平家はなぜ脆かったのか

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931武陽隠士:2008/02/10(日) 14:09:16
>>930
うるせーよバカ。
932日本@名無史さん:2008/02/25(月) 07:54:48
平家の悪政・権限の集中がひどかったから各地の大名が見放した。
もし善政施してたら関東の大名達が東軍決起に参加せず、
西国の大名が平家に味方したはず。

933日本@名無史さん:2008/02/25(月) 11:24:35
>>932
大名www
豆腐の角に頭ぶつけて、うどんで首をくくりやがれw
934日本@名無史さん:2008/02/27(水) 09:02:31
関東の諸大名が、流浪の青年・頼朝を盟主に仰いだ理由は?
935日本@名無史さん:2008/02/27(水) 10:17:50
>>934
何という時代錯誤・・・・。
平安後期の日本には『大名』なんていません。
寄進地系荘園の隆盛から地方における武士団の発生に至るまでの一連の流れを勉強しましょう。
これは日本史の理解にとって非常に重要なポイントです。
936日本@名無史さん:2008/02/27(水) 12:58:52
次スレは要らないな
937日本@名無史さん:2008/02/27(水) 13:08:31
>>908
重盛は嫡男。
重盛の母は、院近臣高階基章の娘で、清盛正室。
時子の父平時信のほうが身分は低い。
また、時子の母は御所で水仕事をしていた庶民の娘で、
父時信が正室をめとるとほかの男に嫁した。
時子は時信の庶子で、妹建春門院は正妻腹。
建春門院の母は中納言藤原顕頼女。
938日本@名無史さん:2008/02/27(水) 22:01:44
流刑の客将が、東軍の盟主に担がれた理由は?
939日本@名無史さん:2008/02/27(水) 22:05:28
関東武士団の利権代表として誰でもいいから中央政権に
強い物言いのできるシンボルとなる貴種が、バカでもチョン
でもいいから必要だったというのが定説じゃなかった?
940日本@名無史さん:2008/02/27(水) 22:28:44
大名 小山
小名 熊谷
941武陽隠士:2008/02/27(水) 23:27:59
>>939
違うだろW
942日本@名無史さん:2008/02/28(木) 01:23:49
いやなるべくならバカの方がいいお
943日本@名無史さん:2008/03/01(土) 15:56:05
バカの流人に北条政子が惚れたのか?
944日本@名無史さん:2008/03/02(日) 11:48:19
関連スレ
もし清盛が長生きしていたら
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1058182846/
945日本@名無史さん:2008/03/02(日) 12:26:28
>>942
平安後期-鎌倉前期の武家の棟梁なら、頼むべき人を担ぐんじゃないか?
義家がそうであったように。
担いだ後の北条時政は、担いだ神輿が馬鹿である事を歓迎したかも知れんが、
普通の御家人なら棟梁には力と公正さを求めるでしょ。
946日本@名無史さん:2008/03/02(日) 21:02:05
>>945
たしかにそういう積極的な理由も必要だろうが、頼朝の場合は、
消極的な理由も大きかったんじゃない。
つまり、積極的に反対する人間がいない、もしくは少ない。
そして特定の有力者とズブズブの関係ではないところ。
北条氏は、とても大豪族とは言いがたいし、長い流人生活で
周囲から哀れまれこそすれ、恨まれたり、怖れられたりしな
かった。

947日本@名無史さん:2008/03/03(月) 11:01:04
流刑の頼朝に従うの関東豪族もお人よしだ。
後に北条家は幕府を転覆したが。

しかし、東軍が決起したのはやはり平家の悪政の不満が日本中にあったからだろう。
でなければ、覇者である平家に反逆するわけがない。


948日本@名無史さん:2008/03/03(月) 11:06:19
戦乱起きるとすぐに、日本中の豪族が平家見放した。
これも悪政の報いだろう。まだ盛り返せそうな時点でも
誰も平家に忠義尽くさないのは、平家憎しが世論だったせい。
949日本@名無史さん:2008/03/03(月) 12:00:08
公家に成り変わった平家は武士の代表ではなかったから
950日本@名無史さん:2008/03/03(月) 13:19:44
「平家にあらずんば人にあらず・・」

平家が築いた様々な、高度な洗練された文化などを持ってして
平家達に京都の都人や源氏、民衆などは見下げられていたんだろうな。
平家離散後も、日本の格式伝統文化として受け継がれることなるが・・


951日本@名無史さん:2008/03/03(月) 15:44:26
>948
源氏3代が滅んだ時には戦にすらならずに、
多くの御家人たちは、都から迎えた形ばかりの将軍+
実質的な執政者である世襲制執権北条氏を
あっさり受け入れてしまったのだが。
源氏3代って、いったい?
952日本@名無史さん:2008/03/03(月) 19:10:49
団結力 平家>>源氏
戦闘力 源氏>平家
政治力 平家≧源氏
953日本@名無史さん:2008/03/05(水) 19:25:35
>>951
北条氏が他の有力御家人を順々に滅ぼしていったからじゃん。
北条氏に従うより他ないだろ。

1200 侍所所司:梶原景時討伐される。
1203 外戚:比企能員   〃
1205 頼家の補佐:畠山重忠  〃
1213 侍所別当:和田義盛  〃
954日本@名無史さん:2008/03/10(月) 00:09:15
北条家は外戚の威光で次々に、頼朝恩顧の武将を処刑。
熾烈な骨肉の争いで一族の減っていた源氏の滅亡は必然。

一方、平家は外戚どころか、亡命の客将の率いる東軍に滅ぼされた。
東軍決起にいたる過程は悪政への日本中の不満。
日本中から見放された原因は一族の専横、悪政ゆえ。




955日本@名無史さん:2008/03/10(月) 14:32:07
悪だったから滅びた・・と言う考え方は間違ってるな。
確かに、平家以外の武士からそっぽ向かれるような政治だったのは間違いないが
平家の支配力は清盛が死んだ時点でも西国を中心にして絶大だった。
これを引っくり返そうと思ったら、いくら頼朝が優れた政治家であっても数十年単位の時間がかかっただろう。

それが、あっさり滅びてしまったのは抵抗勢力の源氏に義経という戦術の天才がいたから。
山と海に挟まれ多くの兵がこもる一の谷の要塞を、一日にも満たない時間で落とすという奇跡的勝利。
平家自慢の水軍を満足に働かせる間も与えず、奇襲によって一気に追い払った屋島。
頭数だけは揃えたものの、寄せ集めで、錬度においても団結力においても格段に劣る水軍を率いてのガチ勝負で、
壇ノ浦で勝てたのは、まさに神懸り的。

この時代に義経がいなかったら、こんなにあっさり平家が滅びることは無かっただろう。
956日本@名無史さん:2008/03/10(月) 21:29:34
後白河法皇の暗躍ぶりも見逃せないだろう。

台頭する武家勢力の争いを利用して自分の政治権力を維持しようとした狡猾なヤツだが、
古代と中世のはざまの中で、一応日本国の元首として意地を見せたといえよう。
957日本@名無史さん:2008/03/10(月) 21:59:27
後白河法皇はともかく、義経という正確な所業がはっきりしていない人物に
要因を求めるのは歴史を考える姿勢としてどうかと思う。
958武陽隠士:2008/03/10(月) 23:34:56
>>956
暗躍なんかしてないよ。
959日本@名無史さん:2008/03/10(月) 23:44:34
癒し系
960日本@名無史さん:2008/03/11(火) 00:47:44
961日本@名無史さん:2008/03/11(火) 01:26:29
短期間にあっという間に滅び去ったのは結局、後の幕府のとってよかったのか
悪かったのか。
962日本@名無史さん:2008/03/11(火) 13:35:17
結果的に良かったと思うけどね・・

実際は安徳天皇も幼いままで都落ちした平家を、一気に押しつぶせたから良かったものの
これが下手に膠着状態が続いて、平家が京を奪回し、安徳天皇を頂点に置いた朝廷の仕組みというのが形作られるようになると
奥州の藤原氏、関東の源氏、それ以外の朝廷(平家)というように、完全に3つに割れてたと思う。

そうなってしまったら、頼朝に平家を潰す大義名分は無くなり、それどころか単なる逆賊・・
しかし、関東の武士団も自分たちの独立を掛けて、潰されないように必死に頑張る・・
100年続く内乱になりそうな予感。
963日本@名無史さん:2008/03/11(火) 19:10:41
関東の豪族が、流刑の難民を東軍の盟主にした理由を詳しく。
964日本@名無史さん:2008/03/11(火) 19:18:45
荘園の不在地主層に対する在地領主層(関東武士団)の利権闘争という背景があって、
頼朝がその神輿に担がれたというのが通説じゃなったかな。
その時たまたま不在地主層を象徴する権力が平家(というか平清盛)だったというのも
源氏の嫡流である頼朝が都合よかった点だったと。
だから鎌倉幕府の成立時期として1185年の守護地頭の設置とする見解があるけど、
まさに東国武士団の荘園利権を中央貴族から勝ち取った瞬間とも言える、

そんなところだったと思う。
詳しい方でもいれば訂正よろしく。
965日本@名無史さん:2008/03/11(火) 19:48:04
関東にはもともと畿内とは全く別の文化があった
将門が乱を起こす悠か以前から
中央とは違う独立国精神があった
地元豪族の独立運動が
将門の乱であり頼朝の蜂起であった
頼朝のはるか前の時代から
東国は異郷の地だったのだよ
幕末の孝明天皇が東夷と嫌ったように
それは明治時代に東京が首都になるまで続いた
966日本@名無史さん:2008/03/20(木) 19:17:14
そんなことより蝦夷地に行こうぜ
967日本@名無史さん:2008/03/20(木) 20:45:01
>>963
1.源頼朝は、朝廷の責任ある役に就ける貴種である
2.源義朝が家来にした家は関東に多い。
  彼らは担ぐ相手としてたまたまそこにいた源頼朝を選んだ
3.平将門登場以降、関東地域の一体性が関東武士に意識されていた
968日本@名無史さん:2008/03/23(日) 00:53:12
疑心暗鬼で身内を殺しまくり、戦上手の弟の使い道を
思いつけなかったところが器の小ささだが。
969日本@名無史さん:2008/03/23(日) 03:36:24
     ドドンガドン!
ヨヨイノ ヨイ! ___
‖ ∧_∧γミ ヽ::ヽ
∩(# ・∀) /7 |:::|Σ
ヾ冫祭⌒lつ |:::|
(___八__ノ_ノ
 )_)_) 凵凵 凵

 ソレソレ   ソレソレ
 ∧_∧   ∧_∧
∩ ・∀・) ∩ ・∀・)
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( ( ノ )) ( ( ノ ))
`しし′   しし′


♪ドンドンドン タカタッタ
         ♪
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 ( ゜Д)/(: :(  )
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970日本@名無史さん:2008/03/23(日) 09:35:02
源義経は、本人が馬鹿であった、という他ない。
武士の開墾した土地の権利を院から守ることが鎌倉幕府の中心命題であったにもかかわらず、
進んで院から位を得て喜んだ。

平家も似た部分がある。平家の支配の下では、武士は朝廷の権威の下にあり、
自らの開墾した土地も、院や荘園領主のものであったのだから。
その意味で鎌倉幕府は画期的だった。
971日本@名無史さん:2008/03/24(月) 17:50:54
義経の使い道は、平家を滅ぼすまでで充分だな・・
戦は上手だが、KYだし。

「コウト死して、走狗煮らる」ってやつだな。
972日本@名無史さん:2008/03/27(木) 01:09:45
義経は美化されすぎ。実像は風采の上がらない小男、そして性格も悪い。大したことない
973日本@名無史さん:2008/03/29(土) 06:43:13
何を今更
974日本@名無史さん:2008/03/30(日) 00:05:57
源義経=チンギス・ハン説
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1046837561/
より
源義経=チンギス・ハン説、これだけの証拠
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55012615.html
975日本@名無史さん:2008/04/08(火) 12:01:33
975
976日本@名無史さん:2008/04/08(火) 12:02:34
次スレ

平清盛とともに苦難を乗り越えてゆくスレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1104750158/
977日本@名無史さん:2008/04/08(火) 16:19:36
 
978日本@名無史さん:2008/04/08(火) 16:20:03
 
979日本@名無史さん:2008/04/09(水) 10:10:02
埋め
980尾州男児 ◆7VELMWok.E
>>1
平相国清盛に御落胤という事情がなければ
清盛存命中に滅ぼされていたとも言えます