【初心者】スレッド立てる前に質問をPart5【歓迎】
1 :
日本@名無史さん :
03/11/21 19:29
2 :
日本@名無史さん :03/11/21 19:30
3 :
日本@名無史さん :03/11/21 19:31
4 :
日本@名無史さん :03/11/21 19:33
5 :
日本@名無史さん :03/11/21 19:34
6 :
日本@名無史さん :03/11/21 20:30
侍精神、外国人に説明できるようにわかりやすく教えてください。
7 :
日本@名無史さん :03/11/21 20:41
8 :
日本@名無史さん :03/11/21 21:00
9 :
日本@名無史さん :03/11/21 21:17
庶民が苗字帯刀を許されると士装(つまりちょん髷など・・)出来るそうですけど脇差だけ許された人たちはどうなんですか?
10 :
日本@名無史さん :03/11/21 22:31
>>6 武士道とは死ぬことと見つけたり。で十分だろ!
11 :
日本@名無史さん :03/11/21 22:37
moral of soldiers
12 :
日本@名無史さん :03/11/21 22:54
>>6 Honor is respected more than the life.
大部荘の悪党事件で、その悪党の中に"楠木正成の一族"か、 その父かとも思われる川内の楠入道という人物が加わっていた。 と教科書にあったが、この人物はとりあえず楠木正成では無いんですか?
14 :
日本@名無史さん :03/11/24 10:23
江戸期における浪人とは?どういう条件がそろえば浪人といえるのでしょうか?勝手に帯刀し浪人と名乗れば浪人ですか?
15 :
日本@名無史さん :03/11/24 15:46
どこかの殿様の家来となって仕官していなければ浪人 ちなみに、3浪すると就職で不利になると言われている。
16 :
日本@名無史さん :03/11/24 21:12
幕末の加賀藩について質問です。 なぜ幕末期になんの動きもなく時勢に対して 鈍感だったのでしょう。 加賀、能登、越中三ヶ国の太守であり、二つの支藩の 石高を加算すれば表高だけで百二十万石もあり薩長あわせても かなわないほどです。これほどの藩が何もしないのは とても不思議です。 僻地だったとしても土佐、薩長も変わりないし、 北陸の積雪による閉鎖性ということにしても越前藩は 時勢に対して過敏なほど働いています。 何故なんですかね?
血縁的に徳川家に近く 地勢的に京都に近く 船頭多く 見動きとれず まあ 仙台伊達より ちょっとマシという程度かな
18 :
日本@名無史さん :03/11/24 23:14
江戸時代には一国一城令がだされてましたよね でも紀州藩は和歌山城と新宮城があったような いままで新宮城って志摩にあったと思ってなっとくしてましたが・・・ 違いますよね どうしてですか?
20 :
日本@名無史さん :03/11/25 00:54
>>19 あと紀州には田辺城もあったYO!!
尾張にも名古屋の他に犬山城が残ってたわけだから、
やっぱり御三家については特例があったんじゃないの?
詳しい人、教えてくださいませ
>>19-20 外様でも鹿児島藩、仙台藩など複数の城を持っていた藩はあります。
もちろん徳川幕府につっこまれて、かなり無謀ないいわけをこいてますが(w
22 :
日本@名無史さん :03/11/25 12:36
大藩の家老クラスになると万石を越えるから・・・支藩のお城とは違うの?
23 :
日本@名無史さん :03/11/25 18:15
質問です AD622年に聖徳太子が死に、 AD628年に推古天皇が死にました。 この二人の死が逆だったら大化の改新は起きなかったと思いますか? また、その理由は何ですか?
仮定の質問は無意味
25 :
日本@名無史さん :03/11/26 22:46
お願いします。 日米開戦の前後に、日本側が、米中ソあたりの暗号を部分的に解読できてた そうですが、その件を書いてあるサイトがありましたらお教えください。 2001年に、確認された史料だそうですが、くぐっても詳しくわかりませんでした。
26 :
日本@名無史さん :03/11/27 15:20
>25 まず、自分がどこでその情報を拾ったかを書こうや。
27 :
日本@名無史さん :03/11/27 22:02
陸軍中野学校とかは? 安直かな(スマソ
29 :
日本@名無史さん :03/11/28 02:18
古事記と日本書紀を読んでみたいのですが、お勧めの本はありますか? (いい注が載ってる等で) お願いします
30 :
日本@名無史さん :03/11/28 03:41
古事記:岩波『日本思想大系』、新潮日本古典集成 日本書紀:岩波『日本古典文学大系』、小学館日本古典文学全集
31 :
日本@名無史さん :03/11/28 18:03
前スレで、占領下日本がGHQに洗脳されていたわけではないと言っていた人がいたが、 まぁ日本国民に極端な大本営発表に洗脳された人がいるのは事実ではあるが 【マッカーサーによる三十項目の検閲方針】 (説明・で禁止した事を以下に綴る。) 1.SCAP---連合国最高司令官(司令部)に対する批判 2.極東軍事裁判(東京裁判)の批判 3.SCAPが憲法を起草した事についての言及と批判 4.検閲が行われている事に関する言及と批判 5.合衆国に対する批判 6.ロシア(ソ連邦) に対する批判 7.英国に対する批判 8.朝鮮人に対する批判(以下長いので略、あとは自分で調べてチョーダイ) これ(以下に続く検閲も含む)を見るとどちらも極端な気がするな。 これだけ権利を手にすれば何をやっているのかなど分からないだろ。 日本の悪は表に出しておいてGHQの悪は一切出さない。 これでは日本国民が洗脳されるのも無理はない罠。 また占領側の立場としては当然〜と言っているがそれは占領側が何をしようが容認する様な事ではないか。
32 :
日本@名無史さん :03/11/28 18:11
33 :
日本@名無史さん :03/11/28 18:42
>>32 違うよ。
前スレに、そういう回答をしていた人がいたんでね。
34 :
日本@名無史さん :03/11/28 22:01
>>31 1946年5月27日・毎日新聞が世論調査を掲載
「憲法草案への世論調査」
・象徴天皇制(=主権を天皇から国民に移す)→支持85%:不支持13%
・戦争放棄の明記→支持70%:不支持28%
・2院制(=貴族院の廃止)→支持79%:不支持17%
・国会議決に対する政府または天皇の拒否権→必要なし52%:必要あり47%
1、世論調査が許可されている
2、実質的国体変革・戦争放棄には国民の圧倒的な賛意があった
(この頃は、天皇は、カリスマ性があったにもかかわらず)
(君主制廃止の共産党は、この点では、あまり支持を得られていなかった)
3、「拒否権を政府や天皇にもたすかどうか」の件では、率直に賛否が分かれてる
4、賛否が分かれた記事が、この時期に出ていると言うことから、必ずしも、
完璧な情報操作や、洗脳が行われていたとは言いがたい
GHQは、意識改革をせまった。それは、それが最高の統治策だったから。
日本人はイラク人と違って、天皇・支配者層が率先して占領軍に従った。
特に、皇統断絶の危機に際して天皇がとった絶対恭順の姿勢が与えた影響は大きい。
フセインや金正日が絶対恭順を国民に指示するようなもの。
意識改革は、北朝鮮崩壊後に、韓国や国連が行うのと同じこと。
問題は、日本の場合、支配者層が崩壊してなく、軍部のみ尾を切って、
天皇・保守権力層がGHQに「追随した」点にあるのではないかな?
歴代保守政権が、今に至っても、原爆や大空襲を決して非難しなかった点に、
最大の問題があると思うが。
つまり、彼らと英米には共通の利害があったとは思いませんか?
滅茶苦茶前の話題じゃん。 今までずっと調べてたのか・・・
>>35 俺はありがたいことだと思うが…?
問題は肝心の質問者がこれを見ているかどうかですな。
着到状って誰が書くの?
39 :
日本@名無史さん :03/11/29 00:06
着到状は自分で書くんだろ。
>>35 そういえば元の質問も非常に前の書き込みに関してだったな。
定期的に掘り起こされるのか?
大阪市内に、真田山という地名がありますが、これはかの幸村の 真田○に由来してるんでしょうか? 真田山とよばれている場所は、位置的には、真田丸のあったとされ る場所に合致してそうなのですが。 板違いだったら、放置してください。
勝海舟の氷川清話は法螺話が多いそうですが、読む価値はありますか? 変な先入観が付いたりしませんか?
>>41 俺、大阪出身だけど、確か真田丸があったから真田山ってついたと聞いた覚えあるよ。
45 :
日本@名無史さん :03/11/29 04:45
氷川清話の70%は嘘
46 :
日本@名無史さん :03/11/30 03:21
先祖の由緒書きに 本国○○ 生国江戸 とあった。この場合○○というのが先祖発祥の地という意味でいいの?
47 :
日本@名無史さん :03/11/30 21:59
>>46 >本国
父母または祖先が出た国
国語辞書でも出てるボ・・・。
48 :
日本@名無史さん :03/11/30 23:09
彗星はなぜ自殺したんですか?
49 :
日本@名無史さん :03/12/01 01:15
50 :
日本@名無史さん :03/12/01 01:45
経緯を教えてください
すいせい?
52 :
日本@名無史さん :03/12/01 18:59
天城山心中
信長の鉄甲船について質問です。 一般に通俗的な歴史書では信長が鉄甲船を建造させた事が定説であるかのように書かれており、 ネットでも鉄甲船の建造を歴史的事実と扱うページがほとんどのようです。 しかし、実際に鉄の船であったと書いている資料は多聞院日記の 「…堺浦へ近日伊勢より大船調付了、人數五千程ノル、横へ七間、竪へ十二三間も在之、鐵ノ船也、 テツハウトヲラヌ用意、事ゝ敷儀也、大坂へ取ヨリ、通路トムヘキ用ト云々、…」 との箇所だけで、他の資料には鉄の装甲について触れている物は無く、また多聞院日記の記述自体 が伝聞を書きとどめたものであるため鉄甲船の実在は疑わしいとも言われています。 そこで質問なのですが、通俗的な歴史読み物ではなくアカデミックな歴史書で信長の鉄甲船について 述べているものはあるでしょうか? また、学会では鉄甲船についてどのような考えが主流なのでしょうか?
54 :
日本@名無史さん :03/12/01 22:43
赤穂浪士の戒名が大石蔵之助以外OOOO信士だったんですけど武士は居士ではないのですか? 罪人という事でそうなったのですか?院号も無いし。一般ピープルと同じじゃないですか!浪人だから 一般人ということ?
55 :
日本@名無史さん :03/12/01 22:44
>>39 自分で書いて上司に証判を貰うってことですか?
57 :
日本@名無史さん :03/12/02 01:40
58 :
日本@名無史さん :03/12/02 12:20
履歴に前スレが残ってた
>969 :日本@名無史さん :03/11/18 00:12
>>964
>室町時代はともかく室町幕府は天正16年(1589)に
>義昭が征夷大将軍を辞職するまで続いたのでは?
>
ttp://homepage1.nifty.com/heiankyo/yomo19.html 滝川一益は室町幕府最後の関東管領ですね。
履歴ネタ2(トリビアスレ)
>911 :日本@名無史さん :03/11/01 22:46
>日本史板には・・・。
>日本史に詳しい者はいない。
>912 :日本@名無史さん :03/11/01 22:56
>>911
>中途半端な香具師が多いんだよな
>913 :日本@名無史さん :03/11/01 23:04
>>912
>2年前はこんなではなかったのに
2年前になにがあったの?
60 :
日本@名無史さん :03/12/06 14:23
>>53 積極的に考証しようとした論文はないような気がします。
存在は怪しいというのが大勢では?
61 :
日本@名無史さん :03/12/06 14:31
お願いします。 白村江の敗戦のとき、倭軍は3万人近くいたようですが。 船は5〜600隻でしょうか。 1、すると、50人乗り位なのでしょうか?もっと小さいのでしょうか? 2、手漕ぎですか?帆船ですか? 3、ジャンク船ではないですよね?
62 :
日本@名無史さん :03/12/06 21:21
「惣掟」 「正長の徳政一揆」 「山城の国一揆」 「加賀の一向一揆」 「家法・分国法」 「自由都市堺について」 「検地条目」 「刀狩令」 これらの資料が山川の教科書に掲載されていますが 現代語訳がかかれているサイトもしくは書籍はありませんでしょうか? もしありましたら教えてください・ 勝手な質問で申し訳ございませんが宜しくお願い致します。
>>62 教科書に載ってる程度の史料なら、高校向けの史料集に現代語訳つきで掲載されてると思う。
江戸時代の日本の首都は 天皇のいる京都と将軍のいる江戸のどちらなんでしょうか?
>>64 江戸はあくまでも幕府が開かれているだけで都は京。
>64 たしかに都は京都ですね でも首都の意味にもよりますね 元首がいる場所→京都 政府の有る場所→江戸 朝廷は政府なのかな・・・? 遷都されていないと言う意味では京都 細かく言うと「首都」は首都圏整備法によって・・・スマソ
67 :
日本@名無史さん :03/12/07 03:10
かっこいい辞世の句のスレというのがあったと思うのですが、 もう見れませんか?
68 :
日本@名無史さん :03/12/07 09:07
江戸時代の地図だと、国の中心線(縦線)は京都を通ってます。 ちなみに、日本海ではなく、朝鮮海だった・・・ダボ。
69 :
日本@名無史さん :03/12/07 16:35
古今和歌集の有名な歌人5人って誰だと思います?
70 :
日本@名無史さん :03/12/07 18:32
あげげ
>>68 日本海という言い回しは、日本、アメリカ、ドイツ含む、万国共通だと
思ったけども、中国、韓国の地図だと、”東海”という言い回しらしいどうよ?
レスありがとうございます。 それらの事が載っている資料集って書店で手に入りますか? 学校で使っていない物で・・・ もしご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。
中国の教科書だと、南京で3億人の中国人民衆が殺害されたと書かれているようだ。あくまでのも、うわさ。
最近スルーが多いな!
75 :
日本@名無史さん :03/12/07 21:19
凄く初歩的な事なのですが、日本って現在、立憲君主制?
76 :
日本@名無史さん :03/12/07 21:32
>>75 君主(天皇)に実質的な権限が何もないから、そうは言わないのでは?
象徴的君主のいる議会民主制
78 :
日本@名無史さん :03/12/08 00:36
右翼は「今こそ立憲君主制に」と言っている。 つまり右翼にとっては立憲君主制ではないことになる。
80 :
日本@名無史さん :03/12/08 09:29
>>69 >古今和歌集
撰者は紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑の4人
代表的歌人は4人の撰者のほか、六歌仙(僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜斤法師・
小野小町・大友黒主)、伊勢・素性法師ら。
>>72 :62氏
大書店へ出かけることを薦めます。やはり手にとって見た方が。
基本でよいのなら参考書コーナー。詳しくは歴史コーナー。
受験コーナーでもある場合も。
81 :
日本@名無史さん :03/12/08 09:30
>>75 立憲君主制とは、歴史の実態面からは、わりと政治に口を出し、かつ責任を
とらされない制度を言います。あるいは、よく政治利用されてきました。
特に後発工業国では政治利用が多かったようです。
形式的には、「君臨せずとも統治せず」ですが、欧州でも日本でも政治や軍事に
大なり小なり関与してきてます。
現在は、日本や欧州でも、ほぼ完全に政治関与しない実態になってますので、
立憲君主といっても、第二次世界大戦までとは実態が違う場合が多いです。
日本でも、明治大正期と昭和前期と戦後では、大分実態が違います。
イギリスでは、議院内閣制の発達と選挙法改正の結果、君主制の形式をとどめ
ながら、共和制的実質が発展していきました。
第2次世界大戦後、多くの国々で君主制が廃され、日本においても主権在民が
成立しましたが、天皇は統合の象徴として世襲制を維持し、種々の儀礼的権能
を有しており、政治の世界におけるその機能については、なお多くの議論があ
ります。
よって、形式的には国連などの区分では、日本は立憲君主国になっているようですが、
実態的には「君主」という意識や概念が国民の多数にはきわめて薄く、政治にも
ほぼ関与はない(皇室外交などはありますが)ので、実態としては共和制だが、
形式的には立憲君主となるのではないかと思います。
日本共産党なども、近年の象徴天皇制は君主制ではなくなったとみなし、当面の
取り組み課題からは取り下げています。国民主権に支障はないという意味らしいです。
形式と実態を考えると難問なので、いったん、形式は立憲君主だが実質は君主制で無いとし、
あまりこだわらずに天皇の歴史や現代の役割を学習されてはどうでしょうか。
あるいは、政治思想板が良いかもしれません。
82 :
日本@名無史さん :03/12/08 22:43
御三卿の「卿」っていうのは律令官制の「卿」ですか?(一橋刑部卿、清水民部卿など) でも、全員が卿に就いているわけでもないし家ごとにひとつと決まっているわけでもないし… どうかご回答よろしくお願いします
83 :
日本@名無史さん :03/12/09 01:57
この板は初めての初心者です。 時代劇などを見てていつもわからないのですが、 役職名が越前守とか佐渡守などとよばれる人が、必ずしも越前や佐渡出身ではないような気がします。 これはどういう意味なのでしょうか? 超既出質問でなかったら、詳しい方教えてください。
>83 超既出質問です。 過去レス過去ログなど検索してください。
>>85 素直な君に少し教えましょう。
長くなるのでごく簡単に言うと。
江戸時代の受領名は出身地とは関係ありません。
ただ国持大名は領地にあわせるようにしていたようですが。
87 :
日本@名無史さん :03/12/09 17:07
>>82 御三卿の「卿」は八省の「卿」ではありません。
おそらく「公卿」の「卿」つまり従三位以上の官位を意味する「卿」ではないでしょうか。
御三卿は基本的に従三位未満の官位に叙任されることはありませんので。
88 :
日本@名無史さん :03/12/09 23:34
よく「旧幕府軍は旧式の装備だったから負けた」なんていわれるけど、 実際の旧式の装備だったのは会津・桑名で、 幕府軍本体はフランス製のシャスポー銃を正式採用していました。 これは薩長連合が採用していたミニエー銃よりも明らかに優秀な銃です。 実際薩長の兵器は当時の平均から比べれば優秀な兵器を装備しているといえますが、 幕府軍の装備と比べれば決して優れているとはいえません。 なぜ幕府軍は薩長に敗退したのでしょうか?
89 :
日本@名無史さん :03/12/10 00:47
>>88 鳥羽伏見で戦った幕府軍の主力が会桑軍で、
その敗退を見た慶喜が撤退を決意したからでは?
90 :
日本@名無史さん :03/12/10 14:13
秀吉の朝鮮出兵を始め近現代に至るまで日本は兵坦を理解していなかった、と軍事専門家も定説のように言っているけど本当?
91 :
日本@名無史さん :03/12/10 14:17
兵站のこと?
藤原氏歴代の墓所である木幡はなぜ埋葬されている個人の特定もできないほど 荒れ果ててしまったのですか? 道長の墓は近年になって漸く特定されたけど その他(頼道とか東三条院詮子とか)はまったくわからないですよね。
93 :
日本@名無史さん :03/12/10 17:00
貧乏だったからでしょ?
94 :
日本@名無史さん :03/12/10 17:40
95 :
日本@名無史さん :03/12/10 17:44
>>94 >>95 外国を見回してみても、秀吉は当時としては兵站を運用していると私は思っています。
「朝鮮出兵の際、数百年の間国内戦しか経験していなかった日本軍は兵站の重要性が分かっていなかった」
と概括している本をいくつか読んだもので。
日本史に詳しい人はどう捉えているのだろうかと。
97 :
日本@名無史さん :03/12/10 19:40
>>96 うん。秀吉の征韓戦はちょっと事情が違うし、
それであっても、小西や石田は良くやったと思うよ。
それにしても、事情としてよく似ているのが、ナポレオンによる
ロシア侵攻時の焦土作戦によって飢えていくフランス軍だな。
98 :
日本@名無史さん :03/12/10 19:45
郷士と地侍て何が違うの?別スレで前出てたけどよく分からんかった。
99 :
日本@名無史さん :03/12/10 21:21
太平洋戦争の宣戦布告が遅れた件で質問です。 当時、日本にアメリカ大使がいたわけですから、 アメリカ大使に対して宣戦布告を通知する方法も あり得たと思うのですが。 なぜそうしなかったのでしょう。
100 :
日本@名無史さん :03/12/10 23:38
100げと
>>92 端的に言ってしまうと>>93さんの理由のようになってしまいますがw
幾つか考えられる理由を挙げると
(1)鎌倉時代以降徐々に摂関家の勢威が落ちてきて、管理に手が回らなくなった
南北朝の争いで貴族の権威は地に落ちて、決定的に
(2)藤原氏自体がいくつかに分家して、平安時代以前の先祖の管理はおざなりになった
(3)意外にも余り古い先祖のお墓の管理には頓着しなかった
というのが挙げられるかな。
(3)では、平安時代の中頃に天皇陵を調べた人がいて
「まだ100年ぐらいしか立ってないのに、嵯峨天皇の墓が分からない。」
という記録を残している人がいます。
102 :
日本@名無史さん :03/12/11 12:46
すみませぬ。 親王宣下と儲君治定について教えてください。 親王宣下は、天皇の子であることの確認で、儲君治定は後継ぎであることの確認ですか? すると、立太子は皇太子の確認だから、そこら辺が?です。 情けない質問ですが、お願いします。
103 :
日本@名無史さん :03/12/11 12:54
>>99 宣戦布告直後に、相手に準備を与えぬ間に真珠湾を叩くためではないかと。
あるいは、相手国本土に伝えるのがマナーなのかと。
104 :
日本@名無史さん :03/12/11 13:48
お邪魔します、平安時代後期の時 開発領主とかが土地を地位の高い人に寄進するのって、 地位の高い人には不輸の権があって徴税されないからですか??
105 :
日本@名無史さん :03/12/11 15:29
1946年の極東委員会について質問です。 各国が日本国憲法を策定する際、 極東委員会の主張は、GHQと違って 「国民投票の実施」を要求したと聞きましたが、本当ですか? また、何故極東委員会の主張が無視されたのですか? あと、国会における第9条の論争は、 日本国憲法案が衆議院に上程される時から 既に起きていたというのは本当ですか? 別スレで誤爆してしまった・・・
106 :
日本@名無史さん :03/12/11 17:28
郷土の偉人についてのスレはあったの?
107 :
日本@名無史さん :03/12/11 19:30
今日はじめて日本史板に書き込み、勝手が分からずに下記の
スレに質問をして、実はネタスレだといわれました。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1070454990/ の221番
マルチポストになってしまうかも知れませんが、向こうのスレに書いた
以下の文章について皆さんの意見と言うか、考えを教えてください。
よろしくお願いします。
>教えてください、というか皆さんの考えをお聞かせ下さい。
>初めてこの板に書き込みます。もし失礼があったら教えてください。
>
>江戸時代末期、黒船が来たことがきっかけとなり開国に向かって
>いった日本ですが、その当時の諸外国にとっての日本はどの様な
>対象だったのでしょうか?(あ、ヨーロッパ諸国です)
>・あわよくば植民地にする。
>・ただ単に航海途中の補給基地が欲しかった。
>・下等国として扱い、貿易でぼろもうけするつもりだった。
>
>また、日本が明治維新に失敗した場合やはり植民地にされていた
>可能性はあるのでしょうか?(フランスやイギリス辺り)
>
>>107 自分で調べろこんな過疎板で聞くな
「極東板」って所で聞いた方がいい気が
>>108 自分で調べろと言われましても…
日本史に詳しい方々の意見を聞きたかったので、調べるものではないですよね?
過疎板であるのかどうかは気がつきませんでした。
もう少し見極めて見るべきでした。
とりあえず、極東板に行ってみます。
失礼しました。
110 :
日本@名無史さん :03/12/11 21:46
>>109 スマソ。俺も「極東板」行った事なかった
何となく聞いてたがわけわからんなあそこ
ここ以外だと「世界史」板かな?
111 :
日本@名無史さん :03/12/11 21:48
可哀想に、
>>109 。
純朴そうなので、何所行ってもタライ回しされそうな予感。
この板の住民の知識レベルは低いよ
できればこの板で聞かない方がいい
>>107
113 :
日本@名無史さん :03/12/11 22:06
>>112 せめて、行くべき場所を教えてあげなよ、可哀想に。
漏れはここで聞くべきだと思うね。
事実ではなく意見を聞きたいらしいから。
114 :
日本@名無史さん :03/12/11 22:30
>>107 マルチポストという言葉を知っているということは初心者じゃないよね?
>>108 のレスは
>また、日本が明治維新に失敗した場合やはり植民地にされていた可能性はあるのでしょうか?
という仮定の質問が癇にさわったのか、107の迷い込んだスレの性悪幼児が書いたのかどちらかでしょう(暇があれば某スレ参照
気にしないでください。
閑話休題
幕末は専門外なので手元に史料がありませんが、、、
>・あわよくば植民地にする。
当時の欧米の状況を考えれば遠征軍を日本におくりこむ余力のある国家はなかったでしょう。
銀の産出量も最盛期に比べ下火だったはずですし、米本位経済の我が国ではプランテーションも難しかったのではないでしょうか。
当時の植民地経営で利潤があったのは印度ぐらいなので、日本は植民地化する程の魅力はなかったように思います。
>・ただ単に航海途中の補給基地が欲しかった。
ペリーの来航の主目的がこれだったと小耳にはさんだ記憶があります。
>・貿易でぼろもうけするつもりだった。
金銀の交換比率が諸外国と異なっていたので随分損をしたようですが、直に是正されました。
只、現在の日本でも行政が物を買う時は、全て定価で購入しています(郵便局の赤チャリが一台8万円とかw)が、
当時の日本も武士は値切らず言い値で購入していたので、ぼろもうけした人もいたでしょう。
ご質問の、
>当時の諸外国にとっての日本はどの様な 対象だったのでしょうか?
ですが、欧米は事前に日本をそれなりに研究していたので拭い難い人種蔑視はありましたが
安易に日本と取引できるとは考えていなかったようです。
ペリーの高圧的なスタイルはベストではなくベターな選択で、彼自身もうまく交渉できるのか不安だったようです。
専門外の人間が長々と能書きを垂れましたが、叩き台としてこのレスを使用してください。
>>110 もし>108ならスマソ
トリック見ながら書いてたのでレスみおとしていた(陳謝
116 :
日本@名無史さん :03/12/11 22:36
>>114 加えて、イギリスはすでに経済力が、
フランスの追い上げによって、下降線に入っていた。
すでに、列強の勢力均衡を日本が利用できる立場にあったことは事実。
加えて、権益を武力によって広げようとするロシアの存在があるため
むしろ、日本の軍事力強化に協力したいという考えさえ存在していた。
>>114 前のスレで>捕鯨の寄港地 とか書いたのにまたあったからだよ
たしかに文章が悪かったかな。無学なのも認める。
このぐらいのノリはいいじゃん・・
て事より「極東板」行ったんだろうか?急ぎの質問でないことを祈るぜ
118 :
108&110 :03/12/11 22:42
別に気にしてないぜ。そんな年でもないし あんたもわざわざ書いてやるなんていい人だな
119 :
日本@名無史さん :03/12/11 22:57
日露戦争の「坂の上の雲」とか、幕末の「龍馬が行く」みたいに、2.26事件や、日中戦争〜太平洋戦争(いわゆる十五年戦争)を俯瞰できる小説ってないですか? 歴史の流れが授業だと頭に入らないDQNな漏れを助けてください。
120 :
107 その1 :03/12/11 23:46
>>110-118 レスありがとう、極東板に行く前にもう一度、と思ってきて見たら
書き込みがあって本当にうれしかったです。
>>108 さん
私も前レスをちゃんと読んでいないで書き込んだもので、迷惑かけた
みたいで申し訳なかったです。でも、ありがとうございました。
>>114 かなりの量にわたるレス、本当にありがとうございます。
2ch、ネット歴ともに結構長いです。ただ、この日本史板は初めてでした。
ですので、ローカルルールや暗黙の了解になっていることに対して
違反していないかどうかちょっと心配でした。
私がこの>107の質問を思いついたのは、江戸末期から明治初期にかけての
世界的な植民地拡大の時代に「よく日本が独立を保つことができたな」と
疑問を抱いたからなのです。もちろん先達のたゆみない努力があってこそ
とは思います。
つづく
121 :
107 その2 :03/12/11 23:47
改行が多いと怒られました。
つづき
・植民地支配について
やはりすぐに植民地支配されるほどの切迫した状況ではなかったのですかね。
まあ、佐幕派攘夷派で内戦が長引けばどうなっていたか分かりませんが…
イギリスやフランスの代理戦争になったのでしょうかね?
まあ、妄想です。
>>116 そういった考えははじめて知りました。
素直に「へぇ」
という気持ちです。イギリス、フランスの確執は理解していたつもりでしたが
そこにロシアも絡んで…と言うのははじめて知りました。
(この時代にすでにロシアが極東に興味を示している点)
色々なレスありがとうございます。
できましたら私としてはこの板でこの話題についてお話したいと思っています。
迷惑でないようでしたらお付き合いください。
長々と書き込み、失礼いたしました。
>>114 あ、それと、行政の買い物について
私は地方都市の一公務員の下っ端なのですが、物品購入について一言だけ。
あまり誤解されてしまうのもなんなので。
あくまでも国家ではなく地方公共団体の購入方法としてみてください。
市町村によって違いますが、物品を購入する際値段により(値段だけではないが)
消耗品と備品に分けます。
私のところでは3万円以上(消費税を含め)が備品です。
購入する際にいくつかの業者さんを指定して競争入札をします。もちろん
一番安いところから購入するので、さすがに定価で購入と言うことは無いはずです。
ただ、もっと安く買えるはずなのに条例で高く買うしかないということがあり、あながち
>>114 さんの言うことも間違いではないのが現状です。
歴史に関係ないのでsage
>>121 ロシアは黒船よりも前から北海道に出没してます。
興味があるなら北海道の歴史の本をひもといてみると面白いかと。
英仏はあれです、ちょうどその時他の戦争(普仏戦争とかボーア戦争とか)に煩わされていて、
極東の小国なぞに関わってる暇などなかった、といったところなのでは。
124 :
日本@名無史さん :03/12/12 00:24
>>86 遅いレスですいません。
お心遣い痛み入ります。
アヘン戦争で清国はイギリスのたった数隻の軍艦に敗れて、その後坂道を転げ落ちるように 家畜のブタ扱いされていきました・・。
127 :
日本@名無史さん :03/12/12 00:35
>>123 に加えて、
もっとも日本の開国に積極的だったアメリカが、
幕末から明治初期に影響力をもっていない理由は、南北戦争(1861〜1865)です。
英仏だけでなく米も極東の小国なぞに関わってる暇などなかったわけです。
ちなみに米は、日本が日清戦争に全力を傾けている間に、
ハワイをちゃっかり併合しました。
128 :
日本@名無史さん :03/12/12 12:55
129 :
日本@名無史さん :03/12/12 16:32
明治時代の中流階層はなんで生活苦しかったんですか?
>>129 ,..._
li ,li
|゙~ 'i
| ー | FUCK YOU
|, _ .|
,..-、|ー |,.-、
., -i | | i⌒i
/、_l ,| |. ,| .i
i , 〈' 〈' 〈 `.i
! i i
l |
ヽ |
゙ヽ ,!
〉 |
>>123 普仏戦争1870〜1871。第1回ボーア戦争1880〜1881。第2回ボーア戦争1899〜1902
明治維新は1868年。
>>127 ハワイは1898年にアメリカ領、1900年に準州となり、59年に連邦加入。
日清戦争は1894年。
>>114 >専門外なので手元に史料がありませんが、、、
史料がないなら止めた方がいいとおもわれます。
ここは質問スレなので、いろいろしたいなら、他のスレで行ってください。
議論のたたき台など必要ありません。しかも、中学生レベルでも間違っています。
>できましたら私としてはこの板でこの話題についてお話したいと思っています。
>迷惑でないようでしたらお付き合いください。
激しく迷惑なので関係スレに移動して下さい。ここは話し合うスレではありません。
>592 :209 :03/11/10 20:08
>私、中世は専門外ですので
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1059391872/501-600
>>129 明治時代には、いわゆる現代日本のような中流=中産階級はなく、
上下の格差が大きかったと思われます。
それが縮小して中産階級が発生したのは、戦後、特に高度経済成長期から。
いわゆる戦後民主主義の農地改革や経済発展が大きいと思われます。
大正や昭和前期では、都市と農村の格差や村内の所得格差は大きかったようです。
981 名前:名無しさんの野望 投稿日:2003/12/12(金) 12:46 ID:qlGCL9hn
>>979 嘘つくなよ
くだらねぇ馬鹿が
982 名前:名無しさんの野望 投稿日:2003/12/12(金) 12:50 ID:9H5bvzrW
>>978 ://aldur/33/ceugbq/vebzvk.html
983 名前:名無しさんの野望 投稿日:2003/12/12(金) 12:56 ID:2fA+B86u
>>982 さんが示したスレを見ても分かるように、何度もあちこちで話題になっているんだけど、
結構条件が複雑そうなんだよね。
>>981 のような当たり散らしは見苦しいな。
984 名前:名無しさんの野望 投稿日:2003/12/12(金) 13:32 ID:qlGCL9hn
>>983 うるせぇよ
厨房
985 名前:名無しさんの野望 投稿日:2003/12/12(金) 13:44 ID:gVfpluMk
ID:qlGCL9hn君、活きがいいなぁ。
ピチピチの若鮎君だな!
今時こういう活きのいい子を見るとおじさんのクロム・ファエルをぶちこみたくなっちゃうね。
脳髄に。
986 名前:名無しさんの野望 投稿日:2003/12/12(金) 14:39 ID:aUBGU4FF
>>984 ID:qlGCL9hn
消えろ冬厨
死ねよ社会の塵が
質問に答えていただきありがとうございました>all
迷惑なようなのでこの板より去ります。
>>124 さん
凄く参考になるスレです。じっくりと読みます。
ほかの方々も本当にありがとうございました。
もう一度一から日本史を勉強しようと思いました。
最後に
>>131 さん
たしかに質問スレなので迷惑でしたでしょう。
しかし、大人(それなりに知識があるようなので)の書き込みとは
とても思えません。
もう少し言いようがあると思いますが…
中学生レベルで間違っているのであれば訂正しなければならない部分
を書いて見ればよろしいかと。
ああ、ここは話し合うスレではないのですね。
失礼しました。
最初の方で答えてくださった方々が優しい方でしたので甘えてしまいました。
それではこれで失礼します。
135 :
日本@名無史さん :03/12/12 23:34
136 :
日本@名無史さん :03/12/13 02:26
137 :
日本@名無史さん :03/12/13 02:36
138 :
日本@名無史さん :03/12/13 08:59
日露戦争の「坂の上の雲」とか、幕末の「龍馬が行く」みたいに、2.26事件や、日中戦争〜太平洋戦争(いわゆる十五年戦争)を俯瞰できる小説ってないですか? 歴史の流れが授業だと頭に入らないDQNな漏れを助けてください。
>>132 ありがとうございます。
戦後のこともう少し調べてみます。
↑お前よりははるかにいいよ
いいかげん表に出たほうがいいぞ三十路クン。 えっ?スーパーのレジ係にすら雇ってもらえないって?? それはそれは・・・・・ 公園でくらすしかないな、お達者で!
144 :
日本@名無史さん :03/12/13 19:02
馬鹿なりに努力してるんで再カキコ御免。 日露戦争の「坂の上の雲」とか、幕末の「龍馬が行く」みたいに、2.26事件や、日中戦争〜太平洋戦争(いわゆる十五年戦争)を俯瞰できる小説ってないですか? 歴史の流れが授業だと頭に入らないDQNな漏れを助けてください。
145 :
日本@名無史さん :03/12/13 19:13
>授業だと頭に入らない あなたが中高生なら 小説のヴァーチャル・リアリティーに引きずられる恐れがあるので 歴史の勉強のために小説を読むことは勧められない。 史学科の大学生なら、専攻を変えた方がよい。
146 :
日本@名無史さん :03/12/13 19:14
147 :
日本@名無史さん :03/12/13 19:16
学芸員が遺跡にごみ投棄
長崎県郷ノ浦町(壱岐)の車出遺跡に、同町教委の男性学芸員(32)が
自宅から出たごみを埋めていたことが12日、分かった。
同町は10日から学芸員を自宅待機とし、懲戒処分を検討している。
同町によると、車出遺跡は弥生時代の遺跡で、町教委が7月1日〜10月25日まで発掘調査した。
学芸員は現場で指導に当たっていたが、調査終了に伴う遺跡の埋め戻し作業を利用し、
自宅でためていたごみを作業員に指示して埋めさせた。
ごみには卓上コンロや空き缶などの不燃物も含まれ、ごみ袋で約30袋分、軽トラック約1台分になるという。
学芸員は「大きな問題になるとは思わなかった」と話している。
http://www.nikkansports.com/ns/general/f-so-tp0-031212-0013.html
148 :
日本@名無史さん :03/12/13 19:17
>>145 それは質問の意図と違う回答(俗に言う大きなお世話)な上に、
質問が意図した回答をしていないよね?
なにをどうして知識を得るかは各個人の自由であり、自由であるべきだし、
他人がしれっとわかった風なことをいって良いものではないと思うよ。
特に
「 史 学 」
を学んでいるものであればね。
>>148 今朝の書き込みは放置したのだが
半日もたたないうちにまた書き込むというしつこさに
思わず「余計なお世話」をしてしまった。
放置すると決めたら放置すべきだった。
気分を害してしまい申し訳ない。
150 :
日本@名無史さん :03/12/13 21:11
151 :
日本@名無史さん :03/12/13 21:16
>>152 余計なお世話を書いてしまい申し訳ない。
あなたにも謝罪しておく。
ちなみに結婚して20年余にもなると
クリスマスを特別なものと意識することはない。
154 :
日本@名無史さん :03/12/13 22:26
松本清張の『昭和史発掘』は けっこう、2chで叩かれていますので 史実では無く読み物として楽しんでください
>>153 おれは
>>146 でもあるんだが、俺の方が間違ってたかもしれん。
>>152 を見て失望した。それはいっとく。
でも、基本的に、馬鹿にものを教えて馬鹿にされる方が、
馬鹿にしただけで教えないよりは幾分救いがあると思う考えに変わりはない。
そうでないと、この板では書き込みさえおっくうになってくる。
156 :
日本@名無史さん :03/12/13 23:20
>>152 はたしかにDQNだが、初心者歓迎の質問スレで
>>149 の対応は、とても40代(推定)とは思えない
2.26事件前後の話なら、「旋風20年」「軍国太平記」「昭和の将帥」 あたりは、著者が新聞記者なんで読みやすい。
>>152 なんなのこいつ。
質問して答えてもらったのにこの態度。
ひどっ。
159 :
日本@名無史さん :03/12/14 01:29
すいません。 姉川の戦いについてなのですが。 1:織田、横山城を攻める 2:浅井、横山城の救援に向かう 3:織田、横山城は美濃三人衆にまかせて野戦、城を背後に戦う。 4:織田苦戦 5:美濃三人衆、織田の救援に向かう 6:なんとか勝利 という流れなのですが、何故包囲を解かれた横山城の軍勢は 撃って出なかったのでしょうか。いや、包囲を解かれなくても 撃って出る絶好の機会だったと思うのですが。挟み撃ちだし。
160 :
日本@名無史さん :03/12/14 01:30
161 :
日本@名無史さん :03/12/14 01:36
>>160 三十路ヒッキー発見
放置注意報発令中!!
162 :
日本@名無史さん :03/12/14 01:43
163 :
日本@名無史さん :03/12/14 01:44
>>162 マジでむかつくからな。
早く社会に出ろ(と言うより荒らすな)と言いたい
164 :
日本@名無史さん :03/12/14 01:48
>>160-163 邪魔ですので消えてください。貴方達のような人がいるから質問者が困ると思うのですが。
166 :
日本@名無史さん :03/12/14 01:50
質問者のくせに態度でかいやつ!
168 :
日本@名無史さん :03/12/14 02:18
日露戦争の軍艦や人物の写真や絵がある良サイトを 紹介してください 夜分に恐れ入ります
169 :
日本@名無史さん :03/12/14 19:52
童貞という言葉に過剰反応するお前らは(ry
坂東武者の源流は渡来人、武家文化の底流には渡来人の影響がある、 と悪意なく言う方がいますが、信憑性はどうですか? さっさと答えろ
>>170 なんで切れてるの?
1、渡来人→関東移住→自力開発地主→坂東武者→武家文化
2、朝廷勢力は渡来人勢力、天皇は朝鮮ニダ→各地の貴種へ→武家文化
という説もできますが、
普通は、言いません。
>>171 かたじけない。
2については理解しているつもりです。
1について、関東を開墾したとされる渡来人の数は如何ほどなのだろうか?
渡来人は現地人に比して人数では圧倒的に劣る可能性のほうが高いにも関わらず
武家文化を生成するほどの勢力があったのか、不思議。
2の『天皇=朝鮮人』説と同様に数々のミラクルを含んだ説と受け取ってよろしいですか?
恐れながら、とっとと答えろ。
173 :
日本@名無史さん :03/12/14 23:25
ヨーロッパや中国にはカタパルトやバリスタ、衝車のような攻城・防衛兵器がありましたが 日本にはこのような兵器は存在しなかったのでしょうか? あと石弓が使われなかったのはなぜ?
174 :
日本@名無史さん :03/12/14 23:53
原爆投下は正しかったってスレ落ちちゃいました?
>>170 >武家文化の底流には渡来人の影響がある
例えば?
中国とかの文化に誤解があるようですが?
恐れながら、とっとと答えろ。
176 :
日本@無名史さん :03/12/15 02:06
武家文化って公家の朝廷文化の影響を受けてるでよ 在地領主が武装して武士になったという説は戦前のモンでよ
177 :
日本@名無史さん :03/12/15 17:38
明治・大正・昭和時代の政治家、軍人の写真が多数載ってるサイトはないでしょうか?
178 :
日本@無名史さん :03/12/15 18:14
179 :
日本@無名史さん :03/12/15 18:47
180 :
日本@名無史さん :03/12/15 21:25
すみませぬ ここ荒れてますが、どなたか「すか」の語源 をご存知の方教えてくださいませ。 江戸時代の洒落本にあるのは確認してるのですが・・ どう〜〜してもわかりませぬ。
181 :
日本@名無史さん :03/12/15 21:43
183 :
日本@名無史さん :03/12/15 23:44
>181 :日本@名無史さん ありがd 富くじではずれを「すか」と呼んでいたらしゅいですが、 かすの逆転語でしたら「当たり」の意味にも使われそうですが、 そのへんどうでしょうか?「当たり」は当然少ないため 「すか」=「かすの逆転語」となったのでしょうか?
184 :
日本@名無史さん :03/12/15 23:48
>>183 意味が逆転するのではないだろ?それは君の発想が単に飛躍しているだけ。
186 :
日本@名無史さん :03/12/16 00:03
185は偽者です
>>183 どっちかっつーと日本史というよりは言語学関係のネタな気もするが……。
日本語の隠語で、文字をひっくり返すというのがあるのです。
ひっくり返すことによって仲間内にしか分からない言葉にするのが目的であって、
意味を反転させようとしているんではないです。
「オンナ」を「ナオン」と言ってみたところで、「ナオン」が男を意味するわけではないと。
188 :
日本@名無史さん :03/12/16 01:31
189 :
日本@名無史さん :03/12/16 01:36
チョメチョメ
191 :
日本@名無史さん :03/12/16 08:36
>187さん ご回答ありがとうございます。そうですね〜。 人名を訓読みを音読みにしてみたり等の日本語の隠語のひとつでしょうね。 納得です。
192 :
日本@名無史さん :03/12/16 08:57
>>188 どっちやねんこのばぁあるなら貼ってみろやキックス
193 :
日本@名無史さん :03/12/16 11:19
>>189 日本の複雑な地形では機動の面で非実用的ということ?
日本は兵器の進化でも裏道街道まっしぐらなんだな
西洋白人文明マンセー 日本人は劣等民族 白人のみが唯一絶対!
195 :
日本@名無史さん :03/12/16 12:16
日本語の伝播の仕方について質問があるのですが、このスレでしてもいいでしょうか?
196 :
日本@名無史さん :03/12/16 12:43
OK
では。 以前、日本語は京都を中心に伝播していって 岡山あたりは中世の、鹿児島の言葉には平安時代の京言葉の特徴がある みたいなのをどっかのスレで読んだのですがこれについて詳しく書かれている本などありますか?
>>197 これなら満足かw
■■ ■■ ■ ■ ■■
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■■ ■■ ■■ ■■
199 :
日本@無名史さん :03/12/16 15:38
200 :
日本@名無史さん :03/12/16 17:18
初心者スレなのにどうして荒れてるんだ?
教科書に載ってるような豊臣秀吉の画像を探しているのですが、なかなか見つかりません。 どなたかうpきぼんぬ。
くだらない質問かとは思いますが、疑問に思ったので教えてください。 日本に「0」の概念が輸入されたのはいつごろですか?
「無」概念は仏教伝来と同時だと思うが
204 :
日本@名無史さん :03/12/16 18:29
初心者スレを見ればその板のレベルがわかると言うが…
206 :
日本@名無史さん :03/12/16 20:01
>>197 言語学とか民俗学の板にいったほうがいいと思われ。
>>198 は気違い?頭おかしいんちゃうか?
荒らしてるのは、自作自演しようとして、あばかれた人。 基礎知識が間違いだらけな、自称大学院生。 初心者スレで荒らす以上はアクセス禁止もまもなくだろう。 もうすぐアドレスが晒される。かわいそうに・・・。
↑デムパ?
209 :
日本@名無史さん :03/12/17 00:53
いしはらかんじといしわらかんじはどちらが正しいのでしょうか?
210 :
日本@名無史さん :03/12/17 02:12
どうして桶狭間の後、今川はともらい合戦をしなかったんですか?
どうして・・・ 殿の御前で討ち死にした奴よか 鳴海城や大高城にこもって 義元を見殺しにした香具師が 得をしたのでは 士気は上がらんよ
>>207 まだ居座ってるね。
この人でしょ?
↓
667 :日本@名無史さん :03/12/08 22:43
店長、くだらない煽りレス入りました〜
214 :
日本@名無史さん :03/12/17 10:18
216 :
日本@名無史さん :03/12/17 13:26
グーグルで検索すると「いしはら」説と「いしわら」説が出てくるな
>>213 それ俺。同じスレの671も俺。
その667は
>666 :日本@名無史さん :03/12/08 21:00
>朝鮮人が日本を不法占拠して大和朝廷をつくった
への発言。
671は
多分207が書いたであろう670への発言。
219 :
日本@名無史さん :03/12/25 22:48
664 :日本@名無史さん :03/12/06 15:37
>>661 >上に補足して、「京武者」による王権への軍事的奉仕、という形態は
>現在では承久の乱まで続いた、と考えられています。
>幕府による京都における兵権の独占は、圧倒的な軍事的勝利によるしか
>達成されることはなかったのですね。頼朝もあせるわけです。
頼朝は京都とは離れずつかずという政策。京都兵権を狙っていた説でもあるの?
>腰越のあと、義経が伊予守に任官されていることからも明らかです。
>頼朝がその家人を叱ったからといって、朝廷とはなんの関係もありません。
>もし、幕府にそのような意図があったとするならば、義経の伊予守任官により、
>最終的には頼朝の面子は、朝廷によりぺしゃんこにされていることも
>指摘すべきかな、と。
義経の伊予守任官は、頼朝の内奏がそれ以前にあったからという理解が普通では。
伊予は頼朝の介入で管理され義経は実質何もできなかったはず。
>「主従の人格的な結合」による統制
頼朝は、朝廷に、鎌倉からの奏上無しに任官しないようにと申し入れてあり、
奏上無しの任官への不満を京都に送っていたと思ったが?
つまり、個人的な主従の関係でなく、「システムとしての統合」を
模索し、かなり成功してたと思える。
はじめて読んだが、3さんは、勉強家だね。それにわりと率直だ。
最初は、3さんは中世は権門体制だったのが、しだいに承久以後の大部分の鎌倉時代を
幕府が全国支配を広げる過程と理解してきているようだ。
素直に学んで、意見を変えたところがいいと思う。
220 :
日本@名無史さん :03/12/25 22:52
>>219 誤爆?
>義経の伊予守任官は、頼朝の内奏がそれ以前にあったからという理解が普通では。
>伊予は頼朝の介入で管理され義経は実質何もできなかったはず。
そんなのは常識じゃん!知らない人なんていないって!!
ぺしゃんこなのは(以下略
>>220 >義経の伊予守任官は、頼朝の内奏がそれ以前にあったからという理解が普通では。
>伊予は頼朝の介入で管理され義経は実質何もできなかったはず。
素朴な疑問なんだけど、そんなに頼朝は強いのに、なぜもういちど朝廷に頼んで、
義経の任官自体をやめさせなかったの?
それにそんなに強い頼朝が追放した義経を、
朝廷が、頼朝の意向を無視してまで伊予守に任官したのはなぜ?
素人の的外れな疑問かもしれませんが、教えてください、お願いします。
222 :
日本@名無史さん :03/12/26 03:05
新撰組質の問 1:いつも刀を使っているイメージがあるけど、鉄砲持った相手には鉄砲で応戦したの? 2:現代で言うところの警察っていっているけど、無抵抗の相手は斬らずに捕縛していたの? 3:戦死者はいたの? 4:解散したのは何時? 5:敵は長州藩士&浪人なわけだが、浪人はともかく長州藩士を斬るのはまずくないの? 6:同郷の見回組とは仲は悪かったの?
223 :
日本@名無史さん :03/12/26 13:38
>>222 わかる範囲で。
1、戊辰戦争以降を別にして、鉄砲相手の記録はないと思いました。
2、無抵抗の相手は捕縛しています。
3、いました
4、公的にどうなっているのかは失念しましたが、確か戊辰戦争後
江戸に帰還した後、甲陽鎮撫隊に改組した段階を以って
新撰組の終焉とするものだと思いました。
5、長州藩士の場合、禁門の変後は、在京していること自体が犯罪行為でした。
6、手柄争いのライバルではありましたが、実質的には警邏地域がまったく違うので
衝突したようなことはなかったようです。
あとは知者を待ちます。
224 :
日本@名無史さん :03/12/26 14:09
>>223 疑問が解けました。ありがとうございました
225 :
日本@名無史さん :03/12/26 20:58
東北地方にいたという【蝦夷(エミシ)】についての過去スレはありますか?
>>225 検索ぐらいしてから質問しろバカ。
こういう香具師がいるから答える方も大変だ。
逝ってよし。
>>226 検索したけど見当たらなかったので訊いてみたんですが
悪かったですかね?
>>221 別顔が大学院生なのだから、自分で調べれ。
664 :日本@名無史さん :03/12/06 15:37
>>661 >上に補足して、「京武者」による王権への軍事的奉仕、という形態は
>現在では承久の乱まで続いた、と考えられています。
>幕府による京都における兵権の独占は、圧倒的な軍事的勝利によるしか
>達成されることはなかったのですね。頼朝もあせるわけです。
頼朝は京都とは離れずつかずという政策。京都兵権を狙っていた説でもあるの?
そっとしといてやれ!
自作自演厨が、あばかれてから粘着しててしつこいね。
なんか悩みでもあるんだろ。ほっときなよ。
232 :
日本@名無史さん :03/12/26 23:44
>>222 4番を223に補足すると
京都で活躍した頃の新撰組は甲陽鎮撫隊への改組およびその後の敗走、永倉たちの離脱で解散状態になりますが
そのメンバーの一部が会津戦争および箱館戦争でも新撰組を名乗っています
最後の隊長は相馬主計という人物で箱館戦争終了後に政府の捕虜となりました
このときが完全なる新撰組の消滅ということになります
233 :
日本@名無史さん :03/12/27 01:23
平・源・藤原といった「氏」の場合 〜のーというように氏と名前の間に「の」を入れて 北条・足利・近衛といった「姓」の場合 「の」はつけないのが通例ですが、 たとえば秀吉の場合、氏は豊臣、姓は羽柴であるのに どうしてとよとみ「の」ひでよしと言わないのでしょう? 戦国期になるとそういう習慣が廃れてきたからなんでしょうか?
234 :
日本@名無史さん :03/12/27 01:26
足利義晴の初名は義春でいいんでつか?
>>234 こんどはこのスレに出張ですか?
義春厨もたいへんですね
236 :
日本@名無史さん :03/12/27 01:34
質問1:勝海舟が行ったという第二次長州征伐の講和内容って言うのはどのような内容だったのでしょうか? 小倉などの占領地とかは小倉藩に返却されたのでしょうか? 質問2:また、この講和後は坂本龍馬&土佐藩などが表舞台にたって大政奉還とかがおきています。 そして、坂本龍馬が暗殺されたら、待っていたかのように戊辰戦争が勃発しています。 この間、長州藩はずっと何をしていたのでしょうか? 京都に向かうまでの進路に有る藩を懐柔なり、武力征圧なりしていたのでしょうか? 質問3:見回組の佐々木が坂本龍馬を暗殺したというのが有名ですが、暗殺で一番得をしたのは薩長のようです。 やっぱり薩長陰謀説とか言うのもあるのでしょうか?
237 :
日本@名無史さん :03/12/27 01:36
>>233 間違いと思われる。
明治以降、氏、名字、姓等の区別がなくなってからの読み方。
238 :
日本@名無史さん :03/12/27 01:55
239 :
日本@名無史さん :03/12/27 11:30
240 :
日本@名無史さん :03/12/27 11:33
>>233 「とよとみひでよし」というのは単なる間違いです。
正確には「とよとみのひでよし」です。
ついでに言えば秀吉の名字は死ぬまで「羽柴」です。
241 :
日本@名無史さん :03/12/27 14:05
242 :
日本@名無史さん :03/12/27 16:23
>>241 秀吉の氏は
平→藤原→豊臣
名字は
木下→羽柴
秀吉が結局征夷大将軍になれなかったのは、身分が卑しいからですか?
244 :
日本@名無史さん :03/12/27 18:44
>>243 なれなかったのではなく「ならなかった」のだという説が最近は有力です。
秀吉は「貧乏公方」と嘲笑された足利義昭の後継者になんかなりたくなかったのですな。
245 :
日本@名無史さん :03/12/27 21:01
有名な租庸調について質問です。 運搬に関する費用は実費だったそうですが、 地方によって税の軽重があったのですか? つまり、税そのものは遠隔の地方の方が近郊よりも安い、 というようなことです。
246 :
日本@名無史さん :03/12/28 03:19
>>242 豊臣自体は、近衛や三条、九条、鷹司なんかと同じで格(というか屋敷の在所の異名というか)
なんじゃないの?
彼らは藤原朝臣じゃないの?氏としては。
247 :
日本@名無史さん :03/12/28 11:18
>>246 格って…何じゃそりゃw
近衛とかの家名にあたるのは羽柴の名字。
氏は豊臣です。豊臣朝臣。
248 :
日本@名無史さん :03/12/28 14:15
平安末から鎌倉にかけて 源平の傍流は皆在所(本領)名で呼ばれるようになりましたが 唐突に平頼綱などという氏を名乗るものが出てきますが、 これは彼が得宗被官であるため、所領を持っていないのが原因なのでしょうか
249 :
日本@名無史さん :03/12/28 14:41
>>247 摂家とか>格
です。なんて云う言い方していいのかわかんなくて。
そうなのか。藤原だと思いこんでました。ども。
250 :
日本@名無史さん :03/12/28 15:53
公卿の姓である源平藤橘の四姓に並ぶ、第五の新姓として豊臣朝臣という氏姓が作られたんでなかったっけ?
くだらねえ、氏姓の話しはもういいんだよ。 さっさと答えろ、クソが。
252 :
日本@名無史さん :03/12/28 17:55
あそん【朝臣】 (「あそみ」の変化した語) 1 =あそみ(朝臣) 2 @三位以上の人の姓の下(姓朝臣)、 または四位、五位の人の名の下(名字朝臣)につける。 「菅原朝臣」「藤原敏行朝臣」など。A五位以上の人に対してつける敬称、 または親称。B対称、または他称の代名詞のように用いる。きみ。あなた。
253 :
日本@名無史さん :03/12/28 17:59
>>245 むしろ庸、調については京・畿内の人間は免除されたり半減されたりしています
>>254 そうすると遠国の人々は大変だったのですね。
回答ありがとうございました。
256 :
日本@名無史さん :03/12/28 20:49
近代史の質問です。 敗戦を伝える天皇の玉音放送の件なんですが、当時そのラジオ放送を 聞いたという人何人かに訊いてみたんですが、いずれも雑音がひどくて 何て言っているのか全く分らなかったと言います。 別にラジオの調子がもとから悪いわけではなく、その他の放送はまとも だったから、あれは敗戦を認めたくない一派の妨害工作だったのでは、 と言う人もいました。 いすれにせよ、テレビなどで繰り返し放送されるような雑音無しの放送を 聞いたと言う人が、全くいないのには驚きました。 このへんの事実関係をご存知の方はいませんか?
>>256 玉音放送は生放送ではなくアセテート盤の録音だから
音質は悪くて当たり前だと思う。
258 :
日本@名無史さん :03/12/28 21:35
>>257 いやいや、音質程度の問題ではなくて、何て言っているのか全く
分らなかったと。
テレビではっきり聞こえる場面が流されると、みんな口を揃えて
「あれは嘘。あんなにはっきりと聞こえなかった」というんですよ。
259 :
日本@名無史さん :03/12/28 21:46
素朴な疑問だが 256の調査対象者のみで 今回の質問をしているの? それとも他にソースがあるの?
>>258 現在のテレビ番組で流される玉音放送と比較しても
再生技術や放送機器の差があるから、意味がないと思う。
付け加えておくと 私の父は昭和3年生まれ。 雑音があって聞き取りにくかったが 戦争が終わったということは理解できたそうだ。
自分は福岡市在住だが、玉音放送を聞いたと言う人に 片っ端から、その状況を聞いてみた。 北部九州地方を中心に、およそ30人以上は聞いたと思う。 だれひとり、まともに聞こえた、という人はなく、敗戦を 理解したという人もいなかった。 伊丹十三も、エッセイの中で聞き書きという形で同じことを 書いていたので、事実を確認したかったわけです。
263 :
日本@名無史さん :03/12/28 22:14
>>262 オイバカ
お前は日本列島に何人いたと思ってるんだ。
数十人と比べるな阿呆
>>256 終戦時に流れた玉音放送の音質は知らないけど
現在、テレビなどで流される玉音放送はオリジナルの音盤からではないよ
オリジナルの音盤は戦後数年ですでに劣化して音がまともに出る状況ではなかった
戦後、関係者がアメリカに提出するときにダビングしておいたものがNHkに伝わり使われています
>>256 >何人かに訊いてみたんですが
>>259 >素朴な疑問
>>262 >およそ30人以上は聞いた
う〜ん、数は問題では無いといいつつ「南京虐殺」の「事実」を次々と書き換え、
どうにもならなくなると100パーセント日本に非の無い「毒ガス」を言い出す中国を想起するね。
>伊丹十三も、エッセイの中で聞き書きという形で同じことを書いていたので、事実を確認したかったわけです。
伊丹十三如き輩の、エッセイが何になるのかと小一時間(ry
あのー誰か答えてくださいよお
268 :
日本@名無史さん :03/12/29 10:11
教えてください。 戦前の首相決定の手続きについて「法制的なもの」と「実質的なもの」 元老推薦みたいな形が多かったと思いましたがこれはどういう法的裏付けがあったのかなど。
>>261 あの文語体の放送を聞いて敗戦を理解できたとはたいしたもんだ。
玉音放送がまったく聞き取れなかったというのは俺も聞いたことがあるよ
玉音放送の後にアナウンサーのによる再読と解説があったから。
その解説で「日本は負けました」とはっきり言ったのかな。 どうもラジオ放送では何のことか分らず、別の方法で知ったというのが 多いような気がするんだがな。
>>272 証書の奉読
内閣告諭
終戦決定の御前会議の模様
ポ宣言受諾に関する日本からの通告文と、米より日本に伝達された通告文の要旨
ポ宣言に到った経緯。「国体護持の一線を確保」ほか
「万世のために太平を開く 総力を将来の建設に傾けん」
ポツダム宣言
カイロ宣言
共同宣言受諾・平和再建の大詔渙発。終戦に臨んでの国民の心構え
八月九日から十四日までの重要会議の開催経過
なんにしても、あの天皇の棒読みだけで全て理解できたというのは嘘だな。
>>268 明治憲法の下での首相指名の法的裏づけについて言えば
天皇が任命権を持っているので天皇による任命があるかどうかです
議会の多数党だったり元老推薦だったりすることは実質的には首相指名としては区別されても
法的に区別されてはいません
その意味で言えば「法制的なもの」と「実質的なもの」というわけ方には意味がありません
「議会的なもの」と「超議会的なもの」という区別はあるでしょうが
>>276 西園寺公望とかの推薦は法的裏付け無しですか?
>>277 天皇が拒否したり保留したりすれば法的拘束はないでしょうな。
昔の絶対多数の自民党総裁になればほぼ総理になったが
自民党総裁そのものが総理になれる法的権限をもっているわけではなかった
っていえばわかるかな
>>248-266 で、お前はゴネタ挙句に教えてもらって礼もなしか?
お礼されたいのよ、俺・・・。
281 :
日本@名無史さん :03/12/30 12:20
江戸時代、公家だった家は明治時代 士族に入っていたのですか? それとも平民ですか? 上のほうの公家は華族でしょうけど。
282 :
日本@名無史さん :03/12/30 12:29
堂上は華族、地下官人は士族。公家侍は三代以上続いた家のみ士族。
283 :
日本@名無史さん :03/12/30 18:11
廃仏毀釈ってあるじゃないですか。 どうして神仏分離令が出された途端みんなで暴れたんですか? なんか恨みがあったんですか?
>>283 いつの時代でも時代に迎合したがる連中がいるから
285 :
日本@名無史さん :03/12/30 20:27
梁川星厳は美濃の郷士だそうだが・・・美濃に郷士いたんですか?又、その由来は?
288 :
日本@名無史さん :04/01/01 17:18
226 :日本@名無史さん :04/01/01 11:51 元号ってのは生前戒名みたいなものか。 227 :日本@名無史さん :04/01/01 13:11 何も元号を諡にしなくちゃいけないと決まってるわけじゃないけどな。 今上は変えてみるというのも一つの手だ。 「平成天皇」だと平城天皇に似ていて変ジャン。 228 :日本@名無史さん :04/01/01 14:26 ならば「後平城天皇」 後奈良天皇とかぶるな・・・ 229 :日本@名無史さん :04/01/01 14:30 生前の人柄や業績にちなんで 「平和天皇」とか「護憲天皇」、あるいは「鳩天皇」とかは?
289 :
日本@名無史さん :04/01/01 17:21
それならオコゼ天皇だ!!
290 :
日本@名無史さん :04/01/01 17:59
江戸時代の武家の律令官職(○○守だとか○○介とか言うやつ)って、どんな 基準でどうやって任ぜられていたんですか?
291 :
日本@名無史さん :04/01/01 18:57
律令官職で武家の序列として意味があったのは、 大・中納言、参議、中将、少将、侍従などで、その他は全て諸大夫。 諸大夫が名乗っている受領・官途名は全て通称としての扱い。 だから伊勢守も越前守も、同時に何人でも存在できる。 先祖や親の官職名を引き継ぐことが多いが、任意に好きな名前を名乗ってた。
292 :
日本@名無史さん :04/01/01 19:04
大名の場合は元服後に官位をもらい、受領・官途名を名乗る。 旗本はある程度の役職についた場合で、いずれも幕府が独自に与える。 朝廷は文書を発行する手続きのみ。
>>291 に付け加えると
五位以上の官位に任ぜられないと、官途名を名のることはできない。
また名字や役職が同じ場合は
同じ官途名を名のることはできない。
294 :
日本@名無史さん :04/01/01 20:29
上国・中国・下国というのはどういう基準で分かれているのですか また、その具体的な名簿(上国はどこどこ、など)も教えてください
296 :
日本@名無史さん :04/01/01 21:13
>>295 ありがとうです
下国は狭いところ・不毛の地が多いですね
江戸時代の大きな寺社では、僧侶身分の者が高い地位を占め、神職身分の者は そのもとに従属していたから、明治初年の一連の宗教政策は後者の勢力拡大の 機会となり、寺院からの神社の独立や神社からの仏教的要素の除去などが全国 的に行われた。 また、国学や水戸学の影響をうけた人物が藩政の実権をにぎり、藩政改革の一 環として徹底的な廃仏をすすめ、藩士はもとより領民にも仏教信仰の放棄を強 要して、神葬祭を行わせるような場合もあった。 津和野藩・苗木藩・富山藩・松本藩・佐渡・隠岐などはそうした事例として知 られているが、廃仏の動きがはげしくなると、真宗の僧侶・門徒を中心にこれに 反対する運動が高まり、菊間藩三河領や越前では、廃仏毀釈に反対する農民一 揆がおこった。明治政府は、最初のはげしい廃仏である日吉山王社の事件の直 後に、私憤をはらすような破壊行為の禁止を命じ関係者を処分したが、70年12 月には地方管庁で勝手に寺院の廃合を行わないように命じて、仏教勢力との妥 協をはかった。そのため、地方寺院を廃絶する動きは収束されたが、山岳信仰 など神仏習合的な宗教と宗教施設における仏教的要素の除去は、その後にむし ろ強化された。また、路傍や山間の小祠・石仏・石碑などの民俗信仰的な宗教 施設の廃絶は、大規模な廃仏毀釈の嵐がすぎてからも、上からの文明開化の風 潮のなかでさらに徹底して行われていった。
298 :
日本@名無史さん :04/01/01 23:46
お坊さんって維新後は士族?平民?菩提寺に行くと今でも刀が飾ってあるが・・・
>>298 スレッド立てる前に・・・の質問じゃないだろ。
質問スレが他にあるからそこへ消えろ。
300 :
日本@名無史さん :04/01/02 09:26
>>299 ここは質問スレではないのか・・・。_| ̄|○
301 :
日本@名無史さん :04/01/02 13:54
>>299 こういう事言う奴いるんだから
単発質問スレッド建てようぜ?
>>298 明治4年4月に出された太政官布告(戸籍則)では
臣民一般を士族、祠官、僧侶、平民としている。
したがって僧侶は士族でも平民でもない。
【祠官】 1 一定の資格をもって神社に仕える人の通称。 明治以後は神官・神職と総称し、伊勢神宮のものを神官、 官国幣社以下のものを神職として区別した。 2 明治時代の神社制度における諸社の長官の称。
304 :
日本@名無史さん :04/01/02 14:56
最終的には神官は士族、僧侶は実家の族籍になったのでは?
305 :
質問です!! :04/01/02 18:24
板島を何故秀宗は宇和島と変えたんですか? また、それぞれの地名の由来はなんなんですか? 教えてください。よろしくお願い致します。
306 :
日本@名無史さん :04/01/02 18:39
307 :
日本@名無史さん :04/01/02 20:01
>>300 ●
ddノ|)
_| ̄|○ <し よろず〜復活ですか?
308 :
日本@名無史さん :04/01/02 21:29
西洋の甲冑だとブーツを履いているのからか脛だけでなく足の甲、爪先にも 装甲が付いてますが、日本の鎧一式にも同様の物ってあったんでしょうか? 教えてエライ人
>>305 わざわざageで質問する香具師は無視。
310 :
日本@名無史さん :04/01/02 22:28
>>309 質問です、何であなたが仕切ってるんですか?
311 :
日本@名無史さん :04/01/02 22:35
312 :
日本@名無史さん :04/01/02 23:41
スレ違いかもしれませんがお願いします。 大化の改新の後、左大臣になった人は阿倍内麻呂で合ってますか? 教えてください
自分で解決しました。お騒がせしました
314 :
質問です!! :04/01/03 12:23
板島を何故秀宗は宇和島と変えたんですか? また、それぞれの地名の由来は何なんですか? 教えてください。よろしくお願い致します。
315 :
日本@名無史さん :04/01/03 12:42
>>314 他でも同じレスしてるだろ。
自分でまず調べろ。
簡単に調べられるんだから。
316 :
質問です!! :04/01/03 13:07
板島を何故秀宗は宇和島と変えたんですか? また、それぞれの地名の由来は何なんですか? 教えてください。よろしくお願い致します。
天皇とかえらい人をさす言葉がきたら改行して一番上に書く作法がありますよね? 1)あの作法に名前があったと思うんですが、なんというのでしょうか? 2)いつの時代からあるのでしょうか? 3)文章のジャンルによって使ったり使わなかったりしたのでしょうか? 政令文とか論説文とか文芸文とかによって。
318 :
日本@名無史さん :04/01/03 13:17
>>308 ギャバンのコンバットスーツの脛の裏側に装甲がないのと同じ疑問だな。
319 :
日本@名無史さん :04/01/03 15:25
>>317 1)平出
2)公式令に定められている
3)私的な文書についてはさまざま
321 :
日本@名無史さん :04/01/03 17:15
日本書記や古事記はどの程度史実を反映しているものなのでしょうか?
322 :
日本@名無史さん :04/01/03 17:16
>321 ある程度
323 :
へたれな初心者 :04/01/03 17:33
『聖徳太子がクリスチャンで、それを理由に暗殺された』というデムパな主張があるそうなのですが、何処で聞いたら良いのか分からないのでこちらに書き込んでみますた。 このデムパは誰が主張して、信憑性は如何ほどなものなのでしょうか。 漏れ、今、携帯なもんで検索も出来ないんス。 心優しい皆様のRESをお願いしまつ。
324 :
日本@名無史さん :04/01/03 19:11
>>323 沖田総司はBカップだったという説もあるし、
巷間説をいちいち聞き入れても仕方ありません。
325 :
日本@名無史さん :04/01/03 19:39
大和政権っていつ誰が作ったんですか? 大和の大王が天皇になったという理解であってますか?
教科書読みなはれ。
>>323 検索もしないでここで堂々と聞く神経が信じられん。
PCないなら、ネットカフェなり逝きなさいよまず。
328 :
日本@名無史さん :04/01/03 21:24
日本って名前は、いつから言われているのでしょうか?
329 :
日本@名無史さん :04/01/03 21:24
藤原純友之乱に加担して肥前に配流に為った俺の先祖、平貞時に付いて教えて下さい。 宜しく御願いしもっす。
331 :
日本@名無史さん :04/01/04 00:20
もしも毛利の殿様が吉良上野介を斬っていたら どうなったでしょうか?
>>331 家来が殿様を叱り付けて、殿様本人が嫌がっても
無理矢理に「乱心した。」と言わさせられるかな。
主従関係が他と少し変わってるからな、毛利御家中は。
神社の写真を撮ってHPに紀行文などを載せたいと思っております。 それに付け加え、その神社の歴史や由来なども載せたいと思っています。、 歴史や由来等を載せた資料を図書館で探したいのですが、 どういった本が分かり易いでしょうか? かなり小さな街に埋もれたような神社でも載ってるのがいいのですが。
334 :
日本@名無史さん :04/01/04 11:22
>>333 誰もあなたのHPに行かないんで、意味ナイと思ふ。とマジレス。、
>>333 及びその市町村史。(○○市史というようなもの)
>>333 新人物往来社から『日本「神社」総覧』という本が出ていますが
見たことはないので中身については知りません。
『週刊神社紀行』という雑誌もありますが
こちらが取り上げているのは有名どころばかりです。
>>335 が触れているように
平凡社から出ている『日本歴史地名大系』シリーズでは
各地の神社が取り上げられていますが
「かなり小さな街に埋もれたような神社」は出てきません。
>>328 7世紀初めに対中国外交が再開されたときには、《隋書》に〈日出処天子〉、
《日本書紀》に〈東天皇〉とあって、倭と自称することを避けるようになって
いたらしい。中国側でも《旧唐書(くとうじよ)》の東夷伝に至って初めて〈倭国〉
と〈日本国〉とを併記し、〈日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在る
を以ての故に、日本を以て名と為す〉とか、〈或いは曰く、倭国自ら其の名の
雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す〉とか、〈或いは曰く、日本は旧(もと)小国、
倭国の地を併す〉とか、倭から日本に変わった理由を紹介している。
この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから
倭に代えて日本を国号とすることにしたのかは、〈日出処〉が〈日本〉に転化して
いったことはまず確かだとしても、実は明らかでない。遣隋使や遣唐使のそのつど
の交渉について、かなり詳しく記述している《日本書紀》も、8世紀になって
日本という国号が確立したのちの書物であり、その中に使われている原資料に
あったかもしれない倭の字は、国号に関するかぎりすべて根気よく日本と改め
られている。そこで《日本書紀》以外に文献を求めると、《海外国記》の逸文に、
664年(天智3)、大宰府に来た唐の使人に与えた書には〈日本鎮西筑紫大将軍牒〉
とあったとある。だがこの《海外国記》も733年(天平5)に書かれているから、
倭を日本と改めている可能性がある。結局確かなのは,702年(大宝2)に32年ぶり
で唐を訪れた遣唐使が、唐側では〈大倭国〉の使人として扱ったのに対して、
〈日本国使〉と主張したという《続日本紀》の記述であり、《旧唐書》東夷伝
の記事も、この当時の日本側の説明に基づくものと思われる。
341 :
日本@名無史さん :04/01/04 23:14
>>333 そういうホームページは山とある。
そういうホームページを見れば参考になると思うが
ただ似たようなものをあなたが作る意義をあなた自身がどう考えるかだね
342 :
日本@名無史さん :04/01/05 00:38
日本でいちばんおそくできた藩はどこでしょう?
343 :
日本@名無史さん :04/01/05 00:46
344 :
日本@名無史さん :04/01/05 00:58
サンクス!
>>332 毛利家は江戸時代になっても国人連合の盟主であり、
他の大名のようなきっちりした主従関係ではなかったということですか?
346 :
日本@名無史さん :04/01/05 02:03
>>345 >毛利家は江戸時代になっても国人連合の盟主であり
そんなわけない。
一応戦国大名なんだから
>>340 >(或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す〉
此部分は、日本の歴史を解く鍵に為りそうですね。
>>340 >(或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す〉
此部分は、日本の歴史を解く鍵に為りそうですね。
二重投稿スマソ。
俺の質問に答えてチョ。
351 :
日本@名無史さん :04/01/05 12:51
長州藩の謎 1:なぜ改易の恐れがあるような危険なかけ(幕府や外国に喧嘩を売る)をやったのか? そのリスクが大きい割に合わない賭けで得たものは官位だけで殿様は納得したのか? 2:功山寺のクーデターの時は大村益次郎は何をしていた? 3:桂って戦いなどの危険なことはすべて人任せでずっと後方にいたのに政治面では一番威張っていた。 他の志士はどう思っていたのだろう? 4:幕府は第一次長州征伐後に、長州で志士狩りを行わなかったのか?
352 :
日本@名無史さん :04/01/05 12:57
とりあえず4について。京都は幕領だが長州は私領。
354 :
日本@名無史さん :04/01/05 13:57
>>351 1:家臣が実権を持っていたため。
伊藤&山県=出世のため
桂=国のため
吉田&高杉=自己満足のため
ちなみに藩主は将軍になれると勘違いしていた
2:桂が呼ぶ前だったから四国にいたはず
3:桂はリーダーとして年齢と手腕が十分だったのと
大村はカリスマに乏しく、高杉は面倒ごとはすべて桂に押し付けていた
4:間接的だが長州藩に粛清をさせていたが
高杉が反乱を起こして長州を制圧してしまった
355 :
日本@名無史さん :04/01/05 14:40
日本史のレポートの書き方(かき始めの文やレポートの終わり方なども含めて…) を教えていただければ幸いです。お願いします。 わたしは浄土教についてのレポートをやっているところです。
356 :
日本@名無史さん :04/01/05 16:32
主に1400年代の室町幕府による守護大名追討(国人等の追討も含める)で、 幕府に守護(国人なども)の一門が寝返った例はありますか?
神戸新聞と神戸又新日報の特色を教えて下さい。
342 :日本@名無史さん :04/01/05 00:38
日本でいちばんおそくできた藩はどこでしょう?
343 :日本@名無史さん :04/01/05 00:46
>>342 琉球藩。明治5年設置。
344 :日本@名無史さん :04/01/05 00:58
サンクス!
この人は、すでに、ナゾナゾレベルだなぁ。
362 :
現役学部生 :04/01/06 10:26
松本順と松本良順はどういう関係ですか?
363 :
日本@名無史さん :04/01/06 10:27
専門外ですが・・・ 兄弟です。
失礼ながら、同一人物です。 松本良順が順になりました。 薩長に捕らえられましたが、後に新政府に使えています。
ちっ、専門外に口を出すとこれだ・・・ 申し訳ない。 ちなみに、私は旧帝大の博士課程です。
366 :
現役学部生 :04/01/06 10:32
おお、3さん、ありがとうございます!! これからも私をお導きください!! もしよろしかったら、ここで私にお教えを下さい!!
367 :
363=365 :04/01/06 10:37
私の専門は、明治維新が南北戦争の後だということを、 逆であると証明すること。 根拠は、国語辞典。 ちなみに、旧帝大です。
旧帝大、意味分かんねぇぞ。 時系列のことか?
369 :
363=365 :04/01/06 10:43
363=365さんは博士課程なのですか!! すごく優秀なのですね!! 近代史にも、最近は興味を持ったので、お教えください!! ここで私をお導いていただけたら、最高にうれしいです!! 一応言っておきますと、私の近代史の愛読書は、作る会教科書です!! 悪く言う人もいますが、あのくらいの字の大きさがちょうどいいのです!!
ありゃりゃりゃりゃ
371 :
現役学部生 :04/01/06 10:46
ああ、まちがえました!!
>>369 は、僕のキャラです!!
おひおひ ここはネタスレじゃないぞw
何人釣れるかな〜(*゚∀゚*)ワクワク
374 :
日本@名無史さん :04/01/06 15:52
推古天皇って女ですか?
マルチになりますけど歴史学博士スレで質問していいですかね?
あそこの修士が答えてくれる。 よっしょ来い!
ちなみに女な
どうもありがとうございます。
うむ。もうこんなネタスレきちゃ駄目よ。
マジ
>>330 に答えてくれよ。
鹿児島の歴史を語る上で絶っっっっ対に外せ無い薩摩平氏の先祖なんだよ。
薩摩半島で勢力を誇った川辺一族や、源頼朝の叔父・源為朝の舅で謀反に依って薩摩を制圧し、
其後鬼界島(現・喜界島)へ逐電した阿多忠景等の先祖。
因みに刀伊の入寇の際に活躍した平為賢とは無関係。
そこまでわかっているのなら、人に聞く必要もなかろう。
なんかあぼーんされまくりだが、何かあったのか?
384 :
日本@名無史さん :04/01/06 21:35
>>383 age2ch系の嫌韓コピペ爆撃が、朝方あった模様
それのあぼーんが大量に発生。
とても気になった事があり、質問をお許し下さい。 先日、NHK大河ドラマで伊達正宗の再放送がやっていたのですが、 ある場面で秀吉が眼鏡をかけて書を見るという演出があったのです が、戦国時代末期というあの時代に、すでに眼鏡は存在したのでし ょうか? 天下のNHKが時代考証に誤るとは思えませんし・・・
>>382 ネタネタ
ネタなんだから釣られちゃ思う壺
早速の手掛かり、ありがとうございます。 本当にあったんですねー眼鏡。しかも室町時代にすでにあったかも知れない というあたりは驚きです。 つまりですよ。当時すでに小さなガラスを研磨して、レンズを作り出す事がで きたというわけですよね。うーむ・・・侮り難し!
>>387 天下のNHKでやった「日本人はるかな旅」では、そのような説が取り入れられて
いたと記憶しております。
>>385 1249 眼鏡
イギリスのロジャー・ベーコンは1249年,視力を矯正するためにレンズを用いることに
言及している.
中国とヨーロッパでほぼ同じ頃,眼鏡が発明された.最初の眼鏡は年配者用の凸レン
ズを使った老眼鏡で,近視用の眼鏡はずっと後のことになる.
393 :
日本@名無史さん :04/01/07 01:33
竪穴式住居を再現するときの屋根?、 稲わら葺き、自然草葺き どちらが王道だとおもいますか?
394 :
日本@名無史さん :04/01/07 12:28
天正十年の高野山攻めの布陣を教えて下さい 10万で包囲とありましたが一体何処にそんなに軍勢有ったのか疑問です
395 :
日本@名無史さん :04/01/07 17:01
アイヌと琉球民族、隼人族そして東北地方にいたというエミシ(蝦夷)族との 人種的関連性について解説したサイトはありますか?
あるよ
398 :
日本@名無史さん :04/01/07 19:53
日本馬とアラブ馬、合戦に役立つのはどっちですか?
399 :
日本@名無史さん :04/01/07 20:44
あげ
400 :
日本@名無史さん :04/01/07 23:47
でかい馬でも総重量約100sを長時間乗せていられなければ 合戦の役には立たない。 モンゴル人も小さい蒙古馬で戦争をした。
401 :
日本@名無史さん :04/01/07 23:51
なんで日本史板に朝鮮人がわんさかいるのですか教えてください?
402 :
日本@名無史さん :04/01/07 23:54
なんで韓国人は自分の祖先をチンギス・ハンだと思っているのですか?
403 :
日本@名無史さん :04/01/07 23:59
404 :
日本@名無史さん :04/01/08 00:18
おいおい、朝鮮は5000年の歴史があるんだぞ チンギス・ハンは朝鮮人だったの間違いだろ
405 :
日本@名無史さん :04/01/08 00:18
新選組は取締りが職務なのに なぜあんな目立つ変な服を着ているのですか?
406 :
日本@名無史さん :04/01/08 00:21
DQNだからでし 珍走が着る特攻服と同じでし
407 :
日本@名無史さん :04/01/08 00:25
写楽が朝鮮人だというのは本当ですか?
408 :
日本@名無史さん :04/01/08 00:27
>>405 当初は着ていたらしいが、すぐやめたみたいよ。
409 :
日本@名無史さん :04/01/08 00:28
>>409 映画化され、かの国で史実認定されそうな気運が
高まってますが何か?
411 :
日本@名無史さん :04/01/08 00:30
413 :
日本@名無史さん :04/01/08 00:35
娘。卒業後、ピンの仕事は加護ばかりの予感。 いわば加護ソロの保険が世間に認知されている「辻加護」というブランドに頼った辻とのユニット。 辻は事務所の加護推しのオプション的扱いに過ぎない。 しかし娘。の中の個性である以上に個性を出していかなければならない状況で、 辻希美というひとつのブランドとして独立できるチャンスでもある。 だから卒業、ユニットをステップとして大きく羽ばたいて欲しい。
414 :
日本@名無史さん :04/01/08 00:39
放置してますが何か?
>>415 「何か?」はもう2ちゃんでは死語だよ。
言葉は不変ですが何か?
418 :
日本@名無史さん :04/01/08 01:07
加護ですが何か?
矢口ですが(ry
420 :
日本@名無史さん :04/01/08 05:43
水戸藩って御三家と言う優遇された家柄なのに なぜ勤皇を唱えて長州に味方するような行動をとったのでしょうか?
水戸黄門のちょんぼが原因。 幕府の権威を正当化するためには朝廷を大事にしなくちゃな ↓ 勤皇(朝廷を大切にしよう)を心がけよう! ↓ 天皇の正当性を大いに研究しよう!(水戸学) ↓ ↓ ↓(長い時間) ↓ ↓ 天皇jは幕府よりも尊い、日本は天皇を中心とした神の国だ! ↓ 徳川打倒!勤皇倒幕! 「わしゃ、こんなはずじゃなかったのにのぅ」
422 :
日本@名無史さん :04/01/08 06:09
よssy
しかし大日本史なんか読むと、最高の権威(天皇)に任命されたから将軍家は偉いのだ、 みたいな文脈というよりは、むしろ「将軍なんてのはまぁ、いちばん強ぇからとりあえず 政治を任せられてるだけで、ホントは天皇が一番偉ぇんだぜ」みたいな主張を より強く感じるんだけどな。 子孫の行動に、墓の下の黄門サマはご満悦だったんじゃないかと。
弓を引いた時に手元で1センチ狂うと 的に矢が飛んでいく過程で照準より30センチくらい狂うっていうからな 黄門氏の照準とは違う箇所に矢が突き刺さった可能性が高いぞな 何しろ数百年かかって完成したんだから 桜田ファミリアも作者が見たらたまげるかもな 逆に黄門氏の思い通りだったら水戸藩スゲーよ
面白い!最高デース! やむをえなかったと学校の授業で決定した理由が答えジャン? それともあなたの学校では根拠のない推測や憶測だけで、 事実の裏付けをせずに結論だけ先に決定するの? とりあえず答え先にありき?どんな授業ナンデスカ?おちえてくだちゃいw
428 :
日本@名無史さん :04/01/08 16:35
新井白石の「白石」の出典は何でしょうか?
429 :
日本@名無史さん :04/01/08 19:28
ちょっとマジレスいいでつか? 田中知事は周囲に親しまれている地名ということで 「信州」への改名を言い出したと思うんれすけど、 地名(旧国名)は「信濃」ですよね? 「信州」の「州」は、それ自体「地域」という意味で、 「信濃の州(くに)」を短くして「信州」と言ってるだけでつ。 似たような例としては、 「上野(こうずけ)=現在の群馬県」→「上州(じょうしゅう)」 「甲斐(かい)=現在の山梨県」→「甲州(こうしゅう)」がありまつ。 だから、「長野県」を「信州県」に改名する事は、 「信県県(←だって、「信」以外は固有地名じゃないから)」 と書くのと同じくらい馬鹿げた事だと思うのだが・・・ 「信濃県」ならまだ分かるんでつけどね・・・
430 :
日本@名無史さん :04/01/08 19:35
信州というのは信濃国の別称だから、素直に考えれば信濃県ということになるな。 別称というのは田中康夫というよりヤッシーとかやすきちと呼ぶようなものも。 遠州県だ房州県だというより、駿河県や安房県と呼称するほうが歴史的にも正当性がある。 ま、康夫の知識の浅はかさだけが際立ったのが今回の騒動だ。
431 :
日本@名無史さん :04/01/08 19:54
いや、田中は「信州県」ではなく、「信州」にしよう 「一都一道一州二府四十一県」にしよう と言ってるのだと思ったが
432 :
日本@名無史さん :04/01/08 20:19
>>431 それだったらハードルが高すぎるな。
信濃県に改称なら可能性は高いと思う。
長野市以外の住民も大方賛成するのではなかろうか。
>一都一道一州二府四十一県 一道一州一都二府四十二県
434 :
日本@名無史さん :04/01/09 00:41
冬休み明けの工房です。日本史(特に戦国時代)が好きでここをみつ けました。初書き込みっす。よろしくお願いします。 日本史の詳しい皆さんに質問です。 Q 武将の「…守」という言い方にはどんな意味があるのでしょうか 秀吉なら→羽柴 筑前守 であったり、大岡→越前守とかって言いますが、 実際にはその土地の支配者でもないのに、何故、このような官名(と言う のですか?)がついてるのですか? でも、この間、NHKの大河ドラマの「太平記」(ビデオ)をみてたら、楠木正成が 「河内守」と呼ばれていて、実際、生まれも支配地域も「河内」だったり しますよね。この当時は、その武将の支配地域がそのまま官名になってた んでしょうか?
435 :
日本@名無史さん :04/01/09 00:50
>>434 基本的には武士の「○○守」にはなんの意味もありません。
名目だけです。箔付けです。
戦国時代には自称しまくりでみんなめちゃくちゃに名乗っています。
江戸時代には従五位下以上の官位を持っている武士に許されていました。
ただし楠正成は建武の新政下における例外で河内守としての実務を執っています。
すみません。追加の質問です。これも太平記みてて疑問に なったのですが、真田真之扮する足利尊氏が、出陣前に 北条家に対して、「足利 治部大輔 高氏」と名乗っていました。 この「治部大輔」とか、石田三成は「治部少輔」ですが、こういうのと 「…守」というのはどちらが偉い(格上)のでしょうか。
437 :
日本@名無史さん :04/01/09 01:11
>>436 厨房みたいな質問内容ですが。
古文の辞書の巻末の方でも見なさい。
一覧表が載っています。
早速のお返事、435さんありがとうございます。
439 :
日本@名無史さん :04/01/09 01:12
>>436 大差ないです。おおむね五位相当の官職ですから。
なぜ長州藩は「長州」藩と呼ぶのでしょうか?(国持大名でないと「〜州」藩とは言いませんよね) 萩藩・長府藩などの長門の毛利家一門を総称してそう呼ぶのでしょうか?
441 :
日本@名無史さん :04/01/09 03:27
毛利は国持大名ですが。
442 :
日本@名無史さん :04/01/09 03:44
では毛利家一門は支藩扱いなのですか?(吉川も含めて) あと、「〜州」藩と呼ぶ藩は「国名」藩という本称がありますが(たとえば紀州藩なら紀伊藩) 長門藩という呼称は聞いたことがありません これは長州=長門ではなくて長州=長門・周防という意味なのでしょうか?
443 :
日本@名無史さん :04/01/09 04:13
与謝野晶子の弟は生きて嫁さんに会えましたか?
444 :
日本@名無史さん :04/01/09 04:17
「○○藩」というのは基本的には俗称です。 長州藩なら「毛利大膳大夫殿家中」とかいうのが正式です。 「藩」が正式名称になったのは明治になってからです。 あんまり神経質に気にしないほうがいいと思います。
445 :
日本@名無史さん :04/01/09 07:54
正式には「萩領」じゃないの?
446 :
日本@名無史さん :04/01/09 09:36
447 :
日本@名無史さん :04/01/09 10:49
>>442 毛利一門は支藩扱いです。
代替わりのときに幕府から貰う朱印状は、萩藩が一括してもらいます。
448 :
日本@名無史さん :04/01/09 15:26
正月の一般参賀で、ガラスの向こうで手を振る皇族の方々の後ろの壁に 武田菱がいくつも描いてあったんですが、武田菱と皇族はどういう関係なんでしょうか? お願いします偉い人。
449 :
日本@名無史さん :04/01/09 17:58
>>448 ありがとう。非難されつつ発表したかいがありましたね。
450 :
日本@名無史さん :04/01/09 18:00
すいません。
>>448 は
>>446 さんあてです。
で、
>>447 みて思ったのですが。
毛利本家の殿様は、毛利分家の藩の配置転換て出来ますが?
やっぱだめ?
足利義政の乳母で側室の今参局はいくつくらいなんだ? 乳を飲ませた乳母の意味じゃなく 子供の世話をするだけの乳母なんだろうが
452 :
日本@名無史さん :04/01/10 00:32
松平とも呼ばれる外様大名って皆国持大名ですか?
453 :
日本@名無史さん :04/01/10 01:14
>>451 今参局は年齢不詳ですね。
ただ義政が赤ん坊のときから実際に面倒を見ていたらしい。
あと側室説は最近は否定されています。
454 :
日本@名無史さん :04/01/10 03:11
>>453 本当?
すまないけど根拠を教えてください。
455 :
日本@名無史さん :04/01/10 04:12
広開土王碑の碑文は今の教科書ではどういう扱いなんですか? 碑文によれば391年に海を渡った倭が百済と新羅の支配を巡って 高句麗と争ったとのことですが、これは史実として認められてるのでしょうか?
456 :
日本@名無史さん :04/01/10 06:14
>>乃木家は代々医をもって江戸長府藩邸に仕えていたようだが希次の時 禄高八十石の馬廻格として士分に取り立てられた。 とありますけど医者は士分ではないのですか?
458 :
日本@名無史さん :04/01/10 11:11
新選組は桂を追い回しているが 高杉の方が過激派だし能力あるから 高杉の方ををマークするべきだったのではないのですか?
459 :
日本@名無史さん :04/01/10 14:07
461 :
日本@名無史さん :04/01/10 18:22
第二次長州征伐で装備と数で勝っていた紀州藩や肥後藩が 劣勢だったのは何故ですか?
462 :
日本@名無史さん :04/01/10 22:27
463 :
日本@名無史さん :04/01/10 23:37
>>455 とりあえず手持ちの世界史教科書(山川)では、高句麗が倭と戦ったことについては史実として書いています
日本史は、1個前の版しか持ってませんが、ほぼ同様の内容です
一時期の改竄説みたいなのは否定されて、ほぼ史実の反映とするのが現在の潮流かと思います
ただし、広開土王碑はあくまでも高句麗が「ウチの王様はこんなにすごかった」と主張するための碑文なので
倭の記事も「広開土王は百済や新羅を屈服させた倭すらも撃退した」ことのアピールだということには留意すべきでしょう
>>453 ありがと
そうか、じゃあお今の娘は義政の娘ではないか
元からいないということになるんですね
465 :
日本@名無史さん :04/01/11 13:06
関が原では15万人が激突したと言われていますが、 死者はせいぜい5千人程度とか 本当なんですか? ゲームだと半数以上が死にますが
466 :
日本@名無史さん :04/01/11 13:15
467 :
日本@名無史さん :04/01/11 15:50
他のスレでしばしば強烈なる遠戦指向の根拠となっている鈴木眞哉氏の 言っていることはどうなんだ? とっとと答えろ。
468 :
日本@名無史さん :04/01/11 15:58
469 :
日本@名無史さん :04/01/11 16:15
まじめに答えてください
とっとっと答えてくれっと。
471 :
日本@名無史さん :04/01/11 18:23
>>464 そうですね。足利義政の側室のなかに今参局と同じ大館家出身の女性がいますので、
それととりちがえて「今参局は義政の側室だ」という説が出てきたのではないかとされています。
472 :
日本@名無史さん :04/01/11 20:12
>>465 数時間で五千人も死ねば大事ですよ
その他には大量の重軽傷者がいるわけで
さらに逃亡者もかなりいるでしょう
ゲームの場合それらも含めた戦闘不能者と考えましょう
473 :
日本@名無史さん :04/01/11 22:47
東郷平八郎の初体験の相手は誰ですか?
474 :
日本@名無史さん :04/01/11 22:57
乙葉
475 :
日本@名無史さん :04/01/11 23:00
8ちゃんで小島奈津子が・・・ハァハァ たまんね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
476 :
日本@名無史さん :04/01/11 23:54
今参りの局も側室でした
477 :
日本@名無史さん :04/01/11 23:58
>473 西郷吉之助
西南戦争での薩軍の進路を教えてください。 ぐぐっても、えびの市→加久藤→人吉の後、熊本城〜田原坂 と漠然と記述されているサイトばかりで、熊本に居たことのある人間には逆にわかりにくいです。 人吉から田原坂までどのような経路を辿ったのでしょうか?
479 :
日本@名無史さん :04/01/12 17:47
熊本城攻略にもたついている内に、本州からの官軍に来られて、 田原坂で迎撃戦闘、敗走
480 :
日本@名無史さん :04/01/12 17:48
熊本鎮台?
人吉→八代→川尻→熊本城包囲→政府軍撃退のため田原坂へ
日本人で初めてラーメンを食べた人は誰?の質問に、 水戸黄門という答えがあったんですが、どうしてですか?
483 :
日本@名無史さん :04/01/12 20:35
484 :
日本@名無史さん :04/01/12 20:40
幕末の面白サイトを探しています お勧めの所はありますか
485 :
日本@名無史さん :04/01/12 21:02
戦国期の日本史上で「臥薪嘗胆」な戦いはどんなものがありますでしょうか。 今回のレポート(戦国時代)のテーマにしようと思うのですが・・
486 :
日本@名無史さん :04/01/12 22:30
その時歴史が動いたのサントラって出てないんですか
487 :
日本@名無史さん :04/01/12 23:54
最近、オオムロスレに活気がないように思うんですが、気のせいですか?
489 :
日本@名無史さん :04/01/13 14:57
490 :
日本@名無史さん :04/01/13 15:00
ドンドンイケ
491 :
日本@名無史さん :04/01/13 15:01
>>456 医者のほか茶頭、囲碁将棋を専門とする棋士などは
髷を結ってはいけないとされ、みんな坊主頭でした。
たとえ禄を受けていても武士とは別段に扱われます。
たぶん非戦闘員だからなんでしょう。
492 :
日本@名無史さん :04/01/13 15:06
>>481 いったん桐野、村田、篠原が高瀬まで北上して官軍と戦闘し
その後に田原坂まで退いて持久態勢です。
桐野は田原坂ではなく山鹿方面で策動してます。
493 :
日本@名無史さん :04/01/13 15:53
>>495 近藤さんを否定してる日本刀厨は一度
ご自慢の日本刀で弓矢と勝負してみればいいのになw
剣道最強の人と(どっかのおまわりか?)、その辺の高校生の弓道やってる奴とが
戦ってもほぼ100%に近い確率で弓道の方が勝つぞ。
そのくらい兵器としての基本性能がかけ離れてるのよ。
ナイフで拳銃に向かっていっても駄目なのはだれも否定しないのにね。おかしいよね。
多分、日本刀厨は、何らかの利権がらみで生活のために
毒電波を垂れ流してるんだと思う。骨董屋のオヤジとかじゃないの?
全然、説得力ないからね。
497 :
日本@名無史さん :04/01/13 21:38
川村純義伯爵の御子孫の方はどうなったんですか?
498 :
日本@名無史さん :04/01/13 22:07
「国持ち大名」とかって言うときの「国」と、「関八州」って言うときの 「州」の違いを教えてください。
499 :
日本@名無史さん :04/01/13 22:10
>>498 例えば、防長二国と言ったり、長州と言ったりするわけで
「国」と「州」に違いはないです。
501 :
日本@名無史さん :04/01/13 22:20
>>499 >>500 ありがとうございます。
じゃ、徳川家康はの支配していた「関八州」っていうのは
関東の8カ国と言う意味ですね?8カ国って具体的には、
どこだったんでしょうか?江戸(武蔵野国)と…?
相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野
503 :
日本@名無史さん :04/01/14 12:59
もし石原莞爾と近衛文麿が戦争犯罪人として起訴され、 最後まで裁判を受ければ死刑は確実だったのでしょうか?
504 :
日本@名無史さん :04/01/14 13:55
歴史のifについては該当スレを探してそこでやってください
505 :
日本@名無史さん :04/01/14 19:10
蜷川財閥って何ですか。彼女の家系がそうらしいけど、そんな財閥 聞いた事ない。
506 :
日本@名無史さん :04/01/14 20:28
507 :
日本@名無史さん :04/01/14 21:26
蜷川新右衛門
508 :
日本@名無史さん :04/01/14 21:27
Σ (;´Д`)
509 :
日本@名無史さん :04/01/14 21:47
有栖川公園はあの有栖川宮と関係があるんでしょうか でどんな人だったんですか?
510 :
日本@名無史さん :04/01/14 21:52
宮さん宮さん お馬の前でひらひらするのは 何じゃいな トコトンヤレトンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ 知らないか トコトンヤレトンヤレナ の宮さんが有栖川宮だな。 和宮の婚約者だったのが、降嫁問題でやもめになってまった気の毒な人。
日本地図で江戸時代の藩がいっぺんに見れるサイトってないですかね?
515 :
日本@名無史さん :04/01/15 22:02
517 :
日本@名無史さん :04/01/16 00:24
518 :
日本@名無史さん :04/01/16 00:31
質問です。 刀で人を斬るという事は一応殺人な訳ですが、これは犯人が割れたら一応掴まったりしたんですか? あと、婦人や子を無意味に刀で殺す人というのは、この時代にはいなかったんですか? 武士が快楽殺人犯に代わったり・・。
ワケワカメ
520 :
日本@名無史さん :04/01/16 09:08
>>518 もうちょっと、読む人間の立場に立って質問してください。
・この時代ってどの時代ですか?
・誰が刀で人を斬るのですか?誰が、によって、担当する部署が違いました。
・婦人や子供を殺傷するという行為は、人類史上古今東西問わず、絶えた事がありません
521 :
日本@名無史さん :04/01/16 11:16
既出かもしれませんが、質問します。 現在我々が話している日本語で江戸時代の人と会話するのは可能でしょうか? 現在の言葉がどこまで遡って通じるのか興味があります。 平安時代は無理としても、室町時代あたりなら会話可能なのかな?
522 :
八幡太郎 ◆HachiWePRs :04/01/16 11:28
>>521 明治初年でも難しいかも知れません。
概念や宗教・哲学・科学分野全般というあたりの単語は、明治初〜中期の帰朝組が、
後進の指導のために翻訳し、新造した言葉である事が多いためです。
ただし、そうした要素を省いた上で、純粋に言語としての日本語を考えれば、
猿楽や狂言をみて言葉の意味が通用するのと同程度に、意思の疎通は可能であると思います。
猿楽や狂言といった芸能文化は、諸国を旅して上演するという性質上、
独特の言い回しや単語による表現を行いました。お国言葉で劇をする事が不可能だったからです。
そのため、江戸期に入って諸国の人間、たとえば方言のきつい
甲斐・信濃や東北、九州というような地域の武士同士が役儀で話をする際には
多くの場合、こういう狂言的な言葉遣いで話すのが一般的だったようです。
ですから、猿楽や狂言が普及し始めた室町程度であれば、最低限の意思の疎通は
図れるのではないかと思います。
>>478 熊本までの道程は各大隊事に違います。
2月15日出発
一番大隊 三番大隊(16日出発) 五番大隊(17日出発)
鹿児島→横井(休息)→伊集院(休息)→市来湊町(宿泊)→向田(休息)→
阿久根(宿泊)→野田(休息)→出水(宿泊)→水俣(宿泊)→湯の浦(休息)
→佐敷(宿泊)→田ノ浦(休息)→日奈久(宿泊)→川尻→熊本城
二番大隊 四番大隊(16日出発) 独立一、二番大隊(15日に加治木を出発)
重富(休息)→加治木(宿泊)→溝辺(休息)→横川(宿泊)→湯の尾(休息)
→大口(宿泊)→久木野(休息)→佐敷(宿泊)→田ノ浦(休息)→日奈久(宿泊)
→八代(休息)→小川(宿泊)→川尻(正午頃到着)→熊本城
2月17日出発
本営・砲隊
重富(休息)→加治木(宿泊)→溝辺(休息)→横川(宿泊)→栗野(休息)→
吉田(宿泊)→人吉(宿泊)→八代(人吉八代間は船で下る)→川尻
砲隊の一部は鹿児島〜加治木間は航路、西郷一行は重富〜加治木間は
船で移動。2月19日に大雪のため当初予定していた大口〜山野〜水俣
のコ-スを栗野〜吉田を経て加久藤超えに変更。
又米ノ津〜佐敷間での移動に航路を利用した部隊の記録もあり全隊が
同じ行程で移動したと考えないで下さい例外の行程で移動している
部隊もあります。
>>522 大変丁寧にお答えいただきありがたく思っております。
なるほど、そうですよね。
確かテレビが普及したおかげでいわゆる「標準語」が全国に浸透したと
聞いたことがあるので、そんな大昔じゃ地域によっても
意思の疎通が困難、というのは合点が行きます。
それを解消する役目を狂言が担っていたとは
非常に勉強になりました。
>>515 ありがと
やっぱ200以上あると全体図は見れないか
>>524 横から申し訳ないけど、標準語的なものが全国に敷衍したのは
ラジオ・テレビの登場を待つより早く、明治の学制確立あたりじゃないスかね。
なにせ御国は国民皆兵(国民国家はみんなそうだけどさ)、命令を聞き、
あるいは読んで理解できない人間がいたら戦争になりませんからな。
そのためある程度の標準語教育が必要だったってことで。
それはともかく。
521氏に触発されて質問です。軍隊言葉といえば「〜であります」だけど、これは
当時の軍を牛耳っていた長州閥のお国言葉だと聞いたことがあります。
こんな感じで、当時の有力勢力が人工的に全国に敷衍させた
お国言葉って、他にありますか? あったら教えて欲しいであります。
527 :
日本@名無史さん :04/01/16 21:47
おい! こら!
中国人の「〜ある」は、日本で作って覚えさせた簡易日本語
529 :
日本@名無史さん :04/01/17 13:01
安土上の天守閣には、「異様なモノ」が祀られていた と、書き込みで見たのですが、実際何が祀られていたんでしょうか
530 :
日本@名無史さん :04/01/17 14:11
異様なモノ
531 :
日本@名無史さん :04/01/17 14:49
>>529 にちょっと関係あるが、
安土城や坂本城の城壁には、意図的に仏像が埋め込まれていた。
これらは、魔除けの目的で設置されたと推定されている。
また、フロイスの日本史によると、織田信長は石仏を石材として
用いるだけでなく、分国からの信仰の中心地となるように、
つまり、安土山下に集客するために安土を宗教都市としても機能させよう
としていたと推測される記述がある。
※石材用途として単純利用された石仏は京都・二条御所跡でも
大量に発見されている。
532 :
日本@名無史さん :04/01/17 15:45
でも間石とは言え、墓石までは使ってないだろう、と言ってみるテスト
533 :
日本@名無史さん :04/01/17 15:52
槍の半蔵は服部半蔵か渡辺守綱のどっちなのですか? 両方そうなのですか?
536 :
日本@名無史さん :04/01/17 16:59
武田観柳斎は武田耕雲斎に名前の差し止めを訴えられていたって言うのは本当ですか?
武田鎮国斎は武田雲国斎に名前の差し止めを訴えられていたって言うのは本当ですか?
>「光秀に反抗した寺社を壊し、その墓石を使った 飼主に似るとはよくいったもんだ。
日本の植民地政策が欧米のそれに比して特殊だったというのは本当ですか?
540 :
日本@名無史さん :04/01/19 13:06
1:戊辰戦争で薩長連合軍と幕府軍の戦力を教えてください また、第2次長州征伐を守りきっただけなのにたった数ヶ月で幕府を倒す戦力が 整ったのはなぜでしょうか? 2:旗本8万騎は幕府の臣下つまり幕府がつぶれたら知行をすべて召し上げられる可能性もあったのに 戊辰戦争に参加しない人が多かったのはなぜでしょうか?
>>540 長州征伐の時に、皆さん隠居しちゃて、幼い子供に継がせてたんじゃなかったけ?
>>540 >また、第2次長州征伐を守りきっただけなのにたった数ヶ月で幕府を倒す戦力が
>整ったのはなぜでしょうか?
たった数ヶ月ではありません
四境戦争が終わってから鳥羽伏見まで1年半ぐらいの時間があります
また戊辰戦争では薩摩の戦力と新政府協力を申し出た藩に兵をださせて官軍を構成してます
543 :
日本@名無史さん :04/01/19 13:28
>>540 2:については、王政復古のあと、新政府から旗本に直接帰順を呼びかけてます。
戊辰戦争が始まる前に新政府に降伏しちゃった人がかなり多かったみたいです。
>>540 >旗本8万騎は幕府の臣下つまり幕府がつぶれたら知行をすべて召し上げられる可能性もあったのに
>戊辰戦争に参加しない人が多かったのはなぜでしょうか?
鳥羽伏見のときは幕府軍に決戦感覚は無く
そのほかの戊辰戦争では徳川家はすでに恭順していたので
また、旗本を召し上げられた所で箱館はともかく私領の会津などに行ったって知行はもらえません
なぜ歴史オタは「タラレバ」が好きなんですか?「タラレバ」のスレが多いですよね?
546 :
日本@名無史さん :04/01/19 15:52
547 :
日本@名無史さん :04/01/19 17:37
いま燃えよ剣を読んでいるのですが、長州藩や会津藩など、 藩の名前が出てきてもいまいち今の県でどのあたりなのかわかりません。 どなたか全国の藩地図(わかりやすいもの)がのっているページご存知ないでしょうか? 無知ですみません(m_ _m)よろしくお願いします。
548 :
日本@名無史さん :04/01/19 18:02
歴史の教科書か教材に絶対載ってるはず。
>>539 厄介な質問ですね。
日本の植民地支配が特殊だったというよりは、各国の植民地支配はそれぞれ違っていた、と考えた方がいいかと思います。
また、イギリスが典型ですが、同じ国の植民地の間でも統治方法が違っている場合もあります。
551 :
日本@名無史さん :04/01/19 21:13
お前を呪い殺してやるぞ! と言う相手に、その証に、この刀に噛みついてみよ! と言って首を落としたら、本当に首だけになっても刀に噛みついてきて、 周りの者たちが、殿呪われますぞ、とおびえる中、こやつは刀に噛みつこうと必死で呪いのことなど忘れているよ、と言った殿の話って、誰でしたっけ? 調べものをしているのですが、忘れてしまいまして、お教えください。
>日本の植民地政策が欧米のそれに比して特殊だったというのは本当ですか? 俺がいた大学に留学してた腐乱す人が酒の席で 「フランス人は人間 それ以外は人間んのような生き物」 「フランス語は言語それ以外は人間のような生物の鳴き声」 とぬかしやがった 国粋主義の国だとは知ってたけど、みんな引いた その後誰からも相手にされなくなったのは 自業自得とはいえ可哀想だったけど
>>551 小泉八雲の「怪談」に載ってた話じゃなかった?
うろおぼえなんで違うかも。
>>552 まあ未だに旧植民地からの搾取をシステムとして機能させてる国だからなあ…
>>552 逆にフランス語を話してフランス的文化を身に付ける香具師なら
出自を問わずフランス人っていう観念もあるみたいだけどね。
フランス的文化って何だろう・・・
556 :
日本@名無史さん :04/01/20 10:13
>>555 じゅてーむもんなみ、らまーんでめるしーぼくーな
とれびあんですよ?
質問です。 WWU後50年間は日本を「やまと」と呼ぶことは天皇制強化に繋がるとして認められていなかったが ソ連崩壊後 学会最大派・唯物史観も崩壊し「やまと」の表記がいくつか出てきたと聞きました。 マルクス主義の唯物史観をとれば生産関係による下部構造を前提として その上に上部構造としての政治・経済・法制,さらには学問・芸術・宗教のような観念が発達するのだとありますが 唯物史観が崩壊してしまえば逆に「やまと」等の思想は衰えてしまうのではないでしょうか?どなたかお願いします。
『「やまと」等の思想』って何?
>>557 ほんとかよ、とか、唯物史観の崩壊なんてもっと前じゃねえの、とか色々思わなくもないけど、
マルクス主義史観は、生産関係こそが重要な要素だという考え方をするので、ナショナルな特質を軽視する嫌いがあるよ。
560 :
日本@名無史さん :04/01/20 17:38
質問です。 東京大空襲のとき下町が一番被害が大きかったのは なぜなんでしょうか。 素人考えでは、ふつうに皇居とか狙えばよかったじゃん、 とか思ってしまうんですが。
561 :
日本@名無史さん :04/01/20 18:08
>>560 木造家屋が密集しててよく燃えたからとか
>>560 効率よく被害を与えようと思えば
>>561 の言うように人家の密集している地域を空爆することになる。
それに皇居を空爆しても経済的被害はたかが知れているし
それでもし天皇が死んだりしたら
日本側にどのような反応が出るかわからない
死にものぐるいの反撃とかに出られると困るという判断があったのではないかと思う。
歴史上の有名人物で名字が「石川」の人物を知っている限り教えてください。
565 :
日本@名無史さん :04/01/20 22:53
石川数正 石川五右衛門
566 :
日本@名無史さん :04/01/20 23:22
石川誠之助・・・中岡慎太郎の変名
567 :
日本@名無史さん :04/01/20 23:59
南部の家来に石川なんたらっていたな
568 :
日本@名無史さん :04/01/21 01:21
第二次大戦後の連合軍の戦略政策の とこで「二つのD」って出てくるんですが 「二つのD」ってなんすか? わかる方いますか。 だぐらす?
569 :
日本@名無史さん :04/01/21 02:21
四境戦争で長州藩が大島口を放棄したのはいいとして 大村の行ったとおりに高杉に情報が入らず彼が小倉口でうごかなかったら 他の三方の兵は動かせないのでそのままでは大島口から上陸した幕府軍に山口が落とされそうな気がします 大村益次郎には何か策があったのでしょうか
570 :
日本@名無史さん :04/01/21 06:53
東京湾は東京という地名ができる前はなんと言われてたのですか?
571 :
日本@名無史さん :04/01/21 06:58
>>547 長州藩 山口県
薩摩藩 鹿児島県
土佐藩 高知県
会津藩 福島県
これくらい覚えておけば十分
572 :
日本@名無史さん :04/01/21 13:48
嘘じゃないぞ、「東京湾」「江戸湾」でぐぐってみれ。
江戸前とも言っていたね
575 :
日本@名無史さん :04/01/21 23:10
”月鼠” ”寸金” これは何のことですか? 「尺素往来」に羮として挙げられていたのですが。
576 :
日本@名無史さん :04/01/21 23:17
>>570 日本書紀に、其の海を号して「馳水」と曰ふ、とあります。(景行紀四十年条)
東京湾=馳水(はしるみづ)の海
577 :
日本@名無史さん :04/01/22 16:53
1両は現代の価値でいくらぐらいだろう 時代にもよるだろうが、自分は1両=10万だと思っている。 100石取りは年収1000万ぐらい こんな風に昔の経済を現代に当てはめるようなスレを立てたらダメかな?
578 :
日本@名無史さん :04/01/22 18:13
>>566 変名って、近藤勇とか木戸孝允みたく途中で名前変えるって事ですか??
579 :
日本@名無史さん :04/01/22 19:03
受験生で郡評論争の論述問題をといているのですが。 1.那須国造碑と郡評論争の関係 2.郡評論争の意義について が受験レベルの参考書にはイマイチ詳しく載っていません、 ご存知のかた助けてください。お願いします。
580 :
日本@名無史さん :04/01/22 20:07
明治・大正・昭和期の政治家・軍人の写真があるサイトってありますか?
581 :
日本@名無史さん :04/01/22 20:15
日本史を使う大学受験生です。ちょっと前弥生時代の範囲が変わると 新聞にありましたが、今年の大学受験はこの範囲は扱わないんですか? なら嬉しいんですけど・・
石川について教えてくれた人、ありがとう
583 :
日本@名無史さん :04/01/22 21:13
ありがとう>>all
>>578 違います。
偽名のことです。
犯罪者が本名を名乗らないのと同じです。
585 :
日本@名無史さん :04/01/23 03:49
>>577 高百石の武士の収入は現在ではどの位か?
大工の日当から換算する
文化・文政時代(1800年代初)大工の日当は銀3匁〜5匁であった。
今仮に5匁とすると、現在の大工さんが1日、2万円の日当として銀1匁は
20000円:5匁=X円:1匁から、1匁は4000円となる。
米1石が銀60目として1石の価は
4000円×60=240000円
となり、従って100石取りの武士の手取り40石の価格は
240000円×40=9600000円
年収960万円。月収にすると80万円となる。
ttp://member.nifty.ne.jp/chohu/zkyuyo.htm
ゆえあって、尾張藩の役職と機能を調べています。 どういう役職があって、どのような任務を遂行していたのか、 体系的にまとめた書物や研究書などありますか? ご存知の方、ご教授お願いいたします。
590 :
日本@名無史さん :04/01/23 17:04
623 名前: 投稿日: 03/09/01 18:50
物価の変動とかあって難しいけど、、。
例えば、当時の大工の日当を、現在の大工の日当に置きかえる。
当時の大工の日当と米価を対比する。それによって、現在の大工の日当を
当時の米価に換算する。それを石高に換算する。そうすると、100石取り=
現在の年収800〜1000万円程度にはなるということだ。
そもそも、30俵2人扶持で家族がいたら、現在で最低250万〜350万は
いるだろ。そういう考え方でもいいのと違うか?
624 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/09/01 19:14
>>623 100石取とは知行取になりますが
一般にこれは100俵の蔵米取と実収は同じとされています。
時代によって米価も金銀換算率も変わりますので一概には言えませんが
例えば天明4年の御張紙値段は100俵48両です。
1両60匁として、銀に直せば2貫880匁ですが
同年の京都の大工日当は2匁9分なので
米100俵は大工日当の約1000倍ということになります。
これを現在の大工日当に換算しなければなりませんが
平成15年の国土交通省の公共工事設計労務単価(大工)は18815円なので
これで計算すると100俵は1800万円程度ということになります。
591 :
日本@名無史さん :04/01/23 17:05
625 名前: 投稿日: 03/09/02 11:29
100石取りといえば、現在でいえば、サラリーマンの平均以上の高額所得ということだ。年収1千万程度だろ。
大工の賃金で比較するのと、蕎麦の代金で比較すると大きな違いが、、、。
日本銀行金融研究所貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_faq.htm#question1 626 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/09/02 14:34
>>625 リンク先の換算を使って
大工の日当で比較すると1440万〜1920万
蕎麦代金で比較すると576万〜624万、となります。
ただここで忘れてはいけないのは、使用人の食費や賃金をここから支払わねばならないということです。
親子4人、若頭・中間・下女各1人とすると
必要な飯米は年間12石6斗なので、残る22石4斗です。
これを御張紙値段で換算すると、31両弱になりますが、
給金は若頭3両、中間2両、下女1両2分として
給金を払った残りは24両強になります。
つまり主食費と使用人への給金を引いて手元に残るのは
禄米のおよそ半分ということになりますので
サラリーマンの平均以上の高額所得とは言えないでしょう。
>>588 さん
ありがとうございます。わりと詳しく書かれていますね。
職制も、後に高須藩主が尾張藩主になっていたりするので、
ほとんどいっしょのようですね。参考になりました。
593 :
日本@名無史さん :04/01/23 19:34
明治・大正・昭和期の政治家・軍人の写真があるサイトってありますか?
>>593 私は寡聞にしてそういうサイトを知らない。
何度も質問しておられるが
答えがないことを見ると
どなたもご存じないか
そういうサイトは存在しないかの
どちらかだろう。
>>585 一石24万円で計算すると、加賀百万石は2兆4千万円円ですか…。
もはや金持ちの枠を越えてるな…。
597 :
日本@名無史さん :04/01/23 23:52
切腹時の介錯役について質問です。 生きている人の首を斬るなんて、そう簡単にはできないと思います。 何かあった場合に、誰が介錯をつとめるのか、だいたい決まっていて、 そういう人は日頃から練習していたのでしょうか。 たとえば、上位職の武士から 「藩内で不始末が起こった場合は、おまえを介錯役として任命するので 普段から大根を使って切り落とす練習をしておけ」 とか、言われていたのでしょうか。
599 :
日本@名無史さん :04/01/24 00:37
李鴻章は下関で頭部を狙撃されて重傷を負ったそうですが、頭部のどこに傷を負ったのか教えてください。
600 :
日本@名無史さん :04/01/24 01:05
ビックリマーク「!」っていつ頃から日本に普及しだしたんですか。 気になりますが夜は眠れる程度です。
602 :
日本@名無史さん :04/01/24 11:54
これは本当ですか?
542 :おさかなくわえた名無しさん :03/11/19 16:41 ID:5FvnhpUR
>>496 着物の所為で、昔の日本人は殆どが走れなかったそうな。
走るのは、飛脚と馬夫とか忍者の特殊技能。
薩摩や長州が鳥羽伏見で圧勝したのも、西洋風の練兵で走り方と鉄砲の撃ち方を
よく仕込まれていたから。
明治になると、赤紙で集めてきた兵隊がみんな揃って走れない。最初の訓練は、
走ることだったそうな。
小学校の制度で、子供の頃から走る練習をしておかないと強い兵隊にならない
からと、軍隊の訓練を取り入れたから、それが連綿といまでも体育が軍隊風で
体育会系が上下に厳しいとかと、脈を保っている。
603 :
日本@名無史さん :04/01/24 12:48
>>602 うそ。
女はともかく、男は尻からげして走った。
604 :
日本@名無史さん :04/01/24 14:14
では小学校での体育は何で取り入れられたのですか?
605 :
日本@名無史さん :04/01/25 00:37
体を健康に鍛えるのに理由がいるのか?
606 :
日本@名無史さん :04/01/25 00:56
すみません。 @「コンフラリア」A「カピタン・モール」について、 150字程度で説明せよ、という課題があるのですが 日本史か世界史かもわからず・・・・世界史スレとマルチになってしまいますが、 どなたかわかりませんか?
607 :
日本@名無史さん :04/01/25 01:21
>602 手を振って走る西洋式の走り方が出来なかっただけ。 狂言、歌舞伎、落語など古典芸能における走る動作を見ればわかる。
609 :
日本@名無史さん :04/01/25 12:46
>596 石川県の予算は1兆7千億円 微妙
610 :
日本@名無史さん :04/01/25 19:33
611 :
日本@名無史さん :04/01/25 21:02
現在広く使われている戦の呼称は当時何と呼ばれたいたんですか? 例 薩英戦争→前之浜の戦 戊辰戦争→戊辰の役 西南戦争→西南の役 四境戦争→? 馬関戦争→? 等々。
612 :
日本@名無史さん :04/01/26 13:54
伊達藩は参勤交代のときに今の国道4号6号どっち通ってたの? 伊達藩より北の藩は伊達と同じと考えてもいい?
>>596 加賀百万石は領内の生産高なので、四公六民として収入は9600億円だな
614 :
日本@名無史さん :04/01/26 15:46
井上聞多は「ぶんた」と読むのか「もんた」と読むのかどちらなんでしょうか。
>>610 インターフェースはしょぼしょぼですよ
仮想CDにしてHD内に丸ごとあるのに、立ち上がるのが異常に遅い一分位かかる。
616 :
日本@名無史さん :04/01/26 17:04
加賀百万石って 越中とかをふくめた数字だったと思う
617 :
日本@名無史さん :04/01/26 17:42
最近、新撰組を見て幕末に興味を持ったんだけど ある漫画に、馬に乗った髪のボサボサというかライオン丸みたいな人がいたんだが、 誰だか、教えて? これだけじゃ、分からないかな?
>>616 その通りです。
加賀藩の石高は、加賀国3郡(河北・石川・能美)の35万2,924石8斗7升、
能登国4郡(羽喰・鹿島・鳳至・珠洲)の21万1,432石8斗4升、
越中国3郡(新川・射水・利波)の47万9,879石6斗9升、
それに飛地(近江国高島郡)の2,260石2斗8升2合を加えた、
合計104万6,497石6斗8升2合でした。
さらに、それはあくまでも朱印高(表高)で、
新田開発が進むにつれて内高は増加していき、
明治元年の調査において、新田高が333,512石あったことが知られています。
あと、免率は一定していなかったので、
200年以上続いた加賀藩の収入を単純に計算するのは難しいと思います。
617です
>>618 それそれ、どもです
で、誰なの
手元に、その本がないので
なんとも言えないが、偽官軍の奴か-
三斎羽織をつけた明治維新の官軍将校
>>597 江戸に関しては、山田浅右衛門が中期以降は独占していた。本来は罪人を切るのは
牢屋同心の仕事だったのだが、不慣れな者がやると失敗も多かったので、いつのまにか
山田家の専属となった。また、江戸時代も元禄の頃になると、本来の武家政権の気風が
希薄になったのか、血穢を嫌ってか、山田家は浪人身分のまま刑を代行していた。
江戸近隣の藩や天領の場合、浅右衛門や高弟が出張して介錯に行ったり、また諸藩の
剣術の腕に覚えのある者が、藩からの命令で浅右衛門のところに弟子入りして腕を
磨いていた。介錯が上手くできないと言うのは、武士にとってもかなり恥ずかしい
事態なので、参勤交代で江戸に出てきた時に、拡販の人間が入門した。
地方に関しては、例えば尾張藩の城代組同心だった朝日文左衛門の日記「鸚鵡籠中記」を
見ると、尾張藩にも据え物切りをメインにやっている剣術流派もあり、ここでは日頃、
門弟は師匠が首をはねた罪人の死体を貰い受けて、実際に様斬りの練習に励んでいた。
もっとも、朝日文左衛門も初めての様斬りで、見事に死体の右足を両断したが、その後に
友人の家で食事をした時、出された赤身の刺身を見て切った死体の切り口を思い出して
急に気分が悪くなって、前身から冷や汗が出てガタガタ震え、吐き気が止まらなくなり、
どうしようもなくなったと日記に書いている。もちろん、このあと二度と据え物切りの
道場には行かなくなったと。
>>602 608に補足すると、昔の日本人は同側歩、つまり右足と右手を同時に前に出す歩き方だった。
これは今でも細かい所に残っていて、畑を耕す時の鍬を持つ動作も、剣道の動作も、右手右足が
前に来る。相撲の動きもそう。こういう動きを「ナンバ」と言う。能や歌舞伎でも重視される。
もっと言えば、日本人には手を振って歩くと言う身体動作の伝統がなかった。もちろん、
走れなかったと言うのは嘘。養老先生と甲野なんとかって武道家が対談でそういう意味の
事を言っていたので一部に誤解があるが、いわゆる手を脚とを連動させての全力疾走が
できなかっただけで、日本人的な主観においての走る動作はできた。ただし、現代の
我々の目から見ると、上半身を固めた非常に窮屈な走り方で、全力疾走であっても
現代の小走りに近いフォームだったと考えられている。
日本人は上半身と下半身の連動がヘタクソで、欧米人や黒人に比較して、総防菌や肩甲骨周辺の
筋肉に無意識に力が入り易い傾向がある(肩こりになり易い)。なので、火事などで
パニックに陥り全力疾走する時は、両手をバンザイした状態で走ったりしたようだ。左右に上手く
振って慣性モーメントを得られない以上、上に上げて走る邪魔にならないようにしたのだろうか。
中国の武術でも、本当に威力のある打撃は同側歩なので、モンゴロイドに共通の動きなのかも
しれない。ちなみに、左足を前にして刀を振り下ろすと、相手に避けられた時に自分の脚を
斬ってしまう。同側歩にあわせた技が発達したのだろう。
アラブ圏の友人に聞いた話なので確証はないが、アラブでは100年ほど前までは、石を投げる
場合はサイドスローやアンダースローしか存在しなかったとか。オーバースローで投げると言う
文化が存在しなかったからだとか。実は野球のオーバースローも、野球発祥の初期の頃は、
存在しなかったらしい。より速い球を投げるために、人工的に発明された投げ方らしいのだ。
身体操作の文化は、実はわりと短いスパンでガラッと変わってしまうのかもしれない。
623にさらに補足。 日本人は膝関節を多用した歩き方で、股関節を大きく前後に動かす欧米人の 歩き方とは、基本的に異なる。歌舞伎の藤娘などの練習で、膝を帯で縛って歩く練習をするが、 日本人はわりとこういう状態でも歩けてしまう。股関節を使わない歩き方を日頃からして いるから。欧米人ではこうはいかない。 逆に、膝をいっさい曲げずに股関節を大きく前後に動かす歩き方はできない。 日本人がふくらはぎと太腿の前面(大腿四頭筋)が大きく発達し、欧米人や黒人が 大臀筋上部と太腿の裏側(大腿二頭筋)が大きく発達しているのはそのせい。 走ると言う行為自体、一見似ているようでも、実は使ってる筋肉とかには大きな違いが ある。だから、欧米人的な意味では「日本人は今も走れない」とも言えない事もない。 いわんや、幕末〜明治の頃はなおさら。
>>617 漫画はいいかげんだからなぁ。
ただ、幕末の頃は武士も月代を剃らなくなっていた。
近藤勇も土方歳三も、総髪。
特に土方は、函館に転戦する頃は散切り頭で、キムタクみたいな髪型になっていた。
>624さんに蛇足 ついでにいうと今の若い人は西洋式歩行に慣れて来たので、着物を着たときに さまにならない。そこで昔は使わなかった数々の矯正用具を使用して、半ば拘 束するような着付けをするので、着物は窮屈という話になる。 上半身を動かさず、ということは着崩れをせずに歩くには能楽や茶道でも稽古 して貰うしかなくなって来ている。 春秋の筆法を使えば、日本的な意味では「今の日本人は歩けない」と言えない 事もない。
戦争への参加がなくなって兜をかぶらなくなれば、 月代の意味がないから総髪が増えるのは当然。
628 :
日本@名無史さん :04/01/27 11:52
>>624 >>626 でもそれだと外人宣教師や外国人商人などが、ちょんまげや刀・着物などの
ようにたくさん手記に残してると思うんだが、実際どう? 着物を着てる
から外人が見ても気付かなかったってこと?
629 :
日本@名無史さん :04/01/27 12:02
631 :
日本@名無史さん :04/01/27 12:41
>>628 ナンバ歩きをしてたのは本当のようだ。
何かのTVで風俗画(安土桃山の頃か)が紹介されていて
宣教師が今風の歩き方をしているのに対し
日本人は同じ側の手足を一度に出して歩いていた。
その番組で昔の日本人の歩き方はこのようだった、と解説。
トリビアにでも出してみたらどう?採用されるかもよ。
633 :
日本@名無史さん :04/01/27 13:58
>>632 でもよ〜、右手出したら左足ってのが、バランスやエネルギー効率
の面でいいと思うんだが、今でも女性が着物で歩いてることあるから、
チェックしてみよう、念のためお相撲さんも
634 :
日本@名無史さん :04/01/27 16:37
>>629 城焼いて豊津に逃げたので
最終的には小笠原は城主でもなんでもないよ
国持ち大名 一国一円十二家 (前田、島津、毛利、池田、蜂須賀、黒田、浅野、備前池田、山内、宗、藤堂、松江松平) 大身六家 (伊達、細川、鍋島、有馬、佐竹、上杉) 他 (越前松平、松山久松松平、郡山柳沢松平、美作越前松平)
637 :
日本@名無史さん :04/01/27 18:01
4馬鹿 小笠原長時 小笠原秀政 小笠原長行 小笠原長生
笹中ブス四天王 イブ ドーラ ツードン フミ
639 :
日本@名無史さん :04/01/27 18:35
>>629 けど小笠原礼法ってここの家柄が考えたんだろ?名家じゃん
640 :
日本@名無史さん :04/01/27 20:07
>>639 小笠原家は長棟までは優秀だったけどその子孫は
小笠原氏には、名君はいないといわれるほど
戦というか兵の統率が絶望的に下手だった。
しかし、人に取り入るのは上手で
徳川家康に取り入った小笠原貞慶は弓術などをすすめ
ゆかりのものを幕府の師範として送り込み、
幕府の元で小笠原流を普及させた。
ウチは代々農民なんだけど、近隣に○○藩とかが無いのね。 誰に年貢を納めていたのか気になって 天領だったとも聞かないし、幕臣の拝領地だったのだろうか 地元の図書館にでもいけばわかるかな? どんな資料を見ればいいのだろう
642 :
日本@名無史さん :04/01/27 22:55
唐突ですが…みなさん、どうか教えてください。 インターネットで他大学の論文を検索できるホームページがありますが、 わたしのやり方が悪いのか、論文を読むに至っていません。 検索の指定条件が、そのホームページの大学の学生でないと 検索できなかったり、論文の題名を入力しないといけなかったり、 検索できても論文が英語だったりと、お手上げの状態です。 ちなみに、わたしは大学2年生で 日本近代についての論文をいろいろ読みたいと思っています。 どうか宜しくお願いします。
643 :
日本@名無史さん :04/01/27 23:28
646 :
日本@名無史さん :04/01/27 23:58
イギリス人にアイヌのことを説明したいのですが、 お薦めの本があったら教えて下さい。 私自身アイヌについてほとんど知識がなかったので 本を借りてきたのですが、どうもその本ずいぶんと筆者の 主観が入っていて、ちょっと見方が偏っているような印象 だったもので・・。 何か良い本あったら教えて下さい。
>>645 アリガd、誰の領地であったか判明しますた。
調べたら田安家の所領でつた
649 :
日本@名無史さん :04/01/31 00:09
長州藩についての疑問 1:表高は36万なのに実際は100万石の収穫がありました。 表高>実高という藩も少なくなかったのに長州藩は実高>>>表高になっています。 ・・ということは参勤交代とかの負担が軽くなり幕府に歯向かう参勤交代システムの意味が薄れます。 結局、長州藩が力をつけたことは幕末の災いになりました。 なぜ幕府は長州藩に対してこれほど寛容だったのでしょうか? 2:第2次長州征伐って10万石の減封を拒否したから実施されたんですよね? ってことは最初は朝敵という大事件をやらかした長州藩を 幕府は存続させるつもりだったことになります。 些細なことで改易された大名が多いというのにこの処分は甘すぎると思います。 3:長州の下関港って重要な土地なのになぜ幕府の天領にしなかったのでしょうか? 対岸に譜代の中で屈指の大藩の小笠原家がいますが、外様の大藩に下関を与えるのは 非常に危険だと思います。 実際、長州藩が下関砲台を所持していなければ長州も過激にならなかったでしょう。 4:なんで幕府は毛利一門を防長に固めて配置したのでしょうか? 三本の矢のうち二本が健在だったために、芸州口を突破できず長州征伐は失敗しました。 一門の吉川や支藩だけでも転封していれば長州は陥落したかもしれません。
>>649 4.についてだが
毛利3支藩は元来内分なので転封はできない。
享保元年に徳山藩がいったん改易になったときには
徳山藩領は本藩に吸収されている。
なお吉川家(岩国藩)が正式に藩と認められるのは
明治元年3月のこと。
>>649 2.について
幕藩中期以降、大半を改易した例はない。
したがって幕府の対応が甘いとは言い切れない。
1.
100万石というのは幕末段階のことではないでしょうか?
当初の実高は50万石程度かと思いますが
これを36万石としたのは
西軍の総大将家の格式を高めたくなかったという幕府側の配慮があるのではと思います。
詳しい方がおられれば、補足をお願いします。
現代刑法の観点から御成敗式目について調べようと思っています。 ところがもともと日本史学について門外漢なので、原文がサパーリわかりません。 御成敗式目の現代語訳・解説について分かりやすい本、ご存知じゃありませんか?
>>649 1、3、4
幕末段階の理解を近世初期まで遡及させて考えるのはどうかと思います。
1
初期でも、幕末でも、表高>内高の例はいくらでもあります。
さらにどの藩でも、新田開発や検地によって内高が増加していきました。
2
その事情については、近年久住真也氏が詳細な研究をされています。
諸勢力のかけひきの結果、10万石の減封という線で落ち着きました。
もちろん、改易を考えていた勢力もありました。
3
下関港が、重要な港となったのは、近世中期以降です。
中世段階からも流通の拠点ではありましたが、
藩の宝暦改革により港が開発され、それが天保期の越荷方へと発展します。
4については修士さんがおっしゃるとおりです。
すみません ×表高>内高 ○表高<内高 でした
天皇の名前についてる「後」は(後桜町天皇など)どういう意味でつけてるんですか?
まあ欧州でいう「2世」みたいなもんだ。 直後じゃないけどな。
秋山真之の書いた「連合艦隊解散の辞」が米国セオドア・ルーズベルト によって英訳されたとのことですが、現物がどのようなものであったか 見れるようなリンクないすか。
>>622 概要がわかりました。
ありがとうございました。
663 :
日本@名無史さん :04/02/01 08:03
>>652 とりあえず挙げておくけど、鎌倉幕府法は難しいよ!
<史料>
・石井進等校注『日本思想大系 第21巻 中世政治社会思想上』(岩波書店、1972年)
・佐藤進一・池内義資編『中世法制史料集 第1巻 鎌倉幕府法』(岩波書店、1978年)
・池内義資編『中世法制史料集 別巻 御成敗式目註釈書集要』(岩波書店、1978年)
<研究書>
・植木直一郎『御成敗式目研究』(岩波書店、1930年)
・植木直一郎『御成敗式目研究』(名著刊行会、1966年)
・池内義資『御成敗式目の研究』(平楽寺書店、1973年)
*大学に日本法制史の先生がいれば指導を受けるのが近道です。
665 :
日本@名無史さん :04/02/01 12:26
戦争と戦役の違いを教えて。
666 :
修士(文学) ◆EaV4Ar5GJ. :04/02/01 12:45
>>665 明治・大正期には「戦争」という言葉はそれほど使われていないと思います。
西南戦争は「西南の役」
日清戦争は「日清戦役」「明治二十七八年戦役」
日露戦争は「日露戦役」「明治三十七八年戦役」
こういう言い方が一般的でしたし
第一次大戦からシベリア出兵についても「大正三年乃至九年戦役」という言い方があります。
「○○戦争」という表現が一般的になるのは
大東亜戦争以降ではないかという気がするのですが
このあたりは専門ではないので
詳しい方が補足していただけると有り難く思います。
667 :
日本@名無史さん :04/02/01 14:45
668 :
日本@名無史さん :04/02/01 14:51
「長篠の戦」屏風での家康の見分け方を教えて下さい。
669 :
スーパーロウな俺様◇ :04/02/01 18:45
手巣津
670 :
スーパーロウな俺様♯ :04/02/01 18:47
もっかい
>>660 ありがとうございます。以後注意します。
昭和30年代で5マンの月給だと現在に換算してどれくらいですか? 白い巨塔を読んでいるのですがぴんと来ない
華族の人は宮内省に土地や建物を登録しなくてはいけなかったが、税金が免除された。 土地を担保にして融資を焦がしてしまっても、土地が宮内省に登録されているもの なら、銀行はこれを借金のかたとして没収できなかった。銀行は土地が登録されてい るかどうかは融資の時は調べられなかった。 日本の洋館」という明治・大正・昭和の洋館の名建築を紹介する本に、華族につい てこうした説明書きがありましたが、以上の話は本当でしょうか?「
>>674 即レスありがとうございます
30万前後ですが・・・
昔の小説読むとこういうところに引っかかりますね
ちなみに白い巨塔の財前はその内の現在で言う12万くらい仕送りしていたようです
676 :
日本@名無史さん :04/02/02 09:48
条坊制と条里制の違いを教えてください
>>675 付け足しておくと
今では月給30万といっても特別高給ではないが
当時の月給で今の30万円相当の購買力がある人は結構な高給取りです
周りが余計貧乏だった時代なので
678 :
日本@名無史さん :04/02/02 14:15
現代日本が抱える色んな問題のうちで 高度経済成長と強い関連があるものってどんなのがありますか?
656ですが 教えてくれた方ありがとう
江戸時代って日本に牛は居たんですか?
農耕用とかにいましたよ。 あと牛車とか天神様のお使いとか善光寺のツアーガイドとか。
682 :
日本@名無史さん :04/02/02 19:05
牛に引かれて善光寺参り伝説 その昔、不信心な老婆が千曲川に織府を晒していたところ、牛が現れ、その布を角に引っ かけ走り去った。 強欲な老婆はその牛を追い、気付けば善光寺さまにたどり着いていた。 そこで姿を消した牛の代わりに お堂に現れた観音様が不信心を諭し、それ以後、老婆は改心 し、情け深い人間として長生きしたという。
>あと牛車とか 近世だと、牛車は儀式にしか用いられません。 それから東国だと荷物の運搬には馬を用いますが 摂津あたりでは、近世になると荷物の運搬にはほとんどが牛を使います。
ありがとございまっす 牛は明治維新から食べてたって聞いたんでふとした疑問でした
>>684 江戸時代も食べてますよ。
例えば彦根藩は将軍家などに牛肉の味噌漬を献上してますし。
686 :
日本@名無史さん :04/02/02 20:32
>>684 牛肉は意外と食べられてた。
「食肉のために牛を飼育し、食肉のために屠殺する」っていうのは忌み嫌われてたけど、
逆に言えば、それ以外の抜け道なんていくらでもある。
彦根藩の近江牛は「薬」という名目だったし、関西において農耕用の牛を食うことはポピュラーだった。
>>686 に補足と言うか蛇足。
日本人も、四つ足はけっこう食ってた。ただし、建前上は禁忌で
おおっぴらにできなかったので、イノシシは山鯨と言って、
魚と言う事で(もっとも鯨はほ乳類だが当時は魚と考えられてたからね)
食っていた。ウサギを一羽二羽と勘定するのも、
あくまでも鳥であると言う建前から。
イノシシやカモシカ、ウサギなどこれらは、牛肉に限らず、
あくまでも薬として食されており、江戸っ子は「薬食い」と呼んでいた。
もっと言えば、江戸前期は日本人は犬も食っていた。
これを禁じたのが五代将軍綱吉。犬鍋は江戸庶民のささやかな楽しみだったのだ。
理由はよくわからないが、綱吉の生母も含めて、彼の周辺には京都出身の
女性が多く、京都では昔から犬を食うのを忌避していて、それが綱吉の
政策に影響したと言われる。俗説に言う隆光に世継ぎが生まれないのは云々と
吹き込まれたと言うのは嘘のようである。隆光と出会う1年前に、すでに
生類憐れみの令の萌芽と思える政策を打ち出している。
ただ、綱吉の生類憐れみの令が長く続いたため、日本人は全国的に犬を食わなくなり、
薩摩や離島など、ごく一部に残るのみとなり、中国人や朝鮮人をバカにすると言う
状況を生み出しているが。
690 :
日本@名無史さん :04/02/03 17:18
幕末から明治にかけての短歌などをまとめた本を探しているのですが オススメがあったら教えて頂けないでしょうか
691 :
日本@名無史さん :04/02/03 22:40
華府会議って何ですか? 重光の本読んでたら出てきたんですけどどういうものかわからなくって
すみません自己解決しました
前近代の日本に馬車がなかたのってなんでですか? たしか、中朝にはあったような。
694 :
日本@名無史さん :04/02/04 21:14
新しい天皇が即位したとき、けんじとぎょの儀、だいじょう祭などの儀式がありますが、 このような儀式は天皇になるための絶対条件ではない、このような儀式を執り行わなくても 新天皇であることに間違いない、という話を聞いたことがあります。 つまり、天皇が崩御すると、皇位継承順位第1位の皇族が自動的に次の天皇になるということでしょうか? 言い換えれば、神武天皇即位以来、天皇陛下が日本に存在しなかった瞬間はない、と解釈していいですか?
695 :
日本@名無史さん :04/02/04 22:15
日本の現役首相が初めてアメリカに行ったのは サンフランシスコ会議でしょうか?
696 :
日本@名無史さん :04/02/04 22:32
徳川御三家に水戸家は入るんですか?
ごさんけ【御三家】 徳川将軍家の親藩のうち尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の三家。(以下略) 『日本史広辞典』(山川出版社)
すみません、文学系の質問かもしれないです。 かわいいエピソードの多い木曾義仲の上洛ですが、 平氏の残した名だたる名馬を集めた馬屋に案内されて感動し、 「ずっとこの馬たちを見ていたいなあ、将軍なんかうっちゃって、ここの馬番になりたい」と 口走ったというのはどこかに文献がありますでしょうか? 最近の新聞かなにかで読んだだけで記憶があいまいです…
699 :
日本@名無史さん :04/02/04 23:25
「幕末の写真」に掲載されている、杉浦愛蔵って 超イケメンなんですけど、この人どんな人か知りませんか? また幕末から明治にかけて、杉浦級のイケメンはいませんか?
701 :
日本@名無史さん :04/02/04 23:30
なんとな〜くおもったんだけど 信長の死について、自害、戦死、没した・・・云々、薨去って言われないのはなぜ?
>>694 胎中天皇ってどうなんだと思ったけど、それはともかくとして。
普通は即位の儀式が行われて初めて天皇になるんだと思われ。
「儀式が行われなくても天皇なんだ」という主張は、
ようするに儀式を行った形跡のない天皇(南朝の長慶天皇とかね)を天皇と認めるためのものなんじゃないかな。
>>701 >>702 薨去
皇族または三位以上の人の死去
(『広辞苑 第5版』)
ってあるけど、信長は三位以上になったんだっけ?
707 :
日本@名無史さん :04/02/05 03:29
郷とか御厨とか庄とか土地の区分を示すもので「保」ってどういうもの?
709 :
日本@名無史さん :04/02/05 13:44
ありがとう。でも郷と保って何がどう違うの?
>>700 名前は同じだけど、烈しく違うんですけど。
ちょっと調べ直してきまつ。
>>709 郡>郷>保
あとは「荘園公領制」でググってみてね
713 :
日本@名無史さん :04/02/06 01:15
旧制高校に入ると、旧帝大に無試験で入れたと聞きますが、 誰がどの帝大に逝くかをどうやって選抜したんですか? たとえば、高校で成績のいい順に東京、京都、東北・・・と振り分けられたんでしょうか? そうなると、東京の旧制一高から九州帝大や北海道帝大に逝った人は、落ちこぼれということに? おながいしまつ。
714 :
日本@名無史さん :04/02/06 01:20
前方後円墳の向き?はなんであんなムチャクチャなの?
>>714 おそらく前方後円墳の「方」部を下側、「円」部を上側と認識しているのかな?
(そういう人が多いだろうけど 汗)
実は、前方後円墳のどちらが重要視されていたかというのははっきりした定説が無く、謎のままだったと思います。
円部の頂上からお棺が出てくることが多いので、円部の方が中核であったとは考えられますが。
前方後円墳の向きは全国的に見て東西南北が統一されていませんが、
それはその古墳が築かれた場所の地理的な理由に左右された物と考えられます。
奈良の山辺の道沿いには古墳時代初期の前方後円墳が多く残っていますが
東側に円部、西側に方部が来るように築かれている物が比較的多いように見受けられます。
山の斜面を利用して築いた物が多いためと思われます。
大阪羽曳野市周辺には古墳時代中期の大古墳が集中して残っていますが、古墳の向きは一定せず
バラバラのように見えます。ただ、川の流れに沿って古墳を築いたように見受けられます。
ご参考程度に。
716 :
日本@名無史さん :04/02/06 16:17
孝明天皇や、その取り巻きの公家は、攘夷論者ばかりだったそうですが、 外国の武力についてはどう対抗することを考えていたのでしょうか? 子供向け歴史マンガに見られるような、 本気で「日本は神の国だから」などと思っていた、 というわけではないと思うのですが…
>>716 孝明天皇は攘夷論者でしたが、政務は幕府に委任しているから両者仲良く
やろうという、いわゆる公武合体論者でもありました。
要するに「幕府! しっかり攘夷せんかゴルァ!」で、朝廷が自力で
攘夷することは出来ないし、その方策を自分で立てる立場でもないが、
意見を聞かれれば攘夷を主張する、ということでしょう。
そういう朝廷に幕府が伺いを立てたのが混乱の始まりですが、孝明天皇も
幕府が結んだ通商条約は、やむをえない事情があったとして認めました。
運用面では京都に近い兵庫(いまの神戸)の開港はあくまで拒むなど
頑固な主張もみられますが。
>>696 一般には697のような形で理解されてるが、本来は「入らない」。
御三家とは本来、江戸徳川本家、尾張徳川家、紀州徳川家を指す。
ただ、本家の血統が七代目で絶えたため、いつのまにか水戸家を加えた
御三家が以後定着したが、八代将軍擁立の際も水戸家は対象にさえなってない事からも、
本来は御三家に含まれていないのがわかる。
もっと言えば、水戸家自身が、御三家という言い方は本来違うと言明してる。
実は、徳川家の中ではポジションは高いながらも、将軍を擁立できないという
微妙なコンプレックスが、尊王の水戸学を生んだ遠因でもある。
ついでだから、ちょっと面白い伝説も紹介。
天海が上野の東叡山を開いたのは、江戸の鬼門封じの意味もあったが、
同時に内乱になった時の最後の砦としての役目も考えての事だった。
信長が本能寺に宿泊してたように、戦国期の寺院は作りもしっかりしていて、
陣屋の代わりになりうる存在だったので、上野の東叡山も戦時の陣としての
機能も隠し持っていた。
で、その天海が「水戸家から将軍が出たら、徳川は滅びる」と語ったという伝承がある。
実際、最後の将軍慶喜は水戸家出身で、上野東叡山は上野戦争の場になり、
天海の思惑通り、徳川家最後の砦になった。
>御三家とは本来、江戸徳川本家、尾張徳川家、紀州徳川家を指す。 根拠となる史料をあげて下さいな。
>>694 現在の、立憲君主的な法的手続きとしての天皇位と、大衆の公認としての天皇位を
ちょっとごっちゃにしてるね。
例えば、三種の神器は天皇位を証明するものであるが、三種の神器を持っていれば
天皇位が証明される訳ではない。自称南朝の熊沢天皇に皇位継承権がないのは、
その出自がうさんくさい云々の前に、日本人の大勢がそれを天皇と認めていない、
という事がでかい訳だ。歴史の積み重ねによって日本国民に公認された存在である
という事実がでかい。特に、戦後の近代法下にあっては。
例えば今現在、昭和天皇の御落胤と称する人物が出現して、DNA鑑定的にも今上天皇の
兄上と証明されても、天皇にはなれない可能性が高い。それは、今上天皇の皇太子としての
生誕以来の長い長い人生を日本国民がつぶさに見て、歴史を共有してきたことによって
形成されたもので、単純に血統だけで云々されるものではない。同様に、もしも
今上天皇が崩御されても、徳仁皇太子が剣璽の儀を行わなくても、日本国民のほとんどが
「実質的に」徳仁殿下が天皇であると認識するのと同じだ。儀礼的/法的/事務的な
手続きはそれに付随するものであって、まずは大衆一般の公認が前提としてある。
最後の行は、ちょっと論理が飛躍しているのであれだが、いちおう公的な歴史として、
天皇が存在しなかった瞬間というか期間は「ある」。
天智天皇崩御から、壬申の乱を経て、天武天皇が即位するまでの期間、天皇家の
公式な歴史書でも天智天皇の息子である大友皇子は天皇に即位せず、天皇不在の空白期間と
されている。
もちろんこれは、皇位を纂奪した天武側が書いた歴史書な訳だから、大友皇子が
1年も皇位につかなかった訳はなく、ただそれを認めると天皇殺しの大逆罪になる。
いちおう、大友皇子には弘文天皇と贈り名してるが。
>>718 例えば『徳川実紀』承応三年三月二十四日条に
三家并に松平新太郎光政、松平安芸守光晟、松平阿波守忠英、藤堂大学頭高次、松平土佐守忠義、有馬
兵部大輔忠頼、丹羽左京大夫光重、伊達遠江守秀宗、津軽土佐守信義証人交替あり
という記述があるが。
>>719 柳営婦女伝系
あと、傍証にすぎないが、
尾張徳川家と紀州徳川家は従二位が最高位(藩祖の頼直と頼宣は同時に従二位に昇進)、
水戸家は正三位が最高位(ゆえに黄門。ただし光圀は従三位)。明らかに差がつけられている。
また、家光の弟忠長は駿河遠江五七万石を与えられているが、これは水戸家の石高よりも
かなり上。だが尾張と紀州よりは微妙に下。家格の上で、尾張と紀州には気を使っているが、
水戸家には気を使っていない。
ちなみに、御三家と言う呼称は、五代綱吉の時代、延宝八年(1680年)に幕府公文書中に
初出する。忠長の自刃による駿河大納言家の断絶と、家光の息子である綱吉の時代に至って
御三家という概念がでてくるのだが、上記のように八代将軍擁立の際に尾州または紀州から
という選択肢しかなかった事からも、吉宗以前は御三家とは将軍家、尾張、紀伊の三つを
指すと考える根拠になっている。
>>720 現代は大衆の公認以前に皇室典範という法律の形式がある
だから、昭和天皇の御落胤が現れて民衆の支持を得ようが天皇にはなれない
皇室を継ぐのは男系の嫡子と決められているから
725 :
日本@名無史さん :04/02/07 10:49
>>720 天ヲタの長文キモイ
ナルヒトのブサイクなDNAはイラネ
>>725 せっかく答えてくれた方に、そういう言い方はないと思いますよ (-。-) ボソッ
727 :
日本@名無史さん :04/02/08 15:36
歴史学や政治学的には、日露戦役が勃発したのは 04年の2月10日と04年2月14日のどちらですか? 宴があるものでなるべく早くお願いします。
728 :
日本@名無史さん :04/02/08 23:18
大工と宮大工が別業種化したのは、江戸時代ぐらいからでしょうか?
>727 2/9
730 :
日本@名無史さん :04/02/09 20:11
>>729 は?攻撃開始が8日で、宣戦布告が10日だろ?
何言ってんの?
将軍2件(内1件は無関係) 公方3件 室町殿97件 足利・義尚・将軍家0件 アドが貼られてた歴博のホムペで「兼顕卿記」データベースを検索してみた。 これをものの数分で調べられるんだから楽ちん。 画像データベースより本文検索の出来るテキストデータベースのがありがたい。 ちなみに朝倉で検索してたら、文明十○年○○八月十五日条に >並先年諸家系図可被書写之由、被仰下間、諸家系図各注進之処、 >依先年火事於殿中陣屋紛失(略)爰禅閤御所持本(略)可被借召哉ノ由(略)其ニモ可成写本哉由(略)。 尊卑分脈と別の系図集が書写編纂されてたってこと?
732 :
日本@名無史さん :04/02/09 23:56
廃藩置県の際に昔の支配地域から南部と津軽でいざこざがあったと聞いたのですが どのようなことでしょう。 おねがいします。
九州王朝説(古田武彦)の問題点、短所等を、学問的見地から、簡潔に教えて下さい。 最近機会あって、「邪馬台国はなかった」「盗まれた神話」等、氏の著作に目を通し、 所々に見える、氏の「構って厨」的発言には辟易したものの、導き出された結論のいくつか (“やまゐ”国の所在、大陸側の倭に関する認識など)には、素人の私としては納得させられ ました。 (氏自身も著書で書かれていますが)史学界でも2chでもこの説がデムパ扱いを受ける のは、何処か、決定的な弱点があるのではないかと推察します。素人にわかり易く、 その弱点を教えていただければ幸いです。
>廃藩置県の際に昔の支配地域から南部と津軽でいざこざがあったと聞いたのですが TVタックルの話じゃないよね?
735 :
日本@名無史さん :04/02/10 02:33
室町幕府は財政面で幕府の直轄地である( )が少なかったとあるのですが何が入るのでしょう?
「天領」は江戸時代の表現だっけか?
御料所だろが。
739 :
日本@名無史さん :04/02/10 08:02
すいません、質問です。あと4時間で試験なんで割と急いでます! 伊藤仁斎と本居宣長の、理気二元論に対する考えの違いを教えてくださいお願いします 理気二元論っていうか朱子学全般に対してのスタンスの違いを知りたいんです。
740 :
日本@名無史さん :04/02/10 21:51
江戸時代、現在の京都府はどういった藩だったのですか?
おけいはん
742 :
日本@名無史さん :04/02/10 22:08
>>740 山城 淀藩
丹後 宮津藩 舞鶴藩
丹波 亀山藩 篠山藩
745 :
日本@名無史さん :04/02/11 15:29
戦役と戦争の違いを教えて呉。
746 :
日本@名無史さん :04/02/11 22:52
ハーフパンツのぴっちりした日本版というか、江戸で魚屋さんや飛脚なんかが 着てた股引の短いやつって何ていうんですか?
ハーフスパッツ
749 :
日本@名無史さん :04/02/11 23:49
>741 関西在住じゃないと分からないw
麻生太郎、筑紫哲也、鳥越俊太郎、自民古賀、小林よしのり、山拓 現代のウヨ、保守、サヨ、バカ、エロの代名詞といえる人々が福岡出身なわけですが、最後の人はネタだから置いとくとして、福岡には県民を思想活動に動かす歴史的な背景でもあるんでしょうか。
751 :
日本@名無史さん :04/02/12 00:48
>750 考えすぎ。 よっしゃ来い。
752 :
日本@名無史さん :04/02/12 00:49
は、博士…アンタ悲しすぎる
>>750 いろいろだ。
よっしゃこい
(一度言ってみたかった、、、)
桜会の中心メンバーも福岡
755 :
日本@名無史さん :04/02/12 01:19
博士。元のスレに帰ってこいよ。みんな待ってんぞ
歴史群像シリーズの話はどこのスレですれば良いですか?
757 :
日本@名無史さん :04/02/12 06:59
...,、 - 、 ,、 ' ヾ 、 丶,、 -、 / ヽ ヽ \\:::::ゝ /ヽ/ i i ヽ .__.ヽ ヽ::::ヽ ヽ:::::l i. l ト ヽ ヽ .___..ヽ 丶::ゝ r:::::イ/ l l. i ヽ \ \/ノノハ ヽ l:/ /l l. l i ヽ'"´__ヽ_ヽリ }. ', ', 'l. i ト l レ'__ '"i:::::i゙〉l^ヾ |.i. l . l l lミ l /r'!:::ヽ '‐┘ .} / i l l / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ l l l.ヾlヽ ゝヾ:ノ , !'" i i/ i< みなさん2ちゃんねるは iハ l (.´ヽ _ ./ ,' ,' ' | あいいーでみてるんですか? |l. l ` ''丶 .. __ イ \_______ ヾ! l. ├ァ 、 /ノ! / ` ‐- 、 / ヾ_ / ,,;'' /:i /,, ',. ` / ,,;'''/:.:.i
openjanedoe なんかtcl/tkで2chブラウザの開発計画があるらしいから、 そのうちos問わずデフォルトはとりあえずそれになるかも。
759 :
日本@名無史さん :04/02/12 19:24
牛丼の発祥っていつ頃ですか?
760 :
日本@名無史さん :04/02/12 19:27
明治初年頃。場所は築地か本所。
761 :
日本@名無史さん :04/02/12 19:51
政府が国民に食べるよう省令した
>>759 場所は横浜って説もあるよ
外国人が喰ってた牛肉のくず肉を使ったんだって
763 :
日本@名無史さん :04/02/12 20:56
肉じゃがみたいに、明確な発祥は分からないでしょうね
今って表向き(公式)には「氏」が廃止されてんだよねたしか 旧皇族が臣籍降下した時に、便宜上の氏を賜姓された可能性はない? あるとすればやっぱり源氏なんだろうか。 政府の陛下への内奏の時とかに、内々に「氏」を記したりもないのかな。
江戸時代の身分制度について「士農工商」という言葉がよく出てきますが この言葉がでてくる史料って何なのでしょうか?
766 :
日本@名無史さん :04/02/13 13:03
戦国時代の合戦とかで足軽って言うんですか、あの槍とか持ってた人はお百姓さんだったんですか?
>>自己レス ググったら何となく分かりました。軽々しく質問してしまいました。 以後気をつけます。
770 :
日本@名無史さん :04/02/13 19:23
おまえら、今でも在日が朝鮮の苗字名乗らずに日本の苗字使ってるだろ、それはそいつらの勝手だよな、 で、昔のそうしかいめいもこの程度のものだったってことでいいのか?
>>765 一例を挙げておく。
西川如見『百姓嚢』(享保6年(1719))
百姓といふは、士農工商の四民、総ての名なり、
いつの比よりにや、商工を都て町人といひ、農人を百姓と言ふことになりぬ
772 :
日本@名無史さん :04/02/13 20:19
これが115年後の板か ∧_∧ ∧_∧ (´<_` ) 牛鍋が喰いたいな、兄者。 ( ´_ゝ`) /ヽv/" ̄| ./ヽv/"\ // |, | / | /// ̄ ̄ ̄ ̄/| | __| フつ/ 婆伊雄 //__>__ レ\/____/ (u ⊃
773 :
日本@名無史さん :04/02/13 21:11
立命館大学教授の山崎有恒氏が競馬史についての論文を発表したと聞いた のですが…。詳しい情報を知っていたら教えてください。
774 :
日本@名無史さん :04/02/14 06:54
島津茂久と 島津忠義って同一人物ですか?
775 :
日本@名無史さん :04/02/14 08:43
YES
778 :
日本@名無史さん :04/02/14 15:10
映画の影武者を見てすげー感動したんですけど あの映画はどこまで実話なんですか? 信玄が死んでそのかわりを影武者が3年やっていたのは本当ですか? 信玄が自分の死を三年隠せと言ったのは本当ですか? 信玄の葬式がその死の3年後に行なわれたのは本当ですか?
ほとんど実話。 映画史上稀に見るノンフィクション歴史映画。
782 :
日本@名無史さん :04/02/14 22:34
戦役と戦争の違いを教えて呉。
783 :
日本@名無史さん :04/02/15 16:49
国頭王子正則について詳しい方、履歴など教えてもらえないでしょうか? 琉球の人で王家出身でないのに王子位をもらってるぐらいしかわからなくて・・・
>>783 国頭王子正則(馬国隆)は正保元年の恩謝使、承応2年の慶賀使正使ですね。
横山學氏の『琉球国使節渡来の研究』には
正使を務めるものは「王子」と称しているが、
これは親族関係を示すものではなく、
対外的な官職として用いられている。
とあります。
その他の経歴については、私は知りません。
あまりお役に立てなくて申し訳ない。
785 :
日本@名無史さん :04/02/15 18:34
「役」ががつくと異民族討伐って意味があったような・・・・ ちがったらすまぬ。
で、修士が消えた途端、ODもいなくなったのは なぜですか?
_______________ |______________| | / // | // / | カタタン | | . | |_. ∧∧ | ∧_∧」 カタタン //! ( ,,) . | ( .)\ // |ニ/,, ⊃二二二二二⊂ ノ \\ |||| |~て ) _) (⌒ 〇 |||| もうあの場所には帰れないんだね |||| ./ (/ ∪______し ̄ \ ..|||| ||||/ / \ \|||| |||| ̄ ̄|||| |||| ̄ ̄..||||
789 :
日本@名無史さん :04/02/15 23:56
_.. -−-;;- - .._ ,. '´ ´ ` 、 / / 、 \ ヽ ,' / / / / l | l ヽ ,r┐.', l | |,イ / ,// ハ | ト、 | |rヘノ┐! そんなことはないですよ? l l |,レ|十|! / |,レ十ト!.|,|ア(_)イ | 信じればいつか、きっと… | | |ヽN ヽ{. リ j/ j从lノゝイトイ | | | | __ ,.__ || | | | | ! |!^'''゙" , `゙^^゙|| l | | . | l. |.l."" ._,._, "" |l ,ハ l. | 川 | ヽ. _.イリ | | ヽ! // | | , `ァi- ‐: '´,l>、j | ヽ. ヽ /ハ. | | |._,ノ ヽ_,. -''´ リ.// ヽ.ヽ\ |{ | l」 |''" l、 八 ,ノ.//` ¬、}. トヽ ∨ ヽl r'⌒,>;‐冖<lイj/ ヽ. | }| / 〉_ノ .「`! / ノ V 〃 . / // ト-イ i l 人ヽ ヽ! {,.ィ′ / l \ ヽ\ j,>、 _,ノ\〉 / 入 「l. l、l、 ∨<'「o \ __,/_.. -‐_.二 イl,>
790 :
日本@名無史さん :04/02/16 00:34
よく、明治以前は庶民は天皇の存在を知らなかったとい話を聞くのですが、 実際のところどうだったのでしょうか? 庶民の間でも「太平記」や「平家物語」が読まれていたことを考えると、 存在と京に居るということぐらいは知っていたと思うのですが。
_.. -−-;;- - .._
,. '´ ´ ` 、
/ / 、 \ ヽ
,' / / / / l | l ヽ ,r┐.',
l | |,イ / ,// ハ | ト、 | |rヘノ┐!
l l |,レ|十|! / |,レ十ト!.|,|ア(_)イ | 本当ですよ
>>790 さん。わざわざ一からお触書を全国に設置したのですよ。
| | |ヽN ヽ{. リ j/ j从lノゝイトイ | ごめんなさいおソースがないので調べてくださいますか?
| | | __ ,.__ || | | |
| ! |!^'''゙" , `゙^^゙|| l | |
. | l. |.l."" ._,._, "" |l ,ハ l. |
川 | ヽ. _.イリ | | ヽ!
// | | , `ァi- ‐: '´,l>、j | ヽ. ヽ
/ハ. | | |._,ノ ヽ_,. -''´ リ.// ヽ.ヽ\
|{ | l」 |''" l、 八 ,ノ.//` ¬、}. トヽ
∨ ヽl r'⌒,>;‐冖<lイj/ ヽ. | }|
/ 〉_ノ .「`! / ノ V 〃
. / // ト-イ i l
人ヽ ヽ! {,.ィ′ / l
\ ヽ\ j,>、 _,ノ\〉 / 入
「l. l、l、 ∨<'「o \ __,/_.. -‐_.二 イl,>
>>790 江戸時代、上皇・天皇が亡くなると、鳴物停止令という御触が出た。
だから天皇の存在は知られていた。
793 :
日本@名無史さん :04/02/16 01:05
司馬遼太郎が作品中で紹介した幕末一般庶民の天皇認識に関するエピソードは有名である。 維新を迎えたある日の庶民の会話。「今度の新しい将軍様は『天皇』っていうんだそうだ」「へぇ」というようなもの。 庶民にとってそれほどに天皇の存在感はなかったということらしい。 この司馬遼太郎のエピソードは左翼史家お好みの話だが、眉唾である。だそうだ
つけ忘れ。ちなみに鳴物停止令は、 将軍やその一族、老中などが死去したときに一定期間の日数、鳴物を停止する御触れだそうだ
だね。 関西在住の人はほとんどの人が存在は知っていた。 また、全国の豪農と言われるような人たちの間では 国学・朱子学の本が広く読まれていたから存在そのものはかなり知られていたと思う。
797 :
日本@名無史さん :04/02/16 02:09
郷士や世襲足軽が士族になっているのに、なぜ大庄屋は平民?家柄、富どっちをとっても上だと おもうのですが・・・官軍側なら相当の功績もあったと思うのですが。
>>793 近世天皇制に関する研究は近年急速に進んでいる。
言っちゃ何だが96年に死んだ司馬の認識は古い。
>>797 苗字帯刀を許されていたとしても身分は農民だよ、武士ではなかった。
800 :
日本@名無史さん :04/02/16 13:25
農民と武士の境界線ってどの辺なのでしょうか? 戦国大名から俸禄をもらっていれば武士とみなされたのかな でも戦国時代はほとんどの農民が足軽として戦に駆り出されていたし 戦役ごとに幾分か手当てもらっていたから日本中が武士になってしまう。 このへんの境界線をご存知の方は教えてください。 また、江戸時代は職業選択の自由がなかったわけですが 藩が改易されて浪人になり、次の勤め口もなく生活が苦しくなったら 一時的に身分の低い仕事(農業とか)をやろうとしたら可能だったのでしょうか? また、その子孫び身分は武士から農民に下がってしまうのでしょうか?
801 :
日本@名無史さん :04/02/16 13:45
>一時的に身分の低い仕事(農業とか)をやろうとしたら可能だったのでしょうか? ちょっと論点がずれるけど、れっきとした武士でも内職的に農業に 従事してた人というのはかなりいるよ。 農業は別に賤業視されてた職業ではない。 浪人して農民になった人もいくらでもいる。
802 :
日本@名無史さん :04/02/16 15:50
アホ息子がテスト勉強してて質問してきたのですが、それ以上に バカ母なのでわからず、質問させてください。 南北朝時代あたりです。 ・町衆=京都の商工業者の自治団体 ・(納屋衆)=堺で貿易の貸し倉庫業者の自治団体....教科書にないのでカッコ ・惣=農村の自治団体 それで、「町衆」「納屋衆」「惣」を現在の“議員”と解釈して、“寄合”を 議会と解釈してよろしいのでしょうか? 教科書とか問題集をみると「堺の自治を寄合という」というような表現で なんかよくわからないのです。
804 :
日本@名無史さん :04/02/16 20:17
>>803 現在とは経済も社会も異なるのだから
現在と対比させるのがそもそも間違い。
>>802 >教科書とか問題集をみると「堺の自治を寄合という」というような表現で
>なんかよくわからないのです。
だったら親子で日本語の勉強から始めてくださいっ!
806 :
日本@名無史さん :04/02/16 23:23
ようするに、“寄合”とは、堺で行われた自治のみを指すのか 惣、町衆もふくめて寄合と称していいのか知りたいのです。
中世末期以降の村や町の住民で構成される自治的な評議・意志決定の仕組みを寄合と呼ぶ。 堺に限定されるものではない。
>807 ありがとうございました。 >804 小学生に説明するには、現在に照らし合わせると理解しやすいためです。
>>808 小学生が寄合という言葉を覚えなきゃいけないの?
この頃の歴史の教科書、大事な言葉が無くなってるのに そんな言葉は出てるんです。 小学生の教科書も中学の歴史も大差ないって感じです。
↑ちょっと訂正 歴史が苦手な私が、どこが大事とか判断かねると思うので、 私が昔覚えた用語がいくつもなくなっているのに、 新しい用語が出て来てる。ってことで....
>>802 はバカ母?それともアホ息子?
802の文章は、何度読み返してもリア厨なのだが・・・
早く寝なさい
>残念ながら、バカ母のほうです。 アホ息子はまだキーボード入力が上手くできない。 ....できるようになっていたら「2ちゃんで聞いてこい」 と逝ってしまいそうです。 おやすみなさい。
>>800 侍が身分お捨てて町人になるのはよくあったようだ。
有名な所では、近松門左衛門や松尾芭蕉。両方とも、元は武士。
同様に、農民になったりとかわりと融通が利いた。
御家人株が売買されてたりするので、農民が江戸にでてきて商売で一発当て、
御家人株を買って武士になったいもできた。
例えば、勝海舟の祖父は盲目の検校で、金貸しで財を成して御家人株を買って、
息子達を武士にした。幕末の剣聖・男谷精一郎と勝海舟の父親は従兄弟。
農民と武士の境界線はわりと曖昧だったのだが、要は藩が召し抱えるか召し抱えないか。
足軽として徴用されても、それは臨時雇いのアルバイトみたいなもので、
正社員じゃない訳だ。アルバイトはアルバイトであって。
あと、足軽という言葉をちょっと誤解してるね。軽装の雑役兵としての普通名詞としての足軽と、
身分としての足軽は、実は違う。
例えば尾張藩の職制を見ると、足軽=同心という意味で初期は使っている。
江戸町同心が、建前上は一代限りの召し抱え(実際は息子の代には新規召し抱えと言う
形を取って世襲してるが)なのも、契約社員みたいなものと考えればちょっとは似てるかな?
あと、武士の場合、浪人すると再仕官を狙って頑張る連中も多かったが、
読み書きの先生になったり、享保以前は普化宗の僧侶になるヤツが多かった。
要するに、虚無僧ですな。だから、時代劇を見ると虚無僧はいちおう帯刀してる。
憲政党と政友会の英訳を教えて下さい。
818 :
日本@名無史さん :04/02/17 12:14
>>816 >アルバイト・契約社員
すばらしい解説ありがとうございます
良くわかりました
>近松門左衛門や松尾芭蕉
いわれて気が付きましたが町人なのに苗字があるってことは武士だった名残なのか・・・
そういえば普通はXX屋ですよね。
>虚無僧
隠密が変装しているから帯刀しているのかと思っていました
819 :
日本@名無史さん :04/02/17 13:00
江戸時代の、幕府の地位と官位の関係について質問させていただきます。 例えば、家老レベル(幕府の地位は良くわからないので間違ってるかも)の人が少納言で 家老より下のレベルの人が、中納言だったりすると、江戸時代の両者の関係は、どのような 感じだったのでしょうか?
820 :
日本@名無史さん :04/02/17 13:53
坂本竜馬は ロシアと日本の将来についてどのように考えていたんですか? 「坂本竜馬が生きてれば日露戦争はない」と聞いたことがあるんですが・・・
>>819 家老じゃなくて老中だろうな。
その下なら若年寄。
これらは幕府内の職で、譜代大名・旗本から選ばれる。
外様大名は幕政に参与できないので当然なれない。
各譜代大名大名・旗本・御家人には家格というものがある。
家の格だ。
○家は老中になれる家とか△家は若年寄になれる家とかが決まっている。
少納言・中納言や「○○守」というのは朝廷から受ける官位だ。
これは家格に応じて幕府を通して大名なり旗本なりに与えられる。
官位は外様大名にも与えられるし公家にも与えられる。
幕府内での身分の上下や職務を規定するのが職。
ほんで、日本国内での身分の上下を規定するのが官位。
個別の事例については知らん。
>>819 近世の武家官位序列は、下から
諸大夫(従五位下)・四品(その大半は従四位下)・侍従・少将・中将・宰相・中納言・大納言・内大臣・右大臣・左大臣・太政大臣
となっている。
老中や京都所司代・大坂城代は就任と同時に四品に任ぜられるが、若年寄は諸大夫。
したがって職と官位の逆転が起きることはない。
>>821 >外様大名は幕政に参与できないので当然なれない。
幕末になるといくつか例外がでてくる。
天保・弘化期に若年寄・老中格となった信濃飯田藩主堀親シゲ(ウカンムリに「王」、その下に「缶」)
文久から元治にかけて、若年寄・老中をつとめた越前丸岡藩主有馬道純
慶応3年に若年寄となり、明治元年江戸城中で自刃した信濃須坂藩主堀直虎
彼らはいずれも外様大名。
>>821 >>822 ご回答ありがとうございました。
なるほど、職と官位の逆転が起きることはないんですね。
現在で言えば警視が部長になり、警視長が係長であることはありえないのと
同じですね。
824 :
日本@名無史さん :04/02/17 18:25
日露戦争後のポーツマス条約で日本の韓国に対する優越権ってのがあるじゃないですか、そののち日本は韓国併合をしましたよね。 そのとき石川啄木が韓国併合に反対して、″地図の上 朝鮮国に黒々と 墨を塗りつつ 秋風を聴く″という俳句をつくりましたよね。 どなたか、上の俳句の意味を教えてください!!!
825 :
日本@名無史さん :04/02/17 18:30
五七五七七なので短歌ですね。啄木は歌人です。
>韓国併合に反対して そういう意味です。
827 :
日本@名無史さん :04/02/17 22:12
明治19年の長崎清国水兵暴行事件の詳細をおしえてください。 お願いします。
意味って...そのまんまじゃないか それ以上どうしろと言うのだろう
>>827 丁汝昌率いる清国北洋艦隊4隻が長崎に入港、
上陸水兵の飲酒暴行から、8月13・15日に乱闘となり
水兵4人、巡査2人が死亡。
両国委員により構成された長崎会審は難航のすえ解散したが、
外国公使の斡旋もあり、
翌年2月8日、東京で井上馨外相と徐承祖駐日清国公使が
双方自国の法律による公平な処分と死傷者へ撫恤金給与を議定し解決した。
831 :
日本@名無史さん :04/02/17 23:20
>>826 そういう意味じゃなくって...俳句(>825さんの言うには短歌ですか)の文章の意味っていうか...
何を表しているのかってのを教えてほしいんです
832 :
日本@名無史さん :04/02/17 23:27
>>831 (韓国併合によって消滅した)地図のうえの朝鮮国を墨で黒く塗りつぶしながら、秋風の音を聞いている
「秋風」に何に読み取るかは
読み手の感性でしょう。
834 :
日本@名無史さん :04/02/18 00:11
835 :
日本@名無史さん :04/02/18 00:34
黒澤監督の映画影武者で、「風」「林」「火」の旗をそれぞれ背負った武田家の重臣たちが それぞれを「風」「林」「火」と呼び合ってたんですけど、 実際に「風」「林」「火」を旗にしてた武田家の家臣っているんですか?
836 :
日本@名無史さん :04/02/18 02:41
いない 風林火山は旗印の通称。実際に「風林火山」とか「風」「火」とか分けて印にしていたわけではない。
北京専約の締結内容と両国代表(大久保と李鴻章?)について教えてください
>>837 手に入れやすいところでは、司馬遼太郎の「飛ぶが如く」。
>>838 この駐清英国公使ってパークスでしたっけ?
質問はageてしてください
842 :
日本@名無史さん :04/02/19 05:15
江戸時代の酒造家とは何者ですか?
843 :
日本@名無史さん :04/02/19 09:08
小6の甥が戦国時代に興味を持ち始めたのだけれど、 戦国時代の入門書としてお勧めはありますか? 一冊贈ろうと思うのだが、自分も戦国にはそれほど詳しくなくて……
司馬遼の小説w 嘘です スイマセン 小学校6年生なら、「まんが日本史」あたりが宜しいのではないでしょうか。 でも間違って池上遼一の「信長」なんかプレゼントしないようにねw
日本の国史である代表的な書物って何がありますか?
847 :
日本@名無史さん :04/02/19 20:40
こうの もろなお って結局毒殺されたクズ?
848 :
日本@名無史さん :04/02/19 22:58
定期age
江戸時代、御政道批判が処罰された法的根拠は何なのでしょうか?
850 :
日本@名無史さん :04/02/20 00:11
よく歴史を説明するときに「日本書紀によれば」と日本書紀を 参考資料として引用していることがあります。 しかし一次資料としてならともかく、本当のことが書いてあるか あやしい日本書紀をさも正確な記録書としてみるのはいかがなものでしょうか
851 :
日本@名無史さん :04/02/20 00:18
日本書紀自体天皇の命で編成され、朝廷のいいように歴史が書かれているので 真に受けてはダメ。中国歴代王朝が前の王朝の歴史を悪く書くのと同じ
852 :
日本@名無史さん :04/02/20 02:23
一石とは俵に換算すると何俵ですか?
853 :
日本@名無史さん :04/02/20 03:28
二俵半
854 :
日本@名無史さん :04/02/20 03:38
855 :
日本@名無史さん :04/02/20 14:31
8代将軍、足利義政は応仁の乱では東軍・西軍ではどちらに付いたのですか? また、その結果、どちらが勝利したのですか?
857 :
日本@名無史さん :04/02/20 21:34
>>850 他に参照するものがないから仕方ないじゃん
>>850 大体の場合
「日本書紀によれば」で日本書紀の内容を説明しているだけ
それが正確な歴史であるとは断言してないよ
859 :
日本@名無史さん :04/02/21 11:49
応仁の乱が勝者無きまま(ただ全国的な混乱を残しただけ)終結すると・・・・ ってあったけど、肝心の義政はどっちについたのかが未だに解らない うー、どっちにも付かなかったのかな・・・つーか、知ってるなら教えてくれてもいいじゃん。 ここ初心者歓迎って書いてあるんだからさー もう一つ、歴史が勉強しやすいオススメ漫画ってありますか? あんま教科書から逸脱した人物が、いっぱい出てこられるとアレなので 実に表面的な内容のマンガが希望。・・・1巻で1時代ペースくらいがいいかな
860 :
日本@名無史さん :04/02/21 13:35
>>859 スレ違いつってんだろバカ!
オカルト板いって聞いてみろバーカ!
普通に調べたら普通に分かると思うが
862 :
日本@名無史さん :04/02/21 14:11
とりあえずこの板がオカ板よりも役立たないっていうのが判りました。
だから何? ここは自分の知識を披露する板なんだけど。
864 :
日本@名無史さん :04/02/21 14:29
だから何? ここは初心者が傍若無人に質問するスレなんだけど。
865 :
日本@名無史さん :04/02/21 15:50
>>859 歴史の勉強を漫画でするというのもどうかと思うが…
「まんが日本の歴史」とかいうのなかったっけ?
866 :
日本@名無史さん :04/02/21 16:54
>>859 義政はどっちにもついたとも言えるしどっちにもついてないともいえる。
というわけで、せめて856の検索でひっかかってるものを上位10番目く
らいまで読めば理解できると思われます。
867 :
日本@名無史さん :04/02/21 20:01
>>860 答える木無いなら返信要らねーよ
質問→回答 が、このスレの主旨じゃないの?それとも初心者といっても
拙者のような「超初心者」はゴラァ!!なんか?
で、義政は「どっちにも付かなかったようで、どっちにも付いたような・・・」
が答えなんですか? って事は、一方に荷担した訳では無いんだ
じゃ、「東軍・西軍のどちら側にもハッキリ付かなかった」が回答か・・・
866さん、ドーモ。
マンガはね、このあいだ歴史を覚えている時に
「火の鳥」読んだら
清盛 → 頼朝 → 壇ノ浦 → 義経討伐(守護・地頭) というのが
非常に覚えやすかったんだよ。つーか、文字だけ見るより断然分かりやすいし
そんで、同じような人がいたらオススメ歴史漫画を教えてほしいんです
>>867 煽りは2chの常だし、いちいちレスしてもきりがない。
>それとも初心者といっても
>拙者のような「超初心者」はゴラァ!!なんか?
超初心者だからというわけではなく、君の質問のように
少し検索すれば関連ページがいくつも出てきてそれを
読めばわかるような質問には調べ方から教えるのが常
なのだと思います。
歴史漫画なら小学館や中央公論社からでている漫画が
オーソドックスなものでしょう。
869 :
日本@名無史さん :04/02/21 22:37
もし、安土〜江戸時代初期にかけてイスラム教が伝来して ムスリム大名が現れるくらいの勢力に拡大した場合、 やはりキリスト教同様に禁教令が出されたでしょうか?
>>867 > 質問→回答 が、このスレの主旨じゃないの?
まあ >1を見てみなよ。↓こう書いてある。
> でも質問する前に、一度自分でも調べてみよう
> ☆ インターネット検索
> Google
http://www.google.co.jp/ さらに親切な>856が↓こう書いてる
> 応仁の乱に関してはいろいろHPで解説されているので、
> 質問するより先にぐぐりましょう。
>
http://www.google.com/************* なんでもかんでも聞いて解決しようという方法は手っ取り早いけれども
まず自分の力で 本でもサイトでも探してみるというのが
結局 遠回りのようで早道なんですよ,と多くの人が経験的に知っているから
言い方はともかく,超初心者にはそういう応答になるんじゃないですかね。
へえ。 こんな時間に天皇・皇室関係のスレが次々agaっていったよ。 きっと同一人物だろうな。 別段おかしな書き込みというわけではないが そうやってひとつのテーマにこだわって書き込んでageる人っているんだな と気づいたこの喜びをどこかに書き込みたくて スレ違いだけど記念書きこ。
872 :
◆YdZ2dnEd0U :04/02/22 15:47
>>869 そうかもしれないね。
でも、「もし〜だったら○○したでしょうか?」
という質問は、歴史事実に関する質問ではないので
正確に言えば答えのない質問ですよ。
スレで質問するにはふさわしくないので、気をつけてね。
800以降の未答質問 817 :日本@名無史さん :04/02/17 10:46 憲政党と政友会の英訳を教えて下さい。 842 :日本@名無史さん :04/02/19 05:15 江戸時代の酒造家とは何者ですか? 849 :日本@名無史さん :04/02/19 23:00 江戸時代、御政道批判が処罰された法的根拠は何なのでしょうか?
874 :
◆YdZ2dnEd0U :04/02/22 16:52
875 :
日本@名無史さん :04/02/22 16:53
>>873 質問の意味不明。酒造なら辞書ひけばわかる。
876 :
日本@名無史さん :04/02/22 18:50
平安時代の日本に、現在で言う「奇跡」に該当するような言葉はあったのでしょうか?
>>877 回答ありがとうございます。
これから古語辞典も調べてみます。
879 :
日本@名無史さん :04/02/22 20:56
萬朝報のCD−ROMを使いたいのですが どこか使える図書館とかはないのでしょうか? スレ違いかな・・・スマソ
>>880 うー、やっぱりどこかの大学の図書館ってことになるのかー。
手続きして頑張ってみます。
早いレスありがとうございました。
882 :
日本@名無史さん :04/02/23 03:44
下級武士で苗字帯刀を許されてなかった人たちっているんですか?
883 :
日本@名無史さん :04/02/23 11:49
>>882 いないと思うんだけど
…てか、なにゆえに「許されていない人がいる」と思うの?
884 :
日本@名無史さん :04/02/23 11:54
思いたいからでしょ
885 :
日本@名無史さん :04/02/23 13:20
>>883-884 足軽には正式に苗字を名乗らせないの、陪臣は他領に行く時は苗字帯刀許されないとか
時々聞くものですから・・・。
886 :
日本@名無史さん :04/02/23 13:22
足軽は、苗字はともかく、平時は帯刀していなかったんじやないの? 門番は槍しか持っていないよね。帯刀が許されているのなら刀も腰に差している と思うんだけど・・・
887 :
日本@名無史さん :04/02/23 14:31
日本人が初めて蒸気機関の存在を知ったのは いつだったんでしょうか? ペリーが来航した時点で、すでに蘭学者は蒸気機関のことを 知っていたのでしょうか?
>>885 基本的に足軽だったら名字帯刀許されていたと思ったけど。
役職や藩や時期によっても違うかもしれないです。
>>886 門番はたぶん中間。武士ではない。ただし中間として働いている
期間は帯刀許されてたらしいけど。
でも、門番が本当に槍しか持ってなかったかどうか・・・
関ヶ原の戦いなど、戦国時代や三国志の戦の話凄く魅力あって 好きなんだけど 近年の第2次世界大戦などの戦争などまったく魅力とか感じられない みんなもそうですか? 殺し合いには変わりありませんが戦と戦争とわけて考えてるんですが・
>>842 質問は、何が聞きたいのかをちゃんと整理してから書き込もうね。
酒造家って言うより「造り酒屋」の事を聞きたいのかな? 発祥は諸説あるけど、出発点は神社での
お神酒を作る宗教的な専門職が発祥ですな。元々は甘酒のように自宅で小規模に作ってたものです。
今でも、ポリバケツで作ろうと思えば作れるし、酒税法で罰せられる云々は過去の話、個人が楽しむ
ものを取り締まれないと言うのが現状ですね。
おっと、脱線した。で、江戸時代だと社会が安定して、酒の需要が増大したので、財力のある富農が、
農閑期のビジネスとして始めたのが多いようです。商品として大量生産するには資本のある家でないと
できない。だから、元首相の竹下登の実家も造り酒屋だけど、地元の名士と言う場合が多いです。
ただ、やはり莫大な富を必要とする事業だったので、杜氏も仕込みに失敗したら、首を括るような事も
多かったとか。昔の酒造りは、腐造で腐らせたり酢になったりと、苦労も多かったようです。
関東の場合、酒を造る技術が立ち後れていて(専門的に言うと、火入れと言う清酒の香味を変質させる
酵素を、酒を温めて破壊する操作の温度管理が難しかった。当時は温度計がなかったし)基本的に
関西のお酒を船で輸入していました。この酒は下りものと言って、ボジョレーヌーボーの初物競争の
ような新酒争いがありました。現在の大手酒造メーカーの多くが関西発祥なのも、その名残です。
言葉にも『下らない』という言い回しがありますが、これは「関西からの下りものでない酒=ダメな酒」
という意味から派生した言葉です。
江戸時代も元禄期以降になると、関東で酒の需要を賄おうと、幕府主導で酒造が奨励されます。
特に八代将軍吉宗の時代にこれが推進されました(関東は金本位、関西は銀本位経済で、関東側の
貿易赤字が深刻だった)。関東の酒造メーカーの多くが埼玉と茨城に多いのは、その名残です。
この場合は、自然発生的な酒造メーカーと言うより、人工的なものですので、富農によるサイド
ビジネスの意味合いがより強くなります。地図で有名な伊能忠敬の家も、代々名主で米や薪の取引の他、
酒造りもやっていました。関東では、こういう造り酒屋が多かったようです。
戦国時代の話の中での自分は大名。 近年の戦争の話の中での自分は一兵卒。 だから前者は楽しく感じるのだろう。 戦と戦争をわけて考えているなんてことじゃなくて、 シュミレーションゲーム的に考えているかそうでないか と違うの。
>>887 ジョン万次郎が、蒸気機関車を実見した最初の日本人です。
日本に戻ったジョン万次郎は琉球に上陸し、薩摩藩(鹿児島)で取り調べを受けますが、当時の殿様は
開明君主として有名な島津斉彬。島津斉彬は万次郎から聞いた話を元に、西洋の船の模型を作らせ、
その模型をもとに、西洋の船「越通船」をつくらせました。この越通船は1854(安政元)年、江戸に
入っています。
1855(安政二)年には、この越通船に蒸気機関をつみ 日本で初めての蒸気船「雲行丸」が完成して
います。万次郎の帰国が1851年(嘉永四年)、ペリー来航が1853年ですから、すでに知っていたと
言えます。書物としてはもっと早く知られていた可能性もありますが。
895 :
日本@名無史さん :04/02/23 18:38
>>890 あ、ありがとうございます。聞きたいこと全部書いてある。神だ・・・。
>>889 漏れはむしろ逆だなぁ。
近代以前の戦いは、人と人とが直接殺し合う血生臭さがして、
魅力を感じると言うより((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブルの方が先になる。
>>896 禿同。
国際法が成立した近代戦と、それ以前の合戦とでは質が違うよね
と書くと、いろんな方面からクレームがつきそうだけど
国際法が機能した近代戦て何だろう・・・
法の問題ではなく、兵器の問題のような気がするが。
900 :
日本@名無史さん :04/02/23 20:13
爆弾などで大量の人が人ではないかのように簡単に吹っ飛ばされてしまうようなのより 刀で斬り合う人間同士の争いの方がいい とは言っても、殺し合いは(・A・)イクナイ!
901 :
日本@名無史さん :04/02/23 20:17
>>900 戦争あっての人類の歴史
まぁ、競争本能を失ったら人類は価値無し
二二四スレまだぁ?
>>896 人によるだろうけど、どっちの時代の戦争の方が
死人とか、苦しんでいる人を多く想像できるかに
よるかもね。
どっちにしろ想像力の話というか。
近代戦も戦国時代もどっちも「魅力ある」という
時代となったら…
904 :
日本@名無史さん :04/02/23 21:04
>>901 だからこそ戦争をなくそうという努力のために頭ん中振り絞ることも
人類の歴史だね
905 :
日本@名無史さん :04/02/23 21:09
生涯不犯というのは偉いことなのだろうか…信者になってしまうほど。 いやほんとどうなんですかね、それ聞いて尊敬してしまうようなものなんでしょうか。
>>905 心と宗教板できいたほうが、それなりの答えもらえる
気がする。
その前に、もうちょっと質問を具体的かつ明確にね。
戦争についてチャーチルが語った言葉が『映像の世紀』で紹介されてた。 以下世界史板のコピペ。 戦争から、きらめきと魔術的な美がついに奪い盗られてしまった。 アレクサンダーやシーザーやナポレオンが、兵士たちと危険を分かち合いながら、 馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。 そんなことはもうなくなった。 これからの英雄は、安全で静かで、物憂い事務室にいて書記官たちに囲まれて座る。 一方、何千という兵士たちが、電話一本で機械の力によって殺され息の根を止められる。 これから先に起こる戦争は、女性や子供や一般市民全体を殺す事になるだろう。 やがて、それぞれの国々は大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不能となるような 破壊の為のシステムを産み出すことになる。 人類は、初めて自分たちを絶滅させることが出来る道具を手に入れた。 これこそが、人類の栄光と苦労の全てが最後に到達した運命である。
908 :
日本@名無史さん :04/02/23 23:13
ここでは初めての質問です。 江戸時代に春画の事を「ワ印」と呼んだそうですが、語源はなんなんでしょうか? あと、春画禁止令は享保の改革の時らしいんですが、正確な年号がわかりません。 どなたか、ご存じでしたらお教え下さい。
>>907 人類への警鐘だろう。
これが人類の最後に到達した運命でありませんようにという。
>>908 言葉の説明は
>わ印―和印・輪印とも書く。古書業・てきやなどの間で春本・春画の類をさす隠語。
>「わ」は春画の別称。「笑絵」「笑本」「わいせつ」から来たともいわれ、
>貸本屋の間では文政・天保の頃から使われたらしい。
>これらは俗悪なわい本ではなく、多少とも芸術性のあるものをも意味する。
912 :
日本@名無史さん :04/02/23 23:39
>>910 ,911
早速のお答え、ありがとうございます。
こんなに早く返ってくるとは感激……
>>909 チャーチルはこの著作を1920年代に書いているのだが。
>>912 グーグルで検索したら結構引っ掛かったよ。
「春画」「印」「享保」「禁止」を組み合わせを変えながら検索したら、
欲しい情報に当たるかも。
>>909 >>913 >>889 の書き込みを見て俺がすぐに浮かんだのが、
チャーチルの言葉だったのでコピペ貼っただけだからあんまり気にせんとって。
916 :
日本@名無史さん :04/02/23 23:58
>>910 上方では享保5年の7月から8月にかけて出版統制の触が立て続けに出されている。
一、頃日「色伝授」と申草紙板行致、不埒成事有之様に相聞候、
絶板商売停止申付候条、右草紙取あつかひ仕間敷旨、洛中洛外へ可触知者也
これはそのうちのひとつ8月18日の口触だが
今田洋三氏は、この「色伝授」を
ポルノの本であろう、としている。
>>914 すみません、検索が下手だったようです。
私が使ったキーワードは「ワ印」「改革」「春画」「規制」でした。
今後、もっと考えて検索します…_| ̄|○
>>916 「今田洋三」で検索してみたら、役に立ちそうな本が見つかりました。
ありがとうございます。
>>905 もんのすごぉ〜く極論すれば、宗教の本質は『狂信』です。不犯と言うのは欲望を滅却すると言うより、
欲望を抑えてる自分にエクスタシーを覚えている可能性も否定できない。食欲や性欲と言った人間の
根源に根ざす欲望を抑圧するってのは実は別の、より大きな欲望によって小さな欲望を抑えている、
または小さな欲望を抑える自分の姿にナルシスティックな愉悦を得てるのかもしれない。
たとえば鼠を使った実験で、レバーを押せば脳が快感を得る物質を出す装置を作ってやると、マウスは
食事を取る事を最小限に抑えてでも、快感の方を選択するそうな。これは、猿にオナニーを教えるのとは
ちょっと違う。オナニーは肉体の刺激による性的快感だが、これは脳に直接働きかける快感であるから。
噛み砕いて言うと、オナニーと言う手段を使わなくても、脳が快感を受ければそれでいいのであって、
麻薬と言うのは代表的な代替快感だと言える。脳内麻薬という言葉が一人歩きしてしまったが、ヘロ
インの数倍から数十倍もの快感を与える物質を、人間は自前で作れる。不犯の修行ってのも、実はより
巨大な快感を得るための、手段と言えない事もない。
なんか、日本しいたらしくないので、ちょっと歴史的な事も。上杉謙信は生涯不犯ということだが、
これは性的不能説やホモセクシャルが言われているが、どうも彼は飯綱法という、神通力を得るための
修法として女断ちをしていたらしい。神通力と言うとあれだが、飯綱は徹底的な現世利益を求める
密教的色彩の強いもので、クダギツネと呼ばれる使い魔によって相手を呪ったりする邪法で、
基本的には表沙汰にできない類いの宗教。
狐憑きの家系と言うのは、現世利益の邪法を使って富を得た家にその反動として、狐に精神を乗っ取ら
れた人間が出たと考えられていた。現世利益の狐信仰の原型となったのが茶吉尼天の信仰なのだが、
飯綱もそこから派生した。京都の古い神社仏閣は、実は現世利益の稲荷信仰を内包している場合が多い。
だから、純粋な宗教的情熱とかだけで不犯と言うのは括りきれないと個人的には思う。また、生涯女を
近づけないけど、お稚児さんを金で買って性欲処理するのはいいのか?って問題にもなってくる。
それはこの板で論議するような事でもないでしょう。
日本に科挙が入ってこなかった理由を教えてください。 中国では連綿と続いてたのに、なんで?
正座して試験を受け続けるのが辛かったから
仙台藩の石高は伊達政宗が藩主だった時、国内で何位だったのでしょうか? 既出だったらすいません。
みなさん博識ですね そこで軽微な質問で恐縮なんですが 西郷隆盛の像はどうして上野にたっているんでしょう? 吉井友実がたてたことはわかったのですが、どうして上野公園だったのでしょう 明治の公園として文化の収束という背景でしょうか 具体的なことを知っておられる方はいませんか?
>>923 >寛永期まではかなり改易や少封も多いので、
「少封」って何だよ、「減封」だ。(´Д⊂ モウダメポ
>>922 最初は楠木正成の象とかと同じように、皇居近くにって話もあったそうですが、曲がりなりにも
賊軍の将、反乱軍の首魁ですから、反対意見(特に長州閥)が出て、けっきょく上野に収まった
ようです。
なぜ上野か、という部分では公式見解はいろいろあるでしょうが、自分はあれ、怨霊封じの意味も
あったんじゃないかと思っています。言うまでもなく、上野は幕府最後の激戦地。また上野自体が
元々「東叡山寛永寺」、つまり東の比叡山と意識されて設計されています。本家の比叡山延暦寺が
京都の鬼門封じとして機能しているように、江戸の鬼門の守りとして寛永寺は意図的に作られてい
ます。不忍池を琵琶湖に見立て、弁天堂は竹生島に見立てて人工的に作られた島なのです。
もっと言えば、江戸で戦闘状態になった時の、最後の防衛ラインとして上野の寛永寺は作られて
います。それは、日光東照宮がいざとなったら軍隊を置いて篭城できる構造になっているのと
いっしょです。そこら辺の風水も含めたグランドデザインは、天海がやったことでしょうが。
日本には古来から、強力な祟り神を公式な神に祭り、そのパワーを利用すると言う発想があります。
古くは北野天神の菅原道真。関東では神田明神の平将門が、恨みを呑んで死んだ英雄の霊力を、
明神として祀っていますね。自分は、徳川幕府最後の激戦地で、明治新政府に恨みを呑んで死んだ
幕臣達の怨念を、彼らを倒した側でありながら明治新政府に反逆して最後は死んだ西郷をもって、
怨霊封じにしたような気がします。
なにをそんなオカルトな、と言う意見もあるかと思いますが、そもそも明治新政府の思想的な
バックボーンになった平田神道は、非常にオカルティックな部分を多々持っています。また、
明治天皇の即位が讃岐廃帝と言われた崇徳天皇の御霊を京都に移すのを待って行われたという
事実を見ても、文明開花の世と言われながら実はそういう部分を色濃く持っていたと思います。
なお、日本では古戦場など、人間の血が多く流れた場所は、桜を植えるという傾向があります。
桜を植えると、土の中の遺骨が早く分解され、土に還るからともいわれていますが、真意は不明。
「桜の木の下には死体が埋まっているのです」という詩がありますが、上野も桜の名所ですね。
926 :
日本@名無史さん :04/02/25 17:07
新撰組屯所の壬生・・・壬生郷士とはどういう理由で郷士と言われるようになったのですか? 又、なぜ壬生郷士宅を屯所に選んだのですか?よろしくお願いします。
927 :
日本@名無史さん :04/02/25 20:10
>>926 ごうし がう― 1 【郷士】
江戸時代、農村に居住した武士。また、由緒ある旧家や名字帯刀を許された有力農民を指すこともある。後期には献金によって郷士となる者が多くなった。郷侍。金納郷士。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
西郷は1889年に天皇勅令で賊名を除かれ、正三位になってるんだよ。 欽定憲法発布による一君万民の幻の強制や、対外戦争も予想される状況を考えると、 根強い国民的人気者だった西郷と、天皇政府が和解する必要があったわけなんだよ。 つまり、西郷の特赦は、天皇政府と国民の和解なんだよ。 で、その後の対外戦争へ向かっていったというわけ。 政府の国民融合作戦なのか、政府が国民世論に負けたのかわからんが。 上野は、徳川旧幕府軍を壊滅させた西郷の思い出の地、西郷は上野戦争では 官軍代表だったから都合がいいんだよ。 ついでに言っておくと、神田明神の将門は、明治政府によって、祭神の中心から はずされているよ。 神社の格も不当に低くされている、徳川家が好んでいたからね。嫌がらせされたわけ。 明治政府は、パワー利用など全くしてません。逆に潰しにかかった。 江戸庶民に時代が変わったのを強制認識させようとしたんだね。 あと、武士は桜を嫌ってて、わざと松を植えてたはず。 桜が広まったのは、大君のために散れ!との近代学校教育の成果でないかな。 第二次大戦後に、青年を死なせた罪が桜の木にかぶされて、 全国各地の桜が憎しみを込めて切り倒されたのは知ってるよね。
929 :
日本@名無史さん :04/02/26 01:59
これはマジですか?
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1077433052/l50 172 :名無し三等兵 :04/02/26 01:18 ID:???
事後法による東京裁判の違法性ってのは、左派右派ともに戦後の基本的な
共通認識だよ。アメリカでも当時から批判があったくらいだし。
原爆や無差別爆撃を非難する以上、左翼だって東京裁判の内包する矛盾に突き当たる
のは道理でしょ?
大学の現代史や国際関係、国際法の講義で東京裁判の違法性に言及しない
教授はまずいないし、BC級戦犯の悲劇は膾炙されていることだったし。
べつに小林で知ったからってバカにするのはよくないけど、左翼や知識人は
東京裁判マンセーか批判精神ゼロばっかりだったって、若い奴に鵜呑みに
させたのは問題がある。
まあね。違法だったけど意義があったって言う人はいるけど、 違法性を否定する人はまともな学者にはいない。 ニュルンベルク裁判の方は、自然法で正当化することはできる。
>>928 >>925 では一般的な御霊信仰の例として将門を挙げてるのであって、
明治政府が将門の霊力を利用したとは書いてないんですが?
だいたい、家康が好んだ神田明神の社格を不当に低くしたって事は、家康が豊国神社を破壊したように、
明治新政府は江戸と徳川家の風水として機能してた神田明神の力を名実共に弱めよう(名=社格 実=
信仰の力)としたのは間接的に、そういう風水を強く意識してたって事じゃないのかな?
あ、念のために言っときますが、自分はオカルトを肯定してる訳じゃないですよ。むしろ、産經新聞的な
オカルト趣味は大嫌いだし。そういうものが実在するかどうかはわからないけど、ただ、当時の人達は
わりとまじめにそういう御霊や祟りとかの存在を意識してたって前提で書いてますんで。
>>928 >>あと、武士は桜を嫌ってて、わざと松を植えてたはず。
これは鎮魂のために松を植えたと言う事ですか? 初耳ですので文献資料とか教えてください。
>>桜が広まったのは、大君のために散れ!との近代学校教育の成果でないかな。
元は中国伝来の梅見が盛んだったようです。万葉集では梅の和歌118首、桜の和歌41首で、圧倒的に梅が
多いですが、平安時代すでに野生の山桜を自宅に植えて鑑賞する風潮は生まれていました。古今集になる
と桜の和歌が圧倒的多数になり、日本人の桜好きが定着したのが伺われます。紀貫之、紫式部、西行と、
桜を愛でた代表的文化人ですね。
武士の台頭とともに、 桜はさらに好まれたようで、源義家の和歌に「吹く風をなこその関と思えども
道もせに散る山桜花」があり、潔く散る桜に死と隣り合わせに生きた武士の姿を重ね合わせる風潮が
すでに見えますね。安土桃山時代になると、秀吉の醍醐の花見など武士による大規模な花見が行われ、
普賢象や楊貴妃、御衣黄など、数十種類の桜が品種改良によって生み出されたのもこの時代ですね。
江戸時代になると家光や吉宗の施策で盛んに桜が植えられ、現在も残る桜の名所が生まれたのは周知の
通り。ただ潔く散る桜が一時期嫌われたのは事実。しかしこれは椿の花のあまりの栽培熱が盛んになっ
たために、これを抑圧しようとして「椿は首がポロリと落ちるのに似てるから不吉だ」と言われたのと
同じ流れのようです。椿はこの言葉が定着しましたが、桜は義経千本桜や忠臣蔵で美化されたため、
歌舞伎の隆盛とともに「花は桜木」という意識が強固になって行きます。
江戸時代には数百種類もの品種改良を生んだ桜は、むしろ明治期には顧みられなくなり、桜の名所は
荒廃します。大正期に桜の復興運動があり、貴重な品種の保存が行われますが、絶滅してしまった
品種も数多くあります。近代学校教育の成果と言うより、元々あった桜への意識を軍国時代に利用&
強化したと言うのが正確でしょう。
>>928 蛇足ながら、松と言うのも戦国から江戸初期は武士に嫌われていました。風の日には松葉の形状から、
風切り音が大きく、賊が忍び込むのに好都合だったからだそうです。これも時代が下ると目出たい木と
して盛んに植えられるようになってしまいます。
家康と村正の伝説(村正は徳川家に祟ると、家康が嫌った)のように、来歴が良くわからなくなって
牽強付会の珍説が生まれていますが、家康は嫌うどころか多数の村正を所有しています。家康が松平の
親藩に村正を多く下賜したため大名が遠慮して村正を差さなかったのが、いつの間にか村正は徳川家に
祟るので、大名はこれを忌避した云々と言う話が定着し、幕臣すらまじめにこの説を書き記す事態が
生まれたように、桜にしろ椿にしろ松にしろ、時代時代によって評価も認識も変わっていますので、
一時代の評価や認識を以て全体を論じるのは、いらぬ誤解を生むのではないでしょうか。
934 :
日本@名無史さん :04/02/26 10:54
>>931 ああそう、誤解というならそうしてもいいよ。
あと、風水がどうとか、また誤解を生むよ。
基本は、神田明神=徳川保護への意地悪ってこと。
で、肝心の西郷の件は、理解できたかな?
ちなみに、上野のあのへん一帯の地主は誰だったか知ってるよね。
天皇さんだよ。
つまり、上野公園の西郷ドンは、天皇の土地に建てられたわけなのよ。
>>932 鎮魂のためとは、それこそ、どこにも書いてないよ。
江戸時代に松が武士に嫌われだしたのは事実でしょ。中期以後かな?
各地の城に桜が植えられた年代を調べてみたら?わりと最近だよ。
国学は桜を日本国の木として、日本にしか生えていないと言い張ってたんだよ。
調べてみたら?わりと笑えるよ。
天皇賛美主義者にとっては、事実は問題じゃないんだ。イデオロなんだよね。
>>933 >いらぬ誤解を生む
これは、
>>925 で桜の評価をしてることへの自己批判かな。凄いね。
どこの古戦場に、いつ、どこの大名や将軍や武士団が鎮魂の桜を植えたの?
しかし、いつまでも頑張るね。
よけいなお世話だろうけど、テーマを絞って、本気で勉強してみたら?
>>931-933 神田明神がつぶされた理由は
>徳川家が好んでいたからね。嫌がらせされたわけ。
ということでは一致してるんじゃないの?
神田明神や西郷の怨念を利用したかしてないかなんてのは、とても歴史学的
な根拠がある話には思えないので、とりあえず個人の想像ということで、ま
た別の次元の話では。チカラが利用されたとかされてないというのもそうい
う類の話で…
桜と松に関して。
江戸時代には、松が松平氏を顕彰する意味で国の樹木と同じような意味合い
で植えられたのは事実らしい。関所などの幕府の公的機関には必ず松が植え
られていたという。
それもあるが、当時の武士は「もののふ」というより、次ぐを以って家とす
る「武家」であったのだし、潔く散る意味で好まれた桜を江戸時代以前と同
じ意味で武家が好んで植えたとも思えないのだが…
レジャー的な意味で桜がたくさん植えられたのはおっしゃるとおり。
庶民が、劇中でかつて潔く散った武士と重ね合わせたのもおっしゃるとおり。
鎮魂の意味で桜が植えられたということは、私は知らないのでなんとも言え
ないが、しかし932には>ただ潔く散る桜が一時期嫌われたのは事実。<とある
ので、理由はともかく嫌われたのは事実としていーということなんでないの?
いつからいつまで嫌われたのかはしらんけど。
とりあえず、桜や松(に限らずなんでもそうだけど)って、時代だけでなく
TPO(江戸時代の場合は身分もか)で使われ方が違っていたと思うのだが
なんだかみんな話がごっちゃになって、わけわからんくなってるような気
がするよ。
それは、928も、短文すぎて別の意味でよくわからんのは同じであるが。
ていう自分も史料出してないのは同じだね。ゴメソ。
>桜が広まったのは、大君のために散れ!との近代学校教育の成果でないかな ここでいう桜は染井吉野のことだろ? 明治以前にはほとんど自生していなかったのを明治政府が全国に植樹したと 安吾や司馬が書いていた。
地名の接尾語の意味はわかりませんか。 ラ:奈良、甘楽、邑楽、由良、多々良、耽羅、新羅、高句麗、百済 ガ:多賀、宇賀、須賀、伊賀、甲賀、雑賀、芳賀、足利 サ:宇佐、伊佐、安佐、須佐、厚狭
>>938 私はわからないので申し訳ないのですが
地理・人類学板でもきいてみたほうがいいのではないでしょうか
940 :
日本@名無史さん :04/02/26 22:05
戦後の日本が武器輸出をいっさいしなかったというのは本当でしょうか? 朝鮮戦争のときなどに「特需」があったのは武器以外の品でしょうか。 参考になる文献やサイトがありましたら一緒に教えていただけるとありがたいです。
942 :
日本@名無史さん :04/02/27 22:51
>934 :日本@名無史さん :04/02/26 10:54 >江戸時代に松が武士に嫌われだしたのは事実でしょ。中期以後かな? 「桜が嫌われだした」の書き間違いかな? 江戸時代武士は松を好んで、桜を嫌ったからね。
すいません、フライングタイガースが実際に日本軍機と交戦したのは 日米開戦後だとマーチン・ケイディン著『零戦〜日本海軍の栄光』と言う本で読んだのですが これは事実ですか?何か良い資料は無いでしょうか?
>>927 まったく答えになっていないのですが・・・詳しい方お願いいたします。
945 :
日本@名無史さん :04/02/28 03:11
>944 壬生郷士って、何? 新撰組がそう呼ばれてたってこと?それとも屯所の大家の身分? 壬生は地名で、郷士の定義は927の言う通り。壬生に住んでる郷士なら壬生郷士だ。 新撰組が多少蔑称気味に、「壬生浪(みぶろ)」と言われ、京都人から眉をひそめられて た、ってことなら知ってるけど。壬生を本拠にしてる浪人集団だからね。 そーゆうことじゃなかったらゴメンナ。壬生を屯所にする経緯については詳しい人に 譲る(^^;)
946 :
日本@名無史さん :04/02/28 03:33
>945 引き継ぐ。 壬生村(良質の湧き水が多いので地名の由来は「水生」)きっての旧家で、 壬生郷士達の長老を勤めてたのが、屯所となった「八木家」。 主の、源之丞が、金のない近藤らに、衣服や金や宿所の面倒を見てやった そうな。 壬生郷士を束ねるような人だから義侠心も厚かったのでは?
948 :
日本@名無史さん :04/02/28 12:27
麻原が元朝鮮人だったなど各ニュース板で盛りあがってますがその際に闇の人達が でてきます。大概は朝鮮人ですよね。そこで歴史ではないのですけども闇の勢力 なるもを詳しく知りたいのです。ここの板でよろしいのでしょうか? 以前「右翼の歴史」なるスレがありましたし。 ハン板の人達の方が詳しいでしょうか?
>>948 意味不明。闇の勢力ってなんのこといってるの?
950 :
日本@名無史さん :04/02/28 12:54
やくざや右翼や総会屋やそれを利用してたりされたりしてる政治家など 闇の紳士さんたちです。
951 :
日本@名無史さん :04/02/28 16:26
それが日本史と関係あると思ってるわけ?
952 :
日本@名無史さん :04/02/28 17:09
>948 ハン板か極東板向き オウムを巡る「闇の紳士達」の存在を主張しているのは、 一橋文哉(と、その孫引き連中)だけなんで、 トンデモ陰謀論の臭いしかしないのだが。 村井など幹部が訪朝していたのは事実だがね。
953 :
日本@名無史さん :04/02/28 19:11
84 名前:番組の途中ですが名無しです 投稿日:04/02/26 03:01 ID:bLzaNe0r
http://page.freett.com/zenjiro/backnumber/VOL1.htm 【県庁所在地】
各県にある県庁所在地。どのように決められたかご存知だろうか。
実はこれにはある規則があって決められている。
県というのは明治4年の廃藩置県によって、今まで幕藩体制だったものを一気に中央集権を強め、
県を置くという制度に変えたものだ。だから、今の県は基本的には藩が元になっている。
さて、その規則とは、
その藩が最初から勝った方の西軍側(薩長土肥軍側)か、
東軍(徳川軍側・佐幕軍側)であったかということである。
結論から言うと、最初から西軍であった藩は県名と県庁所在地をを同じ名前に、
東軍であった藩は県名と県庁所在地が違う名前になっている。一部、例外もある。
実際にそうなっているか検証してみよう。
都道府県を選択後、○○県を表示をクリックすると、
地図の右下に県庁所在地の市名が表示されるので、それで確認できる。
http://www.mapfan.com/index.cgi?HFILE=ad.html どうも怪しげな気がするんですが…
誰かこのことについて詳しく教えてください
>>953 どこかのスレでその話を検討してた(どこかは探してみたけど見つからなかった)んだが、
県名は県庁所在地のあった郡の名前を取るのが基本だったので、
東軍だから、というわけではなかった、らしい。
955 :
日本@名無史さん :04/02/28 22:10
日露戦争についていろいろ質問したいです。 日露戦争関係のスレッドはどこでしょうか?
956 :
日本@名無史さん :04/02/28 22:15
司馬の「関が原」によるとライ病の大谷吉継が鼻水を垂らした茶を石田三成は飲んだそうですが、そのことと石田が慢性的に下痢気味であったということは関係があるのでしょうか。
関係ない。
958 :
日本@名無史さん :04/02/28 23:53
38 :日本@名無史さん :04/02/28 06:15 九州にあった邪馬台国が本家で、大和にあった狗奴国が神武を祖とする分家 本家の卑弥呼(ひめみこ)と分家の祟神天皇=卑弥弓呼(ひこみこ)の争い 39 :日本@名無史さん :04/02/28 06:32 本家の卑弥呼(ひめみこ)と分家の開化天皇=卑弥弓呼(ひこみこ)の争い 分家狗奴国は本家から御間城入彦を養子に迎えることで平和裏に統一 40 :日本@名無史さん :04/02/28 07:41 (いり)の名を持つ人物は九州出身の入り婿入り嫁 天皇皇后どちらか一方しか(いり)はつかない >天皇皇后どちらか一方しか(いり)はつかない 本当に天皇皇后両方に(いり)がつく例はないのでしょうか?
959 :
日本@名無史さん :04/02/29 00:04
インターネットで江戸時代の国境がわかる地図はありますか? 教えてください
>>959 それは日本国内の「国」の境じゃなくて世界中の国境?
961 :
日本@名無史さん :04/02/29 00:30
>960 日本国内の境のことでつ。木曾という国があったのか分かる地図がみたいでつ
>木曾という国 ・・・・・・
963 :
日本@名無史さん :04/02/29 02:20
薪水給与令に基づいて実際に薪水が給与された外国船ってあるのでしょうか?
964 :
日本@名無史さん :04/02/29 05:04
>日露戦争関係のスレッドはどこでしょうか? 軍事板へ行け よっしゃこい(人真似)
>>953-954 多分 旧国名スレで議論した気がするが
結論としては
文献上そういう意図があったことは確認できない
ということじゃなかったかな。
廃藩置県直後は全て藩名即県名だった。
その後の県合併のドラマは各県さまざま。
三重県は 旧三重県と安濃津県が合併するときに
名称は三重,県庁は安濃津となっただけだし。
栃木県も 旧栃木県と宇都宮県で全く同じことが。
まあネタとして歴史トリビアっぽく話すにはいいネタなので
今後もなくならないとは思うが,
史学的にはマに受けないほうがいいんじゃないかな。
本を紹介するスレってありますか?
968 :
日本@名無史さん :04/02/29 15:38
三河安城とか武蔵新城とか信濃大町とかは旧国名があたまについてるのは分かるのですが 郡上八幡、木曽福島の、郡上とか木曾は国の名ですか?
969 :
日本@名無史さん :04/02/29 15:57
江戸時代などでは、嫁ぐ時などに、家格・家柄に問題がある場合、 知り合いを介するなどして、自分の家より、家格の高い家に養子に入り、 それから嫁いでたという話を、聞いた事がありますが、エタ・ヒニンなど でも、武家はともかく、農家や商家などに養子に入る事は、可能だったの でしょうか?学校で習ったほど、当時は酷い差別ではなかったと、聞いた 事がありますが。
970 :
日本@名無史さん :04/02/29 16:19
文字では分かりにくい質問なのですが・・・ 「松平」の発音は ま にアクセントがあると思うのですが 友人はどこにも強弱を付けず平坦に言います どちらが普通あるいは正しいですか?
971 :
日本@名無史さん :04/02/29 16:26
実家で家系図らしきもの(そんなに立派なモノではない)を発見しました. 8代前の人物まで載っていましたが,生没年が書かれていません. 今から8代前というとどんな時代になるんですかね? (各人物の寿命に差があるので一概には言えないとは思いますが) 大体の年代の推定と当時の様子について予想していただけませんでしょうか? 宜しくお願いします.
18世紀、おそらくその中頃でしょう。
973 :
日本@名無史さん :04/02/29 18:14
>>971 一世代は長くて44年とする説、短くて30年とする説があるが、
大雑把にいって「三世代で100年」と覚えておくとよいと思う。
975 :
日本@名無史さん :04/03/01 23:41
結構まえだけど、NHKで長江流域の空中墓(崖に柩を掛けている)の特集番組をボ〜っとみてたんです。 空中墓を作る民族は、太陽を信仰し、権力者が女性らしい(その民族が祭祀に使うという太鼓の絵柄や岸壁画から推測していた)。 長江の河口といえば蘇州(呉)なわけで、なんとなく卑弥呼らへんのことが頭に思い浮かんだんですが、その民俗の滅亡が日本の戦国時代(天正初年頃だったかな)なので、直ぐに考えを否定されてしまった。 移動の年代的スパンを忘れてしまったけど、その民族は上流から下流に下るのではなく、下流から上流へと溯上していったらしいので、可能性としてはまだ、何らかの関係があったということも在りえるんでしょうか。
976 :
日本@名無史さん :04/03/02 02:54
多分「ま」に来るのが三河弁だと思う。
978 :
日本@名無史さん :04/03/03 09:21
水戸の三連枝の 讃岐守家(高松藩)の他2つを教えてください
ガイア、オルテガ、讃岐守
水戸には4つ連枝がありますが何か?
981 :
日本@名無史さん :04/03/03 10:13
>>980 ではその四連枝と
慶篤藩主時代に結城らと結託し、藩政を執った三連枝を教えてください
4連枝 讃岐高松藩、陸奥守山藩、常陸府中藩、常陸宍戸藩 慶篤云々は高松、府中、守山みたいだけど、自分で よく調べなおしてみてよーん だってこれ、googleで検索してでてきたもの書いてるだけだから。
983 :
日本@名無史さん :
04/03/03 10:55 >>982 ありがとうございます
そして申し訳ない