稲目の先見性
馬子の外交術
蝦夷の日本人らしさ
入鹿の無謀人生
蘇我氏はみんな個性的で最高ですね
2 :
日本@名無史さん:03/05/03 09:18
蘇我はマンセーではない
3 :
日本@名無史さん:03/05/03 09:22
葛城氏の支族といわれるけど系図はどうなの?
4 :
日本@名無史さん:03/05/03 09:30
高麗っていうのは当然、高句麗が自称名なわけだけど、
半島から来たとするとそんな名前をつけるのはおかしい気がする。
とはいえ、高句麗出身ならば、扶餘族ですか?
5 :
日本@名無史さん:03/05/03 09:43
(゚д゚)ウマー
馬子、蝦夷、入鹿とか蔑称めいたものが多いな。
当時からこの名称なのか?
あるいは逆族ゆえにこのような名称が後からつけられたものか?
柿本人麻呂も帝の不興を買って柿本佐留(さる=猿)に改名されたようだからな。
死後馬だの海老だにされたフシはある。
ちなみに蝦夷は海老で、熊襲は勿論熊、そして隼人は隼。
これは陸海空の鳥獣に当てはめて並び称されていたようだ。
熊襲は文化的にも殆ど隼人と変わらないのに、わざわざ別な「生物」である事を強調されていたのは、
大和が自分たちを支那人のように、「数多くの野蛮人に囲まれている文明人」
として自ら演出する為の必要性があったからではないだろうか。
閑話休題
8 :
日本@名無史さん:03/05/03 18:38
蘇我入鹿から3代前の稲目から、蘇我氏は突如として歴史の表舞台に台頭してくるのですが、
その父の名前は高麗(こま)。そして、高麗とは「日本書記」ではまさに高句麗を意味する言葉。
蘇我氏周辺の様子は、あまりにも高句麗色に満ちています。
例えば、稲目の子、蘇我馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)の建築様式は高句麗的ですし、
それに稲目は、戦争によって捕虜になった高句麗女性を大伴狭手彦という武将から奉られています。
仏教に傾倒していたと言われる蘇我氏ですが、高句麗の国教こそが仏教であるという事実も見逃すことができません。
自分たちの先祖が仏教徒だから、蘇我氏は仏教を受け入れやすかった。そう考えて間違いないと思います。
9 :
日本@名無史さん:03/05/03 18:40
蘇我氏は蘇我稲目の代になって急速唐突に発展します。
蘇我氏の末流を名乗る一族のほとんどが、その始祖を蘇我稲目とし、
この蘇我稲目こそが、蘇我氏で最初に大臣という人臣で最高の位に就くのです。
蘇我稲目の父の蘇我高麗とは父親の名前というより寧ろ、
蘇我稲目の出自を暗に示すために作られた架空の人物と考えるべきでしょう。
10 :
日本@名無史さん:03/05/03 18:43
蘇我稲目は二人の娘を欽明天皇の後宮に入れ、皇子や皇女を産ませて、
朝廷の屯倉開発にも携わり、渡来してきた賢人たちをも自分の派閥に組み入れ、
蘇我氏権力を確固した偉大な人物。
後を継いで大臣となった子の蘇我稲馬子も十ニ位冠制とか十七条憲法とか作成。
しかし、
>>6のいうように、稲目とちがって馬子の名は蔑視的か??
11 :
日本@名無史さん:03/05/03 18:48
蘇我氏内の争いは藤原氏内の争いのようにすさまじいが全部皇位継承がらみ。
山背大兄王の即位を押していた蘇我境部摩理勢(馬子の従兄弟?)を
蘇我蝦夷が討伐したわけだが、当時の日本では長子相続ではなかったため
若い蘇我蝦夷(馬子の子)が地位を得るには他に手がなかったと思われ。
12 :
日本@名無史さん:03/05/03 18:51
当時の海外情勢のほうが韓国とか北朝鮮よりも面白いし重要。
当時すでに、後の百済と高句麗の滅亡に繋がる動乱の兆しが見えているし、
642年には、百済と新羅が争い、高句麗では栄留王が殺害され、
泉蓋蘇文が政治の実権を握るなど、荒れに荒れている。
そのため、蘇我蝦夷は、半島の三つの国と旧伽耶国に対して、
一斉に使者を派遣して、情報の収集に努めている。
13 :
日本@名無史さん:03/05/09 00:12
>>3 >葛城氏の支族といわれる
のは、葛城氏の播居地を、産土の地と主張したと記録されているからですが、飛鳥の蘇我地名の
位置からすると、一族ではなく交流があった関係程度でしょう。
高校の日本史の授業で、蝦夷、入鹿は藤原氏によりつけられた蔑称であり、
蝦夷は毛人(読みはえみしだと思う)、入鹿は鞍作が本名だと聞いた。
鞍作は学問的にも優秀だったとも。
蝦夷でも毛人でもオンナジだと思うが・・・
16 :
日本@名無史さん :03/05/16 16:37
^^
17 :
日本@名無史さん:03/05/17 10:12
蘇我倉山田石川麻呂マンセー
18 :
日本@名無史さん:03/05/18 07:29
石川━━満智━━韓子━━高麗━━稲目━━馬子━━蝦夷━━入鹿
19 :
日本@名無史さん:03/05/18 07:52
あたしのすきな蘇我日向ちゃんいついてはどうかしら?
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
21 :
1 ◆nxrEPpw9IE :03/05/22 22:30
蘇我赤兄はやっぱ悪人で通ってるのかな
22 :
日本@名無史さん:03/05/22 22:48
>14
同じく。えみし=毛人、入鹿=鞍作 と習いました。
テストもそれで書いていました。
山岸凉子氏の「日出処の天子」でも蘇我毛人となっていますた。
スレ違いスマソ〜。
23 :
日本@名無史さん:03/05/27 03:02
24 :
日本@名無史さん:03/05/27 03:54
(貶称) (実名)
↓ ↓
蘇我馬子←宗賀島
蘇我蝦夷←宗賀豊浦
蘇我入鹿←宗賀鞍作
25 :
日本@名無史さん:03/05/27 03:59
ということは先祖の名前も貶称なんだろうね
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
28 :
日本@名無史さん:03/05/28 16:46
蘇我日向 is No.1
29 :
日本@名無史さん:03/05/30 03:13
蘇我日向のチクリで蘇我石川麻呂宅に出兵が決まって
それを解決するために石川麻呂が首をつったって日本史でならったな
日向=チクリ魔
30 :
日本@名無史さん:03/05/30 03:20
葛城氏は渡来系です
シラギ、カツラギ
韓語でラ、ラギは国を表す単語です。
32 :
日本@名無史さん:03/05/30 05:37
>>31 おい、「ラ(羅)」はともかく、「ラギ」で「国」をを表すなんて説は聴いたこと無いぞ。
そもそもシラギの漢字表記は「新羅(シルラ)」じゃないか。
これを「シラギ」と読むのは日本での通称だろう。
通説では「ギ」は「城」。「シラギ」は「新羅城」、「カツラギ」は「蔓城」ってことになってるし。
継体朝のバックボーンである越前・若狭・近江地方には、「白鬼」と言う表記もある。
ところで、敦賀には、角があったと言われる都怒我阿羅斯等の渡来伝説がある。
これも、新羅からの亡命貴人だったと言われているが、
当時の新羅人は全て有角族(鬼族)だったとしたらどうだろう?
だから「シラギ」は「新羅鬼」だと言う説もある。
葛城氏=辰王家です。
>>33 いいえ、「葛城」は「カツラ(鬘)キ(鬼)」、つまりヅラの鬼族です。
35 :
日本@名無史さん:03/05/31 10:51
フーン
36 :
日本@名無史さん:03/06/05 13:31
葛城氏はもともと剣根命を始祖とする神別の氏族で、代々葛城国造を
継承していた。武内宿禰と葛城国造宮戸命の娘の間に生まれたのが
葛城長江襲津彦である。
37 :
日本@名無史さん:03/06/15 00:25
襲津彦の子孫が各天皇の后になったことが大きい
38 :
日本@名無史さん:03/06/15 00:59
ソガ隊員もOKですか?
39 :
日本@名無史さん:03/06/15 13:31
蘇我の系図につながる末流って今もいるんですか?
40 :
日本@名無史さん:03/06/18 13:13
物部マンセー
41 :
日本@名無史さん:03/06/18 13:19
42 :
日本@名無史さん:03/06/18 13:43
石川朝臣の末流はどうなったの?
43 :
日本@名無史さん:03/07/03 01:13
須賀って蘇我に通じるの?
もう過去に何度もレスし尽くされているが
韓子、高麗、馬子、蝦夷、入鹿
いずれも当時よくある名で蔑称でも何でもない
45 :
日本@名無史さん:03/07/12 04:43
それよりも、当時の高麗は当然高句麗で、夫余族。
韓子は韓族(との間に子など)なので、
もし半島出身ならば、こんな食い違う名前を親子につけない。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
47 :
日本@名無史さん:03/07/13 00:43
蘇我系→…→大久保利通→牧野伸顕(1歳の時に大久保家から牧野家へ養子)→
吉田雪子(旧姓牧野,吉田茂の妻)→麻生和子(旧姓吉田,麻生太賀吉の妻)→
三笠宮信子(旧姓麻生,三笠宮寛仁の妻)→三笠宮彬子女王
麻生太郎総理は天皇陛下の叔父にあたり...
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
50 :
日本@名無史さん:03/07/17 04:28
入鹿から3代前の稲目から、蘇我氏は突如として歴史の表舞台に台頭してくるの??
51 :
日本@名無史さん:03/07/17 11:43
満智、韓子も、そこそこ表舞台に出てる。
韓子が早く死んだ(殺された)ため、高麗は出世できなかった
のだろう。稲目は相当の努力をしたのかも知れない。
益田岩船も蘇我氏関係の墓なのか?
>>54 あれは斉明天皇の陵墓説のある牽午子塚古墳の失敗作
石材加工中に大きな亀裂が入って、製作不能になって放置したもの。
近くで観察すると加工の痕がよく観察できるよ。
56 :
日本@名無史さん:03/07/19 03:33
稲目が出世したのは平群氏が滅亡したおかげ。
57 :
日本@名無史さん:03/07/19 08:49
(貶称) (実名)
↓ ↓
蘇我馬子←宗賀島
蘇我蝦夷←宗賀豊浦
蘇我入鹿←宗賀鞍作
ただし貶称はこの3代だけ。稲目より前は本名。
58 :
日本@名無史さん:03/07/19 11:56
韓子、高麗、馬子、蝦夷、入鹿
いずれも当時よくある名で蔑称でも何でもない
59 :
日本@名無史さん:03/07/19 13:58
木羅斤資が新羅の女を孕まし(拉致った?)ますた。
60 :
日本@名無史さん:03/07/19 14:50
大陸系なんですか?
61 :
日本@名無史さん:03/07/19 14:53
高麗は高句麗で、夫余族。「韓子」とは韓族との間の子なので、
半島出身ならば、こんな食い違う名前を親子につけない。
62 :
日本@名無史さん:03/07/26 21:30
奈良時代は蘇我の血を引かないと天皇になれなかった
63 :
日本@名無史さん:03/07/26 22:47
蘇我満智のお父さんが武内宿禰ですね。
武内宿禰→蘇我満智→韓子→高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿
64 :
日本@名無史さん:03/07/26 23:41
>>62 蘇我の倉家が没落した後は、そうでもないんじゃない?
天智系にホントに蘇我系の血が入っているかと言うと異説もたくさんあるしねえ。
(^^)
68 :
日本@名無史さん:03/08/02 22:29
69 :
日本@名無史さん:03/08/10 00:16
馬子の実績を隠す架空の聖徳太子を歴史から消そう!
70 :
日本@名無史さん:03/08/10 11:17
蘇我氏ってチョンだったの?
71 :
日本@名無史さん:03/08/10 11:38
蘇我氏はチョンかチュンか判らん。 百済系という人が多い。
天皇家(天智系)はチョン。 高野新笠だけじゃなく根っからのチョン。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
73 :
日本@名無史さん:03/08/15 18:35
ただ、近年馬子死後は蘇我氏は衰退期で推古天皇死後に反蘇我派に担がれたのが舒明天皇で、
蝦夷は反蘇我派に屈して山背大兄を断念させられ、苛め抜かれた挙句舒明の子の中大兄らに
やられたという説もある。舒明・皇極は蘇我と無縁だったから蘇我氏の専制の余地はなく、
「書紀」の話は粛清した中大兄派の挙げ足らしい。
入鹿最大の悪行とされる山背大兄滅亡の話も山背大兄が皇位継承上最も邪魔だったのは中大
兄の筈で逆に蝦夷が激怒しているのも実はし蝦夷の本命が山背大兄にあったからだといえる。
古人大兄も蘇我の血は引いているが兄弟相続の色濃い当時古人大兄を立てても次は中大兄や
大海神が皇位を継ぐだろうからメリットは薄いというのだ。
>山背大兄が皇位継承上最も邪魔だったのは中大兄の筈
いちばん邪魔だった中大兄はこのころまだ大兄として認知されて
ないと思うんですが...
76 :
日本@名無史さん:03/08/21 00:04
山背大兄は、父親が何の実績もないぼんくらウマヤド。
とはいえ、彼らの父親の世代は既に誰もいない。やはりタムラか?
兄弟相続を断ち切ることが飛鳥奈良の特徴だが。
78 :
日本@名無史さん:03/08/23 00:43
>>77 基本的にはそうだが、いきなり親子相続は無理。
だから、壬申の乱が起こっている。
80 :
日本@名無史さん:03/08/25 05:52
大化の改新後に皇太子になって大兄と認知されたはず
蘇我入鹿暗殺時は葛城皇子としか呼ばれてないし
81 :
伊予の介(空蝉の君の旦那):03/08/25 11:36
蘇我高麗は朝廷の金庫番をしてた訳だが、裏金でも作って朝臣を買収しまくって
基盤を作り、稲目がその人脈を発展させたんだよね。
82 :
日本@名無史さん:03/08/26 07:04
倉山田石川麻呂、連子、赤兄、日向は系図上では四兄弟ということになっているが、
この四人の関係は実際どうだったのかな?日向が倉山田を目の敵にしてたのは分かるけど。
その系図しか史料がないから、ホントに兄弟だったのか?と言うことに関しては、、、何とも言えない罠
ただ、順番に関して前後するかも知れない。
史料に出てくる順番で言うと、倉山田石川麻呂→日向→連子→赤兄、、、かな。
倉山田石川麻呂と日向の対立以外には、この4人の間にはほとんど接点がなかったような。
84 :
日本@名無史さん:03/08/26 21:51
確かに連子と赤兄はとってつけたようなニホヒ。
蘇我川堀とかと同様、その他大勢蘇我さんだったのを、
位置的に便利な倉麻呂の下にくっつけたっぽい。
85 :
日本@名無史さん:03/08/27 09:15
テロで政権を奪取した中大兄皇子は卑劣な奴だな。
その治績には見るべきものはない。
ただ混乱をもたらしただけ。
蘇我時代の絢爛たる文化はいまも日本人の心のふるさとだが。
86 :
日本@名無史さん:03/08/27 10:21
>>84 但し、連子は倉山田石川麻呂にはかなり近い血統でしょうね。
『日本書紀』を見る限りでは大した事績が見えないにも関わらず
大臣になっている事から推測すると、近親に大臣経験者がいたので
世襲的に就任、、、と言うことが考えられる。
87 :
日本@名無史さん:03/08/29 22:03
境倍摩利勢あげ
88 :
日本@名無史さん:03/08/30 00:14
河内石川で周辺の渡来人の力を吸収してきた蘇我氏。
でもすぐ北には物部氏の大勢力があって、それにも限界がある。
稲目は天皇家への接近をはかるために、大和へ進出したかった。
そのために、畝傍山の東南一帯、今の欽明陵古墳あたり(坂合)
を本拠地にしている境部氏の女を妻にした。
摩利勢は葛城系の母をもつ馬子とは異母兄弟。
マリセ・ミゼル
>>80 大兄と皇太子はイコールじゃない。皇太子候補生が大兄。
だから同時代に複数いる。中大兄は古人大兄に次ぐ2番目の大兄の意。
ちなみに彼は舒明葬儀の時点ですでに皇太子として出てくる。
日嗣の皇子の初出って誰のときだっけ?
92 :
日本@名無史さん:03/08/31 17:35
古代の皇太子は廃位のケースも多い。皇太子を決めた天皇が死ねば、「死人に口なし」だからだ。
中大兄は多くの政敵を葬ったが、自分の弟による(大友からの)簒奪は防げなかった。
平安の淳名天皇に至っては自分の子が皇太子にならないよう工作したほど。しかし、次の仁明天皇は淳名の子・恒貞を皇太子にして、藤原良房による「承和の変」の犠牲者にした。
94 :
日本@名無史さん:03/09/11 22:58
95 :
日本@名無史さん:03/09/14 15:34
96 :
日本@名無史さん:03/09/15 03:42
誰も指摘しないけど、
当時の中心国 南朝の都の地名は「蘇」っていうんだよ
今でも 蘇州 ね。
地名からいうと、倭の五王のころの蘇との交流からの地姓と推測できるんだが。
渡来人をまとめる上でこの上ない姓だからね
↑あほか。
ソガの表記が「蘇我」で定まったのは蘇我氏滅亡のはるか後、日本書紀ができてからだ。
それまではいろいろな表記があって一定していなかった
98 :
日本@名無史さん:03/09/16 08:44
↑
それはそれで初耳だが、日本書記で蘇我となったなら、
それより以前は古事記だけになるね、古事記では蘇我に
色々な表記がありましたか?
又娶木國造之祖宇豆比古之妹、山下影日賣、生子、建内宿禰。
此建内宿禰之子、并九【男七。女二】
波多八代宿禰者【波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。】
次、許勢小柄宿禰者【許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也】
次、蘇賀石河宿禰者【蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。】
次、平群都久宿禰者【平群臣、佐和良臣、馬御kuhi[扁木旁織]連等祖也】
次、木角宿禰者【木臣、都奴臣、坂本臣之祖。】次、久米能摩伊刀比賣。次、怒能伊呂比賣。
次、葛城長江曾都毘古者【玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也】
又若子宿禰【江野財臣之祖】
100 ゲ ッ ツ な の れ す !
∋оノハヽо∈
( ´D`) テヘテヘテヘテヘ〜
(( (σ σ ))
と_)_)
天智天皇て、蘇我氏の誰かでない?、聖徳太子て、蘇我の馬子の事でない?。
102 :
日本@名無史さん:03/09/16 14:00
>>96 南朝歴代の都は建康(現在の南京)だろ。蘇州じゃないよ。
>>98 「巷奇大臣名伊奈米足尼」「巷奇〔蘇我也〕」(「天寿国曼荼羅繍帳」銘文)
「宗賀之稲目宿禰大臣」(『古事記』)
横レス失礼。
103 :
日本@名無史さん:03/09/23 19:57
104 :
日本@名無史さん:03/09/24 23:04
105 :
日本@名無史さん:03/10/03 20:17
106 :
日本@名無史さん:03/10/13 01:14
107 :
日本@名無史さん:03/10/13 02:07
蘇我果安はどんな位置にいた人物なのですか?
赤兄はわかるんですが
108 :
日本@名無史さん:03/10/13 11:29
109 :
日本@名無史さん:03/10/17 00:34
110 :
日本@名無史さん:03/10/20 00:20
そんな事より
>>1よ、ちょいと聞いてくれよ。スレと関係あるけどさ。
このあいだ、近所の飛鳥京行ったんです。飛鳥京。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで入れないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、仏教伝来、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。お前らな、仏教如きで普段来てない飛鳥京に来てんじゃねーよ、ボケが。
仏教だよ、仏教。なんか親子連れとかもいるし。一家4人で飛鳥京か。おめでてーな。
よーしパパ拝んじゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、仏像やるからその位置空けろと。飛鳥京ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
隣にいる奴にいつ謀反の疑いをかけられてもおかしくない、
斬るか斬られるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと入れたかと思ったら、隣の奴が、蘇我氏万歳、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。あのな、蘇我なんてきょうび流行んねーんだよ。チョソが。
得意げな顔して、何が蘇我氏だ。
お前は本当に仏と蘇我に感謝したいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、蘇我って言いたいだけちゃうんかと。
飛鳥通の俺から言わせてもらえば今、飛鳥通の間での最新流行はやっぱり、日本神道、これだね。
神祇崇拝。これが通の拝み方。
神祇ってのは神の力が多めに入ってる。そん代わり厄が少なめ。これ。
で、それに崇拝(ありがたさを込めて拝む)。これ最強。
しかしこれを頼むと次から仏像と蘇我が疫病を流行らせるという危険も伴う、諸刃の剣。素人にはお薦め出来ない。
まあお前ら初心者は、陛下でも拝んでなさいってこった。
112 :
日本@名無史さん:03/11/07 00:32
113 :
日本@名無史さん:03/11/07 03:45
蘇我と手を組んだ香具師は大陸系。
114 :
日本@名無史さん:03/11/29 12:04
馬子の実績を隠す架空の聖徳太子を歴史から消そう!
115 :
日本@名無史さん:03/12/05 23:21
こらっ!!明日香の入鹿首塚に黄色のスプレーで落書きしたのは誰だ!!
祟られろ!
117 :
日本@名無史さん:03/12/06 14:19
【速報】蘇我入鹿さん死亡【速報】
1 名前: 名無しさん@古代 投稿日: 02/06/10 22:47
朝廷の、有力豪族の蘇我入鹿さんが昨夜未明何者かに殺害されていたことが
警察の調べでわかった、当局によると犯人は男性2人組で入鹿さんの顔見知りの
可能性が強いとのことだ。関係者の話によると、入鹿さんは押しの強さで有名
だったらしく、それには同僚も目にあまるものがあったという。どうやら犯人グループの
殺害の動機は怨恨のようだ。また、朝廷関係者は入鹿さんが殺害されたことによって
今後の政権運営が危ぶまれるという、帝は今夜、諸大臣を集め今後の方針を決定するという。
いずれにせよ、倭国にとって重大な危機がおとずれたようだ。※詳細記事は12−13面に
http://news5.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1070673958/
118 :
日本@名無史さん:03/12/06 19:22
蘇我入鹿の弟が物部を名乗っているけど、
あれは物部宗家の当主として認めれるてるの?
>>118 それこそソースは?
ちなみに蘇我馬子の奥さんが物部守屋の妹でつ
そのため蘇我・物部の戦争は一見崇仏vs廃仏論争に見えるが
実は物部氏の資産を狙った蘇我氏の陰謀ではないかと
当時から言われていたようだ。これは『日本書紀』にも書いてあります。
121 :
日本@名無史さん:03/12/06 22:45
「弟」を「第」の誤記と見て、物部大臣は=入鹿にしたほうがスッキリするような。
「敏傍」の名前が見えるのは何という文献だっけ? そんなに史料的価値は高くなか
ったと思うけど…
そういえば、「豊浦大臣」の由来を東大阪市豊浦町の地名によると見る説があったな。
母方の物部氏勢力圏で育てられて、稲目ゆかりの向原に遷ったから飛鳥に豊浦の地名が
出来たとか。
古人大兄皇子の名前にも、フル(布留)という石上神宮の地名が使われていて、彼が
法提郎女の実家の勢力圏、つまり物部から蘇我氏が受けついだ地で育ったことが分かる。
入鹿の「鞍作」は物部と関係ないの?? 誰か教えて。
122 :
日本@名無史さん:03/12/06 23:20
蘇我氏は存在しなかったというのはどうなんだ?
日本書紀の時点で意図的な作為が働いている
蘇我氏とされるのは実は原住民系の大王候補の一派
123 :
日本@名無史さん:03/12/07 04:27
復た其の弟を呼びて物部大臣と曰ふ。
大臣の祖母は物部弓削大連の妹なり。
故れ母の財に因りて威を世に取る。
124 :
日本@名無史さん:03/12/07 07:48
>>118-123 昔の皇族貴族は乳母や母親の出身氏族名を個人名につけることがよくあるからな。
古人大兄皇子のフルは乳母が物部氏の出身だったんだろう。
蝦夷の母が物部出身だから、蝦夷本人かその弟が物部大臣と呼ばれても不思議はない。
ウヂやカバネといった氏族名は父系で継承するが財産は母系での継承も大きい。
>>121 ちなみに鞍作というのは、東漢氏の庶流の一派に鞍作部氏と
いうのがあって、入鹿の母親か乳母がそこの出身だったんだろう。
(母親だと氏族ランクの差が大きすぎるのでたぶん乳母。実母だとすると側室腹だったのかも)
>>121 「敏傍」は確か石上所蔵の宮司系譜に出てくると思いました(ソース無し)
「弟」>「第」と同じく「敏傍」>「畝傍」の可能性もあり。
>>124 入鹿の母親も物部と言う説が有力だったと思うが。
「鎌媛」だったかな。
126 :
日本@名無史さん:03/12/07 09:51
入鹿の血ってほとんど物部!
稲目━━┳馬子
女子━━┛ ┣━━蝦夷(1/2※)
尾輿━━┳女子 ┃
女子━━┛ ┣━入鹿(3/4※)
尾輿━━┳石上贄古┃
如波流姫┛ ┣━━鎌媛
尾輿━━┳布都媛
阿佐姫━┛
布都姫って崇峻夫人じゃないの?
131 :
日本@名無史さん:03/12/16 21:30
>>101 聖徳太子=馬子の子・善徳説は聞いた事がある。
132 :
日本@名無史さん:03/12/17 23:30
>>73 皇極は蘇我と無縁? 稲目の子孫だったよーな…
133 :
日本@名無史さん:03/12/18 00:22
入鹿の弟の畝傍は、畝傍橿原宮に即位して、神武天皇となった。
134 :
日本@名無史さん:03/12/18 20:02
入鹿の本名はただの「鞍作」ではなくて、「大郎鞍作」だと本で読んだが…?
135 :
日本@名無史さん:03/12/25 04:50
大郎は長男って意味だろ
136 :
日本@名無史さん:03/12/28 12:21
137 :
日本@名無史さん:03/12/28 22:33
厩戸=キリスト教徒?
138 :
大日本總鎮守 ◆Zs9K3ChZJc :03/12/28 22:35
>>137 私の記憶が正してれば景教は、、三位一体を主張していない筈だが・・・
名無しさんにズームイン! 03/12/28 22:33 ID:nTZwYaKD
三位一体だぁ?うそこけ
これ(広隆寺の弥勒の半跏不座形)は中国の仏像にも原型があるぞ!
140 :
137集めてきた:03/12/28 22:51
962 名無しさんにズームイン! 03/12/28 22:37 ID:Vgy61TKE
http://www.ntv.co.jp/jiku/ に景況は三位一体を否定しているはずってコピペ投稿しておいた
734 名無しさんにズームイン! 03/12/28 22:35 ID:7zbERHa/
カンボジアでは仏教がキリスト教と融合してカオダイ教になったぞ
759 名無しさんにズームイン! 03/12/28 22:35 ID:Ct0zl8mG
三位一体説が認められたのは第1回ニケーア公会議(325年)
590 名無しさんにズームイン! sage 03/12/28 22:33 ID:VJiJX+UV
そもそもキリスト教に関する言葉も何も無い時代なのに馬鹿か。
キワモノ説のユダヤと日本の最初の接触ですらもっと後なのに。
429 名無しさんにズームイン! sage 03/12/28 22:31 ID:q7IavjRu
秦氏=景教説は昔からあったよ
秦がなんか三つ繋がった鳥居で拝んでたでしょ?
あれは京都の太秦の秦氏の神社蚕ノ社に実在して、あれは
キリスト教ネグストリウス派=景教の三者三体を表しているのさ
359 名無しさんにズームイン! 03/12/28 22:29 ID:xmx6R9hb
>>300 「愛」にギリシャ由来の「アガペー」的な、神の愛的な要素が加わったのは、明治時代以降だね。
141 :
日本@名無史さん:03/12/28 23:11
>>138 正しい
>>139 中国にとっても仏教はインドから伝わってきたもので、オリジナルじゃないよ。
インドでもすでに土着の信仰と混ざっていたし、中国に伝わったときも
またいろいろなものが入り込んだ。
西方の宗教がインドまたはシルクロード経由で入ってきてもおかしくない。
142 :
日本@名無史さん:04/01/01 17:10
平安朝初頭まで、朝廷に残存していた蘇我氏後裔の石川氏は何処に消えたんだろ。
藤原氏の他氏排斥暗躍史には、名がでてこないが。
>>142 奈良時代末期に石川石足が右大弁になったのを最後に
政権中枢には石川氏の名前が見られることはなくなったようですね。
その後「石川」から「宗岳」に改姓しましたが
二度と議政官を出すことはなかったようで、歴史の中に埋没していったようです。
『今昔物語』のなかに宗岳氏の娘の不幸な物語があったのではなかったかな
144 :
日本@名無史さん:04/01/02 13:39
145 :
日本@名無史さん:04/01/02 13:47
>>143 >石川石足が右大弁になったのを最後に政権中枢には石川氏の名前が見られることはなく..
石足と言えば、逆臣恵美押勝の腹心だった人物ですね。恵美押勝の乱で石川氏は、仲麻呂と
命運を共にしたって事ですか。
>>131 以前、法隆寺展だったか、展示品の中に小さな蘇我善徳の像があったぞ。これかな?
147 :
日本@名無史さん:04/01/05 00:20
蘇我馬子(宗我有明子)=嶋大臣=用命天皇
蘇我蝦夷<入鹿の年齢詐称用の架空人物>
蘇我入鹿=大郎鞍作(大郎は長男の意味)=馬子の長子、善徳
=物部大臣=聖徳太子(用命天皇の子)=アメノタラシヒコ=高向王
天智は聖者あぼ〜んのチョソ
ここらへんから大王(オオキミ)から天皇に代わったか・・・??
壬申の乱は、天智(天皇家)の子と天武(大王家)の戦争って事・・・
でOK?
蘇我氏はぃそがしぃ。
>>145 それは石足じゃなくて父の年足。
年足は確かに藤原仲麻呂の右腕だったようだが官僚としては非常に優秀で、
出雲守の時には善政を認められて褒賞を受けていたはず。
年足は藤原仲麻呂より先になくなったので
石川家は藤原仲麻呂の乱の被害はほとんど被っていないようです。
ちなみに
この人のお墓は昭和初期に偶然に大阪府茨木市の山から発掘されて
出土した墓碑は国宝になっています。
150 :
日本@名無史さん:04/01/06 00:42
>>149 >この人のお墓は昭和初期に偶然に大阪府茨木市の山から発掘されて...
平城京近辺でも河内石川でもなくて、茨木市からってどういうこと?
あぼーん
>>150 『佐伯今毛人』(角田文衛著 吉川弘文館)では
当時、摂津大夫だった佐伯今毛人と石川年足が懇意の中だったため
年足の墓は旧摂津国に当たる茨木市にあるのではないか?
、、、
という説が唱えられていたような記憶があるが、
何か無理があるような、あるいは矢理があるような説に思えました(苦藁)
他に可能性としては年足の領地が茨木市にあった事が考えられる。
でも、茨木市って、伝統的に中臣氏→藤原氏の勢力範囲だったような。
153 :
日本@名無史さん:04/01/10 10:20
>>143 安麻呂−石足−年足−名足の連子流蘇我氏のことですね。入鹿頓死本宗家滅亡後も
天智・天武妃を輩出した赤兄流はどうしたのですか。赤兄の息男って誰だったっけ?
154 :
日本@名無史さん:04/01/10 11:54
>>153 赤兄は壬申の乱の責任をとらされて島流し
家族にも累が及んで息子もみんな流刑になっています。
ただ、天武夫人となった蘇我大ぬ娘は死亡記録が『続日本紀』
にあり、女の子は助かったと推察されます。
但し『日本書紀』等史料には島流し先は明記されておらず
彼らがその後どうなったかも全く分かりません。
息子の名前は『尊卑分脈』には載っていません。
155 :
日本@名無史さん:04/01/10 12:17
>>154 >息子もみんな流刑になっています..
壬申乱直後はそうであっても、母方の近親を持統が流刑のまま放置しておいたとは
思えないが。同じく乱の敗者に与した田辺氏が養家で、天武血統に血縁もない不比等が
天武死後には、任官どころか重用しているのに。
156 :
日本@名無史さん:04/01/24 02:37
157 :
日本@名無史さん:04/01/24 04:28
>>154 へぇぇ文献にも載ってないんだ。ということは
持統の実力で、血縁者を復活させたくてもできなかったってことは・・・
ホラ昔ってよく配流地に行く途中で謎の死をとげたりするしさ。
それにしても説明皆無というのは不審だけど
藤原氏って歴史書の改竄なんかお手のもんじゃない。
158 :
日本@名無史さん:04/01/24 07:37
蘇我氏は碧眼であった?胡人?
159 :
日本@名無史さん:04/01/24 08:52
古代では「カツラギ」じゃなくて、「カヅラキ」
160 :
日本@名無史さん:04/01/24 10:22
>>152 んじゃ茨木市内にわかいぬかい氏(の一族)の墓もあれば
大化カルテットの一族がコンプリートするね
161 :
日本@名無史さん:04/01/24 10:28
んでさ、隣の高槻市内にある今城塚は真の継体陵と
いわれてるよね
蘇我氏は継体期に権力を強めたわけで・・・
意外と北摂は近つ飛鳥と関連が深いのね
どういうことでしょう?
中臣領になる前は蘇我領だったんすかね?
で、大化カルテットが山分けしたとか
残りの部分は協力した蘇我一族に残したとか
162 :
日本@名無史さん:04/01/24 10:35
考えてみたら摂津は大和の玄関だし
当時は大阪湾がもっと内側に入り込
んでいたからあの辺りが重要拠点に
なるのは必然ですね
ちなみに、河内中部に「鞍作」とい
う地名が残ってるけど、これ、大阪
市平野区の加美というところなんす
隣が八尾市、ほんとに八尾市のすぐ
近くなんす
八尾市は物部守屋が討死にしたとこ
ろっす
163 :
日本@名無史さん:04/01/24 10:40
ちなみに八尾市には南太子堂という地名も残っておりやす
例の戦の名残っす
河内中部って、物部守屋グループ滅亡後は蘇我入鹿(大郎
鞍作)が治めていたんですかねえ?
164 :
日本@名無史さん:04/01/24 10:44
先代で領地になったんだろうけど、ね
165 :
日本@名無史さん:04/01/29 20:58
>>77 兄弟相続から嫡流への相続への切り替えを目指した最初の天皇は天智。(これに対する大海人と保守派の反発が壬申の乱を招くのだが)
そしてそれを確立させたのは持統による故・草壁皇太子の遺児の軽皇子(文武)擁立の筈。
だから、それより以前の時期に当たる舒明・皇極の次に古人大兄が即位しても(西暦645年の段階で大化の改新は起きないのだろうから)旧来の通り非蘇我系の葛城(いわゆる中大兄)・大海人と兄弟相続されるのがオチなので蘇我氏にはメリットはほとんどない。
俺は蝦夷の本心は山背大兄だったのではと予想。
訂正:「大化の改新は起きない」→「大化の改新のような大幅な政治改革は起きない」
167 :
日本@名無史さん:04/01/30 12:10
結局ずうっと血を辿れば今の天皇家にもちゃんと蘇我の血が受け継がれてる
んだよね?
でも、なんで藤原氏は天皇家との姻戚政策・強引な他氏排斥をやって滅び
なかったんだろう。
>>165 律令以前には兄弟相続「も」行われたということにすぎず、
弟がいたら息子は相続できない、というわけではない。
169 :
日本@名無史さん:04/02/02 00:32
>>167 どこか傍系や母系で蘇我の血が今の皇室に流れているのですか?
藤原氏・・・ですが、これは過去の教訓の蓄積も大きいのでは?
葛城氏以来、豪族のみならず王族間でも数多く滅びましたから、
「ここでポストを他氏から奪うべき」とか「ここは我慢」とか、
チャンスの読みのノウハウがしっかりしていたのではないかと。
170 :
日本@名無史さん:04/02/02 01:28
>>169 蘇我稲目―堅塩媛(欽明妃)―桜井皇子―吉備姫王(茅渟王妃)―皇極天皇―天智天皇―施基皇子―光仁天皇―桓武天皇―嵯峨天皇―仁明天皇―光孝天皇―宇多天皇―醍醐天皇(以下ry
仁明―光孝は血で繋がっとらん気がするけど
光孝って誰の子だったっけ。あれれ忘れたわ。白壁王だっけ?誰だっけ?
おぉ、自分が間違ってたよ。仁明ー光孝ですね。
光孝は文徳さんと兄弟なんだね。
文徳は清和源氏のほうに流れるね
確か光孝ー宇多の棚からボタモチ系統から、連綿と皇統が続くんだったっけ。
そう思うと文徳帝って気の毒
蘇我氏は何気にしっかり血に残ってるわけね。
「桜井皇子―吉備姫王」は推定かもしれないけどね
>>176 そもそも光孝が老齢即位の棚ボタ(陽成がダメ王だったから)で
宇多は親王ですらなかったのに、なりゆきで帝位に上がったからだろ。
>>169 葛城氏って滅んだの?女系でどこかに流れてそう
179 :
日本@名無史さん:04/02/07 10:24
いまに残る隠れ蘇我って・・・
布都姫って山岸涼子の創作じゃなかったのか
181 :
日本@名無史さん:04/02/22 04:01
入鹿の弟の畝傍は、畝傍橿原宮に即位
182 :
日本@名無史さん:04/02/23 10:47
赤兄は嫌いよ
183 :
日本@名無史さん:04/02/23 21:02
人物叢書の「蘇我蝦夷・入鹿」って面白いですか?
184 :
日本@名無史さん:04/02/23 22:03
蘇我氏は大王家、馬子や蝦夷は大王位に就いてたらしいよ。
この前本で読んだ。
>>180 まじでいたよ、布都姫。ただ、蝦夷とくっついてはいないと思うけど、
史実的に。
しかし「日出る処の」は面白い。
イナメは出ないけど。
186 :
日本@名無史さん:04/03/12 11:08
屋敷跡でなにか新発見はありますかねえ
天皇の宮よりでかかったらしいね。
やっぱ蘇我氏は「大王家」に違いないと思うな。
「アメノタラシヒコ」は蘇我氏の誰かだったんじゃない?
188 :
日本@名無史さん:04/03/14 05:58
>>186 「島の宮」だっけ?
>>187 当時はまだ母系制が強かったから、妃の実家がでかくてもフシギはないだろう。
それをもって蘇我氏=「大王家」とするのはおかしい。
馬子の嫁は守屋の妹。
190 :
日本@名無史さん:04/03/15 00:47
蘇我馬子邸宅跡などで現地説明会、ファン行列 明日香村
http://www.asahi.com/culture/update/0313/003.html 天武天皇の正殿跡や蘇我馬子(そがのうまこ)の邸宅跡とみられる遺構が
相次いで見つかった奈良県明日香村で13日、両遺跡の現地説明会が同時開
催され、多くの考古学ファンが全国から詰めかけた。朝から好天に恵まれ、
正午までの見学者は両遺跡を合わせて約6000人。ふだんは静かな飛鳥の
里が、行き交う人や車でにぎわった。
天武天皇の「飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)」の正殿とみられる大型
建物跡や石敷き広場が出土した飛鳥京跡では、熱心な考古学ファンや親子連
れの長い列ができ、説明会は予定より30分繰り上げて始まった。調査を担
当した県立橿原考古学研究所の職員らが「ようやく大きな成果を報告できま
す」と話すと、見学者から大きな拍手が起きた。
東へ約750メートル離れた石舞台古墳そばの島庄(しまのしょう)遺跡
でも午前9時半から説明会があった。こちらは蘇我馬子の邸宅とみられる大
型建物跡群。遺構のある村営駐車場は、詰めかけた見学者でごった返した。
191 :
日本@名無史さん:04/03/15 05:50
192 :
日本@名無史さん:04/03/16 00:15
193 :
日本@名無史さん:04/03/17 19:09
?
194 :
日本@名無史さん:04/04/05 00:21
195 :
日本@名無史さん:04/04/25 10:10
それで、木簡の発見などなかったの?
196 :
日本@名無史さん:04/05/01 02:45
その後の動きはどんな具合?
文化という劇場:大邸宅?発見の蘇我馬子 悪役一族の本当の姿とは
蘇我馬子(そがのうまこ)の邸宅と見られる大型建物の跡が奈良県明日香村で見つ
かった。所は飛鳥の一等地、しかも当時の天皇の宮殿をしのぐほどの大きさだともい
われる。その意味するところをあれこれ想像するのは、実にスリリング。
馬子の評判は悪い。聖徳太子の時代、推古朝の最高権力者である一方、崇峻(す
しゅん)天皇暗殺をはじめとする暗躍の数々が伝えられている。その子供、蝦夷(え
みし)や孫の入鹿(いるか)の時代になると、専横ぶりも極まる。天子にだけ許され
た舞をさせるとか、家が宮門(みかど)、墓が陵と称されるとか、子供を宮と呼ぶと
か、天皇自身であるかのような振る舞いに及んだという。その揚げ句、聖徳太子の
子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を攻め滅ぼした。いわば、日本史上
の悪役中の悪役一家なのである。
ところが別な解釈もできる。蘇我一族が天皇家のように振る舞ったのではなく、天
皇家そのものだった可能性はないか。意外にもあちこちでつじつまが合ってきて、学
者にもこの仮説への支持者がいる。実際、『日本書紀』を離れて海外の文献に目を移
すといよいよ奇妙なことになってくる。例えば中国の正史『隋書』の倭国伝。遣隋
使、小野妹子の帰国に伴って来日した隋使、裴世清(はいせいせい)が天皇に謁見す
る場面があるのだが、相手は推古女帝のはずなのに女性に対しているムードはまるで
ない。その数年前の第1回遣隋使の記録では、天皇は男とはっきり書かれている。こ
れはいったい何なのか。
一等地での巨大な邸宅という今回の発見。「馬子の権力の大きさを示す」とみるの
が穏当な解釈なのだろうが、その時代で一番の家に住む最高の権力者とは何者かと虚
心に考えると……、『日本書紀』の記述とは違う光景が、また一つ見えてくるかのよ
うだ。【伊藤和史】
毎日新聞 2004年5月2日 東京朝刊
原初の王の役割とは、人々を代表して異界(天上界・神霊界)と交流し
そこから神の恵みをとりだしてくるというもの。
この異界が縦から横にスライドすると、海外貿易によって利益を生み出す
ということになる。つまり貿易は王たるものの専管事項。
しかし神功皇后の新羅征伐以降、功臣武内宿禰が「韓政(=外交)」を担当し、
外交の主務が貿易の利権であり貿易が最大の財を生むことから
武内宿禰の子孫が歴代「大臣(おおおみ)」として
外務・財務を司掌することになった。
しかしこれは武内宿禰後裔氏族と皇室とのそれぞれの存在意義が
バッティングすることであり、記紀にあるごとく、その後、
武内宿禰後裔氏族ばかりが次々と不祥事を起こしたり
謀叛を起こす遠因となったと思われる。
また葛城県主を吸収し皇室に后妃を入内させる家柄となり、
葛城系の天皇の系譜を生み皇室に密着したため、謀叛や不祥事も
同族の内輪もめの感があり、子孫根絶やしが回避され、利権が
蘇我まで伝承されて氏族が生き延びることになった。
(蘇我氏が聖徳太子を得た遠因でもある)
葛城氏滅亡後、その利権は平群氏に(倭五王の遣使は平群真鳥
の外交方針か)。平群氏滅亡後は蘇我氏にその地位が
移ったが、蘇我氏も葛城氏や平群氏同様、栄華を極めると皇室を
軽んじるようになった。
推古朝の実権者は、推古天皇独裁説、聖徳太子独裁説、蘇我馬子独裁説、
3人のうち二人のカップリング説、3人でトロイカ体制説もあるが、
蘇我馬子(本名は宗賀島)の専横の時代で、
聖徳太子は前半は仏教弘宣で利用され、後半は用済みとなり暗殺。
「後世の藤原氏と同じく、皇室あっての蘇我氏で、権力構造上、皇室に依存して
いたから蘇我が謀叛をたくらむということはありえない」という説もありますが
これもどうかと思われ。
神功皇后の時、半島との交通が活発化し、応神朝に儒教が伝来してから、
倭国は中国的な王権観(天命・革命・禅譲放伐)をどう受容するかで
長い間、模索し続けてきたので、大化の改新で答えを出すまでは
かなり不安定な王権でした。
蘇我蝦夷(本名は宗賀豊浦)が自分たちを天子になぞらえた例が多くありますが、
これは当時、中国の南朝で繰り返されていた王朝纂奪のパターンに習ったもの。
蘇我王朝の実現はすんでのところで止められたので、その後の日本の方向性が
決まったのです。
>>198-199 蘇我一族の本名は別といってる辺り、デンパゆんゆんなんですが。。。
というネタで200get
201 :
日本@名無史さん:04/05/09 09:43
>>200 どうして名前の部分が電波なんですか?
「嶋大臣」と記述されている人は蘇我馬子、「豊浦大臣」と書かれている人は蘇我蝦夷、
ということそのものは電波でもなんでもないと思いますが。
むしろ最初の4行の方が理解しにくい。
>>201 >蘇我馬子(本名は宗賀島)
>蘇我蝦夷(本名は宗賀豊浦)
と言う所がデムパゆんゆん
確かに『日本書紀』で蘇我馬子のことを「島大臣」蘇我蝦夷のことを「豊浦大臣」
と説明している場所はあるが、それが本名とは書いてないだろ
203 :
日本@名無史さん:04/05/13 23:12
>>197 そういうの読むと本当に・・だったの?って思っちゃうよ。
隋書が男の天皇と書いてあるならそうだったんだろうな。
わざわざ中国の正史が、倭国について嘘を書くメリットなんてないもんね。
日本書紀のほうは遣隋使に関する記述でも、小野妹子が煬帝の国書を奪われ
たのにお咎めなしで、またすぐに遣隋使に任命されたとか、胡散臭すぎるし。
その辺は自分とこの王様は女であると軽く見られるから男にしたとか
実権を握ってたのが馬子だったからだとか時の天皇は聖徳太子だったとか諸説あるよね
むこうの正史を絶対視することもないがね
ある程度は参考になる>外国の正史
日本にとって都合の悪い事も、正直に書かれてる可能性もある訳だから。
利害関係がないなら信じてもいいかと。
206 :
日本@名無史さん:04/05/15 15:35
少し後の時代の話だが、新羅なんて女王だからという理由で
国をお取り潰しにされそうになったからな。
その頃の倭国もヤバいと思ったかも知れない。
それと日本書紀は奈良時代の感覚でスメラミコト=倭王と思ってたかも
しれないが、スメラミコト=推古、倭王=聖徳太子で並立してたとか。
後世だと征夷大将軍=日本国王=日本国大君で天皇と別にあったことも
あるし、当時に近い時代だと新羅の寐錦王と葛文王の二重王制なんて例
もあるし、オオヤマトトトソヒメの陵(箸墓)は崇神陵より大きく、
崇神天皇より同時代の最高巫女の方が権威が高かった可能性がある。
これは卑弥呼と男弟の関係、推古と聖徳の関係と同じだろう。
したがって、卑弥呼と男弟にしろ、推古と聖徳にしろ、どっちを
(中国語の)王とよぶかは、その時々の翻訳の問題。
よって、7世紀の倭王が女(日本書紀)だったか男(隋書)だったかは
絶対的矛盾でも二者択一的な問題でもないと考えられ。
倭王とすめらみことが別だったとは考えられんな
聖武朝の遣唐使で「勅日本国王主明楽美御徳」の国書があるから
このころにすめらみことがあったことは確実だが
推古のころはあめたらしひこが倭王を指す称号だったのかもしれんな
208 :
日本@名無史さん:04/05/15 21:05
推古天皇の在位期間は、とんでもない悪者扱いの蘇我氏(馬子)と、とんでもない聖人扱いの聖徳太子
の両極端な存在が2人いるから不思議。
どちらも仏教を広めることに貢献した点で共通するし。
この時期は日本書紀の記述に整合性が欠ける部分が多いから、
蘇我氏が天皇だった説とか、疑うなって言うほうが無理だ。
どうせ真相は闇だけど。
日本書紀を疑うと言っている人も
結局、日本書紀に出てる人物・事象の範疇で説を立てているに過ぎない
つまり、ある部分は疑ってある部分は信用してるわけだから
多かれ少なかれ日本書紀に依存してるわけだ
どこまで依存するかは限りなく恣意的
>>209 少なくとも隋書との矛盾部分は解消したいところだね。
何とかスッキリさせたいものだ。
>>209 何も日本書紀全体を疑ってかかってるとは書いてないでしょ。
ここで私が言ってるのはこの時期に限ってのことだよ。
「あめたらしひこ」が聖徳太子で、「すめらみこと」が推古でそ
どっちを「倭王」とするかはそれこそ翻訳の問題。
213 :
日本@名無史さん:04/05/16 08:37
大和飛鳥は、蘇我氏が部民を大勢連れて渡来して作った都。天智天皇は百済王
豊璋なのでは。飛鳥時代の権力は、入鹿、倉山田石川麻呂、赤兄、連子、安麻呂と
ずっと蘇我氏が継承。石川石足の子孫は藤原氏に入り込んだ。蘇我は佐賀、嵯峨、
寒河などと同じ言葉で、ある渡来系部族の居住地のこと。飛鳥は安宿またはアサガ。
すめらみことって称号が推古朝には成立してないだろ
>>214 漢字表記の「天皇」だったら、そうかも知れないですけど
「コトバ」としては、有ったかもしれませんね。
>>215 言葉として在ったのなら、隋書に記されていてもいいような気がするが。
217 :
日本@名無史さん:04/05/16 14:50
あらゆる言葉を全部収録しなければならないわけではないだろ。
隋書に記されていてもいいような気もするが
記されてなくても別にいいような気もするよ。
隋書倭国伝には当時の王の名を「阿毎多利思比孤」といい、
「阿輩[渓隹(さんずいへん除く)]弥」と号してるとしか記載されてない。
これは「オホキミ」と読める。スメラミコトは未出。
>>218 昔はそれを「アメキミ」とよんで天王(皇)号がこの頃すでにあった、という説もあったね
隋書は「あめたりしひこ」をあくまで倭王の名だといってるのであって
これは称号ではない。
もし聖徳太子が即位してたら、「天足彦天皇」みたいな諡号になったんだろう
蘇我氏って奈良時代までは歴史の表舞台に
立ってたんだよな。その後は?
あと、千葉市の蘇我とは関係あんの?
>>221 >>142-143で既出。
千葉県の蘇我との関係は私も気になってるが。
但し、あそこ埋め立て地だと思うので、実はそんなに由緒はない地名なのかも知れない(汗
蘇我の語源は菅で、スガ、スゲ、ソガなど類似の地名は
全国にたくさんあると思われ。中には蘇我氏の部曲の名残りも
あるかも知れないが、ほとんどの場合、別に相互に歴史的な
関係があるわけではないだろうな。
>>222 前にそのこと質問したことあったけど
関係あるみたいだよ
蘇我神社みたいなのがあるらしいけど
そのあたりは蘇我部だったのだろう
黒岩重吾の小説では東国にも蘇我の領地があったような
ことが書かれていたと記憶しているが、蘇我市みたいな
事例を踏まえてのことかな?文献的な証拠はあるの?
226 :
日本@名無史さん:04/05/18 21:16
蘇我氏の部曲が全国にあっても不思議でもなんでもない。
大伴部や物部が全国にあるのと同じ。
ただし具体的に蘇我部の実例は聞いたことないけど。
土佐の宗我部は関係あるのだろうか…
土佐は蘇我赤兄が流された所でもある
そのせいか、蘇我氏にまつわる伝承は多いらしい
229 :
日本@名無史さん:04/05/28 23:02
>>222 埋立地ってあの辺での埋め立ては旧川鉄のあたりだけだろう。
確か蘇我氏は平安時代にムネオカ(漢字忘れました宗岳?)に改姓してましたけど、
地下官人のムネオカ氏(こっちも漢字忘れました宗丘?)って蘇我氏なんですか?
うむ
蘇我臣→石川朝臣(天武14)→宗岳朝臣(元慶元)
232 :
日本@名無史さん:04/05/29 08:34
宗岳を音読みで読むと、ソガと読めなくもない。
祖先の氏を意識しての改姓なんですね?
蘇我の地名について感じるのは、物部・大伴はもちろん、佐伯なり安倍なり
そのあたりも地名で残っているので、蘇我の名前が残って当たり前だと。
まあ、クーデターで没収されたり、”悪役”ってことで後に名を変えてしま
ったところもあるのでは、と考えられるけどね。
233 :
日本@名無史さん:04/06/19 13:57
234 :
日本@名無史さん:04/06/29 11:33
住友財閥の創始者は蘇我理右衛門。
これは蘇我氏の子孫なの?
>>231のように蘇我氏の子孫は蘇我を名乗ってないので違うでしょう
まあ蘇我部だとかなんらかの関係はないともいいきれんが
236 :
日本@名無史さん:04/06/30 23:33
蘇我理右衛門(1572年〜1636年)
この頃、蘇我という名字は特別な意味を持っていたの?
つまり古事記・日本書記的な知識はどの程度広まっていたの?
あほかよ。意味がわからん
曽我五郎、十郎は蘇我氏の子孫か、と聞くようなもんだな。
239 :
日本@名無史さん:04/07/03 22:10
で、蘇我満智は百済系なの?
そうだとするなら何故孫が高麗なの?教えて偉い人。
>>239 模範解答
かって倭は三つに分割されて韓国に植民地化されていたから。(28字)
>>239 通説では蘇我氏は土着豪族
ゆえに満智以降高麗韓子とそちらの名前が続くのはまあ普通に渡来系との
かかわりが深かったせいではないか
そっち系知りたいなら門脇禎二の一連の論文を読めばよい
そして学会ではほとんどトンデモです
242 :
日本@名無史さん:04/08/02 23:10
だいたい、当時の高麗っていうのは高句麗で韓人でないし、
韓子ってのは日本人が韓人女性とのあいだにできた子を指す用法で例が多く、
満智の名が似ていて疑われてるのは百済支配層の人で、3つとも矛盾だらけ。
蘇我蝦夷は蝦夷人ですか、蘇我馬子は馬の子ですか、
って聞くようなもんだな
244 :
日本@名無史さん:04/08/23 02:45
不思議なのは、物部が、自分とこの外孫だって、系図説明でわざわざ自慢してること。
245 :
日本@名無史さん:04/08/23 21:56
渡来人の名前には動物の名前を用いたものが多い。馬子、蝦夷、入鹿、赤兄、等。
赤兄って何の動物が?
247 :
日本@名無史さん:04/08/24 05:48
魚のエイ。
蝦夷も動物?
>>247 べんきょうになりもした。
蝦夷はエビ(蝦)?
250 :
日本@名無史さん:04/08/24 20:34
どうして天皇でもない蝦夷が「天皇記」「国記」を持っていたか、それが謎だ。
251 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:08
聖徳太子と蘇我馬子の共著だろう。
多分、執筆中に太子も馬子も恐らく献上するはずだった推古天皇も死んで宙ぶらりんになっていたのでは?
葛城は、葛=ツル、城=キ、でそもそもはツルキ(剣)と呼ばれていたのでは?
カは何?
254 :
日本@名無史さん:04/08/26 05:54
>>252 韓系諸国には羅が付く
温羅、新羅、安羅、加羅、百済(クダラ)
斯羅(シラ)→新羅(シラギ)
葛(カツラ)→葛城(カツラギ)
255 :
日本@名無史さん:04/08/26 12:30
蘇我自演金子
>>252 そんな法則はない。思いつき垂れ流してると電波認定されるよ
257 :
日本@名無史さん:04/08/28 17:10
蘇我乳娘。
についての情報をお願いします。
孝徳天皇妃であるコトぐらいしか、情報がないもので…。
258 :
日本@名無史さん:04/08/28 17:47
>>257 たぶんそれくらいしかデータはなかったと思う
蘇我乳娘(そがのちのいらつめ) 生没年未詳
蘇我倉山田石川麻呂の娘。母親は不明。
中大兄皇子の妻となった蘇我遠智娘、蘇我姪娘は姉妹。彼女たちとの年齢関係は不明。
孝徳天皇の后となる。孝徳天皇との間に子供は無し。
『日本書紀』孝徳天皇紀の最初に出てくるのが彼女が史料に見える最初で最後。
259 :
日本@名無史さん:04/08/28 18:06
佐渡島の曽我宮豚子内親王は
>>258 乳娘と遠智娘(別名茅渟娘)は同一人物だよ
証拠はないけど、多分そう。
>>260 中大兄皇子と蘇我遠智娘の間には
・大田皇女(645年以前)
・鵜野讃良皇女(645年)
・建皇子(657年)
が生まれているが、その辺とのかねあいはどう考えてられるのですか?
大化5(649)年3月に亡くなった造娘と越智娘。
斉明4(658)年5月に8歳で亡くなった建王と建皇子。
これらの人物が同一人物とすると、母の死から2年後の
白雉2(651)年に生まれた建王は造娘の子ではありえない。
造娘は皇極3(644)年1月に父のために中大兄に嫁入りした少女かと
思われますが、父を殺されたショックで死んでしまうわけです。
もしかしたら大化5年にすぐ亡くなっていない可能性もありますが
そんな精神状態で建王が生まれる年まで生きていたかどうか疑わしい。
乳娘=遠智娘=造娘と仮定して話を進めると
天皇に即位した孝徳は中大兄から蘇我倉山田石川麻呂の娘を奪っているはずです。
これは舒明が斉明を高向王から奪い妃にしたことに似ています。
遠智娘の子の生まれた順は(建皇子、大田皇女、鵜野讃良皇女)のはずです。
乳娘は名目上孝徳の妃ですが子供はすべて中大兄の子なのは間違いないでしょう。
ちなみの姪娘とは蘇我日向と蘇我倉山田石川麻呂の長女の子ではないでしょうか?
建皇子の正体が不明なんですが漢皇子辺りの子かも知れません。
こうすると「皇孫」と斉明の心境が何となく分かる気がします。
また想像での話か…やれやれ
古代史スレにはついてまわる宿業のようなものだよ。
割り切って楽しんでしまえばいいのでは。
265 :
日本@名無史さん:04/09/05 11:17
>>244 旧事本紀がつくられるまで、かなりの年月が経ってしまってるからね
石上麻呂や宅嗣を懐かしんでも、
守屋なんて大昔の時代の話は、歴史に出てくるだけで
没落氏族にとっては自慢の種だ
266 :
日本@名無史さん:04/09/06 23:40
乳娘って巨乳だったんですか?
267 :
日本@名無史さん:04/09/06 23:49
子孫には、
曽我ひとみがおります
268 :
日本@名無史さん:04/09/06 23:49
乳娘は山田まりあににてるそうです
乳娘、好きになれそうです。
270 :
日本@名無史さん:04/10/01 00:32:50
271 :
日本@名無史さん:04/10/01 15:04:30
>>270 石上朝臣が主流になったから、結果として傍流に位置づけられただけ。
272 :
日本@名無史さん:04/10/01 15:10:32
========冂======================冂==================冂=======
ノ ̄ ̄ ̄.ノ ̄ ̄ ̄|  ̄ ̄ ̄|  ̄ ̄ ̄|  ̄ ̄ ̄|  ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄ ̄|
ノ ジ ノ ェ .ノ ン | キ ノ ン | 寿 | .司. .|
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l"ジェンキン寿司 l
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i ト、ミミ ,r‐- 、``'ニ=‐、.彡リ.
ヾ,iハ゛.´ _,,、_ i.; _,. ` 彡'i)
`、j,' `゚''´:.ノ i::<・ゝ) .ハン ヘイ!イラッシャイ!!
i, ` ,、/ i_ `` ,r'
,r〃'i ,r'ヽ、 _,〉 /.
/i:ト、;;i, ミ=_‐_-, 'i /ヽ__
r-‐'´i::::ハ;;ヾ、‐‐-、 ノ´/i:::'i`i‐- 、_
::i' .l:i 'i::::i ヾ;;`‐---‐'i':/ i、 'i::! i::::i `
:i' i:| !:::l _,r.、;;;;;,r''´ヽi. ll::i i::i l:::'i
273 :
日本@名無史さん:04/10/18 17:53:33
>>271 近年では一部に佐伯本家・大伴傍流の逆転説もあるらしいな。
274 :
日本@名無史さん:04/11/10 22:26:52
そのばあい、石上麻呂は、大伴の主流?傍流?
275 :
日本@名無史さん:04/11/11 22:50:55
>>274 ハァ?
>>273 そういう説もあるのですか。
どの時点まで佐伯氏が本流と位置づけているのですか?
金村以前は、という意味でしょうか。
その場合、蘇我氏についてはどうなるのでしょう。
平群氏の傍流だったという解釈ができる可能性は?
276 :
日本@名無史さん:04/11/11 23:33:07
それなら、むしろ葛城の傍流かと。
平群真鳥が大臣になって、権勢を振るったとかいう伝承は
書紀編纂時の創作かと思われ。古墳などの考古的な裏付けがないから。
277 :
日本@名無史さん:04/11/11 23:46:46
278 :
日本@名無史さん:04/11/11 23:53:34
”我は蘇った” という名は
もっと昔(ヤマト発生のころ)に一族がブイブイ言わせてて
一旦没落、
稲目の時に復権なのかな。
「蘇我」じゃない表記もあるから。そりゃないだろな。
ただの当て字だろ
281 :
日本@名無史さん:04/11/27 16:36:45
当て字?
282 :
日本@名無史さん:04/11/28 01:05:02
万葉仮名は、ある程度は決まった文字もあるが、同じ発音を複数の文字で使っている例も多い。
283 :
日本@名無史さん:04/11/28 08:30:20
>>275です。
>>276さん、
とはいえ、平安中期まで、中流貴族としての平群氏は実在したわけで、
実在の一族の先祖をそのように描くのには何らかの理由があるのでは、
と考えられるのですが。
平群真鳥が一代で滅ぼされてしまったんだから考古学的に残らなくてもムリないだろう。
いきなり真鳥だけ湧いて出たわけではないでしょ。
まさか、武内宿禰の孫だなんて話を信じてるの?
286 :
日本@名無史さん:04/12/01 00:05:44
蘇我氏って本家が滅びた後も相当長い間力を持っているよね。
没落が決定的になったのは壬申の乱で赤兄が失脚してから後だろう。
なんだかんだでその後も氏族は石川性で現代まで残っていると言われているし
藤原(中臣)がやったことってほとんど蘇我の焼き直しなんだよなあ
元々物部について戦った神官の出なのに結局仏教を国教にしてるし
蘇我氏は天皇家とほぼ同等の権力だけでなく象徴的権威も持っていた日本史上唯一の氏族だと思われ
時代が早かったから可能だった面はあるが
壬申後も持統や元明に蘇我の血が残っていたからなぁ。
288 :
日本@名無史さん:04/12/01 00:35:38
持統や元明は蘇我系を残そうとして藤原氏と対立したという説もあるが
これについてはどうかと思うなあ。彼女達が本気なら残った氏族をもっと
取り立てるくらいはできただろうし。蘇我というより天皇家としての意識
のほうがずっと強かっただろう。藤原氏は奈良時代に4兄弟が一気に病没してから
衰えるが、そのときも蘇我が復権することはなかったし。
289 :
日本@名無史さんof電波系:04/12/01 01:18:46
よく、「馬子天皇」というような表現をする人がいるが、天武政権によって
系譜を入れ替えられたものとしたら、馬子が大王だったのではなくて、王政
復古を目指す途中、次世代が倒されたのではないかという論理ができるが。
わけのわからない書き方になっているが、つまり、こういうことだ。
@系譜上の仲哀天皇と武内宿禰は、実は逆に伝えられている。
A足仲彦−葛城襲津彦は名前が「彦」で統一されている。
Bつまり、武内後裔氏族は第8代天皇とされる大王のみならず、第14代天皇
とされる大王の子孫である。
これだと、平群氏や蘇我氏が、「誉田別大王の血」を統治の根拠にしている一
族を無視するかのように権力拡大しようとした理由を説明できる。
また、「誉田別大王の血」を統治の根拠にしている一族が後の書物で、執拗な
までに武内後裔氏族の大物の「悪事」を強調するのかも説明できる。
以上、電波(w
最近の鷲は、下手にこねくり回さず、できるだけ記紀をスマートに読んだ方が
実態に近いと感じており、よって14代−15代のところは実際に親子であっ
て、ただ、苦労話を織り込むためにわざと「空位だった」と伝えているだけで
はないかと考えており、実際のところは国内では何も起きていないのではない
かという論調で・・・(以下略)
290 :
日本@名無史さん:04/12/01 19:57:23
蘇我氏自体は倭人だと思う。渡来系の子分とくっついていただけだと思う。
291 :
日本@名無史さん:04/12/01 20:29:53
そんな当たり前のことを・・・・。
土着の氏族以外は諸蕃に分類されるのだから、倭人であることは当時からすでに常識。
当人である蘇我氏自身も周りの関係者(土着系からも渡来系から)も倭人認定。
周りからも何の異議も挙がっていないから、それが当時の共通認識だろう。
渡来人だと主張している人はごく最近になってから出始めたに過ぎず、信証拠も信憑性が
いまいち。
292 :
日本@名無史さん:04/12/01 21:23:29
大王家自体が渡来人じゃないのか?
293 :
日本@名無史さん:04/12/01 23:23:12
渡来系というのが弥生系という意味なら渡来系と言えなくもないだろう
縄文系が主導権を奪われ、北へと追われていったのは事実なんだから
294 :
日本@名無史さん:04/12/02 00:31:11
勿論、弥生人も縄文人も渡来系だ。野尻湖人も三カ日人も牛川人すらそうだ。でも洪積世や沖積世の話をしているのではないんだよ。蘇我氏だよ?いつの時代か分かってる?当時でいう帰化人とか、今で云う渡来とかの記述、痕跡は一つも見つかっていないんだから正直説得力ないよ。
295 :
日本@名無史さん:04/12/02 00:33:16
蘇我氏、渡来人説は
在日朝鮮人の電波説。
蘇我氏とは、古代の伊藤博文。
古代の野中弘務か?
296 :
日本@名無史さん:04/12/02 01:43:51
まあ、真実は古墳を発掘すれば多分分かると思うけどね。
天皇家の古墳に対する発掘許可が降りないのは日本書紀が必ずしも真実でないことを
政府が知っているからだろう。真実が弥生時代でも比較的大和時代に近い時代に
渡来人が渡ってきて、それが天皇家や蘇我氏の始祖となったことだとしたら
今の歴史認識を根本から曲げないとならなくなるからな。
297 :
日本@名無史さん:04/12/02 01:49:02
俺はむしろ当時の大陸系の人々が簡単に一族絶滅とかやっていたことを考えると
圧倒的に進んだ武力と技術を持ってして土着の人間を支配したと考えるのが自然だと思う
最もそれらの人々は朝鮮系というより中国系の可能性が高いが。
>>297 残念ながらそのような痕跡が見つからない事にはファンタジーとしてみる他無かろう。
>>296 いや日本書紀は嘘八百だというのが俺の時代では定説だったが、今ではそれ程間違った事は書かれていない
という方向に向かいつつある。法隆寺消失の件も昨日、書記通りの結果であった事が判明したしね。
神代はともかく、それ以降は韓国学者でさえもそれ程嘘は書かれていないと言う見解だ。
301 :
日本@名無史さん:04/12/02 08:13:42
7世紀前半の事が嘘が書かれていないとしたところで大和朝廷成立時にそれが
無かったことの証明にはならない。どちらにしろ古墳を発掘させないのは
絶対におかしい。どこの国でも古代の遺産を学問的に研究して悪い国はない。
ちなみにもっと前の弥生時代前期に中国系による日本侵略があったことは
DNA鑑定で証明済み。同じ事が弥生後期に起こらなかったと言い切れるのか?
302 :
日本@名無史さん:04/12/02 11:29:41
>>299 一つ一つの事実はともかく、その根底にある意図にはどうも胡散臭いものがあるけどね。
日本書紀が嘘八百というのは
本居宣長が言い出したことだろ。
以来明治、大正、昭和と古事記
マンセーが続いた。
>>285 平群氏は葛城氏の同族でそ。葛城氏が滅ぼされた後、その利権を継承したのが平群氏。
なにもいきなり一人で出てきたわけではない。しかし平群氏という枠に縛られてみると
一代で滅ぼされたという言い方は間違いではない。
帰化人をたばねて外交・貿易を担当する氏族は、葛城氏→平群氏→蘇我氏と交替してきた。
305 :
日本@名無史さん:04/12/04 20:12:20
>>304 その割には遣隋使に関しては蘇我氏の名前がでませんね。
どうしてだとお考えですか?
平群氏には外交・貿易関連どころか、
具体的に政治と関わった伝承さえないよ。
天武に命じられた上古諸事の編集の際に、
平郡臣子首が「親ら筆を執りて以て録」してるのだから、
そういった類の氏族伝承を脱落するはずないのだが。
所詮、真鳥大臣なんて名前だけさw
>>304 平群氏は葛城氏の同族でそ
つまり、真鳥が武内宿禰の孫だと信じてるわけね。わかったよ。
308 :
日本@名無史さん:04/12/04 23:22:45
大和朝廷の時代は世界史的に見れば超古代文明と言ってもいいローマ帝国が分裂し、
暗黒の中世に入った時代だった。ローマ帝国は詳細までもっと昔から分かっているのに
この程度の昔のことがこんなに謎になっている理由は宮内庁が古墳の発掘を認めないためです。
309 :
日本@名無史さん:04/12/05 01:24:33
>>306 平郡臣子首が祖先を立派に見せるために捏造したということですか?
そうだとしたらよく周囲は咎めませんでしたね?
>>307 わしは
>>304氏ではないが、「同族と類推する」のと、「伝説上の人物
を信じる」のは同じようで同じでないと思うぞ。
「武内宿禰はいなかったが、平群氏は葛城氏から暖簾分けした」という
方向性だってありうる。その場合、系譜は都合よく書き直されたもの、
とも読めるはずだが。
310 :
日本@名無史さん:04/12/05 01:34:29
そこで蘇我氏なんですよ。これが鍵を握っているに違いない。
>>309の矛盾
>祖先を立派に見せるために捏造したということ(はない)
>系譜は都合よく書き直されたもの、とも読めるはず
「立派に見せる」と「都合よく」の意味は異なるが、
立派に見せることで結果的には一族に都合がよいことになるのだから、
方向性は同じ。系譜の捏造など、古代にはよくあったことでそ。
313 :
日本@名無史さん:04/12/06 00:44:44
>>312 矛盾は当然じゃん。別々の人に当てて書いているのだから。
>
>>309は「あなたがそう主張しているが、こういう解釈はないのか?」
とそれぞれの人に質問しているだけ。
314 :
日本@名無史さん:04/12/06 02:36:16
別々の人に宛てて書いてるけど、結局は平群氏に言及している。
矛盾云々は、
>>309がどういった立場で質問しているのかによる。
315 :
日本@名無史さん:04/12/07 00:53:44
なんだか、記紀を読み解くかのような書き込みだね。
まあ、ここは蘇我スレだし、元に戻そうか。
316 :
日本@名無史さん:04/12/08 23:34:16
渡部篤郎age
317 :
日本@名無史さん:04/12/09 07:29:56
蘇我稲目の欽明政権への取り入り方について
娘二人にスゲエ閨技を仕込んでいたらしいぜ。
>>305 遣隋使は当然蘇我氏の了解のもとで行われたでそ。当時の最高権力者なんだから。
>>307 漏れが信じていようがいまいが、当時の人は信じてたろうな。
武内宿祢系譜を無視したら、葛城氏と平群氏の同族説の根拠なんて無くなっちゃうものね。
322 :
日本@名無史さん:04/12/14 21:34:47
>>319 蘇我氏は大使とか目立つ役職やってないですよね、遣隋使の。
うまくいったら大功績なのに。
消極的賛成(実際は反対でサボタージュ)してたとかなら判るんですが。
蘇我氏配下の渡来人系の氏族は遣隋使関連の仕事してたのかな。
むしろ外交はワニ氏のほうが活躍してないか?
それは和珥系の氏族という解釈でヨロ?
■ 「その時歴史が動いた」の要約 ■
┃ミステリー大化改新〜蘇我入鹿暗殺の実像〜(2004/12/08NHK放送分)
大化改新の発端は、中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺。天皇家に代
わろうという野望を阻止するために入鹿を討ったと、日本書紀に中大兄皇子の
言葉として伝えているが、これには矛盾があるという研究が出される。日本書
紀は、入鹿の野望の証拠として、643年11月に斑鳩の山背大兄王とその一
族を滅ぼしたことであるとしている。山背大兄王は聖徳太子の息子で、次期天
皇の第一候補だった。しかし、この事件には全く異なる意図が隠されている可
能性が出てきた。蘇我氏は、天皇や皇子に娘を嫁がせ、天皇家と姻戚関係を結
んで、権力を強めてきた。山背大兄王は入鹿のいとこで、父の聖徳太子も蘇我
氏の系統。つまり、蘇我氏にとっては何の利益にもならなかった。
なぜ、入鹿は山背大兄王を討ったのか。誰かが入鹿に命じた可能性がある。
山背大兄王は次期天皇の有力候補だったため、疑われるのが後継争いで遅れを
とっていた皇極天皇の弟軽皇子、入鹿のいとこ古人皇子、皇極天皇の実子中大
兄皇子。当時、直系よりも経験や年齢が重視されたため、18歳で政治経験の
乏しい中大兄皇子は後継者とは成り得ず、中大兄皇子は討つ理由はない。後の
2人はどうか。軽皇子は47歳、古人皇子は30代と推定され、山背大兄王が
亡き者となれば、次期天皇になる可能性があった。2人には動機はある。
そして、別の観点から山背大兄王を邪魔に思っていたのが皇極天皇である。
天皇は即位すると都を飛鳥に定め、飛鳥京建設に心血を注ぐ。天皇は唐の長安
にならった都建設で、中央集権を進めようとしたが、これに山背大兄王が立ち
はだかった。父の聖徳太子の一族は上宮王家と呼ばれ、山背大兄王が天皇とな
れば、系統が代わるとともに都が斑鳩に移り、皇極天皇の飛鳥京建設の夢は絶
たれる。
果たして誰が入鹿に暗殺を命じたのか。日本書紀には、入鹿が独りで企てた
と記されているが、別の個所にある「独り」の語の使い方から、皇極天皇が命
じたことになり、入鹿の暗殺理由は根底から崩れ、中大兄皇子の入鹿暗殺の真
の理由も崩れる。改新の見方が変わる可能性が出てきた。
皇極天皇は入鹿を罰さなかったばかりか、入鹿のいとこ古人皇子を後継者と
した。山背大兄王襲撃への皇極天皇の関与を裏付ける決定で、皇極天皇と入鹿
は強い絆で結ばれるようになる。この時点で、皇極天皇と次期天皇の座に就い
た古人皇子に入鹿暗殺の動機はなくなる。一方、軽皇子は後継争いから完全に
離脱した。日本書紀には、軽皇子が入鹿暗殺に加わったという記述はない。
山背大兄王が死んだ1ヶ月後、軽皇子のもとを中臣鎌足が訪れる。軽皇子は
殊の外喜び、自分の妃に手厚くもてなすよう命じる。その時、鎌足は軽皇子に
意味深長な言葉を投げかけた。鎌足の出身中臣氏は、代々天皇家の祭祀を司る
神官を務めてきた名門だが、仏教保護を押し出す蘇我氏が天皇家との関係を深
めると、高い地位は与えられなくなる。鎌足は打倒入鹿を目指し、後ろ盾とし
て軽皇子に近づいたといえる。その後、鎌足は軽皇子の甥中大兄皇子にも近づ
く。さらに、蘇我氏の分家で入鹿に継ぐ実力者の倉山田石川麻呂に近づき、中
大兄皇子と石川麻呂の娘の結婚を条件に味方につけた。また、入鹿暗殺の実行
者として、佐伯連子麻呂、葛城地位ぬか井村寺網田と接触。
鎌足が、軽皇子との会見後に接触した中大兄皇子以外の人物には意外な接点
がある。中臣氏は和泉地方に多くの支配地を持っていた。石川麻呂は河内、和
泉に勢力があり、暗殺の実行者2人も河内・和泉の出身。その地方の中心に和
泉に宮殿をもつ軽皇子がいた。入鹿と皇極天皇が手を結んでいたとすれば、軽
皇子と鎌足の入鹿暗殺計画は、天皇への反逆とされかねない。軽皇子は、これ
が失敗すれば、反逆者として命を奪われる可能性もあった。
皇極天皇は、飛鳥京建設を本格化させていた。当時、天皇家には部民(職人
集団)がいたが、これだけでは足らない。日本書紀には、天皇が民を動員しよ
うとしたと記されているが、思うように人は集まらなかった。この時、入鹿は
飛鳥の都を見下ろす丘に自らの邸宅を建設。日本書紀にも入鹿が都建設に協力
したという記述はない。入鹿の振るまいが天皇との協力関係にヒビを入れ、暗
殺を狙う軽皇子に有利に働いたと考えられる。入鹿に次期天皇の座を奪われた
軽皇子、都づくりを進めたい皇極天皇の思惑が一致した時、入鹿暗殺が可能に
なったと推測される。
645年6月12日、朝鮮半島の国々からの贈り物を天皇に捧げる儀式が行
なわれることになっていた。主な出席者は、皇極天皇、入鹿、古人皇子、天皇
への貢ぎ物を扱う役職にあった石川麻呂。そして、鎌足と中大兄皇子は儀式が
行なわれる建物の側に控え、暗殺の実行者子麻呂、網田が控える。出席者は、
入鹿と古人皇子以外、軽皇子と地縁・血縁で結ばれていた。そして、儀式が始
まる。石川麻呂が朝鮮からの贈り物を読む。計画ではここで刺客が飛び出し、
入鹿を暗殺するはずだったが、おじけづいて出ることが出来ない。読み上げは
終わりに近づき、石川麻呂が震え出す。その理由を入鹿が尋ね、石川麻呂が懸
命に答えた。その時、中大兄皇子が物陰から飛び出し、入鹿に襲いかかった。
この有様を見た古人皇子は、一目散に逃げ帰り、門を閉ざして閉じこもったと
伝えている。皇極天皇は、事件に関わった人物を罰しようとしなかった。
入鹿暗殺の2日後、皇極天皇は退位。軽皇子に皇位を譲り、孝徳天皇となっ
た。中大兄皇子は後継者となる。元号を大化とし、律令体制の礎となった改新
の詔を発布。この詔こそ、飛鳥京建設を進める皇極天皇が待ち望んだもの。
孝徳天皇が亡くなると、皇極天皇が斉明天皇として再び即位。そして、飛鳥
京建設を本格的に進める。近年の発掘調査の結果、斉明天皇は宮殿の東に宗教
儀礼の場を造営していたことが明らかになる。酒船石遺跡の中央には、亀をか
たどった石に水をためる大礼の装置が設置されていた。斉明天皇はこの場に亀
を置くことで、天皇家と飛鳥京の永遠の繁栄を願った。天皇とともに都建設に
携わったのが中大兄皇子。水落遺跡からは中大兄皇子が造営したという巨大な
水時計の跡が発掘される。斉明天皇と中大兄皇子は土地、民、時も支配するこ
とで中央集権国家を確かにする道を開いた。
この頃、斉明天皇と中大兄皇子は、しばしば九州や東北へ遠征を行なう。征
服した人々を招く施設と考えられる遺跡からは須弥山石と呼ばれる石像が見つ
かった。ここに仏教の中心須弥山を置くことで、都こそ国の中心であることを
示した。しかし、661年7月24日、天皇は戦いに赴いた九州で亡くなる。
中大兄皇子が即位するのはその7年後のこと。
329 :
日本@名無史さん:04/12/16 07:46:07
遠山厨
葛城稚犬養連
332 :
日本@名無史さん:04/12/18 03:47:50
あの番組ではメンバーが全員、中大兄と関係ない人物といってたけど
葛城網田って、中大兄の乳母氏族じゃないのか?
姓だけ見ているとその可能性はあるね。
334 :
日本@名無史さん:04/12/18 09:54:59
>>304 >外交・貿易を担当する氏族は、葛城氏→平群氏→蘇我氏と交替...
基本的に誤りがある。外交という政治上の最重要事項は、時の最高権臣の
決定事項であり、その下で実務は渡来人系等の下級氏族が担っていた。
その最高権臣は、雄略の権力奪取以降大雑把には、葛城氏→大伴氏→蘇我氏と
推移したと思われ。
>>306の通り。平群氏は実在したが、記紀の書く真鳥、鮪の
実在の傍証なし。
335 :
日本@名無史さん:04/12/18 10:27:33
>>286 >没落が決定的になったのは壬申の乱で赤兄が失脚してから後だろう...
いや、奈良期でも廟堂には列してる。決定的なのは藤原仲麻呂の配下に入り、
仲麻呂打倒勢力が、光仁、桓武を擁立して権力を固めた時点だよ。要は、奈良朝
末期の政変連発の動乱期に、有能な男子を輩出できず、光仁系に縁戚となれる
女子も配してなかったのが致命傷となった。
まあ、この点は同じ古来の名族の石上氏も同様なんだが。新興の藤原氏との氏族と
しての政権への貪欲さというかエネルギー差だろう。
石上氏は藤原式家と結んで浮揚をはかったけど
それが裏目に出て平安前期には没落したんだよね。
337 :
日本@名無史さん:04/12/18 12:15:58
>>332 葛城皇子の乳母は葛城<臣>ではなく、葛城<連>ということですか。
十分ありうる罠。
>>334 蒸し返しで悪いですが、平群臣には実は有名人がいなかったとして、
なぜに記紀にあそこまで描いてもらえるの?他にも家来は沢山・・・。
平群臣一族側の自称なら分かるが、編纂時の政権の政治的意図が
なければ記紀に「大暴れした」だの「系譜が名門」だのと野良ない
のでねえか?
>>334さん達の観点から行けば、真鳥・鮪親子の記述って、全くその
まま蝦夷・入鹿親子の記述のコピーなわけで、その辺にも
その辺にも?
339 :
日本@名無史さん:04/12/18 19:11:18
>>337 葛城(臣)と葛城(連)が同時期にいたのなら
葛城網田を呼ぶとき臣か連を付けて呼びそうですが。
340 :
日本@名無史さん:04/12/18 19:18:47
軽皇子って入鹿が死亡したころ、有力皇族だったのですか?
大兄ともよばれてないし、リリーフで立った女帝の弟ってだけでしょ。
後継者としては、古人大兄や中大兄がいるし。
蘇我氏をやっちゃえば姉を外して自分が皇位につけるという自信なり根拠は
どこにあったんでしょう。
>平群氏
これは
>>337に賛成。記紀の記述をすぐ捏造視する発想はどうにかならんものかな。
>軽皇子
>>340 漏れも軽皇子が有力だったとは思えない。担がれただけかと。
343 :
日本@名無史さん:04/12/25 03:08:34
>>335 何度も言うように藤原氏は決して新興ではない。物部に次ぐ神官の家柄
豪族としては蘇我、物部、大伴に次ぐ家柄
だからこそ光明擁立なんて離れ技もできた。藤原4兄弟が一気に病死していなければ
蘇我氏同様帝位簒奪も狙ったかもしれん。この事件が藤原氏のトラウマとなって
天皇家の血に絡みつくだけで満足する妥協の道を歩ませたと思われ
仲麻呂がそんなトラウマを気にするタマかよw
>>327 >この有様を見た古人皇子は、一目散に逃げ帰り、門を閉ざして閉じこもった..
古人大兄が語ったという「韓人が鞍作を殺した」を、文字通りに読めば中大兄は
欽明の曾孫ではなく、渡来人の一世かその子孫になるのだが。
346 :
日本@名無史さん:04/12/31 22:46:42
>>345 確かに気にはなっているが・・・
今風に言えば「外国人が蘇我入鹿を殺した」と言っているわけで。
ただ、事件は外国の使節が貢ぎ物を持ってくるセレモニーの中で
起きたので、違った見方もできるのだが。
347 :
日本@名無史さん:04/12/31 22:52:57
当時の出席メンバーに、葛城皇子は含まれていなかった。
また、中臣氏も崇仏論争時に勢力が衰えており、やはり
蚊帳の外だった。
もちろん子麻呂や網田が警備工作をしているとはいえ、
外国使節団に似せた格好でなければ、殿中に紛れ込め
なかったのではないか。
>>347 外国使節団が殺したと受取ったなら、門を閉ざして閉じこもる反応は取らないだろう。
自派の者へ、犯人の外国使節団の捕縛や殺害を命じるはずではないか。宮廷内クーデタと
理解し、己への危害も懸念されたわけで、入鹿殺害の首謀者を非入鹿派の勢力と理解した。
蘇我氏近縁で次の皇位有力候補の古人大兄が、自派の対抗政治勢力に無智だったわけはない。
身分は離れていても廷内に入りうる殺害実行犯には面識があったろうし誰の息のかかった
者かも普段の行動から察しがついた上での篭居と発言だろう。
>>348 それはもっともだが、実行犯は外国人で黒幕は「やつら」と解釈したのでは
という解釈だった。
確かに、あなたの解釈の方が辻褄が合っている。
350 :
日本@名無史さん:04/12/31 23:44:45
しつも〜ん
中大兄皇子は百済王家からの養子?
鎌足は田辺史氏からの養子?
まさか、それよりもずっと昔にあった物部氏内部のクーデター
も海外系の養子が本家を乗っ取ったもの?
蘇我氏の稲目以前の系譜は本当は有力大王だった?
じゃあ、大伴金村は一体何者?途中ですりかえられてはいない
よね?
王から群臣に至るまでそっくりそのまま半島系に
T2ファージされたとでもいうのか?
それはなかろう(w
353 :
日本@名無史さん:05/01/01 00:56:41
>>352 伝えるところによれば、陰に潜んで襲うタイミングを見計らっていた。
つまり、本来の出席者には含まれていない。
354 :
日本@名無史さん:05/01/02 09:24:28
つまり、出席者は蘇我一門とそれに都合よいと判断された大王家の人達が中心。
それだけ蘇我氏が権勢を誇っていたという証。
355 :
日本@名無史さん:05/01/02 09:52:37
外国からの使者を迎えるのに都合が悪い人とは?
幼少とか、位が低いとかならわかるのですが。
つまり通常の政治のルールに則って参加できない。
例えば反蘇我勢力の実力者とかを
出席禁止にしたりするものなのだろうか。
通訳とか特殊技能の持ち主を除いたら
政権の上位からある程度の範囲にいる人は
普通は全員参加を求めるんじゃない?
逆にいえば軽皇子や中大兄、大海人、鎌足は政権内での
地位が低く、政治に関与できる立場ではなかったのでは。
356 :
日本@名無史さん:05/01/02 09:55:43
江戸期の地下官人に子孫残っていないの? 牛車引きとかにも名族いるよね。
357 :
日本@名無史さん:05/01/02 10:49:32
>>356 どこかのスレに、実は皇族の血の中にわずかばかり蘇我の血が
残っていると、書いてありましたね。
358 :
日本@名無史さん:05/01/02 10:59:10
>>355 それが政治というものですな。よって、それがスタンダードかと。
しかし、厩戸系断絶後のあの状況下で、実際、呼べるのだろうか?
常々、反蘇我勢力に命を狙われているという意識は強かったと思
われるのだから。だからこそ、セレモニーの中でないと実行でき
なかったわけだし、蘇我が拠点を丘の上に移転したのも、乱に備
えて有利に運ぶため。
>>358 >それが政治というものですな。よって、それがスタンダードかと。
>しかし、厩戸系断絶後のあの状況下で、実際、呼べるのだろうか?
って外れてないか。、政策決定会議でなく外国使節の奏上儀式なんだから、
参加者を自派に限る必要性はないだろ。反対派の武力行使が懸念されるなら
相応の警護武力を配備しておけば済む。宮廷でしかも儀式の場での暗殺行為を
単に入鹿側が予測してなかっただけだろ。
362 :
日本@名無史さん:05/01/02 19:06:07
ところで、聖徳太子の子孫って全く残ってないん?
>>361 時代的にほぼあってるよ。武烈朝は八年しかないし稲目がでてくるのは継体朝なんだから。
>>364 厩戸皇子(聖徳太子)の子供は蘇我入鹿に攻められたときに全員死んだとされていたのでは。
厩戸皇子の弟・麻呂子皇子の子孫と称している一族がいたようないなかったような。
聖徳太子の兄弟の子孫
当麻皇子(麻呂子皇子) → 当麻真人 →高田氏(大和)・都留氏・功力氏(甲斐)など
来目皇子 → 山村王・登美真人 → 山中氏?
殖栗皇子 → 蜷淵(ミナブチ)真人
聖徳太子の子孫を称する氏族に、猿丸氏が知られる。
太子の孫・弓削王が独り死せずして、難波芦屋に逃れ、
猿丸大夫を号したと云う。猿丸氏はその末裔と。
(姓氏家系大辞典の猿丸条を参照)
聖徳太子の子孫はいない。山背大兄が自害した時に全員お供させられたから。
聖徳太子の兄弟の子孫はいるが、それは「聖徳太子の子孫」とはいえないだろ。
三一書房って左翼系出版社で悪名高いとこだね。
372 :
日本@名無史さん:05/01/05 23:52:38
蘇我氏が衰退し、歴史の流れに消えていったのはたぶん必然だろう。
あれほど内部抗争が激しくては権力を維持し続けるのは無理だ。
しかし、入鹿が暗殺を巧妙にくぐりぬけるか、蝦夷があっさりあきらめなければ
蘇我王朝が誕生した可能性はあると思われ。その場合、日本史は全く違うもの、
つまり王朝が交代するのが当然の国になっていただろう
373 :
日本@名無史さん:05/01/15 04:55:05
入鹿と鎌足は親友だったのかい?
あれを鎌足だと思って見てはいけません。
名も無い入鹿の友人だったのです。
375 :
日本@名無史さん:05/01/20 22:24:52
みるからに電波本で感じw
>>372 >蝦夷があっさりあきらめなければ...
蝦夷が一戦も交えず、あっさり自殺したのは不可解だね。中大兄と鎌足だけなら、
蘇我氏の武力の敵ではないのに。入鹿暗殺に影の首謀者がいたってことか。
後継政権の大臣の一方の阿部氏って、変以前ではどのくらいの勢力だったんだろ。
378 :
日本@名無史さん:05/01/23 16:45:35
>>376 本編は電波(蘇我善徳=聖徳太子で、645年に太極殿で殺されたのは善徳。入鹿はその事実を隠すために作った架空の人物)
但し、補編の「仁賢復位、残虐行為説(武烈は即位直後に平群真鳥に暗殺された)」説の方が説得力はあった。
379 :
日本@名無史さん:05/01/24 01:45:20
蘇我入鹿が首尾よく大王になってさえいれば今頃は民主共和制国家になっていた
天皇家が200年足らずのこの時期に潰せてさえいれば
やっぱ単なる偶然だな、2000年の名家
必死な人がいますがスルーの方向で。
381 :
日本@名無史さん:05/01/25 06:41:29
↑
反論できなくってあせってるのか?
382 :
日本@名無史さん:05/01/26 23:16:13
↑
いえいえ。蘇我の話とは全く違う方向にスレが連れて行かれそうな気配を感じました。
383 :
日本@名無史さん:05/01/26 23:18:53
>>379 そしたら蘇我王朝になってるだけ。
それと、君主制と共和制がアンチ概念という教科書的解釈
をそのまま信じちゃってるよ・・この馬鹿w
384 :
日本@名無史さん:05/01/26 23:19:45
蘇我氏は渡来人なんだろ。
386 :
日本@名無史さん:05/01/27 03:12:16
>>383 蘇我王朝になってたら王朝が交代するのが当然になるだろ
全然日本史が違った展開になるじゃん。
立憲君主制は立憲君主制。民主共和制は民主共和制。似た政体であれど違うもの
言いたいのはそれだけだ
387 :
日本@名無史さん:05/01/27 20:19:23
蘇我氏の段階だったら、蘇我氏が万世一系になってたと思うがな
藤原氏ならいざ知らず
388 :
日本@名無史さん:05/01/28 03:25:56
いや、蘇我氏の頃からなら日本史の記述だけでは誤魔化しきれなくなる
唐の歴史書に王朝交代がはっきり明記されただろう
なんかおかしいよ・・・
うまくいえないけど
390 :
日本@名無史さん:05/01/30 12:41:30
♪い〜る〜か〜が〜い〜る〜ぞ〜♪
♪た〜く〜さ〜ん〜い〜る〜ぞ〜♪
♪そ・そ・そ・そ♪
♪そそそそそそそそ蘇我入鹿♪
>>388 その蘇我時代の中国の史書にアメノタラシホコだかタラシヒコだか
今一つ素性のはっきりしない日処出天子がいるわけだが。
392 :
日本@名無史さん:05/02/05 00:55:46
曽我ひとみ マンセー
393 :
日本@名無史さん:05/02/13 01:10:44
>>357 藤原北家の祖房前の母が蘇我臣連子の女娼子。
394 :
日本@名無史さん:05/02/13 11:38:27
>>393 ということで、蘇我の血自体はその後も歴史の大舞台の中でひっそりと・・・。
一番最近のケースは細川護煕元首相か。
396 :
日本@名無史さん:05/02/27 23:44:30
本当?
397 :
日本@名無史さん:05/03/02 13:37:15
http://www.asahi.com/culture/update/0301/021.html 大阪府教委は1日、同府河南町平石の「ツカマリ古墳」(飛鳥時代)が、これまで考えられていた直径10メートル
程度の円墳ではなく、天皇陵に匹敵する大型の方墳だったことがわかった、と発表した。1979年の調査で石室内部
からガラス製扁平(へんぺい)管玉や竜文を金象嵌(ぞうがん)した鉄刀などが出土しており、蘇我氏や大伴氏ら有力
豪族が埋葬されていた可能性が高いという。
同古墳の約2キロ北側には、用明天皇陵や推古天皇陵、孝徳天皇陵、聖徳太子墓などの古墳が7世紀初頭から中頃に
かけて集中的に築かれ、「王陵の谷」と呼ばれている。天皇陵近くに大規模な古墳を築けるのは、当時の政権を直接支
えた有力豪族に限られるという。
ツカマリ古墳の土台にあたる壇は、東西約80メートル、南北約35メートル。石室を包む墳丘は3段築成の方墳
で、最下段は東西43メートル、高さは約11メートルだった。
壇上面の東側には、約13メートル四方に石が敷き詰められた跡も見つかった。各辺に縁取りの石が並べられてお
り、葬送の儀式に使われた施設だったのではないかとみられている。
また、石室の入り口部分には「羨道(せんどう)」と呼ばれる長さ約5メートルの通路があることもわかった。7世
紀中頃以後の終末期古墳にはみられない構造で、7世紀前半に築かれた可能性があるという。
ツカマリ古墳の西側には7世紀前半のアカハゲ古墳、さらにその西側には6世紀後半のシシヨツカ古墳がある。3基
ともほぼ同規模の方墳で、谷口から谷奥にかけて築かれていたことから、府教委は「同じ氏族の古墳の可能性が極めて
高い」としている。
現地説明会は5日午前11時から。
398 :
日本@名無史さん:05/03/09 22:25:19
>>397さん、どうも。
近つ飛鳥・・・蘇我氏造成の古墳かな?
399 :
日本@名無史さん:05/03/09 22:38:46
ツカマリ古墳=塚盛り古墳?
なるほど、大きいんだろうな。
赤剥げ古墳?
赤い土が剥けてるんだろうな。
シシヨツカ古墳=宍四塚古墳?
動物の埴輪か絵画が4ヶ所にあるのかな?
400 :
日本@名無史さん:05/03/10 00:27:33
401 :
日本@名無史さん:05/03/15 03:27:35
大化の改心で殺されたのは山背大兄皇子で
蘇我入鹿は架空の人物
というのは面白い話ですね
403 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 00:53:07
電波はどっか逝けよ
蘇我入鹿って自殺?
405 :
日本@名無史さん:2005/04/29(金) 15:38:54
他殺
406 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 00:55:20
おもろない
407 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 14:09:12
自害したのはエミシのほう
蘇我氏が天皇だったって話をたまに聞くけど、実際どの程度根拠のある推測
なんでしょうか。あの時代、大化の改新−壬申の乱あたりまで、なんか怪しいというか
舎人王子の編纂の際に天武王朝に都合のいいように実際の歴史を変えて書かれて
いる気もしますけど。
409 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 09:02:35
藤原みたいに外戚だったんじゃねーの
410 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 01:53:51
そりゃそうやろ
411 :
日本@名無しさん:2005/06/13(月) 02:56:43
蘇我氏=ゾロアスター教説の本まだうってるよ。
読んだ事もない。
マツダか何かの陰謀?
関裕二のいつもの電波。
関裕二って、どんどん主張を変えていっているよね。
かつては、「蘇我入鹿=聖徳太子」説を唱えてたし。
414 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 19:29:12
当時の天皇家には蘇我家の血が流れている
415 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 15:45:26
あたり前田
416 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 11:35:41
天皇家の血には藤原がたくさん入ってる
天皇の始祖は朝鮮渡来人ニダ
などという戯言は誤差の範囲だから聞く必要も無い
Yさん、お元気ですか?私は元気です。’90〜93位はお世話になりました。
カラヤン、フルトヴェングラー等のお話、また聞きたいです。
モルダウは今も胸に残っています。
あの頃は迷惑おかけしたけど、Oさんとまた三人で飲み明かしたいです・・・
いろんな話また聞きたいです。
418 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 00:22:35
はあ?
419 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 14:49:10
199 名前:日本@名無史さん 投稿日:2005/03/09(水) 01:23
神道が古代宗教とすると、新しい宗教はもちろん大陸からもたらされた仏教で
蘇我氏など渡来系貴族は仏教を中心に結束していた。
物部・中臣などは神道をまつり、仏教をはげしく排斥した。
蘇我氏は渡来人として血縁はもちろん、大陸の言葉もつかえたであろうから
海外との交易・交流で財をなし、朝廷での発言力も財務担当の大臣として
じょじょに強まっていった。
だが物部は朝廷の軍事を司るというから、これは容易な敵ではない。
じじつ、さいしょは蘇我は物部より小さく、婚姻関係をむすぶことで機嫌を
うかがってきた。
蘇我氏は馬子の時代に物部氏を滅ぼしたが、数万の軍勢の戦いであったというから
古代の大戦争であった。
物部氏は本国を攻め取られ、男は殺され女は犯しつくされたという。
このとき、おそらく何十万が女奴隷となり朝鮮人の子を産まされたはずだ。
だから、天皇家がまちがいなく弥生系で、関西人の祖先も弥生系だとしても、
物部の敗北で犯しつくされ、全員朝鮮人に生まれ変わったというのが真実。
蘇我氏なんてしらね、全員滅亡しただろ?とDQNは思ってそうなので1つ。
奈良盆地南部には蘇我川が流れてます。そう曽我川です。
ようするに蘇我さんは、曽我さんになったのですね。そう、日本全国にいる曽我さんです。
四国に長曽我部なんて大名もいましたよね。そんな調子で子孫はいっぱいいます。
もし大化の改新がなければ「曽」は「蘇」でしょう。
蘇我川を支配してたから蘇我氏。つまり奈良盆地は蘇我の領地ですw
奈良といえば、幼女誘拐の小林薫さんですね。
ああいう顔の人がいっぱい住んでます。
420 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 12:13:49
千葉市に「蘇我」というメジャーな地名があるのですが関係ありますか?
421 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 13:44:41
蘇我稲目も朝鮮人?
うちの町に蘇我倉山田石川麻呂の墓があるよ。
でも京都のほうにもあるから、仏さんはいないだろうけど、
石川麻呂が幼い時暮らしたとかいう話もあって無関係ではないみたい。
423 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:10:27
>>419 犯し尽くされたって何か萌えるw勃った
蘇我氏は土着の氏だろ。んまぁ、稲目以前の家系は藤原家が勝手に作ったンだ炉
424 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:50:00
>四国に長曽我部なんて大名もいましたよね。そんな調子で子孫はいっぱいいます。
アフォか
425 :
:2005/08/11(木) 19:36:39
日本で一番有名な蘇我氏=曽我ひとみさん
426 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:00:19
菅 → 蘇我・曽我
428 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 16:15:52
429 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 07:19:35
>>368 疑問に思ってたのですが、何故30人近い(?)一族を道連れに自害したのですか?
殺されたのでなく自害でしたよね。
山背大兄王の兄弟の家族とか女性とかまで道連れにする必要は無いような気がするのですが…。
430 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 07:21:30
>>357 天智帝は蘇我稲目の曾曾曾孫らしいので少しは残っているかも。
431 :
:2005/08/28(日) 11:59:24
>>412 関裕二は電波なの?
彼の推論は記紀の矛盾点を追求することで成立してますが、
日本の成立時の不確かさは、ますます、推理の余地ありと思いますが。
関裕二は歴史作家
433 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 00:18:57
素人?
稲目の曾曾曾孫が蘇我宗家滅ぼしちゃったってのも皮肉な話だね…。
435 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 10:32:36
蘇我氏が渡来人だってのは、確定では無いんじゃない?
渡来人説があるってだけで。
歴史作家じゃなくて通俗本ライター。
>>435 渡来人説で確定してる訳ではない
ただ葛城氏の支族だったという通説も
万全という訳ではない
438 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 19:04:33
YES
世界史やってる人間が見れば、仏教を奉じている蘇我氏は異民族。
だから推古朝は一種の征服王朝では。大化改新は民族派の巻き返しか。
仏教なんてタテマエです
443 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 16:06:09
>>335 >決定的なのは藤原仲麻呂の配下に入り...致命傷となった...
藤原南家の手下は、連子系でも石足−年足の家系だけだろ。同族の石川麻呂や石川
牛養の家系の方はどうしたのかな。
>>443 少なくとも『続日本紀』にはでてこないように記憶してる>宮麻呂とか難波麻呂の子孫
445 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 20:03:01
>>443 石川麻呂や石川垣守は、同じ藤原南家でも桓武朝にも残った藤原乙麻呂流に夫人を
配してるな。それぞれ乙麻呂とその孫の雄友に。まあその乙麻呂流も吉子所生の
伊予親王事件で失脚してしまい、藤原北家冬嗣と結託して栄えた巨勢麻呂流南家
とは通交していなかったんだろうな。
446 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 20:21:30
>>143 >石川石足が右大弁になったのを最後に...
石足子孫の年足−名足までは公卿に進んでるようだが、その後の真守以降は
どうなったのかな。石川垣守は、早良親王廃太子事件の時、宮内卿だったようだが。
447 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 10:08:05
須賀 蘇我 菅 全部同じかも
448 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 20:29:52
菅は菅原、須賀は出雲の地祇。
『三代実録』元慶元年(八七七)十二月廿七日
右京の人、前長門守従五位下石川朝臣木村、散位正六位上箭口朝臣岑業、
石川・箭口を改めて、並に姓を宗岳朝臣と賜ふ。木村言はく、始祖大臣武内
宿祢の男宗我石川、河内国石川別業に生まる。故に石川を以て名とす。宗我
大家を賜ひ居とす、因りて姓を宗我宿祢と賜ふ。清御原天皇十三年、朝臣と
姓を賜ふ。先祖の名を以て、子孫の姓とするは、諱を避けざるの恐れ有り。
願はくは、旧姓を賜らんことを。詔して許す。
449 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 20:35:29
『日本紀略』天長七年(八三〇)十二月廿七日
正四位上武蔵守石川朝臣河主卒す。右大弁従三位石足の孫、中納言正三位兼宮内卿
右京大夫豊成の第十子なり。延暦十三年従五位下、廿五年正五位下、弘仁四年従四
位下、十四年正四位上。頗る内外を学び、兼ねて工巧を知る。年七十七。
450 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 11:44:19
>>448 >石川・箭口を改めて、並に姓を宗岳朝臣と賜ふ...
この2氏以外の同族諸氏は、何で仲間外れなんだ?田中氏、桜井氏、高向氏、川辺氏等は
どうしたんだ?
451 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 18:31:05
>>449 正四位か。平安期では石川氏所生の親王って聞かないんだが、後宮に娘を
送り込む策は取ってなかったのかな。女官にしておけば、権勢家系でなく
とも本人の容姿如何で、子を生して女御・更衣になれるだろうに。
同時代の紀氏などは、桓武・仁明・文徳に抜け目なく一族から女を配してる
ようだが。中でも文徳に愛玩された紀静子が有名だが。
452 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 19:05:38
>>446 河内が本貫の石川氏と言えば、河内源氏源頼信孫の義家五男義時流石川氏の
方が、後世では有名だな。
454 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 19:00:32
大化改新(645年)で中大兄皇子(後の天智天皇)らに暗殺された
飛鳥時代の大豪族、蘇我入鹿(いるか)の邸宅「谷(はざま)の宮門(みかど)」の
一部とみられる建物跡5棟の柱穴が奈良県明日香村川原、甘樫丘東麓
(あまかしのおかとうろく)遺跡で出土し、奈良文化財研究所が13日、発表した。
建物が谷を造成して建てられ、焼けた壁土なども見つかるなど、蘇我氏の滅亡
を描いた日本書紀の記述と一致した。古代の豪族支配を象徴する蘇我氏と、
国家の大改革を導いた大化改新の実態を物語る一級の資料となる。
現場は入鹿暗殺の舞台となった伝飛鳥板蓋(いたぶき)宮跡(飛鳥京跡)の
西約600メートル、蘇我氏が建てた日本最古の寺、飛鳥寺の南西約600メー
トルに位置する甘樫丘のふもとにあたる。
同研究所が約730平方メートルを調査、建物5棟分の柱穴が見つかった。
うち1棟は幅10・5メートル、奥行き3・6メートルの規模で、直径30〜20センチ
の柱穴が並び、柱筋に沿った溝(深さ30〜20センチ、幅80センチ)に7世紀前半
の土器、焼けた壁土や炭が埋まっていた。倉庫などとみられ、母屋にあたる
主要建物はさらに東側にあると予想される。建物跡が確認されたのは初めて。
同研究所は、周辺に母屋や、父の蝦夷(えみし)の邸宅「上の宮門」などが
あるとみており、来年度以降も調査を続ける。現地見学会は16日午前10時〜
午後3時。
(2005年11月13日17時12分 読売新聞)
455 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 20:02:21
>>454 日本書紀の蘇我氏の邸宅に関する記述は事実だったってこと?
だったら日本書紀すげーな。
456 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 23:39:58
甘樫丘王宮見つかったのにこの反応のなさったら・・・・。
>>456 速報headlineで検索かけても引っ掛からなくてびっくりした。
これで日本書紀の信頼性がより高まったってこと?
甘樫丘の蘇我邸の存在を疑ってた香具師なんているの?
459 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 09:32:03
そんで入鹿=イリカスミてのはどーなるんだっけ?
460 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 10:42:05
「入鹿」の名称は書紀編纂時に付けられた蔑称
本名は鞍作とか林太郎とかだろ?
「イリカスミ」は高句麗の淵蓋蘇文
編者の意図としてはイメージを被らせたかったわけだな
461 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 13:09:39
まあ天皇っていうのはリアリズムの人じゃないからね。
実際の政治、外交は蘇我氏がやってたんだろう。
元寇のときも天皇は敵国降伏っていってるだけだし、明治、昭和天皇も
みんな同胞みたいな歌よんでるだけだからね。誰かがリアリズムの世界で
国を動かさなければいけない。蘇我氏は調子に乗りすぎて消されちゃったんだな。
462 :
奈良人:2005/11/14(月) 20:24:53
伝飛鳥板蓋宮跡から甘樫丘を見ると
あそこに邸宅を置けば調子に乗りすぎと思われても当然。
万世一系の思想が染み渡った現代の思考で、古代の風評を判断するのは危険かと。
464 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 08:52:10
>>460 別に入鹿は蔑称でも何でもない。もちろん蝦夷も馬子も。
林太郎は幼名、鞍作は字。
>>464 そんなことを明記した文献は見たことないが、あんたの妄説ですか?(w
鞍作に関しては乳母の名からだと思うがどうだ?
天皇家を凌ぐ豪族が入鹿を殺されただけで滅亡というのもなぁ。
>>465 まさか、あんた蔑称だなんて思ってないよね。
多入鹿や小野蝦夷、物部馬子が蔑視される謂われはないわな。
乳母の名というのはその通り。額田部、葛城、宇合(馬飼)、
不比等(史)、首、大友、氷高、犬養などなど、みんなそうだな。
書紀の文脈から蓋蘇文と名前の被りの関係で悪名=蔑称と解釈してんだが?
幼名(諱?)や字でもないとしたら入鹿ってのは誰につけられた名なの?
そいつ入鹿より偉い?
こおゆう人は尿麻呂だとか、屎子なんて名前も蔑称だと思ってるんだろうね。
魚名、諸魚なんてのもそうかもねw
誰に教えられたか知らないが、可哀相に。哀れなこった。
天皇から賜った可能性もなくはないだろうが、むしろ自発的な改名と
考えるべきだろう。後世の元服に相当する時期なのか、それとももっと
成人してからなのか分からないが。鞍作ではいかにも格好悪いからな。
『日本書紀』安閑天皇二年五月甲寅条に尾張國の入鹿屯倉というのが見える。
何か関係あるのかも知れないが、むしろ当時の人名・地名としては
ありふれたものだったと考えたほうがいいだろう。
>幼名(諱?)や
入鹿が諱だよ。同時代人は幼名や通称、すなわち太郎や鞍作と呼ぶことの
ほうが多かっただろう。諱を呼べるのは自分と父親と、まあ天皇くらいか。
蓋蘇文云々は入鹿とは全然関係ない、
蓋蘇文を悪とするのは隋唐側の影響だ。
471 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 21:13:40
そんなこといまさら言われても
473 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 11:24:47
それって事実なのか?
474 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 01:49:36
蘇我倉氏はその名の示すように、朝廷財政に本宗家より深くかかわってたのではないか
石川麻呂、日向、連子、赤兄いずれも要職についている
>>474 それは蘇我宗家が滅亡した後の話しだろう
>>408 日本書紀の捏造が多いのはむしろ継体〜欽明朝の方ですが
欽明天皇の即位の年も、仏教が日本に伝来した年も
日本書紀の記述は捏造で、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の
記述の方が正しいとされています
次ぎに皇極朝の記述も上宮王家滅亡の一件に関して捏造がある事が
藤氏家伝や上宮聖徳太子伝補闕記の記述によって判明しています
>>476 ぜんぜんちがう。
仏教伝来についてはどっちもどっち。
欽明天皇即位年については在位四十一年の四十を意味する文字が
三十を意味する文字の誤写説もある。
藤氏家伝や補闕記は日本書紀と同程度の信頼性で
同事件の相互異伝にすぎない。
ちがいがあればなんでもかんでも日本書紀を誤り
とするのは70年代の悪弊で、今の学界の有力説ではない。
>>477 それこそぜんぜん違います
今や欽明天皇の即位は531年が正しくて
同じく531年に即位した安閑天皇やその後に即位した
安閑天皇とのニ朝並立説が有力です
仏教伝来も538年が正しくて、日本書紀の552年と言う記述は
ニ朝並立を隠すための捏造です
それこそぜんぜん違います
今や欽明天皇の即位は531年が正しくて
同じく531年に即位した安閑天皇やその後に即位した
宣化天皇とのニ朝並立説が有力です
仏教伝来も538年が正しくて、日本書紀の552年と言う記述は
ニ朝並立を隠すための捏造です
もちろん天武に関連するモノにも、捏造と思える記述はある
しかし日本書紀の中の、天智に関する記述でも
他の史料と照合すると捏造だと思える記述がある
国家権力が歴史の編纂事業を行っている訳だから
常に捏造の可能性を視野に入れなければならないと思われる
481 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 18:44:40
ふーむう
何のために捏造せねばならないのかさっぱり動機が不透明。
権威付けのため?
それだったら他家の文書をかたっぱしから焼いてしまわないと意味がないぞ。
日本書紀自体の矛盾にしてもさぁ、せっかく捏造するなら
そんなあらは出ないように作るだろ。
「真実」がバレたらやばいと思ってるならさ。
捏造説はつまらん中傷だ罠。
歴史を政治の道具にしてるのは古代の天皇家ではなくお前の方だろと。
>そんなあらは出ないように作るだろ。
>「真実」がバレたらやばいと思ってるならさ。
これは思い込みだろう。
日本書紀の記述が100%正しいと思うのは信仰だな
天皇の没年齢でさえ古事記と日本書紀では違いが見られるのに
日本書紀の記述が絶対に正しいと思える根拠が知りたい
>483
真実を誤魔化したいのが狙いだと思ってないなら
捏造しなければならない理由って何だと考えてるわけ?
>484
捏造がない=誤りがない
なのか?
あなたの頭の中では。
随分とおめでたい構造をしてますね。
欽明天皇即位年を539年(辰巳)にしたのは、明らかに日本書紀の捏造
本来の即位年は、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述通りに
531年(辛亥)
しかし日本書紀ではその年を安閑天皇の即位年と記述している
つまり日本書紀は、欽明朝と安閑・宣化朝のニ朝並立を隠蔽するために
欽明天皇の即位年を捏造した
その辻褄合わせの為に、日本書紀は仏教伝来の年も552年と
捏造する事になったが、仏教伝来は538年
継体天皇の子孫である、日本書紀の編纂総裁、舎人親王にとって
継体天皇の皇子同士が対立し、二朝並立状態になった事は
隠したかった史実だと思われ
その他にも日本書紀は、武烈天皇を残虐で性的サディスト行為を
様々と記述しているが、これも捏造の可能性が著しく高い
何故なら古事記では、武烈天皇に関して残虐で性的サディスト行為を
行ったと言う記述がない
つまり継体天皇の子孫である舎人親王にとって、断絶した武烈朝および
武烈天皇を残虐で変態天皇と記述する事で、継体天皇の即位および
継体朝を正統化する必要があったと思われるから、武烈天皇の行為に
関して捏造を行った可能性が高い
更に日本書紀の捏造疑惑
日本書紀では伊賀皇子の立太子の記述はないが
懐風藻では伊賀皇子は皇太子と記述されている
大海人皇子が皇太弟である事を辞し、吉野に隠遁した後で
伊賀皇子が天智朝の皇太子に立太子された可能性が高いのに
日本書紀の編纂総裁である舎人親王は、父である天武天皇(大海人皇子)の
壬申の乱での立場を正統化するために、伊賀皇子が皇太子になった事実を
隠蔽したと思われる
なお明治政府は、伊賀皇子がに立太子だけでなく、天皇に即位したと認定し
弘文という諡号を送っている
もしこの明治政府の決定が正しければ、日本書紀は重大な捏造を行った
事になる
それは実在した天皇(弘文天皇)を、日本書紀から抹殺し
大海人皇子の天皇弑逆の事実を隠蔽した事である
これでもまだ日本書紀の記述に捏造がないと主張するなら
それがテキストクリティークという歴史学の基本を無視した
信仰宣言と断言出来る
自然科学のように実験結果の追試によって、科学的真実を追究できない歴史学が
科学と呼ばれる為には、テキストクリティークが重要な要件なのである
単一史料の記述を鵜呑みにせず、同じ事象について記述されている
複数の史料を吟味して、事実=史実を追及する事が必要なのである
だから、捏造する必要があったなら他の資料を
全部焼いて処分しなけりゃ意味ないだろっつーの。
何かたくさん「例」を上げてるが
単なる誤記の可能性を排除できる根拠(証拠)がどこにもない。
自分の想像を証拠にするのはマルクス史観者の悪い癖だね。
>>491 はぁ、マルクス史観w
テキストクリティークを厳密に行うのは実証主義史観だよ
君は本当に史学科の学生なのかww
>だから、捏造する必要があったなら他の資料を
>全部焼いて処分しなけりゃ意味ないだろっつーの
それこそ君の妄想だよwww
あ、書き忘れ
古事記編纂を命じた天武天皇も継体天皇の子孫だぞ。
持統天皇もな。
継体新王朝説唱えてる時点でおかしいし。
釣りかなぁとは思うんだが、あまり愉快な遊びじゃないね。
日本書紀の記述を絶対視して、日本書紀より史料価値が高い
上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述を否定したり
相手をマルクス主義史観と決めつけたりするところから
まさか絶滅危惧種の皇国史観派か
皇国史観もマルクス主義史観も、テキストクリティークが雑な点は
一致している特徴
両派とも思想ばかり突出して、テキストクリティークを軽視している
それに対して実証主義史観派は、テキストクリティークを歴史学の
根本として重要視している
>492
資料から実証できるのはくい違いがあるという「事実」だけだが。
食い違いがあるということが、即ち捏造であるという証拠にはならない。
それは「事実」ではなく「推察」。
実証主義なら資料からわかる事実に対して
妄想を交えるのやめたらどぉよ?
マルクス史観者さん。
継体朝が応神朝に変る新王朝か?それとも記紀の記述通り
継体天皇は応神天皇5世の孫か?は史料が乏しいから断定できない
しかし継体天皇の皇子である、安閑・宣化天皇と欽明天皇が
並立状態だった事は、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述から
ほぼ確実
君は本当に馬鹿だな
厳密なテキストクリティークから史実を推定するのが
実証主義史観、初めに結論ありきが皇国史観やマルクス主義史観
その違いが分かったかい?皇国史観さん
>494
>日本書紀の記述を絶対視して、
いや、絶対視なんかしてないし。一級品の一次資料としてはみてるけど。
>上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述を否定したり否定してないし。これも一級品の一次資料としてみてる。
勝手に人のレスを捏造すんなよw
君の発想だと井上光貞や直木孝次郎もマルクス主義史観派になってしまう
君は史学科の学生ではないな
史学科の学生なら、資料ではなく史料と記述するからな
それと宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述を肯定するなら
安閑・宣化朝と欽明朝のニ朝並立を認める事になるがそれで良いのか?
根拠と自分の妄想の区別もできないのかねぇ。
先に結論ありきだから、事実を事実のままみることができなくなるんだよ。
>500
肯定も否定もしない。危険だから。
書いてあると認識するに留めることがそんなに難しいのか?
日本書紀を否定するのに必死みたいだが、何でなの?
理解不能。
実証主義史観も史観である以上、そこには価値判断がある
その価値判断の基準が、皇国史観の場合は天皇の絶対視であり
マルクス主義史観の場合はマルクスの絶対視である
そして実証主義史観の場合は、史料及び史料批判なのである
日本書紀より史料価値が高い史料の記述が、日本書紀の記述と
同一事象において異なるのなら、より高い史料の記述を採用するのが
実証主義史観に立脚した者が取る研究態度である
日本書紀
欽明天皇の即位年(539年)、仏教伝来年(552年)
上宮聖徳法王帝説&元興寺縁起
欽明天皇の即位年(531年)、仏教伝来年(538年)
そして日本書紀より、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の方が
古い時代(欽明朝により近い時代)に成立した書物であるから
より正確に欽明朝について知りうる立場の者が記述者あると言える
聖徳太子は居なかったとか
天智天皇と天武天皇は兄弟ではなかったとか
という史料に基づかない妄想電波を垂れ流す者が居るかと思えば
日本書紀の記述は全て事実だと信仰する皇国史観の亡霊も居るし
本当に日本史板には魑魅魍魎が跋扈しているなぁw
507 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 11:40:16
淡海三船だってご先祖様を贔屓したい罠。
韓人、鞍作の臣を殺しつ!
伊賀皇子は大海人皇子が皇太弟を辞して吉野に隠棲した後
天智天皇によって皇太子に立太子されたのは史実では
天智はもともと伊賀皇子の即位を目指していたし
それが不改常典の内容だと思われるし
(天皇の長子が皇位を継承すると言う直系継承の確立)
671年1月5日、伊賀皇子太政大臣に任じられる
671年10月17日、大海人皇子皇太弟を辞する
671年10月17日以降、伊賀皇子立太子か?
671年12月3日、天智天皇没
672年6月22日、大海人皇子挙兵決意(壬申の乱勃発)
と言うタイムスケジュールだったと思われ
それと伊賀皇子が即位したする「大日本史」は
江戸時代に編纂された歴史書なのでその史料価値は著しく低い
510 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:48:43
不改常典の例も懐風藻にしても大友皇子の子孫がその名誉回復に必死なのがイタイ
葛野王なんか大友皇子の子で天武の孫なんだから、天皇になってもおかしくない地位だろ
崇峻天皇は即位してない!古事記には妃も子も記されていない簡単な記述。書紀にも大妃(皇后)は記されず、おくり名も前後の天皇と比べ簡単。
書紀に記する妃は連姓の大伴氏。崩御後はもがりも営まれず。
>>510 懐風藻が淡海三船が編纂したものなら
懐風藻の高市皇子や長屋王に関する
記述は信用できない
淡海三船の祖先である伊賀皇子の直接の仇は
大海人皇子軍の司令官だった高市皇子だからね
その上伊賀皇子の妻である十市皇女は、壬申の乱後に
異母弟の高市皇子の恋人に・・・
伊賀皇子が高市が指揮する大海人軍に敗れた上に
妻も奪われたとあれば、伊賀の子孫である淡海の高市と
その親族に対する怨みは・・・
513 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:18:05
今夜のNHKで、舶来仏教導入問題での物部氏との対立抗争を通して、馬子を
英明な政治家として紹介していたが、氏族としての蘇我氏の由来には、何も
触れず、ありきたりの内容だったな。
589年の隣国隋の中国統一を意識していたと述べていたのは、遣隋使の企画
者は、厩戸でなく馬子だとの間接表現だったのかな。
NHK その時歴史が動いた 第242回 2006.01.18 21:15-22:00
古代の文明開化〜1号寺院・飛鳥寺建立の戦略〜
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html
514 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 08:32:27
モクラマンチですか?
禎二くんは言わなかったのかな?
515 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 21:47:43
物部守屋は今日の天皇の基礎を作った。
大和の豪族の中で最大勢力だったのだ。けど異様に影が薄いねえ。
516 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 01:10:16
517 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:07:38
中大兄皇子、中臣鎌足にアブラアゲをさらわれた!
518 :
日本@名無しさん:2006/02/11(土) 19:34:37
遠山美都男『蘇我氏四代』、ありゃなんじゃ?出来の悪い小説じゃよ。空想と仮定で書いたほとんどトンデモ本だぜ。
これで専門の学者なのかね??
519 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 14:08:47
蘇我入鹿が鞍作と呼ばれたのは、母方が鞍作一族の系譜だったという可能性があるって
ことにはなりませんかね?
「韓人、鞍作の臣を殺しつ」ってセリフは実は元々、「海外の血が混じっている入鹿を
ころしちゃったよ〜」という言葉だったのを改変したとか、そういう・・・
といって、なぜ「漢人」ではなく「韓人」なのか?といわれると、それも・・・。
肝心のところでごめんなさいw
520 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 01:10:50
鞍作氏が子養氏族だったという可能性もある
「韓人鞍作を殺しつ」は書紀編者にも謎だった不思議な言葉
古人大兄の台詞はいつも奇妙で暗示的
微言大義
二朝並立説なんて今の学界の主流じゃないだろ。
井上光貞は否定的だったけど
安閑宣化朝と欽明朝のニ朝並立説の方が有力学説
欽明天皇の即位年及び仏教伝来年に関しては
「日本書紀」より古い時代に成立した「上宮聖徳法王帝説」や
「元興寺縁起」の方が史料価値が高いから
その記述の方が日本書紀の記述より信用出来るからね
井上自身の上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の方が
日本書紀より史料価値が高い事は認識していたから
欽明は一度即位した後、安閑に皇位を譲位したという
独自の解釈をしたものの、その解釈には史料的な裏付けがない
525 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 02:26:52
継体・安閑・宣化の没年を日本書紀の記述どおりと考えるのがおかしい。
ご案内のとおり、日本書紀は欽明即位年からして狂ってるし、
継体の没年もはじめは534年に置いていた。古事記とも合ってない。
書紀から推量して二朝並立説ってのはちょっと安直だな。
蘇我氏が勃興したのだって、大和に出てきた安閑・宣化の宮が
蘇我の本拠地に置かれたのがきっかけだったかもしれんのに。
>>518 だからいつまでたっても非常勤なんですw
527 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:37:12
>>525 >大和に出てきた安閑・宣化の宮が蘇我の本拠地に置かれた...
大和生まれでない安閑・宣化の皇子名に大和の地名が含まれているのが
不思議なんだが、大和在地の豪族の庇護を受けて改名したってことかな。
継体登場を題材にした戯曲があって、その台本を見る機会が
あったんだが、その中で、まだ越前にいるオオド王が「おーぃ、
マガリノオオエ!」と王子を呼び付けていた場面には萎えた orz
井上光貞も水野祐も否定してるのに
あいかわらず有力説って言い張るのはどうか・・・・
水野は「上宮聖徳法王帝説」の研究では権威だろう。
仏教伝来年に関しては552年説(日本書紀)も538年説(上宮聖徳法王帝説帝説)も
ともに単なる吉祥干支にこじつけただけで、帝説が書紀より正しいということではない。
上宮聖徳法王帝説の欽明四十一年説については
原文の四十を意味する文字(「卅」の縦線が一本多い)が卅の誤字であって
日本書紀と矛盾はない、と水野佑はいってる。
「辛亥の変」については?
井上光貞や水野祐は著名な古代史学者だけど既に過去の人
欽明天皇の即位年と仏教伝来年は、日本書紀より古い時代に成立した
上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述の方が信頼出来る
だいたい日本書紀の編纂者自体が、継体天皇の没年に確信が
持てないと正直に告白してるくらい、継体朝から欽明朝に至る
日本書紀の記述は信頼性が低い
まあ継体天皇の没年に確信がないと、編纂者が告白しているのは
歴史編纂者としては誠実ではあるがな
聖徳太子の没年すら1年ずれてたしな。もうガッカリだ
一年くらいでがたがた言うなォ
編纂者乙
日本書紀の編纂者は、継体天皇の没年には継体28年(甲寅)と
継体25年(辛亥)の2説があると告白している
そしてこの編纂者は「百済本紀」にある辛亥の歳に、天皇(継体)太子(安閑?)
皇子(宣化?)が、そろって死んだという記述を採用して、継体の没年を
継体25年(辛亥)とした
その上で何れが正しいかは、後世の研究者が調べて判明するであろうと
記述している
つまり日本書紀を編纂が始まった時代には、既に継体天皇が何年に
死んだのか正確には分からない状態になっていた、したがって欽明天皇の
即位年や仏教伝来に関しても、日本書紀の記述をそのまま信用する事は
出来ない
継体天皇の没年でさえ正確に分からのに、欽明天皇の即位年や
仏教伝来に関して、日本書紀の記述が信用出来るという根拠は
最早どこにもない
したがって欽明天皇の即位年や仏教伝来年に関して、日本書紀よりも
古い時代に成立した、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述を
信用するのが、テキストクリティークの基本中の基本である
日本書紀を信用できないといいながら
その「日本書紀に書かれた年次を根拠にして」
あれこれいじってるのは矛盾だろ。
>>532 過去の人?
じゃ帝説について水野以上の権威を自称する学者を誰か一人でもあげてみろよw
日本書紀より古事記が正しいだろ。
権威かどうか分からんが昭和22年生まれの新川登亀男氏かな
早稲田出身だから水野祐の弟子筋にあたるが
新川氏は水野祐ではなく竹内理三を恩師と呼んでいるわな
それと上宮聖徳法王帝説の権威は、俺は水野より家永三郎だと
思っている
>>537 それ以前に継体の没年が日本書紀の編纂時期には
既に不確かになっていて
その為に「百済本紀」の記述を引用して、継体の没年を
25年(辛亥)にしてる点が大問題だろう
百済本紀は天皇ではなく、太子と皇子もそろって死んだと記述している
したがって百済本紀を引用すると言う事は、安閑と宣化の死亡も肯定した事になる
もし百済本紀の記述が正しければ、ニ朝並立でなく、安閑・宣化朝は存在せず
継体朝の後は欽明朝という事になるわな
家永三郎『上宮聖徳法王帝説の研究』(三省堂出版)を読まずに
上宮聖徳法王帝説は語れない
「上宮聖徳法王帝説」(岩波文庫)
狩谷 望之 證註
平子 尚 補校
花山 信勝,家永 三郎 校訳
聖徳太子の伝記として,「日本書紀」の記事とならぶ最古の文献.
欽明天皇から推古天皇にいたる聖徳太子を中心とした
5代の間の皇室の系譜,在位年数,没年,陵の所在と,
聖徳太子の生没年,墓の所在などの記録,さらに,
聖徳太子の伝記や蘇我馬子の事蹟などを内容とする貴重な史料.
やっぱり水野より家永だな
序に言っておくけど家永三郎は左翼だからなんて議論は意味ないぞ
水野祐は三王朝交代説を提唱して万世一系を否定した学者だからな
万世一系を肯定している学者、右翼、ネットウヨクにとって水野は左翼
崇神王朝、応神王朝、継体王朝の三王朝交代説を提唱した事が
水野祐の学問的功績の中で最高だな
水野は津田の研究を継承して、まず神武天皇および欠史八代の天皇を
架空という結論を出した(この水野説を俺も肯定している)
水野は騎馬民族征服王朝説を展開
水野によると、3世紀にツングース系騎馬民族が九州に侵入して
建国(狗奴国)、その末裔である応神天皇が大和朝廷の成務天皇を
滅ぼして新王朝を開いた(俺も水野説を肯定)
水野は継体天皇を新王朝の開祖であると主張
井上光貞や直木孝次郎も水野説を支持しており
新王朝説否定の根拠である「上宮記」(聖徳太子の伝記の一つ)は
書体は古いモノのの史料自体は新しいモノだとし
上宮記を根拠にした応神王朝と継体王朝との血縁説を否定している
(継体朝に関する日本書紀の混乱ぶりから見るに、俺も水野説を肯定)
序に言っておくけど家永三郎は左翼だからなんて議論は意味ないぞ
水野祐は三王朝交代説を提唱して万世一系を否定した学者だからな
万世一系を肯定している学者、右翼、ネットウヨクにとって水野は左翼
崇神王朝、応神王朝、継体王朝の三王朝交代説を提唱した事が
水野祐の学問的功績の中で最高だな
水野は津田の研究を継承して、まず神武天皇および欠史八代の天皇を
架空という結論を出した(この水野説を俺も肯定している)
水野は騎馬民族征服王朝説を展開
水野によると、3世紀にツングース系騎馬民族が九州に侵入して
建国(狗奴国)、その末裔である応神天皇が大和朝廷の成務天皇を
滅ぼして新王朝を開いた(俺も水野説を肯定)
水野は継体天皇を新王朝の開祖であると主張
井上光貞や直木孝次郎も水野説を支持しており
新王朝説否定の根拠である「上宮記」(聖徳太子の伝記の一つ)は
書体は古いモノのの史料自体は新しいモノだとし
上宮記を根拠にした応神王朝と継体王朝との血縁説を否定している
(継体朝に関する日本書紀の混乱ぶりから見るに、俺も水野説を肯定)
二重投稿、申し訳ない
日本書紀の編纂者が継体天皇の没年の根拠として
引用した「百済本記」の記述が正しいのなら(継体25年・辛亥)
天皇(継体)太子(広国押武金日)皇子(武小広国押盾)は
同時に死んでいるのでニ朝並立はなかった事になる
つまり継体没後皇位についたのは欽明天皇であり
日本書紀が記述している安閑天皇と宣化天皇とは
欽明擁立勢力による天皇、太子、皇子殺害を隠蔽する為に
作られた架空の天皇達であろう
549 :
日本@名無しさん:2006/03/20(月) 02:22:24
いまさら遠山説もな…。限りなくトンデモ本に近いというのが、少なくとも我が感想。一読して、とてもあの論証(らしきもの)を信じる気にはなれん。
「謎の豪族 蘇我氏」水谷千秋 文春新書
読んだ人何書いてたか教えて
自分で嫁
継体天皇は読んだ
555 :
日本@名無しさん:2006/03/21(火) 00:54:25
遠山の主張する「王権あっての蘇我氏」に対して、「蘇我氏あっての王権」を主張している。
「大化改新は蘇我氏のやろうとしたことを中大兄皇子らが横取りしたもの」という松本清張の主張を新たな視点から跡付けた。
なかなか説得的。
556 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 09:29:30
しかし長柄宮造営までは入鹿の構想にはなかったと?
557 :
日本@名無しさん:2006/03/21(火) 11:33:09
飛鳥は蘇我氏と倭漢氏が作った都市だから。
558 :
日本@名無しさん:2006/03/21(火) 18:23:23
相次ぐ飛鳥の遺跡発掘に、遠山美都男『蘇我氏四代』、水谷千秋『謎の豪族 蘇我氏』と、これから蘇我氏ブームが来るかもしれんな。
559 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 19:06:13
蘇我氏の祖(?)蘇我満智と百済の将軍木ラ満智は同一人物なんですか?
ちゃいます
561 :
日本@名無しさん:2006/03/22(水) 00:34:09
水谷『謎の豪族 蘇我氏』読んでみな。蘇我氏渡来人説の成立しないことがはっきり論証されてる。
そもそも通説では、蘇我氏は葛城氏から分かれた氏族と言うことだろう
葛城氏の傍系が高市郡蘇我の地を本拠地にして、葛城氏蘇我家と名乗り
やがて葛城氏から完全に独立して蘇我氏を名乗った
そして馬子は蘇我氏が葛城氏の本流だと言う事を示したくて
葛城氏の本拠地だと思われる葛城県(かつらぎあがた)を、
自分の領地にしたかったのでは
しかしこの願いは、推古天皇(馬子の姪)の拒絶で実現しなかった
しかも蘇我氏自体が強大になるに連れ、葛城氏蘇我家の時のように
蘇我氏境部家や蘇我氏倉家が現れて、蘇我宗家からの独立志向が
高まった
蘇我氏上宮王家と呼んでも良い、蘇我系皇族集団を含めた蘇我一族は
やがて各家が対立して次々と滅んでいった
蘇我境部家滅亡(蘇我宗家との対立)
蘇我上宮王家滅亡(蘇我宗家との対立)
蘇我宗家滅亡(倉家の嫡男石川麻呂は宗家滅亡に加担)
蘇我倉家滅亡(異母弟日向の讒言で石川麻呂父子自害)
こうして見ると、蘇我氏は内部闘争によって弱体化していったようだ
これが押坂彦人大兄皇子が、天皇どころか皇太子にも成れなかった事で
蘇我氏を怨む、敏達系皇統に連なる皇族達と、蘇我氏に取って代わろうとした
中臣氏(藤原氏)の陰謀だとしたら、その謀略は凄まじいモノだと思われる
563 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 23:18:31
蘇我氏こそが、大和系だ。天皇氏は朝鮮系。八幡神社ってなんだよ。
日本の正当なる君主は蘇我氏である。
蘇我氏の復古を望む。
564 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 23:22:54
気がついてない人もいるが、現天皇家には蘇我氏の血が流れていますよ
>>562 蘇我氏倉家というより蘇我氏倉山田家と呼んだ方が正確かな
蘇我氏の氏寺は飛鳥寺、しかし倉山田石川麻呂はそれとは別に
倉山田家の寺として、山田寺を建立しているから、明らかに蘇我宗家と
蘇我倉山田家はライバル関係に立ったと言える
蘇我宗家の飛鳥寺
蘇我上宮王家の斑鳩寺
蘇我倉山田家の山田寺
蘇我系だけで三つの寺院が建立された事になる
566 :
日本@名無しさん:2006/03/23(木) 01:24:24
水谷千秋も引用してる推古の言葉、「朕は蘇我より出でたり。」
まさに「蘇我氏あっての王権」だったんだ。
567 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 05:36:12
万世一系の朝鮮系ですか。
ほんのちょこっと蘇我氏の情報を受け継いでいると。
目背けたくなってきた。
神功皇后の母は新羅の王子天日矛の子孫
桓武天皇の母は百済の武寧王の子孫
吉備姫王の父が桜井皇子なら蘇我氏の子孫
山背大兄王も自分は蘇我一族という意識が濃厚だったろう
だから蝦夷対して、皇族と臣下という意識ではなく
叔父(蝦夷)と甥(山背大兄)という親族関係と言う意識を持っている
蘇我宗家の失敗は、蘇我系皇族集団で、我らは蘇我一族という
意識を持っていた蘇我上宮王家を滅ぼしたこと
蘇我上宮王家の滅亡で、蘇我宗家の持ち札は古人大兄皇子だけに
なってしまったが、古人大兄では葛城皇子に対抗するのは無理
山背大兄王を持ち札すれば、葛城皇子に対していくらでも対抗できたのに
蘇我蝦夷が入鹿が行った上宮王家滅亡に対して激怒したと
日本書紀は記述してけど、それは当然のことだろう
入鹿の行為は自ら持っていた玉を、自分自身で砕いた極めて愚かな行動
事実、蘇我上宮王家滅亡から僅か2年で蘇我宗家もあっけなく滅亡した
蘇我宗家の滅亡は、正に蘇我上宮王家を滅亡させた、入鹿の愚かな行為は
生み出した当然の結果である
570 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 23:27:19
入鹿は軽王や中臣鎌子たちに唆されたとしか思えないな
山背王が即位しても、大市皇子の障害になる要素は少ない
蘇我入鹿が通説とおりに、古人大兄皇子の即位を目指して
その障害である山背大兄王と上宮王家を滅亡させたのなら
愚者としか言い様がない
古人大兄皇子は天皇足る器にあらず
山背大兄王を天皇とし、上宮王家を含む蘇我一族が政権運営の
主導権を握れば、敏達系皇族を完全に皇統から除外出来たはず
蘇我入鹿には人を見る目がなかったのだろう
入鹿の祖父である馬子が、厩戸皇子の才気を見出したのと比べて
余りにもお粗末だから、暗殺でその生涯を終えたのは当然である
>>547 >安閑天皇と宣化天皇とは欽明擁立勢力に・・・作られた架空の天皇・・・
とすると欽明後継の敏達皇后は、宣化ではない何処の皇族出身の
女王になるのかな。
武小広国押盾皇子(宣化)の娘の石姫は
敏達天皇ではなく欽明天皇の皇后
敏達の最初の皇后は、息長眞手王の娘の広姫
そして広姫皇后の没後、異母妹の額田部皇女を皇后に迎えた
次ぎに宣化天皇は架空の天皇でも、継体天皇、広国押武金日太子
武小広国押盾皇子は実在した人物
そして、この3人が同時に死んだという「百済本記」の記述を信用して
日本書紀の編纂者が継体の没年を、継体25年(辛亥)とした以上
当然の如く安閑、宣化両天皇は架空の天皇
継体と一緒に死んだ太子と皇子が天皇に即位出来る訳ないからな
それと武小広国押盾皇子は、実在した人物だから娘が居ても
全然不自然ではない
そして欽明天皇が武小広国押盾皇子の娘である石姫を、皇后に迎える事に
何の問題もない
天智天皇も、自分が死に追い遣った古人大兄皇子の娘である倭姫を
自らの皇后に迎えたからな
「百済本記」の「皇子」が宣化である必要性は全く無い上、多治比・為名等の
皇別氏族の存在、檜隈天皇(法王帝説)や檜隈五百野宮御宇天皇とも記され
ることからして、宣化の即位を疑わなければならない論拠は極めて乏しい。
575 :
日本@名無しさん:2006/03/25(土) 02:39:14
↑たしかに。同趣旨のことはすでに水谷千秋『謎の大王 継体天皇』に書いてあったな。
上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起は欽明の治世を41年としている
そして欽明の没年は571年だから、即位年は531年
したがって、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述から見て
継体の次ぎは欽明が即位したと考えるのが相当
その上、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起が、仏教伝来を欽明朝の
538年と記述している点も重要
また百済本記は天皇、太子、皇子が一緒に死んだと記述しているが
そのうちの天皇は継体、、太子は勾大兄広国押武金日皇子(安閑)であろう
当時は皇太子と大兄皇子は、ほぼ同義だったからな
つまり安閑は即位前に死亡しているから、安閑天皇は架空の天皇
安閑が架空ならば、宣化も継体や安閑と同時に死亡して
即位してない架空の天皇と考えるのが相当
最後に水谷千秋は、『謎の大王 継体天皇』の中で、ニ朝並立説論者を
百済本記から、自分の都合の良い部分だけ摘み食いをしていると
批判しているが、水谷自身が上宮聖徳法王帝説の中から
自説にとって、都合の良い部分だけ摘み食いをしているから、同じ穴の狢
上宮聖徳法王帝説を論拠とするなら、仏教伝来が欽明治世下の538年で
ある事を無視する事は、史料操作の上で致命的な逸脱行為だと言える
檜隈天皇じゃなくて檜前天皇だろう
そして檜前天皇とは即位前に死亡した
武小広国押盾皇子に対する文飾だと思われ
武小広国押盾皇子は、欽明天皇の皇后である
石姫皇后の父であり、敏達天皇の母方の祖父に当るからな
自分が即位しなくても、子や孫が天皇に即位した為に
諡号が贈られた皇子に関しては、草壁皇子や舎人皇子などの例がある
578 :
日本@名無しさん:2006/03/25(土) 13:10:23
クーデターで殺された安閑や宣化にどうして天皇号を追贈する必要があるわけ?草壁皇子や舎人親王とは事情が違うと思うけどな…。
>子や孫が天皇に即位した為に諡号が贈られた皇子
舒明が即位しても押坂彦人大兄に諡は無いし、
ましてや宣化の例と同一視出来るはずがない。
天皇の外祖父というだけで諡された例があるか?
>当時は皇太子と大兄皇子は、ほぼ同義だったからな
それは全然違います。
>>573 >石姫を、皇后に迎える事に何の問題もない・・・
打倒した対立勢力との宥和のために、旧敵の女を娶るのは理解できるが、
その石姫所生の敏達が欽明の第1後継者になったのが理解できない。
旧敵勢力を外戚とする皇子後継を、欽明擁立勢力が何故みとめたのか。
蘇我氏は、欽明とは違って敏達には子女を妃に入れていないし、おのが
子女所生の用明以下の皇子が何人もいるのに。多治比氏
>>574の存在といい
安閑・宣化派/欽明派の対立はあっても、殺害に及ぶ抗争はなかっただろ。
582 :
日本@名無しさん:2006/03/25(土) 15:58:58
>たしかに。やっぱり水谷説でいいんじゃないの。出たばっかりの『謎の豪族 蘇我氏』も面白かった。読んでみたら?
583 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 16:44:30
それなら上宮聖徳法王帝説の欽明天皇の治世41年と
仏教伝来が欽明治世下の538年と言う記述はどうなんるんだ?
日本書紀より上宮聖徳法王帝説の方が史料価値が高いから
日本書紀の仏教伝来552年は捏造
継体〜欽明に関しては、日本書紀より百済本記や上宮聖徳法王帝説の
記述の方が信用性が高い
したがって、安閑と宣化両天皇は日本書紀が捏造した天皇で
継体天皇、勾大兄広国押武金日皇子、武小広国押盾皇子は
同時に殺されたという百済本記の記述が正しい
>>576,
>>580 >当時は皇太子と大兄皇子は、ほぼ同義だった...
皇太子は次の大王即位予定者、大兄皇子は一世王で同母兄弟中の長兄で
いいのかな。つまり皇太子は一人、大兄皇子は複数も有り。もっとも
継体〜斉明朝期には皇太子制度自体なかったとも。
つまり継体天皇の没後、欽明天皇が即位し、欽明治世下の
538年に仏教が伝来したと言う事が史実だと思われる
はっきり言って、継体天皇の没年も分からない日本書紀の記述なぞ
信頼する事は出来ない
安閑・宣化両天皇は日本書紀の捏造
仏教伝来が552年と言うのも日本書紀の捏造
>>585 その解釈は非常におかしい
厩戸皇子は間人皇后所生皇子の中の長子なのに
厩戸大兄皇子と記述された史料はない
また、竹田皇子も額田部皇后所生皇子の中の長子なのに
やはり竹田大兄皇子と記述された史料はない
したがって、大兄皇子は一世王で同母兄弟中の長兄という
解釈は成り立たない
また山背大兄王は用明天皇の孫だから二世王だが大兄と
記述されているから、大兄が一世王だけという解釈も誤り
上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の、仏教伝来は欽明天皇治世下の
538年(戊牛)という記述を否定出来ないのなら、安閑・宣化両天皇は
架空の天皇となる
>>584 >欽明治世下の538年と言う記述・・・
530年代は、宣化と欽明二朝並存でいいんじゃないか。
6世紀初頭の継体治世期とされている時期も、継体が
入京できない時期には、入京を阻む従前の仁徳系の
政権があったことを物がたってるわけだし。
百済本記の記述の皇子は、宣化以外の継体皇子と
すれば整合できる。
590 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 17:12:46
>>583 見に行った
聖徳太子のところとかなんかリンク切れみたいなのがあったぞ
591 :
日本@名無しさん:2006/03/25(土) 18:16:07
水谷著を読むと、いったん欽明が王位に立てられたが、まだ若年であるためいったん退き、妥協のなった兄の宣化が王位についた、とある。欽明の即位年に二種類あるのはそのため、とある。これでいいんじゃないの?きわめて明快だ。
592 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 19:52:26
欽明の即位年にはもう1説ある
新唐書や宋史に引用された「王年代紀」による541年(ないし542年)説
593 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 21:39:44
1.大兄の名を持つ皇子は同母関係の長兄
2.だが、長兄がすべて大兄を称していたわけではなく、
皇位継承権の有力皇子だけが大兄を称する
3.ただし大兄は皇太子と同義ではない。
「皇太子」のような独立の名詞ではなくあくまで名前の一部
こんなところか?
>>591 その説を最初に提唱したのは井上光貞だよ
水谷は井上説を支持したに過ぎない
しかし井上説の最大の弱点は、欽明天皇が譲位したという
史料的根拠がない事
それと井上が欽明譲位説を提唱したのは、彼自身が日本書紀より
上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の史料価値の高さを肯定しているから
欽明の即位を531年と認めざる得なかったから、その年に即位して
一旦は譲位したと言う苦しい解釈したのである
特に井上は元興寺縁起を詳細に研究しており、その史料価値を
日本書紀以上としているからな
二朝並立でいいと思う。欽明即位前紀の
夢見の話は両朝統一の寓話なのだろう。
推古朝では、まだ天皇という称号は使用されてないと思われる
天皇という称号の使用は天武朝からが通説
したがって推古朝に天皇も皇太子も皇子存在してないはず
存在していたのは大王、大兄王、王だと思われる
皇太子が存在しない以上、大兄王が最有力の
大王位継承者だと考えられる
王族は、大王(王族の最高位)、大兄王(大王位継承者)、王(その他の王族)
臣系氏族は、大臣(臣系氏族の最高位)、臣(その他の臣系氏族)
連系氏族は、大連(連系氏族の最高位)、連(その他の連系氏族)
だったと思われる
>>595 例えニ朝並立でも、538年に百済の聖明王から仏像と教・論を献じられたのは
宣化ではなく、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述通りに欽明だろう
598 :
日本@名無しさん:2006/03/26(日) 02:15:28
“井上・水谷説の最大の弱点は欽明天皇が譲位したという史料的根拠がない事” 、でも二朝並立も史料的根拠は無いよな。『日本書紀』にも「百済本記」にもそんなこと書いてないよ。
599 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 08:53:44
チャリンコで1時間くらいのところに
安閑・宣化vs欽明の二朝が並立って、学者たちは正気かね。
まるで上野と品川に二つの政府が存在しているようなもんだ。
まあ記紀の宮都記事がでっち上げだと言われればそれまでだが。
だから、そもそもニ朝並立なんて無くて、皇位(大王位)継承は
継体天皇(大王)から欽明天皇(大王)へ
そして百済本記の記述で、死んだ天皇、太子、皇子とは
天皇が継体大王
太子が勾“大兄”広国押武金日王子(日本書紀で言う安閑)
皇子が武小広国押盾王子(日本書紀で言う宣化)
601 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 12:02:29
では、今城塚の三つの棺はその三人のものとお考え?
それは俺には分かりません
俺が分かる事は、日本書紀より上宮聖徳法王帝説や
元興寺縁起の方が史料価値が高いから
欽明大王が即位した年は531年であり
仏教伝来は欽明治世下の538年だと言うこと
したがって、日本書紀が記述している
仏教伝来は552年というのは、明かに
書紀の編纂者による捏造記述
538年は午年なので微妙に不自然
しかし史料価値は、日本書紀より上宮聖徳法王帝説や
元興寺縁起の方が高い
まず、日本書紀より上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の方が
より古い史料であること
次ぎに上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起は仏教関連の史料だから
仏教に関する事例は日本書紀より専門性が高い
したがって、日本に仏教が伝来したのは538年である
だいたい、継体大王の死亡年が正確に分かっていない連中が編纂した
日本書紀の、それも継体紀、安閑紀、宣化紀、欽明紀の記述を
信用しろと言ってもそれは無理だろうw
継体の死亡年が分からない連中が、仏教伝来は552年と言っても
そんな事は捏造としか思えないww
605 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 23:13:38
>>601 >今城塚の三つの棺・・・
今城塚の発掘報告は、Web上でも見られますか?
いつまでも頭の中が70年代なやつがいるなぁ。
書店で出回ってる通俗本は
学者でもない歴史マニア崩れのライターが書いてるわけでさ。
今は538年説も552説も同等くらいに見られてるぞ。
仏教伝来は538年が通説ですが何かw
552年なんて言ってるのは電波だけww
元興寺縁起に関しては、井上光貞の詳細な研究によって
その記述の正しさが立証されている
俺も538年が正しいと思ってる、けどね
>継体の死亡年が分からない連中が〜
直感だけで「捏造」と片付けられるお粗末な神経がよく理解出来ないのよ。
仏教伝来の年次は法王帝説等にも偶々記されていたから、それを基に書紀を
訂正出来たまで。継体の死亡年については、書紀編者も2説あることを知って
いたが、敢えて531年説を採っただけだ。 おまいが「継体紀、安閑紀、宣化紀、
欽明紀の」個々の記述について史料批判を行ったうえでの結論ではあるまい。
>今は538年説も552説も同等くらいに見られてるぞ。
確かに。近年の専門書・概説書には両説併記されているものが多いね。
何れにしろ、仏教史を考える上で支障にならないというのが最近の見方。
>>602−
>>610 スレ趣旨からは瑣末に陥ってるね。5世紀前半に仏教公式伝来で
いいじゃないか。伝来仏教に対する蘇我氏を始めとする政権の応
対を話さないか。
612 :
日本@名無しさん:2006/03/29(水) 00:03:22
賛成。538〜552年の間、というのが今の学者たちの趨勢。仏教伝来時の天皇、諸豪族の対応ー、水谷千秋『謎の豪族 蘇我氏』に諸説が要領よくまとめてあるな。
蘇我の成分解析結果 :
蘇我はすべて玉露で出来ています。
ワロス
継体天皇の没年に関して
古事記は527年とし、没年齢は43才と記述している
日本書紀は百済本記を引用して531年とし、没年齢を82才としてる
或本は534年としている
また安閑天皇の即位年を書紀は、531年と534年と二つの年を記述しており
安閑紀自体が自己矛盾を犯している
そのような自己矛盾を犯している安閑紀の記述の、一体どこに
信頼性が置けるのかこちらの方が聞きたいくらいだw
1人の天皇に二つの即位年とは正にお笑い草だww
そして史料の関しては、井上光貞や家永三郎が綿密に研究した
元興寺縁起や上宮聖徳法王帝説の方が、成立時期が記紀より古いし
その記述も正確であると立証されている
したがって欽明天皇の即位年は531年であり、仏教伝来は538年である。
そして即位年が531年と534年の二つある安閑天皇は、日本書紀が欽明
擁立勢力による、継体天皇、勾大兄広国押武金日太子、武小広国押盾皇子殺害を
隠蔽する為に作られた架空の天皇であり、その次ぎの宣化天皇も同じく架空の天皇
捏造された天皇だから、531年と534年という二つの即位年を記述し
捏造を露呈するというミスを、日本書紀の編纂者は犯してしまったと言える
史実は百済本記+元興寺縁起+上宮聖徳法王帝説であり
日本書紀の安閑紀+宣化紀+欽明紀は捏造である
日本書紀信者の皆様には、安閑天皇の即位年が531年と
534年の二つある事を論理的に説明してもらいたいものですw
継体、安閑、宣化、欽明は、蘇我氏と関わりが深い天皇
とくに欽明天皇に対して、蘇我稲目は娘を二人も嫁がせており
稲目の娘達が産んだ皇子・皇女が、用明、崇峻、推古天皇と
3人も天皇になっている事から、蘇我氏を語る上では
継体、安閑(架空)、宣化(架空)、欽明を語る事は非常に重要である
そして蘇我系天皇が3人も続いて出た事が、蘇我氏の繁栄の基と
なったと考えられる
618 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 20:05:28
アフォか。仏教伝来は548年であることが実証されている。
電波さんのお出ましかw
そんな事より、安閑紀において安閑の即位年が531年なのに
安閑元年が534年と言う矛盾を論理的に解説してくださいなww
*書紀紀年では安閑元年は甲寅(534年)と記述されている
それと称制なんて言い訳は通用しませんよ
安閑紀において称制という記述はありませんから
それが天智天皇や持統天皇と安閑天皇の違い
天智紀や持統紀には称制と記述されているからね
即位年が531年で安閑元年が534年という時点で
安閑紀が捏造されたとモノだと分かるわな
531年に即位したのは安閑天皇ではなく、法王帝説や元興寺縁起の
記述から分かる通り欽明天皇なのです
621 :
日本@名無しさん:2006/03/30(木) 01:11:57
質問!「架空の天皇」って、即位してないって意味だよね? それとも全く架空の人物って意味?
安閑と宣化は実在しない、架空の人物だと考えてるの?確認のための質問です。
勾大兄広国押武金日太子(日本書紀の言う安閑天皇)と
武小広国押盾皇子(日本書紀の言う宣化天皇)は実在した人物
そして百済本記の記述にある、天皇、太子、皇子が死んだと言うのは
継体天皇、勾大兄広国押武金日太子、武小広国押盾皇子のこと
日本書紀の編纂者も百済本記の記述引用して、継体の没年を531年と
している
そして上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述から分かるように
同じ531年に欽明天皇が即位している
勾大兄広国押武金日太子は実在だが安閑天皇は架空
武小広国押盾皇子は実在だが宣化天皇は架空
皇位継承は、百済本記、上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起の
記述から推定すれば、継体天皇の次ぎに即位した天皇は
欽明天皇になる
継体天皇と同じ時に死んだ、勾大兄広国押武金日太子と
武小広国押盾皇子は、死んだ為に即位出来なかった
>>619 実証されているか知らんが、それは敏達13年(584)の間違いな
辛亥年は531年ではなく法興元年(591)のこと
625 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 17:44:23
619氏は「百済・聖王26年」のことを言ってるんだよね。
548年は電波どころか、注目すべき年だと思うんだが。
はぁw
また電波が現れたww
欽明天皇の治世は41年間で
即位は辛亥の歳(531年)ですが何かwww
そして仏教伝来は戊牛の歳(538年)ですwwww
電波やチンピラ学者がどう騒ごうが
元興寺縁起の記述は井上光貞の研究により
また上宮聖徳法王帝説の記述は家永三郎の研究によって
その記述の正しさが証明されている
馬鹿なヤツが居るな
欽明天皇や仏教伝来は
蘇我氏と綿密な関わりがある
蘇我稲目は欽明に二人の娘を
嫁がせている
また蘇我馬子は仏教の信仰者
(蘇我氏は崇仏派)
したがって、欽明の即位年や
仏教伝来年は共に蘇我氏にとって
重要なことだ
>欽明の即位年や仏教伝来年は共に蘇我氏にとって重要なこと
だから、即位年はより相応しい欽明天皇スレでやれ。仏教伝来年は
蘇我氏の仏教受容を考えるうえで支障にならない(
>>610、
>>612)。
誰も欽明の即位や仏教伝来の存否を疑ってる訳じゃないんだから、
蘇我氏の本質とは関係しない瑣末な紀年論でスレ費やさないで。
蘇我氏滅亡の原因を作ったのは蝦夷
馬子は敏達天皇の没後、用明、崇峻、推古と蘇我氏を母に持つ
天皇を誕生させた上に、推古の皇太子に父方(用明)も母方(間人)も
女系(母系)では蘇我氏である厩戸皇子を選んだ
つまり蘇我氏の血を引かない押坂彦人大兄皇子を皇太子に
しなかったと言う事だ
それなのに蝦夷は馬子とは違って、蘇我氏を母に持つ山背大兄王ではなく
蘇我氏の血を引かない田村王の即位を認めてしまった
田村王の妻にも馬子の娘や一説では蝦夷自身の娘が嫁していたが
田村王には皇族の后である宝女王がおり、彼女が皇后になれば
皇后所生の皇子が皇位継承で有利になるのは自明の理
(現実に宝皇后の子である葛城皇子と大海人と皇子は天皇になった)
三代に渡り蘇我氏を母に持つ天皇が誕生し、山背大兄王が即位してれば
四代に渡り、蘇我氏を母に持つ天皇が誕生することで、蘇我氏の権力は
磐石になるところだったのに、その機会を自ら捨てて、母が蘇我氏ではない
田村王(舒明天皇)を、みすみす誕生させた蝦夷は、馬子と比べるとその
器量は格段に劣ると言わざる得ない
次ぎに、蘇我馬子は崇峻天皇を弑逆したが、推古天皇の即位と
厩戸皇子の立太子を実現させることで、弑逆者としての汚名を受けず
その実力はいささかも衰える事はなかった
ところが蘇我入鹿が、山背大兄王を総帥とする上宮王家を滅ぼした
僅か二年後に、蘇我宗家自体が滅亡してしまった
天皇を弑逆した馬子の権勢を衰えなかったのに、上宮王家を滅ぼした
入鹿は、たった二年後に殺された
この違いは、馬子と入鹿の持ち札の違いとしか言い様が無い
崇峻を殺しても、推古天皇と厩戸皇子を持つ札に持つ馬子に
歯向かう皇族や豪族は居なかった
ところが山背大兄王を殺した為に持ち札は古人大兄皇子だけになった
入鹿に対して、皇族や豪族は彼の打倒を決意させ、その結果は
入鹿の暗殺と蘇我宗家の滅亡
推古&厩戸は馬子にとって強い強力な切り札だったが、古人大兄には
その器量がなかった
つまり蘇我宗家の滅亡は、山背大兄王を有効に使いこなせなかった
蝦夷と入鹿の無能さにある
馬子が厩戸皇子を有効に使いこなしたのと比べると、本当に蝦夷と
入鹿はダメだったと言わざる得ない
631 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 01:55:42
結論:古すぎてどうでもいい
632 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 07:50:59
ついでに山背大兄王も無能だったので
つかえねぇこいつ、と蝦夷は思った
山背大兄王は有能だろう
まず異母兄弟・姉妹は一緒には住まない
同母兄弟・姉妹も成人すれば一緒に住まない
ところが上宮王家は、全員が斑鳩宮に住んでいた
これによって上宮王家の資産は分散せず
山背大兄王が一括管理出来る
つまり一族に対する山背大兄王の統制力が高かった証しである
蘇我入鹿が、蘇我倉山田家に対して
統制力を発揮出来なかったのとは実に対照的だわな
倉山田石川麻呂は、蘇我氏の氏寺である飛鳥寺があるのに
わざわざ倉山田家の為に山田寺を建立した
これは倉山田家の宗家に対する独立宣言と同義
したがって、一族に対する統制力は明かに山背大兄王>蘇我入鹿
蘇我馬子が崇峻天皇を弑逆しても、馬子は磐石だった
蘇我入鹿が山背大兄王を殺害したら、入鹿も殺害され蝦夷は自殺した
つまり山背大兄王>崇峻天皇
崇峻が殺されても何らの政変は起こらなかったが
山背大兄が殺されたら政変が勃発して蘇我宗家滅亡だからな
635 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 15:13:02
強大な経済力、軍事力がありながら、蝦夷を従属させることもできず、
かといって蝦夷を打ち倒して皇位につくこともできず、
逆に入鹿に滅ぼされてしまうなんて、まぬけなやつだなぁ
お前は本当に馬鹿だなぁw
仏教を深く信仰し「世間虚仮、唯仏是真」という
言葉を残した聖徳太子の後継者である
山背大兄王が、戦いなどと言う俗な事をする訳なかろう
田村王との即位争いの時も、戦いも辞せずの蘇我境部摩理勢を
嗜めたのが山背大兄王の姿勢だ(同族相撃たずの姿勢)
また入鹿の悪逆非道に対して上宮王家全員が自害して果てたのは
民を戦に巻き込んで、苦しみを与えるのを避ける為と、虚仮である世間を
離れ、唯一の真である仏の世界に行くための生命の喜捨である
それが世の人々の共感を得たから、主を失った後も、法隆寺は
上宮王家を思慕する人々によって守り続けれたのである
今日において
蘇我宗家の寺である飛鳥寺(法興寺)の
落ちぶれぶりと
上宮王家の寺である斑鳩寺(法隆寺)の
繁栄ぶりを見れば
真の歴史の勝者は蘇我入鹿では無く
山背大兄王だと言う事が
誰の目から見ても明らかであろう
それが分からないお前は、正に入鹿並みの大馬鹿モノなのさww
序に付言すれば、聖徳太子が作った日本最初の憲法である
十七条憲法の精神は「和を以って尊しと為す」だ
その聖徳太子の息子である山背大兄王が、入鹿の如き大馬鹿モノと
まともに戦(いくさ)などする訳なかろう
基地害(入鹿)が暴れる虚仮の世間から、和を真とする仏の世界へと
蘇我上宮王家が全員で旅立ったのである
638 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 20:53:09
真の賢者は蘇我雄當であろう。この系統だけが奈良時代まで存続した。
少し上に時代錯誤な発言をしてる人がいますね
640 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 08:36:04
まぁ、厩戸皇子は若いときに、こともあろうに仏様に戦勝祈願するという
仏教として大きな誤りをされましたからね
蘇我宗家の寺ある、飛鳥寺(法興寺)の落ちぶれぶりと
蘇我上宮王家の寺である、斑鳩寺(法隆寺)の繁栄ぶりは現実だ
歴史の審判は、現実として蘇我上宮王家>蘇我宗家と確定した
この審判を受け入れられな香具師は、現実に対する適応障害者w
正確には仏法の守護神たる四天王(多聞天、広目天、持国天、増長天)に
仏敵物部守屋との戦いおける、戦勝を祈願したのである
物部守屋は仏法に対する敵対者だから、これを討つのに、仏法の守護神である
四天王に戦勝祈願することは矛盾ではない
仏の敵は「唯仏是真」を信条とする厩戸皇子に対する思想的な敵対者だからな
同じく仏を信仰した、蘇我上宮王家と蘇我宗家との関係と
仏の敵である物部氏追討を同じに考える香具師は
正に思慮不足で浅はかとしか言いようがない
それと最後に、四天王は天であって如来(仏)ではないぞ
643 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 15:46:24
弁財天は女だわよん!
蘇我蝦夷が山背大兄王を天皇に即位させていれば
蘇我宗家、蘇我上宮王家、蘇我境部家、蘇我倉山田家が
対立し滅びる事もなかった
蘇我稲目や馬子と比べると、蝦夷と入鹿は思慮が足りない馬鹿者達
>>641 法隆寺が繁栄したのは、後世大いに広まった太子信仰のお蔭であって、
歴史の審判=歴史学における評価とはひとまず切り離す必要があろう。
そんな必死になって上宮王家を擁護しなくてもいいよ。
646 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 13:26:24
まぁ誰が何といおうと、上宮王家は滅亡し、敏達皇統が今日までつづいたのは現実
この現実を受け入れずに電波飛ばしてくる奴は
その太子信仰が盛んになった要因には(「日本書紀」『皇極紀』)における
山背大兄王の行動が大いに関係している
まず深草(深草は山背国にあり、山背大兄王の養育氏族である秦氏の根拠地)に行き
そこで旅支度を整えた後、東国に行き、上宮王家の乳部(領地)の民を
動員して戦えば入鹿に勝てると側近に進言された
しかし山背大兄王は
「我は十年間、民を使役しないと決めた。例え我が身のことであろうと
民を使役することは出来ない」
という言葉を述べて、例え上宮王家の滅びようとも、民に苦労を掛ける事を
拒んだ
この山背大兄王の民を慈しむ姿勢が、世の人々の共感を呼び
主を失った後も、斑鳩寺(法隆寺)に対する喜捨が途絶えることが無かった
火災により元斑鳩寺(若草伽藍)が焼失後も、上宮王家を慕うに人々の
喜捨により、現斑鳩寺は再建された
これは蘇我上宮王家の慈悲深き心の勝利であり、悪戯に武力を
弄んだ蘇我宗家には、その蘇我上宮王家の高い精神性の前に
歴史的に完全に敗北したのである
蘇我の蝦夷・入鹿の馬鹿親子が、馬子が排除した敏達系皇統の
一員である、田村王を即位させたのが全ての誤り
なぜ馬子が、敏達天皇と広姫皇后の第一皇子である押坂彦人大兄皇子を
排除して、用明天皇と間人皇后の第一皇子である、厩戸皇子を推古天皇の
皇太子に据えたのか、その真意を理解出来なかった大馬鹿者が蘇我蝦夷
端的に言えば敏達天皇は排仏的な天皇
それに対して用明天皇は崇仏的な天皇
崇仏派である蘇我氏にとって、排仏派の皇統より、崇仏派の皇統を
皇位に就けるのが上策なのに、それが分からなかった蝦夷は
正に大馬鹿野郎であり、蘇我宗家滅亡に追いこんだA級戦犯
同じく蘇我上宮王家を滅ぼした入鹿も、大馬鹿野郎であり
蘇我宗家を滅亡に追いこんだA級戦犯
敏達系皇統の今上天皇家より、蘇我上宮王家の方が世の中の人気は高い
聖徳太子>今上天皇
山背大兄王>皇太子
だわな
この現実を受け入れられない者は、リアルに対する適応障害者w
今上天皇 の検索結果 約 97,200 件中 1 - 10 件目 (0.30 秒)
聖徳太子 の検索結果 約 1,160,000 件中 1 - 10 件目 (0.08 秒)
徳仁皇太子 の検索結果 約 33,400 件中 1 - 10 件目 (0.32 秒)
山背大兄王 の検索結果 約 38,600 件中 1 - 10 件目 (0.19 秒)
今上天皇家 の検索結果 約 40 件中 1 - 10 件目 (0.26 秒)
上宮王家 の検索結果 約 827 件中 1 - 10 件目 (0.42 秒)
ネット上でも、完全に上宮王家が今上天皇家を圧倒しているなw
651 :
619:2006/04/03(月) 19:22:14
>>620>>623>>625>>626 肯定、否定、ありがとさん。まあ要するに最新の概説書ぐらい読めってことさ。
学界の通説が一般の概説書に載るのにはタイムラグがあるが、
この説については、発表から10年以上たってて、すでにいろんな一般書にも、有力説として紹介されている。
俺が最近見たのは上田正昭が監修か何かやってる本。但し、説の言い出しっぺは上田以外の研究者。
少なくとも538だの552だのを言うやつは、今時の研究者にはいないらしい。
岩波日本史辞典の古代史担当編集委員の石上英一氏は
東京大学史料編纂所古代史部門担当教授
*仏教伝来
「(前略)その年次については、538年とする『上宮聖徳法王帝説』
『元興寺縁起』と、552年とする『日本書紀』の2説あり、前者が
有力視されている(後略)」
テキストクリティークに関して、東大史料編纂所古代史部門担当教授である
石上英一氏を超えられる学者が、現在の日本に居るのか?
東大史料編纂所教授と言うのは、歴史学者の中でもテキストクリティークに
関してはプロ中のプロだぜw
だから知ったかぶりはやめろ。仏教伝来年は、538年説が学会における
最有力説、次ぎが552年説だww
>>652 正確には古代史におけるテキストクリティークに関して
東大史料編纂所古代史部門担当教授である
石上英一氏を超えられる学者が、現在の日本に居るのか?だな
654 :
四天王:2006/04/03(月) 21:16:41
>>650 和宗に改宗しなさい!
そして多額の布施を納めたまえ!
まあ仏教伝来年に関して、その他の歳を押す説もあるが
学会の現状おいては、538年説が有力説、552年説が対抗説
その次ぎがその他の歳を押す説
あくまでもその他の歳を説は、538年説や552年説より
支持されていないのが現状の学会の趨勢だぜ
>>647 日本書紀自体が既に太子信仰の影響を(ry
657 :
日本@名無しさん:2006/04/04(火) 09:15:46
石上英一って古代仏教史の権威?『日本書紀』の権威?違うでしょ!肩書きに惑わされちゃだめだよ。
東大史料編纂所の古代史部門担当教授と言うのは
古代の史料に対して厳密なテキストクリティークを行うのが仕事
(そして史実を確定していく)
つまり、上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起、日本書紀と言った古代史料は
石上氏のテキストクリティークの対象
つまり、古代史料に関するテキストクリティークに関して言えば
石上英一氏はプロ中のプロなのさ
その石上氏が編集委員をした岩波日本史辞典は
538年>552年>その他の歳と記述
日本書紀の編纂者に影響を与えるくらい、蘇我上宮王家に対する
民の思慕が大きかった証拠だわな
主を失ったのに、斑鳩寺が火災による焼失後も再建されたのは
蘇我上宮王家への民の思慕による喜捨のおかげ
民に思慕された山背大兄王>民に思慕されなかった蘇我入鹿
山背大兄と入鹿は同じ蘇我馬子の孫なのに、入鹿の方はダメダメだわな
上か下かは別にして、少なくとも石上と同等の学者は山ほど居る。
東大教授というのは、もちろん能力もあるが、年齢その他、様々の巡り合わせでなれるもの。
何とか女子短期大学みたいなところの先生でも優秀な人はいっぱいいる。
こんなことは研究者には周知のことだろうが。
>>652 岩波日本史辞典が何年前に出版されたか、そして辞書項目の執筆が
出版の何年ほど前にされるものなのか、考えてみてね。
岩波日本史辞典は、1999年に第1刷が発行されている
それと東京大学史料編纂所古代史部門研究担当の教授になるのは
並みの努力と能力では無理
まあ、講師風情で研究論文を書く事より、新書で概説書を書いてるような
チンピラ学者では、東大史料編纂所の教授になるのは無理
講師や助教授時代には、概説書なんて書かずに、紀要に掲載する論文や
学会誌に掲載する論文を書く事が肝要
まあ素人には、新書で概説書を書いてる講師の方が著名だろうけどなw
概説書なんてモノは教授になってから書けば良いもので
講師が書くべきものは、概説書ではなく研究論文だぜw
その点では遠山も水谷もチンピラ学者だけど、こういう香具師の方が
有名なんだよなぁ(ハァ・・・)
>>657 石上英一氏の研究は正倉院文書とか荘園史料が対象でしょ。
>女子短期大学みたいなところの先生でも〜
それは実感しますね・・・ 中には貴重な論考もあるんだけれど、
なかなか入手出来ずに、もどかしい思いをしたこともあります。
>>661 じゃ、石上氏はさぞ多くの論文を書いてるんだろう。
彼の仏教史関係の論考があったら教えて下さい。
現在の研究課題
“日本古代史料学”
古代荘園研究
古奄美諸島社会史
上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起、日本書紀は日本古代史料ですが何かw
仏教伝来を538年と認めたくない【デンパくん】は必死だなぁw
正確には、538年>552年>その他の歳だったかw
それと例え地方の短大でも優秀な研究者が居る事は同意だよ
しかし、講師風情で概説書を新書なんぞで出している
チンピラ学書は問題外!
若いうちは概説書ではなく、紀要や学会誌に掲載する論文を沢山書けよ!!
>チンピラ学書は問題外!
匿名で電波撒き散らしてるアンタに言われる筋合はないと思うよw
2chは匿名が原則だろうw
そういうお前だって匿名だしww
それに新書の概説書なんて、全然研究業績にはならんよ
紀要への論文掲載や、学会誌への論文掲載が研究業績の本筋なのさ
669 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 21:40:16
まぁ研究者として地道に論文で認められるか、マスゴミで名を売って有名税で楽して食っていくか。
わが敬愛するチャート式門脇は珍説だしても公立大学の学長まで務めた。
670 :
日本@名無しさん:2006/04/06(木) 22:42:39
>石上英一の褒め殺しだろ?! いまどきこんな東大コンプレックスなこと、マジで言ってるとは思えないよ!
ここ50スレくらいですごい勢いで糞スレに転落する過程をみた
石上英一の、538年>552年>その他の歳という
結論に納得出来ないデンパ君が暴れているw
石上の結論は極めてオーソドックスで、古代史学の
主流的見解をそのまま踏襲している
史料価値において上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起>日本書紀を
否定しているのは、テキストクリティークが分からないお馬鹿さんww
岩波仏教辞典 2002年10月30日 第2版 第1刷発行
編集委員 中村元、福永光司、田村芳郎、今野達、末木文美士
仏教史略年表
538年 百済の聖明王、仏像経論を朝廷に贈る−仏教の公伝
電波、妄想、チンピラ以外は、538年が仏教の公伝の歳だと認識しているw
なお、522年に司馬達等が来朝して大和国高市郡の草堂に仏像を
安置したと伝えられている
*したがって、仏像自体が本朝に始めて来たのはこの歳だと思われる
538年説を否定しているレスなどないのに、粘着厨が暴れている件について
いい加減にほっとこうぜ。
まともに議論する気も無いようだし。
コテ名乗ってくださいな。NG指定しとくんでw
まともな議論w
上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述を否定している
電波や妄想の類にまともな議論なんて無理だろうww
自分の頭に電波が届き、その電波から浮ぶ妄想によって
史料に基づき、その上で厳密なテキストクリティークを行っている
先学者達のの研究成果を否定している連中が、まともな議論とは
正にお笑い種だぜwww
てゆうか、この項目石上さんが書いたわけじゃないだろ?w
編集委員と言うのは、直接執筆しなくても、自分が担当する分野
例えば石上氏は古代史学者だから、古代史部門の項目の記述に
関して責任があるんだよ
*編集委員が項目の執筆者を選び、その記述に関しては責任を持つ
だから編集委員である石上氏のOKが出なければ、その項目、例えば
仏教伝来、あるいは長屋王の項目の記述はNGになって書き直し
岩波日本史辞典では、仏教伝来は538年説を最有力とし、長屋王の
生年は684年としている
このどちらも最終的な記述責任は、古代史部門担当編集員である
石上英一氏にある
したがって、石上氏は仏教伝来は538説を支持し、長屋王の生年は
684説を支持している
ちなみに岩波日本史辞典では、天武天皇の生年は631年?と
なっているから、石上氏は631年説に関して確信が持てないらしい
>先学者達のの研究成果を否定している連中
それは思い込み。 最近で538年説の記述を否定しているレスが
あっただろうか? おまいは事典の類をひたすら引用するだけで、
肝心な「テキストクリティークの中身」については何も触れない。
石上氏を支持するなら、それはそれで構わん。彼が538年>552年
と結論付けるまで、どのようなテキストクリティークを行ったのか。
論文出てるんだろう? 読んだことがないので、提示して欲しい。
>石上の結論は古代史学の主流的見解をそのまま踏襲している
石上氏のような人が、多数説をいつも正しいというような事大的な
価値判断を良しとする姿勢ではまずい。 学問的良心が無いのか。
もちろん、「権威」が史実を決定するものでないことも当然である。
・日本書紀より上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の方が
古い時代に作成された書物である事が、先学の研究によって
判明している
・上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述内容が、先学の
研究によって、かなり正確だと判明している
*上宮聖徳法王帝説は家永三郎。元興寺縁起は井上光貞が
綿密な研究を行なっている
・日本書紀と違い、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起は仏教と
とても関係が深い書物だから、仏教関連の記述は日本書紀よりも
信頼性が高い
これが学会の通説。そして石上氏は学会の通説を支持している
したがって自分が古代史編集担当委員をしている、岩波歴史辞典の
仏教伝来の項目において、538年>552年>その他の歳としている
序に言えば、石上氏は長屋王の生年は684年説を支持し、天武天皇の
生年に関しては631年説に確信を持ってない
天武の没年齢56歳説は、本朝皇胤紹運録の65歳を書き間違いとして
56歳にしたと言う、根拠が非常に乏しいモノだから、支持を躊躇うのは
当然でしょう
つまり天武天皇の生年631年、没年齢56歳に史料的根拠は無い
そもそも厳密なテキストクリティークを行ってりゃ、
631年説や684年説なんて採らないはずだがなw
631年に付いてる「?」がせめてもの救いか
吉田一彦の「元興寺縁起」批判読んでごらん
もちろん全ての記載が否定されるわけではないが
厳密なテキストクリティークを行っているから684年説なんだろうw
676年説を取る連中は「懐風藻」を盲目的に信仰してる連中ww
それと631年に?が付くのは当然
天武の出生年を631年としている史料は無いからな
元興寺縁起だけなら問題だが、上宮聖徳法王帝説も538年としている
したがって日本書紀の552年を盲目的に信仰する連中の方がおかしい連中w
ここを読めば良く分かるが
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1090338190/l50 676年説を取る連中は、長屋王が704年まで無位で居た事の
説明に失敗している。
その中で、一番努力しているのは木本好信氏だが
木本氏の立論は、皇族に対する叙位が文武朝で初めて始まったのなら
問題なかったが、残念ながら既に天武朝において皇族に対しても叙位が
行われている
そして成人皇族なら、例え皇太子(草壁皇子)であっても叙位の対象者
したがって、676年生まれなら、持統朝で既に成人に達していた長屋王が
704年(29歳)まで無位で居た事はあり得ない
木本氏以外の連中は、懐風藻の盲目的信者かw史料の摘み食いを
平気で行う連中ばかりだから、論評にも値しないww
史料摘み食いの典型例
青木和夫氏の場合、公卿補任の長屋王の没年齢は否定しながら
同じく公卿補任の舎人親王の没年齢60歳は肯定している
青木氏の見解だと、舎人親王と長屋王の生年は同じ676年となる
大山誠一氏の場合、公卿補任の長屋王の没年齢は否定しながら
長屋王の父である高市皇子の没年齢43歳は肯定している
青木氏と大山氏に共通している点は、公卿補任に関しても
自分の学説に都合が良い場合は、平気でその記述を信用する点
史料に対して厳密な態度を取る学者なら、長屋王に関して公卿補任の
没年齢記述を否定した場合、高市皇子や舎人親王の没年齢に関しても
不詳とするわな
序に言えば676年生まれの舎人親王(皇子)は、695年(20歳)の時に
浄広弐位を初叙されている(『持統紀』「日本書紀」)参照
青木氏の見解だと舎人親王と同じ歳生まれの長屋王は
704年(29歳)まで無位で、同年に正四位上を初叙された
(『文武紀』「続日本紀」)参照
この舎人親王と長屋王の初叙年の違いに、青木氏は何らの解答も
持っていないのだから驚きですね
そういうのは長屋王スレでやれよしつこいな
馬鹿には難しかったかなw
690 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 10:42:22
ここは蘇我氏のスレッド
スレ違いで荒らすなぼけ
>だから編集委員である石上氏のOKが出なければ、その項目、例えば
仏教伝来、あるいは長屋王の項目の記述はNGになって書き直し
院生ならまだしも、いちおう職持ち研究者が執筆者の場合、監修者の支持する
学説と違うからといって、書き直させられるなんて、そんな戦前の日本精神叢書の
ようなことはないw
青木学説は最近散々だね
552年説も538年説も信憑性のなさにおいては大差ないって。
辞典の場合、項目事に執筆者の名前が出ないから
各項目の記述の最終責任は編集委員にある
したがって、自分は支持しない学説の記述はNG
まあ、編集員が執筆者を選べるから、自分が支持しない
学説の支持者を、そもそも執筆者には選ばないけどね
ところが吉川弘文館の『国史大辞典』の場合は
項目ごとに執筆者の名前が出るから、記述責任は
編集委員ではなく項目の執筆者にある
簡単に言えば、石上氏が古代史担当編集委員をしている辞典では
長屋王の生年は684年
逆に青木和夫氏が古代史担当編集員をしている辞典では
長屋王の生年は676年
696 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 22:24:45
馬子は偉大、日本仏教興隆の父です
蝦夷は英明、私情を捨て田村王を即位させ和を尊びました
入鹿は秀才、でも自信過剰で身を滅ぼしました
仏教公伝(聖明王が日本に仏像・経巻を送る)は538年でも552年でもなく「549年」。
>蝦夷は英明、私情を捨て田村王を即位させ和を尊びました
日本書紀の舒明即位前記を読むと、そんな感じだな
山背大兄王は蝦夷を叔父と呼び、蘇我の血族の情を以って
自分の即位支持を訴えたからな
しかし英明とは言えない。山背大兄王を即位させなかった事が
結局は蘇我一族の団結力を喪失される事となった
蘇我境部家は滅亡、蘇我倉山田家と蘇我上宮王家は
蘇我宗家から距離を取り、馬子が当主だった頃と比べて
蘇我一族の結束力は弱まり、蘇我氏没落の始まりとなった
699 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 16:52:24
それは違う。蘇我一族は馬子没後に分立が始まっていて
蝦夷がどちら側についても衰微する方向だった
大和から孤立した上宮王家を見限り、不利な息長王家に
ついたのは、大和政権の空白を避けるための蝦夷の英断
700 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 19:44:35
馬子の崇峻謀殺といい、入鹿の山背大兄王一族覆滅といい、
生居地の譲渡要求といい、大王家に対する応対が、他の
豪族と違うというか対等意識を感じるのだが、これは
やはり葛城氏の後裔との自負によるものなのかな。
701 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 01:21:22
やっぱ大王家だったのが蘇我氏で
天智、天武が簒奪者?
702 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 22:17:50
嗽加さんは大臣です。
>>699 上宮王家は諸豪族から孤立してた訳じゃない
田村皇子との即位争いでも、山背大兄の即位を
許勢氏、佐伯氏、紀氏と言った有力豪族が支持していた
(田村皇子支持は、大伴氏、采女氏、中臣氏、難波氏)
*排仏派だった中臣氏(後の藤原氏)が、山背大兄王即位に
反対するのは当然だなわ
阿倍氏は蝦夷の意向に従い、蘇我倉麻呂は中立だった
だから、蝦夷が山背大兄王即位と決断すれば、蘇我氏、阿倍氏
許勢氏、佐伯氏、紀氏の支持で、問題なく山背大兄王が即位出来た
やっぱり蝦夷は馬鹿だわな
田村皇子(舒明天皇)の息子の葛城皇子によって
自殺に追い込まれたのは自業自得
704 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:15:35
田村王が排仏派とでもいいたいのか?
推古没後の争いに崇仏も排仏も関係ないだろう
田村皇子が排仏派だとは思わん
しかし崇仏派だとも思えない
田村を支持した中臣氏や大伴氏は
崇仏派ではないからな
その点、山背大兄王が完璧な崇仏派
崇仏派である山背大兄を即位させなかった蝦夷は
崇仏派である蘇我氏の総帥としては失格者
蘇我氏の基本方針は、蘇我系+崇仏派の天皇を
作り出す事だったはず
やっぱり蝦夷は父の馬子より数段、器量が劣る存在
706 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 23:22:51
舒明11〜12年にかけて天皇はとても崇仏派
崇仏に関して、皇族内で上宮王家に優るモノ無し
斑鳩寺(法隆寺)を建立し、「世間虚仮。唯仏是真」と看破した
聖徳太子の子・孫である上宮王家に比べれば、舒明皇統なんて
崇仏に関しては新参者に過ぎない
708 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 20:37:51
善徳臣はもっと評価されてもいいよね
709 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 20:25:26
蘇我氏の子孫は?
710 :
日本@名無史さん:2006/07/07(金) 00:14:10
わからん
711 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 20:14:25
>>709 ムネオカ氏とかいう朝廷の下っ端役人?が蘇我氏末裔とどこかで聞きましたが
>>683 この人、日本霊異記を史料として採用している時点で信用できん
でも「国家仏教論批判」とか学界で影響を及ぼしている人ではあるけどね
713 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 16:47:33
>>709 天智天皇が蘇我稲目の子孫。
なのでその後の天皇・源氏平家など皆子孫。
>>713 男系で・・・ってことじゃね?
同じ一族の子孫は・・・ってことじゃないかな。
本宗家滅亡後も、
宮廷に上がれないほどの身分の低い分家は
影響なく暮らしていたとは思うけどね。
学生時代、知人に
蘇我とか曽我とか居たけど
関係あるものなんだろうか?
>>714 本宗家滅亡後も蘇我氏は重用されてたよ。
孝徳天皇に乳娘、中大兄に遠智娘と姪娘と常陸娘、大海人に大蕤娘と蘇我氏の娘が5人も皇族の妃嬪だし、
乙巳の変には入鹿の従兄弟が中大兄と組んで変後に右大臣になっているし(冤罪で自殺したけど)
天智朝でも蘇我赤兄が左大臣になっているし、(壬申の乱で配流されたけど)
蘇我果安が御史大夫になっている。(壬申の乱で自殺したけど)
……ありゃ?
重用はされたけど碌な末路辿って無いな。
それと変後の孝徳朝の21氏33人のマエツキミの内蘇我系官人が7氏9人。
646年に東国八道に派遣された国司も8人の長官の内2人は蘇我系官人だったらしい。
716 :
日本@名無史さん:2006/07/26(水) 10:07:10
蘇我連子の子孫の石川年足は、孝謙朝で大納言
717 :
日本@名無史さん:2006/07/26(水) 23:47:57
千葉県のJRの駅で蘇我ってあるけど、因縁がある?
赤兄の流刑地との伝承があるらしい
ただし千葉以外にも伝承地域はあるらしいけど
720 :
日本@名無史さん:2006/07/27(木) 12:24:53
蘇我氏はイラン系なのでクソです
721 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 08:19:09
722 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 21:39:00
723 :
日本@名無史さん:2006/07/31(月) 16:00:44
中臣氏って曽我と近い親戚だよな
724 :
日本@名無史さん:2006/07/31(月) 23:50:51
ほんとか?!
725 :
日本@名無史さん:2006/08/01(火) 18:07:22
実際継体朝なんてなかった王朝で、
本当は蘇我王朝だろ。
長宗我部は蘇我氏の末裔だって?
727 :
日本@名無史さん:2006/08/02(水) 00:40:04
やっぱ蘇我氏が古い寺殆ど作ったのか?
728 :
日本@名無史さん:2006/08/02(水) 12:16:17
ざっと読み返すと、殆ど証拠不十分の自作自演だな
729 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 03:17:02
730 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 10:25:41
蘇我氏の先祖は渡来人。
天皇一族の先祖も渡来人。
731 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 12:33:55
732 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 12:52:13
蘇我氏も葛城氏も元は熊襲だろ
734 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:54:11
応神・聖武・・・熊襲日向連合体・・・・葛城(熊襲)→曽我氏
継体以降・・・・・・日向系
だめだこりゃ
736 :
日本@名無史さん:2006/08/06(日) 05:26:23
>>703 田村は欽明→敏達→押坂→田村と嫡流で、山背は所詮爺さんの用明が傍流だった事実を忘れてはならない。
737 :
日本@名無史さん:2006/08/06(日) 23:56:11
>>736 政治能力とか性格はどうだったんだろ?
なんか田村は子供達が、山背は父親が有名過ぎて本人は影薄いな。
舒明が志を持ったやり手だったことは、百済大寺や百済宮の件
だけでもわかる。天智や天武の施策もその影響を受けている。
739 :
日本@名無史さん:2006/08/07(月) 21:13:07
>>738 そーだったのか。
蘇我の傀儡かと思ってたよ。
740 :
日本@名無史さん:2006/08/07(月) 21:52:15
舒明は義慈、天智は余豊
741 :
日本@名無史さん:2006/08/07(月) 22:58:35
>>740 根拠無い捏造でホルホルホルして楽しい?
遠山の「蘇我氏四代」
稲目の墓=丸山古墳説を詳しく書いてる割には
蝦夷・入鹿の双墓には言及なし。
何故?
744 :
日本@名無史さん:2006/08/25(金) 20:56:07
745 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 14:18:04
太平洋戦争はアメリカの陰謀
ロバート・スティネット著「真珠湾の真実」によると、アメリカはマッカラム少
佐に日本を挑発して米国に対して先制攻撃を仕向けるべく、戦争挑発行動8項目覚
書を1940年10月7日(真珠湾攻撃の一年前)に作成させていた。その内容はア
メリカ、イギリス、中国、オランダの4国の日本に対しての経済封鎖、軍事同盟で
ある。C案の中国の蒋介石政権に可能な、あらゆる援助の提供は支那事変の時にも
行われており、支那事変を共産党の工作員に命令したのはアメリカである可能性が
高い。
1941年7月31日アメリカは巡洋艦2隻を豊後水道に出撃させて挑発した。
日本領事館書記官森村正(本名吉川猛夫少尉)はハワイでスパイ活動を行って、空
母などの停泊状況図を9月29日に日本大使館へ送り、その後も太平洋艦隊の動き
を偵察し、12月6日正午前に最後の報告の電報を送った。「ハワイは奇襲に最適
である。阻塞気球なし、これらの場所に対する奇襲成功の算あり」と言う内容であ
る。その2日後真珠湾攻撃が起こった。この1日余りの間に空母などの新鋭艦が真
珠湾を避難した。アメリカはスパイの森村を監視し、日本の暗号電報を解読してい
たのである。
ヨーロッパを支配したドイツからイギリスを救ってもらおうと、チャーチルはア
メリカのルーズベルトに助けを求めたが、国民は欧州参戦に反対した。そこで日本
が真珠湾攻撃をするよう挑発し、日本の宣戦布告を日本大使館員寺埼英成を使って
故意に遅延させ、日本を騙まし討ちした卑怯な国と宣伝して、アメリカ国民の戦意
高揚を図った。ドイツは三国同盟の為米英に宣戦布告し、アメリカは欧州に参戦す
る事が出来た。
アメリカは日本を侵略する意図があったのです。ペリーの黒船来航はそれが目的
であり、やっと念願がかなった。アメリカなどの白人帝国主義の侵略行為を日本に
なすり付けて日本人を今まで洗脳してきたのです。日本と言う弱国が強国アメリカ
に立ち向かった事がアジアの民族主義を高揚させ、アジア、アフリカを独立させた
のです。それまでは奴隷として仕え、白人の武力にはかなわなかった。その恩を中
国などが仇で返そうとしているのです。馬鹿につける薬はありません。
746 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 11:03:48
日本書紀に隠されていた暗号
なぜ、男性天皇であった伝統が聖徳太子の時代から女性天皇に変ったのか。
このことに疑問を感じないのは不思議である。日本書紀は矛盾点が多く改ざん
されている可能性があるため、内容が難解で改ざんしにくい先代旧事本紀大成
経を調べてみると、推古天皇治世の中に突然、欽明天皇の事績が出てくる。こ
れにも改ざんの魔の手が伸びていた。何か手がかりがないかと見ていると、見
出しが目に入った。帝皇本紀上巻上に継体天皇の事績が書かれている。その後
を推定すると、上巻下が安閑天皇、中巻上が宣化天皇、中巻下が欽明天皇、下
巻上が敏達天皇、下巻下が崇俊天皇となる。次が聖皇本紀上巻上となっている。
聖徳太子の聖の字と一致するから、聖徳天皇に推定する。上巻下は高市天皇、
下巻上は天武天皇、下巻下は長屋天皇となる。このように推定した根拠を示す。
日本書紀によると、欽明天皇と石姫皇后の間に2男1女が生まれ、皇太子は
箭田珠勝大兄皇子と言い、二男は渟中倉太珠敷尊と言う。ここでおかしいのは、
二男の名前が本名でなく、諱(死後の尊称)であり、珠の一字からこれは箭田珠
勝大兄皇子の諱である。すると二人の天皇のうち一人は偽者であると言う暗号
になり、用明天皇の存在が消えてしまうのである。敏達天皇が亡くなればその
皇太子・彦人大兄皇子が天皇になればよい。敏達天皇と広姫皇后の皇太子押坂
彦人大兄皇子の又の名を麻呂古皇子と言い、用明天皇と広子の長男も麻呂古皇
子と言う。同じ名前なら入れ替えても同じであると言う事は入れ替わったと言
う暗号である。押坂彦人大兄皇子は麻呂古皇子(朝鮮人)に入れ替わったのであ
る。彼は皇太子なのに天皇になれず、いつ亡くなったのか分からない。まるで
聖徳太子とそっくりである。聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子で、皇位継承
第1候補者で天皇になっていた。このことを隠すための嘘の女帝が推古天皇で
ある。用明天皇は聖徳太子の血筋を朝鮮人に卑しめて、天皇になれなかったと
するための虚構である。高貴な天皇家が朝鮮人を妻とする筈がない。
747 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 11:07:05
朝鮮人が聖徳太子を暗殺したことが証明された
日本書紀によると645年に大化の改新の政変が起こり、蘇我入鹿は中大兄
皇子と中臣鎌足らに暗殺された。それを目撃した古人大兄皇子は走って帰り、
「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、吾が心痛し。」と言った。朝鮮人が蘇我入
鹿を殺した。胸が張り裂けそうだと言った。史学会の学者は現場に朝鮮人がい
ないので、朝鮮の政治がらみで殺したと歪曲した解釈にした。騙されている先
入観でものを考えるから、判断を誤るのである。朝鮮人は中大兄皇子(百済王
豊璋)と中臣鎌足(新羅武王)らである。
大阪府にある野中寺の弥勒半跏思惟像には次のように書かれている。天智5
年(666)栢寺の智識ら、中宮天皇の大御身労き座しし時に詣り、誓願して弥
勒の御像を奉る。栢寺の縁者が中宮天皇の病気平癒を祈願して弥勒像を贈った。
中宮とは皇后と言う意味ではなく、宮に中(あ)たると言う意味で天皇を指す。
上宮が聖徳太子であるから、中宮は聖徳太子の子・高市皇太子、下宮はその孫
・長屋親王となる。高市天皇は毒殺された。
二人は天武天皇の血筋ではない。
天智7年(668)に中大兄皇子は天智天皇になる。23年間皇太子のままで
いたのはおかしい。成れない事情があったのです。高市天皇が亡くなって成れ
た。この時の斉明天皇は嘘。中大兄皇子が生まれた年は625年で、大海人皇
子は621年である。天武天皇の方が兄である。中大兄皇子の周りは胡散臭い。
文武元年(697)に軽皇子は文武天皇になる。高市皇子が亡くなるのを待っ
ていたように。この高市皇子は嘘で長屋親王である。この時の持統天皇は嘘。
女帝は聖徳天皇らを隠すための隠れ蓑の役割である。聖徳太子の暗殺を隠すた
めに645年を挟んで太子の事跡を前年にずらし、長屋親王が太子の孫である
ことを隠すために彼の事跡を後年にずらしているのです。
ワヲ。ここにも難解な文章を書く人が来ていたかw
記紀の記述を分析してシンプルに解釈しても読み解けるのにねw
私の書いたカキコ、関連があるのでこっちにも貼っておくわ。
(一部改正)
蘇我氏は、欽明体制以降、大和随一の豪族として、大和政権の基盤整備の
牽引車たる大活躍をしたが、皮肉なことに、学問や法が整備されればされ
るほど、自分達の今までの生活基盤が脅かされるようになってしまった。
用明天皇崩御のあと、蘇我の実力者は、群臣が納得するラインとして、
泊瀬部王を大王とした。
しかしながら、後世の一部のものが言うほど、蘇我一族そのものを憎んで
いたわけではないにせよ、「家来が自分の言うことよりも馬子の言うこと
を聞く」ことが面白くなかった崇峻天皇により、蘇我馬子は地位を奪われ
る立場に追い込まれそうになってしまった。密告を受け、馬子は大王暗殺
を画策、実行。古墳時代のこと、地位どころか命も召し上げられるかもし
れなかったからである。
さらには、厩戸王が勉学に励み、群臣に”理想郷づくり”の命令をすれば
するほど、かえって蘇我一族の存在を脅かすようになった。ただし、これ
に関してはさすがに暗殺は得策ではないと判断し、即位を引き伸ばすよう
に、政治工作した。
群臣の人気度や血の順位からすれば、厩戸王を即位させてもおかしくない
が、そうせずに、反対派を押さえ込む方法・・・
「厩戸王は学識に長けておられますので摂政をお願いいたします」(by
蘇我タテマエ)
つまりこれは、史上初の女帝の即位の背景の大きな要素のひとつである。
そして、馬子たち蘇我勢は、崇峻天皇の一件から以下のことを学習した。
すなわち、
「従来の大王候補者ではまずい。勉強にオネツな厩戸王はさておき、他の
候補者は政治的野心が見え見えで、どうも蘇我に分が悪い。ここはそれ以
外の方に即位していただくとしよう。」
「何?!まさか、蘇我から大王を出すつもりか?それは他の一族が黙って
はいまい。なによりも神の祟り・・・」
「落ち着け。そうじゃない。もちろん、古よりの大王の血を引く方に即位
していただく。」
「どういうことだ?よくわからないのだが?」
「姫に即位いただくのだ。額田部の・・・」
「姫?!それは前例がないな・・・でも、なるほど名案だ!そうすれば
押坂の王を推す者どもへの抑えも利く、ってわけか。」
ということである。
※ 額田部の姫は我が子竹田王の即位を夢見ており、押坂の彦人王の即
位を何が何でも阻止したい思いで一杯だった
文中訂正
つまりこれは→これは
そして→(削除)
751 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 23:30:06
厩戸
752 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 01:11:55
善徳
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
754 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 00:57:04
u-n
ko
756 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 09:20:56
淋しいなここ
今夜だよ!
今夜のNHKスペシャルを見れ
758 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 13:56:49
発掘!あるある甘樫丘、だっけ?
759 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 22:06:04
age
760 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 22:06:08
始 ま っ た ー
消化不良
ここまできたら鎌足の悪行を暴かんと
すごいインチキ番組だった
NHKみた感想。
天智天皇も中臣鎌足も守旧派(祭祀派・中国に強硬だが、危機感なし)で、
蘇我入鹿が改革派(律令派・対中国警戒派)だったんだけど、
守旧派の天智天皇たちが、入鹿らを暗殺した。
その後、改革は後戻りした。
しかし、それから10数年後、日本は白村江で中国に敗れ去る。
それから、天智天皇らは慌てて、方針を大転換、
中国式の律令体制を復活させた。
そのことは、天智天皇らにとって、日本書紀を記すのは
都合が悪かったということ。
よって、記紀では、蘇我氏を悪く書くしかなかった。
そういう内容だな。おおむね、まともな内容だった。
しかし、唯一、駄目な内容は、ちょろっと蘇我氏の渡来人説。
もちろん、一説には...と前置きだったけど。
蘇我氏は、姓は大臣だったから、武内スクネ系の皇別氏族。
日本書紀には、大夫(武内スクネ系しかなれなかった)が
隣国の女性に子供を産ませて、韓子と名づけたと書かれているから
これは、蘇我韓子のことだろう?
つまり、母方に渡来系の女性が存在したということだ。
764 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 23:33:06
受信料払うの嫌になった
765 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 00:10:44
さすが、発掘!あるある甘樫丘
>>769 どこがまともだよ。周囲の山に兵器庫を置いたのが扶余をまねたなんて
韓国人によくある思い付きに過ぎないものだ。
軍事の素養があったらそのような判断になるのは別に扶余のことを抜きにしても
自然な判断であって、他に根拠となる具体的な証拠があるならともかく
何もない。取り上げるべき発言では無いだろう。デンパでしかないね。
767 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 02:14:35
嶋の遺領は天皇家にとられちゃったんじゃないの?
加筆・潤色してあるから嘘だ、って
森ってヴァカ?w
じゃあ加筆・潤色する前は本当のことが書いてあったのかよw
769 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 04:03:08
>>763の書いた話が本当なら、とんでもないデムパ番組だったんだな
入鹿暗殺の首謀者は中大兄皇子、中臣鎌足ではなくて孝徳天皇他当時の大豪族というのは定説だし
逆に『日本書紀』を批判無く丸読みしてそのまま反映した頭の悪い内容だったような。
771 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 03:16:02
家伝上の記述から入鹿を「開明派」と位置付けたなら、当然鎌足も開明派にならないとおかしい。
中大兄派をアジア情勢を理解しない保守反動と決め付けたのには驚いた。
772 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 06:54:33
聖徳太子が死んだからって山背大兄王を殺すなんて理不尽だな!
俺だったら推古をまずヤルね!
773 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 08:40:47
774 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 11:01:27
>>770 >逆に『日本書紀』を批判無く丸読みしてそのまま反映した頭の悪い内容だったような
日本書紀の記述について批判的に取り上げていたよ。
大化の改新のあたりは当時の記述者(中国人)が犯さない古代中国語の誤りが多々見られると専門家の先生が述べていた
確かにあの戦艦CGは大げさだと思えるが、まだまだ研究の余地がありそうだ。
蘇我入鹿の「名誉回復」は道半ばということか。
なんか名誉回復しないといけないのかな。
あの番組みてたら最初からそういう立場で動いている人がいるように感じたんだけど。
いまから蘇我の名誉回復して、替わりに藤原の糾弾なんてできるんだろうか
778 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 22:10:11
>>772 山背大兄王の事件の時には既に推古は故人だよ。
・・・蘇我氏の名誉回復なら既に『日出処の天子』で(ry
780 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 02:34:48
名誉回復といっても捏造番組みたいなのじゃ駄目だろ・・・
むしろ逆効果だよ。
森の古代音韻学による日本書紀の研究は画期的であり、学会での評価も高い。
歴史誕生7『大化元年改新は成らず』(角川書店1990)に、注目すべき重要な指摘と通説の重大な問題点がある。
「大化の改新はなかった!?」(P-18)と題し、「藤原京の木簡が物語るもの」として、藤原宮から発見された木簡についての論考である。
執筆者は「出雲国嶋根郡」と書かれた木簡に注目、それが一緒に発見された他の木簡から701年以降710年平城遷都までの間のものと断定されていることを紹介。
また文武4年(700)の干支のある木簡の記述「若狭国小丹生評」と比較、「郡」と「評」一字の違いが決定的な意味を持っていることを指摘する。
この論考における結論は、この事実から「大化の改新はなかった」ということにある。
つまり大化改新の詔は、『日本書紀』編纂当時に通用していた大宝令によって修飾されていたことがあきらかになった(P-19)という。
同時に古代日本において、律令制度が形をなしたのは8世紀になってからということが確認された。
名誉回復する目的ありきで名誉回復させても意味無いよな。
名誉回復が目的ではなく、蘇我逆臣説が欺瞞であることを証明しようとしただけでしょ
反動クーデターで非道に滅ぼされた蘇我
中大兄はボンクラ
788 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 05:40:15
>>785 滅ぼされたのは蘇我氏じゃなくて毛人と入鹿だけ。
>>787 基本的にサヨの方が圧倒的に多いのがNHK。
790 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 09:30:11
>>788 いいんだよ、戦国北条氏だって"滅亡"したけど、明治維新まで大名として続いたんだから
しかし、「蘇我本宗家滅亡」と表現するのが一般的だよね
791 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 09:48:59
蘇我系王族集団である上宮王家を滅ぼした時点で
蘇我本宗家の滅亡は必然だったろう
まあ本宗家滅亡に手を貸した蘇我倉山田家も
滅亡してしまったがな
蘇我上宮王家滅亡
蘇我本宗家滅亡
蘇我倉山田家滅亡
これで用明系王統は完全に王位から見放され
蘇我氏も衰退して敏達系王統と藤原氏の天下になった
くだんのNスペは
「この板の住人なら既に知ってるような話を
犬hk独自の新発見の新情報!!!!111!!」
・・・と過剰演出した番組っつー事でファイナルアンサー?
邪論・暴論のNHKスペシャル
>>792 NHKの歴史スペシャルって毎回そのパターンじゃん。
あれは学会報道じゃない。バラエティなんだから当然だよ。
>>794 中国の脅威の存在という点で今も当時も同じなのか・・・
>>795 「あるある」みたいなもんだな。結果ありきで番組作ってるしね。
798 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 14:41:57
蘇我氏は朝鮮人である事が濃厚みたいな事いってて頭痛くなった
理由はまた名前からだしw
名前からいうなら逆だろと小1時間・・・
最近NHKがやたら蘇我氏の汚名を挽回しようと一生懸命だったのは
別の意味があるのかと勘ぐりたくなったw
飛鳥宮を守るような形に蘇我氏の建物がある事を、
唐への警戒としていたが…少々拙速な推定では。
まずは当時の国内に不穏な動きはなかったのか
考えてみるべきでは。
800 :
日本@名無史さん:2007/02/08(木) 02:59:54
>>798 名前って満智韓子高麗?
実在否定説もあるしなー。
朝廷を監視したり取り囲んで圧力かけてた可能性もあるしね。
802 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 21:47:34
NHKスペシャル 大化改新 隠された真相 〜飛鳥発掘調査報告〜
この番組は左翼中韓系プロパガンダそのもの
【番組内容】蘇我氏を東アジア諸国との連携を図った人物として執拗に持ち上げ賞賛。
→アジアとの連携(実態は中韓への迎合と屈従)こそが善とのイメージを植え付ける
【番組内容】対唐・対新羅戦を指導した中大兄皇子を愚か者として卑下。
→反日中韓への迎合と屈従を良しとしない者を貶め、否定的イメージを植え付ける
上記の目的を効果的に達成するための洗脳手段として
@専門家のコメントを、都合の良い部分だけを持ってきて、捏造説を権威付け
A視覚効果の高いCGを多用
Bベテランアナウンサーによる迫真のナレーション
C自説に都合の悪い物は無いものとする
この番組により左翼中韓系プロパガンダが古代史にまで浸透した実態が明らかとなった。
803 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 23:38:01
>>802 こんな意図で持ち上げられたんじゃ逆に蘇我氏があの世で嘆いてそうだな…。
しかしCG在り得なさ過ぎだろww
この番組始めて見たんだけどもしかして何時もこんな突っ込み所満載なのか?
804 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 02:08:13
中大兄派を外交音痴の保守反動と断定したが、新羅派の大海人皇子の存在がすっぽり落ちてる。
入鹿と中大兄の対立はしょせん百済派内部の主導権争いにすぎない
805 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 02:36:27
こんなところにまで反日の魔手が…。
>>783 大変興味深い内容ですね。
山川の教科書に目を通してから読んでみます。
大和朝廷から大化の改新、壬申の乱を経て奈良時代と・・・
まずは家捜ししないとなー
>>806 古代史ファンの間ではなつかしいというか、古くから改新否定派の典拠になってます
808 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 00:01:01
大化の改新は本当はなかったかもしれない?
大化の改新と申しますのは、蘇我氏(蝦夷・入鹿親子)が朝廷内で実権を握るよう
になり、天皇を亡き者とするようになったので、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を暗殺・滅亡
させて、天皇親政を取り戻して、律令体制を築いたもの。
このように日本書紀には書いてあるそうです。
私達も学校の日本史の授業でこのように教わりました。
しかし、最近の研究からは、これを疑問視する考え方が主流で、大化の改新はなかったと
言われるようになっています。
即ち、蘇我氏には天皇家に謀反の動きはなくて、むしろ忠臣であったのかもしれない。
中大兄皇子と中臣鎌足は、その外交政策などの対立から蘇我氏を滅亡させたのではないか?です。
その理由なのですが、
理由その1)
日本書紀には、蘇我蝦夷・入鹿親子は「甘橿(あまかし)の丘」、にそれぞれ豪華
な邸宅を構えて、蝦夷の邸宅は「上(うえ)の宮門(みかど)」,入鹿の邸宅は「谷(はざま)の宮門
(みかど)」と呼ばれたとあります。
しかし、その後の発掘調査から、豪華というよりも、質素な邸宅であることがわかっています。
しかも、平坦な土地に建てられたのではなく、険しい斜面にわざわざ大土木工事をし
て、盛土によって土地を平坦にして建てられていたそうです。
周囲には柵が設けられて、その内側には兵士の住居や兵器庫が並び、お城のような建
造物であることがわかっています。
また天皇の宮殿を守る上で、軍事上の拠点に建築されていたそうです。
蘇我の馬子が建てたとされる飛鳥寺(この寺も有事の際は要塞になるものでし
た。)と蝦夷・入鹿の邸宅は、東西が山に囲まれた天皇の宮殿に対して南北から侵入する
外敵からそれを警護するような構えになっていたことがわかってきました。
蘇我氏は天皇家を守ろうとしている様子があります。
809 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 00:02:36
理由その2)
この時代は、中国で「唐」が強大な力を持つようになった時代で、周辺諸国を脅かしていました。
これまでの日本は、「百済」一辺倒の外交でしたが、蘇我氏は唐・高句麗・新羅とも
万遍なく外交をしようとした形跡があり、早くから大陸の情勢に明るかったとみることができます。
蘇我氏は、唐が我が国を侵略することを恐れて、唐と友好関係を樹立していこうとし
た形跡があります。これがこの時代から始まった「遣唐使」です。
唐と親睦を図ることによって、唐の倭国侵略を防ぎながら、反面として万一に備えて
宮殿の警護を固めていたと推測することができるのです。
理由その3)
大化の改新があったとされるのは645年で、中大兄皇子が「唐」の大軍と戦って大敗
したのが白村江(はくそんこう)の戦いですが、この戦いが663年です。
この645年から663年までの18年余りの間なのですが、この間に日本書紀に書いてある
ような大改革があった形跡がなく、
むしろ遣唐使は廃止されて、外交は再び百済一辺倒に戻った形跡があります。
810 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 00:03:26
理由その4)
白村江(はくそんこう)の戦いに大敗した中大兄皇子は、この頃(大敗の後)から、
倭国の防衛に没頭するようになり、九州地方から畿内に至る要所に沢山の要塞が建造
されています。
理由その5)
日本書紀には、大化の改新について書いてあるのですが、明らかにその部分につい
て、後からかなりの分量が加筆されていることがわかっています。
これらの理由から、大化の改新は本当はなかったのではないか?
蘇我氏と中大兄皇子は、主に外交政策の違いから敵対するようになったのではないか?
そして、どちらかと申しますと、蘇我氏の方が正しい政策を実施しようとしていて、
中大兄皇子が保守的であったのではないか?
このように考えられるようになっているのです。
白村江(はくそんこう)の戦いで大敗した中大兄皇子は、唐が倭国を侵略することを大変恐れるようになり、
大防衛システムを国をあげて整備するためには、それまでの地方分権的な統治では無理があるので、
天皇を中心とした中央集権的な律令体制を目指すようになり、ここで大政治改革が必要になったと推測されています。
これが現在の主流的な見解なのだそうです。
蘇我氏は、天皇家の忠臣であった。
この可能性が出ているんです。
811 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 00:39:35
>>810 Nスペの繰り返しはもういいよ。
鎌足だって定恵を入唐させているよ。保守派とはいえない。
812 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 00:50:08
ん〜その18年間て本当に改革がないんかね?
評の設置って結構な改革だと思うけど。
鎌足はチョソだからな
814 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 00:24:13
関祐二光臨ktkr
815 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 01:06:05
難波長柄豊碕宮見てみ。
前代の宮とはだいぶ違うぞ。
先々週のNHKの特番の感想。
敵が攻めてきても無視して宮殿を攻撃できるから
宮殿と蘇我氏邸の川を挟んだあの位置関係じゃ詰城にならない。
画面右側の丘に邸宅を築いたのなら詰城と呼ぶ事も可能だが
あの位置関係だと通常、攻撃目的の付け城と呼ぶはず。
谷のミカド
上のミカド
子らはミコ
厩戸の一族は上宮王家
蘇我氏の血の入った大王一族(用明・推古・厩戸=上宮王家)
蘇我氏の血の入らない大王一族(敏達・舒明・皇極・天智)
蘇我氏も大王だったのを国史編纂の過程で複数王家から単独家系の王制に書き換えただけでは。
817 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 04:32:25
NHKの歴史番組って何時もこんなに酷いの?
中韓がからんだから?
818 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 10:43:00
蘇我氏は男系で見たら、皇族の出なんだよ。
でも、母方に、渡来系の人がいたらしく(日本書紀によると)
そういう意味で、外来に興味が深かった。
819 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 10:44:14
820 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 00:40:05
>>818 日本人が蕃女を娶って韓子って子供を設けたって話の韓子と蘇我氏の韓子が同一人物だって説だっけ?
でも稲目以前は実在の人物じゃなく創作されたものだって説もなかったっけ。
821 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 01:54:43
稲目以前は捏造というのは
たとえば加藤謙吉説にくわしい
>>817 中韓絡んで無くても酷いぞ。
石田三成と高台院の関係の話で今では疑問視されている高台院=東軍説を流して揉めたらしい。
823 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 17:49:59
ほほーい
824 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 14:18:27
チャート式日本史・門脇禎二先生の遺業をしのび
黙祷!
マジご昇天されてた・・・ナムナム(-人-)
改新虚構説というか、書記による改竄説のパイオニアだったからなあ(←門脇センセ)
奇しくも最後にテレビに出た姿が、前レスで話題に上っていたNHKの番組みたいだね。
827 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 15:07:16
蘇我氏を開明・革新派豪族として応援したのも門脇先生でした
追悼!
828 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 15:10:50
欽明天皇ぐらいから急に活躍しだす蘇我稲目、
どういう経緯で大臣にまでのし上がったのかな?
蘇我氏は、それ以前の活躍がほとんど描かれないから、不思議。
829 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 16:31:32
蘇我満智=モクラマンチ説を主張しておられたのも門脇先生
830 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 19:00:07
葛城とか平群って突然活躍しだしてはないの?
831 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 19:15:51
葛城、平群は、欠史八代がすぎるとまもなく、
史料の中に登場するよ。
大王の命でどこそこに征討にいったとかね。
特に頻出してくるのが仁徳天皇以降で、
ほぼ、史実と思われる大王の登場と時期を同じくしてるんだよね。
でも、蘇我は欽明あたりまで登場しない。
それ以前の活躍が描かれないんだよね。
832 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 21:04:30
蘇我氏の急成長を外戚関係にあるとする説は一般に広く受け入れられているが
河内系から継体系をつなぐ外戚の春日・小野一族がほとんど活躍してないことを考えると
はたしてそれだけでいいのかと思っているのは私だけだろうか
833 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 23:02:29
関西では今夜0:10からNHKで門脇禎二先生の追悼番組(その時歴史が動いたのアンコール放送らしい)
が差し替え放送されるようだ。関東では流れないみたい。
834 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 09:14:50
>832
用明以降の蘇我氏の活躍が外戚関係にあるのはわかるが、
なぜ、蘇我稲目が欽明天皇の後宮に2人の娘を入れることができたかも含めて、謎なんだよね。
稲目は欽明朝で忽然と大臣に昇格して天皇に二人の娘をいれ、その子は天皇になっている(用明、推古)。
采女として差し出された地方豪族の娘や、畿内中小豪族和邇氏、春日氏を外戚とする天皇が出ていないところを見ると、
蘇我氏は欽明朝において相当勢力を持っていたと考えられるのだが、そのいきさつが不明。
欽明天皇と蘇我稲目の間には血縁関係はないからね。
娘を天皇の後宮に入れることができたのは、稲目が権力を握ったことによる結果論だからね。
835 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:00:46
蘇我氏がもともと葛城氏の被官で、その地位と勢力を冒したという説は
信憑性ある?継体朝成立の過程でくら替えした、または擁立に功績が
あったという線で。
836 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:39:33
その割には、葛城氏が滅びた雄略朝から、欽明朝までの間、
全く史料に出てこないのが気になる。
葛城氏の滅亡によって勢力を得たのなら、直後から出てきてよさそうなのだが。
継体天皇を擁立したのは大連大伴金村であって、
この段階でも蘇我氏はまだ出てこない。
蘇我氏はその勢力範囲からも畿内の豪族で、
継体の出身にまつわる近江や越前の豪族でもないし。
837 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 21:21:32
稲目の初出は宣化紀だったよな。それが一番不自然だろ。
宣化に一人も妃をいれてないんだし。
838 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 23:56:07
稲目は橘仲姫と関係あったから
839 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 03:28:32
蘇我氏の故地に安閑天皇の宮が築かれたこと。
稲目は、許勢氏に替わり、安閑の同母弟・宣化天皇の時に大臣になっていること。
安閑・宣化・稲目の実生年は500〜505年頃で、ほぼ同年代であると思われること。
宣化天皇の那津整備の詔において、皇室・物部氏・阿倍氏は同族をして穀を運ばせるというのに対し、
蘇我氏は、(父系では繋がらない)尾張氏を遣わしてそれを行うよう言われていること。
尾張氏は、安閑・宣化天皇の母方の実家であること。
その尾張氏が築いたであろう6世紀前葉の断夫山古墳は、ハッキリ言って「デカい」こと。
さらに尾張氏は、大和の葛城の地にゆかりがあること。
稲目には屯倉経営に関わる記事が見えるが、雄略朝の満智にも三蔵を管理したとの伝承があり、
もともと蘇我氏は、財務管理的な職能に長じていた可能性があること。
これらもヒントになるか。
840 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 09:00:58
もともと畿内豪族であった蘇我氏が、安閑・宣化兄弟の母方、尾張氏と親しかったために、
安閑・宣化に取り立てられた可能性があるってことかな?
しかし、仮にそうだったとすると、
安閑・宣化天皇の異母弟欽明天皇になぜ退けられなかったのかが気になるな。
異母兄安閑・宣化の皇子たちを退けて、自己の皇統を確立した欽明天皇が、
安閑・宣化の外戚と親しい豪族を取り立てたとも思えんからな。
841 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 10:16:23
要は、「安閑・宣化」と「欽明」の対立図式という、
いつの間にかまことしやかに唱えられるようになった定説を、
疑えってことだな?
842 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 10:57:59
尾張氏のつながりで蘇我氏が取り立てられて、欽明以後発展していくとすると
「安閑・宣化」と「欽明」の間に対立はないと。すると「安閑・宣化」は
やはり大王にはなっていないというのが妥当…?
蘇我氏の発展過程を解明するのは結局妄想するしかないのかね。なにか
手がかりになる資料はないのかな。
843 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 15:46:25
尾張氏が中央政界にでてくるのは天武期以降だから、つながりがあったとしたら
蘇我氏が尾張氏よりはやく進出するのは不自然ではないか?
自分は二朝並立論には懐疑的だが、この時期の書紀の記述にはたしかに錯綜が多い。
稲目が本当に宣化期にすでに要職にあったかどうかは疑問が残る
844 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 16:11:01
日本書紀、古事記の元となった史料を参考にしたと考えられる
「上宮聖徳法王帝説」では、欽明天皇の在位期間が2年長くて、
安閑、宣化の在位期間が削られていると考えられている。
継体のあと即位したのは、欽明であった可能性も高い。
すると、在位の怪しい宣化天皇と蘇我稲目を結びつけるのは厳しい気がする。
やはり、稲目は欽明朝に、尾張氏とは関係なく権力を握ったんじゃないのかな?
845 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 03:17:14
聖徳太子 =源実朝(飾り)
推古天皇 =北条政子(表向きの権力者)
蘇我馬子 =北条義時(実質的な権力者)
ということでいいでつか?
846 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 07:04:29
旧皇族とは言え、臣下で天皇暗殺を大化の改新まで、事実上揉み消してこれた権力は、以降、孝明天皇の噂以外には皆無。
847 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 18:08:40
聖武天皇の皇子安積親王は、藤原氏による暗殺だろう。
まあ、それ以外にも可能性があるのを言い出したら、きりがない。
蘇我氏が特別だったわけじゃない。
848 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 00:02:53
天皇が暗殺されるのと王族が暗殺されるのは全然違うんだが
849 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 00:34:30
宮内庁的には弘文天皇は物部氏に殺されたことになるが…
満智のあと、韓子・高麗がいずれも短命だったからね、
稲目が成長して表舞台に出てくるのに、ちょっと時間がかかっただけ。
別に急に出てきたわけじゃない。
851 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 08:31:26
蘇我氏滅亡後に成立した日本書紀には、蘇我氏の悪事が書かれやすい。
逆に、ずっと存続した貴族や公家がおこした悪事は史書にはかかれない。
そういうもんだよ。
852 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 09:17:21
中大兄皇子が立てこもった寺が、蘇我が建てた飛鳥寺だと言うのが謎だな。
鎌足と計画を練ったのもそこだと言うし。
853 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 09:26:31
蘇我氏の氏寺であること、蘇我邸との地理的関係、諸豪族へのアピールを考えれば、
あそこは押さえるでしょう、普通。
854 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 09:26:39
法隆寺の夢違観音像のモデルで在られる崇峻帝の暗殺、による日本国家の再生、確立つまりキリストの磔と復活に蘇我馬子は、なぞらえて、仏教景教の導入により、日本国家を鎭護せしめた。
855 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 09:30:41
そんな寺で暗殺計画根ってたら、蘇我に情報が漏れまくりだと思うが成功してる。
不思議だ。
856 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 09:31:15
仏教伝来のときに大臣であり、仏教導入を最初に進めたのは、馬子の父稲目のはずだが。
キリストなんぞ、関係なし。
857 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 09:35:20
計画を練ったのは、多武峰の談山神社。
858 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 09:37:56
暗殺計画ねってたのは、不比等の所領(今の談山神社)だろう。
飛鳥の地を出た、山の中だよ。
飛鳥寺でねってたなんていう史料が、あった?
入鹿暗殺後、中大兄皇子がすぐさま兵を率いて飛鳥寺に入ったのは事実だが、
母皇極天皇がいる板葺宮を戦場にしてはならない以上、
当時の飛鳥で、王宮でも蘇我氏の屋敷でもなくて、立てこもれる建物といったら、
あそこぐらいだろうが。
859 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 09:39:49
>858
不比等→鎌足
すまぬ。
860 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 09:51:14
鎌足と出会ったのが、飛鳥寺での蹴鞠だね。
861 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 18:58:45
談山神社は大化の改新の時代には存在しないのでは?
862 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 19:17:01
>861
多武峰のあたりに、鎌足の所領があった。
そこに行って、密談していたんだよ。
当時はまだ、神社はなかったがね。
山中なら、大丈夫。
飛鳥からは結構険しい道のりだが。
鎌足の長男が、のちに父の所領に寺を建てたのが、
のちに談山神社となる(明治になるまでは神仏習合だった)
863 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 19:32:54
そやね。
現神社の裏山で談じあった。
それで「談山」やね。
>>862 『家伝』(奈良時代成立)に出てきたのは多武峰で談義、と言う所まで。
そこが鎌足の所領だったとか
そこに建てた寺が現在の談山神社というのは
鎌倉時代成立の『多武峰縁起』当たりが初出じゃなかったか。
865 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 21:14:06
寺は軍事要塞だからね
中臣などの神祇氏族が寺を建てるのも、財政、軍事、学問上の必要があってのこと
山背大兄王の斑鳩寺も軍事基地だったし
866 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 08:59:51
飛鳥寺はすんなりと中大兄皇子たちを受け入れたのかね?
拒否されていたら挟み撃ちになったと思うが、事前に寺と話が出来ていたんだろうか?
867 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 09:08:35
寺が武装するのはもっと後の時代だから、
蘇我氏といえども、氏寺に兵はおいてなかったんじゃないか?
飛鳥寺は、蘇我氏と縁の深かった天皇家の庇護も受けていたし、
蘇我氏という一豪族の私有物というよりも、あたかも公共の建物のような
位置づけだったと思うのだが。
868 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 09:14:11
>864
少なくとも、天武期には多武峰の地に「妙楽寺」という寺があったようだね。
社伝では、鎌足の長男定恵が帰朝後、父の墓をこの地に移して妙楽寺を建てたとしているようだけれども、
この記述を疑えということかな?
平安時代、藤原高光(藤原道長の伯父)という人物がここで出家しているね。
870 :
869:2007/06/19(火) 10:39:32
そういえば大化改新のかなり後になるけど
斉明天皇がここに両槻宮というのを作ってるね(『日本書紀』)
半島関連に備えての軍事要塞という説とか、宗教施設という説もあるが
蘇我氏から離れて脱線してきたので失礼する
871 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 10:43:13
藤原不比等の墓が建てられて、そこに寺が建立されたと言う説もあるね。
872 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 11:20:26
>864
それより先に成立した
「多武峰略記」(平安時代か)に同様の話があるみたいだね
日本書紀には鎌足がどこに葬られたか、改葬されたのかはかかれず、
茨木市の古墳が鎌足の墓か?、と騒がれるのは、
この文献によるものらしいが
大織冠出土したじゃん
>873
え?????
古墳から出たのは、鎌足のものかもしれない!
と騒がれた、骨壷だけだろ?
大織冠なんて出てないよ
は?
もしかして10代の方ですか。
当時すごいニュースになったんですが。
阿武山古墳。
876 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 11:42:16
金糸が発見されて、それが冠に使われた物かも?という話だね。
当時は、枕ばっかり目立ってたけどね。
>875
阿武山古墳からの出土品を述べよ。
ググってよ。すぐに見つかるから。
879 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 20:12:11
阿武山古墳の比定は、
「多武峰略記」の記載に基づいたものでしょ?
この史料がなければ、それが鎌足のものだとはわからない。
金糸が出土したからって、それが大織冠ということにはならないでしょ?
ようは、「多武峰略記」の信憑性を言っているの。
同じ史料に、息子定恵が多武峰に寺を建てたと出ている。
881 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 00:51:01
えっと、法興寺の話から始まってたんだっけ?
蘇我蝦夷の兄の蘇我善徳が寺司をしていたよね。乙巳の変まで生きていたかは定かではないが
法興寺にも石川麻呂や高向国押など同族にもつぎつぎ裏切られたってことだな
882 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 08:41:01
蝦夷の庶兄雄正はあまり史料に出てこないが、
雄正の系統は、異母弟蝦夷に好印象をもっていなかったということかな。
雄正の子、石川麻呂、赤兄、果安、連子らの兄弟はいずれも蘇我宗家を裏切り、
中大兄皇子に取り入っている。
その石川麻呂も、弟の日向に裏切られるわけだが。
蘇我氏内部の権力争いに乗じた事件だったということはいえるだろうな。
小学校の頃に読んだ「天智天皇」って歴史漫画の入鹿は
目が吊り目ですげー悪人面に書かれてたっけな
馬子は小心者の小役人みたいだったっけ
884 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 09:38:10
雄当の系統は「倉」の名を負っているところを見ると、朝廷財政に力をもっていたのではないか
つまり蘇我氏内部で職掌分化が起こり、それが対立に発展していった
885 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 09:47:29
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| \____/ | へ〜〜、みんな歴史に詳しいんだね〜〜〜♪
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千葉の蘇我にある蘇我比め神社の祭神の「蘇我姫」ってやっぱり蘇我氏なのかな?
由来はヤマトタケルのために海に身投した弟橘媛と一緒に身を投じた姫が
助かって流れ着いた場所らしいけど…
887 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 16:32:14
どこかで読んだんだけど
蘇我倉山田石川麻呂
名前は麻呂、姓が蘇我倉山田石川。
姓の意味は
蘇我の倉、山田(地名)、石川(地名)
だって本当?
888 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 18:21:47
名前は石川麻呂じゃね?
いや、887の言う通り。
『日本書紀』に蘇我倉山田麻呂、蘇我倉山田石川麻呂臣、蘇我山田石川麻呂大臣、
蘇我石川麻呂大臣、蘇我倉山田麻呂大臣、麻呂大臣、蘇我山田麻呂大臣などと
見えるから、名前は麻呂。特に、皇極四年六月甲辰(八日)条に
中大兄、密かに倉山田麻呂臣に謂ひて曰はく(中略)麻呂臣、奉許す。
とか、あるいは大化五年三月戊辰(廿四日条)に
蘇我臣日向、倉山田大臣を皇太子に譖じて曰はく「僕の異母兄の麻呂(後略)
などとあることから明らか。
890 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 19:19:08
孝元天皇の末裔・武内宿禰後胤の傍流である蘇我氏が権力を承諾できたのは
武内宿禰後胤の嫡流である葛城氏が謀反が原因で最大の要因だろう?
蘇我氏の領地と葛城氏の領地がもろダブル。
最近、外国で出版された天皇家・ヤマト王権の本に
蘇我氏は300年間、権勢を振るっていたと書いてあるから
おそらく、武内宿禰からカウントしたんだと思う。
武内宿禰の祖父・彦太忍信命の支配領域は
後の武内氏〜葛城氏〜蘇我氏と子孫に受け継がれている。
891 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 19:31:57
>890
あっちこっちにマルチポストで貼らんでくれ
かんじが おおくて よめないよ?
893げっと
894 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 00:31:47
うほ
895 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 18:49:53
武内宿禰の活躍のほとんどは架空だろうが
蘇我氏は葛城氏の被官の出身だったとは言われている
葛城氏と蘇我氏がその昔血縁関係にあったかどうかは
推測するしかない
被官なわけねえだろ
馬子と入鹿で馬鹿
保守age
899 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 23:01:47
渡来人らしいな
900 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 08:41:25
百済人
901 :
霰黒齊:2007/12/24(月) 12:52:33
木ライ氏との関係は?
直系ではないが姻族関係にあったのでは?
先に石川の蘇我が木ライ氏と姻族関係を結び、そののち葛城の蘇我と同化した可能性は?
902 :
日本@名無史さん:2007/12/26(水) 16:31:05
雄略朝に滅んだ葛城氏と
欽明朝に忽然と現れる蘇我氏を結びつける積極的な要素がない
蘇我氏の本拠地が葛城県蘇我里にあったのではないかという憶測から
葛城地方をその昔支配していた葛城氏と結びつける向きもあるが
憶測の域を出ない
6世紀には蘇我氏の本拠地は飛鳥にあり
これによって蘇我氏を母方にもつ大王がこの付近に住んだことは確定
903 :
霰黒齊:2007/12/26(水) 19:02:13
オアサヅマ若子スクネは葛城に縁の有るものでは?
ツブラや玉田は今でも地名として残っている。
それは曽我川上流域だ。
朝妻からツブラ、玉田、そして馬子へと継承された何かがあるのでは?
だから馬子は葛城の領有権を主張したのでは?
さらに考えるなら葛城を滅ぼしたオオの勢力にたいする権力抗争では?
そして葛城に権力が戻ったとやさきに、またしてもオオの勢力に権力を奪取された。
それが大化改新!
904 :
霰黒齊:2007/12/26(水) 21:32:00
俺は王権は並立していたと考えるんだ。
オオ王権
イソ王権
トミ王権
タジヒ王権
カツラギ王権
そしてそれらが血縁関係を持ち複雑に入り組んて権力闘争と領地簒奪を繰り返したと見ている。
905 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 14:07:45
葛城氏はその昔、仁徳天皇の皇后をも輩出した名門。
(正確には皇后でなく大后だったろうが・・・)
蘇我氏が名門葛城氏の血を引くならば、
はっきりそれを示すことで娘を天皇の大后に立てることも出来たのに、
なぜそれを史書が伝えなかったのかが疑問。
むしろ人臣皇后の先例に利用したのは藤原氏
907 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 13:05:40
藤原光明子が皇后になるまでは、
皇后は皇族限定だろ
皇后が夫の死後、そのまま天皇になることもあるんだし
当時蘇我氏の権勢が凄くても、一般民の娘が皇后になることは不可能
908 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 13:08:05
皇后という位自体、
天武天皇の頃にできたといわれているのだが。
はじめての皇后が持統天皇、
初めての皇太子が草壁皇子。
皇后という称号は皇太子という称号と
同時に出来た。
中国からの輸入だけどね。
909 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 13:10:08
そうそう、天皇の称号も天武天皇のときにできた。
天武天皇のときに「天皇」号が存在したことは
木簡で確認されている。
910 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 15:13:49
>907
その光明子が立后するときの口実が、
「仁徳天皇の皇后に臣下出身の葛城磐之媛が立てられた」
というものだったのだが。
タテマエとしては、光明子は人臣初の皇后ではないわけだよ。
911 :
霰黒齊:2007/12/28(金) 19:09:24
仁徳もオオササギとイオキイリヒコと他にも複数同時代の族長が比定されるのでは?
磐姫自体は磯野や堅塩と地名が連想されるから葛城の人間に間違いないだろう。
ただ、誰と婚姻を結んだかだな。
基本的には葛城は河内と通婚関係にあると考えられるが…
桜井のオオササギ
天理のイオキイリヒコ
も有り得なくもないだろうな?
912 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 20:40:24
磐之媛は御陵が佐紀盾列古墳群にあることから実在の人物ではなく
伝説上の女傑を奈良時代に皇后化したものと考えればよろしいのではないでしょうか?
913 :
霰黒齊:2007/12/29(土) 00:01:59
佐紀タテナミには二つの系統があるのわかりますか?
914 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 09:52:49
>>912 磐之媛の夫仁徳天皇、ならびに磐之媛の子である履中、反正、允恭が
倭の五王との絡みでも実在したことがほぼ確実であると言う点からも、
磐之媛はほぼ実在の人物であると見て間違いないのではないでしょうか?
皇后という称号がこの頃あったか別問題。
葛城氏は、履中天皇の妃葛城葦媛、雄略天皇の妃葛城韓媛などを輩出し、
この時期天皇家とさかんに血縁関係を結んだ豪族であることは確か。
915 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 09:51:55
葛城氏が没落したのち和迩氏(春日・小野)が外戚関係を深め
欽明以降に蘇我氏が外戚を力に勢力を伸ばす。
ただしこの時期は皇位継承に明確な嫡系思想が確立していないから
蘇我氏の台頭は結果論という面も否定できない
916 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 11:05:06
和迩氏を母方に持つ天皇は存在しませんでしたね。
雄略天皇などにも和迩氏の娘がいましたが、
雄略天皇が一晩手をつけただけの采女と書かれてあり、
葛城氏や蘇我氏のような大豪族ではなかったようです。
大王家の外戚と言うよりは、
大王家に娘を貢ぐだけの豪族だったのでは?
采女と書かれてあることがそれを物語っています。
917 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 11:23:04
童女君の話を創作した目的はなんだったのでしょうか?
またなぜこの話は古事記にないの?
918 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 14:37:40
919 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 16:30:24
>>810 大化の改新はなかったというより、暗殺者が自身のテロ
行為を正当化するためにでっち上げた話って事だよね。
皇族などの殺害を繰り返していたのは蘇我氏。
その蘇我氏の征伐がテロ行為かい。
皇族って誰のことなのか詳しく聞きたいな
923 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 16:41:46
蘇我氏の皇族殺害(今、思いついたものだけ)
崇峻天皇殺害
穴穂部皇子殺害
山背大兄王殺害
宅部皇子殺害
924 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 17:18:25
崇峻天皇については暗殺だわな
だけどそれ以外はすべて戦をして攻め滅ぼしている
つまり皇子の側が弱すぎて蘇我氏に負けたわけだ
蘇我氏が物部氏を滅ぼしたのと同じ
テロなわけがない
925 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 17:23:04
おそらく中大兄皇子や中臣鎌子が
蘇我蝦夷、入鹿親子と対等に戦をしていたら負けていただろう
そこで思いついたのがテロ(暗殺)
武器を持たず一人になったところを見計らって殺すやり方
蘇我氏は意外に正当なやり方で敵を滅ぼしているよ
入鹿殺害のことは皇極天皇すら知らず
天皇はショックで位を去っているしな
926 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 18:37:54
入鹿暗殺は新羅の金春秋の話の改変らしいから
実際は古人大兄のいうように韓人による
大義名分のない卑劣なテロでいいと思う
蘇我氏による数々の皇族殺害は事実。
それを否定するのは
「本能寺の変で明智光秀は織田信長を殺害していない!」
「正当な戦闘で戦死させたのだ!」
というようなもの。
928 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 22:03:13
蘇我氏が気に入らない相手を誰でも暗殺など用いなくても
殺せる状況にあったことが蘇我氏専横の証。
強大な力を握り専横の限りを尽くす蘇我氏を排除する
には暗殺という手段しかないのはむしろ当然といえる。
929 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 19:28:40
中大兄皇子が即位するには、
蘇我入鹿を暗殺(テロ)するしかなかった。
中大兄皇子がテロをしなかったというのは
「本能寺の変で明智光秀は織田信長を殺害していない!」
「正当な戦闘で戦死させたのだ!」
というようなもの。
930 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 20:20:28
中大兄皇子は生まれついてのテロリスト
931 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 20:36:45
雄略のモデルが中大兄皇子
932 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:16:01
蘇我氏って渡来人だろ?
933 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 23:06:17
渡来人に国を乗っ取られそうになって、あわてたのが古株の中臣氏。
以来、東洋系渡来人への待遇は現代に至るまで下降線を描き続けている。
934 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 23:47:08
壬申紀の近江側の描写を確認してみてください
なぜか韓人将軍が大活躍しています
935 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 23:52:38
鎌足こそ韓人ぽいが
936 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 09:36:57
鎌足は中臣氏の一族だったとされるが系譜不詳。
父母が誰だったのか、日本書紀に書かれてない。
猛烈電波ホイホイスレ
日本書紀では豪族の系譜関係が書かれていることのほうが稀。
>>936 母は大伴夫人となっているが、名前は不詳。
鎌子は百済王子
中大兄皇子こそ百済王子
大海人皇子は高句麗将軍
と、まあ電波本ではやりたい放題…
940 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:22:20
蘇我氏渡来人説にはかなり苦しい面もあるが
その基盤が最有力渡来人の東漢氏に支えられていたのは確か。
韓子はもとより高麗や稲目の母も半島人や渡来人の可能性は高いと思う
こういう人は倭人?渡来人?
今風に言うなら…在日か。
943 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 23:48:33
そもそも東漢氏の活動目的はなんだったのか?
944 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 23:51:27
鎌足、茨木出身になってる。
946 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 07:28:36
その裏家業を規制されたから中の入鹿殺しに荷担したのにら納得
947 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 14:32:18
乙巳の変が無ければ、その後の歴史も変わってただろうな
948 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 12:26:53
唐の矛先が百済の残存勢力から新羅に向けられ
他のニ国と共々早期に滅亡する可能性高まったと思われる
唐が次に狙うのは当然。。。
949 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:35:43
蝦夷が大臣を継いでるということは蘇我善徳は早世したのだろうか。
950 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 22:23:16
蘇我氏が半島との貿易で利益を得、のし上がってきたのは確定。
韓子は名前ではなく半島人とのハーフのことらしい。
がしかし、それが名前であっても不都合は無いので保留かな・・・
蘇我は工藤家になって続いてるとみていいのか?
952 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 20:12:26
石川氏だろ。
工藤の藤は、藤原氏だろう。
953 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 21:49:01
中世の曾我氏は古代蘇我氏とは関係なさそうですね
◆蘇我氏の名前はあれはおかしい!本当の名前じゃ無いだろ!後になって編纂時に付けた〈仇名〉でしょう!
〈韓に高麗〉〈馬に鹿〉〈蝦夷〉付けないよ!親なら絶対に
◆蘇我はあの世で怒っている…きっと!
〜1500年も〈馬・鹿〉にしやがって!本当の名前を調べろ。教科書直せ!と〜辱めるに程がある。
確かに言えてる
957 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 14:44:06
馬子の長男は「善徳」。「蝦夷」とはえらい違いだ。
958 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 16:24:48
それだけ他の豪族たちからも嫌われていたんだろうな
天武天皇も当時のことを覚えていただろうし
959 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:37:08
>>957 「善徳」は法名。
日本で初めて出家をした善信尼にみられるように
尊語の漢字で法名を定めるのは中国や百済の影響で
日本においても仏教伝来当初から行われていた。
ちなみに、善信尼の出家前の名前は「嶋」。
馬子の長男は庶子であったために仏門に入れられていた。
次男の蝦夷は馬子の正妻であった物部守屋の妹を母とし
馬子の嫡子だった。
960 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:29:15
961 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 21:49:08
蝦夷って目立ってないよね?
まるで偉業を「誰か」に取られたみたいに。
偉業なんて、そもそも無いんだろう。
軽皇子も一枚噛んでたみたいだし
外堀を埋められてるのに気がつかなかったのはちょっとね。
蝦夷も自殺じゃなくてどこかに落ちのびて、
余生を全うすればよかったのにね。
そうすれば聖徳太子と蘇我氏で書いた歴史書も焼けずにすんだのに。
あの時代を理解するのは難しいよな!面白いのに。
大河ドラマで一回やってみたらいいのに…
>>965 大河になるとしても、「原作・黒岩重吾」だったりしたら
かなりの駄作になりそうだな。
そうか?
でもあの辺の原作になりそうな小説かいてる人って黒岩重吾ぐらいしかいないのでは
あとはデムパordqn作家ばかり
968 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 12:32:43
平安中期以前が大河になったことってほとんどないよね
神武神話が崩れていくからか?
>>968 衣装代の問題
定説というのが固まってないので殺到する(と予想される)抗議にNHKが対応しきれないから
原作に適当な小説がない
・・・などいろいろ理由は言われているが不明
尺が持たないと言うのも理由ではないかな。
ちなみに内容はおいといてw蘇我氏が出てくるTVドラマ自体は
『大化改新』(2005年NHK正月ドラマ)
『額田王』(1980年朝日放送特番)
がある。
>>970 聖徳太子のドラマもあったよな。
『額田女王』は藤田まことの蘇我赤兄だけがなぜか
印象に残っている。原作は井上靖だったと思うが
これはリメイクされてもいいように思う。
聖徳太子・推古天皇の時代に生きた秦河勝は、秦氏伝承の中心的・始祖的人物であり、
推古十一年に聖徳太子が、仏像を得て、それを秦河勝が進んで奉斉ることを引き受けて
いる。
その仏像奉斉のためにつくられたのが後代の広隆寺とされる。秦氏はこのころ、蘇我氏と
の間に強い従属関係を有していた。またこのころ秦氏をはじめ有力渡来系氏族は、主に
書紀では外来系使節の翻訳仲介者・導者あるいは、遣唐使など外国へ使節としてみられる
ことが多い。外来系使節への仲介、外国使節などを通して、秦氏等の渡来系氏族は、
諸外国の技術・知識を調べ出すことを、当時の政権のため、あるいは氏族自身の朝廷での
優位性をたもつために、熱心におこなっていただろうことが想像される。
当時蘇我氏の仏教導入のための造寺、儀式導入などが記紀に多く見いだされるが、また
蘇我氏の元で働いていた秦氏においても「秦寺」および「蜂岡寺」(後代の広隆寺)建設など
仏教との関連がみられている。
大生部多懲戒事件は乙巳の変のすぐ前
974 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 12:00:37
>>964 「乙巳の変」で消失・紛失した蘇我氏の古文書に書いてあったことは、
あるいは歴史作家・関裕二さん著書で述べていることかもしれませんね。
そんな気がします、私には。
975 :
974の訂正:2009/02/12(木) 12:02:40
>>964 「乙巳の変」で焼失・紛失した蘇我氏の古文書に書いてあったことは、
あるいは歴史作家・関裕二さんが著書で述べていることかもしれませんね。
そんな気がしてなりません、私には。
※ 失礼しました
976 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 20:44:29
>>970 大河も視聴率が命だからねえ〜
未知の分野をやって視聴率が取れないのが怖いのでは?
戦国ものや幕末ものはもともとファンの多い時代で
ヒットした歴史小説を底本にやれば
おおよそ外さないだろうという読みができる。
ただ、古代は論争ばかりで定説もなく
または大当たりした歴史小説もないため
大河にすると読みができないというのはあるだろう。
衣装代など大奥に比べれば安いと思うが。
大勢の女中たちに打掛着せる余裕があるなら、
この時代の服などもっと素朴でいい。
単発ドラマできていたものの着まわしでも十分だし。
977 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 21:34:32
>>976 『日本書記』を従来どおり解釈して表現しただけの大河ドラマでは、面白くも何ともないよ、きっと。
関裕二さんの著作でも読んでいる方がずっと新鮮で面白いと思います、私だったら。
978 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 21:45:01
>>977 史料をその通り読んで表現しただけのドラマが受けないのは
他の時代でも同じ。
だから、「大ヒットした歴史小説」だと言ってるジャン。
古代には、「大ヒットした歴史小説」がないの。
司馬龍太郎やら吉川英治みたいなのがいないわけ。
黒岩何とかとかダメなの?
あと何か女の人もいるでしょ、里中だっけ。
額田とかあのあたり書いてる人。
それが無理ならせめて平安時代くらいやればいいのに。
承平天慶のやつよかったよ。
980 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 00:00:25
>>970 『大化改新』は鎌足の性格に違和感があった
981 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 09:29:09
山岸涼子原作でどう?
982 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 20:33:27
980超えたし保守
983 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:28:26
次スレはどうする?
>>981 聖徳太子と蘇我蝦夷が同性愛ってやつか??
985 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 23:22:02
聖徳太子と蘇我蝦夷って何の接点があるんだ
987 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 23:42:57
厩戸皇子が黒髪長髪の超能力者で、
貴族の息子である主人公(蘇我毛人)が皇子と交流を深めるうちに
厩戸皇子から主人公への人知れぬ恋が芽生え
ついには蛇を背景に、厩戸皇子が嫉妬でのたうち回る
とかいうマンガじゃなかったっけ <山岸涼子
989 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 20:23:59
>>979 「風と雲と虹と」(1976年)の大河ドラマで
平将門はやってるね。
このときの原作者は潮音寺潮五郎(直木賞作家)。
黒岩の小説は大河になったことがない。
小説の数は多いんだが、どうも良質とはいいがたいんじゃないのか>黒岩
>>429 かなり龜レスだが、
自害するのは酷い目に会うのを恐れてだよ。
記紀には天皇の系統が変る前に、
前の系統の天皇の非道な仕業が書かれているけど、
政敵を殺した時はああいうのが典型的だと思わないと。
991 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 20:41:07
崇峻天皇暗殺に関して馬子が何ら処罰を受けていないのはどういう事?
992 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:31:46
>>991 実は裏で大后炊屋媛(のちの推古天皇)が糸を引いていたから。
日本書紀では蘇我氏の悪事の一つに宣伝しすぎだけど、
結局は天皇家内部の政権争いにすぎないよ。
993 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:36:44
>>992 むしろ、馬子が推古帝の糸を引いていたからという方が現実に近くはあるまいか
994 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:54:48
>>993 それは馬子の過大評価だろう。
日本書紀に敏達天皇が死んだとき、天皇になりたいその異母弟穴穂部皇子が
炊屋媛を犯そうとした、という記事がある。
いうまでもなく、敏達天皇の大后であった炊屋媛が敏達天皇没後の人事権を持っていたためで、
仮に馬子が次の天皇を決める権限を持つ影の王者だったのならば、
むしろ馬子の娘を犯そうとしたはずだろう。
欽明天皇の皇女に生まれ、敏達天皇の大后にまでなった炊屋媛が、
叔父の言うままに仕える必要もないのだが。
日本書紀は馬子が企図して殺害したと断じているが、実際にはどうだろうね。
実行犯の駒を捕えて口封じに成功して、まんまと馬子が功名を
あげることになったんじゃないかな。
996 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 22:01:12
>>994 普通にスイーコさんが美人だからやりたかった、っていう可能性もあると思うがw
997 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 22:07:45
穴穂部間人媛は美人じゃなかったから、払い下げられちゃったンすね
998 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:54:50
炊屋媛は当時32くらい。
夫に先立たれた、美人の年増人妻!しかも高貴な。
これが、犯したくならないわけがあろうか?
999 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:57:01
>>995 小説によっては厩戸皇子が暗殺の実行犯だったりする
1000 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 23:58:23
1000!!
1001 :
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