1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 15:29:43
3 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 17:10:57
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
議題を振ります。
アマテラスが卑弥呼だと仮定します。
すると卑弥呼の男弟はスサノオとなります。
卑弥呼が隠れた(死亡した)あと、トヨ(イヨ)が立てられ
スサノオは失脚し邪馬台国を追われます。
ここまでは(恣意的ですが)当てはめる事が出来ます。
ただし、古事記にはトヨ(イヨ)に一致する女性がいません。
その子孫が東征したとすれば、トヨ(イヨ)の伝承を
残してないのが疑問となります。
系譜などから見た整合性などはいかがでしょう?
>>1 ::| ____
::|. ./|=| ヽ. ≡三< ̄ ̄ ̄>
::|. / |=| o |=ヽ .≡ ̄>/
::|__〈 ___ ___l ≡三/ /
::|、ヽ|.|┌--、ヽ|/,-┐| ≡/ <___/|
::|.|''''|.\ヽ--イ.|ヽ-イ:| ≡三|______/
::|.ヾ |.::. .. ̄ ̄| ̄ /
::| ';:::::┌===┐./
::| _〉ヾ ヾ二ソ./ こ、これは乙じゃなくてスラッガーなんだから
::||ロ|ロ| `---´:|____ 変な勘違いしないでよね!
::|:|ロ|ロ|_____/ロ|ロ|ロ,|`ヽ
::| |ロ|旦旦旦旦旦/ロ/ロ|旦,ヽ
8 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/26(月) 20:21:52
わーいわーい。めでたい。
9 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 20:31:00
>>4 ぼくも話題、振るんじゃなくて、蒸し返しますね〜 (^┰^)>
前スレの最後のほうで、奴国の2万余戸のことが議論されてました
投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸もです。多すぎる、いや実数だ・・・てね
これ、同じ九州説のみなさんの中でも、意見が違ってるみたいですね
恵也さんは実数に間違いない!、倭人伝は正確!、バカだねアンタ!て意見でしたが、
他のかたがたはどうなんでしょうか? とくにコテハンさんたちの意見知りたいでつ
論拠とか討論は後回しでいいですから、ともかくどちらの立場なのか、教えてください
あの、ぼくはたぶん実数に近いんじゃないかなて思ってます
でも宮崎説は・・・・ あ、「バカだね、あんた!」て、叱られちゃいそう
10 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 20:49:01
11 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/26(月) 21:32:16
>>9 えーっと。僕の意見はですね。仏教の経典に出てくる数、というのは今の数の10分の1だか、100分の1だかの
どちらかで書かれている筈なんですよ。それと同じで、7万というのは、7千か、7百、7百って事はいくらなんでも無いから、
7千だと思います。今度よく調べておきますが。
12 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 21:44:37
>>4 前にも書いたけど、天照大神=卑弥呼+台与。
変わり目は、岩戸に隠れるところ。
昔は、尊い人物が亡くなることを岩戸に隠れると言ったのです。
万葉集にも歌があり、たとえば、
「高照らす、日の皇子は、天の原、岩戸を開き、神上がり、上りいましぬ」など。
13 :
SOY:2007/02/26(月) 22:10:40
>>10 画像を拝見しました。私は邪馬台国を熊本とは考えていませんが、
その画像を見る範囲、その配分についてはそれらしく見えます。
因みにこの配分で考えた場合の直方平野、京都平野、中津平野、
宇佐平野、大分平野あたりの値も少し気になります。
実は私もこのような画像を作ろうとしていました(この2、3日)。
ただ、それは人口論について考える為ではなく、九州の邪馬台国説は平野別に
分類すると、いったい幾つのグループに分かれるのかを調べる為ですが。
きっと、こういった円の10個以内に納まるのではないかと見ています。
>わあ、ごめんなさい、ごめんなさい!
邪馬台国の比定地は異なるかも知れませんが、
こういう分かりやすいのが好きです。
あのあたりを7万戸とするなら、うてな遺跡あたりも注目しているのかな。
14 :
SOY:2007/02/26(月) 22:34:28
見落としてました。
>>9 >論拠とか討論は後回しでいいですから、ともかくどちらの立場なのか、教えてください
実数にしてはやはり大きすぎるように思えます。遺跡の数は今後も揺れ動くと
予想するので遺跡数から推測するのはやめにして、単純に以下で計算をしたと
しても絶望的な値が出るのではないかと見ています。
(1)平野部の面積
(2)1ヘクタールの水田で養える人口
(3)米以外の食料も多少考慮
因みにちゃんと計算はしていません。
でも、これが仮に実際の値でないという結論になっても、これが記述された
ことだけは紛れもない事実なので、何故、このような数字を記すことになっ
てしまったのか、追いかけてみたくなります。
真実を探し求めるのはもちろん好きですが、虚構は虚構でその構造を分析す
るのも好きな性分なので。
15 :
一応九州王朝説:2007/02/26(月) 22:38:12
>>1乙です。
前スレ最後で黄幢の事が出てきていましたが、私はあの下賜品の
話は、張政らが邪馬台国まで行った事の証左だと思います。
で、にもかかわらず七万戸というのは、やはり邪馬台国の自己申告
の数字ではないかと。自分を大きく見せるため、過大に報告したので
はと思うわけです。
よく、張政の派遣を、対呉包囲戦略に組み込むためのものという意見
がありますが、郡を置き、直接経営に乗り出すわけでもなく、版図が広
がるということもない、また対呉としても、相手側につかなければいいと
いう程度の存在でしょう。倭から呉に攻め込むことも、その逆もあり得な
いということは、半島の四郡経営などで既に分かってきていたでしょうし。
ということは、必ずしも正確にその実数を把握する必要もなかった。「まあ、
魏の我々もちゃんとした派兵してねえし、ま、嘘でも放置でいいかw」
だから、公孫滅亡後タイミング良く遣使が来た最初の衝撃と喜びから醒
めて、クナ国との紛争で派兵要請があったのに対して、せいぜい軍事顧
問団と黄幢でお茶を濁した・・・そんな流れではなかったかと。ただ、戸数
を過大に喧伝しておくことは呉や蜀に対しては悪いことではない。
あと、可能性として、共立した全ての国、それと国譲りによる倭国全体の
代表権「八百万の神々」のトップとどう関わるのかはわかりませんが、統
治領域全体の戸数を言った可能性もないでしょうか。奴国五万戸は九州
の戸数、邪馬台国がそれ以外、という事で。
16 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 22:56:41
今までの論争点
@長里VS短里 その根拠と実践と効能
A魏志倭人伝は「なかったことに」 SFか、絵日記か、文学作品か。んなわけないやろ
B中国土器は三本足? ザクは二本足。
C金曜サスペンス「箸墓ミステリー」 現場は? 凶器は? 動機は?
Dカプリコン1 −魏使は倭に着陸していなかった− 魏志倭人伝NASA陰謀説
etc,
17 :
前スレ754:2007/02/26(月) 23:05:47
>>15 俺もほぼ同意見です。
特に狗奴国と交戦状態にあったとは見るべきでなく、張政をして魏の名の下に調停勧告したとした点は全く同じ考えです。
また非常に大雑把な目安として、統治領域全体の戸数というか地域グループで表したとの見方も同意できます。
ただ軍事的目的での課題喧伝は考えにくいと思う。
当時すでに呉の文物が倭国に結構な数入って来ているため、それが国と国の貿易ではなかったにせよ
倭国の情報というのはある程度呉も把握可能だったと思うから。
そこでいきなり5万7万と書いたところで騙されたりしないどころか、呉の偵察があるかも知れないと考えたらわざとではないと思います。
18 :
前スレ754:2007/02/26(月) 23:21:41
戸数に関してはまともな調査はなされていないと見る。
魏志では伊都国1千余戸あたりまでが信用してもよい数字ではないか。
魏略で1万戸だがこれはその後の記述に引きずられた誤写か誤記だろう。
奴国にしても地域全てを面として統治していたわけではないだろうし、後の2国に至ってはどこに考えてもありえない数字になっている。
>>14 俺は戸数は伝聞情報で、奴国以降はもっと多い、さらに多いの繰り返ししか情報がなかったため陽数の奇数を当てたと考えています。
19 :
前スレ754:2007/02/26(月) 23:33:45
で投馬国への水行二十日だが、これは日数よりも方角よりも不思議なのが
もし実際行ったにせよ伝聞にせよ、九州なら陸路のほうが安全ではないかと思うんだよね。
山賊や荷物運搬を考慮したとしても、わざわざ伊都国から奴国、不弥国まで歩いてそこから水路にする必要がないわけ。
伊都国の北岸から直接行けばいいだけなんだよね。
つまりどこに向かったにしても、到着には水行が必要不可欠な場所であったと考えねばならなくなる。
川を上ったというのはいまさら無しでお願いします。
20 :
前スレ754:2007/02/26(月) 23:43:02
ちなみに奴国経由で不弥国から船出したと考えねばならない理由もない。
魏使(郡吏)が実際に上陸した地点に船はあるわけで、そこからわざわざ別の港に移す必要性もないし、倭国の用意した船などそれこそ信用できない代物だったろう。
玄界灘や関門海峡の難易度の高い航路を通らねばならないので、行きたくとも行けなかったというかそこまで危険を冒すことができなかったと見る。
でも朝貢の返答品が確実に邪馬台国に届いたかどうかの確認は少なくともしてから帰国したとは考えるが。
邪馬台国の水行十日陸行1月も、起点がどこであれ同じ考え方。
21 :
SOY:2007/02/26(月) 23:47:10
>>18 >俺は戸数は伝聞情報で、奴国以降はもっと多い、さらに多いの繰り返ししか情報がなかったため陽数の奇数を当てたと考えています。
私も戸数は伝聞情報と思います。総計15万戸を数えるのにはおそらく半端で
ない数の役人が必要だと思います。一人で1000戸数えるとして150人。100戸
しか数えられないなら1500人。こんな数の役人が来たのなら、倭国の情報は
もっと掴めるように思います。
陽数になっているのは、もしかしたら意味があるかも知れませんが、5,7
の二つの数字の話なので、法則性があるとまでは言いがたいかも。
22 :
前スレ754:2007/02/26(月) 23:49:17
で陸行一月だけど、これは有力な説があって
三国志で日数表記した場合、全て日で表記しているのが普通で
月が出てくるのは倭人伝だけなんだよね。
これが一日の誤りだとも考えにくい。一日ならまず書かない。
なので月だけでなく一月そのものが非常に怪しいわけ。
これ別に畿内説に有利な材料じゃない。奈良盆地まで一日ではきついから。
むしろ内陸地に邪馬台国を持ってこなければならない必然性は無いと見るべきだと思う。
23 :
前スレ754:2007/02/26(月) 23:54:06
>>21 すごく分かりやすくて納得できる例えありがとう。本当にそのとおりです。
>陽数
そう言われてみれば、別に3と5でも良いわけになるのでこれは引っ込めます。
これもSOYさんの説明のほうが明確かつ論理的です。
24 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 00:05:28
大海を越えて船でやってきて、末盧国で船を捨て、東南の方向に陸行する。
不弥国で別な船に乗り換え、南の方向へまた水行する。
先入観なしに地図をじっくり見れば答えは出てくると思うのだが。
当時、一番安全なのは、波の穏やかな沿岸を船で行くことではなかったかと思う。
陸行の場合はどんな敵や賊が出てくるかわからないのでかなり危険だし、荷物
を持って歩いて行くのはかなりつらい。
一番怖いのは、遭難する危険のある海だったと思う。
自分が壱岐にいて、いろんな場所に行くことを想定してみたら良いのでは
ないかと思う。たとえば、奈良県に行く場合はどのように行くか。
宇佐に行く場合はどうするか。甘木に行く場合はどうするか。そのほかの場所は?
という風に考えていけば、なるほど、帯方郡の使者はここに行きたかったの
だなとわかると思うのだが。
25 :
前スレ754:2007/02/27(火) 00:14:44
ここからが問題になるわけだけど距離方角を精査する前に・・・
「女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。」
「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、」
この二つの記述がものすごく気になるの。
まず九州の中に邪馬台国も投馬国も狗奴国もその他の国もあったとしてまず考えると
中国山陰近畿東海中部北陸関東etcに同じ時代に存在した大型集落の存在を知らなかったことになる。
どれだけ大型であっても帯方郡や魏と交流が無かったら知らないのも無理はないかもしれないが、実際に密接な交流事実はあるんだよね。
しかも三国志成立が280年あたりとされているわけで、正史8年の記事とそれ以降のいよちゃん13歳の記事があることからこれも間違いない。
その頃には畿内どころか北九州にも庄内式土器や前方後円墳が導入されているわけ。
九州説の人がこれを4世紀以降と見ているのは知っているし、だからこそ考古学と対立しているのだろうけど
ここでどちらの考え方を取るかで立場が決まると俺は思う。
またどうして四国西部や山口県に邪馬台国を考えないのかも不思議なんだ。
遺跡がないというのなら同じ条件なんだけど、ここが俺的には一番九州説の不思議なところなんですわ。
26 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 00:16:15
あっちずっとロムしてたけどプラムさんが伊都まで着いた着いた。今までの中では納得できるところが多い説明だったよ
水行二十日ももしかしたらと、ひそかに期待
27 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 00:20:47
>>24 ちょっと押し付けがましかったので訂正。
>先入観なしに地図をじっくり見れば答えは出てくると思うのだが。
先入観なしに地図をじっくり見れば答えは出てくるような気がする。
>なるほど、帯方郡の使者はここに行きたかったのだなとわかると思うのだが。
なるほど、帯方郡の使者はここに行きたかったのだなとわかるような気がするのだが…。
29 :
前スレ754:2007/02/27(火) 00:30:34
でもし4世紀以降説を取って時代を繰り下げるとして
末盧国・伊都国・奴国が定説どおりとすると、逆に邪馬台国・投馬国・狗奴国がなくなってしまうんだよね。
吉野ヶ里が邪馬台国だとは考えにくいし、それ以外の湾岸諸国に匹敵する遺跡がそれこそ九州になくなってしまう。
そういう意味では博多湾沿岸のひとつを邪馬台国とした古田説を取らざるを得なくなると思う。
ただしこの場合方角距離はまるきり合わないが、それはそれでかまわないと思う。
でも遺跡の推定年代が正しければ、これまた投馬国=山陰中国地方一帯の総称、邪馬台国=近畿一帯、または含む東海、狗奴国=東海または関東一帯
俺はこのどちらかしか導き出せないのではと考えている。
30 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 00:35:37
素人ですみませんが
・邪馬壱国は邪馬台国の書き間違いで、「やまと」国と読める
・卑弥呼が現在の皇室の直接の先祖であるか否かは何とも言えないにせよ、
邪馬壱国が後の大和朝廷となった
↑この辺は、九州説・近畿説ともに意見が一致している、ということでいいの?
31 :
前スレ754:2007/02/27(火) 00:36:47
で文献で考えられるのはここまでで、あとは遺跡の実年代が3世紀か4世紀かが決め手になると思う。
ここから先は実は今から本格的に学びたいので、今はここまでにしときます。
他スレでも参考文献がいくつか挙げられていたのでそれを一通り読んでから再登場します。
一応ロムってはいるので、これ読んどけみたいなのを教えてもらえたらすごく嬉しい。
別に安本さんや古田さんの本がだめだとも今の段階では思ってないし、考古学の専門書もぜひ読んでみたいのでお願いしまつ。
>>26 宣伝しなくても興味ある人は見る。
不快に思う人をより不快に思わせるだけだよ。
33 :
前スレ754:2007/02/27(火) 00:43:11
>>30 九州王朝説というか古田説ではあくまで壱が正しくて邪馬台国とは別モノだと考えているみたい。
そうですよね、一応九州王朝さん。
それ以外はやまとだけでなく色々読み方がある。
>邪馬壱国が後の大和朝廷となった
こちらのほうは九州説はもとより畿内説もそう考えていない人のほうが多いみたい。
畿内王権(巻向)が邪馬台国だと考える人も、大和朝廷になるまでにはいくつもの波乱があったようで
下手したら場所は一緒でも中身は違うものだというのが主流だと聞いた。
間違っていたら訂正してください。
>>22 > で陸行一月だけど、これは有力な説があって
> 三国志で日数表記した場合、全て日で表記しているのが普通で
> 月が出てくるのは倭人伝だけなんだよね。
> これが一日の誤りだとも考えにくい。一日ならまず書かない。
> なので月だけでなく一月そのものが非常に怪しいわけ。
> これ別に畿内説に有利な材料じゃない。奈良盆地まで一日ではきついから。
> むしろ内陸地に邪馬台国を持ってこなければならない必然性は無いと見るべきだと思う。
「三国志」で倭人伝以外に距離を日数で標記した例があるの?
無いんじゃないかな。
「日」が出てくるのも「倭人伝」だけなら、「月」の例についてだけとやかく言う理由は無い。
(史書によっては二百日とか書かれることも一月、一年と書かれるもあるが)
だとしたら「月が出てくるのは倭人伝だけ」なんて理由で「陸行一月」を無視するような「有力説」
は「非常に怪しい」だろう。
つ 西域伝など四方の蛮族についての箇所
36 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/27(火) 01:44:24
>>31 遺跡の実年代は、それ自体がまさに大問題。
平原王墓は報告書だと200〜250年頃。
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin3.html そのとおりと考えると、九州説でほぼ決着。
纏向古墳群の年代を古く見る考えも、その根拠は、主としてC14と年輪年代だが、
根拠としては弱い上に、形状の類似する崇神稜の年代と大きく離れないとすると
300年以前と見るのは難しい。
土器編年で纏向を古く見る考えは、九州では庄内式が墳墓(平原)や遺跡(吉野ヶ里)で
発見されているが、畿内では古墳時代が主であるという弱点がある。これは、庄内式が
九州起源という考え(東遷説)の根拠となる。(「季刊邪馬台国」最新刊参照)
畿内説では、九州の庄内式が200年からであるならば、畿内も200年からであるとして
いるが、現状では、その理屈は難しいと思う。
>36
リンク先を全部読んだが資料が古い。
石囲い木郭出土の事実から柳田さえも200年前後と見ている。
それと悪いが
>庄内式が九州起源という考え(東遷説)の根拠となる。
これの根拠が「季刊邪馬台国」というのはまずい。
俺は安本シンパしか信じねぇと行っているに等しい。
ほかの根拠だそうや、2005年の柳田論文や2003年の前原市の平原再調査報告書とか。
99年を出してきてどうしてそちらは出さないのだ。
>>36 C14と年輪年代じゃないと、欧米では信用されません。
それと、平原は伊都国王でしょう?
魏志にも、伊都の官とかは、宗教色を感じさせそうな名前だしな。
41 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/27(火) 02:41:11
>>38 >石囲い木郭出土の事実から柳田さえも200年前後と見ている。
→その関連性が分かりません。
>平原再調査報告書
→それを具体的に自分で書いたらどうかな?
42 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/27(火) 03:02:53
>>38 柳田の年代観がその後変わったのは、否定しません。
私の理解だと、柳田は
1、『伊都国を掘る』(平成12年12月)では、200〜250年という見解
2、「東アジアの古代文化」115号(平成15年)では、三角縁舶載説や年輪年代を
根拠に纏向の遡上年代を認める考えを述べて、平原を古く見る考えに修正。
3、『邪馬台国時代のツクシとヤマト』(平成18年9月)でも、2と同様。
しかし、年輪年代をほぼそのまま実年代とする見解は支持できない。
三角縁舶載説やその年代観(画文帯を180〜240として、三角縁を240以降とする)
も支持できないので、私は平原は230〜250頃と見ています。
可能性としては270頃まではありうると考えています。
43 :
SOY:2007/02/27(火) 07:34:53
>>25 >その頃には畿内どころか北九州にも庄内式土器や前方後円墳が導入されているわけ。
>九州説の人がこれを4世紀以降と見ているのは知っているし、だからこそ考古学と対立しているのだろうけど
>ここでどちらの考え方を取るかで立場が決まると俺は思う。
私も最終的な決め手はそのあたりになるのではないかと考えます。
(ただ、個人的には文献だけで考えた場合は九州説が有利に思えます)
>またどうして四国西部や山口県に邪馬台国を考えないのかも不思議なんだ。
恐らく、『女王國の東』という記述がある点や『渡海』の記事がない点が
理由の一つだと思います。また、魏志倭人伝の記述の制約に従う限り、南
へと進まなければならなくなるので、海の十字路があるとどうしても南を
選択してしまうのかも知れません。
>>31 >一応ロムってはいるので、これ読んどけみたいなのを教えてもらえたらすごく嬉しい。
SOYのソースがばれてしまうかもしれないのでお恥ずかしいですが、
王仲殊の『三角縁神獣鏡』、岡村秀典の『三角縁神獣鏡の時代』、
また、『シンポジウム三角縁神獣鏡』は読みやすかったです。
近藤義郎編の『吉備の考古学的研究』なども好きです。
四国はあまり良い本を知りませんが、『弥生土器の様式と編年』あたりで
少なからず情報を仕入れています。大雑把な土器理解としては、図書館で
コピーした『日本土器事典』が役立っています。
あとは博物館やシンポジウムで入手した史料が以外と役に立っています。
44 :
日本史@名無しさん:2007/02/27(火) 07:49:31
>>33 そのようですね。
ただ、古田派全員がそう思ってるのかどうか。
私は否定的です。全部の写本が完全に法則的にくくれるとは
到底思えない。特にこの字は臺、壱、推、惟、一、他にもあった
かな・・・。これら全てを説明するのは誤字。それしかないw
原典は国家編纂の国史で、大勢が監修にあたったとしても、写
本に責任は持てませんからね。もし陳寿の時代の金石文が出
てきたらそれは正しいと思いますが。
それと、ヤマタイとヤマトが音韻変化可能かどうかも議論百出で
私にはわからないw
文献学の豊富な知識があっても、古代の音が今のところ確定し
ていないからどの議論も推論でしかないですから。
とりあえずは、大和の文字は「大倭」で間違いないとして、ヤマト
の音がどこから来たのかをはっきりさせるべきでしょうね。オオヤ
マトも表記は大和でも大倭でもなかったわけですし。
45 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 10:36:52
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
46 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 11:17:48
[10]サガミハラハラ<>
2006/11/11(土) 19:13:27
皇国史観にもとずく、研究活動を行っている学者をあげてみましょう。
・安本美典 記紀の内容は実在するとして精力的に活動をつづけている。
彼の薫陶を受けた人物に後藤幸彦がいる。安本氏は記紀を歴史書として見直すことにより、
日本歴史界において多大なる貢献をしたといえる。
47 :
奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/27(火) 12:59:32
>>43 三角縁について
岡村は読みやすかったと思います。
『シンポジウム』は知識がないと訳が分からないと思います。
概略的な著書としては、藤田友治『三角縁神獣鏡―その謎を解明する』が良かった。
西川寿勝『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』は楽浪郡重視。舶載説の最後の砦か?
同位体比のまとまった著作は知りません。
『東アジアの古代文化』129号、『季刊邪馬台国』最新号の新井論文などを参照。
同位体比では国産説で既に結論が出ている。
国産説を前提とした古墳年代や被葬者の推定については、安本の『巨大古墳の
被葬者は誰か』、記紀伝承との整合性が高い。
三角縁神獣鏡については国産だろう?
というか、魏志には百枚もらったとしか書かれていないのに。
三角縁神獣鏡は、いっぱい出てくる。
また、普通、魏から鏡をもらったら
イチイチ、何回ももらうことはしないと思う。
自分らで似たようなものを作るだろう?
50 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 15:19:39
九州説の方で巻向の年代の推定年代は正しいと思う人はいるんですかね。
巻向が、邪馬台国なら
自然と、崇神だけじゃなくて、その数代前の
孝霊天皇くらい前までの実在が浮かび上がってくるんだよな。
何故なら、百襲媛命は、崇神の大叔母というだけではなくて
孝霊の皇女であるわけだから。
53 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 18:36:53
>>30 素人さんへ(すみませんなんて断らなくてもいいですよ、2ちゃんはほとんど素人ばかりですよ)
>卑弥呼が現在の皇室の直接の先祖であるか否かは何とも言えないにせよ、
>邪馬壱国が後の大和朝廷となった
>↑この辺は、九州説・近畿説ともに意見が一致している、ということでいいの?
私も素人の古代史ファンなので、適切に答えられるかどうか自信ありません。
しかしもう40年近く古代史ファンやっておりますので(笑)、少々キャリアは長いかと…。以下ご参考まで。
次レスで、ちょっとした図解を、お示しします。
これはもうずいぶん以前ですが、中央公論社「日本の歴史」シリーズの別巻(年表・地図)で見たもの。
今は手元に無いので細部は違っているかもしれませんが、記憶をたどって再現してみました。
説明は、そのまた次のスレで。(表記は一応「邪馬台国」でやります悪しからず)
54 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 18:38:15
‥‥‥‥‥2世紀‥‥‥‥3世紀‥‥‥‥‥‥4世紀‥‥‥‥‥‥‥
九州 …────―─邪馬台国────┐
畿内 …─────―──────……└───大和朝廷──── (1)
九州 …────────────……
畿内 ………──―─邪馬台国────────大和朝廷──── (2)
九州 …─────―邪馬台国──……
畿内 ……………──────────────大和朝廷──── (3)
九州 …────┐
畿内 …──……└―邪馬台国────────大和朝廷──── (4)
55 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 18:40:24
(1)と(3)が邪馬台国=九州説。(2)と(4)が邪馬台国=畿内説です。
また「東遷」ということで言えば、(1)(4)はそれを考慮、(2)(3)は東遷を考慮しないわけです。
(1)は普通「邪馬台国東遷説」と呼ばれます。代表は井上光貞元東大教授でしょうか。安本美典氏もこれですね。
(2)は畿内の邪馬台国が大和朝廷の元になったとする説。「自生説」と呼ぶ向きもあるようです。代表は小林行雄元京大教授が挙げられると思います。
(3)は、九州の邪馬台国は大和朝廷とは関係なかった、とするもので、本居宣長とか昔の学者さんはこの説が多かったようです。
古田武彦先生の「九州王朝」説も、厳密には図を少し手直しする必要がありますが、この(3)の仲間と考えていいかもしれません。
(4)については、また後ほど。
56 :
53訂正:2007/02/27(火) 18:56:55
>>53 そのまた次のスレで(×) → そのまた次のレスで(〇)
食事で外出します。今晩中に続きを書くのは無理かもしれません。
57 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 19:44:22
沢山発掘される三角縁神獣鏡のほとんどはおそらく国産、畿内産だと思うのですが、
原型は北部九州の邪馬台国が魏からもらった銅鏡がその原型だと思うのです。
それ(銅鏡そのものもさることながら、「銅鏡を下賜する事が権威の象徴となる」という文化)
を畿内にもたらしたのは、東遷した神武一行ではないでしょうか?
58 :
SOY:2007/02/27(火) 20:18:17
>>57 >それ(銅鏡そのものもさることながら、「銅鏡を下賜する事が権威の象徴となる」という文化)
>を畿内にもたらしたのは、東遷した神武一行ではないでしょうか?
九州から神獣鏡が出る時代はもはや畿内優勢の時代だと私は見ています。
神獣鏡は呉鏡の流れを組む鏡と言われおり(異論はありますが)、九州説
の方が邪馬台国の時代と考える弥生終末(庄内以前)には殆ど日本では出
ない鏡です。
ただ、言われますとおり、文化は伝わった可能性はあります。
そう考えるも多いようです。
>>35 > つ 西域伝など四方の蛮族についての箇所
折角の横槍、残念なことだが「三国志」に「西域伝」は無い。
出直されたし。
>>58 >九州から神獣鏡が出る時代はもはや畿内優勢の時代だと私は見ています。
だいたいそのとうりだが、たいして時間差は無い。
今まで掘り出されたもので一番埋納時期が早いのは藤崎だったりする。
ただし、それは岡村らの分類に従えば製造時期は最古のものではないそうな。
61 :
SOY:2007/02/27(火) 21:11:38
>>59 >折角の横槍、残念なことだが「三国志」に「西域伝」は無い。
>出直されたし。
おそらく
>>35は魏略の西戎伝あたりと誤解されたのかも知れません。
>>34 >「三国志」で倭人伝以外に距離を日数で標記した例があるの?
>無いんじゃないかな。
同一の箇所で三国志が里数記事で晋書が日数記事というのはあるみたいです。
62 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 21:17:35
>>58 そうですよね。
ところで、SOYさんは、国内で発掘される神獣鏡のほとんどはどこで生産されたとお考えですか?
(既出ならゴメンナサイ。)
63 :
SOY:2007/02/27(火) 21:38:43
>>62 >(既出ならゴメンナサイ。)
いえいえ責めたつもりはないです。仮に既出でもOKではないかと思います。
私が言っていることも以前にきっと誰かが言っているはずですから。
>ところで、SOYさんは、国内で発掘される神獣鏡のほとんどはどこで生産されたとお考えですか?
異説多い話なので、あくまでも参考ということで……
・三角縁神獣鏡についてはやはり日本製ではないかと私は考えています。
・ついでに和泉黄金塚古墳の画文帯神獣鏡(同行式)も日本製と見ています。
・萩原の画文帯神獣鏡(同行式)は楽浪鏡?かなと考えています。
・呉の年号が入った画文帯神獣鏡。これは本当に呉鏡かと考えています。
区別がつかないし。同位体比で見たらどうなるのかな。
64 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 21:42:09
>>59 漢書西域伝だろ。普通に。
魏略西戎伝つーのもあるな。
>>35が何を言いたいのかは知らんが。
66 :
SOY:2007/02/27(火) 21:51:02
>>65 >漢書西域伝だろ。普通に。
言われてみてばそうですね。それに私も議論をよく読まず発言していました。
>>62の既出の意味も勘違いしてとらえてしまったみたいですし
慎重に発言せねば……
67 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 22:24:26
>>66 >>63 私も三角縁神獣鏡は国産ではないかとおもっています。
と言う事は、三角縁神獣鏡がどこで発掘されるかと言う事は魏志倭人伝にある「邪馬台国」
がどこにあったかという事の根拠にはできないと言う事でよいでしょうか?
邪馬台国畿内説の考古学会の人たちも
三角縁神獣鏡は国産説のほうが有力なんだわな。
いまだに三角縁云々を邪馬台国論争で持ち出すのは古い九州説の人に多いね。
「古い」畿内説の人たちはひたすらスルーだし、新しい考えの人たちははなから眼中にない。
70 :
SOY:2007/02/27(火) 22:56:05
>私も三角縁神獣鏡は国産ではないかとおもっています。
>と言う事は、三角縁神獣鏡がどこで発掘されるかと言う事は魏志倭人伝にある「邪馬台国」
>がどこにあったかという事の根拠にはできないと言う事でよいでしょうか?
卑弥呼が貰った鏡という形での根拠にはなりづらいのではないかと思います。
ただ、生産地はどこであろうと、あの紀年こそが重要であるという意見は以
前から出されており、年代観を巡る論争はこれからも続くと思います。
>>69 >いまだに三角縁云々を邪馬台国論争で持ち出すのは古い九州説の人に多いね。
>「古い」畿内説の人たちはひたすらスルーだし、新しい考えの人たちははなから眼中にない。
三角縁神獣鏡には多くの情報がつまっているので今でも研究されるべきもの
だと私は考えます。
これをスルーにして、いったい畿内説は何処へ向かうのでしょうか?
畿内説の年代観の根拠がますます無くなってしまうように思えます……
71 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 22:58:17
説明つかないからね。畿内説を補強すべきはずの三角縁神獣鏡は500枚以上
になりそうだから。
逆にいえば、畿内説は説明責任を放棄して忘れてもらいたいのだよ。
むしのいい話。さすが東大閥は違う。
72 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/27(火) 23:09:05
>>69 でも、元はといえば畿内説が「三角縁鏡が卑弥呼の鏡だ」と言い出したことで邪馬台国論争が白熱したのではなかったか。
「やっぱり違うようだ」ということであっさり引っ込めたのは何か釈然としない。
畿内論者には、そのことに関してもきちんとした説明をしてほしい気がする。
>>70 >三角縁神獣鏡には多くの情報がつまっているので今でも研究されるべきもの
>だと私は考えます。
岡村さんの本は読んでるだろ?
だったら、鏡専門の人たちの研究は知ってるだろうに。
ただ、「あの人」を除いて邪馬台国論争には参加していないだけ。
>>72 > でも、元はといえば畿内説が「三角縁鏡が卑弥呼の鏡だ」と言い出したことで邪馬台国論争が白熱したのではなかったか。
> 「やっぱり違うようだ」ということであっさり引っ込めたのは何か釈然としない。
> 畿内論者には、そのことに関してもきちんとした説明をしてほしい気がする
安本が古田の尻拭いをしないのと同じことだろう。
いまだに発言を続ける旧説系畿内論者で説明責任を果たすならH口氏が該当するが。
75 :
一応九州王朝説:2007/02/27(火) 23:25:30
>逆にいえば、畿内説は説明責任を放棄して忘れてもらいたいのだよ
京大派なのでは?
でも、説明責任を放棄したといいながら、マキムク=広域政治集団に
よる計画都市というスタンスは捨てていないからなあ。口では「文献史
学も邪馬台国もどうでもいい」といいながらも、もし卑弥呼の物でも
出てきた日には、手のひらを返して大騒ぎすること請け合いw
△鏡は、卑弥呼の鏡という説明は、もはや不可能だと思うよ。今後も
何枚出てくるかわからないわけだから。たった百枚にしては粗末な扱い
で出てくるし。何度も朝貢していると言っても、やっぱり魏鏡ではないで
しょう。私の考えとして一つあるのは、魏との関係成立とともに、宣伝の
ために大量に配ったんじゃないかな。もちろん、同盟関係か上下関係
の成立と引き替えに与えたと言うことで。鏡そのものは、魏からもらった
からと言うことではなくて、「鏡の祭祀」文化圏の拡大とセットということで。
箸墓自体の年代は、多分崇神より前の、モモソ姫の頃の可能性は大き
いと思う。でも△鏡が出たとしても、それは九州との関係強化として捉え
るべきだと思うよ。丁度その頃、奈良盆地南部から南半分、更に北半分
と拡大していった時期であり、九州勢力から物質的含む援助があったと
いうことで。
>三角縁神獣鏡には多くの情報がつまっているので今でも研究される
べきもの だと私は考えます。
ほんとその通りで、卑弥呼の鏡じゃないから無価値なわけでは決してな
い。むしろ、時代的に同時期の年号の入った鏡がなんで大量に、全国
的に散らばっているのかということで、いろんな意味でもの凄く大事な
埋蔵物なんだけど。
>>75 何、弱気になっているんだw
巻向の発掘を恐れるなよw
77 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/27(火) 23:33:59
>>74 安本が古田の尻拭いをしないのと同じことだろう。
安本氏は考古学者ではありません。それに引き換え三角縁鏡の説を唱え始めたのは
考古学者の大先生でしょう。立場が違う。社会への影響力も違う。
あくまで安本氏のように個人として様々な説を立てるのは自由です。
>>75 >鏡そのものは、魏からもらった からと言うことではなくて、
>「鏡の祭祀」文化圏の拡大とセットということで。
それについては、ほとんど人に異論は無いことだと思うが、
「九州王朝」な考えの人たち的にはどうなのよ?
困らないのかな?
早くとも3世紀末以降の話だが、鏡の製造センタ・分配センタは明らかに畿内だ。
>>三角縁神獣鏡には多くの情報がつまっているので今でも研究される
>> べきもの だと私は考えます。
> むしろ、時代的に同時期の年号の入った鏡がなんで大量に、全国
> 的に散らばっているのかということで、いろんな意味でもの凄く大事な
> 埋蔵物なんだけど。
「時代的に同時期の年号の入った鏡」なんて「大量」に無いんだが・・・
79 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:38:10
>>69 しかし、三角縁神獣鏡は、畿内説を支える大黒柱だったことは確かなわけで、
長年にわたって、「考古学的には畿内説」の根拠だった。
国産説と魏鏡説が激しい議論を戦わしてきたのは良く覚えている。結局、
三角縁神獣鏡国産説が大勢を占めるようになって、一つの畿内説が死んだとも
いえると思う。
どうして三角縁神獣鏡魏鏡説が生まれたのか、古いことは眼中にないなどと
言わないで、ちょっとは考えてみたらどうかと思う。当初から年代が合わない
など疑問な点があった。結局は、仮説自体に強引なところがあったのだろう。
現在は、庄内期が3世紀はじめまで遡り、卑弥呼の時代を古墳時代に含める
ことで、別な「考古学的には畿内説」が出来上がっている。
これにも強引なところがあるんじゃなかろうか。
>>77 >
>>74 > 安本が古田の尻拭いをしないのと同じことだろう。
> 安本氏は考古学者ではありません。それに引き換え三角縁鏡の説を唱え始めたのは
> 考古学者の大先生でしょう。立場が違う。社会への影響力も違う。
> あくまで安本氏のように個人として様々な説を立てるのは自由です。
だから、「大先生」達に説明を求めればいいだろうw
今の畿内説と「大先生」達とは学問的な系統も違うだろう。
白石だって北條だって寺澤だって「大先生」にとっては異端だ。
同じ九州説でも安本と古田がことなるのと同じことだよ。
ミソもクソも一緒にしてはいけない。
81 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/27(火) 23:55:30
>>76 巻向は倭国大乱後を全く感じさせない遺跡。倭人伝には、「宮殿には楼閣(たかどの)や、城柵などが厳重につくってあり、警備兵が常に武器を持ち守衛している」
とクナ国という敵がいつ襲ってくるかわからない緊張感が伝わってくる。
九州説も、その後の邪馬台国については異論に分かれており、
邪馬台国東遷を取れば巻向遷都もあり得、箸墓などが邪馬台国関係の高貴な王族の墓と言えない事も無い。
82 :
一応九州王朝説:2007/02/28(水) 00:06:32
>>76 畏れてるって、ハア?ですなw
もしマキムクが邪馬台国なら、めでたしめでたしでいいじゃん。
べつに固執するつもりなどさらさらない。共立されたんだから、
非常にわかりやすい。
嫌だって言ってるのは、口では邪馬台国なんてどうでもいいと
いいながら、その実心密かに「マキムク以外考えられんわ!」
と思ってる二枚舌の連中なんだが。
>>78 >早くとも3世紀末以降の話だが、鏡の製造センタ・分配センタ
ーは明らかに畿内だ
出土数はそうだが。ただし、発掘状況一つとっても、畿内と他地
域は質的差があるのは無視できないね。10%論なら5〜6000
枚もあるわけで、今後どこからどれだけ出てくるかは分からない。
九州で魏鏡や中国鏡が沢山出てるのと比べれば、という事で、
乏しいオリジナルを元に大量生産したとも考えられるし、少なくと
も九州は粗末な鏡を今更もらっても馬鹿にするだけだと思うが。
年代についても古墳編年中心だから確定という勇気は俺にはな
い。お宅はしらんが。
>>79 >三角縁神獣鏡国産説が大勢を占めるようになって
国産説をはっきり唱えている人は、畿内説では少数派。
『シンポジウム』の6人は舶載説、白石、水野祐も舶載説。
直木等隠居組は昔の説を変更していない。
石野は、控えめに国産が多数と述べる。寺沢はどっちか知らない。
柳田は「専門外だが舶載説が主流らしいから」というスタンス。
明白に国産説を提唱している人は、森、古田、安本、奥野などの
非主流派ではないかと思う。
>>79 > どうして三角縁神獣鏡魏鏡説が生まれたのか、古いことは眼中にないなどと
> 言わないで、ちょっとは考えてみたらどうかと思う。当初から年代が合わない
> など疑問な点があった。結局は、仮説自体に強引なところがあったのだろう。
「魏鏡説」と言うのはK林・H口ラインの説だろう。
同世代の他の畿内説論者がどこまで意思表示してたかは人それぞれだ。、
国産説の中心は九州説の森浩一、古田以上に畿内説の王仲殊や河上邦彦が
論客だったことを承知しているのかな?
どこぞの邪馬台国屋のサイトでも見て洗脳されたのか?
> 現在は、庄内期が3世紀はじめまで遡り、卑弥呼の時代を古墳時代に含める
> ことで、別な「考古学的には畿内説」が出来上がっている。
> これにも強引なところがあるんじゃなかろうか。
弥生の開始年代については今も研究・論争中だ。
それぞれの立場で議論を展開すればよかろうに。
このスレもすっかり寂れちゃったなあ。
プラムさんがいた頃の活気が懐かすい。
プラムさん早く帰ってこないかなあ
86 :
日本史@名無しさん:2007/02/28(水) 00:20:12
自演乙
お陰で内容が濃くなったよ。ノイズが減って。
87 :
SOY:2007/02/28(水) 00:21:26
>>73 >岡村さんの本は読んでるだろ?
>だったら、鏡専門の人たちの研究は知ってるだろうに。
>ただ、「あの人」を除いて邪馬台国論争には参加していないだけ。
あの発言からは畿内説の人は誰も三角縁に興味を持っていないというような
意味にとれましたので、『そういうことはないだろう』という意味もこめて
発言しました。
邪馬台国の話をしていたので、まさか、邪馬台国論争に参加しない人たちが
邪馬台国と絡めて三角縁を語らないといったような自明の理とも言える発言
だったとは思いもよりませんでしたので。
>>82 >九州で魏鏡
エッ!具体的に何処で何が沢山出てるのかな?
ついでに聞くが「魏鏡」ってどういうヤツを言うのかな?
>九州は粗末な鏡を今更もらっても馬鹿にするだけだと思うが。
那加八幡の主はバカにはしていなかったようだがね。
89 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 00:25:44
>>84 記憶では三角縁鏡が卑弥呼の鏡だというのが畿内説の大多数だったと思うよ。
畿内説の考古学者は最初にそれを唱えた人の弟子達ばかり。
それが今はだいぶ様変わりして昔から色んな説があったかのように言っているが、
それは、昔から知ってる人はそうは思わない。
>>89 弟子かどうか知らんが、昔の大先生たちとはまるきり正反対の説を唱えているぞ
>>87 >畿内説の人は誰も三角縁に興味を持っていない
基本的にはそうだろう。
三角縁は4世紀以降に配布が顕著になる鏡だから邪馬台国問題に直接からまない。
なかなか話しが通じないね。
鏡学者以外の人で三角縁の「研究」をするひとなんていないでしょう。
それぞれ得意分野があるんだよ。
あっちこっち手を出すと本来の研究がおざなりになっちまうし。
職業人なんだから趣味で邪馬台国にかまけてると失業するよ。
ただ、「邪馬台国」でメシを喰ってる人(Y氏)は何にでも手を出すねw
だから「鏡学者」で邪馬台国云々を続けているのはあの人・樋口さんくらい。
92 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 00:35:09
>>90 身替り早っ。僕なんかそのつもりで話してるから追いつけない。
>>89 >
>>84 > 記憶では三角縁鏡が卑弥呼の鏡だというのが畿内説の大多数だったと思うよ。
> 畿内説の考古学者は最初にそれを唱えた人の弟子達ばかり。
> それが今はだいぶ様変わりして昔から色んな説があったかのように言っているが、
> それは、昔から知ってる人はそうは思わない。
あなたの書き込み内容は、どうみても今のこと昔のことも知らないとしか思えないんですが。
ホントはさあ、安本のサイトで仕込まれたようなネタしか知らないんだろう?
94 :
一応九州王朝説:2007/02/28(水) 00:41:10
>>88 失礼、魏鏡は・・・プッですたw △は倭鏡だからね。
那加八幡って言われても・・・。そんな字はしりませんが。
まあ、素人で学者でもないですから、色々教えてください。
那加八幡って何処なんですか?
>>92 オマエの脳に摺込まれている情報は15年前くらいのもの。
だから、話しが合わないんだよなあ・・・
>>95 やっとスレが正常化してきたところなのに、荒らしはいけませんね
>>94 >>那加八幡って何処なんですか?
那珂八幡のことだよ。
ただの誤変換だから気にしないようにw
ここのにわか九州説の人の中には古い学説しか知らない人が多すぎると思う。
100 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 00:49:22
>>93 そんなことは無いよ。番組の特集であったのを色々ビデオに録ってるし。
ビデオが最初に発売されてからまもなく買ったからその頃から取ってあるよ。
畿内説が「三角縁鏡が卑弥呼の鏡だ」って大騒ぎしてた事さえ知らないなんて・・・。
プラムさん亡き後まともな論者は九州ですが ◆IhXqm1bg5cさんだけです。
がんばってください。あなただけが頼りです。
103 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 00:53:50
>>93 それを知ってか知らずか認めないところが凄い。
なぜ、「宗旨替えをしたのか」というこちらの問いに答えないように話をすり替えてるとしか思えん。
△鏡の論争で言うと
魏鏡派の樋口が橿考研の所長だった時、副所長は国産鏡派の河上。
まあ、バランスの取れた人事だね。
>>99 まあそれも仕方がない面もあるんだけどな
なんと言っても樋口とか小林とかの「大先生だったかもしれないが、今では否定されており追随者もいない」ような昔の畿内説を
さも今もなおそれが主流であるかのように見せかけて「畿内説は論破された」とか宣伝する数理文献学者さんがいるからな。
古い畿内説を論破したのはあんたじゃなくて寺澤、石野、柳田、北條、村上らの今の考古学だっつーの。
それももう10年も前に。
106 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 00:56:23
>>104 それはいつの話?言いだしっぺは明治時代の人だったけど、何と言う人だっけ?
>>103 宗旨替えもクソも、ここ10年ほどの考古学の急激な進歩を単に知らないだけじゃんか。
>>104に対して、それはいつの話?って、どういうこと?
知らないなら知らないで教えてくださいでいいじゃんかよ。
108 :
一応九州王朝説:2007/02/28(水) 01:02:33
フーン
素直なところもあるんだねw
しかし、那珂八幡古墳を持ち出すとは。
あんまり触れない方がいいんじゃないのか、畿内説にとって
そこは。全部とは言わないがいろんな事がひっくり返るかも
しれないのに。
じゃあ聞くが、出土すれば大事にしていたかどうか、分かるの
かい?△鏡自体、ただの葬儀品とさえ言われてるんだぜ?
ホケノ山じゃ、出土すらしなかったんだから、大事にしてないよ
な?
お宅は何を言いたいのかよくわからんから、寝るよ、もう。
>>103 >
>>93 > それを知ってか知らずか認めないところが凄い。
> なぜ、「宗旨替えをしたのか」というこちらの問いに答えないように話をすり替えてるとしか思えん。
『王仲殊』って誰だか知ってますか?
『寺澤薫』の師匠は誰ですか?
『車崎正彦』は畿内説?九州説?
『北條芳隆』の著書を一冊答えてください。
>>105 内輪のオナヌーはお腹いっぱいです
幾ら言っても九州を無視してるのは同じです。
どうもありがとうございました。
111 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 01:06:44
>>106 明治じゃなかった。もとい。
「1953年(昭和28)、京都府山城町の椿井大塚山古墳から神獣鏡が出土すると、
小林行雄は同型の鏡が日本各地の古墳から出土している事実に着目し、
邪馬台国が大和に所在し、のちのヤマト王権が卑弥呼に下賜された神獣鏡を
各地の豪族に与えたとする古代政権成立過程を提唱した」
とある。さらに、
「三角縁神獣鏡が畿内を中心に出土することから、卑弥呼の鏡説をとるのは邪馬台国=畿内説をとる人に多く、
国産鏡説をとるのは邪馬台国=九州説をとる人に多い。」
とある。
112 :
一応九州王朝説:2007/02/28(水) 01:07:59
九州ですがさん、それぐらいでおやめになっては。
どうやら事情通の若手研究者らしき人たちに面白がられてる
ような感じだよ・・・・・。
別に学者ちゃうんやから、気にせんでええんちゃう?
知らんことがあったら、無理せんと「那加八幡って何処なんで
すか?」って聞いたらええねんw
>>108 >あんまり触れない方がいいんじゃないのか
議論にタブーが「有って」善いみたいな考えだね。
都合の悪いことはスルーするタイプなのかなw
114 :
一応九州王朝説:2007/02/28(水) 01:12:20
>>113 やっぱり意味わからへんわwww
誰もタブーなんて思ってないちゅうの。
「畿内説にとって」って言うとるやろうが。日本語読めへんのか?
九州派にとったらなんぼでも言いたい所やけど、「学会の主流」から
「無視」されとるからな。それもしらへんのかな?偉そうな割に。
つうか、おまいの立場はどこにあるねん?
おやすみzzz
>>111 だから小林理論みたいに否定された説を持ち出してどうするんだよってw
しかし当時は資料も少なくて、その少ない資料から導き出された説だから責めるのもどうかとは思うが。
同じ九州説のコテが参考文献挙げてくれているのだから、それを読んでからにしなよ。
116 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 01:17:36
>>112 僕が言ってるのは、科学の進歩とともに主張の変更を余儀なくされた畿内説の変節漢ぶりを指摘してるの。
その変節漢の弟子なら、これからも又変えていくだろうとね。
>>108 > じゃあ聞くが、出土すれば大事にしていたかどうか、分かるの
> かい?△鏡自体、ただの葬儀品とさえ言われてるんだぜ?
第二主体からだが棺内からの出土だ、黒塚や椿井の扱いとは違う。
> ホケノ山じゃ、出土すらしなかったんだから、大事にしてないよな?
那珂八幡は三世紀のどの時期だかはわからないが、ホケノ山よりは幾分新しいだろう。
たぶん、ホケノの時にはまだ三角縁の製造集団が畿内に定着していなかったんだと思うよ。
畿内で大量生産が始まって三角の価値も暴落したのかもね。
> お宅は何を言いたいのかよくわからんから、寝るよ、もう。
今はわからなくてもいいよ。
俺も貴方の言ってることはよくわからんけどね。
おやすみ。
>>114 その辺の品のない口調がスレが荒れた原因のひとつだったので自重してください。
あなたは無知なくせに何でも書きたがる人間や、わざと嘘をつくコテではないでしょう?
上から見下ろしたわけでも何でもないので、荒れないためにはどういう態度が論者には求められるか、ましてやコテならどう対処すべきか
2ちゃんであってもここは学問板だということを最低のルールとして守っていきましょうよ。
相手が頓珍漢なことををいったくらいで、簡単にキレてはいけない。
>>116 >
>>112 > 僕が言ってるのは、科学の進歩とともに主張の変更を余儀なくされた畿内説の変節漢ぶりを指摘してるの。
> その変節漢の弟子なら、これからも又変えていくだろうとね。
だから「弟子」じゃないってw
オマエは古田の弟子かよw
ちょっと、みんな、最近「三角縁神獣鏡の研究」という大著を書いた
福永伸哉さんの立場はどうなるのよww
まだまだ、魏鏡説が通説という前提ですよ。思いっきり。
121 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 01:24:03
ああなんか僕も馬鹿馬鹿しくなってきた。
明日はもっと有意義な会話を期待して寝ようっと。
「どうやら事情通の若手研究者らしき人たちに・・云々。」
が本当なら僕みたいな素人相手にこんな場所でおひまなことで。
ごしゅうしょうさま。といいたい。
122 :
一応九州王朝説:2007/02/28(水) 01:24:38
>>116 うーん。九州ですがさんにこんな事言いたくはないけど、科学の進
歩の前に主張の変更をすることは、科学としては大切なことでは
ないでしょうか?
>その変節漢の弟子なら、これからも又変えていくだろうとね
上の方でいろんな(?)人が言いたいのはまさにそこだよ。
今は、京大派とかひとくくりに出来なくなってきてるんだよ。むしろ
その弊害は朝日や毎日などの新聞社の方で、研究者自身は科
学的方法論を前に押し出した議論を深めてるし、九州説完全無
視という人ばかりでもなくなってきてる。
逆に、某樋口氏が嘲笑の対象になったりもしてるわけで、そんな
単純に昔みたいな師弟関係などで割り切れなくなってる。
それが言いたいんであって、そこを汲まない限り、今のやりとりは
終わらないと思うんだけどね。
再度お休みzzzz
>>111 魏鏡説の一番古いのは明治だよ。
誰だったか名前は忘れた。
ググればわかると思うが。
124 :
一応九州王朝説:2007/02/28(水) 01:25:56
>那珂八幡は三世紀のどの時期だかはわからないが、ホケノ山よりは幾分新しいだろう。
たぶん、ホケノの時にはまだ三角縁の製造集団が畿内に定着していなかったんだと思うよ。
畿内で大量生産が始まって三角の価値も暴落したのかもね。
さらりと言ってくれますねwww
でもお休みw 限界orz
>>116 その理屈は自分の中で筋が通っているの?
じゃあ相対性理論が登場して根本から変わった現代物理学は間違いなのか?
新事実によって変わるのが学問の宿命、そこで意地張って変えないものは学問ではない。
第一考古の新事実によって九州説はどうなったんだ?
126 :
一応九州王朝説:2007/02/28(水) 01:28:22
>>114 失礼。
つい、河内の産なんで、疲れるとでてまうんですわw
「われ」=「あなた」っていう土地柄やからねorz
>>114 >
>>113 > やっぱり意味わからへんわwww
それはキミの問題だろう、笑ってないで考えなさいな。
> 誰もタブーなんて思ってないちゅうの。
> 「畿内説にとって」って言うとるやろうが。日本語読めへんのか?
じゃ、畿内説に対するただの罵倒なんだね。
で、都合の悪い議論は避けてスルーする手法は是認するんだね
他人に進めるくらいだかね。
> 九州派にとったらなんぼでも言いたい所やけど、「学会の主流」から
> 「無視」されとるからな。それもしらへんのかな?偉そうな割に。
きっと無視されてると思ってるのはキミだけだろう。
128 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 01:32:20
>>122 だから、三角縁鏡が卑弥呼の鏡だっていうのは、畿内説の根拠としてとても大きかった。
それを放棄したら畿内説の根拠は大きく崩れるんだから。他に根拠は何一つ無いんだって。
なに一つだよ、なに一つ。再度おやすみ。
129 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 01:37:18
123 :日本@名無史さん :2007/02/28(水) 01:24:46
>>111 魏鏡説の一番古いのは明治だよ。 誰だったか名前は忘れた。 ググればわかると思うが。
そうでしょー。記憶にあるもん。明治って。確かそのおじさんの弟子が、畿内説の考古学者だとテレビで言ってたことあるもん。
名は忘れたけど。
>>128 >他に根拠は何一つ無いんだって。
これが九州説のスタンダードレベルだとは流石に思いたくないな。
もうちょっと他の人はましなことを書いているがなあ。
九州説からもどうやら君、邪魔者扱いされているみたいだから
これからはレスつけない方がスレの為にはよさそうだね。
131 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 01:40:03
『見なおす』派が出現しても、畿内説の軸はブレていないという見方が
強いと思っていたのだが、この流れだと違うのかな?
132 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 01:41:44
>>130 まあーうまい逃げ口上だこと。今までドン来いスレシリーズも早15.話は出尽くしてるわえ。
畿内論者は結局、話を煙に巻いただけ。
>>129 「テレビ見た」とか言うレベルの「根拠」で絡まないで欲しい。
一応九州王朝説氏の煽り9割内容1割みたいなレスはやめてほしい・・
長文なうえ読んで不快になる。
135 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 01:51:35
こちらの「有棺無槨 棺あって槨無し これに該当するのは北部九州であり
木槨木棺墓の畿内は該当しない。」
との主張にもなんだかんだ言ってたが、結局のところ中国の槨というものん定義が違うとか言って、
示したのが、「儀式が出来るほどでかいやつだ」というもの。
則天武后の墓みたいな物あるかって日本に。
だが、時代の下った隋書倭国伝には「人を葬るに棺槨を以ってする」と明記している。
ちゃんと槨があると言っている。まぎれも無い事だ。
>>131 ちょっとマジレスしておきますか、簡単な沿革から。
昭和40年台に邪馬台国ブームがあったでしょ、「まぼろしの邪馬台国」とか松本清張とかの。
そのあたりでの考古学も含めた古代史学での、いわゆる△論争で頻繁に魏鏡説を唱えていたのが樋口さん。
ところがこれは別に主流でも何でもなくて、事実、佐原真氏は「数が多すぎるんじゃないか?」と疑問を呈していた。
末長さんや佐原さんは樋口さんより先輩格だから、当時から色々な説があったわけなのよ。
>>60以降は、コテ4名、名無し3名というところか。
コテ消し名無しもありますね。実は私も臨機応変にww
138 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 02:02:30
>>133「テレビ見た」とか言うレベルの「根拠」で絡まないで欲しい。
テレビを軽く見ないで欲しい。研究者の著作だと高尚で、テレビだといい加減とは限らない。
現代は便利なメディアがあるんだから。利用しない手は無い。
かのテレビ情報番組を見て勉強する医者だって多い。
その後の時代に王仲殊などの論文が出て、魏鏡説はかなり怪しくなった。
ただすべてが国産とする説もどちらかというと異端で、小林編年でいう第1期に関しては国産とは言いがたいというのが鏡の研究者の間では通説となっていた。
世間的には吉野ヶ里フィーバーもあって、畿内VS九州としたほうがマスコミも煽り易いってのもあったんだろう。
本屋に清張の二番煎じのような邪馬台国本がずらりと並んでいたのもこの頃だ。
ところが90年代にはいるあたりから、それまでの出土報告を総合的にまとめていく動きが盛んになった。
ここらからそれ以前とは考古学の主張が変わってくる。というよりきちんとまとめられたものになってくる。
また鏡で言えば黒崎古墳での△大量出土などもあって、専門家はもう完全に卑弥呼の鏡だとは考えなくなった。
いわゆる大先生たちがあいも変わらず畿内自生説を主張する中で
古墳屋の寺澤、発掘屋の石野、鉄屋の村上などが次々と論文をだすのがこの頃だね。
また柳田、広瀬、北條などの土器屋出身からは全国の編年を統一した論文が相次いで提出される。
また地方の埋文からも次々に報告が出るに至って、どうやら3世紀には畿内巻向を中心とした王権が各地の影響の元で発生したのではないかとの説にまとめられる。
これが今の畿内説の元だね。
だから昔のセンセイたちが古代史学者だったのに対して、これは純粋に発掘屋としての考古学者から出された説なんだ。
141 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 02:27:12
>>135九州ですがさん
>木槨木棺墓の畿内は該当しない。
「木槨木棺墓の畿内」の表現、気になるのです。ぼく、こんなの、他で聞いたことないです
「木槨木棺墓の畿内」の意味するところ、もすこし説明してほしいです
なにかの本でそう書いてありますか?
本の名前教えてくださいお願いします m( _ _ )m
>>140 >3世紀には畿内巻向を中心とした王権が
それって形を変えた自生説では・・・
143 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 05:55:10
>>141 失礼ながらおたくは畿内説の自演でしょうか?
144 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 06:32:28
>>141 それも前スレで散々出たけど。
ホケノ山古墳が木槨木棺墓で、邪馬台国の有棺無槨の記述と合わないということ。
つまりこの辺は少なくとも邪馬台国ではない事ははっきりしている。
そういうと北部九州にも木槨木棺墓があるではないか、とか言って来るし。
どこかは知らないが。古墳の出来た年代を無視すればあるかもしれない。
北部九州の甕棺墓がこの頃最盛期を迎えていて倭人伝の記述に当てはまる、といえば、
いや、この頃は衰退期だのなんだのと言ってくるしまつ。
また、倭国全体のことを記したまで、というのも、もしそうだとしても
ホケノ山は該当しない事に、何ら変わりは無い。。したがって、ホケノ山を含む地域は
邪馬台国に非ず、という結論となる。
145 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 06:39:31
ではお仕事なのでゴメンなんしょ。
146 :
SOY:2007/02/28(水) 07:23:20
>>91 >>>畿内説の人は誰も三角縁に興味を持っていない
>>基本的にはそうだろう。
>>三角縁は4世紀以降に配布が顕著になる鏡だから邪馬台国問題に直接からまない。
最近の畿内説の傾向を知る意味でもここに参加しています。個々人の認識の
ズレは指摘しあえば、きっと、それなりに良い方向に向かうかと思われます。
それにしても驚きなのは畿内説の方もあの紀年は偽りとして、三角縁の年代
観を九州に近いものに変えつつあるという情報です。卑弥呼の時代から4世
紀以降へと認識が変わっていたんですね。あれを3世紀中の定点にしている
方が主流かと考えていました。
となると、画文帯が3世紀初めという意見と絡め、画文帯から三角縁までが
百年もあるのかという議論に論争は移行しそうです。
>職業人なんだから趣味で邪馬台国にかまけてると失業するよ。
ここでは邪馬台国の話をしています。邪馬台国のことを軽々しく語らない
考古学者は非常に望ましいことですが、邪馬台国のことを語らない考古学
者もちゃんといますという話は不要かと思われます。寧ろ、みんな、それ
よりは邪馬台国についての見解が知りたいのではないでしょうか。
147 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 07:47:07
▲鏡の話題が出ているようなのでコメントさせてもらう。
国内の遺跡から多数、魏代年号入りの▲鏡が出土した。これは現実の話
現実にそうした物がある以上その▲は、何らかの経緯により魏王朝関係から国内へ流入したと捉らえる
事は当たり前の考えであり、議論が発生する余地もない。
そうした中
その考えに異論のある者だけが、切り崩し議論をするだけだ
物がある以上、切り崩しにはそれ相当の状況、或は物証が無い限り
これは崩れない。
148 :
太国:2007/02/28(水) 08:05:44
女王国には鏡が少なかったんだろう? ありゃぁ、魏が送ったって卑弥呼側は
喜ぶはしまい。あ〜らうんとあるし〜、他の物のがいいということになる。
畿内にうんとありますが九州は少ないんですから、送られればうれしいです。
とかなんでも考えられる。それに北九州から輸入品が入ってくるのが通例だから
そこから畿内に流れることは女王国が九州にあってもいくらでも考えられる。
女王は鏡を稀少品としてたなら、九州から卑弥呼の鏡は滅多に出て来ることは
ないだろう。
だいたい女王国が畿内にあるなら、朝廷と女王国は地図上で目と鼻の先だ。
となればお隣さんだから遠い外国に詳細が綴られている倭人伝以上に記紀に
卑弥呼のなりふりの詳細が書かれるものだ。それが猫の額ほどの記述しかないん
だから、女王国は九州にあったことは疑いはない。
149 :
SOY:2007/02/28(水) 08:10:06
>>147 >国内の遺跡から多数、魏代年号入りの▲鏡が出土した。これは現実の話
ここまでは異論のない話です。現象を捉えたというレベルの話なので。
>現実にそうした物がある以上その▲は、何らかの経緯により魏王朝関係から国内へ流入したと捉らえる
>事は当たり前の考えであり、議論が発生する余地もない。
ここにはすでに解釈が入っており、異論のある話だと思います。
紀年についてもそれが正しい年代を示しているのかを検証するのが
学問だと私は考えます。
150 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 08:56:18
>>149 >紀年
紀年についての物証は有りませんが、状況証拠の可能性は整っています。
紀年鏡の同位体比は既に公表されていて、異なる年号でも同じ同位体
がある一方、同じ年号でも同位体が異なる場合がある。
よって、後世に作られたものとの結論がでています。
152 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 09:48:12
>>151 >後世につくられた
・後世っていつ?
・同位体比という現代科学を持ち出した以上、後世などとあやふやな年代設定は許されないよ。
それに、当時魏鏡の品質低下は一般常識だし、品質低下するものに安定比率を求めるのも矛盾した話。
153 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 10:14:51
鏡に記された景初四年の年号にしても、強力な否定要因も見出だせないし
今の所、国産鏡と位置付ける方が至極大変かと
154 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 10:42:16
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
>>152 「少なくとも紀年鏡だけは舶載である」という立場でしょうか。
新井宏『情報考古学』vol11, No2(季刊邪馬台国94号に転載)を参照。
156 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 11:15:10
>>155 >紀年鏡だけ舶来
いや、その様に区別すること自体現段階においては不可能かと
▲鏡の現時点での基本的位置は舶来にあると、言うことです。
出土した▲鏡の中には形を模した国産レプリカも混在しているかも知れませんが、しかし
現時点でそれをより分けるすでを見出だせない。見出だす事が出来以上
舶来を否定することは現時点では困難な事かと
魏王朝の年号入り▲鏡という現物がある以上、それに付類する▲鏡も 同じ事です。
△鏡の解釈云々の前に紀年鏡について一言。
『多数』出土していると表現している人がいるが、これには違和感がある。
△鏡の紀年鏡は四枚だけ、数百枚の中の四枚。
つまり、ベースは紀年などしない汎用タイプ。
また、△以外も含めた魏代の年号鏡自体、国内での出土数は十枚にみたない。
有名な『景初四年銘鏡』も神獣鏡ではない。
この状況を多数とか沢山とかの表現で話を進めるのは如何かと思う。
同じようなことは昨日も書いたがスルーされているようなので、
再度提言します。
>>156 これは畿内説の立場からの反論なんだが、ある程度の区別はすでに提示されているのではないか?
西川編年、小林編年どちらを採るにしても第1類から2類とそれ以降とでは明らかに出来が違う。
4類以降はほとんどが踏み返しだとの見解が主流だろう。
紀年鏡13枚は2類までに属するわけだし、それは紀年・銘文を参照しない立場にて出された報告結果だから。
紀年があるから本物で、これが魏・呉の鏡だと言う立場は採っていない。
しかし
>>146のSOY氏の見解もおかしい。
「配布が顕著になるのが4世紀」であって配布開始そのものは早い考えで2世紀中葉
主流は第3四半期から第4四半期にかけて、つまり270年から80年あたりではと考えられている。
これは繰り返し述べられているように、卑弥呼の鏡という位置づけではなく、ヤマト政権が前方後円墳とセットにして広めたもの。
すまん、「早い考えで2世紀中葉」これは3世紀の間違いだ。
>>157 さすがにそれは大抵の者は認識した上で書いているんじゃないかな?
いわゆる鏡編年にしても△だけを並べたものではないし
神獣鏡だけをピックアップしたものでもない。
一部それすら知らずに喚いているコテがいるのも事実だし問題でもあるが
誰もまともに相手していないようなので気にすることはない。
鏡編年も最近は様式だけで成立しているのではなく
もちろん同位体比も含めて、土器編年、古墳編年とリンクしている。
そこから鏡だけをずらすのは無理だし、ましてや古墳成立時期を無視などというのは暴論。
これに異論を提出するには、現在の通説以上に整合性のある新たな編年の提示が必要になる。
というわけで、議論に戻ってください。
163 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 14:34:21
年号の入った銅鏡は13枚らしい。そのうち12枚を一応挙げておくと、
魏の年号
青龍三年(西暦235年)方格規矩四神鏡 3枚。
景初三年(西暦239年)三角縁神獣鏡と平縁神獣鏡が1枚づつ。
景初四年(西暦240年)三角縁盤龍鏡 2枚。
正始元年(西暦240年)三角縁神獣鏡 3枚。
呉の年号が
赤鳥元年(西暦238年) 平縁神獣鏡
赤鳥七年(西暦245年) 平縁神獣鏡。
晋の元号である元康○年(291〜299年)の平縁神獣鏡が一枚。
平縁神獣鏡の場合は、魏の年号もあり、呉の年号もあり、晋の年号もある。
しかも、年代も50年以上の開きがある。これは国産と考えるのが妥当かな。
つまり、国産の鏡にも年号が入れられたということになる。
164 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 14:36:16
もちろん、景初四年という年号はないわけだが、一応、西暦240年ということで。
165 :
太国 :2007/02/28(水) 14:42:48
景初元年=実年代237年=崇神即位元年
と判明。
166 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 14:44:27
ついでに発掘された場所も挙げておくと、
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 大田南5号墳 京都府弥生町
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 安満宮山古墳 大阪府高槻市
三角縁神獣鏡 景初三年(239年) 神原神社古墳 島根県加茂町
平縁神獣鏡 景初三年(239年) 黄金塚古墳 大阪府和泉市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
平縁神獣鏡 (晋の元康年間291年〜) 上狛古墳 京都府山城町?
平縁神獣鏡 赤烏元年(238年) 狐塚古墳 山梨県三珠町
平縁神獣鏡 赤烏七年(244年) 安倉高塚古墳 兵庫県宝塚市
確か神獣鏡の本場は江南だったよね?
169 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 19:33:31
>>142-143九州ですがさん、ありがとうございました m( _ _ )m
自演てやったことないです。いつも名無しです。コテハン使ったこと一度もないでつ
ぼく、まだみなさんのように考えが決まってません。まえは筑後山門説いいな〜ぐらいだったんだ
けどそのうち5分5分ぐらいで宇佐説が割り込んできて、
でもまた最近「宇佐説だめだな」と思うようになって、そしたらそこへ畿内説が入っちゃった (~ ~;)>
ホケノ山はヒミコのお墓じゃないと思いますが、
いまは7対3ぐらいで大和だろねて思ってます。(3は吉野ヶ里に変わりました(近くかも)
甕棺がたくさん九州で出てるから「甕棺の九州」
ピラミッドたくさんあるから「ピラミッドのエジプト」はいいと思うんですが、 △△▲△
それだったら畿内は「おおきな前方後円墳いぱ〜いの畿内」がいいと思うんです
ここんとこへんな誘導の入った畿内説の煽りが
きついな。一言レスの奴はスルーでおk?
以前バトルが激しかった頃、畿内説の荒らしに
振り回された頃を思い出したよ。
>>170 確かに、昔は畿内説を批判するとすぐ荒れた。
>>169 は、最大の破壊王、「土建屋」を彷彿とさせる。
土建屋ナツカシスw
でも、今回チクチクやってる奴は、批判つうより煽りの
一言レスであぶり出して、失言を待つってパターンだね。
でもってスレにぺんぺん草も生えない状態になっちまった。
173 :
太国:2007/02/28(水) 21:24:19
畿内説の連中は、生活かかってるんだ。
わかってやれ。w
ニセ
175 :
太国 ↑:2007/02/28(水) 21:27:47
偽者
ニセ野郎
177 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 21:32:24
あすかあきお氏は邪馬台国は琉球民族の国で狗奴国はアイヌの国、両国間が戦争で疲弊しているところへ
北方渡来系が来てそれぞれを南北へ追いやったと。
なんでもアメリカには進駐軍が持ち去った144枚の粘度板に琉球民のメソアメリカ起源が記されているとか。
178 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 21:43:51
>>169 貴方ほんとに普通の方?大変失礼しました。ろくな説明もせず。
でも「一度もないでつ 」という言い方以前どっかで聞いたような?
特に「でつ」が。ちなみに僕はうちの猫に「でつ」でなく「づつ」を使っています。
例えば「おねむぢゅちゅ」とか。あーはずかしい。
さすが九州ですがさん。どんなに恥掻いても平然とコテで現れる。
そこにしびれる あこがれるぅー
180 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 21:57:11
>>166 紀年鏡一覧乙.じっとじっと眺めふと考えた.
1.三角縁鏡は全部魏の紀年.
2.呉の紀年鏡は全部平縁.(全部と言っても2枚だが・・・)
逆にはならんのかね! (ならんわな・・・ww)
王仲殊氏の論文はダイジェストで読んで成程と思ったが,それにしても古代はヒネクレとる.
鏡は難しいのう.
>>179 おいおい昨日の論争は九州ですがさんの完勝とは言わないまでも辛勝だろ
182 :
SOY:2007/02/28(水) 22:02:10
>>159 >しかし
>>146のSOY氏の見解もおかしい。
私の見解がおかしいというより、ここで述べられている畿内説の主張が
あまりにも掴みづらいのです。
従来どおりの年代観で見ているのかと言えば、新しく見ていると言う。
新しく見ているのかと言えば、古くからあると言う。
邪馬台国とは関連付けないと水をさしておきながら、邪馬台国と関連
のある年代観を言う。
だから、何を言いたいのか分からないのです。
>「配布が顕著になるのが4世紀」であって配布開始そのものは早い考えで2世紀中葉
>主流は第3四半期から第4四半期にかけて、つまり270年から80年あたりではと考えられている。
結局、3世紀中葉〜4世紀というティピカルな畿内説に落ち着くのなら、
三角縁はスルーといった意味のない発言をするよりは三角縁について
の見解を述べられた方が良かったのではないかと考えます。
>>163 私の中ではそれらの紀年鏡は十把一絡げにできず、2グループくらいに
分かれます。あくまでも個人的な見解ですが赤烏鏡は伝世の気がします。
ウンコだw
>>182 >私の中ではそれらの紀年鏡は十把一絡げにできず、2グループくらいに
>分かれます。あくまでも個人的な見解ですが赤烏鏡は伝世の気がします。
それは、
>>155 の文献と結論が似ていますね。
新井のデーターも参照していますか?
185 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 22:36:16
>>179 私はここで一度も恥を書いた事がありませんがなにか。
186 :
SOY:2007/02/28(水) 22:42:36
>>184 その文献は読んでいないので内容の主旨だけでも述べて頂けないと、
コメントのしようがありません。因みに新井氏が赤烏鏡を伝世鏡と
考えた根拠は何と記されていましたか?
>新井のデーターも参照していますか?
新井氏のデータ。鉛同位体比のデータくらいしか知りません。赤烏
鏡のデータはなかったように思いますが、見落としでしょうか。
>>180 >逆にはならんのかね! (ならんわな・・・ww)
逆になったら余計に問題はややこしくなると思います。
どうして逆が良いのですか?
187 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 22:53:19
中国の学界では、三角縁神獣鏡は中国のものではないというのが定説。
三角縁神獣鏡は大陸から1枚も出ていない上にその鋳型原版も大陸に
ない。唐代の鏡分類についての古典文献についても一切記載がない。
大陸製のものに比べて出来が悪く、記銘入りの鏡にしても漢字を知ら
ない者が作ったとしか考えられない。銘文にありえない記年表記があ
るものがあり、明らかに中国に住んだことがない者が作ったとしか考
えられない。
そして最大の理由は、当時の魏・呉・蜀にしろその前の漢にしろ、そ
のサイズはすごく小さく、三角縁神獣鏡は「大きすぎる」のである。
銅鈴が日本では巨大な銅鐸に進化したように、道鏡も日本だから巨大
化したのだと想定される。鏡のサイズの規則性もも中国の度量衡にま
ったく合わないし、表面の鏡の本質である鏡面部分の研磨の技術が低
過ぎる。
すべてにおいて三角縁神獣鏡は呉の鏡を元に、日本人が作った模倣品
としか考えられない。
中国の影響があったとすれば、それは道教の方士が山野で修行する際
の破魔鏡のような、鏡としての実用性のない術具だろう。
189 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 23:11:15
>>181 「おいおい昨日の論争は九州ですがさんの完勝とは言わないまでも辛勝だろ 」
そうなんですよ。いつも彼らは最後は何にも言えなくなって出てこなくなるんだけど、なぜか自分達が勝ったと思い込んでるらしくて、
その繰り返しなんだよね。なんとも悲しい話でしょ。
190 :
181:2007/02/28(水) 23:16:41
>>189 おお私なんぞにレスしてくださるとはなんともやさしいお方。
プラムさんが帰ってこない現在
このスレの良心といえるのは九州ですがさんだけです。
これからもいろいろとご教授ください。応援しています!
このスレの住人の総意としてあなただけでもがんばってくだざい。
191 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 23:24:58
>>190 とんでもない。私などが御期待に副えるかどうか。
後は畿内説の方がまじめにお答えいただくのを期待するだけです。
>>190 プラムに会いたければ専用スレに行こう。だれも止めない。
そのための隔離スレ。お互い相手の領域を荒らさないようにしよう。
194 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 23:39:20
>>192 隔離スレというのは失礼なんじゃないかな。彼は誰にも邪魔されず、自分の研究の成果を披露できるのだから。
誰でも出来るってもんじゃない。すぐにネタが切れてしまう。プラムさんの凄いところは
知識の蓄積によってそれが切れず、次から次から言葉が出てくるところじゃないかな。
>>191 九州ですがさんはやさしいな。
あいつら単に荒らすのだけが目的の名無しじゃないですか。
九州ですがさんが望むお互いに高めあう議論なんてできるとは思えないけど・・・
196 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 23:45:51
>>195 僕ねー。結局感謝してるのよねー。相手が仮に誰であっても自分の知らない事を提供してくれるでしょう。
99パーセント捨てたとしても1パーセントでも得るところがあったら大成功じゃない?
>>196 さすが九州ですがさん 懐が深い。私も見習いたいものです。
しかし九州ですがさんを侮辱するやからは許せません。徹底的に戦う所存です。
>>182 >私の見解がおかしいというより、ここで述べられている畿内説の主張が
>あまりにも掴みづらいのです。
名無しが多いから判り難いかもしれんが、
畿内説っていったていろんな奴がいて異なるんだよ。
大雑把に分類するところの「自生説」と「連合説」の書き手の違いくらいはわかるだろう?
俺だって古田と安本の違いくらいはわかるんだからさw
この九州ですがの自演(もしくは弄りとのやりとり)について
他のコテハンはどう考えているのか是非聞かせてもらいたい。
おそらくSOY氏、一応九州王朝説氏、前スレ745氏などは
九州説同士でも対畿内説でもいいから、議論をする為にここにいると見受けられる。
はっきり言って九州ですがは、それを妨害しに来ているだけではないか?
例に挙げたコテハンが、彼に対してなんら苦言を呈することが無いのは無視しているからなのだろうか?
そうでなく、これも九州説の仲間であり荒らし工作員だと見ているのなら、もうまともな議論の場では無くなるのではないか?
これは嫌がらせでも煽りでもない、そこは承知してもらった上で是非何らかの回答が欲しい。
>>199 全員無視しているのは読めばすぐに分かるだろ
荒らしはひたすら無視、だから構うな
201 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 00:41:58
あんた九州ですがが誰の変名コテなのか知らんようだな。
邪馬台国関連をよく読んでみ、こいつが出てくる時は誰かが出てこないし
登場も退去も同じような時間だからな。
レス返さなければそのうちにいなくなる
いや、また違うコテで現れるだろうなw
202 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 01:01:20
379 名前: 九州ですが ◆uZFVMLIhZI 2007/02/18(日) 21:49:04
汚いことしたり、人を苛めたりする人間は最後は滅びます。
古代中国の箴言に「巧詐は拙誠に如かず」《「韓非子」説林上から》
巧みにいつわりごまかすのは、つたなくても誠意があるのには及ばない。というじゃない。
拙くても誠意の有る人に、人を欺く人は適わないのです。中国4千年の知恵は今も生きています。
そんな人は、たとえ今どれほど恵まれていても阿鼻叫喚の最後を迎えるでしょう。
383 名前: 九州ですが ◆uZFVMLIhZI 2007/02/18(日) 22:14:35
ありがとうございます。でもコテハン叩きなど許せません。
あくまで忌憚無く議論しながら、お互い高みに上っていく事を目指しているわけであって、
勝った負けたでは無いのです。
203 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 01:07:49
>>200-201 スレ読み返して了解した。
全員無視というか関わりたくない様子が見て取れたので質問は取り消す。
最後に念押しだが、奴は九州説を装った荒らしなので
奴のレスで九州説を誤解しないで欲しい、それだけは言わせてくれ。
>>203 私は、九州ですがさんは、結構好きですよ。
知識は少ないみたいだけど、自分の頭で納得したこと以外は信用しない。
学者や固有名詞の羅列にひるまず、ひたすら自分の理解のみを信じる。
ある意味、騙されにくい見本のような人。キャラクターも面白い。
しかし、挑発はほどほどにした方が良いと思います。
205 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 02:10:27
>>186 >赤烏鏡を伝世鏡
その部分ではなくて、紀年鏡を2つのグループに分ける部分。
新井は、「年号の異なる紀年鏡がセットとなり、2回にわたり別々に製作された
可能性が高い」としています。
179 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/02/28(水) 21:55:36
さすが九州ですがさん。どんなに恥掻いても平然とコテで現れる。
そこにしびれる あこがれるぅー
↑ こういう奴なんだよ。数日来の荒らしは。厨房臭い。
207 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/01(木) 05:52:43
>>204 御忠告ありがとさんに存じます。自分レス、
>>144の結論をここにも書いておきます。
ではお仕事なので、ゴメンなんしょ。ではどうぞ
隋書倭国伝は大和地方つまり畿内で隋使が実際に見聞したことが書かれているといえる。
ここには横穴式石室という槨があると書かれている。横穴式石室を槨と呼んでる事で、
「有棺無槨棺あって槨なし」つまり囲った部屋が、
古代中国のような大掛かりなものだけを指していうのでは無い事は明らか。
木槨木棺墓も、いわゆる木で囲った部屋であり、倭人伝の「棺あって槨なし」に合わない。
一方、福岡県前原市の平原遺跡は土こう=墓穴の中に割竹形木棺があった。
木の枠で囲った部屋などは無く、倭人伝の記述にあっている。
208 :
SOY:2007/03/01(木) 07:28:38
>>198 >畿内説っていったていろんな奴がいて異なるんだよ。
畿内説は基本的に三角縁の紀年を定点とする年代観といった感じで一緒くた
にしてました。基本的に私は解釈よりもデータから邪馬台国論争を見ている
部分が強いので「自生説」と「連合説」の解釈の区別もなく、九州説の古田
氏の年代観さえ知らないのが私の理解の実状です。
>>205 >新井は、「年号の異なる紀年鏡がセットとなり、2回にわたり別々に製作された
>可能性が高い」としています
新井氏の見解はおそらく私とは異なるように思います。私が2グループに
分かれると言ったのは製作や配布の過程まで予想して述べたものではなく、
以下のように単純に見た目で分けたといった類の話です。
1.青龍、景初、正始鏡 → 日本製?
2.赤鳥鏡 → どう見ても中国鏡
因みに新井氏の鉛のブレンドという見解にはやや疑問を持っています。
(未知の鉱山の可能性を考える説もまた魅力的な説に思えます)
>>199 ブレーンストーミング的に意見がどんどん出されれるのもありかと見ています。
>>207の意見もなかなか真っ当な意見と感心しております。
ただ、彼を褒めたり励ましたりするだけの発言は邪馬台国の問題とは関係ない
のであまり好ましくないと思っているのも事実です。彼の発言に対して興味を
示せても、彼を褒める発言にはあまり興味を示せません。
209 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 10:53:19
>>208 いや
>>207の主張はむちゃくちゃだよ。
まず隋書倭国伝の記述が正しいと仮定したところで、これはいつの時代の話なんだ?
邪馬台国のあった頃の槨棺を論じるのに、なぜ500年近くも後の資料を持ち出すのかさっぱり分からん。
第一彼は別スレでホケノ山を木槨木棺墓だと勘違いして論を進めている。
また平原(おそらく2号墓を指しているのだろうが)のように直接木棺を埋葬する形式を棺あって槨なしと呼んでいいのなら
これはもう日本国中、それこそ南九州から東北まで弥生後期後半から終末期のほとんどはそれにあたる。
都合のよい部分だけを抽出してみたところで、それは仮説ですらない。
これは
>>204の言うようなタイプではなく、明らかにそれを知っていながら嘘を書いているだけだ。
210 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 11:03:43
いやそれよりも、そもそも古代列島に槨なんて存在しないだろう
>>199 >>209 粘着禁止!
誤りを指摘するときには、正解とその解説を詳しく書いたほうが、
他の人のためにもなる。それがないと荒氏。
>>211 >>209はまさに「正解とその解説」だと思うが
要するに
>>207は「隋書倭国伝には7世紀の畿内の墓式が記されているが、これは邪馬台国のあった時代の畿内と一致していない」
という当たり前のことを書いた上で論理を飛躍させて「平原は一致しているからここが邪馬台国だ」とまるで繋がりの無いことを書いているわけだし
これはどう見てもおかしい。
まさに正解は「7世紀の墓式の記述は3世紀や4世紀とは全く無関係」
>>212 議論が噛み合っていないことだけは、分かった。
ですが氏は、「槨」の定義として追葬可能な大きさを必要とするという考えに対して、
隋書倭国伝の「槨」の記載を引用して、その限定解釈を否定している。
対して、
>>209は、隋書倭国伝は時代が違うと応答して、噛み合っていない。
ですが氏は、平原の時期に北部九州の墓制に「槨」がないことを指摘したのに対して、
>>209は、墓制とは違うレベルで「槨」のない埋葬は全国(畿内にも?)に多数存在する
と反論している。
215 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 17:10:10
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
216 :
SOY:2007/03/01(木) 19:12:49
>>209 >第一彼は別スレでホケノ山を木槨木棺墓だと勘違いして論を進めている。
この『木槨木棺墓が勘違い』という部分が気になります。ホケノは『石囲い
木槨』と一般には認識されていたように思います。
何かの根拠に基づいての発言でしょうか?
217 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/01(木) 20:52:29
>>213 フォローありがとうございます。僕が言いたいのはまさにそこです。
さらに、北部九州では、弥生後期に甕棺墓が全盛期を迎えていたと認識しています。
しかし前スレで、衰退期だったという反論を受けたのですが、探してもソースが見つかりません。
どなたか御存じないですか?
218 :
SOY:2007/03/01(木) 21:17:22
>>217 九州ですが
>さらに、北部九州では、弥生後期に甕棺墓が全盛期を迎えていたと認識しています。
>しかし前スレで、衰退期だったという反論を受けたのですが、探してもソースが見つかりません。
たぶん私が指摘したのではないかと思います。
甕棺墓の全盛期は弥生後期ではないです。後期は衰退しています。
考古学の用語辞典の類を調べれば、すぐに確認できると思います。
219 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 22:10:28
甕棺は、弥生時代前期から後期まであったようですね。
紀元前2世紀から紀元1世紀の300年位かな。
恐らく、卑弥呼の時代にはなかったと思われているんじゃないかな。
発生期の甕棺はかなり広く分布していて、南は熊本県の宇土あたり。西は
長崎県や壱岐まで。日田でも少々。しかし、遠賀川の下流から東では見られない。
天草でも見られない。
時代が下るにつれて、福岡平野や筑紫平野、佐賀平野に密集するようになり、
現在までに発掘された甕棺は、13000ほどで、その分布は、甘木・佐賀平野を
含む筑紫平野が8000ほど、唐津・糸島郡、福岡平野の玄海灘沿岸が4000ほど。
熊本では200弱、島原では、100程度となっているようです。
221 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 22:54:03
222 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 23:40:36
>>220 ちなみに平原は割竹型木棺と推測されています。
その通りですが、最近柳田先生は、この平原1号墓の割竹型木棺自身が、ほかならぬ木槨で覆われていた可能性に、言及し出しています。
それと、一昨年からだったか、江戸時代の記録がある井原鑓溝王墓の正確な位置を求めて、前原市が発掘調査をやってます。
王墓はまだ検出できてないようですが、周辺にいくつかの弥生後期の木棺群が出てきた、と聞いてます。
その一つは、たしか中間報告で、「木槨木棺の可能性あり」となっていたのでは? (ウエブで見た覚えあり)
2月に伊都国歴史館でこれの特別展やったはずなんだが、誰か新情報仕入れているのだったら教えてほしい!
223 :
222訂正:2007/03/01(木) 23:58:55
割竹型(×) → 割竹形(〇)
とりあえず自分のレス分だけ訂正。
分かればいいじゃないか、と思うんですが、某先生は厳密で、「きさまー」と怒られます。(苦笑)
224 :
一応九州王朝説:2007/03/02(金) 00:57:29
>>221 大変な労作ですね。
質問宜しいでしょうか。
・藤尾氏のその研究の中で、絶対年代との関係。
(関連して「森編年」の絶対年代観)
・甕棺の場合、制作から使用までに何か前提条件を設けているのか否か。
(橋口氏の言う、制作から30年という仮定みたいなものが、甕棺にもある
のかどうか。)
あんまり土器のことは知らない(興味がない)ので、読みが足りないお叱りは
甘んじて受けますw でも、難しいけど読んでて楽しかったです。
でも、ある土器の絶対年代というモジュールの差し替えが、全体をひっくり返
さないような全体の構築の仕方は大事ですよね。
225 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/02(金) 01:00:41
>>218>>219>>220>>221>>222>>223 という事は、卑弥呼の時代の葬制は何が主だったのでしょう。あくまで主流はどうかということなんですが。
確かに各地に残る葬制は様々でしょうけれども、魏使が見た「棺あって槨なし」はそのまま棺を土葬したものをイメージさせます。
その風習が一番色濃く残る地域こそが倭人伝に該当するのではないですか?少なくとも木槨木棺墓、竪穴式石室墓、横穴式石室墓は該当しないと思います。
旧態全として棺をそのまま土葬し、竪穴式石室墓、横穴式石室墓が最も遅れて登場した地域、そここそが、倭人伝の記述に合うと思いますがいかがでしょうか。
「韓伝」「夫余伝」の葬制は「槨あって棺なし」です。これも槨というものが、さほど大きなものではないことを匂わせます。
>>225 > 「韓伝」「夫余伝」の葬制は「槨あって棺なし」です。
> これも槨というものが、さほど大きなものではないことを匂わせます。
韓伝は「有棺無槨」だし、
夫餘伝は「殺人殉葬多者百數厚葬有槨無棺」なんて書いてあるけど
それで何が匂いますか?
「槨」の大きさを考えるなら沃沮伝だね。
「其葬作大木槨長十餘丈開一頭作戸」とある。
墓と言うより殯屋のように思えるが、少なくとも30〜40mクラスの「槨」は
「大」と特記される存在のようだ。
魏志では(もしくは正史では)、なんでそんなに棺・槨に興味を持っているのだろうね?
各国 違って特色がでるとか、宗教的好奇心なんかかな
228 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 04:29:44
>>225 「有棺無槨」は、倭国の一般的な墓制かも知れない。
首長クラスの葬儀には、魏使は巡り合っていないともいえる。
卑弥呼の墓については微妙だが。
229 :
SOY:2007/03/02(金) 07:35:27
>226
>韓伝は「有棺無槨」だし、
>夫餘伝は「殺人殉葬多者百數厚葬有槨無棺」なんて書いてあるけど
韓伝は確か『有槨無棺』だったかと思います。(東アジア民族史1には
『有棺無槨』と書かれてしまっていますが)
こんな感じのお墓かと考えています。
http://www.busannavi.com/images.html?img=http://www.seoulnavi.com/miru/images/miru_img/1144/a_144_30.jpg >>225 九州ですが
>という事は、卑弥呼の時代の葬制は何が主だったのでしょう。あくまで主流はどうかということなんですが。
九州で言えば、その頃は石蓋土壙墓、箱式石棺墓が主流ではないでしょうか。
ただ、甕棺墓は衰退期であっても、完全に消滅しているかどうかは地域と
時期との兼ね合いもあるので、魏使が見たかどうかまでは分かりません。
>その風習が一番色濃く残る地域こそが倭人伝に該当するのではないですか?
弥生時代で言えば『有棺無槨』は殆どの地域が当てはまり、古墳時代の
竪穴式石室墓はこれに該当しないと私は見ています。
>少なくとも木槨木棺墓、竪穴式石室墓、横穴式石室墓は該当しないと思います。
私もそう考えます。木槨木棺墓、竪穴式石室墓を見て、
これをわざわざ『有棺無槨』とは記述しないと思います。
>これも槨というものが、さほど大きなものではないことを匂わせます。
私も槨の大きさはあまり限定していません。極端に棺の大きさしかないような
槨となると、私も2重棺と解釈するかも知れませんが。
また、隋書倭国伝を例に出されたのも別に不適当とも考えていません。
槨の定義がそれほど時代によって大きく変わるとは思えませんし、もし、
それほど変わってしまうものであれば、それをもって大きさを限定する
ことはできないと考えるからです。
230 :
SOY:2007/03/02(金) 07:39:26
231 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/02(金) 08:27:28
>>228 北部九州と畿内の葬制は同時期で同じなんですか。何ら変わりが無いように聞こえますが。
畿内は暫く後に進んだ土木技術を駆使した巨大前方後円墳を出してきますが
その時代より少し前は有棺無槨だったんですか?しっくりきませんが。
232 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/02(金) 08:37:36
>>229「九州で言えば、その頃は石蓋土壙墓、箱式石棺墓が主流ではないでしょうか。
ただ、甕棺墓は衰退期であっても、完全に消滅しているかどうかは地域と
時期との兼ね合いもあるので、魏使が見たかどうかまでは分かりません」
という御意見ですが、弥生後期に北部九州がそれに当てはまっているなら、
やはり北部九州の葬制を倭人伝は記したものだと考える方が自然じゃないでしょうか。
伊都国は北部九州ですし、ここには魏使が留まったことが明記されていますし。
これ以上明らかな事は無いと言えます。その他はどうしても想像の域を出ないでしょう。
233 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 09:11:56
弥生の箱式石棺墓の大半はせいぜい二世紀の鏡の破片チョビット刀子一本ほどが入ったお粗末な墓
たまに中身のつまった箱式調べてみると、古墳時代の土盛りが無くなってしまって石棺だけが残ったやつとか
234 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/02(金) 09:22:33
>>232続き
ここで合わせて考えなければいけないことは、倭人伝の「奴国が女王国の境となる」と、
「女王国の北にある国々については容易に書く事が出来るが、その他の国々はとても遠くにあるため
詳しく述べる事が出来ない」の記述。奴国つまり博多あたりを境にして、それより遠方は詳しくわからない、
と考えられ、葬制についても魏使が倭全体に亘って知る事は無かったと思われる。
故に倭人伝から読み解けば有棺無槨が、倭国全域を表した記述とはいえない。
ただし、倭の葬制が同時期に同一であったかどうかは不明。
235 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/02(金) 09:27:38
>>233 うーむなるほど。
ということは、進んだ技術に支えられていたわけでは無いようですね。
236 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 10:16:55
2chの他の板で金印がみつかり、邪馬台国論争に決着が着くとの予言が有ったのを読んで
素人ながらに成る程と思った。
邪馬台国論争は卑弥呼が貰った金印を発見すれば決着がつくと思う。
だって発見された付近が邪馬台国だよね。
邪馬台国論争のある地域の地層を調べて、卑弥呼がいた時代の地層に埋まってるかも
知れないよ。
奴国の金印が見つかった場所の大昔と江戸時代の地層はどうなってるの?
百姓が畑で「此処掘れワンワン」の如く見つけたんでしょ?
237 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 10:22:32
>>235 九州ですがさん
そう言えば以前、▲神獣鏡に含まれている「鉛」が「江南の鉛」とする説があった様だけど、その辺は今
どうなっているか知っているかい?
どうも考古学は苦手でね
238 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 10:41:07
↑だから逆の発想をして、埋まってそうな地層を「此処掘れワンワン」すればどうかなと
素人考えですが思いました。第一目的は金印を発見する事で、「此処掘れワンワン」で
見つかった付近が邪馬台国だった。だから埋まってそうな地層を掘る。
読んでたら第一目的は邪馬台国特定で金印はそれに付随する物、二の次とも思ってしまいました。
専門家には、その為(金印)に現在場所(邪馬台国)を特定してると怒られるかも知れませんが。
仮に邪馬台国の場所がはっきりしたとして、専門家の皆さんはどのようにして
金印の在り処を特定するんですか。・・・エジプトの王墓の特定の金印版ですね。
私は邪馬台国が見つかれば場所が何処でも嬉しいです(邪馬台国は日本だから)。
それに村おこしや町おこしも出来るし、観光地誘致も出来て、地元も活性化するでしょう。
旅行会社も「邪馬台国から大和朝廷の統一の軌跡を体験する」銘打って、団体旅行の企画を
立てれば活性化するし。
素人考えでした。
239 :
バルタン星人:2007/03/02(金) 10:44:56
いまなら金印は簡単にぎぞうできるが江戸時代に造るのは無理かも
240 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 10:46:51
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
241 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/02(金) 17:14:18
>>236>>238 奴国の金印が見つかった場所の大昔と江戸時代の地層はどうなってるの?
地層まではわかりませんが 金印は志賀島で発見されたと聞いています。
当時から海上に浮かぶ特定の島は女人禁制のみそぎをして入る島、いわゆる聖域でした。
だから発見しやすかったのかもしれません。邪馬台国は海の無い内陸という感じがしますよね。
同じ地層から出るかどうかは色んな可能性を考える必要があるからなんともいえませんね。
極端に言えば誰かが拾って違う時代まで持ってたり、まで考えるときりが無いです。
答えになってなくてすみませんが。
242 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/02(金) 17:31:39
>>237 と言うと考古学的に又、別の説が出てきたと言う事ですか?
僕が知ってるのは、徐州と呼ばれていた地域が銅の産地として古代から知られていたと言う事、
いわゆる魏の領土とされる地域からは古代の銅鉱は発見されていないということ、呉でもてはやされた模様、
銘文の韻がそもそも呉の慣わしだった事などから「魏鏡」ということを否定してるんですが。
さらに、魏の敵対勢力の呉の影響のある鏡を魏王が卑弥呼に授けるわけが無いとし、卑弥呼の鏡説を否定しています。
243 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 18:20:05
樋口一派が「イ方製鏡」と呼ぶ一群(極端に出来が悪い)と
その他グループでは原材料の成分比が違うと言うことは確かに
なったらしいけど、孝古的には黒塚以降の新発見は無いな。
強いて言えば、藤塚の編年くらいかな。
支持者数の変動も無いな。
因みに、俺は国産説の方が優勢だと思っている。
尚方じゃないことや銘が世俗的で王権級の威信財としては
不適切なことから下賜鏡だと言うことはありえないだろう。
244 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 18:23:17
>>242 九州ですがさん
>>237ですが
全くの考古学音痴でその辺りの事情が解らないからお尋ねしたのです。
記憶ですいませんが、「江南の鉛」と説が出たときもなんの証拠も出典もなかったと記憶しており、その後どうなったのかな〜?と、前漢鏡は(華北)、後漢鏡は(中華南)の鉛では?
全然「江南」の名前が浮かび上がらないのです。
それに、▲神獣と呉鏡の鉛は違うでしょう?
記憶だけ辿ったので文章目茶苦茶ですみません。
>>236 名前:日本@名無史さん :2007/03/02(金) 10:16:55
>2chの他の板で金印がみつかり、邪馬台国論争に決着が着くとの予言が有ったのを読んで
>素人ながらに成る程と思った。
金印は、中国に返還したんじゃないのか?
というのは、魏王朝が倒れた後、
晋王朝にも朝貢しているわけだから。
246 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 18:57:29
>>245 前王朝の遺物を当王朝に返したなどという記録でもあるの?
返された方も迷惑かも
催促されてるようで
248 :
サガミハラハラ:2007/03/02(金) 19:11:03
私は金印は中国にかえされたとの説をとっていますのですが、
>>236の予言が当たるとすれば一大事です。占った人はよくあたる方でしょうか。いつごろ発見されるといっているのでしょうか。
2chのどの板でしょうか。くわしく教えてください。
>>248 そんな予言はありません。
ただ単に、魏志倭人伝級の発見があるというだけです。
金印なんて、そんな予言はありません。
250 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/02(金) 19:54:59
>>244 最新の施設で銅鏡に含まれる銀やアンチモンなどの微量成分を大型放射光施設SPring-8が生み出す強力な放射光を用いて測定した成果が先ごろ公表された。
分析対象となったのは、京都の泉屋博古館が所蔵する戦国時代から三国・西晋時代までの中国鏡69面、中国鏡をまねて日本列島でつくられた古墳時代の倭鏡18面、
そして中国製か国産(倭製)かで論争の続く三角縁神獣鏡8面である。
三角縁神獣鏡に関連する成果としては、@中国鏡と古墳時代倭鏡の成分は異なる、A中国鏡の中でも三世紀の三国・西晋神獣鏡は互いの成分の類似度がとくに高い、
B三角縁神獣鏡のうち6面はこの三国・西晋神獣鏡のグループに入り、2面は古墳時代倭鏡のグループに入った、という三点に整理できよう」
上述のことを言われてるのでしょうか?これについては
「泉屋博古館所蔵の鏡はほとんどが出土地不明であり、考古学的な資料価値は低いものである。ふつうの人は「中国製」と書かれれば中国産と信じてしまうが、
これらの鏡は模様などから館長の樋口隆康氏が中国製と判断しているだけで、中国で作られたものかどうか疑わしい」
くらいの事しか僕も判断出来かねます。
251 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/02(金) 20:05:41
>>244 ただ、倭が銅を輸入した先が解らないのでなんともいえませんが、
以前からある古い鏡を踏み返したり鋳なおしたりした過程で華北、華南の成分が混じった可能性もあるのではないでしょうか。
成分分析がパーフェクトな判断材料にはなりえないとは思います。
252 :
日本史@名無しさん:2007/03/02(金) 20:15:04
樋口は畿内派もヌルーしてるから・・・。
あの先生は確かに、古いタイプの畿内派だと思うよ。力持ってるのが
ちょっとアレなんだけど。
253 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 20:50:20
254 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 21:04:31
>>244 私の理解では、
1、鏡の銘「銅出徐州」の徐州がどこかについて、江南の北部の徐州とする説がある。
2、その地域は邪馬台国時代は、魏ではなく呉の支配下にあった。
3、銘が事実とすれば、魏鏡説の弱点になる(呉の滅亡後に徐州の銅が輸出可能になる)。
しかし、
4、「銅出徐州」が事実とは限らない。紀年も同様。官営工房の名前の冒用もある。
5、銅の融点を下げるため鉛を加えることがあり、銅に含まれる鉛の同位体比
のみでは原料の出土地は特定できない。
6、肝心の中国出土の鏡の同位体比の測定は全くなされていない。
255 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 21:06:34
神獣鏡の本場はたしかに江南。
亜流の神獣鏡は河南とか山東とか、魏だったあたりから見つかる。▲神獣鏡も本場物らしくない亜流神獣鏡の一つ。
呉との状況が悪化して本場物が手に入らなくなった時代の落し子
だから晋が南北を統一した後、華北でまた本場物の神獣鏡が見つかる。
▲神獣鏡と江南の共通性なんてどこにも無い
256 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/02(金) 22:22:58
>>255 神獣鏡を一まとめに言われて「神獣鏡と江南の共通性なんてどこにも無い 」
と結論付けられてもどうかと思う。三角縁と画文帯とでは、違っているし。
徐州と呼ばれていた地域が銅の産地として古代から知られており、
いわゆる魏の領土とされる地域からは古代の銅鉱は発見されていないということ、呉でもてはやされた模様、
銘文の韻がそもそも呉の慣わしだった事など、呉の影響は拭えないと思う。
257 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 22:32:40
そういえば、卑弥呼の次の王は男だったけど、
それでうまくいかなかったから臺与が女王になったっていう説もあるよね。
>>257 説っていうか、魏志倭人伝の記述がそうじゃなかった?
259 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 22:45:18
>>259 気に障ったのならゴメン そういう意図は全くなかったです。
262 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 23:04:16
>>262 そのような意図はございませんでした。本当にごめんなさい。
265 :
SOY:2007/03/02(金) 23:15:07
>>255 >神獣鏡の本場はたしかに江南。
>▲神獣鏡も本場物らしくない亜流神獣鏡の一つ。
このあたりの見解は同じです。また、亜流という言葉を使われていることから
考えて神獣鏡は少なからず呉鏡の流れを組むとする点も同じですね。
>▲神獣鏡と江南の共通性なんてどこにも無い
一方で亜流、一方で共通性がないとする点については理解できません。
>呉との状況が悪化して本場物が手に入らなくなった時代の落し子
>だから晋が南北を統一した後、華北でまた本場物の神獣鏡が見つかる。
ここに既に解釈が入っているように思われます。その亜流とする山東の鏡、
記憶が確かであれば、斜縁四獣鏡だったかと思われます。
これが『呉との状況が悪化して本場物が手に入らなくなった時代』とした
根拠は何でしょうか?
もし、晋が呉を併合した280年以降のものと考える余地がまだ残されている
のであれば、今までどおりの年代観論争に落ち着く話かも知れません。
また、河南の神獣鏡についても気になります。かつて、王仲殊氏が『画像鏡で
あって神獣鏡でははない』と述べられた鏡のことを言われているのではないか
と予想します。手元の史料では確認できません。
因みに、その河南鏡は呉鏡以上に三角縁神獣鏡のルーツを匂わせる鏡だったの
でしょうか?
266 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 23:27:22
実は、銅鐸に使われている銅はほとんどが中国製だそうある。
でも、銅鐸が中国製だと言う人はいない。これが、三角縁神獣鏡になると、
中国製だという人も出てくる。
使わなくなった銅鐸を溶かして、三角縁神獣鏡を作ったら、立派な中国製の銅
から出来た鏡になってしまう。スプリング8などの最新の機器を使って調査
した結果だといえば、素直に頭を垂れてしまう人もいるのだろう。
森浩一氏は、出土地と出土状況の確かなものでないと考古学の資料にはなり
得ないといっている。つまり、三角縁神獣鏡のような不確かなものを考古学の
資料としてはいけないというわけである。
まして、マスコミを使って宣伝するのは論外と言っている。
267 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 23:33:33
>>265 >>▲神獣鏡と江南の共通性なんてどこにも無い
文字が抜けていました
>▲神獣鏡と江南の(鉛には)共通性なんてどこにも無い
私のレスは気にせんでください。
森浩一氏は、出土地と出土状況の確かなものでないと考古学の資料にはなり
得ないといっている。つまり、三角縁神獣鏡のような不確かなものを考古学の
資料としてはいけないというわけである。
269 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 23:50:28
↑ ごめんなさい、またやってしまったでつ。ぼく
ここ、ちょと気になります、それで引用しようとして失敗
あとでもいちどレスするね〜
270 :
SOY:2007/03/03(土) 00:02:19
>>267 >▲神獣鏡と江南の(鉛には)共通性なんてどこにも無い
実は私もそのように考えています。異論があるかも知れませんが、
数値が近いだけという認識です。
271 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 00:03:07
>>266 すると馬淵久夫博士の調査した121枚の鏡の▲神獣鏡部分の調査報告は
無効だと?
その調査結果を利用し、安本氏なんて歪曲し、著書に掲載しているみたいだけど
272 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 00:19:00
>>266 >森浩一氏は、出土地と出土状況の確かなものでないと考古学の資料にはなり
>得ないといっている。
>つまり、三角縁神獣鏡のような不確かなものを考古学の
>資料としてはいけないというわけである。
二つに分けて引用しました。上の意見はぼく賛成です
ぼく持ってる考古学の本でいちばんたくさんあるのが森先生の本なんだ
でも下の意見おかしいと思います
出土地と出土状況が確かな三角縁神獣鏡は、ぜったい重要な資料ですよ考古学の
黒塚古墳からいぱ〜いでてきたて新聞で見たとき、ぼくドキドキしたよ
三角縁神獣鏡を考古学の資料としてはいけないて森先生言ってるの?うそでしょ
273 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 00:44:46
>>272 誤解を招くかもしれないので、そのまま引用すると、
出土地不明の銅鏡を分析すること自体時代おくれでしょう。(中略)
出土地不明の鏡は古美術品ではあっても、第一等の考古学資料ではありません。
この辺りは、考古学についての認識の違いといってすませることかどうか、
不安はつのるばかりです。
というわけで、三角縁神獣鏡の成分を分析し、それをマスコミに報道させる
ことを主として非難しているようですね。つまり、世論を誘導するような
報道の仕方のほうを批判しているのかもしれない。
275 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 01:23:22
>>266 引用が不正確です。
樋口がスプリング8の検査に用いた三角縁は、博物館所蔵品でほとんどが出土地不明。
贋物の混入もありうるため、その三角縁を資料として用いることは、ダメということ。
また、学会発表より前にマスコミに流したことも森の批判の対象になっている。
さらに、スプリング8は検査対象レベルで誤りがあるとされている。
このスプリング8の検査は、馬渕や新井とは別系統で馬渕、新井の検査結果自体は
信用されている。ただし、その解釈には違いがある。
馬渕は同位体比の違いを原料の銅の違いそのものと見るが、新井は「鉛の添加」という
視点を加味している。安本は馬渕説を好意的に引用している。
いずれにしても、三角縁の大多数が均一性の強い原料を用いているので、全部舶載
か全部国産かの結論を支持することになると思う。
>>274 「偽証」という言葉は煽りです。
>>229は、『有槨無棺』と 『有棺無槨』の異なる資料があると述べているので、
一方の資料のみの引用では批判の意味をなさないことは、理解できますか?
277 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 01:58:57
>>275 なるほど。そちらのほうが筋が通っている。こちらが不正確だったかな。
ところで、
>三角縁の大多数が均一性の強い原料を用いているので、
これについては、
銅研究の第一人者久野雄一郎氏が分析したところ、「分析した4枚の三角縁
神獣鏡の鉛の同位体比は、みな神岡鉱山に該当する。」というのを
目にしたのだけれども。
278 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 02:23:36
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279 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 02:37:57
>>277 神岡の鉛説は初期に唱えられた考えと記憶していますが、神岡鉱山の
鉛の同位体比は、三角縁の鉛の領域とは重なりません。
そのため、神岡の鉛ではないとされていました。
しかし、新井は銅に含まれる鉛と神岡の鉛との混合により、三角縁の鉛の
領域ができたのではないかということを述べています。
中国・朝鮮の鉛も三角縁とは別の領域であり、2種類の鉛を一度に使用する
とは考えにくいので、新井の考えにも一理あると思います。
281 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/03(土) 05:22:23
>>279 >>1のクマの絵を非難するのはやめてください。このスレの伝統です。
クマの目印で、このスレはすぐ見つかるので重宝してきました。愛着があります。
つくづく思うね
馬鹿な自演だと
>>276 >
>>229は、『有槨無棺』と 『有棺無槨』の異なる資料があると述べているので、
> 一方の資料のみの引用では批判の意味をなさないことは、理解できますか?
貴方の言っていることこそ全然理解できませんね。
何を理解しろと?「一方の資料のみの引用」とは何を指しての指摘ですか?
何故、そのような見当違いのコメントを貴方はするのですか?
何か悪意すら感じますが・・・善意だと言うなら「誤解」を解くため説明しますから、
貴方もちゃんとお返事くださいね。
まず、韓伝の記載が 『有棺無槨』であることは世情争いのない事実です。
貴方に別の認識があるなら「一方の資料のみ」でもかまいませんのでご提示下さい。
次に、貴方は、SOY氏の発言を理解しているのですか?
もともとは九州ですが氏の「韓伝は『有棺無槨』」と言う発言からのことですが、
刊本韓伝の記載は『有槨無棺』なのですから、この発言は事実誤認です。
そして、その事実誤認への是正に対し、SOY氏は次のとおりコメントを着けました。
> 韓伝は確か『有槨無棺』だったかと思います。(東アジア民族史1には
> 『有棺無槨』と書かれてしまっていますが)
SOY氏の言い分は、一つは「だったかと思います(有槨無棺)」だし、
もう一つは「東アジア民族史1に書かれたこと(有棺無槨)」と言うものです。
つまり、「とある解説本(?)の記載とは違っているが、自分の記憶では有槨無棺だ」と
言っているだけです(これでは「一方」も何も資料など提示すらしていませんな)。
何も「『有棺無槨』と書かれてしまって」いるのは「東アジア民族史1」だけでは無いのに、
簡単にできる確認行為も敢えてせず、「事実誤認のまま」関連する自論を展開させたのです。
そのような手法は偽り以外の何ものでもありませんよ。
284 :
283:2007/03/03(土) 07:35:33
【訂正】
誤)もともとは九州ですが氏の「韓伝は『有棺無槨』」と言う発言からのことですが、
刊本韓伝の記載は『有槨無棺』なのですから、この発言は事実誤認です。
正)もともとは九州ですが氏の「韓伝は『有槨無棺』」と言う発言からのことですが、
刊本韓伝の記載は『有棺無槨』なのですから、この発言は事実誤認です。
285 :
一応九州王朝説:2007/03/03(土) 07:40:53
>>281 気持ち悪いのは確かかもw 蓮思い出すガクブル
まあいろんな人が自由にバトルという意味ですが、私はどっちでも。
専ブラですし。
樋口氏のやり方は、どうもね。最小限の事をやって、最大限の宣伝
効果を求めた感じです。それで踊らされてしまうマスコミもやれやれ
ですが。それで邪馬台国論争が大きくなればなんでもいいんですか
ね。いずれにしても、こういう一点突破方式で今津氏が言うように
「古代史の謎を解く日も近い」なんて楽観的に物を言えるのは凄いw
私は、意図的なミスリードだと思いますよ、あれは。
仮に中国製であっても、即畿内説に有利とは限りませんよね。クリア
うべき事項は、枚数問題はじめ、山積みです。銅そのものが除州産
であっても、混合比がパターンの決まっている中国鏡と異なるのはど
うなのか。
>>266氏の言うように、銅鐸との関係の方が重要だと思います。仮説
ですが、銅鐸鋳造技術を受け継ぎながら内容を変更した、つまり政治
勢力の交替のためのアイテムだろうと。内容、つまり銘文や音韻、光ら
せる技術等は銅鐸と違うから引き継げないし、独自に高度なものを作
り上げるほどの文明力もなかった。そんなところでしょうか。
286 :
SOY:2007/03/03(土) 09:00:23
>>276 >
>>229は、『有槨無棺』と 『有棺無槨』の異なる資料があると述べているので、
> 一方の資料のみの引用では批判の意味をなさないことは、理解できますか?
了解です。私の言葉不足に問題があります。
私が『其葬有槨無棺』と見たのは以下のページです。
夫余伝のあたりでも同様の箇所があったかと思います。
【漢籍電子文献】
http://www.sinica.edu.tw/~tdbproj/handy1/ 第三者=私以外の検証をお願いします。
墓制の問題はこれからも論議されることがあるので、
この検証は意味があるのではと考えます。
私の言葉足らずから生じた問題ですが、
一つの議題として受け止めて頂ければと思います。
東アジア民族史1が正しいのか、漢籍電子文献が正しいのか
どちらもよく利用されるソースのはずです。
287 :
一応九州王朝説:2007/03/03(土) 10:29:58
>>286 夫餘伝
厚葬,有槨無棺
韓伝
無長幼男女之別.其葬有槨無棺
倭伝
其死,有棺無槨,封土作・ (点は冢)
そのサイトは以上です。
私の持ってる本は相変わらず埋もれて無理っぽいですが、その他
どこのサイトも韓伝は有槨無棺。その本が間違いと思えます。
288 :
SOY:2007/03/03(土) 13:41:54
>>287 一応九州王朝説
さっそくのご意見ありがとうございます。他の方の意見も気になるところ
ですが、私の中では、韓伝は『其葬有槨無棺』あたりに落ち着きそうです。
この件は以下の流れで論議を進める時などにかなり影響があると考え、
はっきりさせるべきことであるだろうと私は考えました。
1.倭国以外の墓制について書かれた文献の提示
2.その墓制記事の引用に誤りがないかを確認
3.その文献に対応するだろうと考えられる遺跡の提示
4.その遺跡と墓制記事が示す墓制とが年代的地理的に対応しているかを確認
5.その遺跡と墓制記事との整合性を客観的な視点で検証
6.倭国以外の墓制記事の信用度をある程度把握
7.この信用度を根拠の一つに倭国の墓制について検討
こんな論議になった時、例えば、2番でつまずくとかなり痛いです。
>>283 >簡単にできる確認行為も敢えてせず、「事実誤認のまま」関連する自論を展開させたのです。
それは私も日頃考えます。根拠薄弱、あるいはわざと捏造したような無作法な
発言を投げ入れ、誤りを指摘すると、論点をそらず、或いは、消えるといった
手法を使って、論点を深めない方をよく見かけます。
この議論ですら『偽証』という言葉を使って問題を提示した(煽った)方の
意見はこの後出てこないかも知れません。
289 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 13:53:01
>>288 Aで躓きます。
影印にての検証も必要でしょうし、なにより原本を見つけださなければなりません。
290 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 14:27:49
神武天皇の時代に、北九州から畿内に遷都しただろう。
その時代に、ヤマトは日向圏と出雲・大和圏に分裂したようだが・・・。
つまり、神武即位は日本国家の『統一』の始まりではなく、むしろ『分裂』の始まりになった。
日向勢力は、遷都に反対だったからね。「日向こそ、大八嶋の中心だ」と考えていたから。
この事実は、大和朝廷が記紀に書くことを避けた古代史のタブー。
291 :
276:2007/03/03(土) 17:47:55
>>288 ヤフーで「有槨 無槨 韓」で検索して、キャッシュで表示してみましたが、
『有槨無棺』、『無槨有棺』の2通りで混乱しているようですね。
>>283氏は
>韓伝の記載が 『有棺無槨』であることは世情争いのない事実です。
と言い切りますが、事実は異なります。
>簡単にできる確認行為も敢えてせず、「事実誤認のまま」関連する自論を展開させたのです。
>そのような手法は偽り以外の何ものでもありませんよ。
その言葉、そのままお返しします。
292 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/03(土) 19:08:03
>>283 「もともとは九州ですが氏の「韓伝は『有棺無槨』」と言う発言からのことですが」
すみません。僕はどこにこのような事を述べているのでしょうか?
探したけど見つからないのでお聞きします。もし本当ならそれ「有槨無棺」の書き間違いです。すみません。
手元の韓伝資料にもそう書いてあります。
293 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/03(土) 19:12:59
でも、
>>291さんの言う事が本当ならそうなのでしょう。
私は韓伝の信憑性ががどうこう言ってるわけではなく、
葬制について詳しく書き分けてある事を示しただけですから。
>>292 >>225 九州ですがさん
>「韓伝」「夫余伝」の葬制は「槨あって棺なし」です。
>>226 名無しさん
>韓伝は「有棺無槨」だし
となっています。九州ですがさんには何も落ち度はないかと。
295 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/03(土) 20:03:20
296 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 20:32:05
今日、銀座にいってきました。ひな祭りのせいか、暖かく好天に恵まれたせいか
凄い人出でした。しかし、銀座を歩く女の人ってきれいですね。新宿なんかとくらべると
しとやかさがあるというか、目の保養になりました。
しかしウンコな自作ですねw
今時銀座ってw
まだ六本木だろ。
299 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 22:22:50
300 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 22:46:19
>>298まだ六本木だろ。
とはどういう意味なのでしょうか?
六本木の女のほうが綺麗だとなら意味がわかりますが。
301 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 22:48:41
>>298まだ六本木だろ
とは、どういう意味なのでしょうか?ちとわかりかねますです。
302 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 23:07:27
「ALEXのALEXの寓居」
304 :
302訂正します:2007/03/03(土) 23:21:59
305 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 23:33:59
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
>>302さん、乙です。結局、テキストにした写本の違いなんでしょうか。
墓制は、日本への影響との関係で重要ですね。
ちなみに、豊田有恒『歴史から消された邪馬台国の謎』86頁は、東夷伝の訳が
ありますが、馬韓の部分で「棺桶はあるものの、墓の外郭はない。」と訳しています。
辰韓、弁韓部分は、墓制は記載なし。
東夷伝部分は全体を通して読んでみるのも良いですね。
倭国の扱いが別格になっていることが実感できます。
307 :
SOY:2007/03/04(日) 00:58:37
>>302 情報感謝です。リンク先はメモに残し、今後の研究に役立てます。
因みに猪野中行校氏の三国志と全く同じ箇所(夫餘伝、韓伝)を誤っている
東アジア民族史1には『汲古閣本を中心とし、百納本、武英殿本、南監本
を参照した。朝鮮史編集会編『朝鮮史』第一巻第三編別録によるところが
大きい』とありました。
また、東アジア民族史1の問題関連箇所の担当者は以下のとおりでした。
正 後漢書 夫餘伝 田中俊明、 井上秀雄
誤 三国志 夫餘伝 江畑武、 井上秀雄
正 晋書 夫餘伝 亀井輝一郎、井上秀雄
誤 三国志 韓伝 江畑武、 井上秀雄
猪野中行校氏と東アジア民族史1が何を介して同じ誤りとなったのかは
まだ不明ですが、少しばかり見えてきた気がします。
308 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 11:46:59
>>266 大体、その通り。
ただ銅鐸製造の頃については、日本国内で銅鉱石を採掘する施設・技術者・
採掘場はなかった為、金属器はすべて輸入されたと考えられるが、銅鏡が
国内鋳造されたと考えられる紀元後には、山口の長登や埼玉秩父、豊前等
の鉱山が開かれ、銅・錫・鉄・鉛等の鉱物資源の国産化が始まっていたと
考えられる。
また中国産の青銅で作られた日本の銅鐸は、政権・宗教の交代により破壊
または鋳潰されたと考えられるが、その際に鏡に再生産した場合、その同
位体年限の幅はより広く拡散する。これは青銅生産に使用される銅・錫・
鉛・炭素他の含有物質が、何回融解されたかにより異なる為である。
話題を変えましょうか。
>>308 銅については、私もいろいろな疑問があります。
1、日本産の銅はいつ頃から用いられたのか。
→三角縁の時代は原料は輸入で、それ以降ではないかと、見ています。
2、大量の銅鐸の原料が外国産となれば、その対価として何が用いられたのか?
→翡翠などの玉類、ヒノキなどの木材と見ています。
3、方格、内向、画文帯、三角縁などで日本製とされるものに、銅鐸と同じ銅を
用いたものはないのか。
→これは、よく分かりません。
4、銅鐸の年代はいつ頃なのか。
→私は邪馬台国とかさなる時期の100年以内の期間と見ています。
http://travel3.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
311 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 22:41:55
312 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 22:47:13
313 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 22:59:17
>>312 懲りないねえ。
相変わらず頭ごなしで非建設的なその書き方。
「有棺無槨」はもういいの?
314 :
312だけど:2007/03/04(日) 23:16:32
>>313 ちょっとちょっと・・・(絶句)
誤解してるね。おれは
>>283じゃないよ。
韓伝の葬制はSOYさんが正しいと思うよ。
315 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 23:28:28
そうか、
>>283の反コテ粘着じゃないのか?
数年来、畿内説論者でまともな会話能力と礼儀のあるレスは、ほとんど
見かけたことがないんだよね。それが畿内説の現状なんだろうけど。
>>312の書き方も議論しようとする意欲が感じられない。
ともあれ、銅鐸の年代については、いろいろ議論が分かれているけど、
畿内にできた王権の抑圧で終焉となったとみる見方が根強いから、
九州説でも畿内説でも邪馬台国時代と重なる年代観はありうると思うが。
>数年来、畿内説論者でまともな会話能力と礼儀のあるレスは、ほとんど
>見かけたことがないんだよね。
九州説でも見かけないな
てか2ちゃんとかじゃなく現実世界に存在する考古関係者と話をしたことあります?
317 :
312だけど:2007/03/04(日) 23:49:55
>>315 おれが
>>312をレスしたのは、銅鐸の出現時期は、少なくとも弥生中期初頭には
遡りまっせと
>>309に言いたかったから。出現はどうみても紀元前だろう。
邪馬台国問題に関してなら、その終焉時期のほうが、出現時期より遥かに重要だ。
それは理解できるし、きみ(315)の言いたいことも、おおよそ推察できる。
とくに三河・遠江の三遠式銅鐸は最後まで残り、ヒミコ女王とギリギリで重なるかもね。
318 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 00:20:23
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
319 :
SOY:2007/03/05(月) 00:25:06
>>313 >「有棺無槨」はもういいの?
自分の中で勝手にペンディングしてました。でも、それではあまりにも
無責任な気がするので、とりあえず、今現在の自分の予測を書きます。
まだ、根拠脆弱な段階なので、あくまでも参考ということで…
1.『東アジア民族史1』のテキストは主に汲古閣本と書かれていました。
2.『猪野中行校氏の三国志』のテキストは夫餘伝の『大使』が『犬使』に
なっていることから、これも汲古閣本であると予想しました。
3.汲古閣本を見ていませんが、二つの書物が同じ書き損じをする可能性は
低いと考え、『有棺無槨』の出所は両方の参照元と予想する汲古閣本で
あると考えました。
4.一方で『有棺無槨』を検索している時に『通志』にもそのように記述
されているとの情報を見つけました。
5.また、『写本魏志』−『刊本魏志』−『通志』の流れがあるとの見解も
見つけました。
6.そこから『有棺無槨』は我々がよく知る『紹煕本』−『百衲本』の流れ
とはまた異なる系統の記述と解釈しました。
7.因みに『通典』も同じ過ちをしています。
底本を手にいれるのが困難なので、私はここで一旦調査を終了しました。
320 :
309:2007/03/05(月) 01:05:01
>>317 >出現はどうみても紀元前だろう。
そこまで古くみていないのですが、北部九州で多く発見されている
朝鮮式小銅鐸や初期型銅鐸を含めれば、銅鐸の出現を早くみる
ことができると思います。
ただ、なぜかこの初期の銅鐸は軽視、無視される傾向にあるので、
出雲〜東海の銅鐸を中心として、年代観を考えた場合、流通期間は
それほど長くはないという見方をしています。
なんつーか、紀元前に遡ることを疑うものはもういないだろうに。
加茂岩倉・神庭荒神谷の銅鐸のほとんどが紀元前ということも、
疑うものはもはやほとんどいないだろう。
322 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 02:56:16
「棺」について
素朴な疑問ですが回答キボンヌ。研究されてる人ヨロシク
・今お葬式で使う木の棺… 「棺」だと思います。遺体を収めて何人かで運べる。トラックにも積める
・割竹形(刳抜型)木棺… 「棺」だと思います。遺体を収めて何人かで運べる。トラックにも積める
・甕棺… 一応「棺」だと思います。遺体を収めて何人かで運べる。トラックにも積める
・石棺(割竹形、長持形、舟形、etc)… 重いけど「棺」だと思います。遺体を収めて、工夫すれば何人かで運べる。トラックにも・・・
・陶棺… やはり「棺」だと思います。遺体を収めて何人かで運べる。トラックにも・・・
・箱式石棺… これは「棺」と言えないのでは? 遺体を収めて何人かで運べる、といったシロモノではない
http://www.mogurin.or.jp/maibun/data/words_img/nariokahakoshiki.jpg つまり箱式石棺は「棺」とは言うが、一種の「構造」であって、倭人伝の「有棺」に当たらないのでは、という疑問です
それと、死者が息をひきとって箱式石棺に収まるまで、どうやって運んだかも疑問です
中国にないものを見た中国人が、それを中国にある語意で表現しなければならなかった。
その時に、何を棺と呼び何を槨と呼ぶか、こればっかりは永遠にわからないのでは?
という気がするけどね。
>>322 >それと、死者が息をひきとって箱式石棺に収まるまで、どうやって運んだかも疑問です
………………、こ、こ、怖いよ〜〜〜ッ! ウェ〜〜〜ン……、お、おねえちゃ〜〜〜ん!
325 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 04:06:14
>>322研究されてる人ヨロシク
研究はしてませんが 一言、この写真では石棺が崩れているように見えます。
「倭人伝の「有棺」に当たらないのでは」の指摘ですが、問題はその石棺の周りがどうなっているかで、
古墳時代のような石室があるならこれは石棺だという事になるでしょう。
恐らく元はきちんとした石棺で、地震や何かで長年のうちに崩れてこのようになったものだという方が可能性が高いのではないでしょうか。
326 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 04:20:50
銅鐸ですが、古事記や日本書紀に全く登場しないのが気になります。
8世紀に大和地方ではじめて見つかったとき「これは何だと皆あやしんだ」と記録にあり、
この頃既に銅鐸の記憶が人々に忘れ去られていた事がうかがえます。
大事な祭器なら、神社に奉納して鏡のように遺されていても不思議じゃないのに
なぜか、殆どが山の中にポツンと埋められていたりして発見するのが困難らしいです。
260キロもある銅鐸もあり、当時貴重な銅をふんだんに使ってなぜ廃棄同然に祭祀と関係なく埋められたのか、
神武の東征が拘わっているという説もあります。
327 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 06:25:07
>>326 銅鐸・銅矛・銅剣などの青銅器祭祀具には埋葬儀礼という祭祀形態が存在します。
銅鏡の破鏡が廃棄されたものではないのと同様に、銅鐸埋葬にも形式化された埋め方があります。ですので
>廃棄同然に祭祀と関係なく埋められたのか
この考え方は成立しがたいでしょう。
むしろ保存のための埋蔵との側面が強いです。
328 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 06:31:31
また意図的に破壊された銅鐸片群も数多く出土例がありますが
これも他の文化や勢力に侵略されたものなどではなく、そういう宗教であると考えざるを得ません。
銅鐸祭祀終焉の問題は、同時に銅矛・銅剣祭祀終焉ともリンクして考えるべき宗教変遷の問題ですので
銅鐸だけをことさら取り上げる必要性はないと思います。
329 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 08:42:30
>>327 銅鐸は、つねに、人目につかない谷問の斜面や、山腹などに、とく特別な施設もなく埋められた状態で、発見されることが多いようです。
それに銅鐸は、祭りの道具でありながら、祭りの過程で、祭りの目的にそって埋められたとは、みなされないようであるようだし、
とにかく伝世したと思われる初期の磨耗した銅鐸と、出来て間もない新しいものが同時期に埋められていたりして謎が多い。
でも>「保存のための埋蔵」は無いと思います。
330 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 10:19:04
銅鐸は祭礼儀式に用いる宗教的意味合いを持つ物であり伝承の対象となってしかるべきである。
しかし大和地方の伝承に全く現れないばかりか、古事記、日本書記にも出てこないのは不自然。
大和朝廷の神話に鏡、剣は出てきても銅鐸は出てこない。
これは大和朝廷が銅鐸文化と違う文化、「鏡、剣文化」を携えていたからではないだろうか。
>>323 中国人が見たとも断言できないんじゃないかな?
倭人から聞いた話と言う可能性も。
332 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 13:17:28
>>326 260キロもある銅鐸
最大の銅鐸は、45.47キログラムの滋賀県野洲市の大岩山銅鐸なので、
http://www.city.yasu.shiga.jp/map/24.html 260キロというのは、一度に出土した合計の重さのことではないかと思います。
>>327 >>329 「保存のための埋蔵」
銅鐸が巨大化した最盛期に突如終焉したという事実からは、外来勢力による抑圧は
あったと思います(寺沢は特殊器台に昇華したという見方ですが)。
しかし、私物ではなく祭祀の器物として、初期の頃(初期型)から銅鐸は埋蔵され、
使用のたびごとに掘り出されていたと考えられるので、少なくとも末期以外の
銅鐸は保存のための埋蔵と見たほうが良さそうです。
333 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 13:30:32
今のメタルショックの現状を見ると、貴重な銅が奪われるのを恐れて
戦争状態の間は埋めてたんじゃないかな。
335 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 14:25:40
>>332「260キロというのは、一度に出土した合計の重さのことではないか」
そうですね。しかし「銅鐸は埋蔵され、 使用のたびごとに掘り出されていた」これは一体何故なんでしょうか。
銅の腐食を嫌ってのことなんでしょうか?緑青を吹いてもそんなに支障は無いと思いますが。
336 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 15:50:17
>>335 一番一般的な説は、文様からも判るように五穀豊潤祈願の為に大地に埋めたというもの。
このあたりを詳しく知りたいのなら、金関恕氏の一連の著書が参考になります。
それと細かいようですが、銅鐸は祭祀というよりマツリですね。
一般に古代史学では、ムラ・クニなどのように現在の概念とやや異なる用語を使用する際
このようにカタカナ表記を使います。
言葉の意味での行き違いを防ぐためにも、これらの用語で統一したほうがいいと思います。
まあ、弥生式の鐘だよね。
339 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 17:17:16
>>337 >>334のソースは本文冒頭にあるように
>このページは、参考文献4所収の『高倉洋彰「銅鐸への道」』に全面的に依拠しています。この本は、20年も前に出版されたものですので、現在は大きく状況が変わっている可能性があります。
やはり状況がかなり違っている。
まずこのサイトで言う弥生区分は歴博新年代以前の概念であること。
次に北部九州で相次いで出土した初期型銅鐸、また和歌山県の銅鐸鋳型などのデータが加味されていないこと。
別にサイト管理人にケチをつける気はないので、基本的概念はこれでいいとして出来るだけ新しい資料を参考にすべきだと思う。
340 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 17:21:13
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
341 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 17:28:12
>>336 五穀豊穣を祈念して埋めたということですが、祭祀儀礼と関係の無い場所から多く出土するのはどういうわけでしょうか?
普通なら人里近い田んぼや、集落の近所で祭りをし、儀礼にのっとってに埋められるはずなのですが、前述したように、
銅鐸は、つねに人目につかない谷問の斜面や、山腹などに特別な施設もなく埋められた状態で、発見されることが多く、
祭りの道具でありながら祭りの過程で、祭りの目的にそって埋められたとは、みなされないようですが。
>>341 >銅鐸は、つねに人目につかない谷問の斜面や、山腹などに特別な施設もなく埋められた状態で、発見されることが多く・・・
この情報そのものが古い。
銅鐸に関しての専門書を2,3冊読んでみることをお勧めする。
343 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 17:54:43
>>341 続き
それに、これも前に述べましたが、8世紀に大和地方で最初に銅鐸が発見されたとき人々はあやしく思い、
「今までのどんなものとも違っている」と記録しています。たった数百年で人々の間から完全に忘れ去られる祭礼道具などあり得るのでしょうか?
鏡や剣が、永く受け継がれているのを見るにつけ、銅鐸が神社に奉納され信仰の対象となって然るべきかと思います。
祭礼とは関係なく後世の人が掘り出して、神社に奉納した物は除くとして、弥生時代からの伝世物があればお教え下さい。
344 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 18:04:19
>>343 >たった数百年
これは五〜六百年の間違いですよね。
鏡も剣も長く受け継がれてはいません。何度か断絶を繰り返している可能性が極めて高いですし
少なくとも弥生後期にあったとされる葬送儀礼と6世紀以降の大和朝廷のそれとは関連が薄いと考えざるを得ません。
とりあえず剣や鏡は儀礼断絶があったのにせよ、出土すればそれが何であるかは判りますが、銅鐸はそうはいかんでしょう。
また忘れられた祭祀具や施設の例は歴史上山ほどありますよ。
>>339 北部九州で相次いで出土した初期型銅鐸
これの解釈はどうなんでしょう。私は、朝鮮式小銅鐸も九州から多く出土していることと
併せてみると、朝鮮式小銅鐸を起源とする方向での発見と見ていますが。
346 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 18:05:32
>>342 >銅鐸は、つねに人目につかない谷問の斜面や、山腹などに特別な施設もなく埋められた状態で、発見されることが多く・・・
この情報そのものが古い。
しかしこれもまた事実ですよね。これに関してはどんな見解をお持ちですか?
347 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 18:10:40
>>343これは五〜六百年の間違いですよね。
ではないと思います。邪馬台国には銅鐸の記録は無いから、その後として400年以降、
700年代に発見されていますから、せいぜい300年前後でしょう。
348 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 18:13:14
ですが氏は他の人のアドバイスにもあるように
まず様々な専門書や資料を読んでから書き込むようにすればいいのではと思います。
特に最新データは必須です。そこから導き出された仮説に従うかどうかは別として
正しいデータが抜けたままではまず正解にたどり着けません。
おそらくほとんどの方は今も資料収集や解析に相当の時間を割いているはずです。
ネットに向かう時間を減らして、まずそちらの作業を優先すべきかと思います。
ネットから得られる情報などたかが知れていますし、まず精度に問題がありますから。
これは別に書き込むなと言っている訳ではありませんので念のため。
>>347 ???銅鐸祭祀の終焉は地域差もあるが、200年あたりだぞ。
邪馬台国に銅鐸の記述がないってのは倭人伝を指すのだろうが、それとて250年あたりの話だ。
何か勘違いしてない?
銅鐸が400年まで使用されていたってのは初めて聞いた。
ソースは?
351 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 18:26:59
>>344 >>347は
>>344の間違い。
「鏡も剣も長く受け継がれてはいません。何度か断絶を繰り返している可能性が極めて高いですし」
これも違うと思います。鏡も、剣も三種の神器であり、日本書記でも鏡と剣は重要な地位を占めています。
古代から信仰があったことがうかがえます。しかし銅鐸は発見された当時から何をするものなのか不明でした。
今でもよく解っていず想像に過ぎません。やおよろずの神が 使ったという伝承も遺されていません。
「大和朝廷のそれとは関連が薄いと考えざるを得ません。」これも違うと思います。
古代の伝統を、代々の天皇家は受け継いできています。神社の建物も伝統的な南中国の建物そっくりです。
神代の時代から今日に至るまで、長い歴史を誇る大和の国が、その正式な流れにおいては、伝統的な祭祀儀礼を
途絶えさせる事など考えられない事です。
>>349 銅鐸の終焉が200年あたりとありますが、
新しく見る根拠としては
1、邪馬台国九州説に立って、東遷後に銅鐸の禁圧が始まったと見る。
2、銅鐸の文様と特殊器台の繋がりを肯定し、特殊器台を新しいものと見る
考えに立つ。
3、朝鮮式小銅鐸を起源と見て、弥生中期中ごろから銅鐸が始まったとみる。
4、銅鐸の製造技術(銅を薄く、大きく加工する技術)の面から銅鐸を新しくみる。
5、崇神60年条の出雲の神宝を差し出させる記事を銅鐸と関連付けて考える。
6、九州、畿内の土器の並行関係を否定して、畿内の土器編年を昔のように
新しく見る(庄内式の九州起源という考えに立つ)。
などが、考えられます。私は定まった考えはありませんが、新しく見る方向で
考えています。
>>351 まったくの思い込み
つーか彼はそういう思想の持ち主なのね
だから逆に最新データなんて読みたくないんだwすべて否定されるからw
354 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 18:48:02
あのー。結局ですね。僕が言いたいのは、どうして銅鐸文化の畿内とと、邪馬台国がかぶっているのなら
倭人伝に銅鐸の記述が無いのか?伊都国で魏使が見聞しなかったのでしょうか?
伊都国あたりでどうして銅鐸が出土しないのでしょうか?大和朝廷の歴史、神話ににどうして銅鐸が出てこないのでしょうか?
口承伝説の類にも無いのでしょうか?などを教えて欲しいがため銅鐸の話を敢えて出させてもらったわけです。
>>353 他人の考えに寛容になろうよ。
自分が違う考えなら、理由とソースをひたすら書けばいいだけのこと。
>>332 みたいに。
専門文献や学者の羅列だけで納得する人はここには居ないんだから。
>>352 1、まず東遷の時機をいつと見るかによって反論は変わるが、基本的に九州の文化が畿内にほとんど流入していない件についてはどう思うか?
2、1と関連して東遷があったにも拘らず、なぜ吉備の祭祀を導入するのか?
3、これに関しては上で意見が割れているが
>>321の加茂岩倉・荒神谷の銅鐸はどう説明するか?
4、これはそれほど難しい技術ではない、類例はいくらでもある。
5、コメント不可。
6、これが問題なのだが、そこで新たな編年を提示しないと説得力がない。
また北九州出土の庄内式の一部に播磨産や淡路島産の土が使われている事実をどう見るか?
ちなみに畿内出土はほとんどこの2地点の土を材料にしている。逆に畿内で北九州産の庄内式は時代が下らないと出土しない事実もどう見るか?
>>354 朝鮮式銅鐸や初期型の銅鐸は、伊都国、奴国の領域でいくつか出ています。
・・・・・となると、魏志に銅鐸が書かれていないのは、何故なんだろう。
儀式の時だけ掘り出して使っていたから、魏の使者が見なかったのか。
九州では、初期型以降はすたれたのか。
358 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 19:02:27
>>354 基本的に邪馬台国の時代(と考えられる3世紀)には
畿内・東海も銅鐸文化は衰退しているんですよ。
九州は祭祀具としては初期の段階にごくわずかの例しか採用されていません。
3世紀の伊都国にはまったく存在していなかったものです。
あなたの
>>347の説明だとその時代に銅鐸はなかったことになりますが
矛盾しているのが次に400年という数字を出してきたことです。
邪馬台国の頃に無かったのなら、それ以前に消滅したと普通は考えるでしょ?
それとも400年頃と推定される出土例が何かあるのですか?
359 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 19:02:31
>>357 少なくとも邪馬台国時代は畿内では銅鐸は最盛期なんでしょう?
僕は銅鐸の元となった中国の古代の楽器、鈴、鐸の類ですか、あのでっかい類似品をみたら、
魏使もびっくりしたと思うんですよ。でもかすりもしていない。それは何故だ?というわけなんです。
360 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 19:03:53
>>357 出土していますが時代がまったく違いますよ。
>少なくとも邪馬台国時代は畿内では銅鐸は最盛期なんでしょう?
ああ、そこを勘違いしているわけか
というかそういう説を採っているわけだ
しかしそれはいくらなんでも根拠が乏しいな
銅鏡を新しく見る九州説はここでも何度か読んだが、銅鐸まで新しくするのは無茶じゃないか?
362 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 19:09:03
>>358矛盾しているのが次に400年という数字を出してきたことです
これは大雑把な数字なんですよ。邪馬台国、卑弥呼が死んだのが248年ですか、
それから50年ほどトヨで続いたとして、その間銅鐸は邪馬台国近辺では無かったろうという計算です。
伝世するかもしれないと思ってこのように出してみました。
363 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 19:10:46
ではごはんですのでゴメンなんしょ。
>>356 1、三種の神器などは九州起源と見たほうが良いと思います。
2、特殊器台は、一つの考え方として述べたので、私は寺沢説は半信半疑です。
3、加茂岩倉・荒神谷の銅鐸の年代観を根拠にもってきたら循環論になります。
4、これは見方の違いでしょうね。
5、私も崇神の時代まで出雲で銅鐸が使われていたとは考え難いと思いますが、
気になる記事です。
6、ソース不明で信用性が判断できません。ただ、九州の庄内式は前古墳時代の
遺跡、墳墓からの出土が多いのに対して、畿内は古墳時代が多いことや、分布の
範囲は九州のほうが広いことなどから、九州の方を古く見る要素があります。
また、朝鮮式小銅鐸を銅鐸の起源とするのであれば、土器編年を新しくみるほか
ないと思います。
>>361 こちらもなぜ話が噛み合わないのか理解しました。
ちょっとこの手の無理矢理九州説にはついて行けないような・・・
もし銅鐸が400年まで畿内・東海にあったとするならば
当然初期前方後円墳・後方墳は5世紀以降ということになり
巨大化する大仙稜などは7世紀、今城塚などは8世紀以降になってしまうのですが
奈良時代や平安時代はいつごろから始まるのでしょうか?
まさか箸中山から壬申の乱までを300年以内に濃縮する説ですか?
366 :
唐松山:2007/03/05(月) 19:31:46
ほつま では、
銅鐸 が 1ヶ所でてきます
時代は、垂仁
場所は、山代?だと想いましたが 細々と使われていた。
367 :
356:2007/03/05(月) 19:34:45
>>364 1、三種の神器の概念は6世紀以降のものです。
2、寺澤説に準拠せずとも、吉備の祭祀形態が古留0以降採用され、前方後円墳そのものが阿讃の築造技術を以ってしている時点で
九州勢力が畿内に君臨した根拠は崩れるとは思わない?
また鉄の保有量が古墳時代に入っても九州>畿内(村上説)なので、東遷はそちらのデータからも考えられない。
4,5、略
6、石野博信「大和・纏向遺跡」に論文概略あり。
また西新町調査報告書や兵庫県教委報告書など、数え切れないほどソースあり。
>>367 6、石野博信「大和・纏向遺跡」に論文概略あり。
サンクス。帰ったら確認します。似たような記述をどこかで見た覚えがあったが、
どこで見たのか思い出せなかった。
369 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 19:40:09
わたしは352ではないし、べつに東遷説の信奉者でもないのだが、
>>356 >基本的に九州の文化が畿内にほとんど流入していない件についてはどう思うか?
この問題設定には、やや違和感というか、失礼ながらやや独善的な感じをもった。
設問の2に「吉備の祭祀の導入」云々とあるから、畿内の初期前方後円墳のことを言っておられるのだろう。
では、初期の前方後円墳に、九州の文化は何ひとつも流入していないのだろうか?
箸墓、西殿塚古墳の主体部は未調査なのに、「基本的に九州の文化が畿内にほとんど流入していない」と、
あなたはどうして言えるのだろうか?
370 :
356:2007/03/05(月) 19:47:56
>>369 「ほとんど」と「何ひとつ」はかなり違うんだけど、まあいいや。
逆に未調査の墳墓など例に出さずに、ホケノ山の副葬品や柱状遺構が果たして北九州の直接流入の結果なのかを論じてみてはいかがかな。
また奈良盆地以外の初期型前方後円墳、特に赤塚や那珂八幡に九州伝統の築造技術や墳墓形式が使用されていない点などはどう見る?
371 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 20:04:27
>>361 400年といったのは、銅鐸は磨耗した後など伝世した形跡があることから、
400年くらいまで人々の記憶にあったものだとしたもの。
倭人伝が書かれたとき、銅鐸の存在が筆者の耳に入っていないことを想定しているもの。
372 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 21:36:22
>>370 >ホケノ山の副葬品
だいたい、墓というか棺に副葬品を入れるというのが、北九州の文化だと思うが。
それまでの畿内にそのような習慣はあったのだろうか。
さらに、畿内の銅器といえば銅鐸のはずで、鏡があることも畿内の文化が
連続しているとは思えず、北九州の文化と思うが。
>>371 銅鐸の製造も祭祀も、庄内期を境に行われなくなったとされるらしい。
つまり、銅鐸は、庄内期が始る直前に畿内から消滅した。
庄内期がいつ始まったかについてはまた別の問題だが。
373 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 22:03:56
>>370 >「ほとんど」と「何ひとつ」はかなり違うんだけど、まあいいや。
これは失礼した。誤解した点はお詫びする。
ただあなたが吉備の影響は肯定されているようだから、自分としては特殊器台のある古墳に限って、
それも初期大和王権の大王墓にふさわしいと思われる2古墳にかぎって、
「内部は未調査だけど、もし将来、大型の内行花文鏡でも出てきたらどうするの?」と危ぶんで、疑問を述べさせてもらった。
ホケノ山はたしかに阿波の影響下にあるのだろう。だが特殊器台も円筒埴輪も無かったホケノ山が、畿内の初期古墳のすべてを具現している墳墓・・・とは思わない。
内部主体・副葬品が判ったのはまだホケノ山、中山大塚、黒塚、下池山、天神山、それに桜井茶臼山とメスリ山ぐらいじゃないか。
しかも、黒塚などの「銅鏡の多数副葬」という事象は、北部九州の弥生文化と共通する。
ほう製鏡の製作技術・・・、これは九州以外の弥生期の本州で、どこかやっていたのだろうか?
また下池山からは、平原を彷彿とさせる大型の内行花文鏡が出てきた。ま、破鏡と完鏡の違いはあるがね。
「基本的に九州の文化が畿内にほとんど流入していない」・・・この「基本的に」が、ものすごく独善の感じがして、イヤなんだよ。わかってくれ。
374 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 22:23:24
>>356 1・東遷したからといって九州の文化が畿内に流入する必要は無いでしょう。中国なども征服者の側が漢風になった。
九州は吉備と同盟して進んだ土木技術を携え、畿内に向かったと考えれば辻褄が合う。
九州が畿内と同化し、今度は畿内が文化の発信源として各地に影響を及ぼす事になる。
九州の文化は埋没したのではなく、鏡、剣、などいわゆる三種の神器などに残っている。
ちょっと話が逸れるけど、荒神谷遺跡では、銅剣、銅矛、銅鐸が大量に発見され、
他の遺跡でも、銅鐸など実践的でもない神器が結構出土している。
瀬戸内辺りにある高地性集落の時代や狗奴国との戦争の時代などに重なるならば、
その銅を実践的な武器にするのではないかとも思えるのだが。
考え方としては、
1、鉄器があるので、銅の武器はいらん。
2、神器と武器は別腹。
3、戦争状態は一時的なもので、概して平穏だった。
4、時代が重ならない。
5、神器もかざせば軍旗のような武器になる。
376 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 22:39:15
>>375さん
>考え方としては、1、2、3、4、5、
GJ! ことごとく、イイ線いってるんじゃないっすか
別腹は楽しい表現ですね。おたがい太り過ぎに気をつけませう
よい流れですね。勉強になります。ありがとうございます。
もひとつの疑問は、鉄器は北部九州がほぼ独占していた時代でも、
銅は出雲〜東海に大量に出回っていた。逆に言うと、銅だけが大量に流通。
これは、北部九州が鉄器の入手で価値の落ちた銅を出雲〜東海に回し、
その交易で得た玉類などを鉄器入手のための交易に使ったということか?
そうなると、北部九州と出雲〜東海(大国主王国?)は友好的な関係が
ある程度続いていたと見たほうがいいのだろうか。
記紀でも基本は友好で、最後に国譲りとも見える。
379 :
356:2007/03/05(月) 22:55:11
>>372&
>>373 まず「基本的に」と断ったのは畿内の3世紀初期古墳においては
「形式的に」2世紀後半の北部九州に顕著であった数々の特徴が見られるということは前提として語っているんだ。
あなたが例示してくれたもの以外にもホケノ山における鉄鏃の大量副葬もそうだね。
ところがあくまでもこれは宗教観そのものが流入したわけではなく、形だけのものなんだよね。
言い切ってしまえば、先進ブランドであった北部九州の葬送儀礼の真似事なんだ。
すでに後漢鏡の入手が困難であった3世紀に、突如としてあらゆる意味で後漢鏡に劣る肉彫り鏡を取り揃えたりするところなど
なぜ鏡や鉄器が副葬品として選ばれたのかの意味さえ知らずに、形だけ真似したようなある意味田舎者的な成金趣味と言って良い。
特にホケノ山の鉄鏃に関しては、吉備の様式のものが使用されていることからもそれは裏付けられる。
一昔前に言われたように、ヤマト連合が一方的に北部九州を飲み込んだとは今はほとんど考えられていない。
むしろいつの時点で老舗の北部九州がヤマト連合に参加したのかが焦点なんだ。
独善的とは取らないで欲しいのだが、これでなんとか納得してくれるだろうか?
またオオヤマト古墳群のほとんどはすでに盗掘坑が確認されているので、何も出てこないと思う。
おそらく鎌倉時代にはあらかたかっさらわれているだろう。
それでも内部調査を熱望するのは、墓室形式と築造工法を知りたいためだ。
380 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 22:59:31
>>366さん
が言われているように銅鐸文化が衰退したとはいえ、完全に姿をけしたとは言えない訳で
細々と受け継がれている場合もあるだろうし、何百年か伝世している場合もあるだろう。
そして徐々に失われていった、と考えるならば、邪馬台国に銅鐸が伝わっており、倭人伝に記述があるはずである。
それが無いのは、単に時代がずれていたのではなく、邪馬台国が銅鐸文化圏に無かった為である。
381 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 23:06:03
>>378 国譲りであり争いではないと思う。代わりに大きな神殿を建ててもらい宮司になった。
日本書記にもまず相手に水飴を与えて懐柔した、とある。
吉備、出雲の連合軍で畿内に向かったと考えられる。
382 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 23:07:00
>>380 >細々と受け継がれている場合
銅鐸が? うーん、どうかな・・・。
しかし、あるムラだけまるで隠れキリシタンの秘儀みたいにこっそり・・・だったら、(100%ないとは言えんが)
いくらなんでも魏志に記載されることなんか、ないのと違うか?
いったい誰がどうやって中国側に伝えるんだよ?
384 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 23:35:50
「最終期とみられる突線紐式銅鐸は、畿内中心部から消えて、むしろ畿内周辺部の
地域、具体的には紀伊の田辺湾周辺、近江の琵琶湖南岸、土佐東部沿岸、三河、
遠江といった地域に主に出土する。」 宝賀寿男、「『神武東征』の原像」244頁。
この事実なんかは、東征後初期は畿内中心では銅鐸は使われず、周辺地域では
依然として使われていたという見方につながると思うのだが。
387 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 04:12:14
>>386「銅鐸の起源を朝鮮式銅鐸とみて弥生中期以降に 九州で始まったとみる方が良いのではないかと思います」
九州で始まったにしては数が少ないと思いません?
それに畿内では3世紀には銅鐸は廃れて影も形も人の記憶からさえ無くなったと誰か言ってましたよね?
「吉野ヶ里の銅鐸は弥生後期以降」という事で、これも前スレで「邪馬台国時代は吉野ヶ里は衰退していた」といってたが、
全盛期から見ると衰退でも、ちゃんと人が住んでいたという証になると思うし、
僕は朝鮮式銅鐸は、早くから九州に伝わっていた可能性は否定しませんが、その後畿内で製法が開発され銅鐸文化として根付き、国産化されて、
それが遅ればせながら吉備を経、次第に九州に伝播して来たんじゃないかと思うんです?
弥生後期以降頃には吉野ヶ里では銅鐸を使っていた可能性があるが、邪馬台国時代は使っていなかった。という事になるのかな?
まさか神の手じゃないでしょう。
388 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 04:44:13
とにかく邪馬台国時代に、伊都国など北部九州で同時代の銅鐸が見つかったいないことと、
倭人伝に記載されていない事は一致を見るし、
>>386を例に取らせてもらうと、
「岡山市高塚遺跡の銅鐸は、弥生後期始め頃 」ということで、邪馬台国と重なることから
{畿内説では、水行十日、陸行一月を畿内までの道程と取るので}
吉備などの銅鐸文化圏を通過している事になり、見聞しなかったのだろうか?という疑問が湧く。
魏に無いあのような不思議なものを何一つ書き記す事無く通過したのだろうか。
389 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 06:48:44
354 :九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/05(月) 18:48:02
あのー。結局ですね。僕が言いたいのは、どうして銅鐸文化の畿内とと、邪馬台国がかぶっているのなら
倭人伝に銅鐸の記述が無いのか?伊都国で魏使が見聞しなかったのでしょうか?
伊都国あたりでどうして銅鐸が出土しないのでしょうか?大和朝廷の歴史、神話ににどうして銅鐸が出てこないのでしょうか?
口承伝説の類にも無いのでしょうか?などを教えて欲しいがため銅鐸の話を敢えて出させてもらったわけです。
ヒント
邪馬台国は一つの国ではなく、多数の文化や風習の違った、国々の連合国
です。
江戸時代で天下統一した後でも、大名はそれぞれ違った文化・風習で支配
していたでしょ。
いま現在でも、冠婚葬祭が全国でおなじであるわけじゃない。
言葉も、衣食住すべてが統一されていたわけじゃない。
だから、通称:魏志倭人伝に記載されているのは、ある特定の国のある
特定の風習などを言っていることです。
少しヒントが詳しくなりすぎました。
390 :
一応九州王朝説:2007/03/06(火) 06:59:41
私も銅鐸=九州起源説が面白いかと思います。
鋳型は出てますよね。
東に人も技術も移動していったのが弥生時代だと思っていますが、
そのいつの時点かで銅鐸が伝わり、それが巨大化していったので
はないかと。
確かにへんな所から見つかるんで、隠したり放棄したりと思うんです
が。でも、常に敵対的関係で、例えば銅鐸狩りのような事が行われ
たのかどうかといえば、平和裏に放棄したケースもあったでしょうね。
気比銅鐸は茨木製は確定でいいんじゃないかと、土器も見れば思う
んですが、そういう物流と稲作伝搬との関係ですよね。知りたいのは。
あと、銅鐸王国の規模や内実がわかれば・・・。むりですよねw
王国と言っても、銅鐸文明圏全部が一体となっていたとは考えにくい
ので、連合体なのか、朝貢関係なのか、どうなのか・・・。或いは共通
の利害に立った同一勢力かどうかもなんとも言えませんね。
難しいです。
墓制も祭器(?)も大きな断絶があるのは、畿内については間違いな
いとは思います。
391 :
373(=369):2007/03/06(火) 07:40:39
>>379 前にも言ったがわたしは東遷説信奉者じゃない。邪馬台国は畿内だと思っている。しかし自生説には与しない。
だから、あなたとそんなに意見が違うわけでもないと思うのだが、先の二つのレスみたいな書き方はイヤなのだ。日本語の使い方の問題、といっていいかもしれない。とくに「基本的に」の用法。
>>356 >まず東遷の時機をいつと見るかによって反論は変わるが、基本的に九州の文化が畿内にほとんど
>流入していない件についてはどう思うか?
>>379 >まず「基本的に」と断ったのは畿内の3世紀初期古墳においては「形式的に」2世紀後半の
>北部九州に顕著であった数々の特徴が見られるということは前提として語っているんだ。
上の
>>356だけを読んで、あなたが
>>379のように考えていることなど、解るものですか!
「基本的に」は、最近のテレビの討論などを見ると、まるで口癖というか、「えーとですね」代わりに使っている連中を見受けるが、そんなに軽い言葉か。
わたしは
>>356を読んで、「九州の文化が畿内に流入していないのは通説だよ」の意味に取った。「実質的にも、いや形式的にも流入しとらんのじゃよ!」との主張のように読めるのですよ、「基本的に」が付いているので・・・。
下の
>>379が来たのであなたの考えはだいたい解ったが、弁解の強弁のような感じもするし、よりいっそう「基本的に」の意味を軽くしている(=貶めている)ような気もする。
このスレに、考古学不勉強のワカラズヤさんが居ることは認める。だがそれを「叩いてやろう!」などと、あんまり焦らなくてもいいと思う。言葉が急進的かつ不適切だと、ワカラズヤさんは余計ひねくれるよ。(笑)
392 :
352:2007/03/06(火) 11:19:32
>>391さん。 私は、
>>379ではありませんが、
議論のなかで前提の「押し付け」があるときにそこに拘ると話が進まないので、
ある程度は無視して進めています。
例えば、弥生中期、後期の実年代などは、前提に入れると話が進まないので、
不必要に実年代を出さないようにしています。
>>379でも、私は画文帯の日本での流通開始を310以降、ホケノ山を340頃と
見ていて、年代遡上派とは年代観が根底から異なりますが、いちいちその点を
論じても、話が脇道にそれるので無視しています。
「前提の押し付け」はその人の論理思考の問題なので、あえてこだわる必要も
ないでしょう。
393 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 12:34:00
>>391 「このスレに、考古学不勉強のワカラズヤさんが居る」
これってもしかして僕のことですか?自分に不利なことが明らかになったからといって
人をこのように非難するのはいただけないですね。
僕としては確かに不勉強は認めますが、やたら本を読んで著者に洗脳されるよりマシだと考えているのです。
受け売りではなく、又相手が高名な学者であっても、簡単に迎合するのは危険です。
正しい歴史は一つしかありません。説は多いが殆どの人が誤った考え方をしているのです。
あなたも自分で考える癖を身につけたほうがいいのではないですか?
394 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 12:38:21
>>391 まずはお聞かせください。
「東遷説信奉者じゃない。邪馬台国は畿内だと思っている。」この根拠は何ですか?
>>391-392 一連のやりとりを読んで考えたが、人によって前提が違うってのは議論成立が難しい罠
特に
>>392のように基本年代への言及を避けてしまった場合、永遠に交差することなく自分語りを双方繰り返すことになる
また第三者が読んでも何のことだか分からない
議論当事者でさえ双方の年代観が分かっていないわけだから
だからそこは何でもありのスレなら避けては通れない部分であって
前提が違うもの同士は各自棲み分けしてそこで議論を深めるしかない
>>393 あなたは自分で考えるより先に、まさに「基本的な」ことを先に学んでからにしたほうがいい
はっきり言ってスレのレベルについて行けてない
あなたの提示は九州東遷説に有利ですらない
無内容の挑発は控えろと注意されたばかりじゃないか
ここんとこいい流れだったのにね
スレの流れが、自分のレベル以外の時は書き込まないで遠慮するのがお互いのため
>>391 もうひとつ余計なお節介かも知れないが
お互い短いレスでやり取りをせねばならないのがBBSの宿命だから
行間を読む行為、そして前提知識の共有は必要だろう
どの説にしてもすべての根拠と思考過程を最初から述べようものなら
1スレ丸々に相当する文章量は最低必要になる
ましてや考古資料に基づく場合など、その何倍にも膨れ上がるはずだ
なのでひとつの方法として、○○の××という本を読んだ上で話を進めようなどのやり方が求められる
これは
>>391さんへというより、コテ、名無し双方が考えねばならないことだろう
398 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 13:47:06
沢山関連したスレあるのだし、一度解散し散らばれば済むこと
少しづつ散らばっている。
隔離スレが少しづつだが効果を発揮している。
根気よくやろう。
>>399 同意
各説とも専用スレをホームにして、ここで激論を戦わせればいい
乱立ウザイとの意見もあり、それはそのとおりだが
根本で意見一致を見ていない以上、最良の方法だと思う
ほんとにここのところ今までにないいい流れで、双方根拠も提示しながら専門的内容を語っているのだから
401 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 13:59:19
>>399 相手を追い出す前に自分達が何故移動し、他スレを利用しないのか?
九州ですが氏がここから離れるとは到底考えられない。
ならば選択肢の一つとし、自分達が率先し行動すれば良いだけだし、効率も良い。
>>401 その方法では、我々の移動先に九州ですが氏がやってくればおしまい。
残念だが根気よくやるしかない。
スルーすべきはスルーする。
たとえ、九州ですが氏の書き込みでも、内容のあるものにはレスをつける。
これしかないのでは。
>>401 なぜこのいい流れに水を差すような自演をするのだ?
内容云々よりも、あんたはそこが嫌われているんだよ。
404 :
402:2007/03/06(火) 14:13:32
>>403 気持ちは分かるが、そう思うならスルー汁。
荒らしを呼び込む必要はない。
根気よくやろう。
また揉めてんのかよ〜
【九州ですがさん:注〜目〜!】
このスレに愛着有るのは判るが、調度いい機会じゃないか?
他の関連し空いているスレ利用し、自説(自分の考えを)を纏め垂れ流すには
俺はその方法を奨める
もし良ければ俺が今使っているスレ利用すればいい(もし使ってくれるなら俺は巣に帰るから邪魔しない)
以上! では。
406 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 15:46:05
銅鐸の議論を見てると思うんだけど、
魏志に倭人が剣、勾玉、鏡を祭祀に使ってたという記述があるの?
407 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/06(火) 15:56:25
408 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 16:03:23
>>407 だよね。
なのに、「畿内の祭祀で使われていたはずの銅鐸の記述がないから畿内説はおかしい」
という論理展開はおかしいんじゃない?
>>408 倭人伝には『鏡』と書いてあるだけ
ただそれだけなんです。
『鏡』という文字の意味を調べる事は出来ても、それを何々云々は
人が全て想像したモノ
鏡や銅鐸が直接喋る訳ではありませんから
>プラム ◆TOfHBAKZgM
自分のスレに戻ってください
棲み分けするとご自分で宣言したでしょ?
411 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 16:37:10
>>395 東遷説で、天照大神=卑弥呼と考えている人は、神武東征に相当する出来事を
3世紀後半から4世紀のはじめと思っている。つまり、邪馬台国の卑弥呼の
時代は、まだ古墳時代になっていない。
考古学的なものについてもその考えがあり、庄内期の開始は、3世紀後半
だろうと考えている。たとえば、以前の佐原編年でも、庄内期の開始は
西暦300年くらいになっていた。しかし、これについては学者によっても
かなりばらつきがある。
転機が訪れたのは、1996年。その前年の滋賀県、二の畦・横枕遺跡から出土
した木材と、次の年の池上曽根遺跡から出土した木材の年輪年代法による測定
で、近畿地方の年代観がそれまでよりも100年遡るとされた。
つまり、この考えは10年くらいしか経っていない新しいものである。
これにつられるように、寺澤編年などでは庄内期なども100年くらい遡った。
これにより、九州と近畿地方で100年の年代差があるとされた弥生時代も
重なることになる。
しかし、肝心の年輪年代法については確かめる手段がない。
つまり、あくまで、考古学的な手法にこだわれば、年代が遡る根拠がない。
畿内説の人の中には、庄内期の開始を200年頃とし、これを絶対視する人が
いるが、これの根拠はけっこうあやふやなものではないかと思う。
412 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 16:44:19
>>408 倭人伝には、「兵用矛」…兵は矛を用いる、とある。
これなんかはけっこう重要かも。
近畿地方に矛はあったかな?
413 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 16:47:23
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
414 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/06(火) 16:52:03
415 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/06(火) 16:56:03
>>408 と、言うことで失礼します。
そして、私の発言ですから私のレスは 何の根拠も無い嘘レスとなります。
416 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 16:59:06
>>394「東遷説信奉者じゃない。邪馬台国は畿内だと思っている。」この根拠は何ですか?
僕はこれに答えて欲しいといったんですよ。おたくのあれこれを聞いてると我田引水にしか聞こえない。
自分に矛盾点が見つかるとすぐにそうやっていろいろ言って誤魔化そうとする。
よーく読んでください。おたくが名無しなので、どの人かは知らないけど
>>380あたりから流れが変わってきてる。
お宅の話は推理小説家なみにしか思えません。邪馬台国は色んな事から考えても畿内という事は絶対ありえない事です。
知識はそう要りません。子供でもわかる事ですから。知識が邪魔をして過ぎたるはなんとやらにならないように希望します。
417 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 17:04:53
>>415。私のレスは 何の根拠も無い嘘レス
プラムさん
そんなことないですけど、ここまで言われたら僕だって反論しないと。
「邪馬台国は畿内だと思っている」こんなに根本が間違っているのに帳尻だけを合わせるようなやり方は
歓迎出来ません。
鏡と矛の他で、倭人伝の気になる記述を挙げると……。
・倭人伝の末尾、壱与の遣使の献上品として、「貢白珠五千孔、青大句珠二枚」
・魏帝の卑弥呼に対する贈り物の中に、「五尺刀二口」
・倭人の習俗・風物を述べているところに、「出眞珠青玉」
青大句珠は、勾玉じゃないの?
419 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 17:22:50
>>406「剣、勾玉、鏡を祭祀に使ってた」
これは元々北部九州の風習なんです。倭人伝に記載されているのが鏡だけでも重要ですよ。
銅鐸は倭人伝に出ないばかりか、大和朝廷の日本書紀にも出てこない。これにも鏡は出てきます。
どう考えても不自然でしょう。三種の神器として確立するのは後の時代としても、
既にこの頃からそれに因する風習があったというのは確かな事です。
畿内はやっぱり滅ぼされて、祭祀が変えられたとしか考えられない。
>>394「東遷説信奉者じゃない」さんはここんとこどう考えているんですかね?
420 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 17:25:10
421 :
392:2007/03/06(火) 17:28:35
>>395 私の考えは、年代を根拠に年代を論じる循環は避けたほうが良いというものです。
年代を前提にせずに議論していく中で導き出される年代観の方が価値があります。
例えば、銅鐸の議論は年代観の問題でもあります。
畿内説では寺沢『王権誕生』のように、朝鮮式銅鐸や初期型銅鐸にほとんど言及
しない傾向があります。
一方、九州説では初期型を強調するという傾向がありますが、まさに、それこそが
双方の年代観の対立です。
朝鮮式や初期型(無紋など)を銅鐸の源流とすると、それらが弥生中期とされる結果、
出雲〜東海の銅鐸は弥生後期はじめ頃以降となり、畿内説の年代観も変更を
迫られます。
また、銅の入手経路の検討からは、出雲と北部九州の金属入手の序列
>>378 から
畿内・吉備巻き返し論への反論要素にもなります。
そのように少しづつの積み重ねで議論していく方が議論としては、建設的で面白い
と考えています(勿論、上に述べたことは、九州説的な見方ですが)。
422 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 17:28:50
>>418 青大句珠は調べたらやはり勾玉でした。情報提供サンキュー。
423 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 17:35:32
424 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 17:37:49
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
425 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 18:41:18
でもプラムさんてなんだか
おおくにぬしのみことみたい。
>>421 392氏
こちらの見解を述べる前にいくつか確認したいのだが宜しいだろうか?
九州説における年代繰り下げとは、少なくとも列島全域における規模のものとする考えなのだろうか?
また論者によってそれらの幅はほぼ一致しているのだろうか?
つまり平原王墓を250年頃と見て通説より50年後に見る。
また吉野ヶ里の最盛期をを3世紀と見て、通説より150年後と見る。
まだあるだろうが、論者ごとにそれが違うとなれば誰が誰のレスか判らない以上、議論そのものが成立しないのではないだろうか?
もうひとつ、畿内・東海などが過去の年代のままで九州のみを繰り上げるのだとしたら、朝鮮半島や大陸の年代観はまったくいじらないままで考えるのだろうか?
最低でもこれらを示してもらえねば反論の術がない。
とりあえず九州国立博物館のサイトから、銅鐸のルーツと朝鮮式小銅鐸の伝来などに関するページを挙げておくが
ここで言う弥生時代中期とは歴博による弥生新年代によるものである。
http://www.kyuhaku.com/pr/museum/museum_info04-11.html
427 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 19:51:37
>>393「はっきり言ってスレのレベルについて行けてない」
このスレは「何でもドンと来い」スレなんだから。考古学の専門知識を身に付けた人だけのスレじゃないんだから。
専門知識が無いから何でもドンと来いに居るんだから。
「九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!」がここのキャッチフレーズなんですよ?
自由な発言を封殺するような言い方はやめて欲しい。
428 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 19:54:43
429 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 21:00:17
>>412の人の銅矛は近畿にあったかな?
で、調べたけど、「銅矛は細形が福岡・糸島・唐津の各平野など西北九州、中細形は九州から瀬戸内海沿岸にも散見する。
中広形は対馬から北部九州、四国南西部・瀬戸内海沿岸に拡がり、広形になると対馬で特に多くなり、愛媛県西部・高知県西部に顕著。
このことから中広形・広形銅矛の対馬・北九州・南西四国との関連の強さがうかがわれる。
これは、邪馬台国九州説が多く採る、東にある倭種の国・侏儒国は四国という説に関連しておもしろい」とある。
畿内に無く、北部九州にあり、倭人伝に記載されたものがここにもあった。
>>426 答える必要性を感じません。
個別の争点とは別個に年代を述べても仕方ない。それはただの信念。
私は信念を持たずにその場その場で柔軟に考えるタイプなので、議論の
過程で必要な範囲で述べます。
そもそも「名無史さん」の見解を特定してどうするの?
そちらの見解を述べるのは自由、というか止める手段もありませんが。
431 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 21:23:04
だから何度もいってるだろ。箸墓を掘れば矛なんぞ、でてくるんだよ。
>>430 出てきてたまるかw
何にも出てこないよ
>>426 >ここで言う弥生時代中期とは歴博による弥生新年代によるものである。
歴博が何をやったか、もう一度勉強しなおしたほうがいいと思うよ。
434 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 22:08:19
倭の五王とは誰か・・・
435 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 22:23:14
>>426 九州説による年代の繰り下げではなく、畿内説による年代の繰上げというのが
妥当だと思う。これは
>>411でも書いたのだが。
畿内の年代が繰り上がったのは、ここ10年くらいのこと。
どうして繰り上がったのか。その過程を考えてみたらいい。
436 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/06(火) 22:29:17
>>431「だから何度もいってるだろ。箸墓を掘れば矛なんぞ、でてくるんだよ」
これってレベルの高い議論なの?
437 :
SOY:2007/03/06(火) 22:41:04
>>426 私も年代論については興味があります。見解を述べる前に確認したいことが
あるということなので、私の理解の範囲でお答えします。
>また論者によってそれらの幅はほぼ一致しているのだろうか?
畿内説ほど一致していません。ただ、三角縁神獣鏡を晋が呉を併合した
280年よりも前と考えている人を見たことがないので、おおよその人は
畿内説よりも50年以上は新しく見ているのではないでしょうか。
>つまり平原王墓を250年頃と見て通説より50年後に見る。
異論の多い平原王墓を定点とする人もいるかも知れませんが、
個人的には危ういような気がします。
>また吉野ヶ里の最盛期をを3世紀と見て、通説より150年後と見る。
『吉野ヶ里の最盛期を3世紀』とする人がまず稀有だと思います。
>もうひとつ、畿内・東海などが過去の年代のままで九州のみを繰り上げるのだとしたら、
畿内説の人も九州説の人も相対編年はあまり変えないのではないでしょうか。
寧ろ論点の中心は絶対編年の方にあると思います。
ただ、庄内式土器の開始についての昨今の意見を聞くと、これについては
相対編年観でさえもズレているように思えます。
因みに私は庄内式土器を安本氏のようには考えていません。
>>436 おまえここに何しに来てるの?
無駄レスつけて荒らしたいだけか?
お前を鬱陶しいと感じているのは何も畿内説論者だけではないぞ。
その証拠に九州説論者からもレスを貰えないだろう。
どうしても参加したいのならまず今までの非を詫びてからだ。
そして以下の3つを約束しろ
1、自作自演は今後一切しない
2、煽り、挑発などの無駄レスもしない
3、知らないことや間違えたことは素直に訂正する
439 :
402:2007/03/06(火) 23:02:18
>>438 おまい優しいな
オレはスルーしかないと思っているが
銅鐸の話はもういいのかな。
>>386に対しては、「畿内からも初期型銅鐸や鋳型が出ている。」という反論が
あっても良さそうだけど。
ただ、この反論は朝鮮式銅鐸→初期型銅鐸→いわゆる「銅鐸」という流れを
強くして銅鐸の開始年代を新しくしてしまう諸刃の剣でもありますが。
普通に考えて、無紋で地味な初期型銅鐸が弥生中期からで、その前の弥生
前期により発展した形式の銅鐸があるという見方は苦しいですね。
441 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 23:06:38
442 :
402:2007/03/06(火) 23:09:20
アラシはスルーで
連続レスの名無し・・・まあ、誰なんでしょうww
それはともかく、「ですが」さんも恵也みたいにレスにソースを付けるのを
しばらくやってみると良いかもしれない。
========引用開始==========なんてね。
検索は意外な発見もあって結構楽しいですよ。
444 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 01:51:48
>>443 ビール飲んで寝てしまい今起きちゃったので言いますが、僕は銅鐸についても検索からの引用がすべてです。
だって、殆ど知識が無かったから。昔学校で習ったのとは違いすぎて役に立たないし。
それも検索順位が一位二位というところからの引用ばかりです。
だからそれを無知扱いされたのには正直言って驚きましたね。一般論と違うのはあんたじゃないの?としか
内心思いませんでした。で恥を言うようですが自分の意見のように装ってしまいました。
だから僕が銅鐸の事に関してここに書いてきたのが大勢を占めた考えだと思っていいと思いますよ。
だから言ったんです。僕に反論した人は洗脳されてるって。
445 :
392:2007/03/07(水) 01:56:43
>>437 ほとんど同意です。
神獣鏡については、画文帯も呉の領域なので呉の滅亡(280年)後で、その後に三角縁
が始まる。呉からの亡命者が神獣鏡を伝えたという見方も同系列ですね。但し、楽浪郡
の滅亡(313年)との関連で画文帯が来たと考えれば、さらに新しくなります。
平原については、私も年代特定は難しいと思います。王墓のつながりを重視すれば、
200〜250年だが、240〜250年頃では魏からもらった鏡がないのがネック。
畿内での巨大内向花文鏡とのつながりを考えれば、280年まで新しくみる余地も残して
おきたいところ。などと考えると、定点としては不適格でしょうね。
吉野ヶ里の最盛期は3世紀よりも前というのも同意です。吉野ヶ里で庄内式が出ていると
いっても、縮小して環濠が埋まった後の時期にごく少量のみ。
畿内、九州の相対年代自体には争いがないというのも、同意です。
庄内式は、安本説が浮動的なのでSOYさんの説がよく分かりません。
安本は、最近は庄内式は九州起源で畿内より古いとみていますが、畿内の庄内式を東征
時期からとするのか、東征前(ニギハヤヒ等)とするのか、使用者を物部等の一部のみと
みるのか、はっきりしません。九州での庄内式が伊都国、奴国の領域を中心としていること
は安本説のほかの部分と整合しませんね。
私は、九州起源と見るも詳細は定まっていません。
393 名前:九州ですが ◆IhXqm1bg5c [] 投稿日:2007/03/06(火) 12:34:00
>>391 「このスレに、考古学不勉強のワカラズヤさんが居る」
これってもしかして僕のことですか?自分に不利なことが明らかになったからといって
人をこのように非難するのはいただけないですね。
僕としては確かに不勉強は認めますが、やたら本を読んで著者に洗脳されるよりマシだと考えているのです。
受け売りではなく、又相手が高名な学者であっても、簡単に迎合するのは危険です。
正しい歴史は一つしかありません。説は多いが殆どの人が誤った考え方をしているのです。
あなたも自分で考える癖を身につけたほうがいいのではないですか?
447 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 02:03:33
>>438へ
「だから何度もいってるだろ。箸墓を掘れば矛なんぞ、でてくるんだよ」
これってレベルの高い議論なの? 」
とうとう反論できなくなって正体を現したようだが無駄。
>>429レスに真面目に答えなさい。ざんねんでした。
448 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 02:18:03
>>445 これは前スレでだいぶ出ましたが、このように考える人は少なかったんじゃないかな?
確か一人ぐらいで、後は晋になってから三角縁が始まるとは言ってませんでしたよ。
本当は銅鉱が自由に使えるのはこの頃からなんですが。前スレ調べてみますけど。
449 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 02:32:06
>>446 まあねえ、僕も受け売り・・・。でもですね、それが物凄く銅鐸について一般論なんですよ。
それを誰の説かは知らないが微々たる少数意見で破る、そして無知扱いするというのは、
おかしいんじゃないでしょうかと申し上げてるんです。
「あなたも自分で考える癖を身につけたほうがいいのではないですか」まあねえ・・・。
今度から気をつけますね。
450 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 03:04:34
451 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 03:13:46
452 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 03:15:14
453 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 03:15:46
454 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 03:19:51
>>451 お互い早く寝ましょう!
∧∧ ∩
( ・ω・)/ シュワ!!
⊂ ノ
(つ ノ
(ノ
___/(___
/ (____/
455 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 03:20:39
>>452 は操作ミスです。
とにかく、面倒なのでいつも検索上位 1,2位くらいから選びます。
これもそうです。大勢の人に支持されている証拠でしょう。
大体僕は検索した上、書き込むことが殆どなんですよ。
456 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 03:24:07
>>454 はーい。
かわいい絵をありがとうございます。
僕も早く寝たい寝たいと思いながらついつい遅くなってしまいました。
457 :
一応九州王朝説:2007/03/07(水) 06:10:22
>>445 私も結論的には似通った感じになります。
・庄内式については、九州発の見方も残すべきではあるが、
確定とはとても言えない。
・平原を絶対指標にはまだしにくい。
ただ、魏鏡については、果たして一枚ずつ出るのか、どこかで
まとめて出るのか。破鏡して配る対象だったのかどうかも不明
ですから、出たからといってどう指標として扱うかの議論も必要
かとは思います。
王仲殊は邪馬台国畿内説ですが、畿内勢力が呉と通じていた
という可能性もありますよね。三星堆だかなんだか忘れました
が、巨大な銅鐸そっくりの祭器がいくつも展示してあったのを
3年ほど前に見ましたが、ああ、どこもおんなじようなことやって
るな、と思いましたねw
458 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 06:45:36
今朝、改めて読み返してみたが、僕が紀元400年という銅鐸が忘れ去られたと仮定する年代を出した事をいぶかしがっていたが、
今思えば不思議でもなんでもない。
>>366さんの「細々と使われていた」「吉野ヶ里では弥生後期以降に銅鐸が埋められている」
などの事実から、当然銅鐸圏である畿内は邪馬台国時代かなり銅鐸が温存されていたものと思われる。
しかし北部九州では邪馬台国時代の銅鐸が出土していない事から、邪馬台国衰亡後、畿内から伝わった製法で銅鐸が作られ、
使用していたものを埋めたものと思われる。それで倭人伝には記載されておらず、邪馬台国が畿内にあれば記載されて当然のはずである。
故に邪馬台国の比定地は北部九州である。
459 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 07:04:16
銅矛については、「銅矛は細形が福岡・糸島・唐津の各平野など西北九州、中細形は九州から瀬戸内海沿岸にも散見する。
中広形は対馬から北部九州、四国南西部・瀬戸内海沿岸に拡がり、広形になると対馬で特に多くなり、愛媛県西部・高知県西部に顕著。
このことから中広形・広形銅矛の対馬・北九州・南西四国との関連の強さがうかがわれる。
これは、邪馬台国九州説が多く採る、東にある倭種の国・侏儒国は四国という説に関連しておもしろい」とある。
畿内に無く、北部九州にあり、倭人伝に記載されたものがここにもあった。」の通り。
倭人伝に記載の銅矛が出ない畿内は邪馬台国ではない。
三種の神器のうち鏡、勾玉、までが倭人伝記載である。これに剣を加えた三種は北部九州の祭祀であり、
日本書記にも登場し、今日天皇家に伝わっている 。
銅鐸は先に述べたように倭人伝、日本書紀、に記載される時代まで人々の記憶にあったにも拘わらず記載が無く、
天皇家にも神器として伝わっておらず、大和地方の人々にさえ8世紀には忘れ去られている。
したがって、銅鐸文化圏の畿内は邪馬台国とは無関係であり、大和朝廷の祭祀が
北部九州と一致してる事から天皇家の祖先は九州と深い関係があると思われる。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/doutaku.htm
460 :
SOY:2007/03/07(水) 07:14:31
>>437>>445>>457の発言で、
>>426の『見解を述べる前にいくつか確認したい』についてはある程度明示
できたのはないかと思います。
一方で庄内式の九州発についてはまだ結論を出す段階ではないという意見も
決して少数派ではないと自身が認識しました。
九州発の根拠となる庄内式土器を自分で確認するまでは、庄内式は河内発祥?
あたりの考えでとりあえず私は保留です。
銅鐸。私が邪馬台国のことに興味を持ち始めた頃は共伴する土器がないと
いうことで議論することさえ難しい状態でした。今、銅鐸についてはROM
しながら勉強中です。三遠式などどう解釈されるか興味深いです。
461 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 08:56:10
庄内期の開始を200年と見るような畿内説があるのは、箸墓の百襲姫を卑弥呼にしたてようとしたからであろう。
当然、畿内の巨大前方後円墳と、卑弥呼の時代の「有棺無槨」墓がニアミスする。当然このギャップは埋まらない。
という事は、畿内は邪馬台国では無いか、時代が開いているかのどちらかである。
やはり、卑弥呼が死んでトヨの時代になり、その孫あたりの神武が、東征するあたりで、
北部九州から畿内に持ち込まれ広がった、と見るのが妥当だろう。
462 :
445:2007/03/07(水) 11:30:54
>>460 庄内式
ヤマトの庄内式の領域が狭すぎるので、東征後のみとしても整合しにくい。
現状では、畿内の庄内式を古墳時代から大きく遡るとみることは難しく、
@東征からある程度の期間をおいて始まった。
A庄内の中心は橿原の方にあるが、発掘が不十分とみる。
B当初は物部などの一部の氏族のみが使用していた。
などの余地を残していると考えています。
いずれにしても、畿内の庄内式を古く見ることは難しいと考えています。
それもあって、平原を280頃まで新しく見る余地もあると思います。
463 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 12:16:52
464 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 12:35:29
>>463 HP読んだけど。
「畿内説ならば、遅くとも、倭国大乱が収拾した2世紀には既に緩やかながらも日本全国規模の統一的な国家が誕生していた可能性が強い」
これは無いよ。倭人伝には「奴国が女王国の境」と記してある。
それに女王国の北にある国々は容易に記する事が出来るが、その他のクニグニはとても遠くにあるため
詳しく述べる事ができない」と言い、吉備もいずももそれらしき地名が記されていない。
伊都国に一大率が常駐して邪馬台国連合を監査している。など、
畿内とは関係ない土地で話が進んでいる。
465 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 12:40:55
>>463 いい忘れたけど、「女王国の北には一大率がいる」と倭人伝にある。
伊都国に一大率がいるということは、必然的に女王国は伊都国の南になる。
つまり九州域から出ない。
466 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 13:01:39
467 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 13:04:27
>>464 ちゃんと日本語の学習したら、きみ?
九州説が厳しくて必死なのは分かるけど。
>日本全国規模の統一的な国家
であって、完全な統一国家とは言っていない。
ちゃんと、ソースを読め!
468 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 13:08:12
>>465-466 こういう世迷言を大真面目に書き込む人に
常識を諭しても無駄だと思う
455 :九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 03:20:39
>>452 は操作ミスです。
とにかく、面倒なのでいつも検索上位 1,2位くらいから選びます。
これもそうです。大勢の人に支持されている証拠でしょう。
大体僕は検索した上、書き込むことが殆どなんですよ。
470 :
SOY:2007/03/07(水) 21:32:01
>>462 >現状では、畿内の庄内式を古墳時代から大きく遡るとみることは難しく、
私は庄内全般的に古墳時代から大きく遡らないと考えています。
(今後の情報次第では見解が揺れ動く話ではありますが)
>いずれにしても、畿内の庄内式を古く見ることは難しいと考えています。
>それもあって、平原を280頃まで新しく見る余地もあると思います。
私も平原を新しい方に見ているので、平原が280頃であったとしても、
それほど違和感を感じません。
471 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 21:40:29
>>467 ちゃんと日本語の学習したら、きみ?
この言葉、そっくりそのままお返しする。はっきりいってるはず。
>日本全国規模の統一的な国家
どころか「九州域から出ない」と。
472 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 21:45:47
>>466そんなものは無い。そんな説も聞いた事が無い。
あっても少数派だろう。「奴国が女王国の境」と倭人伝にある。
吉備まで行かない。
473 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 21:49:32
474 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 23:06:02
>>463 邪馬台国連合は29ヶ国くらい。
邪馬台国が畿内にあり、九州まで支配しているとしたら少なすぎる。
5世紀の倭王・武が宋に送った上表文の中には、「東は毛人を征すること
五十五国、西は衆夷を服すること六十六国……」とある。
つまり、畿内よりも西には5世紀でさえ66カ国があった。
邪馬台国連合の都が畿内であることは考えにくい。
475 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 23:12:40
>>474 なるほど。これは単純ですが説得力がありますね。
そうなると、後の時代に九州がいくつの地域に分けられていたのかも
気になります。
477 :
SOY:2007/03/07(水) 23:28:08
>>475 >そうなると、後の時代に九州がいくつの地域に分けられていたのかも
>気になります。
時代によっても異なるので正確なことは言えませんが、国造の数で言えば
15以上はあると思います。
ただ、筑紫国などはある時代では複数の県になるので、さらに多いとも
言えるし、南九州を省けば、逆にさらに少ないとも言えます。
とにかく、魏志倭人伝の国々に比定ともなるといろいろと意見が分かれ
そうです。
478 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 23:42:45
>>476 倭王武は=雄略天皇。その支配範囲は、埼玉までに到っていた。(獲加多支鹵の金文
太刀が出土。)教科書に習わなかったかい?
479 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 23:49:38
>>475 これはなかなか難しい。
西暦927年にできた延喜式によると、九州には95の郡があったとされる。
でも、郡と国が同じかどうかわからない。
鎌倉時代の守護の数もどうもよくわからない。
室町時代の守護大名の数も不明。
江戸時代に9つの国があったことは確かだけれども。なんせ九州という
くらいだから。
480 :
476:2007/03/07(水) 23:52:15
>>478 雄略が倭武なのは定説だね。でも私は九州王朝を採っているので。
481 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 23:54:27
倭の武王は雄略天皇ではないわよ。
484 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 00:09:59
獲加多支鹵の剣は第一級の物証だね。
485 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 00:13:41
486 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 00:25:44
>>484 雄略さえも後の時代の創作と考えていた時代もあったんだなあ〜(遠い目)
という物証ですねww
487 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 01:12:14
>>485 江戸時代の新井白石も倭人伝の国の比定を行っている。
それによると、「古史通或問」では投馬国と邪馬台国以外は全部九州。
投馬国は中国地方、邪馬台国は大和になっている。
しかし、後の「外国之事調書」では邪馬台国を含め全て九州になっている。
新井白石は畿内説から九州説に変わったらしい。
日本書紀などを読むと畿内説と考えるのが普通で、九州説など考えられなかっ
たわけだが、倭人伝を読むと九州説しかないと思ったらしい。
これは後の本居宣長も同じで、卑弥呼は「九州の女酋」という結論を出している。
また、新井白石の比定した末盧国、伊都国、奴国、不弥国などは定説みたいに
なっているわけだが。
488 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 01:55:16
>>487 問題は、その倭人伝なんだけど
ひとつの情報源からじゃなくて
複数の情報源を繋ぎあわせて考えたということぐらいかな?
だから、あういう矛盾したような書き方になるんだろう?
自分は、やはり畿内だと思うよ、邪馬台国は。
489 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 01:59:54
>>468>>485 自分も、その先の地図に書いてあるのは
だいたい正解のような気がする。
その地図から見ても、邪馬台国やその支配下30カ国は
とてもじゃないけど、北九州には
おさまりきらない。
九州にある国は小さくて(後の郡規模)、本州のは後の国規模ってのが
ちょっとひっかかるなあ。比定としてどうなんだろ。
491 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 02:57:53
492 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/08(木) 04:33:40
>>491 この地図だと南九州がガラ空きじゃん。熊本県北部の、菊池、山鹿あたりは日本有数の古墳地帯。
古くから人々の営みがある。阿蘇氏も古い。熊本県中部も縄文、弥生の大きな古墳がある。
城南町には火の君という方がいたとされ今でも火の君祭りというのをやっている。
この火の君が由来で火の国{肥の国}となり、肥前、肥後と九州全体を指す様にも。
菊池も古くは鞠智と書いて「くくち」と発音し、うちの祖母もきくちを「くこち」と呼んでいた。
これがクコチヒコに当たるというのは地元、菊池でも広く知られてており、地元でもクナ国ということで
町おこしがある。{狗奴国城という温泉施設もございます。}。
とにかく大和朝廷の山城、鞠智城は復元中で、国の特別史跡指定を目指しております。
このような古い歴史を誇る熊本県が、隣接する伊都国、奴国などの邪馬台国連合の何らの影響も無くガラ空きだったわけが無い。
海を隔てた本州より、広い熊本平野、そして天皇家の発祥の地とされる宮崎県高千穂に連なる古代のクニグニがあったと考えるのが妥当。
>熊本県北部の、菊池、山鹿あたりは日本有数の古墳地帯
ハァ?
で、ソースが
>うちの祖母もきくちを「くこち」と呼んでいた
>地元でもクナ国ということで町おこしがある。{狗奴国城という温泉施設もございます。}。
吉野ヶ里にも卑弥呼饅頭とか邪馬台国って酒があるが、それも根拠にしていいの?
>このような古い歴史を誇る熊本県が、隣接する伊都国、奴国などの邪馬台国連合の何らの影響も無くガラ空きだったわけが無い。
たぶん熊本の人がこれ読んだら本気で怒るぞ
494 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 04:53:11
九州ですがってのは釣り師なんじゃない?
検索上位を信じるとかうちの祖母とか
あまりにネタが濃すぎるw
495 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/08(木) 05:02:11
>>492続き
「次に邪馬(やま)国あり。次に躬臣(くす?)国あり。次に巴利(はる?)国あり」
これはそれぞれ大分県の、耶馬溪、玖珠町、杷木町に当たる。従って、邪馬台国29カ国は、
長崎県、佐賀県、福岡県、大分県にまたがり、その南の広範囲に亘って熊本県菊池を中心とした狗奴国が存在しており、
女王国を悩ませていたのです。熊本あたりでも菊池というと古い文化があって、何か違いを感じるとかで一目置いているという話も聞きます。
そういえばクマモトという名の命名も菊池某で、山の尾根づたいに太陽の光に縁取られた隅っこ、という意味合いで「隈本」と名づけたそうな。
http://homepage3.nifty.com/~bbf/040902.html
496 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 05:23:26
大和民族の出目が南の端じゃまずいだろw北イケや北。
半島よりにw
497 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/08(木) 05:53:03
>>495続き「華奴蘇奴国(かなそな)支惟国(きい)がある。次に鳥奴国(うな)がある
かなそな国は、かんさくなくに{かんざき}=佐賀県神埼郡。きい国は基肄(きい)城址のある福岡県基山町。
鳥奴は、佐賀県鳥栖市。フミ国は福岡県宇美町。
>>494 いや本物のメンヘルさんだろう
24時間張り付いている粘着性といい
著しく整合性に欠ける内容といい
異常なまでの排他性&攻撃性といい
バレバレの自作自演を繰り返しながらそれがバレていないと思っている点といい
無視するのが住民ばかりか彼や彼の家族のためにも最善の方法だろう
499 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/08(木) 06:24:27
>>497続き
そして「奴国を女王国の境界とし」さらに、「女王国の北には一大率がいる」と倭人伝にある。
伊都国に一大率がいるということは、必然的に女王国は伊都国の南になる。 つまり九州域から出ないことになる。
倭人伝に矛を持って女王国の宮殿を護っている姿が述べられているが「矛」は九州を中心とした地域限定の出土品である。
「鏡、勾玉」が、倭人伝に出てくるが どちらも北部九州の祭祀である。
これらの事からも倭人伝の記述は北部九州の姿を記したものといえる。
500 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/08(木) 07:00:04
>>491の地図について
伊都国に常駐している一大率がそんなに広範囲を監査し回れない。
一大率が見回れる範囲と考えるのが常識。女王国の北というのも九州以内を表す。
501 :
SOY:2007/03/08(木) 07:00:15
>>485 >中国史書に登場する倭の国々の
>所在推定地は、だいたい当たっていると思うが
>一部、違うなというのもある。
確かに『其餘旁國遠絶不可得詳』の国々が邪馬台国に至るルート上にあるのは
致命的のように思えます。
不彌國と邪馬台国との間に投馬國だけがくるように邪馬台国の位置を調整すれば、
さらに文献との整合性は高まるのではないでしょうか。
502 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/08(木) 07:04:08
504 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 11:12:00
505 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 11:18:11
>>502 この1位2位ってのは九州内の話だろ
奈良など有に1000基超えているからな
奈良でも古墳密集度の低い橿原市(新沢千塚古墳群など)だけでも確認されたもので600基近くある
いや、よく考えたら九州内にしてもおかしい
宮崎県の西都原でも300基近くが確認されている
とすれば、この数字は?
いずれにせよ完全にスレ違いだが
508 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/08(木) 20:03:35
>>504 南九州はともかく、熊本県北部は空白地帯ではない事を説明しているところ。
当時の地図は北を上にする習慣が無かっただけで、東西南北はありました。
南を必ず指す指南というスプーンのような道具もあった。
古代インドでは中国を東北の方角にあるとしていたし、古代中国からは日本は東北の方角にあり、
とされていました。
倭人伝にもマツラ国から、奴国まで、大体東、東南方向という事になっている
だから投馬国の南に女王国があるのは間違い無い。畿内のほうにいくことは無い。
509 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 21:01:43
an
>>508 >指南というスプーンのような道具もあった。
ソースは?
>古代中国からは日本は東北の方角にあり
東南方向ではないですか?
511 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 21:19:12
512 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 21:46:07
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
513 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/08(木) 22:22:57
>>510 指南というスプーンのような道具もあった。 ソースは?
以前のスレでプラムさんが写真入で紹介していました。
箱型で人形が指差してる指南は知ってるはず。あれより時代の古いもののようです。
>>古代中国からは日本は東北の方角にあり 東南方向ではないですか?
いいえ。東北です。
>原始的な装置
指南は必ず南を向く機械で、当時の東西南北が今と同じだった事を説明している。
514 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/08(木) 22:32:42
>>505 それから高地性集落は、敵から身を護る為、高台に逃げ込んだように書いてあったのを記憶してるんだが、どこだったか。
それを前スレで誰かが書いて、僕が「それじゃまるでインカのマチュピチュか、ビルカバンバみたいだね」って言うやり取りをしたような記憶が・・・。
っていうか、当時は日本が中国の東北方面にあったって意味?
517 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 23:05:42
違うよ
東北と言えばツガルソトサングンシだよ
彼は古田先生の説を言ってるんだよ
>>513 >>510 指南というスプーンのような道具もあった。 ソースは?
>以前のスレでプラムさんが写真入で紹介していました。
>箱型で人形が指差してる指南は知ってるはず。あれより時代の古いもののようです。
で、指南器が三国時代には使用されていたというソースはあるんですか?
519 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/09(金) 00:10:47
>>513 >指南
前にも言ったかと思うけど
あれは指南ではなく(司南) 紀元前3世紀と言われている
南を指していることは事実のようだけれど、それを方位確定に利用し(指南)していたかどうかまでの
証拠はない。なにせ(司南)だから
しかし、紀元前三世紀既に南を示す道具が存在していた事は確か
三世紀には南だけを示す道具が中国には存在した。使用したかなんて誰もわからない
ここで大事なことは、使用したという事実より
三世紀に中国で存在(認知)していたという事実
520 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/09(金) 00:52:11
>>519 プラムさん。わざわざどうも。司南という字を忘れたので指南を使ったんですけどね。
違う字だったことは覚えてました。
521 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/09(金) 01:27:42
>>515 古代インドでは中国を東北の方角にあるとしていたし、古代中国からは日本は東北の方角にあり、
という認識があったのは事実。仏教関係の資料で読んだことがある。どの部分で出てきたかは忘れたが。
うっすらとした記憶によると、中国の天台は経文を広めるのにどこがふさわしいかというと東北の地である、として
日本の最澄に生まれ変わったとかいう伝説。これは15世紀に朝鮮で逆転したような日本の地図が書かれる以前に
既に、日本が東北にあるということが中国で認識されていた事を証明したものだが、
天台は経典を元として言ってるので、もともとは釈迦の言葉。つまりインドから言うと中国を指して、東北ということ。
確かにインドから日本へ直線を引くと、まあ東北に近い線は引ける。
故に「逆さまに見た日本地図」によって、当時の東西南北が違っていたと言う説は誤り。
>>521 はぁ あなたの発言に根拠を求めても無駄と言うことがよくわかりました。さようなら
523 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/09(金) 01:58:09
524 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/09(金) 02:05:24
「さようなら」 なんて さびしいことをいわないでね。
>>523のHPを参考にしてね。北極星を目印にして方角を定めていたようよ。
邪馬台国時代には司南では無く、必ず南の方角を向くからくり人形のような指南が
既に完成していたようよ。
邪馬台国の話なんて2〜3世紀という比較的新しい出来事なのに
なんで分からないことだらけなの?
日本民族って2000年前からアホばっかなの?
526 :
定ちゃん ◆jsEMIr87bs :2007/03/09(金) 06:05:53
>>519 あなたは、言語虫さんでしょうか?
| 〃
|*´・π・)つ ))
| つ ))
527 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 06:22:16
方向を知らなかったら、東西南北なんて言葉は出来なかっただろうに。
それにしても、九州説はいろんな根拠を出してくるが、畿内説からは一つも
根拠が出てこないなあ。
荒唐無稽な地図をどこからか拾ってきて、俺はこの地図に書いてある国が
正しいと思う、なんて言われてもなあ。
528 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 15:49:26
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
529 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/09(金) 16:12:07
530 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 19:14:38
>>527 九州説は論者の数だけ説があり、それぞれが根拠として様々なものをあげている
対して畿内説はひとつしかないので、わざわざネットで述べる必要もない
何冊か適切な本を読めば、概要も根拠もつかめる
ちなみに九州説があげる根拠のほとんどは過去の論争史において論破されている
すべてとは言わないが、それがどれだというのもいちいち書いてられないので
邪馬台国基本論文集T〜Vなどで確認されたし
531 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/09(金) 19:42:42
>>530「ちなみに九州説があげる根拠のほとんどは過去の論争史において論破されている
すべてとは言わないが、それがどれだというのもいちいち書いてられない」
うーん。それでは何処を言ってるのか解らないので、一箇所でも具体的に言ってもらうしかないでしょう。
532 :
SOY:2007/03/09(金) 20:08:31
>>530 >対して畿内説はひとつしかないので、わざわざネットで述べる必要もない
>何冊か適切な本を読めば、概要も根拠もつかめる
調べる必要もないほど明確であれば、せめて3点くらいは畿内説の明らかな
根拠を示して欲しい。
一向に何も示さなければ、曖昧な根拠しかないのに明確な根拠があるのだと
言ってる可能性を否定しきれません。
ここは『根拠を出さない=根拠ない』と判断されない為にも、今こそ根拠を
示すべきではないでしょうか。
明らかなものであればあるほど文章は短くて済むはずでし…
ただ、『ない袖は振れぬ』という言葉もあるので、なければ、それはそれで
仕方がありませんが
533 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/09(金) 20:13:58
>>530 論破〜? 畿内説のお人だな。余の論は論破されんぞ。
まぁ〜畿内説は諦めたほうがいい。
>>530 畿内説の根拠は年輪年代による古墳時代の遡上のみ。
年輪による竹ヤリ攻撃。我田引水の大本営発表。それを支える精神論。玉砕上等畿内説。
鏡・・・日本で約480枚、中国で0枚の▲を魏から下賜された外国製というのは、無理。
鉄器・・弥生時代は北部九州が畿内の約10倍の量の鉄器を有していた。
銅鐸・・弥生後期〜古墳期初めとされる銅鐸の発見が相次ぎ、邪馬台国時代の畿内は銅鐸を
用いていた可能性が高くなった。
記紀・・王権が九州から畿内に東遷したことを、事細かに異伝も添えて書き記す。
新撰姓氏録・・9Cに畿内に居た氏族のうち、畿内出身を自称しているのは約3%に過ぎない。
土器・・庄内式土器は北部九州の方が畿内より広い領域から発見されている。
平原王墓・・少なくとも200年頃まで王権が北部九州にあったことの証拠。
535 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 20:30:01
>>532 ちょっと略しすぎたので意味がわからなかったかな?
どういう根拠によって成立してるのかを掴むには
まず本を読めばいいと言っただけで、それが正しいかどうかはまた別の問題
あなたは該当する諸書を既読のはずなので、いまさらこの質問はどうかな?
>>531 邪馬台国基本論文集T〜Vだとソース明記していますよ
倭人伝解釈については佐伯有清の魏志倭人伝を読む上下巻を参照のこと
536 :
530:2007/03/09(金) 20:41:23
>>534 こうやって具体的に書いてくれると反論しやすい、乙
鏡…こちらの知る限り、それはいわゆる三角縁神獣鏡に関してのデータだね>480枚
これは畿内説でも2派に分かれていて、主流説はあなたの言うように魏からの下賜品とはみなしていない
もうひとつ、これは西川説だが楽浪産からの発祥であるとの見解がある
鉄器…おおむねそのとおりなのだが、約10倍とあることから
おそらくソースは奥野正男の鉄の考古学か、二次流用の安本本だろう
その本は90年発行だから、その後のデータを加味することをお勧めする
ちなみに鉄器保有勾配は弥生どころか古墳時代に入っても九州>その他であり
このことからも東遷は考えられない
論破されてなんかいないだろうさ。論をされているだけのこと。
「破」の字が余計。
538 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 20:53:01
539 :
530:2007/03/09(金) 21:02:50
銅鐸…これもマキムクあたりの出土を指しているのかな?
確かに出土している、ただし後に続かない
だが九州東遷勢力により滅ぼされたとの発想がなぜ出るかが不明
散々既出だが、九州の影響は畿内にはほとんどない
くれぐれも三種の神器とかむちゃくちゃを言わないように
記紀、新撰姓氏録…まず記紀については神武即位を前660年に定めた理由を推察すれば
なぜ九州出身ということにしたほうが都合がいいか、おのずと判明する
8世紀の時点で隋に対し正当性を主張するには、半島よりも古く大陸よりも新しい歴史が必要となる
その中で北九州にあった伊戸国や奴国の関係系統だと偽証する必要が、中国史書との兼ね合いの中であったと考えられる
実際九州出自の氏族も多かったとは思うがね
庄内式…範囲は広い罠w
では吉備など瀬戸内で出土する庄内式はどこ産のものなのだ?
続いて(上にもあったな)材料が淡路島や播磨のものが北九州から出土するのはなぜ?
しかも九州の土で作られた庄内式より下部もしくは同じ地層で
平原王墓…これはそのとおりだよ
弥生終末期までに北九州に王権があったことはほぼ間違いない
だがその後続かないのは、地元をほったらかして東遷したからなのか?
では東遷先の大和で吉備、出雲、播磨、阿波、讃岐、山城、丹後さらに東海、関東までの影響を受けて
北九州独自の文化が発揮されぬまま埋没するのはどうしてだい?
540 :
530:2007/03/09(金) 21:08:51
記紀に関して少し補足
応神天皇以降、ヤマト連合の中枢が九州出身氏族に取って代わられたという説もある
昔はこれを三王朝交代説などで唱えた人がいたが、またこれとは別の考え方
ただこれも文献からの推察にすぎず、考古的裏付けはない
541 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 21:13:16
三王朝交代説は
あんまり信じられないな。
あれは、昔、勢力を張っていたけど
最近はイマイチの説だわな。
542 :
SOY:2007/03/09(金) 21:17:37
>>535 >まず本を読めばいいと言っただけで、それが正しいかどうかはまた別の問題
確かにそのとおりです。どちらにせよ、情報を仕入れ、自分で考え、
それを整理し、自分の血肉とするのは大切と私も考えます。
ただ、自分の知識と本を照らしあわすだけでは、三角縁神獣鏡の紀年、
年輪年代、炭素年代に基づく年代観、徑百餘歩、邪馬台の読みくらい
しか思い当たらないので、これ以外にも何か核心をつくような意見が
出てこないかとつい期待してしまいます。
因みに
>>535以降のような発言は、具体的でつかみどころがあるので
意見が出されたという感じがしています。
543 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 21:28:22
>>536 >>539 各論点とも畿内説は防御一辺倒。絶対防衛網の死守に専念だね。
鏡・・・楽浪郡で数千枚の▲生産というのは、なお更苦しい。
鉄器・・・つまり、古墳時代の初期は、京都(北部九州)と鎌倉幕府(ヤマト)と
いう関係であった訳ですな。
銅鐸・・・後に続かないのは、近江〜東海へと銅鐸文化が撤退していったから
ということになりますかな。
記紀・・・出たな、謀略史観ww。
庄内式・・・材料は畿内説に有利でもありませんよ。
平原・・・最低限の200年ですから。
鏡、剣、玉などの副葬品はどう見ても九州の文化の伝播ですよ。
544 :
530:2007/03/09(金) 21:38:09
>>542 あのレスで言いたかったことは
一部で畿内説の内容を把握せずに見当違いの反論を述べていることが気になったので、あえて書いたってこと
相手の主張を正確に知らずして、ヒステリックに感情論を叫んだところで誰も信じちゃくれないよ
そういう意味では、土器編年の蓋然性や年輪年代への疑義などは有効な議論かもしれない
正確には考古関係者の間では畿内説そのものが存在しない
弥生終末期から古墳時代に至る時期の日本列島がどのようなものであったかが主題で
邪馬台国などはごく一部の問題に過ぎない
もし九州からそれらしき遺跡が発見されたなら、論理的整合性と物的証拠さえあればそこが邪馬台国でかまわない
しかし実際にないのだし、これからも博多湾沿岸に匹敵するクラスのものは見つかることはおそらくないだろう
だから最初に九州説を放棄したのは、九州の学者なんだ
どこかはわからんが、少なくとも九州ではないと
>>533 太国がトリップをつけた。マジ太国モードか。
しかし、これも「ニセ太国」かもしれない。
何せ、今までトリップを付けていないんだからww
>>544 遺跡なんぞは後からでてくればいいことだ。だいたい漢委奴国王の金印が
出てもその墓は出ちゃあいない。まさかこの王の墓が畿内とは言う奴は
グルタンくらいの奴だろう。w
だから倭人伝に卑弥呼の記述があって九州にその墓がまだ出なくても、
そんなことは大したことではない。
畿内に女王国があるんなら、朝廷と近隣だから記紀に女王国からの朝貢
の記事が百済あたりの遠方の半島からの多数の朝貢の記事よりもそれが
多大に記載されて然るべきだ。あんな遠い半島からの朝貢の記事が
わりかし記述があるのに、畿内にあったならその女王国の朝貢の記事が
一つも記紀に出ないのは不自然である。これを合理的に説明できるのは、
女王国が九州にあり、大陸、半島からの交易通路からいささかかけ離れ
た九州のどこかということになって来るのだ。
547 :
SOY:2007/03/09(金) 21:52:34
>>544 >土器編年の蓋然性や年輪年代への疑義などは有効な議論かもしれない
年輪年代。今や畿内説の人からも見放された感があるくらいに話題に
されなくなってしまった……
もっと実績を挙げてくれないことには、弥生終末〜古墳前期の史料が
少なすぎて奥行きのある論議が難しい。
もはや光谷さんは頑張ってくれないのかな。
548 :
定ちゃん ◆jsEMIr87bs :2007/03/09(金) 21:55:59
邪馬台国時代の日本人(『魏志』の倭人?)の男子て、サメを避けるために入れ墨みを
していたそぉれちけろ、どの様な図案だったのでしょう .. ?
| 〃
|π・´)
⊂
|
549 :
530:2007/03/09(金) 21:59:49
>>543 煽り付きなのが微笑ましいw
3〜4世紀の半島全土で神獣鏡が多数出土している事実はご存知?
ただこれは半島「でも」作成されていたということで、列島内での生産を否定したものではない
それと▲は三角縁神獣鏡の意味と取ったが、意味を取り違えているんじゃないか?
三角縁をすべて含めるのか、神獣鏡を含めるのか厳密にやろうよ
こちらの定義は第1段階から第5段階までの「三角縁」&「神獣鏡」で
もちろんその中には同向式、環状乳神、神人龍虎などの初期少数作成品含まれる
>古墳時代の初期は、京都(北部九州)と鎌倉幕府(ヤマト)
えらく廃れた京都だねw
資料をどう解釈するかはあなたの腕の見せ所だから、頑張って矛盾の少ない説を考えてくれ
銅鐸…
>近江〜東海へと銅鐸文化が撤退していったからということになりますかな
東海の三遠式のほうが先に消滅しているのだが
記紀…
継体以前の記述をそのまま信じろと言うほうが無理
歴史に思想を持ち込まないように
庄内式…そう、必ずしも有利ではない
だがたったこれだけの事実からも、九州発祥とするのは無理だとはわかるよね
平原…
だからあ、6世紀以降成立した三種を出すなよって先に書いたじゃんw
九州の墳墓で三種揃って確認されるのはどことどこか、また平原1号ではなぜ確認されないのか
4〜5世紀の未盗掘古墳で確認された副葬品が鏡、剣、玉ではない場合が多いのはなぜ?
550 :
530:2007/03/09(金) 22:04:23
>>547 おいおい年輪年代は今も重要な基調のひとつだよw
誰も見放してはいないし、後継者も各地で育っている
その見放した畿内説の人って誰だい?
それこそ何かおかしな皇国史観かマルクス史観にでも犯されているのじゃないかね
事実に反する書き込みはよそうよ、勘違いならしかたないけど
>>549 倭人伝の内容はそのまま信ずるのか?
記紀のオホドの世の記事より、伝の卑弥呼の記事のほうがもっと古い時代
だろうが。倭人伝をそのまま信じろと言うほうはにっこり採用か〜?w
恣意的に伝と記紀との内容を取捨選択してちゃあいかんよ。
>>549 あの .. 入れ墨みの図案は?
|〃
|・`)
⊂
|
553 :
トヨ ◆jsEMIr87bs :2007/03/09(金) 22:11:24
>>551 呼んだ?!
| 〃
|*`・π・)ゞ⌒ んっ?
| σ
554 :
530:2007/03/09(金) 22:13:27
>>552 それ俺に聞いてるのかよw
そんなもん推測でしか答えられないぞ
仮面型石器や土器から推察するに、キカイダーかハカイダーみたいな感じかもね
>>551 太国のレスには内容がないから付き合いたくはないのだが
倭人伝もそのまま信じられるわけないじゃんかw
スレの最初のあたりでSOY氏などが的を射た見解を残しているので、それ嫁
記紀の繼體以前を信じろと言うほうが無理だとか主張してるが、
稲荷山鉄剣の銘文はどう転んでも繼體より古い雄略の記述だ。だから
こういうことをいう奴は鉄剣の銘文を信じないと言っているような
もので、考古にも反する言動ということになる。
どうやら津田病に罹患している者のようだ?
556 :
台与 ◆jsEMIr87bs :2007/03/09(金) 22:23:45
>>554 幾何学チックかぁ .. 顔みたいかと思てた ..
ところで、あたしが甘木で卑弥呼タソをいぢめた神宮皇后だって噂、知ってゅ?
台与→ トヨ なんちてWw
〃
ヽ(*`・π・)ノ
(
>>549 三角縁の定義。
たしかに重要な問題ですね。▲=三角縁神獣鏡の意味で述べています。
半島全土での神獣鏡の多数出土とはいっても、日本の出土量とは雲泥の差。
楽浪説は、魏からの下賜品を楽浪で製作したという部分でも苦しい。
▲の「オリジナル」が舶載した可能性は否定しません。
方格、内向花文、画文帯、三角縁など、舶載鏡が1個あれば、無限量の複製が
可能な技術を倭国が有しており、実際に複製品、模造品を多数製作したというのが、
国産説の基本的な考えではないかと思います。
・・・議論が拡散すると面倒だから、どれかに絞りましょう。
鏡、銅鐸は最近のスレで出ているから、古墳、土器、平原、その他から希望。
>>554 倭人伝も信じないなら、女王国が畿内にある云々とかももう論は崩壊しているぞ。
559 :
定ちゃん ◆jsEMIr87bs :2007/03/09(金) 22:28:30
定ちゃん○良○駒住みでちからね。
三角縁神獣鏡は常設展で何回も見たれちぉ。エッヘン!
たまに入れ替わってるれちね ..
〃
σ(*`・π・)σ
(
560 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 22:31:38
【桜井市立埋蔵文化財センター「冬季企画展」 記念講演会のおしらせ】
・日時 平成19年3月10日(土) 午後1時30分〜
・場所 桜井市立埋蔵文化財センター(奈良県桜井市芝58-2)2階多目的室
・内容
「桜井市域における埋没古墳の調査」(講師 橋本輝彦氏 桜井市教育委員会文化財課)
「埋没古墳の遺物から −木製品を中心として−」(講師 橋爪朝子氏 同課)
http://www.city.sakurai.nara.jp/event/event02.html 明日です! 橋本輝彦氏は纏向遺跡の東田大塚古墳を調査され、リンクページにある通り、昨秋
報告書を出されたばかり。いろいろ最新情報が聞けるかもしれませんよ。JR三輪駅西へ徒歩10分。
561 :
530:2007/03/09(金) 22:32:03
>>555 いつもは無駄レスばかりなのに今日はえらく冴えているなw褒めて遣わすw
そう、俺もあれはワカタケルと読むので正解だとは思うが
稲荷山などにしても主体部から出土したものでなく、内容そのものには疑問がある
ましてや雄略=ワカタケルだとしても、それが大和朝廷の武力進行期に当たるなどとの断定はできない
勢力拡大につれての同盟範囲の拡大とは見てよいとは思うがね
君の説に反するものはみんな津田史観かよw
いいなあ、幸せそうだなあw
562 :
定ちゃん ◆jsEMIr87bs :2007/03/09(金) 22:33:51
>>555 鉄って言えば、大和で鉄が発掘されにゃいこと考えたゃ ..
邪馬台国=吉備って説もアリかんも?ね?
〃
(*`・π・)
( σ )) σ ))
>>561 どういう点が疑問なんだ? お前の伝を信じない畿内説なんで『不乱剣酒多飲』
より怪奇極まりない。w 出土が主体部か否かなど、どうのこうの言う筋合い
はない。結局剣にケチを付けたいだけのこと。ww
お前は津田病患者のようだな。
564 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 22:39:29
邪馬台国論争は
畿内説でほぼ決まりでしょう?
もう、九州説は、ほとんど追い込まれている。
素人のアマチュアばかりだしな。
当初は、学界の権威は、畿内説が優勢というわけではなかった。
しかし、最近は、畿内説でほぼ決まり。
565 :
SOY:2007/03/09(金) 22:39:33
>>550 >おいおい年輪年代は今も重要な基調のひとつだよw
>誰も見放してはいないし、後継者も各地で育っている
それを聞いて安心した。最近、めっきり聞かないし、進展が全くないので、
畿内説からも見放されたかと思ってました。
それにしても年輪年代の測定結果の解釈って結構難しいです。
因みに年輪年代を支持しない考えは、皇国史観やマルクス史観ではないと
思います。もし、そうだと言うならそれはそれで面白いことだけど。
566 :
530:2007/03/09(金) 22:41:49
>>537 楽浪説については西川説のさわりをちょろっと書いただけなので
とりあえず三角縁神獣鏡と卑弥呼の時代を読んでほしい
結論はともかく(実は俺も支持していない)重要データは入手できるから
絞ったほうがいいのはわかるのだが、鏡や銅鐸に関しても間違った情報が多いので
本来ならそちらを先に片付けねばならないのだが、前述のように相当な量になるので書ききれない
なので具体的に展開して貰ったのはありがたかった
これについては感謝している
ただ度の過ぎた煽りはやめよう、スレが荒れる
俺も以降は煽りを含んだレスはすべて無視するので
今日はこれで打ち止めにしたいので、お好きな題材でどうぞ、用意しておく
567 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 22:42:31
>>552 倭人が鮫の被害を避けるために刺青をしていたわけじゃない。
ずっと前に、中国の王の子?(調べてもいいがちょっと面倒なので割愛)が
会稽に行ったときに、鮫から身を守るために身に文をした。
その名残で、倭人は身に文をしているといっているわけだろう。
梁書などには、倭人は「自云太伯之後」とある。つまり、自分たちは太伯の
子孫だと自称しているというわけで、このために、そのような書き方をした
のではないかと思う。
>>564 九州説で確定だよ。お前の言い分がホントなら、朝廷と女王国は地図上で目と
鼻の先だ。遠い百済からでも朝貢の記事がわりかしあるのに女王国から隣りの
朝廷への朝貢の記事が記紀にまるでない。つまり朝廷の近くに女王国が
無かったからであり、伝に詳細の記載が出来やすい九州の交易通路から一寸外れ
た位置に女王国があったことが合理的考えなのであ〜る。
569 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 22:52:15
東大九州説、京大機内説っていまでんも名残ありゅのん?
>>567 べぇりーさんくす ♪ ちょと賢くなれました!
・・・ところで、光明子タソて知ってゅ??知ってたら、どぉ思ゅ?光明子タソて ..
| 〃
|*´・∀・) σ♥ ))
| σ
570 :
530:2007/03/09(金) 22:54:22
>>565 誤解が解けてうれしい
またこちらの早合点からきた煽りを許してもらったことを、心から感謝する
というのは、畿内説と呼ばれるものの中には明らかに記紀原理主義者みたいなのが混ざっていて
これは考古学的な立場による畿内説とはまったく別のものなんだわ
また逆に神武東征を否定したいがために畿内説を名乗っている、本末転倒組もいる
面白いことに九州説にも反皇国史観を掲げる市民団体があるね
また記紀原理主義者の九州説もある
みんなまとめて燃えちゃえばいいのにw
571 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 22:54:55
>>571 虎(臥海)の威を借りる負け犬はお前のほうだ。ww
573 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 23:01:03
>>539 では、弥生時代の畿内と古墳時代の畿内で連続するものって何がある?
日本書紀は、皇室が自らの王統の正当性を主張するために作ったとも言われる
が、その日本書紀が、自分たちの先祖は日向からやってきたと書いている。
物語の筋としては、日本の真ん中であり、自分たちの都である大和に、天から
降りてきて、日本全国を統一するというのが最も無理がない。
なのに、どうして天孫は日向に降臨し、またどうして神武東征を必要とするの
か、史実の反映と考えるのが一番妥当だと思う。
>>573 ストーリーのみを取り上げたらそう解釈できないこともないが
とにかく大和に、福岡でも宮崎でもどちらにしても日向からの影響はあっても微々たる物
むしろ他の地域の影響が庄内から古留にかけて圧倒的に多い。
それ以前はさらに考えられない。
特に神代から飛鳥宮までは、文献だけを参照すればどのような解釈も成り立つので
それを根拠にしたところで希望的憶測の域を一歩も出ない。
物証を提示しよう。
575 :
557:2007/03/09(金) 23:44:27
>>539 >九州の影響は畿内にはほとんどない
これを次のテーマにしましょう。
実は、私も「邪馬台国」がそのままの形で畿内に移ったとは考えていません。
魏志のいう「邪馬台国」と後の畿内王権とは連続もあるけど、断絶もある。
それらをピックアップしてみると。
連続・・・地名の移動(安本、奥野等)。但し、甘木・朝倉との連続。
連続・・・鏡崇拝の思想。大型内向花文鏡。破砕鏡は途中で断絶。
連続・・・平原の掘建柱→鳥居?
断絶・・・魏志記載の風俗。入墨による地位の表示、ジサイなど。
断絶・・・北部九州以外の影響という意味で吉備の影響。
断絶・・・新しい動き(前方後円墳など)。
576 :
575:2007/03/10(土) 00:21:20
安本や奥野の述べる地名の移動は、偶然ではありえない事実。
従って、甘木、朝倉の勢力が、最初にヤマトに入植し、地名を付けたと考えられる。
しかし、甘木・朝倉はその後、明らかに停滞している。東征があったとして、その主力が
甘木・朝倉ならば、その後の九州支配の拠点は甘木・朝倉になりそうなもの。
ところが、伊都国、奴国のあたりや西都原近辺や熊本の方が古墳が多い。
記紀に従えば、東征の出発地は南部九州(西都原?)。
東征に追従した物部の出身地は奴国の領域に求められる(旧事本記)。
卑弥呼が「以って死す」というのは、自然死ではないとする見解もある。
今のところ、南部九州に派遣された王族が、伊都国・奴国の旧勢力と手を結んで、甘木・
朝倉を制圧し、王権を継承してその後に東征して、畿内の甘木・朝倉派(長スネ彦)
を駆逐。その後、吉備などの力を借りて、伊都国、奴国の勢力も排除したと見ています。
577 :
四道将軍:2007/03/10(土) 00:31:40
なにか?
578 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 00:51:23
>>576 いわゆる海幸彦・山幸彦の伝説が何を意味するのか。
ひょっとして、ここで、日向勢力と西側勢力の逆転があったりしたのでは
ないかと考えたりして…。
579 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 01:43:55
は?
580 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 02:47:06
あちこち読み漁って馬鹿なりに感じたこと
九州説は芯が無い
あっちこっち動いて、細部に振り回されてる
九州人のおらが村運動、でなければ、
戦前のトラウマを引きずったひねくれ者
学問を超えた政治的思想を感じる
皇国史観という単語が目につき嫌になる
畿内説が一番スッキリしてる
合理的で筋が通ってる
日本の歴史から見ても自然と感じる
なのにどこかビクビクして元気がないのは、
右翼と呼ばれるのが怖いのだろうか
あるいは、馬鹿でもわかる簡潔明瞭な主張なので
また馬鹿に振り回されるのが怖いのか
>>580 それは逆、ある意味九州説のほうが明快かつシンプル。
畿内説は専門知識を必要とするので敷居が高い
つまり万人受けする考え方ではない。
・・・・・・と、畿内説の自分が言ってみるテスト。
582 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/10(土) 04:58:26
583 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/10(土) 05:00:21
>>549「3〜4世紀の半島全土で神獣鏡が多数出土している事実はご存知?」
魏の領土であった場所で見つかったどうかの議論ならともかく。
>「6世紀以降成立した三種を出すな」
成立したのと元からの祭祀とは違う。重要な事は三種揃った事ではなく、
倭人伝に九州の祭祀である、勾玉、鏡、九州中心の出土物である矛、が記載されている事、
畿内中心の出土物である銅鐸、巨大な前方後円墳の記載が無い事。
さてどちらがより邪馬台国の可能性があるでしょうか?の問題。
>>539「実際九州出自の氏族も多かったとは思うがね 」
じゃあ多かったんじゃないの?それにこのくだりは推察に過ぎないでしょう。
584 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/10(土) 05:01:53
>>539 「だがその後続かないのは、地元をほったらかして東遷したからなのか? 」
でしょうね。より大きな拠点作りのため、主力が九州から畿内に移ったんでしょう。
こんなの疑問でもなんでもない。
>>536「鉄器保有勾配は弥生どころか古墳時代に入っても九州>その他であり
このことからも東遷は考えられない 」
ことはないでしょう。武器は戦うときい以外はいらないんだから。
その後畿内は巻向など環濠の無い集落や、巨大前方後円墳建設など、
クニ同士小競り合いを繰り返した時代とは明らかに違う様相をみせる。
それに引き換え九州は相変わらずクニ同士の小競り合いがその後も続き、
自ら滅んで言ったのではないか。そして畿内勢力に飲み込まれていく。
585 :
SOY:2007/03/10(土) 07:25:39
>>570 >みんなまとめて燃えちゃえばいいのにw
イデオロギー的な発言は根拠が不明確なので、私もあまり好ましくないと
思っています。ただ、記紀を重視するしないかは思想の違いではなく、ス
タンスの違いのように思えます。
私自身、記紀の評価は高いです。読書百遍というくらいに読んだりもして
います。ただ、私が記紀のことをあまり論じないのは、神話から邪馬台国
を証明するよりも、邪馬台国から神話を証明する方が容易かも知れないと
考えているからに過ぎません。
一方で論議できぬ者が論点をそらす為に『お前は○○派』だといった発言
を繰り返すことの方が問題があると私は見ています。
ということで、邪馬台国についての主張がない
>>580のような発言は私は
スルーです。
>>575 九州から畿内に伝播したものはあまり多くはないと考えますが、朱の使い
方や使い分けあたりに何か見出せないものかと、九州の遺跡の調査報告書
を読む時には気にはとめたりしています。
530は乱暴だね。いろんな意味で。
しばらくケンに回ります。
本物の研究者でないことを祈っておこう。
587 :
一応九州王朝説:2007/03/10(土) 09:29:28
>>580 九州説=皇国史観ではないよ。
むしろ、「古代からずっと畿内だけに王権があった」と言う意味では、畿内説
にも強烈な人がいる。
まあいずれにしても、簡単にイデオロギーと結びつけない方がいいです。
イデオロギーはせいぜい「思想」程度の意味なんですが、いわゆる学問的論
争が出来ない日本の思想風土の中では特別な意味を持ってしまうのも事実。
皇国史観「的」なもの、マルクス主義史観「的」なものも当然その残滓は沢山
のこってるわけで、また全部の部分や視点が間違っているとも言い切れない。
例えば地球市民論を標榜する丸山真男にして、あの「日本的原像」論ですか
ら。戦後皇国史観を否定する大きな流れを作ったのは左翼知識人です。当然
とはいえ、そのことで同根の問題を反対に振っただけ、という事態も起こりまし
た。かといって、ドイツのような徹底的な戦後処理がなかった日本では、その役
割を否定することもできない。
ですから、簡単に言わない方がいいし、言うときはしっかりイデオロギーと分離
しなければいけません。
まあ太国さんみたいな人がいるから迷惑ではありますがねw
588 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 10:54:45
>>582 :九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/10(土) 04:58:26
>倭人伝の言う投馬国から南というのが間違いないなら、畿内説自体成り立たないんじゃないの?
>方向感覚が当時の中国人は違っていたと畿内説が主張するから北極星の観測や、司南、指南の存在をあげて、
>東西南北を正しく知る手立てはいくらでもあったことを証明したのにどこへやら。
だからさ、投馬国からは、里数ではなくて、日数で距離を表している。
ここがポイントだ。後の中国の史書に
倭人は、里数ではなく、日数で距離を表したと書いてある。
つまり、投馬国からの南へ水行何日というのは
倭人からの情報をソースにした大雑把なものらしい。
>後の中国の史書
そこまで何百年も我慢するのかい?
情報過多は便利な反面迷いを作り出す。
吾日:『駅から歩いて三十分』
私は距離も知っています。
591 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 14:16:26
年齢年代法は科学的に立証されてるが土器編年は単なる推測に過ぎない。
前者に合わせて後者を書き変える方が妥当。
まぁ年輪年代法自体が間違っているなんて電波はいないと思うが
今の結果をそのまま信じるにはデータが少なすぎると言うのなら同意。
今後の発掘次第だろうね。木がもっと出て来れば。。。
592 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 14:49:12
593 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/10(土) 15:01:23
>>587 お前非常にあまい左党が好きなようだ。象牙の塔にこもっている左党好きの
学者の論説がお前の脳内に入りこんでおり、お前は思想脳露の前触れたる
餌舐める質と象牙質とがリトマス試験紙で赤化する歯科医糖と強酸糖の濃厚さ
にやられる危険な歯層の状態にあり、このままではお前の忠崇神敬は冒される非常
事態に近づいているのだ。警告する。お前の古大歯を強酸政にするな。
594 :
SOY:2007/03/10(土) 15:23:06
>>591 >年齢年代法は科学的に立証されてるが土器編年は単なる推測に過ぎない。
>前者に合わせて後者を書き変える方が妥当。
層位学というものがあるのでそう簡単にはいかないです。寧ろ、史料選定の
妥当性や転用の可能性なども含め、慎重に、かつ、総合的に判断されるべき
と私は考えます。
>今の結果をそのまま信じるにはデータが少なすぎると言うのなら同意。
私の言いたいのはその部分にあります。気になる時代の資料を挙げても
よく知るところで以下くらい。
1.纏向石塚古墳 周濠から出た板材 177年+20年
2.勝山古墳 周濠から出た木製品 199年+12年
3.二口かみあれた遺跡 井戸枠板 222年
4.下田遺跡 腰掛 240年+XX年
これらを時代順に並べるのですら解釈によっては異論があるのに、これを
畿内説の重要な基調の一つとするのはやや危うさを感じます。
>>594 同意。
纒向勝山古墳
http://www2.begin.or.jp/sakura/maka02.htm より
@ 西暦199年プラス4〜12年、つまり203〜211年に伐採されたことが明らかになった。
A 年輪などから転用材ではなく、また紫外線による劣化がなかったことから伐採後すぐに使われ、
廃棄されたことも分かり、古墳の築造時期と同じころと判断された。
B 一方で、同時に出土した「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器の様式は従来の説で三世紀後半と
されており、研究者の中からは「木材の伐採年を、古墳の築造年と考えるにはもっと検討か必要」
との疑問を投げかける声も出ている。
年輪以外の要素だけで判断すれば、纒向勝山古墳は320〜370頃の範囲内。
私は、340〜360頃の築造と考えている。伐採から使用までの期間が長かったと見れば済む。
年輪のみで「極端な」年代遡上をすることを不可解に感じています。
クギやカスガイなどが無かった古代においては、伐採から100年間ほど期間をおいて使用したことも
十分あり得る。実際にも、600年以降の建築年代がはっきりしている建築物にも多く見られる。
厳密に言えば、年輪年代自体が多数の研究者により検証がなされ、各年代の年輪幅について科学者
の合意が得られている訳ではない(その段階にすら達していない)ため、科学的には無価値とするのが
正しいとは思いますが、「たぶん」正しいだろうとの推測をしています。
596 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 18:27:52
>>595 >年輪以外の要素だけで判断すれば、纒向勝山古墳は320〜370頃の範囲内。
>私は、340〜360頃の築造と考えている。
同時に二つの年代観を書き並べているが、根拠・理由が何も書いてないので
賛成も反対もできにくい。ぜひとも根拠・理由について述べてほしい。
きみがなぜ上限を20年遅らせ下限を10年早めたのか、も。
>>595 >科学的には無価値
先駆的な仕事に対し、門外者がこうした評価を下すのはいかがなものでしょうか
独力でなされたメンデルの遺伝の法則の研究は、今では高く評価されてますね
598 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 19:07:01
>>596 纒向古墳群(勝山、石塚、矢塚、ホケノ山)の年代を320〜370とする考えの根拠
1、崇神稜の没年を320〜370頃とする考えを妥当とし崇神稜もこの期間内とする。
2、崇神稜と纒向古墳群は、古墳形状からみて同じ規格のものと言える。
従って、時代も同時期と考えられる。
3、箸墓の被葬者であるモモソヒメは崇神と同じ頃に亡くなったと考える。
崇神稜〜箸墓との位置関係からも、纒向古墳群は同じ頃の築造と考えられる。
4、崇神稜と隣接する柳本天神山古墳は崇神稜と同じ頃(少し後)に築造されたと考えられる。
天神山古墳は4C後半でほぼ争いが無い。故に、崇神稜もその少し前頃となる。
(私見について)
1、私は、崇神稜を360頃、箸墓を365頃、垂仁稜を370頃、景行稜を380頃と考えている。
2、纒向古墳群は、これよりも極端に新しく見ることは不可能。
3、纒向古墳群は、形状から見れば、箸墓よりも古い。
・・・よって、纒向古墳群を340〜360頃と考える。
>>598 >2、崇神稜と纒向古墳群は、古墳形状からみて同じ規格のものと言える。
違います。同じ規格ではありません。
600 :
530:2007/03/10(土) 19:24:41
>>598 力作だが、もう一度自分の内容を読み返して欲しい
>1、崇神稜の没年を320〜370頃とする考えを妥当とし崇神稜もこの期間内とする
まずこれがなぜ妥当なのかが問われているのであって、これを証明する手立ての提示が必要になる
崇神の実在については棚上げしておくとしてもだ
>2
バチ型前方後円墳は別にこの2つだけではない
渋谷向山、箸中山、行燈山、九州の那珂八幡、赤塚その他も含めた形状学的な古墳編年の提示と
主体部内構造の比較(今のところこれは無理)が必要となる
よって1,2とも根拠と成り得るものではなく、それを証明する別の根拠が必要となる
>3、これも実在を証明してから根拠にすべき
>4、こんな説ははじめて聞いた、ソース希望
つまり現時点ではとても根拠になり得ないものを基調に展開しているように見受けられる
上記指摘にあるように、更なる根拠の提示を求める
601 :
530:2007/03/10(土) 19:37:48
>>598 すまん、読み落としていたor勘違いしていた
>2、崇神稜と纒向古墳群は、古墳形状からみて同じ規格のものと言える。
従って、時代も同時期と考えられる。
まさかこの2つを同形状と見ているなんて思いもよらなかった
>>598の指摘どおりまったく違う
帆立貝型(マキムク型)と初期定型前方後円墳とでは、形式学的にざっと挙げても
1、前方部形状、特に長さと高さ、続いて段差の有無、勾配など明らかな違いがある
2.後円部(主体部)盛り土の高さおよび勾配に明らかな違いがある
3、その他2段3段などの段差が主体部と後方部で連続しているかどうか、さらに葺石などの表土加工技法、環濠形状(V字かU字かなど)が明らかに異なる
602 :
530:2007/03/10(土) 19:50:27
年輪年代については
>今の結果をそのまま信じるにはデータが少なすぎると言うのなら同意。
これは禿同
だが中世以降のデータは疑問の余地がないくらい一致している
これは時代が下るためではなく、表皮の有無によるもの
10世紀以前の指標が極端に少ないことと
どうやら日本列島のように温暖多湿で南北に長い地域では、地域による誤差が発生すること
この誤差を埋めるだけの試料が十分に集まっていないことはまぎれもない事実なので、まだ絶対視はできない
同様に同種試料においても諸外国のデータをそのまま転用できない
特に高野槙のように生息範囲の狭い試料に関してはその傾向が強い
そんなことはいまさら言うまでもないのだが、だから厳密な確定年代が出るはずの年輪年代法においても
プラス・マイナスの誤差つきで示すしかない
603 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 19:53:58
年輪年代測定法は確立しないと
欧米の考古学会では相手にされない。
安本とかは、年輪年代測定法を目の敵にするけど
確かに、現時点ではサンプル数が少ないから
これからサンプル数を多く蓄えて
慎重にやらなければいけないが
これまでの土器編年法が、全く
推測の域を出ない手法だというのは確かだ。
604 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 19:58:27
>>602 東北地方と九州地方なら
誤差も大きいように思うが
九州と畿内なら誤差がそんなにあるようには思えないな。
605 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:02:01
古墳の被葬者を特定するのは、古墳の年代推定より遥かに難しいと、多くの本に書いてある。
>>598は
箸中山古墳=モモソヒメ
行燈山古墳=崇神
蓬莱山古墳=垂仁
渋谷向山古墳=景行
と、宮内庁の現在の治定の通りにしているようだが、大丈夫か? 考古学的根拠があるのか?
主体部の発掘調査はどれもこれも、まだ一度もやってないんだろ?
606 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:05:51
607 :
530:2007/03/10(土) 20:10:21
>557氏の
>>575-576への返答
まずは議題提示心から感謝
連続とあなたがみなす部分から掘り下げる
地名の一致…長くなるので最後に
>鏡崇拝の思想。大型内向花文鏡。破砕鏡は途中で断絶。
鏡信仰…これは九州でもそれほど古くからあったものではない
少なくとも銅矛放棄以降のもの
それから程なく畿内より先に山陰、越にかけての日本海側で広まり始め
瀬戸内、東海、中部、近畿、関東などで鏡の副葬がぼちぼち見られるようになる
つまり九州も含めて半島・大陸からの影響を徐々に受けていると見るのが妥当である
逆に破鏡のほうが九州から東にもたらされたと見たほうがよいのではないか
>平原の掘建柱→鳥居?
まさに鳥居?なわけで柱坑からは上モノは推測しかできない
吉野ヶ里の物見やぐらや唐古鍵の楼閣も然り
平原2号とホケノ山では坑数や坑径も異なることから、何らかの上モノが両者ともにあったとしか言いようがない
これは連続性で論じるより、墳墓上に何らかの施設を埋葬儀礼時?に築く形の葬送形態が全国にあったのではとしか今は言えない
608 :
530:2007/03/10(土) 20:22:54
>>603 土器編年も捨てたものじゃないw
たとえば遠賀川式や庄内式などと区分され、形式・形状からいくつかの様式に並べられているわけだが
土器以外の指標となるものの発見によって、それがごそっと動いたり各様式の幅が伸縮することはよくあるが
様式順(T〜Wなど)が入れ替わったり、任意の形式のみが動いたりすることは過去にない
動くときは全体が動く
ちなみに土器編年が海外から評価されていないというのは大嘘で
日本の土器屋は常に諸外国、特にユーラシア一円でひっぱりだこである
>>604 これは俺も専門外なので何ともいえないが
植物生育の誤差は、雨量、日照時間(山地のどの方向に向いて生えていたか)や湿度、寒暖の差によって個々に違いがでるとのこと
日本がややこしいのは、これらのデータをかなり細かい地域で分類せねば正確性に乏しくなる危険性が高い
広大な山野や平野を擁する国との違いだね
609 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:29:02
>>608 それは、あんたの脳内妄想。
たしかに、日本の土器屋が海外から要請というのは
常にあることだが...
欧米の学会では、土器編年というのは、相対的なものであって
絶対的な編年ではないという結論で
年輪年代測定法や炭素年代の正確性には勝てないという評価だ。
それで、日本の土器屋が発表しても、それで不十分だと相手にされない。
また、土器編年は、その学者の主観で百年単位で誤差が生じまくる。
610 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:30:58
>>608 誤差が生じるのはそうだが
それでも、日本でもある程度の法則は見つかってきたんだよ。
欧米では、10年前後で法則が分かったらしいが
日本では、100年くらいらしい。
そういう意味で、日本で誤差が生じやすかったのは、そのとおりだ。
611 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:31:45
土器屋は、なぜ、
科学的な手法を憎む?
そんなに科学が怖いのか?w
612 :
530:2007/03/10(土) 20:32:20
次に断絶として挙げられたものについて
>魏志記載の風俗。入墨による地位の表示、ジサイなど。
風俗は個々にこれから取り上げていくとして、入墨が果たして畿内マキムク以降に行われていなかったのかどうかは断定できない
逆に関東では古墳時代に入っても仮面状土器が頻繁に出るし、中南部九州の装飾古墳でも同じ傾向がある
また彩色との観点から見た棺内の朱にしても、遺体に振りまいたのか塗りこめたのか、あるいは洗骨したあとに処置したのかが今のところ不明なので保留しておいたほうがよいのではないか
613 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:36:32
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
614 :
530:2007/03/10(土) 20:41:24
>>609-611 土器編年>C14または年輪年代とはまったく思ってないよ
ただまったく使い物にならないとでも言いたげな極論が、特に年代遡上を嫌う考えの人から出ているようなので、そうでもないよと言いたかっただけ
科学的手法によってメルクマールが提示されるのはむしろ喜ばしいことであって
それについてはまったく否定していない
>北部九州以外の影響という意味で吉備の影響
これはどうだろう・・・吉備への北部九州の影響は畿内より低いのではないだろうか
むしろ出雲などの山陰からの影響をもろに受けた吉備が出雲から離れて独自性を発揮しだしたことが再編成の引き金の一つだと見てよいのではないだろうか
615 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:45:26
616 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:49:53
【朝鮮人の主張】
未開状態で原始人が闊歩していた日本列島を、高度な先進文明を持った騎馬民族の朝鮮人が征服した。
朝鮮人が、ありがたい文明を日本人に与えてやった。
漢字、農耕、造船、建築、音楽、ありとあらゆる文化を朝鮮人が与えた。
そうして、日本はありがたい文明を享受することができた。 それなのに、日本人はその恩を忘れて、
朝鮮半島を侵略し、朝鮮の人々を苦しめ、蹂躙した。
日本人は、恩を忘れて非道を働いた過去を深く反省し、それを未来永劫、後世の日本人に伝えなければならない。
こういう事を、朝鮮=韓国人が大マジメに主張している。
事実を明らかにしておこう。まず、朝鮮人=韓国人は騎馬民族ではない。朝鮮人は狩猟民族である。
次に、10世紀頃まで朝鮮人は狩猟民族としての生活様式を維持しており、文化レベルは低かった。
朝鮮人は、10世紀まで漢字の読み書きができなかった。だから、万葉集のような歌集が無い。
そして、いちばん重要な事実は、朝鮮人は古代日本に移住していない。一人も移住していないのである。
したがって、朝鮮人が日本人に文化を与えることは不可能である。
朝鮮人は、「古代日本人に文化を与えてやった」などと妄言を語っているが、ミジメではないのか。
617 :
530:2007/03/10(土) 20:53:03
>新しい動き(前方後円墳など)
このあたりはマキムクスレなどで深く掘り下げたほうが有意義ではないかと思う
ちなみに念押しで書いておきたいのだが
庄内・古留以降の畿内王権が間接的すら北部九州にあったツクシ王権の影響を受けていないとの考え方をする研究者は、もうほとんどいないと思う
否定されているのはツクシ王権が直接乗り込んできたという考え方で
それは大和だけでなく畿内一円にツクシ独自の葬送儀礼や文化様式、土木技術がほとんど見られないためである
もし東遷・東征を主張するならば、具体的にどこの遺跡のどのような出土物にそれが見られるのかの提示が必要
それを挙げることができて、初めて神武などの神話を参考文献として使用できる
618 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:59:03
>>600 >>601 崇神捏造説?論外ですな。
崇神稜については、被葬者が崇神であることはほぼ定説。
10代以降も場合により非実在とする直木でさえ崇神の実在は認める。
氏族伝承は、初代神武以来、その詳細が記録されており、その骨格さえも否定するのは無理。
古代においては、「生まれ」、「血筋」が人の一生を決めていた。氏族の序列で人生が決まった。
そのような時代において、自分の所属する氏族の伝承はそれ自体が「家宝」である。
その伝承であからさまな嘘を言っても、他の氏族が黙っていない。
その結晶が記紀であり、旧事記であり、新撰姓氏録などである。
いまや記紀の伝承に符合する事実は、出雲の時代にまで及んでいる。
歴史の伝承なくして、記紀の記載はあり得ない。
これらの古伝承が、天皇制賛美のために捏造された歴史とみる考えは、根本がおかしい。
少なくとも、謀略史観や捏造説の方が捏造の根拠を明確に示すべきである。
619 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 21:02:10
馬鹿馬鹿しいw
朝鮮半島南岸との交易は縄文時代からやっているし、
弥生文化は朝鮮半島人が持ち込んだ文化ではなくて、
アムール沿岸部から船でやって来た北方アジア人の弥生人が
朝鮮半島東部沿海を通過して九州北部に上陸する際に、
朝鮮半島にあった文化をついでに持ち込んできただけの話。
620 :
SOY:2007/03/10(土) 21:03:09
>>606 炭素年代。弥生後期後半〜古墳前期にかけて古くなり過ぎる傾向があることは
よく知られています。
この問題も解決せず、とりあえず定点ぎりぎりの古さで妥協したような解釈が
多い段階なので、これを絶対視するのはまだ危ういと私は考えています。
>>612 530殿
九州からの影響があるものとして、私は『朱』を挙げました。不明な点が多い
として結論を保留するのは妥当ですが、興味深い情報ではあると思います。
A類 遺骸に朱だけを使う
B類 遺骸には朱、埋葬施設内面にはベンガラを使う
C類 埋葬施設にベンガラだけが使われる
出典は忘れましたが、おおむね以下の傾向があると言われています。
1.弥生時代の山陰、山陽、畿内はA類
2.弥生時代のB類、C類、北九州のみ
3.古墳時代はC類が最もオーソドックス
王権の移動を追う場合、墓に着眼するのは悪くないと私は考えます。
621 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 21:06:42
622 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 21:14:39
崇神陵墓の年代は
280年くらいだろう?
623 :
530:2007/03/10(土) 21:18:13
さて地名の一致だが、比較図のあるサイトを探してみた
ちょっと、いやかなり音楽がウザいwので他にあれば教えて欲しい
また83年の著書からの引用らしいので、最新版もあればよろしく
http://inoues.net/club/amagi_kouenkai.html >奥野正雄教授は、さらに検証を深め、この2地方の名前の一致箇所を100カ所以上指摘する
とあるので、できればすべてが掲載されているのが望ましいのだが
個別反論の前にまず一般論から
1、この地名が一致するとして、それが3世紀からとの確証はないはずである
可能な限り遡っても5世紀までではないか
2、他の土地、たとえば中部、関東、東北などで一致するものがある場合、それも遷都とみなすのか
また独特の固有名詞が多数一致するのならまだしも、池田、田中などどこにでもある古地名まで含めるのはやりすぎではないか
3、先に独特の固有名詞と書いたが、笠置山などは今でこそ奈良県が有名だが、本来は山頂に雲がかかる程度の標高の山を指す言葉と見られる
これらについて個別の比較検討がなされた論文はあるのか
4、一応、安本説の根拠ひとつとのことだが、最初の提唱者は別人だったはず(名前失念)
その人がこの説を撤回しているのだが、安本氏が新たに補強して再提示したのならば、その部分はどこか
原説の弱点をそれは乗り越えられるのもなのか
5、時代区分もそうだが、明らかに後世の地名(奈良の池田、夜須の筑前高田、三輪など)が混ざっているが
まさか安本氏や奥野氏がこれに気づかなかったことはあるまい
とすれば安本氏の提唱する地名の一致とは、このようなコンタミを除けば正確にはどれだけあるのか
624 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/10(土) 21:30:01
>>600 >>601 崇神捏造というのはおかしい。お前、稲荷山鉄剣の銘文を読んでないのか?
これには孝元天皇の皇子といわれるオオビコの名がある。それにこれには系譜
がついており、同銘文の雄略天皇までの世の間が8代とかで代数にも合理性
があることから記紀の文はウソではなく、オオビコの刻字から崇神が捏造だと
云うは、それを云うほうが捏造だということになる。
お前は早く津田病を治療して来い。
625 :
530:2007/03/10(土) 21:31:02
>>618 いや捏造云々よりも、記紀編纂時にはその後の天皇も含めて
墳墓位置も居宮位置もはっきりと判っていなかったのを、当時の識者が英知を集めて比定したのだろうとは思う
ただ、それが正しいかどうかはまったくの別問題だ
直木孝次郎氏の言説とか50年前の学説を持ち出してきて語るのは、直木氏に失礼ではないかな
とにかく、記紀等はその内容が正しいのかどうかワカランというのが客観的かつ一般的なのであって
内部調査もしていない崇神稜の被葬者など、誰一人言及してないよ
そう信じたいのは宗教の自由だが、学説にはなりえない
626 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 21:34:18
627 :
530:2007/03/10(土) 21:39:27
>>620 朱については文化移動の変遷に大いに関係があると思うので
もっと深く掘り下げて生きたい
具体的分類に感謝
>>621 オオヤマト古墳群が近い年代である蓋然性はきわめて高い
だけど何度も言うが、渋谷向山の被葬者推定が困難な時点で
伝承のみを根拠に崇神陵と断定し、あまつさえそこから展開していく手法は学問ではなく小説だよ
>>624 こういうネタになったら出てくるなw
オオヒコは代名詞的用法だろw
長男とか妻みたいなやつね
ちなみに決してオオ”ビ”コじゃないぞ
628 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 21:42:03
629 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/10(土) 21:47:34
>>588「つまり、投馬国からの南へ水行何日というのは 倭人からの情報をソースにした大雑把なものらしい」
百歩譲ってそうだとしても、南という方向が倭人に解っていたのかどうか。
630 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 21:54:39
>>627 崇神の実在と年代が畿内説遡上派のアキレス腱なんだよね。
だから、崇神の実在性というレベルで否定するほか無いという袋小路。
では、あれは誰の古墳なの? マボロシの古代王権?
「記紀伝承の史実性は認めるけど、不正確さがある。」と言えば聞こえはいいが、
その実体は我田引水のモザイク史観。
記紀は小説ではない。「その時代の人々が事実であると信じていた伝承」である。
しかも、その時代の人々の人生の掛かった伝承である。
これを安易に捏造と断じてきたのは、直木などの戦後左翼学派ではなかったか。
>>627 お前はワカタケルでケチをつけ、ここでも大彦でケチをつけている。
さらに昨晩は繼體以前はまるで記紀が捏造してるような書きっぷりだが、
隅田八幡の人物画像鏡に
「癸未年八月日十大王 男弟王 在意柴沙加宮・・・・・・・」
との銘文があり、オホト王 の記述があることから、記紀の記述はデタラメでは
なく、この内容から、お前の主張がイカサマだということになるのだ。
632 :
530:2007/03/10(土) 22:04:09
地名一致の個別考察だが、仕方ないので前述のサイトを参照する
繰り返し、別資料があれば提示希望
まず比較的名前の動きにくい”山”から見ていこう
北から時計回りに
御笠(三笠)山→笠置山→鳥屋(見)山→香(香具)山→鷹取(高取)山→長谷山 とある
これに三輪と畝傍を加えてもいいが、この図では山として一致しているものは以上だ
さてこれらの中で本当に夜須と奈良にしかないものはあるだろうか
先に述べたように雲がかかる山との意味での、三笠、笠置は全国に点在する
鳥屋(見)にしても、鳥のつく山名などは誰もが連想しうるとの意味でも全国にある
鷹取(高取)も同じ
香具山と香山(高山)は一瞬おおっ!とも思うのだが、”かぐやま”そのものはこれまた多い
長谷山などはサイト管理者が書いているようにどうやら奈良の長谷寺にちなんでつけられたものらしい
これらはケチをつけるとか揚げ足取りなどではなく、それこそどうにでも解釈できるものなのだろう
ちなみに東京・大阪でも相当に地名の一致があるが、これも遷都などは無関係であるのは言うまでもない
大阪住吉から漁師を移住させたのが江戸佃のはじまりではあるが、それこそ特殊例でしかない
また逆に夜須の地名がヤマト政権進出の証であるとも考えられる
俺自身まったくそうは考えないが、逆もまた成立するということは、これを根拠にはできないということだろう
633 :
SOY:2007/03/10(土) 22:05:44
>>627 530殿
>朱については文化移動の変遷に大いに関係があると思うので
>もっと深く掘り下げて生きたい
楯築の朱なども含めて『朱』は注目すべき遺物と私は考えていますが、実は
まだ私自身がこれから時間をかけてその傾向が本当であるかを検証していく
段階なので、これ以上に語るところがないというのが実状です。
因みに私が見た調査報告書はC類だったので、今一つ掴みきれていません。
朱は中央構造線付近の鉱山で取れますが、品質などからある程度、どこの
鉱山と一致するかまで分かるらしいです。楯築は意外と徳島産の朱ではな
かったといったような話も聞いたように思います。(うる覚え)
因みに黒塚古墳の時に朱のことはとりあげられていたと思います。
以下の『木棺中央部に大量の貴重な水銀朱』1月12日発表の部分
http://www.begin.or.jp/sakura/kurotuka3.htm
>>627 「大彦」が長男とか妻とかの代名詞なら、後代の記紀の記述で大彦の使用が
あっても然りではないか? ところがそんな記述の状況が多様されてる形跡
はないようだ。つまりお前の自論のイカサマ防衛の逃げ古死論なのだ。
だまされないぞ。
635 :
530:2007/03/10(土) 22:12:46
>>630-631 崇神の実在を前提に信じ込んで述べられてもなあ・・・
いや、宗教的にはありだよ
俺も地中海が真っ二つに割れて道が開けたなんてのはうそだとか、普通の場所では声高に言うことはない
ただ学問として参加しているのだろ、君ら
ならばすべての前提を疑おうや
>>631 なんでオホト(継体)の記述が彼以前の系譜の信憑性につながるの?
また隅田八幡の人物画像鏡って、いつ作成されたものか結論出てなかった世ね
様式的には8世紀以降の可能性が極めて高いのだが、神社側が科学的調査に同意してくれないんだよね、あれ
636 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 22:12:51
>>623 引用先、確かにウルサイw
1、5世紀?それだと5世紀に別民族の大移住でも・・・・まさか、キバ・・・・ヤシ・・
・・は置いといて、1世紀から同じ地名であった可能性があるのは、確かですが。
甘木・朝倉が最も繁栄した時期に勢力の移動があったと考えるのが、最も素直ですね。
そうなると、200年ころが一番可能性が高そうですね。
2、別の土地でこれだけの大規模な一致があれば、当然その推測は成り立ちます。あればですが。
「どこにでもある地名」と切り捨てられない法則性があるから問題なのです。
3、意味不明。法則性と何の関係が?
4、反論としては、無意味。
5、「明らかに後世の地名」・・・その「明らか」に確実な根拠はありますか。
637 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 22:16:36
>>632 そもそも、地名の位置関係の法則性に対する反論になっていませんよ。
「ありふれた地名」というのが反論にならないということを理解してください。
「その逆」・・・これを考えるとすると、甘木・朝倉が征服されて、地名が一新した
という歴史を考えないといけないが、どちらがより古くから開発されているのかを
考えれば、「その逆」はあり得ない(極めて可能性が低い)ことは、自明。
638 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 22:18:31
邪馬台国論争は畿内説で
ほぼ確定なんだけど
あとは、今後、どういうことが
論争になるのかな?
関東の古代史が論争の種になるかもしれない。
639 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 22:20:21
>>629 ヒント。対馬海流と
帯方郡を基点とした道程だった
投馬国、邪馬台国までの距離。
>>635 オホト王から系譜のほうに話をそらすことはないよ。お前は繼體以前を信じ
ないと津田病の症状を発症してるから、ご本人の金石文を出したわけなのさ。
神社が応じないだと? ハハ〜ン、苦しい言い訳だな。ww
それよりもお前は 神社が 「応じん」ない といいたいんではないのか?www
641 :
530:2007/03/10(土) 22:21:12
>>633 非常に参考になるサイト紹介ありがとう
とりあえず今日はここで打ち切りたいが、いまからよく読ませてもらう
>>634 前代にも後代にも代名詞的用法で固有名が判らん例は山ほどあるぞ
古神道の最高権威は記紀をあまりよくご存じないらしい
彼に付き合うのはここまで
あまりいじくるとファビょるばかりか、てぐすね引いている荒らしまで引き寄せてしまうからな
>>638 九州で確定済みだ。畿内説は「紀無い説」だ。記紀に女王国が天皇の
お隣にいた記述はゼロだ。
>>641 はやく「大彦」が長男だとかいう記紀の他の事例を2,3掲げてみろい。
644 :
SOY:2007/03/10(土) 22:26:53
645 :
530:2007/03/10(土) 22:33:55
>>636-637 任意の2地点において、中心点からの方角と地名がはぼ一致する場所を探すのは、それほど難しくないんだよ
これは古代史とか地政学以前の問題で、占いの手口にも似ている
つまりあたかも法則性が存在するかのように見せかけるというやり方だね
何度も別の図はないかとか、100以上記載された試料はないかと尋ねているのは
比較検討によって本当に法則性によるものなのか、似ている部分だけをピックアップしたものなのかを具体的に示したいがため
ちなみに甘木・朝倉より明らかに大和東南部のほうが古くから開発されているよ
じゃあ次回は位置関係について、逆に一致しないほうが多いということを書いていこうか
また後世とはいつごろ以降と考えられるのかもね
奈良の池田などは明らかに鎌倉時代なんだけどね、延喜式などに一切でてこないし
出てくるのは大阪の池田
646 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 22:37:47
530は逃亡だ、逃亡だ〜。
648 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 22:44:24
>>645 「任意の2地点において」??・・・2カ所だけでの法則性ではありませんよ。
「逆に一致しないほうが多い」??・・・やはり、法則性の意味が分かっていない。
後世の地名と確実に認定できるもの(地名創設が記録に残っているもの等)を
一つずつ挙げていくというのが、地道だけど、意味のある反論です。
但し、ソースがないと議論にならないから、負担が重そうですが、できますか。
太国 一勝!!
650 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 22:47:57
あれ、太国さん、トリップつけてるよ〜。いつの間に・・・・ (@_@)
651 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 22:50:29
太国さん、
まともな意見を連続して書きすぎるから
ニセ太国かと思いましたが、
>>647、
>>649で本人と確定しますたww
652 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 22:50:30
九州説はもう、何度も論破されまくっているのに
そんなの無視して、何度も同じ説を唱える。
安本の邪馬台国東遷説は、トンデモ説。
653 :
530:2007/03/10(土) 22:53:16
>>648 任意の2地点というのは当然、夜須と大和だけど
>ソースがないと議論にならないから、負担が重そうですが
だからみんなめんどくさがってやらないんだよねw
少なくとも和名抄や延喜式以降である地名を図に含めている点などは
2,3日もあればピックアップできるよ、それでも
>地名創設が記録に残っているもの
これは無茶だろうw
あのね、こう考えてごらん
霊魂が存在するか否かについて、存在証拠と理論を提示して側に対し
それが誤りか捏造かを提示しているわけなのよ、こちらは
なので存在しない証拠を挙げてみよみたいな悪魔の証明は求めないで欲しいのさ
654 :
サガミハラハラ:2007/03/10(土) 22:55:54
邪馬台国小城説は九州説ですがまだ論破されていませんよ。
655 :
530:2007/03/10(土) 22:55:59
>>652 それは九州説そのものが悪いのではなく
トンデモ九州説が懲りないのだと思う
記紀の信憑性を問うと、さっきみたいにトンデモ畿内説が暗闇からわらわら出てくるようにさw
津田病患者は折伏手術だな!!
657 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 23:01:51
>>653 >>地名創設が記録に残っているもの
>これは無茶だろうw
これは、私もそう思います。しかし、厳密な意味での「否定」を求めればそうなります。
延喜式の時代までに無くなった地名もありうるので、安本が挙げる以外にも地名の
類似はあり得るという理屈も成り立ちます。
また、延喜式の時代に存在していても、延喜式から洩れた地名もありえます。
要するに、地名が名付けられた時期からの否定論は困難であると考えます。
この部分の安本説を否定するためには、@山などの必ず「名付け」のあるものを重視して
比較する方法、A神社などの特色のあるものを比較する方法などが考えられますが、
いずれも否定ではなく、補強になるように思います。
658 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 23:10:48
「大彦」が代名詞だとさ。wwwww
系譜の記事の大彦以外の名もあいつは代名詞と主張するのか?
それとも大彦だけ系譜の中で代名詞か〜? えれ〜恣意的だな〜。www
660 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 23:13:14
東遷説だが、安本説ではないので言わせてもらえば、地名の移動そのものが
考えにくいと思う。
たとえば、アメリカの地名がイギリスなどの地名に似ているのは、アメリカが
新世界であり、地名がないのと同じような状態だったためと思う。
北海道もその意味では、新しい地名が出来やすい状態だったが、それでも
アイヌ的な地名はたくさん残っている。
徳川家康が江戸幕府を開いても、三河の地名が江戸に移ったことはなかったと
思う。
やはり、地名の移動というのは考えにくい。
>>660 しかし、「偶然の一致」とするのもむつかしい。
662 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/10(土) 23:18:49
>>617 もし東遷・東征を主張するならば、具体的にどこの遺跡のどのような出土物にそれが見られるのかの提示が必要
征服したからといって、自分達の文化をそのまま押し付けたとは限らない。寧ろその可能性は甚だ低いといえる。
北部九州は武器こそ優れていたとはいえ吉備の古墳築造技術や、畿内の銅鐸鋳造技術など各地には北部九州を凌駕する優れた文化があったことは否めない。
かつて中国の征服王朝がそうであったように征服者の側が漢文明に染まるという例もあり、東征して初めて自分達の田舎もんぶり?に気がついたことだろう。
邪馬台国の有棺無槨墓も、畿内の木槨木棺墓に及ばない気がする。東征した九州勢力は各地の優れた文化に埋没していった、というのが真相だと思う。
それによる成果は倭国各地の各分野の技術の集積を呼び、統一国家への土台が築かれた、ことかな?
要するに一致しているように見せかけているってことだろ、彼の主張は。
530の奴、大彦が代名詞なら本名は何というのか?
系譜の全員は固有名を書き、大彦だけ代名詞だというのは恣意的主張以外の
何物でもないが〜正解。
666 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 23:43:08
ここのスレって、九州説論者の
断末魔が聞こえるよな...
なんというか、畿内説で動かしようがないのに...
667 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 23:56:47
九州説論者の多くが
小説家とか九州説ロマンチストというか
歴史学や考古学の専門外の人間が多い。
なぜかというと、畿内説なんて当たり前すぎて
おもしろくなく、あんまり商売につながらないからだ。
668 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/10(土) 23:58:37
>>666 「大陸からの方向」云々の答えはどうしたのじゃ。まだ貰っていないけど。
しかしレス番「666」なんて縁起でもない。
>>666 畿内にあったなら記紀にお隣の天皇との朝貢、交易等が遠い倭人伝以上に詳細
が書かれるはずだが、その記載がゼロだ。www
つまり、女王国は九州説が正解で不動であ〜る。
>>666 具体的に九州説の間違いを指摘して論破してくれよ。
その書き方だとただの煽りレス
671 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 00:28:06
>>628 国会会議録はcgi使ってるので全然リンクになってなかった。皆さんごめんなさいでつ m(_ _)m 本文コピペします
質問者:植田至紀委員(社民党)
「やや時代が下りまして、実在性というものもやや神武天皇よりは実在したのではないかと言われている崇神天皇、そして景行天皇、この崇神陵・景行陵古墳というのは今の天理市の柳本というところにございます。
北側のアンド山古墳というのが崇神陵、そして南側に、向山と言ったかな、景行陵というのがあります。これは、実は幕末期に治定が変わっていますね。
というのは、当時の柳本藩、織田藩、一万石の織田藩が、当時、尊皇の機運の中で、その陵墓二つを整備すると同時に、治水も兼ねて古墳のそれぞれのお堀を改修した、その改修の過程の中で、もともと北側のアンド山古墳が景行陵で、南側が崇神陵だったのが、
なぜか、アンド山が崇神陵に、南側が景行陵に変わってしまったわけですね。こうした事例があるわけです。
こうした経過について、私は、景行天皇、ヤマトタケルノミコトのお父さんになるわけですが、景行天皇であるとか、ミマキイリヒコと言われる崇神天皇、こうしたものが実際、歴史上どういう存在であったかということを問うているわけではなくて、
当時も恐らくいろいろな文献でそういうことに判断されたんでしょうが、その経緯が整合性を少なくとも文献上持っているのかどうなのか、判断されているのかどうなのかという点が一点。」
672 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 00:30:09
>>670 ああいう感情的で非論理的な人間がいるから畿内説は存続しているのです。
673 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 00:30:14
「それと、もっと時代が下ります。奈良時代、平安時代になるわけですけれども、平城天皇陵、御承知のように、これは平城宮跡の北部にあるわけです。ちょうど真北にあるわけですね。これは、今の形状は円墳です。
しかし、実際、平城宮跡の調査の過程の中で、もともと平城天皇陵と言われる古墳は前方後円墳で、そして、平城宮をこしらえるときにその前方部を削り取ったということが後になってわかってきた。
すると、少なくとも、八世紀末から九世紀初頭でしたでしょうか、平城天皇がいた時代と、前方後円墳があった時代というのは三世紀、四世紀、五世紀ぐらいまでですから、明らかに時代的に違ってくるわけですね。
例えばそういうことを踏まえて、実際にこうした陵墓の治定について再検討しなければならない余地というものが幾つも出てきているだろうと思うわけです。
そうしたことについて、少なくとも、私は別にやらなくてもいいというわけじゃないですが、本当にそれぞれのそこでお休みになっておられる方々の静安と尊厳の保持を図るのであれば、
正当に治定をする、正確に治定をするということも、当然、職責として出てくるだろうと思います。
今、二つ事例を挙げましたけれども、こうした事例を踏まえて、実際に学術調査の必要性というものがあるだろうと思いますが、その点はどうか、お伺いします。」
674 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 00:33:10
答弁者:山口均政府参考人(宮内庁書陵部長)
「まず、崇神天皇陵と景行天皇陵の治定の経緯でございます。
御指摘ございましたように、安政年間に、崇神天皇陵を向山古墳、現在の景行天皇陵でございますが、それから、景行天皇陵をアンド山古墳、現在の崇神天皇陵でございますが、と一度考定をいたしたことがございまして、
幕末に至りまして、またおなじみでございますが、谷森善臣の考証によりまして、現在のように入れかえをして治定をしてまいったわけでございます。
これは、二つの陵、いずれも城上郡に属するわけでございますが、衾田陵との関係、衾田陵に近い方が崇神陵ではないかということが延喜式の記載と合うのではないかということから、崇神天皇陵が現在地の方に決まり、
そうしますと、残りが景行天皇陵ではないかというふうなことがあったと記録に残ってございます。」
675 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 00:36:00
「それから、平城天皇陵でございます。
平城天皇陵は、元禄の時代にはヒシアゲ山に一度治定をされたわけでございますけれども、この陵が二重堀を持っておりました関係で、幕末になりまして、今度は寛政でございますが、寛政年間に、蒲生君平が年代に合わないという指摘をいたしまして、
それを受けまして、安政の陵改めの段階で、ネジ山、現在の平城天皇陵を考定をし、幕末の修陵の際に、修陵というのは陵を修復する際に、現在地を平城天皇陵として正式に治定をしたわけでございます。
この幕末の治定の際には、御案内の谷森善臣が詳しい考定をしておるところでございます。
平城宮の造営によって一部を削り取られた古墳があるのではないかという御指摘でございましたが、後円部に当たるという御指摘をいただいておりますことは承知をしてございます。
しかしながら、当時の埋葬の方法としまして、例えば桜井のホケノ山古墳もそうでございますけれども、竪穴式の石槨のあります古墳に、後世になりまして横穴式の石室をつくって埋葬したという例、
いわば廃墳を利用しました二次利用というのも最近確認されておるわけでございまして、そのような例も多々あったのかもしれないということもございまして、今回御指摘の陵も、そのような一例である可能性も否定できないのではないかと思っております。
また、治定から現在に至るまでの長い経過、積み重ねも無視するわけにもいかないだろうということで、私どもといたしましては、陵誌など確実な史料が発見されない限り、現在の陵を維持していく考えでございます。」
<2055年大学入試問題> (日本史A、第3問)
かつての邪馬台国論争における畿内説はいつ合理性を失ったと考える
のが正しいか。次の中から選択せよ。
@記紀がある時点で最初から合理的でない。
A椿井大塚山で大量の三角縁神獣鏡が出土したとき(1953年)
B鉄器の北部九州優位が明らかになったころ(1960頃)
C平原遺跡が発見されたとき(1965年)
D稲荷山古墳の鉄剣の文字判明のとき(1978年)
E三角縁神獣鏡の鉛の同位体比検査がなされた頃(1982頃)
F荒神谷遺跡が発見されたとき(1983年)
677 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 00:40:09
邪馬台国は近畿だよ。 魏志倭人伝もそのまんまの記述の内容でOKなんだ。
なぜなら、当時の日本列島は90度まわった状態だったんだよ。
あすかあきおの本で読んだ。
678 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 01:36:16
九州説って…具体的に示せやら指摘せよやら
威勢はいつもいいんだが
具体的に指摘されると逆ギレするか詭弁に走る印象を受ける。
このスレ読んでなるほど九州だとは、フツーの人は思わんだろう。
ちゃんとした正統派の九州説ってのが、どんなのか知りたいのだがここでは無理か…
679 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 06:58:10
>>677 なぜなら、当時の日本列島は90度まわった状態だったんだよ。
90度回るのに合わせて東西南北も90度移動するんだから何の問題も無いでしょう。
680 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 08:45:46
教えてください。
○末盧国には四千戸余りの住家がある。
○伊都国は代々王位が継承する国で千戸余りの住家がある。
○投馬国は五万戸余りの住家がある。
◆この内容では、投馬国を相当な国に比定しなければならない。
○女王國以北其戸数道里可得略載
○其餘旁國遠絶不可得詳
◆この内容では、女王国そのものも、相当に絶遠な地域にあったと
解されます。
この2点についてご教示ください。
681 :
SOY:2007/03/11(日) 09:06:51
>>680 >◆この内容では、投馬国を相当な国に比定しなければならない。
人口の値については実数か否かの問題はありますが、そのまま解釈するなら
奴国の2.5倍の大国という認識で合っているのではないでしょうか。
>○女王國以北其戸数道里可得略載
>○其餘旁國遠絶不可得詳
>◆この内容では、女王国そのものも、相当に絶遠な地域にあったと
>解されます。
上の漢文からは女王国が絶遠とは読めません。
どのように翻訳したかを示して頂ければと思います。
682 :
日本@名無史さん:
だからいってるだろ。阿蘇山と同時に日本列島も移動したんだよ。プレートテクトニクスって知ってるか?