1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 18:46:11
余裕の2
3 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 23:28:15
余裕の3
4 :
日本@名無史さん:2005/05/16(月) 00:11:08
ギリギリの4
5 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 00:02:17
納得の5
6 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 10:21:41
間が空いたからな
本スレ上げ
7 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 10:27:41
水軍ナンバーツーの元均に燃える
8 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 15:23:28
韓国の一部では「韓日戦争」にしようっていう動きが
あるしらいねんけど、本当?
9 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 20:42:55
実態は日明戦争だがな
小西と加藤の戦い。
>>8 れいによってオナニー史観。勝手にやらせておけ。
共通の教科書とやらに載せられたのではたまったものではないが。
12 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 07:02:33
韓なんて使ってなかった時代だよな?
13 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 07:23:19
囲碁に例えたら、棋士が日本と民国で、朝鮮は碁盤だろ。
秀吉にすれば「便所の通り道」程度の認識の甘さがあった。
15 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 07:25:02
???
「韓」は韓信や張良の頃から韓国人固有の国号ですが?
っていうか、倭乱で十分だろ。
倭が天朝を乱したのだから「倭乱」。
実に正しいれしき認識だと思おうが。
「倭乱」(笑)
17 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 10:49:37
っていうか明の領土(属国)に攻め込んでるんだから、日明戦争です。
18 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 20:25:07
この場合の天朝は明だから朝鮮は関係なし
19 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 20:44:28
小西は更迭されるべきだな
20 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 21:03:55
隆景は大活躍なのに知られていない
21 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 21:57:23
大友義統の退却は戦略的撤退だった。
太閤は愚か者だ!
22 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 21:58:19
>>15 その宗主国様が弱っていたとき火事場泥棒しようとしていた国の人間には言われたくないよねぇ、チョンコロ君?
>大友義統
この人物はみじめな生涯のようで、
少し関心がある。
24 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 06:52:59
能力や家臣はどうなの?
龍造寺の鍋島みたいに大友も立花が仕切れば安泰だったろう。
立花にそんな才能があるか?
あいつって北の方で小競り合いやってただけじゃん。秋月には完膚なきまでに叩きのめされるは、
竜造寺には手も足も出ないはだし。
っていうか、成り上がり者の立花如きに臼杵や田原、吉弘といった歴々がおとなしく従うものかね?
雷鳴に驚いてわざわざ刀を振り回し、当然のごとく被雷。
サルをいじめてストレス発散。
半身不随になったのをいいことに、戦場でもカゴかきの稚児小姓達に囲まれてウハウハ。
男色熱心のためか、後継ぎに恵まれず。
後継ぎに、と期待した弟達も、自身の采配のまずさのためにことごとく討ち死にさせる。
自己の欲望のために、同僚の息子を堂々と略奪。
新たに手に入れた稚児の度胸を試しのために人を切り殺す。
その稚児の胸元に手を突っ込んで大満足。
敵に回った豪族には媚びるが、自分の配下になった豪族はいびり倒す。
これぞ立花クオリティ。
26 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 10:40:27
義父を語ってどうする?
27 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 10:48:04
金吾タン大活躍の巻
どんな活躍か教えてください。
28 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 22:31:58
自ら敵を斬り倒しマスタ
↑
史実から目を背ける立花ヲタ発見。
31 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 07:47:01
とにかくさ、朝鮮へ行った武将の話をしてくれよ。
関ケ原では武将同士の仲違いが色々関係しているが、
一家内でも分裂したり結束したりしている。
朝鮮征伐前後の小早川と宇喜多家について語ってほしい。
32 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 08:18:28
宇喜多は確か朝鮮役までは出来る重臣がいて死んでから分裂した。
33 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 08:44:30
なんでまた道雪の話を持ち出したんだ?
朝鮮へ行ったんだっけ?
34 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 19:24:35
死んでる罠
35 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 20:11:15
宇喜多家の重臣はそんなに出来るのか
36 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 21:57:23
直家時代からの家臣?
37 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 00:06:48
あのさ、李舜臣についてなんだけど。
こいつって島津義弘公にやられて死んだんでしょ?
なんかモノによっては島津を破ったとか、殺されたこと自体故意に隠されてたりぼかされてるみたいなんだよね。
本当のところどうなんだろう?
最大の収穫は井戸良弘が拾ってきた、三十個ほどの茶碗
39 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 00:10:53
結局、小西や島津は大被害を受けたんですか?
40 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 00:24:27
どうでもいいけど朝鮮ってすごく不潔な国だったらしいね。
トイレがないから町のいたる所に垂れ流し状態で臭いとかハエとかすごかったらしい(明治期の話)
日本の武士がウンコ踏みつけて「ウェ、踏んじゃったよ」って映像がなぜか頭に浮かぶよ。
確認して欲しいのだけど、
島津関係の史書では50人(?)だとかの戦死者数を報告しており、
これについて「過少申告だ!」と怒る韓国人の本を読んだ事があります。
さて、どちらを信用すべきか。
島津は先の泗川で功を受けており、ここでも十分名分の立つ
戦いをしている。
被害が大きい事は貢献度を表す事になり、
今流に考えれば過少申告の価値はないと思うがどうなのか。
見栄のために過少申告する風潮が当時あったのかどうか、
先の大本営発表のような事をする必要があったのか、
どなのか。
そもそも朝鮮も島津も信用できんのだが
というより島津は朝鮮の子孫なのだが
島津は嘘、過大申告のプロですよ?
45 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 06:48:07
どっこいでしょ
46 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 12:15:20
あびる優の阿比留とはいったい何処発祥の苗字なのか調べてみた。
すると阿比留氏は蘇我氏傍流の比伊氏起源で罪人として房総半島に
流されたそうである。
刀伊の来寇が盛んになると比伊氏に朝命が下り、対馬を根拠地と
して刀伊討伐の任についた後に宗氏が台頭するまで阿比留氏はこの
地の実力者だったのである。
さて、阿比留氏の功績に阿比留文字があるが、これは李氏朝鮮の世宗
がウリジナルと称して劣化コピーし、ハングルとして作り上げたのだ。
証拠↓
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/han-gul.html 朝鮮人の自慢する「世界でもっとも合理的な文字」とやらは日本の豪族が
作った文字が起源で、メイドインジャパンの優秀さを示すと共に、
なんでもかんでもウリジナルにしてしまう朝鮮人は心底最低だと思う。
世宗からしてウリジナルをつくるミンジョクなのだから、現代の朝鮮人の
民度は推してしるべしといえよう。
あびる優は物議を醸しだしたタレントであるが、ハングルを作った意匠権は
彼女に帰せられるのは明白である。
47 :
どすこい:2005/05/23(月) 16:07:51
慶長の役は成功である。朝鮮半島南部の領有化に成功しつつあった。
あの国を領有することは失敗だ。
伝染病をもらうだけだから。
49 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 23:06:36
もう少し秀吉に寿命があれば領地を取れていただろうな。
50 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 18:41:12
秀吉が死んでいても後継者が継続してればね
51 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 23:30:03
>>43 島津が朝鮮の子孫???
ずいぶん顔立ちが違うなw
52 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 01:45:39
島津は惟宗氏の系統と言う説が一番有力
【惟宗氏】
元慶七年、秦氏の裔たる秦宿禰永厚、直宗、永家ら男女19人に惟宗朝臣姓を賜うに始まる。
惟宗氏は代々明法家、典薬として名高い。薩隅の島津氏(清和源氏説、藤原氏説も存す)、市来氏、川原氏、上松(植松)氏、河俣氏、越中の神保氏、対馬の宗氏(平氏説も存す)などは惟宗姓と伝える。
ただこれだけのことだろう
53 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 23:17:38
李舜臣はそれほど実績がへぼい訳ではなし
緒戦は連戦連勝でその後海上ではあえて
李なんとかとは戦わないことになったぐらいだから
普通に英雄といってよい。
55 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 07:03:02
李舜臣は英雄とゆーか本田忠勝とか島左近なんかのレベルだよ。
蓮池弟の翻訳で金曜日に韓国小説が出るらしい。
タイトル「孤将」新潮社
一人称らしいので期待薄、しかし売れそうだな。
56 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 10:42:28
韓国のベストセラー?
57 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 16:31:50
また李舜臣が誇大評価されていくだろう。
59 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 22:45:35
>>55 その本の中では
島津や加藤清正が次々と討ち取られていくらしい
戦国自衛隊では武田信玄が討ち取られたからまあいいか
60 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 06:30:52
今日が発売日?
61 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 07:31:31
「孤将」の次は、徳富蘇峰の『朝鮮の役』の韓国語訳希望。
朝鮮を属国扱いしていた明側の資料・記録が満載。
>>61 こんな本さえ目に入れる事が出来ずにこの役を論じているんだな、
韓国人は。
あきれる。
63 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 09:00:26
徳間文庫さん、朝鮮役を再版してください。
64 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 13:24:34
参謀本部の本?
徳富蘇峰の本?
65 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 17:54:20
ていうか大名クラスの人は誰も討ち死にしなかったんでしょ?
66 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 19:10:55
島津家世子久保が敗死している。
日本侵略軍は病死と歪曲しているが。
>>66 それは大名クラスとは言い難い。
来島通総が死んでいる。
68 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 20:18:45
病死だろ
70 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 22:15:05
来島通総は海戦で討ち取られてる
539 名前:yasoshima ◆MX5aLZxivU 投稿日:05/03/06 19:50:26
本やHPで日本側の戦死者をある程度リストアップしたのですが、
今一重要人物なんだか分からない人があるので批評をお願いします。
■日本側の要人戦没リスト
●戦死大名 日本
1597.9.16 鳴梁の海戦
来島通総(伊予鹿島1.4万石,動員700人)
1592.10.24 陽智にて狩猟中に襲撃受け死亡
中川秀政(播磨三木14.0万石,動員3000人)
●戦死属将・家臣 日本
1592.06.05 唐項浦の海戦
得居通年(来島通之,伊予風早300石直臣,来島通総の兄)
1592.06.14 大同江渡河前の戦い
木村智清(宗義智家臣,侍大将)、黒田次郎兵衛(黒田家)
1592.06.? 順安城攻撃
志佐純高(松浦鎮信家臣,志佐純意の嫡子)
1592.07.07 閑山島の海戦
脇坂左兵衛(脇坂安治家臣)、真鍋左馬允(脇坂安治家臣)
1592.07.17 平壌城守備
日高喜(松浦鎮信家臣,甲斐守)、松浦源次郎(松浦家臣)、
1592.09.29 咸鏡道
西村半右衛門(鍋島家臣)
1592.10.上旬 咸鏡道
江口与左衛門(鍋島家臣)、三浦左右衛門允(鍋島家臣)
1592.12.?
竹内吉兵衛(小西家臣、講和使を明軍が処刑)
1592.? 阿波
光富権助(長曽我部成親家臣,戦傷が元で阿波で死亡)
71 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 22:16:37
540 名前:yasoshima ◆MX5aLZxivU 投稿日:05/03/06 19:51:03
1593.01.08 平壌城の戦い
小西ルイス?(小西行長の弟?)、小西アントニオ(小西行長の従兄弟?)、
日比谷アゴスト(小西家臣,日比谷了珪の孫)、
小野木又六(小野木重勝家臣,重勝の弟)、太田弾正(五島家臣)、
太田江十郎(五島家臣)、青方新八(五島家臣)
1593.01.26 碧蹄館の会戦
十時連久(伝右衛門、立花宗茂家臣)、池辺龍右衛門(立花宗茂家臣)、
横山景義(小早川秀包家臣)
1593.01.28 吉州城の戦い
山口与三右衛門(加藤清正家臣)
1592-1593○ 咸鏡道撤退までに陣没した鍋島家家臣
諸岡彦右衛門、永田源左衛門、横尾十五左衛門、
中島九郎兵衛(病死)、納富六郎、武藤主嘉允、
馬渡相右衛門、武藤新九郎、乙咸五兵衛、
高木内蔵助、姉川平右衛門(中務大輔)、水町平右衛門(丹後守)、
鹿江太郎左衛門、公文六郎兵衛、緒方牛之介、
1593.02.12 幸州山城攻め
明石与右衛門(宇喜多家臣)、戸崎彦右衛門尉(毛利家家臣)
1593.03.12 京城の西三里の戦い
中屋善四郎(毛利家家臣,青原尾中山城主)、
1593.06.22-29 第二次晋州城攻め
△松井興之(細川忠興家臣、重臣松井康之の嫡男)
戦傷が元で1593.06.29死亡
1593.?熊川?
桑名親勝(長曽我部成親家臣,1200石)
72 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 22:17:06
541 名前:yasoshima ◆MX5aLZxivU 投稿日:05/03/06 19:51:48
1597.02.22 蔚山
柳生久三郎(浅野幸長家臣,厳勝の長男,宗厳の嫡孫,500石)
1597.09.16 鳴梁の海戦
菅正蔭(菅達長の子)
1597.12.27 蔚山籠城戦
冷泉元満(毛利輝元家臣)、阿曽沼元秀(毛利輝元家臣,)、
都野家頼(毛利輝元家臣)、
原田信種(加藤清正家臣,病死説有り)、貴田統治(加藤家臣,孫兵衛)
??
和田頼国(堀内氏善家臣、勘之丞、数十人を率いた水軍の将)
●病死大名 日本
羽柴秀勝(美濃岐阜16.0万石,1592.9.9巨済島)
加藤光泰(甲斐府中24.0万石,1593.8.29西生浦)
五島純玄(肥前福江1.4万石,1594.7.28熊川)
戸田勝隆(伊予大洲7.0万石,1594.10.23帰国途中)
長谷川秀一(越前東郷槙山11.0万石,1594.01.29?,生還説有り)
池田秀雄(伊予国分8.0万石,1597?)
牧村利貞(伊勢岩出2.6万石,1593.07.02?)
足利(喜連川)国朝(?,1593?)
伊東祐勝(伊東祐兵日向飫肥5.7万石,?,1594?帰国中日向)
73 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 22:17:33
542 名前:yasoshima ◆MX5aLZxivU 投稿日:05/03/06 19:52:08
●病死属将・家臣 日本
島津久保(義弘の子,1593.9.8巨済島)
原田宗時(伊達家臣,対馬,原田城主,山嶺源一郎の子)
戸沢光盛(戸沢家当主,肥前名護屋途上)
色部長実(上杉家臣,重臣)
岡 利勝(宇喜多家臣,重臣)
松浦定(松浦家臣,1593,元宗家筋)
伊東義賢(伊東家臣,伊東義益の子)
北郷忠虎(島津家臣,加徳島,時久の子)
平田歳宗(島津家臣,1598,平田光宗の子)
伊勢貞真(島津家臣,1593,有川貞則の子)
島津朝久(島津家臣,1593,巨済島,豊州島津家当主)
島津忠辰(島津家臣,薩州島津家当主薩摩摩出水領主)
桑折政長(伊達家臣,1593,釜山浦,宗長の子,石母田重長の父)
乃美宗勝(毛利家臣,重臣乃美賢勝の子)
香宗我部親氏(長曽我部家臣,1592,香宗我部親秦の嫡男)
伊与木国安(長曽我部家臣,幡多郡伊与木郷の伊与木城主高康の子)
江原親次(宇喜多家臣,1598,釜山浦,宇喜多秀家の娘婿)
●戦死−病死 未分類 日本
1592明石右近(宇喜多秀家重臣、明石全登の子?)
1592梶佐古道尋(長曽我部成親家臣,柳瀬五郎兵衛の三男)
△1593加藤重正(加藤清正家臣,加藤可重[清左衛門、右馬允]の嫡男)
△1594吉見元頼(毛利輝元重臣、吉見広頼の嫡男)
1597土持久綱(高橋元種家臣,土持久綱の嫡男)
1597須佐美甚太郎(加藤清正家臣,須佐美紀伊守の養子)
1599? 平田宗正(島津義弘家臣,重臣平田豊前守宗祇の子)
文禄? 木付直清(大友吉統家臣,木付統直の嫡男,鎮直の孫)
? 江上家種(鍋島家臣,竜造寺隆信の二男,蓮池城主)
? 小原信忠(宇喜多家臣)
? 牧源之丞(宇喜多家臣,江原親次の義父)
? 深水頼蔵(加藤清正家臣,西生浦,?)
74 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 05:20:41
● 慶尚道左水営
水使(長官)・パク ホン(朴泓)
開戦にあたり船武器を沈めて逃走。
● 慶尚道右水営=本拠・巨済島。
水使(長官)・ウオン ギュン(元均)
開戦にあたり戦はず逃走。
慶長2年7月16 巨済島海戦。
三道水軍統制使として元均戦死。
● 全羅道左水営=本拠・麗水。
水使(長官)・イ オクキ(李億祺)。
慶長2年7.16 巨済島海戦。
水使・李億祺戦死。
● 全羅道右水営=本拠・鳴梁浦。
水使(長官)・イ スンシン(李舜臣)
慶長3年11.18 露梁津海戦。
三道水軍統制使・李舜臣戦死。
75 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 05:39:11
570 名前:yasoshima ◆MX5aLZxivU 投稿日:05/03/07 22:15:47
■明軍・李氏朝鮮の戦没要人リスト
●要人戦死 李氏朝鮮
文禄の役(壬辰倭乱)1592〜
1592.04.14釜山の戦い
鄭撥(釜山鎮僉使,従三品)、尹興信(多大浦僉使,従三品)
1592.04.15東莱城の戦い
宋象賢(東莱府使,正三品)、洪允寛(助防長,正三品?)、
趙英珪(梁山郡守,従四品)、宋鳳寿(代将)、廬蓋邦(教授)
1592.04.26聞慶の戦い(尚州戦直後)
申吉元(聞慶県監,従六品)
1592.04.28忠州の戦い
申[石立](三道都巡辺使,?)、金汝[山勿](前義州牧使,?)
李宗張(忠州牧使,正三品)、
1592.05初 漢城入城前
張智賢(義兵将)
1592.05.18?臨津江の戦い
申[石吉](咸鏡兵使,従二品)、劉克良(助防将,?)
金百寿(義兵将,?)、金光鋏(義兵将,?)、洪鳳祥(軍官)
1592.06.05龍仁の戦い
白光峯?(先鋒将,?)、李之詩(助防長,?)、
李光仁(古阜府使?)、鄭淵(咸悦県監,従六品)
1592.06.19江原道金化
元豪(?牧使、助防将,正三品)
1592.07.全州熊峙の戦い
鄭湛(金提郡守,従四品)
1592.07.10錦山の戦い
高敬命(義兵将,?)、趙憲(義兵将,?)、霊圭(義兵僧侶,?)、
高因厚(義兵,?)、柳彭老(義兵,?)
1592.07.18磨天嶺の戦い
元喜(富寧府使、正三品)
76 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 05:39:42
1597.08.17黄石山城の戦い
郭[走歉(前 安陰県監,?)、趙宗道(前 咸陽郡守,?)
白土霖(前 金海府使,?)
1598.10.02順天城攻撃海戦
黄世得(蛇渡僉水使,従三品)
1598.11.18露梁津の海戦
李舜臣(三道水軍統制使,正二品?)、李英男(加星浦水僉使,従三品)
方徳龍(楽安郡守,従四品)、高得蒋(興陽県監,従六品)
○捕虜 李氏朝鮮
臨海君(朝鮮国王の王子,李d)
順和君(朝鮮国王の王子,李[王土]ジク)
李弘業(鏡城判官,従五品)
柳永立(咸鏡道観察使,従二品)
韓克誠(咸鏡北道兵使,従二品)
李彦誠(蔚山郡守,従四品)1592.04.15東莱城の戦い
●明軍戦死
1592.07.17平壌攻撃
史儒(遊撃)、載朝弁(督戦右参将)、
張国忠(?)、馬世隆(?)
1598.11.18露梁海戦戦死者
ケ子龍(明水軍副将)
77 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 05:40:04
574 名前:yasoshima ◆MX5aLZxivU 投稿日:05/03/07 22:18:32
●その他&未整理戦死者 李氏朝鮮
金練光(淮陽府使,正三品)1592.05.中
李[王玉](慶尚道左兵使,従二品)1592.05.12?李朝により処刑
申格(副元帥,?)1592.05.18李朝により処刑
洪汝諄()1592反乱民により処刑
李渾(咸鏡南兵使,従二品)1592.07反乱民により処刑
宋儒真(反乱将,?)1593.01.?反乱により漢城攻撃前に処刑
李山謙(?)1593.02.?反乱により漢城攻撃前に処刑
(反乱将,連座 呉允宗,金千寿,李春福,金彦祥,宗万福,李秋,金永)
金悌甲(原州牧使,正三品)1593.06.29戦死
禹性伝(義兵将,大司政正二品)1593.07.?慶尚道で追撃中疲労死
緒沫(星州牧使,正三品)1593戦死
李夢鶴(反乱将,?)1596.07.?忠清道で反乱後に処刑
金徳齢(反乱将,?)1596.07.反乱の罪で処刑
孫仁甲(?前僉使,?)
78 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 07:01:06
乙!
つか病死の多いこと。
当地の風土・食糧事情が・・・
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1117166562/l50 【民団】「教科書選定委員に在日韓国人を入れよ」教科書問題…民団、取り組み本格化★2[05/27]
1 :はるはる♪φ ★ :2005/05/27(金) 13:02:42 ID:???
教科書問題…民団、取り組み本格化
◆「望ましい歴史認識に立脚した教科書採択を」
06年度から全国の公立中学校で使用の教科書を選ぶにあたって、望ましい歴史認識に
立脚した「歴史教科書」が採択されるよう各地の民団が要望活動に取り組んでいる。
◆各教委へ相次ぎ要望
06年度から使用される中学教科書は7月から8月にかけて全国約580の採択地区で決まる。
各都道府県教委では、選定委員会や調査委員会など下部機関からの報告をもとに検定に
合格した各教科書の違いが分かる選定資料を作成し、区市町村教委や国立中、私立中に
送ることになっている。
民団大阪府本部(金昌植団長)は18日までに大阪府教委と市教委への「要望書」提出を
終えた。席上、府教委には、選定資料の作成にあたって「人権」を基準の一つにするよう
申し入れた。府教委側も「大阪には大阪独自の基準がある」と明らかにしながら、配慮を
にじませた。
一方、直接の採択権者でもある市教委に対しては、選定委員30人の中に在日韓国人も
入れることを今後の課題とするよう働きかけた。市教委によれば選定委員の就任にあたっ
て国籍要件は特にないという。
以下ソース参照
ソース:民団新聞 05/25
http://mindan.org/shinbun/news_t_view.php?category=13&page=27
露梁津の海戦での日本軍って島津、立花、宗、寺沢の1万5千くらいだったっけ
島津や立花って陸戦では日本軍でトップクラスだろうけど、海戦は不慣れだろうに
(島津の船が帰国前に座礁したって話もあるし)
それに殺されてる李舜臣ってやはりたいしたことないんじゃないかと思ってしまうな。
81 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 15:32:49
いや、講和を破って騙まし討ち。しかも撤退する軍を背後から急襲するという
理想的な状態で戦闘を始めるそのお手並みはなかなかのもの。
それで敗死できるんだから神だよ。
82 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 15:12:31
今や神か
83 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 17:42:19
李舜臣は祭り上げられすぎて今や歴史上の人物像とは別物
>>79 それは韓国の教科書選定に日本人を関与させることと交換条件じゃないのかなぁ?(w
つーか、インド侵略をめぐってイギリスとインドの教科書、独立戦争をめぐってアメリカとイギ
リスの教科書の記述に妥協点が存在し得るのかどうか確認してからの方が良くはないか?
そもそも、中国や韓国の言う「親善」は常に日本側の譲歩・屈服の上にしか存在しないみたい
なんだが、それを普遍的に親善と言うことは難しいんじゃね?
>>84 こいつらが従来の選定作業を逸脱するような政治活動をやった時点で
追放すればいい。
やらないなら、作業の体制に取り込めば良いだけ。
あくまで選定委員の一人に過ぎないという立場で(当たり前だが)
ただし恒久的な権利の文言だけは入れないようにな。
温情と寛容の精神ということの念を押せばいい。
>>85 > 温情と寛容の精神ということの念を押せばいい。
連中に温情と寛容の精神が皆無だからこそ未だに問題にな(ry
87 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 20:07:23
>>86 国体にも出してやり、内政干渉にも黙っていてやり、
日の丸を焼いたりする連中を称揚するDQNな国内状況も温かく見守り、
アホな反日教育も許容し、
竹島の不法占拠も見逃し、
つまならいカンリュウとかいうつまらない文化流入を放置し、
グロテスクで必要でもない文字を駅の案内に書いてやり、
教科書の中に李舜臣だのという小早川隆景クラスの一武将を取り上げてやったりしたあげく、
さらに参政権だの教科書選定委員だのという図々しい要求をさらに突きつけられても
まじめに応対しようとしている日本のありさまを見ても
まだ、
「温情と寛容の精神が足りない」
と言っているあんたはオカシイ。
88 :
86:2005/05/31(火) 02:16:18
>>87 「温情と寛容の精神が足りない」のは日本ではなくあの国とその国のつもりで書いたんだが。
89 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 11:45:18
孤将読んだ?
どんな感じですか?
90 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 15:31:14
朝鮮は腐っていた
91 :
黒田武士:2005/05/31(火) 17:04:02
太閤秀吉が、黒田如水の才能に嫉妬して、冷遇したから、豊臣家の
衰亡が始まった、明攻略だって、初めから黒田如水を遠征軍総司令官
に任命しておけば、キリシタン宣教師の知恵を借りて、西洋式軍艦を
建造し、大口径砲を搭載して、出撃したはずで、中国大陸を日本、スペイン
ポルトガル、イギリスなんかで分け取りできたはずだよ。
92 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 06:43:10
それは無理だろ
93 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 10:17:30
94 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 14:31:43
95 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 07:02:18
脇坂隊と来島隊は李舜臣により全滅?
96 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 22:32:40
>>95 脇坂隊二千に朝鮮各道連合軍5万8千が戦闘を仕掛けて
一瞬で返り討ち
あまりの恥ずかしさに朝鮮側は決して口にしようとしない
97 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 07:05:16
何人が何人になったのかな
98 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 23:50:41
>>94 ちょっと読んだけど、
日本の学者による纏まりのいい
この問題に関する客観研究史が書かれているけれど、
これでもやはり、
「左翼論調」
なんだよね。
これを克服しない限り、
真実は見えないだろうと思う。
99 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 10:36:19
あげ
話題ないな。
100 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 14:45:09
日韓歴史共同研究が公開されたけどだめだったな
韓国が、植民地時代を見直さない限り駄目だ。
あれをすると、韓国の歴史全体が崩壊するんだろう。
102 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 18:37:02
植民地時代なんかねーよバカ、同化政策なんだよ
朝鮮人と一緒に勉強しなおせ
>>102 おやおや半島の北半分ではネットできないはずなのですが うわ何を09b、まおgふぁpまうあおpふじこ
↓
北、米国の先制攻撃に対応し準戦時態勢に
北朝鮮は最近、国際電話の9割を遮断し、2万台余の携帯電話を没収するなど、米国の先制攻撃に対応す
る、事実上の戦時体制に突入したことが明らかになった。 米国の攻撃に対応するには、まず内部情報の流出
を遮断することが急務だという判断からだ。
また金正日(キム・ジョンイル)国防委員長は、最側近のリ・ジェガンと李容哲(リ・ヨンチョル)を通じて、労働
党と軍部を分散統制していることが確認された。 金委員長の妹婿であり第2人者だった張成沢(チャン・ソンテ
ック)の復権説は事実無根であることが確認された。
インターネット統制も強化された。 以前はほとんどの国家機関がインターネットに接続できたが、最近は労働
党中央委員会書記室と統一戦線部の2カ所のみインターネットが使用できる。金日成(キム・イルソン)総合大
学と金策(キム・チェック)工業総合大、人民大学習堂、国家科学技術委員会をつなぐ内部イントラネットも、3
月に閉鎖された。
専門家らは「こうした一連の変化は、米国の対北朝鮮先制攻撃の可能性を意識した金正日体制の危機感を
反映したものだ」と指摘している。 北朝鮮専門家のチョン・チャンヒョン国民(ククミン)大教授は「北朝鮮は200
3年に米国の対北朝鮮先制攻撃説が提起された後、‘準戦時体制’に突入した」とし、「6カ国協議が再開される
までは、こうした状態が続くだろう」と予想した。
ttp://japanese.joins.com/article/article.php?aid=64265&servcode=500§code=500
104 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 19:21:04
良識ある日本人は植民地時代とはいわない
植民地にされてたとかホザくのは朝鮮人とブサヨだけ
105 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 21:20:05
へぇ〜。植民地じゃないのにわざわざ総督を派遣してたんだ。
・・・「良識がある」人たちは残念ながら知恵は持ち合わせていない様だねぇw
106 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 21:25:29
総督府があれば、何がどう植民地だとなるのか
>>105が答える模様
107 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 22:05:41
何で会津には総督府がおかれなかったの?
ウヨ厨の大好きな小鼠はなんで平壌で植民地支配を謝罪したの?
110 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 06:44:41
北海道や沖縄は植民地かね?
111 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 09:57:45
当時は普通に植民地と呼んでいたわけだが、なにか?
112 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 23:14:14
李億キ もなかなかの武将
113 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 14:20:50
捕虜五万ぐらい?
寝返った朝鮮人も多そうだ。
百人近い部下を率いて日本に帰化した貴族もいたし。
昨日のサッカーを見て思った。
朝鮮人というのはああしたものだ。
負け戦が決まっていて、腹いせに嫌がらせをする。
それで「何かをやった」つもりになる。
李舜臣の最後の抵抗と死は、
あれと似たものだったのかもしれない。
115 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 20:54:38
だいたい李の配下に何人いたんだよ?
116 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 11:26:46
李舜臣の配下は一万五千くらいじゃないかな?
で、戦闘員は十分の一ぐらい。
117 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 13:48:47
日本水軍は?
信長の鉄装船を朴ったの?
119 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 01:49:59
946 名前:日本@名無史さん 投稿日:2005/04/20(水) 12:06:56
補傳 脇坂安治龍仁の戦功
日本の諸勢湊(釜山)より都へ往来の道にて
敵数多打出て此所彼所にて味方二百三百討捕けれは
船手の大将各相談して都より湊までの通路
五里七里の間に傳の附城を拵へける
脇坂安治も家臣脇坂左兵衛、渡邊七右衛門に歩卒三百人差し添へ
五月中旬に都より七里口の山陰(龍仁)に傳の要害をは拵へける
?る所に六月五日曙より敵数萬にて彼要害を取囲み緊しく攻めければ
城中小勢にして叶い難く見えにけり急き此旨都に注進しけり
120 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 02:01:53
947 名前:日本@名無史さん 投稿日:2005/04/20(水) 12:41:01
安治取るものも取敢えず都にありし手勢ばかりにて初夜の時分より打立ける
都より彼の要害までは僅に七里なれども
其間に大川ありて船にて渡しければ
兎角のしつらいに時刻移りて明る卯の刻に馳着ぬ
敵兵数萬小高き山に陣を張りて控へたり
安治敵の間十七八町隔りたる山陰より旗を繰出し
私従山岡右近を先駆として一騎打に押出しければ
敵陣之を見て案に相違し少し色めきてこそ見えける
城中よりも安治の旗を見て喜ひ駆出し内外の味方一つになり
惣掛りに敵陣に切て入けれは
敵陣こらへずして後の山に引退くと見えし所に
安治敵の陣取りし山に乗上げ幣を振りければ
惣勢我先にと乗上げ四方八方に駆廻り切立てけれは敵即時に敗軍しける
谷山路に追詰めて或は切て捨るもあり或は生捕にするもあり
半時の間に数萬の敵陣を小勢にして討敗りしこと
勝れたる戦功なりと朝鮮国中にありし日本の諸勢風聞しけり
斯くて生捕のもの二百人余、頸数一千余彼の山本に懸置きける
折節日本より片桐主膳正貞隆、藤懸三河守永勝御使として渡海しけるが
此合戦の翌日に安治の要害に来たり
戦場に掛置ける頸数生捕の者を見て大に感しける
121 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 09:18:28
既出
落ちそう
ではあげ
歓呼人は日本水軍をケチョンケチョンに破ったと思い込んでいるようだ。
李舜臣の最後、流れ玉で討ち死は、武将としてはどうかなぁ。
戦場で武将が戦死するのはよくあること。
本能寺で豚死した織田?とかいう奴よりマシ。
>>125 それは、イギリス人にも喧嘩を売っていると解釈されても仕方がないような気がするのですが?
128 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 05:17:16
↑
ネルソンはフランス水軍に完敗し、敗死したはずだが・・・。
129 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 06:03:18
トラファルガーの戦いは勝ったから敗死ではない。敢えていうなら勝死?
130 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 06:50:37
朝鮮水軍が圧勝したという閑山島、鳴梁、露梁の大捷について規模や意味を検討してください。
131 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 08:33:30
露梁海戦は
戦略的には日本の勝利
戦術的には引き分け
なんだよな。
懲録
五二 李舜臣逮捕される
水軍統制使李舜臣を逮捕して、獄に投じた。(宣祖三十 1597年1月27日)
〔朝廷では、かれに〕拷問を一度加え、死罪を減じ、官職を削って軍に編入した。
〔李〕舜臣の老母は、牙山(忠清南道牙山郡霊仁面〕にいたが、李舜臣が獄に
下ったと聞いて気が動転し死んでしまった。
舜臣は、出獄して牙山を過ぎる道すがら成服(喪服を着ること)し、そのまま
権リュルの帳下に赴いて従軍した。人々はそれを聞いて悲しんだ。
六一 最後の決戦、李舜臣戦死する
・・・
李舜臣は、危険をものともせず、みずから力戦していたが、飛来した弾丸が
その胸に命中して背中にぬけた。左右の者が帳中に扶けいれた。李舜臣は
「戦いはまさに切迫している。くれぐれも私の死を知らせぬように」といい、
言いおわるや息絶えた。 (宣祖三十一 1598年11月18日)
才能はあるのに運命にめぐまれず、〔その抱負の〕百に一つも実現できずに
死んでしまった。 ああ、惜しいことである!
133 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 10:58:03
>>131 露梁海戦ってぶっちゃけていうと
秀吉君が亡くなったので、日本軍は故国に帰ろうと巨済島に集結しましたが
順天にいた小西君が李舜臣等に帰路を阻まれてしまいました。
日本側では小西君を置いて帰ろうという意見もありましたが、「小西君を見捨
てて帰っては日本の恥になる」と島津君、立花君等が操船に不慣れでありながら
小西君を助けに順天へ向かいました。
明・朝鮮水軍は島津君達を迎え撃ちに行くため順天の囲みを解いたためその隙に
小西君は脱出することが出来ました。
島津君たちは慣れぬ海戦のため多少苦戦しましたが、李舜臣、明水軍副将のケ子龍等を
行きがけの駄賃程度に討ち取った後に戦線離脱することに成功しました。
こうして日本軍は主だった武将を失うことなく日本に帰ることが出来たのでした。
おしまい
とまあこんな感じじゃないかと
島津義弘が乗艦を撃沈されて死にかけた、というのも入れておかないと
>>135 島津が助けに行って
和平がうまくいって
帰ろうとして後ろを見せたところに
いきなり襲い掛かってきた李舜臣を
返り討ちにしたというほうが正しいのでは?
139 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 06:42:11
義弘が座礁しかかってピンチになったのは事実
>>138 そういえば島津軍は泗川から自軍のみで小西を助けに行ったっていう話もあるね。
それで和平して帰るところを不意に襲われて窮地に立たされた。
そこに仇敵だった立花軍とかが駆けつけて共に戦い持ち直したっていうやつ
141 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 07:50:49
樺山久高は船を捨てて陸に豚ずらした。
握り飯と女を求めてうろちょろしてたところ、
湾からの脱出に成功した味方の船が来たので
乗っけてもらって帰った。
むしゃくしゃしたので八つ当たりに琉球征伐した。
その後反省して出家したらしい。
142 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 10:43:31
李舜臣は通商破壊ができなかったってマジ?
144 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 13:35:13
できてない。
船舶総量は少し圧迫したといえるかも。
145 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 21:28:46
もしかして朝鮮の戦史では相手が座礁した時にも撃沈としてカウントするのかね。
いつも思う事だがいい加減な連中だよな
義弘の上船は座礁はしたが沈んではいないな。
ピンチの時に鉄砲で有名な種子島さんが大活躍したと伝わっているし。
147 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 14:04:37
明と李子朝鮮の資料では島津は露梁の海戦で大きな被害を出しているみたいなんだけど具体的に討ち取られた武将はいるの?
泗川では百五十人ぐらい戦死したようだが?
>同(1953年)2月4日、漁船に偽装した南朝鮮船第一・第二昌運号
>(乗組員12人に加え、憲兵1、特務隊員1、情報隊員1、警邏5人乗組)が
>公海上で操業中の第一大邦丸を銃撃し、漁労長瀬戸重次郎(34)を射殺(第一大邦丸事件)。
>→南朝鮮は漁船員を脅迫して「領海侵犯した」という嘘の調書に捺印させ、
>これを根拠として「済州島から脱出するのを追跡し銃撃した」と虚偽の説明
>を行い、「日本漁船の李承晩ライン侵犯に対する警告」と正当化を図るも、
>公海上で操業中の銃撃と判明。朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が
>公海上で一般人を射殺した南朝鮮軍を非難。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/7712/antij_kore.html 「李承晩ライン」とこの事件のことを決して忘れるな!
必ず奴らに報復しよう!
149 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 15:16:13
ひでえ
150 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 11:49:07
「李舜臣将軍に会えて感激であります!!!」
みたいな事言って軍服着た人が敬礼してるバカ映画のCM見た
戦国自衛隊韓国版?
>>150 なぜか加藤も島津も討ち取られるオナニー映画
152 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 00:50:28
ずっと昔に2chに、
露梁海戦というのは、小西を助けるのが戦略目標で、それを達成したのだから
戦術的にはともかく日本の勝利のはずなのに、あれを「日本の敗北」と書く書物が多い。
ところがそのように書く日本の左翼的戦史書物は、一方で、
「珊瑚海海戦は日本は戦術的に勝ったかもしれないが戦略的に米軍の勝ち、日本の負け。」
みたいな事を書いている。それは大いなる欺瞞じゃないか、
というような意見が出ると、
左翼とか韓国人と思しき人々から総反撃を食らっていた。
戦史というものはかくのごとく形容詞が支配する要素多大なり。
154 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 06:46:51
露梁海戦は内容でも引き分けじゃないのか?
朝鮮水軍は随分死んでるぞ。
日本軍は帰国中に後からチョロチョロ追いかけてくるうざい犬みたいなヤツらを
鉄砲撃って追い散らしたぐらいのものだろ。その時、不幸にも弾に当たって
死んだ犬もいた。という程度。
156 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 07:31:29
一番日本人を殺したのは疫病だろうね
157 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 18:09:10
158 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 18:48:36
>>153 俺は珊瑚海も露梁も損害が多かった点で日本の負けと思う。
159 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 21:30:06
露梁の被害はわかってるのか?
>>159 日本船500隻のうち200隻が沈んだとあるけどそのわりには
日本側は名のある武将が全く死んでなく、明朝鮮側は死にまくり
という不思議な話さ
161 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 23:51:30
夜中で何隻沈んだかどうかわからんだろ?
詳細な隻数でもないし。
何隻あったかぐらい把握してるだろ
終わって帰ってみて、差をみりゃわかる
なんせ日本軍は20万やら数えられますからw
>>133 それを出すなって。
他の連中の戦果まで疑われるから。
165 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:25:06
露梁の200隻とか500隻って戦果は朝鮮の報告だしな
島津、中国、朝鮮。捏造三兄弟どうしで戦うと、小競り合いが
とてつもない大合戦に発展する。
167 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 07:09:14
島津プラス水軍は集めても百五十隻を越えないだろ?
亀甲船に積んでいた銘文入りの大砲が発見されて国宝に指定。
材料分析したら鉄筋だった。 マジあったよな
169 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 09:05:50
今再び太閤さんに朝鮮征伐の軍を催し、
半島から支那大陸へと攻め込んで行って
我が国の版図を大いに拡大して欲しいものぢゃて。
サンデーに連載されてるキチガイ漫画「沙也可」、碧蹄館の戦いを思いっきり無
視してるな。キレが違うぜ、キチガイウリナラSFファンタジー。
171 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 11:58:08
>>166 近代でも幻の大戦果の「台湾沖航空戦」なんてのもあったな。
朝鮮征伐では、明軍による被害のほうが日本軍によるものより多かった
ようだが、そこらへんは韓国の教科書ではちゃんと書かれているのかね。
172 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 15:54:33
小西なんて見捨てといたらええねん
こいつのせいで征明計画が頓挫したんだから
>>172 名将言行録だと立花宗茂が「行長を見捨てることは国の恥となる
日本の名誉の為に助けに行かねば」と主張したらしいね。
まあ、これも諸説あるみたいだけど、
174 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:22:05
>>166 韓国の劣等感からくる遺跡捏造ってこれかな?
個人ではなくて、国ぐるみだね(笑)
http://www.clash-j.net/memo/korea02.html 韓国国宝274号事件
黄某(海戦遺跡発掘団団長)による、遺跡捏造事件
92.9.4に指定された国宝274号は(95.6月)捏造が発覚。
その後、彼による遺跡捏造が次々発覚
韓国国宝274号事件は、国宝指定のための鑑定はなんと30分しか行われず、韓国歴史学会を
代表する錚々たる学者で構成される文化財委員会において、引き揚げ後わずか4日で国宝
指定が議決されていたことが発端。国家ぐるみである。
175 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:22:40
176 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:40:45
日本で活躍していなくて朝鮮で活躍した奴もいるの?
177 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 15:34:54
スポーツかよ
178 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 17:30:27
前園さん
和田サンも活躍できる可能性あり。
179 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:37:16
脇坂とか大活躍
180 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:19:21
加藤もいるでよ
181 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 14:39:32
加藤貞泰
183 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:02:35
小早川隆景は権慄に負けたことがあるの?
>>182 通州事件も実際は半分以上韓国人だし
満州も韓国人いっぱいいたはずなのに
すっかり忘れてるんだね
185 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 08:44:12
万宝山事件もなー
186 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 05:52:25
>>173 その時代に「日本」とか「自分は日本人」と意識している人
イメージできた人はいるのかね?
自分の領国以外は皆外国、と思ってた人が多いんじゃないの?
187 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 06:45:58
何でそう思うの?
188 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 07:03:55
ここのスレって2ちゃんにしてはのんびりしてるな
189 :
寺内正毅:2005/07/10(日) 07:07:42
「小早川、加藤小西が世にあらば、今宵の月をいかに見るらむ」
日韓首脳会議で言って欲しい名句。
そんなこと言ってのける首脳は世界広しといえどもプー珍くらいのもんだ。
191 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 00:40:43
小西は和平派じゃないの?島津のほうが会ってる気が・・・
>>191 島津とか九州大名は嫌々参加してるだけ
大友の改易を見せつけられてつぶされたくないから奮起してただけだよ。
小西は和平派と言うより
目先の利益(貿易)に目を撮られて小手先でごまかそうとし、
結局からくりが最後に秀吉にばれて休戦どころか開戦に持っていってしまった
しかもその時の責任をぜーんぜんとってない。
むしろ売国派と言うべきかと。
193 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 07:08:54
勝手に休戦するなよな
国境から国王を追い落としていれば
朝鮮を攻めたのは、けっきょくは人狩り。買ったのはポルトガル人。
195 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 19:33:52
倭人は人攫いであることが判明しますた。
196 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 20:11:45
秀吉は何で明・天竺を征服しようとしたんだっけ?
198 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 23:12:49
征服欲。
秀吉にフェリーペ2世?、から親書が来てたような
201 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 11:48:22
野戦形式の大規模戦闘
攻城形式の大規模戦闘
はどれだけあったの?
202 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 05:45:26
実際に李舜臣が殺した日本兵は何人ぐらい?
203 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 17:06:41
日本は不敗
204 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:11:18
×朝鮮征伐
○明征伐
文禄の役は明征伐、慶長の役は朝鮮征伐でいいと思う
206 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:21:04
>>197 明がスペインに手に落ちれば
元寇の再来になるから明を手中に収める
これ後に大日本帝国もやったろ
ロシアの南下で日本が危機に陥ったのを見れば
秀吉の戦略がいかに切れていたかがよくわかる
特に当事の日本はスペインも
植民地化をあきらめるほどの最新兵器である鉄砲があり
その鉄砲自体も刀鍛冶の職人芸で洗練されていて
さらに信長の3段がまえ打ちのような
第一次大戦まで通用するような運用方法も確立されていたし
明軍がピョンヤンでまけたのも鉄砲がきいたしな
207 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:25:22
明
元
こ
ロ
秀
特
植
そ
さ
第
明
ななめ読み?
208 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:31:43
>>199 今もそうだが その当事の親書なんて
本音が書いてるわけないだろ
スペイン人宣教師が九州でやってることを見れば
日本侵略の意図は明らか
逆を言えば 日本は強いから 九州だけでも
スペインがもぎ取って
極東に前線基地を築いて朝鮮と明と日本を侵略
するつもりだったんだよ。スペインは
日本が軍事的に強く、外交の駆け引きも巧みだったので
スペインは侵略できなかった
209 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:35:48
だいたいフィリピンがスペインの
植民地になってることを秀吉が知らないわけないしな
まあ、歴史上日本が最初に西欧列強に
植民地化されそうになった時期が戦国末期だしな
戦国末期日本が種子島から伝わった
鉄砲で近代化をして西欧列強に対抗したんだなw
210 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:38:43
>>207 地球儀に明と朝鮮と日本しか
存在しないやつは斜め読みでいいんでないか?
まともに秀吉の朝鮮出兵を語るならば
大航海時代だという前提を絶対欠いてはならない
明がスペインの植民地化
信長の3段がまえ打ちのような第一次大戦まで通用するような運用方法
こんなネタ書いててマジレスみたいなに言われても
212 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:57:25
>>211 だからお前には
地球儀に明と朝鮮と日本しか
ないからネタにしか聞こえないんだよ
その当事の世界地図ぐらい頭にあれば
いずれスペインが明を侵略・征服しても
おかしくない
インカ帝国だってめったくそにスペインに滅ぼされたろうに
メキシコ人の名前がホセとかなってるのは
あと信長の鉄砲戦術はWW1まで通用する天才的な戦術だったよ
これは事実
それぐらい当時の日本が強くなけりゃ
とっくにインカ帝国のように日本人の名前はホセとかカルロス
とかになってるだろw
213 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 20:03:12
>>212 支持する。
スペイン、ポルトガルにとって、遠征で侵略するには日本は強大過ぎた。
戦国期というのは、各地の米の生産量も増大し、金の産出量も増え、
何かとエネルギーに溢れていた時代だった。
しかし遠めに眺めると日本人というものは、平時と乱時で別の民族かと思うほどに
切り替わるようだ。
そんな一生懸命にネタ提供しつつ煽られてもねぇ
>>212 ちなみに三段撃ちは後世の創作
捏造技術が第1次世界大戦でも通用したという話のか?
それなら正論
情報戦はいつでも重要
信長の『三段撃ち発明』は眉唾としても、戦国期の日本軍が強力であったことは
事実だろうな。
217 :
豪革蔵:2005/07/17(日) 00:11:46
個人的には日本の歴史教科書でわざわざ日本の朝鮮出兵に対して「朝鮮侵略」といって
「侵略」を強調しているのが気持ち悪い。朝鮮の抵抗軍にしたって「義兵」とか表記し
てるし、日本人に対して四百年以上もの戦に贖罪感を抱かせようとしているようで教育
界はおかしいんじゃないか?
朝鮮侵略の表記は確かにおかしい、明征伐とも言い難いので文禄慶長の役でいいじゃないかと思う
がしかし、「義兵」という表記は朝鮮王朝実録でもそう書かれてるから、間違いとはいえないのよね
というか義兵と使わず、何と表現しますか?
在野の両班師弟の抵抗軍と書く?すると両班という存在、李氏朝鮮の階級制度等々から説明始めて
非常にメンドイと思う
匪賊でいいかと。
220 :
豪革蔵:2005/07/17(日) 00:30:14
義兵って朝鮮王朝実録でそう書かれていたんですか(陳謝)、私は単に朝鮮側ないし
は日本側が贖罪感を植え付けるためにつくった造語だとおもっていました。
秀吉が朝鮮攻撃に踏み切った理由なんですが…、私は教科書不信から西欧列強が世
界を植民地化していたことに対する危機感だと思えるのですが…。
鉄砲(火縄銃)についてなんだけど
種子島に流れ着いたのは明のガレオン船(?)だよね?
ポルトガル船ではなくて
ということは明にも火縄銃って結構在ったのでは?
大筒が多かったって話は聞くけど、火縄銃ってどうなの?
なんか火縄銃で日本軍が優位に立ったみたいな話し聞いたけど
つーか、あっちの資料でなんとでておろうが、
そんなもん日本の知ったこっちゃないと思うんだが。
しかし何故か日本でも「義兵」やら「壬申倭乱」やらが使われておる。
不思議でしゃあない。
>>221 明側にも鉄砲は有ったが戦国期に日本で改良された鳥銃には
射程、命中精度、威力とも敵わなかったと記憶してる。
>>221 日本・明それぞれに鉄砲と大筒両方伝わってたんだけど
日本は鉄砲に、明は大筒に価値を見出したのは国民性の違いか
みたいな事を何かで読んだ
>>224 国民性の違い、に辿りつくのは最後の最後でいいと思う。
少なくとも日本では大筒は、運搬に厄介極まりない。
鉄砲は機動力を阻害しない。
226 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 17:40:10
秀吉が朝鮮に渡っていたら
水軍の指揮官である九鬼嘉隆の命に従わなかった加藤嘉明も
おとなしくなったかも知れない
陸上でも、大名たちがおのおの勝手な行動をとらず
統率の取れた軍隊になってたかもしれない
石田や福島、加藤の仲たがいもなかったかも
>>226 細かい各論はさておき、結局日本軍の失敗の原因は、大体いつの時代も似ているような。
元寇の折も、文永の役では全軍の指揮官が現地の御家人で、集まった御家人たちは
言うことも聞かず、統制が取れないままに行動し、戦闘へ。
だが、それを反省した弘安の役では、北条家のものを総指揮官として進軍させて
見事に元軍を撃退する。
朝鮮出兵も似ている。
各家の武将は強力だが、全軍の統率が取れていない。
戦闘では勝利するも、なぜか苦慮する。
近代日本軍まで、話を広げるのは強引かな。
スレ違いだが、先の戦争の反省点を挙げるならば、全軍統一の指揮系統の存在の欠如だな。
陸軍、海軍、政府、それぞれがそれぞれの情報で動くから始末が悪い。
>>227 秀家では若すぎるかね、豊臣家の一員とはいえ。
その論法は日本軍に限ったことではないべ。
日清の山縣の暴走までだな。
230 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 23:58:55
秀吉が行ったとしても、朝鮮くらいは取れたかもしれないが
明には勝てなかったと思う。
秀吉も徳川や前田や上杉と言った有力大名を自由に動かせたわけじゃないだろうし
毛利や島津も動かしてるが…
前田や上杉、徳川が行かなかったのは地域的問題だと思われ
おそらく指揮権は、後から渡っていく軍団の指揮官が持つという形では
ないだろうか?軍団の番号が大きいほど、身分が高いような気がする。
ただ福島以降、実戦経験の乏しい、坊ちゃん大名になっていくのが問題
だが。
233 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 07:46:54
九鬼は別に水軍総指揮官ではなかろう。
根拠は?
234 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 16:39:54
水軍は纏めるような大所帯じゃなかったわけだ
235 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 14:47:04
秀勝は実質的に何かしたのかな?
236 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 22:10:41
「その時歴史が動いた」観たか?
信長の鉄船。
大砲まで積んでいて、村上水軍を葬った。
その前には村上水軍は「ホウロク」という火薬を積めた球を織田水軍に手投げで
放り投げて壊滅させてたんだって。
秀吉は海賊禁止令で水軍を衰退させたりしたけど、
そういう技術を総動員してたら、朝鮮水軍なんて壊滅させられたんじゃないの?
ちなみに鉄船は朝鮮にも行ってたらしい
文禄の役の日本丸
文禄の役に参加した九鬼水軍の「日本丸」がある。 元の名は「鬼宿」(きしゅく)と呼ばれていたが、豊臣秀吉により「日本丸」と命名された。
兄弟船に「波切丸」(なきりまる)など同型艦が数隻有った。
九鬼嘉隆は世界最初の甲鉄船を数隻作ったが、その中の1隻がこの日本丸で日本側の旗艦ともなった。
全長は33m、150石だが多くの櫓を漕ぐものを抱え、人力により自由に方向を変えたりする事の出来る戦闘に向いた船でもあった。
文禄の役では大敗にもかかわらず日本丸は生き残り日本に帰還している。
239 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 00:16:26
二度も壊滅させたのでは?
240 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 18:08:09
失った兵が一番多かった大名は誰かな?
>>236 総動員したよ、村上水軍も朝鮮にいってるし。でも、だめだったのよ。
242 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 21:08:33
村上水軍ん始め、水軍大名は当初は陸戦に使われていた。
確かに総動員はされていたな、水軍以外にだが。
243 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 22:31:09
>>240 間違いなく、加藤か鍋島
満州国境から帰ってきた時には、出征時の4割を損失
>>245 小西・宗も平壌から帰ってきたときは
18000が6000になってたらしいが?
出征時の6割以上
247 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 21:47:27
分母たる元の数の前提と、分子たる点呼数の前提が違うのに損失数を語る根拠があるのかな?
248 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 21:48:04
分母たる元の数の前提と、分子たる点呼数の前提が違うのに損失数を語る根拠があるのかな?
>>247 これまでの過去スレの流れで行くと
その場合「根拠はあるのかな」じゃなくて
「根拠の値に妥当性はあるのかな」とか
「その根拠程度でいちいち語る価値があるのかな」
といわないと発散して話が無限ループに入るよ
250 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 16:20:03
定数が居たとは限らないんだよね
実際に増えている部隊もいるし
で、平壌と順天でピンチになった小西に一票
スペインが明や日本を植民地化できるとほざいてる奴は、
最低限、当時の明や日本やスペインの国力や軍事力くらい
データで説明できるんだろうな?w
それができない場合は、竹やりの精神主義者以下ということで。
出きる出来ないっつーか
当時の認識がどうだったかという事で
それとデータが噛み合うかはまた別なわけで
その当時の認識というのが、今の人間の勝手な想像なわけだが。
やっぱり竹やりの精神主義者以下だな。
255 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 13:38:50
野盗
256 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 09:35:47
で李舜臣にコテンパン
李舜臣は本当に名将か?
イデオロギーや朝鮮への甘やかし抜きで、語れ。
106 :世界@名無史さん :2005/07/30(土) 10:05:05 0
李舜臣将軍。
23戦23勝の無敗の将軍、撃破した倭船は数知れず、
世界四大提督の一人で「東洋のネルソン」の異名を持つ。
(ネルソンを「西洋の李舜臣」と呼ぶのが正しいのだろうが……)
かの東郷平八郎も
「自分はネルソンと比較できても、李舜臣提督には遠く及ばない」と賞賛したほど。
世界最高の海軍司令官と呼ぶに相応しい。
東郷平八郎が言ったのは小説の中ではなかった?
チョンにとっては妄想も史実の内
261 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 16:53:26
>>259 元は名前も分からない一部隊長が祈ったというのじゃなかったかと。
当の朝鮮では武官で犯罪者と、日本が見いだすまで放置プレイ。
そして最後は圧倒的に有利な状況で討ち死にと。
逃げる敵を騙し討ちして、狙撃されて戦死した李には、
敵の集中砲撃の中、無防備の司令塔に居ながら、艦橋に直撃弾を
受けたのに、かすり傷ひとつ無かった東郷では、笑いのセンスで及ばない。
264 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 10:51:10
>>261 いつ頃まで放置プレイだったの?
再発見再評価に至る経緯とかあるなら知りたい
「晋州城一番乗り、加藤肥後守が家来、庄林隼人佐」
「同じく加藤が家来、森本儀太夫、飯田覚兵衛」
「三番乗り、黒田甲斐守が家中、後藤又兵衛」
>>264 1932年に李光洙が東亜日報に李舜臣伝を書いて以降じゃなかったかと。>現在の評価
一応、李舜臣死後に昇格して祭られはしたけど、その後李朝が潰してからは新聞に載るまで放っとかれたんじゃ無かった?
李朝は武官より文官優位だったし。
>>266 メチャメチャ最近なんだね
それまでは日本での高評価は理解に苦しむみたいなカンジなのかな
268 :
YAP?:2005/07/31(日) 18:41:30
>>244 いや、笑った。笑った。
でも本当に朝日グループっていじましいというか、
ある意味、反日のポチだな(星ではないよ)。
269 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 19:10:00
>>267 日本にはよくある「敵ながら天晴れ」ってやつですよ。
270 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 01:14:33
まあ手打ちになって帰る途中に襲ってきて
返り討ちにあったアフォ武将だけど
今までの功績はないわけではないから
一応残しておこうという
日本的なやさしさ
271 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 09:39:23
「あの」朝鮮人率いて戦ったんでつよ?
しかも勝利収めてるんでつよ?
朝鮮に生まれなければ、もっと名を残していたはず。
272 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 11:34:51
高校のころの山川の教科書に文禄慶長の役(壬辰倭乱)って書いてあったと思うけど
ちょっとこれ当時から疑問だったんだよね。
何で朝鮮側からの名前が載ってるんだ?中国側からの呼び名は無視?
しかも教師、壬辰倭乱が国際的な名前だーとか適当なこと言っていたし。
273 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 11:38:31
日明戦争とかでいいんじゃないかな?
素人考えだけど。
碧帝館では明軍10万の援軍があったし、
平壌でも小西と明軍が戦ってるよね。
義兵と李舜臣しかないからなぁ、
275 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 12:26:04
日本側:文禄・慶長の役、朝鮮征伐、朝鮮出兵
朝鮮側:壬辰・丁酉倭乱
中国側;壬辰衛国戦争、七年戦争、万暦援朝之戦、万暦朝鮮の役
これでいいのかな。
>>272 国際的て意味わかんねーな
あの時代の東アジアの紛争に日・中・朝以外興味を持たんだろうしな
277 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 13:43:26
日本は野戦不敗?
278 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 10:02:37
中国側の名前ならともかくなぜ朝鮮側の名前が教科書に載っているんだろうね。
しかも「乱」とか「倭」とか明らかに事実と違うのに。
279 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 08:42:46
朝鮮人の反乱
280 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 22:21:30
じゃあ何?
281 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 22:57:13
良識の府
偏差史観糞食らえ
282 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 00:43:16
倭乱というのは倭には朝鮮を支配する正統性がないことを示唆した言い方だな
もし日本が勝っていれば違う呼び方になった筈
283 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 18:49:18
今もだが、19世紀も朝鮮では日本人の評判がめっぽう悪かったらしい。原因は、文禄慶長の役のようだが、300年くらい経過してれいるんだよね。
伝承されたとしても、ほぼ伝説に近いだろう。どういう形で、今の反日にまでつながったのか、きちんとした研究があるのかな。
ヒント:アカ
285 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 19:55:27
何でも他人の責任にするのが国風だからね
286 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 17:19:50
日本に対する抵抗が祖先の顕彰につながっているからかな
287 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 21:03:45
国内戦では余りきかない毛利秀元の戦暦について教えてください。
だいたい輝元の野郎はさぼりすぎ。
288 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 08:55:38
碧蹄館には参加してなかったか?
尉山救援に参加していたと思う。
289 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 20:44:42
そうだね
290 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:54:34
立花も国内よりは半島での活躍が派手
291 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 01:14:16
何より島津義弘公
292 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 07:38:19
>>245 喪失割合はすごいけど、
実際の所、戦闘による喪失ばかりではなく、
まず病死や中毒死、餓死も多かった。
疫病も流行したし、加藤清正の手紙によると「国内との水の違いで死ぬ者もいる」とある。
そして朝鮮への捕縛、寝返りや
脱走する者。中にはちゃっかり朝鮮民衆の船を奪って日本に逃げ帰る者もいたとか。
293 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 07:49:57
>>274 文録の役の明からの援軍は4万程度。
しかも明軍は数々の大砲を備え小西の守る城を苦しめる原動力となった南方の軍と騎馬隊主体の華北の軍からなり、
ヘキテイカンでは明将は自分の配下である華北の軍に手柄を立てさせようと南方の軍は帯同させなかったという。
294 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 10:48:12
>>293 野戦に機動力もなく発射速度も遅い火砲をぞろぞろ持ってきていたら、
日本軍に大量捕獲されるのがオチだったろうな。
行かなくてよかったよ。
295 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:39:53
>>287 蜀山の戦いで明軍に敗退。
尉山城の戦いは吉川広家の活躍で明軍を撃破した。
296 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 23:33:42
>>287 >蜀山の戦いで明軍に敗退。
へーえ?
初耳。
唯一、韓国人の書いた本にそう書いてあったけどw
聞くが、
どうして「負けた」はずの黒田軍が、明が後退した跡まで戦場に残っていたの?
297 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 02:01:22
「稷山の戦い」って詳しい本なんかでは
『稷山では日本軍が敗れたといわれるが〜』
ってな感じで書かれてますよねw
298 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 05:02:55
「蜀山の戦い」
詳細キボンヌ・・・
299 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 05:03:54
夏休みの研究課題。
300 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 05:05:10
ちなみに「稷山の戦い」ってのは双方が勝ちを主張。
301 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 06:52:36
戦場にとどまったのは日本軍なわけだが。
302 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 08:31:38
>>294 長篠の戦いみたいに
運用次第では役にたったろうね。
でも明軍の将にはうまく使いこなせなかったと思う。
ただ朝鮮の役失敗の原因に秀吉の大砲嫌いが原因だったという話しなら聞いたことがある。
それにひきかえ家康は大砲好きらしい。
家康の物は大きくて、秀吉の物は小さいから?
304 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:32:40
>>295 >尉山城の戦いでは吉川広家の活躍で明軍を撃破。
正確には「抜け駆け」で敗走させるには至っていない。
305 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 15:18:05
関ケ原で戦わなかったのが有名な広家ですが
朝鮮ではどんな器量を見せたのですか?
306 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 22:47:36
確か司馬遼太郎の「関ヶ原」には多数の朝鮮人の首を斬獲と書いてあったな・・・
307 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 23:57:20
「唐入り」と呼ぼう。
どうせブルって明に内通してたんだろ
309 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 16:49:51
ただ、朝鮮侵略全体通しても、碧蹄館や蔚山城など重要な戦闘には
すべて参加している広家。
そうだっけ?広家、そんなに戦歴が華やかだった?
秀吉は必要の無くなった戦闘員(武士)の雇用創出のため大明征服を実行した!
当時の日本は戦闘員の数だけ言えば世界最大の陸軍国。
312 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 13:44:49
毛利家最大の見せ場 ?
>>311 戦闘員といっても、大半はお百姓さんの農閑期の内職なわけだが。
>>313 秀吉後期になれば、そうとばかりも言えないだろ。
でなければ海外で何年も戦えない。
315 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 19:46:23
立花はけっこう兵を失ってないか?
>>315 おそらく田植えや稲刈りに帰ったんだよ。
立花は近いから泳いで
318 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 07:11:23
秀吉の「唐入り」が失敗したのは、家康のサボタージュによって当初計画した動員兵力30万人が集まらず、
20万人弱にとどまったのが最大の原因だろう。このため中国と朝鮮の境の鴨緑江で明(と朝鮮の連合)軍に
食い止められてしまった。
歴史にifは禁物だが、もし秀吉が当初の計画通り30万人の兵を動員して明を攻めていれば、明王朝は末期
症状を呈していたし、日本の兵は当時世界最強だし、兵站(兵員と物資の輸送)は石田三成と小西行長の采配
の下にうまく行っていたので(朝鮮水軍の抵抗による損害は局地的、限定的)、北京まで攻め込めたのでは。
もっとも、首尾良く北京入城を果たしたとしても、長期占領は困難で、ちょうど220年後にナポレオンが
モスクワに攻め込んだ後、冬将軍の到来とロシア軍の反撃によって大敗走したように、結局敗北したかも知れ
ないが。
319 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 08:25:22
後知恵だと家康を渡海させて暗殺したいところだね
320 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 08:38:58
>>318 家康は自ら渡海すると秀吉に談判してましたが?
秀吉はそれを拒否したのですが?
そういういい加減な事をよく平気で書けますね。
いくら2chとは言え。
323 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 20:56:49
324 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 07:35:58
>>320 それは家康のポーズだろう。熱心なふりをしただけ。
家康のような内政重視型の武将から見れば、秀吉の「唐入り」構想自体が理解不可能だったのでは?
よって、面従腹背の態度を取ったのだろう。
325 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 15:56:59
家康が出兵に賛成したのは免除を前提とした秀吉の根回しがあったともいわれているよね。
326 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 16:09:34
当時の日本軍の装備で山海関が抜けたか?どのみち黄海側の制海権が取れないと苦しかろう
日本軍三十万の補給線を、朝鮮半島を通してひくのはほぼ不可能だろう。
ところで慶長の役末期に朝鮮半島南部まで押し出していた明軍十万はどうやって補給してた
んだ?
砲術関係の本に朝鮮役の事が若干書いてあった。
興味深かったのは当時大砲は砲身の強度に問題があったから
使用が難しかったという所。
当時の大砲の砲手は敵の大砲より味方の大砲を恐れ、砲の側に
穴を掘って暴発等に備える事もあった程らしい。
泗川でも両朝平壌録によると明軍使用の砲が破裂したと。
島原の乱でも、オランダ砲隊の砲が長崎奉行の目前で破裂し、オランダ人砲手が死んだ。
砲身破裂を避けるには口径を小さくせざるを得ず、したがって
攻城戦に威力を発揮する事は出来なかった。
むしろ城兵の方が大砲は有効に扱えたと思われる。
しかし海戦では木造船であり、穴を開ければ沈没するので
当時の砲でも威力を発揮した。
是歳(慶長三年)七月明将集中せる兵員十余萬を
東中、西路及水路の四に区分し併進南下せしめ
以て我か蔚山、泗川、順天の三城を攻撃せしむ。
此兵糧は蓋し山東の米穀を利用せしものならんか今審ならす。
九、十月の交、四路の軍進んて三城を攻めて利あらす。
中路の董一元は晋州に集積せる軍糧一萬二千石、居昌に集積せるもの八千石、
西路の劉?は順天に於て糧?七千九百石を失へりと云ふ。
文禄の役当初の兵糧米は九州、四国の蔵米から30万石を用意した。
各大名も兵糧の準備につとめた。
また豪商に命じて物資を九州に輸送させた。
1592年11月の触れで銀10枚で博多相場米80石のところを77石、名護屋では70石とし、
市場原理によって相場を上げて物資の確保をはかった。
海を越えて行くため各地で船と船頭が動員された。輸送の責任は船頭にまかせられた。
運賃は悪くなかったが、対馬海峡での遭難が多く、朝鮮水軍と遭遇する危険があった。
文禄の役当初は兵糧が豊富だったが、奥地へ進撃すると延びた補給路を寸断された。
国内の戦闘であれば、一定の食料の他は高値で購入すれば敵地でも補給は可能だった。
しかし朝鮮では物資を売る者もなく、運んでくる商人もいなかった。
そのため、補給が届かない場所では徴発か略奪によらないと食料が手に入らないが、
それは民衆の抵抗を激しくした。
>ところで慶長の役末期に朝鮮半島南部まで押し出していた明軍十万はどうやって補給してた
んだ?
そのあたりの研究は進んでいないのが現状じゃないのかな。
ネットのどこかでアプローチしていたのはあった。
明側の要求に対して朝鮮側が苦慮惨憺して兵糧をかき集めた実情があったとか。
いずれにせよ、明側も給与には苦労した。
日本側になると朝鮮王朝の協力がないのでさらに困難だったろう。
逆に解釈すると海を渡り、自前の補給で十数万人を維持する経済力は注目に値する。
こういう観点からすると、
女真は数十年かけて明を征服したけれど、この手の労苦をする前で、
行動を抑制し、行動できる時期に行動し、ある機会を捉えて
政権奪取に成功したというアウトラインが見えてきそうな感じ。
>当時の大砲の砲手は敵の大砲より味方の大砲を恐れ、
ワロスw
333 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 10:02:05
国民の3分の2を餓死させて明軍十五万を食わせました。
>>333 当時の朝鮮の人口が何人で、何人が餓死したの?
多分、朝鮮の民衆を明軍の食料に供出したものと思われ。
337 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 21:57:00
戦前は500万人ぐらいいたけど、戦後に数えたら150万人になっちゃいました。
338 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 21:59:22
現代の羽柴秀吉は神奈川11区に出馬しました。
明―万歴六年(天正六年)に於ける明国の戸数は一千六十二万一千四百三十六戸にして
人口六千六十九万二千八百五十六人という。
日本―千八百万石に0.6をかけると千八十万人、0.7をかけると千二百六十万人。
千二百万人プラスマイナス二百万人くらいが江戸初期の日本の人口だと推計される。
朝鮮―
>>337?
糧を敵に因るは古来和漢共に慣用せし給養上の一手段なり。
我が軍は朝鮮上陸以来此方法に因れり。
文禄元年上陸当初は鮮地の貯糧甚た豊富なりしは、六月八日安国寺恵瓊の書に審かなり。
各部隊は、前役の初期に於て敵の倉庫を占領し?獲米穀を以て我か用に供せり。
各部隊か糧食?くるの場合には、之を敵国民に就き強制徴収せり。
敵地の稲?を刈り以て我用に供したり、糧食を敵国民より購買せしことあり。
鮮地に於ける米穀は、文禄元年は各地至る所豊富なりしも我軍の徴発、及土匪の
横行又は敵人の隠匿等に因り著しく欠乏を来したり。
故に文禄二年二月京城に集結せる我軍は、糧食の供給意の如くならす。二月下旬
に於て業に?に京城撤退のやむなきを覚れり。
釜山に集積せる糧食は、如何なる手段方法を講するも京城の主力に供給する能はす。
速水のおっさんの鵜呑みしてるアホがいる
>>341 おぬしの説はどうなのだ?
>>339 は常識的なラインを言っており「アホ」とは思えないが。
アホと言われるのにふさわしいのは・・・
>>342 おぬしの説?
速水のオサーンは、一地域の記載されてる数を絶対数として
弾き出してるだけで、以前から指摘されてる宗門人別改帳に記載されてない人間や
意図的に記載漏れさせられてる人間の存在を指摘されてる以上、余りに少ない数なんだよ
こんなの宗門人別改帳の研究本には当たり前のように書いてある
知らないのは、速水のオサーンの研究が始まったばかりで、今からっていうのを知らず
単に本読んだだけで鵜呑みにしてるような
>>339=
>>342のようなアホのみ
だから
>>339を常識的なラインと妄言するのだよw
九州の小倉藩主であった(後には熊本に移る)細川氏が、江戸時代のごく初期に自分の領内の人口調
査をやった結果が「大日本近世史料」という史料集のなかに「小倉藩人畜改帳」と、細川氏が小倉から
熊本へ移されてからの「肥後藩人畜改帳」というかたちで収められていた。
これらの史料には領内の村々の石高―検地の結果策定された土地の評価額―と人口が載っている。
だからその当時の史料で、個々の村について人口と石高の比率を求めることができる。
もちろん日本全国の史料ではなく、九州の百か二百の村の史料にすぎないが、とにかくそれで比率を出してみた。
その結果は、吉田氏の一対一(一石に対して人口一人)という対応とはだいぶ違っていた。
石高一石に対して人口は0.5人くらいである。
この0.5人を千八百万石にかけると九百万人という結果になるが
これでは従来の千八百万人とあまりに違いすぎる。
速水氏はもう少し念を入れて、たとえば同じ小倉藩でも地域による違い、平坦なところや山間部など
いろいろあるから分けて計算してみた。
さらに、石高に関係のない都市や武士の人口も考慮に入れると、石高対人口比は
だいたい一石に対して0.6ないし0.7くらいということになった。
千八百万石に0.6をかけると千八十万人、0.7をかけると千二百六十万人くらいになる。
さらには検地漏れの土地を考えねばならず、こうして速水氏は、けしてぴたりとした数字は出ないが
千二百万人プラスマイナス二百万人くらいが江戸初期の人口ではないだろうかと推測した。
享保六年に、吉宗が全国の大名や代官に対して
「支配下の人口を男女別、国別に報告せよ。
ただし調査の方法はいままでそれぞれの地域でやってきた方法にしたがってよい」
という法令を出した。
それが幕府に届けられ、幕府のもとで国別に計算されて、だいたい二千六百万人という数字が出ている。
さて、藩別の調査だが、いままでそれぞれがやってきた方法でいいわけだから、調査は統一されたも
のではなく、ある藩では十五歳以下、別の藩では八歳以下はカウントしていないなどばらばらである。
さらに武士がカウントされていないので、結果の二千六百万人という数字はかなり低い数値だと思われる。
そこで学者は、これにどれくらい追加すればいいかということをいろいろ論議しているが
速水氏はだいたい五百万人くらい追加すればいいだろうと考えている。
つまり享保期の日本の人口は、三千万人ちょっとくらいではなかったろうかと思われる。
鵜呑みと書いたら歴史人口学の抜粋してきたw
>日本全国の史料ではなく、九州の百か二百の村の史料にすぎないが、とにかくそれで比率を出してみた。
速水氏本人も、東北や関東、関西での違いを指摘してるのを忘れたのか?
こういうのもある↓
ttp://phi.med.gunma-u.ac.jp/humeco/anthro2000/kito.pdf 天保飢饉で南部藩のとある地域で宗門人別改帳にある人口以上に死者を出す報告があった
幕府が調査に乗り出そうとした所、南部藩から修整報告受け、2年で人口が回復(飢饉での死者含めれば
人口は倍近くいた計算になる)
349 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 16:30:19
朝鮮の気候は厳しいからな…
>>348 1600年を見れば、グラフでは1500万任超えてるじゃん
>>347より
鬼頭氏が江戸時代までの人口について様々な資料から推計したところ
慶長時代(1600年)には約1220万人となった。
江戸時代には17世紀に人口が増加し、18世紀には停滞して
おおむね3100万人から3300万人台で推移した。
(資料は鬼頭氏の「人口から読む日本の歴史」より)
>>347より
1600年の人口は1200万人から1800万人あったと推計されている。
おそらく1500万人が適当というのが報告者の考えである。
1721年の全国人口調査では2600万人、これに武士などの除外や
調査から漏れた人口を加味すると、実際には3100万人程度であったろう。
(鬼頭氏)
石高と人口
ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history100.htm 1600年頃の推定人口は石高の数値の2/3程度である1200万人という説も提示され、一時は有力だった。
もっとも最近では、それでは江戸時代前半の人口増加が不自然だというので
1500〜1600万人程度との説が有力である。
>>339は1500万人に訂正するのがいいみたいですね。
ありがとうございました。
352 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 09:26:16
一人一年で0.5石なら
一石で二人食えるのでは?
秀吉が360から300へ単位替えをしているのだからその頃こそ一石一人のような気もする。
353 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 21:00:50
熊本にボシタ祭りというものがある
朝鮮を滅ぼした ぼした からきたらしい
馬に酒をのませたところを棒でせわしく騒ぎ立て追いまわすという祭り
朝鮮に遠慮して祭りの名前が最近かわったらしい。
354 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 16:41:02
秀吉の寿命さえなー
356 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 08:52:14
別に狂ってないと思うが
357 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 15:26:18
あまり言われないイフだけど、秀次が現地にいれば良かったんじゃない?
如水あたりが補佐で。
秀勝、秀家、秀秋では若過ぎ。
家康を出していてもあまり変わらないような、実際にも大老の輝元がいたけど影が薄かったし。
秀吉の当初構想では
日本:後陽成天皇+秀次関白
大陸:新天皇+自分が関白に返り咲き
とか聞いたことがある
(具体的な史料の名前が一寸思い出せないので申し訳ない)
秀次が先頭に立つという考えは最初から秀吉の頭の中には無かったんではないかなあ。
俺も似たようなの読んだことあるよ。
確か宇喜田が朝鮮の関白で誰か(多分皇太子)が天竺の天皇で
自分はニンポーの天皇になるって。
三行目以外は記憶が曖昧過ぎて自信ないけど。
360 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 21:23:39
だから断ったうえでの話ですってば。
いちおう日本史板にあるスレなので
具体的な史料とか論があってあっさり覆されそうなIFは三戦史板の方が。。。
秀吉の二十五箇条の覚書では?
後陽成天皇を北京、秀次を唐の関白、日本の天皇は良仁親王か智仁親王
日本の関白は秀保か秀家、朝鮮は秀勝か秀家、九州に秀俊(秀秋)置くってプラン
んで秀吉はニンポーに滞在して、さらに遠征するって話
364 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 04:33:01
人口厨の人に聞きたいんだけど、
1600年の人口と江戸期の人口の差の不自然さが
近年指摘されての修正値ということだけど、
ほんとにそうなんだろうか。
室町末期(1500年代後半)からすでに日本の人口は線形的に伸びてかなりな数になっていたのじゃないか。
どうして1600年という区切りになって急増したのかその根拠は何なのだろう?
検知石数が人口実態を反映しているとハナから信じていいのかどうか。
秀吉の時代すでに2000万を超えていたのではないかと思ったりする。
たとえば、新田の開発で人口が増えたという説があるが、
人口の増加で新田の開発が可能になった、またその必要性が生じたとも
考えられるわけで、
朝鮮出兵当時の世相の有様、
さらに関が原から十年後の大阪の陣の定型的な社会相を見ても、
当時の日本には人が溢れていたという印象があってどうしようもない。
人口厨ってなによ?
喧嘩売ってんの?
印象で否定されてもなw
>>347より
江戸時代のひとびとの死は、現代日本とくらべて、子供、女性で頻繁に起きていた。
そして感染症の猛威にさらされ、飢餓による死亡も珍しくなかった。
人生は自然の意のままに委ねられていたと言えよう。
しかし江戸時代にも技術、医療、生活水準、制度の変化が
人の死亡率や人の死に方を変えていたのも事実である。
そのよい例が死亡の季節性である。
下総の寺院過去帳(日蓮宗本土寺)によると、1394(応永元)年から1592(天正20)年にいたる
200年間の死亡の季節性は江戸時代と大きく異なっていた。
<前近世>型ともいうべきその季節型は、春から初夏(とくに旧暦5月)に
死亡率の山があることが特徴であった。
このような季節型は江戸時代後期にもみられないことはないが、凶作期に限定されていた。
これに対して15世紀の下総では、春の山が全期間をつうじていつもみられたのである。
その理由として、米が収穫される前の、端境期の食糧不足による飢渇が
恒常的であったことを示すものと説明される。
このパターンは、しかし16世紀になるとわずかながら変化する。
5月の死亡割合が低下するのである。
その理由として裏作として夏麦栽培がこの地方に普及したことの重要性を指摘される。
米の端境期における食糧供給が安定化したのである。
>>347より
江戸時代には前半の高成長と後半の停滞がひじょうに対照的である。
このような波動的な人口の変化は、現在も含めて過去一万年間に四回あった。
人口の波動的変化は文明システムの交代と関連しているというのが鬼頭氏の仮説である。
人口は自然環境の変動によって影響を受けるとともに、文明システムの転換や国際関
係の変化とも密接に関連していた。新しい文明システムの展開は、食糧生産力の向上
と居住空間の拡大を通じて、社会の人口収容力を増大させる。人口が増加を続けて
環境と文明システムによって決められている人口収容力の上限に近づくと、なんらか
の規制要因が働いて人口成長はブレーキをかけられ、やがて停滞せざるをえない。
人口が長期にわたり持続的に成長する局面は、文明システムの転換が生じた時代
であった。反面、技術発展にとって人口圧力の高まりが不可欠である。人口収容
力の上限まで人口が近づくと資源・エネルギーと人口とのあいだに緊張が高まり
生存をめぐってさまざまな問題が発生するであろう。このように人口圧力が大き
くなったとき、社会内部における技術開発や外部文明からの技術移転が強く促さ
れ、その結果として文明システムの転換が起きると考えられるのである。
第三の文明システムは経済社会化システムである。
江戸前期に連なる人口成長は、十四・十五世紀に始まったと推測され、それを支え
た原動力が経済社会化、すなわち市場経済の展開に求めることができるからである。
室町時代は文明システムの転換にとって重要な時代であった。
現代日本人にとって伝統的な文化とみなされているものの多くがこの時代に生まれ
あるいは中国・朝鮮・ヨーロッパ(南蛮)などから取り込まれた。
宋代に華中の開発が進んだ12世紀ごろから17世紀までの間、中国の人口はおよそ
1億人の水準を軸にして、ときどきの社会の状況に左右されて数千万の幅で揺れていた。
17世紀の末には、およそ1億5000万人の人口を抱えていたと推定される。
それが100年後の18世紀の末には3億人を超えた。
近代を迎える前の伝統的社会では一時的な人口増加が見られても、耕地面積の拡
大が追いつかず、食糧生産量が頭打ちになって飢饉が多発し、継続的な人口の増
加に歯止めがかかることが多い。
ところが18世紀の中国では、生産技術にも医療水準にも大した革新がなかったに
もかかわらず、死亡率は上昇しなかったと見られる。なぜか。その理由を明らか
にするためには、死亡率の問題を考察する必要がある。
いくつかの同族集団の記録から月別の死亡率を算出してみたところ、一つの傾向
が明らかとなった。16世紀までの中国では、農作物の端境期になると死亡率が上
がる。ところが、17世紀後半ごろから、この季節的な死亡率の変化がなくなり
1年間を通じて死亡率が平準になるという現象が見られた。
16世紀以前の中国社会は、慢性的な飢饉状態から脱することができず、豊作の年
は乗り切ることができても、作物の出来が悪い年には、栄養状態が悪化して疾病
などを直接の原因として、あっけなく死去してしまう確率が高かったと考えられる。
それが、17世紀後半以降に、社会が慢性的飢饉の状態から離脱したと考えられる。
数字が書いてないのですが、グラフを見ると1600年頃の中国の人口はおよそ1億ぐらいか…。
1644年あたりが落ち込んで8000万くらいですが…。
>>339の明の人口は8000万〜1億人に訂正するのがいいかな。
ふしぎ発見によるとサツマイモの普及で人口が増えたらしいけど。
黒幕は薩摩か〜
シンポ行った人いる?
375 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 21:31:01
?
376 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 07:07:17
何のシンポがあったんですか?
ところで韓国で言われている壬辰倭乱三大大捷は実際に日本の敗北なのでしょうか?
377 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 09:28:54
三大?
変な書き方やな。投稿者の願望が滲み出てるで。
南鮮人の主張する「壬辰倭乱三大大捷」とは、
何を根拠にしているのでしょうか?
が正しい書き方。
379 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 11:35:09
で具体的には!?
380 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 11:59:12
381 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 14:16:12
鳴梁海戦や
露梁津海戦
は入ってないのか?
383 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 20:48:47
第二次ウルサン城籠城戦について教えてください
蔚山の再戦
慶長三年九月十日(明暦十一日)、明の提督麻貴、慶州に於て其統ふる所の明鮮軍三萬余人を部署し
副総兵解生・参将楊登山を以て先鋒と為し、馬兵六千を領して先つ蔚山方向に進み、王國棟・?貴の
二将馬兵三千を以て之に継く。
又別に朝鮮の将金応瑞をして東ネの温井に赴かしむ。蓋し釜山方面の日本軍を牽制せんか為めなり。
二十日、解生・楊登山・?貴等蔚山城の北方小鶴城山に陣し、麻貴営を富平?の?址に結ひ歩兵を
兵営の?址に置き、先鋒兵をして城兵を誘出せしめんとす。清正令して敢て出撃を許さす。
麻貴乃ち命を下し、草房を葺き屯守の計を為さしめ、日々遊兵を出して挑戦し、或は城郭に接近す。
我軍外郭に嬰り、敵の近つくを待ち、銃を發して毎に之を撃退す。
二十五日、麻貴令して先鋒の兵を退け以て城兵を誘出し伏を置きて之を?殺せんとす。
清正之を?り厳に士卒を戒め城を出つる勿らしむ。
二十八日、管撥軍楊汝徳報す。釜山の倭軍数日にして将に大に至らんとすと。
麻貴乃ち令を下し、翌朝糧?火砲を三十里外に退け、騎兵を兵営の西谷に伏せ、然る後諸軍を徹せしむ。
城兵尚ほ動かす。
十月六日、中路の将董一元泗川に大敗すとの報明軍に至る。麻貴之を見て大に憂色あり。
因て先鋒の四将を城北約四里の毛火村に留めて慶州に至り、次て永川に?へる。
中国人口史に関する古典的な名著である何へいてい氏の「中国人口史研究・1368〜1953」は、16世紀後
半にアメリカ大陸原産のトウモロコシやジャガイモ、サツマイモが中国に導入されたことが、宋代にお
けるチャンパ米の導入に次ぐ第二の農業革命であったと評価し、18世紀の人口急増を支えたとしている。
サツマイモが中国に導入された経路については、二つのルートが挙げられている。
一つはフィリピンのルソンから、万歴のはじめ(1580年代)に導入されたルートで、万歴22(1594)年に
福建が飢饉に見舞われたときに、福建巡撫の金学曾が救荒策としてサツマイモの栽培方法を普及させ
た。このために福建ではサツマイモを金薯と呼ぶようになったと伝えられている。
第二のルートは、トウモロコシと同様にビルマ経由で雲南へというもので、福建ルートよりも早かっ
たとされる。しかし、雲南からは周辺地域に伝播しなかった。
サツマイモが国内に普及する速度はトウモロコシより遅く、湖北・湘南・山東などで栽培されるようになる時
期は、乾隆前期(1740年代)であり、山西や安?には18世紀後半になってようやく栽培が見られるようになる。
普及にあたっては地方官が果たした役割が大きく、農民が自主的に導入を試みたものではない。
農民たちは新しい作物の導入については、きわめて保守的であったということができよう。
しかし、これらの作物は、水稲や小麦など中国で古くから栽培されている穀物では栽培できないよう
な山地の傾斜地や荒れ地で栽培することができた。主要作物と競合しないために、従来の農業の体系
を変化させることなく食糧の供給量を増大させることができる。そのために人口の増加に危機感を抱
いた官僚たちは、乾隆年間に行政的な指導を行いながら普及に努めた。
つまり、アメリカ大陸原産の作物の導入は、人口増加の原因ではなく、結果であったと見ることができる。
387 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 06:50:06
ウルサン戦の紹介、ありがとう。
引用元は何ですか?
日本戦史朝鮮役。
389 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 09:02:15
徳間文庫のですか?
違う。
391 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 20:25:44
違うの?
392 :
_:2005/09/14(水) 20:43:47
挑戦征伐などと矮小化してはいかん。
秀吉がやったのは大明国征伐(唐陣)だろうが。
あくまで大明を征服するのが目的ではないか。
393 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 22:54:38
なのに半島で惨敗・・・
第二次蔚山城戦闘
関連諸将および交戦兵力
東征軍―提督麻貴 副総兵呉惟忠(歩兵四千) 副総兵解生(馬軍三千) 指揮同知?虎臣(歩兵二千)
参将楊登山(歩兵一千) 参将王国棟(馬軍二千) 遊撃将陳?(歩兵三千) 遊撃将葉思忠(歩兵二千)
遊撃将陳寅(歩兵三千) 遊撃将?貴(馬軍三千) 千総麻雲 兵力合計二万四千
朝鮮軍―別将金応瑞 兵力五千五百
総勢 約三万
戦闘前の概況
日本軍―蔚山城守将 加藤清正 兵力一万
経理楊?が四万の軍勢を投じて、前年十二月二十二日から一月四日まで蔚山城を攻撃したが陥れられなかった。
秀吉は蔚山城の修築を命じ、防御施設の強化に努めさせた。清正は主力一万を率いて城内に立て籠もっていた。
日本軍が蔚山城の救援に駆けつけ得る兵力としては、西生浦城守将黒田長政軍五千の他に
釜山本城にいた毛利吉成・島津忠豊・相良頼房・伊藤祐兵・高橋元種・秋月種長らの手兵五千があるだけであった。
一方、提督麻貴をはじめ次の諸将は三月二十九日以後、分散配置して警備していた駐屯地を発って
先ず慶州に集結した後、蔚山に向かって南進した。
提督麻貴―尚州 副総兵呉惟忠ら―永川郡と新寧県
参将楊登山ら―安東府 指揮同知?虎臣―左水営
朝鮮の軍勢中、一千は東征軍の指揮同知?虎臣とともに左水営に駐屯し、その他の四千五百は別将
金応瑞の指揮の下に、慶州に集結していた。
あ、戦闘前の概況と日本軍兵力がw
戦闘情況の概要
提督麻貴は、副総兵解生を先鋒将に任じた後、九月二十一日、慶州から蔚山に向かって進撃を始めた。
先陣を受け持った解生は、参将楊登山と王国棟、遊撃将?貴の三将が率いる精兵六千とともに蔚山に
到着、小鶴城山に陣取って攻城の用意を整えた。別将金応瑞は、先ず温井に屯していた日本軍を撃退
して、蔚山と釜山間の連絡補給路を遮断した。
その日解生は、蔚山に進出し、城柵外に討って出た千余の日本軍を打ち破って城内に追い込んだ。
また二十二日には提督麻貴が主力二万を率いて蔚山に進撃、日本軍に戦いを挑んだ。
清正は、城外に討って出た後、敗走すると見せかけて麻貴軍を城門の間近に誘き寄せ、城内から主力
を繰り出してこれを包囲しようとした。これを見た千総麻雲は騎兵二百余騎を側面から突入させて城
兵を蹴散らした。鉄騎に踏み躙られた城兵たちは城内へ逃げ帰る途中、箭灘の方へ追いまくられて溺
れ死ぬ者が夥しかった。麻貴軍は余勢を駆って日本軍の外柵を占領し、これを焼き払った。
清正?下の守城兵は城内に立て籠もって一斉に鉄砲を撃ちかけて来たので攻城軍は幾らか退いた。
麻貴軍は日本軍を城外へ誘き出そうと、連日、遊撃兵を出撃させて挑んだり、総退却の真似を
したりしたが、清正は攻城軍の軍勢が大軍であるのを見破り、敢えて討って出ようとしなかった。
一方、別将金応瑞は作戦計画通り東ネ城を占領した。
その後二十五日までの間、日本軍に捕えられていた同胞一千一百余人を救い出し
たこと以外には、これといった戦闘もなく日を送り、小競り合いに終始した。
提督麻貴は遂に軍勢をまとめて毛火村を通って慶州城に帰り、十月六日には永川城まで後退した。
その頃、中路大将董一元が泗川城で敗退したとの急報が届き
麻貴は憂慮を禁じ得ず、決戦を避けて後退したのである。
戦闘後の概況
十一月十八日、加藤清正は蔚山城を焼き払って退却した。
麻貴は軍勢を率いて、守る者も無い城内へ入城し、一部兵力を割いて日本軍を追撃させた。
まとめてみよう。
清正は攻城軍の軍勢が大軍であるとしり、臆病風に吹かれて城に引きこもった。
金応瑞将軍様は東ネ城をいともたやすく占領した。
その後二十五日までの間、卑劣なる倭軍に拉致、換金されていた同胞一千一百余人を救い出した。
麻貴ちゃんは軍勢をまとめて火病村を通って慶州城に帰り、十月六日には永川城まで後退した。
十一月十八日、加藤清正は蔚山城を焼き払って逃亡した。
麻貴ちゃんは軍勢を率いて城内へ入城し、一部兵力を割いて賊軍を蹴散らした。
401 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 09:05:49
撤退中で増援が出せなかったからな
単独でも守り切ったけど
402 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 08:00:48
明鮮軍は弱いな
403 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 09:50:40
豊臣式戦争方式が進撃遅滞を招いたのかもしれない。
十分な補給、圧倒的な兵数、最新鋭の装備
略奪しまくりの上杉謙信の強盗軍団が走れば長城まで行ったかもしれない。
でも、上杉強盗軍団は数が少なく、実際の遠征ほど兵力を半島に送り込めないが。
>>404 犬、キムチ。
長城を越えればシュウマイもあれば北京ダックもある。
いずれも飢え過ぎ団を満足させるに足る品々だと思うが?
>>405 キムチが登場したのは丁酉倭乱の後ニダ
実は唐辛子はにっくき倭軍の置きみやげニダ
>>406 キムチは丁酉倭乱より以前からあったニダ
唐辛子を使用せず作るキムチなど腐るほどあるニダ
唐辛子は臭い。
でも朝鮮人はもっと臭い。
ここまでをまとめると
朝鮮はつい最近迄うんこ臭かったって事?
410 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 18:20:38
もう少しで成功したんじゃない?
411 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 20:37:58
>>410 結果的には成功しなかった方が日本の国益のためにも良かったと思います。
朝鮮半島がサラ地で日本人のために入手できるのならともかく、気むずかしい厄介な住人が大量についてくるのです。
ましてや朝鮮半島の人口密度は日本列島とさして変わらないんですし。
412 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 20:44:54
さらに言うと朝鮮半島は土地か貧しく緯度の割には寒冷で
半島南部ですら北東北〜北海道なみの寒さだしも北部に至っては樺太と同じくらい寒いです。
日本の領土になれば、現代の北海道以上の依存体質となり、酷い金食い虫になるのは間違いないです。
413 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 22:50:46
封建社会の昔において大切なのは「徴税権」であり、
年貢を絞り取れる金ヅルたる住民は財産も同然なのだが。
朝鮮住民を追い出したり農村を荒廃させては意味なし。
414 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 02:31:30
北朝鮮まで占領したとはさすが。日本の兵隊さんは偉い。
アメリカは太平洋戦争をしたおかげで、朝鮮、中国、ロシアなどの
厄介な問題を抱え込んだな。それまでは日本が一手に引き受けていた
のだが。
416 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 05:49:38
生産性の低い朝鮮の人工密度は低いのでは?
>>416 何故か高かったようだ。
アジアの国だし。
418 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 08:07:49
金吾様が朝鮮人達をもっと大量に減らしてくれていればと思た。
世界史上あれほど卑屈で能力のない民族もない。
秀吉は、明なんぞ攻めとらんでアユタヤを攻めるべきであった。
420 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 10:13:57
荒涼とした朝鮮の人工密度が日本や明と比べて高いとは思えないが。
421 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 11:06:20
422 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 12:55:34
併合期で単位面積当り二倍弱の開きがあったからな。
423 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 14:19:48
前に日本史板のなんかのスレで
もしも朝鮮が沖縄同様の年月さえかければ十分、同化して一緒にやっていける
みたいな趣旨の意見があったが。
例えそれが可能であったとしても、富をむしられるのは日本列島の住民の方であって
日本列島民には百害あっても何の利益もないだろう。
ちょうど今の北海道や沖縄が肥大化したみたいな感じだな。
しかし北海道なんてのは所詮は人口550萬の地域でしかないのに対して、朝鮮半島は6000万。
途方もなく巨大な北海道を押し付けられるようなもの。
日本列島民にとってどれだけの重荷になるかわからない。
ああいう土地は独立して頑張ってもらうのが良いのであって、
心底、日本の一部にならなくて良かったと思える土地だ。
戦前は「日本の一部だっただろ?」という反論もあるかもしれんが、
それでも赤字だったし、
それに「小林よしのりとかの新羽翼の言うように朝鮮をは私欲ミンチではなく日本の一部として扱った」
なんてのは嘘でやはり「朝鮮半島は日本人に利益が出る様に配慮して統治してた」というが正解だろう。
424 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 14:25:07
私欲ミンチは植民地ね。
425 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 17:08:49
慶尚と全羅の二道ぐらいは切り取れただろう?
>>425 防衛・管理が大変そうだ。
その二道を手中にするメリットと
デメリットを秤にかければ
どうみても得な話しではない、
427 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 20:52:12
譜代大名を巨大化できる。
元からいる連中を、全部殺すか明に放逐して日本から農家の次男・三男以下の連中を殖民すれば無問題。
350年早い「満蒙開拓団」だな。
429 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 22:56:41
430 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 23:16:01
済州島と鬱陵島は日本領にしてほしかった。
431 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 07:13:52
屯田兵だな
任那・百済の再建か?
433 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 21:24:02
たとえ朝鮮でも領地にしたかった大名は複数存在したんだし。
↑誤爆。
>>433 それは、朝鮮を経営したかつたのか?
それとも明との交易ルートが欲しかつたのか?
437 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 23:34:31
領地が貰えるなら半島でもよしと思ってたらしい
438 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 01:23:32
出世競争だよ
439 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 19:39:58
鍋島直茂とかな
440 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 21:01:43 0
半島内は無理でも、粘れば済州島(チェジュド)と鬱陵島(ウルルンド)くらいは
確保できたと思うが。
441 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 22:27:17 ID:0
加藤が1万とか鍋島が1万2千とか動因したとありますが、そんなに
侍を抱えていたのですか?
442 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 07:03:46
侍だけじゃないから
足軽とか人夫水夫も数のうち
七割近くは農民
>>440 気色の悪い括弧内の変な片仮名表記は何?
サイシュウトウ、ウツリョウトウでしょう。
445 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 14:03:48
東日本の大名も動員汁
447 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 18:24:07
景勝も政宗も朝鮮へ行っているんだよな
名護屋城跡の近くにある自動車学校の裏には、黒田長政の陣跡があるぞ
450 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 07:57:44
あんな僻地に急な建築でよくできたもんだ。
451 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 00:05:32
韓国人に日本人の野蛮さの象徴だとして非難されている耳切りだが、文禄慶長の役
以前に朝鮮でも敵兵の耳を切り取る風習があったのだ。日本の豊臣秀吉が始めた
のではないのである。
「歴史民俗朝鮮漫談」 今村鞆 昭和三年 南山吟社
しかし、耳を取る事は朝鮮の方が元祖だ、宣祖王の九年(1576年)に、日本の海賊が、
慶尚の南岸に寇し、辺将(国境守備の将兵)がこれと戦い、勝って殺した時に、首の代りに
京城へ耳を送って居る。また文禄の役のときに黄海道辺で日本軍に勝った時に、矢張り耳を
切って送って居る。日本の諸将が耳を切って送ったのは、実は朝鮮に学んだのではある
まいか、もっとも昔し後三年の後に(後三年の役 1083〜87年)、源義家が耳を切って
送った事もある。
敵兵の耳を切り取る風習は、漢字の生み出された古代シナの時代にまでさかのぼるのだ。
「取」という漢字は、敵兵の耳を切り取る風習を文字にされ意味を持たされたものなのです。
・ 耳+又(手)の会意文字で、捕虜や敵の耳を戦功のしるしとして、しっかり手に持つことを
示す。 学習研究社「学研漢和大字典」
・ 昔は人の首をとる代わりに、耳を切り取ってそのしるしとした。
ゆえに耳と又(手)を合わせる。 講談社「新大字典」
・ 討ち取った敵の左耳を切り、その数によって戦功を数える。 平凡社「字統」
耳切りは東アジア地域に古代シナから現代まで続く伝統か、ベトナム戦争で韓国兵が
記念品としてベトコンの耳を切りとる。
Link 韓国・ハンギョレ新聞日本語
http://www.geocities.com/inunabe2003/jiji/rekisi1.htm
452 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 02:05:39
アメリカ合衆国の騎兵隊は先住民達を殺した証として、頭の皮を剥ぎ取ったとか
第二次大戦では、出征したアメリカ兵は、殺した日本兵の耳を切り取って、それを釘でドアに打ちつけ
自らの功績の証としたとか。
ドイツ兵には同じことをやらなかったのだから、黄色いサルと馬鹿にしている有色人種相手だから出来たことだろう。
453 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 03:19:49
朝鮮は歴史上、千度の侵略を数得る
世界的にも超大国の傍らにある小国で、悲惨な運命を辿ってきた国だが。。
しかしうんなことを言えば、中国も歴史的には何度と無く人口崩壊を経験した、極めて悲惨な運命を繰り返した国でな
歴史的に悲惨な国だからと言って過剰に意識しすぎる必要はない
日本の歴史だって動乱や戦乱があったわけだしな
454 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 05:17:12
実際に切ったのは鼻でしょ?
>>453 煽りでなく朝鮮を過剰に意識し過ぎに見える。
456 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:07:00
死後の李舜臣に対する朝鮮王朝の評価
1604年(先祖 37) 船務功臣 1位になって徳風府院君(徳豊府院君)
が秋捧されたのに相次いで左議政が追贈された.
1613年(光海君 5) 領議政が加わった.
墓所は牙山市オラサン(於羅山)にあり,
王が直接作った碑文とツングシンムン(忠臣門)が建立された.
1795年(情調 19) 王命で柳得恭(柳得恭)が監督 ・編集して
李忠武公全書(李舜臣に関するすべての資料を集めた文集)を編纂する.
朝鮮王朝実録の記録で李舜臣はいつも
最高の名将, 忠臣の代名詞で出ている. 数百回…
李光洙以前にも李舜臣に関する小説はたくさんあった.
死後続いて高い評価を受けて来た人を近代に
日本人が再照明するウムニダだなんて.
これがまさに日本人の歴史捏造だな.
457 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:22:39
李舜臣の子孫もずっと特別待偶を受けて官職を得た.
開花期直前の李舜臣の子孫はすごく碌でない人間として
"日本の脅威に対して李舜臣の子孫
として何か方策がない?"という大院君の質問に対して
"李舜臣の子孫がこのようなのに
加藤紀要マーサの子孫はどうですか?"
と冗談言ったというエピソードが残っている.
なんだ・・・
また右翼の捏造だったのか・・・。
ほんと右翼はクズだな。
459 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:44:04
>>452 ドイツの敗戦時にはロシア兵が相当、野蛮な行為をしたそうだから
人種には関係無いことだろう。ドイツ人もユダヤ人に対して野蛮行為をして
いる。
どの国民も人種も戦争になれば理性を失って野蛮人、原始人、動物に変貌
するだろう。
460 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 14:19:37
>>459 ロシア軍の暴虐は有名なものだ
ベルリン陥落時には十二歳から八十歳までの女性の九割がレイプされた。
ドイツ兵捕虜も終戦時には数十万いたはずだが、一年後に解放された時には一万人程度だった。
第二次世界大戦の暗部を日独の敗戦国に全てかぶせただけで、連合国も日独に負けない暴挙を繰り返している。
しかしドイツに対しては戦場の暴挙であって、日本に対してのように平和なアメリカ本土にまでそうした暴挙を持ち込むようなことはなかった。
ベトナム戦争でもアメリカは耳切りを行ったそうだが、しかし故郷でそれを自慢するようなことはなかったな。
461 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 01:09:47
>>461 保護されてないようだから修正かけてみられては如何
>史実では、日本軍到着の前に朝鮮王朝の圧政に苦しんだ民衆が、朝鮮王朝に対する恨みから火をつけたものである。
こういう嫌韓厨の解釈って、朝鮮人並に歪曲するから面白い
王宮は消失してない
消失したのは賤民の戸籍を管理する省庁
>民衆は平壌に向かって逃亡する朝鮮王に一行に石を投げつけたりもしている
こんなのもない
>そのため、人々は進行した日本軍を解放者として迎え入れ、積極的に先導した事も度々あったのだ。
ちなみ歓迎されたのは、咸鏡道
反李氏朝鮮の勢力が多くいたので当然なんだけどな
その他の地域で積極的に先導したなどという記述は日本側にすらない
解放者として迎え入れたなどというのもない
嫌韓厨が朝鮮人を嫌ってるのは同族嫌悪じゃないかと勘ぐりたくなる
464 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 02:23:28
2ちゃんねるでの不思議な現象
◆アメリカが叩かれる◆
( ´_ゝ`)フーン
◆イギリスが叩かれる◆
(´・∀・`)ヘー
◆朝鮮が叩かれる◆
<;丶`Д´><嫌韓厨うざい!! 右翼化傾向!! スレ違いニダ空気よめ!!
<;丶`Д´><ネットウヨクウザイ!! リアルじゃなにも出来ない引きこもりが!!
<;丶`Д´><同じ日本人として恥ずかしい!!
<;丶`∀´><それっておまえらが嫌ってる韓国人と同じだなギャハハ!!!
<;丶`∀´><在日認定ですか?認定厨乙!
467 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 06:54:36
463は勉強不足と知識の一部を歪曲
468 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 07:33:32
>>463 大筋では間違った事は書いてないのに、細かなところで必死に反論するのは何故?
反論にも仕方があるだろうに。
そこですぐに件寒中ですか。ヤレヤレ
>>468 朝鮮人は、自国の真の歴史を知らないから仕方ないよ。
470 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 09:28:11
471 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 10:15:59
賤民だけじゃなくて大多数の非貴族の戸籍管理所みたいなところね。
それから元国防系大臣や恨みを買っていた貴族の邸宅も焼き討ちされている。
しかし一番被害が出たのは治安悪化による朝鮮人の略奪系放火だよね。
石を投げられた貴族もいたし。
日本に協力した朝鮮人や、逆に朝鮮に協力した日本人については
よく分からないからガンガン書いて貰えるとありがたいです。
473 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 14:29:03
>>461 >>470 これを「史実に則って」、「正しく修正」してやりましょうよ。>ALL
「史実に則って」これ大事。
・キャッチコピー
・願望
・妄想
を一切排除して。
釜山でも占領してそれを守る陣地をこしらえて
秋になったら朝鮮全土に兵糧狩りしに行けばよかったのに。
すこしずつその範囲を広げて行って、占領地域では日本語、日本文化を
徹底して教育していく。同化政策だね。
もちろん一年、二年では出来ない話であるが。
さらに日本は徹底した中央集権国家じゃないから
舵取りが難しいかもしれないけど。
まあ、そんなことしてもペイできるとは思わないけど。
結論:朝鮮征伐は日本武士の熱い魂を大陸に見せ付けたこと自体が大成功。清はびびって攻めてこなかったし。
キチガイか?
何で清が日本攻めにゃならんのだか・・・。
476 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:37:31
秀吉の朝鮮征伐の際の石碑を外務省がむざむざと返還してしまった
小泉がそれを認めたと言っても、これは外交上の大きな痛手となるよ。
まず、日本が略奪したと言いますが、実際のところ、正式な手続きを経て持ち帰ったものだ。
ニュース23では両国間の問題になるからと持ち帰ったなど言っているが、これもアテにはならない
つまり日本が彼らの非難をむざむざと受け入れてしまったことだ
次に北朝鮮との共同での日本の歴史問題提起に対しての応じてしまったこと。
盧武鉉政権は明らかな南北融和政策を取っている。今度の成功でアジをしめて、また南北共同で日本に歴史問題で迫ってくるだろう。
そうなったら、日本側としても対応が苦しくなる。
私は返還するくらいなら破壊してしまった方がよかったと本気で思っている。
本島に馬鹿なことをしたものだ。
外務省は、不貞腐れている子供に駄菓子を与えて宥めているつもりだろうが、そんな教育では子供は付け上がって不貞腐れて駄菓子を要求するようになるのに
しかも子供なんかより、よっぽど腹黒い連中なのにな。
小泉と外務省の朝鮮半島政策だけはどうしても支持できない。
もっとも民主党はさらに及び腰なのでどうにもならないがな
478 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 02:33:08
>>475 書籍の立ち読みによる知識でソースは出せないがw
清が侵攻しようと考えた事が一度合ったよ。
清は公式には対外貿易は朝貢以外を認めておらず
日清間も向こうの国としては朝貢として扱われてた。
もちろん日本側は公式な使節派遣してるわけでなく
民間の貿易船を現場の役人と貿易商が上手い事ごまかしてたわけだ。
ところがたまたまその中に日本の元号つまり暦が記された物が入ってて
それが公に出てしまったからさあ大変。
暦を決めるという皇帝のみに許されている重要な権限を日本は侵している!
けしからん、懲罰だ!となったそうだが
さすがに当時のアジアNo.2、世界中でも有数の軍事・経済大国を侵攻する事はできず
なんだかんだ言い訳つけて穏便に済ませたそうな。
もちろん日本側はそんなこと有った事すら知る由も無い。
>>478 今の靖国と同じですな。
小泉参拝、けしからん、報復だ、懲罰だ!
実体として何ら損失はないのに、
騒ぐ事に価値を見出すDQN国家の属性。
480 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 11:34:32
中国は基本的に大陸国家だ。
しかも中国の周囲には世界でもベスト3に入る大陸国家、ロシアやインドが存在する
今でこそ、両国とも力がないが、両国とも何れ日本を凌ぐ経済力を得ると言われている。
そうなった場合はロシアとインドの双方と対峙する宿命を背負うことになるし、中国の目は海洋よりもそちらに向けざろう得ないだろう。
清の時代にしても同じことで、海を渡って日本を攻めるのは当時の清でも難しい。
二十万や三十万単位の軍を日本に送っても、日本にはそれを遥かに凌ぐ戦力がある
三十万の戦力を海を越えて日本に送ろうと思ったら、その数倍の人間を動員する必要があるし
如何に大清帝国でも難しかっただろう。
もっとも現在は「核戦力」という戦略兵器があるので、
大陸国家としての戦略射程は海洋にも広げ得る。
台湾征服
日本撃破
東南アジアへ勢力拡大
現在のシナは明らかに海洋志向。
軍備も、海軍・空軍が優先的に拡充されている。
劉亜州 でぐぐってみそ。
>>481 短期決戦は日本の望むところなのだよ( ̄ー ̄)ニヤリッ
>>475 モンゴル、朝鮮、トルキスタン、チベット、ネパール、ミャンマー、ベトナム、フィリピン南部、ロシア、ポルトガル、スペイン、ローマ教皇辺りまで
大清の皇帝の権威を認めてるのに、一介の東夷の分際で使節もよこさないなんて舐めてると思わない?
485 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 16:16:57
所詮朝鮮なんぞそのレベル
486 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 07:28:24
金吾の活躍の話はまだ?
487 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 20:10:31
金吾の活躍はウルサン戦ぐらいだろうな
この頃の小早川家の重臣は平岡かな?
金吾って、柳家金五郎の事か?
489 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 10:34:11
小早川秀秋が大活躍したんぜ
怪我して戦闘不能になった敵を後ろから切り殺して
大将の資質を誇示したとか云う事件。
ボクチャン強いんだぜ!
ねねの血統というコンプレックスの固まりがさせた技かな。
492 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 23:27:29
>>492 恐ろしくウソ臭いんですが実際のところどうなんでしょう?(´・ω・`)
494 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 17:48:58
日本軍は陣中に於いても、
長期に渡る鬱憤を男色で晴らしたしたといいますが、
朝鮮人と日本人の間でなんらかの形で男色の盛行は
存在したのでありましょうかえ?
495 :
\_____________/:2005/11/20(日) 18:55:11
V
, v、ヘM 'リ"ノンミ/ソMv、
ソVvミ ヘ/Wv彡vV/ ミ∠ミ::
ミミ _ ミ:::
ミ 二__, --、r'"___、 ヾ ト、::ヽ
ミレ'"~ ,-,、 ! ! ' '" ̄ .ノ \ヾ:、
K/ー'~ ^~_/ ヽミ:ー‐‐'" ヽ i.
!〉ー― '"( o ⊂! ' ヽ ∪ Y
i ∪ ,.:: :二Uニ:::.、. l i
.! :r' エ┴┴'ーダ ∪ !Kl
.i、 . ヾ=、__./ ト=
ヽ. :、∪ ゙ - ―- ,; ∪ ,!
\. :. .: ノ
ヽ ヽ. . .イ
. `i、 、::.. ...:::ノ ,∧
むかしは朝鮮のほうが強かったって聞いたような・・・
日本も朝鮮に無駄な挑戦したか
昔っていつだよw
498 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 08:23:39
有史以来、半島が優位だったことはないんだけど。
明の将軍と正規軍10万より、朝鮮の義兵のほうが強かったんだろ。
500 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 12:29:08
強さは比較できないな
一番負荷だったのは朝鮮の不毛不潔の地理と厳しい気候だ。
503 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 09:24:30
福島ではなく加藤が先鋒になったのはなぜだろう?
504 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 11:48:43
505 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 12:03:18
加藤清正がチョンを持ち帰って
法則が発動「豊臣滅亡」した可能性もあるな・・・。
【チョンと組むと必ずダメになる法則。】 大まかな例。
日本に攻め込む時、チョンと結託したモンゴル帝国。
大陸に進行した時、チョンを徴兵した旧日本軍。
ベトナム戦争でチョン兵を採用した米軍。
北チョンと友好関係を結んでいた東側諸国。
ソニーも、チョンと提携してから益々ダメになり
NHKも韓流ドラマやるようになってから、なんかねぇ・・・。
506 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 14:25:33
正則でも清正の代わりが勤まるかね?
507 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 18:20:45
正則は猪武者じゃないぜ
世良
509 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 19:57:21
実は加藤より上なんだな
510 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 18:48:11
その通りだ。
511 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 00:38:44
福島がなあ
512 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 13:45:53
福島は加藤より優秀。
513 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 15:29:10
なぜ
514 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:37:49
age
515 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 22:43:58
織田家には、末裔が居るのに
豊臣には居ないの?( ゚д゚)ポカーン・・・・
516 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 17:02:00
517 :
日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:33:30
518 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 13:51:27
後知恵でも良いからどうすれば征服できたかな?
519 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 16:19:09
防寒具の改良
だけ
520 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 17:54:09
>>519 向うの両班の、冷や飯喰いにされてる連中を取り込んでたきつける。
最初から軍事侵攻しない。まず内乱の芽を育てておく。
そして日本で冷や飯喰いにされている連中を進駐軍に任命して送り込む。
(そいつらの領地は豊臣譜代で分割統治。)
あとは、いろいろと屁理屈をつけてもともと朝鮮は日本だったとか言い張る。
そしたら朝鮮半島の南半分くらいは、半世紀くらいは日本領とかになってた
んじゃない?
すぐにそれを口実に明が大軍で攻めてきて、半島が中国領になりそう
だけど。
まてよ?
そうすると、歴史より早く女真族の反乱も起こって、
儒教の衰退も始まってたか?
すると中国の欧州列強による分断植民地化も無かったかも?
すると、強大な力を蓄えた中国(晋だか秦だか漢だか清だかしらん)
に明治維新ごろには併合されてたかもな、日本。
俺ら今頃中国人だったかもよ。
日露戦争物語おもしろいなぁ。朝鮮出兵もマンガ化してほしい。
522 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:58:36
age
523 :
トキ ◆PMSktwfo8g :2005/12/31(土) 22:25:43
日本軍は毛利が主力でいいんだよね
毛利は本当に豊臣に尽くしすぎだよ
524 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 22:59:57
李舜臣の銅像写真をみると、長剣と鎧・兜の着用で、
海に落ちたら浮かんでこないよなぁ。
525 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 16:31:37
ディスカバリーチャンネルじゃ中国侵攻といっていたよ。
明と交戦したとw
中国の一部だったという認識なんだろうなアメ公も。
属国だからねえ。犯万年独立国と教えられてる韓国人が留学したらwww
526 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 06:51:38
いや反乱の芽は工作しなくても生えまくりだったろ?
527 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 08:48:16
日本軍の主力って毛利なのか?
あんまり役に立っていたという印象が無いよな。
まあ、関ヶ原でも戊辰でもなぜか毛利はそんなポジションではあるが。
528 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 10:07:20
毛利勢はあまり戦ってないのでは?
小早川は別として。
529 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 17:17:28
ありゃま!!><
531 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 11:06:40
目立たないけど黒田長政の活躍も相当なものですよ。
532 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 14:33:03
李如松は朝鮮系武将なのに、明軍であったから評価されないのかな?
>>532 だろうな
あるいは李が親日派の民衆蜂起を撃破したんで、都合が悪いんでなるべく触れないようにしてるとか
534 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 17:36:50
朝鮮の民は李の援軍も官軍も襲ってたからな
535 :
世界@名無史さん:2006/01/08(日) 19:51:08
16万人ではなく30万人規模で攻め込めば良かった!!
536 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 19:55:13
×朝鮮征伐→○朝鮮侵略ね。
日本軍は、朝鮮人の耳とか鼻をそぎ落として秀吉に送ったんだよな。
アルカイダもびっくりの鬼畜さだwww
ただの風習じゃん。
538 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 20:50:17
韓国の歴史の捏造も日本の歴史の捏造並みに
少なくなればいいのに・・・・
539 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 21:34:13
>>534 そうなん?そこんとこ、モチョット詳しくキボン!
540 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 21:35:45
朝鮮駆除に16万人ではなく30万人規模で攻め込めば良かった!!
541 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 21:55:49
生活保護をダニのようにススる鮮人ニート。
月17万は貰い過ぎだろ。
542 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 16:24:58
宗が5000も出したのに、大友は3000しか出していないのはどうして
ですか?
石高からすれば1万人くらいの軍役を課せられそうですが・・・
543 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 17:20:20
死力を尽くすならね。徳川を筆頭に参加すらしていない大名が多々あるんだから軍役もそんなもんでしょ。
木崎原の戦い ○義弘軍200 対 ●伊東軍3000
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。
耳川の戦い ○島津軍20000 対 ●大友軍45000
九州の覇者を賭けた戦い。最初は大友が押しまくるが、義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。
こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、武将多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。
以後、大友は衰退。
沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5000 対 ●龍造寺軍60000
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。
戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。
戸次川の戦い ○家久軍10000 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。
この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。
泗川の戦い ○義弘軍7000 対 ●明・朝鮮軍200000
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。
明軍の死者は8万。
露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。
順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。
秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
関ヶ原退却戦 ○義弘軍300 対 ●東軍80000
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。家康は島津を恐れ、関が原後も減封する事が出来なかった。
546 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 18:42:54
547 :
世界@名無史さん:2006/01/09(月) 23:43:04
朝鮮出兵に関する本や資料が売ってあればどんなものがあるか
教えて下さい。
548 :
mochi:2006/01/10(火) 12:06:02
549 :
世界@名無史さん:2006/01/10(火) 17:56:32
徳川軍を一番隊にすればいい!
徳川軍や伊達軍がいなかったのが痛いと思う。
550 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 18:26:40
軍ではなく統治に問題があった。
551 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 18:54:20
そう統治に問題がありました。
国内の権力基盤をしっかりと固め、統治制度をちゃんと決めて
いればよかったのです。そうして全国の軍が総力を挙げれば
朝鮮は、たやすくおちます。
(後の関ヶ原の戦いは起こらなかったかも・・・)
全部ひっくるめて秀吉の失政って事か。
553 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 10:07:44
朝鮮出兵がなければ、豊臣政権は続いていただろうか。
結局秀頼の時代で家康につぶされるか?
秀頼は実はそこそこ優秀だったという話もあるが。
>>553 家康は秀頼のことを賢き人と評してたみたいだぞ。
でも、それと関ヶ原の要因とは別だから家康は同じことやっただろうよ。
特に諸大名の判断は。三成への反感という意味では変わったかもしれないけど。
逆に秀吉がすこし長生きして、家康らの大老レベルも投入して、徳川諸藩が疲弊すれば別だけど。
555 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 16:00:27
秀吉は当時、徳川が最大の軍団を持っていたことは知って
たんでしょう?秀吉は、なぜ徳川軍を一番隊にしなかったのかな?
不思議です。
秀吉が家康を家臣化したあとも優遇した表れじゃないのか。
それに、単純に自分の手柄にしたいだろ武功は、だから自分の
子飼いの、豊臣としての武功をあげたかったんだろ。
家康も出陣準備してたとか聞いたけど、最終的には全力で投入するに至るんだろうけど。
557 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 02:23:25
>555
北条を攻めた時に一番隊みたいな位置付けだったから。
秀吉は基本的に前線に近い領主を戦の主戦力にしていた。
って言うのは有名ですよ。
558 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 02:25:38
>>549 伊達は慶長の役では渡海してますけどね。
559 :
百姓C:2006/01/12(木) 02:28:08
なんで秀吉さまは家康を殺しちまわなかったべか?
やっぱ、信長さまの頃からの上司意識とかあったべかな?
560 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 03:27:06
家康が明に寝返ったらどうなるだろう
562 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 17:23:28
>558 マジで!
伊達軍が出兵したときの兵力を教えて下さい!
伊達軍と上杉(景勝)軍は出兵した、ということは最後まで出兵
してないのは徳川軍と前田(利家)軍ということになりますか?
564 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 00:45:52
ごめん、伊達が渡海したのは文禄でした。
伊達の動員数は3000人です。
565 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 01:14:42
秀吉は1500でいいといったが、さすが伊達者、
お気遣いは無用とばかり、3000出したのである。
おかげで軍費がかさんだ・・・orz
また遅刻したら大変だから、気合いれたんだろ
567 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 16:39:58
誰か文禄と慶長で合わせて日本軍の総戦死者数など知ってますか?
それと日本国内最大の軍をもっていた徳川家康の総兵力を教えて
ください。
学校の宿題でもやるの?
569 :
世界@名無史さん:2006/01/13(金) 21:44:32
568さんへ
私の悪いクセで疑問に思うことは自分で調べず
人に聞いてしまいます。ちなみに子供ではないので。
570 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 21:42:57
っつか、徳川家康は国内をうろちょろしてねーで、
征伐に強力しろよ!!
571 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 01:38:43
572 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 20:08:47
あげ
573 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:09:05
574 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:38:55
正確な動員兵力は
文禄の役 158800人
慶長の役 141490人、でいいですか?
文禄と慶長、両方とも300000人以上動員すればよかったのに。
家康は江戸で埋め立てに勤しんでたんじゃないか。
576 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 03:04:10
東国の大名も出陣してれば、戦国オールスターズだったんだよなw
俺は名護屋城の資料館に行ったけど、なかなか面白かったよ。
出兵前の諸大名の陣屋とかもわかったし!
一応東国大名も名護屋に終結してたんだな!
家康や伊達なんかも出陣して欲しかった!
まあ、いろいろと願望はあるでしょうがw
秀吉は
「東国の大名は小田原攻めで疲れてるだろうから朝鮮攻めは比較的暇だった西国大名で」
と考えたのが真相らしい。いくつかの論文でも指摘されている。
逆に考えれば陸続きの小田原と朝鮮海峡渡って攻撃しなきゃいけない朝鮮と同じレベルに考えていたわけで。
「難攻不落の城」を持っていた小田原北条氏と長年の平和で腐敗してふぬけになっていた李氏朝鮮王国と
比較すれば「朝鮮攻めはチョロい」と考える気持ちも分からなくないがw
まあ、見通しが激甘だったんでしょうな>秀吉
578 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 16:09:29
>576
実際、伊達政宗は三千人を率いて出陣したらしいですよ。
家康と利家も出陣していればよかったのに。
家康は国内で最大の軍団を持っていたにもかかわらず
出陣してないのはもったいない。(家康の兵力は知らないので誰か
教えて下さい)
東国大名で出陣してない大名はあと誰かいたっけ?
最上義光とかはこの時代にいたよね?
579 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 16:21:20
日本全国の軍がそろえば世界史上最強でしょう。
やはり家康の協力がなかったのが一番痛いかな。
気になるのは、出陣していない大名は誰?
知ってる方教えて下さい^^”
>>577 小田原でも補給の主体は海路なんだが?
それに朝鮮の役でも名護屋〜釜山間の補給が滞ったことは無い。
581 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:31:00
南部とか、上杉なんかも名護屋にきてるよ。
出陣したかは知らないけど・・・
しかし、みなさん詳しいね!
朝鮮出兵が詳しくわかる本とか教えて下さい!
582 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:38:48
補給が大丈夫ならもっと兵力を増強すべきだと思います(その分補給も莫大ですが)
もし全国の軍を動員するとしたら50万人以上は動員できますよね?
(兵力は勝手な理想ですが^^”)
それか50万人もいなかったとか・・・?
583 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:54:55
朝鮮出兵を再現したテレビでもやってくれないかな〜。
関ヶ原合戦は再現されてたけどな〜。
584 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 06:09:01
>>582 当時の石高と人口の関係から42万が最高だという資料を見た事があるよ。農繁期とかを考えれば渡海は20〜27万ぐらいが限度じゃね?
585 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 07:16:07
四国征伐
九州征伐
小田原征伐
朝鮮征伐
秀吉にとっては同じ感覚だったのかなぁ。この時代の朝鮮征伐が成功してたら普通に
日本史にくみこもれてたのかもね。
四国もとりも通わぬ島とか言われてたんだっけ
587 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 17:44:11
やっぱ戦国オールスターズで攻め入って方が
真の力を発揮できただろう。
といっても実際も十分強かったらしいけど。
588 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 20:10:46
589 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:37:51
そんなもんさ
590 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 07:16:21
和船や韓船の時代だからな。
>>587 なぜか信長信玄謙信が渡海とか想像してしまった
そういや李舜臣を題材にした韓国のTVドラマで
秀吉の本陣は名護屋じゃなくて名古屋になってたらしいね
593 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 14:30:19
韓国では時代考証なんか屁とも思ってないんだろうな。
ドラマの朝鮮艦隊の砲撃は命中すると炸裂するらしいぞ。
594 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 15:59:03
587です。
字を間違えた。「攻め入って方が」を「攻め入った方が」の間違いでした。
595 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 16:07:59
>15朝鮮人は捏造が得意ですね
596 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 16:22:35
マジレスするが
当代の大型火器は
朝鮮・明の方が数段上だった
震天雷などの爆裂砲弾などもあった
597 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 17:53:38
震天雷って元寇のときに元軍が使ったやつだろ?
なんで日本に入ってこなかったかな?
598 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 18:46:34
かつてキリシタンは50万人の日本女性を奴隷として輸出した。鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」
P249〜257から、部分的に引用したいと思います。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく
縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本を
ヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、
日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいた
ボスの中のボスであつた。キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として
、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいること
が証明されよう。『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万と
いう。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売
されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、
もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父
が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。日本のカトリック教徒たち
(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた
(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。
キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
島津征伐の後、この事実を知った秀吉は激昂しバテレン追放令が布かれることとなる。
湿気の多い日本では火薬を多用する大型火器は普及しにくかったのかもしれない。
600 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 20:08:03
ミミ ヽヽヽヽリリノノノノ
ミ ,,、,、,、,、,、,、,、、 彡
l i''" i彡
.| 」 ⌒' '⌒ | ボク、ホリエモン。
,r-/ -・=-, 、-・=- | シラキは日本領土でしょ。
l ノ( 、_, )ヽ | そんなの、あたりまえ。
ー' ノ、__!!_,.、 | 朝鮮人の金奈勿が乗っ取る
∧ ヽニニソ l までは日本人の国だったじゃん。
/\ヽ /
/ ヽ. `ー--一' ノ/ヽ ノ7_,,, 、 ______
/ (⌒、"⌒ソ⌒ヽ─ '" `、 ( ィ⌒ -'"",う/壱 / /万:/|
〜''(_)(_)(_)(_)ソ ヽノ ,イ^_.|≡≡|__|≡≡|彡|
601 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 21:14:16
ようはあれでしょう?朝鮮という土地で日本と中国がやりあった戦争の事なんでしょ。簡単に言うと。
602 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 23:23:52
>588
面白い、何故今までこういう評価をしなかったのだろう?
603 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 23:26:47
コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、
ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立
への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、
日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之
あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の
日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。「我が旅行の先々で、
売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣
かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど
様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、
憐 憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、
「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を
買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や
新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化を
もたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように
怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が
記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良い
ほど同等である。
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html
604 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 14:33:17
605 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 15:06:55
敗因は草鞋
606 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 10:31:28
寒いから?
607 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 13:02:59
足の傷からばい菌が入るので
608 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 05:21:54
草鞋(秀吉軍)VS革のブーツ(明・朝鮮連合軍)
冬場に−10度以下の朝鮮半島で草鞋は無謀。
609 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 06:12:58
すごい!!
拍手。拍手。
610 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 08:07:29
王勇っていう有名な学者はこんなこと言ってるんだよね。
「日本は明治維新の脱亜入欧と第二次大戦後の脱亜入米で、体の一部器官は
既に西洋化したが、しかし自称西洋化は徹底したものでなく、
断章取義に過ぎない。西洋式の民主化でもなければ、真の国際化でもない。
みなさん日本人は模倣の天才だと言うが、そうとは限らない。日本人が外国の
先進的なものを学ぶ時は卑怯なやり方をする。古代シナ文化を学んだ時も
儒教仏教は要るけど道教は門外に拒絶。なぜなら道教は神道の飯の種を奪うからだ。
儒教の中でも、孔子はお祭りするけど、孟子は敬遠しておく。
なぜなら孟子の易姓革命思想は天皇の万世一系とぶつかるからだ。
だから日本人は改造が得意なのであって模倣ではない。もちろんそれは悪いこと
ではないが、問題は元々渾然一体の物が、心のひんまがった奴らの分解再組み立て
にかかると偽物になってしまい、ひどい場合は世界に害毒を流す。」
http://www.geocities.jp/imanarikenkyukai/ouyu.html ちなみに身体器官の西洋化っていうのは米軍進駐で混血したと言いたいらしい。
それに「飯の種」って。道教はあちらの在地信仰なんだから受け入れる理由ないじゃん。
611 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:13:50
> 王勇っていう有名な学者
いま知った。
612 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:21:22
小西行長が一時的とはいえピョンヤンを占領して
明軍と迎激戦やっているとは、知らんかった。
613 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:48:01
>>612一時的って言っても半年ですぜ。
一時は撃退しているし。
614 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:54:22
ところで朝鮮での総大将は誰。
名前が思い浮かばない?
615 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 14:17:07
>>614 朝鮮軍にそもそも「総大将」はいないはず。
そもそも秀吉の朝鮮討伐なるものは
日本(豊臣政権)と明帝国との間の戦争だからね。
朝鮮は実は当事者ではない。基本的には国土がたまたま戦場になっただけ。
戦争の地理的状況は後の日清戦争と極めて近いもの。
誤解を招くので本来は「朝鮮」という名前は戦争名称に入れるべきではない。
日本式の「唐入り」か、近代風に言うなら「日明戦争」とでも言うべきもの。
616 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 14:17:23
小早川隆景
宇喜多秀家
羽柴秀勝
毛利秀元
小早川秀秋
など
615でつ。
スマソ。日本語を読み間違えた。
「の」じゃなくて「での」だった。
逝ってきます。
618 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 15:22:49
シナや朝鮮では学者が王勇みたいな寝言ばかりほざいてるからいつまで経っても進歩が無いんだよな。
文明人なら野蛮人の生活から参考にすべき慣習を学び取る時に、
悪い文化を排除するのは当然。
野蛮人の愚劣な部分を真似しても日本人に馬鹿が伝染るだけだからな。
619 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 16:39:58
王勇ってシナ人か 2000年前の思想そのままだな 中華思想
完全に中華になることが善、その他は悪という発送が根底にあり、信じて疑わない
「心のひん曲がった」なんて表現もよく理解できるな
あきれるね。福沢諭吉の気持ちもよくわかる
派遣軍の総大将がいないから負けた(目的の達成ができなかった意味では
負けといってもいい)
いればあそこまで野放図に戦線も拡大しない
621 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 02:04:55
age
622 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 02:14:23
>>620 そうか総大将がいなかったんだ。
となると朝鮮に出兵している各大名に、
秀吉が名護やか大阪から指示を出していたのか。
すげー変な戦だな。
623 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 02:49:21
>>611 中国国内では影響力大きいし、日本でも中国の代表的学者として
一流の研究機関が招聘したりしてる。
この人は中国にいるときは凄い勇ましい極右発言を繰り返す。
麻生太郎より遥かに凄い。
小西と加藤が両先鋒じゃなかったらなにか変わったかな
626 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:55:15
一番隊、徳川家康 伊達政宗
二番隊、上杉景勝 前田利家
三番隊、最上義光
など出来るだけ東国大名を先頭にすればよい
627 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:04:28
南部も忘れずに
628 :
匿名希望:2006/02/05(日) 18:29:09
歴史群像のシリーズ(確か島津について)で、「バルチック艦隊を前にした日本海軍の仕官の中には李舜臣に
戦勝祈願をした者もあり、歴史を無視したむしのいい願いだ。」みたいに書いている。
李舜臣を日本海軍が評価したみたいにも書いてあったが、本当ですか?
当時に日本人が朝鮮や朝鮮の武将に尊敬を抱くとは思えないのだが、まして海軍なら朝鮮に寄港し、
朝鮮の現状を知っているだろうに。
629 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:06:46
>>628その話は未だに根拠が見つかっていないが、君は信じるのか?
630 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:36:52
>>625 秀長が死んだ後、
豊臣には大権を預けられる人間がいなかった、ということか。
豊臣家が潰れたことを考えれば、
この時点で豊臣家に未来は無かったんだね。
631 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:19:43
秀次を切腹させてよかったの?
632 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:19:49
>>625 そうそう。倭寇や秀吉についても雑誌とかに書いてる。
倭寇に加わった中国人の多くは日本人に拉致されたんだ、とか書いてるね。
証拠は挙げてない。
633 :
匿名希望:2006/02/05(日) 21:37:30
>>628 根拠なしですか。ありがとうございます。あの話しは信じられません。
634 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:39:37
635 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:51:03
秀吉も明の皇女の降嫁とか領土の割譲、勘合貿易再開などの要求が満たされれば、
嬉々として日本国王の封号を受け入れたことであろう。
彼が激怒したのは、臣下扱いされたからではなく、実利的要求が認められなかったから。
>>632 >倭寇に加わった中国人の多くは日本人に拉致されたんだ、とか書いてるね。
うわぁ…デムパ教授ですね…
637 :
匿名希望:2006/02/05(日) 23:02:13
>>634 小説や雑誌で李舜臣を称えたのが、1人歩きして時代とともに李舜臣と日本海軍の
話しへと変わっていたのですか。ありがとうございます。
638 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 00:25:22
支那人や朝鮮人は短絡的な嘘ばかりつくからね。
いちいち信用してたら後で悔いる事になる。
639 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 04:12:29
>>634 なるほど。李舜臣もまた、日本人が先に顕彰して、朝鮮人があとに続いたわけか
>>630 無かったというより留めだな
出費強いられて豊臣が不評を買っただろうし、三成小西と加藤福島が
仲間割れしなければ関ヶ原なんておきないし。まぁそれでも内部分裂があっただろうけど・・・
最悪、幕府の様な公的統治機関があれば公儀による地位の裏付けや
小身の大兵力指揮もある程度は可能だったのだが、関白はあくまで朝廷
の官職でありつまり朝廷を乗っ取りでもしない限りその公機関を自儘に
はできず、結局は豊臣家の私機関として豊臣政権を運用しなければならな
かった
>>641 …とりあえず中公新書の『流浪する戦国貴族・近衛前久』ぐらいは読んでから書き込みしようね。
>>642 秀吉が朝廷を自分の組織として用いえたかという話なんだけど
何に対し文句があるかを言わずにこれを読めというのは余り良い反論
の仕方ではないかと
644 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 17:51:09
家康の旗本8万旗
645 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 17:56:27
素人の作戦タイム
40万の軍を4派に分ける。
第1派10万人 第2派10万人 第3派10万人 第4派10万人
646 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 02:01:46
意味解からん。
647 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 17:12:08
同じく意味わからん。
648 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 18:31:25
もし、秀吉が文禄の役の和平条件を受け入れて、素直に日本国王に封ぜられていたら、
豊臣政権は安泰だったであろう。
649 :
匿名希望:2006/02/12(日) 19:43:38
>>648 和平条件を受け入れても、豊臣の滅亡がほんのわずかに延びぐらいかと。
豊臣政権内部の派閥争いと秀頼成人が幼少は変わらず、家康にそこを突かれる。
大軍を海外まで送り、秀吉が日本国王に封ぜられるだけなら、秀吉の権威が失墜してしまう。
650 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 21:53:24
秀次が粛正されたのは秀吉の外征が頓挫して国内で二重権力態勢になったためとも言えるんですよ。
652 :
匿名希望:2006/02/12(日) 23:28:13
秀次は朝鮮征伐の最中に粛清され、弟も朝鮮で戦死した。
朝鮮征伐の成否にかかわらず、秀頼誕生の時点で粛清決定されたような気がする。
秀吉が名護屋、秀次が京にいたが、二重権力態勢までなれなかったと思う。
秀次はあくまで後継者であり、秀吉が権力者だったはず。
秀次も秀頼誕生の時点で、関白を返上し朝鮮に出兵すれば少しは生き残れたかもしれないが、
朝鮮で大敗し、領地没収とかされそうな気もする。
家康の長生きと子沢山は意味があったんだな。やっぱ2代目につなげる時にやりすぎくらいにやっとおかないと。
>>648戦場が朝鮮で互いの直轄の領地での争いじゃないのに飲む分けない。
654 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 18:34:43
こうすれば朝鮮征伐に成功してたというシナリオはなにかあるかね?
軍の陣容をもっと大規模にするとか、いろいろあるけど。
655 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 19:23:45
656 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 19:47:10
作ってるね
657 :
匿名希望:2006/02/13(月) 19:47:54
李舜臣の最後についてですが、乱戦になり朝鮮・明の水軍は大砲が使えなくなった。
両軍が弓の打ち合い、火縄銃(日本側)を撃つや、敵船に乗り込むのはわかるのですが、
火のついた松明を互いに投げ合ったという記録は正しいのでしょうか?
乱戦になっても大砲は使えるだろうし、敵船を焼くのに火矢や焙烙玉を使うのでは。
亀甲船は何をしていたのか?明の副将の子竜が味方の攻撃で船が沈み戦死し、李舜臣は
明水軍に助けられたのに最後は至近距離から火縄銃の集中砲火で戦死とだまし討ちの追撃戦のはずが、
明・朝鮮の方が被害が多きかったのも不思議だ。
>>654 朝鮮に上陸する時点で失敗じゃないのか
時間がかかればかかるほど明軍がくるし
659 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 13:23:26
秀次内政
秀吉外征
の分担だったんだよ、始めの構想はね。
>>654 前もって先に琉球征服をやっていたらどうだろうか。
琉球には進貢船という本格的なジャンク式帆船があるので、
造船所が手に入れれば、朝鮮どころか福建省まで直行できるような船団が作れるようになるぞ。
島津軍3000であっと言う間に落ちたのを見てわかるとおり、守りも相当もろい。
661 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 22:56:57
<<659
ルイス・フロイスの記述からして、
秀次自身は唐入りを冷めた視線で眺めていた可能性がある。
また、後の五大老に代表される有力外様大名は
中央集権派奉行衆への牽制として
秀次をバックアップしていたような気配もある。
当初、飾り物だった秀次が
公儀の首班として機能しはじめたところがポイントだと思う。
こうした状況のなかで、諸大名の意を汲んだ天皇の代理人たる
関白秀次が唐入り反対を表明したら秀吉としても
窮地に立たざるをえないだろうよ。
662 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 23:48:25
秀吉の主目的は戦国100年の間に巨大化した過剰な戦時インフラの在庫一掃なんだから、
有力大名を朝鮮で疲弊させられなかった以上は豊臣家が余計な恨みを買っただけ。
家康を朝鮮に引き摺り出せなかった時点で秀頼の運命は決まった。
もし明国を攻め滅ぼしても秀吉は大陸に本拠を移転せざるを得なくなるだけで、
どう転んでも日本は家康の手に落ちる。
大陸の支配者となった秀吉には、家康が守りを固めて立て篭もる日本列島に手出しできない。
663 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 01:02:25
家康を朝鮮へ行かせるんはあかんで。
ほとんどの大名は朝鮮へ嫌々行ってるんや。
家康がこいつら取りまとめてしもたらどないすんねん。
あんたの言うとおり、朝鮮出兵は戦国100年の戦後処理のための戦争や。
しかし、相手が悪かったわな。
こういう戦争は強すぎず弱すぎずが理想やろ。
鎌倉幕府の奥州征伐なんかが成功例やと思うで。
家康を討つんが、ちょどええ塩梅やったんとちゃうかな。
ぶっちゃけまとめられちゃったんじゃないか。
というか、単純に一番最高位の部下をいきなり行かせるわけないだろう。
第一、家康には関東の経営任せたばっかだし、そこに出陣させるのは矛盾する。
そもそも恩賞拡大の為が主なのに、家康のこれ以上功を取らせてどうするの。
小西清正をせっかく立てたのに野戦で家康が勝ちまくったら、もうその時点で
豊臣があぶないのが露呈する。西国大名がみんな家康しか見えなくなる。
665 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 16:37:48
元代の高麗や江南兵の一括処理法に似ている>秀吉の外征
666 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 16:59:18
黒田長政はどの時点で如水に変わって頭角を表したんですか?
朝鮮出兵から?
668 :
↑:2006/02/16(木) 17:56:48
節操がない!!
669 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 17:02:58
でも、まじでこのとき朝鮮を占領しなくてよかったと思うよ。
もしこのころから朝鮮を占領し続けていたら、今頃、完全に一体化しているだろうかな
670 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 11:34:44
皆、田中とか高橋とか名乗ってるんだろうね。
いや、秀吉がぽんぽん新しい地名つけて、住民もそれを元に
名前を変えたりするんじゃないか。それか、いつのまにか日本風の名前になってるか。
日本人が移住して同化政策するなら日本の名前になるかも
672 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 06:35:21
22 :本当にあった怖い名無し :2006/01/28(土) 01:23:56 ID:ENAo64nL0
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく
縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。
ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ
(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで
海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとに
いったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで
転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への
憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
673 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 06:35:54
日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。
しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった
悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を
無視し続けるのか。
数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の
日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。
その勇気があれぱの話だが」。
秀吉は純真無垢な朝鮮人を虐殺した悪魔なのか?キリスト教宣教師の仮面を被ったユダヤ人
奴隷商人によって総数60万人以上の日本女性を性奴隷として売りさばくために日本に寄生した
宣教師を日本から追放し、ユダヤ人の日本侵略の前線基地となろうとしていた中国・朝鮮に
兵を送り悪魔のユダヤ人(表向きはイタリア人やオランダ人という国籍を持つ)に侵略の目を
潰そうとしたのか?
>>601 そのまとめ方だと300年後の日清戦争と全く同じになってしまうなw
結局は決して歴史の主役になれない国なんだね、某国って。
675 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 19:50:28
国なのか?
676 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 09:24:34
黒田長政は実績あるのか?
677 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 09:29:07
40万規模の大軍で攻めてほしかった。
チョン半島を全土制圧し、そこを補給基地にしてそこから
明に攻め込む。
半島を補給基地にすれば明と思う存分戦えるだろう。
平壌を占領、二王子を生け捕り、
李舜臣の狙撃に成功。
まあまあじゃん
>>677 それは無理。朝鮮半島は生産性がかなり低い土地で余剰が生まれないので
相当無茶な略奪をしない限り兵站基地として全く機能しない。
稲作にも麦作にも雑穀作にも本質的には向いていない困った土地なんだよ。
しかも16世紀は現在より気温が低い時代なので条件は更に過酷だったと思われる。
かといって、既に16世紀には東アジアの交易ルートは
西南日本から中国江南を経てベトナムやルソンに至る東シナ海直接ルートとなっていて
朝鮮半島は完全に蚊帳の外だった。半島掌握は商業的にも殆ど意味が無い。
豊臣秀吉は唐入りの最終目標として「寧波への入府」を掲げていたわけで
かかる状況を的確に認識していたはずなのに、
何を血迷ったのか明後日の方向にある朝鮮に向かったのがそもそも運の尽き。
つまり秀吉だけ古代の人だったのか
>>679 一応琉球ルートで攻め込むことも考えていたようなんだが
秀吉の「ゴルァ」に対して
琉球王は資金難(国王の交代があった)のなかやりくりして秀吉に献上をしたこと
+仲介役だったのがくせもんの島津
だったので琉球ルートを使うことが出来なくなった
一方朝鮮王国の方はお約束通りの反応
+その反応を仲介役の宗がなんとかカバーしようとしたが収拾がつけられなくなる
事で攻め込む理由が出来た。
もし琉球ルートだったら、
後の島津の琉球出兵の例を見てもあっさり中国上陸までは終了していた可能性は高そう。
682 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:29:19
もし直接中国本土に上陸させていたらどうなっていたかな?
おもしろそうだよね。
九鬼水軍が世界史に残ったかもな
684 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:34:10
補給が
685 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 00:16:35
お得意の現地調達。
686 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 00:51:48
確か中国が何故、朝鮮を直接統治しなかったのは朝鮮になんの魅力も無かったからじゃなかった?
687 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 20:46:17
確かにメリットが無い
和船じゃ無理
ジャンクかガレオンの大量建造技術が絶対必要
そこで琉球征服ですよ
690 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 14:24:34
あげ
691 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 16:38:05
>>663 これが誰かの言う史料絶対主義ってやつか・・・。
豊臣恩顧はやる気まんまんだったし、外様にしても、秀吉本人を見れば
わかるとおり海外情勢に対する知識が全くなかったから、少なくともあんな悲惨な状況に陥るとは、
開戦の時点では予想している人間などいなかっただろうと思う。
だから、みんながみんな「嫌々」行ったなどというのはありえないこと。
当然、家康自身も、「ひょっとしたら成功するかもな、そしたら俺の天下はないな」
と考えていたはず。
692 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 16:44:18
>>691 加藤清正が満州を攻めているぐらいだからな。
満州が明の領地ではないことを知らなかった可能性大。
693 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 21:41:56
明は遼東をどれだけ支配していたんだっけ?
694 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 21:51:11
名護屋城には最大で、どれくらい兵力がいたんでしょうか?
695 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 12:09:47
朝鮮を目的で行けばよかったのに外様連合で行って
負けたら負けたで秀吉安泰勝ったら勝ったでとばしちゃえばいいじゃん
キムチ作りのうまい金さんとかを家臣にとりたててさあ
696 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 20:03:42
明
豊臣恩顧はやる気満々?
朝鮮と交渉に当たった奉行衆にそんなの見られないが・・・
698 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 15:05:04
まずやる気の無いのが問題だよね
699 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:52:12
700 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:40:30
しらんわ
701 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 22:33:02
ウィキ見た?
702 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 22:44:02
加藤清正は文武に優れた偉大な武将。
積極的に農地を増やし、領土経営にも長けていた。
朝鮮に行って清正を褒めちぎろうぜ!
清正と女真族との戦いについて詳しい本があったら教えてください。
704 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 18:50:14
過疎
705 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 22:23:33
706 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:03:46
あげ
707 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:46:09
晩年の秀吉…痴呆老人の権力亡者…高松城攻め〜日本統一までの名将ぶりとは天地の違い。
708 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 14:07:05
秀吉は惚けていたで済むのか?
709 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 14:13:39
TBSで歪曲報道キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
TBS 報道特集 2006.4.2 北朝鮮へ返還された石碑の運命は
>
http://www.tbs.co.jp/houtoku/2006/060402.html > 靖国神社に長くあった石碑。
> この度、韓国を経由して、本来あった北朝鮮へと返還された。
> なぜ、この時期に? 朝鮮半島ではどのような扱いを受けているのか?
「北関大捷碑」は、石碑を建てた人の子孫との間で譲渡契約を作っています。
しかしTBSは、ここには一切触れずに、「日本が持ち帰った」とナレーションし、
返還を求める韓国側の「日本が略奪した」という妄言を何度も垂れ流し。
しかも特集の最後の締めくくりに田丸キャスターが、日本は半島から「数十万点」もの文物を奪ったとサラッとコメント。
日本公文書館・「アジア歴史資料センター」
http://www.jacar.go.jp/index.html 加藤清正・征韓記念碑下付出願の件(Reference-Code : C03026852200)
http://www.mf10.com/dreamtale/C03026852200.jpg には、
「・・建設者ノ子孫ニ諮リテ其承諾ヲ得今回還送シ来リタルモノニ有之・・」とある。
現代語訳
「・・建設者の子孫に意見を聞き、その承諾を得て、今回(日本に)持ち帰ってきたものである」
2005-04-01 23:51:26 北関大捷碑 テーマ:戦後補償
http://dreamt■ale.am■eblo.jp/entry-a055ba16ebce6dec87a5436d1c836f5b.html (←■削除)
> 日帝に奪われた「壬辰倭乱戦勝碑」返還へ向け、韓国政府は積極的に活動せよ
> 日本に略奪された「北関大捷碑」が返還へ
この略奪されたとは、何の話であろうか?
略奪した、あるいは略奪されたとする史資料は皆無である。何を以て「略奪」としているのか、韓国側は明確にして欲しい。
そして、共立女子大学国際文化学部の北島万次教授は、何の根拠を以て「略奪」の認定をしているのか、明らかにするべきであろう。
711 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:35:16
863 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2006/04/02(日) 19:35:05 ID:Dyy7ieRH
>>855 ごみ同然に放置されていた石碑を発見した日本人学者が歴史的貴重な遺産と判断し
高額な金銭を渡して円満譲渡され、日本に持ち帰って大切に保管したんだけどね
朝鮮人なんか気に入らなければ何でも粉々に破壊してしまうから、放置していたら
今頃この世に存在していない可能性が大きい
それを朝鮮人が先祖代々大切に保管していたものを、日本人が武力にものを言わせて
無理やり強奪して来たかのような話に捏造してるからね
小中華主義で、宗主国に事大する朝鮮は、前宗主国の遺産は代が変わればことごとく
破壊するのが習わしだから、歴史的遺産が残っていたのは希有なケースだし
価値を知らないからこそ運良く放置され残されたものなんだけど
朝鮮人とは何の関係もない高句麗・百済・新羅時代の文化遺産まで
(とっくの昔に朝鮮人が破壊しまくっていたんだが)
日韓併合時に日本人が略奪して持ち逃げしたとか言ってるからな
遺跡を破壊したのは朝鮮人だし、文化遺産や国宝のようなものなんて皆無に等しいのにな
因みに日本の平安時代から存在する国宝の類もすべて日本が植民地時代に略奪したって
韓国では教育しているからな、基地害しか出てこないよ
713 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 20:26:10
714 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 09:53:28
李でなくても他の奴マンセーになるだけ。
715 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 15:55:06
もう数万投入していたら勝っていた。
716 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 16:00:16
誘導上げ
717 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 17:46:38
日本軍による朝鮮人捕虜5〜6万人 帰還7500人。しかし日本では陶工を始め
優遇された捕虜も多数。
1627年、39年の金(後の清)により連れ去られた朝鮮人はそれを上回り
かつほとんどが奴婢とされる。
これって、あまり言われていない。
>優遇された捕虜も多数
沢庵禅師の紹介で柳生家の侍になった人とか
剣術じゃなくて詩作で目にとまった訳だが
有田焼の李参平なんかは、朝鮮では無名の陶工だったのが
日本に来て神社まで建てられて神にまで昇華してます。
720 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 08:52:45
子孫が加賀で家老に登つめたりな
721 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 16:20:47
朝鮮ではなくフィリピンに行くべきだったな
そして東南アジア経営
722 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 08:56:20
清正の陸戦能力って実のところどうよ?
723 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 20:38:37
女真族に興味があるんですけど
清正と女真族の戦闘について詳しい本があったら教えてください。
724 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 21:57:44
家康を中心とした東国大名が協力すべきだった。
戦国オールスターズで攻め込んだら、すごいだろうなあ!
725 :
大阪が朝鮮に!メールで抗議を!!:2006/04/27(木) 22:21:37
姉の友人の子供が、公立小学校に通っています。
その学校では、在日韓国人がとても多いのですが、変な生徒も保護者もおらず、生徒同士はふつうに仲良くやっています。
ただ、日教組の影響が強いため、狂った先生がかなり多いのです。
最たる物は、テストの時、名前を書く欄に、朝鮮語と日本語で書く欄があります。
これだけならばまだ良いのですが、日本人の子供達も、朝鮮語で名前を書くことを強要されています。
友人は学校に文句を言いに言ったのですが、全く取り合ってもらえませんでした。
なんで日本人が日本国内でハングル表記の名前を強制されるんでしょうか!
大阪市生野区の、北巽小学校。
HPも朝鮮語・・・
http://www.ocec.ne.jp/es/kitatatumi-es/kitatatsumi-index.htm 大阪の八尾市にある八尾小学校です
↑
朝鮮の文化まで押し付けられてます
726 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:23:11
>>724 秀吉とすれば家康は出せなかっただろう。
家康と他大名の連携ができ上がる恐れがあった。
実際、関ヶ原では武断派が東軍に就いている。
脇坂って閑山島海戦では出し抜けで負けたけど、
それ以降は元均の水軍を壊滅させたり、結構活躍してるんだね。
naver見てると、脇坂ってぼろ糞に叩かれてるから。
728 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 08:21:38
マイナー武将でも朝鮮では大活躍
ドラえもん安治の朝鮮開拓史
729 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 08:38:53
秀吉としては失敗するなんて考えてもなかったのでは?
手柄(新領土)を家康には与えたくなくて出兵させなかった気もするが。
730 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 12:26:56
勝敗は戦の常ってことでいいなじゃないか
あんまり秀吉をせめちゃいかんよ
勝ってたのかもしれんし
731 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 12:40:38
秀吉は朝鮮どうのと言うより内政的・内面的な問題で出兵した気がする
本格的な併呑戦争目的じゃないから多くの失敗したような気がする
ルソンのイスパニア総督あたりをビビらすのも目的の一つだったんでねーの。
ウチらには手を出すなというメッセージ。
733 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 17:13:18
フィリピン総督に書簡を出したり
734 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 23:27:49
つーか、どのみち唐入りするつもりだったら信長殺すなよ〜
735 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 12:10:39
>>732 ダスマリナス総督をびびらすどころか(1591年の原田喜右衛門、1592年の原田七郎の入朝要求)
実際に1599年に進攻準備してました。出兵する前年に秀吉死んだけど、
1593年に商人の納屋助左衛門が100名ばかりの部下を率いてルソンに進攻して
スペイン総督側が財宝を支払って和議するなど個別に圧力かけまくりです。
ルソンにはスペイン兵は数百人しかいなかった。
737 :
グリーン中山:2006/05/03(水) 15:39:51
『最近の台湾の教科書について』
慰安婦の記述
近隣諸国(主に韓国・中国など)と日本で、歴史認識の違いで議論になる事柄のひとつに、
慰安婦などに関する事柄があると思われますが、
日本では、慰安婦について、職業婦人だとか業者が行なったことだとか
いろいろに論じられていますが、
最近の、台湾の教科書でも、2社3種類の教科書に慰安婦についての
記載がされています。
(「嫌韓流2」などでも 慰安婦に関して取り上げている様ですが)
以下に國中(9年一貫の7,8,9學年)の検定教科書の
内容を紹介しています。
( 翻訳は大体ですので、原文の画像もご参考ください。
http://bbs.com.nifty.com/mes/cf_wrent/FREKISHI_B031 Bar HISTORIA(フリートーク)
2005年10月26日
)
南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。
あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm
降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した(苦笑
盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は3日午後、民主平和統一米州地域諮問会議に参加し、
「歴史講義」を通じて歴史の流れと北東アジア情勢に関連した様々なことを率直に打ち明けた。
結びの発言で、盧大統領は予定より30分も越えて「韓半島の歴史」を考察した。韓国の運命と関連して
「一番正しくて一番多くの合意を得ることができる道は歴史的考察」という持論のためだった。(中略)
盧大統領は「少し前に協議会長が ’眠れないシアトルの夜’と言ったが’眠れない青瓦台
(訳注:大統領府)の夜’もある」と冗談を言いながら、作今の悩みが決して簡単な水準ではないことを仄めかした。
盧大統領の歴史考察は二段に分けられた。過去、韓半島をめぐるその苦難の歴史と、
他国の支配を決して受け入れない歴史の進歩についてだ。
741 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 01:30:58
盧大統領はまず「苦難の歴史」と関わって中国と日本の韓半島に向けた勢力拡張とこれに
対する我が民族の対応を述べた。盧大統領は「中国で統一国家が現われれば韓半島は一度
ずつはしかを病んだ(訳注:大きな災難を経験し切り抜けたの意味)」とし、「また日本
の強大な勢力が現われた時、韓半島には戦争が起こった」と壬辰の乱、日帝の植民地支配などに言及した。
それとともに「壬辰の乱の時、陶磁器技術の産業基盤が完全に崩壊し、勉強する人や農業
をよくする人など10万名を捕えて連れ行ったし、農地は3分の1まで縮小した」とし、
「あの時ああいう事にあわなかったら韓国が産業的に近代化過程でどれほど発展したのか
分からない」と無念さを隠さなかった。
盧大統領はまた「民族史観の立場では認めないかもしれないが、私たちは中国をいつも本
家、お兄さんだと言ってきたが突然日本が「お兄さんになる」と言うから系図が違うとい
うことで、これが数千年下った韓日関係」と言いながら「今日、日本に国粋的傾向が普通
ではなく感じられることもまた事実」と言った。
盧大統領はこのような過去韓日、韓中関係と関わった対応に対しては「概して真暗だっ
た」や「高麗初期,朝鮮初期約100年間の国際情勢をよく知って適切に対応したことを
評価する」と言った。盧大統領は「私たちが国恥にあった時期はいつも国内に分裂があっ
た。国力がないから対策がなくて、対策がないから空理空論だけ持って死に物狂いで争っ
てばかりいた。」と言って「真暗な対応」の原因を説明した。
(後略)
ソース:朝鮮日報(韓国語)<ノ大統領"眠れない青瓦台の夜">
http://www.chosun.com/politics/news/200605/200605030571.html 10万人つれて帰ったってマジ?
あと当時の半島の農業技術って何?
742 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 05:39:23
韓国人の発言を真に受けると出鱈目と気付いた時に後悔するぞ。
743 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 14:18:53
>>741 ただの言い訳だろ
自分達の能力の低さを棚に上げ、他に原因を見いだす
朝鮮の民族性そのもの
744 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 05:45:59
745 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 05:54:27
746 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 12:32:45
秀吉は朝鮮ではなくてフィリピンを占領するべきだったな。
で、その後、インドネシア
なんで朝鮮なんかに攻めたんだか。
747 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 12:43:30
基本的な釣だな。
明に入るためだろ。
秀吉は朝鮮を日本と同じような土地だと思っていた
まさかあんなに気候が厳しく土地が痩せていて不衛生な場所だとは秀吉にも想定外だった
749 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 13:07:03
加藤がニ王子(臨海・順和)を捕虜、会寧からオランカイ進出
小西は平壌占領・明軍と交戦
島津・四川、小早川・碧蹄館、露梁津・李舜臣射殺まぁまぁじゃん。
韓国で義兵は言うけど、李如松や明軍への感謝はないね。
750 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 13:25:23
鶴松が死んでショックを受けた秀吉が、
自暴自棄になって思い付きで始めた戦争だからなあ。
将兵もやる気が無かっただろうね。
初期の勝ち進んでいるうちはまだいいが、
難戦になったら、厭戦気分が横溢してたと思うよ。
「なんでこんな所で死ななきゃならんのか」ってね。
豊臣政権が長くはない事も将兵は判ってたし、
あほらしいなあ、やってられるか、と思っただろうな。
752 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 13:39:30
>>746 そもそもが攻め込んだわけじゃないじゃん。
話がついてるってことで、船を付けようとしたらいきなり朝鮮に襲われた形なんだから。
>>751 浪人対策や不景気打破とかいろいろな政策意味を含んでたんだが・・・・
明への侵攻計画については
753 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 14:00:10
当時は不景気だったのですか?
754 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 14:05:27
今もそうだが、戦争が終わると戦争産業が一気に不要になり、そこに引きずられ経済が停滞する。
また、当時の大坂では物資関係の需要が一気に下がり、値の下落が深刻だったそうだ。
755 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 14:41:21
確かに、
金(後の清)と明でも国力比、人口比みても大きな隔たりがあったにも
かかわらず征服しちゃったんだから、秀吉の明征服というのもあながち荒唐無稽ではないと思う
756 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 15:51:31
つーかさ、まじで戦するつもりだったら、明や朝鮮の情報を仕入れて、分析してから、攻めるだろ。
いきなりせめてもなぁ・・
当時の大坂では物資関係の需要が一気に下がり、値の下落が深刻だったそうだってのは、当たりだと思うよ。
結局は物資の需要を上げるのが目的なのと、諸大名の戦力を低下させて謀反を起こしにくくしたのでは?
たぶん、朝鮮出兵で秀吉自身けっこう儲けたのでは?
757 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 15:56:41
明に関しては地元勢力とかと連絡とってたとか言う話を聞いた。
資料とかで見たことないから怪しいけど、それなりに勝算はあったという見解が多い。
実際に明は後に内乱で弱くなってるし、秀吉に加担する勢力が居ると考えた方が自然かも。
それに、朝鮮での対明軍戦では結構有利に運んでたしね。
ただ、朝鮮に関しては宗氏ら数名が情報を握っててそれしか知らなかったみたい。
まさか近習と朝鮮の外交官がグルになって嘘の報告してるとは思わなかったんじゃないの。
今の国の外交官が嘘の条約や約束結んでお金の受け渡しを堂々としてるようなものだから
758 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 17:54:51
>>757 明兵が10万しか居ないとかいう記述を何かで見たよ。
博物館か資料館だかだったと思うけど。
116 :世界@名無史さん :2006/03/29(水) 09:46:58 0
>>107 オスプレイ・メンアットアームズの元・明について扱った本によると
帝国全土に定員5,600名の衛が500ほど設置されていたので
理論的には2百万から3百万の世兵が存在したそうだ。
ただ、時代が進むにしたがって軍戸制の矛盾のために脱走者や
脱落者が相次いで、15世紀末までに半分以下の戦力になったとか。
760 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 09:09:39
慎重な秀吉にしては無謀な戦だよな。アルツハイマーにでもなってたんじゃねーの
761 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 14:21:28
日本国内の戦と同じような考えを持って戦略を行ってたらしいからね。
そういえば、秀吉って海戦は朝鮮が初めてじゃなかったっけ?
九州にしろ、四国にしろ、上陸できるってのが前提だったし。
まあ、朝鮮のときも、朝鮮王朝が上陸させてくれるって話だったからなぁ
762 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 15:11:35
前の将軍にして秀吉を養子にすることを断った足利義昭の陣が
名護屋にあったことは感慨深い。
763 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 15:35:07
>>748 そもそも水をそのまま飲める国ってあんまない。
764 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 20:32:57
水が飲めなきゃ茶を飲めばいいじゃない
767 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 23:01:11
>>761 朝鮮語に『約束』って言葉自体がないから。今でもそのまま『ヤクショク』使ってるしね。
ちなみに『思いやり』って言葉は理解できなかったのか存在さえしていない(言葉の概念もない)
>>763 特に中華は植林の文化が存在しないから禿山ばかりで貯水ができない。
水の確保は大変だったろうね。日本だと長期の対陣、城攻めは、まず水源確保か井戸掘り
で楽勝だったけどさ。大陸は掘っても簡単にでないからなー。
>>766 まあ、沸かせば大抵は飲めるようになるんだけどな。
768 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 01:37:14
朝鮮半島って、元寇のときに日本遠征用の船を造るために
木を伐採しまくって、それから禿山が増えたって本当?
769 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 01:57:30
朝鮮の被害は具体的にどのぐらいだったのかな?
770 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 09:44:27
人口が1/3になった。
771 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 11:44:24
↑ウソ。当時の人口は600万程度。その3倍あったってさww
772 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 23:02:17
加えて、明兵と義兵以外の被害についても加えられてるからね。
そもそも日本兵が攻める城の民衆がみんな山へ逃げたとかで食料に苦慮してたのに
どうしてそこまで被害出せるのかな?
773 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 01:23:32
じゃあどのくらいなのかな?
土地を耕す民がいないってので日本兵が苦しんでいたから、
一般人を捕まえて殺すってのは一回で多く見積もっても数名ってとこだろ。
で、それだって村単位、町単位でだろうから侵攻の所全部で行われても数十か百数十ってとこ。
一度に十、百単位行ったら捕虜にするか、耕すのに使うってのが戦国時代からの意識だし。
民族性から見て義兵団とか相当な集団にならない限り小数での反抗はやらないだろうしね。
そういう無謀を卑下する習慣みたいなのが浸透してるから{今も含めて}
775 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 18:50:40
つーか素朴な疑問。刀や槍程度の武器で虐殺できるのか?
信長の長島での虐殺は逆に被害もでかかったしなー。やりたくもない戦でそんなんするのかな
776 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 19:01:28
刀の場合、相手が全員薄手の服のみ、反抗しないで素直に斬られる前提での話ででも
普通の兵が普通の刀を使った場合は、斬れて数名から運良く10人前後。
しかも胴とかだと一発で折れるか曲がる可能性が高いから禁止。
よほどの手誰だったら倍以上斬れると思われるが、それまでの質は稀。
槍は連続で刺せないし、刃が欠ける可能性が高いから大量には無理。
777 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 19:34:51
数打ち刀でも10人前後切れるのか。ふ〜ん
778 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 20:32:58
>>776 刀について「単発で」っての加えてくれ
連続ではそんなに切れないから。
ちなみに普通の刀ってのは正規兵の刀ってことだよね?
鋳型とか農村鍛冶せいとかの粗悪品じゃなく、ちゃんとした刀の数打ちってことで
779 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 20:50:20
>>777 肉の柔らかい部分だけをピンポイントで斬り、斬る毎に刃こびりついた脂を拭えばなんとか・・・・
もうすぐ100人斬り論争が始まるスレはここですか?
781 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 21:10:52
100人斬りは日本刀で尚且つ名刀ならできたのでは?
帝国陸軍だか関東軍の装備は西洋式のサーベルだからすぐ曲がって使い物にならないんでしょ
783 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 23:16:23
>>781 名刀だけではうまく斬れない。使い手がうまくてようやく発揮できる。
山田家とか試し切りの専門家が必要とされるくらいなんだから。
もし、名刀だけですごく切れるなら必要ないと思わない?
それにしても連続、補修無しで百人切りは強度的に無理。
もっとも完成されてる刃物と言われる日本刀とは言え、
ファンタジーの武器みたいな出鱈目な耐久性があるわけじゃないからね。
金属疲労が蓄積されればもろくなるし、油が浮けば斬れなくなる。
一部が欠けただけでもその場で切れなくなる{引っかかって過度に力が加わるから折れたりする}
証拠としては現存している名刀の圧倒的多数が損傷によって短く詰められている。
日本刀関係の書物を見れば細かく出てるので図書館なりで一度見てみるといいよ。
はじまった・・・
785 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 23:21:10
でも、ノムは人口が三分の一に減ったと言っているよ。
786 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 00:04:55
>>785 韓国の教科書ではそうなってるからね。
実際、人口が激減したのは事実のようだし。
問題は明兵と朝鮮兵からの被害を一切語らずに全部日本兵のせいとしていること。
>>783がいうのではないが、方法も科学的根拠も無いんだから。
つか、科学的に検証すればありえないっての韓国の研究家自体知ってることだしねw
787 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:49:05
刀じゃないが、俺は大工で刃物を扱うんだが刃物ってのは脆いよ。
簡単に欠けるし下手すりゃ折れる。
斬れる=もろい
丈夫=切れない だよ。
両方兼ねるために鋼に鉄を巻きつけるのが日本の刃物。10人とか斬るの無理だと思うけど。
腹を割いて放置で10人・・・・・なら可能かも。
もういいって
790 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 22:56:05
足利の十三代目の剣術が達者な将軍が名刀を次々と替え刺客との防戦に努めた。
一振りで何百人も斬れれば次々と名刀を替える必要無し。科学調査しなくても
文化包丁である程度でかい魚を捌けば感覚で分からないかい。
>>791 ここにいるみなさんはお魚を自分でさばけません
or
魚が嫌い
or
魚を食べられるほど裕福じゃ(ry
のどれかかと。
魚がいない
794 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 19:23:11
そうだね!プロテインだね!
おいおいもう頭悪そうな
雑魚キャラしか残ってないのかよ
泣けるぜ
796 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 00:55:29
伊達軍と上杉軍も朝鮮征伐に参加したよね?
797 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 01:18:10
朝鮮出兵に参加した武将と各軍団の参加兵力を一覧にしているWebページはありますか?
もしくは、それらについて詳しい本や資料はありますか?
798 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 09:59:39
数年前は小さな書店でも見られたが寒流ブームのせいで削除されたな。
俺の地方での話しだけど
道が悪く大軍の移動に不向きな朝鮮がどうやって太閤軍に一ヶ月足らずで首都を落されたのか。
要衝で防備を固めれば(例え10日で作る急造でも)そこで太閤軍を足止めさせる事が出来そう
なのに。
800 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 16:13:51
>799
他の板で言ってた人がいたけど、現地人が太閤軍に協力してたってよ。
802 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 18:27:28
>>800 アフガン戦争のときの北部同盟みたいな反政権勢力がいたんかねぇ
803 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:44:38
プサンでもソウルでも守将や国王が逃走しているからね。
進行は割りとスムーズだったんではないかな?
明も、あまりにも日本の進軍速度が速いから朝鮮が日本と通じて
道案内をしているのではと疑ったほどだったらしい。
804 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 08:36:10
>壬辰倭乱
>(文禄・慶長の役)などの戦乱や植民地支配の中で事実上略奪されたものも少なくない。
こういう、先入観にとらわれたものの書き方をするのがニュースのダメなところ
調べる前に結論ありき
文禄・慶長の無残の負け方、応永の外寇での無残を通り越した不思議な負け方。
李氏朝鮮はなぜここまで弱かったのか。
807 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:45:03
李氏朝鮮が弱かったっていうか、当時の日本が強すぎたんやないか?
戦乱期をくぐり抜けてきた勇者達が、秀吉の命令の下、一致団結して攻め込んだんだから
明との連合とはいえ、日本を撤退させてだけも大金星だろ
後、秀吉の死に感謝だろうなw
なにせ欧州を凌ぐ鉄砲の保有率だったからなー。
それに対応するように具足も機動性重視に改良されていたしさ
809 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 00:13:29
秀吉が死ななきゃ勝ってたわけだし
対馬単独に負ける朝鮮が相手だから史実の太閤軍の快進撃(明軍が来るまで)は妥当か。
811 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 09:31:33
内治がばらばら。
812 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 15:02:55
西国大名は大ダメージを受けたの?
関ケ原での影響で小西が鈍かったとか聞くけどソースあるのかな?
813 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 18:31:57
小西とかどうなんだろうね
814 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 13:26:35
そういえば出征組は関ケ原で不活発かもしれない。
朝鮮人は李舜臣と義兵の活躍をいっても
明軍とか李如松への感謝は言わないね。
援軍にも苦労したのかな
816 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 03:10:08
今のチョンはシナ人を見下してるらしいからなw
過去どんだけ世話になってんだよw
支配されてただけだろ
818 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 08:39:19
昔の朝鮮人は支那の奴隷にされて喜んでいたし、
日本みたいな独立国に対しては支那の奴隷である事を自慢していたくらいなんだよ。
819 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 12:39:42
まあ、大軍導入できても兵站を維持できる海軍がなければそれまでなんだがな
>>809 秀吉死んでも負けてたよ
在命中の時すら、南半分で許してやるかと妥協しまくりの秀吉の和睦条件すら
明には一蹴されている。
820 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 13:01:19
>>819 >まあ、大軍導入できても兵站を維持できる海軍がなければそれまでなんだがな
朝鮮の方ですか?????
沿岸には物資が余りまくっていましたがなにか?
問題は陸路の輸送が確立できなかった事ですが、海軍が何か関係あるのですか?
>明には一蹴されている
倭王として認めてやると言われて秀吉激怒で再び明大敗だったんですがね。
821 :
百姓→土建屋:2006/05/19(金) 14:59:53
いくら天下人とはいえ、自分の欲望だけで理不尽な戦をしかけるわ
配下の女房に手は出すわ、許しがたい所業の卑しい血の猿ですかないな
武士の風上にも置けないゆえ人々の間で猿と語り継でいったのであろう。
822 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 15:53:48
その奥方は忍び刀で反撃したらしいが失敗、でもってプチ切れた猿は
所領没収のうえ流刑、とこれまた容赦のない仕打ちを下した、人間じゃない。
人の女房に手を出す最悪猿、しかも猿の命により出兵中で留守中の出来事だ
それを許さなかった奥方は女の鑑であり
天下人になっても猿は猿のままだったということだ。
823 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 21:37:41
一蹴?
日の丸は、朝廷に貢献した大名などに下賜して有り難がらせて
またバカをやらすことに使われたもので、
いわば天皇家の象徴。
その朝廷は日本を征服支配した朝鮮人が作ったもの。
つまり、日の丸は、朝鮮人による日本支配の象徴なのである。
おいおいもう頭悪そうな
雑魚キャラしか残ってないのかよ
泣けるぜ
826 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 01:28:38
ツマンネ
827 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 01:58:15
824 :日本@名無史さん :2006/05/19(金) 21:52:58
日の丸は、朝廷に貢献した大名などに下賜して有り難がらせて
またバカをやらすことに使われたもので、
いわば天皇家の象徴。
その朝廷は日本を征服支配した朝鮮人が作ったもの。
つまり、日の丸は、朝鮮人による日本支配の象徴なのである。
795 :日本@名無史さん :2006/05/12(金) 19:31:36
おいおいもう頭悪そうな
雑魚キャラしか残ってないのかよ
泣けるぜ
なんかさぁ脳無し自演コピペ房が必死杉てギガワロスwww
828 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 03:03:33
>>820 >問題は陸路の輸送が確立できなかった事ですが
その問題の何十万の飯の兵站はどうするの?沿岸に余りまくりでも内地まで運べなければ意味ないのだけど
結局駄目じゃん‥
>倭王として認めてやると言われて秀吉激怒で再び明大敗だったんですがね。
慶長の役は、戦闘で明が負けた部分があっても、戦略的には戦場にとどまっていた明軍の勝利では
一ミリも領地を削られていない明が負けたとはこれ論理の矛盾
ついでに819が朝鮮人なら明軍を持ち上げたりしないよ
829 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 09:13:21
>>828 意図的に論点をズラしてないか?
>その問題の何十万の飯の兵站はどうするの?沿岸に余りまくりでも内地まで運べなければ意味ないのだけど
>まあ、大軍導入できても兵站を維持できる海軍がなければそれまでなんだがな
海軍がさも倒されまくっていて補給できないように書かれていたからそう書いたまで。
>慶長の役は、戦闘で明が負けた部分があっても、戦略的には戦場にとどまっていた明軍の勝利では
>一ミリも領地を削られていない明が負けたとはこれ論理の矛盾
ゲーム脳で語るなよ。最後にはだろ?やれやれ
>ついでに819が朝鮮人なら明軍を持ち上げたりしないよ
つーかお前だろw
おいおいもう頭悪そうな
雑魚キャラしか残ってないのかよ
泣けるぜ
831 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 12:12:47
ツマンネ
嫌韓厨と在日・サヨがいなくなれば、ここでも語れるが、実際は両者に邪魔されまともに出来ない罠
833 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 18:56:34
海路の可能性があっても海路つかわんだろ。
834 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 19:18:17
文禄慶長の勝利条件
明 日本に領土を与えない
日本 明の領土を少しでも切り取る
結果は領土防衛に成功した明の勝ちだ。
837 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 20:28:34
正確には領土ではなく奴隷国家の保護に成功した!だよ
838 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 20:51:06
元親も出征か
>>837 半島って中原国家に統治を任された世襲代官(李氏)が、治める中原の一地方だろ。
中原の一地方?中華の勢力圏における辺境の一つだ!!!
ベトナムやタイと同じ!!!
842 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 00:01:20
対馬は石高は1万石もなかったのに、何で朝鮮にとられなかったんだろう?
また、秀吉の時代の対馬の人口はどれ位いるんだろう。
>>843 朝鮮は対馬を約17000の大軍で攻めて何故か失敗している。
宗氏の兵力いくつだろう。
対馬は属領と考えてたから>朝鮮
宗氏の表高は三万石では?
幕末の実高は七万石以上、当時はその半分だとしても、
三万石ってのは妥当な数字。
漁業や貿易などが盛んだし、経済的にはけっこう豊かかも。
旧来の一万石250人って数字なら、千人たらずかな。
最近では、この倍はいけるって説があるし、郷土防衛戦なら、
その三倍くらいいくかもしれん。
けど、どんなにがんばっても数千クラスだよねえ。
>>828 >慶長の役は、戦闘で明が負けた部分があっても、戦略的には戦場にとどまっていた明軍の勝利では
だから秀吉がいきていたら、って話なんでしょ。
戦略的にとどまれた、というより日本が引いたのは秀吉が死んだからなんだし。
846 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 01:13:23
清正の武威は秀吉の権勢秀吉の権勢は朝廷の威光
元来、朝鮮は日本の属国で有るにも関わらず我が国が乱れるのを見て使者を送らなくなった無礼者。
殲滅されても文句を言える立場では無い。
こういうつまんねーカスがちっとも笑えない釣りの真似事するから
この手のスレは機能しない
848 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 02:00:24
宗氏の表高は確か2万石で、熊本の一部を持っていたから対馬だけの
石高はわずかじゃないの、日本はよく対馬を維持したと思うよ、だって
九州からの距離よは朝鮮からの距離より3倍近く離れていたんだから。
無理。言語も風習も違う土地を長期占領できるシステムを当時の日本は持ってない
風土病で死んだ将兵なんかの数から見ても長引けば長引くほど損害が残るだけ
まして明とはそもそも人口国力が違う
優位な条件だった鉄砲も、より口径の大きな銃を明軍が揃えるにつれてどんどん無意味化していったし
対馬兵数千(大目に見て)vs朝鮮軍約一万七千
朝鮮軍はどうやって短期間で負けたのか。
考えられる普通の負け方
1.戦争の長期化で兵士に厭戦気分が蔓延
2.風土病、ゲリラに悩まされ士気が更に低下
3.国家の財政負担も無視出来なくなり撤兵
これは長期戦の場合だし。
秀吉が生きていた場合
明vs日本
国力の差からじりじり明が日本を押して行く、明も日本ばかりいつまでも構って
居れないから朝献を条件に朝鮮の割譲で手を打つだろう。明は中原を狙う諸民族
ともやり合わなければいけないから。
851 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 16:18:58
さらに兵力投入すべきだったんだよ
852 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 16:32:07
對馬は米はほとんど無禄。
朝鮮からの米で暮らしていた。
幕府もそれを見て見ぬ振りしていた。
853 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 23:02:16
日本は良くぞ対馬を守り抜いたよな、韓国は悔しくてしょうがないだろうな。
日本が守った・・・対馬が朝鮮の魔手を逃れていたのは独力じゃないのか。
対馬は侵略する方の朝鮮が弱かったから守りぬけた。
やっぱりここではまともに話せないな・・・はぁ
856 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 06:44:44
守りきったんじゃなくて散々に打ちのめされて朝鮮国内でも反乱起きて収拾付かなくなり
以後引き篭もりになっただけなんだが・・・・
韓国なんかだと対馬軍4万が攻めてきた事になってるけど
当時の対馬の島民って何人?
858 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:30:26
1552年に宗氏が検地を行ったところ、石高は8千石強
米が全く取れない「無高」というのは特別な地理を幕府が考慮したものと思われる
ちなみに対馬藩は九州にも領土を与えられ、10万石格の扱いを受けた。これも対朝鮮外交、貿易の窓口を担ったからだろう
朝鮮が対馬を侵略した応永の外寇の口実は倭寇討伐だが
実際には応永年間以前にはさほど活発な活動は確認されず
『瀛環志略(清の史書)』・『東史綱目(朝鮮の史書)』ではこの時の侵略こそが倭寇活発化の原因(つまり報復的要素)としている
860 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 22:25:21
天皇陛下に選ばれた優越種たる大和民族と劣等種の朝鮮人とは根本的に能力が違う。
勝って当たり前
861 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 23:21:25
日本の人口増加の平均値で計算すると、当時の日本の人口1,250万人
現在の日本の人口12,700万人で10倍になったので対馬の人口のピーク
は60,000万人ぐらいなので、当時の人口は6,000人位じゃない。
>>861 もう少し多い。
日本の人口も石高から1800万くらいと思われる。
対馬は朝鮮に渡海した時の宗軍が1千人だから1万くらいだと思う。
863 :
〜:2006/06/04(日) 00:18:48
朝鮮になると、日本軍は鉄砲隊をかなり多くしたみたいだよ
864 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 02:01:32
865 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 02:03:33
>>862 朝鮮出兵のときは熊本にも領地を持ってたんじゃないかな?
866 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 09:30:38
>>861 当時の日本の人口については詳しく知らないが、参考までに当時の朝鮮の人口は500万人程度だね。
その後200年で100万人しか増えていないのはアレだが
867 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 18:51:18
文禄を見れば
侵攻軍と予備軍を合わせれば30万はいくよな。
すいません。
>>801以外に、詳しい朝鮮役のHPって無いですか?
あの出兵は、現代に認められない
野蛮な中世的ロマンて感じですが、
国内の合戦よりも妙に生々しかったり、
秀吉が国内で発揮できなかった国力の全てを出しきった戦いであったり、
単純に関ヶ原の2倍の戦力で行われ、
また、関ヶ原の因縁や、明の滅亡の遠因にもなった、
などというところに、奥深いものを感じるのですが、
興味があっても、なかなか実態が掴めず、
どうしたら調べられるのか分かりません。
どなたか初心者にも分かりやすいHPや書籍をご存知の方、
よろしくお願いします。
869 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 19:17:19
宗氏が引きられた兵なんて、1,000人ぐらいだろうし、新羅や高麗の
軍隊も退けたのは、日本のバックアップがあったんだろう。
>>868 うちの近所ならいろいろ本を貸して、討論も出来るのだが…
宗氏は5000の兵力で渡海
872 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:37:43
873 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:56:23
874 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 18:38:49
この戦争の解釈は難しいというより統括が済んでないキガス
875 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 18:54:24
統括せよ
876 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 20:03:12
まとめサイトまだできない?
政治的な介入があるからだろう
東京裁判と一緒
地元贔屓が特に強く出るだろうから
双方の調査員に配慮が必要だろうけど
まさか小泉外交がこんなところにも影響するのかな?
事実だけを言えば、日本が明征服を目論み攻め込んで、朝鮮半島で明・朝鮮軍と激突。
いろいろあって、秀吉死んで撤退したい日本軍と、大軍で遠征したけど勝てない明軍が講和を結ぶ。
動機と結末に朝鮮関係なし。
それを言うとなぜか現代の韓国人が騒ぎ出すから、言わない
あの時点では明とは講和結んでないんだけどな
日本は一寸の領土も奪えず戦争継続不可能になったから、負け
明は朝鮮領を日本から守る名目を果せたから勝ち
朝鮮は日本から領土防衛に成功したから勝ち
で実質的な事で言えば
日本は莫大な浪費をして、陶磁器や朱子学者などを連れ帰ったから文化的にはプラスにはなっただけ
明は朝鮮以外にも問題を多く抱え、朝鮮への出兵でさらに国を疲弊させる結果に
朝鮮は国土は守ったが、日本との争いで国内は荒れに荒れ、明の軍勢も荒らしに荒らしたのでズタボロに
勝ち組はいません
881 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 20:39:52
>あの時点では明とは講和結んでないんだけどな
はいはい。文盲は帰れよ
じゃあ講和結んだソース提示ヨロ
「宇都宮高麗帰陣物語」「朝鮮王朝宣祖実録」の共通認識として
小西行長と劉テイの間に和議を結ぼうという動きがあったが破談に終わってる
実は和議結んでないのよね
881じゃないが
島津が伝説の戦いした後講和してなかったか?
朝鮮人だけはシカトして襲ってきたけど
虐待されていた奴婢らが反乱で焼いた宮殿・陵墓・文化施設まで日本軍のせいにされてるんだから何をいわんや、だ
だから講和したのが事実というなら講和したとする史料を提示すれば済む
ウィキペディアの文禄慶長の役なので真偽の程は知らんが明とは停戦はしてる
11月、小西行長は明・朝鮮の陸水諸将と交渉や買収で無血撤退の約束を取り付けるが
朝鮮水軍のみ包囲を続け、海路撤退を妨害した。
との事
講和したとする史料を提示に対してwikiもってくるとは思わなかった
wikiを史料として扱うのか・・・
やはり2ちゃんで朝鮮役の話をまともにするのは無理か、残念
>>888 で、あんたはそのウィキを書ける位の知識があって断言してるんかなw
wikiは根拠もなく書いたもの勝ちなのに知識いるのかね?
講和したのを事実と前提にしてるが、講和したとする史料をまともに提示できてない訳だが
wikiは史料じゃないよ
>>890 そうかい、それなら別に構わないよ。
俺がそこいたわけじゃないしムキになる理由もないからな。
もし詳しいならウィキ間違ってるところ書き直しておいてくれよ。
書いたもの勝ちのイタチごっこのwikiに興味ないし見ない
それより史料提示に対して、知らなければ知らない、
わからなければわからないでいいから
あれば知ってる人がレスするから
wikiなんかレスする必要はないよ
>>892 2chで論争してるよりもウィキ書いたやつの方がレベル高いと思うけど。
それよりアンタは否定するだけで自分の知識を述べないが本当に知ってんの?
なら真実はどうだったんだ。
俺は読み物レベルの知識だから資料なんて知らん。
講和してようがしてまいがどっちでもいいから持論を述べてくれ。
レベル高い低いはどーでもいい、否定する以前に肯定するものがないと言ってるんだけどね
肯定するものがない以上、講和してないと書いてる訳だし
つか講和してようがしてまいがどっちでもいいなら教えなくてもいいね
>>894 肯定するものが無いから無かったと断言していいのか?
資料が残ってないだけかもしれないじゃん。
真実ならどっちでもいいというだけで知りたくないわけではない。
悪魔の証明やれとは言わないが詳しいなら自分の意見も言いなよ。
で、撤退時のやりとりと両軍の動きはどうだったんだ?
>>895 肯定するものがない=否定でいいよ、史料は残ってるのに記述がない方がおかしいから
自分の意見も言ったし、興味ない人間に説明するほど酔狂でもないしね
つか、なんでムキになってんの?講和したかなんてどーでもいいんでしょ?
897 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 00:57:58
↑コイツ眠くね?
自分から食いついといて何言ってやがんだ
知ったかしてんじゃねーよ
興味ねーなら2ちゃんなんかにいねーで糞してろや博識君よ
のらりくらりかわしやがって。
相手した俺が馬鹿だった。
あらファビョッた
講和したとする史料を提示
↓
ウィキペディアの文禄慶長の役なので真偽の程は知らんが明とは停戦はしてる
あんたはそのウィキを書ける位の知識があって断言してるんかなw
俺がそこいたわけじゃないしムキになる理由もないからな。
講和してようがしてまいがどっちでもいいから
↓
897 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/06/08(木) 00:57:58
↑コイツ眠くね?
自分から食いついといて何言ってやがんだ
知ったかしてんじゃねーよ
興味ねーなら2ちゃんなんかにいねーで糞してろや博識君よ
カルシウムとって寝たほうがいいぞ
馬鹿をのらりくらりかわして相手にしなくて良かったと実感
こいつ性格わりーw
902 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 03:52:56
明史には講和したとあるよ
李如松はこの件で講和してよかったんか、と突き上げ喰らったけど結果は功績と認定された(その後戦死するけど…)
あれだ、朝鮮戦争で国連軍と北朝鮮が停戦しても韓国は停戦に応じてない、という奴じゃないのかね?
で。韓国軍の一部が暴発して撤収する相手襲ったら逆撃喰らったと
もし日本に余力があったら第三次攻撃のいい口実だったな
悪いことは言わん。
文禄と慶長を勘違いするようならツッコまれておわるぞ。
904 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 13:27:45
慶長の役の講和なら、明の劉エン(李如松の後任)・陳リンらと結んだそれのことを言ってるんじゃないの
出先同士の交渉であって国家間の取り決めではないはず(しかも陸側はともかく水軍の陳リンは李舜臣と一緒に約束破って攻撃しかけてるし)
>>902は文禄の役の講和のことでしょ?李如松が突き上げ喰らったのはそうだし。
慶長の役の時はモンゴルで戦って慶長の役が終わる前に戦死してるから。
〜しょ?
908 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 09:29:15
停戦してるっしょ。
陸では実際に攻城を止めて包囲も解いている。
城と兵糧と財宝と引き替えにな。
してるしてると根拠もなく言われてもねぇ
してないしてないと根拠も無くいわれてもねぇ
悪魔の証明しろってか?朝鮮人みたいだなー
馬鹿と朝鮮人が相手だと、まともに会話も出来ないなー
>>911 おたくえらいこだわってるね。
停戦云々の話が出てくる理由は大体のサイトで触れられてる事。
歴史群像などの歴史書籍などでも触れられてる事。
たいがいの小説の中でも停戦して撤退する展開になってる事。
その辺だろう。つまり事実に関係なく一般論になってるって事。
強いて言えば一般論になってる時点で「異説」を唱える側にも
証拠はともかく実際の状況はこうだったと言う考察は求められる罠。
大した出来事じゃないしなんかのテレビ番組じゃないんだからもういいだろ。
>停戦云々の話が出てくる理由は大体のサイトで触れられてる事。
>歴史群像などの歴史書籍などでも触れられてる事。
>たいがいの小説の中でも停戦して撤退する展開になってる事。
あぁごめんごめん
史料にないのはもちろん、研究論文にも和議結んだとはしていないからね
歴史群像や小説ねぇw
ここは史板だからサイト(笑)や歴史群像(笑)や小説(笑)を基準にしてるとは思わなかったw
レベルの違いを思い知らされたよ
いやー久しぶりに笑わせてもらった、ありがとう
ひとりで笑ってなよ。
そんなに高レベルな見識を求めてるなら2chなんかに張り付いてないで
趣味人なんか相手にしないで学者や教授と討論でもすれば?
ってか君もただの暇人なのバレバレだし。
小説は論外だが、歴史群像は参考にするぞw
順天の包囲は解いてない
包囲を解いていたら露梁海戦はない
バカが開き直ったw
順天撤退の経緯知りたければ、最低でも征韓録と宇都宮高麗帰陣物語は必須
朝鮮の史料では朝鮮王朝宣祖実録は必須
他に乱中日記と壬辰録あるが信憑性は疑問符がつく
特に乱中日記は本当に李舜臣の書いたものなのか?
ま、大した事ないと思うなら最初から知ったかしちゃいかんなw
>>915 よっぽど自分に自信がある方みたいなんで参考にならないそうです。
小説の話なら三戦に行った方がいいよ
他人を馬鹿にしないならともかく、こんな所で知識ひけらかして
いい気になってる時点で厨と気づけ。
そんな知識なんにもならねーからw
馬鹿一匹とまともに会話出来そうなのが一人ってところかな
小説とか言いだす馬鹿が消えれば話出来そうだな
いや、間違って開き直るバカはちょっと勉強した方がいいと思うぞ
文体が似ているから自作自演とか言われそうだw
それで明と和議した根拠あるのかね?
馬鹿はどーせ荒らすしか能がないから話に参加出来ないだろうが
926 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 22:12:04
ここで停戦説を補強する出典を提示すると話がまとまってつまらないよな?
さっさと提示しろよタコ
今ントコ
・停戦して順天包囲解いて露梁海戦
・停戦して順天包囲解かずに露梁海戦
の二人か
上が馬鹿で下が会話出来そうな人みたいだから
下のと話か
停戦説を補強?停戦説なんてないけど?
補強しようにも停戦したとする根拠ないしw
いや、
>>917がないから会話出来るか疑問だ…
本を出すのが面倒だから「豊臣秀吉の朝鮮侵略」を見てるが
>>917からの引用がほとんどだな
>>930 自分もその本持ってるよ
ただ北島のオサーンはサヨ入ってるから思想的な解釈除かないとエラい勘違いするよね
ていうか本でも和議は成立はしてない内容でしょ?
順天包囲も確か島津などの迎撃の為、包囲解く内容になってないかい?
この人が偏ってるのは知ってるよw
孫引き部分を読んでるのよ
島津の順天救援軍迎撃の為に兵船を移してるな
行長は明将に賄賂を送ったり、人質を取ってはいるが、停戦交渉は成立してないね
孫引きじゃねぇやw
引用部だな
しかし続群書類従とか普通に家に持ってそうだなw
俺も一時買おうかと思ったが、図書館にあったから止めた
普通に図書館でコピーしてPCに打ち込んだり、スキャンで取り込んだりして
DVDに焼いて史料収集してるよ
あんなのまともに買えないよ、高すぎるし絶版も多いから
いや、値段より置き場に困るのよねw
それこそ壬辰録と乱中日記で劉廷と陳隣の買収と後退が一致するじゃん。
陳は裏切って、李と共に攻撃してきたが。
で?
長文書いてみ
その「裏切った」って事はどういう事よ
南海城と引き替えの予定。
…で?
w
端城引き渡し交渉は失敗してるが…
しかも乱中日記にはこの交渉の件はないはずたが?
まぁ朝鮮側には交渉権がなかったから、李舜臣が知らないのは当たり前だけど
壬辰録にも交渉の条件の詳細あるのかね?
自分で調べたら?
探してないから聞いてるのだがね
結局、和議した根拠提示も出来ずにいるぐらいだから、
また小説ネタかな?
948 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 00:32:05
おいおいもう頭悪そうな
雑魚キャラしか残ってないのかよ
泣けるぜ
手元にあるものや、自分で調べた事だけ書け
和議成立の話なら俺は否定している
誰が小説だタコw
和議の交渉までは当然否定しない
和議交渉あったのは否定しない、あくまで和議成立の是非だから
ただ壬辰録や乱中日記にはないという事
…予定って何w
陳「順天の二の丸よこせ」
小西「順天は劉に全部渡す。南海を渡そう」
陳「二の丸よこさないと通さん」
じゃあ小西は援軍が敵水軍をひきつけてる間に強行撤退って事だね。
島津に大敗した教訓などで明側も無理な追撃はしなかったと。
陸上の西路軍率いた劉エンは戦闘意欲がなく(シセンやウルサンで明軍が負けて、
賄賂も貰い無理する必要ない為)、海上の陳隣率いる水軍は李舜臣の戦死など、
返り討ちにあい、追えなかった
明としては日本の朝鮮から追い出すのが目的なので無理はせず、
朝鮮としては一矢報いたいが戦力がない
そんなところかな
960 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 22:50:45
どっちも言葉遊びが過ぎるぜ。
無知過ぎると話にならない
えー朝鮮の役を簡単に済ますと、
日本=武田信玄、朝鮮=徳川家康、明=織田信長。
合ってる?
964 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 09:48:17
家康は対武田の正面を担当したんだから朝鮮とは違うよな
ハングルに行けば仲間がたくさんいていいんじゃないか?
くだらなすぎる
次スレは戦国板だな、嫌韓厨やサヨウヨともに放置しやすいから
日本史板にはいらねーかもな
あっちは趣味カテだろ
こっちは厨多いから、ID出る板だとまともな議論も出来る
まともな議論と言っても小説が出てくるレベルだからなぁ
ゴミみたいな教えて君とかよ
972 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 05:59:35
973 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 10:49:02
朝鮮や島津の誇大妄想癖は論ずるに及ばない
975 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 13:54:59
変だろ
その当時の世界最高水準にあった最精兵を破った李舜臣提督の活躍は神懸かっておるわいな。
たった20隻の亀甲舟で200余隻の鉄甲船を轟沈させ、水戦の名将小早川隆景を討ち取り、戦鬼島津義弘に敗退を余儀なくさせる。
李舜臣こそ正に義の神将。朝鮮の至宝にして、世界三大提督の一人。
乙支文徳(ウルチ・ムンドク)
隋の煬帝の超大軍113万(!)を壊滅させた。
世界陸戦史上でも破格の戦果とされる。
李舜臣(イ・スンシン)
倭乱(秀吉の朝鮮出兵)に際し、島津義弘・黒田如水・加藤清正を退け、小早川隆景を討ち取る。
名将東郷平八郎をして「私は李舜臣提督に遠く及ばない」と云わしめた。
朝鮮の至宝にして、世界三大提督の一人。
金通精(キム・トンジョン)
最後の三別抄将軍。
フビライの侵略に抵抗した義の漢。
朝鮮は義に篤い人物を数多く輩出している。
世宗大王(セジョンデワン)
ハングルを創制した名君。
王仁(ワン・イン)
未開の蛮地日本に文字をもたらした百済一の学者。
日本の文明の黎明は朝鮮から始まった。
公開土王(クァンゲトワン)
碑文に刻まれた偉大なる功績。
朝鮮の英傑に興味深々の貴方には、
「韓国偉人伝」
梁東準・太田哲二・全順子 著
発行所 株式会社 明石書店
はいかがだろうか。
日本語なので、朝鮮に憬れる日本人にお薦めだ。
倭乱(秀吉の朝鮮侵略)
○李舜臣 VS ●加藤清正(梅毒)
独島を不法占有した「虎殺し」清正。
しかし捲土重来、李舜臣の反攻の前に吹けば飛ぶように遁げる。
爾来、独島は韓国固有の領土である。
○李舜臣 VS ●蒲生氏郷(不戦勝)
利休七哲「風流の利発人」、銀の鯰兜の勇将、レオ・氏郷は、己の器量では到底朝鮮に抗し難いことを悟っていた。
氏郷が秀吉を評して曰く「猿め、死に所を失うて気が狂うたか」。
○李舜臣 VS ●小早川隆景(死亡)
優れた水将であり、徳人でもあった小早川隆景。
秀吉に敬愛され、絶人の謀将毛利元就の血を継ぐ漢も、しかし水神李舜臣の前に敗死する。
○李舜臣 VS ●徳川家康(不戦勝)
後の天下人家康もまた、朝鮮の実力を高く評価していた。
渾身の謀才正信が朝鮮渡海について家康に糺したところ、家康は寵臣に向かって珍しく不機嫌に吐いた。
「馬鹿め。儂が朝鮮に行ったら、箱根をば誰が守るぞ。」
遂に家康は渡海しなかった。
天下を取った後、家康は朝鮮からの使者を最高の格式の礼で以って敬ったと謂う。
○李舜臣 VS ●島津義弘(晩年は認知症)
闘争心に溢れ、蛮勇を誇る、日本最強の狂戦士、薩摩兵。
局所戦術では非常な器才を有する石曼子義弘。
しかし戦鬼義弘も、李舜臣の前には敗退を余儀なくされる。
義弘を過褒する「島津奔る」(池宮彰一郎)ですら、「李舜臣の輝かしい勝利である」と認めている。
○李舜臣 VS ●豊臣秀吉(世界人類史上最凶の蛮行)
総論である。李舜臣は戦国オールスター軍とも云えよう綺羅星の如き日本の一流の武将たちに対して堂々の勝利を挙げる。
失意の内に枯死する秀吉。
そして、豊臣悪府は斃れ、歴史からその姿を永久に消した。
李舜臣は朝鮮だけではなく、明、日本をも救ったのだ。
世界人類海戦史上空前絶後の戦績を挙げた李舜臣提督。
嗚呼、世界三大提督の筆頭よ。おお、人類の至宝よ。
おいおいもう頭悪そうな
雑魚キャラしか残ってないのかよ
泣けるぜ
この位のレベルが居心地のいいバカしかいないって事だろう
日本史板には不要
983 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 01:03:47
>>979 >天下を取った後、家康は朝鮮からの使者を最高の格式の礼で以って敬ったと謂う・・・
日本では、大名(各藩主)の行列が道を通るとき、
一般庶民は道の両側で土下座していなければならなかった。
顔を上げたら不敬だから死刑罪。そして江戸城の正門から登城する。
しかし半島からやって来た朝鮮通信使の時は、
一般庶民は建物の2階から見下ろすことが許され一種の見世物になり、
しかも江戸城の正門ではなく、裏門から必ず登城しなければならなかった!
嘘を捏造しないでください。(笑)
ここへも信玄が沸いてきたか…