2
3 :
日本@名無史さん:04/04/12 18:26
3
1001
この調子で、まったりいきましょう。
6 :
日本@名無史さん:04/04/18 23:43
7 :
& ◆JtlW3xqtww :04/04/19 00:30
邪馬台国を台湾語(昔の呉の発音にちかい)で発音すると、シャ・ベィ・イッ・クオッ【邪馬壱(ヒのかわりに豆)國。これが魏志倭人伝漢字】となるんだけど、太宰府のちかくに斜辺井(しゃべい)という地名が昔あったよ。(いまは町名変更されて、ない)
こういうやつを別のところに書いた。
8 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/04/20 21:33
>>7 いらっしゃいませ。
「斜辺井(しゃべい)」、なるほど、傍証と成り得ますね。
「シャベのヰ国」ですね。
呉音で「シャベィ」の意味は何でしょうか?
1>乙
>>1 乙です。
立場は違いますが、少しでも真実に近づきたい気持ちは私も同じです。
良スレになる事を願っています。
11 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/04/25 01:54
>>10橿原一派乙さん
橿原一派には、甲・乙・丙・丁と何人かおられるのですか?
九州王朝肯定派の私も、穏健派の橿原一派氏は大歓迎。
過激派の橿原一派氏はいずこ?
古代史なんてどうせ実益がないんだから真実かどうかより一般受けする方がいいよね。
九州王朝説ってもうセンセーショナルじゃないしね。
また奇をてらった一般受けする説ない??
14 :
日本@名無史さん:04/04/25 20:00
>13の意見自体が俗受けしないし、新鮮味もない。
やっぱり真実は何かだけが面白い。
15 :
日本@名無史さん:04/04/25 20:45
来年開館する九州国立博物館でこの辺も研究して欲しいな。
16 :
日本@名無史さん:04/04/25 22:06
九州国立博物館は畿内説論者にとって嫌な存在だろう
今までさぞ奈良にしか出土物は無いような言い回しで無知な一般人を騙してきたが
九州の邪馬台国関連の出土物を専門的に世間にアピールする存在だからね。
17 :
日本@名無史さん:04/04/25 23:48
それと、九州国立博物館ができたら、東京にとられた江田船山古墳群出土品やら
岩井の墓の出土品やら返してほしいねー。
18 :
日本@名無史さん:04/04/25 23:50
>>16 実際、そういう研究をするブースもできるらしいよ。
今までないがしろにされてきた華麗な装飾古墳も研究するらしい。
桂川のはすっごい綺麗だよね。
19 :
日本@名無史さん:04/04/25 23:52
ってか、ミヤジダケ古墳(宗像氏の墓)の出土品も返せ。
20 :
日本@名無史さん:04/04/25 23:55
銅矛・銅剣も返せ!!
21 :
日本@名無史さん:04/04/26 21:12
22 :
日本@名無史さん:04/04/27 09:16
宗像氏って、なんであんなに力持ってたんだろうね。
今、この人たちの子孫っているの?ってか、長屋王の母がこの人の娘だっけ?
23 :
日本@名無史さん:04/04/27 09:24
胸形ね。
徳膳の娘、尼子娘
24 :
日本@名無史さん:04/04/27 21:57
ってか日本の特別史跡第一号王塚古墳の扱いの小ささにムカつく。
もう小学校の教科書にもでてないそうな!
最近の古代史関係ではこんな説が注目されていますよ
畿内に発生した連合体が九州(主に北部)勢力との合併を果たした
これにより魏への朝貢が現実のものとなり、邪馬台国を新設、首都とした。
しかしあくまでも強権を発揮できるだけの大王は成立できず
権力並立(分権)のまま、いわゆる派閥連合として成長したが
4世紀に入ると、九州主体グループ、出雲グループ、河内グループなどの
血族による有力派閥勢力が政権を争うようになり、それらが各地域を治めていた。
5世紀以降、九州グループが半島経営を指針に挙げたのに対し
出雲、河内は富国政策を主張。継体天皇の擁立となった。
この衝突が磐井の乱の原因となり、一時九州は弱体化。蘇我氏、物部氏などが台頭する。
しかし7世紀中頃、中大兄皇子と中臣氏によるクーデター発生(壬申の乱)
以降九州出身勢力が連合を統一し、飛鳥時代を迎える。
面白いのは実はこの説、橿考研や奈文研の若手からの邪馬台国畿内説の立場からなのですが
こういう形での九州勢力の台頭は十分考えられるのではないでしょうか
26 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/04/27 23:55
>>22 末期九州王朝の中心氏族。
タリシホコの出身氏族。
ですね?
27 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/04/28 00:02
>>22 大海人皇子をバックアップしたのが宗像氏。
>>25 そこまで無理に考えてまで畿内説を捏造する理由がわからん。
>>28 いや、これってけっこう最新の主流に近い説だよ。ちょっと違うところもあるけど。
主流が正しいかどうかは別にして、知ってて損はない。
30 :
日本@名無史さん:04/04/28 03:34
出雲の歴史がさっぱりわかっていない説に見えるのだが・・・
出雲の歴史って?
八百万の神は、神無月になると、
めいめい各地の大神の元へ結集するのでありました
九州・出雲・河内・・・・・
・・・・・・・・・・・・そんなばかな!
33 :
日本@名無史さん:04/04/29 11:56
九州国立博物館万歳アゲ
34 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/04/30 14:21
>>25 >>32 >八百万の神は、神無月になると、
>めいめい各地の大神の元へ結集するのでありました
>九州・出雲・河内・・・・・
>・・・・・・・・・・そんなばかな!
>>25スレ立て乙氏の紹介した説によると、
>>32氏に禿同ですね。
「神無月には、全ての神々が出雲に集る」という言い伝えは後世の創作であると説明されているのでしょうかね?
出雲では「神有月」というのも、後世の出雲の人々の創作ですかね?
暦を変えなくては、「神分月」と。
35 :
日本@名無史さん:04/04/30 21:31
出雲が列島日本海岸を掌握していた時代があったのち
対馬のアマ族に下克上されたのは明らか。
>25氏引用の説支持者は、もう一度考え直したほうがいい
36 :
日本@名無史さん:04/05/01 08:52
ちんちんまんまん最強伝説
37 :
日本@名無史さん:04/05/02 00:56
さちやま傀儡政権の末路、法隆寺移築など
7世紀末〜8世紀初頭が日本史のキモではないか?
38 :
日本@名無史さん:04/05/02 03:06
25氏じゃなくて「ちょっと違う」と書いた29ですが
出雲はもう少し早い時期に畿内政権に組み込まれた(平定された)と
考えられているようです。
理由は5〜6世紀にかけて地方分権を匂わせるようなな遺跡が
出雲地方にない事。
むしろ南九州、四国瀬戸内方面、北陸、東海の方にその痕跡が見られます。
それと壬申の乱じゃなくて大化の改新ですよ、蘇我氏滅亡は。
大化の改新で滅んだのは蘇我の本宗家のみ。
改新政権のラインナップをご覧なさいな。
40 :
日本@名無史さん:04/05/02 11:52
>38
出雲が日本海岸諸国の宗主権を剥奪されたのはBC100年ごろかもしれない。
ついでにいうと、大化の改新という「政治改革」があったはずだということ自体
後世(たぶん明治維新)の捏造っぽい。
九州スレなのに畿内厨の臭いがする。
42 :
日本@名無史さん:04/05/02 22:02
6世紀に数十km四方しか支配していない畿内政権が
高句麗好太王と戦ったり、白村江で400隻を失ったりできるわけが無い。
43 :
日本@名無史さん:04/05/03 19:47
あほか。物知らずの吐きだめみたいなスレだな
44 :
日本@名無史さん:04/05/03 20:48
>43へ
1を嫁
>九州王朝に関心のない人や、九州王朝に関りの無い主張は、書き込まないでね。
45 :
日本@名無史さん:04/05/11 12:04
46 :
日本@名無史さん:04/05/13 09:28
47 :
日本@名無史さん:04/05/15 00:17
49 :
日本@名無史さん:04/05/31 21:21
そのうち畿内王朝一元説は消えるでしょう
50 :
日本史@名無しさん:04/06/02 10:00
そうだね。ほんの30年ほど前までは出雲でさえただのおとぎ話のように言われてたけど。
小難しい王権論とかが幅を利かせていて、へりくつで論破してた。
でも、いまじゃ出雲王国って普通に市民権を得ているもんね。
それに、邪馬台国九州説論者でも、そのあといきなり東遷とかいってたけど、考古学的に
もおかしいし、何よりそんな頭だけ移動なんて近代国家みたいな事あり得ない。当然卑弥
呼以後も九州勢力が続くと考える方が自然だし普通。
漏れには古代史家の偉い人たちがみんなゴッドハンドに見えてきたよ。
東遷譚は神武の侵略・定着譚にすぎない。
九州王朝で干された小権力者だった神武が
畿内で占領したのは極小の土地である。
べつに畿内全土を支配などしたことはない。
畿内に九州王朝出身者はあまりいなかったので
神武の系譜は貴人の末裔であるかのように過大に伝承されていた。
我こそ天照の孫ニニギの子孫であると。
わずかに血のつながっていた後世の畿内王が
この伝承を最大限に利用したのが記紀や続日本紀。
というわけで、九州王朝から畿内王朝へ政権は移ったのでありました。
>>52 その内容が問題なわけで。
でも、かつては九州には大生産地がないとか土器が畿内より遅いとかいうのが近畿説の
有力な根拠だったけど、今はそれらについては霧散してしまったなあ・・・。
日本書紀によれば筑紫都督府が九州にあったのだから、
当然その上には則天武后が実権をにぎる唐国の安東都護府(668年〜平壌)があった。
その時期、筑紫の君は捕虜から帰還した薩夜麻だったから、彼は都督であったことになる。
唐の軍隊組織は府兵制といい、辺境防衛のため農民を「防人」として
3年間兵役させるのが、ひとつの特徴だ。
唐の行政を行う筑紫都督府は、半島全土を占領した新羅に対して
「親新羅」の畿内地方でなく、東国の農民を徴兵し、防人と号した。
のちに王家や高級官僚の歌を除いて、世に伝わったの歌集を万葉集という。
55 :
日本@名無史さん:04/06/25 23:35
他スレで論争が盛んだが、畿内説・九州説・九州王朝説、どうも決め手に欠く。
九州王朝大好きさんや、橿原一派さんは、どこに行かれたんでしょうか?
56 :
日本@名無史さん:04/06/26 21:39
age
>>34まではカキコしていたのに、
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y さんは
どこに行っちゃったんでしょう?
59 :
日本@名無史さん:04/07/16 05:38
法隆寺の再建が確定しました
60 :
日本@名無史さん:04/07/16 05:55
法隆寺金堂、火災前から建設か 年輪年代測定で判明 天井板667−669年伐採
現存する世界最古の木造建築とされる法隆寺金堂(奈良県斑鳩町)の天井板は六六七−六六九年に伐採されたものであることが、
年輪年代測定による建築部材の調査で分かり、奈良文化財研究所などが十五日発表した。
日本書紀の記述などから同寺は六七〇年の火災後に再建したとする説が有力だが、
金堂だけは火災以前の段階で建設が始まり焼失した伽藍(がらん)と並存していた可能性が浮上、新たな議論を呼びそうだ。
法隆寺の大規模な年輪年代調査は初めて。六〇七年ごろに聖徳太子が創建したとされる当時の部材は確認できず、
調査成果は法隆寺は創建時のままという「非再建説」を否定することになった。
奈文研は、昭和二十年代の修理の際に取り外していた金堂と五重塔、中門の木材など百七点を年輪年代法で平成十四年秋から調査。
その結果、金堂の天井板は六六七−六六九年、五重塔の木材は六七三年ごろ、中門の木材は六九九年ごろの伐採と判明。
建設は金堂、五重塔、中門の順だったことが明らかになった。
建物の完成は木の伐採後になるが、金堂の天井板は通常完成直前に付ける部材であることから、
火災前から建設が進んでいた可能性が出てきたという。法隆寺をめぐっては創建時の建物か、火災後の再建かで明治以来論争が続いたが、
昭和十四年に創建時の建物とみられる若草伽藍の遺構が現在の建物の南東側から見つかり、再建説が決定的だった。
鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長の話 「天井板は金堂がほぼ完成するころに張るもので、
火災以前に金堂ができあがりつつある中、若草伽藍で火災が起こったのではないか。
年輪をもとに今後、新しい学説を展開してもらえるのではないか」
◇
年輪年代測定法 木の年輪幅が日照、雨量などの影響で年ごとに違い、一定地域で同じになることを利用、
年輪パターンの照合で伐採年を割り出す方法。仏像や、遺跡で出土した柱根などの年代判定に使う。
欧米で開発され、日本では奈良文化財研究所がパターン採取と測定を続けてきた。
(産経新聞)
で、どう読めば確定になるの?いくつか無条件に前提にしてるわけだけど。
7世紀後半に伐採した木で、どうやって
607年に法隆寺を建立できるか・・・そりゃ無理だ
63 :
日本@名無史さん:04/07/22 19:48
五重塔の芯柱が590年ごろというのは、移築説の勝利でしょう。
つまり再建説と移築説がセットになって、はじめて解決できましたという話。
大好きさん 待望age
65 :
日本@名無史さん:04/07/26 19:41
移築説に立てば、様式の年代の齟齬も解決できます。
66 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:16
ww
67 :
日本@名無史さん:04/08/03 00:17
おい、古田信者、スレッドあげたからこっちに書け。
68 :
日本@名無史さん:04/08/03 01:04
>>34まではカキコしていたのに、
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y さんは
どこに行っちゃったんでしょう?
『九州王朝』は実在したが正解ですな。
大和朝廷と九州王朝の両者は並行して存在してたのだよ。
そして、両者はおのおのが近似的対応があって2つの地域に
別々に、呼応するかの如くに、線路の並行のように存在していたんだよ。
例えば、崇神と帥升。神巧と卑弥呼とがおのおのがその対応なんだよ。
九州のほうは大和で云えば、文武の御世のころまで実在したのだ。
文武の世で九州のほうは滅亡に至ったのだ。だいぶ本物を教えてしまったな。
>>70 パラレルに存在する近似世界か。
隔絶しつつも、波動の共鳴によって時々影響し合い、
文武の頃のフェーズ転移で九州の方は空間が崩壊して消えたんだね。
今夜は寝るのでいずれまたな。
今度は『倭の五王』が何者か教えてやろうかな。そうだこのスレあったな。
73 :
日本@名無史さん:04/08/04 23:41
九州王朝はあったと思うが、日本という名の国ができる遥か昔の話。
別スレッドを荒らしています
75 :
日本@名無史さん:04/08/05 00:42
古 田 の 亡 霊 に 怯 え た 馬 鹿 が 大 暴 れ
76 :
日本@名無史さん:04/08/05 22:56
.;
77 :
日本@名無史さん:04/08/08 01:48
なんで古田信者はこのスレッドが嫌いなの?
せっかく作ったのに
78 :
日本@名無史さん:04/08/08 01:50
バ〜カ。スレ主
>>1が見捨てたんだよ。粘着畿内馬鹿が荒らしきったからね。
79 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:33
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y さんは
どこに行っちゃったんでしょう?
80 :
日本@名無史さん:04/08/08 02:40
別にあれてないような気がしますが。1.氏の帰還をお待ちしています。
81 :
日本@名無史さん:04/08/08 10:46
>79
ここじゃさびしいだとさ。
82 :
日本@名無史さん:04/08/08 19:22
っh
大和が皇統の場。〜崇神〜神巧皇后〜〜
九州が王統の場。 帥升〜卑弥呼姫〜。
結論 『邪馬壱国』は≪九州≫に実在した。邪馬台国というのは無かった!
その女王が『卑弥呼』であり、神巧皇后とは別人の女性である。
これこそが真である。
85 :
日本@名無史さん:04/08/09 05:00
結局、前スレの反九州王朝でうだうだ屁理屈言ってたのって、原○実?
86 :
日本@名無史さん:04/08/09 07:39
>>83 というより、実在した帥升と卑弥呼を
畿内の皇記に組みこむ際に、
崇神と神巧皇后という架空の名称に変えて組みこんだのでしょう。
九州王朝が、あまりに中国王朝の傀儡的だったために。
87 :
日本@名無史さん:04/08/09 07:53
>>86 すると、帥升と卑弥呼は実在だが、崇神と神巧は無かったということか?
ならば、・・・開化、垂仁、景行、成務、仲哀、応神、仁徳、履中・・・
とするのか?これは滑稽に感じる。垂仁他の天皇は名を換えたのか逆か?
88 :
日本@名無史さん:04/08/09 21:59
漢籍に、倭の女王が出てくるので、日本書紀編者は困った挙句、
神武を思い切り古く設定し、卑弥呼や台与を神功に当てた。
それだけでしょ。男の帥升は何とでもなる。
89 :
日本@名無史さん:04/08/10 01:37
なんで古田は学会で無視されているんですか?
90 :
日本@名無史さん:04/08/10 01:48
ドロドロした学閥を、ばっさり切ったからだよ
日本の古代史学会は、カルトだから。
未だに土器編年とか言ってるし。偉い人でも「だろう」「らしい」「思われる」「そう考えても
無理ではない」とかの連発だし。放射性同位体測定馬鹿にしてるし。上下関係きつすぎ
だし。学問つうよりイデオロギーだし。学閥きつすぎだし。言ったことに責任とらねーし。
違う意見には頭がはげ上がる程批判する癖に、身内に甘いし。ウヨだし。
わかってもいないことを無理矢理に学校で教育して洗脳する手法は、かの国と同じだな。
大化改新だって用語から何から捏造なのに。聖徳太子だって伝説と本人の実像が分離
できないのに、教えるなよ。
92 :
日本@名無史さん:04/08/10 22:33
>>91 なるほど。それが本当なら、アホばっかりということだな。
日本人として悲しいものがあるな。
93 :
日本@名無史さん:04/08/10 22:38
熊襲が王国作れるか馬鹿
酋長が関の山だよ
94 :
日本@名無史さん:04/08/10 22:41
鉄もない大和が王国作ることは、ありえないな
95 :
日本@名無史さん:04/08/10 23:24
古田は、何故和田のような詐欺師と組んでいるんですか?
96 :
日本@名無史さん:04/08/10 23:25
スレ違い。馬鹿ですか?
97 :
日本@名無史さん:04/08/11 05:20
いまだに、「神武架空説」を主張している時点で、日本の古代史学会はダメダメでしよ。
マジで神武実在説なのか2ちゃんはw
2ちゃんもすげえな
2ちゃんねらはロマンチストが多い。
俺はロマンチストも2ちゃんねらーも好きだが。
100 :
日本@名無史さん:04/08/11 10:20
神武架空説なんて、津田のちょっとした思い付きでしょ。
戦前皇国史観にチャチャを入れるために、公言しただけ。
101 :
日本@名無史さん:04/08/11 10:33
2ちゃんねらーなんてドン・キホーテの集まりだなw
102 :
日本@名無史さん:04/08/11 14:21
自説の根底がゆらいでしまった、畿内王権一元史観信者が集まって、ワイワイガヤガヤ大騒ぎ。
103 :
日本@名無史さん:04/08/11 22:01
西都厨どこに消えた
104 :
日本@名無史さん:04/08/11 22:03
2ちゃんではなんでも話せる匿名性と引き替えに、
頭も人生もからっぽの名無しになることを要求されるのさ。
違うか。
もとからからっぽの奴が2ちゃんにたむろして愚痴ってるのか。
くだらないな。
俺もお前もくだらない。
105 :
日本@名無史さん:04/08/12 06:11
>>98 「神武架空」説っていうのは、「論証」をへて導き出された説ではないんだがな?
「論証もないのに、なんでそんなもんが学者たちに支持されるのだ?」
古田氏のこの指摘は、まったくそのとおりであって、現代でも古代史学会に巣くってる
悪い病気だよ。
106 :
日本@名無史さん:04/08/12 09:28
↑西都厨降臨
107 :
日本@名無史さん:04/08/12 10:37
共産党が絡むから余計におかしくなるんだよ。
脳内で少しでも天皇制に「架空」とか「なかった」というレッテルを貼るだけで
脳汁でまくりの連中だから、理屈じゃないんだよ。
戦前だって天皇制主要打撃論とか笑えるw
あいつらって政治的立場と学問的立場とばらばら「だもんな。
そのくせあとがきとかで「ファシズムに抗して」とか「真理を知ることが民主主義」とか
とってつけてお仕舞い。説自体はなんの革新性もないくせに。
108 :
日本@名無史さん:04/08/15 00:51
最近すごく思うんだけど、中国の資料には、倭国の王都が「邪馬臺国」とか、
「ヤマタイに都す」とか、「馬臺に鎮し…」とか書いているでしょ。
この「邪馬臺」の「ダイ」って、現在の「平和台」のことじゃないかなあ、と
思うんだ。
平和台って、台地をあらわすんだろうけど、「平和」なんて地名としては
意味をなさないでしょ。
だれか、「平和台」と呼ばれるようになった由来、教えてください。
110 :
日本@名無史さん:04/08/15 00:58
2600年の皇統があるじゃないか
どうもありがとう。
福岡城かぁ・・・ その前が知りたくなってきたw
調べてみよう。(知ってる人いたらおしえてw)
112 :
日本@名無史さん:04/08/15 16:26
九州王朝はあったな。中華思想の仏教国だよ。
半島諸国とコゼリあって中華帝国に朝貢した国だな。
畿内王朝は、地理的な関係もあって独立心旺盛な立派な国だよ。
畿内王朝が列島の支配者になって良かったよ。
113 :
日本@名無史さん:04/08/15 20:37
畿内政権はあっさり九州勢に簒奪されて、天武天皇即位・・・
114 :
日本@名無史さん:04/08/15 20:50
天武流は結局途絶える訳だが・・・
>>114 それも、大の仏教庇護者、聖武天皇で途絶えたと言うのが意味深で・・・。
116 :
日本@名無史さん:04/08/18 21:27
西都厨はなんで書き込まなくなったの
117 :
日本@名無史さん:04/08/24 21:28
>>98 神武架空説というのは、神武と崇神の和風諡号が、同音である事から、
そして、神武から崇神の間の8人の天皇の業績が全く記されていない
(欠史八代)事から来ている。
用は、天皇家の歴史を古く見せつけるために、神武という架空の天皇を
デッチあげ。その際、崇神の業績を、神武の業績とした。
また、その間の8人については、単に名前だけデッチ上げたので、
業績が記されていないとした。
ところが、古田が、
「デッチ上げであるなら、その8人の天皇についても、業績も含めて
デッチ上げたはず。業績が伝わっていないのは、むしろ実在した証拠である」
と主張。
また、安本美典も、
「デッチあげは、天皇の寿命が100歳を越えるといった記録のほう。
天皇の存在自体がデッチ上げだとすると、古代の天皇の在位が、後世
のそれより長くなってしまい、かえって計算が合わない」
と主張。
118 :
日本@名無史さん:04/08/24 21:32
>>115 途絶えたのは称徳天皇の時でしょう。
天武系が途絶えるにあたって、かなりヤケクソになり、道鏡を天皇に
しようとして、醜聞を噂されてしまった。
119 :
日本@名無史さん:04/08/24 21:45
>>105 架空の君主をデッチあげるというのは、歴史上で例が無い訳ではないんだ。
古代ローマ人は、ローマを建国したロムルスは、滅亡したトロイの王
の婿・アイネイアの子孫だとしていた。
(正確に言うと、アイネイアの子アスカニウスが、イタリア半島に
おいてアルバロンガを建国。
数百年を経て、アルバロンガ王家からローマを建国したロムルスが出る)
アイネイアからロムルスに至る系図まで存在する。
ところが、後々ローマ人がギリシャと交流した時、ギリシャ人は、
「トロイの滅亡はローマ人が思っているより、400年さらに昔である」
という事を、ローマ人に教える訳である。
かくてローマ人は、400年分の空白を埋めるため、歴代のアルバロンガ
王をデッチ上げて、歴史を造作している。
120 :
日本@名無史さん:04/08/25 00:18
古田信者ってキティガイですか?
121 :
日本@名無史さん:04/08/25 00:34
うざいなあ…
122 :
日本@名無史さん:04/08/25 01:07
畿内厨がいちばんウザイ
123 :
日本@名無史さん:04/08/25 02:06
>>120 まともに反論ができる人間であえば、反対意見に対し「うざい」
などとは言わないはずだ。
121です。120とは別人で、
うざいのは、あちこちのスレで「〜信者」とか「カルト」とかレッテル貼ってまわってる、
おそらく一人の人物のことです。
125 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:28
西都厨帰ってこんな。
126 :
日本@名無史さん:04/08/26 01:53
邪馬台国:九州王朝出身の神武が、大和制圧、新王朝を立てる
↓
崇神が、大和王朝を拡大・発展させる
↓
大和王朝の発展に危機感を抱いた九州王朝が、朝鮮半島侵攻で功績の
あった女将軍・神功に、大和王朝を攻撃させる。
神功の息子の応神が大和王朝を継いで、親・九州王朝政権となる。
↓
継体が大和王朝を乗っ取り、さらには九州王朝を服属させる。
4ヶ月ぶりに戻って来ました。
最近は他板に凝っていたもので。
これからはちょくちょく書き込みます。
僕が書き込むと又荒れるかもしれませんが、ご容赦のほどを。
こういう問題を
人格を賭けて必死なのはなぜ?
結局ウヨサヨみたいな思想のぶつかりあいだから?
真実事実の追求ならここまで必死になれるとは思わんが
129 :
日本@名無史さん:04/08/26 03:40
>>127 お久しぶりです。たまに橿原一派氏も来てましたよ。
最近は関連板も書き込みが盛んになりました。
またどうぞよろしく。
130 :
日本@名無史さん:04/08/26 22:41
>128
古田武彦が詐欺師を担ぐという学者にあるまじき行為を行っているから。
131 :
日本@名無史さん:04/08/26 23:08
●岩手県胆沢郡衣川村、阿倍一族の墓苑(平成4年)
「石塔山荒覇吐神社」にあったという阿倍頼時の骨を、和田氏が地元の
歴史の会「衣川青史会」に寄贈、突然この地に頼時の墓が出来て観光地となった。
「衣川青史会」の会員名簿の最初の欄には和田喜八郎氏の名前がある。
昭和55年に建立の、しかも津軽の「石塔山荒覇吐神社」に頼時の骨が
あったのもすごいが、その骨を鑑定したのが古田武彦氏だったという
のもGOODである。
それから6年、遺骨はクジラの骨だった…(平成10年8月13日の産経新聞)
「岩手県衣川村に埋葬された阿倍頼時のものとされる遺骨がこのほど、
岩手医大と岩手県立博物館で鑑定され、クジラの骨だったことが分かった。」
132 :
日本@名無史さん:04/08/27 03:25
>>130 学歴詐称の原田や、インチキ証拠品でっち上げで儲けた安本のほうが好きなのか?
???
安本って?
134 :
日本@名無史さん:04/08/27 20:14
>>133 匿名の電話調査を歴史学の「証拠」として主張する犯罪心理学者。
135 :
日本@名無史さん:04/08/27 20:20
>>131 それは産経新聞と徳間書店、そして安○一派のミス・リード。
古田氏が「骨の鑑定」などした事実はなく、和田氏がそのような骨を
持ち込んだという事実もない。
136 :
日本@名無史さん:04/08/27 22:27
原田実って偉いよね。
まじで凄いよ
137 :
日本@名無史さん:04/08/27 22:32
古史古伝Q&A 回答/原田実
Q8 「古史古伝」研究家は世間でも認められていないのに、なぜ研究しているのですか。
商売だからでしょうか。
「古史古伝」研究者の中には、たしかにそれで実利を得ている人が少なくありません。
誰とは申しませんが、あくまで商売として「古史古伝」を扱っていると公言している人もいます。
しかし、考えてみれば「古史古伝」研究などは商売として、決して実入りの良いものではありません。
世の中には、もっと有利な金儲けの手段がいくらでもあるはずです。
私のささやかな経験からいいますと、「古史古伝」にかかわっている人には、
共通して、単純な信・不信を越えた業のようなものがあるように思われます。
たとえ表層の意識では「古史古伝」の来歴や内容を信じていないとしても、
その研究にかかわる人は、どこかでそれに惹きつけられるものを感じ取っているようなのです。
「古史古伝」研究によって実利を得た人といえども、最初から営利を目的にしたわけではなく、
その業につき動かされているうちに、気がついたら実益も得ていたという方が正解でしょう。
「古史古伝」にそれだけの魅力がなければ、その研究によって実利を得るということも
不可能ではないでしょうか。
また、「古史古伝」研究者の中には儲けるどころか、私財をなげうってまで研究を続けている人も
少なからずいます。
結局、「古史古伝」研究者といわれる人々は、アカデミズムに認められるかどうか、
あるいは金が儲かるかどうか、という価値観だけでは把えきれない人たちだということになるのかもしれません。
(新人物往来社 別冊歴史読本 特別増刊 『「古史古伝」論争』 1993年)
138 :
日本@名無史さん:04/08/27 22:40
原田さん、宣伝ご苦労さん。安本と組んで、古田いじめは楽しかったかい?
139 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:11
東日流外三郡誌
発見者の和田喜八郎氏によれば、昭和23年頃、和田氏宅の天井裏から落ちて
きたという古文書。古代、津軽の地に大和朝廷に対抗する東北王朝があった
とい?%A
原田はダニ
141 :
日本@名無史さん:04/08/28 00:39
>>139 そして、和田氏死後に家を壊してみたら、当の東日流外三郡誌が
見つからないだけでなく、天井裏には書籍を隠すスペースすら無く、
代わりに新紙を古紙に見せ掛けるための液体がみつかったという
オチがつく。
142 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:25
原田氏の創作ストーリーは続く・・・
143 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:46
西都死んだか>
144 :
日本@名無史さん:04/08/28 12:21
このスレの住人の皆様、私のここでの書き込みはかれが最初で
最後ということにいたしたき所存ですので、悪しからず願います。
147 :
日本@名無史さん:04/08/28 12:51
>145
そのスレッドは、古田氏や和田氏、竹田氏、八幡出版等と敵対する方々のためのスレッドです。
ここは、彼らを信奉する方々のスレです。
148 :
日本@名無史さん:04/08/28 18:01
学歴詐称はよくないねぇ〜
149 :
日本@名無史さん:04/08/28 18:10
結局最高裁でも、偽書は認められず、敗訴だったね。
裁判所は偽書かどうかを判断する機関ではありません
151 :
日本@名無史さん:04/08/28 19:04
訴えた側の偽書呼ばわりは、認められずにおしまい。
152 :
日本@名無史さん:04/08/28 19:08
安本や原田は、
>>150に厳重注意されてるな。
だれもがそう思うぞ。
でも反省してないからな。猿以下だ罠
なんであんな判決になったかといえば、要するに安本や原田が、和田氏一家に物理的
危害が及ぶ所までに風評を広げたからに他ならない。
学問は学問の土俵で勝負すべき所、裁判などに訴えるなど、幼児みたいで可哀想になる。
154 :
日本@名無史さん:04/08/28 23:57
155 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:16
村役場で明治中期の写本が200冊もうずたかく積まれて解読されてたんだから、
偽書なら村役場訴えれば済んだこと。馬鹿が多いや。
156 :
日本@名無史さん:04/08/29 10:21
磐井が九州王です。
おのスレは妄想天国だなw
158 :
日本@名無史さん:04/08/30 00:34
原田と安本は放置して、九州王朝は元号があったぐらいだから、有っただろう。
↑白痴まるだし
火病
161 :
日本@名無史さん:04/08/30 02:00
>>159 せめて「白雉まるだし」というユーモアが欲しかったな・・・・
九州王国は存在します。南北朝時代に。
中国の明朝の初期において、日本を対外的に代表していたのは、この
九州王朝です。
九州王国は存在します。戦国時代に。
当時のヨーロッパの中心とも言えるローマ教会に、日本を代表した
使節を派遣したのは、九州王朝です。
九州王国は存在します。幕末に。
当時の国威発揚の場であるロンドン万博において、日本とは別の独立国家
として、出品を行っています。
700年以降は国としての体をなしていないだろう。
どれもなしてるじゃん
167 :
日本@名無史さん:04/09/02 16:01
邪馬台国は大分の豊前中津宇佐を中心とした地域と考えてます。
卑弥呼は、巫女であったこと。
宇佐神宮そのものが、古墳の上に立てられているという言い伝えがあること。
宇佐神宮は全国八幡宮の総本社で中心に祭られている神は、ヒメ大神。
歴史的に朝鮮との繋がりも深く、古代日本の先進地域であった。
宇佐神宮は古代、広大な土地・荘園を有する強大な勢力であった。
奈良の大仏の建立にも宇佐神宮が関与している。
道鏡事件では天皇家が、伊勢神宮ではなく宇佐神宮に和気清麿を遣わして
天皇後継問題の支持を仰いだこと。
奈良時代以降1100年間も天皇家は近くの伊勢神宮に参拝すらしたことが
無いのに、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされ
ていること。
付近に京都(みやこ)郡、山国(やまくに)=邪馬国?=邪馬台国=大和(やまと)国、耶馬溪、
豊前(豊〔とよ〕の国とも昔からいわれている)中津=下毛郡中津(毛には豊の意)=豊葦原中つ国、
三毛門(みけかど)(上毛と下毛の境)…ミケヌノミコト(御毛沼命=三毛入野命=御毛入尊)と関連?
など、記紀や邪馬台国と関連の深い地名が多く残っている。
大分県中津には宇佐八幡神が降臨したとされる薦神社がある。
薦神社の御神体は、渡来人によって作られた灌漑用溜池である。
八幡(やはた)は「多くの秦氏(渡来人一族)?」。
近年天皇が朝鮮半島にゆかりを感じると発言するなど、天皇家と
宇佐−朝鮮半島に深いつながりを感じさせます。
168 :
日本@名無史さん:04/09/02 16:21
宇佐は衛星国でしょ。
とくに新九州王朝が畿内に樹立された天武以降
旧九州王朝の残党狩りの拠点が宇佐だっただけで都ではない。
もっと歴史を勉強すべし。
170 :
日本@名無史さん:04/09/02 20:44
天智天皇と天武天皇の関係は秀吉と家康の関係に似てると
思うが、どうよ?
天智天皇と天武天皇は、兄弟ではなく、天武は朝鮮系で天智より
年上との説もあるからなあ。
172 :
日本@名無史さん:04/09/04 15:59
名前に「兄」だの「弟」だのが偶然入っていたから
二人が兄弟だと後世広く理解されてしまったようだし
天武即位が「下克上じゃありません」と宣伝したから
兄弟説を否定などせず流言にまかせたのだろう。
実際は天武のほうが4歳年上だし、実の兄弟なら
天智から天武に娘4人も嫁にやらなければならないほど
政略婚の実効がなかなかあがってこないというのは
実の兄弟でなく、まったく違う出自だったからだろう。
>名前に「兄」だの「弟」だのが偶然入っていたから
???どういう意味??
おっと、名前というより呼称だ
天智・・・「中大兄皇子」
天武・・・「大皇弟」・「東宮太皇弟」・「太皇弟」
175 :
日本@名無史さん:04/09/04 22:51
176 :
日本@名無史さん:04/09/04 22:57
>>174 天武の呼称
九州王朝の天皇(兄王)と法皇(弟王)に対して、
九州王朝法皇(弟王)とは別の東方(東宮)の弟王として、
「皇弟・東宮皇弟」を名乗った。
東については、近畿だけでなく宇佐を指すとも見られる。
以上、未検証。
178 :
日本@名無史さん:04/09/05 22:36
九州王朝信者が帰ってきた。
>>178 信者呼ばわりする前に、根拠を提示して否定したら?
180 :
日本@名無史さん:04/09/07 00:17
古田系雑誌にまともな「研究者が投稿すると学者生命を失うってほんと?
>>180 それは嘘。もともと学者生命をもってるような奴はそんなとこに投稿しない。
まともな頭脳を持った学者先生研究者なら、
8世紀以前の日本古代史には立ち入らない。
研究では飯が喰えなくなるから。
食い扶持を別に持つアマチュアの世界。
183 :
日本@名無史さん:04/09/07 01:57
今だに「神武天皇を実在などと言う学者は、国立大学で教鞭をとる資格がない」
などと言う世界だから。
論証に関しては、ハッキリ言ってアマチュア(&非国立大教授)のほうが数段レベルが高い。
古代史で、学者が素人をちっとも抜けないのは
学閥や徒弟関係のしがらみがあるからでしょう。
185 :
日本@名無史さん:04/09/07 22:04
気が狂わない限り古田系雑誌なんか投稿するかよ・
186 :
日本@名無史さん:04/09/08 23:29
かくして、棲み分けは保たれ、互いに食い扶持と遊び場が確保され、
幸せな時間が過ぎて行く。という訳ですな。
くわばらクワバラ。
187 :
日本@名無史さん:04/09/08 23:35
まあ金印と阿蘇山は九州なわけだが
188 :
日本@名無史さん:04/09/10 21:46:44
九州王朝はあった。んじゃ。
>>185 お前も狂ってるんだから載せてもらえないだろw
大学教授同士の本格的な論争って、「郡評論争」が最後のような気がする。
坂本太郎と井上光貞のはげしい論争は古代史を二分した、非常に身のある論争だった。
結果、軍配は井上光貞に上がったが、以来学者たちは「負ける」ことを怖れて
論争をしなくなったような気がする。
しかし、坂本太郎は「負け」たのか? その権威は失墜したか?
ちがうでしょう。あの論争があったから、古代史は飛躍的に発展したはずだ。
「負け」を怖れて論議を回避するなど、古代史の大いなる損失だ。
結局藤村氏と変わらないんだよ。みんなが教組様に収まってしまって、互いに傷つくことを怖がるように
なってしまった。もし理系なら実験結果で否応なく自分の説が覆されるが、それも不均等な発掘、保守
的な方法論、「記紀は捏造」を前提にしながら都合のいいところだけ剽窃する、一事が万事そんなやり
方の貧困な論理構成、ようするに昔のことはわからない、にあぐらをかいてるだけ。
藤村氏のやったことは許されないが、あれって言ってみれば創価に挑んだオウムみたいなもんだろ。
如何にアカデミズムが古代史を食い物にしているかの警鐘だったんだが、そんな部分の体質改善など
何もなかったよな。オウムも藤村氏も無駄死にだわ。
橿原考古学研究所=オウム
エロ教祖麻原が創価に挑んだのは、教祖犬作に対するエロ度
194 :
日本@名無史さん:04/09/19 02:19:33
九州王朝を否定して説明すると、とても苦しい。
これは、九州王朝があったと仮定すると、実によく説明がつく。
まあ、結局、学問の粋はこの辺にもあろうと思います。
196 :
日本@名無史さん:04/09/19 21:30:43
九州王朝って言うか、大和王権が九州を支配するまでは
独自の王権みたいなのはあったんじゃないの?
それさえも否定されているの?
五世紀に中国の王朝と通交したのは九州の王だった、
7〜8世紀、隋・唐と通交したのも九州の王だった、
有名な三十三間堂は九州王朝の建物の移築だった、
桂離宮も九州の王朝の建物の移築だった、
源氏物語は九州王朝の王朝絵巻だった、
などなど・・・
というばかげた九州王朝説が否定されてるだけです。
198 :
日本@名無史さん:04/09/19 21:43:24
九州王朝はあったよ。別に否定してない。
199 :
日本@名無史さん:04/09/19 22:14:10
九州王朝説
京都は実は九州の京都のことだった
鎌倉幕府も九州にあった
南北朝は九州王朝と吉野王朝の対立だった
安土城は九州に建てられた
徳川幕府も九州にあった
・
・
・
それは畿内説でしょ。
201 :
畿内説:04/09/19 22:16:57
金印は畿内で発見された。
阿蘇山は畿内にあった。
202 :
日本@名無史さん:04/09/20 00:07:07
畿内説のトンデモぶりは目に余りますなあ。
そんな調子では、まともな人達からは相手にされませんぞ。
>>202 すいません、間違えました。以下のsedスクリプトかけてください。
s/畿内/九州/g
204 :
日本@名無史さん:04/09/20 08:56:38
『九州王朝説』の定義は何だか知らないし、
それがトンデモ説かどうかも知らないが、
九州に王朝はあったよ。
>>204 そのまえに、『王朝』を定義してくれ。
この話がしばし空回りするのは、『王朝』の定義があいまいであることによる。
広辞苑によれば、
おうちょう【王朝】
(1) 帝王親政の朝廷。
(2) 同じ王家に属する帝王の系列。また、その君臨する時期。
だが、(1)のばあい、『帝王』とは何かがまた問題になる。
(2)のばあい、王朝の存在を主張するためには
王統の直系血族相続が証明されなければならない。
できるのか?少なくとも弥生時代の九州については無理だろ。
206 :
日本@名無史さん:04/09/20 11:42:48
畿内には、文武以前に「王朝」なし。
九州は倭の五王あたりからは王朝といってよい。
ということは、九州王朝というのは五世紀以後の話ということでいいのかな?
4世紀以前、弥生〜邪馬台国は王朝があったとは言えないでファイナルアンサー?
208 :
日本@名無史さん:04/09/20 19:42:31
「言えない」ではなく「不明」だな。
>>207 おおむね崇神朝から文武朝までの間です。
>>208 一部だけ切り取って意味を捻じ曲げる、よくない。
211 :
日本@名無史さん:04/09/20 21:19:43
いやいや、「あったとは言えない」というと、いかにも「ない」という印象が
強いといけないので、表現を変えてみただけだよ。基本的な意味は同じさ。
212 :
日本@名無史さん:04/09/21 00:57:43
王朝って、元号を制定したり、通貨を決めたり、律令を施行したりといったような
権威の高い揺らぎ無き朝廷としての体制を備えた国体をいうだろ。
総合的にこういった体制があれば、上記の例が欠けていてもいいと思う。
213 :
日本@名無史さん:04/09/21 15:11:26
それは厳しすぎ
九州の半分を支配している王様がいるだけで十分王朝と言える
>>212 >>213 という具合に、同じ“王朝”の文字を使っていてもその意味するところは全く異なる。
これでは議論が噛み合わなくても不思議はない。
それぞれが手前勝手に王朝を定義していたら収拾が付かなくなるのは目にみえてるので、
何処かでその定義がオーソライズされている必要があるだろう。
>>212と
>>213は、その定義が何処で確認できるかを明記するように。
脳内定義は却下。
>>214 ばーか、なにが脳内だ。おまえが定義してみろよ。
言葉はみんなのものだぞ。広くみんなの意見を集約しろよ。
>>214は、1億3千万人に「王朝」の定義をきくてまわることに決定。
>>214は、そのあと「九州」の定義を1億3千万人にきいてまわる未来が待っている。
218 :
日本@名無史さん:04/09/21 22:32:12
卑弥呼の時代は、王国とか帝国というよりは、
連邦制または共和制みたいな感じだったかもな。
ほんで、卑弥呼は王というより大統領に近いかもな。
必ずしも世襲じゃないかもな。
だから、王朝とは言えないかもな。
219 :
日本@名無史さん:04/09/21 22:44:21
220 :
日本@名無史さん:04/09/21 22:46:46
投票箱と書かれた3世紀の甕棺が発掘されてるぞ。
共立って、選挙に近いもんじゃないの?
222 :
日本@名無史さん:04/09/23 11:00:53
卑弥呼は倭族の休戦協定の象徴だな。微妙なバランスなので、男で実権を持とうと
すると瓦解する。卑弥呼のように女で、ほとんど表に出ないと上手く行く。
別に、世襲制でもないだろうよ。
女王というのは、当時の中国人にはそれ以外に言い方がなかったから、そう書いた
に過ぎないな。
大統領というのもチョッと違うなあ。
国連の事務総長みたいなもんじゃないかな。
王朝というのも中国流の言葉だな。そんなものは、倭にはもともとなかったな。
中国カブレがコウジテきた後のことだな。
223 :
日本@名無史さん:04/09/23 11:13:09
古田信者専用スレッドなのに活気がないのはなぜ
224 :
日本@名無史さん:04/09/23 11:41:41
ば〜か。
古田は「師の説にななずみそ」としょっちゅう言っている。
祖述するなということだ。こんな古田の「信者」になることは不可能だ。
225 :
日本@名無史さん:04/09/23 13:15:05
>>205 古代のことを「証明」するのは、大抵のことは不可能だよ。
それらしいことをなるべく多く並べるのが精々だな。
>>225 それは数学的言語としての「証明」だろ。
文献学による「証明」とは考古学的発見と、文献の資料批判などを含んだ「論証」である。
227 :
日本@名無史さん:04/09/23 20:50:09
そういうことに、「証明」という言葉を使うのは誤解を招くな。
「仮説」「推定」「考察」と、それが本当らしいことを、考古学的発見や文献批判
をなるべく多く並べて説得力を高める作業、というのが分かりやすいな。しかし、
いくら本当らしいことを並べても、永遠に「仮説」「推定」「考察」であることは、
やむを得ない訳だけどね。古代のことはそういうもんだし。
しばらく様子を見てたけど、広辞苑(2)で特に異論はないみたいね。
広辞苑だけじゃなくて、大概の辞書には広辞苑(2)と同じ説明があるんで、
王朝というためには、血縁による王権の相続が必須条件ということでよさそうですなぁ。
史料で確認できるなかで確実なのは、宋書のいわゆる倭の五王以降なので、
王朝があったと主張できるのは五世紀以降。
卑弥呼−男王−台与は血縁による相続ではないので、
このあたりは王朝ではない。
それ以前は、文献や金石など文字資料がないので王朝の存在は確認できない。
記紀には系図があるので、文献上の王朝は存在するが、
それが史実の王朝であるかどうかは不明なので、ペンディング。
ということで、ファイナルアンサー。
一応の決着を見たようので、堂堂巡りをしないように、次スレを立てるときには、
テンプレに入れることをキボンヌ。
ちなみに、王朝=国家(王国)と捉えてる向きがあるようにも見受けられるが、
>>205の広辞苑(2)をよく読んでもらえばわかるとおり、
広辞苑(とその他の辞書類)に従うならば、王朝は王族という「人」、
もしくはその支配した時代という「時間」を指している。
つまり、王朝というのは「人」もしくは「時間」というカテゴリーに入るものであって、
国家、あるいは、王国とはまったく異なる概念であることは注意したほうがよさそう。
王朝は英語ではdynastyだが、LongmanとOxfordを引いたところでは、
広辞苑(2)とほぼ同じ意味のことがかかれていた。
王朝=dynastyの意味は世界的に意味は共通であるらしい。
230 :
日本@名無史さん:04/09/24 00:38:47
王朝という言葉の意味は、そんな感じでOKだよ。
ただ、一般の興味は、そういうことじゃなくて、卑弥呼や倭の五王が九州にいたのか
どうか、ということだけどね。王朝ということばが不適切(かもしれない)と分かった
んで、他の言葉に代えて楽しむのが良いかもしれんな。
とりあえず、九州政権とかが良いかもしれんな。
辞書の意味は駄目だね。
王朝は国家のあり方を指している。
またはある状態にある国家を指している。
232 :
日本@名無史さん:04/09/25 02:37:58
相変わらず電波スレッドがもりあがってるね。
キティガイ同士隔離されて楽しそうだな。
233 :
日本@名無史さん:04/09/25 03:07:50
>225
>古代のことを「証明」するのは、大抵のことは不可能だよ。
>それらしいことをなるべく多く並べるのが精々だな。
そうだね。だから200万円で偽書作ったりするオヤジがいるんだよね。
その割には金なかったぞ、例のオヤジ。
むしろ腹駄が塔墺や夜須元と組んで「オヤジの100万円詐取事件」などと
面白おかしく脚色した作り話の儲けのほうが大きいだろ。
235 :
日本@名無史さん:04/10/02 00:45:53
236 :
日本@名無史さん:04/10/02 01:05:12
>234
古田信者消えて下さい
学歴詐称の腹堕、氏ね
↓九州王朝?
卑弥呼のナゾ
神功皇后(好太王碑、倭軍討伐)
_______________________
↓東西両朝鼎立?
応神帝誕生のナゾ
倭の五王のナゾ
_______________________
↓近畿王朝
継体帝のナゾ(磐井の乱)
天智・天武(白村江の戦)
二倍年数を使う、継体帝より前はあやしい。
239 :
日本@名無史さん:04/10/04 19:25:46
先日、近所にある石塚山古墳ってやつを見に行ってきました。
町役場の隣にある築山みたいな、しょーもないやつです。
北九州市南部から行橋市にかけては、あの程度の古墳はたくさん転がっている感じなので、
今まであまり気にも留めてませんでした。
子供の頃から発掘後の遺跡で土器拾いや石室かくれんぼをして遊んでいたくらいだったので、
石塚山古墳は、迫力も何もない古墳だと思ってました。
ですが説明を読むと、有名な三角縁神獣鏡が出土し、結構重要な古墳らしいですね。
でも・・・本当にあれがそんなに重要なのですか?
なんであんな小さな古墳にそんなたいそうな代物が埋まっていたのでしょうね?
ちなみに石塚山古墳がある地域は、今は京都郡(みやこぐん)という行政区の苅田町(かんだまち)
という場所です。苅田町付近はいまは「美夜古地区(みやこちく)などというロマンティックな字を
あててますが、本来、京都(みやこ)とは苅田町付近を限定的に指す言葉です。
(縄文時代の古墳も多い狭いエリアを指します)
また、苅田町には神田町というエリアもあります。神田町は今では「じんでんちょう」と呼びますが、
苅田という漢字が後付けのような気もします。
私のような素人が、何を言いに来たかというと、
石塚山古墳は、出土品に比べると、かなり見劣りするものですが、
所在地の地名は、結構立派なもので、「西都原」の名前にしびれている人も、
ちょっと「京都郡」の名前にもしびれてもらえないかな〜と思ったわけです。
240 :
日本@名無史さん:04/10/05 10:33:34
三角縁神獣鏡自体は、日本中あちこちから出土しており
あまり珍しいものでもないし、日本産の可能性が高い。
石塚山が重要なのは、宇佐の赤塚古墳と並び、九州最古の
前方後円墳であるからです。
>本来、京都(みやこ)とは苅田町付近を限定的に指す言葉です。
これは根拠があるのでしょうか?教えていただきたい。
自分は、邪馬台国は、宇佐・中津を中心とした豊前にあると思って
おり、むしろ京都郡は広い範囲に渡ったのではないかと思っている
のですが。
241 :
日本@名無史さん:04/10/05 16:05:04
>>240 239です。
ちょっと誤解を生む表現ですみません。
プラス、考古学的・歴史民俗学的な裏づけのある話でなくてすみません。
あくまで経験的・体感的な説明です。
まず、京都(みやこ)のエリアの件ですが、
みやこ(京都)郡のなかでみやこ(美夜古)と呼ばれるエリアは、
石塚山古墳のある地域だけという意味です。
JR九州日豊本線の苅田駅〜小波瀬(おばせ)駅だけです。
「みやこ」の範囲を中津や宇佐にまで広げることにはちょっと違和感を感じます。
みやこ(美夜古)から宇佐までは50kmを越しますから・・・
例えば、ナニワの中でなにわ(難波)と呼べるのはなんば(難波)駅周辺だけです。
みたいな言い方でしょうか。
242 :
日本@名無史さん:04/10/05 16:05:28
また239です。すみません。
その他、体感的な情報を書きますと
石塚山古墳のある辺りは、周防灘沿岸の中では最も海岸線に
山が迫っている場所で、石塚山古墳は昔の海岸線付近にあり
裏手にはすぐに山の背が迫っています。
まぁ昔に九州の東側を歩くとすれば、石塚山古墳を眺めながら
脇を通り過ぎることになるでしょうね。
反面、中津や宇佐のような広い平野部では無いので、
あまり裕福でもなさそうな気がしますよ。
地の利があるとすれば、関所のような感じかな・・・。
あぁ、また脈絡もなく地名の話をしますが、
京都郡にはとよつ(豊津)町と言う地名もあります。
まさしく「とよの国の港」ですね。
で、その「トヨの国」とは240さんがおっしゃるところの
京都郡から中津をへて、宇佐・国東までの豊前エリアのことですね。
243 :
日本@名無史さん:04/10/06 00:46:48
>240
>石塚山が重要なのは、宇佐の赤塚古墳と並び、九州最古の
>前方後円墳であるからです。
違うますね。
那珂八幡と津古生掛古墳が一番古いです。
井沢珍電波に騙されないように。
244 :
日本@名無史さん:04/10/07 08:11:21
前方後円墳か?
245 :
日本@名無史さん:04/10/07 08:35:58
なんだ、福岡平野で最初なのが那珂八幡で、津古生掛古墳は4世紀では
ないか。
243こそ電波だな。
京都と美夜古は、歴史的に古いのはどちらの呼び名ですか?
247 :
日本@名無史さん:04/10/07 23:37:35
↑ 呼び名はどちらも同じ。違うのは文字のみ。
和銅6年(713)5月2日,『風土記』の編纂に際して,
「畿内七道諸国・郡・郷名着好字」(『続日本紀』同日条)という命令が出された.
これにより,国・郡・郷名は漢字2字の表記に統一されるのである.
>>247 ありゃ、では、どっちが本来の字ですか?
250 :
日本@名無史さん:04/10/08 21:54:33
本来の文字などないな。どちらも当て字だよ。
意味から訓を当てるなら「宮処」だろうけど、これだって当て字だな。
漢語なら本来の漢字があるけど、日本語を漢字で書くのは全部当て字だよ。
251 :
日本@名無史さん:04/10/08 23:41:49
美夜古の話題を出したものですが、
私は美夜古はいかにも「夜露死苦」的なんで、
最近の発案だと思いますよ。
ですが、まぁ、言いだしっぺなんで、
あの地域の「みやこ」の名前の歴史を調査してきましょう。
おそらくご当地の図書館ならば、何らかの郷土史の本があるでしょう。
ちなみに、石塚山古墳の横にある資料館で、
「郷土史の本とかは販売してないのですか?」と質問したら、
「今、作ってるらしい。まだそんなの無いよ」と言われた。
そんで観光案内のパンフレットを代わりに渡された。
ついでに、私は地元ですが、
周防灘沿岸エリア(トヨの国)が邪馬台国とは信じられないです。
福岡平野や筑後平野には、どんと大きな河川があって、
大きな扇状平野が広がって、そこを支配したものはかなり裕福になれる
だろうと思えますが、周防灘沿岸はそんな場所じゃないですよ。
宇佐を拠点とするそこそこ裕福なボンボンで祭祀の天才が、
天皇家御用達の神社の誘致に成功したくらいじゃないでしょうかね。
252 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/09 00:00:15
>>239-242 興味深いことです。
もっと調べていくと、何かにつながりそうです。
現地でないと及びつかない、貴重な提案であると思います。
数年前、苅田に行った時に「みやこ産業」と云う会社を何気なく見過ごしていたことを思い出しました。
現地で伝えられている古い地名は重要です。
253 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/09 00:03:04
プロキシ規制はココでもあるのかな?
254 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/09 00:04:20
ココではプロキシ規制がないようだ。
255 :
日本@名無史さん:04/10/09 02:15:18
>>251 調べていただけるとのことで、ありがとうございます。
>周防灘沿岸エリア(トヨの国)が邪馬台国とは信じられないです。
>…だろうと思えますが、周防灘沿岸はそんな場所じゃないですよ。
中津・宇佐は、歴史的に非常に面白いところです。
確かに福岡・筑紫平野にも、伊都国や奴国がありましたが、邪馬台国は
明らかに別の場所であり、倭人伝から方角、距離的にも説明可能です。
当時から、筑紫地方もかなり発展しており、連合国の男王はこの地域から
出た可能性も高いと思いますが、卑弥呼に関しては、豊前地区の可能性が
高いと思ってます。中津平野も山国川、駅館側と河川、平地に恵まれ
当時の大国として十分な条件を備えてます。
256 :
日本@名無史さん:04/10/14 00:14:46
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´ ( ) ∧ ジ ャ
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.λワー | | λワー λワー λワー
257 :
日本@名無史さん:04/10/14 00:50:21
古田信者と井沢信者どっちがアホなの
××信者という言葉を使う人が一番アホ
259 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/15 22:59:32
>>239-242 苅田―小波間がミヤコだった時期は590〜620年の頃だったのでは?
タリシホコ法皇弟王のもとに来た隋使は苅田に来たと考えると楽しいです。
@隋使のルート。
A実務家タリシホコは兄弟政治の弟王(兄王天皇に対しての弟王法皇)
B宗像氏出身のタリシホコが初期に法皇としてのミヤコを置ける場所としての適切性。
道後温泉に遊びに行くにも手近で良いし。
260 :
日本@名無史さん:04/10/16 00:10:21
古田はアホつーか詐欺師だろ
>>251 『美夜古』は、和名類聚抄で『京都』郡の訓として振られている標記です。
ですから、『美夜古』『京都』ともに古代(少なくとも10世紀以前)からの標記といえますね。
因みに、そのころの郡域は、長峡川に沿った今の苅田町、行橋市行事地区、勝山町あたりになります。
地名の由来は、景行天皇の行宮があったとか、単に神社があったからなどとされています。
262 :
日本@名無史さん:04/10/16 22:33:30
>地名の由来は、景行天皇の行宮があったとか、単に神社があったからなどとされています。
「されています」というのは、誰がそうしているのでしょうか?
一般のウワサでしょうか?
>>261 ありがとうございます。
ちょっと調べたのですか、この地域は、昔、仲津郡と呼ばれた時期も
あるのですか?
だとすると、昔は豊前=仲津・中津と呼んだ可能性があると思うのですが。
記紀の豊葦原中(津)国は、箇所により、邪馬台国ととるべき場合と、
日本全体ととるべき場合があるように思います。
で、前者の場合、豊葦原中国は、「豊の国」で「渡来人により作られた
沢山の灌漑池に真薦が生い茂る」「中津」を意味していると思うのですが。
264 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/17 00:02:52
>>261 地名の由来が景行天皇の行宮に求めるには無理があります。
単なる神社に「みやこ」を求めるのも無理でしょう。
景行記の「九州大遠征」譚によれば、この地に訪れたのは「前君」と呼ばれる人物です。
その時彼は九州王朝の一有力首長にしか過ぎませんが、後に倭讃と称し九州王朝の弟王となった人物です。
又、彼が行橋に訪れたのは、九州統一の為この地中津宇佐地域を征服する為です。
この時代4世紀末5世紀初頭に、「ミヤコ」の地名がつくのは以上の理由で無理があります。
苅田が、一時期タリシホコのミヤコであったと期待したい。
タリシホコではない、無論景行天皇でもない、誰かのミヤコであったのかもしれないが。
倭讃のミヤコだったりして??
265 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/17 00:12:36
>>263 >豊葦原中(津)国
「ナカ(中)」は単なる中心地の意味しか無いと思います。
弥生時代には、その地方政権の中心地は「ナカ」と呼ばれていた様です。
ただ、卑弥呼の墓=宇佐神宮説をとると、そうも言えないと
思います。
267 :
日本@名無史さん:04/10/17 00:46:23
豊葦原中国は、出雲でしょう。
268 :
日本@名無史さん:04/10/17 01:02:33
詐欺は止めろ古田信者
>>267 出雲をさしているときもあるし、そうでないときもある。
>>262 行宮説は景行紀12年条に書いてあることですが、お読みになられたことが無いのですか?
神社説は、マア、いろいろな方々の考えですね。
>>263 『仲津郡』という名称は、明治29年に隣接する『京都郡』に吸収された旧郡名です。
古代からの郡域は行橋市大橋地区、豊津町、犀川町にあたります。
郡成立時期の京都郡との関係については、承知しておりません。
郡名は、碩田の国の『中の津』と言う地形由来によると思います。
272 :
日本@名無史さん:04/10/17 18:33:51
>>263 仲津郡は豊津まで入るんですね。
豊津といえば、豊前国分寺・国分尼寺があったところですね。
縄文時代からの遺跡もあり、古代より栄えたところだと思います。
秦氏が古来住み着いて、銅を産出した香春岳と宇佐、中津を結ぶ
接点でもありますね。
ここまで来ると、かなり中津市にも近くなります。
中津市も、仲津と記されたこともありますし、憶測でしか
ありませんが、案外中津市と名前の由来は同じかもしれませんね。
豊前の歴史は興味深いと思います。
273 :
272:04/10/17 18:34:56
すみません。自分にレスしてました。
>>270ですね。
274 :
日本@名無史さん:04/10/17 21:45:17
苅田町の図書館に行ってきました。
1時間少々しか時間がなくて、あまりきちんと調べられませんでしたが、
まじめそうな郷土史本や論文集では
豊国の名前の由来を台与と結びつけたり、
ミヤコの名前を邪馬台国の都と結び付けているものはなかった。
しかし・・・・
調べれば調べるほど、この地域の古代史はキムチ臭い!
これ以上調べるのが嫌になってきた。
トンデモ本は言うに及ばず、まじめな論文もキムチ臭さを認めている。
鬱だ・・・・ これが今日の俺の正直な感想。やっぱりまた調べに行くよ。
それからかなり不思議な地元歴史研究サークルの機関紙があったよ。
それによると、石塚山古墳は、台与の夫であるホデミのものであるらしい。
で、そのホデミは神武天皇のおじいさんであると・・・
>>274 お疲れ様でした。
豊前地域の古代史は、大陸や朝鮮半島と歴史的つながりが深いのは
当然といえます。
そして、渡来人の伝えた稲作や製銅、製鉄などの文化文明が当時の
豊前を含めた北部九州を当時の日本の先進地としたのです。
だからこそ、邪馬台国が成立しうる土壌があると思うのです。
文化文明とともに血筋も北部九州から日本全国へと伝わって
いったはずであり、アイヌ人を除き、弥生人を祖先とする現在の
日本人は大陸系の血筋を引いているはずです。
ただ、全てが朝鮮半島系かというと、そうでもなく、豊前の大半を
占めていたとされる秦氏は、中国の秦人の子孫とも言われます。
しかし、弥生時代には、中国人、朝鮮人、古来日本人との混血が
進んでいたでしょう。
>石塚山古墳は、台与の夫であるホデミのものであるらしい。
いよいよ面白くなってきましたね。
276 :
日本@名無史さん:04/10/22 00:10:56
列島に韓人の居住地があり、半島に倭人の居住地があった、ということだしょ。
277 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/22 01:04:46
>>275-276 朝鮮人は未だ成立してない時代です。
>>276氏のように「韓人」ですね。
又、古来日本人(=西部縄文人と思いますが)ではなく倭人ですね。
半島に倭人の居住地はありましたが、九州には渡来韓人が住んでいたのでは。
倭人と韓人は方言程度の差の似た言語を使用し(津軽方言と沖縄方言ほどの差はなかった。)、
通訳なしでも意思疎通ができたものと思われます。
278 :
日本@名無史さん:04/10/22 19:40:47
>>277 276ですが、
「倭人の居住地」と「渡来韓人が住んでいた」を区別しておられますね。
住んでいるところのことを居住地というのではないでしょうか。
279 :
日本@名無史さん:04/10/22 19:44:56
>278
別人ですが、
半島の倭人居住地と
列島の韓人居住地が
同一ではないのは明らかでしょう。
280 :
日本@名無史さん:04/10/22 21:18:54
どうだか。
281 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/10/22 22:50:39
>>287 半島の倭人居住地と列島の韓人居住地では、居住の環境が異なることを示しただけです。
倭人は半島の倭地に居住し、韓人は列島の倭地に居住していましたから。
韓人が列島に来た当初は、列島の韓人居留地だったと解釈します。
282 :
日本@名無史さん:04/10/23 22:17:07
漢籍には、倭地という言葉や国境を意味するような言葉も出てきますが、
国の支配地の実態はどんな感じだったんでしょうね。
倭地の韓人居留地にいる韓人は、倭の政庁から何らかの支配を
受けていたのでしょうかね。
>>282 隋書百濟伝によれば、その居住種族について「其人雑有新羅、高麗、倭等、亦有中國人」とされ
同倭國伝でも「竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏・・・自竹斯國以東、皆附庸於倭」等とあるように
雑居状態の国について、中国王朝側としては、遣使者に領域内の支配権を「認めて」はいるが、当事者同士では微妙でしょうね。
魏代(三世紀)の状況ならさらに複雑だと思いますが、その領域内の居住者について「全く」支配が及ばないことは無いでしょう。
284 :
日本@名無史さん:04/10/24 21:31:27
当時の支配といえば、租庸調とは言わないかもしれないけど、まあ結局、
産物か使役の徴収ということでしょうかね。あるいは、朝貢という若干
自主性のある形をとったか。
285 :
日本@名無史さん:04/11/17 22:56:46
286 :
日本@名無史さん:04/11/17 23:51:11
まず、自然科学の面からいって
半島というのは
日本の東北地方と同じくらい寒冷な気候で
当時の農耕において
生産量に限界があり、当然、養う人口に限界がある。
中国の史書だと、倭が古代、半島の南部へ進出し
鉄利権獲得のために兵を駐屯させていたみたいだ。
当時の百済や新羅、加羅諸国(任那など)は、
海洋の大国・倭の傀儡国家だった説が有力。
287 :
日本@名無史さん:04/11/17 23:53:43
>>275 まず、自然科学の面からいって
半島というのは
日本の東北地方と同じくらい寒冷な気候で
当時の農耕において
生産量に限界があり、当然、養う人口に限界がある。
普通、気候の温暖な地域から北上したと考えるのが常道。
288 :
日本@名無史さん:04/12/02 21:42:10
そうかなあ
289 :
日本@名無史さん:04/12/06 10:20:13
九州王朝はヤマトに滅ぼされました
磐井の反乱と言われてるのがそれです
290 :
日本@名無史さん:04/12/06 10:46:09
291 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :04/12/09 15:18:12
>>289 九州王朝は倭ワイ(磐井)の乱ではまだ滅ぼされていません。
九州年号「兄弟」の時に兄弟2元政治に復古し再生されています。
継体没後九州王朝はヤマトを配下にしています。
九州王朝が滅んだのは699年とみなせます。
292 :
日本@名無史さん:04/12/10 22:46:23
やっぱり怖かった持統天皇
293 :
日本@名無史さん:04/12/17 04:47:25
やっぱり白村江の戦いの配線が滅亡の引き金だろうな
それもむりやり大和王朝にやらされたに違いない
逆でしょ、九州王朝が突進していた極東戦争に、無理やり参加させられた畿内王権は
いろいろ言い訳をして逃げ回っていた
郭務ソウが九州に上陸して、あわてた九州王朝人の天武が、畿内を乗っ取り
本家を滅ぼした
295 :
九州王朝 ◆I.THkUKc4Y :04/12/18 23:42:48
>>294 そうでつね。
本家を滅ぼしたのは九州と大和のハーフの文武天皇ですね。
マジレス希望なのですが、
九州王朝説の概要を質問させて下さい。
1.九州王朝がやがて畿内に東遷して、既存の大和の王朝をのっとる?
2.大陸との交渉があったのは九州王朝の方で、奴国などの後裔?
3.大和の既存政権は何者によって何時興ったの?
4.百済や新羅との関係は?
九州王朝のまとめサイトキボンヌ。
わけもわからんもんが多すぎて新参者はついていけない。
九州王朝と畿内の大和王朝とは一定時期の間、双方が並行して存在していたのであり、
時間的には崇神天皇のころから文武天皇のころまでの時代、確実に九州に存在していたのだ。
帥升という王か、その手前の時代の王ころからが九州王朝の始まりなのだ。
神功皇后の世のころに、九州に卑弥呼女王の邪馬壱国が存在し、奇しくも2クイーンが
同時代ころ大和と九州に両立して存在していたのだ。
何らかの理由で豊祖父尊(文武)の世に九州王朝は絶えてしまった。
記紀に邪馬壱国の記述がないことは双方相知らず国交が無かったものである。
九州王朝は神武の代にはまだ存在はしておらず、神武から開化の代までは大和
朝廷だけの単一王朝であったのだ。古田武彦氏の主張が正であるを意味する。
299 :
九州王朝 ◆I.THkUKc4Y :04/12/20 23:50:31
>>297 「九州王朝」をキイにして、又派生する言葉もキイにして検索してください。
九州王朝説は、提唱者の古田武彦氏をはじめ、多くの説がありますので。
多くの説の中でも最も体系化されている古田氏の著書を入門書とするのがよいかと思います。
古田氏は7世紀までの日本の歴史を見直ししていますので、その著作はかなりの量になります。
300 :
九州王朝 ◆I.THkUKc4Y :04/12/21 00:29:32
>>296 私の考えですが、
1.九州王朝は東遷しておりません。九州に本拠をおく政権で、
その支配の影響範囲は東は関東、北は日本海沿岸東北地方にまで及び、7世紀の末に滅びました。
神武を始祖とする大和政権は7世紀中期まで九州王朝の支配下にありました。
神武とは別系統の銅鐸を祭器とする近畿政権は九州には支配されていません。
2.そうです。
3.古くは銅鐸を祭器とする政権で九州王朝とは独立しています。
後に、神武が大和湖(湿地)南岸に村を開いた頃から徐々に九州系の集団によってとってかわっていきました。
神武が大和に定着して村を開いたのは4世紀末から5世紀初頭と考えられます。
4.百済や新羅と関係のあったのは九州王朝のみで、九州王朝配下の神武系大和政権は主体的関係は持てなかったと思われます。
301 :
九州王朝 ◆I.THkUKc4Y :04/12/21 19:52:30
>>296 東遷について
東遷はありませんでしたが、九州の部族勢力と言われる集団が何度も近畿に侵入しています。
四国中国地方も、もちろんですが。
その中で天皇の系列に入った部族も数多くいます。
神武・崇神・応神もその有名例でしょう。
欽明・天武も九州からとみなせます。
神武以前にも物部氏の様に近畿政権に同化した部族も数多くいると思われます。
九州王朝の大和攻略。
なんか大和の東国政策を思い浮かべるな。
>>299 それじゃ、全体の見通しが立たないじゃん。
全体が見渡せるようにコンパクトにまとめたサイトがほすい。
当然だが、賛成意見、反対意見を平等に紹介してあることが必要条件ね。
304 :
九州王朝 ◆I.THkUKc4Y :04/12/21 23:28:40
>>303 そのようなサイトはありません。
旧来の大和朝廷説派の九州王朝説無視に原因があります。
大和朝廷説派にとって九州王朝を批判し論戦をすることは自らの立場を崩壊させることなるからです。
大和王朝説派は九州王朝説を完全無視と言ってよい状態にしています。
批判はありませんが、九州王朝説派の個人に対しての誹謗中傷はありますね。
思う、思う、と三回書けば事実の検証がなったと言い張るような特定のコテハンさんの手法に対しては批判があるだろう。
306 :
九州王朝 ◆I.THkUKc4Y :04/12/22 15:30:44
橿原一派がやって来た!!!
「思う、思う、と三回書けば・・・」←←←表現がいい加減。
二回しか書いていませんが。それも本論から外れたところで。
307 :
日本@名無史さん:04/12/23 02:02:11
畿内説で、金印と阿蘇山を無視しているほうがインチキじゃないか。
308 :
日本@名無史さん:04/12/23 03:21:55
阿蘇山さん 向こうのスレで見かけないと思ったらこんなところに。よほど阿蘇山が好きなんですね もしかして阿蘇近郊の観光協会の方ですか?町興しの企画ですね!頑張って下さい。
>>308 阿蘇山には1度行ったことがあるだけで、自分も親戚縁者も
九州出身者はいません。全員関東人です。
阿蘇山にこだわる理由:
阿蘇山なんて、ヤマト地名やヤマ地名に比べて
めったにありませんので特定しやすいでしょう。
倭人の代表国=イ妥国は阿蘇山で祭祀を行い、
同時代に唐の泰山で封禅の儀式に列席しています。
他の祭祀記事がないんだから、畿内説は畿内における
阿蘇山を探す必要があるでしょう。
310 :
日本@名無史さん:04/12/24 00:16:52
阿蘇山も浅間山も有珠山も語源はポリネシア語のアサからきていてありふれた名前らしいけど・・・・
でもなぜか瀬戸内と近畿には火山がないなぁ(´・ω・`)
瀬戸内に火山がないって?
由布岳、鶴見岳は休火山だが立派な火山。
温泉が何よりの証拠。
九州だが、瀬戸内に間違いない。
中国人にとって火山は極めて珍しいものだった。
しかし、瀬戸内と近畿には火山がないので、
大和朝廷の役人が、わざわざ九州の阿蘇山を見学させた。
・・・大和説の論者(のうちの一人)はこう言っている。
>>304 おい。そりゃ理屈になってないだろ。
九州説を主張する人がサイト立ちあげればすむ話。
>>313 (のうちの一人)って誰?
火山が珍しいから物見遊山したのではなく
唐が泰山で行った国家儀礼の封禅に、
倭人の酋長が参列しているのと同様に
唐の使者も阿蘇山で行われたイ妥国の国家祭祀に
参加したと見るべきだ。
316 :
九州王朝 ◆I.THkUKc4Y :04/12/25 01:39:09
>>314 「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
上述の古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
>>316 ごめん。九州説じゃなくて九州王朝説ね。
だからね、そういう断片的なものじゃなく、
全体が見渡せるまとめサイトだと何度言わせれば(ry
畿内説全体が見渡せるサイトも存在しないのに
なんで九州王朝説だけにそんなサイトがあるはずだと信じるのだろう?
>>311 大分では由布岳、鶴見岳を瀬戸内なんか言わないけど、初めて聞いたなあ
地図を見るとギリギリ瀬戸内地域とも言えないこともないような
欲しいと言っておるのだが、何か?
私は、欲しくありません。
じゃあ、黙っとれ。俺は欲しい。
無いものねだりの
>>303は我儘杉 > クリスマスプレゼントはお預けだ!
レス数が増えたのは、話が通じなかったのが原因だ。
無理につくれといってるわけじゃない。
ただ、わかりやすい九州王朝ポータルサイトをつくっておくのは、
九州王朝説にとってメリットにはなりこそすれ、デメリットは何もないと思うのだが。
なんでそう突っかかるのだ?
おれはただ、九州王朝に一寸興味を持ったのでいろいろ知りたいと思っただけなのだが。
といって、ゴリゴリ検索するほど暇じゃないし、そこまでの興味もないから、まあ消えるとしよう。
「俺様のために、俺様以外の説をまとめたサイトは無いのか」
あるわけが無いだろう
日本の記紀に邪馬○国の文の伊勢記は無い。皮肉にも日本のには無く、
外国の魏志倭人伝には邪馬壱国の壱跡があるのだ。古田氏の九州王朝説が正解なのだ。
仲哀天皇のころの御代、大和に神功皇后 九州に卑弥呼姫の両クイーンが両立
していたのが真なのだよ。
神功皇后の生存実年代ってどうやって計ったの?
なんだ、あるんじゃないですか。
早速ブックマークしました。しばらくここで勉強します。
要するに、日本という国は二本立てをよくやる国なのだ。
大和皇朝と九州王朝
南朝と北朝
朝廷と徳川幕府(天皇と将軍)
だから大和一元論の古代史観は合っているとは云えんのだ。
332 :
日本@名無史さん:04/12/26 22:54:22
ああ〜〜〜なるほどっ!
己があって貴方がある。
此方があってあちらがある。
西があって東があり、海があって山がある。
川上があって川下があり、流れ去るものがあれば流れ来るものがある。
古いものあって新しいもの生まれ、浮かぶものあれば沈むものある。
日出る方あれば日沈む方あり、生あらば死がある。
日本においては天候も西から東へ移る、これが法則。
二本立てだから、そのうちの一本が邪馬一国(邪馬壱国)とみなしてもあながち的
を外れてはいない。大和王朝のほうは二の数なのだ。天皇の御名に『仁』が多いのも
そのへんからかも知れない。「二本目の系のお人」とも読み取れるな。
335 :
日本@名無史さん:04/12/27 00:31:14
たから二本人かー
日本人をそういう言い方をしてもあながち間違いではない。核心を突いていると云える。
だから、日本という国は並行的に
九州(筑紫)と畿内(大和)
畿内(大阪、京都、奈良)と江戸(東京)
の二元システムが多用されている国なのだ。
ただし、未来もかならずしもそうなる国なのか?というとそうではないが、
今後の未来でも少ないながら、二元国家となる時期はある。
以上のように、九州王朝の実在は高い合理性を有している。
邪馬台国は大和にあった事実はなく、邪馬壱国として真に九州にあったのだ。
>天皇の御名に『仁』が多いのもそのへんからかも知れない。
この糞デンパ野郎が思いつきを垂れ流してるだけだってのがよくわかる一言だな。
それは余だって想像、推理はする。
九州王朝がないとおもうお前様の脳みそでの、理詰めの反論を聴いてやるよ。
できなきゃ、余の論が正。納得はしてもらえない。九州王朝は実在したのだ。
>>338 そんなことしか突けないのか?だいたいに、日本は二本立てなのだ。
九州と畿内、畿内と東京だ。いままでの日本史をよく見てみい。
当時での、大和一元論は誤りだ。
>>338 た〜だ、デンパじゃあ論になるまい。じゃあ、おまえさまの力をつけてやろう。
さらにデンパと言えるようにだ。
「二」の「人」で『仁』だという代わりに天皇の『天』の字は「二」と「人」の合字。
邪馬一国(邪馬一国)のほうは「二」じゃあないんだよ。こっちは『壱』なんだよ。
ぷっ。日本が二本立てになったのは清和天皇からだそうですw
>>341 訂正 (誤)邪馬一国(邪馬一国) (正)邪馬一国(邪馬壱国)
344 :
日本@名無史さん:04/12/31 13:30:50
九州説に勝てないと。締め出しというのをやるんかいな?
345 :
九州王朝 ◆I.THkUKc4Y :05/01/03 15:44:54
>>344 締め出しならまだ良いのだが、
シカトしているのだな。
>345 貴方に対しては、みんなそうだよ。
そうでもないよ
348 :
日本@名無史さん:05/01/03 16:03:38
やっぱり九州王朝の首都は博多だよね。
大和のヤツラに簒奪された。カワイソウ。
歴代の「九州王朝」の首都遺跡と王墓を言ってみろ。
一応言うが、3世紀から7世紀のな。
考古学抜きの脳内九州王朝説ではないでしょうね?
その大和のヤツラとは、九州王朝系の分派が首謀者だから
仕方が無いような気がする。
むしろ白村江の敗戦によって唐の驥尾(きび)政策下、
九州王朝は傀儡政権=筑紫都督府を作らされたほうが哀れ。
おやおや、畿内説にありがちな、古代国家=土建国家信仰ですか?
王墓など塚程度で数百年たてば消滅してるでしょう。
魏志倭人伝では卑弥呼の墓が直径26m程度で最大級のようですね。
土建国家を前提にしてしまうと、概して海洋民族国家はショボイですね。
誰か、暇だったら>349-351の相手してやれや。
こいつも相当暇そうだぞ。
言っとくが、俺は忙しいからな。
嘘だからな>「俺は忙しいからな」
>>351 弥生の須玖岡本や平原は同じような大きさでも地中に残っていたのだが。
実際、一方ではそれを弥生時代の九州王朝の証拠としている。
突っ込まれたら、それは全部消えたとか言うなら、都合が良すぎる論理だな。
まあ要するに、検証できないってことですね。良く分かりました(藁)
また、王墓ならともかく都の跡の遺跡が雲散霧消するなんてありえない。
こいつはホント、考古学や現場を知らないんだろうね(藁)
これじゃ悪いが支持者は増えないよ。
>>354 それは1部の説でしょ。九州王朝説のアキレス腱じゃないな。
>>356 筑前〜筑後〜肥前〜肥後〜筑前でしょう
この地域の発掘は全部終わったの?
終わったらはっきりするから、早くやれよ。
>>357 全部終わらないと分からないぐらい、九州王朝の都は小さいんかな?
今ある資料で少しは目星つけて下さいな。ぜひ。
せめて弥生段階の首都ぐらい分かるよな。
問題は3世紀以降ですけど。
発掘は全部終わるわけも無いけど、かなり調査は進んでますので、調べられてはいかが?
掘ってみて初めてわかるんだな、考古学ってのは。
騎馬民族同様、海洋民族は巨大土木事業なんかに
精を出さないからね。
ところでジンギスカンの墓は見つけたの?
世界最大の国でしょ?
360 :
日本@名無史さん:05/01/03 22:08:17
>>359 海洋民族だって遺跡は残りますよ。少なくともその都や外港はね。東南アジアの諸王朝遺跡はたくさんあります。
ジンギスカンの陵墓については、実は大体地域は絞られてますが、民族感情との兼ね合いがあり、途中で引いているわけです。あと、実際の発掘はほとんどして無いような気が。レーダー地中探査や衛星探査が主体かと。
あと、掘らないと分からないと言うより、掘られている資料がたくさんあるのに、それに痕跡が無いということはありえないでしょ。
しかし、九州王朝説は、古田氏しかり、都合良く考古資料使ってますけどね。
それも否定するのかしら?
要するに考古学は分からないということで。
ぜんぜんですが???
>掘られている資料がたくさんあるのに
法隆寺や平等院など、建築物も九州から移転してしまって
何も残っていないのは当然でしょう。
364 :
日本@名無史さん:05/01/03 22:22:13
>>361 >>349さんは、「出せるもんなら出してみい」という挑発と思います。
しかし、帰って来る答えは、
>>351,357,359という無知丸出しの逃げ口上のみ。
考古学から九州王朝を主張できる香具師はおらんのかい。
>>363 仮に移築しても、地下には遺構は残るんですよ。
ちょっと待て、平等院っていつだ?おいおい。
掘っていないのに、出土遺跡を予言できる人を募集してはどうだ?
永承7年(1052) 関白藤原道長の別業をその子頼通が仏寺に改め平等院と名付けました。
天喜元年(1053) 鳳凰堂が落成し、堂内には丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。
368 :
日本@名無史さん:05/01/03 22:41:06
万が一、仮に九州王朝があったとしても、平等院は九州王朝派も認めるその滅亡の遥か後ですね。
このスレの九州王朝派は、考古学はもちろん、基本的な歴史事実も知らんようですね。
こりゃあかんわ。
平等院っていつだ?っていうじゃな〜い。
でも、東福寺も、三十三間堂も、桂離宮も九州王朝ですから〜。残念!
370 :
日本@名無史さん:05/01/03 22:51:23
>>349氏の言い草は「ここ掘れ One One」をすぐにやって見せろと言っている感じ。
都、王墓の名が判明しないから存在してないとは言えない。その語は決定打となりえない。
>>368氏の 万が One という言い草は狭小のしすぎ。九州王朝は猫の額ではない。
>>370 そうじゃなくて、都も王墓も証明できない王朝はどうしようもないってとでしょ。
ここ掘れわんわん、じゃなくて、今ある資料でも何か手がかりは無いのか、って聞いてると思うけど。
古田氏の「ここに古代王朝ありき」って本あるだろ。
まあ、考古資料の使い方は恣意的で、無茶苦茶なんだが、一応、考古資料で何とか証明しようという姿勢は認められる。
ここのスレッドの九州王朝派は初期の古田氏のツメの垢でも煎じて飲めって言うの。
373 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:03:10
>>372 それは大和王朝説におおいなる矛盾があるからなんだよ。
だいたい いとまつろ から暴走しないと畿内へ到達できない。(w
考古がなくたって論は崩れない。
滅亡した王朝は、どこがどこだかわかりにくいね。
中国の「中山王国」なんて急に見つかったしね。
>>371 まあ、ネタなんだが、実は九州王朝派の中には
マジでそう信じてる香具師がいるのは、知る人ぞ知る事実。
検索かけてみ。
>>373 あーあっ、考古学と決別しちゃったよ(w
まあさらトンデモ化したということで(劇藁)
で、考古学で邪馬台国って出てきたの?
聞いたことないんだが。
魏志倭人伝の記述と、マキムクなんかぜんぜん一致しないし
畿内にはなさそうだな。
380 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:12:18
じゃあ、どこなら一致するの?
具体的な遺跡名で答えてYO!
381 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:13:49
ぷぷ!そのうち北海道まで暴走か?えらい長距離だな。
畿内説なんて考古なんとかいう大駒なんかは不要なわけさ。
6枚落ちで充分なんだよ。大駒決別で軽く大矛盾を突ける。
畿内なんかにあるわけがない、別個に二つの王朝が存在したのだ。
382 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:16:59
九州王朝説には
歩三兵
で勝てるわ(W
ってか、北海道まで勝手に独りで暴走してるし、、、、
突っ込まれて、頭が暴走したみたいね。
考古学について全く分からんです、と素直に認めなさいって。
>>380 何をもって国の都の遺跡とするのか、定義してください。
歴代の倭人の中心国、委奴国・邪馬壱国・邪馬台国・イ妥国は
突然滅んじゃったマキムクじゃないだろう。
385 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:22:02
定義と言うより、とりあえず、考古学的に検証できるものとして、
中心的な大規模な集落で、王宮や対外交渉の証拠が多くあるところ。
また祭祀施設の中心もあること。
これで中国諸王朝や、韓国や東南アジアの都も当てはまると思うが。
386 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:23:31
はは、ぷぷの3乗だ。お前様の飛車はサハリン行きか?
卑弥呼は神功皇后じゃあないんだよ。それがわかれば畿内じゃなく九州にだ
邪馬壱国があったんだ。古田先生の論はほぼ正論なのさ。
大和(やまと)を邪馬台の読みと同一化したのが大間違いなんだよ。
愛知と愛媛はべつの県のようにな。別の国なのさ。
387 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:24:55
>>384 だから、それぞれの都はどこなのか、ぜひ、教えて下さい。
自信がおありそうなので。ぜひ九州王朝の歴代の都を開陳して下さい。
388 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:26:14
389 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:29:23
>>386 出た!相手も言っても無いことで勝手に暴走して反論しているつもりになっている香具師。
サハリンまで勝手に暴走するなって(w
まあ、こう書くと、次はアリューシャンまで連れて行かれるな、コリャ(激藁)
390 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:31:49
>>388 何を言っているんだ。これには大金がかかるんだ。個人には無理な要求。
要求と、開陳などと言ってるのなら、畿内説の連中は手負いの獅子なんだよ。
>>385 嘘つくなよ、どうして断言できるんだ?
「大規模な集落」って中心国はそんなに人口密集地じゃないだろう>倭人伝
「対外交渉」って、半島まで行ってる国だぞ、外地でやるだろ。
「王宮」って女王の住まいは大建築じゃないだろう。
都の遺跡の定義・・・
>中心的な大規模な集落で、や対外交渉の証拠が多くあるところ。
>また祭祀施設の中心もあること。
>>388 いや、調査はそれなりに蓄積していますから。
その中に、歴代の都の一部は引っ掛かってんじゃないの、って聞いてるのだが。
それは自分で調べてね。九州王朝を証明したいんならさ。
393 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:40:13
6枚落ちのほうにアリューシャンまで連れて行かれるとさ。
飛角を落としてどうやって飛ぶのかい?(w
あんたのほうは九州から大和へ古代の夢の超特急ではないか。その役は畿内さん
が大得意ではないか。(W これが大矛盾の一つなんだよ。早く目をさましな。
ジンギスカンの墓なんて、政治も何も、
森林や都市があるわけじゃないんだから
場所ぐらいわかるはずだろ?
九州王朝の遺跡だろう土地には
森林も都市もあるんだよ。
土建屋につぶされちゃったのもきっとある。
>>391 一般的な都市の特徴を言ったまで。
でも「倭王に拝仮し」てるし、魏からの下賜品もいっぱいあるし、、、
「七万戸」って、実数はともかく人口は多いと見られていると思うが。
韓伝での各国の人口よりかなり多いが。
「王宮」については、「宮室」の記述があるし、「楼観」(タカドノ)の記述もあるが。
「城柵」の記述もあるので、環濠集落か、古墳時代の方形環濠の首長居館だったろうよ。
さらに、そうした国の中心の周りに「国々に邸閣(公共の食糧倉庫)あり、」「国々に市あり」なわけ。
いろんな施設があり、市で国の都はにぎわっていたんじゃないの?
倭人伝ホントに読んでるの?
ついでに言うと、1世紀から7世紀まで九州王朝が継続したなら、それなりの複合遺跡が残っているはずですがね。
途中で移動したとか想像するなら、その根拠も述べてよ。
九州王朝派は意味不明の罵詈雑言ばかりで、具体的な反論や根拠が出て来ないな。
勝負あったか。
>>394 まあ、九州王朝派が都があったと目している、博多近辺の福岡県内の自治体は、埋蔵文化財行政が関西と同じくらい整備されているはずだが。
遺跡の調査密度はかなりと思うのだが。もちろん、行政が整う前の造成で潰された遺跡もあるだろうけどね。
しかし、都市の合間の小さな工事でも今はチエックしているらしいね。
うちの町からみたら羨ましい。
まあ、そういうことは全く分ってないでしょうけど。
397 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:55:46
>>396 次に九州王朝説が、どういう逃げ口上か、詭弁か、悪口かを言うのかが楽しみですわ(w
398 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:56:42
九州説のみなさん。畿内説さんは手負いのライオン。
急所を突くと噛み付いてきている。夜も更けてきた。
双方、明日以降心を静寂に戻して、落ち着いて再議論だな。
399 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:00:06
>>398 ほら、早速の逃げ口上だよ。
手負いはどっちか、というこった。
質問には一切答えず、反論にも一切答えてないで寝て下さい(藁)
>>395 え?邪馬壹國の人口は7万戸だけど、女王の都するところは
この中の女王国でしょ。女王国は何戸だかわからない。
今探してみても、巨大古墳みたいな航空写真ではっきり
わかるような遺跡じゃないと思うよ。
基本的に海を挟んで活躍した海洋国だから、海に近いと
思うけどね。現在わかってる遺跡のなかから九州王朝の
都の場所を選べっていわれてもそりゃ無理な話。
401 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:01:49
しかも
急所を突かれて悪口のみときてるわ。
いい夢でも見てね。おやすみなさい、、、
402 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:03:24
「マキムクの急な滅亡」を指摘したらこのざまだ!
>401
きっと、悔しくて悔しくて、寝つけないに違いない(w
404 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:16:38
>>402-403 それはあなたね。
>>400 >え?邪馬壹國の人口は7万戸だけど、女王の都するところは
>この中の女王国でしょ。女王国は何戸だかわからない。
あの、ほんと、倭人伝よく嫁って。
「南、邪馬壹國に至る、女王の都する所」何だが、、、
「親魏倭王卑弥呼」なので、「倭国王=女王」だから、むしろ「女王国」は「倭国」の別称。
反論にも何にもなってないんだが。
海に近い所でも遺跡の調査してますけどね。日本では地下に埋もれているのが基本なので(石造建造物がほとんど無い集落、都市のため)、
勝手に航空写真云々って言われてもね。
まあ、自分が都があったと思ってる遺跡の実態も何も要するに知らないってことですね。
>>404 そういうお前は、吉野ヶ里遺跡を何年前から知っていたのかと小一時間(ry
406 :
404:05/01/04 00:19:19
まあ、自分が都があったと思ってる遺跡の実態も何も要するに知らないってことですね。
→
まあ、自分が都があったと思ってる[地域の]遺跡の実態も何も要するに知らないってことですね。
407 :
404:05/01/04 00:20:48
吉野ケ里が大ニュースになる(1989年)前から注目していましたが、何か。
>>407 はあ?工業団地計画のときに知ってたのかときいてるんだが?
えーと・・・・ここは九州王朝スレなんですが、熱くなってる皆様方。
邪馬台国を論ずるスレは、た〜くさん乱立してますから、そちらで。
ここは、5世紀〜7世紀あたりでよろしく。
桂離宮な人は江戸時代まで入れてもいいですが(ワラ
410 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:24:45
だからそういうことですよ。
1989年の大報道の最初までは、まだ工業団地計画前提での記録保存の調査でしたから。
弥生時代やってる人には、口コミや一部の研究会の資料等で凄い遺跡が調査されているということがすでに知られていましたが、何か。
411 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:26:20
>>409 だから、5〜7世紀も含めて、その時期の都も王墓も答えられない九州王朝派に問題があるんですが。
412 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:28:51
じゃあ、その緻密さで、九州全土を見たらどうですか?
他人にきくまでも無く、九州王朝の都をきっと発見できるでしょう。
413 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:29:39
414 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:33:23
大宰府の都市遺構自体は7世紀後半からだが、、、
まあ、一部のかけ離れた年代のC14で古いとかぬかすんだろうけど、それは一部のイレギュラー資料。
土器編年上(信用しないとか抜かすかな)、また他の遺構との関係、文献記載からも、時代は確定してる。
415 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:34:41
>>412 そうよ、緻密に見ると、やっぱり九州王朝の都なんて無さそうなんだが、、、、
416 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:35:39
大宰府近辺≠大宰府≠太宰府市
417 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:37:32
残念だが、九州のほとんどが、どんな遺跡が眠っているのかわからんの。
九州に遺跡が無いような妄想はやめたほうがいい。
418 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:38:06
419 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:39:44
>>418 具体的に言うと、発掘待ちとしか言えないな。
420 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:42:32
>>417 それ自体が嘘。
九州の各自治体は埋文に比較的理解があるので調査が進んでいる。
ひょっとして畿内よりも協力的かもしれない。
なので正解は
九州におけるほとんどの遺跡は存在が確認されている。
あとは詳しい調査が随時行われるまでの報告待ち。
421 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:42:40
だから、どのあたりに注目するよ?
まあ、太宰府市じゃないなら、筑紫野市?大野城市?春日市?
どこも、結構すでに広く調査してるからさ、発掘待ちとか言うなって。
どっかで都の一部が引っ掛かってるんじゃないの?
前原の曽根近辺とか言っておけば、後は何とでも言いつくろえるものを・・・
>>417 あなたはどっちよ?
それと、
>>415は、遺跡が無いと言ってるんじゃ無くて、遺跡のこと詳しいヤシが、都の遺跡など無いと発言してると思うが。
発掘は、土建工事があって発見されることが多いんだよ。
埋蔵文化に対する理解度だけでは、遺跡は出てこない。
デタラメ言ってごまかしてもダメだね。
425 :
日本@名無史さん:05/01/04 02:16:28
だから、土建工事前の行政指導で、調査をしなきゃいかんことがあり、そうした調査が福岡ではかなり行なわれているよ。
っていうか、ここに突っ込み入れてる人は埋文行政の関係者が多いっぽいので、そんなの百も承知でしょうよ。
だからデタラメというのは当たらないでしょうね。
まあ、密に遺跡の調査成果があれば(試堀調査も含む)、全部掘ってなくてもある程度遺跡の内容は推測できるわけだが。
426 :
日本@名無史さん:05/01/04 02:30:28
掘ったのは九州のほんの一部でしょう。
日本列島改造論のころは、土建屋の遺跡潰しも多かったはず。
427 :
日本@名無史さん:05/01/04 03:09:08
そりゃそうだ
だって遺跡なんか出た日には工事はとまるは給料は貰えないは保証なんかナイに等しいし・・・
428 :
日本@名無史さん:05/01/04 06:20:56
捏造だったりして
>九州におけるほとんどの遺跡は存在が確認されている。
>あとは詳しい調査が随時行われるまでの報告待ち。
こういうこと、平気で書く神経が分からん。
相当常識がないとしか考えられん。
東九州道の建設でぼろぼろ新たな遺跡が発掘されているらしいのに。
福岡ならまだしも、九州の全面積の99パーセントは掘り返されたことの
ない土地だろう。
畿内説の間違いは 卑弥呼=神功皇后 とやる二役。
だが、まだこれはよい。これは生存時節がある程度符合している。成立の余地が残存はする。
よくないのは 卑弥呼=天照大御神 とすること。
これは時代が大きくズレているから成立はありえない。
卑弥呼が神功皇后ならば邪馬○国は女王国でなく、タラシナカツという男王が統治
している男王国だ、のように魏志倭人伝に記述されるはずだ。
それがないということは、女王国は大和にはなく九州に存在していたことを意味する。
似たようでもいいから、タラシナカツの名が伝に載ってないのは決定的だ。
ワカタラシでもいいんだがね。
卑弥呼と神功皇后が同時代とするのは、天皇の在位や寿命を
記述どおりに捉えた場合でしょ。
だが、実際にはそんなことはあり得ない。
とすると神功皇后は、卑弥呼よりもずっと後の可能性が高い
でしょう。
432 :
日本@名無史さん:05/01/04 13:23:27
「ずっと」じゃあどのくらいか分からん?比較するなら×××ねん位古いとかいう言い方
にしてくれ。10年でずっとと言えるし近接しているとも言える。
こういう言い方のときは、数字をもう一息言わんと揺れ動き、近い遠いどちらも正になる。
九州王朝の首都がイワレヒコの橿原と同じくらいの規模だとすると、
宇佐大社程度の大きさでよいのではないか?
434 :
九州王朝 ◆I.THkUKc4Y :05/01/05 05:12:47
神武は4世紀末から5世紀初頭の人物。
神功皇后は5世紀末の人物となるから、
3世紀の卑弥呼と5世紀末の神功皇后が同一人物説はナンセンス。
大和政権の人物と倭の人物の比定はやめよう。
>>434 なるほど。
もう二人、歴史上の大物の時代比定が欲しいです。
それは天照大神と邇邇芸命。まあ、同時代人ですね。
要は天孫降臨はいつごろかということが問題なのです。
委奴国が金印受理した57年より前か後か・・・
ちょっと卑弥呼まで、開きすぎでしょうか?
>>434 そうだろう。しかし、どのように時代を決めたんだ?
437 :
日本@名無史さん:05/01/06 03:28:05
しかし、天照と卑弥呼の一致する可能性は高くなる。
438 :
???? ◆VgMkRE6jec :05/01/06 07:39:56
『官位』板を誰かが煽っていますが無視して下さい。もし迷惑をかけていましたら、すいませんでした。
官位板使者
439 :
日本@名無史さん:05/01/06 21:49:51
>>437 天照の孫が瓊々杵尊
瓊々杵尊のはるかな子孫が卑弥呼
どうして一致するのかと小一時間(ry
440 :
日本@名無史さん:05/01/06 22:25:49
瓊々杵尊のはるかな子孫が卑弥呼
どうしてこう考えるのかと小一時間(ry
441 :
日本@名無史さん:05/01/06 23:35:52
>>440 それ以外考えられるのかと小一時間(ry
442 :
日本@名無史さん:05/01/06 23:40:22
天照も瓊々杵尊も何を根拠に古いと考えるのかと小一時間(ry
443 :
日本@名無史さん:05/01/06 23:42:38
聖徳太子より古いだろ。
白村江の敗戦より古いだろ。
444 :
日本@名無史さん:05/01/07 01:18:33
天照も卑弥呼も、聖徳太子や白村江の戦いよりも古いがと
小一時間(ry
445 :
日本@名無史さん:05/01/07 01:44:14
九州を舞台にして記紀に書かれている最古に時代は瓊々杵尊らの時代。
神武は瓊々杵尊を曽祖父とする曾孫。
卑弥呼の時代の景色は明らかに瓊々杵尊以降。
446 :
日本@名無史さん:05/01/07 01:50:17
>卑弥呼の時代の景色は明らかに瓊々杵尊以降。
その根拠は?
447 :
日本@名無史さん:05/01/07 01:58:56
448 :
日本@名無史さん:05/01/07 02:07:59
それだけ?
天照は神話形式であり、魏使の記述と比較しようがないが。
もっと何か根拠があるのかと思ったが、がっかり。
記紀の天孫降臨に見られる景色
(衣食住その他生活文化全般)は
考古学的には何時くらいのもとと考えられるの?
450 :
日本@名無史さん:05/01/07 02:15:07
う〜ん448みたいな魏志読んでない人は相手にしない。
451 :
日本@名無史さん:05/01/07 02:23:35
答えられないんだろう。
452 :
九州王朝 ◆I.THkUKc4Y :05/01/07 02:34:12
>>435 天照大神が降臨したのは対馬。
博多湾岸が中心地になる以前、(金印受理以前)
糸島が中心であった時代以前、
壱岐が中心であった時代以前、
対馬出土の銅矛の時代以前です。
対馬が中心であった時代。
紀元前2〜3世紀頃になりますね。
>>436 神武達が何故故郷糸島を脱出し、九州沿岸を転々として、中国路を転々と東へ、
河内湾へ突入をしなければならなかったのか。
政治的背景を考えれば、その時期は西暦400年頃になる。
453 :
日本@名無史さん:05/01/07 02:37:30
前半は決めつけであり、全然根拠になっていない。
えっと、たとえば
>天照大神が降臨したのは対馬。
てのの根拠は?
どっかの怪しげな社伝承じゃねえの?
455 :
435:05/01/07 10:57:30
>>452 サンクスです。
天孫降臨時代はBC2〜3Cと考えてよいということですね。
少々付け加えますと、
天照大神でなくて、天照大神の孫=天孫=ににぎのみことが筑紫に
「天孫降臨」したわけです。逆にいうと、天照大神は「降臨」という行為
をしていませんね。対馬で生まれ育ったから、降臨しようがなかった
のではないでしょうか。
神武がAD4C〜5Cということですと、BC2〜3Cのににぎとは600年ほど
時代が離れますが、伝承では神武の曽祖父がににぎということに
なっています。
曽祖父が600年前のはずがありませんから、これは嘘だと考えて
よろしいですね。つまり神武以前の伝承は、はなはだ心もとなく
伝承されている系譜がいい加減なものだったと。
456 :
九州王朝 ◆I.THkUKc4Y :05/01/07 12:10:37
>>455 天照大神は対馬から出ていないから降臨ではないですね。
天照大神一族が対馬に漂着したのがBC2〜3世紀とみられます。
ににぎ一族(対馬半島南岸をも含む対馬を故地とする勢力)が、
壱岐(対馬勢力中継中心地)から日向に降臨し、
最初に定着したのは糸島水道両岸地域(神武の出身地)。
その時博多湾地域まで敗退し後退したのは、猿田ひこ先住勢力。
神武の曽祖父はににぎで良いと思います。
神武は対馬系勢力のににぎに代表される権力から3権力交代後の勢力に属していたとみればよい。
時間軸は引き伸ばしがあるのでこだわることはない。
>456
アンタは、いつも根拠を書かない決め付けしかしないね。
いくらネタスレでも、これじゃ、存在自体が目障りなんだけど・・・
少しは、まともなことを書くか、ギャグに徹するか、どちらかにして欲しい。
458 :
日本@名無史さん:05/01/07 21:46:32
>>456 ありがとうございます。
>時間軸は引き伸ばしがあるのでこだわることはない。
こだわることはないのは、神話世界の修辞が現実離れしている場合でしょう。
ところが、人間の寿命などは修辞の問題足り得ません。
神武の曽祖父はににぎで、二人は約600歳も年齢が違うという状態を
今日的な何らかの解釈が必要だと思っています。
妙案はありませんか?
459 :
日本@名無史さん:05/01/07 23:32:13
結局、天照と卑弥呼の時代考証は、根拠なくても都合がよければ無視か?
妄想スレと思われても仕方ないぞ。
460 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/07 23:53:46
>>456 この問題は人間の寿命とは関係ありませんよ。
一つの政権が一人の人物で表現されているだけです。
ににぎを始祖とする政権と神武政権の間に、
2つの政権があったと表現しているのです。
勿論前政権は糸島で父親のいた政権を我田引水で父親としています。
その政権は肥後熊本の菊池族に滅ぼされ引き継がれたのですが。
神武は暦学的にBC660年に、ににぎはその600年前のBC1260年に、
政権を始めたことにしなければならなかったのです。
461 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/08 00:07:24
462 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/08 00:16:43
463 :
日本@名無史さん:05/01/08 00:19:09
>>460 なるほど、そういうことですか。
確かに芸能の世界などでは「襲名」という習慣がありますね。
用語の限られた古代では、「政権」を現す語が存在しないので
何とか苦労して表現したのでしょう。
なお、話は逸れますが、神武のいた糸島には、糸島水道がありますね。
現代の研究では「糸島水道の水路はついぞ貫通した時代がなかった」そうです。
あくまでくびれた半島に過ぎませんでした。この深い入り江が
神武の根拠地ではなかったか、と思うのですがいかが?
464 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/08 00:20:56
>>457 根拠をだらだら書くにはこの場になじまないので。ゴメン。
465 :
日本@名無史さん:05/01/08 00:29:08
やっぱりさあ、博多から金印が出土したっていうのが大きいよね。
金印はさあ、蛮族の酋長程度じゃあもらえなかったんだよね。単一
集落の酋長がもらえるのはよくて銀印どまり。金印は、その地方の
蛮族民全てを束ねる王(大酋長)にしか与えられないんだよ。その
金印が博多から出土したってことは、卑弥呼の時代の200年前に
はそこが倭民族を束ねる王(大酋長)の首都だったってことだよ。
そして、その200年の間に、考古学出土物量的に、貿易立地的に
何か激変でもあったかというとそんなことはないのであって、依然
として首都でありつづけたと考えるほかはない。邪馬台国(邪馬壱
国の首都は博多で、王宮は須玖岡本遺跡のあるところにあったのさ。
466 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/09 00:07:02
>>463 糸島水道は、海水面の下がったBC25世紀前後には閉じたのですね。
この3000年は閉じていたのですね。
最近の調査を知りませんでした。
河内湾は大和川と淀川の2本の川によって埋め立てられてしまいましたが。
467 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/09 00:11:57
>>463 2つ目のレス忘れていました。
僕もそう思います。
深い入り江でないと、鯨の追い込み漁もできませんからね。
468 :
日本@名無史さん:05/01/09 02:19:34
>>467 ありがとうございます。なるほど、やはりそうですか。
神武は壱岐の一大率の出身ではないか、という説を聞いたことがあります。
倭国の海軍のトップということです。私としてはその説に確信が持てません。
あくまで本土側の人間だったと思うのです。
九州王朝大好きさんは、倭国が祭祀的政権から、軍事的政権に交代をして、
有明湾側へ遷都したとき、神武はそのまま登用されず、糸島にいたままで
更迭されたとお考えだったように記憶しています。
神武の出身地問題とあわせて、倭国での地位についてどうお考えでしょうか?
469 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/09 22:32:24
>>468 神武は糸島の首長の主な分流の出身とみられます。
神武幼少の頃、菊池族の権力の拡大が続き、
糸島地方も菊池の支配下に入りました。
彼らは亡命先を求めて、まだ菊池の勢力が及ばない北九州沿岸部を放浪し、
故郷糸島の入江のある地形に似た低湿地を転々と求めましたが、
九州を離れ、広島河口、児島湾と東へ新天地を求めて移動したものです。
一族の亡命ですから、彼らは数十艘規模の小船の集団だったと思われます。
この頃の菊池族の指導者の行動を示したものは、
景行記の九州統一話に見られる前君です。
前君が遠征征服した地は、東北九州、山口、東九州、中南部九州で、
熊本に帰り歓迎を受け最終帰着地は浮橋(政治の中心地が博多湾岸から筑紫平野東部に移動)になっています。
このことは、前君の遠征が神武の九州脱出後、若しくは脱出直後だったようです。
いや、前君の九州統一遠征が始まったので、神武たちはうろうろ放浪していた北九州を急遽脱出して、
山口県を飛び越えて、広島まで高飛びしたのかもしれません。
前君は、「君」と付くように、九州王朝政治体制では、君主ではありません。
九州政治体制は2元政治で、夜を司る兄王と、昼を治める弟王でなりたっています。
兄王は祭祀を担当し、弟王は実務政治を担当します。
前君はその弟王のトップになったわけです。
糸島には実務権力の多くを失った○○君と呼ばれる神武達の首長が残っていたでしょう。
追記:卑弥呼は兄王にあたる女王で(→後に「天皇」と呼ばれたか)、
アマノタリシホコは「法皇」と名乗るように、実務政治担当するを弟王です。
470 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/10 02:55:06
>>463 >現代の研究では「糸島水道の水路はついぞ貫通した時代がなかった」そうです。
この現代の研究には疑問を持ちます。
神武の時代には糸島水道の水路は閉じていたでしょうが、
志登支石墓群の北側の最高海抜地点の両側に、泊と元浜の地名が残っているように、
この水路が閉じたのはBC3世紀の小氷期に海面が下がった時だと推定できます。
471 :
468=463:05/01/10 14:31:00
>>470 きっとおっしゃるっとおりだと思います。私が「現代」の研究と申したのは、
内藤湖南:白鳥庫吉時代でなく「昭和末〜平成」程度の「現代」というニュアンスです。
水道崩落埋立説を考慮していない、気象学的な海水面研究だったように記憶しています。
紀元前後の数百年を対象として聞いた記憶があります。
「最近の研究」ではありません。
>>469 聖と俗=祭祀と政治を分けるやり方は、出雲国王を祭祀王にさせた手法のように見えますね。
472 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/13 02:36:57
>>471 一昨年、出雲大社の古式に則った新嘗祭に参加して、
随書に云う倭国の夜は兄王が昼は弟王が司るところの、
兄王の政務を新嘗祭に見た感がありました。
夜の政治は神とおこない。
昼の政治は法によってなされる。
それは、イワイの刑法整備による政治や、
アメノタリシホコが法皇と呼ばれていた事によってもうらずけられます。
又、「天皇」⇔「法皇」は「兄王」⇔「弟王」の関係になり、
「天皇」は九州王朝の言葉からきていると推定されます。
近畿天皇朝廷では、「天皇」⇔「上皇」「摂政・関白」「征夷将軍」等の二元政治に、その伝統が引き継がれてきたのではないでしょうか?
473 :
日本@名無史さん:05/01/13 12:09:02
つまり天皇が自ら政権をとった飛鳥奈良平安はいびつな時代であり・・・と_〆(。。;)メモメモ
>>472 よくわかりました。
聖俗2本立てという伝統は間違いありませんね。
私は菊池族という実態を知りません。
神武のころ台頭してきたとすれば
4世紀末から5世紀初頭ということになりますね。
高句麗好太王の碑によれば
391年ごろ倭が海を渡り、百済などを破り
400年には高句麗が新羅と組んで倭軍を撃退し
404年倭軍が帯方に迫って高句麗と戦い大敗しています。
413年倭は東晋に朝貢し、倭の五王の貢献に続きます。
菊池族は、まさに倭の軍国時代を担った人たちということでしょうか?
475 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/14 20:05:04
>>374 菊池族は菊地、鞠智とも書かれ、卑弥呼と対立していた男王ククチヒコも菊池族と思われます。
彼らは古くから鉄器を扱い、九州式装飾古墳の担い手でもあります。
彼らは半島の鉄利権を持っていたでしょうから、
倭の軍国時代の主要メンバーだったと思われます。
高句麗と戦い敗れた倭のリーダーが菊池族と見ることには疑問があります。
むしろ、倭のリーダーは九州北部の神武のいた部族等で、
彼らの敗戦により、菊池族がリーダーの地位を取ったのではないかと思います。
そこで、菊池族の反菊池旧勢力に対してとった軍事行動が景行記の九州統一話と見ています。
九州統一をした前君の遠征地に、現在の北九州市や大分県が含まれるのに対して、
大隈薩摩が含まれてないからです。
菊池族が倭のリーダーとなったのは404年〜413年頃と思います。
476 :
日本@名無史さん:05/01/16 02:10:28
菊池族は肥後の勢力だということでしたら、古くから揚子江流域と
交流があったのではないでしょうか。皇帝即位時、会稽山の封禅に
参加したりしたこともあったかもしれません。
あの地域は、発酵食品が豊かで、顔つきも列島人から見て
親しみがあります。「会稽東冶の東」という記述は、こういった
歴史的交流を踏まえてのことだったのではないでしょうか。
477 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/16 04:01:43
僕も同様に思っています。
九州北部海岸海峡勢力(卑弥呼、倭奴国等)は中国黄河流域勢力と断続的に海峡半島ルートで接触を持ち、
九州有明湾沿岸勢力は中国揚子江流域勢力と継続的に九州西海岸からの直接横断ルートで交流していたと見ます。
隋使の倭訪問では火山(有珠山)を見ながら倭に到着していますし、
大和天皇朝廷の遣唐使も、九州西岸からの出発ルートが出来なくなると、海峡半島ルートを取らないで、
北部九州沿岸部の九州王朝残党を避け、九州南廻りで九州西岸より出発しています。
日本と中国の交流のメインルートは常に九州西岸−揚子江流域海岸であり続けたと思います。
478 :
日本@名無史さん:05/01/16 13:15:39
479 :
日本@名無史さん:05/01/19 01:21:13
480 :
日本@名無史さん:05/01/19 01:24:21
考古のスレでも説明したが、畿内説が成立するならば、女王国は伊賀甲賀の忍び砦
よりももっと人的交流の無い、前人未踏の地が畿内のどこかに存在せねばならぬ事を、
肯定すべきを余儀なくされる。その理由はもう幾度も言ったが、記紀の作者に感知出来ない
地域に邪馬台国とやらがあったということとしか、記紀に女王国の説明がほぼ皆無になって
いる疑問を、他で合理的に矛盾なく説明できる納得すべき解釈、理由が見当たらない。
ということは、畿内の高山深奥に、ある外界と隔絶した某地があって、そこに未見の
人的UMAの卑弥呼が多人数と女王国を構成して生活しているということになって来る。
そうでなければ、平地のお国では女王国の実態、人口風俗習慣が中国という外国の
魏志倭人伝よりもより以上に克明、詳細が我が国の記紀に具体的に記述されて来るる筈だ。
現実離れしているこれらの内容の意味することは、結局女王国が畿内にあるはずは
なく、(邪馬壹国として)女王国が九州にあったことを積極的にうなずけさせる。
日本史板で、畿内説者が九州説隔離スレッドに九州説者を囲うやり方を大々的に
行っているが、畿内説論者は卑弥呼女王を畿内の外界隔絶地に閉じ込めてしまう
張本人らであることを考えざるを得ない。彼らのスレは(全部とは言わないが)
女王隔絶者スレッドであると、余は言いたい。
記紀の関係者は邪馬台国について良く知っていた
だが邪馬台国について書かなかった
そして畿内の人々は誰一人として、何世紀にも渡って邪馬台国の存在を口にすることはなかった
唐に対しては、「畿内王権は邪馬台国を継承した王権でございます」と主張し続けた。
しかし唐書のとおり、唐側はそれを鵜呑みにしなかった。
記紀に女王国卑弥呼の記述がないのは、記紀の作者が遠隔にある九州の情報を
入手困難のために記述できなかったものであり、中国側に属国扱いされるから
畿内にある女王国の記述を隠匿したなどというのは、畿内説弁護的言い訳であり、
日本側が嫌で避けたければ、記紀に中国の当時の各国を滅茶苦茶に言葉、文章で
こき下ろせばいいことである。黙って隠すことはなかろう。
邪馬壹国は畿内から遠隔の九州にあったからこそ、殆ど情報が書けなかったのだ。
>484
違うな、事実はその逆さ。
白村江の戦勝国唐に対して、敗戦国に出来た新政権である天武朝は、
戦争責任回避のため、それ以前の倭国とは、別の国家ですよ、と言い張ったのさ。
その説明を訝しがられ、正史に「疑う」などと書かれてしまったわけだよ。
それじゃ、天孫降臨や神武の出身をネタに、中国側からとがめられるだろ。
中国人が記紀を読むからね。
>489
いや、「天孫降臨や神武の出身をネタ」が、何で咎められるのかと。
敗戦国に出来た新政権でなく、敗戦国の生き残り再興国であると正史に記載しているから。
>491
長安三年の遣使の時だったら、日本書紀は関係無かんべーや。
畿内説論者は、女王国卑弥呼の記述を記紀が隠匿したから書いてないのだ云々の
解釈をして、記紀の作者が畿内の真近に隣接して存在したことになる畿内2政権
の同時存在を積極的にはあまり論じないものの、結果的にはそうなるべきことを
これに関し、消極的に肯定しているようになるが、まるでNASAがロズウェル事件の
UFOと宇宙人を隠匿しているような記紀作者への弁明を余に対しての説明としている。
まあ遅かれ早かれ、大和説は言いにくいが、戦艦大和の沈没の如く崩れるだろう。
↑
誰か日本語に翻訳してくれ
496 :
日本@名無史さん:05/01/27 00:38:16
詐欺師古田ってどうやって生活してんの?
497 :
日本@名無史さん:05/01/27 01:24:54
詐欺師原田よりマシな研究で食ってる
498 :
日本@名無史さん:05/01/27 03:31:10
499 :
日本@名無史さん:05/01/27 11:37:44
>>497 東日流外三郡史偽書事件で当初昭和薬科大学教授(当時)古田武彦に
師事して東日流外三郡史真書説を支持していた。
後に季刊邪馬台国の編集責任者産能大学教授(当時)安本美典の影響を受け、
偽書説側に転向。当然の結果として薬科大学助手の職も辞することになる。
その後古今東西の偽書に関する著述活動を行なっているが、
資料の要約の域を出ず、彼の著述物からは誰かの説を代弁する以上の内容は
期待できない。自らに深い考えがなく、常に有望な学説を追いかけているだけにも見える。
これは専門的な深い知識がない素人集団であると学会のメンバー全般に
見られる傾向でもある。
http://yamayangi.s27.xrea.com/pukiwiki/%B8%B6%C5%C4%BC%C2.html
500 :
日本@名無史さん:05/01/28 00:02:48
金で買える学位もワロタ
古史古伝は偽書だとすれば、邪馬臺国とやらいう国があったとして、
『邪馬壹国』と、核心部分を偽字で記述された魏志倭人伝は偽書だということになる。
すなわち、畿内説派は「魏志倭人伝を偽書だ。」と言うこととその主張
が同義的になって来る。
畿内説派は結局魏志倭人伝偽書派なのだ。作者が『壹』字を間違えたとせず、
故意だと古史古伝偽書説提唱者は主張せねばおかしい。得意の徹底的に疑うをせよ。
ところが、そんなことは無いのである。女王国とは九州にあったのだよ。
例の青森の古史古伝が偽書と騒がれているが、これを偽書とみなした畿内説論者は
核心なる、『邪馬臺国』を『邪馬壹国』と偽字した魏志倭人伝を、偽書と断を下さね
ばおかしいこととなる。実際そう観ているのか?
503 :
日本@名無史さん:05/01/28 00:48:04
偽書と降した瞬間
全ての論争に終止符が打たれる。
卑弥呼の国など消えてなくなるから
なるほど。
505 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/29 11:48:36
魏志倭人伝を偽書となれば、
中国史書、古文献は全部偽書となりかねない。
506 :
日本@名無史さん:05/01/29 12:24:20
東日流外三郡史偽書事件で当初昭和薬科大学教授(当時)古田武彦に師事して
東日流外三郡史真書説を支持していた。
後に季刊邪馬台国の編集責任者産能大学教授(当時)安本美典の影響を受け、
偽書説側に転向。当然の結果として薬科大学助手の職も辞することになる。
その後古今東西の偽書に関する著述活動を行なっているが、
資料の要約の域を出ず、彼の著述物からは誰かの説を代弁する以上の内容は期待できない。自らに深い考えがなく、常に有望な学説を追いかけているだけにも見える。これは専門的な深い知識がない素人集団であると学会のメンバー全般に見られる傾向でもある。
http://yamayangi.s27.xrea.com/pukiwiki/%B8%B6%C5%C4%BC%C2.html
507 :
日本@名無史さん:05/01/29 12:24:28
中国の国史に疑い持った所でどうしようもないでしょう。
細かいチェックなどは専門家に任せておけば良いことで、一般素人は余程の誤り以外は普通に読めばよろしいかと思うが
いかがかな?
『紀記』にしたって同じような姿勢で良いと思う。
508 :
日本@名無史さん:05/01/29 12:33:45
>507
資料批判を知らないアホ発見
509 :
日本@名無史さん:05/01/29 12:46:04
電波作家のリストです。みなさんも電波作家を見つけたら教えて下さいね。
【買ってはいけないアマチュア著述家等一覧】
武光誠(騎馬民族説)
安本美典(邪馬台国九州説、関川編年と柳田編年を組み合わせ驚異の土器編年を編み出す)
井沢元彦(邪馬台国九州説、卑弥呼殺人事件w)
古田武彦(九州王朝を妄想、詐欺師和田に荷担)
小林恵子その他在日工作員(将軍様の夢でオナニー)
藤本由香(万葉集は韓国語で読める)
金達寿(古代日本人は全員在日)
関祐二(旧事本記でオナニー)
藤原明(旧事本記偽書説でオナニー)
黒岩重吾(邪馬台国九州説の妄想作家)
大和岩雄(同上)
大山誠一(聖徳太子はいなかった(驚)
梅原猛(法隆寺五重塔は、飛鳥寺の移築だった)
全員、マキムク信者よりマシだな
511 :
日本@名無史さん:05/01/29 12:58:39
>>508 あんたが中国の国史全部編纂したのか?
そうでないなら
黙ってろ
512 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 11:37:12
>>511 「資料批判」の言葉の意味を理解して下さいね。
513 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 11:46:28
下記は一度は読んで批判する価値のあるものです。
是非読んでくださいね。
追加初心者向け僕の推薦。
中山千夏(新古事記伝)
>>509 >電波作家のリストです。みなさんも電波作家を見つけたら教えて下さいね。
>【買ってはいけないアマチュア著述家等一覧】
武光誠(騎馬民族説)
安本美典(邪馬台国九州説、関川編年と柳田編年を組み合わせ驚異の土器編年を編み出す)
井沢元彦(邪馬台国九州説、卑弥呼殺人事件w)
古田武彦(九州王朝を妄想、詐欺師和田に荷担)
小林恵子その他在日工作員(将軍様の夢でオナニー)
藤本由香(万葉集は韓国語で読める)
金達寿(古代日本人は全員在日)
関祐二(旧事本記でオナニー)
藤原明(旧事本記偽書説でオナニー)
黒岩重吾(邪馬台国九州説の妄想作家)
大和岩雄(同上)
大山誠一(聖徳太子はいなかった(驚)
梅原猛(法隆寺五重塔は、飛鳥寺の移築だった)
514 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/30 11:55:21
ホウリュウジ ワ イチク サレタ
法隆寺は移築された
大宰府から斑鳩へ
>>509 追加
米田良三(奈良京都の寺社建造物は九州から移築された)
チョットお邪魔いたします。
実は、尋ねたきことがありましてお邪魔した次第で
三世紀当時、前原付近に伊都國王はいたのでしょうか?
516 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/01/31 19:50:03
>>515 伊都國王はいたと思います。
「到伊都國官曰爾支副泄謨觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王國」
伊都國に至る。官を爾支と曰い、副を泄謨觚・柄渠觚と曰う。
千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。
兄弟統治により、
女王は夜を司る兄王で、
世王は昼の実務政治を司る弟王にあたります。
官の爾支は伊都國王のことかもしれません。
517 :
プラム:05/01/31 19:55:55
有難うございます。
前原付近に『伊都國王』は、どうでしょうか?
518 :
しばらく:05/02/01 07:48:42
前原はAD200年頃に女王が没し、大量の鏡が埋納されており、また、
巨大な柱を立て礼拝を行う神聖な場所であったことは事実ですが、
伊都国王、それも、時代が半世紀も下った卑弥呼の時代において、
はありえないと思います。伊都国王としてはすぐそばの三雲遺跡
がその所在地であったとするのが正当でしょう。寺沢氏の王権誕生
が詳しく述べています。寺沢氏が平原女王の葬儀に当たり何らかの
秘儀が行われた可能性があると示唆されており、私は岩戸神話、
東遷神話をこれに結びつけ大きな仮説を展開しています。
519 :
しばらく:05/02/01 11:08:11
古事記は肥前肥後をハヤヒワケ国とするようですが、そうすると伊都国王は
ニギハヤヒ、対置される奴国王はニキを持つものとしてはニニギがある。しかし
古事記では筑前筑後はオシロワケの国。謡曲で八幡の神の自己紹介は
シロハタ、ヤハタの神という。これは豊日別王が筑紫の東西を征したという
意味だろうか。また、ヤハタとは倭面土(山門)のことであろうか。オシホミミ
とは傘下に九州諸国を収める構想であり、英彦山の主がオシホネであることから
それがオオシ穂の国なのか、オオシ火の国なのかを考えると九州が日本を
制覇する意味で両方を引っ掛けて日本統一とし、瑞穂の国の語源となったのだと
なり、東遷の決議が出たとすれば、鉄鏡が出土した日田が高天原ではなかろうか。
前原の思想は内行花文鏡(ヤタの鏡、八紘一宇)とすると、日田に来ては英彦山
、日田と合わせ前方後円墳構想が誕生し、東遷後は天孫を意味する円に方(地祇)
が呑み込まれる方格規矩鏡と一緒になり、卑弥呼の好物として海外調達が
開始されるのであろうか。
520 :
しばらく:05/02/01 11:12:28
九州王国という本は読んだことがないので頓珍漢なことばかり
いっておりますが、粗相があればご無礼の段ご容赦のほどを。
521 :
しばらく:05/02/01 11:55:34
522 :
しばらく:05/02/01 12:03:38
男王神武は所詮露払い、内行花文鏡の制約下に東遷、没後は最後の一兵
薩摩(たけし)耳まで抹殺された。君臨したのはイスケヨリヒメであったのだろう。
六合(狗奴)とはまさに縄文からの古代日本の伝統を保守する勢力であった。
523 :
しばらく:05/02/01 12:33:03
辛国息長大姫、オシホミミ、一大卒、仲哀香椎宮、大宰府、磐井、
天草四郎、島津、西郷隆盛こうした出来事人物と、九州西部の
支石墓、甕棺などの考古学的事実はこの地方がデフォールト的に
独立国として振舞う傾向があってもおかしくはなく、実際問題に
沖縄が島津により中国の属国と化していた事実を考えると日本の
名においてあることないことを中国に伝えていたとしても不思議では
ない。ただし、こうした所業は野党というか、主流派の考えではない。
網走辺りを選挙基盤とするような感じではなかろうか。
524 :
日本@名無史さん:05/02/01 13:28:08
【東日流外三郡誌】の内容を簡単に説明すると、中世津軽地方の豪族、
安東一族の歴史と伝承を中心にまとめられた史書で、畿内大和の地にあった
「邪馬台国」の王、長髄彦(ナガスネヒコ)が、神武天皇に追われて、
兄の安日彦(アビヒコ)と共に東北地方に逃れ、新王朝を築いたというような
驚くべき伝承が記されている。そして、その王朝は長い間、大和朝廷と対立していたというのだ。
【古事記】【日本書紀】にはまったく出てこない話だが、
勝者である大和朝廷によって、
敗者となった東北王朝の歴史は抹殺されてしまったわけだ。
これら『和田家文書』を、和田喜八郎氏が制作した「偽書」だとする者もいるが、
これだけ膨大な量の偽書を一人の人間が作れるものだろうか?
本物である事を裏付けるような遺跡も発見されているのだ。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/1541/gisyo1.html
525 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/01 15:41:38
>>517 :プラム さん
>前原付近に『伊都國王』は、どうでしょうか?
僕にはよくわかりませんが、
「
>>518:しばらく さん」の書いておられるあたりではと思います。
前原近辺には間違いないと思います。
526 :
プラム:05/02/01 17:16:47
みなさん、御協力感謝します。
でも、そうなのかなー?
畿内説のしばらく氏までも
前原付近で不自然過ぎませんか?
(大和=邪馬臺国)の場合普通、相手に贈物届けるとき
中国側の遣使の場合、大陸離れる直前とか、大和に入る直前に確認しないかナー?
それが普通だよね!
527 :
しばらく:05/02/01 18:18:58
科学の全てをつぎ込み、その結果自国を含めた運命がどう変わってもいい。
それは宇宙の自殺であってもいい。原爆。日本は負けました。負けよかった。
それで勝った国が現在の世を仕切っているんです。英霊の全てに成り代わり
一言言ってやりたい。だが、あれから時も過ぎました。われわれが言えることは
これです。世に阿呆がいるといいます。私でしょうか。
528 :
日本@名無史さん:05/02/01 18:23:02
えっ?しばらくさん、今なんて言ったの?
>英霊の全てに成り代わり一言言ってやりたい。
>だが、あれから時も過ぎました。われわれが言えることは
>これです。世に阿呆がいるといいます。私でしょうか。
529 :
しばらく:05/02/01 19:34:59
出来心でも不良になるなよ---こういうところかな。
ウヨサヨは金儲けになんない。親に面倒かけちゃなんない。
落書するなら、落書消してみな・・・こんなことですかね。
530 :
しばらく:05/02/01 19:39:23
公園の落書はニートを何十人か雇用できる。気の持ちようで
世の中なんでもできる。
531 :
528:05/02/01 19:40:08
しばらくさんは倭の5王の末裔で、世を嘆いているのかと、勘違いしました
>>527
532 :
しばらく:05/02/01 19:42:31
ワッハッハ。すげージョーク。
533 :
日本@名無史さん:05/02/01 20:22:55
あの〜すんません スレ違いかもしれませんが邪馬台国論争
魏志倭人伝の元本はシナの役人陳ナントカの訪日レポートが元らしいんですが
陸行水行なんとかかんとか
ホントに邪馬台国に行ったんでしょうか?
当時の日本はシナから見れば大航海時代のアフリカみたいな感覚じゃないかと?
使者といっても10人あるなしでしょ 多分?
危険を冒しても行くもんでしょうか 浪速までも シナのたかが小役人が
朝貢さえ届けば そんな野蛮国(シナから見れば)の実態なんか
どーでもよかったんでは?
宇美あたりで顔見知りの豪族のヨタ話を聞いて、女にお酌でもさせてゆっくり
「うんうん分かった 皇帝の印璽がもらえるよーに頑張りましょ お土産次第では」
たかが下級役人ですからね ありうる話では?
結論 魏志倭人伝の信頼性論評の資料は何かありますか?
やっぱりないんでしょうね
いやでも応でもそこから始めるしかないのでしょうかねえ
ご存知の方があったら ぜひ
>>533さん
ようこそ邪馬台國の世界へ
貴方は、そうゆう疑惑を持ちながら
もう、神秘の世界に足を踏み入れてしまいました。
どうぞごゆっくり堪能あれ
535 :
日本@名無史さん:05/02/01 20:46:58
536 :
日本@名無史さん:05/02/03 15:54:51
>>533 陳寿自身は来日してない。
魏志以前に書かれた魏略や魏の使節の報告書(おそらく複数)を参考にして
陳寿がまとめたものだろう。
信頼性は、高いとも低いとも言えないってトコかね。
537 :
日本@名無史さん:05/02/04 05:40:59
ものすごい詭弁だなw
意味不明カキコ
539 :
プラム:05/02/06 02:46:24
漢書に登場する『旧奴國』と金印に刻まれている『委奴國』三国志に登場する『奴國』
全て=で、むすべないと思うけどいかがかな?
540 :
日本@名無史さん:05/02/06 11:49:45
『旧奴國』・・・はて?
『漢書』には『旧奴國』もただの『奴國』も登場しないのだが。
もしかしたら、『舊唐書』の『古倭奴国』の文章と『後漢書』の『倭奴國』のイメージが脳内で錯乱したか?
だったら、そんなこと比べても意味無いぞ。
『舊唐書』も『後漢書』も3世紀に成立した『三国志』に遅れること700年後の10世紀に書かれたものだ。
どちらも東夷に関するネタは、『史記』『山海経』『漢書』『三国志』あたりからのコピーだから。
志賀島金印の『漢委奴國王』は、どこの国のことだかは知らん。
夜遅くまで熱心なことだが、あんな頓珍漢なカキコしてくらいなら、早く寝なさい。
中学生は、そろそろ期末試験だろう?
チミは、基礎的な学業がおろそかになってるようだから、学校の勉強もちゃんとした方がよいよ。、
>>540さん
ご忠告感謝
旧奴國=倭奴國です。
そうすると、『紀元57年…』も、でっちあげの可能性があるので、あくまで参考資料に留めておくほうがよいのでしょうか?
今はトンチンカンな自説かもしれないが、有力学説のオッカケ日和見主義よりは先が明るいと思いますが!
自分で物を考えない『脳内化石』にはなりたくありませんので
542 :
日本@名無史さん:05/02/06 16:36:11
何がそうするとで、何がでっち上げなんだ?
マ・ル・デ・イ・ミ・ワ・カ・ラ・ン
>>542 和歌蘭でもいい。
黄身がもう一度生まれ変われば和歌る加茂しれない。
544 :
日本@名無史さん:05/02/06 20:25:41
こうして今日もプラムの脳内妄想は続くのであった、、、、
個人的にプラムさん応援age
546 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/10 17:14:57
>>541 「旧奴國」と「倭奴國」は何に書かれているのですか?
>>546さん
『倭奴國』は、後漢書の
(建武中元二年倭奴國…)
『旧奴國』は、何処にも書いてありません。
個人的に、(魏志東夷伝)記載の『奴國』と(後漢書)記載の『奴國』を混同しないようにしていたもので、うっかり『旧奴國』とカキコしてしまったしだいです。
こんなことカキコすると、また『脳内妄想』と、書かれそうだけど
まだ自分の頭の中では
『建武中元二年倭奴國』と魏志記載の『奴國』が、同一国と整理がつかなくて
朝貢した奴國は、きっと倭の国代表の総称なのでしょうけど
もしかしたら場所も移動しているかも
建国記念日記念
しまった早まった
だれだ?私を差し置いて、建国などというやつは!
552 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/11 13:46:50
日本国建国 バンザイ!
天武天皇 バンザイ!
皆のもの、勘違いをなさるでない、
ワシは建国などしたことは無いのじゃ。
熊本菊地の連中が、ワシの仕える王様の国を
武力で乗っ取りやがって、ワシら久米一族は
食うアテもないので河内に攻め入ったんじゃが
辛くもわずかな土地を得たんじゃ。
えっ?大和朝廷?
聞いたことも無いな、どこにあるんじゃ?
554 :
プラム:05/02/11 14:41:48
>>553 熊本の菊地から食う為に河内に流れたのはいいけれど徒歩ですか?舟ですか?
舟だとしたら河内に着く前に、四国辺りで食い物探したほうが合理的だと思いますが
555 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/11 16:08:14
>>554 福岡糸島から食う為に河内日下に攻め込みました。
そこでも大敗戦、転進、紀州から奈良にもぐり込み僅かな土地を詐欺で得ました。
神武の久米一族は漁労交易戦闘集団、東北部九州沿岸・東部九州沿岸を転々としたが、
東北部九州・山口・東部九州に攻めてきた菊地勢から逃げのび、
広島河口・岡山児島で数年過ごし、鳴門海峡経由で大阪湾に進入。
そして大阪湾の北東の隅にあった河内湾に突入、湾奥生駒山のふもとの日下に攻め込む。
しかし、あえなくリーダーを失う大敗戦。
今度は一転、紀州の山越えでこそこそと奈良盆地南部に侵入。
現地人を騙し撃ちにして虐殺、やっと大和湖南岸の低湿地である小さな土地を得ました。
>>555さん
九州から畿内に進攻や流れ着く説を、訴える人達に共通する事は、皆さん決まって途中の四国を飛ばしてしまうんです。
557 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/11 16:52:41
>>556 神武にさきんじる河内物部の移住は中国ルート避け、四国ルートをとっています。
物部の移住は河内湖南岸大和川河口低湿地への移住でしたが。
神武の時代では四国は既に畿内勢力圏であったとも考えられます。(関西アクセント地域)
又九州勢力の移住先は海岸入江岸湖岸の低湿地であったことから、四国には適地がなかったのも理由と考えられます。
(漁労水稲が出来る適地。四国には吉野川以外に大河・低湿地がなく水稲をする為には灌漑設備が必要。)
558 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/11 17:50:09
そりゃそうでしょ、九州王朝説は文献の独善的解釈しか根拠が無いんだから。
記紀や漢籍を改変しないで読むことから、九州王朝説が生まれたんだけど
知らないみたいね
記紀をそのまま読んだら倭国を代表する王権は畿内王権だけのはずだが。記紀には古墳時代の九州王権なぞ存在しない。
漢籍についても、解釈がわかれうる書き方しかないから、九州王朝しかありえないということにはならない。
重大なのは、考古学的根拠が絶無なこと。特に古墳時代。
記紀と漢籍の間に生じる記載内容の齟齬を使ったお伽話が九州王朝説
だから、金印と阿蘇山を、畿内で探せよ。話はそれからだ。
>564
何が言いたくて、何を聞きたいのか、わかるように説明しろよ。
話は、それからだ。
567 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/20 01:59:05
文献の独善的改変読みは畿内朝廷説だよ。
文献を素直に読めば九州王朝説にならざるを得ないよ。
畿内朝廷説の奇妙奇天烈読み例
国造・・・・・くにのみやつこ
糠・・・・・・あら
>>562 >九州王朝しかありえないということにはならない。
九州王朝もあったのであって、九州王朝が唯一の列島の王権だとだれも主張していない。
>考古学的根拠が絶無なこと。特に古墳時代。
考古学的根拠は沢山ありますが。古墳についても。
ただ畿内朝廷説の時間軸が狂っているので考古学的根拠がないと見える。
科学的裏づけのない土器編年時間軸を捨て去ることが必要。
科学的根拠を無視する思い込み妄想はやめようね。
九州王朝否定説は科学技術を否定することしかできない亡者の説と思うが。
>>567 九州王朝説が独自の編年を出したこと自体がないのによく言えるな。
それに土器編年がどうやって構築されているかも基本的に分ってないな。それに土器編年そのものが暦年代じゃないんだが。そんなの逆に常識。
科学、科学、ていうけど、そっちのいう科学的根拠あげてみろって。
>>564 金印は1世紀、弥生時代。古墳時代は関係ない。
隋書の阿蘇山は単に倭国を代表する火山を紹介してるに過ぎない。
中国の使者にとって活動中の火山が珍しかっただけ。
そもそも竹斯国(筑紫)の東へ水行してるはずだが。倭国の都は畿内だろ。
古田も罪作りだな、こういう妄想クンをはびこらせて。
抽象的な字句を並べるだけで具体的な論証が無いのがこのスレの特徴ですね。
畿内と九州で似た土器があれば同時代と断定
畿内固有の文物記載がなくても、畿内王権の記述と見なす
こういった畿内説の欺瞞を具体的に暴くのが、このスレの一つの特徴です>569
九州王朝説はどのように土器の年代を決めるの?
というか、まさに「科学的」に産地が同定された畿内の須恵器が九州に出るのですがw
こんなんじゃ考古学無知の説はいつまでたっても主流になれんわな。
572 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/20 02:51:33
>>568 >九州王朝説が独自の編年を出したこと自体がないのによく言えるな。
畿内の土器編年に畿内の時間軸を付けて九州に当てはめることが間違い。
間違えるような土器編年をなぜ九州で作らなければならないの?
現在の土器編年自体を否定してるのだよ。
>>572
つまり編年が無い、ということ。
それは歴史学じゃないな。
まあ、土器編年の成り立ちを知らないのに勝手に批判するなって。
テストするが、小林行雄の様式論を簡潔に述べよ。
ついでに小林行雄などの様式論における様式、型式、形式の違いを述べよ。
答えろよ。
こういう基本的なことも知らんなら土器編年に文句言うな。
否定するなら相手をちゃんと理解してからにしろ。
土器編年の有効性は、遺跡における層位や切り合いで保証されているし、実はc14のAMS年代でも土器編年=相対年代関係は追証明されているのだが。
ついでに考古学の編年は土器だけじゃないことをお忘れなく。
574 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/20 03:06:55
隋使の見た活火山はどこの山だろう?
彼らは船から見ているね。
阿蘇山の噴煙は海からは見えない。
では桜島?
6世紀末頃に噴火していたのは有珠山です。
隋使は船で島原半島をぐるっと半周して有明湾から上陸したのです。
>>574 話しをそらしたな。
土器じゃ無くていいから、他の古墳などの編年を出せよ。
3世紀以降7世紀までの九州王朝歴代の王の古墳はどれかな?ぜひ教えてくれw
それと
>>573の質問に答えろよ。逃げるなよ。
576 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/20 03:11:53
確かに、畿内の編年は正しい。
ただそれを単純に九州等他地方に当てはめてはならない。
畿内の編年が正しいなら、同じ方法論の九州の編年も正しいはずだが。
だから同じ型式の土器や武具、馬具は基本的に同じ年代でいいだろ。
須恵器は化学分析で畿内産のものがわかるからこれを媒介にして平行年代が分る。
馬具や武具は韓国とも同じものがあるからそれを媒介にして年代も分る。
考古学の方法論を知らずに訳も分らず否定するなよ。
>>573の答え待ってるからな。
573の文章、どっかで見た記憶がある…
>>577 考古学が分らず文献だけで脳内妄想してる九州王朝説をイジメルなよ。可哀想じゃないか?
せっかくこのスレに隔離してるんだからそっとしておこうよw
580 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/20 03:25:46
581 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/20 03:33:23
編年なんて奇妙なものを使っているのは世界でも日本だけだ。
畿内で成立したからといって他地方他時代に適用できる普遍的なものだと思うなよ。
582 :
脱九州王朝説:05/02/20 08:43:09
>>577 僕は考古学には疎いです
文献を総合的に見ると九州王朝説は成り立つと思う
だから教えて欲しい
考古学の立場から、なぜ九州王朝は論外なのですか
白村江の直前に大和朝廷と九州王朝が並立したとは言えない根拠を教えて下さい
出来れば、考古学音痴にもわかるようにご教授下さるとありがたいのですが
東京のJR線を考えれば、山手線が大和朝廷、京浜東北線が九州王朝に対応すると
譬えられるものだ。(ここは、田端駅〜田町駅の間)
そこで、東京駅〜神田駅の部分、間のみを考えて限定して、この短期間の路線を
倭の五王王朝の譬えとすると、だいたい、古代史の秘密の大略を知ることができ
るのだ。だいたいだが、應神から雄略あるいはΔxの張り出しを許容して清寧世位
までは、日本に三つの王朝が並行して存在したことになるのだ。
>>583 失礼!東京駅〜神田駅の間は中央線のことです。
>581
畿内の編年は成立していて、九州の柳田編年は成立してませんか?
じゃ、追加レポートの提出がひつようでしょう(w
柳田を否定する根拠は? それと、畿内の編年を正しいと認めた根拠は?
586 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/20 14:06:06
>>586,
>>580 お前、わざわざ参考資料掲げておきながら、その内容理解もして無いし、まともに読んでないだろ。
編年は世界の何処の考古学でも基本ですよ。残念ですが。
これはc14などの科学的年代測定が発達しても変わりません。
足し算の喩えは何の説明にもなっていない。
九州と畿内の地域性はあるが、方法論は同じでそれぞれに編年が可能で、併行関係は土器等の相互移動関係で証明できる。
「畿内編年方式」なんてはない、考古学一般の基本の方法論だ。
これは世界共通だ。もともとはモンテリウスやペトリ−から来ている。
>>580にあげた参考資料をよく読め。
訳も分ってもないのにバカな批判はするな。
>586
アンタ、自分で参考とか書いて貼ったサイトの内容を理解してんのか?
「編年」と「暦年」の使い分けを都合よく間違えてないか?
個別編年の縦軸は、目盛の無い状態でも有効なんだから、
時間軸が、各地ごとに違っていてもかまわないんだよ。
柳田編年と畿内との年代観のズレなんて、いまだに異論が多い。
そうやって、論理のすり替えばかりしてないで、宿題を早く片付けなさい。
畿内の結論を何故正しいと認めて、柳田編年が何故認められないのかってこと。
まあ、こたえられっこないか・・・
正直に自説にとって致命的に都合が悪いからって認めれば許してやったのに。
じゃあな、もう、俺は飽きたから消えるよ。
論理のすり替えは畿内説の得意技
>>589 逆だろ。
九州王朝説側が
>>586のような訳の分らん詭弁を弄してるだけ。
>>573,
>>587,
>>588,
>>585に答えてから言え。
>>582 まあ考古学主体で書かれた古墳時代や飛鳥時代の概説書を読めって。
古墳時代に「九州王朝」の都や王墓(古墳)が何処か説明できてないのだから。
古墳から言えば、九州の地域性はあるが、独自王朝が統一的に続いていた根拠は無い。
ましてや列島の代表者としては、舶載文物の質量から、古墳時代には畿内が中心であることは間違いない。
これに九州王朝大好きは訳分らんツッコミいれないように。
あくまで脱洗脳をめざす>582の質問だけ受け付けます。
>>583 >>584 の件 幾分補正します。
倭の五王朝は末期年代が雄略あたりとしましたが、この見解は−Δxの短期が正と
観た考えです。+Δxとして清寧あたりと云いましたが、これはΔ≒0の考えのとき
と補正します。ということは+Δxはもっと大きめであり、顕宗から武烈あるいは
繼體世あたりまで、王朝の存在が続いた可能性が残存しています。
逃げたな、九州王朝!
だいたい王朝として元号をもっていたのは九州王朝
畿内は連続した元号制度を持っていなかったな
こういうのは(畿内は)王朝とは言わない
名無しかよ(w
ですから、倭の五王朝は
短期とすれば、 應神〜雄略あたりだったということですが、もう少し
長期だとすれば、應神〜繼體の可能性がありうるということです。
應神〜繼體は単なる地方豪族でしょ。無理。
畿内の特殊事情に基づいて、九州の時代基準を作ろうという考えが
根源的におかしいといっているのに、重箱の隅つつかれても意味ないな。
まあ
>>590は思い込みの世界に遊ぶが良かろう。
599 :
脱九州王朝説:05/02/20 15:34:05
>>590 レスありがとうございます
クレクレでアレですが、お勧めの考古学主体で書かれた古墳時代や飛鳥時代の概説書を教えて下さい
ぜひ読みたいと思います
まだ洗脳から解けていませんので質問を少し
>舶載文物の質量から、古墳時代には畿内が中心であることは間違いない。
舶載文物の質量とは何でしょうか?
また、古墳時代には畿内が中心だとしても、だから九州王朝が存在できないとする理屈がよくわからないのですが
>古墳から言えば、九州の地域性はあるが、独自王朝が統一的に続いていた根拠は無い
考古学的には九州が畿内に影響を与えた形跡は皆無なのでしょうか
ご教授よろしくお願いします
はっきり云いますと九州王朝は、大和朝廷での
崇神世から文武世(あるいは元明世までの持ち越しはありえる。)までに
九州に存在したというのが正解なのです。
とにかく、帥升の前後の世あたりからが九州王朝の始まりです。
601 :
日本@名無史さん:05/02/20 15:51:39
王朝というと、過剰反応する人がいるが、勘違いしてるんですよ。
小さな国であろうと、独自の元号や(出来れば)通貨をもち、一貫した
王統・領土・民・制度が継続されれば王朝。
>598
九州の編年は、九州の状況で作るんだよ。
君は、「編年」に対する知識が全く無いのか?
これは、君のレスだ。
576 名前:九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y [] 投稿日:05/02/20 03:11:53
確かに、畿内の編年は正しい。
ただそれを単純に九州等他地方に当てはめてはならない。
君が「正しい」と認めた「編年」って何だ?
誰の作った「編年」が正しいのか、その理由を含めて示しなさい。
それから、畿内と九州の個別編年の年代対比(横軸関係)がズレることはあっても
個別編年の縦軸(時代の前後関係)は、ズレることはない。
その、地方にとっての縄文は縄文、弥生は弥生だ。
飛鳥時代の遺物は、弥生遺跡から出てきたりはしないんだから。
603 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/20 17:25:05
畿内朝廷の史観に合致するように作られたものが畿内における編年です。
他地域の異なった歴史にその編年を持ち込むことが間違い。
その前提を忘れてしまっているのか、もしくは知らない。
柳田土器編年は将来大変更を迫られるでしょう。そうなれば柳田編年と言われるかどうか。
>>602 >畿内と九州の個別編年の年代対比(横軸関係)がズレることはあっても
>個別編年の縦軸(時代の前後関係)は、ズレることはない。
その通りです。畿内編年の考え方を入れていない九州編年であれば。
>603
あのなー
何、ピントの外れたこと言ってんの?
お前が、「正しい」と認めた畿内編年って何だよ、早く答えろよ。
言っとくが、「畿内朝廷の史観に合致する」編年なんて昔も今も存在しないぞ。
もともとは、
「科学的裏づけのない土器編年時間軸を捨て去ることが必要。
科学的根拠を無視する思い込み妄想はやめようね。
九州王朝否定説は科学技術を否定することしかできない亡者の説と思うが。」
って言う御高説に対して、お前の「科学技術」的見識を問うているわけだが、
まずは、「編年」と「年代観」の区別が、ついてか無さそうだし、
自分でモンテリウスの解説から始まる「編年論」のサイトを提示しときながら、
「編年なんて奇妙なものを使っているのは世界でも日本だけだ。」って何だ?
揚句の果てには、「畿内編年は正しい」と言ったかと思えば、
「畿内朝廷の史観に合致するように作られたものが畿内における編年です。」だからな・・・
お前の場合は、他人に対して科学と学問とか言う前に、己の知性、品性について考えろ。
最初から、考古学の趨勢は、自説の展開と一致しないから私は認めない、とでも言ってれば良いものを
何の根拠も無く他説を否定しようとするから墓穴を掘るんだよ、わかったかい?
>>604に激しく同意。
世界の考古学の基本は編年。
日本だけでないし、むろん畿内だけでないのは明白。
606 :
日本@名無史さん:05/02/20 19:07:44
畿内特殊編年は世界唯一でしょう
>>606 どこがどう特殊か、世界の編年と比較してどうなのか、具体的に説明汁!w
というかこいつ、さっきまで畿内の編年は正しいと言ったてけどなw
畿内編年でインカ帝国でも見てもらうか
610 :
脱九州王朝説:05/02/20 19:16:38
>>九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
柳田編年が正しいとなると、九州王朝説が成り立たないのでしょうか?
フフフ!w
(参考)だな。
B.C.3113年8月11日
畿内編年でみる世界の古代・・・こりゃすごいや!
>>611 ハハァ、貴下はこの数字の意味を知っているのか。いいこといいこと。
>>612 話をすりかえて自慰するなよW
世界の考古学で編年が基本と言う話が、なんで畿内編年で世界の古代を見ることになるんだよ?
インカはインカで編年がありますが、何か?
畿内をなんでも中心とするインチキ編年で、世界をみてみよう!!
大変だ、今土器を作っちゃった、さっそく畿内編年でカレンダー書き換えだ!
おまいら訳分らんなw
人生さぞかし楽しいだろうなw
九州の土器は畿内に関係なく、変遷してるわけで
糞リンケージは不要。
620 :
日本@名無史さん:05/02/20 20:19:36
イン地畿?イン地カ?
九州王朝・・・ついに逝っちまったか。
・・・・あっ! もともと逝ってたかあ
九州王朝を実際には知らない人ほどそう言うよね
>622
知ってるよ。
奈良県在住の行商のおじさんだろ。
この人が、2chデビューしたころは、古史古伝が好きなだけの人の好いおっさんだった。
俺も即席酒のツマミの作り方とかのネタで、盛り上がってたときもあったんだよ。
今じゃ、2chの悪しき風習に染まってこのざまだ・・・
こんな、恥知らずになっちまって、悲しいねえ。
>>623 あはは、そりゃ勘違いだ。九州王朝説のことだよ。
初めて聞いた人は、電波だイカサマだとアレルギーを起こす。
やがて畿内王権一元史観に、かすかなほころびを感じるようになる。
625 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/20 21:58:19
>>601 >柳田編年が正しいとなると、九州王朝説が成り立たないのでしょうか?
九州王朝の考古学的遺物遺蹟が消えてしまって、わけの判らぬ異蹟異物が九州に散乱することになっています。
まず畿内編年とのリンクを切ることですね。
九州の遺物遺蹟が古くなるでしょうね。
>625
アンタの御眼鏡に適った「正しい」畿内編年って何だよ、早く答えろよ。
627 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/20 22:08:28
>>623 >知ってるよ。奈良県在住の行商のおじさんだろ。
今は奈良県在住でない隠居のおじいさんだそうです。
>>626 哀れな人に情けをかけた語句を穿り返しても、幸せはやって来ないぞ。
九州王朝が、自説を「証明」する手段は、唯一つしかない。
浅薄な理由づけなどせず、『自分がこう思うからそうなのだ』と言い放てばよいのだ。
うちのヨメが、使う論法と同じなのだが、この論理に対して科学、特に考古学は無力だ。
心理学の人なら、対応しようもあるかもしれないが、それでも、多くの場合、折伏には失敗するだろう。
ていうか、その前に畿内王権一元史観が、破綻しすぎ
九州王朝説がそこをカバーするだろ
631 :
日本@名無史さん:05/02/20 23:25:00
>>629 大和王朝の天皇とか、欠史八代の非実在っていうのもそれでないの?
>>619 古墳時代初頭の土器から、また須恵器からリンクしてますが。
共伴関係(実際に土器が搬入される)、製作技術から証明されるので。
認めたく無いから認めない、というのが唯一の根拠だからこりャ凄い。
>>629 の言う通りだW
635 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/21 00:53:48
>>633 >古墳時代初頭の土器から、また須恵器からリンクしてますが。
>共伴関係(実際に土器が搬入される)、製作技術から証明されるので。
製作技術が畿内が九州より100年遅れておれば、現在の編年リンクは成立しない。
製作技術が同じでも2つの離れた地域が同一時間に存在したと証明できない。
ひどいね。
>>633も単なる荒らし。これは畿内派に多い
いきなり電波扱いする、切捨て排他主義。
畿内派は畿内絶対史観に凝り固まって他説を排撃するから。
おそらく、一部の偏狭な畿内派(大多数は案外冷静だと思う)が、
九州王朝説自体も良く知らないまま、脊髄反射的に反発してるんだろう。
>>635 100年遅れている根拠示せよ。
それに、胎土分析(蛍光X線分析による元素組成や胎土中に含有される鉱物や岩石片の組成分析)から畿内産の土器(土師器も須恵器も)が判明しているが、これが九州でも多数出土している。
これと九州の土器型式の共に出る事例を多く重ねていって併行関係が証明されている。
ちなみに須恵器はこのたくさんの事例の検討の結果、畿内産のものも九州産のものも、同時期に形態や製作技術が大差がない(ほぼ同じ)ことが判明している。
古墳時代前期の布留式土器についてもほぼ同様である。
その他、広域に分布する(畿内と九州以外も)同型式の馬具、甲冑その他でも古墳時代における編年の各地の併行関係は証明されている。
まあ、何をいっても、九州だけは違うとか、中味も知らずに強弁するのだろうがね。
九州王朝説に疑問を抱いている、脱九州王朝説さんに言ってることにするわ。
九州王朝派は九州王朝絶対史観に凝り固まって他説を排除するからw
考古学について無知なのが基本的に致命的。
本人はそう思ってないでしょうけどね。
まあ
>>629の言う通り。
>>599 脱九州王朝さん、とりあえず(今、手元にあったもの)次の文献(一般書)を本屋や図書館で探してみて読んでみて。(古墳時代と邪馬台国関係を主とする。考古学と古代史も)
古代を考える 古墳 白石太一郎編 吉川弘文館
古墳時代の王と民衆 都出比呂志編 講談社
古代を考える 邪馬台国 平野邦雄編 吉川弘文館
倭人伝の国々 小田富士雄編 学生社
古代王権の原像 山尾幸久 学生社
古墳時代の日本列島 大塚初重・吉村武彦編 青木書店
とりあえずこの辺を読んでみて。(他にも適当なものがあるかと思いますが。)
脱九州王朝さんへ、
他のスレよりコピペですが、
まあアノ安本が書いたやつなんだが、
『虚妄の九州王朝』梓書院 という本を読んでくれ。
アノ安本でも古田批判だけはマトモなので、読むべし。
もともとの安本のネタ本の『九州王朝はなかった』という本が昔あった
が、こっちは今は絶版みたいなので。
これ探してみて下さい。九州王朝の洗脳から抜けれると思います。
九州王朝大好き、太さんはスルーしてねw
畿内編年だけが完成されていて、他地域はその枝として
年代規定されているのがおかしいわけです。
こんな単純なことが何でわからないんだろう?
>>642 そんなことはないが。
例えば関東は関東で杉原荘介以来の土器編年がある。
九州は森貞次郎以来の編年がある。
各地のそれぞれの編年があって併行させているだけ。
古墳の編年の場合は基準古墳が畿内に多いということがあるが、ただしこれは広域流通する共通の品目(副葬品)があるから方法論的に当然である。
だいたい、そんな知ったか(超、知ったかぶり)言うなら、実例をあげて、具体的に、何が悪いか言ってみろ。
九州王朝教から脱会したい人はこれを読んでみて
tp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm
まえから有るけど、誰も説得されないね
>>645 そりゃ九州王朝説は信仰みたいなもんだから説得したくてもできないだろw
まあこれから間違って九州王朝説に走るヤシを止めるぐらいの力はあるな。
647 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/22 03:10:24
>>644 川村明氏の論法には共感するのだが、そのまま進めれば九州王朝支持になるところが、
突然畿内朝廷一元論に結論を捻じ曲げている。
彼の論理の赴くままに行くと九州王朝強力支持者として古田説の間違い部分の修正者になるのに。
川村明氏の惜しい結論の補正
隋使高表仁の活火山遭遇は開聞岳ではなく、雲仙有珠山です。
火山灰ではなく有珠山の溶岩流(火砕流)で判断可。
高表仁が上陸したのは、古田氏の言う博多湾岸ではなく、
川村氏の言う有明湾岸となります。
畿内派の一部だろうが、よ〜く反対説派にどーぞと、各隔離スレを用意している。
彼らは本命なる卑弥呼女王までを、畿内のどこかにあるとしたいか?その前人未到の
ジャングル事務的秘境、奥地に人的UMA女人を隔離しなければ気がすまないらしいなぁ。w
ここは山にかこまれた伊賀甲賀よりも近寄りがたいらしく、畿内の隔絶盆地らしい。w
畿内派さん。一国入るそんな所が畿内のどこにあるのかいなぁ?w
邪馬台=ヤマト信者は、語呂あわせを学問と信じたり
邪馬台国を内陸農耕国家と勘違いした時点で、アウト。
>642
だから、「編年」ってーのは、各様式の前後関係(相対年代)なんだってば。
絶対年代とは、概念が違うんだよ。
何時までも、「わからない振り」を続けてないで、そこらへんのところは認めなさいよ。
そして、柳田編年のどこがおかしいのか説明しなさい。
つまり、各様式の前後関係がおかしいのか?
それとも、前後関係だけは認めるのか?
どうだ?
別に専門用語なんてどうでもいいんだよ。
コンセプトが誤ってるっていう指摘をしてるんだから、
語句が適切かどうかでお茶を濁しちゃいけない。
>652
だから、どこが誤ってるのか説明してほしいんだよ。
「お茶を濁してる」のはどいつだ(w
654 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/22 23:17:42
>>651 柳田編年は基本的にはそれほど間違っていないと思います。
勿論、各様式の前後関係も基本的には正しいと思います。
問題点は柳田編年を畿内の編年とリンクさせて絶対年代化する方法で間違っていることです。
>654
だから、どこが間違っているのか、と聞いているんだよ。
具体的に示しなさいよ。
念仏のように「間違っている」「間違っている」と唱えるだけじゃ、わからんだろうが。
例えば、あなたは、「西新式」をどの時代に比定するのかな?
「後期瓦質土器」は?「庄内式」は? ちゃんと答えてもらわなければ話にならないよ。
具体的じゃなくて根本的に間違ってるんだろう。
天動説を否定するのに、いちいち具体的でないといって
石ころを持ってこられても迷惑だなあ。
>>655 まあ柳田編年を基本的に間違ってないと言わせた時点でこっちの勝ちだよ。
あとは妄想を言わせておけ。
併行関係とか、編年とか、様式とか、相対年代、絶対年代っていっても訳分って無いやつらだから。
どこが正しいのかも答えられないと思うよw
実際の所、じきに九州王朝説なんて崩壊するからさ。
俺の人生になぞらえて、君の人生を刻まれて、君の人生が解明できるのか?
そりゃ良かったね。頓珍漢とはこういうことを言う。
九州王朝説は永遠に不滅です
九州王朝のソースはやっぱり吉野ヶ里遺跡なのか?
663 :
日本@名無史さん:05/02/23 13:10:35
>>662 魏志倭人伝 宋書 旧唐書 新唐書 記紀
664 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/23 13:35:42
>>655 >>659 比定すること自体が根本的に間違っています。
編年は単なる順番、順番には年代が無い。
比定自体が空想の作業。
C14法や年輪法で年代決定がいやなのは何故?
比定の否定を認めることになるからですか?
追補
柳田編年は将来大幅に修正されるでしょう。
近畿朝廷一元思想で捻じ曲げられていますから。
考古学は思想でないのにね。
>664
あのね、編年論については、「柳田編年の前後関係」を認めてくれたことでもう結論がでている。
だから、ちゃんと>655の質問に答えてくれ!
C14でも何でもかまわないから、西新式、庄内式、後期瓦質土器の年代は何時なんだろうか!
そして、その根拠は何なんだろう?
答えてくれなければ、>625や>635での大言壮語の説明にならんだろうが?
現状では、「あの板は赤い、白いと言う奴は嘘つきだ」って言われてるのと同じなんだよ。
私の気持ち、理解してくれるかな?
九州王朝は、さっさと誤っちゃえば善いのに。
すいません、最近なんとなくムシャクシャしていたので
科学的知識も無く、これといったじ根拠も無いのに
知ったかぶりで、勘ちがいな語句を使って、
畿内主導の考古学を罵倒してしまいました。
まったく、お恥ずかしい次第です・・・・
これくらいのこと、言ってもらわないと、許してもらえないだろうな。
668 :
ゴジンム:05/02/23 21:54:25
根本的に思想が間違っているのに、具体的に指摘しろだってさ、重箱の隅がすきだねえ〜、
悪魔番号の
>>666
>664
"C14法や年輪法で年代決定がいやなのは何故?"
誰に問うているのかわからないので・・・一般論で答えよう。
「C14」については、今後も積極的に活用していくことで、補正値の適正化を図って行く、と言うのが大勢だ。
「年輪年代法」については、その実証性について異論が多い。
奈文が公表している範囲でしか、その内容はわからないし、サンプリング法も全国レベルのものではないので、
各地方の絶対年代の確定には利用できる段階ではない。
こんなところが、多数意見だと思うんだが・・・
いずれにしても、この二つの導き出した年代測定は、従前の説より若干遡る結果が多い。
ということは、「畿内説の時計は100年進みすぎている」みたいな言い方をしている九州王朝にとっては、
全く、都合の悪い「科学的成果」だと思うのだが、どうだろう?
ところで、このスレでこの二つを「いや」だと言った奴が居たかな?
具体的に、どのレス番だか、示してほしいな。
多分、居ないと思うけど、自分が「科学的」根拠を提示できない言い逃れの材料だとしたら、これまた(笑だな。
思想がズレちゃった人って、絶対聞く耳を持ってないんだね〜
>>670ってすごく、カワイソウ
>>671 なんの議論も展開できず一言だけ罵倒かまして逃げる奴は
誰も共感してないと思うぞ。嘲笑されてるだけw
往生際の悪いやつだねw
根本的に誤りなんだよ、そろそろ出直したら?>672
いつの間にか「科学的」が「根本的」になってるな。
宗旨替えか(w
身勝手な基準で判定するのはやめようね、もっと良く考えましょう!
44 :出土地不明 :04/10/16 21:01:04 ID:JVa9QFwd
関西圏の須恵器編年と九州(特に南部)の須恵器の編年は
年代において一致するんですか?
例えばTK47が5C末〜6C初に比定されていたと思いますが、
それは九州や他地域においても同時期に比定されているのでしょうか?
45 :出土地不明 :04/11/16 18:37:37 ID:JqxtlQv5
九州は、というかほとんどの土器は編年で年代比定されるから、わかんね。
でも、九州については編年よりかなり古い物が次々出現してるから、考古研も困ってたりする。
それも土器に限らず、遺構等も。
>644
じゃ、追加で質問だな。
「比定すること自体が根本的に間違っています。」って、どう言う意味?
単純に「年代を計ることは間違いだ」ってことかな?
うーん、つまり九州王朝とやらは、いつごろ成立したのかわからないってことか。
まあ、それはともかく、なぜ比定してはならないのかも説明してほしいな。
それと>635で「製作技術が畿内が九州より100年遅れておれば、現在の編年リンクは成立しない。」
と言ってるけど、これは九州王朝なりの年代観があっての発言でしょう。
その年代観を提示していただきたいわけだ。
それには、宿題になってる西新、庄内、後期瓦質土器の年代が丁度よい指標になるんだね。
他説を批判する以上、あなたにはその批判の根拠を説明する義務があるでしょう。
ばっくれ状態になってますけど、「畿内編年」が正しいと認めた根拠もまだ出てないし、
宿題はどんどん増えますね。
あかん・・・やってもうた。
644じゃなくて>664あてだった・・・・
679 :
猛教授@東遷説:05/02/24 00:37:58
>>599の
>>舶載文物の質量から、古墳時代には畿内が中心であることは間違いない。
>舶載文物の質量とは何でしょうか?
>また、古墳時代には畿内が中心だとしても、だから九州王朝が存在できないとする理屈がよくわからないのですが
これに誰か答えてくれ。漏れもわからない。
>679
多分、畿内は埋納舶載鏡等の量が多く、当初のレスには無いが副葬物の分配関係も認められるから、
北九州にも影響力を行使できただろうってことだね。
少なくても、4〜5世紀に相互に没交渉ってことは有り得ないし、九州優位の状況も認めがたい。
俺は、このスレで九州王朝の存否を云々する気は無いので、これ以上のコメントは避ける。
畿内の埋納鏡は圧倒的に国産鏡が多いのでしょ。
三角縁神獣鏡とか。
682 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/02/24 18:02:19
>>677 >「比定すること自体が根本的に間違っています。」って、どう言う意味?
「比定」することは「推定」作業で、論理の積み重ねではないのです。
西新と庄内が同時代と言うのは推定ですよ。
推定と推論の違いを意識して下さいね。仮定条件も常に踏まえた上での推論してくださいね。
柳田編年の疑問に思うのは特に西新以降です。
>「畿内編年」が正しいと認めた根拠
順番には何の矛盾も見えませんので。
しかし推定絶対年代を認めているのではありません。
今後C14法のデーターが集積されれば時代比定も変わってくると思います。
>>679 >>599の
>舶載文物の質量から、古墳時代には畿内が中心であることは間違いない。
「舶載文物の質量」は具体的に何なんでしょうね?
「三角縁神獣鏡」は同位体分析で国産と結論がでているし。
>682
「推定と推論の違い」も説明しなくちゃだめだよ。
そてと
「柳田編年の疑問に思うのは特に西新以降です。」
疑問に思うからには、自身で推定なり推論なりをしたものをもっているはずだが、
そういったものを提示せずに、ひたすら「間違ってる」とだけ連呼するのは何故かな?
これだけ、延々と他説を否定する論拠の提示を求められながら、
科学的だの根本的だのといった枕詞を変えるだけで、まともな回答ができないのはどうして?
>>682 三角縁は同位体からは舶載という人も多いです。これにより簡単に結論は出ません。
柳田編年については、「三、四世紀の土器と鏡」を読んだのですか?
まず、土器編年を型式、様式と層位、出土状況から打ち立てた上に、
各土器様式の時期に伴う中国鏡により時期(実年代)定めていっているのです。中国鏡は三角以外の各時期の鏡も用いてですよ。
別に畿内の年代観に引きずられている訳では無く、基本的に九州の資料でやっています。
そもそもこれが書かれた1982年は、畿内の年代観の方が5様式が3世紀ぐらいという説も有力だったので、九州王朝大好き氏の畿内編年に従属しているという主張は、学史的に全く事実に反します。
また柳田氏は最近はさらにやや古めの年代観ですが、それは意見が分かれるかもしれませんが。
なお柳田氏の方法は、弥生時代中期後半から古墳前期の実年代比定方法としては、オーソドックスな方法で、またある意味で確実な方法です。
C14法で変わるかもしれないとか知ったことを言っていますが、
むしろAMS法による最近のデータの集積は、弥生時代中期後半以降のこれまでの実年代比定が(九州や近畿を問わず)、むしろほぼ正しいことが裏付けられていますし(歴博がデータ集積中)、古墳時代の初頭についてはむしろ早まる可能性まで指摘されています。
九州の資料でも、歴博がデータ集積中ですし、各自治体の遺跡の整理報告でも、最近はC14のAMS分析が載っている場合があり、それも上記のような状況です。
(一部に突飛な数値が出ることもありますが、これは資料採取や資料の質に問題がある。)
九州王朝大好きさんが、C14で、年代がずれる、と言っているのは何の資料でしょうか。根拠を挙げて下さい。
なお、資料採取方法にシビアでは無い、またAMS法でない、古い時期の測定データは信頼度に欠けますので、念のため申し添えます。
>>681 三角縁が仮にですが、全て国産だったとしても、
それ以外の中国鏡も、古墳時代に入ると畿内にもっとも集中しています。(そのうち漢式鏡が伝世鏡なのか、踏返しや倣古鏡が3、4世紀に入ったか別にして。また確実な三国鏡や六朝鏡も同様に畿内に多いです。)
三角にしたって国産でも、九州にも分布する以上、その流通分布に意味があり、畿内との関係性を示すと考えられます。
鏡以外でも、中期の威信財の代表である甲冑も畿内中心ですね。
その他、古墳時代における、威信財である各時期の代表的宝器や奢侈品(例えば金銅装馬具や装飾大刀など)も同様に畿内に量的、質的中心があるものが大半です。
>>685 多いというには具体的な数値比較をしないとね。
687 :
日本@名無史さん:05/02/25 19:22:54
皆さん頭良さそう
688 :
日本@名無史さん:05/02/25 20:26:20
金印をもらったのも九州。邪馬台国も九州。
ここまでは分かる。で、700年以後は大和朝廷、これも分かる。
それで、以下、質問します。
他国の例から明らかな様に、王の姓が変わるのは血統の変更。
このスレ的には「アメノタリシヒコ」の「アメ」、「倭王倭賛」の「倭」の姓の違いをなんとみますか。サチヤマの姓は。
それらの歴史は記紀に反映されていると考えますか。
また、クナ国についてはどう考えますか。
689 :
日本@名無史さん:05/02/25 22:58:24
まずは現天皇家の姓を公表してもらわないとな。
なんでも魂を奪われるからという理由で秘匿してるらしい。
九州王朝よ。偽装逃亡か?
都合の悪いときは、いつも名無しに化けて話を逸らすんだね。
そんな、姑息なことしとらんで、謝るか、宿題に答えるか、どちらかにしてね。
>>690 私のことを言っているなら、残念ながら違います。
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Yその他九州王朝派のみなさん、先に彼の質問に答えてやってくださいね。
692 :
日本@名無史さん:05/02/26 00:47:17
>>690みたいに騒ぐ前に、マトモな畿内説を一度でもいいから、知りたいものだ。
>692
ここは、九州王朝スレだろう。
畿内説に興味があるなら、他のスレをロムれば?
694 :
日本@名無史さん:05/02/26 01:12:55
だからマトモな反論ね
>>690 >>694 わざわざここでやらんでもよかろう。
九州王朝説というのが学説ではなく、単なる宗教だと判ってるのか?
彼らは凹まされると、腹いせに他の関連スレを荒らす厄介な連中だから手を出すな。
他のスレでまじめにマターリと議論したい連中の迷惑になるから、撤退せよ。
696 :
日本@名無史さん:05/02/26 02:02:36
こういうヒステリーが、学問を妨害するんだねw
このスレを見る限りは、ヒステリーはアンチ九州王朝
腹いせに他の関連スレを荒らす厄介な連中=
>>965=畿内説=宗教
>>695はいまどき珍しい万世一系の皇国史観ですか?
萬世一系 皇統護持
逝っちゃてる人の多いスレですね。
このスレに限らず、最近はわざわざあちこちの隔離スレに
なりすましで煽ってる奴がいるから釣られないように注意汁。
九州王朝説派が編年に対する回答をしてないのは、やっぱり答えられないからなんですか?
このスレの流れをみると、やっぱり九州王朝説って学問的におかしいという気がしてきました。
何回答えても聴いてない人は逝ってください。
>703
確かに『回答』は何回もしてるな。
ただ、同じ人物が
『基本的に正しい』といったり
『根本的に間違ってる』といったり
『年代比定はしてはならない』といったり
『編年は将来大幅に修正されるでしょう』といったりで、なんだかワケワカメだが・・・
いずれにしろ畿内説を罵倒する発言を繰り返すのみで、どこが『間違っている』のかは、一切説明しない。
こういうことです。
こいつまだ粘着してるよ。見苦しいね。もうお前のクソ話は終わってるんだよ。
言葉遣いが汚らしいのも九州王朝論者の特徴でしょうか。
バカに合わせてクソ言葉を使用しております。
このスレを荒らしてる香具師は、なぜか畿内スレも荒らしている。
論調が全く同じ。
いわゆる基地外なのでスルー汁。
畿内派の中の害基地が、コピペしたりして暴れまくって大変だな
こんな↓ナリスマシ・コピペも出ちゃって酷いもんだ
539 名前:九州王朝大好き ◇I.THkUKc4Y 投稿日:2005/02/26(土) 23:01
↑はスレ間違いです。スマソ
漏れが慌ててちゃったよ。
何言ってんの?
>>709-712は俺じゃ無いんだが。
ホントゴメン。このスレもロムっていたので間違えてカキコした。それだけ。でも>709以下は俺じゃ無いよ、ホントに。
>>713 真性誤爆かよw
まあ確かに畿内派の外基地はそういう細かいことしないかw
>718は>717と同一自演?
「713」ってなってるんだが,,,「>713」とでも書きたかったのかもしれんが
しかし最近はなりすましも多いから訳が分らんぞw
>>>718と>717は同一自演?
>>「713」ってなってるんだが,,,「>713」とでも書きたかったのかもしれんが
あら?ひどいねそれ。言われる通り「>713」が正解。
誤爆に誤爆しちゃったよw こりゃマヌケだわ
逝ってきます、、、、、
↑こういうのを「なりすまし」というw
犯人が判って気分爽快♪
もう、ここから出てきちゃダメだよ。
724 :
日本@名無史さん:05/02/28 15:56:56
やっとこのスレの祭が終了したみたいですね。
今度の開催スレは何処ですか
(考古学板自治スレ)も荒れ始めたようだ
726 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/03/01 14:41:48
暫くココに来れないうちにこのスレは様子が変わっているようですね。
まじめな問いかけに応えます。
>>684 銅鏡の鉛同位体3元図から中国鏡でないとの結論がでないのは理解しかねます。
C14質量分析データーが蓄積されるのを待ちましょう。
>>685 畿内は鏡文化だから鏡の出土が多いのは当然です。
又、6世紀前半と7世紀末の畿内政権の九州略奪で、
宝器や奢侈品は畿内に移動しています。(七支刀等、法隆寺等も)
7世紀末の畿内派である宗像氏支配下の地域を除いて。(津屋崎古墳群出土品など)
>>688 倭(ヰ)は中国名
阿毎(アメ)は和名
薩夜摩は通称名の為苗字無し。阿毎薩夜摩かもしれない。
日本書紀、続日本紀にこれらが反映されれば、畿内朝廷が九州王朝を認めることになるから。
反論がないので提示します。
>>647 隋使高表仁は有珠山の噴火を見ながら、有明湾岸に上陸した。
誤:有珠山(北海道)
正:普賢岳(九州雲仙)
727 :
日本@名無史さん:05/03/01 21:50:45
九州ワンワン王国のこと?
それを言うなら『九州「わんわん」王国』だよ。
729 :
日本@名無史さん:05/03/01 22:03:38
畿内チョンチョン王国だろw
>倭(ヰ)は中国名
>阿毎(アメ)は和名
倭は上表文の自称でもありますから、中国名の可能性もあります
ではなぜ同じく中国からの問いに対してアメと答えたのでしょう
私には別の王統にみえるのですが
薩夜摩については資料が乏しすぎですよね
もどかしいです
732 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/03/02 00:00:04
>>731=
>>688 倭(ヰ)を名乗った時は中国に従属する国として中国で使われている名を使用。
阿毎(アメ)を名乗った時は中国と対等な国として自称名を使用。
又、隋に対しては倭(ヰ)は国名であったものと思われる。
タリシホコは隋に対して自国を「大倭(タヰ)」と名乗ったのでなかろうか。
隋は対等と認めぬ国に対して「大」の字を使わないで同音の「イ妥(タイ)」を当てはめたと思います。
733 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/03/02 02:26:54
>>731 >私には別の王統にみえるのですが
別の王統ですね。
九州王朝には兄王と弟王がいますが、
実務の弟王である倭五王は菊地氏、
同じくタリシホコは宗像氏です。
又、磐井は九州物部氏(豊)と推測しています。(証拠不十分)
磐井の乱と云われる戦は、九州(豊)物部氏と河内物部氏の戦であったのではと想像しています。
漏れは「畿内説支持&アンチ九州王朝」だけど、
このスレにきてスレ違いなことを書いたり荒らし行為をする奴は許せないな。
735 :
プラム:05/03/02 17:23:42
>>734さん
このスレは、そんなにガチガチスレでは無いみたいですよ。
多少の荒れてもマイペースの様だし、藻れもたまにお邪魔するけどギスギスしてない。
荒らしをシャットアウトするから余計荒れるんですよ
貴方も肩の力を抜いてこのスレで勉強することを勧めますよ。
あっ!プラムさんが別な人に「勉強」を勧めてる!
ヒソヒソ( ゚o゚)ヤダァ(゚o゚ )ネェ、キイタ?( ゚o゚)オクサン(゚o゚ )アラヤダワァ
737 :
日本@名無史さん:05/03/02 20:18:53
>>734 貴男もアラシだよ。
本当のところは、九州王朝派だろう。
畿内派が、このスレで、そんな友好的なことを書くとは思えない。
畿内スレでは、かなりまっとうな2チャネラー(笑)でも九州王朝派との議論を望む奴はいない。
興味もないとけろに、わざわざ来たりしないよ。
それに、あっちは内ゲバ状態でたいへんなようだ。こっちのことなどかまってられないだろう。
日本史板からも撤退するみたいだね。
738 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :05/03/05 19:41:02
739 :
日本@名無史さん:05/03/19 10:39:29
「九州王朝」って例のF氏の説でしょ?
「邪馬壱国」とかトンデモ説をきいていると
アタマがおかしいんじゃないかと思う
この人が大学教授だったことが信じられないね
古墳時代は各地域の独立性が高かっただろうから
北九州地方を支配した豪族を「王朝」とよんでもいいだろうが
F氏の説はそれが7世紀末まで続いたって言うんでしょ?
F氏の説にも1%くらいは正しいこともあるだろうが
こんな人の説を信じてしまう人は
高校の教科書程度の知識しかなく
本格的な歴史書を読んだことがないんだろうね
740 :
太国:05/03/19 10:59:50
九州王朝の実在は確かだ。
武が幼武だというのは、邪馬台国は台湾だとか言う考えと似たようなもので、
そんなことはありえない。邪馬壹国は九州、そこにあったんだよ。
畿内説はまともに信じられない。真近の大和にあるならば、当然記紀に具体的記述が
ある。離れた九州にあったから記紀に大和皇朝との関係が語られてないわけだ。
741 :
太国:05/03/19 11:10:14
7世紀末まで九州王朝が続いたことも確実に正解である。
古田先生のここの論も合っているので、俺はうなったものだ。
九州王朝は大和皇朝では崇神の世からおおむね文武の世まで継続した。
元明の世のころに滅亡したのだ。先生のアタマは正常である。
742 :
日本@名無史さん:05/03/19 12:24:35
>>739 前にも某君に言ったんだが、個人批判するのはよせ
そんなことしても君にとってプラスにならないだろうそれに、
このスレは、畿内説で有ろうと追い出したりしない
君も敵視態度などせずゆっくり、勉強して行くことを薦めるよ。
743 :
日本@名無史さん:05/03/19 12:55:19
釣りだったら、もうちょっと上手にやれ>739
744 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/03/22(火) 22:03:37
>>741 >九州王朝は大和皇朝では崇神の世からおおむね文武の世まで継続した。
>元明の世のころに滅亡したのだ。
ちょっと修正したほうがいいと思うのですが。
九州王朝は大和皇朝では「神武」の世からおおむね文武の世まで継続した。
元明の世のころに滅亡したのだ。
745 :
太国:2005/03/22(火) 22:07:36
>>744 そうなると、神武に相応する九州王朝の大王は誰なんでしょう?
>744
コテもどったね。
ここじゃ、サガミハラハラは、使わないだけかな?
目障りだから、もうここから出てきて余所様のところで徘徊しちゃだめだよ。
わかったね。
747 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/03/23(水) 19:53:48
>>745 >神武に相応する九州王朝の大王
「讃」もしくはその先代王。
景行記に出てくる九州統一をした菊地族出身の「前君」と呼ばれた人物。
時代は4世紀末もしくは5世紀初頭。
748 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/03/23(水) 19:58:53
749 :
太国:2005/03/23(水) 20:37:32
>>747 讃の前には五王朝には、王になったと思われる者はいないと思いますが?
景行の前代だと垂仁か崇神世の方のはずだと考察しますので、女王国関係
となる九州王朝の始まりは崇神世あたりで自説が妥当と判断します。
ただし、讃の先代は神武まで系列はあったでしょうが、王位までには
なっていないと思います。女王国系と五王朝系は別物と観ています。
いろいろと、アドバイスを感謝しています。
九州に国があったことに異論は無いが、それが王制を採っていた根拠は何?
751 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/03/23(水) 23:20:32
>>749 景行天皇の九州遠征話は九州王九州統一話の九州王朝歴史書からの盗用です。
この遠征話を読めば、この王の遠征地域は九州東北部、周防(山口県南部)、九州東部であることが判ります。
又、この王が熊本菊池の出身であることも判ります。そして遠征の帰着地点は筑紫平野の浮羽です。
この王が全九州及び山口県(長門・周防)を統一した王となります。
九州を統一したこの前君と呼ばれる王が初代九州王朝王と言っても差し支えないでしょう。
またこの前君がその後続いて半島南部倭人をも含めて統一したとすれば、前君=讃となります。
九州王朝成立の時期については肥後熊本の中部九州型古墳形式の九州北上時期から4世紀末と判断できます。
前君=讃であれば、最初の九州王朝成立時期は5世紀初頭となります。
新勢力菊地に対しての九州北部沿岸旧勢力神武一族については、彼らの糸島出発後九州東北部沿岸を転々とし、九州を離れ周防を飛び越え、広島・岡山児島を経て浪速えと逃亡していることから、
神武一族のこの九州での行動は前君の遠征直前の出来事であったと伺えます。
752 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/03/23(水) 23:31:55
>>749 追伸
「女王国系と五王朝系は別物と観ている」ことについては僕も同じ見方です。
女王国系=九州北部沿岸(糸島前原・博多湾岸)勢力
五王朝系=肥後熊本菊池勢力
753 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/03/24(木) 14:37:31
>>750 750さんの王制の概念とは異なるかもしれませんが、
二重支配体制(天皇と征夷大将軍の様な)としての王制がありました。
下記@は九州体制では兄王(天皇)にあたる人物で、
Aは弟王(征夷大将軍)にあたる人物です。
@ 卑弥呼・壱与
A 倭五王・磐井・タリシホコ・薩夜摩
754 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 21:37:28
学研M文庫・倉橋日出夫著「古代出雲と大和朝廷の謎」を読みました。
丹後の籠神社に伝わる「海部氏勘注系図」が紹介されており、この中に
登場する「日女命」が卑弥呼である。と述べられています。
これについて、皆さんはどう評価されていますか?
系図では、「日女命」が、"中津姫命","神大市姫命","千々速日女命",
"倭迹迹日百襲姫","日神"と称されており、更に兄に「乙彦命」を持ち、
その2代後に再び「日女命」が現れる。後の「日女命」は"稚日女命",
"玉依姫命"と称されたとのこと。
以上は、倭人伝の卑弥呼・男弟・台与の発音と似ている。
また、卑弥呼の墳墓と推定できる箸墓が公式に「倭迹迹日百襲姫の大市墓」
とされており、この名称と一致する。・・・と言うのが理由のようです。
756 :
日本@名無史さん:2005/03/25(金) 02:02:59
う〜ん、すっかり九州説になった橿原一派氏にクラクラ!
前と全然違うな〜。まあ、同意できるからいいけど。
757 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/03/26(土) 18:38:44
畿内皇朝派からみても、磐井律令の存在は否定できないものね。
だからといって、少なくとも6世紀初頭〜7世紀末迄続いた九州王朝を肯定しているわけではない。
758 :
橿原一派:2005/03/26(土) 20:08:51
>>757 私は畿内王権と九州王朝の関係を、徳川幕府や鎌倉幕府と天皇の関係のようなものではないかと疑っています。
律令や年号の制定がなされたということは、大義名分のある王統とみてよいのではないかと。
畿内が律令、年号を定めるまでは名目的には九州の支配下だったのではないでしょうか。
ただし、あくまで名目的であって繁栄度は圧倒的に畿内が上。
畿内が、九州を配下におくのがずっと後になるのは
井澤氏ではないが、オソレだと思います。
徳川は決して天皇を討ちませんでした。それは天皇が政治権力を欲さなかったからでもありましょうが
そうでない場合、自らの血統に(入り婿などで)正統性をもたせた上で、天皇を討つことはありえると考えます。
759 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 20:11:53
橿原一派氏は九州王朝説になられたか。めでたしめでたし。
760 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/03/26(土) 20:56:57
大筋では僕と同じの様ですね。
経済力では圧倒的に畿内が九州を上まっていたのは間違いないでしょう。
陸戦武力も圧倒的に畿内が上です。
畿内朝廷は九州王朝の権威を背景に畿内旧勢力(銅器銅鐸文化)を亡し、
名目的には九州に従い事を荒立てず、
そして7世紀中頃迄で九州に反旗を上げたのは近畿非本流の仲哀継体だけのようです。
反乱の後は親九州と見られる応神欽明の長期安定政権が続いています。
761 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 07:15:01
今地震で被害に遭った玄関島(玄海島)に、卑弥呼のもらった
親魏倭王の金印が埋まっていると思うんだけど。掘り出したい。
762 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 00:07:48
763 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 18:43:55
764 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 21:27:36
765 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 13:22:13
皇紀って何だろ・・・
キリストの誕生日から始まる西暦に対抗して
(伝説の)初代天皇の(伝説の)誕生日から計算した紀元のこと
たしかそろそろ皇紀2700年くらいじゃないか?
767 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 17:14:45
>>766 説明不足でスマソ。
「投稿日:皇紀2665/04/01(金)・・・」とか
「投稿日:慶長410/04/01(金) ・・・」って
表示されているのが意味不明だった次第。
768 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/04/04(月) 00:16:46
今は紀元2665年4月4日0時17分
769 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/04/04(月) 10:00:40
770 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 11:00:31
皇紀とは、何のことかと、神武言い
???
772 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 12:04:20
「大化の改新」など聞いたことがない聖徳太子
キリスト教の教祖を知らないナザレのイエス
BC660年に皇紀が始まったとは知らない紀元後生まれの神武
九州は本家、近畿は分家か傍流。
本家の弱体化に乗じて分家が家督を奪う、というのはどこにでもある話。
774 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/04/10(日) 01:03:08
九州は本流、近畿は傍流。
本流の弱体化に乗じて傍流が権力を奪う、というのは歴史の常。
775 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 04:03:51
あれれ?
宇佐で確定だよ。
どこぞの歴史研究家が発表しただろ!?
大学教授だったかもしれない、、、。
776 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 22:45:03
宇佐は衛星国だね
おじゃまします。
とりあえず
縁起ものとして
777GET
お待ちしておりました、プラムさん。ワンちゃんは元気ですか?
>>778遅レス申し訳ない
そして、何時も応援ありがとう。
心強いよ
家の黒ラブ(♀2才・プラム)は相変わらず元気で、毎日日なたぼっこしています。
水が好きなんだよね、ラブは。倭人のように。
真冬でも飛び込むよ
倭人の様に
(オイ! オイ!流石にそれは無いか)
(失礼しましたぁ〜)
そういえば、「あま」=(海女・海士・海人)は一年中潜るよね。
あまの今日の分布は
長崎県、山口県、福井県、徳島県、和歌山県、三重県、静岡県、千葉県、岩手県に多い。
魏志倭人条より・・・
「好捕魚鰒水無深淺皆(沈)没取之」
好んで魚鰒(ぎょふく)を捕らえ、水深浅となく、皆沈没してこれを取る。
「今倭水人好(沈)没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽」
今倭の水人、好く沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭(はら)う。
783 :
参考:2005/04/25(月) 14:35:55
「あま」の分布地域に近隣地域に比べて関西顔が多い様に思えるのだが、
何か関連があるのだろうか?
そらアマ言うたら大阪に決まっとるからの。
ホンマは兵庫県?大阪みたいなもんやんけ。
九州最大の古墳群で、特別史跡の「西都原(さいとばる)古墳群」(宮崎県西都市)から、
国内最古級とみられる前方後円墳が確認された。宮崎大学などの発掘調査でわかった。
出土した土器から、築造は3世紀中ごろと考えられ、南九州では最古。大和政権があった
畿内でも、このころ古墳が造られ始めており、本土の南端でも同じ動きがあったことになる。
これまで、大和政権が主導したとされてきた古墳文化成立に、再考を迫ることになりそうだ。
確認されたのは西都原81号墳。長さ52メートルで、卵形の後円部と短いバチ状の前方部
を持つ「纒向(まきむく)型前方後円墳」と呼ばれるタイプだ。本格的な巨大古墳の登場に先
立つもので、3世紀中ごろまでに造られたとされる奈良県桜井市の纒向石塚などと同じ形。
後円部からは、弥生時代と古墳時代の過渡期にあたる土器が出土した。このため、4世紀
とされてきた西都原古墳群の築造開始も、半世紀前後さかのぼることになる。
纒向型は全国で30例を超えるともいわれるが、南九州での発掘は初めて。南九州は
「地下式横穴」など独自の埋葬文化を持ち、のちに「隼人(はやと)」と呼ばれる人々が中央
政府に反乱を起こすなど、長く中央とは一線を画してきた土地柄だ。
近年、大和政権は全国の有力豪族の連合体だったとの見方もあり、発掘責任者の柳沢
一男・宮崎大教授(考古学)は「南九州の勢力も、古墳文化の成立に参画していた可能性を
考えなくてはならなくなったのではないか」と話している。
宮崎大では夏にも発掘を再開する予定。
引用元:朝日新聞
http://www.asahi.com/culture/update/0518/001.html
788 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 10:51:56
あった
脳内妄想だろ
790 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 09:31:36
どちらにせよ、白村江のあと、九州のみ占領されたのも事実。
791 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 10:08:48
九州王朝説って倭の五王を九州の王者にするとこから出てる。
隋書に阿蘇山が書いてあるのも証拠として出してるんだよね。
じゃあ允恭天皇陵の石棺が阿蘇の溶岩で作られてることはどう
説明するんだろ。藤田友治は近畿の天皇陵に九州王朝の王者が
葬られてる可能性があるなんて言ってるが。俺は理解できん。
>>791 藤田友治説とはズレますが、九州王朝の一地方王権の王者の墓です。
反九州王朝である崇神朝仲哀滅亡後、
九州王朝が畿内に傀儡政権として置いたのが応神朝(畿内王者:九州王朝順位4位の弟王)です。
応神は九州王朝の任をおびて畿内に赴任していますから、
九州王朝内の当時の最大勢力である肥の菊地族出身と考えられます。
ですから、その子允恭が出身地の埋葬形式を取り入れ、
阿蘇の凝灰岩(軟らかくて加工し易い)を使用しても自然なことです。
又その行為は九州王朝に対して忠誠を示すことであったのではないでしょうか。
参考
九州王朝の7弟王:筑紫・出雲・肥・浪速・越・尾張・夷
794 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:43:04
795 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 20:44:25
様式・型式・形式とは何か詳しく教えていただけませんか?
796 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:15:34
797 :
太:2005/07/25(月) 20:37:02
798 :
太:2005/08/10(水) 19:36:26
大和朝廷と九州王朝とは別物なり。
799 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 02:41:55
800 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 22:36:19
九州王朝だの出雲王朝だの吉備王朝だの、いい加減にしてくれ。
ヨーロッパの王朝などに明らかなように王朝という語はそんな用い方はしない
801 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 04:43:32
盲腸食べる?
802 :
日本@名無史さん:2005/09/01(木) 22:38:17
日本書紀は7世紀末の記録さえまともでないようだ。
九州王朝の記録の転記がある。
今日のNHKスペシャルのテレビ番組によると、
684年の南海地震の記録が日本書紀に記述されていが、
同時発生の東南海地震の記録がない。
684年に天皇朝廷が成立しているなら、
当然東南海地震の記述があるべきなのに。
700年以前の事柄の記述である日本書紀は、
九州王朝史書資料から転載で満ち満ちていますね。
聖徳太子もタリシホコの改竄ですね。
803 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/09/02(金) 09:25:40
804 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 01:42:46
ん?今月は九州王朝おやすみ?
805 :
天山:2005/09/25(日) 15:07:03
九州は、何故「九州」というのでしょうか。
中国では、王の直轄地を「九州」というと、何かで読んだ気がしますが。
806 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/25(日) 15:12:27
邪馬台国以後は戦国時代と同じ群雄割拠。
磐井の乱でまとまりましたが負けて
大和朝廷の支配下に入りました。ただそれだけでしょうw
807 :
天山:2005/09/25(日) 16:09:26
地方名で言うならば、
中国や四国のように、九国と言えばいいような気がします。
そういわず、九州というのが気になります。
中州、四州とは言いませんよね。
808 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 19:55:46
天子の直轄領だから九州なのです。
日が昇るところの天子です。
809 :
天山:2005/09/25(日) 20:18:58
天子ですか。王の呼び名の一つですね。
皇、王、天子、皇帝、天皇と、いろいろな呼び方があるようですが、
何か違うのでしょうか。
810 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/09/25(日) 20:53:25
>>805 日本列島の西部島にいた王が支配たので、この西部島を九州と呼ぶ。
この王の支配する国家を「九州王朝」と古田武彦氏提唱した。
>>807 九州を呼び変えるなら九国でなく六国だと思いますが?
筑紫肥豊の前後を分ければ九国とも言えますが?
中国は何に対しての「なかくに」なのでしょうね?
>>806 九州が大和に負けたのは、696年から698年の文武の九州侵攻によってです。
九州は応神期から天武期まで大和を支配していました。
九州が大和を支配できていなかったのは、
仲哀期以前と継体期天智期と持統期以降です。
大和の実質九州支配とみなして良いのは699年となります。
699年以降も九州王朝残存勢力の抵抗があり、
大和の九州完全支配は714年となります。
しかし大和は714年以降も九州西海岸部中部北部の支配はできませんでした。
8世紀になってから、大和の遣唐使の出発港が薩摩半島の西海岸に変ったのは何をものがったっているのでしょうか?
811 :
天山:2005/09/25(日) 21:23:42
新羅に統一されるまでは、朝鮮半島もいくつも国があったのですから、
隣の日本列島にも、いくつも国があったのではないでしょうか。
九州だけでも、統一前の百済や新羅と同じくらいの大きさだと思います。
そうすれば、中国地方や、近畿地方、関東地方、東北地方、北海道にも
それぞれ国があってもおかしくないと考えます。
812 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/09/26(月) 00:07:49
>>811 北日本や東日本の国についてはほとんどわかりませんが、
西日本ついては次のように考えられます。
西日本は西から順番にゆるい連合国家を形成していったのではないでしょうか。
「出雲」から日本海岸一帯に支配が始まり、
ついで「筑紫」が「出雲」を支配下に、
5世紀になると「肥」が権力を握り「筑紫・出雲」はその傘下に、
浪速は九州遠征軍により応神朝として九州傘下に、
越もこの頃出雲時代以来で再度西日本連合体の傘下に入る。
次いで「尾張」と「夷」も順次傘下に入っていった。
つまり「筑紫」「出雲」「肥」「浪速」「越」「尾張」「夷」による7ヶ国連盟国家です。
盟主は最初は「出雲」、次いで「筑紫」、5世紀になり「肥」となり、
継体軍の九州侵攻による敗戦で「筑紫」は「肥」に代わって復権する。
「浪速」は継体の死後欽明により連盟に復帰。
その後盟主の地位は7世紀末まで「筑紫」になる。
その他の国々は上記7ヶ国の傘下に其々あったと思われます。
九州王朝の最大地域の北辺は福島県海岸部、栃木県と新潟県と思われます。
中心地
出雲:島根県出雲地方
筑紫:北九州沿岸福岡市近辺
肥 :熊本県菊池地方
浪速:大阪府大阪湾岸
越 :福井県嶺北地方
尾張:愛知県尾張地方
夷 :埼玉県南部
813 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 01:34:48
これは、筑紫舞の背景そのものではありませんか!
814 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/09/26(月) 22:13:36
>>812 20年近く前に、筑紫舞翁舞の3人立・5人立・7人立を知った時の驚きを思い出します。
815 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/09/26(月) 22:15:44
>>814の訂正
>>813 20年近く前に、筑紫舞翁舞の3人立・5人立・7人立を知った時の驚きを思い出します。
816 :
天山:2005/10/06(木) 23:42:11
東アジアの中心は中国。夏、商(殷)、周、春秋、戦国、秦、漢、魏蜀呉、
晋、南北朝から隋、唐と続く歴史の中で、日本列島がその影響下にあった
のは当然と考えられますが、日本は、どのように中国、朝鮮半島と対して
きたのでしょうか。
817 :
天山:2005/10/12(水) 00:20:55
日本列島は、中国、朝鮮半島の先に浮かぶ島国。
中国で、国がない時代から、尭、舜という五皇の時代となり、
ウが夏王朝を開き、以後商(殷)、周と、紀元前の2千年の間に
3つの王朝が交代しました。それぞれが600年間、長いですね。
革命=王朝交代が起こるたびに、旧王朝の人々、
その外の我慢できない人々は、
新しき天地を求め、朝鮮半島さらには日本列島を
目指したのではないでしょうか。
とすれば、朝鮮半島や日本列島の人々が中国大陸の人々に、
全面的に協力的ではなくなるのは当たり前のような気がします。
まして、中国大陸からよりも、他の地域から日本列島に住み着いて
いた人々がいたとすれば、なおさらのことと思われます。
818 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/14(金) 19:13:03
久しぶりにおじゃまします。いや、邪馬台国スレに書きこまないのでしょうがなくたここにきたというわけではありません。
やはり、ここのスレに最適の質問だとおもいますので。
いや、実につまらないわかりきったことかも知れませんが、何分初心者なもので。
チョットした質問なのですが、筑紫を「つくし」と発音するのと、「ちくし」と発音するのがありますが、
両者は同じなのでしょうか?それとも「つくし」は九州全島で、「ちくし」は主に福岡県のことなのでしょうか。
馬鹿馬鹿しい質問ですが、何故か急に気になったものですから。
819 :
鵜野森の住民:2005/10/14(金) 19:48:16
>818
「ちくし」が原音。読みを知らない外部の人間が「筑紫」の文字を
読み間違えたのが「つくし」。
「筑紫の日向」にある「日向」を宮崎県だと言いくるめるために
出てきたのが「筑紫=九州島」論。
よって、「つくし・ちくし」論と「福岡県・九州島」論は連動しない。
820 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/14(金) 22:55:03
うーん、
筑紫と言う漢字表記はヤマト政権もしくは大和朝廷の人でよろしいでしょうか。
821 :
鵜野森の住民:2005/10/14(金) 23:01:39
それは知りません。
大和朝廷でも「竺紫」という表記をしているようだし。
822 :
天山:2005/10/15(土) 22:39:35
縄文晩期、稲作の到来により時代は弥生時代と進化した。
世界が、約1万年前に狩猟文化から農耕へと姿を変えたのに遅れること
7、8千年である。
稲作は九州から日本全国に広まったことは知られている。
となれば、九州に稲作農耕文化の華が開き、
国家、王朝へとつながったのは自然なことではないでしょうか。
豊葦原の瑞穂の国とは、稲作文化の王国では?
823 :
平四郎:2005/10/15(土) 22:52:30
>>822 稲作が九州から東へ伝わったとしても、
国や王朝迄東にとはならないだろう。
国や王朝に発展するには、プロセスがあり 地域によってその経過時間も異なるのではないか!
824 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/16(日) 08:20:52
つくしはちくしの転訛か間違いということで決着のようですね。ごくろうおかけいたしました。
825 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/10/16(日) 08:30:49
水稲稲作の到来によりです。水稲稲作は2、3千年前ですが、畑作はそれ以前であり、
世界に遅れたことはありません。そもそも縄文人が日本に到来したときには、農耕の技術をもっていたのではないでしょうか。
826 :
天山:2005/10/16(日) 21:05:15
縄文人は、いつごろ、どこから、日本にやってきたんでしょうか。
827 :
平四郎:2005/10/16(日) 22:18:40
>>826 縄文人も旧石器人も
元々日本に居たんですよ
828 :
シバザクラ:2005/10/17(月) 22:18:27
ということは、縄文人は旧石器人が進化したということですか。
829 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/18(火) 23:03:12
<< 縄文人は、いつごろ、どこから、日本にやってきたか >>
前氷河期に海水面の下がった東シナ海平原に住んでいた人々が、
前氷河期から現間氷期の気温上昇海水面上昇と共に、
前氷河期の到来と共に樺太から日本列島に南下して来た、
日本列島全体に先住していたアイヌ沖縄人を南北に分断しながら、
日本列島西部から日本列島を東進して行きました。
それが縄文人です。
彼らは広葉樹林文化を持った海洋民で、
日本列島北海岸(日本海側海岸)を東進北進して行ったのです。
彼らは、前氷河期の紀元前110世紀には、
東シナ海平原から未だ九州西岸にまでしか進出していませんでしたが、
気温と海面の上昇と共に紀元前60世紀には、
縄文土器を携えて日本の東北地方まで進出したのです。
彼らの特徴は広葉樹林文化と縄文土器を携えた海洋民であることです。
紀元前60世紀の気温上昇時には西日本は照葉樹林化し、
縄文人の主な居住地は日本列島の東部と北部となりました。
後に、その西日本の空白地の特に低湿地に進出してきたのは、
水稲技術(単なる稲作技術ではない)を持った弥生人でした。
なお低湿地に住まない縄文人が、弥生人進入時には既に取り入れていた稲作技術は陸稲技術です。
>>822 日本で稲作は6000年以上前から行われているんだが。
とっくの昔に稲作と弥生時代のリンクは切れてる。
831 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/22(土) 18:08:48
>>830 >日本で稲作は6000年以上前から行われているんだが。
−−陸稲種の稲作技術
>とっくの昔に稲作と弥生時代のリンクは切れてる。
−−水稲種の稲作技術
>>822 >稲作は九州から日本全国に広まったことは知られている。
> となれば、九州に稲作農耕文化の華が開き、
> 国家、王朝へとつながったのは自然なことではないでしょうか。
> 豊葦原の瑞穂の国とは、稲作文化の王国では?
−−ここで言う稲作とは水稲種の稲作技術ですね。
832 :
天山:2005/10/22(土) 22:01:30
旧石器人というのは何万年前の人たちですか。
現在の人類は、5万年前にアフリカから広がったことが確認されています。
ネアンデルタール人は2万年前に滅亡したようです。
日本列島に、現生人類、ホモサピエンスがやってきたのは、
約1万2千年前と聞きましたが。
833 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/23(日) 01:20:32
ホモサピエンスが日本列島に来たのが1万2千年前とは新過ぎますね。
縄文人が最初のホモサピエンスではないでしょう。
東アジアでは従来の旧人(ネアンデルタール人ではない)に、
ホモサピエンスが混血したのではないでしょうか。
北京原人以来の東アジア人特有のシャベル型門歯がうまく説明できます。
ネアンデルタール人は知能は高くとも発音が不明瞭で現世人類と交流できずに滅ぼされましたが、
東アジア旧人は現世人類とそれほど変わらない能力があり、混血出来たのではないでしょうか。
日本での新石器人となると1万2千年前となりますが。
東アジアでは、ホモサピエンス=新石器人ではないと思います。
834 :
天山:2005/10/25(火) 23:12:41
ホモサピエンスとホモエレクツス達、
すなわち現生人類とネアンデルタール人の混血、交配は
DNA鑑定分析研究の結果、
なされていない又は現在まで続いていないとの結論と聞いています。
ロバと馬の混血のラマと同じようなことも考えられます。
つまりロバと馬の合いの子のラマは生まれても、
次の世代となる、ラマの子は生まれない。
それは、ラマには生殖能力がなく、子孫ができないためであるとのこと。
835 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/10/26(水) 18:07:22
>>834 >DNA鑑定分析研究の結果、なされていない又は現在まで続いていないとの結論と聞いています。
このネアンデルタール人はヨーロッパに生息した人達ではないのでしょうか?
ネアンデルタール人のDNAは採取に成功したのですか?僕は知りません。
骨格の構造的にはヨーロッパネアンデルタール人の遺伝子が現世人類に引き継がれているとは考えにくいですが。
@ホモエレクツス=直立原人(100万年前〜30万年前に生息?)
Aホモネアンデルタールス=ネアンデルタール人(40万年前〜5万年前に生息?)
Bホモサピエンスネアンデルタールス=ネアンデルタール人(10万年前〜3万年前に生息?)
Cホモサピエンスサピエンス=現世人類(10万年前〜3万年前〜現在に生息?)
BとCの外見的な個体比較ではバラツキの中にあるので、殆ど異差が無いと思います。
(集団での比較をすれば異差がありますが。)
DNA的にはAとCでは馬とロバのラバとの関係なのかもしれません。
東アジアの5万年前〜2万年前の旧石器だけでなく人骨が沢山出土してほしいですね。
そうなれば、同時代の東アジア人とヨーロッパネアンタール人の違いがわかる様になるのですが。
現世人がネアンタール人より優れていたのは何なんでしょうか?
「言語能力」と「長距離歩行能力≒繁殖能力(出産能力)」では無いかと思います。
836 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 18:22:11
琉球王朝の建築技術と日本の建築技術の違い。
837 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/11/01(火) 05:01:21
>>836 >琉球王朝の建築技術と日本の建築技術の違い。
ん? 何のこと?
838 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 13:30:57
>836は他スレに書き込んだつもりの「誤爆」でしょう。
大好きさんの学識に感動age
840 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 02:17:46
389 60代のおじさん ◆I.THkUKc4Y
[email protected] 2005/11/11(金) 12:41:00 0
>>322 >60代のオジサマ♪
>三時間でに三回もできるなんてステキ!
>ぜひ一度お会いして、エッチしてみたいのですが♪
>ぜひ!
>>363 >60代で一晩三回もヤレる人がいるなら、ぜひお目にかかりたい。
>お願いだからやらしてちょ!
からかうものではありませんよ。
ぼくの好みの女性であることが条件です。
7年前迄は、途中でふにゃチンになって1回もできなかったこともあるのです。
それ以来、ファムに感謝しています。
841 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 02:20:45
480 60代のおじさん ◆I.THkUKc4Y
[email protected] New! 2005/11/12(土) 00:21:16 0
>>470 >清楚な女がオジサンにはウケルみたいですが、エロイ女はダメなんですかね?
>メールとかいつもエッチな内容になっちゃうし、デートでも逢ったらすぐにエロエロモードになって、
>抱きついてベタベタして、すぐにセックスになっちゃうんですけど。
「昼は淑女、夜は娼婦」って言葉が昔からある。
それと同義。
842 :
某不倫板では、完全にゴキブリ扱いですがw:2005/11/12(土) 02:24:36
843 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 02:26:01
844 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 02:32:00
尊敬する気が失せた・・・
845 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 02:48:46
>>844 そもそも尊敬していたというのが、最初のボタンの掛け違えです。
846 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 02:54:30
378 60代のおじさん ◆I.THkUKc4Y
[email protected] 2005/11/11(金) 02:06:43 0
>>359 >60代のおじさんてファムは2ちゃんやってること知ってるの?
知っていますよ。
でもココだけじゃないですからね。
この板より他板の方へよく行っています。
よく行く板は、日本史、株式、市況1、車種・メーカーです。
そこでもコテハンで書いていますが叩かれることは殆どないですよ。
ぼくが立ち上げたココより古い継続スレもあります。
まあ
他スレは他スレで関係ないな
848 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 15:27:25
599 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/09/29 20:38
>>598 経験の無い子だね!初序ですか?男は逝く時に思わず声が出るもの。出ない時もあるが。
706 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/11/30 01:38
>>695>シックスナインってなんですか?
誰も答えていないので、答えます。69の形で準備作業をすることです。○が頭です。これで解からなければ、他板に逝ってヨシ。
716 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/06 18:26
>>715 30以上の年齢の女性のあえぎ声っていいですなぁ。
718 :50代せんのおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/06 21:41
>>717 他の女性は知らないですが、ぼくの知っている女性は、喘ぎ声がとまります。その時に叫ぶ女性っているのですか?
727 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/20 22:10
>>725 声が止まる以外に、もだえが止まります。涙があふれます。汗をドッとかきます。よく締まります。
849 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 16:10:41
20 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y :04/03/27 13:35
50代前半の話ですが、
チンコをにぎりながら眠る娘がいました。
微妙なにぎりかたで、20分もするとキンキンに張ってきます。
キンキンになると目覚めるようで、
3時間で4回しましたが、4回目は体力が持ちませんでした。
あの時は、キンキンのままダウンしましたね。
女性に聞きます。あなたの彼は、何時間に何回(写生回数)が最高ですか?
25 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y :04/03/28 01:01
ぼくはできます。
ぼくの場合、回復時間は10分ほどです。
それよりも、体力(運動耐久力)が続きません。
フェラや騎上位なら、1時間に3回可能です。
普段はそのようなことはしません、ファムがかわいそうです。
27 :名無しさんといつまでも一緒 :04/03/28 04:26
>>25 うそこき!!見栄はってんじゃないよ〜。
笑っちまうね。ぷーっ・くすくす〜・・・・。
850 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 16:12:25
44 :還暦のおじさん ◆I.THkUKc4Y :04/03/28 15:31
>>39 50代の男はみんなスケベですよね。
裏にまわれば。
勿論その男と付き合っている女も。
女は「愛」と言うオブラートで包み込むので自覚できないだけですね。
ぼくも20代の娘がいますが、知ったら軽蔑されるでしょうね。
まあ
あま
852 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 02:20:44
491 :60代のおじさん ◆I.THkUKc4Y :2005/11/12(土) 01:57:23 0
2ちゃんの叩き・煽りは楽しいので気兼ねなく。
218 :60代のおじさん ◆I.THkUKc4Y :2005/10/12(水) 19:59:03 0
上記の流れもわからなくてガタガタ書き込むな。
2ちゃんの叩き・煽りは楽しいので気兼ねなく。
ガタガタ書き込むな。
2ちゃんの叩き・煽りは楽しいので気兼ねなく。
ガタガタ書き込むな。
2ちゃんの叩き・煽りは楽しいので気兼ねなく。
ガタガタ書き込むな。
853 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 02:24:22
↑人は彼らの語るカキコの事を基地害と呼ぶ。
854 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 02:26:52
変な嵐が来てるスレに書き込むのもなんだけど
筑紫についてなんだけどさ
今山製石斧の分布がぴったり筑前・筑後の範囲と重なるんだよ
石斧ってどう考えても弥生時代じゃないからさ
縄文時代に既に筑紫を統べる権力があったと思うんだな
すると九州王朝の起源は縄文まで行くわけだよ
855 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 03:03:26
ひょっとして、九州王朝初期の主体となったアマ族(安曇族)が
後に征服するその前の豊かな社会が、今山製石斧の分布社会
だったんじゃないだろうか?
856 :
シバザクラ:2005/11/15(火) 10:42:20
スレ違いなしつもんですが、(ほかの所に書いたがだれもこたえてくれなかった)
なぜ済州島は倭ではないのでしょうか。倭は海峡で発生したと言う説から考えると、対馬壱岐が倭なら、済州島も倭でいいとおもうのですが。
狗邪韓国も勢力下においた九州王朝も済州島には無関心だったのでしょうか。
857 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 15:04:43
済州島は倭人の島でしょう。でも
済州島は倭国ではありません。
鉄が採れたわけでもない済州島には
当時さして利用価値がなく、国境の概念が薄いから。
858 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/11/15(火) 21:56:39
倭国の発祥地の対馬から中心地は壱岐、九州北沿岸、筑紫平野へと中心地は移動しましたが、
済州島は韓地の海流の上流になることから、韓地とのつながりを深めたのではないでしょうか?
韓国の建国神話に西方海上の女王が来て国家の礎が成立したとありますが、
この女王は対馬島ではなく済州島から来たものと思います。
この女王が韓地にもたらしたものは韓地の新しい経済基盤となる水稲であると推測しています。
これら海峡の島々や韓地沿岸と九州北沿岸に住んでいたのは中国大陸からやってきた
水稲技術を持った漁労民で、倭人として成立していったと考えるのが自然です。
狗邪韓国は時代が下がり九州倭国が改めて韓地倭人と手を結び鉄を求め勢力を伸ばした時代です。
その時から経済的価値(鉄の交易ルート)のない済州島は倭国の歴史に登場することが無くなったのでしょう。
859 :
シバザクラ:2005/11/16(水) 07:44:52
済州島の件ありがとうございました。
今でも済州島の人の遺伝子は半島の人と違うらしいね
861 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 19:57:26
>>856 そもそも、倭の領域の線引きを誰がしたのですか?
済州島が韓伝に書かれているなら「韓」であり、倭伝に書いてあれば「倭」です。
どちらにも書いて無ければ、知らない島ですよ
862 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 00:37:14
853 :日本@名無史さん :2005/11/15(火) 02:24:22
↑人は彼らの語るカキコの事を基地害と呼ぶ。
基地外カキコのわかりやすい例↓
311 :60代のおじさん ◆I.THkUKc4Y :2005/11/09(水) 22:08:29 0
>>305 このスレに何回か書いたれど、2時間あれば3回OKね。
3回は出来る50代男はそんなに珍しいものではない。
とソープ姫に聞いたことがある。
ファムとの宿泊デートでは夜3〜4回朝1回は標準コース。
863 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/11/17(木) 19:57:53
>>854 >縄文時代に既に筑紫を統べる権力があったと思うんだな
>すると九州王朝の起源は縄文まで行くわけだよ
筑紫の縄文時代は猿田ヒコ以前になるから、
九州王朝の起源とはならないよ。
864 :
太:2005/11/23(水) 21:20:45
教えてあげよ。九州王朝の起源は崇神天皇の御世のころなんだよ。
865 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 15:24:28
記紀により年代改竄済みの畿内天皇名で、時代表記しないでください>864
桃太郎が鬼退治したころ、なんて言っているのと同じようなもの。
866 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 15:50:06
新唐書の
「次は海達。次は用明、また目多利思比孤といい、隋の開皇末に、初めて中国と
通じた。次は崇峻。崇峻か死ぬと、欽明の孫娘の雄古(推古)が立った。次は舒
明、次は皇極」
というのは本当ですか?
用明が多利思比孤だったということでしょうか。
867 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 18:36:53
則天武后=武則天以降、日本と唐との協定で、
九州王朝はなかったことにした。
そのため、ひどいツギハギができてしまった。
868 :
太:2005/11/25(金) 14:23:42
>>865 何をおかしなことをぬかしてるんだろう?九州王朝はおおむね
崇神〜文武、元明元正 の御世、この間畿内皇朝と並立していたのが正なのだ。
俺はお前さんの迷宮困惑の、古代史の時間の狂いは無いのでな。
869 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 17:52:50
自覚症状全然ないってことね
今日も元気だ!ヤクルト一本!
870 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 20:19:00
>868
ずいぶん勘違いされてますね。
天武以降は九州王朝の実態はありません。
持統は九州王朝の残党狩りをして、
ほぼ討伐完成したのが文武即位ごろ。
871 :
太:2005/11/25(金) 20:25:12
>>870 貴下の言うのが正解の可能性あることは周知です。
そこはおおまかで言っています。文武までとすべきですが余韻をもって
説明したものです。あなたは勘違いと言っているが、説明が相対的な
もので誤差がでかいというか小さいというか見方により流動的的です。
貴下のは厳しい考察ですな。w
872 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/11/26(土) 13:48:36
>>870 >天武以降は九州王朝の実態はありません。
>持統は九州王朝の残党狩りをして、
>ほぼ討伐完成したのが文武即位ごろ。
文武以降は九州王朝の実態はありません。
文武期はかっての九州王朝は一地方勢力となる。
元明は一地方勢力に成り下がった九州王朝の残党狩りをして、
ほぼ討伐完成してした事業が古事記の編纂。
討伐完了によりした事業が日本書紀の編纂。
続日本紀によると、畿内朝廷が九州王朝を攻撃したのは695〜697年で、
その九州征服により九州王朝を倒し文武が即位出来きるようになった。
しかし698年以降も九州王朝の残存勢力は九州でまだ地域的には抵抗していたと見られる。
その地域勢力としての九州王朝が畿内朝廷に屈服した時に編纂開始をしたのが古事記である。
その後、政治勢力としての九州王朝残存勢力が壊滅したときに編纂開始をしたのが日本書紀である。
以後残存九州王朝の勢力は野盗の扱いとしたと続日本紀に書かれている。
残存九州王朝勢力が、地域政治勢力ではなく、野盗とみなされるようになってから、
畿内朝廷の遣唐使は残存九州王朝勢力下の九州北西部海岸から出発できず、薩摩西海岸からの出発帰着となった。
九州北西部海域(残存九州王朝勢力支配海域)に船が流されずに出発帰着ことは航海技術上非常に困難である。
遣唐使は九州西北部海域を避けるため、南よりの航路を選ぶが故に遭難し沖縄に漂着したりするのであった。
873 :
太:2005/11/27(日) 20:14:47
本来的には、九州王朝は 崇神〜文武 の間ですが、±α の時間の変動が出ます。
九州王朝なんてゆうな。一つの国に畿内と九州と二つ王朝(政権)が
あったみたいじゃないか。九州王国と言え。畿内とは関係ない独立国なのだ。
875 :
太:2005/11/27(日) 20:27:09
天皇と将軍との関係まではなっていませんが、それと共通する処で解釈されたい。
だから王国よりまだ幕府の言い方のほうがいいと思うが、馴染まないので
ここはそれまでとしたい。
え? どっちかがどっちかの臣下だったってこと。
当然ヤマトが臣下だよね。
それとも「王国よりまだ幕府の言い方のほうが」てことは
つまり九州幕府と言えと。つまり九州のほうが下だったってこと?
877 :
太:2005/11/27(日) 20:58:42
だから共通しない個所をことさら強調しても仕方ないですな。考え杉。
878 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 21:00:25
この文を見たアナタ!!超Aラッキー★☆
この文を4ヵ所に張ると幸運が!!でも、張らなければ、悪運が。。
幸運とは★☆いきなり、好きな人から告白され、超ラブAになる!
いきなり、お小遣いがドンA入ってくる!!
嫌いな人が離れていく!!!
友達が今、以上に増える!! などなど、ハッピーな事たくさん!!
しかし、張らなければ。。。
悪運とは。。。
友達が離れていく。。 好きな人が遠くへ行く。・・・全文
>>878 それ本当だろうな
自信有るんだったらまず、保証金100万ほど積めや
話はそれからだ
880 :
九州にしか王朝はありませんでした:2005/11/28(月) 20:43:06
>874
8世紀以前に、畿内に王朝などなかったわけだが。
881 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 22:59:23
884 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 17:52:10
蘇我氏の蘇は「阿蘇」の蘇?
885 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 18:30:30
菅原(蘇我原)の蘇
886 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 18:31:16
出鱈目言ってんじゃねーぞコラ!
887 :
ヒロヒト:2005/12/09(金) 18:47:46
「あっそう」
隋書でイ妥国が儀式を行う場所=阿蘇にちなんだ、深遠なことば
888 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 19:59:49
推古天皇の墓の石が阿蘇の石だとのことですが
599 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/09/29 20:38
>>598 経験の無い子だね!初序ですか?男は逝く時に思わず声が出るもの。出ない時もあるが。
706 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/11/30 01:38
>>695>シックスナインってなんですか?
誰も答えていないので、答えます。69の形で準備作業をすることです。○が頭です。これで解からなければ、他板に逝ってヨシ。
716 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/06 18:26
>>715 30以上の年齢の女性のあえぎ声っていいですなぁ。
718 :50代せんのおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/06 21:41
>>717 他の女性は知らないですが、ぼくの知っている女性は、喘ぎ声がとまります。その時に叫ぶ女性っているのですか?
727 :50代のおじさん ◆I.THkUKc4Y:03/12/20 22:10
>>725 声が止まる以外に、もだえが止まります。涙があふれます。汗をドッとかきます。よく締まります。
892 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 21:16:25
>888
阿蘇の石でできたやつは、ほとんど下っ端のもの。
畿内の大王クラスは例外。
893 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/11(日) 22:09:57
>>888>>892 阿蘇の石でできた墳墓は、肥の菊池の下っ端のもの。
菊池の王者(九州王朝弟王)は、倭五王や磐井等。
欽明は九州王朝の畿内継体朝を征服派遣の司令官で菊池の下っ端出身。
その子推古の墓は阿蘇の石で当然。
同様なケースは崇神朝仲哀を滅ぼした九州王朝畿内派遣応神朝にもある。
894 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 00:01:17
>>893 阿蘇の石はピンク色だから、
値打ちがありそうに思えるのですが。
わざわざ阿蘇から畿内に運ぶというのも。
関係ないけど、
蘇我氏は翡翠を専売していたそうですね。
895 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/13(火) 22:11:44
>>894 蘇我氏の翡翠専売はともかく。
当時九州王朝王朝の墳墓様式を取り入れることが重要だったのでしょう。
九州王朝の兄王は宗教的な色彩が強い最高の大王ですから、
その大々王に即ち九州王朝に忠誠を示す意味で、
石棺に阿蘇の凝灰岩製を使うことが重要だったと考えます。
九州王朝から畿内勢力征服のために派遣された大王である欽明や応神から3〜4代目の大王ともなれば、
その一人である推古としてはより九州王朝に対する忠誠が必要となったのではないでしょうか。
>>895 とすると、推古のころは九州の顔色を窺っていた・仲良くやっていたのが、
持統くらいで九州をやっつけた、ということでしょうか。
(古田先生の本はまだ読んでいないので、すみません)
自分としては、九州王朝に「日出ずるところの天子〜」とか言える冴えた人物がいて、
その業績を書紀では聖徳太子に乗り移らせたんかいな、とか思ってるんですが。
897 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/14(水) 02:28:32
>>896 畿内王権が九州王朝にはっきりと従わなくなったのは天智からです。
661年から663年の唐戦に畿内軍が参戦しなかったことです。
天智の九州王朝に対しての反乱ですね。
663年白村江戦で九州王朝が唐に破れ、671年迄畿内は独立状態が続きます。
671年唐と九州王朝の和平により、九州王朝天武の畿内天智征伐が壬申の乱になるわけです。
天武の死後持統期には、畿内勢力は力を盛返し、弱体化した九州王朝への軍事侵攻を開始したのです。
九州王朝への畿内勢力の軍事侵攻は3度ありました。
仲哀の侵攻に対して応神の畿内征伐、
継体の侵攻に対して欽明の畿内平定、
天智の反乱に対して天武の畿内鎮圧。
いずれも九州王朝軍主力の半島出兵の間隙を狙って九州に出兵したものです。
又陸戦武力は重装備(木鉄製甲冑)の畿内軍は軽装備(皮製甲冑)の九州軍を上まわるものでした。
九州王朝軍が強かったのは、船による機動力を生かした海上からの上陸作戦のようです。(米海兵隊の様?)
>九州王朝に「日出ずるところの天子〜」とか言える冴えた人物がいて、
>その業績を書紀では聖徳太子に乗り移らせたんかいな、とか思ってるんですが。
そうだと思います。
アメノタリシホコ
法を以て国を治めた人物。元号「法興」を持ち、「天皇」に対し並ぶ尊称「法皇」と呼ばれた。
宗像氏の出身。
>>897 どうも。詳しいところをありがとうございます。
天武が九州側ではないかとは思ってましたが、
そうなるとなぜ日本書紀が、
九州の歴史と畿内の歴史をミックスさせて書いたのかが不思議です。
まったく排除してしまえばそれでいいのに、
(そして「畿内が勝利した」と書けばいい)
まるで一つの王朝の王を、九州と畿内から代わりばんこに出していたかのようです。
899 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/15(木) 01:48:38
>>898 日本書紀にとって天武記は現代史の編纂です。
天武を消し去ることは不可能なので、無理やり天武を畿内人にしたてあげたのです。
九州系である天武がいたからこそ日本書紀において九州王朝を完全に抹消する必要があったのです。
>>899 >天武記は現代史の編纂です。天武を消し去ることは不可能
これは納得できますね。
現代日本が敗戦のことをなるべく教えないようなもんですか。
タリシホコの人物像は厩戸に重ねることができたけれど、
天武の場合はそのまま「天智の弟だった」ことにしたのでしょうか。
書紀で出自などが明らかにされていないという蘇我氏なども、
九州系だったのではないかという気がします。
>いずれも九州王朝軍主力の半島出兵の間隙を狙って九州に出兵したものです。
これは、素人には納得しがたいですね。
横合いから畿内が攻めるとわかっていながら、
半島に兵を出したりするでしょうか。
901 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/15(木) 18:10:47
>>900 >これは、素人には納得しがたいですね。
>横合いから畿内が攻めるとわかっていながら、半島に兵を出したりするでしょうか。
僕も市井の歴史好きの一人ですが、説明します。
@仲哀の九州出兵については九州側の油断があったと思われます。
しかし、九州軍は機敏に反応し玄界灘からの上陸と思われる作戦(夜襲)で仲哀は殺されています。
A継体5世の孫と名乗る継体は、畿内化した武烈を滅ぼした親九州大王として九州王朝の信頼を得ていたのでしょう。
九州王朝からの支援要請があって、軍を九州まで進めることができたのでしょう。
B天智の時も九州王朝の支援要請で九州に畿内軍を進めています。
しかし、663年の対唐敗戦で九州軍の半島からの帰還があり、畿内軍はそのまま何もせず引き上げたようです。
902 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 18:56:08
>>901 >仲哀は、夜襲によりころされた。
仲哀は、神の罰当たりで死んだはず
山田宗睦の『日本の神話』には、仲哀の死に関する説話は、本来、天孫降臨に続くニニギの事蹟を当てはめたものだとあるが
904 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/15(木) 22:23:57
>>902-903 仲哀の死が神罰あるのは文学的な表現にしか過ぎません。
現実は仲哀が野戦陣地で敵の夜襲によって殺されたとは書けません。
完全に隠すべき九州王朝によって殺されたとは、尚更書けません。
現実に人間が一夜で死ぬには、怪我毒病気等であって、神罰ではありえません。
余計な一言ですが。
>>904さん
お邪魔します!
日本版『春秋の筆法』ですね
話を補強し合いそうな、大好きさんとプラムさんの、出会い記念age
907 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 22:46:05
大和武士 に制圧されたらしい。
>>906さん
以前より、『大好きさん』には数々の補足をしていただいており、
私の智恵など足元にも及びません。
単なる、スレ汚しです。
909 :
906:2005/12/15(木) 23:04:47
プラムさんへ
イエイエ、そんなことありません。
お二人とも立派な論客です。陰で応援してますヨ。
何をおっしゃる
>>909さん 「こっぱずかしい」
私は、まだまだ『記紀』を扱えるだけの知識がありませんし、
これからも、ネタ元である中国正史の掘り下げをして行きます。
911 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 19:21:23
出雲王朝の中心地と目される一つ、島根県安来市に
伯太(はくた)とあるが博多と語源が一致するのでは?
912 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/22(木) 18:30:33
おじゃまします。私のいついているスレに、さっぱり訪問者がないのでここにかきこさせてください。
後漢書東夷伝に出ている東テイ人についてのお話をします。「会稽海外に東テイ人あり。分れて二十余国となる。」
古田武彦氏は、彼等の国は近畿地方にあったといっています。他に所を比定した人はいないようです。
それだけ忘れられた人々です。
913 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 18:59:30
>912
でも古田氏はそのあとで、東テイ人は畿内銅鐸圏の人じゃないかも、と言ってます。
914 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 20:34:06
>>913 古田氏は東テイ人南九州説になったんじゃないかな
でも古田氏を応援するアマチュア集団の古参はおおむね
「古田旧説」を支持してるんだよねあらゆる問題で
915 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 21:08:04
壬申の乱では、天智は九州太宰府の栗隈王に天武征伐の使者だして
断られてるね。ということは天武は九州系ではないという証明
のように思うのですが、天智はどうであれ。
916 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/23(金) 00:24:47
古田旧説を支持する古参ですが、
東テイ人は五世紀初頭(垂仁期)に亡んだ畿内銅鐸人だと思っています。
>>915 天武の後援者は義理の父であった宗像氏です。
宗像氏は、タリシホコを輩出し、薩夜摩の唐からの帰還を受け入れるにあたり、
進駐唐軍2000人をも迎え入れた、九州最大の豪族のひとつでもあります。
その宗像氏を差し置いて天武征伐は出来ないでしょう。
917 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/23(金) 11:08:03
三国志魏書韓伝に
(韓には)3種あり、一を馬韓、ニを辰韓、三を弁韓といい、辰韓は昔の辰国である。
後漢書韓伝に
辰韓は東(部)にあって十ニ国ある。
秦の言葉に似ているところがある。そこで或る者は辰韓を秦韓と名付けている。
とあります。
>>917 秦の言葉に似ているってことは騎馬民族系じゃないんですか?
919 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/24(土) 01:19:36
>>916 >東テイ人は五世紀初頭(垂仁期)に亡んだ畿内銅鐸人だと思っています。
すみません。
東鯷人が何処の人達なのかはわかりません。
920 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/24(土) 09:07:25
宋書夷蛮伝・倭国に
興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、
安東大将軍、倭国王と称す。
とあり、辰韓の後裔である新羅と別に秦韓があるところをみると、新羅と秦韓は別個のものである。
となると秦韓はどこかということになる。(どうも辰韓と秦韓と辰国とを混同している面がみられる。)
梁書百済伝に、
その言(葉)には中国(のもの)が混じっているが<(それらは)秦韓の遺俗だといわれている。
とある。
半島中部は楽浪郡がおかれ、中国人が多く住み、中国語が使用されていた。もし楽浪郡の影響
だとすれば、楽浪の遺俗と記すはずである。となれば、ここに言う中国語の影響とは、
の秦韓とは馬韓の北のほうではない。
ある説によると、呉音とは江南地方の言語の百済訛りだそうである。
となれば、馬韓の中国語の影響は馬韓南部に居住していた江南人の影響によるものとなる。
921 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 11:46:56
福岡県西部、佐賀県、大分西部の日田地方には
隈とついた大字が無茶苦茶多いんだが、
七隈、百隈、今隈、横隈、篠隈、大隈、小隈・・
この地がかつて隈背(クマソ)の本拠地であったことは
間違いないと思うのである。
922 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/24(土) 16:41:58
>>921 最初のクマソは吉野ヶ里等をも含めた勢力ではないかと思います。
猿田彦が敗れた後の残存在地勢力がクマソではないかと。
後にクマソは九州内の異敵の総称になったのでは?
923 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 17:39:54
実は今でも、九州は三郡山地の西と東は通訳を介さなければ通じないほど
言葉が違うんです。テレビ放送では字幕が必須となります。
苗字なんかもかなり違います。つまり血縁関係さえあまり無いのです。
古代においてどうだったかわかりませんが、似た感じだったではないでしょうか?
もしそうであればおそらく意思の疎通は殆ど困難であったと思われます。
民族浄化みたいな思考も働いたかもしれません。
旧ユーゴの民族紛争では宗教だけでなく、言葉の違いが根底にあるそうです。
オスマントルコが両民族の言葉を統一出来なかったことが、あの大虐殺を
生んだと考えられています。
古代、中世を通じて似たようなことがあったように思えてなりません。
924 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/25(日) 08:29:42
古代において半島の南部には倭人が居住していたようであるが、済州島の住民の例でもわかるように、倭人の範囲は主に
東側三分のニぐらいであったようである。
神功皇后が任那、加羅、上タリ、下タリ、サ陀、ムロ、コモン、タサの地をえたが、これらは、馬韓の南半分を含むものであった。
紀の記述をみても、またその後の百済倭国関係をみても、この地を百済とあらそった気配はみえない。
つまり、皇后の当時、百済はまだ馬韓の南半を支配していなかったのである。
925 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/26(月) 08:49:04
話しはかわって、論衡という書に、「周の時天下太平、越裳白雉を献じ、倭人チョウソウを貢す」「成王の時、
越裳雉を献じ、倭人暢草を貢す。」とある。
また、晋書武帝紀太康十年十ニ月に「東夷絶遠三十余国西南夷二十余国来献す」とある。
周の時代と晋の時代はかなりはなれているが、両者はセットになっているようだ。
東夷絶遠とは、倭人のことであろう。とすると、越裳とは西南夷ということになる。
越裳とは、越の字から中国南部か江南地方とみられているが、半島の西南部には、
江南からとみられる、遺物や遺蹟がみられるという。
もともと越人とは海洋民族であり、太古の時代から東海にのりだし、半島や倭に到来
していたものとおもわれる。」
そのうち半島西南部に居ついたのが越裳とよばれたのではないだろうか。どうも越裳
と倭は隣接していたようである。
926 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/26(月) 12:32:35
上記のセットのところに、
遠くはなれた東夷と西南夷がしめしあわせたように、貢献できるであろうか。
両者は隣接した状態ではなかったろうか。
を入れてください.
927 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/27(火) 08:38:10
東夷絶遠三十余国とは後漢書東夷伝倭の「使駅漢に通ずる者三十許国」であろうから、
晋書武帝紀の東夷三十余国の東夷とは、倭国のことである。
また、「義煕起居注」倭国、チョウヒ、人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜う。(『太平
御覧』香部一、麝条)とある。ここで倭国は人参(朝鮮人参?)を献じている。これこそ
周の時代に貢したという暢草であろう。つまり倭人はかつて半島南部に居住し、周に人参を献じたことが
あり、それをもとに、晋に人参を献じたのである。
白雉を献じた越裳とは晋書の西南夷のことであろう。
そしてその二十余国とは、後漢書東夷伝にある「会稽海外に東テイ人あり、分れて二十余国となる。」の
東テイ人であろう。
東テイ人に楽浪云々としなかったのは、この地が越の本拠である会稽の向いであり越人が住み、江南と通交していたからである。
928 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/27(火) 08:53:04
思えば、今から三十年前、古田武彦氏の著書で東テイ人を知り、今ここに東テイ人を
発見することができた。実に長い道のりであった。
929 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:22:43
257 :日本@名無史さん :2005/12/28(水) 01:08:54
●土器と貿易●
琉球で確認されている最古の土器は、爪型紋土器と呼ばれ、約7000年前のものである。
爪型紋土器は九州の縄文文化が伝わってつくられたもので、藪地洞窟遺跡、渡具知東原(とぐちあがりばる)遺跡で発掘されている。
また、縄文時代前期に本土でつくられたと見られる土器が出土していることから、この頃は九州と行き来があったようである。しかし縄文時代中期になると、
九州では山岳系の人々が権力を
握ったため海洋貿易は行われなかったらしく、輸入品らしきものは出土しない。後期は南部の影響力が強かったが、晩期には九州の影響は色濃く見られる。
山岳系の人々が権力を
山岳系の人々が権力を
山岳系の人々が権力を
258 :日本@名無史さん :2005/12/28(水) 01:17:01
というわけで、黒潮インドネシア文化圏は
ここでも崩壊っと。ボロボロだなあいつの説。
930 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:29:10
王朝・・・・・・・・・?
琉球王朝・・・・・ほか仮説があるのか?
立証できる仮説を称えた学者がいるのか?
931 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:53:32
要するに琉球は縄文前期に九州人が移住して先住の
湊川原人駆逐、融合した。
中期は交易がなされず、
晩期から弥生期に九州地域と交易再開したってことでは。
琉球の交易品から九州あるいは本州の権力動向が垣間見える気がする。
中期は山岳系が力をもち狩猟に精を出し、シカなどを乱獲し
生産力が低下。
その後、漁労系や商人の権力が増し内陸部では農耕に以降していった
というような感じじゃなかろうか。
シカ崇拝やシカ骨占いは縄文中期頃の風習の名残なのかもしれない。
932 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:58:46
立案できるだけのソースがあるのか?ないのか?どっち
933 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/28(水) 12:37:16
あのう、東テイ人馬韓南部説はいかがなのでしょうか?
934 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 13:46:30
現在そのあたりは未消化な部分でコメント出来かねます。
935 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/29(木) 19:54:06
世界歴史地図を見たら、漢が朝鮮をほろぼして置いた四郡のうち真番郡は、馬韓南部になっていました。?がついていたけれど。
秦韓の秦は真番郡の真からきたのか?
936 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/11(水) 20:04:03
937 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/11(水) 20:10:36
938 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:27:27
漏れは東日流外三郡誌の一件以来古田が出した九州王朝説には懐疑的
ガイシュツだがこんな話もあるしね
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm これは漏れの想像だが当時大和朝廷以外にも九州にも東北にも
大王はいたと思う。そして大和朝廷は九州の大王の一人が一旗上げようと
近畿に東征した。これが神武東征。先住民の協力を得て近畿の大王であるナカスネヒコを倒し
王朝を作った。これが大和朝廷の始まり。九州の大王はおそらく地理的条件から
中国とか半島と交流できたのだろう。ところが磐井の乱やらなんやらで
衰退して結局畿内王朝に併合されたのだろう。名前は忘れたが道後温泉の
石碑は道後温泉にいた大王の事を指しているのでは?
法皇とか名乗ってたけど当時大和朝廷以外にも大王はいたわけだから
大王がどう名乗ろうと勝手だったわけだし。もっともここの大王も
大和朝廷に併合されたのだろう
939 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/23(月) 12:17:45
>>938 >漏れは東日流外三郡誌の一件以来古田が出した九州王朝説には懐疑的
東日流外三郡誌の一件については同じくです。
九州王朝説=古田説=東日流外三郡誌説は間違い。
九州王朝説≠古田説=東日流外三郡誌説です。
古田は、「九州王朝」の言葉を作り出した人であり、九州説の有力なone of them。
>九州の大王の一人が一旗上げようと近畿に東征した。これが神武東征。
神武は将来に希望が持てなくなった北部九州糸島の小集団の一員。
>先住民の協力を得て近畿の大王であるナカスネヒコを倒し王朝を作った。これが大和朝廷の始まり。
先住民を騙して、奈良盆地南東部に一画にやっともぐりこんだ。
>磐井の乱やらなんやらで衰退して結局畿内王朝に併合されたのだろう。
白村江戦に敗れ、唐に占領されたことにより、
唐の従属政権となった九州王朝の天武(討伐隊長)が東征。
(天智は九州王朝の反唐派リーダー。対唐敗戦により志賀の海に面した大津に首都移転か?)
>名前は忘れたが道後温泉の石碑は道後温泉にいた大王の事を指しているのでは?
>法皇とか名乗ってたけど当時大和朝廷以外にも大王はいたわけだから大王がどう名乗ろうと勝手だったわけだし。
法皇はタリシホコ(法興の元号を持つ)のこと。
法皇:九州王朝弟王(法で治める実務の大王)
天皇:九州王朝兄王(神により治める宗教的大王)(祭=政:マツリ)
>大和朝廷に併合されたのだろう
九州王朝を併合したのは文武。
古田を弁護も攻撃もする気はないが、
>>939 >東日流外三郡誌の一件については同じくです。
なんでそう思うの?まさか山本弘と同レベルの根拠じゃあるまいね?
941 :
筋違い:2006/01/25(水) 11:29:42
東テイ人馬韓南部居住説について
サガミハラハラ氏は、上記について論衡をひいて説明しているのでそのことについて一言。
周の時代に倭人や越裳が貢献したとすれば、殷の時代にすでに越人は半島に移住していたことになり、時代的にはやすぎるようだ。
漢書王莽伝に
「大后統をとること数年、恩沢洋溢し、和気四塞せり。絶域・殊俗、義を慕わざるはなし。
越裳氏は重訳して白雉を献じ、黄支は三万里より生犀を貢し、東夷の王は大海をわたりて国珍を
奉じ・・・」とある。ここに再び越裳が出てくる。
論衡は後漢の王充の著である。岩波文庫の魏志倭人伝p18に、論衡等をあげて、「これらを周代の倭人に関する知見ちはかんがえられぬから、まず、西暦起源前後に、中国人の倭人にかんする
ほぼたしかな記事があらわれたとみるべきであろう。」とある。
となると、論衡の記事の、成王等の年代はでたらめであり、漢の時代のことであるということに、ならないだろうか?
そうすると、考古的にもピッタリくるようである。
勿論これは年代のみの問題であり、馬韓南部に東テイ人が住んでいたことを否定するものではない。
942 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/25(水) 23:09:22
>>840 伊勢神宮の星マークはユダヤ人がもたらしたものだとは思いません。
943 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:13:34
村上水軍
944 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 13:07:52
>>942あのマークはある華族(だったか)の方が、面白半分というか深く考えずに奉納し、
神宮は意味がわからず飾ったということです。奉納した方はそのことで上司にこっぴどく叱られたということです。
945 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:47:57
>>939 レスサンクスコ
つまり九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Yさんは古田が言う九州王朝一元説ではなく
朝廷が九州と畿内にがあったと言いたかったわけね。だとしたら九州王朝だと
古田説と混合してしまうから「九州朝廷」という名前にしたらどうだい?
そっちの方がしっくり来ると思うけど。ただオイラは川村氏が言うように
倭国は日本国という別名を持っていたという方を支持するよ
倭国ってのは元々中国が日本を蔑視するための名称なわけだし
あと九州王朝が唐に占領されたってのも支持できないな
こんな話があるわけだし
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/to660/shujyou.html 天武は唐に占領されて傀儡になったと言うより唐の手先だったと
言うのが正しいんじゃない?
>>942 ユダヤ人(セム・ハム語族)と日本人(ウラル・アルタイ語族と
チベット・ビルマ語族、オーストロネシア語族の混合)じゃ文法も
言葉も違うのでその意見には賛成
946 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 17:59:52
倭の五王と歴代天皇が納得行くように一致させない限り、九州王朝説を
完全に否定すんのは難しくないですか?なのに何でいまいち表舞台にでてこんのやろ?
『武』=神武です
948 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 18:45:46
五王
関羽 張飛 趙雲 馬超 黄忠
949 :
太国:2006/02/01(水) 19:03:36
別人だから死ぬまで合わせようと骨を折っても一致することはない。
それを試みてずっと続ける事は(王何〜)オナニーの連続と似たもの同士なり。w
950 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 19:12:56
小国連合で勢力のある中から順次王にしていたかもよ
951 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 20:20:40
>>950 それは無い
それだったら卑弥呼の時のように、書に記すはず
952 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 14:57:38
953 :
太国:2006/02/09(木) 23:38:37
畿内説はオナニー説。
そのうち、「畿内」は「機内」の字の間違いなどと言い出しかねないぞ。w
954 :
太国:2006/02/11(土) 13:46:34
畿内説の連中は『壱』字をきらうのか?w
そのうち、「九州」は「丸州」の字の間違いなどと言い出しかねないぞ?w
955 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/11(土) 17:55:45
>>945 664年白村江敗戦以降の情勢
天武は九州王朝の親唐派、宗像君(タリシホコの出身氏族)を支持。
天智は九州王朝の反唐派、対唐主戦派。
畿内在地勢力(奈良)を避け、畿内滋賀に本拠を置く。[大津京第二倭京(大宰府)説有]
九州王朝の実務部隊の分裂です。
九州王朝兄王及び弟王(薩夜摩等)は在九州。
956 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 12:44:05
>>955 実務部隊が分裂してそれで天武が勝利して天武系天皇が九州王朝を
併合したというのはなんかしっくりいかないな。もし実務部隊が
本命を併合するならば九州王朝も抵抗して内戦になるはずだが・・・
それに九州王朝を示す資料が中国の史料しかないというのも気になる
もし九州王朝があったならば必ずなんらかの史料があるはずだ。全て
燃やしてしまったなどという彼の国みたいな話はどう考えてもありえん
これは俺のあくまでも妄想だが畿内王朝(天皇)は宗教上の祭祀を司る地位であり
九州王朝は政治を司る地位にあったのではないかと思うのだが
そんで九州王朝の方は後継者がいなくなって文武天皇の代に併合されたと
957 :
太国:2006/02/18(土) 13:03:01
文武の時代頃に九州王朝は滅亡した。
958 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/18(土) 15:35:31
>>956 持統期から文武期(695〜698年)に畿内王朝は九州に攻め込み内戦状態になった。
畿内王朝は先ず豊に攻め込み次いで、筑紫、肥、大隈へ順次征服を進めている。
九州王朝をほぼ制圧した段階で文武が即位。
残存九州王朝勢力は、薩摩からの反撃を試みるが、隼人の裏切りにより698年崩壊する。
隼人は九州王朝壊滅の功により、当時の畿内の中心地(大阪市北区中央区近辺)の北側(新大阪駅近辺)に招待され、
畿内王朝の歓待を受けている。
なお、九州王朝残党狩りは717年まで続いている。
以上は続日本紀に全て詳細に書かれている。
九州内での戦闘は、政治背景無し事実として、九州王朝の片鱗を示す言葉は抜きで書かれているが。
古事記編纂開始時期は、政治的組織的九州王朝の抵抗が壊滅した時期と符合し、
続日本紀編纂開始時期は、九州王朝が完全に壊滅した時期と符合している。
祭政が二重構造となって分離していたのは九州王朝です。
兄王が宗教的に治め、弟王が法に基き実務をした。
弟王であるタリシホコは、法皇と呼ばれ、法興と呼ばれる元号もありました。
959 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/19(日) 17:18:15
>>958上記間違い修正
誤:「続日本紀」編纂開始時期は、九州王朝が完全に壊滅した時期と符合している。
正:「日本紀」編纂開始時期は、九州王朝が完全に壊滅した時期と符合している。
追記
畿内天武朝が九州王朝領域全体の制圧完了により、
日本書紀編纂だけでなく(九州王朝「日本書」の焼き直し)、風土記も必要となり同時期に編纂開始に至ったわけです。
畿内王朝の「風土記」は九州王朝「風土記」の焼き直しと見えます。
960 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/19(日) 17:21:25
再修正
誤:「日本紀」
正:「日本書紀」編纂開始時期は、九州王朝が完全に壊滅した時期と符合している。
961 :
太国:2006/02/25(土) 07:29:06
「青い影」という曲があったな。原題は確か「白真珠の煌き」とかいう曲名
だったと思うが・・・? いささか記憶が薄らいでる。w
当時、宝玉類は九州、本州、四国いずれで産しようと、結局大陸に搬送するのは
北九州を通ってから大陸に向かうのが本筋だから、畿内周辺でそれらを産出して
も、結局はイト、ナあたりを通過することは九州説でも、十歩譲って畿内説だと
しても、いずれも同様に北九州に一時宝玉類が滞在することになる。
だから、九州に採れなくても九州説は否定出来ない。
女王国は九州にあったことは間違いない。w
962 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:20:56
ガイシュツかもしれんが
天智も天武も畿内王朝の天皇と記紀では記されてるいるが
天智の母親はもしかして九州王朝系だったかもな
天智の対唐・新羅強硬路線はアメノタシリホコ(でよかったのか?)の
対隋自立(柵封体制からの脱却)とオーバーラップする
逆に天武は皇極天皇が新羅系だったことから朝鮮系だったかもしれん
ま、両者の祖先の欽明天皇が九州系だから簒奪とは言えんがな
そんで目の上のたんこぶの九州王朝を併合したと
一種の下克上だな。その天武朝も最終的には天智系に奪還されたが
ちなみにこっちのサイトは九州と大和の関係が掲載してておもろいよ
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/index.html ついでに言うと継体天皇は先住民系だったかもしれないね
出自が越前ってのが気になる
>>961 そう言えば九州王朝は女王国ではなく奴国が起源らしいが女王国は
どうなったの?
963 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/27(月) 13:14:33
奴国(金印奴国)はただしくは委奴国で女王国と同一国です。
964 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 16:15:02
965 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/27(月) 19:30:35
>>964 >「邪馬台国の発祥地は壱岐」新説
新説ではないのでは?
古田武彦氏が30年位前に述べていた様に思う。
委国
対馬が発祥の地
壱岐が発展の地
966 :
太国:2006/02/27(月) 19:39:48
>>962 女王国は畿内での神功世の前後ころ、九州にありました。
九州王朝の系ですな。系の途中でなくなっていますよ。
967 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/27(月) 19:54:51
倭面土国は委前奴国(イマエド国)の意味で前原等の糸島半島から博多湾岸一帯を本拠とする国であると考えていますが、
その王である帥升の墓が前原近辺にあって当然であるとかんがえます。
倭国王帥升の王墓は決定されたのでしょうか?
なに?
イェマド文明?
どっかのファンタジー小説に出てきたフィクションだろ
969 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 08:23:20
そういえば、古田氏はあのあたりに前っ君なる王者がいたといってたっけ。
970 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/02/28(火) 16:29:28
景行記にでてくる前君は肥の王者(弟王)と思うよ。
九州統一時期には前原糸島は没落している。
971 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/28(火) 21:13:40
行路記事のはっきりかかれている邪馬台国が決定しないのに、史上チョコっとしか出てこない倭面土国
の場所がほとんど糸島半島あたりで異存がないのはなぜでしょうか。
972 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 22:16:30
九州"王朝”とか妄想もほどほどに
九州に広範囲の統一国家があったなんて証拠があるか?
九州には畿内勢力が及ばない独立国があったとか
九州の一部の国は大和朝廷とは別に中国等と独自に外交を行っていたとか
そういう冷静で謙虚な意見にとどめておけばまだかわいいけど
973 :
太国:2006/03/01(水) 22:36:41
妄想ではないです。ただ「王朝」の文字がまずいというのなら話は別ですがね。
これはおおざっぱに言う名称なんでしょう。
まあ、畿内の王権に従わなかった国があり、
天皇とは別の王を戴いていたという可能性なら高いだろうね。
975 :
通りすがり:2006/03/02(木) 00:41:56
九州王朝の王族は、姫氏(紀氏)ではないかという説がある。
976 :
通りすがり:
倭の五王を輩出した松野連の系図では、姫氏(紀氏)は持統の時代に名を変えられ
たようだが。松は木へんに公。木(=姫=紀)の公(君)