▲▼皇后・国母・女院を語る…幕末以前…▼▲

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494日本@名無史さん
礼成門院

後醍醐天皇の中宮の西園寺禧子
後醍醐天皇の隠岐配流後に院号を北朝方からもらったが、
天皇の帰京後に院号を停止されて皇太后になる。
その後逝去の日に改めて「後京極院」の院号宣下。

江戸時代後光明天皇の皇女孝子内親王
逝去の日に院号宣下

495日本史@名無史さん:2006/07/01(土) 12:35:37
礼成門院って言うと、26歳の後醍醐天皇に11歳で入内して、
13歳で内親王産んだ人だよね。
しかも、後醍醐天皇が無理矢理入内させたとか何とか……ロリコン?
496日本@名無史さん:2006/07/01(土) 13:00:31
礼成門院って失踪して発見されたときには既に妊娠していたらしい
497日本@名無史さん:2006/07/01(土) 13:05:12
>>496
それって、後醍醐が拉致したお姫様のこと?
498日本@名無史さん:2006/07/01(土) 14:50:14
>>495
昔は女性に初潮さえあれば、現代的観点でいかに幼くとも、
実質的結婚(というかつまりはお床入り)が充分可能だった。
たとえ初潮終了直後のお床入りでも、本人たちも周囲の人間も無体な事とは思わなかっただろう。
499日本@名無史さん:2006/07/01(土) 16:23:10
じゃあ礼成門院は早熟?(´Д`)ハァハァ
500日本@名無史さん:2006/07/01(土) 17:03:32
計算すると礼成門院の初潮は、小学校4〜6年の範囲の幅があるが、早熟?
501日本@名無史さん:2006/07/05(水) 20:29:24
>>礼成門院

単なる戸籍(?)の間違いだったりして
502日本@名無史さん:2006/07/05(水) 20:56:09
当時の寿命は今より短いから、人の肉体が成熟するのも今よりは
若干早かったんじゃないかと思うよ。ということは初潮年齢が10歳前半
でも不思議じゃないような。
ただあくまでも記録なので、本当の年齢かどうかは怪しいかも。数年の誤差
があったとしても、これも不思議じゃないし。

門院の父・実兼は後醍醐に娘を入れるつもりはさらさら無かったのを
後醍醐が無理矢理犯して妻にしたの?それが誘拐→見つかったときは妊娠
の真相?
503関東の国母:2006/07/05(水) 21:29:25
明治の天皇制国家の洗脳教育で、関東人はすっかり郷土に誇りを持てない自虐的な
人間に成り果ててしまったようだ。
俺の祖母は平気で北条政子の悪口を言っていたが、今から考えてみれば祖母は
天皇制による関東人敵視の洗脳教育を受けていたのだろう。
しかし、北条政子は「関東の国母」とでもいうべき人物なのである。
承久の乱の際の政子の演説が、多くの鎌倉武士の魂を奮い立たせ、関東側に大勝利を
もたらす原動力になったのだ。
そしてその結果、鎌倉幕府(関東国家)はその基盤を固めたのではなかったのか。
そんな北条政子のことを真の関東人ならば絶対に悪く言うべきではない。
今こそ我々関東人はアズマ思想を興隆し、郷土の誇りを取り戻さねばならないのだ。

504日本史@名無史さん:2006/07/05(水) 22:36:25
>>502
どうだろうね。
そもそも、後醍醐が禧子に手を着けたのも、
朝廷と幕府の取り次ぎ役である関東申次の西園寺家を取り込む為とも言われている。


禧子が失踪した当時、西園寺家は大騒ぎになって
後醍醐が攫ったとは誰も思わなかったらしい。
末っ子の禧子を可愛がっていた実兼は、
見つかった娘が妊娠五ヶ月となっていて激怒したらしい。
入内させるつもりはあったけど、こんなに早くとは考えてもいなかったらしいよ。

あと後醍醐は実兼の目を盗んでこっそりと禧子に通って、暫くして邸から連れ去った模様。
源氏物語を愛読していた後醍醐が「光源氏ごっこ」をやりたくてやった誘拐とも言われている。
禧子は十歳強と若紫とあまり変わらない年齢だしね。

505日本@名無史さん:2006/07/07(金) 11:08:00
>>373
超亀レスだし、もう見ていないかもしれないけれども、遊義門院の事だと思う。
後二条天皇の准母として皇后になり、後日女院となり、その3年ほど後に
後宇多天皇の後宮に入った方です。当時25歳。

「仙洞御所に入る」という記録があるために、「後宇多天皇の親父の後宮に
入ったのでは?」という説まである。
けれど、遊義門院が崩御した二日後に後宇多が出家したことから、後宇多の
妃の一人とされています。
506日本@名無史さん:2006/07/07(金) 15:09:48
>>505 >後宇多天皇の後宮
当時、後宇多は上皇。
507日本@名無史さん:2006/07/07(金) 16:30:56
あ、間違えた。スマン
508日本@名無史さん:2006/07/07(金) 17:52:03
平安あたりの藤原系の女院さまって長生きしてるのがやたら多いけど、あそこは女性は
長寿の家系なのだろうか?男も当時としては長生きという部類のが多い感じもする。今の
天皇家が長寿が多いのもその血が開花したのだろうか?
509日本@名無史さん:2006/07/07(金) 22:22:38
香淳皇后の母方の島津家は長生き
百歳近くまで生きた伯母やイトコもいる
皇后の弟の邦英王は現在九十六歳
柳原愛子も結構長生きのはず
510日本@名無史さん:2006/07/08(土) 08:09:57
>>508
藤原道長の妻・鷹司殿とその生母が長寿だったから、彼女達の子孫である
上東門院とその弟達、更に陽明門院へと受け継がれたのかもしれない。
もし彼らの遺伝子が、現在の天皇家の方々にまで強く影響を及ぼしている
のであれば、興味深く感じます。
511日本@名無史さん:2006/07/08(土) 11:03:55
>>510
でも院政時代にはいると短命な天皇、親王、内親王も多いし
今の天皇家で長寿の人が多い理由は医学の発達が主な理由なんじゃ無かろうか
512日本@名無史さん:2006/07/13(木) 02:29:08
摂関期でも後一条とかは短命だと思うが。
513日本@名無史さん:2006/07/13(木) 19:49:31
鳥羽天皇だったかな?
藤原氏の娘を皇后にした。
その皇后が後の崇徳天皇だったと思うが男子を産む。(後白河かもしれん)
ところがこの皇子どうも自分の子ではないようだ。
親父の白河法皇がやたらと怪しい、また皇后の寝所へ夜這いをかけた者は数多く
皇后も夜這いが来たからといちいち灯をともして相手を確認なんかしない。
声でなんとなしに相手を知るぐらい。皇后は声から皇子の父親は白河法皇だと思うと侍従にもらす。
それを伝え聞いた白河法王、息子の鳥羽を廃してその子を天皇にする。
鳥羽天皇が嘆いていると鳥羽天皇の母親が慰めに来た。
「あなたが天皇でなくなって良かった。あなたには王家の血はながれていないのだから。」
その後鳥羽天皇は息子の嫁には片っ端から手を出したそうだ。
514日本@名無史さん:2006/07/13(木) 20:28:08
むちゃくちゃやなwww
515日本@名無史さん:2006/07/13(木) 20:39:33
夜バイしたいんですが現代では犯罪ですね
516日本@名無史さん:2006/07/14(金) 22:43:40
>>513
野暮なつっこみだが

鳥羽天皇の父親は白河天皇ではなく堀河天皇。白河は堀河の父親だから鳥羽の祖父。

鳥羽の中宮は待賢門院。待賢門院は幼いころから白河の養い子になっていて
鳥羽に入内する前から関係はあったし、白河以外にも関係のあった男は何人もいた
といわれている。

待賢門院が白河と関係を持つ時は、白河の御所へいっているので夜這いをしたわけではない。

確かに白河は鳥羽に譲位を迫ったが、それによって不利益は被ったわけではないので
特に嘆く必要なし。

鳥羽天皇の母親は鳥羽を産んですぐなくなっている。

鳥羽天皇が息子の嫁に手を出したという史料はない。
517日本@名無史さん:2006/07/15(土) 16:18:23
万世一系という明治以降に創られた価値観を守るため日本史の真実を捻じ曲げ
皇国史観にまったく関係ない明治以前の人々までも無理やり皇国史観に従わせる
源氏物語のような性の世界では身分などなく自由に振舞っていたのでは天皇は誰の子かわからない
だからあの時代は女系で家系は成り立っていて婚姻があっても女性の家系に男性が通い子供は女性の家の一員となる
でも皇国史観にとってその事実は邪魔な真実
だから無理やり事実の捏造や改竄をする
特定の神道系大学の学者など何故か原本秘蔵の家伝書を依拠に説を述べるが
何故公開できないのだろうか
ニーズに合わせていくつもの歴史をつくりだすのもいいだろう
真実を追究する歴史以外に皇国史観の歴史、講談小説を基にした痛快娯楽歴史にはニーズがある
住み分けることによって皇国史観のためなどの理由で事実を潰す人がいなくなればいい
518日本@名無史さん:2006/07/30(日) 22:27:48
日本史板の住人ならわかると思うが

天下を治めた秀吉の寵愛を受けた淀
その淀が生んだ秀頼
秀頼が秀吉の跡を継いだとしても男系で繋がっているといえるのか?
遺伝子検査をしてみたらOH!NO!となるかもしれない
天下人秀吉が囲い込んだ淀と比べ天皇の后はよほど自由に性を謳歌したろうに
519日本@名無史さん:2006/07/31(月) 13:33:08
>>518
天皇の后(女御その他を含む)だからこそ、後宮に入った女達の
密通には、相応の処分が下される訳で。
・后や妃を廃された人(高子皇太后(没後、皇太后に復す)・高津内親王など)
・後宮に戻れず、実家などで蟄居した人達(藤原綏子など)
・猪熊事件(天皇から寵愛を受けつつも密通した女官は流罪)

他にも探せば出てくると思いますよ。
520日本@名無史さん:2006/07/31(月) 13:54:53
高津内親王の廃后理由は理由不明じゃなかったっけ?
521日本@名無史さん:2006/07/31(月) 17:17:04
原因不明だけど「密通ではないか?」という説はあります。
井上廃后のようなはっきりした理由がなく廃されたという意味では、
前代未聞の処分。
522日本@名無史さん:2006/07/31(月) 20:22:32
>>519
藤原高子って坊さんと密通して皇太后を廃されたんだったけ?
523日本@名無史さん:2006/08/01(火) 19:54:42
>522
そうらしいです。
高子が当時55歳である事を考えると、胡散臭さを感じるけれど、
「政治的に失脚させなければならないほどの権力を持っていたか?」と問われると
甚だ疑問です。
524日本@名無史さん:2006/08/03(木) 19:39:59
高子の皇太后を廃された件、宇多天皇の母の光孝天皇の(当時は皇太夫人)
班子女王を皇太后にしたかったとか?

確かに、>>523の様に高子には政治力は無かった訳だし。
525日本@名無史さん:2006/08/03(木) 20:39:04
昔はDNA検査なんてできなかった。だから母親の思惑で父親が決まった。
でも現代においても天皇家の新生児のDNA検査はやっていないじゃん。
天皇家は血筋が税金で養われる要件なんだから子供ができない連中が他人の子を自分の子と捏造して
税金を詐取する可能性が有る。
税金で養ってやってるんだからDNA検査は義務化する必要が有る。
いい年こいたバアサンが都合よく妊娠なんかするなんて検査してオーナーの国民に報告するのが被支配階級の義務だろう。
526日本@名無史さん:2006/08/03(木) 20:58:38
■歴代天皇【日本版ダヴィンチコード】■
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1148778771/49-54

第11代の垂仁天皇の時代=178年頃に、天日矛が日本に来たらしい。
この時点では、まだシラキは倭人が支配していたようだ。
やがて、魏が建国されて、公孫氏の楽浪郡を攻撃した頃から、シラキの政治情勢は
不安定化し、北方のワイ人がシラキに流入し始めたようだ。
3世紀から4世紀初頭にかけて、シラキ領内のワイ人が急増し、
シラキは、ワイ人国家=新羅に変質してしまう。

どうやら、百済を建国したのは神功皇后のようだ・・・。
百済が最初に建国されたのは西暦314年。
神功皇后の時代と重なる。

 百済国=百姓国(はくせい国)
  百姓=多くの姓=百官(多くの官吏)
527日本@名無史さん:2006/08/10(木) 13:46:45
阿蘭陀で白馬に種付けされて
本当はマル外なのに父内国産馬として天皇賞をとる産駒が来シーズンあたりでるかも
528日本@名無史さん:2006/08/19(土) 00:16:41
>>523
高子から見ればしょせん宇多は息子の侍従
宇多にとって高子は永遠に目の上のたんこぶ
529日本@名無史さん:2006/08/19(土) 01:07:15
>>528
そういう発想もありだと思うけれど、宇田の善政を鑑みると「聖帝」で
あろうとする意識が強い天皇だったのでは?と思います。

ただ、即位してから十年近くが過ぎ、宇田が醍醐に譲位する前年に
高子が廃后になっていることと、廃后の年に醍醐の生母が逝去しているから、
当時3つしかない后の位を巡る帳じり合わせの犠牲になったかもしれない、と思いました。
明日少し調べてみます。
530日本@名無史さん:2006/08/19(土) 20:32:26
>>529
宇田じゃなくて宇多だよ。
それはともかく、宇多ってそれほどの人じゃないと思うよ。
531日本@名無史さん:2006/08/19(土) 23:12:43
>530
失礼しました。変換ミスです。
宇多天皇は、上皇として醍醐天皇の治世を支えた功績をある程度評価出来るのでは?と思います。
父子の対立もありましたけどね。

高子廃后の前後を整理してみました。
877年 高子が皇太夫人となる (当時、皇太后:藤原明子 太皇太后は空席)

882年 陽成天皇元服 明子が太皇太后に、高子は皇太后となる

884年 光孝天皇の即位直前に、生母である藤原沢子に皇太后を追贈

887年 班子女王が皇太夫人となる (この時点で三后に空席なし)

896年6月末 藤原胤子卒去
   9月  高子、皇太后を廃される

897年7月3日 宇多天皇譲位 同日敦仁親王が元服・践祚
   7月13日 敦仁親王即位(醍醐天皇)
   7月19日 胤子に皇太后を追贈
   8月26日 班子女王が皇太后に、藤原温子が皇太夫人へ

当時皇后(中宮)の代わりに皇太夫人の称号を活用していた事を考慮すると、
明子・高子・班子のうち誰かが后位を降りない限り、温子は女御の一人でしかない。
「高子廃后の黒幕は藤原温子の父・藤原基経ではないか?」
という説をかなり前に読んだ気がしますが、文献名を忘れてしまいました。
532日本@名無史さん:2006/08/19(土) 23:25:14
内訳
藤原明子(文徳女御・皇太夫人・清和生母)900年崩御
藤原高子(清和女御・皇太夫人・陽成生母)910年崩御・943年皇太后に復位される
藤原沢子(仁明女御・光孝生母)839年卒去
班子女王(光孝女御・皇太夫人・宇多生母)900年崩御
藤原胤子(宇多女御・醍醐生母)896年卒去
藤原温子(宇多女御・皇太夫人・醍醐養母)907年崩御

もし違っていましたら、訂正をお願いいたします。
533日本@名無史さん:2006/08/20(日) 00:20:00
>>531
基経は891年没なのにどうして黒幕なんだよ。ありえんだろ。
だいじょうぶ?
534日本@名無史さん:2006/08/20(日) 00:26:54
>>533
失礼しました。
基経の兄弟・・誰かは忘れましたが、そういう説を読んだ事がある
という記憶で書いています。

533さんの方がお詳しいと思うので、素人の私はこれにて失礼します。
535日本@名無史さん:2006/08/27(日) 18:49:59
∩゚∀゚∩age
536日本@名無史さん:2006/08/28(月) 12:58:00
上のやり取り見て思ったのだが、
「皇后陛下と『する』時にゃ 直立不動で・・・」
と爺さん連中がエロ歌を歌っていたのを思い出した。
まさか藤原高子がモデル?
537日本@名無史さん:2006/08/29(火) 11:29:49
日本の皇后(もしくはぞれに準じる)で男関係をうわさされているのって藤原高子くらいなもの?
538日本@名無史さん:2006/08/29(火) 20:32:30
桓武天皇の妃の酒人内親王は、噂と言うより説話として残ってる
539日本@名無史さん:2006/08/30(水) 11:00:17
酒人内親王に関してはこういう解釈もあるそうな
ネット上ではいい加減なソースしかないが、参考になるかな
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%BA%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

説話で男性関係が言われているのは藤原明子かな
『今昔物語』でそれとなくにおわされている。
540日本@名無史さん:2006/09/08(金) 11:19:47
うわさだけなら光明皇后(仲麻呂)や藤原宮子(名前忘れたけど病をなおした坊主と)
541日本@名無史さん:2006/09/10(日) 01:42:19
111 :日本@名無史さん :2006/09/03(日) 14:29:49
上東門院  待賢門院  美福門院
権勢 93  権勢 65  権勢 84
美貌 76  美貌 87  美貌 91
知力 87  知力 55  知力 89
歌才 53  歌才 10  歌才 16
魅力 82  魅力 43  魅力 67


出典http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132562211/
542日本@名無史さん:2006/09/10(日) 22:05:22
美福門院より待賢門院のほうが美人ってイメージがあるな
でもこの二人が美人だったっていう資料って残ってるんだっけ?
543日本@名無史さん:2006/09/11(月) 17:21:12
>>542
肖像画が残ってる。
待賢門院は角田文衛著"待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄"(尼姿)
美福門院は同著者"日本の後宮"(袿姿)に載ってます。
個人的には尼姿でも待賢門院のほうが美人だと思う。
美福門院は、ダメじゃんって感じ。
544日本@名無史さん:2006/09/11(月) 17:34:53
皇后の実態を間近で見ていた紫式部は源氏物語で夜這い文化を記し後世に残してしまったのがイタイ
通い婚で女系社会だったことや天皇は母親はわかっても父親は確かではないことも後世に知らしめた現代の天オタのカタキ
545日本@名無史さん:2006/09/11(月) 19:38:51
>>544
とはずがたりの方がイタくない?

天皇のみならず阿闍梨や女院や(元)斎宮のイメージまで崩しまくっているし。
546日本@名無史さん:2006/09/13(水) 22:49:12
亀山天皇なんか性欲の塊ですぞ。もともと女好きだったが、それでも寵愛No1の皇后存命中はまだましな方だったとか。
ところが彼女が亡くなってからはもうヤケクソになったかのように女を漁る日々。
あの男は京都の南禅寺の「黒歴史」と言うべきでしょうか?
547日本@名無史さん:2006/09/14(木) 01:41:53
>>544
王朝時代の男女関係を夜這いと表現するのも低俗だな
それに、源氏物語以外にも書いてあることじゃん。

>>545
その前に伊勢物語があるだろ。
それにイメージ崩すも何も、そういう慣習の時代だったわけだしな
548日本@名無史さん:2006/09/14(木) 14:38:14
>>546
黒歴史も何も、この人が南禅寺のスタートラインだしねぇw
はっ、近年の「南禅寺登録商標騒動」とか「何有荘騒動」とか、
全部この業の強い初代の祟りなのか・・・

そういえば後醍醐天皇の母も途中から乗り換えたんだったっけ。
もっとも大勢子供を産んだ割には後宇多の寵愛が薄かったので面当て
・・・という面もあったみたいだけど。
549日本@名無史さん:2006/09/15(金) 00:18:36
南北朝のころは北朝も南朝も後宮関係は乱れまくってる。
北朝にもたしか兄弟だったかおじ・おいだかで女官を共有していた天皇がいたし。

550日本@名無史さん:2006/09/19(火) 01:30:51
というか異母妹に子ども生ませてさらに女院にしている時点で基地外
551日本@名無史さん:2006/09/19(火) 23:04:28
まだ女院にしてある程度の待遇をしているからいいんじゃない?
後醍醐天皇は叔母の亀山天皇の皇女に子供を産ませてそのままだし。
552日本@名無史さん:2006/09/20(水) 01:18:09
王権の衰退に比して、宮廷内の男女関係も乱脈になっていくしな。
553日本@名無史さん:2006/09/30(土) 17:15:45
でも、戦国時代の宮廷は衰退していても乱脈ではないよね
554日本@名無史さん:2006/09/30(土) 17:27:14
>>553
戦国時代は、徳川史観から脱却できれば、かなり見方が変わるからなぁ。
555日本@名無史さん:2006/10/01(日) 01:53:58
>>553
食べていくことと、貴種として体面をたもつことに精一杯の毎日で
性欲まで手がまわらなかったんじゃないのかw

でも、事件が書き残されていないだけで内実は乱倫だったんじゃない?
貴族には淫蕩な血が流れているからね。
556日本@名無史さん:2006/10/02(月) 22:39:52
>>555
なるほど
557日本@名無史さん:2006/10/23(月) 18:29:34
公家の元気さは南北朝のほうが上だよ。
南北朝期の公家は、朝廷・国家を動かす為に大活躍しているけど、
戦国期の公家は、そんな大事はお構いなしで自らの利権保持のみに関心が向いてる。
558日本@名無史さん:2006/10/29(日) 03:19:52
>>549
花園と光厳だね。
共有していたのは萩原宮直仁親王(正平の一統の際に廃太子)の生母だね。
559日本@名無史さん:2006/11/15(水) 16:35:57
中宮定子が好き。天皇へ向けた三首の歌が泣ける。。。
国母だったら上東門院も大物政治家だと思う。彰子は一条の后というより、
政治家としての印象のほうが強い・・
560日本@名無史さん:2006/12/13(水) 00:22:59
>>558
違うだろ。もっと調べろや!
561日本@名無史さん:2006/12/15(金) 22:49:01
>>557
南北朝の公家だって北畠などの特殊な熱血漢を除いてはそんな大事はお構いなしで自らの利権保持のみに関心が向いてる。
むしろ、所領や家督を巡る対立が原因で南北に分裂した家が殆ど。
562日本@名無史さん:2006/12/18(月) 20:13:12
桜田門院伸子
563日本@名無史さん:2006/12/21(木) 02:03:41
>>561
例えば近衛経忠と近衛基嗣だね。
564日本@名無史さん:2006/12/21(木) 14:39:09
エイショウ皇太后
565日本@名無史さん:2006/12/21(木) 21:14:15
確か阿野家だけは南朝方だったのに合一後もそのまま家系を維持して再興して維新を迎えたはず。
566日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:47:38
私も定子皇后好き!!!
567日本@名無史さん:2006/12/28(木) 20:42:54
定子様と一条天皇の愛に感動した!
568日本@名無史さん:2007/01/02(火) 22:57:12
>>565
阿野家は廉子を出しているし、南朝方の中心だと思っていたけどよくつぶされなかったよね
569日本@名無史さん:2007/01/05(金) 15:02:16
上東門院彰子ってやはり大物政治家だと思う。
どうして中宮時代ばかり語られて、政治家としての彼女は
全然語られないんだろう・・・夫天皇死後の彼女のほうが
絶対魅力的だと思う。
570日本@名無史さん:2007/01/05(金) 23:11:57
定子様と一条天皇の愛はすごい。
571日本@名無史さん:2007/01/06(土) 02:04:37
>>568
阿野家は南北に分裂したんじゃなくてまるごと南朝に属したので、京都に帰ってきても居場所があったから存続できたわけ。
分裂した家、たとえば近衛とか洞院とか花山院とかは南朝側の家は悲惨だった。
572日本@名無史さん:2007/01/06(土) 04:32:05
すみません、准母ってのは
天皇家以外で准母になれる(家柄の)条件とか決まっているのでしょうか?
例えば、五摂家の女しかなれないないとか・・・?
そういえば足利義満の正室・日野康子がありましたね。
573日本@名無史さん:2007/01/06(土) 20:28:36
皇族以外の准母は日野康子だけでしょ
574日本@名無史さん:2007/01/06(土) 21:53:00
平清盛の娘・平盛子も高倉天皇准母だよ。
日野康子は、天皇の配偶者でも皇族でもなく准母となり女院となった女性であって、
非皇族の准母というだけなら平盛子が初。
575日本@名無史さん:2007/01/08(月) 10:28:04
定子皇后最高!
576日本@名無史さん:2007/01/11(木) 03:52:10
定子様長生きしてほしかった
577日本@名無史さん:2007/01/11(木) 14:33:48
定子様長生きしてたら こんな人気者になってなかったと思われ
578日本@名無史さん:2007/01/11(木) 21:37:33
定子は長生きしたとしても、彰子の風下にたたなくてはいけなかっただろうから、
愛されたまま短命でなくなったのは幸せだったんだよ
579日本@名無史さん:2007/01/12(金) 01:30:12
>>573
正確には日野康子は、天皇・皇族の配偶者でも内親王でもない身分で
准母や女院になった唯一の人物と言うべき。
580日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:11:50
不登極帝の配偶者で女院号を宣下されているのは、
持明院棟子(北白川院)、庭田幸子(敷政門院)、勧修寺晴子(新上東門院)の
3人だけ?
581日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:58:44
示某子内親王(崇明門院)も邦良親王の妃だからいれてもいいとおもうよ
582日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:37:11
>>577
枕草子があるから、長生きしてもそれなりに人気者だったと思う。
大体、皇后にされても(おそらくは夫の心情を思いやって)引きこ
もることすらしない可憐な性格をしているし★☆

>>578
そういえば、定子の第一皇女の脩子は彰子の風下に立ちたくなくて
父の死後内裏を退出したよね☆←何故か思い出した。。
脩子は何気に良い子だな♪
583日本@名無史さん:2007/01/28(日) 17:36:54
文章がキモイ>>582みたいなのに粘着された定子様はかわいそう
584日本@名無史さん:2007/01/28(日) 19:25:00
>>582 女一ノ宮はすぐ出家したんだよね。
585日本@名無史さん:2007/01/29(月) 09:36:14
天皇が亡くなって13年後の出家だから「すぐ」とはいわない
出家したのが治安4年(1024) 天皇崩御は寛弘8年(1011)

早くに母親がなくなっても、12歳で一品准三宮になったり
本封のほかに千戸加えられたりと待遇はかなり良かったと思いますよ

定子厨がどれだけ妄想しようと歴史的事実は変えられない
586日本@名無史さん:2007/01/29(月) 20:57:22
脩子内親王は藤原延子を養女にしてそれなりに幸せだったんじゃ
ないかな?延子は後朱雀天皇へ入内してしまい、茨の道を歩むけど
子供も出来たしまぁ、良かったんじゃないの?

脩子が出家したのは養生を貰った後だったみたいだけど。
587日本@名無史さん:2007/01/30(火) 01:40:12
ついでに若い頃はともかく
あとになると脩子と彰子は割と交遊があったみたいだし、
定子厨が言うほど仲は悪くないよ。
588日本@名無史さん:2007/01/30(火) 01:42:09
追記。
言うというよりも勝手に思い込んでいると言い直すわ。

ついでに枕草子はそもそも定子様マンセーエッセイじゃないか。
アレで人気者言われても・・・
589日本@名無史さん:2007/02/01(木) 20:15:28
たまきはるも建春門院マンセーエッセイだけど本当の所どうなんだろう?
以仁王の事もあるしなぁ。。。
590日本@名無史さん:2007/03/02(金) 13:30:28
擬似的な母っていうと不婚内親王とか>>574みたいな類が有名だし論文もあるけど
よく見ると所生子の正妃が側室所生の天皇の母になったり
夫の弟に当たる天皇の母になったりするケースもあるね
こういうタイプの擬似的母について考察した論文てないの?
591日本@名無史さん:2007/03/05(月) 04:27:46
>>580-581
不登極帝っていうのは、帝位に登ってないけど、先帝扱いされる人って、
意味だと思うけど、邦良のそのパターンなの?
592日本@名無史さん:2007/03/09(金) 01:09:31
邦良親王はもちろん不登極帝ではない。

不登極帝とは、
1.天皇を経ずに、生前に尊称太上天皇となったもの‥2名。(後高倉院・後崇光院)
2.天皇・太上天皇を経ずに、没後に追尊天皇となったもの‥4名。
   (岡宮天皇・崇道尽敬皇帝・春日宮天皇・崇道天皇)
3.天皇・太上天皇を経ずに、没後に追尊太上天皇となったもの‥2名。(陽光院・慶光天皇)
の3種。

あるいは、
4.天皇を経ずに、生前に准太上天皇となったもの‥1名。(小一条院)
を加えて4種だろうか。
593日本@名無史さん:2007/03/09(金) 04:04:03
広義門院や青綺門院は不登極帝?
594日本@名無史さん:2007/03/09(金) 04:20:51
>>593 はあ?  広義門院は、女御→女院。 青綺門院は、女御→皇太后→女院。
595日本@名無史さん:2007/03/10(土) 00:26:59
>>594
ハァ? 治天の君だぞ。
596日本@名無史さん:2007/03/10(土) 08:13:21
広義門院が治天の君だろうがなんだろうが女院は女院。
青綺門院は女院
597日本@名無史さん:2007/03/10(土) 23:02:12
青綺門院は広義門院の先例を念頭に置いた如院による治天の君
598日本@名無史さん:2007/03/11(日) 08:49:34
江戸時代に治天の君はいなかった
599日本@名無史さん:2007/03/12(月) 23:19:55
不登極帝と治天の君は、次元の違う別の観念だし、
広義門院は正式の治天の君ではなく、治天の君の不在時の一部分臨時代行。
600日本@名無史さん:2007/03/14(水) 14:25:48
香ばしいね。
601日本@名無史さん:2007/03/17(土) 02:55:21
定子さまの息子はイケメンだったらしいよ

602日曜8時の名無しさん :2007/03/18(日) 00:05:44
で?
だから?
どうしたって?
定子はともかく、その息子はスレ違い。
603日本@名無史さん:2007/03/24(土) 11:47:34
定子の息子に天皇になってほしかった。

604日本@名無史さん:2007/03/29(木) 16:13:57
定子厨はうざい
たまには元子萌えとか原子萌えといってみろ
605日本@名無史さん:2007/03/29(木) 21:00:17
そういえば、角田御大が元子萌えだったな。
それ以上に障子萌えだが、あのおっさん。
606日本@名無史さん:2007/03/29(木) 22:26:32
御大も今年で94か。
某サイトで写真見たけどまだまだお元気そうだね。

>>605
元子のようなマイナーな人で新書一冊書いちゃうから萌えてんだろうね。
607日本@名無史さん:2007/04/02(月) 23:48:07
歴史上の人物に萌えなければ、歴史研究などやってられませんよ。
608日本@名無史さん:2007/04/02(月) 23:55:02
流れぶった切って悪いが、神功皇后ってどうして歴代天皇から外されたの?
どうせ実在の人物ではないんだから、放置してても問題無かったと思うんだが
609朴 泰成 :2007/04/03(火) 00:45:47
よう!
名無しでしか言えない2ちゃんのキチガイウヨ共!
喧嘩買ってやるから来いよチキン!
ttp://mixi.jp/show_friend.pl?id=4948865


610日本@名無史さん:2007/04/03(火) 02:26:20
定子さまと一条天皇最高

611日本@名無史さん:2007/04/03(火) 10:46:23
史料編纂所閲覧再開らしい。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1173682679/l50
612609:2007/04/04(水) 00:57:30
池沼かかってこい!
名無しでしか言えない2ちゃんのキチガイウヨ共!
喧嘩買ってやるから来いよチキン!
ヘタレだから2ちゃんでしか議論できないんだよな
バカ共よ俺の日記を拝読して悔い改めろ!
613日本@名無史さん:2007/04/07(土) 12:58:23
よう!
名無しでしか言えない2ちゃんのキチガイ共!
喧嘩買ってやるから来いよチキン!
あんまり煩いからこてんぱんに叩いてやったわ!
メッセも送る勇気もないチキン野郎はすっこんでろ!
どうせヘタレチキンばっかだから名無しじゃなきゃ言えないよな?
この屑野郎が。
ミクシィ id=4948865

614日本@名無史さん:2007/04/12(木) 15:17:39
彰子はどうして女院になることができたのか不思議。たかだか自分の皇子が天皇になったくらいで。
615日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:26:16
それを言ったら一条天皇の生母・詮子だって
自分の息子が天皇になったから女院だけど?
ついでに初期の女院号宣下は国母(天皇の母)に限られていたよ。
だから、彰子が女院になるのは当然であって、不思議でも何でもない。
616日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:08:04
>>614の考えている女院の資格ってどんなの?
所生の子が天皇になる中宮って十分有資格者だとおもうけれど
617日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:14:34
最近色々出没してる定子厨じゃないの?
618日本@名無史さん:2007/04/13(金) 22:00:18
彰子は二人の天皇の生母であり当時の実力者である摂政道長の娘なんだから女院になって当たり前。
619日本@名無史さん:2007/04/14(土) 07:40:55
定子皇后・・・・
620日本@名無史さん:2007/04/14(土) 08:36:01
経緯といえば遊義門院が不思議。
なんで後深草院の娘を亀山院の孫の准母として立后させたんだろう。
621日本@名無史さん:2007/04/14(土) 12:59:44
622x51pace@g .com:2007/04/21(土) 02:06:51
623日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:48:44
定子様の妹はお産でなくなったんでしょ。

624日本@名無史さん:2007/04/22(日) 04:28:32
『後南朝悲史』(フラッシュ)
前編http://zyakusui.web.infoseek.co.jp/flash/gonantyou.html
後編http://zyakusui.web.infoseek.co.jp/flash/gonantyou2.html

これも皇室史だよ。
625日本@名無史さん:2007/04/22(日) 16:27:46
【歴史】歴代天皇人気投票
http://www.37vote.net/school/1160575320/
【歴史】歴代鎌倉将軍人気投票
http://www.37vote.net/school/1160731950/
【歴史】歴代北条執権人気投票
http://www.37vote.net/school/1160469354/
【歴史】歴代足利将軍人気投票
http://www.37vote.net/school/1159980133/
【歴史】室町幕府の名執事・名管領といえば?
http://www.37vote.net/school/1160670444/
【歴史】歴代徳川将軍人気投票
http://www.37vote.net/school/1108792381/
【歴史】江戸幕府の名大老・名老中といえば?
http://www.37vote.net/school/1160328290/
626日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:36:56
[email protected]
↑売国奴
死ね
627日本@名無史さん:2007/05/03(木) 18:42:10
平安時代の皇后とかその女房に関心があります
何かお勧め本とかあれば教えて下さい
628日本@名無史さん:2007/05/04(金) 08:17:17
>>627 『新訂 女官通解』浅井虎夫著、講談社学術文庫

ただ、廃版になってるかもしれないが

単に皇后のみなら【歴代皇后人物系譜総覧】別冊歴史読本、第24号 新人物往来社でいいと思う
629日本@名無史さん:2007/05/04(金) 08:50:14
>>621
>珍説かも知れないけど

漏れはこの説かなり面白いとオモ
学者じゃないから書けたんだろうけど、あの意味深にぼかす厭らしさって女の作品ぽいし

内親王、それも后腹の遊義門院が単なる「後宮(尊称皇后)」ということがまずおかしい
まして遊義門院の母后と大宮院は同腹の姉妹…

まあ真相は闇の中だけど
630日本@名無史さん:2007/05/04(金) 13:36:00
>>629
3、4年前に、准母関連の論文(どこの雑誌だったかは忘れた)の中で
「遊義門院は後宇多と結婚する前は自分の異母兄弟伏見の准母だった
伏見東宮時代に彼の准母として立后した」
みたいな記述を見かけたよ。
伏見准母の根拠として、伏見の内裏に遊義門院が度々出入りしていることを掲げてた
631日本@名無史さん:2007/05/20(日) 02:19:19
ほう
632日本@名無史さん:2007/06/01(金) 18:29:04
伏見天皇の方が先に生まれているから准母は無理でしょう
(女令)子は後二条の准母だろ
633日本@名無史さん:2007/06/01(金) 20:57:32
五条院萌え
634日本@名無史さん:2007/06/05(火) 10:06:24
女院って普通に漢字変換できない字が多すぎ。
635日本@名無史さん:2007/06/05(火) 22:54:30
女院てゆうか、そもそも門号がね。
636日本@名無史さん:2007/06/08(金) 00:17:05
いみなのほうが変換不能な字多いよ。
637日本@名無史さん:2007/06/09(土) 05:26:01
院号名に使われた漢字は、たしかすべての字が入力できたはず。
いみなに使われた漢字で、ある漢字の偏を別の偏に取り換えた字などで、
部首別で探しても見つからず、手書き入力でも入力不可な字は、もうお手上げ。
当時の造字と言おうか、康煕字典にも現代の第3水準漢字にもなさそう。
638日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:52:15
女偏の漢字だとそういうのが多いね
(女皇)子(円融天皇中宮)
(女成)子(三条天皇皇后)
(女令)子(後宇多天皇後宮)
(女青)子(仁孝天皇生母)

639日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:21:12
(女威)子
(女美)子
とかね
640日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:24:09
ごめ間違えた 女美子は内親王の身分だった
641日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:26:50
…いろいろ間違いに気づきました
俺寝ぼけていたみたいです ホントすみませ・・・・・・・
642日本@名無史さん:2007/06/09(土) 13:08:54
>>638>>639
女+皇= ?(手書き) ?(部首別)
女+成= ?(手書き) ?(部首別)
女+令= ?(手書き) ?(部首別)
女+青= 入力無理だけど下記なら
女+= ?(手書き) ?(部首別)

女+威= ?(手書き) ?(部首別)
女+美= 入力無理

自分のパソコン上では入力表示できたけど、
さてネット上2ちゃんで表示させる事ができるかどうか。
643日本@名無史さん:2007/06/09(土) 13:11:02
あちゃあ、無理だった。
644日本@名無史さん:2007/06/09(土) 16:37:30
こういう今では一般的でない漢字ってのは、この人たちの名前以外に使用例ってのはあるのかね?
それとも、この人たちだけの為につくられたオリジナル漢字なんだろうか?
今我々が使っている漢和辞典には載ってないよね?

あと、「女ヘン」っていうに何か意味があるのかな?別にわざわざ女偏つけなくたって名前としては
通用できるじゃん?まあ「皇子」「青子」って名前は変かもしれないけど、「成子」「令子」「威子」「美子」
だけでもいいじゃん。
645日本@名無史さん:2007/06/09(土) 18:02:24
>>644
>こういう〜 過去の中国ではいざ知らず、日本では他の用例はあまりないだろうね。
>それとも〜 オリジナルではなさそう、実際に存在した珍しい漢字なんだろう。
>今我々が〜 中漢和辞典ぐらいなら、存在する漢字の数割しか載っていない。
>あと、〜  現代的感覚やセンスで、昔の史実を批判してもしょうがない。
学者以外は知らないような珍しい漢字を使う事自体に、意義があったのだろうね。
というか高貴な女性が実名を定める時には、漢学者に依頼する習慣があった。
646日本@名無史さん:2007/06/10(日) 14:32:37
>>644
すべて存在する字です。諸橋大漢和を見られたし。
彼女たちの為に字を作るなんてことはありません。
全て中国の古典から採られています。
647日本@名無史さん:2007/06/10(日) 16:44:45
>>644
>今我々が使っている漢和辞典には載ってないよね?

こういうことをいうなら、せめて大漢和に載っているかどうかくらい
確認してからにしたらどうか?
もっとも大漢和レベルのものでなくても、多少詳しい程度の漢和辞典でも
このへんの女性名の漢字の大部分は出ていると思うが。
648日本@名無史さん:2007/06/10(日) 19:51:51
江戸時代以降は漢字はともかく読み方がかわっているね
正親町雅子が「なおこ」と読むのは俺にとっては衝撃だった
スレチだけど貞明皇后や香淳皇后も「せつこ」や「よしこ」だと信じて疑わなかった
649日本@名無史さん:2007/06/10(日) 21:19:53
>>648
いみなは普通は訓読みだから「節子」を「せつこ」のような重箱読みは原則しません。
それに日本史に詳しければ「節」を「さだ」と読む人名の例くらい他にも出てこないか?
650日本@名無史さん:2007/06/11(月) 00:03:08
>>649
「節」は「みさ」とも読んだはず。 「節子」の例で言えば、
「せつこ」(近現代読み)、「さだこ」(古典読み)、
「みさこ」(有職読み)、でいいのかな?
それとも「さだこ」も有職読みで、古典読みだと「ふしこ」?
651646:2007/06/11(月) 03:01:36
>江戸時代以降は
別にそれ以前からかわってます。

>>647
くどいなあ。もう漏れがレスしてるんだから、同内容をかぶせなくてもいいじゃん。
652日本@名無史さん:2007/06/12(火) 14:30:54
>>647
>もっとも大漢和レベルのものでなくても、多少詳しい程度の漢和辞典でも
>このへんの女性名の漢字の大部分は出ていると思うが。

ここは新出情報。
653日本@名無史さん:2007/06/12(火) 16:39:44
しかし、現在では、平安時代の女性名をなぜ一般的に音読みで読み慣わすのかな。
この時代の女性が本名で呼ばれることがほとんどなく、
読み方も伝わってないからとはいえ、音読みではなかったことだけは確か。
平安末期の近衛、二条の二代の皇后であった藤原多子は、養父頼長の日記から、
「まさるこ」という読みであったことがわかっており、訓読みであったことは確か。
「定子(テイシ)」「彰子(ショウシ)」などとは本人たちは自分の名を認識していなかっただろうが
654日本@名無史さん:2007/06/15(金) 14:07:12
姫様のおまんこ舐めたい
655日本@名無史さん:2007/06/15(金) 16:03:45
>>653
同感。
無理のない読みなら訓読みで読んでもいいんじゃないかと。。。
最近訓読みの本も増えてきたけど、まだ(新しいのに)音読み
の本とかもあって何となく気になる;
656日本@名無史さん:2007/06/16(土) 01:43:56
T田ぶんえい氏みたいに全部訓読みしろと?
657日本@名無史さん:2007/06/16(土) 03:56:40
音読み以上に根拠のない訓読みというものは、ないからな。
不明ならとりあえず推測で訓読みしといた方が、音読みよりまだましだと思う。
658日本@名無史さん:2007/06/16(土) 05:05:13
正しい読み方がわかんない以上、音読みするしかないやん。
さちこ、か、ゆきこ、か、あるいはもっと別か、わかんないなら
音読みするしかないやん。
659日本@名無史さん:2007/06/16(土) 05:37:04
音読みが正しい読み方である可能性は、0パーセント。
同時代の史料を検討した上で、推測による訓読みを決めた場合は、
有職読み全盛前の時代だったら、多分70パーセントは優に超えるだろう。
660日本@名無史さん:2007/06/16(土) 09:39:09
>659
天皇の女御や中宮などは、学者を呼んできて縁起の良い名前をつけさせたりしていたようだが、
父親の一字を取って名前をつけることが多い天皇の愛妾や女官の名前などは、有る程度、わかるんじゃないか?
従来、音読みされて来た名前でも、たとえば、
後醍醐妃阿野廉子=従来読み「レンシ」。ただし、「廉」の字は実父阿野公廉(キンカド)からとったものと考えられ、
         正しくは、「かどこ」か。
とかね。
平安末期では、藤原多子(まさるこ)のほかにも、
鳥羽妃藤原泰子(はじめは勲子と名乗り、立后した際、泰子と改名)の父忠通は、
日記の中で、村上妃藤原安子にちなんで、同じ読みの漢字にしたといっており、
藤原安子(アンシ)、藤原泰子(タイシ)などと読みあらわすのは間違い、
正しくは両方の漢字の読みに共通する音である「やすこ」の音であった可能性が高いことがわかる。
こういう風に考えていけば、かなりの名前の読みがわかるんじゃないか。
661日本@名無史さん:2007/06/16(土) 17:07:14
>>660
そのやり方なら、南北朝期以降の女院や天皇生母の名前の訓読みは大部分が特定できる。
但し父親の名前の読みが本当にそれでいいのか?みたいなところまで踏み込むと苦しい人物もあるが。
662日本@名無史さん:2007/06/17(日) 18:51:33
上に定子の息子(敦康親王)の話してるのがいたけど、この親王の娘に
中宮になったのがいたよね。
663日本@名無史さん:2007/06/18(月) 04:10:34
訓読み候補が複数の場合、決めれないやん。幸子みたいに。
「同時代の史料を検討した上で、推測による訓読みを決め」れないから
みんな困ってんだよ。決めれるんだったらとっくにやってるよ。
無理にやるとT田みたいになるw

「やすこ」よりは、まだ「やすきこ」「やすいこ」の可能性が高い。
「たかい(き)こ」高子・貴子・隆子・多賀幾子・尊子など
「あきらけい(き)こ」明子・彰子・昭子・顕子・亮子など
「したがふこ」順子・従子・随子・遵子など
「やすい(き)こ」安子・康子・泰子・恭子・靖子・寧子・穏子など
「よきこ」良子・好子・佳子・嘉子・善子・芳子など
「ひろいこ」弘子・寛子・広子・浩子・博子など
「しげきこ」繁子・滋子・茂子・重子など
「よろこぶこ」喜子・歓子・慶子・悦子など

但し、実際は音読みしていた可能性が高い。
特に以前に話題になった女偏の難字などは。
664日本@名無史さん:2007/06/18(月) 10:10:56
>662
敦康親王は、彰子のもとで育てられた後、彰子の同母弟頼通の庇護を受けて、
頼通の正室隆姫の同母妹に婿入りしていたからね。
敦康親王が19歳で早世したあと、その一人娘(女原子女王)
は、頼通と隆姫の養女として育てられ、後朱雀天皇に入内、立后して中宮となった。
あくまでも、頼通の持ち駒としてだったけれどもね。
敦康親王に同情的だった、後朱雀生母彰子の意向もあったらしい。
中宮は、内親王を二人生んで二人目のお産でなくなってしまい、
結局は絶えてしまったけれども。
665日本@名無史さん:2007/06/18(月) 10:12:17
>>663
>実際は音読みしていた可能性が高い。

だから、そんな史料、ないでしょう?
どこに、妃の名を音読みしていた史料があるの?
出してみて。
666日本@名無史さん:2007/06/18(月) 10:56:50
>実際は音読みしていた可能性が高い。

もしそうなら、音読と訓読の境目ってどこ?
江戸時代の皇族や公家の女性のいみなってほぼ訓読みでよばれるよね。
戦国時代はどうなの?

あと、建礼門院は「とくこ」と呼ぶ人が多いけど、ほぼ同世代の頼朝の妻は「まさこ」って訓読みだよね。
これはなんでだろう


男性の名前って100%訓読みで呼ぶのに、同時期の女性だけ音読みっておかしくない?
667日本@名無史さん:2007/06/18(月) 11:06:59
女性名を、音読みしていた事実はないよ。
男性名も、死後音読みする習慣はあったようだけど、生前は訓読み。
「藤原定家(さだいえ→テイカ)」って感じ。
668日本@名無史さん:2007/06/18(月) 11:47:34
「やすきこ」だの、「やすいこ」だの、
いちいち、「い」だの、「き」だの入れる読み方は、
必ずしも当てはまらないと思うよ。
清和天皇妃に多賀幾子(たがきこ)という人がいたのは事実だが、
車持与志古(よしこ)
蘇我刀自古(とじこ)
という人名もあったからね。
音読みはもっと間違いだが。
669日本@名無史さん:2007/06/18(月) 14:42:31
>>666
本名としての2文字の○子の正式の読み方に、音読みが加わるのは明治以降。
江戸時代以前は、まずすべてが訓読み。

建礼門院徳子は、(のりこ)。
(とくこ)は現代人による、まあいわば百姓読みのたぐい。
歴史を充分心得た人ならば、使わないだろう。
670日本@名無史さん:2007/06/18(月) 14:57:37
平安前期以前はともかく、平安中期以後では、
○子は、(2音節の訓読み)+(こ)が主流だろう。
(2音節の訓読み)部分は、男性名の2文字に使われた読み方が参考になる。
671日本@名無史さん:2007/06/18(月) 15:31:40
建礼門院平徳子は、「なるこ」の可能性はないの?
現在の皇太子「徳仁(なるひと)」。

明治以降、女性の名前に音読みが加わったのは確かだけれども、
皇族の名前の中には、古今にのっとったものもまだまだ多い。

不思議な読み方をしている663君は、「良子」の読みを「よきこ」とかいているけれども、
昭和天皇の皇后の名、「良子(ながこ)女王」、「良」を「なが」と読むことに関しては、
平安時代中期の後朱雀天皇の名「敦良(あつなが)親王」に例がある。
(敦良を「あつなが」と読むことに関しては、同時代史料の紫式部日記に記載がある)。
後朱雀皇女の良子内親王なども、やはり読み方は「ながこ」であると思う。
672日本@名無史さん:2007/06/18(月) 16:04:02
>>671
徳(なる)は有職読み(公家読み)だから、
平安末までの時代に、他例があるかどうか。
古典読みの徳(のり)の方が、蓋然性が高い。
673日本@名無史さん:2007/06/18(月) 16:28:54
平安時代、「徳」の字が使われた男性名は散見されないね。
徳子の「徳」を、「とく」「のり」「なる」、
必ずこう読んだ、というのはわからない。
有識読みというのは、なんのことをいっているのかな?
「公」を「きん」と読むなどの特殊読みは平安時代にも見られるし、
近世以降に発達した特殊読みの漢字というのは
どういうもののことをいっているの?
674日本@名無史さん:2007/06/18(月) 17:35:55
>>673
平徳子、「とく」だけは音読みなので違うでしょうね。
公「きん」は、「きみ」の音便なので古典読み。

ごめん自分の勘違い。有職読み(公家読み)ではなくて、単に「公家読み」。
公家読みとは、室町時代から徐々に始まり、江戸時代後期に激化。
武家社会でも使われる古典読みに対して、普通では読めないような難読の訓読み。
なにがしかの典拠に基づいて、あるいは適当な牽強付会によって定める。
武家に対して、優越意識を誇るための一手段。

純いと・清すが・富たか・任ただ・平とし・雅なを・親より・順をさ、の類。古典読みでは、
純すみ・清きよ・富とみ・任たふ・平ひら・雅まさ・親ちか・順より。
675日本@名無史さん:2007/06/19(火) 01:01:06
>>668
多賀幾子は「たかきこ」じゃなくて「たがきこ」なの?

なんか「賀」の字は昔は清音で読まれることのほうが多かったと聞くが。
676663:2007/06/19(火) 12:05:33
まじでびっくり。おまいら「あきらけいこ」「たかいこ」知らないの?
動詞にしろ形容詞にしろ、「連体形+子」にするのなんて常識。
終止形や語幹になったのは院政期以降。

>>671
だから、「ながこ」じゃなくて「ながき(い)こ」

徳子とか訓読み候補複数あって確定出来ないんだから、音読みしておくのが無難
でしょ。「ていか」と同じことだよ。間違った訓読みするより、そのほうがベター。
677日本@名無史さん:2007/06/19(火) 12:47:50
>676
だからあ、「あきらけいこ」「たかいこ」は、「たがきこ」と同じ、平安初期でしょ?
それより早い段階では「連体系+子」の名前など見当たらないし、
それより新しい時代でも見当たらない。
むしろ、清和天皇の前後にはやってただけの名前でしょ。
院政以前はすべて「連体系+子」だったというなら、まず、史料を出して。
それより、「良子」を「よきこ」なんて呼んでたのは封印したの?

実際は音読みだったなんていってた人が、音読みのほうが無難だなんて急に覆したねw
音読みしてた史料、出してね。
678日本@名無史さん:2007/06/20(水) 01:38:18
すいません、どなたの言ってることが通説なんですか?
679日本@名無史さん:2007/06/20(水) 07:31:59
自分も>>677に賛成、>>676に反対。
長々しい「連体形+こ」は平安前期中心の、それも上流層だけの流行特例だと思う。
同時代の万葉仮名書き3文字の○○子が、「和語2音節+こ」だろう事を考えれば、
○子型の女性名は「訓読み2音節+こ」だったろう事が、平安〜江戸時代の主流だろう。

とりあえず訓読みしておけば、別の訓読みの方が正しいという議論の余地を残せる。
「音読み+し」に固定してしまうと、将来の議論の発展の芽を摘み取る。
いや、江戸時代以降の学者による音読みの悪習が、今まで芽を摘み取って来た。
680日本@名無史さん:2007/06/20(水) 11:54:58
そうかあ、俺は間違った訓読みされるより、まだ音読みの方がいいけどなあ。
父親の名をつけるようになったのは院政期以降だから、それ以前には通用出来ない。
内親王など大漢和にも訓が出てないような難字は、音読みするしかないと思うけどなあ。

>それより、「良子」を「よきこ」なんて呼んでたのは封印したの?
あのね、同じ字だって何通りもの読み方があるの。『二中歴』見てみなよ。
あんたにあわせて、もし「ながし」なら「ながき」だってこと。
「よし」なら「よき」だし、「きよし」なら「きよき」だし。

清和って平安初期なのかあ? 俺なんか初期って言うと、何となく桓武〜淳和
くらいまでだと勝手に思ってたんだが。摂関期は中期で、院政期は後期、みたいな。
681日本@名無史さん:2007/06/20(水) 13:10:05
>>680
訓のない難字でも音読みではなく、漢字の持つ意味を採った訓読みだったろうと思う。
そんな難字は漢学者の勘考進呈であり、同時に必ず万葉仮名による読み方が添えられる慣習。

確かに初期という言葉は余り良くない。中期・後期に対応する言葉は前期だろう。
平安初期だと自分の感覚では、人臣摂政の初例となる清和朝の前、文徳朝まで。

平安前期だと自分の感覚では、摂関常置となる冷泉朝の前、村上朝まで。
政治史ではなくて、文化史・美術史上の平安前期となると、
自分の感覚では、遣唐使廃止ごろの9世紀いっぱい、宇多朝ぐらいまで。
682日本@名無史さん:2007/06/20(水) 16:17:23
>>680
正しい可能性も間違ってる可能性もある訓読みの方が、
完全に間違ってるしかないだけの音読みよりも、ずっといいでしょ。

‥‥という考え方の方向に、最近の学会では修正されつつあるんだと思う。
「連体形読み」と「公家読み」については、個人的時代的に根拠のある人物以外は考慮せずに、
不明なら代表的「古典読み」か、難字は字義を和語に翻訳し「2音節訓読み」で読めばいい。
新史料の発見や学説の進展によって、個人ごとの読みは変わっていくだろうけど。
683日本@名無史さん:2007/06/20(水) 16:54:00
>>680
結局、あんたの主張する、
「実際は音読みだった」っていうのは、誤りだったと認めたわけねw
清和が初期だというのは、平安中期は摂関全盛期を連想するから。
淳和までだなんて、あんたの妄想でしょ。
「ながき」だの、「ながし」だの、くだらないこといってないで、
誤りは誤りだと認めたら?
684日本@名無史さん:2007/06/20(水) 17:30:11
>正しい可能性も間違ってる可能性もある訓読みの方が、
>完全に間違ってるしかないだけの音読みよりも、ずっといいでしょ。
個人の趣味の違いかもしれんが、俺は間違った訓読みされるより音読みがいい。
なにぶんふだんからそういう経験してるもんだから。
個人に対する冒涜だと思うんだ、私的には。

>‥‥という考え方の方向に、最近の学会では修正されつつあるんだと思う。
そんな変なことしてるのはT田くらいだよ。
良識ある学者は音読み。

>淳和までだなんて、あんたの妄想でしょ。
きついね。俺はただ何となく前中後はそんな風に思ってた、程度の話だよ。
別にムキになってないよ、この点は。(前レスの書き方でわかると思うが)
初期なら初期でもいいよ。上のレス見ても人によって分け方それぞれだし。

>「ながき」だの、「ながし」だの、くだらないこといってないで
くだらなくないね。連体形で読んでたのなんて初歩も初歩、基礎的知識だから。

>院政以前はすべて「連体系+子」だったというなら、
>平安前期中心の、それも上流層だけの流行特例だと思う。
俺は全てなんていってないよ、だいたいここは国母のスレだろ。
后妃や内親王の話だよ。後者の言うとおり。庶民の話なんかしちゃいない。

>同時に必ず万葉仮名による読み方が添えられる慣習。
「必ず」なんて軽々しく書かないほうがいいよ。
そうでないことは、683のながこ兄ちゃんが知ってるよ、なw
685日本@名無史さん:2007/06/20(水) 17:36:55
江戸時代だといろんな公家の日記が残っているから名前がつけられるときに読み方ものっているみたいだけど
それ以前の時代だと、誰かの日記や史料なんかに読み方も一緒にのっていないのかな?
イミナだから実際に名前を呼ぶわけではないので、読み方は重視されなかったの?
686日本@名無史さん:2007/06/20(水) 18:42:24
>>685
>イミナだから実際に名前を呼ぶわけではないので、読み方は重視されなかったの?

そんな事はないと思う。実名を定めるという事は漢字を決めて、
読み方も何通りかに読めるうちから、1つだけ決めるという事だろう。
現実生活上呼ばれる事はめったになくても、読み方が決まっていないと、
例えば、立后の宣命・詔書を、役人が読み上げる事ができなくなってしまう。
687日本@名無史さん:2007/06/20(水) 20:18:37
>>684
>なにぶんふだんからそういう経験してるもんだから。
>良識ある学者は音読み。
もしかしたらあなたは歴史学ではなくて、文学畑の人なんじゃないでしょうか。
そうだったとしたら、音読みの伝統が強固な世界なので固執するのも仕方がないですね。

自分は学会人でもないけど、学会(学界のミス!)と言ったのは歴史学を指してです。
最近の日本史関係の書籍では、例えば彰子(しょうし)のような音読みルビを振る事を、
全く行わない本が、昔と違って増えてきていると感じたからです。
建礼門院平徳子(のりこ)・式子(のりこ)内親王といった、訓読みのルビも目にします。

>「必ず」なんて軽々しく書かないほうがいいよ。
確かにそうでしたね。だけど漢学者しか見た事がないような難字勘考の折に限ったら、
ほぼ万葉仮名による読み方も添えられたはずだと、やはり自分は思ってます。
通常複数候補差し出す中から決める父親にとって、漢字と読みとは両方重要要素なので。
688日本@名無史さん:2007/06/21(木) 02:28:59
>もしかしたらあなたは歴史学ではなくて、文学畑の
いや、史学だよ。あなたこそ史学っぽくないね。

>ほぼ万葉仮名による読み方も添えられたはずだと、やはり自分は思ってます。
思うのは勝手だが、それは史学とは言わない。
そうでないことは、683の「長」子兄ちゃんが知ってるよ、なw
私や恐らく同業者であろう683氏が稍喧嘩腰で自信満々カキコしてるのは
根拠となる史料があるからだ。思う、なんてのは学問とは無縁の言葉だ。
689日本@名無史さん:2007/06/21(木) 03:19:04
>思う、なんてのは学問とは無縁の言葉だ。
もしかしてお子様?底の見えるいきがり方はどうかと思うなぁ
690日本@名無史さん:2007/06/21(木) 09:31:53
>>688の人って、同業者なんて言葉からすると、
史学を「職業」とする人なの?
その割には口調や態度が、人格未成熟っぽくて、
先生と呼ばれる人には思えないけど。
どこぞの院生ぐらい?
691日本@名無史さん:2007/06/22(金) 00:45:43
頭隠して尻隠さずってやつだな。
こういう手合いは耐性ないから
あまりつつくとファビョるぞ。
692日本@名無史さん:2007/06/22(金) 09:22:40
ただの一般大衆の歴史好き、文学好きな者だけど。

普通に詩文好きなモノ同士で話すときとかも
(例えば)「式子内親王」を「しきし」か「しょくし」か
瞬間悩んでしまうのだけれど、
一般民レベルでの、百人一首のときとかどう読めばいいのだろう。
693日本@名無史さん:2007/06/23(土) 09:28:17
>>689
思うのはあんたの自由さ。

>>690
大学教員に人格を求めるなよ。最近のニュース見てれば分かるだろ。
てゆうか先生呼ばわりされてる奴に、まともな奴なんていない。
医者・政治家・弁護士・評論家・教員‥‥
694日本@名無史さん:2007/06/25(月) 01:47:55
>>693
なんかレス先に対して
それぞれまとはずれなレスだな
695日本@名無史さん:2007/07/05(木) 04:46:30
>>680
平安時代を初期・中期・末期に三分する場合、一般的なイメージでは、
六国史が終了する9世紀末までが初期、
その後の宇多・醍醐あたりから後三条即位あたりまでが中期、
それ以降が末期、
だと思う。

また単に「摂関期」と言った場合、一般的には摂関が常置となる安和の変以降を
指すことが多い。
清和天皇の在位した9世紀半ばだと、中央政界における藤原北家の台頭や
摂関政治の萌芽が見られるという程度の状況であり、この時期を「摂関期」と
見なすようなコンセンサスは多分ないと思う。
696日本@名無史さん:2007/07/05(木) 07:36:29
初期・中期・末期なんて分け方はしない。
三分なら前・中・後、五分なら初(早)・前・中・後・末(晩)、
七分なら草創(最初)・初(早)・前・中・後・末(晩)・最(終)末。
697日本@名無史さん:2007/07/05(木) 21:51:06
昔から興味あるのが陽明門院。
698日本@名無史さん:2007/07/06(金) 22:40:02
「思ひの儘の記」によると江戸時代の女院といっても、正妃として院号宣下を賜る人は「女院」、
生母として宣下を賜るひとを「門院」といって待遇に差があるらしい

「思ひの儘の記」には江戸時代後期の朝廷のいろいろなエピソードが載っていておもしろい
699日本@名無史さん:2007/07/07(土) 01:49:20
院号が「○○門院」でなくて正妃でもない人はどうなるんだ?
例えば後鳥羽生母の七条院とか。
700日本@名無史さん:2007/07/07(土) 12:48:51
>>698
そりゃ、女御・中宮・皇后・皇太后を経て女院となった人と、
典侍等上がりで天皇生母となり女院となった人とでは、待遇に差があっただろう。
大宮御所(まだあったかどうか知らないけど)の主人となれるかどうかとか。

>>699
言いたい事はわかるけど、江戸時代後期に存在した女院に対する話でしょ。
例えを出すなら仁孝生母の東京極院ぐらいだけど、没後の贈女院だし。
701日本@名無史さん:2007/07/07(土) 18:05:16
新中和門院や恭礼門院は正妃でなおかつ天皇の生母だね
新中和門院は桜町天皇を産んで死ぬし、恭礼門院は夫や二人の息子に早死されて二人とも不幸だね
702日本@名無史さん:2007/07/07(土) 22:30:16
         /                 ヽ、_
        /   /                     ヽ
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     /   / |  | ゙、 l                ヽ,
    /   /  \ヽ, ヽ.ヽ.ヽ.ヽ_  ヽ           i
    /   |     ヽ; _ ヽ_ヽ._ヽ_ヽ  \ヾ、          |
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    | i )|  ヽ. _`'゚'´_ _ノ i    ヽ._ _`'゚'´_ ,ノ  | 人, |
    i ヾ ( |  ,    ̄   ,'i         ̄  .  | !)/
    ヽヽ | '         ´ !  ;        ヽ | ノ /
     ゙、ヽ!            i             リ /!
       |ヽ-!      / /  丶 ヽ       /_/ |
      |  ヽ      ヽ-、   , -‐'      /´! |   ______
      ヽ| ヽ       `ー ‐'        / リ /   |
       ヽ|| ヽ    ー‐‐‐-‐‐‐一    / i i/  < 歴史は繰り返す
         ヽ.| ヽ     - - - -     / | j/    |______
         |  ヽ  ,           /  |´        
        _/   ヽ '          /   !_       
         / `ー、_  \ _____ /  _, -' ヽ   
      /     `ー 、 _ _ _ _,- ‐'´   ヽ 
703日本@名無史さん:2007/07/08(日) 09:19:35
新中和門院は死後の贈名。
生前の地位は女御で、院号宣下を受けていない。
恭礼門院も、夫桃園天皇在位中は女御で、
夫の死後立后、院号を受けている。
704日本@名無史さん:2007/07/08(日) 10:32:49
東京極院というと新しい辞典(吉川弘文館『日本史総合年表』だったと記憶している)で生母は「家女房」になっていた・・・今までは池田仲庸女といわれていたのに。
ホントのトコはどーなんだろう?
705日本@名無史さん:2007/07/08(日) 12:39:08
昔だったら更衣でも生母はそれなりの身分だったイメージなのに江戸時代になると生母家女房の女御が多いな
706日本@名無史さん:2007/07/08(日) 13:10:34
>>705
お公家さんが相対的にボンビーになったから?
707日本@名無史さん:2007/07/08(日) 18:47:10
東大の史料編纂所にある「勧修寺家譜」だと母は家女房になっている
辞典のほうはそっちからとったんじゃない?
708日本@名無史さん:2007/07/08(日) 18:55:15
正室の「実子」扱いになって入内することが多いから、
対外的に実母をかくしていた可能性もある。
家女房に至っては、娘が天皇に入内しようとも、
名前すら残っていないことも多いし・・・
709日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:40:57
というか近代になると高貴な生まれの女性はほとんど子を産まなくなるね
まあ腹は借り物になり身分が固定化されてしまったから必死に大勢の子を生む必要がなくなったけどね
近代だったら倫子のように大臣クラスの娘が40過ぎても子を産み続けることなどまずないだろう
近代だと穏子のようにウルトラCを起こすことなど不可能w
710日本@名無史さん:2007/07/09(月) 21:35:21
そう思うと、20代後半から40代半ばまで9人子供を産んだ逢春門院や
30代から40歳までで5人産んだ壬生院はすごいな。
711日本@名無史さん:2007/07/09(月) 21:48:07
壬生院や逢春門院の生母ってどこの出身なんだろう
あと壬生院や逢春門院は同母兄弟はいるのだろうか
712日本@名無史さん:2007/07/09(月) 22:27:39
>>709-710
近世
公家は割と歳いってから子ども生んでいる例が多いような。
武家も初期の頃はお江与の方の例で分かるように高齢出産もあったが
後になったら「30歳で引退」のルールが確立してウルトラcは無くなりましたね。
最も水戸斉昭正室吉子のように30オーバーで慶喜生んだ例もあるが
吉子自体が宮家出身で斉昭もとんでもない香具師だし例外中の例外かと。
713日本@名無史さん:2007/07/11(水) 15:37:06
武家は必死になって跡継ぎを設けるため子供を作ろうとするから、側室を置くことによって
正室はある程度の年になって隠居しても外腹に子供でできるからOKってことなのかな
714日本@名無史さん:2007/07/17(火) 21:39:34
>>706
むしろ貧乏になったら正室以外に側室を囲う事なんて出来なくなると思うが。
また娘を入内させるにしても、その娘の生母が家女房よりは正室のほうが、
体面だけでなく経済面でもプラスのことが多い。
明治天皇の生母慶子を出した中山家なんかは、慶子の母愛子(中山忠能正室)の
実家である平戸藩松浦家からかなりの経済的支援を受けていたようだし。
715日本@名無史さん:2007/07/17(火) 21:41:35
>>712
徳川家治生母の梅溪幸子なんかは、家治出産時の年齢が31歳だけど、
懐妊時30歳だからギリギリってところか?
716日本@名無史さん:2007/07/18(水) 01:16:28
>>715
武家方の話はスレ違いなのであまり深入りするのも、顰蹙を買いそうだけど・・・。
徳川家治生母の梅溪氏お幸の方は、生年未詳だったはずだと思うんだけど、
出産時31歳というのは信頼できる史料からなのでしょうか?  出典をお願いします。
717日本@名無史さん:2007/07/20(金) 14:52:59
>>714
武家みたいに正式に家臣として採用されてる側室は少ないんじゃないの?
718日本@名無史さん:2007/07/20(金) 16:22:08
上東門院藤原彰子って二人の天皇の生母にしか過ぎないのに女院になる資格あるのかねぇ?
719日本@名無史さん:2007/07/20(金) 16:24:11
>>717
天皇の側室はすべからく天皇に仕える女官だよ。
つまり、正式採用の女性官僚。
そうでなければ、天皇の目の届くところにあがれないからね。
内侍あたりで手をつけて、権典侍辺りまで出世。

720日本@名無史さん:2007/07/20(金) 16:26:33
>>718
前も出てたね、その質問。釣り?
史上初の女院、東三条院藤原詮子は、
一人の天皇の生母にすぎないのに女院になりましたが何か?
721日本@名無史さん:2007/07/20(金) 16:29:39
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722日本@名無史さん:2007/07/20(金) 17:04:27
>>719
天皇家はそうだけど宮家や公家はそんなことないと思う。
723日本@名無史さん:2007/07/20(金) 23:47:59
>>718
じゃあ聞くけど3人以上実子が天皇になった女院はいるのか?
実子2人が天皇になった女院だって。上東門院、待賢門院、大宮院、広義門院ぐらいだろ?

つりにマジレスしちゃったww
724日本@名無史さん:2007/07/21(土) 01:06:26
>>723
不登極帝を入れていいなら七条院も。
725日本@名無史さん:2007/07/21(土) 15:43:51
>>722
武家も、江戸城大奥は正式雇用された女中だったけれど、
一般の大名や旗本、下級武士にいたっては、そんなことなかったな。
726日本@名無史さん:2007/07/21(土) 18:33:44
727日本@名無史さん:2007/07/21(土) 20:01:50
鳥羽天皇皇后泰子のように母親が天皇の愛人だった人は他にいるの?
728日本@名無史さん:2007/07/23(月) 06:16:13
泰子の母源師子は特殊。
729日本@名無史さん:2007/07/28(土) 19:26:29
道長の娘の嬉子って、最初
どうして女御じゃなくて、尚侍だったの?
730日本@名無史さん:2007/07/28(土) 22:26:40
夫の敦良親王は当時まだ天皇になってない
731日本@名無史さん:2007/07/31(火) 23:06:57
じゃあ尚侍じゃなくても東宮妃(御息所)でいいじゃん!
と思ったが、ライバルを一人でも少なくする手段
だったのかもね、尚侍としての出仕は。
それとも、朧月夜みたいなウワサでもあった…のか?
732日本@名無史さん:2007/08/01(水) 00:04:13
その御息所=尚侍でもあったりするんだな〜
あと尚侍は姉・威子の後を受けたものでもあるから、
一種の箔付け。
733日本@名無史さん:2007/08/01(水) 22:45:31
妍子も威子も入内前は尚侍だったよ。
嬉子だけじゃない。
それに嬉子が尚侍に任官されたとき、
敦良親王(後朱雀天皇)はまだ元服前だった。
734日本@名無史さん:2007/08/08(水) 13:11:39
尚侍(ないしのかみ)は皇妃に、典侍(ないしのすけ)は乳母に与えられる
称号になってしまい、内侍司(ないしのつかさ)を実際に取り仕切るのは
掌侍(ないしのじょう)になってしまったようですね。

嬉子(よしこ)が長生きして子をたくさん産んでいれば、後朱雀に禎子(よしこ)
内親王が嫁ぐ必要もなく、後三条・白河の登場もなかったはず。
735日本@名無史さん:2007/08/12(日) 16:52:08
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1154231784/l50


274 :日本@名無史さん:2007/08/08(水) 10:03:49
女院号は、何故「〜門院」と御所の門にちなむ場合が多いのでしょうか?

女院が女陰=オメコ=陰門を連想させるから?


275 :日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:37:07
女院スレで聞けよ。
736日本@名無史さん:2007/08/13(月) 01:14:18
>>734
「ないしのさかん」はいないの?
737とおりすがり:2007/08/13(月) 03:43:58
>>736内侍司の職別は【大宝(養老)令】に尚侍2人、典侍4人、掌侍4人、女嬬100人とある 女嬬は他の後宮の司にもおかれたから<さかん>とはいいにくいが
ちなみに命婦は四位、五位の位階を有する女性のこと 元の意味はこうだが実質はわからない
738日本@名無史さん:2007/08/16(木) 08:27:20
女院と皇后だったらどちらがえらいというか格上なの?
739日本@名無史さん:2007/08/16(木) 22:37:55
上東門院・藤原彰子(一条中宮、後一条・後朱雀生母、後冷泉祖母)
陽明門院・禎子(よしこ)内親王(後朱雀皇后、後三条生母、白河祖母)

この二人は、明らかに皇后よりも格上。ただし、時代が下るとそうでもない。

八条院・ワ子(あきこ)内親王(二条准母)

「ただの院号は后位より貴かるべからざる事なり」
                  藤原伊通『百錬抄』
宣陽門院・覲子(あきこ)内親王(准后)

「后位に非ず、母儀に非ず、院号を蒙むるの例、今度始めなり」
                  九条兼実『玉葉』

女院号の乱発が、その重みを失わせているようです。
740日本@名無史さん:2007/08/26(日) 14:24:41
もともと、「女院」は、天皇の父親である「院(=上皇)」に匹敵する地位で、
天皇の生母が、天皇や政に対して絶大な発言力を振るうために設けられたもの。
摂政藤原道隆が、幼帝一条天皇の治世を有利に操るために、
自分の妹で一条生母藤原詮子に院に匹敵する地位を与えようとしたのが始まり。
当初は、天皇の生母が、皇太后や太皇太后を経てたどり着くのが女院の地位だった。
(・東三条院詮子(一条生母);皇太后から女院になる
 ・上東門院彰子(後一条、後朱雀生母);太皇太后から女院になる)
摂関期末期より、天皇の生母ではない女院が登場。
(・二条院章子内親王。後冷泉天皇の中宮、のち皇后。
 白河天皇妃立后の際、四后に空きがなかったため、太皇太后から繰上げで女院になる。)
とはいえ、ここまでは、天皇の妃でかつ四后のいずれかの地位にある人が女院となるという原則が貫かれていた。
ところが、白河院政期以降、鍾愛の未婚の皇女が天皇の「准母」という形で女院号を受ける例が出てくる。
(白河皇女郁芳門院;弟堀河天皇の准母として未婚のまま立后、中宮と称し、ついで女院となる。)
女院号を受けた未婚の皇女は、多くの荘園を譲られ、優雅に暮らす例も多かったが、
それ以前の女院に比べると、明らかに政治的発言力を失い、
宣陽門院(後白河皇女・母は丹後局高階栄子)以降は、准母ではない未婚の皇女にも女院号が与えられるようになった。
同じ女院であっても、未婚の皇女上がりの人はそれほどの権限は有していなかったけれども、
のちの時代においても、天皇の妃であり、かつ、中宮、皇后、皇太后や太皇太后などを経て
女院になった人は相当な権威を有していた。
741日本@名無史さん:2007/08/27(月) 00:41:11
下記スレで本郷が大暴れ。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1180568513/
742日本@名無史さん:2007/08/28(火) 21:07:10
「女院」は「にょいん」と読んで「女」の字を呉音読みするのに、
「男院」は「だんいん」と読んで「男」の字を漢音読みするのは何故ですか?
743日本@名無史さん:2007/08/28(火) 22:58:32
后位(皇后・皇太后・太皇太后)にあり、さらに天皇の生母(国母)だったのは
100人以上の女院の中で、15人しかいないようだ。そうすると、ほとんどの女院は
権威のない称号のようなものか?
744日本@名無史さん:2007/08/31(金) 09:45:58
あと、経済的なものもあったんじゃない?
745日本@名無史さん:2007/09/05(水) 19:53:11
江戸期の天皇生母の場合
入侍→皇子出産→任官→立太子→即位→先代中宮女院へ→
               女院死亡→女官から女院へ→出家
と云う感じだったと思う。
鎌倉期ほどの経済力は無かった。
746日本@名無史さん:2007/09/05(水) 20:14:44
江戸時代でも、天皇の正妃である中宮や女御の場合、女院になる時期は早かったね。
天皇生母の女官が女院号を受ける場合は、
息子の天皇が亡くなったときか、自分が死ぬ寸前(または死んだ直後)だった。
女院には、皇后や皇太后の称号のような定員がなかったから、
必ずしも、前の女院が死ぬまでほかの人は女院号が受けられなかったわけではないよ。
後水尾天皇など、自分の中宮や愛妾を4人も女院にしているからね。
747日本@名無史さん:2007/09/05(水) 20:34:17
すいません、いい加減な記憶で書き込みしちゃいけなかったですね。

>女院には、皇后や皇太后の称号のような定員がなかったから、
>必ずしも、前の女院が死ぬまでほかの人は女院号が受けられなかったわけではないよ。
何で正妻格の女院の死後で無いと女院になれないかというと、正妻格の女院に対して
遠慮があった云う事が上げられる。
748日本@名無史さん:2007/09/05(水) 20:55:00
後水尾院も4人女院にしたけど、2人は追贈だし。

天明4年に青綺門院、開明門院、恭礼門院、盛化門院同時に立ってた。
その年の内に盛化門院が崩御してるからその前後18年間は3人、
その前にも2年間だけ、新上西門院、敬法門院、承秋門院が3人同時に立っている。


女院は女院用に財政基盤があったのか、仙洞御所の分から分けてもらっているんだろうか
749日本@名無史さん:2007/09/06(木) 09:46:17
女院は女院分で宮中から出費がなされていたね。
二条院は、初めて国母でないのに女院となった女性で、
当初、宮中から貰う女院としての御封を辞退しようとされた。
そのために、二条院を養育してきた上東門院が、
自分の分を、半分二条院に分け与えるということをしている。
だけど、本来、女院には女院分として、宮中から御封が支払われていたよ。
750日本@名無史さん:2007/09/07(金) 01:37:32
しかし、江戸時代の朝廷の経済力って悲惨な状況でしたよね?
室町末期から桃山時代よりはマシとはいえ、経済基盤とか気になります。
実際はどうだったんでしょう?
751日本@名無史さん:2007/09/07(金) 10:25:40
江戸時代は王朝時代のような経済力が朝廷になかったからといって、
朝廷を運営するのに最低限必要な費用は幕府がまかなっていたわけで。
禁裏御料から朝廷費用のなにもかもがまかなわれていたわけではなく、
公家の扶持や内裏、仙洞御所の建築費は、それとは別に幕府が出していたしね。
仙洞御所の北側には、これに匹敵する規模の女院御所があり、
(建築費は、禁裏御料とは別に、勿論幕府もち)
江戸時代においても、朝廷内で女院は上皇と並んで相当の権限を有していた。
(あくまでも朝廷内ね。それは、江戸時代は幕府のほうが権力があるから)。
女院の扶持とは別に、膨大な化粧料を生涯幕府から受け、
一度着た衣装は二度と着なかったという徳川家出身の東福門院は別格としても、
女院は朝廷内でそれなりの役割と待遇が与えられていたよ。
勿論、これは、女御や中宮から女院に上がった天皇の正妻の場合で、
女官から天皇生母という理由で女院に上がった女性の場合、
江戸時代では出家したときや死後にはじめて女院号が贈られることが多く、
生前、ほとんど女院としての扶持や権限を与えられることはなかったようだけれども。

752日本@名無史さん:2007/09/13(木) 00:50:23
何かで読んだんですが
 皇后(中宮)でありながら、その所生の皇子の立太子が無かったのは
 一条天皇の皇后定子のだけ
と有ったのですが、他に例は無かったのでしょうか?
若くに亡くなってしまった例は、除いてです。
ご存知の方いらっしゃいませんか?
753日本@名無史さん:2007/09/13(木) 03:50:14
>>752
言われてみれば何となくそんな気もしますね。

ただ若くに亡くなってしまった例、というのが、
所生皇子を指すのか皇后中宮自身を指すのか、まあ多分所生皇子を指すんだろうけど、
幼児立太子例も多いのでそれとのバランス上、亡くなった若さとは何歳位を指すのか。

また追尊皇后や皇后以前の称の大后も含むのか、扱う時代の範囲はいつからか、
(歴代一覧などでは形式上建前上、立皇后・立皇太子の記事は初代神武天皇からある)
等等、色々と細かく定義してくれないと、しらみつぶしに検証する気がしないです。
754日本@名無史さん:2007/09/13(木) 09:34:05
>>753
少し違うかもしれないが、光格天皇の中宮欣子内親王かな。
当初、欣子内親王の皇子温仁親王が儲君に立てられていたが、早世。
そのため、光格天皇の庶子恵仁親王が欣子内親王の養子となって儲君となる。
しかし、欣子内親王は38歳のとき、16年ぶりに出産、悦仁親王が誕生。
悦仁親王は中宮のまぎれもない実子であったが、
恵仁親王の儲君の地位は代わらず、悦仁親王は立太子しなかった。
755日本@名無史さん:2007/09/13(木) 13:19:15
>>753
説明不足ですいません。
若くして亡くなるは、所生皇子の事です。
どの位が範囲かと言うと、ちょっと難しいですね。
聖武天皇の基王とかの例もあるので、立太子の年齢って微妙ですから。
一応、立太子の可能性がありながら元服前に亡くなった方除く方向でお願いします。

追尊皇后や大后は含まない方向で、お願いします。


>>754
経緯はどうあれ、温仁親王が儲君に立てられいる以上、除外ですね。
また、悦仁親王はたしか元服前に亡くなってますよね?
私見ですが、もしきちんと成長されたら、仁考天皇は中継ぎ的で悦仁親王が
嫡流になったかな?って思うんです。
756日本@名無史さん:2007/09/13(木) 13:41:16
歴史家の間では当然のごとく知られていますが
天皇家には朝鮮半島の血が混じっています


【ネトウヨ】 天皇家は韓国系 2 【脂肪】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1188184490/


天皇陛下  日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。
韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。
宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。
こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。
日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。
私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。
また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。
 しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。

 ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が,
それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。
ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。

http://www.kunaicho.go.jp/kisyakaiken/kisyakaiken-h13.html
宮内庁ホームページ
757日本@名無史さん:2007/09/15(土) 20:32:39
>>752
おそろしく昔だけど宣化天皇は皇后との間に息子がいたけど異母弟で皇后腹の欽明天皇があとを継いだ。欽明天皇の皇后は宣化天皇と皇后の娘で二人の間には敏達天皇が生まれている。
ちなみに欽明天皇生母と宣化天皇皇后はともに武烈天皇の同母姉妹でその母は雄略天皇が采女に産ませた皇女。

間違っていたらゴメン。
758日本@名無史さん:2007/09/16(日) 12:24:15
汚らしいツラの売春婦交合が嘘100%のお世辞に有頂天になってるのが馬鹿まるだしで笑えるよね。
裸の王様の話も理解できない猿並みの知能なのかもね。
759日本@名無史さん:2007/09/28(金) 12:26:21
質問します。
最も身分の低い出身の女院その他は誰で、
その階級は何位ですか?

760日本@名無史さん:2007/09/28(金) 13:18:50
どんな出自であれ、女院になる以上、従三位は貰っていたと思うのだけれども・・・
既出かもしれないけれども、身分が低かったのは嘉楽門院では?
藤原孝長の娘といわれていますが、父親の系図は不詳。母親は不詳。
御所に出仕するに当たって三位和気郷成の養女となり、当初は、
和気郷子と名乗っていたことが分かっています。
さらに、後花園天皇の手がついたため、
太政大臣大炊御門信成の養女となって、藤原信子と改名しました。
子の後土御門天皇が即位すると准三宮、出家後、院号を受けました。
761日本@名無史さん:2007/10/01(月) 06:04:04
>>760
さすがですな。
762日本@名無史さん:2007/10/01(月) 11:02:14
>>754
悦仁親王は早世
この親王が長生きして立太子となっていたら 恵仁親王との関係は
どうなっていたろうか
763日本@名無史さん:2007/10/01(月) 11:40:32
>>762
恵仁親王は母方との縁を完全に切り、
欣子内親王の実子として立太子している。
欣子内親王に実子が生まれたからといって、廃太子にはならなかっただろう。
江戸時代の皇位継承には幕府の意向も絡むので、
悦仁親王に帝位が回ってくる可能性がどれくらいあったのかは疑問。
幕府の同意が得られなければ、一親王で終わった可能性もある。
764日本@名無史さん:2007/10/08(月) 17:03:43
とりあえず歴史上の女性の名前(訓読み)を知りたければ、日本語の
口語発音の時代的な変化については、当然知っておく必要がある。

橋本進吉博士の「古代国語の音韻に就いて」は必読。
765日本@名無史さん:2007/10/08(月) 22:31:48
ただ朝廷側としてはやはり後桃園院の系統は残しておきたいだろうから(そのつもりで内親王を
中宮にしたんだから)、後西院の前例を持ってきて悦仁親王に譲位させたかもしれない。
それが無くともどこかの宮家(桂宮あたりなんか)を継いだかも。

766日本@名無史さん:2007/10/09(火) 08:38:18
恵仁親王を引き摺り下ろす可能性は低いよ
この時代、天皇はほぼ終身制に近くなっていた
悦仁親王の系統を持ってくるとすれば、
せいぜい悦仁親王の皇子の一人を仁孝天皇の養子にして
立太子させるぐらいだろう。
悦仁親王に男子がなければそれまでだが
767日本@名無史さん:2007/10/10(水) 13:17:10
戦国時代じゃないんだから「終身制に近くなって」はいない。
光格天皇だって20年以上院政を敷いたわけだし、桃園、後桃園両院だって
予定外に若くなくなっただけでその前の桜町院だって譲位している。

弟に譲位した後西院の前例があるわけだし、光格天皇自身に「本家に血統を戻す」という意識さえあれば
悦仁親王がある程度の年齢に達すれば、仁孝天皇に譲位させることは可能でしょう。
どちらにしろifなんですけどね。
768日本@名無史さん:2007/10/10(水) 13:25:08
>>767
尊号事件まで起こした光格天皇は
本流に戻そうなんて微塵も思っていなかっただろうなw
自分の思いのままになる卑母の息子に
あれこれ命令してたほうが気分いいもんw
769日本@名無史さん:2007/10/14(日) 06:10:41
>>768
そんなことはない。光格天皇は終生、欣子内親王に気を使っていらっしゃた。
770日本@名無史さん:2007/10/17(水) 01:39:41
定子様・・・。
771日本@名無史さん:2007/10/17(水) 04:08:35
      _______________
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      | ̄「 ̄|  ||||||定|||||||i ̄川リ ̄| ̄|
      |_| ノ   ||||||||||||||||||     |_|
        /    ||||||||||||||||||
        /    /||||||||||||||||||
       / ̄/ ̄ |||||||||||||||||
       /  /    |l|l|l|l|l|l|l|l
     / /    |l|l|l|l|l|l|ll
    / ヘJ      l|l|l|l|l|l|l
    ノ川        ||l||l||ll
772日本@名無史さん:2007/10/17(水) 12:42:50
>>769
欣子内親王を立てることは自らの正統性の根幹に関わることなのだから、
ある意味当然。
ただそれは中御門流の男系皇統の保存とは別次元の問題だろう。
773日本@名無史さん:2007/10/19(金) 00:23:53
藤原定子皇后。
774日本@名無史さん:2007/10/19(金) 00:58:38
>>764
その本、ネット上で全文読めるみたいだね。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000061/card510.html
775日本@名無史さん:2007/10/20(土) 10:45:31
>>772
明和8年からちょっとまとめてみると

明和8年(1771)8月15日:閑院宮典仁親王の王子祐宮(後の光格天皇)誕生
安永8年(1779)1月24日:後桃園天皇の皇女欣子内親王(女一宮)誕生
    同年10月29日:後桃園天皇崩御
    同年11月8日:祐宮儲君治定
    同年11月25日:祐宮践祚
寛政2年(1790)6月2日:礼仁親王(哲宮)誕生(翌年6月1日親王宣下、翌日薨去、生母は葉室頼煕の女頼子)
寛政6年(1794)3月7日:欣子内親王が中宮とされる
同12年(1800)1月22日:温仁親王(若宮)誕生(同年3月7日儲君治定、同月26日親王宣下、翌月4日薨去、生母は欣子内親王)
    同年2月21日:恵仁親王(寛宮、後の仁孝天皇)誕生(生母は観修寺経逸の女)
文化4年(1807)7月18日:恵仁親王が中宮実子とされる(同年9月20日親王宣下)
同6年(1809)3月24日:恵仁親王立太子
同7年(1810)6月27日:盛仁親王(磐宮)誕生(同年9月18日桂宮継承、翌年5月16日親王宣下、翌日薨去、生母は東坊城益良の女和子)
同13年(1816)1月28日:悦仁親王(高貴宮)誕生(生母は欣子内親王)
同14年(1817)3月22日:恵仁親王践祚
文政4年(1821)2月9日:悦仁親王親王宣下(同月11日薨去)
776日本@名無史さん:2007/10/20(土) 11:54:46
>>775の補足
文化14年(1817)3月22日に光格天皇は皇太子恵仁親王に譲位して上皇となり、
天保11年(1840)11月19日に崩御するまで院政を敷いた。

もしも悦仁親王(高貴宮)が早世しなければ、後水尾上皇(法皇)院政のもとで、後西天皇が
自身に皇子がいたのにもかかわらず皇弟の識仁親王(霊元天皇)に譲位したように、
仁孝天皇も皇弟の悦仁親王に譲位した(光格上皇が譲位させた)可能性は高いと思う。

後水尾上皇院政下での後西天皇から識仁親王への譲位は、後西天皇の皇兄の後光明天皇の崩御
(承応3年(1654)9月20日)の際に、院政を敷いていた後水尾上皇が、この年の5月25日に誕生した
高貴宮(識仁親王)を践祚させようとしたところ、さすがに幼少すぎるということで識仁親王が
成長するまでの間、桃園宮(有栖川宮)を継承していた良仁親王が中継ぎとして践祚した。
識仁親王は後光明天皇の養子に定められていた。
なお後光明天皇、後西天皇、および霊元天皇はいずれも後水尾上皇の庶子である。

一方、光格天皇(上皇)の場合はというと、文化13年(1816)1月28日に嫡子である悦仁親王(高貴宮)が
誕生しているが、既に庶子であるが皇太子に定めた恵仁親王の践祚を予定していたために、
この時点で急に恵仁親王を廃太子して悦仁親王を立太子するようなことはさすがにできなかったもの
と思われる(悦仁親王が幼少すぎるということも考慮されたはず)。

この時期、四家あった世襲親王家のうち、桂宮は盛仁親王が文化8年(1811)5月17日に薨去して以来空主であった。
悦仁親王が庶子ならば、桂宮の第6代作宮、第10代盛仁親王および第11代節仁親王のように誕生して数か月後に
桂宮を継承させてもよかったはず(節仁親王の継承は誕生の翌々年だが)。
しかしそうしなかったのは光格上皇が将来的に仁孝天皇から嫡子である悦仁親王へ継承させることを
考えていたからではないだろうか。

なお閑院宮直仁親王の称号は後西天皇(良仁親王)と同じ秀宮で、悦仁親王の称号は霊元天皇(識仁親王)と同じ高貴宮である。

また皇室において使われる養子、猶子あるいは実子という用語は擬制的な親子関係の儀を意味しているのであって、
民法的な養子ではない。
例外的に明治5年(1782)から同18年(1885)の間に行われた宮家間養子が民法的な養子と言える。
777日本@名無史さん:2007/10/20(土) 12:10:09
>>776でおかしなところがあったので訂正します

>悦仁親王が庶子ならば、桂宮の第6代作宮、第10代盛仁親王および第11代節仁親王のように誕生して数か月後に
>桂宮を継承させてもよかったはず(節仁親王の継承は誕生の翌々年だが)。

→悦仁親王が庶子ならば、桂宮の第6代作宮、第10代盛仁親王および第11代節仁親王のように誕生して数か月後に
桂宮を継承させていただろう(節仁親王の継承は誕生の翌々年だが)。


>しかしそうしなかったのは光格上皇が将来的に仁孝天皇から嫡子である悦仁親王へ継承させることを
>考えていたからではないだろうか。

→光格上皇は将来的に庶子である仁孝天皇から嫡子である悦仁親王へ継承させることを考えていたのではないだろうか。
778日本@名無史さん:2007/10/20(土) 19:29:23
>>764
>>774

マルチポスト
779日本@名無史さん:2007/10/23(火) 16:22:15
>>776
後西天皇の例を出すのは少しおかしいね。
後西天皇の即位時、すでに識仁親王はこの世にあり、一代限りの天皇であることを当初より認識していた。
ところが、恵仁親王はそうではない。
光格天皇と嫡室欣子内親王の正統な継承者として、その実子となるという手続きを踏んでいる。
また、このときの「実子」の意味だが、桜町天皇の女御二条舎子の「実子」となった桃園天皇の例にあるとおり、
生母の実家との縁を完全に断ち切り、今後は「実母」の家系の継承と供養を行うという、
後世の養子制度と比べても大変拘束力の強いものであった。
前近世には、皇后に養育されて猶子扱いのまま登位した天皇もあったが、
この頃の「実子」の関係は、猶子や養子の扱いよりも厳しい。
恵仁親王は、生涯、「実母」欣子内親王のみを母として供養していくことを運命付けられていたのだから、
その解釈は誤り。

780日本@名無史さん:2007/10/23(火) 17:57:40
二条舎子のケースは、南北朝期の西園寺寧子の例みたいに女性に事実上の院政をさせるためだな。
781日本@名無史さん:2007/10/24(水) 03:03:45
藤原定子皇后
782日本@名無史さん:2007/10/24(水) 17:58:04
やっぱり枕草子で有名な定子様!!
783日本@名無史さん:2007/10/25(木) 20:48:11
自分は別に定子贔屓ではないが、彼女は非常に女冥利に尽きた幸せな人だったと思う。
逆境の中でも最後まで愛された彼女より、中宮になれたとはいえ夫にも息子二人にも
先立たれた彰子の方がよほど可哀想だと同情してしまうな。
(あくまで個人的見解だけどね)
784日本@名無史さん:2007/10/26(金) 06:37:52
一条天皇が最期を彰子に看取られて死んだことについてはどうなの?
一条天皇は死ぬ間際、定子腹の第一皇子を退け、
彰子腹の第二皇子を皇太子に立てるように遺言。
勿論、後ろ盾のない第一皇子より道長を外戚とする第二皇子を選んだのだけれども、
このときすでに一条天皇の寵は看病をする彰子に移っていたと思う。
785日本@名無史さん:2007/10/26(金) 07:17:37
定子関連は、枕草子くらいしか資料(?)思いつかないからなあ。
枕もは文学のくくりに入るしね。

定子が女として幸せかどうかも、それはもう想像の域で、一条に一番愛された
イコール定子が幸せに感じていた、というのはずいぶんロマンチックな発想
だなあって思うよ。
786日本@名無史さん:2007/10/26(金) 13:28:14
>>784
源氏物語じゃないんだから
天皇が寵愛だけで次の帝を決めるわけ無いだろ…
787日本@名無史さん:2007/10/28(日) 14:03:33
>>786
勿論、誰を皇太子にするかは政治的なもので
多分に男の世界だけれどもね。

一条天皇の晩年に看病していたのは彰子だった。
彰子が一条天皇の愛情を受けることのない冷めた関係だったのならば、
看病をする義理もない。
源氏物語を出すなら、皇太子の母である弘き殿女御は桐壺帝を
看取ってないし(看病していたのは藤壺)、
彰子の妹で三条天皇の中宮だった妍子も、
父と夫が不和になったこともあり別居、三条天皇の最期を看取らなかった。
788日本@名無史さん:2007/10/30(火) 01:57:53
>>787
>源氏物語を出すなら、皇太子の母である弘き殿女御は桐壺帝を
>看取ってないし(看病していたのは藤壺)、
ただ、この場合、弘徽殿女御より、藤壺は中宮な訳ですから当然なのでは?
たしかに、藤壺は桐壺帝の愛情を一身に受けていました。桐壺更衣の様に
憚られるような身分(父親が亡くなっていてしかも極官が大納言)では無い
訳ですから。当然です。
藤壺が女御から中宮になる時に、弘徽殿女御に貴方には東宮が居るのだから
中宮になる必要は無い(東宮が即位すれば三后の皇太后になれる)みたいな事を
言って無かったですか?(ちょっといい加減な記憶)

当時は、愛情=后妃の位ではない時代です。
現代の感覚で考えるは、いかがな物かと。
789日本@名無史さん:2007/10/30(火) 01:59:43
続き

例を上げれば
一条帝の場合、承香殿女御が居ましたが、上東門院(当時の藤壺中宮)
に憚って、参内もままならない状態だったそうですから、看病どころ
ではありません。同じ女御の位の弘徽殿女御や、暗戸屋女御は、
寵愛は薄かったけど、3人の女御は、従二位まで昇叙しています。
この措置は、一条帝の人柄なのではないでしょうか?

三条帝の場合は、内覧の妨害が有りましたが、世間的に身分の低い
女性を皇后にしています。東宮時代から連れ添い、子供も沢山ある
女性です。愛情が薄いわけがありません。
しかし、この皇后の立后は、道長の娘が中宮となった事に対する
けん制みたいな感じです。三条帝の愛情を感じられるエピソード
ですが皇后は最低限の扱いしか受けることが出来ず、三条帝も
それを止める事が出来ませんでした。
帝と臣下である権力者とのバランスがとても難しい状態です。
翌年、懐妊していた中宮に皇子が生まれれば、三条帝と中宮の関係
(内覧道長と三条帝の関係も)は悪くなる事は無かったのではない
でしょうか?(中宮自身は呑気な感じですが)

しかし、三条帝は、色々と運が悪いですね。もちろん女運も。
790日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:27:50
一条天皇の看病をしていたのは敦康親王と記憶してるが…2人の皇子がいるし最期は看取るだろう
「一条天皇」という本には寵愛したのは定子、元子の2人とあった
円融天皇が詮子との間に一条天皇をもうけたように自分の子孫に皇統をつがせるには外戚がしっかりした女性に生ませる必要があった その頃寵愛うんぬんは二の次
791日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:53:02
>>790
一条天皇の女御元子は定子が兄弟配流で宮中を退出していた996年に入内。
彰子は幼なくてまだ入内しておらず(彰子の入内は999年)、
この頃一条天皇の後宮には退出中の定子以外妃がいなかったため、
隙をぬって父顕光が入内させた(同時期に女御義子も入内)。
翌年、懐妊のために大々的に宮中を退出するが、想像妊娠で、
大々的に退出した手前、以後、宮中には戻れなくなってしまった。
元子は一条天皇の死後、源頼定(村上皇子為平親王の子)と密通、
父の顕光がこれを怒って元子の髪を切るという事件を起こすが、
元子は頼定のもとへ走り、一女を生んだ。
元子が一条天皇のもとにあったのは、どんなに長くても
入内から退出までの一年足らず。
想像妊娠を起こしたのは事実だが、寵愛を受けたかどうかはわからない。

792日本@名無史さん:2007/10/30(火) 09:05:39
一条天皇が誰を寵愛していたかなんて、結局意味のないことなわけだ。
一条天皇が元服から伊周配流までの5年間、定子が一条天皇唯一の妃だったのは、
定子が一条天皇の寵愛を受けていたからではなく、定子の父関白道隆が政権担当者だったから。
兄弟が失脚後、定子が宮中に呼び戻されたのも、
兄弟が許されて帰京したこと、元子の想像妊娠で一条天皇のほかの妃の父親に
摂関を奪われる危険性を改めて認識した道長と東三条院が、
彰子入内までの持ち駒として定子を呼び戻したことによるところが大きい。
(彰子入内後、定子は宮中を退出)。
一条天皇の周りにあったのは政治だけで、誰を寵愛していたかなど、推測しようもない。
793日本@名無史さん:2007/10/30(火) 13:40:53
「道隆が政権担当者だったから、一条天皇が定子を寵愛した」ではなく
「一条天皇が定子を寵愛したから、中関白家の栄華があった」のでは?

一条天皇の定子への寵愛の深さは、道隆死後に彰子・義子・元子・尊子が
次々に入内した後も、「さるべき御子たちも出ておはしまさで、中宮のみ
こそは、かくて御子たちあまたおはしますめれ」(『栄花物語』)という
ように、定子だけに次々と子供が生まれたことから見ても並々ならぬものと
推測できます。当時の貴族社会は、出家した定子が一条の寵愛を得ている
ことに「天下甘心せず」(『小右記』)と冷ややかだったようですが。
794日本@名無史さん:2007/10/30(火) 17:18:08
妹の4の君はなんで?
795日本@名無史さん:2007/10/30(火) 17:49:28
>793
政治と寵愛はべつものです。
一条天皇が藤原定子を寝所に召していたのも、
外戚がしっかりした女性に生ませる必要があったから。
天皇は側に召す女を選べない。
一番先に入内した定子が一条天皇の第1〜第3子を産んだのは事実だけれど、
栄花物語も客観的事実を言っただけで、寵愛が深かったとはいってない。
定子は入内してから6年間子供がなく、「枕草子」の一番輝いていた時代には子供を儲けていない。
796日本@名無史さん:2007/10/30(火) 19:19:41
もし、皇子を生ませるためだけに定子を召していたのなら、敦康親王が
生まれた時点で関係は終わっていたはず。最後の子、[女美]子内親王が
生まれることはないと思いますが。
797日本@名無史さん:2007/10/30(火) 21:31:10
>>796
それをいうなら、彰子にも同様のことが言える。
彰子は一条天皇との間に二人の皇子を生んでいる。
敦成親王を産んだ時点で、男子を産むという役割は終えているはずだが、
一条天皇は翌年にまた彰子に敦良親王を産ませている。
そもそも子供の数だけで寵愛のほどは計れない。
798日本@名無史さん:2007/10/30(火) 21:45:48
たまたま2回やったらできたんだろ
799日本@名無史さん:2007/10/30(火) 21:59:22
下世話な話をしてもしょうがないw
回数の少なさで言えば、定子は、
中宮宣下をうけるために里へ退出した彰子の合間を縫い、
敦康親王の親王宣下のために参内、
中宮となった彰子が参内する前に退出。
その間わずか1ヵ月半の間に第3子のび子を妊娠した。
妊娠できる日なんて、1ヵ月半の間に何日あったことかw
子供の数で寵愛の深さは測れない。
800日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:46:10
政略結婚でも相性がよく幸せになるケースもある
一条天皇と定子はその稀なケースといえるのでは?
801日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:51:04
天皇が定子中宮に昼間からお渡りしたとき、夜も来るようにって天皇はいってた。
当時天皇16歳絶倫ね。
802日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:57:57
16ってったら、1日何回でもオーケーな時期だもんな。
803日本@名無史さん:2007/10/31(水) 00:13:08
すでに没落して剃髪までしてしまった女性に子供を産ませるぐらいだから
理性があるとは思えない当時としては前代未聞の愛情でしょ
実資たちも日記で眉をひそめてたことがわかるし
道長に憚って辛い思いもさせてしまったけど年上で初めての女性で短い間に
たくさんのことを教えてくれた定子は最愛の人だったんだと思うよ

彰子は一条が亡くなってからが賢后として評価が高い
機知に富んだ定子とは正反対だけど落ち着きがあってそれはそれで
頼りになる人だったんじゃないかな
804日本@名無史さん:2007/10/31(水) 03:17:15
791は、角田先生の承香殿女御を読むと良いよ。

それに、元子は想像妊娠じゃないしね。
王朝貴族の病状診断 (歴史文化セレクション) 服部 敏郎
とかを読んで勉強した方が良いよ。
805日本@名無史さん:2007/10/31(水) 07:20:59
天皇も10代のころは回数が多すぎだったから、定子中宮も妊娠しなかったんだろうね。
806日本@名無史さん:2007/10/31(水) 08:55:16
定子厨、こわw
807日本@名無史さん:2007/10/31(水) 09:06:49
>803
出家した定子を呼び戻したのは東三条院。
定子の兄弟が左遷されたのは、花山院に矢を射掛けたという事実のほかに、
東三条院を呪詛したという理由もあったが、東三条院の病気が好転しないため、
恩赦により伊周・隆家を呼び戻し、定子も大内裏(内裏の外だが)に呼び戻した。
定子が宮中に呼び戻されたのは政治的なものだよ。当時、道長の娘彰子はまだ幼く、
道長は、定子が兄弟左遷中に生んだ修子内親王の着袴を取り仕切るなど、
姪に当たる定子を全面的に支援していた。
808日本@名無史さん:2007/10/31(水) 09:11:56
>>804
元子は臨月になっても産気づかず、
そのために父と共に寺にこもったが、寺で産気づく。
ところが、元子の体からは大量の水が流れ出すだけで、
おなかはどんどんしぼみ、子供はまったく出てこなかった。
その本は、栄華物語のこの記述をもとにしたものだけど、
虚構も入っていると思われるので、この記述を丸呑みにもできないが。
大々的に宮中を退出した元子は、想像妊娠か妊娠異常だったというところだろう。
公の記録でも死産とはかかれてないので、
子供はでてこなかったらしい。
809日本@名無史さん:2007/10/31(水) 09:21:18
>>801
あれは、宮中の定子のところへ、東宮(のちの三条天皇)
に入内した妹の原子が遊びに来るというので、
定子の父関白道隆、母高階貴子、その他兄弟姉妹が一同に会している
というシュチュエーションでの場面でしょ。
中関白家の栄華の象徴というか、このとき東宮も原子を頻繁に呼びにやり、
一条天皇、東宮もろとも関白の顔を立ててやった感じ。
もっとも、関白道隆在世中、道隆をはばかって一条天皇に娘を入内させる貴族もいなかったから、
少年帝一条天皇はセックスしたくなったら定子とやるしかないという事情もあるけどね。
810日本@名無史さん:2007/10/31(水) 12:34:10
仲がよすぎるとできにくいっていうしね。
811日本@名無史さん:2007/10/31(水) 14:04:49
そうなのか!
812日本@名無史さん:2007/10/31(水) 19:02:00
いろいろあっても3人子供ができたのは愛されてる証。
813日本@名無史さん:2007/11/01(木) 08:18:34
天皇は側に召す女を選べない。
定子に子が3人いるのは、ほかに一条天皇に妃がいなかったから。
定子が子供を儲けた時期、1人目の頃は定子が中関白家の長女として
定子のほかに妃が誰もいなかった時期。
2人目のときは彰子入内前、元子の退出後で
東三条院と道長が彰子入内までの中継ぎとして定子を呼び寄せていた時期
3人目は親王宣下のために参内した1ヵ月半の間に偶然妊娠。
定子、彰子、元子、義子、尊子、一条天皇の5人の妃は、
皆政治的に入内したものであって一条天皇の意思によるものではない。
政治的でなかったのは四の君ぐらいかもしれないが。
814日本@名無史さん:2007/11/01(木) 08:36:53
4の君が定子に似てたから手を出した??
815日本@名無史さん:2007/11/01(木) 08:47:00
兄弟の伊周、隆家らが定子の没後、遺児の敦康親王、修子内親王の後見人として
未婚の四の君を一条天皇の側に差し出したのは、政治的なものだったかも。
四の君以外の姉妹たちは皆結婚していたし、
四の君だって貴族の夫人になることも可能だったのに、
あえて未婚のまま一条天皇の側に侍らせたのは、愛妾目的だったと考えてよいと思う。
816日本@名無史さん:2007/11/01(木) 20:29:08
あの時点で中関白家の娘しか一条天皇の子を身ごもっていなかった。なんか縁を感じる。
4の君は彰子と同年だったはず、死んだのは道長の差し金??
817日本@名無史さん:2007/11/01(木) 20:37:27
何で尊子は「暗部屋女御」って言われてるの?
818日本@名無史さん:2007/11/01(木) 21:57:40
ところでちょうど彰子の話題で思い出したんだが、藤原乙牟漏が784年に春日から大原野に氏神を勧請して以降、
藤原氏出身の后が大原野に斎宮的な役割で奉仕してたのって本当?

彰子が中宮となる時の理由の一つに、大原野祭に、藤原氏出身の后の定子・詮子二人ともがすでに出家していて奉仕できないから、
祭りが途絶えるという理由で新しい后が必要だと、藤原行成が説得して一帝二后になったんだが、
本によってはただのいいわけといわれたりもするし、本当に代々藤原氏出身の后が奉仕したんだろうか。

大原野は円融天皇が行幸したり、春日に準じる扱いをされていたり、と藤原氏の氏神としてそれなりに大事にはされていて、
彰子立后後に、実際大原野を祭ってはいるけど、これは理由の一つにした以上行わないわけにはいかないだろうし。
立后の理由の一つとして説得できるほど重要なところだったんだろうか。

819日本@名無史さん:2007/11/01(木) 22:25:30
4の君かわいそう。
820日本@名無史さん:2007/11/01(木) 22:56:52
>天皇は側に召す女を選べない。

選べるよ。数いる女官のうち誰に手をつけるか、今日は誰と寝るか、
そして誰には中出しするが、誰にはしないとか。
小野宮流出身の后に子供が出来なかったのも、一条が定子と彰子との間にしか
子供を設けなかったのも、全て天皇の意志。道隆・道長以外の娘との間に
子供なんか設けたら、政治が立ちゆかなくなる。公季や顕光なんかには、
とても道長に比肩するような政治力がないことを、一条はちゃんと認識していた。
821日本@名無史さん:2007/11/01(木) 23:05:07
元子は寵愛していたし、事件の後も戻ってくるようにいっている。
822日本@名無史さん:2007/11/01(木) 23:29:15
そう。どんなに愛していても中出しはしない。
ちゃんと個人的恋愛感情と政治は区別してる、一条は。
むしろしてないのが、名君とされる醍醐とか村上。
まあ複数の貴族を競わせる意図だったのかも知れないが。
823日本@名無史さん:2007/11/01(木) 23:57:30
4の君には中田氏してるし、元子の妊娠も喜んでる。
824日本@名無史さん:2007/11/02(金) 00:18:16
ありゃ、そうなんだ。
失礼しました。
やっぱり一条も男か‥‥
825日本@名無史さん:2007/11/02(金) 00:30:30
4の君の死は不自然。
826日本@名無史さん:2007/11/02(金) 03:40:29
>>818
奈良から長岡に都が移って、春日が遠くなったから近くに勧請した、
というのは本当。
斎宮のように奉仕、というのは嘘、というか不正確。
毎年大原野祭の際に、奉幣してたのは本当。僧(尼)形では出来ない。
827日本@名無史さん:2007/11/02(金) 07:21:25
4の君かわいそうだ!
828日本@名無史さん:2007/11/02(金) 08:49:03
>>816
一条天皇が定子の死後四の君に手を出したとき、彰子は14歳。
満でいうと12歳ぐらいで、この頃
一条天皇と彰子の間に性的な関係があったかは微妙。
ちなみに、四の君は彰子よりも年上。
死んだとき17歳ぐらいだったとみられている。
829日本@名無史さん:2007/11/02(金) 08:53:59
>>820
選べないってw
例えば、一条天皇の妃が定子しかいなかった
991年〜996年まで、一条天皇は定子としか寝ることが出来なかった。
兄弟失脚で定子退出後は新たに入内した元子、義子、尊子。
まもなく元子は退出。
彰子入内後は、基本的に彰子以外の妃が一条天皇に侍ることができるのは、
彰子が宿下がりをしている間に合間を縫って参内する程度だった。
一条天皇十代の頃、関白道隆の娘定子が一条天皇の寝所を独占していたように、
一条天皇二十代の頃は、ほぼ内覧道長の娘彰子が独占していた。
天皇の後宮は政治そのものだから。
830日本@名無史さん:2007/11/02(金) 08:56:38
>>821
一条天皇はどの妃が妊娠しても喜んだと思うよ。
それに、どの妃に対しても宮中へ早く来るように言っている。
だって、ハーレムの人数は多いほうがいいじゃんw
一人の妃だけを守りたかったと考えるほうが不自然。
831日本@名無史さん:2007/11/02(金) 09:59:20
>>829
更衣は複数いたんじゃないの
832日本@名無史さん:2007/11/02(金) 10:13:04
>>831
更衣がいたのは村上天皇まで。
冷泉以降の摂関常置の時代になると、摂関を狙える
藤原忠平の子孫たちに押され、中小貴族は娘を天皇の妃にできなくなった。
冷泉以降の妃たちの身分は女御以上と高貴な姫君ばかり。
一条天皇の妃も后2人、女御3人で更衣はいなかった。
833日本@名無史さん:2007/11/02(金) 18:37:41
4の君は彰子と同じ年ですよ。
834どきん:2007/11/03(土) 02:03:50
彰子と定子は日本史が好きになったきっかけです。
枕草紙の影響もあり定子に人気があるのもすごくわかるし、
私も魅力的な方だろうと思います。
でも長年、定子=中関白家好きの人は判官びいきが強い傾向にあるような気が・・・
どなたかも書いていますが、二后の並立はそもそも、定子を立后
させたかった道隆が皇后と中宮を分けたこと、しかも兼家(道隆・道長父)の喪が明けないうちに行われたこと。
兼家以上に息子たちの昇進を強引にしたこと。
定子以外の入内を許さなかったこと、妻である高階氏を厚く遇した事。
こういったことで東三条院をはじめとする世間はこの家に
反感を持っていたようです。
これには成長し始めた一条天皇自体もそう感じ、道隆死後の伊周への政権の譲渡をためらったのです。
道隆の死後はすぐ下の弟道兼が関白職を譲られていますので(すぐ死亡)次の道長への譲渡は、多少悩んだとはいえ妥当
といえるでしょう。
道長は叔父であり母后も押している、伊周は従兄弟であり中宮の兄といってもその時点では子もいませんので。
後の転落は運も悪かったとはいえ、自業自得・・・甘えた坊ちゃんの
なせるわざともいえます。
定子への愛はもちろん別でしょうが、たぶんに一条天皇自身が
性格も優しい思いやりのある人だったことのあらわれかもしれません。
一条天皇本人も花山天皇をだまし討ちのように退位させ
その位についた方、ご本人はそこをわきまえてのさまざまな行動だった
のではないかなと思います。だましたのは兼家ですけど。
人の気持ち(愛情)は、全くその人でないとわからないけれど・・・敦康
を守るために東宮にしなかったんじゃないかな?
賢明な天皇ですねー男性としての気持ちはどうだったのか本当に
聞いてみたい。
少しといいつつ長くなってしまった。
実ははじめての2chへの書き込みです、緊張します。
よろしくお願いします。

835日本@名無史さん:2007/11/03(土) 02:48:28
栓子がすべて握っていた。
836日本@名無史さん:2007/11/03(土) 10:53:30
>>835
それは誰だ。
837日本@名無史さん:2007/11/03(土) 19:40:00
4の君について詳しくしりたいっす。
838日本@名無史さん:2007/11/03(土) 20:02:31
御匣殿別当だっけ。四の君。懐妊中に変死したという?
839日本@名無史さん:2007/11/03(土) 20:37:46
道長の陰謀だろ。このひとは、彰子と同じ年で17歳で死んだ。
840日本@名無史さん:2007/11/03(土) 20:48:11
定子に似てたのかな。
しかし上げ膳何でも食う手当たり次第だな。天皇。
841日本@名無史さん:2007/11/03(土) 21:22:23
似ていたから天皇が手を出した。
4の君は妾ではなく、姪、甥のそばにいるため入った。
842日本@名無史さん:2007/11/03(土) 21:53:44
定子厨の亜種の4の君厨か
かわいそうだ!だの陰謀だの頭大丈夫?
843日本@名無史さん:2007/11/03(土) 22:24:50
つか定子は皇后なので範疇内だが4の君は範疇外だろ。
一条天皇妻妾スレじゃないんだから。
844日本@名無史さん:2007/11/04(日) 15:01:03
定子様最高
845日本@名無史さん:2007/11/04(日) 16:43:09
>>833
四の君は年齢不詳。
もっとも、御匣殿に就任したのは父道隆の在世中、兄たち失脚前であることは確実なので、
995年以前には就任していたと見られる。
996年に定子が修子内親王を産んだ辺りからは、定子の側に仕えていたことが枕草子で知られる。
一方、彰子は999年に入内したとき、12歳。
御匣殿が亡くなった1002年に、彰子はまだ15歳だった。
御匣殿は彰子より年上。
846日本@名無史さん:2007/11/04(日) 22:59:46
増鏡かなんかでは、4の君と彰子がタメってかいてあった。17歳で崩御。
847日本@名無史さん:2007/11/05(月) 04:08:24
強大な後見を持つ妃の子が立太するのは、村上帝あたりでも、すでに確定してるみたいだし
中関白家の不幸は、父の早世と、高階一族の人望のなさ
どの文献にも、高階一族のことは、好いようには書かれていないのを見ると、
余程、嫌われていたのか...

ところで、東三条院の、高階嫌い、ひいては定子嫌いは、貴子が円融帝の内侍だったころ
中々、評判が良かったとのこと。
勘ぐると、貴子は円融帝のお手付き?と勝手に想像
848日本@名無史さん:2007/11/05(月) 07:49:09
>>846
???「増鏡」は鎌倉時代後鳥羽天皇の世からはじまっているから
彰子のことなど出てこないのだけれども???
御匣殿が1002年に亡くなったのは、同時代史料から間違いない。
999年に入内した彰子の年齢が12歳だったことも、「小右記」などから間違いない
(彰子の年齢についてはこれ以外にも史料があり、確定すみ)。
1002年に彰子は15歳であって、17歳ではない。

849日本@名無史さん:2007/11/05(月) 07:59:21
>>847
政争に敗れた連中のことは悪く書くからね
「大鏡」や「栄華物語」はいずれも道長に近い人物が書いたものだから尚更
詮子が高階貴子に嫉妬して嫌っていたということはないと思う
仮に円融天皇に使えていたという貴子が円融天皇憧れの人だったところで
所詮女官にすぎない貴子が女御たちと競えたとは思えないし、
当然、詮子の父兼家ににらまれたら宮中にも居られず、
ましてや兼家の長男道隆の正室に迎えられることなどなかったはず。
詮子や兼家のライバルは関白頼忠の娘で中宮になった遵子、
それ以外の妃など目じゃなかったからね。
伊周は問題も起こしたけれども、同時代史料はそれほど悪く書いていない。
詮子は、一条天皇の中宮の兄であるという血縁関係の弱い伊周ではなく、
一条天皇のおじである道長を選んだだけだと思うけど。
伊周が問題を起こすまで、伊周の妹中宮定子は一条天皇の側にあり続けたし、
左遷されることがなければ定子の皇子のおじとして摂関が狙える位置にあったのだから。
道長が長年兄や兄の娘である定子に仕えて最終的に栄光を勝ち取ったのに比べ、
天皇の外祖父でもおじでもない伊周がいきなり摂関になろうとしたのは
あまりに未熟だったとは思うけれどもね。
850日本@名無史さん:2007/11/06(火) 19:02:56
ちょっとおじゃまします。
この板の「日本女性の名前について」のスレッド
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1127124249/l50

で、藤原頼通の妻「隆姫」の名が、同時代の文献では「隆姫子」と書かれている
件について議論されています。この「子」の意味についてどなたかご存知
ないでしょうか?
851日本@名無史さん:2007/11/06(火) 19:50:02
定子様が長生きしていたら。。
852日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:20:30
>>850
確か、臣籍降下以前の名前が「隆子」だった筈。
逆に平安時代に「○姫女王」とか「○姫内親王」という例は無い筈だが。
853日本@名無史さん:2007/11/09(金) 22:29:23
>>852
隆子という名前は一度も与えられていない可能性もあるようだ。
そしていろいろな文書を確認すると「隆姫子」が正しいらしい。
854日本@名無史さん:2007/11/10(土) 11:08:08
定子様、、、、大好き
855日本@名無史さん:2007/11/11(日) 01:49:40
定子皇后好き
856みゆき:2007/11/11(日) 08:33:19
あの話はたしか「続古事談」にあると思う。
円融天皇が高階貴子をわが物にしようとすると、いつも上手く逃げおおせた。
それで天皇はあきらめるよりほか無かった。
のちの一条と定子の哀話を思うと、不思議な宿世をもった父子と母娘であったなあ。

道隆が貴子に通い始めた頃も、よほどの秘蔵娘であったのだろう、貴子の父成忠は許さぬ気でいたらしい。
が、ある明け方、娘の許から出て行く道隆の後ろ影を見て、
「必ず大臣に至る人なり」と予言し、以後は二人の仲を許したという(『古事談』)。
857みゆき:2007/11/11(日) 08:41:26
藤原育子(二条中宮)は藤原忠通の実娘であったのか、
それとも徳大寺実能の女で忠通の養女もしくは猶子になったのか。
知っている方がいたら教えてください。
858みゆき:2007/11/11(日) 08:43:11
↑史料によって記載まちまちです。
859日本@名無史さん:2007/11/12(月) 15:06:55
>>856
「古事談」は後世の人が面白おかしく膨らませた故事も多いからすべてが史実
とは受け入れがたい。歴史書ではなく風説を記したものだからね。
高階貴子は円融天皇よりも年上で、貴子が長子伊周を産んだとき円融天皇はまだ15歳だった。
貴子は少なくともこの前年には道隆と結婚していたはずだから、
円融天皇が貴子を追い掛け回したというのが事実なら、
円融天皇が12〜13歳の少年時代の話ということになり、史実としては厳しいと思う。
860日本@名無史さん:2007/11/12(月) 15:35:13
>>857
中宮育子を左大臣徳大寺実能女としているのは「尊卑分脈」。
「尊卑分脈」は室町時代の成立ですが、
一般的に養子、養女関係はわざわざ実父、実母を貶める必要がないために、
現在では中宮育子を実能女で関白忠通の養女と記すところが多いようです。
ところが、同時代史料の「今鏡」や、忠通の実子慈円が書いた「愚管抄」
によれば、育子は関白藤原忠通の次女で、母は忠通に仕えた女房の督局(源俊子)であると書かれています。
史料的に言えば育子は忠通の実子であった可能性が高いように思います。
「愚管抄」の作者の慈円は育子の異母弟に当たり、当事者の記録であると思われるので。

861みゆき:2007/11/13(火) 14:45:57
上の方、どうもありがとうございました。
年も九つしか違わない異母弟がそういうなら、信じてもよさそうですね。
862日本@名無史さん:2007/11/13(火) 18:16:16
二条天皇と育子(むねこ)の婚姻は、二条による摂関家の取り込みと考えて
いいでしょうか?
863日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:33:31
美福門院の皇女姝子内親王の婿として美福門院の後見で帝位についた二条天皇ですが、
姝子内親王は二条天皇の在位中に出家(多子の入内によるものか)。
妃にした太皇太后藤原多子の里徳大寺家はさほど有力ではなく、
二条天皇との不和から異母弟体仁親王(のち高倉天皇)を即位させようとする
父後白河上皇の思いもあいまって、二条天皇は政界で次第に孤立していきました。
藤原忠通との提携は、二条天皇にとって願ってもないものだったのでしょう。
忠通はかつて近衛天皇の後宮に養女呈子を居れ、多子と争ったことから
二条天皇の後宮に娘を入れることにも積極的であったと見られ、二条天皇は摂関家の後見を手に入れます。
ところが、藤原忠通は育子入内の3年後に死去。あとを継いだのは22歳の長男基実でした。
二条天皇は病となり、庶子の順仁親王を育子の養子として譲位、六条天皇とし、
若年の育子の兄藤原基実を摂政として守り立てさせようとしました。
しかし二条天皇の没後、頼みとした摂政藤原基実は平清盛の娘婿として取り込まれ、早世。
六条天皇は在位2年で退位して高倉天皇が即位、育子は21歳で出家しました。
864日本@名無史さん:2007/11/15(木) 11:07:22
体仁(なりひと)→憲仁(のりひと) 体仁は近衛天皇ですね。

「保元の乱」で半壊状態の摂関家にとって、起死回生の策だったので
しょうね・・・。育子は出家後、平徳子が中宮になったことで皇后に
押し出され、承安3年(1173)に28歳で崩御。摂関家の落日を見る思いが
します。
865日本@名無史さん:2007/11/15(木) 20:13:22
2回皇后になった人はなんで?
866日本@名無史さん:2007/11/17(土) 20:15:58
>>865
どういう意味?
867日本@名無史さん:2007/11/18(日) 15:51:19
>>863
多子の実家である徳大寺家は、閑院流のなかでも当時一番羽振りが
良かったようなイメージがあるけど。
もっとも多子の場合、藤原頼長の養女になっていた件で、保元の乱以降は
立場を悪くしたような感じもあるが。

あと近衛基実が平盛子と結婚するのは、二条天皇の死後なのか?
868日本@名無史さん:2007/11/18(日) 15:58:30
>>864
保元の乱って、結局誰が勝者なのか判然としない結末だけど、一番割を食ったのが摂関家なのは間違いないな。

>>865
ウィキペディアとかで藤原多子の略歴でも見てみよう!
869日本@名無史さん:2007/11/21(水) 02:55:11
藤原定子最高!!!!!!!!!!!!!!!!!!
870日本@名無史さん:2007/11/21(水) 12:27:20
871日本@名無史さん:2007/11/21(水) 13:01:42
wikipediaは嘘だらけ。参考にならないよ。
872日本@名無史さん:2007/11/23(金) 02:19:30
>>871
あんたの人生も嘘ばっか
873日本@名無史さん:2007/11/23(金) 10:30:33
定子が好きだ
874日本@名無史さん:2007/11/23(金) 19:04:38
冷泉天皇皇后昌子内親王は美人だった。
875日本@名無史さん:2007/11/23(金) 23:09:27
姝子(よしこ)内親王の出家と藤原多子の入内に関連性はあるのだろうか?姝子の
出家を後白河は押し止めていたようだが、これは姝子が上西門院(後白河の姉)の
養女になっていたことから、後白河と二条の対立の緩衝の役割を期待されていたのか?
『玉葉』にある姝子と澄憲(ちょうけん・信西の子)の密通が事実だとすれば、それが
影響しているのか?
876日本@名無史さん:2007/11/24(土) 12:32:54
武者震いスレ
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1194832098/

【武者震いルール】
・wktkしているとき→「武者震いがするのぉ!」
・さらに燃料が投下されたとき→「ますます身震いがするのぉ!」
・放送当日の挨拶→「久しぶりじゃのぉ!」
・誤爆した香具師、空気の読めないレス→「そなたは・・・青木大膳ッ!!」
・スレが荒れてきたとき→「おやめ下され!ご乱心召されたか!?」
・探し物が見つからないとき→「何処へ参ったのじゃ!!」
・保守age→「急げ!急ぐじゃ!」
・知ったかぶりをしたいとき→「・・・わかった!」
・↑が見当違いだったとき→「ではわからぬ・・・」
・気合の入ったカキコに→「命を粗末にするなよ」
・無意味に武者震いor身震いしている香具師に→「戯言を申すな」or「・・・病か?」
877日本@名無史さん:2007/11/24(土) 12:33:32
【空気嫁ルール】
・釣られたとき→「この騙り者めがっ!」
・とにかくかまって欲しいとき(そのツッコミ)→「わしもわかったぞ!」→「そなたは(ry」
・言いがかりをつけるとき→「佐伯主水殿と御見受けいたす」
・禿同→「馬に走れるかと聞くようなものじゃ!」
・的確な反論のレスがついたとき→「ぬしらを斬っては仕官もできまい」

【マジ小物ルール】
・情報が混乱しているとき→「まてまてまてー、一体どちらを信じればいいのじゃー!」
・とにかく悔しいとき→「おのれ〜〜、おのれおのれ!おのれおのれ(ry」
・釣られた香具師に→「兄上、謀られましたな」
・スルーするとき→「連峰軒様、お討ち死に!!」
・重複カキコに→「おぬしは幾度カキコすれば気が済むのじゃ!!」
・程度の低い釣りに→「落ち武者の分際でわしを愚弄するか!!」
・スレが炎上しているとき→「煽るな煽るなwww」
・新スレ立てたとき→「次スレがお立ちになった、お立ちになられたのじゃぁあああ〜〜〜!」

【その他のルール】
・スレ立て宣言に→「みなよくきけー、○○様が次スレを立てて下さるそうじゃ 」
・ネタがないとき→「このスレもこれまでじゃのぉ・・・」→「これからじゃ!」と返す。
878日本@名無史さん:2007/11/25(日) 08:43:11
誰か、多子を漫画化してよ。
879日本@名無史さん:2007/11/25(日) 12:58:44
たこ
880日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:21:31
>>875
多子の入内は永暦元年(1160年)正月26日。
一方、姝子は同年8月19日に出家。
天皇在位中の中宮出家はよほど不自然(実家没落の中宮定子以来)。
しかも姝子は20歳の若さ、その後16年生きている。
たとえ病になっても中宮のまま亡くなるのが普通である上、
夫の二条天皇が引きとめたという話も全く伝わらないので、異常さが分かると思う。
二条天皇はこの頃、多子に夢中だったのだろう。
ちなみに、玉葉にある姝子の密通は随分後の話のはず。
姝子が澄憲との間に一子海恵を生んだのは承安2年(1172)姝子32歳のとき。
姝子出家の12年後のことで、二条天皇在位中のことではない。
881日本@名無史さん:2007/11/26(月) 22:30:09
定子さま。。。お墓にお参りに行きたい。
882日本@名無史さん:2007/11/27(火) 17:57:16
>>880
姝子は永暦元年(1160年)8月19日に出家した後も、中宮の地位は保持しています。
応保元年(1161年)12月17日に育子が入内。応保2年(1162年)2月5日に二条天皇は
姝子に高松院の院号を与え、育子が中宮になったのが同年2月19日。二条は姝子の姉・
ワ子(あきこ)内親王を准母として、育子入内の前日に八条院の院号を与えて後見を
求めているので、妹の姝子に対しても配慮を示しているようです。

院号宣下も受けられず、太皇太后のまま放置されていた多子の方が冷遇されている
ように思えます。
883日本@名無史さん:2007/11/27(火) 20:47:09
>>882
近衛天皇の中宮であった呈子は、夫近衛天皇が亡くなると出家し、
九条院の院号を受けている。
近衛天皇の皇后であった多子も本来これに従うべきであったのだろうが、
16歳の若さで未亡人となった多子はほとんど近衛天皇の側に侍ることがなかったこともあり、
出家もせずに生家へ戻り、二条天皇に所望された。
二条天皇が亡くなったとき、多子は今度こそ出家した。
本来ならここで院号宣下があるのだろうが、徳大寺家の力のなさだろうか。
多子の実姉で、後白河天皇の中宮であった欣子も院号宣下を受けられなかった。
姝子は出家により事実上二条天皇の後宮を去って母美福門院の元へ戻っており、
二条天皇がこれによって養母美福門院の庇護を受けられなくなったことは確か。

884883:2007/11/27(火) 20:53:56
二条天皇が八条院にすがったのは、
姝子内親王の出家により途絶えた美福門院との絆を
気遣ってのことだと思われる。
もとより、父鳥羽天皇から女帝に望まれたと言われるほどの八条院は、
父鳥羽天皇より莫大な荘園を伝領した大富豪家であり、
八条院を取り込もうとしたことはとりもなおさず、
八条院の持つ莫大な遺産の行方に目をつけたと見られても
仕方がない。
885日本@名無史さん:2007/11/27(火) 21:01:58
自分、定子皇后にしか興味ないっす
886日本@名無史さん:2007/11/28(水) 00:53:28
>>885
どこに興味があるのさ?
887日本@名無史さん:2007/11/28(水) 06:22:52
>>883
藤原呈子は久寿2年(1155年)7月近衛天皇崩御により、翌8月出家しますが
すぐに院号宣下を受けたわけではなく、その地位は中宮のままです。
保元元年(1156年)10月27日、藤原忻子(よしこ)が後白河の中宮になったため
皇后に移り、保元3年(1158年)2月3日、統子内親王が皇后に立后したことで
皇太后になります(この時、多子も押し出される形で太皇太后に移ります)。

呈子が九条院の院号宣下を受けたのは、仁安3年(1168年)。これも、平滋子が
皇太后になるための空席を設けるためでした。出家が后位の停廃につながるわけでも
院号宣下と出家に直接的つながりがあるわけでもありません。
888日本@名無史さん:2007/11/28(水) 08:55:46
>>885
定子単独スレでも立てたら?
889日本@名無史さん:2007/11/28(水) 14:59:34
>>887
歴史的に見ても出家しても后の位はそのままですから、
姝子が出家後も中宮の地位にとどまるのは当然でしょう。
天皇在位中の中宮出家が異常であるというだけのこと。
しかも、二条天皇はこれを引き止めていない。
二条天皇と姝子の母美福門院との間に決定的な亀裂が走ったのは
いうまでもない。
890日本@名無史さん:2007/11/29(木) 00:10:27
>>889
姝子出家が、二条天皇と美福門院の決定的亀裂につながるかはやや疑問です。
多子の再入内も、美福門院の容認がなければ実現しなかったはずですし。

もっとも、姝子への院号宣下は考えてると異常ですね。これは育子の入内・立后と
セットになっていて、この時の皇妃は中宮・姝子、皇后・忻子、皇太后・呈子、
太皇太后・多子と全て埋まっていて、空席はありませんでした。この場合、忻子・
呈子・多子のいずれかに院号宣下をして空きを作り、姝子を皇后に移した上で育子を
中宮にするのが通常の方法だったはずです。

しかし、二条は中宮・姝子に院号宣下をしており、これは在位中の天皇の皇妃が
院号宣下を受けた初めてのケースです。永暦元年(1160年)春以降、二条と同居が
途絶えていた姝子ですが、これで二条の後宮から完全に排除されることになります。
別居の末の正式離婚ともいえるかもしれません。
891日本@名無史さん:2007/11/29(木) 20:33:14
>>890
美福門院が本当に多子の入内を認めていたのかは疑問です。
多子の実父は徳大寺公能ですが、多子はむつきの頃から(生後まもなく)
養父藤原頼長と養母幸子(幸子は多子のおば)夫妻に引き取られて育ち、
頼みとする養父頼長は保元の乱で敗れ、死んでいますから。
多子が美福門院の養女呈子と近衛天皇の後宮を争い、
美福門院と忠通によって近衛天皇から遠ざけられたことも事実です。
徳大寺公能には娘が多く、美福門院が仮に二条天皇の後宮に
徳大寺家の娘がほしいと思ったのならば、ほかの娘を所望すればよかったはず。
公能と正室豪子との間には3人の娘があったことが知られ、
長女忻子は後白河天皇后、三女多子は近衛天皇后、
間の次女は父親から后妃に立てぬなら仏門に入れと言われています。
二条天皇の後宮にこの次女を所望しても良かったわけで、
何も多子でなくとも良かったはずです。
二条天皇が周囲の反対を押し切ってあえて先々帝の后を所望したと言う
平家物語の記述は的を得ている気がします。

892日本@名無史さん:2007/11/30(金) 12:27:57
徳大寺家は崇徳天皇の外戚として勢力を伸ばしていましたが、近衛天皇の即位と
待賢門院の出家で、衰退の危機にありました。実能は打開策として、娘の幸子を
正室としていた頼長に接近、内大臣に昇進します。公能(実能の子)の娘・多子は
頼長の養女となり、両家は親密な関係でした。しかし、近衛の急死と雅仁(後白河)の
即位で皇位が待賢門院系統に戻り、頼長室・幸子も没したことから徳大寺家は
頼長派から離脱、実能は皇太子・守仁の東宮傳となり、公能の娘・忻子(よしこ・
多子の姉)は後白河の後宮に入ります。

徳大寺家は美福門院との関係修復に向けて動きますが、その時に問題となったのが
多子の存在だったと思われます。美福門院や二条親政派にしても、多子をそのまま
放置して冷遇するのは、得策ではないと判断したのではないでしょうか?美福門院が
多子の入内に積極的だったとする一次資料は見当たりませんが、『平家物語』の
「二代の后」のように、二条の独断とするのも考えにくいことです。

まず二条は美福門院の邸にいて、その強い影響下にあったこと。二条の側近、経宗・
惟方は信頼を倒して政治の主導権を握り、多子の入内という重大問題に関与しなかった
とは思えないこと。二条が若年で判断能力が充分であったか疑わしいことなどが、理由
です(これが、美福門院の死後、経宗・惟方の失脚後、二条の成長後なら話は別ですが)。
893日本@名無史さん:2007/11/30(金) 12:39:48
姝子が出家した永暦元年(1160年)8月から、美福門院の死去する11月の間に
果たして、二条天皇と美福門院の間に決定的な亀裂が入っていたのか?という
問題も簡単には判断を下せません。同時代の記録にそのような形跡が見当たり
ませんので。これが『大鏡』の兼通・兼家のごとく「二条天皇と美福門院は
仲が悪くなりました」と歴史物語でもいいから、ハッキリと書いてあれば
すっきりするんですが。
894日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:33:07
>>892>>893
多子入内のとき、二条天皇は美福門院と同居していない。
「山槐記」永暦元年八月十九日条によれば、
中宮姝子は多子が入内したこの年春より、夫二条天皇のある禁裏に赴かず、
白河押小路殿にいたとしている。
作者がはなはだ悲しきことなり、としている通り、中宮姝子の出家は
周囲の同情をかったようだ。
ましてや、姝子の生母美福門院は娘の出家をどのように受け止めていたことか。

参考までに。
http://homepage2.nifty.com/H-Suga/koji11.html
895894:2007/11/30(金) 20:15:15
補足
多子が入内した永暦元年春から姝子内親王がこもったと言う白河押小路殿

白河押小路殿=美福門院の里第。姝子内親王はここで成長した。
        いわば、姝子内親王の実家。

一方、同年1月に多子が入内したのは、平安京の内裏。
焼けていたのを、信西が修理して献上していたもので、
二条天皇は当時、内裏に住んでいた。
姝子内親王出家の直後からは、愛用の里内裏として大炊御門殿が登場。
また、この頃姝子内親王の母美福門院が住んでいたのは八条殿。
二条天皇は、美福門院とも、姝子内親王とも別居していた。
896日本@名無史さん:2007/11/30(金) 20:36:28
定子皇后と清少納言、最高コンビ
897日本@名無史さん:2007/12/01(土) 09:16:39
>>892
>まず二条は美福門院の邸にいて、その強い影響下にあったこと。

永暦元年、二条天皇と多子は平安京内裏、
一方、美福門院は八条殿にいて、同居はしていない。
同年春から、姝子は里の白河押小路殿へ退出。

>二条の側近、経宗・ 惟方は信頼を倒して政治の主導権を握り、多子の入内という重大問題に関与しなかった
>とは思えないこと。

側近の経宗・惟方は微官で、主君二条天皇に後宮のことを指示し、
后を決めるほどの決定権があったとはとても思えない。

>二条が若年で判断能力が充分であったか疑わしい

多子が入内したとき、二条天皇はすでに18歳。
元服前に結婚する天皇の例が多い中、二条天皇はすでに大人。
しかも、保元の乱で冷静な判断をした二条天皇の株は上がり、
父後白河上皇の院政を抑えるほどの政治力を身につけていた。
天皇親政を実現した直後の行動であり、
二条天皇の意思は介在しなかったと考えるほうが難しい。
898日本@名無史さん:2007/12/01(土) 09:34:00
多子って美しかったんだろーな。
899日本@名無史さん:2007/12/01(土) 16:14:59
多子、近衛天皇が死んだときに出家できなかったのは悲劇だな
「二代后」というのも本人は嫌みとしか取ってなかったようだし
900日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:52:35
2人に愛されていたのだな、ウム
901日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:42:34
江戸時代の艶本「大東閨語」に二条天皇と多子の話が載ってたなw

ただ、解説は二条の后(藤原基経の妹)と混同していたが
902日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:53:19
定子皇后は、天皇の愛だけが頼りだったんだね(号泣)
903日本@名無史さん:2007/12/02(日) 11:12:06
2子以降は出家した後に作ってる、一条天皇の愛。
904日本@名無史さん:2007/12/02(日) 12:33:37
相思相愛
905日本@名無史さん:2007/12/02(日) 13:53:49
比翼連理の一条天皇&定子さま
906日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:32:23
光格天皇の生母って、どうして息子が天皇になったあとも低い身分のままだったの?
後円融生母の崇賢門院や後奈良生母の豊楽門院のように適当な公家の養女になればよかったのに。
907日本@名無史さん:2007/12/02(日) 21:57:37
光格天皇は後桃園天皇の「御養子たるべし」として即位しているので、後桃園院の女御であった盛化門院が
「母親」で生母である大江磐代は「母」ではないので。
908日本@名無史さん:2007/12/02(日) 22:08:40
そんなもの後花園みたいに養父母の死後は反故にすればいいだけじゃん?
909日本@名無史さん:2007/12/02(日) 22:14:38
>>897
平治元年(1159年)12月26日丑の刻(午前2時)に、二条天皇は内裏を脱出
清盛の六波羅邸に入ります(二条天皇の六波羅行幸)。

12月29日、内裏が戦乱で荒廃したために二条天皇は、清盛の警護で
美福門院の八条殿に行幸します。

永暦元年(1160年)正月、多子が再入内。

二条天皇は美福門院の邸にいるようですが・・・?
910日本@名無史さん:2007/12/02(日) 22:30:14
二条天皇が後白河の政治介入を排除して親政を確立するのは、応保元年(1161年)9月。
それ以前は後白河院政派と二条親政派のせめぎ合いが続き、政務は後白河・二条・忠通・
基実によってたらい回しにされています。特に二条は自らの判断を下すことができず
忠通に丸投げしているケースが目立ちます(『山槐記』)。多子の再入内は、後白河の
支持基盤である徳大寺家を切り崩す効果はあったと思いますが、二条の意思だけで事が
運んだとするのは買いかぶり過ぎでは?

それと、経宗は平氏政権下で長期に渡って左大臣を務め、惟方は蔵人頭・検非違使別当
ですから有能な人材といえます。微官というなら、信西は前少納言の身でありながら政権を
掌握していましたが?
911日本@名無史さん:2007/12/02(日) 23:24:55
>>908

後花園のときは後小松の死後、後光厳院系統の有力者が残っていないのに対し、
光格の時は上皇の後桜町院をはじめ「母」盛化門院、「祖母」恭礼門院、「曾祖母」青綺門院が
生きてるし、光格自身がまだ子供だからね。

あと、崇賢門院も豊楽門院も父親は公卿ではないが社家や藤原氏。一方磐代の父親は町医者だから
身分差がはっきりしている江戸時代では生母の格上げまでする必要はなかったんじゃない?
912日本@名無史さん:2007/12/03(月) 01:40:52
ていうか後奈良生母の豊楽門院じゃなくて
後土御門生母の嘉楽門院だよな?

大炊御門信宗の養女で実父は藤原孝長となっているが
この藤原孝長というのは右大臣藤原定方の曾孫である
藤原説孝の後裔でいいのかな?
琵琶の名手を多く輩出した家で掌侍になった娘が結構いる。
孝長は右馬助従四位下とある。
913日本@名無史さん:2007/12/03(月) 06:00:48
道長の家系は彰子の存在でもってたね。
914日本@名無史さん:2007/12/03(月) 07:31:17
>>909
平治元年(1159年)12月26日、平清盛邸行幸。
同12月29日、八条院邸へ行幸。
このあと、二条天皇は内裏へ帰還しています。

永暦元年の記事を目で追っていくと言いですが、
二条天皇はどこそこへ行幸したあと「大内」へ帰る、という記事が散見し、
二条天皇が内裏に住んでいたことが分かります。
荒廃して住めなかったのならば、そんな記事は出てこない。
一方、平治元年12月29日を最期に、
二条天皇が八条殿へ行幸したという記事はなくなります。
中宮は「禁裏」を退出した、と書かれてあるように、
二条天皇の住む平安京の内裏を退出したのであって、
多子が美福門院の八条殿に入内したわけでも、
姝子が生母美福門院の下を去り白河押小路殿にこもったわけでもない。
実娘が生母のもとから退出なんて、不自然でしょ。

915日本@名無史さん:2007/12/03(月) 07:38:36
>>910
二条天皇が永暦元年の段階で、他人の言いなりのロボットであったと言う
根拠がありません。
後白河上皇がわざわざ中宮姝子のもとを訪問して出家を思いとどまるよう
説得しているのに、夫二条天皇は全く姝子のもとを訪問していない。
二条天皇がロボットだったのならば、姝子をなおざりにすることも、
出家させるようなこともなかったでしょうね。
それに、藤原忠通が二条天皇に多く意見するようになるのは、
応保元年(1161年)9月以降ですよね。
このとき忠通は娘育子を二条天皇の後宮に入れて中宮に立て、
二条天皇と育子は忠通の邸を里内裏として住み、
事実上、岳父忠通が娘婿二条天皇を抱え込んだ形になっている。
多子入内時点での話ではありません。
916日本@名無史さん:2007/12/03(月) 11:21:30
出家した定子様を宮中に呼び戻した一条天皇の愛は深いのじゃ。
917日本@名無史さん:2007/12/03(月) 13:34:36
さすが学問系板!


というなかで
明らかに場違いで浮き上がってる定子様マンセー記事w
918日本@名無史さん:2007/12/03(月) 14:38:20
>>911
光格天皇は、実際、父閑院宮典仁親王に対しては
尊号一件の事件を起こしていますからね。
その気になれば盛化門院や恭礼門院の没後、
父典仁親王同様、母磐代に対しても行動を起こしても良かったのに、
生母に対しては何の待遇も運動もおこしていない。
後花園の母庭田幸子が父貞成親王の妻であったのに対し、
大江磐代(光格生母)は、父典仁親王の妃ですらなかったのが厳しかったと思う。
ちなみに、閑院宮典仁親王の正妃は中御門天皇の皇女成子内親王。
919日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:02:28
>>912
本当の実父は地下の和気氏じゃなかった?
920日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:03:46
>>911
光範門院は後小松法皇より先に死んでたっけ?
921日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:12:30
>>912 >>919
実父は一説に藤原孝長。
嘉楽門院は、成仁親王に出仕するに当たって、
三位和気郷成の養女となり、当初は和気郷子と名乗っていた。
その後、太政大臣大炊御門信宗の養女となって藤原信子と改名。
実父とされる藤原孝長の官職など、詳しい人いる?
922日本@名無史さん:2007/12/03(月) 17:06:49
特に詳しくはないが『歴史と旅 愛蔵版 百二十五代の天皇と皇后』(秋田書店)には
右馬助従四位下藤原孝長
とある。
 「歴代皇記」「皇親系附録」によると初名は郷子、和気郷成の猶子になったことがわかるらしい
西園寺実兼の生母八十前の母讃岐局が藤原孝道の娘で琵琶の家らしいから孝長もその系統では?

孝道━孝時━孝頼━孝重━孝守━孝継━孝長
ではないかと漏れは予想

琵琶の系統に詳しい人いないかなあ
923日本@名無史さん:2007/12/03(月) 18:24:42
>>914
美福門院の八条殿に行幸した後、二条天皇は内裏に戻っていたんですか・・・。
『百錬抄』には戻ったという話はないので、そのまま滞在したものと思って
いました。しかし、戦場となった内裏にすぐに戻れるものなのでしょうか?

ただ、二条が内裏にいても状況はあまり変わりません。鳥羽院死後の実力者は
美福門院と信西です。美福門院は二条の即位が宿願であり、実際の政務は
信西に任せます。忠通は二条の即位について全く相談を受けず、発言力が著しく
低下しています。

このまま何事もなければ良かったのですが、「平治の乱」で信西は殺害され
京都は戦場となり混乱の極致にありました。これは、二条の権威にとって大きな
ダメージです。貴族の間に崇徳の方が良かったという声が起きないとも限りません。
崇徳の皇子・重仁もこの時点では健在です。
924日本@名無史さん:2007/12/03(月) 18:37:04
三条殿は丸焼け、大量の死者が出るなど、二条の治世には暗雲が漂います。
美福門院も娘のことを考えると、気に入らない存在である多子の入内を
認めたくなかったと思います。しかし政治の担当者がいなくなり、状況は
激変しました。ここは朝廷内部の引き締めを図り、動揺を防ぐことが緊急の
課題です。娘の気持ちよりも、養子である二条を守ることを優先したのでは
ないでしょうか?反対派の懐柔のため、苦渋の選択ではなかったかと。

それと天皇は基本的に自らの判断で妃は選べないはずです。まして、太皇太后の
地位にある身分高い姫君を、側近の力も借りず、後白河や美福門院の反対を
押し切って後宮に入れることができたかどうか・・・?『平家物語』の
「二代の后」は、このような緊迫した状況を全く伝えていないので、信頼できるか
どうか疑問です。多子の入内は、直前の「平治の乱」と切り離すことはできないと
思います。
925日本@名無史さん:2007/12/04(火) 08:39:39
>>924
近衛天皇の後宮で、多子は摂関家と組んだ美福門院に冷遇されました。
多子が入内するとまもなく、美福門院は養女の呈子を忠通の養女として入内させ、
若い近衛天皇には二人の后が並び立ちました。
忠通は自邸の近衛殿を天皇に提供し、近衛天皇と養女呈子を住まわせました。
美福門院が徳大寺家を大事にしていたというのならば、
とてもこんなことをできるはずがない。
多子の再入内には実父公能は乗り気でしたね。
天皇の外祖父となるチャンスと多子を説得する様子が平家物語にあります。
基本的に、天皇と父親が同意していれば、多子の再入内は充分可能だったと思います。
美福門院は不快に思ったでしょうが、徳大寺公能を抑えることは出来なかったでしょうね。
美福門院は永暦元年、娘の出家を見てからまもなく、なくなっています。
死の床にあった美福門院が、強大な政治力を発揮していたとも思えません。
926日本@名無史さん:2007/12/04(火) 08:50:22
なまみこ物語、読んで号泣しました。

一条天皇と定子様の真実に近いでしょう。

素敵なかっぷるだった。感動した!
927日本@名無史さん:2007/12/04(火) 22:54:45
「なまみこ物語」俺も号泣したぜ。
928日本@名無史さん:2007/12/04(火) 23:08:51
一条天皇は第一皇女の「女としての幸せ=ケコーン」考えなかったのかよ。
929日本@名無史さん:2007/12/05(水) 02:33:27
>>920
後小松法皇の没年は1433年(永享5年)、光範門院日野西資子の没年は1440年(永享12年)。

よって後小松が死んだ段階では後花園の「母」扱いである光範門院は存命しており、>>911のいうことはおかしい。
930日本@名無史さん:2007/12/05(水) 08:02:29
>>928
内親王の結婚相手は天皇か摂関家の子息ぐらいだったからな。
三条天皇に入内するにしても修子内親王には後ろ盾がなく
蹴落とされてしまうし、道長の子息というわけにもいかなかったんだろう。
当時の内親王は生涯未婚が普通だったし、
修子内親王は父一条天皇から皇族としては最高位の一品に叙されていた。
父としてできるのはそれくらいだったかもしれない。
931日本@名無史さん:2007/12/05(水) 20:19:04
修子内親王を皇后、中宮にすりゃいいじゃん。
それかニョイン。
932日本@名無史さん:2007/12/05(水) 21:23:28
未婚の内親王が女院になるのは、もうちょっと後じゃなかったっけ
その時でも父天皇(その時点では上皇だったかな)のDQNぶりに周囲は非難囂々だったとか
933日本@名無史さん:2007/12/05(水) 23:20:21
>>925
『愚管抄』によると鳥羽法皇は、源為義・平清盛などの北面武士に命じて
祭文(誓いの文)を美福門院に献上させて忠誠を誓わせた上で、「美福門院
一向母后ノ儀ニテ摂録ノ法性寺殿、大臣、諸卿ヒトツ心ニテ有ベシ」と厳命
しています。これは美福門院が、後白河・二条の上に立つ王家の家長になった
ことを示しています。

また、二条天皇と徳大寺家の協力だけで多子の入内が実現したとするのは、
徳大寺家を過大評価し過ぎではないでしょうか?徳大寺家の力の源泉は、外戚で
あることだけです。忻子が後白河の中宮になったからこそ、実能・公能は官位を
上げることができたわけで、徳大寺家自体に何かの力があるわけではありません。

そして忻子を後白河に入内させたのも、鳥羽法皇の力によるものです。後白河の
寵愛が平滋子に移ると、徳大寺家は途端に弱体化します。
934日本@名無史さん:2007/12/05(水) 23:29:05
なぜ、鳥羽法皇や美福門院が徳大寺家を重視したかについてですが、当時の
大臣クラスの公卿の顔ぶれを見ると、摂関家を除くと閑院流(三条・徳大寺)、
中御門流、村上源氏といった構成です。そして、三条・中御門流・村上源氏は
美福門院や家成(美福門院の従兄弟で、鳥羽法皇の第一の寵臣)と縁戚関係にあり
親密でした。それに対して、徳大寺家だけが崇徳・頼長派といえます。つまり、
徳大寺家を取り込むことは崇徳・頼長支持勢力を消滅させて、二条・後白河、
ひいては美福門院の権力安定につながるわけです。
935日本@名無史さん:2007/12/06(木) 02:01:48
冷泉に昌子内親王が従兄弟で皇后になってる。美人だった。
3条天皇、お飾りでも、異母弟に入内でもいいじゃーん。
936日本@名無史さん:2007/12/06(木) 08:26:04
>>933
その文章は、鳥羽法皇在世時のことで、
多子入内時のものではありませんよね?
鳥羽法皇は在世中、寵妃美福門院を重んじよと命じたが、
すでに鳥羽法皇がなくなった後の話。
多子が美福門院の熱望で二条天皇の後宮入りをしたのならば
愚管抄がそう書くでしょう。
前代未聞、摂関家の姫君ですらありえなかった二代の天皇に
まみえるということは、有る意味、太皇太后多子を馬鹿にして
軽く扱った行為であるわけで。
多子が二条天皇に宛てて詠んだ歌が残っているので、
多子が寵愛を受けたことは確かですが。
937日本@名無史さん:2007/12/06(木) 08:36:06
>>933
鳥羽法皇は在世中、一度も多子に東宮守仁親王(二条天皇)入内
を命じたことはありません。
閑院家を外戚とする鳥羽法皇なれば、外戚筋の娘をそれほどの
恥にさらすようなこともしなかったでしょう。
先々帝の妃をあたかも女房のごとく軽く扱い、あちこちの男のもとへ回す。
多子にとっては絶えられなかったと思います。
先にもありましたとおり、徳大寺公能には娘が大勢いました。
多子を再入内させるだけの理由がない。
徳大寺家には単独で娘を入内させるだけの力がなかったと言ってみたり、
徳大寺家は天皇の外戚一族で取り込む必要があったとか、大分意見がずれているようですが。
徳大寺家は、後白河天皇に中宮をたてています(後白河はあまり重んじなかったが)。
つまり、娘を天皇に入内させるだけの力がありました。
938日本@名無史さん:2007/12/06(木) 08:43:55
閑院家を外戚とする白河天皇が出て以来、
閑院家は天皇家の外戚として手厚く保護されてきました。
実際の官位以上の働きを与えられ、代々の帝に
娘を入れることが出来たのも、歴代の閑院を外戚とする
天皇が外戚を保護してきたためです。
徳大寺公能は、後白河法皇の叔父(母待賢門院の兄)
であったために、後白河に庇護され官位を上げました。
忻子によってではないでしょう。
(忻子は後白河と長年別居していたことが見えます)。
その後白河すら、多子の再入内に動いた気配はありません。
閑院家を外戚とする後白河なれば、やはり外戚筋の娘に
恥をかかせたくなかったでしょうね。
忻子は後白河と長年別居していますが、だからといって
ほかの誰とも再婚しませんでした。
939日本@名無史さん:2007/12/07(金) 17:09:34
「多子の再入内に美福門院が関与したはずがない」とする理由をまとめると、

中宮・姝子の出家は異常で、二条天皇は引き止めていない(この時、後白河は
出家しないように説得)。

美福門院が仮に徳大寺家の娘を欲しければ、多子でなくても良い。

二条天皇は、永暦元年(1160年)正月には内裏にいて、美福門院と同居していない。

二条天皇は多子入内の時、すでに親政を確立していた。

多子の入内は、二条天皇と徳大寺公能が同意していれば可能だった。

このようなところでしょうか?
940日本@名無史さん:2007/12/07(金) 17:20:44
鳥羽法皇が在世中に、東宮・守仁への多子の入内を考えていなかったことは
同意します。はっきりいって、誰も考えていなかったと思います。鳥羽法皇の
行った措置は、後白河と忻子、守仁と姝子の婚姻だけだったはずです。これにより
徳大寺家は崇徳・頼長派から離脱し、美福門院と守仁の関係も強化されました。

「保元の乱」で崇徳・頼長派が壊滅した後、後白河・二条の体制は美福門院・信西・
忠通によって支えられました。この間、多子は忘れ去られた存在となっています。
ところが、永暦元年(1160年)正月に降ってわいたように、多子が二条天皇に再入内
します。

あまりに唐突過ぎて何が起こったのか理解し難く、説明困難な状況といえます。
正月以前に多子の再入内の話が流布した形跡はなく、突然持ち上がり実行に移された
ものと思われます。
941日本@名無史さん:2007/12/07(金) 17:29:43
契機となったのは「平治の乱」しか考えられません。「平治の乱」以前は誰も
多子の存在など気にもしていなかったはずです。しかし、信西が殺害されたことで
三頭政治の一角が崩れます。こうなると体制が揺らぎ、離反者が続出する恐れも
あります。崇徳・頼長に近い徳大寺家のみならず、同じ閑院流の三条家、さらには
忠通まで摂関家再興を夢見て、崇徳復帰に動き出さないとも限りません。もともと、
忠通の娘・聖子は崇徳の中宮でしたし。

このような状況では、反美福門院派の象徴だった多子もそのまま放置しておけば
不満分子の結集先となる危険性が出てきます。個人的な好悪に関わらず、取り込む
必要性も生まれると思います。
942日本@名無史さん:2007/12/07(金) 17:57:42
おもひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲井の月をみむとは

二条天皇に再入内後、多子が詠んだ歌です。
多子は、二条天皇の寵愛を受けていたようです。

>>941
多子が不満分子の象徴であったという理由が希薄です。
子もなく、養父も失った先々帝妃のもとへ、
反二条勢力が結集したとする根拠がありません。
多子の姉忻子も夫と別居中の折、多子にそれだけの力があったのでしょうか?
多子入内の翌年には、今度は忠通の娘育子が二条天皇に入内、
二条天皇は中宮に冊立された育子と一緒に忠通の邸に移ってしまい、
多子はまたもや冷遇されます。
多子が美福門院すら恐れる不満分子勢力の象徴としてかしづかれていたのならば、
二度までも冷遇されることはなかったでしょう。
943日本@名無史さん:2007/12/07(金) 18:22:26
定子さまが好きです。
944日本@名無史さん:2007/12/08(土) 04:32:22
>>942
建礼門院の晩年の歌を思い出した。

思ひきや深山の奥に住まひして雲居の月をよそに見むとは
945日本@名無史さん:2007/12/09(日) 02:06:02
定子様の最後の歌・・・涙が出てきた。
946日本@名無史さん:2007/12/09(日) 11:42:56
なまみこ物語最高
947日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:34:23
>>942
多子の再入内が、不名誉・屈辱であったことは同意です。通常なら決して有り得ない
ことです。その有り得ないことが現実になったのですから、異常事態といえます。
もちろん、多子は魅力ある女性だったようなので、二条の寵愛を受けたのは事実かも
しれません。

しかし、本当に『平家物語』の「二代の后」の話を全面的に信用していいのか?
多子の再入内は、そもそもいつ頃から進められた話なのか?なぜ、永暦元年(1160年)
正月というタイミングで行われたのか?という疑問に対する明瞭で納得できる答えは
ないように思います。
948日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:46:52
永暦元年(1160年)正月〜応保元年(1161年)9月は「平治の乱」と二条親政確立の
間であり、後白河院政派と二条親政派の対立が基軸となりますが、摂関家や平氏一門も
からみ複雑で入り組んだ状況となっています。崇徳の復活も、情勢によっては有り得たと
思います。

二条にとって父・後白河は関係が悪く、摂関家もこの時点では味方とはいえません。二条が
最も頼れるのは、美福門院だけのはずです。このような極めて不安定な時期に、二条が果たして
美福門院の意向に逆らうことができるのか?二条にとって徳大寺家との提携は、美福門院の
後見を打ち切ってでも行う価値があったのか?

実態は極めてつかみにくいですが、二条は姝子を捨て多子に乗り換えた→姝子の母・美福門院は
激怒したはず、と単純に割り切れる状況ではないと思います。
949日本@名無史さん:2007/12/09(日) 18:22:17
別件だが、建礼門院にも再入内の話があったよね。

まぁ、相手が現役天皇ではなかったがね。
たしか、両親も乗り気!後白河も乗り気!!
みたいな感じ。


本人、必死になって嫌がったみたいだけど。

後白河には、多子の事がよぎらなかったんだろうか?


たしか、この記述も平家物語だった気が。。。
950日本@名無史さん:2007/12/09(日) 19:01:49
>>949
後白河には、当時寵妃高階栄子がいて乗り気ではなかったと思う。
もっとも、建春門院を失って後白河とのパイプを失った清盛と時子は乗り気だったみたい。
「平家物語」より信憑性の高い「玉葉」にこの話があったと思う。
だから、まだ若い未亡人建礼門院の再入内の話が兼実の耳にまで届いたのは間違いない。
結局この話はならず、清盛は別の娘(安芸御子姫君)を
後白河の側へ入内させたが、後白河はこれをしぶしぶ受け入れて
「養女」と公称し、手をつけなかったようだし。
951日本@名無史さん:2007/12/09(日) 19:06:57
>>948
美福門院の意思での多子入内ならば、
なぜ姝子は自分の意思で二条天皇の後宮を出たのでしょう?
美福門院第一の二条天皇ならば、
美福門院と自分をつなぐ何より大事な絆、
中宮姝子内親王が退出して出家をほのめかしたら、
大急ぎで説得して、多子を一時実家へ帰してでも
姝子内親王との関係修復に躍起になりますよね?
美福門院大事にしては、多子入内後の二条天皇の姝子内親王に対する
扱いはあまりに冷淡で、夫とは思えない行動をとり続けています。
952日本@名無史さん:2007/12/09(日) 19:40:31
美福門院が多子入内を命じたという史料はありません。
そのほかにも、美福門院が多子を厚遇した気配は見えません。
美福門院にすれば、二条天皇と自分をつなぐ最大の絆は
我が娘姝子内親王をおいてほかになく、
当然、亡き鳥羽法皇もそれを二条天皇即位の条件にしていたはずで、
多子と美福門院の接点が見当たりません。
953日本@名無史さん:2007/12/09(日) 22:52:28
なんか後白河前後の後宮をめぐる話とかが、
この時代の研究者のあいだでは今ホットな話題なの?
ずいぶん白熱しているけど。
954日本@名無史さん:2007/12/10(月) 23:47:00
>>952
史料の有無というのなら、永暦・応保年間が貴族の日記の残存状態が良くないので
仕方のないことです。姝子の出家が単に病気のためか、多子に寵愛が移った二条との
軋轢によるものか、容易には判断できません。ただ、もともと二条は美福門院の養子
です。二条と姝子の婚姻は、二条と美福門院の関係を補強するものといえますが、
あくまで二次的なものです。姝子の出家がそのまま二条と美福門院の関係崩壊に直結
するというのは、少し短絡的ではないでしょうか?

ここで気になるのは姝子が出家した時、二条や美福門院ではなく後白河がその行動を
制止していることです(『山槐記』)。姝子は美福門院の娘であるという点ばかりが
注目されているようですが、実は姝子は後白河の同母姉・統子(上西門院)の養女でも
ありました。鳥羽法皇が姝子を二条の妃としたのは、単に二条と美福門院の関係強化
だけでなく、姝子を通して後白河に二条を保護させるためのものと見られます。
955日本@名無史さん:2007/12/11(火) 00:07:42
二条と姝子の婚姻の際、姝子は統子の三条高倉邸から嫁いでいて、婚儀の進行には
統子が関わっています。さらに二条との婚姻後も、姝子は統子の三条高倉邸を訪れて
います。保元3年(1158年)10月には、後白河・統子・姝子が宇治へ御幸を行って
います(『兵範記』)。さらに姝子は平治元年(1159年)初頭に後白河と高松殿で
同居していて、立后もここで行われています(『山槐記』)。

統子と姝子の関係が姝子の婚儀以前から親密だったことを見れば、後白河と姝子の
関係もかなり前にさかのぼると考えられます。姝子が美福門院の娘であると同時に、
後白河とも密接につながっていたことは、当初は二条と後白河の関係を調整して、
体制を安定させる効果があったと思われます。

しかし、永暦元年(1160年)に後白河院政派と二条親政派の対立が激化して
経宗・惟方・源光保など二条親政派の要人が失脚・追放され、院政派の圧力が
強まりました。両派の調整役を果たしていた姝子の立場も、動揺したのでは
ないでしょうか?多子の再入内・姝子の出家など相次ぐ異常事態を説明するのは
困難ですが、当時の複雑で切迫した政治情勢を考慮に入れる必要があると思います。
956日本@名無史さん:2007/12/11(火) 08:25:06
>>954

鳥羽法皇在世時、寵愛の絶えた待賢門院腹の四男、
後白河の地位は大変危ういものでした。
帝位への諦めから今様にのめりこみ、
白拍子と一緒に日夜歌っていたと梁塵秘抄にもあります。
後白河の地位は、あくまでも美福門院を養母とする
二条天皇の父であるというだけのもので、
姝子内親王入内時に天皇家の宗主としての権限をもっていたわけではありません。
上西門院は後白河の同母姉にして鳥羽法皇の娘でし、
姉が妹や弟の養母となるのはよくあることです。
姝子内親王が姉の上西門院と親密であるよう鳥羽法皇が計らったところで、
多子の入内が美福門院の指示であったという何の根拠にもなりません。
957日本@名無史さん:2007/12/11(火) 08:35:42
>>955
清盛の娘徳子は、養父後白河法皇の邸で建春門院の手によって裳儀をすませ、
養父の邸から、高倉天皇のもとに入内しています。
姝子が上西門院の邸から入内したからと言って、婚儀のはるか前から
親密であったとすることはできないでしょう。
(平徳子が高倉天皇婚儀のはるか前から、養父後白河の邸にいたわけではないように)。
姝子は後白河側の人間であったために平治の乱で中宮の地位を失墜させたという論調ですが、
姝子が美福門院の娘であり、二条天皇即位の正当性そのものが
姝子との結婚によって維持されていたことは疑いようが無い。
姝子の退出、出家によって二条天皇即位の正当性そのものが揺らぎ、
政権は動揺してさまざまな事件がおき(側近失脚など)、
結局、二条天皇は多子入内の翌年には後盾を求めて多子の下を去り、
関白藤原忠通の娘婿に収まると言う決断を下しています。
多子の再入内によって政権が安定するどころか混乱を来たし、
二条天皇は早くも軌道修正して多子を再び冷遇することになったことは
史料で明らかになっています。

958日本@名無史さん:2007/12/11(火) 09:03:36
平治の乱の際、姝子内親王は終始二条天皇と行動を共にし、
平清盛の邸にも二条天皇とともに行啓しています。
その後、母美福門院の八条殿に同行したのは勿論のことです。
姝子内親王が後白河方であるとして冷遇された形跡は全く無く、
この時点で二条天皇も清盛も、中宮姝子内親王を尊重しているわけです。
平治の乱の最中、姝子内親王が夫を捨てて後白河ー上西門院と行動をともにした
というならともかく、姝子内親王はずっと夫二条天皇と行動を共にしています。
平治の乱によって中宮姝子内親王の地位が失墜した形跡はこれを見ても
全くないわけです。
959日本@名無史さん:2007/12/11(火) 16:28:21
>>954 >>955 って、このスレ↓でも場違いな長文書いて顰蹙かってた人だよね?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1058182846/l50
相当な素人さんなのかな?
960日本@名無史さん:2007/12/13(木) 08:19:36
高倉天皇と徳子の婚姻は、建春門院が積極的に推し進めたようですね。
天皇の妃を決めるには、母后の意向が最重要となります。母后が反対なら
実現しないはずです。摂関期に比べると、院政期は短命な母后が多いので
治天の君(院政を行う上皇)が決めるようになっていましたが。

徳子が後白河の猶子となったのは、待賢門院の例によります。ただ、徳子が
後白河の猶子として入内することについては、高倉天皇と姉妹の関係になって
しまうという批判もあったようです。
961日本@名無史さん:2007/12/13(木) 16:02:24
>>960
いつもの人だね・・・
徳子は後白河法皇の養女として入内しました。
当時、後白河法皇と同居していた建春門院に裳儀をしてもらい、
事実上、後白河法皇と建春門院の養女として入内したわけです。

多子はどうでしょう?
美福門院の養女になりましたか?
国母がどの時代でも息子に張り付いて妃の監視を行っていたと言うのは間違いです。
「愚管抄」を読みましょう。
平治の乱の直後、二条天皇が自らの手で親政を行うようになったと
はっきり書いてあります。
そこに、美福門院の文字は全く無い。
平治の乱の際にも、美福門院に動きはなかったようですね。
962日本@名無史さん:2007/12/13(木) 16:33:31
そもそも、美福門院にそれだけの力があったのならば、
近衛天皇に多子は入内できなかったでしょうね。
美福門院の養女であった藤原呈子だけが后であったはずです。
歴史上、一人の天皇に複数の后が立てられることは何度かありましたが、
国母が介入すれば済んだ話ではありません。

1161年、二条天皇は藤原育子と結婚し、関白藤原忠通の邸に移ります。
近衛天皇の後宮では呈子を押す美福門院、藤原忠通と、
多子を押す藤原頼長が激しくやりあったのに、
ここでは何の混乱も生じていません。
中宮育子に対抗して太皇太后多子を後押しする勢力がなかったことが
良くわかります。
二条天皇の心変わり(関白忠通と組むという)を前に、
多子陣営はなす術がなかったのです。
963日本@名無史さん:2007/12/13(木) 20:03:03
このまま議論を続けると、他の人の迷惑になりますね。二条天皇、もしくは
藤原多子の個別スレを立て、そこで存分に語りましょうか?
964みゆき:2007/12/14(金) 13:40:46
せっかく盛り上がった意義ある学術論議だから、
いちいち「個別スレを立てろ」といわなくてもいいじゃないか、
話が「皇后・国母・女院を語る…幕末以前…」のトピックをあまり逸れていない限りは。
「あれが好き」「これが好き」などなどの大合戦よりは随分マシよ。
965みゆき:2007/12/14(金) 13:54:09
それに、二条天皇、藤原多子だけに関する訳ではない。
美福門院、上西門院、八条院、高松院、藤原育子、藤原忻子、建春門院、建礼門院など、
平安末期という混迷の転換期に、看過できない足跡を残した、
多彩な皇后(中宮)・国母・女院群像をめぐる格好の話題ですよ。
966日本@名無史さん:2007/12/14(金) 15:38:10
多子のことについてはよく知らなかったのですが、
このスレを読むかぎりでは二条天皇最低ってことでよかですか?
967日本@名無史さん:2007/12/16(日) 18:40:53
二条自動車教習所なら(ry
968日本@名無史さん:2007/12/16(日) 23:30:48
誰が地元ネタをいえと
それなら二条よりデルタの方が(ry
969日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:15:20
次スレでは大后制の淵源とか、
国母だったら2人の皇祖母命とか、元明女帝即位前の皇太妃の称号とか、
殆ど話題が出なかった、平安初期以前に詳しい人の話が聞きたいものです。
970日本@名無史さん:2007/12/17(月) 11:29:48
定子さまと多子皇后を漫画化してくれ。
971日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:17:04
サーヤの元婚約者のスレ↓

http://human7.2ch.net/test/read.cgi/ms/1194068860/l50
972日本@名無史さん:2007/12/18(火) 10:23:08
定子様はインテリだなー。
973日本@名無史さん:2007/12/18(火) 18:34:05
今だったら博士号もってるってかんじー。
974日本@名無史さん:2007/12/18(火) 19:27:14
このスレは定子厨に乗っ取られました
975日本@名無史さん:2007/12/18(火) 22:25:14
一人の基地外が必死こいて書き込んでるだけだよ
明治天皇の皇后側室スレや貞明皇后スレや藤原道長娘スレでも馬鹿丸出し
さすが、馬鹿女定子なんかを崇拝してるだけある
976日本@名無史さん:2007/12/19(水) 10:07:48
そうなのか…。

明治天皇の皇后側室スレ・貞明皇后スレなんてこれでもかってくらいの
スレ違いじゃないのか?
藤原道長娘スレもそれなりに関わりあるとは言え微妙だし。
977日本@名無史さん:2007/12/19(水) 11:24:44
スレ違いというか、定子マンセーと同じように
好きな妃の名前を無意味に連呼して嫌いな妃はブスデブ呼ばわり
学術的なことは一切書かない、書けない
妄想世界の住人
978みゆき:2007/12/19(水) 16:37:56
藤原育子は、摂関家のれっきとした娘なのに、
後白河院の強引な「六条天皇おろし」にはどうして基房らが猛反対しなかったのでしょう?
血縁は無いとはいえ、藤原育子は六条天皇にとってむつきのうちから親しんだ養母、
そして摂関家の基房兄弟は外舅ですし。
979日本@名無史さん
六条天皇は藤原育子を養母としていたとはいえ、あまりに卑母でしたからね。
当初より即位の正統性を疑う声がありました。
長兄基実没後、六条天皇の摂政だった基房は、
高倉天皇の即位と同時に高倉天皇の摂政に横滑りしています。
二条天皇の崩御により、天皇家の家父長としての後白河の権限は
ゆるぎないものとなり、後白河や清盛の押す高倉天皇に乗り換えることが
時流に乗る方法だったのだと思います。