弥生畿内勢力が堕落と分裂にまみれた先進地域北九州を粉砕し、 倭王権を樹立した苦難の歴史と歩みを騙ろう。 *ローカルルール (あくまでも荒らし対策です、ご理解下さい。) 1)自説発表及び反論は、出来ればコテハン&トリップが望ましい。 2)邪馬台国論争(特に比定地論争)は専用スレにて語る事。 3)荒らしはスルー!迷い込んだ邪馬台国論争者は専用スレに誘導する事。 4)まず自説を述べてから議論に参加する事。その際にはコテハンを使用 してください。 5)小林行雄、近藤義郎など偉大な先輩達の成果をふまえつつ、自説 を述べること。 5)北條信者など反主流は、傍流であることをしっかり自覚し、野郎 自体な思いこみ改めること。
2 :
日本@名無史さん :05/03/07 12:45:47
2 げっと
3 :
日本@名無史さん :05/03/07 14:31:53
出雲、畿内勢力に推されて北九州の女王をヒミコからトヨに変えたが良いが トヨが新羅の天日矛と手を組んで畿内勢力に嫌煙されたので追い出したら 南下したトヨ勢力は運良く祟って東征成功 伊勢には豊と天照(元は天日矛のはず、サルタヒコも)が祭られてますね 浦島太郎の物語から読み取るに天日矛は倭人出身の 新羅王ダッカイの子孫なのかも
4 :
日本@名無史さん :05/03/07 20:47:17
荒れれれレー ここは『庄内〜布留』の次スレだよな おかしいなぁ 『日本史板』から『考古学板』に、引越したはずなのに どうなってんだ 間違ったか? 今ならまだ間に合うぞ 急いで『考古学板』へ GO
5 :
日本@名無史さん :05/03/07 22:32:04
結局のところ、外部主導説論者は「畿内以外の国」が王都マキムクを建設した というだけで、具体的な根拠や仮説を提示し得なかった。 なぜ倭国大乱が起きて、なぜ女王共立による倭国連合が生まれたのか。 なぜ王都として大和盆地南東部のマキムクの地が選定されたのか。 なぜ記紀に北部九州のことが殆ど語られていないのか。 北部九州の強盛。畿内初期古墳がそれまでの畿内在地勢力の墓制とまったく 違うこと。そういった指摘は分かったから、もう少し古墳時代初期の倭国を 東遷史観で素描してもらえれば。
6 :
日本@名無史さん :05/03/07 22:44:22
「王権の誕生」は、かなり幅広い時代を扱ったむものですが、ここでは、邪馬台国関連の時代について、紹介します。 1:二世紀の段階では、包括的(畿内、九州を含む)王権は誕生していない。 2:三世紀初頭、纏向遺跡が誕生する。これこそいわゆる大和政権(寺沢説の用語では、「新生倭国」)の成立によって建設された、王都である。 3:纏向政権(新生倭国、普通にいう、大和政権。面倒なので、纏向政権で統一)は、九州から、瀬戸内、畿内にいたる諸勢力が共同で樹立した、「対等連合政権」(この語を寺沢は使用していない。私が寺沢説を理解するために使用する語である。妥当なものと思う)である。 寺沢説の特徴は、纏向政権を、それまでの唐古・鍵遺跡とは断絶した(発展ではなく)「対等連合政権」であるとるところに、特色がある。つまり、大和勢力が、他地域を屈服させた、とう従来の立場に真っ向から対立するのである。 また、纏向政権成立の段階に、北九州(つまりは伊都国)が参画しているとするのにも、注意したい。
7 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:04:39
さらに、寺沢は、諸地方勢力が、纏向に出先機関を置いていたとする。 4:さて、大陸との関係である。 寺沢によれば、三世紀初期においては、大陸系文物(公孫氏系)の量は、北九州が畿内を凌駕する。「対等連合政権」とするのも、そのためだろう。北九州伊都国の隆盛は、三世紀前半を通してつづく。 5:卑弥呼は、むろん、纏向政権の女王である。「倭韓郡に属す」で公孫氏に属した倭は卑弥呼であり、公孫政権滅亡とともに、卑弥呼は魏に属することになる。 「卑弥呼の鏡」は、画文帯を中心としたもの。△鏡は、三世紀後半以降の倭鏡とのこと。
8 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:05:03
6:ここで、問題なのは、伊都国が、寺沢説では、「畿内と対等」になって しまうことである。三世紀初期において、伊都国が纏向政権の勢力圏にあり、 しかも大陸文物の優位を誇るとなれば、このような解釈とならざるをえない のだろう。纏向政権初期においては、伊都国が大陸通交のメイ ンとなっていたということになってしまうのだから。しかし、 「世々王有り、皆な女王國に統屬す」の記述上、大いに問題である。 しかも、「大率」というのは、 伊都国が纏向政権の一員として管掌した役職だというのだ。 7:その後の纏向政権について。 対等連合政権の諸勢力首長は、畿内に常駐し、やがては畿内豪族と なった(!)巨大古墳の密度が畿内で高いのは、実に、彼らが本国 ではなく、畿内に古墳を建設したためだという。 つまり、伊都国が三世紀後半衰退するのは、伊都国王が、本拠地を 畿内に移したためらしい。他の地域でも、同様だとのこと。
9 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:05:55
楯築ってよく吉備の代表例として採り上げられるけど、あのタイプって後にあまり続かないんですよね。 吉備で円丘+突出部が主流になるのは大和に特殊器台が出だしだす宮山や矢藤治山以降になるのでは? 弧文については元々大和にあるし、近藤義郎あたりは弧帯石と弧文円板の弧文は別のものと言ってたのでは。 庄内式や纒向の外来系土器を考えると全く関係ないとは思わないけど、吉備と大和の直接的な関係は遅れそうな気がするんだけどね。
10 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:06:47
>ドイツを統一したプロイセン、オーストリアは、北方辺境拍、東方辺境伯だった。 >辺境での闘争に鍛えられた辺境が中央を制することはいわば歴史の法則とも言えよう。 前段の行は歴史的事実だが、中世国家段階であり、国家形成段階に適用できる例とは思えない。 下段の行も、「歴史の法則」とするが、文明度の高い中心的な国家勢力が領土を広げていくということも「歴史の法則」だ。 いろいろな事例のある歴史から自説に都合のよい例を引っ張って来てもそれは論証にならない。 ちなみに、例えば明は最初、南京に都を置いていたが、永楽帝がモンゴルとの対抗上、北京に遷都した。 アフガンのゴール朝は北インドに侵入し、征服したが、武将アイバクはデリーに独自に王朝を建て(奴隷王朝)、逆にゴール朝を乗っ取った。 アレキサンダー大王の死後、ヘレニズム諸王朝が建設されたが、そのうちもっとも有力なセレウコス朝シリアはシリアのアンティオキアに首都をおいたが、ペルシアまでの東方に広い領土の統治のために、メソポタミアに第2の首都セレウキアを築いた。 はじめヘカトンピルスに都を置いたパルティア王国は、ローマとの戦いによりメソポタミアを奪取すると、そこに新領土の統治のために首都クテシフォンを築いた。 もと地中海東岸に根拠を持ち、地中海貿易で繁栄したフェニキア人は、地中海各地に植民市を築いたが、特にフェニキア最大の都市ティルスは植民市カルタゴを築いた。このカルタゴは母市ティルスを凌ぐ勢力となり、地中海に覇権を築き帝国化した。 以上のように、「東遷説」のような状況を説明する世界史上の類似例を引き出すことができなくはない。 状況が違うだろ、と批判が来るのは承知だし当然だろうが、そうした批判は畿内=スパルタ説や畿内=ローマ説と同じ。 つまり、安易に歴史上の類似例(アナロジー)を持ち出して、不明確な歴史の復元の論拠とはできない(都合のいいアナロジーはいくらでもありうる)、ことを言いたかったまでなので、その点はよく自戒されたい。
11 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:08:00
弥生後期の政治ブロックについて、以下が提唱されました。 T、Uの政治的・経済的優位性が提案されていますが、 ご議論をお願いします。 T 伊都国を中心とした九州西部四国地域 U 4隅を共有する山陰地域 V 特殊器台を共有する吉備地域 W 阿讃地域
12 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:09:23
まず、北九州地域が ・政治的には青銅器威信財、祭器などを共有する地域であり、 ・経済的に見てもこの地域内において、鉄、石斧、石包丁といった 生産財が流通する ことは考古学的に確認されています(下條等)。 また、伊都国・奴国地域を中心に威信財が配布され、この地域を 中心にピラミッド型の階層が形成されていたのではないかとの 推測がなされています(原田、寺澤等)。 さらに、文献の立場からは、伊都国王が中国王朝から倭国王に 任命されていることは広域の支配の傍証とはなるでしょう。 もちろん、私は、 T 伊都国を中心とした九州西部四国地域 U 4隅を共有する山陰地域 V 特殊器台を共有する吉備地域 W 阿讃地域 のU〜W地域において、そのような政治的・経済的ブロックが 形成されていたことを否定するつもりは毛頭ありません。 しかし、T地域がこれらより少なくとも考古学的に見れば政治的 ・経済的ブロック形成が強く確認されていることは確かなことと 言ってよいのではないかと思います。
13 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:13:32
2世紀頃の倭国は青銅器をレガリアとした小国家群、巫覡(フゲキ)を 中心とした精霊祭祀の段階。 北部九州には海外交易を通じて富裕化した祭祀王が数名いた。 中国の冊封を受けた伊都王が「倭国王」として対外的に倭国の代表 として君臨したのが倭国大乱以前の倭国の様相。 倭国大乱とは、2世紀末の後漢の政治的混乱により伊都王による政治体制 がグラつき、出雲の離反が契機となったものであろう。 出雲はいち早く青銅器祭祀から決別し、古墳=首長霊祭祀を創始。 出雲は吉備、越、丹波を巻き込んだ日本海諸国連合を築き、伊都王に 対する叛意を鮮明にした。
14 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:16:31
15 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:27:59
応神=久那国東遷説はあの日本の歴史シリーズ1巻で文献史家の 井上先生が唱えていた由緒ある説だね。近年、このような優れた 説を馬鹿にする考古学者が多いのはどういうことなんだろう。 藤村の捏造を見抜けないボンクラ考古学者達が井上先生を馬鹿に する権利があるのか自問すべきだろう。
16 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:29:15
関東や東海の畿内5式は、畿内勢力の関東・東海征服の証拠じゃないの。 畿内が弱いというのは先入観にすぎないと思う。
17 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:30:05
>>911 鉄が無いのに認めるとは、、終わったな。
弥生までの王権、証明してみろやw
>>910 ,
>>905 あなたの言うことも一理あるが、
>>771 のような軍制であったと証明されたいる訳では無い。
また、年齢階梯組織的な、貴族階級の戦士団ということもありうる。
まあ、いろんな場合を想定して考えてみようってこった。
>>906 畿内だけ鉄が溶けたって?その論理の矛盾と事実との相違は何度も指摘されてるが。ネタだよな?w
>>903 労働力のみを提供した、か。
まあ15世紀以降のアフリカ諸王国の奴隷貿易みたいなもんだな。
その場合、どっちが勢力が上かははっきりしているわけだが(ヨーロッパ諸国=畿内)。
>>901 土器様式の移動・伝播が征服の証拠としかみれないというのは程度の低い議論だな。他の可能性も考えてからレポートを提出するように。
>>900 ネタということが理解できましたw
18 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:30:39
接近戦における衝撃武器の質の違いは非常に戦争上も大きいのが事実。
また弓矢でも、鏃の重量が同じ場合、金属器の方が破壊力があるのも事実。
もし
>>899 のような戯れ言が事実なら、金属器は普及しなかったはずだが。古代オリエントでのヒッタイトやアッシリアの強さは鉄器での武装の普及にあると言われている。
>>894 とかまだ言ってるのかよ?w
>>895 の言う通りだ。
19 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:32:22
>>898 支離滅裂って>669は結構マトモなこと言ってるが?
考古学資料に即しているが。何かおかしいなら、具体的に指摘してやれよ。
>>882 とかもそうだが、あなたも認める都出比呂志の論理を認めるなら、古墳初頭には畿内中心の初期国家段階だろ?
その少し前に地域ブロックで萌芽的な初期国家単位があってもいいと思うが。
中心的な集落の規模や質から、北部九州はその可能性は十分あると思う。
北部九州の大集落は、後期には「外郭」はなくなっているが。須玖岡本とか全体の城郭は無いぞ。
20 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:35:06
>>14 これですね。
倭国大乱の後、諸豪族の大同団結によって初期ヤマト政権は生まれた訳で、
中央集権の専制君主や、海洋商業国家で傭兵主体のカルタゴとかを比べる
のはどうかと思うがなあ。
有事には、豪族たちが自分の支配領域の農民たちに武器を配って徴兵した、
というような兵制では、遠隔地への遷都というのは説得力がない。
畿内に王権が生まれたとするなら、それは畿内在地勢力によるもの。
それ以前に北部九州に王権が生まれていたのなら、北部九州勢力によるもの
だろう。安易にイコールで結ぶのはどうか、と思うよ。
21 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:36:08
>>10 あなたの博識には感服しましたが、「軍制」という視点が決定的に
欠けています。
当時の大王軍は、在地性の強い豪族の混成軍(葛城、紀、丸邇ら)で、
そのような状況下、本拠地を北部九州→畿内内陸部を想定することは難しい
のでは、と思います。
畿内遺跡に大規模な戦争の跡でも見つかれば、前言を撤回しますが。
22 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:41:18
前線司令長官で日向に赴任していた応神が、対熊襲戦で兵馬を練り、 葛城や吉備の協力・承認のもとで、畿内に攻め上り、大王位を簒奪した。 それが4世紀末のこと。 対高句麗戦遂行のため、中央集権、強大なリーダーシップが求められた ため。 「祭祀王を共立する」というそれまでの邪馬台体制では国家間競争に 対応出来なかったのだろう。
23 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:43:06
まあ、各地の豪族たちが郎党を率いてマキムクに上り、大王に直接仕えていた というのはあり得るとは思いますが。マキムクにおける各地の搬入土器が証左 であり、「土器=人の流れ」なわけで、北部九州は畿内宮廷に直接参加は してはいなかったと思います。 遠方だったというのが一番の理由であろうが、必然的に畿内王権における 序列では下位に甘んじていたと。実力は別として。 北部九州は徐々に畿内王権に既得権益を奪われ、衰退していきます。 戦争による制圧ではないから、緩やかな変化だったのでしょう。
24 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:44:20
>>273 墳丘規模、壮大さ、埋葬施設における王権儀礼からは楯築
副葬品による王権儀礼は平原
いずれかだけでは古墳はできない。
ある立場からみれば、墳丘の小さい平原はチャチなことになる(私はそう思わないが)
両者の混合、止揚がなければならない。
さらに、他に鉄器の多量副葬は丹後、前方後円形の確立は阿波・讃岐・播磨、石室(石槨)は吉備・讃岐・播磨、木棺は平原や丹後、葺石は讃岐・阿波の積石や出雲の四隅墓の貼石からのように多くの地方の要素がある。
平原も銅鏡祭祀や副葬品の反復儀礼等では重要な源流だが、それだけでは前方後円墳祭祀の成立はない。
25 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:45:35
>>895 >
>>781 のような否定はどうだろ?当時の軍制って本当にそうなの?
> ヒミコの周りとか常備軍がいたようにも受け取れるけど?
「守衛」と「国体保持のための軍事組織」を一緒にするない。
初期ヤマト朝廷の主力軍は諸豪族の混成軍であったが、
その後大王家の権威が高まり→伴(大伴・物部)
→名代を基盤とした舎人軍と発展していった、とみるのが一般的だが。
何か異説があるの?
26 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:45:56
1.畿内自生説 弥生時代の畿内勢力が倭王権の主体であり、鉄資源ルートを掌握して後漢の 衰退により後ろ盾を失った北九州を倒した。 【畿内自生説の根拠】 @畿内の方が農業に適しており、生産力が高いので北九州を打倒した (小林行雄)。 A畿内の方形周こう墓は、九州に広がったから畿内の方が強い(佐原真) B銅鐸圏は、北九州文化圏よりデカイから畿内の方が強かったに 違いない(近藤義郎)。 C個人への富の集中を妨げる協力な規制こそが北九州を打倒する原動力 となった。威信財の乏しさこそ畿内の強みなのだ。あたかもスパルタ のように(都出ヒロシ)。 D大安万呂に匹敵する「天才的イデオローグ」が中国思想と日本各地の 墓制を統合し、倭王権を誕生せしめた。 E倭王権が畿内に生じたという考古学的事実を無視すべきでない (白石太一郎?) 安易な権力移動の想定は英雄史観にすぎない。島国であり関東以 西についてはほぼ文化的に均一であった日本において大和朝廷の 誕生に権力移動を持ち出す必要は全くない。 F(東海地域の役割を重視する立場から)ホケノ山や外山茶臼山の 前方部に並べられていた加飾壺(二重口縁、長胴型、底部穿孔の 特徴を持つ形式)は愛知県尾西市の西上免遺跡内の前方後方墳跡 から出土したものと同形式であることが確認されています。 初期古墳の破鏡は、伊勢湾岸等などに見られ、東海の影響である。
27 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:46:30
(畿内自生説への反論) @銅鐸祭祀に代表される弥生畿内文化と鏡、玉、剣の古墳文化に何 のつながりなし(大六、森浩、方丈その他) 古墳文化に引き継がれているのはほとんど何もなし。 A鉄器の質量とも西日本最低で、サヌカイトで闘ったら負けるだけ なので鉄器ルートの奪取はありえない(川越哲志、村上恭通) B大集落以上の統一的な権力や流通の存在が考古学的に証明できない。 銅鐸祭祀の中心は近江。 C弥生時代の日本は不均衡である (北九州>・・ 越えられない壁・・>西日本日本海側> 東瀬戸> 畿内(ドンヅマリ」)) D畿内に戦士層の存在が証明できない。畿内の高地性集落は、防御的 なものであり、攻撃的な性格を持たない。 Eホケノ山の壺を東海系といっているのは赤塚氏のみ。
28 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:46:56
>個人所有の財産である「奴婢」とは別に、「国家」所有(王所有とは違う) >奴隷としての「生口」制度が仮定できます。 >そして、これらの「国有」財産である生口の捕獲及び管理の為に武力組織 >としての職能集団が必要となるでしょう。それは、かなり常備軍に近いもの >だと思います。 はあ。ではその国有の生口は、平時はどのように養っていたんだろう。 古墳の築造でもさせていたんですか? トモ制度の確立は5世紀後半くらい、と普通は考えられているけどね。 大王家の家政を職掌した畿内土着小豪族などがトモになったとされている。 なんか、初期ヤマト政権の大王の軍事力を過大評価していない? 諸豪族を完全服属させるだけの軍事力がないから、連合体制だったわけだし。
29 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:47:03
(畿内自生説に対する反論への再反論) @東遷説は皇国史観の亡霊。軍靴の足音が聞こえる(佐原真)。 A(「断絶説」に対しては)大型化した後期銅鐸は、権力による管理が行われていた はず。銅鐸の畿内王権による銅鐸の配布行為が三角縁神獣鏡 などの配布にスライド機能的に見れば文様から銅鐸から特殊台器への移 行を見いだせる (福永、寺澤)。権力が管理したら威信財だ。池上曽根遺跡のような祭殿は古墳時代に受け継がれる。 B低湿地が多い畿内では鉄器は溶ける。出土しないからといってなかった わけではない。石器の減少から鉄器の増加が証明できるはず(「見えざる鉄器」は実在した)。 C下部構造の劣位が政治的劣位を招くというのは歴史の法則に反している。野蛮だが精神力 に勝る民族が先進的であるが故に堕落した地域を征服することはよくあることだ (スパルタ、中国、南米などの征服王朝、明治維新など) Dマルクス主義のイロハを知らない寺澤のマキムク都市論や北九州国家成立論は、 国際的な考古学の常識に反するもので論外である。 E「古墳時代像を見直す」は本人達が思っているほど考古学会に対した影響を及ぼして おらず、大御所で意見を変えた者は皆無。寺澤は師匠の森浩一とともに私大出身、大六 はアマチュア電波、柳田は自治体埋文といずれも学界傍流である。北條は四国に行って 寂しかったので反主流派に転向したのだろう。 F今、倭王権の畿内自生説やマルクス主義に対して疑問を唱えるべき時ではない。それは、 イラク侵略への日本の荷担がますます深まり、極右暴力集団「新しい教科書を作る会」に よる皇国史観教科書の動きが顕在化している昨今、結果的に皇国史観を側面的に支援するだけだ。
30 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:47:32
2.九州倭国拡大説 →弥生時代に既に倭国王であった伊都国と奴国による 九州倭国が東瀬戸勢力の協力を得て、東方に拡大し 首都を移転。倭王権成立は画期ではない。 【九州倭国拡大説の根拠】 @鏡の大量埋葬、素環頭太刀、朱の塗布、割竹式木棺など 弥生時代北九州文化と古墳文化の共通性(第六、森浩その他) ホケノ山における内行花紋鏡の破鏡、棟持柱付建造物は平原類似。 A伊都国、奴国を中心とする副葬品のピラミッド型の格差に より示される権力層の階層構造や奴国地域からの鏡など青 銅器の配 布行為が倭王権のそれと同じ(大六、森浩その他)。 B平原の鳥居・大柱が、伊勢神宮、諏訪大社のそれに極似。 鳥居と大柱の延長上に日向峠(伊勢神宮の新嘗と同日に日の出) などで王権祭祀との共通性(柳田康男) C記紀などの国内文献と祖語がない。平原周辺の地名が天孫 降臨の条に見られる地名と一致(大六)。 D九州倭国は、弥生期に西部四国、西瀬戸地域などに領域を 拡大している。山陰など日本海地域や伊勢湾岸とも強い経 済関係があったことが証明されており、終末期には帝国化 していた(柳田康男)。
31 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:53:17
>一方で銅鐸の分布の中心で、銅鐸を管理してた中心勢力が古墳成立の >鈕新勢力と言ってるが。都合よく立場を変えるなって ちゃんと読んで。 銅鐸祭祀をしていた人々が自主的に銅鐸を捨てて、古墳祭祀を始めたと 書いてるんだよ。 中心─畿内の銅鐸祭祀が終了した後、周辺─近江では銅鐸祭祀が残っていた としても別におかしくはないだろ? なぜ「中心地は最後まで銅鐸祭祀に拘泥したに違いない」と思うわけ?
32 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:53:59
【九州倭国拡大説に対する反論】 @東遷説は皇国史観の亡霊。軍靴の足音が聞こえる(佐原真)。 A畿内だけでは劣位でも吉備、山陰、丹波を味方にしたので勝った(鏡大の人)。 B大型墓の衰退、副葬の減少など北九州の遺跡は終末期に衰退(鏡大の人)。 C首長霊儀式は、特殊器台の流入に見られるように吉備から受け 継がれた(近藤義郎)。円形という形、木隔、葺石などからも 楯突→石塚の流れがより重要。 Dマキムク遺跡の出土の外来土器に九州土器はなし。一番が東海、 次が吉備。逆に庄内式土器はこの時期九州に行っており九州こ そが劣位の立場(白石太一郎、石野博信等)。
33 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:55:52
>考古学的所見による畿内王権の外部勢力樹立説はそれはそれで >成立すると思うし、十分検討の対象となるものと考えます。 まあ、仰ることは分かります。 ただ、墓制の劇的な変化が、必ずしも外的要因によるとは思えないの ですが。 大化の薄葬令にしても、別に征服者による強制ではないでしょ? 池上曽根、唐古鍵にしても、確かに同時代の北部九州には見劣りする のかもしれませんが、伊都説論者に実際以上に貶められているような 印象を受けます。 畿内にもそれなりの国家は存在していただろうし、それが倭国連合の 盟主の座に座ったとしておかしくないと思うよ。
34 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:56:18
【九州倭国拡大説に対する反論に対する再反論】 @(皇国史観との声に対して)考古学には考古学で反論すべきで、 政治的議論を持ち込むべきではない。 考古学的事象は、日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本 書紀の 神代神話をさけて通ることはできない。研究者にその片鱗 があれば 邪馬台国問題だけでなく古代国家形成研究でさけて通れ ない古墳出現期 の諸問題がここまで時間をかけずにすんだはず (柳田康男)。 A日本海地域は玉器に交易などにより北九州地域との強い経済関係 が考古学的に証明されているが、畿内のそれは全く証明できない。 ましてや畿内とそれ他ブロックとの政治的関係の証明は考古学的 には不可能であるはず。
35 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:56:43
B三雲、博多湾岸において九州の遺跡の衰退は庄内期ですら全くない (九州の考古学者ほぼ全員)。同時期畿内でも墳墓は減少。 C近藤氏が吉備東遷の示唆の根拠としている特殊器台は、中山大塚以降 に出土。都月と宮山が一緒になるのは吉備でなく畿内。 葺石は、ホケノ山以降。布留期に吉備の文化が大量に流入したことを もってその前の庄内期における倭王権成立の吉備主導を導くのは本末 転倒。特殊器台は、△鏡と同様に倭王権成立とは無関係。 D高級品である庄内式土器と労働者の使う土器、恭献土器の3つの土器を同一 に議論するのはミソもクソも一緒に議論するようなもので成り立たない。 纒向の外来土器の性格は労働力移動説か供献説が主流であり、両説を採用 する場合、九州の土器がないことは逆に九州の主導性を示してる。 高級品である庄内式土器はオオヤマト地域と河内の一部、博多湾岸等だけ にしか出土せず、これは倭政権の構造を表している。 東海系土器が多いから東海が主導したということは考古学的にあり得ない。 F北九州以外の政治的ブロックは、考古学的に証明されていない。 墳墓の共通性から山陰地域で権力者の同盟が証明され、吉備地域は墳墓の 共通性が乏しく、楯突などにより推定されるのみで集落など不明。 経済的ブロックについては、九州以外証明不能。
36 :
日本@名無史さん :05/03/07 23:58:33
和製イムホテプ=畿内天才的イデオローグ説は、再検証されるべき。 畿内サヌカイト軍団の物質的劣性をイデオロギーで覆したとみるのは あながち不自然な話ではない。
37 :
日本@名無史さん :05/03/08 00:02:06
吉備東遷説はいい加減な文献屋が言い出して、旗色が苦しくなってきた 従来の畿内自生説論者が飛びついたという経緯がある。 だいたいは、対等同盟説に衣替えしての上だが。 畿内自生説の延命装置みたいなもんだね
38 :
日本@名無史さん :05/03/08 00:03:28
>>313 寺沢薫が否定したのは、
都出比呂志が「畿内が世帯共同体の自立性が低く、強い共同体的規制力があり、ピラミッド的集約としての政治的結合体を作った」としたことであり、むしろ畿内がの方が世帯共同体の自立性が高かったことを示している。
なので
>>313 は引用を少し間違っている。
また北部九州の大量副葬について、都出はその階級的卓越性に疑問を呈したのだが、寺沢はこれこそ共同体規制力を乗り越えて階級的隔絶性を示したものだと反論した。
この点は、古墳の副葬品卓越性を同じように評価する以上、やはり寺沢の理解が素直なところであろう。
いずれにしてもこれらに対する反論は無いのはそのとおり。
39 :
日本@名無史さん :05/03/08 00:05:04
伊都国単独ということはあり得ない。 T 伊都国を中心とした九州西部四国地域 U 4隅を共有する山陰地域 V 特殊器台を共有する吉備地域 W 阿讃地域 が連合して畿内を制圧して新首都を置いたということではないか と推測している。 ただし、弥生後期におけるT〜W地域の政治的経済的成熟度や 鉄器に代表される物資の興隆等を考慮すれば、このスレッドで指摘 されているようにVが主体であることは考えにくく、T・U連合 が主導したと思う。
40 :
日本@名無史さん :05/03/08 00:05:46
いや、特に奈良盆地での庄内甕の偏在性は石野、関川、青木、小池が強調しているところ。 石野氏の『邪馬台国の考古学』吉川弘文館の154頁前後参照。 河内でも奈良盆地ほど極端ではないみたいだが、中田遺跡周辺に中心があり、偏在しているのは確か。 河内周辺は季刊考古学84号の森岡氏の「弥生終末期の土器と土師器」でもとりあえず読んで確認してくれ。
41 :
日本@名無史さん :05/03/08 00:06:14
神武天皇は、畿内に侵攻する前に吉備にいたことに なってるよね。数年ということになっているけども これが実際には、吉備勢力の東遷を表すものじゃな いかと。
42 :
日本@名無史さん :05/03/08 00:21:51
>大王家の権威が強大化したのは、挙国一致で高句麗と半島で激戦を繰り広げた >4世紀末以降のことですよ。 またいい加減なことを言う。 古墳規模は、庄内から圧倒的に畿内が大きい。 庄内かもしれない唯一のまともな古墳(周壕付で50メートル以上) である那珂八幡ですら石塚、勝山より小さい。 ホケノ山の副葬も圧倒的。 こういうと仁徳陵とか応神陵とか言う奴がいるが、この時代には 地方の古墳も巨大化している。
43 :
日本@名無史さん :05/03/08 00:22:45
東瀬戸っつー言い方おかしいんじゃない。 阿波讃岐の連合体、吉備の連合体はあっても 両者は別のもんだよ。 後者は、播磨まで含む可能性はあるけどさ
44 :
日本@名無史さん :05/03/08 22:19:20
>またいい加減なことを言う。 >古墳規模は、庄内から圧倒的に畿内が大きい。 古墳の大きさばかりに目を向けては駄目だ。 4世紀末から5世紀にかけて、古墳に埋納される武器の様相は 著しく変化する。数百本の刀剣など、大量の武器が副葬されるなど。 つまり大王の役割は、4世紀末〜5世紀にかけて、「祭祀王=宗教的 権威による共同体の調停者」から、軍事的指導者へと劇的に変化した わけだ。 高句麗との消耗戦を継続する上で、中央集権への道は必然であった ためだろう。
45 :
日本@名無史さん :05/03/08 22:31:04
>三世紀初頭、纏向遺跡が誕生する。これこそいわゆる大和政権(寺沢説の用語では、「新生倭国」)の成立によって建設された、王都である。 王都というのにひっかかる。考古上で証明されているのか。 推論に推論を重ねるだけなら九州王朝説と変わらないぞ。
46 :
日本@名無史さん :05/03/08 22:37:27
>>17 マキムクは商都じゃないのか。
権力は神を祭る権利のあるものにあったのではないのか。
それが九州倭国だと思うが。
47 :
日本@名無史さん :05/03/08 22:44:44
>銅鐸祭祀をしていた人々が自主的に銅鐸を捨てて、古墳祭祀を始めたと 宗教は戦争をも引き起こす重要なもの。現在の日本人には分かりにくいのだが、世界にそんな例はない。 宗教が変わる祭祀が変わるというのはダイナミックな政変以外ありえない。
48 :
日本@名無史さん :05/03/08 22:48:50
>>41 実際には吉備の王による畿内制圧
ハクをつけるために九州倭国の出と詐称した
と考えると文献との整合性をクリアできますね。
畿内=ニューヨーク、九州=ワシントンだろ。で、ワシントン勢力が由緒までも欲しがった。 それが磐井の乱じゃねーの
50 :
日本@名無史さん :05/03/08 23:03:08
>37 そうだよな。 今やありふれた説だよね。
51 :
日本@名無史さん :05/03/08 23:08:11
>48 吉備の影響は、布留期から。 ホケノ山にはほとんど影響なし。
52 :
日本@名無史さん :05/03/08 23:13:55
文献を補強する材料としては考古学も非常に重要だが、古代史(天皇家)の歴史を探るには 神社伝承もさらに重要。ただし、改ざんされていたりするので、研究が難しい。 変な宗教家くずれや単なるウヨの著作も多い。 まともな文献史家による研究が望まれる。 あげておく
魏略と魏志に齟齬が見られるのは有名。魏略の方が著者の推測が入っているという性質がある。 畿内の王権が国際的に認められ始めたのはこのころと推測される。
54 :
日本@名無史さん :05/03/08 23:20:03
東遷や外部主導説の人間は、3世紀の畿内王権を過大視する嫌いがある。 所詮は共立された王による連合体制。倭人伝を読む限り、簡単に王の首は 挿げ替えられた。 豪族間の政権争いが100年余り続き、4世紀末、応神の頃に漸く軍事的指導者 としての強大な大王権力が立ち現れてくる。
55 :
日本@名無史さん :05/03/08 23:22:55
海部氏系図とかな
56 :
日本@名無史さん :05/03/08 23:25:43
>>47 >宗教は戦争をも引き起こす重要なもの。現在の日本人には分かりにくいのだが、
>世界にそんな例はない。
>宗教が変わる祭祀が変わるというのはダイナミックな政変以外ありえない。
出雲の青銅器大量埋葬も、君の言う「ダイナミックな政変」があったから
ですか?
果たしてどこの国が出雲に攻め込んだんだろうね。朝鮮半島からですか?
九州〜畿内までの広い範囲を統治する治安力や畿内王権に対する各地域の忠誠心とは何ぞや? それに、 何故に、地方部族が集まりひとつの巨大国家を形成しなければならないのか その目的は? ダメだよ 基本的なこと議論しなくちゃ。
58 :
日本@名無史さん :05/03/09 00:08:16
畿内勢力は丹波経由で大陸と交渉を持っていた節が見受けられます。 瀬戸内は吉備に押さえられてたのでは
60 :
日本@名無史さん :05/03/09 00:15:24
>九州〜畿内までの広い範囲を統治する治安力や畿内王権に対する各地域の忠誠心とは何ぞや?九州〜畿内までの広い範囲を統治する治安力や畿内王権に対する各地域の忠誠心とは何ぞや? 畿内が九州を統治したのはもう少し時代が下ってからとしか考えられない。
61 :
日本@名無史さん :05/03/09 00:19:28
>>59 君は四隅突出型墳丘墓を知らないみたいだねw
>>61 知ってるが何か?
祭器を埋める、破壊するという意味についてもう少し勉強されたし。
>>54 がどうして外部勢力説の否定の論拠になるのか分からない。
畿内勢力を過大視しないのは九州説も共通なんですが。。。
普通に考えて銅鐸勢力は滅ぼされたのでしょう。 祭祀法や祭器の変更が元のそれを継承する場合は、「痕跡」が残ります。 強いて言えば神社の鈴がそれに当たると見れなくもないですが。
>>57 >畿内王権に対する各地域の忠誠心とは何ぞや?
忠誠心の根拠は宗教的権威、富力、軍事力が考えられる。
畿内の場合は
×宗教的
△富力
×軍事力
旧唐書で日本伝と倭国伝が明確に区別されてるのはスルーですかね? 倭国:50余国、周囲に島 日本国:東北を大山で区切られ、その向こうは毛人、元一小国、後倭国を併呑する また日本書紀で、使節団同士が大げんかして長安の西と東に隔離されたとか。 私にも、3、4世紀の段階で畿内勢力が九州まで支配するのは無理だと思うんですが。 例えば、筑紫「国造」磐井なんて、そんな制度まだないのに勝手にそう言っただけです よね。それに継体が「荒廃この一戦にあり」だの「勝ったら長門より東を俺が、西をお前 が分け合おう」だの訳のわからんことを言ってたり。これってあの巨大古墳を作った王 家の後継者の言葉とは信じがたい。やはり磐井が相当強力な王権を有していたとしか 考えられない。
67 :
日本@名無史さん :05/03/09 00:58:46
>>62 じゃあ君は、出雲の四隅は征服者によって築かれたものだと
思っているわけ?
それなら、別に言うことはありませんね。
何処の国が出雲に攻め込んだのか教えて下さい。
>>66 >これってあの巨大古墳を作った王
家の後継者の言葉とは信じがたい。
つまり、古墳の王と継体との間に王統の断絶があるという意味ですか
継体関連なら別スレが望ましいですね。
それ以外には同意。
69 :
日本@名無史さん :05/03/09 01:02:42
>>67 悪いが日本史板に来るのは出雲国譲り神話を読んでからにしていただけないか。
それでもどこの地域が出雲を征服したか分からなければ、その時に回答しよう。
>普通に考えて銅鐸勢力は滅ぼされたのでしょう。 でしょうね。埋納されたケースと破棄されたっぽい場合との落差も明かですし。それもほとんどは 破棄されてる。 それと、地名。これだけ九州の地名が畿内や東海方面に多いのは、それまでとよほど違った系統 の言語だったか、それとも地名そのものがあまり無かったのかも知れません。 ただ、だからといって彼らが縄文人なのかどうかはわかりませんが。銅鐸自体中国の鐸の巨大化、 即ち中国青銅器文化の伝播、発展としか考えられませんから。
>>66 磐井律令は大宝律令より古いからな。単なる地方豪族とは見られない。
落ちぶれ行く本家といったところか。
72 :
日本@名無史さん :05/03/09 01:10:25
>>70 地名の複写は移民の証左。ただどちらが古いかは慎重な見極めが必要。
それに考古学上で大規模移民は否定されている。
権力者だけの移民であれほどの地名複写が成立するかどうかだわな。
73 :
日本史@名無しさん :05/03/09 01:10:36
>やはり磐井が相当強力な王権を有していたとしか考えられない。 当時の磐井の領有した範囲は、一大生産拠点、大陸・半島との窓口、更に半島利権など古代にあっては巨大な勢力を築くに足る領域である。 20年も奈良盆地に入れない程度の軍事力しかない継体にとっては、磐井は自分を上回る勢力であったのだろう。だからそんな大決戦のような 書き方になったんだと思う。畿内天皇家を上回る勢力となれば、もはやこれは王権といっていいだろう。その由来が、邪馬台国や弥生王家に連 なるものかどうかはわからないが。
74 :
日本@名無史さん :05/03/09 01:16:08
> >54がどうして外部勢力説の否定の論拠になるのか分からない。 > 畿内勢力を過大視しないのは九州説も共通なんですが。。。 「外部勢力が畿内在地勢力を打倒して、マキムク、初期古墳を築いた」 というのが、外部勢力論者の言い分。 当時、北部九州〜畿内にかけての、軍事的統一がなされていたとは 思えない、あくまで倭国連合体制であったというのが畿内自生説の立場。 畿内を軍事的に制圧しない限り、大和盆地に侵入、新王都建設するなどは 夢想に過ぎない。マキムクと唐古鍵は5キロ程しか離れておらず、 畿内在地勢力を無視した平和裡の王都建設は難しいだろう。 大規模な戦争の痕跡が見つからず、倭人伝でも女王共立が記載されて いる以上、畿内在地勢力(銅鐸勢力)が3世紀の倭王権の主体となった と考えるのが自然である。
75 :
日本@名無史さん :05/03/09 01:21:17
>>71 東洋の常識から考えて支配権の及ぶ地域の豪族に律令の運用を認めることはありえない。
少なくとも、磐井の乱以前は畿内勢力の支配が及ばなかったと考えるのが妥当。
よって畿内自生説を支持
76 :
日本@名無史さん :05/03/09 01:23:48
>>69 はあ。高天原が筑紫だと言いたいわけ? それとも朝鮮半島ですかw
で、筑紫勢力(もしくは半島勢力)が出雲に侵攻して、四隅を築造した
って言うわけね。
願わくば、もうちょっと根拠を示して欲しいナ。
考古学的根拠も勿論だけど、高天原を具体的にどこかの地域に比定する
のは、もっと慎重な態度が必要だと思います、老婆心ながら。
そうでないと電波だと言われますよ。
77 :
日本@名無史さん :05/03/09 01:26:51
荒れるのを承知で書きますが、このスレは非常に面白い。 相いれないと思い込んでいた畿内自生説と東遷説、九州王朝説の交差する先に真実が見えそうだ。
78 :
日本史@名無しさん :05/03/09 01:30:07
>>76 横レスだが、高天原=筑紫は確定じゃねえの?
祝詞にも記紀にもそう言われるんだし。
「筑紫の日向の高天原・・・」これを他のどこと思われますか?
釣りか???
>>75 それはどうかな。なんで畿内王権がその先祖に筑紫天孫族を頂くのか。
途中に王権の交代があったにせよ、やはり最終的に日本書紀でそのように明記された以上、
どこから筑紫、或いは出雲が涌いてくるのかについての証明をしなければいけないのは、自
生説でも同じだろう。
漏れには、伊勢にアマテラスを隔離したことが一つのキーワードになると思うんだが。
81 :
日本@名無史さん :05/03/09 01:35:18
>>78 古くは九州=筑紫と呼ばれていたんだよ。
日向はあくまで日向(宮崎県)。
日向三代の御陵が九州南部にあるとされていることからも、
充分に証明できると思うが。
>>76 先に
1.貴君は国譲り神話を知らないのか
2.祭器を埋める、破壊するという意味についてもう少し勉強されたし
について返答して下さい。
再度言います
悪いが日本史板に来るのは出雲国譲り神話を読んでからにしていただけないか。
それでもどこの地域が出雲を征服したか分からなければ、その時に回答しよう。
3.出雲国譲り神話は読みましたか
4.読んだけど分からなかったのですか
以上の返答がなされるまで、悪いがスルーします。
今のところ貴君と議論がかみ合うとは思えないので。
よろしくご理解お願いします。
83 :
日本史@名無しさん :05/03/09 01:39:41
>>81 筑紫に日向があるのはスルーですか?
腐るほどあるんだが。
それに宮崎には字日向など全然無くて、国名だけなのは知ってますか?
>日向三代の御陵が九州南部にあるとされていることからも、 ( ´,_ゝ`)プッ もう子供は寝る時間だよ?
85 :
日本@名無史さん :05/03/09 01:43:43
>>82 何か余裕がないなあ。
国譲神話は当然読んでます。ていうか、このスレの住人で読んでない人間は
いないっしょw
君が高天原を何処だと思っているのか知らないが、思い込みも甚だしい
とだけは言っておきます。高天原がどこかの地域に確定するなんて、
今のところあり得ない話だし。
出来るだけ誠実に答えてきたつもりだが、ここまで書いても君がまともに
自説を書いてくれないなら、スルーしてくれて結構です。
86 :
日本@名無史さん :05/03/09 01:44:33
なんか異色なのが一人いるな
>>76 高天原の場所は諸説あります
日向、筑紫、半島南部、対馬壱岐などです
あなたはどこと考えてるのかな
出雲に国譲りを迫った勢力は北九州、畿内のどちらの説もあります
なんらかの史実の反映とみるのが大勢ですよ
>なんで畿内王権がその先祖に筑紫天孫族を頂くのか。 筑紫が正統だからでしょう。入り婿かも知れませんし全くの詐称かもしれないですが、そうする必要があったのでしょう
88 :
日本@名無史さん :05/03/09 01:49:15
横レスでナンだけど 自説を書いてないのは85でしょ アンタ見苦しいからもう来なくていいよ
90 :
日本@名無史さん :05/03/09 01:59:58
>>86 銅鐸族は滅んだ。よって祭器も変更された。
それは国譲神話に反映される。
こう考えると九州が畿内・出雲を勢力下に収めた、となるんでしょうが考古学成果と一致しないんですよ。
>>87 ??
お宅畿内自生説じゃなかったの?
まあ常識的に考えれば、東遷なんてあんまりリアリティーないよね。
ある血筋の人物が移動したとか、宝物が動いたとかそんなことならあり得るけど、
生産基盤も根こそぎ放棄して、或いは移動して、なんて時代が遡るほど困難。
>>86 高天原は葛城地方だと考えています。
ていうか、出雲の国譲りを青銅祭器大量遺棄と安易に関連付けるのは
どうかなあ、と。
四隅はやはり出雲勢力が自主的に築造したと思っています。
前1世紀頃、中国山間部で発生した四隅が外部勢力の征服によると
するなら、一体何処の勢力の侵攻なのか聞いてみたいものですね。
出雲では3世紀前〜中期の時期だけに高地性集落が出現し、近畿の土器 が出土せず。近畿の土器が入ってくると同時に高地性集落が消滅。 同時期に北九州や近畿で出雲の土器が出土されるようになる。 私はこの頃に「出雲の国譲り」があったと考えています。 おそらく、吉備勢力と結託した畿内王権の侵攻があったのでしょう。 記紀では崇神の頃とされていますね。
94 :
日本@名無史さん :05/03/09 02:06:15
宮崎はクナでしょ。クナ国の応神が近畿を征服したのですよ。 だから日向が天皇の故地とされてるの。 筑紫は邪馬台国じゃないかな。畿内王権とは基本的に無関係だよ。
>>92 葛城が丹後・但馬とつながりが深いのは確かだけど、高天原ってのは無理だろう。
第一神話と全く繋がらないよ。クシフル岳とか宗像とか諸々全部スルーなわけか?
97 :
日本@名無史さん :05/03/09 02:09:46
九州王朝説も畿内自生を支持してるんだよ
神話は捏造とか言い出すんじゃないだろうな。。。。(⊃д`)
>九州王朝説も畿内自生を支持してるんだよ それは古田派の主流ってだけで。それが全てではないから。
100 :
日本@名無史さん :05/03/09 02:13:37
101 :
日本@名無史さん :05/03/09 02:17:35
>>73 邪馬台国か拘那国の後継とみて間違いないでしょう
102 :
日本@名無史さん :05/03/09 02:20:55
銅鐸の痕跡が神社の鈴というのはありえるな てか、あれは絵文字なんだよな
>>92 >高天原は葛城地方だと考えています。
なぜそんな突拍子もない説を言い出すのだ。
新手のアラシなのか。
>>91 >ある血筋の人物が移動したとか、宝物が動いたとかそんなことならあり得るけど、
それは東征説と言って、かなり有力ですよ
>>93 >出雲では3世紀前〜中期の時期だけに高地性集落が出現し、近畿の土器
>が出土せず。近畿の土器が入ってくると同時に高地性集落が消滅。
>同時期に北九州や近畿で出雲の土器が出土されるようになる。
>私はこの頃に「出雲の国譲り」があったと考えています。
いくらなんでも神話の時期と合わないでしょう
国譲はもっと古いと考えるのが通説です
結局、畿内自生説って文献と一致しないことが大杉なんだ。 だからまともな古代史研究家は論じない。いるのは文献音痴の考古学者(門外漢)だけ。
107 :
日本@名無史さん :05/03/09 03:04:53
>>80 >漏れには、伊勢にアマテラスを隔離したことが一つのキーワードになると思うんだが。
詳しく
>>107 内宮と外宮の問題、祀られ方の問題、何より天皇家は実は近代までほとんど伊勢参拝を
していないということから、神と言ってもむしろたたり神のような存在じゃなかったのだろうか。
ただ、無視は出来ないから大仏建立の際に報告に行ったりはしてる。これはいわば仏教への
表看板の変更という一大事件だから、八百万の代表・アマテラスには報告しておかないと、と
いうこと。
109 :
転向検討中 :05/03/09 10:55:47
>>103 畿内説の私は漠然と畿内自生に軸足をおいて研究してきましたが、いくらなんでも高天原葛城説にはついていけません。
それが筑紫か日向かはともかく、文献には筑紫と書いてあります。
葛城に降臨したのなら、そう書けばいいし、畿内説の立場としては、東遷か九州の神話の借用ではないかと調査すべきであります。
最新の畿内説はこんな電波でないと成り立たなくなってしまっているのでしょうか。
110 :
日本@名無史さん :05/03/09 11:18:16
>>108 祟り神といえば出雲だ。出雲大社より高い建築物を建てられなかったらしいし。
伊勢はどうなんだろうか。皇租神としての扱いではないようにみえる。
物部の神と捉えると自然。第一太陽神は男神で、巫女が女性。
このあたりのすり替えは、確かに匂う。
だって伊勢はトヨの祟りのためだろ? 東征したトヨ一派の誰かが天皇家の祖先なのかも知れないが 古代の伊勢の扱いをみるかぎりただのやっかみだろ 豊、天照、サルタヒコがキーパーソンだな 記紀に封じ込められた歴史の真実が出雲大社と伊勢神宮にある まあ三世紀の話な訳だが
112 :
日本@名無史さん :05/03/09 13:22:26
>>111 トヨを伊勢に祭るということは、どういうことだろう
出雲の神は出雲において祭っている
同様に考えると、トヨを九州で祭らず元伊勢、伊勢で祭るということは東遷の傍証にはなりはしないか
ただ、トヨは現天皇家とは直接繋がらないと考えたいのだが
113 :
日本@名無史さん :05/03/09 13:27:26
金印の「那国」は 魏志倭人伝の中では邪馬台国と対立しているクナ国(クナラ)だろう。 クは、お"く" "く"ねる のクで 奥にあるもの、つまり古いとか旧という意味で クナ国(クナラ)は旧ナラという意味で 邪馬台国が新ナラということだ。 クナがなまってクマになったのだろう。 クマは熊、つまり現在の熊本のあるところあたりにクナラはあったことになる。 魏志倭人伝ではクナラは邪馬台国の南にあることになっているから 邪馬台国は現在の熊本の北あたりにあったことになる。 ここは日本の中で大陸と最も交流しやすい地域で 地域的にも邪馬台国があったところと考えるのは自然だろう。 那国(ナラ)=クナラ=熊 が天皇発祥の地だろうな。 だから、熊という字のつく場所は天皇とゆかりの深いところが多いんだと思う。 日本の神話にもあるだろう。 「クマソタケルを殺した皇子がクマソタケルから名前を譲り受けて ヤマトタケルになった」という話が。 隆盛をほこっていた大国那国(ナラ=クナラ)を倒したヤマトが 天皇制を那国(ナラ=クナラ)から受け継いだんだよ。 だから、神社などを調べると 熊という字のつく場所や人はヤマトの神と対立してることが多いのに 天皇とゆかりが深いという混乱した現象があるんだな。 ちなみに日本語の"そ"には一代前という意味がある. "そ"ふ "そ"ぼ クマソというのはクマはヤマトの一代前の国って意味なのだろう。
114 :
日本@名無史さん :05/03/09 13:28:53
金印の「那国」はナコクと読まれているが 国(コク)は漢読みなので 当然ヤマトでは違う発音がされていたと推測されるわけだけど ヤマトで国を指す言葉として使われていたのはおそらく"ら" いまでも日本語では地域や場所を指す言葉として"ら"が使われているからだ。 こち"ら" そち"ら" あち"ら" おそこ"ら" む"ら" そ"ら" どち"ら" つまり奈良ができるずっと以前から那国(ナラ)は存在していたってことになる。
test
116 :
日本@名無史さん :05/03/09 16:52:32
「ナラ」は、朝鮮語で国という意味なのは常識。
漢の「いと」国という読みは、漏れらの高校時代は教科書にも載ってたけどな。 漢→委→奴国という三段の服属は、中華帝国の成り立ちからは非常に考えにくい。 それに「な」国と言う読みも実は相当批判されているんだが。 それと、伊勢に祀られているのがトヨという説だが、私としてはやはりアマテラスだと思う。 ヒミコ、トヨはかなり時代がくだるし、記紀に無いことから畿内勢力とは枝分かれした別系統 ではないか。ただ、地形・位置的に国東半島に似ているのも事実であり、関係性はあると思う。 神功皇后との関係もそれを示している。 、、、、、、、 今でも一般人は参拝出来ないが、それは実はそういうものだからだという説がある。皇祖神 でありながらそんな扱いというのは、後に別系統が相当混入した、あるいは取って代わった ということを示している。 にもかかわらず、はれ物に触るように扱われながらも存続したのは、別系統との関係で放棄 出来なかったという事情であろう。それがステータスとして機能したということであり、本家の 顔色をうかがい、また周辺国との関係においても現実の物流や便宜供与でも金看板だという こと。
118 :
日本@名無史さん :05/03/09 20:22:14
>いくらなんでも神話の時期と合わないでしょう >国譲はもっと古いと考えるのが通説です こういう書き込みに根拠を求めるのは無粋というものか。 神話の解釈はもっと慎重であるべきで、安易に、史実が反映されているとか 言うのは慎んだ方がいいと思います。 少なくとも、記紀神話だけをクローズアップしておきながら、 人代である欠史八代を否定する態度は、どうかと思いますがね。 あと、近年の考古学の成果を全く無視しているのも気になるところ。 単にご存知ないのかもしれませんが。
120 :
日本@名無史さん :05/03/09 21:34:10
>>113-114 は、クマソタケルか?
偽物『魏志倭人伝』スレに同じ内容でカキカキしていたぞ。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/03/09 22:45:14
また貼っとくか。 || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| || ○畿内説は根拠聞かれるのが一番キライ。 || ○畿内説の矛盾を突くレスには徹底逃亡し、そのまま放置。 || ○放置された畿内説は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。 || ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。 || ○反撃は畿内説の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを || 与えないで下さい。 Λ_Λ || ○しばからく逃亡していて忘れた頃戻りましょう。 \ (゚ー゚*) キホン。 || 畿内説を保持するには逃亡が一番です。 ⊂⊂ | ||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、先生。 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,) 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
122 :
日本@名無史さん :05/03/09 23:24:27
季刊考古学の石野論文はひどいな。 読んだ奴いるか?
123 :
日本@名無史さん :05/03/09 23:25:58
>121 九州説は学界では滅亡したんだが。 しらんのか?
124 :
日本@名無史さん :05/03/09 23:26:27
>123
126 :
司会 :05/03/09 23:41:01
レベルの低い書き込みが続いていますが、無視して下さい。 引き続き北條先生、関先生書き込みお願いします。
127 :
日本@名無史さん :05/03/09 23:50:13
>83 >筑紫に日向があるのはスルーですか? >腐るほどあるんだが。 >それに宮崎には字日向など全然無くて、国名だけなのは知ってますか? ウソ付け。 証拠を出せ。
「漢委奴國王」というのは、漢から奴国の王として全てを委ねられた、という意味だろう。 漢→委→奴国という三段の服属ってなんじゃそりゃ。
>>129 歴史の本ぐらい読めるようになってからこいよ、馬鹿が
>>129-131 頭に「漢」の字がつくのは「漢匈奴単于璽」と「漢委奴國王」だけ。通常の印にはつかない。
漢に所属するという意味ならなぜ他の異民族にはつかないのか?
親魏倭王の「親魏」みたいに特別の意味があるらしい。
後漢初期はまだ「某国王」という言葉はなく「某王」という。
したがって「奴の国王」ではなく「奴国の王」。
倭の全体の王ではなく、倭の諸国の中の奴国だけの王という意味。
「委」は倭のことで問題ない。
133 :
日本@名無史さん :05/03/10 10:35:48
又余計なお節介がはいりましたね。
>>126 など
完全スルーして 議論を続けましょう。
134 :
日本@名無史さん :05/03/10 22:19:58
東遷説用の別スレッドを立ち上げました。 考古学の論点から論じたい方はそちらでお願いします。
また立てたのか! まあ、自治スレの反応からすると他の住人が 特に邪魔とは思ってないみたいだからまあいいけど・・・・
136 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:14:42
邪馬台国宇佐説も語るべき。
137 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:16:20
金印の「奴国」はナコクと読まれているが 国(コク)は漢読みなので 当然ヤマトでは違う発音がされていたと推測されるわけだけど ヤマトで国を指す言葉として使われていたのはおそらく"ら" いまでも日本語では地域や場所を指す言葉として"ら"が使われているからだ。 こち"ら" そち"ら" あち"ら" おそこ"ら" む"ら" そ"ら" どち"ら" つまり奈良ができるずっと以前から奴国(ナラ)は存在していたってことになる。 金印の「奴国」は 魏志倭人伝の中では邪馬台国と対立しているクナ国(クナラ)だろう。 クは、お"く" "く"ねる のクで 奥にあるもの、つまり古いとか旧という意味で クナ国(クナラ)は旧ナラという意味で 邪馬台国が新ナラということだ。
138 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:17:59
『伊都國検証』 私は初め関門海峡付近に(一大率)を置き、北部九州の国々とそこを通り抜けようとする船舶を監視するものだと考えた。 でも、それが間違っていたことに気が付いた。 最も効果的に一大率を使うのは、やはり直接監視出来ない自国領土に置くことがもっとも合理的である。 それは、女王国の北に有りなかなか目の届かない場所同じ倭国の『狗邪韓国の港』じゃないか そう、 そこがすなわち『伊都國』じゃないか! 伊都國は、前原じゃ無く狗邪韓国の港町
139 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:20:36
140 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:21:32
●足摺の古代文明圏 古田氏が連発する「真実、大発見」のひとつ。読売の記者を引き連れ足摺に 入った古田氏は、そこに縄文時代の巨石文明を大発見してしまった。 土佐清水市足摺岬に大きな石がたくさん転がっている場所があるのだが、 それらに人の手が加えられているとブチあげた。三つに割れた石に「天」 「海」「地」の古代人の宇宙観とゆーものを見てとり、石に銀紙を貼ると 遠くから見えるので縄文時代の灯台だった可能性があるというのだ。(「 THIS IS 読売」平成5年7月号) ということで土佐清水市の教育委員会は古田氏に調査を依頼する予算を計 上した。
141 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:43:21
学歴詐称野郎は黙れ。
142 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:46:32
我が国の歴史学者や歴史マニアの頭脳中 に、古代東アジア史・日本史に関する「バカの壁」と表現されるべき頑迷固陋 な虚構の「定説」が構築され、厳然として存在しているが故に他ならない。 すなわち、彼ら研究者は自分の好み・信奉する定説に拘泥し、自主的に情報 を遮断している。又、「定説」=「常識」で、「自分達は知っている」と思っ ている。しかし、その大前提の筈の「常識=定説」自体に根拠が無く、定説が 定説足り得ない「ずれ」を理解することができず、その結果、定説の「バカの 壁」の向こう側に真実が存在することを全く認識できないでいる。 周知の「邪馬台問題」などは、パスポートなどあり得ない古代に、現在の行 政区分である日本国家を一元論的中心として歴史を語っていて、三百年以上も この巨大な「バカの壁」の内側で不毛な論争に明け暮れている。 今、ここで改めて言うまでもなく、戦後、歴史は各自が自由な観点に立って、 自由な研究解釈がなされるようになった。このこと自体は、学問の自由という 点からすれば、極めて喜ばしい限りと言える。 その好例が、戦前と戦後の国史に関しての見解である。その見解が全く異な ってきたことは誰もが認める事実であり、霊的世界の霊的存在の如き歴史観は、 最早、誰もが見向きもしなくなった。
143 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:52:24
大和朝廷と九州王朝の両者は並行して存在してたのだよ。 そして、両者はおのおのが近似的対応があって2つの地域に 別々に、呼応するかの如くに、線路の並行のように存在していたんだよ。 例えば、崇神と帥升。神巧と卑弥呼とがおのおのがその対応なんだよ。 九州のほうは大和で云えば、文武の御世のころまで実在したのだ。 文武の世で九州のほうは滅亡に至ったのだ。だいぶ本物を教えてしまったな。
144 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:53:36
日本の古代史学会は、カルト。 未だに土器編年とか言ってるし。偉い人でも「だろう」「らしい」「思われる」「そう考えても 無理ではない」とかの連発だし。放射性同位体測定馬鹿にしてるし。上下関係きつすぎ だし。学問つうよりイデオロギーだし。学閥きつすぎだし。言ったことに責任とらねーし。 違う意見には頭がはげ上がる程批判する癖に、身内に甘いし。ウヨだし。 わかってもいないことを無理矢理に学校で教育して洗脳する手法は、かの国と同じだな。 大化改新だって用語から何から捏造なのに。聖徳太子だって伝説と本人の実像が分離 できないのに、教えるなよ。
145 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:55:20
邪馬台国:九州王朝出身の神武が、大和制圧、新王朝を立てる ↓ 崇神が、大和王朝を拡大・発展させる ↓ 大和王朝の発展に危機感を抱いた九州王朝が、朝鮮半島侵攻で功績の あった女将軍・神功に、大和王朝を攻撃させる。 神功の息子の応神が大和王朝を継いで、親・九州王朝政権となる。 ↓ 継体が大和王朝を乗っ取り、さらには九州王朝を服属させる。
146 :
日本@名無史さん :05/03/11 00:03:04
>>145 >大和王朝の発展に危機感を抱いた九州王朝が、朝鮮半島侵攻で功績の
>あった女将軍・神功に、大和王朝を攻撃させる。
そういう華々しい活躍を記紀に残さなかったのはなぜ?
まだ言ってるのか。幼稚園児みたいだな。 なんで大漢帝国が倭の中の奴国だけに印綬を授けるのか、ちゃんと説明してくれ。 よほどの事情がない限り、そんな自ら上下関係を複雑にするようなことをするわけがないんだがな。 もしそうなら途中に挿入されている倭国に大量に印綬をばらまかねばならない。そんなことはあり 得ない。間に倭を挟む必要など何もない。エリア名というなら、そんな用例を示して貰いたいもんだ ね。楚の呉国とか、韓の新羅国とか。だから「イト」国であることは自明。 それに、「な」って読むようになった由来も知って言ってるんだろうか?多分知らないんだろうね。 「な」と読む理由も必然性も無いんだよ。 どうも各所各方面で、クズの古代学者達の非科学的な当てずっぽうがしつこく残ってしまってるね。 某原田も、そういうことこそ批判するべきなんじゃないのか?
何か、馬鹿が吠えてるな・・・ 寝るとするか。
149 :
日本史@名無しさん :05/03/11 00:14:10
148 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 05/03/11 00:12:08 何か、馬鹿が吠えてるな・・・ 寝るとするか。 ↑ 一番馬鹿だな
高天原を葛城というトンデモまであらわれる始末。かなりの文献音痴が混じっている模様。
151 :
日本@名無史さん :05/03/11 00:31:02
>147 古田信者は立ち入り禁止だ。 早く消えろ
152 :
日本@名無史さん :05/03/11 00:36:42
自分の弟子ですら論破できない詐欺師古田が偉そうに・
>「な」と読む理由も必然性も無いんだよ。 おいおい、「奴」を自然に日本語の発音になおしたら一番近いのは「な」だよ
>>150 鳥越憲三郎『神々と天皇の間』は読んだことありますか?
文献文献って偉そう言ってるけれど、只の考古学音痴でしょ。
根拠のない神話解釈は妄想だよ。
>なんで大漢帝国が倭の中の奴国だけに印綬を授けるのか >よほどの事情がない限り、そんな自ら上下関係を複雑にするようなことをするわけがないんだがな。 そのころは「倭」って名前の国は存在してなかったんですよ、理解してますか? 「倭」と呼ばれてる地域の中で「奴国」が最も勢力が強かったのか 「倭」と呼ばれてる地域の中で「奴国」が漢との交流が一番盛んだったか、それはわからんが。
156 :
日本@名無史さん :05/03/11 00:49:52
将棋で古田、安本クラスをプロ八段とすれば、原田などアマ5級 人の仕事にまとわりついてはこき下ろして食っている寄生虫 学歴詐称野郎イッテヨシ
バカにマジレスしてるとスレのレベルが下がるからスルーしろ。
葛城はスルーでよろ
このスレの文献派はレベルが低いよ。 考古学は無視するし、文献の知識も… 「古代史関連の本を一冊読みました」ってレベルだな。
>頭に「漢」の字がつくのは「漢匈奴単于璽」と「漢委奴國王」だけ。通常の印にはつかない。 >漢に所属するという意味ならなぜ他の異民族にはつかないのか? >親魏倭王の「親魏」みたいに特別の意味があるらしい。 「漢委奴國王」については 「委」という字には「全てを任せる」という意味があるが、 漢はなぜ、奴国の王に全てを任せなければならなかったのか? 漢と奴国の間には日本海があるから漢は奴国に対して容易に指示を与えられないってことだろう。 つまり当時漢は奴国の王に全てを任せるしかなかったわけだ。 奴国の王は「倭」という地域の中では漢の代わりだから 頭に「漢」の字がつけられたのだろう。
>>161 ぜんぜんちがう。講談社の「中国の歴史」第三巻で鶴間和幸が
異民族の称号の印のうち、
頭に「漢」がつくものとつかないものを詳細にあげて
・漢帝国の版図内に完全に服属している国ではなく、
遠方からわざわざ朝貢にくる臣下ではない国
だと論じている。
どこが違うの? 「・漢帝国の版図内に完全に服属している国ではなく、遠方からわざわざ朝貢にくる臣下ではない国」 って161が言ってる内容と一緒じゃん。
つまり、 漢の近くにあり、漢に完全に服属している国は「頭に漢なし」で 漢の遠くにあり、漢に完全に服属してはいないが、漢を中央の華として崇めている国は「頭に漢あり」 ってことか。
>>155 さあね。倭という国名と地域名の関係もそんな簡単に断定できるほどわかっていないんだけどね。
いずれにしても、お宅の説明では奴という地域名を間に入れることの説明になっていないな。
それが誰でも納得できる論理として明示されない限り、ダメだろう。
>>150 ニニギが「筑紫の日向の襲のクシ触二上峯に降った」っていうのあったな。これを二上山と読めば
葛城山と近いし。まあ筑紫のってあるけど。
筑紫には日向という地名は古いのもあわせれば沢山あるらしい。一方の日向の国は、残ってない
だけかもしれないが、小地名としては1つしかないそうだ。都城、西都などもあるし、「何か」はあった
んだろうが、遺跡群の数や規模、神話での登場度などは圧倒的に筑紫を示しているといっていいだ
ろう。いきなり高千穂という峻険な山中に出現なんて、宇宙人みたいで笑える。私も行ったことあるが、
まあ大変な所だったよw
それに、そもそも弥生時代に日向の国なんてあるわけないし、その西の端の高千穂がなんで日向の
国に属しているなんて言えるのか、これも笑える。今の感覚でも完全に別の地方だし、最も重要な地
名をそんなわかりにくい表記するわけがない。まして当時は完全に別の国だっただろう。
つまりこれは、日本の古代史研究家の低脳ぶりを晒す好例w (書記でも勘違いしているって説も、あ
り得ないだろう。)
166 :
日本@名無史さん :05/03/11 19:30:47
筑紫が九州とは限らんだろ。 奈良盆地周辺が、筑紫とか日向とか呼ばれてたとしても不思議じゃない。
167 :
日本@名無史さん :05/03/11 20:02:15
吉備が岡山とは限らない 出雲が島根とは限らない 飛鳥が奈良とは限らない
>>165 日向風土記逸文には、ホノニニギが稲を散布、天空を輝かせながら
高千穂の峰に降臨する神話が語られているけどね。
まあ、別に、天孫降臨が後世の日向国にあったことだ、って電波な力説
をするつもりはないよ。
ただ、天孫降臨やら国譲り、神武東征などの神話を、単純に史実と解釈する
のは迂闊。学問的姿勢ではないってことだ。
169 :
日本@名無史さん :05/03/11 20:09:18
168はいいセン行ってると思う ただ神話学や文化人類学をなぞれば、史実が投影されていると考えなければならないが
筑紫は九州でしょ。何でもアリにしちゃいけない。 記紀や倭人伝にとらわれることはないですよ。畿内王権が自生だというのは考古学成果が証明している。 記紀がなぜ真実を記さなかったか、倭人伝がなぜ畿内王権を書かなかったかは、文献の連中にやらせればいい。
171 :
日本@名無史さん :05/03/11 20:40:16
むちゃくちゃだな。 倭人伝は、畿内王権を書いたものだろ。
>>170 荒れそうな書き方はやめれ
>>171 倭人伝は邪馬台国について書いたもの
それ以上の議論がしたければ、しかるべきスレでどうぞ
>いきなり高千穂という峻険な山中に出現なんて、宇宙人みたいで笑える。 >私も行ったことあるが、まあ大変な所だったよw 日本の天孫降臨神話は山上降臨型の建国神話で、これは内陸アジアに広がる アルタイ系遊牧騎馬民族に源流があると考えられている。 まあ、天石屋戸神話は南方系だけど。 記紀神話は北方系と南方系の複合なんだよね。 神話を語る時にはこのような比較神話学の先学の説を知った上で、 諸要素を慎重に検討した上で語られるべきもの。 史実性に関する考察はその次だ。
174 :
日本@名無史さん :05/03/11 21:00:48
>>171 『倭人伝』とは、『漢伝』以南にある『倭人』を記載出来るだけ書いた物(倭を含めたかもしれない)
>>172 いや、このスレでは、邪馬台国=畿内説という前提(過程)で
議論を進めた方がいいよ。
主流派とは言え畿内説も自生VS外部で決着がついてない訳だし。
その辺りに焦点を絞った方が。
>>173 要は、記紀を読んだぐらいで脳内妄想を炸裂させるな、ってことだ。
>>82 、君のことだよ。
177 :
日本@名無史さん :05/03/11 22:35:30
記紀といっても、継体天皇以前の記述は信憑性ないしな。
178 :
日本@名無史さん :05/03/11 22:58:18
そうそう継体以前、応神以前や倭人伝の解釈はひとまずおいといて、このスレは確実にあった畿内王権について語るべきでしょうね。
179 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:02:27
学歴詐称原田実は、早く消えろよ。 古田の足下にも及ばない屑のくせに・
180 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:05:07
まあアノ安本が書いたやつなんだが、 『虚妄の九州王朝』梓書院 という本を読んでくれ。 アノ安本でも古田批判だけはマトモなので、読むべし。 もともとの安本のネタ本の『九州王朝はなかった』という本が昔あった が、こっちは今は絶版みたいなので。 これ探してみて下さい。九州王朝の洗脳から抜けれると思います。 九州王朝大好き、太さんはスルーしてねw
181 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:14:12
最近の古代史関係ではこんな説が注目されていますよ 畿内に発生した連合体が九州(主に北部)勢力との合併を果たした これにより魏への朝貢が現実のものとなり、邪馬台国を新設、首都とした。 しかしあくまでも強権を発揮できるだけの大王は成立できず 権力並立(分権)のまま、いわゆる派閥連合として成長したが 4世紀に入ると、九州主体グループ、出雲グループ、河内グループなどの 血族による有力派閥勢力が政権を争うようになり、それらが各地域を治めていた。 5世紀以降、九州グループが半島経営を指針に挙げたのに対し 出雲、河内は富国政策を主張。継体天皇の擁立となった。 この衝突が磐井の乱の原因となり、一時九州は弱体化。蘇我氏、物部氏などが台頭する。 しかし7世紀中頃、中大兄皇子と中臣氏によるクーデター発生(壬申の乱) 以降九州出身勢力が連合を統一し、飛鳥時代を迎える。 面白いのは実はこの説、橿考研や奈文研の若手からの邪馬台国畿内説の立場からなのですが こういう形での九州勢力の台頭は十分考えられるのではないでしょうか
182 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:17:28
183 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:18:37
184 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:22:15
@西都馬鹿(大室寅之祐が明治天皇になったって内容をコピペ荒らしする鹿島昇信者)と、 A川西杏(根本敬氏の著作でおなじみの在日ゴロ 2ちゃんで●人予告してあぼ〜ん) Bヲカヤソ(岡田克彦 ネットウォッチ板の名物コピペ荒らし中年 自称皇族w) ここいらですね。ファビョる人の候補は。
185 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:25:40
井沢さんは、100歳以上の天皇はデッチアゲだと 左翼みたいな事を書いていますが、魏志倭人伝には 「日本は春耕秋収穫を年となす(半年で1歳)。 そのため長生きで100歳あるいは80、90歳」とあります。 蛇足ですが、魏志倭人伝はネットで簡単に見れます。
186 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:27:56
井沢さんは、100歳以上の天皇はデッチアゲだと 左翼みたいな事を書いていますが、魏志倭人伝には 「日本は春耕秋収穫を年となす(半年で1歳)。 そのため長生きで100歳あるいは80、90歳」とあります。 蛇足ですが、魏志倭人伝はネットで簡単に見れます。
187 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:32:10
>186 厨房は市ね。 古田先生が発見した2倍歴をしらないのか?
188 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:35:14
>183 それは安本がデッチあげたウソです。 デマはやめろ・
189 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:40:11
日本に来た馬韓の馬飼いはどうしても 鉄を探す必要がある。諏訪神社のタタエ神事の起源と結びつく。産鉄国 弁辰には常に馬韓月氏国から任命されたというのも、漏れの説だが、 月氏人はタタール人、狼をトーテム、馬を埋葬しており、遠く西域の大月氏国 を使いインドの姫を韓国に嫁入りさせたりしていたということがありえるんじゃないか。 漏れは秩父神社の狛犬の狼、北辰神、アダタラ/採鉄をタタールに結び付けている。 これらは邪馬台国建国に参加石上神社にフツの御霊を奉納したものと考えている。 それは石の加工に鉄製の道具が不可欠で淡路島の石上神社および肥後のイワタツ 等は全て鉄製の鑿を使用していたと推定する。石像の文化をトレースするとイワイ、 淡路、楯築、飛鳥等の奈良県、そして最も顕著なあのがアズミを中心とする道祖神 等があり、最終的にはアダタラから奥州の産鉄地方に向かったものと思う。
190 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:41:49
畿内王権が邪馬台国、あたりまえやん
191 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:41:51
日本の古代史学会は、カルト。 未だに土器編年とか言ってるし。偉い人でも「だろう」「らしい」「思われる」「そう考えても 無理ではない」とかの連発だし。放射性同位体測定馬鹿にしてるし。上下関係きつすぎ だし。学問つうよりイデオロギーだし。学閥きつすぎだし。言ったことに責任とらねーし。 違う意見には頭がはげ上がる程批判する癖に、身内に甘いし。ウヨだし。 わかってもいないことを無理矢理に学校で教育して洗脳する手法は、かの国と同じだな。 大化改新だって用語から何から捏造なのに。聖徳太子だって伝説と本人の実像が分離 できないのに、教えるなよ。
192 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:44:14
いまどき万世一系を疑うヤシがいるなんて。。。 近年の研究で、記紀は意外に真実を伝えてるとみなされているのをしらんのか。
193 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:44:29
>190 見てきたようなウソをつくな。 文献学者は圧倒的に邪馬台国九州説だ。 安本美典や井沢などのアマチュアよりの学者も 九州説が多い。
194 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:45:59
継体の継にはいみがあるんだよ
195 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:47:51
畿内説はチョソ
196 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:47:59
>192 皇国史観ウヨはくんなよ。 古事記は平安時代の偽書だし、日本書紀も基本的には6世紀以降の 捏造というとは証明されている。
197 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:48:28
九州説はチャンコロ
198 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:49:04
>194 奈良時代に付けられた名称になんの意味が?
199 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:49:20
捏造は某学会の得意技
200 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:50:07
記紀が捏造というヤシは朝鮮人
やはり銅鐸の絵文字は 蘇我大王即位について書かれているらしい
202 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:51:46
>199 学歴詐称が得意技の自称偽史専門家もいるな。
203 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:52:22
新唐書を無視するなんて‥
204 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:52:37
>200 ウヨは、コヴァ板に行けよ
205 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:53:24
原田先生の降臨が必要ですな
206 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:55:05
継体はむしろアメ一族を滅ぼしたのですが仲哀はニニギやウガヤフキアエズもそうなのだろうか。 ウガヤ=上カヤ つまり朝鮮南部の倭人が始祖
207 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:56:49
九州王朝派はサヨ しかし、九州王朝大好き氏は嫌韓で知られる。
208 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:58:25
韓伝と倭人伝を合わせ読むと半島にも倭人の国があったのは明らか
209 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:01:27
畿内王権の文献が発見されればなあ
210 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:06:02
対馬にたくさんあったが、焚書されたらすい。
211 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:09:02
韓国南部の扶余系騎馬民族が大和朝廷を樹立したんじゃないの。
212 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:15:13
桓武天皇が朝鮮由来の子文書を焚書したのは有名。
213 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:15:40
214 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:32:41
井沢の詭弁術に引っかかって信者になる奴は結構多いね。 古田武彦の九州王朝説も本人が『東日流外三郡誌』問題で馬脚を表すまで、熱狂的信奉者が多かったのと同じ。 つまるところ説得力ある文章を書く才能によるものだろう。詐欺師の鮮やかな口上にころりと騙されるのと同じよなもの。
215 :
銅鐸の謎 :05/03/12 01:36:27
・「文字無し。ただ木を刻み、縄を結ぶのみ。」から原始的文字(つーか記号)があったことを確信。 ・出土品に刻まれた絵を原始的文字として解読することを志す。 ・出土状況が明確な銅鐸を最初のターゲットにする。 ・苦心惨憺して解読した内容が「蘇我入鹿がたかみくら」 ・おいおい時代が全然ちがうじゃねーかよ。 ・本当に銅鐸の推定年代が信用できるの? ・銅鐸は銅鐸だけでまとめて出土するものが多いが弥生式土器、須恵器とともに出土したものもある。 ・銅鐸の年代は弥生時代が定説となったきっかけは銅剣、弥生式土器とともに見つかった1つの発見例による。 ・結論として弥生時代に作られていたことは間違いないがいつまで作られていたかは定説が無い。 で銅鐸は蘇我氏と密接な関係があった道具で奴婢の時間管理に使われたと仮説をたてる。 いくつかの解読例から蘇我王朝と天皇家の二重王朝だったとか壮大なロマンを展開する。 漢字は支配階級の文字で絵文字は被支配階級の文字だったんだ。
216 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:54:16
大朝鮮帝国って何
217 :
日本@名無史さん :05/03/12 02:02:43
【朝鮮の諺】 ・いとこが田畑を買えば腹が痛い。 ・女は三日殴らないと狐になる。 ・他人の牛が逃げ回るのは見ものだ。 ・他人の家の火事見物をしない君子はいない。 ・弟の死は肥やし。 ・人が自分にそむくなら、むしろ自分が先にそむいてやる。 ・死ぬ女が陰部を隠すものか。 ・銭は汚く儲けても、きれいに使えばよい。 ・川に落ちた犬は、棒で叩け。 ・死んだ息子のちんこに触ってみる。 ・営門で頬を打たれ、家に帰って女房を殴る。 ・姑への腹立ち紛れに犬の腹をける。 ・あんな奴は生まずにカボチャでも生んでおけば、煮て食べられたものを。 ・死ぬ女が陰部を隠すものか。 ・ただの物は苦くても甘い。 ・一緒に井戸を掘り、一人で飲む。 ・泣く子は餅を一つ余計もらえる。 ・便所の蛙に陰門をかまれた。 ・屁が癖になるや、麦の食糧も底をつく。 ・大便かカボチャ汁か。 ・白い粥に鼻水。 ・屁が度重なれば大便がしやすい。 ・手も当てずに鼻をかむ。 ・臭くない便所があるものか。 ・自分の陰部をさらけ出して人に見せる
218 :
日本@名無史さん :05/03/12 02:10:10
∧∧ 【嘗糞】 / 支\ ( `ハ´) 朝鮮古来の民俗医術の一つ。 / , つ 人の糞を舐めてその味が苦ければその人物の体調は良くなっており、 ( ( ) | 甘ければ体調が悪化していると判断する。 |::| し'/ |::| ───────────────── (::j ∧_∧ ヽ ノノ 過去には、6年以上父母の糞を嘗めつづけ、 .⊂(@∀@-) ⌒ヽつ 病気を治した孝行息子の話などの記録があり、 ∪ 指を切って血を飲ませる行為と共に親に対する最高の孝行の一つとされた。
219 :
日本@名無史さん :05/03/12 02:16:09
>214 でも大和朝廷一元主義を廃して地域王権への注目を開かせた功績は大きいだろ。 親鸞研究の方はアカデミズムでも一目置かれているしな。
220 :
日本@名無史さん :05/03/12 02:46:16
井沢が言う前からそんなこたあ言われてたよ。 言霊論にしろ、あいつはいつも学者センセが言ったことを 復唱してるだけ。
>>220 井沢は別に学者じゃないから。
古代編については、日本の古代史学会の偏狭で非科学的な似非アカデミズムをジャーナリストの立場
から批判する、そういうスタンス。宇佐説は、邪馬台国九州説に止まらず、九州の独自勢力説も見越して
のものだということは、読めばわかる。
それと、九州王朝説は、古田だけのものではない。まあここに巣くう厨房どもが古田や安本の精緻な学説
を批判しようにも読んでもいないのはもろバレなわけだが、声高に人を批判する、レッテルを貼るなどを日
常茶飯事にする連中ほど自分に自信がないということはまあ社会常識だしね。他にも九州勢力に言及す
る学者は沢山いるんだよ。ただすぐに電波扱いする狂人が徘徊する世俗離れした学会だから、他の事で
も良心的な人で首をすくめている人は非常に沢山いるということもしっとけよな。いつまでもこんな所でチン
カス扱いされるのも嫌だろ?ん?
橿原研も末永先生の頃は良かったよ。大学者とはかくありたいものだと思ったね。
222 :
日本@名無史さん :05/03/12 09:46:48
223 :
日本@名無史さん :05/03/12 09:55:48
>井沢が言う前からそんなこたあ言われてたよ。 >言霊論にしろ、あいつはいつも学者センセが言ったことを >復唱してるだけ。 学者が思いもよらないトンデモな珍説で素人を騙しているだけだろ。
224 :
日本史@名無しさん :05/03/12 10:02:25
225 :
日本@名無史さん :05/03/12 10:05:19
>古代編については、日本の古代史学会の偏狭で非科学的な似非アカデミズムをジャーナリストの立場 >から批判する、そういうスタンス。宇佐説は、邪馬台国九州説に止まらず、九州の独自勢力説も見越して >のものだということは、読めばわかる。 また、古田信者の妄想炸裂だな。 精神病院いってこいや。 >それと、九州王朝説は、古田だけのものではない。 古田と詐欺師和田とそのアホ信者だけだろ。 >まあここに巣くう厨房どもが古田や安本の精緻な学説 >を批判しようにも読んでもいないのはもろバレなわけだが、声高に人を批判する、レッテルを貼るなどを日 >常茶飯事にする連中ほど自分に自信がないということはまあ社会常識だしね。他にも九州勢力に言及す >る学者は沢山いるんだよ。ただすぐに電波扱いする狂人が徘徊する世俗離れした学会だから、他の事で 詐欺師を担ぐカルト電波集団の方がよっぽど世俗離れしてると思うが。 だいたい素人のアマチュア電波の本読むほど学者ってのはヒマじゃないね。
226 :
日本@名無史さん :05/03/12 10:08:24
和田家文書の原本は、和田さんが自分で書いたんだろ それは写本だというのは後から言い出したこと。 昔、八幡書店でバイトしてて、漏れがやめた後、友達に譲ったんだけど、 (漏れは東日流の前にやめた) そいつにきいたら、青森から「また発見されました」ってどんどん 送られてくるんだけど、どっからみても新品の紙に書かれてて 現代人にもすらすら読めて、どこが古文書なのかわからなかったっていってたな。
227 :
日本@名無史さん :05/03/12 10:11:16
228 :
日本@名無史さん :05/03/12 10:13:42
>224 お前が死ねよ、井沢信者。
229 :
日本@名無史さん :05/03/12 10:31:32
230 :
日本@名無史さん :05/03/12 10:32:57
やっぱり貼っとくか。 || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| || ○畿内説は根拠聞かれるのが一番キライ。 || ○畿内説の矛盾を突くレスには徹底逃亡し、そのまま放置。 || ○放置された畿内説は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。 || ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。 || ○反撃は畿内説窮地となる九州説の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを || 与えないで下さい。 Λ_Λ || ○しばからく逃亡していて忘れた頃戻りましょう。 \ (゚ー゚*) キホン。 || 畿内説を保持するには逃亡が一番です。 ⊂⊂ | ||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、先生。 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,) 〜(___ノ 〜(
231 :
日本@名無史さん :05/03/12 10:34:09
古田信者は、アク禁にしろよ。 荒れるじゃん。
232 :
日本史@名無しさん :05/03/12 11:02:21
>>225 クズは消えろ 人類のためだ
>だいたい素人のアマチュア電波の本読むほど学者ってのはヒマじゃないね。 ぷ 本も読めないのか。 ああ、スマン。買えないんだなw 死ねよ。
九州王朝説は、自分たちの巣に帰った方がお互いのためだ。
235 :
日本史@名無しさん :05/03/12 11:54:27
>>235 わかった、土にかえってやるから、お前はゴミタメヘ帰れ!
何でそんなに必死なの?
238 :
日本史@名無しさん :05/03/12 12:14:04
236 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 05/03/12 12:00:43
>>235 わかった、土にかえってやるから、お前はゴミタメヘ帰れ!
畿内説はこんな厨房をどうすんだよw 責任取ってくれ
240 :
日本@名無史さん :05/03/12 12:55:59
とりあえず、どれが本スレか決めようや
本スレは、とにかく、239みたいなのが、紛れ込まないところにしよう。 三つあるうちの一つは、九州王朝等ドキュソは、完全スルーの本スレ。 一つは、また〜り雑談スレ。 後一つを九州王朝や自生厨と遊ぶスレにしよう。
242 :
日本史@名無しさん :05/03/12 15:42:48
241 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 05/03/12 14:48:10 本スレは、とにかく、239みたいなのが、紛れ込まないところにしよう。 三つあるうちの一つは、九州王朝等ドキュソは、完全スルーの本スレ。 一つは、また〜り雑談スレ。 後一つを九州王朝や自生厨と遊ぶスレにしよう。 なあ。自演はいいから。 お前みたいなカスがスレを荒らしてきたのをいい加減気づけ。馬鹿が。
243 :
242 :05/03/12 16:37:22
朝鮮人が朝廷を作ったことを1500年間隠して来た連中だ、 天皇家の血が絶えた事が世にばれたら、天皇制はお終い。 公家皇族連中もどうなるか分からない。 全員で口をつぐんだんだよ。 御所が軍隊で保護されてたって? 保護されてたんじゃなくて軟禁されてたんだよ。 その重苦しい空気の中で事件はヤミからヤミに葬り去られたんだ。 公家皇族連中はまずい事は文書に残さないと言うのが、1500年間続けて来た 彼ら一流のやり方なんだよ。
とりあえず、ここは九州王朝と遊ぶスレってことになりそうだな。
245 :
弟子に裏切られた古田哀れ :05/03/12 17:39:22
246 :
日本@名無史さん :05/03/12 17:47:05
>まあここに巣くう厨房どもが古田や安本の精緻な学説 こいつらのトンデモ説のどこがどういうふうに「精緻」なのか言ってみろよ。 糞古田信者、逃げるなよ。
247 :
日本@名無史さん :05/03/12 17:57:24
安本と古田って犬猿の仲じゃないの?
248 :
日本@名無史さん :05/03/12 18:02:15
>234 >九州王朝説は、自分たちの巣に帰った方がお互いのためだ。 そっちこそ考古学板に帰れ。
>>248 考古学を無視するっていう態度は、学問的とは言えません。
妄想電波と言われても仕方がないよ。
考古学を無視するってねえw ここにいる九州王朝説の人は、 九州王朝説の中でも選りすぐりの論客なんだろうなあ。
251 :
日本@名無史さん :05/03/12 18:32:15
>249 藤村の捏造を何年も見抜くことができなかった考古学界に 古代史を語る資格があるとは思えないな。
252 :
日本@名無史さん :05/03/12 18:35:28
>>251 だから、より一層考古学が重要なんだよ。
253 :
日本@名無史さん :05/03/12 18:36:53
>>251 は瞬殺か(w
さすが、九州王朝の論客だけある。
254 :
日本@名無史さん :05/03/12 18:40:41
古田系雑誌はヤバイよな。 なのに論文掲載したのばれたら絶対 学者生命終わるよな。
255 :
日本@名無史さん :05/03/12 18:42:07
あのとき、Wの回りには古文書、骨董、金工のプロが 集結していた。 石塔山から出たといわれる、金の冠は山○県の職人である そりゃ地方公共団体、学者、出版社をてだまにとるんだもんねえ まあ生贄がFだったね
ここに巣食ってる九州王朝な奴は、自スレに帰るに帰れないんだろうなあ。 何せ、アソコは例のヒト以外は寄り付かない極寒のツンドラ地帯だからな。 淋しがりやなボクちゃんには、耐えられないんだろう(w
257 :
日本@名無史さん :05/03/12 19:01:07
>256 そんなに九州王朝説が恐いのか? まともな議論では勝てないからって排除するのはおかしいだろ。
258 :
日本@名無史さん :05/03/12 19:22:00
>>257 九州王朝があったなら、
1、畿内との関係−九州王朝と円滑な貿易はあったか?
2、畿内はどのように大陸と貿易したか?
3、九州王朝の九州での活躍の記録が記紀に無いのはなぜか?
4、なぜ、九州王朝の王の名だけが記紀に残ったのか?
少なくとも、以上の疑問に答えてくださいね。
)257 「まじめ」な議論をやる気があるのか? 試しに、三世紀の首長埋葬制度についてでも論じてもらおうか? もっとも、このスレの主旨にのっとり、九州と吉備・畿内・東海の関係に絡めてもらいたい。
260 :
日本@名無史さん :05/03/12 19:35:34
261 :
日本@名無史さん :05/03/12 19:38:51
>>258 取り敢えず
1、の答え
別に改まった貿易などなくても、物は移動する。
2、の答え
畿内と大陸の間で直接貿易など当時無かった。
>>257-261 だから、そういった議論は九州王朝説専用スレがあるだろう、と。
先に自スレを盛り上げることを考えろよ。
263 :
日本@名無史さん :05/03/12 20:19:40
>>262 だからと言って全く触れないのも変だろう。
王権じたいは直接の交流がなくても一部の下級民どうしの交流はあったろうから
王権の成立なんかは案外そういった民の交流がきっかけで成立してるのではないかい。
264 :
日本@名無史さん :05/03/12 21:04:35
九州王朝さんは、
>>258 みたいな基礎的な疑問にも即答できんのか?
今まで何を話してきたんだ?
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/03/12 21:51:42
↑レベルが低すぎるんだよ。 九州王朝があったなら、 1、畿内との関係−九州王朝と円滑な貿易はあったか? >あったに決まってるだろうが。畿内の青銅器は製品も材料も九州経由でなければ入手不可能だ。 畿内は攻撃され高い青銅器を買わされる田舎だ。これは倭国大乱まで変わらない。 2、畿内はどのように大陸と貿易したか? >九州から買っていたんだよ。 3、九州王朝の九州での活躍の記録が記紀に無いのはなぜか? >記紀は九州王朝を滅ぼした畿内百済系朝鮮人の王朝だからだ。 4、なぜ、九州王朝の王の名だけが記紀に残ったのか? >朝鮮人が記紀を作れば万世一系で朝鮮から来ましたとは書けないわな。 列島の王の名を騙るしかないわな。 少なくとも、以上の疑問に答えてくださいね。 >>> まったく、 レベルの低い質問だ。
266 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:17:49
267 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:19:51
268 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:21:05
●岩手県胆沢郡衣川村、阿倍一族の墓苑(平成4年) 「石塔山荒覇吐神社」にあったという阿倍頼時の骨を、和田氏が地元の 歴史の会「衣川青史会」に寄贈、突然この地に頼時の墓が出来て観光地となった。 「衣川青史会」の会員名簿の最初の欄には和田喜八郎氏の名前がある。 昭和55年に建立の、しかも津軽の「石塔山荒覇吐神社」に頼時の骨が あったのもすごいが、その骨を鑑定したのが古田武彦氏だったという のもGOODである。 それから6年、遺骨はクジラの骨だった…(平成10年8月13日の産経新聞) 「岩手県衣川村に埋葬された阿倍頼時のものとされる遺骨がこのほど、 岩手医大と岩手県立博物館で鑑定され、クジラの骨だったことが分かった。」
269 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:21:52
まあ、ここで偉そうに、他人のことをアマとか決めつけてる奴は、 プロの史学者の基本素養である史料を読むということすらできない奴ばかりだろ。 古文書を読むと言う基本的なこともできない。 和田家文書の原本を見せられても、お前らはおそらく一文字すら読めんだろうな。
270 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:35:13
>>265 >3、九州王朝の九州での活躍の記録が記紀に無いのはなぜか?
>>記紀は九州王朝を滅ぼした畿内百済系朝鮮人の王朝だからだ。
アウト。
九州の下位にいた畿内王朝が、どうやって九州を滅ぼせたんだ?
九州王朝が存在していたときも、畿内王朝は存在していたはずだが、
どうして畿内王朝の王統を記紀に残さなかったのか?
本当に、九州王朝説はレベル低いな。
271 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:40:26
>>265 それと、畿内百済系朝鮮人が畿内を占領してたなら、
百済語が宮中で話されていたはずで、多かれ少なかれ、記紀に痕跡があるはず。
いったい記紀のどこにどれくらいの百済語が残ってるというのだ?
それとも百済人は日本語を勉強したんですか?
272 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:40:36
新潮45に掲載された原田実氏のカッパの話が、パクリだと指摘されてます。
273 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:42:25
学歴詐称野郎は、出て行け。
東日流外三郡史偽書事件で当初昭和薬科大学教授(当時)古田武彦に師事して
東日流外三郡史真書説を支持していた。
後に季刊邪馬台国の編集責任者産能大学教授(当時)安本美典の影響を受け、
偽書説側に転向。当然の結果として薬科大学助手の職も辞することになる。
その後古今東西の偽書に関する著述活動を行なっているが、
資料の要約の域を出ず、彼の著述物からは誰かの説を代弁する以上の内容は期待できない。自らに深い考えがなく、常に有望な学説を追いかけているだけにも見える。これは専門的な深い知識がない素人集団であると学会のメンバー全般に見られる傾向でもある。
http://yamayangi.s27.xrea.com/pukiwiki/%B8%B6%C5%C4%BC%C2.html
274 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:48:57
そんなに考古学者のレベルが高いと言い張るなら、なぜ石器捏造問題 を見抜けなかったのか? ちゃんと説明してもらおうじゃないか。
275 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:59:17
276 :
日本@名無史さん :05/03/12 23:18:27
>275 原田君よ、学歴詐称問題への反論を先にしたらどうだ?
246 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 05/03/12 17:47:05 >まあここに巣くう厨房どもが古田や安本の精緻な学説 こいつらのトンデモ説のどこがどういうふうに「精緻」なのか言ってみろよ。 糞古田信者、逃げるなよ。 ↑ お前まじ狂人のようだな。まあ一つでもいいから読んでから言ってくれ。各論なら幾らでも 話す用意はある。別にどちらの信者でもないが、一応主要な著作には目を通したつもりだ。 なぜ両氏が理系にファンが多いのかも低脳にはわからんだろうが。 「巨大古墳の被葬者は誰か」、「壬申大乱」なんてものはすすめない。お前には無理だ。 「卑弥呼と邪馬台国」(安本美典)、「邪馬台国はなかった」(古田武彦)、まあそれぐらいは 読んではじめてなんか言っても許してやろう。両者の共通点、違い、それらを方法論や畿内 説との対比で論じられたらこのスレに来てもいい。 出来ないなら九州説や九州王朝説という言葉を口に出すな。お前が恥をかくだけだ。「天皇家 は万世一系、それ以外は全く存在しなかった」と言って危ない人と盛り上がっていればいい。 それに繰り返すが九州の王権に言及したり可能性を論じている学者は決して少なくない。 ヒステリックな漫画みたいな一部の畿内至上主義者が扇動しているだけだ。もうロートルが 多いが。その名前も、すこしまともなことが言えるようになったら教えてやろう。まあちょっとでも 勉強すればすぐわかることだが。 つうか、読めたか?全部ひらがなにしてやろうか?
278 :
日本@名無史さん :05/03/13 12:07:24
↑は、キティガイ古田信者。 みんなも騙されないようにしようね。
279 :
日本@名無史さん :05/03/13 12:15:41
詐欺師和田と結託する古田信者は詐欺共犯者だろ。 早く逮捕しろ。
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/03/13 12:26:52
低レベルの畿内説の典型だな。 >>> >3、九州王朝の九州での活躍の記録が記紀に無いのはなぜか? >>記紀は九州王朝を滅ぼした畿内百済系朝鮮人の王朝だからだ。 アウト。 九州の下位にいた畿内王朝が、どうやって九州を滅ぼせたんだ? 九州王朝が存在していたときも、畿内王朝は存在していたはずだが、 どうして畿内王朝の王統を記紀に残さなかったのか? >>> 畿内に国が滅びた百済人が次々くれば多数派になるな。 上位の勢力が落ちぶれるのは歴史の常だが? 畿内王朝の歴史? 九州王朝と並立する7世紀から畿内王朝の歴史も記紀にあるではないか? 九州王朝しかない4世紀以前を九州王朝の歴史から盗むしかないではないか。 万世一系で朝鮮から来ましたでは具合が悪かろう。 チミは無知ではないか? 本当に、畿内説はレベル低いな。
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/03/13 12:27:37
畿内王朝の歴史? 九州王朝と並立する7世紀から畿内王朝の歴史も記紀にあるではないか? 九州王朝しかない4世紀以前を九州王朝の歴史から盗むしかないではないか。 万世一系で朝鮮から来ましたでは具合が悪かろう。 チミは無知ではないか? 本当に、畿内説はレベル低いな。
282 :
日本@名無史さん :05/03/13 12:28:35
朝日新聞の記事は他新聞と比べて一番まともではないだろうか? 日本が右傾化しないように社説で繰り返し述べている。 はき違えた愛国心を煽るようなマスコミを信じてはいけない。 売れさえすればいいという軽薄な商魂の論説ばかりが、 国を危うくするのは太平洋戦争で懲りたであろう。 機会ある毎に日本の過去の過ちに対する反省を促し、 関係諸国との友好を深めようとしているのが朝日新聞である。 なまじ知った歴史の一部で全てがわかった顔をすると恥をかくだけだ。 のうのうと生きていられるのは平和憲法のおかげであることは間違いない。 できもしない自主防衛を唱えていては過去の過ちを繰り返すだけである。 不利なことがわかっていながら、国民を煽って戦争に突入し、 買い物も切符が無ければ買えもしないような生活をさせながら、 運用される資金はすべて軍事行動向け。 動力になるべき燃料もなく、資源も無い日本が何の大義もない戦争を 推し進めるのは狂気の沙汰としか言い様が無い。 進軍ラッパをもう一度聞きたいのか?
>>277 だから九州王朝説の話は、しかるべき専用スレでやれって。
ここは畿内説専用スレだよ。
284 :
日本@名無史さん :05/03/13 12:50:50
>>282 何をグタグタと日曜にほざいているんだ。
過去の出来事に対し『是』であろうとも『非』であろうとも
それを真実として前向きに捉らえなくてはならないだろう。
その行為が『非』であろうとも、その『非』の上に成り立っているのが現在の社会だ、過去の『非』を否定することは現在の自分を否定するのと同じ行為だぞ。
278 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 05/03/13 12:07:24 ↑は、キティガイ古田信者。 みんなも騙されないようにしようね。 279 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 05/03/13 12:15:41 詐欺師和田と結託する古田信者は詐欺共犯者だろ。 早く逮捕しろ。 死ねよ。中味もかかずに。 さっさと死ね。
この板の人は真面目な人が多いから、縦読みとか通じないんだよ。 っていうか、関係ないことは書き込むな。 あと九州王朝説は、早く巣に帰ってくれ。議論が正常化しないじゃないか。
287 :
日本@名無史さん :05/03/13 16:25:42
>>281 >万世一系で朝鮮から来ましたでは具合が悪かろう。
どうして、渡来した亡命百済人は、日本で万世一系だと偽りたかったのだ?
そんな必要ないだろ。
堂々と畿内で新生百済を建国すればいいだけでは?
288 :
日本@名無史さん :05/03/13 16:31:32
5世紀の畿内といえば、多くの巨大古墳がつくられた時期だ。 北九州には、古墳はほとんど無い。 これで九州王朝があったといえるのか。 立場的にも、畿内が九州より下位だったのは、2世紀までだ。 そして、百済が畿内の王権に関わったなら、 百済語が宮中で使われていたはずだが、そんな痕跡は無い。
289 :
日本@名無史さん :05/03/13 17:14:15
正直、九州王朝説は、考古学では殆ど相手にされておらず、 文献でも根拠薄弱。 先に自スレで「九州王朝があったのか」どうかについての議論を 深めてくれ。
290 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 05/03/13 17:29:19 正直、九州王朝説は、考古学では殆ど相手にされておらず、 文献でも根拠薄弱。 先に自スレで「九州王朝があったのか」どうかについての議論を 深めてくれ。 ↑わかったからお前も死んでくれ
293 :
日本@名無史さん :05/03/14 23:20:37
詐欺師和田と古田の友情ってなんだったの?
294 :
日本@名無史さん :05/03/14 23:28:49
>291 早く消えろよ、古田信者。 相手にされてないことが分からないのか。
295 :
日本@名無史さん :05/03/14 23:37:33
>294 さっさと死ねよ
九州王朝カマッテ君と畿内バカを誘発し、内容の無い罵詈雑言合戦を行なった。 そのせいで、良識ある人々は離散してしまい、このスレも完全に仮死状態。 九州王朝カマッテ君はその辺りの事を真摯に受け止めて、 畿内スレには二度と来ないでくれ。 畿内スレに執着せず、自スレを大いに盛り上げてくれればいいじゃないか。
ついでに言わせてもらえば、 九州王朝カマッテ君の論は、目新しさが無い上に、 「古田氏や安本氏の本を読んでから喋れ」みたいな発言をお題目のように 唱えるだけ。 君の書き込みに面白さが無かったから、誰も支持者が現れなかったんだ。 君の発言が面白ければ、違った展開もあったんだとは思うけど。 結局、君には「畿内スレで九州王朝説代表として語る」程の力量は無かった ってことだよ、現時点ではね。君の考古学軽視は酷いものだったし。 畿内バカは畿内スレ住人で責任を持って相手にするので、安心して 自スレに戻って下さい。
299 :
日本@名無史さん :05/03/17 23:53:50
なぁー このスレタイに書かれてる(倭王権)の【倭】とは何ですか?
倭国のことだろ。 大和朝廷は日本だから、スレタイからして間違えてるな。 orz
だよね それなのに、スレ違いと(九州王朝)を追い出す。 スレタイに(倭王権)と標示しながらこのありさま 『倭』の範囲は広いよー 中国の南部にもあったな?
倭≠大和朝廷と騙る時点で、世間一般の認識とは大きくかけ離れてますがw 九州王朝自体、まだその存在証明をしなければいけない段階なんだよ。 九州王朝説前提で、主流の畿内スレを掻き乱さないで欲しいな。 ここは畿内王権の誕生、発展を語るのが主旨なんだし。 九州王朝という根拠薄弱な持論を語る以上、 畿内スレより「九州王朝はあったのか」スレを活用すべきだと思いますが。
なぜ旧唐書を無視する。定説でも倭=日本は確定事項ではない。 しかし、そのことを議論するのはスレ違い。 弥生畿内勢力から大和朝廷樹立へ が正しいスレタイだ。 そういうことでよろしく頼む。
旧唐書は知ってるってw 分かった上で、「世間一般の認識と大きくかけ離れている」と書いてるんだよ。 逆に言えば、九州王朝説を完全否定するつもりは、私にはないので。 特に私は畿内自生説論者(畿内説でもオールドタイプらしいw)なので、 北部九州が畿内に対して、比較的後代(磐井の頃くらい)まで自主的立場を 有していたと考えている。別王朝並立とまでは流石に考えていないけれど。 九州王朝スレで議論を深めることには、それなりに意味があると思うよ。
305 :
日本@名無史さん :05/03/19 01:16:02
>304 意味ないよ。 古田は詐欺師なんだから。
おれの中では、畿内論者=詐欺師
今どき大和朝廷なんて書きません。 大倭朝廷、乃至倭朝廷、乃至ヤマト朝廷
>>304 もれも畿内自生説。けっこういるもんだな。
>古田は詐欺師なんだから。 また荒らしか
だから、スルーして自スレへ戻れ。
311 :
日本@名無史さん :05/03/19 11:01:09
紀伊国造は、その交替に際して特に上京・報告することが義務付けられていた。 紀伊は朝廷から、出雲と同じく、警戒されていたのだろう。 紀伊熊野=狗奴国だったんじゃないかな。
312 :
日本@名無史さん :05/03/19 11:01:38
紀伊国は木国の意で木材の産地。紀氏は杉や樟を用いて外航用構造船を多数 造り、他方でその同族を阿波・讃岐・伊予・周防・豊前などの諸国に分布 させて、紀の水門から四国沿いの瀬戸内海航路を自己の支配下に確保。 その上で海部直らを軸にした水軍を統括し、朝廷による朝鮮遠征・経営の 一翼を担った。
313 :
日本@名無史さん :05/03/19 20:52:57
ヤマト朝廷の起源を探ると三輪山周辺に行き当たる。 そしてその三輪山の神である大物主だがこの神は実はニギハヤヒの事であるらしい。 しかも大国主とも同体とされる。 また大国主とニギハヤヒは天孫に先立って地上に降りた天神の係累でありながら、 後から来た天孫に国を譲ったという共通点がある。 大物主は崇神天皇の時代に祟りを起こしたという記述もある。 どうもこの辺の符合にきな臭いものを感じるんだが。 大王家以前に三輪山で大物主を祭っていた一族がいたとも言うし。
314 :
日本@名無史さん :05/03/20 11:26:16
三輪山は太陽神信仰の中心地だったんだよ。 もともとは大物主=アマテラス。 アマテラスが蛇神で鱗があることは、伊勢神宮にも伝わっていること。 崇神の頃にアマテラスを宮中から追い出し、伊勢にお遷り頂いた頃に(「太陽 の道」ってやつね)、大きな宗教改革のようなものがあったのだろう。 西郷信綱氏が言うところの、伊勢=アマテラス=東=正、出雲=スサノオ・ オホナムヂ=西=負という世界軸(神話世界)が設定されたのもこの頃。 それは大倭国連合の成立、銅鐸→古墳崇拝への転換の時期とも一致する。
315 :
日本@名無史さん :05/03/20 23:23:11
316 :
日本@名無史さん :2005/03/24(木) 23:05:32
先代旧事本紀で語られる、十種の神宝の品物比礼(種種物比礼)が銅鐸である、 という説はどうなんでしょう? やっぱり、畿内には大和朝廷=大王家以前に、物部=ニギハヤヒ=銅鐸王朝が あったのでしょうか? 伝承中の初期大王が、磯城や物部、大物主系から后を得ているのは、 初期大和政権が畿内在地勢力中心の母系制であり、大王位が外来(吉備や東海、 西都原など)からの婿入りであったことを物語っているのかもしれない。
317 :
日本@名無史さん :2005/03/24(木) 23:14:36
古来、大王位の要件として、物部系女子を后とすることが重要視された のだろう。 なぜなら、初期大和政権は母系制であり、外戚で奈良盆地の覇者である 物部氏の承認を得ることで、初めて大王となることが出来たのだ。 神武東征伝承も、恐らくその頃の記憶がベースとしてあるのだろう。 平群氏が武烈と物部影媛を争ったのは、実際は皇位継承争いであったのだ。 蘇我氏の専横は、馬子が物部系の媛を得たことで、大王位に就く権利を 得たためである。
物部って特別扱いされていますよね(現皇室からも) ニギハヤヒなどの先王権の末裔の可能性はありますでしょうか。
319 :
日本@名無史さん :2005/03/25(金) 00:32:58
物部氏って今もいる人?
320 :
日本@名無史さん :2005/03/25(金) 01:37:21
学歴詐称野郎は、出て行け。
東日流外三郡史偽書事件で当初昭和薬科大学教授(当時)古田武彦に師事して
東日流外三郡史真書説を支持していた。
後に季刊邪馬台国の編集責任者産能大学教授(当時)安本美典の影響を受け、
偽書説側に転向。当然の結果として薬科大学助手の職も辞することになる。
その後古今東西の偽書に関する著述活動を行なっているが、
資料の要約の域を出ず、彼の著述物からは誰かの説を代弁する以上の内容は期待できない。自らに深い考えがなく、常に有望な学説を追いかけているだけにも見える。これは専門的な深い知識がない素人集団であると学会のメンバー全般に見られる傾向でもある。
http://yamayangi.s27.xrea.com/pukiwiki/%B8%B6%C5%C4%BC%C2.html
>ニギハヤヒなどの先王権の末裔の可能性はありますでしょうか。 だって物部自身が先祖といってるし。 九州の天孫族の、相当中枢をしめた一族だったんだろう。だけど、長脛彦との関係が 良好だったのかどうかまでは、記紀ではよくわからない。神武が天孫族の王族直系か どうかもわからないが、両者の違いは武力衝突の有無では無かろうか。同じ神器を持 っていたとしても、武力で勢力を広げた方が自力の地方支配権限を持てるし、ニギハヤ ヒの方は飾り物っぽい部分があったのかもね。 それに、天孫族と銅鐸文明とはやはり重ならない気がする。ならば、ニギハヤヒ自身は たんなる客分扱いで、九州の進んだ文物をくれるから重宝されたとか、そんな程度だっ たのかも。 ただ、ニギハヤヒが神武側についたから形勢逆転して神武の勝利に終わった、という部 分はよくわからないけどね。ニギハヤヒ自身が直属部隊を持っていたのか、それとも大 義名分を失って長脛比古が支配下豪族の離反にあったのか。いずれにしても、一度も いくさで勝ってないのにあんなあっけない決着は考えにくい。実際にはニギハヤヒが神武 に天孫族の代表のポジションを譲ったと言うだけで、決着は後まで残されたのかも。 「一書」によれば、神武の血族と言うより磯城県主=物部の母系の血統になっているし、 それとは別系統の祟神が銅鐸文明との決着をつけたということかもしれないね。だから 大物主=銅鐸文明の主神に「祟られた」、と。
322 :
日本@名無史さん :2005/03/25(金) 23:10:50
邪馬台国は宇佐を中心とした北九州にありましたね。 すでに卑弥呼の時代に大和朝廷と交流があったようですし おそらく王族同士が婚姻関係を結ぶようになり 平和的に合併。同族化していきました。つまり大和朝廷が 徳川将軍家で邪馬台国・出雲・吉備あたりが徳川御三家みたいな 感じでしょう。そして4世紀後半に仲哀天皇が熊襲征伐に 九州にきているときに、邪馬台国側がひそかに仲哀を暗殺。 そして畿内へ東征して大和朝廷をのっとります。 これが応神王朝で、ゆえに宇佐神宮に応神天皇・神功皇后が 比売大神(卑弥呼)と一緒に祭られているのです。
323 :
日本@名無史さん :2005/03/25(金) 23:11:54
日本に来た馬韓の馬飼いはどうしても 鉄を探す必要がある。諏訪神社のタタエ神事の起源と結びつく。産鉄国 弁辰には常に馬韓月氏国から任命されたというのも、漏れの説だが、 月氏人はタタール人、狼をトーテム、馬を埋葬しており、遠く西域の大月氏国 を使いインドの姫を韓国に嫁入りさせたりしていたということがありえるんじゃないか。 漏れは秩父神社の狛犬の狼、北辰神、アダタラ/採鉄をタタールに結び付けている。 これらは邪馬台国建国に参加石上神社にフツの御霊を奉納したものと考えている。 それは石の加工に鉄製の道具が不可欠で淡路島の石上神社および肥後のイワタツ 等は全て鉄製の鑿を使用していたと推定する。石像の文化をトレースするとイワイ、 淡路、楯築、飛鳥等の奈良県、そして最も顕著なあのがアズミを中心とする道祖神 等があり、最終的にはアダタラから奥州の産鉄地方に向かったものと思う。
324 :
日本@名無史さん :2005/03/26(土) 00:55:17
我が国の歴史学者や歴史マニアの頭脳中 に、古代東アジア史・日本史に関する「バカの壁」と表現されるべき頑迷固陋 な虚構の「定説」が構築され、厳然として存在しているが故に他ならない。 すなわち、彼ら研究者は自分の好み・信奉する定説に拘泥し、自主的に情報 を遮断している。又、「定説」=「常識」で、「自分達は知っている」と思っ ている。しかし、その大前提の筈の「常識=定説」自体に根拠が無く、定説が 定説足り得ない「ずれ」を理解することができず、その結果、定説の「バカの 壁」の向こう側に真実が存在することを全く認識できないでいる。 周知の「邪馬台問題」などは、パスポートなどあり得ない古代に、現在の行 政区分である日本国家を一元論的中心として歴史を語っていて、三百年以上も この巨大な「バカの壁」の内側で不毛な論争に明け暮れている。 今、ここで改めて言うまでもなく、戦後、歴史は各自が自由な観点に立って、 自由な研究解釈がなされるようになった。このこと自体は、学問の自由という 点からすれば、極めて喜ばしい限りと言える。 その好例が、戦前と戦後の国史に関しての見解である。その見解が全く異な ってきたことは誰もが認める事実であり、霊的世界の霊的存在の如き歴史観は、 最早、誰もが見向きもしなくなった。
325 :
日本@名無史さん :2005/03/26(土) 01:42:57
邪馬台国=九州・宇佐というのも、根拠の無い「常識」のひとつだろ。
326 :
日本@名無史さん :2005/03/27(日) 09:18:49
神武天皇即位前紀甲寅年十月辛酉 筑紫國の菟狹〈宇佐〉に行き至る。時に菟狹國造の祖、號を菟狹津彦 ・菟狹津媛と云ふ者あり。乃ち菟狹川上に、一柱騰宮を造りて、饗し奉る。 この一柱騰宮が今の宇佐神宮なのです。残念ながら邪馬台国ではありません。
宇佐神宮の話は、すでに決着済みの話。 8世紀に建立された宇佐神宮で、3世紀を騙ろうなんて、無理があり過ぎる んだよ。500年だぜ、500年。現在を、戦国時代に関連付けて騙っている ようなもの。 大神比義が、倭人伝の卑弥呼、記紀の神功皇后、玄界灘沿岸に伝承される オオタラシ姫伝承を元ネタに、建立したのが宇佐神宮。 後世の人までコロリと騙されてしまう、大神比義の手並みは大したもんだ。
328 :
日本@名無史さん :2005/03/27(日) 19:11:12
HLAを見ると、本土日本人には8.6%、特に西日本人には10%超と超高頻度に見られる日本人最多の
ハプロタイプは、韓国に行くと1.4%、中国華北の北部では約1%ほどしか無いが、モンゴルに行くと
5.9%に跳ね上がる。そうすると日本人最多のハプロタイプはモンゴルあたりから来た北方新モンゴ
ロイドと分かり、韓国人や中国人とはあまり関係が無い人類集団である事も同時に分かる。北方新
モンゴロイドは、まず中国系とアルタイ系に南北に分かれ、更にアルタイ系はトルコ系、モンゴル系、
ツングース系に分かれた事が知られているが、本土日本人はこの中のモンゴル系に近い事が分かる。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm しかし、宝来のmtDNAで日本人のmtDNAを見てみると、それは韓国人によく見られるタイプと中国人に
よく見られるタイプの複合体でしか表されておらず、それが肝心のモンゴル系である事が一切出てこ
ない。つまり、mtDNAでは北方新モンゴロイドは全て韓国人によく見られるタイプと中国人によく見られ
るタイプの複合体としか識別できず、それ以上の種類までは識別できない非常に性能と精度の低い
遺伝学材料であるようなのだ。
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm 何も知らない人間がこんな性能と精度の疑わしい材料で日本人の人種系統を見たらどうなるだろう。
日本人は土着系と韓国人と中国人の混合体といとも簡単に錯誤してしまうではないか。
そういった意味でも宝来のmtDNAは危険極まりない粗悪な遺伝学材料と言わねばならないだろう。
329 :
日本@名無史さん :2005/03/28(月) 23:43:56
3世紀の庄内→布留の時期の文化・政治的変化は良く語られているけれど、 4世紀末〜5世紀初頭の変化は蔑ろにされている観がある。 4世紀末より石津川上流域の陶邑(現在の泉北ニュータウン)で、 須恵器が大規模に製造されるようになるという激変は、もっと重要視されて 良いと思うのだが。 石津川流域の重要性が増したからこそ、百舌耳原に巨大古墳が造営されたん だろうし。 新政権の発足、と考えてもいいのではないだろうか。
330 :
日本@名無史さん :2005/03/28(月) 23:52:59
4世紀末。この時期に百舌、吉備、葛城に巨大古墳が現れる。 西都原もこの頃。倭国の半島出兵も。 これは、記紀が語るところの、応神以降の政治状況とも符合する。 神功の三韓征伐、吉備の内乱伝承、葛城系豪族と大王家との抗争。 4世紀末に大和政権内の権力移動、政権交替があったのでは ないだろうか、と考える。
331 :
日本@名無史さん :2005/03/29(火) 00:01:02
前方後円墳、という形、葬送儀礼を重要視し過ぎてはいけない。 「前方後円墳が画期であって、それ以前の畿内在地勢力の方形周溝墓とは断絶 がある以上、畿内とは別勢力。 「河内に巨大古墳を造った勢力は、前方後円墳を引き継いでいる以上、 3世紀の畿内政権がマキムクから移転したに過ぎない」 なんて単純なな物の考え方か、と思う。 考古学のみで古代史を語る場合の、これが限界なのかもしれないけれど。 方形周溝墓の人々が古墳祭祀に感化され、前方後円墳を造ることもあるだろう し、前方後円墳とは違う勢力が前方後円墳の祭りを引き継ぐこともあるだろう、と。
332 :
日本@名無史さん :2005/03/30(水) 00:12:11
333 :
日本@名無史さん :2005/03/30(水) 22:49:05
ひとつ言えることは、群雄割拠であった3世紀初めの倭国で、 政治勢力の大規模な移動は考え難い、ということ。 倭国が軍事的統一をみるのは、もっと後代、おそらく応神以降のことだろう。 すでに畿内在地勢力が居座る奈良盆地に、北部九州勢力が衝突もなく平和的に、 集団移住したなんて、常識では考えられない。マキムクと唐古・鍵は直線距離 で5キロしか離れていないのだ。 もし北部九州が畿内に侵入したとするなら、それは軍事行動による結果 であった筈で、少なくともそのような大規模な戦争の跡は見つかっていない。 また倭人伝でも、諸国が女王を共立して連合した、と書かれている。 交易圏の拡大→広域の地域紛争の調停者として、当時、宗教的権威であった ミモロ山の女王が選ばれたわけだ。
334 :
日本@名無史さん :2005/03/30(水) 23:00:45
3世紀、女王共立による邪馬台国体制が生まれて、 倭人たちは初めて「倭国=ひとつの国である」という認識が芽生え 出したのだろう。 吉備や四国、東海、丹波、北部九州なども、急速に文化の同一化が 進んでいったのだと思う。
335 :
日本@名無史さん :2005/04/03(日) 12:06:55
井沢元彦はの古代編は、日本の古代史学会の偏狭で非科学的な似非アカデミズムをジャーナリストの立場 から批判する、そういうスタンス。宇佐説は、邪馬台国九州説に止まらず、九州の独自勢力説も見越して のものだということは、読めばわかる。 それと、九州王朝説は、古田だけのものではない。まあここに巣くう厨房どもが古田や安本の精緻な学説 を批判しようにも読んでもいないのはもろバレなわけだが、声高に人を批判する、レッテルを貼るなどを日 常茶飯事にする連中ほど自分に自信がないということはまあ社会常識だしね。他にも九州勢力に言及す る学者は沢山いるんだよ。ただすぐに電波扱いする狂人が徘徊する世俗離れした学会だから、他の事で も良心的な人で首をすくめている人は非常に沢山いるということもしっとけよな。いつまでもこんな所でチン カス扱いされるのも嫌だろ?ん? 橿原研も末永先生の頃は良かったよ。大学者とはかくありたいものだと思ったね。
336 :
日本@名無史さん :2005/04/03(日) 12:09:54
三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説 三国志のストーリーと登場人物は全て司馬遷の捏造であるというのが中国も含む世界中の歴史学者の通説
337 :
日本@名無史さん :2005/04/03(日) 12:17:37
>>335 >他にも九州勢力に言及す る学者は沢山いるんだよ。
考古学を専門にやってない学者のことだろ。
畿内説には、まず、倭王武の王都を見つけて欲しい
九州説にはその王都を見つけてほしい。各時代のね
奈良県橿原市の曲川遺跡で見つかった大型方形周溝墓は、すべて後世に削平 されていたんだよね。 大和でもやはり、すでに弥生時代中期に、王に近い人間が存在していたわけだ。 北部九州東遷説が主張していた、「畿内に大型の個人墓が見つからないことから、 王権の発生は無かった」という仮説は、徐々に崩れつつある。 やはり、畿内在地勢力が中心となって、西日本大連合が成立しマキムクを建設、 それが初期ヤマト政権となったのだろう。
341 :
日本@名無史さん :2005/04/29(金) 22:55:12
age
342 :
日本@名無史さん :2005/04/29(金) 23:22:15
B44-DR13は日韓に共通した約5%ほどと同等の頻度で見られる遺伝子で、 特に中部地方が世界最高頻度の10%超と極端に飛びぬけていて、この周辺に の土着系の縄文人の遺伝子であったと考えられる。 しかし日本人は弥生人の遺伝子と見られるB52-DR15(B52-DR2)が最多で、 とくに西日本では10%超と極端に飛び抜けている。しかし韓国人には、 このB52-DR15がたったの1.4%しかなく、逆にモンゴル人は約6%ほどに 跳ね上がり、西日本人とモンゴル人は共通した祖先を高頻度で持っている 事が確実となる。 しかし、韓国人には日本から渡った縄文人の遺伝子と見られるB44-DR13が 最多なのである。 これはなぜか?
343 :
日本@名無史さん :2005/04/29(金) 23:27:04
それは、韓国人が大陸の様々な系統の新モンゴロイドを祖先に持つ 雑多な民族だからである。朝鮮半島は大陸につながっているから 当然と言えば当然である。 本土日本人は単一系統の新モンゴロイドが人口爆発を起こしたとしか 考えられない10%を超える極端に高頻度なB52-DR15を西日本を中心に 持っているが、韓国人は土着系のB44-DR13の5%が最高。 つまり、日本人は土着系(B44-DR13)を基礎に単一系統の新モンゴロイド (B52-DR15)が人口爆発して土着系の頻度を上回って大和民族が形成されて いったと考えられるが、韓国人は土着系(B44-DR13)を基礎に多数の系統の 新モンゴロイドが寄せ集まって朝鮮民族が形成されていったが、その一つ一つ の系統が土着系の頻度を上回らなかったためと考えられる。 なお、日本人と韓国人のHLA遺伝子は6割も違っている。
344 :
日本@名無史さん :2005/04/29(金) 23:30:38
日本が古代朝鮮を支配していたのは歴史的事実である。 日本側の資料だけでなく中国や朝鮮側の資料でもそれは裏付けられており、動かしがたい事実だ。 要するに古来から朝鮮は日本固有の領土であった。 だから第二次世界大戦の時に日本が朝鮮を併合したのも、もともと日本固有の領土であった朝鮮を日本が取り戻しただけであり、道義的にも法的にも何の問題もない。 朝鮮民族は日本人に支配されて当然なのだ。 具体的な歴史資料を見るとまず中国では「宋書倭国伝」で倭国王を「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」としており、明確に日本が朝鮮を支配していることを認めている。 朝鮮側の資料でも「好太王の碑文」で「倭が百済や新羅を破り支配した」と明記している。 日本側の資料でも「古事記」や「日本書紀」で神功皇后が百済、新羅、高句麗を破ったことが記されている。 それぞれ異なった人物によって書かれた歴史資料に同一の事実、つまり日本が朝鮮を支配していたことが明記されている。 日本が朝鮮を支配していたのは火を見るより明らかだ。
345 :
日本@名無史さん :2005/04/30(土) 01:03:45
>>340 大体、唐古鍵やら池上曽根とか、大規模な弥生遺跡が畿内にあるにも
関わらず、ことさら畿内在地勢力を過小評価。
マキムク以前と以後に断絶があるとしていた、東遷説の連中の論理展開に
無理があったんだよ。
3世紀初頭の倭国はいまだ群雄割拠の時代。
北部九州が畿内を征服して、西日本一帯を支配する統一王権を築いたなんて、
夢想に過ぎない。文献や考古学の証拠を出して欲しいものだ(神武東征[伝承]は
勘弁して下さいねw)
ヤマト政権の大王が、軍事的統一者として立ち現れてくるのは、4世紀末。
応神以降のことだろう。
346 :
日本@名無史さん :2005/04/30(土) 05:30:42
畿内派も九州派もケンカするなよ。みぐるしいぞ。神武は宮崎県の卑しい身分の 小土豪の子だよ。たぶん。古事記にも倭国はでてこない。
347 :
日本@名無史さん :2005/04/30(土) 05:36:32
倭王武の都は八女だ。イワイが彼の甥か子なら。間違いない。
349 :
日本@名無史さん :2005/05/01(日) 21:27:51
考古学重視の畿内説スレあげ。 九州説や九州王朝説のアラシに負けるな!
350 :
日本@名無史さん :2005/05/03(火) 03:32:45
大和説も九州説も共存しないのか。馬鹿スレだぜ。
351 :
日本@名無史さん :2005/05/03(火) 03:42:20
日向人神武天皇の子孫は、物部王朝を10代かけて滅ぼして近畿を統一。 これが崇神天皇。
352 :
圭角 :2005/05/03(火) 08:05:41
畿内王朝すなわち大和政権の誕生と発展という本スレの主題に沿して言えば、 経済力において大和が伸長拡張拡大したという経緯の考察が主眼ではないかと思う。 いわゆる経済史観が重要であると申し上げたい。 当時の軍事力は兵力つまりは兵数の多寡つまりは人口、人口は食料生産力の大小。 さらには地勢。気候。つまり、畿内大和は台風直撃の可能性は九州より大変少ない。 よって翌年の種籾にも腐心することもないことは、非常に恵まれたことです。 さらには、北部九州の国々が夫々の川に各々のクニが存したのに比して、大和は、 大和川の一本の水系にクニグニが生まれた。古来、治世は治水のこと。なんとなれば 大和は脆弱な九州の邪馬台国連合よりも強権的な国が醸成されたとして自然。 大阪平野に進出した大和が服属させた住吉水軍は、軍事的支配経緯考究にて重要。 当時、陸路進行しての軍事的勢力拡大はほぼ無い。瀬戸内の海が経済発展軍事力展開 の経路。卑弥呼の死を契機として入手量が増えた鉄器も、大和の拡大における大切な 要因要素。瀬戸内沿岸部陸地の制圧を西へ西へと展開。楽浪郡の滅亡による高等知識 保有難民の大和への大量流入による知識技術の取得が他の地域を凌駕したのも主因。
353 :
日本@名無史さん :2005/05/03(火) 13:44:04
畿内勢力は戊辰戦争でも九州を中心とする勢力に敗れてるな。 この戊辰戦争と同じことが神武東進の時にも起こったのではないか。 つまり、大陸情勢を察知した九州勢力は「このままでは日本は外国勢力に侵略されてしまう」と危機感をつのらせた。 そして外国の侵略に対抗しうる「強い日本」を建設するために東進し中央政府を樹立した。 戊辰戦争もほぼ同様。つまり歴史は2度繰り返されたのである。 畿内が九州を制圧したとする説は大和政権が編纂した記紀に繰り返し「東進」の話がでてくるので信憑性がない。
354 :
日本@名無史さん :2005/05/03(火) 15:35:00
>>353 ほぼ同意なんですが、あなたはその「東進」が起きたのは何世紀頃だと
思っていますか?
私は4世紀末。外圧というのは高句麗南下によるものだと思います。
百舌鳥古墳群は、九州から来た王族が作ったものでしょう。
弥生期の河内と大和じゃ、どう見ても河内>大和だろ。 河内の勢力が大和川上流に進出したんだよ。
>>355 大雑把だなあ。
じゃあ、唐古鍵も河内勢力が造ったの?
357 :
日本@名無史さん :2005/05/03(火) 16:00:43
東進はうそだ。邪馬台国東進ならナガスネヒコに勝てた。 神武は文献どうり文化の遅れた宮崎の小土豪の子でいい。
358 :
日本@名無史さん :2005/05/03(火) 16:04:18
355、356それこそ物部氏の旧日本国だ。河内の国王の物部氏が、 北大和の豪族を従えるのに、土豪の一人の登美氏を案内役にした。
>>358 「ひのもとの日下(クサカ)」ですね。
生駒山麓にニギハヤヒ(太陽神)を祀る物部王国があった、というのは
確かに面白い説です。
でも、あまり神話解釈に偏り過ぎるのはどうか、と。
銅鐸やマキムク王権との絡みで、具体的な成立年代等を書いて
もらえれば。
360 :
日本@名無史さん :2005/05/04(水) 04:08:57
日下物部王朝が栄えたのは2世紀。神武が来たのは2世紀後半だ。 天皇家が近畿を征服して物部王朝が滅んだのは3世紀後半。
>>360 出来れば、その推定年代の根拠を述べてもらえれば。
362 :
日本@名無史さん :2005/05/04(水) 15:24:16
銅鐸が2世紀に大和盆地でいち早く消滅する。
363 :
日本@名無史さん :2005/05/14(土) 14:57:59
age
364 :
日本@名無史さん :2005/05/20(金) 13:02:58
保守
age
366 :
日本@名無史さん :2005/05/26(木) 22:24:36
保守
367 :
日本@名無史さん :2005/05/29(日) 00:33:24
∧_∧ ( ・∀・ ) < レス待ってまーす / _ノ⌒⌒⌒`〜、_ ( ̄⊂人 //⌒ ノ ヽ) ⊂ニニニニニニニニニニニニニニ⊃
368 :
日本@名無史さん :2005/05/29(日) 00:40:35
ト、____,.ィ / , ‐v‐-、ヽ 一ちょ前に週末お泊りか? | { -`'´ - } l <彡 _又_ .>ミ、 .ヽ -.<'' / 丶' ヽ::: / ヽ / /::: / /へ ヘ/ /::: / \ ヾミ /|::: (__/| \___ノ/:::
369 :
日本@名無史さん :2005/05/29(日) 01:47:01
関西ってチョンの坩堝なんだろ?
>>352 畿内に楽浪系土器は全く無いのだが、、、
371 :
日本@名無史さん :2005/06/13(月) 14:56:58
楽浪郡の影響って、九州ならあるの?
銅鏡などの中国文化の選択的受容は楽浪との交渉、交易の結果だろ? 三雲遺跡などの伊都国の遺跡に楽浪土器が多数出土しているのを知らんのか?
373 :
日本@名無史さん :2005/06/30(木) 22:44:08
375 :
オオヤマト古墳群の保護・活用を求める声明 :2005/07/23(土) 22:41:14
奈良盆地南東部の山麓地帯に展開するオオヤマト古墳群は、全長300〜100m級の古墳が密集するという特徴をもち、日本列島における初期の王権・国家の成立過程を解明するうえで、欠くことのできない文化遺産である。 その重要性に鑑み、日本考古学協会は学術的な重要性と歴史的・文化的景観保全の観点から2004年度第70回総会においてオオヤマト古墳群の国史跡指定を求める決議を採択している。 また、古墳群の一画で推進されている県道バイパス「天理環状線」建設計画について、道路建設計画の見直しを求めるとともに、史跡指定を含めた古墳群の保存・活用についても要望してきたところである。 しかしながら、県道バイパスの建設計画は見直されることなく、古墳群の将来にわたる保全・保護について何の施策も示されないまま道路最終区間の工事着工に至ったことは、極めて遺憾と言わざるを得ない。 新設道路の完成後は、古墳群と周辺地域が新たな開発の波にさらされ、歴史的景観の改変を受けることのないよう、行政的な立場から適切な措置を講じることが、是非とも必要である。 今、行政当局において新設道路に近接する「ヒエ塚古墳」「ノムギ古墳」「マバカ古墳」を早急に史跡として整備するとともに、歴史的・文化的景観を将来にわたって保護・活用していくための方針を示し、実効的な施策をを強く求める。
376 :
日本@名無史さん :2005/07/23(土) 22:56:28
>>327 しかし、神社の建立が始まったのがその頃だからしかたないでしょう?
そりゃ3世紀に神社作る習慣があったならそれは正しいと言えるが
神社の建立が遅いんだかあまり説得力がない。
377 :
馬耳 :2005/07/23(土) 23:38:31
>>376 三世紀、もう三種の神器もそろっていたころだから、「神社」風のものはあってもおかしくはないでしょう。
378 :
がいやまん :2005/07/24(日) 10:47:45
神社のできるのは平安中期頃とされるので、仏教寺院の影響を受けてできたものでは ないかと思われるが、崇神が宮殿内で鏡を祭っていたというのだから、公的なものでは なく皇室専用の神社というのは皇居に内蔵されていたのかも。弥生の神殿というのもあ るが、まだ神道などはない時代だから神社とは呼べないのだと思う。
379 :
がいやまん :2005/07/24(日) 11:48:08
380 :
日本@名無史さん :2005/07/24(日) 13:39:22
>>377 宇佐にそういった「神社」風のものがなかったという
なら宇佐は否定されるかもしれませんが、そこまでは言えないでしょう?
381 :
日本@名無史さん :2005/07/24(日) 13:56:48
っていうか宇佐決定!!
畿内王権があったことは確かだと思う。 でもそれを中国側が「倭国」と呼んだ国々に含まれるかと言えば、それはどうでしょう? 当時の人口や軍事力と地理的距離を考えたら、九州と畿内が同じ政治領域におさまるのは 相当後の時代でないと無理だと誰が考えても分かりそうなものだが。 とくにマキムク厨がウザ過ぎ。馬鹿の一つ覚えとはこのことではないでしょうかw
383 :
馬耳 :2005/07/25(月) 20:23:58
>>382 三世紀初頭になると、前世紀中、瀬戸内で積極的に活動していた三韓系勢力が排除され、
瀬戸内と玄界灘との交易も倭人主導になったとみなせる痕跡(三韓系生活土器出土の消滅)があります。
これは、政治的にも大きな変化(西日本ブロックの成立)があったことの傍証でしょう。
384 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:21:02
cc
385 :
日本@名無史さん :2005/09/01(木) 23:54:20
386 :
日本@名無史さん :2005/10/05(水) 22:34:15
銅鐸が2世紀に大和盆地でいち早く消滅する。
387 :
日本@名無史さん :2005/10/26(水) 01:55:58
そうなの?
388 :
弥生人 :2005/10/26(水) 08:52:01
銅鐸って叩いてもしょぼい音しか出なかったので ヒット商品にならなかった。仕方がないから埋めてしまった。 今は反省している。
自己解釈なんですけど、もともと出雲・吉備・畿内あたりにある程度まとまった勢力があって(その頃九州はまだ小競り合い中) まず祭祀国家の出雲が、畿内勢力と利害関係(貿易・鉄)でまとまり、その後背後を固めた後、吉備を吸収し、最後に九州の持ってる 中国とのラインおよび倭国王の称号が欲しいために九州と統合ここでお互いの宝を出し合って三種の神器とし、連立して大王(天皇) を立てたと解釈してるんだけど、誰かこのような説出してる学者さんいますかね? 居れば興味あるんですけど。。。 別に煽るつもりはないんでお手柔らかにね、自分と同じ考えの方(有識者)が居られればその方の著書など読みたいだけなんで。 詳しい方お願いします。
390 :
がいやまん :2005/10/26(水) 11:25:17
そういう風に分けるのはいいと思うが、その場合、北西九州、吉備、畿内、出雲あたり に拠点があるようですね。北西九州は甕棺、支石墓、弥生発祥の地でもあり、一番 古いのですが、記紀、倭人伝などでは重点が置かれていない。記紀はかすかに日向、 倭人伝はかすかに投馬国というところに力点を置いている。何故、北西九州の力が 衰えたのか、吉備、畿内、出雲の力が起きるのかは不明ですが、畿内において耕地 面積が増加したことと関係があるのかなーと思います。北西九州の勢力は地に落ちた が、銅鏡分配制度、太陽崇拝など宗教、政治的なシステムは畿内に移されたようですね。 これは山陰、山陽の海人族が媒体となったのではないかと思います。中国は、偶然にも、 後漢から三国へと移り変わる時代であり、基本構造は全く異なるが表面的にはよく似た 状況下にあり、狗奴国なども中国でいえば呉とか、蜀のような仮想敵国とされたので はないかと。これは記紀で言う出雲に対する国譲り運動を指していると思います。
391 :
日本@名無史さん :2005/10/29(土) 03:35:48
ハワイの縄文遺跡は〜?
392 :
がいやまん :2005/10/29(土) 12:55:36
ハワイよりはるか南方、オーストラリアの東のバヌアツから秋田県のある地域の 縄文土器が畑の中から発見されたという話がありますが、例の、捏造事件以後 この話は止まっているようです。武蔵丸がサモア出身、曙は地元だったと思います。 小錦も地元かなー。武蔵丸のヘッドアップはイースター島モアイ像と同じですね。 ハワイのフラダンスは阿波踊りと同じように腰を固定し、上半身と、下半身の神経を 独立させて踊るというところが同じですね。インド舞踊にもこうした器官の独立運動の 技を見せるものがあります。
393 :
がいやまん :2005/10/29(土) 13:14:54
ハワイにココナツジュース貯蔵用の土器を売り込むのはエスキモーに冷蔵庫を 売り込むのと同様の問題があろうかと。セールスマンがアフターサービスで イグルーを訪問し、問題ないですかとたずねたら、「フリーザー製氷器に嵌るように 氷を細かくカットするのだ面倒だな」といわれたとか。
落ちるよ
396 :
日本@名無史さん :2005/11/20(日) 23:29:22
堕ちないよ
397 :
日本@名無史さん :2005/11/21(月) 12:37:47
バヌアツの縄文土器について バヌアツが日本領だったころ、本土からはこんだ土に縄文土器が偶然混じっていた ということに落ち着いているようです。
>>383 弥生後期から終末期に、瀬戸内や近畿では三韓系土器はそんなに出てないよ。というかごくわずかしかない。
それなのにそこまで言うのは無理だよ。
399 :
日本@名無史さん :2005/12/10(土) 10:39:51
パラグアイ
400 :
日本@名無史さん :2005/12/10(土) 23:24:14
なぞの古代の日本の勢力形態は、中世の日本の勢力形態と同じということらしい。 基本的に、日本は国土の80%が山間部である島国であり 稲作農耕の人口密集地帯だ。こういうところは、 農耕社会を通じて、同じような歴史を繰り返すらしい。 例えば、戦国時代、畿内・濃尾の織田家と、瀬戸内海周辺の毛利家が 事実上、覇権をかけて戦っていたが、 同じく3世紀も、畿内・濃尾の狗奴国(大和王権)と 瀬戸内海周辺の邪馬台国(吉備)による覇権争いだったらしい。 その後、中世では、豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたが 古代でも、応神天皇が朝鮮出兵したていたとか... また、最後のクライマックスとして 中世では、関が原の戦いがあったけど 古代では、壬申の乱が不破の関(後の関が原)であった。
古代では継体戦争の方が・・・
402 :
日本@名無史さん :2006/01/08(日) 17:08:32
うほ
403 :
世界@名無史さん :2006/01/08(日) 18:04:50
紀元前の日本では、すでに広大な政権が存在していたのでは? 弥生時代の始まりが紀元前10世紀に遡るといわれているから。 弥生時代を全体的に見直すと聞きましたよ。
404 :
日本@名無史さん :2006/01/15(日) 20:51:54
あげ
>>405 重複じゃないよ。
だって、ここは九州王朝なヤシが起てた九州王朝の滅亡を騙るスレなんだから。
>>1 を参照のこと。
壬申の乱以前は創作だって!
408 :
横から失礼します。糸 :2006/02/24(金) 15:51:57
ビッグニュース、速報です。
邪馬台国の女王の都跡が遂に発見されました。
福岡県前原市から一辺57mの方形区画溝が出土しました。
近くに倭国王帥升の王墓をふくむ32基の弥生王墓群があります。
さらに王都の伊都を囲む大溝も各所に発見され、
吉野が里のような大環壕溝を有する都市だったことが伺えます。
西暦元年辺りから四世紀頃までの都と見られます。
まさに邪馬台国、倭国、倭の女王の時代に重なります。
ここからはすでに日本一の銅鏡と勾玉、剣の三種の神器、それに
管玉など宝玉類が数千個も出土しています。正式発表はこの春のようです。
参考HP 中段お知らせのトップ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/yamatai.html
409 :
日本@名無史さん :2006/03/24(金) 11:58:06
410 :
日本@名無史さん :2006/04/08(土) 21:10:53
uho
maintenance
412 :
日本@名無史さん :2006/05/20(土) 11:48:36
畿内王権があったことは確かだと思う。 でもそれを中国側が「倭国」と呼んだ国々に含まれるかと言えば、それはどうでしょう? 当時の人口や軍事力と地理的距離を考えたら、九州と畿内が同じ政治領域におさまるのは 相当後の時代でないと無理だと誰が考えても分かりそうなものだが。 とくにマキムク厨がウザ過ぎ。馬鹿の一つ覚えとはこのことではないでしょうかw
>>412 > 畿内王権があったことは確かだと思う。 <当然正解>
> 中国側が「倭国」と呼んだ国々に含まれる <これなら正解>
> 九州と畿内が同じ政治領域におさまるのは後の時代でないと無理<これも正解>
> マキムク厨がウザ過ぎ。 <まあ正解w>
当時の倭の状況
○九州王権は畿内王権に対して経済的、軍事的、文化的に優位していた。(鉄器等の考古学的所見)
○九州と畿内は遠隔の交易相手として友好関係にあった(軍事的、社会的な緊張状態を呼ぶ地理環境にない)
○九州王権は漢代から朝貢国の立場にあった(既に中国皇帝の支配領域)。(中国側文献)
○司馬懿東征によって中国皇帝の支配領域は拡大したことになっている。(魏志東夷伝序)
つまり、魏の朝鮮半島回復の副産物として倭に対する知見も増し、新たに畿内王権の存在が知れた。
九州王権の朝貢では、従来の旧領回復に過ぎないが、畿内王権が相手なら朝貢取付者の貢献度も高まる。
よって、帯方郡は伊都国王を通じて畿内邪馬台国に朝貢させ、
過大な国力を捏造し、東夷の大国として西の大月氏並に親魏倭王を授けた。
これにより対中国での名目的力関係は九州<畿内のように扱われたが、
倭国内での実質的力関係は一大率の存在でも推測できるように逆のものであった。
414 :
日本@名無史さん :2006/05/21(日) 02:58:20
池上曽根遺跡についての都市論争を調べることになったんだけど、検索しても論争自体をされてないみたいで煮詰まっています。。 そもそも「都市論争」ってなんですか??すごいばかですいません。教えてください!
416 :
日本@名無史さん :2006/06/21(水) 22:10:25
戦場伝説
417 :
sage :2006/06/29(木) 20:23:13
「 土地は湿地多く、虫けらどもの群がり生じ、瘴気のたちこめた風土。蛙と亀は穴を 共にし、人と鳥は群れを同じくしておる。ざんばら髪の君には長者の相なく、 入墨(いれずみ)の民は貧相な体つき呉人の亡者、建康(今の南京)に住まいし、 ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。おのれを阿イ農{人ベンに農}(おいら)と言 ふた言めには阿(お)、お{返事などの時}の連発。菰(まこも)の芽と稗(ひえ)が 代用飯、茶が飲物代わり。じゅんさいの羹(あつもの)をガブガブ、蟹の黄(こ)を クチャクチャ。手には豆寇{共にクサかんむり}(ずく)をつかみ、口にはビンロウを噛 む。中州のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実、蓮の根にかじりつき、 鶏頭(みずふき)フキを採り歩いて、蛙やアサリの吸い物のご馳走。 」 * 六世紀に書かれた「洛陽伽藍記」より * 華北出身の楊元慎が、江南出身の高官張景仁を批判した言葉です、 まるで現在の日本人が、批判されてる様な気に成りませんか、どれも美味そう!
418 :
日本@名無史さん :2006/07/03(月) 20:02:12
>>413 九州と畿内がなかよかったら弥生後期の鉄器の量が
圧倒的に畿内が少ないことできませんが。畿内だけが
鉄が腐って残らなかったというのはおかしい。
419 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 21:11:50
そうかね?
420 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 01:49:07
巻向ってもう発掘しないの?
421 :
日本@名無史さん :2006/08/22(火) 11:36:59
するよ
422 :
日本@名無史さん :2006/08/22(火) 15:59:13
数カ月前に機内の土壌は鉄が酸化しやすく残り難いという新聞記事を見たが、実際のとこどうなの?
425 :
日本@名無史さん :2006/08/27(日) 00:17:13
邪馬台国やっぱり畿内?有利な証拠集まる 古代史最大の謎とされる邪馬台国の所在地について、「畿内大和説」に有利な“証拠”が、近年の発掘調査で集まってきた。 邪馬台国が存在した時代(3世紀前半〜中ごろ)に築造されたとされる奈良県桜井市のホケノ山古墳(全長80メートル)を 中心とする大和地方の古墳と瀬戸内地方東部などの古墳との間に強い結びつきがあったことが明らかになりつつある。 2000年に発掘されたホケノ山古墳は、〈1〉墳丘が前方後円形〈2〉木槨(もっかく)内に木棺を納めた二重構造の埋葬 施設〈3〉画文帯(がもんたい)神獣鏡など中国鏡の副葬――という三つの特徴があった。 一方、今年3月、徳島県教委などが調査した同県鳴門市の萩原2号墓は埋葬施設は未確認だが、全長25メートルの前方後円 形で、3世紀前半の築造。その南50メートルにある同時期の萩原1号墓からは1979、80年の発掘で画文帯神獣鏡が出土 している。埋葬施設は二重構造とみられている。 (読売新聞) - 8月22日16時59分更新
426 :
日本@名無史さん :2006/08/27(日) 01:08:12
火山のある九州と無い近畿、土の質はかなり違うだろうな。
427 :
日本@名無史さん :2006/08/27(日) 01:15:35
富士山もなー
428 :
日本@名無史さん :2006/10/22(日) 21:21:51
画文帯神獣鏡は中国産なの?
中国製も日本製もある。
430 :
サガミハラハラ :2006/11/03(金) 15:39:49
・先進地域九州へのあこがれ。 大和朝廷が九州を支配下に置いたが、そのときの進んだそして華やかな九州の文化をみて、自国にとりいれようとした。 その結果のひとつが鏡への異常なまでの執着であり、前方後円墳である。かれらは、卑弥呼の墓(全長50m以上)以上の墓をつくろうとしたのである。 彼らは卑弥呼の墓を見たのであろうか?
431 :
サガミハラハラ :2006/11/03(金) 15:42:23
訂正 全長50mは全長150mのまちがいです。
432 :
日本@名無史さん :2006/11/30(木) 16:23:42
中国には「三皇五帝」という神話がある。 日本には神世七代があるが、やはり参考にしたのだろうか?
433 :
日本@名無史さん :2006/11/30(木) 18:07:00
そうですね。神代七代より、神代八代のほうが末広がりでめでたいと思いますけどね。
江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、
何で印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の技術が全く伝わっていないのかね?
何で中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字も
伝わっていないのかね?
何で中国青銅器に見られる饕餮文、龍文、鳳凰文、雷文などの
文様の一つさえ伝わっていないのかね?
何で中国土器や中国青銅器を代表する鼎や鬲などの三足器形さえ
伝わっていないのかね?
その他、酒器も玉器も楽器も龍信仰も亀卜も何も伝わっていない。
渡海すると記憶喪失になって故郷の文化は全て忘れてしまうのかね?
何で弥生文化は朝鮮無文土器が影響した弥生土器と細型青銅武器と
支石墓なのかね?
これらは当時の満州を中心とした北方アジアから朝鮮半島にかけての
文化ですよ。
■弥生人中国説を瞬殺&再起不能するスレ■
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/geo/1163847728/l50
435 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 00:23:49
age
436 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 15:18:02
保守
2007/03/14-17:20 類例のない埋葬施設=ホケノ山古墳の「原形」か−徳島県鳴門市の萩原2号墓 徳島県教育委員会は14日、同県鳴門市大麻町萩原の前方後円形の墳丘墓 「萩原2号墓」が、弥生時代後期〜終末期に当たる2世紀末から3世紀初め に築かれたことが分かったと発表した。墳丘から見つかった供献土器片から 判断した。また、埋葬施設は木棺を木の板で覆った木槨(もっかく)に石を 積み上げた構造。全国に類例がない「積石(つみいし)木槨」とみられてい る。 3世紀半ばに築かれ邪馬台国の有力者の墓という説もある国内最古級の前 方後円墳「ホケノ山古墳」(奈良県桜井市)で確認された「石囲い木槨」の 原形の可能性が高く、古墳時代初期の竪穴式石室の起源とも考えられるとい う。県教委は、弥生時代から古墳時代の墓制の変遷過程を知る上で貴重な発 見としている。
438 :
437 :2007/03/15(木) 02:25:40
439 :
日本@名無史さん :2007/03/17(土) 23:51:21
440 :
日本@名無史さん :
2007/03/19(月) 21:41:41