重盛は嘉応2年(1170年)殿下乗合事件で基房に喧嘩を売り、承安2年(1172年)
郎等の伊賀国住人が春日社神人を殺害しても責任逃れをするなど、摂関家と
無用なトラブルを起こしている。重要問題が起こると清盛の判断に任せるケースが
多く、政治的手腕にも疑問がある。
幼主・高倉天皇を後白河・建春門院・清盛の三頭体制で支えていたのが、建春門院の
死でバランスが崩れて後白河と清盛の関係が急激に悪化。この状況で重盛がしたことは
安元3年(1177年)の強訴で神輿に郎等が矢を当て延暦寺の怒りを買ったことと、義兄の
藤原成親が逮捕されたときに慌てふためいたことだけ。
その後、政治的活動をすることもなく現実逃避。重盛が生きていたところで、どうにも
ならない気がする。
459 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 02:46:56
>>458 そうそう!重盛による基房への暴力沙汰で、高倉天皇の御元服の儀が延期されてるんだよね!
父院としての正統性を固めちゃいたい後白河にとっては、まさに水をさされた感じだったと思うよ。
重盛が没した直後に、その知行国の越前があっさり後白河に収公されたことの背景にも、粗忽な重盛に対する後白河院の侮蔑みたいな悪感情があったりして。
460 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 22:17:18
461 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 19:00:22
ぽんとにぽんと
462 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 12:42:47
もし清盛の遺体が発見されて
晒し首にされてたら
随分歴史的評価も変わってただろうな
463 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 01:58:54
仮に清盛が生け捕りで頼朝の前に出されても
晒し首は考えにくいなぁ
一度命を助けられてるわけだし
464 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 02:31:09
相国入道は頼朝の首を墓前に供えろって言ったけどね
465 :
日本@名無史さん:2009/05/05(火) 03:10:36
中宮の父親で安徳天皇の外祖父で准三宮だからね
宗盛が斬首されたのは扱いが違うと思う。
466 :
日本@名無史さん:2009/08/30(日) 23:41:13
>>457 虚弱な平家方ではどちらにせよ止められんよ
468 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 01:19:04
そうか
469 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 21:14:56
清盛が長生きして
それでも平家が負けていたら
清盛斬首→獄門は確実だろうな
頼朝は自分を生かしてくれた恩義は感じたんだろうかな
頼朝は「平家を助けたら自分と同じように
いつか挙兵するかもしれない」と考えて斬首だろ
頼朝が恩義を感じるのは清盛ではなく、頼盛や宗清じゃないかな?
472 :
日本@名無史さん:2010/02/16(火) 13:59:32
日本史の上では、清盛始祖平氏政権と鎌倉幕府が長期間並立することは無かった訳だけど
世界に目を向けてみると、(推定含め)同一言語圏内で
「国際派・重商派・文治派」と
「国内派・重農派・武断派」が
長期間並立・競争関係にあった例というのは、結構ありそうだね。
一番分かりやすそうな例とすると、近代欧州のドイツ語圏での
「ハプスブルク朝オーストリア 対 ホーエンツォレルン朝プロイセン」が典型的かと思う。
ウィーンが京・福原で、ベルリンが鎌倉のような。
ハプスブルク家の家風を表した有名な言葉を言い替えて、
「戦は外なる者どもに。なんじ幸いなる平家一門よ、婚姻せよ」
にしてみても、平家の家風や方法論に、けっこう合ってそう。
マリア・テレジア張りの女統領は、日本では平氏政権じゃなくて鎌倉幕府に登場した(北条政子)けど、
オーストリア継承戦争みたいな派手な合戦がその後起こったとすると、
援軍ハンガリー騎兵隊に当たる勢力は・・・瀬戸内や熊野の水軍かな?
(二位の尼が安徳帝を抱いて、援軍を懇願する大演説・・・というような場面は、日本ではあり得ない?)
473 :
日本@名無史さん:2010/02/16(火) 16:38:48
>>470 処刑は確実なのかもしれないが
さらし首までする可能性はあるのか?
家康→秀頼と同じで
同情しそうだけど
474 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 12:32:37
平氏政権の特徴でもある、海洋貿易を経済基盤にした領主たちが同盟を組んで建てた政権っていえば
現代だとさしずめアラブ首長国連邦(UAE)政府だな。
7首長国の連邦でそのうちのアブダビ首長が連邦大統領兼務っていうUAEの体制は、武家政権期の日本にも似てるけど、
鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も、基本的には重農主義的で国内志向の政策路線だったから、
平氏政権やUAE政府の、重商主義的で国際志向の政策路線とはやや違うし。
室町幕府は、むしろ清盛の目指した政権に近いのでは?海外との貿易拡大とか
本拠地を京都に置いたこととか。
476 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 16:42:48
>>475 軌道修正を掛け始めたのは三代目の義満と言えばいいのかな。
南北朝の対立が収拾された頃から、
重商主義的な政策が打てるようになったと見るべきだろうか。
まあ室町時代の場合、幕府より地方領主のほうが強力かつ対外開放的になりはじめて、
しまいには重商主義・国際志向の権化みたいな大名も登場するわけだけど。
典型例が織田信長で。
>本拠地を京都に置いたこととか。
辛気臭いハッタリ閉鎖文化でたいして進歩のない
山に囲まれた盆地風習京都に置く訳がないだろ
清盛は日本史上、最っとも洗練された
開かれた海洋文化思考の持ち主だからこそ
都を海に面した神戸・福原に移したり
瀬戸内に荘厳な厳島神社を造営したりと
海洋を通して海外との貿易に主眼を置いたりと
積極的で海に開かれた精神を通して
荘厳な平家文化が日本文化の礎を作り出したんだよ。
478 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 17:14:14
福原という「海辺」に首都機能を置いたのは、
浪速宮以来だったといっていいかもなあ。
もしも福原京がそのまま首都として維持されていたら、
今頃「西のイスタンブール・東のフクハラ」なんて言われていたのかな。
しかし・・・どうなんだろうなあ。
近畿に住んでる親戚の人に、以前こういう話をしたら、
「神戸の辺りは大きな川が無いからなあ。
ずっと都をやっていこて思たかて、水の確保に困ったんやない?」
って意見が出たことがある。
実際、水の確保はどうやってたんだろうな、福原では。
井戸を掘ろうにも、ある程度大きな川が近くにあるような環境じゃないと、大きな水脈は見込めそうにないし。
もしもその後の歴史の中で、数百年単位の首都機能を維持できるほどの水を確保しようとしたなら、
・・・武庫川から用水路を引くか、讃岐の満濃池みたいなでっかい溜め池を福原の近くに掘るか。
今の神戸とはかなり違った地形・水系になってそうだ。
>>478 >神戸辺りは大きな川が無いからなあ。
当時、神戸・福原に湊川って比較的大きな川があったんだよ。
今は大正時代に市街地開発で川流を強引に変えられてる。
当時の川筋は埋め立てられて、新開地って歓楽街になってる。
480 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 17:34:44
或いは、厳島や大宰府の存在も勘案するなら、
今の広島か博多あたりに再遷都していたか。
地形的な拡がりでも、交通の便でも、水の確保でも、かなり有利だから。
イスタンブールのような地形と言えば、まさに関門海峡がそうだが、
もしも下関あたりに再遷都していたとしたら・・・、
「壇ノ浦」は「平家の栄耀栄華」という、まるで正反対の意味合いになっていたんだろうか?
・・・しかし、当時の関門海峡周辺だと、やはり水の確保が難しいか。
481 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 17:40:46
>>479 ああ、それって、今の新湊川の前身なんだね。
483 :
日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:15:25
>辛気臭いハッタリ閉鎖文化でたいして進歩のない
>山に囲まれた盆地風習京都に置く訳がないだろ
今の京都に対する偏見で、平安末期の国内唯一無二の大都市を語ろうとする阿呆がいるな。
どこの山猿だろう。
京都が平安末期日本の突出した巨大都市だったのは、間違いないところだろう。
そういう状況から、あえて遷都、それも直接の海浜地域へというのは、
当時のアジアではかなり画期的な発想だったんじゃあるまいか。
海洋貿易立国という構想そのものは、
その当時の東アジアではかなり一般化された発想ではあっただろう。
五代十国から宋代に掛けて、中国では、海洋貿易が大いに発展した。
後にマルコポーロによって欧州人にも知られるようになる泉州が貿易中心地となったのも、11世紀のことだった。
また高麗も、首都の開城の近隣に、碧瀾渡という河畔貿易港を設けていた。
ただ、当時の東北アジアでは、中国でもどの国も直接の海浜地域には首都を置いていなかった。
日本の平安京、宋の開封、高麗の開京、大越の昇竜は、いずれも内陸だった。
五大十国の頃の中国も、海浜を抱える国は多かったが、海浜を都にした国は無かった。
(ヴェトナム南部のチャンパの都は海浜だったんだろうか? やや内陸だったんだろうか?)
こういう中で、あえて海浜の福原に都を置こうと考えたのは、相当に独創的な構想だったと言えるのではないか。
逆に、鎌倉以降、日本では海浜に政治的都市を建設する例も増え、近世以降はそういう都市が非常に多くなるのだが。
現在の日本の人口百万人以上の都市のうち、内陸にあるのは京都と札幌だけではなかったか。
>>484の訂正
誤 ただ、当時の東北アジアでは、中国でもどの国も直接の海浜地域には首都を置いていなかった。
正 ただ、当時の東北アジアでは、どの国でも直接の海浜地域には首都を置いていなかった。
「伝統的に内陸に首都を置き、かつ、比較的安定した情勢にある国が、海浜地域に遷都する」
という例は、世界史にもあまり例が無いのかもしれない。
防衛上の理由から、実行が難しかったのだろうか?
数少ない例があるとしても、かなりの巨大国家の場合に限られているようだ。
この点から考えてみても、福原遷都は当時としてはかなり独創的構想だったのかもしれない。
上の場合での、日本以外の例
ローマ帝国(コンスタンティヌス帝時代) ローマ 〜 コンスタンティノープル(現イスタンブール)
オスマン帝国(メフメト2世帝時代) アドリアノープル(現エディルネ) 〜 コンスタンティノープル(現イスタンブール)
ロシア帝国(ピョートル1世帝時代) モスクワ 〜 サンクトピーテルブルフ(現サンクトペテルブルク)
他にもあるだろうか?
そういえばポートアイランドも
独創的構想で当時、かなり注目を浴びたな
488 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 06:54:15
>>1 きっと、顔のデカい唇がひっくり返った、ギョロ目のボザ髪の沖縄県並みに、キモメンだらけの国に成ってただろうね‥。
489 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 06:55:56
鼻は団子で、思いっきりのいきり鼻‥
490 :
日本@名無史さん:2010/03/24(水) 23:19:11
だれが?
491 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 00:02:39
>もし清盛が長生きしていたら
平家が勝利していたかもしれない
492 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 08:37:41
>>486のレス記載からしばらくして、
世界史カテで聞いてみたら、
平氏政権期と同時期のチャンパの首都は、これも内陸だったそうだ。
やはり海浜首都というのはよほど珍しい存在だったのか。
ただ、海浜首都が少なかったのは、
ひょっとすると、当時の船舶メンテナンスの都合だったんだろうか。
貝の一種・フナクイムシによる。木造船への食害の防止のために、
川を遡っていって淡水に船をしばらく浸すというのが、昔はよくあったそうだけど。
493 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 08:40:03
「
>>486のレス記載からしばらくして、」じゃなくて
「
>>484のレス記載からしばらくして」だった。
494 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 08:41:34
貝の一種・フナクイムシによる。木造船への食害の防止のために
↓
貝の一種・フナクイムシによる、木造船への食害の防止のために
たびたびごめん。
495 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 00:05:02
宗盛じゃなく重衡を後継者にしていれば
戦の展開も違っていたかも!
平家重代の宝刀 小鳥とか現存してるけど
凄く 個性的で 格好いい
唐皮の鎧とかも 虎皮使用でさぞ格好良かったと推測してしまう。
497 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 01:00:11
源平と一語で言うけどどちらも武士であって公家では無いから、
武士のための政治をしなければならない。
例えるなら平治の乱は武家の政権交代だったわけで、
全国の武士の総元締めが源氏から平氏に変わったという意味合い。
だから平氏も同じ武士である源氏のことをただ排除するのではなく、
源氏のために施策を行っている。源氏の根拠地である東国の土地が、
平氏に横領されたなんて話は聞かないでしょう?
平氏の政治がもう一方の同業者である源氏の方を向かず、貴族化
を指向している限り、清盛の力でも源氏は抑えられない。
清盛はどうしても朝廷から離れられなかったのでしょうね。
頼朝でさえ晩年は娘を後鳥羽天皇に入内させようとしているから、
朝廷の権威というものに人を狂わす魅力があったのでしょう。
499 :
日本@名無史さん:2010/07/29(木) 18:22:35
清盛が再来年の大河ドラマの主人公に決まったってマジ?!
500 :
日本@名無史さん:2010/07/29(木) 21:18:44
>>497 厳密にいえば源平は「軍事貴族」だよ。
武装した貴族集団と考えれば良い。
彼らは朝廷から官位を受け、朝廷から仕事を与えられて、朝廷のために働いていた。
源氏だって頼朝の4代前ぐらいは受領の地位を得るために
藤原摂関家のために私的警護を引き受けたり、
藤原道長に家財道具一式賄賂として贈ったりしていた。
保元・平治の乱といった都での争乱にも勿論、貴族の一員として参加している。
「武士だから武士のための政治をしなければならない」
って、源平はどちらも正統な貴族。
朝廷の官位を持つ貴族であるがゆえに地方に言っても貴人が来たともてはやされ、
地方の人々を率いることができた。
頼朝は幕府を作ったが、表向きは朝廷の下に入っていた。
武士と公家が明確に分かれたのは江戸時代ぐらいじゃないか。
室町〜戦国頃は半農半民の武士や朝廷にも幕府にも属さない武士、
貴族が没落して武装、武士となる〜なんて例が散見されるし。
享年63は当時としては長寿だと思うが・・・
502 :
日本@名無史さん:2010/07/30(金) 23:47:34
清盛より高倉天皇が亡くなったほうが平家にとっては痛かった
503 :
日本@名無史さん:2010/07/31(土) 21:38:41
平氏政権の陰りは建春門院(後白河女御・高倉天皇母)の死が一番じゃないだろうか。
建春門院は平時子の異母妹で、建春門院存命中の後白河と平氏の蜜月ぶりは大したもの。
建春門院は姉時子が清盛との間に儲けた平徳子の裳儀の紐結い役を務め、
高倉天皇と徳子の仲を取り持った。
建春門院が35歳で没した後の清盛と時子のあわてぶりは尋常ではなく、
高倉天皇が亡くなって未亡人になった娘の建礼門院(平徳子)を
えらく年の離れた後白河と再婚させようとしたほどだ。
504 :
日本@名無史さん:2010/08/04(水) 15:35:30
清盛たん大河ドラマ主役おめでと
505 :
無双立花宗茂:2010/08/18(水) 06:13:48
院政を基盤にのしあがった平家が、中心人物後白河院と対立し幽閉した事は自殺行為
だから駄目だよ!
東国の挙兵で、義仲から都を終れて、逃亡先の太宰府に知らん顔されて出目は無くなってる
まあ、義経の屋島チャ-タ-便攻めはどうにか根回し出来たかもしれないけど
チャ-タ-船だねm(_ _)m
この敗退で平家のダイナモである協力会社の水軍が手を引いた訳だが
後に提携解消される熊野水軍をTOBすればよかったんだ
しかし延命にすぎないけどね
高級輸入平家商社が滅んでも一般人は関係無く、世の末でも無かったって事だよ