◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART21

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1日本@名無史さん
邪馬台国や狗奴国はどこ? 大和朝廷との関係は??
西日本に統一政権はあったか? 統一されたのはいつか??
どのような過程を経てそれらが進行していったのか??

倭人伝の信憑性や如何に? 記紀はどこまで真実を伝えているのか??
最新の発掘状況と最新の資料解釈を元に、古代王権の正体を推理する!!

根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起で活発に議論しよう!!

また〜り1000を目指しましょう!

前スレ:
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART20
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1149668599/
2日本@名無史さん:2006/09/16(土) 16:58:02
逃げ
3日本@名無史さん:2006/09/16(土) 17:03:47
しらん。
4日本@名無史さん:2006/09/16(土) 17:17:41
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
5日本@名無史さん:2006/09/16(土) 20:56:09
最近でも自分に都合のいいように歴史を書く場合が多いので、当然ながら
記紀も都合の悪いことは一切書かない
6太国:2006/09/16(土) 21:27:13
>>5
書いてある。君の言っていることはウソだ。
紀には武烈天皇の非業をちゃんと記述している。読んでないのか?
7日本@名無史さん:2006/09/17(日) 08:44:31
>>6
都合のいい事だから書いてあるんだ。
継体につながる易姓革命もどきを演出するため。読んでないのか?

あと「悪行」の意味で「非業」は使わない方がいいよ!
8日本@名無史さん:2006/09/17(日) 08:51:37
はいわかりました、よんでませんが一般的にうちの老人は自己の都合に良いことだけを
子供に伝えて悪いことして隣の土地を奪ったことはかくしています
よって隠してる部分を読むのが読んだといえると
9太国:2006/09/17(日) 09:53:16
>>8
ほんじゃぁ、紀をよく読め。

>>7
お前さんは、君んところの息子が非行少年であったと近所に表明するのが君
に都合のいいことなのか? 詭弁以外の何ものでもない。w
余は紀は当然全部読んでる。悪業といえばなおそのとおりだよ。
悪業なら、なおさら都合のいいことにはならんだろうが?w
萬世一系の演出だというのならばまだしも、一系無窮でなくなる易姓革命の
演出などするわけがない。ww
10日本@名無史さん:2006/09/17(日) 19:13:16
>>9

まあ付き合ってやるが・・
息子を殺してしまったがその理由が息子の非行というのなら
遠慮なくそれを吹聴するが。それも暴虐の限りを尽くしたと。
都合がいいからな。

それから記紀の編者も、当時の識者も、皇統断絶を認識していたと思うよ。
でもマジに「易姓革命」物語にしてしまったら一系無窮とやらが崩れて
シャレにならん。そこで「易姓革命もどき」ですよ。「もどき」。
「継体を暴君にしたてて」、「ま、遡れば応神に行き着くんじゃね?」
くらいの噂はあった継体に何とか正当性を与えて識者を満足させたんじゃネ?

ところで
もう少しもちつけ
wも控えめにな
歴史板は格調高くいこうぜ俺以外の人
11太国:2006/09/17(日) 19:30:05
「もどき」ではな〜い。一系は無窮であって、皇統は地球終末まで継続する
のであり、わが神州には易姓革命とか易姓革命もどきという語は皇統に存在
しない。残念か?w
武烈の非行、悪行が名誉であるわけがない。お前はそれを記紀の編纂者が
名誉だから喜んで載せているとか言っているように聞こえる。
笑わせるな。ww
1210:2006/09/17(日) 20:05:38
>>11
武烈は不名誉、継体が名誉。両方載せて「都合がいい」。
それだけの事。もう飽きてきたぞ。

ところで「神州」ってあーた・・皇国史観?
だとしたら何故?今どき?
13日本@名無史さん:2006/09/17(日) 20:16:54
スマソ
何で都合がいいのか理解できない
14太国:2006/09/17(日) 20:43:45
>>12
お前はムショ行きのようなことが名誉で都合のいいことなのか?w
詭弁もいい加減にしろ。
1510:2006/09/17(日) 21:37:24
>>14
こりゃあーたは歴史の前に国語だな
おいらの文章で>>14が組み立てられるのはすごいよ。
何らかの素質はあるかも知れないが国語的には駄目。

言いたくないのだが・・・
あーたの議論?は文法・単語の用法・修辞がまず駄目。
語彙の不足も目立つ(最近「詭弁」を覚えて使いたくてしょうがないか?)
ありもしない相手の言質(←読めるかな?)を取ったつもりで自らの陥穽にはまっている。
あなたがリアル厨房ならば将来楽しみではあるので暖かく見守りたいが、
もし二十歳過ぎてたらちょっとやばいぞ。ここには来ないで安倍あたりを支援するだけにしておきな。

しかもこの程度の言い合いであつくなってるしw(←この程度に控えめに使おうね)
例)お前さん/君 → お前


>>13わかりにくかったらスマソ
7,10がおいらです、それを読んでくらはい
16太国:2006/09/17(日) 21:44:28
「あーた」なんて語はどこの方言だ?おまえこそ駄目ではないのか?
余をナメんのもほどほどにしろ。よくおぼえておけ、
神州は易姓革命の国ではないのだ。お前の頭は支邦かぶれし過ぎなんだ。w
それは三国志、水滸伝等を読むのはかぶれまでは行かないぞ。
17日本@名無史さん:2006/09/17(日) 21:49:52
>「もどき」ではな〜い。一系は無窮であって、皇統は地球終末まで継続する
のであり、わが神州には易姓革命とか易姓革命もどきという語は皇統に存在
しない。残念か?w

ここは狂人のスレですか?
1810:2006/09/17(日) 22:04:21
>>16
はは、まあまあ。
答えてくれて有難うな。言い過ぎてごめんナ。

実は貴殿の(←これでイイ?)純粋さには少々惹かれているのだ。
ナメてなんかいないよ。ナメるべき阿呆どもは他に山ほどいて、
そんなのおいらは相手にしないよ。

でも酔っ払ってきたら俺は柔らかくなるんでもう議論は無理だな〜
続きはアルコールの抜ける明日の夕刻からしような、必ず来るから。

ところで支邦って支那だってーの

19日本@名無史さん:2006/09/17(日) 22:19:23
>>16
記紀だって全てが嘘じゃないんだし、全てのものを冷静に照らし合わせて
柔軟に総合的に解いていかないと。

一点張りでは議論が進まないと思いますよ。
レベルは全然違いますけど
邪馬台国畿内説を唱える関西人と同じになってしまいますよ。
20太国:2006/09/17(日) 22:22:30
>>18
フムフム、お休み〜。w
>>17
お前、すこし言葉に気をつけろ。
萬世一系というのは首相らでもい言ってるぞ。彼らは狂人ではない。
それに易姓革命だというなら、いつ革命で国が変更になったんだ?
そんなことは松笠氏もやっちゃぁいないぞ。
21太国:2006/09/17(日) 22:25:02
>>19
このスレは大勢見てるから、一応そのとおりだが、いまのは、ここに書きこんで
いる奴に限定的に言ってるだけだから、あわてるな。
22日本@名無史さん:2006/09/18(月) 00:05:48
万世一系の我が皇統の御先祖様は中国の朝貢する臣下の身を誇っていますたw
23太国:2006/09/18(月) 07:41:04
ふ〜ん、どんな?
逆もあるよ。中国人さん。
24太国:2006/09/18(月) 07:58:51
>>22 中国人さん
君の言い草からすると、皮肉だねぇ。
お前さんの国は、王統が途切れてないねぇ〜?w
これはどうしたんだい、どうしたのぅ〜?w これじゃぁ一系無窮でなくなるよ。
25日本@名無史さん:2006/09/18(月) 08:07:44
太国さん相手はホドホドでいいよ
リアルで誰も相手にしてくれないから
ネットで頑張ってるらしい
26太国:2006/09/18(月) 08:54:01
あいあい。w
27太国:2006/09/18(月) 11:33:00
余は九州説2倍年暦並立制を主張している!

記紀の記事の取捨選択を、
定義に縛られずに自由に行う、
今までにない画期的な説である!
是非皆さんもご確認下さい。www


28日本@名無史さん:2006/09/18(月) 11:50:20
記紀の取り扱いが、
メチャクチャな説だな!
さすが天才君だよ!
29日本@名無史さん:2006/09/18(月) 12:56:25
しかし凍りつくね
大○さんは、過去の自分の発言に全くとらわれない、
凄まじい研究態度は評価できるよねwwww

30日本@名無史さん:2006/09/18(月) 13:44:00
太○個人はどうでもいいとして、天皇家マンセーの日本書紀だけど、武烈や雄略天皇の伝については余人がみても非道な行動が書いているんだよね。
マヨワ王の仇討ちとその最後については古事記と同じく滅ぶ側に同情するような文章だし。
日本書紀の中にも体制批判的な部分があると考えるとまた違った見方で楽しめるなぁ。
31日本@名無史さん:2006/09/18(月) 15:34:41
>>24
> >>22 中国人さん
> 君の言い草からすると、皮肉だねぇ。
> お前さんの国は、王統が途切れてないねぇ〜?w
> これはどうしたんだい、どうしたのぅ〜?w これじゃぁ一系無窮でなくなるよ。

ヴァカ丸出しw
何も反論になってないw
まあ、無理か。
32日本@名無史さん:2006/09/18(月) 16:45:08
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART20
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1149668599/

446 :太国 :2006/09/03(日) 15:22:02
PuPu! 大きな自信だな?w いかに考古学を飛車のつもりで大上段に考え、
やったところで、そんな大駒なしに十分論破可能だよ。
記紀に大和朝廷と女王国の交流記述がないのに、ま〜だ臥海の矛盾だらけの
論理で畿内説を信じてしまう貴殿の頭の弱さにもう、余は涙が滝のようだ。w
遠い外国の倭人伝に女王国の記述があるのが、九州である文証だ。
九州のほうが中国との交通に近いからな。



Qこの文章の端々に駄目駄目の印が沢山有ります。探してください。
33日本@名無史さん:2006/09/18(月) 17:08:46
>>32

1 「飛車のつもりで大上段に考え」
    将棋と剣道の合体技だ。将棋の駒を上段に構え考え込む太の姿を想像しようw

2 「やったところで」
    1の文章に続く言葉であるが、流石の文章力であると思う。

3 「記紀に大和朝廷と女王国の交流記述がないのに」
    太、お気に入りのフレーズ、もう何も言いますまい・・・

4 おまけ 「交通に近い」  おいおい・・・
34日本@名無史さん:2006/09/18(月) 17:11:28
太国さんに突きかかる人は自論も言えずに
一体何がしたいのだろう・・・
35日本@名無史さん:2006/09/18(月) 17:18:54
>>34
> 太国さんに突きかかる人は自論も言えずに
> 一体何がしたいのだろう・・・

おちょくってるだけだよ。
論破してもスルーしても懲りずに居座り続ける。
こんなのは、おもちゃにして遊ぶしか利用価値は無い。
36日本@名無史さん:2006/09/18(月) 17:31:02
>>35
嘘言わないで下さい太○さん。
都合が悪いと逃げるだけじゃないですか!

いやー昨日は太○さんに楽勝しました。

【存在?】「2倍年暦」の真実【虚妄?】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1109975096/l50

973あたりから眺めてください、976が私です!
太○さんの「合理的」に突っ込んだら、
逃げるだけで、返事が最後まで返ってきませんでした。
37日本@名無史さん:2006/09/18(月) 17:33:36
太○さん 36です
さて続きはじめますか?
38日本@名無史さん:2006/09/18(月) 17:37:48
973 :太国 :2006/09/16(土) 15:00:13
そういうことは、古代天皇の超長寿の理由を2倍年暦等以外で合理的に説明
出来てから言ってくれ。みんな苦労してるんだよ。それとも讖緯説か〜?w

976 :日本@名無史さん :2006/09/17(日) 10:15:33
太国さんへ 横レスです。
>973
苦労して辻褄合わせている貴方が、
合理的なんて言葉使えるの?
まともに文章使って欲しいよ、
貴方がらみは議論にならないね


しかもよそでこんなレスして、モラルも論法も無いのか!
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/13
39日本@名無史さん:2006/09/18(月) 17:57:31
>>32-33
大○君もしか君・・・中学卒業したのか?
言葉の繋がりに注意して説明してください。

1 大上段に考え    馬鹿!大上段に構えだよ!
2〜4を含め文章が繋がってないだろ!よく読め!
3 お気に入りのフレーズも文章になってないぞ!

☆大きな自信だな    そんな使い方初めて聞いた、自信有り気だなと使うんだよ!
☆飛車のつもりで    そんな使い方初めて聞いた、大駒無しにかけたかったのかwwwwww
☆余は涙が滝のようだ  そんな表現は無い 漫画の読みすぎ

☆遠い外国の倭人伝に女王国の記述があるのが、九州である文証だ。
九州のほうが中国との交通に近いからな。

    ここん所説明しろ!
    言葉を書いたのか呪文かお経か?

まだまだあるぞ・・・勉強したのかお前!
40日本@名無史さん:2006/09/18(月) 18:02:08
32 :日本@名無史さん :2006/09/18(月) 16:45:08
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART20
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1149668599/

446 :太国 :2006/09/03(日) 15:22:02
PuPu! 大きな自信だな?w いかに考古学を飛車のつもりで大上段に考え、
やったところで、そんな大駒なしに十分論破可能だよ。
記紀に大和朝廷と女王国の交流記述がないのに、ま〜だ臥海の矛盾だらけの
論理で畿内説を信じてしまう貴殿の頭の弱さにもう、余は涙が滝のようだ。w
遠い外国の倭人伝に女王国の記述があるのが、九州である文証だ。
九州のほうが中国との交通に近いからな。

Qこの文章の端々に駄目駄目の印が沢山有ります。探してください。

33 :日本@名無史さん :2006/09/18(月) 17:08:46
>>32
1 「飛車のつもりで大上段に考え」
    将棋と剣道の合体技だ。将棋の駒を上段に構え考え込む太の姿を想像しようw
2 「やったところで」
    1の文章に続く言葉であるが、流石の文章力であると思う。
3 「記紀に大和朝廷と女王国の交流記述がないのに」
    太、お気に入りのフレーズ、もう何も言いますまい・・・
4 おまけ 「交通に近い」  おいおい・・・
41日本@名無史さん:2006/09/18(月) 18:08:44
446 :太国 :2006/09/03(日) 15:22:02
PuPu! 大きな自信だな?w いかに考古学を飛車のつもりで大上段に考え、
やったところで、そんな大駒なしに十分論破可能だよ。
記紀に大和朝廷と女王国の交流記述がないのに、ま〜だ臥海の矛盾だらけの
論理で畿内説を信じてしまう貴殿の頭の弱さにもう、余は涙が滝のようだ。w
遠い外国の倭人伝に女王国の記述があるのが、九州である文証だ。
九州のほうが中国との交通に近いからな。


  この文章を正しい用法に書き換えたら、
  これ以上突っ込まないで許してやるよ!
42日本@名無史さん:2006/09/18(月) 18:13:29
あーあ。
43日本@名無史さん:2006/09/18(月) 18:27:45
でたでた馬鹿関西人たち。
4410ですよ:2006/09/18(月) 21:24:57
なんか太国さん攻撃されているな
結構ネット有名人だったのね知らなかったよ
おいらとか>>39がやっているように日本語の使い方がいかんのだな
しかしおいらだって厨房の時に2ちゃんがあったら同じ様な
ありさまだったろうな

そしてよく見ると太国は邪馬台国九州説か。
だったらその一点で援護してやるぞ。щ(゚Д゚щ)カモーン!
45日本@名無史さん:2006/09/18(月) 21:33:08
>>10 さん 
こんにちは、
そっくりだね、
太○さんと、
ちゃんと勉強すれば、
もう少し上手に化けられるよ。
щ(゚Д゚щ)カモーン!
無学は悲しいね(..)
4610ですよ:2006/09/18(月) 22:06:15
>>45
この方面は確かに門外漢で趣味で訪れてるだけなので
無学は事実ですが・・

今後、さぞかし碩学の貴方のご高説を拝聴致したく思います。

しかしながらその無意味な改行、句読点の誤り、用語の誤り、
時間感覚の欠如、引用ルール等の様々な混乱が見られましたので、
アルコールか何かを召し上がってらっしゃると思います。

できれば3年後を目処にご来訪下さいませ。
4710ですよ:2006/09/18(月) 22:13:11
すまん、ふと気づいたが
>>45は10=太○だといったのか?
だとしたら>>45は太○に対する攻撃だけじゃないか。
そこの勘違いはすまん「上手に化けられるよ」ってそーゆーことか

しかし10≠太○だぞスレを読みゃわかるだろうが
よってやはりできれば3年後を目処にご来訪下さいませ。
48日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:23:20
>>46
用語のあやまりってどこ?
挨拶は皆違うよ!総ておはようの業界もあるじゃない。
句読点は、そのとおり読む為にあるんだよ、読み手のペースじゃないよ!書き手のペース!
改行はこっちの勝手だろ、アンタもこの文章でW改行3回もしてるじゃない!どうなってるの?
引用ルール?どこが混乱している?
アルコールは飲んでますが、それが何か?
素晴らしい捨て台詞有難う。

それで、何が言いたいの?突っ込みたかっただけ?
頑張れよ!
49日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:32:28
>>47
二人目お出ましだね!
何書いてるんだ?・・・よく読めない?・・・握り締めて離せませんだって。

そろそろ、○○の舐めあいでも始めるの?
5010ですよ:2006/09/18(月) 22:36:49
>>48
あつくならないでよもう
3年後ってのはアレだけど1時間以内に来ても
まだ余熱があって大事な主張が乱れるだけですよ
という忠告をしたかったのさ

でもあついとはいえ攻撃のエチケットは守ってるな
お前おいらの飲み友達になれるよ!
そしておいらの反論はというと明日以降にしてくれペコリ

皆様、スレ主に悪いので本題に戻ってください。
51日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:46:09
>>50
お前、ばっかじゃねーの?
死ぬまで一人で飲んでろ 犬畜生め
52日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:46:51
>まだ余熱があって大事な主張が乱れるだけですよ
>という忠告をしたかったのさ
これ書き直したら 忠告だよ!

>そしておいらの反論はというと明日以降にしてくれペコリ
また言葉間違えている!馬鹿!

ところでスレ主って、あの中学卒業程度の学力が無い、お前以上に馬鹿な人か?

それに2人で馬鹿醸し出して、恥ずかしくないの?

噂の超有名人君!
53日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:49:51
なんて1人だよ
54日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:51:35
ここのスレ主もバカだが>>50は超低能君のようだな。
5510ですよ:2006/09/18(月) 22:53:25
>>51=>>52と思うが
今日はもう寝ろ、な。俺も寝るから。
56日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:56:04
じゃあ初学者の私から質問

壱与は台与(トヨ)と読み、邪馬壱国は邪馬台国(ヤマタイコク)と読む。
こうなる経緯が分かりません。誰か教えてください
おぼろげに文献の違いなのかなあと思ってはいるのですが、違ったらすみません
57日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:56:29
文章読めば同一人物が誰だかなんて一目瞭然!間違い有る人しない人、馬鹿らし!
58日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:57:38
32 :日本@名無史さん :2006/09/18(月) 16:45:08
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART20
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1149668599/

446 :太国 :2006/09/03(日) 15:22:02
PuPu! 大きな自信だな?w いかに考古学を飛車のつもりで大上段に考え、
やったところで、そんな大駒なしに十分論破可能だよ。
記紀に大和朝廷と女王国の交流記述がないのに、ま〜だ臥海の矛盾だらけの
論理で畿内説を信じてしまう貴殿の頭の弱さにもう、余は涙が滝のようだ。w
遠い外国の倭人伝に女王国の記述があるのが、九州である文証だ。
九州のほうが中国との交通に近いからな。

Qこの文章の端々に駄目駄目の印が沢山有ります。探してください。

33 :日本@名無史さん :2006/09/18(月) 17:08:46
>>32
1 「飛車のつもりで大上段に考え」
    将棋と剣道の合体技だ。将棋の駒を上段に構え考え込む太の姿を想像しようw
2 「やったところで」
    1の文章に続く言葉であるが、流石の文章力であると思う。
3 「記紀に大和朝廷と女王国の交流記述がないのに」
    太、お気に入りのフレーズ、もう何も言いますまい・・・
4 おまけ 「交通に近い」  おいおい・・・

59日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:57:54
しかし雑談スレが増えたな
60日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:58:31
>>32-33
大○君もしか君・・・中学卒業したのか?
言葉の繋がりに注意して説明してください。

1 大上段に考え    馬鹿!大上段に構えだよ!
2〜4を含め文章が繋がってないだろ!よく読め!
3 お気に入りのフレーズも文章になってないぞ!

☆大きな自信だな    そんな使い方初めて聞いた、自信有り気だなと使うんだよ!
☆飛車のつもりで    そんな使い方初めて聞いた、大駒無しにかけたかったのかwwwwww
☆余は涙が滝のようだ  そんな表現は無い 漫画の読みすぎ

☆遠い外国の倭人伝に女王国の記述があるのが、九州である文証だ。
九州のほうが中国との交通に近いからな。

    ここん所説明しろ!
    言葉を書いたのか呪文かお経か?

まだまだあるぞ・・・勉強したのかお前!

61日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:59:52
446 :太国 :2006/09/03(日) 15:22:02
PuPu! 大きな自信だな?w いかに考古学を飛車のつもりで大上段に考え、
やったところで、そんな大駒なしに十分論破可能だよ。
記紀に大和朝廷と女王国の交流記述がないのに、ま〜だ臥海の矛盾だらけの
論理で畿内説を信じてしまう貴殿の頭の弱さにもう、余は涙が滝のようだ。w
遠い外国の倭人伝に女王国の記述があるのが、九州である文証だ。
九州のほうが中国との交通に近いからな。


  この文章を正しい用法に書き換えたら、
  これ以上突っ込まないで許してやるよ!


6256:2006/09/18(月) 23:03:51
あの、質問してるんですが…
63日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:04:25
50とか54てひょっとして
「スレ主」のことを「牢名主」とかの類推で
「スレに居すわっている人の事」
と思ってないか?違ったらスマソ
64日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:05:55
65日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:08:26
>>52 >>60
二人揃って?
このレベル!
皆さんの障害だよね!
66日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:19:41
>>62
久々の良問でしたね皆スルーするんじゃねーゴルァ

邪馬台国YA-MA-TUI-KOKU → ヤマトゥィ国

台与TUI-YO → トゥィヨ
当時は母音は口ごもるように発音してたし(今でも東北弁とか)
後に続くY音にひかれて
トゥイヨ→トィヨ→トヨ

あと壱の字は忘れたほうがいいと思う
67日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:27:37
ここの住人連中ってバカばっか!!氏ねよ
68大國:2006/09/18(月) 23:46:53
犬がワンワン吠えるってマケそうなイヌなんだよ。
ヤツにしてみれば、ワンワンはカッタカッタなのさ。プッ!
オンナジことを数回狂り返してカキコやってるのがソレ。
ホラッ、>>60>>61の遠吠えがそれだよ。
負けそうなヤツほどワンワンとよく吠えるわけさ。
よって>>60>>61には「犬国」の称号をホメテ授与スル。wwwww
スルトこっちをそう呼んでくるから、コテなくてもヤツと見破れっる。

このごろ、おれのニセモノが大徘徊しているゾナ。
6956:2006/09/19(火) 00:53:33
>>66
なるほど、理解しました。ありがとうございます
確か壱の字はアレなんですよね。忘れますw
70日本@名無史さん:2006/09/19(火) 01:19:16
台与も邪馬台国もトヨとヤマトコクですか?
71日本@名無史さん:2006/09/19(火) 06:12:19
壱だろうと、台だろうとそれほどかわらない。
これは中国語原音での音訳だよ。

壱だったとすれば、ya ma iet
和語じゃないから、和語で受容しようとすれば、
「やまと」になっても全くおかしくない。

「壱」=「い」と和音で読む。
古代の二重母音の発音なのに「やまい」と読む。
この2点はおかしい。
それは倭音で無理やり読むから。
72太国:2006/09/19(火) 10:10:50
>>36 お前はよく吠える「負け犬王」だな。www 逃げたのか〜?
そうだろうねぇ〜? 今日はワンワンが無くシーンと黙りこんでるではないか〜?

本論に間接の文章を出して、字がどうのこうのとか抜かしている。
突くところは的が外れた枝葉末節、奴のあの能書きを見ればよほど「2倍暦」の
スレでやつけられたのが悔しいようだな?w
それはそうだな?こっちが文証を出して論を張ってるのに、こいつときたら
頭が支邦にのっとられの「中国」と「資料を出さない合理的」の二つに限定
されるからな?w 

奴の頭には「中国」→「犬国」の冠が来るそうだ。
これをこっちに振替えれば無コテハンでもす〜ぐ奴と分かるぜ。
73日本@名無史さん:2006/09/19(火) 20:43:17
68 :大國 :2006/09/18(月) 23:46:53
犬がワンワン吠えるってマケそうなイヌなんだよ。
ヤツにしてみれば、ワンワンはカッタカッタなのさ。プッ!
オンナジことを数回狂り返してカキコやってるのがソレ。
ホラッ、>>60>>61の遠吠えがそれだよ。
負けそうなヤツほどワンワンとよく吠えるわけさ。
よって>>60>>61には「犬国」の称号をホメテ授与スル。wwwww
スルトこっちをそう呼んでくるから、コテなくてもヤツと見破れっる。

このごろ、おれのニセモノが大徘徊しているゾナ。

72 :太国 :2006/09/19(火) 10:10:50
>>36 お前はよく吠える「負け犬王」だな。www 逃げたのか〜?
そうだろうねぇ〜? 今日はワンワンが無くシーンと黙りこんでるではないか〜?

本論に間接の文章を出して、字がどうのこうのとか抜かしている。
突くところは的が外れた枝葉末節、奴のあの能書きを見ればよほど「2倍暦」の
スレでやつけられたのが悔しいようだな?w
それはそうだな?こっちが文証を出して論を張ってるのに、こいつときたら
頭が支邦にのっとられの「中国」と「資料を出さない合理的」の二つに限定
されるからな?w 

奴の頭には「中国」→「犬国」の冠が来るそうだ。
これをこっちに振替えれば無コテハンでもす〜ぐ奴と分かるぜ。


(^^)ちゃんと用法を踏まえて、まともな文章にした方がいいよ、
からかっていたけど、可哀想になってきた。
74日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:00:30
おまい頭いーのは認めるよ!
だけど主張の仕方一つで、
世間は薔薇色にも闇にもなるんだよ!
俺だって日々勉強してるのによ!
一生馬鹿にされたいか?
75日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:07:48
万葉集を3Pよみ
英語の勉強に・・・少し付き合った。
76日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:16:24
俺様に勝つ気無いのか?
77日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:28:15
>>76
どなた様ですか
78日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:37:58
「記・紀」
太安万侶の仕掛けが判らなければ一生阿保読み
79日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:47:43
それが馬鹿の生きる道
80日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:50:09
近頃私達は〜
いい〜感じぃ
81日本@名無史さん:2006/09/21(木) 00:35:51
>>78
kwsk
82日本@名無史さん:2006/09/21(木) 07:10:46
歴史の勉強じゃ金にならねーw
83日本@名無史さん:2006/09/21(木) 08:52:48
全くそのとおりー;;
84日本@名無史さん:2006/09/21(木) 09:11:45
勉強だからな
85日本@名無史さん:2006/09/21(木) 21:25:17
>>82
おまいらその前に、
国語の勉強しろよ
86日本@名無史さん:2006/09/23(土) 10:31:34
68 :大國 :2006/09/18(月) 23:46:53
犬がワンワン吠えるってマケそうなイヌなんだよ。
ヤツにしてみれば、ワンワンはカッタカッタなのさ。プッ!
オンナジことを数回狂り返してカキコやってるのがソレ。
ホラッ、>>60>>61の遠吠えがそれだよ。
負けそうなヤツほどワンワンとよく吠えるわけさ。
よって>>60>>61には「犬国」の称号をホメテ授与スル。wwwww
スルトこっちをそう呼んでくるから、コテなくてもヤツと見破れっる。

このごろ、おれのニセモノが大徘徊しているゾナ。

72 :太国 :2006/09/19(火) 10:10:50
>>36 お前はよく吠える「負け犬王」だな。www 逃げたのか〜?
そうだろうねぇ〜? 今日はワンワンが無くシーンと黙りこんでるではないか〜?

本論に間接の文章を出して、字がどうのこうのとか抜かしている。
突くところは的が外れた枝葉末節、奴のあの能書きを見ればよほど「2倍暦」の
スレでやつけられたのが悔しいようだな?w
それはそうだな?こっちが文証を出して論を張ってるのに、こいつときたら
頭が支邦にのっとられの「中国」と「資料を出さない合理的」の二つに限定
されるからな?w 

奴の頭には「中国」→「犬国」の冠が来るそうだ。
これをこっちに振替えれば無コテハンでもす〜ぐ奴と分かるぜ。


(^^)ちゃんと用法を踏まえて、まともな文章にした方がいいよ、
からかっていたけど、可哀想になってきた。
87日本@名無史さん:2006/09/24(日) 01:37:12
被葬者は狗奴国の大王? 犬山の東之宮古墳で18日に説明会

 【愛知県】犬山市教育委員会は18日午前11時と午後2時からの2回、同
市犬山北白山平の山頂にある国史跡東之宮古墳の現地説明会を開く。同古墳は
昨年に続く今夏の調査で、規模を推定する手掛かりが得られ、特異な築造法も
立証され、被葬者がこの地方で勢力を誇った権力者であるという説がますます
有力になっている。

 東之宮古墳は、長さ70メートル、幅40メートル、高さ9メートルと推定
される前方後方墳で、3世紀後半に築かれたとみられる。被葬者は邪馬台国(
やまたいこく)と対立した狗奴国(くなこく)の大王か王族クラスではないか
という説も出ている。

 今回の発掘調査で、盛り土を覆う石の土台となる「基底石列」の一部が古墳
の辺縁部で見つかり、古墳の範囲が明らかになりつつある。盛り土を分析した
ところ、ふもとから運んだ土であると分かった。山を削る一般的な工法を採ら
ず、2トントラックに換算して約1000台分の土石を山頂まで運び上げたと
考えられ、被葬者の力を物語っている。

 説明員は県埋蔵文化財センター調査課主任主査の赤塚次郎さんと市教委文化
財課学芸員の渡辺樹さん。当日は、名鉄犬山遊園駅と名鉄モノレール成田山駅
下の駐車場に関係者を配置し、現地へ誘導する。 (早川昌幸)
(中日新聞) - 9月16日12時31分更新
88日本@名無史さん:2006/09/24(日) 01:51:55
>ではないかという説も出ている。

これをどうやって「である」に摩り替えるのかが見もの



89日本@名無史さん:2006/09/24(日) 21:58:48
名無しで隠れているけど、太国さんは天才だ!
90日本@名無史さん:2006/09/25(月) 22:19:01
確かに太国は天才だな、知性が漏れでて、反応に困ることもあるからね。
文章にも真似出来ない、独自性も感じるし、人並みを超えた、
別次元の最高権威だな、今後古神道もこの先明るいし、古代歴史界を変るだろうね!


91日本@名無史さん:2006/09/28(木) 03:21:52
宮崎市に生目古墳群というのがある。

けっこう大きな前方後円墳が3つほど含まれているのだが、
これらの古墳は奈良盆地の箸墓、崇神陵、景行陵に
そっくりなのだそうである。いわゆる相似形というやつ。
大きさは箸墓の半分なのだが。

そうわけで、生目古墳群は、大和政権にあこがれた宮崎の人が
箸墓のまねをして作ったと言われている。

しかし、この生目古墳群は相当に古い。近くからは、庄内式土器も
出ているらしく、ひょっとしたら、箸墓よりも古いのではないかと
考える人もいるらしい。

古墳に関する考古学の常識には反するけれども。

仮に、生目古墳群のほうが古いとすれば、まねをしたのは箸墓ということになる。
そうなると、神武東征神話も実話になるかな?
92日本@名無史さん:2006/09/28(木) 06:31:15
>>91
古墳編年のことかな?常識なんかじゃないけどw

前方後円墳については、特定の設計図を拡大するといくつかのパターンに分け
られるっていう説があるよ。実際に書いてみると、単純な構図で描けてしまう
んだと。それと、大きい方が先とか小さいから真似とかも定説はないし。

まあこんな馬鹿大○さんと畿内派の粘着数名だけのスレで勉強しようと思って
も無駄だけど。
93日本@名無史さん:2006/10/01(日) 15:28:22
68 :大國 :2006/09/18(月) 23:46:53
犬がワンワン吠えるってマケそうなイヌなんだよ。
ヤツにしてみれば、ワンワンはカッタカッタなのさ。プッ!
オンナジことを数回狂り返してカキコやってるのがソレ。
ホラッ、>>60>>61の遠吠えがそれだよ。
負けそうなヤツほどワンワンとよく吠えるわけさ。
よって>>60>>61には「犬国」の称号をホメテ授与スル。wwwww
スルトこっちをそう呼んでくるから、コテなくてもヤツと見破れっる。

このごろ、おれのニセモノが大徘徊しているゾナ。

72 :太国 :2006/09/19(火) 10:10:50
>>36 お前はよく吠える「負け犬王」だな。www 逃げたのか〜?
そうだろうねぇ〜? 今日はワンワンが無くシーンと黙りこんでるではないか〜?

本論に間接の文章を出して、字がどうのこうのとか抜かしている。
突くところは的が外れた枝葉末節、奴のあの能書きを見ればよほど「2倍暦」の
スレでやつけられたのが悔しいようだな?w
それはそうだな?こっちが文証を出して論を張ってるのに、こいつときたら
頭が支邦にのっとられの「中国」と「資料を出さない合理的」の二つに限定
されるからな?w 

奴の頭には「中国」→「犬国」の冠が来るそうだ。
これをこっちに振替えれば無コテハンでもす〜ぐ奴と分かるぜ。


(^^)ちゃんと用法を踏まえて、まともな文章にした方がいいよ、
からかっていたけど、可哀想になってきた。


94恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/01(水) 10:21:23
なぜ帯方郡→邪馬台国を12000里(短里として960km)と計算できたのか?

当時は天文学が非常に発達してたのは知られてる。
高松塚古墳にも天空図が書かれていたという、今じゃグチャグチャにされたが。

ポリネシアの人はハワイまで海を旅するのに、星を利用して位置を知り行かれた。
以外と位置の確認は易しいもので六分儀みたいなもので、北極星の角度を測れば
90度から引けば緯度が出る。

太陽が出るときの故郷の恒星の角度との差がわかれば、故郷からの経度がわかる。

北極星の角度に、帯方郡と7度の差があったとしたら1度が111kmだから南北
に約800km離れてる事になる。
経度の差が5度あったとしたら、1度が100kmとして(経度は少し小さくなる)
東西に500kmはなれてることになる。

帯方郡と邪馬台国の直線距離は√800二乗+500二乗=990km
結論::邪馬台国は宮崎県西都市と推定できる。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
季節が春分の時の真昼に、赤道上にいる時と、北極にいる時を考えましょう。
赤道上では、太陽は真上にあり、水平線からの角度は90度です。北極では、太陽は水平線
に半分隠れています。(細かい誤差は無視!) 赤道上では緯度は 0度、北極では緯度90度です。
http://homepage2.nifty.com/Tetsutaro/Book/sextant.htm
95恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/02(木) 15:21:09
なぜ距離を里で表したり、日数で書いたりしたのか?

帯方郡→狗邪韓国や帯方郡→邪馬台国の長距離は、六分儀みたいなもので星を見て
計算したが、その途中で水行20日とかいうのは天気のせいで位置が出せなかった為。
また星を見ての位置計算では誤差が大きく、1000里(80km)以上じゃないと適用できない

陸行1ヶ月とあるのは、九州横断の為、峻険なグニャグニャ道を方向もわからず案内人の言う
ままに小さな村々で歓迎されながらも、難行して旅行した為。
九州山脈の中では、数万戸単位の大きな都市はなかったので、記録しなかったもの。

邪馬台国に着いて、改めて星を調べて帯方郡→邪馬台国間の距離を12000里(960km)
と記録できたと考えれる。
96日本@名無史さん:2006/11/02(木) 17:07:01
日数で書いたのは理数を知らない
倭人からの伝聞だから。
97サガミハラハラ:2006/11/02(木) 18:41:24
邪馬台国南九州説のかたへ。
南九州にだって港はあるでしょうに、なぜ陸路を一月も行進するのでしょうか?
いやマツロ国から、船でいけないでしょうかね。
98日本@名無史さん:2006/11/02(木) 19:45:08
江戸時代に入ってもまだ九州の地図は東に傾いていた。
99恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 14:43:14
>>97
>南九州にだって港はあるでしょうに、なぜ陸路を一月も行進するのでしょうか?

敵対国の狗奴国(鹿児島)が制海権を握ってて、大切な使節団を通すわけにはいかなかったから。
使節団が拿捕されて殺されたり、行方不明になるくらいなら陸路の1ヶ月なんて安いものだよ。

240年の魏の使節団が旅行したあと、7年後の卑弥呼が死んだ247年には狗奴国と戦争状態になり
魏が間に入り調停が行われてます。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
倭の女王卑弥呼と、狗奴国の男王は卑弥弓呼とは前から仲が悪かった。
和国では、載斬(きし)、鳥越(うえつ)などを郡に派遣して、戦況を説明させた。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
100日本@名無史さん:2006/11/03(金) 14:49:50
68 :大國 :2006/09/18(月) 23:46:53
犬がワンワン吠えるってマケそうなイヌなんだよ。
ヤツにしてみれば、ワンワンはカッタカッタなのさ。プッ!
オンナジことを数回狂り返してカキコやってるのがソレ。
ホラッ、>>60>>61の遠吠えがそれだよ。
負けそうなヤツほどワンワンとよく吠えるわけさ。
よって>>60>>61には「犬国」の称号をホメテ授与スル。wwwww
スルトこっちをそう呼んでくるから、コテなくてもヤツと見破れっる。

このごろ、おれのニセモノが大徘徊しているゾナ。

72 :太国 :2006/09/19(火) 10:10:50
>>36 お前はよく吠える「負け犬王」だな。www 逃げたのか〜?
そうだろうねぇ〜? 今日はワンワンが無くシーンと黙りこんでるではないか〜?

本論に間接の文章を出して、字がどうのこうのとか抜かしている。
突くところは的が外れた枝葉末節、奴のあの能書きを見ればよほど「2倍暦」の
スレでやつけられたのが悔しいようだな?w
それはそうだな?こっちが文証を出して論を張ってるのに、こいつときたら
頭が支邦にのっとられの「中国」と「資料を出さない合理的」の二つに限定
されるからな?w 

奴の頭には「中国」→「犬国」の冠が来るそうだ。
これをこっちに振替えれば無コテハンでもす〜ぐ奴と分かるぜ。


(^^)ちゃんと用法を踏まえて、まともな文章にした方がいいよ、
からかっていたけど、可哀想になってきた。


101サガミハラハラ:2006/11/03(金) 15:21:50
>>99東の水路を使用したら安全でしょう。
102恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 16:54:02
>>101
>>99東の水路を使用したら安全でしょう。

その水路は、邪馬台国の同盟国以外の水路でもある。
中国地方や四国地方が邪馬台国の勢力圏でなければ、あまりにも危険な航路。

使節団の安全第一を考えれば、有明海経由の九州横断が卑弥呼としては一番安全と
考えたわけだろう。
その為、朝貢のための連中もその道を通り、生口に案内させて同じ道を通ったもの。
103日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:00:20
当時の有明海は、それこそもの凄い泥の海だったという地質学の
研究があるよ。ずっと熊本沿岸まで。だから日数はかかったはず。

ただ、それならそれと書きそうな気がするが。
104恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/03(金) 21:46:53
>>103
>当時の有明海は、それこそもの凄い泥の海だったという地質学の研究があるよ。

そんな研究は読んだ事がないので信用はせん!
しかし俺は有明海で育ったし、干満の差が10mくらいあるのは知ってる。
潮の具合と、風の具合を見て航行したのは確かだろう。
105日本@名無史さん:2006/11/03(金) 21:55:58
68 :大國 :2006/09/18(月) 23:46:53
犬がワンワン吠えるってマケそうなイヌなんだよ。
ヤツにしてみれば、ワンワンはカッタカッタなのさ。プッ!
オンナジことを数回狂り返してカキコやってるのがソレ。
ホラッ、>>60>>61の遠吠えがそれだよ。
負けそうなヤツほどワンワンとよく吠えるわけさ。
よって>>60>>61には「犬国」の称号をホメテ授与スル。wwwww
スルトこっちをそう呼んでくるから、コテなくてもヤツと見破れっる。

このごろ、おれのニセモノが大徘徊しているゾナ。

72 :太国 :2006/09/19(火) 10:10:50
>>36 お前はよく吠える「負け犬王」だな。www 逃げたのか〜?
そうだろうねぇ〜? 今日はワンワンが無くシーンと黙りこんでるではないか〜?

本論に間接の文章を出して、字がどうのこうのとか抜かしている。
突くところは的が外れた枝葉末節、奴のあの能書きを見ればよほど「2倍暦」の
スレでやつけられたのが悔しいようだな?w
それはそうだな?こっちが文証を出して論を張ってるのに、こいつときたら
頭が支邦にのっとられの「中国」と「資料を出さない合理的」の二つに限定
されるからな?w 

奴の頭には「中国」→「犬国」の冠が来るそうだ。
これをこっちに振替えれば無コテハンでもす〜ぐ奴と分かるぜ。


(^^)ちゃんと用法を踏まえて、まともな文章にした方がいいよ、
からかっていたけど、可哀想になってきた。


106日本@名無史さん:2006/11/04(土) 15:15:01
「男の弟が居る」
不思議な言葉だが、この時代は妹という字は無かったのかね?
107恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/04(土) 16:41:49
>>106
>不思議な言葉だが、この時代は妹という字は無かったのかね?

確かに不思議だが、なんか理由があるのかな。
中国人の古文の専門家なら、少しはその理由を書けるかも知れんけど
日本人には「群盲象をなでる」で無理でしょう。
108日本@名無史さん:2006/11/04(土) 18:30:23
>>97

>なぜ陸路を一月も行進するのでしょうか?

島がないから海路を選択する必要がない
109日本@名無史さん:2006/11/05(日) 07:38:36
>>104
そうやって不勉強の恥を晒すのも平気なんだなw
掘ればわかるしもう常識だよそれって。
110日本@名無史さん:2006/11/05(日) 14:46:01
>>106-107

「男弟」・・・「女王」  ただの対語表現 
111日本@名無史さん:2006/11/05(日) 15:08:29
弟には、弟子という意味もあるけどね。
112日本@名無史さん:2006/11/05(日) 15:26:57
「女弟」と言う表現も不可能じゃないしな。
113日本@名無史さん:2006/11/05(日) 15:39:25
妹子という男性もいたっけ。
114太国:2006/11/05(日) 16:37:17
弟橘媛〜
115日本@名無史さん:2006/11/05(日) 16:55:44
「弟」とは元々はあ順序を表すことば。
転じて長幼の劣位者の意に用いられ、
それが男子兄弟の弟を表すことばにもなった。

「妹」の方はよく知らん。
昔の日本じゃ親しみの情を込めて女性を呼ぶときのことばだが。
116日本@名無史さん:2006/11/05(日) 16:59:28
>>107
> >>106
> >不思議な言葉だが、この時代は妹という字は無かったのかね?
> 確かに不思議だが、なんか理由があるのかな。
> 中国人の古文の専門家なら、少しはその理由を書けるかも知れんけど
> 日本人には「群盲象をなでる」で無理でしょう。

そのセリフは「私は漢和辞典を引けません」と言ってるのと同じことだなw
117日本@名無史さん:2006/11/06(月) 22:52:17
大和政権は、筑紫、出雲、新羅の集合体。
118日本@名無史さん:2006/11/07(火) 00:14:39



期待されて生まれて
ニートとして死ぬのか


社会にとって、ニートは要らない物なんだね。
掃いて捨てても、何も困らないんだね。





119恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 09:38:14
>>109
>そうやって不勉強の恥を晒すのも平気なんだなw

不勉強はあんたのほうじゃないかね。
俺は子供の頃から有明海には、潮干狩りや魚釣り、海水浴に行ってるけど
未だに深いヌカルミの海底なんだけどね。このことを泥の海とか言ったのかい?

それでも船は平気で航行してるし、海上から見たら海は全く綺麗だし、港は完璧に
整備されてる。
まったく日数が余計目にかかるとか、ワザワザ記録に残すなんてするはずがない。


まあ、三井鉱山が景気のいい頃はドロドロのチョコレート色の排水を垂れ流
してたけど今では綺麗なもんだ。
脳内妄想する人間には、自分の目で見、育った人間相手には勝たんよ。
120恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/07(火) 09:46:22
>>111
>弟には、弟子という意味もあるけどね。

たしかに弟子という意味なら、話は通じる。
卑弥呼の鬼道には、弟子がいないということはない。

素晴らしい霊能力を持っていたら、それに学びたくて男性の才能を持った方も
たくさん詰めかけて来るだろうね。

大きな霊能力を発揮するには、自己流じゃタカガ知れてる。
お釈迦さんも修行の為に、その当時著名な方々の弟子になられて学んでる。
才能があって、学んで、その上ではじめて、奇跡みたいな事が行えるのじゃないかな。
121日本@名無史さん:2006/11/07(火) 10:06:32
>>120

舎弟もいるぞ
122日本@名無史さん:2006/11/07(火) 21:00:55
毛夷耶はカキコするたびに恥を晒してるなw
123四道大将軍:2006/11/08(水) 00:01:58
邪馬台国=倭大国=吉備は、狗奴國=大和の男王とは
開化の代から継続して交戦関係にあり
崇神の代に遂に軍事的緊張関係は頂点に達した

彼我兵力差で劣る吉備の卑弥呼は、
度々帯方郡を通じて援軍の派遣を要請するも叶わず、

248年、吉備側は大和側が四道に未曽有の大規模派兵をすると云う情報を入手した事により
兵力が分散して防備の手薄になった大和の狗奴國を強襲し、一気に決着を付ける為に挙兵した

しかし吉備側の内通者によってこの動きは大和朝廷に知れており、
崇神は四道将軍を大和に集結させ、密かに待ち構え、それを知らずに
既に派兵後だと思って、進軍して来た吉備の軍勢の虚を突き、
全軍を以ってこれを完全に打ち負かし、長らく続いた抗争に終止符が打たれた

大和=狗奴國の完全勝利で終わったこの戦いの戦後処理として
崇神は卑弥呼を殺さず、魏に通じる彼女を大和に召喚し支配下に措く事で、
二重支配によって西国30国を手に入れ、更には北国、東国を支配し様と考えていた

実は吉備側の内通者とは卑弥呼その者だったのである。年老いた卑弥呼は、幼少にして共立されて以来、
長らく続く戦いに終止符を打つ為、援軍を一向に送らない魏に見切りを付け
国内の主戦派を罠に嵌め、大和に措いて約束された地位に、「倭百ヶ国」の王に付く事を選択した
そもそも狗奴國の大規模外征の動きなど存在しない、偽情報だったのである

崇神によって統一朝廷の王として擁立されるかに見えた卑弥呼は、
天皇家を上回る権力者によって約束は覆され、その地位と命を奪われる
嘗て、天皇家が大和へ来る以前より大和の支配者であった大物主神を奉じる一族である
後に彼女は崇神の命によって丁重に葬られた、これが箸墓である

卑弥呼殺害の情報は瞬く間に全土を掛け巡り、畿外で不穏な動きが活発になった
崇神が、統一朝廷の王として宣言すると、諸国の覇者に認める者はなく、2世紀以来の大騒乱になった
崇神は遂に、四道に対して軍勢を派遣し、実力行使で畿外の平定に乗り出した
124日本@名無史さん:2006/11/08(水) 20:07:31
邪馬台国の時代にそんな壮大な計画なんて無理
125四道大将軍:2006/11/08(水) 22:46:09
吉備津彦命が戦った鬼の城の主、百済の温羅の伝承とは
邪馬台国の為に魏側が送った指揮官との争いを残しているのではいか?

大和朝廷と対立する吉備の在地の住人も自ら協力して
共に山上防衛拠点を築いたのではないのか?

この戦いが吉備側と大和朝廷側では
評価が180度違うのはそう云う事ではないのか?

そもそも、卑弥呼殺害は、統一朝廷での主導権争いに措いて
魏側と大物主神を奉じる一族との交渉が決裂したからではないか?

如何して、天皇家でも無いにもかかわらず、吉備には全国第四位と云う
巨大前方後円墳を造営できる勢力が存在していたのか
126日本@名無史さん:2006/11/09(木) 01:57:39
その頃の大王を「天皇家」という尺度で測るのは間違いだよ。
確かに畿内だって巨大古墳はあるが、だからといって畿内勢力だって列島の西
半分を制覇できるだけの力があったかといえば、それもわからない。

でかさだけで勢力の強弱を単純に測れるかどうかという前提の問題もあるって事。
127恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 14:04:20
>>126
>でかさだけで勢力の強弱を単純に測れるかどうかという

経済力と人間の動員力があったとはいえる。

この当時、巨大な前方後円墳を作った勢力は、畿内と岡山県、群馬県、宮崎県にあった。
どこからこんな古墳が始まったかといえば、俺は宮崎県だと見る。

宮崎県には縄文時代からの非常に古い遺跡が存在してるし、古墳の年代の種類が多い。
古墳形式は発達したものであり、いろんな形式が存在してるのが発祥の地だ。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
100mを超える巨大古墳100
http://www.asuka-tobira.com/kofun/kofun100.htm#best10
128恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 14:33:52
>>125
>如何して、天皇家でも無いにもかかわらず、吉備には全国第四位と云う

時代が新しすぎる。
造山古墳は大きいけど、4世紀〜5世紀の前方後円墳。

卑弥呼の時代は3世紀中ごろ、250年くらいじゃないと矛盾する。
むしろ卑弥呼の時代のあとに大和朝廷と覇権を競ったくらいの強力な勢力があったというべき。
百済からの王子の伝説もあるんだね。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
温羅は百済の王子で、唐・新羅との戦いに敗れ古くから交流のあった吉備に逃れてきて、ここ
に山城を築き、製鉄等の百済の進んだ技術を吉備地方にもたらした。これにより吉備地方は
次第に繁栄していった。

これを危惧した大和朝廷は、吉備征伐に「吉備津彦命」を派遣し、温羅を滅ぼしたと言う話
である。「鬼城山」は、温羅とその一族が住んでいた居城と言うことになる。
http://inoues.net/ruins/kibi.html
129日本@名無史さん:2006/11/09(木) 19:41:33
宮崎も遡れませんね。神武の本貫であったとしたら、その後3世紀ぐらいは
続いてないといけない。しかし、「東遷」などと大仰な非科学的用語を使用
するには、痕跡が乏しすぎる。
130四道大将軍:2006/11/09(木) 21:39:18
造山古墳が新しいから矛盾するとかしないとかの話じゃない
それは1〜3位の巨大前方後円墳も同じだろう

後に巨大墳墓を作れる勢力は限られてる



崇神十年に、吉備津彦命は吉備に派遣されてる
箸墓古墳の墳丘部からは吉備の土器が大量に出土されてる

箸墓の記事が記録されている日本書紀崇神十年は正に248年に設定されている
そして卑弥呼が死んだと考えられてる年が248年


248年の時点で既に大和と覇権を競うぐらいの強力な勢力が吉備に存在した
そして彼等は敗れたのだ
131四道大将軍:2006/11/09(木) 21:52:25
いわゆる魏志倭人伝に奴国が何故二つあるのかを考える時

このまま仮に投馬国が大和で、邪馬台国が吉備だとしたら
斯馬国〜奴国が中国地方の瀬戸内海沿岸国と云う事になる

そう考えれば伊都国の次に出てくる奴国と
烏奴国の次に出てくる二度目の奴国を、
関門海峡を挟んで存在する同じ一つの国として考えれば

今まで問題だった2つの奴国の扱いが綺麗に説明出来て辻褄が合う
132四道大将軍:2006/11/09(木) 22:20:45
そう考えると九州側の国の位置も変わってくる


今現在おおよそ、糸島を中心とする伊都国と、
漢委奴国王の金印が発見された志賀島から博多湾沿岸からの一望部の奴国

と云う具合に考えられるているが、
これら二つの地域を合わせたのが委奴国=伊都国と云う事になる


そこから考えると漢代の金印王朝は、委奴国=伊都国だ

それゆえ魏の時代に認められた金印王朝、邪馬台国が
倭の三十国のヒエラルキーに頂点に立ち

最重要拠点であるソコには一大卒を置かれるようになった
133恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 23:33:41
>>130
>日本書紀崇神十年は正に248年に設定されている

日本書紀の年度は怪しすぎる。
あんな昔に100歳以上の天皇が、ゴロゴロいたはずだない。

まず、神武天皇が死んだのは277年くらいのはず。
卑弥呼が死んでから、30年くらいは後に死んだ人間。

世界一のお墓を持ってる第16代仁徳天皇の死亡期日西暦427年を、事実だとしたら神武天皇
や天照大神はいつ頃死んだのか。

天皇の平均在位期間を10年としたら第X代天皇の死亡年月日は次の式で得られる。

427−(16−X)*10=西暦死亡年

427−(16−1)*10=277年・・・第1代 神武天皇
427−(16+3)*10=237年・・・皇祖  天照大神
             247年・・・    卑弥呼死す

まあ、10年の差くらいなら十分に同一人物だった可能性はある。
それに当時の天皇は先頭に立って、反対派を征伐していた天皇としては危険な任務の時代。
19人の天皇で10年間の在位期間が短縮したのなら、むしろピッタリと言うべき。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
第31代の用明天皇は、2年ほど在位し、586年には活躍していたことが確実な天皇である。

用明天皇の活躍年代586年を起点として、一代10年づつ古代にさかのぼれば、各天皇の
大略の活躍年代がえられる。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/nendai.htm
134恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 23:35:44
●1里は何kmと計算すべきか?
 倭人伝では韓国から壱岐まで2000里となってる。
 釜山から壱岐まで160kmとして、1里=0.08km

●水行する距離に関して、数百人の人間が移動するには、漁師や運搬船を総動員しないと無理。
 本隊が着く前に先遣隊が大金を使って段取りしても、4日間くらいのタイムラグがあるとする。
 風を待つという待機もあるし、酒宴もあるし、船もピストン輸送とし段取りでマイナス4日も
 しくは2日とし 1日平均5km進むとする。

●陸行する距離は、段取りでマイナス4日とし1日4kmとする。
 江戸時代の朝鮮通信使は12回も、江戸まで往復6ヶ月もかけて旅行してたという。
 下関から東京まで900kmを90日間かけたとしたら、1日に10km。
 日本との親善が目的なんだから魏志倭人伝とよく似てる。交通網の発達や初めての見せびらかし
 旅行と、地元との宴会・意見交換を考えると1日4kmでも良いだろ

●船を乗り換えてるので、漁業者のテリトリーが変化したものとし三角港を投馬国とす(熊本平野
 八代平野も領土とする)

韓国80km南→対馬80km南→壱岐(一大国)80?km→唐津(末盧國)40km東南
→小城町(伊都国)8km東南→佐賀市(奴国)8km東→千代田町(不弥国)80km南→
三角港(投馬国)40km南→芦北に上陸100km→西都市(宮崎県)・・「ここが邪馬台国
135恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/09(木) 23:38:21
なぜ帯方郡から不弥国までは里で距離を表現してあるのに、不弥国から邪馬台国
までが日数表示になったのか。

帯方郡から末盧国までは星を見て計算して直線距離を出したものと思われる。
しかし誤差が大きく、有効数字が1000里で陸上を歩いての距離には不適当。

陸上では秦の時代に残されてた記里鼓車みたいな、道具で計測した実働距離である。
その為に日本本土に上陸後は、邪馬台国につくまで星での計測はしなかった。

邪馬台国での計測で、帯方郡から12000里(960km)という数字が出て
緯度の計算で今の上海(会稽:北緯31度)と西都市(北緯32度)がほとんど同じと
出たから使節団の日記に書き残されたもの。

1000km離れていて、1度:100kmの緯度の差ならピッタリと言うべき。

結論::魏の使節団は星を調べて現在地を認識できるだけの技術を持ってた。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
この国はどのあたりにあるかというと、まさに、会稽の東治の東にあたる。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
136日本@名無史さん:2006/11/10(金) 03:07:45
日本という地形的特性(ゲリラ戦に適し、複雑な地形、盆地が多い)と
大きさ(距離的には実は結構大きい)に鑑みれば、当時の移動手段では
相当数の兵士が必要だという説がある。
例えば仮に、九州、四国、中国、畿内、東海、北陸、関東と非常に大雑
把に諸勢力を分けるとしよう。ということは、各エリアの大王級に成長
してきているということである。(私はこれを3世紀〜5世紀と見る)
それを一直線に各地で撃破し、慰撫し、再編し、戦後処理までやりきっ
て凱旋するだけの兵力は、一体いかほどになるのか?

仮に四つの部隊に分けるとすれば、各ルート1万の兵数は必要になると
考える。根拠は、占領地への駐屯と後方支援、補給、残存兵力の平定と
再編工作、いわゆる占領行政である。人口は少なくても、国の数におい
ては決して諸外国に劣らない数の国が存在したことは、倭人伝にもある
わけで、決戦して大王を倒してもその後が簡単に行ったのかどうかは、
さてどうだろうか。

すると、部隊の実数4万を想定することになる。これは当時の畿内の人
口と生産力を考えれば到底希みえない数ではないだろうか。物資の現地
調達といっても、戦国時代とは違って鉄器も防具も非常に貴重な時代で
あり、いわゆるレーションも未発達、移動手段や補給技術も稚拙、これ
でいわゆる「四道将軍の派遣」などという壮挙が可能だったのか、非常
に大きな疑問がある。セレモニーであったとあすれば、各地域の大王は
既に恭順の意を表しているか、打倒していなければならないが、時代的
に尚早ではないか。すると、この話題そのものが捏造か、せいぜい近畿
周辺+アルファの使いを出した、程度の事だったのではないか。まあ畿
内巡幸ぐらいはあったかもしれないがw
137日本@名無史さん:2006/11/10(金) 07:42:16
>>136

当時は瀬戸内海が交通の要衝で、船で移動していたのでは?瀬戸内海は
波も穏やかで移動しやすい。

そこで、アマが活躍した。
138太国:2006/11/10(金) 07:54:34
>>130
余がしていた研究によると、見かけでの崇神10年(皇紀573年)は240年。
崇神の世は3倍年暦とすると、崇神即位10年は(同591年)246年。
いずれにしろ、貴殿のと割かし計算結果が近い。
139太国:2006/11/10(金) 08:12:06
>>133
そのとおり100歳以上がころころいないのはそう思うが、この前言ったとおり
そんな単純な計算で結論付けて時系列をひっくり返すと論の破滅。
卑弥呼は神武の世を10代以上もかけ離れた後代の姫。卑弥呼は
神武以前の人間に非ず、当然アマテラスではない。その計算は双方が同一人物
との先入観の上に、恣意的に両者の接近を意図して計算した滅茶苦茶結論だ。w
140恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 09:24:44
>>136
>「四道将軍の派遣」などという壮挙が可能だったのか、非常に大きな疑問がある

これは無理だけど、神武天皇の東征はあったと思う。

コースは
45歳で東征を決心
宮崎県日向→大分県宇佐→福岡県北九州→広島県安芸→岡山県吉備→大阪府河内→
転進して和歌山県紀伊→熊野→吉野→大和(奈良県)

ではあるけど、途中で非常に長く休み、何年も時間をかけてる。
北九州までは邪馬台国の同盟国として兵隊や資金を集めてたと思うが、広島、岡山では
敵対国として占領し、治安を回復させ、兵隊を補充しすんなり次の征服に出発してる。

一番苦戦をしたのは奈良県を征服するときだったようだ。
大阪で一度跳ね返されて、和歌山県から再度、戦争を仕掛けてる。
:::日本書紀より:::
141恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 09:33:03
>>137
>当時は瀬戸内海が交通の要衝で、船で移動していたのでは?

しかし制海権を確実に取った上でないと、大量の兵隊が簡単に海の藻屑になる。
上陸しても補給が続かないしね。
その点、神武天皇は一歩一歩確実に、制海権を確保しながら奈良まで占領できたというべき。
このくらいの指導者じゃないと東征なんて無理だよ。
142恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 09:40:21
>>139
>そんな単純な計算で結論付けて時系列をひっくり返すと論の破滅。

今までの時系列が怪しげ過ぎるから、一度全部ひっくり返さないと歴史は見えてこない。
それも単純明快な計算で、天皇の死亡年を類推してその前後と考え再度、歴史を組み替え
ないと新しい論理で、まともそうな歴史は見えてこないよ。

あなたの考えじゃ基礎になるところが、怪しげな砂で組み立てた論が、砂上の楼閣になってしまう。
それじゃいつまで経っても、迷路の中をぐるぐる回ってるような論理。
143太国:2006/11/10(金) 11:06:27
>>142
卑弥呼は仲哀〜神功、もしくは應神世にかかるころの九州の女王で、神武以後
十数代後の時代の姫であり、君のは二者が同一人物との結論確信を先行させて、
その勝手な先入観から恣意的に双方を接近接着させて時代計算を合わせた、
というより会わせて卑弥呼=アマテラスとしたwレスビ的空想小説の世界。ww
144恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 11:29:05
>>143
>君のは二者が同一人物との結論確信を先行させて、

逆だよ!
記録が確実そうな、第31代用命天皇から第50代桓武天皇が死ぬまでの218年間
20代の天皇が天皇が変わってる。
平均在位期間が10.09年という数字を利用したもの。

俺は第16代仁徳天皇に親しみを感じてるから、そこから過去に向けて梯子を伸ばし
たら卑弥呼と天照大神が一致したというべき。
安本先生は用命天皇から梯子を伸ばしてるけど、それでも一致してるようだぜ。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
温度をはかるには温度計が必要なように、年代を客観的に議論するためには、年代を
はかるものさしが必要である。

図2の年代表は、古代史を研究するさいの、絶対年代を測定する「ものさし」となりうる。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/nendai.htm
145太国:2006/11/10(金) 14:29:55
>>144
「用命」だと? 「用明」だよ。

なら安本氏が 卑弥呼=アマテラス という先入観の確信でもって、どうすれば
合うだろう? と、計算を色々やって、うまく一致的になったので、これだ!
と持ち出した理論ではないのか〜? そんなものをまともに信じていたらもう
オシマイだ。ならこの前書きこんでたが、アマテラスの前もそういう計算で
やることにすると、日本列島が神武から100年経過してない時期に成立したこと
になるのがその計算上の結果なわけであり、すでに破綻の馬脚を現して
いるではないか。神武より卑弥呼が古いなどと言ってたら、一般の古代史の
研究連中にも笑われるぞ。www
146恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/10(金) 15:30:37
>>145
>日本列島が神武から100年経過してない時期に成立したこと

そこまで日本書紀を信じ込んでたら、あんた人に笑われるよ。
まだ子供並みの知能しか持たないのかね、年は取っても!
147日本@名無史さん:2006/11/10(金) 20:08:03
二人とも落ち着いて(>_<)

せっかくいい雰囲気になってきたのに、煽り合いからは何も生まれないよ
148太国:2006/11/10(金) 21:56:55
>>146
それをお前がやってるわけじゃぁないか?ww
もう1代後代にしてみろよ。君の論じたアマテラスに来るではないか。w
つまり、それはこちらの言うセリフなんだよ。お前は自分で自分のことを
子供並みの知能と自称したのと変わらんわけさ。ww
149日本@名無史さん:2006/11/10(金) 23:04:37
>神武より卑弥呼が古いなどと言ってたら、一般の古代史の
 研究連中にも笑われるぞ。www

何で笑われるのかよくわかんね。大国さんに笑われるのは大歓迎なんだがね。
一般のとかも意味わからんし。
150四道大将軍:2006/11/10(金) 23:56:36
安本先生論の問題については

日本書紀紀年法がついに解明されました[part4]
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1148693901/116

のサンプルなんかを見ると良い鴨です
151日本@名無史さん:2006/11/11(土) 00:56:29
弥生集落に高さ7メートルの柱、「卑弥呼の楼観」実在か
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20061110STXKF037710112006.html
152月光:2006/11/11(土) 06:00:23
岡山の児童は以下のような郷土史を学んでますが、間違いですか?
>>128
西暦190〜247年の卑弥呼実在時期の国内最大墳墓、交易権力は吉備にあった。
初期最大古墳のタテツキの木管跡には、重量30キロの当時比較にならないほどの
水銀を使用。(ほかでの総使用量の数倍)
266年に後継の台与が晋に使いをだすが、その後、邪馬台国畿内説最大の根拠である
マキムク古墳に吉備の第三期の特殊器台(後の埴輪)が登場し、出雲やほかの
エリアの土器、古墳様式が合流していく。遺跡からみるかぎり、大和説でも北九州説
でもなく、吉備に当時の倭の連合政権の首府があったことは明白です。
いつまでも40年前の論争を長引かせたい理由は、単純に学会内での東大京大派閥争い
でしかないのでは? 素人からみても、この論争はカルトで不可解だね。
153月光:2006/11/11(土) 06:39:49
造山古墳は初期前方後円墳では最大規模、総勢150万人が九州から近畿エリア
にいたる旧邪馬台国勢力化から集められ建設されました。
墓棺の石は阿蘇産出が証明されています。
吉備の鴨の別(将軍)は、火の国と熊襲の戦いのおりに、女装し火の国の
皇女を助け熊襲を退けた逸話があり、のちに大和朝廷により古事記に
大和の神話として収録されましたとさ。
154月光:2006/11/11(土) 06:56:10
日本書紀では、吉備のハダ(秦氏のハダ)に応神、仁徳天皇の姫が
里帰りするたびに、恋しくて帰郷したことが記されていますが、軍事的にも
かなり奇妙です。
古墳の発展からは、吉備=大和連合朝廷が検証されますが、吉備の3度にわたる
反乱が記紀に記されてるように、初期には吉備主導で朝廷は運営されていた
気配があります。ちなみに吉備では、神武が8年滞在していたことから、
神武はタテツキ王の傭兵か門人で、子孫が出生したな〜というかんじで
みています。大和の天皇家は成り上がったということですね。
ちなみに私は、吉備秦氏の末裔ですが、あそこらには紀元8年の前漢衰退後の
新の王蒙の貸せんが大量に出るんです。古代からの華僑貿易の証明ですよ。
155日本@名無史さん:2006/11/11(土) 09:06:05
吉備・・・全国4位の古墳だけ
畿内・・・初期前方後円墳と水田遺跡だけ
九州・・・神話神代の舞台、副葬品が三種の神器や中国鏡、絹等を
     含む弥生王墓群、文献学的優位性(里程論争、植生、自
     然地理、風俗等)、水城の存在(年代確定されておらず、
     半島戦争最終局面だけであれだけの防壁群をにわかに作 
     るのは無理、推定ではのべ200万人という説もあり。)
     筑紫観世音寺の存在、天神の存在(菅公は合祀されただけ)
     特に「筑紫の日向のクシフルの峰・・・」の日向峠方向を
     明確に指し示す被葬状態の平原第1古墳女王墓は、鏡の数
     も大きさも日本最大、前原では卑弥呼の五尺刀二口のうち
     一つが出土、更に鉄器の量。簡単にまとめると、これだけ
     の証拠があり、畿内説からの有力な反論もほとんどない。

それでもヌルーですか?古墳だってむしろ九州の彩色古墳群の方が進んで
いると思うんだけど・・・。曹操の出した葬儀の簡素化令だって、何
度も朝貢した邪馬台国が無視するのは難しいと思うし。 
あと、神社の系譜も面白いですよ、大別して天神、八幡神、熊野神社
などがありますが、それぞれ歴史的経緯があるわけで。
そんなものも吉備にはないので、やはりエリアの大王クラスではあっ
ても、西日本全域というのは非常に難しいと思われます。
156日本@名無史さん:2006/11/11(土) 09:53:13
卑弥呼の朝貢って、曹操の死後だよね。
卑弥呼の墓は径百余歩という大きな塚だよね。
簡素化令に従ってないね。

彩色古墳って、縄文の匂いがするね。
157四道大将軍:2006/11/11(土) 10:01:34
邪馬台国が大和にあって、そのまま大和朝廷だと云う事を前提に、
様々な発見を邪馬台国大和説の補強材料にする立場がある
主なマスコミも予めそう云う立場で報道している

また、日本書紀の年代観の研究が進むと卑弥呼の時代は崇神だから、
これも邪馬台国大和説を推したくなる。箸墓もある訳だし

しかし、漢籍を読むと、どうも九州に分があると云う感じがする

そこで東遷説が出るのだが、当時の大和の発達段階を見ると九州から大和は
文献学的、考古学的に根拠が薄弱に思えてならない

しかも、邪馬台国の代に神武が東遷したと云う論者が居る(当代は崇神だろうと思うのだが)



しかしどうも不自然だ、決め手に欠ける

そこで吉備に注目すべきだと思い
月光さんも言うように、吉備を中心に考えると無理がないのではないかと
次第に考えるようになった
158四道大将軍:2006/11/11(土) 10:46:36
>>155
九州には卑弥呼の被葬地が認められない
159日本@名無史さん:2006/11/11(土) 11:15:42
>>145
天照大神=卑弥呼を最初に論じたのは、明治時代の東大教授で著名な
東洋史学者の白鳥庫吉だよ。邪馬台国論争でも有名だけど。

白鳥庫吉は、記紀の高天原の状況と倭人伝の伝える倭国の状況が酷似して
いるとして、天照大神は卑弥呼だろうと言っている。

天照大神は、須佐之男命の乱暴に怒って岩戸に隠れた。高天原は真っ暗に
なった。天照大神が岩戸を出ると、高天原はまた明るくなった。
一方で、卑弥呼は狗奴国との争いの中で死んだ。男王が立ったが、国中が
納得せず、千人あまりを殺しあった。壱与が女王になるとまた平和になった。

さらに、天照大神も卑弥呼とともに女性であり、独身であり、神に祈る
存在である。

また、記紀によると、高天原から出た天照大神には高皇産霊尊が付き添う。
梁書によると、壱与が女王になった後、男王がまた立ち、ともに
中国の爵命を受けるとある。

天照大神=卑弥呼(プラス壱与)は、十分にありうる。
年代的にも可能であると思う。
160太国:2006/11/11(土) 11:15:58
>>157
卑弥呼の時代は崇神の世にあらず、また崇神よりも古くはない。恵也より
言っていることはずっとましだが、まだおかしい主張と思える。
卑弥呼は仲哀〜神功、あるいは應神の世にかかるころの人で、女王国は九州
にあったのが正解である。倭人伝に卑弥呼の情報が載るの理由は、畿内よりずっ
と魏と交流がしやすい九州と観るのが、記紀に畿内近隣に女王国があり西太后の
ようにすごい勢力があったという記述が見られないことと記述ほぼ0の状態から
それが至当であ〜る。つまり日本にあった女王国の記述は外国版で無い日本版の
本元記紀に、コオロギの鳴き声以下のお淋しい状態から畿内でないと結論する。
161太国:2006/11/11(土) 11:18:41
>>159
卑弥呼≠天照大御神  前者は神武以後の姫、後者は神武以前の姫。
162日本@名無史さん:2006/11/11(土) 11:35:19
ちなみに、戦後始めて邪馬台国東遷説を唱えたのは、昭和30年頃の
東大教授・東洋史学者の和田清。昭和35年頃の東大教授・榎一雄。
昭和40年頃のやはり東大教授の井上光貞で、「最も自然なのは邪馬台国の
東遷なのである…」と著書で書いている。

邪馬台国東遷説は、安本氏の専売特許でもなんでもない。
最も自然な考え方なのである。
163日本@名無史さん:2006/11/11(土) 11:53:55
江戸時代から続いているのに昭和30年でやっとでてきたということが
最も自然な考え方ではないことを証明しているのだが。
164日本@名無史さん:2006/11/11(土) 11:58:57
明治時代の白鳥庫吉も天照大神=卑弥呼だから、当然東遷説になる。
皇室の皇祖神である天照大神が卑弥呼なのだから。
165太国:2006/11/11(土) 14:40:48
>>164
東遷とイコール説の成立はない。
あなたとその連中の、お思いこみの妄想なり。
166:日本@名無史さん :2006/11/11(土) 15:42:13
なあ、皆そろそろ気付くべきじゃないか?

邪馬台国九州説 (福岡県考古学研究団体)
大久保利通偉人説(薩摩)
牟田口中将有能説(佐賀県)
吉田松陰マンセー(山口チョン民)
山県有朋善人説 (山口県)
幕府叩き    (薩長)
会津叩き    (薩長)

まだまだ限がないほど糞スレはあるが・・・
全国広といえどもこれほど厚かましく板占領して選民思想前面に押し出してる
自己中は見た事がない。そろそろ自己の都合で歴史を捏造しようとしてるこい
つら叩かないか?他の県にこんな馬鹿な連中いるか?
167OK:2006/11/11(土) 15:53:32
KO
168四道大将軍:2006/11/11(土) 20:09:20

> >>157
> 卑弥呼の時代は崇神の世にあらず、また崇神よりも古くはない。恵也より
> 言っていることはずっとましだが、まだおかしい主張と思える。
> 卑弥呼は仲哀〜神功、あるいは應神の世にかかるころの人で、女王国は九州


> >>130
> 余がしていた研究によると、見かけでの崇神10年(皇紀573年)は240年。
> 崇神の世は3倍年暦とすると、崇神即位10年は(同591年)246年。
> いずれにしろ、貴殿のと割かし計算結果が近い。



卑弥呼死亡時は崇神だと思いますし
開化の代も卑弥呼の時代だと思いますが


>>157>>130で太国さんの発言内容は一致しませんね
169四道大将軍:2006/11/11(土) 20:19:02
間違いました

>>160>>138の太国さんの発言内容は一致しませんね

です
170太国:2006/11/11(土) 22:11:23
>>169
それは崇神の実年代の数字が貴殿と近いと言ってるわけで、卑弥呼の年代も
そのへんだとは言っていないぞ。卑弥呼は神武より、もう10代余後の姫なの。
171四道大将軍:2006/11/11(土) 22:45:20
太国さんは卑弥呼を西暦何年の人だと思ってるんですか?
172日本@名無史さん:2006/11/12(日) 00:50:51
>>155
年代無視www
173太国:2006/11/12(日) 07:57:48
>>171
完全に確定するのは無理でしょうが、紀の神功39年は実年代で365年です。
だからその前後で活動していた人ですね。勿論これはそれがしの計算が合って
いる場合の話ですが、神武のころの人物ではないですよ。
畿内も九州も女が主役というのは同かな?と、貴殿は想うかもしれませんが、
アメリカも下院議長が女性だそうで、次回の大統領選挙でヒラリーさんが出て
勝てば、双方女性になるわけだし、エリザベス女王とサッチャーさんが好事例
でもあり、あのときはそういう時代だったんですよ。
174日本@名無史さん:2006/11/12(日) 09:08:53
>>173
何と言ったらいいのやら。
卑弥呼が共立されたのは、いわゆる倭国の大乱のあとで2世紀末です。
魏に初めて使いを送ったのは、倭人伝によると景初2年(238年)。
亡くなったのは、だいたい250年頃とされます。248年頃という人も
多いかな。
これは常識中の常識だと思っていたけど。
175日本@名無史さん:2006/11/12(日) 09:36:43
>>173
神功が245年頃(干支2回り分遡る)というのなら聞いたことあるけど、
卑弥呼が365年頃というのはひどすぎませんか?
176日本@名無史さん:2006/11/12(日) 10:49:19
>>174-175

ネタにマジ(ry
177太国:2006/11/12(日) 12:10:14
>>174 >>175
238年ですか〜? その数字ですと確か神功〜仁徳の御三方とタケウチギネス
の異状と想える長寿は肯定せざるを得ませんが、如何でしょうか?
178日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:17:27
なんでこのスレ、九州説論者にのっとられてるの?
179日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:02:07
畿内説論者は隔離されました
180日本@名無史さん:2006/11/17(金) 21:24:00
神武って本当にいたの?
181日本@名無史さん:2006/11/20(月) 13:53:01
いたと思うよ
182日本@名無史さん:2006/11/20(月) 15:59:32
居ないよ。
183恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 16:55:59
>>180
>神武って本当にいたの?

いたと思うよ。
日本書紀の年度は怪しすぎる。
あんな昔に100歳以上の天皇が、ゴロゴロいたはずだない。

まず、神武天皇が死んだのは277年くらいのはず。
卑弥呼が死んでから、30年くらいは後に死んだ人間。

世界一のお墓を持ってる第16代仁徳天皇の死亡期日西暦427年を、事実だとしたら神武天皇
や天照大神はいつ頃死んだのか。

天皇の平均在位期間を10年としたら第X代天皇の死亡年月日は次の式で得られる。

427−(16−X)*10=西暦死亡年

427−(16−1)*10=277年・・・第1代 神武天皇
427−(16+3)*10=237年・・・皇祖  天照大神
             247年・・・    卑弥呼死す

まあ、10年の差くらいなら十分に同一人物だった可能性はある。
それに当時の天皇は先頭に立って、反対派を征伐していた天皇としては危険な任務の時代。
19人の天皇で10年間の在位期間が短縮したのなら、むしろピッタリと言うべき。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
第31代の用明天皇は、2年ほど在位し、586年には活躍していたことが確実な天皇である。

用明天皇の活躍年代586年を起点として、一代10年づつ古代にさかのぼれば、各天皇の
大略の活躍年代がえられる。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/nendai.htm
184日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:20:40
神武は1世紀頃の人物。
185日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:26:22
安本説は捏造ですから信用出来ませんよ。
世界の多くの廃帝とかの短命皇帝を省いて計算してますから。
1年違うだけで30年以上ずれるんだぜ。
2年違ったら60年以上だ。
あほら。
186太国:2006/11/20(月) 18:31:42
>>183
イザナギは何年ころの人物になるのか?
187日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:51:10
イザナギイザナミの神話で イザナミが黄泉の国に行った(さらわれた?)
8人と乱交してたのを助けに来たイザナギが発見して 
逃げて帰ったって言う話なかった??

黄泉って東国のことかなぁ?地獄山??
188日本@名無史さん :2006/11/20(月) 20:14:36
>>183
考え方としてとてもおもしろいと思います。
もちろん,徹底した証明が今後必要になるでしょうが,
検証していったらいろいろ得られるものがあるのではないでしょうか?
そのへん,この考え方を元に考察した内容があれば概略でいいので教えてください。
189恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 21:21:59
>>186
>イザナギは何年ころの人物になるのか?

天照大神の前だから西暦227年頃死んだんだろう。
もちろん、日本を作ったとか、黄泉の国に行ったとかは眉唾だと決め付けてるけどね。
まあ、天照大神の前の政治権力を持ってた方の名前に過ぎん。
190:日本@名無史さん :2006/11/20(月) 21:26:43
なあ、おいら昨日のテレビ観て悟ってしまいました・・・。
日本人の祖先は多分中国奥地やベトナムに散在する少数民族の苗族(ミャオ)
です。エラ張り漢民族や朝鮮民族とは明らかに違います。

棚田の文化も米食の文化もモチ付くのもそっくりです。というか、顔が日本
人そのものでしたw服装はアイヌそっくりです。考えてみたら戦争で追われ
て四散したから、小数民族になったわけですよね。日本まで来る理由は一つ
です。戦争で異民族に追われたのです・・・。中国の民族の中身はひたすら
入れ替わっています。もとは漢民族じゃありません。

前15世紀の殷(商)の頃に存在した都市国家(邑)がもろ関係してそうです。
なぜならその頃の家父長氏族社会や亀朴の法の文化や甲骨文字が邪馬台国の
それとそっくりです。混血しないかぎり民族の容姿は5千年でも変化しません。
191:日本@名無史さん :2006/11/20(月) 21:33:57
ちなみに当時の中国の南部の揚子江の北に“大和”と表記される地名があります・・・w。
192:日本@名無史さん :2006/11/20(月) 21:42:30
前12世紀・・・周
前11〜8世紀・・・西周・東周 ←領土が揚子江にまで拡大したこの時期が一番怪しいかも。
前8〜3世紀・・・春秋
193日本@名無史さん:2006/11/20(月) 21:45:20
エラ張り日本人はいないってこと?

まあ多数の混血だろ。どの民族もそうだが。
194:日本@名無史さん :2006/11/20(月) 21:51:07
エラ張りにも幾つか種類がある。北の漢民族や朝鮮人に見られるのと日本人のは全く別でしょ。
195:日本@名無史さん :2006/11/20(月) 21:55:08
最近は帰化人が増えすぎて日本人の特徴がわかりにくくなったが。
解りやすくいうと“おまえに食わせるタン緬はねえ”のひとが中国系。
新庄のあごは朝鮮系。古来からの日本人のものではない。
196恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 21:58:17
>>188
>もちろん,徹底した証明が今後必要になるでしょうが,

それは無理!
2000年近く昔のことが証明なんて出来るはずが無い。

セイゼイ仁徳天皇から出発するか、用明天皇から出発するか本人のお好み次第。
最終的結論なんて出るようなシロモンじゃない。
本人がどちらが真実らしいのか、自分で確認し自由に山勘で決めるようなもの。

俺は天照大神を卑弥呼に死んだ後でつけられた「戒名」みたいなものだと思ってる。
神武天皇も生きてる間は「サノノミコト」「カムヤマトイワレヒコノミコト」とか
いろいろ持っておられたようだけど死んだら神武天皇ということに戒名が決まったんだぜ。

それをマトモナ書物もない2000年後の今の世界で、証明なんて寝言に過ぎん!
むしろ1人1説の考古学というべき。
197:日本@名無史さん :2006/11/20(月) 22:04:13
今の中共ってある時期からそれ以前の歴史をスパっと切ってない?漢民族主体というか。
198恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/20(月) 22:10:52
>>190
>エラ張り漢民族や朝鮮民族とは明らかに違います。

エラ張りしてる日本人も多いいぞ。
これらの方は日本人じゃない事にするのかい??

それに食べ物で顎の発達はずいぶん違うという。
今の日本人は、軟らかい物しか食わずアゴは発達せず小さくなったとか・・・

ーーーーー(引用開始)−−−−−
また、食物の硬さと顎骨の関係を見るため、マウスに同じ成分の餌を、一方は水で
練ってやわらかくしたものを与え、これを20世代まで観察したところ、顎の骨や
筋肉が縮小し衰えていることが実証されました。
http://www.hda.or.jp/okutikenkou/hearth/ago6-1.htm
199:日本@名無史さん :2006/11/20(月) 22:13:01
マスコミがバラエティ番組なんかで在日の人の顔しか映さないから、
すっかり日本人の顔を忘れちゃったね。
200:日本@名無史さん :2006/11/20(月) 22:17:47
>>198
つまり極端に縮小してない人は最近まで大陸食で生活してた家系ってことだね。
当たり前だが民族の顔の特徴は顎だけでなく目や鼻も含めた顔全体からわかる。
201日本@名無史さん :2006/11/20(月) 22:18:19
>>196
>それは無理!
>2000年近く昔のことが証明なんて出来るはずが無い。
それを行動原理としたら,すべての学問は停止してしまいます。
それがあなたの信念なら否定はしないけど,他人に言わず心にとめておいてください。
ひとつの考え方や仮定,仮説を立てたら証明しようとするのは当然でしょう。
証明というのは最終結論を唐突に出すのではなく理論や実証が不可欠で,その仮定が重要だと思います。
最終結論が出ないと言うのはわかりますが,だからといって検証,考察の過程の価値までも否定するのは
非科学的だと思います。

202:日本@名無史さん :2006/11/20(月) 22:33:12
一番興味深いのはね、3世紀の仏教の伝来ルートに
ガンダーラ→西域→敦煌→後漢→東晋(揚子江流域)→百済→日本
があるってこと。つまり北方高句麗→新羅経由ルートじゃない。

ちなみにミャオ族は森がうっそうとする山奥に棚田を作ることから、
河川環境がしっかりした土地を探して移動するはず。大和は正に最適。

http://www.china.org.cn/ri-shaoshu/index.htm
203太国:2006/11/20(月) 23:12:42
>>189
そうすると227年ころ日本列島ができたわけだ。wwwww
204太国:2006/11/20(月) 23:15:12
>>191
そのうち天津神族は中国の天津から来たなどと言い出すなよ。www
205:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 00:00:55
>>204
地図開いて苗族の分布見てみそ

ベトナム、雲南、四川省、貴州省、広西チワン族自治区、湖南省、湖北省、広東省

この分布と拡がり方は南西と北東に延びていてその先に海がある。特に広東省の先に
台湾があり、沖縄経由で鹿児島めざすと浅い海の上にまるで道の様な島々が連なる。
ところで、なぜ日本ではあれほど三国志が良く知られているのだ?非常に気になる。
206:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 00:23:22
>>190
分布を見る限り戦争で四散した可能性よりも稲作用の土地を求めて広く移動する
移動民族だった可能性の方が高い。
207恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 13:52:00
>>200
>民族の顔の特徴は顎だけでなく目や鼻も含めた顔全体からわかる。

顔全体からわかるなんて、大袈裟な事を喋って!
あなたに何人の異民族の友達が居るんだろうね。

俺は、在日の方や沖縄の方の友人が居たけど、出身地を言われてはじめてそう言えば
少し感じが違ってたかなとは思えても、全く知らない人間を見て出身地なんてわからんよ。

全く人種が違う白人や、バングラデッシュの方ならともかく、同じアジア人じゃ???
208恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 15:05:56
>>201
>ひとつの考え方や仮定,仮説を立てたら証明しようとするのは当然でしょう。

それは「個人の納得」の為の証明に過ぎない。
「個人の納得」で証明できたと思う人間が多くなったら、学問的に認められたというだけのこと。
いわゆる証明なんて、全員が納得で出来るようなシロモンじゃない。

いまだに地球が丸いなんて納得できない人間はいっぱい居るでしょう。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
今日でも、米国などでは「大地は平らだ」と唱える人々がいる。

(注3)「大地が丸かったら、海の水はみんな流れ落ちてしまう」とか「地球の反対側に住んで
いる人はみんな落っこちてしまう」といった「証拠」を挙げて、「科学者は頭が硬いので、こう
した事実を認めようとしないと主張している。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/kgh_sb5.html
209恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/21(火) 15:42:17
>>205
>なぜ日本ではあれほど三国志が良く知られているのだ?非常に気になる。

中国でも知られてるのじゃないかな。
関羽が神様扱いになって、教団まで出来てるというし英雄がたくさん出て小説や漫画に
しやすかったのが原因だろう。

それと魏志倭人伝の作者:陳寿が、簡潔にわかりやすく淡々と正確な記録を残してくれた事。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
この時代の歴史物語が三国志と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家陳寿(233年 - 297年)が
この時代の出来事について記録した歴史書の書名が、『三国志』であることにちなむ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97
210:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 18:42:37
>>209
だからどうしたってくらいとことんつまらん回答だなw
それじゃ他の中国国内でもっと有名な文献はなぜ日本でさほど広まってないの?
211:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 18:45:21
>>207、208、209
屁理屈w
212:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 18:49:41
>>209
205で示した土地は三国志と非常に関係の深い土地だよ。
213日本@名無史さん:2006/11/21(火) 21:02:04
>>210
中国国内で最も有名な文献て何?
毛沢東語録?
気になる
214日本@名無史さん:2006/11/21(火) 21:37:37
大唐西域記
215日本@名無史さん:2006/11/21(火) 22:04:46
金瓶梅
216日本@名無史さん:2006/11/21(火) 22:50:11
死亡遊戯
217日本@名無史さん:2006/11/21(火) 22:54:34
俺(倭人)も三国志の方が史記列伝より人気なのが不思議だ
やっぱ中国では岳飛伝とかが人気なのか?
218日本@名無史さん :2006/11/21(火) 23:01:23
>>208
証明というのは客観的に論理を推し進めることであり,個人を納得させるという要素が入った時点でそれは証明ではありません。
学問と言うのは常に進歩するものであり,ある人がある事項を証明てもそれに反対,批判が出るのは当たり前です。
それに対する反論があり,またそれに対して・・・という作業を繰り替えし科学は発達してきました。
単発で出した理論や結論が100%受け入れられないからと言ってそれは間違いだという決めつけは学問の進歩を否定するものです。

いろんな屁理屈といちゃもんをつけてるけど,ちゃんと論争と言うものをしましょうよ。
219:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 23:27:30
紅楼夢
220:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 23:33:48
水滸伝
221:日本@名無史さん :2006/11/21(火) 23:45:47
三国志って中国でも南側(蜀と呉)が比較的良く語られてないっけ?北側が敵で
222日本@名無史さん:2006/11/21(火) 23:53:04
我輩の説によれば、事実は逆で、
魏志倭人伝を見て国号を「やまと(日本)」にすべいとなったのである。
これなら、昔からあったように見せかけられると。
223:日本@名無史さん :2006/11/22(水) 00:01:33
>>209
>関羽が神様扱いになって、教団まで出来てるというし

これ気になるよね。中国のどの地方の出身者に崇められてるのだろうか?
やっぱり長江流域の部族とかなのかな?
224恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 15:25:37
>>210
>他の中国国内でもっと有名な文献はなぜ日本でさほど広まってないの?

もっと有名な文献て何があるの?
俺は三国志以上に有名な文献て知らないのだけど・・・・

それに中国や日本で面白くかかれた三国志だからこそ、広まったんじゃないかね。
面白くなければ学者のオナニーの道具になるのが関の山。

劉備や曹操、孫権など個性的な英雄が、縦横無尽の活躍し物語の中に引き込まれる。
しかも作者によって主人公を選ぶ事ができ、どれだけでもイメージを脹らませれる
だけの材料が三国志にはあるんだよ。

俺は「蒼天航路」という漫画は好きだね。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
『三国志演義』では悪役であった曹操に「もっとも人に興味を示した」英雄として
スポットライトを当てる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%BC%E5%A4%A9%E8%88%AA%E8%B7%AF
225恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 15:34:02
>>218
>個人を納得させるという要素が入った時点でそれは証明ではありません。

個人の納得のない証明というものはありえない。
科学の発達や学問の進歩というものは、証明という言葉の定義とは無関係。

多くの個人が納得できる論理を証明という。
だからその中に入れない、例外の人間がいっぱいいるんだろ。
226恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 15:40:25
>>222
>三国志って中国でも南側(蜀と呉)が比較的良く語られてないっけ?北側が敵で

それは三国志演義という小説の中で描かれてる世界。
陳寿の書いた本物の三国志とは異なる。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
歴史書の「三国志」(正史三国志)も小説「三国志演義」も魏・呉・蜀の三国の
興亡を描いているという点では変わりはないが、正史三国志では魏を正統として
記述しているのに対し、三国志演義は蜀を正統とする視点から描かれている。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%B0%B9%F1%BB%D6
227恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/24(金) 16:09:07
>>223
>これ気になるよね。中国のどの地方の出身者に崇められてるのだろうか?

宗教だから出身者というより、個人的な思想で信者になるのじゃないかな。
肉体的にも、精神的にも、生きていく為の人間としての義や誠意という点からも
豪傑だったから、華僑として世界に散らばってる中国人に信者が多い。

日本の横浜にも、お寺があるぜ。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
世界の最も多くの地域で信仰されている、ということからいえば関羽も引けをとりません。

世界中には華僑と呼ばれる中国人移住者が存在します。それら華僑の信仰の対象となって
いるのが関羽であり、中国・台湾で最も盛んに信仰されている神の一人が関羽です
http://www9.ocn.ne.jp/~all/cont/konpeki-1.htm
228日本@名無史さん:2006/11/24(金) 19:06:09
>>恵也
おまえはもう少し分かりやすくしゃべれ
229:日本@名無史さん :2006/11/24(金) 22:30:29
>>恵也
関羽って顔赤かったんだろ?何族出身者なの?南方系?
230:日本@名無史さん :2006/11/24(金) 22:40:10
>>恵也
>世界中には華僑と呼ばれる中国人移住者が存在します。それら華僑の信仰の対象とな
>っているのが関羽であり、中国・台湾で最も盛んに信仰されている神の一人が関羽です。

華僑って移民系だけど、南方系?華僑っていつ頃からどういう成り行きで成立したの?
231日本@名無史さん:2006/11/25(土) 03:27:50
邪馬台国をヤマトコクと呼ぶとすれば、神武東遷説はかなり現実見を帯びる。
安本美典の本はかなり読んだが、卑弥呼の死亡時期に皆既日食があったという
話はアマテラスオオミカミの岩戸隠れと符号して、説得力があったね。
232恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/11/25(土) 11:21:16
>>230
>華僑って移民系だけど、南方系?華僑っていつ頃からどういう成り行きで成立したの?

華僑って中国国籍を持って外国で生活してる人々の事。
福建省や広東省の人が多いようだ。
16世紀から多くなったが、大部分の華僑は18世紀以降に、大量発生したようだ。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
華僑(かきょう)は、「中国・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、
中国の国籍を持つ漢民族」を指す呼称である
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%83%91
233日本@名無史さん:2006/11/25(土) 11:33:07
中国には、客家というのが居る。
ケ小平も客家の出身だったという話だが。
234日本@名無史さん:2006/11/25(土) 11:56:34
邪馬台国が大和朝廷になったというより、2つが融合した。
なぜなら、神武は、大和に入って初めて天照大神を奉じているから。
邪馬台国は大和にあり、卑弥呼は天照大神だろう。
235玲奈:2006/11/25(土) 12:20:26
反対でして分かれたでした。
宮崎県の邪馬台から神武の人の勢力が東に行きまして卑弥呼は宮崎県に残った方に生まれまし
て少し後でしょう。
卑弥呼の前に倭国乱れたはそれでした。
236太国:2006/11/25(土) 14:45:53
>>234
その結論は最も陥りやすい迷推理。
237日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:15:52
よく東遷説を採っている人がいるのですが、自分みたいな素人からすると
畿内へたどり着いた後、さらに東へ進もうと考えなかったのでしょう?
238玲奈:2006/11/25(土) 18:41:06
それは考えても考えなくてもいいでしょう。
東はあとで戦いに行きましていいところがありましたら東に行くのをやめるのがいいです。
239日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:58:16
>>238
おまえ、もう少し日本語勉強しろ。
全体の意味さえ分かれば、ちょっとした言葉使いは間違えててもいいが、
おまえのは本当に何言ってるのか分からない。
240唐松山:2006/11/25(土) 19:07:47

ほつま伝え を 読みましょう
そして 暦は、‘増し‘ 

簡単に言うと 立太子(たとえば20才)=翌年には天皇に成る(51才)
前天皇死亡(80才)実際は50才
この30年が ‘増し‘  
これを 
 
ホ18061  うえつぎヰモ 
と言います。


241日本@名無史さん:2006/11/25(土) 19:15:38
>>237
ヤマトタケルが逝ったろ?西方を押さえた後だいぶあとになってだけどね。
でも
そうそう簡単に思い描けるような古代情勢では決して無かったと思うな
九州の邪馬台国が東遷してヤマトになりましたって、小学生でも発想できる
レベルのものだろうし、イギリスがアメリカになりましたって言って
いわれても全然説得力ないし、そろそろ止めれば?と言いたい。
242日本@名無史さん :2006/11/25(土) 22:16:51
>>238
あんたのは議論じゃなくてディベートの枝葉のテクに入り込んでるだけだな。
相手の言葉を拾ってそれを否定しさえすれば,話だけなら永遠にできる。
でも,建設的な結果はいっさい出てこない。

もいちど言うよ。まともな議論をしようや。
243玲奈:2006/11/25(土) 23:12:18
疑問に答えただけでして議論は違うですが何を言っていますか?
もっと移動をするのを考えるのは変ではないですがたくさんの遠い移動は大変ですのでいいところを見つけたでしたらそれで止まるのはおかしくないのを言ったです。
それであとで行ったのも言ったです。
244日本@名無史さん:2006/11/25(土) 23:27:10
自動翻訳だろ。どこの国の人かしらんが、日本の古代史学なんて
非科学的な伏魔殿に踏み込まない方がいいよ。頭が変になるから。
245日本@名無史さん:2006/11/26(日) 00:57:04
>>243
この文章をわかりやすく書いてみると、

疑問に答えただけで議論しているわけではありません。
見当違いのことを言わないように。

もっと遠くまで行ってももちろんかまわないけど、近くで良い場所を
見つけたなら、そこで止まってもちっともおかしくない。遠くに行くのは
大変なわけだから。

だから、後になってからは、遠くのほうにも行ったと言ったのです。
(つまり、遠くよりも大和の方が良かったから遠くには行かず止まった)

これでどう?
外国人だとしたら、けっこうすごいし、勇気がある。
246日本@名無史さん:2006/11/26(日) 01:21:13
神武記が本当だとしたら、長脛彦の軍団に兄貴もみんな殺されて、
かろうじて奈良盆地の南端にほうほうの体でたどり着いたんだから、
更に悪路の伊賀越えから東海まで攻め込むまでに、まあ余裕で部隊
全滅だろうなw
247日本@名無史さん:2006/11/26(日) 01:28:00
神武紀は兄がみんなイワレビコに成敗されてるな。
つか神武紀に限らず書紀は、兄受難譚ばっかりだ。
248日本@名無史さん:2006/11/26(日) 02:44:37
神武紀ってギリシャ神話の焼き直しって中学校で習いましたが?
249玲奈:2006/11/26(日) 03:15:48
それでしたらギリシャ神話はメソポタミアあたりが起源でしょう。
250日本@名無史さん:2006/11/26(日) 04:18:14
皇尊(すめらみこと)がシュメールから来てるなんていう人もいるね。
251唐松山:2006/11/26(日) 12:11:20
古代 天皇制
@ 籾(種) を 作事暦と共に 貸し付ける この揚がりで成り立っていました。
いつ頃までか?
A 倭人伝 の伝える 卑弥呼の時代 民は、1年が365日 である事を知らなかった
B 倭国大乱 暦を持った上層部(特権階級)の分裂
もし 民が暦を 知ってしまえば、 古代天皇制 は成り立たたなくなります。

@ほつま を読むと 暦には、増し が有るとかかれています。
Aそのように書かれている
Bウサのミミタレ や クロマロ 
時代は、景行の 九州遠征
新しい 天皇制は、屯倉
屯倉の設置は、 ヤマトタケル の関東平定以降 成務の時代
この 切り替えに失敗した九州女王国は、衰亡 
252日本@名無史さん:2006/11/26(日) 12:16:50
失われた日本書記原典の最後にはこういうのがあったんだよ♪

参考文献
「ギリシア神話」
「旧約聖書」
「新約聖書」
253唐松山:2006/11/26(日) 12:41:08
ナガスネヒコ は 暦を盗んだ 
ホ28407  ナガスネヒコはそのクラを ひそかにあけてうつしとる
伊勢国風土記 より
「逆ふる黨(ともがら)、膽駒(いこま)の長髓(ながすね)を早く征ち罰(きた)めよ」とのりたまひ
(今井似閑採択)

254日本@名無史さん:2006/11/26(日) 13:12:58
ある程度は暦を知らないと農耕ができないのでは?と思うのですが
255玲奈:2006/11/26(日) 13:25:04
あまりよくない暦があったかもしれないと思いました。
言葉はどこまで一定でしたか?
256唐松山:2006/11/26(日) 17:16:33
ホツマ伝 ミカサフミ
http://www.k3.dion.ne.jp/%7Eyamas/kodaiy2k/hotumika/hotumika.htm
暦は キツオサネ アミヤシナウ で キアエ より 60年
年号の ‘増し‘  
ホ16158 ヱナのめくりも なそらえて やがてうまれん オオンカミ コソムツキます このコヤネ モモツキませり タチカラオ ミソムツキます
ホ16163 サルタヒコ ソムトシをれど これはまれ 
サルタヒコが 胎児のときに 代代り、15年の‘増し‘

垂仁天皇と景行天皇 の世継ぎ のときの ‘増し‘  

ホ37191  コソホキサラギ ミコトのり カグをもとめに タジマモリ トコヨにゆけよ わがをもふ クニトコタチの ミヨのハナ
ホ37195 コソコホサシヱホ アフミハヒ キミまかるトシ モモミソナ
ホ37202  あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ
ホ37212      ...トトセぶり...
ホ38005  うけつぎて イムナタリヒコ オシロワケ アメスメラギの トシヤソヒ ...ミカザリを タミにをかませ
      ワカミヤの ハツコヨミなる フホヤヨヒ キビツヒコがメ たつキサキ

垂仁90年夏6月(秋 会稽で開かれる市)に出発した タジマモリ 約10ヶ月後 翌年3月に戻ってみると 景行2年に成っていました。
暦では  10年ぶり...  トコヨの暦は皇帝が変わっても変わらないのに 我が暦は...
たたねこ 本当の暦を知る。

257唐松山:2006/11/26(日) 19:15:47
258日本@名無史さん:2006/11/27(月) 20:44:21
誰かカキコれよ、古代氏連
259日本@名無史さん:2006/11/27(月) 20:47:05
卑弥呼はアマテラス。邪馬台国はマキムク。4世紀に宮崎の西都原勢力が
マキムクの邪馬台国を侵攻して大和政権を樹立した。だから、4世紀は中国
との通交も途絶え文献からは伺い知れない。

そして、卑弥呼はアマテラスとして伊勢に祀られた。邪馬台国(卑弥呼)時
の邪馬台は東海地方と密接なつながりがあった。そして、北九州も支配していた。

邪馬台国を乗っ取った大和朝廷は、一から全国支配を進めないといけないから、
丹波とか近いところにも兵を送った。
260日本@名無史さん:2006/11/27(月) 20:51:25
よって、神武東征は4世紀の話。邪馬台国侵攻の話が神武東征。

侵攻後、政治の中心は飛鳥に移った。
261太国:2006/11/27(月) 20:52:21
あいかわらず習合論がはやりだなぁ?w 神仏習合ではないが、
観音菩薩とマリアさまとを習合しちゃうのは、古代史ではうまくないよ。
262唐松山:2006/11/27(月) 20:54:43
増し の考え方  下記のような表を各自作成してください。
立太子から天皇は程なく死亡  死亡時の増しは太子が引き継ぐ 是が基本です。
 孝安  のところで
成太子から成天皇迄が `増し前‘...<`増し中`>...立太子から死亡迄が`増し後‘ 
 治世   成太子   成天皇 <間> 世継誕生  立太子   死亡
 102年  20才   35才  50年間  85才   111才  137才  これから`前18` ‘中45‘‘後26‘ を引く
 31年  20才   17才   6年間  23才   48才   48才    次の太子26才 
成太子20才=>成天皇17才 ‘増し‘ 有り?
<間>の増し 45 としましたが、妥当かどうか? 世継誕生まで50年は無いが??という事です。

まだ おかしい?処がありますが 参考まで

天皇  治世   前   中   後
綏靖  20年間  35 0 12
安寧  11年間 12    0   26
懿徳  9年間  26 12 12
孝昭  24年間 12   40   18 注 懿徳 の子供ではない
孝安  31年間 18 45 26
孝霊  23年間 26   12 30 注 孝霊 立太子=死亡ではありません
孝元  17年間 30 7 33
開化  24年間 33 3 33
崇神  24年間 33   23 20
垂仁  27年間 20 8 60
景行  28年間 60 12 19
263日本@名無史さん:2006/11/27(月) 20:55:36
太国くん。早く「どんとこい、邪馬台国」の次スレを立ててください。
264太国:2006/11/27(月) 21:03:33
>>262
なぜ「増し」をするのでしょうか?その理由か何かありませんか?

>>263
貴殿が立てられたい。w
265日本@名無史さん:2006/11/27(月) 21:13:14
ここをやっつけてからでよくない?
スレを立てするぎるのもどうかと

―ー小一時間ーー

環境にやさしくなろうyo!
 
266日本@名無史さん:2006/11/27(月) 21:16:34
結局、秀真伝って誰が保管してたの?
267神様:2006/11/27(月) 22:06:08
新しいの立てたよ   書き込め〜

http://www2.2ch.net/2ch.html
268神様:2006/11/27(月) 22:12:15
おっと
誘導先間違えた。

http://c-docomo.2ch.net/test/-/history/1164632540/i

これは失礼した。

とにかく 書き込め〜。
269日本@名無史さん:2006/11/28(火) 20:47:52
関羽って、風呂にはいってたんだろうか?
270日本@名無史さん:2006/11/28(火) 20:54:43
↑当然!あの長い鬚は体を洗うためのもの
271日本@名無史さん:2006/11/29(水) 06:26:28
たわしかよ
272唐松山:2006/12/01(金) 20:32:05
なぜ 増し をするか?

とりあえず 寿 だそうです。
私の考えは、
253 :唐松山:2006/11/26(日) 12:41:08 辺り
暦を特権階級以外が知るのは、多分崇神あたりから、
引き締めの為 四道に軍をつかわす。
増しを 垂仁の時代に当てはめると かなり滅茶苦茶な暦になります
それが 景行 81才で天皇となる  につながります。
倭国乱れる。
273日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:54:43
神武東征って、日向の王家の神武が
大和の王家に婿養子に入ったんだろうが...
なぜかというと、大和と日向の同盟を実現させて
その間にある出雲・北九州を打倒するため。

10代目の崇神天皇のころに、ようやく
出雲・吉備を滅亡させた。

274唐松山:2006/12/03(日) 11:45:38
古代天皇家の しのぎ (経営)は なに?
275日本@名無史さん:2006/12/03(日) 12:17:16
>>259-260
日向の神武天皇はわずか20人ほどの供を連れて
近畿地方に入った。
しかも、北九州や中国地方の陸地を避けるようにしてだ。

神武東征といえば、大きな軍隊で侵攻したように勘違いするが、
神武天皇はわずか20人ほどの御供で、
瀬戸内海の孤島を渡海して、近畿地方に入っているのだ。
276唐松山:2006/12/03(日) 12:38:21
ピンポーン 正解
25人ぐらいか
277日本@名無史さん:2006/12/03(日) 12:42:43
兄貴が戦死するぐらいの負け戦したから
大和に入ったときには少なくなってたんじゃない?
278唐松山:2006/12/03(日) 12:58:42
マキムクに着いた時 24人 じゃ無いかと...?
279唐松山:2006/12/03(日) 13:55:46
当然 嫁さんは 現地調達。
280唐松山:2006/12/03(日) 18:40:58
もし 景行が 西暦239年からだとすると

崇神  西暦184年  24年間 
垂仁  西暦219年  27年間 
景行  西暦239年  28年間 

後漢光和年中(西暦178〜183年)、倭国大乱起る。  崇神の 国内引き締め
239景初三年、女王卑弥呼、魏に都市牛利(かしくい)、難升米(なしま)らを遣わす。 
タジマモリ トコヨの国に行く
247倭女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越(倭世子大江)らを遣わして郡に相攻撃する
景行による クマソ討伐
檄を為りて之を告諭す。狗奴国対女王国海戦は難升米将軍の大勝利となる。直後に卑弥呼死す。大いに冢を作る。
ホ38232  18年    ソヤヤヨヒ ...クマノガタ ヲサクマツヒコ...さとさしむ しかれどこばむ かれころす
ホ38273      アフミヨカ ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ
卑弥呼の宗女壱與(いよ、比売多多良伊須気余理比売)
ホ38300  20年    フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
時空の誤差は、 ~増し‘で解決 
281日本@名無史さん:2006/12/05(火) 20:59:23
>>275
そうそう。「かろうじて畿内にたどり着き、美和の大物主に保護された。」
って感じだよね。
とてもこの時点で国譲りがなされていたとは思えないね。
282唐松山:2006/12/05(火) 21:28:48
ナガスネが まゝにふるえば さわがしく ハラノオキミは カテとゝむ
 かれにナガスネフネとゝむ ヲヲモノヌシがうたんとす

大物主の家来が ながすねを 追ってきたが ナガスネを討てず
敗残兵の如く この地に住み着いた。
283日本@名無史さん:2006/12/07(木) 16:11:18
>>281
国譲りの話は、どう考えても
10代目の崇神天皇が出雲を討伐したから。
神武から崇神まで、たしか、出雲系の妃をもらっていたから
婚姻関係があった出雲を倒したことになるな。
それまでは、出雲が上位の同盟だったんだろうね。
284日本@名無史さん:2006/12/07(木) 16:16:28
邪馬台国がどうかの話は
魏志倭人伝の少ない話しかないんだから
もっと記載の多い日本書紀を信じるべきだな。
少なくとも、日本書紀は、神話の部分と非神話の部分とを
明快に章で分けて著しているんだから
少なくとも、神武天皇の登場以降は、なるべく普通の正史として
素直に解釈するべきだな。
神武以前は神であって、年月も○○万年という天文学的な数字なんだから
これは完全に神話扱いにしているわけで。
285日本@名無史さん:2006/12/07(木) 16:39:46
信じるべきではなく、比較検討や研究をすべき、だな。
286日本@名無史さん:2006/12/07(木) 16:58:54
>>284
>普通の正史として素直に解釈するべきだな。

ちみは皇国史観スレに行ったほうがいいんじゃないか?
287日本@名無史さん:2006/12/07(木) 17:10:20
いや〜っ、日本書紀と神武天皇を一緒に考えているようでは イヤハヤ
288唐松山:2006/12/07(木) 18:42:24

百や 万 は 振り
ホ15160  クニおさむ ワレみるススキ チヱヨタビ わがミもコトシ フソヨヨロ いまたさかりの
カキツハタ のちモモヨロを ふるもしる

はいこの情報100万両
289日本@名無史さん:2006/12/08(金) 11:37:51
今後の歴史学会では
神武天皇は一応、実在しただろうという説が有力になるかもね。
神武・崇神同一人物説も消し飛ぶだろう。

今後の焦点は、古代の天皇の生きた時代が焦点。
東京大学の井上光貞氏は、崇神天皇を270年-290年ごろの人
安本美典は、崇神天皇を360年前後の人

この両者の意見によって、邪馬台国論争にも大きく影響すると思う。

自分は井上氏の意見を尊重したい。
安本氏は古事記のほうを重視しているように見られ
古事記というのは皇国史観の原因になった書物だと思うから
あまり尊重できない。
290日本@名無史さん:2006/12/08(金) 14:12:33
3−3 安本氏の「数理歴史学」の誤り

この安本説は、次のような誤りの塊で、数理統計学とは無縁のものです。

(イ) 奈良7代70年と吹聴する誤り
(ロ) 天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
(ハ) 天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
(ニ) 35代前が推測できるとする誤り

http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-3-3.htm
291唐松山:2006/12/08(金) 21:04:25
統計や掛け算で 本物の暦は出来ない。

是が 解って居るのに何故 そんな事をするのですか?
2倍暦の暦が出来なかったから 3倍暦にした それも無理だったので
統計にした。

もう少しましな事考えられないの?
292太国:2006/12/08(金) 21:07:04
3倍年暦はあったと思いますが・・・。
293日本@名無史さん:2006/12/08(金) 21:10:43
>>290
結構面白かったよ。乱数表。
しかし、ある意味では安本説の補強にもなるわけだね。
年代が相当、限られてくるし、15代応神天皇390年は確定だから。
294唐松山:2006/12/08(金) 21:59:00
3倍でおおむね 年代が合う 此処までは、否定しません
でも 本当の暦は、出来ない。
なぜって 日々のマワシが不可能だから 
まさか 乱数表で年度を決めていた。
295太国:2006/12/08(金) 22:06:58
出来るでしょう。古代マヤ文明などはもっと変則な260日暦をちゃんと
使ってましたし、3倍はそれよりまだ簡単です。

拙者は全部の3倍暦がそうだとは確定的に言いませんが、一例では
5月、6月、11月を空亡月として不使用だったやり方があったと思って
います。マンション、アパートも104号室を無にしているようにです。
つまり縁起担ぎをやってたんですよ。5月蝿なす岩戸隠れを彼らは嫌って
いたんです。
296日本@名無史さん:2006/12/09(土) 06:32:07
自分は、二倍年暦が正しいと思う。

297日本@名無史さん:2006/12/09(土) 10:48:52
3倍暦じゃ政治が大混乱だ。
無理でしょ。
干支の繰上げが一番合理的だ。
298征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/09(土) 11:42:40
話を逆さまに考えて下さい

3倍暦と云う暦法が存在して、その記録や伝承を日本書紀が忠実に書かれているのではなく、
日本書紀(或いは古事記も)の製作過程で年代引き伸ばして配布する為の一つの方法として
二倍だの三倍だのに引き伸ばしたと云う事でしょう

http://www.geocities.jp/kodaishi2006/zu1.htm
http://www.geocities.jp/kodaishi2006/index.html
299日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:44:17
邪馬台国論争、こちらでは
大分、けりがついた模様。

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1165304668/l50
300日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:46:42
自分は二倍暦が正しいと思うが、
二倍年暦の場合は、春〜秋の収穫で1年。
秋〜春の休みのときで1年と
だいたい想像がつくんですが...

三倍年暦って、何を基準に暦を作っているんですが...
物凄く混乱すると思うんですけど...
301征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/09(土) 12:01:44
実年代の神武天皇治世元年を建武中元二年のAD57年に設定し、

日本書紀の神武天皇治世元年をBC660年に設定して
実年代の1年が3倍に引き伸ばされていると考えると

AD57→BC660、BC659、BC658
AD58→BC657、BC656、BC655
          ∬
AD247→BC_90、BC_89、BC_88


と云う具合に成ります。つまり、

AD57=建武中元二年の倭奴国遣使→日本書紀神武天皇治世元年(BC660)
          ∬                    ∬
AD247=正始八年の卑弥呼没→日本書紀崇神天皇治世十年倭迹迹日百襲姫命没(BC88)


こう云う風に日本書紀製作者は設定していた筈です
302日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:13:24
>>301
なるほど、じゃ、神武天皇って
本当にいたかどうかは分からんのでは?
つまり、中国史に出てくる最初が九州の奴国だったので
それで、神武を九州人ということにした。
で、次の107年の王は、倭の王としか書いてなかったから
九州人にする必要が無かったので、近畿地方にいるとした。
で、崇神天皇については、卑弥呼と同時期だったが
変わりに倭迹迹日百襲姫命とかち合う様にした。
303征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/09(土) 12:26:12
因みに倭国王帥升等のAD107年は、懿徳天皇治世元年(BC510)に当たります

AD107年→BC510、BC509、BC508


帥升等はスキトと読む人が居ます。
懿徳天皇の和風諡号は日本書紀では、大日本彦耜友(おおやまとひこ すきとも)

スキト→スキトモ

こう云う説だそうですが、

懿徳元年は正に107年なので十分在り得る話だと思います。


>>302
そこで倭奴国畿内説ですよ><
神武は倭奴国王だったんです><
304日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:50:19
よく確実に分かるのは、応神天皇からだというけど、
応神天皇の場合は、中国の書の「宋書倭国伝」の倭の五王は
間違いなく本人だったので、おそらく、それまでは確実に
二倍年暦で年代が分かるはず。

しかし、それ以前になると、中国に使節を送っていたのが
畿内の天皇家ではなく、九州の豪族だった。(奴国王、帥升、卑弥呼)
そこで、畿内の天皇家でもない豪族が
中国と国際交流を持つのは不味いと考えて
中国の史書に出てくる人物(奴国王、帥升、卑弥呼)や出来事と
天皇家の重要な先祖をあわせる必要に迫られた。

で、神代という項目を設けて、そちらに秘密を隠している。

本当に複雑なことするなw日本書紀の編纂者はw
305日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:56:40
>>303
神武を倭奴国王の本人かどうかは分からんけど

旧唐書の記録(倭国とは、古の倭奴国なり。)
から言ったら、どう考えても
奴国は九州で、後に畿内政権に併合されたと思う。
306太国:2006/12/09(土) 13:48:27
>>300

4ヶ月×3=12ヶ月  の ヨミド(黄泉戸)です。

ヨは4 ミは3 ドは12(トが10で濁音の点々追加で12)です。

黄は黄金をコガネのコと『読み』することから、黄泉はコヨミ(暦)に通じます。

天皇の信仰は当時古神道でありますから、農作も大事ですが、行事の節目で
1年が4ヵ月という時期があったわけです。
307太国:2006/12/09(土) 13:57:52
>>304
間違いである。ホムダワケは五王の一名にあらず。
それから2倍暦をやると無駄な徒労。
308唐松山:2006/12/09(土) 14:25:15
とりあえず 2倍暦
1番簡単だとは思いますが、この暦に 記紀に記載された 記事を落とし込む事が、出来ない
私は、失敗しました。
3倍暦 1年が 4ヶ月か3年が1年かよく解りませんが、 暦への移植は、不可能

増し 以外の方法で、現在 記紀の 年代を縮めて表記出来ないと思います

景行元年は、西暦239年である。
内外の記事 及びその背景の政治動向 総て一致する。
つき崩してください。

景行20年 畿内より 五百野姫を軍隊付でツクシへ送り込んだ。
この時を以って 九州王朝の畿内への吸収合併というか...
309日本@名無史さん:2006/12/09(土) 14:35:33
記紀の編者が、干支を繰り上げて、後は2倍3倍に引き伸ばしたってところかな。

>>306を読んでもわからないし、どこかの学者が相手にするまでは、
太国氏の異説・珍説という事でいいでしょ。
310唐松山:2006/12/09(土) 14:52:35
干支を繰り上げる=増し
是だけで十分 伸ばす必要は無い、
311唐松山:2006/12/09(土) 14:55:22
262と280を
参照してください。
312太国:2006/12/09(土) 15:15:51
>>308
それがしのでは、景行元年は293年を算出しました。
貴殿のコヨミ論の本筋を突き崩す意図はありません。そこまで確信を得てる
まで行ってはいないですよ。
主張は3倍暦は可能だと観てることです。いまのところ確信主張ではなく
当時の暦法はこうだろう、けっこう矛盾が少ないとかの考えでやってるだけ
ですから・・・。
313日本@名無史さん:2006/12/09(土) 16:51:39
倍暦のNGワードは結構使えるな
倍年暦も追加しておこうw
314日本@名無史さん:2006/12/09(土) 17:27:39
太国さんへ
私は、あなたの考え方で作った暦の1部でも見たいと言っているのであって
暦に落とす方法も 一緒に提示していただければと思っているのです。
読めるけど訳せないではチョット

増しでみた 景行 突き崩すのは、このページ誰でもよいので...
315日本@名無史さん:2006/12/09(土) 18:33:53
自分は基本的には二倍年暦がメインだと思うが
一部、二倍年暦じゃなかった時があるんじゃないのか?

というのは、初期の日中交流は、九州と中国の関係に限定されていたから
おそらく、畿内政権の国王(天皇家)は関与しなかったので

その北九州の王権の重要人物と、天皇家の人物を
重なりあわせるように腐心したように思う。

おそらく、その当時は、九州のほうが中国に近いので正当性があると目されており、
その看板を畿内政権が奪わなければいけなかった。
316315の続き:2006/12/09(土) 18:40:39
そのために、57年、107年、239年の頃は
畿内は中国との関係にはタッチしてなくて
北九州の王権がタッチしていたから
日本書紀の編纂者たちは、その人物と初期の天皇とをすり合わせる必要があった。
だから、この時点で混乱があるんだよ...
おそらく、当時は暦が変わったことが分かっていて
前は二倍年暦だったことも分かっていた。
で、編纂者たちは、だったら3倍年暦だった時もあるのでは?と思って
無理やり、最初のほうの天皇は3倍年暦で計算した可能性がある。
317日本@名無史さん:2006/12/09(土) 19:00:32
>>307
あなたは倭の五王は誰だったと分かりますか?

318征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/09(土) 19:12:31
話を逆さまにして下さい

>57年、107年、239年
に相当する神武〜崇神の上位十代の天皇の時代は全て三倍で計算して居る筈です

>>298>>301>>303参照


因みに、上位十代の天皇は、本来は7世しかありません

日本書紀は、そもそもこの年間を七世代で作ってあった天皇世系を、
年代引き伸ばしに合わせて、直系十世十代に書き換えて居ます

しかしこれは古事記も直系十世十代で同じです。


つまり、日本書紀の年代引き伸ばしの産物である直系十世十代の系譜を、
引き伸ばし年代と無関係な筈の古事記が用いていると云う事は

記紀以前に、年代引き伸ばしの先行資料が存在して、
それに基づいて古事記が書かれていたのでなければ

古事記は日本書紀を参考にして後世に作った偽書である。と云う事が疑われます
319太国:2006/12/09(土) 19:38:46
>>307
当時九州に存在した女王国系列の九州王朝とはこれまた別の短期の九州王朝
の王である。五王は天皇ではない。以下驚くなよ
国の名称は『邪馬臺国』という。時期はだいたい神功、應神〜清寧か次代
あたりのころまで。
320太国:2006/12/09(土) 19:49:52
>>318
日本書紀が成立していない時に、何故古事記のほうがそれを参考にできるのか?
あまりにもいい加減ではないか?
321征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/09(土) 20:32:54
ですから、年譜の打ってない古事記には不要な
年代引き伸ばしに伴って十世十代に改変された系譜を載せている訳ですから、

古事記が日本書紀成立よりも遅いのか

さもなくば、記紀以前に、今の日本書紀と全く同じ系譜で同じ年代引き伸ばし幅の
史書なり史料なりが存在して、それに忠実に書いたのか

と云う事です。



・系譜は、日本書紀と全く同じ尺に基づく引き伸ばし改変後の系譜

・没年干支は、引き伸ばし改変前のほぼ実年代設定の没年に基づく干支。

これが古事記です。

古事記製作者は712年の時点でこの両方を知って居なければならないのですよ
322日本@名無史さん:2006/12/09(土) 20:54:30
古代の天皇の系図を見たら
日本書紀の章わけから
いくつかポイントがあるんだよな。

まず、神代
その次が、神武と欠史八代
そして、崇神以降だ。

おそらく、崇神以降は本当にあったんだろうけど
神代は、神話だから、天皇家を神格化する必要があっただろうし
神武と欠史八代は、誰かが言っていたが
中国の史料の、57年、107年、239年の出来事に
無理やりすり合わせるために創作されたんじゃね〜か?って話。

いずれにせよ、現在の考古学会の実在性がある天皇は崇神天皇で、
これは卑弥呼の年代と近い人物だと思われ。
323征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/09(土) 21:20:18
             系譜             干支
古事記      引き伸ばし後(天皇)   引き伸ばし前(没年のみ)

日本書紀     引き伸ばし後(天皇)   引き伸ばし後

先代旧事本紀  引き伸ばし後(天皇)   引き伸ばし後(細部は見て無いが、全体的に恐らく)
           引き伸ばし前(尾張氏)
           引き伸ばし前(物部氏)

こう云う分類になります。勿論最初は、


史書/史料X   引き伸ばし前(天皇)   引き伸ばし前


こう云うものが作ってあった筈です。でないと日本書紀製作者は計算ができません。
問題は日本書紀より成立年代が早い筈の古事記の系譜が日本書紀と同じな事です。


では、一番最初に引き伸ばしたのは何時か?と云う事です
史書Xと古事記の間にある、史書Yでしょうか?

それじゃ、ちょっとステップ数が多い気がしませんか?


それとも、古事記が勝手に引き伸ばした年代配布を作って、それは掲載せずに
それに基づく改変系譜と、引き伸ばし改変前の没年干支だけは載せて、
古事記製作者が作った、引き伸ばし年代配布と系譜にしたがって日本書紀が出来た?

これも、釈然としませんよね
324日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:22:26
>ハツクニシラススメラミコトとの称は、神武天皇(『日本書紀』では
>始馭天下之天皇:はつくにしらすすめらみこと)にも贈られており、
>初めて天下を治めた天皇という意味であるが、
>はじめて国を治める天皇が二人いることになる。
>これについては、神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は、
>崇神の称号にみえる国という具体的な語より上位の観念であり、
>また、後に出来た新しい観念でもあるので、神武は崇神より後に
>「帝紀」「旧辞」の編者らによって創られたと考えられ、
>国をはじめて治めたのは崇神であると考えられる。
>『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある。

結局、崇神天皇は実在性があるが、
神武天皇は新しい時代に作られた創作の可能性がある。
崇神天皇を徳川家康に例えるなら
神武天皇は徳阿弥・松平親氏みたいなものか?
325太国:2006/12/09(土) 22:07:14
>>321
記に関して、知ってねばならないって言ったって、稗田阿礼の脳内だろう?
これは文書ではないだろう?
引き伸ばしって、天皇の寿命を伸ばしたってことか?
脳内のことをただ覚えていて、しゃべってるんだから、伸ばしたのは阿礼以前
の何かということになるが?
326日本@名無史さん:2006/12/10(日) 01:06:51
神武天皇って、崇神天皇の10代前の人なんだよな。
10代前って言ったら、
徳川家康の7代前が松平親氏だから

神武天皇の話なんて、松平親氏の話と同レベルのことじゃないの?

よって、研究対処としては、崇神天皇の研究をすれば良し。
327日本@名無史さん:2006/12/10(日) 04:30:04
>>325
いわゆる稗田阿礼テープレコーダー論は
今の学界的にどのくらいの力を持ってるのでしょうか?
管見では阿礼の役割は今やますます全く謎であるとも聞く。
文学の側では「漢文の訓読に長けた人物」論が結構幅をきかしつつあるとも。
328唐松山:2006/12/10(日) 10:55:20
征東大将軍さんほか
2代を1代として考えるような 滅茶苦茶な読み方がお好みの方へ
おいしそうなところが 見つかりましたので 食べてみてください。

7代目 考霊 36年立太子 少し前にから富士山の噴火  之と
10代目 崇神 5年の 大凶作 いろんな神を集めてあらためて祭りなおす
天候不順や疫病ではなさそう

考霊 53年 西中を得ず と
崇神 10年 四道に軍を使わす。

料理できそうですか?
最低 ヤマトトトイモモソヒメは、喜んでくれそう

多分 こちらが正しい。
征東大将軍さんほか
2代を1代として考えるような 滅茶苦茶な読み方がお好みの方へ
おいしそうなところが 見つかりましたので 食べてみてください。

7代目 考霊 36年立太子 少し前にから富士山の噴火  之と
10代目 崇神 5年の 大凶作 いろんな神を集めてあらためて祭りなおす
天候不順や疫病ではなさそう

考霊 53年 西中を得ず と
崇神 10年 四道に軍を使わす。

料理できそうですか?
最低 ヤマトトトイモモソヒメは、喜んでくれそう


329唐松山:2006/12/10(日) 11:09:29
これで 入日子 の謎 が解けた。
神武 マキムクは、西暦50年頃 考古学と一致

330日本@名無史さん:2006/12/10(日) 11:11:48
>>327
稗田阿礼は、口伝、伝記を暗記してた者ではなくて、
記紀のベースを「創造」した作家だと思う。
331唐松山:2006/12/10(日) 11:43:51
書記に 生きた人間は、出てこない 当然ただの歴史書だから

生きた人間を見たければ、  ほつま 読むべし

332日本@名無史さん:2006/12/10(日) 11:49:34
>ただの歴史書

君は歴史をせいぜいファンタジーのように軽んじてるにすぎないんだな。
333征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 12:06:43
稗田阿礼は居たのかな
レコーダー説にしても、天武の時点で、引き伸ばし前の年譜の没年と、
引き伸ばし改変後の年譜に合わせた系譜を記憶してなきゃいけない
勿論引き伸ばし改変後の年譜も天武の時点で存在してなきゃいけない

帝紀、旧辞が稗田阿礼にとっての真の生のソースなら、
それは引き伸ばされてない筈だ。

それを覚えたのなら、神武〜崇神は計7世代でなければならない


仮に成立年代が712年で正しく、
且つ序文に反して稗田阿礼即ち太安万侶だとしても

712年の段階で既に日本書紀用に使用する引き伸ばし年代譜と
それに乗じた改変系譜が出来てなきゃいけない

となると日本書紀の設計は712年以前の段階で殆ど完成してなきゃいけない


古事記の没年干支が崇神までしかないのは
欠史八代を直系八代に書き換えた事をバレないようにする為の措置だろう

つまりは、古事記を作った人間は系譜の書き換えを知っていた筈だ
単に、書き換え後の史料しか知らなくて神武〜崇神を十世十代にしたんじゃない

古事記製作者は系譜の書き変えの事実を知っているからこそ
没年干支を崇神までしか打たなかった。こう云う事だろう
334唐松山:2006/12/10(日) 12:21:57
ほつま を無視した 記紀は ただのファンタジー
記紀に 年代を縮めて読め と書いてありますか?
縮め方は、ほつま に書いてある
違いますか
335日本@名無史さん:2006/12/10(日) 12:32:54
違うな。ファンタジーの体裁を借りたものこそ本物の真実が隠されていて、
それは現代のわれわれのあり方まで左右している。
記紀をただの歴史書というのは認識の浅さを示す。
336唐松山:2006/12/10(日) 12:34:16
もし ほつま を知っていて あなたの正しいと思う縮め方(掛け算)を採用しているならば
あなたの考えた 年代、年数は、悪意のある...と言う事ですね。

337日本@名無史さん:2006/12/10(日) 12:35:28
ニニギにゾロゾロと付いてきた連中は作家に贈答品を送った結果かもね?
338太国:2006/12/10(日) 12:38:32
>>333
あなたは

1 記は紀を参考にした
2 引き伸ばした
3 稗田阿礼即ち太安万侶
4 書き換えた バレないようにする

とか、推理が多面に渡り極端な個所に行き着く模索から、そう構築している。

こんなに記紀とその関係者は軌道の逸脱をやるんかい? 機械のネジが外れ
そうな、無理に見える文章だ。この前タイヤがぶち割れる事故があったが・・・
考えしすぎてる論理の展開だな。そうだと失敗が待っている不安がありそうな?

1〜4の考察に至る前にブレーキをかけたほうがいいんではないか?
その4つで、方向と道間違いをしてるように想わないかね?
339日本@名無史さん:2006/12/10(日) 12:39:47
>>336
年代とか年数なんかどうでもいい。生きている限りは人間みな同い年。
神代文字の文書なんか、どの時代にもいるオカルトオタクのでっちあげ。
340征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 12:40:07
ではお聞きしますが、記紀以前の成立した筈の「ほつま」は、

年代引き伸ばし作業後に、
上位十代を七世から十世に書き換えた日本書紀の改変天皇系譜と
如何して一致するのでしょうか?

「ほつま」の干支は如何して日本書紀と殆ど一致するんでしょうか?

答えられますか?


ほつまが真の伝承を残して居るなら
上位十代の天皇世系は、七世代でなければならないんですよ


因みに先代旧事本紀等は、天皇世系に付いては十世十代として記載していますが
尾張氏、物部氏の世系は、神武〜崇神までに七世代しかありません。

つまり、先代旧事本紀製作者は、天皇系譜が直系十世十代に書き換えられる以前の
天皇世系と、それに符合する氏族世系の史料を持っていた筈なのです。

それは、先代旧事本紀が孝昭は安寧の子である旨を記載している事からも明らかです。
誤記とされて来たその一文こそが、
が年代引き伸ばし作業後に十世十代に書き改められる前の
記紀以前の天皇世系原型の姿を表して居るのです。


如何して、「ほつま」は記紀と同じ、十世十代の天皇世系なのでしょうか?
おかしいとは思いませんか?

本当にほつまに復元の根拠なんて書いているのでしょうか?
341太国:2006/12/10(日) 12:44:15
>>336 >>339
どっちもどっちだ〜。双方恣意的だ。
342日本@名無史さん:2006/12/10(日) 12:44:36
第一、記紀は基本的に歴史書というより神話の書だ。かなり権力の捏造、隠蔽がある。
それに対し事実だけが述べられたものがあれば、それは歴史書と言ってもいいが、
それは断じて秀真伝ではない。あれは記紀をベースにした有閑オタクの現実逃避的お遊び。
343日本@名無史さん:2006/12/10(日) 12:45:41
>>341
うん、お互いにね
344唐松山:2006/12/10(日) 12:48:39

垂仁天皇と景行天皇 の世継ぎ のときの ‘増し‘  

ホ37191  コソホキサラギ ミコトのり カグをもとめに タジマモリ トコヨにゆけよ わがをもふ クニトコタチの ミヨのハナ
ホ37195 コソコホサシヱホ アフミハヒ キミまかるトシ モモミソナ
ホ37202  あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ
ホ37212      ...トトセぶり...
ホ38005  うけつぎて イムナタリヒコ オシロワケ アメスメラギの トシヤソヒ ...ミカザリを タミにをかませ
      ワカミヤの ハツコヨミなる フホヤヨヒ キビツヒコがメ たつキサキ

垂仁90年夏6月(秋 会稽で開かれる市)に出発した タジマモリ 約10ヶ月後 翌年3月に戻ってみると 景行2年に成っていました。
暦では  10年ぶり...  トコヨの暦は皇帝が変わっても変わらないのに 我が暦は...
たたねこ 本当の暦を知る。

とりあえず このページを 少し前から読んでください
345太国:2006/12/10(日) 12:52:25
>>342
こういうのは、いままで偽書だ偽書だと言ってきた連中の作文を
まるっきり信じこんだ脳内と、津田病の蔓延からまるで水虫のように
論拠の足に住み着いた見ず無視を飼っている状態の者。
その副作用は甚大であり、神代を軽視する。
346征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 12:53:51
太国さんが私の考察に不審感を持つのは、
神武治世元年を未だに紀元1年に設定している所為でしょう。


神武を第一世代とすると、崇神は第七世代
神武治世元年はAD57年
崇神治世十年はAD247年
最大誤差は+1年です


つまり綏靖、安寧、懿徳の治世を等倍でカウントした上で
神武〜崇神までを十世十代で考えるアプローチ等は必要なかったのです

綏靖、安寧、懿徳は同一世代な訳ですから
現在の記紀系譜の側の方が間違っているんです


日本書紀は本来の年代を引き伸ばした年譜に乗じて、
本来、同一世代が存在する筈の欠史八代天皇を直系八代に書き換えている訳ですよ


どうして引き伸ばし年譜に無関係な筈の日本書紀前の古事記に
引き延ばし後の改変系譜が掲載されているのでしょうか?

そう云う疑問による考察です
347太国:2006/12/10(日) 13:03:59
>>346
いやそうじゃないですよ。まぁちっとは不審感はありましょうが?

貴殿の紀年論を突くまでには至ってません。綏は貴殿と同様、等倍と観て
います。紀年のおっしゃってることはまだ理解が出来にくいです。
さっきの1〜4が考えがネジ外れの直前に見えるため、ブレーキは大丈夫
なのかと考えるわけですよ。

10代が崇神なのに7世代っていうのは、具体的にどんなんですか?
348征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 13:08:52
唐松山さんは「ほつま」の現代語の口語訳を忠実に書いてください。

唐松山さん解釈だけ書かれても話が通じません


いづれにしろ、内政記事で等倍のみによる単なる増しが用いられていても
それだけでは元年記事の基準年算出の根拠は得られないんじゃないでしょうか?

349日本@名無史さん:2006/12/10(日) 13:30:23
年代なんて一番「えいや」で適当に偽装するところだから
数学的解法に没頭しててもコキュになるだけだと思うな。
隣のおばちゃんは56なのに49歳と言っていたがこの7歳差を
数学的に解こうとするバカさ加減を考えてみるがいい。
歴史証拠の法則は
「それは思ったよりずっと新しいものである」
ってことだ。お宝鑑定団といっしょ。
350日本@名無史さん:2006/12/10(日) 13:36:28
考古学では、10代目の崇神天皇までしか実現性が分からないらしいが...
欠史八代って本当に直系かどうかは分からないね。
もし、詳しく書いていたら、直系じゃなかったら、記述からばれてしまう。
あるいは、神武と崇神はつながりがないとか...

そもそも、マキムク遺跡の調査からして、神武云々を考えるよりも何も
まず崇神から考えるべきだな。
351日本@名無史さん:2006/12/10(日) 13:43:18
昔は今と違って情報が氾濫していないから、過去のことが伝説として残り
易かったと思う。しかし、歴史のあらすじは物語として残っても、
年代については難しい。だから、記憶が不確かで、記録のない時代のことは、
年代がいい加減になってしまったと思う。

不確かなものだから、とんでもない年代観が出てくる。
そう解釈するのが自然ではなかろうか。
ここでは二倍暦とか三倍暦とか言うのが出てくるが、それはきちっとした
記録を前提とするものだから、考えにくいと思う。
352唐松山:2006/12/10(日) 13:56:17
以前 書き込みを 入れたように
暦は 秘匿次項 だと思います
1年が 365日である事がばれてしまえば、種を借りる人間が居なくなる
天皇家の しのぎ の崩壊=>倭国乱れる

等倍ではなく ただの足し算です(代変りのときは、同じ年数を天皇と太子に増す)
これを 植え次の イモ(イヲ)と言います

もっと簡単に言ったら 積み木 不要な年を外していくだけ
これだけで ちゃんとした暦が出来てしまう
当然 キサキ11才も其のまま 記紀に この年齢が載っていないようなので
この 増しは、後から付け加えたものでなく その都度実行されていますから
総ての天皇を並べて一括 掛ける3 とかでは、有りませんから
353唐松山:2006/12/10(日) 14:12:18
訂正 って言うか 補正 
太子に成った年齢>天皇に成った年齢 この差は、
前の
天皇が太子を立てた年齢>死んだ年(太子が、世を継ぐ)
当然 同じなのですが不要に長すぎる
ホツマを読むと 息も絶え絶えの天皇が太子を立てる 死亡まで其のまま30年

こんな状態 
記紀にこんな状態は、書かれていませんから、
ほつま 読むべし と

354太国:2006/12/10(日) 14:26:06
>>351
紀の超長寿そのままのほうが考えにくいではないのか?
2倍暦等でなければ、仁徳以前の天皇の寿命はどのようにすれば考えやすい
ことになるのか? それともイカサマか〜?単純解決で分かりやすいか?ww

タケウチノギネスなんぞは、紀の記述のままなら285歳だぞ?
これを2倍暦等でなくてどう説明すんだ?
355日本@名無史さん:2006/12/10(日) 14:32:19
倍年歴なんて信じてる奴は自然と触れ合う機会がよほど少ないんだろうな
一年がどういう概念かなんて外で暮らしてればガキでも分かる
肌でも目でもわかることだよ
356日本@名無史さん:2006/12/10(日) 14:39:19
【へそ】
古代最大の貿易港のなごり。
当時宗主国の完全な支配下にあったわが国は、国内必要物資の大半をへそから輸入していた。
貿易路である「へその緒」を通して、宗主国側の港「胎盤」と繋がっていた。
分娩戦争以後は衰退し、その役目は「口」に引き継がれる事になる。
現在はくぼみとして見られるのみだが、観光地としての魅力が注目を集めている。

関連
→子宮、→胎盤、→母体、→分娩
357太国:2006/12/10(日) 14:42:12
>>355
時間の計上だって12時間制と24時間性がある。2倍数字でも同じ時間に
なるではないか? たとえば昼間の2時は14時でしょうがね?
君はこういう時間を片方しか使ったことがないのか?これはガキでも分かるぞ。

斯様に時間だって2倍暦同様の感覚がある。江戸時代1刻は倍の2時間なんだよ。
通常1年の月が12ヶ月ならば、6ヶ月が実質上の1年計上でやっていた時代
があってもおかしくはない。古代マヤ文明なんぞは、長期暦、短期暦、略暦とか
月齢暦、変則の260日暦とかをいろいろ使用している。古代日本にも現代的暦法
以外の暦法があって然りでなのである。
そういうことを言う君は、経験未熟な温室育ちだ。w
358征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 14:43:25
>>347
私の神武から崇神までの考察は一通り纏めて載せてありますから
都合の良い時にでもどうぞ
http://www.geocities.jp/kodaishi2006/index.html

まぁ、平たく云うと、仮に一世約三十年だとして、
神武〜崇神が直系十世十代だとすれば神武元年は紀元前30年程度になる筈なのですが

三倍引き伸ばしとして逆算すると崇神十年がAD247年なら、神武元年がAD57年である事から、
この両者が漢籍に合わせて設定されていると考えて、
崇神十年=AD247年で、神武元年=AD57年と云う年代の方を固定化すると、
現・記紀系譜の側が改変されたものであると理解出来ます。


ここが直系十世十代だとすれば神武元年AD57年なら、崇神十年AD247年にはなりません
それでは多過ぎるんですよ。

他の氏族の世系を見ても、神武〜崇神に相当するのは、ほぼ計7世代になって居るようです。
先代旧事本紀で確認しましたが、崇神の代の尾張氏、物部氏は、神武を第1世代とすると第7世代相当です。

ですから記紀以前のオリジナルの天皇系譜では、神武〜崇神は計7世代だった筈です

もし、上位の天皇世系が現記紀と同じく十世十代である姿がオリジナルのままなのであれば
この期間の他の氏族の世系も、事如く十世代でなければおかしい訳ですから。
359征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 14:43:58

年代引き伸ばし作業後の改変系譜を記載している側こそが記紀であって、
改変前の神武〜崇神に相当する期間を計7世代にしているのは、その他の氏族伝承な訳です

本来諸氏族と整合の取れる天皇系譜が存在したにも関わらず
日本書紀は年代引き伸ばしに乗じて7世だったものを、直系十世十代に系譜を改変した為に、
諸氏族とは合わなくなってしまったのです。

では、その年代引き伸ばしによって改変された日本書紀の為の系譜と同等の物が、
年代引き伸ばしに無縁と思われた日本書紀に先行する筈の古事記に
如何して記録されているのでしょうか?そう云う考察です
360神様:2006/12/10(日) 15:13:55
>>357

>時間の計上だって12時間制と24時間性がある。2倍数字でも同じ時間に
なるではないか? たとえば昼間の2時は14時でしょうがね?
君はこういう時間を片方しか使ったことがないのか?これはガキでも分かるぞ。


こうゆう事かな?
二倍歴では 1日〜14日までの記載がないので 一月は現在の半分計算だと
361唐松山:2006/12/10(日) 15:20:16
ホ37191  コソホキサラギ ミコトのり    90年如月 詔
カグをもとめに タジマモリ トコヨにゆけよ  神草を求めに たじまもり トコヨ に行きなさい
わがをもふ クニトコタチのミヨのハナ     私の願いは、 国常達の 御世の華
コソコホサシヱ アフミハヒ キミまかるトシ 99年サシエ アフミ(6か7)月8日 君まかる年
モモミソナ ミコのモハいり          137才  皇子の喪入り
ヨソヤヨル ハニタテモノし シハスソカ スガラフシミに ミヲクリの タビもかゝやく カミのミユキぞ
ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ  明くる春 弥生に帰る タシマモリ
 トキシクカグツ フソヨカゴ カクのキヨサホ    時知 9ヶ月24日後 神木の 4棹
カグヨサホ もちきたるマに キミまかる       神草4棹 持ち来る間に 君まかる
ミヤゲなかばを ワカミヤえ なかばをキミの
ミササキに さゝげもふさく これゑんと はるかにゆきし トコヨとは 
カミのかくれの をよびなき フリをなじむの   神(君)が亡くなっても 及ばない 振り(増し)でお馴染み
トトセぶり あにをもひきや  10年ぶり ...
しのぎゑて さらかえるとは スメラギの クシヒによりて かえるイマ すでにさります
トミいきて ナニかせんとて をひまかる モロもナンダで カクヨモト トノまえにうゑ
カグヨモト スガハラにうゆ          景行2年のことです。
362神様:2006/12/10(日) 15:32:51
すると、現在の一年は当時の二年分になり
現在の一年の中で正月が二度訪れたことに。
その根本的考えのもとになっている農繁期と農閑期、その切り替え時期に
正月が訪れる計算なのかな?

人間界の制度上の話ならそれでもいいが、自然界はそうもいくまい。
制度上のきまりだからと、梅や桜の花を毎年咲かせる様にはいくまい
すると二倍歴では、植物は全て二年に一度の出来事になるのか?
夏や冬は二年に一度・・・・・
363日本@名無史さん:2006/12/10(日) 15:44:30
「魏略」其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀
とあるが、これをどうやったら2倍年歴に読める?
単に正月や1年を4等分する季節の数え方を知らなかっただけ
自分に都合のいいように妄想を事実として語る学者が悪い
364日本@名無史さん:2006/12/10(日) 15:51:02
>>363
そんなこと言ったら、きりが無いが...
戦前の英国人の学者が2倍暦だろう?って日本に突っ込んだのが始まり。

何故なら、世界中の多くの国や地域では、むかし2倍暦を採用していた例が多いから。
普通に考えて、2倍暦だったか、あるいは別の暦の可能性が高いわな。

だいたい、自分たちの歴史を長く見せるために天皇の年齢を長く見せたなんて
アホみたいなのがマスコミで語られるのは、
それだけ戦後の日本がマルクス主義史観に侵されてきた証拠。
もし、長く見せたいのなら、もっと自然な形で
天皇の代数を増やしまくるでしょうが...
365神様:2006/12/10(日) 16:07:05
>>363

>単に正月や1年を4等分する季節の数え方を知らなかっただけ

そのわりには【樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云】この文言
366征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 16:15:29
なるほど、要するに唐松山さんは

>トキシクカグツ フソヨカゴ

は非時香菓を24篭でなくて

時知る9ヶ月24日後と云う掛け言葉になってると云う事ですね

90年の2月に出発したら、9ヶ月24日後に帰って見れば
99年の7月に天皇が死んだ翌年の景行年間の3月だったと


「振り」は、「増し」のフラグで良いんですかね
367唐松山:2006/12/10(日) 17:37:06
振り は 神代の時代の 百、千、万 が本物
此処の場合は、増し 
どちらも 寿 として使われた。
うまいものを食って寿命が10年延びた。
八百屋で 100万両 の勉強
同じです。
ホ40390 ときアスス ヤホヨソミホの アキアメカ これたてまつる ミワのトミ スヱトシをそれ つゝしみてそむ
843年 秋 アメカ
景行53年 秋   あめかわる。
368唐松山:2006/12/10(日) 17:49:37
一応 
明くる春 弥生 に帰る たじまもり
ですからね 約10ヶ月 
変かなー
369征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 18:04:38
99年の明くる春三月は景行元年でしょう?

ただ垂仁没年は景行即位前記を見れば春二月?
370日本@名無史さん:2006/12/10(日) 18:21:40
多分、そんなで解いてるならもう誰か解明してると思われ。
371唐松山:2006/12/10(日) 18:22:43

ホ00062    アマテラシマス オオンカミ モモナソヨロのトシをへて
ホ15160  クニおさむ ワレみるススキ チヱヨタビ わがミもコトシ フソヨヨロ いまたさかりの
カキツハタ のちモモヨロを ふるもしる 
ホ16158 ヱナのめくりも なそらえて やがてうまれん オオンカミ コソムツキます このコヤネ モモツキませり タチカラオ ミソムツキます

天照オオミ神 の年齢は、174万歳
振りを引く          70才
盛りを引く          62才

372唐松山:2006/12/10(日) 18:25:26
出かけたのは 90年
373唐松山:2006/12/10(日) 18:42:50
90年春の詔
アフミ月は、秋か 48日間の喪 師走10日 喪が明ける
同年中が景行元年 明くる春は、2年

90年春=99年=景行元年

天照る様ごめんなさい 170万歳 でした

374日本@名無史さん:2006/12/10(日) 18:48:04
>>364
仙人みたいな、ありがたい存在とでも言いたかったのでしょう。
375唐松山:2006/12/10(日) 19:03:33
はい 私が間違っていました
翌春が、景行元年 10年目
  謹んでお詫び申し上げます。

でも 本当に之で まじめな暦が出来てしまう
1週間ほど前に 此処に書き込んだ
景行239年 誰か 突っ込んでーー
376日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:18:54
日本語でおk
377唐松山:2006/12/10(日) 19:27:39

天皇の年齢から、下記の年数を引く
天皇に成ったときの年齢から 前を
太子誕生までに       中を
死亡時に          後を

まだ おかしい?処がありますが 参考まで

天皇  治世   前   中   後
綏靖  20年間  35 0 12
安寧  11年間 12    0   26
懿徳  9年間  26 12 12
孝昭  24年間 12   44   14   弟
孝安  31年間 14 46 26
孝霊  35年間 26   4 37
孝元  23年間 37 0 34   孫
開化  23年間 34 4 33
崇神  29年間 33   16 23 
垂仁  30年間 23 12 57
景行  29年間 57 20 10

378征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 19:33:26
・AD239は景行治世年間ではない

・その表に神武がない

・その表は日本書紀から算出しているのか

・ほつまに根拠はあるのか
379唐松山:2006/12/10(日) 19:47:50
ほつま に 暦には、増しが書いてあるので
ホツマの暦と 年齢を使用

へたに日本書紀なんぞ使ったら 書記にそんな読み方をしろとは書いてない。
と 突っ込まれるだけだから 当面 ホツマのみ 
380征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 19:54:42
でも13代の天皇に付いて

ここで〇〇年増し
    ∬
ここで〇〇年増し
    ∬
ここで〇〇年増し
    ∬

とは書いてない訳でしょ
381唐松山:2006/12/10(日) 19:55:34
神武は、端にあるため どうしても 誤差が大きくなる
だから書き込んでない
どうしてもと言うなら
ホ28092 かけめぐり ソラミツヤマト アスカミヤ ヲトキヨヒトは
ニハリミヤ アラタひらきて タミおさむ ソヤヨロトシに コトをえて

18年ということで

382征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 19:56:01
訂正

×でも13代の天皇に付いて

〇でも全12代の天皇に付いて
383太国:2006/12/10(日) 19:56:02
征東大将軍さんは引き伸ばすで、唐松山さんは増すだな。
384唐松山:2006/12/10(日) 20:05:21
暦は 秘匿事項 ということで
とりあえず 記事の無い年を チェック その天皇の記事内容に
沿って 増し であるか判断するしかありません。

記紀の 是歳哉  らしいのですが 総ては 出ていない
おいしいのは、 景行28年の物 後代変り位しか無いんだよね
385征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 20:15:03
唐松山さんがリファレンスにしてるサイトの、
http://www.k3.dion.ne.jp/~yamas/kodaiy2k/kodaisi3.gif
丁度この画像ぐらいが実年代でしょう
386唐松山:2006/12/10(日) 20:28:36
ありがとうございます。
でも増しが考慮されていない

もし 景行が 西暦239年からだとすると
 治世   成太子   成天皇 <間> 世継誕生  立太子   死亡
 60年  18才   81才  5年目  86才   126才  140才  これから`前57` ‘中20‘‘後10‘ を引く
 29年  18才   24才   5年目  29才   49才   53才    
増し 景行の年号より次の年を引く

 6,7,8,9,13,14,15,16,28春=40冬、47より51、55年死亡より60

間違いのあるのは、承知していますが
これで よんでください。
387征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 21:08:20
各天皇の治世年間内の空白年の処理の仕方は
等倍の年代列で分断化されている可能性も十分考えられますが

没元年はそれだけじゃ決定できない訳でしょう


唐松山さんのは、24歳で即位で53歳死亡なら治世年間は丁度三十年だから
これを書紀の没元年との尺を比較すれば、書紀の尺は二倍と云う事になる訳でしょ


それでも、28年までを単に等倍でカウントすると後2年しかない
388日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:18:17
2倍暦になったからと言って、干支が早く回るわけではない・・・。
389征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/10(日) 21:20:01
廻りますよ

その期間の実年代の1年分は、書紀では2年分なんですから
390太国:2006/12/10(日) 21:45:21
>>314
半年位前、「2倍年暦の真実」というスレにすでに年表は書きこんであります。
しかし過去スレのため特別なことをしなければ見るのはできないので、
またここにあの年表の書きこみを致しましょうか?
あのスレは見ておられないんですね?

やってくれと言うのであれば、再度になりますが書きこんでもいいですが?
ただ長いですから、始めから終りまで断続的にて数日かかるかも知れないです。
欽明即位あたりから逆上って行く表となります。
391唐松山:2006/12/10(日) 21:50:21
増しは、
寿ぎ と称して 干支を1つ2つ 10ヶとか
先の干支を使うだけ
今なら さしずめ 昭和67年=平成元年 (だっけ)
農業に何の影響も無い。  民の暦は、月の満ち欠け
392唐松山:2006/12/10(日) 22:08:13
景行12年オウス皇子11才
同27年 コウス(16才) 九州へ
翌春28年春都へ帰る (40年)休むまもなく関東下向
歳は何時とるの 師走大晦日にまとめてとるんかい

現実は、この半分の年齢であった と
393唐松山:2006/12/10(日) 22:11:02
この年齢が 一番厄介なんだよなー
394日本@名無史さん:2006/12/10(日) 22:11:32
なんで、日本書紀の編纂者は
ちゃんと暦の年齢を訂正してくれなかったんだ?
あるいは、暦の計算方法が変わったんだというふうに
走り書きをしてくれなかったんだ?
395太国:2006/12/10(日) 22:27:35
唐松山さんのおっしゃるとおり、秘匿事項だった可能性あります。
396日本@名無史さん:2006/12/10(日) 22:30:52
編纂段階になって儀鳳暦を使うのに秘匿もなにも…

しかもそれと一致するホツマは…
397太国:2006/12/10(日) 22:35:02
>>396
古神道的には、岐美二神の不仲が関わっているから触れないのです。
露骨にやると、特に美神の怨恨に触れますのでやりたがらないのです。
お岩稲荷のお岩さんとか、新皇さんのようにですよ。
その呪いも佛伝時期までが強いみたいです。
398日本@名無史さん:2006/12/10(日) 22:40:28
>>394
でも、暦を修正して歴史を書いたら
物語として構築できない。
その暦の違う時代の人々は、その違う暦で生活しているわけだから
そんなのは、後世の皆さん、気がついてくれよって感じか?
399唐松山:2006/12/10(日) 22:48:08

ホ38031 ヤマトカゲ めとりてうむコ  タケウチぞ
ホ38032 ヨホキサラモチ ミノにゆく 
ネシモハヒ マキムキヒシロ ニヒミヤに 
ホ38053 ヰホネシモ ソヰカヒのデに うむコのナ ワカタリヒコぞ
ホ40275 ムネノトミ ミコとタケウチ ヲナヒドシ

景行4年如月15日  同ネシモ8日帰館
景行5年 ネシモ15日 ワカタリヒコ誕生
ネシモが 閏12月だとすると 4年と5年は、同じ年
増しがあった。?
400唐松山:2006/12/10(日) 22:54:46
修正しないと 話が合わないんですけど
先に書いたコウス 12年間も間があいてしまう。

401日本@名無史さん:2006/12/10(日) 23:39:02
しかし邪馬壹國って、なんかほんまに「ヤマタイ」でええんかいな?
「ヤマタイ」って読むことじたい作為っぽくない?
大和朝廷につながるなら「ヤマト」って読ませちゃえばいいし、
もしかして本当の元の発音は「ジャメタイ」かもしれないし
古田風なら一字代えて「ジャメイ」でもいいし
なんか「ヤマタイ」って一番どっちつかずというか、微妙なところに
落としたと思わないかい?
402日本@名無史さん:2006/12/11(月) 01:28:42
>>401
当時、何と読んでいたなんか
分からないわな。

ただ、漢字でそういう字を書くというのが分かっているだけ。
403日本@名無史さん:2006/12/11(月) 03:06:58
…老教授、また来てくれるといいな
404日本@名無史さん:2006/12/11(月) 18:04:07
君はしらなかったんだね

老教授さんは亡くなりました。
405日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:40:20
日本書紀を研究している中国の学者は
普通に継体天皇以前は二倍年暦で素直に計算しているな。

それで考えたら、邪馬台国は九州のどこからしいが、
安本氏みたいに邪馬台国・卑弥呼以後、東遷したなんて考えていない。

神武天皇は卑弥呼よりも200年以上前の人で
その時代に、九州王朝の派遣軍ぐらいの立場で畿内へ東征?したのではと...
だからこそ、神武〜崇神ぐらいまでは欠史八代といって詳しく書いていない。
詳しく書いちゃうと、ただの地方長官だったというのがバレルからw

しかし、崇神天皇(卑弥呼と同時代)ぐらいになると急に詳しく書き出す。
なぜなら、その頃ぐらいから、天皇家は自分の歴史に自信を持ち出す。
大和王権の覇者として歩き出すから。
そして、西暦300年ころ、景行天皇の時、北九州から東国まで平定、
中国の考古学者もこの頃、統一国家・大和がほぼ完成したのでは?と。

だからこそ、後に、旧唐書で、日本の使節が
「倭国と日本は別種。もともと、日の出るところの日本が倭国を併合した。
よって、我々は倭国ではない」とか
「倭国は奴国の後裔なり」みたいなこと言ったんだな。
406日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:44:42
>>405
日本書紀を研究しているインドの学者はどう言ってるの?
407日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:53:16
インドのアバウトさを知って言ってるのか?
彼らには、弁証法的な時間の概念なんてない。
昨日起こったことも千年前に起こったことも同じだ。
408一応九州王朝説:2006/12/11(月) 20:56:29
まあインドの古代人もよそ同様異様な長寿らしいんで、二倍歴
については可能性は大いにあり得るかと。
409日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:07:32
とにかく、戦後の日本の古代史研究が駄目なのは
最初から日本書記は嘘つきと決めつけていること。
むろん、日本書紀に書いてあることを全て鵜呑みにするわけにはいかんが...
だからといって、最初から嘘だと決め付けて、大して読まずに
創造を膨らませるほうが、よほど主観の入った歴史研究だ!

よって、中国の考古学者みたいに、とりあえず
日本書紀の年代を素直に呼んでみて、諸外国でもそうであったように
二倍年暦で計算してみるべきだ。
そすれば、神武は紀元前1世紀の人、崇神が卑弥呼とほぼ同時代の人になる。

おそらく、戦前までの皇国史観のせいで教えられなかったのは
欠史八代の頃の天皇は、地方の司令官程度の存在だったのがバレルから。
つまり、天皇から建国が始まるという歴史が描けなくて
今の天皇家も、徳川家や豊臣家のような諸侯と同身分だった
というのが発覚するからだと思う。これだと易姓革命の対象になる。
おそらく、それ以前にも歴史は存在していたが、破棄されたのだろう。
410日本@名無史さん:2006/12/11(月) 21:18:13
>>409
じゃあ、なんでその二倍暦による解釈が主流にならないわけ?
411太国:2006/12/11(月) 21:48:12
>>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年 (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
1200  540  540  欽明元年 用明誕生 石姫立后  
1199  539  539  欽明即位 宣化崩御
1198  538  538  敏達誕生 佛教伝来
1197  537  537
1196  536  536  宣化元年 橘仲皇女立后
1194  534  535  宣化即位 安閑崩御 春日山田皇女立后
1193  533  534
1191  531  533  安閑即位 繼體崩御
1189  529  532
1187  527  531
1185  525  530
1183  523  529
1181  521  528
1179  519  527
1177  517  526
1175  515  525
1173  513  524  安閑立太子
1171  511  523
1169  509  522  欽明誕生
1167  507  521  繼體即位 手白香皇女立后

繼體、安閑世は2倍暦   宣化、欽明世〜〜以降の世は等倍暦
412日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:39:11
>>411
二倍年暦が、四季を数える暦に変わったのって
それが分かるような記述って日本書記に書いてありますか?
たしかに安閑天皇って高齢で死んだ後、奥さんが多いのに
子供がいないことを思えば、この時代は二倍年暦だったのかも。
宣化天皇って等倍暦?その根拠は?
413太国:2006/12/11(月) 23:16:49
>>411は後日継続します。

>>412
『宣』の字はウカンムリの中に「二日」って書くでしょ。
2日が1日分なんですよ。
開化の『開』の字にも「日」が2個ついてますし、御名は大日日尊で宣化に
通じます。つまり開化の世も2倍暦だったという示唆です。

等倍暦の『等』の字はタケカンムリの中に「寺」と書くでしょ。
佛伝過ぎると等倍暦となりますの示唆です。

紀に記述では、5月の記述はスズメの涙ほどしかないほどお寂しいんです。
次いで6月もかなり記述が少ないです。3倍暦では5月、6月を跳ばして
運用していたみたいです。5月蝿為す状態は岩戸隠れの象徴のようなもので
嫌っていたようです。アパート、マンションに104号室を嫌って、無い号数に
している建物が多いようにです。
『仏』の字は「イ」と「ム」の構成でできており、5と6の数字に対応します。
いわゆるヒフミヨ イム ナヤ・・・・・からそれが分かります。
これは仏伝以後は5月6月をも運用するので、1年が現今の如くに丸々1年
の通常暦になる示唆だと思われます。
414太国:2006/12/11(月) 23:26:45
>>413 >>412
言い忘れました。安閑の『閑』も開化と同様「日」が2個あります。
【訂正】宣化は仏伝が期間にありますので、その手前の安閑までが2倍暦です。
    だからウカンムリは2日を覆う意味で、この世から、宣化の世から
    等倍暦です。だいぶノートを見てなかったので間違いました。
415太国:2006/12/11(月) 23:34:06
追伸
『宣』は「二日」がウカンムリの下にあるわけですが、「二」の字を「日」
が分断して「一」「一」になって「二」の効力を減殺してるような形状です。
仏伝と兼ねて考えて、「二」を封殺する意味のようです。
つまり「一」を遠回しに強調してるわけで、宣化は1倍の、等倍暦の時代です。
416日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:04:59
>>401
 邪馬台は「ヤマト」と読むのですよ。
 一つの漢字で一音ですから、ヤマタイはおかしい。
 あえて言うなら「ヤマtho」かな。
417日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:11:07
>>413
>『宣』の字はウカンムリの中に「二日」って書くでしょ。
>2日が1日分なんですよ。

本当にそういう解釈でよいのか?w
まあ、そのあたりの天皇で、二倍年暦が等倍暦に変わったんだと思うけど
その説、無理やりな こじ付けの様な気がするw
別スレだと欽明天皇の途中からでは?いうレスがあったが...
418日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:22:47
>>405

日本書紀を研究しているフィリピンの学者はどう言ってるの?
419太国:2006/12/12(火) 06:54:04
>>417
宣化の「化」の字は「仏」と見比べれば「ム」のツクリが「ヒ」になって
いるでしょ。「ヒ」はヒフミの1であり「イ」は5を意味するものの1の意味
も持っています。ですから「化」は1,1すなわち2の分離の字で、2倍暦の
崩壊を示唆する字です。つまり宣化世は等倍暦なんです。

欽明では「明」の字を見れば「日」と「日」がのところ「日」と「月」に
なっています。「日」が1個の状態を月で強調しているもので、「明」は
月日を数えるカレンダー語になっているようです。「日」が1個すなわち
等倍暦の示唆の字ですから、欽明の世も等倍暦を想います。

さらに宣化に言及しますと、この天皇はなぜか即位月日の「日」がないん
ですよ。紀の編纂者はある理由で「日」の記入を渋ったか出来なかったんです。
「日」「日」から「日」を一つ削る示唆であり、さっきと同様に単一の「日」
で等倍暦を示唆しております。
420日本@名無史さん:2006/12/12(火) 09:32:57
426 :日本@名無史さん :2006/12/12(火) 00:42:42
>>420
『帝紀』を元にした『上宮聖徳法王帝説』の欽明の在位41年
書紀の在位が32年。
この食い違いは、2倍暦から1倍暦に切り替え時差によるもの。
実際の在位は、22年間


等倍暦に変更したのは、欽明天皇の途中かららしい。
421日本@名無史さん :2006/12/12(火) 09:40:10
魏志倭人伝の方位を東から、南に変更したり、歴を2倍にしたり・・
捏造するのが、大好きな畿内説の面々。
422太国:2006/12/12(火) 09:53:36
>>411続き  >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
1166  506  520 武烈崩御
1165  505  519
1164  504  518
1163  503  517
1162  502  516
1161  501  515
1160  500  514
1159  499  513  武烈元年 春日娘子立后
1158  498  512  武烈即位 仁賢崩御
1157  497  511
1156  496  510
1155  495  509
1154  494  508 武烈立太子
1153  493  507
1152  492  506
1151  491  505
1150  490  504
1149  489  503  武烈誕生
1148  488  502  仁賢即位 春日大娘皇女立后
1147  487  501  顯宗崩御

顯宗、仁賢、武烈は等倍暦の時代 
年表から武烈は5歳ばかりで立太子をしたことになる。同即位は9歳。
423日本@名無史さん:2006/12/12(火) 10:36:18
>>422
なんかさ、よく分からんのよ。というかさ、その辺りの天皇って
倍暦したり、等倍暦にしたり、またまた倍暦に戻したりしたわけ?
とくに継体天皇の時が重要だわな。
彼は超傍系の皇族だったわけで、やや中央から
離れていたところに住んでいたわけだから、
その前に通常暦へ移行して、彼が皇位に継いだら、
また復古主義で倍暦に戻した可能性もある。
特に、当時の暦というのは、天皇の専権事項だったわけだから...

それにしても、そのへんを計算していたら頭が痛くなる。
あと、倭の五王に関しては、最初の二人は、応神と仁徳では無いような気がする。
424唐松山:2006/12/12(火) 10:58:59
ほつま に出ている ひのもと の記事
ホ23043  にぎはえば ヰヤマトとふる ヤマトクニ マトのオシエは のぼるヒの モトなるゆえに
ヒノモトや しかれとヤマト なすてそよ
ホ26198  ヒノモトの カミのココロを しるヒトぞカミ
425唐松山:2006/12/12(火) 11:34:52
景行の時代
畿内ヤマトが大きく成長する
 大和国の支配地域が ヒノモト 首都 イヤマトがヤマトイ と間違って伝えられた。
 
こんなことでは?

 
426太国:2006/12/12(火) 12:04:39
>>422続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
1146  486  500
1145  485  499  顯宗即位 難波小野女王立后
1144  484  498  清寧崩御 忍海飯豐青尊執政
1143  483  497
1142  482  496  仁賢立太子
1141  481  495
1140  480  494  清寧即位 葛城韓媛皇太夫人
1139  479  493  雄略崩御
1138  478  492  清寧立太子 豐受大神宮成る
1137  477  491
1136  476  490
1135  475  489
1134  474  488
1133  473  487
1132  472  486
1131  471  485
1130  470  484
1129  469  483
1128  468  482
1127  467  481

雄略、清寧と顯宗は等倍暦の時代
427太国:2006/12/12(火) 13:16:17
>>426続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
1126  466  480
1125  465  479
1124  464  478
1123  463  477
1122  462  476
1121  461  475
1120  460  474
1119  459  473
1118  458  472
1117  457  471  雄略元年 幡梭皇女立后
1116  456  470  雄略即位 安康崩御
1115  455  469  中蒂姫立后
1114  454  468  安康元年
1113  453  467  安康即位 允恭崩御
1112  452  466
1111  451  465
1110  450  464  顯宗誕生 繼體誕生
1109  449  463  仁賢誕生
1108  448  462
1107  447  461

允恭、安康と雄略は等倍暦の時代
428太国:2006/12/12(火) 13:30:47
>>427続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
1106  446  460
1105  445  459
1104  444  458  清寧誕生
1103  443  457
1102  442  456
1101  441  455
1100  440  454  忍海飯豐青尊誕生
1099  439  453
1098  438  452
1097  437  451
1096  436  450
1095  435  449
1094  434  448
1093  433  447
1092  432  446
1091  431  445
1090  430  444
1089  429  443
1088  428  442
1087  427  441

允恭は等倍暦の時代
429太国:2006/12/12(火) 13:48:40
>>428続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
1086  426  440
1085  425  439
1084  424  438
1083  423  437
1082  422  436
1081  421  435
1080  420  434
1079  419  433
1078  418  432  雄略誕生
1077  417  431
1076  416  430
1075  415  429
1074  414  428
1073  413  427  忍坂大中姫立后
1072  412  426  允恭即位元年
1070  410  425  反正崩御
1068  408  424
1066  406  423  反正即位元年 津野姫皇夫人
1064  404  422  履中崩御 草香幡梭皇女立后
1062  402  421

履中、反正は2倍暦の時代 允恭は等倍暦の時代
430太国:2006/12/12(火) 14:09:23
>>429続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
1060  400  420  履中即位元年 反正立太子 黒姫皇妃 安康誕生
1057  397  419  仁徳崩御
1054  394  418
1051  391  417
1048  388  416
1045  385  415
1042  382  414
1039  379  413
1036  376  412
1033  373  411
1030  370  410
1027  367  409  武内宿禰没
1024  364  408
1021  361  407
1018  358  406
1015  355  405
1012  352  404
1009  349  403  八田皇女立后
1006  346  402
1003  343  401  履中立太子

仁徳は3倍暦の時代 履中は2倍暦の時代
431日本@名無史さん:2006/12/12(火) 15:42:02
>>430
仁徳が3倍暦なんて信じられない。普通に倍暦だったのでは?
というか、例の倭の五王の時に通常暦へ移行したのでは?
この時は、忘れてはいけないのが、
倭王が中国の朝貢した事実である。
つまり、この時代は中国の暦(通常暦)へ移行したように思う。
そして、最初の倭王は、宋書の記述を信じて(梁書の記述は信じない)
考察した結果、最初の二人の倭王は、
これまで有力な説だった応神・仁徳ではなく、その次の履中・反正ではないのか?

432太国:2006/12/12(火) 15:47:30
>>431
倭の五王はこのころの各天皇にあらず。
仁徳世が3倍暦でなく2倍暦や等倍暦(単倍暦)ですと武内宿禰の長寿が
解決できにくいです。紀の文面から、そのままでは彼は285歳ですよ。
433431の続き:2006/12/12(火) 15:54:33
その後、この倭の五王の系統は、傍系の継体天皇に取って代わられるが
この継体天皇は再び倍年暦に戻した?途中からか最初からか分からんが...
中国に朝貢したという忌々しい過去を忘れるために...
(ということは、57年、107年、239年の中国の史書に出てくる倭王
は天皇家の系統ではないな...)

しかし、その後、継体天皇の子供の欽明天皇の途中に
再び中国方式である倍年暦に戻した。しかも、この天皇の時
仏教を導入しようかで迷ったりした。
何故なら、この欽明天皇の母親は倭の五王の系統(仁徳天皇の男系の子孫)だったから。
欽明天皇のはるかに年長の兄たちは母親が違う。
だから、父親(継体天皇)の方式に従ったのだろう...
434日本@名無史さん:2006/12/12(火) 15:59:55
>>432
仁徳天皇に関しては不自然ですね、確かに。
この時代は暦の混乱があったように思う。
あなたの言うように通常暦でもない二倍年暦でもない暦が使われたのか?
仁徳天皇の時代の手がかりを記紀で探るしかない。
古事記の編纂者は、あんまり仁徳天皇のことを評価してなかったような。
とりあえず、倭王珍の即位年を反正天皇の即位年と考えて間違いないと思う。
どうよ?

倭の五王の時代というのは
中世の歴史に例えるのなら、足利義満の時代に似ているような気がする。
435日本@名無史さん:2006/12/12(火) 16:07:59
『宋書』倭国伝
「 讃が死に、弟の珍が立つと、遣使を以て貢献した。」

この年代って、宋書に存在しないんですか?
436太国:2006/12/12(火) 16:15:45
>>430続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
1000  340  400  允恭誕生
 997  337  399
 994  334  398  反正誕生
 991  331  397
 988  328  396
 985  325  395
 982  322  394
 979  319  393  履中誕生
 976  316  392
 973  313  391  仁徳即位 磐之媛立后
 972  312  390  菟道稚郎子自殺
 969  309  389  應神崩御 菟道稚郎子立太子
 966  306  388
 963  303  387
 960  300  386
 957  297  385
 954  294  384
 951  291  383
 948  288  382
 945  285  381

應神と仁徳は3倍暦の時代
437太国:2006/12/12(火) 16:38:36
>>436続き >>314 >>390
皇紀は通例年での皇暦年  (西紀)はその皇紀対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
 942  282  380
 939  279  379
 936  276  378
 933  273  377
 930  270  376  應神即位 仲媛立后
 927  267  375  神功崩御
 924  264  374
 921  261  373
 918  258  372
 915  255  371  仁徳誕生
 912  252  370
 909  249  369
 906  246  368
 903  243  367
 900  240  366
 897  237  365
 894  234  364
 891  231  363
 888  228  362
 885  225  361

神功と應神は3倍暦の時代
438太国:2006/12/12(火) 18:10:54
>>437続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
 882  222  360
 879  219  359
 876  216  358
 873  213  357
 870  210  356
 867  207  355
 864  204  354
 861  201  353  神功摂政皇太后 應神立太子
 860  200  352  仲哀崩御 應神誕生
 859  199  351
 858  198  350
 857  197  349
 856  196  348
 855  195  347
 854  194  346
 853  193  345  神功立后
 852  192  344  仲哀即位
 851  191  343
 848  188  342  成務崩御
 845  185  341

成務は3倍暦 仲哀は等倍暦 神功は3倍暦の時代
439唐松山:2006/12/12(火) 18:18:18
日本書紀 等 年齢考

景行
   太子に成る 21才 天皇に成る63年前
   死亡時   106才    治世60年
この 矛盾を抱えたまま 正しい暦を 書記 のみで または、掛け算で
解決できますか?
もっとも 近いと思われる 数字をだすと
ほつま 天皇に成る81才 書記 死亡106才  治世26年間 あたりか
書記のみでみると 83才 ..106才       治世24年間
正しい 治世年数を 増幅された 就任時の年齢に加算

景行の時代 正しい暦も在った ?
440太国:2006/12/12(火) 19:29:00
>>438続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西暦]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
 842  182  340
 839  179  339
 836  176  338  仲哀立太子
 833  173  337
 830  170  336
 827  167  335  神功誕生
 824  164  334
 821  161  333
 818  158  332
 815  155  331
 812  152  330
 809  149  329
 806  146  328
 803  143  327
 800  140  326
 797  137  325
 794  134  324
 791  131  323  成務即位 武内宿禰大臣
 789  129  322  景行崩御
 787  127  321

成務は3倍暦 景行は2倍暦の時代
441日本@名無史さん:2006/12/12(火) 19:52:20
むなしいな
442太国:2006/12/12(火) 20:43:33
>>440続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
 785  125  320
 783  123  319
 781  121  318  成務立太子 武内宿禰棟梁之臣
 779  119  317
 777  117  316
 775  115  315
 773  113  314  日本武尊没
 771  111  313
 769  109  312  仲哀誕生
 767  107  311
 765  105  310
 763  103  309
 761  101  308
 759   99  307
 757   97  306
 755   95  305
 753   93  304
 751   91  303
 749   89  302
 747   87  301

景行は2倍暦の時代 
443征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/12(火) 21:44:23
>>431-434

仁徳年間の可能性は

・元年を404年に設定して以降を三倍区間、治世67年以降を二倍区間とする[仁徳没=倭王讃没]
・元年を404年に設定して以降を二倍区間、治世67年以降を虚年区間とする[仁徳没=倭王讃没]
・元年を394年に設定して以降を二倍区間、治世67年以降を虚年区間とする[仁徳没≠倭王讃没]
・元年を394年に設定して以降を二倍区間、[仁徳没=倭王讃没]

等が考えられます


前者三つの場合の仁徳の治世年間は34年(重複を考えれば33年)になり、
陵地を定めたと云う仁徳治世67年記事が「フラグ記事」になっています

まぁ、百済本紀との一致性を考えれば一番最初のパタンですが、
内政記事の配布問題はまだ確定されて居ないので、私が作った検証用の後者3パタンも、まぁ一応
444征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/12(火) 21:50:34
それから太国さんは、
倭の五王と書紀の天皇の同期を最初から否定する立場なんですかね

応神元年も外しちゃったりしてますし
445日本@名無史さん:2006/12/12(火) 21:50:34
暦問題がややこしくなるのが
応神天皇までは比較的に直系で皇位を継承してきたんだけど
仁徳天皇の男系子孫の代から
直系ではなく、兄弟継承、従兄弟継承っていうふうに
ややこしくなるんだよね。
実際、記紀を呼んでみたら、皇位継承をめぐって骨肉の争いをしているし、
また、中国の史書から考察して、この時代
通常暦と倍年暦が交錯してしまっているように思う。
対中国政策や暦問題でも骨肉の争いをしているようだ。
だから、ややこしくなるんだよ。
よって、邪馬台国論争よりも、この倭の五王時代を解明するほうが
はるかに、その前の時代を探る手立てになると思う。
おそらく、最初のほうの天皇の頃は、普通に倍年暦を
使っていたように思うんだよね。
446日本@名無史さん:2006/12/12(火) 21:54:17
神武天皇から欽明天皇までの暦問題は
とくに仁徳天皇の男系子孫たちの動向を調査したら
それ以前の古代史の解明にも繋がるように思うんだよね。
結局、この仁徳の男系子孫たちが、無茶苦茶にしてしまている。
記紀を呼んでも、一族で皇位継承争いで殺し合いをしまくり。
それにしても、雄略天皇って最悪のやつだったみたいだw
447征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/12(火) 21:55:22
><
448日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:09:54
新スレ。古代史の年代の解明に役立てたい!

■■倭の五王・仁徳天皇の皇胤たち■■
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1165928837/l50

449太国:2006/12/12(火) 22:20:00
>>442続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
 745   85  300
 743   83  299  成務誕生 武内宿禰誕生 
 741   81  298  日本武尊誕生
 739   79  297
 737   77  296
 735   75  295
 733   73  294
 731   71  293  景行即位 播磨稲日大娘女立后
 728   68  292  垂仁崩御
 725   65  291
 722   62  290
 719   59  289
 716   56  288
 713   53  287
 710   50  286
 707   47  285
 704   44  284
 701   41  283
 698   38  282
 695   35  281

垂仁は3倍暦 景行は2倍暦の時代  日本武尊の享年16歳ばかり
450太国:2006/12/12(火) 23:03:07
>>444
そのとおり、倭の五王は当時の各天皇にあらず。
それで倍暦をやってると失敗に至りますから、そうお思いなら早くその考えを
捨てて、倍暦論を再開しないとホントにアウトですよ。
あの倉西の婆さんも五王は天皇だと言っていて、もう救いようがありません。
451日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:15:53
讃・・・仁徳天皇(その後、履中天皇に変わったが、宋書では
          変わったことを知らずに、
          履中天皇との関係から
          反正天皇を讃の弟・珍とした可能性大)

珍・・・反正天皇(宋書の在位期間と日本書紀の在位期間の一致から
         この天皇の時代は確実に通常暦が採用されていた模様)

済・・・允恭天皇(宋書では珍と済の関係を書いていない。
         本名は雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)
         応神天皇以降、臣籍降下した皇別氏族には真人
         事情によっては、宿禰や朝臣が与えられたので
         允恭天皇は一度、臣籍降下してから皇位を継承したのかも?
         その在位期間から、この天皇の先代と違い、倍年暦に
         即戻した可能性が高い)

興・・・安康天皇
武・・・雄略天皇
452日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:19:44
>>450
倭の五王は何だったと思うんですか?まさか、日本の地方豪族?
自分はどう考えても、日本書紀に出てくる天皇だと思いますよ。
ただ、ちゃんと暦が違ったということを計算して
どの天皇だったか探らないとね。
この時代なんですよ、暦が錯綜しているのは?
そして、仁徳天皇の男系子孫が、履中天皇・反正天皇系と
允恭天皇系とで激しく争っていたもよう。暦もね...
453太国:2006/12/12(火) 23:24:22
>>452
だから当時九州にあった短期王朝で、女王国より少し以後の時代です。
国名は女王国の「邪馬壹國」に対して、「邪馬臺國」と云います。
454日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:46:16
>>453
とんでも説はやめてください。
何の理由からそういう意見が出るんですか?

455倭の五王:2006/12/13(水) 00:27:46
讃=仁徳天皇

珍=反正天皇(彼は倭王讃と見られる仁徳天皇の子だが
       宋書では、その後、仁徳天皇から履中天皇に
       変わっていたことを知らず、
       履中天皇との関係から反正天皇を讃の弟・珍とした可能性大
       宋書の在位期間と日本書紀の在位期間の一致から
       この天皇の時代は確実に通常暦が採用されていた模様)

済=允恭天皇(宋書では珍と済の関係を書いていない。
       本名は雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)
       応神天皇以降、臣籍降下した皇別氏族には真人
       事情によっては、宿禰や朝臣が与えられたので
       允恭天皇は一度、臣籍降下してから皇位を継承したのかも?
       その在位期間から、この天皇の先代と違い、倍年暦に
       即戻した可能性が高い)

興=安康天皇(彼を暗殺した眉輪王が七歳だったので、
       彼は父である先帝の後を継続して倍年暦を使った可能性大)

武=雄略天皇(非常に革新的で征服欲が強い独裁者的な専制君主。
       同母兄をはじめ従兄弟やその他の皇族を殺害することにより政権奪取。
       日本国内を武力でしめつけ、また海外戦争にも積極的に参戦した。
       呉国(宋)から手工業者・漢織・呉織らを招いたりし、
       割と革新的で開放的な面も。暦の採用については分からない。)
456太国:2006/12/13(水) 07:41:06
>>454
何が故にトンデモなんだ?

名前が合ってないではないか? これだけだって通常の頭では別人だ。
本人か他人かを判別するための目的のものが名前ではないか?
それは例外はあるさ。同姓同名もあるし、多数個、名を持つ人もいる。
見てみな、名の字が合ってるのは幼武の「武」くらいしか無いではないか?

斎藤さんと斉木さんが同一者とか云ってるのが君たちの説ではないのか?
中村さんと中川さんとが別人だというのがトンデモか?
それこそトンデモない間違いだぞ。君らの主張は卑弥呼=アマテラスとかいう
恵也のレスビアン論と似通っていて、ホモ式論理でどうしようもな〜い。w
457日本@名無史さん:2006/12/13(水) 08:02:11
ここをふくめ
九州説とか安本系の人どうしが
なにを口汚く罵り合ってるのかさっぱりわからん。
458日本@名無史さん:2006/12/13(水) 09:10:40
吉田信者vs安本信者だろ
459日本@名無史さん :2006/12/13(水) 09:18:39
>>458
畿内説を盲信する狂人より、議論するだけ健全です。
460日本@名無史さん:2006/12/13(水) 11:56:25
仮に2倍暦が正しいとして、日本書紀の編纂者がなぜ天皇の歳が100を超えるのを放置したかは
魏志倭人伝に倭人の寿命は80〜100って記述されてたからじゃない?
461日本@名無史さん:2006/12/13(水) 12:21:03
答え:当初の年齢が50歳だったから
462日本@名無史さん:2006/12/13(水) 12:28:17
>>461
どっちの話?天皇?倭人の寿命?
もちろん二倍暦とすれば倭人の寿命は40〜50になりますね。
463日本@名無史さん:2006/12/13(水) 12:36:41
天皇だよ
464日本@名無史さん :2006/12/13(水) 12:46:33
もう2倍歴厨は無視しません?
465日本@名無史さん:2006/12/13(水) 13:30:32
安本氏の平均在位説から導き出される崇神天皇の生存時期は
在位期間の平均ではなく、
生存時期の代数から考えて、そうとう無理がある。
466日本@名無史さん:2006/12/13(水) 13:43:05
しかも安本テクニックは、最後には記載在位・記載寿命・記載文量を根拠に
一代十年説に対して魔法の増減式で修正している

砂上の楼閣に根拠なき三重の不正を加える行為
467日本@名無史さん:2006/12/13(水) 13:59:45
どうみてもペテン師だな。アンポン
468日本@名無史さん :2006/12/13(水) 14:18:36
もともと、日本書紀そのものが砂上の楼閣です。
欠史8代に疑問を感じての、安本理論だから、別に
目くじらたてるような本ではないと思っている。
それはそれで1つの考え方です。
469太国:2006/12/13(水) 14:35:38
>>449続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
 692   32  280
 689   29  279
 686   26  278
 683   23  277
 680   20  276
 677   17  275
 674   14  274
 671   11  273
 668   8  272
 665   5  271
 662   2  270  景行立太子
 659  前2  269 ↓(西紀)は以下、紀での皇紀対応の実年代でない紀元前
 656   5  268  天照大神宮成る
 653   8  267
 650   11  266
 647   14  265  景行誕生
 644   17  264  日葉酢媛立后
 641   20  263
 638   23  262
 635   26  261

垂仁は3倍暦の時代 景行の立太子は5歳
470太国:2006/12/13(水) 14:58:43
>>469続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
632  前29  260  垂仁即位 狹穂姫立后
630   31  259  崇神崩御
627   34  258
624   37  257
621   40  256
618   43  255
615   46  254
612   49  253
609   52  252  垂仁立太子
606   55  251
603   58  250
600   61  249
597   64  248
594   67  247
591   70  246  垂仁誕生
588   73  245
585   76  244
582   79  243
579   82  242
576   85  241

崇神、垂仁は3倍暦の時代
471征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/13(水) 18:59:22
ほら、マタ崇神十年を卑弥呼没と外す
472唐松山:2006/12/13(水) 19:41:15
ミ00020  マキムキの ヒシロのヰソミ トシツミヱ ホツミハツヒに
ミカサトミ イセノカンオミ オヲカシマ フオヨソナトシ さゝぐハナオシ

仁徳53年 おをかしま 247歳
生まれは、 景行22年    語り 仁徳53年 と思われます.
太国さんの 年期表では、
西暦402年語り  西暦303年生まれ
おおかしま が まだ人間に成り切れていない.

アスス暦の計算式は、以前 このページにも書き込みましたのでそちらを使用
473太国:2006/12/13(水) 19:53:41
>>470続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀) [西紀]
573 前88  240
570  91  239
567  94  238
564  97  237  崇神即位
562  99  236  開化崩御
560  101  235
558  103  234
556  105  233
554  107  232
552  109  231
550  111  230
548  113  229
546  115  228
544  117  227
542  119  226
540  121  225
538  123  224
536  125  223
534  127  222
532  129  221

開化は2倍暦 崇神は3倍暦の時代
474唐松山:2006/12/13(水) 20:04:04
アスス暦 もし書き込んでなかったらいけないので

B3の数字を 計算します。B4 に式をいれて お使いください。

=CHOOSE(MOD((B3+69),10)+2," ","き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")
&CHOOSE(MOD((B3+71),12)+2," ","あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","うえ","うと")
475日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:32:20
あんたいい加減にしろよ
476日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:55:11
もう三倍年暦はやめろ。
二倍年暦はありだが、三倍年暦は考えにくい。

それよりも、

文献史学上からの考察として

日本書紀の年代、古事記の干支崩年、二倍年暦、
対外史書との年代の一致、記紀の登場人物の年齢と行動

考古学的な遺跡の発掘状況

これらを総合して考えるべき。
477征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/13(水) 21:08:54
>>476
ですから、二倍や三倍で計算した場合にのみ

対外史書と日本書紀がピッタリ一致するんですよ
478太国:2006/12/13(水) 21:09:36
>>476
それではタケウチノギネスの超長寿はどのように解決がつくのですか?
2倍暦では 285歳÷2=142歳余 ですよ。

こんなに長寿を肯定するんですか? 昨日の新聞に載ってましたがアメリカ人の
最長寿者の女性が亡くなったニュースがありました。彼女でさえも116歳ですよ。

3倍暦なら 285歳÷3=95歳 で、5代に仕えた彼の年齢としては許容範囲内
の妥当な数字だと思考しますが。それとも2倍暦にしてどこかの年を架空として
削り、無にするんですか?w
479太国:2006/12/13(水) 21:32:01
>>473続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
530 前131  220  崇神立太子
528  133  219
526  135  218
524  137  217
522  139  216
520  141  215
518  143  214
516  145  213
514  147  212
512  149  211  崇神誕生
510  151  210
508  153  209  伊香色謎命立后
506  155  208
504  157  207  開化即位
501  160  206  孝元崩御
498  163  205
495  166  204
492  169  203
489  172  202
486  175  201

孝元は3倍暦 開化は2倍暦の時代
480太国:2006/12/13(水) 22:00:30
>>479続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
483 前178  200
480  181  199
477  184  198
474  187  197
471  190  196
468  193  195  開化立太子
465  196  194
462  199  193
459  202  192
456  205  191
453  208  190  開化誕生 鬱色謎命立后
450  211  189
447  214  188  孝元即位
446  215  187  孝靈崩御
443  218  186
440  221  185
437  224  184
434  227  183
431  230  182
428  233  181

孝靈と孝元は3倍暦の時代
481太国:2006/12/13(水) 22:25:09
>>480続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
425 前236  180
422  239  179
419  242  178
416  245  177
413  248  176
410  251  175
407  254  174
404  257  173  孝元立太子
401  260  172
398  263  171
395  266  170
392  269  169
389  272  168
386  275  167  孝元誕生
383  278  166
380  281  165
377  284  164
374  287  163
371  290  162  孝靈即位 細媛立后
368  293  161  孝安崩御

孝安、孝靈は3倍暦の時代
482日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:40:09
いろいろ幅を広げすぎて考えるから
頭の中が混乱するんだよ。

邪馬台国と神武東征は置いておけ。安本状態になるぞw

それよりも、まず神功皇后・応神天皇〜雄略天皇あたりを考えようぜ。
このあたりは、中国・朝鮮の資料も一致する。

ああ、それと、朝鮮の史書って、10世紀以降に書かれた話らしいが
西暦369年、391年という重要箇所があるが
あれは、ちゃんと通常暦に補正されたものなのか?
483日本@名無史さん:2006/12/14(木) 01:22:37
>>460
正解。
484日本@名無史さん:2006/12/14(木) 05:34:16
中国の史書でも大昔は
みんな長寿なんだよな。
これも倍年暦だと言われている。
485太国:2006/12/14(木) 08:01:11
>>481続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
365 前296  160
362  299  159
359  302  158
356  305  157
353  308  156
350  311  155
347  314  154
344  317  153
341  320  152
338  323  151
335  326  150
332  329  149
329  332  148
326  335  147
323  338  146
320  341  145
317  344  144  孝靈立太子
314  347  143
311  350  142
308  353  141

孝安は3倍暦の時代
486日本@名無史さん:2006/12/14(木) 09:07:54
>>484
倍年暦で計算しても、2ちゃんで見るような九州説ばかりでるんだが。w

ウィリアム・ブラムゼンというのも、ありえない神武たちの長寿や相続の仕方を、
多少知ったかぶりもあっただろうが、ありえないのに日本書紀を信じ込む日本人を
やんわりとたしなめる意味で、倍年暦などと言ったのだろうが、
今度は万世一系を信じ込む連中に名前を利用される羽目なるとは予想もしてなかっただろうな。
487太国:2006/12/14(木) 10:50:27
>>485続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀(西紀) [西紀]
305 前356  140
302  359  139
299  362  138
296  365  137
293  368  136  押媛立后
290  371  135
287  374  134
284  377  133
281  380  132
278  383  131
275  386  130
272  389  129
269  392  128  孝安即位
267  394  127  孝昭崩御
264  397  126
261  400  125
258  403  124
255  406  123
252  409  122  孝安立太子
249  412  121

孝昭と孝安は3倍暦の時代
488486:2006/12/14(木) 13:58:22
>>486の訂正
○倍年暦で検索
×倍年暦で計算
489太国:2006/12/14(木) 15:56:06
>>487続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀(西紀) [西紀]
246 前415  120
243  418  119
240  421  118
237  424  117
234  427  116  孝安誕生
231  430  115
228  433  114
225  436  113
222  439  112
219  442  111
216  445  110
213  448  109  世襲足媛立后
210  451  108
207  454  107
204  457  106
201  460  105
198  463  104
195  466  103
192  469  102
189  472  101

孝昭は3倍暦の時代
490太国:2006/12/14(木) 21:47:58
>>489続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀(西紀) [西紀]
186 前475  100  孝昭即位
185  476   99
183  478   98  懿徳崩御
181  480   97
179  482   96
177  484   95
175  486   94
173  488   93
171  490   92  孝昭立太子
169  492   91
167  494   90
165  496   89
163  498   88
161  500   87
159  502   86
157  504   85
155  506   84  孝昭誕生
153  508   83
151  510   82  懿徳即位 天豐津媛立后
149  512   81  安寧崩御

安寧、懿徳は2倍暦 孝昭は3倍暦の時代
491日本@名無史さん:2006/12/15(金) 02:06:03
>>486
なぜ、戦前、倍年暦を研究しなかったんだ?
戦後のマルクス主義者による記紀禁門書化(倍年暦研究阻止派)と
戦前の皇国史観者による倍年暦研究阻止化と
全く逆のようで、同じなんだよね、実はw

つまり、右翼と左翼は似たもの同士の典型でしょう?
492日本@名無史さん:2006/12/15(金) 02:38:15

これなら日本に不老長寿の薬があったと勘違いされてもしかたなし
493太国:2006/12/15(金) 06:59:35
>>490続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀(西紀)[西紀]
147 前514  80
145  516  79
143  518  78
141  520  77
139  522  76
137  524  75
135  526  74
133  528  73
131  530  72
129  532  71
127  534  70
125  536  69
123  538  68  懿徳立太子
121  540  67
119  542  66
117  544  65
115  546  64  渟名底仲媛立后
113  548  63  安寧即位
112  549  62  綏崩御
111  550  61

安寧は2倍暦 綏は等倍暦の時代
494太国:2006/12/15(金) 10:42:24
>>493続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀(西紀)[西紀]
110 前551  60
109  552  59
108  553  58  懿徳誕生
107  554  57
106  555  56
105  556  55
104  557  54  安寧立太子
103  558  53
102  559  52
101  560  51
100  561  50
99  562  49
98  563  48
97  564  47
96  565  46
95  566  45
94  567  44
93  568  43
92  569  42
91  570  41

綏は等倍暦の時代
495日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:21:01
>>491
皇国史観者は、
戦前は倍暦研究の阻止により、
戦後は倍暦研究の固執により、
邪馬台国研究を妨害したいのさ。
496日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:23:33
>>495
戦後は記紀の完全否定からだろう?
むしろ、これから倍年暦研究するべき。
始まったばかりなんだから。
497太国:2006/12/15(金) 15:10:00
>>494続き >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]は実年代

皇紀(西紀)[西紀]
90 前571  40  
89  572  39
88  573  38
87  574  37
86  575  36
85  576  35
84  577  34  安寧誕生
83  578  33
82  579  32
81  580  31  五十鈴依媛立后
80  581  30  綏即位
79  582  29
78  583  28
77  584  27
76  585  26  神武崩御
73  588  25
70  591  24
67  594  23
64  597  22
61  600  21

神武は3倍暦 綏は等倍暦の時代 但し綏世の等倍暦は即位の年からでなく
手前、神武崩御の翌年からの実施である。これは倍暦最後の安閑世の次代、宣化
の即位年と宣化元年がズレて、宣化即位年から等倍暦の時代となる事と相応して
来る。
498日本@名無史さん:2006/12/15(金) 16:15:47

ウザイからも止めな
499太国:2006/12/15(金) 20:01:59
>>497 >>314 >>390
皇紀は通例での皇暦年  (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀」は実年代

皇紀 (西紀)[西紀]
58  前603  20
55   606  19
52   609  18
49   612  17
46   615  16
43   618  15
40   621  14  綏立太子
37   624  13
34   627  12
31   630  11
28   633  10
25   636   9
22   639   8
19   642   7
16   645   6
13   648   5
10   651   4
7   654   3
4   657   2
元  前660  元  神武即位  媛蹈鞴五十鈴媛立后

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

神武は3倍暦の時代
500唐松山:2006/12/15(金) 20:35:50
とりあえず

お疲れ様
501日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:40:03
太国大爆発!www
502日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:47:57
12 :日本@名無史さん :2006/12/15(金) 20:42:01
神武天皇の即位年は、干支を意識したものだから信じられないが
(そもそも、彼は皇帝というよりは、三輪山の一領主で人生を終えた)
古事記、日本書記を倍年暦で計算して
また、日本書紀の仁徳天皇の即位が、神功皇后の生存期間を
卑弥呼にぶつけるためにやったことを考慮して計算したら
一応、紀元前106年の日向の国で産まれたことが分かった。(誤差はあるかも?)
いつ即位したのは分からん。というか、彼はただの地方豪族。
だから、日向からの遠征前に即位したみたいな訳の分からんこと言ったんだろう?

ちなみに、崇神天皇の在位期間だが、西暦206年から240年だ。
彼が生まれたのは、西暦156年。
マキムク遺跡の古墳が3世紀後半だから、彼の死後
古墳が作られるのと見事に合点が行く。
503唐松山:2006/12/15(金) 20:48:58
孝霊時代の 富士山噴火を
崇神の 5年大凶作に繋げたいんだが...

504日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:52:04
崇神は漏れもその位と考えてる。
二倍歴でもだいたいそのくらいに
505日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:57:17
神武と崇神と応神が同じでしかも在位が10年とか
しっちゃかめちゃかの
アンポンのようなペテン、大嘘ツキより
数段マシ!
506太国:2006/12/15(金) 22:17:54
>>505
近年の日本の古代史論の中に、よく見られるのが以下の説である。

神功皇后=卑弥呼=天照大御神

神武=崇神=應神

倭の五王=当時の各天皇

これらはお互いをべったりくっつけるのが当初の目的にあって、どれもこれも
同一だとの結論に直進している。
これらの説は総て間違いでなのあ〜る。そのうち前段においては

卑弥呼=天鈿女命

などと言い出す輩が現出するのか? と、まぁ3pレスビアン(前段)が
4pに進展して行くか? と、考えもするが、まだそこまでは至っていない
ようであ〜る。wwwww

古代史臥海は、早くこれらのレスビアン愛好者と3p5pホモ史論をなくす努力
を惜しんではならない。ww
507日本@名無史さん:2006/12/15(金) 23:53:32
>>503 :唐松山:2006/12/15(金) 20:48:58
>孝霊時代の 富士山噴火を
>崇神の 5年大凶作に繋げたいんだが...

そういうのって、地質学の分野なんだよね。
508日本@名無史さん:2006/12/15(金) 23:54:31
>>506
倭の五王に関しては、天皇でしょう?
どうみても。
509太国:2006/12/16(土) 07:45:53
>>508
君もホモっ気が抜けないな?w それは間違い。
幼武尊の「武」の1字しか合わないことが、逆に5人が天皇でないことを
物語っている。全部合ってないほうのときが各々が天皇かとの考えに傾くの
が、可能性としてはありうる。しかし、そうであっても可能性に留まるから
それでも別人の論も充分通る。
510日本@名無史さん:2006/12/16(土) 11:28:52
>>509
というか、倭王が天皇だというのは間違いないが
問題は宋書が指定した倭王が
本当に綺麗に一人の天皇をあらわしていたかどうかだ。
とくに、この時代、直系継承ではなく
兄弟間で激しい権力闘争があって、多くの皇族が殺されている。
そういうゴタゴタの中で、宋書側がちゃんと把握できていたか疑わしい。
511太国:2006/12/16(土) 11:35:26
倭の五王が天皇っていうのは5pホモ論であり、間違いである。
もっと字が合っても同一人物とは限らない、さらに1字のみでこれだけが合う
っていうのは大いに疑念を感じて当然である。
逆の例として1字だけ不合って云うか似た例を言うと、
オーストラリアはオーストリアではない。また女王国だってヤマトと邪馬壹国
とは別物なのである。
512日本@名無史さん:2006/12/16(土) 11:48:34
仁徳天皇の男系子孫って断絶してしまったけど、
彼らの皇位継承が非常に複雑なことになっているんだよな。
応神天皇までは直系主義が強かったのに...仁徳以降は違う。

まず、最初の混乱が允恭天皇の時だ。
彼は本名から考えて、一度、臣籍降下して皇族の身分を離れていたんじゃないのか?
実際、兄である先代から空位をへて皇位を継承している。
また、兄貴に皇子がいたのに、それを飛ばして皇位を継承している。

その次が安康天皇の継承。
彼には兄(皇太子)がいたのに、その兄を打ち滅ぼして、皇位を継承している。
しかし、それから即、別の皇族に暗殺され、
更に弟の雄略天皇が継いだが、彼は安康天皇の暗殺の容疑者に
従兄弟で、父(允恭天皇)の兄である履中天皇の皇子を指定し、
それを打ち滅ぼしている。

後に、その履中天皇の皇子の忘れ形見が皇位を継承しているが
雄略天皇を荒らしてやるって、言っているんだよねw

もう一族で殺し合いしまくりw

そんなことから結局、仁徳天皇の男系は断絶し、
仁徳天皇の弟の子孫だった継体天皇に皇位が回ってくると。
513日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:10:59
日本書紀で皇子でも風土記じゃあ天皇表記されてたりするしなあ、結構皇位って曖昧なものだったんだよ。
514日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:25:23
>>513
その究極は、神武天皇が十五で太子(皇太子)になったという日本書記の
記述だろう。初代天皇がなんで皇太子になるんだよっつう。
515日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:34:36
>>512
仁徳天皇の男系男子だけじゃない。
仁徳天皇の男系が断絶したあと、遠い傍系の出であった、
応神天皇の5世の継体天皇の即位も一頓着あった。

継体天皇はなかなか都に入れなかったのだ。

このことを王朝交代したととる戦後の史家がいるが、
普通に記紀を読めば、それが皇族同士の争いにあったことがわかる。

実は継体天皇以外にも候補がいた。仲哀天皇の6世の子孫だ。

実はこの皇子と継体天皇には先祖からの因縁があった。
応神天皇というのは、仲哀天皇の正妻の皇子なんだけど、
仲哀天皇には、側室が産んだ庶長子たちがいた。
ここで、皇位継承争いが勃発したのである。

その5世の子孫たちが、またまた皇位継承争いをしたつーこと。
516日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:57:01
>>515
>応神天皇というのは、仲哀天皇の正妻の皇子なんだけど、
>仲哀天皇には、側室が産んだ庶長子たちがいた。
>ここで、皇位継承争いが勃発したのである。

これは少し違うな...どちらかというと兄たちが正妻の子供だと思う。
仲哀天皇の長子・次子は、もしものために九州遠征・朝鮮遠征にはいかず
都で留守を守っていた。つまり、大事な皇位継承者だった。

しかし、次期天皇を継承には、先代の天皇の意向が大きく影響する。
仲哀天皇の崩御まで彼の近くにいた
神功皇后の思い通りにされるという心配があったんじゃないの?

応神天皇の出生については、倍年暦だと不思議ではない。
いわゆる疑惑になる記述を書いたのは後世の日本書紀の編纂者であり
彼らは倍年暦を考慮しておらず、それが分かるのは
わざわざ神功皇后の生存時期を卑弥呼に合わせるために
倍年暦の補正をせずに考えていたことだ。
517太国:2006/12/16(土) 23:03:38
卑弥呼と神功皇后は別人でありますが、紀の記述は、卑弥呼の生存が神功の世の
前後あたりの時代に位置していたことを認容し、神功39年に例の文を入れたの
だと思います。
518ギモン:2006/12/17(日) 01:32:08
しかし、倭人伝なんか途中からどう見ても適当だよね。小人の国があって、
身長は三尺だとかさあ。正直、どこから適当になるかってのも問題じゃねえのかな。
そんで、俺は邪馬台国のところはもう適当だと思うんだよね。
つまりある時点から先は魏の使いは行ってない、つうか、少なくとも倭人伝書いた人は
行ってなくて又聞きだと思うんだよね。中国は結構当時優秀な測量技術があったのに
邪馬台国は福建の東とか、これまた適当なこと言ってるしさ。
なんかほとんどガリバー旅行記のレベルじゃないかねえ。
519ギモン:2006/12/17(日) 01:38:26
そんで、その適当に言ったのは倭側も結構ウソ教えたんじゃねえかな。
本拠地知られたくないから、窓口で社長は今外出しておりますみたいなもんだ。
東にあるのに南だと言ったり、
520古代史トーシロー:2006/12/17(日) 02:30:35
邪馬台国畿内論の人は纏向遺跡の年代を3世紀半にしてるけど、
卑弥呼没年、臺与の266年と同時代ということだね。
521日本@名無史さん:2006/12/17(日) 02:51:26
742 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:34:56
天照大神とは誰か

>天文学者によると、BC138年、158年、247年、248年、454年に
>日本で皆既日食が観測されたというのである。

http://www.nagaitosiya.com/a/amaterasu.html


743 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:36:44
>>742
安本は、247年、248年って騒いでいるけど
もし、本当にアマテラスが実在の人物をモデルにしたものなら
BC138年のが一番、可能性ありだな。
522日本@名無史さん:2006/12/17(日) 04:49:13
>>515
倭彦王は、応神と争った麛坂皇子・忍熊皇子の子孫ではない。
523日本@名無史さん:2006/12/17(日) 08:38:56
>>522
その倭彦王って何者なんですか?
524日本@名無史さん:2006/12/17(日) 09:32:40
>>518

まあ福健あたりって当時の魏朝廷にとっちゃ辺境の「あの辺」だからねw
「あの辺」の東に「なんか女王国」があっても不思議じゃない。デジタルな
方位じゃなくて「大体あの辺」ってことだから。
525ギモン:2006/12/17(日) 10:41:44
>>524
でしょう?実際、中華帝国の日本に対する認識なんて戦国時代ぐらいまで
本当に適当だよ。(地図なんかメチャクチャ)ましてや古代なんて何をか言わんやだとおもうんだよね。
それに多分、魏人の正使なんて倭に行ってないと思うんだよね。だって魏のほうが
偉いんだから、倭のほうが魏に出向くばかりというのが正解だろう。
そこで適当なこと言ったんじゃないんかね。
つまり何が言いたいかというと、魏志倭人伝は、風俗書としての価値はあるけど
地理、政治については、あまり価値、信憑性がないってこです。
526ギモン:2006/12/17(日) 11:19:04
もう少し言うと、倭人伝はそういう意味じゃ、やはりLEGENDでファンタジーだと思うんだよね。
だってミステリアスじゃん。謎の女王卑弥呼が支配する邪馬台国なんて。
カッコイイ!ステキーン!てなもんだ。
正直オサーンが支配してたら邪馬台国の話題なんて振り向く人は半分以下になるだろう。
まあほとんどシャングリラか、ルルイエ探すみたいなもん。
どうしても証拠がほしいなら記紀でこじつけるか、考古学的ハケーンに期待するしかないが、
まあ、邪馬台国は永遠に空想の国つうのも悪くないのかもな。


527唐松山:2006/12/17(日) 14:23:39
増しで  景行 を精査
西暦 239年から 268年
西暦 239年 景行 天皇に成る...60年の増し
西暦 242年 タケウチ生まれる..尾張行幸..ワカタリヒコ生まれる...景行4、5、6,7,8、は同年
西暦 244年 景行12年 熊襲叛く(九州王朝に対し)要請を受け8月15日出立...景行12,13,14は同年
西暦 247年 景行17年 再度出向 九州各地を転戦
西暦 248年 景行18年 クマノガタ平定、閏7月4日筑紫のオオミケ死亡
西暦 250年 景行20年 五百野姫14歳を伊勢より筑紫に入れる(約100人の兵隊、付き人共)
西暦 257年 景行27年 熊襲また叛く 12月コウス下向...景行28=40
西暦 258年 景行40年 武尊(コウス)2月九州と穴門平定、より帰都、10月伊勢、関東下向
西暦 259年 景行41年春 武尊 尾張に帰る、同武尊死亡、
西暦 264年 景行46年 ワカタリヒコを太子とする...景行46、より51年は同年
西暦 266年 景行53年 景行関東下向...(景行52年は、53年と同年として見た方が自然)
西暦 268年 景行55年秋 景行死亡...景行55年、=景行60年

疑問は 現在の記紀の読み方にあるんじゃないの?
528太国:2006/12/17(日) 14:36:36
他スレで雄略天皇の論議がありました。内容は天皇の寿命が
日本書紀では62歳のところ、古事記は124歳の倍の記述になっているとの話
でした。このことから古事記のほうは1年を半年計算で記述していたと考え
ることの確かさが濃厚です。ということは、雄略の世は等倍暦でやって
いたとの論拠になります。
倭の五王は各天皇ではないことを知れば、上のことを捉え、真の紀年の組み方は
どうすればかなうかの判断材料になるでしょう。
529日本@名無史さん:2006/12/17(日) 17:52:26
俗説で倭の五王に比定される天皇の時代は揺籃期で、わざわざ南朝まで使いして
まで極東の支配権を手に入れるための称号を要求することが国事の最重要課題か
どうかはなはだ疑問
530日本@名無史さん:2006/12/17(日) 18:17:22
キリスト教国でも狂信的な国以外の理性的な国では歴史に聖書の記述は用いない。
キリストの神性を導く為に聖書は事実を用いない。
日本でも狂信的な神道国家だった北朝鮮のような大日本帝国が記紀を歴史事実と嘘の狂育をした。
理性的な現代日本では記紀ような天皇に神性を持たす為の捻じ曲がった与太話は用いない。
金正日や天皇に神の由来を与える為のデッチアゲを必死になって支持するのは個人崇拝の馬鹿者。
531日本@名無史さん:2006/12/17(日) 19:16:09
記紀は神道書じゃなく歴史書だからな
532日本@名無史さん:2006/12/17(日) 21:37:09
まあどっちとも言えるな。政治=神性という時代だし。

中国史書との整合性あわせが書記の役割というのはあるが、古事記も書記も
国内的には政敵を全て滅ぼして樹立された政権に神性を持たせ、あまたあっ
た八百万の神=地方豪族の頂点に天皇がいます、という事が目的だかんな。
533日本@名無史さん:2006/12/17(日) 21:45:44
つまり記紀は、

擬神化たん*´д`)ハァハァ

と云う事ですね><b
534日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:56:57
二倍暦の奴らって結局何が言いたいわけ?
535日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:03:19
>>534
そんなおまえは?もしかして10年在位説じゃないよなwww
536日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:35:35
>>535
何も言いたいことないのか。じゃあ黙ってろよ。このカルピス野郎。
537日本@名無史さん:2006/12/18(月) 02:08:48
2倍暦など無かったが大正解
538太国:2006/12/18(月) 07:12:36
>>537
その理由が書きこみのな〜い。これじゃぁ 説得力=0 。
539日本@名無史さん:2006/12/18(月) 07:55:55
日本書紀の賢いところは
神代と正史をばっさりと章で分けていること。

日本書紀の不味いところは、
不確かな中国史料の日本関連の記事との整合性のために
一部の年代を水増ししたこと。

古事記の賢いところは、年代に関しては
素直に記載しているところ。

古事記の不味いところは、
神話と正史を明確には区別していないところ。

日本書紀、古事記の両方とも
一長一短があるということ。
540唐松山:2006/12/18(月) 18:30:34
↑一部じゃないよ
541otuorisod:2006/12/18(月) 23:02:42
古事記だと卑弥呼の年代は誰になるのですか?
542太国:2006/12/18(月) 23:18:07
古事記っていうか日本書記っていうか、神功皇后の世の前後ですよ。
543日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:20:02
はぁ?神功が3Cな訳ねぇーだろ馬鹿
544otuorisod:2006/12/18(月) 23:26:39
豊=神功か
545otuorisod:2006/12/18(月) 23:33:09
神功が九州にいて九州中を暴れ回ったことは読み取れる。
546太国:2006/12/18(月) 23:37:40
>>543
そのとおり3Cではないです。4Cですが神功の世の前後ですよ。
547日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:45:33
応神元年が390年としても、神功はその直前。卑弥呼は248年頃には死亡。

太国は馬鹿
548日本@名無史さん:2006/12/19(火) 02:41:01
始皇帝が倭に不老長寿探しの使いをだした位だから
二倍、三倍暦を使っていたがため、寿命を勘違いさせていた可能性は否めない

下手したら春夏秋冬それぞれが一年の四倍暦だったのかもしれない。
549日本@名無史さん:2006/12/19(火) 04:18:02
応神と神功を、比売大神の両脇に並べて宇佐で祭っているのが不思議だな
550太国:2006/12/19(火) 06:22:10
>>547 (年表 >>438 >>437 >>436

神功摂政皇太后 353年  同崩御 375年

應神即位 376年   同崩御 389年

248年は崇神の時代。紀での崇神12年に相当。卑弥呼はもっと後代。
卑弥呼は崇神のころの人物というのは間違い。
551otuorisod:2006/12/19(火) 07:13:29
>>549
それいうなら太宰府にある
竈神社(宝満神社)なんか両脇に応神、神功で
中心が隼人の玉依姫だぜ。
宝満神社は天満宮より数段古いし
552太国:2006/12/19(火) 22:42:45
>>548
四倍ですか? 神武以降はやってないと思います。しかし神武以前では
それはありうることです。

これは勝手な推量に留まりますが、古史古伝にはウガヤフキアヘズ朝70数代の
記録があります。もしかしたら、このころに使用していたかも知れないです。
これは同朝が実在したという仮定での考えです。
553日本@名無史さん:2006/12/20(水) 02:19:25
高天原は現在の奈良県南部から和歌山の高野山一帯。
ここの王権が、西日本一帯に自分の一族のものを派遣した。
アマテラス(実は女ではなく男)は日向(北九州)に派遣、
スサノオは出雲に派遣され、
スサノオの一子が、そのまま高天原に残って王権の本家を継いだ。
やがて、本家に子孫の男子がいなくなって、
日向に派遣された分家のアマテラスの子孫の神武が婿に入ることになり
かなり反対があって戦いにもなったが、最終的にはそれで決着した。
そういうわけで、神武天皇系は王権の分家の出であった。
そんな彼らの子孫は、一族で本家に近い出雲系や物部氏を牽制するために
自らの系統を本家筋から断絶させる必要に迫られた。
そこで、アマテラスを男ではなく女にする必要ができ、
そこから男系が始まった、万世一系が始まったということにしたわけだ。

高天原はここ↓

高天彦神社
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=t&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLD,GGLD:2005-14,GGLD:ja&q=%e9%ab%98%e5%a4%a9%e5%bd%a6%e7%a5%9e%e7%a4%be
554日本@名無史さん:2006/12/20(水) 02:49:11
>>552
太国さんは
古史古伝にいうウガヤフキアエズ朝をも
少なくとも検討に値する資料?だとお考えなのでしょうか?

なんども書かれたことだとしたら申し訳ないのですが
あらためて太国さんの「古史古伝観」みたいなの教えていただければうれしい。
555日本@名無史さん:2006/12/20(水) 04:22:47
>>554
ウガヤフキアエズ朝はトンでも説でしょう?
556太国:2006/12/20(水) 10:09:14
>>554
まぁ竹内文献は稀に役に立つことはありましょうが、当分の間は書いてあること
が破天荒の内容なので、史実の論に介入させることは出来ないですね。
他の文献ならば役に立つ可能性は相当程度ありましょう?

だが恣意的な個所もあることは否定し難い状況にあり、十分取捨選択に注意が
必要だと認容せざるを得ません。

ウガヤ朝に関しては、古史古伝どうしで70数代とかでの記載が見られ、
偽書だと言われてても、トンデモ廃棄はやり過ぎと思いますが。

純水でこそ「水」なのであり、現今の水道局の水というものは塩素、不純物等
が入っています。しかし偽書派もこれを疑わずに水道局のものをまず飲んで
いますよ。「水」に関しては彼らは徹底して疑うことをせず、軽々と水でない
塩素、不純物等を飲用してるんでしょうから、湖史涸伝も「引用」するのは
うまくないはずはありません。「水」に塩素、不純物等を重箱の隅を突くよう
に取り出して偽水だと云われれば、そのとおりですよ。ww
557otuorisod:2006/12/20(水) 10:36:16
>>553
漏れの説と近いな!
558日本@名無史さん:2006/12/20(水) 16:42:33
記紀のアマテラスの記述を見たら
アマテラスって本当に男そのものだな。
そいて、もうひとつ、疑問があるんだけど
アマテラスって、本当に子供が出来たのか?
というか、女の子しか出来なかったのでは?
で、スサノオの子供を養子として貰ったのでは?
559すみませんが、名無しです:2006/12/20(水) 16:52:25
>高天原は現在の奈良県南部から和歌山の高野山一帯。

そんなど田舎の勢力が北九州にどうやって、兵を派遣できる?
たとえ、記紀や古代の卑弥呼の話題をこのスレで論議するにしても
最低限の常識は、持とうではないか。
当時の北九州は鉄剣文化で畿内山門は銅鐸文化で平和な部族だから、
北九州まで兵の派遣ができる訳がない。
出雲と北九州との部族間の関係なら、まだ分からないでもない。
当時の状況から吉備、出雲、北九州の勢力と比して、畿内大和は
文化面は別にして、戦力面では対抗できないはずです。
560日本@名無史さん:2006/12/20(水) 17:22:15
>>559
畿内は人口が多いのと、畿内南部は良質の木材の生産地。
桂木(かつらぎ)や高野槙(こうやまき)などが生い茂っている。
畿内が西日本全域を最初に支配したのは、紀元前のころだと思われる。
鉄が入ろうが入らないだろうが、良質の木材と畿内の農耕生産量は
常に優位だったと考えられる。
また、稲作の始まりも当初よりも千年以上、遡らせることが出来る。
その後、鉄も入ってくるようになるが、それはいわば
戦国時代に南蛮文化が九州方面から先に浸透するようなもの。
でも、中心は常に近畿。
561日本@名無史さん:2006/12/20(水) 17:31:15
日本人はほれ、西から弥生人がきたと
すり込まれてるからね。(=洗脳)
漏れは高天原は野洲川のある
近江だと思ってるんだけどね。
君とは少し違う。
タカムスビノカミが朝鮮から降臨したのは
丹波但馬、
アメノヒボコが朝鮮から降臨したのも
丹波但馬。
562日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:22:32
>>560
鎌倉幕府とか江戸幕府は無視ですか?
金印の発見場所とかは?

でもそもそも東夷伝自体の資料的価値も怪しいから
邪馬台国のあった場所が現在の日本の国土の中にはないのかもしれない
国内において記述された資料も遺跡もない架空の存在
それゆえに妄想好きのネタにされやすい存在
それが卑弥呼と邪馬台国だな
563日本@名無史さん :2006/12/20(水) 21:27:03
畿内説の人は、小泉に洗脳されたネットウヨと同じで、
何を言っても、無駄だね。
カルタゴはローマより経済・文明ははるかに優れていたけど
滅びたように、文化・文明が発達しても、野蛮人に滅亡させら
れた国は山ほどある。
木材と米でそのほかの国を支配できる筈はないと思うが。
564日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:48:07
弥生時代の始まりも
従来よりも遡れるんだってな。

だから、古代史の見方もぜんぜん変わると思う。
565日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:30:33
>>564
それは稲作という意味で弥生時代が遡るのであって
弥生的骨格の住民が増加したというわけではない。
そこ別けて考えないと。
そこら辺科学が苦手な
文系のバカ共らが
思考してるからめちゃくちゃな議論に
陥り易い。
566日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:39:42
>>565
でも、ここ西暦2000年ほどでも、それほど混血していなそうじゃん。
5%以下らしい...
いずれにせよ、縄文時代、弥生時代、古墳時代
という単純な枠組みは不可能になるな、いずれ。
だいたい、こういう分け方をしたのは、近代に入ってからだし。
567日本@名無史さん:2006/12/21(木) 07:23:02
>>562
邪馬台国は日本のどこかにあったもよう。
ただ、所詮、またぎきで、作者の本人が行っていないので
よく分かってない感じ。
568日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:46:05
174 :日本@名無史さん :2006/12/21(木) 13:16:06
>>172
物部氏というのは、天皇家と同じで、イザナギの末裔を名乗っていて、
どちらも、元々は高木神を祭っていた。

そして、物部氏は日本全国に分家が多く居て
そういう意味では、神武天皇後胤の天皇家や蘇我氏や
中臣氏から分派した新興氏族の藤原氏を遥かにしのぐ勢力だった。

ひとつ違えば、神武天皇の後胤である天皇家を
屈服させる力があった。どちらも、同族だしね。

だからこそ、天皇家は自分の先祖にアマテラスという女神を挿入することによって
男系では物部氏と家系を断絶させる必要があった?


175 :174の続き :2006/12/21(木) 13:21:21
本来、高木神が皇祖だったはずの天皇家が
アマテラスという新興の女神を作り出すことによって
世間では、そちらのほうが皇祖ということにした。
そうすることによって、物部氏を皇祖の子孫から外した。
ただし、宮中祭祀では未だに高木神を皇祖と扱っている。

また、高木神のほうも昔と同じままではなく、
様々な神様を合体させることによって
高皇産霊神という意味合いが少し違う神様を作り出すことによって
元の原型を隠す必要があった。
569日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:33:35
古代の神話の時代の解明

アマテラスは男性で高天原(畿内南部の高天台)で家督を継いでいたが
跡取りの子供が居なくて、弟のスサノオ(須佐で分家していた)に家督を奪われるのを恐れていた。
で、兄弟は争ったみたいだが、最終的には仲直りして
その弟の子供の一人を養子に貰ってたみたい。

スサノオの須佐は現在の宇佐で、神武天皇もそこの出身でその子孫。
西暦1〜2世紀頃、神武はその須佐(宇佐)分家から
畿内(高天原)本家に婿養子に入った。
また、須佐(宇佐)は山戸の州都であり、その山戸は
後に魏志では邪馬台国と言われている。

西暦3世紀の邪馬台国は、高天原(畿内南部の高天台)本家の
宇佐分家の王朝であり、卑弥呼はそこの巫女だった。
宇佐(須佐)は、男王が政治をし、巫女が祭祀をする、政教分離体制を整っていた。
魏志に出てくる邪馬台国の時代は、スサノオや神武より後の時代。
570日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:28:40
考霊36年 富士山噴火=>崇神5年 大凶作

誰か、年輪年代法の詳しいサイト、知りませんか?
以上のことを調べたいのです。
571韋駄天はふと考えた:2006/12/23(土) 00:53:22
あなた達は研究の仕方そのものが間違っています。

ここにヒントを差し上げますので、自分の研究の仕方が
なぜ間違っているのかを、じっくり考えてください。

・古事記や日本書紀の文献を頼りに研究するのは、未来の考古学者が朝日新聞や聖教新聞の
記事内容から当時の歴史を研究するのと同じほど愚策。

・1500年後の考古学者が遺跡から発掘した朝日新聞全書(朝日新聞社が創刊から廃刊まで
発行したすべての新聞記事の内容)と聖教新聞全書(聖教新聞社が創刊から廃刊まで発行した
すべての新聞記事の内容)を頼りに1500年前の日本がどういう国であったかを研究したが、
疑問点ばかりが噴出して、研究者の間からも様々な説に分かれて論争が続くことになった。

・それはそうでしょう。朝日新聞や聖教新聞のように、支那人、在日朝鮮人、半島朝鮮人、
同和部落民、創価学会員らの都合の悪いニュースは全く記事にせずに、これらの都合の良い
ニュースばかりを記事にするような新聞記事から、当時の歴史が正確に割り出せるはずはないのですから。

・現在においても支那人や在日朝鮮人はウソつきで真実を伏せて捏造ばかりするのに、昔の支那人や渡来朝鮮人が
正直者であるという根拠はどこにもない。
したがって昔の支那人や渡来朝鮮人が書き残した文献の信頼性はないも同然。

・歴史の文献というのは敗者に都合の悪い内容となり、勝者に都合の良い文献として残されるのが大半です。
例:敗者の先住民族インディアンに都合が悪く、勝者の白人に都合の良い「アメリカ新大陸発見」の教科書の内容
他にも「オーストラリア大陸発見」「喜望峰発見」「マゼラン海峡発見」など、いずれも日本の教科書にまで
白人中心主観のままで記載されることとなる。

・ただし魏国と邪馬台国のように、お互いの国境が接することなく戦争も対立関係にない国家間の文献では、
都合の良いウソや捏造をする必然性はなく、真実を書き残している信頼性は高い。

・考古学を研究するには、当時の時代背景を知り、対立関係や利害関係まで知り尽くしてから、
文献を参考にしないと、「朝日新聞や聖教新聞の文献記事だけを研究して、西暦1930年〜2010年間の
日本の歴史を学びました」というバカな考古学者が1500年後にも必ず現れます。
572日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:05:24
産経や讀賣や日経は跡形なく消えてなくなるのだね



いや、例え話だとは分かってっけどW
一応突っ込ませて
573日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:08:52
いい突っ込みだったね。パチパチ
574日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:18:22
>>382
名目上の「王位」かどうかはともかく、生前秀吉は諸大名に秀頼への臣従を誓わせ、
五大老・五奉行を初めとしてみな誓紙を出している。
五大老・五奉行制度もあり、軍権の所有者(内府や中将など)が みな
家来なので実質的な「王位」と言えるだろう。
もちろん上杉征伐も秀頼の名代として行動していて、
関ヶ原は秀頼の名代どうしの戦いになっている。

>>383
自分が死ぬときに子供がまだ幼かったら、自分をささえてきた人たち(片腕)
に頼むのは当然。
575日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:13:38
古代を語るスレで、朝日新聞がどうとか聖教新聞がどうとか、
そういう比喩をする感覚にはあまり馴染めない。
576日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:19:10
>>571氏のようなカキコミは
ほぼ必ず、複数のスレにコピペしている。
577日本@名無史さん:2006/12/23(土) 08:28:13
韋駄天は馬鹿。無駄な改行の長文といい、例えの無駄さといい、アカデミー板に
いる必要性はない。
578日本@名無史さん:2006/12/23(土) 10:22:47
古神道その他いろいろ2 他山の石  より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。

822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
                 
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。

824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
579唐松山:2006/12/23(土) 22:02:25
考霊 時代の富士山噴火は、 溶岩噴出形と思われます。
崇神5、6年年の凶作は、
5年秋の収穫 半ば枯れる
6年春 寒さの為、田植えが出来ない。麦の収穫が、非常に少ない。
その為 6月には、民が耕作の放棄 流民となって都会(残念ながら畿内では在りません)九州や海外へ移動
サホコの国崩壊  九州ざわつきはじめる。

富士山です。
http://www.fujigoko.tv/mtfuji/vol1/index.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~aaihara/eruption.htm
580日本@名無史さん:2006/12/24(日) 02:53:20
>>571
朝鮮人といっても、極々一部のエリート支配者層の王族(現在は居ない)と
99%の一般庶民は民度も民族も何もかも違う。一緒にする馬鹿。

あと、国家事業の日本書紀と、私運用の新聞を一緒にする馬鹿。
581日本@名無史さん:2006/12/24(日) 08:46:59
>>580
おまえ、あほか?
糞コピペに何をマジレスしているんだよ〜
582日本@名無史さん:2006/12/25(月) 10:47:19
水野正好が、邪馬台国は畿内で一大率は東北と九州に2つ
有ったとかいう何の根拠も無い幼稚な説を唱え
「反論があるならいつでもかかって来い」とか言っている。
583日本@名無史さん:2006/12/25(月) 15:43:50
水野は気違いだから相手にするなプッw
584日本@名無史さん:2006/12/26(火) 17:42:22
邪馬台国は大和朝廷になったのではない。
邪馬台国=大和朝廷だったのだ。
それだけだ。

なぜ、この問題を解決できなかったかというと
記紀の年代修正が出来なかったからだ。
これが出来ないと、古代史の実情の探索なんて、ほとんど不可能。
考古学だけじゃ、分かるはずがないのだ。
585太国:2006/12/26(火) 18:01:20
邪馬台国≠大和朝廷
586唐松山:2006/12/26(火) 19:00:43
邪馬台国≠大和朝廷

もし邪馬台国=大和朝廷 だと
このスレ成立しないでしょ

だから 西暦186年崇神元年
 西暦239年=景行元年
こんなこと認められないんだよ
587日本@名無史さん:2006/12/26(火) 19:35:03
崇神元年は230年ごろ。
もう、この説を否定することは不可能。
588太国:2006/12/26(火) 20:06:47
>>587
ほぼ近いです。それがしは崇神即位元年を 237年 と観ています。
589日本@名無史さん:2006/12/26(火) 20:09:32
日本が総力をあげてすべきことは
半島へ遺した百済・伽(日)羅人の松商
つまり「ヤマト失われた二部族」を探し出し日本列島へ連れ戻すこと
それ以外の半島人は新羅・中国系だから反日が染み込んでるだろう
590唐松山:2006/12/26(火) 23:10:02
西暦193年 崇神6年
伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)十年(193年)『六月倭人が大飢饉にみまわれ、食糧を求めて千余人も来た』

西暦 239年 景行元年
此れほど 合う所は、ほかに無いでしょう。
崇神元年 230年の 読み方をどうぞ
591日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:02:41
>>589
リアルで半島では現在も旧百済地域と新羅地域の反目があるとこないだ知った
592日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:46:17
漏れも崇神は230年頃だと考えてる。
四道将軍が畿内から全国各地に派遣されたのはそれから直ぐ後
しかし、使節が伝え聞いた邪馬台国は九州にあったのか
畿内にあったのかはなんとも言えない。

これが結論。

593日本@名無史さん:2006/12/27(水) 11:03:32
紀元の計算ってややこしい。
紀元前をまたがるところなんて...

誰か、小数点で計算していたけど
あれって間違いやすいよ。
594日本@名無史さん:2006/12/27(水) 11:24:38
>>584
邪馬台国が大和朝廷になったとすると、歴史学で説明不可能。
考古学がどうこういう次元ではないんだな。
とりあえず邪馬台国と大和は全くの別物どころか、かなり距離の離れた別の国だ
595日本@名無史さん:2006/12/27(水) 11:58:36
>>594
不可能ではない。
普通に、邪馬台国(大和国)の首都は
マキムクにあったんだけど、
九州の宇土で反乱が起こったから
派遣軍や陣を九州に設けていたんだろう?

もうじき、邪馬台国=大和王権は否定できなくなる。

自分も最初は信じられなかったけど、そういう気が強くなってきた。
ちなみに、最初の頃の書き込みでは
邪馬台国と大和王権は別々だったと書き込んでいたよ。
596太国:2006/12/27(水) 14:01:28
女王国は九州である。畿内にはな〜い。もし畿内ならば、倭人伝に天皇国など
の名で女王以外に天皇ありとの記述が抜けることなく記述がされる。

それが無い。女王国と大和朝廷とは水と油のごとく別物であるからだ。
597日本@名無史さん:2006/12/27(水) 14:34:37
女王国の一派が九州から近畿に移り、大和朝廷を創った。
神武天皇の東征神話はその史実を表している。
598太国:2006/12/27(水) 14:45:09
創ったのはウガヤのほうだよ。卑弥呼ではないよ。
599日本@名無史さん:2006/12/27(水) 15:03:34
>>595たしかに漏れも九州の宇佐あたりが邪馬台国の首都だとみてたが
畿内にあったとみてもおかしくはない。
なぜなら倭人伝の使節は伝聞でしか聞いておらず不確かな記述になってるから
しかし伊都国などの九州での描写は確かなものだろう。

それにしても宇土で反乱というのがよくわからん。
600599:2006/12/27(水) 15:08:07
>>596
確かにな、そこが漏れも抜けてたよ。
女王は畿内にはいないもんな。
まさか伝聞とはいえ王が女か男かまでは
間違えないだろうしな
601599:2006/12/27(水) 15:09:37
>>597
もうそういう底辺レベルの議論はやめよう。
真実から遠くなるから無駄な時間を費やすのは止めてくれ。
602599:2006/12/27(水) 15:30:05
そして高天原からニニギが降臨した九州のある土地は
海人という天孫とは違う種族がいてそこで海人の
お嫁さんをもらって2世代後に神武が生まれ
1/4天孫、3/4海人の神武が畿内に東征かあるいは東遷する。
そしてその海人の母系は太宰府の宝満神社に祀られている。
宝満の地名は鹿児島の奄美や沖縄(ホーミ)にもある。
それはもしかすると沖縄でも発見される
福岡県の春日須玖遺跡の装飾土器と関係あるのかもしれない。

603韋駄天はふと考えた:2006/12/27(水) 22:16:47
間違い探しシリーズ 邪馬台国編1

考古学者や一般考古学ファンの間では、邪馬台国は九州説と畿内説に分かれて
論争をしているが、この論争の元となるのが魏志倭人伝の解釈の相違からくる。

ここで私から考古学者や一般考古学ファンに対して、魏志倭人伝の解釈について
大きな間違いがあることを指摘します。

まず第一の間違いは邪馬台国の方向についてで、魏志倭人伝では南となっているのに、
それを無理やり東と解釈して畿内説に結び付けようとしています。
ここで古代の人に代わって私から一言いわせてもらいます。

「おまえら古代人の方向能力をバカにするな!」

古代人は地図も方位磁石もない時代に、迷うことなく目的地に着けれる方向探知能力を持っています。
そもそも遠い外国へ大事な外交仕事に旅立つ使節団の人々に、方向音痴になって目的地にたどり
着けないような人を選任させるでしょうか?
国の命運を左右する大事な使節団なのだから、地図も方位磁石もなくても方向音痴にならずに、
無事に行って戻ってこれる人達を選任するのは当然です。

そんな彼らが南と東の方向を間違えて、後の書物に書き残すなどという大きなミスはしないでしょう。
現在の公文書もそうです。東京から北京へのルートを書き残した公文書があれば、そこに北京の方角は
西でなく北と書き残す大きなミスはしないはずです。
ですから魏志倭人伝においても南と書かれていれば南であり、東と書かれていないのだから東ではないのです。
畿内説に都合よくなるような解釈はやめましょう。
604韋駄天はふと考えた:2006/12/27(水) 22:20:53
間違い探しシリーズ 邪馬台国編2

しかしこの方向についてですが、古代において方向というのは厳格に表現されるものではなく、かなり大雑把に
表現される事が多いのは事実です。
これは現在人においても、かなりいい加減な方向を表現することでもわかります。

例えば北海道札幌市に住んでいる人に東京の方角について尋ねると、ほとんどの人が南の方角と答えます。
ではハワイの方角についても尋ねると、ほとんどの人が南の方角と答えます。
また大阪の方角についても尋ねると、ほとんどの人が南の方角と答えます。
さらに新潟の方角についても尋ねると、ほとんどの人が南の方角と答えます。
でもハワイ、東京、大阪、新潟は、それぞれが近い場所にあるのではなく大きく離れています。
それでも北海道の人にとって自分の住んでいる場所から南の方角にある地名はすべて南と答えるのです。

また福岡に住んでいる人に鹿児島の方角について尋ねると、ほとんどの人が南の方角と答えます。
では沖縄の方角についても尋ねると、ほとんどの人が南の方角と答えます。
また台湾の方角についても尋ねると、ほとんどの人が南の方角と答えます。
さらにシンガポールの方角についても尋ねると、ほとんどの人が南の方角と答えます。
でも鹿児島、沖縄、台湾、シンガポールは、それぞれが近い場所にあるのではなく大きく離れています。
それでも福岡の人にとって自分の住んでいる場所から南の方角にある地名はすべて南と答えるのです。

また大阪に住んでいる人に北京の方角について尋ねると、ほとんどの人が北の方角と答えます。
ではソウルの方角についても尋ねると、ほとんどの人が北の方角と答えます。
またウラジオストックの方角についても尋ねると、ほとんどの人が北の方角と答えます。
さらに札幌の方角についても尋ねると、ほとんどの人が北の方角と答えます。
でも北京、ソウル、ウラジオストック、札幌は、それぞれが近い場所にあるのではなく大きく離れています。
それでも福岡の人にとって自分の住んでいる場所から北の方角にある地名はすべて北と答えるのです。
605日本@名無史さん:2006/12/27(水) 22:40:36

最近、邪馬台国論争に興味を持ったヤシに違いない。

オラも、初めの頃はそう思って硬く信じて疑わなかったよ。

でも、何年も時間を掛けて研究していると、

おのずと南は東の誤りである事に気づくんだよ。

まともな人間だったら。だけどね。
606韋駄天はふと考えた:2006/12/27(水) 22:42:12
間違い探しシリーズ 邪馬台国編3

こういう傾向は西についても東についてもまったく同じです。
つまりは誰でも自分の住んでいる場所を基準にして、そこから南に位置してあれば、正しくは西南の方向に
ある地名でも南と答え、正しくは北西の方向にある地名でも西と答え、正しくは北東の方向にある地名でも
北と答えます。
こういった方向についての感覚は、古代人も現代人も同じはずです。

私が何が言いたいかは、魏志倭人伝に南と書かれていれば、南の方向だけではなく南東や南西の方向も
すべて南と書かれるのです。
この傾向を考古学者や一般考古学ファンが覚えておけば、古代の文書に記載された方向を、解読するのに
非常に役に立つでしょう。

次に魏志倭人伝に書かれた距離についてですが、古代の人はどうやって目的地までの距離を測ったのでしょうか?
魏志倭人伝には目的地までの距離を測る方法として、日数(移動時間)と100里とか500里とかの里歩で表しています。

現在において目的地までの距離を測る手段として、日本ではキロメートルを使っていますが、これは地図や車の走行距離
などに表示されるのを、読み取った場合にしか使えません。個人個人が機械を使わずに目的地までの距離を正確に測る
ことはできないのです。

そこで現代人の私達は、目的地までの距離が何キロメートルわからない場合は、目的地までの日数や時間を表現することで、
目的地までの距離を推測できるような手段を用います。
例えば大阪から東京までの距離を表現する場合には、知っている人なら約500キロメートル弱と答えますが、距離を知らない
人は、大阪から東京までは新幹線で約2時間50分くらいで、飛行機なら約1時間30分くらいと答えます。
また自動車なら高速道路を使って6時間から7時間くらいと答えるはずです。
(ここではあくまでも通常の一般人の感覚に立って表現するので、正確な時間の厳密さを表記しない)

このように現在においても、目的地までの移動距離を表現する場合には、実際の距離で表現したり主要時間で表現したりします。
これは古代人の目的地までの旅行についてもまったく同じ表現が使われたはずです。
607韋駄天はふと考えた:2006/12/27(水) 23:19:26
間違い探しシリーズ 邪馬台国編4

では、現在人のみなさんは目的地までの移動距離を表現する場合には、どの手段を一番多く用いるでしょうか?

大阪から東京までの距離を表現する場合には次の方法があります。
1,直線距離にして約500キロメートル弱。
2,新幹線で約2時間50分くらい。
3,飛行機で約1時間30分くらい。
4,自動車で高速道路を走って6時間から7時間くらい。
6,自動車で一般道路を走って13時間から18時間くらい。
7,各駅停車の普通列車を乗り換えながら16時間くらい。
8,船で1日がかり。
9,自転車で6日くらい。
10,馬に乗って4日くらい。
11,歩いて15日くらい。
12,ジェット戦闘機で25分くらい。
13,ロケットで3〜4分くらい。

このうち一番多く使われる表現方法が、1〜4のどれかでしょう。それはなぜでしょうか?
それは通常の移動手段において、すでに使われなくなった移動手段、めったに使われない移動手段、
緊急の場合の特殊な移動手段、費用がかかりすぎる移動手段などでは、表現されにくいのです。
現代人の私達は目的地までの移動距離を表現する場合には、距離で表現しない場合には、実際の移動に費用がかからず、
一番効率が良く手っ取り早くて誰でも使える移動手段で表現するのです。

大阪から東京まで自動車で一般道路を走って13時間から18時間くらいと、誰も表現はしないでしょう。
こうした傾向は現代人だけでなく古代人も同じだったはずです。

古代人によって邪馬台国までの道程を表現しようと思えば、実際の距離、直線距離、歩いた日数、走って移動した日数、
船で移動した日数、馬を使って移動した日数、緊急時の最大速度で移動した場合の日数、各地をのんびり巡回しながら
移動した日数、のどれかで表現するはずですが、魏志倭人伝には日数(移動時間)と100里とか500里とかの里歩のふたつの
方法でしか表していません。
608日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:50:56
はい、その通りだと思うんですが、
ならここで誰かが言っていた、道中に歓迎式典、見せびらかしするから日数が膨らんで一日4kmしか進まないなんてことは無いですよね?
609韋駄天はふと考えた:2006/12/27(水) 23:54:24
間違い探しシリーズ 邪馬台国編5

魏志倭人伝ではなぜこのふたつの方法でしか表さなかったのでしょうか?

その答えは、歩きながら距離を測れる場所においては100里とか500里とかの里歩で表現をして、距離を測れない場所に
おいては日数(移動時間)で表現したのです。
つまり古代人は距離を測る手段を知っていたのです。

地図も羅針盤も持たずに機械も使わない古代人が、目的地までの方向を正確に知る手段を持ち、目的地までの距離を測る
手段を持っていたのです。どうやって?みなさんは疑問に思うでしょう。
私も疑問に思ってじっくりと考えたのです。

そしてひとつの答えが見つかったのです。
古代人は次のような手段を用いて目的地までの方向を知り、目的地までの距離まで測っていたのです。

目的地までの方向を知るには明るい昼間は太陽を地形を基準にして使い、夜は月や星を基準にして使っていたのは、みなさんも
ご存知ですので省略します。
みなさんも知らない疑問は、目的地までの距離を測る手段はどうしたかです。

100里とか500里とかの里歩で表現をできる古代人は、1里、10里、100里、1000里の距離がどれくらいかを知っていたのです。
1里の距離を知っていれば10里の距離も知ることができます。10里の距離を知っていれば100里、1000里の距離も知ることができます。
そこでまず、1里の距離をどのように知ったかです。目的地までの距離を表現できる古代人は1里の距離の基準を知っていて、その
距離を頭の中にイメージして記憶しているのです。どうやって?
610日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:03:04
妄想の垂れ流し、止めてくんない、ウザイから、
611韋駄天はふと考えた:2006/12/28(木) 00:18:58
間違い探しシリーズ 邪馬台国編6

この距離が1里の基準だと誰かに教われば、その距離の感覚を頭の中でイメージして記憶するのです。
この方法は現代人でも登山家などの一部の人が同じことをしています。
例えば現代人が富士山の標高が3778mだと誰かに教われば、3778mの高さの富士山の風景を頭の中にイメージして記憶します。
次に箱根山付近の山の標高が1500mくらいだと誰かに教われば、1500mの高さの山の風景を頭の中にイメージして記憶します。

ここでその人の頭の中には、ふたつの山の形だけでなく風景を記憶することで、3778mと1500mの高さを基準としてイメージ
できる能力が備わりました。
その人が標高のわからない山を見て、基準としている3778mと1500mの高さをイメージしている脳の中で比較するだけで、この
山は3778mよりは低いが1500mよりは高い。3778mと1500mの中間ぐらいだから、だいたい標高が2000m〜2100mぐらいだろう。
と、地図も測定器具も使わずに、かなり正確に標高の高さをいい当てることができます。

もっとたくさんの高さの山の標高を記憶して、山の高さを風景としてイメージで比較できるようになれば、その人はどんな知らない
山の標高でもほぼ正確にいい当てることができます。
古代人もこの手法を使って知らない土地での距離を測ったのです。

垂直の高さを水平の長さに置き換えるだけです。
誰かから、ここからここまでの距離が1里の長さだと教わります。教わった人はそこの場所の風景とそこから見える周囲の景色や
山の形や島の形を記憶します。次に別の場所でもここからここまでの距離が1里の長さだと教わります。
そこでもまた、そこの場所の風景とそこから見える周囲の景色や山の形や島の形を記憶します。
こうしてこの古代人の頭の中には、ふたつの風景の中で1里の長さをイメージできる能力を備わりました。

今度は全く知らない場所に行っても、どこからどこまでが1里なのかを周囲の風景や山の形や島の形を、自分の頭の中に記憶させた
基準の1里の周囲の風景や山の形や島の形と比較イメージすることで、ここからここまでが1里だということをいい当てることが
できるようになったのです。
612神奈川県民:2006/12/28(木) 00:30:36
邪馬台国=邪馬大国=ヤマト国でしょう。
613日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:49:00
>>612
まずは全過去ログ読んでからな
614韋駄天はふと考えた:2006/12/28(木) 00:51:09
間違い探しシリーズ 邪馬台国編7

もしこの人が1里の基準風景をたくさん記憶していて、10里の基準風景もたくさん記憶していれば、全く知らない土地に行っても、
周囲の風景をながめて「さっきまでいた位置から見たあの山の大きさがこれくらいだから、ここまで歩いてきた時に、あの山を
見るとこれくらいの大きさになったから、ちょうどこのあたりが、さっきまでいた場所から100里目の距離になる」とほぼ正確に
いい当てれるようになります。これは「距離勘」という能力になります。

目的地までの方向を見失ない方向探知能力だけでなく、こうした距離を距離勘だけを使って正確に測ることのできる古代人ばかりが、外交使節団
として選ばれて、倭国の各地を旅して回り、国(集落)から国(集落)への距離を、ほぼ正確にいい当てて里数を記憶したり
記録していったのです。

この「距離勘」の能力は生まれ持った才能から達人能力者へと進化させる人もいれば、努力と経験を積んで達人能力者へと進化
させる人もいます。現在においてもこの「距離勘」能力は様々な分野で必要とされています。

しかし、この距離勘能力を持つ古代の達人を持ってしても、ほぼ正確に距離を測れない場所が存在します。
それはどういった場所でしょうか?
1里の基準風景となった場所は、だいたいが集落はずれの場所だったり、田園風景の広がる平坦な場所だったり、道路は整備されて
いて真っ直ぐな道などで、1里の基準が定められています。
ですからこれらと良く似た風景の場所では、脳の中での比較イメージも難しくなく、簡単に距離をいい当てることができます。

しかし、全く見知らぬ土地を旅するのにこんな場所ばかりではありません。
真っ直ぐな道などほとんどなく藪の中を掻き分けながら、獣道のような狭くて曲がりくねった道を探しながら歩かないといけない
場所や、周囲の風景が全く見えない樹木がうっそうと茂った森の中を歩く場合、平坦な場所などなく急な傾斜の山道や谷や川底を
登り降りしながら歩く場所など。
615日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:01:37
そんな長文だれも読まないから
616韋駄天はふと考えた:2006/12/28(木) 01:13:51
間違い探しシリーズ 邪馬台国編8

こうした場所での歩いた距離をほぼ正確にいい当てれるのは、優れた距離勘能力を持つ古代の達人でも困難だったに違いないのです。
したがってこうした所での距離を里歩で表現しても、その距離は実際の直線距離に比較するとずいぶんと長い距離として表現されて
しまいます。

さぁここでやっと原則の登場です。
※原則とは偏りの法則のことで、すべての物質や自然現象は力の弱い方向へと偏る性質がある。
※またすべての物質や自然現象は、原則とは逆に力の強い方向へ偏る場合もあり、この場合は反原則と呼ぶ。
※物質や自然現象が反原則になる場合は、爆発や反発と呼ばれる現象の時に起こり、力の弱い方向へと急激に偏りすぎることで、
原則の偏る力と原則の偏る力との間に衝突しあう強い力が発生して、それが今度は逆方向へ押し出そうとする急激な力となって、
反原則の力が生まれる。(詳しくは原則スレや理法書スレ参照)

人間というのは物質の中に含まれているので、人間の歩く動きや普段の動作にも当然原則の力が作用します。

みなさんもこんな経験はありませんか?
楽な仕事をしている時や、簡単な作業をしている時ほど、時間の経過が早いなと感じた時。
きつい仕事をしている時や、難しい作業をしている時ほど、時間がなかなか経たずに時計ばかりを気にする場合。
そうです。時間というのは感覚においても実際においても伸び縮みするものです。

楽な時や簡単な時ほど、小さい労力を使うだけでよいので力が弱い状態となり、偏りの力が発生して周囲から自分の方へと
力が偏っていきます。つまり自分と周囲とでは時間の流れが違って、自分の時間の流れる速度が速くなり、周囲の時間の流れる
速度は遅くなった状態となります。
またきつい時や難しい時ほど、大きな労力を必要とするので力が強いい状態となり、偏りの力が発生して自分から周囲の方へと
力が偏っていきます。つまり自分と周囲とでは時間の流れが違って、自分の時間の流れる速度が遅くなり、周囲の時間の流れる
速度は速くなった状態となります。
617韋駄天はふと考えた:2006/12/28(木) 01:29:59
間違い探しシリーズ 邪馬台国編9

古代人が、集落はずれの場所、田園風景の広がる平坦な場所、道路は整備されて いて真っ直ぐな道を歩く場合は、歩くのに
楽な時や簡単な時なので、スイスイ歩いてしまい、実際に歩いた距離と比較して時間の流れを速く感じます。

逆に、真っ直ぐな道などほとんどなく藪の中を掻き分けながら、獣道のような狭くて曲がりくねった道を探しながら歩かないと
いけない場所、周囲の風景が全く見えない樹木がうっそうと茂った森の中を歩く場合、平坦な場所などなく急な傾斜の山道や
谷や川底を 登り降りしながら歩く場所では、歩くのにきつい時や難しい時なので、ずいぶんと歩いた感覚なのに、実際に歩いた
距離と比較して時間の流れを遅く感じます。

つまりは、楽で簡単な道を歩いた場合には、実際の距離よりも短く記憶されて記録されて、きつくて苦労する道を歩いた場合には
実際の距離よりも長く記憶されて記録されてしまうのです。
ですから、魏志倭人伝に記録された、この国からあの国までの距離が何理というのは、すべてを同じ距離感覚だと判断するのは
間違いだということです。

ある国とある国との間の地形の険しさや道が整備されていない場合では、きつくて困難な道ばかりを歩かないといけない場合なので、
魏志倭人伝にたとえ1000里の距離と書かれていても、実際の国と国との直線距離は短くなって、500里しかなかった場合やたった
300里の場合もあるのです。
これとは逆に、ある国とある国との間の地形が平坦だったりなだらかで道が整備されている場合では、楽して簡単に歩ける場合なので、
魏志倭人伝にたとえ500里と書かれていても、実際の国と国との直線距離は長くなって、700里ある場合や1000里もある場合もあるのです。

当時の倭国内の状況を地形考えると、整備された道は少なく、日本列島独特の地形の険しさで、実際の国と国との直線距離や移動日数は
魏志倭人伝に書かれている距離や移動日数よりも、かなり短いと判断した方がいいでしょう。

ここでまとめに入ります。
魏志倭人伝に書かれた国と国との距離をそのままうのみにしない。
国と国との距離や日数は、地形や道の政治状況や移動手段によって大きく変わるということ。
まだまだ書きたいことがありますが、今日はここまで。
618日本@名無史さん:2006/12/28(木) 01:59:01
そんな長文書いても誰も読まないよw
619日本@名無史さん:2006/12/28(木) 02:05:46
>>618
そだよ。
ふと考えるんだったら、5日おきに、
毎回3行程度でいいよ。
620神奈川県民:2006/12/28(木) 02:07:49
邪馬台国=ヤマトの原型です!はい お意見ある人どんどんレスしてね
621神奈川県民:2006/12/28(木) 02:20:04
狗奴国は畿内より南でどこかは解らない。
九州〜近畿までほぼ統一されたました。それは、出雲の国譲りでです。
最終的には豊姫がまとめたんでしょう。
そして大和朝廷の初代王、ミマキイリヒコから徐々に天下統一されていったと思ってます。
622日本@名無史さん:2006/12/28(木) 05:29:41
ジャワ島説はどうなったの?
623日本@名無史さん:2006/12/28(木) 14:18:55
>>621
記紀には、崇神天皇の時代、遠いところで蛮族が
謀反を起こしたことが記載されている。

畿内王権から見たら、狗奴(くと)国は
熊本の宇土半島にあり、遠い地域の蛮族だったんだろう?

624唐松山:2006/12/28(木) 20:48:15
遠い所の謀反より
目の前にある 国譲り は どうすんの?
625日本@名無史さん:2006/12/28(木) 21:29:28
>>624
つーか、あちこちで謀反が起こってたんだろう?
飢饉や疫病の影響は無視できんかったと。
626日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:13:03
崇神天皇の初期の疫病発生は外国からもちこまれたものとみられる。
つまり、それまであまり、大和は外国と接触がなかったが故に病気へのt履行力が
なく、大流行となったものである。
つまり、崇神天皇の時代から大和は外国と交流がはじまったということである。
オオカヤのツヌガアラシト(崇神の末期であるが)の話などはそれをあらわしている。
彼のほかにも結構たくさんの人がきているようであり、其の中の誰かが持ち込んだものであろう。
627日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:00:26

妄想ですなw
628日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:03:01
崇神はミマキイリヒコで任那の初代統治者でしょ
そう妄想とまではいえまい。
629神奈川県民:2006/12/28(木) 23:05:45
>>626
いや↑妄想でなく正解でしょう。
実は自分もそう思ってた。
研究結果からも証拠がでてるみたいだし
630太国:2006/12/28(木) 23:07:32
>>628 >>629
妄想。
631神奈川県民:2006/12/28(木) 23:12:35
>>630
あはは 外から来ないでどこからくる?(厄病)
きみは自然発生したとでもいうのかね?
632日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:12:56
任那の統治はだれからですか?
太国さん
633太国:2006/12/28(木) 23:18:59
>>632 >>628 >>629
失礼した。読み間違いでした。撤回です。
が、しかしちょっと賛成しにくいかな?
634日本@名無史さん:2006/12/29(金) 02:27:16
疫病がどんなんだったかはしらんが
人より渡鳥なんかを媒介して移ることの方が多いよ
635日本@名無史さん:2006/12/29(金) 09:35:24
崇神天皇の時代は、ちょうど寒冷期なんだよ。
西暦3世紀はそう。年輪年代測定方法からいえばそう。
その延長線上からみてそう。
636日本@名無史さん:2006/12/29(金) 10:17:07
>>628 :日本@名無史さん :2006/12/28(木) 23:03:01
>崇神はミマキイリヒコで任那の初代統治者でしょ
>そう妄想とまではいえまい。

記紀には、崇神が朝貢を任那から迫ったから
任那の初代統治者だったかもしれないが
ミマキイリヒコは、マキムクに入ったという意味からだろう。
637日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:00:08
じゃ、イクメイリヒコは、イコマ(生駒)に入ったのか?
638日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:03:49
一応、崇神天皇の父親、祖父の
開化天皇、孝元天皇は居ただろうってのが
現実味を帯びて来ているんだけど...

とにかく、卑弥呼の話とかも、記紀の天皇の年代が
ある程度、正確にならないと無理な話。
639日本@名無史さん:2006/12/29(金) 18:43:56
卑弥呼の在位は183年から248年ごろとみられていますから、数人の天皇が経過しているでしょうね。
640卑弥呼:2006/12/29(金) 18:50:38
あたしのからだのうえを通り過ぎていった天皇たち・・・・
641日本@名無史さん:2006/12/29(金) 18:54:13
>>640
ワロタ
642唐松山:2006/12/29(金) 23:07:32
崇神=ミマキイリヒコ の秘密

御巻=三輪 神社の巫女の子供(当然テテナシゴ)ということに為っています
当時から 父親の名前は判りません お宮の宮司が喋らなかった。
その他の子供の名前から推測すると ミマナ...では

643唐松山:2006/12/29(金) 23:45:55
ごめん

母親のことです 崇神の母親
644日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:22:08
垂仁天皇は3世紀後半が活躍の舞台だった人物
その理由


3世紀中葉〜後葉になると、畿内に出現した前方後円墳に
特殊器台形埴輪およびそれとセットをなす特殊壺形埴輪が新たに出現している。
この特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪の分布の中心は吉備から畿内へと移動しており、
その出現に際しては畿内側の役割が大きかったものと推察されている。
なお、前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられており、
前方後円墳に特殊器台形土器・特殊壺形土器が採用されていることは、
吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている。

日本書紀垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)(出雲国出身)が
日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、
これを埴輪の起源とする。
645唐松山:2006/12/30(土) 09:41:40
崇神 西暦 189年から214年
垂仁 西暦 215年から239年
景行 西暦 239年から267年
暦の読み方は、増し (干支をいくつか、先の物を使う)で読む

埴輪 賛成 全くそのとうり
646日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:47:23
崇神、垂仁、景行、この重要人物の在位歴さえ明確になればだいたいの
ことはわかる。真実に近づいてきた。
詐欺師、ペテ公のアンの説は完全崩壊!w
647神奈川県民:2006/12/30(土) 16:04:35
>>645 に反論!
古事記を信じ、中国史の倭の5王を参考に、
十五代応神、甲午(394年)没
十六代仁徳、丁卯(427年)没
十七代履中、壬申(432年)没
十八代反正、丁丑(437年)没
十九代允恭、甲午(454年)没
二十一代雄略、己巳(489年)没
二十六代継体、丁未(527年)没
とし、十代祟神、戊寅、没年を考える。(258?318?378?)
もし、258だとしたら応神から136年前になるので少し長いし不自然。
私の計算だと5代前で38〜62年間とし318が妥当では?
648日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:22:48
>>647
おまえの、その手法が適当なんだよ。

いちいち、一人の天皇ごとに、在位期間、生存期間
それぞれの天皇が、何歳で即位したか、
また、父親が何歳の時に産まれた子供なのか?
細かく算出していかねばならない。

非常に面倒くさい作業だ。サガミハラハラさんみたいに
本でも出してやらないかぎり、やる気が起こらない作業だ。
でも、これをやらないと永遠にわからない。
649唐松山:2006/12/30(土) 16:56:36
とりあえず 仁徳までがんばれ
暦の読み方は、私が以前このページで発表した 増し 

650日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:08:04
卑弥呼の時代が崇神、豊の時代は景行か?
豊はやっぱり神功だとするとピッタリか
ではこの記紀と倭人伝の記述の違いを
検証していく必要がある
651唐松山:2006/12/30(土) 17:08:53
倭の5王は 暦が出来上がってから
652唐松山:2006/12/30(土) 17:13:55

増しで 景行の 閏月 を見ました。

景行元年=垂仁90年=同99年です
西暦239年 景行元年 垂仁99年 アフミ
西暦242年 同 4、5年  4年ネシモ=5年ネシモ
西暦243年 同 6,7,8,9,10年 該当記事なし
西暦245年 同 12,13,14,15年    12年アフミ
西暦248年 同 18年          18年アフミ
西暦249年 より
西暦254年 まで 該当記事なし
西暦255年 同 25年         25年ネシモ
西暦258年 同 28年=40年     40年セミナ
西暦259年 より
西暦263年 まで 該当記事なし
西暦264年 同 46年=51年  該当記事なし
西暦265年 同 52年       52年アフミ
西暦267年 同 54,55=60年 景行死亡 該当記事なし
29年間で7ヶ所確認できました。

かなり 良い線 行っている というより完璧...でもないか(自我自賛)
誤差 +−2年ってところか まだ倭武18才だし

暦はこう言う読み方をする 合わせてみて下さい。

653日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:15:47
崇神の時代やっとのことで畿内政権が
全国制覇(四道将軍)
九州では北部九州に一大率をおく、この時、
松浦の土蜘蛛(見借)が大屋田彦(大彦の甥)に倒される。
この時、大屋田彦が拠点を構えたのは
八幡の香月であることは地元の資料からわかってる。

もうこれは妄想ではなくあらゆる資料から整合性が
保たれている史実である。

そしてこれはまさに卑弥呼の時代とピッタリだと思うわけである。
崇神、景行と九州熊襲征伐の大軍勢を送った畿内の大王
654日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:40:26
しかし1年前まで2chでは安の説がもっとも支持受けてたわけですが
本当、2chってそう考えると知能の低い人が多いんだな、
洗脳されやすい鵜呑みが多いんだなとつくづく思う。
655日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:46:49
とりあえず、記紀の年代補正に時間をかけるしかない。
自分もexcelでやっているところ。
656唐松山:2006/12/30(土) 17:50:07
やっとの事全国制覇 間違い
たなぼた 正解
崇神6年を 西暦193年と見ると合点が行きます。
伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)十年(193年)『六月倭人が大飢饉にみまわれ、食糧を求めて千余人も来た』とする。
 国譲り
数年間 この影響があります
崇神9年になって やっと四道将軍 出雲連合国家の平定と まつろわぬ人々(先の飢饉による離脱者)の平定
 
657日本@名無史さん:2006/12/31(日) 13:42:10
末廬=松浦
奴国=博多
投馬=出雲
邪馬台国=大和・畿内



>大陸から見た日本<
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-1-5.htm
658唐松山:2007/01/01(月) 23:42:30
新年 おめ
お年玉
神武東征 
河内  =春日と三輪の国
唐古、鑓、近江、丹後、出雲=大物主の国
巻向  =神武の国
ホ30030  ヲシクモは カハチにゆきて ヲシホより カスガをまねき ヒラヲカの ヤシロまつりて カミとなる 
ツクシのタネコ モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて おさめしむ
 ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも サホコみな タミをおさめて しつかなり
この辺までは 誰でも行き着く所 ここからです。

日本武尊 関東遠征の時の話
関東は、まだ大部分が縄文です、
ホ39028 アナにすみ ケシシをはみて ケコロモき
場所は、常陸 日高見
ホ39153 ヒタカミの ミチノクシマツ ミチヒコと タニツコヰタリ アガタヌシ
ミチノクいわく
「イマナンヂ ヒトのスメラギ キミとして つかえるナンヂ をとろえり イマきてクニを うばわんや」
ミチノクは、ナガスネヒコと 畿内に居ましたが追われてこの地に住み着いた。
此処までは、ある話
ホ39178 ミコフタリ ヱはアスカミヤ トはハラミ そのときクニを たまわりて ソヨのハツコの ワレまでは… 
ホ39174  このクニを ひらきてナナヨ これをつぐ
ホ39211  モモナソコ ヨロミチつづく このヨみて 

此処まで 7代 179年

ありや なしや
659日本@名無史さん:2007/01/02(火) 21:15:44
讃の年代からして、だいたい応神・仁徳が4・5世紀の交。神功はその前だから、
好太王碑の辛卯年(391)とよく一致する。崇神・垂仁はその数代前だから、ほぼ
3世紀中葉前後。豊鍬入姫と臺與が年代的に対応するとすると、卑弥呼は百襲姫。
660日本@名無史さん:2007/01/06(土) 00:18:22

日本史板の常識

コテ=馬鹿

661唐松山:2007/01/07(日) 08:21:41
日々の干支で年数を計算する 方法  最も 単純な 太陰暦です。

5行 B5から+1 AE5まで横に30   2段にしたら60年 3段...
6行 5行*365.25  太陽暦日数 
7行 5行*6*30+5行*6*29
8行 閏 19年で7回  0,0,1,1,1,2,2、2 ...と言う具合
9行 8行*30    閏月の日数 (29日にすると調整が大変)
10行 7行+9行    太陰暦の日数(太陽暦の日数を超えない事)
11行 21    調整用  時々変える必要あり +−9の範囲内で 注意+−6で似た干支になります
12行 10行+11行
13行 干支に換算する式  下記の式をお使いください。
=CHOOSE(MOD((B12+69),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&
CHOOSE(MOD((B12+71),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
この式で1年365日の干支も計算できます。合わせて表を作ると便利
当時の 日暦は、全て1080日です

成務 元年春正月甲申朔戊子  仲哀 元年春正月庚寅朔庚子 二年春正月甲寅朔甲子
沢山集めて 挑戦して下さい。
662唐松山:2007/01/07(日) 09:52:29

上記の 干支 に依る年数割出し に使った 年数数字と 調整日数です
書記の 干支を 使いました

94孝霊 23
127孝元 20
152開化 19
175崇神 19
202垂仁 21 は2年度の2月の干支により算出
228景行 24
255成務 21
279仲哀 21

663日本@名無史さん:2007/01/08(月) 14:47:47
>湖の出口の川の河床を掘り下げれば水位が下がる。
>琵琶湖の水位は瀬田堰で調整できるんだよ。

奈良の盆地湖はこれで干拓したんだって・・・
琵琶湖も簡単に干拓できそうだね(^^
664日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:51:10
とりあえず資料と遺跡を総合的に調査すれば
崇神は3世紀前半の人になるよ
665日本@名無史さん:2007/01/15(月) 00:21:58
>>664
自分もそう思う。
666日本@名無史さん:2007/01/15(月) 02:15:20
どこをどう歩いたら大和まで陸行一月?陸行一月もしたら、いかに古代でも関東くらいに来てしまうかと。日本海側なら青森まで行けそう。
667日本@名無史さん:2007/01/26(金) 14:48:44
増しがどう行われているのか、なかなか他の人はつかめないので、
唐松山さんの思う実年代推定表を作ってください、お願いします。

ネット上のこのようなサイトに、ホツマツタヱから年代推定を行った表を発見。
ただし、唐松山さんの主張と違うところがあると感じます。

秀真伝による驚異的な古代史解明図(2001.11.7版)
http://www.k3.dion.ne.jp/~yamas/kodaiy2k/index.html
668太国:2007/01/26(金) 14:54:07
>>667
崇神元年 237年    1年違いだな。驚いた。
669太国:2007/01/26(金) 15:38:47
>>667
孝元元年 188年    開化元年 207年

これが自論だが、おのおの1年差、3年差で自論に近い。

>>668の 崇神元年 237年 は自論の数字。
670日本@名無史さん:2007/02/12(月) 00:23:37
邪馬台国の所在地(官名・人名などから推定)
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32352359.html

邪馬台国の所在地の推定(諸国の国名から推定)
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32405249.html
671日本@名無史さん:2007/02/12(月) 06:55:09
>>670
国々の位置を地図で示してみて。
672日本@名無史さん:2007/02/12(月) 08:51:42
陸行一月ははだしで茨のはえた荒れ地を進むのでちょうど合ってるみたいだよ
673他国:2007/02/15(木) 11:16:44
>>485表 【訂正】
この倍暦の年表に誤りがありましたので、謹んで訂正します。

皇紀は通例での皇暦年 (西紀)はその皇紀に対応の西暦年 [西紀]
は実年代

但し(西紀)は紀元前の数字です。




皇紀 (西紀)[西紀]
   
344  317  153

317  344  144  孝靈立太子




皇紀 (西紀)[西紀]

344  317  153 孝靈立太子

317  344  144 孝靈誕生
674太国:2007/02/15(木) 11:17:56
>>673
他国→太国 です。
675いろいろと問題の多い『安本流数理』:2007/02/20(火) 11:37:48
いろいろと問題の多い『安本流数理』歴史学批判

古代の王、一代十年説
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zaturon.html#junen

安本ダイアグラム
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zaturon.html#yasumoto
676定ちゃん ◆jsEMIr87bs :2007/03/09(金) 06:11:28
>>674
あなたは、言語虫さんでしょうか?
| 〃
|*´・π・)つ ))
| つ ))
677日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:51:10
太国ってうざすぎw
678日本@名無史さん:2007/03/15(木) 14:29:54
陸行1ヶ月の謎について語ろう
一行は道に迷ったんだな
都怒我阿羅斯等伝説にそういう記述がある
679日本@名無史さん:2007/03/19(月) 21:20:35
ウンコ人大林君の部屋
http://www1.ocn.ne.jp/~gengoman/MyPage/menu0.html
うんこ脳の垂れ流しHPだよW

ウンコ人の部屋にもし行けなければ
別のウインドウにアドレス貼り付ければ行けるよ
どっかで見たようなウンコ臭いHPだよ
明らかに大林君とブラ国と同じ人のようだけど・・・
680日本@名無史さん:2007/03/19(月) 21:35:36
>>678
すごく斬新な意見ですね。
681日本@名無史さん:2007/03/20(火) 15:56:22
これか↓
http://www2.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki038.html

伊都比古もでてくるんだね
682日本@名無史さん:2007/03/21(水) 17:36:57
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1172000417/l50
571 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:35:20
プラム大林の邪馬台国四国説って
凄い荒唐無稽な説なんだなw
572 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/21(水) 13:39:36
>>571
>プラム大林の邪馬台国四国説って
凄い荒唐無稽な説なんだなw
意味わかんね?   四国説じゃないけど
四国を含む九州説だよ
573 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:39:59
ブラムも昔
東四国が邪馬台国だって宣ってたなw
覚えてるぜ!
574 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:49:11
俺も知っているよ
突飛な説に
突飛な馬鹿だから
当時居た奴は皆知っているよw
それに当時から大林と同一人物だと
ばれていただろうw
683三流大史学科学生:2007/03/21(水) 18:23:42
少し本を読んでかじっただけの私がレスするのも
恐縮なのですが、神武の東征というのが1世紀ごろで、
この頃はまだ九州の勢力が畿内を上回っており、
やがて師升の死後、倭国大乱で九州・畿内を含めた
内乱に発展。これを収拾すべく話し合いの結果、
巻向・卑弥呼を中心に国をまとめようということになったのではと
考えます。これが「一番自然な流れでしょう。
684日本@名無史さん:2007/03/21(水) 22:00:29
>>683
それが正しいかは分からないけど
ちなみに、面土国王の師升は
吉野ヶ里の国王で、
107年頃に、奴国を侵攻し、その時の捕虜を連行して
中国へ朝貢したが、中国の皇帝は金印を授けなかった。

吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない!面土国王・帥升
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34573441.html
685日本@名無史さん:2007/03/21(水) 23:53:53
畿内の大国主家に、皇子がおらず
皇女しかいなかった。
そこで、誰が婿養子になるかで争いが起こった。
その争いに勝ったのが、九州分家の神武天皇だった。

しかし、この争いがきっかけに、畿内王家の全国統制力が弱体化、
古代戦国時代の幕開けになった。
その間、九州の奴国は勝手に中国と交渉をし、
また、その奴国を面土国(師升の国・吉野ヶ里)が侵略し
彼らもまた、中国との交渉をしようとした。
まさに、戦国時代さながらで、日本に居た各国が独自の行動をしようとした。

この戦国時代に終止符を打とうとしたのが、孝霊天皇だった。
また、彼の代に、皇女の百襲媛命を巫女として、祭祀政治を行い
日本統一の権威としようとした。

その祭祀政治を終わらしたのが、孝霊天皇の曾孫・崇神天皇である。
彼は、自分の皇女の豊鍬入媛命(台与)が巫女の時代に
政教分離を行い、神権政治を廃止した。
686日本@名無史さん:2007/03/22(木) 10:36:18
>>685
なるほどすごく自然
687日本@名無史さん:2007/03/22(木) 11:25:42
大林!
いったいどこが自然なんだ?
688日本@名無史さん:2007/03/22(木) 11:40:56
銅鐸や伝説の分布からいって
本州の大部分を大国主がすでに治めていたのは予想できる
そして神武東征についても実際に起こったことだというのは
登場人物や出土品からも想像に難くないからな

三島地区から卑弥呼の時代のものと思われる鏡が何枚も出土され
大和王権と深い関係があったことは自明の理
これは神武天皇の妻五十鈴姫が三島氏であるという伝説とも一致する

そう考えると史実としては>>685のようなものだったのだろうとオモワレ
689日本@名無史さん :2007/03/22(木) 22:02:56
日本に「国譲り神話」というのがあるが
それは、大国主の「出雲朝」から、「神倭朝」への主権の移譲だとも思える。
それは、ある「事情」があってのことらしいが
690日本@名無史さん:2007/03/22(木) 22:35:12
近くに対馬があるよね、邪馬と対馬にてるよね…
691日本@名無史さん:2007/03/23(金) 01:29:06
>>689
でも、大国主の子の事大主神は大和の神様なんだよね。
どういうことなのかな?
つーか、神武が継承するにあたって、大和の宗家に近い人たちは
出雲へ追いやられたんじゃないのか?
692日本@名無史さん:2007/03/23(金) 01:39:43
「そのとき歴史は動いた」の再放送をやっている。
693日本@名無史さん:2007/03/23(金) 02:16:28
上古代の日本が二倍年暦だったと推定し、

崇神天皇10年を魏志の卑弥呼の没年(247年前後)とし、

神武天皇の即位年を革命年にするために
欠史八代の部分を二倍引き伸ばして、
結果的に通常暦の4倍(二倍年暦×2)になっていると仮定したら

神武天皇が生まれたのが、西暦50年前後で
神武東征は、西暦70〜80年代ぐらいで
神武没年が、西暦120年前後だと
推定されました。


ということで、まとめてみると、

西暦50年前後、神武天皇が日向で生まれた。

西暦57年の奴国(福岡市)が後漢から金印。

西暦70〜80年くらいに、神武天皇は東征して
畿内本家の継承争いに加わり、畿内本家を婿養子として継承。

西暦107年ごろ、面土国(吉野ヶ里)の帥升が奴国を占領(金印は志賀島へ)
西暦107年に、面土国は後漢に奴国の戦争捕虜160人を連行して
金印を求めたが認められなかった。

西暦120年前後、神武天皇は崩御。


いずれにせよ、西暦50〜西暦120年の間は
畿内も九州も混乱期だ。
694日本@名無史さん :2007/03/23(金) 06:18:26
大和も、「譲られた」という体面を保つために、出雲の神もそれなりに祀っていたらしい。
このようなことを、以前どっかで読んだ気がするので。
でも、古代では「祟神天皇」の時代から、何か様子が変わってきたようにも思う。 
弥生時代末期になるかな?
「神武天皇」も「祟神天皇」も、「ハツクニシラス スメラミコト」とされている。
「クニ」の部分が、神武天皇では「天下」、祟神天皇では「国」。

広島の府中町に、神武天皇が大和に東征する以前に宮を営んだとされる「埃宮伝説」というのがある。
近くの「ダイヤモンドシティ ソレイユ」が 現代の荘厳な宮殿といった感じだが
近くの山で発掘されたある遺構が「2世紀前後」で、少し気にはなっている。
695日本@名無史さん:2007/03/24(土) 11:14:04
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1172000417/l50
571 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:35:20
プラム大林の邪馬台国四国説って
凄い荒唐無稽な説なんだなw
572 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/21(水) 13:39:36
>>571
>プラム大林の邪馬台国四国説って
凄い荒唐無稽な説なんだなw
意味わかんね?   四国説じゃないけど
四国を含む九州説だよ
573 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:39:59
ブラムも昔
東四国が邪馬台国だって宣ってたなw
覚えてるぜ!
574 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:49:11
俺も知っているよ
突飛な説に
突飛な馬鹿だから
当時居た奴は皆知っているよw
それに当時から大林と同一人物だと
ばれていただろうw

696大林賢栄還暦:2007/03/24(土) 14:07:38
ずっと大林賢栄VS大林賢栄で
やってればいいのですが
ついつい寂しくなると他に手を出します
迷惑を掛けているつもりはありませんが
書くだけで荒らしと言われてしまいます
何故でしょう?
697日本@名無史さん:2007/03/24(土) 14:42:51
「ですが」クン
稚拙なアラシ行為は止めたまえ
698日本@名無史さん:2007/03/24(土) 16:54:44
梓書院に大林賢栄著「私の邪馬壹国」
の売れ行きを聞いてみました
すると○○○と帰ってきましたw
皆さんも聞いてみましょうw

699日本@名無史さん:2007/03/24(土) 18:21:23
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
700日本@名無史さん:2007/03/25(日) 11:27:45
コテはみんな赤の大林賢栄だってもう皆知ってるよw

701日本@名無史さん:2007/03/25(日) 14:38:25
404 :日本@名無史さん :2007/03/25(日) 14:34:32
狗奴國の官は

魏志では、「狗古智卑狗」
魏略では、「拘右智卑狗」

どっちが正しいかだ。

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi4.html

普通、あういう木簡で字を記したものが後世に残る場合、
字が欠けることはあっても、字が突き出すことは無いだろう?

ということは、「狗古智卑狗」の「古」は間違いで
「拘右智卑狗」の「右」のほうが正しいんじゃないのか?
702日本@名無史さん
昔々
真面目なスレでみんなで楽しんでいたら
大林がやってきて荒らすのね放置した
すると明らかな程度の低い自演を延々とやるので
荒らしの後は誰も寄り付かなくなった
大林は今でも一人ぼっちで馬鹿レス自演を繰り返す