謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!5

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1神奈川県民
魏志倭人伝によると「鬼道に事え、能く衆を惑わす」。
この女王卑弥呼を暴くことは日本古代史の永遠の謎、壮大な歴史ロマンである。
卑弥呼はいったい誰なんだ?!
古代史建国の謎を解き明かせ!

謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1167480597/l50
謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!2
http://c-others.2ch.net/test/-/history/1168759518/i
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!4
http://www2.2ch.net/live.html


中国から帰還した倭人の娘ヒミコは、神託を受け乱世の倭国統一に乗り出した。謎の女王の生涯を通して古代史を鮮やかに描きだす
2神奈川県民:2007/02/15(木) 23:05:27
3日本@名無史さん:2007/02/15(木) 23:05:41
謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1167480597/
謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!2
http://c-others.2ch.net/test/-/history/1168759518/i
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!4(実質3)
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1170408597/
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!3(実質4)
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1170392537/

ここ使うなら上のスレッドをちゃんと使い切ってからにしろ
4神奈川県民:2007/02/15(木) 23:07:11
5日本@名無史さん:2007/02/15(木) 23:08:01
>>3に同意
6神奈川県民:2007/02/16(金) 00:55:51
前回の謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!4は無駄レス&意味不明レス多すぎです。
今回はそのようなことのないよう願います。
7神奈川県民:2007/02/16(金) 01:06:59

曲学の徒
http://www.kodaisi.com/yamataikoku.htm
この国宝は真っ赤な偽系図、それとも史実。あなたのご意見をお聞かせください。
8神奈川県民:2007/02/16(金) 01:15:55
豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祭り申し上げる豊受大神宮は、内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)とも申し上げます。
雄略(ゆうりゃく)天皇は、夢の中で天照大御神のお教えをお受けになられ、豊受大御神を丹波(たんば)の国から、内宮にほど近い山田の原にお迎えされました。今からおよそ1500年の昔のことです。
 豊受大御神は御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、御饌、つまり神々にたてまつる食物をつかさどられています。このことから衣食住、ひろく産業の守護神としてあがめられています。
 内宮と同じく、正宮と呼ばれますように、建物やお祭りはほとんど内宮と同様ですが、両宮は決して並列されるものではなく、あくまで内宮が神宮の中心なのです。
http://www.isejingu.or.jp/gegu/gegu.htm

この豊受大御神と>>7の天豊姫の関係は?
どなたかご存知のかたいますか?
9日本@名無史さん:2007/02/16(金) 09:03:43
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
10日本@名無史さん:2007/02/16(金) 09:10:49
↑ 人多杉の原因はこれか?
11日本@名無史さん:2007/02/16(金) 09:47:23
今でも丹波杜氏の技術の高さは世界1ですばらしいよね、やはり日本海側がかなりの
発展をしていて国が合併したときに首都を奈良にしたのがミソだね。
12○「本能寺の変、425年目の真実」:2007/02/16(金) 10:44:08
○人大杉を何とかするべし。自由に書き込めないぞ。

○卑弥呼はかなりの影響があった人物と思われるのに、
なぜ、敵対した勢力などの記録に名が残っていないのか、不自然だ。
卑弥呼への敵対勢力、他部族にも文化があった以上、
文字くらいはあったはずだろ?

13日本@名無史さん:2007/02/16(金) 12:56:50
記録なんか無いって。

文字無いんだからさ。
14太国:2007/02/16(金) 14:29:35
>>12 >>13
卑弥呼の時代にはもう文字はあったはずだ。ただ一般民衆は無いと
同然、文字は読めなかっただろうし、生活とかけ離れて無用だっ
たのか、まぁそういうところだろう。

というのは、卑弥呼より古い時代のはずの「漢委奴國王」の文字
入りの金印が志賀島から出ているからだ。これは当時九州にいた
国王が字が読めないんでは使用に耐えずに近く意味をなさない。
だから国王とその取り巻きあたりは一般と違い文字を読めたはず
である。
15日本@名無史さん:2007/02/17(土) 07:48:56
天皇陵を明けろと主張されている一つの理由として
もしかしたら、天皇陵など古墳の中に
漢字で書かかれた文献が出てくるかもしれない
期待から、そういうふうに言われている。

当時の日本は、神権政治であり
天皇や皇族は、ミコトといって、
神の言葉を伝える人だと言われていた。
つまり、死後の世界、言葉の世界でも
あらゆる階級で主導権を握っていた。

よって、下層階級までに漢字が伝わると
下層階級同士で言葉の伝達が広範囲に活発に行われ
当時の権力者の既得権益を侵す心配があった。

だから、それから数百年後、仏教が伝わった時
一部の保守派からは、外国産まれの邪教扱いだった。
何故なら、仏教とは文字で書かれた教義宗教であり、
この宗教によって、下層階級近くまでの
広範囲に文字が伝わり、それによって
権力者たちの既得権益を侵す心配があったからだ。
16日本@名無史さん:2007/02/17(土) 08:53:51
>>15
そんなもんねえよ。とっくに盗掘されてらあ。

宮内庁って言う名のクズ役人どもは、天皇陵が空っぽになるのを
待ってるんじゃねえのか?
ほんと、死んだ方がマシな連中だぜ。
17日本@名無史さん:2007/02/17(土) 09:01:34
うちの近所の古墳にはエロ本大量に投棄されてたぜ!
湿ったエロ本の思い出でした。
18日本@名無史さん:2007/02/17(土) 09:29:48
文字が無かっただから地名も漢字の使える渡来人が勝手に付けたので地名は全部朝鮮系のものが多いよね。
19唐松山:2007/02/17(土) 10:14:25
おーい この3人はどうだ
注目の3名に対比出来そうな記事を 書き出します。
景行12年
ホ38168  はゝミタあつさ ヒトタヰキ スメラギいのり とびあがる 
かれスミヨロシ ナヲリカミ モロハノヤシロ さらにたて これまつらしむ
景行18年
ホ38273  アフミヨカ ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ
景行20年
ホ38300  フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
イセノカミ まつるいわひは ツクシむけ ヒメコトシソヨ
20日本@名無史さん:2007/02/17(土) 11:30:57
伊賀の忍者もやはり渡来人系統でしょうかね、高い技術が要求される職業なので
21日本@名無史さん:2007/02/17(土) 11:59:03
忍者ってCIAみたいなもんだろう?
そんなもん、何処が紀元でもない。
あほうか?
22九州出身:2007/02/17(土) 12:58:59
かきこめない
23日本@名無史さん:2007/02/17(土) 13:32:07
えっ?
24九州出身:2007/02/17(土) 22:46:09
これどう思う?
意見を聞かせてもらおう!みなさん
http://yujiwww.web.infoseek.co.jp/h-kodaishi1.htm
25日本@名無史さん:2007/02/17(土) 22:49:36
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
26九州:2007/02/18(日) 00:41:40
神社だが、出雲系スサノウ一族の神社が8割、九州ヒミコ一族の神社が2割ていうところに注目!
27愛知県民:2007/02/18(日) 01:40:47
>>24
「スサノヲ」でなく「スサノウ」ですか?
帥升は107年の段階で、既に史上最初の倭国王となっています。
神武東遷が史実としても、卑弥呼以前ではないでしょうか。
28九州出身:2007/02/18(日) 01:45:56
素戔鳴だよ!
素戔鳴=帥升
日本で1番有名な神、素戔鳴が昔天下を治めた。
29九州出身:2007/02/18(日) 02:50:00
吉備から奈良に移住する者があった。唐子・鍵遺跡。
ナガスネヒコの祖先が奈良を支配。葛城一族?蜘蛛族?
2世紀、出雲はスサノウ一族、九州は卑弥呼一族が支配。吉備?関東?東北?北海道?
東海・関東・東北・北海道は縄文時代からの人々が暮らしていた。後にアイヌと呼ばれた。
奈良にも縄文時代からの人々はいた。

3世紀、出雲からニギハヤヒが奈良へ。モンゴリアンの風習を導入。
出雲系は、日本全国に進出し、神社を作っていった。
ニギハヤヒの死去後、九州日向から神武天皇を迎え、九州日向系(天皇系)が天皇、出雲系が皇后として統治する。古墳を作り始めた。まず、環日本海系が奈良・瀬戸内海・東海地方に進出した。
*このあたりのことや出雲のことは日本書紀は神話の世界に押し込めた。
だんだん九州系(現天皇系)が力をつけ、特に、4世紀から5世紀、10代崇神天皇から25代武烈天皇までは勢力が強くなった。当然、百済と親交が深い。*日本書紀は百済よりの発言が目立つ。
30一応九州王朝説:2007/02/18(日) 09:02:09
出雲勢力のピークはもっと古いんじゃないですかね。縄文期の黒曜石
文明の中心が、諏訪→出雲の順、と言うのが私の考えですが。
ただ、出雲は越、九州と、半島から流れ着く場所としては遜色ないです
が、耕地面積としてはどれだけ大勢力を養えるのか、という問題があり、
弥生後期・晩期の遺跡や出土品からも、今のところは九州北部の方が
勢力としては強勢だったかと。

ニギハヤヒは、三種の神器を持っていた。多分神武記からはそう思われ
ます。私は、神武もニギハヤヒも「筑紫」発だと思いますが、それはともか
く、三つの祭器が結構そのポイントになるのではないでしょうか。まず、剣
ですが、鉄の産地の半島からの流通としては、どちらも遜色はない。出土
しているのは圧倒的に九州ですが、銅剣は出雲も山ほどでてきましたよねw
鏡については、一番あたらしい祭器と考えられますが、やはり九州。鉄鏡な
んてのも日田からですが出ている。
しかしながら、その二つは決め手にはなりにくいと思います。出雲も銅鐸文
化圏と見れば、むしろ畿内と関係は強いし、ニギハヤヒも出雲かもしれない。
31日本@名無史さん:2007/02/18(日) 09:10:30
>>30
剣はないだろ流石に
32一応九州王朝説:2007/02/18(日) 09:14:06
さて、残る一つですが、勾玉については、もともとは出雲や越の翡翠
だったのが、弥生中期以降中国ガラスの定型品が出現し、九州はそ
れ一色になっていきます。出雲がセンターである必要が無くなり、平
行して生産力も飛躍的に向上、そして国譲り。そういう経緯だったの
ではないでしょうか。
もし出雲出身なら、その所有する祭器で神武のそれと比べて長脛彦
が混乱するでしょうか・・・。

と、ここまではニギハヤヒの出自の決定打にはなりませんねw
でも、「ニギハヤヒは物部」という強力な根拠があります。物部なら筑
紫に沢山あります。

ただ、「大和朝廷が必死に出雲で祭器を探した」という話もあるので、
やっぱりまだ確定とまで言い切る自信はありませんが。九州宗家に
対抗するための探索なのか、それとも本当に「唯一の祭器」があった
のか。
まあ、やはりニギハヤヒについての情報不足、そんなところです。

あと、三輪神社=蛇=オオナムチという説については、蛇=水の神と
いうことで、荒れに荒れた大和川を静めるための神様、と言うことで、
必ずしも出雲由来という必要性はないかと思われます。まあ治水技術
の移植という可能性もありますが。
33日本@名無史さん:2007/02/18(日) 09:16:51
半島軽油で移住するのが流行した時期につぎからつぎに渡来人がやってきましたが
在来から住んでた人は純朴ないい人がおおかったので自分から使用人になりました
古墳を造れといわれればハイハイと言って手作業で造りました
34愛知県民:2007/02/18(日) 09:38:35
>>32
日本書紀を見ると、垂仁天皇もアメノヒボコの曾孫・清彦から神宝を取り上げていますね。
ところが刀だけがひとりでになくなって、淡路島に行ったと。
淡路島は特別視されていたようなので、この話も興味深いです。
アメノヒボコの渡来も垂仁天皇3年というのは明らかにおかしいので、
孝霊天皇の頃かな? と思います。
35九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/18(日) 10:52:30
>>29
これは貴方の今年の初夢ですか?
36愛知県民:2007/02/18(日) 11:39:49
>>35
ユング心理学では、神話は民族の集合的無意識の所産だとか。
ここは歴史板ですから、神話の取り扱いには注意が必要と思います。
ただ、神話と歴史は明確な境界が無いので難しいところがありますね。
神話にも史実が反映されているかもしれないし、
歴史にも神話的記事が混じっていたりしますから。
37九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/18(日) 11:47:50
>>36
「出雲系は、日本全国に進出し、神社を作っていった」が特に解らない。
「3世紀、出雲からニギハヤヒが奈良へ。モンゴリアンの風習を導入」これも。
神話とは関係なく、この人の言ってる事が納得いかない。
38九州出身:2007/02/18(日) 11:58:31
>>30
出雲・九州は弥生時代に栄えたと私はみている。縄文時代は東北のが多かったらしい。
ニギハヤヒについては私も筑紫とみている。

>>35
>これは貴方の今年の初夢ですか?

君はいつもくだらない突っ込みするね。>>6をみてごらん。
>>29のレスは>>24のHPに書かれてた内容。流れをよく読め!俺の意見は少し違う。

39九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/18(日) 12:58:07
>>38
[日本の神社のほとんどは、出雲のスサノウの子孫・家来が、日本全国に、進出して行くときに、作ったものである。
8世紀までに建てられた神社は、3000〜5000。そのうち、出雲系スサノウ一族の神社が8割、九州ヒミコ一族の神社が2割、その他少々]

このような資料をよくよめといわれてもねえ。第一、「九州ヒミコ一族の神社」だなんて・・・。
こんなの邪馬台国が九州に存在した事をまず前提としてるじゃないの。それを喧々諤々してるんでしょう。ちがう?
「九州ヒミコ一族の神社」が確定してるなら、邪馬台国の所在地を巡っての論戦や、ましてこのようなスレでの議論の必要も無い、苦労しないって。
40唐松山:2007/02/18(日) 13:13:42
こんなのは?
卑弥呼は、 住吉神社の 姫神
ホ38168  はゝミタあつさ ヒトタヰキ スメラギいのり とびあがる 
かれスミヨロシ ナヲリカミ モロハノヤシロ さらにたて これまつらしむ
41九州出身:2007/02/18(日) 13:24:11
>>39
だからほとんど解決してるんだよ。
客寄せパンダ的なのになってる「邪馬台国」「卑弥呼」の文字

>>40
読めません・・・
42唐松山:2007/02/18(日) 13:36:30
景行12年 景行が 九州遠征中
はは(卑弥呼) 高熱を発して倒れる 天皇 神に祈ったが通じず
かれ(卑弥呼)住吉 ナオリ神(豊作の神) 社をさらに建てて 祭る
景行18年 筑紫のオオミケ 死亡 景行遠征中
景行20年 イオノ姫(五百野皇女) 筑紫向け
43一応九州王朝説:2007/02/18(日) 13:54:45
出雲系列で多いのは、えべっさんですかw
現状は、お稲荷さんの系列、熊野神社系列、天神さん、八幡様、そのあ
たりが一番多い。そのサイトで、古い時代の神社の比率をどうやって算
出したのかがわからないのでなんともねえ・・・。まあ、古いものに多いの
は確かでしょうがね。なんといっても全国の神様が集まったわけですから。
その後政権交代に応じて宗旨替えという事もあったでしょうし。葛城と出雲と
も関係深いのは定説ですし、初期の天皇と出雲・吉備とが関係深いのは
確かだと思いますが。
それと、九州と環日本海系の2大勢力にわける手法は感心しませんね。
単純すぎかと。

八幡(万)神は、応神・神功由来で、その上にいますヒメ大神が卑弥呼
とかイヨ(トヨ)とも言われますが、要するに天皇家も宗旨替えした、初期
の神仏混淆形態です。実際、男山八幡宮はじめ、天皇家の行幸の多くは
八幡でした。吉野や熊野大社のような難路には行っても、伊勢神宮は
ほとんど行っていませんよね。
天神は、菅公が合祀されたからややこしいようですが、菅公のためだけ
の天神は稀少で、多くはそれ以前から存在しています。太宰府が本家で
すから、これが九州王朝説で特に問題にされる、「アメ氏の神社=天神」
ということです。私はこれは有力と思います。このことに言及した学者は稀
少ですよね。戦国時代になっても太宰府や宗像は特別な聖地として扱われ
たようです。
その他、宗像神社、綿津見神社も筑紫、淡島神社もそうだと私は思います。
伊勢内宮は、庶民は勿論天皇家にとっても禁足地であることを、神社本
庁は知ってるのかどうか。伊勢系列は、天皇家の全国支配と同時に広が
ったもの、明治以後国策で広がったものがあるようですが、私としてはそ
のトレンドや系統について等、正直よくわかりません。数が多すぎですよ
ね。でも、江戸末期のお陰参りは政治的に流布されたものという説もあ
ります。

神社については、イデオロギーが絡むので、特に太国氏のような方のレ
スはお断りいたします。荒れますし、学問としての歴史から逸脱しますから。
44唐松山:2007/02/18(日) 14:04:08
訂正
かれ(卑弥呼)×
かれ(オオミケ?) ○
45唐松山:2007/02/18(日) 14:16:03
イオノ姫が筑紫に下る時 80(沢山)人の 物部 及び20人の司 も 同行しています
46愛知県民:2007/02/18(日) 14:25:32
>>43
>九州王朝説で特に問題にされる、「アメ氏の神社=天神」

これは600年の遣隋使で、小野妹子が倭王の姓を問われて答えに窮し、
自らの祖先・天足彦国押人命を想起して「アメ・タリシヒコ」と答えた
ことから来ているのでは?
600年の遣隋使は九州王朝と結びつけるより、日本書紀が恥ずかしくて
書けなかったと考える方が良いと思う。
台与以来334年ぶりの華北中原への使者が、歴史的イベントどころか
赤っ恥をかいて帰国したことが、推古朝の大改革の起点だったのでしょう。

また来週・・・
47一応九州王朝説:2007/02/18(日) 14:31:09
アメ・タリシホコ だけじゃないですがね。天のなんたらってのは。
神話の登場人物にはいっぱい。
48河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/02/18(日) 14:31:53
『八幡の由来』

神武の東征完結を祝う(遠征守護神)が奉られている。
東征完結を成し遂げた神武は天皇家にとって英雄的存在。また、後代の天皇達も
、この英雄を祭り上げた皇祖達(神功皇后など)に対しても尊意を敬称し
宮を創建した。

その中でも、伊美郷の八幡分霊が八幡総本家の宇佐ではなく
わざわざ遠く離れた石清水八幡からの分霊であったことも興味深い。
49一応九州王朝説:2007/02/18(日) 15:10:59
それは何処の八幡ですかねw

まあ断定してる私も悪いけど、八幡の歴史や由来についてはまだ
よく分かってませんので。あしからず。
その読み方自体も百説あります。
50九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/18(日) 17:04:37
>>41
ほう、これは驚いた。邪馬台国の謎が既に解き明かされたとは初耳だ。
数多い考古学者先生や、アマチュア考古学ファンを差し置いて、
おたくが出した結論とはいかがな代物ですかな?
51九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/18(日) 17:51:49
九州出身さん、さっきの啖呵もどこへやら。黙ってると寂しいじゃないの。なんか反論ちょうだいね。
52日本@名無史さん:2007/02/18(日) 18:35:18
出雲系列は新羅系で日本の神社のほとんどが新羅系なので消しまくったらしいよ
53九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/18(日) 19:18:12
>>52
神社はもともと新羅系の宗教だったわけですか?
古代の新羅には日本の神社の元となった宗教の痕跡があるんでしょうか?
54日本@名無史さん:2007/02/18(日) 19:20:52
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
55九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/18(日) 22:44:35
みなさまへ。>>54 は、スレ落ちしないようにから揚げしてくれているだけです。
荒らしではないのでご心配無く。
56日本@名無史さん:2007/02/18(日) 23:41:29
>>54>>55
いらんことするな
57九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/19(月) 02:09:48
>>56
私がしてるわけではありません。あしからず。
58日本@名無史さん:2007/02/19(月) 08:59:11
三足土器で炊飯の意味を早くときせつめいしてくれよ、耳にタコができるよ
59○「本能寺の変、425年目の真実」:2007/02/19(月) 11:08:47
○人大杉状態をなんとかするべし、自由に書き込めないぞ。

○何かこのごろ出た本に、軍事的、戦略的には、九州北部以外に、
邪馬台国はありえないという結論が出されたそうだが?
たしかに、蛮族からの防衛を考えると近畿あたりは守りにくいか?
60日本@名無史さん:2007/02/19(月) 11:47:40
邪馬台国はアイヌの国だったので九州に限定される方が異常でもっと広い範囲に及んでいましたので
また国も100以上方々にあったので当然首都は出雲の近くにありました。
61日本@名無史さん:2007/02/19(月) 14:50:56
狗邪韓国についても考えてみる必要があるかもね。
倭人伝の記述の仕方を見ると、倭の一部のようにも取れる。
そうなると、中心地として畿内を考えるよりも、九州を考えたほうが
納得できるような気がする。
62日本@名無史さん:2007/02/19(月) 15:54:47
>>61
倭人の国です。
63日本@名無史さん:2007/02/19(月) 18:02:13
>>62
>倭人の国です。

妄想です
64日本@名無史さん:2007/02/19(月) 19:25:07
>>63
なんで?じゃー朝鮮人の国だってのか?
65日本@名無史さん:2007/02/19(月) 20:26:00
>>64
韓伝読めば判るだろう。書いてなければ誰にも判らん
倭人は、 倭人在帯方東南大海之中
韓半島が該当するような文ではない。
66日本@名無史さん:2007/02/19(月) 21:47:40
倭人は半島にもいました、むしろアイヌがほとんど日本にいましたので、
新羅系と百済系と高麗形の3者がいりみだれてわれさきに日本になだれこんできて、好きなように
国を造ってはりあいましたが、
67九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/19(月) 21:51:28
>>58
僕が思うに、「さん」「そくどき」「すいはん」とサ行の韻があることで、当人が気に入っているフレーズであり
炊飯というなんとなく暖かい家庭の団欒を思わせる言葉が入っていることから、
彼は暖かい家庭環境に飢えた寂しい少年時代を送っており、そのことが未だにトラウマになって彼を苦しめ、
時折このような行動に出るのではないかと思われます。
68九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/19(月) 21:56:18
>>58
さすがに文章で耳にタコはできないでしょう。
目にタコができるかもしれません。
69日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:07:25
>>65
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。
旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、
南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。

コレを読むと倭国の北境が狗邪韓国だと読めるが?
で、

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。

半島に倭人がいたとしか理解できん。
70日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:17:34
>>69
そう、キーポイントは、「韓国を経て」というのと、「その北岸」と
言う言葉。狗邪韓国が倭人の国でなかったら、「韓国の南岸である
狗邪韓国に至る」となるはず。
71日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:22:21
倭国の乱れを嫌って渡海 新たに国を作る
 在りうるな
72日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:24:49
>>66
そのようなことは、朝鮮半島の歴史書である三国史記には全く書かれてい
ない。新羅本記には、倭人が攻めて来たという記録しか残っていない。
仮に、朝鮮半島からわたってきた勢力があれば、間違いなく朝鮮の人の
記憶に残っているだろうし、記録にもちゃんと残っているはず。
73日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:25:16
狗邪韓国 が 目的地ではない と読み下す。
ただの通過地点
74日本史@名無しさん:2007/02/19(月) 22:29:30
むしろ倭人とその近縁部族が古くからいたと考えるべきだと
思うが。「天下り」は日本だけじゃなく半島南部にもある。
弥生稲作を伝えた中国南東部の民族が流れてきた先が九州
〜半島〜日本海沿岸だった、という事だろう。
75日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:30:12
>>70 >そう、キーポイントは、「韓国を経て」というのと、「その北岸」と
言う言葉。狗邪韓国が倭人の国でなかったら、「韓国の南岸である
狗邪韓国に至る」となるはず。

「韓国を経て」と「韓国をへる(歴)」では、180度意味が変わります。

>其北岸(その北岸)

その北の岸  (其)は 東南大海の中 です。
76日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:35:56
>>74
私もそう思います。
日韓歴史論争でよく見かけますが、古代史に現在の国境線を引くことは愚かなことです。
77河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/02/19(月) 22:36:09
>>70

>そう、キーポイントは


もちろん『到』です。 この解釈が重要な鍵を握ります。



>>74は河童です。
78日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:41:28
>>75
しかし、三国志の韓伝にも「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」
とある。東西は海を以って限りとなし、南は倭と接する。
これからみても、朝鮮半島の南部は倭と思われる。
79日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:41:53
本スレこっち?
8074:2007/02/19(月) 22:43:23
違うよ。
81日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:46:46
>>74 倭人も韓国から金属を輸入していたから、交易拠点になる倭人の
マチはあったとは思うけど、後の任那地域ほどの広さではないと思う。
任那地域の拡大は三韓征伐(370頃〜400頃)でなされ、それ以前は
倭人のマチが数個あった程度ではないかな。
82日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:47:54
>>74
朝鮮半島の南部には鉄がある。これを求めて倭人がやってきていたらしい。
以前見かけたのだが、明らかに日本人町としか思えない町があったらしい。
今、ちょっと調べてみたのだが、見つからなかった。
もうちょっと調べてみようかな。
83日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:52:05
>>81
以前、見かけたものによると、交易ではなく、日本人自身が鉄を
掘っていたらしい。
84日本@名無史さん:2007/02/19(月) 22:56:24
日本史講座とかくらいの本でも常識です。
8574:2007/02/19(月) 22:59:14
対馬海流に乗って来たら対馬の北も南もほんのわずかな差
なんだと。
だから、九州だけに来ていたと考える方が不自然。

もちろん倭人の血はいろんな所からの流入による混血で、半
島、北方、南方いろいろだろうが、稲作をもたらした集団が江
南地方から来たのは間違いないと俺は思う。三国時代でもま
だ稲作に不適な寒冷地である地方を越えて半島南部に伝わ
ったとは考えにくい。未だに満州〜北朝鮮は麦。
86日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:06:54
>>85
古代の稲作とか鉄とかになると、決まってどこぞの集団が持って
やってきたということになる。しかし、有史以来いろんなものが
日本に伝わってきたが、どこぞの集団が大挙して持ってやってきたと
いうことがあったかな。
サツマイモは江戸時代に伝わったが、なんとなく入ってきた。
鉄砲にしても、宣教師が持っていただけ。

稲作だって、サツマイモなど多くの農作物と同じようにして伝わったと
考えるほうが妥当だと思う。
87神奈川県民 :2007/02/19(月) 23:11:29
謎に満ちた卑弥呼は誰?その謎を解き明かすものは現れるのか!
みなさんお意見を聞こう。
8874:2007/02/19(月) 23:14:20
例えとして適切ではないような。

芋は植えればいいし、鉄砲は使用も運用もある程度習った。
それに兵器の革命と言っていいものだし。

稲作は、技術とあるていどセットだったと思うんだが、どうか?

人口動態については、海で隔てられているので、時代が下る
ほど大人数の移動は減ったのでは。・・・んー、説得力無いな
あ。自分でも思うよ。
89日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:15:43
イネそのものは縄文時代からあることが考古学で分かったよね。
問題は水稲耕作の技術そのものってことになるわけだが。
ん〜技術ってことになるとなんとなくで済むんだろうか。
90日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:26:50
要するに、邪馬台国時代からあるいはそれ以前から、朝鮮半島まで
出かける勢力があった。三国史記によると、紀元前から倭人が攻めて
来たという記録が残っている。

これは九州の勢力だろうと思われる。九州以外の地域がこれをやるためには
まず、九州を支配しなくてはならない。

倭人伝には、持衰という人間が出てくる。これは、大海をわたることが
いかに困難だったかを示している。
となると、もっと穏やかに瀬戸内海などに船を出すのは容易だったに
違いない。だから、高地性集落などが出来た。

九州を中心に考えると、全てがうまく説明できるような気がする。
だから、邪馬台国は九州にあったと思う。
91日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:34:29
>>88
世界的に見ても、たとえばタバコはアメリカの原住民が吸っていたものを
コロンブスが持ち帰ったといわれるし、ジャガイモにしても、トマトにしても
南アメリカが原産だが、南アメリカ人が移住と共に持ってきたものではない。

古代の青銅器にしても、鉄にしても、伝わるときに人間が大量に
移住したという話は聞かない。
稲作にしても、たとえば、朝鮮半島に伝わったときにどこからか大量に
人間が移住してきたかというとそんな話も聞かない。

日本の古代についてだけ、何かが伝わると人間が大量に移住してきたと
いうことになる。これはおかしいと思うが。
92日本史@名無しさん:2007/02/19(月) 23:35:49
青銅器も鉄も民族ごと移住して広めた方の例だと思うが
93日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:45:09
>>92
鉄は全世界に広まったわけだが、全世界に移住した民族とは?
94日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:50:05
ちょっと話ズレてるかもしれんが。

実は初期農耕の伝来については西洋でも同じような論争があるよ。
いち早く農耕が始まったのは西アジアだけど、

西アジア人が移住してきた結果、西洋に農耕が伝来した 説。
西アジアとの文化的交流によって、西洋人が農耕を選択的に需要した 説。

ってことで日本だけって訳じゃないかな。
95日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:52:48
>>59
それは、トンデモ本だろう?


邪馬台国総論
http://yamatonokuni.seesaa.net/
96日本@名無史さん:2007/02/20(火) 08:42:39
>>75
> >其北岸(その北岸)
> その北の岸  (其)は 東南大海の中 です。

郡より 「倭」 に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、
南しあるいは東し、 「その」 北岸狗邪韓國に至る七千余里。

「その」は「倭」を受けているだろ?
97いろいろと問題の多い『安本流数理』:2007/02/20(火) 11:37:14
いろいろと問題の多い『安本流数理』歴史学批判

古代の王、一代十年説
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zaturon.html#junen

安本ダイアグラム
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zaturon.html#yasumoto
98河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/02/20(火) 12:33:16
>>96

>「その」は(倭)を受けている。


いいえ。
ここまでの文で「倭」の領域範囲を確定する事は出来ませんから
※仮に「其北岸」の其を
「倭」と設定した場合
「倭の北岸」の(北岸)の場所は、(九州玄海灘沿岸、又は壱岐の北部沿岸、対馬の北部沿岸)と、なります。 それでいいの?

「其北岸」の「其」の視点を半島に求めた場合、半島には 北岸は存在しなく、(南、東、西)岸 しかありません。

つまり、「其北岸」の「其」の視点は対馬(朝鮮)海峡の“海の中”に置いて、同海域内の(北の岸)となります。
99河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/02/20(火) 12:46:47
>>96

例えば

川を挟んで、北に(A)と 言う国、南に(B)と言う国が有ったと仮定します。

この場合、「其北岸」と 言う表現に符号する場所は、
※(B)と言う国の北側にある川に沿った川岸
(これは、A、Bどちらの国から見ても 同じ)

※もう一つは、
川の中に舟を浮かべ、(A)と言う国の南岸部分が、舟を浮かべている川の北側の岸となります。
(この場合、A、Bどちらかの国に視点を置いても成立しません。あくまで視点は川の中)です。
100日本@名無史さん:2007/02/20(火) 13:18:35
>>99
岸というものを、あくまでも海岸ととらえた場合でしょ?

この場合文脈はあきらかに倭国(倭国の境界線)の北岸としか
読めないですよね?

他に中国の古代文献でこういう表現があるかは私は知りませんが・・

また、韓伝の「東西は海を以って限りとなし、南は倭と接する。」という
地理説明とも一致します。

仮にあなたの主張される

>「倭の北岸」の(北岸)の場所は、(九州玄海灘沿岸、又は壱岐の北部沿岸、対馬の北部沿岸)

だと次に続く

「始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。」

という説明とも矛盾します。
101日本@名無史さん:2007/02/20(火) 13:20:33
河童さんは全体的な視点に欠けている。
「北岸」という文字だけに注目して、その意味だけを考えようとしている。
今、問題になっているのは、朝鮮半島の南部が倭に属していたか、
そうでないかということで、その観点から考えなくてはならない。

陳寿も完璧な文章を書いていたとは考えられないわけで、あやふやな
部分もあれば、間違っている部分もある。
それを念頭に置いた上で、陳寿の意を汲み取ることが大事なわけ。

極端な言い方をすれば、北岸の意味などどうでも良くて、陳寿が
どういう意図で北岸と書いたのかが重要なわけ。

で、朝鮮半島南部は倭だったか、そうでなかったかどう思う?
102日本@名無史さん:2007/02/20(火) 13:23:35
狗邪韓国(クジャカンコク)と読むからカン違いするのかな?

クザカラまたはクザハラという国名かもしれないのに・・
103河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/02/20(火) 13:54:41
>>100

申し訳ないけどそれって、和訳間違えていると思う。

>倭国の境界線。


これは良いと思いますが、境界線の位置は(陸?、海?)
それに、境界線を文中の何処から探るの?


意訳(和訳)違い箇所


>南は倭と接す。
「接す」じゃ、誤解受ける
>始めて一海を渡る
ここは「初めて」と「始めて」の使い分け、「度と渡」の違いを明確にしなくては


誤解生じる和訳かと
104河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/02/20(火) 14:11:50
>>101


>陳寿も完璧な文章を書いていたとは考えられないわけで


出来たら「考えられない」と、主観しちゃう要因を教えてください。

わたしなんか足元に間も及ばない国学者に対して、その発言にコメントする言葉はありません。
105日本@名無史さん:2007/02/20(火) 14:22:58
陳寿が国学者???
おまいは中国人かw
106日本@名無史さん:2007/02/20(火) 14:31:00
>>104
あなたがずっと言われ続けていることですが
定説・通説と違う認識を提示した方が先に根拠提示しなければいけないのですよ。
(例)
河童 「相対性理論は間違っている!」
名無し「ほう、してその根拠は?」
河童 「まず正しいとする根拠を示せ、私は認めない」
名無し「だからどこをどう認めないのか具体的に」
河童 「しつこい奴だ、お前荒らしだろ!」

ALL  「荒らしはお前じゃああああああ!」
107河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/02/20(火) 14:42:22
>>106

私は少しずつゆっくりと散々説明しています。
相手の気に入る説明かどおかは知りませんが?
108日本@名無史さん:2007/02/20(火) 14:56:42
>私は少しずつゆっくりと散々説明しています
していませんよ、あいも変わらずのはぐらかしに終始するのみです。
ところでそのハンドル最近使い始めたのに、散々ってあなたw
あなたには自演は無理です。
109河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/02/20(火) 15:29:37
>>108


>>106のレスよく確認
私は>>106の「ずっと」に対して「散々」をしようしたまで

それに、最後の「自演」

なんですか?それ?
話の主旨と違う発言ですよ。 「自演」は倭人伝の何処に書いてありますか?

関連無い話に興味はありません。
110日本@名無史さん:2007/02/20(火) 15:36:19
>>109
>関連無い話に興味はありません
邪馬台国に関係は無くともスレには大いに関係ある
あなたがプラムだというのはお腹いっぱいなくらい誰もが分かっているわけよ
だからつまらぬ言い訳せずに根拠とやらを示してくれ、話はそれからだ
てか散々関係ない話を繰り返し書いてきたくせに、どの口がそんなこというのかね
111日本@名無史さん:2007/02/20(火) 15:50:44
>>97  これにレスするのも何だが。
在位平均年代論の批判はすこしだけまとも。
古墳比較表の批判は前提からダメ。

安本の全部を根底から否定しようとして自滅。
112河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/02/20(火) 15:54:27
>>110

馬鹿みたいな野暮は止しなよ それじゃあガキ丸だしだ
以後関係ないレスはスルーする

荒らしの相手スる奴も荒らしだからな じゃあ
113100:2007/02/20(火) 16:33:15
>>103
wikipediaの一般的と思われる和訳です。

>南は倭と接す。
「接す」じゃ、誤解受ける
>始めて一海を渡る
ここは「初めて」と「始めて」の使い分け、「度と渡」の違いを明確にしなくては

この部分を、詳しく教えていただければれば有難いです。
114日本@名無史さん:2007/02/20(火) 16:59:27
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
115日本@名無史さん:2007/02/20(火) 17:01:20
狗邪韓国は倭人伝に出てくる倭人の国。
116河童 ◆EY2wfgakAQ :2007/02/20(火) 17:09:07
>>113
今チョット忙しいので、夜にレス入れておきます。
117日本@名無史さん:2007/02/20(火) 19:50:53
>>101

>極端な言い方をすれば、北岸の意味などどうでも良くて、陳寿が
>どういう意図で北岸と書いたのかが重要なわけ。

意味がわからないからって、「どうでも良く」はないだろう。
ちゃんと検証してあげなさいよ。

ヒントは「岸」とは基本的には「水陸の境目」のことだよ。
よほど特殊な用例であることが、前後の関係から明らかなでもなければ
普通に読めばいいんだよ。
だから、「其」とは「海」「川」「湖」か「陸地」のどちらかだ。
それと「其」とは既知の情報を示す代名詞だから「其」の正体は倭人で既に既出のものだ。


   倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。
   舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。
   從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、

「水」だとすると既出のものは「東南大海」しかない。
そして、「陸」はというと「該当なし」だろうね。
「倭人」は民族呼称(国名だと言い張る人もいるが)だし、
「倭」も国名だ、国名は国名であって「陸」と同義じゃない。
「山島」と言うことは、理屈の上では有り得るが、文章の上で意味が通じなくなる。
対馬より手前の「狗邪韓國」が「山島」の北岸じゃこまるからね。
つまり、正解は「大海」。狗邪韓國は大海の北岸にあるんだよ。
極普通の当たり前の話しだよね。
陳壽は、皆が悩むような可笑しな事は書かなかったのさ。
118日本@名無史さん:2007/02/20(火) 20:35:16
>>117
海の中からの視点とは!
考えつきませんでした。

ただ普通の読解力ですと理解できない部分もありますので
117氏の考える和訳をあげていただければ嬉しいです。
119日本@名無史さん:2007/02/20(火) 21:07:55
>>118

>海の中からの視点とは!

別に海側に視点が在るわけじゃないよ。
文中の『視点』、主体の所在地を言えばやはり洛陽か帯方だろう。
「大海」はあくまでも客体(倭)の所在地、
狗邪韓國はその縁に当たるので「大海の岸」と書かれただけ。

>和訳をあげていただければ嬉しいです。

WEBを捜せばいろいろな人の訳が入手できるよ。
微妙に違ったり、面白おかしいのもあるのでチャレンジしてみたら?

ちなみに俺の訳(ごく一般的だと思うが)はこんな感じ。

>倭人は帯方の東南大海中に倭人在り、山島依って国邑を為す。
>舊(もと)百余国、漢の時に朝見するもの有り。今、使訳が通じるところ30国。
>郡より倭へ至るには、海岸に従いて水行し韓国を歴(へ)る。
>南へ東へし、其の北岸狗邪韓國に到る、七千余里。
120日本@名無史さん:2007/02/20(火) 22:38:04
>>119
あれ?117は河童さんじゃないの?
121日本@名無史さん:2007/02/20(火) 22:39:44
どおしてそう言い切れますか
122日本@名無史さん:2007/02/20(火) 22:46:48
>>104
陳者が完璧な文章を書いていれば、みんな苦労はしない。
海を渡るにしても、「渡」と「度」が使われていたりする。
他の文献と比べても、「邪馬台国」と「邪馬壱国」の違い、「一大国」と「一支国」の
違いなど、字も間違っているんじゃなかろうかと思われる点がある。

倭国の国の戸数にしても不自然だし、距離にしてもおおざっぱだし、
あなたが言っているように、国から国に移動する基点にしても良くわからない。

国の位置関係にしても実態がつかめない。倭人伝を読んで、これが完璧な
文章と思うのは無理がある。
123一応九州王朝説:2007/02/20(火) 23:11:49
陳者>陳寿 のことですかねw

誤字脱字は陳寿の責任じゃないよ。
124サガミハラハラ:2007/02/20(火) 23:14:27
陳寿の文章について、原田実氏はその著「ウドンゲ花咲く邪馬台国」の中で次のように記述している。
ーー引用開始ーー
ところがハイ松之はその同じ上表文の中で「三国志」の欠点をも指摘している。すなわち叙述が簡略すぎて脱漏さえ見られること、
(失在干略、時有所脱漏)記事が錯綜して矛盾が多いこと(注記紛錯、毎多舛互)明らかに誤っていて論理的ではない叙述があること
(?謬顕然、言不附理)などである。


125日本@名無史さん:2007/02/20(火) 23:16:14
>>123
そう、陳者ではなくて陳寿。これはタイプミス。
SoftTalkWEBというソフトから書き込んだので、字が小さくて気づかなかった。
申し訳ない。このソフトの字を大きくする方法はあるのかな。
126九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/21(水) 06:24:57
>>121
「どおして」という言葉使いから容易に想像できますが、なにか。
ということは暗に私ですよと誇示しているように見受けられますが、なにか。
ということは御自分の説に大変自負していられるということでしょう。
ある程度学問的に突っ込んだ研究をしてこないとこのような自信は生まれませんが、なにか。
127日本@名無史さん:2007/02/21(水) 09:18:01
>>125
SoftTalkWEBではなくて、SofTalkWEBだった。
ギコナビもあるが、こちらのほうが使い勝手がいい。
書き込んでも、スレッドが上がらないのが難点。
128プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/21(水) 09:42:20
>>120

河童の『其北岸』に対する意見は >>98-99にて述べています。
129日本@名無史さん:2007/02/21(水) 09:43:41
ひょっとして鎭守が適当に書いた文章がいまは現実のあたかも事実を書いた者に
変遷していってるということでしょうか。
130日本@名無史さん:2007/02/21(水) 09:51:16
>>128
専用スレで発言して下さいね。
131日本@名無史さん:2007/02/21(水) 10:11:30
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
132日本@名無史さん:2007/02/21(水) 10:35:24
プラム ◆TOfHBAKZgM

>専用スレで発言してくださいね


九州ですがさん了解しました。 プッwww
133神奈川県民:2007/02/21(水) 19:46:32
謎の女王の真実にせまる。
日本古代史 最大のミステリーを解け!
134日本@名無史さん:2007/02/21(水) 19:47:16
溶けた
135日本@名無史さん:2007/02/21(水) 21:26:03
>>119
>倭人は帯方の東南大海中に倭人在り、山島依って国邑を為す。
>舊(もと)百余国、漢の時に朝見するもの有り。今、使訳が通じるところ30国。

>郡より倭へ至るには、海岸に従いて水行し韓国を歴(へ)る。
>南へ東へし、其の北岸狗邪韓國に到る、七千余里。

この和訳を見るかぎりではやはり 「其の北岸狗邪韓國に到る」 の「其の」は
「郡より倭へ至るには」の 「倭」 を差しているとしか思えないなあ。

>文中の『視点』、主体の所在地を言えばやはり洛陽か帯方だろう。

であれば 「韓国を歴(へ)る」 ではなく「韓国の南岸」という記述になると思う。
136119:2007/02/21(水) 23:08:06
>>135

> >文中の『視点』、主体の所在地を言えばやはり洛陽か帯方だろう。
> であれば 「韓国を歴(へ)る」 ではなく「韓国の南岸」という記述になると思う。

「倭の北岸」と読むと「岸」とは「国境」くらいの意味になってしまう。
そう読んで読めないことも無いと思うが、かなり特殊な読み方でしょう。
私が「大海の北岸」と読むことに違和感を持たないのは、
狗邪韓國から大海渡航ルートの導入部として当然の表現だと思うから。
貴方は、貴方で韓國経過ルートの終点としてと考えてるんでしょうけどね。

ただ、それでは「東南大海之中、依山島爲國邑」「參問倭地、絶在海中洲島之上」と言う
倭地の概況説明と齟齬が生じる。
狗邪韓國倭説論の方々が、これについて難儀をされているのはご存知のことでしょう。
137日本@名無史さん:2007/02/22(木) 00:00:32
>>136
ただ、それでは「東南大海之中、依山島爲國邑」「參問倭地、絶在海中洲島之上」と言う
倭地の概況説明と齟齬が生じる。

そーなんですよねー
案外と魏の使者も、韓半島南部が韓人、倭人、中国系の雑居地だからこのような
どちらともとれる書き方にわざとしてたり・・
138九州出身:2007/02/22(木) 20:53:33
倭人在帶方東南大海之中
だから朝鮮半島は倭ではないとみえるが・・・どうかな?
139日本@名無史さん:2007/02/22(木) 22:41:02
倭人伝の書き方は、やはり朝鮮半島の南部が倭であるような書き方を
していると思う。そうでなくても、紛らわしい書き方といえる。

韓伝も「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」と書かれているわけだが、
後漢書も「馬韓在西、有五十四國。其北與樂浪、南與倭接」とあり、
「弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接」とある。

また、倭人伝には、倭人は身に文をすると書かれているが、両書とも
弁辰は、倭に近いので、身に文をすると書かれている。

やはり、朝鮮半島の南部は倭だったと思う。
140日本@名無史さん:2007/02/22(木) 23:33:55
朝鮮半島南部には、任那と呼ばれる日本府があったことが日本書紀や
中国の書物に書かれているわけだが、その前身ではなかったかと思う。
『宋書』では、「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が登場するが、
魏志に書かれていた当時はもっと小さかったのかもしれない。
141119:2007/02/23(金) 00:40:20
>>140
> 朝鮮半島南部には、任那と呼ばれる日本府があったことが日本書紀や

 誤)任那と呼ばれる日本府
 正)任那にある日本府

> 中国の書物に書かれているわけだが、その前身ではなかったかと思う。

 中国史書に「日本府」って出てくるの?

> 『宋書』では、「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が登場するが、
> 魏志に書かれていた当時はもっと小さかったのかもしれない。

 弁辰が任那になったと書かれているわけじゃないだろう。

 「自稱使持節都督倭百濟新羅"任那"加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王」

 武の自称の中で出てくる言葉 。
 洛東江水系を示すと思われる「加羅」と言う地名と併記されている。
142日本@名無史さん:2007/02/23(金) 15:01:03
要するに、倭の勢力は、壱岐や対馬だけでなく、朝鮮半島南部まで及んで
いたということかな。しかも、その時期は邪馬台国以前まで遡る。

>>141
中国の書物では、「任那・加羅」と併記されることが多いが、日本書紀では
加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国
乞サン国、稔礼国の十国を総称して任那と呼んだと言う記述があり、
加羅は、任那の一部だったと可能性が非常に高いといわれる。

143九州出身:2007/02/23(金) 18:41:46
天照大神は『魏志倭人伝』の卑弥呼女王であるという。
『天照大神』とは記紀によって付けられた尊称であるが、御神名としては大日霎貴という。
中国現存の最古の辞書といわれる『説文解字』は「みこ」と読んでいる。
「日」の字を付けて「ひみこ」と読み『魏志倭人伝』では独特の、
他民族を蔑んだ文字を使って「卑弥呼」としたもの。
すなわち、天照大神は「大日霊女貴 尊」(おおひみこ むちのみこと)であり、
卑弥呼女王ということになる。
他の人の意見を聞こう!
144九州出身:2007/02/23(金) 18:49:57
我が国の歴史の始まり、出雲国を創建した素戔鳴尊。
出雲大社では神祖熊野大神と尊称され古代から最も祟尊された神について語ろうではないか。
145サガミハラハラ:2007/02/23(金) 19:01:25
出雲の熊野神は天照大神とスサノヲノ命とのウケイの時に生じたクマノクスビノ神
ではなかったでしょうか?
146日本@名無史さん:2007/02/23(金) 19:06:41
倭の定義は小柄なサルみたいなやつと言うだけで日本人とは限らないみたいですよ、
女は小柄な女が良くて大柄な女は食い物にならないほどのひどいもので
147太国:2007/02/23(金) 20:24:43
>>143
卑弥呼≠天照大御神

正解は以下のとおり

神功皇后≠卑弥呼≠比売大神

倭の五王≠当時の各天皇

神武≠崇神≠應神
148日本@名無史さん:2007/02/23(金) 21:59:24
サガミハラハラさん、つらくないか?

残念ながら、あなたの説は見当違いだわな。
149日本@名無史さん:2007/02/23(金) 22:55:14
天照大神=卑弥呼+台与とすれば、須佐之男命は狗奴国の卑弥弓呼かな。
つまり、狗奴国は出雲を含む日本海沿岸地方。
後漢書の記述を採用すれば、地理的にも問題はない。
自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王

狗奴国の勢力は、ひょっとしたら、北九州の一部にも及んでいたかも
知れない。記紀の、天の安の河原の誓約のときに生まれた宗像の三女神は
自分のものだと須佐之男命が言うが、これは宗像地方が須佐之男命の
ものという意味かもしれない。

北九州地方が現在でも言葉が異なること。また、福岡市付近で盛んに
作られた甕棺が、北九州市付近では全く見られないことなど古代から
その南の地方とは違う文化圏と考えられる。
150サガミハラハラ:2007/02/23(金) 23:42:25
いいえ、私の説が正当です。
辛いというならば、私の正当な説がなかなか受け入れないことです。
151日本@名無史さん:2007/02/24(土) 00:39:03
自分の説が正当だなんて断定するような香具師の説はたいてい正当じゃない。
152日本@名無史さん:2007/02/24(土) 03:35:40
>>150
・「説文解字」は読まない(読めない?)
・諸橋大漢和辞典は全く読む気がないと明言
・藤堂明保「漢字語源辞典」は存在すら知らない
・「角川地名大辞典41 佐賀県」に掲載されている小城周辺の地名が
 福岡甘木、宮崎都城、奈良大和などと同様に、邪馬台国候補地で存在している
 地名の奇妙な一致について全く調べていない。
・小城市に出向いて、小城公園を囲い込むように存在している天満宮など、
 神社がまるで「怨霊封じ」をするかのように多数存在しているという報告を無視
・岡田英弘(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所名誉教授)の著書、
 「日本史の誕生」の存在すら全く知らない。
・井沢元彦は邪馬台国ならびに卑弥呼の墓が
 佐賀平野のどこかにあったのではないかと書いているが、全く知らない。
・清水義範の小説「おそるべき邪馬台国」も全く知らない。
・娑婆(サンスクリット語「サハー」の漢音訳:原義は「現世」)と
 舎利(サンスクリット語の「シャリーラ」の漢音訳:原義は「死体」)と同じ事だと信じ込んでいる。
・小城公園は江戸時代に鍋島藩主が作らせた庭園を明治8年に公園法に基づいて
 一般に開放された、という事実を書き込まれると
 ファビョって関係のないスレまで荒らす。

結論@ サガミハラハラは思い込みだけで妄想書きまくってるだけ
結論A サガミハラハラは他人の話を聞く耳を持たない電波
153サガミハラハラ:2007/02/24(土) 07:51:21
>>152
ご明察です。
私の邪馬台国論はほとんど地理論です。卑弥呼の都と墓がどこにあるのかを探しあてることだといっていいでしょう。
ですから風俗とかはからきしわかりません。
ところで井沢氏の説ことですが、どの本にかいているのでしょうか。
読んでみたいので書名を教えてください。

>>151私は香具師ではありませんので、私の説は正当です。
154サガミハラハラ:2007/02/24(土) 08:04:27
桜岡の元の名のシャバ丘ですが、人骨なのでシャリ丘のほうが適切です。
これは井沢氏のいうように、日本は言霊の国であるので、生々しい人骨という
言葉を避け、音の似た娑婆という言葉におきかえたのではないかと思います。
不吉な地名をよい地名にかえることは、日本では結構あります。
155日本@名無史さん:2007/02/24(土) 08:25:16
倭には小さいの他におとなしい・おだやかという意もある。
他の北方や西方の騎馬民族のように度々、中国中原を侵して皇帝を
殺すような民族ではなかったので、そう表現されたのだろう。

もちろん近代の第二次大戦後の中国戦争後、倭人の特徴から「東洋
鬼」「小日本」という非難語が生まれたのは本当の話。
中国では黄巾の崇拝した「鬼神」を国教としていた倭人から「東洋
鬼」という言葉が生まれたし、倭の小さいという意から「小日本」
という蔑視も生まれた。
中国での北方民族への蔑視表現としてよく北狗や奴戌等の「犬」に
まつわる表現が使われるのと似ている。
156日本@名無史さん:2007/02/24(土) 12:00:02
>>152
>・清水義範の小説「おそるべき邪馬台国」も全く知らない。

これは漏れも聞きはじめだ。今度探してみるお。
157大杉博:2007/02/24(土) 15:36:19
邪馬台国は四国山上にありました。
だれも反論できないので私の説が正当です。
天理教万歳!
158日本@名無史さん:2007/02/24(土) 15:50:03
>>157
>邪馬台国は四国山上にありました。

ほんとかな?
四国山上て、具体的には何県のどこでつか?

>天理教万歳!

信者さん? だったら天理市に邪馬台国比定してみては?
天理教のおじば、だったかな、あそこは布留遺跡といって
古墳時代初期のフル〜イ遺跡なんでつよ
159マンセー名無しさん:2007/02/24(土) 15:56:49
邪馬台国は韓国慶尚南道の高霊にあったニダ!

ウリの説が正当ニダ!

妄言言うチョッパリどもは黙るニダ!
160日本@名無史さん:2007/02/24(土) 16:11:33
>>159
>黙るニダ!

はいはい、黙ってスルーするぅよ、ぼく
でも、いろんな説、あるんだね〜  <( ^ ^ :
161愛知県民:2007/02/24(土) 16:12:01
「其の旧語を聞くに、 自ら太伯の後と謂う」(魏略逸文)
倭人は呉の太伯の後裔と自称していたようですが・・・?
太伯・周王室の姓は「姫(き)」氏。
天孫降臨神話でニニギノミコトは高千穂峯に天下り、阿多の笠沙の岬に着いたとされますが、
753年、鑑真を乗せた遣唐使船も阿多に漂着しています。
その直前、屋久島で風待ちをしていますが、屋久島は九州最高峰・宮之浦岳(1935m)
をはじめ数百の高峰を有しているので、こちらが高千穂峯かもしれません。

九州出身さん
@素戔鳴=帥升
A天照大神=卑弥呼
@とAが同時に成り立つ理由が分かりません。
説明して頂けますか?
162日本@名無史さん:2007/02/24(土) 16:25:56
>>161
>@素戔鳴=帥升 A天照大神=卑弥呼 @とAが同時に成り立つ理由が分かりません。

そだよね
帥升は2世紀初め、卑弥呼は2世紀末〜3世紀前半の王さまだよ
どう考えたって、天照大神・素戔鳴の姉弟には、ならないと思うよ  (ToT)
愛知県民さん、鋭い指摘だな〜
九州出身さん、ぼくにもキチンと説明して頂けまつか?
163日本@名無史さん:2007/02/24(土) 17:43:42
邪馬台国は、熊本県七城町?の「うてな遺跡」だと思うのだが。
地図を見ていて非常に良い場所だと思う。
菊池川の5km下流に大規模な環濠集落である方保田東原遺跡があり、
これがうてな遺跡の防御の集落だったと思う。
ちなみに「うてな」は「台」と書く。
あまり発掘調査は進んでいない。
http://www.pref.kumamoto.jp/education/hinokuni/tuushinkumamoto/no.7/no7_1.html
164日本@名無史さん:2007/02/24(土) 17:56:17
>>163
うてな遺跡だと仮定すると、古墳前期の方形周溝墓出土の事実から出雲系の影響が強いことになり
舟形石棺からは畿内の影響下にあったということになる。
また肝心の弥生終末期には小さなムラ程度の規模でしかない。
あなたの邪馬台国観とはそれでいいものなの?
165日本@名無史さん:2007/02/24(土) 18:29:08
>>164
方形周溝墓と出雲の関係については良くわからないが、方形周溝墓があるから
出雲の影響というのは短絡的過ぎるのでは?舟形石棺にしても、方形周溝墓に
しても熊本県では良くあるもののようなのだが。
うてな遺跡は、あまり発掘調査が進んでいないが、大規模な多重環濠集落で
あると思われている。

下流に大環濠集落である方保田東原遺跡があるが、
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/03-11katoudahigasibaru.html
これよりも地理的にも地形的にも、うてな遺跡のほうがずっと重要な地位に
あると考えられる。
166愛知県民:2007/02/24(土) 22:45:58
3世紀に倭人が先祖としていた呉の太伯の痕跡が残っている筈だとすると、
謎の多い宇佐神宮の「比売大神」に思い当ります。
「姫」姓を持つ太伯、虞仲(春秋・呉国の祖)、季歴(周王室の祖)の三兄弟が
スサノヲの三姫に置き換えられた可能性はないでしょうか。
167754:2007/02/25(日) 00:16:10
>>165
方形周溝墓というのは弥生後期中葉に山陰で発生した独特の墓制のことです。
これは弥生後期後半までは吉備にも見られ、終末期までは畿内でもありましたが
古墳時代になってから発生するのは主に中部九州の特徴です。
舟形石棺は畿内だけでなく吉備にも多く見られるもの。
つまりあなたが多く見られるとおっしゃるように、古墳時代に入ってからの熊本・大分は他地域の文化影響をモロに受けているのです。
それ以前の中部九州は参照ページにもあるように、巴型銅器、ジョッキ型土器など独自のものと他地域のものが交錯しています。
山陰や畿内の土器も多く出土するとも書かれているでしょう?
うてな遺跡が邪馬台国かどうかは別にしても、北部九州とは繋がりが薄い地域であると考えたほうがいいでしょう。
168日本@名無史さん:2007/02/25(日) 00:36:42
方形周溝墓というのは弥生後期中葉に山陰で発生した独特の墓制のことです。
169日本@名無史さん:2007/02/25(日) 00:46:30
ごめんなさい。上の>>168はぼくの書き込みですが、>>167に対し、「それヘンですよ」と言いたかったんだ
ところが手がすべって、中途半端で書き込んじゃいました。で、やりなおし

>>167
>方形周溝墓というのは弥生後期中葉に山陰で発生した独特の墓制のことです。

なにか勘違いがあるのでは?
方形周溝墓は、弥生時代前期から存在していると思いますが
http://www.yoshinogari.jp/ym/pages/5_society/1_3.html
170日本@名無史さん:2007/02/25(日) 00:47:24
>>167
北九州を代表する弥生時代の墓制である甕棺は、発生期の頃は、熊本県と
福岡・佐賀は同じような密度だったのです。その後は、福岡県や佐賀県の
密度が濃くなるわけだけども。
このことからもかなり古くから関連があったと思う。

熊本県に注目するのは、一大率のこともあるのです。邪馬台国が北部九州ならば、
伊都国に一大率をおいて諸国を監察する必要はない。

さらに、邪馬台国までの行程も熊本のほうがずっと妥当する。

鉄についても、福岡県の考古学関係者が口をそろえるのは、圧倒的な鉄の
出土量を誇る熊本ということです。最近、福岡県でも、大規模な鉄の加工跡が
見つかったけれども、これも玄界灘沿岸ではなく、熊本に近い八女。

さらに、宮崎のこともある。天孫降臨のような出来事を想定すると、つまり、
宮崎に勢力を拡大しようとすると、熊本のほうが有利。北部九州だと、
逆に熊本がネックになる。
171日本@名無史さん:2007/02/25(日) 01:44:00
>>169
彼は四隅と勘違いしているのでは?
それにしても中南部九州に瀬戸内の影響が強いことは同意だが。
172日本史@名無しさん:2007/02/25(日) 07:26:16
こうは考えられないか?

奴国が共立の中核で、九州全体。(除クナ国)
でもって、邪馬台国は、共立されたバチカンみたいなもんで、
九州以外の支配領域が合わせて7万戸。そこに三十余国が
入っている。
173愛知県民:2007/02/25(日) 10:04:37
>>172
私は畿内説ですが、九州の政治・軍事の中心は伊都国でしょう。
経済・貿易の中心は奴国、宗教は宇佐だったかと。
近畿における大和・河内・伊勢と対応していると思います。

弁辰の狗邪国については、狗邪「韓」国と強調しなければならないほど、
倭の影響が強かったんでしょうね。
174愛知県民:2007/02/25(日) 14:25:19
吉田孝氏は「日本の誕生」で、倭国王「帥升」の名は中国風の姓名と思われ、
この時代の漢人の姓として「帥」より「師」のほうが一般的なので
「師升」が正しいのではないか?と論じています。
卑弥呼についても呉の太伯の姓「姫」の意訳「ひめ」+「みこ」であり、
呉の敵である魏に遠慮して「姫(き)」をそのまま名乗らなかったのでは?
以上、素人の想像です。
また来週・・・
175日本@名無史さん:2007/02/25(日) 14:47:10
句呉と孫呉は全く別物だろうに
176日本@名無史さん:2007/02/25(日) 15:31:11
吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない!面土国王・帥升

http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34573441.html
177日本@名無史さん:2007/02/25(日) 15:59:48
やはり、魏志倭人伝の話は、日本書紀や古事記の
孝霊天皇〜崇神天皇の話なんでしょうね。
だとしたら、狗奴国というのは河内国(大阪南部)であり、
卑弥呼(百襲媛命?)と仲が悪い男王・卑弥弓呼は武埴安彦命かも。
もし、これが分かれば、崇神10年は、246年前後になり
日本の記紀にある実年代を割り出すのに、大きな前進になる。
また、魏志には、奴国が2回出てきますが、
最初の戸数2万戸の奴国は博多湾沿岸として
後の奴国は、難波(摂津)国であり、その南にあるのが
狗奴国=河内国だと思う。
狗奴国の官は、魏志にでてくる「狗古智卑狗」は誤写で、
魏略に出てくる「拘右智卑狗(コウチヒコ)」=河内彦なんでしょう?
武埴安彦命は、生母が河内の出身だし。
http://yamatonokuni.seesaa.net/
178サガミハラハラ:2007/02/25(日) 16:52:12
>>176吉野ヶ里町吉田目達原、米多郷、筑志米多国造
メタは邪馬台国のヤマタイの訛化とみられる。よって吉野ヶ里一帯が邪馬台国であったという
私の説は証明された。(230年ごろに小城に遷都)
179日本@名無史さん:2007/02/25(日) 16:56:46
思わぬところから助太刀がくるものですね。
これで邪馬台国論争は解決ですね。
とりあえずめでたい事です。
180日本@名無史さん:2007/02/25(日) 17:29:33
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
181木村鷹太郎:2007/02/25(日) 17:30:49
邪馬台国はエジプトである。
日蓮大聖人はギリシャの太陽神。

南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
182唐松山:2007/02/25(日) 17:34:17
半年で 治めた 四道将軍の 戦は、
景行の  数度に及ぶ戦より 特筆すべき物であり
景行の 九州全域に及ぶ戦は、ただの熊襲狩り 
という事ですか?
183日本@名無史さん:2007/02/25(日) 18:16:35
>>178
ぜんぜん、違うじゃん。メタ と 邪馬台国はw
もう、そこまで論破されていても、
自説を下げられないのは、こういうことだろう?w あわれw


> そんなわけで、後藤さんは「倭国歴訪」の自費出版を決意する。
>だが、三千部印刷したのに、売れたのはわずか五百部。
>大半は売れ残り、自宅の段ボール箱の中に眠っている。

> 「こう言うと、みんなから笑われるけど、全国に数ある図書館の
>うち半分は買ってくれるのではないか、と期待していました。
>こんなに売れないとはね…」

> 中学生のころから歴史好きで、邪馬台国論争にも興味があった。
>外で遊ぶより、そんな本を読んでいるのが楽しかった。

> 相模原市内の小学校教諭になって十七年目の八六年、
>心臓の病気で倒れた。死ぬかと思ったが、運良く回復した。

http://www.toonippo.co.jp/l-rensai/shutoken/shutoken15.html
184サガミハラハラ:2007/02/25(日) 19:17:16
ずいぶんおくわしいと思ったら新聞みたのですね。

御前手前がオメーテメーと転訛するのであるからヤマがヤメと転訛しヤメタイとなり、
ヤとイが落ちてメタとなって不思議はありません。
185日本@名無史さん:2007/02/25(日) 19:19:16
そうですね。言葉は長い時間のうちにずいぶんと変化しますからね。
186太国:2007/02/25(日) 20:22:01
>>177
だいぶ正解に近いが女王国は九州所在である。

崇神即位元年=景初元年=実年代239年

紀の記載の崇神10年=実年代240年

崇神10年=実年代246年(垂仁天皇誕生)

卑弥呼≠比売大神
187日本@名無史さん:2007/02/25(日) 20:28:15
>>186
はっきりいて、狗奴国というのは、
畿内にあったもう一つの奴国の南ということでしょう?
また、卑弥弓呼という名前から言って
卑弥呼と近い関係にあったんじゃないの?

狗奴国は河内?畿内の奴国は摂津(難波)?
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34476515.html

狗奴国の男王・卑弥弓呼という名の意味
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34572751.html
188太国:2007/02/25(日) 20:38:21
>>187
九州で比定されたい。
189太国:2007/02/25(日) 20:44:12
>>186 訂正

○ 崇神即位元年=景初元年=実年代237年

すみません。あわててました。紀の記述の 神功39年=実年代239年 でした。
190日本@名無史さん:2007/02/25(日) 20:52:04
>>187
某氏からの苦しい願望なぞ意に介さず、大きく視野を広げて比定されたい。
191サガミハラハラ:2007/02/25(日) 20:56:38
狗奴国は熊本県北部です。
まず、奴はトと発音してください。(意味は国という意味です)
クトが正解です。この国名は熊本県北部の宇土半島のウトとして残っています。
192日本@名無史さん:2007/02/25(日) 21:44:48
>>191
それは絶対に間違い。
奴は、「と」とは発音しない。
だったら、奴国を「な」と発音したのに。
狗奴国だけ、「く」なんて発音しない。
日本人みたいに、複数発音を使い分けていない。
中国人は基本的に、その時代、その時代
漢字の発音は一つだ。
193日本@名無史さん:2007/02/25(日) 22:01:31
宇土ってシュメールの太陽神でしょう?
194九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/26(月) 00:40:07
>>979{ドン来い14}
ちょうど今ドン来い14が終わったので、姉妹スレのここでお答えします。
「鳥居の登場は8C」と言う事ですが、あれは弥生時代の集落の門で、
鳥が止まるのが縁起がよいとされていたものです。
唐古鍵遺跡などの鳥が止まってる様子を表した土器か何かを見たことがあります。
随分昔の記憶ですが。これも初期道教の影響といわれます。
195九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/26(月) 00:46:43
>>191
ちょっと目にとまったので、よこやりのようですが失礼してレスしますが、
「まず、奴はトと発音してください」はちょっと違うんじゃ?
当時「奴」はdo,toなどとは発音していなかったと記憶していますが。
196九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/26(月) 01:04:13
>>155
トンヤンクイとか、シャオリーベンは、単に東洋の鬼、だとか国が狭いとか言う意味で、
黄巾とは関係ないと思うけど。
197日本@名無史さん:2007/02/26(月) 01:10:35
どう考えても都合良く歪曲してるだけです。
本当にありg
198日本@名無史さん:2007/02/26(月) 02:33:12
サガミハラハラは、自分の定説のために
常識的な音韻の知識も無視。
そりゃ、本も売れないし、学会からも相手にされないよ...
追い込まれているのは分かるけど...
199九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/26(月) 06:04:10
>>178
狗奴国は、熊本県の菊池一帯だとは思うが、邪馬台国は伊都国からさらに奴国を経てフミ国に至り、
投馬国からさらに行かなければ到着しない場所にある。いくらなんでも吉野ヶ里は近すぎ。
吉野ヶ里は邪馬台国連合30カ国のうち、かなそな国「かんさきなくに」ではないかというのはのは聞いたことがあるが。
吉野ヶ里は邪馬台国時代既に衰退期に入っていたという人がいたけど、そのソースはわからないが。
200日本@名無史さん:2007/02/26(月) 07:18:54
>>194
>鳥がとまることが縁起がいい
その考えだと鳥居と縁起は、縁起が先で鳥居はその後と考えられますが、如何?
201日本@名無史さん:2007/02/26(月) 07:33:17
>>199
吉野ヶ里遺跡の発掘責任者の高島氏は、「吉野ヶ里の望楼から邪馬台国が
見える」と言ったらしい。高島氏は、吉野ヶ里と邪馬台国の時代は重なると
考えているらしい。
畿内説の人の年代観によると、吉野ヶ里の時代は邪馬台国の前と考える人も
いる。この年代観が現在の邪馬台国畿内説の唯一の根拠なので仕方がないが。

だから、古代の年代については、語る人の年代観に左右される。
庄内期の始まりについても、人によって100年くらいは差があるようだから、
このあたりは、気をつけたほうがいいかも。新聞記事を読むときとか。

ちなみに、新井白石は、吉野ヶ里付近を弥奴国に比定したんじゃなかったかな。
202プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/26(月) 07:46:32
いつの間にか『ドン来い14』が修了したようだが、もう俺は新スレ立てるつもりはないので(追い出された)
後はお好きに
203サガミハラハラ:2007/02/26(月) 08:50:22
よく邪馬台国の時代という言葉が使われるが、いったい年代でいうといつごろをさすのか。
卑弥呼の即位は183年で間違いないであろうし、邪馬台国と正式になのったのは230年代
(親魏倭王の金印を受けてから)のことであり、それ以前は邪馬壱国であった(最も古い魏志倭人伝では邪馬壱国と表記)。
委奴(イト)国が邪馬壱国と称したのは、122年に委奴国が倭面土(イメンド)国をほろぼし、その故地にシマイ(斯馬委)国をたて、名称の
混同をさけるために邪馬の委の国として邪馬壱国としたのであるが。(委と壱は同音【倭人には同義】で、台は大壱【タイ】のこと)
204プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/26(月) 09:12:21
>>203

>邪馬台国と正式になったのは230年代


范曄はその史書『後漢書倭傳』の中で(自武帝滅朝鮮)と書き、既にその書の中で(邪馬臺國)の文字を見付ける事が出来ます。

それが史料事実というものです。主観は頭の中だけに!
205日本@名無史さん:2007/02/26(月) 09:26:36
原人の発音を聞いて通訳が漢字に直したのが邪馬台国なので、邪馬台国は2個以上あったのだ。
206太国:2007/02/26(月) 10:05:29
景初元年=崇神即位元年=239年

卑弥呼≠比売大神
207太国:2007/02/26(月) 10:06:37
どうもいけません。間違えてばかり。

× 239年   ○ 237年
208日本@名無史さん:2007/02/26(月) 11:13:16
>>192
漢字の発音って時代で区分できるのですか?

古来から地域差で変わると思ってました。
209日本@名無史さん:2007/02/26(月) 11:16:41
>プラム ◆TOfHBAKZgM
専用スレで活躍してくださいね
210日本@名無史さん:2007/02/26(月) 11:53:16
>>209
コテ叩きです。注意してください
211日本@名無しさん:2007/02/26(月) 12:06:27
>>208
古代の読み書き体系は原則フォーマルなものしかないですからね、
王朝が長く続くと読み書きも熟成され変化していくものです。
中国では「上古音」「中古音」「近世音」「現代音」と分類されています。
特に、
南北朝前期以前の音を上古音
 ※日本では大雑把に「古音」と呼んだ
南北朝後期〜隋〜唐代初期の中古音を前期中古音
 ※日本では大雑把に「呉音」と呼んだ
唐代中期〜五代十国〜宋の中古音を後期中古音
 ※遣唐使らが持ち帰った長安弁ベースの音を日本では「漢音」と呼んだ

といいます。魏志らの音は当然上古音とみてよいでしょう。

「奴」の上古音は[nag]、前期中古音(≒呉音)は[no]。
[do']はこれの変化でしょう。
後期中古音(≒漢音)以降は[nu]とされているそうです。

魏志倭人伝の固有名詞の漢字
ttp://www.dai3gen.net/gishi01.htm 

ですから「奴国」の奴はナでいいということになります。
212日本@名無史さん:2007/02/26(月) 12:10:36
>>209
同意。
>>210
棲み分けの提案はコテ叩きじゃないよ。
213プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/26(月) 12:12:06
今は便利になりました。

最近まで『名無し@変身』さんや『名無し@名無し』さんの個別をなかなか区別出来なかったが

最近 『名無し』さん全てに(コテ)が付いたように見えます。
便利になりました。
これからは より一層楽しませてもらいます。

ね!>>209 さん クス
214プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/26(月) 12:16:24
こうして見てみると

以外と参加者住人の少なさに驚きを覚える。


では 巣に帰りますので
215日本@名無史さん:2007/02/26(月) 12:19:59
やれやれ
216日本@名無史さん:2007/02/26(月) 12:29:54
>>211
>南北朝前期以前の音を上古音
>南北朝後期〜隋〜唐代初期の中古音を前期中古音

違うだろ。

上古音は詩経の体系(押韻による推定復元)
中古音は切韻の体系(実際には切韻は残っていないので広韻などによる)

この間1000年以上の開きがある。

移行期は今ひとつ不明で、森博達によれば上古音は前漢までで、後漢代は既に中古音だという。
だから

>といいます。魏志らの音は当然上古音とみてよいでしょう。

とは必ずしも言えない。実際、伊都は中古音ならイトだが上古音で読むとイタになり、
伊都を前原あたりに当ててイトと読むのが妥当であるならば、既に中古音の体系に移っており、
古くから情報が上古音のまま残っているとするほうが理解はしやすい。
217日本@名無史さん:2007/02/26(月) 12:59:43
>>212 >>210だが
なぜあの短い時間で>>209に同意出来た主意を問いたいのだが?
付和雷同に反応しただけなのかw
218日本@名無史さん:2007/02/26(月) 13:37:25
>>216
厳密に言えば、魏志のころは
上古音と中古音の過渡期だと思われ。
字によっては、上古音のまま、中古音というふうに
変化していた可能性がある。
219日本@名無史さん:2007/02/26(月) 14:54:56

                 くまー
                r -、,, - 、
            __    ヽ/    ヽ__
  くまー     ,"- `ヽ, / ●     l )
         /  ● \__ (● ● i"
        __/   ●)      ̄ )"__ "`;
      .(_i  ●    ' __, '"  ̄`'(___/.i⌒i
        丶_ ,i⌒i,,_(_/    ● i ̄ ̄ )_|__
      __, '"   ̄ ヽ! ● ●)  ミ~ ̄_● ヽ)
くまー   (_/     ● i    ∪  / ⊂{●  | くまー
       l ●( _●) (  ̄)-    /   -'  i
     /ヽ、   |∪l   T      i     ● '")

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 14
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1171175255/l50
♪邪馬台国ドンと来い♪ 13
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1169433574/l50

15スレのスレ立てができないので、だれか変わりにお願いします。
220日本@名無史さん:2007/02/26(月) 15:13:24
♪邪馬台国ドンと来い♪ 15
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1172470145/

立てたぜ
221サガミハラハラ:2007/02/26(月) 15:24:39
>>204
後漢書倭伝は三国志より後の時代(100年ぐらい)の成立で、其の部分は
魏志倭人伝を写したも同然のぶぶんです。
222日本@名無史さん:2007/02/26(月) 15:41:40
>>221
まさか、それを知らんとは思えないので、
多分、ぷ氏は、後漢書は後漢の時代のことを書いているのだから、
その中で使用されている邪馬臺國という言葉は、
後漢当時に通用した言葉のはずだと言いたいのでしょうね。
いつも肝心なところを書かないから。
范曄が見た資料がいつの時代に作成されたかは知る由も無いが。
223プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/26(月) 15:46:50
>>221

何時の時代に書かれようと、後漢時代の記録を書からこその『後漢書』
当然先行史料となる倭人伝は参照して当然の事
魏は後漢時の後の時代で、魏書の先行史料が無ければ当然 、魏書の中に過去からの経緯は書書かれているのが当然でしょう。
それに中国の王朝の変化に日本の時代が同時変化をしているわけでは有りませんから、当然後漢書に使えそうな記事が満載していても何も不思議ではありません。
それよりか
編纂者の生きていた時代の考えを盛り込む方が問題です。
後漢時から見れば、未来の出来事ですから
224プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/26(月) 16:12:48
>>222

>肝心な事を言わない(書かない)


貴方も多分知っているとは(多分)思うが、
今別スレにて倭人伝の詳しい解釈を公開展開中
それでも
肝心な部分が無いというのかい?


貴方があれ以上の説明が出来ると言うなら話は別だが。
225日本@名無史さん:2007/02/26(月) 16:54:14
>>224
二つのレベルで肝心なことを書かないね。
一つ目は、普通のレスでのこと。
>>223で書いてることを>>204で最初から書いておけば、
サガミハラハラさんの誤解もなかったろうに。
文章の書き方の癖なのかな。

二つ目は、別スレのことだから、ここに書くと皆さんにご迷惑だろうから、
むこうに書いておきます。
226日本@名無史さん:2007/02/26(月) 17:12:25
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
227日本@名無史さん:2007/02/26(月) 19:00:09
書き写してるうちにドンドン違う物になってしまった
228日本@名無史さん:2007/02/26(月) 19:30:06
>>227
法華経みたいなもんかね。
漢訳本ですら16種類も存在していたっていうんだから。
229プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/26(月) 20:15:25
398 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/26(月) 17:49:37
>>225

>名前:日本@名無史さん :2007/02/26(月) 17:17:12
あっちの225です。
従郡至倭にしても、
「基点って何?なぜ従来は今が基点で従郡至倭だと郡が基点になるの?」
ってところが説明が無い。

→どのレベルに合わせて説明したらよいか解らない  
中には『魏志倭人伝』って何?的レベルのヤシもいるだろうし、私の説明だけで
理解でき、間違いを指摘できるヤシもいる。
決してムズイ事でもなく、主観も入っていないはず。全て辞書からそれていない内容なので
そちこちで見かける想像で組み立てた理論よりは、かなりまともと自負している。


>  >>224
二つのレベルで肝心なことを書かないね。
一つ目は、普通のレスでのこと。
>>223で書いてることを>>204で最初から書いておけば、
サガミハラハラさんの誤解もなかったろうに。
文章の書き方の癖なのかな。

→あれはサガミさんに宛てたレス  彼にはあれで十分すぎるレスなの
一から十まで説明しなければ解らないほどの馬鹿ではないよ
それに、彼に至っても私からの反論だけで「ピ〜ん」とくるんだよ
付き合いもかれこれ二年以上になるからね

(返レスの必要はありません。)

230九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/26(月) 20:25:55
>>229
おっ。プラムさんが帰ってきている。そうこなくっちゃね。
でも僕には難しいことが多くて、おてやわらかにね。
231プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/26(月) 21:09:14
>>230 九州ですがさん

帰ってきた訳ではありません。
また向こうに行きます。     ではまた


すると
また名無しが横から  『二度と来るな』顔をだす
232日本@名無史さん:2007/02/26(月) 21:41:59
「邪馬台国」基本常識FAQ
Q「三国志」の漢字の発音は?
A「様々な資料を総合していくら調べても上古音なのか中古音なのか分からない」というのが定説。
233日本@名無史さん:2007/02/26(月) 21:44:39
>>231
名無しってわるいやつですね。
234九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/26(月) 21:52:31
>>200その考えだと鳥居と縁起は、縁起が先で鳥居はその後と考えられますが、如何? 」

縁起ではなく宗教ですね。なぜ縁起がいいのかは、僕が思うにもっと古代に、
丸木舟で航海して船に鳥が止まると陸地が近いということで喜んだ遠い記憶が
弥生時代の集落がちょうど止まり木のでっかいような形で、そこに鳥が止まると、
縁起がいいという道教の考えに反映したのかも。道教は風水などの原型のような宗教だから、
自然との調和を考えたのかも。
235日本@名無史さん:2007/02/26(月) 21:54:30
不必要に荒れないように、住み分けしましょう
236日本@名無史さん:2007/02/26(月) 22:16:58
荒れないようにここはコテ専門にすればいいと思うよ。
名無史は完全スルーで
237日本@名無史さん:2007/02/26(月) 22:26:45
>>236
2ちゃんでは、そういうスレは削除依頼なんだよな
238日本@名無史さん:2007/02/26(月) 23:24:45
>>237
×削除依頼
○削除対象
スマソ
239『臺』と『壹』:2007/02/27(火) 01:45:56
>>221
サガミハラハラよ、現在、存在している魏志倭人伝の写本は
12世紀に書かれた新しい写本だ。

倭(人、国)条の『臺』と『壹』
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/bunken.html#tai-iti
240日本@名無史さん:2007/02/27(火) 02:16:28
倭に対するヤマトって読みは、その頃倭(わ)にあった卑弥呼の
氏族からのことを邪馬臺(やまたい)と呼んだのを当てたところに始まる。
 この邪馬臺も見てのとおり、全くありがたくない文字ばかりなんだけどね。
241太国▲kosintou:2007/02/27(火) 11:19:21

[10]サガミハラハラ<>     
2006/11/11(土) 19:13:27
皇国史観にもとずく、研究活動を行っている学者をあげてみましょう。
・安本美典 記紀の内容は実在するとして精力的に活動をつづけている。
      彼の薫陶を受けた人物に後藤幸彦がいる。安本氏は記紀を歴史書として見直すことにより、
      日本歴史界において多大なる貢献をしたといえる。
242日本@名無史さん:2007/02/27(火) 14:28:53
>>241
サガミハラハラ、
安本を評価している時点でアウト。
243太国:2007/02/27(火) 14:33:22
>>241 はニセ者です。
244太国▲kosintou:2007/02/27(火) 16:42:07
>>243 はニセ者です。

245サガミハラハラ:2007/02/27(火) 16:51:12
古代史に限らず、研究においては旧態依然たる説に執着することなく新しい方向や手法を模索する必要がある。
安本氏は在野の立場から古代史をみつめなおそうとする立場であり、その手法など評価できるものである。
246太国▲kosintou:2007/02/27(火) 17:04:29
>>245
あなたは皇国史観に基づいて研究を行っているのですか。
もしそうなら、イデオロギーありきの研究姿勢ということですね。
247太国:2007/02/27(火) 17:21:15
好黒嗜感(ブラック・コーヒー=古秘=古神道)で研究をやっているのは
本物の俺のほうだ。
248太国:2007/02/27(火) 19:15:59
>>247は拙者のニセモノです。
249九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/27(火) 21:01:11
>>248
太国さんはトリップは付けないんですか?ニセモノが無くなると思うんですが。
250九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/27(火) 21:11:09
>>245の、「安本氏は在野の立場から古代史をみつめなおそうとする立場であり、その手法など評価できるものである」
の考えには僕も賛成です。色んな説があるが全員が正しいのではなく、真実は一つしか無い。そう考えると殆どの人が間違っている事になる。
特に安本氏の「有棺無槨 棺あって槨無し」説は支持します。
251バルタン星人:2007/02/27(火) 21:27:11
うちの近所でも自分の家の過去の悪いとこは一切子供に引き継がずに
都合のいいことだけを孫子に言い伝えてる家が多いので困ったものだ、
たとえば昔に高利貸しをやってた子孫が高校の校長をやって叙勲を受けたら
なにも知らないよその村の人は先祖から立派だとか言うが、今で言う悪徳サラ金や
街金で金持ちになったくせに
252日本@名無史さん:2007/02/27(火) 22:35:31
サガミハラハラは、なぜ、世間から相手にされないのか
深く考えてみよ。

あなたが教師を辞めて、人生追い込まれているのは理解するが...
253日本@名無史さん:2007/02/27(火) 22:44:34
>>246
皇国史観などとレッテルを貼って批判するのが一番悪い。
反対意見をそういう言葉で封じようとするのは醜い。
254太国:2007/02/27(火) 22:57:04
>>253
あいつ(>>246)はみどものニセ者です。
255太国:2007/02/27(火) 23:01:25
レッテル貼りではない。本人がそう言っている
皇国史観に基づいた正しい古代史スレ
[9]サガミハラハラ<>
2006/11/11(土) 18:30:07
1番さん大賛成です。正しい皇国史観をひろめましょう。
256九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/27(火) 23:18:09
>>252
個人攻撃はやめてください。本の出版など何かと話題になりやすい人なのは承知していますが。
>>254
それから太国さんはどれが本物かさっぱりわからない。
257日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:19:00
畿内説と九州説のどちらが皇国史観であるかなんて意味がない。

安本は、九州説を捉えることが皇国史観だと思っているが
実は、畿内説の考古学者(文献よりも考古学)のほうが、
日本書紀などの文献を正当化させる可能性があるんだよ、結果的ね。
そこが、面白いところだ。
258日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:23:39
畿内説の考古学者って、出だしは
反皇国史観で、神武東征なんて嘘っぱちという論点から
畿内説を唱えた人も多かった。
しかし、文献を嫌う畿内説の考古学者たちだが
結果的には、彼らの主張は、日本書紀の正当性を取り戻しつつあるんだわな。
実際、記紀を否定してきた考古学者たちが
崇神天皇周辺の記述を言及しまくっている感じだしw
なんというか、出だしと結果が違う方向へ進みつつある。
もし、巻向が邪馬台国と関係があるのなら
日本書紀がたちまち歴史書として復活する可能性が出てくる。
259日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:26:29
うんこスレからやって来た全て偽者スレ荒らし
260日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:27:02
>>256
どうもすみませんでした。二度としません。
261日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:36:31
>>254
わかっていますよ。
>>255
畿内説は皇国史観というレッテル貼りを良くやる。
本居宣長が初めて九州説を唱えたわけだが、これを批判するときにも
皇国史観という言葉を使っていた。

それから、第二次世界大戦後しばらくの間、東遷説を封じ込めるためにも
この言葉を使っていた。神武東征神話の亡霊とか。

奥野正男さんだったかが言っていたが、ある年代の人は、こういう言葉を聞く
と、次にどんなレッテルを貼られるのか怖くて何も言えなくなるといっていた。
畿内説はやることがえげつない。でも、もうそんな言葉に左右される時代では
ないが。
262一応九州王朝説:2007/02/28(水) 00:16:34
神武がいたから皇国史観というわけでもないですよね。

ただ、何でも最初からずっと天皇が統治していたという
考え方が問題なわけで。実社会では未だにそんな風に
真剣に思い定めている右翼の人もいるので、まだ戦前
の過酷な記憶とセットの皇国史観というイメージを取り
払うべきではありませんが。

古田は右翼から攻撃されてるわけですから。多元的
古代が許せない畿内説の人もいますし、明確に万世一
系の意図をむき出しにする人も中にはいるわけでw。

まあこんなあさはかなやりとりになるのも、○国さんの
歴史と似て非なるイデオロギー落書きの責任ですね。
「イデオロギー」自体は、生きて生活する上で誰でも
必要な思想、程度の意味ですが、固執すれば宗教に
なってしまう。国家神道とか宗教とかの装いを纏ってい
ても、実際は「自分の意見第一」すなわち「自分教」なん
ですよ。ナルシストというか。
263太国:2007/02/28(水) 08:20:47
お前は好黒嗜感(ブラック・コーヒー=古秘=古神道)に左党を入れて飲んで
いる。左党は金・代歯でやりゃぁいいことで、お前は欠歯八代が存在
しない津田病に罹患しているのだ。早くこのような短絡的歯垢を無くし、
お前の頭内のリトマス試験紙を赤化する思想脳露を、円旗政で忠倭しなければ
いよいよ虫欠く歯様を呈してきて、強酸政が充満する危険な歯槽の状態にいたる。
お前は早く歯科医糖や強酸糖の危険政を察知しなければ、忠崇神敬までして
やられるぞ。4分の一の円旗政しかないアサヒの状態では、ちょっと危ない。
264太国:2007/02/28(水) 08:25:40
>>263は拙者のニセモノです。
265太国  ↑:2007/02/28(水) 10:10:33
ニセ王
266バルタン星人#:2007/02/28(水) 10:26:50
#を名前の後にいれて偽物合戦はいいかげんに終わってくれよ
267バルタン星人 ◆sVVR0Q7eM2 :2007/02/28(水) 10:28:00
あれ、やりかたを忘れた
268太国▲kosintou:2007/02/28(水) 10:37:18
本物はトリップつきだけ
269日本@名無史さん:2007/02/28(水) 10:47:40
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
270奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/28(水) 11:22:39
イデオロギーとは定義の仕方にもよるが、基本的には「思想を根本において、それに
反する事実を無視、軽視、歪曲する態度」と考えています。

思想それ自体の良し悪しを言うのはナンセンス。

畿内説も戦後、記紀伝承は捏造と考え、鉄器の不利は無視、三角縁は大量出土が
あっても特注と言い逃れて同位体比も無視、平原も無視・軽視というような歴史が
あり、直木のように「神武東遷を認めるのは皇国史観であり軍国主義である。」と
いう思想を明言する人もいる。最近の畿内説は別の方向性もありますが。

要するに、皇国史観とかマルクス主義史観とかが問題ではなく、事実に対する態度
こそが本当の問題ではないかと考えています。
271日本@名無史さん:2007/02/28(水) 15:21:00
>>251 九州ですが氏
>特に安本氏の「有棺無槨棺あって槨なし」説は支持します

その論点は変だよ!
元々列島に、外箱の付いたものなど見つかっていないのだし、列島全体を見渡しても「有棺無槨」は特異性を見出だすことが出来ない。
272日本@名無史さん:2007/02/28(水) 16:19:07
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http://life8.2ch.net/test/read.cgi/mental/1171822931/
273日本@名無史さん:2007/02/28(水) 21:28:48
あすかあきお氏は邪馬台国は琉球民族の国で狗奴国はアイヌの国、両国間が戦争で疲弊しているところへ
北方渡来系が来てそれぞれを南北へ追いやったと。
なんでもアメリカには進駐軍が持ち去った144枚の粘度板に琉球民のメソアメリカ起源が記されているとか。
274九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 23:02:50
>>271
ホケノ山古墳の木棺は木の枠いわゆる木槨で囲んであります。
275日本@名無史さん:2007/02/28(水) 23:26:00
>>274 九州ですがさん
>ホケノ山古墳の木棺は木の枠いわゆる木槨で囲んであります。

あれ、外箱ですか?
それに、中国で言われている槨と日本版槨(考古学者命名)では違いすぎます
で、仮にホケノの木槨が中国で言われている槨だとした場合
列島を調査した官史はホケノを知っていた事になりますね?
276九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/02/28(水) 23:30:34
>>275
隋の時代には知っていた可能性はあります。
277日本@名無史さん:2007/03/01(木) 01:08:03
隋書倭国伝([イ+妥]国伝)にまた葬制の記事があるよな。

死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而[ヤマイダレ+夾+土]。及葬置屍船上、陸地牽之、或以小。
(死者は棺槨を以って斂め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を製す。貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜して(うず)む。葬に及び屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或は小を以ってす)

この隋書倭国伝の場合、槨は横穴式石室で確定!だろな。
魏志から孫引きじゃなく、隋書独自の新知見を加えてて面白い。
ま、魏志とは関係なかったよな、横レススマソ。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/zuisho/frame/zuisho_frame.htm
278九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/01(木) 05:44:34
>>277
いえいえ。大いに関係ありますよ。ぼくが日頃言ってるのはここなんです。
隋書倭国伝は大和地方つまり畿内で隋使が実際に見聞したことが書かれているといえる。
ここには横穴式石室という槨があると書かれている。横穴式石室を槨と呼んでる事で、
「有棺無槨棺あって槨なし」つまり囲った部屋が、
古代中国のような大掛かりなものだけを指していうのでは無い事は明らか。
木槨木棺墓も、いわゆる木で囲った部屋であり、倭人伝の「棺あって槨なし」に合わない。
一方、福岡県前原市の平原遺跡は土こう=墓穴の中に割竹形木棺があった。
木の枠で囲った部屋などは無く、倭人伝の記述にあっている。



279日本@名無史さん:2007/03/01(木) 06:32:10
ホケノ山古墳は、石囲い木槨だったかな。で、画文帯神獣鏡、埴輪なし。
黒塚古墳の場合は、竪穴式石室。で、画文帯および三角縁神獣鏡、埴輪なし。

箸中山古墳には埴輪がある。石室はどうなんだろうな。
横穴式の可能性が高いような気がするが。となると、箸中山古墳はかなり
時代が下るような気がする。少なくとも初期の古墳ではないんじゃなかろうか。

ずっと前に聞いたのだが、箸中山古墳には特殊器台形の埴輪がある、
これは弥生時代に通ずるもので、箸中山古墳はかなり古い可能性があると。
しかし、埴輪があること自体そんなに古くはないんだよな。
280日本@名無史さん:2007/03/01(木) 06:42:19
つづき。

日本書紀の垂仁天皇のところに、埴輪の出来た経緯が書いてある。
殉葬はあまりに残酷で見るに忍びない。殉葬の代わりに埴輪を立てようと
言うことだった。これをそのまま受け取っていいのかはわからないが、埴輪の
出来た経緯はそういうものだったのかもしれない。

倭人伝には、卑弥呼の墓には奴婢百人が殉葬されたとある。
これから見ても、箸中山古墳が卑弥呼の墓というのはありえないような
気がするのだが。
281バルタン星人:2007/03/01(木) 09:27:01
邪馬台国は琉球民族の国で狗奴国はアイヌの国にはげどう、だって地名がアイヌ用が多い
282サガミハラハラ:2007/03/01(木) 13:16:42
私は以前、九州のアイヌ語地名について考えたことがあります。
結果は之はアイヌ語ではなく朝鮮語だということに気づきました。それも相当古い朝鮮語のようです。
安本説によれば、アイヌ語と朝鮮語は数千年前には同一(アイヌ人と朝鮮人は同祖)であったというのです。
環日本海文化というのだそうです。
よって、九州と東北以北に似た地名が存在することになります。
283日本@名無史さん:2007/03/01(木) 15:53:31
>>282
私、浅学にて古朝鮮語というものを聞いたことがないので
できればご教授ください。
284日本@名無史さん:2007/03/01(木) 16:58:58
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
285バルタン星人:2007/03/01(木) 21:28:20
神社の名前もおかしなのが多いですよね一体何語なんだよと思う文字列で
全部発音にあとから漢字を当てはめてるのからかも知れないが
286日本@名無史さん:2007/03/02(金) 09:07:05
邪馬台国畿内説に弾み
大阪府高槻市にある真の継体天皇陵で横穴式石室の基礎部分とみられる石組みが発掘された。
これは邪馬台国が畿内であったことを裏付けるものであり、卑弥呼と継体天皇の関係も今後検討されることとなろう。
とにかく画期的発見といえる。
287バルタン星人:2007/03/02(金) 10:40:55
九州せつはじだんだをふんでるのかな
288日本@名無史さん:2007/03/02(金) 10:54:48
九州説はとどめをさされたというところですね。
289太国 :2007/03/02(金) 11:25:17
>>286
ひとつも裏づけにはならない。
290日本@名無史さん:2007/03/02(金) 11:55:11
>>289
畿内説の立場として、初めて太国に同意。
だいたいその今城塚の話はずいぶん前じゃんかw

・・・はっ!卑弥呼と継体天皇と書いてある時点で釣りだと気づくべきだったか!
291愛知県民:2007/03/03(土) 15:35:56
>>177 さんに感謝。自説を敷衍・一部修正します。
日本書紀の崇神天皇紀・武埴安彦の乱で、吉備津彦は大坂で武埴安彦の妻・
吾田媛と戦い、勝利したと書かれています。
ここから吾田媛の地盤は河内にあったようですが、狗奴国=河内国とすると
狗奴国も女王だったことになり、魏志倭人伝の記述と合いません。
武埴安彦は記・紀ともに山城国にいたとあるし・・・
古事記では吉備津日子兄弟は孝霊天皇の時代なので、吉備平定の前に
河内で戦ったとすれば、その相手は武埴安彦の祖父・河内の青玉でしょう。
狗奴国=河内国
卑弥弓呼=河内の青玉
吉備国は、狗奴国連合の一国
と修正します。
292愛知県民:2007/03/03(土) 15:53:39
>>282
>安本説によれば、アイヌ語と朝鮮語は数千年前には同一(アイヌ人と朝鮮人は同祖)であったというのです。

「アイヌ語と朝鮮語と日本語は同祖」ですよね?
氷河時代終了後の海面上昇で日本海ができた時に分裂し、その後、日本語は南方の影響を受けた。
よって、アイヌ語と朝鮮語が日本語を飛び越えてよく似ているのだと。
この考えには賛成です。
293九州出身:2007/03/03(土) 16:36:37
クッキー設定で何故かカキコ出来なかった。
今日はネカフェなので存分出来ると思う。みなさんよろしく!
294日本@名無史さん:2007/03/03(土) 16:42:23
>>291
では、邪馬台国はどこにあったのでしょう。
たとえば、邪馬台国が奈良県にあったとすれば、目と鼻の先に「素より不和」
の狗奴国があり、戦いをする。卑弥呼は帯方郡に使いを送り、張政が仲介に
やって来る。

一方で、明らかに九州と思われる対馬国や一支国を支配している。
伊都国の王は、代々女王国に統属している。また、伊都国は「郡使往來常所
駐」でもある。これは明らかな矛盾だと思うが。

歴史的な常識としては、奈良県が都ならば、まず近畿地方をしっかりと固める。
次に東海地方を支配し、背後の憂いをなくしてから吉備を支配する。
徐々に東に西に支配領域を広げる。という順序にならなくてはならない。
と思うのだが。
295九州出身:2007/03/03(土) 16:47:09
>>147 太国さん
それはない。
卑弥呼ほどの人間。なにか天皇家と関わりあるはず。
あなたが思う卑弥呼とは熊襲の女王でしたっけ?それのほうが無理がある。
296九州出身:2007/03/03(土) 16:56:45
>>161 愛知県民さん
帥升についてはプラム氏がお勧めしてくれたやつに
『「面土」は「表の地域」で意味は「列島の主要地域」よって「本州」。』
とある。私はそれを信じてるので本州=出雲 出雲神=スサノオとなった。

卑弥呼=天照大神については
いつも唱えてるとおり卑弥呼はこの人しかいないと思ってるからだよ。
297九州出身:2007/03/03(土) 17:10:20
>>161>>162
お答えしましょう。
スサノオは大国主の6代先祖なんだよね?
んでスサノオは大国主の妻、スセリ姫のお父さんはスサノオなんだよね?
なんかおかしくない?
スサノオは二人要るってことに気づかされるはず!
298九州出身:2007/03/03(土) 17:19:24
この1週間で太国さんの偽者も出現してたのかwww
299九州出身:2007/03/03(土) 17:25:08
>>286-288
>大阪府高槻市にある真の継体天皇陵で横穴式石室の基礎部分とみられる
>石組みが発掘された
でなぜ邪馬台国が機内になる?時代がぜんぜん違うやないか!

>>289-299に同意
300一応九州王朝説:2007/03/03(土) 17:39:45
私は何を隠そうガキの頃ほりまくって遊びましたよw
土器が出る出るwww

で、それと邪馬台国畿内説とどう関係が?
301日本@名無史さん:2007/03/03(土) 17:49:58
 もし、本当にそのような事が行われたのなら、恐ろしい犯罪であるが・・・。
『慰安婦拉致は本当にあったのか?』

 なぜ、目撃者がいないのか・・・。

 ■■■■■
 ■■◎■■
 ■■■■■

■ ←これが地域住民の朝鮮人の家。
◎ ←これが拉致されたという慰安婦の家。

「日本軍がとつぜん土足で家の中に上がり込み、父母の目の前で私を拉致したのです」

 このような発言をする元慰安婦がいるらしいが、なぜ、地域の住民が気づかないのか?
拉致=強制連行が実際にあったのなら、必ず地域住民が目撃しているはずだ。目撃されるはずである。
 『女狩り』をする軍は、ひじょうに目立つであろう。地域住民に気づかれることなく、
女性を連れ去ることなど、不可能である。なぜ、目撃者がいないのか?

302日本@名無史さん:2007/03/03(土) 18:10:35
日本書紀の年代の謎〜二倍年暦・辛酉年・卑弥呼・皇位継承の混乱
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/33783418.html


303太国 :2007/03/03(土) 19:51:55
>>295
天照大御神は神武以前の人で、卑弥呼は神武以後の人。両者は別人であり、
さらに高木彬光氏の 卑弥呼=比売大神 も間違い。これも両者別人。
時代は、卑弥呼は崇神世の前後ころで、比売大神とは神功〜仁徳世のころに相当。
304バルタン星人:2007/03/03(土) 20:10:07
記紀はきのうの事を書いたのではなく300年前の事を書いたのかも
305愛知県民:2007/03/03(土) 20:27:19
>>294
そんなに単純ではないと思います。
戦争の常識として、「遠交近攻」ということがあります。
例)唐と新羅は連合して百済を滅ぼしました。

>>297
なるほど、「天照大神の弟スサノヲ」の5代あとが「大国主の義父スサノヲ」だと。
それなら、「天照大神の弟」は古い方のスサノヲですよね?
ならば天照大神は帥升の時代ですね。
やはり「卑弥呼=天照大神」は成り立ちませんね??
306日本@名無史さん:2007/03/03(土) 21:35:08
>歴史的な常識としては、奈良県が都ならば、まず近畿地方をしっかりと固める。
>次に東海地方を支配し、背後の憂いをなくしてから吉備を支配する。
>徐々に東に西に支配領域を広げる。という順序にならなくてはならない。

それは日本地図による現代人の先入観。
歴史的な事実としては、東国の服属は西国より遙かに遅れる。
九州・出雲のほうが、美濃以東よりかなり早い。
これは文献・考古研究者ともに認めるところ。
307日本@名無史さん:2007/03/03(土) 21:42:54
天照大神の息子、ニニギが、スサノヲの6代の孫の事代主神に国譲りをせまったんだよ。
どう観ても、スサノヲは天照大神より5世代ぐらい前の人物。
308サガミハラハラ:2007/03/03(土) 22:06:41
天照とオオクニヌシノ命とコトシロヌシ命は同時代でスサノヲノ命の娘とオオクニヌシノもコトは結婚しています。
これらから考えて、オオクニヌシノ命がスサノヲノ命の5代の孫というのは間違いです。
309愛知県民:2007/03/03(土) 22:50:44
>>307
ニニギは天照大神の孫とされていますし、出雲とは無関係ですよ。
>>161 で述べたように、ニニギは呉から薩摩に来た可能性があります。
310サガミハラハラ:2007/03/03(土) 23:01:04
出雲国譲りの後に降臨していますから出雲とは無関係とはいえません。
呉からきたと考えられたのは、ニニギではなく、其の戸のホヲリノ命です。
311日本@名無史さん:2007/03/03(土) 23:17:04
>>310
おじいちゃんは早く寝なさい。
312太国:2007/03/03(土) 23:23:33
>>311余はサガミハラハラさんではな〜い。
313日本@名無史さん:2007/03/03(土) 23:33:23
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
314愛知県民:2007/03/04(日) 00:02:41
>>310
ホヲリノ命(神武天皇の祖父)は海神の国まで往復したように書かれていますが?
あと、日本書紀では神武天皇と同じ名前(ヒコホホデミノミコト)で、
神武東征が海神訪問の続きのように書かれているのが不思議です。
315愛知県民:2007/03/04(日) 10:03:04
昔、若くして亡くなった鈴木武樹氏が、こんなことを書いていました。

国史学者たちは日本書紀に忠実ではない。「神武」「応神」などの漢風諡号は
後世の産物で、日本書紀には本来書かれていなかったのに、彼らは正しい名前
「カムヤマトイハレビコ」「ホムタワケ」では決して呼ぼうとしない。
前者の方が覚えやすいというのだが、「便宜」は学問にとって最大の敵である。
(「日本古代史99の謎」より要約)

私もついつい「孝霊天皇」などと書いてきましたが、知らず知らず皇国史観に
なっていたかも。
これからはなるべく「オホヤマトネコヒコフトニ」と書くようにします。
316バルタン星人:2007/03/04(日) 10:12:56
そのややこしい呼び方はアイヌの名前とちがって、発音だけがあるわごですか
317太国:2007/03/04(日) 10:14:32
孝靈天皇と書けばそれでいい。
318愛知県民:2007/03/04(日) 10:27:06
>>316
古事記では大倭根子日子賦斗邇命
日本書紀では大日本根子彦太瓊天皇
書くだけでも大変だ・・・
武樹さんが若くして亡くなった理由が分かりました。
生きていくには多少の「便宜」も必要かもしれません。

>>317
太国さんは皇国史観ですから、それでよろしいかと。
319太国:2007/03/04(日) 11:19:53
>>318
>>317はニセモノです。
320日本@名無史さん:2007/03/04(日) 11:32:23
http://travel3.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

321日本@名無史さん:2007/03/04(日) 11:37:08
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1160214983/
684 :太国 :2007/03/03(土) 21:54:43
余=拙者=みども=それがし
分かったか〜低能ども!

691 :日本@名無史さん :2007/03/04(日) 10:44:29
>>694
神や仏の余りって意味だよ
だから大名クラスは使った
プラ国クラスじゃねw

693 :日本@名無史さん :2007/03/04(日) 11:23:58
そもそも使う階層が違う事から気付かないとね、
太国は越前守とか云われるような、
古代から使われる神別階級のつもりなのかもしれませんが。

694 :日本@名無史さん :2007/03/04(日) 11:26:46
神別階級なら神道体系なんて当然持ってるよw
322日本@名無史さん:2007/03/04(日) 13:50:04
>>306
そこが問題。
卑弥呼の時代には、邪馬台国は九州を統属している。朝鮮半島の南部も支配
している可能性もある。帯方郡にはかなり自由に行き来している。
このような状況の西の比べて東の支配はかなり遅れる。

畿内を中心に考えれば、このような偏りは考えにくい。
323日本@名無史さん:2007/03/04(日) 15:04:21
蝦夷は国を持っていなかったのか? 少なくとも彼らは共同体があっただろう。
324日本@名無史さん:2007/03/04(日) 15:32:37
■ 朝鮮人の先祖=ワイ族は狩猟民族 ■

 朝鮮人の先祖であるワイ族は、シベリア出身の北方系民族だが、狩猟民。
彼らはアラスカのエスキモー(イヌイット)と同じように、動物の毛皮で作った衣服を着ていた。
 寒冷地の出身であるため、冬はほとんど服を脱がず、3〜4ヵ月も風呂に入らないのは普通だった。
そのため、体臭がキツく、臭かった。

 そういうワイ族に対し、漢人がワイ(穢=汚いの意味)と名づけたのである。
朝鮮人は今でも風呂嫌いな民族だが、あまり風呂に入らない生活様式は、ワイ族時代に形成されたのだろう。

【国立民族学博物館】
http://www.minpaku.jp/museum/exhibition/americas/inuit.html

【ヤクート族= ワイ族の同種民族】
http://www.khabarovsk.ru.emb-japan.go.jp/j/shinai/ykt.htm
325日本@名無史さん:2007/03/04(日) 18:38:43
>>322
だから倭人伝の倭は九州。

畿内はどんなに発展していたとしても別の国。
326日本@名無史さん:2007/03/04(日) 18:45:06
根拠は?
327日本@名無史さん:2007/03/04(日) 19:15:51
>>326
倭人伝w

328日本@名無史さん:2007/03/04(日) 21:24:22
http://travel3.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

329日本@名無史さん:2007/03/04(日) 22:26:27
邪馬台国総論
http://yamatonokuni.seesaa.net/

邪馬台国論争・畿内説と九州説のそれぞれの意味
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34853624.html

330日本@名無史さん:2007/03/05(月) 00:22:41
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
331日本@名無史さん:2007/03/05(月) 19:07:42
倭人伝の倭は小柄なサルみたいな人の国なので、いまの背の高い新羅系の人が多い国は
別種のわですよ。邪馬台国は両方にあったわけです。
332日本@名無史さん:2007/03/05(月) 20:52:56
>>331
何故にそういう嘘を書くのかね?
333日本@名無史さん:2007/03/05(月) 23:36:27
日本の国家統一と高地性集落の分布変遷
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/33144977.html


334日本@名無史さん:2007/03/06(火) 01:00:40
>>333
高地性集落を「砦」と考えるなら、「砦が必要になる=盛んに戦闘が行われていた範囲」は「邪馬台国連合の内ではない」ことになるね。
335日本@名無史さん:2007/03/06(火) 22:14:27
>>334

高地性集落が邪馬台国の最前線の「植民地」とするとパレスチナの中の
ユダヤ人居留地のように周囲からの襲撃をされない高地に集落を作り、
船の使える海岸沿いに発達するだろうね。
336日本@名無史さん:2007/03/06(火) 22:50:12
>>335
「どこからの攻撃」を想定しているのか分からないんだけど?
337日本@名無史さん:2007/03/07(水) 01:32:38
私は「海」からの攻撃だと思います。
海賊まがいの漁撈民集団と定住耕作民集団が争ったのです。
コメや野菜は塩や干物なんかと交換できますが、
トロそうな相手だったら、奪ってしまった方が安上がりですから。
この争いは「海幸・山幸」の話しとして後世に伝えられています。
338日本@名無史さん:2007/03/07(水) 12:19:09
邪馬台国論争・畿内説と九州説のそれぞれの意味

>九州説は畿内説より不利なのだ。
>なぜなら、九州説VS畿内説の戦いは、厳密には、
>九州王朝説VS日本全国王朝説の対立だからだ。

>畿内説というのは、厳密には、邪馬台国=日本全国王朝説でもあり、
>日本全国王朝説ともいえる畿内説の立場に立てば、
>九州の地形が出てきたとしても、
>それも畿内王権の勢力下にある九州の話だとも解釈できるからである。

http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34853624.html
339日本@名無史さん:2007/03/07(水) 13:10:36
歴史年表地図・邪馬台国所在地推定地図
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34007829.html
340日本@名無史さん:2007/03/07(水) 20:06:30
>>337
それなら、半島までの航路は確保していた邪馬台国連合は、当然、「漁撈民集団」ということになるけど?
341九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/07(水) 20:57:31
>>336
吉野ヶ里遺跡は海からの敵の攻撃に備えての防御体制になってるといいますね。
呉人の奴隷狩りに備えたという説がありますが、信憑性はどうなのでしょう。
342日本@名無史さん:2007/03/08(木) 00:54:57
みんな、古代について
特別に思いすぎているんじゃないのか?
弥生時代の日本も
幕末までの日本は
大差ないように思う。
343日本@名無史さん:2007/03/08(木) 11:20:52
これを見たら、中国人の地理認識がよく分かると思う。

地政学的見地からみた裏日本地図
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/31289979.html

古代の中国人の地理感は、日本海沿岸部は鮮明だが、太平洋沿岸部は曖昧。
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32802540.html

日本の国家統一と高地性集落の分布変遷
九州南部では、高地性集落の建設は殆ど無かった。
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/33144977.html

歴史年表地図・邪馬台国所在地推定地図
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34007829.html
344日本@名無史さん:2007/03/08(木) 21:50:21
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
345日本@名無史さん:2007/03/08(木) 22:06:11
行基は百済系帰化人だし坂上田村麻呂も百済系が先祖なので都の近くの
いい土地は百済系が治めたみたいで先輩の新羅系は関東に飛ばされたのかな
346九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/09(金) 16:18:41
>>343 どうぞ。
古来中国では「測天量地」と云う言葉が使われていました。『天を測りて地を量る』天とは北辰、すなわち北極星を指します。
幾多の恒星を測り天文経緯を決めてきたといわれています

http://www.d2.dion.ne.jp/~minami77/sokuryoushinan.htm


実際に指南車が造られたのは魏代(220〜265)以降のようである。

http://www.tcp-ip.or.jp/~ishida96/karakuri/shinansha_jp.html

調べましたら、
「司南は紀元前3世紀に発明されたコンパス(方位磁石)です。
磁石が北(または南)を指す性質を持っているという事は、古くから知られていたようです」

という事でした。紀元前から方位磁石なるものがあったんですね。驚きです。
これを携えていれば魏使も方向は間違わないでしょう。 形状はスプーンというよりレンゲです。

http://blog.drecom.jp/fmktg1/archive/270
347日本@名無史さん:2007/03/09(金) 20:54:46
これを見たら、古代の中国人の地理認識がよく分かると思う。
やはり、邪馬台国は畿内か!?

地政学的見地からみた裏日本地図
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/31289979.html

古代の中国人の地理感は、日本海沿岸部は鮮明だが、太平洋沿岸部は曖昧。
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32802540.html

日本の国家統一と高地性集落の分布変遷
九州南部では、高地性集落の建設は殆ど無かった。
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/33144977.html

歴史年表地図・邪馬台国所在地推定地図
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34007829.html
348日本@名無史さん:2007/03/09(金) 21:28:20
>>346
記録に頼るまでもなくて、現に無事に航海できていたなら、当然、方位の把握は正確だったと考えるしかないでしょう。

>>347
地理認識については考慮の余地はあるにせよ、現に行き来できた船乗りについては、方向感覚が出鱈目だったはずはないわけでね。
349日本@名無史さん:2007/03/09(金) 22:12:51
553:トヨ◆jsEMIr87bs 03/09(金) 22:11
>>551
呼んだ?!
| 〃
|*`・π・)ゞ⌒  んっ?
| σ
350九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/10(土) 07:08:28
>>348
あの広大な中国の三国志時代の色んな戦いにも方向は正確で、北に行くはずが南に、西に行くはずが東に間違って行った等聞いたことが無い。
もしそんなことがあったなら、戦いに負けてばかり。
351日本@名無史さん:2007/03/10(土) 10:21:09
というかさ、魏志倭人伝は
明らかに、投馬国からの道程が、
倭人から聞いた二次ソースに依存していることが分かるだろう?
後に中国史書でも、倭人は里ではなく、日日で距離を出すみたいに書いてあるから。
よって、南へ水行というのは、大雑把な方角だろう?
352愛知県民:2007/03/10(土) 15:10:09
>>350
確かに180度の間違いは無いでしょうが、90度の間違いはあります。
末盧国→伊都国→奴国は、北東または東北東に並んでいるのに、
魏志倭人伝では「東南」と記しています。
次の「東行至不弥国百里」も、投馬国までの水行の起点なので北九州沿岸でしょうが、
それなら奴国の北であるはずで、やはり90度間違っています。
不弥国は北の海(海北)の国・宗像であり、水行二十日の投馬国は
宗像と縁の深い出雲であろうと思います。
353サガミハラハラ:2007/03/10(土) 16:18:19
90度もまちがうことはありません。
諸国の比定を間違えているのです。伊都国は多久市です。ずばり末ろ国の東南です。
奴国は多久市の東南の肥前山口です。
354愛知県民:2007/03/10(土) 18:25:18
間違いの原因として、次のように考えてみました。

@「倭人は帯方の東南大海の中に在り」
「郡より倭に至るには・・・乍ち南し乍ち東す」
魏使の報告は正確だったが、倭人伝冒頭のこの文に合わせて、記録が改竄され、
方位記事は「南」と「東」ばかりになった。
あるいは、倭を大国に見せるための操作か?

A末盧国に上陸した魏使が最初東南方向に歩き出し、途中で向きを変えたのに
気づかずに記録し、伊都国以後の記事は全て方角が狂った。

>>353
初めて聞く説です。同じ地名はあるのでしょうか?
355日本@名無史さん:2007/03/10(土) 18:26:09
356サガミハラハラ:2007/03/10(土) 18:32:11
@は狗邪韓国までの話です。無理ですね。Aはそんなことありえません。
必ずしも、1700年も前の地名が現在残っているということはありません。
奴国(トコク)については、肥前山口の近くに砥川という地名があります。
357日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:39:21
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
358日本@名無史さん:2007/03/10(土) 21:36:18
神武東征(東遷)とは?卑弥呼以前の時代?九州と畿内の関係
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34036923.html

359愛知県民:2007/03/10(土) 22:53:59
サガミさんのように伊都国・奴国の定説を否定するなら話は別ですが、
認めるのであれば、魏志倭人伝の方位は90度近く間違っていることも認めるべき。
記紀原理主義による皇国史観はもとより論外ですけれども、
魏志原理主義による中華史観も、同じように論外だと思います。
360サガミハラハラ:2007/03/10(土) 23:18:11
邪馬台国行程論に史観も弛緩もない。地理学的真実があればよいのです。
そもそも、伊都国がイ土郡と同地名であるからという理由だけで、イト国をイ土郡にもっていったのが間違いである。
361日本@名無史さん:2007/03/10(土) 23:23:49
奴をトなんて読む人の意見には従えないなwww
362日本@名無史さん:2007/03/10(土) 23:45:42
相模原原は人生をかけているのさ。
学校の先生だったのに、辞めて
世間から殆ど無視されているから、もう必死なんだよ。
363日本@名無史さん:2007/03/11(日) 00:07:43
>>351
ある程度はそうかもね。でもだからといって道程のすべてがそうであるわけじゃない。
女王の都に近い部分は、軍事目的でシークレットにされていた可能性もある。
364九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 00:12:51
>>352
それは間違っているのではないと思う。マツラ、イト、がどの範囲を言ったのか現在と同じかどうか不明。
さらに、今見つかっている遺跡を結んで方角を云々するのは早計。
365九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 00:15:57
>>363は九州ですがです。
366日本@名無史さん:2007/03/11(日) 00:27:30
>>358
それは、卑弥呼を記紀の誰にたとえるかと言う問題になる。
天照大神とすれば、当然、神武東征は卑弥呼の後になる。
畿内説のように、倭迹迹日百襲姫とすれば、卑弥呼の前になる。

どちらが適当かよ〜く考えてみよう。
367日本@名無史さん:2007/03/11(日) 00:56:24
>>366
アマテラスという神話の人物よりも
倭迹迹日百襲姫のほうが卑弥呼にふさわしいだろう?
368日本@名無史さん:2007/03/11(日) 01:00:12
倭迹迹日百襲媛命、豊鍬入媛命までは、
神権政治全盛だったんだけど、
その少し後から、伊勢神宮のほうへ祭祀を
移すふうになってきたんだよな。
369愛知県民:2007/03/11(日) 02:12:31
>>366
モモソヒメと卑弥呼では死後の状況が全く合わないと思います。
卑弥呼の死後「更に男王を立てしも国中服さず」台与が新女王になります。
一方、モモソヒメの死後、崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」
となって男王世襲を確立しています。
このことから、モモソヒメは台与にふさわしいと思います。
370日本@名無史さん:2007/03/11(日) 11:20:33
まず、神話の世界と記録の世界を分けないとよけいにややこしくなるよ。
記紀も事実を書いたかどうかを検証してからにしないとはなから
倭人伝みたいに事実とうのみするのはおかしいよな、400年前のことを800年前に書いたわけだし
371日本@名無史さん:2007/03/11(日) 11:39:17
>>369
モモソヒメの後は豊鍬入姫(トヨ)だよ。
記紀は男系王権成立後に書かれたから、ああいう書き方になっているが
実際は崇神・垂仁達は男弟として補佐した人物達で、女性達が王。
鬼道と斎宮も
372日本@名無史さん:2007/03/11(日) 12:10:57
斎宮という制度を設けたのは
崇神天皇なんだよな。
で、その初代が、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫=台与?
373日本@名無史さん:2007/03/11(日) 12:12:28
>>370 :日本@名無史さん :2007/03/11(日) 11:20:33
>まず、神話の世界と記録の世界を分けないとよけいにややこしくなるよ。

神武以前は神話だけど
神武以降は人代ということになっているんだよ。
おまえ、ちゃんと、日本書紀を呼んだのか?
374九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 13:24:48
>>367
「アマテラスという神話の人物よりも 倭迹迹日百襲姫のほうが卑弥呼にふさわしいだろう? 」

倭迹迹日百襲姫の墓といわれる箸墓古墳の環濠から5世紀頃に出土する輪鐙という馬具が出土してるから、
箸墓は4世紀以降の築造です。
375日本@名無史さん:2007/03/11(日) 13:28:54
>神武以降は人代ということになっているんだよ
単なる区分じゃねえか、お前こそちゃんと読めよ

でかいカラスが先導したり金色の鳥が飛んでくるのも史実?
ダンナが蛇だったり、まんこに石を突っ込んで出産を送られるのも事実かよ?
376日本@名無史さん:2007/03/11(日) 13:55:38
神話、伝説、記録の順だろ一般人てきには

トロイとか封神とか
377愛知県民:2007/03/11(日) 14:22:27
>>371
そのように記紀を柔軟に解釈するのでしたら、古事記の孝霊天皇記に現れる
「意富夜麻登久邇阿礼比売命」も検討の余地があると思います。
私は彼女が卑弥呼ではないかと考えています。

>>374
>倭迹迹日百襲姫の墓といわれる箸墓古墳の環濠から5世紀頃に出土する輪鐙という馬具が出土してるから、
箸墓は4世紀以降の築造です。

箸墓は5世紀と断定はしないのですね?
馬具は後から埋められた可能性もあります。

では、また来週・・・
378日本@名無史さん:2007/03/11(日) 14:34:31
>馬具は後から埋められた可能性もあります。

あるの?
379九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 14:47:30
>>377
「奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、
桜丼市教委は三十日、「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」と発表した」
それから今日から来週ですが。

http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hasihaka.htm
380378:2007/03/11(日) 14:57:05
へぇー そういうこともあるんだ
381日本@名無史さん:2007/03/11(日) 15:03:53
>>378
ないよ、落ち込みすら考えられない
ただ良く勘違いされている、もしくはわざと曲解されているのだが
木製輪鐙は大量の古留1の土器と周濠内の同じ地層から出土しており
その下の層には古留0がこれまた大量に出てくる
つまり箸墓の築造は古留0であり、輪鐙は完成してずいぶん経ってから投棄されているわけだ。
だから箸墓の築造年代とは関係ない。
382日本@名無史さん:2007/03/11(日) 15:45:05
>>381
ありがとうございます。
つまり

>>374 >箸墓は4世紀以降の築造です
これは間違い

>>377 >馬具は後から埋められた可能性もあります。
これも間違い

ってことですね。
383日本@名無史さん:2007/03/11(日) 15:55:07
>>378  
『大和・纏向遺跡』(石野編)357頁より
「用途不明木製品として出土状況の実測・写真撮影などの詳細な記録をとった上で、
取り上げを行ったものであり、報告書作成のための整理作業中に輪鐙であることを
確認したものである。」

後になって、「あぶみ」と判明したため、出土状況が不明とか保管中に紛れ込んだとか、
変なことをいう人が出てきたが、それは間違い。

>>381 不正確
「輪鐙の所属時期は層位や出土遺物から布留1式期の可能性が高いと考えている」とある。

つまり、箸墓築造時期とそれほど離れていない。最大でも50年以内と考えた方がいい。
箸墓が300年より古くなることは、この点からもあり得ない。
384九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 16:16:55
>>380>>381>>382

は自演でしょう。
385日本史@名無しさん:2007/03/11(日) 16:32:22
>>383

> >>381 不正確
> 「輪鐙の所属時期は層位や出土遺物から布留1式期の可能性が高いと考えている」とある。
> つまり、箸墓築造時期とそれほど離れていない。最大でも50年以内と考えた方がいい。
> 箸墓が300年より古くなることは、この点からもあり得ない。

つーか、381は「布留」なんて言ってない、「古留」だよ。
新造語に騙されちゃいけないよ。
だけど貴方が書いたことふだけじゃ、「布留0」が三世紀に遡らない「理由」は無いな。
だから、貴方の「結論」も不正解。
386日本@名無史さん:2007/03/11(日) 17:01:43
>>385
悪い、誤変換だ
正しくは布留0、訂正する
>>384
君と一緒にしてもらっては困る
387日本@名無史さん:2007/03/11(日) 17:04:28
>>384
>>380>>382は私です。自演と言われるなんて不愉快です。
あなたは議論よりも誹謗・中傷を望んでおられるのですか?
388日本@名無史さん:2007/03/11(日) 17:06:45
古墳からは縄文式土器もけっこうたくさん出てくるらしい。
纏向遺跡の石塚とかホケノヤマとかの古墳も庄内式が出てきたから○世紀前半
とか言っていたのが、布留式が出てきて年代が変わったりする。
新しい土器の落ち込みとか考えたりすれば、ますます土器で年代を考えるのは
かなり難しいことになる。
389日本@名無史さん:2007/03/11(日) 17:13:01
だから、創価学会は公明党や三色旗、聖教新聞を振りかざせばするほど社会から孤立
していくだけとなります。これは日本共産党も一緒なのですが、お互い社会から孤立し
て「シェア獲得」がいつも限定的なことを見ればわかるでしょう。
世間の多くの人は「あーあ、あの人創価学会だ」「あーあ、あの人共産党だ」と静か
に後ろ指をさしているのですが、彼らは気づきません。
390日本@名無史さん:2007/03/11(日) 17:57:43
>>389 これ、どこの誤爆ww 書いたのは>>388さんですね。
391九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 17:57:55
>>389
選挙を前にネガティブキャンペーンですか?よそ行ってください。
ここはそんなことを言い合う場所ではありません。
とにかく>>387のかた、まぎらわしい。名無しでは間違えられても仕方ないんじゃないですか?
392日本@名無史さん:2007/03/11(日) 18:20:20
>>391
自分に非があるのは明白なのに、絶対謝らないなこいつ
393日本史@名無しさん:2007/03/11(日) 18:49:35
ここでは布留0の絶対年代を確定させないと議論が進まないみたいですね。
394日本@名無史さん:2007/03/11(日) 18:54:12
>>391
>まぎらわしい。名無しでは間違えられても仕方ないんじゃないですか?

コテと名無しを使い分けて自演する方もいらっしゃいますし、名無し同士だからというのは理由にならないでしょ。
また、議論ではなく誹謗・中傷にもっていこうとすることに対して不快感を感じました。
395九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 18:56:25
>>392
>>387そのものが自演でない証拠も無い。謝らなければならない謂れは無い。
あんたも間違われない為にはコテハンになるしか無いだろう。
はっきり誰か解った時点でなら謝ってもいいが。
396日本@名無史さん:2007/03/11(日) 18:58:37
>>395
コテと変身名無しを繰り返すお前がが言うな
397日本@名無史さん:2007/03/11(日) 18:59:20
そんなに自演が気になるなら2ちゃんなんか来なければいいだろ
398日本@名無史さん:2007/03/11(日) 19:05:05
>>393
そこが焦点なんだよね。
考古学見地から布留0の絶対年代を250から280年に見る畿内説と
それを認めたら根底から成立不可となる九州説とが相容れないのは、まさにそこなんだ。

>>395
名無しが嫌いなら2ch以外でやれ。
君はまさに、嘘を嘘と見抜けない人なのだから2chは早すぎる。
399日本@名無史さん:2007/03/11(日) 19:13:42
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
400日本@名無史さん:2007/03/11(日) 19:26:19
結局>>383 は無視するの?

あぶみと最初に確認されたときの新聞報道では、「最古の馬具発見!」
「定説より50年以上さかのぼる。」と大々的に発表してたくせに。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hasihaka.htm  参照

「それって、逆に箸墓が新しいという証拠じゃないの。」と言われたら。

「異物混入の可能性もあるかも。」
「出土状況もよく分からないしね。」と逃げを打ち、さらには、
「布留0式と布留1式では全然時代が違うんだよね。」などとごまかす。

年代遡上にご執心の方々のカメレオンのような言動を楽しむのも
古代史を面白くする要因ではありますがww
度が過ぎると白けるんだよね。
401九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 19:45:09
>>400まあいいじゃないの。
反論する材料を失った合図が個人攻撃に移るターニングポイントだと前から承知している。
ずっと前からこのパターンの繰り返しばっかり。よほど悔しいんだろうが、はっきり言って幼稚。
402日本史@名無しさん:2007/03/11(日) 20:30:50
>>398

> そこが焦点なんだよね。
> 考古学見地から布留0の絶対年代を250から280年に見る畿内説と
> それを認めたら根底から成立不可となる九州説とが相容れないのは、まさにそこなんだ。

まあ、そうだね。
今の九州説って古田みたいに反論はすべてスルーして自分だけで論を組み立てて行く、
そんな手法か、安本みたいに事実の曲解に曲解を重ねいくタイプが多いからね。
奥野や森コーあたりがまともな九州説の最後でしょう。

ちなみに>>400
ご提示の安本のサイトで引用されてる新聞記事

 「2001年12月1日(土)の『西日本新聞』につぎのような記事がのっている。
 他の朝刊各紙にも、ほぼ同じ内容の記事がのっているが、『西日本新聞』の記事が、コンパクトである。」

「国内最古の馬具出土
 四世紀初めの木製輪鐙  乗馬 定説の50年前から?
 奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、
 桜丼市教委は三十日、「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」
 と発表した。」

 この内容の中には「箸墓」の築造年代に触れる部分は無い。
その中から築造年に関すして推測可能な事実も「築造は輪鐙の投棄以前」ぐらいだろう。
ここから、どんな論理で箸墓築年の定説に齟齬をきたすような事実を捻出するのかね?

「逃げを打ったり」「ごまかたり」したりして、騒いでいるのはいったい誰なんだろうねw
キミは、そういう「人たち」を見てるのも楽しいって言うの?

403日本@名無史さん:2007/03/11(日) 20:52:16
NHKで邪馬台国はどこかの特集をやるので見たいよね14日の22時やったかな
404日本@名無史さん:2007/03/11(日) 21:02:23
漫画だと卑弥呼って美人のシャーマンってカンジで描かれてるのが
多いけど、実際は糸田木数子みたいだったと思う。
405九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 21:09:06
とあるサイトにこんなことが書かれていた。
「考古学者の大勢が、邪馬台国・大和説であろうとも、纒向遺跡には、吉野ヶ里のような具体的な遺跡が見つかっていない。
これでは、卑弥呼の都のイメージはわきにくい。発掘がどんどん進展することを願うばかりだ。もし宮殿・楼観・邸閣跡が発掘された場合には、
「纒向駅」は無人どころか、立派な駅舎に変わるだろう。」と。

これでは箸墓が、邪馬台国と関係があるとは思えない。百襲姫は孝霊天皇の皇女。卑弥呼はただの女、同一ではない。
巻向は環濠が無く大規模な集落も無い。邪馬台国時代はクナ国との戦いや、内乱の再発の可能性もあって
環濠が無いなど無防備な筈が無く、時代の下った遺跡と言わざるを得ない。
巨大な前方後円墳など倭人伝に記載されておらず、卑弥呼の時代のものではない。

406日本@名無史さん:2007/03/11(日) 21:23:05
>>402 >この内容の中には「箸墓」の築造年代に触れる部分は無い。

直接書いてないと分からないのかな?
箸墓を350年前後と見れば、あの馬具は380〜400頃ということになる。
その頃には朝鮮に侵攻した史実が確定しているから馬具があっても、問題ない。

>「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定」
というのは、箸墓の築造年代を250〜280頃とする見解に立って始めて成り立つ。
それゆえ、「定説の50年前から」(実際には50年以上さかのぼる)という記事に
なっている。

>「輪鐙は落葉などが20〜30年にわたってたい積して固く締まった層から、四世紀
初めの大量の土器とともに出土。同時期に投棄されたとみられ、後世に混入した
可能性は低いという。」
の部分は、箸墓との年代差を30年位と見るニュアンスである。
逆に、箸墓との年代差を50年以上と見れば、箸墓を250年頃と見ることになる。
いずれにしても、遡上年代を前提にした記事であることは、明らか。
407九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 21:31:31
崇神天皇陵古墳について東京大学の考古学者・斉藤忠氏は次のように述べる。
今日、この古墳の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ4世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することをかんがえてよい。
崇神天皇陵が4世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は4世紀の中頃を中心とした頃と考える・・・

以上、斉藤忠「崇神天皇に関する考古学上の一試論」『古代学』13巻1号

また、考古学者の森浩一氏・大塚初重氏も
4世紀の中ごろ、または、それをやや降るころのもの (『シンポジウム 古墳時代の考古学』) とする。

これらの事から、箸墓の被葬者、百襲姫は 崇神天皇と同じ時代に活躍した人であり、
箸墓の年代もこの両者にさほど隔たりは無いといえる。
408日本@名無史さん:2007/03/11(日) 21:33:07
>>401
初代タイガーマスクと小林邦昭の試合みたいだね。
劣勢になった小林が反則攻撃とマスクへの攻撃をする毎度のパターン。
409九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 21:38:33
>>408
へえー。そーおー?
410日本@名無史さん:2007/03/11(日) 21:59:57
>>406
まったく違う・・・と言うよりわざと知らない振りしてるなお前。
箸墓を遡らせたいのではなく、布留0や庄内が遡ったので自然についてきただけの話で
邪馬台国以前の問題なんだわ。

>>405
で、とあるサイトって脳内サイト?
>>407でえらく古いコメントを引っ張り出しているが、その手口も安本から学んだのか?
今では当人でさえ否定しているような古い説を引っ張り出して
ここぞとばかりに叩いて見せて、素人さんを騙すのが彼の手口だからな。
これが嘘だというのなら、引用でもいいからまともなことを書いてくれ。
出揃ったところで全部論破してやるから。
というか、こちらは過去に論破した作業の焼き直しみたいなものだから。
411九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/11(日) 22:15:57
>>410
これがおたくのいう脳内サイトってやつよ。
http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/NW10-hasihaka.htm
「布留0や庄内が遡ったので自然についてきただけの話」畿内説で勝手に遡上させたんでしょ。
出土例は広範囲な北部九州に対し畿内は限られている事から、北部九州から伝播したもの。
土器編年は100年くらい平気で誤差が出るからあてに出来ない。
412日本@名無史さん:2007/03/11(日) 22:25:08
>>410
以前は、箸墓は中期の古墳とされた。これを遡らせようとする雰囲気が出て
きたのは、昭和50年頃から。田辺昭三氏などが特殊器台形の埴輪を根拠に
箸墓は初期の古墳ではないかと言い始めた。
しかし、当時はほとんど認められなかった。発掘調査がされていないわけ
だから定説を覆すには根拠に乏しかった。

吉野ヶ里が大々的に発表されたのは、昭和天皇の崩御のときだったが、
このあと、箸墓を遡らせようとかなり躍起になる勢力があったと思う。

しかし、現在、田辺昭三氏自身は、箸墓の築造年代を4世紀中ごろとして
いるらしい。
413日本史@名無しさん:2007/03/11(日) 22:31:40
>>406

> 直接書いてないと分からないのかな?

他人の文章はちゃんと引用したまえ。
誰もキミに畿内説的年代観の講釈なんか求めていない。
問いかけはこうだ。

>この内容の中には「箸墓」の築造年代に触れる部分は無い。
>その中から築造年に関して推測可能な事実も「築造は輪鐙の投棄以前」ぐらいだろう。
>ここから、どんな論理で箸墓築年の定説に齟齬をきたすような事実を捻出するのかね?

「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定」すると畿内説にとって
何か都合が悪いことがあるのか?
「逃げを打ったり」「ごまかしたり」しているのは何処の何方かね?
414日本史@名無しさん:2007/03/11(日) 22:41:15
>>412

箸中古墳は周辺調査で築造時の墳型がかなり明確になってきた。
前方部は現況より10m以上長く幅も10数m広いわけだ。
石塚や勝山などとは、明らかにタイプの違う構造。
これらよりは、ずっと新しい古墳だ。
定型化古墳としても最初のもではないかもしれないが、
完成が布留0期のものであることも間違いない。
貴方は、布留0=350年以降と言いたい訳ですか?
415日本@名無史さん:2007/03/11(日) 22:57:00
>>414
そう、自分の考えからすると、布留式は4世紀半ばから。

ちなみに、考古学者でもそのような考えの人はいる。たとえば、
関川尚功・橿原考古学研究所員は、庄内式土器は4世紀前半期、早くて
3世紀末から始まり、布留式は4世紀中頃に始まる土器としているらしい。
この人は当然、箸墓を4世紀半ばとしている。

ほかに、箸墓の築造年代を新しいと見ている人としては、さっきの田辺昭三
氏は4世紀中頃、また斎藤忠・元東大教授は4世紀後半としているから
布留式はやはりその頃ということになるのだろうと思う。
416日本@名無史さん:2007/03/11(日) 22:57:53
>>412
現在じゃなくてん十年前の論文執筆当時だろ
417日本@名無史さん:2007/03/11(日) 23:00:27
>>413
>「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定」すると畿内説にとって
>何か都合が悪いことがあるのか?

えーと、4世紀初めから馬具があったとすると今までの定説より50年以上遡るから、
投棄されたのは4世紀終わり以降とするのが穏当ではないかというのが、前提で・・

そうすると、馬具が投棄された頃(400年前後)からみて箸墓は350年以前には遡らない
のではないかというのが、問題点だったはずですが。

それに対して、「馬具の出土状況が不明」とか「保存中に紛れ込んだ。」とか「築造とは
無関係の年代だ。」とか言い出したことを問題にしていたのですが。
418日本@名無史さん:2007/03/11(日) 23:07:00
新しい史料が出てくるまで結局結論は出ない。
419日本史@名無しさん:2007/03/11(日) 23:21:02
>>417

> >「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定」すると畿内説にとって
> >何か都合が悪いことがあるのか?

> えーと、4世紀初めから馬具があったとすると今までの定説より50年以上遡るから、

だ・か・ら、乗馬の起源が50年遡ると畿内説にとって何か都合が悪いのかね?
ただ、単にキミが「定説より50年以上さかのぼる。」と大々的に発表してたくせに〜
とか言って、ヒボーしたいがために「都合が悪い」ことにしてるだけじゃないのか?

とにかく「布留0」「布留1」の年代観がこの問題のすべてだ。
話しはそこから始めるべきだろう。
420日本@名無史さん:2007/03/11(日) 23:23:14
>>417
誰もそんなことは問題にしていない。
その鐙をもとに箸墓の年代を下げると、5世紀の中期古墳も一緒に下げないと
考古学的に整合性が取れなくなるからよりおかしな事になる。

中期古墳をそのままで箸墓の年代だけがあがるように書いているのは、
明らかな間違い。もしくは、ペテン。
421日本@名無史さん:2007/03/11(日) 23:33:23
>>411
君はなんでそんな嘘ばっかり書くのかね。
庄内が九州期限である根拠はまったくない。
北九州に遺跡で「九州産庄内より下の地層で」畿内産庄内が出土している事実を隠してまで主張するというのはどういうことだ。
実例は板付、西新町、那珂・・・その他多数。
これらがすべて捏造であるというのなら、旧石器どころではない大ニュースだ。
確たる証拠があるのなら、今すぐ新聞社に行け。
422日本史@名無しさん:2007/03/11(日) 23:38:53
>>415

確かに関川さんは、古墳時代全般を新しめに見てますね。
須恵器と韓の土器編年からの判断らしいです。
主流派やマスコミ関係からはほとんど無視されてるみたいなので、
ここでも余り話題のにはならないですね。
たまに引用されても安本サイトで断片的に「利用」されるくらいなもの。
議論する価値のあるネタだとは思います。
423日本@名無史さん:2007/03/11(日) 23:39:52
>>411
おまえそのサイト管理者に謝れ。
引用部分は、なぜ箸墓が一般的にマイナー扱いなのかについての管理者の感想だろうが。
他の部分では年代遡上について管理者はまったく異論を唱えていない。
嘘を書くならもっとましな嘘を書け。
そして見ず知らずの他人に迷惑をかけるな。
424九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 00:04:43
>>423
「纒向遺跡には、吉野ヶ里のような具体的な遺跡が見つかっていない。 」
これは事実だ。「宮殿・楼観・邸閣跡」なんにもない。
「また、箸墓のすぐそばには、箸墓と同時期に作られたとされるホケノ山古墳もあります」
と別サイトにあるがこれが又お笑いで
「ホケノ山古墳の墳形は、崇神天皇陵とよく似ており、ホケノ山古墳が崇神天皇陵と近い年代の4世紀以後に築造されたものと推定される

ホケノ山古墳から出土している画文帯神獣鏡は、中国で西暦280年以降に作られたもので、日本では、邪馬台国の時代よりも少しあとの

3世紀末から4世紀に普及した鏡と考えられる。

邪馬台国時代には、位至三公鏡や蝙蝠鈕座内向花文鏡が用いられていた」
画文帯鏡は呉が滅んで、晋の時代になってから作られた可能性が高く、
時代が下った古墳時代の遺跡から出土するもの。
425九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 00:07:38
>>424続き
さらに
ホケノ山古墳の木棺の炭素14年代測定の結果では、西暦80年〜137年という値が得られ古墳の古さの根拠とされている。 しかし、
1、ホケノ山古墳からは庄内式土器や画文帯神獣鏡が出土しており、邪馬台国時代よりもあとの時代の古墳と考えられる。
2、ホケノ山古墳の木槨の存在が、『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述と違っていることも、この古墳が邪馬台国時代のものでな
  いことを示している。
3.ホケノ山古墳だけでなく纏向の古墳のかたちが、崇神天皇陵とそっくりであり、
  これらの古墳群が崇神天皇の時代に近い頃の築造であることを思わせる。

 なども同時期に造られたとされる箸墓の年代が新しいのは明らかである。
426日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:07:41
>>422
それもん十年前の論文
427日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:21:31
ポップアップでしか411は見えないが・・・・

九州の庄内式の出土地域が広いといっているが、これは一片でもでれば分布域になっている。

対して、畿内の庄内式分布域は、多数出土している地域とそれに比べれば少ない数しか
出土しない地域に分けたときに、濃密に分布する地域が限られているという話なのであって、
“限られた分布域”から外れると庄内式が一片も出土しないということではない。

現実に、最初に庄内式が設定された豊中の庄内遺跡はその“限られた分布域”の外にある。

だから、“広範囲な北部九州”と“限られた畿内”の“広範囲”と“限られた”は
その意味するところが全く異なるのであって文言だけでの比較はできない。

にもかかわらずそんなことを堂々と書いているのは、安本が全くの無知である大馬鹿者か、
あるいは、全て承知のうえのペテンであるかどちらか。
428日本史@名無しさん:2007/03/12(月) 00:27:06
>>425
オマエの言いたいことはよ〜〜〜〜く判ってるからもう寝ろ!
俺は寝るぞw

>>426
> >>422
> それもん十年前の論文

確かに1998年の論文だけど考えは変ってないんじゃないかな?

429日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:28:46
>>419 お前、潔いな。
馬具の出た布留1式と箸墓築造の布留0式とは50年以内の時代差という前提で
あくまでも箸墓は250〜280年で馬具は突出して古いということかな。

最近の畿内説論者は、言及しても馬具を古く見るのではなくて、馬具の出た層は
新しい層の可能性があるというニュアンスに見えるが。
430日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:30:46
>>425
このひとは天然なんでつか?

1、ホケノ山古墳からは庄内式土器や画文帯神獣鏡が出土しており、邪馬台国時代よりもあとの時代の古墳と考えられる
この出土品からなぜ後になるのだろう?前というならまだ話も分かるが。
2、ホケノ山古墳の木槨の存在が、『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述と違っていることも、この古墳が邪馬台国時代のものでないことを示している
日本に槨のある墳墓なんて、もっと後世にならないと出現しませんが。
そんなデタラメ書くのはやっぱり安モノ・・・いや安本?
3.ホケノ山古墳だけでなく纏向の古墳のかたちが、崇神天皇陵とそっくりであり、これらの古墳群が崇神天皇の時代に近い頃の築造であることを思わせる。
ツッコミ入れておきます
どこが似てるねん!
巻向型とバチ型と定型の見た目の遅配も分からないのでつか?
431日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:35:08
>>425

ウンウン、ホケノは邪馬台国時代の古墳じゃないよ。
今時そんなこと言ってる奴がいると思ってるのはキミだけ。
全く話しが合わん奴棚w
だから、もう寝ろ。
432日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:42:22
>>427  >ペテン
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku221.htm の末尾あたり参照。
「橿原考古学研究所」の資料をそのまま引用していているが、これは
「一片でも出た」ものだったのか、橿考って怪しい組織だなw
石野なんかのコメントをそのまま引用するところも怪しいww
これは、ほんとうにペテンかも知れんなww

・・・なんて冗談はおいといて
密度の問題以前に、庄内の畿内での出土地域が狭いというのは事実だよ。
密度の問題を認めるとしても、庄内集中域は1キロ四方程度の狭さだから、
密度が薄いところを含めても北部九州より格段に狭い地域。
433日本史@名無しさん:2007/03/12(月) 00:42:43
>>429

>お前、潔いな。

そうでも無いよ。
俺、箸墓が280年なんて一言も言ってないだろw
布留0だとは言ったけどね。
434日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:59:34
>>432
豊中がどこにあるか知らないだろ
435日本@名無史さん:2007/03/12(月) 01:02:59
九州の何処にも存在しない卑弥呼の墓

箸墓を卑弥呼の墓でない事にする為に繰り下げられる考古学の編年

箸墓を卑弥呼の墓でない事にする為に繰り下げられた考古学の編年に追従して
崇神の崩年干支を一順60年分を繰り下げる文献史学

ドイツもコイツも
436日本@名無史さん:2007/03/12(月) 04:09:12
九州ですがの発言はどっかの本やHPで見たような発言ばっかりだ
畿内説を否定したい強い気持ちから、反論を寄せ集めてきてるんだろうけど
437九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 07:00:08
>>430
前?とんでもない。画文帯鏡のことを知らないで言っているのか?
ホケノ山にはちゃんと木槨がある。
崇神天皇と百襲姫は同時期の人間、箸墓と卑弥呼の関係は色んな角度から見てもあり得ない。
ホケノ山も、画文帯が出てきた時点でアウト。これは呉の系統に属す鏡。
同じ巻向の同時期に造られた箸墓も同じ。
438九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 07:08:34
本やHPで見たような発言ばっかりだ

ソースは何処だと言うだろうから最初から引用した方が手っ取り早い。
他のも色々あるが、さしあたっての引用。
何度も言うが、画文帯がは、華南の銅を自由に使えるようになった呉滅亡後
造られた可能性が高い。そこから自ずとホケノ山の年代は判明する。
439日本@名無史さん:2007/03/12(月) 07:09:51
安ぽん乙津
440九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 07:23:15
画文帯は呉の系統。箸墓が邪馬台国ならホケノも邪馬台国内。
親魏輪王の卑弥呼の本拠地で魏の敵対国呉系の鏡は出ちゃいけなかった。
でも出ちゃった。それでも邪馬台国だといわれてもねえ。
441日本@名無史さん:2007/03/12(月) 07:26:48
>>437
>画文帯鏡のことを知らないで言っているのか?

時代的には矛盾してないよ。
それに庄内はどうした?

>ホケノ山にはちゃんと木槨がある。

石囲木槨と呼んでいるがそれがどうかしたか?

>崇神天皇と百襲姫は同時期の人間、
箸墓と卑弥呼の関係は色んな角度から見てもあり得ない。
当たり前だ。
今、ここでは、そんな議論はしていない。

>ホケノ山も、画文帯が出てきた時点でアウト。
これは呉の系統に属す鏡。
なにがアウトなのかね?

>同じ巻向の同時期に造られた箸墓も同じ。

「同時期」って、君は立証できるのかね?
442九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 07:37:43
>>441仕事に遅れそう。あとはかえってからね。
443日本@名無史さん:2007/03/12(月) 09:01:26
>>440
>親魏輪王の卑弥呼の本拠地で魏の敵対国呉系の鏡は出ちゃいけなかった

君の理屈だと九州も邪馬台国じゃなくなるね。
だって画文帯出てるもんw
444日本@名無史さん:2007/03/12(月) 09:05:21
九州ですが涙目w
445日本@名無史さん:2007/03/12(月) 09:12:40
九州ですが氏の主張を一通り読んだのだが、どうも一貫性がないねえ。
一般的な九州説とも違うようだし、時代設定がむちゃくちゃな気がする。
他の九州説の中の人からみてどうなんだろう?
446日本@名無史さん:2007/03/12(月) 09:23:09
倭人は背が4尺くらいのこびとなので日本とちがうのかな
447日本@名無史さん:2007/03/12(月) 11:46:47
>>446
逆に日本人よりもちびな人種って東・東南アジアにいるの?
448日本@名無史さん:2007/03/12(月) 12:00:43
>>447
アジアで南方にいけばいくほど
背が低くなる。
これは、気候との関係が強い。
449日本@名無史さん:2007/03/12(月) 12:11:40
>>448
そうなんだ。古代中国では海南島方面も倭とよんでいたので、そちらの倭国を記したものが混同されたのかもね。
刺青して海に潜って漁をするなんてのもそうだけど。
450日本@名無史さん:2007/03/12(月) 12:37:41
>>449
いや弥生時代には日本列島でも素もぐりで漁をしていたことを示す銛やあわびはがしが多数出土している。
入墨にしても中部や関東からそれらをかたどったと思われる土偶が多数ある。

要するに倭とか倭人ってのは、半島南部や海南島、そして日本列島など中国から見ての南方民族をさす言葉であったと考えられている。
そのうち日本が倭国を自称しはじめただけのこと。
451日本@名無史さん:2007/03/12(月) 12:45:34
>>450
中国東北部もあるよ。後漢書鮮卑伝とかに
452日本@名無史さん:2007/03/12(月) 13:09:54
>>445
彼の今までの言動からわかるように
個人的恨みから畿内説に対する憎しみを持っている
だからその一方で同じ九州説論者達にはシンパシーを感じてるようだ
他の九州固定達は持論をもってるのでよく九州説同士で対立してるのと違う所

AだからBよって畿内説否定
CだからDよって畿内説否定
EだからFよって畿内説否定

彼は畿内説否定の部分から資料を探しA→Bといった部分を見ていないので、各論に矛盾が生じてくる。
453九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 14:43:17
>>443 >君の理屈だと九州も邪馬台国じゃなくなるね。
だって画文帯出てるもんw

画文帯鏡が出る古墳は、邪馬台国とは無縁。それだけの話だ。

邪馬台国には前方後円墳は無い

銅矛、勾玉が出ない遺跡は邪馬台国ではない

宮室、樓觀、城柵跡の出ない遺跡は邪馬台国ではない。

一大率のいる伊都国より北には邪馬台国は無い。

投馬国より南に邪馬台国はある。東と間違えることは無い。

邪馬台国の東に海を渡って倭人の国がある。畿内だと無い。

どんなに枝葉の論議にああいえばこういうを繰り返しても、
これらの矛盾点は答えようが無い。




そのようにして消去法で何処が残るかしていくといい。

>石囲木槨と呼んでいるがそれがどうかしたか?

木槨のある古墳は邪馬台国ではないそれだけの話だ。
454九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 15:02:49
大体、壱岐対馬をへて東、東南方向へと進んでいるのに、急に角度を変えて南方向を東方向だと言い張る無神経さが聞いてあきれる。
最初から方角を間違えていたのならすべてが違ってくる。大陸から見た日本などと言い張り東を南と間違うとすると、畿内には到底着かない事になる。
こんな事を解決しないで、どうとでも言える枝葉の論議で人を混乱させるだけしか今までも出来なかっただろうに。すべて詭弁でしかない。
そんなのに騙される人などいない。言えば言うほど嘘が引き立つ。邪馬台国での村おこしは諦めて別のをやんなさい。
455九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 15:25:39
>画文帯鏡のことを知らないで言っているのか?
時代的には矛盾してないよ。

「西晋が、南方の銅材料や南方の文様を入手し、画文帯神獣鏡を製作できたのは、
280年に、中国南方を支配していた呉を滅ぼした後のことと考えられ、
これが画文帯神獣鏡による年代判定のポイントとなる。」

456日本@名無史さん:2007/03/12(月) 15:32:25
安ぽん信者乙津
457日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:04:43
>>453
つまり倭人伝の記述は全部正しいと思ってるんだね。
じゃあ方角・距離の矛盾はどう説明するの。

>>454
>大体、壱岐対馬をへて東、東南方向へと進んでいるのに、急に角度を変えて南方向を東方向だと言い張る無神経さが聞いてあきれる。
そう、南と書いておきながら東南に進んでいるんだよ
>最初から方角を間違えていたのならすべてが違ってくる
だから最初から間違えているのさ
君は範囲とか中心部とかわけの分からない理屈を並べているけど、まるで説得力がないのさ

どうやら>>452の指摘で間違いないようだね
でもこれだけはいっておこう。
たとえ邪馬台国が畿内じゃなくとも、きみの知識と技量では否定は無理だ。
>>455で呉滅亡後とか妄想を語っているが、では呉の年号入りの鏡はどう説明する?
流れてきた呉の工人作か?そんないいかげんな国産説など今ではないぞ。
また魏・呉ともに健在であったころには後漢鏡しか流通していなかったのかね?
もうひとつ、三国時代の銅鏡製作工人がどのような地位にあったかさえ知らないようだしね。
彼らはどこかの国に属していたのではなく、依頼を受けて作成していた自治集団でもあったんだよ。
だから魏とか呉なんて国で括れる様式じゃないの。
後漢後期以降、国家管理の下で再度銅鏡が作成されるのは隋の神獣葡萄鏡まで待たねばならない。
そのあたりの中国経済史を基本すら考慮していないから、そのへんの安っぽいサイトに簡単に騙されるんだよ。

昔、関西人にいじめられたのかどうかは知らんが、ここは私怨を晴らす場所じゃないよ。
458日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:08:06
>>457
九州ですがのはちゃめちゃ九州説を論破したところで
九州説そのもには何一つ傷がつかないことをお忘れなく
459日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:08:18
あれ・・・九州ですがは邪馬台国は無かった論者だっけ?
460九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 16:15:45
>>457そう、南と書いておきながら東南に進んでいるんだよ

どこにそんなことが書いてある。よく読みもしないで勝手に解釈して。
461九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 16:18:38
>>457きみの知識と技量では否定は無理だ。

確かに。こんな混乱した考えの人間とは今までの人生でで話したことが無い。
精神病患者と話してるみたいだ。
462日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:21:04
>>452
なるほど、彼のの言説に一貫性がないのは
単に畿内説憎しでその場限りの反論をどこからか拾ってきているからなのか
つまり彼自身に確たる持論はないわけだ

そういうのって普通、荒らしって言うんだよね
これで決定だな
彼の書き込みに有益なものはひとつもない、九州説にすらプラスにならない
よって荒らし認定して以降はすべて無視しよう
他の九州説論者の方、頑張ってください
463日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:23:12
>>460
まず壱岐から対馬の時点で、もう南じゃないんだがね
464日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:24:56
>>ALL
からかうと面白いのは分かるが、荒らしはスルー
465九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 16:25:50
>>462
そんなことばかり言ってないで答えなさい。
何処に最初に南と間違えているところがあるかを。
466日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:26:12
>>453
なぜそれで無い無いとなるのか疑問が残る部分はありますが
あなたの論法だと九州にすらもっと「無い」となってしまうと思います
467九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 16:29:41
>>463あほじゃないの?
船に乗って東や南にいくうちにというところを言ってるのなら、基本的な読み間違いだわ。
468日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:30:23
>>464 >>466
スルーしましょう
自説もなく仕事もないかまってちゃんだと判明しましたので
469日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:32:04
>>467
そこは半島のところだ、あほ
壱岐・対馬が読めないのか、ばか
470九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 16:35:45
>>457の文はあんたが程度が高いからこっちが解らないのではなくて、
あんたの妄想が酷くてわかんないの。分かるそこ?
471日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:38:46
>九州ですが
みっともないからもうやめたら?
本当に荒らしているのはあなたですよ
472九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 16:42:22
>>469
少し落ち着いた方がいいんじゃない?こんな幼稚で情けない文章書く前に。
「そこは半島のところだ、あほ 壱岐・対馬が読めないのか、ばか 」

こんな時間にレスしてあんた仕事クビにでもなったんじゃないの?
腹いせをこんなところにぶつけられてもねえ。
473日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:45:12
>>471
再度警告します
あなたはわざと荒らそうとしてますよね
その理由は分かりませんが
私怨ならすぐに立ち去ってください
非常に迷惑しています
474日本@名無史さん:2007/03/12(月) 16:46:39
>>471 >>473
いやだからスルーよろしこ
わざと荒らそうとしているなんてのは最初から自明なので
475九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 16:54:10
>>463まず壱岐から対馬の時点で、もう南じゃないんだがね

方向は間違ってはいません。対馬の北部から壱岐に向かってくれば
南南東くらいになる。当時はここまで正確な方向は無かったから南と表現したもの。
476九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 17:01:23
>>457「呉の年号入りの鏡はどう説明する? 」

この「呉の年号入り鏡」って具体的に何年の、どの鏡を言ってるの?
477日本@名無史さん:2007/03/12(月) 17:02:28
話題変えましょう。
ほんとにスルー頼みますよ、NGワード推奨です。

上に布留0と1の実年代が鍵であるとの意見がありましたが
畿内説が250〜280年を布留開始とみる根拠は何なのですか?
おそらく土器編年などだと思うのですが、詳しく説明したサイトなどを見つけることができませんでした
箸墓が卑弥呼の墓だからとかの理由ではないのは理解していますので
入手しやすい本かサイトを教えてください。
また概略も書き添えていただければ嬉しく思います。
478日本@名無史さん:2007/03/12(月) 17:07:26
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
479日本@名無史さん:2007/03/12(月) 17:08:41
中国側がどの地域から出航したのか詳しい情報が欲しいですね。
480日本@名無史さん:2007/03/12(月) 17:37:19
倭人伝に、海を渡る方向が書かれているのは対馬から壱岐だが、対馬からの
出発点が北端であれば、壱岐は、だいたい南の方向になる。

対馬の北部から対馬の海岸沿いに西寄りの南に進み、やがて東寄りの南に
進んで海を渡り壱岐に至る。対馬→壱岐が南でもさほど不都合はないと思う。

>>477
土器の編年は、基本的には土器の古い順に順番をつけるというもの。
これ自体は非常に信頼性が高いといわれる。

しかし、これに実年代を当てるには、その基準となるものがなくてはならない。
この基準のなる確かなものがなかったので、以前は、あまり実年代には
こだわらなかった。というよりもこだわれなかった。
たとえば、畿内第五様式というのは、西暦何年頃ではなく、畿内第五様式の
時代だったわけである。

最近は、年輪年代法とか放射性炭素による年代測定法とかが基準になる
わけだろうと思う。しかし、これらの方法にはいろんな問題点がある。

要するに、土器の絶対編年は、必要性があったから生まれた。
その必要性というのは、邪馬台国問題だろうと思う。
卑弥呼の存在した時代は倭人伝などによって、2世紀後半から3世紀前半と
わかっているからである。
481日本@名無史さん:2007/03/12(月) 17:37:28
>話題変えましょう。
ほんとにスルー頼みますよ、NGワード推奨です。

それから隔離スレに誘導

畿内説隔離スレキボン




482九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 17:42:28
結局こちらの>>453に対する答えも何も皆無?で、荒らし呼ばわりして終了とはね。

>>464からかうと面白いのは分かるが、荒らしはスルー

とか言う前にきちんとこたえてね。答えられればの話だけど。
「呉の年号入り鏡」なんてどれを引き合いに出しているのでしょうか。
483九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 17:46:07

ほれみい。480の方の様にちゃーんと話の分かる御仁もいらっしゃる。
484日本@名無史さん:2007/03/12(月) 18:08:51
>>477  >畿内説が250〜280年を布留開始とみる根拠は何なのですか?

私は、九州説なのですが、一応の畿内説の主張とおぼしきものを挙げると、

1、年輪年代による古墳年代の遡上

2、鏡の編年
 A、三角縁を卑弥呼が魏から下賜されたとみて、その流通を239年以降と見る。
 B、三角縁より早く始まっている画文帯の開始をその紀年から180年頃からと見る。
 C、A、Bより画文帯の出土したホケノ山を230年〜240年頃と見る。

3、平原王墓による土器編年
 A、平原遺跡を庄内式直前期として、その年代を200年頃とする。
 B、畿内の庄内も200年頃からであるとする。

4、C14による年代(これを全面支持する人は少ないが)
485九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 19:06:39
>>457
方向説は破綻しているとして、鏡は、卑弥呼の貰った鏡や邪馬台国内で流使用された鏡は
呉の影響がある物ではない。ということの答えになっていない。
それよりこれは一帯どういうことか分からないが?

「昔、関西人にいじめられたのかどうかは知らんが、ここは私怨を晴らす場所じゃないよ。 」

なにかの思い違いなんじゃ?
486九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/12(月) 19:09:00
>>485誤字がございます。流使用=使用 一帯=一体

487日本@名無史さん:2007/03/12(月) 20:25:40
>>484
三角縁神獣鏡はチョンボだと思うんだよな
あれが卑弥呼の鏡だという仮説が立てられた時点では
まさか後になってゾロゾロ大量に発掘されるとは思わなかったわけで

おまけに埋葬状況がわかってくると
三角縁神獣鏡は棺の外から無造作に何枚も出てくる
決して棺の中で被葬者に寄り添うようには出ないからね
とても魏の皇帝から頂いた大切な宝物の扱いじゃない
488日本@名無史さん:2007/03/12(月) 20:31:55

義江明子『つくられた卑弥呼―“女”の創出と国家』(筑摩書房、2007年)
489日本@名無史さん:2007/03/12(月) 21:18:15
棺の外から無造作に出てくる→ゆえに魏からもらった鏡ではない。

九州説って、こんなレベルの人たちばかりなの?
ばかみたい。
490日本@名無史さん:2007/03/12(月) 21:51:52
>>483
>ほれみい。480の方の様にちゃーんと話の分かる御仁もいらっしゃる。

全然解ってないと思うが
491日本@名無史さん:2007/03/12(月) 22:42:53
>>489
黒塚古墳の三角縁神獣鏡は、作ってすぐに棺に入れられたものと思われてい
る。
銅鏡などは鋳型から取り出すど、バリという破片のようなものがくっついて
くる。人にやったりする場合はそれをきれいに取り除いてやる。

黒塚古墳の三角縁神獣鏡はそのバリがついたままになっており、また
鈕と呼ばれる紐を通す穴が中央にあるが、そこにも紐を通した形跡はない。

だから、三角縁神獣鏡は、葬具といわれる。葬式のために作られた鏡と
いうことかな。棺の中の頭の近くにあった画文帯神獣鏡のほうが貴重なのは
確かだし、棺の外に立てかけられていた三角縁神獣鏡は、魔よけの意味が
あったのではないかと思う。
492日本@名無史さん:2007/03/12(月) 23:19:29
とにかく荒らしは徹底スルーしましょう。
493日本@名無史さん:2007/03/13(火) 01:21:35
>>478は話題を変えようとがんばっている

と深読み
494九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/13(火) 07:13:41
>>490
どうして?「対馬→壱岐が南でもさほど不都合はないと思う。」
に対して行ってるんだから。あっちが言う方角の矛盾なんて無いじゃない。
495日本史@名無しさん:2007/03/13(火) 07:16:26
>>489
いやそれは大事なことと思うが。
>>491も書いてるように、葬式用品みたいな扱いの三角縁鏡が、
例えば伝世鏡だとは非常に考えにくい。埋葬時の位置や扱いか
らは、他の鏡と比べても大事にされていたと思うか?

勿論魏鏡だから大事にされたかどうかというのもあるが、漢鏡で
すら壊して配ったほど中国鏡が貴重な中での魏からのものなんだ
から、棺の外にその他大勢みたいな扱いで埋める筈はない。

厨房荒らしの来る所じゃないよ。
496日本@名無史さん:2007/03/13(火) 17:01:47
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
497日本@名無史さん:2007/03/13(火) 19:06:44
>鈕と呼ばれる紐を通す穴が中央にあるが、そこにも紐を通した形跡はない。

>葬式用品みたいな扱いの三角縁鏡が、
例えば伝世鏡だとは非常に考えにくい。埋葬時の位置や扱いか
らは、他の鏡と比べても大事にされていたと思うか?

と、いうことは景初三年や正始元年の年号はリアルタイムってことですな。
自爆してないか?w
498日本史@名無しさん:2007/03/13(火) 19:35:23
>>497

紀年鏡の存在だけで確実に言えることは、その製造年の上限だけ。
下限については、証明不能だ。
何故、そうなるのかは自分で考えてみたまえ。
これは春休みの宿題だよ。
499日本@名無史さん:2007/03/13(火) 20:37:50
>>498
だから何ゆえにさかのぼった元号が刻まれるんだよwww
説明責任はお前らにあるんだよw。
500日本@名無史さん:2007/03/13(火) 23:28:01
>>497
自分が分かっていれば他人も分かるという幼稚園児レベルの考え方をしているのでないなら、
レスアンカーを付けて、かつ、引用部分は行頭のすべてに「>」を添付して明確に分かるように
すること。
501日本@名無史さん:2007/03/13(火) 23:30:53
>>497
> と、いうことは景初三年や正始元年の年号はリアルタイムってことですな。
                               ↑
君の念頭にある「リアルタイム」は「何と何」の時制が同じという意図か?
502日本@名無史さん:2007/03/13(火) 23:38:48
>>499
薩摩切子というのがあるらしい。江戸時代末期の一時期にだけ作られたもので
非常に高価なガラス細工らしい。最近になって新しいものも作られるように
なったのだが、価値としては古いほうがずっと高い。

もし、切子に年号が付けられるものなら、文久二年とかの方がかっこいい。
平成15年とかじゃ冴えない。
仮に偽物を作るとしたら、やはり、古い年号にするに違いない。
つまり、今作っても、100年以上前の年号を付けられるわけである。

銅鏡も同じようなものじゃないかと思う。
由緒ある古い鏡のほうが価値があったんじゃなかろうか。
ちなみに、年号のある鏡は、三角縁神獣鏡だけではない。これは四枚だけで
ほかに方格規矩四神鏡とか平縁神獣鏡などもある。
503日本@名無史さん:2007/03/14(水) 00:10:09
>>497
>紀年鏡の存在だけで確実に言えることは、その製造年の上限だけ。

その通りだよ。ゆえに、ひとつの可能性について述べているところの次のレス

>>502
>つまり、今作っても、100年以上前の年号を付けられるわけである。
>銅鏡も同じようなものじゃないかと思う。
>由緒ある古い鏡のほうが価値があったんじゃなかろうか。
>ちなみに、年号のある鏡は、三角縁神獣鏡だけではない。これは四枚だけで
>ほかに方格規矩四神鏡とか平縁神獣鏡などもある。

は、上限に対していささかも変更を促すことにはならないのだよ。

だからもし、「いや違う、239年の紀年をもつ鏡は、実際は300年以降につくられたノダ」などと
主張する輩がおれば、それは勝手に上限を変更していることになる。
上限を変更するには、可能性を述べるだけではダメなのであって、確実な論拠を基にした論証が要る。
504日本史@名無しさん:2007/03/14(水) 00:46:55
>>503

>それは勝手に上限を変更していることになる。

スマンが・・・
実年代の「上限」「下限」といったら、フツーは上限(古)<>(新)下限と言うように取るよ。
少なくても、私のレスではそう言う意味で使われているからヨロシク。
「上限」=これ以上時代を遡らない(古く出来ない)、と言うことだ。

>上限を変更するには、可能性を〜確実な論拠を基にした論証が要る。

例えば、紀年問題に関して言うと、
安満宮山出土の「方格規矩四神鏡」に使われている「龍」の字体。
これが、4世紀以降に出現したものだと言うことは周知の事実だよね。
当然、キミも知っているはず、なのに、何でそんなこと言うの?

キミ、若しかしてさ、畿内説のフリした安本のとこの工作員じゃないのw
新しい知見を無視して、前世紀末のネタに固執するところなんか、とても怪しいのだが・・・
505日本史@名無しさんof504:2007/03/14(水) 00:55:03
ちなみに>>495氏が同じコテを使っているようだが、私とは別人。
言ってるのことは似ているのでどうでもよいがw
506日本@名無史さん:2007/03/14(水) 01:39:29
邪馬台国は市国にあったという説は学者の世界では異端説でしょうが、
完全反証は難しいと思います。四国は地理的に近畿地方にも近いですし、
卑弥呼が第二帝国を市国で築いたと唱える人もいます。果たして真相は如何に?
http://www.umigoroshi.com/newpage22.html
507日本@名無史さん:2007/03/14(水) 02:07:54
記紀神話にいくばくかの歴史的事実の痕跡があると認める人たちが九州説に走る。
508日本@名無史さん:2007/03/14(水) 02:15:12
>>504  反安本も行き過ぎると、安本崇拝に見える罠
509日本@名無史さん:2007/03/14(水) 12:18:31
記紀神話は800年前に400年前の話を書いたので正確ですよ。
510日本@名無史さん:2007/03/14(水) 12:47:52
記紀神話は今より約1300年前に
神代からその時代の1500年前くらいの出来事として
書かれていると思うが。
511日本@名無史さん:2007/03/14(水) 17:13:07
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
512日本@名無史さん:2007/03/14(水) 19:00:58
>>502
それはおかしいぜ。
だって薩摩きりこの例は美術品として高く売るために偽造して市場に出したってことだろう?
まぎれもない出土物である三角縁神獣鏡で、そんな議論をするのは全く見当違いもはなはだしい。
だいたい邪馬台国のころに日本に美術商がいたのかよ。ばかばかしい。
それにさあ、九州説って、一方では三角縁神獣鏡は大して大事なものではないなどといいながら、
もう一方では年号を偽作してまで価値のあるもののように見せかけたと主張するんだから、もはやむちゃくちゃ(失笑)
いまや九州説は都合のわるい出土物はすべて偽作と決め付けるトンデモ説としか言いようがない。
513日本史@名無しさん:2007/03/14(水) 19:06:10
年号だけでは上限も下限もわからない。これでFAだよ。

・その時代より未来の年号を書くことは出来ない。

これが唯一言っていいテーゼだが、その鏡の正確な実年代が
わからなければ、そのテーゼも無効となる。
そして、現在の技術では1年単位で正確に確定できる方法は
ない。

ただ、景初四年鏡については、結構限定は出来るけどね。
10年も下れば、流石に魏の年号が変わったことが分からない
ということはないと思う。畿内か九州かで、中国情勢の伝播の
差はあるにしても。また、景初2年に「4年」のものを作るわけは
ないから、上限は景初3年以後となる。
514日本@名無史さん:2007/03/14(水) 20:06:55
>>513
その意見はある種のルール違反だね。
偽作というからにはよほど決定的な証拠を示す義務がある。さむなくばトンデモ扱いされるのは当然だろう。
だって、たとえば、元号の刻まれている出土物や由来の古い遺品は、
中平2年の鉄剣だとか、泰和4年の七支刀だとかほかにもたくさんある。
これらのものについては、だれも後世に刻まれた偽作だなどとは言わない。
なぜなら、そんなことを考える根拠がどこにもないし、本当の年代だとしても別に九州説に都合の悪い遺品ではないからだ(笑)
にもかかわらず、景初3年や正始元年については、九州説は何の根拠もなく偽作と決め付ける。
年号が真実の年代だと九州説には決定的に都合が悪いからである。
三角縁神獣鏡国産説の王仲珠だって、これらの年代は真実のものと考えている。
九州説は都合の悪い出土物にひたすら目をそらしているとしか言いようがない。
515太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/14(水) 20:11:29
>>514
九州説でも都合は悪くない。九州説でも都合が悪いと思う連中はそのとおり
いるがね。
大陸から北九州までは運搬に一緒だから、そこから交易路が枝分かれして一部
は畿内へ流れてもおかしくない。
516日本@名無史さん:2007/03/14(水) 20:22:32
>>515
一部というより235〜244の年号を持つ鏡はすべて畿内を中心に分布しているわけだが。
これが北九州だけに集中して現れるなら、邪馬台国北九州説でキマリなんだが、そうではないんだよなあw
517日本@名無史さん:2007/03/14(水) 20:40:32
俺は九州説だが、鏡に刻まれた年号を真と支持するし、▲神獣鏡は楽浪製と考えてる。
景初四年の年号を否定する材料(いや!むしろ肯定材料大)もないし
九州説と括り付けしてほしくないものだ。
518日本@名無史さん:2007/03/14(水) 21:24:21
>>517
ならばトンデモ九州説の駆逐は
君にとってもプラスになるわけですな

最近の傾向として
非常に特殊な九州説がコテ化や常駐化して
それ以外の考え方を一様に荒らしだと勝手に認識しているようなのでね
まともな九州説との議論は大歓迎だよ
519サガミハラハラ:2007/03/14(水) 21:30:48
電波は邪魔。後藤幸彦の著書を読んでから発言しよう。
520日本@名無史さん:2007/03/14(水) 21:37:55
925:定ちゃん 03/14(水) 21:36
22:00からNHK歴史の選択で、「 邪馬台国はどこか? 」近畿説vs九州説が始まりますね。
 
でも、このスレはもぉ終わりですね。次スレはあるのですか?
他スレに移動されるのですか?
521太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/14(水) 21:38:41
>>516
それは当時畿内は崇神の世で、崇神天皇がハツクニシラスの名があるのは、
神武のハツクニシラスが畿内朝廷の始まりの天皇だということであり、
かたや崇神のハツクニシラスとは九州王朝の始まりを鑑み畿内と相対して付け
た名なのである。
卑弥呼は崇神の時代の女性であり、神功世のころ同じ九州にいた比売大神とは
別人だということを念頭におき、卑弥呼の女王国が九州王朝の本格的始まりだと
いうことになる。九州にはその前に帥升とかの下積み王朝もあった。

そこで卑弥呼の女性初国王朝を受けて、崇神の別名を「賢后」というのである。
ここでの『后』はお妃、立后として女性たる卑弥呼を示唆している。
そのため、九州から当時畿内で鏡が運搬されたのであり、畿内朝廷と九州王朝
とは関係が遠方で畿内へその情報が届きにくいものの、重要な要的ものは
やや多めで畿内へ王朝の記念品的物として、遠路はるばるのつけ届けが
あったと観てよく、これは否めない。
522日本@名無史さん:2007/03/14(水) 21:38:51
携帯電話でどっちがもっともらしいか、投票集計するみたいだね。

じゃ、俺は機内説に1票!!
523太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/14(水) 21:41:12
>>521
倍暦の関係で

崇神即位元年=実年代237年=景初元年
524太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/14(水) 21:46:20
畿内にあれば、卑弥呼はお隣の崇神天皇に朝貢してるよ、はるか遠い
百済からでさえ朝貢があると記紀にあり。
女王国は九州に確定。
525日本@名無史さん:2007/03/14(水) 21:50:10
>>517
まるでプラム説そのもの
526サガミハラハラ:2007/03/14(水) 21:54:06
>>525
基地外コテの名を出す必要はないでしょう。
527日本@名無史さん:2007/03/14(水) 22:32:18
前から思っていたんやけろ、卑弥呼ってひとり?
共有コテハンみたいに、二代目三代目卑弥呼ってか、影武者卑弥呼て居てたん?
てか ..
居てたと考えるのがフツゥーなんかなぁ?
528日本@名無史さん:2007/03/14(水) 22:48:08
卑見子は朝鮮人
日本は植民地だった
天皇は朝鮮人の血を引いている
宮内庁が古墳を調べさせないのはバレたら困るからだ
529日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:03:02
近畿に鏡の出土が多いのは九州から鏡を貰ってきて自分等で複製したから。
理由は魏から認められた邪馬台国(九州)に権威の面で対抗するため。
だからありもしない元号の鏡が出土する。
以上NHKを見た素人考え
530日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:06:12
>>529
>だからありもしない元号の鏡が出土する。

初耳 
531日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:11:31
確かに当時の鋳造技術に関する科学的考察が欠けてるよな。
むしろ鋳物イコール複製技術、ってことは故意にスルーしてるよな。
532日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:12:35
九州で決まってるけど
それを発表すると逆ギレして
興味ないわ〜とか昔のことにこだわってアホやな〜今やで今
みたいにブームや商機がしぼむからあえて対立させてるだけだと思う
533日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:13:49
TV見てきますた、邪馬台国が近畿に移動ってそんな簡単にできるのかいな
争いにならずに受け入れられたってことか
534日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:14:21
>>527

>前から思っていたんやけろ、卑弥呼ってひとり?
共有コテハンみたいに、二代目三代目卑弥呼ってか、影武者卑弥呼て居てたん?
てか ..
居てたと考えるのがフツゥーなんかなぁ?


影武者の存在は肯定出来ないけど
一人ではないことは確か
535日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:15:37
最後の沖縄説+四国説のデムパ2説に大笑いした
536日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:15:39
景初四年という実在しない元号が刻まれている
(景初は3年12月で終わり、翌年2月から1ヶ月無かったことにして正始元年となっている)

ただこれをして複製とは言い切れない
537日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:15:42
NHKはひどいね。吉野ヶ里遺跡が邪馬台国て…。
時代が全然違うのに。。
538日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:17:23
あの神武東遷は無いわ>>NHK

これ放送するんだったら何でもありだな
539太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/14(水) 23:17:43
3代もいりゃぁ、壱与なんかという名を付ける必要ない。
540日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:28:02
イヨタン・・・・・・・・
541サガミハラハラ:2007/03/14(水) 23:29:28
けどNHKの神武東征の出発地、福岡市西区(日向ひなた)あたりになっていましたね。
この点でも私の神武東征北部九州説がみとめられたのです。
ほんと今日はじつに晴れ晴れとしたいい気分です。
542日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:30:24
自分は九州説論者。

しかし、今回のNHK番組を見て衝撃だったのは
九州説論者が年々、減少していることだ。

サガミハラハラさんは喜んでいるけど
むしろ、九州説は追い込まれているよ。
一般人の間でも、九州説論者が減少してきている。

あの程度の初心者向けのNHKの番組の素人アンケートで
高喜びしているのは、サガミハラハラさんは恥ずかしいよ。
そりゃ、学会で殆ど相手されないから、神にもすがるような
気持ちなのは分かるけど...
543日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:31:34
>>536
昭和64年の硬貨みたいなもんか
544日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:32:36
NHKの神武東征は3世紀だろw
545日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:32:45
>>541
発掘あるあ○を信じるタイプですか?
546日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:33:21
考古学者の9割が畿内説支持
http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai04.html

追い込まれた男、サガミハラハラさん。

後藤 幸彦さん
http://www.toonippo.co.jp/l-rensai/shutoken/shutoken15.html
547日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:35:17
>>543
史書にも残っているように突発的改元だったのでね
で実際に正始が発表されたのはその年の3月
王宮内の官吏たちも大慌てだったと記録にある

ソースは三国志の魏志
548日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:35:31
>>535 その流れでエジプト説がないのが不満だなww
549日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:36:02
この内容で九州が勝つんなら
きちんとやれば九州大勝が日本人の大勢なのがハッキリわかった。
番組内容は大したことなかったけど、
違う意味で大きな収穫だったなあ今日は。いやぁ画期的
すごいわ
550日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:36:02
>>534
倭人伝には、「名曰卑彌呼」とある。だから、卑弥呼というのは名前。
しかも、倭国の大乱のときに女王になり、死んだときの事も書かれている
のに、複数いたような痕跡は見当たらない。
だから、一人と考えるのが普通だと思う。
551サガミハラハラ:2007/03/14(水) 23:36:45
>>546
負け犬の遠吠えに見えます。ま、がんばって下さい。
552太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/14(水) 23:37:33
>>842
減少したか否かは真の所在地と関係ない。心配するだけ得はなさそう。
とにかく九州が正解だ。
553サガミハラハラ:2007/03/14(水) 23:37:58
ここまではっきり結果が出てしまうと畿内説は哀れですね。
554サガミハラハラ:2007/03/14(水) 23:38:40
考古学板を見ても、九州説が有利のようです。
考古学では畿内説で決まりなどと言っているのは、このスレのごく一部でしょう。

いやはや今日は気持ちがいいですね。
555サガミハラハラ:2007/03/14(水) 23:39:28
考古学板でも九州説が多い証拠を出します。
以下のスレを読んで下さい。考古学に携わるひとの大半が九州支持です。

『親魏倭王』の金印は福岡県?奈良県?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1122273667/
556日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:39:31
日本人はテレビの歪曲報道をすぐに信用してしまうというのが、この番組で
明らかになったのでは?

吉野ヶ里が邪馬台国って!?時期が違うでしょ時期が。
557日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:39:36
>>536
>景初四年という実在しない元号が刻まれている
(景初は3年12月で終わり、翌年2月から1ヶ月無かったことにして正始元年となっている

景初3年は12月で終わりではなく、後12月までだありましたけど
それに正月がなければ一周忌の法要は?何時?
558サガミハラハラ:2007/03/14(水) 23:40:40
長年の私の研究が認められました。
畿内説はバカです。いい気味です。どうです?
反論できないでしょう?
559日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:42:55
↑おめでたい奴
人生いいことあったか?
560日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:44:20
>>557
悪いそちらの書き方のほうが正しい

正確には
景初3年12月→後12月(実質1月)→(実質2月を)正始元年1月
561日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:45:41
>偽サガミ

釣りとコピペうざい
562日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:46:37
>>556
今晩の番組見て感じたのは、
投票を、内容を見て判断して決めたのではなくて
最初から決めてた投票に思えましたけど。
みんな自分なりに勉強してて結論をもって臨んだ結果。
番組内容に左右されてない結果に感心した
563日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:48:30
>>562
残念ながら、テレビ見ていなかったけど、投票の結果はどんなだった?
再放送はあるのかな?
564サガミハラハラ:2007/03/14(水) 23:50:14
偽物に注意して下さい。
しかし、今日は記念すべき日です。
畿内説終了記念日です。
565日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:54:23
>>563 自己レス
NHKのホームページに出ていた。
九州説35,087票 近畿説21,102票
566日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:55:24
>>560
>景初3年12月→後12月(実質1月)→(実質2月を)正始元年1月

法要は何時?
567日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:55:50
視聴者投票集計結果

  九州説 35,087票       近畿説 21,102票
568日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:56:34
ど素人の間では九州説の受けが多いのは、いまさら驚くべきことじゃない。
なぜかというと、九州説のほうがロマンがあるのと、とくに関東など東日本の人口の多い地域に、
関西に対する反感があるので、九州に邪馬台国をもっていきたいのだ。
アマチュアレベルで畿内説が多いのは、事実上関西人だけだろう。他の地域ではみな九州説のほうが多い。
しかし、大切なのはアカデミズムでは畿内説のほうが圧倒的に有力という現実である。
(いまや文献史学者は沈黙しているのが実情)
569日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:56:35
いい気味ですね。現実は冷酷ですね。
これで質の悪い論者は消えると思います。
570日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:58:00
>>563
もっと均衡するかと思ったけど、
畿内説支持が2万票ぐらい、九州説が3万とちょいでした。
番組内容は極めて無難な面白みのないすっきりしない内容ではあった。
九州説支持だけどこんな内容では全く納得しない。
再放送はあるよ〜
571日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:58:43
邪馬台国問題は、後藤幸彦さんの著書を読めば解決すると聞いたのですが、どなたか詳しくご存じないでしょうか?
572日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:00:46
ただ、九州地方の人は9割が九州支持に対し、畿内の人は6:4くらいで
畿内派が多いけど拮抗してた。
九州人が韓国根性出したおかげかな?
573日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:00:55
誰かレスしてやれってば!
18 :定ちゃん :2007/03/14(水) 23:58:48
てか ..
神宮皇后が、甘木→ 高良山って行軍すて、女山(山門郡)で卑弥呼が征圧されたって説て .. どぉにゃん?
|〃
|・`)


574日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:01:52
>>569
正直、ど素人の得票で勝って溜飲を下げているあたりに、九州説支持者のレベルの低さを感じる。
575日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:01:54
>>565
九州内では9割が九州説
近畿では6割が九州説だった

>>568
むしろ素人さん(ど素人はやめようよ)が多く視聴していたと見られる番組で
九州説が圧倒的多数でないことに驚いた
576日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:02:40
>>567 >>570
どうもすみません。
なお、再放送は明日木曜日の深夜1時(厳密に言えば金曜日の未明)から
あるみたいなので見逃さないようにしよう。
577日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:05:41
それと、吉野ヶ里遺跡の、巨大なお城みたいなインチキ復元建物を卑弥呼の
城として報道して、マキムクは運河跡みたいなので、明らかに視覚的に
九州説有利に作ってある。

こういう風に小泉政権の時もマスコミは煽っていて、国民はまんまとのせられた
から、国民のレベルって相当低いね。日本ダメダメじゃん。
578サガミハラハラ:2007/03/15(木) 00:06:37
おれ畿内説なんだが、悔しくて眠れそうにない。
再放送で投票して巻き返したいのだけど、できるかな?

九州説の先生方はいい酒を飲んでいることだろう。
おれも九州説にすれば良かった。
579日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:07:15
>>568
世界史でみれば九州説になるのが自然なんですけど。
東アジア一帯の西から東への人類の流れ。文化の伝播。陸海越えて・・
今晩の番組しかり、
相変わらず国内だけのドメスティックな問題として
日本古代史を解決しようとするから大局が見えない。大学の先生含めて
580サガミハラハラ:2007/03/15(木) 00:07:21
>>578は偽物です。
581日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:07:49
>九州説の先生方。

いったい誰がいるんだい? 特に現役で。
582日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:08:15
『学界の常識は世間の非常識』
この言葉は最高裁の判例以上に重い言葉だ
583日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:09:12
>>577
畿内説だけど、九州説もちょっとは頑張ってくれと思っているのであれはあれで良いようにも思う。
あれで興味持ってくれれば、結果的に正解。
584日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:09:24
>>579
>世界史でみれば九州説になるのが自然ですけど。

ドシテ?
585日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:10:06
>>581
古田武彦先生や後藤幸彦先生があげられます。
586日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:10:18
>>579

だから、吉野ヶ里は邪馬台国ではなく、それ以前に九州で栄えた都市国家でしょ。

それを時代が全然違うのに邪馬台国として紹介するNHKの捏造ぶりって…。
587日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:10:27
もう「その時歴史は動いた」を打ち切り
4月からは「その時、難升米は動いた」と題して毎週邪馬台国をやろう

に一票
588日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:10:51
NHKのテレビを見て、九州人は土人・韓国人並だということが分かったw
589日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:11:03
>>578 >>580
自演失敗まで再現せんでもよろしいw
芸が細かいなw
590日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:11:07
再放送で投票出来るはずないだろw
591日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:12:38
真実が多数決で決まってたまるか。箸墓を掘れば、すべては畿内説の勝利で解決するのだ。ゴッドブレス畿内説。畿内説に平安あれ。
592日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:13:16
で、九州説を主唱する現役の学者さんっているの?
実際のところ。
593日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:14:01
卑弥呼に立派な着物を着せていたのは良かった。
もし粗末な貫頭衣だったらNHKに抗議メール送り付けるつもりだった。
594日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:14:43
>>592
>>585を見落とさないで下さい。
595日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:14:45
おまえらネタか?
熱すぎるぞ。
こんな番組で右往左往するなよっと
596日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:15:04
>593
抗議の視点に笑った
597日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:15:28
よく九州の考古学者が
「九州の考古学者で邪馬台国が九州にあると思っている人は一人もいません」と
極言する人がいるけど、まあ、これは極論としても、実際高島さん以外に九州説の現役のアカデミシャンって知らないね。
598日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:15:55
>>586
畿内説の一部の人の年代観によると、邪馬台国以前ということでしょう?
もっとも邪馬台国がいつから存在するかはわからないから、卑弥呼の時代と
言うわけだろうけど。
599日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:17:36

なぜ出てきてくれなかったの・・・・・・




イヨタン・・・・・・・・・・

600サガミハラハラ:2007/03/15(木) 00:18:09
>>589
意味不明です。私は嘘はついたことがありません。
601定ちゃん:2007/03/15(木) 00:18:57
畿内説=日本人は朝鮮半島からぢゃない。
九州説=日本人は朝鮮半島から。なのですか?
602日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:20:13
>>592
マジレスしておくと、番組にも出てきた高島先生。
考古学者としての技術も実績も申し分ない方。

ただ吉野ヶ里説論者ではあるが、これは宣伝マンとしての側面が大きい。
森先生は東遷というより北部九州が各クニを主導して畿内に連合を置いたとの説。
いわばマキムクを北部九州主導で作ったと言う考え。
603サガミハラハラ:2007/03/15(木) 00:22:18
>>601
それは違います。正しい皇国史観が九州説です。
604593:2007/03/15(木) 00:22:40
>>596
笑うな。
所在地論争に絡む深い意味があるのだ。
605定ちゃん:2007/03/15(木) 00:22:49
箸墓古墳って、やぱ卑弥呼の墓なんですか?
| 〃
|π・`) ・・・

606定ちゃん ◆jsEMIr87bs :2007/03/15(木) 00:27:02
477 名前:名無し戦隊ナノレンジャー! :2007/03/15(木) 00:24:26
日本史で邪馬台国論争してる椰子ってレベル低いなw工房以下ばっかりかしかし
607日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:28:13
レベルが低いのはAA厨の>>605だけ
608日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:28:21
九州説代表として古田や安本にお呼びがかからなかったことについては誰もつっこまんのかい?
609定ちゃん(真正):2007/03/15(木) 00:31:31
>>606 ←このトリップは、酉割れしています。偽者ですOooorz
610日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:34:30
>>608
シーッ!
611定ちゃん(真正):2007/03/15(木) 00:35:28
>>603
そうですか .. 蘇我氏の祖(武内・浦島・宿禰?)が九州から来た噂とかと、
ごっちゃになっています。すみません。
612日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:36:42
>>608
そうだね。二人とも大学教授を務めたから、まるっきりのアマじゃない。
ま、安本の説は番組の九州説とほぼ同じだからいいとしても、
古田の説はヤマトの一元支配を否定する独自の説だからね。
613日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:38:10
>>611
定ちゃんは本当に黒田官兵衛の子孫なの?
614日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:46:35
>>608>>612
もし今回の番組プロデューサーが左寄りだったら、なんらかの形で古田説を匂わせたかもしれない。
615定ちゃん:2007/03/15(木) 00:47:01
>>613
1000年くらい遡ったら、ご先祖さまどうしがお友だちやったかんも?れすぉ ♪
もやしみなっせぇ〜       ☆彡
   〃
(*´ρπ・)ノ~
(   z z Z 。 。 。
 
酉つき定ちゃんは、ぜんぶ偽者レッチォー ♪
616日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:47:42
「その時、九州人が動いた」みたいな投票でしたね

90%近くが九州説だなんて、郷土愛に溢れてますね








たぶんひとりひとり、九州のどこかは違うはずだけど
617日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:50:38
>>615
定ちゃんさんおやすみなさい☆
618日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:57:01
>>609
804:ころたん◆jsEMIr87bs 03/10(土) 23:29
ころたんの赤誠です。ころたん#mlp9xzHRe
619日本@名無史さん:2007/03/15(木) 01:00:23
日本には二重権力の状態が古くからあったと考えている。
イズモの勢力と九州のクナ=シュセンの勢力
イズモは近畿の政権へと移行した。
シュセンの九州勢力は南下してクナ国として残った。

シュセンの勢力は沖縄に貝殻文様や須玖土器のような
装飾土器、を残した海洋性の国家。(西南九州貝の道)
長崎を拠点にし九州北西部に首都とおいていたと思われる。
彼らが本州イズモにどの程度影響力をもたらしたかわからないが
ほぼイズモとは別個の主権をもっていたと思う。
東九州の宇佐小倉などの地域は近畿やイズモ勢力の影響が
大きかったものと考える。
620日本@名無史さん:2007/03/15(木) 01:03:39
>シュセン

それ何てアニメに出てくるのですか?
621日本@名無史さん:2007/03/15(木) 01:11:32
シュセンは
福岡市西区周船寺にいた
九州沖縄地域の王です。
622日本史@名無しさん:2007/03/15(木) 01:21:35
>>566
> >>560
> >景初3年12月→後12月(実質1月)→(実質2月を)正始元年1月
> 法要は何時?

「烈祖明皇帝以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀、
 其復用夏正、雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。
 又夏正於數爲得天正、其以建寅之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月」

【烈祖明皇帝が正月をもって崩御したため、臣子惟により(正月が)忌いの日となるに哀れなり。
 夏朝の正月に復すは先帝の三統の意義を通すに違うも礼制を改むるところの由なり。
 又夏朝の正月は天文に正しきに、それをもって建寅月を正始元年正月、建丑月を後十二月とす】

「一周忌」は改正前の殷歴(建丑月)で命日の12ヶ月後に行い、これを「景初3年後12月」と称す。
正月は改正後の夏歴(建寅月)で行うので、さらに1ヶ月後が「正始元年正月」となったと思われる。
これで明帝の忌日と正月は合法的に分離できたんじゃないかな?
623日本@名無史さん:2007/03/15(木) 01:22:33
>>621
どこに連載しているマンガですか?
624日本@名無史さん:2007/03/15(木) 01:42:16
ゲッカン シュセン(周船)
625日本@名無史さん:2007/03/15(木) 04:02:36
マジレスするが、考古学会は
日本どこでも、畿内説でほぼ9割
固まってきている。
こんなことは以前はなかった。

まだまだ、一般人は追いついてないんじゃないのかな?
というのは、吉野ヶ里遺跡ブームの影響が大きい。

でも、吉野ヶ里遺跡が繁栄したのは、2世紀初頭で
卑弥呼よりも大分前であり、卑弥呼の時代には
吉野ヶ里遺跡は衰退の一途をたどっている。
626日本@名無史さん:2007/03/15(木) 04:05:03
卑弥呼以前の最初の人物・倭国面土国王帥升

西暦57年、奴国が漢から印綬をもらい、倭の対中国外交の主導権を握る。

しかし、やがて、筑後平野で勢力を拡大した面土国が奴国を侵攻・占領し、
西暦107年、面土国王の帥升らは、奴国から奪った戦争捕虜(生口)
160人ほどを漢への献上品として連行し、
漢に倭の代表権とそのための印綬を要求したが、
漢はその要求には応えなかった。

http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32720152.html
627九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/15(木) 06:21:15
あーあ。とうとうNHKの邪馬台国特番寝ちゃって見逃した。物凄くレスが進んでおまけにドン来い15まで終わってて。再放送は見るけど。
誰か以前僕のことをNHK信じの困ったちゃんと言ったわりには滑稽なほどみんな気にしてるじゃん。
NHKの番組スタッフは優秀な人材がが揃ってるからあまりいい加減な事は言わないのだ。ソースも色々詳しく調べて確認してから出してくる。
そして昔からいつもNHKはなぜか九州説なのだ。そして邪馬台国東征説、そしてトヨの墓は箸墓ではないか?というところで終わった事もある。
余談だがドン来い15スレの最後の方で出てくるサガミハラハラさんって本人?もっと落ち着いた人かと思ったら。
この物言いがもし本人なら、ただのおっちょこちょいにしか見えないけど。
628日本史@名無しさん:2007/03/15(木) 07:04:47
>マジレスするが、考古学会は
  日本どこでも、畿内説でほぼ9割
  固まってきている。

なんのエポックメイキングなこともなくそうなってしまう
学者達の低脳ぶりを笑う所ですか?

一般に影響力がない=説得力がない、嘘くさいってこと
だろ。三角縁なんて持ち出すなよってwww


629九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/15(木) 07:11:02
>>627 続き
サガミハラハラさん本人じゃなく、どうやら「かたり」のようですね。失礼しました。
630プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/15(木) 07:43:24
>>622

>明帝の忌日と正月は合法的に分離


そうかな〜?
明帝の崩御は正月元日、すると命日は自動的に13ケ月後の当月当日になるんだけど
例え後十二月を設けても、それを飛ばし正始元年正月元日に行うのが正当。合法的に忌日と正月を切り離すには、詔の中に
(小祥月は殷正建丑)という一文がどうしても必要になってくるんだ
詔似て後十二月を設けても結局の所、このままでは正始元年正月元日に
朝賀と命日はダブってしまい、皇太后の意は無視された形になってしまう矛盾したムダな後十二月の設定と
631日本@名無史さん:2007/03/15(木) 07:56:51
NHKみたが両者のオナニーみたいな内容だったな
しかし九州説のほうは吉野ヶ里かと思えば平原がでてきたり
九州じゃない島根の遺跡だしてきたりと
どちらかというとアンチマキムク的な内容

素直にあの番組を見れば九州にあるんじゃないかと考える
俺が邪馬台国に興味を持ち出した時の感覚に似てる
なんにせよああいう番組を放送してくれて
古代史に興味もってくれる人が増えるのは嬉しい

でも九州人の投票の偏りには失笑しましたw
63216さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2007/03/15(木) 07:59:50
番組を見たので久しぶりの書き込みです。
近畿説のほうが僕は正しい気がしますね。
633プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/15(木) 09:54:37
>>630 の続きを語れば


正月元日に亡くなった人の命日は、例え法的にその年の十二月を三十二日に設定しようとも
翌年の正月元日に変わりがないと言う事
例えそれが
亡くなった日から数え(367日)目でも
634日本@名無史さん:2007/03/15(木) 10:14:36
>621
無粋だが、周船寺はスセンジと発音するから気をつけてな
635日本@名無史さん:2007/03/15(木) 11:08:23
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
636日本@名無史さん:2007/03/15(木) 11:51:09
九州説だが、NHKだと吉野ヶ里や平原が邪馬台国かよ…
いまどきそんな学者いるのか??
637日本@名無史さん:2007/03/15(木) 12:18:36
>>633
続きは専用スレでお願いします。
638カナカナボウシ:2007/03/15(木) 12:29:10
周船寺と漢字で書いた時はシュウセンジと発音していたからであるが、元々はスセンであり、
北部九州方言ではサシスセソはシャシィシュシェショと訛るのでスセンはシュシェンと訛るのでシュセンとなったのです。
639日本@名無史さん:2007/03/15(木) 14:28:26
あのNHK番組は、初心者番組だよ。
あんなの、九州説、畿内説の両方から
馬鹿にされるような内容だ。
どちらの説も確信については、全く触れていない。

まあ、邪馬台国論争に限らず、あの番組は
初歩的な薄い内容が多いから、参考にはならない。
640日本@名無史さん:2007/03/15(木) 15:41:47
つーかNHKの番組見た人間の投票で勝ったからって・・・

それってうれしいのか?
641日本@名無史さん:2007/03/15(木) 15:45:33
武光も九州説だね!
642日本@名無史さん:2007/03/15(木) 16:57:31
卑弥呼は処女妊娠をした。その子供がいよである。

歴史漫画ではこんな感じ
643日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:11:39
>>612
おいおい、大学教授だから、アマチュアでないって、正気かよw
特に安元なんて、専攻は文章心理学で大学ではもっぱら説得的な文章のかきかたについて講義してたんだろう?
日本史に関しては、ただのひとつも査読のある学会誌に投稿したことのないアマチュアだろうがw
それに比べれば、古田は、親鸞の研究に関してはいくらかアカデミックであったが、邪馬台国なんていうキワモノに突入してから、
中世史仲間からすっかり愛想をつかされ、ほぼ40年にわたってどの学界誌にも論文を載せたことのない、ただのトンデモだろうが。
644太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/15(木) 20:16:47
>>643
臥海のに載せた載せないで価値が決まるんではない。
古田先生の説は青森はどうだか?だが、トンデモではない。
645日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:17:43
>>524
>卑弥呼はお隣の崇神天皇に朝貢ているはず。


ハア? 九州説ってこんなやつばかりなの?w
646日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:19:55
>>644
査読のある学会誌にどれだけ載るかで学者の価値は決まります。
これは世界中の共通の基準です。
これをみとめないのはトンデモだけ。
647日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:27:19
>>531
>確かに当時の鋳造技術に関する科学的考察が欠けてるよな。
>むしろ鋳物イコール複製技術、ってことは故意にスルーしてるよな。

鏡に同じ鋳型で作ったのが何枚かあるのは別段古くから知られたことだが何か?
もちろん中国の紀年鏡でも事情は同じ。
だからといって、年号が実際に作られた年代をあらわさないなどとはいえない。
235〜244の紀年鏡が機内を中心に分布していることは、邪馬台国の時代の畿内が
大陸の年号と密接な関係を持つような状態だったことを意味する。
648太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/15(木) 20:29:29
>>945
よく内容を読め。卑弥呼の国が畿内にあるなら、朝廷が地図上ではお隣さん
ではないか。その隣に音なしの構えで卑弥呼側が朝貢しないでいるはずが
なかろう。ところが記紀には全くその交易、朝貢の記載が無い。

遥か遠方の半島の百済でさえもたびたび朝廷へ朝貢があったことが記紀を
眺めると知ることができる。それが近い近い畿内同士の天皇国と女王国双方が
朝貢したされたの記事がまるでない。なぜか?
この答えは、女王国が畿内にはなく、九州の日本版シルコ・ロードの交易路
から一寸はなれた、九州の奥まったある場所に女王国があったということを
意味しており、最も合理的な考えなのだ。
649太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/15(木) 20:31:38
>>646
お前は結論が極めて、新幹線より早い。
すぐに精神科へ行って脳内の治療を優先しろ。
650日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:36:58
>>248
卑弥呼が朝廷の人物だったらおなじ朝廷の人間に朝貢するわけないだろうが、
アホかよwww
651日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:39:20
>>649
おれは世界中で認められている事実を言っているだけだ。
事実を認めることができないお前のほうが精神科にいけwww。
652太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/15(木) 20:40:03
>>650
卑弥呼が朝廷の人物にはならない。もしそうなら、倭人伝の記事は女王国
でなく天皇国とかの記述になっている。www
653日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:42:13
>>648
じゃさ、235〜244の紀年鏡はどうして畿内中心に出土するの?
どんな空想が出るか楽しみ ワクワクwww
654日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:43:39
畿内厨〜っ
早くスレ立てて移動しろよ
655太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/15(木) 20:44:54
>>651
お前は例のコテ無パンだろう?w
まだ余にのされたいのか? 
精神科へ行く候補って、ス〜グこちらに行けだとか跳ね返す。ww
相当お前は重症だ。www
656日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:45:59
>>652
お前正気かよ、中国の史書は一度たりとも日本のことを天皇国などと表現したことはありませんww
そんなの何の根拠にもならないぜwwww
随書倭国伝だって、当時日本は女帝の国なのに「タリシヒコ」の国という男性名詞になってる。
もちろん古田はトンデモだよwwww
657日本@名無史さん:2007/03/15(木) 21:00:08
>>648
それはそうだろう。崇神は別名を「賢后」という。
神武のハツクニシラスは畿内の初国だ。
崇神のハツクニシラスは畿内の天皇でも九州王朝の初国だ。
さらに朝廷は崇神世に三種の神器の鏡を祀っている。卑弥呼を九州の
お妃(皇后類似)に相対して、崇神の御名に「后」の字が付くのだ。

だいたい半島から北九州にて、九州直行と畿内へとの交易品の通路が
分岐する。その関係で重要品目の鏡が畿内に入ってもおかしくはない。

景初元年は崇神元年(237年)だから、即位の直後で鏡が畿内に
来ているのだ。それを天皇が受ける受けないはまた別の話だ。
ハツクニシラスの『始』の字がなぜツクリが邪馬台国の『台』で、ヘン
が女王国の『女』なのか、そのへんを思考すると邪馬台国の謎を解く
カギになるのだ。
658太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/15(木) 21:00:55
>>657
コテハンが抜けました。太国です。
659太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/15(木) 21:04:29
>>656
トンデモ話はコテ無パン←お前がそうだよ。ww
天皇が女装するか〜?Pu! 日本武尊であるまいし、笑わせるるな。www
66016さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2007/03/15(木) 21:09:51
犬国さん、プラムさん、サガミさんまだこんなことをしてるんですか?近畿説で決着しているのに。倭人伝の記述は曖昧なのでまともに考えてても答えはでませんよ。状況証拠で近畿できまりです
661日本@名無史さん:2007/03/15(木) 21:10:25
>>657
>崇神のハツクニシラスは畿内の天皇でも九州王朝の初国だ。
ハア? 意味不明w
畿内の天皇だけど九州王朝??????。アタマダイジョウブデスカww

>卑弥呼を九州の
>お妃(皇后類似)に相対して、崇神の御名に「后」の字が付くのだ。

またまた意味不明。根拠は?ww

>だいたい半島から北九州にて、九州直行と畿内へとの交易品の通路が
>分岐する。その関係で重要品目の鏡が畿内に入ってもおかしくはない。

でも片っ端から畿内に入るというのはおかしいですね。
もし邪馬台国が九州なら、まさにちょうどそのころの中国との交流を示す235〜244の
紀年鏡は、北九州に集中的に現れないといけませんね。だって北九州こそが中国と交流したんだから。
畿内からでるのは、あくまで例外でなければならない。
はっきりいって235〜244の鏡が北九州から主に出土するのであれば、邪馬台国は北九州説が正しいのです。
デモ、残念ながらそうではありませんね。
考古学者さんはこれらの事実をよく知っているので、当然ヤマト説を支持するわけです。
きわめて自然なことでしょう。
それに引き換え、九州説はいうこいうことテンパ系のトンデモばかりw
662日本@名無史さん:2007/03/15(木) 21:12:25
ちょwww
太国ってこんな電波だったのかwww
663プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/15(木) 21:14:40
>>660 ヒッキー君お久し鰤

今まで何処にいたんだい?
664日本@名無史さん:2007/03/15(木) 21:30:04
いったい何年こんなとこにへばりついてるんですか?僕でさえもう朝から晩まで大忙しで働いてて本など読む暇もないというのに。みなさん正気に戻ってください
665日本@名無史さん:2007/03/15(木) 21:30:32
>>663
巣にカエレ
66616さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2007/03/15(木) 21:33:41
あっ名前入れ忘れました。巻向以上に邪馬台国に合致する場所はないですよ。昨日の番組は初心者向けで九州説優位に作られてますがね。
667プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/15(木) 21:44:33
>>666 ヒッキー君

>昨日の番組は初心者向けで九州説優位に作られてますがね。

『おかあさんといっしょ』バージョンだろう
668日本@名無史さん:2007/03/15(木) 21:51:43
昨日、ついに九州に確定したと聞いてきました。
669日本@名無史さん:2007/03/15(木) 21:53:55
>>658

太国もプラムもサガミも九州ですがも

揃いも揃って「コテハンが抜けました」とかいう

不良品のコンピュータを使っている点が不思議でならない
670日本史@名無しさん:2007/03/15(木) 22:14:51
>>643は馬鹿なの?
スレを荒らすなよ。
671太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/15(木) 22:17:44
>>660
ひとつの決まりはしない。九州で決着はついている。朝廷のお隣さんの女話が
日本の書たる記紀になく、とおいとおい半島のそのまた向こうの外国の倭人伝
に、わんさと女王国の情報が載っている。これを考察しただけで卑弥呼の国が
畿内にないことがわかる。遠方の大陸に届き、畿内からかけ離れて畿内に情報
が希釈されるべき位置に女王国があったと考えることが最も合理的なのである。

そうなると、卑弥呼の国は必然的に、日本版シルクロードたる

大陸→半島→対馬等→北九州→畿内

から一寸離れ、九州のいささか奥まった地域に女王国があったというが正となる。

お前はヒッキーさんのニセ者だろう。w
672太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/15(木) 22:29:57
>>661
お前はホントウに単純だな。倍暦から卑弥呼の時代は崇神世の前後である。
237年が景初元年となり、その数年後に天皇は鏡を御殿に祀ることから、
九州から畿内に重要品目として鏡が多数流入したのだ。三種の神器の一が
八咫鏡だからいかに朝廷にとって鏡が即位に重要だか解かるだろう。

そのために大陸からはるばる鏡が畿内入りしたのであり、即位の237年の
景初元年だから景初の鏡が畿内にあるのは当たり前であり、九州に当時
女王国があったのだから、そっちはそっちで景初の鏡が行ったことも確か
である。だから畿内の鏡は崇神天皇の御殿に祀るに準じたものであり、断じて
同じ景初と銘打ってても卑弥呼の鏡ではないぞ。
673日本史@名無しさん:2007/03/15(木) 22:44:15
↑お前みたいな偏向野郎がなんで古田説なんだよwww
674カナカナボウシ:2007/03/15(木) 22:52:13
倍歴、それも都合に合わせて2倍3倍を使い分ける説は、バカしか信じません。
水増しと考えるのが妥当でしょう。
675日本史@名無しさん:2007/03/15(木) 23:03:37
>>637

私の説明が拙かったので、主旨を読み取れない人がいるようだ。
申し訳ないが、少しだけ補足する。

改暦(暦法を改めること)は景初3年12月末をもって行われた。
翌月からは新暦であり、月名表示は一つ前にずれる(戻る)。
つまり、また12月1日を迎えることになる。
当然、誕生日などの標記もずれる。
旧暦1月1日生れの人は新暦では12月1日が誕生日となる。
命日もまた然り。
これが改暦の効果である。

この時、改暦と併せて改元(元号を改める)も行われていれば、
景初3年12月の次は正始元年12月と称することもできたのだが、
如何なる理由か改元だけは翌月に行われた。
正始元年がたった一月だけの年になるのが忍びがたかったのか。

故に景初3年12月が連続する不便を防ぐため、
新暦の12月は後12月と呼べと言うわけである。

先帝の命日を直接動かせなどと言う不遜な勅令も出さなければならないのなら、
もとより不便な改暦などする必要は無いのである。

明帝の命日はあくまでも正月元旦などと言い張る説は、
景初4年があったことにしたかった旧畿内説論者の妄言に過ぎない。
今どきの論者は畿内説だろうが九州説だろうが、
漢文が読めればそのようなことは言い張らない。
676プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/15(木) 23:35:59
>>675

建丑の月が巡ってきた時まだ殷暦が施行されていれば、明帝の忌日は建丑の月の月のまま,建丑の月が巡ってきた時にもう夏暦が施行されていたなら、明帝の忌日は来月
忌日つまり小祥忌は、1期=かぞえ13ヶ月目の当月当日だ。
閏月は計算に入れない。閏位にさた秦王朝が三統サイクルに入らないのと同じ,景初三年十二月が過ぎて後十二月になったのなら、
後十二月は「正の月」じゃなくて「閏の月」だから計算上飛ばされて夏暦の歳首正始元年正月が小祥忌になってしまうわけ。
だから、建子中公布かつ建丑朔施行を前提に考える以上は、詔に「小祥忌は建丑とする」というような文言がない限り、正月と命日は分離できない。
677日本@名無史さん:2007/03/15(木) 23:39:07
>>675>>676
プラム氏との議論は下記でお願いします。
誘導
【プさん】魏志倭人伝を読もう!【来るかな?】?@
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1172000417/
678日本@名無史さん:2007/03/15(木) 23:49:47
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
679太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/15(木) 23:51:34
>>674
古代人は現代教育を受けてないからバカだと観ても、あながち間違いではない。
古代人が現代的科学水準の高い暦法でやってたと信じるやつは精神科行き。w
現代の暦法=古代の暦法 というのがお前の哀れな脳内の考察だな。ww

暦は古黄泉であり、神代のキミ両神の黄泉の国での千五百の産室と千人絞殺の
宣言から、現代科学教育が0である迷信深い朝廷が考えだした凶事を避ける
縁起かつぎからの暦法であり、2倍暦3倍暦は

1500:1000=3:2

の比率に由来する。

お前の思ってる、古代人も現代の高水準の暦法でやっていたんだという
主張←Pu!は完全にしりぞけられる。www
680プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/15(木) 23:52:36
>>675

 夏歴で十二月一日の忌日は、改暦で殷正が採用されると、正月元旦の忌日になる。
しかし
 殷歴で正月元旦の忌日は、改暦で夏正が採用されても、正月元旦のまま。
681日本@名無史さん:2007/03/15(木) 23:53:12
九州の地元愛というか組織票が凄かったから近畿でいいや

でも卑弥呼って本当に実在してたのかな…
682プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/15(木) 23:57:36
>>677

>プラム氏との議論は下記でお願いします。

貴方が私の変わりに>>675氏とこの問題について議論すると言うのなら
喜んで移動するけど  どうなのかな?   変わり勤めますか?
683日本@名無史さん:2007/03/15(木) 23:59:16
>>672
2倍歴言ってるやつはバカばかり。
2倍歴だと、年号が明記されてある七支刀の年代と、日本書紀の編年は全く会わなくなりますねww
百済三書などを参照して書いた記事ともつじつまが会わなくなります。
要するに自分の都合に合わせて、2倍、3倍歴を主張しているだけのトンでも
です。

>九州から畿内に重要品目として鏡が多数流入したのだ。三種の神器の一が
>八咫鏡だからいかに朝廷にとって鏡が即位に重要だか解かるだろう。

九州がもらった鏡が、全て畿内に流れたというのは、不自然だと思わないかね。
全て畿内を中心に分布しているのなら、最初から鏡を受け入れたのは畿内の勢力であると考えるのがあはるかに自然。

>そのために大陸からはるばる鏡が畿内入りしたのであり、

ホウ、235〜244年の紀年鏡は、最初から畿内の朝廷の求めに応じて入ってきたと認めるわけだねww
じゃあ、間に九州の邪馬台国なんて考える根拠なんてないじゃんww
すなおに、邪馬台国がヤマトにあるから、その時代の紀年鏡がヤマトを中心に分布していると考えて、何の問題もないじゃんww
アンタ自分の言っていることがわかってるのかよ。
九州説って、その場限りの妄想ばかり繰り返してるから、しまいには墓穴を掘るんだよね。

684太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/16(金) 00:01:38
>>672 訂正

× 数年後     ○ 翌年(238年=景初2年)
685プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/16(金) 00:06:25
参考までに

ここに提示した詔書は斗建(北斗七星が指し示す方位)にもとづく月を基準に思考している。
斗建は暦を切り替える指標に使われている、忌日はあくまで暦日上のもので斗建には固定されない。

【改太和暦曰景初暦。其春夏秋冬・孟仲季月雖與正歳不同、至於郊祀・迎氣・[示勺]祠・蒸嘗・巡狩・蒐田・分至啓閉・班宣時令・中氣早晩・敬授民事、皆以正歳斗建為暦數之序。】・・・魏志明帝紀・・・

(太和暦ヲ改メテ景初暦ト曰ウ。其ノ春夏秋冬・孟仲季月ハ正歳ト同カラズト雖モ、郊祀・迎氣・
[示勺]祠・蒸嘗・巡狩・蒐田・分至啓閉・時令ヲ班チ宣ス・中氣ノ早晩・民事ヲ敬授スルニ至リテハ、皆正歳ノ斗建ヲ以ッテ暦數之序ト為ス。)

正始の改暦・改元の時も、正月以下各月がずれたけど、皇帝の祭祀以下民政まで、その日程はずれなかった。
そして、忌日の取り扱いも同じだったっていうだけのこと。
686日本史@名無しさん:2007/03/16(金) 00:06:43
>>682

私が貴方にお付き合いして移動するのが筋かもしれないが、
貴方が書いてくることは、私にはチンプンカンプンなので・・・
どこかの掲示板からコピって来てる様に思えますが、意味判って貼ってますか?
景初三年後12月が「閏月」なんて言ってる時点で話しは「お終い」かな。
じゃ、そう言うことで・・・・
687太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/16(金) 00:07:48
>>683
夜も更けてきた。明日以降反論してやる。
狭い畿内に天皇国と女王国が仲良くくっついていたというお前は
精神科医のいい餌食。www

倭人伝に女王国の周囲の国がうんと書かれてるが重要なる天皇国の記述が
ないのに、お前は女王国を畿内だとトンデモ考察をしているなぁ。www

zzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・
688日本@名無史さん:2007/03/16(金) 00:24:07
>>681
架空の女王を捏造することによって実利を得る者がいるならともかく、そういうことは考えにくいんじゃない。
取るに足りない弱小勢力なのに、いかにも力があるように見せかけて、魏の援助を引き出させようとした
ということはありうるかも知れないけど、それなら、郡からの情報も勘合して、取り合わないで門前払いじゃないかな。
689プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/16(金) 00:32:08
>>686

>どこかの掲示板からコピって来てる様に思えますが、意味判って貼ってますか?


二ヶ月ほど前、この問題について大和氏と議論したことを知らないみたいですね
かなりのレスを使い議論していますし
その内容の一部を抜粋しているからそう感じるのかも知れません。
記録はノートに書いてありますから  抜粋するのはかんたんです。

ただし、原文と訳はサイト利用ですが

この辺りの記述は以前徹底的に調べましたから


>閏月   

解りやすいように便宜上使用しています(実際の閏月は景初二年)
690プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/16(金) 00:40:25
>>686

>「お終いかな」

どうです 向こうのスレでこの問題を徹底的に議論しますか?
私もかなり謎の部分を残していますし、それに勉強にもなるし

多少プライドをかきたたされ、久しぶりにマジレスしてみたくなりましたので
いいですよ 何時までも付き合います
691日本史@名無しさん:2007/03/16(金) 00:58:14
>>689
うーん、お付き合いする気は無かったのだが、ヒントをいくつかサービス。

まずは、改暦と改元をごっちゃにしないこと、後十二月は「正の月」、改元していれば正始元年12月なんだから。
次に、もう一度、帝紀を読むこと、読めば解ることだが、詔勅で明帝の命日は動かなかった、動いたのは正月の方。
最後に、貴方の一連のコピペの素はYahoo!で見たことがあるよ、でもバラバラに貼っても意味はつながらないw

まあ、落ち着いてよ〜く考えてみなさいな。


692日本@名無史さん:2007/03/16(金) 06:30:10
>>691
お願いだ
移動してくれ
693プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/16(金) 06:39:26
>>691 おはよ

そりゃあそうだろう
狭い範囲の話題、しかも私の参考史料は各掲示板やサイトの使えそうな記事や情報を下地に組み立てられているから
しかし、理解しながらの記載だから コピペと言われても困る!
何度も読み返し筆写していれば内容は確実に似てくるよ
それが駄目だと言うなら

これからの発言は出来ないことに

ま、一夜漬け程度で扱える内容でないしね!


では。
694プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/16(金) 07:09:33
>>692

>お願いだ
移動してくれ


何故貴方が移動しない?
貴方が移動出来るように、スレ立てあげようか?


ま! 慌てるな
後少しの辛抱だ 時期居なくなる それまで待て
695日本@名無史さん:2007/03/16(金) 07:20:44
今や、関東でも近畿でも
日本全国的に見て
学会は畿内説で9割が固まってきている。
69616さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2007/03/16(金) 07:50:04
畿内に決まってるでしょ。もうオカルトチックなこんな作業にはまってないでまっとうに生きたらどうです?
697太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/16(金) 08:07:04
>>661
>紀年鏡は、北九州に集中的に現れないといけませんね

お前は読みが非常に浅い男だな。w

女王国が畿内にあろうと九州にあろうと、鏡は半島から対馬を経由して
北九州に上陸するのだ。そこで交易路は二分されて畿内と九州の奥、中部、南
へと向かう。海路を通って中九州の海岸から鏡が入ったりすることもあろうが、
そういうんでない限りは、鏡は必ず北九州の地を通って行く。

ところがお前の言い分だと、鏡が北九州から集中的に出ないといけない旨抜か
している。北九州は非常に行ったり来たりが激しい輸入品目とかの道筋であっ
て、そこで鏡等が停滞するわけがない。目的地ではないんだから、停滞しないで
鏡等が動いて進む北九州に鏡が出ないのは当たり前ではないか。w

それに金印で有名な奴国王は卑弥呼より時代がもっと古いから滅んだと観て、
当時北九州に王国がなくてもおかしくない。だから移動中の地域である北九州
に鏡が出ないのはこれ当たり前であり、お前の脳みそが上っ面しか捉えられ
ない程度の品物だということがいよいよもって想い知れる。ハッハッハ! ww
698日本@名無史さん:2007/03/16(金) 08:43:37
>>697
>王国が畿内にあろうと九州にあろうと、鏡は半島から対馬を経由して
>北九州に上陸するのだ。そこで交易路は二分されて畿内と九州の奥、中部、南
>へと向かう。海路を通って中九州の海岸から鏡が入ったりすることもあろうが、
>そういうんでない限りは、鏡は必ず北九州の地を通って行く。

それは、紀年鏡が最初から、畿内を目指して流入したばあいになりたつ論です。
お前が自ら墓穴を掘ったように、これらの鏡が畿内の朝廷の求めに応じて、はるばる大陸から流入したのなら、
邪馬台国は紛れもなく畿内にあるのであり、九州説が成り立つよりはありません。お前はこの点に全く反論できていないwww

お前の議論がいかにおかしいかを証明してやろう。お前の言い分が正しければ、邪馬台国は挑戦にあったということも成り立ちますねwww
なぜなら、鏡は必ず、朝鮮を経由するのであり、したがって朝鮮から1枚も出ないのはあたりまえだからである。
よって邪馬台国=朝鮮
こでがお前の論理wwwwww

あいにく奴国の金印は、ちゃんと奴国の領域内から出てきますね。
紀年鏡もその大部分は邪馬台国の領域内から出てくると推定されます、
235〜244の鏡は、畿内を中心に出土しています。これは何を意味するかwww
お前は自分の論拠になるかならないかを区別する能力もないのですね。池沼ですかwwww

699日本@名無史さん:2007/03/16(金) 09:01:09
>>697

>お前は読みが非常に浅い男だな。w

ワロス。お前は自分の読みが「深い」と思っているのかwww
それはお前が単に妄想を膨らませているだけじゃん。
世間で言うところの、トンデモです。
統合失調症は自覚症状がないそうです。病院へ行くことをお勧めします。
700プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/16(金) 09:04:35
>>698

邪馬台国だけが大陸に渡ったと考えてるのか?

しっかりと「晋書の帝紀」読んでみな
大陸への渡航は九州限定ではないから
701日本@名無史さん:2007/03/16(金) 09:13:33
533 :本当にあった怖い名無し :2007/02/25(日) 06:02:12 ID:KX4fnAsW0
卑弥呼が貰った金印がひょっこりと偶然発見されます。
それによって邪馬台国論争の最終決着がつきます。

541 :本当にあった怖い名無し :2007/02/27(火) 15:53:46 ID:0hO1Xkx0O
>>633
金印はどこで発見されるんですか
北九州?近畿?

544 :本当にあった怖い名無し :2007/02/28(水) 22:56:00 ID:sXGp9HyJ0
>>541
場所は畿内で発見されるでしょう。北九州では絶対に有りません。
これにより、238年前後の日本の様子も漠然と判明します。
志賀島の金印と同じでひょっこりと発見されます。

又、金印とは関係無い別件ですが、日本書紀の周甲もはっきりと判明します。
何故なら木簡が出土されるからです(木簡を解読すれば周甲だったのが明らかに)。
そして285年以前に既に日本に文字は有りましたよ。この事も確認されます。

時系列がばらばらですが、斐世清関係の木簡も出土されます。
702太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/16(金) 10:47:10
>>698
お前の女王国が畿内という精神病院行きの思いこみは、>>687の件で破折
される。お前はこの件に関して全く答えていない。
鏡は畿内からわんさと出ても全くおかしくない。いいか、害暦から実年代で

237年 景初元年 崇神天皇即位
238年 景初2年 天照大神宮成る 殿内に →【鏡】← を奉安、祭祀する
239年 景初3年 神功記の神功39年 倭の女王の朝貢云々の記事の年
240年 正始元年

この表を見れば、余の倍暦論が正解だったことがわかるし、なぜ倭の女王の
鏡が畿内から出るのか一目瞭然だ。つまり、お前の言う畿内から出る鏡は
崇神天皇の鑑の殿内安置に依っているのだ。断じて畿内の鏡は女王国卑弥呼の
鏡ではなく、別物なのだ。畿内出土の鏡は卑弥呼のと同一製作であっても、
卑弥呼へもたらされた鏡ではない。即位と鏡の奉安に依って、畿内周辺の者ら
取り巻きが、これに模して鏡を各々各自で奉安をやったのだ。だからいくら
でも出るよ、それはな。だから矛盾のように見えて矛盾ではないのだ。
かたや九州卑弥呼のほうはたかが百枚だ。それくらいじゃぁ出なくても
おかしくない。卑弥呼が鏡をうんと持っていたのなら、大陸から鏡百枚を
卑弥呼にあげても卑弥呼は喜ばない、いたって少ないから卑弥呼側に鏡が
もたらされたわけである。

フフン! >>687は何と答えるんだ? しかと説明しろ。
できないんだろう?www
703太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/16(金) 10:48:44
>>702 訂正

× 害暦    ○ 倍暦
704日本@名無史さん:2007/03/16(金) 12:03:11
これから金印を造るとしたら銘文は、漢の倭の邪馬台国王になると彫るのに
705日本@名無史さん:2007/03/16(金) 12:41:34
>>694
いやだ いつまでもこのスレにいてくれ
706日本@名無史さん:2007/03/16(金) 13:07:41
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
707日本@名無史さん:2007/03/16(金) 17:21:40
島根で見つかった
景初三年の鏡について
どう思う?
708日本@名無史さん:2007/03/16(金) 17:22:18
関西ローカル NHK・今夜8時
「兵庫特集 新・兵庫史を歩く」
川風そよぐ古墳の道・加古川
神話が伝わる日岡の地
西条古墳群
70916さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2007/03/16(金) 19:06:26
邪馬台国=大和国
この一言ですむことをみなさんいつまで延々と話してるつもりですか?
710日本@名無史さん:2007/03/16(金) 21:24:59
地球の回転が止まるまでやりますよ
711日本@名無史さん:2007/03/17(土) 01:10:52
>>702
>お前の女王国が畿内という精神病院行きの思いこみは、>>687の件で破折
>される。お前はこの件に関して全く答えていない。

バカかお前はwwww
畿内政権であれば「天皇国」と呼ばれるはずなどというお前のほうが妄想丸出しだろうが
おい、基地街よ。中国の史書で畿内政権が一度でも「天皇国」と呼ばれている例を挙げてみろや。
そんな例はひとつもないだろうがwwwww

>237年 景初元年 崇神天皇即位
>238年 景初2年 天照大神宮成る 殿内に →【鏡】← を奉安、祭祀する
>239年 景初3年 神功記の神功39年 倭の女王の朝貢云々の記事の年
>240年 正始元年

>この表を見れば、余の倍暦論が正解だったことがわかるし、

正気かよwwww
これもまたうそばっかりですなwww
崇神天皇元年が237年に当たるというのも勝手な妄想だが、仮に百歩譲って認めてやるとしようwww
すると、卑弥呼の記事がのっている神功39年は崇神元年から142年後であり、お前の言う2倍歴に従うと、半分の71年後であり、
西暦308年に当たる。つまり全く卑弥呼の時代と会わない。
さらに、お前のいう2倍歴によると七支刀が百済からきた神功52年は崇神元年から155年後であり、2倍歴説によって半分にすると78年後となる。
つまり西暦315年と成る。
あれえ、七支刀って泰和4年(369年)の年号が刻まれてるんじゃなかったっけ?wwww
なんと未来の年号が刻まれてるよwww
タイムマシンでもあったのかなあ???? 2倍歴ってほんとうにすごいなあ。時空をワープさせる力があるんだもん。


大国って、ホントにバカ丸出しだねwwww  九州説って、こんなレベルのやつばっかり。
712九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/17(土) 03:42:54
要するに太国さんは畿内に女王国と古代の天皇が並立してははずはないということを
年号の矛盾点、又、お互いの文献や、伝承に何も残ってない事をあげて前から指摘している、
ということでしょう。畿内説で主張する人がいたが僕もその答えを聞いていないので
是非聞きたいと思っている。卑弥呼が死んだのが248年とされるから
その時点で畿内に大和朝廷がいたとしたら戦いになるか、もしくは縁戚関係を結ぶかして歩み寄るか
いずれにしても何らの史実、伝承として残されている筈だと。
713日本@名無史さん:2007/03/17(土) 07:34:01
天孫降臨の地=日向
であるが、日向(宮崎)≠邪馬台国

記紀に神武東征の記述=大和朝廷の祖は九州
であるが、大和朝廷の祖は九州≠邪馬台国

九州説を論じる場合、@福岡県みやま市、A福岡県朝倉市、
B福岡県北部、C大分県宇佐市、D佐賀県吉野ヶ里町、
E宮崎県日向地方、F熊本県菊池郡山門、個別の比定地説を
述べてから、意見を言うべき。

九州説諸氏は、邪馬台国≠畿内説であれば、
邪馬台国=九州のいづれか
とのことで、何だかなあと思う。
714サガミハラハラ:2007/03/17(土) 07:47:56
九州説を論じる場合、小城説もお忘れなく。
715プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/17(土) 09:12:52
九州には西の倭が、本州には東の倭があり、それぞれ独自に魏時朝貢していた。しかし、魏の使官が往来していたのは
西の倭(邪馬台国)
716日本@名無史さん:2007/03/17(土) 11:06:39
卑弥呼=百襲媛命

卑弥弓呼=武埴安彦命

これでOK
717日本@名無史さん:2007/03/17(土) 12:47:02
>>715
私も同じ解釈です。また北の倭が中国東北部、南の倭が海南島周辺
718日本@名無史さん:2007/03/17(土) 15:54:07
記紀か倭人伝のどちらかがウソを書いてると思いま  すかせんか
719愛知県民:2007/03/17(土) 16:00:12
>>709
私もそう思いますが、卑弥呼は誰かという問題が残っています。
孝霊天皇妃「意富夜麻登久邇阿礼比売命」
「夜麻登久邇」=邪馬台国、「比売命」=卑弥呼
孝霊天皇皇女「夜麻登登母々曾毘売命」
「夜麻登」=邪馬台、「登母」=台与
720愛知県民:2007/03/17(土) 17:13:01
今週は荒れたみたいですね。
日本書紀によると、壬申の乱で「神武天皇陵」に馬・種々の兵器が奉られています。
その壬申の乱では箸墓も「箸陵」として戦勝記事に登場します。
ここから考えると、箸墓にも後世、馬や馬具が奉られたことがあったとしても
不思議ではないと思います。

NHKの番組は見ていませんし、投票もしていません。
「なんとなく九州説」「九州のどこか説」は学説とは言えません。
「邪馬台国は何県にあったか?」と質問すれば、「九州説」は七県に分裂するでしょう。
畿内大和説と「九州説」を比較すること自体が間違いだと思います。
721日本@名無史さん:2007/03/17(土) 20:29:07
>>715
九州の邪馬台国とは別に東の倭が魏に朝貢していたなんて証拠はどこにあるの?
722プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/17(土) 20:57:54
>>721

正始元年春正月 東倭重譯納貢焉耆危須諸國弱水以南鮮卑名王皆遣使來獻

・・・・・(晋書 帝紀)・・・・

これをどう見るかは各個人の判断に委ねます

723九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/17(土) 22:05:08
>>715プラムさん
東の倭とは四国とお考えですが?朱儒国だったっけ。
724プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/17(土) 22:36:52
>>723 九州ですがさん

>東の倭とは四国とお考えですが?朱儒国だったっけ。

いいや。 日本の中心(本州)だよ
出雲や畿内から大陸製出土物が出てもな〜んにも不思議じゃない
しかし、九州と比べて種類が若干足りないのは、正式な交易権利持ってないから
魏王朝の正式な相手国は『西の倭』
例え『東の倭』がお土産持参で営業しても、国交持つわけにはいかんだろう
朝賀や祝賀の挨拶に来ても お土産持たせて丁重に帰国させるだけ
725日本@名無史さん:2007/03/17(土) 22:42:04
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
726日本@名無史さん:2007/03/17(土) 22:58:33
>>725
どうかしましたか?
727日本@名無史さん:2007/03/17(土) 23:06:34
>>726
おうちの電子炊飯器が不良品なので、おいしいご飯を食べてないんと違うか
728日本@名無史さん:2007/03/17(土) 23:30:43
>>722
しかし、晋書も、魏志倭人伝も、西倭と東倭がそれぞれ遣使朝貢したとは書いてないよね。
2つの書物から推定すれば、常識的には東倭=邪馬台国になるんじゃないの?
おまけに紀年鏡も畿内中心に出ているわけだし。
729サガミハラハラ:2007/03/17(土) 23:40:22
>>728
西倭と東倭が存在したとすれば西倭が邪馬台国でしょう。
東倭が邪馬台国というのは考えにくいです。
西倭と東倭という区別なく、畿内が邪馬台国という説なら分かります。


>しかし、晋書も、魏志倭人伝も、西倭と東倭がそれぞれ遣使朝貢したとは書いてないよね。
これには同意です。西倭と東倭が存在したというのは、妄想の域を出ないです。
730プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/17(土) 23:49:05
>>728

>しかし、晋書も、魏志倭人伝も、西倭と東倭がそれぞれ遣使朝貢したとは書いてないよね。

書いてないよ
書く必要もないし

>2つの書物から推定すれば、常識的には東倭=邪馬台国になるんじゃないの?
おまけに紀年鏡も畿内中心に出ているわけだし。

それは読み手が判断するところ  しかし、
紀年鏡と邪馬臺國の関係なんて何処にも書いてないけど
731愛知県民:2007/03/18(日) 00:17:59
「女王国の東、海を渡ること千余里にして復た国有り。皆倭種なり」
と魏志倭人伝にあります。
おそらく、伊勢湾の向こうの愛知県。
魏に朝貢はしていないと思われます。
732日本@名無史さん:2007/03/18(日) 03:00:45
>>731
伊勢湾では海は渡らないな。せいぜい水行というところ。
倭人伝を読むと、船でしか行けない場合に「海を渡る」を使っていると思う。
733愛知県民:2007/03/18(日) 08:25:16
>>732
神島など伊勢湾口の島と見てもよいが、「遠絶」の世界の話であるから
間違ったと考えてもよいでしょう。
末盧国以後の方位さえ大きく間違っていますから。
魏使(あるいは帯方郡使)は伊都国まで行ったと思われているようですが、
私は里数が記載されている不弥国(宗像)までは行っていると思います。
734九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/18(日) 10:05:30
>>733
だから間違っていませんてば、大幅には。当時磁石もあるんだから。
735愛知県民:2007/03/18(日) 10:24:45
>>734
玄界灘に臨む北九州の海岸線を見ると、どう見ても
唐津湾→糸島半島→博多湾と、東北方向ですね。
東南の方角は90度誤り。
博多湾→宗像は北で、「東行」も90度誤り。
よって、その次の「南」も90度誤りと推定。
736九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/18(日) 10:26:55
>>734続き
その手合いは何度も言ってるが、第一末盧国の何処と伊都国の何処を結んで方向を出してるか魏使に聞かなきゃ解らない。
おおよそのクニの範囲を位置づけている可能性が高い。現在判明している遺跡だけを末盧国、伊都国と決め付け、方向を出すのは間違っていると思う。
倭人伝の人口からして、もっと遺跡は探せばあるはず。でないと人口そのものが見直すしかなくなる。
737日本@名無史さん:2007/03/18(日) 10:57:49
浮世絵とか日本の美術品が多くアメリカにあるので日本はアメリカにあったと言うのですか。
738日本@名無史さん:2007/03/18(日) 10:58:56
>>729
>西倭と東倭が存在したとすれば西倭が邪馬台国でしょう。

それはいえないよ。魏志によれば239年から240年にかけて邪馬台国の使者が魏に滞在したことがわかるし
晋書によれば東倭が240年正月に朝貢したというのだから、二つの書物からは明らかに邪馬台国=東倭という解釈が自然です。
残念ながら西倭=邪馬台国という解釈はどうやっても出てきません。
739日本@名無史さん:2007/03/18(日) 11:03:50
>書いてないよ
>書く必要もないし

おやおやw晋書の記述を根拠に、邪馬台国とは「別に」同時期に東倭が魏に遣使したと主張しているのはアンタでしょ?
二カ国の朝貢を書く必要は大有りしゃないかじゃないか?ww
そうじゃないとアンタの説は妄想ということになるよ。
740愛知県民:2007/03/18(日) 11:04:05
>>736
末盧国の遺跡が何処で発見されたら、東南→東南で博多に着くのでしょうか。
どう見ても有り得ないと思いますが。
741日本@名無史さん:2007/03/18(日) 11:17:20
晋書は昔から九州説の人たちがひた隠ししなければならない有名な記述なんだよなw
742プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 11:31:26
>>741

何故隠さなきゃならん?

九州説にしたら
これほど美味しいネタはないよ
743日本@名無史さん:2007/03/18(日) 11:50:47
>>742
そんなこと言ってる場合じゃないだろ。
>>739>>740に答えなきゃ。
それには反応せずに、>>741のようなどうでもいいのに反応しているということは、
客観的に論破されているとしか言いようがない。ほら急げw
744日本@名無史さん:2007/03/18(日) 11:51:45
>>738
もね。
745九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/18(日) 11:52:58
>>740
マツラ国というのは小さな島々が殆どを占めるクニで、倭人伝にも
「マツラ国に着く」とあり、その後、「陸に上がって」となっている事からも
九州上陸はマツラ国に到着した後の事であろう。
従い、九州上陸前にマツラ国に着いたと言っているのであり、そこから伊都国は東南方向にあったのである。
これは必ずしも前原の平原遺跡を指しているのではなく、伊都国がマツラ国の東南に位置していたことを意味する。
奴国は人口の多い大国であり、国土も比較的に広かっただろうと思われる。
板付遺跡など南部に古くからの人の営みがあったことを考えれば、奴国の当時の中心は大宰府のかけての地域にあったのではないだろうか。
そうすれば東南方向というのもうなずける。
746日本@名無史さん:2007/03/18(日) 12:00:21
九州を一周したので行きやすい行程をえらんだわけで、海がいいなら海陸がらくらな陸を行った
だけでどちらでもよかった。
747プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 12:22:06
>>739

イレギィラー的に派生する訪中行為を書き記す意味のなさは
当該対象記録(魏志倭人伝)が『今使訳所通三十從』でも判るように、正式交易国に限定されたものだからだよ
晋書の場合『正始年間』は現当該王朝とは別の、過去の記録だから
魏書に書かれなかった魏時の補足的意で記録したと読める。
それが(東倭)という異例の記述のしかただよ   
(東倭)の文字は その対的な位置に(西倭)を意識するからこその記述の仕方

748日本@名無史さん:2007/03/18(日) 12:35:26
歴史年表地図・邪馬台国所在地推定地図
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34007829.html


749プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 12:40:44
>>746

>九州を一周したので行きやすい行程をえらんだわけで、海がいいなら海陸がらくらな陸を行った
だけでどちらでもよかった。

九州一周と官使が女王の都を訪れる行為は別物
九州一周はあくまでも規模調査
女王の都までのコースは 残り約1500里を考えれば、そちらのコースを選択案内されるであろうことは
例え想像の範囲でも道理として十分通用する考察範囲

750日本@名無史さん:2007/03/18(日) 12:48:47
>>プラム ◆TOfHBAKZgM
>>プラム氏にレスをつけている方
本格的に議論されるなら移動をお願いします。
プラム氏専用スレができた経緯をよく考えて下さい。

排除の意図はありません。棲み分けは2ちゃんの基本です。
よろしくご理解お願いします。
751プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 12:49:55
>>745

>マツラ国というのは小さな島々が殆どを占めるクニで

書かれていない
752愛知県民:2007/03/18(日) 13:13:28
>>745
>「マツラ国に着く」とあり、その後、「陸に上がって」となっている

そうは書いてないですよ。
「東南陸行五百里、伊都国に到る」ですから、末盧・伊都は陸続きです。
どう見ても、唐津湾の南岸から北東に歩いているはずです。
753日本@名無史さん:2007/03/18(日) 14:09:05
230:プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/02(金) 09:34:41
【漢字から見た魏志倭人伝】

《末盧⇒伊都:北東の謎》伊都を現在の糸島半島近辺と仮定した場合、先ず最初にこの(北東)ラインの謎が残ります。
では、

@まず、右下がり(北西から東南に向かって)の、線A→Bを引きます。
Aその線A→Bに対し右側に平行な線C→Dを引きます。
Bその横に並んだ平行線A→B C→Dに 点Bから点Cに向かって 点BC で結んでやると

線B→Cは 北東に伸びる線になります。
これが(北東)の謎の実態です。

A=末盧のみなと
B=到伊都国
C=伊都の中心的な地
D=奴の中心的な地
231 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/02(金) 09:49:06
【漢字から見た魏志倭人伝】

西から東側へ、東南に伸びる二本の線を文章で説明し、敢えて書かなくとも 北東のラインを描き出す
同時に、その三本のラインは、
右下がり→右上がり→右下がりとなり、海岸線の地形を概略的とはいえ実に良く文章表現されています。
《注》(これはあくまで読み手のセンス次第ですが)
少なくとも
私にはそう読めます。
この場合、末盧、伊都、奴が何処にあろうと関係なく、
西から順番に
末盧→伊都→奴 と、配置されていることが 肝心なだけです。
754日本@名無史さん:2007/03/18(日) 14:12:30
>>747

>晋書の場合『正始年間』は現当該王朝とは別の、過去の記録だから
>魏書に書かれなかった魏時の補足的意で記録したと読める。

全く根拠になっていませんが何か。
いったいどこに、「これは魏志の補足である」とかいてあるんですか。
もし晋書が邪馬台国のほかに東倭というものを認識したのなら、
はっきり両国を並べて書くはずですね。だって独立した書物なのだから。
755日本@名無史さん:2007/03/18(日) 14:20:59
もし、晋書が魏志倭人伝の補足だというのなら、
そうであることを文中に明記してあるのはもちろんのこと、
晋書には「魏志倭人伝にのっていないこと」が主に記されていなければ成りません。
実際には「使訳通ずるところ30国」の文も「卑弥呼」も載っていますから、
要約であっても単なる補足なんかではないのです。ただし邪馬台国の名はなく、かわりに東倭の名が出ているわけです。
これはとりもなおさず、邪馬台国=東倭であることを物語っています。
プラム氏は自己に不利な点をごまかすために、都合が悪い部分を「魏志の補足」であるとごまかしているにすぎません。
756プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 14:25:52
>>754

>もし晋書が邪馬台国のほかに東倭というものを認識したのなら、
はっきり両国を並べて書くはずですね。だって独立した書物なのだから。

これも主観の範疇ですね
両国を並べて記載して欲しいという貴方の願いであって願望に過ぎません
独立した書物だからという見解も、この並べて書くはずの理由にはなりません
独立した書物は並べて書かなければならないという決まりはありませんから
757日本@名無史さん:2007/03/18(日) 14:33:36
>>756
いいえあんたがおかしい。
だってあんたの見解だと晋書読んだだけじゃ邪馬台国の存在は認識できないことになるじゃんかよwww
実際は邪馬台国=東倭だから晋書には邪馬台国の記述が出てこないと考えるほうがはるかに自然です。
758プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 14:33:41
ここで大事な事は、相手の意見を否定する事ではなく、『東倭』と記載された
明確な見解を提示する事
最近この話題が議論されなかった事を考えると、この『東倭』に対する
意見を出し合い、それから各自の疑問個所を述べるべきです。
常に話題に上る話題ではないことを考慮ください。
759日本@名無史さん:2007/03/18(日) 14:39:56
>>754
晋書っていうのは、晋王朝の歴史を記した書物だけど、
歴史には流れがあるからその王朝だけを輪切りにしても理解しずらいと言うことで
前王朝からの流れを書いて説明しているとプラム氏は言いたいんだと思うよ。
そして、それはわざわざ上記のことを本文に載せる必要はないでしょ。
また後漢書鮮卑伝に<於是東撃倭人國>の文も見える
これもまた東の倭国かもね。
760プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 14:40:15
>>757

>いいえあんたがおかしい。
だってあんたの見解だと晋書読んだだけじゃ邪馬台国の存在は認識できないことになるじゃんかよwww
実際は邪馬台国=東倭だから晋書には邪馬台国の記述が出てこないと考えるほうがはるかに自然です。


それは逆
魏志倭人伝があるからこその『東倭』です  晋書も(倭人伝)ですから


>晋書読んだだけじゃ

なぜ晋書だけ読むのです?  少なくとも漢書から読めばいいでしょ?矛盾してますよ
761日本@名無史さん:2007/03/18(日) 14:45:43
>>757
議論する相手にあんたなんてあなたは議論する前に言葉遣いをもっと常識的にしなければならないのでは?
そんなけんか腰では議論になりませんよ。
プラム氏の紳士的な言葉遣いとは大違い。それでは罵倒するのが目的と取られてしまいますよ。
762日本@名無史さん:2007/03/18(日) 14:46:19
>>760
要するにプラム氏の見解は

魏志倭人伝には邪馬台国しか載っていない。
晋書には東倭しか載っていない。
しかも両国は同時に魏に朝貢している。

こんなナンセンスなことを言っているに過ぎない。
まあ、古代史を推理小説か暗号と勘違いしている人はこんな妄想で満足しているんでしょうが、
不自然のきわみである。
763プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 14:47:34
>>755

>もし、晋書が魏志倭人伝の補足だというのなら、
そうであることを文中に明記してあるのはもちろんのこと、
晋書には「魏志倭人伝にのっていないこと」が主に記されていなければ成りません。


貴方の願望を記載してもらっても困ります。
それに、補足と明記しなければ成らない理由はなに?

>プラム氏は自己に不利な点をごまかすために、都合が悪い部分を「魏志の補足」であるとごまかしているにすぎません。

私はこの研究にて生活しているわけでも、著書を出版しているわけではありません。
不利な点をごまかさなければならない理由なんてありません。
何か勘違いされてはいませんか?
764プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 14:51:47
>>759

>晋書っていうのは、晋王朝の歴史を記した書物だけど、
歴史には流れがあるからその王朝だけを輪切りにしても理解しずらいと言うことで
前王朝からの流れを書いて説明しているとプラム氏は言いたいんだと思うよ。
そして、それはわざわざ上記のことを本文に載せる必要はないでしょ。
また後漢書鮮卑伝に<於是東撃倭人國>の文も見える
これもまた東の倭国かもね。


否定出来ない以上十分に、議論のテーブルにのせる価値はあります。
765日本@名無史さん:2007/03/18(日) 14:56:08
>それに、補足と明記しなければ成らない理由はなに?

そんなの当たり前だろう。晋書を読んだだけでは、「卑弥呼」の存在とその時代に存在した「東倭」しか読み取れないからだ。
晋書を読んだから単純に「卑弥呼は東倭の女王」という認識になってしまう。
プラム氏のいっていることが正しいなら、必ず、晋書には「卑弥呼の統治する邪馬台国」と「それとは別の東倭」が認識できるように書かないとおかしいではないか。
766プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 14:58:48
ここまでの幾つかのやり取りでも判るように、私への反論は多数提示される
ものの、一向に自らの意見や正しい見解を書き記したレスは無い(残念なことです)
767日本@名無史さん:2007/03/18(日) 15:01:17
>なぜ晋書だけ読むのです?  少なくとも漢書から読めばいいでしょ?矛盾してますよ

あのさあ。古代の中国に史書を編んだ人は、あんたたちみたいに謎解き古代史研究家を想定して書いたんじゃないぜ?
図書館の涼しいところで23史が活字になってすぐにでも手に取れるようなところいる人を読者として想定したわけではないw
晋書ならば晋書だけで、おおよその要約ができるようになってないとおかしい。
晋書をよめば、あきらかに卑弥呼の時代に東倭が魏に朝貢したという風に読める。
あきらかに邪馬台国のことを東倭と表現したのである。
768一応九州王朝説:2007/03/18(日) 15:07:37
東方にある倭国ではいけないんですか・・・?
北宋、南宋とかとおんなじで。
769プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 15:07:51
>>765

>そんなの当たり前だろう。晋書を読んだだけでは、「卑弥呼」の存在とその時代に存在した「東倭」しか読み取れないからだ。
晋書を読んだから単純に「卑弥呼は東倭の女王」という認識になってしまう。


それは貴方が読めないのであって、それを全ての認識とするのは・・・・・・?
それに、魏王朝から晋王朝の関係を考えるからこそ、この文言が晋書に書かれてある重要性かと
一見独立しているように見える両書ですが、両時代の流れ、同じ倭人伝

770日本@名無史さん:2007/03/18(日) 15:16:04
>>765
三国志では、女王国に従わない倭種の国があると記してあるから、いいんじゃないか?

また後漢書でも邪馬台国連合とは別の倭国も記されているしね。
771プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 15:16:08
>>768 一応九州王朝説 さん

>東方にある倭国ではいけないんですか・・・?
北宋、南宋とかとおんなじで。

東夷伝に記載されていますから『東』に位置するのは当たり前では?
単に『倭』で十分ですよ
『東京』は、西の京を意識しているから『東京』なんでは
772日本@名無史さん:2007/03/18(日) 15:17:07
>>768
南宋・北宋は支配領域が変わっただけで両国が並立していたわけではないよ
773770:2007/03/18(日) 15:18:59
晋書の話だった。とんちんかんなレスしちゃってゴメンね。
774九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/18(日) 15:34:10
>>752「唐津湾の南岸から北東に歩いているはず」

なぜ上陸が唐津湾の南岸なのでしょう。そんな証拠は無いと思う。
壱岐からマツラ国までは「至」であり、マツラ国から「陸行」となっていて
ここで上陸していることは「渡一海千餘里至末盧國有」となっており、ここには「陸行」
の文字が無く、「東南陸行五百里到伊都國」で初めて陸行の文字が見えることから明らか。
また、陸に上がって東南、では無く、壱岐国から見て東南方向と考えるべき。
当時は北極星で方角を判断していた。
さらに当時と現在では地形も違い、地名が全く同じ場所を指すとは考えられないこと。
などから「唐津湾の南岸から北東に歩いているはずです」ではない。
なお、マツラ国と伊都国は地続きは当然のこと。多くの島々もマツラ国であったため、
上陸前にマツラ国に着いたといっているもの。

775日本@名無史さん:2007/03/18(日) 16:05:11
公孫氏が魏に滅ぼされたのが、景初二年。帯方郡が魏の支配下に入ったのも
景初二年。卑弥呼の元にその知らせが届き、難升米を派遣して帯方郡についた
のが景初三年の六月。難升米らが魏の都に着いたのが景初三年の十二月。

晋書に、正始元年に朝貢と書いてあるのは、これを指している。
だから、「東倭」の東は倭の形容詞だと思う。つまり、「東においては倭
が…」という意味で「東の倭」と書いたのではないかと思う。

>>774
深く考えずに、素直に考えれば、奴国は佐賀平野付近。
それで方向は全て合うし、何の無理もない。
776プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/18(日) 16:46:46
>>775

この『東倭』の名称は、後にも先にもこの晋書帝紀に一回こっきりという
大変珍しい記述であることを認識ください

>、「東においては倭
が…」という意味で「東の倭」と書いたのではないかと思う。

記載基点は洛陽、しかも地理志ではない帝紀。『東韓』の書き込みがあれば別ですが

777日本@名無史さん:2007/03/18(日) 18:39:06
倭は中華の周りにいっぱい有ったので区別する必要がありました
778日本@名無史さん:2007/03/18(日) 21:39:34
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
779大林賢栄:2007/03/18(日) 21:48:49
こんにちは
東広島から頑張っています!
780日本@名無史さん:2007/03/18(日) 22:13:41
公孫氏だろ
晋書にあるじゃん
781九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/18(日) 23:55:36
僕は、九州王朝論に比して邪馬台国論の詳細については関心が少ないのですが、
興味深く下記のブログを読んでおります。
下記ブログについての皆様のご意見やご存知のことをお聞かせください。ご本人の意見も含みます。

「邪馬台国ここにありき」
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/c/44f1c93e61b86d8d40bcee7ef5e1d6fa
782日本@名無史さん:2007/03/19(月) 00:26:06
邪馬台国は徳島
783日本@名無史さん:2007/03/19(月) 01:10:14
みなさんに、お尋ねいたしますが、


邪馬台国は九州でしょうか。畿内でしょうか。それとも、他地域でしょうか。


それだけでも、まず教えて下さい。

784日本@名無史さん:2007/03/19(月) 01:39:21
>>783
結論は出ていません。
785日本@名無史さん:2007/03/19(月) 02:00:49
>>783
安直に人に訊いたりしないで
自分で考えましょうね。
勉強になるよ、ガンバッテね
786日本@名無史さん:2007/03/19(月) 09:38:15
つりかも
787フリージア:2007/03/19(月) 10:03:33
邪馬台国は北部九州です。これは自信を持っていえます。
邪馬台国の件は文献上のことならかなり正確にお答えできます。
次の質問をどうぞ。
788尋ね人:2007/03/19(月) 10:17:11
>>787

フリージア殿
なして魏志倭人伝に書かれている里数は、大陸側に書かれている里数より短めに感じるの?
789日本@名無史さん:2007/03/19(月) 10:52:45
どこでも良いけど、生きてる間に発見されると良いな。
790月光仮面:2007/03/19(月) 11:32:34
卑弥呼は記紀でもっとも古そうである、崇神紀にも倭人伝に対応するイベントがない。
しいて言うなら、百襲姫、豊鍬入姫程度。しかし、もう一代前の開化天皇は短命であり、
神代の天雅彦と名前が似ている。天雅彦は記紀から見ると暗殺の感じ。これは卑弥呼
死後、直後に男王を立てたが国中服せずと話が合う。又、掖邪狗は弥彦神と名前、行動
が似ているが、大毘古 と同一視される場合がある。このことは、卑弥呼の死後に大きな
政治変動、共立革命に対する反革命ともいえる狗奴国の倭国連合復帰を伴う異変が
発生し、崇神政権は前政権の歴史のうちで狗奴国に不都合な部分を抹消せざるを
得なかったのではないかとも考えられる。こうして見ると、百襲姫の妹トト姫辺りが
百襲姫とオーバーラップしているのかなとも考えられるがね。どうだろ。
791月光仮面:2007/03/19(月) 12:43:24
しかし、崇神は、百襲姫、開化と血縁にあったものの、熱田神宮近辺に中心を持つ
東海・甲信越連合狗奴国からの
(1)八咫鏡の宮中からの撤去
(2)共立女王トト姫は地祇、大物主を祀らせる
等の要求が突きつけられ、崇神がこれに屈し、姫が抗議し謀殺されたのではないか。
しかしこのほかにも海部系の強い葛城地方豪族の伊都国シマ駐在、一大率、等の
要求が出され、銅鏡流通経路に東海と大和をつなぐ椿井大塚山古墳被葬者が
介入してくるのではなかろうか。
792フリージア:2007/03/19(月) 13:39:05
お答えします。
はるかに道を計りながら歩いている人の姿がみえます。彼らの尺は周尺です。
周尺では1里は67.5mです。ですから魏大の1里四百数十mよりぐっと短いのです。計った人は、古代朝鮮の人達で、彼らは周の文化の影響を受け、その尺をつかっていたのです。
それが、漢にわたり、陳寿の目にとまったのです。
陳寿はそれが周尺であることに気がつかず、そのまま倭人伝に記載したのです。
これがお答えです。
793日本@名無史さん:2007/03/19(月) 13:45:05
>>792
倭人里は55mです。
古墳間の測量にも使われた形跡があります。

と、トンデモ本で読んだが俺は支持する。
794尋ね人:2007/03/19(月) 13:53:58
>>792

文献に大変詳しいフリージア殿
周尺を使ったり、朝鮮の人達が測ったり、それは文献の何処を読めば書いてあるのですか?
795日本@名無史さん:2007/03/19(月) 15:44:01
大林君のレスばかり並んでいるねW
大林君のレスは特徴がはっきりしてるからねW
796日本@名無史さん:2007/03/19(月) 16:04:08
>>795

>>792は、古田節かサガミハラハラ節
>>793は、典型的な加治木節
797sage:2007/03/19(月) 16:21:42
1神宮皇后、2倭姫、3倭トト日百ソ姫、4天照大神、が卑弥呼と伺いましたが違いますか?あと最有力はだれなん?
798日本@名無史さん:2007/03/19(月) 17:16:03
卑弥呼は女王であり倭王だから、地位としてはトップにある。
魏の皇帝からの詔書も卑弥呼に向けて書かれていて、「親魏倭王・卑弥呼」
となっている。
天皇がいて皇太子もいるのに、皇女に対して魏の皇帝がこのような文書を
書くはずがないということで、倭迹迹日百襲姫と倭姫は考えられない。

神功皇后は時代が合わない。

となると、卑弥呼としてふさわしいのは天照大神か九州の女酋ということに
なる。天照大神としたら東遷説が妥当だし、女酋としたら九州王朝説と
いうことになる。どちらにしても畿内説は消える。

>>792
旅をする人が距離を測りながら移動するというのはどんなものかな。
それに、海の場合はどうやって測るのだろう。
倭人伝に書かれている距離は、感覚的な距離だと思うけど。

それにしても、「そのとき歴史は動いた」の再放送は、国会中継と相撲で
ことごとくボツになってしまった。
799793:2007/03/19(月) 17:28:39
>>796
たしかにトンデモ加治木節だが、倭人里に関しては
なかなかに反論しにくいと思う・・・・・
800日本@名無史さん:2007/03/19(月) 17:53:04
いくらでも反論出来るよ
801日本@名無史さん:2007/03/19(月) 18:39:58
>>798
考えられるよ。
おそらく、古代の日本は、ヒコ・ヒメ制だったんだろう?
だからこそ、古代の天皇は、ヒメの女性との関係に
執着を燃やしていた。
802尋ね人:2007/03/19(月) 19:15:46
『文献に大変詳しいと』自称した  フリージア殿


794 名前:尋ね人 :2007/03/19(月) 13:53:58
>>792

文献に大変詳しいフリージア殿
周尺を使ったり、朝鮮の人達が測ったり、それは文献の何処を読めば書いてあるのですか?

隠れてないで早くこの問いに答えて下さい。 
803フリージア:2007/03/19(月) 19:17:41
お答えします。
ろうそくの明かりを頼りに書を書いている姿がみえます。
朝鮮と周の関係については、史記、前漢書、後漢書、三国遺事などがよいでしょう。
朝鮮に周の文化を伝えた箕子について書かれているところがそれです。
ただ文を読む時そのまますらすらと読んではいけません。一つ一つの字の意義を深く更に方向をかえてよみ、
文章の行間なども、何か意味が隠れていないか精査しながらよ読なければなりません。著者の中には春秋の筆法などと、
後世の読者を惑わせるためではないかとおもうような筆法で記述している人もいます。惑わされてはいけません。
現代歴史書としては、「中央公論社の世界の歴史6隋唐帝国と古代朝鮮」がよろしいでしょう。
個別では、古田武彦氏の邪馬一国への道標がよろしいでしょう。
以上お答えがでました。
804日本@名無史さん:2007/03/19(月) 19:26:36
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
805日本@名無史さん:2007/03/19(月) 19:44:16
>>798
足利義満は日本国王だったけど天皇でも皇太子でもないですな。
で、235〜244の紀年鏡が畿内中心に分布する事実はどう考えるんだ?w
806日本@名無史さん:2007/03/19(月) 19:46:24
>>787
で、235〜244の紀年鏡が畿内中心に分布する事実はどう考えるんだ?w
807尋ね人:2007/03/19(月) 20:22:32
>>803

文献に大変詳しいフリージア殿


そんな一般的な解説なんていりません。第一周里とされるものは、以前プラムさんに否定され何も反論できずに消えちゃった過去もあるし!
文献に詳しいのなら
里の出来た経緯でも説明した方がいい鴨ねねね
結局薬局何も解答してないジャン
808日本@名無史さん:2007/03/19(月) 20:30:51
ウンコ人大林君の部屋
http://www1.ocn.ne.jp/~gengoman/MyPage/menu0.html
うんこ脳の垂れ流しHPだよW

ウンコ人の部屋にもし行けなければ
別のウインドウにアドレス貼り付ければ行けるよ
どっかで見たようなウンコ臭いHPだよ
明らかに大林君とブラ国と同じ人のようだけど・・・
809フリージア:2007/03/19(月) 21:23:16
>>805さんへ
お答えいたします。
大和平野の真中で、赤々とした炉の火がみえます。
紀年鏡は日本でつくられたものです。その銘の年では無くもっと後代の古墳時代に明鏡としてつくられたものです。
場所はほとんどが鏡作神社周辺で製造されたものでしょう。
この鏡が国産であるとの論は数多くあり合理的な説明がなされているのですが、舶来説はその根拠を全くといっていいほど失っています。
以上お答えがでました。
810フリージア:2007/03/19(月) 21:33:24
>>807
周里説がプラムさんに否定され反論できず消えたのですか。まさか!
その件はわたしは全くしりませんです。
正しいのですから論破されるはずはありません。
何かの誤解では?
811日本@名無史さん:2007/03/19(月) 21:56:13
>>810

文献に大変詳しいフリージア殿


>周里説がプラムさんに否定され反論できず消えたのですか。まさか!


その「まさか」が現実なんです。
812日本@名無史さん:2007/03/19(月) 22:40:36
>紀年鏡は日本でつくられたものです。その銘の年では無くもっと後代の古墳時代に明鏡としてつくられたものです。
>場所はほとんどが鏡作神社周辺で製造されたものでしょう。

はあ?なぜ後世に作られたとわかるのですか?
何ゆえに古い年号を入れたのですか?
813フリージア:2007/03/19(月) 22:41:03
あくまでもそれは、勘違いでしょう。
プラムさんとの討論はどのようなものか、私はしりませんが、論破できないはずですよ。

続きはまたあした。
今夜はとってもヒヤシンス。明日の朝はフリージア。暖かくしてお休みください。
814日本@名無史さん:2007/03/19(月) 22:56:24
都合の悪い出土物はすべて「後世の偽作」と決め付けるのがトンデモ九州説の流儀
815日本@名無史さん
元々周里じたい眉唾だし