2005年NHK大河ドラマ「義経」その2

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1日本@名無史さん
前スレ 2005年NHK大河ドラマ「義経」(未html化)
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1082186218/

議論が大河から大きく脱線(発展)するようなら↓に移動するのもよい。
平安貴族は何て幸せだったんだろうか
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1029672791/l50
平家はなぜ脆かったのか
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1070426356/l50
【鎌倉】北条氏を語るスレPart2【執権】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1077987969/l50
新田と足利 その3
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1078331105/l50

鎌倉御家人・御内人の総合スレがあってもいいような。
2日本@名無史さん:05/01/26 01:08:45
nida
3日本@名無史さん:05/01/26 01:17:46
三位頼政
4日本@名無史さん:05/01/26 02:40:26
稲森常盤、エロい!
5日本@名無史さん:05/01/26 02:41:42
クソ大河やめろ。
6日本@名無史さん:05/01/26 10:20:50
常盤の中の人(稲森)って一体何歳だろう?
滝沢の母親役にしては見た目若すぎる。
それほど美しいってことかな。
7日本@名無史さん:05/01/26 11:52:43
>>6
えー、稲森は32歳だよ。
一話に出てきた常盤は、史実では23歳くらいだから。
8山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/26 19:44:56
常盤の年齢なんて、分からないでしょう。
保延四年とする『平治物語』の記述も、信じるに足らない。
9日本@名無史さん:05/01/27 00:12:30
初回はあんまオモロくなかってけど、第二回はよかった。第三回は初回よりマシだけど微妙。
先週のネタ、日輪て山王だよね?日輪と聞いた清盛がご機嫌だったけど、叡山と平家って仲良しちゃん?
今週のネタ、『分脈』のような系図w。為義と義朝が兄弟?義仲は既に元服済み?(駒王とでもするべき)
義盛は自分の子らを系図に書かんでいいのかい?奥富先生ってこーゆーとこノーチェックなのかな。
ところで初回の一の谷で、馬を背負ってる武将を探したんだけど、見あたらなかった。畠山重忠は出ないのかw
10日本@名無史さん:05/01/27 00:53:34
馬を背負った話は伝説だよな?
11日本@名無史さん:05/01/27 09:13:55
第四話からはいよいよ、建礼門院・知盛の妻・重衡の妻といった
平家の女性達が登場するのかな?
12山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 10:01:10
>>10
『源平盛衰記』巻三十七です。伝説でしょうね。
13おい!みんな聞いたか:05/01/27 10:10:31
このドラマでは安徳天皇が死なないというとんでもない噂があるぜ!
14日本@名無史さん:05/01/27 11:48:11
安徳天皇が生き延びるというのなら、
義経の北行は二番煎じになるのでやらないと見た。
15山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 13:47:04
>>9
>叡山と平家って仲良しちゃん?
見忘れていましたが、ただの日輪なら特に関係はないのでは?
清盛は延暦寺とは直接対決を避けており、明雲の事で院に清盛が包囲を命じ
られた直後に鹿ケ谷事件が起き、清盛と叡山が事を構えずに済んだのも、事
件自体が清盛の演出だったためという説まであります。
平家一門は、都落ちの際に延暦寺に協力を求めていますが、『六代勝事記』に
よれば、氏神・氏寺と仰ぐ事を誓った程の懇願ぶりであったとか。
16日本@名無史さん:05/01/27 14:17:11
タッキーは初代・赤マフラーになるんでしょ?
17日本@名無史さん:05/01/27 14:20:45
五条大橋での弁慶との戦い あれ史実じゃないんでしょ
18山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/27 14:28:15
『義経記』でも、舞台は五条天神と清水寺という事になっています。
これも史実とは言えませんが。
五条大橋(現在の松原橋に相当)は、当時既に石橋だった可能性もある名橋。
19日本@名無史さん:05/01/27 14:46:35
安徳天皇が硫黄島に逃げて義経がジンギスカンになれば視聴率上がるだろうけどな。w
20日本@名無史さん:05/01/28 01:06:28
今日、書店で立ち読みしてたら、
義経は、義朝の九男だった。八男ではない。
21日本@名無史さん:05/01/28 03:25:46
弁慶は、実在の人物じゃないんですか?
22日本@名無史さん:05/01/28 03:32:46
ガイシュツなら久々ン
当時の京都人は今みたいな喋り方してへんぞ
23日本@名無史さん:05/01/28 07:50:31
弟宮・守貞親王が兄帝の身代わりになって二位の尼時子と共に入水するそうだ。
なんか松坂慶子演ずる二位の尼時子が鬼に思えてきた・・・・
24日本@名無史さん:05/01/28 12:36:02
>20
2説なかったか?
25日本@名無史さん:05/01/28 18:25:29
>>22
今に近い喋り方になったのはいつの時代ですか?
26日本@名無史さん:05/01/28 18:35:05
>>19
そこに琉球王・為朝が参戦!
27山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/28 19:20:34
>>21
『吾妻鏡』には数回登場するものの、ほとんどその他大勢の内の一人。
義経が追討をくらって落ち延びた直後には同行していた様ですが、義経が自害
した時に防戦していた「家人」の中にいたかどうかも分かりません。
案外、途中で逐電していたのかもしれない。
また、『玉葉』ほかの当時の記録には登場しません。
28日本@名無史さん:05/01/28 19:41:59
>>24
俺が見た本では、義朝の男子は、
1.義平
2.朝長
3.頼朝
4.義門
5.希義
6.範頼
7.全成
8.忘れた(乙若)
9.義経
だった。
よく、義経は八男だったが、鎮西八郎為朝に遠慮して、九郎を名乗ったというので
それだったら、9番目の叔父に失礼じゃないか・・・と思ってたけど、
普通に、九男だから九郎と名乗ったのだとわかった。
29日本@名無史さん:05/01/28 20:07:41
四番目のヤツは、「九郎」に辻褄合わせのためあとから作ったと考える傾向もある。
30日本@名無史さん:05/01/28 20:32:42
21です。
>>27さん、有難う御座いました。
31日本@名無史さん:05/01/29 00:53:21
>>10
一応ネタつっこみだから。伝説だからといわれると、五条も・・・といいたくなるけど。
>>15
ありがとんこつラーメン。特に気にするようなことはなかったってことですね。

>>23
入れ替わって安コ帝の中の人が後高倉院になるの?
赤マフっても結局は子孫を皇統に残せないんだから可哀想に。
32日本@名無史さん:05/01/29 03:54:21
>>29
ググッてみたが、義門は実在、早死にしたらすい
33日本@名無史さん:05/01/29 20:52:14
頼朝の叔父、志田義広は義仲に味方しましたが、
義仲が倒れてから自分自身が戦死するまでの約一年、
どこでどのように過ごしていたのか知っている人教えてくだされ。
34日本@名無史さん:05/01/30 00:12:06
第一回(1159〜1160年)
登場人物
義経 2才
義朝 38才
頼朝 14才
全成 8才
義円 5才
清盛 43才
重盛 24才
頼盛 30才
時忠 34才
時子 35才前後
盛国 48才
後白河 34才

未登場人物
義平 20才
朝長 16才
範頼 10才前後
義仲 7才
35日本@名無史さん:05/01/30 00:17:12
第二回(1165年)
登場人物
義経 7才
清盛 48才
重盛 29才
宗盛 19才
知盛 14才
重衡 9才
時忠 39才
時子 40才前後
盛国 53才

未登場人物
頼朝 19才
範頼 15才前後
義仲 12才
頼盛 35才
忠度 22才
維盛 9才
教経 6才
後白河 39才
36日本@名無史さん:05/01/30 00:21:22
滝沢9才の役だったのか。
第三回(1165〜1167年)
登場人物
義経 9才
清盛 50才
重盛 31才
頼盛 37才
時忠 41才
時子 42才前後
後白河 41才
行家 20代後半

未登場人物
頼朝 21才
範頼 17才前後
義時 5才
義仲 14才
忠度 24才
維盛 11才
教経 8才
37日本@名無史さん:05/01/30 01:40:04
後白河、、、清盛よりも年下だったのか。そうは見えないにゃ
38日本@名無史さん:05/01/30 06:38:08
大河ってまだやってるんだ!ビックリ。
39日本@名無史さん:05/01/30 10:09:31
そしていよいよ今日で第四回
40騎馬武者:05/01/30 11:46:25
いよいよ上戸彩がでるぞウツボみたいに歯がスキッ歯でチン子かりかりされる滝沢。
稲盛まん汁。
41日本@名無史さん:05/01/30 12:00:26
上のほうで、登場人物の年齢書いてくれているから見たら
頼朝と宗盛って同年齢なんですね。
宗盛は平治の乱で戦に出なかったのかな、
戦の経験があれば、後世あれほどヘタレに見られなかったかも。

42日本@名無史さん:05/01/30 12:25:03
■モーニング娘、小川麻琴
(創価学会製仏具を身につけて手を合わせている)
http://www.domo2.net/bbs/image/1093272877.jpg
創価学会 三色旗の意味
http://www.phoenix-c.or.jp/~yucchi/soka/sansyoku.htm
吉澤ひとみ=カルト創価学会員
http://www.geocities.jp/fivescope0901/yosi_souka.html

◆創価学会員による犯罪が多発する理由
http://www.asyura.com/2002/bd18/msg/406.html
久本雅美が「信心してよかった!」と泣く動画  8MB
http://ahiru2.zive.net/joyful/img/4039.zip

適当にググって見ますた
43義経:05/01/30 14:24:07
>>41
平治の乱の時は、平家1000騎に対して義朝200騎+その他600騎位。
戦力的に平家の方が圧倒的に有利。
また、清盛には頼盛、教盛、経盛、重盛などの頼れる一族が沢山いたので、
13歳の宗盛まで引っ張りだす必要はなかった。
一方義朝の方は保元の乱で一族のほとんどが死んだので
13歳の頼朝まで必要な戦力だった。
と個人的には思っている。
44山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/30 20:09:53
『吾妻鏡』に、頼朝が「あいつは臆病者な上に泳ぎが上手いから、生き残っ
たのを捕まえて来い」と言ったという逸話が出て来るほどですから。
13歳という年齢は、軍記物ではまだ幼稚扱いされる年齢ですね。
数合わせというより、義朝と清盛では、育った環境と場数が違ったのでし
ょう。私戦の多い世界だったという事で。
45山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/30 20:49:09
・「僧兵」という言葉が登場するのは近世の筈。
・清盛は出家後は「清蓮」→「浄海」 ・剃髪したのなら、髭も剃るべき。
・時子は尼そぎでいいでしょう。完全な剃髪は、老齢になってからで。
・上皇、当時は病気や老齢を理由に出家するのは習慣的なものでは?
・鬼一法眼等の格好などを見ていると、風俗考証は名前だけという気が。
・真昼間から町中で盗人・・・。 

突っ込むところは、まあこんな所でいいでしょうか。
46日本@名無史さん:05/01/31 01:36:53
てゆうか、
平治の乱の前頃は、
平家は京都が本拠地で、嫡男宗盛をはじめ一族が京都に住んでいた。
源氏は、関東が本拠地で、嫡男頼朝は、父義朝に連れられて京都へきていた。
京都滞在中に乱が起こったから、父と行動をともにした、てゆうことじゃないのかな?
47日本@名無史さん:05/01/31 02:37:57
頼朝は平治の乱以前に後白河院の姉である上西門院の蔵人に
なってるから、京都で活躍してるのが明らかでつ。

当時関東の義朝所領の管理をしてたのは義平。
48日本@名無史さん:05/01/31 03:39:12
>>47
>>上西門院の蔵人に

頼朝は13か14くらいで、もう一人前の仕事をしていたんですね。
ところで、
歴史に詳しい人と見込んで、質問をひとつ。
清盛は、義朝の遺児を、頼朝以下全員助命してやって、情け深い武士だったようですが、
中でも、頼朝は、源氏の嫡男と自他共に認める重要人物。
この子の命を助けるのは良しとして、
1)どうして、強制出家させ僧にしなかったのだろうか?
2)どうして、源氏の本拠地で、源氏に忠誠心を持つ武士も多い関東へ流したのか?
九州あたりに流しておけば、関東の武士団が不平不満を持っていても、担ぐ神輿もなく、
不平分子はひとつづつ潰して、平家の栄華はもう少し続いていたような気がするのだが。

清盛が、源氏の嫡男をあえて関東へ流した理由は、どんなことが考えられるのだろうか。
49日本@名無史さん:05/01/31 03:45:44
三輪明宏が単なるおっさんに見える、時代考証無視の装束は、いかがなもんかと。
50日本@名無史さん:05/01/31 05:31:24
>>47
金で官位を買ったんだよ。
仕事はしていない。
51日本@名無史さん:05/01/31 06:38:46
>>48
しかも頼朝の配流先の伊豆の国司は、摂津源氏の源頼政。
頼朝の伊豆配流は、頼政の傘下の嵯峨源氏渡辺党が船で運んだとも。
後に頼朝の元を訪れる文覚は、元は遠藤盛遠といい、やはり渡辺党の武士。
伊豆は、摂津源氏にとっては容易に行き来出来る地でもあった。
52山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/31 08:35:58
少なくとも、若い頃は相馬御厨の千葉氏の内紛に介入したり、大庭御厨で二度
に渡って濫行を働いていますね>義朝。千葉氏も、同族の上総氏も、大庭氏も
結局は義朝の傘下に組み込まれて、保元の乱には郎等として参加している。
『愚管抄』にも、自ら「義朝イクサニアフコト何ケ度ニナリ候ヌル」云々と述べた
上で、箱根より先は自分たちの勢力圏だと誇ったとある。
義朝の上洛後は長男の義平が勢力を拡大しており、その過程で対立した叔父の
義賢を殺害するまでに到っています。
清和源氏には上西門院・八条院の蔵人や判官代に補任されていた者が多く、対
平家の挙兵の際にもこの繋がりが有効に働いたのではないかという。
53日本@名無史さん:05/01/31 10:31:17
>>48
まず、平治の乱の頃の清盛と義朝では官位・経済力・都での動員兵力では
圧倒的に清盛が有利であった。
(清盛1000騎 義朝200騎)
義朝一族は清盛からみるとたいした勢力ではなかった。
ましてや、後年義朝の遺児が挙兵して清盛の子供たちを滅ぼすとは当時
誰も思わなかったであろう。

それから平治の乱自体、源平の争いではなく
後白河上皇と二条天皇の争いとそれを取り巻く廷臣たちの争いが主で
義朝は信頼方の一武将として加わったに過ぎないという見方が強まっている。
(清盛は最初は圏外。状況が変わって二条天皇側近と手を結んだらしい)

さらに、平治の乱直後は有力貴族がほとんど没乱したものの
清盛が完全に政権を制圧したわけではなく
現在考えられている程発言力があったわけではない。
清盛の発言力が増してきたのは義妹建春門院所生の皇子
高倉天皇が即位してからである。
平治の乱直後の清盛は対立する後白河上皇と二条天皇の間を
要領よく立ち回っているのが精一杯という所であった。

ところで、平治の乱では100人近くの流刑者が発生したらしい。
清盛にとってたいした敵ではなかった義朝の遺児の流刑地など
たいした問題ではなかったと思うし、考える余地もなかったと思われる。
当時の記録を見ると頼朝を伊豆まで護送したのは検非違使の役人で
平家の私兵ではない。
54日本@名無史さん:05/01/31 10:38:10
>>48
それから、坂東の武士たちが源氏に忠誠心があったかどうか
ということも最近は疑問視されています。
義朝が坂東で活躍したのも、坂東武士にとって利用価値があったから
だとか、義朝が中央とのパイプ強化に努め朝廷の有力者のバックアップが
あったから、坂東に勢力を伸ばすことができたとの説もあります。

朝の挙兵の成功は源氏への忠誠心などではなく、
平家の家人になれた勢力に対する反主流派の反発が
頼朝を押し上げた
だそうです。
55日本@名無史さん:05/01/31 10:40:38
>>48
「兵範記」で、上西門院の殿上始めがあった際、
頼朝は上西門院の殿上人となった人に「お酌」をしていたらしい。
こんな記録しかないが
きちんと仕事はしていたらしい。
ちなみにこのお酌を受けたメンバーの中に平清盛がいた。
56日本@名無史さん:05/01/31 10:43:04
>>51
このころ伊豆守は頼政ではなかった気がするが。
それに、頼政と義朝では同族意識があつたかどうかも不明。
57日本@名無史さん:05/01/31 10:44:22
>>55
引用は>>50の間違い
58日本@名無史さん:05/01/31 11:22:41
>>56
同族意識はあったかもしれないが、親近感はなかっただろう。
源頼政が義朝と敵対し、清盛に付いたのは、裏切りでもなんでもなく、
義朝とは別の独立した源氏という意識の現われだろうし、
あるいは源満仲の嫡流の源頼光の系統として、自分の方が源氏嫡流という意識があったためかもしれない。
当時の伊豆守は頼政ではなく、頼政の子の源仲綱。しかしいずれにしても摂津源氏の勢力下。
59日本@名無史さん:05/01/31 11:25:59
源頼政は、義朝の子の義平に討たれた源義賢の子の仲家(木曽義仲の兄)を
養子にしているから、河内源氏に対する先祖を同じくする同族意識はあったと思われる。
60日本@名無史さん:05/01/31 11:27:32
>>49
「おっさん」じゃなくて「おばはん」に見えるがな
中性的でかなりヤバイ
61日本@名無史さん:05/01/31 13:19:43
頼政には嫡流意識がモロにあったんじゃないか?
平家物語かなんかの(うろ憶え)高倉宮以仁王を口説く場面で
「君は皇統の嫡流、我は源氏の嫡流」と言ったとか言わないとか。
62日本@名無史さん:05/01/31 16:48:03
>>58
頼朝が流罪になった当時は伊豆守は頼政でも仲綱でもなかったような気がするが。
63日本@名無史さん:05/01/31 19:36:03
源氏物語を読むと、
あの時代の女性は御簾の中ばかりにいて
「人前に姿をさらさない」ってイメージがあるけど、
実際どんなもんだったんでしょう??
64日本@名無史さん:05/01/31 19:44:17
徳子のような都の貴人達と政子のような地方土豪の娘では
全く違うだろうから、一概には言えない。
65日本@名無史さん:05/01/31 20:04:56
伊豆守は、治承の初めの頃が仲綱で、頼政挙兵(当然、仲綱も参戦)失敗後、
誰だったか平家の縁者に替わって、その代官が山木じゃなかったか?

その20年前の流罪になった当時のことは知らんが。
66山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/31 20:49:11
>>63
承久の乱の時、政子が安達を簾下に呼び寄せて、自分の言葉を伝えさせたと
するのが『吾妻鏡』(直接呼びかけていない)。
下半分を開けさせて演説したとするのが、『六代勝事記』。
特に記載が無く、直接庭へ呼びかけたととれそうなのが、『承久軍物語』や、
『承久記』です。
67日本@名無史さん:05/01/31 21:08:41
>>59
源仲家が父義賢戦死時に、何故、祖父の為義や叔父(特に父親と仲の良かった次弟頼賢あたり)に
保護されずに、源頼政の養子となったのはなぜなんでしょうね。
一旦、近親者に保護されたけど、その後の保元の乱で近親者は全滅してしまい、
改めて頼政に保護されたとかもありえるのでしょうか。
68日本@名無史さん:05/01/31 21:21:36
源義朝は為義の長男ですが、嫡男なんでしょうか?
なんか、関東で周囲と摩擦起こしながら勢力拡大していくあたりが
子供の義平と似ているような気がします。(義平が父を真似したのでしょうが)

相模・房総の義朝、武蔵の義賢、常陸の義広、
彼らは関東を各方面から支配するため為義の命で送られたのでしょうか、
それとも己の権力基盤を作るため、独自行動したのでしょうか。

この場合、京都で育った嫡男の頼朝の立場にあたるのは頼賢あたりで、
保元の乱がなくても、為義死後あたりで河内源氏お約束の一族内での争いが
起こりそうですね。
69日本@名無史さん:05/01/31 22:39:02
48です。皆様、いろいろ教えていただき、ありがとう。
いろいろ教えてもらったけど、まだ、
清盛が、なぜ頼朝を、
1)僧にしなかったのか? ......弟たちは出家させたのに
2)関東へ流したのか? ..........関東の武士団は源氏と縁が深いのに
が、わかりませんでした。引き続き、ご意見募集です。

>>54
源氏と坂東武士の主従関係も、利害関係に基づいているというのは理解できますが、
他方で、
「義家殿の御子なれば為義殿に、為義殿の御子なれば義朝殿に」忠誠を誓うという、
意識も、建前かもしれないけど、坂東武士にあったと言われるし、
義朝は、京都の局地戦では破れたけれど、本拠地関東へ逃げ延びれば、
勢力を盛り返すことも可能だったといわれています。
少なくとも、反平家の神輿として、これほど適当な人物もいない。
それなのに
他に適当な土地はたくさんあるのに、なぜ伊豆に流したのか、不思議です。
70日本@名無史さん:05/01/31 22:51:00
なぜ伊豆に流したのかと問われれば



平家は蛭ヶ小島と伊豆大島を勘違いしていたとかw
      ☆ チン     マチクタビレタ〜
                        マチクタビレタ〜
       ☆ チン  〃  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ヽ ___\(\・∀・) < オロナミンCまだ〜?
            \_/⊂ ⊂_ )   \_____________
          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
       | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
       |  愛媛みかん  |/

72日本@名無史さん:05/02/01 04:11:00
>>69にマジレスすると
1)頼朝の母の実家で院の近臣である「熱田大宮司家」の働きかけがあったからと思われ。清盛の継母、池禅尼


2)死罪を免れえた頼朝に与えられた刑罰は、「遠流」であった。伊豆は、第一級の遠流国であり、先例を尊ぶ平安貴族には十分な刑罰ととらえられたと思われる。
また、源 義朝に加勢せず消極的敵対関係となった源 頼政の知行国で、息子の仲綱が伊豆守の当地には、監視体制が整っていると傍目には見えたからと考えられる。
さらに清盛の推挙で念願の三位になった頼政は、外部にも、平家にも、親平家勢力とみられていたので、彼外部伊豆を収めていることに、安心感があったかとおもわれる。
73日本@名無史さん:05/02/01 05:30:17
>>68
ご指摘の通り、義平は坂東はまかされていても嫡男ではなかったようです。
嫡男は頼朝だったようです。
また、義朝も嫡男ではなく、最初の嫡男は義賢、その亡き後は頼賢だったようです。
義朝は父のあとを継いだというよりも、
院に接近して独自の勢力を築きあげたと見るべきでしょう。
74日本@名無史さん:05/02/01 05:31:30
>>69
頼朝を東国に流罪というのにこだわらなくてもいいでは?
西国だから安全というわけではない。
彼の先祖の義親は隠岐に流刑になって、そこで反乱を起こしたし
叔父の為朝は九州で濫行した。
西国への流罪が東国より安全とは言い切れない。
ただし、結果論として西国土佐に流刑になった頼朝の弟は挙兵に失敗
しているので東国への流罪は失敗ていえるが。

出家については、
出家させることによって俗人としての活動を断つということで
或る意味旗頭として担がれることを防止する意味があったが、
強制的なものではあるが出家は刑罰ではない。
一応免罪という扱いである。
頼朝は希義については流罪という刑罰で十分という意識
はあったと思われる。

また、頼朝が挙兵に成功したのは結果論であって
流刑にした当時はさほど危険と清盛も考えていなかったのであろう。
75日本@名無史さん:05/02/01 05:33:48
>>69
東国武士と源氏のつながりは、
まったくなしとは言えないが、
ご指摘のような、言い伝えは
(>「義家殿の御子なれば為義殿に、為義殿の御子なれば義朝殿に」忠誠を誓うという、
意識も、建前かもしれないけど、坂東武士にあったと言われるし)

頼朝が御家人統制の為意識的に植えつけたもの
とも言われている。
つまり後世の概念によるとも考えられる。
義朝が東国を目指したのは先祖伝来の繋がりというより
彼個人と三浦氏や上総氏との個人的なつながりによってと考えたい。
76日本@名無史さん:05/02/01 05:48:28
>>74
○頼朝と希義については
×頼朝は希義については
77日本@名無史さん:05/02/01 06:10:39
>>61
源氏の中では、頼政は、義朝の系統以外では、源姓のままでしたから、
嫡流意識はあったのでしょう。
摂津源氏でも、多田行綱たちの多田系は、源姓ではなく多田を名のってますし、
河内源氏でも、甲斐源氏も常陸源氏も足利や新田から、志太義広や新宮義盛など、
源姓ではなく、苗字を名のってますからね。

>>67
源頼政は生き残った源氏として、摂津源氏とか河内源氏を問わず、
源氏の遺児たちを養子にして、源氏の血筋を守ろうとしたようです。
源氏嫡流の源頼光の後裔という意識と、源氏長老としての大局的意識が
あったのかもしれませんね。
78日本@名無史さん:05/02/01 06:24:03
79日本@名無史さん:05/02/01 06:44:48
オセロ(白)(黒)は架空の人物だからどうでもいいけど、小池栄子の巴御前役はショックだった。
80日本@名無史さん:05/02/01 06:49:09
小池の胸たれてるらしいぜ
81日本@名無史さん:05/02/01 15:34:38
>>73
>>また、義朝も嫡男ではなく、

それでは、その嫡男・頼朝が承継したという、源氏総領の証、
髭切の太刀、何とかの産着、も後世の捏造なの?
82日本@名無史さん:05/02/01 15:52:32
>>79
いいや、白の方は実在人物だよ。頼朝の愛人・亀の前
だからこそちゃんとした女優に演らせろよな>NHK(汗
83日本@名無史さん:05/02/01 16:59:46
>>81
髯切の太刀と源太が産着は「平治物語」諸本のなかでも古い分類に入る本には出てません。
後で改作されたもので出てきます。
「保元物語」では成立年代の古い本にも源太が産着という単語は出てきますが、その場合単語だけで嫡男に渡すものとは書かれていません。
後に改作された本で嫡男専用となってきたようです。
84山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/01 20:04:04
正妻に家を叩き壊された話で、有名です。>亀の前
庶民を中心に「うわなり打ち」という習慣があったので、特異なものでは
無かったのかもしれませんが(伊豆では)。
85日本@名無史さん:05/02/01 22:24:03
>>72
>>74
>>75
69です。レス、サンクスです。
清盛が、頼朝を伊豆に流すことで十分と考えた理由については、大体わかりました。
まだ、なんとなくもやもやしているんですが、
まあ、
今度は、歴史の if で、頼朝が九州あたりに流されたら、どうなったかを妄想して楽しんでいます。
86日本@名無史さん:05/02/01 22:26:25
うつぼは架空の人物ですか?
87日本@名無史さん:05/02/01 22:34:26
『義経』じゃなくて『創価』にしろや!!!
88日本@名無史さん:05/02/02 00:21:07
>>83
親が決めた嫡男に他の兄弟が従うというほど明確なルールは当時はないのでは。
せいぜい、親が亡くなったとき家財を譲られるとかそれくらいでは。

兄弟が従うか独立するかは、本人の才覚次第で。

新宮十郎が遮那王にあって、出生の秘密を明かす場面見ていたら
あんたの仇は清盛じゃなくて、義朝では?とか思ってしまいました。
(当時はね、以仁王の挙兵時の話ではなくて)


89日本@名無史さん:05/02/02 01:38:27
まぁ、清盛にしてみれば「親の仇」などと恨まれるのは理不尽な言いがかりだ罠。
そもそも最初に手を出してきたのは義朝の方であって、
平家にしてみれば、降り掛かる火の粉を払ったに過ぎない。
助命してやっただけでも感謝すべきなのに、恨むなんてとんでもない罠。
90日本@名無史さん:05/02/02 01:57:06
>>88
嫡男が受け継ぐものとして、根本所領や譜代の家子・郎党などがありますが、
直接的には「五位の位」と「都の官職」が大きいです。
「五位の位」を持つかどうかは、本人が下級貴族でいられるかどうか、に関わります。
また、五位の官位をもっていても、都の官職につけなければ
ワンランク下になってしまいます。

平治の乱の前の時点で、義朝の子どものうち、
次男朝長は中宮大夫進(五位、多分従五位下)、三男頼朝は六位蔵人、
長男義平は官職なしです。既に嫡男レースから脱落してます。

さらに頼朝は乱勃発後に左衛門佐(従五位上)になります。
この左衛門佐がくせもので、この職に十代で付くことは、
将来、公卿まで上れる可能性を手にしたことを意味します。
ここで大きく頼朝と朝長の地位は逆転しました。このままでは
朝長はせいぜい国守が関の山という立場になってしまったでしょう。

義朝は昇り調子だったので、二人の子供を五位にし、都の官職を与えられましたが、
為義のように自分が五位になるのがやっとのクラスの武士では、
「嫡男になるかならないか」は「貴族になれるか、地下になるか」の境目になった
ものもいたのではないか、と考えられます。


91日本@名無史さん:05/02/02 06:13:08
ドラマの事も語ってョ。
ドラマ自体には誰も興味無いの?
タッキーが可哀想・・・・・。
92日本@名無史さん:05/02/02 07:25:51
>>91
大河板へ逝け。そして二度と帰ってくるな。以上。
93日本@名無史さん:05/02/02 09:15:46
>>92
そんなこと言わないで下さい。
タッキーの素晴らしさを皆さんにも分かって欲しい・・。
94日本@名無史さん:05/02/02 10:11:31
タッキー義経は
充分素晴らしいと思いますよ
95日本@名無史さん:05/02/02 11:03:55
>>93
はい、素晴らしいですね。

もう来なくていいからね。
96日本@名無史さん:05/02/02 20:11:27
>90
左衛門佐? 右兵衛佐だと思ったが。
97日本@名無史さん:05/02/02 20:52:11
>>96
が正解だね。

>>90は遠山の金さん(左衛門『尉』だが)あたりと
間違えてるに相違ない。
98日本@名無史さん:05/02/02 20:54:31
>>96
頼朝が任官したのは兵衛佐ですね、

ところで、>>90さんがおっしゃっている公卿になれる・・・ってのは
勘違いされているように衛門佐のことでは?
こっちは公卿の若い息子あたりが任じられることも有った気がします。

兵衛佐はそれと比べると格が大分落ちませんか?
あと、クーデター後のお手盛り人事で任官しただけだし。
99日本@名無史さん:05/02/02 22:06:36
源頼朝は、伊豆山流罪のあと、雌伏二十年、源氏再興の希望を捨てず、
伊豆走湯山、天台宗文陽房・覚淵を師とし、自身の祈願成就のため、
法華経八巻・全巻読誦千回の成就を誓った。
源頼朝在家の人では異例なほど法華経を読誦した人であるといえる。
頼朝の父、義朝は、平治の乱に連座して敗走、平清盛・後白河法皇連合から追われる身となってしまった。
しかも、父義朝と都落ちの途中で吹雪のなか、父と生き別れ、
東国へ向かっているところをとらえられ、京へ引き立てられてしまうのであるが、
平清盛の継母・池禅尼に助命されて伊豆流罪となって、斬罪を逃れた。
そのとき、頼朝は、亡き父、一門の追善供養のため、唯一人の生き残りとなった自分は生き延びるのだ、
と子供ながら堂々と自分の生きる道を主張したという。
永歴元年(1160年)流罪になってより、法華経八巻の読誦が八百遍になんなんとしたとき、
ついに以人王の清盛追悼の宣司が下り、源氏再興のチャンスが到来したのである。
100日本@名無史さん:05/02/02 22:08:10
>>99
法華経信仰者であった頼朝は、
この観音が自分の命を救ってくれたものとの深い感謝の念を込め、
鶴岡八幡宮のすぐ前に法華堂という御堂を建立し、
この観音を安置したのであった。
頼朝の死後、この法華堂には頼朝の肖像画も安置され、
すぐ近くに頼朝の墓も建立されたという。
101日本@名無史さん:05/02/02 22:10:39
>>99
下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所
     早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討すべき事

右前の伊豆守正五位下源の朝臣仲綱宣べ、
最勝親王の勅を奉って称く、
清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て[帝王を蔑し]、
凶徒を起こし国家を亡ぼす。 百官万民を 悩乱し、五幾七道を虜掠す。
皇院を幽閉し、公臣を流罪す。 命を断ち身を流し、淵に沈め楼に込む。
財を盗み國を領し、官を奪い職を授く。
功無くして[恣に]賞を許し、罪非ずして[猥り]に過に配す。
[これに依って巫女宮室に留まらず、忠臣仙洞に仕えず。]
或いは諸寺の高僧を召し誡め、修学の僧徒を禁獄す。
或いは叡岳の絹米を給下し、謀叛の粮米に相具し、
百皇の跡を断つ。 抑も一人の頭、帝皇を違逆し、佛法を破滅す。
[その振る舞いを見るに誠に]古代を絶する者なり。
時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う。

仍って吾は一院第二の皇子たり。
天武皇帝の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討し、
上宮太子の古跡を訪い、仏法破滅の類を打ち亡ぼさん。
ただ人力の構えを憑むに非ず。偏に天道の扶けを仰ぐ所なり。
これに因って、帝王 三宝神明の冥感有るが如し。
何ぞ忽ち四岳合力の志無からん。
然れば則ち源家の人、 籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、
勇士に堪うる者、同じく輿力せしめ、
清盛法師並 びに従類を追討すべし。
もし同心せざるに於いては、配流追禁の罪過に行うべし。
もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、
兼ねて御即位の後、 必ず乞いに 随い勧賞を賜うべきなり。
諸国宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行う。
治承四年四月九日       前の伊豆守正五位下源の朝臣
102日本@名無史さん:05/02/02 22:36:05
義経は素晴らしいよ。
出演者が全員創価だ。
103日本@名無史さん:05/02/02 22:41:54
90ですが。
えー間違えましたすいません、右兵衛権佐が正しいです。

ちなみに
六位蔵人→五位叙爵は「名家(めいか)」の家格(極官大納言)の息子なみ。
ちなみに清盛も六位蔵人→兵衛佐のコースをたどってますな。
院近臣家の子弟の標準といったとこでしょうな。
同様のケースとしては鳥羽院近臣の藤原家成の例が挙げられますな。
六位蔵人からスタートして、叙爵後、受領を歴任して公卿になってますな。

とすれば、兵衛佐任官の前の六位蔵人も、
侍品から士大夫に一歩家格があがったとみなすポイントとみてよいのでは?

まぁ、その後の政治状況にもよりますから、必ず公卿になれたとは
限りませんが、それでも祖父の為義と比べれば雲泥の差ですわな。




104山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/02 22:50:41
>>100
院政期以降は法華三昧堂を墓とし、肖像画を掛ける習慣が広まっていました。
清盛の遺骨も、山田法華堂に斂められている。
頼朝、政子、頼家、実朝と、全員勝長寿院の傍、即ち境内の法華堂(一宇ずつ)
に葬られていた様です。
105日本@名無史さん:05/02/02 23:01:38
>>99
無論、源家再興のための子作りも欠かさなかったのである。
その数、八百萬回に及んだという。
106源氏みち太:05/02/03 00:25:23
平家みちよは出ますか?
107日本@名無史さん:05/02/03 00:44:43
上戸あや→草加
滝沢 →草加
オセロ →草加
ほかには?
108日蓮:05/02/03 01:10:14
>>102 >>107
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経

平氏も厳島神社に法華経を納経した。法華萬歳!
109日本@名無史さん:05/02/03 01:33:27
木曽(源)義仲てちゃんとでてくるの?義経、範頼軍と戦ったよ
誰がやるか情報ないよね?
てか範頼も出てこないのかな?
110日本@名無史さん:05/02/03 01:40:17
>>109
キャスト情報はとっくの昔に出てますよ、義仲も範頼も。
ここで教えてちゃんにならずに自分で調べましょうね。
111日本@名無史さん:05/02/03 02:24:23
別にキャストなどぶっちゃけどうでもいいが。
頼朝と言う男は日本史上おそらく最も運がいいと思われる。
一度目は平時の乱の池禅尼による助命。
二度目は石橋山での梶原影時による助命。
彼には早くから源氏の統領となるべくカリスマ性、オーラーがあったのであろう。
10年程前にやったNHKの川本喜八郎人形スペクタクル吉川英治の『新平家物語』はよかった。また再放送やんないかな。
112日本@名無史さん:05/02/03 03:11:55
頼朝に戦いの才能がなくても、手駒に出来る弟を
父親がたくさん作っておいてくれてたしね。
弟たちは領地を持ってないから切り捨てるのも楽。
113日本@名無史さん:05/02/03 12:15:25
>>109
小澤征悦が演るよ>木曽義仲
114日本@名無史さん:05/02/03 20:13:24
>>105
仍って吾は一院第二の皇子たり。
天武皇帝の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討し、
上宮太子の古跡を訪い、仏法破滅の類を打ち亡ぼさん。
115日本@名無史さん:05/02/03 22:16:21
丹後局って高階氏の娘らしいけど、重盛の母の高階氏と関係ありますか?
116日本@名無史さん:05/02/03 22:21:40
すべては平家の詰めの甘さにあった。
117山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/03 22:37:17
>115
重盛の母が、為章の養子(妹の子)基章の娘。為章の祖父成章が、丹後局の
高祖父です。
成章の子の為家が重盛の母の曽祖父で、兄弟の章行が丹後局の曽祖父。
118日本@名無史さん:05/02/04 00:32:38
14歳。
去年まで右兵衛佐だったけど、平治の乱で親父が負けていまじゃ罪人。
偶然だけど、池禅尼の遺児に似てたから助命されて伊豆に流された。
(命を)もらうだけもらって読経だけして暮らすこともできるし、一か八かで以仁王に
思い切って賭けてしまえば50パーセントで官軍になれる。
女が欲しけりゃ田舎土豪の娘とちちくりあえばいいだけ。暇つぶしになる。
伊東とか北条とか色々いるのでマジでお勧め。
119日本@名無史さん:05/02/04 00:37:13
>>107
オセロ松嶋は浄土真宗。

>>117
基章の実父は高階氏じゃないんですか?
120日本@名無史さん:05/02/04 00:37:38
牧の方が北条時政の後妻になったのはいつごろですか?

この女、池禅尼の姪らしいっすね。
平家とどの程度つながりがあったんでしょう。
121山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/04 01:01:13
>>119
どうでしたかね。今は分かりません。
>120
姪説ですが、確か年齢からして無理があるという意見が・・・。
122日本@名無史さん:05/02/04 01:06:09
義経記がネットで読めるサイトってありますか?
123日本@名無史さん:05/02/04 23:04:00
>>73
義朝は、父為義と対立する前までは、嫡男だった。
124日本@名無史さん:05/02/04 23:36:04
>>123
その割には坂東に行く前に京都であまり活躍(出世)した
形跡がないような気がしますが。
そもそも、当時の院や摂関家に仕えるクラスの武士で
中央で活躍していない時点で嫡男とはいえないような。
125日本@名無史さん:05/02/04 23:37:57
>>123
廃嫡されたってことでそ?
126日本@名無史さん:05/02/05 02:04:33
>>124

義朝は、鳥羽上皇に仕え、従五位下下野守に叙任された。
為義は、藤原氏に仕えて、終生検非違使。
127日本@名無史さん:05/02/05 08:58:40
>>123
>73>義朝は父のあとを継いだというよりも、
院に接近して独自の勢力を築きあげたと見るべきでしょう。

義朝が1145年位に上洛するまでは無位無官。
その後は妻の実家熱田大宮司家の人脈を使って院に接近して
任官したものと思われる。
一方義賢は1140年に帯刀先生に任官。
1140頃は義賢は任官済み。義朝は無位無官。
多分この時点では嫡男ではなかったと思われる。
128日本@名無史さん:05/02/05 13:15:34
1180年(治承四年、庚子) 4月9日 辛卯

入道源三位頼政卿、
平相国禅門(清盛)を討滅すべき由、日者用意の事有り。
然れども私の計略を以て、太だ宿意を遂げ難きに依って、
今日[夜に入り、子息伊豆の守仲 綱等を相具し、
密かに一院第二宮の]三條高倉の御所に参る。
前の右兵衛の佐頼朝已下の源氏等を催し、
彼の氏族を討ち、天下を執らしめ給うべきの由これを申し行う。
仍って散位宗信に仰せ、令旨を下さる。
而るに陸奥の十郎義盛(廷尉為義末子)折節在京するの間、
この令旨を帯し東国に向かう。
先ず前の兵衛の佐に相触るの後、
その外の源氏等に伝うべきの趣、
仰せ含めらるる所なり。
129日本@名無史さん:05/02/05 13:26:19
1180年(治承四年、庚子)


7月5日 乙卯 天霽、風静まる
昨日御書を遣わし、走湯山の住侶文陽房覚淵を召さる。
今日北條の御亭に参向す。
武衛件の龍象に談り仰せられて云く、
吾心底に挟むこと有り。
而るに法華経を読誦せしめ、一千部の功を終えて後、
宜しくその中丹を顕わすべきの由、兼日素願有りと雖も、
縡すでに火急の間、殆ど後日に延及し難し。
仍って転読分八百部、
故に仏陀に啓白せんと欲す如何てえり。
[覚淵申して云く、一千部に満たざると雖も、
啓白せらるるの條、冥慮に背くべからずてえり。]
則ち香花を仏前に供え、その旨趣を啓白す。
先ず表白を唱えて云く、
君は、忝なくも八幡大菩薩の氏人、
法華八軸の持者なり。
八幡太郎の遺跡を稟け、
旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、
八逆の凶徒八條入道相国一族を退治せしめ給うの條掌裡に有り。
これ併しながらこの経八百部読誦の加護に依るべしと。
武衛殊に感嘆欽仰し給う。事訖わり施物を賜う。
判官邦道これを取る。晩に及び導師退出す。
門外に至るの程、更にこれを召し返し、
世上無為の時、蛭島に於いては
今日の布施たるべきの由、覚淵に仰す。
130日本@名無史さん:05/02/05 13:31:51
ソウカだらけw
131日蓮:05/02/05 13:37:11
源氏も平氏も法華経に縁があるからのう。
当時の貴族・武家階級で法華経に縁がない人間の方が少ないかもなぁ。

                           日蓮 花押
132日本@名無史さん:05/02/05 14:28:03
>>129
則ち香花を仏前に供え、その旨趣を啓白す。
先ず表白を唱えて云く、
君は、忝なくも八幡大菩薩の氏人、
法華八軸の持者なり。
133日本@名無史さん :05/02/05 20:43:23
>>106
後白河法皇は平家のようですw(平幹二朗)
134日本@名無史さん:05/02/05 20:47:15
先週日曜は見れなかったので今日の午後からの再放送見ちゃいました。
キレイだな〜! 幻想的な日本画の世界に出来上がってる。
135日本@名無史さん:05/02/05 21:36:37
頼朝が好んだ法華経≠朝鮮カルトの洗脳教
後者は法華経の名をかりた、欲望の暴走を自分に都合よく肯定するカルト集団。
136日本@名無史さん:05/02/05 23:41:10
ここに集ってらっしゃる歴史ファンの方々は、
タッキーの魅力についてどう思われますか?
あたしは、心奪われました☆
137日本@名無史さん:05/02/06 00:35:02
チュパカブラスと格闘する遮那王は笑うところ?
138日本@名無史さん:05/02/06 00:43:04
タッキーよりもイッケーに期待している
139日本@名無史さん:05/02/06 01:53:57
渡辺いっけい?
140日本@名無史さん:05/02/06 16:16:07
>>123
源氏関連サイトを見ていると、義朝は為義の嫡男だった説が有力だが、少し違う気がする。

源義家の時代、関東の武士団を配下にし、武家の棟梁と仰がれていた。
しかし、義家の死後、源氏は内紛・分裂し、関東武士団の信望も失っていたと思われる。
為義は、藤原氏に仕え、生涯検非違使だった。

義朝は、藤原忠清の娘の子だから、最初は嫡男だったかもしれない。
しかし、なぜか関東で育てられ、成長し、関東の武士団を再び源氏の配下にしていって、父に貢献した。
あるいは、幼少時に関東へ連れて行かれた段階で廃嫡されていたのかもしれない。
そんな義朝は、弟義賢が10代で帯刀先生に任官し、自分は無位無官なのをどう思ったのだろう。

妻の実家を通じてか、わからないが、鳥羽上皇に接近し、祇園の騒動を鎮圧して功を認められた。
父為義は藤原の走狗だから、この段階で父との離反・対立は明白になっていた。
廃嫡はこの時期かな?もっと前の気がする。下野守に任官したのは、30歳頃。
弟義賢は、公務に失敗したらしく、関東へ下向。上野の国で勢力拡張を始め、義平と対立することになる。

保元の乱が起こったとき、
為義側はほとんど無勢。関東武士団の大部分は義朝に従った。
父を斬ることまでは本意ではなかっただろうが、
自分を捨て、利用し、蔑ろにした父に勝ち、見返すことが義朝の目標だった。
そしてついに勝ったのだった。チャンチャン
これで小説が一つ書けるな(w
141日本@名無史さん:05/02/06 19:02:46
義家の死後、内紛分裂というか、義親がアレだから...
142日本@名無史さん:05/02/06 20:01:55
1180年(治承四年、庚子)


7月5日 乙卯 天霽、風静まる
昨日御書を遣わし、走湯山の住侶文陽房覚淵を召さる。
今日北條の御亭に参向す。
武衛件の龍象に談り仰せられて云く、
吾心底に挟むこと有り。
而るに法華経を読誦せしめ、一千部の功を終えて後、
宜しくその中丹を顕わすべきの由、兼日素願有りと雖も、
縡すでに火急の間、殆ど後日に延及し難し。
仍って転読分八百部、
故に仏陀に啓白せんと欲す如何てえり。
[覚淵申して云く、一千部に満たざると雖も、
啓白せらるるの條、冥慮に背くべからずてえり。]
則ち香花を仏前に供え、その旨趣を啓白す。
先ず表白を唱えて云く、
君は、忝なくも八幡大菩薩の氏人、
法華八軸の持者なり。
八幡太郎の遺跡を稟け、
旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、
八逆の凶徒八條入道相国一族を退治せしめ給うの條掌裡に有り。
これ併しながらこの経八百部読誦の加護に依るべしと。
武衛殊に感嘆欽仰し給う。事訖わり施物を賜う。
判官邦道これを取る。晩に及び導師退出す。
門外に至るの程、更にこれを召し返し、
世上無為の時、蛭島に於いては
今日の布施たるべきの由、覚淵に仰す。
143日本@名無史さん:05/02/06 20:02:56
下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所
     早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討すべき事

右前の伊豆守正五位下源の朝臣仲綱宣べ、
最勝親王の勅を奉って称く、
清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て[帝王を蔑し]、
凶徒を起こし国家を亡ぼす。 百官万民を 悩乱し、五幾七道を虜掠す。
皇院を幽閉し、公臣を流罪す。 命を断ち身を流し、淵に沈め楼に込む。
財を盗み國を領し、官を奪い職を授く。
功無くして[恣に]賞を許し、罪非ずして[猥り]に過に配す。
[これに依って巫女宮室に留まらず、忠臣仙洞に仕えず。]
或いは諸寺の高僧を召し誡め、修学の僧徒を禁獄す。
或いは叡岳の絹米を給下し、謀叛の粮米に相具し、
百皇の跡を断つ。 抑も一人の頭、帝皇を違逆し、佛法を破滅す。
[その振る舞いを見るに誠に]古代を絶する者なり。
時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う。

仍って吾は一院第二の皇子たり。
天武皇帝の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討し、
上宮太子の古跡を訪い、仏法破滅の類を打ち亡ぼさん。
ただ人力の構えを憑むに非ず。偏に天道の扶けを仰ぐ所なり。
これに因って、帝王 三宝神明の冥感有るが如し。
何ぞ忽ち四岳合力の志無からん。
然れば則ち源家の人、 籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、
勇士に堪うる者、同じく輿力せしめ、
清盛法師並 びに従類を追討すべし。
もし同心せざるに於いては、配流追禁の罪過に行うべし。
もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、
兼ねて御即位の後、 必ず乞いに 随い勧賞を賜うべきなり。
諸国宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行う。
治承四年四月九日       前の伊豆守正五位下源の朝臣
144日本@名無史さん:05/02/06 20:18:15
徳子入内のくだり、
「白河上皇の子、鳥羽天皇」
ヲイヲイ、時代考証はどうなってるなりよ。
145日本@名無史さん:05/02/06 20:25:02
然れば則ち源家の人、 籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、
勇士に堪うる者、同じく輿力せしめ、
清盛法師並 びに従類を追討すべし。

もし同心せざるに於いては、配流追禁の罪過に行うべし。
もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、
兼ねて御即位の後、 必ず乞いに 随い勧賞を賜うべきなり。
146日本@名無史さん:05/02/06 20:26:16
この装束では平安時代とは見えない、室町期の物に近い。
147日本@名無史さん:05/02/06 20:32:07
短い太刀
148日本@名無史さん:05/02/06 20:34:53
源頼朝は、伊豆山流罪のあと、雌伏二十年、源氏再興の希望を捨てず、
伊豆走湯山、天台宗文陽房・覚淵を師とし、自身の祈願成就のため、
法華経八巻・全巻読誦千回の成就を誓った。
源頼朝在家の人では異例なほど法華経を読誦した人であるといえる。
頼朝の父、義朝は、平治の乱に連座して敗走、平清盛・後白河法皇連合から追われる身となってしまった。
しかも、父義朝と都落ちの途中で吹雪のなか、父と生き別れ、
東国へ向かっているところをとらえられ、京へ引き立てられてしまうのであるが、
平清盛の継母・池禅尼に助命されて伊豆流罪となって、斬罪を逃れた。
そのとき、頼朝は、亡き父、一門の追善供養のため、唯一人の生き残りとなった自分は生き延びるのだ、
と子供ながら堂々と自分の生きる道を主張したという。
永歴元年(1160年)流罪になってより、法華経八巻の読誦が八百遍になんなんとしたとき、
ついに以人王の清盛追悼の宣司が下り、源氏再興のチャンスが到来したのである。
149日本@名無史さん:05/02/06 20:36:34
一瞬見逃した。
刀は偽だったの?
下がるだろ
150日本@名無史さん:05/02/06 20:38:54
源頼朝は、伊豆山流罪のあと、雌伏二十年、
源氏再興の希望を捨てず、
伊豆走湯山、天台宗文陽房・覚淵を師とし、
自身の祈願成就のため、
法華経八巻・全巻読誦千回の成就を誓った。
源頼朝在家の人では
異例なほど法華経を読誦した人であるといえる。
頼朝の父、義朝は、平治の乱に連座して敗走、
平清盛・後白河法皇連合から追われる身となってしまった。
しかも、父義朝と都落ちの途中で吹雪のなか、
父と生き別れ、 東国へ向かっているところをとらえられ、
京へ引き立てられてしまうのであるが、
平清盛の継母・池禅尼に助命されて伊豆流罪となって、
斬罪を逃れた。
そのとき、頼朝は、亡き父、一門の追善供養のため、
唯一人の生き残りとなった自分は生き延びるのだ、
と子供ながら堂々と自分の生きる道を主張したという。
永歴元年(1160年)流罪になってより、
法華経八巻の読誦が八百遍になんなんとしたとき、
ついに以人王の清盛追悼の宣司が下り、
源氏再興のチャンスが到来したのである。
151日本@名無史さん:05/02/06 21:03:42
>>150
↑、何このコピペ。もう見飽きたんでつけど
152日本@名無史さん:05/02/06 21:11:56
いつもの草加工作員(在日カルト)仕業です。
153日本@名無史さん:05/02/06 21:12:41
>>111
人形劇よかったね〜。
あれこそ再放送してほしい!
何年か前に地下鉄のメトロカードで何種類か出たよね。
不本意ながら義仲が非常にカコイイと思ってしまった。

どうでもいいが、松坂慶子下手杉。
タッキーよりも浮いてる。
154日本@名無史さん:05/02/06 21:25:15
草加洗脳議員、池坊議員の孫が、幼少時の頼朝役。TBSと並んで、草加汚染がはげしいな、最近。
155:05/02/06 21:28:33
源氏の刀のことですが、本来、「鬼切り」丸だと思うのですが、
どなたか「髭きり」について知っている人います?
ググルと「髭きり」=頼朝の長兄、悪源太の刀だったみたいですね。

うちは義貞の系統ですが、源氏の刀は「鬼切り」丸と天皇から授かった
烏丸刀は実際に聞いて、知っています。

そもそも、平清盛と常盤御前の関係も、子孫としては不愉快な話です。
それは平家の子孫にとっても。NHKの義経はドラマだから仕方ないといえば
それまでですが、できるだけ、正しいことを伝えて欲しいですね。

実はNHKに2回目の放送後、すぐにメールで問い合わせしたのですが、
回答はありませんでした。やはり対応悪いですねNHK。

156日本@名無史さん:05/02/06 21:30:10
タッキー浮いてないよ。裸形の筋肉美といい時折見せる引き締まった表情。
東山紀之なんぞの先輩アイドルとは違った役者魂を感じる。集中力が表情に出る
ようになれば芸域は広がる。
  ∧∧
( =゚-゚)<ヨン様だって? 糞食らえ♪  
157日本@名無史さん:05/02/06 21:36:51
弁慶がモーホーだったなんて・・・ショック!
158日本@名無史さん:05/02/06 21:41:16
>>155
平清盛が常盤御前に女の子を産ませたのはれっきとした史実ですが、何か?
159日本@名無史さん:05/02/06 21:47:52
>>155
有名な話ですが・・・
子孫ならまず史実を調べてから発言されたほうが良いのでは?
ついでにこのスレの過去ログも読んでみましょう。
160日本@名無史さん:05/02/06 21:50:26
>>155
逆に「髭切」の方がポピュラーじゃないですか。
「源氏 髭切 頼光」でググルと
ttp://www.saitama-kenpaku.com/SIRYOU/higekiri.html
が一番上にヒットしますよ。

まあ、「源太が産着」と同様の古伝承の類ですから。
161:05/02/06 22:58:49
髭きりの件、教えていただいて、ありがとうございます。
当方は、義貞の子孫なので、「鬼切り」が清和源氏の印と思っていました。
ググルと「鬼切り」「源氏」で源氏の嫡流が代々受け継いでいるとありました。
過去ログに書かれてあるなら、それを参考にします。

カキコしながら、思ったのですが、刀は怖いですね。
多くの因縁を内包しているような気がします。
それでは、失礼します。
162山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/06 23:01:48
>>158
廓御方や愛人の話が出て来るのは、『平治物語』、『源平盛衰記』、延慶本
『平家物語』、『尊卑文脈』辺りですから、史実と確定は出来ないのでは。
軍記物の影響を受けて、『尊卑文脈』に記された可能性も。
163:05/02/06 23:08:37
162さん、ありがとうございます。
僕としては信じたくない話であります。

清盛自身も真の武将だったはずなので、
そんなことしてないと思います。
美しい女性に事欠かなかったでしょうから。

常盤御前がそれほどの美女だった。
ということ強調した作り話だったらいいな。
164日本@名無史さん:05/02/06 23:20:35
鬼切りは清和(摂津)源氏と嵯峨源氏渡辺党の間の方が関係が深いだろ。
165日本@名無史さん:05/02/06 23:50:17
347 :日本@名無史さん :05/02/06 15:07:06
http://www.toysland.com/cgi-bin/p_keiji/pro_no01/new.cgi

2004/06/04

■義経の秘密


Q:北条政子と清盛の間に生まれた子供が義経なのですか?
A:イエス。象徴。
Q:清盛はそれを知っていたのですか?
A:イエス
Q:頼朝と義経は父親違いの兄弟だったのですか?
A:イエス
Q:弁慶は義経を裏切ったのですか?
A:そればかりではない。野望。略奪。
Q:義経の妻は頼朝とどういう関係にあったのですか?
A:味方
166日本@名無史さん:05/02/07 00:06:50
今夜の五条大橋の場面。
桜の花びらがいっぱい散ってましたね〜。
この時期に「サクラチル」とは大胆な演出ですね〜。
167日本@名無史さん:05/02/07 00:16:42
たしかに、受験シーズンだもな。
でも花びらのシーン、日本画ちっくで良かったと思うのは、
やっぱ少数意見?w
168日本@名無史さん:05/02/07 00:16:45
>>164
死ぬまでに1度「太平記」くらい読め
169164:05/02/07 00:22:23
>>168
新田義貞の二刀振いぐらい知ってるよ。
おまいも平安中期の勉強でもしなおせよ。
170日本@名無史さん:05/02/07 00:54:47
今思いついたんで、本筋とは関係ないけど、
太平記の叙述によると、新田義貞は平安中期の古刀を振り回したりして、
使いづらくなかったのかね。
当時(南北朝期)の刀の方が使いやすいと思うんだけど、
こればっかりは本人に聞いてみるしかないわな。w
171日本@名無史さん:05/02/07 03:00:57
稲森はエロくてグーだったが、
今回初登場した石原さとみの演技下手さはちょっと…
172日本@名無史さん:05/02/07 03:11:58
で、今回の大河、安宅関の勧進帳はいつ?
173日本@名無史さん:05/02/07 03:57:01
石原さとみの静は、可愛いから許す。
しかし、義経よりも12歳くらい年下だったはずだが、あれ?
174日本@名無史さん:05/02/07 04:14:05
ここですか?クソ池田大作ふぁみり-が集ってるスレは?
175日本@名無史さん:05/02/07 14:34:55
>>170
あれだけ使いこなしてりゃ十分だろ、本人に訊かなくてもw
176日本@名無史さん:05/02/07 14:46:06
【奇声】私は子供が嫌いです19匹目【悪臭】
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/mental/1107063855/
775 名前: 優しい名無しさん [sage] 投稿日: 05/02/07 02:50:44 ID:RzB/2I1B
       ___
     /ノへゝ     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     | \´‐`)ゝ  <  おぎゃー
     \__ ̄ ̄ヾ.   .\______      
      \__/

   青山翔馬(11ヶ月)

   オギャアアア!!
     __   ____   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   /ノへゝ  |・д・ | | < はやく死ねよ!
   |\´дΣニ━⊂.| |   \______  
   \_ ̄ ̄ヾ.  __|_|    
    `\___/  ヽ

    グサッ!


       ノ へゝ
   ⌒`⊃´д`)ゝ⊃ アウ・・アウ・・
   ⊂...__....⊃ 
         ドクドクドク・・・
死亡
177日本@名無史さん:05/02/07 14:56:46
【男根】チョンマゲはちんぽの象徴【男魂】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1089126172/l50
1 :名無氏物語 :04/12/19 17:13:06 ID:LLgBd/si
  有名な話だが、日本のチョンマゲは
  勃起したちんぽの形を元に考案されたそうだ。
  古くから頭にチョンマゲを結えると
  インポにならないと信じられていた。
  男の魂であるチョンマゲについて熱く語り合おうか。
178日本@名無史さん:05/02/07 17:18:35
完投して喜ぶのが野茂、浣腸して喜ぶのがホモ。
打たれるのを嫌がるのが野茂、打たれるのを喜ぶのがホモ。

野茂はホモを狙わないが、ホモは野茂を狙うことがある。
好プレーするのが野茂、チンプレーするのがホモ。

家族でたのしく見るのが野茂のプレー、家族で楽しく見れないのがホモのプレー。
お尻を見せて球を投げるのが野茂、お尻を見せて球を揺らすのがホモ

アメリカで観戦するのが野茂、アメリカで感染するのがホモ。
野茂は講演に行くが、ホモは公園に行く。

タマを投げてチームを守るが野茂、タマを触って彼を攻めるのがホモ。
野茂はバーモントカレーが好きらしいが、ホモはバーの元彼が好きらしい。

野茂はお尻を向けて投げるが、ホモはお尻を向けて誘う。
野茂のプレーは素晴らしいが、ホモのプレーは凄いらしい。
179日本@名無史さん:05/02/07 19:55:35
うつぼだいすっき!
180日本@名無史さん:05/02/07 22:18:19
>>170
平安・鎌倉期と南北朝期では、武器(太刀・薙刀から、野太刀・打刀・槍などへ)の
変化のほかに、鎧も大鎧から、腹巻とかに変化しているけど

当時の上層階級の武士は、家重代の古い武具を使うことが
かっこいいという意識があったみたいです。
(本人達が直接戦闘する機会も、配下の武士と比較すれば少ないわけだし)

義貞も、そういう感じで、古いタイプの武器をあえて使っていたということも
あるかもしれませんね。
181日本@名無史さん:05/02/07 22:21:21
うつぼは既に100人斬りは達成したっぽいな
182日本@名無史さん:05/02/07 23:00:18
たっきーの匂いを心ゆくまで嗅ぎたい♥
183日本@名無史さん:05/02/08 00:06:49
>>180
実用云々ではなく、そういうアイテム(源氏重代の)を所持しているということが
象徴として大きかったのかもね。
義貞だけでなく、尊氏の方も多々良浜の合戦の時は、頼政がぬえ退治に使ったという「骨喰」という刀を帯びていた、
と「梅松論」にあるし。
184日本@名無史さん:05/02/08 00:07:29
第1回★★☆☆☆
第2回★★★★☆
第3回★★★☆☆
第4回★☆☆☆☆
第5回★★★☆☆
どんどんつまんなくなってくなんてことはないだろうな、という杞憂は一先ず回避。
カメハメ波出しそうな義経や瞬間移動する貴一放言にはどうもついていけないが
今週の院と頼政は良かった、特に院の目つきにゾクゾクっとしたわ((c)ナタリア)
そして、ちっちぇえな清盛((c)麻倉ハオ)。
夏川結衣(知盛室)と森口瑶子(重盛室)もいいなあ。この二人に政子と亀の前やってほしいくらい。
石原さとみは眉目がキッとしてるから髪形も似合って顔はいい、けど、体がボテっとしすぎ。
雰囲気的には建春門院役の人が一番それらしくていい。
ところで義経の子役、杉田かおるに似てない?将来は織田裕二みたいな顔になりそう。清水冠者でまた出てこないかな。

森口瑶子の重盛室は資盛母もちろん、維盛母でもなく、時子実妹の重盛正室だよねえ。
部屋奥二列目の重盛室と、廊下(ひさしのが相応しい?)側一列目の知盛室で、重盛室のが席次は上ってことでいいの?
185日本@名無史さん:05/02/08 12:37:49
>>99 追悼?
186日本@名無史さん:05/02/08 12:40:29
>>99
追悼?
187日本@名無史さん:05/02/08 13:01:20
タッキーふぁん、集合!!
188日本@名無史さん:05/02/08 13:12:39

うっぼ、やらないか
189日本@名無史さん:05/02/08 13:30:34
>>184
第五回は萎えた。
源頼政が「これは髭切りの太刀でない」というのに対して、
目釘の銘を確かめて清盛が「頼朝に騙された」としきりに悔しがるが、
そのくらい頼政に言われる前に確かめておけよな。
せっかくいままで良かったのに、お間抜け過ぎ。
190日本@名無史さん:05/02/08 14:15:08
義経と静って10以上も年離れてたんだ?!
191日本@名無史さん:05/02/08 14:43:06
それをいったら秀吉も。
結ばれた時、秀吉26歳おね13歳だが、おねを演じていたのが沢口靖子さん。
192日本@名無史さん:05/02/08 15:07:49
193日本@名無史さん:05/02/08 15:38:21
>>184
俺は第1回が一番良かったがなあ。
女優たちはだいたいキレイでいいと思うが、
うつぼと静は台詞が下手過ぎ。
194日本@名無史さん:05/02/08 15:45:24
確か「おんな太閤記」では、14歳のねね役を佐久間良子がやってたよね。40歳位じゃなかったかな。
195日本@名無史さん:05/02/08 15:46:28
広末が静やってた方がましだったかもな
196日本@名無史さん:05/02/08 17:26:38
うつぼ、下町の子にしては顔も手足も綺麗すぎて浮いて見える。
五足までしろとは言わんが、もうちょっと垢汚れしててもいいんじゃないかなあ。
197日本@名無史さん:05/02/08 17:32:03
髭切と北野天満宮に奉納されている鬼切は同じものらしいのですが
なぜ嫡流ではない最上家に伝わったんでしょうか?
198日本@名無史さん:05/02/08 19:57:38
>>142
安芸の国いつく島の大明神は平家の氏神なり。
平家ををごらせし失に、
伊勢太神宮・八幡等に神うちに打ち失はれて、
其の後平家ほどなくほろび候ひぬ。
199日本@名無史さん:05/02/08 20:45:41
>>163
お前、他スレにも出没してた
自称新田子孫?(p

少しは調べてから書き込みしようね。
自称殺人者の子孫君(p
200日本@名無史さん:05/02/08 21:10:19
201:05/02/08 22:08:58
199へ
「お前」と呼び捨てにされる筋合いはない。
自称殺人者とは何だ?自分の書き込みに責任を持てよ。
202日本@名無史さん:05/02/08 22:48:01
>>197
新田義貞を討ち取ったのが斯波氏だったからでは。
なんで斯波嫡流の管領家に伝わらなかったかは知りませんが。

203日本@名無史さん:05/02/09 00:14:47
武士なんて人殺しの
卑賤な輩でおじゃる。
ほっほっほ。
204日本@名無史さん:05/02/09 00:54:07
安芸の国いつく島の大明神は平家の氏神なり。
平家ををごらせし失に、
伊勢太神宮・八幡等に神うちに打ち失はれて、
其の後平家ほどなくほろび候ひぬ。
205日本@名無史さん:05/02/09 09:45:43
尊氏に、差し出すよう強要されて、渋々提出したそうだ。「お前のような、末葉の源氏がもつものではない」と
206日本@名無史さん:05/02/09 15:53:53
歴代大河ドラマのなかで
ホームレスっぽいやつが画面に映っている時間が異様に長い。
207日本@名無史さん:05/02/09 16:14:09
原作が平家物語なのに無理矢理義経の話にするから
つめこむ中身がないのか話のテンポが遅く
間が長い。
原作では清盛の有能な間者だった
五足がいかにも無能っぽい貧しい庶民代表になり下がっている。
208日本@名無史さん:05/02/09 16:17:38
主人公が超能力者の歴史ドラマが果たして成り立つのか疑問。
五条大橋の月ができすぎる。
ホームレスの談話場面が長い。

209日本@名無史さん:05/02/09 16:26:45
義経の少年時代が不詳なのをいいことに
うつぼとかよくわからんのが登場しているが、
平家の雅な貴族的生活のあとに
いきなりホームレスの生活風景を描かれると
なんか違和感がある。
210山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/09 17:06:57
>>180
個人的に格好いいと思わせる以上に、大友氏(の未亡人)の言った事で有名な、
「名字も無き輩」との差別化を図りたいという意識が強かったのでしょうね。
伝「足利尊氏画像」でも、南北朝時代の装備の中で、大鎧と抜かれた形跡の無
い、腰に佩いた太刀が目立っている。
211日本@名無史さん:05/02/10 00:28:30
>>189
だから清盛ちいせえな、と。
重盛は機略とか言っちゃってるし、丹波の頼政がいなかったら救いようのない場面。

>>193
俺的には第2回だけがツボった。次は上原美佐が楽しみ。

>>208
あの義経はカメハメ波とまではいかないものの、舞空術くらいならつかえそう。
貴一放言はナントカ星人に瞬間移動習ったんだろう、だから義経の気を探知して背後に現れることができる。
212日本@名無史さん:05/02/10 04:27:53
>>209
>>平家の雅な貴族的生活のあとに
>>いきなりホームレスの生活風景を描かれると

当時の貴族と一般民衆の生活風景を対比して描いているんだろう。
貴族よりも、一般民衆の生活のほうが興味があるので、俺はいいと思うけどね。

まあ、浮浪者集団が鎧を作っていたのかは、怪しいと思うけど。
213日本@名無史さん:05/02/10 04:32:29
>>189
頼朝が、偽の髭切を、清盛に渡したのは、有名な話らしいyo
まあフィクションだろうとは思うけど
214日本@名無史さん:05/02/10 05:28:44
この時代を大河にすること自体、間違ってるような・・・
215日本@名無史さん:05/02/10 05:34:05
>>212
浮浪者が「一般民衆」になるのかどうかは議論の余地があると思うが
216日本@名無史さん:05/02/10 07:08:26
大河ドラマはあくまでも観劇用の劇なのであって、何も歴史教育のために
あるわけじゃない。
ましてやプロジェクトXでもない。
217日本@名無史さん:05/02/10 07:09:24
史学として見るより、文学として接することにしている。
218日本@名無史さん:05/02/10 09:38:58
義経中心に書かれていない平家物語が原作だから
中身スカスカでトレンディドラマみたい。
219日本@名無史さん:05/02/11 13:35:25
原作は宮尾登美子の「平家物語」と「義経」
220日本@名無史さん:05/02/11 13:37:23
腐女子向けのヘナヘナ大河だよw
221日本@名無史さん:05/02/11 14:00:52
草加が歴史物にからむと、捏造とうさんくささで駄目になるという実証例
222日本@名無史さん:05/02/11 16:40:42
>>220
お前みたいなキモイ歴史ヲタ相手じゃ商売にならないの。
223日本@名無史さん:05/02/11 16:48:21
↓ おまえら

見た目はキモデブヲタそのもの。脂っぽい長髪にフレーム付きの
度の強い眼鏡を太った顔に食い込むようにかけている。
ゴジラが大きくプリントされたTシャツを着用。そのうえバンダナと
レーシング手袋、紙袋は必携してるw
224日本@名無史さん:05/02/11 21:26:06
>>189,211,213
どうしても頼朝が偽の髭切を渡したと言う話にしたいのだったら、
あの場面はこうすればいい。

頼政「これが髭切の太刀でございますか!む??(一抹の疑問)」
清盛「そうじゃ。源三位殿、あれなる松で試されてはいかが」
重盛「さすが父上。名案にござる。われらも源氏の大将の太刀技みとうござる」
頼政「されば。。」
(パキーン。刀が折れる)
一同「これは!?」
頼政「やはり某が思うた通りでござる。これは贋作」
頼盛(立場上マズー)「では我々平氏一門が小童めに誑られたとでも?」
時忠「さようなことはあるまい。それは紛れもなき髭切の太刀。
   腰抜け武者になまくら刀。ようお似合いじゃ。ホホホ。」
頼政(憤怒の表情)
清盛(不機嫌そうに)「もうよい。今日はこれまでじゃ。三位殿もここはお引き取り下され」
(退出する)

こうしておけば頼政の反乱の動機とうまくつながるし、
銘を確かめて「これは違う」という間抜けさよりずっとまし。
225日本@名無史さん:05/02/11 23:16:13
やっぱ、「武士の表芸」っつーたら、太刀筋っつーことになるのかね?
テレビみてる人にとっては。

鞍馬での修行でも太刀使いばかりで
ひとっつも弓はでてこなかったんだよなぁ。
226日本@名無史さん:05/02/11 23:59:41
明後日から名字持ち(北条)が登場するから先にテンプレ案。間違ってたら訂正しちゃって下さい。
名字(苗字)と氏・姓
歴史用語としての名字・氏・姓は、現代一般的に使われる姓名(名字と名前)とは違い、簡潔にいえば以下のようになる。
名字・・現代的な感覚では身内や町内での屋号に近く「○○(地名)のおじさん」の○○にあたるものと考えていい。
基本的には所領や在所に依るので、同時期に1人で数種用いることもあれば、父子で違うこともある。
また、自称とは限らず、区別のための他称も含む。
氏(うじ)・・有名な源平藤橘がそれで、現代の名字にあたるもの。清原・安倍・大中臣・高階他、多数ある。
姓(かばね)・・八色の姓(朝臣・宿彌など)のことで源平藤橘は朝臣。氏や実名と併用し、名字や通称とは併用しない。

これに通称・官名と実名(諱・忌名=いみな。会話に於いてこれを呼ぶことは殆んどない)を加え、例を挙げると以下の通り。
名字・・鎌倉、官名・・右大臣など、氏・・源、姓・・朝臣、実名・・実朝
  羽林殿下、鎌倉中将、将軍家、左大将実朝、鎌倉右大臣、右大臣家などと呼ばれ、氏姓表記の際には位階のため実名を省き、源朝臣となることもある。
名字・・なし、官名・・安芸介など、氏・・中原/大江、姓・・朝臣、実名・・広元
  安芸介、因幡前司広元、大夫尉中原広元、中原朝臣広元(五位の時)、広元朝臣(四位の時)など。
名字・・北条、通称・・四郎、官名・・遠江守、氏・・平、姓・・朝臣、実名・・時政
  北条四郎、遠江守時政、遠州、平時政、平朝臣時政などと称した。実際には北条時政と呼ばれることはない。
227足利義政:05/02/12 00:44:33
>>226
はぁ。だから何?
『吾妻鏡』にはっきりと
北条時政
と記している部分がありますが何か。
228日本@名無史さん:05/02/12 02:34:22
>>226
北条時政より先に登場してる一条長成(蛭子能収が演じる)という公家は
名字持ちとは言えないのかな。
229日本@名無史さん:05/02/12 04:56:05
>>228
氏は藤原、名字は一条、じゃあないの?
230日本@名無史さん:05/02/12 11:59:51
>>226
息子の義時は「江間四郎」とも呼ばれるけど、この「江間」は名字なの?

>>228
公家の場合は名字といわず、家名とか家号といったはず。
231日本@名無史さん:05/02/12 14:45:01
清和源氏の武士団形成の祖、源満仲の像
http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage73.htm
232日本@名無史さん:05/02/12 18:46:24
>>230
伊豆長岡町江間
233日本@名無史さん:05/02/12 19:22:02
義時・泰時は本来、北条氏から独立した
江間氏であった、とする説もあるね。

ところが時政の失脚によって
義時がそのまま北条氏の家督を継いだ、
ということらしい。
234日本@名無史さん:05/02/12 19:47:03
安芸の国いつく島の大明神は平家の氏神なり。
平家ををごらせし失に、
伊勢太神宮・八幡等に神うちに打ち失はれて、
其の後平家ほどなくほろび候ひぬ。
235日本@名無史さん:05/02/12 22:29:01
一言も触れられずに基実は薨去しました。
「うつぼ」が遊女屋に売られた7年前は
義経と同じ年なら6才の時
しばらく下働きをしたのちに客を取らされ・・・。
第四回(▲1168・1171年)・第五回(1171年)
主要登場人物
義経 13才
清盛 ▲51才・54才
重盛 ▲32才・35才
維盛 15才
宗盛 ▲22才・25才
知盛 ▲17才・20才
重衡 15才
頼盛 41才
時忠 ▲42才・45才
後白河 ▲42才・45才

未登場人物
頼朝 25才
義仲 18才
高倉 10才
敦盛 3才
236日本@名無史さん:05/02/12 22:48:04
盛子って出てきたっけ。
237日本@名無史さん:05/02/12 22:48:44
重盛の妻の経子って、都落ちに同行したの?
彼女は重盛死後一体どうなったんですか?
それとも、鹿谷の陰謀のときに兄の責任をとらされてどうにかなったの?
238日本@名無史さん:05/02/12 23:11:20
>>235
阿部ちゃんが17歳だったのか
239日本@名無史さん:05/02/13 01:22:11
>>235
ちなみに、静は何歳だったんでつか?
240日本@名無史さん:05/02/13 12:07:53
>>239
3歳
241日本@名無史さん:05/02/13 23:44:07
静って実在したの?
242日本@名無史さん:05/02/13 23:50:25
鎌倉で義経の子を生んでいる
243日本@名無史さん:05/02/14 00:17:01
でも男の子だったから、頼朝に由比ガ浜にすぐ捨てられたけどね。

このシーンやるのかな?クレームきそう。
244日本@名無史さん:05/02/14 04:03:16
>>243
ナレーションで済ますだろう。義経はとっくに死んでるし。

>>239
先週、寺の境内で舞いの練習してたよね。
静、あれは3歳には見えない。どう見ても見えない。
遮那王と同年代なら、後年付き合う頃は、30代になっちゃうではないか(w
245日本@名無史さん:05/02/14 04:14:32
常盤と清盛の女はこれから出てくるのですか?
246245:05/02/14 04:36:33
ゴマキがそうだったのね。
失礼。
247日本@名無史さん:05/02/14 07:52:27
>>244
静の生んだ子が殺された時は義経はまだ死んでない。
248日本@名無史さん:05/02/14 13:34:15
>>244
遮那王と同年代なら「義経記」に初登場する頃(1186)は二十代の半ばということになる。
249日本@名無史さん:05/02/14 14:45:46
郷御前は義経と同年代?
250日本@名無史さん:05/02/14 20:55:16
22才で亡くなってるから義経とは10才違い。
251日本@名無史さん:05/02/14 21:00:44
>>244
3歳に見えなくても静は3歳です。
義経との年齢差は9〜10歳が正解。
252日本@名無史さん:05/02/14 21:11:56
ま、弁慶登場のあたりからキャストも若返って見やすくなってきたな。
タッキーや上戸、石原が登場する以前は加齢臭プンプンで見れたもんじゃなかった。
253日本@名無史さん:05/02/14 23:53:17
大河でキャスティングの年齢考証はしないお約束で・・・
254富豪御前:05/02/15 00:06:32
源氏のみなさ〜ん、こちらで〜す。
>>227
確かに文治三年八月八日条に一回だけありますね。

>>228-230
>一条長成
ど忘れです。家名とか家号も後年、結局は名字になるわけですから、一条も名字(現代的な感覚での家号)でいいんじゃないですか。
大河板の蛭子スレには笑わしてもらったのに、すっかり存在を忘れてた。
>江間
これも名字でいいんじゃないですか。
父親の時政が北条四郎、兄の宗時が三郎、義時が江間(小)四郎、泰時が江間太郎ですね。>>223さんの通りなんでしょうか。
255日本@名無史さん:05/02/15 09:22:08
新撰組より義経のほうが面白い
256日本@名無史さん:05/02/15 15:34:27
30分見て消したことを思いだしたわ<新撰組
257日本@名無史さん:05/02/15 20:04:43
30分見てたとは、辛抱強いなw
258日本@名無史さん:05/02/15 20:29:03
西武の堤義明が逮捕されるという情報が流れているが、一応上層部は本気のようだ。
ところで堤という男は相当スケベらしい。プリンスホテルに堤が泊まりに行くと、
支配人以下、従業員全員がお迎えするそうだが、そこに可愛い女性社員などがいると
もう大変。「あの子ね」という一言で、その従業員は部屋に向かう羽目になるという。
もちろんカネは払われるのだが、封印したいと思っている女性も多いことだろう。
この話を聞き、問題化することを恐れた支配人などは、「堤が来るときは可愛い
従業員は休ませておけ」と命令するとか。いやはや、何でもありだな堤。
259日本@名無史さん:05/02/15 20:30:39
新撰組より義経の1話、2話あたりの方が見てて辛かった。
つーか、渡と稲森の重たい演技でまともに見る意欲が失せた。
260日本@名無史さん:05/02/16 00:18:46
義経もおもろいけど、どっちが上かって聞かれたら新選組だろうな、
河合が切腹した回は秀逸で、これを越えるのは当分ないとおもう
261日本@名無史さん:05/02/16 00:53:42
んー?
2月時点での「組」はどうしようもなくつまんなかったがね。
262義経:05/02/16 01:10:37
亀とナスと(きゅ)うり
ぴっちり横分け鼻でかにいやんエロいな
263日本@名無史さん:05/02/16 12:19:14
>>259
重い演技と暗い内容が良かったわけだが?
平家物語はやっぱり無常感がないとね。
個人が歴史の歯車に巻き込まれていって潰される感じ。
264日本@名無史さん:05/02/16 13:34:56
>>263
お子様には、そうゆうのが理解できないんだyo(w
265日本@名無史さん:05/02/16 18:22:07
重い演技イラネ。加齢臭役者の渡はイラネ。
266日本史@名無しさん:05/02/16 18:52:42
仲代達也のは良かった

あれの記憶があると、芋渡はちょっと・・・
267日本@名無史さん:05/02/16 23:06:46
>>265
さっきからおまえ、頭悪杉w
268日本@名無史さん:05/02/16 23:27:34
↑と言ってるおまえがなw
269日本@名無史さん:05/02/16 23:39:38
渡を起用した時点で清盛のキャラが決まっちゃうね。
若き義経が悩むっていう筋書きで行きたかったんだろうし、まあ、あれはあれでいいんじゃない?
270日本@名無史さん:05/02/16 23:48:07
どうせなら美輪明宏が覚日やりゃ良かったのに。院の平幹二朗と最凶タッグ(怖
視聴者は神木牛若の貞操が気になること間違いなし。しかも、美輪覚日から逃れても、滝沢義経の傍にはマツケン弁慶が付従う。

美輪みたいな坊主がデフォだと仮定した場合、当時の寺はこえーな。あんなバケモノに掘られるぐらいなら流罪のがマシ。ここだけはキリスト教的宗教観に感謝だわ。
271日本@名無史さん:05/02/17 00:09:45
後白河院、平幹二朗じゃ老けすぎだろ。
272日本@名無史さん:05/02/17 00:13:16
忠実に登場人物の年齢を再現したキャスティング誰か考えて。
273日本@名無史さん:05/02/17 00:44:32
2月の時点でか、もう象山・海舟は出てたっけ?主人公を導く役にしても鬼一なんかより上だな
象山・海舟初登場のときはいい意味で笑えた
電波設定も清盛を父と呼ぶ義経よりは、竜馬と親友の近藤のが上手い
中世初期は久しぶりなんで楽しんでるけど全体的に新選組よりは落ちる
近年の大河で最も血沸き肉躍ったのはなんといっても時宗の文永の役、これに勝るものなし
初回でチラ見せした一の谷、草原を疾駆する騎馬隊なんか興味ないよ
274日本@名無史さん:05/02/17 01:24:09
>>273
それなら、なんでおまえはここにいるんだ?
275日本@名無史さん:05/02/17 01:30:15
もう少しマツケンを持ち上げないとおばさんファンが逃げていくぜ。
と言うわけで、是非とも安宅関の一幕を追加すべき。
276日本@名無史さん:05/02/17 01:43:23
>>274
中世初期は久しぶりなんで楽しんでるからだろ?
277日本@名無史さん:05/02/17 01:56:35
>>276
「義経」を引き合いにして過去の大河を誉めてるだけにしか読め
なかったよ。あれだけじゃ本当に楽しんでるのか、わからぬ。
278日本@名無史さん:05/02/17 02:01:36
義経が奥州藤原へ行ったのは、
金売り吉次なんかよりも、義父藤原長成のコネだと思ふ。
279日本@名無史さん:05/02/17 14:02:21
吉次が連れて行ったんだというけどね。
「平時物語」では、吉次は堀弥太郎と名を変えたのだそうだ。
吉野の山中で彷徨う時も弥太郎は随行しているが、
大河ドラマはもちろん、伊勢三郎ほどにも話題にならないのは謎である。
280日本@名無史さん:05/02/17 14:53:19
>>271
後白河院はかなり後まで話に絡んでくるからね。
個人的には平幹二朗の後白河院は好き。
後白河院は得体のしれない化物じみた印象があるけど、
その辺をうまく演出してる。
後白河院が気味悪い薄ら笑いをしながら
清盛邸で白拍子と踊ってるところなんかは最高だった。
281日本@名無史さん:05/02/17 16:35:08
義経は八男だ。
282山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/17 18:22:45
>>278
陸奥守兼鎮守府将軍が、長成の遠縁でしたからね。あてにするものとしては強い。
283日本@名無史さん:05/02/17 19:57:25
やっぱラスボスは政子で、くねくね兄さんや渡清盛は仲間になるんだよね?
284日本@名無史さん:05/02/18 00:16:08
>>274,277
幕末に比べて思い入れがある分注文が多くなるだけで、義経も楽しんでます
一の谷・屋島・壇ノ浦が文永の役・池田屋を超えてくれるなら大歓迎
一の谷で緑の草原疾駆なんて笑わそうとしてるよあれ
285日本@名無史さん:05/02/18 01:17:52
みんな戦闘シーンが好きだなぁ
286日本@名無史さん:05/02/18 02:10:29
義経に最後まで付き添って衣川で死んだ実在する人物は
鷲尾三郎と鈴木三郎重家?
片岡八郎も?

伊勢三郎義盛…伊勢に戻って伊勢守護と戦って死亡。
亀井六郎重清…衣川で死亡とされるが実は生存。

常陸坊海尊…架空の人物?衣川攻めの前日に消える。
駿河次郎…架空の人物?
喜三太…義経記に出てくる架空の人物
武蔵坊弁慶…義経記で活躍する。実在の人物だが設定やエピソードは創作。

287日本@名無史さん:05/02/18 02:43:47
実は義経を影で操っていたのは藤原長成だと面白いんだがな
特に今回の大河の長成があの見てくれは演技で
後白河法皇なんかよりもっと陰険で切れ物の陰謀家だったら痺れる
288日本@名無史さん:05/02/18 02:44:52
で、今回の大河、最終回は衣川なの?
289日本@名無史さん:05/02/18 02:51:02
北海道で静かに余生をおくるのもいいけどね。
290日本@名無史さん:05/02/18 05:44:42
あの世で閻魔大王と対面するらしい。
291日本@名無史さん:05/02/18 06:59:12
長成の邸宅と金売り吉次の屋敷平泉第は至近距離
義経を影で操っていた人はもっといると思う
292日本@名無史さん:05/02/18 11:28:28
長成は、遮那王が京都にいて騒動を起こしたら面倒だから、
厄介払いのつもりで、奥州の親戚に頼んだんじゃないかな?
293山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/18 11:34:36
>>287
義経が追討される前に亡くなっていますけどね。
常盤も息子の行く先を問われる為に捕縛されて、以後どうなったのやら・・・。
294ゴールデン清盛:05/02/19 01:44:14
義仲を殺せ、頼朝を殺せー!
295日本@名無史さん:05/02/19 14:08:51
>>288
赤マフラーを巻いて承久の乱までは活躍
296日本@名無史さん:05/02/20 00:46:19
その前のセリフも聞き取れなかったけど、西の梶原ってなんだ?
297日本@名無史さん:05/02/20 21:47:15
一言だけいっておく
山野野衾 お前が嫌いだ
お前の名前を見たくなくて1年ほどこの板来てなかった
戻ってきたら前の名前見てがっかり
頼むから鎌倉関係のスレに来るのやめてくれない?
もしくは名無しで書いてくれ

マ ジ 頼 む
298日本@名無史さん:05/02/20 21:58:25
■ 広 末 裏 口 入 学 顛 末 記 ■
   http://konpeki.gozaru.jp/
299日本@名無史さん:05/02/21 00:20:41
>1年ほどこの板来てなかった
だから平和だったのか。で火種が戻ってきたと。
300日本@名無史さん:05/02/21 01:16:03
うつぼしか見る価値なし
301日本@名無史さん:05/02/21 01:18:32
いや、常盤だろ。
302日本@名無史さん:05/02/21 02:06:14
北条宗時が長男で、義時が次男だったんですね
303日本@名無史さん:05/02/21 02:11:53
弁慶って実在した人なの?
304日本@名無史さん:05/02/21 03:12:50
してないんじゃない?
305日本@名無史さん:05/02/21 10:20:21
三井寺の鐘なんか見ると弁慶伝説を完全に否定出来なくなるよな
ああいう遺物ってどういう経緯でつくられるのだろうか
306日本@名無史さん:05/02/21 11:26:12
弁慶だけどおまいら、何様?
307日本@名無史さん:05/02/21 11:37:14
初回が渡と稲森の重い演技と平家一門の臭い芝居ばっかりだったので不安だったが、
タッキー、上戸、石原などの若手や、ネンジとキイチのコミカルな演技が出てきて、
雰囲気が変わってくれてよかった。
308山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/21 12:06:27
>>303
『吾妻鏡』には出て来ますが、その他大勢の内の1人扱いですからね。
『玉葉』その他には出て来ませんが、巴御前らと同様、彼程度の地位の人間
なら、いちいち取り上げられなかったのも無理は無い。
義経自身、上洛するまでは「九朗」の諱や詳しい経歴は、朝廷関係者にも知
られていませんでしたから。

>三井寺の鐘なんか見ると
「伝説」は否定出来ませんが、実在の証明には成り得ませんね。
無名の人物が逸話を残した後、広く名の知れた人物の業績に摩り替わって全
国各地に○○伝説が伝わるという事は、よくあるものです。
元々、伝説は各時代の人々の知識や興味が反映されるものであって、歴史的
事実を伝える為のものではありませんから。
たまに歴史の一端をつかんでいる事もありますが、伝言ゲームの原理に各自
の解釈が混ざり合って、数世代で別物になります。
民俗学者が一つの伝承について各世代に問い合わせたところ、世代ごとに違
う理解を示し、その内容は各自の思い出に影響されていたという例もある。
309日本@名無史さん:05/02/21 13:58:32
その他大勢っていうけど、船が難破した後義経に従ったいたのが、
弁慶のほかには伊豆有綱、佐藤忠信、堀景光と静御前しかおらへんがな。
弁慶が少なくとも「その他大勢」ではなったことが伺える。
しかも他の連中はみんな死んだり捕縛されている。
弁慶だけが最後まで義経と行動を共にしていた可能性は否定できない。

とはいえ、逃避行中の北陸道で義経を大いに助けたのが弁慶ではなく、
むしろ比叡山の俊章であることは間違いあるまい。
310山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/21 14:17:19
『吾妻鏡』では、義経の最後を記して従者が防戦したとしていますが、そこ
には弁慶の名はありません。途中消えたのか、それとも死んだ中にいたのか。
その程度の認識だったのだろうという意味です。

少なくとも、超人的活躍は無かったでしょうね。立ち往生も含めて。
311日本@名無史さん:05/02/21 16:38:53
>>310
身分の高い人にとっては、要人を警護しているボディガードの名前なんて、
いちいち興味無いのは当り前だろうな。
ただ、だからといって
>少なくとも、超人的活躍は無かったでしょうね。立ち往生も含めて。
とは言い切れないんじゃ?立ち往生はともかくとしても。
何せ、活躍しようがしまいが記録する方としては
はなから興味の対象外なんだから、いちいち記録なんか無いのが当り前なわけで。
312日本@名無史さん:05/02/21 17:57:26
そもそも弁慶の末裔がアメリカに渡って
ベン・ケーシーになったという証拠はない


313山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/21 18:52:48
>>311
佐藤継信の場合、彼が屋島で死んだ後、義経が名馬を代償にして追善を行せ
た事が、『吾妻鏡』にも出て来ますからね。印象に残りそうな場面があったの
であれば、出て来た可能性が高いかと。結局はっきりしませんが。
それとも、馬が院のところで飼われていた点が注目されたのでしょうか?
314日本@名無史さん309:05/02/21 20:41:54
有綱、忠信、景光の最期も吾妻鏡には見えるわけで、
その点確かに弁慶最期の記述はない。
超人的活躍がなかったひとつの証といえる。
俊章も捕縛されたことが吾妻鏡にありましたね。
この人の活躍がのちに弁慶の手柄に摩り替わったと俺は思います、
つまり>308でいうところに賛成。
しかしNHKの大河応援企画ではそのまま弁慶の手柄にしていたところがイタかったね。
315山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/21 22:30:43
どちらかと言えば、加持を期待されて身辺に侍っていたのかも・・・。
316日本@名無史さん:05/02/22 09:22:50
「義経」の学会員タレント

・滝沢秀明(源義経役)
・石原さとみ(静御前役)
#現役創価高校生で父親が学会の本部職員・母親が大幹部の秘書 
・上戸彩(義経の幼なじみのうつぼ役)
・オセロ中島(松平健演じる弁慶の恋人役)
・小池栄子(木曽義仲の愛人・巴御前役)
・後藤真希(常盤御前と平清盛の娘で義経の異父妹・能子役)

池田名誉会長が滝沢らの名前を挙げ
「創価学会のファミリーです。みなで『義経』を見て応援しよう」
さらに
長井秀和、氷川きよしが池田名誉会長から激励の言葉
317日本@名無史さん:05/02/23 17:10:58
じゃあ、衣川で義経が自害する前に弁慶が義経の盾になって無数の矢を受けて死んだのは作り話か?
318山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/23 18:40:58
『義経記』には出て来ますが、『吾妻鏡』や『平家物語』には見えません。
319日本@名無史さん:05/02/23 21:11:15
平知康って平家とはどういう関係ですか?
320日本@名無史さん:05/02/24 00:21:26
弁慶の立ち往生が史実なら大陸に渡れないわけで
321日本@名無史さん:05/02/24 01:29:46
>>317
その話は、「三国志演義」の悪来典偉が元ネタではないか?
322日本@名無史さん:05/02/24 03:04:25
>>317
作り話というよりも、それが500年以上も語り継がれてきたことの
意味が重要なのでは。
323日本@名無史さん:05/02/24 07:25:02
『義経記』の前は弁慶の扱いはどの程度のものだったんだろ。
324日本@名無史さん:05/02/24 08:38:29
「源平盛衰記」で、一の谷での土井実平の行動が弁慶のものになっている。
325日本@名無史さん:05/02/24 10:51:53
上戸の演技がどうしても現代物を見ているように感じてしまうのは俺だけだろうか?
326山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/24 23:29:03
>323
とりあえず、『平家物語』参照。
>324
細かいことを言うと、土肥実平です。小早川氏の祖ですね。
>325
ご心配なく。
327日本@名無史さん:05/02/25 06:47:59
源頼朝は、
伊豆山流罪のあと、雌伏二十年、
源氏再興の希望を捨てず、
伊豆走湯山、
天台宗文陽房・覚淵を師とし、
自身の祈願成就のため、
法華経八巻・
全巻読誦千回の成就を誓った。
源頼朝在家の人では
異例なほど
法華経を読誦した人であるといえる。
頼朝の父、義朝は、
平治の乱に連座して敗走、
平清盛・後白河法皇連合から
追われる身となってしまった。
しかも、父義朝と都落ちの途中で吹雪のなか、
父と生き別れ、
東国へ向かっているところをとらえられ、
京へ引き立てられてしまうのであるが、
平清盛の継母・池禅尼に
助命されて伊豆流罪となって、
斬罪を逃れた。
そのとき、頼朝は、
亡き父、一門の追善供養のため、
唯一人の生き残りとなった自分は生き延びるのだ、
と子供ながら堂々と自分の生きる道を主張したという。
永歴元年(1160年)流罪になってより、
法華経八巻の読誦が
八百遍になんなんとしたとき、
ついに以人王の清盛追悼の宣司が下り、
源氏再興のチャンスが到来したのである。
328日本@名無史さん:05/02/25 06:52:35
1180年(治承四年、庚子) 7月5日 
乙卯 天霽、風静まる
昨日御書を遣わし、
走湯山の住侶文陽房覚淵を召さる。
今日北條の御亭に参向す。
武衛件の龍象に談り仰せられて云く、
吾心底に挟むこと有り。
而るに法華経を読誦せしめ、
一千部の功を終えて後、
宜しくその中丹を顕わすべきの由、
兼日素願有りと雖も、
縡すでに火急の間、殆ど後日に延及し難し。
仍って転読分八百部、
故に仏陀に啓白せんと欲す如何てえり。
[覚淵申して云く、一千部に満たざると雖も、
啓白せらるるの條、冥慮に背くべからずてえり。]
則ち香花を仏前に供え、
その旨趣を啓白す。
先ず表白を唱えて云く、
君は、忝なくも八幡大菩薩の氏人、
法華八軸の持者なり。
八幡太郎の遺跡を稟け、
旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、
八逆の凶徒八條入道相国一族を
退治せしめ給うの條掌裡に有り。
これ併しながら
この経八百部読誦の加護に依るべしと。
武衛殊に感嘆欽仰し給う。事訖わり施物を賜う。
判官邦道これを取る。晩に及び導師退出す。
門外に至るの程、更にこれを召し返し、
世上無為の時、蛭島に於いては
今日の布施たるべきの由、覚淵に仰す。
329日本@名無史さん:05/02/25 06:56:47
下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所
     早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討すべき事

右前の伊豆守正五位下源の朝臣仲綱宣べ、
最勝親王の勅を奉って称く、
清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て[帝王を蔑し]、
凶徒を起こし国家を亡ぼす。
百官万民を 悩乱し、五幾七道を虜掠す。
皇院を幽閉し、公臣を流罪す。
命を断ち身を流し、淵に沈め楼に込む。
財を盗み國を領し、官を奪い職を授く。
功無くして[恣に]賞を許し、罪非ずして[猥り]に過に配す。
[これに依って巫女宮室に留まらず、忠臣仙洞に仕えず。]
或いは諸寺の高僧を召し誡め、修学の僧徒を禁獄す。
或いは叡岳の絹米を給下し、謀叛の粮米に相具し、
百皇の跡を断つ。 抑も一人の頭、帝皇を違逆し、佛法を破滅す。
[その振る舞いを見るに誠に]古代を絶する者なり。
時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う。
仍って吾は一院第二の皇子たり。
天武皇帝の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討し、
上宮太子の古跡を訪い、仏法破滅の類を打ち亡ぼさん。
ただ人力の構えを憑むに非ず。偏に天道の扶けを仰ぐ所なり。
これに因って、帝王 三宝神明の冥感有るが如し。
何ぞ忽ち四岳合力の志無からん。
然れば則ち源家の人、 籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、
勇士に堪うる者、同じく輿力せしめ、
清盛法師並 びに従類を追討すべし。
もし同心せざるに於いては、配流追禁の罪過に行うべし。
もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、
兼ねて御即位の後、 必ず乞いに 随い勧賞を賜うべきなり。
諸国宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行う。
治承四年四月九日       前の伊豆守正五位下源の朝臣
330日本@名無史さん:05/02/25 08:24:50
>325
お前だけじゃない。俺もだ。
それでなくても現代的な顔なのに口調まで現代調だからな。
貧しそうな、というか下々の者っつうイメージがまるで伝わってこない。
331日本@名無史さん:05/02/26 05:39:44
>>326
いや平家物語は読んでるんですけど、それ以外に
弁慶について伝わっている話はないのかなと。
332日本@名無史さん:05/02/26 13:19:03
まあキミが平家物語だと思っているのは源平盛衰記だろう
333日本@名無史さん:05/02/26 15:06:15
頼朝には、伊東祐親の娘を妊娠させて騒動を起こした事件とかあるはず。
政子のことといい、明らかに、地元の豪族の婿になろうという人生戦略があったと思う。
(逆玉狙い)
てことは、他の豪族の娘たちを誘惑しようとして、出来たり振られたりとか、いろいろあったはず。
そうゆう頼朝の姿を描いてほしかったな>NHK
北条政子と結婚したのは、以仁王の令旨がくる数年前だから、頼朝30歳頃じゃないの?
政子の登場は早すぎる気がする。
334日本@名無史さん:05/02/26 16:18:04
>>330
上戸はさとうきび畑の唄では現代物ではないがそんなに下手に感じなかった。
しかし大河では・・・。
つまり彼女は近代までは問題なく演じられるけど近世以前の時代だったら・・・
ということだな。
335日本@名無史さん:05/02/26 16:26:15
演出家次第、、、てところだろ
336日本@名無史さん:05/02/26 18:32:05
上戸は現代からタイムスリップした時空少女という設定じゃなかったっけ?
337日本@名無史さん:05/02/26 21:07:33
源頼朝は、
伊豆山流罪のあと、雌伏二十年、
源氏再興の希望を捨てず、
伊豆走湯山、
天台宗文陽房・覚淵を師とし、
自身の祈願成就のため、
法華経八巻・
全巻読誦千回の成就を誓った。
源頼朝
在家の人では異例なほど
法華経を読誦した人であるといえる。
頼朝の父、義朝は、
平治の乱に連座して敗走、
平清盛・後白河法皇連合から
追われる身となってしまった。
しかも、父義朝と都落ちの途中で吹雪のなか、
父と生き別れ、
東国へ向かっているところをとらえられ、
京へ引き立てられてしまうのであるが、
平清盛の継母・池禅尼に
助命されて伊豆流罪となって、
斬罪を逃れた。
そのとき、頼朝は、
亡き父、一門の追善供養のため、
唯一人の生き残りとなった自分は生き延びるのだ、
と子供ながら堂々と自分の生きる道を主張したという。
永歴元年(1160年)流罪になってより、
法華経八巻の読誦が
八百遍になんなんとしたとき、
ついに以人王の清盛追悼の宣司が下り、
源氏再興のチャンスが到来したのである。
338日本@名無史さん:05/02/26 22:09:25
コピペって楽でいいよね。
脳みそ使わずに済むうえに、本人が賢くなったと勘違いできるしな。
「チャンス」はよせよ。文章が軽くなる。
339山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/26 22:19:09
うつぼが売り飛ばされていたという「遊女」のところが、近世の女郎屋の様
に聞えたのですが・・・。芸能の香りは感じ取れず。
それに、鎌倉時代後期までは遊女を賤視する習慣も無かったのですが、そ
れもあれでは分りませんでしたね。原作が悪いのか。
340日本@名無史さん:05/02/27 00:40:34
白拍子は、芸能人
遊女は、売春婦
という定義で、OKですか?
うつぼが、遊女屋から逃げれたのも不思議ですが、そのまま都大路で歩き回ってるのも不思議。
341山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/27 00:51:20
芸能も行っており、今様や踊り、即興の歌を得意としていた事は、『更級日記』
や『とはずがたり』にも記されているところです。
大江匡房の個人的な感情もあるでしょうが、『遊女記』では名立たる政治家達
が遊女と関係を結んでいたものとされており、『新猿楽記』でも諸々の芸能人
の中に含まれています。芸能人とは、武士や博打や巫女も含んだもの。
貴族や上級武士も対象としていましたし、憧れの目でも見られました。
ただの売春婦ではありません。遊女の長者が菩薩の化身であったという説話
も見られており、当時は卑賤・罪業視された存在ではありませんでした。
白拍子は、祈雨や戦勝祈願も行ったもの。平清盛や源義経の周囲にいたとい
うのも、単なる女性として見られていたからではない。
貴族や上級武士の中には、南北朝時代まで遊女や白拍子を母としたものが見
られます。傀儡子というのもいましたが、これはよく分からない。
342日本@名無史さん:05/02/27 01:18:37
>>339
本人談によると売り飛ばされたのが7才か6才で、数年後には客も取ってたらしい。
そのまんま東が出てくる予感!(AA略
343日本@名無史さん:05/02/27 14:33:14
1180年(治承四年、庚子) 7月5日 
乙卯 天霽、風静まる
昨日御書を遣わし、
走湯山の住侶文陽房覚淵を召さる。
今日北條の御亭に参向す。
武衛件の龍象に談り仰せられて云く、
吾心底に挟むこと有り。
而るに法華経を読誦せしめ、
一千部の功を終えて後、
宜しくその中丹を顕わすべきの由、
兼日素願有りと雖も、
縡すでに火急の間、殆ど後日に延及し難し。
仍って転読分八百部、
故に仏陀に啓白せんと欲す如何てえり。
[覚淵申して云く、一千部に満たざると雖も、
啓白せらるるの條、冥慮に背くべからずてえり。]
則ち香花を仏前に供え、
その旨趣を啓白す。
先ず表白を唱えて云く、
君は、忝なくも八幡大菩薩の氏人、
法華八軸の持者なり。
八幡太郎の遺跡を稟け、
旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、
八逆の凶徒八條入道相国一族を
退治せしめ給うの條掌裡に有り。
これ併しながら
この経八百部読誦の加護に依るべしと。
武衛殊に感嘆欽仰し給う。事訖わり施物を賜う。
判官邦道これを取る。晩に及び導師退出す。
門外に至るの程、更にこれを召し返し、
世上無為の時、蛭島に於いては
今日の布施たるべきの由、覚淵に仰す。
344日本@名無史さん:05/02/27 15:19:54
日本一州
上下万人一人もなく
謗法なれば、
大梵天王・帝桓並に
天照大神等、
隣国の聖人に
仰せつけられて
謗法をためさんとせらるるか。

例せば国民たりし
清盛入道
王法をかたぶけたてまつり、

結句は山王大仏殿を
やきはらいしかば、

天照大神・正八幡・山王等
よりき(与力)せさせ給て、

源の頼義が末の
頼朝に仰せ下して
平家をほろぼされて
国土安穏なりき。
345日本@名無史さん:05/02/27 21:13:13
>>336
「アーパマンショーップ」とかいって蹴りを入れたら本物だ。
346日本@名無史さん:05/02/27 22:05:35
初心者ですみません、教えてほしいのですがシャナ王はなぜのこのこ清盛に
会いに行くことができるのでしょうか? 
347日本@名無史さん:05/02/27 22:11:06
ドラマですから。
史実と比しておかしいとか余りこだわりすぎない方が精神衛生上いいですよ。
348日本@名無史さん:05/02/27 23:24:57
すみません、質問なんですが先週登場した摂家の藤原って公家はかつて繁栄してた藤原北家ですか?また幕末の攘夷ブームの時に藤原って公家みかけないんですが、滅びたんでしょうか?
349日本@名無史さん:05/02/27 23:49:55
摂津源氏と法華経コピペうぜーな。

>>348
>摂家の藤原って公家はかつて繁栄してた藤原北家ですか?
yes
>幕末の攘夷ブームの時に藤原って公家みかけないんですが、滅びたんでしょうか?
no
今大河に出てる一条や松殿みたいなもん
氏と名字についてはこのスレにもあったはず

350日本@名無史さん:05/02/27 23:54:07
ちなみに今週はシャチの狩りに見入ってて見逃した
いやーシャチの狩りすげえ、なんか蛭子さんも凶暴だった
BSも映んなかったからあとでビデオ見にゃならん
351日本@名無史さん:05/02/28 00:22:59
>348
ありがとうございます♪
氏と名字…?時間がありましたら、わかり安くご説明願います。
藤原北家なら祖先は氏族で神官だった中臣鎌足だから、祖先が桓武天皇の平家の方が家柄は上と思うのは素人でしょうか…
教えてちゃんですみませんm(__)m
352 :05/02/28 07:14:47
次の大河はなんなの?
もう決定しているんでしょ。
353日本@名無史さん:05/02/28 07:59:05
>>351さまへ
調べものがスレッドの趣旨から遠ざかるようなら、下記に逝くように。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087889438/l50
てか、上記のスレを1番から読み続けた方が宵かと思われ。
354安藤スレの1 ◆ANDO.MkcM. :05/02/28 18:37:50
>>351
氏は父系の一族を示す名前、名字は家を示す名前…だったかな?
だから源「氏」は(他の氏の養子にならない限り)源氏のままだが
名字は婿養子が継ぐことがある。
畠山家なんかは平氏から源氏になってる(源氏の婿養子が跡を継いだ)

同一の氏の一族が多くなりすぎると区別するのに不便なので
鎌倉あたりから地名や官職名を使った名字を名乗ることが多くなったけど
名字は基本的に自称なので、公的な書類や手紙には天皇から与えられた
氏の名前を書いた。

家柄に関しては平安後期までは(姻戚関係も含めて)現職天皇家との
血縁関係が近い方が上とされたので、天皇家との婚姻関係が多い
藤原氏の方が、遠い分家の清和源氏とか桓武平氏より上。
(平安後期には、その家柄が固定された。)

間違いあったら修正ください。(特に山野野衾さんあたりw)
355日本@名無史さん:05/02/28 19:42:05
>354 様ありがとうございました(^-^)
356山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/28 20:14:42
「名字の地」ともいう様に、初期の名字は専ら郡や郷・荘(当時の行政単位)
の名からとられたものでしたね。官職は、どうであったか。
「名」は名田に因んだもので、名主や大名・小名というのも由来は同じ。
名主も庄屋も、もとは荘園(庄園)制に由来する名称です。
鎌倉幕府では、御家人の条件は氏素性が確かであり、先祖から伝領された
名字の地を相続している事とされていました。
後に御家人が没落して行く例が増えると、土地の所有は絶対条件ではなく
なりますが、「名字も無き奴輩」などという時、御家人たちは自分たちの先
祖の業績を思い、甲乙人との違いを実感したものです。
なお、前近代には養女でも姓は基本的に変わりませんでしたが、未亡人と
して財産を管理する場合には、亡夫の名字を名乗る事がありました。
鎌倉幕府法では、夫の財産を相続するためは再婚しない事が条件とされて
いたので、相続して名字を名乗ったのは尼入道となった人々です。
近世までには、土地の名という実感が薄れ、血脈を意味する「苗字」という
表記が登場する様しています。
庶民も苗字を持っており、15世紀には名乗りを禁じられた例もある。

しかし、辞書も引かずに質問された方にお答えするのもどうかと・・・・
というのは、堅苦し過ぎますか。
それより浄海のじの字も出て来ない事、浄海入道が髭を生やしたままな事、
お徳という名前やその猫をなんとかして欲しい。
357山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/02/28 20:58:54
× 表記が登場する様しています。
○ 表記が登場する様になっています。
358日本@名無史さん:05/02/28 21:53:53
>>356
今手持ちの本をめくってみたら、「一遍上人絵伝」では猫が出てこない、
ということが書いてありましたね。
この時代より少し下るのですが、中世絵巻では猫は繋がれて飼われていたと言うことですね。
犬よりは希少価値が高かったみたい。
359日本@名無史さん:05/03/01 02:15:23
>>358
猫、繋いで飼ってたらネズミを獲れないではないか?
この時代、猫は愛玩用というよりも、ネズミ対策だと思うが?
360358:05/03/01 08:15:28
えーと、「絵画史料で歴史を読む 黒田日出男著 筑摩書房」のP100 によると、
都市のネズミ被害対策のため、京都所司代が「猫の放し飼い令」を慶長7年に発布し、
この法令があっという間に洛中以外にも広まった旨が書いてますね。

経緯については、御伽草子の「猫のさうし」なるものにかかれているらしいです。
この放し飼い令以降、猫とネズミ、猫と犬の立場がガラリと変わり、
猫は放し飼いに、犬の方が繋がれて飼われるようになったそうです。

と言うことは、近世にはいるまでは猫はネズミ取りに期待されていなかったと言うことかな?
山野野衾さんあたり、どうだったんでしょうかね。
ご存じでしたら解説お願いします。
361日本@名無史さん:05/03/01 09:06:17
源氏物語では、女三宮が猫を可愛がってましたよね。
物語の展開にとても重要な役回りである猫。

当時の高貴な愛玩動物だったのかな。
362山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/01 10:44:50
『宇多天皇御記』に黒猫が、『更級日記』に白猫が登場していますが、中世
の猫は大半が虎猫でした。中世の涅槃図に出て来るのも、大抵は虎猫です。
『枕草子』には命婦のおもとが登場する他、背が黒く腹が白いのがよいと記さ
れていますが、これは作者に限らず当時の貴族に好まれたものらしい。
ここでも、猫は名札付きでつながれていたと記されていますよ。
『今昔物語集』に猫恐の大夫の話がある通り、鼠退治をさせていなかったとい
う事は無く、少なくとも『古今著聞集』には、しろねという猫がよく鼠や雀を
とったが、殺さず人前まで連れて来て話していたとあります。
同書には猫が17年生きて飼い主が暇をつかわしたという話がありましたが、
これは化けるのを恐れたもので、『明月記』や『徒然草』に猫又の話があります。
『信貴山縁起絵巻』や『鳥獣戯画』にも猫が登場します。共に虎猫。
上記の『猫のさうし』に虎の子孫とあるのも、その為でしょう。
上杉本『洛中洛外図屏風』に出ていたのも、確か虎猫でしたよ。
363山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/01 10:58:58
女三宮の猫も、確か繋がれていませんでしたか。
宇多天皇の猫はよく鼠を獲ったそうですから、飼い主の嗜好もあったらしい。
『更級日記』の猫は、迷い猫を飼っていたものでしたね。
猫を主題とした絵が登場するのは室町時代からで、普及の程が伺えます。
『大鏡』には犬の、『古事談』には馬の、『宇治拾遺物語』には蜂の追善が見られ
ますが、『台記』には、記主頼長が猫を葬らせたとあります。
ど忘れしていましたが、『日本霊異記』にも狸(この字は中国では山猫をさし
たもので、ここでは猫。狸は別の字で表記)が家に来た話が見られます。
犬や蛇と違ってご馳走にありつけたという。
364359:05/03/01 15:15:54
>>359ですが、皆さん、どうもありがとう。
慶長以前は、猫、つないで愛玩用だったの、初めて知りました。
ためになります。
ただ、書かれているのは貴族とか上流階級の猫で、
農村の猫はどうだったのかな?やっぱりネズミ用では、という疑問は残ります。
365山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/01 18:36:12
ですから、中世(前期)には、農村で普及する程猫が飼われていません。
『松崎天神縁起』では、都の銅細工師の家に虎猫が飼われていた事になって
いますし、宇多天皇などの例を考えれば、婦女子の愛玩用以外に、飼い主
の嗜好で鼠を獲らせる事もあった様ですが。
そもそも、鼠獲りの可能性についても既に363で示唆している訳で・・・
長文だったから、最後まで読まずに流し読みで済まされましたね?
なお、中世の絵巻で鼠と言えば、天井裏・夜・貧家の象徴となっています。
366359:05/03/01 21:32:58
>>365
山野さん、どうも。
いや、読みましたが、おおばっぱに愛玩用と捉えたわけで・・・。
367山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/01 21:45:18
そうですか。いや、まとまりが無い文章では、読んで頂けなくても無理は無い
と思っていたところで・・・。
室町時代以降には詳しくありませんが、鼠獲りが盛んになったのはこの頃では。
ただ、京都では愛玩用の珍しい毛色の猫が繋がれて飼われていたのでしょう。
黒・白・黒と白といったものに対し、虎猫はありふれていたので、早くから放
し飼いになっていたものと思われます。
368日本@名無史さん:05/03/03 01:15:56
監修?してる奥富氏(新人物往来社マスター)ってもしかして創価?
著作で日蓮を無理やりクローズアップする文章が、やけに不自然で
賛美調になりそうな文章を、精一杯抑えてる感じがする。

でも学会員なのがばれたら歴史学者の生命線は、完全に絶たれるから
命がけだよな。きっと。
369日本@名無史さん:05/03/03 01:41:28
徳子さんには宗盛だけじゃなくて、知盛とも性的行為を
持ったという噂があるのね。酷いな。
最初に話を作った人の頭の中はエロでいっぱいだったんだな。
370358:05/03/03 08:20:37
どうも、最初に猫談義を振った358です。
猫の渡来については、島嶼から日本に自生していた山猫を除けば、
仏教伝来頃にやってきたというのが定説らしいですね。

江戸時代前の猫の鳴き声は「にゃあにゃあ」ではなく、
「ねうねう」もしくは「ねえねえ」と表記されていた旨の新書を読んだことがあります。
信貴山縁起絵巻の解説本が手元にありますが、尼公の巻で1匹だけ登場してますね。
屋内で丸くなっている図ですが、この時代のことですから、
まるっきり庶民層は猫と無縁だったとういうわけではないことは事実でしょう。

でも今回の大河では(今回だけではなくどの時代劇でもそうですが)、
犬が全く出てきませんね。
ある意味猫よりも当時ふんだんに見られた犬が出てこない、ということにちょっと残念な気がしますが。
まあ出てきても、野犬の群れが人間の死体を貪ったり、捨て子を襲い食い殺したり、
と言った場面はリアリティを出せても、明らかに放送コードに引っかかりますね。
371358:05/03/03 08:22:09
すみません、2行目
×島嶼 → ○当初 です
372山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/03 11:20:10
「犬烏」と並び称された存在が出て来ない事には、都市生活が始りませんね。
鳶ぐらいどこかで出て来て欲しいところですが。
多分、脚本家は当時の穢観念も知らないのでしょう。
373山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/03 11:21:36
>日本に自生していた山猫を除けば、
島嶼部に対馬山猫・西表山猫はいましたが、本土には山猫はいませんよ。
オオヤマネコは縄文時代の早い段階で絶滅していた様ですし。
374日本@名無史さん:05/03/03 15:36:38
>>370
今の日本に猫は何十万匹いるか知らないけど、
全国津々浦々、どんな僻村・離島にもいると思います。
これらの猫は、慶長の猫放し飼い令以降増加したとは思えません。
つまり、それ以前は繋がれていたので繁殖は人間の管理下だったが、
それ以降自由に繁殖するようになって、京都の猫が、400年ほどで全国に広がったとは思えません。
京都で、貴族や金持ちが、猫をつないで飼う風習があったのは、
9世頃に、中国から輸入した猫を愛玩していたのに由来すると思います。
その猫は、おそらく黒か白できれいな猫だったのでしょう。
しかし、農村では、猫は最初から放し飼いだったと思います。
仏教が伝来した時に、教典を鼠から守るために、猫を連れてきたという伝承があるようですが、
私は、稲作の伝来時に連れて来られたのが最初だと思います。
古代の中国では、猫は鼠を取るために神扱いされていました。
保管する米を鼠から守るのに猫は不可欠だったと思います。
必ず、この列島で米作りをしようとする人々は猫を連れて来たと思います。
したがって、稲作とともに猫も全国に普及したが、
農村に猫は普通にいたが、「更級日記」や「大鏡」などの著者は、
農村を訪問したり、庶民の家の中を見ることがなかったので、
猫の記述がないだけだと思います。
「思います」だらけで長文、失礼しました。
375山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/03 17:56:45
374氏、もしかして『更級日記』も『大鏡』も読んでらっしゃらないのでは・・・。
犬の骨や造形は縄文・弥生・古墳と出て来ますが、猫は確認出来ない。
376日本@名無史さん:05/03/03 20:02:54
いつからここが猫について論議するスレになったんだよ
377日本@名無史さん:05/03/03 20:33:22
やっぱり糞コテは糞コテ
378日本@名無史さん:05/03/03 21:25:18
まったく限度ってものを知らないんだから。誰とは言わないが。
379日本@名無史さん:05/03/04 01:09:00
小林稔侍―○┬○―○―渡辺謙┬渡部篤郎
         ├○―白竜     └和泉元弥―○―片岡鶴太郎
         ├平幹二朗┬川崎麻世―宮迫博之―○―勝野洋
         │      ├羽賀研二
         │      ├渡辺徹
         │      └○―○―○―段田安則
         ├伊東四朗
         └○―ピーター―山口馬木也―児玉清
小林稔侍―○―石橋蓮司

勝村政信―小泉孝太郎―××―○┬北村一輝
                       └○―フランキー堺―西岡徳馬
380日本@名無史さん:05/03/04 01:13:24
西岡徳馬―尾美としのり―○―緒形拳┬真田広之┬筒井道隆
                         └高島政伸└片岡孝太郎┐
┌――――――――――――――――――――――――――┘
└○―○┬市川團十郎―松岡昌宏
      └佐野史郎―大沢たかお

┌江原真二郎―○┬塩見三省
└○―河原さぶ  └柄本明
381日本@名無史さん:05/03/04 01:16:37
平幹二朗―○―○―○―○┬吹越満
                  └松田洋治―○―片岡孝夫

○┬○―○―○┬宮内敦士
  │        └川原亜矢子
  ├中丸新将―・・・―丸野保
  └○―○―○┬宇梶剛士
           └井上順
382日本@名無史さん:05/03/04 20:37:06
あ〜猫の話以来クソスレになっちまった
馬鹿二人氏ね
383日本@名無史さん:05/03/04 21:38:53
>>379-381
続編希望
384日本@名無史さん:05/03/05 00:31:30
>>383
まとまって一族が出てるやつもうない。
385日本@名無史さん:05/03/05 02:59:43
カラスは表現されていた。犬の表現が欲しい。
386日本@名無史さん:05/03/05 03:26:32
始まる前には「ああ〜」てレスあって
金粉時頼に頭に卑猥な疵つくった日蓮がいて
時宗のがツッコミがいあって面白かった
387日本@名無史さん:05/03/05 13:25:38
>>352
「功名が辻」
388日本@名無史さん:05/03/05 15:52:17
>>379
後白河院が時政の孫なのかw
389日本@名無史さん:05/03/06 00:10:58
どうにか明日の放送前に先週分見終えた。
吉次さんしゃべる時にフルフルしすぎ
ウォンバットかよ
390日本@名無史さん:05/03/06 20:43:44
悦ばしいかな、
経文に任せて
五五百歳広宣流布をまつ。

悲いかな、
闘諍堅固の時に当て
此の国修羅道となるべし。

清盛入道と頼朝とは
源平の両家、
本より狗犬と猿猴とのごとし。

少人・少福の
頼朝をあだせしゆへに、

宿敵たる入道の一門ほろびし上、

科なき主上の
西海に沈み給ひし事は
不便の事なり。
391日本@名無史さん:05/03/06 20:49:48
タッキー義経なかなかよい。

都から来た高貴な人て感じがよく出ている。
392日本@名無史さん:05/03/06 20:51:22
殺陣の動きもなかなか見事。
そしてあの逆手投げは
源氏に伝わったと言われる
大東流柔術に違いない!
393日本@名無史さん:05/03/06 21:04:04
桃太郎みたいダナ。
394山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/06 21:20:52
弓矢が全く出て来ない(蟹男が弓と矢を三本背負っていただけ)のが気にな
りますね。烏帽子を着用していないものがよく出ていますし。
395日本@名無史さん:05/03/06 21:44:17
>>394
はげしく同意。それと
山賊が義経主従の寝込みを襲うときもおかしいです。

当時の普通の戦法であれば、放火して、
飛び出してくるところを弓で一人ずつ殺していくはず。

まぁ、荷物も燃えたら意味ないってことかもしれませんが、
だとしてもボヤ程度の火でも、彼らが飛び出してくるのは変わらないわけで。

合理的に説明をつけるとすれば、あのときの宿主が山賊と結託していた、
とするしかなさそう。
396日本@名無史さん:05/03/06 22:02:04
カニ男=ナンチャン?
397日本@名無史さん:05/03/06 22:16:36
全盛の平泉の町並みをCGで完全に再現してくれてるとうれしい
特に二階大堂
398山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/06 23:24:41
>>395
『義経記』に、鏡の宿で賊に襲われる場面がありますが、そこでは南北朝時代
に盛んに用いられる様になった六尺棒や手鉾を持って奥になだれ込んでいる
ので、原作がそれを参考にしたものかもしれません。弓矢は出て来ない。
『義経記』には(少なくとも前半)、ほとんど弓矢が出て来ませんが、弓矢はと
もかく放火という手段を使用したのは、やはり焼いては元も子も無い為では。
賊に夜襲われたという資料は、都の外ではほとんど無いので、困ります。
ただ、『宇治拾遺物語』に、矢の名人である武士を恐れて押し入らなかった
話がある通り、弓矢を全く無視するのはおかしい。
『地蔵菩薩霊験記』でも、屋敷を襲われた側が弓矢を用意しています。
399日本@名無史さん:05/03/07 00:10:23
この時代、ご飯は強飯から姫飯に変わってたんでしたっけ?
ちょっと強飯のままでお握り作れたっけと思ったものですから。
400日本@名無史さん:05/03/07 15:40:19
ていうかナンチャン見るの久しぶりだ。
ウリナリとか笑う犬が終わってからめっきり見かけなくなったから。

来週うつぼが義経を追って奥州に来るっぽいんだが
当時、年頃の女の子が一人旅すんのって無茶苦茶危険なんじゃねえの?
どうやって一人で奥州まで来たんだよw
401山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/07 17:21:16
当時、旅をする女性には犯される事を許容・覚悟する事が求められていたと
もいいますが・・・。網野先生の説だったと思います。
『信貴山縁起絵巻』の老尼の旅姿を順を追って見て行くと、初めは馬に乗って
下人を連れていたのに、やがて馬を売り、下人にも逃げられて身一つで弟の
ところに辿りついたのが分ります。
しかし、そもそもまともな財産も無い訳ですからね。物乞いと盗みを働きな
がら行くしか無いでしょう。
どうも『利家とまつ』の頃から、大河ドラマの世界にどこでもドアが導入され
た様な気がするのですが・・・。旅を軽く考え過ぎです。
402日本@名無史さん:05/03/07 19:14:55
春をひさいでたんじゃないの。
403日本@名無史さん:05/03/07 21:08:51
大体、戦国時代以前に日本を旅して回っている女ってのは歩き巫女とか辻芸人とか、
場合によっては売春もするようなのばっかり。うつぼも例外ではない、と考えるべき。
もともと売春宿でウリやってたと言ってたし。
身分のある女がやむを得ず旅するときは武装した侍でガチガチに固めるのが常識。

404山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/07 23:35:40
>歩き巫女
『梁塵秘抄』巻二には、旅をする我が子を気遣う歩き巫女・博打の母親の
心境を詠った今様がありますね。
405日本@名無史さん:05/03/07 23:44:45
>>403
「ウリやってた」
こんなところで、ゲイ発見。平安末期にハッテンバつくりそうな勢い。
406日本@名無史さん:05/03/08 00:51:31
>>405
> 「ウリやってた」

女子高生も使うぞ。すれ違いだけど
407木村桐子:05/03/08 00:53:35
オレも>>325殿に同感じゃ。
408日本@名無史さん:05/03/08 01:05:57
たしかに>>405がなんでゲイだと思ったのか聞きたいな
普通は>>406のほうを連想するよな。

マンガやゲームのような筋立て、お芝居のような殺陣、だめだこりゃ。
409日本@名無史さん:05/03/08 03:09:14
>>404
博打って、人の名前ですか?
今様ってどんなのかな? よかったら触りだけでも紹介してください。
410日本@名無史さん:05/03/08 13:21:33
>>405
「ウリやってた」ってゲイ用語なの?初めて知った。
あなたはその筋の人?
411山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/08 18:33:41
>>409
博打打ちですよ。当時は芸能の一分野とされており、『口遊』・『新猿楽記』
でも紹介されています。
巫女と対にする事は、後世の職人歌合にも見られますが、巫女が託宣を
伝える存在であるのに対し、サイコロを振るって自ら運命を変えるとい
う点において、受動的な巫女に対する能動的な博打というものが考えら
れていたらしい。
作り物語や説話集では、ごろつきや詐欺師として出る事が多いですね。
今様は、直訳すれば当世風という意味。流行歌謡とでも申しましょうか。
後白河院の仮名日記とも言われる『梁塵秘抄口伝集』巻十によれば、院は
今様の名手であれば、いかなる下賎の者とでもつきあう事を辞さず、自
身もよく歌って二度も喉をつぶした程の今様好きでした。
あまりに身分差を考えない行動に、乳母の夫であった信西にはをこの者
扱いされ、二条天皇には縁側に戸板を打ち付けられたといいますが、ソ
ースを度忘れしてしまいました。
よろしければ、どなたかご教授下さい。
412日本@名無史さん:05/03/08 19:32:17
>>411
>>409は博打(ばくち)を読めないんだ。察してやれ。
413日本@名無史さん:05/03/08 19:39:59
>今様ってどんなのかな?

昔の大河には今様が出てきてたがドラマなので忠実度は?だけど
天皇が今様好きで平泉から今様のうまい女を献上したシーンがあったので
義経でも見られるかも
414日本@名無史さん:05/03/08 21:45:06
義経記では金売り吉次がなんでもしてしまうから、
弁慶との出会いのため義経はもう一度京都に戻らなければならなくなった。
もし吉次と義経の旅に弁慶まで登場したら、
弁慶も居心地悪くて物語として落ち着かなかっただろう。
伊勢三郎は吉次とはぐれた義経と劇的な出会いをしているが、
吉次と義経が再会するにあたり、また姿を消している。
415山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/08 23:54:51
>>413
何度か見過ごしましたが、慈円作詞の『越天楽今様』が出て来たとか・・・。
曲はおそらく当時のものではないでしょうに、手抜きもいいところです。
歌詞の同じものであれば、奥三河に民俗芸能として伝承されていますよ。
>414
つぎはぎというか、矛盾が多いですね。特に前半。
416日本@名無史さん:05/03/09 05:39:40
前半は各地の民話を集めて登場人物を義経等に変えてつなぎ合わせたとも言われてるね。>義経記
417山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/09 12:27:37
語り物として流布したものであり、各寺社の信仰に関する話や、縁起に関るものも多い。
418日本@名無史さん:05/03/09 22:43:32
泰衡の没年齢は、金色堂に残されていた頭蓋骨の鑑定から
近年は25歳説が有力らしい。
いっけいでは年を取りすぎだな。義経とのバランスも考えて
もっと若い俳優をキャスティングするべきだったな。
419日本@名無史さん:05/03/11 00:58:48
>>154
頼朝子役って池坊って名前でしったっけ?
その子役は鉄人28号の映画でショタ役らしいが、仮にその内容が真実だとしたら
横山光輝が層化信者でマニーを相当搾り取られたらしいって噂も真実なのか。
420日本@名無史さん:05/03/11 01:30:31
昨日の夜中テレビつけたら道中でござるって番組で白髪のおじいさんが江戸時代の高札について
説明してたんだけど、この番組のほうが大河より考証を大事にしていて何倍もマシ。
421日本@名無史さん:05/03/11 07:30:38
>>420
作家の石川英輔さんですな。
江戸時代を舞台にした小説(「大江戸神仙伝」シリーズ)や
エッセイの範囲になるのかな(「大江戸えころじー事情」シリーズ)
なんか書いてます。
422日本@名無史さん:05/03/11 11:02:48
>>419
頼朝子役は「池松」って名前ですが。。。
423日本@名無史さん:05/03/11 13:57:59
考証をテーマにした番組とドラマじゃそりゃ違うって。
単純に比較するのもどうかと。
424日本@名無史さん:05/03/11 15:31:40
NHKの大河ドラマガイド(と他一冊)が泰衡を1155年生まれと
明記してた。
泰衡の生年には2説あったはずだが、最近確定的な史料でも出たのか?
425日本@名無史さん:05/03/11 22:39:14
堀弥太郎景光が今まで義経の側近として登場しないのは何故?
伊豆有綱も無視されてるよな。
メインとして出るのに弁慶、伊勢三郎、佐藤忠信はいいとしても。
426日本@名無史さん:05/03/11 23:04:17
そんなに史実に拘る必要も無いんじゃない?
オレなんか安宅の関の一幕も加えて欲しいくらい(w
427日本@名無史さん:05/03/12 00:53:56
話がぶっとびすぎてて観るのが辛くなってきた。
しかし御家人さんたちが出揃わない現状でやめるのは口惜しい。
これぞまさにM男の悲劇。
428日本@名無史さん:05/03/12 05:17:07
>>425
義経記をメインにしているからじゃないか?
義経記には登場しないだろ、それらの人々は。
429日本@名無史さん:05/03/12 07:48:47
>>425
伊豆有綱は義経の娘婿だから、若くして死んだ
悲劇のヒーローに結婚適齢期の娘がいるとイメージと
合わないからわざと出さないんじゃないの?
430日本@名無史さん:05/03/12 09:16:57
平教経、知章、清宗の配役は誰かわかります?敦盛とか通盛とかも出てくるんですか?
431日本@名無史さん:05/03/12 17:35:27
京から鎌倉(だっけ)まで
馬で五日、歩きで二週間というのに驚いた。
そんな短期間で行けるんだー。歩いたら二ヶ月ぐらいかかると思ってたよ。
432日本@名無史さん:05/03/12 21:23:32
>>431
「十六夜日記」を読め。
433山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/12 22:18:04
刀伊の入寇は京に四日、承久の乱は鎌倉に四日で報告が届いています。
434日本@名無史さん:05/03/13 01:22:34
それにしても都を発って一話で奥州入りは、やはり些か急ぎすぎではあるまいか。
海路を選んだというところまではまだしも、伊勢三郎との出会いなどはちょっと強引のような。
やはり主たるテーマじゃない所は端折らざるを得ないのか。
435日本@名無史さん:05/03/13 03:31:36
>>429
何年かしたら嫁がすと婚約だけしてるんじゃないか?
どう考えても娘が幼すぎるだろう。

この娘はどうなったのかな。
436日本@名無史さん:05/03/13 06:43:32
>>435
最初に奥州に下った時代に妻(佐藤兄弟の姉妹説)がいたのではという説がある。
これだと、義経死亡時に15歳前後ってところかな。
当時として考えると幼すぎはしないと思う。
437日本@名無史さん:05/03/13 18:36:36
また創家主導のキャスティング。
牧の方=田中美奈子。

こんな取柄の無い女使うなんてな。
438日本@名無史さん:05/03/13 18:45:27
>>436
マジですか?ソースきぼん
439日本@名無史さん:05/03/13 20:39:32
藤原基成が出てこないな
440日本@名無史さん:05/03/13 21:52:38
>>434
確かに奥州入り早すぎ。
もう着いたの?って感じ。
去年の大河は京都着くまでに3週くらいかかってましたからね
441日本@名無史さん:05/03/13 23:38:27
>>157
ライバルうつぼの出現でマツケン必死だったなw御曹司のケツは渡せねえ!
442日本@名無史さん:05/03/13 23:54:40
>>439
秀衡の脇にいたのが基成女(泰衡母)なんだろうか。
で国衡はなぜあんなに小汚いのか
都人を嫌ってるのは基成とその女のせいで廃嫡されたからなのか。
443日本@名無史さん:05/03/13 23:57:29
基成のことを出すと、こないだ「決別」したはずの
母親と養父のコネでメシくってるってことになって
せっかく「元服」して過去から決別したっつー演出が
台無しになるから、出さないのではないかと。
444日本@名無史さん:05/03/13 23:58:13
>>442
あのおばちゃんと、一茂が後に結婚するというわけか。

なんか、とほほやねぇ。
445日本@名無史さん:05/03/14 00:03:17
>>440
歌舞伎や講談のネタも入れる予定なんじゃない?
そうすれば結構長い話になるから、ところどころ端折らないと。
446日本@名無史さん:05/03/14 00:05:09
>>444
国衡って泰衡のおかんと結婚すんの?

>>423
道中〜はコント番組。お江戸でござるの後番でしょ?
447日本@名無史さん:05/03/14 00:19:29
>>446
そうです。秀衝の遺言で、その死後に。
秀衝の死後に、泰衡と国衝との融和を図るため、といわれてますが、
どうなんでしょ?
448日本@名無史さん:05/03/14 00:21:07
>>447
へー知らなかった。おもさげなかんす
449日本@名無史さん:05/03/14 00:36:44
>>442
鶴田さやか、鶴田浩二の娘
くねくね、一茂、孝太郎、良純、有起哉に続く6人目の二世
450日本@名無史さん:05/03/14 00:37:15
基成の娘は藤原氏のなかでも重要な人だった。
当時は地方武士が自らの地位を高めるため貴族の娘を貰うことが少なくなかった。
国衡と基成の娘が婚姻したのはかなり重要な意味を持つと考えられる。
451日本@名無史さん:05/03/14 01:16:30
>>397
大河終らせて毎週CGで再現した当時の建築物を細部まで見せてくれるほうがおもしろいかも。
452日本@名無史さん:05/03/14 01:24:09
役者が乗馬するシーンはCGか?
453日本@名無史さん:05/03/14 01:34:18
>>452
乗馬練習合宿までしたらしいから、CGじゃないでしょ。
454日本@名無史さん:05/03/14 03:33:00
義経16〜17の時に孕ませて一年後に生まれたとして
義経死亡時に13〜14歳?
義経が頼朝に見限られたのが27歳の時だから
それまでに婚約していたとしたら10歳以下。
10歳以下はやっぱ幼すぎじゃないか?

455日本@名無史さん:05/03/14 20:47:00
>>454
姉さん女房という可能性もありますからね。
奥州入り直後に婚姻・出産という可能性もありますね。
だとすると、頼朝・義経手切れ時にもう少し年上(12歳前後)なら
形式だけでも婚姻してもおかしくないような気がします。

ところで、義経娘と有綱の婚約or婚姻は頼朝の命令なのでしょうか?
義経が勝手にやったとすると、これも政治オンチの現れですかね。

456日本@名無史さん:05/03/14 21:59:57
こういうドラマではしょうがないのかもしれないが、頼朝義経の兄弟達も出てこなそうな雰囲気だな。
範頼ぐらいは出てくるかな?希義は論外だろうし全成や義円ももう出てこなそうだな。
457日本@名無史さん:05/03/14 22:40:02
>範頼、希義、全成、義円

範頼は出るらしいが、他は出ないね。
平治の乱の話でさえ稀義を話題にしたことはないんでねえべか。
全成なんて一番長生きしているのに相手にもされないよな。
458日本@名無史さん:05/03/15 00:13:16
さすがに範頼抜きにはこの後の展開は語れまい。
459日本@名無史さん:05/03/15 01:33:45
全成は、義経の母も同じ実兄だし、対面しているであろうから、出てくるんじゃないかな?
こいつは出したほうが、頼朝との対比で、ドラマに深みが出ると思うのだが、、、、
460日本@名無史さん:05/03/15 02:41:38
「草燃える」の伊藤孝雄の全成は、独特の存在感があって良かった。
461日本@名無史さん:05/03/15 03:45:13
うつぼという女を捏造した理由がわからん。
義経の、平泉時代の青春を描きたいのならば、
最初の妻との恋愛、結婚から別離までを精一杯美化して描いたほうがよかっただろう。
(どうせ、ほとんどの視聴者は知らないんだし(w)
462日本@名無史さん:05/03/15 04:05:17
ttp://nekhet.ddo.jp/people/japan/genji02.html#yositune189

ここには義経が15歳の時、子供が生まれたようになってる
463日本@名無史さん:05/03/15 05:21:07
15の時に子供が生まれたのなら仕込んだのが14の時にになるわけだが。
子供は種つけてすぐには生まれないぞ。犬やネコじゃないんだから。
464日本@名無史さん:05/03/15 05:35:11
1174 鞍馬出奔 義経16歳
1175 奥州到着 義経17歳

15歳の時はまだ鞍馬。
465日本@名無史さん:05/03/15 16:26:04
そのサイトはデマ流してるなw
466日本@名無史さん:05/03/17 00:58:47
カニ男が仲間になりたそうな目でこちらを見ている。
仲間にしますか? はい・いいえ

見てから3日も経つとほとんど忘れてるなあ。
義経の烏帽子親に関して、秀衡さんは機嫌良かったようですが、これから世話になろうっていうのに、烏帽子親にはしたくない(秀衡の人を知れば断りたくなるかも)って、失礼な話ですね。
笑ってる場合じゃないんじゃないですか?秀衡さん。
9条承太郎秀衡さんの話を聞きながら、亡き父に思いをはせる義経くん。きみの父君は大庭御厨に押入ったり、相馬御厨をパクろうとしたり、それはそれはステキな人で、9条承太郎さんとは間逆の人でしたよ。
平家のみなさん。義経の頼る相手が秀衡でホっとしてどうするんですか?
伊豆の流人と奥六郡の長では比べるまでもないでしょうに。

来週、遭難した泰衡がオオクワみつけてて、不幸中の幸いとばかりに、地味に機嫌良かったら笑える。100%ないけど。
467日本@名無史さん:05/03/17 02:21:00
森林破壊が進んでいなかったあの時代、
オオクワガタは珍しくもないんではなかろうか。
468日本@名無史さん:05/03/17 03:13:34
大河の義経って、
清盛を父親と思ったり、
秀衡に父の面影を見たり(?)
それで相手に気に入られて、
実力者に取り入るのが本能的にうまいというか、ジジィキラーというか、面白い設定だとおもた。
脚本家の好み?

>大庭御厨に押入ったり、相馬御厨をパクろうとしたり、
これ、どうゆう意味ですか?
御厨は台所かな?
469日本@名無史さん:05/03/17 05:57:15
御厨というのは、荘園の呼び方の一例です。
相馬御厨事件というのは千葉常胤が管理する荘園相馬御厨に対して、相馬氏、上総氏
などが、それぞれに所有権を主張して混乱していたところに
源義朝が武力介入した事件。
大庭御厨事件というのは、国衙と対立関係にあった大庭氏が管理する大庭御厨
に源義朝の配下が武力介入した事件。
いずれも、義朝は勝利している。
470日本@名無史さん:05/03/17 07:38:32
義経の白馬をこの前東京ドームで吉宗が乗っていた。
471日本@名無史さん:05/03/17 09:39:23
岸本乗馬センターのお馬さんかな。

何年か前、奈良の山之辺の道にある大神神社の春祭りでも
「暴れん坊将軍で松平建が乗ってる馬」というのを見た。
やはり岸本乗馬センターだったね。
472日本@名無史さん:05/03/17 15:32:37
>>469
レス、サンクスです。
台所に押し入って飯をパクったのかとおもた(w
要するに、源義朝が、坂東武士相互間の紛争に武力介入し、
紛争を解決することによって、坂東武士をを支配下に組み入れていった・・・ということですね。
473山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/17 15:51:43
>466
>烏帽子親にはしたくない
脚本の下地は『義経記』の様ですが、あそこでは相伝の家人扱いで、秀衡も当
たり前の様に人や物を差し出しています。一寸考え難い事ですが。
『義経記』の内容も無茶ですが、どうせ富士川以前の義経の足取りはほとんど
分っていないので、あまり本気にされない方がよろしいですよ。

>472
牧、杣、園など、荘園の名称でおおよその産物が分ります。
杣からは木材の切り出しの為に、牧からは牛馬とその扱いに長けた人間を必
要とするために、徴発が行われる事がありました。
面白い事に、坂東で義朝に介入された面々は、保元・平治の乱に際して動員
を命じられていた様です。
面白くは無かったでしょうが、結局はその方が有利だと踏んだのでしょう。
474山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/17 17:44:46
千葉・上総は源頼信に降伏した平忠常の子孫で、大庭氏も相伝の家人だった
という因縁がありましたが、延慶本では「今は平家の御恩を受けている」と大
庭氏にははねのけられていますね。
真偽はともかく、当時の武士の感覚を示したものとして興味深い。
475日本@名無史さん:05/03/17 21:41:48
>>ジジィキラー
その攻撃は後白河法皇にも有効です
476日本@名無史さん:05/03/18 07:47:29
>面白い事に、坂東で義朝に介入された面々は、保元・平治の乱に際して動員
>を命じられていた様です。

初めて知りました。まあぶつぶつ言いながら動員されたんでしょうが。
頼朝の挙兵から鎌倉までが意外とスムーズに進んだな、と思うのは、
父義朝と兄義平が下地を作っていたからなんでしょうかね。
477日本@名無史さん:05/03/18 08:39:55
>>476
元木泰雄さんの説の受け売りなのですが、
保元の乱の際は、東国の武士たちは
国衙の命令もあって動員されたようなのです。
平治の乱のときは、大庭氏千葉氏などは参戦していません。

東国の豪族は、自分にとってよほどメリットが無い限り出陣しなかった
そうです。
478476:05/03/18 10:39:05
>>477
なるほど古代末期(源平のころ)は、まだ国衙の命令も実行力があったと言うことですね。
ところで、国衙の命令が実行力を失うのはいつ頃からなんでしょうか。
承久の乱の時の院方の武士は、国衙の命令と言う建前で動員されたんでしょうか。
どうも国守の地位の形骸化と言う点で考えれば、どうなんでしょうかね?
479日本@名無史さん:05/03/18 13:29:37
少なくとも頼朝の時代には、
「関東御分国」(頼朝の知行国)、「関東御領」(頼朝所有の荘園)
というものが重要だったようですので、
荘園公領制度というものを頼朝は最大限に利用した上で、
守護・地頭というものも導入していたようです。
西国の御家人支配という点もは、将軍に直接仕えるというより
守護に名簿を差し出し、その支持に従えば良いといった程度で
東国に比べると幕府の拘束力は弱かったようです。
そういった人々が承久の乱で院方についたと思います。
幕府の権力が浸透していくのが鎌倉時代を通じて徐々にという形だったので
初期の頃は朝廷や国衙の権力はかなり強かったものと思われます。
480日本@名無史さん:05/03/18 14:05:37
479付記
上総氏、千葉氏、三浦氏などは、在庁国衙官僚になることによって
在地の勢力を拡大していました。
つまり、国衙権力というものは豪族にとって必要不可欠な存在でした。
また、荘園の認可という点でも国衙が大きく関わっていたということが
最近の研究であきらかになっています。
そういったわけで、荘園管理者にとっても国衙というものは無視できない存在でした。
頼朝は挙兵後すぐ、伊豆の国府を占拠しました。
このことでも、国衙権力がいかに在地に影響をおよぼしていたかということが
証明されるのではないでしょうか?
481日本@名無史さん:05/03/18 18:27:01
義朝とは、当時の、ま、ホワイトナイト?
482日本@名無史さん:05/03/18 19:50:18
戦国時代初期は一条氏とか北畠氏のような国司上がりが健在だし
国衙が完全に無力化するのって、信長登場以降?
南北朝時代はまだかなり有効だよね。
483日本@名無史さん:05/03/18 21:28:15
信長登場以降と言うよりも戦国時代の風潮でしょうな。
484日本@名無史さん:05/03/18 21:50:57
承久の乱をきっかけに鎌倉期には徐々に国衙は影響力を減少させる。元寇をきっかけに幕府権力が西国にも及ぶようになり西国でも国がの影響力が減少し始める。
南北朝動乱で地方の支配権は守護にほぼ握られる。武家方は守護による地方支配を志向し、宮方は国司による地方支配を志向する。
485日本@名無史さん:05/03/19 01:38:24
義朝は他所にたくさん子供作ってたってゆうけどさ
尾張で生まれたお前が他所でこさえられた子供じゃねーですか?
母親が修理大夫範兼女と大膳大夫則兼女のどちらにしろ嫡流は朝長でわなかろーカニ?
486日本@名無史さん:05/03/19 01:58:19
でも朝長死んじゃったからね。てゆうかね、そもそも頼朝は京都生まれなんだよ。
外祖父季範は鳥羽、後白河、待賢門院璋子、上西門院統子に近くてね。
義朝が鳥羽に近づいて下野守に任ぜられたのもそのおかげ。
保元の乱で後白河方についたのも当然の成り行き。頼朝も外祖父の縁で
12才で皇后宮(のちの上西門院)権少進、翌年上西門院蔵人、
同年二条の蔵人。平治の乱の時には右兵衛権佐。

これに対して朝長は当時左兵衛尉。尉と佐では月とスッポン。
志から尉になることはあっても、尉から佐へなることはまずない。
そこには大きな身分差があった。ノリカネなんてね、熱田大宮司家とは
政治的位置が比べものにならない。頼朝母は他の兄弟とは飛び抜けている。
487日本@名無史さん:05/03/19 02:53:36
義平←関東で【平】となると中村党か下河辺行平だが、特に関係は見られない。
朝長←【長】ってどこだ。波多野じゃない、中村宗平が旧宅を修築していたが、これも関係はなさそう。
頼朝←源氏の通字なだけにみえるが、信頼との関係もありえるか。
範頼←高倉家との関係で間違いないでしょう。
義経←奥州で元服したなら【衡】【秀】か基成・長成関係で【基】【長】【成】になるんだろうか。
   某氏の【貞時・高時⇔貞盛・高望】説のように【経】基って線もあるのか?
行家←熊野別当家との関係で【行】。本名義盛。

地方・中央見渡して【経】な有力者で義経匿いそうなやついる?
大炊御門家・飛鳥井家が経を通字にしていることから
その後の飛鳥井家の鎌倉への接近も加味して妄想したいが、
ココなら文字史料で残るはずだしなあ。
488日本@名無史さん:05/03/19 03:57:36
だからあ、お経の経なんだってばあw
489日本@名無史さん:05/03/19 08:22:18
>>487
大河ドラマ見たのか?
490日本@名無史さん:05/03/19 09:38:00
為朝追討って1170年の出来事だったんですね
距離的にも近いうえに狩野、伊東、北条といったところが関係してるのに
完全スルーでしたね
491日本@名無史さん:05/03/19 10:17:22
>>488
ドラマの脚本家が考えてこじつけたかもしれないぞ!
492日本@名無史さん:05/03/19 13:53:16
>>486
たかだか兵衛府の権佐でそこまでゆうほどの差がついたといえんの?
そこから三位や権中納言、参議になることさえ不可能だったとおもうが

>>487
平経盛が烏帽子親なんじゃね(へ)−けガニ
493日本@名無史さん:05/03/19 14:12:36
義経=源氏累代の「義」+初代経基の「経」
お経の経のわけがあるまいべ
NHK、アフォじゃないの?
494日本@名無史さん:05/03/19 15:36:45
高橋英樹が佐藤継信を「さとうのつぐのぶ」と言っていたが、
「さとうの」の「の」は要らないんじゃないの?
苗字だろ?
495日本@名無史さん:05/03/19 16:40:03
>>488、493
漏れがガキの頃読んだ義経の伝記では秀衡が烏帽子親で、「鞍馬寺での修行を忘れないようにお経の経の字を取って義経と名乗りなさい」というシーンがあった。(w
496日本@名無史さん:05/03/19 19:30:36
>>494
別に”の”を付けるのは間違いじゃないのではないですか。
”継信”と言うより主の秀衛が言うのなら”佐藤の三郎”だと思うけどね。
三浦義澄は勅使に名を尋ねられて三浦の次郎と名乗ったし
他にも畠山の次郎、和田の小太郎、介の八郎とかね
戦国時代ならともかく平安・鎌倉時代では問題は無いでしょう。
497日本@名無史さん:05/03/19 22:01:16
そもそもドラマ内で義経はお経なんてまじめに読んでなかった。
真剣に呼んでたのは「平和な世にしたい」といいながら読んでた
兵法の本。
498日本@名無史さん:05/03/19 22:30:36
>>492
いいえ、10代前半に「兵衛佐」になれるというのは
公卿になる可能性を得たと見ていいと専門家も言っています。
ただし、なれるかどうか確実ではなかったそうですが。
499日本@名無史さん:05/03/19 22:31:36
>>492
『公卿補任』見てれば、権佐から公卿なんていくらでもいますが。
兵衛府に限らず当時(てゆうかもっと前からだけど)、諸司の
次官と判官の間に身分的な壁があったことは、周知の事実ですが。
500日本@名無史さん:05/03/19 23:19:35
たしかにいろいろ不満はあるが、上戸の口調さえ何とかしてくれれば他は目を瞑る。
501日本@名無史さん:05/03/20 00:08:24
>>487
飛鳥井家の通字って雅では?
502日本@名無史さん:05/03/20 00:16:28
>>500に関連して
衣の汚さ
奥州藤原氏の長子長島国衡>日蓮宗の祖奥田日蓮>超えられない壁>浮浪者の上戸うつぼ
テメーのどこが草鞋売りの下女なんだよ。
503日本@名無史さん:05/03/20 10:08:04
うつぼはキレイすぎるよなあ。
肌真っ白だし、
衣はまったくくたびれた感じしない(これは映像の所為もあるだろうけど)し、
髪の毛もキレイにまとめすぎ。
五足くらいにまでしろとは言わんがもうちょっとこう…な。
504日本@名無史さん:05/03/20 15:15:21
てゆうか、
うつぼがうろちょろすると、衣川で義経とともに死んだ妻子が登場するかどうか心配になってきた。
505日本@名無史さん:05/03/20 20:42:22
鹿ケ谷の事件があっさり終わってしまったな。「へいじが倒れた」もなかった。
506山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/20 20:45:16
院の泥塔供養は(六波羅ですし)、いかにもといった感じで逆に良かったかと。
呼び名や行動には、相変わらず違和感ありまくりですが・・・。
507日本@名無史さん:05/03/20 21:03:35
最近の若い男優は時代劇が似合わない、場違いな感じがする
508日本@名無史さん:05/03/20 21:07:37
>>506
呼び名や行動とは具体的に何ですか?
509山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/20 21:14:50
実名で呼んでいるのはいつもの事。奥方より北の方と呼んだ方がいいんじゃな
いかとか、うつぼクラスの女を間違えるなんて、可愛がっている犬と出来てい
ると考えるぐらいありえないとか・・・。
義経の断る理由も現代的でしたし、並べ立てられていた女性の美徳も何か違う。
烏帽子などの面から見て、格好もおかしい。
510日本@名無史さん:05/03/20 21:34:57
>>506
呼び方は結構頑張っていると思う。一般視聴者である素人さんには当時の呼び方では誰が誰だか判らなくなる。
字幕を出せばいいのかもしれないがいつも出ているとウザイし。
清盛を「相国殿」
重盛を「小松殿」
秀衡を「御館」
普通じゃない?

>並べ立てられていた女性の美徳も何か違う
プリッツのCMであややとでているような平安美人が出てきた方がキモイ。
清盛の格好には???だけど
511山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/03/20 21:59:44
>510
>プリッツのCMであややとでているような平安美人が出てきた方がキモイ。
琴とか、筆跡とか、『古今集』の暗記や歌とか。
武家の娘の美徳かというと微妙ですが、少なくとも「情け」は欲しい。
結婚してからは「経営」の才が問われますが、未婚の娘について言うのは、
今一つ相応しくないでしょうからね。
512日本@名無史さん:05/03/20 23:08:40
二位の尼の「女でも男として育てればよい」
と言うセリフが引っ掛かるんだけど、
安徳帝は女として登場するのかな?
てか、来週生まれる予感
513日本@名無史さん:05/03/20 23:23:53
結局、上戸は何しに平泉に来たんだよ・・・
すぐ帰るくらいなら京都でおとなしくしてろよ!

帰り道中は(来る時もそうだったろうけど)売春行脚なんだろうな
野盗にもタダで犯られまくるだろうし
514日本@名無史さん:05/03/20 23:29:47
安徳帝は生まれながら赤いマフラーをしている予感が・・・
壇ノ浦以降はタッキーが引き取って育てるとか・・・
515日本@名無史さん:05/03/21 00:08:27
>>498-499
権佐から公卿になった人かー
右大臣師輔9男為光、942年誕生、959年左兵衛権佐、970年参議従四位上
関白兼通1男顕光、944年誕生、970年右兵衛権佐、975年参議従四位下
関白兼通4男朝光、951年誕生、969年右兵衛権佐、974年参議従四位下
二品兼明親王1男源伊歩、938年誕生、956年左兵衛権佐、977年参議従四位下
摂政実頼孫左少将敦敏1男佐理、944年誕生、962年右兵衛権佐、978年参議正四位下
 ・
 ・
摂政兼家6男道長、966年誕生、984年右兵衛権佐、987年非参議従三位
従四上菅原在躬1男輔正、925年誕生、963年左衛門権佐、992年非参議従三位
 ・
 ・

10代で兵衛府の権佐に任官して公卿に列するのは大体大臣クラスの子息っすね
てことは
逆に大臣の師弟以外で権佐になりながら、公卿になれなかった人は山ほどいたんでしょうカニ〜?
寵臣・寵童の寵臣・寵童としての出世なんてたかが知れてるとおもいますが
前例だけなら衛門府・兵衛府の少尉から公卿に列した者もいくらでもいまっせ
当然その数十数百倍の衛府の尉はむなしく下級貴族として人生を終えるが
権佐から公卿になった人数よりは多いんジャマイカに
自分に都合のいい前例ばかり探す人ってときどきいますね(^^;
516日本@名無史さん:05/03/21 00:15:08
つづき
頼朝と同年代だと藤原経房なんかいいYO
父親は権右中弁が極官、1142年生まれ、1167年右衛門権佐、1181年参議正四位下
少し下った藤原定家なんか従三位の俊成を父に1162年に生まれ
九条家に仕えて1189年左権少将、1211年にやっとこさ従三位
頼朝ゴイス〜平治の乱がなければ左大臣にもなれたんじゃねー?




イタイ書き込みにしてみたけど疲れた、ホントごめんなさい
517日本@名無史さん:05/03/21 00:28:49
そうそう
>>512
原作でも安徳帝は女宮らしい
赤マフをいとも簡単にこえちゃったよ

>>514
2人揃って大陸渡ってチンギスとクビライにでもなればいい
518日本@名無史さん:05/03/21 00:37:11
>>517 マジ?
安徳帝も女の子役がやるのかな?
てか甑のシーン希望。
519日本@名無史さん:05/03/21 00:42:14
>>518
少なくとも原作ではそうらしいよ去年大河板で見たきがすっから
演じるのは吉次のお孫さんらしいから、さすがにドラマでは男なんじゃね
520日本@名無史さん:05/03/21 01:06:02
あのフリはどう見たって女が産まれるだろ。でも平家が権力欲しさに強引に押しとおした。
だから殺されても仕方がない、義経の安徳天皇を死に追いやった行為は
暗黙に正当化される、みたいな展開になるかもしれん。
521日本@名無史さん:05/03/21 01:17:19
もう一つの安徳帝のタブー
建礼門院と前内大臣平宗盛卿の子と言うのは?
522日本@名無史さん:05/03/21 02:53:32
「義経」の中で、髭切の太刀についての話が出てきましたよね。
あの太刀なんですが、「義経」では奥州の某の作だとか言ってましたが、
tp://www.saitama-kenpaku.com/SIRYOU/higekiri.html
では、
>場面2 二振りの太刀は筑前国土山の鍛冶が八幡に籠って作刀され、源満仲に奉じられる。
となっています。
どっちが本当なんですか?
523日本@名無史さん:2005/03/21(月) 08:05:21
>>521
それはないっしょ。いくら何でも「実の兄妹」で睦みあって子供ができるわけがない!
と思うけどな・・・・どうなんだろう・・・????
524日本@名無史さん:2005/03/21(月) 13:37:05
>>504
河越の娘役でカロリーメイトのワカコが決定済み。
ワカゾー喜三太と共演。
525日本@名無史さん:2005/03/21(月) 13:54:23
安徳天皇って女帝なの?

そんな説知らなかった。
出典どこ?
526日本@名無史さん:2005/03/21(月) 14:02:34
>>525
公共放送の妄想です。そんな説はありません。
清盛が鳥羽の子供だという説ならあるが。
527日本@名無史さん:2005/03/21(月) 15:12:57
>>523
近親相姦でも、子供はできるyo
コンドーム付けれyo
528日本@名無史さん:2005/03/21(月) 15:46:57
>>526
白河院の落胤じゃなかった?
529日本@名無史さん :2005/03/21(月) 17:31:39
>>525-526
原作者の宮尾さんらしいですよ。原典は(w

公には少年として生きてゆかざるを得なかった少女として描くのかな?

赤マフラーというより、その作品の5代将軍みたいなもんじゃね?
530日本@名無史さん:2005/03/21(月) 21:20:44
マンガじゃあるまいし、思春期になればそんなカラクリ破綻するのに決まっとる
・・・あ・そうか、ガキの時に死ぬことになってるからか・・・・
531日本@名無史さん:2005/03/21(月) 21:53:12
赤いマフラーをして大陸で義経の妻となるんだよ
532日本@名無史さん:2005/03/21(月) 22:01:27
今はさわやかなタッキー義経だが、
討伐後は、都に、首並べろ、って要求するんだよね。
どんなふうに演技するんだろ。
533日本@名無史さん:2005/03/22(火) 13:39:09
>>517
宮尾の原作では、安徳天皇が女だったということにはなってなかったと思うが。
ただし、原作通りにやるなら、安徳は赤マフラーになるね(壇の浦で守貞親王と
入れ替わって生存。守貞親王として成人し、後に後高倉院と呼ばれる)。
534日本@名無史さん:2005/03/22(火) 15:04:07
今回の義経の泰衡遭難救出劇は史実に基づいているんですか?
535日本@名無史さん:2005/03/22(火) 15:17:40
>>534
んなバカなことあるはずないでしょうが
536日本@名無史さん:2005/03/22(火) 17:11:48
 やはりデタラメですか。荒唐無稽すぎるとは思ったのですが
ひょっとしたら何か元にした似たような史実があったのかとも思ったもので
537日本@名無史さん:2005/03/22(火) 17:40:10
義経の時代だと文献も極めて少ないから史実通りにドラマなんか作れんだろ。
538日本@名無史さん:2005/03/22(火) 17:42:14
義経で史実といえるのは、
・平治の乱の時〜鞍馬まで
・黄瀬川対面
・義仲や平氏との激闘〜都落ち
・平泉での死
これらが全部同一人物かどうかは議論の余地あり。
539日本@名無史さん:2005/03/22(火) 18:47:49
ある意味では明らかな史実が少ないから、どういう創作をするか作家の腕の見せ所か
540日本@名無史さん:2005/03/22(火) 20:09:01
>>539
そうなだけど
明らかに歴史や当時の常識が分かってない作家が多すぎ
例を出すと時宗での関白の切腹なんかね
541日本@名無史さん:2005/03/22(火) 20:31:03
基実公や基通公、白川殿盛子、
小ごう、冷泉隆房殿、隆房殿北の方、
七条修理大夫殿、厳島の内侍、宇佐八幡宮内侍?、…
これら全て平家と縁戚その他にある
大変平相国と関わりの深い方々ですが
登場はしないんですか?
てか義経二人説て言うのもあるよ。
源九郎義経と源(山本)義経。
戦上手(奇襲とか)は山本の方。
542日本@名無史さん:2005/03/22(火) 22:03:57
山下義経という人もいますた。
543日本@名無史さん:2005/03/22(火) 23:18:12
山本=山下=やまもと
544山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/23(水) 01:20:51
>540
『北条時宗』の場合、原作者よりも脚本家が悪かった。
『炎立つ』も手がけていた原作者の遅筆ぶりも問題で、結果的に見れば同じでしたが。
545日本@名無史さん:2005/03/23(水) 13:41:20
>>541
人物は省かなくちゃストーリー構成が出来ない。
主役は義経なんだしさ。
そんなにたくさんの人物を登場させて、逸話を盛り込んで
出し入れしてたら、1年じゃ終わらないし。

平家の女人たちなら吉屋信子の「女人平家」を読んでみたら。
546541:2005/03/23(水) 19:59:45
>>545 読みましたよ。
ただ白川殿盛子には出てほしいな。
関白基実北の方、基通養母、
高倉天皇かどなたかの養育係
死後には荘園を取り上げられ
後白河法皇幽閉の原因も作られています。
547日本@名無史さん:2005/03/23(水) 23:06:28
http://www.jaasc.or.jp/other/ganyu_01.pdf
何度も言いますが、今回のアスベスト騒ぎは渋谷公会堂だけでなく皆さんの問題です。
あなたの家にもアスベストは形を変えて存在しています。
PDFファイルをよ〜く見て使われている個所を確認してください。
アスベストは今後も建材として使われつづけます。今も使われています。

http://www.asbestos-center.jp/asbestos/qanda.html

日本の都市では現在0.2-0.3f/L以
下の大気中石綿(アスベスト)濃度の環境が多いと思います。残念ながら私たちは毎日息を吸う
中で、石綿(アスベスト)をさほど危険と思わずに吸入してきています。成人は1分間に5Lの大気
を吸入するので、

1年に吸入する石綿本数
=0.2-0.3本/L-5L/分-60分-24時間-365日=525,600-788,400本となります。

 1日に1500-2000本以上、1年で50万本から80万本の石綿(アスベスト)繊維を日本人は吸入し
ているわけです。
548日本@名無史さん:2005/03/23(水) 23:10:04
>545
>人物は省かなくちゃストーリー構成が出来ない。
それなら、わざわざどうでもいい人物を入れるなよ。
うつぼとか。
549日本@名無史さん:2005/03/24(木) 00:04:33
義経を慕う女として、静だけでは寂しいかも・・・・。
もう1人くらい彩りとして欲しいかな、って考えて
村上元三創作から人物をいただきました。
アイドル起用枠もできるし、OKかな。

こんな調子でうつぼ登場なのでは?
550日本@名無史さん:2005/03/24(木) 00:05:49
準主役ともいえるような位置付けを設定し、そこにアイドル女を配置することで
ストーリーを多少柔らかくデフォルメしないと数字が取れないという強迫観念が
製作側にはあるんだろうな。ま、その通りなのかもしれないが。
551日本@名無史さん:2005/03/24(木) 00:37:40
俺さ、歴史上の人物の前世が見れるんです。
信じられないかも知れないけど、北条重時の前世は後白河院、柴田勝家は弁慶、竹崎季長は駿河次郎、毛利季光は藤原秀衡、近衛基平は佐藤継信だったんですよこれが。
来世で前世の借りを返した人には西郷隆盛がいて、藤原頼経だった前世に幕府の刺客に暗殺された恨みを、徳川幕府を打倒することで晴らしたんですね。

原作者や脚本家も考えがあって今あるような設定になったんだろうけどさ、どうせ脚色するなら、上戸彩を継信・忠信の姉妹にして、義経の最初の妻にすりゃ良かったのに。
義経の相婿に忠衡を置けば、義経を支えた忠衡との関係も生きるし、1171年に平泉に下向させた義経を元治女と結ばせれば、1171年に元服した滝沢が、1184年まで妻を持たないなんていう不自然もなくなる。
なんだってあんな無意味な設定を創ったんだろうか。
1180年に富士川に参じる義経と別離し、1186年に6年ぶりの再会、しかし、義経は正妻河越氏を迎えていて娘までいる現実、と、上戸の悲恋もこの方が生きると思うけどなあ。

泰衡はなあ、隣国出羽から駆けつけた牧文四郎が探し出して、おぶって帰るものだとばかり。
552日本@名無史さん:2005/03/24(木) 01:03:37
静と義経の恋愛にうつぼを絡ませ、弁慶にもコンビの黒いヤツ(名前忘れた)をあてる。
男を中心に描く源平合戦だけではなく、女にもスポットを与える。
インテリ女が考える幼稚なストーリーだな。

ホンネからいうと「うつぼ」はいらない。
新撰組はほとんど見なかったが、武蔵は期待してたから見た。
期待は見事に裏切られたわけだが、武蔵の仲間由紀恵と宮沢りえがまさしく今回の「うつぼ」。

話によると、静御前は当初、広末だったらしい。
ただ、妊娠だの中退だのゴタゴタがあって、揉めに揉めてホリプロから石原が来た。
でも、あの童顔で美人とも言い難い石原では、感情移入も出来ない。

武蔵、新撰組、義経と、ヒロインはことごとく失敗。
義経という忠臣蔵ばりに数字の取れる大河だから大コケはないだろうが、
今後のストーリー次第では…。
553日本@名無史さん:2005/03/24(木) 01:22:38
広末と滝沢を並べると、広末のほうが年上に見える。
静の役は、実年齢と近くのうんと可愛い子役を起用すればよかったと思う。
5歳くらいの。
成長してからは、石原さとみでいいんじゃないかな。可愛いし。
うつぼはイラネ、は同意。
554日本@名無史さん:2005/03/24(木) 01:43:06
うつぼという配役そのものよりも、上戸先にありきだったんじゃないかという
製作サイドのスケベ根性がちらついちゃうんだよな。
555日本@名無史さん:2005/03/24(木) 03:08:47
>554
なら、あずみみたいな忍者もどきにしてしまえば、まだマシだったろうに。
義経のゲリラ戦を陰で支えるくのいちって設定とかさ。
実はその位に腕が立つなら、あの時代の女の一人旅っていう不自然さもちょっとは言い訳になる。
あれじゃいるだけ邪魔。
556日本@名無史さん:2005/03/24(木) 04:14:32
>女にもスポットを与える。

といっても、出鱈目に架空の女性を捏造しても意味はない。
平泉時代に彩りを添えるためなら、佐藤兄弟の姉妹くらいにして、
義経の初恋の女性とか、美化しまっくたほうがましだった。

うつぼ、平泉に、何しに来たの?
脚本家の無能さを感じる。
557日本@名無史さん:2005/03/24(木) 04:29:37
>うつぼ、平泉に、何しに来たの?

視聴率5%アップのため
558日本@名無史さん:2005/03/24(木) 19:24:24
赤マフラーって何?
559日本@名無史さん:2005/03/25(金) 01:03:36
捏造って言葉は違うんじゃない。
別にうつぼが歴史の流れを変えるわけじゃなし。
自由に動かせるただの創作キャラ。
560日本@名無史さん:2005/03/25(金) 01:14:42
>>559
捏造という言葉は、556の使い方で間違っていない。
辞書を見よ。
別に、歴史の流れを変えるとかは、関係ない。
561日本@名無史さん:2005/03/25(金) 05:02:48
捏造といえば、

義仲がカラクリ峠→上洛のあたりで、義経と範頼は近江で待機→義経だけお忍びで京都→義仲を説得。
というのがあるみたいだな。
まぁ、義経は義仲とは戦いたくなかったが頼朝の命令の為止むを得ずやった、という流れにしたいんだろう。

あと平家の西国落ちの時、牛若がいたずら書きした屏風を一条が清盛の遺品として宗盛に届ける、
というシーンがあるらしい。宗盛はその屏風の処分を家臣に任せるのだそうだ。
清盛が牛若を可愛がり、嫉妬した宗盛が屏風に向かって石(?)を投げつけたのはこの伏線だったのだろう。
また、これは腰越状の後の宗盛父子斬首にも繋がっている。
562日本@名無史さん:2005/03/25(金) 10:48:42
>>561
一条って常盤の夫の大蔵卿?
なんで彼があの屏風を持ってるの?
563日本@名無史さん:2005/03/25(金) 12:59:50
義仲といえば、来週あたり義仲と義経が会うようだが、
義仲は義経の兄に父を殺されてるわけで。

義仲にとって義経はいわば「父の敵」のかたわれ。
どういう出会いになるか楽しみ。

きっと、平家を「父の敵」と考えられない義経が、
義仲の自分への態度をみて、平家への心情が大きく
転換する、そんなきっかけとして描かれるに違いない。
564日本@名無史さん:2005/03/25(金) 16:02:04
>>562
宮尾本平家では、一条卿は福原の工事を仕切っている。
そのためじゃね。
565日本@名無史さん:2005/03/25(金) 17:37:34
>561
萎え萎えの展開だな。まあ意外ではないが‥‥
最近の大河の主人公は不自然なほどヒューマニズムに毒されている。
中世には中世のヒューマニズムがあったとは思うが
あまりにも現代人のヒューマニズムで描き過ぎ。
566日本@名無史さん:2005/03/25(金) 20:03:36
義経と義仲が会う設定は「義経記」にあるんだな。
567日本@名無史さん:2005/03/25(金) 21:42:52
>>561
カラクリ峠???
倶梨伽羅(クリカラ)峠でしょう
568日本@名無史さん:2005/03/25(金) 22:17:06
くりからもんもん、って峠に関係あるの?
569日本@名無史さん:2005/03/25(金) 23:25:18
「くりからもんもん」の「くりから」は倶梨伽羅竜王のこと。刺青の図柄の一つ。
570日本@名無史さん:2005/03/26(土) 00:09:22
>>240静は1169年生まれなんですか。
ググったら佐藤兄弟も色々あったけど
忠衡が1167年生まれってほんとかよ。
伝承・系図の年齢はどこまで信じていいものか。
第六〜九回(1171年)・第十回(1171年・●1172年・▲1175年)
義経 13才・●14才・▲17才
頼朝 25才
政子 15才
時政 34才
盛長 37才
秀衡 50才・●51才・▲54才
泰衡 17才・●18才・▲21才
忠衡 5才・●6才・▲9才
継信 14才・●15才
清盛 54才
重盛 35才
維盛 15才
宗盛 25才
知盛 20才
重衡 15才
高倉帝 ●12才
571日本@名無史さん:2005/03/26(土) 00:11:46
第十一回(1175年・●1176年・▲1177年・■1178年)
義経 17才・■19才
秀衡 54才
泰衡 21才
忠衡 9才
継信 18才
忠信 15才
清盛 ●59才・▲60才・■61才
重盛 ●40才・▲41才
維盛 ●20才
資盛 ●19才
宗盛 ●30才・▲31才
知盛 ▲26才
重衡 ▲21才
盛国 ▲65才
後白河院 ●50才・▲51才・■52才
高倉帝 ●16才
頼朝 29才
盛長 41才
572日本@名無史さん:2005/03/26(土) 02:39:35
>>563
義経が平泉からいろんなところへ遊びに行ったというストーリーにして、
会うというより、競輪場に小池栄子から追われ逃げている途中で義経に遭うって感じだよ。

>>566
詳しく。
573山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/26(土) 11:00:01
>詳しく。
会って話したというだけで、ほんの数行ですよ。
『義経記』は平家追討戦もあっさり流しており、『平家物語』と重複している
様な箇所・人物についてはそっけない。
574日本@名無史さん:2005/03/26(土) 13:11:10
義経記ってどこで衣川で終わり?
それとも大陸に行ってテムジンになって終わり?
575日本@名無史さん:2005/03/26(土) 14:07:07
1180年(治承四年、庚子) 4月9日 辛卯

  入道源三位頼政卿、
平相国禅門(清盛)を討滅すべき由、
日者用意の事有り。

然れども私の計略を以て、
太だ宿意を遂げ難きに依って、
今日[夜に入り、子息伊豆の守仲綱等を相具し、
密かに一院第二宮の]三條高倉の御所に参る。

前の右兵衛の佐頼朝已下の源氏等を催し、
彼の氏族を討ち、天下を執らしめ給うべきの由
これを申し行う。

仍って散位宗信に仰せ、令旨を下さる。

而るに陸奥の十郎義盛(廷尉為義末子)折節
在京するの間、この令旨を帯し東国に向かう。

先ず前の兵衛の佐に相触るの後、
その外の源氏等に伝うべきの趣、
仰せ含めらるる所なり。

義盛八條院の蔵人に補す
(名字を行家と改む)。
576日本@名無史さん:2005/03/26(土) 14:12:12
1180年(治承四年、庚子)4月27日 壬申

高倉宮の令旨、
今日前の武衛将軍
伊豆の国北條館に到着す。

八條院の蔵人行家持ち来たる所なり。

武衛水干を装束し、
先ず男山の方を遙拝し奉るの後、
謹んでこれを披閲せしめ給う。

侍中は、甲斐・信濃両国の
源氏等に相触れんが為、
則ち首途すと。

武衛は前の右衛門の督信頼
(平治の乱)が縁坐として、
去る永暦元年三月十一日、
当国に配すの後、
歎きて二十年の春秋を送り、
愁えて四八余の星霜を積むなり。

而るに項年の間、
平相国禅閤恣に天下を管領す。

近臣を刑罰し、
剰え仙洞を
鳥羽の離宮に
遷し奉る。
577日本@名無史さん:2005/03/26(土) 14:13:49
>>575->>576
またコピペ厨か。
面白くないからやめたら?
もっと気のきいた書き込みしてくれよ。



無理だろうけど。
578日本@名無史さん:2005/03/26(土) 14:14:19
>>576
上皇の御憤り、
頻りに叡慮を悩ませ御う。

この時に当たり、令旨到来す。

仍って義兵を挙げんと欲す。

寔にこれ天の與うるを取り、
時至りて行うを謂うか。

爰に上野の介平の直方朝臣五代の孫、
北條の四郎時政主は
当国の豪傑なり。

武衛を以て聟君と為し、
専ら無二の忠節を顕わす。

茲に因って、
最前に彼の主を招き、
令旨を披かしめ給う。
579日本@名無史さん:2005/03/26(土) 14:17:07
>>572
語りは滝口順平さんに変更してください。
580日本@名無史さん:2005/03/26(土) 16:30:21
>>574
奥州藤原氏が頼朝と激闘し、平泉が滅んでいくまでの姿を飽くことなく語る
581日本@名無史さん:2005/03/26(土) 17:04:00
激闘ってw

あっというまのぼろ負けじゃん。
脚色すんなw
582日本@名無史さん:2005/03/26(土) 17:45:14
すまんすまん。大げさに語ってみたくなったものでw
「義経記」は戦記物と言われるわりに本格的な戦の場面がほとんどないね。
583 ◆GUNBOYdbqE :2005/03/26(土) 20:22:53 ID:??? BE:115303695-#
ここも勉強させてもらおう。
584日本@名無史さん:2005/03/27(日) 01:40:14
懐かしコピペ

                  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                  |  義経は清盛を父と呼んでたんだぜ!
                  \___________  _______
                                    V
   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ                      / ̄ ̄ ̄ \
  /   ,――――-ミ                   /         |
 /  /  /   \ |                    ∨∨∨∨∨\ |
 |  /   ,(・) (・) |                    |ー  ー  ||
  (6       つ  |                    |(・) (・)  6)
  |      ___  |                    | |    ||
  |      /__/ /                    |  ¨     /
/|         /\                    \/\  /\
                                  / ̄ ̄ ̄    \
     ∧
  / ̄   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |  なわけねーだろ!
  \__________________
585日本@名無史さん:2005/03/27(日) 22:28:00
ドラマはドラマとして楽しめたけど、まあ日本史板っつうことで・・・。
清盛の血曼陀羅は実際に奉納されたものだけど、
高野山のサイトを見てみると実際に奉納されたのは、保元の乱の直前で時期が合わないよね。

ttp://www.koyasan.or.jp/hosankai/mandalaproject/mandara/m_gaiyou.html

平家物語の該当部分に目を通してないんだけど、奉納時期をずらしたのは、
ドラマの脚色なのか平家物語の脚色なのか、どっちなんだろう。

あと、重盛が臥せていたときの枕なんだけど、当時の枕とは違ったような・・・。
江戸じだいの箱枕とはいかないけど、丸みを帯びて首のところに当てる形だったような・・・。
586日本@名無史さん:2005/03/27(日) 23:56:21
五足のカムロは何かワロタ。
赤い服着て都中を歩き回るシーンきぼん。
587日本@名無史さん:2005/03/28(月) 00:38:41
588日本@名無史さん:2005/03/28(月) 05:11:29
>>585
重盛が死んだので清盛が阿修羅になる、という伏線の脚色。
平家物語だと、重盛=冷静沈着、清盛=暴君、
でも、今回は重盛=暴君、清盛=冷静沈着になっている。

例えば重盛の次男の資盛と藤原基房の事件でも、
報復の命令を下したのは平家物語では清盛、今回は重盛と変わった。
(史実では重盛らしいが)
589日本@名無史さん:2005/03/28(月) 13:45:26
平家に限らず物語中では重盛は英雄だよなぁ。
保元物語では、重盛vs.鎮西八郎だし、平治物語では、重盛vs.悪源太だし。
590日本@名無史さん:2005/03/28(月) 19:10:10
そりゃ、重盛は後白河上皇と、男色関係ありましたから。美化されたでしょうね。
591日本@名無史さん:2005/03/28(月) 21:42:17
>>590
男色関係があったから美化されるなんてことはないだろ。
その論理なら男女関係でも美化されなければならない。
そもそも男色なんていうのは、明治までは当たり前の様にあった。
592日本@名無史さん:2005/03/28(月) 22:33:49
重盛の美化もいわゆる判官贔屓の一つかと。
夭逝した人格者ってのは物語の一つのパターンですし。
593日本@名無史さん:2005/03/29(火) 19:49:31 ID:
白河殿話だけだった。
高倉上皇の厳島御幸や
南都炎上シーンはあるのかな?
594日本@名無史さん:2005/03/29(火) 21:22:16
佐藤継信と時宗の切腹関白が同じ人って嘘だろ
595日本@名無史さん:2005/03/31(木) 02:24:55
>>590
後白河法皇と平資盛が男色の関係にあったらしいと
いうのは読んだことがあるが、重盛の名前は見かけたことがない。
重盛とのことはなんという文献に書かれているんですか?
596日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 00:11:07
笑えるくらい書き込みないね。
>>558
裏ワザみたいなもんです。
敵に襲われたとき、太刀を「↑↑↓↓←→←→突き突き」と振ると、一機増えて、アイテム・赤マフラーを装着し、史実よりも長生きすることが出来ます。
実際んところ、「時宗」で史実より長生きしちゃったのは、時輔に限ったことじゃないけど。

五足の着てる衣が、丈夫なんだかモロいんだか、よくわからない。牛若時代(1160年代中頃)に出会って、今は1179年のお話。もう15年近く"あの状態"を維持してんだよね。不思議だ。あの黒マフラーには、繊維の劣化を防ぐ効果でもあるんだろうか。
それと、義経一行が平泉に着いてから、もう既に8年経ってたはずなんだけどなあ。伊勢三郎も、今頃国衡と泰衡の関係を気にしてどうすんのさ。どうも脚本が、時間の経過に"すら"ついていけてないような。秀衡から贈られた馬も、もう結構な齢なんじゃないだろうか。
597日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 00:26:14
>>570
忠衡ちゃんは、ちっちゃいのにえらいなあ。下総の子犬ってのは胤綱だったっけ?あの子より全然若い、というか幼い。
昔の人は心身ともに成長が早い。呆れるほどに。森前総理が今の教育を嘆くのも分かる気がするw

>>586
黒マフラーが赤マフラーに?てゆうか、よくよく思い出してみると、マフラーってよりネクタイ?

>>594
マジで。前世が武士だったから、ついつい切腹してしまったんでしょう。

越後山中に石垣があっていいのかなあ。ヤクザ(朱雀の翁・清盛)だらけの京の都は、もうなんか、逆に笑えた。
598日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 00:40:16
来週、いよいよ源三位頼政挙兵。
となると、再来週あたりに頼朝挙兵か。
このままのペースでいった場合、1182〜1184年を飛ばすのか???
599日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 01:49:09
え?もう 源三位頼政挙兵。なの?
義経の平泉の青春時代をでっち上げるんじゃなかったのか?
てゆうか、いい子ちゃんのまま、女とのあれこれもなく、10年を無駄にすごしたのかい(w
600日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 01:55:10
>>598
俺は挙兵後の頼朝をどう描くか関心があるな
たぶん、源氏の棟梁で絶対的権力者みたいな感じにするんだろうけど
601日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 19:21:20
>>573
>会って話したというだけで、ほんの数行ですよ。
ていうか、 義経があの場面で会っていたのは義仲本人なのかな?
何かすごく曖昧にぼかされた話になってる気がするんだが。
そもそも実兄の全成と会っていくシーンはたっぷり描写されていたのに、
義仲との対面がたった数行ってのはどういうことだろ?
普通なら、源氏の2英雄が対面しているわけだから、それなりの見せ場として盛り上げないか?
602山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :慶長410年,2005/04/02(土) 20:05:06
>義経があの場面で会っていたのは義仲本人なのかな
所詮(大半は)創作ですから。泣き所以外はぞんざいになります。
対平家戦をはぶいたところからしても、作者の目的は「武」よりもどちらか
といえば「情」に傾いていた様ですし。
英雄云々は武に注目された御意見ですが、なさけ・あはれを軟弱として武
を称揚する視点が定着するのは、近世以降ですし。
武威も発揮されていますが、それは主に義経との結びつきで示されている。
603日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 01:08:12
2〜3週間見てないのでアホな質問

頼朝と政子はもう結婚した?
604日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 02:21:38
>>603
時政には、「駄目だよっ」って言われたけど、
どこかの百姓小屋で、ゴチョゴチョやってます
605日本@名無史さん:2005/04/03(日) 07:43:15
>601>602
というより、義仲の父の仇は実は平家じゃなくて
義経の兄義平だってことを「義経記」の作者はうっかり忘れて書いちゃったんじゃないの?
で、後で気づいて大幅に削除した、と。
不自然なまでに少ない描写、曖昧な言い回しもそれで説明がつくと思われ。
606日本@名無史さん:2005/04/03(日) 10:40:54
一の谷の合戦の前に、後白河法皇が平家に和平の使者を使わすと平家に
言って油断させ、義経には今は油断しているから一の谷の平家を襲え!って
命じたのって本当ですか?

もしそうなら、「一の谷の奇襲」って奇襲というより「一の谷のだまし討ち」では?
607日本@名無史さん:2005/04/03(日) 11:25:46
>>597
ほんとに同じ人なんだ、今日気をつけて見てみようかな。
608日本@名無史さん:2005/04/03(日) 14:44:50
>>606
平家は宗盛が和平を断ったわけだが?
秀衡を陸奥守に命じ鎌倉を挟み撃ちにすることを計画したわけだが?
609日本@名無史さん:2005/04/03(日) 15:01:00
>>608
それは時期的に一の谷とは全然違う時期の話をしているね。
陸奥守はもっと全然以前の話し出し、和平を断ったのは、一の谷で
和平といいつつ騙されたから信じなくなったんでしょうが。
(義仲との和睦の話なら一時期は同意しているし、義中の契約違反で
反故になっただけで)

あまりにも的外れの回答でびっくり。日本史板の人じゃないんでしょうが。
610日本@名無史さん:2005/04/03(日) 15:02:26
宗盛自身が騙されたことへの恨みつらみの手紙を一の谷後に
法皇に書いてるんだけど。
611日本@名無史さん:2005/04/03(日) 20:33:47
義仲、単純野望バカに描かれてるなw
612日本@名無史さん:2005/04/03(日) 21:11:48
いつの間にか頼朝と政子も結婚しているし・・・。
あの辺のどたばたは結構面白いと思うのだけど。
613日本@名無史さん:2005/04/03(日) 21:19:35
いやー義経おもしろい。
タッキーの御曹司ぶりもいい。
いよいよ源氏の反撃ですな。
614日本@名無史さん:2005/04/03(日) 21:23:04
あんまり観てる人居ないのかな・・・
615日本@名無史さん:2005/04/03(日) 21:28:19
源氏の将について、普通は安っぽい演出家だと「勧善懲悪」的に
それぞれの人物を義経に都合よく、善悪どちらか一方にカテゴライ
ズしそうなところなんだが、このドラマ上の描き方では、それぞれ
の「一個人」は快男児として描いているように見えるね。
その上で、それぞれの思いが別々のところにあり、やがては内部
抗争に至る、という伏線も描いているように思う。
616日本@名無史さん:2005/04/03(日) 21:28:29
大河板があるからね
617日本@名無史さん:2005/04/03(日) 21:32:51
>>616
そうだね、そこにいこうかな。
618日本@名無史さん:2005/04/03(日) 22:01:56
皇族の臣籍降下でも、源氏は平氏より格上。中興の頼義、義家、新羅三郎で、
開墾新興武士団の棟梁として源氏は信仰にも似た信頼を集めていた。
源氏の誇りが頼政を動かし、源氏への信頼が頼朝に兵を集めた。
619日本@名無史さん:2005/04/03(日) 22:21:37
>>618
格は平家が上だろw
620日本@名無史さん:2005/04/03(日) 22:24:36
なんか雰囲気敵に範頼や全成は出てこなそうだな
今週も名前すら出てこなかったから
621日本@名無史さん:2005/04/03(日) 22:45:04
>>619
いや、皇孫氏族としては、源氏の方が平氏よりも格上。
622日本@名無史さん:2005/04/03(日) 22:53:33
源氏は義家以来、武士の中の天皇家みたいなもの。
623日本@名無史さん:2005/04/03(日) 23:04:22
>>620
範頼は名前でてなかった?
駿河なんたらとかいって
624日本@名無史さん:2005/04/03(日) 23:12:48
>>620>>623
蒲冠者範頼は、のちのちに出てくる予定になっている。
配役も決まっている。
そりゃ、あれだけ遠征すりゃぁ、省略できんでしょう。
625日本@名無史さん:2005/04/03(日) 23:15:42
確めようとおもったら継信出やがらねー
626山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/03(日) 23:31:32
>619
平氏の場合、高棟王の堂上平氏と高望王系の武門平氏では地位に差が
ありましたが、清盛の妻時子は高棟王系の出身ですね。
武士の棟梁としての平家は、清盛の祖父正盛の頃から目立ち始めます
が、討ち取った筈の源義親と称するものが4人も5人も出て来たりと、
戦闘経験・結果から見れば源氏に見劣りします。
白河院は正盛贔屓で義家を冷遇された方で、義家死後の内紛もあって、
源氏は一時勢いを失っていましたが。
627日本@名無史さん:2005/04/03(日) 23:34:37
>>626
白河院は義家を院の勢力として
取り込もうとしており、
決して冷遇したわけではなく
むしろ逆だった、
とする説もありますが如何。
628山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/03(日) 23:48:30
>627
一旦冷遇して、その後取り込みを図って、晩年になってからの昇殿を許した
のでしょう。既に後三年の役から十年以上経過していた。
『中右記』に言わせると、「世人」は「甘心」しなかった様ですが。
629日本@名無史さん:2005/04/03(日) 23:48:37
総括
1160年
(ドラマ)清盛が、源氏の宝刀「髭切」を頼朝から取上げる。
116×年
(ドラマ)遮那王が鞍馬寺で義盛に「義仲」も記載された系図を見せてもらう。
1170年
(史実)殿下乗合せ事件。資盛が摂政基房にやり込められ、重盛がそれに報復。
1171年
(ドラマ)「髭切」が贋物としった清盛がブチ切れる。
(ドラマ)三位乗合せ事件。またまた資盛が三位某にやり込められ、重盛がそれに報復。
1179年
(ドラマ)義経一行と義仲一行がそれぞれ越後旅行。巴にしばかれる義仲と偶然出会う。
1180年
(ドラマ)はぐれ源氏旅情編。新宮十郎が全国行脚。

違いのわからない男・清盛。
二度も公家に打ちのめされた資盛主従。
摂政ですらボコられたのに、懲りずに資盛にケンカを売る謎の三位。
十数年前にちらっと見た系図に書かれていた義仲をしっかり憶えていた記憶力のいい義経きゅん。
なぜか嫡流と認められているスケ殿。
どこまでもバカな宗盛。
630山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/03(日) 23:54:18
>629
つぼに入りました(笑)。特に後半の「謎の三位」あたり。
631日本@名無史さん:2005/04/04(月) 00:54:15
>>629
>なぜか嫡流と認められているスケ殿。
当時から嫡流と認められているわけだが。
632日本@名無史さん:2005/04/04(月) 01:02:14
てゆうか
新宮行家が、義経のところまで、令旨を持って来たって、ほんと?
まあ、義経に届ければ、
奥羽17万騎が義経を担いで挙兵するかもしれない(?)から、届けたのかな?
633日本@名無史さん:2005/04/04(月) 03:21:44
>>632
>新宮行家が、義経のところまで、令旨を持って来たって、ほんと?
ウソ。

>奥羽17万騎が義経を担いで挙兵するかもしれない(?)から、届けたのかな?
17万騎もいない。
634日本@名無史さん:2005/04/04(月) 06:46:06
>17万騎もいない。

実際の数は?
635山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/04(月) 09:40:35
「騎」=騎乗者と考えなくても、これは無いでしょうね。
頼朝の廻文には「勢二万騎」と記されており、これが先陣で、北陸道からは
別に侵攻していた事を考えても、二十八万騎の半分も無理でしょう。
藤原国衡が二万騎を率いていたというのも、どこまであてになるか。
『吾妻鏡』には、六月二十七日時点で鎌倉に一千人が集結していたと。
中世人というやつは、洋の東西を問わず誇張が好きです。
平家が富士川の合戦以前に京を出た時の軍勢は、『玉葉』に言わせると四千
騎。各地で徴収して廻ったとしても、一万人に満たなかったのでは。
なお、この四千騎が覚一本『平家物語』では七万騎になっています。
奥州側が築いた二重の空堀・三重の土塁の遺構が現存しており、総延長が
3キロにもなるものを掘るのに周辺男子五千人以上が動員されたと見られ
る事から、この時代になって相当大規模な動員が行われていた事は間違い
ありませんが。
636日本@名無史さん:2005/04/04(月) 14:04:20
下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所
     早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討すべき事

右前の伊豆守正五位下源の朝臣仲綱宣べ、
最勝親王の勅を奉って称く、
清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て[帝王を蔑し]、
凶徒を起こし国家を亡ぼす。
百官万民を 悩乱し、五幾七道を虜掠す。
皇院を幽閉し、公臣を流罪す。
命を断ち身を流し、淵に沈め楼に込む。
財を盗み國を領し、官を奪い職を授く。
功無くして[恣に]賞を許し、罪非ずして[猥り]に過に配す。
[これに依って巫女宮室に留まらず、忠臣仙洞に仕えず。]
或いは諸寺の高僧を召し誡め、修学の僧徒を禁獄す。
或いは叡岳の絹米を給下し、謀叛の粮米に相具し、
百皇の跡を断つ。 抑も一人の頭、帝皇を違逆し、佛法を破滅す。
[その振る舞いを見るに誠に]古代を絶する者なり。
時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う。
仍って吾は一院第二の皇子たり。
天武皇帝の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討し、
上宮太子の古跡を訪い、仏法破滅の類を打ち亡ぼさん。
ただ人力の構えを憑むに非ず。偏に天道の扶けを仰ぐ所なり。
これに因って、帝王 三宝神明の冥感有るが如し。
何ぞ忽ち四岳合力の志無からん。
然れば則ち源家の人、 籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、
勇士に堪うる者、同じく輿力せしめ、
清盛法師並 びに従類を追討すべし。
もし同心せざるに於いては、配流追禁の罪過に行うべし。
もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、
兼ねて御即位の後、 必ず乞いに 随い勧賞を賜うべきなり。
諸国宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行う。
治承四年四月九日       前の伊豆守正五位下源の朝臣
637日本@名無史さん:2005/04/04(月) 14:07:58
1180年(治承四年、庚子) 7月5日 
乙卯 天霽、風静まる
昨日御書を遣わし、
走湯山の住侶文陽房覚淵を召さる。
今日北條の御亭に参向す。
武衛件の龍象に談り仰せられて云く、
吾心底に挟むこと有り。
而るに法華経を読誦せしめ、
一千部の功を終えて後、
宜しくその中丹を顕わすべきの由、
兼日素願有りと雖も、
縡すでに火急の間、殆ど後日に延及し難し。
仍って転読分八百部、
故に仏陀に啓白せんと欲す如何てえり。
[覚淵申して云く、一千部に満たざると雖も、
啓白せらるるの條、冥慮に背くべからずてえり。]
則ち香花を仏前に供え、
その旨趣を啓白す。
先ず表白を唱えて云く、
君は、忝なくも八幡大菩薩の氏人、
法華八軸の持者なり。
八幡太郎の遺跡を稟け、
旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、
八逆の凶徒八條入道相国一族を
退治せしめ給うの條掌裡に有り。
これ併しながら
この経八百部読誦の加護に依るべしと。
武衛殊に感嘆欽仰し給う。事訖わり施物を賜う。
判官邦道これを取る。晩に及び導師退出す。
門外に至るの程、更にこれを召し返し、
世上無為の時、蛭島に於いては
今日の布施たるべきの由、覚淵に仰す。
638日本@名無史さん:2005/04/04(月) 14:12:52
義経に令旨が届いたという話は聞いたことないな。
そもそも範頼にだって怪しい。
義仲、頼朝、武田、志田くらいじゃないの。
そもそもそんな年少の子に渡すなら、土佐の希義(頼朝の同母弟)にも届くはず
639日本@名無史さん:2005/04/04(月) 14:40:25
吾は一院第二の皇子たり。

天武皇帝の旧儀を尋ね、

王位推取の輩を追討し、

上宮太子の古跡を訪い、

仏法破滅の類を打ち亡ぼさん。
640日本@名無史さん:2005/04/04(月) 16:09:27
>>638
とりあえずageカキコとコピペをやめてから語れ
641日本@名無史さん:2005/04/04(月) 22:04:36
稲森と蛭子の間に生まれた異父弟が義経と仲が良くて一時は行動を共にしたはずだけど出てこないの?
ドラマ的にはそちらの方が面白いと思うが。
642日本@名無史さん:2005/04/04(月) 23:03:04
源氏の嫡流とは、
八幡太郎義家を基準にしてその正室の長子の系譜。長子が早世すれば次男、
三男となる。因みに実朝で正統な嫡流は途絶えたので、この場合一反義家に
戻り、その次男たる義国、そしてその子の足利義康、新田義重が嫡流となる。
なお、足利・新田のどちらが長子かは諸説に分れ、江戸将軍家が新田系と
称したため、義重長子説が定着したと考えられる。鎌倉中期からは足利こそ
が源氏再興の嫡流とされ一般化していたと思われる。
643日本@名無史さん:2005/04/04(月) 23:06:49
>>642
>足利・新田のどちらが長子かは諸説に分れ、江戸将軍家が新田系と
>称したため、義重長子説が定着したと考えられる。鎌倉中期からは足利こそ
>が源氏再興の嫡流とされ一般化していたと思われる。

とりあえず新田と足利スレロムってこいや。
644日本@名無史さん:2005/04/04(月) 23:08:50
>>642
誰の説ですか?
あなたの説ですか?
645日本@名無史さん:2005/04/04(月) 23:29:00
ageレス自演厨は放っといて、、、


源氏挙兵までの流れがイマイチだったね。
過去ログにもあるけど、山木判官と政子の嫁入りネタはあった方がよかった希ガス。
次週予告でもう梶原が出てきたってことは、
たぶん山木襲撃はしない???
646日本@名無史さん :2005/04/05(火) 11:21:23
おらの先祖の伊豆目代・山木判官平兼隆(伊勢平氏、平貞季流で
平信兼の子、北条政子の旦那になるはずだった)の役や後見役・
堤権守信遠(前・下野守、大江信遠で大江信忠の子)役は誰がするの?
647日本@名無史さん:2005/04/05(火) 17:52:16
>>645
山木はやるよ
石橋山以降は清盛逝去から83年の倶利伽羅峠くらいまでネタがないからね
どう描くのか気になるけど
648日本@名無史さん:2005/04/06(水) 00:20:30
>>631
三位頼政や、『吾妻鑑』にすら義家嫡孫と書かれている義重を差置いて、伊豆の流人頼朝が
ドラマのように、京の朝廷からも同門の諸源氏からも嫡流と見られていた、って?
649日本@名無史さん:2005/04/06(水) 01:02:05
>>648
摂津源氏が真の意味での源氏嫡流だが、
武士の台頭という時代の流れから河内源氏が源氏嫡流になるだろ。
いっぺん武士の成り立ちを勉強してこい。
650日本@名無史さん:2005/04/06(水) 01:33:44
>>649
はあ?
京の朝廷や同門の諸源氏が流人頼朝を嫡流だと思ってたのか?
651日本@名無史さん:2005/04/06(水) 01:44:59
摂津源氏厨が湧いたか。
春休みはもう終わりでちゅよ?pp
652日本@名無史さん:2005/04/06(水) 02:04:20
>>651
みっともないね。
三位の頼政、『吾妻鑑』にすら「故陸奥守(義家)嫡孫」と呼ばれた義重を差置き
伊豆で流人生活を送っていた頼朝が朝廷や諸国の源氏から嫡流と認められていたとする根拠は?
653日本@名無史さん:2005/04/06(水) 02:05:03
>>651
みっともないね。
三位の頼政、『吾妻鑑』に「故陸奥守(義家)嫡孫」と記された義重を差置き
伊豆で流人生活を送っていた頼朝が朝廷や諸国の源氏から嫡流と認められていたとする根拠は?
654日本@名無史さん:2005/04/06(水) 03:23:47
>>653
貴方が正しいよ。
655日本@名無史さん:2005/04/06(水) 04:15:05
>>652-654
自演は醜いですよ
それから義重と頼朝は全然時代が違いますよ(w(w(w
656日本@名無史さん:2005/04/06(水) 04:38:42
>>652-653
みっともないのはお前。

治承4年に新田義重が鎌倉に赴き源頼朝に臣従したとお前の好きな吾妻鏡にあるが?
657日本@名無史さん:2005/04/06(水) 21:18:21
>>652-653
>故陸奥守(義家)嫡孫」と記された

どこにあるんだがw
いっぺん原本読んで来い。
658日本@名無史さん:2005/04/06(水) 23:10:04
義家系源氏であらずんば征夷大将軍になれずとは。日本の武家って義家の何を
尊敬・崇拝の対象にしたんだろう。貴族社会の呪縛を解く発端をした人物だとは
思うが何故かくも永く重宝されたか。日本史はもっと彼に注視すべき。
659日本@名無史さん:2005/04/07(木) 00:24:54
番組開始直後の解説で、甲斐の武田、常陸(霞ヶ浦の東)は志田、これはわかった。わからなかったのが、美濃の北東と、尾張の知多のほう。あれ誰のことですか?
660日本@名無史さん:2005/04/07(木) 01:34:36
どうして藤原系武家は主導権を握らなかったの?
661日本@名無史さん:2005/04/07(木) 01:53:52
>>659
美濃は土岐氏
662日本@名無史さん:2005/04/07(木) 01:55:56
>>660

   理由その一

   根性なし





663日本@名無史さん:2005/04/07(木) 02:08:09
>>662
根性の問題じゃないだろ。
ビジョンがなかったってことだ。
同じことが武田信玄などにもいえる。
664日本@名無史さん:2005/04/07(木) 10:21:01
武田信義、安田義定も出てきてほしい。だめか。
665日本@名無史さん:2005/04/07(木) 20:13:57
>663
ビジョンって何?
666日本@名無史さん:2005/04/07(木) 21:41:16
>>665
667日本@名無史さん:2005/04/07(木) 21:58:54
>>665
武家の武家による武家のための政権を作るビジョンってこと。
清盛にしても木曾にしても藤原摂関家の真似しか出来ない。
頼朝ではなく義経が天下を獲ったとしてもそうだったろう。
奥州藤原家は言わずもがな。
668日本@名無史さん:2005/04/07(木) 23:37:46
ベタな話、荘園制度では苦労して開墾し、命がけで守ってきた土地も簡単に取り
上げられてた平安の世で、義家が朝廷に見捨てられても私財を投げ打って褒美を
与えたこと事が、余程珍しく感動的なことだったんだろう。ご恩と奉公の精神の
発祥が八幡太郎くんって訳だ。
669日本@名無史さん:2005/04/08(金) 01:09:17
>>660
欲が無かったから。
670日本@名無史さん:2005/04/08(金) 01:26:34
>>668
朝廷への不満ってことかい?
671山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/08(金) 01:51:01
義家もそうですが、頼義以来の故実も重視されていますね。
やはり、前九年・後三年の役における、棟梁と家人との連帯の起源神話とい
う意味合いが強かったのでしょう。
平家にはそれがなく、家人との結合も利益によって保証されていたから負け
た・・・という論もありますが、これは行き過ぎな気がします。
672日本@名無史さん:2005/04/08(金) 02:01:15
>>671

>>652-653
>「故陸奥守(義家)嫡孫」と記された

これってホントかい?
673山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/08(金) 10:42:32
治承四年九月三十日条です。
674山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/08(金) 19:54:28
該当する部分を、引用しておきましょう。

新田大炊助源義重入道(法名上西)臨東国未一揆之時。以故陸奥守嫡孫。
挿自立志之間。武衛雖遣御書。不能返報。引籠上野国寺尾城。聚軍兵。

頼朝の嫡宗権は、彼自身が不安定な状態に置かれていた事によって揺れ動い
ており、自明の存在というよりも、実力で「自立志」を排除して、確立する事
が求められていたという事で引用される史料です。
また、当時はまだ恒常的な施設でなかった「城」の登場例でもある。
675日本@名無史さん:2005/04/08(金) 21:38:49
>>674
吾妻鏡の著者が勘違いしていたってことでは?
普通は、義家の跡目は、
四男義忠、義忠の暗殺事件の後、
五男為義が、嫡男義親の養子という形で継承したと認められていると思いますが。
それに対して、
三男義国が異議を申し立てていて、
その子孫も嫡宗権を主張していたってことではないかと思います。
676日本@名無史さん:2005/04/08(金) 22:08:39
>>675
おまえじゃあるまいし、「勘違い」は無えだろうよw
677山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/08(金) 22:57:19
「自立志」とある以上、『吾妻鏡』の編纂者は、本来頼朝に承服すべき存在
と見做しているものでしょう。だからこそ「御書」を遣わした訳で。
「嫡孫」というのがどの程度の範囲を示したものか、これだけでは分かりま
せんが、義家の孫であるという事を楯に取って代わろうとしたものの、その
野望(自立志)は打ち砕かれたと。
最初から、頼朝に優先する存在だったとは、書かれていないと思いますが。
河内源氏の正嫡は、為義が義忠の養子として継いだと見ていいでしょう。
678山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/08(金) 23:10:20
>「嫡孫」というのがどの程度の範囲
「範囲」というよりはやはり、
>その子孫も嫡宗権を主張していた
と言った方がいいか。義忠が殺害された当時(為義14歳)から、かなりも
めていた様ですし。
679日本@名無史さん:2005/04/08(金) 23:47:24
>>661
土岐氏の本拠って、あんな北のほうにあるんですか。
ただ、あの時期、土岐氏って有力な武士(団)でしたっけ。当時、近江・美濃・尾張に敷衍していた八島重成・山田重隆といった尾張源氏と土岐氏って、どういった関係だったんでしょうか。

大杉行家は、頼朝→義仲→義経、と回覧してましたが、この場合、熊野→(海路)→伊豆→甲斐→信濃→(美濃?→)平泉(→常陸?)、と移動したことになるのかな。
東山道通って、山本→八島→木曽・平賀→武田→頼朝→志田→義経、と廻るほうが、楽だとおもうんだけど。
あ、それと、丹後局老けすぎでは?この後、宣陽門院を生むんだよね、この人。
680日本@名無史さん:2005/04/08(金) 23:50:33
>>675
源 為義は源 義親の息子で、義家が、自らの子息のなかに跡継ぎに足る人物を様々な理由で欠いたため、孫である為義を養子として家嫡としたはず。
世系に誤認がありますよ。
681日本@名無史さん:2005/04/08(金) 23:53:46
毛利頼隆は頼朝旗揚げ時に義家の孫での唯一の生存者
682日本@名無史さん:2005/04/09(土) 00:33:54
>>681
義重は?
683日本@名無史さん:2005/04/09(土) 01:34:54
義朝流が平治の乱で凋落し、そのまま消え去るものと思われていた時期
義国流に嫡流が移動すると思われたのでしょう。
義重は平宗盛の被官として義国流の中で最大勢力を誇っていましたから。
「嫡流」とは子孫の中でもっとも栄えたもの、という程度の意味だったのです
684日本@名無史さん:2005/04/09(土) 03:07:53
>>680
義家が生存中に孫の為義を養子にしたんなら、どうして四男の義忠が後を継いだんでしょうか?

俺も歴史は素人で、読んだ本によって違うことが書いてあるので、
詳しいのなら、教えてほしいんですが。
>>677も、為義は義忠の養子と書いていますし。

義家生存中に、嫡男義親が乱を起こして死亡。
長男義宗はそれより前に早世。
三男義国は、理由はわからないが、後継資格を喪失(?)
義家の死後、四男義忠が相続するが、すぐに暗殺。
で、為義が後をつぐんだが、
こいつは義家の子なのか、義親の子なのか?
また、義家の養子か、義親の養子か、義忠の養子か?

義国の子孫が嫡宗権を主張するのは、このとき飛ばされたことも理由のひとつだと思います。
685日本@名無史さん:2005/04/09(土) 03:41:16
>>684
                  義
                  家
 ┌──┬──┬──┤
 義    義   義    義
 忠    国   親    宗
   ┌─┤   |
   義  義   為
   康  重   義
   ↓  ↓   |
   足  新   義
   利  田   朝
   氏  氏   |
            頼
            朝

義家の子は他にいるけど割愛。
嫡男義宗は早死。
次男の義親が河内源氏の家督を継いだけど謀反を起こして討たれる。
義親の嫡男為義は、義家4男義忠の養子になったけど、
義忠が死んだので義家の養子になり、河内源氏の家督を継いだ。

ここからは俺の想像なんだが、
吾妻鏡で義重を義家の嫡孫としているのは、
北条家の正当性などを高めるためかと。
頼朝が吾妻鏡を編纂させたら頼朝マンセー本になったでしょ。
日本書紀における天武系みたく。
でも、実際は頼朝系が断絶し、北条家が独裁になったから誕生。
例えば義重が死んだのに、頼朝が狩に行き、
それを政子がたしなめるなど、ありえないようなことへの伏線かな。
686日本@名無史さん:2005/04/09(土) 05:34:18
>>685
義親は、父義家の生前に死んでるから、家督相続してないはず。
為義は、義忠の養子になっていたのならば、
その義忠は家督を継いだ後に死んだので、
わざわざ義家の養子にならなくても、源氏の家督を継げるはず。
687日本@名無史さん:2005/04/09(土) 05:51:20
そもそも嫡孫という言葉は、
本当に嫡流という意味なのか?
単に義家の孫、という意味で使った
だけの可能性はないのか?
688日本@名無史さん:2005/04/09(土) 16:30:45
>>685の系図のとおりに源氏の嫡流を継承したのなら、
三男義国が異議を唱える余地はないですね。
しかし、この系図の為義を義家の五男だとすると、
義宗・義親が子なくして死んだとすれば、
義国―義重こそ源氏の嫡流だといえるわけです。
三男の義国を飛び越して、
四男義忠、五男為義が継承したから、
「本来の源氏の嫡流は自分だ」と主張していたわけで、
それは、吾妻鑑の編纂者などに一定の理解を得ていたわけですな。
689  ,:::-、       __ :2005/04/09(土) 16:31:07
  ,:::-、       __
      ,,r::::::::::::〈:::::::::)    ィ::::::ヽ
      〃::::::::::::;r‐''´:::::::::::::::::::::ヽ::ノ
    ,'::;'::::::::::::::/::::::::::::::::::::::::::::::::::::
     l::::::::::::::::::l::::::::::●::::::::::::::●:::::ji
    |::::::::::::::::::、::::::::::::::( _●_)::::::,j:l  クマー!
    }::::::::::::::::::::ゝ、::::::::::|∪|_ノ::;!
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このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ株は上がるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
690日本@名無史さん:2005/04/09(土) 19:42:15
>>685
義重没時に政子に窘められたのは頼家じゃなかった?
「義重は源家の長老だから喪に服すべき」と
691日本@名無史さん:2005/04/09(土) 22:05:43
>>687
嫡流という言葉の解釈が時代によって若干違うんでねーの?
例えば平治物語の義平と重盛の一騎打ちの下りでは、
義平が「自分は源家の嫡子、貴殿は平家の嫡子、嫡子同士の勝負をつけよう」と
名乗りかける場面があるけど、
頼朝政権が誕生した後に成立した平治物語でこの部分が削られていないのは
後年の嫡流とか嫡子とは意味合いが違っていたんではないかと思う。
>>690
左様、頼朝ではなく頼家。
新田義重は頼朝よりも長生きしたわけで、かなりの長寿だね。
692山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/09(土) 22:19:40
>頼朝政権が誕生した後に成立した平治物語でこの部分が削られていないのは
削ると言っても、当時は出版されていた訳でもなく、琵琶法師の語り物の中にも、
『平治物語』や『保元物語』があった様ですが。
とはいえ、『吾妻鏡』の文は、新田の正統性を認めている様には読めませんね。
「嫡孫」の範囲も考えねばなりませんが、同書の扱いはやはり反逆者ですよ。
せいぜい「その資格ありと称して」ぐらいにしか読めない。
>それは、吾妻鑑の編纂者などに一定の理解を得ていたわけですな。
とは考えられません。
693日本@名無史さん:2005/04/10(日) 00:19:17
>>655
652は推敲しようとおもったけど間に合わず送信されただけ

>>656-657
無根拠に自信満々で他人を批判できるあなたが羨ましい限りです

『吾妻鑑』の編者が義重を「嫡流」と捉えられていたかといえば微妙
つーより100%ねーでしょ
俺がいいたいのは、少なくとも義重は自分を義家の嫡孫だと思ってたわけだ
だから頼朝に従わず篭城した
頼政は頼政で、義家流の嫡流は義賢の子(仲光だったか)だと思ってたんじゃないか、と
ドラマで行家なんかが頼朝を嫡流視してっから、そりゃねーだろと
あれが頼朝周辺の思い込みで、挙兵したあと「こんなハズじゃなかったのに」ってんならOK
694日本@名無史さん:2005/04/10(日) 00:41:41
義朝の没落で清和源氏の嫡流は混沌としたのは事実だよ。
義朝の嫡男は伊豆で流人だから、事実上実力があるものが嫡流となるわけで、頼政が嫡流扱いされていた時期もあるわけだ。
頼政亡きあとは義重も義仲も、武田、佐竹も嫡流になれるチャンスがあったんだよ。
結果的に頼朝が勝ち残ったから義朝流が源氏嫡流という観念ができあがった。
695日本@名無史さん:2005/04/10(日) 00:47:05
>>694
それに同意。
嫡流というのは、後の人が付けたのが大きいと思うね。
仮に悪源太義平が天下を取っていたら、義平が嫡流になったと思うし。

それはそうと、明日はいよいよ石橋山の合戦なわけだが。
遅刻した平広常や洞窟での梶原とのエピソードをどう描くのか興味津々。
696日本@名無史さん:2005/04/10(日) 09:33:09
>>695
広常って石橋山に来たっけ?
697日本@名無史さん:2005/04/10(日) 09:45:32

清盛にせよ頼朝にせよ血統だけで天下の覇権を握ったわけではない。
実力あるものが嫡流
698日本@名無史さん:2005/04/10(日) 10:49:23
>>697
確かに。
清盛も異母弟の家盛に官位で抜かれたしね。
699日本@名無史さん:2005/04/10(日) 20:56:46
富士川合戦で義経大活躍か。
捏造もいい加減にして欲しいな。
700日本@名無史さん:2005/04/10(日) 21:00:45
上総広常、三浦一族がスルーされた件について

あんまりだ・・・
701日本@名無史さん:2005/04/10(日) 21:09:14
土肥実平が居たのかどうかもわからん。
全成もスルーか
702日本@名無史さん:2005/04/10(日) 21:18:47
1180年(治承四年、庚子) 7月5日 
乙卯 天霽、風静まる
昨日御書を遣わし、
走湯山の住侶文陽房覚淵を召さる。
今日北條の御亭に参向す。
武衛件の龍象に談り仰せられて云く、
吾心底に挟むこと有り。
而るに法華経を読誦せしめ、
一千部の功を終えて後、
宜しくその中丹を顕わすべきの由、
兼日素願有りと雖も、
縡すでに火急の間、殆ど後日に延及し難し。
仍って転読分八百部、
故に仏陀に啓白せんと欲す如何てえり。
[覚淵申して云く、一千部に満たざると雖も、
啓白せらるるの條、冥慮に背くべからずてえり。]
則ち香花を仏前に供え、
その旨趣を啓白す。
先ず表白を唱えて云く、
君は、忝なくも八幡大菩薩の氏人、
法華八軸の持者なり。
八幡太郎の遺跡を稟け、
旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、
八逆の凶徒八條入道相国一族を
退治せしめ給うの條掌裡に有り。
これ併しながら
この経八百部読誦の加護に依るべしと。
武衛殊に感嘆欽仰し給う。事訖わり施物を賜う。
判官邦道これを取る。晩に及び導師退出す。
門外に至るの程、更にこれを召し返し、
世上無為の時、蛭島に於いては
今日の布施たるべきの由、覚淵に仰す。
703日本@名無史さん:2005/04/10(日) 22:40:15
>>699
歌舞伎でも富士川で面会する。
ってか、これは小説を映像化したものであって、プロジェクトXじゃないってば。w
704日本@名無史さん:2005/04/10(日) 22:48:57
景時が中尾彬なせいか一瞬悪人に見えたw
705日本@名無史さん:2005/04/10(日) 22:54:03
筑紫哲也のスルーライフ
706日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:16:56
>>703
大河ドラマは史実だと信じている香具師は五万といるんだからその辺をNHKは考えて欲しいよ
707日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:23:03
>>706
それを言ったら「遠山の金さん」のオリキャラも実在と信じている人が
いるよ。どうする?
708日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:33:36
>>707
それをいったら水戸黄門が全国を旅したと信じてる人いるよ
709日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:35:44
>>706
それを言ったら、「長七郎江戸日記」のオリキャラも実在と信じている人が
いるよ。どうする?
710日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:42:53
大河の義経のキャラクターは物静かで賢くて
「風譚義経」(著者:古田十駕)の義経に似ているね。
この本詳しくて面白いよ。
711日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:44:10
文句言わなきゃ気がすまないお年頃。察してあげて。
712日本@名無史さん:2005/04/11(月) 00:48:27

本日の感想

・山木判官襲撃〜石橋山〜富士川までがものの数分で終わり…。→なんじゃそりゃ!
・山木判官襲撃時の映像には、頼朝方の手勢がけっこういた。→おいおい!いても10人そこらだろ
・義経一行が平泉を立つ時に見送った秀衡→なんで義経の映像が曇で秀衡の映像は晴天なんじゃ!
713日本@名無史さん:2005/04/11(月) 11:39:59
>>706
大河ドラマは史実ではないと認識してる奴の数も多いはずだ。
714日本@名無史さん:2005/04/11(月) 12:22:09
講談で育った世代は信じてるんじゃ?
家の父もへたしたら真田十勇士くらい信じてるかも。
715日本@名無史さん:2005/04/11(月) 20:19:51
>>712
>・山木判官襲撃〜石橋山〜富士川までがものの数分で終わり…。→なんじゃそりゃ!
・山木判官襲撃時の映像には、頼朝方の手勢がけっこういた。→おいおい!いても10人そこらだろ

主役は義経だからそんなのどうでもいい。空気嫁。
716日本@名無史さん:2005/04/11(月) 21:20:59
政子は、北条の動員数は「数人」と言ってたな。
だが、数人で山木判官邸を襲撃して勝てるとも思えん。
実際は何人で襲撃したんだろう?
717日本@名無史さん:2005/04/11(月) 21:59:47
>>707〜709
「遠山の金さん」「水戸黄門」「長七郎江戸日記」て大河ドラマでやったか?

>>713
歴史の本を読まないけど歴好きという香具師に限って大河ドラマ真理教信者が多い。
大河ドラマを見て歴史を勉強しています。と自己紹介で書いている自称歴史愛好家を今まで何人見てきたことか。
718日本@名無史さん:2005/04/11(月) 22:20:11
>>716
永井路子女史の本では
山木攻めは30〜40
石橋山は300
719日本@名無史さん:2005/04/11(月) 22:36:40
頼む!
忠度の都落ちやってくれ、NHK!
720日本@名無史さん:2005/04/11(月) 22:55:44
>>717
大河ドラマも、所詮はドラマ。お芝居。物語。娯楽として見
るのはお約束。
それに、フロンティアも大事だけど、裾野も大事。
確かに俺だって、歴史談義で司馬本中毒の人に頭が痛くなる
ことがあるよ。それでも、無関心よりはいいんじゃないのか。
裾野が広くないと、結局は滅亡に至る。
歴史を研究していれば、そんなことは普通に分かるでしょ?
そもそも自称歴史愛好家は存在してはいけないのか?
中途半端に関心を持たれるぐらいなら持って欲しくない、と
いう回答が返ってくるかもしれないけれど、そういうのを
「偏狭なジュンケツ主義」っていうんだよ。
721日本@名無史さん:2005/04/11(月) 23:13:24
>>720
んで、義経はチンギス・カンになったの?
722日本@名無史さん:2005/04/11(月) 23:22:01
最後に、「この番組はフィクションです。実在の・・・」とクレジットを入れればノープロブレム。
723日本@名無史さん:2005/04/11(月) 23:23:32
>>721
あなたのその問いかけで、あなたがいかに>>720の真意を勘違いしているのかがわかったよ。
724720ではないが:2005/04/11(月) 23:23:47
>>721
誰がなんと言おうとおれの考えは微動だにしないが、
人に言うと笑われるので言えない。言い難いことを聞くものではない。
725日本@名無史さん:2005/04/11(月) 23:26:01
>>718
レス、サンクス
こっちには史料はないんですが、普通に考えて、
>山木攻めは30〜40
くらいは必要ですね。
北条家 時政+宗時+義時+家人 で7・8人として、
いつも会議をしているのは一門衆(?) 5・6人+それぞれの家人で25〜36人くらいか(?)
30〜40人は動員できそう。
政子はセリフを間違ったのか?それとも俺の聞き間違いか?(w
726日本@名無史さん:2005/04/11(月) 23:30:38
>>722
要するに、電子レンジを売る際には「猫を乾かさないで下さい」と
注意しておかないと、訴えられるってことか?
ダメダメな国になったね、日本も。
727日本@名無史さん:2005/04/11(月) 23:33:55
>>724おつかれさん。>>721さんともども、別スレで論議ってね。
728日本@名無史さん:2005/04/11(月) 23:34:07
>>726
それは都市伝説。電子レンジを入れても別にどうってことはない。個人的に実証済み。
729日本@名無史さん:2005/04/11(月) 23:42:14
>>728は通報対象。

>>726のは、一連の議論を進める上での例えなのであって、スレッドの
本質は「2005年NHK大河ドラマ「義経」その2」を題材とするもので
あります。

話題を本題に戻しましょう。
730日本@名無史さん:2005/04/11(月) 23:50:44
>>725
横レス、恐縮だが。

政子は「数人」といったわけではなく、「数騎」と言ってる。
当時の日本の騎馬兵はモンゴルのようないわゆる「騎兵」ではなく、
「騎乗することが身分の象徴」といった意味合いもある。
つまり、一騎=一小部隊といった意味になる。

一騎には旗指しや若党など数人の従者がつくわけで、
(この旗指しや若党が乗馬してる場合にも一騎と数えるかどうかは
しりません。知ってるかたがいたら教えてください)
「北条家で数騎」といった場合、時政、宗時、時定、とそれぞれに
郎党が3人ずつついたとして、10人前後の戦闘員を準備できた、
ということになりますな。
731日本@名無史さん:2005/04/11(月) 23:52:31
>>725
山木攻めに参加した主だったところは
北条親子、仁田忠常、加藤次景廉、佐々木兄弟、堀藤次、天野遠景
土肥実平、岡崎義実、宇佐美祐茂、藤九郎盛長
732山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/12(火) 00:06:25
『吾妻鏡』には総勢何人かは出ていませんが、最低でも数十人はいたでしょう。
直後の石橋山で三百騎となっていますが、三百人と見た方が現実的な数字。
しかし、山木邸から雑色が下女との逢引に来て捕まったのがきっかけで計画が
早まるとは、なんともはや。
「定綱。経高駕疲馬。盛綱。高綱歩行也。武衛召覧其体。御感涙頻浮顔面給。」
とありますが、当時の合戦に参加したのは、乗馬もなんとか駄馬で間に合わせ
ていた様な、貧しい小規模な勢力の武士が大半でした。
733日本@名無史さん:2005/04/12(火) 00:15:42
尾張知多にいた源氏ってだれでしょう?
734日本@名無史さん:2005/04/12(火) 02:24:45
レス、サンクスです

>>730
>>政子は「数人」といったわけではなく、「数騎」と言ってる

そっかー。やっぱり俺の聞き違いですた。
この頃、義時はまだ子供だったの?

>>731
総勢13騎になりますな。
これに各3人の郎党が付くとすると、52人。
赤穂浪士よりも多くなったぞ。
これだけいれば、山木の屋敷くらい襲撃できる、、よね(w

>>732
>>山木邸から雑色が下女との逢引に来て捕まったのがきっかけで計画が
>>早まるとは、なんともはや。

使用人同士が恋仲、ということは、主人同士も会えば挨拶くらいはする仲だったのかな?
馬を持っていないのが2人とは、確かに貧しい勢力ですな。
後年、時頼のために盆栽を燃やした佐野源左衛門と同じくらいのレベルの貧しさですな。
735日本@名無史さん :2005/04/12(火) 02:30:26
源氏びいきとしては、佐々木兄弟の「源氏第一の矢」の場面が見られなかった
のはまことに残念、ものすごく重要なシーンなのに。大河はしょうもない
シーンばかり最近ぐだぐだ長々とするくせにこんな重要なとこ敢えて
はずしてるのは何故なのか。もう見とうない!そなたの顔なんてもう
見とうない・・・。
736日本@名無史さん:2005/04/12(火) 02:53:09
吾妻鏡などの資料上で山木襲撃の人数が明記されたものはない。
ただ、後方に待機していた頼朝が応援を3人差し向けたというのはあるらしい。
この3人は頼朝を警護していた3人なので、残りは頼朝1人だけになった。

とすると・・・山木襲撃の人数は・・・


ま、政子が1人いれば一騎当千か。
737山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/12(火) 09:47:35
>>736
「郎従」を伴った兼隆の後見人である信遠を襲撃した後に兼隆を襲撃してい
ますし、武士として独立していた以上、『法然上人絵伝』に描かれている様
な規模の館にいるくらいの人数はいますよ。
景廉ら「三輩」が次に山木邸を襲撃したといいますが、頼朝が一人だけにな
ったという事、どこに書いてありましたか。
738日本@名無史さん:2005/04/12(火) 10:37:12
>>737
兼実の日記
739山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/12(火) 11:59:00
>>738
『玉葉』でしたか。すみませんが、何年何月何日条です?
『吾妻鏡』によれば、少なくとも舎人が傍にいて、木登りをして煙が上がる
のを確認させられたという事ですが。
740日本@名無史さん:2005/04/12(火) 12:49:43
>>735
そういう鎌倉武士のはなやぎというのは、この大河では期待できそうもない。
女子供の視聴率を稼ぎたくて、親子兄弟の情のやりとりばかり。
そのうち、義経はあれほど頼朝、源氏のことを思っていたのに、殺されてしまった。
世間は無情ってことで終わる。
情だけではメシが食えないという話は出ない。
741日本@名無史さん:2005/04/12(火) 13:49:59
>>737
山木の館がどれくらいの規模だったか、関心があります。
目代は伊豆国司の副官ですよね。
一国の治安に責任を持つ立場だから小さいわけがない。
吉良邸とは比較にならないほどだと思うんですが。
まあ、祭りで人が少ない時を狙ったそうですが。
742日本@名無史さん:2005/04/12(火) 17:23:04
山木館襲撃は合戦なのですかね。はっきり合戦での源氏初勝利となると、『吾妻鏡』
では甲斐源氏の安田義定ですよね?
743日本@名無史さん:2005/04/12(火) 20:01:48
>>742
あくまでも「襲撃」だから、合戦じゃないだろうな
山木方が準備万端で迎え撃ったわけじゃないし
744山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/12(火) 20:16:30
>>741
吉良邸は2557坪もありましたが、大河ドラマの時代の武士の館というも
のは、さほど大きくも無いでしょう。周囲に下人・所従の住む掘立小屋もあ
り、それらも含めれば、範囲は広くなりますが。
当時の武士の館は、恒常的に堀などで武装したものではありませんでした。
無論、見張りもいれば楯も立ててありましたが、常設された城郭の様な護り
が山木邸にあったとは考えにくいですね。
『一遍上人絵伝』に出て来る武士の館の前には小川の様なものが流れています
が、防備用の堀というよりは、農業用水とする説が有力です。
>目代
元々、国司が現地採用も含めて書・算といった能力に重点を置き、出自をそ
う問題とはせずに雇用していた秘書官の様なものです。
また国司が直接赴任しない遙授の場合、代官を務める事となりました。

>743
自然規模は小さくなりますが、「夜討」も「楯突戦」などと並ぶ戦の形態の一つ
として認められました。『新猿楽記』等を見ても、外道扱いはされていません。
745日本@名無史さん:2005/04/13(水) 01:43:35
>>701
あそこらへんの俳優さんは顔がわからんしね
時政と堀しか区別つかん

>>712
墨俣で戦うのはこのあと?
746日本@名無史さん:2005/04/13(水) 01:48:17
>>700
畠山重忠も華麗にスルーされた
千葉も佐原もでなかったりして
佐竹攻めもスルーの予感

>>725
平六時定は時政の郎等だっけ
747日本@名無史さん:2005/04/13(水) 01:57:19
>>725>>716
時政・宗時・堀・天野・安達
ここまでドラマに出てる人
義時・時定・加藤・狩野・宇佐美・工藤
その他挙兵に参加してる人
佐々木兄弟も駆けつけてたような
馬上(多分)だけで20、30いきそうなきもする
748日本@名無史さん:2005/04/13(水) 02:27:55
おもいっきり強制終了くらった。むかつく
ここでいうことじゃねーけど、なんで不安定で穴だらけのもんが製品として流通してて
ボスのゲイツが世界一の富豪なんだよ不良品だろ

んー、このネタ散々既出したか
一応『吾妻鑑』みてみました、731さんも書いてるけど
工藤・土肥・岡崎・宇佐美・天野・佐々木4兄弟・加藤・堀がいました
郎等いれたら40、50軽くいきそ

>>733
水野

>>734
佐々木は渋谷の居候だから特にヤバイんじゃ
渋谷腹の異母弟もいたわけだから、上の4人は肩身せまかったでしょうな
749日本@名無史さん:2005/04/13(水) 02:33:35
八月二十日の面々は山木攻めから参加してたってことじゃないか
750日本@名無史さん:2005/04/13(水) 02:36:20
すっげー連投になってるな
武士の館って方20、30メートルぐらいでしたか?
751日本@名無史さん:2005/04/13(水) 03:49:55
話は変わるが(w
ドラマでは、義経が平泉から連れて出陣したのは、
武蔵坊弁慶、喜三太、伊勢三郎、駿河次郎、佐藤継信、佐藤忠信、以上6騎であったわけだが。
いろんなサイトを見てみると、80人から300人まで諸説あるよう。
6騎だけってことはないよね、
いくらなんでも、これでは、秀衡ミタチ、ケツの穴が小さいといわれても仕方がない。
義経は、実際は何人を引き連れて参陣したのだろう?
752 ◆MBAno3PP.o :2005/04/13(水) 04:00:04
6人では心細いです
753日本@名無史さん:2005/04/13(水) 08:38:53
各々が百人力なんで大丈夫です。
754日本@名無史さん:2005/04/13(水) 08:40:51
騎兵には普通は3、4人の歩卒がつくのでは。
755日本@名無史さん:2005/04/13(水) 09:15:03
ピクニック気分には丁度良い。

三郎「いやー、申し訳ござらん、腹が減り申した」
義経「よし、ここでお弁当にしようぞ」
喜三「うわーーやったあ!」
弁慶「御曹司、カニの申し出なぞ・・・」
次郎「しょうがねぇな」
兄弟「やれやれ・・・」

で高視聴率だ!よろしく>NHK
756山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/13(水) 10:59:40
>>750
大きなものになると、九十間四方あったり。

>751
『吾妻鏡』には、人数の記載はありませんね。都の方では、義仲追討の時点
になっても、「九郎御曹司」が誰なのかは知られていませんでした。

>754
それが常識ですね。『義経記』には、奥州に行く時には馬を飛ばして吉次の
伴の内、徒歩の者たちに先行したとあり、富士川に臨む時も、騎馬の者す
ら振り切り、馬の腹すじが切れ、蹄が欠けるほどに急いだとありますが、
下人・所従や雑色を伴わないと後々困りますし、馬も大事ですから、奥州
〜駿河間の長距離をそんな調子で飛ばしたとは考えにくい。
757日本@名無史さん:2005/04/13(水) 13:11:10
>>751
軍団を引き連れて行ったかも疑問だし、
あの格好(鎧兜で武装)で行ったかも疑問です。
奥州から駿河までの間の、
国司や、関所や、縄張りを守ることに命をかける武士たちが、
あの集団をすんなり通したとは、大いに疑問です。
758日本@名無史さん:2005/04/13(水) 14:52:56
>>733
浦野氏。尾張だけでなく美濃から近江にかけて分家は山ほどある。知多半島なら小河か?
759日本@名無史さん:2005/04/13(水) 15:02:38
いざキャバクラ!
760日本@名無史さん:2005/04/13(水) 18:29:43
>>756
>馬も大事ですから、奥州
〜駿河間の長距離をそんな調子で飛ばしたとは考えにくい。

それはあくまで普通の人の考えであって、
鵯越といい屋島渡海といい、義経ならそういう無茶でもやりかねない。
761山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/13(水) 18:55:35
>義経ならそういう無茶でもやりかねない
その「義経なら」という発想自体、英雄像が定着しているからこそ出て来る台詞
だと思うのですが。
『吾妻鏡』や『玉葉』などで見る限りでは、戦功は間違いなく立てているものの、
特別奇抜な手段を用いていた訳でも無い様に思えるのですが。
そもそも、「鵯越」は険阻と書いてあるだけで、具体的にどこかも分からない。
単に山中を通って「丹波城」を落としてから一谷にかかった様です。
少なくとも、崖を滑り落ちたという事は、無いのではありませんか。
屋島の方も、風雨をものともせずに移動し、風を味方につけて迅速に移動した
点は「無茶」ですが、それくらいでしょう。
762日本@名無史さん:2005/04/14(木) 00:51:01
>>748>>758
レスありがとさんです。
先週はスルーされてたから、危うく自作自演で「南セントレア氏だよ」、とか書くとこでした。無事回避。いや、よかった。

水野氏って源氏だったんですか。平安時代には、三河から尾張にかけて、結構な所領を持ってたんでしょうか。
浦野氏は、八島、山田、泉なんかと同族で、「重」を通字にしてる一族ですね。大河も、知多じゃなくて、濃尾近国境らへんにポイントしてくれれば良かったのに。
763日本@名無史さん:2005/04/14(木) 01:50:25
>>761
特別奇抜なことはしてないってこと?
素人質問で悪いが、
範頼ではきっと東に鎌倉、西に平家、北に藤原の3勢力に分断されたのでは?
それが義経があっという間に平家を滅ぼしたから軍事バランスが崩れた。
時代の流れで平家側から鎌倉に付いたってのは結果論で、
やっぱり義経の武功や活躍によるところが大きい。
と思ってたんだが?
764山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 02:03:56
>>763
武功は否定しておりませんよ。実際有能であったでしょう。
ただ、「義経」という一個人に限定される様な奇抜さがあったかどうかは。
少なくとも、100km、200kmを歩兵も伴わずに騎馬で走り抜ける
といった常識外れな真似を「義経なら」で片付けるのは無理でしょう。
実際に何を為し得たかは、実際に記録されている事から判断すべきであっ
て、イメージから判断する事は、出来ない筈です。

>時代の流れで平家側から鎌倉に付いたってのは結果論で、
一応、平家敗北の理由(規制権益を奪われた在庁官人や武士の不満、源氏と
異なって前九年の役の様な大規模な戦闘による各地の武士との紐帯が希薄で
あったなど)もいくつか言われてはいますが、平家が頼朝に対し、絶対的に
不利であったとは、私も思いません。長続きしたかどうかは別ですが。
765山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 02:05:30
>規制権益
「既得権益」で。
766763:2005/04/14(木) 02:18:11
>>764
誰かと勘違いしてるみたいだけど、
>>763以前に俺は書き込みしてないので(´・ω・`)

767山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 02:26:11
>>766
いえ、同一人物でなくても、問題としているところはほぼ同じであろうと
思いまして。特別視するには、義経は案外情報が少ない。
768日本@名無史さん:2005/04/14(木) 02:37:28
>>757
俺も、奥州から駿河までは、鎧兜姿で颯爽と騎馬で走る、、、てのはないと思う。
旅の商人の姿で移動したのではないだろうか?
吾妻鏡でも、
今日、弱冠一人御旅館の砌に佇む。鎌倉殿に謁し奉るべきの由を称す。
(今日、一人の若者が、御旅館の入り口に来て、鎌倉殿に拝謁したいと申し込んだ)
どうも、軍勢を引き連れて来たとは想像できない。
769日本@名無史さん:2005/04/14(木) 03:09:16
ドラマを盛り上げるにはあの格好で草原を走った方が格好いいだろ。
実際は違ったのは当たり前だろうが。
絵面がイイか悪いか、それを史実レベルで話し合うことに価値はないと思わないか。

奥州藤原氏は平家に敵対するつもりはなくあくまで中立なのだから義経に兵をつけてやることはできない。
770日本@名無史さん:2005/04/14(木) 03:13:02
>>769
>奥州藤原氏は平家に敵対するつもりはなくあくまで中立なのだから義経に兵をつけてやることはできない。

ソースは?
771日本@名無史さん:2005/04/14(木) 04:32:57
>>769
>絵面
「○○クン、カッコイイ」で盛り上がりたいんならTV板へでも逝け。

>史実レベルで話し合うことに価値はない
日本史板は、それを語り合う板だよ。
772日本@名無史さん:2005/04/14(木) 07:37:56
でも佐藤兄弟は実在で奥州からついてきたんじゃないのか?
773山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 09:42:57
数騎+歩兵各数名ぐらいはいたのでは。
その程度の参戦は、珍しくも無かったでしょうし。
下野あたりから移動していったのではないかと。
774日本@名無史さん:2005/04/14(木) 09:55:50
素で不思議なのは、
頼朝と義経が初対面した時、頼朝は義経を自分の弟だと認めた(認識した)のかどうか。
どこの馬の骨とも知れない奴が「俺は義朝の子だ!」と言うことだってあるだろうし。
775日本@名無史さん:2005/04/14(木) 20:25:34
>>774
> 實平・宗遠・義實等これを怪しみ、執啓すること能わず。
> 刻を移すの処、武衛自らこの事を聞かしめ給う。
> 年齢の程を思わば、奥州の九郎か。早く御対面有るべし。

頼朝は事前に、義経が奥州にいることを探知していたようだす。
しかも、年齢、名乗りも知っている様子。

俺は、義経はまず実兄の全成に連絡して会い、
その取次ぎで頼朝に対面したのかと想像していたけれど、
吾妻鑑によれば、一人で訪ねて行ったようだすな。
776日本@名無史さん:2005/04/14(木) 21:12:11
>>775
そういう根回しのできないところが義経の魅力w
777山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 21:30:50
絶妙のタイミングでの登場の描写が、後三年の役における義光の参戦を想起
させるためのものだといいますが、推測ですからね。

>俺は、義経はまず実兄の全成に連絡して会い、
妥当なのは、こちらの行動でしょうけれど。
778日本@名無史さん:2005/04/14(木) 21:43:10
>俺は、義経はまず実兄の全成に連絡して会い、
全成さんはどこにいらっしゃられるのでしょうか?
779日本@名無史さん:2005/04/14(木) 21:51:35
頼朝も実兄なわけだが・・・・。
780山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/14(木) 23:22:25
>>778
『吾妻鏡』で確認をとっておりませんが、丁度富士川の辺りにいた筈。
>779
同母兄という事ですね。
781日本@名無史さん:2005/04/15(金) 02:21:06
とゆうか、
頼朝から見れば、異母弟は家臣のようなものでしょう。
実際、家臣として扱っていると思います。
頼朝は、弟は希義だけだと思っていたんじゃないかな。

>>778
全成は、京都の醍醐寺にいたようだから、たぶん奥州よりも情報伝達が早い。
義経よりも先に、頼朝の元に来ていたと思います。
782日本@名無史さん:2005/04/15(金) 03:03:58
全成と義経は実の兄弟だから顔見知り…のはず。
ま、かなり会ってなかったとは思うけど。
となると今度は、頼朝は全成を弟だとどうやって認めたんだろうということ。
昔は写真もないんだし、噂や書物が情報発信源なんだから。

783日本@名無史さん:2005/04/15(金) 03:09:23
家系を名乗って矛盾がなければ認めるのでは
784日本@名無史さん:2005/04/15(金) 04:10:15
>>782
平治の乱後の、義朝死亡時、
頼朝は14歳、全成は6歳だっけ。
父の生前、会ったことはあるかもしれないが、
ううむ、面影が残っているかなー。
しかし、>>775も指摘しているように、頼朝は弟たちがどこにいるか、
把握していたようなので、全成のこともすぐにわかったのだろう。

全成と義経は、牛若が乳児の時に別れているが、
同じ京都の醍醐寺と鞍馬寺に入れられたのだから、
会おうと思えば会えたはず。(史料にはまったく出てこないけど)

というより、牛若が清盛を父と慕い、知盛らと遊んだというドラマの設定よりもずっと自然だ。
となると、牛若に出自を教えたのは、行家ではなく全成であった可能性が高いな。

吾妻鑑には、兄弟対面の場面には全成は描かれていないけどね・・・・・・・・・

p.s. ドラマでは、義経の本人確認は、父の形見の刀であろう。
頼朝「これは確かに父義朝殿が所持せし刀。弟に間違いなし」なんてな
785日本@名無史さん
>>784
NHKの義経本による次回の流れは、

義経が頼朝に面会
→義経に富士川の見張り役をさせる
→義経に政子が危機感を覚える

みたいになってる。
政子と梶原がやぱーり悪役になるんだなw