が、
後ろの珠儒国・裸国・黒歯国と同じ場所ではなくここに書かれているのは
倭国の一部という認識か?
後に出てくる狗奴国との抗争を論拠として、
狗奴国は邪馬台を中心とする倭国29ヶ国に匹敵する大国とする説があるが、
感覚的なことだけだがどうも素直には受け入れ難い。
倭国を構成する一国と同規模ではなかろうか?
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wajin.html#chiri
>>460 倭人伝には「奴」が付く国名が多いよね。
奴国、狗奴国のほかに、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、
鬼奴国、烏奴国なんかが出てくる。
これが漢字が同じでも発音がバラバラだったというのは、ちょっと
ありそうにないと思う。
発音が違うなら、別の当て字を使うんじゃないかな。
>>481 表記が上古音時代に確立したというだけで、陳寿が奴國を上古音で読んでいたということではないと思うよ。
陳寿は、奴國も他の奴が付く国も、おなじ音で読んでいたと思う。
我々だって、西班牙を「せいぱんが」と読まずに、表記と音のズレを脳内修正している。
>>473 いまさらトンデモと言われても、余り意味ない。既に九州説を主張した段階でトンデモ確定と言われる世の中で、そのグランプリ争いしてもな〜。
>自説の主張
過去レス集めただけでも、一冊くらい本が出来るほど喋ってます。
>>483 >過去レス集めただけでも、一冊くらい本が出来るほど喋ってます。
そういう、分量のはなしではなくて、
他人の書き込みを、ちょんちょんとつつく様な書き込みを何度か繰り返して、
正面から、「オレはこう思う。理由はこうだ。」と堂々と書き込まない態度のことを
473さんは言っているんだと思う。
485 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 01:31:41
プさん早く出版してくれ 俺は買うぜ
486 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 01:35:03
卑弥呼ってどういう姿格好してたんですか? 画像希望。
>>477 >陳寿の捏造
倭地の位置記述については、私も貴方と同じような理解をしていますが、
「陳壽の捏造」はどうでしょうか?
例えば、「自帯方至女國萬二千餘里」などの表現は、魚豢の魏略にも
有ります。両者は帯方からの路程記事も酷似していることから、
三国史や魏略に先行する資料が存在し、それをともに参照していると
言われています。
つまり、「捏造」は三国史編纂以前に行われており、「捏造の主犯」は、
陳壽はではありません。
事実と異なる部分があることを承知で使用した「事後共犯」ではあるかも
しれませんがw
「捏造」は倭を大月氏と同格に扱うため、卑弥呼の親魏倭王叙任の時点で
行われていたことと私は思っています。
ですので、主犯は誰かと言えば景初2年当時の帯方太守劉夏である可能性
が最も高いですね。
488 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/03(日) 06:55:28
>>484 >自説の公開
おいおい
何度公開しなくちゃなんないんだよ 過去に何度もやりましたよ
489 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 09:01:22
>>481 いや、あの〜
倭人伝は中古音の時代に書かれた史書だが、
それをよく表しているのが、「奴」という漢字の国名が多いこと。
これって、日本語の格助詞「の」を表しているんじゃないの?
つまり、日本語では「武蔵の国」「相模の国」という言い方をするでしょう?
つまり、倭人伝は基本的に「奴」は中古音で「の」と読んでいる。
数少ない例外として、上古音の時代から中国の交流がある博多の「奴國」だけ
「な」と上古音でつけられた名称が慣習として残った可能性が強い。
>これが漢字が同じでも発音がバラバラだったというのは、ちょっと
>ありそうにないと思う。
>発音が違うなら、別の当て字を使うんじゃないかな。
いやいや、バラバラじゃないw
倭人伝は殆どが中古音だ。というか、完全に中古音の史書。
博多の奴國みたいに、数少ない例外があるだけ。
490 :
愛知県民 :2008/02/03(日) 11:38:38
>>483 >既に九州説を主張した段階でトンデモ確定と言われる世の中で
ええ? そうなんですか?
>>457 だけを見ても九州ですよね。
考古学で言われているのは纏向にヤマト王権があったというだけで、
同時代に九州に邪馬台国があったとして不都合はないと思います。
纏向の搬入土器で九州系はほとんど無いですし。
鏡については、後にヤマト政権が九州を征服したとき、伊都県主らが鏡を出して降伏しています。
ヤマトに多くの鏡が集まったのも分かります。
>>490 県民さん
>ええ?そうなんですか?
そうなんです。
それが現実なんです。
誰が何をどう強主張しようが
492 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 12:19:58
>>490 あの、そうはならんよ。
何故なら、倭人伝では、女王国は
北九州にあった可能性が高い伊都国に
一大率を設置して諸国を監視していたわけだから。
邪馬台国=大和朝廷なら、自動的にその大和朝廷は
九州をも、ある程度、傘下においていたのは確実になる。
493 :
愛知県民 :2008/02/03(日) 12:38:29
>>491 河童虫さんは以前、伊都国への東南陸行が末盧国からでは無いと言われていたと記憶しますが、
ちょっと分からないです。
ご教示いただけたらと思います。
因みに私は、末盧国で陸に上がって不弥国まで行っているので
投馬国・邪馬台国へ水行も末盧国に戻ってからと考えますが。
494 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 12:57:22
伊都国の一大率は 倭国乱以前の 倭王の軍隊 倭王が全体を治められなくなって 全30余国の合意のもと卑弥呼を建てた。 卑弥呼が強すぎると 反対する者も出てきて纏まらない。 卑弥呼(国)は 極端な話 お飾り 卑弥呼死亡をもって 終了
495 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/03(日) 13:56:59
>>493 県民さん
『東南陸行五百里到伊都國』
ですね
私が言っているのは、
「伊都國への東南陸行が末廬國からじゃない」ではなく、
・この記事は末廬から伊都へ行く為に書かれたモノではなく、この記事を記載する事で“陸行五百里”とする数値五百里の0ポスト地である 末廬國の地が港から始まる事が確定される記載だと言ったのです。
つまり
伊都國の位置を確定させる文章ではなく、末廬國の起点を確定させる文章だと言うことですです。
早い話
モノを見る視点が、従来(一般的)とは違った見方をしている
496 :
愛知県民 :2008/02/03(日) 14:27:35
>>495 なるほど、「陸行五百里」の起点は末盧国の中心集落とか、伊都国との境ではなく、
末盧国の港だということですね。
港から陸行してますから言われれば納得しますが、正直そこまで考えていませんでした。
ありがとうございます。
497 :
サガミハラハラ :2008/02/03(日) 14:48:03
そうですね。魏使が上陸して迎賓館にて休息宿泊をするでしょうね。 迎賓館のあるところは、官名がかいてないところをみると、マツロ国の都ではなかったようですね。
498 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/03(日) 14:59:46
サガミハラハラ氏は急降下でスレのエサを頂くカラスのようで、まったく国産説 とかの説明は皆無でスグ飛んで逃げちゃう。こうなると、どうやら中平刀の同説 は当人の脳内の恣意的ご都合の解釈と観るほかはない。まったくこっちは同説を 他スレで引用してえらい迷惑したこととなる。彼の信用度は零落の一歩を辿って いる。あきれてるよ。
499 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 15:09:24
サガミハラハラさんは学校の先生をやめて 邪馬台国論争にかかわろうとしているから まあ、追い込まれているから、気の毒とは思うが でも、これからの5年以内に、あなたの説に終止符がうたれるような 発見があると思うので、覚悟だけはしておいたほうがよい。 国が金を出して、纏向遺跡の発掘調査を大規模にやることが決定しているから。 纏向遺跡はわざか2%しか発掘調査していないが、それでも凄い発見が連発している。 これから本格的に行うのは、纏向遺跡の中枢部。
>>497 サガミさん
>そうですね。魏使が上陸して迎賓館にて休息宿泊をするでしょうね。
この一文は何処に記載されたものでしょうか?
501 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 15:51:32
どこかにサガミハラハラさんの粋のよいレスがあったはずだが・・・。
>>362 > >358今のところ魏志倭人伝でしか邪馬台国の位置は特定できません。
>そして解読した結果邪馬台国の卑弥呼の都は佐賀県小城市甘木にありました。
>卑弥呼の墓はその近くの桜ヶ岡です。
>これに間違いありません。違うという方は理路整然と私の説に反論してください。
>「違うという方は理路整然と私の説に反論してください。」
みなさん遠慮なく反論しましょう(笑)
502 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 16:02:32
タイトル通り、卑弥呼が記されてる「魏志倭人伝」の議論はよくなされてるが、 「日本書紀」、「古事記」、「先代旧事記」、「万葉集」、「帝記」、「旧辞」 「風土記」、「各地に残る伝説」、「神社による伝承」などがもっと議論なされてもいいと思う。 特に卑弥呼=天照大神 とお考えの人は卑弥呼を特定する為にこうゆう日本独自のものが重要ではなかろうか。 日本書紀からその謎の人物なる卑弥呼を探してみるのもよいと思う。
503 :
唐松山 :2008/02/03(日) 16:08:20
日本書紀総合考察スレ へ 神代の暦を 書きましたので 一読してみて下さい。 西暦1年甲子 より以前が神代 西暦1年甲子=アスス元年 アスス58年=神武 元年
504 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 16:13:44
帝紀と旧辞ってどうやって調べたらいいんだw
505 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 16:27:20
太国氏、サガミ氏へ あなた方も九州説なのはよく知っているが、数々のレスを読んでわたしの考えと 似た部分が多くあると感じている。 わたしの考えは女王の都する邪馬壹国は九州北部にあり、当時は弱小連合国家(三十國)が 魏の時代にあったとする。 ここまでは似た考えではなかろうか(サガミさんは佐賀でわたしは福岡だが)。 『旧唐書』 日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或日、倭国自悪其名不雅、改為 日本。或云、日本旧小国、併倭国之地。 『新唐書』 咸享元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、悪倭名、更号日本。使者自言、国近日所出、以為名。或云、日本乃小国、為倭所并、故冒其号。 日本国は「倭人の国」であっても「倭国」ではないとする。(ようは倭種) 大和に大規模な古墳ができる中、最終的に倭国が併合されたのは上記のとおりで 弱小連合国家は唐時代までのこったのだろう。 古い文書はみな真実が書かれてあり見逃すなというのがわたしの考えだが、 あなた方も同じ考えなのだろうか? コメントお願います。
506 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 16:33:12
>>503 細かい年代は分からないがわたしも大体それくらいだろうと考えている。
>>504 細かい突っ込みはなしでw
というか
「帝記」、「旧辞」はさほど興味をもってない。
なぜかって?!
旧辞は記紀の「神代」が書かれており。
帝記は「神武天皇以降」のことが書かれてありその内容は記紀とまったく
同等であろうと考えてる。 以上のことからさほど興味がないとする。
507 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 16:45:08
九州王朝説で有名なのは古田武彦氏。 氏の本は読んだことあるが、 「倭国」=九州王朝 「日本」=天皇家 「倭」が実は九州に都した、天皇家とは全く別の王者を中心とした国家であること。 また、一方の「日本」が天皇家による所謂「大和政権」を指している。 はいいとして、本を読んでいて壮大な国家を思い描えてしまったのは わたしだけだろうか?! 宗国はいいが実際はもっと規模が弱小国家だったのではなかろうか。
508 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 17:10:08
>>444 愛知県民さん
>狗奴国の中心はどちらにあったとお考え? やはり熊襲説?
狗奴国の中心ですか?!
女王国の東へ千里なのか、南なのか、それ以外なのかよく分からないです。
「男子為王」は南にいるとしかいえませんね。
>>507 古田氏ねぇ〜
韓域内歩かなければよかったのにね
510 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/03(日) 17:33:43
>>509 古田氏の間違いは、もう一つ、伊都國を前原付近としたこと。
511 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/03(日) 18:10:16
>>510 王朝さん
別にそれは間違いではないでしょ(多少の誤差は許容)
512 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 18:19:41
古田氏は殆どお笑いだけどなw 偽書を真に受けて、失敗している。 古田史学は空前のともし火。
513 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 18:30:02
>>506 ぼくチャン!
もっとお勉強してから書き込もうね。
おじさん、お腹の皮が捩れて死にそうだよ。
514 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 18:32:30
>>512 そんなことはあるまい。
まあ、風前の燈くらいだろう。
515 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 18:38:14
516 :
唐松山 :2008/02/03(日) 18:40:46
改め〜壹與ちゃん十三才さんも 書記の年数は、倍歴ですか?
最近の改めちゃん、以前いた『ヒッキー君』にだんだん似てきたね そう感じるのは私だけ?
518 :
日本@名無史さん :2008/02/03(日) 19:36:44
ヒッキーは見え見えの冷やかしだけど改めちゃんはリアルのマジです。
>ヒッキーは見え見えの冷やかしだけど改めちゃんはリアルのマジです。 なるほど
>>517 言われてみれば、そうですね。
しかし、スレ主として、荒れやすいこのスレをなんとか続けてきたことには、
配慮してあげてもいいと思うよ。
改めちゃんってスレ主だったの?
>しかし、スレ主として、荒れやすいこのスレをなんとか続けてきたことには、 配慮してあげてもいいと思うよ。 彼、結構前向きだしいいんじゃないの
523 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/03(日) 20:37:34
>>505 女王国は北九州にはないと思う。なぜか? 簡単だ。そこにあるなら、もっと
畿内から遠い大陸、半島からの遣使の通り道の中継点だ。だから北九州にあれば
遣使により女王国の情報は畿内に伝えられ、当然記紀にその情報が載る。しかし
記紀には独立してのその情報は0である。ということは北九州には女王国はない
と観るのが合理的である。もっとも神武以前に卑弥呼がいたと主張するならこれ
は言えないようだが、倍暦計算から卑弥呼は崇神(幼年期は孝靈以降)のころ
の女性だから、神武以前ではない。
古文書が必ずしも真とは言えない。だから注意、検討して採否を判断するべき
だろう。竹内文献はこの世界では容認されることはまずないしね・・・。
神武から開化のころは畿内のみの小規模勢力の状態だったろうし、崇神から順次
勢力は拡大され、雄略あたりで本州と九州まで範囲はほぼ広がったろう。さらに
文武世を過ぎて九州王朝も終焉となり、九州一帯も畿内勢力下にまで拡大され
て行った。まぁこういうところか。
524 :
サガミハラハラ :2008/02/03(日) 21:59:51
折角サガミさんがそう申してるんで、どなたか反論してください。
526 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 22:31:16
>>513 >もっとお勉強してから書き込もうね。
>おじさん、お腹の皮が捩れて死にそうだよ。
あなたの持説のべてから突っ込んで下さーい。
それに死にそうなら私に言わないでお医者さんへ言って下さいね。
527 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 22:38:38
わたしのレスの
>>505 >当時は弱小連合国家(三十國)が魏の時代にあったとする。
「弱小国家」てところ訂正しなきゃいけない思う。
卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、葬者奴碑百餘人。
の文から弱小国家とはいえませんよね。
わたしのイメージでは卑弥呼の時代、「九州王朝」といえる国家があったのでしょう。
弱小国家とはその後と解釈してください。
古田氏のいう「九州王朝」までいかなくても
武光氏の言う「弱小国家」以上は大きいだろうと考えてる。
528 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 22:49:05
>>514 >
>>501 反論を期待していまーす。
サガミハラハラさん〜反論まってますはいいが前のスレでプラムさんから突っ込まれた
「じゅんそう?」について説明してくださいよ。
前スレのお互いの言ったことが本当であればそこは違うとなってしまうかと思います。
「反論」に関してですが、以前、プラムさんからいろいろ突っ込まれてたかと思います。
わたしもあの本を読んだかぎりではプラム氏と同じ突込みをしたくなる。
まあ、どうしても突っ込みいれてほしければ言いましょうか。
「神功皇后は実在した」
てそんなの日本中の人々が知ってる事なのではないでしょうか?w
お答え願いますか。
529 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 22:53:23
530 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 23:06:28
>>523 太国さん
>女王国は北九州にはないと思う
だれも北九州市に邪馬壹國があったとは言ってない。
わたしは九州を「北」と「南」二つに分けて「九州北部」と書いたまで。
卑弥呼の時代は神武天皇以降としてるのは同じか。
私は決史八代の間としてます。
竹内文献というのは知らないんですが、記紀の各天皇の年代は
「現在の正しい西暦ではない」ようは正しくないといえますよね。
何か解く鍵があるようですが・・。
大和朝廷が大規模になったのは祟神天皇の頃というの同意するが、
太国氏はそこが卑弥呼の時代としているよう。
わたしはもっちおかなり前と考えてるわけです。(威徳天皇ぐらい?)
531 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 23:19:11
>>516 >書記の年数は、倍歴ですか?
倍暦、三倍暦もしくは他の計算方法なのかは知りませんが。
ただ、神武天皇が即位したとされる紀元前660年は間違っているという考えで、
神代〜神武天皇の時代は現在の西暦でみれば紀元前後1年ぐらいではなかろうか。
という考えから
>細かい年代は分からないがわたしも大体それくらいだろうと考えている。
と言ったまで。
532 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/03(日) 23:21:02
>>530 女王国は奥九州と思うが、九州北部の言い方なら可能性はいささか
あるだろう。倍暦計算から、懿徳の時代は1世紀後半。
533 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 23:30:35
どうして「奥九州」になるんですか。 古田さんもいっているとおり 不彌國(今の宇美町)から南、 ようは不彌國の隣が女王の都する「邪馬壹國」です。 後漢書倭人伝から 自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。 女王の東に海があるのでその範囲はそちらまで広がってたのでしょう。
534 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/03(日) 23:34:19
みなさんへ
>>524 のサガミハラハラさんの挑戦〜誰かうけてください!
太国さんへ
なぜ奥九州かはこんどじっくり話しましょうか。
今日はもう遅いので〜明日の仕事に備え寝ます。zzz
535 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/03(日) 23:34:45
>>528 『殉葬』と『徇葬』
サガミさんからの回答を気長に待ちます。
大和に邪馬台国があったって事でいいじゃん。 邪馬台国→大和朝廷→平城京→平安京って流れの方がいいし、 日本の中心の方に文化があったって方がなんとなくいいし。
537 :
日本@名無史さん :2008/02/04(月) 04:49:14
卑弥呼は田油津媛
538 :
サガミハラハラ :2008/02/04(月) 07:06:14
>>528 じゅんそうは殉葬のことです。プラム氏には、じゅんにはそういう意味もあるのですか(納得の表現)とこたえてあると思います。
神功皇后は実在したことは誰でもしっているとのことですか。ありがたいことです。あれは記紀の編者の創造であるとの見解をみたことがあるとおもっていたのはわたしの妄想だったのですね。
539 :
日本@名無史さん :2008/02/04(月) 07:21:52
>>362 卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
桜ケ岡に多数の人骨を伴った3世紀半ばの比較的大きな墳が見つかれば教えてね。
>538 ”女王國東渡海千餘里復有國” ここはどう解釈されているのでしょうか? 東渡海千餘里なので少なくとも対馬→壱岐間の距離が必要で 小城ですと有明海ということになるのでしょうが 有明海を東に千餘里進んだ場合海からはずれてしまいますので これは湾内ではなく外海(日本海や太平洋)のことだと思われるのですが いかがでしょうか? それでも有明海を千餘里進むとなると 必然的に南に進むことが多くなり東渡海とは表現されないし 東に向けて川を遡上するのであれば 渡海ではなく水行と表現されていると思うのですがいかがでしょうか?
541 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/04(月) 09:50:54
>>538 サガミさん
徇葬が殉葬の事だったら、最初から殉葬と記載してあるし、徇葬などといものも存在しません。
そのくらいの道理は分かりますよね?
サガミさんが言ってる事は『土葬は火葬と同じ意味だ』と言ってる(いや、それ以上なトンチンカン)んですよ。一般的に使われない文字だから、余り周りは騒ぎませが
殉葬は
葬られし者に対し、供えし葬るある意味最上級の葬り方。しかも供えの対象物自らが選択する行為です。
一方徇葬は
葬られし者は“あまねし”であり、自らの選択権など存在しない葬られ方です。
この違いの重要性が何を意味するかは、お分かりですよね?
これが『卑弥呼以死』の正体です。
542 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/04(月) 10:06:19
>>533 いろいろ考察しての結論だ。当時書かれたのは倭人伝くらいしかないんだろう?
あといろいろ後代の中国古文献では頻出してるんだが、倭人伝の書かれた当時
いろいろと女王国の情勢記が個性的にあるのと違い単一的だから、北九州では
畿内に女王国の動静がいくらでも行くし記紀にも独立的記述もないことなど、
総合的に考察すれば、女王国とはちょっと行くのが難しい地勢の所にあったん
だろうと、そういう思いに至った。どうやら海岸線に女王国はなかろすし、陸行
一月の記載から、中国遣使は九州へ来たのは女王国へ直接行ったとか行くため
だったとかいうのではなく、遣使を兼ねて彼らからは未知とも言える外国九州
とはどんな所か、魏の皇帝からの下命か自己の率先での遣使代役かは不明だが、
どんな島なんだろうという興味から九州周遊をやりに来たというのが本命
だろう? 上陸して最初は北九州の沿岸線の国を見聞し、そこで情報を得た可能性
は相当あり、そこから今度は内陸部を探検しようということになった。
ところが道はあったろうが、いろいろな障害があって初めての土地だというと
もあり慣れず、順次疲労困憊して準密林の中を情報を信じて右往左往してさらに
奥へ分け入った。日々のうちのある日、森林を書き分けていると、とうとう
前方に木製建造物群のある未知の国を発見して狂喜した。そこの住民と手まね等
により女王国の全貌を知ることになった。数日滞在しただろう? 帰途についた。
九州の構造として、有明海を中心とする中九州(または西九州)圏と 薩摩、大隈、日向、豊前、豊後の外九州(または東九州)圏に分かれているように見える。 実際、山道はあっただろうが、大きい山岳に阻まれて大群が移動できる構造ではない。 中九州圏内であれば、割と情報はあっただろうが、外九州圏は文化の断絶があっても おかしくない。 特殊な例として、日田があるが、ここは豊後に属する。位置的には中九州に属していても おかしくないはずなのだが。外九州圏の出張所なのか? もし、倭国大乱で、大軍が衝突した可能性があるのならば、それは中九州圏だけの出来事だろう。 外九州圏は山道を通って、近隣のクニへサポートくらいはしていたかもしれないが、大規模な 軍事行動は難しい。
544 :
改め〜卑弥呼 :2008/02/04(月) 20:41:31
>>532 >>542 あなたは九州のどこに女王の都があったとしてるんですかね?
奥九州
どこだろう・・・。
545 :
30=どくだみ :2008/02/04(月) 20:42:42
>>541 徇葬は殉葬のことです。殉は「したがふ」ですが、徇にも「したがふ」という訓があります。
手抜きして、大漢和から例を引きますが、
史記・韓世家「将以楚徇韓」注「索隠曰、徇 従死也」
この注ではっきりするでしょう。他にもあります。
左傳・文公十一年「国人不徇」注「徇 順也」
呂覽・貴生「身を危うくして生を棄て、以て物に徇う」注「徇 随也」
>葬られし者は“あまねし”
これは、間違っています。徇に「あまねし」という訓は、たしかにあるのですが、
「葬られし者はあまねし」と読むには、「葬者徇」の語順でなければなければなりません。
「徇葬者奴婢百餘人」の徇を「あまねし」と読むなら、「葬」を「あまねく」する主体は奴婢百余人になってしまいます。
「葬者を徇くするは、奴婢百餘人」もしくは「葬を徇くする者は、奴婢百餘人」となります。
徇葬が「自らの選択権など存在しない葬られ方」で殉葬と違いが在るなどという事実は、
寡聞にして存じ上げません。
546 :
売国マル半 :2008/02/04(月) 20:46:15
547 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/04(月) 20:59:15
548 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/04(月) 21:40:18
太国さんは〜阿蘇だったんかい。 邪馬壹国はそんなところないよ。 阿蘇行ったことあるんかよって言いたくなる。
>>543 九州を4つに分けるなら「筑紫」「火」「豊」「襲」だろう。
550 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/04(月) 21:56:25
阿蘇は行ったよ。ただ阿蘇山の火口は霧隠れで接近ストップだったけ ど、周遊したよ。お前の無いというのは、何か〜? お前はスーパー マンの如くX線で阿蘇一帯を全部透視できるのか? そうじゃないと いう、どういう保証があるのか? U〜〜n??
551 :
日本@名無史さん :2008/02/04(月) 22:04:28
>>544 あっ! ここにもいたぞ!
自分の考えを書かない卑怯者「改め〜ドツボ」が!
552 :
サガミハラハラ :2008/02/04(月) 22:08:40
>>545 ほら、彼も殉葬でよいといってるでしょう。
これでこの問題は解決です。
553 :
ローガン :2008/02/04(月) 22:22:21
>>545 あ!どくだみさん!
ご教示お願いします。魏志の記載から、郡使は卑弥呼に会ったと考えた方が良いのでしょうか?
554 :
日本@名無史さん :2008/02/04(月) 22:22:31
太国さんのご持論を知りたいので、お尋ねします。 太国さんは、いわゆる邪馬台国東遷説は支持していらっしゃらないんでしょうか。 九州にあった卑弥呼・壱与の邪馬台国が、その後畿内大和へ移って、 大和朝廷となった・・・・・これが一般的に言われる邪馬台国東遷説ですが。 いかがでしょうか。
555 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/04(月) 22:26:04
わたしが「ない」といったのは上のレス(参考
>>533 )の考えにもとずいて言ったまで。
あなたは「何故阿蘇なのか」説明できるんですかね?
>お前はスーパーマンの如くX線で阿蘇一帯を全部透視できるのか?
では水源はどのようにお考えなのですか?
わたしは何もないところには「ない」としか言えないのだが太国さんには別の考えがあるのか。
>>545 どくだみさん
>「葬られし者はあまねし」と読むには、「葬者徇」の語順でなければなければなりません。
そうです「葬られし者はあまねし」この日本語のならびなら貴方の説明でいいでしょう
しかし、私の説明はそうではなく
葬られしものは、あまねしですよという説明のつもりで書いたものです。
たぶん、句読点が抜けていたせいで誤解を招いたことかと思います。
>>552 サガミさん
情けないのも究極ですね、他力本願で自説をホローするとは見損ないましたよ
>>545 どくだみさん
>徇葬が「自らの選択権など存在しない葬られ方」で殉葬と違いが在るなどという事実は、
寡聞にして存じ上げません。
存じる必要もないことです。
人は全てを把握できるはずもなく、知に限界もありますし
ましてや私みたいな視点で漢字を見たことは今までないと思いますから、別にドクダミさんはそういう認識でいいんじゃないでしょうか
しかし
>徇葬は殉葬のことです
これはまずいでしょう。違った文字に同じ意味は存在しませんよ
557 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/04(月) 22:35:05
>>554 東遷はないでしょう。
>>555 お前はハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見したときの状況を知って
るか? こんな所にないだろうと思っていた以外な場所から発見されてるんだよ。
あれは休憩所の下だったっけ? 出たのは彼も疲れ果ててここしかないという以外
な場所を掘ってたら大発見となったまでよ。ま阿、大発見とはこんな調子だ。
お前の無いなんていうのは保証もへったくりありゃ阿しない。
卑弥呼の墓も九州の以外な以外」な場所から発見されるだろうと考えが行く。
阿蘇と行っても阿蘇周辺という意味だ。狭小に思うな。
558 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/04(月) 22:36:58
>>555 水源?? いつも台風がくる地域だろう。溜めこめば簡単だ。
>>552 サガミさん
もう今日を限りに貴方にレスするのを止めにいたします。
長い間お付き合いくださりましてありがとうございました
ここまで形振りかまわない人だとは思いませんでした
サヨウナラ
560 :
太 :2008/02/04(月) 22:40:24
>>559 サガミハラハラ氏は今は信用がない。カラスの急降下のエサ取りの
行為ばかりで、即刻飛んで行って逃げてしまう。
中平刀を国産だとか根拠も0でチャチャーとしている。あきれるよ。
561 :
ローガン :2008/02/04(月) 22:49:34
>>557 そうですね。大発見を期待したいところです。
それまでは、各人好きな事を考えてわいわい言うのが楽しいのではないでしょうか?
562 :
どくだみ :2008/02/04(月) 23:06:32
>>553 ローガンさん
私は、いやしくも皇帝からの金印紫綬を、代理のものが受け取るということを、
魏の側の使者が許すかなというのが最大の理由から、卑彌呼は会っていたと思っていました。
「傳送文書賜遺之物詣女王」という文なども、そんな雰囲気がします。
しかし、絶対会っているという根拠は、今のところ、文面からはわかりません。
「自爲王以来、少有見者」とありますので、あるいは、霊的な純粋性を保つなどの宗教的な理由で、
卑彌呼自身は会っていないかもしれません。
こういう、あやふやな感じですが、私自身は、会っていただろうと思っています。
河童さん
>そうです「葬られし者はあまねし」この日本語のならびなら貴方の説明でいいでしょう
>しかし、私の説明はそうではなく
>葬られしものは、あまねしですよという説明のつもりで書いたものです。
「葬られし者はあまねし」と「葬られしものは、あまねしですよ」の、意味の違いがわかりません。
どのように違うのでしょうか。もう少し、ご説明をお願いいたします。
倭国の時代の葬儀の方法は知りませんので、「存じ上げません」と婉曲表現をしましたが、
「葬られしものは、あまねしですよ」も、主語が「葬られしもの」である以上、
「徇葬者奴婢百餘人」は、そのようには読めません。
>>562 どくだみさん
そんなにややこしく考えなくても
(葬られし者は、あまねし)
→葬られし百餘人は、まんべんなく葬られた。
私的解釈すれば
大陸風「一族皆殺し」ですよ
正に殉葬とは正反対
564 :
ローガン :2008/02/04(月) 23:49:06
>>562 ご教示ありがとう。貴方のような詳しい方が読んでも、やはり会ったかどうかは文面からは、はっきりしないのですね?
私は会っていないって言うか、邪馬台国まで郡使は訪れていないのではないかと考えています。
もし訪れていれば、卑弥呼の記事のところで「男弟」とか「男子一人」とかは書かなかったのではないかって思うのです。
道中の副官の名称(名前)記している訳ですから。
まあ、私の妄想はさておき、「卑弥呼以死」は「既に死す」でいいですか?
唐會要に確か「権已死」ってあったと思うのですが…
他の読み方をすべきでしょうか?
あ!いつもすみません!急ぎませんので又気が向いた時にでも、ご教示願います。
565 :
どくだみ :2008/02/04(月) 23:50:00
>>563 >そんなにややこしく考えなくても
そのまま、そんなにややこしく考えなくてもとお返しします。
>大陸風「一族皆殺し」ですよ
卑彌呼の一族は、奴婢ですか?
>>564 ローガンさん
すいません。唐会要を持っていないもので、ちょっとググッただけでは確認できませんでした。
唐会要の電子テキストを公開しているサイトなどご存知でしたら、お教えください。
567 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 01:06:56
>>562 >いやしくも皇帝からの金印紫綬を、代理のものが受け取るということを、
>魏の側の使者が許すかな
倭人伝には、魏の使者が会わなかった言い訳と読める部分があります。
伊都国で荷物の検査をするという部分では、伊都国で開封したのであとは、
伊都国の官吏にまかせたという言い訳。
女王の居所までの説明は、こんなに遠いんだから仕方ないという言い訳。
卑弥呼が誰にも会わないというのも、会わなかった言い訳。
狗奴国の部分は戦闘地域という言い訳。
倭人伝のこの部分は、使者の言い訳が書かれた報告書を重視して
編纂したのでしょう。
568 :
ローガン :2008/02/05(火) 01:33:33
>>566 すみません。pc壊れて貼れません。携帯でカキコです。
漢籍リンクの中の「中華文化網」にあったと思うのです。
お手数かけてすみません。
569 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/05(火) 08:44:22
>>545 どくだみさん
昨日は多くの用例提示感謝します。
さて『殉と徇』ですが
昨日“どくだみ”さんが出された徇の意味(從也、随也、順也)ですが、これらは徇の意味ではなく(徇に意味はありませんから)、『徇』が用例文に活用された時(從、順、随)などの文字と同じような使用のされ、また近似の意味とし使用しますよ
と、各説文が申してると捉えてよろしいでしょうか?「(從、随、順)には意味がありませんから 」
そして
「したがう」ですが
ただ漠然と“したがう”と和語表示されても、和語の“したがう”にも沢山の意味や活用の仕方があります。
漢字に置き換えても
(従、遵、随、若、帥、徇、殉、順、循、率……etc……)
約三十以上は
これら和語“したがう”の比較使い分けも考慮しなければならないかと考えます。
漢語を和語に置き換えるとは、そういう事ではないでしょうか?
570 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 09:06:43
欠史八代のあたりは 尾張氏の先祖のほうが大和王朝のナンバー1で 神武皇統はナンバー2だったんじゃないのか? だから、欠史八代のあたりは、詳しくは書いてないんだろう?
571 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 09:08:56
>>571 >卑弥呼の大きな墓を作る
単純な認識ミスがありますね
『大作冢』
大きな冢を作るなら
『作大冢』ですね
ここは (おおいに)しかし、“多いに”ではなく“大い”にです。
573 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 11:33:22
>>570 No.1は、出雲出身の大物主で、神武皇統はNo.2だったんじゃねえの?
尾張氏は、同じ葛城山麓に住んでいたご近所さん。
574 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 11:42:04
>>573 出雲⇒ホアカリ系(尾張氏系)⇒ニニギ系(神武皇統)
という権力変遷があったんだろう?
575 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 11:46:04
ホアカリ系(尾張氏系)と、ニニギ系(神武皇統系) が強い同盟関係にあったのは間違いないと思うんだけど、 尾張系が神武系より優位にあったとは思えないんだけど、 どうでしょう?
>572 ひょっとして 大いに塚をなすですか? ”卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人” 卑弥呼の死を以って大いに冢をなすこと百餘歩の徇葬者が奴婢百餘人 といった感じでしょうか? だとしたら恐い話ですね。
577 :
576 :2008/02/05(火) 14:45:25
ん? 奴婢つまりは戦奴・・・ >563で”私的解釈すれば 大陸風「一族皆殺し」ですよ”と 書かれているのを見ると・・・ ひょっとしてこれって邪馬台国敗北なんですか?
>>576-577 邪馬台国敗北ではないでしょう。
倭人伝の外交記事の大事なスペースに、通常考えられるられる殉死者の記事を掲載して
いったい何の意味があるというんです。
私は、
>>563 にて 卑弥呼の死に対し(徇葬者奴婢百餘人)死んだ卑弥呼の主要一族は皆殺しにされたと言ったのです。(一種のクーデター)
それに対し大いに塚が作られ、その中の卑弥呼の塚は径百余歩だったと書いてあるんじゃないでしょうか?
当然この文章からは、戦勝側などと言う構図は見えませんし
見えない以上そんな想像の余地もないという事です。だからクーデター
殺した側も殺された側も、皆同じ側の人たちですよ
まるで
縮小版帝国の歴史(帝国側の歴史に詳しい人なら、ワクワクする場面ではないでしょうか)
・・・・・河童劇場おわり・・・
579 :
576 :2008/02/05(火) 17:02:23
なるほど。 河童劇場はやっぱり面白いですね。 ひとつだけ確認させてください。 殉葬者ではなく徇葬者だからクーデターが垣間見える という解釈でよろしいでしょうか?
>>579 >徇葬者だから
これ一つだけ(他の公開はゴメンね)ではありません。
あの一文だけでも十分楽しめるから
>>578 今日は、あまり書き込めないけど、
>卑弥呼の死に対し(徇葬者奴婢百餘人)死んだ卑弥呼の主要一族は皆殺しにされたと言ったのです。
これに対して、
>>565 で、卑彌呼の一族は、奴婢ですか?おかしいでしょう、と問いかけたのです。
河童さんの歴史劇場は面白いですが、そう読めないものは読めないので、仕方ありません。
その文法的な理由は、明日か明後日か、時間のあるときにレスします。
奴婢が一族になる理由は、これから考えるので、 2〜3日の余裕というのは丁度よい期間。 どくだみさんは、ぷの習性をよく心得てらっしゃる方ですね。
583 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/05(火) 18:26:20
>>581 どくだみさん
奴婢を一族と解し、おかしいですか?
で、そのりゆうは?
>文法的にそう読めない
どくだみさんは読めなくても、私は読めますよ
584 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 18:38:57
>>575 :日本@名無史さん:2008/02/05(火) 11:46:04
>ホアカリ系(尾張氏系)と、ニニギ系(神武皇統系)
>が強い同盟関係にあったのは間違いないと思うんだけど、
>尾張系が神武系より優位にあったとは思えないんだけど、
>どうでしょう?
海部氏系図の解説本を書いた金久さんが
祭政分離について推測していて
ホアカリ系が祭祀、ニニギ系が政治を行っていたのでは?と推測されていましたね。
中世でいう、権威としての天皇、権力としての征夷大将軍でしょうか?
585 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/05(火) 18:39:00
>>582 プラムは尋ねられれば回答するけど
河童虫はプラムと違い、喋らないものは喋らない。(安売りはしません)
>>586 >女王様の親戚が奴隷ですか。
なぜ奴隷になるの?私は「メ」と認識してますが
588 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/05(火) 20:33:09
わたしが太国氏に女王の都を訪ねると「阿蘇」という答えが返ってくる。 わたしにはそこの地は女王の都するところに相応しくないのではないかと思い 水源はどう考えてるのか尋ねたところ(参考>555)。 >水源?? いつも台風がくる地域だろう。溜めこめば簡単だ。 (>558参考) ↑これひどくない? 真面目に答えてるのか、ふざけてるのか。 太国さん〜わたしの問いに対して、どのような返事がくるのか楽しみに してる人もいるかと思う。 もう少し考えてからコメントだしてみてはいかが? それとも真面目に台風でとお考えなのでしょうか? 再度、同じ事尋ねるがどうなの? コメント願います。
589 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 20:40:20
「改め〜壹與ちゃん十三才」さんは、「改め〜ドツボ」さんと同じ人なの?
590 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/05(火) 20:42:11
>>588 台風は多量の水を運ぶだろうが。 それとも阿蘇というところは
台風が脇を素通りして雨をふらさないのか? 阿蘇は砂漠だと
いうのか?
591 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/05(火) 20:45:06
カーター家のツタンカーメン発掘って正月にTVであったやつか。 大体、なんで「エジプトのツタンカーメン」なんだ。 温暖な倭国と砂漠の地のエジプトを同じ考えで考えるじたい間違ってる。 わたしが太国氏を高く買いかぶりすぎてたのか。
592 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/05(火) 20:51:12
>>591 じゃぁお前はツタンカーメンの墓のように発見は困難ではないと
言うのか? そっちはもう発見されたが卑弥呼のほうはまだ出てない
ではないか。違ってたって卑弥呼のほうが困難じゃぁ、ツタン
カーメン以上だから、なおさら意外な場所から見つかると言っても
過言ではなかろう?
593 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/05(火) 20:54:37
この人真面目に「台風」などで水を補うなど考えてるのか。(笑) あのね太国さん。 わたし今は本州に住んでるがずっと九州育ちなの。 九州が台風が来やすいといってもこっちとさほど変わらない。 ようは台風など滅多にこないんスよ。 だから阿蘇は台風がじゃんじゃんくるから水がいっぱいだとか考えないほうがよい。 てか何の話してるんだ(笑) わたしが言いたいのは今も昔も住みやすい地に弥生時代の都があったとするわけ。 普通に考えて「阿蘇」なんておかしくないですかね?〜太国さん
日本の土は酸性だから骨が溶けやすい
595 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/05(火) 20:58:19
ツタンカーメンの話などどうでもよい。 あなたは普段どんな人々と話してるんだ。 そんなわけのわからない事いってよく怒られないな。
596 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 21:01:52
>>595 それよりさあ、「改め〜壹與ちゃん十三才」さあ、
まさか、あの情けない「ドツボ」じゃないよね?
597 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 21:03:54
改め〜壹與ちゃん十三才はどこに邪馬台国があったと思っとるね?
598 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/05(火) 21:04:55
>>593 お前はおかしいいいでないの? そのころといまとの断層を同一化
で物事を見てるのがお前さん。だからおかしくなるんだ。w
いまは水道があるからお前がそこに水道局員がいなくても蛇口を
ひねればいいが、当時はそうはいかないし、気候地理だって開拓の
有無とかでかなり違うものだ。あのころは近代的水道はないんだよ。
だから苦労はするが、ためこむ等でやれば生活は阿蘇でも充分
できる。水源は台風でOKだ。
599 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 21:05:20
改めは太国大先生の事知らないのか? 新参者?
600 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/05(火) 21:12:39
>>589 >>596 何を腹立て私に「ドツボ」いってるのか。
それに〜わたしはあまりくだらない書き込みをする方とはやり取りしたくないタイプなので
あなたは遠慮してくださいな。
>>572 > >卑弥呼の大きな墓を作る
> 単純な認識ミスがありますね
> 『大作冢』
> 大きな冢を作るなら
> 『作大冢』ですね
> ここは (おおいに)しかし、“多いに”ではなく“大い”にです。
こいつ「大いに」と言う日本語の意味も知らんのか(唖然)
602 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 21:14:40
603 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/05(火) 21:15:46
>>599 先生とか大先生とかは言わなくてけっこう。アマチュアだから。w
>>600 > それに〜わたしはあまりくだらない書き込みをする方とはやり取りしたくないタイプなので
> あなたは遠慮してくださいな。
じゃ、太はOKなのねw
605 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/05(火) 21:18:58
太国さんは知ってますよ。 太国さんがくだらない事をよく言ってるのを見かけるが、古代史の知識は豊富で、 高くかっている人物の一人。 んで私の考えと共通している部分が数多くあるので、いろいろ聞いてるんだが・・・。
>>585 > プラムは尋ねられれば回答するけど
> 河童虫はプラムと違い、喋らないものは喋らない。(安売りはしません)
答えられないことには答えない。
プだろうがカだろうが変わってないと思うけど。
阿蘇は普通に川がありますが... 外輪山が出来た直後ならともかく、なんで水源の話になってんの?
608 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 21:21:21
改め〜=ドツボと知って、失望した。
609 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/05(火) 21:24:45
>>608 >改め〜=ドツボと知って、失望した。
わけの分からない事いってないでこれ観ている人が勉強になる書き込みでもしてな。
まずそれをしてからレスすることだね。
>>587 > >女王様の親戚が奴隷ですか。
> なぜ奴隷になるの?私は「メ」と認識してますが
漢和辞典に無いような読み方しておきながら「根拠は教えない」ですか?
それじゃ、他の人にアナタの考えが伝わらないでしょう。
アナタ、何をしたくてこの掲示板にいるの?
つーか、他人に通用しないような読み方しないと意味を為さない「史書」なんての
が存在するわけないのだが・・・
>>569 >「(從、随、順)には意味がありませんから 」
意味が無い文字などは無い。
プ氏と私たちでは「意味」と言う言葉の定義が違うのだろうが・・・
612 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/05(火) 21:30:41
>阿蘇は普通に川がありますが... 馬鹿にしてるんかい(笑) そこが住みやすいのかそうでないのかの話ですよ。 人、動物、昆虫。 今も昔も邪馬台国の時代もその生物達がもっとも暮らしやすいところに行くはず。
>>588 > 真面目に答えてるのか、ふざけてるのか。
ここで、真面目な太国なんて見た来ないお。
>>612 wikipediaより抜粋
カルデラ内は湧き水が豊富で平坦な地形が続いているため、農業生産に適していた。古くから人が住み、集落を形成していた。
7世紀の中国の歴史書『隋書』にも「阿蘇山」の名が見え、火を噴き上げる山として知られていた。
阿蘇市一の宮町にある阿蘇神社は肥後国一宮としての格式を持ち、
その宮司の阿蘇氏は古代の国造の子孫で現在まで世襲されている。
住みやすそうです。ほんとに九州知ってるの?(笑)
617 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 21:37:00
邪馬台国の女王の血を引くお方=太国先生なんでしすね。 血は争えないものでございます。一語一語が高貴な感じがいたします。 みなさんも、先生のお言葉を拝聴し、先生に導いていたただく。 そういった心構えが必要なのではないでしょうか?
618 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/05(火) 21:39:32
>>617 アマチュアだから先生はいらんです。血は引いてないです。
>>610 理由が無いと、掲示板には出入り出来ないのでしょうか?
私のレスが嫌なら見なければいい。
見るも自由、見ないも自由。
620 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 21:51:21
>>618 まさに大先生。その謙虚さこそ高貴な出の証拠。
三国志の劉備玄徳の話を読んだことがありますが、
たぶん、そのような人徳がうかがえる風貌なので
ございましょうね。
621 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/05(火) 21:52:45
>>611 貴方に逆に尋ね教えて頂きたい。
名詞活用以外で
文字に意味を持つ漢字を
m(__)m
622 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 21:53:03
邪馬台国と大和朝廷は単に別個の政権だったんじゃね? あの時代は何百ものクニがあったんでしょ?
624 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 21:59:00
999 :改め〜壹與ちゃん十三才:2008/02/05(火) 21:55:29 1000もっらい〜♪ 1000 :日本@名無史さん:2008/02/05(火) 21:56:24 改め〜ドツボwアホめ 向こうは逝ったようだ。
戦国時代も自分の住むところをクニという。
626 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 21:59:46
それにしても、日本書紀の編纂者はよほど欠史八代の存在が疎ましかったのだろう。 本当は消してしまいたかったのだろうが、主家の実在するご先祖様であり、さすがに それはできなかったのだろう。 その為に編み出したのが「神功皇后が卑弥呼かも?」とにおわせる事である。 はっきりと「神功皇后は魏志倭人伝にある卑弥呼である。」と書かない(書けない?) 事が何よりの証拠だと思う。(それが本当なら、何のためらいも無くズバッと書ける はずだからである。) 神功皇后が卑弥呼だと後世の人たちが勝手に思ってくれれば、その間にある欠史八代は すっぽり無かった事にでき、その間は三輪の大物主の元で葛城に暮す一諸候であったと いう事は無かった事になる。 日本書紀編纂者はそれ以外にもいろいろな仕掛けをしており、いまだに「畿内論者」と称する 人たちがそれに踊らされている事をおもえば、編纂者の仕掛けはかなり巧みであったと 言わざるを得ない。
628 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/05(火) 22:03:44
>>624 君は文字がすくないんだよ。内容も意味がないものだし。
まじで少ない文字&くだらないレスはやめてくれ!
君だけは楽しいのかもしれないが周りの人もレスするんだよ。
これを学問的に観ている人もいる。子供だってみているかもしれない。
大人ならわかるよね?
周りに迷惑のかからないようにレスすることをお勧めする。
会話したいなら学問的なレスをのせてからになさい〜!
>>619 >理由が無いと、掲示板には出入り出来ないのでしょうか?
意図的に他の人とのコミニュケーションを取りずらくしてるようなヤツが居坐る掲示板って
何か不気味なんだよな。
単にテキトーなこと書き合ってれば好いと思ってる人はアナタ以外にも居ることは居るが・・・
でも、ほとんどの人は「議論」がしたくてここに来てるんじゃないの?
630 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 22:07:02
>>628 999 :改め〜壹與ちゃん十三才:2008/02/05(火) 21:55:29
1000もっらい〜♪
これを書いた直後に言われてもw
畿内論者が大好きな年輪年代学、あれ眉唾物だから 彼の本読んでみたら、伐採年のわかる年輪3個から始めている その3個でパターンを創ったところ 伐採年のわかる貴重な木がもう一本 彼は正直にパターンと合わなかったと書いているw まあ海でも湖でもいいけど、だから飛鳥なんてあんな辺鄙な狭いところ 邪馬台国→倭の五王→九州王朝、大宰府に日本初の都城建設
>>621 ゴメン。
「名詞活用」って何?
何語?
ドイツ語?
フランス語の話?
633 :
改め〜壹與ちゃん十三才 :2008/02/05(火) 22:10:28
あ〜すみませんです。 わたしの場合は学問的なレスも数多くありますし多少はいいかなっと 思っての行動です。 しかし今後、言っているわたしも気をつけたいです。
>>626 卑弥呼なんて漢字の名は
誰もいないから、文面読んだ編纂者が
「う〜ん、神功みたいじゃね?」ってなっただけ。
欠史八代の何人かは多分、葛城王権の人間ではないか?
三輪に併合された際に、ある程度の
地位の保証と葛城大王を
取り込ませる事を条件にしたのではないか?
>>630 >
>>628 > 999 :改め〜壹與ちゃん十三才:2008/02/05(火) 21:55:29
> 1000もっらい〜♪
> これを書いた直後に言われてもw
爆。
まさにドツボだなwww それに向こうの1000書いた奴じゃなくて 向こうのスレッドが終了したことを伝えたやつに キレてる 改めは 天然w
>>629 君が自ら見本を示しスレを引っ張り、お手本になればいいだろう。
何もしないで、文句だけは一人前じゃ
説得力無いよ。
さあ全は急げ
ネタでも振ってくれ
>>631 名詞使用に直しといて
と、いうより
ドイツ語?
フランス語?
と、考えてるなら調べてみたら?
で、
そういうからかいは出来るが、肝心な内容には触れないのか?触れられないのか?
641 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 22:36:13
642 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 22:38:57
>>634 欠史八代の間は
ホアカリ系が祭祀を掌握していて、
名目上、ホアカリ系が倭王だった。
が、実権を握っていたのは、
その傍系のニニギ系の神武皇統でしょう?
643 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 22:46:50
神武天皇の先祖が九州日向に住んでいたのは3代だけ。 神武の曽祖父のニニギが九州高千穂に派遣された。 どこから派遣されたかというと、高天原。 奈良県御所市高天。ここを高天原といった。 じゃあ、誰かニニギに命令したのか? それはニニギのお兄ちゃんのホアカリ。 正式名称は、天照国照火明命。大倭王・アマテル。 彼の妻は、出雲の大国主の娘で ホアカリは、嫁の父親から覇権を譲り受けた。(出雲国譲り) つまり、神武皇統というのは、元祖大和王家(ホアカリ系)の分家筋で、 神武の3代前の間は、日向で知事をしていたというわけ。
644 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 22:51:09
>>641 コピペウザ杉。
そのあとの経過が全然ちがうってレスがあっただろ?
機内説って、こんなコピペしかできない阿呆ばっかりなんだよな。
645 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 22:53:31
>>644 ぜんぜん違ってないわな...
なんというか...
九州説が追い込まれているのは分かっているが、もっと余裕をもとう。
646 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 22:54:05
>>931 (前のスレ)
906だけれども、いわゆる倭の五王の最初である讃が宋に朝貢したのは421年。
讃はだいたい15代・応神天皇か16代・仁徳天皇とされるので、その時代が420年
あたりだろうと思う。
好太王の碑には、西暦391年、倭兵が海を渡ってやってきて新羅・百済を破り
臣民とするとある。同じように記述が日本書紀にもある。いわゆる神功皇后の
三韓征伐。神功皇后は朝鮮を攻め、新羅・百済・高句麗は降伏し、朝貢を約束
したとされる。
つまり、西暦391年あたりが神功皇后とか第14代仲哀天皇の時代だと思う。
これらから類推すると、第10代崇神天皇の時代は、4世紀中ごろとするのが
妥当だと思ったわけ。
647 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 22:55:40
>>643 そういう神話を巧みに利用して、自らの結党の正当性を
証明しようとたくらんだのが今の天皇家
648 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 22:57:00
自分は九州説だけど、本当に頭にくるよ!! 世間では、邪馬台国=大和国で決まりという風潮。 マスコミも考古学会も歴史学会も... みんみみんあな、畿内説。 どうなっているんだ? 九州説は殆ど相手にされてなくて、 アマチュアの歴史愛好家や歴史推理小説家みたいなのばっか。 なぜなんだ!
649 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:00:13
>>643 神武東征の時、大和にいた饒速日命も高天原からやってきた。
しかも、天磐船に乗ってやってきた。わざわざ船に乗ってやってきたとあるから
船を使わないといけない場所からやってきたのだろう。
邇邇芸命も高天原から日向にやってきた。こちらは船を使っていない。
つまり、高天原は、日向からは陸地伝い、大和に行くときは船を使わなくては
ならない場所にあると考えられる。
650 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:02:24
>>643 要するに、天皇家がその部分で隠したのはホアカリ系の存在でしょう?
だから、皇室の歴史って、何を書いているのか分からなくなった。
わかりやすく徳川時代に例えるのなら
初めて徳川幕府を開いたのは、家康ではなくて、秀忠だったとする。
しかし、途中、紀州分家の吉宗が将軍になる。
が、依然、秀忠の男系子孫は存在していたと。
この場合、紀州系の将軍にとって、秀忠の男系子孫はウザイ存在。
天武天皇が古事記を編纂する時に、徹底的に
尾張氏(ホアカリ系)の業績を隠滅したりしている。
というのは、そういうことだな。
651 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:06:02
>>649 船でやってきたといっても、天磐船ってやつでしょう?
これを本当の船と考えるかで違ってくるし...
昔の人は、天の岩船ってのは、雲海に浮かぶ船という発想があったらしいし。
あと、ニギハヤヒがホアカリと同じかどうかは分からない。
これは謎だな。物部氏はそう主張しているが
朝廷や他の豪族は、物部氏を天神や天孫として扱っていたわけだし。
652 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:06:07
>>648 大丈夫だよ。98%は、九州説で固まっている。
畿内説は、残りの2%くらいで争っているだけ。まあ、風前の灯だな。
城攻めで言えば、畿内説は、城下の村で農民と戦っている感じ。
畿内説は、この戦いに勝てば、勝利だと思い込んでいるが、城はびくともして
いない。城の中の兵士は笑いながら、その戦いを見ている。
653 :
小倉優子が好き :2008/02/05(火) 23:06:31
>>643 >奈良県御所市高天。ここを高天原といった。
違うと思うよ。それは日本書紀編纂者に騙されていると思う。
高天原から高千穂に降り立ったニニギ一行は高千穂から東日向に向かい、そこで
コノハナサクヤと結ばれ、海幸山幸を生む。山幸は豊玉姫と結ばれ、その子が
豊玉姫の妹、玉依姫と結ばれ、神武天皇を生む。
高千穂は九州山地にあるわけだが、そこに降り立った神々は東へと向かって山を
降りていく。と言う事は普通に考えると神々は高千穂の西側から高千穂の峰に登った
と考えるのが無理のない考え方だと思う。(人が天から降ってくるわけが無いからである。)
ニニギ達は高天原からやってきたわけだから、高天原は九州山地の西側である。
654 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:09:21
>>653 日本書紀の編纂者に騙されたとか何とか言うが
21世紀にいるお前のほうがもっと信用できないんだが。
確かに、日本書紀は8世紀で、初期の話はリアルタイムではない。
が、更に後世の21世紀のお前よりは信頼できるぞ。
655 :
小倉優子が好き :2008/02/05(火) 23:12:57
で、その信用できる話からお前はどういうふうに考えるんだ? それを書かなきゃ、ただのゴミだぞ。w
ぶっちゃけこんなとこで語っても決着つかないと思うが
657 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:13:17
>>653 それじゃ、高天原が西にあったことを解釈するのは難しいと思うが...
まず高千穂へ派遣され、そこから東にいっただけだし。
大和高天原から高千穂へいくとしたら、
まず中国地方を通過して、北九州に入り、そこから高千穂のあたりにいくでしょう。
で、そこから東の日向におりただけかもしれんし。
あと、高天原神話には、天尾羽張神とか出てくるが
こういう地名や由来のあるところは、
奈良県御所市高天にしかない。
このあたりは、尾張氏や尾張国の元になった地名があったところだし。
>>621 一言(長文だけど)言わせてください。
> 名詞活用以外で
> 文字に意味を持つ漢字を
アルファベットのようなものは表音文字と言われ、
例外的な用法用例を除き、一文字だけでは意味を成さない。
ここでその例外をあげてみます。
英語の冠詞「a」、名詞の前に付き後続の名詞の数を定義する機能があり、
無理に日本語に訳そうとすると「ひとつの」とか言う言葉があてがわられる。
ただし、英語話者は単に後続名詞が単数であることを認識するだけで、
会話の中で「a」の存在を意識しているわけではない。
貴方が漢字の中で「それ自体で意味を持たないもの」があると思っているのは
この事例で言うところの「後続名詞の数を定義する」と言うような文字の持つ機能を
「意味」ではないと考えているだけでしょう。
詞(コトバ)にも種類(品詞)があって、この中でも形容詞などは、英語の「a」の例と
同じようにその機能が他のコトバを修飾するものであるため、それ単独で使用され
ることは少なく、複合語の一部として使用されるのが一般的である。
貴方は、こう言った一文字だけで使用する例が少ないコトバを「それ自体で意味を持
たない」と考えているものと思われる。
しかし、真理、真性、真剣、真実等々・・・「真」に含まれる意味は後続の文字によって
変化するものではない。「真」には日本語で言えば「まこと」と表現される「意味」があり、
後続の文字によって、そも「意味」が変わるわけでもない。
この認識については私も貴方も一緒だと思う。ただ、それを貴方は「意味を持たない」な
どと奇を衒った(人と違う)表現をしているに過ぎないのではないでしょうか。
659 :
小倉優子が好き :2008/02/05(火) 23:14:18
>>654 早くお前の考えを書けよ。
さあ、早く。
660 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:17:05
>>652 :日本@名無史さん:2008/02/05(火) 23:06:07
>
>>648 >大丈夫だよ。98%は、九州説で固まっている。
>畿内説は、残りの2%くらいで争っているだけ。まあ、風前の灯だな。
そういうことばかり言っているから、俺たち九州説は馬鹿にされるんだ!
俺は九州説だけど、ちゃんと厳しい現状は認識しているよ。
今や95%以上が畿内説だ、邪馬台国を研究している学会などでは。
ごく一部のアマチュアの歴史愛好家だけが九州説を唱えているだけ。
で、畿内説の先生は、発掘費用を捻出するために
適度にブームを煽るために、九州説を利用しているだけ。
つまり、俺たち九州説は、畿内説の人たちに泳がされているだけの空しい存在
になりおちている。
661 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:18:13
662 :
サガミハラハラ :2008/02/05(火) 23:18:14
卑弥呼の墓の記述は魏使の実見に基ずくものです。 中国の一歩は日本とことなり、たとえば、左足を前に出し、ついで右足をその前に出して一歩となります。文字どおり歩くのです。 よって一歩は約150cmぐらいとなります。 小城市にある卑弥呼の墓であるさくらヶ岡はまさにその百余歩のおおきさの円丘です。
663 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:19:13
>>651 物部氏の祖である饒速日命は、天神の子となっている。
神日本磐余彦、いわゆる神武天皇も天神の子。
饒速日命の配下の長髄彦が、同じ天神の子同士でどうして争うのですかと
尋ねると、こちらは天孫族だという。つまり、同じ天神の子でも格が違うと
言うわけかな。
饒速日命が仮に天火明命とすると、邇邇芸命の兄弟ということで神武天皇と
同格に近いことになるから、後の人が天神の子にかこつけて、天火明命と
同一視したのかもしれない。現実的に見ると、神武天皇と天火明命では、
同じ時代の人とは言えないわけだから。
664 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:19:56
>>662 相模原原さんには頑張ってほしいと思う。
ただ、覚悟はしておいたほうがよいよ。
畿内説が確定しても、あんまり落ち込まないほうが良い。
>>643 君さあ、似たようなレスを何度も何度もしつこいよ。
神話の話をされても困る。室町の南朝北朝の様な物だろ。
天智天皇にも皇子がいたし、源頼朝は三男だよ。足利家2代目足利義氏も三男。
時代は下って2代将軍足利義栓も三男。
徳川秀忠にも結城家へ養嗣にいった兄がいた。
何れも子孫は存在してる。天智天皇の孫系列(弘文天皇)も存続してる。
摂関政治の時代も長男が跡を取ってる訳でもない。
君に因るとそれらはどうなるわけ?
単純に母親の実家の後ろ盾や母親の身分じゃないの?
結城へ養子に行った家康の息子の母親は足利将軍家所縁の者だよ。
秀忠の生母よりも出自は良いよ。
666 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/05(火) 23:20:54
>>646 君の間違いは、倭の五王が天皇だと先入観で思っていること。これがもう
間違い。五王は天皇ではなく、短期九州王朝の小国の王。当時九州も小国がうん
とあって、其の中の比較的北九州あたりの国王だと思う。
391年は倍暦計算で 仁徳即位元年 である。そこの倭兵っていうのは九州王朝の
傘下の兵隊。
天皇だの神話だのって話はスレ違いだと思うが
668 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:23:02
>>663 天津神と天神、ごちゃ混ぜになってないか?
ホアカリに関しては、日本書紀では、いろいろ説をあげていて
ニニギの兄というのもあれば(古事記ではそう)
ニニギの子供というのもある。
だから、ホアカリという同名の存在は二人いたかもしれない。
まあ、全部、憶測で分からない。
今度は九州説のふりをした誘導か
相変わらずソースのないところも同じだな
畿内説必死だな
>664 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2008/02/05(火) 23:19:56
>
>>662 >相模原原さんには頑張ってほしいと思う。
>ただ、覚悟はしておいたほうがよいよ。
>畿内説が確定しても、あんまり落ち込まないほうが良い。
670 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:25:02
>>650 徳川秀忠には結城家へ養子に行った兄が居るよ。
喩えるならそっちが適切では?
>例えば徳川時代だとする
家康の息子で喩えたらどうなるの?
その理論だと本家は結城家になる。
足利家に喩えたらどうなるの?
妾腹の直冬系列になる。
源氏に喩えたら、正室腹の頼朝(熱田代宮司家)ではなく、相模の豪族三浦の娘
の息子になる。子孫は存在するよ。
672 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:27:26
>>660 畿内説というのは、どんどん論点が変わっているだろう。
あれは、仮説を立てては崩れ、立てては崩れるから変わって行くしかない。
考古学的に畿内説という人がいたが、以前は三角縁神獣鏡魏鏡説だった。
それが崩れて、参りましたといったかな。今度は別のものを探し出して
論点にする。
そんなものだよ。もう、とっくに畿内説は首の皮の一枚も切れている。
>>650 序に徳川家(2代将軍)にとって結城家はウザイ存在だとの認識か?
両方とも側室腹だよ。
674 :
小倉優子が好き :2008/02/05(火) 23:31:15
>>657 >まず高千穂へ派遣され
と簡単に言いますが、その後に起こった「神武東遷」でもあれ程の物語になっていますし、
後に、神功皇后が北九州から畿内にはいる時も具体的な人名を伴う物語になっているわけです。
仮に「畿内高天」から九州高千穂に神々が向かったとすれば、神武東遷に匹敵する
壮大な物語があってしかるべきだと思います。が、そういったものは影も形もありません。
尾張氏に関する地名は奈良にしかありません。当然です。彼らは葛城の豪族だからです。
天孫降臨は九州高千穂の峰で起こったことであり、奈良にしかその存在を思わせる
痕跡がない尾張氏が九州へ向かったという物語が無く、彼らが天孫降臨の物語に登場するとすれば、
それは日本書紀編者のフィクションにすぎないと言う事です。
675 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:32:29
>>672 というか、九州説は、安本とかいうオッサンが
市販の天文学ソフトの誤差も考慮せずに
皆既日食説をぶちまけて、
いつのまにか、その説をひっこめていたじゃんw
676 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:33:27
>>666 九州王朝説からするとそうなるのはわかっているが、一般的には大和の王朝。
武の上表文には、東55カ国、西66カ国を支配しているとあるし。
677 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/05(火) 23:36:46
>>676 上表文か。それは五王の遠い祖先の時の話。だから五王当時の
勢力状況でなく、それより遠い昔の九州の情勢のこと。
678 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:37:07
>>674 だからさ、畿内高天から日向に渡ったこと書いたら
尾張氏の存在がばれちゃうじゃんw
このことを詳しく書くと
尾張氏こそが大和王朝の創始者の直系の子孫で
神武皇統は九州に飛ばされた傍系の子孫という。
天武天皇は大海人皇子といって、これは彼が尾張氏の支流の海部氏に
育成されたからついた名前で
しかも、壬申の乱の時には、尾張氏にかくまわれ、尾張氏の支援で勝てた。
このことは、何故か古事記(天武天皇が編纂)にはずっぽりと消され
後世の続日本紀などに補足されている。
680 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:38:31
>>675 あの人も九州説の一人に過ぎないから。
あの人の言うことが九州説の全てというわけではない。
だいたい、皆既日食なんて数分のもの。皆既日食があったとしても、そんなに
重要な出来事ではない。
むしろ、世相が真っ暗になったといったような比ゆ的なものだと思う。
681 :
ローガン :2008/02/05(火) 23:39:41
>>628 同意します。
あっと!文字少なくてすみません。
682 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/05(火) 23:40:35
火山活動の灰か?
683 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:41:21
>>679 系統概念を勉強しろよ。
ホアカリが初代だと、神武皇統の正当性に疑問がつく。
神武皇統はニニギの男系子孫だが、
ホアカリの男系子孫ではない。
オシホミミ(ホアカリとニニギの父)が初代倭王なら
神武皇統にとっては問題なかったのだが
残念ながら、オシホミミの代では出雲国譲りは実現できなかったわけで。
みんなさっさと埋めようと必死だなw
685 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/05(火) 23:43:58
>>658 正月さん
だから「真」に意味は有りませんよ
それに(まこと)は名詞でしょ
「真」という文字に“まこと”と言う和語をあてただけ
卑弥呼や邪馬台国のスレかと思ったら、実在も疑わしい神話の話をしてる。 ホアカリとか創作人物の話と邪馬台国とどんな関係があるのか分らない。
神話の話は神武スレでするべき
688 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:47:15
オシホミミが出雲国譲りを実現していたら 天武天皇にとっては、何の問題も無かったわけで。 でも、残念なことに、オシホミミは出雲国譲りはできなかった。 出雲国譲りで大和に覇権をもたさらしたのは オシホミミの子のホアカリからだった。 尾張氏は、そのホアカリの直系の男系子孫。 しかし、神武皇統は、ホアカリの男系子孫ではない。 ニニギ(ホアカリの兄弟)のほうの男系子孫である。 これを突き詰めて考えるのなら、尾張氏こそ大和の正当な後継者ということになる。 神武皇統は、大和の始祖の兄弟の子孫ではあるが、 大和の始祖自身の男系子孫ではないことになる。
689 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:48:21
>>672 >三角縁神獣鏡魏鏡説
これが崩れた時点で年代遡上説もドミノ倒しに崩れるんだけどね。
国産となれば、伝世論も難しくなり、△の種類分け(A〜)をして
1、A、B、C
2、 B、C,D
3、 C、 E
4、 B、 E、F、G
5、 D G、H、I
と時期ごとに△の種類の違いが一目瞭然となり、1〜5の順が付けられる。
これでは多種を含む、黒塚、椿井大塚山の遡上が困難となり、年代遡上論の中身が
抜け落ちる。石野は椿井大塚山を290頃とするが到底無理。
さらに、同型鏡は原則的に同時期で被葬者の寿命の違いで年代差が生じたとすると
△は多種出土の古墳が多くあるため、△の期間を100年前後とする長期編年も
成り立たなくなる。
△を出土した古墳でどうしても4世紀後半から遡れないものがある以上、△出土古墳の
遡上の限界は340〜350年頃になる。
△舶載論者がいまだに宗教的な執着心を示しているのも、この流れが分かっているから。
つまり、畿内説は、既に詰んでいる。
690 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:50:30
>>686 要するに、卑弥呼=天照大神ということ。
>>683 では、正統性とは?
仮に神話が正しかったと仮定する。
↓
単純に最初に生まれただけなら、徳川家康子孫の直系は結城家になる。
源頼朝は直系じゃない。相模豪族三浦の娘の息子が源氏の嫡流になる。
生母の身分なら、秀忠もその兄も側室腹だ。
どちらも子孫は存在する。
君に取っての正統姓の決め手は何?
692 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:51:26
日本書紀では神武天皇以前は神話ということになっているが、 古事記では、神話との非神話との境界が曖昧。 で、海部氏系図だと、オシホミミ以前は神話という認識だが オシホミミからは、そういう個人がいたという書き方。 神=カミは、後の役人などに使うオカミに通じ。
694 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 23:55:38
>>691 もう、お前は阿呆か?
あのな...
皇室典範のときに男系の意味が分からなかった阿呆に説明する気分だよ。
だから、徳川幕府に例えるのなら
徳川初代将軍が、徳川家康なら、秀忠家がなろうが、紀州家がなろうが
どちらも家康の胤だから問題ない。
しかし、徳川初代将軍が秀忠なら、紀州家にとっては大問題だろう?
紀州家は、家康の胤だが、秀忠の胤ではないから。
696 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 00:03:40
>>693 古代の大和朝廷にとっては、
大和の始祖・天照(アマテル)の存在が絶対的だった。
このアマテルとは、天照国照彦火明命(ホアカリ)のことであり、
このホアカリから大和王朝がスタートしたんだろう?
でも、神武皇統はホアカリの子孫ではないのだ。
神武皇統やニニギ(ホアカリの兄弟)の子孫なわけで。
ホアカリの子孫は尾張氏や海部氏。
神武皇統は、ホアカリの兄弟の子孫だから、全く正当性が無いわけないが、
でも、ホアカリ自身の子孫ではないのは明らか。
そして、現にホアカリの子孫がそれなりに君臨していた。
徳川家の大名の区分けでも
家康の子孫たちは御三家にかぎらず越前松平家・保科家をはじめ親藩大名だったけど、
家康よりも前にわかれた松平家は親藩ではなく、譜代大名という区分だった。
家康の同父弟の内藤信成も譜代大名とされた。
697 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 00:06:30
>>695 結城家は家康の子孫だから、極論、徳川将軍の正当性が無いわけではない。
だから、秀康も将軍候補になった。
家康の男系子孫だからだ。
しかし、内藤信成(家康の弟)やその子供には、将軍職の権利は無い。
なぜなら、彼らは初代将軍・家康の子孫ではないから。
698 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/06(水) 00:07:43
そもそも 国語の授業が癌なわけよ 『この漢字の意味は?』 こんな馬鹿な教え方しているから、後にこまる訳 『漢字に意味なんか無い』 きちんと 『この文章に使用されている時の、この文字の意味は?』と、教えるべきだ
699 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 00:09:06
徳川幕府に例えるのなら ホアカリ=徳川家康であり ニニギ=内藤信成 つまり、古代の日本の大和朝廷では、 内藤信成の子孫が、徳川家から将軍職を奪ってしまったようなものなんだよ。
『神話の話ばっかかよ』と揶揄されても構わず神話の話ばっかだなWWWWWWW
>>696 意味不明。
2代将軍秀忠には正統性がなくなるじゃん。彼には結城家へ養子に行った兄がいる。
君の論理だと弟が継ぐと正統性がなくなる。結城家についてどう考える?
神話の話をしてどうする。君だって信じてる訳ではあるまい。
ひとまず神話と実際の出来事を分けよう。
703 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 00:14:14
>>689 >△を出土した古墳でどうしても4世紀後半から遡れないもの
例えば、佐味田宝塚古墳がある。
全長約112mで後円部径60m。つまり前方部の発達が顕著で古く見れない。
しかも、日本家屋が描かれた家屋文鏡を出土しているため、これを古くすると
同時期に△の国産技術が存在したことになり、舶載説としては苦しい。
この古墳で△が12枚も出土していて、同型が椿井大塚山でも出ている。
次に、新山古墳がある。△を9枚も出土している。
佐味田宝塚より前方部が発展しているので、古墳形状自体がすでに新しい。
方格規矩四神鏡(4枚)は漢字が文様と化していて、十二支の配置も誤っていること
から、明白な国産とされる。径44cmのダ竜鏡は日本でのみ出土する国産鏡(定説)。
直弧文鏡(3枚)も国産とされる。黒塚と同型の△を出土。
△鏡の種類からは、(新山、黒塚)→(佐味田→椿井大塚山)となり、黒塚や椿井の
遡上の邪魔になる。それゆえ、遡上論者はこの古墳には言及しない。
>>699 天照大神の子孫=天皇家
神武天皇を始祖と仰ぐ=天皇家
矛盾はない。
天皇称号は700年前後だとする。
天皇を名乗り始めた=天皇家=皇室
705 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 00:20:34
>>701 もう、お前は...俺の言うこと、ぜんぜん理解していないな!
兄とか弟とかは関係ないんだよ。、
ようは創始者の男系子孫かどうかを言っているんだよ。
養子にいこうが、そんなことは関係ない。
ピントのずれたことをいうな!!
足利家に例えのなら、足利幕府というのは、足利尊氏からスタートした。
よって、極論、関東公方家も、足利尊氏の子供の基氏からスタートしたから
将軍になる正当性は十分にある。
だからこそ、足利持氏は、京都の足利義教と戦争したんだろう?
でも、足利直義の子孫(実際は居なかったが)だと、
正当性にかなり疑問が出てくる。
一難最初(尊氏)の子孫ではないから、事実上、
ここで足利幕府の系統が最初と大きく変わったことになる。
武は雄略天皇
>>685 > だから「真」に意味は有りませんよ
「真」には真と言う「意味」が有ります。
それは後続の名詞の真贋を識別させる機能です。
それを貴方が「意味」と呼ばないだけです。
> それに(まこと)は名詞でしょ
> 「真」という文字に“まこと”と言う和語をあてただけ
「真」は名詞としても使いますよ。
そして中国語には中国語としての意味が有ります。
その場合に対応する日本語訳は「まこと」が一般的だよ。
「真理」なら「真(まことの)理(ことわり)」とでも訳します。
因み「意味」と「和訳」は全く違う概念なのだが、
貴方の言ってることは「和訳できないから意味が無い」
としか聞こえない。
それは、貴方がそう表現するだけで、「真」と言う文字の
持つ「機能」(普通に言う「意味」)が違うわけじゃない。
>>699 その説明が一番わかりやすい.
だからこそ、天武天皇は
アマテル(天照国照彦火明命)の存在を打ち消すために
二代さかのぼって、おばあちゃんを、アマテラスとして
祭る必要が出てきたんだな。
でも、現代の日本人って、学者ですら、この意味を理解していない人が多いからなw
そりゃ、なかなか謎が解明できないわけだ。
皇室典範のときも男系の意味が分からない人が多すぎたし。
709 :
古代 :2008/02/06(水) 00:26:04
なんだか血筋、直系ともめてるようですが、 ヤマト王権(あえてヤマト王権と書くのは大和朝廷確立ではないから)の時代に 血筋相続の習慣があったのかは疑わしいですよ。 相続のルールがなんとなく出来たのは天武朝くらいから。 それでも実力者優位だったので持統天皇とかは大津皇子とか殺してるわけだし。 王権自体が連合国の中の一番の実力者がなって何代か血筋で相続しても駄目な王が 現れると別の国から王を立てていたてな感じではなかったかと思います。 その意味では王を殺して新しく王権を立てればよかったわけで、随所の皇子の反乱の意味はそこにあるのでは? 後の時代の後継の仕方を神代や上古代に当てはめるのはどうかと思いますが むしろ後の時代の後継の仕方を当てはめているのは創作っぽいとも言える。
>>705 天照大神の子孫の天皇家
神武天皇を始祖と仰ぐ天皇家
天皇称号始祖の天皇家
君の理論だと天皇称号の正統性はどこにある訳?
名乗り始めた始祖は神武皇統だよ。
711 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 00:30:47
>>689 はいはい。遡上論。なんてないよ。もとに戻っただけですよ。
考古学における年代決定をする中心は遺物の多い九州。
遺物は少ないが遺構の多い近畿は文献史学との、
よく言えば、融合の模索。悪く言えば、文献史学に頭を抑えられてたのが、現実ですよ。
その軛から少し解放されるようになったのが昨今ですね。ご存知とは思いますが。
確かに石野さんは批判の対象になりやすいとは思います。
まあ、貴方が自分の考えを大事にされる事を否定するつもりはありません。老婆心ながらという事です。
>>709 その例が、出雲の国譲りだろう?
古事記や日本書紀は母系継承を隠していなくて
オシホミミが、高天原の長だった高木神の婿養子に入ったことを記しているし
出雲王朝とは母系での継承だったということも記している。
もし、違う系統から皇位を継承してて、それを隠したのなら
出雲国譲りの記述すらないよ。
出雲王朝とも同じ系統で男系で繋がったように記していたはず。
>>710 だからこそ、
天武天皇は、
アマテル(ホアカリ)を打ち消して、
アマテラス(ホアカリとニニギの婆ちゃん)を
大和の始祖のように祭りなおし
また、イワレ彦を神武天皇とすることによって
ホアカリやその系統で倭王になったものの存在を
消し去ったんだろう。
>>712 >母系での継承だったと記している
本当にはっきりそう記してる訳?
嫁の出身は○○だと、隠していない事実を深読みして解釈してるんじゃないの?
715 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 00:39:58
>>711 石野さんの言うことが全て正しいとは思わないけど
邪馬台国畿内説が圧倒的に有利で
考古学者の殆どが畿内説というには変わりがないよ。
大体、九州大学ですら、畿内説なんだから。
>>705 へ
再度読み返して、やっと君の言わんとしてる意味が分った。
意味が分ったから、もう質問しない。
そういや九州説は何が根拠なんだ?
>>714 出雲→大和は、完全に母系継承。
もし、全て男系で繋がったように記すのなら
出雲→大和をわけずに、出雲・大和の王の歴史もひっくるめて
記していたはずだし。
>>718 その論理なら、神武天皇以降は正しいと言う事になる。
欠史八代もなんのその。事実で終了で良いじゃん。
720 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 00:49:10
系図の話ってのは、言葉だけで説明するのは難しいよ。 図に描いて説明しないと難しい。 皇室典範の時に男系を説明するのに苦労したじゃん。 現代人というのは血統概念がないから 古代人・中世人の血統概念を理解するのは難しい。
722 :
古代 :2008/02/06(水) 00:49:20
古墳とか見ると吉備と出雲は4〜5世紀くらいまでは大和とは別な独立した国っぽいよ。 だから実際には国譲りがあったのは神話の時代よりもっと後と考える事も必要かも。 天照国照彦火明命の名前の国照は全く無視する傾向にあるみたいだけど 天照国照て名前を立派に見せる美称。 だからこの名前が出るのは祀る海部氏や尾張氏。 火明命自体に太陽の神とか稲穂の神とかはあるけれども。
>>719 だから、その欠史八代のあたりで
ホアカリの子孫となんかあったんでしょう?
神武天皇は本当に大和王権でナンバー1だったのか?
たしかに政治的にはナンバー1だったが
祭祀や名目上はホアカリ系のほうが大和の王として君臨していなかったのか?
欠史八代のあたりで両者の関係が逆転したかもしれない。
邪馬台国論争は、ここ5年ほどでも かなり進歩しているよ。 纏向遺跡の調査の進歩もあるが 尾張氏や海部氏についても焦点が当たってきたし。
正直な話天皇陵掘った方が早い気がするけどな 確か掘っちゃいけないんだよな
726 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 01:03:06
九州説への素朴な疑問… 魏志倭人伝の邪馬台国に至る途中のクニを特定するのに 現在に伝わる地名を必死に当て込む努力はするのに 最後の最後「ヤマト」「ヤマタイ」の地名に拘らない説が多いのは何故? 本来九州説は「山門」一本であるべきじゃね?w
727 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 01:04:22
>>723 >だから、その欠史八代のあたりで
>ホアカリの子孫となんかあったんでしょう?
本当に神武天皇に相当する人物が存在したのか疑うほうが近道かも。
神武天皇と崇神天皇の類似性は指摘されてるし。
両者の逆転はむしろ崇神の時代かもしれない。
>>722 倭(やまと)と当時の倭人が自称したとする。
当時の倭人にとってのやまとの意味は何だと思う?
漢字がないころから、やまとと名乗っていたのなら意味に興味がある。
日本は、ひのもと(日ノ本・日が昇る)、の意味がある。
漢字を理解してるからだ。漢字無しのにほんだったら、意味が分らない。
やまとの音だけで、漢字が無い頃の本来の意味が気になる。
やま(やま)プラスもり(杜)と仮定して、
山・・大きな山、高台の山、もっこりした山、、、妄想してみた。
杜(とは音読み、もりは訓読み)・・神社の神聖な森は杜と書く。
お社様、神々の住まう杜。故に山杜(やまと)。妄想してみた。
これなら、三輪山信仰と結びつくかなとも妄想してみる。
倭(やまと)の意味は何だろうか?
729 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 01:07:09
太国!寝るな! い、いや、大先生。又明日よろしくお願いします。
畿内説ばかりで詰まらない。 私は九州の宮崎だと思う。
731 :
ローガン :2008/02/06(水) 01:12:57
>>728 山辺の道。ここに言われる山は三輪山です。
狭義のヤマトとは、三輪山のふもとの意味。
和田教授の説です。
732 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 01:14:13
>>689 ,703
三角縁神獣鏡の国産説に反対ではないんだが、
次の点は大いに疑問を感じるね。
>>689 >さらに、同型鏡は原則的に同時期で被葬者の寿命の違いで年代差が生じたとすると
>△は多種出土の古墳が多くあるため、△の期間を100年前後とする長期編年も
>成り立たなくなる。
この1行目、
「同型鏡は原則的に同時期で被葬者の寿命の違いで年代差が生じたとすると」
これは前提だよね。
この前提が正しくないと、きみのこのあとの立論はぜ〜んぶ無意味になるよね。
で、この前提は正しいと、どうやって証明する?
二つに分けようか。
@(三角縁神獣鏡の)同型鏡は原則的に同時期(に生産された)
A被葬者の寿命の違いで(三角縁神獣鏡副葬の)年代差が生じた
証明してほしいのはとりあえず@。
@だけでいいよ。
証明してくれ。
733 :
古代 :2008/02/06(水) 01:14:56
古代の大和は鴨氏や倭氏、尾張氏や物部氏などがいたわけだから 小国の連合国であろう。もしくは並立していたかもしれない。 これらは大物主系とホアカリ系とにわけられる。 記紀を持ち出すなら、国造りの時から大物主が三輪山に祀られているので 初期の王国は大物主王国。 そのあとホアカリが盟主になった時代があった(?) 大和が母系継続なら神武の妃は大物主(あるいは事代主)の娘だから 正統後継者は鴨氏系で尾張氏はその後王朝を奪ったことになる。
何で神話を持ち出すの? ホアカリ、大物主も実在が疑わしい。 尾張、物部系図も疑わしい。 話を進める便宜上ホアカリ、大物主と言う概念名称を使用しているの? 概念名称の大物主は誰だと推定しているの?
736 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 01:22:28
1000達してしまった前スレじゃなくて並行スレ?w見てきたけど 九州ですが ◆UEukKMcVo2氏が言っていた 「点と点を結んだ広域国家なんて無理」 「そんな大きな国がクナ国一国で揺らいで魏に仲介を頼むのはあり得ない」 ナンテコトを仰っていたんすけど… 先の部分に付いては纏向に各地の首長が集まっていて その為の住居跡があったって話あるけどアレは嘘? 後の部分に付いては、そもそも争いがクナ国一国だけとは何所にも書いてない 自国で処理しきれず魏に仲介を申し込んだのがクナ国の件だったわけで・・・ でもまあ畿内説だとクナ国も相当規模のクニで無いといけない訳で そこが結構難しいところなんだろうなあ。
737 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 01:25:18
>>735 記紀原理主義者なんだろw
紙の上>>>>>土の中
738 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 01:25:21
>>732 そんなの簡単だよ。
三角は種類ごとに別と考えればいいんだよ。
△をA、B、C・・・と分けて、それぞれを内向花文と画文帯との
違いのように考えればいいんだよ。単純なことだろ。
基本中の基本というのは案外忘れやすいものだよ。
>>736 そらシナの皇帝に認められるほどの国と戦うわけだからある程度国力が大きくなきゃ渡り合えんだろ
まぁ俺は近畿でも九州でもどっちでもいいけど
740 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 02:43:19
もし畿内説が正しければ九州説は邪馬台国を過小評価 もし九州説が正しければ畿内説は邪馬台国を過大評価 …していた事になるな。
741 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 04:18:04
>>740 そうだな。3世紀中頃には日本各地で王権と呼んでもいい規模の勢力が発生していたので
それらが通商などで互いにつながっていたというのは前提だから。
畿内説ではその中心が奈良盆地で
九州説では九州勢力内のグループだけの話ということになる。
いずれの説を採るにしても邪馬台国は直接大和朝廷とはつながってない。
742 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 04:46:12
九州説を取るとしたら、どうして邪馬台と大和という似たような名前になるのか。 どうして、邪馬台国の王も大和の王も「倭王」なのか。
>>738 >△をA、B、C・・・と分けて、それぞれを内向花文と画文帯との違いのように考えればいいんだよ。
御説の意図が小生にはいささか解しかねるので、いま少し言葉を補って説明して頂けないであろうか。
「A、B、C・・・」というのは、同型鏡のグループに対する弁別なのであろうか?
×氏作銘同向式二神二獣鏡、とか、〇氏作銘三神三獣鏡、とか、
ともかく文様で同型か非同型かのレベルまで落として細かく鏡式を分類し、
しかもその上で、三角縁神獣鏡の細分された鏡式のある一つが、例えば「内行花文鏡の全体」に、
また別の三角縁神獣鏡の鏡式のある一つが、例えば「画文帯神獣鏡の全体」に、という風に
考えなさい、と読めるのであるが、そう受け取ってよいのであろうか。
しかし内行花文鏡にも、例えば平原1号墓の超大型鏡グループ、大宜子孫の銘の有るもの、とか、
また画文帯神獣鏡にも、三角縁神獣鏡と殆ど同様に「同向式二神二獣」、「環状乳三神三獣鏡」等の
鏡式分類が行われておるがゆえ、
>>738 >それぞれを内向花文と画文帯との違いのように考えればいい
は失礼ながら、いささか乱暴な話ではないかと感じた次第である。
しかも更に理解出来なかったのは、「と考えればいいんだよ」、「のように考えればいいんだよ」と
仰るのであるが、三角縁神獣鏡を同型鏡のレベルで細分した鏡式の一つが「内行花文鏡の全体」、
の如き考え方をすればするほど、
>>732 氏が求められたところの
>>732 @(三角縁神獣鏡の)同型鏡は原則的に同時期(に生産された)
の証明からは却って遠ざかり、逆に同型鏡は時代を跨いでも生産された可能性の方こそを
>>738 氏自身が
云われたような気がした点である。
「・・・と考えればいいんだよ」だけでは、同時期生産の証明には、未だなり得ておらぬのではなかろうか。
744 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 06:36:43
244 :劉達新 ◆r8qshg.1/2 :2007/07/16(月) 23:09:54 0
>>239 『晋書』は『魏志』と違って邪馬壱国について「卑弥呼は公孫氏の女である」と書いているが、
日本人の学者はそう読みたくないから奇妙な読み方をしている。
しかし真実は、公孫氏の女の卑弥呼を娶った扶余王仇台がヒメタライスズだったのだろう。
漢語を正しく読むことが出来ず、偽造文書の『記紀』に合わせて奇々怪々な読み方をしたのが、
この国のいわゆる歴史学者であり、
国民にしても自分たちの祖先が中国から亡命して来たという事実を認めるのがいやだったから、
この国では、こんな頭のおかしな連中でも勝手なことをいえたのである。
神武妃ヒメタタライスズまたは女王卑弥呼は神武の死後、神武の先妻の子の綏靖と共に鎮西にあった倭が、
のちに百済(旧多羅)を支援して、唐との全面戦争(白村江の戦い)に絶望的な敗北を喫したことで、
中国大陸における倭人勢力は殲滅。
この辺りまでが倭国史であり、中国大陸から亡命して来た、亡命漢人・亡命倭人、
そして、主に奴隷として連行されて来た穢人らによって日本国が建国された。
ここから本格的な日本史が始まる。
745 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 06:59:27
>>730 畿内説ばかりで詰まらない。私は九州の宮崎だと思う。
大阪在住の私も気持的には畿内説 だけど、現実的には九州説
ただし、北部九州は論外で、宮崎日向を支持したい。
ホケノ山も黒塚も現地説明会に参加するなど、思いは強いが
やはり「狗奴國」と「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」倭種国
の比定地が定まらない。
東海地方を狗奴國とする場合もあるが、尾張氏は連であり大王家と
は古くから交流関係が築かれている。
また、渡海を琵琶湖を渡ってと推定されることもあるが、やはり無理
がある。
この2点さえ整理できれば、畿内説支持グループに入っていきたいのだが。
いまのところは、消去法で宮崎日向派です。
場所なんかどうでもいいだろ
748 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 07:30:11
以前は、宮崎が有力と思っていたけど、今は熊本に興味がある。 熊本平野は広く生産性が高い。しかも、筑紫平野のように海に向かっておらず、 盆地気味なので、古代の人には適していたと思う。 更に、鉄器の出土が多い。西弥護免遺跡が発掘されたとき、この遺跡だけで それまで日本全土の鉄器に匹敵する鉄器が出てきた。 出雲の妻木晩田遺跡から鉄器が120点ほど出土したとかなり騒いでいたが、 阿蘇の小野原遺跡からは、1200点を越える鉄器が出ている。 そのほかの遺跡からも多量に鉄器が出ていて、これは厖大というしかない。 また、女王の古墳も発掘されている。九州山地を越えると日向というのも 何かを暗示させる。 火の国・熊本はけっこう奥が深いと思う。
749 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 07:37:52
>>745 比定地を見る場合、九州説は「放射式」で畿内説は「順次式」とされています。
魏志倭人伝は、三国志の魏書の烏丸・鮮卑・東夷伝の最後に書かれています。
倭人伝が特出しされているわけでもなく、漢書西域伝もかなり参考に書かれて
いると思います。当然に、烏丸・鮮卑伝との記載方法も統一されていな
ければならないでしょう。
さて、この場合、他の西域伝や烏丸・鮮卑伝で、放射式により行程を記載
説明している箇所があるのでしょうか。
もしあれば、放射式の見解もまんざらじゃありません。
わからない遠絶の土地を説明するのは、順次式が普通と思われますので・・・
>>742 古代版公文書偽造でもしていたりして。
一方の傘下に入りたくない→そうだ、偽造しちゃえ→賄賂で王にして貰おう
>>749 >九州説は「放射式」畿内説は「順次式」
どこからそんな色分けが出来るのですか?
私は順次式の九州説です。
次スレから住み分けをした方が良い。 「畿内邪馬台国説の人が、それ以後の諸々について語り合うスレ。」 そこでホアカリとかイザナミとかスサノオとか心行くまで話し合って。 「九州説と邪馬台国説の人が、基本に立ち返って語り合うスレ」 話題がどんどん外れて行ってる。 同時進行の別すれを二つ立てれば良いよ。 同時進行の他すれが埋まってしまった所為で、途端に話題がずれた。 他すれの住人が大挙して押し寄せて来てしまった。 以前の空気を返して欲しい。
阿蘇山の伝説 火口瀬 大昔の阿蘇は外輪山に切れ目が無く、その中には水がたまって 広大なカルデラ湖になっていた。 健磐龍命(タケイワタツノミコト、阿蘇大明神)はこの水を無くして 田畑を造ろうと考えた。 そこで、外輪山の一部を蹴破ることにした。 一度目に挑戦した場所はなかなか蹴破れない。 というのもその場所は山が二重になっていているからで、 以後「二重(ふたえ)ノ峠」と呼ばれるようになった。 別の場所で再挑戦すると今度は見事に蹴破ることができた。 しかし、そのはずみで健磐龍は尻餅をついてしまって「立てぬ!」と叫んだ。 以後その場所は「立野(たての)」と呼ばれるようになった。 また蹴破った場所からは大量の水が流れ出し滝となり、 数匹の鹿も流されたことから、以後「数鹿流(すがる)が滝」と呼ばれるようになった。 湖水が引いてくると底から巨大なナマズが現れた。 ナマズが湖水をせき止めていたため、健磐龍は太刀でナマズを切り、 ようやく湖水は流れ去ったという。 Wikipedia阿蘇山より引用 水源はあったかもね。 個人的には阿蘇〜高千穂〜日向あたりまでの一帯が怪しいと思ってる。
漢語で書かれた阿蘇が、いつの間にか九州の阿蘇にすりかわる 何時までも解決しないわな
天武天皇が 男のアマテルを女のアマテラスに変えたというのは 凄い重要な説なんだよ。 海部氏系図でも、アマテラス以前はずっと前のことだが オシホミミからは、そういう個人が居たみたいな感じになっている。 つまり、どこからが実在のことで、 どこからが大昔の神話かという 境界線が明確になる。 アマテラスのスサノオの誓約によって オシホミミやホヒが誕生したことになっている。 しかし、その次からは人間の普通の営みで生まれたことになっている。 つまり、オシホミミ、ホヒの代からが実在のことで それ以前は、それよりずっと前の神話化した話を 無理やりくっつけた可能性があるわけで。
>>733 出雲の大国主と大和の大物主を同一ととらえる考えもあるが
一応、古事記では、両者は別物同士。
大和高天原内部では
最初は大物主系である大伴氏や鴨氏の系統が優位だったけど
そのうち、オシホミミが大物主系の娘と結婚して
その間にホアカリとニニギが誕生した。
そのうちのホアカリが出雲の大国主の娘と結婚し、やがて出雲の統治権を譲り受けた。
よって、大伴氏や鴨氏の先祖が大和高天原のトップだった時は
大和高天原は弱小な存在であり
まだ出雲との決着はついてないが、
母系継承でオシホミミ系にうつってから、
大和高天原は出雲を倒して大倭王になったんだと思う。
757 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 10:32:46
>>755 記紀神代なんて、無理矢理くっつけまくりだよ。
国譲り神話なんて、どうみても孝昭あたりに起こった事
をくっつけてるしさあ。
758 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 10:40:16
>>752 そうなんですよね。やっぱり同時進行のスレが2つくらいないとダメですよね。
だれかドンコイの次スレたててください。
>>757 それは言い過ぎだよ。或る程度は事実を基にして記述されている。
神武遠征がそうだよ。
760 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 11:42:11
>>743 亀レスだが、
とりあえず寝ろよw
△についての私の基本的な検討の仕方は、以下のとおり。
1、とりあえず型が違うものは別種として区分してみる。
2、そのなかで同時期と考えられるものとそうでないもの(後世の複製)
を見分けていく。
3、その過程で、同位体比を考慮する。
同位体比の違いが僅少の場合は同時製造とほぼ確定できる(新井を参照)。
4、鏡の大きさの違いにも目を向ける。
鏡の複製を作ると熱膨張のために、作られた鏡は型(元の鏡)より若干小さくなる。
同型では大きい方が先に作られたとの一応の推定が働く。
5、さらに、同型鏡の分布を考慮する。同型鏡の分散している地方とヤマトで時代に
大幅な格差をつけることは避ける。
6、文様の変化(具体的→抽象的)も考慮する。
>>757 それは、おまえだけの考え。
孝昭天皇に関しては
出雲の国譲りというよりは、
それよりずっと後の、尾張氏からの国譲りのほうが可能性がある。
たしか、彼の妻がホアカリ系(尾張氏系)だったはず。
つまり、孝昭天皇の国譲りは、出雲からではなく
尾張氏からの可能性が高い。
国譲りというのは、何回かあったんだろう。 最初の国譲りが 出雲から大和(ホアカリ系)への国譲りで 大国主から、娘婿のホアカリにでしょう。 次の国譲りが 大和(ホアカリ系)から大和(ニニギ系)への国譲りで 天忍男命から、娘婿の孝昭天皇への国譲り。
763 :
752 :2008/02/06(水) 12:22:56
神武天皇は高千穂から東征なさったのでしょうか? 私は九州の人間で、小学生のころ、高千穂に行ったことがありますが、標高1500米を こえるところで、非常に寂しいところで、とても大勢の人間が住んでいた、とは思えません でした。 その西には「韓国岳」という山がありました。これは「からくりだけ」と読みます。 ようするに、中国なり韓国なりから追われて、命からがら逃げてきた人たちの 落人部落だったのだと思います。 ここも侘しいところで、いかに逃げてきた人たちの恐怖心がつよかったかを 物語っています。 結論は、大陸からの追求が怖くて、東征したのでは?
764 :
古代 :2008/02/06(水) 13:06:36
崇神天皇は実在した最初の天皇と言われています。 その皇后・妃ですが、皇后は皇族なので置いておいて 妃:遠津年魚眼眼妙媛(紀伊国の荒河戸畔の女) 初代斎宮:豊鍬入姫命を産んでいる。 妃:尾張大海媛(尾張氏出身) 渟名城入媛命が倭国魂神を祀るが一年で髪が抜け落ちたりしたので交代。 ここで面白いのは紀伊の国には日像境があり 尾張氏にはホアカリ鏡(そんな名前はないがホアカリの本体)がある事です。 日像境は天岩戸の時にヤタの鏡を作るのですが、ヤタの鏡の前に作った試作品であるとされています。 それ故に前皇祖神として皇祖神に準じた扱いをされています。 一方ホアカリ鏡はヤタの鏡を伊勢に移すにあたって、代わりの鏡を宮中で祀ろうということになり、 そのときに作った一枚であると説明されます。 先の記述を見てもわかるとおり初代斎宮である豊鍬入姫命は紀の国出身です。 それ故に日像境が紀の国に移されたのかもしれません。 いずれにしろ、この時祀っていたのは日像境の可能性があります。 尾張氏の渟名城入媛命は倭の国の神:倭国魂神を祀りますが 祟りにあい一年で祀ることが出来なくなります。 これは尾張氏が倭の守護神を祀る資格がないため、 倭氏の祖市磯長尾市に変えられたとも考えられます。 ホアカリ鏡が作られるのは崇神の次の垂仁の御世です 以上のことから考えると、尾張氏が政権を握ったのは垂仁の世かもしれません
765 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 13:11:01
>>763 神武一行が東征に出発したのは、日向から。
高千穂に降臨したのはそのご先祖さま。
私は、高千穂の西にある高天原(天の安川:小石原川のある甘木か?)に
住んでいた天孫族が険しい九州山地を陸路越える事に成功し、コノハナサクヤ姫
と結ばれた事が、この物語になったのではないかと思っています。
766 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 13:28:41
>>761 そんなこというなら、「それもお前だけの考え。」w
っていうか、尾張氏が神武系の主筋にあったという根拠はなに?
(基本的にはそのあたりになにかあったと言う事で考え方は近いと思うのだが。)
「国譲り」というからには、尾張氏は滅ぼされてしまったと言う事なのだろうが、
実際は濃尾平野に尾張があり、御神体に剣(武力の象徴)を頂く熱田神宮がある
日本書記によれば、イザナギの命が「天尾羽張」という剣で迦具土神を斬った時、
剣の鍔際についた血から成った神が「タケミカズチ」。その滴った血より成った神
の孫が「フツヌシ」とある。
このタケミカズチは、出雲に「使わされた」わけだから、
「出雲からの国譲りの時点で、すでに神武系の部下であった」と考えられるのでは?
>>763 神武天皇の曽祖父が高千穂に降臨した。
ニニギのことだ。
そのニニギさんは、高千穂に降臨する前は、高天原にいたんだけど、
その高天原というのは、大和の国にあったという伝承がある。
で、ニニギのお父さんが
奈良県御所市高天にいたらしい。
ここに書き込む奴って、意外に
古事記や日本書紀などの文献をちゃんと読んでないだろう。
断片的に読んで、すき放題しゃべっているから
頓珍漢なことばかりいう
>>763 韓国岳というのは、そこから
遠くはカラの国(外国。この外国は半島南部の加羅だろう?)が見えるから
カラクニ岳と言われただけじゃないのか?
記紀などの記述からみて、そうだ。
で、多くの奴が誤解しているが
高天原と高千穂をごちゃごちゃの考えている奴の多いこと。
769 :
767 :2008/02/06(水) 13:49:46
でもその話は現実的じゃないね。 奈良から宮崎まで行く目的は何だったの? 結局、神武天皇も卑弥呼も大陸から逃げてきて、その子孫の一部が九州も危ないってんで、機内に移りすんだんじゃないの?
770 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 13:55:10
>>767 みたいな香具師は詐欺にひっかかりやすい。
「目論見書には、年利120%ってかいてあるだろー!」
なんてレポーターに喚いている姿が目にうかぶ。
まあ、冗談はさておいて、奈良県からどうやって九州高千穂に降臨したと思うの?
誰かの都合のいいように記紀が編纂されたかの?とかは考えないの?
771 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 13:58:36
太国大阿闍梨はまだおねんねなのか?
772 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 14:05:47
わかんね〜かな〜。
昔の人は奈良から宮崎までテレポーテションできたんだよ。
なあ、
>>767 さん。でなきゃ説明つかないもんな。
773 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 14:21:41
頓珍漢な昔のカキコを読んでそれの信憑性を考えもせず、
他人を頓珍漢呼ばわりする
>>767 さんって、本当に頓珍漢な方ね!
775 :
古代 :2008/02/06(水) 14:29:40
奈良県御所市高天は高皇産霊神が祀られている 高皇産霊神は天皇家がもともと祀っていた神と考えられています。 だから高天原が奈良でも別に格段に驚くことではない 大嘗祭は天武朝の時に完成したといわれる戴冠式みたいなものですが ここの社殿の第一柱が高皇産霊神。天照殿はありません(たしか) 伊勢の天照を祀るようになったのは天武の時と言われていますが、 厳密にはもう少し後と考えた方がよさそう。 書記には天武が尾張氏の伊勢の宝を返さないで嫌がらせをしたみたいな話が載っているので この時伊勢から祭祀権を奪ったと思われる。 それを天皇家の皇祖神としたのはもう少し後のこと(かな?)
えーと基本的な疑問。 高天原は実在してたの?
777 :
古代 :2008/02/06(水) 14:49:53
実在したとは思ってない。 大和朝廷が大権を握ると 日本の中心は畿内でありそれ以外は蛮族地と馬鹿にされていた。 宮中にあがる殿上人を「雲の上人」などと呼んでいた。 畿内は神が住む地:高天原がある土地にされた(?)
778 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 14:52:18
767の知ったかぶりにウンザリするスレはココですか?
というか大半は知ったかに見えるんだが
バ○四天王の一人、美濃先生を 最近見ないねぇ…寂しいじゃねぇか でわ
>777 サンクス。 なんかややこしいね。 高天原から高千穂に天下って人間天皇の歴史が始り でもこの高天原は存在しておらず その先の歴史の大和朝廷つまりは畿内が 後に高天原と呼ばれた可能性がある。 大体こんな感じですね。
782 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 17:03:44
高天原は実在したと思う。記紀を読むと出雲の国譲りがある。国譲りといっても 実質的に征服なのは明らか。また、天孫の高天原から日向への天下りもある。 これらは記紀に詳しく書かれている。 この出来事から高天原がどのあたりの場所を示唆しているかはわかるはず。 出雲や日向が登場して、どうしてその間にある九州の西側が記紀の神代に 全く登場しないのか。 古代の日本で一番栄えていたはずなのに。 このあたりを高天原に比定するのが自然だと思う。
783 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 17:09:25
>>782 九州の西側というよりも、九州の北部・西部ということで。
>>769 貴方は
>>767 なのか、レスが
>>767 なのかどっち?
>>763 への答えは
>>768 さんが書いてます。
昔の日本人は舶来品を唐物と呼んでいました。だからと言って唐(中国)ではありません。
今で言う輸入品です。
私は中学の遠足(山登り)で久住山へ登りましたが、教師からの説明も
>>768 さんと似た様な物でした。学校は福岡市です。
785 :
どくだみ :2008/02/06(水) 18:52:44
>>587 河童さん
>なぜ奴隷になるの?私は「メ」と認識してますが
「メ」とは、何ですか?
それから、漢文で奴婢と出てくれば、奴隷のことですが、
三国志を読んだ中国人が、この奴婢を「メ」なるものと理解できる理由はなんでしょう。
ローガンさん
中華文化網に唐會要ありました。でも、「権已死」というのは、見つけられませんでした。
中華文化網は、全文検索できないからかもしれませんが、何か、他の文献かもしれませんね。
次スレから二つに分けて欲しい。 「畿内邪馬台国確定前提」・・・心行くまで語り合う 「本来の九州・畿内入り乱れて魏志倭人伝を元に語り合う」・・本来のスレ 同時進行の別スレが埋まってから、大挙してこちらに遠征して、 以前の空気を好む私は迷惑している。 独立スレ(畿内確定条件・前提)で心行くまで、ホアカリだの、国譲りだの語ってくれ。 どんどん空気が悪くなる。同時進行スレが埋まったから、こちらに押しかけたんでしょ。 途中から雰囲気が悪くなった。 私はホアカリだの国譲りだのどうでも良い。 九州、畿内の討論を読みたい。畿内確定前提(途中から)の書き込みは板違い。 途中から空気が悪くなった。前半の空気が好き。 同時進行の別スレ(畿内確定前提スレ)希望の人は挙手。 ホアカリだの国譲りだのどうでも良い人は挙手。 以前の(前半)雰囲気が好きな人は挙手。 畿内・九州のお互いの討論をしたい人は挙手(畿内確定前提じゃ無い)。
>>707 二月馬○さん
河童さんの言うことを通訳する感じで、他のスレの書き込みをコピペしておきます。
まず、漢字は、字典を引くと、複数の意味が列挙されていますが、
それは、一つの漢字は、一つの意味の核を持ち、それが文脈に合わせて変化することで、
それぞれの意味が発生するのではないかという考え方を踏まえた上で、以下をお読みください。
例えば「目」という漢字は、名詞・動詞・形容詞などに使用されます。
その字が、文の中でどういう働きを担うか、動詞なのか名詞なのか、主語なのか目的語なのかは、
意味の核(あなたの言う字意なのだろう)を知るだけでは、わかりません。
なぜなら、漢文における漢字の働きは、文中の位置関係によって決まるからです。
文中のどの位置に置くか、どの文字と組み合わせるかで働きが決まり、特定の意味が生じます。
それが語法のルールであり、これは、字意を考えているだけでは解りっこありません。
つまり、字意をいくら考えても、語法のルールを知らなければ、文章は正確には読めないのです。
多分、河童さんは、こういう意味で、漢字に意味は無いと言っているのではないでしょうか。
↑ 何なら海部系図専門スレでも良いよ。 同時進行の別スレが埋まってしまったから、変なのが大挙して押しかけてきた。 途中までの真面目な?スレに戻したい。 海部系図スレでもホアカリスレでも良いから、畿内確定前提スレで それらを語り合うスレを作って、住み分けして欲しい。 もうお腹一杯だ。住み分けされてる独立スレ希望。
このスレもの凄い荒れっぷりだね
790 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 19:53:46
不勉強で持ちネタの少ない馬鹿が同じ話でループさせようとするからな
同時進行の別スレが埋まっちゃったから、その住人が遠征して来たんでしょ。 このスレも途中までは普通だったんだけどね。別スレが埋まると同時に空気が悪くなった。 畿内説、九州説を魏志倭人伝やその他の書物で語り合うスレが、何時の間にか 畿内確定前提で、それを基にしたお話スレになってしまった。 国譲りとか、ホアカリとか、海部系図とか、三輪山信仰とかは畿内確定前提での話しでしょ。 だから、「邪馬台国畿内前提で卑弥呼を含む大和朝廷や諸々を語るスレ」の独立スレ希望。 こっちはこっちで、今まで通り語り合うスレでの存続。 お互い住み分けをして、お互いのスレでは趣旨にあった話をする。 遊びに行くのも質問するのも自由だが、趣旨にあった話をする。 以上。
そもそもこんなところでうだうだ語ってれば決着がつくと思ってる時点でアホだからな
793 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 19:56:33
そのネタ振ってる馬鹿は一人だけだろ 馬鹿に合わせるなよ 馬鹿に合わせず馬鹿を排除
795 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/06(水) 20:11:12
魏志倭人伝の女王国行きは、当初から女王国に焦点を当ててその計画の元に九州 同国へ向かったものではなく、行く段階で奥九州の情報が大陸に届いてない未知 の島であったわけで、九州とはどういうところか、皇帝から下命の有無は何とも だが、遣使を兼ねて遊覧と探検の目的で九州へ出発してというのが本当のところ だろう。出発時点で女王国の在所の詳細が明確にがわかっているくらいなら、 なにも二次的となる旅を伝に書くまでもなく、その一次的たる情報の入手先から 女王国の詳細を取れるから、わざわざ九州まで行って女王の配下と面会等 する必要は薄く、一次的情報をくれた者からの女王国の状況を伝に伝えれば いい事となり、水行十日陸行一月をする手間も省けるわけで、それで事は足りる。 最初から女王国がどんなところかのの具体的状況を知っていて女王国へ行ったん ではなく、わからないから調べてみようという想いで旅へ出たということだ。
796 :
古代 :2008/02/06(水) 20:11:45
えっと、かえって空気が悪くなってますよー 邪馬台国と大和朝廷をどう捕らえるかというのは 邪馬台国問題の一つのテーマですね。 畿内説は葛城王朝説とかありますが、 基本は邪馬台国が大和朝廷に繋がった、との考えだと思います。 問題は九州説ですね。 ・1、九州の邪馬台国が東征して大和朝廷になった(白鳥庫吉) ・2、クナ国が邪馬台国を倒し、畿内に入って大和朝廷を作った(水野裕) ・3、大和朝廷が九州を征圧したときに邪馬台国も滅んだ(記紀をもとに) などがあげられると思いますが。
797 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:12:01
798 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:16:07
>>790 >>792 >>793 自作自演ご苦労。
誰にやり込められたか知らないが、見苦しい愚痴書いてないで
やり返してやったらどうだ?w
お前のような香具師がいるからスレのふいんきが悪くなるんだ。
いやなら出て逝け。
799 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:18:10
本人乙w
800 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:20:05
負け犬乙w
>>798 >>792 は俺だが他は違うぞ。といってもID非公開だから信じられんだろうが
それに俺はお前にだけじゃなくてスレ住人全員に向けて発したんだよ
802 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:25:44
>>792 と、うだうだ語ってる馬鹿が申しております。
803 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/06(水) 20:27:25
>>785 >メ
簡単に言えば「女」です。卑弥呼に仕えしメ達
メの上にて頂点を極める者が「メ上」にあたる卑弥呼と考えます。
所謂(めうえ)
で、どくだみさん
当時、奴隷などありましたか?
私の知識に奴隷がないため使用しませんでした。
804 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:27:48
空気の読めない馬鹿が居る事を知らしめれば そいつが本当の馬鹿じゃなきゃ、他の事も書ける筈なんだよ でなきゃ馬鹿だと言われるのに、同じ事を繰り返すしかない能がないのを晒すのか 黙って引き下がるかどちらかだろう こいつはどのスレでも同じ話ばっかりしやがってマジでウザイ しかも、内容がコピペ並のループだろ 知識は本当に浅い癖に、他人の事は高みから見下すような言動 だからこいつからは、まともなレスは返って来ない スレの発展性ゼロ
805 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:28:08
>>801 なんだ。こんなところにうだうだ語りに来たのか?この馬鹿。w
806 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:30:48
>>793 君にはこの言葉を贈ろう。
「隗よリ始めよ。」
知らないかな〜。馬鹿だもんな〜。
馬鹿の排除は君がまず始めることだ。
まず馬鹿の君がここへこない事だ。
807 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:34:31
>>804 んー? まず反論してみたら?
っていうか、君が自分は知識があると自分で思ってるなら
それをかけばいいじゃない?
>>796 私は1番だと思う。
畿内遠征は事実だと思う。矢張り邪馬台国が後の大和になった。
でもどうななんでしょう。桜井市が大規模発掘調査をするんですよね。
相当な確信がないと無理でしょう。未だ全体の2パーセントしか発掘してないから
何が出るか楽しみではあるが、、、、。何が出土されれば確定されるのだろうかと。
素人考えでは単純に金印と思ってしまうけど、埋める物では無い気もする。
その辺の所どう考える?
809 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:36:51
>>805 悪い悪い、普段は見てるだけなんだがこのスレのあまりのヒドさについついなwww。ちなみにここに書き込んだのも初めてだ。
まあ、馬鹿の戯言だと思って軽く流してくれや
811 :
ローガン :2008/02/06(水) 20:39:44
>>785 すみません。どくだみさん。お手数をかけました!
812 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:40:13
813 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:41:59
もう一つ。 宇佐八幡は古墳の上に建てられてるんでしょ。 昔、古い物が出土したと聞く。 こちらも調べられないのだろうか。 それに宇佐の御神託事件も気になる。何故朝廷は神宮では無く、宇佐へ勅旨を派遣したのか。 皇室と九州は深い繋がりがあると思う。
815 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:45:09
同じ話しか出来ない馬鹿に付き合うと、スレの内容が以降全部同じになるんだよ そうならないように釘を刺してやってんだよ 言わなきゃ解らない奴だからな
816 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/06(水) 20:45:25
>>814 神武天皇から孝明天皇までは伊勢行幸はまかりならぬという掟があり、
それで宇佐神宮にしたんでしょう。
>>816 孝明天皇と弓削道鏡は時代が異なるよ。
道鏡の時代にも掟があったの?
818 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:48:49
おいおい。
>>790 は凄い勉強家でネタが豊富らしいぞ!w
>>790 さん!その博学でネタが豊富な所を披露してくださいっ!www
もちろんコテって、そうだなー「博学でネタがいっぱいの790だぞ。」
なんてどうだ?www
819 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:49:44
820 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:52:19
目的が達成されなければ何度でも来るよ
821 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 20:58:16
>>820 と、こんなところでうだうだ語っていても決着がつくはずがない
と逝っていた
>>820 が申しております。
厚顔無恥とは
>>820 の為にある言葉だな。
>>816 > 神武天皇から孝明天皇までは伊勢行幸はまかりならぬという掟があり、
> それで宇佐神宮にしたんでしょう。
太国、寝起きか?
意味不明の文章だなあ。
何が言いたいんだか・・・
823 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/06(水) 20:59:31
>>817 よく内容を読め、道鏡の時代は神武〜孝明の間だよ。その間は天皇は
伊勢神宮と直接付き合っちゃぁいけないことになってるの。
分ったかい?
824 :
古代 :2008/02/06(水) 20:59:34
宇佐神宮といえば宗像三神ですが 『防人日記』によると、宗像大神が天降り、 青い玉を奥津宮に、紫の玉を中津宮に、八咫の鏡を辺津宮に、 それぞれ御神体として納め祀ったので身形郡といい、 後に宗像と改めたと言われていますが、 玉は海の至宝で海の神にふさわしいと思うのですが、なぜ一つだけ鏡なんでしょう? 八咫の鏡は三種の神器のことではなく、大きさが八咫の鏡という意味と思われます。
825 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 21:02:24
,,..--―-、 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/, -----、.ヽ, / 2ちゃんねる、馬鹿発見!
| i_,,,,_ __゙l | | 負け犬馬鹿はボッシュート!
,!、i'゙-‐-: '-、|/ / __________
/'') ..., '‐-‐、.j  ̄ ̄
/ ,‐!::...`'''''''`ノ
_,,,l ;! ::|ヽ、二 イ
, -‐'゙゛ i::.. | .ヽ/;ヽj!`‐-、_
l ノ::. .:|、 .ヽ,:ヽ| <゛〜ヽ、
,:''`` ''"゙.|;;:‐''゙|.ヽ、 ヽ;::| / .|゙l
,: ヽ::il;;! ヽ、ヽ| / | :|
i o゚ :`;''゙ ヽ| / | .|
i ..:::::,:::'::::: . |゚ |,,;:->、
`.、__;;/:::::::::: : | !''" |
i ::.:::: : | | .|
| |゚ / |
⌒ ⌒ ⌒ シュルルル
__⌒ ⌒ ⌒__
/::::::::::Λ_Λ::::::::::::::::::/
/::::::::::(∩;´Д`)∩:::::::/ チャラッチャラッチャーン
/
>>790 >>792 >>793 /:::::/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
>>824 > 宇佐神宮といえば宗像三神ですが
(゚Д゚)ハァ?
827 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 21:07:52
このスレも終りましたね。
828 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/06(水) 21:08:48
>>822 勿論例外のようなことはあるようだ。崇神2年=238年、この年
天照大神宮が名っているが、豊受大神宮も含んで、出来たときは
これは別だが、とくに天皇は伊勢行幸はまかりならぬという掟が
あるのだ。だからそれに抵触を避けるため宇佐神宮のほうとしたん
だ。ある天皇は相当伊勢が恋しかったが、配下の進言で断念し
たものだ。
829 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 21:09:35
こらっ!
>>804 !!
てめえ、↓こんな事ぬかしてるんだから、さぞかし深い知識を持ってるんだろな?(知識の無い馬鹿ほどこういう事、自信過剰なんだよなー。www)
>知識は本当に浅い癖に、他人の事は高みから見下すような言動
>だからこいつからは、まともなレスは返って来ない
はやくその知識とやらを披露せんか!このボケ!!
ん?何か? 実はなーんもしらんのか? ほれほれ、何か言ってみろ!この馬鹿!
>>827 気にするな、こーゆー現象はどこのスレでも起きる。
ここが2ちゃんねるの限界だろう。
馬鹿、ボケ、負け犬は、やめれ
832 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 21:11:21
そうだね。 もう、元神奈川県民も同じコテじゃ姿を見せんだろうし。 耄碌爺さんの太国一人じゃスレを盛り上げられませんな。
834 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/06(水) 21:13:52
重複スレ末の
>>998 さんは何が言いたいのかよくワカラン。
ここにいるかどうかは知らんが。
もう、このスレは、このまま雑談で流して成仏させてあげよう。
836 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 21:14:49
これはもう、
>>804 がその知識とやらを披露して
馬鹿、いや、場を盛り上げるしかないですな。
おーい!
>>804 やーい!!
トヨタン・・・・・・・・・・
838 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 21:16:26
だれかドンコイ次スレたててよ。 漏れは立て方しらないんだよー。
804じゃないが、知識を披露 ですがの年収は200万円以下、らしい。
804じゃないが、トレビア風知識を華麗に披露。 太国はヤマタイ関連スレ以外のところではけっこう長文レスを書く。
すごい知識だな!
842 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 21:20:33
:||:: \
>>804 ゴルァ 出て来んかい! われー! ドッカン ゴガギーン
:||::  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ _m ドッカン ☆
:||:: ___ ======) ))_____ / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
:|| | | | ̄.ミ∧_∧ | | ────┐||:: ∧_∧ < おらっ!
>>804 出てこんかい! 知識があるんやったら披露せんかい!
:|| |ぁゎゎ. | |_..( ) | | .___ │||:: (Θ щ Θ) \___________
:|| _・`〉 | |_「 ⌒ ̄ ,|.. |_... ..||||:: / 「 \
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:||:: :; 冫、. . | .i .|:||◎ニニニニ\/ \ |  ̄
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843 :
804 :2008/02/06(水) 21:24:46
それでは私もひとつ! じつは私は短小包茎です。
844 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 21:37:28
>>804 ←こいつ、すげー馬鹿だな。w
何様のつもりなんだ?偉そうに。www
読んでみてムカついたわ。
>>804 誰に言ってるの?「こいつ」じゃわかんねーよ
846 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 21:47:59
>>804 >こいつはどのスレでも同じ話ばっかりしやがってマジでウザイ
>しかも、内容がコピペ並のループだろ
太国大先生の事? 誰の事いってるのか解らないが、議論で太刀打ちできない
からといって、こんな事書くお前はサイテー。
意外トレビア・・・・プラムのハンドルは飼い犬の名前から やっぱしトレビア・・・・サガミハラハラは相模原市民 プチトレビア・・・・太国の正式ハンドルは「太魂国」 へー×3トレビア・・・・ローガンは老眼鏡を持っていない へー×2トレビア・・・・ですがは独身
848 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 21:53:44
みなさん。
>>804 の様に、内容で勝負せず、悪口(それも誰に対してか書いてない!)ばかり
言うのは、人間として最低です。いつも堂々と議論で受けて立つ(内容はともかく)太国先生
の如くありましょう!
849 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 21:53:57
プチトリビア トレビアは、第2次ポエニ戦争で、カルタゴ軍とローマ軍が戦った川の名前。 番組の名前は、トリビアの泉。ローマにあるのは、トレビの泉。
>>848 >内容で勝負せず、悪口(それも誰に対してか書いてない!)ばかり言うのは、人間として最低です。
>いつも堂々と議論で受けて立つ(内容はともかく)太国先生の如くありましょう!
内容で勝負せよと言ってるのか?
内容はともかくどうでもいいと言ってるのか?
852 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 22:01:12
一時の勢いも失くなり、遂にヘタレスレへと歩み始めています。
853 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 22:01:23
>>851 内容を伴わない悪口だけのレスはヤメロと逝ってるんだろ?
きさま、
>>804 のゴキブリ野郎か?
855 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 22:05:55
ゴキブリはやめれ
857 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 22:09:06
>>854 だからさー、そういう時は
どういう風に矛盾しているかを書くんだよ。
お前、まさか 馬鹿? ゴキブリ野郎? 蛆虫?
858 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 22:20:49
ゴキブリや蛆虫にはなんの罪もないはずだ。 生き物として、なんとか生命を維持しようとし、また子孫を残そうと、必死に努力している。 しかし人間は、自分の勝手な都合で彼らを害虫扱いする。 そればかりか、人間は自分の気に入らぬ相手に対する誹謗のレッテル貼りとして ゴキブリや蛆虫を本人(本虫?)の承諾もなく利用する。 人間の行いのなんと罪深いことか!
東大の教授じゃなくて京大だった orz 倭王武をワカタケルのタケル≠武、タケル=建だろう 文系の人間はどーしてこんなに馬鹿なんだ 邪馬台=ヤマト なんて読み方する中国人はいねえよ
860 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 22:23:19
>>815 >そうならないように釘を刺してやってんだよ
だってよおお!ぎゃはははは!
馬鹿がな〜に偉そうなこと物故いてんだべえー。
てめえのチンポに爪楊枝でも刺してろ馬鹿!
861 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 22:25:34
太国は寝たの? なんか書いてよ。
どんこい消えて、急に勢いでた。
しかし今じゃこの有り様ってわけか
まあ話が神話一辺倒になったあたりからちょっとおかしかったけどな
>>804 が決定打ってわけかWWW
865 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 22:40:17
>>815 >言わなきゃ解らない奴だからな
だってよおお〜www
逝っても解んないゴキブリ蛆虫野郎のくせしてよおお〜www
866 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 22:40:31
>>858 乙、ワロタ〜ww
蛆虫に対する嫌悪は日本神話にもあったよな。
たしかイザナキ・イザナミのところだったと思う。
まあ古今東西、蛆虫は人間にも神サマにも好かれない宿命だろう。
ところでゴキブリは記紀に出てたか?
記紀や倭人伝にゴキブリ出てなかったと思うが、
ということは古代日本にゴキブリはいなかったと考えていいのか?
ゴキブリが出てくる日本で一番古い書物知ってる人いたら教えてくれ。
867 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 22:45:16
>>838 実は昨日漏れが立てて送信したのだが何故か立たなかった。
バルタソ星人を送ったがどこかに逃げたかw
もう一度やってみようか。
とりあえずさっさと埋めようぜ
870 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 22:52:23
10チャンネルの「相棒」見ました? あの右京氏の冷静沈着な推理で事件を解決していく手法、僕はだいすきです。 冷静にして論理的それでいながらロマンが感ぜられる。 邪馬台国問題もかようにして解決していくべきでしょう。 ロマンがつよすぎると常識を欠いた言動となります。あくまでも冷静に論理的に、そう、数理的とおもわれるほど 沈着におこなうべきでしょう。
871 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 23:00:09
>>804 :日本@名無史さん:2008/02/06(水) 20:27:48
>空気の読めない馬鹿が居る事を知らしめれば
>そいつが本当の馬鹿じゃなきゃ、他の事も書ける筈なんだよ
>でなきゃ馬鹿だと言われるのに、同じ事を繰り返すしかない能がないのを晒すのか
>黙って引き下がるかどちらかだろう
>こいつはどのスレでも同じ話ばっかりしやがってマジでウザイ
>しかも、内容がコピペ並のループだろ
>知識は本当に浅い癖に、他人の事は高みから見下すような言動
>だからこいつからは、まともなレスは返って来ない
よくもまあ、こんな自信過剰夜郎自大なレスを書けたもんだなあ。www
ゴキブリ蛆虫ダニ南京虫野郎のくせして。www
872 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 23:03:31
804って、生きていて恥ずかしくないの? 馬鹿のくせして。
873 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 23:07:49
>>751 河童虫さんへ
私は順次式の九州説です。
南九州であれば納得ですが、まさか北部九州ではないでしょうね??
874 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 23:13:45
こら。
>>804 の蛆虫。
いつまで待たせるんだ?
その知識とやらを披露しる!
待ちくたびれたぞ。
この馬鹿野郎。
逃げたんだろ。 こんな袋叩きにあっちゃ出るに出られねえしwww
でも、なんで突発的に
>>804 が叩かれたんだろう?
なんか、不思議。
>>804 が、相手を名指しして書き込んでれば、同調者も出たのかな?
>>876 他にネタがないってのもあるだろうが、あからさまに見下した態度で尚且つ非難の対象をぼかす卑怯なやり方が反感買ったんだろう。
非難する相手を明確に示しておけば あるいは同調者も出たかもしんないけど、それだともっと荒れるからなあ
最初はその少し前に叩かれそうになっていたホアカリ君が自己防衛のために連投してただけ。
その内、面白いのでネタ的にみんなで同調してしまった。
ゴメンな
>>804 のゴキブリ氏
880 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 23:45:53
非難の対象なんかぼかしてないだろ
名指しじゃないのは、相手が名無しだから、固定の事なんか言ってない
>>786 以降でスレ分裂が提案されたから、
その原因を作ってる馬鹿の側が勝手に出て行くべきだと言ってるだけ
そいつ以外は今までのままで良いだろ
881 :
日本@名無史さん :2008/02/06(水) 23:46:38
そうだね。やっぱり、名指しの非難は、もっと荒れるね。 誰もが納得するような、理路整然とした非難だったら、ちょっと違うかもしれないけど。
882 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 00:10:03
>>786 と言うか、記紀重視で各地の神社の伝承等に重きを置くのは、どちらかと言えば九州説じゃないか?
なんだかんだで、文献の九州説・考古学の畿内説の構図は2ちゃんでもあるっぽいしw
ぶっちゃけ今の「東遷論」なんて銅鐸が廃れた云々じゃなくて神話が根拠だべ?w
学会で下火になってる九州説ってのは北部九州説のこと?
884 :
どくだみ :2008/02/07(木) 00:27:22
>>803 河童さん
>当時、奴隷などありましたか?
当時の中国の奴婢は奴隷です。日本にあったかは知りませんが、
陳寿は中国人で、三国志は中国の史書なので、奴婢は奴隷です。
すぐわかることなので、自分で調べてください。
>簡単に言えば「女」です。卑弥呼に仕えしメ達
>メの上にて頂点を極める者が「メ上」にあたる卑弥呼と考えます。
中国の史書が卑字を当てるのは、固有名詞に対して、一音ずつ音写の形でです。
卑彌呼のように、名に卑字を当てられていても、王は王として表記されます。
王やその一族に対して、奴隷を意味する普通名詞である奴婢は、使用しません。
卑彌呼は、皇帝に親魏倭王に封じられています。皇帝が封じた王を奴婢とは言いません。
885 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 00:41:47
奴婢と生口はどう違うんだろうね。 卑弥呼が死んだときに殉葬されたのは奴婢となっている。 人間をもらったり、やったりするときは生口と呼ばれているような気がする。
>>883 違う。九州説の中にも二派に分かれている。
北九州と南九州。南九州は宇佐や日向周辺。北九州は甘木や吉野ヶ里。
887 :
どくだみ :2008/02/07(木) 00:58:34
>>885 中国で奴婢というと、罪人や借金を払えなくなった者が奴婢に没入されます。
官奴と私奴の区別がありました。
生口の方は、大漢和の孫引きですが、戦時の捕虜という意味と、
家畜、とくに馬のことを指す場合があるようです。
以下、推測ですが、辺境の国王から皇帝に献上されるのに、
罪人や借金が返せなくなった者というマイナスイメージのつきまとう
奴婢では都合が悪いから、戦争の捕虜という意味の生口という
言葉を使ったのではないでしょうか。
もっと悪ければ、罪人ではなく、珍しい家畜扱いになりますが。
888 :
古代 :2008/02/07(木) 01:00:46
生口は元来捕虜の意味らしい。 捕虜から奴隷になったのが奴婢。 異論も多い。奴婢とは別の奴隷。奴婢のように人格を否定されてはいない技術集団など 奴隷だけど技術や知識を持った人たち?
889 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 01:25:45
生口かあ… 昔から疑問だったんだが、彼らはその後どうなったんだろう?w あと、ここだけの話、この生口の献上とかも本居宣長の逆鱗に触れた部分ではないかと密かに思っているw
>>886 そうなんか。このスレだと北より南の説取ってる人が多いようだね
891 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 01:35:46
一番、物騒な説としては、中国では人間を食べる習慣があったから、その ための贈り物ではないかなんていうのもある。 技術者で、学んだ後、帰って来たなんていうのもあるが。 しかし、例の持衰のところにも生口は出てくる。航海が無事だったら、 生口や財物を与えるとか。
>>891 確かに物騒だが、食人が完全に定着したのは隋唐の時代で、それまでは盗賊がやるものだったらしいから大丈夫じゃね?
893 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 01:41:00
>>890 というか、最近、九州の北部説を取る人が鳴りを潜めている感じがする。
甘木説を言うと、畿内論者から安本信者とか言われるので、言いにくい所も
あるのかもしれない。気にすることはないのだが。
山門説などもけっこう多いと思う。
倭では漢代の帥升の時も邪馬台国の時も必ず「生口」を貢物にしていますから 朝貢だけではなく、韓から仕入れる鉄交易の対価としても「輸出」されていたかもしれません。 人間は何時の時代でも優良な「商品」として扱われて来たんじゃないですかね?
895 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 02:10:07
帥升? 帥升王? スイショウオウ? スイシャウノオウ? すさのお! 素盞嗚尊!!
896 :
↑ :2008/02/07(木) 02:20:43
万歳!!万歳!!
897 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 02:32:39
王年代紀では、素戔鳴尊→天照大神尊という系譜になっている。
>>895 オハマ?
オハムァ?
ォハィムァア?
ハィムァアラー?
ハィンァアラーィ?
ヒァィンアラーィ?
ヒーンアリーィ?
ヒーナリー?
ヒラリー?
ヒラリー!
万歳!万歳!
>>889 内閣総理大臣(高橋是清)になりました。
ローマの奴隷は一般人になれる。
ピラミッド建設も観光事業。
今と概念が違うよ。戦争捕虜なんだから、本来の身分は支配者階級か一般兵士か
狩り出された近隣農夫か。所謂普通の身分。
本居宣長・・名前を出すなんて歴史に詳しそうだけど、西欧でも敵の支配者が
戦争に敗れての捕虜献上なんて沢山ある。教養あり、高貴な捕虜。
900 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 06:55:09
河童虫さんは、九州説であるが順次式であると言われている。 この場合、真意は不明だが、北部九州(甘木付近を含む)でこの順次式 を支持している方はこのスレにいるのだろうか。 魏志倭人伝は、三国志の魏書の烏丸・鮮卑・東夷伝の最後に書かれていて、 倭人伝が、この魏書で特出しされているわけでもない。 よって、参考となった漢書西域伝や他の烏丸・鮮卑伝との記載方法も統一 されていないと、放射式の行程説明は珍説として没されてしまう。 西域伝や烏丸・鮮卑伝に本当に放射式により行程を記載説明している箇所が 他にあるのでしょうか。私はないと思うのですが。 調べて見つけた人は、お教えください。 もし他にあるのであれば、北部九州説もまんざらじゃありません。 伊都国は郡史が留まるところであるが、郡ほど魏には知られていない。 わからない遠絶の土地を説明するのは、順次式が普通の説明方法と思われます。
901 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 07:40:09
>>900 さん
順次式です。
韓伝もそう書かれているではないですか
ま、
魏書全体を眺めれば、洛陽を中心に放射的に書かれているのですが
因みに私の女王王宮は、九州北東部ですが
902 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 07:46:06
私の認識 『奴婢』 卑弥呼と言う頂点の下で仕える「メ=女」 所謂(目上)(目下) 『生口』 人間広辞苑、人間イミダス
903 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 07:51:55
ピラミッド建設は奴隷とかでなく、当時の失業者のためにやらせて、待遇 もわりかし良かったと、確か吉村先生が解説してたぞ。観光は現代はそう なったが、当時はそうじゃないだろう? リズ・テーラーのクレヲパトラ の映画では、奴隷で建設したようになってるが、間違いだとの解説だが? 倭人伝の九州行きは観光も兼ねていたと想うがね・・・。
邪馬台国九州説が衰退しているのって 九州説の拠り所であった文献史学の面からも 畿内説に敗れつつあるのが大きな要因だろう? よく、安本さんらが 畿内説は考古学から、九州説は文献史学から、と絶叫するけど 畿内説は考古学からの切り口からだったけど、 結果的には、文献史学の面からも、整合性が取れてきたわけで。 安本は記紀も大事にしなきゃ、って言うけどさ、 畿内説のほうが、よほど記紀を大切にしているよ。 卑弥呼を、神話のアマテラスだと推測する安本と 卑弥呼を、神話以降のモモソヒメと推測する畿内説学者と どっちが記紀を大切にしているかだ。 考古学、文献史学、どっちの面でも、畿内説のほうが説得力がある。
905 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 09:25:04
>>904 古代の真実が説得力で決まるなら、
詐欺師、ペテン師を多く集めた方に利があるな
>>903 そうだったね。ご免。
ピラミッド建設は違った。私もテレビで見たよ。
ナイル氾濫での仕事が一時的に無くなった近隣農民や市民の
人助け?公共事業だったとテレビで解説していたね。
出欠簿とか有給休暇の様なのもあったらしい。
ご免。
その内に「クレオパトラ」とか「十戒」は、アイタタのとんでも映画になるのかな。
>>899 内閣総理大臣って、、、、頭大丈夫か?
そんな訳ないだろwwww。無知だなwwwww。
>考古学、文献史学、どっちの面でも、畿内説のほうが説得力がある。 お前は基地が以下?
909 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 09:55:47
文献で語る畿内説の人と、考古学で語る畿内説の人は、全く違う年代観を 持っている。一度、畿内説同士で論争してみたら面白い。
畿内説と九州説、どちらが正解かは分からないけど まじで学会みたいなところで 畿内説が殆どだな。
>畿内説と九州説、どちらが正解かは分からないけど >まじで学会みたいなところで >畿内説が殆どだな。 多分邪馬台国を見つけることが目的じゃなく 掘ることが目的だからじゃない? 九州は目標物がとぼしいしね。
>>909 でも、最近は一致しだしたみたいだよ。
まあ、人によって色々だけどね。
畿内説は、九州説に比べれば、わりと見解が一致しているんだけど、
それでも、学者によっては微妙に説が異なる。
913 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 10:36:31
>>904 九州説がみな安本先生の考えをもってるものではない。九州説でも拙者は卑弥呼
がアマテラスなどは考えにくいと棄却している。畿内説ならなぜ記紀に女王国の
記載が独立してないのか、その合理的理由がなければ、とても畿内説は成立し
難い。いいか、あんな遠い大海を隔てた魏という他国の古文献に女王国の記載
が詳細にあるんだぞ。それが畿内ご本家の古文献たる記紀に畿内説でいう
畿内女王国があるんなら、当然舎人親王らによって独立した記載がうんと残るだ
ろううが。
畿内説は女王国は朝廷の隣に有ったと言うも同然だぞ。まさか朝廷の女が卑弥呼
だというなら、謹慎してるような斎宮とかの地味な女性よりも天皇のことを大々
的に倭人伝に書く、大王国になるはずだ。が、それがそうなっていない。
ということはだ、女王国は畿内朝廷から相当離れた、かつ大陸に畿内よりも女王
国の情報が届きやすい九州にあったと観るのが合理的考えなのである。
畿内説の人へ
>>913 の返答を読みたい。
畿内説支持の人々は、その辺の所の解釈をどの様にしているの?
教えて。私も日本書紀の記述は以前から疑問に思っていた。
成る程と思わせる論が聞けたら畿内かなとも思う。
915 :
ご参考まで :2008/02/07(木) 11:08:58
卑弥呼は卑弥呼でしょう。他の誰でもありません。 陳寿は○国王×××という定型化した記述を行なっている事がその証拠です。 東夷伝においても帝紀においても同じ書き方をしています。 尤も、記紀を編纂した折には卑弥呼を三国志で知っている渡来人が多く居て 編纂に関わったことは当然です。 しかし、大和朝廷は卑弥呼の記憶を消したかった。 その代替人物いや神がアマテラスだったということです。 無論、九州説からの見解ですがね。
>>913 >畿内説は女王国は朝廷の隣に有ったと言うも同然だぞ。
ヤマト朝廷(の基になった国)と女王国が別と言う前提の根拠は?
それが示され妥当なもので無い限り合理的でも何でも無い。
恐らくもう何十回と言われているだろうが…
そういや記紀って中国のことは書きたがらない傾向にあったよな・・・・・ 聖徳太子が隋に遣いを送ったあの有名な話も載ってないみたいだし
918 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 11:36:18
どうせ韓系なんでしょ 天皇家は韓半島系ってのは世界中の定説で史実になっているし 日本は韓国人が建国運営した国家 天皇家や将軍家や摂関家は総じて韓系血脈なんだし
919 :
古墳 :2008/02/07(木) 11:43:43
文部省は九州の古墳調査に全く金を出さないらしい。 西都原古墳群や中津神宮近くなど、まじめに発掘したらそれなりのものがでてくるんじゃないの?
沖の島も掘るべきだな
921 :
古代 :2008/02/07(木) 11:58:20
記紀で女王国といえば天照の高天原だから(天照=女性とした場合ね) 天照=卑弥呼にしたがるんだろうね。
>>913 残念ながら、九州説で一番元気なのは安本みたいなのだよ。
安本説以外の九州説は居るけど
それは非常に弱い勢力だよ。
>>919 :古墳:2008/02/07(木) 11:43:43
>文部省は九州の古墳調査に全く金を出さないらしい。
>西都原古墳群や中津神宮近くなど、まじめに発掘したらそれなりのものがでてくるんじゃないの?
そんなことはない。つーか、畿内ですら、殆ど金を出さなかった。
国は道路工事にばっかり金使ってるから
926 :
古代 :2008/02/07(木) 12:09:43
古墳て結構潰されてるんだよね。高速道路とかで埋められたり、博物館建てたり
ドコモが電波塔建てるために潰したよな
奈良の場合、昔は壷なんて出て来たら、工事ストップ 建設会社には損害保証はないから隠したらしいよ
929 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 12:21:05
ところで、畿内説論者は奈良から天孫族がどうやって 宮崎に降臨したと説明してるんだ?説明が無いんだけど。 テレポーテションしたというならそれでもいいんだが。
>>915 >しかし、大和朝廷は卑弥呼の記憶を消したかった。
>その代替人物いや神がアマテラスだったということです。
消したかったら書かなきゃ良いのでは?w
若しくは日本書紀の武烈のように異常に貶めるとか
まあ「誉め殺し」宜しく神様に祭上げ存在を有耶無耶にすると言うのもあるだろうが
卑弥呼を神に祭上げ自らの権威正当性を強化し
尚且つ、現在の自分たちの邪魔にならぬよう、過去のものとし有耶無耶にしたい…
動機から言って三輪のあとの河内朝ではないかと思っているがwww
931 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 12:24:17
>>911 コピペ乙。
それは解ったから、学会とやらの解釈を書いてくれよ。
でも、学会は「出雲には何も無い」なんて逝ってたらしいから
あまりあてにならんと思うぞ。
>>929 史実としては応神の東征があって
(まあ武力で東征では無く河内朝下で九州の有力勢力の畿内への入り婿かもしれんが…)
それを基に神武東征を作成。
同時に畿内にあった高天原・天孫降臨伝説を九州に合わせ改竄。
…でどうだろうか?www
933 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 12:30:43
>>915 >卑弥呼は卑弥呼でしょう。
卑彌呼も居るし彌呼もいる
934 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 12:33:30
>>932 なるほど! (畿内説の方でまともにお話しようという希有な方ですね。
素直に敬意を表します。)
でもそれだと、「同時に畿内にあった高天原・天孫降臨伝説を九州に合わせ改竄。」
するメリットはなんだったのでしょうか?
>>932 よくさ、応神天皇=神武天皇=崇神天皇みたいな説をあげる人が居るが
なんで、わざわざ、そういう面倒くさい隠蔽をしなきゃいけないのよ?と思う。
そんな隠蔽が出来ぐらいなら、最初から応神天皇を最初の
歴史書をつくればよいじゃん。
>>929 :日本@名無史さん:2008/02/07(木) 12:21:05
>ところで、畿内説論者は奈良から天孫族がどうやって
>宮崎に降臨したと説明してるんだ?説明が無いんだけど。
それを言うのなら、なぜ、わざわざ、神武天皇は
宮崎から、あういう不自然な形で畿内へ東征しなきゃいけないのか?
となる。
はっきり言うけど、神武天皇と崇神天皇は経歴に 違いがありすぎる。 応神天皇に関してもだ。 なんか、三人を投影するみたいな、のは かなり無理な説だよ。 で、なぜ、今まで、こういう馬鹿説が広まったかというと やはり邪馬台国論争が解明できなかったのが大きな要因でしょう。
937 :
古代 :2008/02/07(木) 12:38:16
933 それは卑弥呼と弥呼を別人とした解釈でしょうか? 卑弥呼を固有の個人名を表していると捕らえるのでしょうか? 一般的には日巫女とか日御子とか当てられますが。 日御子なら最初に日御子と紹介しておいて、 その後は御子という尊称で読んでいて矛盾しない気はしますが。
938 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 12:42:06
>>935 >あういう不自然な形で畿内へ東征しなきゃいけないのか?
不自然もなにも、事実だからしかたないじゃん。
九州説:九州生まれの神武が東遷して畿内に入る。
畿内説:もともと畿内にいた天孫族がわざわざ(それもなぜか)宮崎に
降臨して、また畿内に入る。
九州説のほうがすなおじゃないか?
ちなみに前半は禿げしく同意です。
939 :
古代 :2008/02/07(木) 12:52:10
継体から史実を表していると言われている中で 崇神と応神は実在性が高いとされている。 で、「はつくにしらししすめらみこと」と言う呼び名が 神武と崇神に使われているので同一人物ではないかと言われている。 なぜ分けたかといえば崇神よりも前から天皇家が大和を治めているという話が必要だったから。 この説だと崇神よりも前に大和に国があったということは認知されていたと言う事になる。 応神・仁徳同一説は聞いた事があるが、応神天皇=神武天皇=崇神天皇というのは自分はあまり聞いた事ない。 三人に神という字がついているので、ここで王朝が交代したという説ならよく聞くが
九州生まれはわかるけど即位したのは畿内でじゃなかったっけ
941 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 12:56:37
>>937 倭人伝に個人の名前なんて全然出てこないし
卑弥呼や弥呼は一種の職種と考えています。
だから
卑弥呼と弥呼は別物
第一
卑弥呼と弥呼を同一する理論なんてないだろう。
>>938 >畿内説:もともと畿内にいた天孫族がわざわざ(それもなぜか)宮崎に
> 降臨して、また畿内に入る。
そこだよなw なぜ、わざわざ、畿内から宮崎までいって、また、畿内に戻ってきたのかw
それこそが、天武天皇が隠したかった、曖昧にしたかった歴史的事実じゃないのか?
大和から宮崎へわざわざ渡って、また戻ってくる...
じゃあ、その宮崎に居た三代の間、大和では何が起こっていたのか...
それが尾張氏に関することだろう?
つまり、大和王権初期は、ホアカリ(尾張氏の先祖)の系統が倭王で、
ニニギ(神武天皇の曽祖父)はその兄弟で
ホアカリの命令で宮崎へ派遣されてたんでしょう?
おそらく、九州南部というのは熊襲がいたところだから
そこを平定・支配するために、飛ばされたんじゃないのか?
天武天皇は、子供の頃は海部氏(尾張氏分家)に養育され
壬申の乱のときは、尾張氏の軍隊で勝てた。
尾張氏には頭が上がらないくらい世話になっている。
にも、かかわらず、こういった尾張氏の功績を、古事記ではばっさりとカット。
色々言い訳をして、なかなか草薙の剣を返さなかったり、
尾張氏に対する嫌がらせが凄まじい。
女神アマテラスは、元々は男神アマテルだったという説があるが この男神アマテルというのは、天照国照彦火明命(ホアカリ)のことで、 もし、それが事実なら 古事記を編纂した天武天皇が、よほど尾張氏のことを疎ましく思っていたことがわかる。
944 :
古代 :2008/02/07(木) 13:10:42
「共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿」のなかで 卑彌呼と紹介して彌呼と呼んでいるのでは? 職種ならたとえば日巫女で、巫女なら同じ職種でしょう。 ただ巫女という職種の中の日の巫女であるという特定がついたかもしれないでしょう 卑弥呼と弥呼は別物という確定はないと思うけど。 まあ自分は、同一でも別物でもいんですけど。
要するに神武東征は政権纂奪のためのクーデターってこと?
946 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 13:12:52
>>937 >一般的に
何をもって一般的か非一般的かの基準を設けるのかな?
単に貴方の個人的な理由がそうさせるんじゃないのかな?
天武天皇は、子供の頃は海部氏(尾張氏分家)に養育され 壬申の乱のときは、尾張氏の軍隊で勝てた。 こういった記述は、古事記ではばっさりカットなんだけど、 天武天皇の死後、だいぶんたった時代に書かれた続日本紀には、 大海人皇子(天武天皇)が尾張氏に匿われていたことまで ちゃんと記載されている。 まるで、古事記でカットされたのを埋め合わせるように... また、日本書紀のほうでは、天武天皇が尾張氏に 草薙の剣をなかなか返さなかったら、天武天皇が病になって 祟りが起こったとかみたいな記述が印象的だわな。
948 :
古代 :2008/02/07(木) 13:17:35
>畿内説:もともと畿内にいた天孫族がわざわざ(それもなぜか)宮崎に > 降臨して、また畿内に入る。 あんまり突っ込みたくないけど、これは神話の時代から実在性を認めるのが前提だよね。 奈良に高天原があってそこからの話も史実に基づいていると言う。 それならば、なぜ出雲で国譲りを交渉して勝ち取ったのにわざわざ九州に降り立つのかな 譲ってもらったんだから出雲を拠点にすればいいと思うけど。
949 :
古代 :2008/02/07(木) 13:21:53
946 自分は卑弥呼と弥呼を固有名詞と捕らえていませんよ。 卑弥呼と弥呼が別物だって言うから固有名詞と捕らえているのかな?と思っただけで。 職と捕らえているという話だったので、その疑問は解決しました。
950 :
天孫族 :2008/02/07(木) 13:22:48
神話は勝者(天智天皇)の言い分を思うがまま記したものであって、到底事実とは言えない。 神武天皇らしき人がいたとしても、それは大陸から逃げてきた人一行であって、より安全な場所を求めて畿内に入ったのではないだろうか。
>>945 :日本@名無史さん:2008/02/07(木) 13:11:38
>要するに神武東征は政権纂奪のためのクーデターってこと?
神武東征自体は、大和に居た宗家(ホアカリ系)のための
援軍活動じゃないのかな?
じゃないと、軍事的に神武東征は説明がつかない。
あの戦争はあくまでも大和中枢部の内戦で
九州で分家していた神武の一族が、援軍として駆けつけたんでしょう?
実際、神武は大和のイワレの狭い地域しか領地が無かったみたいな記述が出てくるでしょう?
尾張氏の先祖から、イワレに居住地を与えられ、
そこで、尾張氏の先祖を助けて、政治を行っていたんじゃないかと。
神武皇統と尾張氏が完全に逆転したのは、いわゆる欠史八代の時代じゃないのかな?
つまり、歴年、倭国乱があったというところ。で、それを鎮めたのが
卑弥呼擁立(モモソヒメ擁立)じゃないの?
952 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/02/07(木) 13:28:17
>>949 ロングスパンで捉えれば職種だが、短いスパンなら職種といえども
一個人と同じ効果もする。
953 :
932 :2008/02/07(木) 13:29:15
>最初から応神天皇を最初の歴史書をつくればよいじゃん。 ちなみに自分は応神天皇=神武天皇はあっても 神武天皇=崇神天皇は無いと思っている。 神武=イワレビコのイワレとは「磐余」で 古代のヤマトの指す地域とは違う飛鳥に近い地域の事だし… まあ、ばっさりと三輪朝の事をカットしても良さそうだが そうすると自分達の権威を担保するものが無くなる。 事実、纏向で出来上がった前方後円墳を河内朝は引継ぎ、それを更に巨大化させているのを見ても 三輪からの連続性を強調したと見えるのではないかな?
>>948 いや、だから、ちゃんと読んでくれ。
出雲に拠点を移す必要なんて無いわけだから。
これまでどおり、大和高天原を拠点にすればよいじゃん。
たとえば、豊臣秀吉は毛利氏を屈服させたら、わざわざ広島に居を構えるか?
ホアカリの妻は、大国主の娘。
で、ホアカリは妻の父親を屈服させたんでしょう。
天皇家の先祖は、このホアカリの兄弟のニニギのほうで
おそらく、ホアカリの命令で、九州南部の熊襲の平定にでも
行かされたんじゃないのか?
>>953 それは、そうとう、無理がある見方。
河内で古墳が大きくなったというが
纏向遺跡の頃から、古墳の巨大化は始まっているんだよ。
古墳が巨大化したから、それまでの王朝とは違うなんていったら
もう、なんだって、これは前の王朝とは違うよといえる。
もう、無茶苦茶だ。
956 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 13:34:21
ホアカリ君、ウザイよ。 神武天皇の存在だってあやふやなのに、神話を話されても困る。
>>956 というか、おまえ
あんまり文献、読んだことないだろう?原文で。
アントニオ猪木:決め台詞は1.2.3ダー! アントニオ小猪木:決め台詞は1.2.3ダー! アントキの猪木 :決め台詞は1.2.3ダー! 畿内説では同一人物となります。
959 :
932 :2008/02/07(木) 13:41:15
>>955 >古墳が巨大化したから、それまでの王朝とは違うなんていったら
おいおい、誰もそんな事を言ってないぞ。
そんな事を言ったら纏向の中でも墳墓が大きさを変え形を変えた毎に王朝交代だw
960 :
古代 :2008/02/07(木) 13:42:22
各地の天照魂神がホアカリを祀っていることとか 日本書紀のあちこちに尾張氏の痕跡があるのは認めるけど そんなに疎ましいならば尾張氏を滅ぼして完全に祭祀権共々奪ってしまえばよかったのでは? そうやって滅ぼされた氏族も多い。 天照を天武の時から祀ってたのは本当だと思うよ。尾張氏から奪ったのも妥当だと思うけど 崇神の時から(あるいはそれ以前から)アマテル神を天皇家が祀っていたってのは 昔から太陽神を祀っていたと説明するための創作だと思うよ。 日本書紀神代から都合のいいところだけを取り出して、後は嘘なんだという論拠なら なんでも成り立つ。大物主だって言いし、事代主だって言いし、もともとは大国主が支配した、でもいい。 947の記事は自分も注目している所だし、渡会氏も尾張系だから尾張氏も注目して入るが それを神代とか初期大和王権とかに結びつけるから急に信憑性がなくなる。 物部氏が大和から東北まで支配していたって説と大して変わらない。
邪馬台国論争って、2ちゃんの歴史系の板でも 盛り上がるネタだよな。 だから、もう少しの間だけでも 謎のままにしておいても良いと思う。 だから、纏向遺跡の発掘は延期してほしい。 九州説論者の俺の願望だ。
ホアカリ君は尾張氏と海部氏と物部氏のどちらが本家だと思ってる? 尾張家は熱田大宮司で源義朝の正室を排出した。 海部家は籠神社で物部家は物部神社。尚且つ、武士の精神拠り所の「もののふ」の語源になった。
>>947 の見方は面白いけど
文献が少なすぎるので確証がもてない。
ただ、ここ最近、考古学(特に邪馬台国論争)などの進歩などにより
急激に古代の謎に迫りつつあるのも事実だと思う。
その謎のひとつが、尾張氏なのもまた事実でしょう。
>>960 尾張氏を殺して祭祀を完全に奪ってしまえばというのは俺も思ったね。
ただ、中世においても、足利家や徳川家などは
天皇家を滅ぼさなかったわけだし。
>>961 心配せずとも金印でも出ない限り完全決着はないんじゃね?w
まあありそうな話としては被葬者の纏っていた
ボロボロになっていた衣の切れッ端が、分析の結果中国産である事が解明とかかな?w
(考古学に詳しい人そこらへんどうでしょう?現実的に何が期待されるんでしょうか?)
でも、その場合でもそれが果たして魏の皇帝から下賜されたものか分からないし
仮にそうだとしても九州の邪馬台国から手に入れた可能性だってあるw
>>963 物部氏のいうように、
ホアカリとニギハヤヒが同じなのかどうかは分からない。
ただ、その三者を比べた時、海部氏も物部氏も
いかにして、自分の家系を尾張氏と関連付けしようとしているわけで、
海部氏と物部氏はお互いをさほど意識してないのを見ると
尾張氏が本家なんじゃないのかな?
古事記でも、ホアカリのことを尾張連の祖というふうに、最初に
記載しているし。
967 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 13:59:38
畿内から九州に派遣されて降臨して 九州から畿内に舞い戻ったなら 初 め か ら そう 書くだろ。 なんで書いてないの?w
>>965 金印は移動できる物的だから、
それで即、邪馬台国だ!とはならないというのは
考古学会などでも言われていて、マスコミでも報道されていたよ。
だから、何かが発見されても、すぐには定説にはならないと思うが
時間が経過するにしたがって、他にもそれらしき遺物が多く発掘されるのなら
徐々にここが邪馬台国の可能性が高いというふうに盛り上がっていくように思う。
>>967 それを書いちゃうと
神武皇統は、大和王朝の創始者(ホアカリ?)の
男系の直系の子孫じゃないことがバレルだろうw
で、尾張氏こそが正当な大和王朝の創始者の子孫ということになる。
では(大)中臣氏と物部氏の関係は? そして竹内宿禰の長大の理由は?
>>970 武内宿禰の宿禰というのは、職務の名称だから、
今で言う武内長官ぐらいの感じだと思う。
で、当時は身分制度で家系によって職務が決まっているから
武内宿禰は二代くらいいたというのは割りと正しいんじゃないの?
武内宿禰を二代で割っても、かなりの年齢だしね。
972 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 14:07:42
>>868 宇佐は大変、寒いです。
南部九州にはとても入りません。大分県の臼杵郡あたりから
植物や海産物がガラッと南洋に変わります。
熊本より宮崎が断然暖かいのは海流によりまして、鹿児島より暖かいとも言われます。
自分はとりあえず、大分南部から宮崎中部までの九州一の山間部(山大国)
が邪馬台国として一番怪しいかと。
宮崎南部は熊襲の領地なので。今でも宮崎のひとは南部の人を「熊襲の奴ら」といって
区別してますねえ。
973 :
965 :2008/02/07(木) 14:09:37
>>968 そりゃそうだな。
金印とてぶん取った可能性があるんだしw
結局、ヤマトの全国統一の過程で必然性蓋然性の範疇で語られるんだろうなあ。。
ホアカリ君に脱帽
天皇家は韓国系と現在の感覚で電波を流す人がいるが 当時の韓半島には倭人を含めいろいろな人が住んでいた事は 魏志にも書いてある。 倭人はもちろん邪馬台国、後の九州王朝。大和朝廷は魏志にも書いてある 海を隔てた別の存在。
>>975 韓国人の日本に対する劣等感からだよ。
それだけ日本が妬ましいんだよ。
序に韓国では昔の骨は一体も見付かってない。
>>975 結局、そういう説が流れるのって
古代の日本の歴史が曖昧だからで、
その原因を作っているのが、本居宣長の邪馬台国論争でしょう?
かれは、卑弥呼が中国に朝貢するような記述が許せなくて
卑弥呼は九州の女酋長で、その女酋長が勝手に朝貢した。
と主張しだしてから、おかしくなったんだろう?
でも、その結果、5世紀以前の歴史が暗闇に消されてしまった。
その結果、だったら、そん時代くらいに、
海外から騎馬民族が征服したからだとかいう理論がうまれるようになった。
全部、本居宣長がかなり原因になっているんだけど、
あの世で、本居宣長は驚いているだろう?
自分のやったことが裏目に出てw
978 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 15:09:21
>>916 前提など言うまでもないだろう。推古とかは考慮せずに、記紀のどこに朝廷の中
に女王匂わす記述があるのか? 女王がいるなら書いてあるよ。天皇しかいない
と記紀の文面だよ。ww 斎宮が女王にはなりえない。それとも畿内説の得意技
で斎宮は女王に昇格か〜〜?
979 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 15:16:23
>>939 どうして崇神以前の9代が必要になるのか??ww
>>977 九州の宇佐が邪馬台国だよ。
その論理ならば貴方は畿内に邪馬台国があると思ってるわけ?
何故彼の所為にするわけ?
981 :
古代 :2008/02/07(木) 15:42:16
979 自分はどっちかと言えば神武から崇神までは実在したと思ってるんですが。 天地共同支配で神武とイケスヨリ姫との共同統治から始まったと思ってるので なのでそこは突っ込まれても・・とは思いつつ・・ 神武の頃の事跡というのは人々の記憶に強く残っていたので、そこに神武(崇神)を 持ってきてあとは繋ぎ。いわゆる欠史8代かな。
>980 宇佐も捨てがたいね。 宇佐神宮が卑弥呼の墓だっていってる人もいるくらいだしね。 でも狗奴国が比定しにくいよね。 やっぱり阿蘇-高千穂-日向-佐伯一帯と思いたい。
983 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 16:06:54
>>971 そうなら仁徳以前の大半の天皇も百数十歳だから、これらの天皇も各2代ずつ
いたことにならなきゃぁおかしいだろう?w
>>972 >宮崎南部は熊襲の領地なので。今でも宮崎のひとは南部の人を「熊襲の奴ら」といって
>区別してますねえ。
興味深い話です。宮崎中心部は熊襲ではないということでしょうか
都城、小林市、人吉あたりに何かありそうな雰囲気を感じているのですが
隼人、熊襲の区別があるのか、それぞれの場所で別国意識や近所意識など
地元の土地意識を教えていただけたら、ありがたいのですが。
>>982 狗奴国は鹿児島だと考えてる。
邪馬台国は宇佐。
天孫降臨は日向の高千穂。
九州南部は阿蘇を含めて伝説が色々残ってるよ。
発掘調査の結果、邪馬台国が畿内だとしたら、事実は認めるが悲しくなる。
京都、奈良の畿内は沢山歴史があるから、一つ位町興し、観光事業を
九州に分けてくれても良いのに。
熊本県民より。
阿蘇神社をどっか他県が勧請して全国に広めて欲しい。
>>984 >>972 では無いです。
あの、宮崎や鹿児島の藩主は誰だったかご存知ですよね。
それと戦国時代の有名武将も殆ど下向組ですよ。
殆ど下向した殿様や付随した家臣達ですよ。
例)大友家は鎌倉時代中期
島津家は鎌倉時代前期〜中期
伊東家は鎌倉時代。伊豆の豪族伊東入道祐親の一族。祐親の娘が源頼朝の子供を産んだ。曾我兄弟の仇討ち。
二階堂家は島津の家臣団に組み込まれて。
九州は下向組みが殆どだけど。
狗奴国は、コノ国と読まなきゃいけないらしいね。 よって、狗奴国=許乃國で 京都の宇治にあった国だとか...
>>984 熊襲というのは異民族の香りがするけど
隼人というのは、大和に近い香りがするんだよね。
で、隼人にいた豪族って
皇室に親戚にされていたんでしょう?
だから、隼人というのは、大和が九州南部に送り込んだ連中じゃないの?
熊襲を押さえ込むために。
そういうところは、ニニギの大和高天原から日向高千穂への派遣を
イメージさせられる。
989 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 17:34:31
問題なのは高千穂にどこから神々が現れた(降臨した)かだよね? 神々といっても生身の人間だから、奈良から宮崎にテレポーテションしたとは思えない 神武の曾祖父はおそらく徒歩で高千穂に現れたわけだから、その周辺からなわけだ。 高千穂から神武の曾祖父は東に向かったわけだから、彼はその西からやってきたと考えるのが妥当だろ。 ちなみに、その後神武の曾祖父は日向でコノハナサクヤ姫と結ばれ、山幸、海幸などの子供が 生まれる。その山幸は豊玉姫(宇佐のトヨ)と結ばれ、ウガヤフキアエズノ命がうまれる。 そのウガヤフキアエズノ命と豊玉姫の妹、玉依姫との間にうまれたのが神武天皇。 だから、宇佐八幡の亀山には、神武天皇の母と父方の祖母が眠っているわけだから、 和気清麻呂が御神託をもらいに逝ったのもうなずけますよね。
990 :
日本@名無史さん :2008/02/07(木) 17:44:13
奈良御所市から、宮崎高千穂に降臨したとすれば奇妙な事がすぐに2つ考えられます。 1つは、神武東遷や神功皇后の時のような物語や伝承がまったく見当たらない事。 もう1つは、御所市から宮崎に向かうとすれば、地図を見ていただきたいのですが、 まずは少し北を流れる大和川を下り、瀬戸内海に出ます。そして瀬戸内を西に向かって いくと・・・ あれ? そうですね。高千穂より先に、船で彼らの目的地である日向に着いて しまうのです。
>>989 >神武の曾祖父はおそらく徒歩で高千穂に現れたわけだから、その周辺からなわけだ。
>高千穂から神武の曾祖父は東に向かったわけだから、彼はその西からやってきたと考えるのが妥当だろ。
そうとは言い切れないんじゃないのか?
北から高千穂へ上って、そこから東に行ったともいえるし...
というか、高千穂から東を向かったというけどさ、
あの地形を見たら、東のほうへ向かったという大雑把な記述で
厳密には、南東へ降りていったというのが正しいだろう?
神代系図をみたら、神武の親戚って ほとんど大和〜出雲周辺にいて、 神武が東征する前に既に畿内周辺にいたんでしょう。 普通に考えて、ニニギ(神武の曽祖父)は そのあたりの出身と考えるほうが妥当じゃないか?
993 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/07(木) 17:49:50
重複前スレの
>>998 さんとの会話が中途半端で探してるんだが見つからない。
まさかアニサキス寄生脳みその
>>839 ではあんみゃあ。
994 :
989 :2008/02/07(木) 17:51:34
>>991 ええ、それでもいいんです。^^
私が言いたかったのは990とも合わせて読んで欲しいのですが、
神武の曾祖父は九州島のどこかから現れたんじゃないかと言う事ですから。
>>994 というか、豊臣秀吉が島津を征伐した時ってさ、
関門海峡をこえて北九州へ上陸してから
そこから九州を南下したわけだし...
船にのって、瀬戸内海を航行して、いきなり日向から上陸なんてしていないし。
でさ、日向三代とかいうけどさ、彼らは高千穂宮にいたわけだし、
少なくとも古代の最初は
日向=九州南部全部で、薩摩、大隈というのは後からできた国なわけだし。
>>994 3世紀の纏向遺跡なんかみても、
九州南部というのは、やはり
北九州に比べたら、大和の支配のおよびにくいところって感じがする。
たしかに、3世紀後半ごろには、宮崎のあたりに関しては
大和との近さを感じるが...
だから、1世紀、ニニギが球種南部へ送り込まれたとしたら
それは、大和の対熊襲征伐の意味があったと思われ、
その場合、北九州から九州南部へ徐々に南下していく感じだと思うわけで。
ここの畿内説の人達の書き込みって 当時の畿内からみた九州が僻地的な ニュアンスが感じ取れるのですが気のせいでしょうかw そんな事実はなかったと思うんですけどね。 ニニギがどこにどういった経緯で天下ろうと それは邪馬台国=畿内が前提なのでしょ? 邪馬台国=畿内確定で話を進められても困ります。
998 :
古代 :2008/02/07(木) 18:11:21
1世紀に大和に大きな国があった形跡はない。古墳も土器も。 それなのに九州に討伐?ちと無理な気がする。
>>978 太国 ◆yVAs7uaYlY
で結局「記紀は嘘つかない」に循環するわけだw
で畿内からその存在も知られない、北部九州勢より遥かに小さい弱小勢力が
良く魏にサクホウされたなw
無理に中部南部九州にする必要は無い太平洋のど真ん中でも良い。
あまりに非現実的非合理的な理屈。
まあこれも何十回と言われているだろうが…
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