209 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 15:40:59
邪馬台国宮崎説は、畿内説はもとより、北部九州説からも攻撃されるから
つらいところだな。
210 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 15:45:02
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
・・・中津の近くに京都郡(ミヤコ郡)というのもあるな。
211 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 15:52:26
宮崎にも、西都とか都城とかあるんじゃないかい?
212 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 17:00:25
後漢書と倭人伝とを照らし合わせれば、倭国が後漢と通交したのは57、107、そして
魏と通交したのは239だ。ところが、倭人伝には「中国に詣るに・・」という記事があ
る。この中国とはどこのことだ? 半島経由のコースならば、普段から交易で行き来して
いたところ。持衰をおき、決死の覚悟で乗り出すようなコースではないよ。
となれば、中国とは呉のことだろう。「なんで魏と結んだ邪馬台国の話で呉が出てくるん
だ?」なんてとぼけたことを言っていては倭人伝は解釈できないよ。
親魏倭王に任じたのは、倭国が呉になびかないようにという魏の戦略であることを知らん
といかんのじゃないか?
>>210 その京都郡に宇佐神宮の大元の神社がある
今は廃れて誰もそんなの知らないようなとこだけどね
214 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 20:23:56
215 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:19:31
>>214 考え方が皮相だね。南九州説は、熊本以南を女王国、それが北九州の伊都国、奴国
と戦ったんだよ。武器に使用される鉄は、戦場に近いところに集中する。
熊本の鉄こそ女王国の鉄だ。女王国全体で考える必要があるんだよ。
216 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 06:00:19
笑える。
あれだけ口やかましく言っていた鏡も鉄も日向邪馬台国からは出なくても問題ないというのなら
畿内から
『 中国本土との通交を裏づける遺物等 』
が出なくとも問題ないな。
あ ほ ら し い ・・・
217 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 09:36:53
218 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 10:19:02
違いの分からない男、日向厨w
「九州と違って大和は弥生時代の舶来遺物が少ない!」
といってみた所でそれは自説にもそのまま跳ね返ってくる。
畿内大和に対し九州という”くくり”で言ってしまっているが
弥生時代の遺物に関しては南九州も似たような状態w
まさに 違いが分からない男 www
まあ北部九州説に対し一部分畿内説と一蓮托生的なものはどうしても出てくるだろうw
219 :
日本@名無史さん:2009/04/23(木) 17:11:54
>畿内説と一蓮托生的なものは
畿内説は一人で消えていくんだけどな(笑
220 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 07:25:14
畿内説はいつも誹謗中傷、捨てぜりふでお終いになるんだ。さびしい話だね。
221 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 19:06:12
222 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 22:41:47
>>221 何度か紹介されてるよ。吉野ヶ里か佐賀市大和付近かということはあるが、基本的に
正しい比定だろう。怡土ではないということだ。
ただ、この図の最大の問題は、狗奴国の比定だよ。熊本に比定したのでは、敵前航行
にならざるを得ない。これはないだろうな。
223 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 08:06:31
>>222 狗奴国が熊本だったからこそ、有明海西岸沿いに進まざるを得ず「水行10日」かかったんじゃないかな。
とすると女王国連合は狗奴国を取り囲む九州のほぼ全域の大連合と考えてよさそうだ。
224 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 08:18:58
何よりも、狗奴国の位置は、女王国の南と明記されている。
それに、有明海西岸沿いに進むからといって航行日数が余計にかかるという
ことはないはずだ。
225 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 08:34:15
「其の南に狗奴国有り」の「其の」は奴国、奴国を八女付近をすれば矛盾はない。
「水行」は途中で寄港宿泊しながらということだよ。
海上を南下したのなら「渡海」と表現しただろうし、10日もかかるはずはない。
226 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 10:22:44
>「其の南に狗奴国有り」の「其の」は奴国、奴国を八女付近をすれば矛盾はない。
奴国と読んだところで、其の奴国は女王国以北の奴国ではなく、道里戸数が記載され
ていない旁国の奴国でしかない。
>「水行」は途中で寄港宿泊しながらということだよ。
それは当然の話だよ。有明海の東を南下しようが、西を南下しようが、速度に大して
差がでるとは思えないね。東だって寄港しながら少しずつ進むんだよ。
227 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 20:24:59
>>226 あなたが斯馬国から奴国を旁国とする立場なら議論は平行線のままだね。
ちなみにその根拠と狗奴国・邪馬台国の比定地を聞かせて下さい。
228 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 00:30:23
>斯馬国から奴国を旁国とする立場
倭人伝に書いてあるとおりだと思うが。対馬国から邪馬台国までで8国。旁国21国。
狗奴国。合計30国だね。旁国は道里戸数が記載されていない小国。
ちなみに、狗奴国も道里戸数が記載されていない。官も1名のみ。大きな国ではない。
邪馬台国は都城盆地あたり。狗奴国は志布志湾沿岸あたり。
倭国の乱は南九州と北九州の戦いとみる。熊本あたりに大国狗奴国があったとしたら、南
と北の戦いにはなりそうにない。女王国が万二千里から始まるというのも熊本あたりは女
王国であることを示している。
229 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 08:21:11
>>226 奴国の解釈はひとまず置いて、有明海をどちらに進むかは距離と目的地に関係する。
1日の移動距離を25Km(時速3Km強x1日8時間で計算、時速は復元船での実測値)、
海岸線に沿って航行し、八代・水俣・出水を目的地とすると、
熊本西岸南下ルートの場合は八代まで4日(100Km)、水俣まで6日(140Km)、出水まで6日(150Km)。
狗奴国が熊本平野にあり、現在の熊本県の範囲にまで影響力があったと仮定すると、
有明海西岸から天草を経て出水に向かうことになる。
出水まで8日(200Km)。
大差ないwが、まあ水行10日と言えるかな。
前提次第仮定次第でどうにでもなるので強く主張するつもりはないが、
佐賀->島原->天草->出水まで水行10日、
出水->大口->えびの->小林->宮崎で陸行1月と自分としては納得している。
230 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 09:16:01
水行の距離を事前に想定しない方が良いのでは?
有明海は満ち引きが激しい。満ち潮が落ち着いたところで水行し、引き始めたら
戻らなければ泥海に取り残される。そんなところなのでは?
それに、御使者ご一行を毎日舟に乗せるかな? 2日進んで1日休みとか。接待
係はその程度の気遣いはするだろう。
私は邪馬台国への上陸地点は八代、投馬国は川内とみる。
あなたのペースだと、投馬国からあと十日で錦江湾の奥まで行くだろう。
となれば、そこから陸行十日で邪馬台国。同じ日数ならば、水行三十日、陸行十日
の方が楽だ。それでは、水行十日陸行1月が?となる。
231 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 09:45:05
水行10日
琉球ですね。
それはそれとして
前から気になっていること
都城ってたいそうな地名だけど
都があったの?
232 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 09:50:36
「都城」の地名は都乃城(城郭)から起こっていて、14世紀頃に北郷氏が当地、都島に築城された故に「都之城」と名付けられ、後に一帯の地名と由来となったといわれている
233 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 10:12:38
>>230 うーん、日数に休日や欠航日や接待日を含めると、倭人伝は旅行記になってしまう。
船で10日、歩きで1月かかりましたと。そういう見方もあるかも知れないが。
私は倭人伝は報告書だと思うので日数からある程度の距離は割り出せるという前提です。
それから投馬国は薩摩半島に比定しています。
投馬国は連合国に入っていないし、敵対する記述もないので邪馬台国とは中立の関係。
中立国を水行するわけには行かないので、出水辺りから陸行せざるを得なかった。
234 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 10:47:42
確かに、特別の長逗留を入れたりはしないでしょう。しかし、適当に休日を
入れるのが常態ならば、それは入っているのではと思います。
投馬国は女王国の一国と考えます。道里戸数を書いているのは、当然その投
馬国を訪ねたからです。訪ねずに書くのであれば、旁国のいくつかは書ける
はず、旁国につき書いてないのは訪ねてないからですよ。
実際には投馬国を訪ねた、そして、投馬国から薩摩半島南端を回って邪馬台国
へ入った、その際に屋久島の情報を得た(広志逸文)、だがそれは八代上陸の
コースよりも日時がかかったために記載しなかった、ということでしょう。
235 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:44:52
定休日を含めるにやぶさかではありません。
要は水行10日は実際にかかった日数ではなく、10日で到着する距離と解釈しています。
10日の内訳が10勤でも8勤2休ペースでも6勤4休ペースでも構わないのです。
投馬国は卑奴母離職がないこと、陸行せざるを得ない理由として(本末転倒ですね)中立国と見ています。
戸数・道里については出水から調査隊が派遣されたと小声で言っておきます。
ちょっと気になったんでウェブナビでルート検索してみた
・八代〜人吉〜えびの〜小林〜宮崎 150キロ
・水俣〜伊佐〜えびの〜小林〜宮崎 128キロ
・出水〜伊佐〜えびの〜小林〜宮崎 131キロ
八代ルートは最長で人吉〜えびの間が山越えになるので候補からはずれそう
237 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:40:14
>>235 まあ、基本的には、お互い、似たような考え方だということでいいのかな。
>>236 なるほど。しかし、八代コースに比べ、水俣コース、出水コースは、水行の
日数が多くなるね。それと、逆コースを考えた場合、八代コースは球磨川下り
を利用できるが、水俣、出水にはそれがない。
球磨川からだったら上流まで行って西米良経由のほうが近い。
但し、山越えがきつい。
西米良から一ッ瀬川沿いに山を下ったら西都原に着く。
239 :
日本@名無史さん:2009/04/30(木) 12:57:11
>>238 目的地が西都原ならそうかも知れないが、都城付近ならば西米良まで行くことは
ないだろう。
240 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 16:44:03
畿内説の根拠を聞くと不愉快になる
邪馬台国は宇佐で決着している
241 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:41:19
畿内説の一部の連中は、端から議論なんかするつもりはないからね。
とにかく自説に不利な考察に対する誹謗中傷嘲笑罵倒は異常。
特ア臭を嗅ぎ取る俺は2chに毒されていると自覚はしているが。
>>240 出来れば日向の地にも言及した「邪馬台国は宇佐」の考察をご披露下さい。
このところ閑散としておりますので。
242 :
日本@名無史さん:2009/05/28(木) 21:58:31
計算すると邪馬台国は末盧国から二千里の所だよ。
やはり不弥国と隣接した太宰府より南の筑後川沿いだよ。きっと。
243 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 07:55:14
卑弥呼の墓が特定されたな、
九州説は崩壊したな
244 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 12:09:34
魏から下賜された銅鏡100枚の銅鏡がどの種類か特定できないと
邪馬台国論争は結論できません。
邪馬台国畿内説の弱みは三角縁しんじゅう鏡を魏からの銅鏡としている
ところではないでしょうか。
245 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 12:26:43
三角を検討しようというなら、やり方があるだろうにね。畿内説論者は頭わるいの
かな? 百枚くれるからには、デザインは統一しているだろう。デザインが何種類
あるのか、きちんと整理しようって学者がなんでいないんだろう。不思議だ。
伝聞による情報で、水行10日、陸なら1ヶ月ともとれるよな。
247 :
日本@名無史さん:2009/05/31(日) 19:22:19
今回の箸墓古墳の時代認定で
九州説の最後の望みであったトヨによる東遷の可能性がゼロになったわけだ
他の九州派はピンとこないかも知れないが
安本は確実に心の臓を射貫かれた筈だw
未だにちまちまと距離が方角がと
計算してる奴はバカじゃないか?
249 :
日本@名無史さん:2009/06/01(月) 21:47:03
>>247 箸墓の時代認定はまゆつばだが、仮に今回の発表通りとしても、安本の東遷説に
影響を及ぼすものではない。箸墓の時代認定などどうでもよいことなのだ。
250 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 14:34:55
むしろ、卑弥呼の墓じゃないことが確実だから、みんなが注目している箸墓
>>232 付け足すと神武天皇の宮があった所だという。しかしここからは高千穂峰がよく見えない。
だが狭野から神武東征が始まったとあり現在この地には狭野神社がある。
都城は盆地なので秋になると雲海が発生する。金御岳という山に登ると雲海の中に高千穂峰が浮かんでいるように見える。
が、霧が晴れると雲海も消え地上と地続きになる。神秘的な光景に天孫降臨の舞台にしたのだろう。
>>251 都城には島津発祥地となる島津荘がありその中に祝吉御所という所があった。この近辺に1600年の歴史を持つという早水神社があり仁徳天皇の皇妃になった髪長媛にゆかりのある池がある。
髪長媛の父は諸県君といい宮崎の南部と大隅半島の一部と志布志にかけて支配していたらしい。
時を経てこの地域の大部分が島津荘と重なるそうだ。しかし例外があった。国富町と綾町だ。ここは宇佐宮の管理下に置かれることになる。神社に関わることらしい。
西都原より以南大隅半島含むが狗奴国
県北から大分にかけて邪馬台国で西都原はその境界だろう。
日向は景行天皇が名付けた説がある。
都農神社とつま神社は重要、都農神社は大国主命を祭っている。ここへ東征前の神武天皇が立ち寄ったらしい。
254 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 13:17:20
>>253 狗奴国はそんな大国ではない。道里戸数が記載されていない傍国の一つ、官も一人
のみの記載だ。魏の檄で仲裁になったのはなぜか? 狗奴国も魏に朝貢していた国
の一つだからだろう。となれば、卑弥呼が共立されるまでの男王が狗奴国の王なの
ではないかな? 男王の名前が卑弥弓呼と卑弥呼に似ているのもそれを感じさせる。
都農神社は三輪と関わりが深い。県以北は三輪が多い。あと山陰神社という所もある。
出雲大社も山陰だ。
三輪といえば奈良の大神神社。
現在では大国主命を共に奉るという共通点がある。
奈良の方では以前大物主命だったそうだ。出雲も
都農神社は八幡信仰の雛型だそうだ。
都萬神社の辺りは薩摩半島を投馬国とした場合の投馬の阿多氏の出先機関といえる。
出雲系の都農神社と隼人系の都萬神社が日向国一宮を競ったのには意味があるし一宮が都農神社というのも意味がある。
都農も都萬も西都原に近いといえば近い。
おそらく北部九州は出雲系によって占められやがて日向国北部迄手中におさめた。その出先が都農神社辺り。
日向国南部へ手をだそうとするも南九州の抵抗激しく懐柔策としてこの地の有力者と血縁関係を築く。
隼人系の拠点が都萬神社辺り。各地域の首領クラスが集まったと思われる。
結果北部九州代表の出雲系と南部の隼人系が集う宮崎市や西都原辺りが九州の中心となりここらが邪馬台国と思われる。
宮崎市辺りには年代不詳の江田神社がある。禊ぎの発祥地だそうだ。
都農と都萬の背景からある仮説が起てられる。そこから古代史の空白が埋められそうだが、書かない。