結論 邪馬台国は西都原

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1わっはっは
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。

1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
  尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
  9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
  邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
  これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
  人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。

朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。

2日本@名無史さん:2007/10/03(水) 11:55:05
詳しいですねー、私の考えては 千台(川内)→宮之城→夷野(えびの)→
都城→宮崎と変遷している気がします。
西都原は大小311基の古墳群がある。つまり墓地の集積地と考えます。

墓地は住居から西に安置する。徐福の日本に渡ってきたのではと?
中国から東へ32度を真っ直ぐ船出すると串木野、羽島、川内、阿久根の
範囲に到着します。串木野の冠嶽は徐福が冠を取った場所、
千台は千の偉人が住んだ、その高城(たき)に居を構え、紫尾山は
刀のヒモを解いた所、そこが宮之城と 言い伝えあります。
3日本@名無史さん:2007/10/03(水) 12:06:49
>>1
キチガイはさっさと死ね!!
それかすぐ精神病院へ行け!!
4日本@名無史さん:2007/10/03(水) 13:07:29
>>2 墓地は住居から西に安置する

単なる観念論。机上の空論。

私が歩いた乏しい経験の中でも、
  福岡の金隈遺跡の甕棺墓群
  岡山の操山古墳群
  大阪の高安古墳群
  奈良の山辺道沿いの古墳群
  神奈川の大塚・歳勝土遺跡の方形周溝墓群
など、地形的に住居の【東】としか考えられない埋納遺跡がすぐに思い浮かぶ。
特に、大塚・歳勝土遺跡など、環豪集落の東に方形周溝墓群があって、道で結ばれていた状況が丸々発掘されている。

偏見を持たずにもっと現実を見たほうがよい。
5日本@名無史さん:2007/10/03(水) 13:20:16
宮崎の古墳群は重要な遺跡で、何か重要なものがあったことは間違いない。
ただ、陸の孤島のような位置関係から、後世の熊本、福岡、大分、などとの繋がりが
よく見えない。
福岡、熊本、筑後、佐賀などがやりあっていたときの
オブザーバーのような立場だったのかも知れぬ
6日本@名無史さん:2007/10/04(木) 04:41:51
>地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。

在野の研究家でもこんなこと言わんわw
7日本@名無史さん:2007/10/04(木) 15:20:59
薄葬の風があった漢の影響で、古墳がむやみに無い場所が邪馬台国。
西都原だけは邪馬台国の候補地から外れるな。
8日本@名無史さん:2007/10/05(金) 10:10:03
そうだね。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われた
ことをはんせいし
1日もはやく西都の発掘調査をしてほしいね。
9日本@名無史さん:2007/10/05(金) 10:14:56
文化政治を標榜して赴任した第3代総督斎藤實は「教育施策」で次のように言っている。
「先に朝鮮の人たちに自分の仕事,歴史,伝統が分からなくしろ。民族魂,民族文化を
喪失させてて彼らの先祖と先人たちの無為,無能と悪事などを暴き出してそれを誇張
して朝鮮人子孫たちに教えろ。朝鮮人青少年たちがその先祖らを軽視して,見下す
感情を起こすようにしてそれを一つの気風で作くれ。その結果朝鮮人青少年たちが
自国のすべての人物と歴史に関して否定的な知識を得るようにしろ。必ず失望と虚無
感に抜けるようになるはず。その時に日本歴史,日本人物,日本文化を紹介すればそ
の同化の效果がこの上なく大きいだろう。これが日本が朝鮮人を半日本人で作る
要訣であることだ」
と1922年'朝鮮社編修事業'を指揮しながら言っている。
あと1923年7月朝鮮総督府朝鮮社編纂委員会の黒板が対馬島に史料探訪をした時、
韓国と関係がある文書,古記録などが藩主の宗伯爵家にあることが分かって, 顧問書類
6万6千469枚,古記録類3千576本,古地図34枚などを隠蔽または分署した。
いま韓国には古朝鮮関係、三国時代の海外進出関係の史料はほとんどない。全部日本人が燃やしたからだ。

これはどういう意味なのか。
日本は朝鮮人が日本人より下等な民族だと思いこませるため、朝鮮人を半日本人にするため、大事な史料を燃やし歴史を捏造した。
昔なら知らないが、20世紀にこんなことをしたなんで野蛮な民族。
なんてすごい捏造の国だろう。
10日本@名無史さん:2007/10/05(金) 10:30:13
>>1
黒板勝美は陵墓参考地の古墳を整形したり、日本書紀すら改竄した男だからな。
史書の抹殺はやってもおかしくないだろ。
11日本@名無史さん:2007/10/07(日) 13:39:57
やはり西都原か
12日本@名無史さん:2007/10/09(火) 10:05:06
soudane
13日本@名無史さん:2007/10/15(月) 00:01:14
9みたいなデマ大真面目に論じられるとここがその手の板だと思われちゃう
14バカウヨ追放汁! :2007/10/18(木) 14:31:25
15日本@名無史さん:2007/10/19(金) 10:31:38
>>9 いま韓国には古朝鮮関係、三国時代の海外進出関係の史料はほとんどない

韓国以外の地域、つまり海外にも、海外進出関係の史料はない。 (アホらしか)
一方、中国国内にある好太王碑のように、「百済も新羅も日本に服属した」とか、そういう史料ならある。
16日本@名無史さん:2007/10/21(日) 11:35:03
17日本@名無史さん:2007/10/25(木) 22:49:08
薄葬の風があった漢の影響で、古墳がむやみに無い場所が邪馬台国。
西都原だけは邪馬台国の候補地から外れるな。
18日本@名無史さん:2007/10/25(木) 23:25:08
西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)とは、日本最大の古墳群である。

19日本@名無史さん:2007/10/25(木) 23:47:28
西都は熊襲じゃん、どうやっても。
熊襲は邪馬台国の南の男王の国だよ。

だから邪馬台国は熊襲の北。
20日本@名無史さん:2007/10/27(土) 16:17:33
じゃあ邪馬台国は延岡?
21日本@名無史さん:2007/11/02(金) 17:21:54
>>1の文がWikipediaにまんま載っている件
22日本@名無史さん:2007/11/07(水) 20:10:15
邪馬台国の記述には、古墳がひとつしか出てこない。
ゆえに古墳だらけの西都原だけは、
ぜったい邪馬台国ではありえない。
23日本@名無史さん:2007/11/10(土) 10:25:17
邪馬台国時代の古墳は1つだけだったような…
あとの多くはそれ以降
24日本@名無史さん:2007/11/10(土) 18:36:34
>>22
良いとこだよ。
今コスモスが満開でお弁当食べるにはもってこいだ。
西都原行ったら、古代からここに人が住んでて、今ではそのロマンに浸れる。
それで良いじゃないかという気になってしまった。
25日本@名無史さん:2007/11/10(土) 19:41:38
西都原は狗奴国でいいじゃん。
26日本@名無史さん:2007/11/10(土) 19:57:40
そうなると困る人いっぱい出てくるからなあw
畿内だけでなく九州論者も
27日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:49:38
>>25
どこでも良いよ。
文献に出てくる国に無理矢理当てはめなくても良いジャン。
西都国でいこうよ西都国。
平和な国だったんだよきっと。いい人ばっかりだったんだよ。
家族も大事にしてたからお墓がいっぱい残ったんだよ。
コスモスきれいだったなあ〜。お弁当美味しかったなあ。
サイクリングにちょうどよかったよ。
28日本@名無史さん:2007/11/21(水) 14:32:15
倭人伝の空気を読むこと。客観視して読むと常に「南に××国」「南に●●国」
という風につねに南をさしてることがわかる。結論からいえば九州の南部。
日向しかありえない。
29日本@名無史さん:2007/11/21(水) 15:26:57


何?このデマスレは。

30日本@名無史さん:2007/12/05(水) 15:20:22
隋書イ妥国伝では、「阿蘇山」が出てくるので、隋時代には熊本にあったと思う。
卑弥呼の時代は福岡だろう。
31日本@名無史さん:2007/12/16(日) 01:57:39
はい、あげ
どうでもいいっしょ!
邪馬台国とかだったら偉いのかい?
水も空気も土も気候も良いからそれでいい!
夜の西都原もいいよね、神秘的で
32日本@名無史さん:2007/12/16(日) 02:41:40
宮崎の高千穂とか神の国みたいに言われてるけど神社とかの多くは明治以降に作られたもので
ほとんどインチキらしいぞ。
33日本@名無史さん:2007/12/16(日) 02:47:48
しかしその「多くは」以外の神社は奈良時代以前からある「らしい」ぞw
34日本@名無史さん:2007/12/16(日) 02:49:22
「多くは」以外というのはほんの少しということでつか?
35日本@名無史さん:2007/12/16(日) 23:20:31
そうそう、ほんの少し
「全部」じゃないところに意義があるね
36日本@名無史さん:2007/12/17(月) 19:30:54
卑弥呼の国=卑の国=ひの国熊本ってか?
37日本@名無史さん:2007/12/18(火) 01:44:32
宮崎というと神話時代の剣が刺さった山があったり古い時代の神社とかが沢山あるってイメージなんだけど違うの?
38日本@名無史さん:2007/12/18(火) 02:21:33
>>32

 薩摩と古から対立していた宮崎・日向を明治のデマとかいう馬鹿発見。
 
 この馬鹿は熊襲の位置関係と歴史をまったく知らないらしいな。
 高千穂をインチキというなら移設先の畿内は全滅ですなw

>>37
それは南部の熊襲圏内かとか意見が分かれる場所。高千穂とは違う。

ちなみに熊襲圏内と、高千穂を含む北部宮崎の日向は宇佐の権力内で
古代から大和政権と関係が深かった。

とりあえず、日本書紀や古事記は日向と宇佐を天孫降臨地に比定している。
事実はともかく誰も知らんが、史実ではそうなる。
高天原伝説でさえ、阿蘇からとってる。
これはどうあがいたって変えようがないし、明治時代とか叫んでも、無 駄。

な ぜ そう思わせたかったのか、それを考えるほうが建設的だな。


 
39日本@名無史さん:2007/12/18(火) 02:24:16
>>38
>ちなみに熊襲圏内と、高千穂を含む北部宮崎の日向は宇佐の権力内で
>古代から大和政権と関係が深かった。

訂正 熊襲圏内は 畿内と関係が深い宇佐権力と対立関係
40日本@名無史さん:2007/12/18(火) 04:45:27
昔 西都バル古墳さくらまつりのコーラ一気のみ大会覇者のわたすが通りますよ
41日本@名無史さん:2008/01/09(水) 20:46:54
東国原知事が西都原に目をつけ、売り込もうとしている。
「邪馬台国はここだ」なんて嘘はつくなよ、と言っておく。
42日本@名無史さん:2008/01/09(水) 23:41:11
嘘を嘘と…
43日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:43:43
>>40
西都が邪馬台国かどうかは知らないけど、
お祭りが出来て、コーラ一気のみなどという平和なイベントが出来る文化を残してくれた先人に感謝。
ちなみに俺は某大学のカレー早食い王者。。
44日本@名無史さん:2008/01/29(火) 20:49:59
大きめの塚を一つしか作っていない邪馬台国は、絶対に西都原じゃないが、
東国原知事が古代をしのぶ土地として大宣伝するのは大いに結構。
45日本@名無史さん:2008/03/21(金) 16:29:25
西都原の最初の大きな塚が卑弥呼の塚かも知れないのでは?
私は都が西都原にあったとは思わないけどね。王の墓ともなれば、都からある程度離れた所に作るかもね。
46日本@名無史さん:2008/03/21(金) 19:59:32
魏志倭人伝には、たった一つの墓しか記述がない。
薄葬の風があった漢の影響で、古墳がむやみに無い場所が邪馬台国。
西都原だけは邪馬台国の候補地から外れるな。
47日本@名無史さん:2008/03/22(土) 01:13:19
だから、大きな塚が一つだけあって、他の多数の小さいのは時代が全然違うだろ


だからといって西都原が邪馬台国だとは思えないが
48日本@名無史さん:2008/03/22(土) 01:15:10
西都原はむしろ投馬国
49日本@名無史さん:2008/03/24(月) 14:12:38
age
50日本@名無史さん:2008/03/26(水) 21:05:13
西都原の桜、楽しみだね。
51日本@名無史さん:2008/03/26(水) 22:11:42
西都原は墓場。住居は別のところにあったのでは?
昔の王族は住居とどのぐらい離れた所に古墳を造ったのかな。
52日本@名無史さん:2008/03/28(金) 00:42:06
ところが、生目古墳群は、西都原よりも遥かに重要で、大きな謎を秘めた古墳群なのだ。
生目古墳群は、西都原古墳群より時代が全体的に古いのである。
それどころか、いくつかの古墳は、日本最古と一般的に思われている箸墓古墳と同時代か、更に古い可能性もあるのだ。
しかも、生目古墳群には、畿内にある古墳の、ほとんどすべてのタイプがそろっている。
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ちなみに、上記の会話を交わした研究者に、笠置山墳丘墓の事を尋ねてみた。
答えは「向こうは、生目より更に古い。確実に3世紀にさかのぼる。
もし日高氏が何か見つけたのなら、それは弥生の遺跡だから古墳ではなく、ただの山だ。」と言い切った。
古墳ではない理由は、時代だけなのである。
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卑弥呼が死んだ時、卑弥呼と共に100人余りが殉死したとされる。
・・とすると当然、卑弥呼の墓の周辺には、100人の殉死者の墓がなければおかしい。
笠置山古墳には、これがあるのだ!鳥型の羽の部分には、穴を掘っただけの土壙墓が、整然と並んでおり、
推定でその数は100基ほどなのだ。今まで、卑弥呼の墓ではないかと言われている古墳は数多く有るが、
殉死者の墓を伴っていたと言う話は聞いた事が無い。しかし、死後の卑弥呼を守り、お世話をする為の殉死者が、
墓も無く粗末に扱われる事は考えられない。卑弥呼の墓の周辺には、必ず彼等の墓があるはずなのだ。
http://www.gondo.com/g-files/miya/miya1.htm
53日本@名無史さん:2008/03/28(金) 01:34:35
いつだったか、ドンと来いスレのコテハンさんが九州旅行をするというので
生目神社を推奨したら軽く流されたよ。
54日本@名無史さん:2008/05/03(土) 16:01:08
緊急あげ
55日本@名無史さん:2008/05/09(金) 11:42:01
  
56日本@名無史さん:2008/05/24(土) 23:35:26
あらしage
57日本@名無史さん:2008/06/03(火) 21:28:46
>>52
宇佐八幡宮には、百人神社という奇妙な名前の神社と古墳らしき亀丘があります!
58日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:09:04
西都原は、投馬国じゃないのかな。。
59日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:20:30
熊襲の地(薩摩?)が、投馬国じゃないのかな。。
60日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:53:59
奴国から東に百里で不弥国。さらに南の方へ船で行くと「投馬国」に着く。
投馬国に行くには南に海の門を通って行くらしいから・・・ 今の関門海峡なんじゃないのかな。。
61日本@名無史さん:2008/06/07(土) 11:20:00
晒し上げ
62日本@名無史さん:2008/06/07(土) 11:29:01
海の門?海峡とか言わないのか?当時は。

きんこう湾の出口あたりどうだw
63日本@名無史さん:2008/06/07(土) 15:55:45
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
64日本@名無史さん:2008/07/04(金) 10:20:55
>熊襲の地(薩摩?)が、投馬国じゃないのかな。
倭人伝を素直に読めば、そうなると思います。唐津付近に上陸して東南五百里、伊都国は有明海沿岸。
放射説で水行二十日、大国投馬国の中心地としては川内のほかにはなさそうですね。
>投馬国に行くには南に海の門を通って行くらしいから
どこからそのような解釈が出てくるのでしょうか?
65日本@名無史さん:2008/07/04(金) 13:44:31
近畿説の人は、伊都国が有明海沿岸だということは絶対に認めようとしません。
認めたら、近畿説が成立しないことは即決定ですからね。
北九州説の人も認めようとしません。山門などに近すぎて、窮屈になるからです。
しかし、末盧国に上陸し、東南五百里。当然、有明海沿岸を考えるべきですね。
66本田:2008/07/09(水) 00:00:13
投馬国(つまこく)は、薩摩です。
67日本@名無史さん:2008/07/09(水) 06:13:21
西都市には「妻(つま)」という地名があります
68日本@名無史さん:2008/07/09(水) 09:57:12
確かに妻説もありますが、有明海沿岸から水行二十日で妻へというのは不自然です。
伊都国=怡土説をとって東回りを考えるのでしょうが、伊都国の比定が不自然。
それに、大分当たりまで陸行し、船で南下する方が便利そうだということになります。
妻説では邪馬台国の比定もうまくいきません。
69本田:2008/07/19(土) 17:22:34
糸島半島
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E5%8D%8A%E5%B3%B6
歴史

糸島半島一帯は古代の伊都国があった場所とされる。
かつては怡土(いと)とも当て字された。
遺跡も多く存在し、とりわけ伊都国については、
前原市の国指定史跡である平原遺跡(弥生時代後期)を含む
曽根遺跡群(弥生前期〜古墳時代中期)や三雲井原遺跡群(弥生中期〜古墳前期)がその所在だとされる。

元岡遺跡群(弥生中期〜)からは製鉄炉が密集する大規模な製鉄遺構や、
大寶元年(701年)の年号が書かれた木簡、珍しいヒョウタン形土器などが発見されている。

糸島半島から瑞梅寺川を挟んだ高祖山にかつて存在したとされる怡土城は、
『続日本紀』において、
天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式城砦である。
また筑紫館と唐・新羅などを行き交う船の寄港地として唐泊(韓亭)が位置づけられた。

中世には元寇に際して、
博多湾に面する現在の長浜海岸に元寇防塁が築かれもした。

江戸時代になると今津干潟および泉川河口は干拓が進められた。

幕末には野村望東尼が岐志港から沖合の姫島へ流された。
70本田:2008/07/20(日) 13:33:40
71本田:2008/07/20(日) 21:06:09
神話伝承探訪
http://hayato.com/shinwa/ryobo.html
■都万(つま)神社(宮崎・西都)
■都万神社(鹿児島・大崎)
72日本@名無史さん:2008/07/20(日) 21:46:11
>>66 >>69
投馬国は薩摩で、伊都国は怡土? どうゆう行程を想定するのかな?
73本田:2008/07/20(日) 21:51:37
都万神社(妻萬神社)
(つまじんじゃ(つまじんじゃ))
所在地 曽於郡大崎町仮宿1589
http://www3.pref.kagoshima.jp/kankou/touris/shosai/1015/
都萬神社は、
日向五郡(臼杵、児湯、那珂、宮崎、諸県)の各郡に一社ずつ設けられた「日向五社大明神」の1つで、
大崎町の一の宮として昔から大切にされてきました。
もともとは、有明町原田にあったものが、1540年に移されたものです。
祭神は、「木花開耶姫命」「立述主命」です。
ここには、国指定文化財の銅鏡・籬二菊雙雀文様をはじめとして、
重要な文化財が奉納されていました。 
74日本@名無史さん:2008/07/22(火) 17:45:40
邪馬台国の特徴は、古墳じゃなくて、倭錦の存在。
倭錦がまったく出土しない西都原の可能性はゼロ。
75日本@名無史さん:2008/07/22(火) 17:53:32
ツマ国は薩摩
76日本@名無史さん:2008/07/23(水) 21:04:13
>>弥生後期の絹は我が国から出土していないとか、邪馬台国はなかったという説ですか?
77日本@名無史さん:2008/08/26(火) 10:04:17
>>52
生目古墳群は邪馬台国でないにせよ期待できる遺跡だし、
その周辺にも確かにいくつかの古墳郡があり、
魏志倭人伝に記載されている国の一つである可能性はあるが、
後半トンデモ学説に飛躍してるのが残念だ。

おもしろそうなネタを初っ端から台無しにされた感じだな。
78日本@名無史さん:2008/08/27(水) 05:22:25
興味深いが、結局、笠置山墳丘墓の実態も良くわからないのかな?
79日本@名無史さん:2008/08/27(水) 08:41:21
良くわからないっぽいね。個人がちょっと発掘しただけで、本格的調査はしてないし。
読んだ限りじゃ墳丘墓というより、あの周辺が集落跡(墓地含む)といった感じだったが。
これ以上は、しっかり掘らんと判らないよね。

生目は宮内庁の陵墓参考地じゃなかったハズなので、
もっと掘っちゃえって感じだね。
80日本@名無史さん:2008/08/29(金) 00:47:20
81本田:2008/10/02(木) 20:46:14
>>72
帯方郡を起点に狗邪韓国と伊都国を終点にする放射説です。
82日本@名無史さん:2008/10/04(土) 07:26:00
邪馬台国はどこに比定するわけ?
83日本@名無史さん:2008/10/04(土) 10:48:57
このスレ的には西都原だろ
84日本@名無史さん:2008/10/05(日) 22:43:25
邪馬台国は不弥国のとなり。
85本田:2008/10/06(月) 01:55:20
>>81
> >>72
> 帯方郡を起点に狗邪韓国と伊都国を終点にする放射説です。

また伊都國を起点に奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國を終点にする2重放射説です。

狗邪韓國は、九州北岸(福岡県)。
伊都國は、九州北岸(前原市)。
投馬國は、九州西岸(薩摩)。
邪馬壹國は、九州東岸(西都原)。
86日本@名無史さん:2008/10/06(月) 06:19:48
女王国を宇佐(大分)から日向(宮崎)にかけての九州東南部と比定したい。
魏書にいう「水行十日・陸行一月」と隋書にいう「其國境東西五月行南北
三月行」の説明がなされない限り筑紫付近はダメダメです。
畿内説は論外として、北部九州に比定できない根拠として

■計其道里當在會稽東冶之東
郡よりの方向、距離から推測すると、女王国の位置は会稽・東冶(台湾・奄美
大島の西対岸)の真東にあたると認識されるほど相当に倭国の南と理解されて
いた。

■倭地温暖冬夏食生菜皆
倭の地は温暖で、一年中生野菜を食べていると記載されている。意外と北部
九州も雪が多く、冬も寒いが、その点では宮崎は温暖の地です。

■使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
女王国より北の国々には監察吏員を特別において諸国の皆が畏怖していた。
よって、女王国が北部九州ではありえない。

■女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國
女王国の東に海を渡ること千里(対馬から壱岐と同程度の距離)にまた国があっ
て、全て倭人が住んでいると記載されており、四国(伊予)が倭種として比定され
るが北部九州では比定地がない。
87日本@名無史さん:2008/10/06(月) 07:31:21
>>85
>狗邪韓國は、九州北岸(福岡県)。
? 何考えてんの?
88日本@名無史さん:2008/10/10(金) 19:07:28
邪馬台国は、今の熊本市周辺だお。卑弥呼がいたのは阿蘇の外輪山の中のどこか!
89日本@名無史さん:2008/10/10(金) 20:31:22
そこには巨大銅鐸・オモイカネが・・・・・・・
90日本@名無史さん:2008/10/13(月) 19:41:06
日向 「ヒムカ」 「ヒミコ」 卑弥呼
豊  「ト ヨ」 「ト ヨ」 台与

後の国名に繋がるね、それも九州東面。
91日本@名無史さん:2008/10/13(月) 19:44:16
>>90
卑弥呼=ヒミオ(ピミヲ)
らしいよ。
92日本@名無史さん:2008/10/13(月) 19:56:34
邪馬壹國の東に倭種有りって四国の事か?
93日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:04:36
四国とか近畿もひっくるめてじゃないかなー

その他大勢って意味で。
94日本@名無史さん:2008/10/14(火) 16:53:36
さつま、いづも、の「つま、づも」は投馬と同じ意味で、「泊、止、留、停」は「とま」り
「つまり」も同意か?、古代船泊まりと言うのは大事で、高速道のインターチェンジ。

「さつま」とは熊襲の襲の泊の事で古代そ「襲」のつまが「そつま」と思われる。
では「つま」と「とまり」が何故同じ意味かと言うと古代の通い婚と関係が
有るのでは、妻の元に通い数日泊まる事から妻=御泊りに成ったのでは。

そこで一大率の伊都国より水行10日、陸行1ヶ月で日向「邪馬台国」に着き
伊都国より水行20日で襲の泊、さつま「投馬国」に着く、航路は熊本県南部辺りの狗奴国と
対立状態なので西回りは使えず東回りの航路、だから投馬国の方が2倍の日数がかかる。
95日本@名無史さん:2008/10/14(火) 17:42:31
>>94
宿場町の妻籠「つまご」も関係あるかも。
96日本@名無史さん:2008/10/14(火) 18:48:26
熊襲の襲国さつまは投馬の国、日向は卑弥呼の国、豊は台与の国、か?
熊襲の熊国が狗古智卑狗クコチヒク(後の菊池彦?)の狗奴国か?
97日本@名無史さん:2008/10/14(火) 22:40:51
>>96
>熊襲の熊国が狗古智卑狗クコチヒク(後の菊池彦?)の狗奴国か?
いいかげん菊池彦から離れたら? 狗のコチ彦では? 口彦とか。
98日本@名無史さん:2008/10/15(水) 12:57:48
>>94
宮崎でも北部の方だろうね。神話(ソボフル、クジフル峰)に出てくる祖母山
や九重山、久住、辺り大分県境なんか臭いな。

さつま笠沙の岬までの丁度半ばに成るし。
99日本@名無史さん:2008/10/15(水) 18:26:08
東国原卑弥呼ヒガシコクバルヒミコさんwwww
100日本@名無史さん:2008/10/16(木) 17:16:33
ドンと来いに負けてるぞ!
101日本@名無史さん:2008/10/18(土) 18:17:34
>>「さつま」とは熊襲の襲の泊の事で古代そ「襲」のつまが「そつま」と思われる。

これは中々面白い視点ですな。
102日本@名無史さん:2008/10/27(月) 17:44:36
九州最大の前方後圓墳は卑弥呼のものであり、娘とよは神功で父は王だが母がひめこ、 卑弥呼のヤマタイは女系として大和政権と合体した(ただしひめこの遠祖はニニギに繋がり結局は親戚の合一かも)
103日本@名無史さん:2008/11/05(水) 22:07:34
美々津もあるし都万神社もあるし、ここは投馬国かな。
104日本@名無史さん:2008/11/06(木) 22:32:29
水行10日陸日1月

とかあるが、信心深い時代だろうから、寺社に旅路の無事を兼ねて1週間くらい泊まってた。

沖の島とかでも神の加護を祈って3日くらい泊まってた。

とかは無しか。

105日本@名無史さん:2008/11/07(金) 09:58:59
水行十日陸行一月ね。特に一箇所に長く逗留することは考えてないだろうが、
この日程は倭の人々が郡使を案内するときの実情を考えるべきだろう。
けして、軍が移動するときの速度とか飛脚の速度を考えるべきではない。
106日本@名無史さん:2008/11/09(日) 02:05:16
なぜ「自郡至女王國萬二千餘里」を無視するの?馬鹿なの?死ぬの?
107日本@名無史さん:2008/11/12(水) 09:53:45
「自郡至女王國萬二千餘里」を無視してはいかんね。しかし、これを邪馬台国と同視
するのもいかん。多くの学者がこれを邪馬台国だと思い込んで、馬鹿な説を立ててい
るが、見苦しい限り。


108日本@名無史さん:2008/11/15(土) 10:51:51
おもしろい。色々な説がどれも、もっともに思える邪馬台国は不思議だ。
109日本@名無史さん:2008/11/15(土) 12:28:28
官はみみとみみなり
宮崎は投馬国とするといろいろ古地名が合うんだが。偶然か?
110日本@名無史さん:2008/11/15(土) 12:34:13
妻町のことかな
かなり前から言われてるけど
111日本@名無史さん:2008/11/16(日) 11:55:28
>宮崎は投馬国とするといろいろ古地名が合うんだが。偶然か?
どんな具合に合うのかな? 特に合うとも思えないが。



112 ◆.L.MXSPOgc :2008/11/18(火) 03:54:21
>>109
偶然。
どうせ奴国=博多あたりまであってるって程度だろ。
113日本@名無史さん:2008/11/18(火) 17:43:47
sage
114日本@名無史さん:2008/12/02(火) 16:01:08
一大国→×
一支国→○

女三国→×
女王国→○

誤字だらけの倭人伝。よって

投馬国(つまこく)→×
殺馬国(さつまこく)→○

納得だろ?
115黄猿:2008/12/10(水) 22:50:53
福岡平野の奴国でさえ2万余戸・・・
邪馬台国は7万戸、投馬国は5万戸。。

どちらの国も福岡平野と同等かそれ以上の平野のある場所で、大河が流れている所であると予想。

邪馬台国は、熊本市周辺。投馬国は西都原。狗奴国は球磨地方から薩摩大隈にかけての大国。

後に熊襲・隼人と呼ばれる人々。

戦国期の竜造寺、大友、島津の構図に近かったと予想。
116日本@名無史さん:2008/12/12(金) 20:46:38
>>115
水行二十日とか水行十日陸行一月をどう考えるのかな。
大河が流れている所であると予想は花丸。
117黄猿:2008/12/12(金) 23:38:27
>>116
まぁ〜昔は、道なき道だったろうしね〜 江戸時代の街道でさえあれだし。。
慣れない異国の土地で少なくはない人数と大量の物資まで運ばないといけなかっただろうし。

魏からの船は大きかったかも知れないが、倭国に入ってからの船は想像を遥かに下回るものだと思う。

水行二十日は船で二十日。水行十日陸行一月は、船でなら十日。歩きなら一月と、わっしは解釈してます。

ちなみに女王のいる所は阿蘇外輪山内のどこかと予想。。
118日本@名無史さん:2008/12/12(金) 23:41:40
水行二十日とか水行十日陸行一月の終着点ばかり目をやらずに基点に注目してみよう。
119日本@名無史さん:2008/12/13(土) 00:16:43
「西」都原という地名から見て東都があったように思えるな。東都は奈良ヤマトだったということか。
120日本@名無史さん:2008/12/13(土) 01:21:08
宮崎の東は海。
東都は串本海底遺跡だと断言できるね。
121日本@名無史さん:2008/12/13(土) 23:51:11
>>119
持田遺跡が東都原といわれてるよ。
122日本@名無史さん:2009/01/15(木) 01:52:59
東都は、神宮を本拠とする。
123日本@名無史さん:2009/01/15(木) 11:20:42
西都原という呼び名は比較的新しいものです
124日本@名無史さん:2009/01/15(木) 19:34:06
やっぱ、ここ投馬国。
125日本@名無史さん:2009/01/29(木) 16:05:51
浮上します
126日本@名無史さん:2009/01/30(金) 00:03:33
西都原が邪馬台国である可能性もある。かなり低いけど。

筑紫の先進諸国が西都原に従ったという形跡はない。
むしろ奴国などは大和の文化を積極的に受け入れている。
西都原の初期古墳は大和のそれより大分新しい。

もうこの辺りで結論は出ているのだが、それでも邪馬台国=西都原は否定出来ない。
魏の皇帝を騙して、倭王になりすましたという可能性は残る。
ただ西都原が邪馬台国としたところで、大和王の風下に立っていただろうし、
後世、西都原が倭国を制したというのも考えにくい。
せいぜい古くから大和と親しくて、それなりの権勢はあったのだろう程度。
127日本@名無史さん:2009/01/30(金) 14:35:29
意味不明なんすけど
何が悲しくて田舎の王にヘーコラしなきゃならんのかw
顔洗って出直しな
128日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:45:01
>>127
ちゃんと反論しなきゃわからないよ
129日本@名無史さん:2009/02/01(日) 13:54:28
>>119
日向は古代、中央(奈良)との関係が実に深い
やっぱ奈良が東、日向(斎殿原=西都)が西と考えるのが自然

古代から(3世紀ごろから)天皇家との関係は深かったんでしょう
130日本@名無史さん:2009/02/04(水) 20:08:23
どうしようかな
昨年末頃に西都原古墳群に行ってきましたが、
自分なりの結論だけを書いとくか、
細かいレポを写真付きでつらつらと書こうか
131日本@名無史さん:2009/02/04(水) 21:57:05
HPでやれ
132本田:2009/02/13(金) 22:07:58
>>126
この時代大和を中心に考えるのはピントはずれもいいところ。
この時代は帯方郡を中心に考えるべき。


三国志魏書 東夷伝
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
馬韓
桓霊の末、韓[シ歳]強盛、郡県制することあたわず、民多く韓国に流入す。
建安中、公孫康、屯有県を分かち南の荒れ地を以って帯方郡となす。
公孫模・張敞等を遣わし移民を収集し、兵を興し韓[シ歳]を撃つ。
旧民やや出で、この後倭・韓ついに帯方に属す。
133日本@名無史さん:2009/02/14(土) 00:34:16
>>126
>魏の皇帝を騙して、倭王になりすましたという可能性は残る。
魏使が訪ねてきたときに、倭国側がどのような対応をするのかということが
ぜんぜん分かってないな。
伊都国にいた一大率が案内役をつけるに決まっている。倭王のもとまで使者を
鄭重に送り届けるんだ。偽りの倭王なんぞ妄想にすぎん。
134日本@名無史さん:2009/02/14(土) 01:32:27
邪馬台国が西都原、じゃ弱すぎる。
どこの馬鹿が古墳の周りに王国建てるか?

いわゆる日向宮の古墳が西都原、古代の日本の東遷前の朝廷の
墓だという前提で周辺を洗うに限る。
135本田:2009/02/15(日) 08:29:26
>>134
>邪馬台国が西都原、じゃ弱すぎる。

邪馬臺國九州説より、邪馬台国畿内説はもっと弱い。
理由は、公孫氏の支配する帯方郡よりもっと遠くなるから。
136130:2009/02/15(日) 23:07:16
写真とレポは自分のHPでやったよー
URLは出さないけどw

たくさんの古墳を見てかなりwktkだったけど、博物館で免田式土器とその分布図を見たとき
「こりゃあダメだ、西都原は邪馬台国ではないな、せいぜい狗奴国の主要都市だわ」
という印象を持ってしまったよ。
でも逆に邪馬台国は九州であるという確信も持ったかな。

ではこれで逃げますw
137日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:33:07
>>134
邪馬台国は宮崎か都城。西都原は単にその邪馬台国の墓場だろう。
138日本@名無史さん:2009/03/03(火) 10:09:05
卑弥呼の国である邪馬一国に前方後円墳なんか存在しませんよ。
西都原のは4世紀ですし。
139日本@名無史さん:2009/03/04(水) 00:12:29
>>138
邪馬台国は三世紀前半しかなかったと思ってるのかな?
140日本@名無史さん:2009/03/04(水) 15:36:30
>>134
日向の国府も西都原から車で10分くらいの所だし
ニニギ、コノハナサクヤ姫の墓もある。決定でしょうね。
141日本@名無史さん:2009/03/04(水) 22:59:53
>>137
横槍すまん。
宮崎市周辺(大淀川下流両岸)には生目古墳群をはじめ多くの古墳があったそうですが、
ほとんど宅地化してしまって消滅してしまったところがほとんどのようで。
問題は大和地方の古墳と比較してどっちが古いのか。
生目古墳群1号墳と3号墳は畿内遺跡とほとんど形状が似ている。
つまり、生目古墳群のほうが早ければ神武東征前の世代ということになり、
都が宮崎市周辺にあったということ。
生目古墳群およびその周辺の古墳の学術調査を宮崎大学に陳情すべし。
邪馬台国は宮崎市周辺。西都原は古墳の大きさから一国の中心であったことが
考えられる。
とにかく、宮崎県内の古墳は大正時代に本格的に調査が行われてから
放置しっぱなし。なぜ調査されないのか、そっちのほうが疑問だ。
142日本@名無史さん:2009/03/04(水) 23:37:20
西都原を中心とした土器文化圏がないのはなぜですか?
文化の中心なら、固有な指標土器とその文化圏はあるはずなんだけど?
弥生〜古墳時代の宮崎の土器は野暮ったいんだよね。
143日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:31:53
邪馬台国が九州じゃないことは確か。
144日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:57:35
>>143
子供じゃないんだから理由くらい述べよ。
主観でしゃべるなよ。
145日本@名無史さん:2009/03/05(木) 23:09:09
理由が見当たらないんだ。無理言っちゃいかん。
146日本@名無史さん:2009/03/22(日) 01:33:51
邪馬台国は纏向でした。残念。
147日本@名無史さん:2009/03/25(水) 01:31:04
邪馬台国は原始的な呪術国家で、卑弥呼はシャーマン。
要するに、戦乱を収めるために祭り上げれた国家なんじゃないの?
だから、他の国との繋がりとか先進的な国家である必要は無いんじゃない。
むしろ、水行二十日とか陸行一月とか離れた場所にあったから、
都合がよかったんじゃないだろうか。
148日本@名無史さん:2009/03/25(水) 02:57:54
考古学的に、現段階では畿内説には勝てない。
149日本@名無史さん:2009/03/25(水) 03:36:04
WBCで大活躍した青木が宮崎出身だったので
お情けでこのスレにカキコ・・・

>>142
俺も良く知らないが九州東部で日向あたりの土器編年と言うのはあるらしいよw

 弥生後期・・・W期〜Y期

 弥生終末期・・・大戸ノ口213号住〜熊野原5号住

勿論、日向を中心に九州北部まで広がった土器様式なんて聞いたことも無いwww

この板の日向説論者が妄想している九州全土を収めた日向大王国なんて如きものは幻ですよとwwwwwwwwww 
150日本@名無史さん:2009/03/26(木) 22:39:07
日向大王国があったら日向の土器が北九州まで広まるだろうなんて考える
のが間違いだな。北九州の物が日向に持ち込まれるんだよ。
151日本@名無史さん:2009/03/26(木) 23:07:19
>>150
え?

弥生末期に北から南に土器が流入したって事か?

ソースヨロwwww

152日本@名無史さん:2009/04/05(日) 11:37:34
いくら邪馬台国が九州にあったと証明できても
考古学的見地から日本の大半を治めていたのは
大和朝廷以前でも九州族ではなく出雲族が中心であったことが真実
153日本@名無史さん:2009/04/05(日) 14:33:46
邪馬台国は阿蘇山より北にあった
154日本史好きの男:2009/04/07(火) 12:39:00
安本美典氏が邪馬台国は福岡県夜須町じゃないかといってる。日本書紀か古事記に「天の安川」といった
表現が出てくるが、今も夜須町に夜須川という同じ名前の川が流れてるという。川の名前って長年変化しないものだ。
邪馬台国って天の安川中心に栄えたらしい。
アメリカでもミシシッピ川という開拓時代の名前が今も使われてる。そして、夜須町を中心にした複数の地名と
奈良県真ん中を中心とした地名が距離、方角ともだいたい一致するという。
夜須町起点に天ヶ瀬、春日、久留米、志賀島という地名があるが、奈良付近にも天瀬、春日、久米、滋賀県の滋賀という地名がある。
これは最初、北部九州に存在した邪馬台国が奈良に移動してかつて住んでたとこと
同じ地名をつけたんじゃないかという。これも、かつて広島に住んでた北海道開拓者が自分が開拓した都市を北広島市と名づけた
のと同じではないかという。北部九州は文明の先端であったから、どこよりも強力な国家があったかもね
155日本史好きの男:2009/04/16(木) 10:49:11
スレが止まってるようなので続きのレスをさせてもらえば、天の岩戸隠れでおなじみのアマテラスが岩に隠れて世界が真っ暗になったという
話は、皆既日食を題材にしたものといわれてたが、当時実際に卑弥呼が世を去った年に皆既日食が北部九州で見られ、奈良県では皆既日食にならなかったということが
スーパーコンピューターで分かったという。
これ、邪馬台国が北部九州にあったことの強い根拠ではないだろうか。
邪馬台国がその後、トヨという女王の時代に大分県に移動したのではないかと聞いた。
それで大分県のことを豊の国、すなわちトヨの国といわれるようになったとね。
その後、邪馬台国は宮崎近辺に移動したかもしれん。南九州にも類似の地名があるそうだから。
それで宮崎に、天孫降臨という神話ができたということも考えられる。
そして宮崎南部から邪馬台国が日本をどんどん東に攻め入って奈良県に大和朝廷を作った。
それが神武天皇の東征という話にまとめられたのではないか。
勉強不足で稚拙な考えかもしれんがレスさせてもらった。
156日本@名無史さん:2009/04/16(木) 11:54:57
日食なんぞにこだわっているのはトンデモだな。
古代人だって、たまに日食があることぐらい知っているだろう。
157日本史好きの男:2009/04/16(木) 13:04:43
文化の進んだ中国なら日食も分かるかもしれんが、弥生時代程度の遅れた日本だとそこまで
知識があったかということだね。そして日本書紀に北部九州を征服する話が出てこない
というから、大和朝廷の本拠地が元々北部九州にあったということの根拠になると思う。
158日本@名無史さん:2009/04/16(木) 14:41:03
>>157
>日本書紀に北部九州を征服する話が出てこない
北九州の自慢話も出てこないな。元々北九州ならば北九州に関する記事が
あって当然なんじゃないか?
159日本@名無史さん:2009/04/16(木) 14:43:23
神話で圧倒的にウェイトを占めるのは出雲なわけでw
160日本@名無史さん:2009/04/17(金) 21:35:40
>>156
渡海失敗でジスイが殺されるような時代だぜ?
皆既日食なんかになったらには日の巫女様撲殺ってことだって考えられるわなw
161日本@名無史さん:2009/04/17(金) 21:57:34
邪馬台国は福岡だよ。そんなの常識だよ。
162日本@名無史さん:2009/04/18(土) 07:23:00
まあ、常識って言えば、北九州説と近畿説とが対立しているんだから、どちらかに
まちがいあるまいってところだろう。しかし、長い間対立していてどちらもはっきり
させられないのは両方ともまちがいだってこともあるな。
で、最近、南九州説が見直されてきた。南九州説も従来はすっきりと行程を説明でき
ていなかってが、伊都国が佐賀市付近にあったとみることで、何の問題もなく説明で
きるようになったからだ。もう、南九州説で決まりだね。
163日本@名無史さん:2009/04/18(土) 08:25:37
出雲神話は全体の1/3程
出てくる地名で最頻出なのが九州
続いて、山陰、四国、畿内.....
164日本@名無史さん:2009/04/18(土) 14:40:46
四国って畿内より多いのか?
165日本史好きの男:2009/04/18(土) 19:15:39
出雲の神話が多いのって、アマテラス、大和朝廷が征服したオオクニヌシの本国だったから
ということも考えられん?菅原道真をかつて追放した朝廷が道真を天神様として祭って褒め称えるのと同じで。日本人ならこういうことを
時々するから。
166日本@名無史さん:2009/04/18(土) 21:27:03
よく知らんけど、畿内を舞台にした神話ってほとんどないのでは?
167日本@名無史さん:2009/04/19(日) 00:46:44
で、こないだの卑弥呼の宮殿跡とやらの続報はないの?
またいつもの思わせぶり?
あんだけ掘りまくって確定的な証拠が1つも出てこないんだから
もう畿内止めて他を当たりなよ

ってこんなところで喚いてもしょうがないか
168日本@名無史さん:2009/04/19(日) 01:48:25
>>167
スレタイ読めるか、朝鮮人
169日本@名無史さん:2009/04/19(日) 18:32:55
>>166
神話時代というのは神武東征の前だからね。そんな時代には、畿内はまったく関係
してこない。舞台にしようがないんだよ。
170本当の右翼:2009/04/19(日) 18:59:25
>まあ、常識って言えば、北九州説と近畿説とが対立しているんだから、どちらかに
まちがいあるまいってところだろう。しかし、長い間対立していてどちらもはっきり
させられないのは両方ともまちがいだってこともあるな。

考古学会は、ほぼはっきりさせているようだけど。
20年前とは状況が全く違うね。一方的状況ですね。
書店に足を運んで、多くの最新情報を漁ってみては……。
171日本@名無史さん:2009/04/20(月) 00:42:06
考古学者の説もみてみるかと思って、白石や福永を少し読んでみたが、まったく
何もないんだねえ。あれで、畿内説を言おうという感覚が分からん・・。黙って
いればいいものを。最近の畿内説で読む価値があるのは誰?
172日本@名無史さん:2009/04/20(月) 07:26:12
まあ畿内説をどういう評価しようと九州説の方が”ゼロ”じゃあ勝負にならない。

100対0 でも 1対0 でも同じ事w

畿内説を黙らせたかったら例えば
>>150の言うような弥生末期に九州で
何らかの連合体ができた事をうかがわせる様な考古学的資料でももってこいって事だな。

そうすれば黙らせる事ができなくても、
少なくとも今日のような完全なワンサイドゲームにはならないだろうw

自分が土俵の上に上がってもなけりゃ、そりゃ相手が好き勝手するって話だよwww
173日本@名無史さん:2009/04/20(月) 08:06:29
つうか>>171は白石や福永のどこが畿内説を主張するに足りないと判断しているんだ?
具体的に言わずに
「読んだけど話にならない」
とただ一方的に勝利宣言しても意味無いぞ?w

無論それは九州説ではきちんと説明できる物であって
両先生とも考古学者なんだから文献よりは考古学的なことなんだろう?
174日本@名無史さん:2009/04/20(月) 14:30:43
別に勝利宣言をしたつもりもないんだが・・畿内説の裏付けになりそうな考古資料も
見あたらないし、文献資料については何も述べてないしね。
もう少しましな本はないかなと思ってね。今、畿内説の論客は誰なんだ?
175日本@名無史さん:2009/04/20(月) 16:29:54
>>174
>文献資料については何も述べてないしね

考古学者だからなあ・・・w

むしろ安易な文献の引用はできるだけ避けるほうがむしろ懸命。
…なんて事を言ったら「じゃあ考古学者は邪馬台国問題から手を引け!」
と言う九州悦の火病を煽るんだろうがw

白石や福永なら十分に畿内説の代表的な学者と言って良いんじゃないかな?
それで物足りないのなら石野や寺澤やその他の学者の著書を読んでも同じだろうと・・・
(文献なら山尾幸久とかいるんだろうが本人は 「倭人伝から読み解くのは無理」と言う趣旨の至極真っ当な事を言っているしw)

>171が「こんな物じゃ納得できない」と言うのは自由だが
現在の邪馬台国論争の限界なんじゃないかな?

まあ具体的にどこが不満なのか書かず
「もう少しましな本はないかな」と言われても
>>171の要求水準がどれくらいなのか良く分からないがwww
176日本@名無史さん:2009/04/21(火) 07:26:03
>>175
アリガト。やっぱり畿内説は、白石、福永程度の感覚でものを言っているのか。
畿内に人が住んでいたってことは分かるんだが、邪馬台国との関連に目が行って
いないということなんだよ。
@ 邪馬台国は一世紀ころから大陸と通交があった倭の強国のはずだ。大陸との
 通交を示す遺物は何があるのか、画文帯を最初といってるようではだめだろう。
A 邪馬台国の武器は何だ? 特徴は矛だ。近畿で矛はでているのか?
B 銅鐸→銅鏡 九州勢力による征服に対抗できる説得力ある説明はできるか?
 権力の交替はなかったことを示す考古学的な資料を探さなければいかんだろう。
C 卑弥呼の墓 槨のない墓、殉葬墓の追及だ。初期古墳でそれらしきものはあるか?
 何でそれを検討しないんだ?
D 考古学者だからと言って行程を検討しないで自信がもてるのか?
 読み解く頭がないなら、文献学者の説を読んで、誰に従うとかいうべきだろう? 
177日本@名無史さん:2009/04/21(火) 09:19:05
>@ 邪馬台国は一世紀ころから大陸と通交があった倭の強国のはずだ。

お馬鹿ですか。
178日本@名無史さん:2009/04/21(火) 09:26:55
>>176
いつもの日向厨かな?
今までのネタを並べてみました・・・って感じだがw
散々外出の事を書くのも面倒だが、まあ過去の反論の一覧と言う感じで書いておこうw

>畿内に人が住んでいたってことは分かるんだが
先ずこの認識がおかしいw
そもそも弥生後期には九州や畿内の西日本だけじゃなく
東海関東にも変わらない(あるいは上回る)人間がいた。
畿内説云々言う前の話w

>@ 邪馬台国は一世紀ころから大陸と通交があった倭の強国のはずだ
確かに纏向に大陸渡来の遺物の出土が少ない事を指摘する学者はいる(武光ら)
が邪馬台国は権力の中心であって大陸との交易の中心である必要はない。
それを条件にするのなら福岡平野が一番有利だろう。

>A 邪馬台国の武器は何だ? 特徴は矛だ。
そもそもあの記事が邪馬台国での見聞に基づく物とは限らないと言うか
倭国の風俗であってごちゃ混ぜにするな。
正確さにも疑問がある。
もし正しく使用されていた武器を描写しているのなら何故「戈」が出てこない?等

>B 銅鐸→銅鏡 九州勢力による征服に対抗できる説得力ある説明はできるか?
九州勢力によって征服されたなんて証明はない。
銅鐸の埋納時期も地域もバラバラ、ある日突然に消えたと言う話でもない。
(せいぜい畿内で2回ピークのある埋納時期の後のものに話をあてているだけ)
今時そんな事を言っている学者もそういないだろうw
そもそも大型青銅祭器による祭祀が継続していなければならない理由すらない。
179178続き:2009/04/21(火) 09:36:36
>>176
>C 卑弥呼の墓 槨のない墓、殉葬墓の追及だ。
槨のない墓と言うのは一般の倭人の風俗としてかかれたもの。
支配社会層のものとは限らない。
もし卑弥呼の墓もそうだったなら卑弥呼の墓を描写した部分に書けばよい。
殉葬に関しては流石に疑っている学者の方が多いだろう(無論九州説の学者にしてもだw)

>D 考古学者だからと言って行程を検討しないで自信がもてるのか?
過去百年以上の論争を経て
「あんなもんで位置の特定ができるわけがない」
と言うのが結論と言うかコンセンサスだな流石にw
>>175で言ったように山尾幸久も文献のみのアプローチなんて無理と言っている。
これは九州説にしても同じだろう。
文献だけで決着できるなんて妄想電波飛ばしているのはこの板の九州説だけw
180日本@名無史さん:2009/04/21(火) 09:44:58
>>176

一応このスレの趣旨の日向説に照らし合わせるのなら・・・

>@邪馬台国は一世紀ころから大陸と通交があった倭の強国のはずだ

「一世紀ころから大陸と通交があった倭の強国」どころか
弥生後期の大型環濠集落すら殆ど見ない(あったっけ?)宮崎県なんかは真っ先に吹っ飛ぶわけでw


まあ>>176が今後色んな本を読んでその疑問に全て答えてくれるような説に出会ったら是非教えて欲しいwww
181日本@名無史さん:2009/04/21(火) 12:03:00
あなたのはどれもこれも逃げ口上にすぎないな。それに私は、考古学者がそのような
点について検討もしないで結論を急ぐのが問題だと言っているんだ。

>「あんなもんで位置の特定ができるわけがない」。
畿内説をとるからそう言わざるをえないだけだろ。
>大型環濠集落すら殆ど見ない(あったっけ?)宮崎県
大陸との通交に関係ない話だ。
182日本@名無史さん:2009/04/21(火) 12:29:12
>邪馬台国は一世紀ころから大陸と通交があった倭の強国のはずだ。

仮にこの想定が正しかったとしたら(まあ根拠はないだろうがw)

確かに畿内説に不利な話だが
同時に日向説にも不利な話w

さてさて日向に『一世紀ころから大陸と通交があった倭の強国』なんて物があったのか?
それを示す考古学的資料は?

九州説とか畿内説とか邪馬台国論争の枠を越えて考古学の常識がくつがえると思うがwww
183日本@名無史さん:2009/04/21(火) 12:46:56
この板で南九州説・日向説を推している人間は複数いるだろうが
その中で一番熱心に推している日向説の言っている内容はもはや
『 日向王朝説 』 とでも言うべき内容のもので
東遷説にも色気を出しているし
一世紀ころから九州全土に覇をとなえた一大王国を考えているみたいだwww

そもそも環濠集落でさえ殆ど見ないと言うのは
それをもって人がいなかったなんていう馬鹿を言うつもりはないが
わりと戦乱には遠い地域であった印象を受ける。
(勿論高地性集落なんて物もない)

倭国乱にどういう関係があったのか模擬だし
それ以前に戦乱がなければ統合の動きもなく
一大王国のような物ができる必然性すら無いと思うがwww
184日本@名無史さん:2009/04/21(火) 23:02:47
>>182 考古史料何ぞで国の大きさが分かるものか。頭を使って資料を読むんだよ。
後漢書によれば、57には倭奴国の朝貢、107には倭国王帥升の朝貢があった。
また、倭人伝には、倭国は旧百余国、魏代には30国とある。これは107に朝貢
した百余国が魏代には30国に統合されていたということだ。
となれば、一世紀のうちに倭国連合が成立していたこと、その倭国連合には邪馬台
国が含まれていたことは当然だろう。そして、その邪馬台国は3世紀には倭国のリ
ーダーとなった。ということは、もし畿内説をとるならば、一世紀ころにおいてす
でに邪馬台国は北九州の諸国と連合しうるだけの国力を有し、倭国の中で生き残っ
ていく実力を有した大国であったはずだ。

185日本@名無史さん:2009/04/21(火) 23:08:13
そして、倭国の構成国は、107から明らかなように中国本土との通交を始めていた。
倭人伝が伝える持衰の風習もそれを裏づける。となれば、畿内説が正しければ、畿内
に中国本土との通交を裏づける遺物等があってしかるべきだ。
186日本@名無史さん:2009/04/22(水) 00:22:07
>>183
>そもそも環濠集落でさえ殆ど見ないと言うのは
>それをもって人がいなかったなんていう馬鹿を言うつもりはないが
>わりと戦乱には遠い地域であった印象を受ける。
宮崎内部がまとまっていれば環壕なんていらないと思う。
宮崎の外に対しては海と山が天然の障壁になってくれる。
古代において平和で豊かな生活を送るには
九州限定で考えれば宮崎が一番適しているんじゃないかな。
187日本@名無史さん:2009/04/22(水) 02:09:11
>>184-185
AD107の帥升”等(ら)”の朝貢の面子に既に邪馬台国(の前身?)が入っていて
その恩恵を享受していたなんて単なる仮説の一つに過ぎない。

別に邪馬台国が新興勢力であっても何ら問題ない。

・・・まあ、仮にその仮説を是とし畿内説の目が無いとして
じゃあ日向はどうなんだ?

畿内説を否定するに躍起になっているが
1世紀頃から確たる地位をもち弥生末期には倭国のリーダーにまで上り詰めた
それを示す材料はあるのか?

畿内説の場合、邪馬台国を新興勢力とすれば台頭していった事を示す材料はある
(ただし実年代の論争はあるが)

繰り返すが
日向説に1世紀前後の朝貢に参加し、その恩恵を享受したと思わせる考古学的資料があるのか?
また、そこから更に勢力を伸ばしたことを示す資料はあるのか?

邪馬台国を「老舗」とみるか「新興勢力」と見るかどのみち日向説は苦しいのではないのか?w
・・・と言うのが俺の認識だがwww
188日本@名無史さん:2009/04/22(水) 02:16:22
>>184-185
そうそう、後漢書や魏志倭人伝のその読み解きからどうやって
日向・南九州の台頭を読み取るんだ?w

恐らくその筋書きで言えばやはり北部九州に分がある話だと思うが?www
189日本@名無史さん:2009/04/22(水) 02:40:57
念のため聞いておきたいんだが・・・
宮崎あたりは環濠集落って殆ど聞いた事がないんだが
実際、小規模な物の数例もないのか?



190日本@名無史さん:2009/04/22(水) 03:28:33
宮崎平野には、あれだけの古墳があるわけで、当然、たくさんの人が住んで
いたと思われるが、集落跡が出たという話もあんまり聞かない。

恐らく、古墳以外の、といっても古墳でも未発掘のものは多いが、発掘調査は
ほとんど行われていないのだろう。

こんな意見もある。
http://www.gondo.com/g-files/miya/miya1.htm
191日本@名無史さん:2009/04/22(水) 03:39:04
>仮にその仮説を是とし畿内説の目が無いとしてじゃあ日向はどうなんだ?
ほう。邪馬台国が一世紀頃から魏と通交する大国だったとすれば、畿内説の
目がなさそうだということは理解できるのか。感心、感心。
日向はいくらでもある、問題ないんだよ。

>畿内説を否定するに躍起になっているが
躍起になんかなっていないよ。畿内説の目がないことは分かり切ってる。
伊都国の位置(佐賀市だよ)を考えただけで、百パーセントないじゃないか。
分かり切ったことも理解できない人たちは気の毒だなあって思うだけのことだ。




192日本@名無史さん:2009/04/22(水) 03:46:33
>>191
>日向はいくらでもある、問題ないんだよ。

だからさあ、具体的に出してみろよ
ったく情けない奴だなw

実際そんな物がないから畿内説に対してと言う以前に
北部九州説の後塵を拝する結果になっているんとちゃうんか?wwwww
193日本@名無史さん:2009/04/22(水) 03:47:26
>>189
何も見てないんだな。「宮崎県の歴史」に宮崎市の下郷遺跡、石の迫第二遺跡、
新富町の鐙遺跡などで環濠が確認されていることが明記されているよ。
だいたい環濠をもっていたんだろうが、古墳ですらどんどん崩されているんだ、
環濠集落なんてものは昔から興味の対象になってないんだよ。宮崎ではね。
194日本@名無史さん:2009/04/22(水) 03:52:55
>>190
そのリンク先何度も見たよw

それはさておき・・・

環濠集落跡なんて全国で何百と見つかっていて
特に宮崎あたりが発掘に不利な条件は無いと思うが?

ぶっちゃけた話、発掘費用も関係ないだろう、山陰や北陸、中部でも出ているんだし…
195日本@名無史さん:2009/04/22(水) 04:05:54
>>193
ああ、それは確認したよ下記のサイトで…

>宮 崎 市 の 遺 跡
http://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/www/contents/1211864193290/index.html

まあ流石に皆無じゃあなかったんだなやっぱり。
でも北部九州や畿内に比べれば相当に寂しい状況だなw
(以外に関東が密集地なんだよなあ、大塚遺跡とかが有名かな・・・)

邪馬台国を「老舗」と見るならやはりもう少し遺跡異物が欲しいところ。

>>185で畿内説を否定する為に求めた

『 中国本土との通交を裏づける遺物等 』とやらは日向において何なんだい?

否定するために相手には求めるが
自分の時にはスルーとかのダブスタはやらんよな?wwwwww
196日本@名無史さん:2009/04/22(水) 04:15:42
>>195
少しは自分で考えてみてはどうかな。南九州説の場合はどんなことを言うのか、
考えることで少しは成長するかもしれんよ。
197日本@名無史さん:2009/04/22(水) 04:24:29
>>196
ん?

当然思い浮かばないから聞いているんだがなあ?w

お前の頭の中の回答が果たしてどう言う評価を受けるか
ここに出してみるほんのちっぽけな根性もないかな?w

何のためにBBSに書き込んでるんだお前www

別に出せないのならばそれでいい、逃げたと判断するだけ。
まあこの板の九州説では慣れっこになっちまってるがw

そもそも、そんな物があれば(それがきちんと説得力があれば)
リアルでの邪馬台国論争と言うか九州説の中での日向説の『 立ち位置 』も
もう少し違った物になっているだろうよwww
198日本@名無史さん:2009/04/22(水) 05:02:50
さてさてサービスの悪い日向厨はほうっておいて

何とか自力で『 中国本土との通交を裏づける遺物等 』とやらを考えてみるw

とりあえず東遷説を持ってくるとき日向厨も大好きな 銅鏡 ネタでw
で、例の「邪馬○国の会」のサイトから…
 
 >http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm

↑ここの「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数とやらを見れば
宮崎県はかろうじて奈良に勝る程度。
福岡とかには比べるべくもないw

日向厨の説だと1世紀頃から勢力を伸ばし
この頃にはブイブイ言わしてなきゃおかしいと思うのだが?wwwwwwwww

(無論、畿内説の立場なら「卑弥呼の鏡」とはもっと後の時代に編年される物になるが
そうなると九州全体のパイが更に小さくなるわけでまあ問題外だろうがw)
199日本@名無史さん:2009/04/22(水) 05:42:12

そう言えば九州説の連中が大好きな鉄器も
宮崎や鹿児島は出土量がかなり少なかったっけな?
200日本@名無史さん:2009/04/22(水) 06:06:48
宮崎が、北西部の九州より遅れてスタートしたのは間違いのないところ。
ところが、もっと後になると、九州で最も盛んに古墳が作られるようになる。

その変わり目がどの付近かが問題だろうな。
邪馬台国論争で言えば、卑弥呼の前か後かということか。途中ということも
考えられなくもない。

大和朝廷は、奈良県でも都をコロコロ変えるし、ついには京都に移るし、と
いうことで、そういう面からも考える必要があるかも。
201日本@名無史さん:2009/04/22(水) 09:57:01
>当然思い浮かばないから聞いているんだがなあ?w
成長を期待しても無理ってことかな。じゃ教えてやるか。
遺物としては、玉璧、貨泉、銅鏡それに鉄や免田式土器だな(意味わかるかな)。
だが、そんなことより重要なことは、地理的条件だ。我が国が呉と通交する場合、南九州は
もっとも重要な所なのだよ。それ以外のところから行くのは無理だ。我が国で大陸と通交し
ていたとすれば、他のどこよりも南九州なんだよ。
だから、邪馬台国を南九州以外に比定するときは、南九州と連携していることを言わなけれ
ばならないが、南九州ならばその問題は最初からないんだ。
202日本@名無史さん:2009/04/22(水) 10:01:59
銅鏡、鉄器、環濠集落…

邪馬台国を『一世紀ころから大陸と通交があった倭の強国』として考えた場合
日向説ではどうしても無理があるな。

結局、北部九州説や時には畿内説とかあっちこっち適当にいいとこ取りの
摘み食いして自説を組み立てるからかかる無様な事になるわけでw

倭人伝の行程記事の解釈にはユニークな見るべき点があるのは認めるに
やぶさかではないがwそれ以外は全く駄目…
203日本@名無史さん:2009/04/22(水) 10:24:53
>>201
>遺物としては、玉璧、貨泉、銅鏡それに鉄や免田式土器だな(意味わかるかな)。

さっぱり意味が分からないなw

少なくとも出土状況の分からない玉壁一枚をもって何が言いたい?
銅鏡や鉄は弥生時代、宮崎・鹿児島はお寒い状況だが?
免田式土器?九州中部・肥後熊本の土器で何が言いたいんだ?

えらく勿体つけるからどんな隠し玉があるかと思えば下らない。

例によって「とりあえず並べてみました」程度のもので説得力皆無。
204日本@名無史さん:2009/04/22(水) 11:02:56
>少なくとも出土状況の分からない玉壁一枚をもって何が言いたい?
いつまでたっても屁理屈だな。出土状況は箱書きで明らか。
近畿から出ていないからって、見苦しいよ。
205日本@名無史さん:2009/04/22(水) 11:11:49
>>204
その箱も一緒に出土したってものなら説得力あるんだけどなw

悪いがそんなレア・アイテムの自慢ゴッコなんてのには流石に付き合えないからw

勿体つけて謎賭けしてきた時点で「璧出すのかな?」とは想像したんだが…
想像通りの下らなさ…
206日本@名無史さん:2009/04/22(水) 11:13:58
負け惜しみっていうやつだな。とにかく、大和には中国大陸との通交の痕跡がない、
そこが大きな問題だ。
207日本@名無史さん:2009/04/22(水) 11:24:32
>倭人伝の行程記事の解釈にはユニークな見るべき点があるのは認めるに
>やぶさかではないがw
支持者以外からこんなことを言われた説が今までにあったか?
どんな解釈をしても、支持者以外からは「誤読だ、こじつけだ」とぼろくそに
言われていたもんだ。すっきりと解釈できたのは、南九州説だけだってことよ。
208日本@名無史さん:2009/04/22(水) 11:37:20
>>201
>我が国で大陸と通交していたとすれば、他のどこよりも南九州なんだよ。

ここにも突っ込んでおくかな・・・

南九州を押さえておくのが必須と言うのは東シナ海ルートのお話かな?

後代の遣唐使にしても本来なら魏志がやって来たルートを逆に辿って
半島沿いに進んで長安を目指した(北路 新羅道)

それが8世紀半ばから新羅との関係悪化で東シナ海を横断せざるをえなくなり
おかげで遭難事故が多発する羽目にwww

無論、東シナ海の往来は古代からあったろうが大陸との交渉を持つのに
好き好んで東シナ海を使うのは文字ど通り「 自殺行為 」 www

そもそも、なんで魏と結んだ邪馬台国の話で呉が出てくるんだ?

「魏と結んだ邪馬台国は九州北部か畿内かにあり、南九州・日向は呉と結んでいました…」
なんてお話ならまだ分かるがwww
209日本@名無史さん:2009/04/22(水) 15:40:59
邪馬台国宮崎説は、畿内説はもとより、北部九州説からも攻撃されるから
つらいところだな。
210日本@名無史さん:2009/04/22(水) 15:45:02
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。

・・・中津の近くに京都郡(ミヤコ郡)というのもあるな。
211日本@名無史さん:2009/04/22(水) 15:52:26
宮崎にも、西都とか都城とかあるんじゃないかい?
212日本@名無史さん:2009/04/22(水) 17:00:25
後漢書と倭人伝とを照らし合わせれば、倭国が後漢と通交したのは57、107、そして
魏と通交したのは239だ。ところが、倭人伝には「中国に詣るに・・」という記事があ
る。この中国とはどこのことだ? 半島経由のコースならば、普段から交易で行き来して
いたところ。持衰をおき、決死の覚悟で乗り出すようなコースではないよ。
となれば、中国とは呉のことだろう。「なんで魏と結んだ邪馬台国の話で呉が出てくるん
だ?」なんてとぼけたことを言っていては倭人伝は解釈できないよ。
親魏倭王に任じたのは、倭国が呉になびかないようにという魏の戦略であることを知らん
といかんのじゃないか?
 
213日本@名無史さん:2009/04/22(水) 17:34:25
>>210
その京都郡に宇佐神宮の大元の神社がある

今は廃れて誰もそんなの知らないようなとこだけどね
214日本@名無史さん:2009/04/22(水) 20:23:56
もちろん日向説論者も含む九州説論者が大好きな鉄w

それも弥生時代に宮崎・鹿児島は大した量は出ておらず
奈良とどんぐりの背比べw

しかも奈良は古墳時代には入ってから急激に伸びるが
宮崎・鹿児島にはそれもない。

>県別に見た鉄器の出土数(寺沢薫氏による)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku234.htm

215日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:19:31
>>214
考え方が皮相だね。南九州説は、熊本以南を女王国、それが北九州の伊都国、奴国
と戦ったんだよ。武器に使用される鉄は、戦場に近いところに集中する。
熊本の鉄こそ女王国の鉄だ。女王国全体で考える必要があるんだよ。
216日本@名無史さん:2009/04/23(木) 06:00:19
笑える。

あれだけ口やかましく言っていた鏡も鉄も日向邪馬台国からは出なくても問題ないというのなら

畿内から

 『 中国本土との通交を裏づける遺物等 』

が出なくとも問題ないな。

あ ほ ら し い ・・・

217日本@名無史さん:2009/04/23(木) 09:36:53
>>216
違いの分かる男になろうね。
218日本@名無史さん:2009/04/23(木) 10:19:02
違いの分からない男、日向厨w

「九州と違って大和は弥生時代の舶来遺物が少ない!」

といってみた所でそれは自説にもそのまま跳ね返ってくる。

畿内大和に対し九州という”くくり”で言ってしまっているが
弥生時代の遺物に関しては南九州も似たような状態w

 まさに 違いが分からない男 www

まあ北部九州説に対し一部分畿内説と一蓮托生的なものはどうしても出てくるだろうw
219日本@名無史さん:2009/04/23(木) 17:11:54
>畿内説と一蓮托生的なものは

畿内説は一人で消えていくんだけどな(笑
220日本@名無史さん:2009/04/24(金) 07:25:14
畿内説はいつも誹謗中傷、捨てぜりふでお終いになるんだ。さびしい話だね。
221日本@名無史さん:2009/04/24(金) 19:06:12
このルートは既出(↓図2)?
ttp://www.geocities.jp/niginiginomiko/page1.htm
伊都国を吉野ヶ里に比定しているのは面白いと思う。
222日本@名無史さん:2009/04/24(金) 22:41:47
>>221
何度か紹介されてるよ。吉野ヶ里か佐賀市大和付近かということはあるが、基本的に
正しい比定だろう。怡土ではないということだ。
ただ、この図の最大の問題は、狗奴国の比定だよ。熊本に比定したのでは、敵前航行
にならざるを得ない。これはないだろうな。
223日本@名無史さん:2009/04/25(土) 08:06:31
>>222
狗奴国が熊本だったからこそ、有明海西岸沿いに進まざるを得ず「水行10日」かかったんじゃないかな。
とすると女王国連合は狗奴国を取り囲む九州のほぼ全域の大連合と考えてよさそうだ。
224日本@名無史さん:2009/04/25(土) 08:18:58
何よりも、狗奴国の位置は、女王国の南と明記されている。
それに、有明海西岸沿いに進むからといって航行日数が余計にかかるという
ことはないはずだ。
225日本@名無史さん:2009/04/25(土) 08:34:15
「其の南に狗奴国有り」の「其の」は奴国、奴国を八女付近をすれば矛盾はない。
「水行」は途中で寄港宿泊しながらということだよ。
海上を南下したのなら「渡海」と表現しただろうし、10日もかかるはずはない。
226日本@名無史さん:2009/04/25(土) 10:22:44
>「其の南に狗奴国有り」の「其の」は奴国、奴国を八女付近をすれば矛盾はない。
奴国と読んだところで、其の奴国は女王国以北の奴国ではなく、道里戸数が記載され
ていない旁国の奴国でしかない。

>「水行」は途中で寄港宿泊しながらということだよ。
それは当然の話だよ。有明海の東を南下しようが、西を南下しようが、速度に大して
差がでるとは思えないね。東だって寄港しながら少しずつ進むんだよ。

227日本@名無史さん:2009/04/25(土) 20:24:59
>>226
あなたが斯馬国から奴国を旁国とする立場なら議論は平行線のままだね。
ちなみにその根拠と狗奴国・邪馬台国の比定地を聞かせて下さい。
228日本@名無史さん:2009/04/26(日) 00:30:23
>斯馬国から奴国を旁国とする立場
倭人伝に書いてあるとおりだと思うが。対馬国から邪馬台国までで8国。旁国21国。
狗奴国。合計30国だね。旁国は道里戸数が記載されていない小国。
ちなみに、狗奴国も道里戸数が記載されていない。官も1名のみ。大きな国ではない。
邪馬台国は都城盆地あたり。狗奴国は志布志湾沿岸あたり。

倭国の乱は南九州と北九州の戦いとみる。熊本あたりに大国狗奴国があったとしたら、南
と北の戦いにはなりそうにない。女王国が万二千里から始まるというのも熊本あたりは女
王国であることを示している。
229日本@名無史さん:2009/04/26(日) 08:21:11
>>226
奴国の解釈はひとまず置いて、有明海をどちらに進むかは距離と目的地に関係する。
1日の移動距離を25Km(時速3Km強x1日8時間で計算、時速は復元船での実測値)、
海岸線に沿って航行し、八代・水俣・出水を目的地とすると、
熊本西岸南下ルートの場合は八代まで4日(100Km)、水俣まで6日(140Km)、出水まで6日(150Km)。

狗奴国が熊本平野にあり、現在の熊本県の範囲にまで影響力があったと仮定すると、
有明海西岸から天草を経て出水に向かうことになる。
出水まで8日(200Km)。
大差ないwが、まあ水行10日と言えるかな。

前提次第仮定次第でどうにでもなるので強く主張するつもりはないが、
佐賀->島原->天草->出水まで水行10日、
出水->大口->えびの->小林->宮崎で陸行1月と自分としては納得している。
230日本@名無史さん:2009/04/26(日) 09:16:01
水行の距離を事前に想定しない方が良いのでは?
有明海は満ち引きが激しい。満ち潮が落ち着いたところで水行し、引き始めたら
戻らなければ泥海に取り残される。そんなところなのでは?
それに、御使者ご一行を毎日舟に乗せるかな? 2日進んで1日休みとか。接待
係はその程度の気遣いはするだろう。
私は邪馬台国への上陸地点は八代、投馬国は川内とみる。
あなたのペースだと、投馬国からあと十日で錦江湾の奥まで行くだろう。
となれば、そこから陸行十日で邪馬台国。同じ日数ならば、水行三十日、陸行十日
の方が楽だ。それでは、水行十日陸行1月が?となる。
231日本@名無史さん:2009/04/26(日) 09:45:05
水行10日

琉球ですね。

それはそれとして

前から気になっていること

都城ってたいそうな地名だけど

都があったの?
232日本@名無史さん:2009/04/26(日) 09:50:36
「都城」の地名は都乃城(城郭)から起こっていて、14世紀頃に北郷氏が当地、都島に築城された故に「都之城」と名付けられ、後に一帯の地名と由来となったといわれている
233日本@名無史さん:2009/04/26(日) 10:12:38
>>230
うーん、日数に休日や欠航日や接待日を含めると、倭人伝は旅行記になってしまう。
船で10日、歩きで1月かかりましたと。そういう見方もあるかも知れないが。
私は倭人伝は報告書だと思うので日数からある程度の距離は割り出せるという前提です。

それから投馬国は薩摩半島に比定しています。
投馬国は連合国に入っていないし、敵対する記述もないので邪馬台国とは中立の関係。
中立国を水行するわけには行かないので、出水辺りから陸行せざるを得なかった。
234日本@名無史さん:2009/04/26(日) 10:47:42
確かに、特別の長逗留を入れたりはしないでしょう。しかし、適当に休日を
入れるのが常態ならば、それは入っているのではと思います。

投馬国は女王国の一国と考えます。道里戸数を書いているのは、当然その投
馬国を訪ねたからです。訪ねずに書くのであれば、旁国のいくつかは書ける
はず、旁国につき書いてないのは訪ねてないからですよ。

実際には投馬国を訪ねた、そして、投馬国から薩摩半島南端を回って邪馬台国
へ入った、その際に屋久島の情報を得た(広志逸文)、だがそれは八代上陸の
コースよりも日時がかかったために記載しなかった、ということでしょう。
235日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:44:52
定休日を含めるにやぶさかではありません。
要は水行10日は実際にかかった日数ではなく、10日で到着する距離と解釈しています。
10日の内訳が10勤でも8勤2休ペースでも6勤4休ペースでも構わないのです。

投馬国は卑奴母離職がないこと、陸行せざるを得ない理由として(本末転倒ですね)中立国と見ています。
戸数・道里については出水から調査隊が派遣されたと小声で言っておきます。
236日本@名無史さん:2009/04/26(日) 13:20:58
ちょっと気になったんでウェブナビでルート検索してみた

・八代〜人吉〜えびの〜小林〜宮崎 150キロ
・水俣〜伊佐〜えびの〜小林〜宮崎 128キロ
・出水〜伊佐〜えびの〜小林〜宮崎 131キロ

八代ルートは最長で人吉〜えびの間が山越えになるので候補からはずれそう
237日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:40:14
>>235
まあ、基本的には、お互い、似たような考え方だということでいいのかな。

>>236
なるほど。しかし、八代コースに比べ、水俣コース、出水コースは、水行の
日数が多くなるね。それと、逆コースを考えた場合、八代コースは球磨川下り
を利用できるが、水俣、出水にはそれがない。
238日本@名無史さん:2009/04/27(月) 20:37:05
球磨川からだったら上流まで行って西米良経由のほうが近い。
但し、山越えがきつい。
西米良から一ッ瀬川沿いに山を下ったら西都原に着く。
239日本@名無史さん:2009/04/30(木) 12:57:11
>>238
目的地が西都原ならそうかも知れないが、都城付近ならば西米良まで行くことは
ないだろう。
240日本@名無史さん:2009/05/04(月) 16:44:03
畿内説の根拠を聞くと不愉快になる

邪馬台国は宇佐で決着している
241日本@名無史さん:2009/05/04(月) 20:41:19
畿内説の一部の連中は、端から議論なんかするつもりはないからね。
とにかく自説に不利な考察に対する誹謗中傷嘲笑罵倒は異常。
特ア臭を嗅ぎ取る俺は2chに毒されていると自覚はしているが。

>>240
出来れば日向の地にも言及した「邪馬台国は宇佐」の考察をご披露下さい。
このところ閑散としておりますので。
242日本@名無史さん:2009/05/28(木) 21:58:31
計算すると邪馬台国は末盧国から二千里の所だよ。
やはり不弥国と隣接した太宰府より南の筑後川沿いだよ。きっと。
243日本@名無史さん:2009/05/31(日) 07:55:14

卑弥呼の墓が特定されたな、
九州説は崩壊したな
244日本@名無史さん:2009/05/31(日) 12:09:34
魏から下賜された銅鏡100枚の銅鏡がどの種類か特定できないと
邪馬台国論争は結論できません。
邪馬台国畿内説の弱みは三角縁しんじゅう鏡を魏からの銅鏡としている
ところではないでしょうか。
245日本@名無史さん:2009/05/31(日) 12:26:43
三角を検討しようというなら、やり方があるだろうにね。畿内説論者は頭わるいの
かな? 百枚くれるからには、デザインは統一しているだろう。デザインが何種類
あるのか、きちんと整理しようって学者がなんでいないんだろう。不思議だ。
246日本@名無史さん:2009/05/31(日) 12:44:54
伝聞による情報で、水行10日、陸なら1ヶ月ともとれるよな。
247日本@名無史さん:2009/05/31(日) 19:22:19
今回の箸墓古墳の時代認定で
九州説の最後の望みであったトヨによる東遷の可能性がゼロになったわけだ
他の九州派はピンとこないかも知れないが
安本は確実に心の臓を射貫かれた筈だw
248日本@名無史さん:2009/06/01(月) 11:30:05
未だにちまちまと距離が方角がと
計算してる奴はバカじゃないか?
249日本@名無史さん:2009/06/01(月) 21:47:03
>>247
箸墓の時代認定はまゆつばだが、仮に今回の発表通りとしても、安本の東遷説に
影響を及ぼすものではない。箸墓の時代認定などどうでもよいことなのだ。
250日本@名無史さん:2009/06/03(水) 14:34:55
むしろ、卑弥呼の墓じゃないことが確実だから、みんなが注目している箸墓
251日本@名無史さん:2009/06/04(木) 07:01:28
>>232
付け足すと神武天皇の宮があった所だという。しかしここからは高千穂峰がよく見えない。
だが狭野から神武東征が始まったとあり現在この地には狭野神社がある。

都城は盆地なので秋になると雲海が発生する。金御岳という山に登ると雲海の中に高千穂峰が浮かんでいるように見える。
が、霧が晴れると雲海も消え地上と地続きになる。神秘的な光景に天孫降臨の舞台にしたのだろう。
252日本@名無史さん:2009/06/04(木) 08:11:58
>>251
都城には島津発祥地となる島津荘がありその中に祝吉御所という所があった。この近辺に1600年の歴史を持つという早水神社があり仁徳天皇の皇妃になった髪長媛にゆかりのある池がある。
髪長媛の父は諸県君といい宮崎の南部と大隅半島の一部と志布志にかけて支配していたらしい。
時を経てこの地域の大部分が島津荘と重なるそうだ。しかし例外があった。国富町と綾町だ。ここは宇佐宮の管理下に置かれることになる。神社に関わることらしい。
253日本@名無史さん:2009/06/04(木) 09:36:17
西都原より以南大隅半島含むが狗奴国
県北から大分にかけて邪馬台国で西都原はその境界だろう。

日向は景行天皇が名付けた説がある。

都農神社とつま神社は重要、都農神社は大国主命を祭っている。ここへ東征前の神武天皇が立ち寄ったらしい。
254日本@名無史さん:2009/06/04(木) 13:17:20
>>253
狗奴国はそんな大国ではない。道里戸数が記載されていない傍国の一つ、官も一人
のみの記載だ。魏の檄で仲裁になったのはなぜか? 狗奴国も魏に朝貢していた国
の一つだからだろう。となれば、卑弥呼が共立されるまでの男王が狗奴国の王なの
ではないかな? 男王の名前が卑弥弓呼と卑弥呼に似ているのもそれを感じさせる。
255日本@名無史さん:2009/06/05(金) 21:57:30
都農神社は三輪と関わりが深い。県以北は三輪が多い。あと山陰神社という所もある。
出雲大社も山陰だ。
三輪といえば奈良の大神神社。
現在では大国主命を共に奉るという共通点がある。
奈良の方では以前大物主命だったそうだ。出雲も

都農神社は八幡信仰の雛型だそうだ。
256日本@名無史さん:2009/06/06(土) 03:25:03
都萬神社の辺りは薩摩半島を投馬国とした場合の投馬の阿多氏の出先機関といえる。
出雲系の都農神社と隼人系の都萬神社が日向国一宮を競ったのには意味があるし一宮が都農神社というのも意味がある。
都農も都萬も西都原に近いといえば近い。
257日本@名無史さん:2009/06/06(土) 06:25:18
おそらく北部九州は出雲系によって占められやがて日向国北部迄手中におさめた。その出先が都農神社辺り。
日向国南部へ手をだそうとするも南九州の抵抗激しく懐柔策としてこの地の有力者と血縁関係を築く。
隼人系の拠点が都萬神社辺り。各地域の首領クラスが集まったと思われる。
結果北部九州代表の出雲系と南部の隼人系が集う宮崎市や西都原辺りが九州の中心となりここらが邪馬台国と思われる。
宮崎市辺りには年代不詳の江田神社がある。禊ぎの発祥地だそうだ。
258日本@名無史さん
都農と都萬の背景からある仮説が起てられる。そこから古代史の空白が埋められそうだが、書かない。