【江上】騎馬民族説は今。。。vol.8【波夫】

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1日本@名無史さん
☆前スレ
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.7【波夫】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152216234/

騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ     江上波夫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001478/qid=1068485710/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-2208796-7626727
騎馬民族は来た!?来ない?!               江上波夫・佐原真
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4096260665/249-2208796-7626727

騎馬民族は日本を征服したか
http://inoues.net/mystery/kibaminzoku.html
辰王の系譜、天皇家の遠祖     −騎馬民族は来なかったか?
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku1.htm
第208回 新春講演会「騎馬民族は来なかった」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku208.htm
第209回 特別講演会 「古代日本の馬文化   『江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を考える』 」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku209.htm
是か否か「騎馬民族征服王朝説」
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub19.html
「日本」国の起源説について     騎馬民族征服説説 / 「日本」と名乗った経緯 / 天皇と名乗るまでの歴史
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/kigen/index.html
2日本@名無史さん:2006/11/10(金) 02:41:46
3日本@名無史さん:2006/11/10(金) 02:58:37

魚羊族の祖先は、黒い山ブドウ原人です。
4日本@名無史さん:2006/11/10(金) 23:00:56
まあたやってるのか・・・
チョンがやってくるまでに宿題を出しておくかのう
1港市国家から日本が成立するならばなぜその港市国家の遺跡が
 少ないか?なぜ政治の中心が港市国家ではなかったか?豪壮な
 港市国家の遺跡がなぜ発掘されないか?
2港市国家が邪馬台国と同等以上ならばなぜ邪馬台国の政治機関
 が置かれていたのか?
3騎馬民族が日本を征服したならばなぜ古墳を作り続けたか?
 なぜ騎馬民族の文化が日本文化の中に少ないのか?
 なぜ天皇家や朝廷では古代から日本語が使われていたのか?
 新羅や百済などでは支配階級と庶民の言葉が違っていたそうじゃぞ?
 日本だけ特別なのかのう
4なぜ傷の付いた人骨が食人の証拠なのか?他の理由はなぜ見ないフリを
 するのか?
5日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:54:55
997 :白馬青牛 :2006/11/07(火) 23:35:19
>>992
扶余は、満洲から南下したんで、高顔の北方モンゴロイドであろう。

はい、僕もそう思います。
だからこそ、老司古墳出土の人骨は扶余ではないと思います。
江上さんもそう思ったのだと思います。
だから江上さんは老司の人骨について触れなかったのでしょう。
6:日本@名無史さん :2006/11/13(月) 01:00:34
>>4
>Q,1港市国家から日本が成立するならばなぜその港市国家の遺跡が
 少ないか?なぜ政治の中心が港市国家ではなかったか?豪壮な
 港市国家の遺跡がなぜ発掘されないか?

おおよそ同意したいがこの質問へんじゃない?だってさ、奈良周辺には琵琶
湖もあれば東に伊勢湾、西に淡路島があるのよ。江戸までの中心的存在だって
三好が勢力持ってた摂津&堺中心だよ。でも、その頃の遺跡が残ってるかい?
残ってないよ、木造平屋で石造りじゃないから。
7:日本@名無史さん :2006/11/13(月) 01:16:58
まずね、都市国家成立する絶対条件は海か湖があるのが絶対条件よ。内陸に大型都市
が成立するには港湾都市が成立してそこを抑えて物流確保できてからの話だよ。
日本は細長い列島で幸いどこにいても基本的に海が近いから大陸ほど困らないね。
戦国で言うと武田信玄が珍しく内陸だけど勿論北条や上杉とそういう流通関係が確保
されてたわけ。だから有名な塩を送る話があるよね。
8:日本@名無史さん :2006/11/13(月) 01:26:48
ていうかね、海と湖に囲まれまくってる近畿の奈良に邪馬台国があっても
何の不思議も無いわけ。なんと言っても琵琶湖と河川の存在はでかいよ。
9日本のななし:2006/11/13(月) 18:27:56
港市国家は貿易で成り立ってたって知ってる?
木材が朽ちてなくなるならなんで弥生以前の遺跡が発掘されるの?
10日本@名無史さん:2006/11/13(月) 19:12:39
横レスだけど、
木材が朽ちず発見されるのは、
土壌なり湿気なりの、
「条件」が整ってるから発見されるのじゃなかったか。
11:日本@名無史さん :2006/11/13(月) 19:23:36
>>9
>港市国家は貿易で成り立ってたって知ってる?
6・7・9を読む限り質問の内容が的外れだね。

>木材が朽ちてなくなるならなんで弥生以前の遺跡が発掘されるの?
愚問だな。後世に残すのが目的の墓石が(内部の部分的木材は別として)
木で作られる事があるか?ヒミコの住居の遺跡が残ってるとでも?
12:日本@名無史さん :2006/11/13(月) 19:32:53
10の言ってる事が正しいよね。
海沿いの港町は常に潮風にさらされるため木造の保存状態は極めて悪い。
13:日本@名無史さん :2006/11/13(月) 19:40:54
>>4
3騎馬民族が日本を征服したならばなぜ古墳を作り続けたか?
 なぜ騎馬民族の文化が日本文化の中に少ないのか?
 なぜ天皇家や朝廷では古代から日本語が使われていたのか?
 新羅や百済などでは支配階級と庶民の言葉が違っていたそうじゃぞ?
 日本だけ特別なのかのう

この質問が興味深い。
14日本@名無史さん:2006/11/14(火) 18:09:39
>>6
>>11
ふー・・・・
港市国家の定義は何かな?
まさか港を中心とした国家だって考えてはないよね?
usc.edu/dept/LAS/history/historylab/.../Sakaehara Summary jpn.htm

東南アジアは中国とインドの中継点にあって中継貿易や内陸の農村から
徴収した特産物で繁栄したのだよ。
いいかい?港市国家に必要なのは貿易だよ。
>>11
いや、じゃなくてなぜに「都市国家」の遺構がないのか?
墓を問題にしてはいないよ。
君の言うように港市国家の遺跡は朽ちてなくなるならば
日本各地の港の遺跡はなぜあるの?
秋田の土佐港だっけか?あれはどう説明するの?
しかも江戸も堺も建造物が建設され取り壊され・・というサイクルを
繰り返して近代都市になったでしょ?
京都もそのように変わってきたよね?{戦乱で破壊されたこともあるが}
太古そのままで残ってる街なんてあるかな?
15日本@名無史さん:2006/11/14(火) 18:33:15
条件が整わなくて木材が朽ちたとしてもだ
さて曲りなりにも国家の中心だった港市国家から
貴金属類、金属類。日常品が出土されないとでも?
16:日本@名無史さん :2006/11/14(火) 18:54:25
>>14
ポカーン。。。
僕勘が良い方なんだけど、もう君からは在日朝鮮人か部落の捏造史オタの臭いしかしないね。
港市国家の定義以前に自信満々に語った“貿易”の定義をちゃんと調べ直しなさい。

一つ質問してあげるから答えな。その秋田の漁村港wが貿易相手にしてた最大の相手先は
どこでつか?で、秋田のそれが港市国家と呼べるものかですか?

17日本@名無史さん:2006/11/17(金) 09:31:09
>>17
・・・あんな万年属国の劣等民族と同じにされるのは心外だな。
君は何が言いたいのかな?
「日本は港市国家から成立ちまちた」って妄想を振り撒きたいのかな?
秋田の漁村港が相手してたのはアイヌやら金やらだろ?
俺が言いたいのは
「港市国家が古代日本の中心だったならばなぜそれを間接的にでも
証明する物品が出土しないか?」ってこと。
いくら保存状態が悪くても日本の中心が港市国家だったならば
そのうちのいくつかは運よく「保存状態が良好なうちに」残るだろ?
なぜに木材は必ず残らないって決め付けるのかな?
君の言う港市国家って保存状態の悪い地域にしか存在しないのかな?w

「たとえ遺跡が残っていなくても遺物は残る」
ってことさ。十三湊でも残ってるだろ?三内丸山遺跡でも、吉野ヶ里遺跡
でも遺物は残ってるだろ?
港市国家が古代日本において重要な役割を果たしたならば海沿いの遺跡から
は大量の遺物が出土してもおかしくないよね?

なぜ日本が港市国家から成立したのに海沿いに港市国家の存在を示唆するよ
うな大量の遺物が無いのかな?
18日本@名無史さん:2006/11/17(金) 12:57:37
また横レスだが、海沿いの港市国家の存在ならば、
池上曽根遺跡はいかがなものか…?
関係なければすまんが。

http://www.city.izumi.osaka.jp/entry.aspx?id=145
19日本@名無史さん:2006/11/19(日) 00:14:01
【日韓】 百済遺民とされてきた唐の将軍、研究の結果「日本の物部氏」出身と判明[11/17]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1163861271/
20日本@名無史さん:2006/11/21(火) 13:32:08
>>13
>騎馬民族が日本を征服したならばなぜ古墳を作り続けたか?

答:簒奪だからだ。

>なぜ騎馬民族の文化が日本文化の中に少ないのか?

答:少数者による簒奪だからだ。

>なぜ天皇家や朝廷では古代から日本語が使われていたのか?

答:5世紀にそうであったという証拠はない。
21日本@名無史さん:2006/11/21(火) 14:47:20
>>20


ま た お ま え か!


22:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 18:00:48
>>17
まずね、君は港市国家という言葉で頭でっかちになってるし、その頃の国のスケール
ってものを理解してない。当然ながらその頃には列島が日本固有の領土なんて概念も
なければ民族統一もしてない。大型貨物船やタンカーが合ったわけではないから航行
距離も基本は非常に短い。つまり交易、貿易の大半は非常に狭い範囲で行われるのが
当然。

じゃあ例えば君が言った秋田の港町が生活の為に行った交易の99%は何処とのやり取り
かっていうと、君が言ったアイヌかせいぜい新潟の佐渡か能登半島程度までってことな
んだよ。君の言った金が仮に秋田までたどり着くまでには九州あたりから陸沿いに小さ
な港を点々とハシゴしてこないといけないから、直接交易なんてしてないっての。
23:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 18:17:16
当たり前の話だが、朝鮮人じゃなくて日本人が日本人に朝鮮の品物を売るこ
との方が頻度としてははるかに多いのよ。九州で朝鮮の物品を購入した日本
人が珍しいってんで対岸の下関と交易しました。今度は買い占めた商人が周
防人と交易しました。次は呉から松山、松山から〜といって明石、堺、摂津
伊勢という具合に後の出土品が運ばれましたとさ。

当時の堺の最貿易相手国は対岸の鳴門か淡路島あたりだろ。瀬戸の内海では
各地で盛んにこういったお隣近所や対岸の外国と交易、貿易が営まれましたとさ。
これが港市国家じゃなくてなんだよ?地中海ってしってるか?
24:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 18:31:12
>>20
簒奪という答えは非常に共感するが・・・、
何も敵対する北の騎馬民族である必要は無い。

むしろ頭すげ変るには南の長江・揚子江から
画期的な農業技術持ってやってきた来た百済
経由の親密な移民のほうが適切だ。
25日本のななし:2006/11/21(火) 21:01:53
>>20
ほうほう
>答:少数者による簒奪だからだ

モンゴル族は100年にも満たないわずかな時間しか中国を支配していないが
中国文化には彼らの影響が多く見られたぞ?
そうそう、エジプトがヒクソスに支配されていたときも彼らの文化の影響があ
ったぞ?

日本だけ特別か?w

答:5世紀にそうであったという証拠はない

逃げるな
たった1世紀で日本語に変えたのか?日本とはずいぶん異民族を同化させる
力が強いんだなw
ていうか5世紀に「日本語でない言葉が使われたという証拠」もない

26日本のななし:2006/11/21(火) 21:11:47
>>22
>>23
はあ?
だんだん話がズレてきてるぞ?

まず何について議論していたか思い出せ
そして俺が提示した資料を読め

自分の主張をごり押ししても相手を納得させられないぞ?

で、港市国家から日本が成立したのならその港市国家の存在を
示す「遺物」があるはずだがなぜ見つからない?

まさか遺物は全部交易で引き払われて遺跡は木材「だけ」で作られて
いてしかも都合よく「木材が保存される状況にない地域」だけに港市
国家が建てられていたのか?

別に俺は古代の港町の存在を否定してはいない。
ただヤマト王権がそれから成立したということに疑問を呈している
だけだ

ちなみにあんた満州族の金って王朝知ってるか?

27日本@名無史さん:2006/11/21(火) 22:12:44
>>25 :日本のななし :2006/11/21(火) 21:01:53
>モンゴル族は100年にも満たないわずかな時間しか中国を支配していないが
>中国文化には彼らの影響が多く見られたぞ?

中国文化の中のモンゴルの影響を挙げて見よ。

>そうそう、エジプトがヒクソスに支配されていたときも彼らの文化の影響があ
ったぞ?

プトレマイオス王朝の文化にどれだけギリシャの要素が残っているか?

>日本とはずいぶん異民族を同化させる力が強いんだなw

「異民族を同化させる力が強い」からこそ、あれだけ多くの有力な「渡来系」
豪族がいながら結局は「日本」に同化された、というのが反対派の考え方だろう。

>ていうか5世紀に「日本語でない言葉が使われたという証拠」もない

そんならおあいこだ。

28:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 22:27:31
>>26
そうなんだよなんで金が出て来るんだ?いつの話してんの?意味がわからん
29:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 22:28:55
なんで金と大和を同時に話してんの?
30:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 22:41:51
>>ななし
>別に俺は古代の港町の存在を否定してはいない。
>ただヤマト王権がそれから成立したということに疑問を呈しているだけだ

きみ世界史やってないだろ?そもそもこの疑問がトンチンカンで歴史知らず。
河川と扇状の州があって初めて文明や集落が生まれるんだぞ。それらは山奥まで
河川で繋がってるし、ほぼ同時期に成立するものなんだよ。個別かつ独自に成立
するものじゃないの。山奥に突然大和王権が成立したってか?ありえねw
31:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 23:01:27
>>ななし

>まさか遺物は全部交易で引き払われて遺跡は木材「だけ」で作られて
>いてしかも都合よく「木材が保存される状況にない地域」だけに港市
>国家が建てられていたのか?

じゃあ、山奥に石作りの住居跡でも見つかったのか?
ヨーロッパじゃないんだぞw日本は木造家屋一筋で来た文明だぞw
どうせ君は日本に港都市が有ったとするには石の防波堤や港跡でも必要だってんだろ?
それがないなら港市国家が成立しないって発想なんだろ?無知も程々にしな。
今も昔も日本の大型都市のほぼ99パーセントは港町か湖街か河川街です。
世界でも内陸まで輸送が可能になった近代成立の街以外は同じ。
32:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 23:06:54
で、奈良がそういう港や湖岸の集落や都市と直結して無いと考えてる事が
そもそもナンセンス。
33日本@名無史さん:2006/11/22(水) 14:40:59
そういえばマキムクやヨシノガリも、実は河川交通の便利なところにできた、
という話を聞いた。
海で言えば河内王朝は大和と朝鮮を結ぶ海上輸送の要衝にできたのだろう。
河内には大鉄工業センターの遺跡が出ているが、そのための鉄原料の陸揚げ場
があったのは間違いない。
あの、当時の海岸線は現在より内陸に入っていた。
34日本@名無史さん:2006/11/22(水) 15:27:34
巻向は円錐形の山・三輪山の麓から発してるので、
縄文時代から続く「聖山信仰」の名残だろうな。
河川交通の便利さという意味では、
かなり北の木津川あたりに遺跡があったと記憶してるが…
35日本@名無史さん:2006/11/22(水) 18:47:36
>>34
山があれば川はないと言いたいのか?
巻向にも河川輸送の可能な川はあった。
私が言うのはそれが都邑形成の一つの必要条件だったということ。
36日本@名無史さん:2006/11/22(水) 19:28:17
>>13
>なぜ騎馬民族の文化が日本文化の中に少ないのか?

騎馬民族の文化というからややこしくなるが、騎馬民族説はつきつめれば
「伽耶にいた扶余が日本を征服した」ということなのだから、上記は
「伽耶文化が日本文化の中に少ないか?」と、おおいばりで言い換えてよい
のだ。

そういう目で見れば、古墳時代の出土品から見た当時の「日本文化」を、
最近の伽耶の発掘成果から見た「伽耶文化」と較べれば、両者はほとんど
同一ではないか。

このことを反対派の人は「文化受容」で説明するわけだが、「文化受容」
説そのものが、ある時期にその文化が日本に存在したことを認めているわけだ。

>なぜ天皇家や朝廷では古代から日本語が使われていたのか?

「古代の天皇家で日本語が使われていた」ということは全く言えない。
3世紀の魏志倭人伝に日本語の断片がある。
8世紀の古事記、万葉集に万葉仮名が使われたことによって8世紀当時の
日本語がわかる。この中間の日本語の記録はないのだ。
だから古代天皇がどんな言葉を使ったか、ということを知る方法はない。
万葉集に古代天皇の歌があっても、それが本当に古代にその天皇によって
歌われたという証拠はない。8世紀の創作かもしれないし、仮に古代から
伝わったとしても、古代の「被支配階級」の日本語話者が代作したかも知れない。
37日本@名無史さん:2006/11/22(水) 19:58:47
>>36
だから上の方でも出てるけど、
老司古墳の出土状況から言える事は、
伽耶文化を受容した倭人の姿なんだよ。
38YAP?:2006/11/22(水) 23:52:35
「伽耶」と「加羅」という語彙を、どう考えるかが問題だ。

半島の「韓族」の語彙としては「伽耶」、日本語としては「加羅」
なのだろう。

日本語の「から」は、「うから」「やから」「はらから(同胞、兄弟)」
「ともがら(友輩)」「いえがら(家柄)」「がら(柄)が良い」といった
語彙に現れる「族」の意味だろう。
で、この語彙は、満州から蒙古方面で現れる「カラ/ハラ」(kaia/hala)
という父系血族を表す語彙と同源なのは明らかだ。
韓国語では、「キョレ」かなんかだったと思うが、まあ、
上代日本語の「から」の音写だろう。
そして、語中の琉音(R/L)の発音が、「n,y,r』に
なってしまう韓国朝鮮語の話者が、「カラ」を真似た結果が
「かや」なのだろう。

「伽耶文化」ではなく、後続の倭人集団が、列島に移住した結果。
将来されたのが、日本で発見されるいわゆる「伽耶文化」なのだろう。
つまり、「伽耶文化」が、韓族のものと言ってよいかは問題だ。
むしろ、半島残存倭人の文化だった可能性もある。
39日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:11:59
>>38
この糞スレまだ続いてたのか。

ニートが集まってくだらない議論で時間をつぶす低俗スレ。
お前らニートはクズだからさっさと死んでくれ。
40日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:46:45
ニイトノミコトっていそうだなw
41日本@名無史さん:2006/11/23(木) 04:29:08
ニイトクズダカラシネノミコト
=新渡国栖宝志根尊
42日本@名無史さん:2006/11/23(木) 07:40:12
>>36
>両者はほとんど 同一ではないか。

日本の古墳から確かに馬具など発見されるが、
漢鏡や勾玉も発見されてる事を考えると伽耶文化そのものなのか?
43日本@名無史さん:2006/11/24(金) 04:16:38
なんかそろそろ決定的なもんが欲しいなあ。
完璧な物証と言えるようなもんを。
肯定論なら、半島あたりの古墳から天皇家とつながる系図が発見されるとか、
否定論なら、天皇陵がそれこそ老司古墳的に、遺骨DNAから縄文系とまで行かなくとも、
非半島系と分かったとか。
そういうのが欲しいんだよ。早く結論を知りたい。
ちなみに俺はどっちでもいいんだ。
肯定論の場合だと、
扶余が朝鮮系と言うなら抵抗があるけど、
あくまで扶余は満州あたりの民族だし、
別に天皇家が扶余系だからどうというわけでもないんだよ。
ただ真相を知りたいだけなんだよねえ。それでこのスレ作ったんだ。
44日本@名無史さん:2006/11/24(金) 07:22:08
>>43
古今東西の文書解析、天皇陵の発掘、人骨鑑定

やれば?

隣の国では、始皇帝陵を発掘調査するか否かで大揉めに揉めてるみたいだな。
観光資源になるとか騒いでる香具師もいるらし。
但し、兵馬俑を見ても分かるとおり、遺物を晒し続けるとあっという間に風化
して、彩色などが剥げ落ちてしまう事になるので慎重になってるみたいだ。
45日本@名無史さん:2006/11/24(金) 18:46:34
>>43
蓋然性の問題。
例えば、公平な立場の欧米の考古学者に、
釜山・福泉洞に代表される地下式木郭墓を見せて、
この埋葬者達と同じ民族が、
河内あたりの大規模前方後円墳の埋葬者たりえるかと
聞いたら、誰もYESと言わないだろう。

いくら、扶余は行く先々の墓制を採用すると言っても、
それは無理。
46日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:32:53
>>42
両文化が「同じもの」というのは語弊があったので、すこし具体的な
話をしよう。まず物を目で見るには、伽耶の出土品のほんの一部だが下記に
写真がある。
金海大成洞の出土品:
http://inoues.net/korea/korea_kimemus.html
釜山の福泉洞の出土品:
http://inoues.net/yamataikoku/korea/korea_fukusendo.html

土器に限って言えば、朝鮮製土器の日本での出土状況は下記のリストにある。
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html

土器に限って、私なりに纏めれば:
いわゆる金海型の祭祀用土器が5世紀前半の大阪周辺の古墳から多数出る。
そのなかには伽耶出土品と非常に良く似たものや、細部まで同一で、同じ
製作者が作ったと推定されるものもある。
また古墳周辺から伽耶系の生活用土器が出る。集団移住があったことが
推定される。
同時期、九州からの伽耶系土器の出土は少ない。すなわち、伽耶の影響は
九州をバイパスして大阪周辺に入ったことが推定される。

以上は土器の話だ。その他に武器、甲冑、馬具等がある。この時代については
「日本文化のなかに騎馬民族文化が少ない」などとはとうてい言えない。
47日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:40:52
>>45
背景を説明すれば欧米人は素直に信じると思うよ。
アレキサンドル、バイキング、ノルマンコンケストなど、欧米人には
少数者による征服の物語が染み込んでいるからね。
48日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:56:12
>>46
結局、受容の仕方の問題だろうね。
征服されて受容させられたのか、
それとも能動的に自ら受容したのかという問題だろうね。
49日本@名無史さん:2006/11/24(金) 20:26:50
>>47
>アレキサンドル、バイキング、ノルマンコンケストなど

だから歴史的に確定してる話を、
資料が何もない扶余の話に当てはめる事自体が蓋然性がないというのだ。
50日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:14:14
騎馬民族説って根本的におかしいんだよね
騎馬民族がどうやったら海を渡って日本に来れるんだろう?
元寇じゃあるまいし あれも騎馬民族が攻めてきたっていうよりは
その属国の水軍が攻めてきたみたいな感じだし 騎馬民族が暴れまくってたのは
大陸だろう それが日本に渡来するなんてありえない バカでもわかる
51日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:37:06
>>43
>肯定論なら、半島あたりの古墳から天皇家とつながる系図が発見されるとか、
否定論なら、天皇陵がそれこそ老司古墳的に、遺骨DNAから縄文系とまで行かなく
とも、非半島系と分かったとか。

ttp://gaikoanzenhosyo.blog4.fc2.com/blog-entry-414.html
>百済にしろ任那にしろ、そこの王族が日本を征服したといったことが
>事実なら大事件で、日本・朝鮮半島・中国に伝わる歴史書に記録として
>残るはずである。
>ところがそのような記録は一つも無い。
>むしろ日本が大国として4世紀以降、任那諸国や百済・新羅といった
>朝鮮半島の国々に対して大きな影響力を持つようになることが、日本・
>半島・中国の歴史書・碑文に記されている。
>そして日本と高句麗という二大勢力が、間に挟まれた百済・新羅・任那
>諸国を自らの勢力圏にすべく争うようになるのである。

ど素人の方が常識的で頭がいいよ。
今回限りで、このスレ終了すれば?
52白馬青牛:2006/11/25(土) 00:17:42
>>51
相変わらず、低脳軍団が前提条件を勝手に付けて吼えとるのう。
老司古墳から、弥生期の九州北部の高顔型渡来人は、低顔の現地民に
吸収されたか、伽耶地域の礼安里出土の人骨群の中には顔の低いものと
高いものが両方とも存在するらしい。(松下孝幸氏)
朝鮮半島南部の煙台島の櫛目文土器人骨は縄文人に似ている(池田次郎氏)
篠田謙一氏は、DNAで縄文人がブリアートや雲南等遠い地域の遺伝子も
含むものの、朝鮮・遼寧・山東等近い地域の遺伝子が多いとされる。
縄文人も多くが朝鮮経由の人達であろう。わりゃは、前スレから同じ言を
繰り返しとるだけじゃろうが。
歴史書の記録など、残された物はごく一部分に過ぎず、文献だけで解釈
するんは文献原理主義(カルト宗教)じゃ。文献を一語一句経典のように
文字面だけで解釈するんは、われの所属する新興宗教団体の中だけで
やっとりゃええのに。
53日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:26:34
>>52
相変わらず読み難い悪文だなぁ。
54日本@名無史さん:2006/11/25(土) 10:25:30
>>49
>だから歴史的に確定してる話を、
>資料が何もない扶余の話に当てはめる事自体が蓋然性がないというのだ。

「歴史的に確定している話」から 「資料が何もない」時代に起こった
ことを類推することこそ、歴史の方法ではないか。

>>50
>元寇じゃあるまいし あれも騎馬民族が攻めてきたっていうよりは
>その属国の水軍が攻めてきたみたいな感じだし 

扶余の場合も、扶余が来たというよりは扶余に支配された半島倭人集団が
「攻めて来たみたいな感じ」だろう。倭人が海を渡ることには抵抗は
ないのでは?





55日本@名無史さん:2006/11/25(土) 10:54:18
半島ってフヨに支配されてたんだ さすが万年属国なだけある
56日本@名無史さん:2006/11/25(土) 15:53:38
>>54
>扶余の場合も、扶余が来たというよりは扶余に支配された半島倭人集団が
「攻めて来たみたいな感じ」だろう。倭人が海を渡ることには抵抗は
ないのでは?




背後の守りはどうすんの?
57日本@名無史さん:2006/11/25(土) 15:56:11
半島を捨てて日本列島に亡命して来たってことか。
58日本@名無史さん:2006/11/25(土) 16:12:53
>>55
半島倭人と書いたのは、倭人のうちで朝鮮半島に居住していた集団、という意味だ。
朝鮮半島のどこに倭人が住んでいたか、といえばそれは狗耶韓国だ。
その狗耶韓国が3世紀末に扶余に支配されて、金官加羅国になった。
金官加羅国は支配階級が扶余、被支配階級が半島倭人である「多民族国家」だったろう、
というのが私の考え方だ。
だから扶余は航海のために倭人を使役することができた。ちょうど、元国の蒙古人が
高麗人を使ったように。
それと、扶余自体ももともと水に縁があった。その故郷の満洲の遠距離交通は
もっぱら大河に依存していたからだ。
59日本@名無史さん:2006/11/25(土) 19:03:05
>>58
3世紀末までには、畿内を中心に、
千葉、福岡、宮崎に前方後円墳が展開してる。
(それ以外にもあった記憶があるが…)
これは原初大和朝廷の骨格と言うべきものだろう。
その「骨格」が、鉄の支配権を扶余に簡単に支配されるだろうか?
支配されたら一戦交えるだろう。
俺の意見は支配仕返したというもの。
もちろん扶余を絶滅させてなんかいない、
むしろ彼らの文化を積極的に摂取したと思う。
だから日本の古墳に馬具と勾玉が出てくるのだ。
60日本@名無史さん:2006/11/25(土) 19:17:28
>>54
>「歴史的に確定している話」から 「資料が何もない」時代に起こった
>ことを類推することこそ、歴史の方法ではないか。

歴史的に珍しい例でもって類推する事自体が蓋然性がないと言ってるのだ。
61日本@名無史さん:2006/11/25(土) 19:35:16
>>59
>その「骨格」が、鉄の支配権を扶余に簡単に支配されるだろうか?

意味がわからない。扶余は任那の鉄を支配しているのだが・・
それと、前方後円墳の分布から、統一国家、国民国家みたいなものを考える
のは誤りだと思う。三輪王朝の体制は、半独立で互いに異質な小王国の
集合体だ。前方後円墳はその体制のメンバーであるという記章に過ぎない。
ということは、扶余+半島倭人でできた異質な小王国も参加できたと
いうことだ。そしてその場合、メンバーの記章として彼等もまた・・

>>60
>歴史的に珍しい例でもって類推する事自体が蓋然性がないと言ってるのだ。

だから、少数者による征服は歴史的になんにも珍しくないと言っているのだ。
62日本@名無史さん:2006/11/25(土) 19:43:54
>>61
扶余が鉄を支配しているのというのは、
主に韓国側の言い分だったと記憶してるが。
倭とどういう関係にあったかは実際よく分からないはず。
倭という大きな連合体の中の一部分を担ったに過ぎないなら、
所詮、倭の支配下にあったと見ても良いと思う。

>その体制のメンバーであるという記章に過ぎない。

それ自体が骨格という意味だ。

63日本のななし:2006/11/25(土) 20:28:36
なんかひさびさに見たらスゴイ増えてるな・・

>>27
ja.wikipedia.org/wiki/元_(王朝

ヒクソスってギリシア人なんだ。始めて知ったわ
そんな説

へえw渡来系の有力な氏族って例えば?

で、5世紀以前に日本語が話されていた証拠がないから
騎馬民族の言葉に違いない という考えは正しいのかい?
64日本のななし:2006/11/25(土) 20:32:22
>>30
・・・・・
釈迦に説法とはまさにこのことか・・・

>河川と扇状の州があって初めて文明や集落が生まれるんだぞ。それらは山奥まで
 河川で繋がってるし、ほぼ同時期に成立するものなんだよ

古代の日本には物資の流通ルートがあったんだよ
黒曜石や土器に最適な土、弥生には鉄器や大陸の品のな。
まさむく遺跡はどう説明する?
65日本のななし:2006/11/25(土) 20:39:10
>>31
・・・・・・
だからさ、港市国家から日本が成立したんならさ
その港市国家が政治の中心だったんだよね?
だったらさ、貴金属やら日常品やら平城京みたいにでてくるでしょ?
なぜ出てこないの?

>どうせ君は日本に港都市が有ったとするには石の防波堤や港跡でも必要だってんだろ?
 それがないなら港市国家が成立しないって発想なんだろ?

どこをどう読めばこういう解釈になるのか理解に苦しむ


>今も昔も日本の大型都市のほぼ99パーセントは港町か湖街か河川街です。
 世界でも内陸まで輸送が可能になった近代成立の街以外は同じ

あれ?平泉は?奈良は?大宰府は?

66日本のななし:2006/11/25(土) 20:50:10
>>33
縄文時代じゃないんだから
>>36

こんなに電波な奴は久々だな

>そういう目で見れば、古墳時代の出土品から見た当時の「日本文化」を、
 最近の伽耶の発掘成果から見た「伽耶文化」と較べれば、両者はほとんど
 同一ではないか

どういう根拠でこういう説を唱えるのか教えて欲しいな
お前の言う加羅文化はいつの時代のだ?

「伽耶にいた扶余が日本を征服した」

ならば王朝の象徴たる古墳がなぜ近畿を発生地として広まって
いったのか説明してほしいな
扶余って邪馬台国のような日本の地方権力を征服するほど強かったのか・・
なぜそれほどの力を持っていながら朝鮮を統合できなかったのか・・
ていうか
お前一体いつ扶余族の日本征服があったと考えてる?

67日本のななし:2006/11/25(土) 21:03:41
>>36
魏志倭人伝に日本語の原型があったか?
国の名前しかなかったと思うが・・
結局、お前が言いたいのは

「古代に日本で日本語が使われていた証拠がないから
古代日本は征服されたんだ」

ってことだろ?
68日本@名無史さん:2006/11/25(土) 21:15:54
>>61
>だから、少数者による征服は歴史的になんにも珍しくないと言っているのだ。

来たかどうかさえわからない扶余と、
それらを当てはめる事自体が蓋然性がないと言ってるのだ。
69日本のななし:2006/11/25(土) 21:29:14
>>68




すごいな・・・・
あんた一体何者だ?




70日本@名無史さん:2006/11/26(日) 08:40:17
>>63
>ヒクソスってギリシア人なんだ。始めて知ったわそんな説

物を知らない奴は手間がかかるな。 別の時代の話だ。
プトレマイオスがギリシャ人(マケドニア人)だと言っているのだよ。
もちろんクレオパトラもね。

>へえw渡来系の有力な氏族って例えば?

というより有力氏族はほとんど渡来系だ。じぶんで調べてごらん。

>5世紀以前に日本語が話されていた証拠がないから 騎馬民族の言葉に違いない

この議論ではそこまで言っていない。古代から天皇家が連綿として日本語を
話しているのが騎馬民族が来なかった証拠だ、という人がいたから、古代に
天皇が話した言葉が日本語である証拠はない、と言ったのだ。

>>67
>魏志倭人伝に日本語の原型があったか? 国の名前しかなかったと思うが・・

読んだことがあるのか? 人名と役名があるのだ。そのなかに日本語の断片
らしいものがある。「ひなもり」とかね。
「古代の日本語は、せめてこれぐらいなら証拠がある」という、サービスの
つもりで言ったのだ。「分からない」と言ってしまえばそれでもいいのだよ。
上記の目的に対しては。

71日本@名無史さん:2006/11/26(日) 08:50:55
どっちにしろ騎馬民族なんか来てないんだろw
72日本@名無史さん:2006/11/26(日) 08:56:12
>.62
>扶余が鉄を支配しているのというのは、 主に韓国側の言い分だったと記憶してるが。

なにも難しいことではない。狭義の任那(金官)に鉄が出て、その金官を扶余が支配
しているということを言っただけだ。韓国人を煩わすこともない。
それ以前は、つまり狗耶韓国の時代は「韓、わい、倭争って鉄を取る」と書かれた
状態があった。その状態が扶余によって中断された、ということだ。
73日本@名無史さん:2006/11/26(日) 09:03:36
>>66
>どういう根拠でこういう説を唱えるのか教えて欲しいな
お前の言う加羅文化はいつの時代のだ?

それについてはURLまで挙げて補足説明した。まずそれを見よ。
時代もおのずからわかるだろう。
74日本@名無史さん:2006/11/26(日) 09:03:54
騎馬民族さまがどんな大帝国を築いて日本を攻めろと属国に命令した文書でも出てきましたか?
75日本@名無史さん:2006/11/26(日) 15:31:12
>日本を攻めろと属国に命令した文書でも出てきましたか?

いいえ。
76日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:34:11
大昔に朽ちた説を未だにとくとくと語るキチーがいるとはマジでビックリ。
フヨは筑紫辺りの海賊に拉致られ東国に売り飛ばされ
山奥にでも配置させられ、強制重働に就かされた皮なめしの職人集団だろう?

その程度の説にはその程度の見解憶測が適当だw
77日本@名無史さん:2006/11/26(日) 19:40:21
>>72
その状態が扶余によって中断されたという事を認めたとして、
さてその後だな。
扶余が鉄の供給源を握ってて、
倭に対してポテンシャルを持ち続けたまま日本に来て、
そして河内王朝を簒奪したというのがあなたの仮説だな。

ただそれを言う前に、
まず扶余が日本に来たという明確な証拠を示していただきたい。
そしてそれから河内王朝を簒奪したのなら、
集団としての扶余が河内平野に住んだと言う何らかの証拠、
例えば地名等をあなたが見つけ出すのが先だ。

そういう事ができるのか?


78日本@名無史さん:2006/11/26(日) 20:46:42
>>77
>そして河内王朝を簒奪したというのがあなたの仮説だな。

河内王朝を簒奪したのではない。まず河内に入って、その後三輪王朝の
王権を簒奪した結果、河内王朝ができたのだ。

>まず扶余が日本に来たという明確な証拠を示していただきたい。

「明確な証拠」など、古代に関するいかなる説にもない。
三輪王朝が、騎馬戦術を有する金官を海を渡って攻めて、これを服属させた
という「明確な証拠」があるだろうか?

まあそれは別として、前にも書いたように、大阪周辺の古墳から金官の
祭祀用土器とほとんど同じものが出る。同時にその周辺からは伽耶式の
生活用土器が出る。これは「集団としての扶余が河内平野に住んだと言う
何らかの証拠」と言えるのではないか?。
もちろん、これを征服あるいは簒奪と見るか、単なる移民と見るかは
見方しだいだ。そしてそのどちらにも「明確な証拠」はない。


79日本@名無史さん:2006/11/26(日) 21:03:54
>まず河内に入って、その後三輪王朝の
>王権を簒奪した結果、河内王朝ができたのだ

それが応神かな?
集団としての扶余が河内に住んだ証拠(例えば地名)が、
何かしらあってよいと思うが…

>騎馬戦術を有する金官を海を渡って攻めて、これを服属させた
>という「明確な証拠」があるだろうか?

日本の古墳から馬具と同時に勾玉も出土する状況は、
扶余が日本に来た後、勾玉を文化として受容したと考えるよりは、
倭人が馬具等の騎馬文化を受容したから勾玉も出土すると俺は考えてる。
そちらの方が妥当だと思う。
80日本@名無史さん:2006/11/27(月) 00:49:41
81日本@名無史さん:2006/11/27(月) 07:20:14
>>80
youaresobed 11-26 01:32
いやいや論点を濁ごさないでください. 小さな馬に乗れば騎馬民族になれない
ことですか?? 朝鮮の騎馬兵がヨーロッパの技師団のように全身に留具で
重武装したのか?? アジアで騎馬戦をするのにどうしてヨーロッパ式言葉の
ように大きい言葉が必要か教えてください. 言葉は大きければ大きくなるほど
良いのですか?? 小さな馬に乗れば騎馬民族になる数負うことですか??
答えてください!!


韓人は騎馬民族ではないし、扶余も半農民族だったはず。
82日本@名無史さん:2006/11/27(月) 08:39:45
>>78
>まず河内に入って、その後三輪王朝の
>王権を簒奪した結果、河内王朝ができたのだ。

河内平野において、比較的古い時期の前方後円墳・津堂城山古墳では、
騎馬的な副葬品は見つかってない。
騎馬的になるのはその後だ。
したがってあなたの仮説は苦しい。w

>大阪周辺の古墳から金官の 祭祀用土器とほとんど同じものが出る。
>同時にその周辺からは伽耶式の 生活用土器が出る。
>これは「集団としての扶余が河内平野に住んだと言う
>何らかの証拠」と言えるのではないか?。

無理。しいて言うなら伽耶人と言うべき。
扶余という民族を指し示してない。
逆に、大阪・長原遺跡で発見された韓式土器(5世紀)の器体には、
円筒埴輪と同様の「突帯」が見られるたりする。
これはどういう事だろうか。
いずれにせよ、扶余は関係ないであろう。
83日本@名無史さん:2006/11/27(月) 10:11:19
>>70
俺は
「騎馬民族が農耕民族の王朝を征服したとき」の話をしている。
ギリシア人は前800年からシノイキスモスしてただろ?
しかも農耕と貿易営んでたろ?

だからその有力氏族ってのは?秦氏か?東漢氏か?西文氏か?
大きな発言力と経済、軍事力を持っていた渡来系氏族って何だ?
まさか蘇我氏が朝鮮系なんて俗説信じちゃいないよな?

だからたった1世紀かそこらで一つの言語が廃れるのか?
その理由は何なんだ?

は?
あのね、単語だけで当時の日本語が推測できるのかって聞いてるんだよ?
君は「ジョニー」と「カリフォルニア」という単語でアメリカ英語が理解
できるのかい?

84日本@名無史さん:2006/11/27(月) 10:15:23
>>73
ここのスレで出した?どこにあるの?
ja.wikipedia.org/wiki/加羅

まずね、君は加羅というものの概念を理解したほうがいい。
85日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:13:28
>>79
>日本の古墳から馬具と同時に勾玉も出土する状況は、
>扶余が日本に来た後、勾玉を文化として受容したと考えるよりは、

勾玉の起源は北九州と考えられており、朝鮮半島南部でも古い時代から
の出土がある。新羅が最も多いが金海、釜山からも出ている。
日本に来た扶余が勾玉を持っていても、あるいは日本に来てから入手
しても、不思議はない。
86日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:20:05
>>82
>河内平野において、比較的古い時期の前方後円墳・津堂城山古墳では、
> 騎馬的な副葬品は見つかってない。
>したがってあなたの仮説は苦しい。w

津堂城山古墳は、その名前が示すように戦国時代に破壊を受けている。
そんな古墳から、○○が見つかっていないことを根拠として△△ではない、
と結論する事はできない。

>しいて言うなら伽耶人と言うべき。 扶余という民族を指し示してない。

伽耶人でよい。私はなにも難しいことを言っているのではない。
伽耶、と言ってもこの場合は金海型の祭祀用土器の話をしているのだから、
狭義の伽耶、すなわち金官加羅を指す。 金官加羅が3世紀末の扶余の征服
によってできたことを認めるならば、自動的に扶余のことになるのだ。
問題は上記の扶余の征服を認めるかどうかに還元される。
87日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:21:33
>>85



あのさ
古い時代の朝鮮の勾玉って何よ?
王冠についてる勾玉か?



ていうかさ、どうにでも解釈できるものじゃなくて
ハッキリ「騎馬民族が来た」という物証は無いのかね?
88日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:22:55
>>86
河内の古墳全部が略奪されたのかね?
89日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:27:28
>>83
>俺は 「騎馬民族が農耕民族の王朝を征服したとき」の話をしている。

議論の流れに沿って話をしてくれ。
この議論は、「日本に騎馬民族の文化が少ない」という人に対して、私が
「少数者による征服(簒奪)だからだ」と答えたことに始まる。
それに対して「エジプトに(征服者の)ヒクソスの文化は残った」という人が
いたから、私が、「(少数征服者である)ギリシャ人の文化が(エジプトの
ギリシャ人王朝である)プトレマイオス王朝に少ない」という話をしたのだ。

>だからたった1世紀かそこらで一つの言語が廃れるのか?

日本語が廃れたというのではない。扶余の言語が日本語に吸収されたであろう
という話だ。
少数征服者である満洲族は、100年か200年でみずから満洲語を捨てた
ではないか。
90日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:32:59
>あのね、単語だけで当時の日本語が推測できるのかって聞いてるんだよ?

資料がそれしかないから、学者たちは苦労して推測してるけどね。大野晋とか。

>>84
>まずね、君は加羅というものの概念を理解したほうがいい。

加羅なんて、「概念を理解」などというおおげさなものではない。
まず加羅と伽耶は単なる発音の違いだ。そして伽耶は、なにかとうるさい
「任那」の代用として、現在日本の学界で使われているようだ。
そして、「任那」が狭義、中義、広義といろいろに使われることを反映して、
伽耶の内容もまた不安定だ。だからその意味はコンテキストで判断する
しかない。私は「金官」をすこしぼかしたいときに使ったりしている。
なぜなら金官は周辺「伽耶諸国」に影響してこれを「金官化」していた
からだ。
91日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:35:55
>>89
あのね・・・・
状況が違うんだよ。状況が。
君の言う扶余とヒクソスは騎馬民族であり、あまり高度な文化を
持っていない。それでもヒクソスの文化的影響は大きい。
そしてギリシア人は文明人であり、完成した国家体制を初めから
構築した。
プトレマイオス朝にギリシアの文化的影響が少ない?
ムセイオン知ってる?ヘレニズム文化知ってる?

満州語は無くなっていないが?
満州人は漢人を優遇し、漢語を操ったが彼らの文化そのものが無くなったわ
けではないぞ?
吸収された?支配者たる扶余の言語が1世紀で?
百済や新羅の例はどうなる?
彼らの支配層もまた異民族、異なる言語だったが?
92日本@名無史さん:2006/11/28(火) 21:38:05
>>90
・・・・・
じゃあ扶余が日本を征服した可能性も低いと。

あのね・・・・
俺の出した資料読んで。
加羅は連合国家だろ?
邪馬台国を知らないかね?
93日本@名無史さん:2006/11/28(火) 22:25:23
まだ孔子や天皇が韓国人とほざいている奴がここにいるのか?
94日本@名無史さん:2006/11/29(水) 06:30:48
>>85
>勾玉の起源は北九州と考えられており、朝鮮半島南部でも古い時代から
>の出土がある。新羅が最も多いが金海、釜山からも出ている

なんで北九州?
最古は三内丸山だろ。
(それ以前は中国の古代文明と関わりがあると言う説もあるが、
それは置いておこう。)

>新羅が最も多いが金海、釜山からも出ている。

それはそのまま倭人の進出を意味してる。
95日本@名無史さん:2006/11/29(水) 09:34:54
ヘーイ、モウ祖先がどこの大陸であれ、ミーたちは同じジャパンステイツの
仲間じゃないか。そうだろベイピー?
96日本@名無史さん:2006/11/29(水) 20:46:18
>>91
>吸収された?支配者たる扶余の言語が1世紀で?

征服者、支配者の言語が必ず残るとは限らない。
南イタリヤ/シチリヤを征服したノルマン人たちは、二世代目は
もうイタリヤ語で話していた。

それに、100年とか1世紀とかいうのは君が勝手に言っていることだ。
扶余の征服が想定されるのは4世紀後半〜5世紀初頭、そして資料から
日本語がわかるのが8世紀初頭。300年のスパンがある。

>満州語は無くなっていないが?

それでは聞くが、清末の北京の満洲八旗たちは互いに満洲語で会話したのか?
これも征服後300年足らずだが。

>百済や新羅の例はどうなる?
>彼らの支配層もまた異民族、異なる言語だったが?

それでよい。 新羅の統一のときには新羅語に吸収されたではないか。
97日本@名無史さん:2006/11/29(水) 20:52:42
>>92
>加羅は連合国家だろ?

だから? 古墳時代の倭だって連合国家だが。

>>93
>まだ孔子や天皇が韓国人とほざいている奴がここにいるのか?

はて古代に「韓国人」はいないが。

>>94
(半島の勾玉)
>それはそのまま倭人の進出を意味してる。

なんですぐそこに直結するのかな。 交易の可能性は考えないのか?
98日本@名無史さん:2006/11/29(水) 20:58:58
日本人にとって怖い異民族、その総称がカラ。
99日本@名無史さん:2006/11/29(水) 21:33:36
>なんですぐそこに直結するのかな 交易の可能性は考えないのか?
 
もちろん、交易もあったろうが、
半島に古くから倭人が進出してた事は事実だろうが。
100日本@名無史さん:2006/11/29(水) 21:57:22
>>96
>征服者、支配者の言語が必ず残るとは限らない

イタリア語?ラテン語のことか?
高度な文化を持ち、完成された行政機構があるイタリアで政務を行うには
ラテン語を使わざるを得ないだろう?
ノルマン人のイギリスノルマン王朝はどう説明する?

>100年とか1世紀とかいうのは君が勝手に言っていることだ

例えの話だ。1000年なら話はわかるがたった数百年で一つの言語が
なくなるか?
ほう、扶余の征服が4世紀後半から5世紀初頭とな?
ヤマト王権は330年から筑紫を征服し、加羅と鉄器の交易を始め、4世紀
中庸には一部を除く日本列島の大部分を征服していたが
この強大な国家をどうしたら加羅が征服できたのだ?

>資料から 日本語がわかるのが8世紀初頭

細かいことだが万葉集は7世紀からだ。


101日本@名無史さん:2006/11/29(水) 22:08:07
続き

>それでは聞くが、清末の北京の満洲八旗たちは互いに満洲語で会話したのか?
 これも征服後300年足らずだが

満漢併用制って知ってるか?漢人も政治に登用されてんだぞ?
漢人国家を満州人だけで支配できないから漢語を使ったんだ。
というのも、中国は文化が高い国だったから。しかも同化力が
非常に高い。匈奴、遼、元や清。全て中国に同化された。
まあ文化的影響を残したが。{辮髪など}
古墳時代の日本ってそんなに文化が高かったのか?
しかも満州人全てが朝廷に官職持っていたわけではないぞ?
満州八旗が中国語を話していたら満州人は満州語を捨てた事に
なるのか?

>それでよい。 新羅の統一のときには新羅語に吸収されたではないか

新羅語に吸収された?何寝言言ってるんだ?
新羅語に関するハッキリとした資料がないのになぜそう言える?

102日本@名無史さん:2006/11/29(水) 22:13:41
さて今度はこちらから質問だ。
扶余の日本征服が4世紀後半にあったと仮定すると
征服王朝の日本の建国は新羅や百済より遅い事になる。
百済は扶余系の征服者だったが、その支配者の言語は庶民
とは異なっていた。
新羅も同じだ。
これは中国の史書に記されている。
翻って日本を見れば、新羅・百済よりも異民族の征服が遅かった
にも関わらずそのような事がなかった。
日本で扶余語が消滅し、百済で残ったのは何故か?
日本だけが特別か?
103日本@名無史さん:2006/11/29(水) 22:15:10
百済語ってどんなのだったの?
104日本@名無史さん:2006/11/29(水) 22:18:12
>>97
>だから? 古墳時代の倭だって連合国家だが

倭と加羅を同じにするな。
ヤマト王権は連合してるといっても強いまとまりを持っていた。
加羅は盟主に対して服従していたのか?
人口、経済力、軍事力・・国力がケタ違いだ。
その加羅がヤマト王権を打破できるのか?

105日本@名無史さん:2006/11/29(水) 22:30:05
>>103
さあ?としか言いようが無い。
なんせ朝鮮最古の文献は「三国史記{1145年}」だから
106日本@名無史さん:2006/11/29(水) 22:32:32
じゃあ、新羅語も同様ですか
107日本@名無史さん:2006/11/29(水) 22:42:12
そう。
まあ三国史記の時代の朝鮮語が古代新羅後から変化していないなら
わかるかも
108日本@名無史さん:2006/11/30(木) 07:55:37
>>102
歴史書は?

英語版Wikipediaの古代史で暴れるのは勘弁して欲しいな。
しかも大勢で。
109日本@名無史さん:2006/11/30(木) 08:23:46
>>108
中国の史書の名前を出せと?
『隋書』『旧唐書』『梁書』など{順不同}

?韓国人のことを言ってるのか?

110日本@名無史さん:2006/11/30(木) 08:47:23
言葉の話が出てるが、
今の在日が、普段、家で家族と何語で話してるかといえば、
日本語だよな。
扶余が来てたとしても、
彼らの言葉もそういう風に埋没していったのかもしれぬ。

ただ文化は残ったはずだ。
川べりに住み、牛を徒殺する文化は。
111日本@名無史さん:2006/11/30(木) 08:55:40
>>110
・・・・・
まあ今のように「国民国家」や「人権」の概念があったら
埋没していったかもしれぬ・・・

確かに文化は残ったはずだ!!
川べりに住み、牛を徒殺する文化は!!
112倭之五王:2006/11/30(木) 11:17:35
讃、珍、済、興、武
113日本@名無史さん:2006/11/30(木) 16:15:41
>>99
>半島に古くから倭人が進出してた事は事実だろうが。

古くから半島に住んでいた倭人は勾玉とは関係ない。
翡翠は日本にしか産しないからだ。わたしが交易を言うゆえんだ。

>>100
>イタリア語?ラテン語のことか?

土俗化したラテン語、すなわち中世イタリヤ語の、南イタリヤ方言
のことだ。

>高度な文化を持ち、完成された行政機構があるイタリアで政務を行うには
>ラテン語を使わざるを得ないだろう?

とんでもない。当時のイタリヤはいわば「戦国時代」だった。
ノルマン人の最初の段階は地方豪族の傭兵だった。日本人サッカー選手では
ないが、イタリヤ語を使わざるを得ない。彼等はバイリンガルだったが、その
息子たちはもうイタリヤ語だけだった。その二世のなかからシチリヤ王が
出たのである。
114日本@名無史さん:2006/11/30(木) 16:19:36
>>100
>ノルマン人のイギリスノルマン王朝はどう説明する?

イギリスのノルマン人はまとまった勢力だったから貴族階級を形成して、
そのなかでじぶんたちの言葉であるフランス語を守った。それでも300年
と持たなかった。彼等の言葉はアングロサクソンの言葉と融合して英語という
別の言葉になった。すなわち征服者の言葉は滅びたのである。

>例えの話だ。1000年なら話はわかるがたった数百年で一つの言語が
>なくなるか?

言葉は、話す人がいなくなれば滅びる。上記がその例だ。

>ヤマト王権は330年から筑紫を征服し、

根拠は? おおかたの見方は4世紀末でもまだ九州を服属させていない、
ということだと思うが。

>この強大な国家をどうしたら加羅が征服できたのだ?

逆に、吉野ケ里レベルに毛が生えたぐらいの戦術しかない三輪王朝が、
装甲騎馬戦術を持つ金官をどうやって海を渡って攻めて、これを服属
させたのか?
115日本@名無史さん:2006/11/30(木) 16:22:47
>>101
>漢人国家を満州人だけで支配できないから漢語を使ったんだ。

その通り。それが少数の征服者が被征服民の言葉を採用する理由だ。

>しかも満州人全てが朝廷に官職持っていたわけではないぞ?
>満州八旗が中国語を話していたら満州人は満州語を捨てた事になるのか?

なる。なぜなら満洲八旗というのは軍事制度であると同時に戸籍制度なのだ。
少なくとも中国本土にいた満洲族は一人残らず八旗に属したのだ。
満洲語は征服後300年を経ずして滅びた。現在の満洲語は、満洲から直接
中央アジアに行った駐留軍のなれのはて等が保存しているに過ぎない。

>>102
>日本で扶余語が消滅し、百済で残ったのは何故か?

扶余語がそんなに早く消滅したとは、少なくとも私は言っていない。
だいたい、扶余語そのものがわからないのに、扶余語が消滅したのか、いつごろ
消滅したのか、それとも英語のように日本語と融合したのか、皆目わからない。
融合の可能性はないではない。なぜなら高句麗の地名からわかる高句麗語の
数詞が、(8世紀以降の)日本語と非常によく似ていると言われるからだ。
これは高句麗語と同系の扶余語が日本語と融合した結果かも知れない。
116日本@名無史さん:2006/11/30(木) 16:26:10
>>104
>ヤマト王権は連合してるといっても強いまとまりを持っていた。

その証拠はない。だいたい、吉備や南九州など地方の豪族が中央とほとんど同じ
大きさの古墳を築くことじたいが、地方が独立性を持っていた証拠である。
117日本@名無史さん:2006/11/30(木) 16:38:25
三韓は見事に倭軍に成敗されてるじゃん
これってば国力の原則に適わない事象だろうか?
なるほど、やるな倭国。チョウセンヨワ。
118日本@名無史さん:2006/11/30(木) 16:43:27
当時のチョウセンは連合国だったとほざくバカチョンをたまに見るが
当時のチョウセンはズバリザコ国家。
現に完全なる中央集権が確立する以前の倭国に成敗されているしな。
弱すぎだよあの地域は。
119日本@名無史さん:2006/11/30(木) 16:43:44
隋は、高句麗を攻めて国力を弱めた。
120日本@名無史さん:2006/11/30(木) 16:46:04
当時の高句麗と今のチョウセン人は無関係。
121日本@名無史さん:2006/11/30(木) 16:53:20
だいたいシナで変革が起こるたびに避難民が殺到するチョン半島に
纏まった国は出現しにくいだろう、新羅の半島統一ですら、何時の話よ?
その点は玄海灘が行く手を阻む日本が有利だな。
122日本@名無史さん:2006/11/30(木) 17:09:19
江上も論破されちゃって
散々っぱら恥かかされて逝ったのに
何を今更って感じ

未だに騎馬民族説をとなえている人間って
在日の工作員以外考えられないんだけど。
123日本@名無史さん:2006/11/30(木) 17:50:11
甘く見ていたはずの列島のその実は己を凌駕するまでの存在に成っていた
時代は延々と繰り返す。
124日本@名無史さん:2006/11/30(木) 18:59:21
>>113
>古くから半島に住んでいた倭人は勾玉とは関係ない。
>翡翠は日本にしか産しないからだ。わたしが交易を言うゆえんだ。

ヒスイで有名なのは丹波の真岡遺跡?だったかで、
大きなヒスイの勾玉が発見されてたはず。
丹波といえば、新羅建国時の重臣・瓢公が「タバナ国」だよね。
水野祐氏もそれは丹波だろうと言ってた。
交易もあったろうが、進出もしてたと俺は思うが。
125日本@名無史さん:2006/11/30(木) 20:34:21
>>113
まあとりあえず付き合うか

>土俗化したラテン語、すなわち中世イタリヤ語の、南イタリヤ方言

なあ、一体いつの話してるんだ?オドアケル王国の前か後か?
イスラム侵攻の後か?

>とんでもない。当時のイタリヤはいわば「戦国時代」だった

オドアケルが東ローマ帝国を滅ぼしてすぐに東ゴート王国ができたが
その統治は493〜552まで及んだし、ユスティニアヌス帝が滅ぼ
したあともランゴバルド王国が774年まで治めている。
十分にローマ文化も残されたしローマ人と共同統治している。
そこに十分な政治機構が無かったのか?

言っとくが傭兵はオドアケル。東ゴート王国は移住してきたゲルマン族。
そしてその後、ノルマン人の一派がイタリア南部を占領し建国されたのが
シチリア王国。傭兵ではない。


126日本@名無史さん:2006/11/30(木) 20:46:38
>>114
>イギリスのノルマン人はまとまった勢力だったから貴族階級を形成して、
 そのなかでじぶんたちの言葉であるフランス語を守った

なあ・・なぜ扶余はそうしなかったんだ?
征服者なら特権層を構築するだろ?
百済も同様のことが言えないか?
日本だけが特別か?

>言葉は、話す人がいなくなれば滅びる。上記がその例だ

だから話す人がいなくなるためには長い時間が必要だって

>根拠は? おおかたの見方は4世紀末でもまだ九州を服属させていない、
 ということだと思うが

ヤマト王権の象徴たる前方後円墳が4世紀前半にすでに北九州に存在
していた。それから機内を中心とした強力な王権の存在が確認される。

信じたくないなら信じなくてもいい。

>逆に、吉野ケ里レベルに毛が生えたぐらいの戦術しかない三輪王朝が、
 装甲騎馬戦術を持つ金官をどうやって海を渡って攻めて、これを服属
 させたのか?

??オレは「交易の可能性」を述べたのであって「加羅を征服した」なんて
一言も言ってないぞ?
しかもお前「装甲騎馬戦術」って・・・重装甲騎兵は確かモンゴル帝国の
時代だったような・・・
吉野ヶ里に毛が生えた程度?お前どうしても朝鮮を優位にしたいようだな
そんなら聞くが、後のヤマト王権の朝鮮進出をどう説明する?
127日本@名無史さん:2006/11/30(木) 21:01:48
>>115
>その通り。それが少数の征服者が被征服民の言葉を採用する理由だ

だから百済と新羅はどう説明する?

>なる。なぜなら満洲八旗というのは軍事制度であると同時に戸籍制度なのだ
>現在の満洲語は、満洲から直接 中央アジアに行った駐留軍のなれのはて等が保存しているに過ぎない。

・・・・だからさ
「中国にいた」八旗は漢人も続々入ってくるから漢語になってくだろうさ。
商人になるとかそういう場合が絶対無かったのか?
満州語ってのが消滅するのにも何百年ってかかってるだろ?
それなのに扶余語はすぐ滅びたってのか?

128日本@名無史さん:2006/11/30(木) 21:08:01
>>115
>これは高句麗語と同系の扶余語が日本語と融合した結果かも知れない

あのさ、だったら日本語と朝鮮語に類似点があるだろ?
最近の研究では6000年以上の開きがあるらしいが・・・

>その証拠はない。だいたい、吉備や南九州など地方の豪族が中央とほとんど同じ
 大きさの古墳を築くことじたいが、地方が独立性を持っていた証拠である

都合の悪い事は無視か?ヤマト王権は鉄器の配給によって各地の豪族に対して
主導権を握っていた。だから鉄器の輸入が困難になった時期には王朝の力は低
下したのだ。すくなくとも「主導権」を握ってはいたぞ?
そして「朝鮮への軍事的侵攻」も行っていた。
同じ連合政権でも質が違うぞ?
129日本@名無史さん:2006/11/30(木) 21:27:13
>簒奪説氏

前々スレあたりで、
扶余は日本の被差別民の原型になったのではないかという、
珍説を言った者だが、
余部(よべ)という地名は室町時代あたりまでは見られるが、
播磨風土記の時代にはないという、あなたの指摘を受けた。
播磨風土記を読んでないから何だが、まぁ確かにないようだ。
しかしだ…
俺の珍説も少し進化したw
http://www.vzhyogo.com/vzevent/dentou/himejisirokawa/rekisirokawa.html

姫路の牛革は別名・越たん、古志たんとも呼ばれてたらしい。

ここでまた仮説。
扶余は余部(よべ)と呼ばれず、
別の名前で呼ばれてたのではないだろうか?
例えば越部(こしべ)とか。
そう思って調べたらあったw
http://ns1.shinkin.co.jp/himeshin/tiiki/himebun/himebun06.htm

揖保の郡・越部の里

播磨の在地民から見れば、半島系の扶余であろうが、
日本海側から来た人という意味で越部と呼んだのではないだろうか。
130日本@名無史さん:2006/11/30(木) 22:44:54
>>109
Wiki英文のAsukaPeriodやKofunPeriod等が集中攻撃されている件。

何が何でも日本を百済の支配下に置きたい、という韓国側の無謀な
情熱は伝わってくるけど。
己の願望に事実を近づけようとするから無理が生じる。
当然、文献も無いし。
131日本@名無史さん:2006/12/01(金) 00:17:42
>>130
この部分か?
The number and cultural impact of the refugees during this period was downplayed during the occupation of Korea in the earlier part of the twentieth centry, due to somewhat obvious political reasons.

(この時代(七世紀)における半島から日本への亡命者が日本に与えた文化的影響は、20世紀初頭の日韓併合の間じゅう、政治的理由から軽視されてきた)
132日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:11:09
>>130
まいったものだな。
彼らの妄想も・・・・
まあ実際は百済文化=中国文化だったわけだが・・・
日本に守ってもらう代わりに中国の文物を差し出していたわけだが・・
133日本@名無史さん:2006/12/01(金) 17:55:52
>>131
日本の古代史を完全ウリジナル化しようとすると、日本・韓国・朝鮮以外の
国も巻き込む事になるし、実際なっているんだけど、気が付かないんだよね...orz

134日本@名無史さん:2006/12/01(金) 19:50:18
クダラナイの語源はここからきたんだ!
135日本@名無史さん:2006/12/01(金) 20:34:29
>>116
>吉備や南九州など地方の豪族が中央とほとんど同じ
>大きさの古墳を築くことじたいが、地方が独立性を持っていた証拠である。

それは違う。
日向には、マバカだったか箸墓だったかと、
ピッタリ同じ比率の少し小さい古墳がある。
それは大和との強い結びつきを意味してる。

そして日向で最古の前方後円墳は3世紀前半だ。
4世紀末でも九州を服属させてないとの見解は古過ぎる。
136日本@名無史さん:2006/12/01(金) 22:02:04
>>125
>言っとくが傭兵はオドアケル。東ゴート王国は移住してきたゲルマン族。
>そしてその後、ノルマン人の一派がイタリア南部を占領し建国されたのが
>シチリア王国。傭兵ではない。

確かに高校世界史ではその程度しかわからないだろう。
私が言っているのは11世紀から12世紀にかけての話だ。このころの
イタリヤは君の挙げたような外部勢力の残党が割拠する、戦国時代だったのだ。
ノルマン人はばらばらに南イタリヤにやって来て、それら豪族の傭兵になった。
そしてその報償として得た領地をもとにして勢力を広げたのだ。
シチリヤ王国は突然できたのではなく、上記のようなノルマン人の南イタリヤ
征服の延長線上にあったのだ。だから単にシチリアという島の王国ではなく、
シチリア/南イタリヤ連合王国だった。長くは続かなかったけどね。
137日本@名無史さん:2006/12/01(金) 22:06:31
>>126
>なあ・・なぜ扶余はそうしなかったんだ?
>征服者なら特権層を構築するだろ?

別にそうしなかった、とは言っていない。たとえそのような二重言語状態が
生じたとしても、300年のうちには吸収や融合が起こっただろう、という
ことを、イギリスのノルマン人の例によって説明したのだ。

>「加羅を征服した」なんて 一言も言ってないぞ?

交易だけでどうやって加羅が大和に服属したり、加羅と大和が一体化
したりするのか? 歴史上、そのようなことが起こった例があるのか?

>しかもお前「装甲騎馬戦術」って・・・重装甲騎兵は確かモンゴル帝国の
時代だったような・・・

装甲騎兵戦術こそが扶余/金官の特徴だ。それは発掘から証明されるからどう
しようもない。モンゴルは軽装騎兵だ。装甲騎兵ではアジアを横断できない。

>そんなら聞くが、後のヤマト王権の朝鮮進出をどう説明する?

だからそれは扶余が河内王朝を築いてさらに強大になってからの逆進出
と考えるのだ。 ちょうど、ノルマン人がノルマンジー半島から発してイギリスを
征服し、さらに強大になってからフランスに逆進出して英仏戦争を戦ったのと
アナロジーをなす。
138日本@名無史さん:2006/12/01(金) 22:09:11
>>127
>だから百済と新羅はどう説明する?

二重言語が生じるかどうかは力関係、数の関係による。イギリスのノルマン人と、
イタリヤのノルマン人とでは現地語との関係が違ったのはなぜか、考えて見よ。

>「中国にいた」八旗は漢人も続々入ってくるから漢語になってくだろうさ。

入って来ない。そんなことをしたら支配民族の権威は保てない。漢人八旗
というのもいたが、それは中国征服以前に満洲に住んでいて、満洲軍に協力した
人達だ。被征服者たる中国本土の漢人は基本的に資格がないのだ。

>それなのに扶余語はすぐ滅びたってのか?

すぐ滅びた、というのは君が言っていることだ。前にも言ったように、
年代的に300年のスパンを与えることができる。これだけあれば十分だろう。

>>128
>だから鉄器の輸入が困難になった時期には王朝の力は低下したのだ。

そうだろうな。その時、鉄資源を握っていたのは金官の扶余なのだから、
力関係はおのずから分かる。扶余が例えば領地を要求したら、断れないだろう。
139日本@名無史さん:2006/12/01(金) 22:34:23
>>134
その通り、実にクダラナイ、というやつだ。

>>138
2chで侃侃諤諤やってる分にはいいが、その個人的な願望をwikiには
反映させるなよ。
140日本@名無史さん:2006/12/01(金) 22:57:24
>>137
>交易だけでどうやって加羅が大和に服属したり、加羅と大和が一体化
>したりするのか?

交易だけというわけではないが、
北方の難敵・高句麗対策として、
連合を組んだ事は大いに考えられる。
支配者が扶余だったといわれる百済と、
大和は友好関係にあった。
じゃぁ、なんで伽耶に居る扶余と大和が敵対するのだろうか。
141日本@名無史さん:2006/12/01(金) 23:22:20
>>138
>扶余が例えば領地を要求したら、断れないだろう。

鉄資源を握っていたのが金官の扶余だと「仮定」しても、
要求しないだろう。
扶余は故郷を追われて半島南部にまで来た。
故郷回復の為に大和と組んでたのなら、
半島南部に住み続けれる状況でとりあえず良かったはず。

それに、もし扶余が領土を要求して、
大和がそれに応じ、彼らが日本に来たのなら、
日本のどこかの地方で、極端に扶余的な考古学的遺物が出土するはず。
今のところそういう地域はない。
142日本@名無史さん:2006/12/02(土) 07:07:09
>>136
>このころの イタリヤは君の挙げたような外部勢力の残党が割拠する、
 戦国時代だったのだ

さてさて、11〜12世紀のイタリアは都市国家が林立していたと
記憶するが?ヴェネツィアやミラノなどがその代表である。
ノルマン人が傭兵家業をしていたかどうかは知らないが
シチリア王国はフランス・ノルマンディーの騎士ロベルト・イル・グイスカルド
がイタリア南部を征服したのが始まりだ。
立派な征服王朝だが・・
連合王国など・・どこで覚えたんだ?


143日本@名無史さん:2006/12/02(土) 07:21:06
>>137
>たとえそのような二重言語状態が 生じたとしても、300年のうち
 には吸収や融合が起こっただろう

結局「だろう」
推測に過ぎん。
前にも言ったとおり、もし扶余と日本の二重言語状態が続いたとした
ならば、同じく扶余に支配されていた百済にも扶余語が残され、さら
に後の朝鮮にも残ったはずだが、現在、なぜそのような共通点がない?


>イギリスのノルマン人の例によって説明したのだ

いつイギリスを例に取った?

>交易だけでどうやって加羅が大和に服属したり、加羅と大和が一体化
 したりするのか? 歴史上、そのようなことが起こった例があるのか

あのな・・いつオレが「ヤマトと加羅が一体化した」などと言った?
もともと外国同士で対等に交易していたんだろう。
加羅がヤマトに臣従したのは、ヤマトの国力をアテにして新羅や高句麗
から守ってもらうためである。百済と同じようにな。
そして一体化などしていない。
日本と関係する倭人集団が軍事的、経済的利権を持っていたという説
が有力だ。
このような例は世界史を見れば山のように存在する。
例えば11世紀のイタリアだな。
144日本@名無史さん:2006/12/02(土) 07:34:27
>>137
>装甲騎兵戦術こそが扶余/金官の特徴だ。それは発掘から証明されるからどう
 しようもない。モンゴルは軽装騎兵だ。装甲騎兵ではアジアを横断できない。

・・・一つ質問していいか?
お前の定義では鎧を着た騎馬戦士は「装甲騎兵」なのか?
騎馬戦術が歩兵に対して有効な一番の理由とは何だ?

>だからそれは扶余が河内王朝を築いてさらに強大になってからの逆進出
 と考えるのだ。 ちょうど、ノルマン人がノルマンジー半島から発してイギリスを
 征服し、さらに強大になってからフランスに逆進出して英仏戦争を戦ったのと
 アナロジーをなす

ほほう
都合のいい解釈だ。
だが河内王朝=扶余ならば当然崇神王朝が征服されたことになるが
一体どこにその痕跡があるのだね?
騎馬戦術は十分な数の騎兵の下に初めて実現されるものだ。
河内王朝を征服するには相当な数の騎兵とそれを輸送する船舶が必要
だが、当時の扶余はそれを成す国力があったのかい?
そうする必要はあったのかい?
北から高句麗・新羅の圧力がある中で。
なぜ朝鮮の扶余と絶縁関係になったのかね?
イギリスノルマン王朝はノルマンディーをしっかりと確保し
そこからフランスに進出したのだが?
なぜ軍事的圧力が無ければ扶余を取り込めなかったのかね?

145日本@名無史さん:2006/12/02(土) 07:47:28
>>138
>二重言語が生じるかどうかは力関係、数の関係による。イギリスのノルマン人と、
 イタリヤのノルマン人とでは現地語との関係が違ったのはなぜか、考えて見よ

さてさてノルマンディーとシチリア、どう数と力関係が違っていたのかね?
力関係からすれば、どちらも征服王朝だ。当然、支配者の力が強い。
数を例に出しても仕方が無い。当時の資料が無いのだ。
まあ違いといえばノルマンディー公国がフランス王から{名目的には}与え
られたものであり、シチリア王国は純粋な征服王朝であったという点か

>漢人八旗 というのもいたが

まずは八旗についてよく調べてから質問しろ

>すぐ滅びた、というのは君が言っていることだ。前にも言ったように、
 年代的に300年のスパンを与えることができる。これだけあれば十分だろう。

だからその事実を直接的、間接的に伝える証拠が無いだろうに
同じ時期に{騎馬民族征服説を信じれば}同じ民族によって建てられた
征服王朝が、なぜに一方の朝廷は民間語と異なり、一方では同じだったか?
数が少なかったから・・という事は理由にならないぞ
146日本@名無史さん:2006/12/02(土) 07:59:44
>そうだろうな。その時、鉄資源を握っていたのは金官の扶余なのだから、
 力関係はおのずから分かる

ほう、鉄資源を持つ者は必ず強いと?
扶余がヤマトの上に立っていたと?
人口、国力の差を全く考えていないな。
いくら鉄器を保持していたとしても、現代じゃないんだから
結局は数がモノを言う。

お前にもう一つ問いたい

騎馬民族が中国に対して優位を保てたのは騎馬戦術だけではなく
彼らに住民全てを動員できる体制があったからだ。
彼らは平時から馬と生活をともにし、その生活は乗馬の訓練にも
なる。これも彼らの強みだ。

だが扶余はどうだ?彼らは農耕を始めていたではないか?
しかも国家体制もウルスではなく都市を中心としていただろう?
騎馬戦術だけで匈奴が優位を保てたのではない。
なにしろ中国本土にも馬はいたのだからな。
147日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:36:25
日本の歴史で
騎馬戦が主力になったことは一度も無い。
日本列島の地政学では、
歩兵が中心。

日本で騎馬が使われるとしたら
身分の高い人が乗るためのもの、伝令、荷物運び
が主要だ。
148日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:39:06
また、神武天皇は神話上ではない。

神武天皇は、日向(鹿児島・宮崎)の王子だったのが
大和(近畿地方)の王家に婿養子に入ったんだろうが...

目的は、出雲王権(中国地方・北九州)を挟み撃ちすること。
149日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:47:46
中国の一部の教科書「任那日本府」を認めている
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3500/1164190874/
150日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:54:56
>>147
それは違う
武田の騎馬部隊は恐れられていたではないか
>>148
それが事実ならば日本は紀元前660年建国ということになるな
九州王朝説の亜流か?
まあ直接的資料が余りに少ないことが・・・
>>149
中国の教科書は国定では?
151日本@名無史さん:2006/12/02(土) 22:14:00
>>150
武田軍の中身は、歩兵が90%、騎馬が10%未満。
しかも、戦闘中は歩兵が殆ど。
騎馬は、武将・補給の運搬がメイン。
とにかく、小説やドラマの印象が強すぎるのが問題だ。
武田軍は、9割以上、歩兵が中心の軍隊だった。

>>150
二倍年暦を学べよ。
当時の暦の考え方が違うかったのは学会で定説。(2003年に学会が発表)
これで考えれば、神武天皇は2世紀の人物。
崇神天皇が3世紀の人物だ。
ちょうど、卑弥呼の時代が崇神天皇の時期と近い。
よって、崇神天皇は、邪馬台国のライバル国(狗奴国)の国王か、
あるいは、邪馬台国の国王が崇神天皇で、
卑弥呼は国王に仕える日巫女だったのでは?という説が有力。
これは、学会では完全にその方向で進みつつある。
152日本@名無史さん:2006/12/02(土) 22:15:34
とにかく、ここのスレの連中は
学会などの研究よりも遅いはな、進度が。
153151:2006/12/02(土) 22:17:59
ついでに言うなら、武田軍が歩兵中心だったというのだけじゃなくて
織田軍は実は、以外に鉄砲兵の比率が
言われているほど多くなかったのも味噌。
織田家が天下を取れそうだったのは
鉄砲のおかげじゃなくて、地政学的に
大きな平野部を所有していただけのことである。
154日本@名無史さん:2006/12/02(土) 22:20:08
>>150
義務教育の教科書は国定だろう?
大学の教科書の場合は
国定ではない。
155日本@名無史さん:2006/12/02(土) 22:28:21
>>151
理解できないかな


神武天皇は神話上である


崇神天皇の存在の可能性があっても
それが神武が存在してたわけにはならんだろ。

>「ハツクニシロシメスミカド」
156日本@名無史さん:2006/12/02(土) 22:31:30
>>155
要するに、神武天皇は
大和王権の現在の天皇に繋がる最初の国王だということだろう?
崇神天皇というのは、吉備・出雲を倒した最初の国王。
つまり、この崇神天皇の時、初めて全国規模の王権になった。
157日本@名無史さん:2006/12/02(土) 22:37:08
>>156
勘違いするなよ。ま、馬鹿につける薬はないな。。。
158日本@名無史さん:2006/12/02(土) 22:39:34
>>157
神武天皇の記述では、日向国から大和国に
入り婿に入ってから後は
殆ど近畿地方での小競り合い程度の話しかない。

それが、崇神天皇の時代に入ると
日本全体規模の話になってくる。
159日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:02:23
神武なんていなかったんだよ。
160日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:13:32
>>150
>中国の教科書は国定では?

厳密に言うと、教科書にはいくつか種類があって、
政府の基準に合格したものがその都度採択される。

こんな感じではなかったかな?
161日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:16:56
あっそ
162日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:17:13
>>149
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3500/1164190874/
>さらに、一部の教材などでは「古代日本が韓半島(朝鮮半島)南部を
>支配していた」という日本学界の一部で主張されている「任那日本府説」を
>事実であるかのように記述するなど、韓国史記述の深刻な歪曲を見せている。
>例えば、上海人民出版社の『世界史講』の場合、「新羅は、半島南方で
>早くから長期間にわたって倭人の基盤となっていた任那地区を回復した」と
>記述している。

深刻な歪曲かぁ......w
163日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:17:26
神武に関しては、実在説と神話説があるが
もし、実在しているとした
西暦180年くらいに即位したというのが有力だわな。
ただ、この時代に関しては、まだまだ畿内限定の政権だったもよう。
中国地方から関東ぐらいまで覇権を確立したのが
崇神天皇の時代だろう?
164日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:24:03
>>164
バーカ。死ね禿ww
165日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:48:37
>>165
ごめんなさい
166日本@名無史さん:2006/12/03(日) 09:11:57
戦後の記紀批判は正しいのか?
やはり記紀通り、
日向から神武(あるいは崇神)が大和に東遷した可能性もある。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040619.htm
>例えば宮崎市の生目(いきめ)古墳群1号墳(墳長130メートル)は
>箸墓(はしはか)古墳(墳長280メートル)の2分の1、
>鹿児島県高山町の塚崎古墳群10号墳(墳長40メートル)は
>行燈山(あんどんやま)古墳(崇神天皇陵、墳長240メートル)の
>6分の1の平面規格という。
>前方部と後円部の長さの比や、
>古墳中央部のくびれ具合までぴったり相似することを
>偶然と見なすわけにはいくまい。

南九州の王が、大和に行って巨大サイズの古墳を作った可能性を否定できない。
167日本@名無史さん:2006/12/03(日) 10:38:45
>>166
というか、日本神話は
大きく分けて、日向神話、出雲神話、大和神話に分かれる。

神武天皇というか、日向の王子か何かが
わずか20名くらいの側近を連れて、
大和の王の娘と結婚して、婿養子になったという話だ。

その神武天皇の東征のルートが
日向から殆ど陸地を通らず、北九州や中国の陸地を避けるようにして
瀬戸内海の孤島を渡り歩くようにして、近畿地方に上陸しているんだな。

このことから、当時、
北九州〜中国地方を支配していた出雲王朝と戦うために
日向(南九州)と大和(近畿地方)が同盟したのでは?
その結果が、日向の神武天皇が大和へ婿養子になったのでは?という話。
ちょうど、戦国時代に、織田家が、毛利家を討伐するために
大友家や島津家と同盟を結んで、挟み撃ちにしようと画策したのに似ている。

結局、出雲や吉備などを滅ぼすのに、崇神天皇の時代まで
待たねばならなかった。この時に、四道将軍を配置するなどして
事実上の日本全国規模の政権になり、崇神天皇は
初めて天皇らしき天皇になったのでは?ということ。
ただし、かつての同盟国であり、神武の出自であった日向とは
この後、対立関係になり、大和政権は九州の支配をめぐって日向と戦う。
それが日本武尊のころ。
その2代後の応神天皇の時に、豊臣秀吉みたいに朝鮮半島へ出兵する。
168日本@名無史さん:2006/12/03(日) 11:08:11
>>166
神武天皇=日本皇室の確認できる最初の先祖。
     日向から大和へ婿養子。
崇神天皇=初めて日本全国規模で展開した皇帝らしい君主。
169166:2006/12/03(日) 12:11:21
俺的には、神話というものを裏付ける考古学的資料がないと、
面白くも何ともないと思うんだ。
この宮崎大・柳沢教授が採用している、
古墳を平面規格の比率で判断していく方法は大変興味がある。
行燈山古墳は5世紀頃に崇神天皇を偲び作られた古墳とも聞いたが、
それと同じ規格の古墳が鹿児島で発見なんて…




170日本@名無史さん:2006/12/03(日) 20:09:54
   円 |  ||   ||
      |  ||   ||
.     2├  ||   ||
      |  ||   ||
      |  ||   ||
.     1├  ||   ||
      |  ||   ||
      |  ||   ||
      └─────────
         wii     PS3

       /\___/ヽ                           l
      /:::::::       \                  /\___/ヽ
     .|:::.   ''''''   ''''''  |                 /       :::::::\
      |::::.,(一),   、(一)|                |  ''''''   ''''''   .:::|
     .|::::::: ノ ,,ノ(、_, )ヽ、,, |               |(●),   、(●)、.::::| 江上さん?古い…
      \:::::.ヽ`-=ニ=- ' /                |  ,,ノ(、_, )ヽ、,, .:::::::|
     /   `一`ニニ´-,ー´                  \ `-=ニ=- ' .:::::/
     /  | |   / |                       `ー`ニニ´-一´ヽ、
    /   | |  / | |                      /    _    l
    /   l | /  | |                     /  ̄`Y´   ヾ;/  |
__/    | ⊥_ーー | ⊥_ _____________,|    |    |´  ハ
   |  `ーヽl_l_l.} ヽl_l_l.}                       |    |    |-‐'i′l
  (、`ーー、ィ   } ̄`   ノ                       |__ |   _|   7'′
    `ー、、___/`"''−‐"       @   @        (   (  ̄ノ `ー-'′\
171日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:09:29
>>141
>日本のどこかの地方で、極端に扶余的な考古学的遺物が出土するはず。

それについては 78 と 86 で、すでに説明した。

>>142
>ノルマン人が傭兵家業をしていたかどうかは知らないが

お前は傭兵という言葉が嫌いらしいが、大抵の資料はその言葉を使っている。例えば:
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/history/sciria/sciria2.htm
ページ名からして「ノルマン傭兵の活躍」だ。

>>145
>さてさてノルマンディーとシチリア、どう数と力関係が違っていたのかね?
>数を例に出しても仕方が無い。当時の資料が無いのだ。

イギリスへ行ったノルマン人はまとまった軍勢(*)であり、イタリヤへ行った
ノルマン人は個人単位だったことは説明したはずだ。資料はいくらでもある
のだよ。(*騎兵1500〜2000騎を持っていたという)
個人単位の傭兵は雇い主の言葉を使わざるを得ない、という、ただそれだけの
話だ。それがのし上がれば地元語を話す領主や王が出来上がるのだ。
まとまった軍勢はまとまった社会を形成して、内部で言葉を保存できる。
それだけの話だよ。

172日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:15:10
>>143
>現在、なぜそのような共通点がない?

前からそ何回も言っているのだが、5世紀ごろの日本語も扶余語もまったく
わからないのだ。だから日本語と扶余語がどんな関係にあったかは、なおさら
わからない。
また現在の朝鮮語に扶余語の要素が残っていたとしても、それが扶余語である
かどうかを知る手だてがない。なにしろ扶余語は知られていないのだから。
そんな条件でなにを議論しているのか? それがわからない。

>>144
>お前の定義では鎧を着た騎馬戦士は「装甲騎兵」なのか?

違う。この場合は馬も人も装甲した騎兵のことだ。

>騎馬戦術は十分な数の騎兵の下に初めて実現されるものだ。

そうとは限らない。前に何度も書いたが、コルテスのメキシコでの戦いでは
10騎ないし20騎の騎兵が、歩兵の大軍に対して大きな働きをした。

>なぜ軍事的圧力が無ければ扶余を取り込めなかったのかね?

逆に、鉄と馬、騎兵戦術を持つ相手を、どうやって平和的に取り込むのか?
まあ、学者達は面白いことを言っている。それは、扶余からの鉄に対する倭の
「輸出品」は「兵士」だったというのだ。だが相手の要求に応じて兵士を
差し出すのは結局の所、属国の姿ではないか?
173日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:17:43
>>146
>騎馬民族が中国に対して優位を保てたのは騎馬戦術だけではなく
>彼らに住民全てを動員できる体制があったからだ。

魏書東夷伝扶余条によれば、扶余人は家々に自ら鎧や武器を有する。
また六つの「加」という官名があったが、戦争になれば「諸加」は自ら戦い、
下戸は食糧を運ぶ。この下戸とは奴婢である。「加」は満洲族の八旗の
ようなものであろう。
要するに扶余は戦争になれば貴族から奴隷まで、全員で戦ったのだ。
お前の言う「住民全てを動員できる体制」だ。

>だが扶余はどうだ?彼らは農耕を始めていたではないか?

すこしでも農耕をやったらいけないのかな? 満洲族も農耕を行い、豚を飼った
ではないか。ツングースとは豚を飼う人の意味だ。
そういえば東夷伝扶余条の扶余の描写は、まるで満洲族のことかと思うほどだ。
国民皆兵、馬、黒貂、みなあり。足りないのは朝鮮人参くらいのものだ。
恐らく扶余は、その後の満洲の地に伝統的にあった、満洲族的ありかたの
「はしり」だった。
174日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:34:31
>>171

>それについては 78 と 86 で、すでに説明した

扶余の遺物ばかりではないぞ。古墳は

>お前は傭兵という言葉が嫌いらしいが、大抵の資料はその言葉を使っている

まずはイタリア史を少し勉強してこい
話はそれからだ

>ノルマン人は個人単位だったことは説明したはずだ

バカが
「征服王朝」だろうが。シチリア王国は。



175日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:45:59
>>172

>前からそ何回も言っているのだが、5世紀ごろの日本語も扶余語もまったく
 わからないのだ。だから日本語と扶余語がどんな関係にあったかは、なおさら
 わからない。
 また現在の朝鮮語に扶余語の要素が残っていたとしても、それが扶余語である
 かどうかを知る手だてがない。なにしろ扶余語は知られていないのだから。
 そんな条件でなにを議論しているのか? それがわからない

お前は一体どういうつもりだ?
極めて低い加羅の征服の可能性を「推測」で語るのが目的か?
加羅の日本征服を立証したいわけではないのか?

>違う。この場合は馬も人も装甲した騎兵のことだ

????
悪いんだが、そのソースを教えてくれないか?
いくら探しても「加羅の装甲騎兵」が見つからん

>そうとは限らない。前に何度も書いたが、コルテスのメキシコでの戦いでは
 10騎ないし20騎の騎兵が、歩兵の大軍に対して大きな働きをし

コルテスはアステカと敵対していたトラスカラ人と同盟し
さらに追加のスペイン兵・インディオの5万余りの「大軍」
でアステカを征服したが?



176日本@名無史さん:2006/12/03(日) 21:51:35
>逆に、鉄と馬、騎兵戦術を持つ相手を、どうやって平和的に取り込むのか?
 まあ、学者達は面白いことを言っている。それは、扶余からの鉄に対する倭の
 「輸出品」は「兵士」だったというのだ。だが相手の要求に応じて兵士を
 差し出すのは結局の所、属国の姿ではないか

加羅というものの政治形態を勉強してから言え。
彼らが「加羅」という連盟を形成する前に、日本には邪馬台国を
代表とする地域大国が形成されていた。
もちろん同じ連合政権だがその結合度は違っていた。
いくら鉄器や馬を持っていたとしてもアステカやインカのように
棍棒で戦ったり扶余を神と崇めたりしたわけではないから負けた
りはしない。
鉄の見返りに「保護」を頼んだんだろう?
兵士を提供したというのは新羅や百済に対抗するために軍事的な援助をした
と解釈できんか?

加羅の形成はいつだった?
邪馬台国はいつの時代だ?
177日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:02:41
>>173
あのな・・・・
>お前の言う「住民全てを動員できる体制」だ
>すこしでも農耕をやったらいけないのかな?

そのときの扶余はどこに住んでいる?
そのときの扶余の隣に何という国がある?
どんな武器を主としている?
285年に何があった?




178日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:03:31

激しいなw

179日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:05:45
プヨプヨ
180日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:16:17
扶余は支配する先々で、
その土地の墓制を採用するのなら、
何で伽耶を支配した時、
それ以前の狗邪韓国の墓制を採用しなかったのだろう。
本当に伽耶を支配したのか、はなはだ疑問だ。
倭に負けて隔離されてただけだったりしてw


>まあ、学者達は面白いことを言っている。それは、扶余からの鉄に対する倭の
>「輸出品」は「兵士」だったというのだ

その学者って韓国人だろ。
兵が足りなかったって事だよね。
扶余が弱かったと認めてるんだねw

181日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:44:56
>>簒奪説氏

扶余が河内王朝を簒奪したという根拠について、
移住した証拠があるのか?とあなたに聞いた。
それに対し、
「金海型の祭祀用土器が5世紀前半の大阪周辺の古墳から多数出る」
というのでは無理がある。
少なくとも4世紀前半〜中期に移住した根拠を示してくれなければ。
182日本@名無史さん:2006/12/04(月) 18:29:05
>>173
追記

匈奴はまんま騎馬民族。その兵力は大半が騎馬。
そして扶余は歩兵が主。
騎馬戦術?

お前が忘れているのか意図的に扱わないかは知らないが

1 日本側の状況
2 3〜4世紀の国際状況
3 高句麗

の三点を考えて欲しい
183日本@名無史さん:2006/12/04(月) 18:32:23
聖徳太子が東突厥人だったって説があるよね。
だから厩戸で夢殿はパオだってさw
じゃあ騎馬民族説もあながち間違いではない。
184日本@名無史さん:2006/12/04(月) 19:15:06
>>183
聖徳太子の母・穴穂部間人王后が、
ペルシャ系の八頭身美人で、
百済観音のモデルになったという面白い説もある。
185日本@名無史さん:2006/12/04(月) 22:30:12
すべて面白い説レベルだな。
186日本@名無史さん:2006/12/04(月) 22:41:40
河内平野から出る韓式土器を、
扶余の渡来の根拠にするのはやはり無理だな。

出土してると言っても、
韓式土器のみで構成されることはなく、
必ず在地の土師器に共伴している。
これはどういう事か…
文化的隔離がなかったという事だから、
伽耶から帰ってきた倭人がもたらしたと考えるのが適切だろう。

187日本@名無史さん:2006/12/05(火) 13:45:47
>>174
>扶余の遺物ばかりではないぞ。古墳は

ほう、「扶余の遺物」を認めるのか。うれしいことだ。

>まずはイタリア史を少し勉強してこい

私が書いたことのどこがおかしいのか、指摘して見よ。
それができないのなら捨てぜりふなど言うな。

>バカが 「征服王朝」だろうが。シチリア王国は。

征服王朝であればその始まりが個人単位の傭兵ではいけないのか。
シチリヤ王朝で完結した征服事業も、始まりは個人単位の傭兵だった、だから
当初から現地語を使わざるを得なかった、という話をしているのだよ。
征服者の言葉と現地語との関係の一つの例として。
188日本@名無史さん:2006/12/05(火) 13:51:08
>>175
>加羅の日本征服を立証したいわけではないのか?

どういえばわかってもらえるのか。
この議論は、#4の、「なぜ古代の天皇家は(百済などと違って)日本語
を使ったのか」という設問から始まっている。
つまり古代の天皇家が一般民と同じ「日本語」を使ったことが、騎馬民族が
来なかった証拠、というわけだ。
私に言わせればこの設問自体がおかしいのだ。なぜならそれは、「古代の日本語」
ないし言語状況が分かっている、ということを前提にしているからだ。
しかしその前提は、後世の万葉集などによって我々が持つ錯覚に過ぎない。
古代、例えば5世紀の日本語がどんな言葉だったか、それを知る「同時代資料」
はない。資料があっても全て漢文であって日本語を伝えない。いわんや天皇が
どんな言葉をしゃべったか、知る手だてはない。
だから上記の設問は「成り立たない」。私はこのことを言っているのだ。

古代に、あれだけ大きな動乱、変動、流入があって、言葉が影響を受けなかった
はずはない。むしろ古代は日本語そのものの「形成過程」であったと私は
思っている。そのなかでどんなことがあったかわからないし、どんなことが
あってもおかしくないのだ。
189日本@名無史さん:2006/12/05(火) 13:55:11
>>175
>そのソースを教えてくれないか? いくら探しても「加羅の装甲騎兵」が見つからん

私も探してみたが現在、ネットではあまり資料がないね。
次の二つの本にくわしい:「伽耶と古代東アジア」「巨大古墳と伽耶文化」。
また私が#46で示した金海のほうのURLに騎馬土偶の写真がある。残念ながら
銅像と模造品で、展示物そのものではないが、イメージはわかる。
また韓国の金泰植という人の書いた「4世紀の韓日関係史」というpdf資料
に、高句麗、百済、倭、伽耶の武装を比較しており、伽耶が武器において百済、
倭より進歩していて、4世紀後半には「重装騎馬戦術」を持っていた、と
書いている。ただしこの人は扶余征服の立場に立つ人ではないから、なぜそう
なったかの説明はない。
190日本@名無史さん:2006/12/05(火) 13:59:02
>>175
>コルテスはアステカと敵対していたトラスカラ人と同盟し さらに追加の
>スペイン兵・インディオの5万余りの「大軍」 でアステカを征服したが?

トラスカラ人を加えた大軍だったことはその通りだが、個々の局面で騎兵が
働いているのだ。第一次のメキシコ(アステカ)市占領の時、コルテス軍は市民
の反乱にあって、兵力の半分を失ってメキシコ市から撤退した。そしてトラスカラ
の勢力圏に逃げる途中で約1万の追撃軍に捕捉された。このときコルテスには、
疲れ切った約400人の歩兵と23頭の馬、それに7丁の銃という兵力しか
なかった。
コルテスは歩兵に陣形を組ませて防ぐ一方で、騎兵には遊撃して敵の将校を
ねらうように命じた。そして長時間の戦闘の後、遂にアステカの司令官が騎兵に
殺されたことで戦闘は終わった。
このとき騎兵がいなかったら、コルテスは終わっていただろう。

>>176
>兵士を提供したというのは新羅や百済に対抗するために軍事的な援助をした
>と解釈できんか?

李氏朝鮮は、清国が満洲でロシヤ人と戦ったとき、清国に要求されて200人の
鉄砲隊を送った。このことを韓国の歴史教科書は「ロシヤ戦役」と称して2頁
を使って誇らしげに書いている。立場によって見方が変わる例だ。

>>177
>そのときの扶余はどこに住んでいる?

お前の得意な高校世界史に書いてあるだろう。
それより、扶余が国民皆兵の戦闘的な民族であったことは納得したのか?
191日本@名無史さん:2006/12/05(火) 14:11:36
>>180
>何で伽耶を支配した時、
>それ以前の狗邪韓国の墓制を採用しなかったのだろう。

大枠で言えば採用している。
扶余はそれまでの狗耶韓国の王墓である木郭墓を破壊して、その真上に
扶余式の木郭墓を築いた。
つまり、丘の上の集団墓地であること、塚のない木郭墓であること、
においては狗耶韓国を踏襲している。

>>180
>その学者って韓国人だろ。

その通りだが、その説が出た座談会に出ている数人の日本人学者がだれ一人反対
していない。
192日本@名無史さん:2006/12/05(火) 17:30:10
>>187
>ほう、「扶余の遺物」を認めるのか。うれしいことだ。

扶余系統の遺物が見つかってもそれが騎馬民族征服説の論証には
ならんがな。

>私が書いたことのどこがおかしいのか、指摘して見よ

シチリア王国が「傭兵集団の勢力拡大」によってなされたという点だ

>征服王朝であればその始まりが個人単位の傭兵ではいけないのか

何度言えばわかる?
ノルマンディーの騎士が軍を率いて征服したと
193日本@名無史さん:2006/12/05(火) 17:32:56
>>188

長々と書いてもらってすまないんだが


同時代の資料がない=扶余の言語的影響の可能性もわからない
=扶余が日本を征服したのかわからない

ってことだよな?
結局は
194日本@名無史さん:2006/12/05(火) 17:53:02
>>190

>このとき騎兵がいなかったら、コルテスは終わっていただろう

当時のアステカ兵の装備はどうだった?

>李氏朝鮮は、清国が満洲でロシヤ人と戦ったとき、清国に要求されて200人の
 鉄砲隊を送った

簡潔に言えば、時代状況が異なる。
強大な国が弱小な国に兵力供出を命令する事と
強大な国が弱小な国に兵を提供することは同じではない。

>お前の得意な高校世界史に書いてあるだろう。
 それより、扶余が国民皆兵の戦闘的な民族であったことは納得したのか

だからな・・・・
中国で言う三国時代において、彼らは「満州」に住んでいた。
南は高句麗、東は邑婁、西は鮮卑に接する。
さらに後には公孫氏の配下にもなっている。
このような状況で「騎馬民族の形態のまま」どうやって南に
移動できたんだ?
3〜4世紀のおいて、この地域の大国であった高句麗の領土を
通って南方へ行けたのか?

つまり、「戦闘的な騎馬民族形態」で「集団で」南方へ移住できたのか
ということだ。
お前の好きな「傭兵」になって百済や新羅で勢力を拡大したなら話はわ
かるんだが
195日本@名無史さん:2006/12/05(火) 17:55:05
>>191
>その通りだが、その説が出た座談会に出ている数人の日本人学者がだれ一人反対
 していない。

その日本人教授たちが反論していないからその説は日本人の中で
説得力を持つと?
ずいぶんと学会に影響力を持つ教授達だったようだな

196日本@名無史さん:2006/12/05(火) 20:01:00
その座談会に出ていた数人の日本人学者が、
今、騎馬民族説に賛同してるのか聞いてみたいが。
それと、その座談会に居た韓国の申という教授は、
騎馬民族説は日本にはあてはまらないと言ってたよね?
197日本@名無史さん:2006/12/05(火) 23:24:24
WikiのKofunPeriodで悪質なヤツがとっ捕まったみたいだね。
悪質行為が続けば、韓国人が執筆しているというだけで、
信頼性がなくなるそうだよ。

この辺が潮時、手の打ち時だとは思わんか?
198日本@名無史さん:2006/12/06(水) 05:01:06
>>166 宮崎市の生目(いきめ)古墳群1号墳(墳長130メートル)

これは邪馬台国のイキマの墓か。

199日本@名無史さん:2006/12/06(水) 08:40:44
>>198
日向の場合は、古墳の年代を特定する土器など出土が少ないらしい。
したがって年代特定に苦労するらしいが、
もしかして畿内より古い古墳もあるかもね。

何より『記紀』という強い文献史学的裏付けがあるからな。
200日本@名無史さん:2006/12/06(水) 18:24:25
騎馬民族説をまだ信じている人間がいるとは‥‥
しかも、どうしても征服があったことにしたいという願望が
先に立っているようにしか見えないところがまた何とも‥‥
201日本@名無史さん:2006/12/06(水) 18:52:13
伽耶において、扶余が倭に優位な立場にあったとしても、
それは一時的なものだろう。
まぁ少軍の悲しさというべきか。

騎馬戦術なんて、ないよりある方が良い程度のものだろうし、
大和は扶余なんぞひとひねりで潰せただろうが、
そうしなかったのは、扶余系が支配する百済との関係を重んじたからだろう。
つまり伽耶も百済も大和も連合して高句麗に対峙してたのだろう。

扶余と大和の関係で、
ここで言われてるコルテスやノルマンジーや何だの話出されても意味ないと思うんだな。
202日本@名無史さん:2006/12/06(水) 21:08:07
>>192
>シチリア王国が「傭兵集団の勢力拡大」によってなされたという点だ

「傭兵集団の勢力拡大」というのは私の表現ではないが、「傭兵からのし
上がった複数のノルマン人領主が南イタリヤを支配し、さらにその一部が
シチリアを征服してシチリア王になった」と言う意味なら、その通りだが。
それのどこがいけないのかな?

>何度言えばわかる? ノルマンディーの騎士が軍を率いて征服したと

だからその「ノルマンディーの騎士」の、イタリヤにおける最初の経歴が
傭兵であってはなんでいけないのか、と言っているのだ。
実の所、すんなり傭兵になれた人は幸せだったのだ。お前の挙げたロベール・
ギスカールも一時は弟のロジェール(後のシチリア王)といっしょに山賊を
やっていたというくらいだ。
203日本@名無史さん:2006/12/06(水) 21:12:36
>>193
> 同時代の資料がない=扶余の言語的影響の可能性もわからない
>=扶余が日本を征服したのかわからない

私の言っていることは「設問が成り立っていない」ということだけだ。
「日本語から扶余の征服が証明できる」とは、最初から言っていない。

とは言っても、言葉の問題で少しでも扶余征服説にとって有利なことはないか
といえば、例の高句麗語数詞の一件がある。
高句麗語地名のなかに現れる三、五、七、十にあたる数詞が日本語の「みつ、
いつ、なな、とを」と一致する、と言われる。

>>194
>強大な国が弱小な国に兵を提供することは同じではない。

面積が広く、人口が多く、経済力が大きければ「強大」だとは限らない。
もう一つの要素は軍事力だ。
現に、面積、人口、経済力において比較にならない大国である明国が満洲に
負けたではないか。

>このような状況で「騎馬民族の形態のまま」どうやって南に
移動できたんだ?

馬に乗って行けば「騎馬民族の形態のまま」行ったことになるではないか。
まあそれは別として、鮮卑に敗れた扶余はいったんヨクソに逃れている。
その後一部は故地に戻って西晋の傀儡国になったが、ヨクソから南へ行った
別の一派がいたのだろう。ヨクソからは海岸づたい、または船で、伽耶へ行ける。
いずれにしても「どうやって行ったか」よりも「実際に来た」という考古学的事実
のほうが優先する。
204日本@名無史さん:2006/12/06(水) 21:17:54
>>195
>ずいぶんと学会に影響力を持つ教授達だったようだな

だれがそんなことを言った? 私は、伽耶に関係するが騎馬民族説ではない数人の
日本人学者が、兵士輸出品説に反対しなかった、という事実を言っただけだ。

>>196
>その座談会に出ていた数人の日本人学者が、
>今、騎馬民族説に賛同してるのか聞いてみたいが。

多分、ひとりもいない。

>その座談会に居た韓国の申という教授は、
>騎馬民族説は日本にはあてはまらないと言ってたよね?

申教授が言ったのは、一つは騎馬民族説は伽耶までは成り立つ、ということ。
もう一つは扶余が日本まで行ったかどうかは判断保留する、ということだ。
その理由は木郭墓が出ていないことだ。
しかし私に言わせればこの考え方はおかしい。なぜなら扶余は高句麗、百済では
木郭墓を築いていないからだ。
205日本@名無史さん:2006/12/06(水) 21:52:42
>>204
扶余の木郭墓の影響を受けたかもしれないのは、
隼人の地下式墳墓だけどね。
ただ地下というだけで木郭ではないけども…

あなたが扶余が来た証拠と言ってた、
河内の伽耶的(韓式)土器だけど、
あのあたりの首長墓は横穴式だ。
扶余という民族を特定できるものではないと思うなぁ。
206日本@名無史さん:2006/12/06(水) 22:12:59
5世紀から古墳が巨大化する背景に、
潤沢な鉄があったのは言うまでもないと思うが、

扶余「高句麗が怖い。援軍してくれないか?」
大和「その代わり、鉄は思う存分いただきますよ」

ではないのか?w
207日本@名無史さん:2006/12/07(木) 19:29:37
大和「なんとか鉄を売ってくれないか?」
扶余「売ってやりたいが、買い手は他にもいるのでね。
まあ、どこかに土地をくれたら売ってやってもいい。」
208日本@名無史さん:2006/12/07(木) 19:35:46
>>207
それはおかしいな。
扶余が高句麗におびえてるという観点が抜けてる。
鉄はやるから援軍たのむが正解だろうw
209日本@名無史さん:2006/12/07(木) 19:55:21
>>207
それと鉄の交易を通じ、
大和と同盟し、高句麗対策が一応できたのなら、
扶余は日本に土地なんて要求しないって。
人間学的に考えてみ。
故郷に帰りたいのが人情だよ。w
210日本@名無史さん:2006/12/07(木) 20:37:37
それと、好太王碑なんだが…
何故あんなに遠くまで追いかけたのだというのが、
我々日本人の正直な感想だな。
扶余が絡んでたからではないだろうか。
どさくさにまぎれて扶余は故郷に帰ってたりしてw
211日本@名無史さん:2006/12/07(木) 20:48:32
>>202
>だからその「ノルマンディーの騎士」の、イタリヤにおける最初の経歴が
 傭兵であってはなんでいけないのか

お前は何故「傭兵」から離れられない?
彼らは「騎士」であり、ノルマンディーからはるばる旅をして
征服したのだ。
まあ最も、傭兵になるものもいたかもしれんがな。
212日本@名無史さん:2006/12/07(木) 20:55:17
>>203
>高句麗語地名のなかに現れる三、五、七、十にあたる数詞が日本語の「みつ、
 いつ、なな、とを」と一致する

高句麗も「扶余系統」だったが?対立はしていたが。
扶余が日本を征服し、そのために高句麗と日本とに類似の単語があるならば
なぜに扶余が征服した朝鮮と日本に共通の単語が見られない?

>現に、面積、人口、経済力において比較にならない大国である明国が満洲に
 負けたではないか。

清のように「強力な指導者」と「強固な体制」があればの話だが。

>馬に乗って行けば「騎馬民族の形態のまま」行ったことになるではないか

ほう
「騎馬民族の高句麗の領土」を無断で横断したのか。大集団で。
高句麗もよく我慢できたな。

>ヨクソからは海岸づたい、または船で、伽耶へ行ける

ほう、辰韓は無視したのか。
百済と日本は征服したのに。
213日本@名無史さん:2006/12/07(木) 20:59:13
>>203

>考古学的事実 のほうが優先する。

確かに「扶余文化」の影響は見られるが
騎馬民族征服説の裏づけは発見されていないな

>>204

ふと気付いたんだが
>兵士輸出品説

なぜ軍事的に弱いところから兵士を取る必要がある?

214日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:16:52
兵士輸出品説 って論理矛盾だなw
215日本@名無史さん:2006/12/08(金) 20:45:19
>>211
>彼らは「騎士」であり、ノルマンディーからはるばる旅をして
>征服したのだ。 まあ最も、傭兵になるものもいたかもしれんがな。

お前の言う「騎士」と、私の言う傭兵とは相反するものではない。
たしかにノルマン人たちは故郷で騎馬戦闘の技術を習得していたが、その身分は
南イタリヤくんだりまで来ればただの「素浪人」だ。
だから彼等が南イタリヤで出世するためには、まず既存の領主に、プロの戦士
として雇ってもらうしかなかった。雇うほうは、彼等の騎馬戦闘者としての能力が
めあてだ。それが当時の戦力の中核だったからね。
つまり傭兵と言っても「騎馬傭兵」だったのだ。
216日本@名無史さん:2006/12/08(金) 20:51:09
>>212
>なぜに扶余が征服した朝鮮と日本に共通の単語が見られない?

朝鮮と日本に「共通の単語が見られない」ことはない。少ないだけだ。
「扶余語の単語」という意味なら、それを言う前に、扶余系の高句麗語は滅びて
しまったではないか。
つまり朝鮮と日本ではその後の歴史的環境が違うから比較できない。

>「騎馬民族の高句麗の領土」を無断で横断したのか。大集団で。
>高句麗もよく我慢できたな。

そのように考えるのもまた近代国家の過去への投影だ。
高句麗の領土だと言っても、それはぽつんぽつんとある城市なり集落国家が
高句麗に服属しているということに過ぎない。

>ほう、辰韓は無視したのか。 百済と日本は征服したのに。

百済は別の扶余一派が建国した。新羅は周辺伽耶諸国と同様に、金官建国後は
金官に服属していたと思う。
扶余が新羅をバイパスして、まっすぐに鉄産地の狗耶韓国を目指したのは良い
戦略だと思わないか?
217日本@名無史さん:2006/12/08(金) 20:55:47
>>213
>確かに「扶余文化」の影響は見られるが 騎馬民族征服説の裏づけは

ほう、君は「扶余文化受容」説なのか。
では狗耶韓国が「殉死」の風習まで「受容」した動機を説明してもらいたいね。

>なぜ軍事的に弱いところから兵士を取る必要がある?

兵士輸出品説は申教授が言ったことであって私の説ではない。
それから言っておくが、倭の軍事力が弱いというのは、民族性のことを
言ったのではない。軍事技術が遅れていた、という意味だ。
218日本@名無史さん:2006/12/09(土) 00:54:42
軍事技術は遅れていたかもしれないが、
大和は多軍だしね。
扶余ごときに領地を要求されるほど、
弱くは無いわな。
219日本@名無史さん:2006/12/09(土) 14:16:01
>>212
>清のように「強力な指導者」と「強固な体制」があればの話だが。

なるほど、「強力な指導者」と「強固な体制」があれば小国が大国を倒せるのか・・・
なんか、簡単そう!
220日本@名無史さん:2006/12/09(土) 15:45:27
>>219
ところで扶余における「強固な体制」とは何なのだろう?
221日本@名無史さん:2006/12/09(土) 19:16:03
国民皆兵制度のことじゃないの?
222日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:37:35
>>215
>つまり傭兵と言っても「騎馬傭兵」だったのだ

なるほど、「扶余は傭兵集団であり、剽悍な民族性のままではなかった」
と。
223日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:43:55
>>216

>つまり朝鮮と日本ではその後の歴史的環境が違うから比較できない。

ならばとっくに滅びた高句麗語も日本語と比較できないな。
なんせ「高句麗滅亡時までの日本との歴史的環境が」
異なるからな。

>そのように考えるのもまた近代国家の過去への投影だ。
 高句麗の領土だと言っても、それはぽつんぽつんとある城市なり集落国家が
 高句麗に服属しているということに過ぎない

ほう
せっかく支配した城址なり集落国家に扶余が「大集団」で近づいた「情報」も
高句麗は得なかったわけだ。都市の住民は一体何を食べていたのだろうか?
「扶余迫る」の情報も得たとして、高句麗が扶余の移動を警戒しなかったのか
それほど無用だったのか。楽浪郡の跡地は。

224日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:50:52
>>216
>新羅は周辺伽耶諸国と同様に、金官建国後は 金官に服属していたと思う。

ほう・・・
そのような事実は見られないが?
可能性としてはありえるだろうが、根拠が無ければな・・・

>百済は別の扶余一派が建国した

何度も言っている通り、扶余が支配者だったならばなぜにその王家は
扶余系統ではない?
反乱でも起こしたか?
新羅だけ特別なんだな

225日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:53:12
>>217

>では狗耶韓国が「殉死」の風習まで「受容」した動機を説明してもら
 いたいね。

お前の言うとおり「傭兵」として伽耶諸国に来た彼らの風習が受け入れ
られたとは考えれないか?

>軍事技術が遅れていた

今の世の中なら小国が大国を打ち負かせるだろうな。
軍事技術の優位性によって。
226日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:56:05
>>220

要は大規模な遠征ができるほどに国内を結束させられる体制だ。

>>219
>「強力な指導者」

例えば広開土王のような者。
それだけの人物がいたなら中国の歴史書にも書かれるハズだが・・
227日本@名無史さん:2006/12/09(土) 22:43:34
>>226
国内って
元々ばらばらの寄り合い所帯じゃないか
それが滅びた原因でもある
実に不安定な体制だ
228日本@名無史さん:2006/12/09(土) 22:48:02
>>227

それをまとめられるやつが出て体制を作り上げるんだよ
229日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:18:43
>>228
これから作り上げるんだ
まとまらないんで既に滅亡しましたがw
230日本@名無史さん:2006/12/10(日) 10:48:16
>>224
>扶余が支配者だったならばなぜにその王家は
>扶余系統ではない?

百済の王家は、余豊璋(よほうしょう)や余禅広(ぜんこう)
なんて居るんだから扶余系だろう。
これは認めなきゃ。
231日本@名無史さん:2006/12/10(日) 12:26:27
>>229
そこが扶余日本征服説の盲点だ
>>230
オレは新羅の事を書いているつもりだが
232日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:04:38
>>222
>なるほど、「扶余は傭兵集団であり、剽悍な民族性のままではなかった」 と。

ごっちゃにするな。ノルマン人の話だ。
それは別として、お前は「南イタリヤのノルマン人は傭兵だから、剽悍なバイ
キングのままではなく、弱かった」と思っているのか?

>>223
>ならばとっくに滅びた高句麗語も日本語と比較できないな。

意味不明。滅びた言葉が比較できないのは当たり前だが。

>「扶余迫る」の情報も得たとして、高句麗が扶余の移動を警戒しなかったのか

武装集団が単に領域を「通過」しただけではっちゃきになっただろう、というの
がすでに「近代国家の過去への投影」だ。
いずれにしても、「どうやって来たか」よりも「実際に来た」という考古学的
事実が優先する。
233日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:07:54
>>224
>可能性としてはありえるだろうが、根拠が無ければな・・・

可能性としてあり得ると考えるようになっただけでも、大きな進歩だよ。
扶余の民族性や金官の軍事力についてお勉強した成果だ。

>何度も言っている通り、扶余が支配者だったならばなぜにその王家は
>扶余系統ではない?

百済の王家が扶余であることは知っていると思うが、新羅の話か?
新羅が「服属していただろう」というのは新羅の王が金官に臣従するという
だけで、新羅王家は存続するのだよ。

>>225
>お前の言うとおり「傭兵」として伽耶諸国に来た彼らの風習が受け入れ
られたとは考えれないか?

扶余が「傭兵」として伽耶に来た、というのはお前が考えた新説だ。
しかしその場合は、狗耶韓国人の金官王が何故に、物好きにも傭兵ふぜいの
風習を真似したのか、その動機を説明しなければならないのは同じだ。
234日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:10:11
>>219
>それだけの人物がいたなら中国の歴史書にも書かれるハズだが・・

「中国の歴史書」を書くべき主体の「中国」がこの時代には存在しない。
だからこそお前の好きな広開土王の南鮮侵攻も「中国の歴史書」に書かれ
なかったのだ。
235日本@名無史さん:2006/12/10(日) 20:15:19
扶余日本征服説って
韓国の記紀や、日本や中国の記紀にも
日本の任那日本府説が有力になるような記述の一致があるから
韓国側が苦し紛れに言い出した珍説だろう?
近年の前方後円墳の発見とかでも
任那日本府説を裏付けるような発掘があったりして...

この辺の歴史問題を研究するのには、日本と中国の協力が必要だよ。

今度、歴史共同研究を日本と中国がやることになったんだけど
今まで、日本と中国の共同研究とかいうのは、政治的に対立する
近代ばかりだったんだけど、
中国側から前近代や現代も提案してきたのが味噌だと思う。

はっきりいって、古代史の研究というのは
日本と中国には対立関係ない。
というか、古代史に研究は、日本・中国VS韓国なんだよ。

中国の教材では、任那日本府が多く取り上げられている。
236日本@名無史さん:2006/12/10(日) 22:56:42
>>232

>ごっちゃにするな。ノルマン人の話だ。
 それは別として、お前は「南イタリヤのノルマン人は傭兵だから、剽悍なバイ
 キングのままではなく、弱かった」と思っているのか?

騎馬民族の強みは「いつでも戦争ができる体制」と言った筈だ。
傭兵になって南朝鮮に来たからには「都市生活」をするしかないだろう。
バイキングとは違うものだな。

>意味不明。滅びた言葉が比較できないのは当たり前だが

自分で言ったことを否定しているのか?

>しかしその場合は、狗耶韓国人の金官王が何故に、物好きにも傭兵ふぜいの
 風習を真似したのか、その動機を説明しなければならないのは同じだ

お前の考えは現代を中心にしている。
古代においてはいかなる種族の風習でも採用する場合があった。

>いずれにしても、「どうやって来たか」よりも「実際に来た」という考古学的
 事実が優先する

その「事実」を裏付けるものが「推測」でしかない事に気付いているか?
237日本@名無史さん:2006/12/10(日) 23:01:03
>>233
>可能性としてあり得ると考えるようになっただけでも、大きな進歩だよ

喜んでいるところ悪いんだが
1「高句麗」の領土を通過できた
2南朝鮮を征服した
3日本にその証拠がある

場合で「可能性がある」と言ったんだが?

>新羅が「服属していただろう」というのは新羅の王が金官に臣従するという
 だけで、新羅王家は存続するのだよ。

文脈で読めばそうなるよな。やっぱり・・・
まあいい
新羅王家が存続して百済王家が滅亡したのは何故だ?
お前の言うとおり扶余が「海岸沿い」に来たならば
新羅のほうが影響が大きいはずだよな?
238日本@名無史さん:2006/12/11(月) 11:42:18
>>232
日本を騎馬軍団で制圧することなど出来ない。
西暦13世紀のモンゴル軍ですら、
日本へ遠征する時は、歩兵中心でやってきた。
日本の国土を見れば、モンゴル高原のような
騎馬軍団主体の戦は無理だからだ。
239日本@名無史さん:2006/12/11(月) 11:52:38
>>232
中国の歴史家・考古学会でも
韓国の捏造癖に対して批判が強まっている。
240日本@名無史さん:2006/12/11(月) 13:00:04
中国の考古学会も
任那日本府説を支持しているな。

241日本@名無史さん:2006/12/11(月) 19:22:54
中国もどうかとは思うが、資料も無いのに願望を押し通す韓国は
、少し思いとどまった方がいいと思う。

馬鹿げた論争が延々として続く事になりかねない。
242日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:33:14
>>235
>近年の前方後円墳の発見とかでも
>任那日本府説を裏付けるような発掘があったりして...

それは誤り。任那日本府があったとされる安羅の松鶴洞古墳は一時、前方後円墳
と言われたが最近の発掘で円墳が連なったものであることが確認された。
逆に半島西南部には5世紀以降の前方後円墳11基(?)が確認されている。
これは百済に割譲したことが日本書紀にも見える、倭の植民地だろう。

>韓国の記紀や、日本や中国の記紀

記紀というのは古事記+日本書紀のことだ。
243日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:37:56
>>236
>騎馬民族の強みは「いつでも戦争ができる体制」と言った筈だ。
>傭兵になって南朝鮮に来たからには「都市生活」をするしかないだろう。

「都市」とはどんなもののことを言っているのか知らないが、狗耶韓国は満洲の
扶余本国よりも「都市」だったのか? 

>バイキングとは違うものだな。

バイキングの末裔のノルマン人は南イタリヤを征服するほど強かったが、彼等は
「都市」に住まなかったのかな?

>自分で言ったことを否定しているのか?

私が否定した「自分で言ったこと」とはどの発言のことか?
244日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:46:20
>>236
>古代においてはいかなる種族の風習でも採用する場合があった。

なるほど、狗耶韓国人の金官王は扶余傭兵の真似をして殉死を採用したのか。
では、その狗耶韓国人の金官王が、先代の王墓を破壊してその真上に自分の王墓
を築いたのは何故か?

>その「事実」を裏付けるものが「推測」でしかない事に気付いているか?

発掘物に基づいて結論することが「推測でしかない」なら全ての考古学は
「推測でしかない」。

>>237
1「高句麗」の領土を通過できた 2南朝鮮を征服した 3日本にその証拠がある
場合で「可能性がある」と言ったんだが?

それなら扶余が河内王朝を建てたというのも「可能性がある」わけだ。

>お前の言うとおり扶余が「海岸沿い」に来たならば
>新羅のほうが影響が大きいはずだよな?

だから扶余に鍛えられて、百済より生き延びたのだろう。
それは別として、新羅は外部勢力を利用するのがうまかった。引き入れて
利用して、その後追い出す。その気風は現在の半島にも受け継がれているようだ。

>>238
>日本の国土を見れば、モンゴル高原のような騎馬軍団主体の戦は無理だからだ。

「モンゴル騎馬軍団」は要らないが「騎兵」は日本でも有効だ。
義経の鵯越え、そして屋島の戦いを見よ。
245日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:46:44
おまえよりにもよって平家物語。
あれは歴史書か?
246日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:08:02
そう熱くなるな
源氏物語よりはマシだ。
247日本@名無史さん:2006/12/12(火) 08:40:45
伽耶を扶余が支配したとして、
さぁその後が問題だ。
248日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:14:54
>>243

>「都市」とはどんなもののことを言っているのか知らないが、狗耶韓国は満洲の
 扶余本国よりも「都市」だったのか? 

どうやら思い違いをしているらしいな。
「騎馬民族の体制を続けたまま」一つの国家に「傭兵」としてもしくは
「支配者」としていられたのか?
上から下まで戦時に全て徴用できる体制なぞ「農耕社会」でできるのか?
しかも「国家体制が」完備したところで

>バイキングの末裔のノルマン人は南イタリヤを征服するほど強かったが、彼等は
「都市」に住まなかったのかな?

もう一度俺の文章を読み直せ

>私が否定した「自分で言ったこと」とはどの発言のことか?

これのことだ
「言葉の問題で少しでも扶余征服説にとって有利なことはないか
 といえば、例の高句麗語数詞の一件がある。
 高句麗語地名のなかに現れる三、五、七、十にあたる数詞が日本語の「みつ、
 いつ、なな、とを」と一致する、と言われる」

古代に滅びて比較できないものが扶余征服説に使えるのか?
249日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:29:06
>>244

>なるほど、狗耶韓国人の金官王は扶余傭兵の真似をして殉死を採用したのか。
その狗耶韓国人の金官王が、先代の王墓を破壊してその真上
狗耶韓国とは魏志倭人伝の中にしか出てこない国だが・・
しかも何故扶余の墓制の採用と加羅の王が先代の墓を破壊する事が結びつくの
か分からない
>発掘物に基づいて結論することが「推測でしかない」なら全ての考古学は
「推測でしかない」。
わからんようだな
お前の論は「扶余が日本を征服したに違いない」という「推測」を根拠に
進めているということだ
事実を見ていないということだ
>だから扶余に鍛えられて、百済より生き延びたのだろう
ほう
加羅が征服したにも関わらず王はそのままだったと?しかもその後
扶余を利用したと?
ずいぶん都合のいい話だ。
>引き入れて 利用して、その後追い出す。その気風は現在の半島にも受け継
 がれているようだ。
有史以来中国に搾取され続け
近年はアメリカとソ連の各々の防波堤とされている朝鮮が
外部勢力を利用するのが上手い?
李朝末期にはまさしく右往左往していたが・・・
250日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:29:26
>>248
>上から下まで戦時に全て徴用できる体制なぞ「農耕社会」でできるのか?

例えば満洲族がそれだ。「八旗」は国民皆兵の制度だ。
ただし満洲族の「農耕」はじぶんでやるのではない。拉致して来た中国人などを
農奴として使ってやらせるのだ。
扶余もそれだったろう。「下戸とは奴婢である」と書いてあるのがそれを思わせる。
因みに扶余に関する中国語の資料で、扶余のことを「奴隷制国家」と書いてあるの
があった。
好太王碑にも、半島南部に侵攻した高句麗軍が一村まるごと北へ連れて行くくだり
があったと思う。徳を慕ってついて来たように書いてあるが、これも「拉致」で
あろう。
「農耕」と「国民皆兵」とが両立する体制とはこのような姿だ。
251日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:41:12
続き:
>古代に滅びて比較できないものが扶余征服説に使えるのか?

お前は「比較できない」を取り違えているのだ。この議論はお前の:
>扶余が日本を征服し、そのために高句麗と日本とに類似の単語があるならば
>なぜに扶余が征服した朝鮮と日本に共通の単語が見られない?
から始まっている。要するにお前は、日本語の数詞に扶余語/高句麗語の影響
が見られるのならば、同じく扶余に支配された朝鮮にもそれが残っているはずだ、
と言いたいわけだ。

それに対して私が言っているのはこういうことだ。日本語は古代において色々な
要素が混じり合って成立したと思われるが、いったん成立した後は、重大な外的
撹乱を受けなかった。だからその後の日本語の変化は言語の自発的な自然の変化
であった。
それに対して半島の言語はどうか。白村江戦以降に新羅が半島を統一し、それに
応じて新羅語をもとにした言語が成立するとともに、それ以外の言語は滅びて
しまった。新羅は独立心が強い傾向だったから、もともと扶余語/高句麗語の要素
は少なかった。だから半島に扶余語/高句麗語の影響があったとしても、この時点で
ほとんど消滅しただろう。
現代語につながる言語の成立は半島の方が日本よりはるかに遅かったのだ。
しかもその後も、蒙古による徹底的な支配などがあって、朝鮮語は外乱を受け
続けた。
このように両言語の「歴史環境」が違うところで、それぞれの言語における特定の
言葉の残り方を比較して「扶余の支配」を論ずることは無意味だ。
私の「比較することはできない」はこのような意味だ。
252日本@名無史さん:2006/12/14(木) 13:44:52
>>244
>狗耶韓国とは魏志倭人伝の中にしか出てこない国だが・・

狗耶韓国とは鉄を産する狭義の任那の別名だ。金官国の前が狗耶韓国なのだ。

>しかも何故扶余の墓制の採用と加羅の王が先代の墓を破壊する事が結びつくの
>か分からない

手間がかかるな。金官の扶余式の木郭墓は、狗耶韓国の王墓を破壊してその
真上に築かれている。
だから、お前の言うように狗耶韓国が扶余から「文化受容」したのならば、
金官時代の狗耶韓国人の王は、墓制を扶余式に改めるととともに、先代の
(狗耶韓国の)王墓を破壊したことになるのだ。

もういちど聞こう。なぜ狗耶韓国人の金官王は先代の王墓を破壊したのか?
253日本@名無史さん:2006/12/14(木) 13:47:28
>>244
>お前の論は「扶余が日本を征服したに違いない」という「推測」を根拠に
>進めているということだ

お前の論は「扶余が日本を征服したはずがない」という「推測」を根拠に
進めているということだ。

>加羅が征服したにも関わらず王はそのままだったと?

私が書いたことに沿って言えば、扶余が加羅(狗耶韓国)を征服して金官を建て、
新羅および周辺伽耶諸国を服属させた。
だから新羅および周辺伽耶諸国の王は存続した。
別に当たり前のことだが?

>しかもその後扶余を利用したと?

文脈を考えろ。新羅が外国勢力を利用したのだ。はじめは倭/金官に対して
高句麗を引き入れて利用し、次は倭/百済に対して唐を引き入れて利用した。

>近年はアメリカとソ連の各々の防波堤とされている朝鮮が
>外部勢力を利用するのが上手い?

北朝鮮はまさに外部勢力の利用によって生きている國だ。
254日本@名無史さん:2006/12/14(木) 21:01:08
日本経済新聞 朝刊 2006年12月13日 文化面

山の地名 足で解読
◇チベット語やアイヌ語に由来? 各地を歩き研究◇   
古川純一(ふるかわ・よしかず=登山家)

足柄を発音した時の最後の「ラ」は峠を意味するチベット語に由来し、浅間山の「アサ」は
煙を意味する古代メソポタミアのウル語からきている。

ヒマラヤ登山に挑戦したとき、現地のネパール人の、「名前」のことを「ナム」と言う一言が
気になり、チベット語と日本語のルーツにつながりがあるのではないかと思って30年以上
に及ぶ研究を始めた。

チベット語の辞書や入門書を眺めていて、日本の地名に多くの共通点があることに気付いた。
たとえば、倶利伽羅峠(くりからとうげ)。「峠」は中国にはない和製漢字だが、チベットでは
峠のことを「ラ」という。その他、神原峠、修那羅峠など、「ラ」のつく峠名は枚挙に暇がない。
金太郎伝説の足柄もそうで、「万葉集」などで「安思我良(アシガラ)」「阿之我里(アシガリ)」
などの字があてられ、「リ」はやはりチベット語で山の意味。

宮崎県高千穂町一帯には神話に出てくる地名が多く、それらがアイヌ語で解読できる。
例えば、槵触(くしふる)という地名がこの近辺に三ヶ所もあるが、アイヌ語で「クシ」は
「向こう」、「フル」は「丘」。つまり「クシフル」は「向こうの丘」という意味。現地で確かめると、
三ヶ所とも、川があってその向こうに丘がある地形。有名な高千穂神社も槵触の峯の中腹に
あった。

30年間の研究成果は「日本超古代地名解」(彩流社)に一度まとめたが、さらに内容を精査して
今後も地名の解明に努めたいとのこと。  (以上、内容抜粋)
255日本@名無史さん:2006/12/14(木) 21:02:12
>>254
江上波夫は槵触の「フル」は日本語では意味不明だが、朝鮮語では解読でき、
「ソウル」と同源だとして、騎馬民族説の論拠にしていたんじゃなかったか?
しかし、朝鮮語における「ナラ」や「ソウル」こそ語源が不明で、日本語に由来しているのだろう。
古川氏の方がよほど説得力がある。
256日本のななし:2006/12/15(金) 11:10:08
>>250

あのな・・・・
長々と満州族の例を話されてもな




傭兵としてきた民族が国民皆兵の体制でいられたのかということだ
理解できないのか?
雇い主の民族まで国民皆兵制にしたとは
カルタゴも驚きだな




257日本のななし:2006/12/15(金) 11:20:05
>>251
屁理屈をこねても何も出ないぞ
>それ以外の言語は滅びてしまった。

ほう新羅語に何の影響も残さずにか

>新羅は独立心が強い傾向だったから

真っ先に扶余の影響下に置かれたのにか?
新羅の独立心が強かったならば唐などの外部勢力の助けを借りてまで
百済や高句麗を滅ぼすなんてことがあるのか?

>現代語につながる言語の成立は半島の方が日本よりはるかに遅かったのだ

新羅の統一国家成立はそのまま日本の半島での権益喪失に繋がる。
新羅は百済。高句麗を滅ぼした時点で現代語の原型を完成させ
日本は百済を失ったことで外来の言語の影響を受けることは少なくなった
{もっとも、中国の文物の影響はあったがね}

確かにモンゴルの支配下で朝鮮語はモンゴルの影響を受けたが
なぜにそれが在来語の消滅を意味する?
258日本のななし:2006/12/15(金) 11:22:35
>>252

>狗耶韓国とは鉄を産する狭義の任那の別名だ。金官国の前が狗耶韓国なのだ。

句耶韓国と金官国の連続性は実証されてはいないが

>もういちど聞こう。なぜ狗耶韓国人の金官王は先代の王墓を破壊したのか?

斥前王朝って知ってるか?

259日本@名無史さん:2006/12/15(金) 11:23:52
日本語の氏(うじ)が、朝鮮語でウルで、
モンゴル語でウルクだとゆう説がある。
260日本のななし:2006/12/15(金) 11:27:14
>>253

>お前の論は「扶余が日本を征服したはずがない」という「推測」を根拠に
 進めているということだ。

日本の中に「扶余征服」の証拠が見られない以上「推測」といえるのか
どうかわからんな


>別に当たり前のことだが?

なぜ新羅を征服しなかったと何度も聞いているだろう
扶余の南下は何のためだったんだ?
新羅の領土を通っても何もしなかったのか?
王が命乞いをしたのか?
それで百済はしなかったのか?
261日本のななし:2006/12/15(金) 11:32:14
>>253
とんだ朝鮮人だな

>はじめは倭/金官に対して 高句麗を引き入れて利用し

要は新羅が日本に対抗できなかったから助けを求めた と

>次は倭/百済に対して唐を引き入れて利用した

そして唐に対して服属しその官制、服装までも唐風にして
後の属国化のさきがけとなった と

>北朝鮮はまさに外部勢力の利用によって生きている國だ

中国の強い抗議に折れて従ったこともあるがな


見方を変えればお前のような言い方もできるにはできる
が、結局は独りよがりだ。
中国も日本も「援助」した
新羅は「弱かった」
そして中国に「事大」した

この事実があるだけだ
262日本@名無史さん:2006/12/15(金) 15:23:59
>>261
要するに、諸大国がバランサーに振り回されたという事ですか?
263日本@名無史さん:2006/12/15(金) 15:29:27
まだ、こんなトンデモ説が信じられているのか?
264日本@名無史さん:2006/12/15(金) 22:59:52
>>254
【安本美典の説】

日本語については、
(1) 古極東アジア語をもととし、そこから朝鮮語、アイヌ語、日本語が別れた。
(2) 日本語には、江南系(ビルマ語)やインドネシア系が入り込み、(子音+母音)の
基本的音素の組合せや「葉」「目」などの短母音語が多くなった。

簡単に述べれば、以上のようになります。

他の研究者によれば、日本語はアイヌ語を参考にすれば分析できるという。一般的には、
朝鮮語、アイヌ語とは数千年前に別れたので、あまり共通する語彙はない。それ以降に
混じったビルマ語などに基本的語彙との共通語が見つかる。
http://blog.alc.co.jp/d/2000476?nid=20051025123425


ちなみに、ビルマ語は、シナ・チベット語族に属す。
265日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:17:37
鹿児島・上野原遺跡は9000年前。
その頃の日本語がアジアに派生したと考える人がいても良さそうなのに、
必ずルーツを海外に求めるんだね。
この凹的自虐思考は不思議だ…
266日本@名無史さん:2006/12/16(土) 06:13:15
>>263
このスレ見る限り、信じている奴なんていないだろ。
約1名、必死に信じ込みたがっている人がいるだけで。
267日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:24:46
牛って日本にいつ頃から来たのだろ。
牛歩って言うくらい鈍い動物だから、
平和でないと連れてこれないね。
268日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:16:53
縄文晩期に南方系の牛が半島経由で来たと聞いた事ある。
後は古墳時代に百済あたりからもたらされた牛かな。
269日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:40:49
>>266
悲しきチョーセンジン。
270日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:13:32
ウシという単語はモンゴル語uher,トルコ語okuz,朝鮮語soと関係があるらしい
ので北方系の単語だろう。

 ウマはシナ語ma,朝鮮語mal,モンゴル語morinなどでアジア共通起源らしい。

 騎馬民族が来たのならウマというのがシナ語起源というのは変だな。手綱や
アブミというのも純日本語で騎馬用語に共通語があるのだろうか。
271日本@名無史さん:2006/12/16(土) 21:53:44
>>256
>傭兵としてきた民族が国民皆兵の体制でいられたのかということだ

扶余が伽耶に「傭兵としてきた」というのはお前が勝手に言っていることだ。
私は「征服者として来た」と言っているのだよ。
征服者として伽耶に入った扶余は、自動的に狗耶韓国人という「下戸」を得た。
そして自分たちはその上に軍事組織を兼ねた支配階級を築くことができた。
これが「国民皆兵」だ。
「満洲族の話」はこのようにつながるのだよ。 理解できたかな?
272日本@名無史さん:2006/12/16(土) 21:57:48
>>257
>ほう新羅語に何の影響も残さずにか

何の影響も残さなかった、と誰が言ったのか?
なんらかの影響は残しただろう。しかし高句麗語が記録を残さずに消滅した
のでは、どれがその「影響」に当たるのかを知る手がかりがないではないか。

「手がかり」ということで念のため言っておけば、例の高句麗語地名から、
70語くらいの高句麗語がわかるらしい。しかしそれだけだ。
そしてこのなかに、例の数詞の他に地形を表す言葉でいくつか日本語に一致
するものがある。新羅語、朝鮮語との関連は知らない。

>新羅の独立心が強かったならば唐などの外部勢力の助けを借りてまで
>百済や高句麗を滅ぼすなんてことがあるのか?

独立心が強ければ必ず戦力も強いのなら、現在のチベット人、ウィグル人、
北アイルランド人、チェチェン人などの悲劇はなかっただろうよ。

>なぜにそれが在来語の消滅を意味する?

影響を受ければ消滅のチャンスも増える。日本語だって漢語の影響でずいぶんと
倭語が消滅した。我々は漢語を日本語の一部だと思っているから意識しない
だけだ。
273日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:01:04
>>258
>句耶韓国と金官国の連続性は実証されてはいないが

誰が「連続」していると言ったのか。 征服は不連続そのものではないか。

>斥前王朝って知ってるか?

まあ、そう言うだろうと思っていた。しかしその場合は、ある狗耶韓国人の
英傑が出て、それまでの王朝を倒し、どういうわけか新羅、高句麗を飛び越えた
かなたの扶余にかぶれて、騎馬技術を国内に広め、扶余式の武装の製造技術を
習得して軍備を扶余式に改め、扶余の祭祀を取り入れ(扶余式祭祀土器)、あげく
のはては斥前王朝を気取って従来の王墓を破壊して扶余式の墓を築き、殉葬まで
行った、という物語を想定しなくてはならない。
私の立場ならば全ては「征服」の一語で足りる。
274日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:06:52
>>260
>なぜ新羅を征服しなかったと何度も聞いているだろう

何度も答えただろう。王朝を存続させたまま臣従させるのも支配の一形式だと
いうことを。

>新羅の領土を通っても何もしなかったのか?

これも答えた。古代国家を単に「通過」するのはたいしたことではない。
それに新羅の領域は3世紀末ではまだちっぽけなものだ。無理に通る必要もない。

>王が命乞いをしたのか?

しただろうよ。日本書紀を読んで見よ。新羅の王が神功皇后に降伏するときは
みずから首に縄をかけ、手を後ろ手に縛っている。これは「命乞い」の姿だ。
これが中国式の降伏儀礼だったのだ。そして新羅王は許されて存続している。

まあ、神功皇后は架空だし、上記の日本書紀の記述は「中国の歴史書」の引き
写しだ。しかし少なくともこのような概念があったことを示している。
因みに上記の儀式は、近いところでは李氏朝鮮の王が満洲に降伏するときにも
行った。 そして李朝が存続したのは知っての通りだ。
275日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:08:29
>>261
>新羅は「弱かった」 そして中国に「事大」した

それは浅薄な見方だ。中国の正規軍を実力で半島から追いだすのは決して
「弱い」とは言えない。そして新羅はこれほど唐と対立していながら、追い出した
後には唐から册封を得ている。
これは、米国と武力対立しながら体制保障を求めている北朝鮮の姿を彷彿しないか?
それでもって本当に米国の体制保障を得たならば、それは一種の册封だ。
276日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:25:55
>>273
狗耶韓国を扶余が支配したとしてだ…
扶余は大和に対して威圧的態度に出れるほど
力の強い民族でもないよ。
大和と友好関係を保てなければ、
高句麗と大和に挟み撃ちだしな。
277日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:10:45
>>270
>ウマというのがシナ語起源というのは変だな。

残念ながらシナ語起源だよ・・
日本文化史の授業でもそのように聞かされたな。
278きのうのジョー:2006/12/17(日) 00:21:59
聖徳太子が突厥人だって主張してた学者がいたな。
279白馬青牛:2006/12/17(日) 00:35:35
ご無沙汰じゃったが、スレが進んどるのう。
>>274-275
新羅は、古墳や王冠等、高句麗、百済より北方遊牧民の影響が強い。
新羅も4世紀前後扶余でないにしても、北方外来者の征服王朝の可能性も
強いね。
新羅は統一後も弱くないのはその通り。新羅の海上交易や造船技術は
日本より優れておった。日本側も張保皐親分に頼らんとのう。
現代の北朝鮮との比較が成り立つかどうかは疑問じゃが。
>>276
扶余の玉匣>弥生倭人の玉壁で、扶余の格が倭人より上じゃろうね。
280日本@名無史さん:2006/12/17(日) 01:03:02
馬鹿が出た
281日本@名無史さん:2006/12/17(日) 04:36:13
282日本@名無史さん:2006/12/17(日) 06:21:06
夫餘(『穢王之印』を持つ)
邑婁(古之肅愼・白山部靺鞨)
高句驪縣(貊夷・諸韓國の臣智に邑君の印綬を加賜す)
東沃沮(漢初にありし燕亡人の衞滿王の朝鮮なり)
辰韓斯廬國(いにしえの辰國・言語は戸句麗に大同なり)
283日本@名無史さん:2006/12/17(日) 08:54:49
276氏の意見に対して、
「扶余の玉匣>弥生倭人の玉壁で、扶余の格が倭人より上じゃろうね。」
という意味がさっぱり分からない。

このコテハンさんはアホ?
284倭人:2006/12/17(日) 11:36:05
>>279
もう少し以前に遡ってレスを読んでください。
完全に、浦島太郎になっていますよ・・・・・
285日本@名無史さん:2006/12/17(日) 20:37:57
>>257
>新羅の独立心が強かったならば唐などの外部勢力の助けを借りてまで
>百済や高句麗を滅ぼすなんてことがあるのか?

#272で、上記の質問の主旨をすこし取り違えていた。
これは、「独立心が強いならば、そもそも唐などの外部勢力の助けを借りない
はずでなないか?」と言っているのだね。
それに対する答は:
助けに来た外部勢力を、用が済めばたちまち追い出しにかかるところに独立心が
現れている。
286日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:10:47
>>271
やっぱりそう言ってきたか。
何度説明すればいいのかね?
その「国民皆兵」の創造と資料に斉一性が見られないと
満州族もモンゴル族も実質的な「国民皆兵」制度を残したまま
中国に居住できたかね?

定住農耕社会を征服し、定住した騎馬民族は往々にして農耕民に
溶け込むのだよ。

287日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:16:05
>>272
>しかし高句麗語が記録を残さずに消滅した
>例の高句麗語地名から、 70語くらいの高句麗語がわかるらしい

たとえ僅かでも、日本語と関連性があるならば扶余説も説得力が
あるのにな。
いくら手がかりが少ないといっても皆無ではないのだろう?
それで「関連性がつかめない」などとはいえないな

>独立心が強ければ必ず戦力も強いのなら、

チベットやウイグル人と同じにするな。
彼らは「独立」のために戦っているではないか?
新羅はどうだ?高句麗や百済を滅ぼすために外部勢力と結託し、さらには
服属したではないか
言い訳に過ぎんよ
288日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:17:27
>>287
知ったかぶりすんな、このドアホ
貴様の低能ぶりには耐えられん
289日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:18:05
>>273

お前狗耶韓国ってどこにあったか知ってるか?
高句麗の影響を何故考えない?
290日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:19:38
>>289
教えてください
291日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:23:16
>>274
>王朝を存続させたまま臣従させるのも支配の一形式

何度も言っているのにいつもお前は話をはぐらかすな
百済が臣従せずに滅ぼされたのは何故だろうか?
新羅が蹂躙されている様を見て服従しなかったのか?
まあ勝手な解釈ならばそういうことも可能だろうが

>それに新羅の領域は3世紀末ではまだちっぽけなものだ。無理に通る必要もない

お前216の自分の発言を忘れたか?

>しただろうよ。日本書紀を読んで見よ。

俺の言ったのはそういう意味ではない
百済だけどうして滅んだのかと聞いている
292素人:2006/12/17(日) 23:56:31
40年以上も前にこんなこと発表した江上先生って凄いな〜
今の時代に読んでも、
言ってはならぬことを言ったみたいなゾクゾク感があるのに、
発表当時だと、鼻つまみ者の異端者として
さぞ寂しい思いをされたことでしょうねぇ
偉大な人物はやっぱり違うな〜
293白馬青牛:2006/12/18(月) 02:33:48
>>292
そう、江上説には反発が多かった。当時のことを水野祐氏が、
『柳田国男氏は、「他民族に征服されたこということを国民に教えなくちゃ
いけないんですか」と非常に感情的な反撥を、もっと言えば政治的な反撥を
しています。「天皇家が他民族で、それが日本民族を征服したというのは
許しがたい」と。折口さんも、「これはゆゆしき問題だ。われわれはそんな
ことを信じないということを、ここで明確にいたしましょう」と言って、
それで、その座談会は終わっているんです。
そのあと今度は、藤間生大さん、和島誠一さん、長谷部言人さんといった
人たちが、石田英一郎さんの司会で座談会をする。これもまたひどくて、
東洋史をぜんぜん知らないで、みなさん発言している。そしてその結果、
江上さんに全員がからかわれています。』
柳田国男氏の日本民族が成立しとらん時期に、日本民族と云う空想的概念で
反撥するのも可笑しなことじゃが、(倭人や縄文人が日本人の主流と
するのも甚だ可笑しい。形質人類学的にも古墳期に広い範囲に北方
新モンゴロイド形質が拡散する。)折口信夫氏は、民俗学で虐げられた
人々の日本文化の貢献について等、洞察力も鋭いが、騎馬民族説となると
感情的反撥をされる。まあこのスレに集う江上説反論者も感情的反撥じゃ
ろう。
294日本@名無史さん:2006/12/18(月) 06:01:02
>>293
>まあこのスレに集う江上説反論者も感情的反撥じゃろう。

何の証拠もないから反撥してるだけじゃ。
わりゃ読んでる本が古過ぎるんじゃ、ドアホ!
295日本@名無史さん:2006/12/18(月) 07:03:48
>>292
>発表当時だと、鼻つまみ者の異端者として
さぞ寂しい思いをされたことでしょうねぇ

そうでもない。江上ブームというのが巻き起こった。
時代はあたかも、左翼隆盛の時期だったし。
296日本@名無史さん:2006/12/18(月) 18:37:57
>>275
そりゃ強かった「高句麗」の軍事力を手に入れればなあ・・
なる程、お前は安全保障を受けられるなら冊封と定義するのか。
ならば北朝鮮は中国の立派な属国だな。
同盟を結んでいるからな
297日本@名無史さん:2006/12/18(月) 19:39:50
日本の古代史に日本民族だとかそういう感情をもって研究してる人なんて信用できないし
政治的な理由で江上説を持ち上げた人たちが少なからず居たのは残念でなりません。
298日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:14:41
>政治的な理由で江上説を持ち上げた人たちが少なからず居たのは残念でなりません。

いまだに後遺症が酷いと感じます。
299日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:25:35
インサイダー編集長・高野孟という男は、
江上説を支持してるそうだ。
「朝まで生テレビ」で彼が言った発言は、
「天皇というのは、もともと満州やそこら辺の連中が日本に来て、
たまたま天皇になっただけで…」

典型的左翼の底意がわかる発言ですなw
300日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:50:31
サヨウヨなんて思想による妄想を事実としちゃうカスどもはどうでもいいから
考古学的にはどうなんだよ?
301白馬青牛:2006/12/19(火) 00:18:11
>>294
歴史の解釈に証拠なんぞある訳あるまい。多面的要素からどう解釈するかの
問題じゃ。一語一句経典通り解釈するカルト新興宗教じゃあるまいし。
学説に古いの新しいもない。むしろ研究室に閉じこもって妄想する現在の
学者の方が視野が狭いんじゃないかのう。
>>295-297
江上説に反撥したんは、国粋派のみならず、左翼マルクス史観者じゃろう。
江上氏は森浩一氏との「対論騎馬民族説」で、「マルキシズムでは、
世界の各地の民族・文化が、それぞれ縦一線的に進化するという前提が
ある。(中略)日本の民族・文化は初めから日本の文化として始まり、
それが発展したのだ。朝鮮の民族や中国の文化などは、ごく部分的な
影響はあっても、民族・文化の主体は日本にあって、朝鮮などは問題に
ならない。中国からは漢字や律令制度を摂り入れたが、経済・文化は
縄文時代以来、そのまま発展したもので、外界とは関係ない。
日本民族は、縦一線的に日本民族だというマルキシズムと、主体は日本に
あったという民族主義が一緒になった、形を変えた皇国史観で頑張って
いたのです。(中略)世界の歴史を科学的に説明できる時代になってなお、
日本一国中心主義で考えていくというのは、やはり、一種の皇国史観だと
思ったのです。」
わしは、それら国粋派や左翼共産史観を「鎖国史観」と名付けとるわい。
歴史を政治的に利用しとるんは、おどれら左翼?の方じゃ。
302白馬青牛:2006/12/19(火) 00:33:21
>>299
わりゃは、世界史板の世界最弱の軍隊のスレでわしにカバチ(文句)
たれた思想中毒患者か?洗脳されて可哀想じゃと同情するが、
ここは歴史を語るところじゃし、政治思想を語りたいんなら、
政治思想板で大物たれりゃあええじゃないか。
わりゃあ、「ですな」云うて、おどりゃあ、何気取っとりあがるんなら。
こん糞外道だきゃ、人をおちょくりあがるわい。
303日本@名無史さん:2006/12/19(火) 06:58:32
>>300
>考古学的にはどうなんだよ?

江上・騎馬民族説に賛同してる考古学者なんて1人もいないみたい。
304日本@名無史さん:2006/12/19(火) 07:00:21
ななしが全部同一人物に見えるんだね、可哀想w
305日本@名無史さん:2006/12/19(火) 07:10:30
文献史学的にも、伝承伝説上も全くない。
306日本@名無史さん:2006/12/19(火) 09:43:40
>>301
>研究室に閉じこもって妄想する現在の学者の方が
>視野が狭いんじゃないかのう。

学者が研究室に閉じこもってると妄想するおんどれの視野が狭いんじゃい。
わりゃあほか?
307日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:12:58
書き込み寄生虫は解けたかな?
308日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:17:28
寄生虫のため遅くなった。
>>286
古代に、現在と同じ意味の「国民」はいない。「国民皆兵」というのは実際は
「支配民族皆兵」の意味だ。
確かに以前の説明で、本国の扶余が「貴族も奴隷も全員で戦った」と言ったが、
「諸加は自ら戦い、下戸は食糧を運んだ」と元の文章も示している。
つまり奴隷は後方支援だけだったのだ。だからこれも「支配民族皆兵」だ。
このような体制を、伽耶を征服した扶余は地元民を下戸として築くことが
できただろう、と言っているのだ。

>満州族もモンゴル族も実質的な「国民皆兵」制度を残したまま
>中国に居住できたかね?

八旗制度の話をしただろう? 中国在住の満洲族は一人残らず八旗に属した。
すなわち「支配民族皆兵」だ。
300年の間にそれがどのように弱体化したかは、また別の話だ。
309日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:20:25
>>287
>いくら手がかりが少ないといっても皆無ではないのだろう?

だから地名から約70語(実は約80語)がわかる、と言った。
その他は皆無だ。

>たとえ僅かでも、日本語と関連性があるならば扶余説も説得力が
>あるのにな。

だから、「僅かでも、日本語と関連性がある」という話をしたのだよ。
大野晋は上記約80語のうち30語が日本語と類似だと言っている。
説得力があるかな?
310日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:24:18
>>291
>百済が臣従せずに滅ぼされたのは何故だろうか?

歴史は人間の所業だから全てはケースバイケースだ。
百済が滅亡したときの具体的なことは知らないが、一般論として言えば:
降伏/臣従が成り立つのは、負けた側の「臣従という屈辱を受けても王朝が
存続する方がよい」という思惑と、勝った方の「滅ぼして直接支配するよりも
降伏を受け入れて間接支配した方が有利だ」という思惑とが一致したときだけだ。

>お前216の自分の発言を忘れたか?

216 の私の発言とは、「新羅をバイパスして」という言葉かな?
「無理に(新羅の領域を)通る必要もない(小さいから)」というのは上記と
同じ意味ではないかな?

>>296
>なる程、お前は安全保障を受けられるなら冊封と定義するのか。

「体制保証」と言うべきだったね。
この場合、体制保証とは米国が金王朝の存続を保証するということだ。
もちろん册封とイクオルではないが、册封の機能のうちの重要な部分を果たして
いる。だから「一種の册封」と言ったのだ。
311日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:47:52
騎馬民族説などを今頃言えば、精神病院に送られるぞ。
日本の歴史学者は、左翼も、右翼も、騎馬民族説など言っている者は一人もおりません。
312日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:39:10
>>308
・・・・・お前何歳だ?先生に言ったか?
ちゃんとギョウチュウ検査は受けないとだめだぞ・・

さて・・

>「支配民族皆兵」の意味だ
>このような体制を、伽耶を征服した扶余は地元民を下戸として築くことが
 できただろう

言っていることが解からないか?
新羅も百済も加羅も全て農耕に主軸を置く国家だった。それは中国の史書
からわかることだ。騎馬民族の形態では十分な生産形態を形成できず、必
然的に都市国家と言うものは生まれない。
百済も新羅も金官国も全て都市国家もしくはそれらの連合体から出発した。
扶余が征服したとして、彼らはわざわざ国民皆兵制度を残して支配をしたの
か?そのような事実は残っているか?中国・朝鮮の資料に
満州族は金官国のように自力で都市国家を形成し、その上で都市住民なども
全て国民皆兵制にできたのか?
313日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:41:22
>>308
>八旗制度の話をしただろう?

その八旗は満州族がヌルハチの下で民族感情に目覚め、中国を支配
するために作られたものだ。
状況が違うよ。
話しただろう?
314日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:45:38
>>309
>その他は皆無だ。

渤海はどうした?
315日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:00:28
>>310
>歴史は人間の所業だから全てはケースバイケースだ。

やはりそう言うと思ったぞ。
では、百済は扶余に征服されて王朝交代が起こったのだな?
ならばその事実を伝えるものが何らかの形で残っているハズだ。
文書やら史書などな。
隋書、三国史記などにな。

>「無理に(新羅の領域を)通る必要もない(小さいから)」

ほ〜
新羅の領域が小さい!!辰韓の領域が小さい!!
まあ確かに
「扶余南部に鉄資源の存在を知り」
「その資源を手に入れる必要性があり」
「その資源を手に入れるメリットが混乱している豊かな中国への
侵入より大きい」
等の条件が満たされれば真っ先に向かっただろうな。
「楽浪郡」を通って。
「高句麗の領土を無断で通って」
一つお前に聞きたいのだが
ある騎馬民族の領土を他の騎馬民族が通っても何の問題も
ないのならば、何故騎馬民族間の争いがある?
まあどうせ「家畜の放牧が〜」「高句麗は楽浪郡にいなかった〜」
などと言うのだろうが
316日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:03:25
>>310
>册封の機能のうちの重要な部分を果たして いる。だから「一種の册封」と
 言ったのだ

ほ〜
宋が北方諸民族に多額の金品を贈ったことも「体制維持」を目的にして
いたが、それも「一種の冊封」とイクオルなのか。

地が出てるぞ。
317日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:07:52
扶余が豊かな中国への侵入をやめるほど任那の鉄資源は魅力があり
高句麗の領土を無断で通っても高句麗本人は全く気付かず
百済を通ってその支配者となり新羅だけには存続を許し
海を渡って騎馬戦術の通用しづらい強力な勢力を誇る日本主勢力を
100年もしないうちに倒せるほどの国力を加羅であっという間に
つけたと仮定し
高句麗と日本の戦いも中国の史書も無視すれば

お前の説は正しいな。
318日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:16:01
嘘も100回言えば真実になるを実践しているのだろう。
スルーされれば徒労におワル。実ることなく乙カレってとこだな。
319白馬青牛:2006/12/21(木) 02:15:36
>>306
えらいムキになっとるが、わりゃ学者のう。あんたのフイールド・
ワークたァなんあら。
>>317
高句麗と日本の戦い?高句麗広開土王軍と戦闘して負けた倭が日本と云う
根拠は乏しい。井上秀雄氏は高句麗と闘った倭は、南朝鮮の
任那伽耶地方の勢力とされる。伽耶地方なら考古学的に百済、新羅以上に、
武具が出土しとるので辻褄が合うんじゃないか。伽耶勢力が対高句麗の
敗戦で列島へ多くの人達が移住したんじゃろうか。形質人類学的には
そうなるであろう。
320日本@名無史さん:2006/12/21(木) 03:00:20
だいたい倭が大和朝廷でなかろうが
海を渡って百済新羅を破ったんだから
任那伽耶地方の勢力じゃないだろう
321日本@名無史さん:2006/12/21(木) 06:50:23
>>319
倭が高句麗広開土王軍と戦闘して負けたという根拠は乏しい。
わりゃ学者かのう。
ばってん、あんたのフイールド・ ワークたァなんあら。
教えてつかーさい。
322日本@名無史さん:2006/12/21(木) 14:54:46
>>319

>高句麗広開土王軍と戦闘して負けた倭

後には騎馬民族との戦闘になれたがな

>任那伽耶地方の勢力とされる

そんな任那が何故日本の勢力下にあった?

>伽耶勢力が対高句麗の 敗戦で列島へ多くの人達が移住したんじゃろうか

敗戦したのに日本の人種を変えるほど大量の渡海を可能にした大船団を
作れたのか
どんな国だったんだ?

>形質人類学的には そうなるであろう。

前もそう言って逃げたな
形質人類学的には古墳においてすでに日本人は日本人{朝鮮人とは大きく
異なる}になっていたぞ?

323日本@名無史さん:2006/12/21(木) 15:21:19
>>321
なまらんでつかぁさい。w
324日本@名無史さん:2006/12/21(木) 15:50:12
>>323
おめもなまってるじゃねーけ!!
325日本@名無史さん:2006/12/21(木) 16:34:30
>>319
>伽耶勢力が対高句麗の
>敗戦で列島へ多くの人達が移住したんじゃろうか。

負けたのなら伽耶の鉄を高句麗が握ったとでも言うんかいのう。

逆に満州まで高句麗を追いやっているがのう…
満州といえば扶余の故郷じゃけ、
関係あるのかしれんばい。
326日本@名無史さん:2006/12/21(木) 18:10:51
シナ、朝鮮がモンゴル、満州の騎馬民族に支配されていたのは事実だがその痕跡は
ほとんど無いようだな。

 いや容貌に残っているのか。
327日本@名無史さん:2006/12/21(木) 18:41:11
日本人の大半がモンゴロイドの名がついた系統なんだから
遅かれ早かれモンゴルの影響下にあるんだから・・
騎馬民族にはとても勝てませんええ・・
328日本@名無史さん:2006/12/21(木) 20:51:35
>>312
>ちゃんとギョウチュウ検査は受けないとだめだぞ・・

「寄生虫」は「規制中」の誤変換だ。私のパソコンは古いのでね。

>百済も新羅も金官国も全て都市国家もしくはそれらの連合体から出発した。

扶余が来る前の3世紀後半の新羅や狗耶韓国の「都市」というのはどんなもの
を言っているのか?
例えば吉野ケ里のようなものか?

>騎馬民族の形態では十分な生産形態を形成できず、必 然的に都市国家と言う
>ものは生まれない。

騎馬民族の形態で、十分な生産形態を形成できず、都市国家を作らないという
のは草原を遊牧するモンゴル人のようなイメージだろうか。
3世紀の、扶余本国の扶余族が上記のようなものであったということは、
なんという「中国の史書」に書いてあるのか?
ぜひそれを引用して欲しい。原文でもいいよ。「中国の史書」はたいてい
ネットにあるから、原文で引用するのはなんでもない。
329日本@名無史さん:2006/12/21(木) 20:56:10
>>308
>その八旗は満州族がヌルハチの下で民族感情に目覚め、中国を支配
>するために作られたものだ。 状況が違うよ。

だからなんだと言いたいのか、わからない(もっとも上記の八旗の起源も目的
も誤りだが、それは別として)。

私の答は、お前の>>286
>満州族もモンゴル族も実質的な「国民皆兵」制度を残したまま
>中国に居住できたかね?

に答えたものだ。満洲族が「国民皆兵」ならぬ「支配民族皆兵」制度を
残したまま中国に居住した、それが八旗制度だ、と答えたのだが、
お前はそれに反論しているのだから、
八旗制度は支配民族皆兵制度ではなかった、とか、
八旗制度は満洲族が中国を支配すると同時に消滅した、とか言いたいのか?
念のため言っておくが、上記の>>286の質問に扶余の話は含まれていない。
330日本@名無史さん:2006/12/21(木) 20:58:43
>>316
>ほ〜
>宋が北方諸民族に多額の金品を贈ったことも「体制維持」を目的にして
>いたが、それも「一種の冊封」とイクオルなのか。

まさにその通り!
南宋は金と和睦するときに、「これからは金国に臣従する」という一筆を
書いているのだ。
金国に臣従するということは金国に册封されたということだ。
331日本@名無史さん:2006/12/21(木) 21:28:59
>>327

元寇で蒙古に勝ったじゃんw
332日本@名無史さん:2006/12/21(木) 21:41:50
>>319
>井上秀雄氏は高句麗と闘った倭は、南朝鮮の
>任那伽耶地方の勢力とされる。

おんどれの特徴は、いきなり聞いた事もない学者の説を出してきて、
あたかも事実かの様に言う事じゃ。
おんどれの意見を言えよ外道。
333白馬青牛:2006/12/21(木) 23:56:35
>>320
海を渡って百済、新羅を破った云うんは、日本史学者の解釈じゃろう。
仮に列島から半島へ出兵したとして、伽耶地域時点で兵士の多くは
現地民に依存せざる得ん。近代軍隊と違いそれ以前は征服地の住民を
前線に出し、征服行動を取るものは後方で督戦するんが普通じゃしのう。
後世の倭寇も朝鮮じゃあ、済州島や半島で賤視された楊水尺等屠殺業者
後の白丁集団に騎馬遊撃戦闘に依存し彼らも倭寇であったこと。
韓国の学者は倭寇を列島の集団と決めつけとるゆえ認めんであろうが。
何れにせよ現地民の協力なしに遠征は出来んよ。現地民と利益が一致せんと
出来んことじゃ。
>>321
わしの質問によう答えんけえ、わしの質問をそのまま返すたァ、オームか。
「ばってん」たァ、わりゃ、九州か。まあええが、フイールド・ワーク
たァ、まず足を使うて現地の文化に触れることじゃ。文献からは
妄想だけで何も生まれんよ。
334日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:20:02
>>331
朝青龍に勝てない日本人
335白馬青牛:2006/12/22(金) 00:32:46
>>322
後に騎馬民族との戦闘になれた云うて、高句麗は騎馬民族か水軍を得意と
する海洋民族か?また、騎馬戦闘に馴れた云う根拠は何を持って
されるんか?任那が列島の勢力化にあったと云うのも議論の分かれる、
史家の文献解釈に過ぎず、それを前提条件に云う自体、カルト教団の
宗教解釈と同じじゃ。
わしが何時逃げたんなら。逃げとるんはおどれら、カルト君じゃ。
形質人類学で古墳期の渡来日本人と大きく違う云うんは誰の説か。
挙げええや。近畿地方を中心とする渡来系古墳人、縄文、在来系でも
あるまいし。
>>325-332
高句麗の鉄があったけえ、重装騎兵、重装歩兵が出来たんじゃ。
鉄は経済力がないと量産出来ん。満洲まで高句麗を追いやった云うんは
どの集団が、何時、どういう事情でが抜けとる。そりゃあどういう根拠
かいのう。白々しいことを云うのう。毎度、九州人の虚言癖か?
江上氏の騎馬民族説反対論者の井上秀雄氏を知らずにぬけぬけと
書く神経はあきれる。倭人が地域民族集団と云うより、海上交易集団で
あり、エスニック集団であることは、後世の倭寇の構成が日本・朝鮮・
中国人であったことからも明らかであろう。
336日本@名無史さん:2006/12/22(金) 05:31:05
>>335
おどりゃ、ぼんぎりぼんぎりはぐらかすなこん糞ガキゃ!
>319で、オミャーさんは、
>伽耶勢力が対高句麗の敗戦で列島へ多くの人達が移住したんじゃろうか
と言っとるけん。

伽耶勢力が敗戦で日本に来たのなら、
その後、伽耶の鉄は誰が支配したと聞いてるんじゃ。

5世紀から河内の前方後円墳が異常に巨大化する。
河内勢力が伽耶の鉄を支配していたからこそ出来たんじゃろうが。

朝から血圧が上がったずら…
337日本@名無史さん:2006/12/22(金) 10:55:15
>>333
>>336
まずは、落ち着きんさいよ。

ほいじゃけぇ、あんたらは、いけんのんじゃ。
338日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:51:46
>>328
>「寄生虫」は「規制中」の誤変換だ。私のパソコンは古いのでね。

パソコン買い換えろ

>扶余が来る前の3世紀後半の新羅や狗耶韓国の「都市」というのはどんなもの
 を言っているのか?
 例えば吉野ケ里のようなものか?

そんなことも知らないで論じていたのか?
中国の史書には、彼らは穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。頭は扁平短
頭であり、風俗は倭人に似ていたと言われている。
農耕民の都市国家であり、斯盧國、己柢國 、不斯國 ・・等々
分立していた。
ある意味では吉野ヶ里遺跡だな。

>3世紀の、扶余本国の扶余族が上記のようなものであったということは、
 なんという「中国の史書」に書いてあるのか?


その史書には「都市国家」が存在していたのかな?

339日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:54:42
>>329




中華文明に目覚めてから中国農耕社会に居住し目的を持って創設された八旗

騎馬民族形態のまま、異国の土地に移住してから捨てられた騎馬民族の伝統

同じに論ずるなと言うことだ。
わかるか?




340日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:56:43
>>330
>金国に臣従するということは金国に册封されたということだ。

臣従することが冊封されることなら
北朝鮮はアメリカに臣従してないから冊封されてないな。
341日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:06:55
>>335
>また、騎馬戦闘に馴れた云う根拠は何を持って されるんか?

広開土王の出現前は倭が朝鮮半島の大半を勢力化においていたではないか

>任那が列島の勢力化にあったと云うのも議論の分かれる、
 史家の文献解釈に過ぎず、それを前提条件に云う自体、カルト教団の
 宗教解釈と同じじゃ

百済古墳群に代表される朝鮮半島の日本式古墳などによって任那日本府
がある程度{といっても政治機関ではなさそうだが・・}肯定されている。
まあ任那に強力な政治力を持つ倭人集団がヤマト朝廷と関係を持っていた
というのが正しいところだろう。

>形質人類学で古墳期の渡来日本人と大きく違う云うんは誰の説か。

お前は結局「骨」にしか言わなかったな。しかも「ごく一部」の
大多数の人骨は古墳も弥生も変わらん。
お前だけだ。「日本人は朝鮮の子孫じゃ〜〜〜」とわめいてる
カルトは。
342白馬青牛:2006/12/22(金) 23:45:08
>>336
キャンキャン吼えとりあがるが、わしの質問にゃあよう答えんで、
はぐらかしょうるんはワレど。
伽耶の鉄は、伽耶の北方系木槨墓の支配階級をもった支配者が、
おそらく日本列島へ移住した可能性は強い。(江上氏やレッドヤード氏の
説もそうであるが。)河内を含め近畿地方は古墳期以降、北方渡来形質の
人達が増加したが、渡来系河内勢力が故国かも知れぬ伽耶の鉄を支配した
かどうかは解らん。鉄と古墳の巨大化が結びつく云う根拠は何か?
河内勢力が伽耶の鉄を支配したと云う根拠も示しとらんのに、
短絡的結論じゃどうしようもないのう。
343白馬青牛:2006/12/23(土) 00:14:41
>>341
好太王碑の倭が日本列島の倭じゃ云うて前提条件を付けとるが、
朝鮮半島の倭(伽耶地方)の可能性が強いであろう。
百済古墳群が日本式古墳とする根拠はあるんか?
任那の土着倭人の甕棺墓と伽耶の支配者集団の北方木槨墓とは違う。
朝鮮南端と日本列島を含めて倭地方と解釈したら、木槨墓の北方渡来系も
倭人になる。
骨だけじゃのうて、DNAやHLAでも日本人は北方集団じゃった云うて
何遍も書いとるど。じゃが遺伝子じゃあ、いつ頃渡来したか解らんけえ、
形質人類学からの考察も必要になる。弥生時代の北方新モンゴロイド型は
北部九州や山陰の「ごく一部」の地域であるが、古墳時代となると、
東日本でも見られるが、特に西日本の広い範囲で新モンゴロイド化が
進行する。現代の日本人は、大多数が北方新モンゴロイドであって、
縄文人の直接的な子孫じゃあるまいし。ワレの弥生も古墳も変わらん
云う根拠は何なら?根拠のない妄想でわめいとりあがる、嫌韓カルト君は
よいよ馬鹿たれじゃのう。
344日本@名無史さん:2006/12/23(土) 03:35:45
>>342
またはぐらかしとるのう、腐れ外道がw

>>319でおみゃーさんが言うように、
伽耶勢力が高句麗に負けて「逃げて」来たなら、
鉄の産地・伽耶の支配はどこの誰がしたのと聞いてるみゃ。

>鉄と古墳の巨大化が結びつく云う根拠は何か?

古墳の巨大化における財政基盤は何か答えんしゃい。
ばってん、こちとら新聞配達で忙しいけん。
345日本@名無史さん:2006/12/23(土) 07:02:38
>>344
まあ、頑張りんさい。
(ちなみにあたしは、白馬さんとは違うけぇ。)
346日本@名無史さん:2006/12/23(土) 14:36:07
>>342
はぐらかしているのはお前だ。
>伽耶の北方系木槨墓の支配階級をもった支配者が、
 おそらく日本列島へ移住した可能性は強い

その根拠は何か?
墓の形が似てるから伽耶の支配者が日本に来たハズに違いないと?
では日本の勾玉より新しいそれが挑戦にあるのだから朝鮮に日本人
が渡来したと考えてもいいな?
似ているものがあるのだから

>河内を含め近畿地方は古墳期以降、北方渡来形質の 人達が増加したが
>渡来系河内勢力

一向にそのソースを見せないな
弥生と古墳において人骨の差異はないぞ?
河内政権が渡来系だと断定されたわけでもないぞ?

>鉄と古墳の巨大化が結びつく云う根拠は何か?

これは俺の言ったものではないな
相手を見極めろ
347日本@名無史さん:2006/12/23(土) 14:52:49
>>343
>朝鮮半島の倭(伽耶地方)の可能性が強いであろう
→朝鮮や日本に政権が誕生したときにはすでに
 倭=日本列島
 の意味だったぞ?
>百済古墳群が日本式古墳とする根拠はあるんか?
お前が無知なだけだ
    ↓
ja.wikipedia.org/wiki/百済考古遺跡 -
>任那の土着倭人の甕棺墓と伽耶の支配者集団の北方木槨墓とは違う。
→どうして
 伽耶の支配者手段=倭人
 と考えられない?
 北方の習慣を受容したとは何故考えられない?
>弥生時代の北方新モンゴロイド型は 北部九州や山陰の「ごく一部」
 の地域であるが
→では何故弥生時代の東北地方における稲作遺跡が発見される?
 技術だけが伝播したのか?
 それほど縄文人が飲み込みが早いのかw
>特に西日本の広い範囲で新モンゴロイド化が進行する。
→お前の脳内ソースか?
 邪馬台国の人間は旧モンゴロイドか?
 唐古・鍵遺跡の出土人骨は縄文系なのか?
>根拠のない妄想でわめいとりあがる
→www.town.tawaramoto.nara.jp/8.karako_kagi/index.html
 www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/burial-mound/karako-kagi-iseki-03.htm -
 根拠が無いのか?
348日本@名無史さん:2006/12/23(土) 15:03:49
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。

QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
349日本@名無史さん:2006/12/23(土) 15:10:23
>>333
広開土王碑文にそう書いてあんだろ
350日本@名無史さん:2006/12/23(土) 19:22:25
>>338
>ある意味では吉野ヶ里遺跡だな。

なるほど。3世紀の伽耶、新羅は吉野ケ里遺跡のようなものであった。
それがお前の言う「都市」だ、ということはわかった。

>その史書には「都市国家」が存在していたのかな?

ごまかしているが、まあ中国の史書を引用できるはずもないから、質問を
変えよう。
お前の見方では、3世紀の扶余本国の扶余は生産力が低く、上記のような
「都市」を形成しなかった、ということでいいか?
351日本@名無史さん:2006/12/23(土) 19:25:34
>>339
>中華文明に目覚めてから中国農耕社会に居住し目的を持って創設された八旗
>(中略)を同じに論ずるなと言うことだ。

お前は>>286 で、
>満州族もモンゴル族も実質的な「国民皆兵」制度を残したまま 中国に居住できた
>かね?
と言っているではないか。

これは反語として、中国に居住した満洲族は実質的な「国民皆兵」制度を残す
ことはできなかった、と言っているのだ。
なぜそれを言うかと言えば、それをもとにして伽耶を征服した扶余もまた
「国民皆兵」制度を維持できなかった、ということを言うためだ。
しかしこのことは、扶余の国民皆兵と満洲族の国民皆兵を「同じに論じ」なけ
れば言えない。
つまり、もともと「同じに論じ」ているのはお前の方なのだ。
352日本@名無史さん:2006/12/23(土) 19:27:26
>>340
>臣従することが冊封されることなら
>北朝鮮はアメリカに臣従してないから冊封されてないな。

当たり前だ。アメリカはまだ北朝鮮に「体制補償」を与えていない。
将来においてもしも「体制補償」を与えたとしたら、それはある意味で册封
と同じ、という話をしたのだ。
353日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:21:32
>>350
>お前の見方では、3世紀の扶余本国の扶余は生産力が低く、上記のような
 「都市」を形成しなかった、ということでいいか?

「都市」という人間の集住状態が恒常的に続き、王などの支配者を戴き
農村ではできない第二、第三次産業を持つものが果たして扶余に可能で
あったか?と言うことだ。

354日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:29:33
>>351
「国民皆兵」制度を残す ことはできなかった
これは古今東西存在した事だ。
フンしかりゲルマンしかり、農耕社会に入り込んだ騎馬民族は
往々にしてそれを恒久的に支配する為、騎馬民族的特性を捨て
ざるを得ない。これは「世界的に共通する事象」である。

しかるに、満州族は騎馬民族とは言っても中国文化の影響を
受け、またその領土には中国人の殖民都市が多数存在してい
た。かつ彼らは農耕民たる中国人官僚の助けを借りて「後金」
という民族国家を成立させ、その後中国に入って征服者となった。

要は「農耕民の影響を色濃く受けた」騎馬民族と
「そのままの」騎馬民族を同列に置くなと言うことだ。

同列には論じていないが?
355日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:33:23
日本を征服した騎馬民族はユダヤ人ですよ
356日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:37:25
>>352

結局は北朝鮮も新羅も
「外部に頼って生きている国」だってことでいいか?


外部の力を無視しては朝鮮統一も建国も不可能だったのだろう?
他国を操るのが上手いというのはお前の主観に過ぎん
357白馬青牛:2006/12/24(日) 00:42:48
>>344
わりゃ、わしに腐り外道じゃ?わしが何時外道に等しい行為をしたんか。
おどりゃあ人をおちょくりあがるのう。伽耶の鉄生産に何%の収益が
入るんか明確な根拠がある訳でもないんじゃに、楽浪時代の支配権や
高句麗、新羅の影響が強い時代に明確な答え等あるはずもないのに、
古墳の財政においても確実な根拠がある訳あるまい。それを鉄に違いないと
断定したんはワレど。様々な諸学問から確率論で云うしかない問題を
妄想前提条件で断定する神経は解らん。古墳財政で何%の収益で
巨大化しましたと云える明解な答えがある訳あるまいに馬鹿げた
質問するのう。カルト信者は、一語一句読んだら明解な答えが出る思う
とるんじゃろうのう。
358白馬青牛:2006/12/24(日) 01:20:47
>>346
副葬品や殉死の習俗等を含め、総合的に現地民の差異を考えることじゃ。
(墓の形式も現地民の影響を受ける。高句麗の石塚から土塚の変化等。
じゃが南下した高句麗人も石塚のままの場合もある。)
朝鮮南部の甕棺はおそらく倭人じゃろう。日本列島の勾玉も交易品として
朝鮮半島へ伝わったと思うが、韓国ナショナリストは、日本の嫌韓厨と
同じ発想で自文化優越で始末に悪いが、勾玉自体が、玦状耳飾から
発達した要素も強く、満洲の紅山文化の影響となるんじゃが。
形質人類学の弥生人と古墳人の違いか。
http://www.k4.dion.ne.jp/~isshun_y/page2-2.html
池田次郎氏の見解では、弥生期に中国沿岸の華北人型が渡来し、
弥生後期、古墳期は無文土器の半島北部の渡来者とされる。
埴原和郎氏は、ツングースに重点を置かれておられるが、弥生より
縄文系と渡来系の中間的な顔をもつ個体が多くなることから、
古墳期に多く人達が渡来したとされる。
359白馬青牛:2006/12/24(日) 01:45:15
>>347
倭が日本列島の意味じゃったたァ誰の説か?
北方の習慣を受容した民族例とは?東北地方の稲作遺跡の人骨が
おそらく縄文系であっても、>>358の池田氏の見解にあるよう、
朝鮮南部の煙台島の人骨も縄文型じゃったし、
顔型も、エラが張った縄文顔型は半島にも列島にもおった訳じゃ。
縄文人を半島と無縁と考える自体可笑しい。
360日本@名無史さん:2006/12/24(日) 02:06:29
埴原和郎が10年ほど前に書いた本に縄文人骨のDNA配列が現代インド
ネシア人と一致したというのはその後、進展があるのだろうか?

361日本@名無史さん:2006/12/24(日) 07:29:19
新聞配達から帰ってきもうした。

>>357
おちょくりあがるのは、おんどれじゃい!
5世紀、鉄の産地・伽耶を支配してたのはだれじゃ?と、
何度もおみゃーさんに聞いとるだがや、答えんしゃい!
伽耶勢力が高句麗に「負けて」逃げてきたのなら、
支配したのは勝った側の高句麗という事になるが?

ばってん、それで良かですか?
362日本@名無史さん:2006/12/24(日) 08:18:54
>>358
そのリンク先には、
形質人類学の「弥生人と古墳人の違い」なんか書かれてないぞ。
363日本@名無史さん:2006/12/24(日) 11:26:28
>>353
>「都市」という人間の集住状態が恒常的に続き、王などの支配者を戴き
>農村ではできない第二、第三次産業を持つものが果たして扶余に可能で
>あったか?と言うことだ。

3世紀の扶余本国の扶余は:
恒常的な人間の集住状態を形成せず、
王などの支配者を戴かず、
第二次、第三次産業を持たなかった。

という解釈でいいか?
364日本@名無史さん:2006/12/24(日) 11:32:07
>>354
>これは古今東西存在した事だ。
>これは「世界的に共通する事象」である。

古今東西存在する「世界的に共通する事象」だ、と主張することにおいて
すでに古今東西の騎馬民族を「同列に論じ」ているではないか。

>「国民皆兵」制度を残すことはできなかった

清国の最盛期と言ってよい康煕帝の時代において;
満洲族が漢族を支配するという、民族支配はあったか?
支配民族である満洲族は全員が軍事制度である「八旗」に属したか?

簡単に答えてくれ。

>要は「農耕民の影響を色濃く受けた」騎馬民族と
>「そのままの」騎馬民族を同列に置くなと言うことだ。

「そのままの騎馬民族」とは例えばどんな民族か?
3世紀の扶余本国の扶余はお前の言う「そのままの騎馬民族」か?

簡単に答えてくれ。
365白馬青牛:2006/12/26(火) 21:06:53
>>360
DNAの塩基配列で、縄文、アイヌ、マレーシア、インドネシアの間で
一致したサンプルがあるとされたのは、宝来聡氏の研究で埴原氏は、
形質人類学から南方形質の縄文人、アイヌ人と共通性があると云うこと
じゃないか。ご子息の埴原恒彦氏は、頭骨と歯で縄文、アイヌ、ネグリト、
アボリジニに類似性があるとされておられるよ。
>>361
じゃけえ、>>357で答えとろう。高句麗側か列島側かの二者選択解釈しか
ないんか。○×式教育の犠牲者じゃのう。ほいで高句麗が、鉄を室韋に
売ったが鉄は自国だけでなく交易品でもあった。伽耶人は鉄を求めて
中国地方の吉備等、列島へ移住した要素も強い。
>>362
渡来系弥生人、古墳人も同じ北方新モンゴロイド型ではあるが、
弥生系は華北や華中の沿岸部の可能性が強い。習俗でも抜歯という、
縄文、東南アジア、オセアニアに連なる風習で、弥生末期〜古墳期と
習俗も徐々に渡来系北方民族によって、同化させられたと云うことじゃ。
366日本@名無史さん:2006/12/26(火) 22:49:07
征服者は己の出自を隠さない。
367日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:56:09
>>366
良い事言った
368日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:15:54
>>366
発掘から、3世紀末に金官を建てたのは扶余である可能性が高いが、その金官の
歴史である「カラ国記」(カラは特別な漢字だが省略)には扶余のフの字も出て
来ない。
じつはカラ国記がはるか後世の創作だから隠しているように見えるだけなのだが。
369日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:30:03
>>365
そのコテハン、「白馬鹿青年」の方がお似合いだよ
370日本@名無史さん:2006/12/28(木) 09:12:38
>>365
>じゃけえ、>>357で答えとろう

答えてない。
まだはぐらかしてけつかりゅこん糞バカが。

5世紀、
伽 耶 を 支 配 し た の は 高 句 麗 な の か?
誰 な ん だ?
371日本@名無史さん:2006/12/28(木) 18:05:27
>○×式教育の犠牲者じゃのう。

おんどれが>>319で伽耶勢力が高句麗に負けたなんて、
単純○×式な事ぬかしておってから、
自分で答えに困ってるんだろがw

はよ答えにゃーよ!
372日本@名無史さん:2006/12/28(木) 18:13:03
>>365
>弥生末期〜古墳期と 習俗も徐々に渡来系北方民族によって、
>同化させられたと云うことじゃ。

そのソースがどこかと聞いてるんだよ、
ボケてるのかおまえ?
>>358のリンク先にないではないか。
373日本@名無史さん:2006/12/28(木) 21:05:30
>>370
横からだが、広開土王が勝ったから高句麗が伽耶を支配したと言いたいのか?
広開土王碑でも、高句麗は勝った後に南鮮に居座ってはいない。
勝ったと言っても居座るだけの実力はなかったのだ。
南鮮を荒らした後、倭と戦って大勝したのはもっと北の、平壌あたりだったのではではないか?

答は、5世紀に伽耶を支配したのは倭。
そしてその支配権が徐々に新羅に移って行く。
374日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:07:12
>>373
同じ意見。
高句麗に圧迫されて伽耶から日本に移住した人たちもいたが、
高句麗に居座られるほどの敗戦なんてしてない。

>5世紀に伽耶を支配したのは倭。

その通りだろう。
河内の5世紀以降の古墳が超巨大化する経済基盤に、
鉄があったのは言うまでもない。
375日本@名無史さん:2006/12/29(金) 12:35:36
>>373
>平壌あたりだったのではではないか

吉林省に石碑があることを考えたら、
高句麗は平城よりもっと北まで追いやられ、
なんとか盛り返したのが吉林だろう。
大勝ってもそう主張してるだけで、
負け惜しみかもしれないよ。
376日本@名無史さん:2006/12/30(土) 10:34:31
5世紀に伽耶を支配したのが倭ならば、扶余による倭の征服が否定されて
一件落着か、と言えばそうでもない。
扶余征服説は、5世紀に伽耶を支配した倭はすでに扶余に征服されて
扶余化した倭である、と考えるからだ。
377日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:09:56
>>376
それはそれで理屈は通ってるんだよ、一応は。
俺の意見は正反対だけどね。
378白馬青牛:2006/12/31(日) 01:24:26
>>370-371
わしが何処をはぐらかしとんなら。明確に出来ん問題は推測になるけえ
断定出来る訳あるまい。断定出来る云う者は妄想患者じゃろう。
>>372
わりゃは、読解力さえ無いんか。絹が四眠系蚕(華中・華南)から
弥生中期後半に三眠系蚕(華北・朝鮮)が現れる事。列島渡来人が池田氏の
言で華北人に近い朝鮮南部の人たちから、中国東北部(満洲)北部の
人的特徴が強くなる事等、徐々に北方化すると云えよう。
>>373
倭云うんは、井上秀雄氏の云われる朝鮮半島南部の勢力主体とすれば、
倭と伽耶は同一であり、伽耶を支配と云うんは可笑しい。
伽耶の支配階層は四、五世紀前後の世界的北方民族南下現象や朝鮮南部、
日本列島の北方民族化により、北方的木槨墓人の確率が強いとは思う。
倭人の甕棺の土着民から支配者層が出た確率は低いね。
379日本@名無史さん:2006/12/31(日) 08:30:10
ところがその北方的木槨墓が日本では出ないんだよね…
380日本@名無史さん:2006/12/31(日) 08:32:57
>>378
>わしが何処をはぐらかしとんなら。明確に出来ん問題は推測になるけえ
>断定出来る訳あるまい

なら倭が高句麗に負けたと断定するのもやめろ。
381日本@名無史さん:2006/12/31(日) 08:52:00
>>378
358のリンク先には、
>「倭・倭人の国」は紀元前後頃までにはすでに確立され、
>北方系の血を濃く引く人たちが多く渡来しても
>「倭・倭人の国」の優位は動かしえなかった
>(「漢委奴国王」印により確かめられる)。

とも書かれてるが?
382日本@名無史さん:2006/12/31(日) 09:39:17
>>378
>倭云うんは、井上秀雄氏の云われる朝鮮半島南部の勢力主体とすれば、
>倭と伽耶は同一であり、伽耶を支配と云うんは可笑しい。

広開土王の時代に倭と伽耶(狭義)が同一であったというのは私も同意見。
「倭が伽耶を支配した」というのは書いた通り、5世紀の話だ。
この時には狭義の伽耶すなわち金官の主体は日本列島に移っており、その金官化
した倭が依然として狭義の伽耶を直接支配した、というのが私の意見。

イングランドを支配したノルマン人が旧領のノルマンジーをも直接支配したのと同じだ。
383日本@名無史さん:2006/12/31(日) 12:31:01
それだったら、倭王武は「渡平海北九十五国」なんて表現はしないと思う。
384日本@名無史さん:2006/12/31(日) 15:05:19
倭王武は想定される征服から何世代も後だから、その意識はすでに列島人だ。
また実際に征服後において海を渡って反乱を鎮圧したり、植民地を作ったり
したことがあっただろう。
385日本@名無史さん:2006/12/31(日) 15:10:10

総豚跡A指定されました。ご注意ご注意です。

386日本@名無史さん:2007/01/01(月) 13:41:12
宮内庁が陵墓立ち入り調査容認、古代史研究前進に期待

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070101-00000102-yom-soci
387日本@名無史さん:2007/01/01(月) 17:15:10
>>386
先を越されたかw
但し制約が多いようだね。
388月光仮面:2007/01/01(月) 18:18:10
宮内庁、神社仏閣が考古学的に武装した場合、ユーラシア文化・歴史はひっくり返る。
それをビジネスとした場合、赤字国家は大いに救済される。いいことだと思うがなー。
389日本@名無史さん:2007/01/01(月) 19:56:36
記事を読んでがっかり。「見学」を許可すると言うのだから、掘ることなど論外。
390日本@名無史さん:2007/01/01(月) 20:00:09

総豚跡A指定されていあます。ご注意ご注意です。


391日本@名無史さん:2007/01/01(月) 20:11:45

豚が古神道の最高権威だぞ。 豚が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
392白馬青牛:2007/01/02(火) 22:03:03
>>381
自分勝手な解釈すなや。「倭・倭人の国」が確立しただけじゃ。
次第に本土日本も北方系の強い、韓国と遺伝距離ゼロの国になったので
ある。が抜けとるど。同じサイトの「日本人誕生の意味」にあるよう、
http://www.k4.dion.ne.jp/~isshun_y/page6.html
北東アジアの人たちも倭人に少し遅れて渡来し、やがて縄文人・倭人を
はるかに超える数になったのである。772年の坂上苅田麻呂の上奏文に、
高市郡内は8、9割までが「檜前忌寸」である渡来系であったこと
(ここには出て無いが出典は、「高市郡内、他姓なるは十にして一、ニ
なりき『続日本紀』、宝亀三年四月条)。現代の日本人は倭人ではない。
(縄文人・倭人の要素も少しは含むが)現代日本人は北東アジア系の人
たちがその多くを占める国となった。(遺伝子、形質人類学的に)云う
ことじゃ。
393日本@名無史さん:2007/01/02(火) 22:47:53
>>392
>現代日本人は北東アジア系の人
>たちがその多くを占める国となった。
>(遺伝子、形質人類学的に)云う
>ことじゃ。

でも万葉集の言葉と奄美沖縄の言葉が相通じてるのは変だよなぁ…
394日本@名無史さん:2007/01/02(火) 22:56:29
>>392
今の大阪・生野区は4分の1が在日と言われてて、
その生野の猪飼野という所は8、9割までが在日なんだけど、
現代大阪人のほとんどは日本人だ。
395白馬青牛:2007/01/02(火) 23:13:29
>>382
ユーラシアの両端のブリテン島と日本列島の類似性はあるね。
共に大陸で負け組になり、移住地の島で、新しい種族が古い種族を
圧迫したと云うこと。最果ては負け組みで迫害された者たちの移住地
じゃしね。その英国でも迫害された清教徒が新大陸へ移住したんは、
後の時代になる。英米と日本の類似点は迫害された者たちの国と云う
ことじゃろう。その伽耶人を含め移住した連中が日本列島の原住民を
支配し上層部にあった云う表現の方が良いと思う。
旧故地の未練は、ノルマンジーも、伽耶も同じで、倭が軍事的実力に
乏しい為か、南朝の権威を借りて南朝鮮諸国に軍事的支配権を主張し、
優位に立とうとしたが、江南政権では、高句麗を第二品、車騎・
驃騎大将軍。百済は、第三品上の鎮東大将軍。倭の五王は第三品下の
安東大将軍と、軍事支配権を主張した百済よりも低い位置に過ぎんかった。
だいたい、負け組が新天地に移住するんに、>>380の様な可笑しげなことを
云う者もおる。ドイツ的ゲルマン拡張主義の影響か?ランケやマルクス
共産主義史観もドイツ思想じゃが、嫌韓厨が信仰する西尾幹ニ氏もドイツ
で学び、ドイツ思想の影響が強い人じゃしのう。大東亜共栄より
異民族排斥のネオナチ派じゃろうが、その影響で景気のええ妄想を云うん
じゃろうのう。ネオナチよりネオ共産主義者であろう。ドイツ思想の
拡張主義者らは。
396日本@名無史さん:2007/01/03(水) 00:02:41
>>368
カラ国記は扶余が書いたわけじゃないだろ?
書いたのが扶余なら、その出自を明白にしてるだろ。

倭だって、扶余王朝になってたんなら、
その旨、記録してるはずだ。
397日本@名無史さん:2007/01/03(水) 01:02:13
>>395
>その伽耶人を含め移住した連中が日本列島の原住民を
>支配し上層部にあった云う表現の方が良いと思う。

こいつ真性キチガイだなw
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/koukogaku/koukogaku051229.html
>以上の韓式系土器は、
>五・六世紀の河内地域の集落から単位的なまとまりを持って出土しているが、
>これのみで構成されることはなく、必ず在地の土師器に共伴している。

共生なんだよバカw
知らずにほざくなハゲw
398日本@名無史さん:2007/01/03(水) 01:07:18
>>395
>最近、百済・新羅・伽耶地域より倭から搬入された土師器や須恵器(すえき)、
>あるいはその模倣土器が見つかっているが、
>これらは朝鮮半島に渡った倭人も相当数いたことを物語る考古資料である。

おまえの言う負けた倭人が何で半島に渡るんだろうね?
答えろやジジイw
399日本@名無史さん:2007/01/03(水) 01:16:33
>>395
おまえ句読点ちゃんと打てや、読みづらいなぁ。
何言いたいのか分からないや。
小学校からやり直せやw
400日本@名無史さん:2007/01/03(水) 06:17:03
>>395 倭が軍事的実力に乏しい為か、南朝の権威を借りて南朝鮮諸国に軍事的支配
権を主張し、優位に立とうとしたが、江南政権では、高句麗を第二品、車騎・驃騎
大将軍。百済は、第三品上の鎮東大将軍。倭の五王は第三品下の安東大将軍と、
軍事支配権を主張した百済よりも低い位置に過ぎんかった。

・・・これは単に江南政権にとって高句麗・百済の方が自国にとって直接の脅威
だったからだろう。大海の彼方にある倭を優遇しても江南には大したメリットは
ないという軍事戦略的判断による順位付けに過ぎない。



401日本@名無史さん:2007/01/03(水) 06:25:03
>>395 日本を迫害された種族というのなら、朝鮮はそれ以上に迫害された
万年属国だな。シナもモンゴルや満州、北方民族に迫害されたし、時代に
よってシナが北方民族を迫害したりする相互関係にあるので、迫害と被迫害
を固定するのは意図的な思考法だろう。
402日本@名無史さん:2007/01/03(水) 11:49:09
>>395
伽耶なんて、自国もまとめられない本当の負け組みですよ。
なんで、日本みたいな「大国」(隋書曰く)を支配できるの?
馬鹿?w
403日本@名無史さん:2007/01/03(水) 12:24:50
その人のレスに、
少しでも保守風な空気・雰囲気があれば、
やれネオナチだなんだ言い出す、
白馬青牛ってアホですか?
404白馬青牛:2007/01/03(水) 21:22:51
>>397-398
土器の多くを、被支配者の土着民に作らせるんは当然なこと。
それが共生か?
伽耶と北九州東部は、弥生期から甕棺文化を持っとった。
お互いに行き来し、交易関係にあったろう。
伽耶から日本へ移住した者も故地と交易は継続関係があったろう。
弥生末期の倭国大乱で列島から渡った倭人もおったろうし、半島南部の
土着倭人もおった。それだけの事。形質人類学的に考えて、半島から
日本列島へ移住した集団の方が圧倒的の多いんは云うまでもない。
>>400
江南政権にとって脅威なんは、鮮卑族等の北朝であり、高句麗・百済は
懐柔相手じゃろう。倭は相手にされてない。PR外交作戦失敗と云えよう。
>>401
国家、民族が形成された後であれば、そりゃあ、島国たァ大陸、更に
半島の方が、周辺諸国の圧迫が強いよ。イングランドもノルマン朝成立以降
は、異民族の圧迫はあるまい。島国の幸運じゃのう。まあ、英国人は日本の
妄想史家と違い、土着民が国家、民族の主流たァ云わんけどね。
405白馬青牛:2007/01/03(水) 21:58:46
>>402
井上秀雄氏は、伽耶地方の小国分立が長期にわたった事を、「地理条件ー
山脈による分断と洛東江の超暖傾斜ーによるのであって、これを大和朝廷の
南朝鮮侵略の傍証とすることはできない。国家形成が進展する限界は、
その水を農業用水として利用できる場合に限られる。洛東江は個々の
小国を分断するだけでなく、弁韓と辰韓に分けられるほど厳しい地形条件と
なっていたのである。」古代淀川と地形条件が違うとされる。
『旧唐書』日本伝は読んどらんのか。小国の日本が倭国の地を併したと。
まあ、文献だけじゃ、どうとでも云えるけどね。
406日本@名無史さん:2007/01/03(水) 22:13:49
>>白痴青牛
高句麗に負けた伽耶人が日本に来て、
原住民を支配したと考えてるんだね?
その伽耶の地を5世紀以降、誰が支配したのかについて、
いまだに答えきってないんだけどな。
いつまで逃げるつもりなんだ、このハゲは。

>弥生末期の倭国大乱で列島から渡った倭人もおったろうし、半島南部の
>土着倭人もおった。それだけの事

倭から搬入された土師器や須恵器(すえき)、
あるいはその模倣土器が百済・新羅・伽耶地域から見つかっているんだよ。
須恵器というから5世紀以降の話だよ。
ボケてるの君?
407日本@名無史さん:2007/01/03(水) 22:24:20
>>404
>土器の多くを、被支配者の土着民に作らせるんは当然なこと。

在地の土師器に共伴しているという事は、
伽耶人は地元民に奴隷のように扱われ、
土師器を作らされたんだな?
アハハハハハハ!
408白馬青牛:2007/01/03(水) 22:50:14
>>403
保守風な空気・雰囲気?保守じゃのうて、狂信的マルクス史観もどきな
雰囲気が同じドイツ思想のネオナチ的国粋主義と云うただけじゃ。
http://www.bund.org/opinion/20041005-3.htm
民族単一論は馬鹿げとる。(渋谷氏は大量渡来を弥生初期とされるが、
実際は形質的に古墳時代が大量渡来期である。弥生人は縄文人に吸収された
んは事実であると思うが。)マルクス史観の共産主義者の影響であろう。
自民族の内的発展論じゃしのう。ネットウヨは、マルクスウヨと名称を
変えたらどうじゃろうか。
http://www5d.biglobe.ne.jp/^tosikenn/tetudy03922kouen.htm
「神戸のシンコウ遺跡、近畿地方の弥生時代の遺跡の骨を調べた限り、
そうではないのではないか。弥生時代は朝鮮半島経由で文化が輸入され
ましたが、実際には人間はそんなに来ていない。山口県の土井ヶ浜、
北部九州は渡来人は大きな影響を持ったことは確かです。国家というものが
形成される前後あたりに影響は強くあったのではないか。そういう意味で
国家形成期、騎馬民族はやってきたという私なりのレトリックで書いて
います。渡来人は日本の歴史に大きな影響をもたらしたと思いますが、
弥生時代の始まりではなく国家が始まる頃、古墳時代に影響があったのでは
ないかというのが私自身の仮説です。」と。わしは4世紀の気候寒冷期に
よる世界的な北方民族南下現象を含め同意するよ。
409白馬青牛:2007/01/03(水) 22:54:32
410日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:14:34
>>白馬青牛

弥生時代と古墳時代の人骨が、
どれほど大きく乖離してるのか教えてくれないか?
ほとんど同じだろう?
411日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:24:07
>>408
4世紀後半、倭が高句麗軍に負けたと「断定」するあなたに疑問を呈しただけで、
何でネオナチ的国粋主義と言われなきゃならないんだ、死ねやおまえ。
なめてるのかボケが!
で、5世紀の伽耶を支配したのはだれですか?
答えられないんだね、白痴君w
412日本@名無史さん:2007/01/05(金) 01:00:18
>>405

意味不明。3行以内でまとめてくれ。w

>『旧唐書』日本伝は読んどらんのか。小国の日本が倭国の地を併したと。

それって日本成立の一つ説じゃなかったか?
倭国がなぜいきなり日本と名乗るようになったか、中国(唐)が色々憶測した
うちの一つであって事実のようには言っていない。
413日本@名無史さん:2007/01/05(金) 01:03:59
>>412
さらに言えば、伽耶が日本と名乗った証拠もないな。
414日本@名無史さん:2007/01/05(金) 09:55:45
4世紀、北方民族が地球寒冷化にともない、
大量に日本にやってきて「主流」になったというなら、
なんで万葉集などの大和言葉が沖縄と通じてるのだろうか。
全然説明できないよな。
北方民族は沖縄まで住みついたのだろうか?
415日本@名無史さん:2007/01/05(金) 10:27:13
応神は金官加羅からやってきた傭兵隊長
416日本@名無史さん:2007/01/05(金) 10:35:35
応神大王は金官加羅からやって来た傭兵隊長にすぎなかった。
417日本@名無史さん:2007/01/05(金) 18:07:31
>>412
>倭国がなぜいきなり日本と名乗るようになったか、中国(唐)が色々憶測した
うちの一つであって事実のようには言っていない。

んだ。その通りだ。
418日本@名無史さん:2007/01/05(金) 18:12:16
なら金官加羅からやってきた傭兵隊長ですと、
はっきり言えばいいのにw
何で遠慮するのだろう?
419日本@名無史さん:2007/01/05(金) 18:16:23
半島出身だと史書に書くと21世紀の国民に罵倒されると思ったので改竄しましたw
420日本@名無史さん:2007/01/05(金) 22:32:17
>>419
古代人は千里眼だな。
スプーンも曲げられると思うぞ。
421白馬青牛:2007/01/05(金) 23:28:15
>>410
同じ弥生時代でも山口西部・北九州に多い高顔の渡来系弥生人と低顔の
在来縄文系弥生人とは違うじゃないか。古墳時代は、北方新モンゴロイド
の多くの渡来系が列島に住み、全国に拡散し(特に西日本)在来系との
混血も増える。弥生人、古墳人の在来縄文形質同士を比較すりゃあ、
ほとんど同じじゃ。
>>411
ネオナチ+朱子学攘夷国粋者かマルクス左翼ボーイか知らんが、
新年早々「死ねやおまえ」云う人を呪う言を吐くんは、日本人の
感性じゃないのう。恨(ハン)の精神を持つ韓半島の人間か?
まあ、韓国人でも、真っ当な人達もおるんは当然として、韓国の朱子学的
国粋派は日本の嫌韓厨と同類じゃけんのう。
あんたァ「ハン(恨&韓)民族」と名乗った方がええど。
422白馬青牛:2007/01/06(土) 00:32:04
>>412
井上秀雄氏は、「『旧唐書』日本国伝について『続日本紀』巻第一二の
天平七年(735年)二月ニ七日の条に、新羅が国号を無断で王城国と
変えたという理由で新羅使節を追い返しておることから、国号の変更は
外交問題の最重要事項で、白村江の戦後処理、対唐外交の行き詰まり
から、外交を委託していた大宰府(倭国)から外交権を大和朝廷に
移行した。新羅と唐のような軍事的な対立まで発展せず、時期を待つ
ことによって国際関係の責任を回避した。これらの体験が国民性を
作るきわめて重要な要素になったことを忘れてはいけない。」
と、される。
423日本@名無史さん:2007/01/06(土) 00:38:20
>>421
相変わらずゴタゴタ言ってるけど、
5世紀の伽耶を支配したのはだれか答えられないんだねwww
答えられないくせに倭が高句麗に負けたというのは断言するんだね。
君って変態?
424日本@名無史さん:2007/01/06(土) 00:43:26
>「死ねやおまえ」云う人を呪う言を吐くんは、日本人の
>感性じゃないのう

おどりゃ〜や、わりゃ〜のおまえは何なんだ?
偉そうに言う前に、4世紀後半、倭が高句麗に負けた根拠を答えろ!
425白馬青牛:2007/01/06(土) 01:13:59
>>414
言語の問題は、思い込みの解釈ともなるし、扶余や高句麗語(中世朝鮮語
よりも日本語と数詞等に共通項が多い。)も解明されとらん状態じゃ。
琉球人は在来縄文形質であるが、北方から南下した可能性は強いね。
http://www.nig.ac.jp/labs/AR98ja/research/A/Ac2.html
「南グループには台湾中国人、インドネシア人とタイ人が含まれ、
北グループには、本土日本人、韓国人、ハルビンの中国人、琉球人と
アイヌ人が含まれた。しかし近隣結合法による系統樹では、
アイヌ人は南グループと北グループの中間に現れるという微妙な系統的
位置を示した。」と、あるよう琉球人はアイヌ人よりも北方系であろう。
九州西部が古墳期においても縄文形質が強く、朝鮮半島南部の櫛目文土器
人が縄文系質の人骨であったことと関連性があるかも知れん。
http://www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no22/index.html
野生マウスでも北方系と南方系があり、日本列島の大部分が北方系で
あるが、東北・北海道に南方系が残っておることは南方系の人達も
列島東北部に残ったんじゃろう。埴原和郎氏も本土日本人の中で縄文形質が
残っておるのは岩手と青森とされる。九州南部の方が北方化しとることも
参考になる。
426日本@名無史さん:2007/01/06(土) 01:14:02
現代日本人の大多数が、
古墳時代に来た北方新モンゴロイドの末裔であるなら、
何で沖縄と言葉が通じ合うのかと聞いてるんだけどな。
答えろや、広島のオッサン。
427日本@名無史さん:2007/01/06(土) 01:20:12
>琉球人はアイヌ人よりも北方系であろう。
そうなんw
こりゃ面白い。
いろいろ突っ込めそうw
428日本@名無史さん:2007/01/06(土) 14:05:22
>>396
>カラ国記は扶余が書いたわけじゃないだろ?

日本書紀だって征服者本人が書いたわけではない。
想定される征服から300年も後の王朝が作らせたものだ。その日本書紀の
メインテーマは何か。三輪王朝からの「万世一系」である。そのためには
少なくとも2箇所で王朝交替を隠蔽していることは指摘されるところだ。

王朝交替を隠蔽するのなら、扶余による征服/簒奪が出てくる余地はない。

>>402
>なんで、日本みたいな「大国」(隋書曰く)を支配できるの?

満洲族が中国という「大国」を支配するが如し。
429日本@名無史さん:2007/01/06(土) 14:07:40
>>406
>その伽耶の地を5世紀以降、誰が支配したのかについて、
>いまだに答えきってないんだけどな。

5世紀の伽耶を支配したのは倭であり、その支配権が徐々に新羅に移った、
ということを横から答えたが、この答で満足できないのか?
どんな答が欲しいのかな?

>>414
>4世紀、北方民族が地球寒冷化にともない、
>大量に日本にやってきて「主流」になったというなら、
>なんで万葉集などの大和言葉が沖縄と通じてるのだろうか。

その一つの理由は「縄文系」という共通因子があるからだ。
(縄文人を北方系とする説があるが、その意味では沖縄人も北方系だ)

もう一つは、沖縄語の表層は平安時代末期の日本語でできていることだ。
これは、この時代に本土人によるなんらかの征服ないし支配があって、
それが言葉の表層に残ったと考えられる。
平安時代の日本語が「4世紀の北方民族」の影響を受けているとすれば、
沖縄語も間接的にその影響を受けている。

>>416
>応神大王は金官加羅からやって来た傭兵隊長にすぎなかった。

金官加羅から来た傭兵隊長が応神大王になった。
つまり河内王朝は金官加羅勢力による簒奪王朝である、と言いたいのだね?
それには私も大賛成。
430白馬青牛:2007/01/07(日) 01:05:43
>>423-424
伽耶を支配したんは、木槨墓の被葬者集団か高句麗か百済か確実なことは
解る訳あるまい。後に新羅の勢力が強くなり、半島を統一する訳じゃが、
それ以前が解るんか?例えば伽耶の鉄の生産量の何%をそれぞれどの
政治集団が取得したんか答えられるんか?
倭が高句麗に負けた可能性が強いんは好太王碑文もそうじゃが、負け組が
新天地に移住する確率が高いことも考慮すべきであろう。わしが、変態か
どうか関係ない話じゃないか。
日常使う、おどりゃあ、わりゃあ、云うんと、「死ね」云うて人を呪い、
人の存在を無価値にさせる言葉は全然違うよ。自身の生死を賭す覚悟を
決めて相手に云う以外に使うまい。わしと面と向うて云うたら許さんよ。
こんなァ人様に対して云うたこたァあるまい。もし云うたら大事に
なりよる。人様に対して云えんことをネットで平気で云う神経は
解らんのう。
431日本@名無史さん:2007/01/07(日) 01:22:18
>>428

>日本書紀だって征服者本人が書いたわけではない。
>王朝交替を隠蔽するのなら、扶余による征服/簒奪が出てくる余地はない。

「王朝の話」をしてるんだからな。
元は>>368の、

>「カラ国記」(カラは特別な漢字だが省略)には扶余のフの字も出て来ない。
>じつはカラ国記がはるか後世の創作だから隠しているように見えるだけなのだが。

に対する反論だ。

「金官の歴史書」には扶余が出てこない、
しかしそれは後世の非扶余政権で作られた歴史書だからであって、

>征服者は己の出自を隠さない。>>366

が正しい認識だと言ったんだよ。

だから倭に扶余征服王朝が成立したんなら、それがずっと続いたことになるわけで、
それならば300百年後であろうが、同継続王朝は「己の出自を隠さない」。

満州族は中国征服したのち、自らの出自を隠したか?
そんなことはないではないか。
432日本@名無史さん:2007/01/07(日) 07:33:54
>>430
>伽耶を支配したんは、木槨墓の被葬者集団か高句麗か百済か確実なことは
>解る訳あるまい

確実な事は解らないと言いながら、
何で倭が高句麗に負けた事は断定するのだ?このクソハゲ。
高句麗に圧迫受けたのは事実だが、負けではなかろう。
>429が言うように伽耶を支配したのは倭であろう。
433日本@名無史さん:2007/01/07(日) 14:54:22
>>431
>倭に扶余征服王朝が成立したんなら、それがずっと続いたことになるわけで

扶余政権だろうが非扶余政権だろうが、歴史書を作らせた王朝が
「征服以前からの」万世一系(天皇の血のつながり)を強調するのならば、
征服そのものを隠蔽するしかないではないか。
実に簡単なことだ。
434日本@名無史さん:2007/01/07(日) 14:59:48
>>433
万世一系を強調したがる時点で征服じゃないじゃんw
435日本@名無史さん:2007/01/07(日) 15:01:59
>>433
征服者が征服地史上における万世一系を主張するわけなどあるまい。
その必要もない。

>征服者は己の出自を隠さない。

ノルマンジーは自らの出自を隠したのか?

それにあんたは「扶余王朝成立」後にも2度王朝が交替してると主張してるじゃないか。

異民族による征服王朝にして、しかもその後2度王朝転換して、
それでもなお「万世一系」をアピールしたというのか?

ちゃんちゃらおかしいですわ。

「万世一系」などを主張するのは、実際につながってるという確信があってこそだ。
でなけりゃそんな発想には最初からならん。
近隣国王朝ではそんな発想は存在しないんだから。
436日本@名無史さん:2007/01/07(日) 15:14:37
神武を扶余出身にすりゃいいじゃない?

万世一系の繋がりを強調というが、ホントだろうか。
出雲の国譲り神話やニギハヤヒ神話など、記紀には神武の前勢力の存在が示唆されているよ。
逆にいえば、なぜ神武をニギハヤヒの「子」としなかったのか。
437日本@名無史さん:2007/01/07(日) 19:54:45
仮に応神が扶余で征服王朝であったとして、
継体天皇で代替わりがあったのなら、
応神から続く天皇を悪者にしたて、
継体が正義の味方である神話を持てばいいだけ。
そうなってないのはそうではないから。w


438日本@名無史さん:2007/01/07(日) 20:58:06
>>435
>それにあんたは「扶余王朝成立」後にも2度王朝が交替してると主張してる
>じゃないか。

「扶余王朝成立」後に、と私がどこで言ったか、示して見よ。
日本書紀全体の中で少なくとも二度、と言ったのだ。

>「万世一系」などを主張するのは、実際につながってるという確信があってこそだ。

純真だな。その眼で見れば日本書紀が全て真実に見えるのでないか?

>>436
>逆にいえば、なぜ神武をニギハヤヒの「子」としなかったのか。

子にする必要もない。なぜなら神武はニギハヤヒの同族なのだから。
439日本@名無史さん:2007/01/07(日) 21:57:01
>>438

> >「万世一系」などを主張するのは、実際につながってるという確信があってこそだ。
> 純真だな。その眼で見れば日本書紀が全て真実に見えるのでないか?

違う違う。
そういう意味で言ってるんじゃなくて、

そもそも「万世一系」なる思想が生まれる背景のことを言ってるんだよ。
もちろん歴史書には統治の正当性のための脚色・捏造は当然ある。

しかしおよそ継体朝であった混乱他に、
王朝交代を疑うような史実があるなら、
万世一系などにそもそも固執する必然自体がない。
そこまで拘るなら、
最初から継体に不自然な登場のさせかたをする必要がない。
440日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:57:25
継体に変わろうが、
神武の男系遺伝子という意味では万世一系だろ。
なにせ各地の豪族の娘に子種残してるから。w

後の時代の源氏や平家まで、
それぞれ清和天皇や桓武天皇の末裔、
つまり男系遺伝子保持という事で正統性を主張してたしな。
441日本@名無史さん:2007/01/08(月) 08:12:47
>>429
>この時代に本土人によるなんらかの征服ないし支配があって、
>それが言葉の表層に残ったと考えられる。

ひとつの島が征服されて言葉の影響受けたとしても、
沖縄・奄美にどれだけの島々があると思ってるの。
石垣など八重山諸島まで通じてるんだけどな。
無理あり杉。
442日本@名無史さん:2007/01/08(月) 10:18:18
>>441
石垣や八重山は沖縄本島の中央政権によって支配されていたのだから、間接的に
本土の影響を受けたのは当然。

>>439
>そこまで拘るなら、 最初から継体に不自然な登場のさせかたをする必要がない。

意味不明。万世一系に拘るからこそ、継体や応神に不自然な登場のさせかたをした、
というのなら論旨が通るが。
443日本@名無史さん:2007/01/08(月) 10:24:23
>>437
>応神から続く天皇を悪者にしたて、 継体が正義の味方である神話を持てばいいだけ。

日本書紀を書いた人(書かせた人)が、君の発明したそのすじがきよりも
万世一系の長さのほうを選んだ、というだけ。
444日本@名無史さん:2007/01/08(月) 18:03:52
>>443
だから長さのほうを選んだんなら征服じゃないってば。
なんで征服にしたがるのだw
445日本@名無史さん:2007/01/08(月) 18:07:37
>>442
>間接的に 本土の影響を受けたのは当然。

もともと沖縄から本土に共通する言葉(大和言葉)があり、
本土は渡来系の影響も受けたとした方が自然だろ。
446日本@名無史さん:2007/01/08(月) 20:08:09
>>445
沖縄と本土に共通する要素があっても構わない。だから私は、少なくとも縄文の
要素は共通したはずだ、と言ったのだ。
沖縄人はアイヌと共に縄文の生き残りだし、本土の大和言葉にも縄文人の言葉は
痕跡をのこしたはずだから。
しかしそれがあったとしてもそれを証明することはできないほど、沖縄語は平安末期の
本土語の影響を深く受けている。
沖縄語は上記の平安末期の日本語が、一定の法則の下に変化したものなのだ。
そして沖縄本島の言葉と離島の言葉とでは、変化の仕方や程度が異なるだけである。
447日本@名無史さん:2007/01/08(月) 20:26:35
>>444
>だから長さのほうを選んだんなら征服じゃないってば。

神功皇后は実在か架空か。両説あるだろうが架空とする説のほうが強いだろう。
もし架空とするなら、その時点で応神は出自不明となる。
神功記の後半は、応神を戴く神功軍が大和の二王子の軍と戦って大和に入る物語だが、
応神を出自不明とするなら上記は王朝外部の者による王権簒奪の物語である。
皇統は一度ここで切れているのだ。
日本書紀作者は神功という架空の人物を作り上げることによって形の上で皇統を
連続させ、簒奪を隠蔽したのだ。
すなわち、簒奪の存在や簒奪者の名前よりも「万世一系の長さ」を選んだのである。
神功は架空、という前提に立てばこのようなことになる。
448日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:02:33
>>447
訂正
簒奪者の名前よりも → 簒奪者の出自よりも
449日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:03:30
>>446 日本語と琉球語の分裂は1800年ほど前という言語統計学上の判定が
あるが、何故平安末期になるのだ。

 沖縄には弥生文化遺跡さえ無いのだろう。それなら分岐は2000年以上前
になるはずだ。
450日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:29:45
>>447
分からないな。
「万世一系の長さ」と言っても、
現代からみれば確かに「長い」かもしれんが、
書紀成立当時からみればそんなに長くはない。
応神が外来者ならば、その通りに書き、
その系統を継体天皇が断絶させたとした方が良いはずだ。
そうなってないのは応神が外来者ではないからだ。
451日本@名無史さん:2007/01/08(月) 22:48:29
>>447
もし応神がその祖先から扶余だというなら、
それこそ扶余の故地・満州から半島を経由して
倭国、大和に至る道程と過程を神話化すればいいじゃないか。
それ以前の倭国の歴史なんて元から大したもんじゃないだろ。
そこまでして必死に事実を糊塗してまで、
王朝の長さを誇る理由などない。
もしろ扶余なら、半島を征服した歴史の方がよほど正史にするにふさわしい。
そうした言い伝えが残ってるだろうから、間違いなくそうしてるよ。

だから上からの流れでずっと語られてることは、
王朝の正当性と永続性を主張するために、
征服者がそこまでして嘘作り上げる必要があんのか?

征服者はそんなことする必要はありません―。
そういう話な。
452日本@名無史さん:2007/01/08(月) 23:01:57
異民族である扶余が、
古来からの倭国支配者だったと強弁するということは、
扶余だった歴史を自ら捨てるという選択になるということだ。
なぜ征服者がそのような判断をしなければならないのか?

一方、カラ国記などが扶余を語らないのは当然だ。
なぜなら書き手とその当時の政権が既に扶余ではないからだ。
だから書き手は、むしろ過去の支配者が扶余だと知らなかった可能性もある。
今の韓国人が、高句麗が朝鮮民族だと考えたり、
いにしえの外来民族の勢力図を無意味に誇って自国の歴史だと主張してるのも、
民族の区分けがしっかりできてないことの結果であり、
カラ国記もまた、その古い実例だろう。

ところが騎馬民族説が正しいなら、
紀記の作者は扶余系自身なのだから、
出自をわざわざ隠す理由などどこにもない。
中国のモンゴル族、満州族の王朝のようにしてたことだろう。
そして扶余も、その征服地では実際にそうしていたわけだ。
日本でだけ特別にする必要なんてないだろ。
453白馬青牛:2007/01/09(火) 00:17:48
>>452
出自を隠すんは珍しい事でもあるまい。北方民族が漢を支配し、
明確に出自を示したんは、契丹や西夏以降じゃろう。
鮮卑が北朝を建て、姓を元氏、源氏、賀氏等漢人風に名乗り、
鮮卑系の王朝である唐に至っては出自を隠して漢人に成りすました。
まあ、純粋な漢族王朝は漢・宋・明ぐらいのもんじゃろう。
454日本@名無史さん:2007/01/09(火) 03:34:01
>>453
北朝の北魏だと、鮮卑と漢人とで、鮮卑文化と中国文明とが対立した結果として、
最終的に漢化が進行したわけであって、別に出自を隠したわけじゃないだろ。

唐の鮮卑説というのは、あくまで皇帝の出自が鮮卑がどうかであって、
王朝が鮮卑というわけじゃない。
鮮卑王朝ではないからこそ自らの出自を隠してたかもしれないだけであって、
鮮卑族が侵攻して王朝築いたら隠す必要は全くない。
455日本@名無史さん:2007/01/09(火) 04:47:36
騎馬文化も秦氏が持ち込んだものとは考えられないだろうか。
時期的にも合うし。
456日本@名無史さん:2007/01/09(火) 04:49:59
騎馬文化も秦氏が持ち込んだものとは考えられないだろうか。
時期的にも合うし。
457月光仮面:2007/01/09(火) 08:28:24
>>455-456
実際はそうだろう。しかし、アメノヒボコとか、その前から秦氏系統は入ってきている
みたいだ。秦氏が騎馬文化の一部と言うのがいいのかもしれない。又、秦氏にも
ジプシー的なものとか、神官的なものとか、武人的なものなどがあり、騎馬民族
的というのは一部に過ぎない。が、騎馬民族時代の主役、少なくとも知識人集団
であることは間違いない。
458日本@名無史さん:2007/01/09(火) 19:43:31
>>449
>日本語と琉球語の分裂は1800年ほど前という言語統計学上の判定が
>あるが、何故平安末期になるのだ。

「めんそーれ」(いらっしゃいませ)の語源は「参り召しおはれ」だ。
「みじらしゃん」(美しい)の語源は「めずらしゅうある」だ。
これらの語源が平安末期でなくて1800年前の言葉か?

君がこの話題を持ち出したのは、沖縄語と日本語が「通じる」(似ている
という意味だろう)のは、日本語が扶余の持ち込んだ言葉によって影響
されていない証拠だ、と言いたかったからだ。
私はそれに対して、沖縄語は平安末期に強力な影響を日本語(本土語)から
受けているから、日本語と沖縄語が通じる(似ている)のは当然、だから
扶余語の影響を云々することはできない、と言っているのだよ。

>>450
>応神が外来者ならば、その通りに書き、
>その系統を継体天皇が断絶させたとした方が良いはずだ。

日本書紀が現にこのような書きかたをしている、という話をしているのに、
そんな書き方をする理由がない、とか
こっちの書き方のほうが良いはずだ、
とか言っても仕方がない。

神功皇后は実在した、だから応神は直系だ、とか
確かに応神の出自は不明だが扶余ではなくて九州の豪族だ、
とか言って反論するのならわかるが。
459日本@名無史さん:2007/01/09(火) 21:26:04
>>458
また意味不明だ。
応神は九州出身だよね。
神功皇后が架空の存在とはあまり聞かないのだが。
どこをどう考えれば、応神を扶余へと飛躍できるのだ?
460日本@名無史さん:2007/01/10(水) 00:27:48
>>453
だいたい「隠す」って誰に対して隠すのさ?
同時代の人間はみんなわかりきっていることだろうに。
それをわざわざ隠そうとする発想というか、動機がそもそも何から発するものなのかを教えてよ。
461白馬青牛:2007/01/10(水) 00:53:52
>>454
鮮卑は北魏の孝文帝の時代から漢化政策じゃったよ。漢人も北方民族の
風習に染まり「胡漢文化」と云う時代じゃ。五胡の一つ匈奴も「漢」と
いう国名をつけたが、皇后劉淵は母親が漢代の皇帝の娘ゆえに、
母親の姓を名乗った。宋代までは異民族が皇帝になってもなるべく出身
民族を隠し、唐代の皇帝のように中原における支配権を正当化する為、
常に漢民族系であると主張した。唐の皇帝李氏も隴西の李氏で漢人で
あると自称したよ。その唐の皇后系列も匈奴、鮮卑系じゃ。
貴族、豪族も宇文氏、独孤氏、禿髪氏等北方民族系が多い。
禿髪氏は鮮卑拓跋氏の同族で、北魏皇帝の拓跋氏の漢人風の姓が「元」
であり、太武帝は、「卿は、朕と源を同くす。今ま源氏と為す可し」と
源氏を名乗った。隋の刑部侍郎の源師民や孫の源乾曜は唐の宰相になった
ように。日本の賜姓「源氏」もその影響かも知れんね。嵯峨源氏、
清和源氏。一字姓の漢人風からして。杉山正明氏は唐朝の影響といわれる。
462日本@名無史さん:2007/01/10(水) 08:37:14
>>461
なるほど。
でもそんなにはっきり分かってる中国の例を、
日本にあてはめられてもなぁ。

日本の天皇が出自不明というのなら、
扶余だなんだ、いくらでも推論すればよいけどね。

まぁ記紀では日向となってますので…
463日本@名無史さん:2007/01/10(水) 20:17:30
>>459
>神功皇后が架空の存在とはあまり聞かないのだが。
>どこをどう考えれば、応神を扶余へと飛躍できるのだ?

なるほど、神功皇后は実在と考えるわけだ。
では神功皇后の夫、つまり応神の父で、日本武尊の子とされる仲哀天皇は
実在と考えるのか?

>>460
>だいたい「隠す」って誰に対して隠すのさ?
>同時代の人間はみんなわかりきっていることだろうに。

300年後が「同時代」か?
我々は江戸時代の同時代人か?
464日本@名無史さん:2007/01/10(水) 20:45:38
糞コテにかまっちゃいけません
465日本@名無史さん:2007/01/11(木) 00:29:33
>>463
つまり、征服者が出自を敢えて隠そうというその情熱というか動機は300年後の人間を偽る為ってことなの?
な〜んか苦しいなぁ。
自分たちよりも人口の多い民族を支配しなけりゃならんって意味なら一応わからんでもないけど、
でも結局>>461にあるように全部見え透いちゃってるわけで、
それを日本のケースに当てはめるのは相当に無理に無理を重ねないと不可能だろ。
466日本@名無史さん:2007/01/11(木) 05:01:17
>>461
この辺だね。

2006/9/27
 枕流亭ブログで「源氏」として、日本の嵯峨源氏などの呼称が北魏由来であったことを、解説してくださって
いました。…それで、どこかでそんな話を読んだなぁと思っていたら、杉山正明『遊牧民から見た世界史』
(日本経済新聞社、2003年1月、4-532-19161-0)の254頁からの部分に「<備忘録>元氏と源氏
―拓跋国家における漢姓と日本賜姓」として触れられていました。
 それによると、なぜ禿髪氏が源氏と名付けられたのかについては「自分たちとみなもとをおなじくするから
「源氏」と名づけたのか、あるいは「元氏」の漢姓は少しあと孝文帝の時だとされるが実はもうその名のりは
あって、「元」と同音・同義の別字である「源」ならば、準王族の扱いとなり優遇とけじめの両方を兼ね
そなえて具合が良いと判断したのか。その両方かもしれない。」としており、やはりどちらかという確証
はないようです。
ttp://www011.upp.so-net.ne.jp/hu-xi/min/039.html#20060927
■[中国史]源氏
ttp://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20060924

しかし初唐において鮮卑系関隴貴族は尊い家系だとはまるで看做されてないだろ。
いわゆる征服王朝ではないからね。元や清とは違うわけだ。
だから、「出自を隠す」ことの意味という文脈に沿って語ってもらわないと。
唐の例と、“扶余倭国”とはケースがまるで違うんだから。
467日本@名無史さん:2007/01/11(木) 06:41:43
>>463
>応神の父で、日本武尊の子とされる仲哀天皇は
>実在と考えるのか?

いたんじゃないの?
468日本@名無史さん:2007/01/11(木) 08:28:53
>>467
ではその父の日本武尊も実在か?
469日本@名無史さん:2007/01/11(木) 08:42:56
実質の初代が崇神天皇だと思ってる。
470日本@名無史さん:2007/01/11(木) 19:37:46
>>469
もう一度聞く。
仲哀天皇は実在、と467で言っているが、その父の日本武尊は実在と考えるのか?
471日本@名無史さん:2007/01/11(木) 20:11:59
いたんじゃないの。
だから?
472日本@名無史さん:2007/01/11(木) 23:49:21
唐と鮮卑の話だけど、
鮮卑系の北魏では、
漢化政策を巡る王朝内対立が激化して、
宗教対立が起こってる。
(中国から見れば)外来宗教の仏教を受け容れるか、
それとも中国古来の道教を守るかだ。
この場合、漢化推進派が漢人系であって、
鮮卑系は仏教だ。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E4%B8%AD%E5%9B%BD%29

この文化的対立を倭国のケースに当てはめた場合、
仏教は百済で既に普及してる(新羅ほどではないが)から、
当然、扶余系が仏教推進、倭人系が神道擁護でないといけない。

ところが逆なんだよね。

蘇我氏が仏教擁護して、
物部、中臣氏が排撃し、神道墨守だ。

その点から見ても、扶余王朝・騎馬民族説というのは怪しいと思う。
473日本@名無史さん:2007/01/11(木) 23:51:25
>472 訂正

>この場合、漢化推進派が漢人系であって、彼らは仏教排撃・道教擁護の廃仏政策で、
鮮卑系は仏教だ。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E4%B8%AD%E5%9B%BD%29
474白馬青牛:2007/01/12(金) 00:42:08
>>465-466
見え透いとる?>自分たちよりも人口の多い民族?
小山修三氏による人口推移で、弥生期の人口60万で古墳期540万
じゃが、世界の農耕民族の人口成長マッケビディ・ジョーンズの示した
数値で全世界年平均人口増加率0,044%からして古墳期の渡来系が
多数を占めとったと考えるんが当然じゃ。
4世紀前後の北方民族の南下、漢人と融合しても北朝の時代は軍事支配した
ゆえ、征服王朝の系列に入るよ。同時代現象として西洋のゲルマン南下、
島国英国のアングロ=サクソン化や朝鮮南部や日本列島の北方民族南下に
よる扶余化を云うとる訳じゃ。少し前の時代の中国の黄巾の乱の戦乱と
飢饉時代の人口減少は列島の倭国大乱の時代と対応する。倭人の人口減少が
あったかも知れん。マルクス共産主義史観のドイツ的自民族中心発展論
より、全世界的なパラレルな現象として捉える方がええと思うんじゃが。
475白馬青牛:2007/01/12(金) 00:54:53
>>472-473
その蘇我氏の出自自体、列島在来民かどうか解らん。百済系説もあるが。
大乗仏教はクシャン化された大月氏的と云うか遊牧民的仏教でもある。
チベット人・モンゴル人・満洲族・日本人の大乗仏教文化圏。
漢人・朝鮮人の儒教・道教的文化圏。東南アジアの小乗仏教文化圏と
分けることも出来る。ただし日本の国家上層階級は儒教じゃろう。
江戸徳川政権もね。
476日本@名無史さん:2007/01/12(金) 01:44:36
>>474
ああ言えばこう言う。ほんと論点をはぐらかしてばっかりいる人だなぁ。
めんどくさいからそれまでのレスについてはさておいて>474に限定して訊ねるけど、
これが事実なら、わざわざ出自を隠したり偽ったりする必要がどうして生じるんだい?
解説よろしく。
477日本@名無史さん:2007/01/12(金) 08:55:09
>>474
>征服王朝の系列に入るよ

縄文から続く勾玉を副葬品にしてくれる
大変やさしい征服者なんだね、北方民族とやらは!w
478日本@名無史さん:2007/01/12(金) 09:57:26
>>477
勾玉は日本特産(原料の硬玉翡翠が日本でしかとれない)で、半島にも輸出された
貴重品だ。征服者はそれを占有できる権力を誇ったわけだ。
まあ、英国のビクトリア女王が印度産の宝石を身に纏うようなものだな。
479日本@名無史さん:2007/01/12(金) 10:25:06
>>478
で、日本が征服王朝だという証拠は?
480日本@名無史さん:2007/01/12(金) 13:35:13
>>479
勾玉については納得しました、と言っているわけか?
481日本@名無史さん:2007/01/12(金) 13:50:55
>>480
半分はね。
勾玉って単なる装飾品というより、
宗教的な意味もあると思うんで。
後から来て勾玉を身に着けるというのは、
征服とは逆で、文化に飲み込まれたと考えてるんだ。

で、日本が征服王朝だという証拠は?
482日本@名無史さん:2007/01/12(金) 14:00:19
>>471
>いたんじゃないの。 だから?

神功皇后も、日本武尊も、仲哀天皇も、すべて実在とするのか?
希に見る純真さだな。
君が頼りにしているウィキペディアは仲哀天皇の項で、次のように架空説を
紹介しているぞ。

「歴史学者のあいだでは、仲哀天皇は実在性の低い天皇の一人にあげられている。
その最も大きな根拠は、実在性のほとんど無い父(日本武尊)と妻(神功皇后)
をもっている人物であるため、とされている。日本武尊の話は複数の大和地方の
英雄の事跡を小碓命(おうすのみこと)一人にあてがって、一大英雄伝説に仕立て
上げた物であり、神功皇后の話は白村江の戦いから、持統天皇による文武天皇擁立
までの経緯をもとに神話として記紀に挿入された物である、としている。そして
これらの架空の人物群とそれにまつわる物語とを史実として正当化するために、
仲哀天皇が架空に作り上げられ記紀に挿入された、とするのが仲哀天皇架空説で
ある。」

一つの説に過ぎないが、この説に反論するのはなかなか大変だ。
日本武尊は死後、白鳥になったし、その後36年してその子、仲哀が生まれて
いるしな。 まあ、精子を冷凍保存していたとすれば納得できるが。
483日本@名無史さん:2007/01/12(金) 14:38:29
>>482
巻向の東海系土器の多さは、
日本武尊を連想してしまうんだよね。

で仲哀が非実在だったとして(どっちでもいいが)、
だから何なの?
484日本@名無史さん:2007/01/12(金) 15:22:22
興味深いことに、
古市古墳群の嚆矢である津堂城山古墳からは白鳥埴輪が見つかり、
その次世代の大王陵の名前が「仲津山」古墳であり、
同時期には神功陵があるとされる佐紀地方に、大王陵にも引けを取らぬほどの大古墳が築かれている。
また津堂城山には、副葬品や墳丘規格などで前代とのあからさまな断絶は見受けられず、
むしろその被葬者として、呪術性をベースを持った王族将軍、つまり日本武尊的な人物が想定できる。
485日本@名無史さん:2007/01/12(金) 15:29:34
ヤマトタケルの読んだ歌と、景行天皇の読んだ歌が同じだったりするな。
486日本@名無史さん:2007/01/12(金) 16:41:37
農耕民族ってA型のこと

O型は狩猟民族、B型は遊牧民族

農耕民族A型は群れを作る。規則正しい横並びの群れを作るためには
無理やり敵を作り差別する・・・・これが、いじめ・・・・遺伝子レベル

AB型は約1700年前にできた。B型は2万年から1万5千年前。
A型は3万から2万5千年前。それ以前の数百万年は全員O型だった。

約2000年前にA型が日本にやって来たとき、日本の先住民(O型)を
大量殺戮したとおもう。アフリカの狩猟民族(O型)の99%は、
農耕民族(A型)に滅ぼされた。北米のインディアン(インディアンの99%は
O型)も大量殺戮され滅んだ。ヒットラーもブッシュもA型。
ドイツもアメリカも農耕社会。

農耕民族社会はいじめ、女性差別、虐待、大量殺戮、売春、ホームレス、
横並び結婚、を作りだした。
虐待されると自傷してしまう。今、日本の自傷者は百万人ともいわれている。
虐待されると、感情でも理性でも考えられなくなる。

狩猟民族と農耕民族は歴史、感覚、認識の仕方がぜんぜん違う。
狩猟民族は農耕社会で生活すると傷つく。

教育は血液か遺伝子でクラス分け、しないとダメ。
487日本@名無史さん:2007/01/12(金) 17:25:10
直木孝二郎が日本と朝鮮の違いについて、朝鮮には宦官制度があって日本にはなかったんだって。
488日本@名無史さん:2007/01/12(金) 19:03:58
>>483
>で仲哀が非実在だったとして(どっちでもいいが)、
>だから何なの?

仲哀を非実在とした時点で、応神は出自不明になってしまうではないか。
少なくとも君の信じる万世一系はここで切れる。
489日本@名無史さん:2007/01/12(金) 22:18:05
>>488
記紀編纂時から過去をさかのぼって、
つじつま合わなくなってるのだろうからね。

万世一系は切れないよ。
神武(と比定されてる人物)の男系遺伝子保持者なんて、
それこそゴロゴロいただろうから。
490白馬青牛:2007/01/12(金) 23:46:30
>>476
論点を、井の中の蛙にする必要もあるまい。
出自を隠すんは、新羅も同じじゃ。新羅が382年秦王附堅に使節を
出したとき、昔の弁辰時代と違っているのはなぜかと詰問されたように、
面倒な出自公表より、倭の後裔政権とした方を選んだかも知れん。
新羅は扶余系でないとしても、古墳や黄金製品の出土品から扶余系の
高句麗・百済以上に北方民族(アルタイ以西の中央アジア的)要素が強い。
4世紀前後に南下した種族が支配したんであろう。中国と直接的関係を
持つ黄海側でなかったことの要因も大きく、対馬海峡を越えた日本列島も
当てはまろう。
>>477-479
移住支配民族が現地民の文化、特産品を排除する必要もあるまい。
現地民の物を活用するんが、何で飲み込まれたことになるんか。
歴史考察に証拠なんかあるわけなかろう。逆に列島が征服王朝でなかった
云う証拠もない。国家形成期の古墳時代に渡来した集団が支配階級であった
確率が高い云うことじゃ。人類学的にも妥当じゃ。
491日本@名無史さん:2007/01/12(金) 23:59:23
>>490
>現地民の物を活用するんが、何で飲み込まれたことになるんか

勾玉は宗教的な意味もあったんじゃないかなお言ってるんだが。

>古墳時代に渡来した集団が支配階級であった確率が高い云うことじゃ

大雑把な言い方ばかりしてないで、具体的に何族だと思うのかな?
江上さんの言うように扶余?
492日本@名無史さん:2007/01/13(土) 14:49:22
>>489
>万世一系は切れないよ。
>神武(と比定されてる人物)の男系遺伝子保持者なんて、
>それこそゴロゴロいただろうから。

ゴロゴロいる傍系でも万世一系なのか。すると、現在において源氏の血筋
であることが確かな人はゴロゴロいるが、その人達が天皇になればそれも
万世一系なのか。それなら雅子妃が悩むこともないな。

仲哀実在説/応神直系説をあきらめて今度は傍系説を唱えているわけだが、
もちろん応神が神武の傍系子孫だという「証拠」があるわけではあるまい。

それと、日本書紀を作らせた王朝は、なぜ応神が傍系であることを隠蔽して、
架空の人物までこしらえて直系であるように装ったのか?
そんなことをするより、応神の子孫であるその王朝は、応神以前の「大した
ことない」歴史を捨てて、応神を始祖とする歴史を堂々と書けば良いでは
ないか。
493日本@名無史さん:2007/01/13(土) 18:44:19
>>492
男系遺伝子の話しだが、
源氏の血筋の人が天皇になる以前に、
皇室離脱者の中にも沢山いるだろうからね。
そんな事心配しなくてもいいだろうよ。

で、応神であろうが継体であろうが、
当然、男系遺伝子保持者(万世一系)であるという安心感から、
記紀は書かれたんだろう。
多少の時代的ズレはあってもいいじゃないか。
大目に見れや、な。
494日本@名無史さん:2007/01/13(土) 19:59:03
>>493
>当然、男系遺伝子保持者(万世一系)であるという安心感から、
>記紀は書かれたんだろう。

ごまかすな。
仲哀が架空であれば、その子応神は直系としては切れているにも拘わらず 、
応神が男系遺伝子保持者だと言うのなら、それは傍系だと言うことだ。
傍系であるものを直系であるかのように粉飾して書いたのはなぜか、
という話をしているのだ。
495日本@名無史さん:2007/01/13(土) 20:47:17
>>494
君は何故だと思うんだ?
496日本@名無史さん:2007/01/13(土) 21:04:16
>>494
>傍系であるものを直系であるかのように粉飾して書いたのはなぜか、

武力による皇位だからね。

497日本@名無史さん:2007/01/13(土) 21:50:38
wikiより。

父は先帝仲哀天皇で、母は神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とされるが、
異説も多い。その理由は異常に出産が遅れたことにある。
父として考えられるのは「是に皇后、大神と密事あり」(住吉大社神代紀」)とある住吉大神や
武内宿禰(安本美典)とする考えもあるが、
近年、「魏略」にある『倍年説』を基に歴史を再計算しその結果だと、
仲哀天皇の皇子で間違いないと思われる。
実際、古事記では応神天皇の出生には疑問を持っていないが、
西暦8世紀の日本書紀の編纂者たちは、
応神天皇時代の二倍年暦を知らずか、応神天皇の出生に疑問を抱き、
神功皇后が出産を遅らせたというふうに書き足したと思われる。
498日本@名無史さん:2007/01/13(土) 22:17:29
そもそも、馬の「うま」という読みは大和言葉なんですか?
大和言葉だけで、大陸の遊牧の風景を表現できるの?
499日本@名無史さん:2007/01/13(土) 23:17:57
んなもん4Cに騎馬民族なんか来てたら、なんらかの伝承が
わんさか残ってしまうし、そもそも命の次に大切な羊が
伝わってしまうだろ。

何で6C末ごろにもなって百済から羊2匹を贈与されてるんだよw

あほかw
500日本@名無史さん:2007/01/14(日) 00:30:41
>499
あほか、じゃなくてあほなんですw
501日本@名無史さん:2007/01/14(日) 00:34:50
>>490
あのね、新羅のことなんか俺は訊いてないの。
井の中の蛙がどうのといつまでもノラクラはぐらかしてないで、
訊かれていることに具体的かつ明確に答えてよ。
もう1度書くからね。
>>474のあんたのレスに則っての質問。
それが事実だと仮定して、
この日本において、征服者がわざわざ出自を隠したり偽ったりする必要がどうして生じたの?
そして、その詐称や偽称はなんで他の事例のように明確ではないの?
さあ、これについてのはっきりした説明をお願い。
502日本@名無史さん:2007/01/14(日) 00:44:37
羊は気候のせいなのか、
日本には根付かなかったらしいね。
503日本@名無史さん:2007/01/14(日) 01:17:24
今の世では傍系に移すことには異論も多い。
それ以前は傍系でもやむなしで、
実際、今の天皇家は傍系の出だ。
傍系天皇の次なのに
傍系に批判の声が出ているわけだ。
社会の意識の変化というものがある。
記紀を編纂した頃は、傍系には疑義が多くあったんだろ。
だから直系に偽装しただけのことではないのか?

504日本@名無史さん:2007/01/14(日) 10:52:27
日本には去勢というものはあったの?
505日本@名無史さん:2007/01/14(日) 19:43:32
>>496
>武力による皇位だからね。

なるほど。武力によって皇位を得た者については直系であるかのように
粉飾するのか。 それならその原則は征服者にもあてはまるな。

>>499 >>499
扶余って、羊を連れた遊牧民なの?

>>503
>記紀を編纂した頃は、傍系には疑義が多くあったんだろ。
>だから直系に偽装しただけのことではないのか?

それはおかしい。 応神よりはるかに時代が新しい継体については直系に
偽装していないではないか。
506日本@名無史さん:2007/01/14(日) 19:55:45
>>501
>この日本において、征服者がわざわざ出自を隠したり偽ったりする必要がどうして生じたの?

征服者の問題ではない。あくまで紀記の編纂者の問題だ。これを間違えないように。
それから、動乱の多かった古代において万世一系の保証がないのと同様に、
紀記の編纂者が依然として征服者の後裔であるという保証もない。
だから私は「倭の五王は扶余であった」という言い方しかしないのだ。

>>504
>日本には去勢というものはあったの?

もし去勢の技術が朝鮮半島まで来ていたのなら、その技術が日本に入った
ことは確実だ。なぜなら長野県などの遺跡から、養馬技術者集団が半島から
移入したことが分かるからだ。
だから、後世において日本に去勢がないのなら、それは二次的に消滅したか、
それとももともと朝鮮半島にも去勢がなかったか、どちらかだ。
507日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:05:01
天皇記と国記が燃やされたのは残念だ。
半島南部が日本領であったことが記されていただろうに。


■-百済は日本人が建国した-■

 『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と呼んで
区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の支援を受けて、
日本領=任那の北部地域(漢城とその周辺)に建てた自治領である。
 前年の314年に、高句麗の侵攻によって帯方郡を滅ぼされた旧帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が
第一次百済である。 これに対して第二次百済は、西暦475年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、
倭人の文周王が、大和朝廷の支援の下で西暦475年に任那領の熊津に建国した国であり、完全な倭人国家である。
この時代から、『百済』の読み方が「コマ」から「クタラ」に変わったようである。しかし、漢城地方は『狛』と書いて
「コマ」と呼ぶようになった。
 第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たちであったのに対し、
第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も多かった。
 第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。512年には、大和朝廷が任那四県と百済(クタラ)の
合併を決定した。これにより、旧百済地方(漢城地方)と任那東部地方は政治的・軍事的に一体化した。
 第一次百済は、伯済国(コマ)、乾馬国、古満国、古末国とも呼ばれていた。いずれも「コマ」と読む。これは帯方郡が、
古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
 百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。朝鮮人は半島北部に住んでいた
ワイ人であり、百済人ではないのだ。朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。
508日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:09:14
>>506

497の、
>近年、「魏略」にある『倍年説』を基に歴史を再計算しその結果だと、
>仲哀天皇の皇子で間違いないと思われる。
>実際、古事記では応神天皇の出生には疑問を持っていないが、
>西暦8世紀の日本書紀の編纂者たちは、
>応神天皇時代の二倍年暦を知らずか、応神天皇の出生に疑問を抱き、
>神功皇后が出産を遅らせたというふうに書き足したと思われる。

については?
509日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:27:15
>だから私は「倭の五王は扶余であった」という言い方しかしないのだ。

倭の五王の時代、
河内平野において支配者集団としての扶余が存在したという事だね?
だから集団としての扶余が住んだ痕跡を、あなたに聞いてたはずだが。
たとえば地名とかでいいのだが。
510日本@名無史さん:2007/01/14(日) 20:41:42
■志羅紀の地理的位置■
 『後漢書』の馬韓については「その北は楽浪と南は倭と接し、辰韓の東にあり」と記している。
また弁韓についても、「辰韓の南に(弁韓は)あり、その南また倭と接す」とある。
『三国志』も同じく、「馬韓は南で倭と接す」とある。
さらに「弁辰は十二国のうち、讀盧(どくろ)国は倭と界を接す」とある。


「辰韓の南に弁韓あり、その南また倭と接す」
これは興味深い記録である。

・辰韓は北にある。
・弁韓は辰韓の南にある。
・弁韓の南に倭がある。

この記録は、稲飯命が建国した志羅紀(シラキ)の位置を語っているのである。

辰韓=ワイ人の国(後の新羅)。3世紀に南下して志羅紀を侵略する。
弁韓=倭人の国。神武天皇の皇兄=稲飯命が建国。天日矛命の国。
 倭=弁韓(志羅紀)の南方にある倭人国・ヤマト。日本国。

こういうことだ。
やはり、志羅紀と新羅は別の国だったのである。シラキの王子=天日矛命が倭人であることが
証明された。
天日矛命の子孫が神功皇后である。神功皇后の新羅征伐は、ワイ族(朝鮮人)に侵略された
先祖の祖国=志羅紀(シラキ=弁韓)を解放するための聖戦だったことが明らかになった。
511日本@名無史さん:2007/01/14(日) 22:05:31
>>505
しかし継体には異論が多かったとなってる。
それならば応神にも抵抗の声があって当然ではないか?
なぜなら「征服者」なんだから。
応神はすんなり天皇になり、継体はなれなかった。
それは単に記紀において
両者の史上における重要性が全く違ったためだろう。
512白馬青牛:2007/01/14(日) 23:00:50
>>491
勾玉自体が玦状耳飾に起源があり紅山文化の影響があろう。
新羅の黄金文化と違い、扶余系じゃ思う。
>>501
ほいじゃが、井の中の蛙に違いあるまい。列島の王朝が出自を隠そうと
隠すまいと大した問題じゃない。支配階層が北方渡来系であり、
彼らが日本列島で多数派となった云うことじゃ。
>>505
扶余は、羊を飼育しとらんね。大興安嶺のモンゴルの祖である室韋も
羊は少なかった。モンゴル東部のホロンバイルの遺跡でも牛・馬飼育が
中心で羊飼育は稀じゃろうね。
>>506
4、5世紀去勢の技術が満洲まで到達しとったと断定出来んじゃろうね。
『魏書』蠕蠕伝に、蠕蠕が去勢牛の性質を知るに疎かった事が出とるが、
現在も、去勢の年代伝播の時期も確立しとらん状況じゃし。
513日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:24:41
まぁなんだ。
沖縄まで北方系という事なんで、
天皇であろうが何であろうが北方系なんでしょね、
あ〜こりゃこりゃ。

ところで、日本語とタミル語との驚くべき類似はどう説明するんだろ…
北方系が圧倒したのなら、こんなに似てないばずだが。
514日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:30:02
>>512・白痴青牛
>勾玉自体が玦状耳飾に起源があり紅山文化の影響があろう。

そればっか言ってるけどね。
勾玉に宗教的意味合いがあったというレスへの反論なのか?
何なのだ、さっぱり意味分からない。
反論にも何にもなってない。
あなたは何でいつも論点をスライドさせるのだ?
515日本@名無史さん:2007/01/15(月) 01:08:24
>>512
>列島の王朝が出自を隠そうと
隠すまいと大した問題じゃない。支配階層が北方渡来系であり、
彼らが日本列島で多数派となった云うことじゃ。

↑なんだこれ。何の説明になってない。
こんな思い込みだけのレス書いてて恥ずかしくないのか?

とりあえずあんたには具体的な説明など何もできないってことだけはわかった。
516日本@名無史さん:2007/01/15(月) 01:10:28
>>512
ちゃんと答えられないなら黙って引っ込んでりゃいいのに、
見苦しくしゃしゃり出てきては何度も恥の上塗り。
まさに白痴青牛の糞コテが相応しい、学問的な誠実さの欠片も無いクズだねおまえ。
517日本@名無史さん:2007/01/15(月) 01:22:40
>>506
おっと、こっちにもいたか。

>征服者の問題ではない。あくまで紀記の編纂者の問題だ。これを間違えないように。

間違えないようにってえらそうに言われても、
俺は白痴青牛とかいう奴にレスしたんであって、
そいつの書いた>>474を前提にしてああ書いただけなんだが。
まぁついでなんで、あんたにも訊いとくよ。
じゃ、あんたの言う記紀の編纂者とやらは、なんでそんなことをやったの?
その理由と動機について、すっきり解説よろしく。
518白馬青牛:2007/01/15(月) 23:31:38
>>513-514
大野晋氏のタミール語説か。日本人とタミール語を話す南インド住民との
人類学的共通性はあるんか?言語妄想、文献妄想のカルト宗教解釈にゃあ
飽きたよ。勾玉に宗教的意味合い?そりゃあ何処の宗派なら?
宗教的意味合い等、発掘者の主観か後世からの独善解釈に過ぎん。
>>515-516
思い込みで云うとるんはあんたじゃ。人類学的に日本列島住民は渡来系が
多数を占めたんはリアリズムじゃ。現実を認めんカルト信者が言語、文献
妄想を展開しとるだけじゃ。学問的誠実さ?たァなんなら。
そりゃあ、あんたの感情論じゃろう。
519日本@名無史さん:2007/01/16(火) 00:10:34
>>518
思い込みで云うとるんはあんたじゃ。
520日本@名無史さん:2007/01/16(火) 00:47:00
>>518
>人類学的に日本列島住民は渡来系が
多数を占めたんはリアリズムじゃ。


だったらそれにふさわしいだけの馬の数がいないと不自然じゃないか?
521日本@名無史さん:2007/01/16(火) 00:53:17
馬の生産に不適格な近畿地方に住む理由がないべ。
522日本@名無史さん:2007/01/16(火) 07:51:21
>>518
大野晋さんの説は言語学からみての純粋なものなのですよ。

あなたが固執する形質人類学こそ、
例えばどんな栄養をどれだけ摂取したら、
人骨にどんな変化が現れるかなんてまで行き着いてないよ。

違う民族同士でも摂取する栄養が同じであれば、
人骨も同じになってくる可能性あるからね。
523日本@名無史さん:2007/01/16(火) 19:59:32
>>518
だめだこりゃw
聞かれたことには一切答えず、ただ論点をズラしていくだけ。
相手をするだけ時間の無駄だわ。
524日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:35:58
今頃気付いたのか
そいつは有名な糞コテだぞ。あぼーんしとけ
525日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:47:03
>>511
意味不明だがとりあえず:
>応神はすんなり天皇になり、継体はなれなかった。

応神がすんなり天皇になれたと言うのは記紀を読んでいないとしか
思えない。

>両者の史上における重要性が全く違ったためだろう。

応神が継体と全く違って重要だったという意味か?
それとも反対に継体が重要だったという意味か?

>>513
>日本語とタミル語との驚くべき類似はどう説明するんだろ

タミル語説は大野晋の驚くべき素人だましインチキ説だ。
季刊「邪馬台国」10号で、辛島昇、徳永宗雄、安本美典、村山七郎らが
完膚無きまでに批判している。読んでみるといいよ。

ただし私は日本人の南方要素を否定するものではない。米作、高床建築、
千木、鰹木、鳥居、注連縄、歌垣、妻問い婚、納豆、・・これらのワンセット
の文化と中国南部の少数民族との関係は決して無視できないからだ。
526日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:49:40
>>517
>間違えないようにってえらそうに言われても、

征服者が出自を隠したと言うが、記紀がそのように書いていると言う意味なら、
隠したのは記紀の編纂者であって征服者ではない。そこのところを君はいつも
「間違えて」いるのだ。

>その理由と動機について、すっきり解説よろしく。

カラ国記に扶余のフの字もないのは、カラ国記の編纂者が扶余ではないからだ、
と言ったのは君自身だ。
それならば、動乱の300年を経た後において記紀の編纂を命じた者が依然として
扶余であるとは限らない、
と私が言ったことで納得できるのではないか?
527日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:57:42
■志羅紀の地理的位置■
 『後漢書』の馬韓については「その北は楽浪と南は倭と接し、辰韓の東にあり」と記している。
また弁韓についても、「辰韓の南に(弁韓は)あり、その南また倭と接す」とある。
『三国志』も同じく、「馬韓は南で倭と接す」とある。
さらに「弁辰は十二国のうち、讀盧(どくろ)国は倭と界を接す」とある。


「辰韓の南に弁韓あり、その南また倭と接す」
これは興味深い記録である。

・辰韓は北にある。
・弁韓は辰韓の南にある。
・弁韓の南に倭がある。

この記録は、稲飯命が建国した志羅紀(シラキ)の位置を語っているのである。

辰韓=ワイ人の国(後の新羅)。3世紀に南下して志羅紀を侵略する。
弁韓=倭人の国。神武天皇の皇兄=稲飯命が建国。天日矛命の国。
 倭=弁韓(志羅紀)の南方にある倭人国・ヤマト。日本国。

こういうことだ。
やはり、志羅紀と新羅は別の国だったのである。シラキの王子=天日矛命が倭人であることが
証明された。
天日矛命の子孫が神功皇后である。神功皇后の新羅征伐は、ワイ族(朝鮮人)に侵略された
先祖の祖国=志羅紀(シラキ=弁韓)を解放するための聖戦だったことが明らかになった。
528日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:58:46
■中国の古代史書に記された三韓の正式国号(日本名)■
馬韓→ 任那
弁韓→ 志羅紀
辰韓→ 志羅紀北部

 上記の『志羅紀の地理的位置』の文を読めば明らかなことだが、辰韓・弁韓・倭の三国は、南北の縦のライン上に
並んでいる。そして、後漢書の記録によれば、「馬韓は西側にあり、辰韓と弁韓は東側にある」と記録されているから、
辰韓と弁韓の位置は、カラ半島の東南部ということになる。この場所は、まさに志羅紀があった位置である。
 『後漢書』の記録は、3〜4世紀の志羅紀が南北(弁韓と辰韓)に分裂していた事実を示している。
 ここで、神功皇后と応神天皇の新羅征伐について考えてみよう。神功皇后の母方の先祖は志羅紀の王子=天日矛命である。
志羅紀は、神武天皇の皇兄=稲飯命が建国した国であり、古くから倭人が住んでいた。漢人はこの志羅紀の国を『弁韓』と
呼んでいた。その志羅紀が南北に分裂していたらしいのだ。そして、志羅紀北部は漢人からは『辰韓』と呼ばれていた。
 また、高句麗の広開土王碑には次のような記録がある。
「百済と新羅は、もともとは高句麗の属民だった。この2国は高句麗に朝貢しに来ていた。
しかるに、辛卯年 (391年) より海を越えて倭人が来た。永楽5年 (395年)、好太王は百済と□□と新羅を破り、
高句麗の臣民とした」
 好太王碑には、新羅人から「倭人に新羅(辰韓)の首都を占領された」という報告を受けたという記録があります。
この事実から、辰韓を支配していたワイ族(朝鮮人の先祖)は、高句麗と手を組んでいたことが分かります。
つまり、志羅紀(弁韓)は同じ日本民族の国であるヤマトの支援を受けていたのに対し、志羅紀北部を占拠していたワイ族は、
北方の大国=高句麗の支援を受けながら、志羅紀への侵略を何度も繰り返していたわけです。
529日本@名無史さん:2007/01/16(火) 22:58:55
>>簒奪説氏

逆説的に聞くよ。
あなたの説が証明されるとしたら、
考古学的に何が出てきたら良いと思うのだ?
530白馬青牛:2007/01/17(水) 02:12:01
>>520-521
馬の数?内田吟風氏の遊牧騎馬民族北匈奴の平均家畜所有では一人当たり
馬0,5頭強、牛・羊2,5匹で現在のモンゴル遊牧民と比較すると
少なかったとされる。匈奴兵も全部が騎兵でなく、歩兵弓隊がおった。
遊牧地帯で無い、日本で馬に乗れるんは上層部の人達じゃろう。
満洲が騎馬より水軍文化の色合いが古代において強いことや日本の風土から
騎馬より水軍の役割が強かったろう。
>>522
言語学から見て純粋?何じゃ、そりゃ。まず言語学における純と不純の
違いを説明せえ。栄養の摂取で急激に堀の深い低顔が、のっぺりした高顔に
なった実例でもあるんか?移住先で短頭から長頭と変化する頭型の変化の
例はあっても、顔型が短期間で変化する例を知らん。形質人類学だけじゃ
のうてDNA、HLA遺伝子も無視し妄想に終始しとるわい。
>>523
駄目じゃこりゃあ。云いたいんはわしの方じゃ。
>>524
ほいじゃあ、わりゃあ名無史の糞か。
531日本@名無史さん:2007/01/17(水) 02:16:10
>>526
>カラ国記に扶余のフの字もないのは、カラ国記の編纂者が扶余ではないからだ、
と言ったのは君自身だ。

やれやれ。誰と勘違いしているのやら。
反論してくる相手はみんな同じだとでも思っているのかね?
つーか、俺の場合、反論すらしていないんだけどな。
単に疑問に感じた部分について説明よろしくって言ってるだけだ。
前に遡るのも面倒だから、もう一度単刀直入に訊くよ。

>記紀がそのように書いていると言う意味なら、
隠したのは記紀の編纂者であって征服者ではない。

紀記の編纂者が一体何のために、誰を相手に、何を隠すというのだい?
そうすることによって、何が守られて、どんな利益があるんだい?
すっきりと解説よろしく。
532ネオ騎馬民族説:2007/01/17(水) 04:39:41
高句麗と対抗する扶余は、崇神が任那に拠を構え、北部九州に侵攻。
そのため、大和は、邪馬台国以来の半島経由大陸ルートを喪失し、中国への使者派遣は不可能に。
扶余系連合国は、任那の鉄資源の直接輸入が必要となった大和と交易するようになる。
扶余は応神時代に中国地方を回避して海上ルートで河内に侵攻して王朝を形成。
しかし騎馬戦術が通用しにくい内陸盆地の大和への侵攻は困難だった。
続いて大和と半島を繋ぐ交通の要衝である吉備も屈服させた。
勢力を増して、高句麗と大規模の交戦を企てる一方、扶余河内を警戒する大和とも対立。
半島情勢が緊迫する状況で、中国との連係を模索する外交を試みた結果が、
いわゆる倭の上表文である。
しかし思うように半島での苦戦を打開できず、高句麗に半島から駆逐されかねない情勢となった。
そのため扶余は外交革命と言うべき大和との連合を模索した。
その結果として生まれた扶倭連合王国の初代国王は扶余系大王・蘇我馬子だった。
そのお披露目も兼ねて、高句麗と対抗する中国へ使者が派遣されたが、
これが隋書倭国伝に記録されたところである。
当時の倭国王は女帝の推古天皇とされたが、記録には「多利思比孤」と言う名の男王である。
これは、本当の国王・蘇我馬子を指しているためである。
蘇我氏が自らを大王と称し、一族の邸宅を「上の宮門」「谷の宮門」と呼び、
「国記」「天皇記」を史書として残していたとされることからもそれは明らかである。
藤ノ木古墳などは蘇我稲目の墓である。以下、キトラ古墳、高松塚なども蘇我氏系であろう。
蘇我一族は、扶余系一族として、百済で普及してる外来仏教の普及にも努めたが、
こうした宗教文化上の対立もあり、倭人系豪族の激しい反発を招き、
倭人系・天智天皇がかつがれて、大化の改新という宮廷クーデターにより滅ぼされることとなった。
ここに、扶余王朝は、遂に倭人豪族によって簒奪される羽目となった。
533532:2007/01/17(水) 04:41:32
今日の天皇家の直接の祖先は天武(及び天智系の血統の)天皇であり、
彼に都合よく歴史(記紀)が記載されることとなったことは改めて言うまでもない。
魏志倭人伝や隋書倭国伝など中国の歴史書、そして蘇我氏の国記・天皇記や、
天智天皇系の帝紀など、あらゆる歴史書を矛盾なくつなぎ合わせようと図った結果、
邪馬台国・卑弥呼は天照大神となり、
自らの系図を、そこから続く一系の系譜であると天武天皇は主張したのである。
一方、歴史を粉飾する際には、その中での蘇我氏の業績は無視するにはあまりに巨大であり、
そこで蘇我氏を悪人と描く一方、その優れた業績は別人格に分離した架空の人物・聖徳太子に
仮託し、聖徳太子という存在を合理化する目的で、推古天皇を仮の“女帝”だと偽装して、
「摂政」を捏造したわけである。。女帝が初めて“誕生”したのはそのような事情からである。
また国記・天皇記に記された、応神天皇など、河内王朝の存在は、
その巨大古墳が存することからも無視し去ることは困難で、
やむなく扶余河内王朝も強引に飲み込んだが、さすがに吉備の大古墳はほぼ無視するより他なかった。
こうした結果として、記紀には、高句麗王伝説などの扶余系神話に類似するエピソードや修辞など
が含まれることとなったが、これは扶余系蘇我氏の国記・天皇記の影響である。
扶余族の任那から九州、河内への東遷の歴史は、
時系列上の都合から、邪馬台国(高天原)と大和とをつなぐ神話時代の記録として
切り離され、神武神話になったものと思われる。
いわゆる神武以前にニギハヤヒという天孫が何故か既に存在していたが、
これは壬申の乱で大友皇子と天武天皇が対立したことを描いたものであり、
天武が勝利して飛鳥浄御原宮で即位するまでの経緯は、
神武がナガスネヒコを降し橿原宮で即位するまでに相当しており、
ニギハヤが天智、ナガスネヒコが大友皇子にあたると考えられる。
すなわち、神武の神話は、崇神から応神、天智から天武に至るまでの歴史を
神話風に叙述したものと見ることが出来よう。
534日本@名無史さん:2007/01/17(水) 06:52:03
>>532
>扶余は応神時代に中国地方を回避して海上ルートで河内に侵攻して王朝を形成。

その最初の前提が崩れたら、後はみな崩れる。
535日本@名無史さん:2007/01/17(水) 09:05:07
>>531
>紀記の編纂者が一体何のために、誰を相手に、何を隠すというのだい?
>そうすることによって、何が守られて、どんな利益があるんだい?

私は「ネオ騎馬民族説」氏ではないが、上記の疑問に対する答は#532, #533 の
なかに含まれている。
私は、細かいところは別として、おおすじにおいてこの説に賛成である。
536日本@名無史さん:2007/01/17(水) 09:36:49
>>532
応神、仁徳、履中が百済王家みたいに「余」姓を名乗ってたってわけか…
扶余系大王・蘇我馬子と言う事だが、何故「蘇我」姓になったのだろう?
537日本@名無史さん:2007/01/17(水) 10:13:26
>>518 白痴
>勾玉に宗教的意味合い?そりゃあ何処の宗派なら?
>宗教的意味合い等、発掘者の主観か後世からの独善解釈に過ぎん。

もし宗教的意味がないなら、
縄文から弥生、古墳時代まで続く中で、
もっと作りやすい形に形状変化もおきてただろう。

それがないのは何かしらの「意味」があったから。
ましてや三種の神器になってるんだからね。

538日本@名無史さん:2007/01/17(水) 11:39:41
久しぶりに来たが、盛り上がってるな・・・
とりあえず、去年のヤツの反論をしようか。
>>364

>すでに古今東西の騎馬民族を「同列に論じ」ているではないか

物事には普遍的なものと固有のものがあることがまだわからんか?

>支配民族である満洲族は全員が軍事制度である「八旗」に属したか?

全員とは言い切れないだろうな。
「多くは」属しただろうが

>「そのままの騎馬民族」とは例えばどんな民族か?

農耕文化の発達が不十分であり、主に牧畜によって生計を立てている
ウルスによって成り立つ遊牧民的騎馬民族だ
539月光仮面:2007/01/17(水) 13:15:34
>>536
>応神、仁徳、履中が百済王家みたいに「余」姓を名乗ってたってわけか…
>扶余系大王・蘇我馬子と言う事だが、何故「蘇我」姓になったのだろう?
仮説
1)高句麗の農務相・ソガ(牛加)と言うのは牛頭天王とか、神農に似て頭に
角をもつ。
2)出雲大社の裏の古い岩に起源を持つ素鵞(ソガ)社、全国の素鵞神社に
ある素鵞は白鳥と見るのが自然だ。一方、アルタイ・Kumandin族は白鳥族
の意味であるが、御柱のような4本の柱で太陽に向けて馬の四足を縛り、背中
に杭を打ち、「クルイ・クルイ」と言う呪文を唱え、噴出する鮮血を陽光に捧げる。
生剥ぎにした頭付きの毛皮は冠婚葬祭に使用する。これはスサノオが天照に
贈呈し、逆恨みをされたものだ。ナマハゲ、馬頭春狛、白鳥等は主として四隅
突出古墳と箱式石棺墓と共に沖縄・九州・日本海沿岸・東北に分布し、欧州
ではハンガリーのクマン族、スイスのナマハゲ、ポーランドクラコフのタタール・
レイコーニク祭り等に多分フン族が導入したものと見られる。日本においても
kum*及びkom*という要素を持つ地名、神社名などは非常に多いが、何らかの
形でKumandinの結びつくようだ。久万高原近くの大月神社のはだか祭り等も
その月型、舟形の巨石を初めとし全国に類例の多いものである。
3)従って飛鳥川流域に陣取った蘇我というのは、もし、百済方面からの新参
渡来人であるとすれば、それは百済には相当早くから南下し古くから倭国とも
関係のあった有力なアルタイ系騎馬民族で、フン族の主力な部分をなすもので
あったのであろう。
540日本@名無史さん:2007/01/17(水) 13:27:26
蘇我=ソグド人ってのはどうよ。
541日本@名無史さん:2007/01/17(水) 13:31:51
>>538
>支配民族である満洲族は全員が軍事制度である「八旗」に属したか?
>全員とは言い切れないだろうな。 「多くは」属しただろうが

それが間違い。前にも言ったように八旗制度は軍事組織であると同時に
(支配民族の)戸籍制度でもあるのだ。
別の言い方をすれば八旗に属することが支配民族の資格なのだ。

>「そのままの騎馬民族」とは例えばどんな民族か?
>農耕文化の発達が不十分であり、主に牧畜によって生計を立てている
>ウルスによって成り立つ遊牧民的騎馬民族だ

では、「そのままの騎馬民族」である扶余は主に牧畜によって生計を
立てている遊牧民族、ということでいいか?

ついでに、その前から答がない質問で、
3世紀の扶余本国の扶余は、定住せず、吉野ケ里レベルの「都市」を形成せず、
王を戴かず、生産力が低かった、ということでいいか?
542月光仮面:2007/01/17(水) 13:37:34
ソグド人は行動範囲が秦氏の領域に入る、つまり、シルクロード関連と見られるが
秦氏は月氏/トカラ、羌族もあり、ソグド人とか、ジプシー等も入ってくるかもしれない
が、もうこうなると人種的、形質的には多国籍民族ということになろうか。
543日本@名無史さん:2007/01/17(水) 13:43:41
>>539
蘇我が「牛加」というのは面白い。
扶余にも動物名を冠する六つの「加」があったと、東夷伝扶余条にある。
544月光仮面:2007/01/17(水) 13:55:00
>>539
孝霊の御宇、出雲日御碕神社伝承では月支王ヒコハニの襲撃を受けたが、天が味方し
雹が降ってきたのか上陸には失敗したようである。この月支王の野望と言うのが
神功の三韓征伐時代の国際情勢を背景にその後の蘇我氏の台頭という形で実現する
こととなったのではないかと考える。
545日本@名無史さん:2007/01/17(水) 14:01:38
>>532
そうすると河内王朝を切り開いた扶余集団は、
大化の改新後、被差別的立場に追いやられたというわけだね。
なるほど彼らは川筋に住む皮革の民だし、ぴったり合致するよな。
546日本@名無史さん:2007/01/17(水) 18:44:52
>>533
記紀で、仁徳天皇あたりが善政として書かれてる事はどうなのさ?
547日本@名無史さん:2007/01/18(木) 05:02:33
いやー、このスレおもしろいわ。
歴史学というよりは一昔前の雑誌ムーみたいなノリがたまらんw
548日本@名無史さん:2007/01/18(木) 05:13:38
仮に蘇我氏の出自が扶余ならば、氏族名を「(扶)余」から倭風に改めるのは当然だろう。
例えば北魏の鮮卑族も孝文帝時代に中国風の姓に替えてしまってるし、
まして扶余が大和入りした当初の時点では、あくまで大和における数ある有力氏族の一つにすぎず、
“征服者”として君臨してたわけではないからね。のし上がったのは、百済との間の扶余ルートで、
大陸の文物の輸入を可能にし、、他の諸氏族への比較優位を確立していった結果でのことだからね。

「牛加」を検索してて見つけたサイトだけど、

(1)北方系 -ka(夫余→高句麗) あるいは-a (百済→任那?)
魏志 夫余伝(プヨというのは旧満州地方にあった国の名前)によると,
「国の君王は,家畜を官名としており,馬加,牛加,猪加,犬加がある。」
とあります。夫余国には,王族の尊称語尾、「加 (ka)」がありました。
夫余の一族が南下して高句麗が建国されたのですが、「魏志 高句麗伝」によれば、
王族の尊称語尾が、「相加」「古雛加」というように、やはり「加 (ka)」であったことが分かります。
ttp://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/mori3.html

まず、扶余系諸族の元である「扶余」は、本来、ツングース語の「鹿」を意味する語彙であった
と考えられる「ブヨ」buyoの「音」を写したものと考えられ、「扶余族」とは「鹿族」を意味したと
考えられることは、白鳥庫吉氏や、村山七郎氏らの論考にある如く明らかです。
また、「扶余」は「六畜」の名を以って「官名」を定めたとされ、「東明始祖伝説」を王家や建国
の伝承として持っています。「六畜」の名を付した官名としては、「馬加」「牛加」「狗加」
「猪(実際は異体字)加」があり、
ttp://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/17.htm

高句麗は全国を五部族で治めていました。
(略
王の下には五加の大臣がいました。猪加(トッカ)、ケガ(狗加)、シンカ(犬加・犬使)、
ソガ(牛加)、マルカ(馬加)と称していました。
ttp://www.hpmix.com/home/oimak/E17.htm
549日本@名無史さん:2007/01/18(木) 05:15:17
こちらにも「牛加」の役職名が出てるけど、興味深いのは「依羅(イリ)」という扶余王の名。
「イリ」と言えば、崇神天皇の諡号がミマキイリヒコで、以降、イリヒコ・イリヒメ名が続いて
「イリ王朝」と言われるほど重要な名だ。その起源が扶余にあるのではと考えさせられる。
「ミマキ(御眞木)」は任那から来てるとの説と併せると意味深ではある。

扶余伝
ttp://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-fuyo-.htm
>翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を龕に派遣し、
550日本@名無史さん:2007/01/18(木) 07:30:36
>>548では
有力氏族の一つにすぎないので倭風に改めるのは当然と言いながら、
>>549では
崇神「天皇」の諡号の話をしている。

矛盾。
551日本@名無史さん:2007/01/18(木) 07:57:53
>>548
倭風に改めるのは当然と言いながら、
扶余の「牛加(ソガ)」の話しをしてる。

倭風に改まった姓が蘇我なのか、
牛加がそのまま蘇我になったのか、
どうなんだ?
552日本@名無史さん:2007/01/18(木) 18:09:21
「余」か他の扶余系姓を倭風にした結果が、
「牛加」に別の当て字した「蘇我」だということでは?
553日本@名無史さん:2007/01/18(木) 18:50:02
官名を姓にする、この不思議…
554日本@名無史さん:2007/01/18(木) 20:15:42
>>538 は自分で言ったことを確認されると黙り込んでしまうが、このままでは
扶余について間違った概念が残ってしまうので、魏書東夷伝扶余条を原文を
挙げておこう。

夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與yup[扁手旁邑]婁、西與鮮卑接、
北有弱水、方可二千里。戸八萬、其民土著、有宮室、倉庫、牢獄。多山陵、廣澤、
於東夷之域最平敞。土地宜五穀、不生五果。其人so[冠鹿脚鹿鹿]大、性彊勇謹厚、
不寇鈔。國有君王、皆以六畜名官、有馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、
使者。邑落有豪民、名下戸皆爲奴僕。諸加別主四出、道大者主數千家、小者數百
家。食飲皆俎豆、會同、拜爵、洗爵、揖讓升降。以殷正月祭天、國中大會、連日
飲食歌舞。名曰迎鼓、於是時斷刑獄、解囚徒。在國衣尚白、白布大袂、袍、袴、
履革鞜。出國則尚[糸曽]繍錦kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]、大人加狐狸、[扁犬旁穴]
白、黒貂之裘、以金銀飾帽。譯人傳辭、皆跪、手據地竊語。用刑嚴急、殺人者死、
沒其家人爲奴婢。竊盜一責十二。男女淫、婦人to[女戸]、皆殺之。尤憎to[女戸]、
已殺、尸之國南山上、至腐爛。女家欲得、輸牛馬乃與之。兄死妻嫂、與匈奴同俗。
其國善養牲、出名馬、赤玉、貂[扁犬旁穴]、美珠。珠大者如酸棗。以弓矢刀矛爲兵、
家家自有鎧仗。國之耆老自説古之亡人。作城柵皆員、有似牢獄。行道晝夜無老幼
皆歌、通日聲不絶。有軍事亦祭天、殺牛觀蹄以占吉凶、蹄解者爲凶、合者爲吉。
有敵、諸加自戰、下戸倶擔糧飲食之。其死、夏月皆用冰。殺人殉葬、多者百數。
厚葬、有槨無棺。
555日本@名無史さん:2007/01/18(木) 20:43:36
■古代カラ半島の歴史研究◆日本と中国の資料が重要■
 3世紀から4世紀にかけてのカラ半島史には謎が多い。
 しかし、中国王朝の興亡の影響を受けて、カラ半島でも政治的動乱が続いていたことは、
さまざまな資料から分かる。
 あの時代のカラ半島の歴史を知るためには、次の資料を調べると良い。

・古事記と日本書紀
・後漢書
・三国志
・広開土王碑
・三国史記
 このうち最後の三国史記は、12世紀という中世の時代になってから書かれたものであり、
内容にも捏造や歪曲が多いが、他の4資料と比べながら読むことで、3〜4世紀のカラ半島の
政治情況を窺い知ることができる。

 神功皇后が、志羅紀にヤマト朝廷軍を派兵した363年頃から、志羅紀は任那日本府の管理下に
置かれたようである。つまり363年以降、志羅紀は任那を構成する国の一つとなったのだ。
志羅紀が『加羅』という別名で呼ばれるようになったのは、おそらく、この時代からであろう。
 任那はもちろん存在した。
 任那とは、中国の史書である『後漢書』や『三国志』で語られている馬韓のことである。
4世紀のカラ半島南部には、馬韓の他に、弁韓(志羅紀)と辰韓(辰国)が存在したが、この3国のうち最大の面積を
誇ったのが馬韓(任那)である。
 神功皇后が志羅紀に派兵した363年以降は、志羅紀も任那の一部となり、任那日本府の管理下に置かれた。
この時代から志羅紀は『加羅』という別名でも呼ばれるようになった。
 任那と志羅紀が合併したのは、314年から始まった高句麗と辰韓による侵略から志羅紀と任那を防衛する
ためである。北方の異民族勢力の脅威に対処するために韓地方の倭人勢力を政治的・軍事的に一体化する必要が
あったのである。
 任那は、西暦315年には旧帯方郡の漢城地方に進攻し、この地方を併合し支配した。伯済国(コマ)と名付けられた
漢城地方は任那を構成する一国となり、任那日本府の支配下に入った。つまり、363年以後、任那は志羅紀と百済(コマ)
を吸収し、カラ半島南部における最大国となったのである。
 そして、この任那を支配していたのがヤマト朝廷の政治・軍事機関である任那日本府である。
556日本@名無史さん:2007/01/18(木) 20:45:29
國には君主があり、官として六加その他があり、宮室、倉庫、牢獄、城柵があった。
すなわち、少なくとも吉野ケ里レベルの「都市」があったのである。
(「都市を作らず、王も戴かない」というのはウソである。)

その民は土着で、土地は五穀がよく実り、その他の産物としては名馬、貂皮、
宝石などがあった。
(「扶余は遊牧民で、生産力が低い」というのはウソである。)

人は粗大で、人性は彊勇かつ謹厚である。法律が厳しく、人を殺せば死刑で
家は取り潰し、家人は奴隷にされる。一を盗めば十二を返し、男女の不倫も
また死刑。

国内では白布の上着とズボンを着て、革靴を履いている。国外に出るときは
錦の服を着て黒貂の毛皮などを加え、金銀で帽子を飾る。

部落には豪民と下戸がいる。下戸は奴僕である。家々に鎧、武器があり、
敵が来れば諸加は自ら戦い、下戸は食糧を担送する。
(諸加が自ら戦うのであるから、貴族と戦士は分化していなかった。
中世ヨーロッパの騎士のようなものであろう。)
557日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:43:45
■任那日本府の謎

 任那日本府があった場所は安羅だと言われているが、
5世紀以降は熊津(公州市)に移動したのではないか。

475年に、百済の文周王が熊津(現・忠清南道=公州市)に首都を移したという記録がある。
熊津に任那日本府があったから、そこに都を移したのではないか?

 熊津の語源は『古末』だろうか? 古末と書いて「コマ」と読むのだが。
558日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:54:46
>>541
うれしいな。まだこのスレにいてくれたのか。

>別の言い方をすれば八旗に属することが支配民族の資格なのだ。

満州北部には中国文化にあまり感化されなかった
つまり、言い方は悪いが「野蛮な」満州族がいた。
彼らは八旗だったのか?
多分お前の言う満州族は「ヌルハチの統一した満州族」だろう

>では、「そのままの騎馬民族」である扶余は主に牧畜によって生計を
 立てている遊牧民族、ということでいいか
>ついでに、その前から答がない質問で、
 3世紀の扶余本国の扶余は、定住せず、吉野ケ里レベルの「都市」を形成せず、
 王を戴かず、生産力が低かった、ということでいいか?

そうだな。
扶余が中国人レベルの都市と生産レベルをもっていたなんて聞いたコトが
ないが

話がズレてきているが、扶余が日本を征服したといえる具体的「根拠」
はなんだ?
559日本@名無史さん:2007/01/18(木) 22:16:49
■任那日本府の謎

 任那日本府があった場所は安羅だと言われているが、
5世紀以降は熊津(公州市)に移動したのではないか。

475年に、百済の文周王が熊津(現・忠清南道=公州市)に首都を移したという記録がある。
熊津に任那日本府があったから、そこに都を移したのではないか?

 熊津の語源は『古末』だろうか? 古末と書いて「コマ」と読むのだが。


433年 百済、新羅と同盟。
     ↑↑
これも、本当に百済と新羅が同盟したのかどうか、怪しい。
百済が同盟したのは志羅紀(加羅=弁韓。倭人国)ではないか。
弁韓が馬韓(百済)を助けたのなら、まだ理解できるんだが・・・。
560日本@名無史さん:2007/01/19(金) 04:50:17
元々、倭国には専制的な支配者は存在しなかったと思われる。魏志倭人伝でも、邪馬台国を盟主とする
ゆるやかな共同体連合があって、その祭司者として卑弥呼がいただけだ。
そこから同笵鏡とか配って各地の共同体の首長とが非・支配被支配の盟約関係を結んでいた。
倭国の領域は大和から九州、対馬を経て、朝鮮半島南端まで広がっていたと思われる。
もともと絶対王権の存在しなかったところに、大陸的な専制支配体制を体現した扶余が侵攻してきたわけだ。
中国のような長い歴史のある文明ですら、その王朝の出自はほとんどが北方民族なんだから、
日本とて例外ではなく、本来、農耕民族には、そうした王権を形成する文化的背景が無かったのだろう。
王権は馬にまたがってやってきたのである。その扶余王朝ですら一系のものではなく、それぞれ別個に
日本列島に進出してきたものではないだろうか。ちょうど朝鮮半島が高句麗・百済・新羅に分立してるような
イメージだ。たとえばイリ王朝とかタラシ王朝とかワケ王朝という区分があるけれど、
崇神(イリ王朝)と応神(ワケ王朝)とは、そもそも別個の王朝で、
崇神が九州を陥落させ、それとは別に応神が河内に侵攻、ずっとのちに継体が大和へ潜入を試みて阻止された。
この場合、おそらく血統の断絶が、新たな扶余の進出をもたらしたとも考えられる。
だから、継体が応神の五世孫だというのは事実だとは言えず、実際には百済王家から見繕って
日本海ルートででも連れてこられたものにすぎないだろう。
騎馬民族と言えど、当時の拙いレベルの海上輸送では、敵前上陸を果たすほどの戦闘能力はなく、
九州に侵攻する時には、一旦出雲を押さえて、そこから北部九州という具合に段階を踏んでるのが、
天孫降臨神話の出雲と筑紫の順になってて、次が河内になってるのも、中国地方の制圧がそれほど容易では
なかったため、交通の便がよく、かつ軍事的真空地帯だった河内が選択されたのだろう。
だから地形上の理由から、大和には簡単に攻め入ることは不可能だったと考えられる。
561560:2007/01/19(金) 04:51:10
よって、騎馬王朝を作った時点でも、倭国王として中国に上表文を出してはいるが、
実際には一地方のおける王権でしかない。勝手に「倭国王」を名乗ってるだけで、
東には大和がれっきと存在している。いまだ倭国で広汎にその王位を容認されたわけでもない継体に対して、
日本生まれの百済王・武寧王がいち早く鏡を贈ってるが、これも扶余族内の馴れ合いみたいなものだ。
倭国全体で見るなら、大王なるものは、ちょうど日本の戦国時代をイメージしてみた場合に、
各地の大名に相当してるにすぎず、諸国が分立して存在してるわけだ。
そして継体の頃前後に、倭風に染めて、大和との本格的な国家連合を模索したものの、
当時の大和はある種の祭司集団としての合議体のような組織だったのだろう、
絶対的な王権は未だ存在せず(幹事役みたいなものはいただろうが)
その中の有力氏族の一つとして扶余も仲間入りするようになった。
その後、扶余百済との関係にもとづいての交易への便宜により、扶余族の蘇我氏が台頭し始めたと思われる。
だから蘇我氏が大王と称するようになったのは、必ずしも王権を奪取したのではなく、
もともとそこに存在しなかった絶対王権を、扶余族の文化体系の中から持ち込んで新たに創出したことによる。
そこに悲劇の源があった。もともと仲好しクラブだったものを、完璧な序列体制に再構築して、
その頂点に自分が立った時に、滅亡への導火線が敷かれたのである。そして仏教導入などの急進的な
改革が点火に至らせることになった。
これはちょうど戦国時代に天下統一を果たす間際まできた織田信長が本能寺の変で部下の明智光秀に事実上、
誅殺されたのに似ている。炎の中で自刃した最後は、入鹿が殺害され、蝦夷が火を放って自殺したのと瓜二つだ。
しかし扶余蘇我氏がもたらした変革は、倭国社会に不可逆的な文化的変質をもたらした。
その最たるものが王権であり、蘇我氏の権力体系を、その後独自に咀嚼して吸収した結果生まれたものが、
「天皇」という称号であって、それゆえ厳密な意味における日本の初代天皇は、記紀を編纂させた天武天皇だと
言える。「天」の文字がともについてる天智は、万世一系の血統を主張する上での便宜的な“初代”天皇だ。
562560:2007/01/19(金) 04:53:08
こうした文脈で王権の歴史を再検証すると、神話上の天皇は別として、
崇神から倭の五王などは勝手大王であって、地方権力者にすぎない。
蘇我氏は自称国王ではあるが、惜しいところまで行ったものの天皇にはなれてない。出が悪かったからだ。
戦国時代でたとえるなら、いわゆる大王は大名に相当し、国王は関白、天皇が征夷大将軍にあたると言える。
崇神やら倭の五王は諸大名で、蘇我氏は織田信長ないし秀吉、天智&大友皇子が明智光秀、
天武が徳川家康で、大化の改新が本能寺の変、壬申の乱が関ヶ原の戦いだと言えよう。
もともと大化の改新はその信憑性が疑われていたが、にもかかわらずそこまで大仰に記されてる以上、
易姓革命に匹敵するほどの大事件だったと思われ、そのため単なるクーデター以上の意味を持っている。
それは扶余王朝とその専制支配体制の成立を阻止して倭人王朝を創出させた大革命だったわけである。
その後、万世一系の思想を普及させて、王権の永続性を保証しようと、歴史書の編纂に乗り出したが、
その際には全く別系統だった、崇神を始祖とするイリ王朝や応神の河内王朝などを全部つなぎあわせて
一系の王朝に仕立て上げたわけだ。
邪馬台国以来の大和には古来から大王は存在してなかったし、記録すらなかったはずだ。
よって、そこには扶余族の大王の系図をそのままあてはめたのだと思われる。だから仁徳天皇が
善政だったか悪政だったかはまるで見知らぬことだし、実際のとこどうでもいいのである。
蘇我氏の天皇記・国記をそのまま使っただけだろう。
よって、天智から前の「天皇」は、実際には日本国天皇ではないものを、
後から勝手に歴史編纂の都合により認定されたすぎないわけで、当然、崇神も応神も「天皇」ではない。
また天孫降臨、神武神話などを年代を遡上させて盛り込んだ際には、当然、記紀編纂者である
天武天皇自らの業績も含めるだろうから、壬申の乱が神武とニギハヤヒの戦いになったのである。
高天原は天津神の住む場所だが、ある時は邪馬台国だし、別の時は朝鮮半島だ。
具体的な実態ではなく、地理的にかけ離れた場所を媒介してつなぎ、
そこから大いなる人物が降臨してくるという、抽象的な概念として創作されたものだと言える。
563日本@名無史さん:2007/01/19(金) 05:00:50
>>558
>別の言い方をすれば八旗に属することが支配民族の資格なのだ。

>多分お前の言う満州族は「ヌルハチの統一した満州族」だろう

その通りだ。ヌルハチが統一した、八旗に属する満洲族が「満洲」なのだ。
満洲北部にいた土民の満洲族は弁髪をして満洲語を話しても「満洲」ではない。
つまり「満洲」とは政治的民族であって、民族的民族ではない。
このことを私ははじめから「支配民族」という言葉で言っている。
満洲族の話は扶余との比較ではじまったのだからそれでよいのだ。

ではもういちど聞こう。ヌルハチの統一した「満洲」つまり支配民族としての
満洲族は、中国を征服した後の、例えば康煕帝の時代に、「支配民族皆兵」を
維持したか?

>3世紀の扶余本国の扶余は、定住せず、吉野ケ里レベルの「都市」を形成せず、
 王を戴かず、生産力が低かった、ということでいいか?

>扶余が中国人レベルの都市と生産レベルをもっていたなんて聞いたコトが ないが

私が魏書東夷伝扶余条を見せて解説したので、ハードルを「中国」に上げたか。
前は「吉野ヶ里」レベルがハードルだったのではないか?
いずれにしろ、「定住せず、王を戴かず、都市を形成せず、生産力の低い遊牧民」は
撤回するのだな?
564560:2007/01/19(金) 05:14:19
>>562 訂正

戦国時代でたとえるなら、いわゆる大王は大名に相当し、国王は関白、天皇が征夷大将軍にあたると言える。
>崇神やら倭の五王は諸大名で、蘇我氏は織田信長及び秀吉、天智が明智光秀及び秀吉、大友皇子が
秀吉、天武が徳川家康で、・・・


565日本@名無史さん:2007/01/19(金) 08:27:55
だいたい蘇我が渡来系かどうかさえ諸説あって分からないし、
ましてや扶余系とは…

壮大な仮説乙!
566日本@名無史さん:2007/01/19(金) 11:36:06
560氏にかかれば崇神、応神、継体、はては蘇我氏まで扶余なのか…
単純な疑問なんだが、
扶余が高句麗に対抗する力、
もっと言えば、好太王碑がある満州まで追いやる力があれば、
扶余は故郷の満州に帰ったとするのが人間学的に自然だと思うが。
誰だって父祖の地に帰りたいと願うはず。
にもかかわらず何故、海を渡って日本を支配したと飛躍するのだろう?
567月光仮面:2007/01/19(金) 13:41:15
松尾大社にかすかに残る鏑矢、冒頓単于の時代は秦/羌と白狄、秦-シルクロード系と
アルタイ系が新疆ウイグル地方で一緒になり、朝鮮半島、日本列島に向かったことをし
めすのだろう。それよりも何百年も前から到達、最初に殷から銅鐸文明、稲作を持った
弥生人、Y染色体遺伝子O-47zキャリヤーが、主として中部に、その後YAPを持った秦
羌と白狄、秦-シルクロード系とアルタイ系がが山陰から入ってくるのか。
記紀でちょっと顔をだす熊人、アルタイではクマンが白鳥、白鳥の人をクマンドとされる
が、クマンド、早口だとクマノ。白鳥は素鵞。うどん、スイトン、麦焦がし食文化、新潟、
川崎の陽根祭りはアルタイと共通。神社配置、本殿への渡りの強調の思想、千木も
古代にはあったし、檜皮に近いのもあった。石工、鍛冶の故郷であるアルタイ。一致して
いることをいちいちあげる方がおかしいほどである。
568月光仮面:2007/01/19(金) 13:44:46
ご参考まで:
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1139664363/128
>128 :月光仮面 :2007/01/19(金) 11:49:34 ID:HsVDJO+S
>>>127
>アルタイ・トゥーバ共和国とブリャートモンゴル共和国の考古学のレベル、権威には極
>めて高いものがありますが、それによると円墳と方墳の対立はモンゴリア高原の中部で
>発生しており、太陽祭祀のコーカソイドと天神地神祭壇祭祀のモンゴロイドがそれぞれ
>円墳、方墳の起源です。これはその後ケレクスルという円墳と鹿柱のセットとなります。
>ケレクスルの意味は
>ケレク-スルを乗せる荷役獣あるいは橋、つまりは、スルの(移動する)入れ物
>スル-儀式において祖先、太陽の属性を有する神聖なもの
>ちなみに鹿柱とは宇宙軸であり、平原、善光寺の前立本尊、鹿島神宮、春日大社の
>なまず、恐れ石、香椎宮・那智大社のナギ等のご神木で本殿と地中を通してつながる
>ものです。こうした意味で日本において完全な形で展開されるのは箸墓の前方後円墳
>であるとか、出雲大社であり、重要なのは本殿に上る階段、これが、天橋立崇拝の
>背後にあるようです。正月に放映されたエジプトのピラミッド内部にもこの出雲大社の
>ような構造があり、時代的に言ってエジプトに対する銅等の鉱物資源の供給地であった
>アルタイにエジプトから伝わったと考えるのがいいのかもしれません。
▲ 古墳について語りませう ▲ 2号墳
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1139664363/
569日本@名無史さん:2007/01/19(金) 15:43:29
>>566
>もっと言えば、好太王碑がある満州まで追いやる力があれば、
>扶余は故郷の満州に帰ったとするのが人間学的に自然だと思うが。
>誰だって父祖の地に帰りたいと願うはず。
>にもかかわらず何故、海を渡って日本を支配したと飛躍するのだろう?

それはイギリスを征服して定住したノルマン人に、バイキングの故郷ノルウェーに、
いやゲルマン人共通の故郷コーカサス地方に、帰れというようなものだな。
誰だって敵がやって来にくい安全な領地を手に入れたら、動きたくないだろうよ。

570日本@名無史さん:2007/01/19(金) 16:02:58
>>569
またノルマンかよw
あなたはイギリスの例をよく出すけど、
イギリスのような地域対立が日本にはない。
「征服」というのは必ず後までの禍根を残す。
571日本@名無史さん:2007/01/19(金) 20:08:52
>>570
>イギリスのような地域対立が日本にはない。
>「征服」というのは必ず後までの禍根を残す。

島国の、外敵に対する安全性、ということを問題にしているときに、
そんな内部事情はなんの関係もない。
さらに言えば、外的に対して安全だからこそ内部でごちゃごちゃやって
いられる。
572日本@名無史さん:2007/01/19(金) 20:54:24
>>571
いみふ。
イギリスはケルト系の反乱は今だに強いよね?
あなたの説だと、
倭人達はすんなり扶余に従ったとお考えなのか?
573日本@名無史さん:2007/01/20(土) 01:27:53
>>565
聖徳太子の人物像がキリストとだぶるところが多い。
聖徳太子は架空の人物に違いなく、
それは大化の改新の合理化目的による、
蘇我馬子の業績分離剥奪を狙ったものだろうが、
そうなるとキリストとかぶるエピソードの数々は、
本来、蘇我馬子のものであり、
大陸騎馬民族の扶余族がシルクロード経由の
遊牧民ネタとして持ってたものを、
馬子が自らの神格化のために使ってたのだと考えると辻褄が合う。
574白馬青牛:2007/01/20(土) 01:31:19
>>537
もっと作りやすい形状変化たァ何なら。三種の神器をスキタイ神話の三機能
と比較し類似性を云うんなら解るが。三機能説話もユーラシア神話の影響で
あろう。宗教よりシャーマニズムのことじゃないか。
>>572
倭人達は、漢人にも素直に生口(奴隷)を献上し、隷属しとった奴隷民に
過ぎんが、扶余に対しては、闘争心をむき出しにするんか?
575日本@名無史さん:2007/01/20(土) 08:36:40
>>574
こん糞ガキャ同じ事ばっかりしか言えんのか外道白痴が。
生口(奴隷)を献上したのは1回だろが。
しかも奴隷を献上するのが隷属か?

576日本@名無史さん:2007/01/20(土) 08:43:41
>>572
>倭人達はすんなり扶余に従ったとお考えなのか?

私が「外敵に対する安全性」と言った意味をわかっていない。
あなたの言葉に即して言えば、倭人がすんなり扶余に従おうと、根強く抵抗しようと、
それに乗じて高句麗や中国などが列島に侵攻してくることはなかった、
ということだ。
ノルマン王朝がいかにアングロサクソンや土着民の抵抗に手を焼いても、
第二のノルマンコンケストは遂に起こらなかったのと同じにね。
577日本@名無史さん:2007/01/20(土) 08:49:59
>>573
扶余族としなくても、
百済や高句麗が滅亡した時の亡命高官たちが持ってきた、
とも考えられそう。
法隆寺からソグド文字の護摩木が見つかったりもしてるし、
かなり西域系の人かもね。
578日本@名無史さん:2007/01/20(土) 09:12:01
>>576
「外敵に対する安全性」でイギリスと日本を当てはめるなら、
「侵略による地域対立」も日本に当てはめなきゃ。
日本にはイギリスのような地域対立はない。
579月光仮面:2007/01/20(土) 12:05:35
さて、【江上】騎馬民族説は今。。。vol.8【波夫】でおなじみの白馬青牛さんの↓
引用
ミ・ニャク族は、西夏王国支配者の末裔でしょうね。
羌(チャン)族は、中国戦国期に秦が四川省の岷江の都江堰という
水利施設を作ってから現代に至る二千年間、毎年冬から春にかけて、
都江堰の修理工事に活躍し、また冬に山を降りて、山の産物の薬草や
麝香を漢人に売り、春になって山へ帰る時は日用品を買って帰る。
羌族は、堤防工事と井戸掘り技術に巧みで、成都平野の井戸の大半は、
羌族の職人が掘ったものらしいのです。
これ等は、日本の山と里の交流と似ておると思います。
草原の遊牧民と違い、五胡時代に活躍した羌、?や高句麗等、
山地農牧・農猟民は防御施設を持っており、それには土木・水利技術が
必要であったのではないか。と考えております。 引用終わり
ここで言われる羌族こそ秦氏の先祖で大避神社の井戸を掘ったもの、そして
アルタイの熊野(白鳥)族/蘇我・素鵞族と関係するものであろう。
580月光仮面:2007/01/20(土) 12:13:10
白馬青牛さん、おめでとうございます。
↑手元が狂い、【シルクロード】日本人と謎の秦氏?2【ダビデ】
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1166287199/
に以前の御高説を引用したものがこちらに飛び込んでしまいました。
お詫びします。今年もよろしくお願いします。

581日本@名無史さん:2007/01/20(土) 19:14:43
>厩戸皇子の仏教の師が、高句麗僧・恵慈(えじ)であったことはよく知られている。
>恵慈が来朝したのは推古3年(595年)、皇子が22歳のときである。

 上記のような説があるが、恵慈は高句麗僧ではなく、コマ(漢城)の僧であろう。
595年に、高句麗から僧侶が来るわけがない。この時代、日本と高句麗は戦争状態だった
のである。
 百済と高句麗の間に「同盟関係」が成立するのも、643年からである。
595年頃、日本と高句麗の間に外交関係はなかったのだ。
 恵慈は、漢城から渡来した倭人僧であろう。
582日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:28:44
>>578
>日本にはイギリスのような地域対立はない。

この話の発端を覚えているかな?
日本に地域対立がなくて、のほほんと支配していられるのならば、なおのこと、
安全な日本列島を捨てて、朝鮮半島や満洲平野の修羅場へ、再び本拠を移す理由は
ないではないか。
583高麗人:2007/01/20(土) 20:28:44
日本の古代史根拠は政府から偽造された.
日本の古代史は百済の歴史で, 実際歴史は 2千年にならない.
日王は韓国係の子孫だ.
584日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:36:10
岡崎久彦氏は、日本人と韓国人を「同祖」だと思っているようだが、間違っている。

岡崎久彦:『なぜ、日本人は韓国人が嫌いなのか』
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31805481

 日本人と韓国人は、まったく別種の民族である。言語も異なっている。
日本語と韓国語は似ていない。
 岡崎氏は、韓国人がワイ族の子孫であることを知らないようである。
古代カラ半島北部に、ワイ族という、倭人とは別種の民族が住んでいたことも
知らないのではないか。
 韓国人はワイ族の子孫なのである。
585日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:38:05
岡崎久彦氏は、日本人と韓国人を「同祖」だと思っているようだが、間違っている。

岡崎久彦:『なぜ、日本人は韓国人が嫌いなのか』
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31805481

 日本人と韓国人は、まったく別種の民族である。言語も異なっている。
日本語と韓国語は似ていない。
 岡崎氏は、韓国人がワイ族の子孫であることを知らないようである。
古代カラ半島北部に、ワイ族という、倭人とは別種の民族が住んでいたことも
知らないのではないか。
 韓国人はワイ族の子孫なのである。
586日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:58:26
日韓中の文献や碑文を見ても、日本が朝鮮半島にしょっちゅうちょっかい
出してたという記述はあるがその逆はない。
587白馬青牛:2007/01/20(土) 21:31:56
>>575
生口献上は一回じゃあるまい。『魏志』でも景初二年の男生口四人、
女生口六人、正初四年の生口、八年の男女生口三十人に、『後漢書』の
生口160人を加えて何回も男女生口を献上しとるよ。文献だけでも
これだけあるんじゃけー、実際漢人に売ったり、売女接待ははるかに
多かったろう。漢人商人は倭人の女を入れ喰い状態じゃのう。
それゆえ倭人の上層部も漢人商人の血を受け継いだ者かも知れん。
大林太良氏は、「漢人商人と倭人とのあいだの《強い民族間圧力という
環境》が想定できるから、このような状況において憑依現象が大きい役割
を演じたと考えるのは、私にとってはきわめて魅惑的である。その場合
ミュールマン(ドイツの民族学者)流に考えていくと、卑弥呼に憑依した
のは漢民族の精霊だったことになるかもしれない。」
倭人は精神的にも漢民族に隷属しとったんじゃないか。
588日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:50:49
>>582
そういう意味で言ってるのではない。
異民族が武力で支配したらば、
必ず後々まで何かしらの禍根が残るだろうと言ってる。
イギリスの地域対立もそういう事だろう。
日本に地域対立がないのは、
異民族による武力支配がなかったからだと考える。
589白馬青牛:2007/01/20(土) 21:59:55
>>579-580
月光仮面さん。遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
中国長城地帯にあった羌系の西方移住は知られてますが、東方移住は
資料も少ないせいか無視される傾向にあります。
チベット人と日本人のHLAの類似、秦氏の列島移住、渡来民としての
秦氏の皇室騎馬護衛兵としての役割や秦氏の土木技術も含め関連性は
無視出来んと思います。新羅人支配階層の黄金文化とアルタイ以西の
黄金文化の類似のトルコ系要素、月氏はイラン系かトルコ系か羌系か等
自身の考えがまとまってない状況ですが、わしの愚説でもよければ、
ユーラシアの終着地日本への影響を云うてみたいものです。
590日本@名無史さん:2007/01/20(土) 22:00:01
>>587
1回じゃないというなは分かったけど、
生口を献上して何で隷属なんだ?
どっちにしても聖徳太子の時代にそんな関係切れるんだし…

今は日本の風俗店で中国娘が日本男のチンポくわえてるんでw
中国人は精神的にも肉体的にも日本人に隷属しとるんじゃないか。

白馬青牛はまだ精神的に漢民族に隷属してるのか?
591日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:33:38
>>587
そういうのは「隷属」とは言わないよ。
古代では古墳に生きてる奴隷を埋めてたんだし、
奴隷は物と看做されてるんだから。

「隷属」というのは、中国と朝鮮の関係のようなものを言うんだよ。

属国社会・症候群
ttp://toron.pepper.jp/jp/middle/syndr/index.html
モンゴルに処女を送るため国民の結婚を禁じた高麗
ttp://toron.pepper.jp/jp/syndrome/keysen/kinshi.html
高麗が元に服属した後の元宗15年(1274)3月、
元は朝鮮へ南宋の軍人(蛮子軍)を派遣した際、高麗の婦女140名の供出を要求した。
これに対し、
高麗政府は「結婚都監」をもうけ、
市井の独身女性、逆賊の妻、僧人の女をかき集めて数を満たしのだった。
集められた女たちは、
「貢女」や「宮妓」として強制連行され、
ひとり絹12匹の化粧代で元のモンゴル人政府へと売られていった。

『明実録』(永楽7年2月)に記載されている例では、
明の永楽帝時代に内便の黄儼が勅使として朝鮮へ派遣され、直接美女を選んだとされている。

このことに恐れおののいた朝鮮政府は、あわてて全国で結婚を禁止し、
13〜25歳までの処女200〜300人を各地から数回にわたって集めた。
そして集めた女たちをさらに王宮内の景福宮にて選別し、最終的に美しい女を5名選び出したという。
592日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:35:54
>>530
>形質人類学だけじゃのうて
>DNA、HLA遺伝子も無視し妄想に終始しとるわい。

少数民族を除き、YAP+遺伝子を東アジアで唯一高頻度に持っているのは
日本人種だけである。YAP+遺伝子は日本人種が間違いなく存在しているという
決定的な証拠である。日本の周辺人種にはこのYAP+遺伝子がほとんど無い。
ttp://native.way-nifty.com/./native_heart/images/y_chromosome.jpg
ttp://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-52.htm
593日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:44:23
>>563
>満洲族の話は扶余との比較ではじまったのだからそれでよいのだ。

結局は同じに論じることが出来ないことがわかったがな。
前にも言っただろう?
国家体制を整えて目的を持った八旗制度を持つ満州族と
扶余を同じにするなと

>前は「吉野ヶ里」レベルがハードルだったのではないか?

事実を否定してもしかたあるまい。
事実は受け入れるのみだ
「定住せず、王を戴かず、都市を形成せず、」
ここは撤回しよう
「生産力の低い遊牧民」
生産力の高い遊牧民とはこれいかに?







594日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:48:40
続き

お前の言う「扶余征服説」を肯定するには、議論の中身を見る限り

「扶余が韓国南部の鉄資源の存在を知り」
「その資源を手に入れる必要性があり」
「その資源を手に入れるメリットが混乱している豊かな中国への
侵入より大きい状況で」
「楽浪郡」を通って
「高句麗の領土を無断で通って」
それでも何の問題もなく高句麗の歴史書にも記録されてないならば

可能だが

これおかしくないか?
満州とか騎馬民族とか無視して。

595日本@名無史さん:2007/01/20(土) 23:57:51
YAP+
懐かしいな
596日本@名無史さん:2007/01/21(日) 08:46:53
上の方にも出てるが、
結局、騎馬文化を持ち込んできたのは秦氏なんじゃないの?
特に応神天皇時代の大量移住時の…
須恵器も最近の発見(京都の宇治)で秦氏の可能性が高くなってきたね。

江上さんが言ったような扶余による征服でも何でもね〜よw
597日本@名無史さん:2007/01/21(日) 20:06:50
日本人や韓人(からびと)の先祖について、
「フヨだよ、フヨに決まってるじゃん!」とワメいているのは、
世界中で朝鮮人だけ。世界の学界からは馬鹿にされてる(笑


■志羅紀の地理的位置■

 中国の史書『後漢書』の記録である。馬韓については「その北は楽浪と南は倭と接し、辰韓の西にあり」と
記している。また弁韓についても、「辰韓の南に(弁韓は)あり、その南また倭と接す」とある。
 『三国志』も同じく、「馬韓は南で倭と接す」とある。さらに「弁辰は十二国のうち、讀盧(どくろ)国は
倭と界を接す」とある。
「辰韓の南に弁韓あり、その南また倭と接す」
後漢書のこの記述は、ひじょうに興味深い。

・辰韓は北にある。
・弁韓は辰韓の南にある。
・弁韓の南に倭がある。

この記録は、稲飯命が建国した志羅紀(シラキ)の位置を語っているのである。

辰韓→ ワイ人の国(後の新羅=シンラ)。3世紀に南下して志羅紀を侵略する。
弁韓→ 倭人の国。志羅紀。神武天皇の皇兄=稲飯命が建国。天日矛命の国。
 倭→ 弁韓(志羅紀)の南方にある倭人国・ヤマト。日本国。

 こういうことなのだ。
 やはり、志羅紀と新羅は別の国なのである。シラキの王子=天日矛命が倭人であることが、『後漢書』の記録によって
証明された。天日矛命の子孫が神功皇后である。神功皇后の新羅征伐は、ワイ族(朝鮮人)に侵略された先祖の祖国=志羅紀
(シラキ=弁韓)を解放するための聖戦だったことが明らかになった。

598日本@名無史さん:2007/01/21(日) 20:14:25
>>593
> 国家体制を整えて目的を持った八旗制度を持つ満州族と

質問に答えていないな。もういちど聞く。
ヌルハチの統一した「満洲」つまり支配民族としての 満洲族は、中国を征服
した後の、例えば康煕帝の時代に、「支配民族皆兵」を維持したか?

>事実を否定してもしかたあるまい。 事実は受け入れるのみだ
>「定住せず、王を戴かず、都市を形成せず、」 ここは撤回しよう

なかなか素直でよろしい。その心がけが大切だ。
しかしお前が東夷伝も読まずに扶余論をやっていたことが明らかになったな。

>生産力の高い遊牧民とはこれいかに?

扶余が遊牧民であり、扶余の土地は生産力が低かったとはお前が言ったことだ。
扶余は遊牧民ではなく、定住民だった。お前が認めた通りだ。
またその土地は満洲国の穀倉でもあった、有数の肥沃な土地だ。
だから「五穀がよく実る」と東夷伝にもある通り、生産力は高かった。

ところで上記のお前の質問らしいものはなにが言いたいのか?
じぶんでもわからないのではないか?
599日本@名無史さん:2007/01/21(日) 20:29:16
>>588
>日本に地域対立がないのは、 異民族による武力支配がなかったからだと考える。

本筋から離れたことに固執するが、その新しい話題で議論したいのならつきあっても
いいよ。
異民族による武力支配がなかったというが、歴史に新しいところで、平安初期の
蝦夷の征服は、異民族を武力で征服したことにならないの?
600YAP?:2007/01/21(日) 20:45:59
忙しくて、一月見る暇がなかったが、最近はどうなってるのかな?
とりあえず、直近の書き込み10件ほどは見たが、「満州」族が問題になっているようだ。

あまり、はっきりしないが、唐代に「九夷」の1つとして、「満飾」とかいうのが
「倭人」や〈高句麗」と並んであったような・・・。
601白馬青牛:2007/01/21(日) 22:54:00
>>590-591
生口を献上して、何で隷属じゃないんか?
下品な下ネタ話をしとるが、戦前の「唐ゆきさん」「娘子軍」ら、
日本女性も東南アジアへ奴隷同然に売り飛ばされたが、女性は可哀想に
提供の道具にされるねえ。進駐軍に催促されんでも自国の女性を提供
したがる日本の上層部の人達もおるんに、他民族を批判出来る立場にない。
戦後以来の米国人と日本女性の関係から、日本人も「隷属社会・症候群」
になるんかのう。あんたらァ未だに異民族に隷属する精神を持っとるんか?
アジア諸国で威張り欧米に諂うステレオ・タイプの日本人を演出したいんか
知らんが、そりゃあ、まさに「奴隷根性」に他ならんのう。
わしが「白痴」なら、あんたら「奴隷根性君」じゃわい。
602日本@名無史さん:2007/01/21(日) 23:10:15
奴隷は広島人
603白馬青牛:2007/01/21(日) 23:13:56
>>592
YAP+遺伝子やGm遺伝子等、単一遺伝標識で判断してもしょうがない。
多数の遺伝子標識や形質から複合的に判断することが大切じゃ。
YAP+に新モンゴロイド系のチベット人に多数存在することは興味
深いが。HLAでも日本人とチベット人の類似性があるけんのう。
>>596
騎馬文化は秦氏に限定出来ることじゃないよ。天皇の騎馬警護役であった
同じ渡来系の東漢氏や河内文氏も含まれる。
604日本@名無史さん:2007/01/22(月) 00:33:33
馬の列島移入は4世紀末
漢氏の渡来は五世紀後半
605日本@名無史さん:2007/01/22(月) 07:42:58
>>601
聖徳太子の時代にブチ切ったんだから大した隷属じゃねーよ、
何しつこく言ってんだ、このハゲ!
606赤馬黄牛:2007/01/22(月) 15:18:22
>>603
わりゃなめとんのかい。
秦氏が皇室騎馬護衛兵だったというソースを示してみんしゃれ。
こん腐れ外道が!
607日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:37:20
日本人や韓人(からびと)の先祖について、
「フヨだよ、フヨに決まってるじゃん!」とワメいているのは、
世界中で朝鮮人だけ。世界の学界からは馬鹿にされてる(笑


■志羅紀の地理的位置■

 中国の史書『後漢書』の記録である。馬韓については「その北は楽浪と南は倭と接し、辰韓の西にあり」と
記している。また弁韓についても、「辰韓の南に(弁韓は)あり、その南また倭と接す」とある。
 『三国志』も同じく、「馬韓は南で倭と接す」とある。さらに「弁辰は十二国のうち、讀盧(どくろ)国は
倭と界を接す」とある。
「辰韓の南に弁韓あり、その南また倭と接す」
後漢書のこの記述は、ひじょうに興味深い。

・辰韓は北にある。
・弁韓は辰韓の南にある。
・弁韓の南に倭がある。

この記録は、稲飯命が建国した志羅紀(シラキ)の位置を語っているのである。

辰韓→ ワイ人の国(後の新羅=シンラ)。3世紀に南下して志羅紀を侵略する。
弁韓→ 倭人の国。志羅紀。神武天皇の皇兄=稲飯命が建国。天日矛命の国。
 倭→ 弁韓(志羅紀)の南方にある倭人国・ヤマト。日本国。

 こういうことなのだ。
 やはり、志羅紀と新羅は別の国なのである。シラキの王子=天日矛命が倭人であることが、『後漢書』の記録によって
証明された。天日矛命の子孫が神功皇后である。神功皇后の新羅征伐は、ワイ族(朝鮮人)に侵略された先祖の祖国=志羅紀
(シラキ=弁韓)を解放するための聖戦だったことが明らかになった。
608日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:43:16
>>603
白馬青牛氏は皇室廃止派なの?
609日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:55:01
>>574

前にも言ったよな?
「貢物を送った国は送られた国の属国と言うのならば宋も漢も唐も属国だ」
ってよ。

610日本@名無史さん:2007/01/22(月) 23:56:06
>>603



人骨の形状だけで「日本人は扶余に征服された」だの
ほざくお前が人のコト言えるかね?



611日本@名無史さん:2007/01/23(火) 01:09:28
>>535
おいおい、他人の褌で相撲かよ?
ちっともこっちの疑問に答えてないんだけどなぁ。日本語が不自由な人なのかな?
俺が訊いているのはもっと素朴な疑問であってさ、
例えば>>533にもある、
>魏志倭人伝や隋書倭国伝など中国の歴史書、そして蘇我氏の国記・天皇記や、
天智天皇系の帝紀など、あらゆる歴史書を矛盾なくつなぎ合わせようと図った結果、
ちょっと待った。
なんで「矛盾なくつなぎ合せよう」とするんだ?その目的は何だ?それをしないと何かマズいのか?
しかも、いくらそんなことしたって同時代の人間には見え透いていることだろ?
後世の人間を偽るため?
しかしそんなことする必要がどこにあるんだ?
また、仮に政府の公式記録が虚偽ならば、民間とか地方でそれとは異なる「真実の記録」が書き残されていてもいいはずだが、
それはなんで無いんだ?‥‥といったようなことだ。
単純かつ素朴なこういう疑問に、あんたはまるで答えてくれないんだな。
奔放に想像力をめぐらせるのは勝手だけど、
何かを仮説として立て、しかも他人を説得したい場合は、
その仮説の前提になっているものが十分な妥当性があるものなのかどうかを
まずはきちんと証明してみせるべきじゃないの?
それをしないで、仮説をまるで証明済みのようにして強引に議論を進めていくもんだから、
なんだかあんたらにとっての望ましい結論に無理矢理持って行きたいようにしか見えないわけよ。
612白馬青牛:2007/01/23(火) 01:30:46
>>605-606
聖徳太子の時代云う意味が解らんが、おそらく隋にあたる時代のことじゃ
ろう。『随書』『北史』の時代は倭人の習俗が北方民族化されとる時代
じゃ。『隋書』の時代に何をブチ切ったんか?生口献上は、
倭国大乱期、中国じゃあ黄巾の乱、朝鮮でも楽浪郡の失墜で倭人の
生口如きの事態じゃのうなったよ。
天平十二年(740年)藤原広嗣の乱のおり、聖武天皇の護衛に東西史部、
秦忌寸ら400人の騎兵があたったこと。渡来系東漢氏系の坂上氏が
「家世々弓馬を事とし、馳射を善くす。」と渡来系が武人の家であった
ことじゃ。糞外道の奴隷根性君よ。
>>608
何でわしが皇室廃止派になるんかのう。ハザール遊牧民に見られる
カガン(王、聖なる力)とベク(将軍、世俗の権力)との二重王制。
遊牧民的な聖と俗の分離は、東アジアで中国や朝鮮半島と違い、
日本で生きずいとるんに、何も廃止する必要はあるまいし、
もし廃止したら、日本は朝鮮半島に近い性質になるんじゃないか。
わしゃは皇室廃止反対派じゃのう。
613白馬青牛:2007/01/23(火) 01:40:51
>>609
短絡的解釈より貢物の内容じゃ。生口は隷属そのものじゃないか。
>>610
人骨の形状だけで?単一遺伝子標識より複合的、全体的に判断せえ云うたん
じゃが。わしが書いた文をもう一回読み直せえや。
つまり渡来系が支配者層で、土着系が支配された関係じゃ云うことじゃ。
614日本@名無史さん:2007/01/23(火) 01:53:09
>>613
>つまり渡来系が支配者層で、土着系が支配された関係じゃ云うことじゃ。
仮に近畿人がそうだとしても、他の地域にまで押し付けるな
615日本@名無史さん:2007/01/23(火) 07:06:09
>>612
天平十二年(740年)って…

4世紀〜5世紀の話ししてくれ。

>>613
で、その「隷属」はいつまで続いたとお考えかな?
ごたごた屁理屈こかないではっきり言ってくれ。

616日本@名無史さん:2007/01/23(火) 07:16:50
>>613
>単一遺伝子標識より複合的、全体的に判断せえ

あんたがそれしたの?
それをした人のソース見せてくれや。
弥生から古墳時代にどれだけの人骨形状変化、
および遺伝子変化があるか等、複合的に知りたいんだよ。
617白馬青牛:2007/01/24(水) 00:35:04
>>614
北方新モンゴロイドは畿内中心から全国に拡散したんじゃないか。
土着系が被支配層であったんは全国的じゃろう。
>>615
まあ奴隷売買は戦前まであったが、文献じゃあ弥生期の現象じゃのう。
特産品に乏しい倭人が献上する物に奴隷が不可欠じゃろう。
新羅の昔氏の始祖伝説に、昔氏が倭国東北千里の多婆那国出身で、
七宝・奴婢を満載して来たとあるが、朝鮮半島の一地方に献上する物も、
七宝(ヒスイの勾玉なんかじゃろう。)と奴婢ぐらいしかなかったんじゃ
ろう。朝鮮半島の交易で変わりに鉄を貰うたぐらいか。
>>616
尾本惠市氏は複合的、総合的に考察しておられるよ。
http://www.dai3gen.net/jinruigaku.htm
23の遺伝子座や形質人類学や犬、ウィルスに至るまで含め総合的にね。
618日本@名無史さん:2007/01/24(水) 03:05:50
>>611
535ではないが・・・、
日本で最初に体系化された歴史書を記したのは蘇我氏だ。
しかも天智以降の倭人系?王朝は、
蘇我氏を撲滅し、権力を奪取したところから始まっている。
その上、蘇我氏の残した業績は、
仮に彼が聖徳太子なら巨大で膨大なものだ。
それを全否定したところから発してる王朝としては、
扶余族の存在そのものを日本史から消し去り、
蘇我一族を悪の枢軸と定義することによってしか
統治の正当性を確保できない。
蘇我氏が記した?崇神〜応神以来の扶余族の記録は、
その系譜に蘇我氏が位置するのなら抹殺せざるを得ず、
そうすると極めて乏しい歴史的記録しかない邪馬台国からの
倭国の歴史では国史がみすぼらしくなるとも言えよう。
邪馬台国と倭国をつなぐ空白の歴史を、
蘇我氏がなした扶余史を剽窃することでそのまま埋めてしまった
という後ろめたさもあったかと思われる。

これは戦後の朝鮮が、
実態としては明らかなる善政であり、
文明の施しであった言わざるを得ない合邦統治時代を
暗黒時代だったと正反対に描いてることとちょうど同じだと言える。
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1169522618/299-235
そして今日、朝鮮民族の新世代は、
本心からその間違えた欺瞞に満ちた朝鮮史を信じきっている。
もし可能なら、日本の統治時代そのものを
朝鮮の新たな世代の子弟達の目から遠ざけ、隠蔽したいはずだ。
しかも朝鮮には古代、上代の記録などほとんどないにも等しい。
619日本@名無史さん:2007/01/24(水) 03:06:37
>長時間討論の中で、聞いていてえっと驚くような主題や、あぁそうだったのかとあら
>ためて納得するような内容が幾つかあった。1392年に高麗が滅亡して李氏朝鮮が成立
>した。それ以後の李王朝の実在は動かない。そして、歴史的に現在の韓国人とつな
>がっているのが李王朝の国家と国民であることは疑いを容れない。しかしそれ以前の
>半島の歴史は正確にはなにも全くわかっていないのだ、と金完燮氏は言うのである。
>韓国人は、だから自らの民族のアイデンティティに大きな不安を抱いている、と。
>通説としては、676年に新羅が半島を統一したというような話になっているが、そう
>いう歴史的展開はぜんぶ現在の大陸東北部で起こった出来事であって、半島の歴史で
>はない、というのである。古代史に関する彼の大胆な「仮説」は、27日にあらため
>て聴くことになっている。ともかく、半島における高句麗、新羅、百済の三韓の葛藤
>劇もことごとく歴史的実在が疑わしい。要するに1392年より以前の半島の歴史で確実
>なことは何もわからないので、韓国人の歴史への自信喪失は根が深いのだという話である。
ttp://www.megaegg.ne.jp/~nitiroku/tui15.html
西尾幹二のインターネット日録
ttp://www.megaegg.ne.jp/~nitiroku/menu.html
ttp://nishiokanji.com/blog/

こうした半島の歴史認識に似た状況が古代にあったということだろう。
620日本@名無史さん:2007/01/24(水) 04:19:20
【歴史】日本書紀に、信頼に差がある2種の筆者 天文現象で分析
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1165408895/
 京都産業大の森博達教授(中国語学)は、日本書紀全30巻を、万葉仮名
などの使い方で、筆者A群(14〜21、24〜27巻を担当)、筆者B群(1〜13、
22、23、28、29巻)、不明(30巻)に分類している。Aは、当時の日本の社
会常識に疎いことなどで渡来中国人、Bは、漢文の執筆能力が低いことなど
で日本人(日本生まれの渡来人子孫も含む)との推測だ。
621日本@名無史さん:2007/01/24(水) 04:54:32
>文献じゃあ弥生期の現象じゃのう
なんでその「隷属」は弥生期で終わったんだろうね?
あっさり終わった隷属なんだね。
もともと隷属と呼べるものだったのか?

>尾本惠市氏は複合的、総合的に考察しておられるよ。
弥生から古墳時代にどれだけの変化があったかという話しなんだけどね。
あなたが紹介してくれたそのリンク先じゃ分らないんだけどな。
弥生や縄文の事しか出てないんだけど。
ここは騎馬民族スレだからね。
自分の知識をひっけらかすのに夢中になる前に、
もう少し誠実に紹介してくれないかな。



622日本@名無史さん:2007/01/24(水) 04:57:40
621は>>617へのレスね。
623日本@名無史さん:2007/01/24(水) 13:38:37
>>612の広島うすのろハゲが言うように、
天平十二年(740年)藤原広嗣の乱に、
秦氏や東漢氏の末裔が騎馬警護役であったという事は、
それより300〜400年前に日本にやってきた彼らの祖先も、
何かしらの騎馬系だったと見た方が自然だな。
なら4世紀後半から始まる騎馬文化は、
扶余による征服によってもたらされたものでも何でもなく、
彼ら秦氏や漢氏がもたらした文化だったって事で終了だよ。
624日本@名無史さん:2007/01/24(水) 19:32:03
久々というか1年ぶりに来たがまだ続いてるのか
漏れも他の板に書き込んでたりして正直ここに来るのはROMるだけだったか
久しぶりに書き込むか
正直弥生人が江南からの渡来人だが白馬青牛氏のように渡来するのは
難しかったと思われる。彼らはおそらく南方系の縄文人の船で縄文人らに
付き添われて日本に来たのだろう。つまり縄文人と江南の越人の間には
交易があったと思われる。その後三国志やら南北朝の時代により
江南との交易が途絶えたので越人と越人に同化した縄文人は次の交易相手を
探す。丁度朝鮮南部にはモンゴル系ツングース族であるワイ系部族集団が
戦乱を追われて南下してきており彼らを交易相手とし、または受け入れた
弥生時代に麦やらヒエやらアワをもたらしたのは彼らであろう
このワイ系部族は越人に同化したのだろう。?と思う方もいるだろうが
ツングースはいかなる環境にも対応でき、同化する能力と包容力があるらしい
http://www.gemki-fujii.com/opinion/010.html
つまり渡来したツングース系部族は倭の地で越人=倭人の文化を
持ち前の包容力で同化したのだろう。その結果和国大乱以降に建国したのが
邪馬台国である
625日本@名無史さん:2007/01/24(水) 19:50:56
続き
その後ツングース系の倭人(?)は同じワイ系部族である百済などと
友好関係を結び、当初は百済を圧迫していたワイ系部族の高句麗と対峙しながらも
後に和解した。つまり邪馬台国の頃から北方系民族は倭国にいたという
事になる。まぁ白馬青牛氏の言うように北方新モンゴロイドが土着を
支配したといえばそうなるが、倭人に同化した北方系新モンゴロイドが
はたして簒奪説氏が暗に示しているような「異民族の支配」と言えるかどうかと
言えば疑問である。ちなみに百済や新羅がなぜ支配層と被支配層の間で
言葉が通じなかった状態だったかと言えばおそらく朝鮮南部には倭人の他に
韓人がおり、同化するにも一苦労だったからだろう。それに比べて九州では
倭人だけだったので同化が容易だったと考えられる。ちなみに白馬青牛氏は
倭人=ベトナム系、韓人=タイ系というのは同意。実際韓国人のHLA遺伝子には
タイ人と同じタイプが二番目に出てくるらしいが日本人には出てこない
しかし少数ではあるが日本人にはベトナム人と同じタイプの遺伝子が
出てくるらしい。これは俺の私見だが韓人はタイ系と白馬青牛氏がいう
朝鮮半島の先住民であるニヴフ系の混血ではないだろうか?
また倭人はベトナム系(おそらくチワン・トン語族とチベット系部族の混血)と
縄文人(南島系=マライ・ポリネシア語族とサモイェード系の北方系古アジア語族の
混血)の混血であろう。ちなみに百越の一派といわれる中国の少数民族のトン族やスイ族は
チベット系とされてるがそれでもチワン・トン語族とされている
チワン・トン語族はタイ族もその中に入ってる。そして水田稲作をやっている
626日本@名無史さん:2007/01/24(水) 19:55:36
>>625に書き忘れた
おそらく邪馬台国は北方系と江南系の寄り合い所帯みたいなものだったのだろう
邪馬台国では中国に朝貢してるしね。まぁ隷属とは言えないがかつての
琉球王国みたいに柵封体制下に倭国が入っていたのは間違いないだろう
その点では白馬青牛氏に同意できるかもしれない
またハザール遊牧民の制度を日本に持ち込んで皇室を作ったのも
越人と同化した北方系民族だろう
連投なのでsage
627日本@名無史さん:2007/01/24(水) 20:52:41
>>611
横からだが;
>いくらそんなことしたって同時代の人間には見え透いていることだろ?

ほとんどの古代国家には「建国神話」があるが、それらは「 同時代の人間には見え透いて」
いたのではないか?
いや古代国家ばかりではない。テムジンやヌルハチの生い立ちだって神話化されているのでは
ないか? 
628日本@名無史さん:2007/01/24(水) 21:59:20
>>618
横レスだが、いったいどういう根拠で、
「崇神〜応神以来の扶余族」などと言ってるのかさっぱり分らない。
  
>扶余族の存在そのものを日本史から消し去り
扶余とあなたが主張する応神の子、仁徳、履中、反正などの時代は、
善政で非常に穏やかで安定してたように言われてる。
消し去るってどういう事なんだ?
629日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:26:10
>>628

「崇神〜応神以来の扶余族」の根拠については、

>>532-533 >>560-562 で展開されてる「ネオ騎馬民族説」より。

消し去る意味についてだが、

たとえば日本から独立した朝鮮半島では、
長い間、北朝鮮地域の方がずっと産業が発展してたといわれている。
これは日本の統治時代に、
北朝鮮地域の豊富な鉱物資源や水資源を使って、
重工業が発展させてたためなんだが、
そうした産業基盤の由来については北朝鮮では表立って語られてはなかっただろう。
ただ共産主義・主体主義の素晴らしさの結果だと言われてた。
そういう具合に為政者は歴史や現実を都合よく語る。
だからもし日本の統治時代を隠蔽抹殺できるなら、
朝鮮の政府はそれを自国の主体的発展期とのみ記すはずだ。
しかし現実には誰の目からも明らかで不可能だからしないだけ。
でも古代日本の場合は違った。
中国の文献においても空白期間になってるわけだ。
それで日本における扶余族史を、そのまま邪馬台国からの発展の歴史として吸収して
しまったということである。
「消し去る」というのはつまり“扶余族としての歴史”を消し去るということ。
630日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:43:33
>>598

>例えば康煕帝の時代に、「支配民族皆兵」を維持したか?

何回言えば理解できるのだ?
「中国文化の洗礼を受け、目的を持って作られた」八旗が
消滅しないのは当然だろう?
扶余は「文化程度の高くない農耕民社会でウルス制度に基づく国民皆兵制
を維持できた」のか?
「農耕民社会に入った騎馬民族は国民皆兵制度を維持できない」という
ことが事実ならば、高句麗やヒクソスはどうなる?
国民を皆、軍に従事させたのか?

>扶余は遊牧民ではなく、定住民だった

なるほどな
「農耕民たる扶余」が騎馬戦術をどこからともなく仕入れ、混乱していた
豊かな中国より、同じ「文化程度の低い農耕民」の方に目をむけ、わざわ
ざ海を渡って日本にやってきて、そして日本の政権をわずかな騎馬戦力で
圧倒して大和王権になったのか。
二つ聞きたいことがある

1 なぜ南下したのか?当時の豊かな中国を無視して鉄だけを求めたのか?
  鉄資源ならば中国本土に豊富にあるぞ?

2 騎馬戦術を身に付けた農耕民が果たして「少数」の騎馬戦力によって
  日本の地方政権を打破できるか?
  騎馬戦術がそれほど歩兵に対して効果を発揮するのならば、なぜ歩兵
  中心の倭軍、百済軍が高句麗に対抗できたのか?
  お前は前に「倭軍にも騎馬戦士がいた」と言っていたが、それが主力
  でない以上、騎馬中心の高句麗に対抗できたのは、歩兵も騎馬戦力に
  対してそれなりに戦えたからではないのか?
631白馬青牛:2007/01/25(木) 02:00:14
>>621
はあ、>>358の表2や>>409の引用文を読んで云えーや。
>>619
西尾幹ニ氏のようなドイツ思想の影響が強いマルクス左翼史観のパクリを
国粋主義に適応した文など挙げても意味をなさん。盟友の藤岡氏も左翼
からの転向者で変節者じゃのう。
>>623
残念じゃが、わしゃあハゲとらんよ。まあ、渡来系が支配者層であった
ことじゃ。
>>624-625
江南から直接渡来の可能性は低いねえ。江南と日本列島の直接ルートは、
唐代じゃし。山東経由ならありうる。ツングースが同化力があるんは同意
する。日本人とベトナム人と同タイプのHLA遺伝子については知らんよ。
ただ文化類型として東南アジアの農村型がタイ系ー韓人、漁民型が
ベトナムー倭人と考えとるけど。江上波夫氏も日本人は朝鮮人よりも
満洲人・蒙古人に似ているがベトナム人と似ているのも倭人の影響と
される。確かに韓国人にニブヒ系容貌は多いね。南ツングースの満洲系より
ニブヒに近いんじゃないかと思えるほど。トン・スイはタイ系でチベット系
要素はもっと山岳地の住民の方が多いと思う。
632日本@名無史さん:2007/01/25(木) 05:52:56
>>631
>358の表2は「水稲と青銅器−朝鮮半島と日本」だぞ。
そんな話し、全然関係ないしスレ違いだ。

で>409の引用文はこの先生の仮説だ。
古墳時代の高身長の事を言ってるけど、
実際秦氏や漢氏が来てるんだし、だから?って感じだな。
彼らが騎馬文化を伝えてくれたのなら、
「騎馬民族は来ていた」になる。
しかし彼らは征服者でなく帰化民だ。
633日本@名無史さん:2007/01/25(木) 07:12:02
>>618
>蘇我一族を悪の枢軸と定義することによってしか
>統治の正当性を確保できない。

シナの王朝みたいに一族血縁皆殺しにするわけじゃなし、
蘇我氏でも滅ぼされたのは蝦夷、入鹿の一家であって、
新政府に協力した蘇我一族もいただろ?
彼らまでが自分たち祖先の事績を「抹殺」するのかね?不自然じゃないか、そんなの。
加えて謎なのが、そんな風に歴史を捏造しなければ揺らいでしまうような脆弱な「統治の正当性」ってなんなんだってこと。
よっぽど蘇我氏誅滅は当時の世論に反した行動だったのか?
でもそのわりにはさしたる混乱もなく事態が収束しているように見えるね。これまた不思議千万。

>そして今日、朝鮮民族の新世代は、
>本心からその間違えた欺瞞に満ちた朝鮮史を信じきっている。

だから何?としか言い様が無い。
日本時代の「善政」なら資料が幾らでもあるわけだし、
あの民族の場合はまた特殊な事情があるわけだしね。
歴史を「抹殺」する動機にしたって無理矢理取って付けたようで、
大陸でこうだったからとか半島でもこうだからなんて安直な類推じゃまるで説得力なし。
それに、それらの例にしたってすべて虚偽や捏造がはっきりしているわけでさ。

>>629
>しかし現実には誰の目からも明らかで不可能だからしないだけ。
>でも古代日本の場合は違った。

だから、なんで古代日本だとそれが可能になるのさ?
想像してみてよ、それらの経緯を見聞きしているはずの多数の人間たちのことをさ。
彼らが一様に口を噤むのか?何も語り伝えないのか?
ありえんだろうよ、そんなの。
634日本@名無史さん:2007/01/25(木) 08:41:48
>>629
“扶余族としての歴史”を消し去るということについて、
20世紀の朝鮮の例を出しておられるが、
彼ら朝鮮人は、日本に統治された事実を消せないから、
日本統治時代は暗黒だったと言ってるわけだな。

なら、あなたが扶余族だという仁徳天皇は、
いたって善政を敷いた天皇であり、
「仁」や「徳」なんて字を使ってる事自体が矛盾してるよ。

635日本@名無史さん:2007/01/25(木) 10:44:14
>>630

間違えた

農耕民社会に入った騎馬民族は国民皆兵制度を維持できない
           ↓ 
農耕民社会に入った騎馬民族でも国民皆兵制度は維持できる
636プククw:2007/01/25(木) 10:49:25
>>631

騎馬民族が征服者でなくとも渡来民としての騎馬技術の伝播が
考えられる
    ↓白痴クンの考え
騎馬民族が征服したに違いない!!

白痴クン「特定の遺伝子だけじゃ特定できない!!」
    「人骨の形が異なるから別民族に違いない!!」


自分の都合の悪いものはなんとしても認めたくないようでww
637日本@名無史さん:2007/01/25(木) 11:42:21
>>631
>江南から直接渡来の可能性は低いねえ。江南と日本列島の直接ルートは、
>唐代じゃし。山東経由ならありうる
つまり越人が山東半島まで北上後、日本に渡来したという事になるね
実際弥生遺跡からは山東半島の漢代の人骨と酷似してるという話があるからね
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1059185309/l50
(このレス内のソースはなくなってたので2chのスレをソースとした)
ついでに言うと山東半島はツングースが住んでいた。ツングースと
既に混血していた可能性だってある。そうなると越人=倭人と
ツングース系渡来人との関係は異民族間の関係ではなかった可能性が高いかもね
現時点では断定できないけど

>日本人とベトナム人と同タイプのHLA遺伝子については知らんよ
これはすまなかった。ソースを出しておこう
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm
これによるとB46ーDR8は四川省、タイ、ベトナムの集団で
もっとも多いらしいとの事。またB54−DR4は百越の一派の遺伝子とも
言われてるが満州族やブリアートでも出るのでよくはわからない。
俺の私見だがこれはチベット系の遺伝子ではないかと思う
今後の研究が待たれるね。

>トン・スイはタイ系でチベット系
>要素はもっと山岳地の住民の方が多いと思う。
俺もそう思っていたが調べてみるとそうでもないらしい
http://www.allchinainfo.com/ethnic/tong.html
http://www.allchinainfo.com/ethnic/shui.html
トン・スイ系はチワン・トン語族なのにチベット系とされており
しかも服装も同じチワン・トン語族のタイ族とは大きく違っている
http://www.allchinainfo.com/ethnic/tai.html
638日本@名無史さん:2007/01/25(木) 11:46:32
>確かに韓国人にニブヒ系容貌は多いね。南ツングースの満洲系より
>ニブヒに近いんじゃないかと思えるほど
韓人はやはりニブヒ系とタイ系部族の混血かもしれないね
ただ何故ニブヒは朝鮮半島から日本に渡来しなかったのかが疑問
朝鮮海峡を渡れなかったのだろうか?あるいは土着の縄文人
(これも南島系とサモイェード系の混血だが)に追い返されたのか
この辺も調べる必要があるかもしれない
639日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:14:39
>>634
河内王朝が別にあったのなら、
彼らは大和を支配してはいないだろ。
640日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:23:47
>>639
簒奪説氏の言葉を借りると、
記紀を編纂した「倭系」の連中が、
それ以前の扶余王朝を語る時に、
総じて善政だったり、
「仁」や「徳」なんて字を使ってる時点で変だよ。

641日本@名無史さん:2007/01/25(木) 20:15:18
>>630
>八旗が消滅しないのは当然だろう?

その通り、満洲族の支配民族皆兵制度は、満洲族が都市に住み、農耕民族を
支配しても維持された。注釈は要らない。
お前はいままで、やれ全員ではないとか、やれ北満の満洲族がいるとか
言って逃げていたのだ。

>扶余は「文化程度の高くない農耕民社会でウルス制度に基づく国民皆兵制
>を維持できた」のか?

まず、近代国民国家ではないから、国民皆兵ではなく支配民族皆兵だという
ことは前に言った。その上で言えば;
扶余本国の扶余は少なくとも吉野ケ里レベルの、お前の言う「都市」に住み、
五穀のよく実る土地を奴僕に耕作させ、
そして支配層は「家家自有鎧杖」で、敵が来れば「諸家自戦」した。
奴僕は異民族か同民族か書かれてないが、戦争捕虜や被拉致民もいただろうから、
全部が同民族ではなかろう。
そうであればこれは農耕社会における「支配民族皆兵」か、少なくとも「支配層皆兵」
ではないか。お前の理論とだいぶ違うな。

>なぜ南下したのか?

理由は要らない。伽耶に現れた、という考古学上の事実があれば十分。

>なぜ歩兵中心の倭軍、百済軍が高句麗に対抗できたのか?

高句麗に対抗した倭はすでに扶余化した倭だが、倭が歩兵中心で、高句麗は
騎馬中心だったと、どうして言えるのか?
642日本@名無史さん:2007/01/25(木) 22:47:37
横レスだが、伽耶の地下式木郭墓が扶余の墓制であるというのは、
満州あたりにある扶余の墓と共通性があるという事なのかな?
643日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:48:42
>>640
倭国扶余書記にそう書かれてたんだろ。
あるいは、大和への挑発が、
仁徳期には弱まって、
融和策に転じてたとか。
644白馬青牛:2007/01/26(金) 01:56:38
>>632
わしが間違ごうても、自分で読む気がありゃあ解ろう。>>358の表1じゃ。
>>409は弥生時代の近畿地方で北方新モンゴロイド型形質が少なく、
古墳期に大量移住があったと、ゆうとられるんで。全文読めえや。
>>636
わしゃあ、騎馬民族云う概念に捉われず、渡来系が上層部となり、
現地民が圧迫された形態を云うとるんじゃ。島国なら英国のように、
アングロ・サクソン・ノルマンら外来者が征服民でケルト系の土着民は
圧迫された。日本だけが例外云うんは通用せんよ。文化も人も外来者が
持ち込んだ云う海洋思考と、自民族が社会発展により文化を作った云う
大陸思考(マルクス史観の発展段階説もその例じゃが、)、との違いじゃ。
どうも韓国人国粋派の起源論にこだわるんと共通する大陸的歴史観を
持っとるようじゃのう。
645日本@名無史さん:2007/01/26(金) 02:05:48
>>644
>日本だけが例外云うんは通用せんよ。

こういう論法こそ世間じゃ通用しないんだよ。
はじめに結論ありき。法則ありきで、
そこにあらゆる事象をあてはめようとしているとしか思えない。
日本も例外でないというならそれだけの確かな裏付けが無いと
何ら説得力を持たないの。いい加減気付けよ。
646白馬青牛:2007/01/26(金) 02:26:34
>>637-638
なるほど、B46−DR−7は、四川省、タイ、ベトナムに多いんか。
参考になったよ。有難う。
古アジア系ニブヒ(ギリヤーク)は、BB7−DR1かも知れんが、
ニブヒのハプロタイプが不明の段階のようじゃ。
下のサイトじゃあトン・スイ系やヤオ族までチベット系に含めとるが、
トン・スイ系は、支那・チベット語族のトン・タイ語群、トン・スイ系に
なり、ヤオ族はミャオ・ヤオ語群になるんじゃないか。トウチャ族が
正確には不明であるがギリギリ、チベット・ビルマ語群に含まれるくらい
じゃないか。生活様式もトン・スイ系はタイ河谷稲作文化でヤオ族は
焼畑狩猟の苗文化であり、ベトナム系は、タイ文化・ヤオ文化が混じった
越文化で漁撈要素の強い文化。高度地理的に海沿いの越文化、
里のタイ文化、山地のヤオ文化、更に高地山岳のチベット羌文化と住み分け
しとることも無視出来んよ。
647日本@名無史さん:2007/01/26(金) 06:46:38
>白痴青牛
358の表1
古墳時代の畿内
>渡来形質が特にきわだっている。
>短頭性は弥生時代に出現し古墳時代を経て受け継がれている地域的特性。(池田)

畿内に渡来系が多いのは文献史的にも当たり前。
で、これが何で、扶余が征服したという騎馬民族説へと飛躍するのかな?



648日本@名無史さん:2007/01/26(金) 07:26:35
>>643
倭国扶余書記って何だ?
649日本@名無史さん:2007/01/26(金) 13:47:25
扶余はツングース、北方民族という固定観念が強過ぎる。
秦の時代に、長城作りのめに、楚越の民が遼東半島に移動し、扶余、
後の高句麗の支配地域に重なっている。

楚越に限らず春秋戦国時代に滅ぼされた国の民も方々に散らばっている。
戦いに馴れた集団が亡命すれば、亡命先の先住民を征服することも可能だろう。

扶余、百済、高句麗には、とくに呉楚越の民の影響が大きい。
もちろん日本にも及んでいる。

650日本@名無史さん:2007/01/26(金) 19:08:57
>>649
なるほど。日本の南方要素は扶余自身が持ち込んだ可能性だってあるわけだね。
651日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:58:18
しかし、ふよふよふよふようるさいスレだな。
彼らが来たかどうかさえ分らないのに…
652日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:35:57
日本の馬具研究の第一人者、桃崎祐輔氏によると、
応神陵・誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した2領の国宝の「金銅製透彫鞍金具」は、
中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で出土した鮮卑族の鞍と、
細部に至るまでほとんどまったく同一らしい

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/2goukura23.jpg
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/rappadou2.jpg
653652:2007/01/26(金) 23:10:05
ひょっとして河内を本拠にした西漢氏は鮮卑の流れをくんでるのかも。。。
654日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:27:34
>>653
倭人と安羅のハーフ
655白馬青牛:2007/01/26(金) 23:31:46
>>645
あんたの世間云うんは何を指しとるんか解らんが、江上波夫氏と
対談された伊東俊太郎氏が「日本人というのは確かに実践的、実証的
だけれども法則とか原則とか理論をつくり上げるのは弱い気がします。
アインシュタインの相対性理論は実験で作ったものではありません。
光速度一定という法則をグランド・スケールでパチッと仮説として出す
ようなところがあります。」と云われたが、西洋の学者の事物の証明は
認識出来ない云う学問の出発点と日本人に多い事物の証明は真理の探究で
可能とする発想の違いか。実際に事物の証明など不可能で、個人の主観で
信じるか信じないに過ぎん問題じゃが、証明に対する幻想は、文献主義等も
探求で知識が積み上げられるという幻想でやっとるんじゃろう。
法則性を無視したら井の中の蛙になるよ。
事象による確率を否定して何になるんか。裏付けも古墳期以降近畿地方
から北方新モンゴロイドから拡散したことを云うとるよ。
説得力たァ他者が判断することで、自分の意見を他者に融合させる必要も
あるまい。全体主義、専制主義じゃあるまいし。
656白馬青牛:2007/01/27(土) 00:18:46
>>647
近畿地方に多い渡来形質は列島各地に拡散したよ。縄文形質の強い地域も
徐々に渡来系が増える。
確率的に気候寒冷期、国家形成期の古墳期に征服民が渡来した云うこと
じゃ。
>>649
楚越の民かは、別としてツングースの南方起源はシロコゴルフ氏の
云われること。「ツングースの民族誌から彼らの衣服はシベリアの気候に
適していない。南方支那人や安南(ベトナム)人にツングース容貌が
見出されること。彼らの移住は満洲へ到達し、古アジア民族を東方や
南方の朝鮮半島へ追いやったこと。」等。確かに満洲人は朝鮮人や華北人
よりも目が大きく、シベリアの直系と思えん部分がある。
高句麗の習俗の「壻屋」も妻問婚で、平安貴族やチベット系、東南アジア
に見られる習俗であろう。殷も卵生神話も見られ、ツングースの華中以南
の影響は強いと思うよ。
657日本@名無史さん:2007/01/27(土) 01:13:17
>>649だが、
たとえば、
隋書東夷伝百済伝および北史百済伝では、
百済では王は天神や五帝の神を祭る。
またその始祖の仇台の廟を国城に建てて祀る。
国中の大姓には「沙氏、燕氏、賛?氏、解氏、真氏、国氏、木氏、苗氏」の八族がある。

天神はともかく、ツングース系扶余がなぜ五帝を祭るのだろう?
始祖は東明王ではなく仇台(優台)である。
「仇」、「優」は弓月君(融通王)の「弓」、「融」、そして「熊」にも音で通じる。
楚の歴代の王の名には熊がつく。日本にも熊のつくものは多い。
球磨市、熊本、大隈、熊野、久米氏、熊襲、天熊人(書紀)など限りがない。
古代天皇家にゆかりの地が多い。

また八族の中身だが、私の分析だが、木氏(姫氏・呉系楚人)、苗氏(白氏・伯氏・楚人)、
燕氏(燕人)、沙氏(長沙?楚系?沙相如?)、真氏(陳氏?)、解氏(扶余系?)、
賛?氏、国氏(お歯黒だから呉人または呉系楚人)と中国系亡国の民が少なからず含まれている。
ツングース系というより、中国南方色が強いように思える。

658日本@名無史さん:2007/01/27(土) 01:42:32
>>649だが、
百済の8族の姓は、朝鮮民族に多い姓の60傑の中では陳氏だけである。

それはさておき日本と百済の関係は強い。

物部氏、巨勢氏が、日本国、百済国のそれぞれに有力な将として仕えていることは、
欽明紀に、「天皇のもとに遣わした奈卒得文、巨勢奈卒奇麻、物部奈卒奇非らが日本から(百済に)帰った。」
という記述からわかる。いずれも百済の官制が付されているから百済の高官であることははっきりしている。
百済の物部の将としては、「物部烏(もののべかく)」もいる。山西省の天竜山石窟の第21号石穴は、
'ジュン将軍' という人物と彼の黒歯夫人(黒歯常之の娘)が造成した所という金石文「大唐物部将軍功徳記」が残されている。
この「物部ジュン将軍」は百済の物部一族の将である可能性がある。
木氏は日本では蘇我氏である。日本の蘇我氏の同族に紀氏、平群氏などがいる。

659白馬青牛:2007/01/27(土) 02:45:15
>>657
南匈奴・庫莫奚・高句麗ら北方民族の五部族制。民族学者の岡正雄氏は
「天孫降臨の際五つのトモノウが随行したという話、牧人社会に見られる
五組織の影響」とされる。鮮卑八姓・契丹八部・満洲族の八旗制等、
八組織も見られる。北朝時代の漢人は六姓じゃったか。
六村結合の新羅の方が、百済組織よりも漢人風じゃないか。
百済や日本の組織構成は北方遊牧狩猟民的要素も強い。
660日本@名無史さん:2007/01/27(土) 07:24:00
>>656
>確率的に気候寒冷期、国家形成期の古墳期に征服民が渡来した云うこと
>じゃ。

この時期、渡来系が多数来たのは確実だが、
秦氏や漢氏のようならば帰化民だから征服ではないよな?
あなたの頭の中では何天皇が何族で日本を征服しにきたと考えてるのだ?
形質人類学や気候の寒冷化の話はもういいから、
「具体的」に言ってくれ。
だいたいそういう事を話すスレなんだけどな。
俺は畿内の秦氏系の末裔だ。
祖先は日本に頭を下げて住ませて貰ったと思ってる。
661日本@名無史さん:2007/01/27(土) 10:32:37
>>658
>>649だが、
八族の中身について言っているのだが・・・
百済王家は姓は余あるいは扶余と称しているが、これは民族名・国名である。
同じ扶余という高句麗の姓は「余」ではなく、「高」である。
これも高句麗の高をとっただけの気がする。
秦氏は、始皇帝の秦の土地からやってきたから、秦氏を名乗っているだけだと思う。
始皇帝の姓は嬴(えい)である。

国の名前を名乗る王家は出自を疑う必要がある。必ず姓はあるからだ。
扶余も高句麗もいろいろな民族が、部族が主導権を握るため争っている
百済・高句麗の王家はとても怪しいのだ。秦氏の出自も秦ではないだろう。

天皇家とても同様である。かってはあったと推測している。

662日本@名無史さん:2007/01/27(土) 10:55:00
>>641

>その通り、満洲族の支配民族皆兵制度は、満洲族が都市に住み、農耕民族を
 支配しても維持された
>国民皆兵ではなく支配民族皆兵だという ことは前に言った。

ほう、「農耕を行っていれば」農耕民族、「騎馬戦術を知っていれば」
騎馬民族なのか・・
ご都合主義にもほどがある。

散々言ったと思うが、騎馬民族の強みは「騎馬戦術を知っている」だけで
はない。彼らの生活そのものが騎乗の訓練になるのだ。
扶余は騎馬の訓練を年がら年中していたのか?

>理由は要らない。伽耶に現れた、という考古学上の事実があれば十分。

どうしても高句麗や中国の影響を考えたくないようだな。
古代の東アジアは扶余と朝鮮と日本だけか?

>高句麗に対抗した倭はすでに扶余化した倭

扶余化とはどのようなことを言うのか?
騎馬戦術を受け入れたということか?
扶余が日本を征服し、支配者になったのならば、何故に建国が同時期の
同族の半島国家を攻撃したのか?

>倭が歩兵中心で、高句麗は騎馬中心だったと、どうして言えるのか?

倭軍が騎馬中心ならば、当然遺物にそれを示すものがあるよな?
高句麗が騎馬中心で無かったならば、騎馬民族なんて言われないよな?
663日本@名無史さん:2007/01/27(土) 13:34:28
>>646
>参考になったよ。有難う
どういたしまして

>古アジア系ニブヒ(ギリヤーク)は、BB7−DR1かも知れんが、
>ニブヒのハプロタイプが不明の段階のようじゃ。
おそらくニブヒというより古アジア語族は日本、朝鮮の先住民ではなかったかと思う
朝鮮にニブヒ顔が多いのは日本列島より朝鮮半島に多く移住してきたからではないかと思うね
ツングースやモンゴルに追われたからだろう

>生活様式もトン・スイ系はタイ河谷稲作文化でヤオ族は
>焼畑狩猟の苗文化であり、ベトナム系は、タイ文化・ヤオ文化が混じった
>越文化で漁撈要素の強い文化。高度地理的に海沿いの越文化、
>里のタイ文化、山地のヤオ文化、更に高地山岳のチベット羌文化と住み分け
>しとることも無視出来んよ。
となると日本語になぜチベット・ビルマ語系の言葉が入ってるのかが問題になる
おそらく山東半島まで北上した越人はそこでツングースだけでなく
周人であったとも言われるチベット系とも混血したのではないかと思えるのだが
山東半島から江南までの海岸線はまた周にも接しておりチベット系と混血していたとしても
不思議じゃない。そうなればなぜ弥生人に江南に既にある青銅器、灰陶や印紋陶や
原始磁器や三足土器などの江南の土器やその擬似物さえいっさい見られないのも
解明できる。それらはツングースやチベットとの同化の過程において失われたのだろう
664日本@名無史さん:2007/01/27(土) 13:40:30
>>656
となるとツングースは北方系であるという定義自体が変更されるね
つまり越人もワイ系部族も元は同祖だったという可能性だってある
それに楚越の民をツングースが同化してさらにモンゴルやテュルクと
混血してワイ系部族となった可能性だってある
そうなればツングースと混血したとされる越人と同一民族だったという事になるから
渡来系が土着系を支配したかもしれんが(それも渡来系が同化したのだが)
異民族の支配とは言い難いだろう
ツングースのナナイ族ですら民族的にはツングースだがテュルクやモンゴルと
複雑に混血してるというからワイ系部族が民族的にはツングースだが
楚越の民やモンゴル、テュルクと複雑に混血していても不思議じゃない
もしかしたらツングースはチベット系とモンゴル系の混血部族ではないかとさえ
思えるのだが
665日本@名無史さん:2007/01/27(土) 14:09:05
>>664の続き
おそらく越人は元からツングースと混血していたのかもしれない
俺の私見だがツングースはチベットとモンゴルかテュルク、そして
原タイ族との混血部族かもしれない
B54−DR4はツングースのハブロタイプかもしれないね
666日本@名無史さん:2007/01/27(土) 15:10:33
>>663-665
悪いけど、その手の話はスレ違い。
別のところでやってくれ。
667日本@名無史さん:2007/01/27(土) 16:22:30
>>666
そうか。それはすまなかったな
一つ言える事は渡来系も土着系も同一民族だから
異民族の征服はありえんと言う事だ。まして土着に同化した渡来系が他の土着系を
征服しても異民族の征服にはならないね。まして騎馬民族が
来たというのはまずあり得ないだろう
668日本@名無史さん:2007/01/27(土) 16:43:05
>>661

そういえば、吉田孝氏が天皇成立以前の大王の姓は「倭」だって
主張してたな。
669日本@名無史さん:2007/01/27(土) 19:45:11
>>662
>ほう、「農耕を行っていれば」農耕民族、「騎馬戦術を知っていれば」
>騎馬民族なのか・・

そんなことより、お前は扶余が南朝鮮の(吉野ケ里レベルの)都市に住んだら
支配民族皆兵を維持できない、と言っていたのだ。それなら、扶余が扶余本国で、
(吉野ケ里レベルの)都市に住みながら支配民族(あるいは支配層)皆兵を維持
していたという実態をどう説明するのか?

>扶余は騎馬の訓練を年がら年中していたのか?

私は扶余とか満洲族とか特定して、その支配形態を比較したのだ。
それらの民族が、お前の抱く「騎馬民族」のイメージに合うかどうかは
この議論と関係がない。

>どうしても高句麗や中国の影響を考えたくないようだな。
>古代の東アジアは扶余と朝鮮と日本だけか?

お前は扶余に中国を攻めさせろと私を責めるが、その当時の扶余にとっての
中国は西晋だ。扶余が鮮卑に敗れてヨクソに逃げた後、一部は故国に帰って
國を再建した。なぜそれが可能だったかと言えば、西晋が軍隊を派遣して
鮮卑を追い払ったからだ。この状態で扶余が中国に勝てというのは無理だろう。
670日本@名無史さん:2007/01/27(土) 19:48:53
<続き>
>扶余化とはどのようなことを言うのか?

もちろん、扶余に支配され、したがって扶余の影響を受けたということだ。

>扶余が日本を征服し、支配者になったのならば、何故に建国が同時期の
>同族の半島国家を攻撃したのか?

一般的に言えば同族の間でこそ覇権争いは激しい。
以前に話題になった南イタリヤのノルマン人だって、外敵が来なければ
ノルマン人同士で覇権争いに明け暮れていた。

>倭軍が騎馬中心ならば、当然遺物にそれを示すものがあるよな?

日本からは、少ないなりに馬兜や騎馬戦用の蒙古鉢型兜などが出る。
では、高句麗からこれらのものがいくつ出たと思っているのか?

>高句麗が騎馬中心で無かったならば、騎馬民族なんて言われないよな?

騎馬民族と言われるから騎馬中心なのか。
お前は扶余が騎馬民族だと言ってなかったか?
671日本@名無史さん:2007/01/27(土) 20:22:14
>>655
ほんとにわからん人だなぁ。
何も大胆な仮説や法則を思いつくのが悪いって言ってんじゃない。
しかし思いつく「だけ」なら子供だって出来るんだよ。
要は、あんたの「仮説」なり「法則」なりが成立するために
必ずクリアしなけりゃならん幾つもの矛盾点をちゃんと克服出来ているのか?ってこと。
例えばノルマン人の征服がどうこう言ってるようだが、
じゃあなんで日本には征服の事実が、ノルマン人の場合のように明白に、
くっきりはっきり残っていないんだ?って、このスレだけで何度も訊かれていることだが、
こんな単純な疑問1つ説明出来ないでいる。
「日本の場合は征服者が出自を隠す必要が生じたがイギリスの場合はその必要がなかった」
とか言い出してるようだが、もうその時点ですでに「法則」ではくくれない、「例外」が生じているわけだろ?
だから「日本だけ例外というのは通用せん」なんてアバウトな言い方していちゃいかんのよ。
ちゃんとそこんとこ折り合い付けてくれって言ってんの。

でも、こういうことをいうと「井の中の蛙」とか言い出すんだよなぁ〜。
672日本@名無史さん:2007/01/27(土) 21:55:06
反応がなかったのでもう一度聞く。

4世紀後半から始まる日本の騎馬文化は、
秦氏がもたらしたのではないのか?
673白馬青牛:2007/01/28(日) 02:32:10
>>660
帰化民であろうと支配層に属し被支配層じゃあるまいし。
征服民と同じ上層部に属しとるよ。列島支配者は扶余系の方が
新羅系より伽耶の出土品や五組織制から可能性は強いたァ思うよ。
日本に頭を下げて住まわして貰ったと思っている?
笑うたが、そりゃあ、あんたが卑屈な奴隷根性を持ちよるんじゃろう。
英国の渡来系のアングロ・サクソン人やデーン人の末がケルト系の人に
そう云うたら面白い。笑いが止まらん。卑屈屋さんは面白いこと云うのう。
>>664
混血や相互影響はあっても人種において基本的に、ツングース・
チベット人・日本人は、北方人種グループで、華南や東南アジア人は
南方グループに属するよ。
>>671
日本列島において人種的に渡来系が土着系を制圧したんは明白じゃ
ないか。出自を明確にせん唐王朝や新羅はどうか?くだらんよ。
例外事項を無理やり設定し、全体的傾向を無視しとる。木を見て
森が見えんのじゃろう。
674日本@名無史さん:2007/01/28(日) 02:37:21
思うよ
675日本@名無史さん:2007/01/28(日) 05:02:14
>>661
そうなると、百済王家を我々は「(扶)余」という姓だと考えてるわけだが、
姓がそうだから、百済王家が扶余族だとは断定できないということだな。

>>668
この本だっけ?
でもこれは中国側が勝手に名付けただけだからな。「倭」という姓は。

日本の誕生 (新書) 吉田 孝 (著)
ttp://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F-%E5%90%89%E7%94%B0-%E5%AD%9D/dp/toc/4004305101

ちなみに俺個人は、日本の天皇家にはもともと姓が無かったと考えてる。
以下のサイトと同じ考えだ。

皇室に姓はあるのか
ttp://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-38.html
2.皇室の姓は「倭」か
 『宋書』文帝紀元嘉二十八年の条には、
「秋七月甲辰、安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍。」(秋七月甲辰、安東将軍倭国王倭濟、安東大将軍に進号す。)
との記述があり、倭王である倭濟とあることから倭王の姓は「倭」であることが確認できる。この様な例は他にもあり、
百済王の「餘」姓は夫餘族の略、高句麗王の「高」姓は国名にちなむものと推定されている。しかし、ワカタケル大王
(倭王武)の名を刻んだ稲荷山鉄剣には、主人公ヲワケ臣の氏の名はない。当時の豪族はまだ氏の名を世襲して
いなかったのであろうか。
676675:2007/01/28(日) 05:05:21
3.倭人には元来「姓」がない
(略
倭王武の朝貢を最後に、一世紀あまりの間、中国王朝へ朝貢を行わず冊封も受けなくなった。西暦600年、
倭は随に使節を派遣した。
 『隋書』列傳・東夷・倭國に、
「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩?彌、遣使詣闕。」(開皇二十年(600年)、倭王あり。
姓は阿毎(アメ「天」)、字は多利思比孤(タリシホコ「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王」)と号す。
使を遣わして闕(みかど)に詣る。」
『新唐書』列傳・東夷・日本には、
「其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲凡三十二世、皆以尊為號、居筑紫城。」(その王の姓は阿毎氏。
みずから言う。初主は天の御中主と号す。彦瀲にいたるおよそ三十二世。みな尊をもって号とし、築紫城に居る。)

とあり、倭王の姓を「アメ=天」であると伝えている。
 以上のことから、天皇が姓を持たないことについては、以下のような説明が可能である。

 元来、我が国では、中国以外の東アジア諸国と同様に氏族の名と個人名を連称する制度や習慣は存在
しなかった。それどころか、中小の豪族や庶民には氏族の名すら存在していなかったのかも知れない。
しかし、中国の冊封体制下に入るためには姓を名乗る必要があった。そこで「倭国」にちなんで姓を「倭」とした。
しかし、遣隋使の派遣以後、倭は朝貢はしても終始一貫して冊封を受けようとはしなかった。よって冊封用の姓を
名乗ることもなかったが、姓を持たないことを不審に思った中国側から質問されて、苦し紛れに「姓はアメである」
と答えたりした。

_____________________________________________

こんな具合に、最初に中国が名付けた「倭」ではなく、
あらたに「天」と名乗ってることからして、天皇家にもともと姓があったと考えるのは難しいと思われる。
677日本@名無史さん:2007/01/28(日) 05:12:59
>>658
これだね。

【日韓】 百済遺民とされてきた唐の将軍、研究の結果「日本の物部氏」出身と判明[11/17]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1163861271/
678日本@名無史さん:2007/01/28(日) 07:17:05
>>673
>列島支配者は扶余系の方が

だから具体的に何天皇が扶余だとお考えなのかな?
でその証拠をあなたなりに言ってくださいな。
また得意の「論点はぐらかし」ですか?
679日本@名無史さん:2007/01/28(日) 07:27:02
>>673
>帰化民であろうと支配層に属し被支配層じゃあるまいし。
>征服民と同じ上層部に属しとるよ。

だれが秦氏が被支配層と言った?

>列島支配者は扶余系の方が
>新羅系より伽耶の出土品や五組織制から可能性は強いたァ思うよ。

ならその扶余がいつ来たのか?

>日本に頭を下げて住まわして貰ったと思っている?

秦氏は応神天皇に帰化を願い出たと思ってるが?

>英国の渡来系のアングロ・サクソン人やデーン人の末がケルト系の人に
>そう云うたら面白い。

アングロ・サクソン人やデーン人が秦氏のようならイギリスももっと平和なのにな。
笑いが止まらん。広島奴隷民は面白いこと云うのう。
680日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:32:49
>>657、658だが、

百済王家と秦氏は同族と考えている。
秦氏は新羅からきたという説が大勢であることも知っている。
それはともかく、こじつけに思えたら申し訳ないが、
弓月王の「弓(キュウ)」は音で「熊(ユウ)」に通じている。
百済の始祖「仇台」が「優台」とも書かれることと同じである。
優台の妻は、後漢の遼東太守公孫度であり、帯方郡を支配している。
この時期に、優台は一族を率いて遼東から帯方郡、馬韓と移動してゆく。
「弓」、「仇」、「優」はいずれも「熊(ユウ)」に通じている。
しかも、「新撰姓氏録左京諸蕃上」では、融通王(ゆうづうおう)は弓月君とあり、
ここでも「融(ユウ)」が使われ、「熊」を連想させる。また、
「弓」は音「ク」ももち、月は朝鮮語で「タル」だから、
「クタル」を「クダラ」と読めば、弓月王は百済王でもある。
さらに、仲哀天皇8年に来朝した秦氏の始祖功満王(こうまんおう)は、
弓月王の父でもあるが、「功満王」の「功」は音「ク」ももち、
「くまおう」とも読め、やはり「熊」でつながる。
百済の都のひとつに熊津がある。
百済王家と秦氏はもともとは「熊」姓であると推測している。
北方民族にも熊トーテムがあるが、八族の顔ぶれからいって、
主流は中国南方の呉楚の亡国人の集団で、主流は楚人、
この熊は楚王族の熊トーテムに由来していると思う。
681日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:38:11
>>680から続く

話は飛ぶが、秦氏の大酒神社だが、
大酒神社の「大酒」は秦酒公が祭られていることから改名されているが、
もともとは「大辟神社」といった。ダビデともいわれているが、
「辟」は辞書で調べると、君、天子諸侯の通称とある。
たとえば「辟王」ば君主の意である。
要するに「大辟神社」は「大君神社」でもある。
「大君(おおきみ/おおぎみ)」は古代の天皇の呼び名である。
つまり「大辟神社」は「天祖神社」の意である。
「天祖神社」といえば祭神は天皇家の祖神を祭る神社である。
祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ) であることが通例である。

なぜ秦氏の神社が天皇家の祖神を祭るのかといえば、同族であり、
祭神は天皇と同格だからと思う。秦氏のトップと天皇家はもと同姓であろう。

なぜ、天皇家は姓がないのか。愚考するに、楚の滅亡は紀元前223年、
秦の時代に遼東へ移り、そこにしばし留まり北方民族と主導権争い、
その後、朝鮮半島へ、一部は百済、一部は日本列島へと渡る。
落ち着くまでに何百年も経っている。いまさら新地で楚人時代の姓を名乗れば、
中国からは同族とばかりに侵攻される恐れもある。
百済は扶余にいたから扶余を、倭王は姓を名乗らず、
同族の秦氏は秦にいたから秦の名を借りたのだろう。
高句麗はまだ検討していないが楚呉越族と北方民族とのにおいがする。
682日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:44:20
>>673
ツングースは南方起源の可能性もあるがまた北方人種というわけだな
となるとますます同じ北方系のチベットとの関連がある可能性があるね
やはりツングースはチベットとモンゴルと南方系焼畑民族の混血の可能性はあると思うが

>>675
扶余というよりはむしろワイハク系部族集団だろう。おそらくは高句麗系の部族と戦い敗れて南下したのでは
ないだろうか?弥生時代の渡来系弥生人もおそらくこれ等の部族の一派だろう
683日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:56:06
>>681から続く

これもまだ詳細な検討をしていないが、秦氏は辰王朝に由来しているだろう。
秦氏は総称でいろいろな氏族が含まれ、分化してゆく。
古代天皇家の軍事・神祇を担った大伴氏は伴・幡・旗・秦氏、物部氏は物・勿・旗・秦氏、
で秦氏から分かれ、久米氏は熊氏でこのあたりは天皇家と同族、
紀氏は姫氏で呉系楚人である。



684日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:56:12
>>681
>高句麗はまだ検討していないが楚呉越族と北方民族とのにおいがする。
それはありえるかもしれない。実際高句麗には南方系の神話もあるという話もある
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-2-4.htm


685日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:42:31
>>669

>扶余が扶余本国で、
 (吉野ケ里レベルの)都市に住みながら支配民族(あるいは支配層)皆兵を維持
 していたという実態をどう説明するのか?

その豊かな生活を営み、定住していた扶余がなぜわざわざ「民族移動」する
のか?
しかも辺境に。
>私は扶余とか満洲族とか特定して、その支配形態を比較したのだ
満州族が中国を圧迫した時代、女真族は中国から影響を受けていなかったか?
>お前は扶余に中国を攻めさせろと私を責めるが
「民族移動」するならそれなりに身に迫った危険はあったんだろう。
混乱している中国は魅力ある移住先と思えないかい?
>西晋が軍隊を派遣して 鮮卑を追い払ったからだ。この状態で扶余が中国に
 勝てというのは無理だろう
俺はわざわざ「強い時期」の西晋に攻撃を仕掛けろなんて言ってないぞ?
お前が言うには、「扶余の移動は3世紀後半〜4世紀前半」らしいが、西
晋は八王の乱から混乱している。
その時期になぜ扶余は西晋に乱入しなかったのかね。
>もちろん、扶余に支配され、したがって扶余の影響を受けたということだ。
扶余文化が日本にあるから扶余は日本を征服したなどということが本当なら
中国文化が日本にあるから中国は日本を征服したなどということもいえる。
お前はどうしても自分に不都合な事を認めたくないらしいな。
それじゃあお前の国が世界から見離されても仕方がない。
686日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:53:37
>>670

>一般的に言えば同族の間でこそ覇権争いは激しい

そう来ると思っていたぞ。
そうこじつけるしか説明できないものな。
では聞くが、扶余が朝鮮、日本を征服して王朝を立てたならば、それを
示す伝承やらがあるはずだ。
「もともとは1つの国だったが、裏切り者が出て分裂した」とかな。
少し考えれば分かることだろう?
それともお前なりの考えがあるのかな?

>少ないなりに馬兜や騎馬戦用の蒙古鉢型兜などが出る。

それで日本が歩兵「中心」でなかった。とは断定できないな

>では、高句麗からこれらのものがいくつ出たと思っているのか?

高句麗古墳群において、騎馬民族の性質を表す壁画が多く残されている。

>騎馬民族と言われるから騎馬中心なのか。

騎馬中心でない騎馬民族とは如何に?

>お前は扶余が騎馬民族だと言ってなかったか?


お前が扶余の「騎馬戦術」やらなにやら言い出したのだろう?
687日本@名無史さん:2007/01/28(日) 15:42:10
『日韓同祖論』という妄説がある。
学問的な根拠がまったくない、まさに妄説であり、狂説である。
 日本人と韓国人が、何の関係もない別種の民族であることは、両民族の言語を分析すれば
すぐに理解できる。

【日本語】 【韓国語】
空(そら)→ ハヌル
稲(いね)→ ビョ
家(いえ)→ チプ
 白(しろ) → ヒンセク
白い(シロい)→ ヒダ

 私(わたし)→ ナ(またはネ)
貴方(あなた)→ タンシン
頭(あたま)→ モリ
目(め)――→ ヌン
手(て)――→ ソン(またはパル)
足(あし)―→ ダリ
犬(いぬ)―→ ゲ
猫(ねこ)―→ ゴヤンイ
虎(とら)―→ ホランイ(またはボム)
 猿(さる)―→ ウォーン(またはウォーンサンイ)

 刀(かたな)→ カル
 弓(ゆみ)―→ ファル
 槍(やり)―→ チャン

 比較してみれば、まるで違う言語であることが分かるであろう。
共通点が無いのである。なぜ、韓国人は「日本語と韓国語は、元は同じ言語だった」とウソを
つくのだろうか? 何かしら、良からぬ政治目的があるのは間違いないであろう。
688日本@名無史さん:2007/01/28(日) 15:43:03
■神輿の掛け声『わっしょい』について、韓国人の妄言■
【朝鮮日報HP:2005年/12月18日/06時59分の記事から】
 日本大阪では11月3日、「四天王寺ワッソ」という祭りが開かれる。
 日本の古代国家の基礎を築き上げた聖徳太子は、先進文明をたずさえて渡来した百済の使節を迎えている。
その様子を再現したのが仮装行列であるこの祭り。
 およそ4000人の参加者が大阪市内を練り歩く。四天王寺に至るまでの道路沿いには40万人あまりの人波が押し寄せ、
皆が口々に「ワッショイ!ワッショイ!」と叫ぶ。「ワッショイ」はハングルの「ワッソ(来た)」から来た言葉だという。

 もちろん、上記の朝鮮日報の記事は、何の根拠も無いデタラメである。
 『わっしょい』韓国語説を、最初に言い出したのは在日作家・金達寿(キム・タルス 1919―1997)なのだ
という。しかし、韓国語には『わっしょい』に相当する言葉が別にあるのである。

日本語     韓国語
わっしょい―→ ヨンチャ

 そもそも、我々日本人が神輿を担ぐのに、なぜ、いちいち異民族の言葉で「ワッソ(来たぞ)」と言わねば
ならないのか? 神道自体が縄文時代から続く日本の伝統文化であり、シベリア狩猟民族の子孫=韓国人は、
何も関係が無いのである。さらに、百済人も半島南部に住んでいた倭人(日本人)であり、韓国人とは別種の民族である。
 朝鮮日報の記事は「先進文明をたずさえて渡来した百済の使節」と誇らしげに書いているが、百済は古代日本人が建てた国
であり、百済の文明は日本列島の文明と同じレベルだったのである。百済も大和国家も日本民族によって運営されて
いたのだから、文明が同レベルなのは当然である。しかも、百済の文明は韓国人とは何も関係がないのだ。
 重要な事実は、古代日本に渡来した百済人は日本民族であり、韓国人の先祖であるワイ族は日本に来なかった(移住していない)
という事である。
689日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:22:06
>>681
>なぜ、天皇家は姓がないのか。愚考するに、楚の滅亡は紀元前223年、
>秦の時代に遼東へ移り、そこにしばし留まり北方民族と主導権争い、
>その後、朝鮮半島へ、一部は百済、一部は日本列島へと渡る。
>落ち着くまでに何百年も経っている。いまさら新地で楚人時代の姓を名乗れば、
>中国からは同族とばかりに侵攻される恐れもある。
>百済は扶余にいたから扶余を、倭王は姓を名乗らず、
>同族の秦氏は秦にいたから秦の名を借りたのだろう。

それはおかしいだろ。
それなら日本では「倭」姓を名乗るはずだ。
なぜ倭王だけ姓がないのかの説明になってない。
かつて宋書で「倭」姓で呼ばれたものを、
なぜ隋書で「天」姓に変える必要があるのか?
仮に別に本姓があって、それをあえて隠してるというなら
「倭」姓のまま貫いてればいいだけだ。
690日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:07:58

倭は他国が呼んだもの、あるいは国名で、自ら名乗った姓ではない。
691日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:11:47

矮小からきたのだろうともいわれる倭の呼び名が天皇の姓である筈がない。
最初に渡来した呉人の可能性がある。ワラと自称するらしい。
それに倭と呼ばれたのは秦氏集団の渡来前のことだ。
692日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:32:39





その呉王夫差(後述)のWine Vessel

http://www.asahi-net.or.jp/~cn2k-oosg/cina2005.jpg



693日本@名無史さん:2007/01/28(日) 18:43:09
 仁徳天皇陵は明治5(1872)年に前方部の石室が調査されてるんだね。
その時の副葬品のイラスト。
これが扶余と言えるかどうかは見る人しだいw
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/quest/k031.html

この水鳥の埴輪は津堂城山古墳からの流れだろ…
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/quest/k021.html
694日本@名無史さん:2007/01/28(日) 21:05:52
>>673
>例外事項を無理やり設定し、全体的傾向を無視しとる。木を見て
森が見えんのじゃろう。

話にならんな。
だいたいどこが無理矢理なんだよ?こんなの最初に感じる素朴な疑問だぞ。
おまえの方がよっぽど無理矢理な「法則」を設定してるだろ。
要するにおまえは木も見てない、森も見てない。
自分の「法則」にとって都合のいいものだけしか見えてない。くだらんよw
695日本@名無史さん:2007/01/29(月) 00:00:02
>>688
>『わっしょい』韓国語説を、最初に言い出したのは在日作家・金達寿(キム・タルス
> 1919―1997)なのだ
> という。しかし、韓国語には『わっしょい』に相当する言葉が別にあるのである。
>
> 日本語     韓国語
> わっしょい―→ ヨンチャ



韓国に神輿を担ぐ習慣があるなんて、はじめて知った。
696日本@名無史さん:2007/01/29(月) 01:04:57
>>680
扶余姓を名乗ったからと言ってほんとに扶余だとは限らないというのは分かるが、
しかしそこから発展させて、語呂合わせとまでは言わないが、
それでももって、百済王や秦氏が「熊」姓であり、中国南方系というのは無理があるだろ。

扶余の語源がツングース語で「鹿:ブヨ、buyo」だと考えられ、>>548
北方系が動物姓を持ってるということが分かるけど、
中国南方系民族が自らを北方系だと偽装した際、
そのほんとの姓が「熊」で、動物系だというのは論理矛盾だ。
動物姓なら、そもそもが北方系だという証拠だろ。
そうした語源追求の結果、推測できるのは、扶余族の一派である「百済」の語源が、

百済=クダラ、クタル、「弓」ク・「月」タル=弓月君/融通王(ゆうづうおう)

  「弓(キュウ)」≒「熊(ユウ)」で、

秦氏の始祖功満王(こうまんおう)=くまおう=熊王

で、いずれも「熊」から来ているということだけだ。
よって百済王家も秦氏も本姓は「熊」であり、
従っていずれも北方民族だということだな。
もし彼らが中国南方系なら、動物姓じゃなくて他の姓のはずだ。

まあ、確かに百済の武寧王が中国南朝との特別なつながりを持ってたことは事実ではあるが。

武寧王陵(宗山里古墳群)
ttp://inoues.net/korea/buneiou.html
>玄室内には木棺が置かれ、その材質となった木材は細胞の分析結果から、日本の近畿地方南部にしか見られ
>ない「コウヤマキ」であることが確認され、武寧王時代の百済と日本の関係、また、武寧王自身の出自などを巡
>って論争が巻き起こった。墓から、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、銅鏡、
>陶磁器など約3000点近い遺物が出土したが、驚くべきことに百済製の土器は1点も出土していない。すべてが
>中国の南朝からの舶来品であって、この王朝がいかに中国南朝に傾斜していたかを物語っている。
697日本@名無史さん:2007/01/29(月) 18:47:54
騎馬民族説は扶余が4世紀に北九州を征服し、
4世紀後半あたりに河内を征服だったね。
で、5世紀の古墳にみられる馬具などの騎馬文化がその証拠だったね。

この説はやっぱり無理だな。

というのも日本の初期馬具(七観古墳や新開1号墳)は、
北燕の鮮卑系宰相・馮素弗(ひょうそふつ)(?〜414) の墓と直結してる。
という事は日本の初期馬具は5世紀(414年以降)であって、4世紀の事象とは関係ない。

>652でも言ったけど、
誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した2領の国宝の「金銅製透彫鞍金具」も
中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で最近出土した鮮卑族の鞍と「細部に至るまでほとんどまったく同一。
藤ノ木古墳の鞍も鮮卑、
新沢千塚126号墳も鮮卑だ。http://inoues.net/ruins/niizawasenduka_museum.html
キーワードは「北燕崩壊」と「鮮卑」だな。

つまり5世紀からの騎馬文化は北燕崩壊により日本にもたらされたというべきだろう。
698月光仮面:2007/01/30(火) 09:44:21
つまり、秦氏というのも鮮卑と接点がある。話は変わるが神功が応神の
成人式なんだろうか洋酒を飲ませるときの能書きはどうもワイン、ブランデー
の前工程の歌いながら葡萄つぶしをする光景のような感じがするなー。
「この酒ミキは、我が酒ならず、薬クシの神、常世トコヨに在イマす、岩立たす、
少御神の豊トヨ壽ホぎ、壽ホぎ延モトへし、神カム壽ホぎ壽ホぎ来るほし、
献マツり来コし酒ぞ。餘アさず飲ヲせ。ささ」
岩立たすというのはメンヒル造り、スクナヒコナというのは高句麗神話等の
天神だろう。ほきくるほしというのは秋田大黒舞ではないか。
699日本@名無史さん:2007/01/30(火) 18:37:46
誉田山古墳は応神陵と言われてるけど、
陪塚から出土した「金銅製透彫鞍金具」の年代から、
実際は允恭(443年即位461年に歿)天皇陵ではないかと桃崎先生は言ってる。

と言う事は、4世紀後半と言われる応神天皇が、
騎馬民族であった根拠なんて何も無いのだ。
700日本@名無史さん:2007/01/30(火) 18:52:33
小柄な和人の国はあったけども滅んでしまい、渡来人が次から次に移住するのが
流行した時期に来た大柄な背の高い角張った顔の人が
701日本@名無史さん:2007/01/30(火) 19:41:05
かやじんや、しらぎじん、こうらい人やくだらじんが大量にきたので
飛躍的に文化が進歩して古墳は造るし河川工事はするし万博景気みたいやった
702日本@名無史さん:2007/01/31(水) 19:21:56
江上さんが亡くなられた時、
騎馬民族説について、
考古学的にはすでに否定されてると新聞で読んだ。
俺のような素人には、何をどう否定されてるのか疑問だったのだが、
なるほど日本の騎馬文化は、
馮素弗の墓の副葬品が基点になっているのなら、
時代的に無理があるよな。
そういう事だったのか…
703日本@名無史さん:2007/01/31(水) 19:58:44
秦氏は権威付けをするために付けた名前で本名は色々な名前があった
渡来人集団であり
704日本@名無史さん:2007/02/01(木) 21:32:49
馮素弗の墓から出土した冠帽飾り。
http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/Pict0024.jpg

見にくいが中央に胡坐をかいた仏の姿がある。
なら経典こそ渡来してないが、
「仏教徒」は5世紀に来てたんじゃないのか?
705日本@名無史さん:2007/02/01(木) 21:57:11
これから天皇陵の発掘も一部許可されていくそうだが、
5世紀代の天皇陵の副葬品から、
>704のような仏教系の装飾品が出てくる可能性大だな。
706日本@名無史さん:2007/02/01(木) 23:53:25
彡⌒ ミ
(◎д◎) 江上波夫
707月光仮面:2007/02/02(金) 13:28:39
http://www.yomiuri.co.jp/img/MM20070201195537210M0.jpg
明日香村で大規模な石垣出土、入鹿「谷の宮門」一部か
蘇我入鹿の邸宅「谷の宮門」にかかわると見られる大規模な石垣。右側には塀の跡も
確認された(奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡で) 大化改新=乙巳(いっし)の変、
645年=で、中大兄皇子(後の天智天皇)らに滅ぼされた飛鳥時代の大豪族、蘇我氏
の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおか・とうろく)遺跡
で、7世紀前半の大規模な石垣と塀の跡が見つかったと、奈良文化財研究所が1日、
発表した。 蘇我入鹿(いるか)らが城柵を巡らせていたことを描いた「日本書紀」の記述
と一致し、入鹿邸「谷(はざま)の宮門(みかど)」に付随する要塞(ようさい)の一部とみ
られる。古代最大の政変である改新の前夜、飛鳥を覆った軍事的緊張を物語る資料と
なりそうだ。 石垣は南北15メートルにわたり、最大で50センチ大の花こう岩を6〜7段
積み重ねていた。高さは最高1メートル。1段積むごとに土を埋めた丁寧な造りで、渡来
系の技法が使われたらしい。塀跡は石垣の東約1・6メートルで平行して見つかり、約
5メートルにわたって柱穴4つが確認された。 「日本書紀」の皇極3年(644年)11月の
条には、蘇我蝦夷(えみし)、入鹿の父子が、家の外に城柵を作り、兵で守らせたという
記述があり、蘇我氏が強大な権力を背景に、軍備の増強を進めていた様子がうかがえる。

708日本@名無史さん:2007/02/03(土) 02:38:29
2007年2月2日(金) 午後10時〜10時49分
総合テレビ

大化改新 隠された真相
〜飛鳥発掘調査報告〜
http://www.nhk.or.jp/special/onair/070202.html
645年に起きた古代史最大の事件「大化改新」。『日本書紀』によれば、天皇を脅かす権勢を誇り、改革の障害
となっていた蘇我入鹿に対する中大兄皇子や中臣鎌足のクーデターとされている。しかし、事件の舞台となった
都・飛鳥(奈良県明日香村)で次々に発掘される遺跡は、史実とは異なる真相を物語りはじめた。
現在、昨年に引き続き、甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅跡が発掘調査されているが、これまで発掘された蘇我一族
の邸宅跡、飛鳥寺など関係する遺跡を総合すると、自らが盾となって都を要塞化し、あたかも王権を外敵から
守ろうとしていた蘇我氏の側面が明らかになってきた。
その要が、飛鳥の入り口に位置し、都の外を一望できる甘樫丘だ。渡来系ともいわれ、大陸に情報ルートを
持っていた入鹿は、巨大帝国・唐が倭国に侵略の矛先を向けていることをいち早く察知、脅威に備え飛鳥の
防衛網構築に力を注いだ。その一方で、古代日本の海の玄関であった大阪・難波を整備し、東アジア諸国と
協調路線の外交を繰り広げようとした。それなのに何故、入鹿は殺されなければならなかったのか?
さらにクーデターの後、中央集権的な律令国家を目指して行われたという大化改新の政治改革についても、
『日本書紀』を古代中国語の音韻・語法から分析する最新の研究などから、その内容の信憑性に疑いが
向けられ始めている。
一体、「大化改新」の真相はどこにあるのか?番組では、要塞都市としての飛鳥の全貌を浮き彫りにしながら、
大化改新の隠された真相に迫る。

【演出】
○ VTR構成
○ 現在の飛鳥の風景が、コンピュータ・グラフィックスによる古代の風景に次々に変貌していく映像加工技術
を随所に取り入れている。
709>>708の関連レス:2007/02/03(土) 02:53:53
蘇我入鹿から飛鳥の人々
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1131953570/  284〜
【栄華】蘇我氏マンセースレッド【4代】
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/history/1051920599/  757〜

>天智天皇も中臣鎌足も守旧派(祭祀派・中国に強硬だが、危機感なし)で、
>蘇我入鹿が改革派(律令派・対中国警戒派)だったんだけど、
>守旧派の天智天皇たちが、入鹿らを暗殺した。その後、改革は後戻りした。
>しかし、それから10数年後、日本は白村江で中国に敗れ去る。
>それから、天智天皇らは慌てて、方針を大転換、中国式の律令体制を復活させた。
>そのことは、天智天皇らにとって、日本書紀を記すのは都合が悪かったということ。
>よって、記紀では、蘇我氏を悪く書くしかなかった。

>周囲の山に兵器庫を置いたのが扶余をまねたなんて韓国人によくある思い付きに過ぎないものだ。
>軍事の素養があったらそのような判断になるのは別に扶余のことを抜きにしても
>自然な判断であって、他に根拠となる具体的な証拠があるならともかく
>何もない。取り上げるべき発言では無いだろう。デンパでしかないね。

>白村江の戦いが如何にも愚かだったように見せるため
>絵に描かれた唐の小さな軍船(精々20メートル程度にしか見えない船)を巨大戦艦に仕立て上げ
>対称的に小さな倭軍の船が、敵うはずもないのに愚かにも向かっていくようにCGで描き歪曲するNHK

>唐はわざわざ海を渡ってまで日本を攻める気はあったの?
>瀬戸内、九州に作られた山城って唐を警戒してのものだったの?
>蘇我の館の配置って天皇の宮殿を包囲して威圧してるように見えたけど?
>だいたい、すめらみことを見下ろす場所に住むってどうなの?
>攻めてくる唐を警戒するってのより、自分たち蘇我を攻撃する地方の天皇派勢力の大和進入を警戒していたのではないの?

>>>>>あのあたりは、蘇我氏が活躍するずっと前から皇別氏族の豪族が防衛を任されていた場所なわけ。

>漢文の間違いを元に「日本書紀が最終段階で加筆されたのは事実なんです。」
>とか断定された時点で急激に冷めてしまったよ・・・
710日本@名無史さん:2007/02/03(土) 07:33:57
http://www.bunkaken.net/index.files/kihon/bushi/tori1.html
飛鳥元興寺は、崇仏を背景に絶大な勢力を持っていた蘇我馬子が建立した寺であるが、
馬子の子、入鹿は『日本書紀』に、「更の名は鞍作」「鞍作臣」と記されており、
また入鹿の乳母は鞍作部の出身者と伝えられる等、
鞍作部と蘇我氏は非常に密接な関係にあったと考えられている。


古墳時代中期からの馬具が鮮卑であることが確実なので、
蘇我は胡人系という事だろう。
711月光仮面:2007/02/03(土) 16:38:48
天智なんてのは2.26事件の青年将校と変わらないなー。
712保存しましょう:2007/02/03(土) 16:43:31
■古代カラ半島と日本国の古代史年表■
(省略・・・)
396年- 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。
397年- 百済、倭国に救援を求め、太子を人質とする。
433年- 百済、任那・志羅紀との同盟を強化。
(省略・・・)
475年- 百済文周王が任那に避難して即位。任那領=熊津(現・忠清南道公州市)に遷都。
477年- 百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる。
479年- 百済東城王即位。
490年- 北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)。
495年- 高句麗、百済の雉壌城を攻め、志羅紀が百済を救援する。
501年- 東城王暗殺され、武寧王が即位。
512年- 新羅が于山島(国)を侵略し、併合。
(省略・・・)
565年- 高句麗の侵略により漢城(コマ)が滅亡。漢城人(コマ人)集団が倭国に帰化する。←(注目!
594年- 新羅=真平王が隋に使者を派遣。隋により楽浪郡公・新羅王の冊封を受ける。高句麗への事大政策を中止。
598年- 高句麗が隋の遼西地方に攻撃を加える。これにより、隋と高句麗の戦争が始まる。新羅が高句麗と断交。
(省略・・・)
616年- 百済=武王が、高句麗と新羅の関係悪化を好機と判断し、新羅の母山城を攻撃。
624年- 新羅=真平王が唐に接近。唐の冊封を受けて、楽浪郡公・新羅王の称号を得る。
638年- 百済が、新羅の独山城を攻撃。
641年- 百済義慈王が即位。
641年- 高句麗が新羅の七重城を攻撃する。
642年- 百済、新羅を攻めるために高句麗と同盟。
645年- 倭国(日本国)に、三韓(百済・漢城〈コマ〉・志羅紀)の使者が派遣され、三国の調の儀式が行われる。←(注目!
      中臣鎌子と中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺。
645年- 倭国と百済・志羅紀の連合軍が、新羅を攻撃。旧任那領を奪還する。(ここも注目!
663年- 倭国の百済救援軍、白村江(はくすきのえ)戦争で唐軍に大敗。

★565年に注目! 高句麗人は古代日本に移住していないという事実!!
713日本@名無史さん:2007/02/03(土) 18:36:26


古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の
部分は空洞になっており,その部分に水をため,足の上にのせた
簀のこ(すのこ)の上に米を置く。足の間の火で炊く(というより
蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,湯気が立つ。
この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。

714白馬青牛:2007/02/04(日) 01:19:23
人大杉で、書かんかったが、スレは進んどるのう。
>>678
歴史に「証拠」なんぞ無いのに、馬鹿なことをゆうのう。
天皇家が土着系云う「証拠」も無いど。
>>679
渡来系が支配者で土着系が被支配者の関係をゆうたまでじゃ。
帰化した渡来系は今来で、少し古い渡来系が皇別とされたんじゃろう。
日本列島がそがーに平和じゃったんか?被支配民は奴隷化がつきもんじゃ。
奴隷民と書く処、あんた東国奴隷民の人か?
715白馬青牛:2007/02/04(日) 01:55:38
>>682
チベット系と東胡、貊等は長城地帯から東西に分かれたとも云えるけどね。
ツングースとモンゴルは混血云うより両集団の混在じゃろう。
南方焼畑民の苗族は華北地方から南下したんじゃろうが、現在の苗族は
人種的に南方グループじゃね。三上次男氏は列島倭人もワイ(濊)族じゃ
ないかとされるけど。ワイは元来満洲の漁撈集団で扶余・高句麗と近い。
韓人や倭人ら習俗的に東南アジア的要素の強い集団と違うように思う。
>>694
何つまらん戯言ゆうとんなら。わしの無理矢理な法則たァ何なら?
おどれが鎖国史観で妄想しとるだけのことじゃ。
>>700
角張った顔、エラが張っとったんは土着縄文系の人達じゃないか。
716日本@名無史さん:2007/02/04(日) 02:10:59
>>714
678ではないが、それだからはぐらかしだと言われるんだよ。

>だから具体的に何天皇が扶余だとお考えなのかな?

ここだろ、あんたが真摯に答えるべきところは。
言葉上の揚げ足ばっかりとってないで、ちゃんと考えて、答えてみろよ。
717日本@名無史さん:2007/02/04(日) 07:34:55
>>714
>歴史に「証拠」なんぞ無いのに、馬鹿なことをゆうのう。

信じられない事を言うな、あなたは。
江上さんの騎馬民族説の証拠は、古墳の副葬品としての「馬具」だったよね。
ところが日本の馬具の源流が北燕の馮素弗墓副葬品だとほぼ判明した。
馮素弗は415年没だ。
応神を4世紀後半だとして時代が合わない。
そして何よりも扶余ではない。
つまり江上説は崩れたんだ。
ましてやそれ以前の崇神天皇が騎馬民族なんてトンデモ説だ。

これから先研究が進み、馮素弗の少し前の墓が基点になったとしたら、
時代的には応神時代に合うが、だからどうだと言うのだ。
応神が鮮卑だとでも言うのか。
なんで彼らがあんな遠くから直接日本を支配しに来たと言えるのだ。

つまり○○族の副葬品があるからと言って、
埋葬者を○○族だと見る事は考古学ではやってはいけない事らしいのだが、
江上さんはそれをやっちゃったんだ。



718日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:32:02
さて、気になるのは伽耶の北方地下式木郭墓だが。

単純な疑問だが、あれは扶余の王家の墓なのか?
木郭というからには「即席」墓だろう。
さほど位の高くない人たちなのではないのか。
もっと言えば三輪王朝に雇われて、
鉄の産地を護ってた傭兵ではないのか?
719日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:17:35
人大杉ばっかで全体が見れん。
話が見えん
誰か教えてくれ
720日本@名無史さん:2007/02/04(日) 11:53:55
スサノオは牛頭天王とも言われるね。
これって仏教の話になってくるよね。
さらに新羅に来てから日本に来るとか、
須賀という地名に関係してたりする。

北燕崩壊後、5世紀後半あたりにやってきた鮮卑系の人だろう。
実質、日本に初めて渡来してきた「騎馬民族」だろう。

721日本@名無史さん:2007/02/04(日) 13:33:58
スサノヲは新羅には行っていないのです。
五十猛命の父は新羅に行っているのですが、その人物とスサノヲは伝承されるうちに
入れ替わって伝わったのです。
伝承ではこのように人物が入れかわって伝わることはままあります。
722日本@名無史さん:2007/02/04(日) 13:47:47
■古代カラ半島と日本国の古代史年表■
(省略・・・)
396年- 高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする。
397年- 百済、倭国に救援を求め、太子を人質とする。
433年- 百済、任那・志羅紀との同盟を強化。
(省略・・・)
475年- 百済文周王が任那に避難して即位。任那領=熊津(現・忠清南道公州市)に遷都。
477年- 百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる。
479年- 百済東城王即位。
490年- 北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)。
495年- 高句麗、百済の雉壌城を攻め、志羅紀が百済を救援する。
501年- 東城王暗殺され、武寧王が即位。
512年- 新羅が于山島(国)を侵略し、併合。
(省略・・・)
565年- 高句麗の侵略により漢城(コマ)が滅亡。漢城人(コマ人)集団が倭国に帰化する。←(注目!
594年- 新羅=真平王が隋に使者を派遣。隋により楽浪郡公・新羅王の冊封を受ける。高句麗への事大政策を中止。
598年- 高句麗が隋の遼西地方に攻撃を加える。これにより、隋と高句麗の戦争が始まる。新羅が高句麗と断交。
(省略・・・)
616年- 百済=武王が、高句麗と新羅の関係悪化を好機と判断し、新羅の母山城を攻撃。
624年- 新羅=真平王が唐に接近。唐の冊封を受けて、楽浪郡公・新羅王の称号を得る。
638年- 百済が、新羅の独山城を攻撃。
641年- 百済義慈王が即位。
641年- 高句麗が新羅の七重城を攻撃する。
642年- 百済、新羅を攻めるために高句麗と同盟。
645年- 倭国(日本国)に、三韓(百済・漢城〈コマ〉・志羅紀)の使者が派遣され、三国の調の儀式が行われる。←(注目!
      中臣鎌子と中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺。
645年- 倭国と百済・志羅紀の連合軍が、新羅を攻撃。旧任那領を奪還する。(ここも注目!
663年- 倭国の百済救援軍、白村江(はくすきのえ)戦争で唐軍に大敗。

★565年に注目! 高句麗人は古代日本に移住していないという事実!!

723白馬青牛:2007/02/05(月) 02:12:10
>>716
はぐらかし、全体で解釈せずわしの文脈の一部を揚げ足しとるんは、
オドレらじゃ。具体的に何天皇がまで解る訳あるまい。
しかも文献上の天皇家まで。王権を確保したんは扶余集団の可能性が
強いと思うが、梅棹忠夫氏の云われるツングース水軍説は濊集団を
想定されておられるんじゃろうが、その見解もあり得る。具体的種族まで
はわし自身見解がまとまっとらんよ。じゃが渡来系が土着系を支配した
云う見解は何回も云うとるよ。
>>717
歴史を信じられないこと?信じる、信じないで解釈する処、やっぱし
宗教団体の人か?江上氏は、副葬品も含め全体論から解釈されたんじゃが、
日本の馬具が北燕云う漢人政権の国に限定出来まい。鮮卑慕容部や
北ユーラシアを含めた広い視点で解釈すべきであろう。
まあ、北燕を鮮卑と勘違いしとるようじゃが、北燕人に鮮卑人も
多数おったろう。あんたの独善的解釈で、トンデモ説じゃギャァギャァ
吼えるしか出来んたァ可哀想に。カルト君は信仰じゃけー仕方ない。
>なんで彼らがあんな遠くから直接日本を支配?直接日本列島を支配
したかは疑問じゃ、百済・伽耶経由で直接じゃないと思うが、
遼寧は海路で南下するんに不便はあるまい。黄海は波が穏やかで、
東支那海のような波の高い悪路じゃない。
考古学でやってはいけない云うんはあんた個人の願望じゃろう。
思想統制する全体主義国家の概念を振りまわらせてものう。
724日本@名無史さん:2007/02/05(月) 06:17:04
>>723
反論できなくなると、相手をカルトだの宗教だの全体主義だのと罵り出す。
持説を盲目的に信じるカルト信者はおまえだろうがw
725日本@名無史さん:2007/02/05(月) 06:22:56
>>723
>具体的に何天皇がまで解る訳あるまい。

なんだよ、このいい加減な開き直りは?
だいたいの推測すらしていないのか?
よくもまあそれで自信たっぷりにあれこれ書けるもんだわ。呆れた。
726日本@名無史さん:2007/02/05(月) 06:29:13
>>723
あんたマジここから去ってくれ。
同じことばっかり言ってて本当にウザいし…

北燕は最初、高句麗人を王に立てたり、
漢人が鮮卑化し簒奪したりしてるみたいだけど、
五胡十六国の鮮卑系でしょが。

>江上氏は、副葬品も含め全体論から解釈されたんじゃが

江上さんの時代から比べ馬具の研究が進歩し、
あなたが言う「北ユーラシアを含めた広い視点」で見た結果、
日本の5世紀の馬具は鮮卑からの影響が確認されてる。
それは伽耶や新羅も同じ。
で、鮮卑が日本や伽耶・新羅を支配したなんて無理だし、
とんでもない話だと言ってるんだよ、すり変えないでね。
おそらく圧迫してくる高句麗対策に困ってた日本・伽耶・新羅が、
北燕と外交関係を持ったのだろう。
その舶載品が5世紀あたりから見られ、
新羅の金ピカ文化もそこからではないだろうか。

>具体的に何天皇がまで解る訳あるまい。

それを言うスレだ、ここは。
応神が扶余だと言った江上説を検証するスレだろうが。
アホでハゲてるだろおまえ。
20年も30年も前に読んだ本の知識にしがみ付いてるおまえこそカルトだ。
727日本@名無史さん:2007/02/05(月) 06:44:31
>723
「渡来系が土着系を圧迫」って、4〜5世紀の話のつもりなの?
いくらなんでも無理あり過ぎ。
1万年前とか言うならまだわからんでもないが‥‥

もしかして、あなたは「渡来人」の方ですか?
728日本@名無史さん:2007/02/05(月) 08:04:23
>>708
これ再放送ねぇーの?
729日本@名無史さん:2007/02/05(月) 11:36:49
>>726


持説を他人に押し付け、受け入れない人をカルト呼ばわりするのが
生きがいなかわいそうな人間なんだからちょっと優しくしてやれ。




730日本@名無史さん:2007/02/05(月) 19:46:23
>>685
>その豊かな生活を営み、定住していた扶余がなぜわざわざ「民族移動」するのか?

答は簡単、鮮卑に負けたからだ。
しかしそれを言う前に、お前はまだ私の質問に答えていない。
もう一度聞こう。
東夷伝扶余条の記述は、「騎馬民族が都市に住めば国民皆兵制度を維持できない」
というお前の説に合致するのか?

>満州族が中国を圧迫した時代、女真族は中国から影響を受けていなかったか?

扶余だって受けていただろうよ。装甲騎兵戦術も中国→鮮卑→扶余と伝わった
という説もあるくらいだ。

>お前が言うには、「扶余の移動は3世紀後半〜4世紀前半」らしいが

人の言ったことを歪曲するな。私は「3世紀末」としか言っていない。
扶余は285年に第一次滅亡し、それから世紀末までの間に伽耶の北方化が
起こるのだ。
伽耶に行くか、中国に行くかの選択なら上記の短い期間の話だ。
そしてこの時期の西晋は強かったのだ。

>扶余文化が日本にあるから扶余は日本を征服したなどということが本当なら

「扶余化した」とはどういう意味か、というお前の質問に答えただけだ。
私は金官を倭と一体と見なしているから、金官は「扶余化した倭」でもある
のだ。
731日本@名無史さん:2007/02/05(月) 19:49:45
>>686
>そうこじつけるしか説明できないものな。

同民族間の覇権争いが「こじつけ」なのか?
そんなら源平時代や戦国時代の争いはなんなのか?

>高句麗古墳群において、騎馬民族の性質を表す壁画が多く残されている。

確かに多くの壁画はあるが、騎馬が出てくるのは多くはない。そしてそのなかの
たった1枚に、数騎の装甲騎兵が描かれている。これだけで高句麗の軍隊が
「騎兵中心」だったと結論できるのか?
だいたい「騎兵中心」の軍隊とはどんな軍隊なのか?
ジンギスカンの軍隊、中国の三国志時代の軍隊、日本の源平時代の軍隊、
中世ヨーロッパの軍隊、その他なんでもいいが、お前の言う「騎兵中心」の軍隊
のモデルはどれか?

>お前が扶余の「騎馬戦術」やらなにやら言い出したのだろう?

その通りだ。扶余が装甲騎兵戦術を持っていたのは事実だ。私はそれ以上
のことは言わない。扶余を騎馬民族と呼ぶかどうかは「どうでもよい」と
いう立場だからだ。
しかしお前は「扶余は生のままの騎馬民族」だと言ったのだ。お前の説では、
騎馬民族は「騎兵中心」なんだろう?それなら扶余は「騎兵中心」ということ
になるが。
732日本@名無史さん:2007/02/05(月) 20:09:40
何てめえらいつまでもシコシコやってんだよ。

みんなで仲良くシコッてるからいつまでも終わらないんだよ。

弥生人スレを見ろよ。

1人の異才が反旗を翻した事で劇的に形勢が変わって白黒が付いた。

有能な誰かが「騎馬民族説をウソを簡単に見抜くスレ」というスレを
立てて反旗を翻さない限り、こんなもの堂々巡りで永遠に終わらねえよ。
733日本@名無史さん:2007/02/05(月) 21:11:23
>>731

>同民族間の覇権争いが「こじつけ」なのか?

では聞くが、なぜ朝鮮神話や日本神話に「元は一つの神族が治めて
いた」なり、お前の説を裏付けるものがない?
何故古事記にそのことが書かれない?

>だいたい「騎兵中心」の軍隊とはどんな軍隊なのか?

当然お前の言うように「騎馬戦術」を中心にした軍隊だ
まあ騎馬戦術を少し組み込んでいただけで「農耕民族」
の扶余が日本を征服できるとは思えんが

いい加減、根拠の無い推測は妄想に過ぎないことに気づいてくれ
734日本@名無史さん:2007/02/05(月) 21:21:14
>>730

おっと、見落としてしまった

>答は簡単、鮮卑に負けたからだ

ほう、民族ごと移動せねばならない事態になったのか。
それはスゴイ!!ならば、なおさら何故侵入しやすい
混乱した中国に行かなかったのか?という疑問が深ま
るが。

>東夷伝扶余条の記述は、「騎馬民族が都市に住めば国民皆兵制度を維持できない」
 というお前の説に合致するのか?

国民皆兵制度を残せたなら、新羅も百済も日本もそうだったろうな。

>人の言ったことを歪曲するな。私は「3世紀末」としか言っていない
>伽耶に行くか、中国に行くかの選択なら上記の短い期間の話だ

・・・・その短い時期に鮮卑が扶余を攻撃したと?
その時期の鮮卑って強かったかなあ・・


735日本@名無史さん:2007/02/05(月) 23:17:04
近年、吉林省帽児山墳墓群で、3〜4世紀のものを含む
扶余の支配者層の墓が見つかってるらしい。
扶余は伽耶にいたのか吉林にいたのかどっちなのだ?
736日本@名無史さん:2007/02/05(月) 23:32:44
>>735

伽耶にいたなら満州のと似た・・
というか同じものが発見されるだろう。
なんてったって「満州から朝鮮、日本にまたがる大勢力圏」
を形成していたからな。文化的に。

扶余征服説を信じるならの話だが
737日本@名無史さん:2007/02/05(月) 23:52:52
>>728
今日、今からNHKで再放送だよ。


NHKスペシャル
「飛鳥発掘が覆す大化改新」

2月6日(火)00:00〜00:50 / NHK
738日本@名無史さん:2007/02/06(火) 00:04:06
>>731

ついでに言っておく
源平は祖を同じくするが扶余のように「分裂」したわけではない
739白馬青牛:2007/02/06(火) 02:16:17
>>724
反論出来ずに吼えとるんはワレど。カルト信者と指摘されたんに
腹たてるたァ、正直にそうじゃ。云うたらええじゃないか。
>>725-726
あんたらの推測たァ妄想じゃないか。鮮卑系の燕王慕容氏を討った高句麗の
高雲討って龍城に自立した北燕の馮氏は漢人系とされとるよ。
前燕・後燕・南燕は鮮卑慕容部じゃけど。日本列島・新羅・伽耶も鮮卑文化
の影響は強い云うか満洲以東は大雑把に鮮卑系文化じゃ。
鮮卑が半島南部や列島を支配した可能性がないとも断言出来まい。
支配も広い意味で王朝協力者の渡来系も含めると可能性は強くなる。
HLAで日本人、特に西日本人に多い、B52−DR15がモンゴル東部に
多いことも考え、更に古くから遼寧紅山文化が縄文期の玦状耳飾に影響を
与えたこと等、古代日本文化は遼寧文化圏の一部とも云えよう。
新羅の金ピカ文化に匹敵する物はアルタイ以東じゃあ出土しとらんのじゃ
ないか。金ピカ文化はアルタイ以西の中央アジアじゃろう。じゃが、
満洲は金の産地で新羅人が金を購入した可能性はあるが、新羅に比べ
金ピカ文化に乏しい鮮卑拓跋部・高句麗・百済とは嗜好の違いもあろう。
北・中央アジアの知識が無い者が視野を狭めて、ゆうても意味がないわい
のう。学説に古いも新しいも無いわ。カルト根本主義者の戯言で同じ言を
繰り返しとるんはどっちなら。
740日本@名無史さん:2007/02/06(火) 05:23:07
>>739
>馮氏は漢人系とされとるよ

また話を散漫化する。
必ずそう言ってくると思った。
人種の話をしてるんじゃなく文化なんだけどね。
とくに三燕(前燕・後燕・北燕)の。
どうやらそこに日本の騎馬文化の祖形があるという話だ。
その考古学的事実を言ってるだけで、あなたは何が不満なんだ?

>(鮮卑が)支配した可能性がないとも断言出来まい。

もしそうなら河内王朝開祖・応神そのものが鮮卑である可能性を考えた。
今のところ何十年の差で無理。
じゃ次の仁徳〜も違う。
というか一国の宰相の名前や没年まで分かってる中国史において、
半島南部や日本まで支配する征東大将軍的人物がいたら、
必ず中国史に出てくるはず。

>支配も広い意味で王朝協力者の渡来系

秦氏や漢氏がそうではないかと思ってるが、
亡国により帰化してきた渡来民だと思ってる。
土地を与えられたという意味ではその土地の支配者かも知れないが、
日本を支配しに来た天皇の協力者という意味ではない。
741日本@名無史さん:2007/02/06(火) 05:54:39
>>736
文化的に満州から朝鮮にまたがる勢力圏を形成してたのだろうが、
扶余という民族の支配者層の墓が3〜4世紀の吉林にあるという事は、
あなたが言う扶余による日本簒奪説に不利ではないのか?
742日本@名無史さん:2007/02/06(火) 06:32:32
>>739
>カルト根本主義者の戯言で同じ言を繰り返しとるんはどっちなら。

お ま え だ。




743日本@名無史さん:2007/02/06(火) 21:28:36
>>739
>王朝協力者の渡来系も含めると可能性は強くなる。

どういう意味か知らんが、その王朝が渡来系という前提なら、
何天皇が渡来系なのか言ってくれと何度も言ってるのだが。
それを言わない荒っぽい議論はいい加減にやめてくれねぇか?
744日本@名無史さん:2007/02/06(火) 22:25:54
>>739
「広開土王碑の碑文」によれば、404年、
倭が、「不軌(無軌道)にも帯方界に侵入」しているが、
鮮卑が直接でも間接でもそんな倭(日本や半島南部)を支配するなんて無理。
五胡十六国の時代にそんな暇もないし、だいたい動機が分からない。
じゃ何で鮮卑系の馬具が日本に伝わったかと言えば、
外交関係しかないだろう。


745日本@名無史さん:2007/02/06(火) 23:17:49
>>741

俺を白馬青牛だかいうカルトと同じにしないでくれ。
そう、お前の言う通りなんだ。
ってか、よく考えれば征服王朝説なんて成り立たないんだ
746白馬青牛:2007/02/07(水) 02:03:35
>>740
遼寧地方に、日本の騎馬文化のみならず漁撈文化も祖形があるじゃろう。
東漢氏の墓地ではないかとされる新沢千塚126号墳出土の金飾が、
遼寧省北票県鮮卑墓の金飾と同巧のものであること、東漢氏(坂上氏)の
北ユーラシアに多い神牛伝説、ツングースの哈拉(腹)氏族制等、
あんたの鮮卑文化人=渡来系漢氏説には賛成するよ。
じゃが、河内王朝が鮮卑系と関係ないとも言い難い。鮮卑系の前燕は
370年に崩壊しとるし、4世紀前後が世界的に北方民族の南下時期で
あることから日本へ渡来して王朝を建てたとしても不思議じゃないよ。
半島南部の伽耶地方のみの渡来じゃあじ大量渡来にならんけーのう。
中国史においても高句麗・百済あたりなら支配者の出自が扶余と
記述しとるが、新羅・伽耶・日本列島等直接接触した地域じゃないけん
不明瞭なじゃないか。列島記述は漢人商人のまた聞き見聞程度に過ぎんよ。
>>743-744
何天皇が渡来系か云うて、天皇陵とされる古墳人骨から調査出来たら解る
問題じゃが、現在調査すべき国民的合意も出来てない。じゃが、現在本土
日本人の大半が渡来系の子孫であることは事実じゃ。
「広開土王碑文」の「倭」が北方民族の系統で南下した勢力が故地に
挑んだと解釈してもええし、世界的な北方民族の南下が東アジアにおいて、
中原に限られる云う方が不自然じゃ。4世紀以降の朝鮮半島南部や
日本列島の北方民族化による国家形成と習俗の変化をもたらした云う方が
妥当であろう。
>>745
カルト原理主義信者は、経典を読むように文献の一語一句を文字通り
解釈する連中のことでえ。国粋鎖国史観者に該当する。
わしのどこがカルト根本主義者なら?
747日本@名無史さん:2007/02/07(水) 05:53:05
>>746
>4世紀前後が世界的に北方民族の南下時期で
あることから日本へ渡来して王朝を建てたとしても不思議じゃないよ。

>世界的な北方民族の南下が東アジアにおいて、
中原に限られる云う方が不自然じゃ。

そればっかり‥‥
何かといえば世界的、世界的って全身の細胞がアホで出来てるだろおまえ。
念仏のようにただ同じこと何遍も唱えてりゃ妄想が真実になるとでも思ってるのか?
個々の事象を精査しないで何がわかるってんだよ。

とにかくおまえのカキコにはもう飽きた。
これ以上同じたわごとを繰り返すなら、いい加減消えてくれ。
748日本@名無史さん:2007/02/07(水) 07:14:02
亡国の鮮卑系が日本に渡来して王朝を建てたとしても不思議じゃないけど、
それが何天皇かと考えてたらば、
妙〜な出自を持つ応神天皇というのが一番臭いんだけど、
その妙な出自も倍暦を知らなかった日本書紀編者達のミスだということだし、
何よりも応神=騎馬民族のイメージを作ってた国宝「金銅製透彫鞍金具」が、
応神天皇の時代でない事が分かり、
つまり応神天皇が騎馬民族などということは何一つ証拠がないし、
応神時代、百済から馬2頭送られてるなどという書記の記述は、
逆に彼が騎馬民族でも何でもない事を示してると思う。

749月光仮面:2007/02/07(水) 14:11:41
韓国にも倭人は楽浪海中から移動したんじゃないかという説があるようだ。↓
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1671751
山海経の倭人は燕の北方、檀石槐に拿捕される倭人も満州あたりか。Y染色体
遺伝子でもO-47zというのが大量に韓国に残留している。檀石槐に拉致されたのが
漁労技術者であることからバイカル・アムール・松花江・ウスリー水系方面、遼河方面
の出自であろうか。これは、秦系が通ったシルクロードであるとか、アルタイ・鮮卑系
とかとは少々趣を異にするようだ。
750月光仮面:2007/02/07(水) 16:04:57
山海経等の文例から「海中」という言葉を考察するに「(中華から周囲を見て、海を隔てた
対岸の)土地に」といった用例が多い。つまり楽浪海中とは楽浪海の沿岸部にということで
あり、倭人はソウルからフヨあたりの、つまり、後の百済に住んでいたということであろう。
ここで、この倭人を漁労の巧みな満州北部方面とするとフヨ人ということになる。そして、
山海経にも出てくる朝鮮という言葉がないことは、やはり、朝鮮族は漢四郡の下層にいた
ということで、これは、漢四軍と倭人を含む移動集団の原三国という構図があり、倭人が
原三国の典型的民族というのが、漢の認識であったと考えられる。
751月光仮面:2007/02/07(水) 16:22:37
原三国プラス列島倭を含む超大国のフレームワークで、纒向における邪馬台国
建国を考えると、その国名はヤマト(東)・トトヒ(龍日)・モモソ(百襲)国であったの
ではないか。(渤海なんかの建国に際しても東京龍原府なんていうものを作っている。)
さて、沖縄には
http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/hazimeni/ryuuka.html
「明治以前に作られたと思われる琉歌(沖縄の短歌)の一つを示す。
百襲(ももそ)崇(あが)めてど、
  按司(あじ:地方豪族)も御万人(おまんちゅ:一般大衆)も
   汗はてど上る島襲(しまそ)くびり」というのがあるそうだが、沖縄のウガンジョ
(拝所)と似た構造の三輪神社に近い纒向で、もも‐しき【百磯城・百敷】
(枕詞「ももしきの」から転じて) 禁中。禁庭。禁裏。内裏。皇居。古今雑「山川の音に
のみきく―を身をはやながら見るよしもがな」
→〓―‐の【百磯城の・百敷の】
ももしき‐の【百磯城の・百敷の】
〓枕〓(多くの石や木で造った意、または、多くの石で造った城の意)
「おほみや(大宮)」「内」などにかかる。・・・これと百襲がおなじではなかろうか。
長ったらしくなったが、纒向建設の趣旨は超大国倭国の東方部分を列島と見立て
その中心に邪馬台国を建国するという趣旨ではなかったであろうか。

752月光仮面:2007/02/07(水) 16:28:13
龍が太陽を咥えたり、鹿が太陽を運んだりするのは中国、スキタイなど
ユーラシアに広く見られ、龍踊りなどのモチーフになっている。
753月光仮面:2007/02/07(水) 16:36:09
白村江の戦いとはそうした歴史的構図に決着し、日本と半島がそれぞれ別個の運命に
旅立つという歴史的な出来事ではなかったのか。ところで、こないだのNHK大化の改新
にあった戦艦ヤマトとか石投げ機械なんていうのは漫画の世界だよなー。模型を作って
お風呂場で実験すればいいのにさー。
754日本@名無史さん:2007/02/07(水) 18:45:00
鮮卑系の馬具は日本・伽耶・新羅からは出るが、
百済にはほとんど出ないらしい。
百済の王家が扶余系ということならそれも納得も出来る。
鮮卑と扶余はよく戦争してたからね。
俺は日本・伽耶・新羅は外交関係を通じて
鮮卑から騎馬文化を得たと思うのだが、
百済と鮮卑は相変わらず仲が悪かったのだろう。

ということは日本・伽耶・新羅は扶余ではなかったという事だろうw
755日本@名無史さん:2007/02/07(水) 19:45:10
>>753
扶余世界と中華世界の決戦だと思う。つまり中国の乱れに乗じて扶余世界ができて、
倭国がその小中華の地位にあったところに、新羅という裏切り者が中国を引き入れた。
白村江の戦いに敗れた倭国はもはや中華世界のなかにしか生きていく道はないことを
覚ったのである。
756日本@名無史さん:2007/02/07(水) 19:51:59
フヨ世界とチュウカ世界の決戦って‥‥w
妄想もほどほどになw
757日本@名無史さん:2007/02/07(水) 23:14:10
馬具の変遷を考えると、
鮮卑と関係があって、
なおかつ5世紀前後の半島南部・日本に関わってた部族…

やっぱり秦氏かなぁ?
758日本@名無史さん:2007/02/07(水) 23:25:30
しばらく見ない間にまた進んでるな

>>715
おそらくチベットと東胡も昔は新モンゴロイドだったがアルタイ語とチベット・ビルマ語に別れたかもしれないね
苗族は南方焼畑民だがチベット系のロロ族等に影響は与えたかもしれない
まぁスレ違いだから適当なスレや掲示板で話してみようと思っています
もちろんちゃんと礼儀を弁えるつもりです

>>748
さらに簒奪説の決定的な欠点はもし扶余が簒奪したとしてその際北方民族の首長の称号である
「ガカン」を全く使用していないという事と国名を変えていないという事
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
ガカンの語源の首長名は百済、加羅、高句麗でも使用されたが日本では応神天皇の名前は
誉田別尊(ほむたわけのみこと)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
○○ノミコトというのは北方系ではない事を示してるし中国の文献にも倭という
国名は変更されていない。それに簒奪があったなら中国の文献にも載るはずなのにそれがない
これだけでも簒奪説が全くの与太にすぎないのがわかる
759日本@名無史さん:2007/02/07(水) 23:27:55
>>750
という事はワイ系部族集団(後の扶余や高句麗を結成する)は倭人とツングース、モンゴルの混血かもしれないね
そうなれば満州人やモンゴル人が日本人と顔が似てるというのも納得がいくしワイと名乗った背景も理解できるだろう
つまり百済と倭があれほど仲良かったのも同族という意識があったからかもしれない
もっとも倭人も越人とツングースとの混血だから北方民族の一つだったかも知れない

>>754
倭・新羅・伽耶に渡来した北方人はワイ系ではなかった可能性もあるね
もしかしたら室韋の可能性がある
というのも室韋の地はモンゴル東部にありHLA遺伝子で日本人に多いB52−DR15が
モンゴル東部と言われてるからである。さらに現在のこの地にはダフール族と言われる
モンゴル系部族やオロチョン族と言われるツングース系部族もおり遺伝子的には日本人に近いとか
もしかしたら東胡の一派で室韋と呼ばれるツングースとモンゴルの集団が
漢人に楽浪郡や衛氏朝鮮の崩壊等で南部朝鮮や倭に追われたのかもしれない
そして倭人に同化したのだろう。ちなみに彼等が小麦を伝えた可能性はあると思う
760日本@名無史さん:2007/02/08(木) 00:19:43
官のカンは「カーン」か?
王位じゃないから違うよね。
761白馬青牛:2007/02/08(木) 00:47:12
>>747
カルト君がまだ吼えとるんか。日本だけが特別云う鎖国史観にゃ、はあ、
あいだよ。あんたこそ、鎖国閉鎖国家の北朝鮮へ移住したらええんじゃ
ないか。
>>748
日本書紀が5世紀頃に書かれた訳でもないのに、4〜5世紀の事が解る
訳でもない。応仁天皇が騎馬民族である証拠も無ければ、騎馬民族で
無い証拠もない。記述は証拠にならんし、記述の一語一句だけが歴史と
するんなら、信仰宗教カルト信者に他ならん。故地から移住地に馬を
送ったとて何ら不思議は無いよ。
>>749
倭は、満洲や黄海沿岸の漁撈民(遼寧・山東・朝鮮)、列島漁撈民も
含めて様々な民族の漁撈民の総称でしょう。後世の倭寇の様に。
同族でも陸地の農耕民が韓人と呼ばれたのではないかと思います。
『魏志』倭人伝でも、倭人を漁撈民族として描いてますし、農耕民として
描かれてませんね。
762白馬青牛:2007/02/08(木) 01:43:35
>>758-759
内田吟風氏によると『魏志』蠕蠕伝に現れる「可汗」号は、
「遅くとも3世紀頃から鮮卑族の間で用いられた尊称で、蠕蠕の創始では
ない。社崙は、ただこれを皇帝的な尊称にまで高めたと云うべきである」
とされる。扶余の「加」が諸加であり、皇帝的な尊称でないことも
考慮して考察すべきと思うが。
オロチョン族より、遼河発祥の契丹の末裔と云われるダフール族の方が
遺伝子的に日本人に近いんじゃないか。
http://www.iias.or.jp/old/research/res_seimei/seimeikouen.html
「7 人類集団の遺伝子の多様性〜中国少数民族間の遺伝的近縁関係を
中心に〜」に、海南島に住む漢族・リー族・ミャオ(苗)族・
ホイ(回)族の中で、ホイ(回)族だけは、「東アジア北部のひとつである
日本人と比較的近縁であった。」
エヴェンキ族・オロチョン族・ダウール(ダフール)族について、
「これら3集団とも東アジア北部の集団との近縁性が強く現れた。
特にモンゴル語を話すダウール族は日本人集団との親和性が高かった。」
と云う結果。
763日本@名無史さん:2007/02/08(木) 06:45:33
>>761
>騎馬民族で無い証拠もない。記述は証拠にならんし、記述の一語一句だけが歴史と
>するんなら、

おまえふざけてるのか、いい加減にせい。
そう言い方するなら天皇が「アフリカ人でない証拠」もないだろう?
あんたは上の方で「扶余じゃろね」といいながら、
自説に対して何の証拠を出したんだ?

記紀で皇祖は日向となってる。
箸墓古墳や、崇神天皇陵と言われる行燈山古墳と、
「くびれ具合まで同じ規格の古墳」が南九州で発見されてる事を、
俺は偶然などとは言わない。
強い地縁があればこそだろう。
その皇流が応神で途切れたとは思わない。
したがって応神は騎馬常習北方民族ではない。
そういう事だ。
764日本@名無史さん:2007/02/08(木) 07:05:50
それでよ、おっさん。
>>762のレスで、
オロチョン族より〜から下は要らない。
遺伝子がどうこうの話やめてくれ、少しはスレタイ考えろ。
お前自分の知識を虚飾にしたいだけだろ。
女が化粧するのと同じというか、おまえ女みたいなやつだなw
おかま青牛に変えろw
765日本@名無史さん:2007/02/08(木) 08:39:10
>>761
>騎馬民族で無い証拠もない

応神時代に初期馬具文化がないというのは、
応神が騎馬民族でない証拠だ。
悪魔の証明ではないが、
応神が騎馬民族だと思うのなら、
思う人間が証拠を出すべきだろう?
766月光仮面:2007/02/08(木) 12:40:59
>>755
新羅は、「もはや中華世界のなかにしか生きていく道はない」、倭、高句麗を敵に回
しても、唐にくっついてゆけば生き残れるだろう。これにかけ、アルタイの盟友を裏切
ろうという賭けに出た。が、こうした裏切りは漢族に朝鮮族の民族的弱点を握られると
いう危険もあったのではないかな。
767月光仮面:2007/02/08(木) 12:41:50
>>759 九州、岩手に多い河童伝説はこうした漁労系民族渡来と関係があるのかも。
768月光仮面:2007/02/08(木) 12:42:46
>>761 白馬青牛さん
漁労だと、バイカル、アムール、スンガリ、ウスーリ、豆満江、水稲耕作だと長江、
黄河、遼河、漢江、錦江、洛東江といった人の流れがあり、ますが、海浜、水辺に
住むものを倭ということでしょうか。
769月光仮面:2007/02/08(木) 12:51:48
>>768
以前にシロコゴロフのトゥングース湖北省原郷説を紹介していただいたんですが、
遼河から松花江までは近いので、南方民族の北上という線はありますね。
770日本@名無史さん:2007/02/08(木) 12:56:29
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
771日本@名無史さん:2007/02/08(木) 19:12:24
>>765
>応神が騎馬民族だと思うのなら、 思う人間が証拠を出すべきだろう?

そういうまともな理屈が通用する相手じゃないってことは
これまでのスレの流れで明らか。

「これは世界的な趨勢で、日本だけが例外のわけがない」
「証拠なんて大した問題じゃない」
「応神が騎馬民族「じゃない」という証拠もない」

ほざくことは、こんなたわごとの繰り返し。
他人をカルト呼ばわりするくせに、
自分が一番カルトバカなことにも気付いてすらいないところが恐ろしい。
772白馬青牛:2007/02/08(木) 23:01:23
>>763-765
そう云うんなら、天皇家が縄文土着系云う根拠もないね。
記述が書かれたんは、後世の時代じゃし、各種族の伝説をまとめた物語の
編集と解釈するんが普通じゃが、カルト宗教集団じゃあ、一語一句を真実と
解釈するんかいのう。なるほど、米国の「福音派根本主義者」が進化論を
否定するんと同じか。理由は聖書にサルから進化したと書かれてない故、
証拠がない云う訳か。
http://homepage2.nifty.com/aquarian/Essay/Es030430.htm
米国南部あたりじゃええが、米国北東部じゃあ云わん方がええで。
原理主義者さんよ。「悪魔の証明」云う言葉を使う自体、狂信者と云うか。
http://www.tokakushin.org/undou/no_net_uyoku/net_uyoku.htm
あんたらァ、第3回、3に出とる福音派、根本主義者の工作員じゃろ。
「古事記」「日本書紀」を建国の歴史として信奉し、西尾幹ニ氏の応援を
した訳か。民主主義には反対で専制国家を目指しとるんか。共産主義と
違わんのう。2で国粋派の小林よしのり氏にさえ妨害したらしいのう。
もっとも洗脳されたネット右翼らが、第4回の1にあるよう、密告云う
日本人にあるまじき行為を恥とせん者に愛国心などあるまい。
シベリア抑留でソ連の犬になった人達と同じ行為であり、共産主義国の
密告制度でも信奉しとるんじゃろう。あんたらも日本人の恥をさらした
「ちゃんねら」の一味じゃないんか?
権力を信奉する者は、真っ先に敵側に寝返る売国奴になるわいのう。
サイトの反対者を何でも反動的云う左翼的表現にはうんざりするが、
それ以上に腹立たしいんは愛国者気取りのネット右翼じゃわい。
日本人にゃあ、法以前に、義理・人情・やっちゃあいけん掟があるよ。
773白馬青牛:2007/02/08(木) 23:45:36
>>763
話が脱線したが、箸墓古墳は、4世紀前半とされる木製鐙が出とるのう。
日本の風土から騎馬戦は少なかったと思うが、全くの歩兵集団とも断言
出来んよ。
>>764
世界の諸民族が普遍的に化粧をするのが女だけと断定出来んのにのう。
フェミさんから差別じゃ・偏見じゃ抗議が来るど。
我が国に男が化粧する色小姓文化が無いと断言出来る根拠でもあったんか?
衆道と武家文化を否定する処、ユダヤ・キリスト教の原理主義的思考では
男色文化を否定しとるけんのう。あんたらの宗教の善悪倫理を歴史・文化に
持ち込むなや。あんたが、ええ青年でじゃったらケツぐらい弄ってやても
ええが、わしにつまらんカバチ垂れたけんのう。わしに抱いて貰うんは
あきらめえや。
774日本@名無史さん:2007/02/08(木) 23:49:23
カルトがどうだとかスレ違いな議論ばかりしてちっとも騎馬民族の話ではないのだが・・・
そもそも生長の家は知らないが韓国至上主義の統一協会が嫌韓やるとはとても思えないのだが
それにキリストの幕屋とやらはいわゆるシオニスト擁護団体なだけでそれがネット活動するとは
とても考えられんのですが・・・
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb119.html
では本題

>>762
北方民族はガカンという称号の前には単宇と呼ばれる(匈奴が使っていた)称号もあったらしいです
つまり東漢氏やその他の渡来人がもし簒奪するなら簒奪する前にこの称号を使うはず
それに簒奪する前に九州とかに独立王国ぐらいは作ると思います。満州族のケースを見てもそれは明らか
つまり簒奪説にはかなりの無理があるように思えてなりません
ダウール族が一番日本人の遺伝子的にも親和があるというなら弥生時代に渡来した北方系の渡来系弥生人はやはり
室韋の可能性が高いですな。その前に稲作を伝えた土着系弥生人(倭人)と同化したのでしょう
ダウール族はツングース的な面も見られておりもしかしたらツングースと混血している可能性もあるかもしれない

>>767
おそらく倭人を見た縄文人の伝承が河童伝説になってるのかも知れませんね

>>769
ツングースが湖北省起源ならもしかしたら南方系の倭人は既にツングースと混血しさらに山東半島でツングースと
混血してた可能性もありますね。つまり倭人は南方系要素を持つ北方民族だったのかも
さらに安本美典氏が唱えるビルマ系江南人が正しいならビルマの祖先であるチベットとも混血しているので
チベット系だったのでしょう。同じチベット系の縄文人が稲作を受け入れたのもそんな事情があるかも
775白馬青牛:2007/02/09(金) 00:45:17
>>768
水辺に住む者を倭と表現したんじゃと思います。東南アジでも高度によって
民族の違いがあるように、朝鮮南部でも海辺、水辺に住む者が倭人で、
農村の里に住む者が韓人であったと思います。朝鮮の櫛目文土器も
海岸地帯に集中しておるように、諸集団の住み分けを想定出来るんでは
ないかと。>>766に、月光仮面さんが書いておられるよう、
新羅の貴族層は、唐に対して弱腰で帰順した旧高句麗人が唐軍を撃退し
朝鮮半島の漢化を防いだようなもんです。新羅王朝は旧百済の地、
西南部の海賊集団にも冷たい。黄海・東支那の制海権を握った親分である
張保皐を殺してます。海洋王国新羅の後退で、高麗期も海民を差別し
楊水尺と賤民視しました。彼らは契丹に味方したり、倭寇にもなりました。
秀吉の朝鮮出兵でも、半島西南部の海士集団は李舜臣配下として、日本軍
から制海権を奪う等活躍しております。
しかし朝鮮は内陸的性質が王朝、権力者にあって、高麗朝の始祖が、
海賊上がり説や李朝の李氏の始祖が女真人(満洲人)で海賊説もあり
ますが、海民を軽視し海洋王国から内陸的になって中国諸王朝の属国に
あまんじた部分もありますね。月光仮面さんのおっしゃるよう、
朝鮮半島で賤民視された集団、後世の白丁集団が日本へ移住したんじゃ
ないかと思います。
776白馬青牛:2007/02/09(金) 01:57:25
>>774
彼ら、>>765氏の「悪魔」云う語句等、普通日本人は使わんじゃろう。
どうも福音派根本主義者の宣伝活動でここへ来とるんじゃないか。
シオニストの世界観でのう。統一協会と日本の保守政治家の親密は
云うまでもないけど。米国も日本も保守派には、宗教集団が入り込ん
どるよ。生長の家に限らず。仏教でも戦前の国柱会から分かれた○友会や、
そこから分かれた諸宗派があるよ。宗教だけじゃのうて米国のネオコンの
ように、かってのリベラル左派も保守系転向しとるよ。
匈奴の称号は単于であるが烏桓は大人と漢人が書いとるだけで烏桓内で
どう呼ばれたか解らんのに、「この称号を使うはず」はいただけん。
独立王国は伽耶でもええ訳じゃ。弥生時代に渡来した人達は、九州北部〜
山陰が主な居住地で、全国的には縄文形質が強い時期に、弥生時代に
渡来した云う根拠は何処にあるんか。室韋は、モンゴル部の祖先と文献的
には、されておるが、現在ダフール族の居住地と一致するだけで、
オロチョン・エヴェンキも住んどるんに、何でダフール=室韋と断定出来
るんか?ダフールの哈拉氏族制はモンゴルよりもツングースじゃが、
モンゴルとツングースの混血たァどういうことか。両者は言語の違いで
あって、人種じゃない。形質人類学的には、エヴェンキはバイカル型に
属するが、ダフールは不明じゃ。むしろ満洲族やホルチン部との関係が
強いんじゃないか。シロコゴロフ氏もダフールを契丹の末として、
遼河地帯から北上したとされる。
じゃけえ、列島において縄文系の人達も倭人に含まれるよ。
あんたァ倭人・ツングースを人種集団と誤解しとるど。
777日本@名無史さん:2007/02/09(金) 04:28:56
>>776
>「悪魔」云う語句等、普通日本人は使わんじゃろう

あなたはもう頭が変になってんじゃないか?
765で「悪魔の証明」じゃないけどもと言った。
あなたが「騎馬民族じゃないという証拠もない」なんて言うから。

モノ・行為の存在を巡って、
「あること」に比較して「ないこと」を証明することが
極めて困難であるという「悪魔の証明」だよ。

あなたは扶余じゃろねと上の方で言ってたんだから、
扶余だという証拠を言ってくれないと。
説を言うときには「論拠」が必要だからね。
もうひとりの扶余簒奪説氏はしきりに論拠を言ってたじゃないか。
彼は男らしいよ。

で、誰が天皇を縄文土着系と言った?話を摩り替えるな。
北方騎馬常習民族ではないという意味だ。
その論拠は簡単。
繰り返すが、何よりもまず皇祖地が日向と書かれた記紀という文献。
そして箸墓古墳や崇神天皇陵と「くびれ具合まで同規格の古墳」の存在。
そして応神で代替わりもなし。
普通、文献と考古学が一致したら事実となるのではないのか?
騎馬民族説が文献と考古学が一致してるのか?
このスレにいる以上、この部分を答えてくれ。
シロコゴロフやダフールやエヴェンキやチンコやどうでもいいんだ。

778日本@名無史さん:2007/02/09(金) 04:30:31
>「悪魔」云う語句等、普通日本人は使わんじゃろう。

え?
鬼、悪魔。
同じように、ごく普通に使ってるでしょ。
それに悪魔はもともと仏教用語なんだし、
何よりも>765のレスから、
すぐに福音派だの幕屋がどうのシオニストがどうのと
想像が飛躍しているあんたの方がよっぽどキモいよ。
779日本@名無史さん:2007/02/09(金) 04:53:50
>>773
箸墓古墳からたったひとつの木製鐙(あぶみ)が出た事で、
さっそく騎馬戦まで想定してるのか?
箸墓の主が騎馬民族という意味か?
実際そんなのあんただけだぜw

巻向から、ごくわずかだが韓式土器が出てる。
巻向連合が半島へ波及してた証拠だろう。
なら馬ぐらい知ってたし、何頭かは来てたんじゃないの。
何で騎馬戦へと発想が飛躍するんだよw
780日本@名無史さん:2007/02/09(金) 13:17:25
馬鹿だからだろう
781日本@名無史さん:2007/02/09(金) 17:34:25
>772>773>776
ついに逆上したようだな。
百歩譲って相手がシオニストだろうがネオナチだろうがw
きちんと理性的に反論してみせなくちゃ駄目だろ。
一方的にレッテル貼りを始めて相手を貶めようとしても
そんなもん自説に説得力が無いと認めるようなものだ。
782日本@名無史さん:2007/02/09(金) 21:58:25
>>772
……
何言ってんのコイツ?
783白馬青牛:2007/02/09(金) 22:46:44
>>777
頭が変なんは、あんたらカルト君じゃろう。元来歴史の考察に証拠なんか
無いど。わしゃあ総合的に扶余系集団の可能性を云うたんじゃ。
あんたァ男らしい云う言葉にこだわる処、あんたァ自身を余程女々しかった
思うとるんじゃのう。憐れなことよ。>>764で男が化粧する我が日本の
文化を馬鹿にしとる処もユダヤ・キリスト教思想の影響じゃないか。
騎馬常習民で無いんは、モンゴル部の先祖の室韋も馬が少なく、
騎馬常習民じゃない。山地の大興安嶺で馬飼育を中心の生業は出来まい。
騎馬常習民は、ステップ地帯の突厥じゃろう。学問たァあらゆる多角的面
から考察することじゃ。同規格云う単純な理由が根拠たりうるはずも無い。
結論は記述、文献で、聖書を一語一句文面通り史実と妄想しよるよのう。
あんたの神学の講義はどうでもええわい。
784日本@名無史さん:2007/02/09(金) 23:07:45
>>783
>男が化粧する我が日本の文化を馬鹿にしとる処もユダヤ・キリスト教思想の影響じゃないか。

ほ〜。今でもあんたは化粧して外出するのか。
で、世間の反応はどうよ?
みんな指さして笑ってるだろ?
そいつらみんな幕屋の手先ってかw
785日本@名無史さん:2007/02/09(金) 23:09:33
>783
>男が化粧する我が日本の文化

キリスト教圏の貴族社会だって男が化粧することあったじゃん。
鬘かぶったり白塗りにしたりして。
なんでそれが「日本の文化」なの?
786白馬青牛:2007/02/09(金) 23:10:13
>>778
わしゃあ「悪魔の証明」じゃ云わんよ。「悪魔」云うキワードたァ
全体の文から解釈せえや。ほんまパソコン世代のもんは、キーワードに
飛びつきカバチ垂れるわい。想像云うより文献の一語一句を真実と妄想する
宗教神学論で歴史を語る方が気持ち悪りいよ。
>>779
わしゃあ、騎馬運用が困難な湿温地帯の日本列島で、騎馬戦が主体じゃ
云うたこたァなーで。箸墓古墳の被葬者も騎乗の習慣があったんじゃ
ないか云うたんじゃ。
>>781
逆上しとるんは、あんたらカルト根本主義者じゃないか。
あんた自体が理性的に反論せえや。ほいじゃあ、あんたらが好きな「証拠」
云う言葉を使うたろうか。カルト信者でない「証拠」を示せ。
あんた自身の意見も「証言」で「証拠」にならんのう。
>>782
わりゃ、日本語も読めんのか。
787日本@名無史さん:2007/02/09(金) 23:17:18
>786
ついに発狂、白痴狂牛w
788日本@名無史さん:2007/02/09(金) 23:26:06
だめだコリャw
789白馬青牛:2007/02/09(金) 23:33:48
>>784-785
残念じゃが、わしゃあ化粧せんねえ。ほいじゃがあんたァ世間じゃ、みんな
じゃあ、気にして化粧せんのんなら、あんた自身が世間に怯えとる弱虫じゃ
宣言したいんかのう。
ほれ、人の文で揚げ足取りしゃあがる。西洋で男性モードが地味に
なったんは、プューリタンや産業革命の影響と諸説あるが、
16〜19世紀に徐々に進行したんじゃろう。
男色文化において西洋は、公然と男娼がおった西・中央・東アジアと違い、
キリスト教の影響から表面的タブーとされた訳じゃ。実際は西洋でも
男色があったんは云うまでもない。
790日本@名無史さん:2007/02/09(金) 23:38:20
>>773で箸墓古墳の木製鐙の事に触れ、
>日本の風土から騎馬戦は少なかったと思うが、全くの歩兵集団とも断言
>出来んよ。
と軍事の事を言いながら、
786では
>箸墓古墳の被葬者も「騎乗の習慣」があったんじゃ
>ないか云うたんじゃ
と摩り替える。

こいつ心底ヘタれだなwww
791日本@名無史さん:2007/02/09(金) 23:44:38
>>786
>わしゃあ「悪魔の証明」じゃ云わんよ。「悪魔」云うキワードたァ

と自分がキワードにこだわったと言いながら、

>ほんまパソコン世代のもんは、キーワードに
>飛びつきカバチ垂れるわい

と人がキーワードにこだわったことを批判してる。

こいつ広島のクズ?


792日本@名無史さん:2007/02/09(金) 23:59:16
>>783
>頭が変なんは、あんたらカルト君じゃろう。元来歴史の考察に証拠なんか
>無いど。

説を出すとき証拠がいる。
そんな事は当たり前。
江上さんの自説の証拠は馬具だったね。
歴史の考察に証拠なんか無いというのは江上に言ってるのか?
793日本@名無史さん:2007/02/10(土) 00:08:04


白馬青牛って女の腐ったようなヤツだなwww



794白馬青牛:2007/02/10(土) 02:29:48
>>790-791
つまらん。揚げ足取りと罵倒に終始しとるわい。パソコンの「キイワード」
世代らしいのう。
>>792
歴史に証拠じゃ云うんは、専門学問の知識を積み上げると、証拠が
証明出来る思う日本人学者に多い幻想で、江上氏によると日本人学者、
専門家の井戸堀りとなるんじゃろう。あくまで日本の専門家的価値観に
過ぎんよ。『世界史の新視点』で松田壽男氏が、「記録や出土品なんかは
我々が書く手紙と同じで一部分しか残らない。一部分それを摑まえて、
やれ何だかんだ論じていることはおかしいんじゃないか。」
江上波夫氏は「そうなんだ。特殊なものしか残らない。芸術家の手紙を
見ると、ほとんどが借金の申し込みの手紙なんだ。だから残ったんだ。
それ以上書こうとしないんだ、手紙っていうのは。よくよくのとき
書くっていうのはそういうことなんだ。(中略)だからやっぱり日本の
学者は、あなたがおっしゃるように非常に狭いね。驚くほど狭い。
これは歴史家に向きませんよ。」とされる。
その通り資料や出土品が手紙のように、特殊なものに日常の真実がある
訳も無く、特殊なものから日常を判断出来ん。学問の基本じゃね。
795日本@名無史さん:2007/02/10(土) 05:31:29
>794
特殊なのか非日常なのかはともかく、
「芸術家が借金の申し込みをした」という事実は事実で、
それ以上でもそれ以下でもないだろ。
せいぜいが、その時分の経済状況などを推理するくらいのもんだ。
実証的とはそういうことなんだよ。
ところが、中にはその手紙を指して、
「これは実は借金の申し込みじゃなくて、
詩を書いたんだ。わかるか?これは偉大な文学なんだ!」
あるいは
「この手紙を本当に書いたのは、実は別人なんだ!」
などとトンデモないことを強弁し出す奴がいるわけだ。
で、「なんでそう思うんだ?」
と訊ねられても
「そういうことはザラなんだ!証拠?そんなもの重要じゃない!」と言い張るだけなんだな。
滑稽だろ?
でも、その滑稽な香具師こそ白痴狂牛、おまえなんだよw
796日本@名無史さん:2007/02/10(土) 07:06:19
>白馬青牛

俺は前から思ってたんだが天皇はインド人だな。
これは事実なんだ。
証拠?そんなもん重要じゃない。
考察なんて必要ない。
どうしても証拠というなら「そうじゃない証拠」を出せ。
797日本@名無史さん:2007/02/10(土) 08:14:24
>>794
松田や江上の古い対談の一語一句を真実とするんなら、
信仰宗教カルト信者に他ならん。
798日本@名無史さん:2007/02/10(土) 10:04:58
>>794
>専門学問の知識を積み上げると、
>証拠が証明出来る思う日本人学者に多い幻想

知識を積み上げてるのじゃなく、
考古学的事実を提示して証拠としてるんだ。

あんたはまた摩り替えてる。
799日本@名無史さん:2007/02/10(土) 11:20:19
考古学の事実を無視し、
今まで自分が読んできた知識を積み上げて物言ってるのはお前じゃないか。

人を批判する言葉がそのまま自分に返ってきてるんだよw
800日本@名無史さん:2007/02/10(土) 12:29:09
白馬鹿青牛哀れ
801日本@名無史さん:2007/02/10(土) 12:35:40
広島お爺さん四面楚歌です
802日本@名無史さん:2007/02/10(土) 13:24:27
また例によって荒れてるな。そもそもカルトがとうとかはこのスレでは関係ないはず
どうしてもやりたいならここのスレが最適だろう
安倍晋三はやることなすこと米国ユダヤ様のご命令通り。犬7匹目。
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news2/1170469420/l50

では本題に入るか
>>776
>現在ダフール族の居住地と一致するだけで、
>オロチョン・エヴェンキも住んどるんに、何でダフール=室韋と断定出来
>るんか?ダフールの哈拉氏族制はモンゴルよりもツングースじゃが、
>モンゴルとツングースの混血たァどういうことか。両者は言語の違いで
>あって、人種じゃない。形質人類学的には、エヴェンキはバイカル型に
>属するが、ダフールは不明じゃ。むしろ満洲族やホルチン部との関係が
>強いんじゃないか。シロコゴロフ氏もダフールを契丹の末として、
>遼河地帯から北上したとされる。
>じゃけえ、列島において縄文系の人達も倭人に含まれるよ。
>あんたァ倭人・ツングースを人種集団と誤解しとるど。
それはすまなかったな。私も人種と文化を混同してたようだ。
803日本@名無史さん:2007/02/10(土) 13:28:43
>>802の続き
>弥生時代に渡来した人達は、九州北部〜
>山陰が主な居住地で、全国的には縄文形質が強い時期に、弥生時代に
>渡来した云う根拠は何処にあるんか
根拠ならいくらでもあるとは思うが
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/joukosi-nagare.htm
http://www.k4.dion.ne.jp/~isshun_y/page2.html
http://www.k4.dion.ne.jp/~isshun_y/page2-2.html
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-06.html
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-10.html
また民族学者の岡正雄氏もツングース系の渡来人が弥生時代に来たとも
語っている。
私の私見から言わせてもらうとこれらの渡来系弥生人は梅悼忠夫氏の言う
「ツングース水軍」(ツングース系民族で漁労民となった部族)ではなかったかと思う
そしてそのツングース水軍にはモンゴル系やテュルク系もいたと思う
そして半漁半農の民族でもあったと思う。おそらくよい漁場を求めたか
あるいは同じ半漁半農の倭人に仲間入りして日本に来たのだろう
HLA遺伝子のB44-DR13はこのツングース水軍の物ではなかったか?
実際日本海の沿岸部や東海といったところによく出てるからであるからだ
倭人に続く渡来系弥生人はおそらくツングース水軍だと思う
804日本@名無史さん:2007/02/10(土) 13:38:23
>匈奴の称号は単于であるが烏桓は大人と漢人が書いとるだけで烏桓内で
>どう呼ばれたか解らんのに、「この称号を使うはず」はいただけん。
>独立王国は伽耶でもええ訳じゃ。
もし騎馬民族による独立王国が伽耶に出来てたらそれは必ず中国の文献に載るはずだ
そんな話は聞いた事がないのだが・・・
まぁ白馬青牛氏を弁護的に書くとすればおそらく九州の邪馬台国の他に神武が作った
畿内の邪馬台国があり畿内邪馬台国は仲哀天皇が九州遠征中に出雲系に乗っ取られたのだろう
応神天皇はそれを取り戻すために遠征したわけだ。そして九州邪馬台国は渡来系、畿内邪馬台国は
渡来系だったが後に土着系の出雲(出雲も土着系とは言えないが)に乗っ取られたと見れば
渡来系が土着系を支配したとも言えなくもない。実際邪馬台国が二つあったとする仮説は
差し支えないと言う人もいる
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/yasumoto/yasumt4.html
実際日本には当時吉備や出雲、東海、北陸、関東、東北には数々のクニがあった
邪馬台国が二つあったとしても驚くべき事でもあるまい
805日本@名無史さん:2007/02/10(土) 13:45:59
>>784
幕屋という言葉が出てきたついでに話すと幕屋とは古代ヘブライの宮殿の名前だがこれが神社に結構酷似している
という話がある。さらに祭祀は極秘。しかもヘブライ(ユダヤ)人と日本人は結構風習で似てたり遺伝子も同じという報告もある
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb010.html
その関連が疑われてるのが渡来人の秦氏。もしかしたら秦氏はハザール遊牧民の一派だったのかもしれない
そうなればユダヤ教に入信したりヘブライ人と混血してる可能性もあるからね。さらにハザールは遊牧民
騎馬風習は彼等が持ち込んだ可能性は高くなると思う。やはり騎馬民族伝説を作ったのは秦氏かもしれない
806日本@名無史さん:2007/02/10(土) 14:12:32
もっと冷静になって牙民族について語れよ
807白馬青牛:2007/02/10(土) 22:56:49
>>795
あのねえ、松田壽男氏の云われるんは、
「日常茶飯事には書かない。その日常茶飯事こそ歴史の基礎なんです。
例えば偶然その人について残った手紙がニ、三通あるとする。
そのニ、三通がその人が借金を申し込んだ手紙ばかり残ったらどうするか。
その人が他人に恵んでやるような手紙が全部なくなっちゃたとする。
そうするとその人の一生の間、借金をしている人になってしまう。
その人について議論が出た時に、あいつは恵んだことのない、借金ばかり
していたやつだ。いやそうじゃない。あれはある人に恵んだこともある、
といっても、そんなこと記録にないからウソだ。そういう議論が成立
しちゃう。つまり、その書かれていない、手紙でいえば失われている、
その事実というものはどうしてさぐり出すか。記録は客観性の
ないもので、それから雑物を取り除くだけでなく、いろいろと他材料と
比べあわせて、客観性を持たせてくるのが歴史家の務めだろう。
ただ記録を抽出して並べさえすれば歴史が書けるなんて素人が考える
ことです。しかしそれを受け入れる一般の人には、そういう理窟が
解らないから、面白いほうが読まれる。」
出土品は珍しい物、歴史資料は、当時の権力者の都合で書かれる物で、
資料が真実じゃ思うんは額面通り一語一句受け入れる宗教的解釈に
過ぎんよ。
偶然残った手紙だけで、経済状況を推理するんかいのう?あんたの
トンデモ説にゃあ笑いが止まらん。
808日本@名無史さん:2007/02/10(土) 23:31:55
>>807
騎馬民族スレで、
応神天皇が騎馬民族だとちゃんと説明できないアンタに笑いが止まらん。w
809日本@名無史さん:2007/02/10(土) 23:39:35

白馬青牛って、何で本質をはぐらかして瑣末な話に逃げるのだろうか?
810白馬青牛:2007/02/10(土) 23:55:23
>>797-798
古い対談の一語一句云うても、新しい連中は江上氏が云われる「(記録に
しがみつく連中は、)結局、若造の経験のもない(世間知らずの)学生
には面白いんだ。」とされる。証拠たァ事実を隠蔽したい連中の戯言に
過ぎんよ。
>>802-803
このスレにゃあ、嫌韓厨ながら共産主義史観の受け売りの国粋カルト
宗教集団がえっとおるけえ、指摘したまでじゃ。
弥生期において、渡来系が多数が占めた根拠になっとらんよ。
九州西部は弥生期縄文形質じゃ。我が広島県ものう。
渡来系が全国に拡散するんは古墳期以降じゃろう。
梅棹氏の「ツングース水軍説」は4、5世紀の古墳期を推定される。
弥生期じゃないよ。水野祐氏は弥生期に狗奴国もツングースの影響を
云うておられるが。岡正雄氏の弥生文化における北方要素として、
ハラ氏族・畑作・飼育民文化のことか。それとは別に岡氏は古墳期の
父系的・ウジ氏族的・支配者文化を、中国東北部から朝鮮半島を経由して、
三、四世紀のころ日本列島に渡来し、牧畜民文化要素を含んでいるが、
「これは日本列島に支配者王侯文化と国家的支配体制を持ち込んだ
天皇氏族を中心とする種族の文化である」と、される。
HLAのB44−DR13は、朝鮮南部に多く、北朝鮮移住者が多い
中国朝鮮族に少ないことから、韓人が北陸、東海に多く移住したん
じゃろうて。弥生期にも沿海州のポリツエ文化等、北方要素は否定せんが、
弥生期に渡来系が大量移住したとは考えられんね。弥生大量渡来説は
中橋氏が唱えられておられるが、人口増加率、年0、04%から
増えるもんかねえ。
811日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:06:37
>>810
日本語を正しく書いてね。
句読点が無茶苦茶なんで読み辛い。

○○氏がこう言った、××氏がこう言ったを、
いくら集めてみても真実にはならないんだよ。
単にあなたのお気に入り学者の意見を集めただけ。
812日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:17:17
>岡正雄氏の弥生文化における北方要素として、
>ハラ氏族・畑作・飼育民文化のことか。それとは別に岡氏は古墳期の
>父系的・ウジ氏族的・支配者文化を、中国東北部から朝鮮半島を経由して、
>三、四世紀のころ日本列島に渡来し、牧畜民文化要素を含んでいるが、
>「これは日本列島に支配者王侯文化と国家的支配体制を持ち込んだ
>天皇氏族を中心とする種族の文化である」と、される。

>三、四世紀のころ
を五、六世紀に訂正し、

>天皇氏族を中心とする種族の文化
を、天皇に亡命帰化を願い出た種族の文化に訂正するなら同意。

813日本@名無史さん:2007/02/11(日) 01:01:57
あっそ
814日本@名無史さん:2007/02/11(日) 01:25:03
>>807
>「 例えば偶然その人について残った手紙がニ、三通あるとする。
そのニ、三通がその人が借金を申し込んだ手紙ばかり残ったらどうするか。

どうもしない。借金を申し込んだというその時期は、もしかして経済的に困っていたんではないか?という、ごく常識的な解釈をするだけのことだ。だから

>その人の一生の間、借金をしている人になってしまう。
>あいつは恵んだことのない、借金ばかり していたやつだ。

とはならない。これが実証的ということだよ。
しかし、他人に金を恵んだという証拠が無い以上は、

>いやそうじゃない。あれはある人に恵んだこともある、

という推測をするのは無理があるし、それでもそう推測したいならそれなりの何か別な根拠が無くてはならない。

>つまり、その書かれていない、手紙でいえば失われている、 その事実というものはどうしてさぐり出すか。

それは想像力で結構。
だけど、それを何がなんでも主張するからには何らかの裏付けが必要だってこと。こんなの歴史学でなくたって当たり前のことだろ?
あんたは、その作業さえ怠っているんだよ。

>偶然残った手紙だけで、経済状況を推理するんかいのう?

はぁぁ‥‥どこまでバカなんだか。
その手紙を書いた時点での、と言ってるだろ。
そういうおまえは何も残っていない、想像の中にしか存在しない手紙から、妄想を展開しようと言ってるようなもんだ。
恐ろしいね、もしおまえが検察官なら、ありもしない犯罪でも妄想で捏造しまくるんだろうよw
815日本@名無史さん:2007/02/11(日) 10:41:27
>>810
>渡来系が全国に拡散するんは古墳期以降じゃろう。
この点には同意する

>梅棹氏の「ツングース水軍説」は4、5世紀の古墳期を推定される。
>弥生期じゃないよ。水野祐氏は弥生期に狗奴国もツングースの影響を
>云うておられるが
まぁ古墳期か弥生期かは各学者によって意見は分かれてるようだが邪馬台国が3世紀に成立してるところを見てると
弥生後期から古墳期初期に渡来したと見ている。ついでに言うと倭人にもツングース的要素があり(山東半島で得た物か?)
同化にはそれほど苦労はしなかったと思われる。この時期は高句麗の台頭や漢の楽浪郡設置等遼東半島情勢は
かなり激動になっておりおそらくそれからの避難民がツングース水軍ではなかっただろうか?
816日本@名無史さん:2007/02/11(日) 10:56:46
>父系的・ウジ氏族的・支配者文化を、中国東北部から朝鮮半島を経由して、
>三、四世紀のころ日本列島に渡来し、牧畜民文化要素を含んでいるが、
>「これは日本列島に支配者王侯文化と国家的支配体制を持ち込んだ
>天皇氏族を中心とする種族の文化である」と、される。
それは>>812氏ではないがおそらく亡命渡来人の事ではないか?おそらく秦氏や東漢氏の事だと思う
特に秦氏は10万人が移住したという話があるがこれは10万人が一斉に来たのではなく徐々に渡来したものと考えている
安本美典氏も弥生人であるビルマ系江南人が来た後で中国人が来たのではないかと言っており、この中国人が
秦氏や東漢氏といった大陸からの北方系渡来人であると解釈している。

>HLAのB44−DR13は、朝鮮南部に多く、北朝鮮移住者が多い
>中国朝鮮族に少ないことから、韓人が北陸、東海に多く移住したん
>じゃろうて
もしB44-DR13が韓人の物だったら当然ながらタイ人と韓国人に多いB44-DR7が
日本人にも出てきてもいいはずなのに全くみられない。むしろ韓人や倭人に影響を与えた
ツングース系の遺伝子と見るのが妥当だと思うが。まぁこれはHLA遺伝子の研究を広範囲に進めないとまだわからないと思う
817日本@名無史さん:2007/02/11(日) 11:00:35
最後に>>804で書き忘れたが二倍年歴を支持する立場から卑弥呼は崇神天皇の叔母にあたり崇神天皇は邪馬台国の王であったと見ている
そして九州の邪馬台国は渡来系であると見てるがだからと言って古田武彦氏のいう九州王朝には懐疑的であると思っている
ちなみに邪馬台国には秦王国というのがあり秦氏がこの頃から渡来して古墳文化に影響を与えたと見ている
818日本@名無史さん:2007/02/11(日) 19:50:34
奈良県高取の東漢氏の住居跡からオンドルが発見されてるね。
オンドルは華北がルーツらしく、
漢字でオンドルは一字で[火+亢]というらしい。
ペルシャまで通じる遺物が出る新沢千塚の埋葬者も東漢説が強い。
武と文に長けた胡系で製鉄にも絡み、
半島に居るには居たが日本に来て永住。

これこそスサノオのモデルだろう。
819日本@名無史さん:2007/02/11(日) 20:32:45
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
820白馬青牛:2007/02/12(月) 00:23:11
>>812
文献等残った物は客観性に乏しいわい。なんようのう、時代の権力者や
政治の思惑じゃの主観で書かれたもんじゃけえ、真実に近うするんは、
多面的考察から判断する以外ないよのう。
>>814
残った手紙だけで、借金し込んだ時期が、何で経済的に困った云う
結論を出せるんか。関係者や第三者の見解から借金した時期に何か購入
したか等、色んな要素を無視して短絡的結論を出すたァのう。
書かれたことのみで判断するんが文献を一語一句、解釈するカルト信者
ならではじゃのう。
ワレが検察官なら、犯罪者を犯してない者が、例えば日記に犯罪を
示唆する言を残したら、その人は証拠があるとして冤罪者が生まれる
ことになるど。じゃけえ、一面的解釈じゃのうて、多様な要素から
判断する方が誤差が少ない云うことじゃ。
>>815
邪馬台国の時代『魏志倭人伝』の段階で、舗装整備がされて無かった
ことも倭人社会のレベルは高いもんじゃないね。2、3世紀は寒冷化、
飢饉が深刻化した時期で朝鮮じゃあ楽浪郡崩壊期、中国本土の黄巾の乱の
人口減少、日本列島は倭国大乱の時代で、日本列島でも飢饉による戦闘、
人口減少が倭国大乱云うことじゃないか。ほいで4世紀頃からの北方民族の
大量南下移住となる。避難民の移住が多いことは同意。日本列島に移住し
各地を支配した連中も騎馬より水軍じゃろうね。
821白馬青牛:2007/02/12(月) 01:11:07
>>816
岡正雄氏は、ウジ氏族・支配者文化と云われとる。
そのビルマ系江南人云うんは意味が解らん。中国人たァ生田滋氏の
云われる港市の漢人商人、岡田英弘氏の云われる中国人商人の事じゃろう。
B44−DR13がツングース系なら韓国より北の中国朝鮮族に多く
おらにゃあ不自然じゃし、満州族にも多いと云うんは聞かんよ。
倭人が人種概念でないように、韓族も人種概念で単一種族と云えん。
ニブヒ等の古アジア系、東南アジア的農耕民、日本列島の縄文系に
近い者等、多種族がおったろうに。
822日本@名無史さん:2007/02/12(月) 07:00:36
>>820
>文献等残った物は客観性に乏しいわい。

おまえいい加減消えてくれねぇか?
騎馬民族説なんて文献も考古学資料も無いんじゃないか。
前までは馬具等の副葬品が「一応」考古学資料だったけどね。
そんな状態なのに「扶余じゃろね」なんて言ってたあんたが、
記紀という文献に客観性が無いなんて笑わせるぜ。
皇室の祖地と書かれてる日向に、
まったく考古学的なものがないのなら話は別だが、
畿内に匹敵する西都原古墳群の中からは、
今や3世紀前半とも言われる古墳も出てきて、
記紀を裏付ける充分な様相を呈してきてる。

文献も考古学的資料もないアホ説信じてるおまえが何言ってるんだ?
823日本@名無史さん:2007/02/12(月) 09:33:48
>>822
>前までは馬具等の副葬品が「一応」考古学資料だったけどね。

前までは、というのは現在は違うと言う意味か?
その通り、現在は違う。伽耶の3世紀末の北方文化、騎馬戦術、鉄製武器関係の
出土品、河内の金官式祭祀土器、5世紀の馬牧場、等々、「前までは」知られ
なかった「考古学資料」の数々がある。
それを征服と見るか、文化受容と見るかで分かれるに過ぎない。
824日本@名無史さん:2007/02/12(月) 10:42:52
騎馬征服厨が2人いますね♪
825日本@名無史さん:2007/02/12(月) 11:19:26
>>823

征服の可能性は極めて低いがね
826日本@名無史さん:2007/02/12(月) 13:10:22
>>823
「前まで」というのは日本や韓国の馬具が三燕に源流があると分かるまでだよ。
韓国も日本も鮮卑に征服されたわけじゃない。
伽耶に関しては馮素弗の墓より古いのがあるらしいのだが詳細は分からない。
もしかして前燕のものかもね。
それがもし「扶余」の物だとしても、日本にないのだから関係ない。
韓国の馬具研究家・金斗侮≠ノよれば日本の初期馬具は、
5世紀第3四半期の前半(450年代くらい)に位置づけられてる。
もう少し編年が早くなっても5世紀前半あたりだろう。
応神を強引に5世紀初頭にもってきても時代が合わない。
827日本@名無史さん:2007/02/12(月) 13:59:37
>>823
>伽耶の3世紀末の北方文化、騎馬戦術

あなたのレスを読むと、
まるで3世紀の伽耶に騎馬文化が存在したかのような錯覚をしてしまうので、
最新の編年です、参考までに。
白井克也「馬具と短甲による日韓交差編年」
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2003b_t3.gif

韓国も5世紀からですよ。
828日本@名無史さん:2007/02/12(月) 21:51:40
>>820
>2、3世紀は寒冷化、
>飢饉が深刻化した時期で朝鮮じゃあ楽浪郡崩壊期、中国本土の黄巾の乱の
>人口減少、日本列島は倭国大乱の時代で、日本列島でも飢饉による戦闘、
>人口減少が倭国大乱云うことじゃないか。ほいで4世紀頃からの北方民族の
>大量南下移住となる。避難民の移住が多いことは同意。日本列島に移住し
>各地を支配した連中も騎馬より水軍じゃろうね。
つまり南方系の倭人は倭国大乱と寒冷化による飢饉により人口が減少し、寒さに強い小麦を持っていた
ツングース水軍が日本列島の主流となったという事だな
貴重な話をありがとう。参考になったよ。つまり倭人が倭国大乱と飢饉により人口が減少し
疲弊していたので北方系のツングース水軍を王として擁立したのだろう。おそらくツングース水軍は
倭人から見て中立的であり小麦による農耕文化を持ってたので倭人勢力から重宝とされたに違いない
またツングース水軍も弥生後期から古墳にかけて渡来したと思われるのでツングースの十八番である
同化力により倭人化もしくは倭人と混血になって倭人の言葉や風習を受け入れてたので特に倭人勢力から反対もなかったのだろう
悪く言えばツングース水軍が倭国を乗っ取ったという事になるが奴国などが邪馬台国での連合国の一つになってるのでその表現は不適当だね
これは疲弊した倭人が倭人化したツングース水軍に倭国を委ねたという事だろう。そしてツングース水軍は倭人化して倭人はツングース水軍に
融合していったと考えられる
829日本@名無史さん:2007/02/12(月) 21:53:58
福泉洞古墳群は4世紀初頭〜7世紀の古墳群だね。
韓国の馬具(伽耶)が5世紀初頭からという事は、
その4世紀初頭に金官伽耶を立てたのは扶余ではないよね。
830日本@名無史さん:2007/02/12(月) 21:57:25
>>821
>そのビルマ系江南人云うんは意味が解らん
おそらくチベットから長江を経由して長江河口まで達したチベット系住民のことではないか?
トゥチャ族等、チベット系には長江沿いを移動したと思われるフシがある。おそらく長江で漁労民となったのか
長江沿いを移動し、長江に住んでいるチワン・トン語族等と混血した部族ではないかと思う

>B44−DR13がツングース系なら韓国より北の中国朝鮮族に多く
>おらにゃあ不自然じゃし、満州族にも多いと云うんは聞かんよ。
>倭人が人種概念でないように、韓族も人種概念で単一種族と云えん。
>ニブヒ等の古アジア系、東南アジア的農耕民、日本列島の縄文系に
>近い者等、多種族がおったろうに。
つまりB44-DR13はツングースではないという事か。おそらくそうだとしたら
白馬青牛氏の言うとおりかもしれない。他に思い当たる事がないからである
831日本@名無史さん:2007/02/13(火) 00:04:36
>>820
いやはや、致命的に頭の悪い奴だな。
>814の
>借金を申し込んだというその時期は、もしかして経済的に困っていたんではないか?
は、どう見ても推論の1つを述べているだけだぞ。
ところがこれがおまえにかかると
>借金し込んだ時期が、何で経済的に困った云う 結論を出せるんか。
と、いきなり「結論を出した」ことになってしまっている。
ここまで粗雑極まりない思考する奴も珍しい。
まさに白痴狂牛。
832日本@名無史さん:2007/02/13(火) 22:01:50
というわけで、
3世紀頃に半島南部・狗邪韓国を支配した「騎馬民族」というのはいなかったわけだ。
では何故そういう話になってたのか。
またそれが扶余だとなってたのか。
江上説を証明したいと願う韓国側のフライングだったのだろうな。
833白馬青牛:2007/02/13(火) 22:40:45
>>822
騎馬民族説に、文献も考古学資料も無い云う根拠は何か?
江上氏のどの著作の文からか具体的に云えーや。
西都原古墳の形態だけで、判断材料で記述を裏付けるに充分たァ
カルト信者は、短絡的解釈しか出来んのじゃのう。
>>826
>韓国も日本も鮮卑に征服されたわけじゃない。と断言出来る根拠は何や。
鮮卑・扶余・高句麗も同一の遼寧文化人じゃろう。
箸墓古墳の木製馬具は4世紀初頭とされるが、西都原古墳81号墳と
同じく、築造時期は考古学者の主観的推定じゃし、編年は難しいのう。
>>828
弥生末期云うたら、鳥取・青谷上寺地遺跡人骨は、山口・土井ヶ浜遺跡
人骨や福岡・金隅遺跡人骨よりも伽耶地方の礼安里古墳人に近いこと、
琴板に羊や牛と思える動物が描かれておること、卜骨占いの動物の骨が
全国最多となる220点が出土しており、古墳期大量渡来の尖兵として、
騎馬民でなく、水軍海民として渡来した連中で畑作地域から稲作地域に
移住して稲作を取り入れたんじゃろう。
834日本@名無史さん:2007/02/13(火) 23:16:07
>>833
広島のクズ

>騎馬民族説に、文献も考古学資料も無い云う根拠は何か?

文献は何があるんか言えや。

で考古学資料として、
応神天皇を4世紀後半として、
韓国も日本も5世紀から騎馬文化が始まるズレを説明せいや、カス。
編年に文句たれるならおまえが参加してみいやw
おまえみたいなクズなんか相手にされんぞwww

>韓国も日本も鮮卑に征服されたわけじゃない。と断言出来る根拠は何や。
韓国も日本も鮮卑に征服されたと断言出来る根拠は何や。


835日本@名無史さん:2007/02/13(火) 23:28:43
>>833

だから応神天皇が扶余だという根拠を言えと言ってるんじゃ。
言えないで偉そうにぬかすなカス。

さぁ言え!



836白馬青牛:2007/02/13(火) 23:34:27
>>830
チベット系が長江沿いを移動した根拠は知らん。山東なら太公望が羌族と
関連することと、青海青銅器人と山東人骨、山口・北九州渡来系弥生人骨の
類似性があるが。長江沿いは沿岸に北方形質がおったが、概ね南方形質で
あろう。
>>831
推論に過ぎんのに>>814は、常識的解釈じゃの、実証的じゃの幼稚園児
レベルの短絡的に解釈しとるじゃないか。借金は投資や他者に還元し
自らの懐が乏しくなった為急場をしのぐ為借金したかも調べてから
実証すべきもんじゃに。手紙や記録文書等、主観的な状況や見解で
客観的なもんじゃない。
>>832
4〜5世紀の北方民族の南下は、人類学的にも、、朝鮮南部や日本列島の
習俗の変化にも現れとる。何で伽耶木槨墓人が江上氏流に云うと
「騎馬民族」でないと結論出せるんかのう。
韓国側は1970年代頃は江上説を皇国史観として、反対論が多かったん
じゃないか。今でも古代の韓国人が古代の列島を征服した云う民族感情の
爽快感で江上説の一部分に賛成しよるだけじゃろう。ほいで古代韓国も、
満洲の諸民族の征服王朝であることは忘れて、扶余系は同族と解釈しよる
んじゃろう。韓国人も日本カルト国粋派と大して変わらん人もえっと
(たくさん)おるけんのう。
837日本@名無史さん:2007/02/13(火) 23:35:29
>>833

831は無視ですか?

恥ずかしい〜〜〜!www
838日本@名無史さん:2007/02/13(火) 23:42:35
>>836
>何で伽耶木槨墓人が江上氏流に云うと
>「騎馬民族」でないと結論出せるんかのう。

おまえ本当にアホ?
韓国の騎馬文化が5世紀初頭からなんだ。

何で3世紀後半からの伽耶人が「騎馬民族だ」となるんだ?
839日本@名無史さん:2007/02/14(水) 00:08:51
>>836
>借金は投資や他者に還元し
自らの懐が乏しくなった為急場をしのぐ為借金したかも調べてから
実証すべきもんじゃに。

なんで後から色々条件増やしてんだよ?
借金の手紙だけしか後世に残らなかった場合、
って前提じゃなかったのか?
いつもご都合主義なことばっかりほざきやがって、
もうおまえは出てくるな。
相手するだけバカらしい。
840日本@名無史さん:2007/02/14(水) 00:30:12

白馬青牛って女の腐ったようなヤシだなwwwwww
841日本@名無史さん:2007/02/14(水) 00:47:48
>>833
>築造時期は考古学者の主観的推定じゃし、編年は難しいのう。

土器の編年で築造時期は分かりますが何か?
842日本@名無史さん:2007/02/14(水) 13:02:13
白井さんの「日韓交差編年」は、
日韓の学者が協力して02年に出来たものだし、
伽耶の北方式木郭墓の事を言ってた申教授の研究なども、
もちろん参考にされてる。
白馬青牛さんはこれに文句あるのなら、
こんなところで能書き言ってずに、
今から馬具の研究家になって反論すればいい。
考古学者なんて井の中の蛙なんて大言壮語はいてたんだしさ。
今、世界で文句言ってるのはアンタ一人だけ。

843白馬青牛:2007/02/14(水) 22:06:40
>>834-835
わしに聞く処、江上氏の著作を読んどらんのか。わりゃ、読まずに
批判しとるんか?断言出来んことが、わしが鮮卑系じゃ断言したように
捏造かいのう。○×の二元論でしか解釈出来んたァ哀れじゃのう。
低脳の書くこたァ面白いわい。応仁天皇の出自が断言出来る訳あるまい。
確率論で扶余の可能性が列島縄文系土着民より可能性が強い云うたんじゃ。
わしが、偉そううにぬかす云うてものう。ワレが低脳振りが原因じゃけえ、
わしのせいにすなや。
>>838
わしの云う伽耶式木槨墓は、漢・楽浪式木槨墓じゃのうて、4世紀以降の
南シベリア式北方木槨墓のことじゃ。
>>839
条件増やすんじゃのうて、前提だけじゃのうて主観的な手紙文書を、
様々な要素から客観性を求めるもんじゃ云うことじゃが、文字面で
ダボハゼが如く喰らい付き、文面からのみ解釈する思考はカルト宗教信者
らしいのう。わし以上に馬鹿なあんたらの相手もしとるわしも馬鹿じゃが。
844日本@名無史さん:2007/02/14(水) 23:07:09
>>843
おまえ消えろ。
ウザい。
845白馬青牛:2007/02/14(水) 23:09:15
>>840
あんたァ日本人として腐ったようなヤシかいのう。
>>841-842
考古学者の編年が土器だけで解るんか?年代測定の基準たァ何か?
白井氏の著書を読んどらんので、答えようが無い。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/nendai/nendai1.htm
の、下線_にあるよう、「古墳・土器の年代観が総じて繰上げ傾向を示す」
こと、「仲間内だけの認識で年代繰上げを営々と続けてきた」等も、
捏造事件につながる体質かも知れん。まあ学界村の閉鎖社会においては
仕方ないのう。今、世界で文句言ってるのは、わしだけじゃ判断するんは、
あんたの勝手じゃが、誰しも、日本の学界村の親方小方制に疑問を持つんが
普通じゃないんかのう。
846日本@名無史さん:2007/02/14(水) 23:18:59
>白井氏の著書を読んどらんので、答えようが無い。

読んでないのに井の中の蛙などと言ってたのか?

「馬具と短甲による日韓交差編年」
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2003b.html

考古学者を井の中の蛙などとホザいてたお前。
反論してみや。

江上説を支持する人はもう出てこないんじゃないかな。

2ちゃんでホザいてるおまえみたいなクソが何言おうが、
まぁ何も変わらないんだけどね。



847日本@名無史さん:2007/02/14(水) 23:23:14
>>白痴馬糞

おまえ日本の馬具の源流が三燕・鮮卑にあると知らなかったんだろ?
あわてて知ってる振りも大変だな?w
848日本@名無史さん:2007/02/14(水) 23:34:16
>>833
上の文はよくわからないが私のレスに対するレスに関しては全文同意だ
初めて意見があったな

>>836
うーん。どうやら安本氏のいう倭人は「ビルマ系江南語人」というより
「チベット系山東語人」と言うべきではないだろうか?
849日本@名無史さん:2007/02/14(水) 23:35:47
>>843
その南シベリア式北方木槨墓が何で扶余とされてたのかが不思議だね。
馬具が出てきたからだろうが…
編年もしっかりされてないうちから扶余だと言われてたのは、
フライングと言われても仕方ない。
850日本@名無史さん
>>845
まぁ、おまえみたいな糞は
言ってる内容を批判できないんで、
「学界村の閉鎖社会」を批判するしかないよなwww
簡単な批判だね。