中世の天皇の位置付けってどうだったのか?

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501日本@名無史さん
>>495
しかし、その話が創作であると断定できる根拠
もなく、その批評もまたそうであって欲しいという
願望の表れでしかない。
502日本@名無史さん:03/10/23 19:56
なお、重時君は院を島流に奉ったのち
わずか二年ほどで急死。
鎌倉ではやはりやりすぎたため
天罰がくだったのだと人々はおそれおののいたと言う。
503日本@名無史さん:03/10/23 19:57
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               ζ,    八.  j        \
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504日本@名無史さん:03/10/23 20:19
>>502
重時はもっと長生きしてるだろ。義時のまちがいじゃないの。
505日本@名無史さん:03/10/23 20:21
>>501
泰時は後年「幕府の意に添わない天皇は廃位しろ」と言い放っているから、
>>495の批評はそれなりに的を射たものだと思うよ。
506日本@名無史さん:03/10/23 22:09
>>498
>保元の乱
朝廷や摂関家が数年間ももめてたことを、武士が数時間で決着。
朝廷・公卿の受けたインパクトは凄かったようですね。
まさに「ひしと武者の世になった」ですかね。

507日本@名無史さん:03/10/23 22:12
>>499
>平氏、源氏の棟梁は天皇の血を引くがゆえに棟梁となったものたちなわけで
>彼等は天皇をないがしろするわけにはいかなかったのである。
平清盛は後白河を監禁して自ら軍事独裁政治を行ったけど。
高倉天皇に娘をくっつけて安徳天皇を生ませている。政権正当化の手段としてるようだが。

>ゆえに頼朝も公の場では尊皇家ぶるしかなかったのである。
本心は違うってことですね。頼朝の計算でしょう。
秀吉が尊王家ぶってた手段と似てるのかな。

>また、上皇が多くいたこの時代、天皇と上皇ははっきりと別のものと意識されており、
>先述の伊賀某も敵(上皇)天皇を渡してなるものか みたいな発言をしていたはず。
「上皇に天皇を渡さない」って意味ですか?出展を教えてくだされば幸いです。
上皇・天皇は高陽院にいて、伊賀光季は高辻京極の宿所で囲まれたはずですが。
この時代は治天の君(天皇家の家長たる上皇)の方が、天皇より上と認識されてたと思います。
仲恭天皇は、この時は4歳です。
それでも、幕府により退位させられ、後堀河天皇に変えています。
幕府側が天皇を守るとは考えづらいです。
ちなみに、北条氏は源氏と違い、朝廷の権威で政治的地位を築いてません。
幕府官僚機構における権威・権力です。

508日本@名無史さん:03/10/23 22:13
>>501
>しかし、その話が創作であると断定できる根拠もなく
1、「増鏡」以外には書いてない。京都側にとっては、喜んで書きたがる
内容なのに他の本には全くどこにも書いてないのである。
2、南北朝時代の公家である「増鏡」の作者が、他に出展が見つからないのに、
150年前の幕府内部の、しかも最高指導者2人きりの最高機密レベルの会話の
情報を手に入れるのは不可能と思える。この会話が漏れたら、幕府側は戦闘不能である。
4、「増鏡」は朝廷側の記録は男女関係までも細かく書いてあるが、幕府側の
記録は基本的に少なく、この話だけ細かい情報収集は不可能といわざるを得ない。
3、権威形式から言って、北条氏は天皇に恩がない。
4、後醍醐天皇が率先して行動したのに対し、後鳥羽天皇は最後は集まった
西国の武士に門を閉ざし無関係を演出しようとし、かなり手厳しい不満を浴びた。
後醍醐天皇との対比のために、なぜ自ら出陣しないのかと逆説的批判でもある。
5、武家に対する天皇権威の復権希望が南朝側にあり、「増鏡」は、後醍醐天皇
の京都への復権で終わっている。
6、4・5から、この話は作り話というのが現在の歴史学の地点かと思われます。
509日本@名無史さん:03/10/23 22:23
>>504
>重時
乱の後、40年くらい生きたんじゃないですかね。
義時は2〜3年後に死んだけど、60歳過ぎてましたしね。
平安時代から、事件や死亡があると、わりと何でも、
怨霊だろうかとか、仏罰だろうかとか記録されるますよね。
後鳥羽上皇の怨霊の話が出始めたのは、死去した1240年ごろからで、
乱の20年後くらいからでしたっけ。
510日本@名無史さん:03/10/23 22:50
泰時が死んだときも後鳥羽院の怨霊の仕業と言われたらしい。
ところがあえて鎮魂の意図を込めない諡を贈ることで怨霊を否定しようとした形跡がある。
511日本@名無史さん:03/10/23 23:00
>>510
> ところがあえて鎮魂の意図を込めない諡を贈ることで怨霊を
> 否定しようとした形跡がある

というあたりに興味を覚えるのでその「形跡」のソースなど御教示
いただければ幸甚
512日本@名無史さん:03/10/24 08:37
>>511
510ではないが、鎮魂の意を込める場合は諡号に「崇」を付けることが
多いので(崇道、崇徳等)、それがない後鳥羽という諡号をつけたのが
「形跡」だということでわ。
513日本@名無史さん:03/10/24 09:32
>>510
>鎮魂の意図を込めない諡を贈ることで怨霊を否定しようとした
後鳥羽上皇は、死後に「顕徳院」称号を朝廷が与えましたが、これは怨霊慰撫の
ため生前の徳を讃美する称号です。
後鳥羽生存中から、朝廷で不幸が続いてますが、後鳥羽が朝廷に祟っていると
言われており、公卿から京都帰還要望が幕府に出され拒否されています。
鎌倉方の不幸も怨霊かとも言われましたが、これは、多分に京都側から出ていて、
朝幕関係逆転への不満からのようです。
もっとも、鎌倉でも北条経時の病気は後鳥羽の怨霊と考えられてたようで、
45年ごろ後鳥羽の菩提の供養を何度か行ってます。

しかし、後鳥羽上皇の怨霊話は、後嵯峨皇統系朝廷と公卿にとって都合が悪く、
1242年に朝廷は、「顕徳院」称号を「後鳥羽院」の追号に変えて、怨霊にはなれない
ということにしました。行ったのは朝廷側です。
後鳥羽上皇の怨霊は後嵯峨皇統の定着ともあいまって政治的意義を喪失し、
鎌倉末期までにはむしろ後鳥羽上皇は不徳の君主として京都側に定着していきました。

古代・中世は、怨霊の時代ですから、天皇権威との結びつけは難しい気もします。
伝染病や地震や飢饉が、みんな怨霊のせいですからねw。
崇道天皇(早良親王)、伊予親王(桓武天皇皇子)、藤原夫人(伊予親王母)、
橘逸勢、文室宮田麻呂、藤原広嗣、吉備大臣(吉備真備)など、みんな怨霊に
なってますし、彼らは朝廷の天皇家に対して、たたってますよね。
藤原氏がはじめた鎮魂儀式が恒例化してますね。
菅原道真なども朝廷に祟りましたね。将門はどうなんでしょうか。
道真や将門の祟り神は、庶民には人気が根強いですね。
514511:03/10/24 13:48
>>513
早速のご教示有難うございます。私がお尋ねしたいのは
> 1242年に朝廷は、「顕徳院」称号を「後鳥羽院」の追号に変えて、
> 怨霊にはなれない ということにしました。行ったのは朝廷側です。
というその追号変更の意図の所在を示す史料です。
勿論、自分で調べればよいのですが、楽できるならしたいもの、という
不純な動機からのお尋ねです。

515日本@名無史さん:03/10/24 14:40
>>514
よしよし、おぢさんが教えてあげよう。
意図の所在をばっちり示す証拠は「ない」。
ただし、崇徳、安徳、順徳と、京都でない土地で、恨みを
のんで没した天皇には「徳」の字を付けてるのは間違いなくてさ、
実際に後鳥羽も初めは「顕徳」だったわけ。それが急遽「後鳥羽」
に変えられてしまった。これはなぜだ?と考えると、
怨霊になるとかならない、とかのトンデモ説はともかくとして、
幕府は後鳥羽を通常の形で葬りたくなかった、と考えるのが妥当であろう、
というわけさ。
516515:03/10/24 14:47
1239年、九条道家、隠岐院に顕徳の号を奉ず。
 勘申者は道家のブレーン、菅原為長。(百練抄、皇代暦など。)
1242年、北条泰時が没すると、顕徳院の改号が企てられる。
 道家の政敵、土御門定通、反対意見を押さえ込んで
  後鳥羽と追号すること、顕徳の号を今後一切使わないこと
 を決定する。(平戸記仁治3,6,26、皇年代略記など)
こんなところでいいかい?
517515:03/10/24 14:50
ああ、ごめん。書き方が正確ではなかった。
 >幕府は後鳥羽を通常の形で葬りたくなかった、
じゃなくて、幕府の意を忖度した朝廷が、だね。
518511:03/10/24 15:05
>>515-517
たいへん参考になりました。
ありがとうございます
519日本@名無史さん:03/10/25 12:28
>>514
511さんへ。
513ですが、私は510ではありません。

>>517  515さん
>幕府の意を忖度した朝廷が  
>後鳥羽を通常の形で葬りたくなかった、
はじめは、怨霊を鎮める気持ちもあって、生前は良い天皇だったと言う意味で
の「徳」の入った「顕徳院」にして死霊にゴマをすったわけですよね。
それが、後鳥羽が生前は良い天皇だったということだと、後嵯峨皇統朝廷と幕府
の両方がむかつくわけですよね。
しかも、事件や不幸があると島流しの祟りとか言われるとさらにむかつく。
それで、「後鳥羽」に変えて、生前の良い天皇だった意味の「徳」の字を抹殺した。
それは、怨霊として祟ることを、京都も鎌倉も恐れない、後鳥羽の怨霊なんてないぞと言う
宣言に等しいと思うのですが。
中世人の怨霊を本気で恐れる思考回路を考えると、こんな印象を持ちますが。

この論理は変ですか?
520517:03/10/25 18:20
>>519
全然ヘンではないと思います。ただ、気になる点が二つ。
一つ。「徳」にそんないい意味があったのか。
我々の常識で考えると、おっしゃるとおり。でも中世人にとってもホントにそう
なのか?いや、悪い意味だ、とはぼくも思ってません。でも、「有徳人=有得人」
で、「徳=得」だったりもしますでしょう。「徳」の字の意味する概念を
きっちりおさえる必要があるかな、と。
二つ。都立大の川合康さんなんかは泰時の施政と後鳥羽の怨霊の連関を強調され
ますよね。だけど、ホントに武士が怨霊こわがるでしょうか?朝廷人は怖がるで
しょうけれど。ぼくは人殺して恩賞もらう武士がそんなにやわだとはおもえない
んだけどなあ。
521日本@名無史さん:03/10/25 18:30
現代人のものさしで考えてはだめ
522511:03/10/25 20:56
>>519
ちょっと(私の頭の中が)混線していたようですね。失礼しました。
いずれにせよ有益な情報を有難うございます。
523日本@名無史さん:03/10/26 04:45
九条道家って結局どの位の権力を持ってたの?
どんどん失っていったの?
じゃあ、それ以降の摂関てのは存在意義があったのかなぁ。
摂家の位置付け次第で他の公家の有り様も変わるよね。
鎌倉時代を通じて西園寺家は摂家をないがしろにできたの?
公家源氏の連中は?
博識な皆さんのご意見を広くお聞かせ下さい。
524日本@名無史さん:03/10/26 04:46
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525日本@名無史さん:03/10/26 11:48
>>520
どうもです。
>「徳」は、漢語から日本に移入され成語となった言葉。
>もっとも広くいえば、善い働き、と翻訳できる。
>個人の特性にも行為のあり方にも使われる。
>中世には徳=得であり,有徳人とは富裕な人をいった。
>四書の一つ「大学」の冒頭の「大学の道は明徳を明らかにするに在り」の「明徳」を
>藤原惺窩は、「明徳ハ君臣・父子・夫婦・長幼・朋友ノ五倫ノ五典ナリ」と言う。
と、使われていたようです。
「徳」は、中世では、金にまつわるマイナスイメージがついてきますが、
朝廷公卿は、古代中国の漢文から言葉を選ぶのでしょうから、
「顕徳院」の「徳」は、プラスイメージの意味で良いのかと思いました。

>武士が怨霊こわがるでしょうか?
確かに、なんでも怨霊のせいにしてるってのは京都側の日記や史料が多いですね。
ただ、中世人ですから、東国人や武士にも多少はあるのではないかと。
源頼朝は、奥州藤原氏を滅亡させた後、双方の死者を弔ってます。
また、北条経時の病気は後鳥羽の怨霊と考えられてたようで、1245年ごろ後鳥羽
の菩提の供養を何度か行ってます。
足利尊氏は後醍醐の冥福のために天竜寺を建ててます。
政治や経済の目的もあったでしょうし、朝廷・貴族ほどではないでしょうが、
やはり、中世人のレベル内では、武士にも多少の怨霊忌諱はあったのではないかと
思います。

526日本@名無史さん:03/10/26 11:49
>>523
>九条道家
承久の乱で摂政を降りましたが、28年に関白として復権。西園寺家とくんで
朝廷を仕切ったが、子の頼経・孫の頼嗣が将軍職を追われ、幕府が九条家排斥
の方針をとると政界を去り、38年に出家。

>じゃあ、それ以降の摂関てのは存在意義があったのかなぁ。
摂関家が5分裂したのは、幕府の作戦とも言われてますが、
一応、明治まで、5摂家でこなしてます。時代・時期で摂家の力は変化しますが、
江戸時代などは逆に、幕府が摂関を朝廷の押さえ役として、力を持たせてます。

>鎌倉時代を通じて西園寺家は摂家をないがしろにできたの?
西園寺家公経は従一位太政大臣に昇り、公武間のことを取り次ぐ関東申次の職につき、
孫を後嵯峨天皇の後宮に入れ、褐子の生んだ後深草・亀山両天皇の外戚となった
ことから、摂関家をしのぐ勢威を得るに至った。
公経以後も代々関東申次の職を継承し、持明院・大覚寺両皇統に分裂後も、皇位継承
のことを幕府に取り次ぐ家として、超然としていることができ、女子を両皇統の后妃
とすることにより、外戚であることを保った。
幕府の滅亡と、建武の新政で、うまく立ち回れなく、衰えたようです。

>公家源氏の連中は?
順徳源氏、後嵯峨源氏、亀山源氏、後二条源氏がいますが、
あまり勢力はなかった気がしますが、記憶に自信がありません。
くぐってみては?
527日本@名無史さん:03/10/27 11:01
>「徳」
吉田兼好の徒然草で、「徳」を良い意味で使ってますね。
鎌倉末期でも、良い意味が残っていたようです。
528日本@名無史さん:03/10/27 21:52
>>526
少し勉強不足ですね。
九条道家、西園寺家、摂関家
どれについても最近はもう少し先まで説が出されてますよ。
529日本@名無史さん:03/10/27 23:43

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    'i                _ ノ'     'i                _ ノ'
     `''─ _      _ ─''´        `''─ _      _ ─''´

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 皇太子さまが 二匹あらわれた!                              ┃
┃                                                    ┃
┃                                                    ┃
┃                                                    ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
530日本@名無史さん:03/10/28 00:20
オナニーみちこ永井路子
531援軍求む!:03/10/28 01:06
http://www.2ch.net/2ch.html
宗教板:【左翼】宗教不要論者は国賊・売国奴第二段【無知】

ご案内〜♪ みんなでもりあげて下さいませ。
どこの板でも論破されまくるブサヨはついに宗教板
で荒らし、煽りで大暴れしています。みなさまどう
かお力を!!!

532日本@名無史さん:03/10/28 02:08
>>523です。

>>526さま、早速のお返事どうもありがとうございました。
お礼が遅くなり申し訳ございません。

>>528さま
浅学のため、専門分野すら手薄で、このあたりの朝廷研究の新しい成果となると恥ずかしながら全く把握していません。
ぜひとも詳しくお聞かせ下さい。
もちろん他のかたもよろしければお願いします。
533日本@名無史さん:03/10/28 09:49
526です。

>>528
確かに、私の頭は少し古いですw。
最近の研究成果を教えてくだされば幸いです。

>>532
ご丁寧なレスどういたしまして。
534日本@名無史さん:03/10/29 11:28
>>523
526です。
>公家源氏の連中は?
村上源氏の通親は、後鳥羽の側近でした。
後鳥羽天皇の第1皇子為仁が生まれると、通親はこの皇子を養育することに
なった。翌年,長年の政敵九条兼実一派を妓堂から追放(建久7年の政変)、
98年には為仁の践祚を実現(土御門天皇)、後鳥羽院庁の別当にも任じて政治
の実権を握った。その権勢は世に〈源博陸(みなもとのはくりく)〉(関白の意味)
と称されたほどで、99年(正治1)にも頼朝の死による動揺期をとらえ、京都政界
における残余の親幕派勢力を一掃したが、晩年は後鳥羽上皇の政治的成長によって、
その掣肘を受けることも多かった。
535日本@名無史さん:03/10/29 11:31
>>523
526です。
>公家源氏の連中は?
村上源氏の通親は、後鳥羽の側近でした。
後鳥羽天皇の第1皇子為仁が生まれると、通親はこの皇子を養育することに
なった。翌年,長年の政敵九条兼実一派を妓堂から追放(建久7年の政変)、
98年には為仁の践祚を実現(土御門天皇)、後鳥羽院庁の別当にも任じて政治
の実権を握った。その権勢は世に〈源博陸(みなもとのはくりく)〉(関白の意味)
と称されたほどで、99年(正治1)にも頼朝の死による動揺期をとらえ、京都政界
における残余の親幕派勢力を一掃したが、晩年は後鳥羽上皇の政治的成長によって、
その掣肘を受けることも多かった。
536日本@名無史さん:03/10/29 20:28
○道家について 道家の権力の源は2つ。 1,関東との連絡を独占し、
事実上の関東申次であったこと(実際の業務は道家腹心の二条定高が行った)
2,政権担当の伝統を有する摂関家の人間であったこと どちらか、というと
1ですね。はじめ幕府は親幕派の道家が朝政をリードすることを歓迎するの
ですが、将軍頼経の成長もあり、だんだんその勢力の増大に危機感を持つ
ようになります。道家が後鳥羽の帰京を打診したことなどは、幕府の神経を
逆なでにしたのではないでしょうか。で、結局四条天皇の次の天皇を誰に
するかで幕府と道家の亀裂は明白になり、道家はやがて頼経の失脚とともに
幕府の援助を失い、後嵯峨天皇(上皇)に主導権を奪われるわけです。
537日本@名無史さん:03/10/29 20:32
○西園寺家について かつて竜粛氏が西園寺家に注目し、上横手氏がそれを
引きついで西園寺家中心の政局を描き出しました。しかし、寛元4年の政変
以前の同家については、朝廷政治の中枢にいた、という史料は見あたりませ
ん。同家が関東申次として重きを為すのは、九条道家失脚以後でしょう。
とはいえ、むろん、それ以前も同家は親幕派貴族の代表として、非常に
裕福な存在だったようです。
538日本@名無史さん:03/10/29 20:42
○摂関家について 基本的には九条道家以降の摂関家は、上皇の政治力
の高まりの前に、政治的リーダーシップを失っていきます。最後の
あだ花は鷹司兼平ですが、彼の家の鷹司家を含めた「五摂家」が確定した
ことは、摂関家がかえって政治的に硬直し、活力を失い、なかば故実の
中の「骨董品」と化したことを物語っているのではないでしょうか。
近衛家→五摂家筆頭だけど、代々ぼんくらばかり 鷹司家→兼平のみ
九条家→道家失脚後、上皇にも幕府にも監視され、青息吐息。
二条家→親幕色の最も強い家。室町時代も含めて、武家とよい。
一条家→かろうじて五摂家の一。 内経のころはホントに危ない。
こんな感じかな。 
539日本@名無史さん:03/10/30 10:54
>>536
>はじめ幕府は親幕派の道家が朝政をリードすることを歓迎するのですが、
承久の乱に対する道家の曖昧な態度(乱に明確に反対してない)は、幕府からは
不満だったようです。乱後に摂関をおろされて、近衛家実と変えられてますね。
西園寺公経・実氏より、幕府の評価は低くいようです。
道家の関白復活は、乱の7年後ですね。

>>537
>西園寺家中心の政局を描き出しました。しかし、寛元4年の政変以前の同家
>については、朝廷政治の中枢にいた、という史料は見あたりません。同家が
>関東申次として重きを為すのは、九条道家失脚以後でしょう。
1221年に西園寺公経は内大臣となり、朝廷の実権を握ってます。

>>538
>九条道家以降の摂関家は、上皇の政治力の高まりの前に、政治的リーダー
>シップを失っていきます。
話の舞台が違うのかもしれませんが、江戸期には朝廷権力の中心の一つです。

>>523
>公家源氏の連中は?
1242年の除目では、源氏の躍進が目立ち、「源氏党の繁盛」といわれたようです。
540日本@名無史さん:03/10/30 11:32
>538
江戸時代のことは全くの素人です。有り難うございました。

>1221年に西園寺公経は内大臣となり、朝廷の実権を握ってます。
は、納得できません。この時期、内大臣は公経の他にもたくさんいます。
内大臣以上の官職を有している人もいます。なにをもって
「朝廷の実権を握った」というのでしょうか。

何でこんな粘着みたいな事を言うのか、というと、現在の朝廷政治史
において、もっとも改めなくてはならない、と思うのがこの点だからです。
証拠はない、だけど前後から見てこう思えるから書いちゃおう、という
姿勢です。(その代表例は上横手雅敬氏です。)
2ちゃんならいいのですが、典拠なき叙述は論文になりません。
541日本@名無史さん:03/10/31 09:55
>>540
そうですか。お気持ちはわかりました。上横手氏は「鎌倉時代政治史研究」(1991)
ですか?読んでいませんので、評価は差し控えさせていただきますが、
私は、以下の西園寺公経の内大臣や太政大臣の経歴から、承久の乱前から権力を
持ち始め、承久の乱後は、道家失脚(1246年)以前から、「朝廷の実権」をにぎった
と考えました。

「建久七年(1196)に左中将で蔵人頭となる。同九年正月参議、十一月従三位と
なる。後鳥羽上皇院政期に坊門信清とともに関東申次。
公経はその姻戚関係から幕府寄りであり、承久の乱(承久三年)の折りに幕府
に通じたことはよく知られる。乱後に擁立された後堀河天皇の生母(北白川院陳子)
と公経の母は姉妹という関係から、朝廷内における彼の地位はますます強固な
ものになった。
承久三年(1221)閏十月に内大臣、貞応元年(1222)八月には太政大臣に昇任、
同二年正月従一位。
寛喜三年(1231)十二月二十二日出家。しかし、依然として関東申次の任にあった。
嘉禎二年(1236)、幕府御家人橘公業の所領・伊予国宇和郡を所望し、入手。
ここに西園寺領宇和荘が成立した。
仁治三年(1242)、後嵯峨天皇が即位すると孫娘を入内・立后させて外戚となる
基盤を作る。この後、西園寺家は建武の新政に至るまで持妙院・大覚寺両統に
女子をいれて外戚の勢を誇ることになる」
542日本@名無史さん:03/10/31 21:11
ちょっとした疑問
承久の乱の時にも錦の御旗ってあったの?
543日本@名無史さん:03/10/31 21:56
最近の研究だと、「朝敵」概念が今みたいに
語られるようになったのは足利尊氏のころだ、
というじゃなかったっけ。(間違ってたらゴメン)
もしそうなら、「錦の御旗」、ありようがないね。
544日本@名無史さん:03/10/31 21:59
>541
あまりやってると、みんなにひかれちゃうから、
一点だけ。承久の乱後に西園寺公経が関東申次やってる
史料は、僧侶の昇進を推挙した一点だけだと思いますよ。
質量ともに九条道家の方が多いです。
545日本@名無史さん:03/11/01 02:59
>>544
いや皆さん引いていないと思いますよ。
少なくとも私は興味深いです。
その他の点もお聞かせ下さい。

>>528さんは、論戦に参加していらっしゃるのでしょうか?
もし見てるだけなら名乗らずとも一石投じて議論を深める一助となってもらいたいですね。
私こそ無知なので傍観者に撤するしかなく寂しいのですが、色んな方々のお話をうかがうだけで楽しくなりますので。
546日本@名無史さん:03/11/01 11:46
>>544
では、私も一点だけ。
西園寺の権勢は九条道家の失脚後ということですが、承久の乱の後、道家は一時
幕府に不審を持たれ、復活から失脚は1228年〜1246年です。
西園寺は1242年に、後嵯峨天皇が即位すると孫娘を入内・立后させてますので、
すでに権勢はある程度あったかと思われます。
1228年の道家復活には、西園寺の力が多かった気がします。そして、道家の絶頂期
でも、西園寺は連携して活動していたのかと思われます。
547542:03/11/01 20:54
形在るものとして「皇軍の旗」みたいな物はなかったんですか?
548日本@名無史さん:03/11/01 22:11
>547
追討使に与えるものは「まさかり」だよね、たしか。
それだって形だけ、なんだろうから、実物はないんだよなあ。
「旗」って聞かないよ。早稲田の菅原正子先生が一時「旗を挙げる」
とかの論文書いていらっしゃったから、その辺から攻めてみれば。
549山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/11/01 23:00
『承久記』の中で後鳥羽院が金地に日の丸の旗を追討軍に持たせたという話
があったと思いますが、特定の本にしか載っていないので少々疑わしい。
550日本@名無史さん:03/11/02 11:34
源頼朝は、以仁王の令旨を棒の先に縛り付けて進軍したような。
551日本@名無史さん:03/11/04 19:47
さて、1の問いに戻れば
中世の天皇は古代王権としての
実権を失いつちはあったが
なお、その一言で国内に大乱を起こすほどの力を有していた。
日本中世が他の世界の中世にくらべ
比較的平和なのは
じつに歴代天皇のご人徳と
天祐のおかげなのである。
552日本@名無史さん:03/11/04 20:08
>>551
これだけ蜿蜒と論じてきて最後は皇国史観なのかよ。
それじゃあいくらなんでも馬鹿馬鹿しすぎる。
553日本@名無史さん:03/11/04 20:17
歴史的事実を述べただけで
皇国史観のレッテル貼りとは
つまらない。

そんな左翼ファシストのようなやり方
でなく、他の歴史的事実を挙げて反論すれば
よかろう。
554日本@名無史さん:03/11/04 20:19
>じつに歴代天皇のご人徳と
>天祐のおかげなのである。
こんな根拠のない決め付けに「反論」もへったくれもあるかよ。
右翼ファシストが大人の議論に口をはさむな。
555日本@名無史さん:03/11/04 20:31
単なる決めセリフだべ。
「月に代わっておしおきよ」みたいなもん。
そんなのにムキになるな。

内乱を起こしうる実力を有しながらも、
実際に内乱を起こした例は
世界史的にはきわめて少なく、
逆に
遊びほうける将軍義政をしかった
後花園帝のように時の幕府の行きすぎに
対して一種の抑止力として機能したのであった。
556日本@名無史さん:03/11/04 22:22
内乱も起こしているし、抑止力としては機能していないし・・・
557日本@名無史さん:03/11/04 22:53
天皇訪中を西側制裁解除に利用

今年3月に引退した中国の銭其※(王ヘンに深のツクリ)前副首相(元外相)が
このほど、「外交十記」と題する回顧録を出版し、1992年に天皇陛下を中国に
招いたのは、89年の天安門事件を理由に西側各国が発動した対中制裁を解除
させる戦略に利用するのが主な目的だったことを明らかにした。退任して間も
ない中国の元高官が、現役時代の政策決定の内幕を公開するのは珍しい。

ttp://www.jiji.com/cgi-bin/content.cgi?content=031104195342X922&genre=int
558:03/11/04 23:47
>>542=547
専門外なので聞きかじりですが。

当時の平氏軍制は、
「家人」と「駆り武者」の二重構造になっていた、と言われています。
精強で少数の平氏の「私郎従」や家人たちが、前衛部隊として先頭に立って戦い、
大規模だが士気の低い徴用された官軍が掃討を行うという形態です。

で、この「官軍」を構成するのが「駆り武者」ですが、彼等は諸国の国衙や諸庄園
の一般の武士で、本来は中立の立場であり、従軍する理由が本来ありません。
ここで必要になってくるのが、追討宣旨や院宣などの文書です。
これらの「王権より発せられた文書」を読み上げ、聞かせることにより、軍役として
一般の武士団を徴発することが可能になるわけです。

ひとことでいうと、当時は軍勢のシンボルとして「目に見える旗」ではなく、
「耳で聞く音声」が重視されていたのではないか、と愚考するわけです。
「遠からんものは音に聞け」というわけですね。

詳しい方がいらっしゃったら、補完・訂正方お願いいたします。
559:03/11/04 23:56
>558続き

源頼朝の軍については、
彼の軍勢ではいわゆる「根本家人」が存在しません。
それゆえの弱さは当然存在するのですが、
強みも存在しました。

頼朝に付き従うものを、みんな等しく家人扱いすることができるのです。

頼朝に関東武士団が付き従うのは、それぞれの所領を安堵してもらえた
から、ということになりますが、これは、
・彼にもともとの家人がいないので、利害が競合しない。
・もともと頼朝は反乱軍なので、利害とか正当性とか無視して、
「従うものすべて」に安堵を与える、という無茶が可能だった。
つまり、頼朝の軍の全員が
「頼朝が勝つことが、自分のトクになる」軍事集団によって構成されていたわけで、
「軍役として徴発された」平氏の軍とは比較にならない、
士気が高く良質な軍事集団を頼朝は手にすることができた、と考えられております。
560:03/11/05 00:12
>559つづき。
その後、御家人制は奥州合戦によって確立した、とされています。
その統制は厳しいもので、九州の御家人が出陣に間に合わず、
途中で引き返した場合には、御家人としての資格を剥奪されています。

軍制として私が現在知っているのはこのあたりまででして、
承久の乱のときの幕府軍制についてはあまり存じ上げないのですが、
基本的に、奥州合戦時と同じレベルの統制力はもっていたのではないか、
と考えます。
それに対して京都側の軍制は、平家時代と同じだったのではないか、と。
京武者とよばれる武士団の家人たちを中核に、追討宣旨によって
徴発された軍勢によって構成されていたはずです。
実際に、追討宣旨を持った院の使いが鎌倉でとらわれていますし、
基本的には前代と同じく、「王権より発せられた文書の音声による読み上げ」
が、「王師の象徴」であったのかなぁ、と愚考する次第であります。

以上です。
詳しい方がいらっしゃったら、補完・訂正のほど、よろしくお願い申し上げます。
561日本@名無史さん:03/11/05 07:10
>559のあたり
3さんは説を紹介されてるわけで、3さんご自身への
イチャモンではないので、念のため。

頼朝には家人がいないから逆に強かった、というのは
すげー論理ですね。だったら木曽義仲も志田義広も
土佐の源希義だって、みいんな挙兵に成功してなくちゃ
おかしい。あ、木曽は成功したのか。
頼朝だけが勝ち残れたのは「たまたま」だったことになるの?

旗ではなく、音声の世界、はまさに卓見。感服しました。

562:03/11/05 09:27
>>561
>頼朝には家人がいないから逆に強かった、というのは
>すげー論理ですね。
変な書き方をしてすいません。本来強調されるべきだったのは、
当時の武士団の行動論理が「所領保全」にあったという点と、
頼朝が反乱軍だったという点の二つです。

・治承3年クーデターによる平氏の知行国大量獲得により、諸国では
平氏家人による、それ以外の武士団の抑圧が多発していました。
・頼朝はそれに反発する伊豆国や、三浦・千葉といった南関東の武士団の
支持を得て、鎌倉入りしました。家人を優遇する平氏への反発をもつ彼等の
ニーズにうまく乗っかったわけです。
・さて、頼朝には「根本家人」がいない、ということは、平氏とちがい
「根本家人」と対立したり、「根本家人」によって抑圧されたりする武士団も
いなかったわけで、味方しやすかったことを示しています。
・また頼朝は反乱軍だったので、理非を勘案することなく、従うものに
所領安堵を乱発することができた、逆に頼朝に従えば、無条件で所領安堵を
得ることができたわけで。
・よって、もともとの頼朝の支持者以外の武士たちも、所領保全のために
頼朝に味方するさいに、待遇に差をつけられたり、排除される惧れがなく、
味方しやすかったわけで、「頼朝は味方を増やしやすかった」と考えられます。
・さらにいえば、
「頼朝の敗北が所領を失うことに直結している」武士団を率いる頼朝と
「徴発されていやいや従軍している」武士団である官軍とでは、
士気に大きな差があった、ということが考えられます。

以上のような構図になっております。
もっと細かく知りたいかたは、
川合康氏、野口実氏、元木泰雄氏あたりのご著書・論文をご参照いただければ・・・。
563日本@名無史さん:03/11/05 12:35
つけたせば、前9年・後3年の役が、関東武者と源氏の物語としてあった。
ともに辛苦をなめ、関東が東北をうち、関東武士の礎となったと言う物語。
東北藤原氏への攻撃は、前9年・後3年の再来・総仕上げとして、
頼朝は義家らの先例にのっとって攻撃している。

564日本@名無史さん:03/11/05 21:05
なるほど。
頼朝は関東という新開拓地で
まつりあげられた新天皇みたいなものだったわけですね。
565日本@名無史さん:03/11/05 21:47
>>564
さらにつけたすと、頼朝レベルの貴種はほかにもいた。
新田、足利らの頼朝と対等足りうる豪族を下に置き、
自己を源氏の棟梁とする必要があった。
だから寿永2年の宣旨を朝廷に出させ、東日本の王権となった。

一権門でもあるが、王権とも呼ぶべき一権門以上の権威と権力を手にできたのは、
3氏が言うように、反乱軍として出発し、
すでに東日本の一部を自力で軍事政府として支配していたことを
朝廷に追認させた点にある。
566日本@名無史さん:03/11/05 21:57
>3氏
すれ違いならスマソ。

平氏は知行国として多数の国々を支配するかたわら、
『国衙機構を通して』在地の武士たちを家人に組織し、そのうち一部は
荘郷の地頭に補任された。
ただし、平家の地頭は国主や荘園領主の好意として任じられたもので、
『平氏が補任の権を持たなかったから』、本主の命に従わない場合には
改替されるなど不安定であった。
また平安末期の内裏大番制は『国衙を通じて催促』が加えられており、
結果として平氏家人が大番を務めることがあっても、平氏家人制とは
別次元で実施されたらしい。
結局、平氏の家人制においては所領安概、御恩・奉公の関係は十分な発展
をみせなかったようで、鎌倉のそれと比較すると不徹底なものにとどまった。

源氏蜂起のとき、源氏のもとに帰りたいと申し出た平氏の家人のある源氏は、
源氏帰参を許され、なんと平家内部から以下のような声が出てた記憶が。
「源氏の人々は家礼とするのも憚るべきなのに服仕の家人として取り扱う
のは以ての外のことだ」
567:03/11/07 20:45
奥州合戦以前の頼朝の軍隊について、御家人制や「御恩と奉公の論理」を
高く評価するのはいかがなものか、と。

例えば義経に属した渋谷助重の例です。彼は相模国渋谷荘を名字の地としている
わけですが、父親が頼朝に帰属したあとも
平家→義仲→義経(頼朝)→自由任官で追放
といった感じで、あっちにふらふら、こっちにふらふらしています。
当時の武士のあり方はむしろ、こちらの方が普通だった、と考えられて
いるはずです。

また、承久の乱のときでさえ、頼朝の側近だった大江広元の息子で
京都守護を務めていた大江親広が、あっさり宮方に寝返っています。
淡路国だったと思いますが、一国の御家人全員が守護に率いられて宮方として
従軍しているケースも存在しています。

承久の乱時ですらこうですから、治承・寿永内乱、特に奥州合戦以前における
鎌倉における「御恩と奉公」の関係が、とても徹底しているとはいえないでしょう。

彼等が「御恩と奉公」を強調する必要があったということは、
その倫理を上から押し付ける必要があったからであり、
関東武士団と頼義との主従関係が強調する必要があったということは、
だれも河内源氏を「累代の主人」とは認識していなかったからだ、
という論理も十分成立するのですから。

ちなみに、ここでの頼朝の軍の評価は「奥州合戦以前」に限定しておりますので。
念のため。
568日本@名無史さん:03/11/07 23:41
的外れだったらすいません。

三浦氏や横山党は「根本家人」ではないんですか?
三浦氏、中村党、佐々木氏、加藤氏、箱根山別当一族Etc・・・。
「吾妻鏡」頼朝挙兵前後には、矢鱈と「六条廷尉」「左典厩」との由縁を枕詞に有力御家人たちが出てきてて
奥州征伐時の横山党や畠山氏も、前九年・後三年役の逸話を書きたてているような。
569:03/11/08 00:14
>>568
ちがいます。
正確にいうと、「義朝に臣従していたので、親近感はあったろうが、
『家人だから従った』のではなく、自らの所領保全という利害が一致したために
頼朝に呼応したにすぎない」といったところでしょうか。

というのは、本来の「源氏累代の家人」といえるような存在として、
波多野氏や山内氏が挙げられますが、
彼等は頼朝の挙兵よびかけを拒否しています。
特に乳母子の山内経俊に至っては、石橋山で追討軍に従い、
頼朝本人に矢を射掛けています。

実際に、家人全てが頼朝に味方したわけではなかったわけですから、
彼等が頼朝に味方したのは「家人だったから」では説明できないのです。
で、三浦・千葉が頼朝に味方した理由については、>>562をご参照ください。

次に、彼等が過去の河内源氏との関係を強調するのは、
「利益保全のための反乱」を「貴種源氏の再興」にすりかえるためと考えられます。

単なる反乱行動よりも「一族郎党をほろぼされた頼朝による源氏の再興」の
ほうが、大義名分が立つじゃないですか。

これは反覆常ない武士団を統率するために、当時の幕府首脳が考えた、
後世をも視野に入れた「イメージ戦略」だと考えられています。

「真実ならば強調される必要は無い」のです。
わざわざ盛んに逸話を書きたて、当時と世間に対して喧伝する必要があったということは、
「真実の姿」ではなく、「こう見せたい姿」であったから、と考えるのが合理的です。
特に、『吾妻鏡』は幕府をつくった連中の子孫による『公式な』歴史書なのですから。
570:03/11/08 00:20
>>569の前半部、なにかくだくだしい書き方になってますね。
結論のみを簡潔に書き直します。

三浦氏など、過去に河内源氏に臣従した武士団が、
頼朝に味方したのは、

「かつて河内源氏の家人だったから」という理由ではなく、

自らの所領・権益保全のためには、頼朝に呼応したほうが
都合が良かったからである。

としておきましょう。

571日本@名無史さん:03/11/08 01:04
>>567

>>566へのレスでしょうか?

>渋谷氏
イエで考えた方がよろしいのではないかと。

相模国渋谷荘を本領とする中世の武家。桓武平氏の一流秩父氏のうち南武蔵
に進出した河崎冠者基家の一族がさらに相模国に展開し、基家の孫重国が渋谷
荘司となって渋谷氏を称した。
重国は1180年(治承4)の源頼朝挙兵の際に平家方にくみしたが、かねてから扶養
していた佐々木一族が頼朝に参じ石橋山から敗走してくると、再びこれをかく
まい平家方の捜索から守ったという経緯や、頼朝の麾下に転じて以後の平家
追討戦における戦功によって、相模の〈大名〉の地位を維持し、一族も頼朝
から所領の年貢免除等の優遇措置をうけた。

平家に一度ついた後、頼朝についたのが一般的だったようです。
一度は平家に義理を果たしたから、気兼ねなく頼朝につくと。
頼朝も、彼らを咎めずに受け入れてますね。だからみんな安心して集まってきた。

572日本@名無史さん:03/11/08 01:07
>>567
>承久の乱
院の近習、西面・北面の武士、検非違使、関東方の脱落者、僧兵の一部、
西国守護(在京御家人)らであわせて2万ほどですか。
東軍は19万ですね。かなり差がありますね。

大江親広は、上皇に呼び出されて参加を命じられて、断れずに引き受けました。
もともと公家ではありますがw。
もう一人の京都守護、伊賀光季は3度の院宣を無視して、囲まれても奮戦して
自害してますね。
それより、父親の京都公家出身の大江広元が、専守防衛主張の御家人たちに、
即時京都進撃制圧を主張し、実行させた方が驚きではないでしょうか。

>淡路国だったと思いますが、一国の御家人全員が守護に率いられて宮方として
>従軍しているケースも存在しています
淡路だけですね。珍しかったので、よく引用されます。
ちょうど京都大番で在京だった佐々木氏が北条氏との対立があったのが要因
と言われてるようですが。ただし、全てではなく、佐々木氏でも幕府方について
るものもいますね。淡路の参加御家人は、何騎ですかね。

573日本@名無史さん:03/11/08 01:07
>>567
>奥州合戦以前の頼朝の軍隊について、御家人制や「御恩と奉公の論理」を
>高く評価するのはいかがなものか、と。
平氏の家人との相違は>>566のとおりです。
頼朝は、1180(治承4)年、
『国衙機構』を通すことなく、
『国主や荘園領主の好意として』ではなく、
武士である頼朝が『補任の権を持』ち、
本所に『改替されるなど不安定』でない、
本領安堵と新恩給与を行いました。
これは、関東武士団が、100年近く、待ち望んでいたものです。
574:03/11/08 01:40
>>571
>平家に一度ついた後、頼朝についたのが一般的だったようです。
>一度は平家に義理を果たしたから、気兼ねなく頼朝につくと。

つまり、「御恩と奉公」の論理は関東武士においても機能していなかったわけですね。
「平家の恩」はあっさり無視されているわけですから。

どうも誤解なされているようですが、私は頼朝の軍制を低く評価しているわけでは
ありません。

奥州合戦以前と以降で段階差がある、と申し上げているのです。

頼朝旗揚げの当初から、強力な「御家人制」が存在していたわけではない、
ということです。

それから、>>573に「本所に改替されるなど不安定でない」とありますが、
文書を丁寧に見ていけば、
幕府は、往々にして、荘園領主の求めに応じて武士を抑圧する判決を
下していることの方が多いように思うのですが?
575日本@名無史さん:03/11/08 08:36
3さんは奥州合戦を画期として高く評価されてるけど、そうかなあ?
川合康さんの説に賛同されるわけでしょう?うーん。
奥州合戦が始まる時点でね、頼朝が軍事活動を起こして潰さなければ
ならない存在、って他にあります?ないでしょう?それがどうも・・。
いくつか討伐候補があってそのうちの一つとして平泉があった、というなら
川合説は成り立つのかもしれません。でも、「主従の論理」を確立する場として
奥州合戦は必要だった、といわれても、イヤ、そんなめんどーな理屈なくても
どっちみち平泉は潰さなきゃいけない訳なんですよね。
 主従制確立が目標→それじゃあ、平泉だ、 というわけじゃなく、
 平泉やっつけないと→それじゃあ、歴史の確認でもして盛り上げるかあ、
だと思うよ。どーも川合さんのやり方って、法学部のせんせーが良くやる、
事実があって、そこにもっともらしい理屈をくっつける、と言う手法に
似てるよね。好きになれないなあ。
576575:03/11/08 08:43
もうひとつね。承久の乱の時、淡路の御家人が、という話。
それは3さんの勘違いだと思うので要確認。あれれ、手元にないな・・。
もとネタはあれでしょ?えーと、田中稔氏が紹介された紙背でしょ?
淡路の御家人がたまたま大番で京都にいた。そしたら守護に墨俣に
連れて行かれた、という話。大番で京都に行ってる御家人って
全体の10分の1にも満たないわけで、しかも戦争しに行くつもり
じゃないから家来も少ない。京方の兵力は少ないわけだよね。
577日本@名無史さん:03/11/08 12:16
>>574 3氏
>つまり、「御恩と奉公」の論理は関東武士においても機能していなかったわけですね。
>「平家の恩」はあっさり無視されているわけですから。
平氏と頼朝との、家人との結びつきの強さの違いが導きだされるのが、
この件での通常の論理展開かと思えますが?
1180年からは頼朝との主従は鉄の規律です。
源平合戦で、京都から勝手に官位を受け取った御家人たちは、墨俣から
東に入れませんでした。所領からの追放、戻れば死罪。
頼朝が完全に、主従関係を把握しています。
当然、御家人側も武家棟梁によるの100%の所領の許認可権を望んでましたから、
合意の上に成立した鉄の規律システムです。
ですから、後白河が寿永二年宣旨で、東海道・東山道を追認せざるを得なかったわけです。

>どうも誤解なされているようですが、私は頼朝の軍制を低く評価しているわけでは
>ありません。
私も過大評価してるわけではありません。ただ平家と違うのは>>566を参考にしてください。

578日本@名無史さん:03/11/08 12:18
>>574  3氏
>奥州合戦以前と以降で段階差がある、と申し上げているのです。
>頼朝旗揚げの当初から、強力な「御家人制」が存在していたわけではない、
>ということです。
それは、御家人制が一般化した、裾野が広がったと言うことではないでしょうか。
石橋山の戦いの時点では、確かに、未成立です。
しかし、その年の内に鎌倉に入り、富士川で大勝し、政所を設置した時点では
かなり、成立してきていたと思われます。
関東武士の数世代にわたる長年の夢であった武家頼朝による所領安堵が行われましたから。
頼朝が組織の近代化・拡大のために、政所署名の所領安堵状に変えたとき、
頼朝書名の安堵状でなければ、子孫に安心して伝えられないと頼朝署名を
求めに来た御家人が発生したことはご存知と思います。

579日本@名無史さん:03/11/08 12:20
>>574  3氏
>幕府は、往々にして、荘園領主の求めに応じて武士を抑圧する判決を
>下していることの方が多いように思うのですが?
事実、多いです。対京都権門への政策ですね。ただし、御成敗式目後も、
弘安ごろまで、判決に強制執行権はほとんどなかったそうです。
ですから、結果として、下地中分や地頭請けというように、地頭の勢力が
現実にはどんどん強まってきています。
本所も、地頭に頼らないと、米が一粒も来ない可能性もあるので、
武力装置として、あきらめながらか狡猾なのか知りませんが利用してたようです。

平家の補任が本所の意向で変えられやすかったのに比べ、
鎌倉側は、その点は断固としてたようです。
西国の領地の争いは京都で判断してくれと言うのは、頼朝の退却ではなく、
東国には京都が口を出すな・出せないないと言う点が本質であります。
承久の乱直前に、帝王たる後鳥羽上皇が直接に地頭の土地の返却を2ヶ所求めたのに対し、
鎌倉側は、完全に拒否したのは有名ですね。
上皇は激怒しましたが、鎌倉は無視。幕府の存在意義にかかわることですから。

580日本@名無史さん:03/11/08 12:22
>>574 3氏
>平泉やっつけないと→それじゃあ、歴史の確認でもして盛り上げるかあ
「陸奥話記」と「吾妻鏡」を比べると、軍旗・泰衡の晒し首の方法・合戦集結日付・
経路など、前九年の役を模倣しているようです。河合氏が分析してますね。
頼朝は義家の伝説の鎧と太刀を引っ張り出して使ってます。
前九年の公戦の位置を意識したようです。終結後、奥州追討院宣はきましたがw。
物語の伝説化が大切だったようですね。

>淡路の御家人がたまたま大番で京都にいた。そしたら守護に墨俣に連れて
>行かれた、という話。
承久の乱の淡路の御家人参加の実態だそうです。
私は、佐々木氏の反北条意識(=将軍支持意識?)も、要因と思いますが。
581:03/11/08 13:38
>>575
正直に申し上げますと、私が国制・軍制の画期として高く評価しているのは
承久の乱です。

但し、御家人制の成立を考えた場合、奥州合戦の意義について、
川合さんのご説を無視はできないので、ああいう書き方をしました。

私はこのスレでは「通説の紹介役」(それにしては勉強不足ですが)を
努めようと心がけてますので、575さんのような
「通説への疑問のなげかけ」は大歓迎です。

今後ともよろしくお願いします。

582:03/11/08 13:44
>>577氏。
そうですね。1970年代に2ちゃんがあったら、私も貴方と同じような書き込みを
した、と思います。
私には、この30年間にあなたの書かれたような「階級闘争史観」を
どのように日本史学が乗り越えてきたか、を簡単に叙述する能力がないので、
申し訳ないですが、ご自分で勉強・研究してください。

そして、もし、私の認識が間違っていることが判明したら、ぜひ、ご教授くださいませ。

ひとつだけ申し上げときますね。
>源平合戦で、京都から勝手に官位を受け取った御家人たちは、墨俣から
>東に入れませんでした。所領からの追放、戻れば死罪。
『吾妻鏡』をじっくりご覧ください。彼等の多くは、その後、何くわぬ顔をして
御家人として活躍していますよ。
583542:03/11/08 21:16
>>558(3さん)
ありがとうございます
幕末の鳥羽伏見の戦いを、幕府側から画く場合の言い訳(?)「錦の御旗」
このような物が承久の宮方にはなかったんだろうか?
または、あったのに当時の幕府軍は物ともせずに戦ったのか?
これが疑問の始まりでして
>ひとことでいうと、当時は軍勢のシンボルとして「目に見える旗」ではなく、
>「耳で聞く音声」が重視されていたのではないか、と愚考するわけです。
これは、おぉ!成る程ってかんじです。
584日本@名無史さん:03/11/09 11:46
>>582  3氏
>私には、この30年間にあなたの書かれたような「階級闘争史観」を
>どのように日本史学が乗り越えてきたか、を簡単に叙述する能力がないので、
>申し訳ないですが、ご自分で勉強・研究してください。
階級闘争史観とは懐かしい言葉ですね。
マルクス主義系内部の黒田氏などから武士も結局は支配者層ではないかという提起がなされました。
その後、権門体制論が実証的に弱いので影響力を薄め、幕府の主体性が実証されてきました。
東西2つの王権論が、2000年代では主流かと思われます。
幾つかの、2000年代の通史類や中世史文献をご参照ください。
東西2つの王権論と、階級闘争史観が全く別のものであるということは、
十分ご理解可能のこととは思いますが。

平家と源氏の家人の差は理解されたかと思います。これも階級闘争史観ですかw?
その件や、1180年の主従関係成立の件や、大江の息子が京都側についたいきさつや、
淡路の京都側についた御家人はたまたま京都に大番でいたのが無理に連れて
行かれただけという件や、奥州合戦が前九年役を異様に模倣している件など
に対して、すべて無反応なのが残念ですが、納得いただいたということで
よろしいでしょうか。
すべて、階級闘争史観とは全く関係のない次元での話と言うことはご理解
できているとは思います。

河合氏の「源平合戦の虚像をはぐ」を通説としているのでしょうか。
すでに、7年以上たっていると思われますが、近年の通説になったとは
あまり思えませんが。

>『吾妻鏡』をじっくりご覧ください。彼等の多くは、その後、何くわぬ顔
>をして御家人として活躍していますよ。
「その後」ですよね。その時点では、所領没収です。幕府側の許容が出たからです。
また、その命令が、その後の、東国武家官位をすべて頼朝が掌握したと言う
意味なのもご存知かと思います。
585日本@名無史さん:03/11/09 13:32
あまり真面目にかかわらない方がいいと思うよ。
すごい自作自演基地外だから。
さらしてあげようか?


ひとことでいうと、当時は軍勢のシンボルとして「目に見える旗」ではなく、
「耳で聞く音声」が重視されていたのではないか、と愚考するわけです。

まさしく愚考だ。バカくさい。
586日本@名無史さん:03/11/09 14:11

3に質問


何くわぬ顔をして御家人として活躍

吾妻鏡の何ページに頼朝の命令を知らんぷりしたようなことが書いてあるんだ?
出版社と発行年月日と版とページを書いてくれ。
手元にあるんだろ。すぐ教えろや。

「所領没収か斬罪と頼朝に布告された無断任官者たちは、直ちに非をわび
辞任し許された」
ってのが事実だろ。

捏造すんな!
587575:03/11/09 14:48
まあまあまあ。ぼくは575で、3さんじゃないから。
自作自演じゃないからね。
ぼくは3さんと全然意見が合わないけど、それはそれで
いいじゃん。だからこそ議論が成り立つわけでさ。
3さんの書き込む姿勢、該博な知識には敬意を
表するものであーる。
まったりといきませう。またーりと。
588日本@名無史さん:03/11/09 15:14
床の間の掛け軸
589辞任してた?:03/11/09 17:08
>>585-586
また変ったレスの付け方を・・・双方これは無視で行きまっしょい。
5903は卑怯者の自作自演基地外:03/11/10 09:43
該博?
( ´,_ゝ`)プッ
新しく本が読み終わった順から、写してるだけじゃん。

だから、
無許可任官者が「あわてて官位を辞任したから許された」ことも読みとることができず、
「辞任してた?」ってHNつけてる。辞官を意味してるのもわからんとはバカ丸出し。

早く御家人が「頼朝の命令を知らんぷりした」という吾妻鏡の該当ページ出せよ。
誰かの本の孫引きだからできないのか(藁

「双方これは無視で行きましょい」だぁ?
爆笑。自分の間違いや無知は、徹底的にすりかえるな。
絶対答えられないに100ペソ。
過去レス見てみたら、こいつは、答えられる質問を自作自演してるだけ。
間違いを訂正されると、怒り出し、
違う時代のことを持ち出したりして、ごまかして逃げまくるだけ。
ほとぼりがさめた頃また出てくる。

自分のスレだから、何やっても勝手だと思ってるんだろうが、甘いね。
発信地点たどれる人は、たどってみてみ。
傑作だぞ。
最初は黒田信者、論破されると、ほとぼりさましてから、いきなり河合信者。
そして、また論破されたら、答えないで、すりかえとごまかし。
時代に取り残されてることに気づいていない。北朝鮮的思考人物。哀れ・・・
591日本@名無史さん:03/11/10 16:00
>>590
おいおい、そこまで書いたら、3がもう出てこられなくなっちゃうじゃないか。
ここは異様な3を見守って楽しむスレでもあるんだからほっといてあげなよ。

このスレのルール
3が答えられそうもないことを聞いてはいけない!
最近の通説や学界動向を話題にしてはいけない!少し古い話題にしてあげる!
天皇中心の歴史でなくてはいけない!
多少の間違いや電波は無視してあげる!
3が読み終わった本を話題にしてお愛想をふってあげる!
あまりにもひどい間違いでも、訂正してあげても3はごまかすから無駄なので
一応教えてあげて、それ以上は追い詰めない!どうせ答えない!
吾妻鏡の何ページだとか、3が読んだことのない本について聞いてはいけない!

ルールを守って、多重人格製造者の3を楽しみましょう!!
592209:03/11/10 20:08
私、中世は専門外ですので文脈しか読めないのですが
>>577氏「鉄の規律」に対して、「何くわぬ顔をして」という発言があるのであって
御家人が頼朝の命令に対して「知らんぷり」したという意味ではないと思うのですよ。

近世になると主従関係は絶対的なわけですが
その一つ前の戦国とか室町だと、寝返りは日常茶飯事ですよね。
近世の主従関係のありようは、平和という時代性によるところが大きいのではないでしょうか。
ならば中世初頭の戦乱の時代
少々の寝返りは許すし、また許さざるを得ない状況ではなかったかとも思います。

しかしまあ、いずれにせよスレに趣旨からは遠いところでの議論のように思えますがね。
593日本@名無史さん:03/11/11 06:17
主従制、任官問題と天皇とのからみでいえば、やっぱり義経の問題を
とりあげるべきなのでしょうね。
それから、承久の乱までに、後鳥羽上皇の北面とか西面の武士に
なっていた有力御家人が多く、そのまま京方についたことも
指摘されてるわけです。このあたりをどう整合的に捉えるか。
ぼくは一応、次のように考えます。頼朝の時代には「将軍=主人」
の図式がある程度徹底され、それを実現する過程で、義経は追放
されざるを得なかった。だけど、頼朝の没後、幕府の締め付けは
ゆるみ、かつてのように有力武士が朝廷に接近するようになる。
承久の乱後、朝廷は武士と密接な関係を保てなくなるから、
たとえば海津一郎氏が頻りにいわれる朝廷による「本所一円地の
住人」の組織、というような仮説はあり得ない。
えー、どうぞ叩いておくんなまし。(あんまりきついのはやだなあ)

594キターーーー:03/11/11 11:28
>>592
>私、中世は専門外ですので
こんな前フリをする人間は普通はいなーい

>>577氏「鉄の規律」に対して、「何くわぬ顔をして」という発言があるのであって
>御家人が頼朝の命令に対して「知らんぷり」したという意味ではないと思うのですよ。
>>582:3 :03/11/08 13:44
>『吾妻鏡』をじっくりご覧ください。彼等の多くは、その後、何くわぬ顔をして
>御家人として活躍していますよ。
官位を朝廷に返却して謝罪してやっと許されたことが、「何くわぬ顔をして活躍」
と、どうしてなるんだ?
所領没収か死罪が恐くて、朝廷に大恥かかせて、頼朝に服従したんだろが。
吾妻鏡の何ページをじっくり読めばよいのか早く答えておくんなまし。
あ、これは聞いちゃいけないのか?

595キターーーー:03/11/11 11:30
>>593
>義経の問題
義経追放の時期でも主従関係は、まだ不十分との意見でないの?

>頼朝の没後、幕府の締め付けはゆるみ、かつてのように有力武士が
>朝廷に接近するようになる。
院の武士になったのは、京都在住の御家人だけでないかな。
東国から、大番や西国所領経営赴任以外で、自ら京都に近づいた有力武士とは誰?
後鳥羽上皇の院宣でも2万も集まらなかったし、西国だけだし、守護レベル中心だし、
淡路の御家人総動員と言うのは、誤解に近い話しだし。
頼朝は、将軍在任中(2年位で辞官してるから先の右大将だが)から、
政所中心のシステムを構築し始め、生命線の所領安堵の権力を
個人のカリスマでなく、将軍職ないし政所の組織権力にして、
その後、北条派と将軍派の対立は根深いが、幕府と御家人との主従関係が
ゆるんだとは、思いにくい。武家棟梁に所領安堵して欲しのであって、
本所や朝廷の所領安堵は、もう、こりごりのはず。
緩んでれば、承久の乱で、日本の西半分に命令権があったはずの上皇側に
わずか2万以下しか集まらず、東国に19万も集まったとは思えないが。
しかも、東は院宣も綸旨も全く無し。しかし、戦意旺盛だった。
おそるべし、武家による所領安堵・新恩安堵の力。
596594:03/11/11 14:01
>595
>東国から、大番や西国所領経営赴任以外
と言ってしまうと、あまり名前があがらないかも。というのは、
東国の御家人が西国に本格的に遷るのは、承久の乱以降だから
当たり前なのだ。 有力御家人の名は平岡豊氏の論文とかに
ずらっと出てるから見てみ。『国史学』だったかな。
>日本の西半分に命令権があったはずの上皇
これは何の資料を基にしての断言ですか?逆に言うと東半分の
軍勢徴集権は将軍にあったの?うーん、そんな資料しらんがなあ。
597594:03/11/11 14:07
つづき。
>595
>わずか2万以下しか集まらず、東国に19万も集まった
まさかこれが実数だとは思ってないよね。関ヶ原じゃないんだから、
鎌倉時代にこんな大軍はあり得ない。
>武家による所領安堵・新恩安堵
それをいうなら、武家による本領安堵・新恩給与だね。

全体の文章から察するに、君はまだ学部の学生だろう?
だめだよ、人をこき下ろすことから始めると、
学力のびないよ。もっとまったりと行こう、まったりと。
598209:03/11/11 15:04
>>594
私の専門は近世史です。
博論の予備審査とか、卒論・修論の中間発表などで
専門とは異なる時代の発表に何かコメントするときは
この時代は専門外だがと、あらかじめ言うことが多いので
同じように最初に書いてみたのですが
それほど奇異に感じられることなんですかねえ?
599日本@名無史さん:03/11/12 00:26
何か非常に品性の欠けた書き込みをしてる人に言いたいんだけど、3なり誰なり批判したいなら普通に反証すればいいんじゃないの?
ここは2ちゃんねるではあるけれど、だからといって2ちゃんねる的態度で雰囲気を悪くするのはみんな不快だと思うよ
現にこのスレがここまで伸びてきた中でこんな暴言をまきちらしたのは、君と黒田史観で逆ギレした人と後一人くらいだよね
まさか同一ですか?
こんな事を書いちゃったら、この書き込みも3の自作自演だと言い返されるのかな
反論・批判は議論に欠かせないからこそ節度正しく大いに盛り上げようよ、ね
600593:03/11/12 05:45
ゴメンナサイ。私、594じゃなくて
593でした。
というわけで、3さん、気にしないで
また問題提起してくださいね。