邪馬台国

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952日本@名無史さん:2008/02/11(月) 20:47:49
>>924
お前ね。古墳古墳って、いったいいつの時代の古墳なんだよ。ヴォケが。
953日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:23:59
畿内説の整理

1:畿内には九州より古墳が多いから、邪馬台国は畿内ヤマト
 →邪馬台国にはたくさん古墳があった証拠はなく、むしろ卑弥呼の塚ひとつだけ

2:邪馬台国をどう読んでもヤマトだから、畿内ヤマトが邪馬台国
 →語呂合わせの結果、日本列島に無数の候補地が乱立
 
954日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:26:38
>>953 君さ、早く病院に行った方がいいと思うよ。
955日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:30:02

くそドチンピラくそジャップスくそ死ね天皇死ね天皇死ね

くそジャップさっさと死ね大地震で死ね

くそジャップスつぶれて死ね

くそジャップスつぶれて死ね

くそジャップスつぶれて死ね
956日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:30:34
畿内説の整理

3:纏向をみれば、畿内ヤマトが邪馬台国に間違いなし
 →邪馬台国の特徴である倭錦の出土は北部九州ばかり
957日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:33:20
畿内説の整理

4:国力が圧倒している畿内ヤマトこそ邪馬台国だ
 →鉄がほとんど出土しないほど貧乏だったのが畿内で、九州では鉄が無数に出る
958日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:36:30
畿内説の整理

5:九州の出土物は畿内より後進地域だった証拠で、畿内ヤマトこそ邪馬台国
 →C14で測定すると、九州の出土品のほうが数百年古い
959日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:55:43
>>956-958
すべて現実に存在しない脳内畿内説ばかりだな

いったい誰と戦っているのだろうか
960日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:56:35
病気と闘ってるんだよ。
961日本@名無史さん:2008/02/11(月) 22:06:23
>>959

脳内畿内説 ← うまい。

何か、邪馬台国とは違う方向に盛り上がっているねぇ。
962日本@名無史さん:2008/02/11(月) 22:29:14
>>939 を書いた後に確認してみたら結構間違っていたので訂正

(寺沢)周濠下層出土の土器として、石野氏自身が明らかな庄内形甕や布留形甕を
報告している事実は、どうしたことだ。
(石野)周濠は布留式期までオープンで須恵器の頃の植物層によって覆われた。
・・・つまり、石野はT式以外は後世に堆積したとの主張。

(石野)盛土のなかの3600片の土器は全てT式以前でみんなが同意した。
(寺沢)私は立ち会っていないのにその書き方は誤りだ。しかも、内面彫り甕と
庄内形甕縁口片2点を直接示したではないか。
(石野)寺沢が立ち会っていないのは前提だから誤りではない。土器を示されたことは
記憶に全くないが、橋本氏に聞いたらそうらしい。しかし、これはT式の範囲内の変化だ。
963どくだみ:2008/02/12(火) 13:47:55
>>888
二月馬○さん
亀レスで、すみません。
結論から言うと、誅殺は、罪に当てて殺すことですから、「相誅殺」という以上、
正統王権を主張した男王は複数居たのでしょう。
ですので、「更相誅殺」は「こもごも」だと思います。
それ以外の部分は、絶対こうだとは言い切れません。
私見ですが、「更」という字は「交替」や「重なる」というような意味ですが、
漢文ではどうも、一回か複数回かは意識せずに使われたような気がするのです。
一方で、日本語では一回なら「あらためて(かわって)」、複数回なら「こもごも」と区別するので、
文脈から「更」の読み方を変えるのは、日本語の都合のように思われます。
それで、「交替」の対象を卑彌呼と考えるなら「あらためて」
男王同士と考えるなら「こもごも」と読むわけですが、
これは、もう読む者のセンス次第というところです。
鮮卑伝の例は、一文中に「比能→弟」と交替の対象が明記してありますので、
「あらためて」の読みで動きません。
倭人伝の場合、卑彌呼の死と埋葬の文は一旦切れており、なおかつ、
一文中に「更立男王」と「更相誅殺」があります。
一文中に対象の異なる「更」が二回出てくると考えるよりは、
これを呼応させて読んだ方が自然かなと思ったわけです。
三国志・賈?伝に「促更追之,更戦必勝.」というような例もあります。
(すぐにもう一回追いかけて、もう一回戦えば、必ず勝ちます)
梁書や北史の書き方だと、「あらためて」と読みたくなりますが、
省略で読み方がわからなくなっている引用というのは、割と普通にあるので、
出典である倭人伝の読み方を引用先の梁書や北史で決めるというのは
本末転倒だと思います。
964どくだみ:2008/02/12(火) 13:54:33
つづき
>この「更」を複数形の「交々」と言う意味で解釈するとしても並立状態を表すことばでは無いと思います。

「更」は、上記のように交替の意味ですが、必ずしも順序良く交替するということではないようです。

三国志・董卓伝
法令苛酷,愛憎淫刑,更相被誣,冤死者千數.

「互いに誣告しあって、冤罪で死ぬ者が数千人出た」という内容ですので、
「更」は、そういう無秩序な状態も表します。
ですので「更相誅殺」を考える場合、やはり並立かなと考えたのです。
これは、先にも書きましたとおり、あくまで「気がする」程度の意見です。
或いは、一人ずつ王が立って、後の王が、先代の勢力を誅殺したということかもしれません。
あと、細かいことですが、「立男王(男王を立つる)」とあるので、
男王は独力で王位を獲得したというより、ある勢力に立てられたということでしょう。
卑彌呼の場合は、全ての勢力が合意したので共立と書いたのだと思います。
「男王立つ」「壹與立つ」と読むと、ちょっとその辺、誤解が起こりそうで、
気になったので。
おわり
965日本@名無史さん:2008/02/12(火) 16:39:18
邪馬台国の前にヤマト政権の解明が先だろう
966日本@名無史さん:2008/02/12(火) 19:58:12
まずC14で絶対年代の確定が基礎にあるべきだろう。
967日本@名無史さん:2008/02/13(水) 02:12:03
共立というのは男王と共に立てる、という意味では?
男王に共立の女王、卑弥呼
実態は男王の斎官である神懸りの巫女
968日本@名無史さん:2008/02/13(水) 09:03:46
>967
女王とは別に男王がいたのなら
その記述がまったく無いのはおかしい。
969日本@名無史さん:2008/02/13(水) 10:03:38
一応、弟が政務を司っていたのでは
970日本@名無史さん:2008/02/13(水) 10:29:31
・・・無夫婿有男弟佐治國・・・

これ本当に弟?
鬼道の弟子じゃないのかな?
で、倭人伝読む限り政治的中枢は伊都国なわけで
邪馬台国は呪術的な中心地と思ってる。
つまり佐治國の部分は政務ではなく
種まきの時期や吉凶を占うのを手伝ったんじゃないのかなと思ってる。
どちらにしても王ではない。
971日本@名無史さん:2008/02/13(水) 10:44:35
館から一歩も出ない卑弥呼が政治を行うにはやはりその言葉を伝えるものが必要でしょう。
だから男弟がこの役であったと見る人が多い
弟が表、卑弥呼が奥の政治を取っていた兄弟統治だったかもしれないし(代表は卑弥呼)
共立の意味さえわかれば、別にこの考えじゃなくてもいいんだけど
まあ現実的に見れば小国のたくさんの王の中で、卑弥呼が代表の王としてたった、かな。
972日本@名無史さん:2008/02/13(水) 12:25:52
『共立一女子爲王、名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻、有男弟佐治國』魏志倭人伝
『倭王以天爲兄以日爲弟、天未明時出聽政跏趺座日出便停理務、云委我弟』随書俀國伝

卑彌呼=倭王以天爲兄・・・夜の倭王:宗教的王
男弟=倭王以日爲弟・・・昼の倭王:政治的王
共立したのは宗教的王
更立男王は邪馬台壹國以外で立った政治的王(複数)・・・宗教的王は復(再)立つ壹與まで空位
更相誅殺したのも政治的王達
973どくだみ:2008/02/13(水) 17:08:36
みんな想像を逞しくしているので、私もちょっと想像してみました。
倭人伝で、王の明記は伊都國と邪馬臺國と狗奴國だけということからの想像です。
本拠邪馬臺國が畿内にあって、後世の太宰府のような出先機関が伊都國にあった。
それが、「世有王皆統屬女王國」という状況。
伊都國王=出先機関の長官。三十人の王なんて居ない。
本拠地と出先機関の両方の情報が魏に報告されていた。
魏晋交代の混乱のなかで、これが混同された結果が倭人伝の記述。
九州と畿内にある二つの拠点を、あたかも一箇所のように記述したので解らなくなった。
狗奴国は、九州南部、出先機関の南側に存在した。
こういう風に想像してみました。
当時の史書編纂は、現在の作家のように、陳寿が一人で机に向って書くようなものではなく、
著作カである陳寿の多くの下役が膨大な資料を下読みして、
陳寿が最後に仕上げをするようなものだったんじゃないかと考えています。
ルネッサンスの絵画の巨匠の作品も、工房で弟子達が下書きしたものに
巨匠が仕上げをしたと聞いたことがあります。それと似ていたんじゃないかな。
そういう状況と戦乱とによって、情報に混乱が生じたと考えられます。
考古学とか全然知らないし、あくまで想像です。
974日本@名無史さん:2008/02/13(水) 17:13:36
>972
随書の”倭王以天爲兄以日爲弟”って通常
倭王、天を以って兄となし、日を以って弟となすって訳される部分で
夜に政務を行って昼は”云委我弟”完全夜型人間の話だよね?
倭王以日爲弟をもって男弟が昼の倭王ってのはどうだろうか?

むしろこの文からは伊都国王の名前や様子、卑弥呼が女王になってから
見たものが少ない点もこれと同じ政治方式だったら解る気がする。
つまり郡使は王にも女王にもあっていない可能性がある。
まさに歴史は夜作られる。
975どくだみ:2008/02/13(水) 17:29:57
「有男弟佐治國」や「唯有男子一人給飲食、傳辭出入」というのは、
記紀の神功皇后の神懸りと審神者の関係を連想します。
976972:2008/02/13(水) 19:45:25
>>974
伊都國王:卑弥呼以前の政治的昼の倭弟王
倭國王帥升:政治的昼の倭弟王 帥升は実務王だから漢に出向き安帝に願請見できた。(安帝には会えなかったが)
倭奴國王:政治的昼の倭弟王 光武賜以印綬
多利思北孤:弟王

『桓靈間倭國大亂、更相攻伐歴年無主』後漢書倭国伝
更相攻伐したのは弟王達。歴年無主は兄王不在を述べている。

卑彌呼共立は女性(巫女)を兄王とした苦肉の策。
977どくだみ:2008/02/13(水) 20:34:32
>>976
たしか弟王という言葉は、出てこなかったと思うのですが、どこかにありましたっけ。
存在が確定するまで、実際に書かれていない用語を作るのは用心した方が良いです。
そういう用語を使って話をしていると、存在しないものでも存在したような錯覚を生じますから。
言葉に思考がミスリードされるわけですね。

それに、隋書の記述は開皇二十年西暦600年の話だから、卑彌呼とは時代が違いすぎます。
「倭王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟.
高祖曰:「此太無義理.」於是訓令改之.」
「倭王は、天を兄として、日を弟とする。未明のうちに跏趺坐して政治を行い、
日が昇ると仕事をやめて、弟に委ねると言う。高祖が「そんな理理屈に合わない話があるか」と言って止めさせた」
文面どおりに解釈すれば、その弟というのは、太陽のことですね。
弟である太陽が昇ったから、あとは太陽に任せるという内容です。
弟王に交代するという風には、書いてありません。
神道の祭りは深夜にやるので、そういう話が隋に訛伝したのかもしれません。
跏趺坐というのをわざわざ書いているのが、なんだか神降ろしでもしていたのかと想像させます。
978日本@名無史さん:2008/02/13(水) 20:39:30
俺は邪馬台国スンダーランド説を支持します。
不弥国までは九州。
そこから南に水行20日で、投馬國=沖縄本島
投馬国から、南に、水行10日でスンダーランド
に到着し、さらに陸行1月で邪馬壹國に到る。
979ローガン:2008/02/13(水) 21:01:26
>>973
どくだみさん。こんばんは。
梯シュン来倭に関しては「上表答謝」がありますね。
張政等の際は「詔書」を届けているにもかかわらず「上表答謝詔恩」とは書かれていません。

張政等がもたらした詔書の内容は、倭側の要望(援軍の要請?)に答えたものではなかったのではないか?って思いますがいかがでしょう?

以前の話を蒸し返すようで恐縮ですが…
980日本@名無史さん:2008/02/13(水) 21:59:36
どくだみさん、こんばんわ。
あまりいい加減なことを書かないほうがいいんじゃありませんか?
981どくだみ:2008/02/13(水) 22:08:05
>>979
どうも、ローガンさん。こんばんは。
お訪ねの件、私も自説の詳細を忘れかけていたのでw
ドン来いの過去のレスを読み返してみました。
簡単に纏めると、もともと邪馬臺國は狗奴國と不和で帯方郡に訴え、
それで、正始六年に黄幢が下賜された。
張政らがそれを倭に持っていって難升米に拜假した。
その後、卑彌呼が死んで、男王が立てられたが国が治まらず、
正始八年に至って、壹與が立てられて、ようやく国が治まる。
壹與は掖邪狗に張政を送らせて、そのまま、王キの取次ぎで臺まで詣り
皇帝に、いろいろ献上するという流れを考えています。
ですので、卑彌呼の死からその後の混乱の為に、「上表答謝詔恩」できずにいた。
正始八年の壹與の使者がそれに当たる。
と私は、考えます。

ところで、>>973の混同説どうでしょうか?
私は、鏡の出土状況とか鉄の分布とかチンプンカンプンなもので、
ただ倭人伝を読んだ感じで想像してみたのですが、
日本史や考古学も知ってる人からすると、どうなんでしょうね。

>>980
どうもすみません。
今日のスレの流れが、想像で物を言うような感じになっていたので、
ちょっと乗っかって、私の想像を書いてみました。
ところで、ちなみに、どの辺りをいい加減とお考えですか?
982972:2008/02/14(木) 00:25:38
>>977
『倭王以天爲兄』を簡略化して「兄王」とし、
『倭王以日爲弟』を簡略化して「弟王」としました。

『云委我弟』から役割の異なる2人の兄弟王であることが裏付られます。
宗教的行事は夜間に兄がし、治世外交等は昼間に弟ががするのです。
政教分離で宗教王が政治王より格上で、それを兄と弟と表現したのです。
似た制度は沖縄に巫女(ユタ)と王の関係として18世紀まで残っていました。

蛇足:
倭王(弟王)と称される人物は、卑弥呼、壹與を除いて、
薩耶摩、多利思北孤、磐井、倭五王等です。
天智、天武も倭王(弟王)の一人であったのではと思われます。(応神以降の天皇の大多数も)
文武以降は兄王弟王制度が無くなり、畿内天皇として一本化していますね。
持統は畿内で最初に大嘗祭をしているので、最初の一本化した畿内天皇か、
最後の兄王(九州とは別)であるのではないかと思います。
983日本@名無史さん:2008/02/14(木) 00:41:56
九州元号には「兄弟」ってのがあるね。
984ローガン:2008/02/14(木) 00:45:08
>>981
混同説、拝見しました。私的には初見です。
興味深いです。貴説によると、女王国=倭国ですね。同感です。
三少帝紀 倭国女王俾彌呼…ですものね。

さておき、先日は失礼しました。「権已死」の事…
昔の雑記帳に書いてました。唐会要ではなく、魏志二十一巻でした。
「今権以死託孤於諸葛恪」

それとどこかは判らないのですが、裴松之の注記で「今権已死託於諸葛恪」て言うのがあったと思います。(違ってたらごめんなさい)
もしそうなら、「卑弥呼以死」=「卑弥呼已死」でしょう。

6年の詔に基づいて張政等が来倭したが、卑弥呼は已に死んでいた。
こう読めれば、前後の文章が一連ですんなり読めるように思うのですが。


8年の朝貢主が壹与との根拠は確か冊府元亀に求めておられた記憶が…
1013年では時代が下りすぎではないでしょうか?
例えば隋書に「漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之倭奴国」とあります。
確かに後漢書によると、建武中元二年の朝貢者は倭奴国ですが、安帝永初元年は倭国王帥升であり、隋書の引用は間違っています。
同様の事が魏志と冊府元亀で言えるとしたら、8年朝貢主が壹与であるかどうかの根拠をかの書に求める事は、慎重になるべきではないか?なんて考えます。
生意気言ってごめんなさい。
ではお休みなさい、又明日にでも…
zzzz…
985日本@名無史さん:2008/02/14(木) 14:26:17
985
986日本@名無史さん:2008/02/14(木) 14:26:41
986
987日本@名無史さん:2008/02/14(木) 14:27:34
987
988日本@名無史さん:2008/02/14(木) 14:29:31
988
989どくだみ:2008/02/14(木) 19:15:42
>>984
ローガンさん
混同説にたいするご意見ありがとうございました。
女王国=倭国についてですが、
陳寿が女王というとき、それは倭の女王ですが、
女王國という場合は、「皆統屬女王國」や「自女王國以北〜」の部分を見ると、
邪馬臺國一国で、29国は含んでいないように思います。
つまり、29国の首長は、王号を称していなかったが、
首長は居たということです。
そういう意味で、三十人の王なんて居ないと書きました。
ちょっと、表現の仕方が不適切だったかもしれません。

>生意気言ってごめんなさい。

いえ、とんでもないです。
私も、指摘されて調べてみると、新しい発見があります。
次にレスする「以」の話も、今回初めて知りました。
「科学の研究は、暗闇の中を蝋燭の火をともして進むみたいだ」
というようなエッセイを思い出します。
たしか、高校時代に国語の授業で読んだ寺田虎彦の文章だったような。
990どくだみ:2008/02/14(木) 19:20:21
つづき
「今権以死託孤於諸葛恪」と裴松之注の文、確認しました。
私の感覚では、「卑彌呼以死」を「已に死んでいた」と読むと、
文脈が、「更立男王」以下に直接続き、
「大作冢〜奴婢百餘人」の部分が浮くように感じます。
ですので、あまり賛成できないのですが、全く違うとも言い切れない事情があります。
お手元に、大漢和辞典があれば、見ていただくのが早いのですが。
「以」の本字は、「已」とよく似た形をしています。
両者は、取り違えやすい漢字です。所謂「魯魚の誤り」というやつです。
さらに、「以」と「已」は、もともと同じ字で、両者は通用するという説もあります。
ただ、「以」を「已」の意味で使った例は、私も、大漢和が挙げている一例、
「無以則王乎(やむなくんば、すなわちおうか)」(孟子・梁恵王章句上)
しか知らないので、多分少ないのではないかと思います。
そういうわけで、「今権以死」が、誤りなのか通用させる積りで書いたのか、
判然としません。(意味的には、已にだと思いますが)
確かに「卑彌呼以死」の「以」は、変な感じはするのですが、
これを「已」と読み替えて良いのかは、かなり躊躇してしまいます。

冊府元亀の件、確かに北宋成立というと、700年以上時間が経ってますし、
例えば、倭人伝の記述から、正始8年に壹與が朝貢したと考えた記述だという
可能性も完全には否定できません。
しかし、最初から問題のある書物ということでなければ、
書いてあることは、灰色程度なら信じていこうというのが、
私の基本スタンスです。
おわり
991改め:2008/02/14(木) 19:33:22
ローガンさん、どくだみさん こんな所にいたんですか。

良かったらこっちきて話しましょうよ。
さがみさんも!
992どくだみ:2008/02/14(木) 20:33:32
>>991
改めさん
地道に過疎スレの埋め立てですw
お誘い、有難うございます。
終止符スレ14が立っているのには、昨日気付きました。
いま、レスを少しずつ読んでいますので、
書き込めそうな流れになったら、また書き込ませていただきます。
993改め:2008/02/14(木) 21:04:54
いや 新しいソース歓迎です(笑)
994日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:26:02
ならば黙ってブルドッグ
995日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:26:33
995
996日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:27:57
 
997日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:28:49
 
998日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:31:16
 
999日本@名無史さん:2008/02/14(木) 23:32:58
ひみこおぉぉぉーーーーーーー!!!
1000ローガン:2008/02/14(木) 23:43:47
どくだみさん。


では改めさん家で…
良ければお話付き合ってくださいっていうか、ご教示ください。
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