908 :
名無し三等兵:2006/08/29(火) 07:29:47 ID:vQNOXJ/A
初耳なんだが日本軍に海路侵攻作戦なんかあったの?
>>907 前期倭寇は日本人が多く活動圏は半島南部がメイン。
文禄慶長の役における日本船の行動圏も、乃而浦(熊川)・富山浦(釜山)・塩浦(蔚山)の三浦
も含めて、ほとんど釜山周辺で、古代倭軍や前期倭寇、朝鮮貿易の行動圏と殆ど変わらない。
当時の水軍は今でいう海軍+海兵隊で、上陸して攻略戦も行う。
対島津戦に於ける平佐城の戦いや、対北条戦に於ける安良里砦・田子砦攻略、下田城攻略など、
伊豆半島制圧は水軍の海路侵攻によるもの。
文禄の役初期の日本水軍も、閉山島海戦より前は、海路から陸地を侵攻して占領地を西方に拡大するために進出して
いたのであって、そこを李舜臣に襲われて阻止されていた。
小田原の役水軍編成
九鬼嘉隆 1500
加藤嘉明 600
脇坂安治 1300
菅 達長 230
来島通総兄弟 500
長宗我部元親 2500
羽柴秀長の兵 1500
宇喜多の兵 1000
毛利の兵 5000
計 14130
日本の戦史 小牧・九州・小田原の役
>>909 >前期倭寇は日本人が多く
このへん、最近では疑義が出されているみたいだけどね。
前期倭寇は大規模な騎馬隊を組織して内陸部に侵攻したり、
長期にわたって政府軍と交戦したりしているので、
外国人海賊の襲撃というよりは内乱に近かったようだ。
>伊豆半島制圧は水軍の海路侵攻によるもの。
どうかな?
下田城攻撃なんて陸路で箱根を突破して小田原を包囲した後だし、
下田城陥落後も韮山城はなかなか落ちず、秀吉軍は苦戦している。
>>908 中世以前の日本で考えると、
大規模な水軍を組織して水陸並進作戦を実行したのは
源平合戦の源氏軍と湊川合戦の足利軍くらいかな?
どちらにしろ瀬戸内海に限定されてしまうのだが。
>>909 >閉山島海戦より前は、海路から陸地を侵攻して占領地を西方に拡大するために進出して
>いたのであって、そこを李舜臣に襲われて阻止されていた
李舜臣の軍事行動については西進する日本軍を阻止していたというより、
巨済島周辺で泊地襲撃を繰り返していたというのが実態ではないかなあ?
閑山島海戦の脇坂安治などもソウル南郊に布陣していたのを呼びもどされた部隊だし、
それ以前に沿岸地帯で本格的な西進作戦が行われていたとはとても思えない。
>>911 >下田城攻撃なんて陸路で箱根を突破して小田原を包囲した後だし、
小田原城包囲開始は4月6日から。
下田城攻撃開始は3月25日から(開城は4月23日)。脇坂・九鬼・長宗我部ら、水軍衆のみによる攻撃。
伊豆西岸の安良里砦・田子砦攻略は4月1日。本多重次・向井正綱ら徳川家康配下の水軍のみによるもの。
いずれも小田原包囲より前で、水軍衆が海を渡って攻略した。
この水軍衆による伊豆半島攻略により、水軍衆が海上からも小田原城を包囲できた。
そして包囲軍に海上からの補給を円滑に行うことが可能となった。
>下田城陥落後も韮山城はなかなか落ちず、秀吉軍は苦戦している。
韮山城は伊豆半島といっても付け根付近で、地上軍の進行ルートの近くにあるので地上軍が担当しただけ。
>>913 >巨済島周辺で泊地襲撃を繰り返していたというのが実態ではないかなあ?
なぜ日本水軍が泊地にいたか? それは水軍が海上からそれらの地域を占領するため。
「壬辰状草」の玉浦海戦の記述では、日本の水軍は上陸して地上を掃討中で、沖に朝鮮水軍が現れて、慌てて乗船して戦ったぐらい。
泗川海戦も泗川・昆陽地域に海上から侵攻上陸した日本水軍に、李舜臣が海上から反撃したもの。
>閑山島海戦の脇坂安治などもソウル南郊に布陣していたのを呼びもどされた部隊だし、
だから、閑山島海戦より前と
>>909と書いた。閑山島海戦の脇坂安治の時点では李舜臣の朝鮮水軍撃滅が目的。
もしも日本水軍が朝鮮水軍に勝利していたなら、どんどん西に占領域を広げていっただろう。
小早川隆景や安国寺恵ケイの地上からの全羅道方面の攻略と呼応して、最終的には漢城付近まで沿岸を制圧したかったのではないか。
勿論結果は敗北したので、以後防戦姿勢に転じるが・・・
915 :
名無し三等兵:2006/08/30(水) 07:11:38 ID:8qXhZb+C
× 海軍+海兵隊
○ 輸送船+海兵隊
○ 輸送船+陸兵
李舜臣遭遇以前は日本の水軍と言われるが基本的に海上移動をする陸兵。
接舷戦闘はするかもしれないが、基本的に投射兵器による焼き討ちはそれほど準備されていない。
国内戦でも近代海軍のように敵艦隊を撃沈するような水軍運用はしていない。
水軍を海軍のような物と誤解するのはどうかと思う。
916 :
名無し三等兵:2006/08/30(水) 15:07:08 ID:WwaHxfg8
船手、水軍、海軍とミスリードされるものが後を絶たないのはなぜ?
水軍と海軍を別物のように扱うのはどうかと思う。
古代ローマ海軍や中世ヨーロッパの海軍は海軍でないことになってしまう。
19世紀に入ったトラファルガーの海戦でも意外と砲撃で撃沈したのは少なくて
接舷切り込みで決着がつく場合が多いんだな。
>>915 >李舜臣遭遇以前は日本の水軍と言われるが基本的に海上移動をする陸兵。
李舜臣遭遇以前と遭遇以後の日本水軍の違いについて詳しく聞かせて。
>>914 下田城の本格的な攻撃は毛利水軍によるもので4月17日から。
この日付けで毛利輝元が下田城攻略を命ぜられたことを報じる文書が残っている。
また、韮山城は北条氏の伊豆支配の中心であり、
一門の重鎮・北条氏規が4000人近い兵力で籠城しており、
下田城その他とは比較にならないほど重要視されていた。
>なぜ日本水軍が泊地にいたか? それは水軍が海上からそれらの地域を占領するため
本当にそうかな?
閑山島海戦後、李舜臣が襲撃した泊地のほとんどで日本軍による築城が行われている。
となると、
李舜臣が活動開始する時点では巨済島や泗川などは朝鮮軍が確保しており、
それらの地域を占領するために出てきた日本水軍と李舜臣が戦い、
そして、李舜臣は「連戦連勝」したにもかかわらず、
いつのまにか日本軍に占領されて築城を許したということになる。
まあ、逆転の発想で「実は李舜臣は連戦連敗だった」とするなら、
その解釈もアリだとは思うけどね。
>小早川隆景や安国寺恵ケイの地上からの全羅道方面の攻略と呼応して、最終的には漢城付近まで沿岸を制圧したかったのではないか
泗川海戦のことなんだろうけど、呼応したと言えるのかな?
小早川や安国寺は全羅道を北から攻めていた。いくらなんでも離れすぎ。
泗川海戦の日本水軍は規模が小さすぎるし、率いていた武将も不明。
とてもそんな重大な任務が付与されていたとは思えないな。
921 :
名無し三等兵:2006/08/30(水) 22:45:19 ID:8qXhZb+C
晋州や開寧を陸軍で抜かないと釜山から西進して全羅道を征服できない。
水軍だけでは無理、つまり陸軍次第。
>>920 >下田城の本格的な攻撃は毛利水軍によるもので4月17日から。
>この日付けで毛利輝元が下田城攻略を命ぜられたことを報じる文書が残っている。
それは初耳だな。
が、どっちにせよ、水軍のみによる攻撃である事には変わりないし、
毛利水軍が加わる前から下田城攻撃が行われていた事にも変わりはない。
>また、韮山城は北条氏の伊豆支配の中心であり、
>一門の重鎮・北条氏規が4000人近い兵力で籠城しており、
>下田城その他とは比較にならないほど重要視されていた。
問題はそういうことじゃないだろ。伊豆付近の海上交通路確保のための重要性が問題なんだ。
韮山城は内陸の城で、海上交通路とは無関係な位置にある。
しかも豊臣方地上軍が付城を築いて厳重に包囲封鎖したため実質的に無害化していた。
海上交通路確保のために重要なのは良好な泊地であって、その中でも最も重要なのが下田城。
江戸時代、幕府は箱根を陸上の関門としたが、
下田も、大阪落城後の1617年から船番所を設けて海の関門の
役割を果たしたぐらいの海上交通路の最重要拠点。
豊臣方水軍が下田城や他の伊豆半島の泊地を確保し、北条勢力を一掃したおかげで
水軍衆が海上からの小田原城包囲に加わることができたし、
包囲軍への海上補給を円滑に行えるようになった。
>>920 >本当にそうかな?
>閑山島海戦後、李舜臣が襲撃した泊地のほとんどで日本軍による築城が行われている。
>となると、
>李舜臣が活動開始する時点では巨済島や泗川などは朝鮮軍が確保しており、
>それらの地域を占領するために出てきた日本水軍と李舜臣が戦い、
>そして、李舜臣は「連戦連勝」したにもかかわらず、
>いつのまにか日本軍に占領されて築城を許したということになる。
泗川城は慶長期に築かれた城だ
文禄期に築かれた倭城の位置をよく調べてから書いてくれよ。
全て釜山周辺で、最も西側の城でも巨済島の北岸にあるだけだ。
ht tp://www.castle7.org/wajou.htm
海上からの侵攻に失敗して、釜山周辺に封じ込められたといえる。
ただし釜山周辺の防御策は成功して対馬から釜山への海上交通路の確保は成功した。
で、逆に聞きたいが
そもそも日本水軍が沿岸の要地を占領しに行ったのではないと主張するならば一体何しに行ったんだ?
何で上陸してたんだ?
>>920 >泗川海戦のことなんだろうけど、呼応したと言えるのかな?
>小早川や安国寺は全羅道を北から攻めていた。いくらなんでも離れすぎ。
>泗川海戦の日本水軍は規模が小さすぎるし、率いていた武将も不明。
>とてもそんな重大な任務が付与されていたとは思えないな。
泗川海戦だけでなく文禄の役初期の日本水軍の西方進出の動き全体が
やがては全羅道方面への進出のための動きと述べている。
次に、安国寺軍は元々南方の宣寧付近から全羅道進撃を目指していた。
但し後で郭再祐の妨害に遭い進路を変更したが。
つまり、北からの小早川軍、南方陸上の安国寺軍、沿岸ルートの水軍、
全羅道攻略を目指した三方向からの外線包囲作戦と言える。
外線作戦では部隊同士が離れているのは普通のこと。
三方向から包囲の輪を縮めて行けば、やがて合流して手を握ることになる。
結果は不成功に終わったが・・・
>>921 すまんが地図で探しても開寧の位置が判らん。
晋州は水軍の泗川・安国寺の宣寧のすぐ近くだな。
>>923に補足
巨済島付近で李舜臣が日本水軍を破ったのに
巨済島には日本が城を築いてるではないかと思うかもしれない。
これは日本の拠点釜山と、李舜臣の拠点麗水との距離を比較すれば
明らかに釜山から近く、麗水からは遠い。
果たして、至近距離の釜山から進出する日本軍を、遠い麗水から出撃する
李舜臣が常に補足して攻撃する事か可能であろうか?
無理だと思う。記録に残るこの海域での戦闘で李舜臣が撃破する日本軍は
巨済島進出を目指した日本軍の全てではないだろうし、無事に進出する事も可能
だったのだろう。
ただし釜山から遠く、麗水から近い海域となるとそうはいかない。
李舜臣に補足される確立が高くなり、進出は困難になる。
その結果が
>>923の地図に於ける文禄期の城の分布域ではないか。
>>922 >毛利水軍が加わる前から下田城攻撃が行われていた
残されている史料から判断する限り、本格的攻撃も陥落も小田原包囲の後。
>豊臣方水軍が下田城や他の伊豆半島の泊地を確保し、北条勢力を一掃したおかげで
水軍衆が海上からの小田原城包囲に加わることができたし
船手衆が小田原包囲に加わったのは4月2日。
>>923 >泗川城は慶長期に築かれた城だ
やはり泗川海戦を重視しているのね。
日本軍の指揮官が誰だかもわからないのに、過大評価ではないかと思うが、
>そもそも日本水軍が沿岸の要地を占領しに行ったのではないと主張するならば一体何しに行ったんだ?
だって「泊地」だからさ、付近を哨戒して休んでいただけかもしれんし、
釜山−対馬ルートから流されてしまって、順風を待っていただけかもしれない。
当時の航海技術を考えれば、いくらでもあり得る話だと思うが。
>安国寺軍は元々南方の宣寧付近から全羅道進撃を目指していた
安国寺と郭再祐の交戦は文禄元年4月23日とされているが、
この時点ではまだソウルも攻略されていないので、
慶尚道における掃討作戦と考える方が妥当ではないか。
また、同年8月には錦山付近で朝鮮軍と交戦したとされているが、
これは小早川隆景の北方転進後なので、
小早川・安国寺・水軍の三方同時進撃というのは当たらないと思う。
928 :
名無し三等兵:2006/08/31(木) 20:54:58 ID:aHQMpoR/
少し見当違いだな
>>927 >やはり泗川海戦を重視しているのね。
文章全体をよく読め!
>だって「泊地」だからさ、付近を哨戒して休んでいただけかもしれんし、
>釜山−対馬ルートから流されてしまって、順風を待っていただけかもしれない。
>当時の航海技術を考えれば、いくらでもあり得る話だと思うが。
あり得ない、あり得ない。
つか、ワロタw ギャグか?
>安国寺と郭再祐の交戦は文禄元年4月23日
郭再祐の初戦闘は5月4日だが?
安国寺と戦った鼎津(鼎岩津)の戦いはもっと後。
>>929 >文章全体をよく読め!
>あり得ない、あり得ない。
>つか、ワロタw ギャグか?
冷静になってくれ。
今は「李舜臣は日本軍の水陸並進作戦を挫折させたか否か」を議論している。
水軍による西進作戦があったとするなら、それなりの武将にそれなりの兵力を与えて
任務に従事させていたはずだが、それが確認できない。
例えば船手衆の脇坂・九鬼・加藤(嘉)は上陸しており、6月までソウル近郊に駐屯していた。
どうみても釜山−ソウル間は陸路しか考えていなかったとしか思えない。
>郭再祐の初戦闘は5月4日だが?
>安国寺と戦った鼎津(鼎岩津)の戦いはもっと後
手元の資料(別冊歴史読本・豊臣秀吉合戦総覧)が間違っているのかな?
調べてみると、4月28日に「諸将及び商人の船を肥前名護屋に回送せよという
秀吉の命令を伝えるために安国寺恵瓊・寺沢広高が派遣された」とあるから、
恵瓊の任務はあくまでも上使であり、全羅道進撃を指揮していたという記述は間違いのようだ。
まあどちらにしても、時期的に見て「三方向からの外線包囲作戦」はありえないのだが。
秀吉の命令の内容も名護屋への船の集中であり、水軍による西進作戦とはベクトルが逆。
むしろこの命令の影響で釜山海域が手薄になったから李舜臣が出てきたようにも思える。
お里が知れた
932 :
名無し三等兵:2006/09/02(土) 13:18:41 ID:d63Zip0l
文禄の役の日本軍は10月の晋州城攻撃まで西進作戦など無いぞ。
安国寺恵瓊の小さな部隊は錦山の小早川隆景の本体へ合流するため
南寄りにショートカットしようとしたもので攻勢作戦ではない。
釜山から先の海上輸送を一切無視して唐入りを計画していた秀吉は凄い
935 :
名無し三等兵:2006/09/02(土) 15:40:09 ID:h5PGQXvf
本気になれば一度に総勢30万を送ることも可能だったんでしょうか?
>935
俺はこのスレでは新参だけど無理じゃない?
確かに石田三成っていう補給の天才はいたけど
一気に30万がきついものがあるでしょ
937 :
名無し三等兵:2006/09/02(土) 16:03:41 ID:h5PGQXvf
何回かに分ければ可能かもしれない。
実際、16万人は無血上陸出来たみたいだから。
釜山から海上輸送可能にするよりも川路陸路で輸送した方がコストパフォーマンスが高い。
晋州城ってどこにあったっけ?
唐入りはあくまで陸路である
海路は一切使わない
基本的に著者のはっきりしている本以外は参考にしない
朝鮮征伐は学者からして政治的偏向で論文書く奴がトップにいるからな。
ここの書き込みも議論している双方に穴が見えるけど
本も適当に書いてる事が多かったり、本の信用度もいろいろあるのよね
何冊も読んで確認しないと断定は難しい
どの本が確かなのか、どんな説があるのか知るのも面白い
945 :
名無し三等兵:2006/09/02(土) 17:10:44 ID:h5PGQXvf
実際は40万の部隊を用意してたみたいだけど
よく調べていても、基本的な学がないとトンデモになりやすい
947 :
名無し三等兵:2006/09/02(土) 18:42:15 ID:2kjj6uoF
トンデモ?
949 :
名無し三等兵:2006/09/02(土) 21:28:12 ID:XR7NfudF
950GET!
954 :
名無し三等兵:2006/09/03(日) 05:59:06 ID:1a1v2tWd
日本の水軍の有効な武器って何なんだろう?
接舷切り込みで多用された武器とか。
955 :
名無し三等兵:2006/09/03(日) 07:33:44 ID:MVr67ICO
>>946李舜臣が日本の水陸並進作戦を妨害したなんて言う俗説が今でも通説となっているぐらいで、実に嘆かわしいことです。
>>951明側の認識はそれですな。
956 :
名無し三等兵:2006/09/03(日) 09:26:33 ID:Hrmc4nc7
>>955 >
>>951明側の認識はそれですな
それを具体的に論証せよ。
まあできないだろうがwww
海戦
前略
是月(文禄元年四月)我水軍ノ将九鬼嘉隆、加藤嘉明、藤堂高虎等ハ各〃警固船ヲ率ヰテ
鎮海湾、巨済島、加徳島及蔚山湾等ヲ捜索シ敢テ抵抗ヲ受ケスシテ敵艦七十余隻ヲ拿捕シ
慶尚沿岸ノ掃蕩ヲ畢リ釜山、熊川及洛東江口等ヲ以テ其根拠地ト為シ敢テ西進ヲ謀ラス
専ラ釜山対馬間ノ警備ニ任シタリ
故ヲ以テ脇坂安治ノ如キハ水軍ノ将タル可キ命令ヲ受ケシニモ拘ラス
上陸シテ龍仁ヲ守備シタリキ
参謀本部編日本戦史朝鮮役