1 :
Dowtyが読めない :
2001/07/23(月) 00:44 形式意味論についての易しい解説書をだれか教えて。くろしおの杉本孝司の意味論1は途中まで簡単なんだけど、ラムダ演算子のところから急に難しくなってよくわからな〜い。
2 :
Dante :2001/07/23(月) 01:07
Heim & Kratzer の Semantics in Generative Grammar が 定評あります。Generative Grammar 嫌い (or 知らない) 人 でもまあ平気。簡単とは言い切れないけど、これ以上親切簡単 な解説書は多分いまのとこない。 (つまりこれを読んでわからなかったら、独学は無理。と思う。)
パタリロを読もう
4 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/07/23(月) 03:33
形式意味論でない意味論は? デ・マウロ『意味論』(朝日出版社)なんかどうっすか。 ソシュール系だから駄目?
5 :
Dante :2001/07/23(月) 04:58
形式意味論でない意味論って、どれも正論だけど、それ以上発展のも応用も できないってのが問題でしょう。形式意味論だって、いまのところ何の 役にもたってないけど、ちゃんと形式化してあればいつかはコンピュータの 言語理解とかにも役にたつという希望が持てる。 まだ未解決の問題(パズル)がいっぱい残ってるから、研究しがいがあるし。
6 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2001/07/23(月) 06:57
>まだ未解決の問題(パズル)がいっぱい残ってる 例えば?
7 :
Dante :2001/07/23(月) 12:05
前提/焦点の表示とか、直示表現のとり扱いとか、時制の扱いとか… あと命題態度の表示でも、全てを整合的に捉える分析はまだないと 思います。色んな分析はでてるけど、どれがどういいかはまだまだ 議論の対象。 『形式化しにくい(できないと思われてた)現象の形式化』のタスクが まだ残っている。
8 :
名無し象は鼻がウナギだ! :01/09/03 17:53 ID:dipci19U
|\∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧/|
.< みんな大変だ!
>>1 が、
>>1 がぁぁぁぁぁ〜 >
|/∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨\|
* +
⊂⊃ * ☆
∧_∧ + *
(*゚ー゚) ☆ +
|⌒/つつ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
川 ノ + . .| ゾヌラッシュ、ハラ減ったニダ
ι´U ⊂⊃ | ウリに食われてくれニダ
∧_∧ | 何だかとてもチゲが食いたいニダ. +
* (*゚ー゚) * \_ __________
|⌒/つつ ∨ ☆
+ 川 ノ | ̄ ̄\ __
ι´U ∧_∧〃 \ \ ̄ ̄ ̄ ̄\ / ヾ
<丶´д`> \ | ● ● ____
⊂⊃ ⊂ つヾ  ̄ ̄ ̄ \ +
∧_∧ ノ ノ ノ \____/ ▼ |\ 〃
( ゚Д゚) (_ノ _ノ | 、_人_|
|⌒/つつ + | ___ノ
川 ノ ./ /"
ι´U ☆ * / /"
∧ :| / /
/ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ :| ノ ノ
犬鍋ネタも荒れの元だぞゴルァ!
9 :
名無し象は鼻がウナギだ! :01/11/27 02:45
age
10 :
名無し象は鼻がウナギだ! :01/11/29 14:41
VP=<e,t> S=t N=<<e,t>t> Type Logicを押し進めて見えてくるものってなんなんでしょうか? 美しさは認めるが(w あげ
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :02/02/07 05:04
age
N=<<e,t>t>?
13 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/02/27 19:59
この前ある文献を読んでいたらnatural functionってのが出てきたんだけど これいったいなんですか?
14 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/04/12 01:08
______ / \ /;/ \ /;;/ ─ | /;;// ── | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | ;;/// _,-=- _,-= | なぁ麻原、俺、懲役15年だってよ / / ノ_ ヽ | < おめえは死ぬまでに判決でないだろうな。 |ii ///´ ヽ .| | これは定説だって! /ii::::::::// ( о ) | \_______________ |iiiii::::::::::::::::/// /_,,,,;;iiiiiiii;;;,,_ヽ /iiii:::::::::::::::::::::::////;;;;───、ヾヾ |iiiiiiiii:::::::::::::::::::::::::::::///\__/ヾヽ:::\ 彡iiiii::::::::::::::::::::::::::::::// ;; ; ;; 》:::::::ミ ノノノノ;;;;;;::::::::::::::::::《 ;; ;; ;》 ;;》ゝゝ ノ丿//ノノ;;;;》 ;;》 》 ;;ミ ヽヽ《 ;;; 》( ``《人/
>12 >N=<<e,t>t>? Generalized Quantifierの事かも知んない。 って書いた本人じゃないからなんとも言えんが。 GQの解説は親切な誰かさんがやってくれることをキボンヌ。 あと、入門書なんだけど、 Meaning and Grammar, Chierchia & McConell-Ginet はどうよ? 個人的にはHeim & Kratzerって案外取っつき難いような気がするのは きっと俺が厨房だからだろうな
16 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/05/04 08:39
意味論とはちょっと違うけど、形式的扱いということで、、、 誰かLKB使ってる人いる? the red hatってどうやって生成したらいいの?
17 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/05/08 20:52
GPSGでは時制の解釈にS/R/Eの分類を使ったりするのでせうか。
>個人的にはHeim & Kratzerって案外取っつき難いような気がするのは でもEタイプの説明があるのはこれぐらいですよね。
19 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/05/11 07:07
E type anaphorね。Heim & Kratzerはもともと言語学 (特に統語論)と論理学の初歩が出来てないと一人で読むのは 難しいかも。なんというか、句構造文法意味論入門、 ってかんじの入門書。Chierchia&McConnell-Ginet も捨てがたい。2版になってちょっとよくなったかな。
そうですね。Chierchia&McConnell-Ginetの方はGeneralized Quantifierの入門があるし, Heim&Kratzerとはまた違う説明の仕方でお勧めです。 句構造文法意味論入門という言い方で括られてしまうと, 談話的に興味深いinter sententialなanaphora resolutionと c-command failureなどの問題点がドロップしてしまう気がするので, そういう意味で,あまり適切な表現ではないでしょう。 Heimの方の9章以降は意味論入門という意味で重要だと思います。
CannのFormal Semanticsってどう思われますか?
僕は、個人的には、あんまり好きじゃないんですけど(印象として)。
とっつきはよくありませんが、Partee et al.のMathematical Method
in Linguisticsはどうでしょう?形式意味論とか論理学とかって
技術だから、読みながら練習問題を解くなどして、手を動かしたほうが
要点がコンパクトにまとまっているよりも理解しやすいと思いますが
みなさまはどう思われますか?
まとまりがいいものって、むしろ、一人で言語学概論をやらないといけない
講師向けだと思います。
>>20 僭越ながら賛同。
>>10 FregeのPrinciple of Compositionalityを
Russell's Paradoxを回避しながらどこまで表現できるか、
ってことではないでしょうか。
それから、「真偽は命題レベルで決まる」というテーゼへの
アンチテーゼ、または代案がないと、タイプ付の構成型意味論が
たとえ無意味だといっても、生産的な話はできないと思います。
あ、ちょっと書き方が厨房でしょうか。
>>18 =21氏は意味論の教科書に詳しいですね。
generalized quantifierの説明がHeimの方にないとか、
E-type anaphorがあるかとか、よほど熟読してないと
気づかないっすよ。Cannは、なんというか、exciting
ではないですね。あと、印刷のfontが小さいというような
理由で読みにくい。というか、子供っぽい理由だけど
なかなかページがこなせないので嫌になっちゃう。
Partee et alは面白いですね。あんまり言語学的意味論
というのを前面に押し出してないで、とにかく
数学的なtoolの説明にfocusを置いている。
こざかな氏は概論でそんなに詳しい形式意味論
やるのでしょうか?
Heimとかを読む前に、論理学の初歩の初歩には
logic in linguisticsは?確か、「日常言語の論理学」
とかいうタイトルで邦訳されていた。
詳しくないです。単なる一愛好家です。
ホットなトピックスに直結しているという点で,ChierchiaもHeimも
いいと思った次第です。
私自身は最初にJohn MartinのElements of Formal Semanticsを読みました。
この本が最適であるとは思いませんが,論理学の基礎から新しい話題まで
知ることができる点ではいいと思います。
J.Martinは論理学者ですが,論理学者の書いた意味論の入門書の問題点は,
あくまで論理学者の視点なので,言語学との溝を埋めるのが大変なことですね。
理想的には,適切な指導者の下でというのが望ましいと思われます。
Parteeも持っていますが,本棚でほこりに埋もれていて,はずかしながら,
まともに読んだことがありません。
ぱらぱら見た感じ,おそらく23氏の言われているとおりではないでしょうか。
Cannのはあまり知らないんです。
>>10 ,
>>22 私見ということで聞き流して下さって結構です。
Compositionalityとラッセルのパラドックスとは独立した話しです。
Compositional semanticsというのは純粋に形式的な方法論であって,
finitely syntaxであれば,意味が必ず決定されることを保証するもの
だと思います。
>>23 あ、誤解を招くような書き方をしてしまってすみません。
そんな詳しい話はしません。
>>24 こちらも書き方が悪かったです。フレーゲの構成主義はラッセルの
パラドクスとは独立した話ですね。
しかし、節のタイプをtにして、構成素のタイプを、はめ込んだら
最終的にtに辿り着くように設定して、真偽値が必ず定まるように
統語論を作っているというのは確かにおっしゃる通りだと思いますが、
各構成素は必ず指示物を持つように意味論も作っていて、その指示物の
タイプは必ず節の指示物のタイプとは異なるように設定して、
パラドクスの問題圏に入ってメンド臭いことにならないように
しているのではなかったかと記憶してます。
このあたりの事情、もう10年近く前に習ったことで、うろ覚えなので、
もしお詳しいようでしたら、もう修正または情報添加していただけると
うれしいのですが。
ところで、言語学の入門書ではないのですが、
Graham PriestのAn Introduction to Non-Classical Logicは
いかがでしょうか。23氏が、非言語学的意味論の入門書を
お使いになった場合のご苦労を記しておられますので、
この本の場合も同じような問題があるかもしれません。
でも、命題論理、述語論理をしっかりやったあとなら、
非伝統論理学に同じような方法で拡張していけることが
理解しやすく、言語学でホットな部分に関係するところも
含んでいると思います。
言語学とはどのような関係に立つかよくわからない直観主義
論理(というか、私が理解してないだけですけど)なども
含まれてますが、言語学に関係しそうな論理学については
わかりやすいように思いました。
ご専門は文法ですか? カテゴリの記述自体は高階のタイプ理論になってるので, ラッセルのパラドックスにはならないようになっていると思います。 ただ対象言語レベルでは,ラッセルのパラドックスもあり得るし, うそつき文のような自己参照のパラドックスもいくらでも起こりえます。 うそつき文の進展は,ご存知かもしれませんが,Barwise&Etchemendyの The Liarに詳しいです。ラッセルのパラドックスは,自然言語では生じる のが普通です。 >このあたりの事情、もう10年近く前に習ったことで、うろ覚えなので、 >もしお詳しいようでしたら、もう修正または情報添加していただけると >うれしいのですが。 私も勉強中の身なので教えてもらいたいです。 >Graham PriestのAn Introduction to Non-Classical Logicは >いかがでしょうか。23氏が、非言語学的意味論の入門書を 新しい本ですね。Priestは,様相論理のNon-Normal worldが専門みたいです。 目次を見ると,様相論理,非標準世界,条件論理,直観主義論理,多値論理 ,relevant logic,ファジー論理とすごい題目が並んでいますね。 直観主義,多値論理は,情報の部分性という観点から,その基礎理論として 注目されています。具体的な応用としては,談話の部分性や不完全な文の 解釈などがあると思います。 様相や非標準世界は,命題態度や認識,条件論理は,Counter Factualの 基礎理論です。ただ内容は読んでないのでとてもコメントできません。 様相論理の入門なら,私は,Hughes&CresswellのIntroductionを勧めます。
>>26 ■氏、
私の専門は文法です。しかもかなり狭いのですが...
論理学は、形式的な言語学をやる以上、やっとかなきゃな、
とかじった程度で、すぐぼろがでます。いろいろと書いて
いただいて勉強になります。特に自己参照、ゲーデル数、
指示の不透明性、および自分自身を元にもつ集合、というの
の関係がよく分かんないのですが、The Liarにはこのあたりも
分かりやすく書いてますか(その本は名前しか知りません)。
Hughes&Cresswellは1996のNew Introduction...というのもあるそう
ですね。Introduction...に関しては日本語訳も確かあったような。
そういうことが知りたいのですか。 数学基礎論を分かりやすく解説した入門書は,それこそ星の数ほどあります。 以下の入門書は日本人のものですが,とりあえず手元にあるので書いときます。 中島秀之の「集合と論理」(共立出版) この5章は,パラドクスと自己言及,不完全性定理などが わかりやすく書かれています。 4章は,下のLiarのベースとなっている状況意味論の簡単な 入門にもなっています。 あと,内井惣七の「真理・証明・計算」(ミネルバ)は ラッセルの話しが詳しかったと思います。 この手の入門書は,大きな本屋に行けば,ほんとにたくさん見つかります。 Liarは,正直言って相当難しいです。これは入門書ではありません。 哲学的な部分と数学の技術的なところを飛ばしても充分面白いですが, でもかなり難しいです。私にはとても説明できないのですが, Barwiseが状況意味論の数学的基礎としていたP. Aczelの non-well-founded set theoryというのをベースにして, うそつきパラドクスの持つ性質を記述しようとしたものです。 >Hughes&Cresswellは1996のNew Introduction...というのもあるそう >ですね。Introduction...に関しては日本語訳も確かあったような。 私は,旧版(Introduction ...)の方を読みました。旧版は日本語訳もあります。 改訂版(new...)と比較したわけではないので詳しくは分かりませんが, 見比べてみると,旧版の贅肉を落として,新しいネタを ずいぶん追加しているようです。改訂版の17章は様相述語論理で, Definite descriptionをやっているようです。 これは旧版にはなかったところで,私の関心あるところです。 私自身は,様相論理の入門書というと,このIntroductionかChellasの Modal Logicを読めといわれました。Chellasは,Cresswellのに比べると, 味も素っ気もないです。
>>28 ■老師、
ご教示ありがとうございます。
数理論理学の本を読むと、
ラッセルのパラドクス
→それに対する反応としての
論理主義、直観主義、形式主義
ってとこでつまづいてしまうんですよねー。
教えていただいた本を探してみます。
ところで、私が初めて論理学の手ほどきを受けたのは
哲学科の先生にだったのですが、その先生はもとは理学部の
出身で、哲学的論理学と数理論理学の違いは感じませんでした。
しかしその後、自分で学習をすすめるときに、何となく
哲学的論理学と数理論理学の大きな溝を感じました。
私自身はもともと言語学の畑で育ち、おまけに言語学の手ほどきは
アメリカ構造主義のメソッドだったので、生成文法のような
形式科学のbackgroundもありませんでした。
改めて40の手習いで形式意味論の入門書を繙いてみると、
自分がmathematically unsophisticatedであることがすごく
障害に感じました。でも、こうゆうこと感じるのって私だけでしょうか?
私はそれで、ワンクッション入れるために、集合論や
ユークリッド幾何学を英語で読むことに1年ほど充てました。
これは、毛利可信先生が、ラッセルをお読みになるために、
数か年計画で数学に取り組まれた、というお話を読んだのにも
影響を受けたのですが。
と、ちょっと個人的回想を書いてみた。
私はただのつまらんものです。 >私はそれで、ワンクッション入れるために、集合論や >ユークリッド幾何学を英語で読むことに1年ほど充てました。 わぁぁ,すみません。失礼なことを言っていなければいいのですが。 私は,なんとなく分かるようなのが直観主義で,それ以外はだめです。 Classical logicが神の視点だとすると,Intuitionistic logicは 人間の視点,人間の精神活動の反映,だそうです。 フレーゲ,ラッセル,ヒルベルト,ゲーデル,フォン・ノイマン... 竹内外史の現代集合論入門はごぞんじですか。最初の方の Logicians小伝が実はおもしろいです。 ちょっと自分のことは書けないので,つまらないことでも書きます。 私は頭が単純なのか,論理学を学んで目からうろこがおちる経験を なんども繰り返してきました。 まず最初は,完全性定理を知ったときです。世間一般とは逆に, 不完全性定理の方はあまりなんにも感じませんでした。 (というか理解できていないからかもしれませんが。^^;) 次は,様相論理に出会ったときです。これはかなりショッキングでした。 そしてその次は,様相論理のモデル理論 − 可能世界意味論を知ったとき。 そして,Kripkeの固定指示子理論を知ったとき。 そしてKripkeが19歳で様相論理のモデル理論の論文を書いたことを知ったとき。 このぐらいからMontague文法がようやくすこしわかりかけたような感じです。 その後,直観主義と様相論理のS4という体系が同じに解釈できると知ったとき。 これはGodelが示唆していたこと,だそうです。 中略 David Lewisの時間の向きのエッセーを読んだとき。 そして,同タイムマシンのパラドックスのエッセーを読んだとき。 これって,Hannibalのレクター博士が,空想の中で妹を生き返らせるために, 量子力学の理論を変えて,因果関係の不可逆性を可能にした場面を 読んだときも思い出しました。 様相論理の応用に時間論理があって,モンタギュー文法では簡単な時間論理を 採用していましたが,自然言語の時間を形式化するには弱い記述だといわれています。 談話表示理論のH.Kampも,もとは時間論理がらみでPhDをとっていたような気がしました。 そういえばKampのDRTでは,Temporal logicを延々論じていました。 つまらない話しは,こんなところで止めにします。
お二人の?やり取りに横から入ってなんですが、 つまらないことはないので、どうぞお続けになってください。 ヴェクター意味論とかにも触れてくれるとありがたや。
>>30 ■さん、
あ、いや、自分のこと書いて、というつもりはなかったんですけど
(私のは素人ぶりの告白)
「めからうろこ」史は、これで一つの数学基礎論の段階的学習法、
とゆー感じで、参考になりました。
私の場合、これから、目からうろこがたくさん落ちていくことを
期待してる、という感じです。
>>31 vector-based theoryというの、空間に関する推論を扱うためのもので
vector space ontologyというのがあるようで、あと、よく読んでないんで
適当な話ですけど、時に関するter Meulenの本で矢印を見たような。
コンピュータ言語の意味論でもvector semanticsというのがあるようですが、
こちらが元?この領域はまったく見当もつきません。
私のhome mathematicianにきいてみようとも思いましたが、
コンピューターサイエンスのワークショップで韓国に行ってるし。
31です。いやベクター意味論、期待してます。言語の意味論との関連でも、よく聞くようになりましたが、まずは読むべき書物が良く分からんので・・・。 ところでKampのDRT入門って、厳密な証明は2巻を見ろ、と頻繁に注にありますが、皆読んでるのかしら。でも値段異様に高いですよね。
>>32 こざかなさん
プログラムの意味論もやっているのですか。ほとんど数学やですね。
私はPrologはすこしやりましたが。
>>33 KampのFrom Discourse..は,Student用のペーパー版が確かあったと思いますが。
Part1だけでは,IndexもReferenceも無いので不便でしょう。
Part2の4,5章はPluralとTense&Aspectですが,
2章で扱ったロバ文を,Pluralの形式化と統合して一般化しようと
しているので,このあたりのことを言っているのではないでしょうか。
でも,Part1の3章には,やり残したことをずらずら書き並べてあって,
このことはPart2でも解決されているわけではないです。
L&Pにも3章のDefinite Descriptionが十分でなくてというのがありました。
蛇足ですが,Part2のPluralと Tense&Aspectは,どちらも力ずくという感じで,
必要ならばいくらでもabstract entityを導入するという印象をうけるのは
私だけでしょうか。Quantificational Implication□⇒□は美しいんですが。
仰せの通り、Stundent版しか見たことないです。 む〜、Part1&Part2 版は400ドル近くもして、 貧乏人にはたまらんな〜。
>>34 ■氏、
いえ、とんでもございません。
コンピュータ言語はいっさいわかりませんですよ。
my home mathematicianと話をするときにはいろいろと
質問はしてみるのですが。
>>33 ヴェクター意味論=ベクター意味論
=/=vector semantics?
あっしにゃ わかりやせん。
37 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/05/21 16:54
>厳密な証明は2巻を見ろ、と頻繁に注にありますが、皆読んでるのかしら。 DRTの本でよく言及される「2巻」というのは、当時書かれる予定だったけど そのあとDRTの枠組みが急に膨らんだので結局書かれなかった、と聞きましたが。 non-student edition の2巻が"ch.4,5"なら、中身は同じでしょう。 でもstudent editionの装丁最悪、勢いよく開くとバキッという音がして 期せずして2巻構成に。 ところでL&Pってなんですか?
38 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/05/21 17:08
ざっしのなまえ
>>37 氏
Volume 2は,Chapter3の詳細とDRS-calculiの完全性 プラスαでしょう。
Kamp自身によるDRSの証明論は,既に雑誌に発表済みで,自然演繹を
ベースにしたような体系だったと思います。
いずれは,これを書き直したものをVol.2の一部にするのでしょう。
あと,Kampとだれだったか,状況意味論のsemanticsとDRTの統語論との
統合を素描したような論文を出していた記憶があります。
ちなみにDRTの証明論については,96,97年あたりから既に結構いろんな人が発表してますね。
>Kamp自身によるDRSの証明論は,既に雑誌に発表済みで,確か自然演繹を あった。あった。埋もれていたのを見つけましたよ。 A Calculus for First Order Discourse Representation Structures H.Kamp & U. Reyle, Folli,1995 完全性まで証明してますね。 自然演繹といいましたが,より正確にはKalish&Montagueスタイルです。
>>40 ■老師、しつもんでーす。ふたつほど。
1.DRTの完全性は証明されたとすると、流れとしては次は
意味論的に無矛盾であることを証明する、という流れになるの
でしょうか、それとももう証明されていて、健全性まで
証明されているのでしょうか。
2.自然演繹は入門書とかでなんども見ましたが、
Kalish&Montagueスタイルというのはそれとは大分
異なるのでしょうか。
ご教示のほどを。または「これを読めい!」でも
いいですけど...
そうでしたか、いや、2巻本版、やっぱり買おうかな〜 と
思っていのですが、借りるにとどめるにします。いや助かりました。
感謝します。
たしかに私の所有する”学生版”は、既に真っ二つに折れてます。でも値段的には、これだった”学生版”とは言いがたいですよね。
>>40 氏
それ面白そうですね、読んでみます。
>>41 こざかなさん
ここのところ,副職の書き物を抱えていて結構忙しいです。
>ヴェクター意味論=ベクター意味論
>=/=vector semantics?
私は,わかりません。プログラムの意味論だとScottのDenotationalの
方がまだ自然言語と関係していると思いますが。いずれにしても分かりません。
>1.DRTの完全性は証明されたとすると、流れとしては次は...
ごく簡単にいうと,Gentzen流の完全性の証明なので,まず,
soundnessを示すため,各導出規則について,証明の段階に対する帰納法で証明します。
次にcompletenessですが,極大無矛盾集合K_ωを作って,
DRSのKの式の複雑性の帰納法で証明しています。
ですから,1.は,すべて証明されていることになります。
Kampのこの論文は,DRSのベース論理をClassical First Order Logicとして,
基本を示すに留まっています。これは入門を意識しているのだと思います。
この前後に提出されたDRTの証明論では,DRTの部分性に着目し,
理論的ベースをintuitionistic logicやmany valued logicなどに変えた
理論を展開したものが多く出されています。
Kamp自身も,DRTの基礎理論として,強Kleeneの3値が妥当だろうという論文を
書いていました。3値を採用する利点は,一つは,未定義の扱いが,
Anaphorが解決される前の状態を示すのに有効なのだと思います。
多値論理のDRTへの拡張は,実体の存在に関する哲学的問題も含めて
まだ,解決されていない問題が多くあります。
>2.自然演繹は入門書とかでなんども見ましたが、
>Kalish&Montagueスタイルというのはそれとは大分異なるのでしょうか。
K&M(1964)は,自然言語の証明論の入門書で簡単に手に入るはずです。
表記は,大分違っていますが,証明論的には,Gentzen流です。
K&Mは,ボックス表記法を使っていて,DRTと見た目が似ています。
DRT自体が,もしかするとK&Mを念頭において思いついたという気さえします。
>>42 さん
KampのVolume2は,Summer Schoolあたりでコピーが出回ってるかもしれません。
最近,情報疎いもので。
>>43 ■さん、
ご教示、ありがとうございました。お忙しいところすみません。
soundnessに関しては、baseのvaluationを導出規則に対応するv.f.を
recursiveに適用して拡張していけることを示す、命題論理などのsoundnessの
証明にも使われる、現在スタンダードなものですね。自分の頭の整理のために
書くと、soundnessはtautologyに導出規則を順次適用して全てのtautologyを
導きだせるとき、その導出規則全体のことを言うんですよね。
そしてcompletenessは任意のtautologyがその体系内でsyntacticに構成可能で
あることを言うんでしたよね。その間接的な証明としてやはり
現在スタンダードな、ある性質を備えた無限集合のベキ集合の中にtautologyを
構成する式を元とする集合が収まることを示す、というものですね。これらは
一階論理、一階算術に使われるものなので、老師は
>>DRSのベース論理をClassical First Order Logicとして,
>>基本を示すに留まっています。これは入門を意識している
とおっしゃったものと理解します。
>>この前後に提出されたDRTの証明論では,DRTの部分性に着目し
のくだりは、■さんが以前おっしゃってた「情報の部分性」ですね。私の理解の範囲をすでに超えるところですが...
正直言いまして、DRTは、Dowtyがどこかで、連続して現れる単文相互の時間関係を
決定するのに十分でない、と書いてたのを読んで、存在閉封を使わない「ハコ!」という印象以上に
関心がなかったのですが(まったくの不勉強でして...)■さんのお話で
だいぶ興味が湧いてきました。
>>44氏 あっしは、ただのソフト屋なんですが、 論理と言語に興味あって、いろいろ本を覗いているだけなんですが どこそこの Summer School で云々って話は、よく見かけます。 Summer School というと、語学学校しか思い浮かばない自分が悲しい。
わたしの数学の先生にvector semanticsについて聞いてみました。 ところが、知らないと言われ、替わりにベクトルの講義を小一時間ほど されてしまいました、あげ。 ついでに、Portner and Partee(eds.) Formal Semantics: The Essential Readings, Blackwell Publishing. という、ちょっと便利な本を買いました。 Barwise, Ladusaw, Kartunen...の基本文献が集められていて、 形式意味論若葉マークの私としてはありがたい... どなたか、「なぜこの論文がおさめられてないのだ!」とか、ありますか?
>>45 こざかなさん
さすが詳しいですね。
FOL(一階述語)と同じと言いましたが,正確に言えば,DRTは,embedded functionの定義を
考えると,FOL(一階述語)とまったく同じでは無いんです。
FOLと同じといったのは,valuationに関して2値論的であるという側面だけです。
古典2値論に対して,命題Pに,真,偽以外の解釈を与える立場が多値論理です。
3値論理では,通常,未定義という解釈を与えますが,未定義の定義の仕方によって,
3値論理も体系が異なっています。
直観主義も,3値論理も排中律が成り立たないということでは,
似たような哲学的解釈を持っているといえます。
3値は,哲学的にはpresupposition failureやうそつき文の解釈として
展開してきました。
数学的には,ウカシェビッツやクリーネなどによって関数や計算の解釈のために
発展してきました。
>>46 さん
私が言ったSummer Schoolというのは,
毎年8月上旬ぐらいに,Europeanで行われるlogic, language and informationの
セミナーのことです。
>>47 こざかなさん
私も買いました。
この本は,David Lewis(1941-2001)の追悼になっているんですよね。
>どなたか、「なぜこの論文がおさめられてないのだ!」とか、ありますか?
Russellの On Denoting はどうでしょう。
>>49 お忙しそうだったので、老師のレスは絶望的かな...と思っていたところ
でしたので、うれしいす。
'On Denoting'、たしかにそうですね。Ostertag(ed.) Definite Descrptionsと
いうreaderなどにも収められているから、そういう意味ではアクセスしやすい
ですけど、Montagovian Semantics以降といわず、古典のうちの重要なものも
ひろっといてほしいですね。
授業の論理学の教科書に、前件が”省略”されたら、 含意全体は真とみなせるとありました。 前件が”偽”と決まった場合なら、わかるのですが、 省略されても真と言えるのでしょうか? ちなみに、その本では説明に、 p → q は ¬p ∨ q に等価なのだから、 p を取り除いた → q と q を等価にしたい。 ところで ¬ T ∨ q が q に等価であり、 T ∨ q が T に等価である。 従って、前提の省略は T に等しい。 また結論が省略された場合は、 p → と ¬p は等価にしたい。 これは ¬p ∨ F に等しいから、 結論の省略は F に等しい。 とあるんですが、そんなもんなんでしょうか
こんちは。 その本では「省略」ってどういう意味で使ってるんでしょ? おしえてくらはい。 ところで、「→」は項を二つ取る論理結合子として構文論的に 定義される体系では、「→P」はそもそも構文論的に不適格なはずですが、 もしかすると次のような話かもしれません。 「P → Q」と真理関数として等価な「(-P) v Q」には 「Q → ((-P) v Q)」または「(-P) → ((-P) v Q)」が成立します。 まず一つ、含意に等価な式と、その部分式の関係について述べたのが 51さんが言ってた話かもしれません。 それから、後件が真の場合は全体が常に真なので、後件真ならば前件を見なくても 全体の真理値はわかり、前件が偽の場合は全体が常に真なので、前件偽ならば後件を見なくても 全体の真理値はわかる。このことから、つぎのようなことが言いたいかも、 というのが二つめです。「T」は恒真式、「F」は恒偽式でしょうか。 恒真式、恒偽式に関しては次が成立します: 「P → T」 「F → P」 このことかもしれません。にしても「→P」は?です。
53 :
& ◆XfQdqyvo :02/05/31 19:17
لها برلمانٌ من الياسَمينْ. وشعبٌ رقيق من الياسَمينْ. تنامُ حمائمُها فوق رأسي. وتبكي مآذنُها في عيوني. أحاول رسم بلادٍ تكون صديقةَ شِعْري. ولا تتدخلُ بيني وبين
>>50 こさかな先生
>ですけど、Montagovian Semantics以降といわず、古典のうちの重要なものも
モンタギュー以降であれば,Hintikkaの論文を何か入れて欲しいと思いました。
>>51 さん,
すでに,
>>52 でこさかなさんが回答されていますが,
少し別の観点からの蛇足です。
記号 → を「含意する」と読むと,前件を省略した →P は,
前提なしで Pが含意されると読めます。
この場合の理由は,こさかな先生がおっしゃるとおりです。
ヒルベルトスタイルの公理系では,統語論的に→Pの形は,
wffではありませんが,→をゲンツェンのシークエントとして
考えれば,→P もwffです。
>ところで ¬ T ∨ q が q に等価であり、
>T ∨ q が T に等価である。
>従って、前提の省略は T に等しい。
この説明はことばを少し補って,前提の省略は,前提をTと解釈するの
に等しいとでもすればいいと思います。
T→Q は,→¬T∨Q なので,→Q の解釈と同じです。
同様に結論を省略した P→ は,Pを仮定すると矛盾すると読みます。
これは,P→F と同義で,P→Fは,P∧¬F→ ⇔ P∧T→ なので,
これは P→ の解釈と同じです。
>>54 やはり老師がこなくっちゃ、という感じですね。
「→をゲンツェンのシークエントとして」のところのは
ターンスタイル("|-"、カタカナの「ト」みたいなやつ)のお話ですね。
ちょっとつぶやきコーナーですけど、この記号を使って、
仮定の式を任意の数とって帰結が導かれていることを記号化して、
A |- C
と表現し、Aは空集合から無限集合を変域にできるように一般化
されてるんですよね。
「ゲンツェン」については自然演繹に関する発言のところで■さんが
言及してます。ゲンツェンの自然演繹は、論理学のトレーニングでは
比較的一般的なもので、論理学の授業を受けるとたぶんやらされる
あれですよ。「シークエント」は初等論理学ではあまり耳にしないと
思いますが、証明論などで演繹の形式的特性を扱うところではよく
見かけます、と、つぶやき終わり。
こさかなさん、■さん どうも読みました。 P→Fは,P∧¬F→ ⇔ P∧T→ というのが、まだ良く分からないのですが 少なくとも自分で調べる 取っ掛かりはできたような気がします 過去ログも今見たのですが 私がわからないと言う本 中島秀之の「集合と論理」(共立出版) は既に上で書かれていました 22ページなんです 論理学は大学に入って初めてやった科目なのですが 興味深いです
ちょっとネタふり。 哲学板で、飯田隆氏の『言語哲学大全』が完結、の動きあり との情報キャッチ。 manuscriptが授業で使われているとのこと。 『III』を買ってから、一体何年たったのらろっか... ■老師、vous avez l'autre information?
>>57 こさかな先生
残念ながら私は情報を持っておりません。
I先生もここのところ,日本語の意味論をやっているみたいですね。
某研究会でも発表されているようですし。
KampやHeimにも言及されているようですから,おそらく(ほんとにおそらくですが,)
E-typeのようなことまで射程にいれて研究中なのではないでしょうか。
結局のところ,確定記述と照応の解釈問題は,Russellから様相まで,
すべてに関係してきますから。
59 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/06/08 14:45
>>57 え、I先生、日本語の意味論をされてるんですか、今?
どういうふうに料理されてるんでしょう。読んでみたい...
ところで、論理学をずっと研究している方が日本語の意味論を
なさる、というのはどうゆう意味合いを帯びるのか、興味があります。
別スレですが、生成文法板でかかり助詞さんが数学・論理学と
自然言語研究の関係についての設問をしめしてらっしゃいます。
あ、考えてみたら、こっちのスレにも関係がある話題?
生成文法スレのほうで、かかり助詞さんがこんな設問をたてました。 純粋に理性的な探究である数学・論理学に対して、自然言語の構造に対する 考察が実証的側面を担い得るかどうか 特に、principles and parameter theoryでは、これまでの研究成果から suspectされている、言語デザインの完璧性(perfection)に関して ミニマリスト的問題設定がなされている。その考察に基づく見込みとして、 統語操作は驚くべき簡素さで、それまで必要とされていた転位に関わる操作は、 どうも外部からの要請を最適に満たすための方略の一部として論理的に 導き得るものであるようだ、と言える。言語の意味論に関しても、完璧性が 認められるようである。 そこで、論理構造の「論理的に可能」な構造から、人間精神の論理構造として 許される範囲のものを、自然言語の意味論の「完璧性」から特定できるという 道は開かれては来ないだろうか このような設問です(かかりさん、修正あれば適宜お願いいたします)。 これに関してマターリやるのはいかがでしょうか。
これも上に関するかかりさんの問い。 統語構造と論理構造は、構成素が(ほぼ)一対一対応になるように 理論を組む、としよう。特にVP内の構造を考えると、VPに対応する のは、項に名前などが補われて値が定まるような関数である。 スタンダードな体系では、V:λxλy.f(x, y)のような対応関係を 考え、さらに統語構造はbinary branchingと仮定するなら、 ちょうど次のように意味の構成が行われる [NP V] : λxλy.f(x, y)(y)={1, 0} [NP V']: λx.f(x)(x)={1, 0} [VP]: f={1, 0} ここで、このような構成を行うために、n項関数をn-1項関数に変換するという Schonfinkel化/Curry化が行われている。 しかし、統語構造がternaryであるばあい、このような余剰的な Schonfinkel化/Curry化はおこなわれず、ゆえに論理的な変換としては あってはならない。 このような形で自然言語研究の側から、論理学のあり得る形を制限する ということがあるのではないか。 統語構成素とSchonfinkel化/Curry化された関数の関係というのは、 上のネタを考える糸口のひとつでしょう。
回り道かもしれませんが、「値を決めていく」とは どういうことかを考え、そこで関連する装置を評価し、 議論につなげていきたいと思います。 "Culculation"というものは"Reduction"だと言ってよいらしく、 例えば、(3+(4+5))は、4+5を9にreduceして3+9に、そして 3+9を12にreduceする。これが計算して(3+(4+5))の値12を 出す、ということです。 ここで、reductionの仕方を考えます。3+9=12はf(3)=12とすることが でき、二項関数3+9は一項関数f(3)に変換可能です。一般に、n項関数は n-1項関数へ、そして順次それを行うと最終的に1項関数にできるそうです。 このような操作がSchonfinkel化/Curry化ですね。 (何項関数でも、どの位置の項をとっても、Schonfinkel化/Curry化が可能で あることが証明されてるんだそうですが、詳しくはわかりません)。 3+9に関していうと、12=f(3)=λy(3+y)(9)、変数に変えると、 f(x)=λy(x+y)(9)になり、x+yについてみると、λy(x+y)はそれを Schonfinkel化/Curry化して、xに関する1項関数したものになっています。 つまり、Schonfinkel化/Curry化は、任意のn項関数を、ある特性関数の下で、 1項に値を入れると該当部分の値がでるような、そのような関数への写像である と言えます。 言語学的関心で留意したいのは、Schonfinkel化/Curry化を使って1項関数にすると、一度の操作で1つの変項との置き換えを行うことを形式化できるようになることです。そして統語論と意味論の関係では、binary branchingにすんなり対応付けることができるようになります。 また、もしSchonfinkel化/Curry化を使わず、たとえばf(v,w,x,y,z)の値を求めるとしたら、順次変項をうめていく、という方法以外のことを考えなければならないと思います。これは原理上、 無限個の変項に対して言えなくてはならなくて(まあ、自然言語では最大値3と 言われていますが)、いわば、derivationalist vs. representationalistの 問題とも言えるかも知れません。 問題は、統語構造と論理構造における操作、ということだと、 一応derivationalなスタンスでいくと、枝分かれに絡む問題は、分かれ方いかんで Schonfinkel化/Curry化をとるか、とらないか、ではなく、 3つまただったら、Schonfinkel化/Curry化を適用して 操作の順番を決めるアルゴリズムが統語構造と論理構造の 間に必要か、もし必要ならどの順番で、という課題にならないでしょうか。 なんか、形式意味論をやってた人に昔聞いた話で、統語構造は 大雑把でもよくで、どーせどの項を出してもいいんだから、 そこは自分達が扱いやすいように決めたらいいのさ、とか言ってた。
こさかなしゃん、孤軍奮闘してるにゃ 一つ質問にゃ >自然言語では最大値3と言われていますが というのは、最大3項動詞までしかないという意味にゃ? それとももっと一般的にあるheadがmergeできるのは3つの要素 (complement, inner Spec, outer Specとか)までという意味にゃ? 計算がreductionだというのは統語計算=派生についてもよく当てはまる と思うにゃ。例えばAとBをmergeしてCを作り、次にCをDとmergeする とすると、その段階ではCの内部にはアクセスすることなくCを一つの ユニットとみる、あるいはC内の一部だけにしかアクセスしないように する、というのにですにゃ。
カオモジせんせ、別の場所でお会いすると感動もまた ひとしお、です! 「最大値3」は、3項動詞のつもりで書きましたが、 カオモジせんせがおっしゃるmergeの可能性ということだと、 かかりさんがおっしゃる、自然言語のデザインに絡む、何か 深いものが見えるのかもしれませんね。ぱっと見、 「この演算は3回でストップ!」というのはなさそうですが 何かありそうで、一方、意味なく「動詞は3項まで」というは もちろん面白くにゃいですし、深い問いを発することもでき なさそうですし。これについては、統語計算がreduction、 ということにもからんで、かかり氏が懐に何かを 忍ばせてるような気がしてならないです。
>ということにもからんで、かかり氏が懐に何かを >忍ばせてるような気がしてならないです。 そんなことなイッス。逝ってきます。
どうして3項動詞までしかないのか、についてはHale and Keyserあたりが きっとなにか言ってるのではないかと思うにゃが、彼らの論文、似たようなのが イパーイで全部followしきれないにゃ。 で、以前ちょっと思ったのは、動詞自体が統語計算の出力であって、 多重VP構造における複数のheadに対する個別言語毎の形態的具現化とすると、 この問題は (1)どうして最大2つまでのheadの複合体しか「一語」として形態的に 解釈できないかのという形態論の問題なのかも。 (a) [ NP1 V1 [ NP2 V2 NP3 ]] → V1+V2を3つの項をとる1つの動詞として「再解釈」できる。 (b) [ NP1 V1 [ NP2 V2 [ NP3 V3 NP4 ]]] → V1+V2+V3を4つの項をとる1つの動詞として再解釈できない。 (2)V headのselectional propertyの制約上、(b)のようなV三連子のような統語 構造がそもそも出てこないのかも。例えばverbal projectionを選択するVはそれ自体 別のVに選択されることはなく、別の機能範疇Fの介在を要求し、 (c) [ NP1 V1 [ F [ NP2 V2 [ NP3 V3 NP4 ]]]] このFが語彙化の境界線となってV2+V3までしか「語」にならない。 (3)初期のequidistanceによればV-raisingによって(a)では3つのNPは等距離 関係になるが、(b)ではVを連続的に繰り上げてもNP1とNP4は等距離にならず、 そのことがNP4の格照合を不可能にするので、やはり語としてはV2+V3しか 一つにまとめられない。
……などとあれこれ妄想したにゃが、結局よく分からんままにゃ(w ま、おおざっぱにいって(a)の構造は語彙的使役(と呼ばれたもの)の構造で、 (c)はこれをさらに統語的に使役化したもの、(b)は語彙使役をさらに語彙使役化 することができない、ということに該当するんだろうとは思うんだけどにゃ。 で、統語構造の「完全性」とかいうことについていうと、むしろ意味機能的には これは言語は非常に不便・不自由なものだということを表しているとも思うのにゃ。 4項動詞があったら便利で、効率的に情報伝達を行えるだろうに、統語計算は それを許さないようになっている、という意味でにゃ。計算効率はdysfunctionalな 側面を伴うという犠牲を払っており、言語は完全どころか非常に貧弱でアフォな 系だという見方もできる、言語の完全性はある角度から言語を眺めた時にだけ 見える妄想かも、とむしろ反機能主義の立場から感じることがあるにゃ。
にゃ、スレ違いスンマソ、逝ってきますにゃ
あんましスレ違いでもないとおもいますじゃ。
お二方、またおいでおくんない。
>>67 語彙化という側面から、というお話は興味があります。
phaseの理論ではvPがphaseの一つですよね?
意味論へいちばん最初に送られてくるようなchunkに
語彙としての地位を与える、とすると、Transferの端緒に
音と意味を語彙的に結び付ける特権が与えられるのは
ありそうに感じます。問題は下の方へダーっとVがのびても
いいというのではなく、「V二連子」に限られるのはなぜなんでしょうね。
音韻論のextrametricityのようなことがおこって、vをスキップして
Vを語彙化(で結局それがvと一緒になって他動詞に)する、という
妄想がほよよんと出てきました。すると語彙化は実質的にはV単子にしか
行われない...ほよよん
「言語は完全どころか貧弱でアフォ」というので、融通のきかない
?hぁか真面目な人間を想像しますたが、でも言語はどちらかというと
要領のいいナマケモノですね。
で論理との関係ですが... おっと仕事、仕事。
えっと、ちょっとそれるのだけど、本当に3項までしかないですかね。 I bet you $100 that Japan will win the next game. とか。4項あるとも考えられますが。 項数が少ない、というのは言語が貧弱なシステムなのではなくて CIのほうが貧弱だから、言語の方に「そんないっぱい項のある 述語なんてりかいできねぇーよ。数へらせよな。」といっているとは 考えられませんかね。 Shonfinkelizationの話しで、動詞以外のconnectiveを考えると、 接続詞andは基本的にいくつものconjunctを結べます。 John, Bill, Tom, and Mat のように。これが、binaryになっているというのは、ガイシュツな 話しですけど、そこに目をつむって、並列になっているとしましょう。 だとすると、論理学のconnectiveなんかより、ちとは能率のいい、 いっぺんに沢山のものを結べるってことになる。だから、論理学でも ((j&b)&t)&mのようなつなぎ型でなくって&(j, b, t, m)みたいに してもいいのではないでしょうか。 で、勿論そうしても何の得が行くのか解らない。けど、自然言語の 統語論が自然が見つけだした最も完璧なシステムなら、論理学の方が 自然言語の方を真似していくのに、何らかの意味があるのでは ないでしょうかね。この話しは、前にBobチャンとカオモジさんの 抗争のなかで出てきた、「鳥の飛び方を見て飛行機を造る」 みたいなものかも知れません。 家の方はものすごい夕立です。雷が地響きをおこしておっかないくらい なので、コンピュータも切りますです。
あ、4項動詞、ありましたね。 >>I bet you $100 that Japan will win the next game. 日本語ではどうなんでしょ -君との間で、日本が次のゲーム勝つ、にイチマンエン賭けあいっこしよう でしょうか。 ところで、基本的に、原理-パラメータ理論では、自然言語の 方から見ていって分かる限りでしか意味論(また、音韻論も)について 言わない、という慎重な姿勢ですよね。 例えば音韻論をたとえに使うと、人間の口のところを解剖したり、 レントゲンをとったりしたところで分かるわけではない (下手すると音声学的なところもよくわからないところがある) という状況で音韻論を考えるようなもので、 意味論は、もちろん生きた頭かち割るわけにもいかず、多分かち割っても 意味論的事実は浮かび上がって来なくて、仏も浮かばれないということに なる。手がかりになるのは言語の側から見えるものだけ。 このような言語のほうから見た意味はそれとして、 論理学はまた人間のどこにあるのか、ということ問題としてあり、 ただ、おそらく視覚などにも論理構造が垣間見られるのではないかと 思うので、まあどこかにあるんだろう、ぐらいに考えときます。 ここで、このように言語の意味論と論理学を考えると、言語の側から 見えた意味論の制限性を即座に論理構造の制限性というのは難しいのでは ないかと、私は思います。例えば、また視覚についてですが、視覚的に 状況を把握するとき、その状況を構成する項の数はかなり多くなり得るの ではないか、と思います。極端な例かもしれませんが、訓練されたパイロット は、ものすごい数の変項を含む述語をもっているのではないでしょうか。 一方、言語の意味論についてはかかりさんがおっしゃることが 成り立つかな、とかなり同意です。意味論が狭義統語論にむかって 「んなに、いっぺーよこすなよ!」とか愚痴るとか。 すると「言語の意味論とは?」ということになると思います。 Jackendoffなら意味論=概念構造=論理構造なんでしょうけど、 今の時点では、まだ言えないんじゃないかな、と、私の印象ですが。 connectiveについては、論理学では 関数型にもできます。そして ((j&b)&t)&mも、(j&(b&t))&mも、(j&b)&(t&m)も commutative lawで等価であることが述べられています。 構成素構造が同じですから括弧をとって j&b&t&m としても、問題がおこる状況はありません。これを関数型にして &(j, b, t, m) も問題ありません。 そうすれば確かに項数を0から無限にできると思いますが、 それと効率は即座に結びつくかな、と思います。 問題は、項数0の場合と、項数無限の場合の差が でるのはどのような状況か、ということだと思います。 これはその式の値を出す場合で、0項と無限個項が 同様に扱われるということは、全体を一気に計算しつくす ということになると思いますが、どうなんでしょう。 &を無限個の項をとれるようにする、というのは自由度の 保証ですが、むしろ、自然言語の方から何か洞察がもたらされると したら、制限性についてではないでしょうか。しかも非常にウマイ 制限の仕方。 こちらも先程まで犬ネコ降りでしたが、おそい昼食のあと、 これを書いていたら晴れました。かかりさんがこれを読まれる頃は よい天気だといいですね。
73 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/06/11 18:37
サッカー板でハングル語を真似たスレタイトルやレスで「〜〜ニダ」 というのを見かけるのですが、確かにテレビで韓国人が話しを 聞いていると末尾に「〜〜〜ニダ!」と言っているのが聞こえます。 逆に日本語って外国人にはどういう風に聞こえるんだろう 思うのですが、どうなんでしょうか?知りたい…。
スレ違い…。 スレたてるまでない…に書き込んだつもりだったのに…。 激しく鬱。 すみません…。
テメー、わざとだるぉお! なんて言いませんので、またマタールリと騙りあいませうね。 ちなみに外国人には「ゆーきやこんこん」は 「クギウギドンドン」に聞こえると、昔テレビで 勉強したことがあります。 ところで、1さんの話とは遠いところまできてしまった ようなんですけど、いいのかな?
日本語を知らない外国人が日本語をしゃっべっているフリをするとき どんなことをいうかを観察すると面白いのにゃ。 外国人の耳には韓国語と同じように聞こえてるという話しを聞いたことが あるにゃが、ほんとかにゃ? 昔のタモリの持ち芸の一人4ヶ国親善麻雀、 知ってるにゃ? ま、スレ違いはお互いさまってことで…… >>I bet you $100 that Japan will win the next game. にゃるほどにゃ、でこの場合that節がargumentだとするとそこからの 抜き出しも可能になるにゃが、これはその通りなのかにゃ、念のため how do you bet me $10 [that ... t ] とかにゃ。 >CIのほうが貧弱だから、言語の方に「そんないっぱい項のある >述語なんてりかいできねぇーよ。数へらせよな。」といっている う〜ん、どうなんだろにゃ、これまでさんざ言ってきた、「意味的には どこもおかしくないのにそれをコレコレの言語表現では表せない」という ケースは、むしろ概念体系の豊かさに見合った計算機構を言語が持ち合わせて いないということだと思うんだけどにゃ。例えばPesetskyのT/SM制限で *A angers B at C. / A makes B angry at C. は概念構造的には(ほぼ)等しいが、それを動詞一語で統語構造化する ことができないというのも、統語派生の不自由さを物語っているように 感じるにゃ。一番経済的な派生しか許さないというのは、ちょっと不経済な ことをすれば可能になるはずの構造を意地でも許さないような仕組みに なっているということにゃ。 これは経済性原理が比較すべきreference setの特徴付けをどうするかの 問題でもあるにゃ。foxみたいに出てくる意味が違えば比較の対象にならない ということを一度言い出すと、それによってしか表せない意味があるという 大義名分があれば何をやってもいいということになってしまわないのか、 という疑問もあるにゃ。 A and Bは [A [ and B ]]、「AとB」は[[ A と ] B ] というconstituency だと思うにゃが、このような個別言語間の違いまで反映した論理式の意義 ないし妥当性というのはどうなんだろにゃ。 > ((j&b)&t)&mも、(j&(b&t))&mも、(j&b)&(t&m)も >commutative lawで等価であることが述べられています。 >構成素構造が同じですから括弧をとって > j&b&t&m >としても、問題がおこる状況はありません。 [ John & Mary ] & Bill want to write a paper. John & [ Mary & Bill ] ... [ John & Mary & Bill ] ... [ John] & [ Mary ] & [ Bil ] .. なんかの違いはreduction前の構造で区別するってことにゃ? ではreductionの考えにくいmeetとかquarrelとかの動詞ではどうにゃ。 どういう括弧のつけかたをするかで違う命題になるにゃが。 こっちは今頃どしゃ降りにゃ。帰りは自転車なのににゃ……
>>昔のタモリの持ち芸の一人4ヶ国親善麻雀、 知ってるにゃ? 思えば、あれに魅せられたのが言語学を志すきっかけでした... (遠い目) Conjunctionに関して、「構成素」と書いてmisleadingだったかも しれませんが、論理学のことしか考えてなかったです。 Conjunction Reduction, Concomitant Movementは全く頭に ありませんでしたが、気になります。 今日は波江の叔父貴から100とらにゃあ男が上がりませんので、 小一時間ばかり、出向いてきます。探さないで下さい。
あ、もちろん、ハナモゲラ語も練習しました。
昨日は、何となく男を下げてしまいました... 鬱 >>どういう括弧のつけかたをするかで違う命題になるにゃが John & Mary & Bill want to write a paper. 等位項縮約変換を記述的装置と捉える、または作用域の問題と して、ちょっと整理してみます。ちょっとくどくなりますが (1)縮約は起こっていない/共著論文は1本 [J.&M.&B.] want to write a paper. (2)縮約が起こっている a. 論文は3本(偶然、同一の論文を書き上げた、も含む) [J.want to write a paper]&[M. want to write a paper] &[B. want to write a paper] b-1. 論文は2本 [[J.&M.]want to write a paper]&[B. want to write a paper] b-2.同 [M.&B.] b-3.同 [J.&B.] これが仮にQRのような操作の適用結果としてもたらされるとすると、 解釈は統語構造からの出力に依存し、意味論の方では統語論から送られてくる 括弧付けを読むだけになるので、問題はトリビアルなものになるかもしれません。 しかし、そうすると、QRで等位構造から一部だけ摘出することになりますよね... どうなるんだろう... 単に記述的か、実質的なものかわかりませんが、解釈を論理構造化した場合には、 むしろ命題と1項等位構造を含む等位構造主語の関係の明示化になり、 (1)または(2a)のような場合には括弧付けをどのようにしても等価関係になるでしょう。 この場合、括弧付けの問題は論理構造の問題というよりも、統語構造からの写像の様式、 ということになるのでしょう。 でも、カオモジせんせのおっしゃった、個別言語間の差異、というものまで含めて 考えるにつけても、その写像の様式というものは、一筋縄ではいかなそうですね。
>抜き出しも可能になるにゃが、これはその通りなのかにゃ、念のため >how do you bet me $10 [that ... t ]とかにゃ。 ん、[V NP CP]みたいな構造ではCPはweak Islandになるんでなかったっけ? 確かCinque1990にそう書いてあった。howは無理だと思うけど、which game なら抜き出しできるんじゃないかな。 which game are you willing to bet me $100 that Japan will win? とか。 andと「と」の言語間の相違はX-bar levelでは存在しませんです。 また階層的なbinary branchに戻りますが。だからparametricな 違いはnotational variantみたいなものかなっと。 ついでに判断の質問。 花子が 誰か-iを 招待したら、太郎は必ず そいつ-iに 会いたがる。 ってokでしょうか? それから、QRで等位構造のconjunct一つを取り出すって、出来ないのかな。 John bought the magazine and every book in the store. って言えるんじゃないの?coordinate structure constraintって covert mov'tにもかかるのかな。違うような気がする。統語論ぽっくなって すいません。
let's move back to the GG thread, meow
カオモジせんせ、かかりしゃん、ありがとございますたですた。 また気が向いたらお立ち寄り下さいです。 >>そうすると、QRで等位構造から一部だけ摘出することになりますよね.. とかいて、かかりさんにもレスをつけていたんですけど、 ちょっと私、間抜けなことを書いてたような恐れが...上の >>(1) >>(2)縮約が起こっている >>a. 論文は3本(偶然、同一の論文を書き上げた、も含む) >>b. 論文は2本 は、等位構造からの抜き出しというより、値置き換えの意味での reductionの先取りのような感じ。 カオモジせんせはこのことがいいたかったのかなあ... 値決めのreductionのようなことを統語論で先取りすることになりますが reduced partをRとすると、(1)は等位構造全体がRに置換され、 分配読みなし、(2a)は置換なしで、全部がQPの分配屋として働く、 (2b)は一部Rに置換され、例えば[R & M.]がQPに。すると解釈に 関わるようなreductionが統語論で行われて、それに基づいて 量化構造が作られる、ということになりますが、うーむ??? で、もし等位構造から摘出があるような場合というのは、上で考えてなかった [J.&M.][[x &B.] want to write a paper かな?B.の共同研究者が2人いるという読みが予測されるんですけど、 そもそもこういう読みはあるのか、また、どこまでこういった構造化が なされているのか、それとも過小決定されているのか、問はつきないですが、 もし他の組み合わせは許せても、最後のだけ許せないとなると、CSCが かかわる、といえるカナア... >>ついでに判断の質問。 >>花子が 誰か-iを 招待したら、太郎は必ず そいつ-iに 会いたがる 私は完全OKっす。ただ、 花子が 保子-iを 招待したら、太郎は必ず そいつ-iに 会いたがる がいい、というのと同じ感じで、 花子が 誰-iを 招待しても、太郎は必ず そいつ-iに 会いたがる の読み方とは違う感じがします。 「招待すると太郎が会いたがるような女性が少なくとも一人存在する」 というような、存在量化が条件節を出て、主文を作用域にとっているような そんな気がします。起きぬけで、寝言かもしれませんが...
さっきのは寝言だったのか、やや法性を帯びた述部「たがる」の影響だったのか...
花子が友達を誰か-i呑み屋につれてきたら、太郎は必ずその人-iに会いたがる
はやはり私の判断では
>>82 と同じですがとすると、「...誰...ても」でも
そうなっていいはず。ですがやっぱり同じ。
花子が友達を誰-iを呑み屋につれてきても、太郎は必ずその人-iに会いたがる
一方、
花子が友達を誰か-i 呑み屋につれてきたら、太郎は必ずその人-i を見に行く
は「誰か-その人」の連動を許すような...いえ、ちょっと自信はありません。
等位構造をもつ文について、日本語で考えてみます。
(1)太郎と、二郎、三郎が論文を書いた
「全員で一本」と、「一本ずつ三本」という読みはあるとして、
(2)太郎と二郎、二郎と三郎が論文を書いた
は、やっぱり、うーむ、(1)にこの解釈があるとは思えない。
また
(3)太郎と二郎、それから三郎が論文を書いた
は「太と二がかき、三郎もかいた」という読みがありそうな気がしないでもないですが
この読みは(1)にはないような気が。
ちょっとのんびり考えます。ところでCategorial Grammarでは昔の
等位構造縮約変換にすごく抵抗していて、等位構造の作用域の問題は別の方法で
表現可能、と読んだことがありますが、詳しくは知りません。どなたか
ご存じないかなあ...
誰か...そいつ、の例はとあるところでungrammaticalになっていたのだけど、 何が悪いのか解らないのであります。donkey文みたいな解釈ありですよね。 categorial grammarですか。一人詳しい人を知っているけど、聞いてみ ようかな。引退して余生をのんびり送っている人にこんな質問ぶつけるのは わるいかな。引っ越し先の総合すれにも、幾つかのテスト法のアイデアを かいときました。
いつのまにやらすごい書き込みですね。とりあえず,
>>61 から63のあたりをターゲットに。
論理学でSyntax(構文論)というと証明論ですが,論理学における証明論と
意味論は表裏の関係にあります。自然言語の構文論も統語計算として形式化
されるならば,論理学における構文と意味との関係が,自然言語においても
そのまま当てはまるわけです。
その意味で,統語論と意味論とは補完しあうものだと言いたいところです。
質問の意図をよく理解していないかもしれませんが,
文を一つの関数と考え,Curry化することで,文とその構成素との構造が
カテゴリの中に情報として取り込まれることになります。
つまり,カテゴリの中には,元の文の構造に関する情報が含まれているわけです。
従って,多項式をCurry化してカテゴリとして表現した式は,
元の文の構造と等価なわけです。
Ann loves Jan
(NP) ((NP\S)/NP) (NP)
-----------------------
(NP\S)
-------------------
S
λ抽象化でも,Curry化を行うことで高階のクラス型を定義していくのですが,
これも結局,構造に関する情報を型の中に取り込んでいるわけです。
同時に,意味の定義を行っているわけですから,構成的な意味論
にとって都合がいいわけです。
ちなみにSchonfinkel(1924)のBuilding Block of Logicは,カテゴリ論のさきがけで,
その後,Curryらがcombinatory logicとして集成していきます。
圏論も,もとは集合論のパラドックスや再帰関数の意味論の研究のため発展して
きたもので,数学基礎論の一分野です。
蛇足ですが,意味論の統語論=カテゴリアル文法ではないので念のため。 Kamp&ReyleのDRTでは,統語論のベースにGPSGを採用しているし, HeimはGBベース,AsherはGB+カテゴリアル文法,Muskensはカテゴリアル文法.. といった具合で,それぞれのアプローチで採用している統語論が異なっています。
老師、おかえりなさい。
いろいろと書き加えておくんない。
>>85 老師のお話では、述語のCurry化の導出史がSへといたるカテゴリ群を
生み出し、それがSの導出樹の各接点のタイプとして、統語論の
情報にも組み込まれるというお話ですよね。しかしそれは論理構造から
見て組んだ統語論とも言えて、独立の根拠を持つ統語論のラベルの
話とはまた違うかな、と思います。61からの話では、そのような
独立の根拠を持つ統語論と、論理構造のフィットさの話に
なると思うのです。
確かに論理構造と補完しあうような統語論を作り、微調整しながら
自然言語との対応を考えていくという方向もあり得ると思いますし、
そのようにすすめられている分野もあると思いますが、一方で、
人間言語以外に「言語」の名が冠される体系には存在しない
(おそらく、必要ないから)と思われる特性が、実質的か
疑似現象としてかはさておき、自然言語には多くあると言われています。
例えば、移動による摘出を規制する島の現象など。
確か、カテゴリアル文法では、原始カテゴリのSとN、そしてそれから
派生される派生カテゴリの二種類から、カテゴリがなるんですよね。
これは論理学での統語論ではなく、自然言語の統語論だとしても
論理学の意味論とフィットするような組み方になっていると思うのですけど、
一方、多くの生成文法の統語論では、原始カテゴリと目されるカテゴリが
独立の根拠で立てられている。一応そんなところから、統語論を一応
独立に認めることができ、そこに認められる特性と、論理構造の
特性と、どんな具合にフィットするか、というような問いが
>>61 で
私なりのことばでかかりさんのことばを解釈し直したものでした。
老師のお考えとしては、意味論にフィットするように統語論を
組んでいけば、自然言語の大部分にやがて対応する、というような
お考えになるのでしょうか?
88 :
旬のお知らせ :02/06/13 22:10
うとうとと、ゆめうつつにちょっと... せっかくSyntacticiansが遊びにきて、種をいっぱい落としてって くれたので、今のうち食べるか育てないともったいない気が (スレ間言及になりますが、K-Rodせんせも気が向いたら遊びに おいでくださいやし) 日本には意味論學者は一杯いらっさると思うし、2ちゃんねるを のぞかれてる方もいらっさると思うんで、 よかったら遊びにおいでくださいませ。 こさかな 拝 (自称[Semantico-Syntactic]-ian) うとうと...
>>87 こさかな先生
>これは論理学での統語論ではなく、自然言語の統語論だとしても
>論理学の意味論とフィットするような組み方になっていると思うのですけど、
eとtは,述語論理の意味的要素です。
>意味論にフィットするように統語論を
>組んでいけば、自然言語の大部分にやがて対応する、というような
私の考えではなく,Montagueの考えです。
人工言語も自然言語も違いはないという仮定です。
私としては,ここはあまり拘泥せず,MontagueのUG(1970)の注2に従いたいところです。
もちろん,それが正しいということではありません。
■老師、 >>eとtは,述語論理の意味的要素です お時間ありましたら、もうすこし説明をお願いできないでしょうか。 以前、上で、有限の手続きでtに辿り着くような高階計算になってる、 とおっしゃってたのと関係がありますよね。 おお、イミスレ上空飛行中!
ああ、変なミス発見...欝
>>82 >>[J.&M.][[x &B.] want to write a paper
>>かな?B.の共同研究者が2人いるという読みが予測されるんですけど、
nameでdistributive readingがあるわきゃないっすね。スマソ
で、GGG(Generative Grammar in General、別に約さなくてもいいですけど
こうするとGG@G=GG Circle at Geneveみたい)スレで話されてるように
存在子を入れると
[J.&M.][[x & someone] want to write a paper
もしQRが起こっていれば
->[J.&M.]-i[SOME]-j [t-i & t-j] want to write a paper
しかし、これはどういう解釈になるんだろ?
2-i SOME-j [t-i V t-j] が、
->[a V a'] & [b V b'] x': xに連動した要素、a'=b'の場合もあり
みたいなものだとして、これからのアナロジで考えるとしても、
まず
[t-i & t-j] V が論理構造
->[t-i V] & [t-j V] に対応して(等位が量化のようになって)、
さらにこれに量化
->[J.&M.]-i[SOME]-j[[t-i V] & [t-j V]]
にすると上の論理構造に対応するようなのは
->[[J V] & [J' V]] & [[M V] & [M' V]] で、coauther読みはない???
そもそも、これってどう読むんだろう...もし等位が量化のように
ならない場合、出来事は一回、論文も一本ということになるはずだし...
すると主語の名詞句等位構造の中でだけいろんな組み合わせが
起こって、「J.はそのパートナーと、M.はそのパートナーと、
あわせて最大4人(両刀遣いがいる可能性あり)で論文一本」という
ちょっと変な読みになるかな...
一方、J. and M. wanted to write a paper with someone.は
こういうナゾはでないですよね...
と、ポ-韓戦を見ながら妄想。
こさかなしゃん、難しいこと書くから話しが見えなくなってしまいますたにゃ(w
仕切り直すにゃ。
>>76 の俺の質問は至極単純で、
> ((j&b)&t)&mも、(j&(b&t))&mも、(j&b)&(t&m)も
>commutative lawで等価である
>関数型にして &(j, b, t, m)も問題ありません
とすると
(j&b)&m wrote a paper / j&(b&m) wrote a paper
の区別はなくなってしまわにゃいか、これが等位縮約前の構造に言及することで
disambiguateされるというのであれば、
(j&b)&m met / j&(b&m) met
みたいに縮約によらない場合はどうするのか、ってことでしたにゃ。
アフォにも分かる解説おながいしますにゃ(ぺこり
みなさん,ペースが速いですね。
>>90 こさかな先生 ちょっとお待ちください。
>>92 (´∀`)先生
>(j&b)&m met / j&(b&m) met
これは古典論理では区別できません。
&とかorを拡張したlinear logicや,構造規則を拡張したsubstructureや,
Pluralを扱える論理体系を使えば,区別可能でしょう。
例えば、古典論理の&とは異なる乗法的積+を導入して,
(j+b)&m met とすれば,
(j&b)&m met
との意味を区別できるようになります。
または,KampがFDLでやってるPluralの扱いでも違いを表現できるかもしれません。
この辺は,もう少し考えてみましょう。
94 :
>^ ) ------< :02/06/15 11:48
カオモジせんせ、「難しい」というより、筆が荒れてたと 思います、スマソです 仕切り直しますです。 一応、論理構造と統語構造の間に何らかの写像関係があると します。等位縮約が関わらないケース(事態の数が増えない)を考えるます。 まず[a&b]というconjunctが2この場合から考えます。 SS: [a&b] wrote a paper LS: W([a&b], P) LSで述語は大文字にします LSでは、commutative lawで、a&b = b&aですので、SSでaが先でも、 LSではa,bのどちらが先であろうと、等価な構造です。 すると問題は、SS(というかspell-out後のPFに反映される構造)での 順序関係は、LSに関係する意味に関して、有意義な違いがあるか、 ということになると思いますですが、こさかなとしては ない、という立場を取りたいと思います。で、現れる意味の違いは 別の、御用論的な含みではないか、と思いますにゃ。 1.教授と院生が共著論文を書いた 2.院生と教授が共著論文を書いた の違いはLSに反映される違いとは感じられないです。
95 :
>^ ) ------< :02/06/15 11:51
>>94 それで本題ですが、conjunctが3つ以上の時の、まとめ方の違いは
等位縮約と関係ないような場合については(ですから"met"のような
場合も含みます)、有意義にLSに反映される違いを持つか、ということに
ついてです。
SS1: [a&[b&c]] wrote a paper
LS1: W([a&[b&c]], P)
[a&[b&c]]はassociative law(あ、これ前に書いてなかった...欝)で
述べられるように[[a&b]&c]と等価です。また、commutative lawで
[a&[c&b]], [[b&c]&a], [[b&a]&c], [c&[a&b]]も等価です。これらは
すべて全体の値を変えずに[a&[b&c]]と置換可能です。この状況では、
括弧付けと項の順序が真理値に影響を与えていないので、
「約束として」括弧を省略して、順番が自由でもいい、ということに
なります。まえのかかりしゃんの話とは少しちがった意味で括弧と
順番の自由を許すわけです。どの二項関係ととってもよい、ということで。
しかし、SSから送り込まれた構成素構造もLSでは(この件に関して)
無視しても意味は変わらない、という主張をするわけですけど、
問題は、SSの構成素構造の違いがLSに関して有意義な違いに
結びついていないのか、ということですね。上で使った文を
少し変えて
3.教授と修士の院生、博士の院生が共著論文を書いた
とし、等位構造部分の構成素構造が
[P&[M&D]], [[P&[M&D]]
として有意義な違いがあるかというと、こさかなとしては
ないと思います。
ですから
>>区別はなくなってしまわにゃいか
とおっしゃることに関して、論理構造への写像後に違いがなくても、
そもそも問題はないと思います。
ならば逆に、ある構成素構造を出力として、等価関係にある
構造のうちの一つに写像されても、もちろんいいわけです。
統語構造と論理構造の写像という関係については、おおむね
上のようなことが言えるかにゃあ...と。
で、一応説明は以上なのですが、じゃあ、照応子と先行子の
関係の非対称性は?とか、疑問を感じますが、これはC-Iとの
インターフェイスまでの間に有意義か、C-Iの言語の意味論で
有意義な関係かなあ、と思います。これらがより統語構造に
敏感な部分で、多分一般的に受け入れられている考え方かなと
思ってました。カオモジせんせ、これってどうなんでしょ?
こさかなとしては、漠然と妄想ですが、
統語論 - 音韻論 - 音声学
に対応して
統語論 - 意味論 - 論理学
というような関係かなと今のところ信じてます。
96 :
>^ ) ------< :02/06/15 12:00
>>93 ああ、老師のを見る前に書いてしまいました。
>>これは古典論理では区別できません
って、古典論理でやってました(笑
あとは老師にお任せします。
>>95 につけたしですが、
音韻論が統語論からの出力を解釈して、運動-知覚系への信号に変換するのと
同様に、意味論が統語論からの出力を解釈して、論理学への信号に変換する
というのはだめでしょか?
97 :
>^ ) ------< :02/06/15 13:17
ああ、また間違いハケーン...すみません
>>95 3.教授と修士の院生、博士の院生が共著論文を書いた
>>とし、等位構造部分の構成素構造が
>>[P&[M&D]], [[P&[M&D]]
最後の式は
[P&[M&D]], [[P&M]&D]
でした。あれでは意味不明だ...
にゃ、こさかなせんせ、意味論スレはずっと楽しく読ませてもらってるのにゃ。 てか、私に「せんせ」って敬称つけるのは遠慮してもらいたいにゃ。 私はSyntax始めて2年も経ってないドキュンちゃんなのにゃ。 「せんせ」って呼ばれると素朴な(そしてアフォな)質問がしづらくなっちゃうのにゃ。 で上記のこさかなせんせの話ですが。 私的にはanaphorやpronounってのはLFでの問題にゃから、narrow syntaxにとって 問題になることはないと思われますのにゃ。 こさかなせんせの意見のサポートにもなると思いますにゃが、ある無限の意味内容なる ものがあったとしてこれを表現できる道具というのが、言語の統語構造であったり、論理構造で あったりするような気がしますのにゃ。だから、論理構造と統語構造の類似性で問題に なってくるのはあくまでnarrow syntaxの中だけでの話であり、その統語構造を解釈する部門で あるLFでは論理構造と多少のずれはあってもかまわないという立場もありというような 気がしますのにゃ。 それと、等位構造のcommutative lawに対する反例としてよく挙げられる Tom went to the store and he bought a chocolate. =/=Tom bought a chocolate and he went to the store. (今までの例のNP同士の等位構造とは違いますが) みたいな例文も語用論の問題なので、論理構造が自然言語の反映ではないという 反例とはちと違うのではないかにゃ、なんて思ったりしてしまいますのにゃ。 まあ、素人意見にゃが。 顔文字センセの襲来を楽しみに待つことにしますにゃ。
99 :
>^ ) ------< :02/06/15 14:59
K-Rodしゃん、こんにちはにゃ。 じゃ、「せんせ」はやめさしていただきますにゃ。 でもK-Rodしゃんの名前は私の私淑するある方の名前に 似ているので、ちょっとびびりにゃ。 あー、なんか「にゃ」を使うと話易いにゃ。 こさかなが「意味論」といったところ、「LF」と読んでいただて 結構にゃ。正確にいうとどういったらいいのか、今の理論状況では わからにゃくて、より伝統的で中立的な「意味論」を使ったにゃ。 anaとproのお話はなるほどですにゃ。 commutative lawの反例として引かれた例は、"and"なしで 文を連続させても同じことが観察されますにゃ。私もK-Rodしゃん に同意で、御用論と思いますにゃ。 (1)Tom went to the store. He bought a chocolate. (2)Tom bought a chocolate. He went to the store. で、"and"がなくても1=/=2ですにゃ。多分これは時の指示の 問題にゃから、NP coordinationではおこらなくて、VPおよびCP coordinationでは見られるですにゃ。 基本的に連続する二つの文は、続いて起こる事態と解釈される にゃが、その間にcausal relationがあればひっくりかえしても いい、と言ったのは確かDowtyにゃ。こさかな私見ですにゃが、 これは日本語では成り立たないですにゃ。 (3)強い風が部屋の中に吹き込んできた。 大事な書類がどこかへ飛んで行った。 (4)大事な書類がどこかへ飛んでいった。 強い風が部屋の中に吹き込んできた。 4は3と同じ事態連続とは解釈されないですにゃ。 4の二番目の文にちょっと細工するとできるようになりますにゃ。 (4')大事な書類がどこかへ飛んでいった。 強い風が部屋の中に吹き込んできたノダ。 ちょっぴり面白い問題だと思いますにゃが、おっしゃるとおり この手の問題は御用論ぽいですにゃ。 あちきもカオモジせんせの襲来をお待ちしますにゃ。
100 :
K-Rod :02/06/15 23:35
にゃ、主催者さしおいてキリ番ゲットしちゃったにゃ。 ちなみに私のHNはとある敬愛するbaseball playerのニックネームを もじったものにゃ。
>>80 ,82,83 こさかな先生,かかり助詞先生
ここまで,どうもunfamiliarな用語が多くてよく理解できないのですが。
>花子が 誰か-iを 招待したら、太郎は必ず そいつ-iに 会いたがる
問題にしているのは,∀読みか∃読みについての問題でしょうか?
それとも,誰か-i に対する,de dicto/de re読みの区別のようなことでしょうか?
>>83 こさかな先生
> 花子が友達を誰か-i 呑み屋につれてきたら、太郎は必ずその人-i を見に行く
>は「誰か-その人」の連動を許すような...いえ、ちょっと自信はありません。
だれかを直示的に解釈するのではなくて,specificな誰かと解釈できる
ということでしょうか?
直示的とすれば,
>「招待すると太郎が会いたがるような女性が少なくとも一人存在する」
は可能だと思いますが。その場合,∃-readingとは違うということでしょうか。
102 :
(´∀`) :02/06/15 23:47
統語構造が内包する多義性を異なる構造にふりわけてdisambiguateするのがLF、
という伝統的な見方(たとえばMay 77)もあれば、LFもambiguousなままで
かまわない、同じLF構造が2つ以上の読みを表すこともある(たとえばMay 85)
という立場もありますにゃ。しかしここでいうLFはあくまでsyntacticなもので
こさかなしゃんや老師が扱っている論理式はこのLFを入力にして派生される
統語部門外のもの(May のLF'みたいな)であり、少なくともそこではすべての
多義性はきれいに区別されていなければならないだろう、という想定のもとに
質問させてもらったのにゃ。そこであえてネチネチお尋ねするにゃ。
(1) 太郎と花子と次郎が喧嘩した。
喧嘩が2者間で起きたと限定して、T&H vs Jなのか、T vs H&Jなのか、の区別や
H vs T&J の読みは(たぶん)ない、とかいったことは論理式には反映されない
ということでいいのかにゃ?
照応なんかは線形順序より階層構造にsensitiveにゃから、
A and B が [ Spec = A [ head=& compl= B ]]となっていてAがBをc-command
しているがnot vice versaってことでかなりのことはカバーできるにゃ。
every student and his parents / * his parents and every students とかにゃ。
ところがこれは日本語の場合に困るのにゃ。
生徒全員とその両親 / *その両親と生徒全員
head-finalだとして日本語では [[ A &] B ]とBの方が(Specかどうかは別にして)上位に
あることになりそうだからにゃ。
かかり氏が
>>80 で「andと「と」の言語間の相違はX-bar levelでは存在しません」
といってたのに関係するにゃ? 待て、かかりしゃん襲来、にゃ。
103 :
かかり助詞 :02/06/16 05:11
「誰か...その人」は解釈が存在か、universalか、という前に、 非文法的(すなわち解釈不能)である、っていうひとがいるのが 解りませんのです。 生徒全員とその両親 / *その両親と生徒全員 て、そこまで考えておりませんでした。困ったな。「-と」は 確かにpostpositionalなのだけど。[[Aと]B]のような構造で 「-と」がc-commandに関して数えられないのだとしても BがAをc-commandしちゃうのはこまるっす。 [A [ とB ]]から始めて、と-movementで「-と」をAにincorporate しますか。なんの根拠もないな。 このところ「喧嘩する」「結婚する」「合う」「XXXする」などの 相互動詞が熱いですね。これとconjunctionが混ざり合うと統語的にも 意味的にも面白い問題が沢山出てきますね。
104 :
ゝ゜)っ ++++< :02/06/16 11:11
>>100 K-Rodしゃん、切り番ゲットおめでとございますにゃ!
スレをたてた1さんに替わってお礼申し上げますにゃ。
みなさまのおかげで、ここまできました...うるうる
>>101 老師、
>>それとも,誰か-i に対する,de dicto/de re読みの区別の
>>ようなことでしょうか?
de re/de dictoは確か、内包文脈での指示に関するもの?だったと
思いますけど、多分ここでは一応関係ないです。
>直示的とすれば,
>>「招待すると太郎が会いたがるような女性が少なくとも一人存在する」
>は可能だと思いますが。その場合,∃-readingとは違うということ
>でしょうか
このような読みが可能な場合、indefinite specificで、まあ直示の一種とも
言えるんでしょうけど、こんな読みをよく「〜より∃が広い読み」といって
存在言明に含めてますよね。「ι」という別のオペレータを使って、
"a certain"のようなのを∃とは分けることもあるようですけど、
一応、ここでは条件節と∃の関係でバクゼンと書いてます。
かかりしゃんが、解釈以前に容認不可能だ、といっている人がいるけど
どうでしょう、と質問なさったのを、ちょっと先走ってDonkey読みの
可能性まで考えようとしてた、といったところの話でした。
このあたりは、バッチシ老師の領域ですよね?
105 :
ゝ゜)っ ++++< :02/06/16 11:14
>>102 (1) 太郎と花子と次郎が喧嘩した。
は、上の古典論理によるこさかな説明ではないことになりますにゃ...
でもやっぱり、カオモジせんせが挙げてらっさる読みがあるような気が
しますにゃ!これは、conjunctのどれかが「敵」になる場合ですね。
ちょっと考えてみると、読みの違いは例えば
(1-1) 太郎と花子が次郎と嘩した
(1-2) 次郎と花子が太郎と嘩した
に対応してますにゃ。(1)にもし読みの違いがあるとするにゃら、
こちらの方に対応した
F([T&H], J)とF([J&H], T)
項の位置の違いからvs.の関係がでてくると思いますにゃ。
古典論理でやれば、主語位置に等位構造があった場合にはやはり
等価関係になってしまうので、可能な場合は別の項の位置に
あるものとして解釈することになると思いますにゃ。
非古典論理ではどうなんでしょ?老師。
あ!とここで思い付いたのですにゃが、上の話をふまえると
(2)太郎が次郎と喧嘩した
みたいなのを、「と」句をLFまでに動かして主語に等位構造を作る、
という説(Lakoffにさかのぼる説にゃか?)がありますが、(2)では
むしろそれをやってはいけない、(1)に関しては逆にloweringのような
バラす操作を考えなければならない、ということになりますにゃろうか。
LFで(1)(2)を同一構造にして、論理構造でdisambiguate...も
可能性としてはあげられるかもしれませんが...これはムリっぽですね。
>>103 相互動詞、面白いですね。
「会う」のように対称的な場合、「喧嘩する」のように非対称的な場合で
違いがでそうで、こういったことはあまり意識なかったですが大事なこと
ですね。
106 :
(´∀`) :02/06/16 11:37
>>103 ちょっと強引にゃが……
「太郎と花子が〜」という代わりに「太郎と花子とが〜」ともいえるにゃ。
ここで「太郎と」「花子と」それぞれが構成素をなしているとすると
[ Spec=[太郎と][compl=[花子と] head=が ]]
となって太郎のほうが構造的にも上位であることになりますにゃ。
同様に英語でも and A and B みたいにandを重ねることができるにゃが
これも [ [ and A ] X [[ and B ]]]みたいなことになってるのではないかにゃ。
ところで「太郎と花子が結婚した」だと太郎と花子がそれぞれ誰かと結婚したと
いう等位縮約解釈もできるにゃが、「太郎と花子とが結婚した」だと太郎-花子の
ペアの解釈しかないように思うんだけど、どうかにゃ。
[ [ and A ] X [[ and B ]]] → [ [ and A ] [ X [ and B ]]]
>>105 で「対称的」「非対称的」と書きましにゃが、
これはあまり適当ではなかったですにゃ。
私が「会う相手」にとって、私は「会う相手」ですし、
私の「敵」にとって、私は「敵」で、ともに対称的ですね。
むしろ「敵-味方」はラベル付けのおかげでグループわけしやすい
のに対して会う人のグループわけというのがラベルづけしにくい
という違い、それから「敵-味方」はdichotomyですが、
会う人のグループは2つ以上もいいはずですにゃ。こういったことが
言語の構造的考察にrelevantか、ちょっとのんびり考えますにゃ。
>>106 お、ほんとですにゃ!でも、「太と花とが...」の方に微妙に不自然さを
感じるんですけど、こさかなだけですかにゃ...これを
太郎と花子とがA会場で結婚し、次郎と梅子とがB会場で結婚した
だと自然になりそうですにゃが、これは暑さにやられたですにゃか...
「NとNが」と「NとNとが」に関するカオモジせんせの観察に関わる事が
相互動詞以外の場合にどうなっているか見てみたくなりましたにゃ。
(1)その設問に対して、太郎と花子がそれぞれ一つの解を出した
(2)その設問に対して、太郎と花子とがそれぞれ一つの解を出した
こさかな判断では1はパーペキ、2はだめっぽい、という感じです。
完全にだめとは言いきれない気もしますが...
もしそうだとすると、相互動詞だけではなく、一般にカオモジせんせ
の観察した現象が見られる、ということになるですにゃか。
109 :
ゝ^ )っ ---< :02/06/17 13:33
カオモジせんせのこのお話で少しまた書きますにゃ。
>>102 >>(1) 太郎と花子と次郎が喧嘩した。
>>喧嘩が2者間で起きたと限定して、T&H vs Jなのか、T vs H&Jなのか、の区別や
>>H vs T&J の読みは(たぶん)ない、とかいったこと
LF以降の論理構造でdisambiguateされるか、というお話に関連して、ちょっと
次のような状況を考えましたにゃ。ドイツとイタリアが組んでイギリスと戦っているという
状況です。この状況を主格の項と斜格の項にばらすことはもちろんできますね。
(1)独と伊とが英と戦った
これを主語等位構造であらわした場合、
(2)独と伊と英とが戦った
この場合、独伊同盟という解釈はできますが、言語的には特定されていない
と思いますにゃ。で、これのひとつめの「と」を取った場合にはどうなるか見ると、
(3)独、伊と英とが戦った
で独伊同盟解釈がしやすく(義務的?)になりませんかにゃ?入れ換えをして
(4)英、独と伊とが戦った
では独伊同盟解釈はないように思われますにゃ。
上でカオモジせんせのお話にお答えして、「論理構造では、主語等位構造の
グループのdisambiguationはしない、するとしたら主格項と斜格の位置の項に
あるものとして、述部で表現される関係から解釈されるのでは」と言いましたが、
試しに(3)をばらしたら
(5)*英とが独、伊と戦った
(6)*独、伊とが英と戦った
だめになると思いますにゃ。
ということは「A, BとCと」で他とは区別される統語構造として構造化されているものが、
論理構造でもそこから読み込めるグルーピングを行っているとは考えられにゃいかにゃ、と
ちょっと思いました。不完全指定されている構造に論理構造が意味を完全指定することが
あって、完全指定されている構造から論理構造が不完全構造を作ることはないとして、
ですにゃ。
ただ、「A、BとCと」というのの地位自体が気になりますけどにゃ。
110 :
(´∀`) :02/06/17 19:42
うみゃ、考えるほどにわけわかんなくなるにゃ…… >不完全指定されている構造に論理構造が意味を完全指定する これはそのとおりだと思うにゃ。しかし統語構造がすでに完全指定している 場合もあると思うにゃ。統語構造は常にbinary branching であり、そのような 構造しか人間言語のsyntaxは作れないように最初からなっているのだとすれば、 「独と伊と英」は [ 独 [ 伊 [ 英 ]]]または[[[ 独 ] 伊 ] 英 ]の可能性しかなく、 この限りでは問題になっている等位接続構造の多義性は純粋にsyntactic なものの はずなのにその区別が(古典的)論理式では失われてしまう、なんてことがあって いいのか、というのが最初の疑問ですたにゃ。 >完全指定されている構造から論理構造が不完全構造を作ることはない と言ってるにもかかわらず、にゃ。
>>105 > F([T&H], J)とF([J&H], T)
>項の位置の違いからvs.の関係がでてくると思いますにゃ。
非古典論理というのが相応しいのか,ちょっと分かりませんが,
Kamp&ReyleのFDLでは,公理的集合論と束論を導入して複数の記述を行っていました。
基底の集合論は何でもいいのでしょうが,ここではGBまたはZFを採用して
います。GBはGodel&Bernaysです。
簡単な例として,複数変数Xを導入すると,
1)John and Mary are married.
= 2)John is married to Mary.
は,
(a∈X∧b∈X∧married(X))
のように表現されます。ここで,Xは,複数変数です。
「(aとb)とcが喧嘩した」は少々乱暴ですが
次のように表現可能になります。
(aとb)とc ⇒ a,b∈Xとc∈Y ⇒ X,Y∈Z
---------------------------------------------
(Z)喧嘩した
この場合,項表現に構造を持つようなイメージになります。
ただし,(a+b)+c=a+(b+c) なので,こさかな先生が言っていたように
構造を意識するような仕組みを考えざるを得ないのかもしれません。
ただ束論を使えるので,項間の関係は,いくつかの2項関係を使って
いろいろ表現が可能かもしれません。
このあたりの分野は,まだネタがありそうです。
112 :
ゝ* )っ 〜〜< :02/06/18 01:02
>>110 カオモジせんせ
あちきも、もう頭うにゃうにゃです...
少々先走り過ぎたかもしれませんが、まわりまわって
カオモジせんせが提起されてた問題にやっと辿り着きましたかにゃ?
にゃっほー!
設問は、完全指定された統語構造を論理構造で多義的、または曖昧に
するというのは、minimalisticな問題設定にさらすと、非常に妙で、
こんなことってあるんだろうか、(いや、ないだろう)ということですね。
通常(?)だと、外的体系をにらみつつNSの構造を見つめ直す、ということ
になるんでしょうけど、今回の件はNSのほうがもう贅肉がない状態で
構造化がなされていて、このため逆に古典論理の方にも検察の手が
及ぶ、という感じなんでしょうにゃ。非古典論理の活躍に期待ですにゃ。
...と思っていたところへ
>>111 老師、ご説明ありがとございましたにゃ。
Zermelo-FraenkelはCantorのパラドクスが起こらない範囲に
限定した公理系で、Godel-Bernays系はGodelが連続体仮説の
証明に使った奴、ですね!とかいって、BernaysのAxiomatic
Set TheoryのFraenkelの解説を読んだだけで、「連続体仮説」
とか全然理解してないっすけど、ordinary set theoryの範囲で
大丈夫っすよね。
>>(a∈X∧b∈X∧married(X))
は、'married'も個体の集合Mとすると、X⊆Mになるすか?
"a∈X∧b∈X"のところはentityがexactly 2、ということを
表現してると考えていいのでしょうか。
>>(aとb)とc ⇒ a,b∈Xとc∈Y ⇒ X,Y∈Z
はX, Yをそれぞれ述語(例えば「味方」)として、
ZをXとYのデカルト積にある順序対の部分集合
ととっていいんでしょうか。そうすると
「喧嘩する」の関係はすでにZに含まれ、
「(Z)喧嘩する」の変項位置との置換は余剰的に行われる、
ということになるのでしょうか。
おもしろそ、かつ、むずかしそ、ですにゃ。
ところで「束」Latticeって、ここではある演算に関して
最上限、最下限がある、ってことでいいんでしたっけ?
って、これもよく理解してないすけど。しかし、これを使うと
うまく階層化させることができるということなのですね。
113 :
ゝ^ )っ 〜〜< :02/06/18 09:47
修正です。すいません。 >>>(a∈X∧b∈X∧married(X)) >は、'married'も個体の集合Mとすると、X⊆Mになるすか? 「X⊆M」は「X∈M」でした。 老師の式でいわんとしているのは、'marry'のdenotation ||marry||は 対象領域の個体全体UのPOW(U)とし、そこにset{a, b}がmemberとして 含まれ、かつ、{a, b}のcardinalityは|2|に限られる(重婚や、ひとり婚は 許されないが、重婚を許す社会について語るときは、 「a∈X∧b∈X∧,..., ∧x-n∈X、ただしn≧2」でもよい) という理解でいいでしょうか。すると述語として見ると、"marry"に関しては、 一項述語で、項はsetをとる。ですからこの場合はcom.やassoc.が成立する。 一方、「喧嘩する」の場合はそれ自体m個のsetになっているmemberと、 n個のsetになっているmemberのsetが'marry'同様に「喧嘩する」の項に なるんですね。 >>ZをXとYのデカルト積にある順序対の部分集合 は、これは大変な勘違いでした。大変もうし訳ないっす。 それはこれからの話ですね。
114 :
ゝ* )っ 〜〜< :02/06/19 19:40
老師の示された式に質問ふたつありま〜すにゃ。 1. 「結婚する」と「喧嘩する」の等位構造主語の扱いを老師が 示された通りにすると、「結婚する」と「喧嘩する」の項のタイプが 異なることになると思ったですが、問題は起きませんかにゃ。 2. 1とも関係しますが、「喧嘩する」の敵対関係者同士をそれぞれ 集合とするということは、素朴に「||述語||=集合」としたとして、 これは「味方同士」とでもいうような述語を等位項に設定することに なり、これはすなわち辞書でそのように指定するということで問題に なりはしませんでしょか。具体的に言うと、 ((x)味方&(y)味方')喧嘩する ここでP'はPとは異なる述語 のような辞書指定になり、「喧嘩する」を指定することが余剰的に なりはしませんかにゃ。 今日は、昨日の狂騒とはうってかわって、水をうったような静けさですにゃ。
115 :
ゝ゜)っ 〜〜< :02/06/23 12:28
等位構造の話からはずれますが、自然言語と論理学の関係に 少し関係する疑問があります。 以前の老師の話に、自然言語を見ながら、論理学で 扱いやすい方向で構造を組んでいったらやがて自然言語にほぼ対応する ものができる、というMontagueの考え方を紹介なさってました。Montagueの やり方では、論理構造のsyntax(文法の方と区別するために「構文論」と 呼びます。)を適当に等価変換すると、自然言語の統語構造に対応する ようなものが得られる、というものだと理解しています。 論理学をやっている人にはこのような考えのもとで仕事をし、 生成文法のようなやり方には疑問を感じる人もいるでしょう。 しかし、Generalized Quantifierのことを考えると、 自然言語に見られる性質(conservativityなど)が経験的主張として 行われており、単に論理学で許される等価関係の単なる一つ、 とは言えない性質が存在し、それについて考察しています。 GQは統語的要素で、conservativityはその論理構造上の性質です。 よくarticulateされた問いのたて方とはいえませんが、次のような疑問を 持っています:これまで統語論の問題と考えられているものの中で、 統語的要素の、自然言語に特有の論理的性質と捉えられるものはあるので しょうか。あったとしたらどのぐらいあるのでしょうか。 これまで出た話では、論理学では完全に意味を特定できるのに 統語論がアフォでそうならないケース、統語論の方では意味の特定が できる構造化を完全に行っているのに、(古典)論理学がアフォで そうできないケースがありましたが、GQについては統語論でも 論理学でも別に持ってもらわんでもいいと思っているような性質を 自然言語の論理構造的側面がもっているわけです。こういうのって 他にないんでしょうか。Szabolciがweak islandについてやってる仕事って こうゆうことなのかな、とかちょっと思ったりして。 ...とアンニュイな日曜のお昼にふと考えました。
116 :
(´∀`) :02/06/24 12:41
この間のmeow川しゃんの話しとも関係するにゃが、restricted quantification (RQ)/ nonrestricted quantification (NQ)の違いなんか、統語構造と論理式の対応を考える 上で面白いと思うのにゃ。たとえば 1) How many books do you want to read? に対して 2) RQ: how many x=book (you want to read x) 3) NQ: how many x (you want to read x book) の二つの論理式があり、前者は前提読み、後者は非前提読みに対応してるにゃ。 ところがもっぱら統語的制約により、顕在的wh移動はいったん(1)のような RQの構造を作っておいてから、後ほどLF reconstructionで(3)のようなNQ 構造を出すことが求められるにゃ。もし統語構造と意味構造としての論理式が もっと直結していたら 4) How many do you want to read books? とかも言えるだろうに、そうはなっていないのにゃ。 ちなみにフランス語では combien de NP の de NPはcombienと一緒に動かしても、 元位置に置いておいてもいいにゃが、これがそのままRQ/NQの解釈の相違に 対応するのかどうか、興味深いところにゃ。対応していなければ、フランス語は さらにめんどくさい言語ということになるのかにゃ?
117 :
ゝ^ )っ 〜〜< :02/06/24 13:27
>>116 もし統語構造と意味構造としての論理式がもっと直結していたら
うーん、なるほど、ですにゃ。
カオモジせんせの挙げてらした英語の文に対応するフランス語の文は
次のような感じですかにゃ?
2') [Combien de libres]-i voulez-vous [lire t-i] ?
3') [Combien]-i voulez-vous [lire t-i de livres] ?
で、3')は「〜冊」という答えしかできない、ということですね。
そのへんにfrancophoneの人が歩いてないかにゃ...
>>101 >de re/de dictoは確か、内包文脈での指示に関するもの?だったと
>思いますけど、多分ここでは一応関係ないです。
de dicto/de reは,
John believes that someone is spy.
みたいな例では内包に依存した解釈になりますが,
The number of planets is necessarily odd.
の例のように,基本的にはpossible worldにおける解釈の問題が基本です。
この場合,発話者の信念として「誰か」の存在を必然的に解釈すべきか
どうかということが「統語論的な」問題になるかということを
意識したつもりでした。
de dicto/de reとDD(「ι」の理論ですが)との関係については,
以前,こさかな先生が言及されていたHughes&CresswellのA New Intoro..
で扱われています。
119 :
(´∀`) :02/06/26 08:50
>>101 の
>花子が 誰か-iを 招待したら、太郎は必ず そいつ-iに 会いたがる
の論点は、英語と違って日本語の「誰か」はunselective bindingを
受けられないので非文、ということにゃ(だれも非文とは感じないん
だけどにゃ)。いちおう、「花子が友達を招待したら〜」みたいに
普通の不定名詞句の場合はOKになるという判断があるようですにゃ。
de re/ de dictoについては俺からも老師にお尋ねするにゃ。
まず単純にこれを数量詞のscopeの問題にすり替えていいのか、という点にゃ。
>John believes that someone is spy.
補文内の数量詞が主節全体をスコープにとることは普通はないので、
特定性は「一番広いスコープ」とは別物のはず、ということが一つ。
それに、たとえば上の例でJohnの信念世界の内側に解釈を限定してもなお、
Johnにとって特定的かどうか、あるいは同定可能かどうかの違いが残ると
思うにゃ。
それから確定記述に関しても単純にreferential/attributiveの区別では
間に合わないケース、例えばGeachだったか忘れたにゃがEnglishman's
mother文みたいのがあるにゃが
The woman who every Englishman loves most is his mother.
こういった一種の関数読みは論理式ではどう扱うことになっているのか、
いきなり教えて君でスンマソにゃが、よろしくおながいしますにゃ(ぺこり
120 :
ゝ* )っ 〜〜< :02/06/26 08:52
>>118 老師、コメントありがとうございました。
>>The number of planet is necessarily odd.
は天文学者が太陽系の惑星をすべて発見しない限り意味をなさない
指示がmodus de re(「事象様相」でしたっけ?)で、
しかし一方で、科学的言明には、立証される前にも意味をなす
言明があり、その指示をmodus de dicto(「言明様相」?)でしたね、
たしか...
で、de dictoの指示物が存在するとするのは、典型的にはbelief-contextで、
私は、赤い髪の女の子があの青い髪の女の子だと信じている
というようなものでしたよね。老師のおっしゃる「誰か」の存在を
必然的に解釈する、というのは、de dicto「誰か1」「誰か2」が
de reで同一物を指示する、ということでしょうか。内包論理では
regid designaterを仮定し、各世界毎にそれに値を与える関数を設定する、
というものだったかと記憶していますが、あってるか不安です。
本題ですが、こういったことが統語論的な問題になることはないと
思います。昔のFauconnierが照応子の指示を決める時に一部関連させて
いたかと思いますが(あってるかな?メンタルスペース屋さ〜ん!)、
これは統語論で問題になるタイプの指示の依存に関してだけで、
一般的にいって、統語論の問題にはならないと思います。
それからDDとde re/de dictoの関係についての示唆もありがとうございました。
おっしゃってた本と、あと、Quine, Kripkeが問題にしてるんでしたっけ?
いろいろ勉強してみます。
>>119 (´∀`)先生
>>花子が 誰か-iを 招待したら、太郎は必ず そいつ-iに 会いたがる
>の論点は、英語と違って日本語の「誰か」はunselective bindingを
>受けられないので非文、ということにゃ(だれも非文とは感じないん
「誰か」にunselective binderがかからない構文論的な仕組みが,
某先生のポイントなのですね。それはGB理論の枠組みの制限なのでしょうか。
>de re/ de dictoについて
>まず単純にこれを数量詞のscopeの問題にすり替えていいのか、という点にゃ。
様相をquantificational adverbとして統一的に扱おうという考えもある
ようですが,Chierchiaなんかは,それではまずいケースがあるようなことを
書いていたと思いました。
>補文内の数量詞が主節全体をスコープにとることは普通はないので、
>特定性は「一番広いスコープ」とは別物のはず、ということが一つ。
談話においては,文相互のスコープまで考慮しないと意味が特定できません。
Peter believes everything that Mary believes.
Mary believes that someone is a spy.
Peter believes that someone is a spy too.
Peterが「Maryが信じていること」を信じているというのは,
単にPeterが「信じている」としていいのかという問題があります。
>それに、たとえば上の例でJohnの信念世界の内側に解釈を限定してもなお、
>Johnにとって特定的かどうか、あるいは同定可能かどうかの違いが残ると
>思うにゃ。
それはYESです。
>それから確定記述に関しても単純にreferential/attributiveの区別では
>間に合わないケース、例えばGeachだったか忘れたにゃがEnglishman's
>mother文みたいのがあるにゃが
>The woman who every Englishman loves most is his mother.
"pronoun of laziness"の一連の例文の一つです。Geachの例では,
The woman whom every true Englishman most reveres is his mother.
となっています。
ロバ文の応用として,Kamp流,Heim流など,いろいろな方法が考えられそうです。
ちなみに顔文字先生の関数読みというのは,Functional DDの方法を指している
のでしょうか。DPLとかでやるとスマートかもしれません。>だれか?
>>120 他,
こさかな先生,この問題に限らずいろいろ考えてはいますが,とても即答できません。
気長に御願いします。
122 :
(´∀`) :02/06/27 11:57
>Peter believes everything that Mary believes. にゃんだかACDの例を思い起こすにゃが、かかり氏はどうしたのかにゃ? この例なんかで、Peterの信念内容とMaryの信念内容にどこまで パラレリズムが求められるのか、も面白いと思いますにゃ。おそらく >Peter believes that someone is a spy too. は >Mary believes that someone is a spy. と同じ(不)透明度でなければならないんだろうにゃ。老師の関心とは ちょっとずれてるのでスンマソですにゃが…… ところで老師はなんで老師なのにゃ? こさかなしゃんの真似してるだけ なんだけどにゃ、「老」の根拠が不明にゃ(w pronoun of lazinessといえばpaycheck文みたいなやつだにゃ。 The man who gave his paycheck to his mistress was wiser than the man who gave IT to his wife. では単に his paycheck という語句を繰り返す手間を省いているにゃが、 解釈はsloppy てか関数読みになるわけにゃ。このような関数読みを代名詞が 許すための構造的条件、なんかあるかにゃ? 例えばEnglishman's mother文で関係節内の主語・目的語を逆転させても 文法性や解釈が変わらないかどうか、ん?なんか既出の気がするにゃが、 まあ話しのネタまでにゃ。 The woman who loves every Englishman most is his mother. 関数読みというのは x loves x's mother みたいな意味でいってるにゃ。 who does everyone love? は通常3通りに解釈でき、 everyone loves Mary. みたいな定項読みと、John loves Mary, Bill loves Jane, Tom loves Lucy, ... みたいなペア読みと、everyone loves his motherみたいなの、ということになってるにゃ。前2者はwhoとeveryの scopal ambiguityで片付くにしても、最後の関数読みを論理式で 表すためにはeveryone内部にwhoに束縛された変項を出しておく必要が あるにゃ。これってふつーは老師やこさかなしゃんの世界ではどう扱ってるのにゃ?
123 :
ゝ* )っ 〜〜< :02/06/27 18:03
>>これってふつーは老師やこさかなしゃんの世界ではどう扱ってるのにゃ? うにゃー、「あちきの世界」と言っても、 拡大標準理論(変換あり)+古典論理+調理師免許(あ、全然おもしろくないにゃ!) なので、カオモジせんせがご存じのことばかり、または、あちきの方が無知の ことが多いですにゃ。何か話のネタになりそうなことを思い付いたら書きますにゃ けど、ユクーリいきますにゃ。老師のレスもちょとマテみますにゃ 「老師」は、某論理学入門のまねで、つかわしていただてるものですにゃ 「老」に別に意味込めてませんでしたにゃ、スマソですにゃ。
124 :
ゝ* )っ 〜〜< :02/06/28 17:38
>who does everyone love? は通常3通りに解釈でき、 >最後の関数読みを論理式で表すためにはeveryone内部にwhoに束縛された変項を >出しておく必要があるにゃ 出張前の急ぎかきこですが思いついたことを... 存在量化子が先頭にたつ式 ∃y∀xP(x、y) が許される世界では、この式をxを項とする関数が最低いっこ存在すると みなすことができて、存在量化子を消した ∀xP(x、f(x)) に等価変換できますにゃ。このようにして順繰り存在量化子を消すしわざが ごぞんじスコーレム化ですにゃ。 このテクニックを使い、かつ、疑問は存在量化の一種とすると 別にeveryone内部にwhoに束縛された変項を出しておく必要は ないとおもわれますにゃ。xと、項xを束縛されたfの関係の 全称量化構造をyes-no疑問としてですにゃ。 そもそも「関数解釈」というのがこのあたりと関わっているので、 情報量少なめの申し訳ない書き込みですたにゃ。
>>120 単純に,以下のような読みの相違があるのではないかということです。
>花子が 誰か-iを 招待したら、太郎は必ず そいつ-iに 会いたがる
1-a M∃x(花子がxを招待する),..
1-b ∃xM(花子がxを招待する),..
このとき,Mが主節に掛かるかどうかということも議論の対象でしょう。
つまり, 1-a は,花子が招待する人xがいるとすれば,太郎は 必ず そいつ=xに 会いたがる。 1-b は,ある人xをもし花子が招待するとすれば,太郎は 必ず そいつ=xに 会いたがる。 このとき1-bのある人「誰か」は,解釈者によってある指示が特定されるならば, 固定指示子として読まれるだろうと思います。
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| すげー!!サンプルだけで抜けるよ!!!
>>119 ,122
>The woman who loves every Englishman most is his mother.
いくつか形式が考えられますが,簡便なKampのDRTでスケッチすると次のような
イメージになるでしょう。
{{<x,y>,the woman(x), Englishman(y),loves(x,y)} <most x>
{<u,v>, u's mother(v), u=y, v=x}}
ロバ文との違いの一つは,定冠詞表現the womanがあるところです。
ここでthe woman は深く分析していませんが,Englishman(y),loves(x,y)を満たす
記述と考えればいいと思います。但しこのとき,唯一性条件の与え方が問題でしょう。
つまりある英国人1人につき,ある女性が確定しなければなりませんが,
その人が全世界で1人というわけではありません。
ここで<most x>は,GQによるduplex conditional implicationと考えて下さい。
これは前件に現れるmostで束縛される変数に対する条件的量化を行うものです。
また,談話参照変数x,yは,文全体を束縛します。変数yが全称量化で記述されて
しまっていいかどうかまで話しを詰めていません。
>例えばEnglishman's mother文で関係節内の主語・目的語を逆転させても
>文法性や解釈が変わらないかどうか、ん?なんか既出の気がするにゃが、
KampのDRTでも,違い?を記述するほうが困難かもしれません。
つまり同じであると扱っても問題ないと思われますが,但し解釈は同じとしても,
caseという観点から文法性は変わるのではないでしょうか?
老師、レスありがとにゃ (といっても形式意味論音痴の俺には猫に小判にゃが……w) >ある英国人1人につき,ある女性が確定しなければなりませんが, >その人が全世界で1人というわけではありません この部分を、theも一つの数量詞と考えて単純に every > the という inverse scopeの例だと分析するとダメにゃ? でこのようなinverse scopeが成立するためには [ the womani [ whoi [ every Englishmanj loves ti ]]] みたいにjがiをc-commandすることが構造的条件になりはしにゃいか、 だから主語・目的語を逆転させれば同じような関数読みは出なくなる のではにゃいか、つまり [ the womani [ whoi [ ti loves every Englishmanj most]]] is Diana/*his mother みたいな コントラストがあるのではにゃいか、とそのあたりまで妄想が 膨らんだわけですにゃ。事実は知らんのだけどにゃ
130 :
ゝ* )っ ++++< :02/07/02 22:05
>129 カオモジせんせのおはなしは、もしdefinite descriptionを cardinal number+predicateに分析できるとすると、inverse scopeが 許されるとしてあげてらした構造条件 DD+Op-i...EVERY-j...t-i では、関数を各人むけに挙げることができて、さらに人数も ひとりあたりのものが言えるのに対して、 DD+Op-i...t-i...EVERY-j では、関数はひとつしか挙げることができなくて、さらに人数も 示されているものが総数、という風な予想になりませんですかにゃ?
131 :
ゝ* )っ 〜〜< :02/07/02 22:07
>124 でSkolem化の話をかきましたけど、確かにvariableを減らして 行く事はできますけど、いわゆる「関数読み」には全然対応してない ものでした。対応する論理式はむしろ関数を変域とする存在量化 ですにゃ。 でも老師がおっしゃってたように、一つの個体から写像される個体は 一つに限らないので数学的な意味での「関数」とは言えないようですし、 また関数の外延的定義を考えるとpair-listも一種の関数ですにゃ。 老師は関数読みを定記述の下位例とお考えのようですが、私も本質的には そうじゃにゃいかにゃー、なんて思ってみるテストの準備。 >who does everyone love? を日本語で考えて、 誰のことを誰もが愛してるの? その答えは 足のきれいなおねーちゃん! というと(言いたいのはやまやまですが) 答えとして合ってないですけど、 さっきの、足のきれいなおねーちゃん(達)! はだいじょぶじゃないでしょうかにゃ? 関数の形になってないですけど、にゃ。
132 :
(´∀`) :02/07/03 17:02
「関数読み」という言い方が紛らわしかったかもしれんにゃが、
everyonei loves hisi wife みたいに 各xとxを含む表現を対応させる
場合のことですたにゃ。英国人母文のthe womanはevery〜に
束縛される変項を中に含んでいるようなタイプの確定記述であるように
思え、一般に確定記述を束縛変項として扱うようなアプローチの可能性
なり妥当性を訊きたかったのにゃ。単純な話し、
every house has a fridge in the kitchen
のthe kitchenはevery houseに束縛されている、theはbound pronominal
として振る舞っているってことだと思うにゃ。もちろん代名詞=冠詞として、
にゃ。
で、その場合のthe as a bound variableは他のbindingと同様、c-command
か何かの統語構造的制約に従うはずだ、ってことから上の妄想が出てきた
わけですにゃあ。
>>130 のお話は俺にはちっと分かりにくいのにゃが、ありふれたところで
who does everyone love t とは違って who t loves everyone には
関数読みはないにゃ。これはちょうど
everyone loves his wife と違って his wife loves everyone には
bound pronominal readingがないのと同じにゃが、同様に
the girl who everyone lovesは関数読み可能、the girl who loves everyoneは
不可能、となってもおかしくないにゃ。事実は相変わらず知らんのだけどにゃ。
133 :
ゝ; )っ 〜〜< :02/07/03 18:06
>もちろん代名詞=冠詞として >...その場合のthe as a bound variableは あ...即効で納得してしまいましたにゃ...ロマンス系の代名詞と冠詞のこと 考えたら一層ですにゃ...読み違えでかなりはずかしいですにゃ... 要点は「関数読みだけではなく述語読みもできる」とかいうことではなく、 「関数読みだけは許されない構造」という点ですね。で、特に確定記述句でも このようなことが見られるか、ですにゃね。 で、突然おしえて君になってしまうのですが、 The man loves everyone のような文でweak cross-overの効果って見られるのでしょうか? Le gen aime tout de femmes みたいな、冠詞と代名詞が同形のフランス語の対応文もそうですね。 きっと Son mari aime [tout de femmes] (彼女の夫は女性の誰もを愛している) のようなのは主語代名詞が束縛代名詞である解釈ではだめでしょうけど 冠詞の場合でもこのようなことがみられるんでしょうか。 おながいします(ぺこり
>>129 (´∀`)せんせい
Every-theのc-command問題とは異なるのですが,
以下の例で示すように別の文にまたがって同一のDDを参照する場合ですが,
Every Englishman likes the woman. She is his mother.
このとき以下のようなFOLの式を与えるとします。(?はDDを示す)
∀x(englishman(x) → ∃u?y(likes(u,y) & x=u & woman(y) & u's mother(y)))
sheは,ここでは先行するDDで置き換えられると解釈します。
(但し,このDDは参照不定で指示は文脈から決定されるものとします。)
このとき統語論的には,woman(y)をaccessするために,
sheをc-commandできるような仕組みが必要だと考えるのでしょうか?
135 :
(´∀`) :02/07/04 11:12
GGスレといい、にわか代名詞ブームの様相を呈してきたのにゃ。 (実は俺は学部の卒論で代名詞を扱い、そのころは今よりは多少 意味論的なことも分かってたのにゃが、今はサパーリなのにゃ。 ちょうどE-typeとかが言われだした頃ですたにゃぁ……遠い目) >The man loves everyone つまりevery > the でthe manがeveryの関数になるような解釈が できるかってことですにゃあ……上の話しからすれば、できない、 にメロンパン10個! 事実は知りませんにゃ、すまんにゃ。 日本語では「その、そいつの」みたいのがtheと同様のbound varialble的振る舞いをするにゃが、 そいつの大学がすべての学生を退学処分にした。 とかもWCOでダメですにゃ。しかし、下とも関連するにゃが、動詞が copulaだとよくなるにゃ。 そいつの大学がすべての学生の心の拠り所だ。 とかにゃ。 >Every Englishman likes the woman. She is his mother. いきなりthe womanよりまずsome womanかなにかで出してくる ほうが自然なように思うにゃが、c-commandはintrasententialにしか 定義できにゃいので、この場合のsheは単純にbound variableというわけ にはいかないと思いますにゃ。それこそE-typeにゃ? 先行文から the woman who every Englishman likes相当の確定記述が導かれ、それを sheが受けているわけですにゃ。うまく言えにゃいが、every Englishmanの 各人ごとに異なるdiscourse referentのような感じですかにゃ。 これをそのままevery のスコープがsentence boundaryを超えるように 表してあるのが上の論理式だと思いますにゃが、一般にはそのような bindingは不可ですにゃ。 Every man loves cooking. *He also loves reading. とかにゃ。 c-command条件があるとすればそれはsheに直接課せられるのではなく、 sheの先行詞に当たるものが元の文中でeveryのスコープ内に収まっている ことを保証するものだと思いますにゃ。 あとshe is his mother とcopula文になっているのも臭いますにゃ。 これがshe hates his fatherだとどうなるか、も知りたいですにゃ。 The woman who every Englishman loves most hates him/his friends とかそもそもいいのですかにゃ? 全然レスになってないですにゃ、スンマソ
136 :
ゝ*)っ 〜〜< :02/07/04 17:57
遅レスですが、116のカオモジせんせの話に関して francophoneの人はみつかんなかったのですが、 スペイン語ネイティブに同趣旨の文の判断について質問してみました。 その結果です。*のない文と答えが、容認されたものです。 どうも、partitiveでなければWhのみの摘出はできない、という感じでしたが、 フランス語の場合はpartitiveでなくてもできるんでした、よ、ね 確か...? (1)-1 [Cuantos libros] leiste? (How many books did you read?) -Dos. -Uno mio y uno tuyo, dos. (one mine and one yours, two) (1)-2*Cuantos-i leiste [t-i libros]? (2)-1*[Cuantos de libros] leiste? (2)-2*Cuantos-i leiste [t-i de libros]? でした。 次のpartitiveの例はestos/esosで前提があることが示されているので、もちろん 具体例を挙げる答え方でも大丈夫でした。 (3)-1 [Cuantos de estos/esos libros] leiste? (How many of these/those books did you read?) -Dos. -Uno mio y uno tuyo, dos. (3)-2 Cuantos-i leiste [t-i de estos/esos libros]? -Dos. -Uno mio y uno tuyo, dos. (4) Leiste estos/esos libros, cuantos? もよく、よりカジュアル、という話だったのですが、 Leiste libros, cuantos? も聞いてみればよかった!
わざわざありがとにゃ、こっちは全然お役にたってないのに 申し訳けないですにゃー *(1-2, 2-2) vs. (3-2)ということは、以前の話しと全く逆に 元位置にstrandされるのは前提読みの場合だけってことになるにゃ。 restricted quantificationが前提読みに対応するというシナリオとは 完全に食い違うわけにゃ……(´・ω・‘)ショボーン あるいは(3)では最初から [ de estos libros ] は独立したPPだという ことも考えられるかも知れないですけどにゃ。 of these books, I read only one のof〜の部分みたいな感じでにゃ。 今度機会があればついでに de estos libros, cuantos leiste? もおながいにゃ
いえいえ、たまたま聞く機会があったものですにゃから... >あるいは(3)では最初から [ de estos libros ] は独立したPPだという なるほど、この可能性もありますにゃね。そういえば、Milnerだったか がKayneだったかがフランス語の分離して前置されたwhは 独立した副詞である可能性がある、とどこかに書いていたような気がしますにゃ
139 :
(´∀`) :02/07/12 16:14
こさかなしゃん、まだいるかにゃ combien〜の件だけどにゃ、ドンピシャのがありますたにゃ Language Acquisition vol.9 no.3 (2001)、手に入るようにゃら見てみるにゃ。 combien de livres est-ce que les etudiants achetent tous? combien est-ce que les etudiants achetent tous de livres? は違う論理形式に写像され、違う意味解釈を持つ、という話しが出てるにゃ。 Reflexes of mental architecture in second-language acquistion: the interpretation of combien extractions in English-French interlanguage. というペーパーにゃ。
140 :
ゝ^ )っ 〜〜< :02/07/13 14:41
>139 カオモジせんせ、 まだいますにゃ。referenceありがとうございますたにゃ。 探してみますにゃ。むむむ、ドンピシャですね
ちょっと亀レスですにゃが >135 >しかし、下とも関連するにゃが、動詞が copulaだとよくなるにゃ。 >そいつの大学がすべての学生の心の拠り所だ。 >とかにゃ 昔、言語学会でmeowケさんという方が、「NガNダ」の類いの 構文はサイケ動詞と同じような束縛現象を呈する、というハピョーウを 聞いたことがありますにゃ。 自分の息子がピエールを悩ませた のように 自分の息子がピエールの誇りだ でも逆行束縛が成立する、と(確か)ゆうような話だった気がしますにゃ WCOが見られない、というのはこの現象と関係あるんですかにゃ... すると、サイケ動詞でもWCO効果が見られるですかにゃ... そいつの試験結果が学生全員を悩ませた 因にあちきは問題なしですにゃ。不勉強ですが、すでに誰かやって そうな気がしますですにゃが。ちょっと独白ですたにゃ。
>meowケさんという方 copulaの話しはその人のペーパーを念頭にしたのにゃ、ってか そのペーパーが俺の昔のペーパーを下敷きにしているという罠ゃ >サイケ動詞でもWCO効果が見られるですかにゃ... にゃ、見られないですにゃー
>そのペーパーが俺の昔のペーパーを下敷きにしているという罠ゃ わわわ、罠ゃにはみゃってしみゃいますた。なるほろ
144 :
ゝ' )っ 〜〜< :02/07/16 10:39
>139 カオモジせんせ、 Dekydtspotter, Sprouse and Swanson(2001)をみつけましたにゃ 前提となっているのがObenauer(1984/1985) LRの観察が下敷きみたいですにゃで ちょっとこちらもこれから探してみたいですにゃ DSSでは、 >combien de livres est-ce que les etudiants achetent tous? のような連続構成素のほうは英語の対応構文にある二つの解釈があり、 >combien est-ce que les etudiants achetent tous de livres? はnon restricted(cardinalityのみ)読みしかない、っつーことのようですにゃ 不連続構成素のほうはいいとして、連続構成素のほうは英語の対応構文と同じ感じ、 として、RQ読みからNR読みは導けるものとすると >さらにめんどくさい言語 という事態にはなってないようですにゃね。 ただ、使われているのが、irrelevantな部分で難しくなって実験の 妨げになるのを避けようとしたためだと思われますにゃが、"est-ce que" 疑問文だけですにゃ。DSSでは、どういう意図か、ときどき()で括って あったですたが、なんとなくやっぱり、これだと、C'est X que CPからの 疑問文形成の可能性が棄てきれない気がしますにゃ。フランス語はmatrixでのwh移動が optionalですにゃで、次もいいはずですにゃ。で、これをcleftとどう区別するか です、にゃ。 C'est combien que les etudiants achetent tous de livres? 英語ではヤパーリ How many is it that all the students bought of books? はだめなんですよね?でも仮にできたとしたら、cleftの性質でNRしかできなそうな 気がちょっとするのですにゃが... 蛇足ですが、サラッと読みしかしてないので正確にはわかりませんが、DSSの本題では、 不連続構成素がNRしか許さない、というのを言語に関する領域固有性に絡め、 母語である英語を参照できないのに学習者はこのような制限を正しくだす、という実験結果を 得て、これをL2acquisitionでもUGを参照する、という結論にもっていくようなのですにゃが むしろ不連続構成素のほうが「すっぴん条件」を満たすので、逆の結論へと辿り着きそう な気がしますた。音と論理だけに言及し、UGに言及しない(論理式の学習に似た)習得と いう結論ですにゃ。本題に関してが蛇足、では筆者たちに申し訳ないのですにゃが。
145 :
K-Rod :02/07/16 14:15
>蛇足ですが、サラッと読みしかしてないので正確にはわかりませんが、DSSの本題では、 >不連続構成素がNRしか許さない、というのを言語に関する領域固有性に絡め、 >母語である英語を参照できないのに学習者はこのような制限を正しくだす、という実験結果を >得て、これをL2acquisitionでもUGを参照する、という結論にもっていくようなのですにゃが >むしろ不連続構成素のほうが「すっぴん条件」を満たすので、逆の結論へと辿り着きそう >な気がしますた。音と論理だけに言及し、UGに言及しない(論理式の学習に似た)習得と >いう結論ですにゃ。本題に関してが蛇足、では筆者たちに申し訳ないのですにゃが。 論理式の理解が人間、ひいては世界に存在するメタ的なもので、 UGも人間の認知能力もなにもかも、論理というものと無関係ではありえない、 と言ってみるテスト。なんか、メタめたって感じですにゃ。 こさかなせんせん所は今、台風は来てますかにゃ? てか、日本のいらっしゃるんですかにゃ? 日本の夏は暑いのにゃ。
K-Rodしゃん、わたしは日本にいますにゃ。 こちらは、おとといのニュースでは台風の進行方向と予想されてますたにゃが、 昨日、それていって、大丈夫ですにゃ。 K-Rodしゃんのほうは大丈夫ですかにゃ?
ちょっと変なことに気がつきましたにゃ wrong generalizationのおそれ、極めて大ですが書いてみますにゃ Cosakana's Conjecure(と、自分でカクのは変ですね) xが書いた隣接しない任意の二つのスレTx-1およびTx-2は、 ある条件Cの下で、一定時間内に必ず隣接する
148 :
(´∀`) :02/07/17 11:23
>>144 そのペーパーには、らむにゃ(λ)がイパーイ出てくるから、こさかなしゃんに
読んで貰ってコメントしてもらおうという罠ですたにゃ(w
>>combien de livres est-ce que les etudiants achetent tous?
>のような連続構成素のほうは英語の対応構文にある二つの解釈があり、
>>combien est-ce que les etudiants achetent tous de livres?
>はnon restricted(cardinalityのみ)読みしかない、っつーことのようですにゃ
>不連続構成素のほうはいいとして、連続構成素のほうは英語の対応構文と同じ感じ、
>として、RQ読みからNR読みは導けるものとする
英語の場合には統語的理由で顕在的にはhow many books全体をpied-pipe
するしかないので、同じ表層文にRQ/NQがあっても仕方ないことになるにゃが、
フランス語の場合は、そもそも表層文でdiscontinuousなNQ文がつくれる
のだから、continuousな文に対してはRQしかない、というのが道理だと
いう気もするんだけどにゃ。なんらかの意味でcombien de livres全体のpied-piping
のほうがcombienだけの移動よりコストが高いとして、そのコストの高い操作を
やらなければRQ読みが得られないというとこまではスジにあう、しかしコストの
低い操作で間に合うNQ読みをコストの高い操作でも出せるというところに
ヤパーリ「めんどくささ」を感じてしまうのにゃ。
関連した話しが
D. Adger (1997) Deriving the parametrisation of the Mapping Hypothesis.
In: A. Alexiadou and T. A. Hall, eds., Studies on Universal Grammar and
Typological Variation.
にもでてくるにゃ。これもObenauerの観察が下敷きになってる議論を含んで
いてにゃ、
combien de chaises a-t-il repeint(es)?
で分詞の一致があればRQ読み(proportional読み)しかなく、一致がないと
RQ/NQ(cardinality)両方が可能、ということらしいにゃ。
一致をおこすような余分な操作なしでもNQが出せる以上は、わざわざ一致を
起こすのであればNQ以外でなければならない、という一種の経済性による
説明が与えられていますにゃ。
上の例はこれとは逆のパターンになってるので「めんどくさい」のにゃ。
夕べはまたカラオケ、帰宅したのは午前3時半という罠ゃ……
>しかしコストの低い操作で間に合うNQ読みをコストの高い操作でも出せると >いうところにヤパーリ「めんどくささ」を感じてしまうのにゃ なるほどですにゃ... ところで、「らむにゃ」計算はメチャ得意、というわけじゃありませんにゃが、 解読できましたにゃらこちらにカキコしますにゃ。のんびりやってみますにゃ
149で「なるほど」の使い方を間違えましたにゃ。で、もとい、 >一致をおこすような余分な操作なしでもNQが出せる以上は、わざわざ一致を >起こすのであればNQ以外でなければならない、という一種の経済性による >説明が与えられていますにゃ。 >上の例はこれとは逆のパターンになってるので「めんどくさい」のにゃ。 なるほど... ところでDSSを読んでたら、一致と絡んでる話がfn4にありましたにゃ。 continuous "combien"はpast participleとの一致が起こるけど、 discontinuousのほうは起こらない、ってありましたにゃ。 149の「一致がない場合のみNQ有り」とは、この点でも状況が逆で、 「一致の場合にRQとNQあり」ですにゃ。あ、もしかしたら このことも含んでのお話だったかもしれないですにゃが、一応かいときますにゃ
午前中ヒマだったのでDSSの論文を少しユクーリ読んで、またちょっとヒマになったので まだ読んでない方への情報提供として、統語から論理への写像のあたりをカキコしますにゃ 仕上がり表示では、(どちらにもある)NQ読みは同じものになってましたにゃ。 詳しくは(正確には)DSSをご参照くださいにゃ。 全角記号は暑くてウザイので、らむにゃ: L 全称: A 存在: E にしますにゃ。 irrelevantなとこは外して簡略化しますたにゃ。|x|はxの個数、x'は表現xの指示物にゃ。 対象は次の二つの文ですたにゃ。 >combien de livres est-ce que les etudiants achetent tous? >combien est-ce que les etudiants achetent tous de livres? combien' =def WHn.LnF -RQ- combien' [Ax [student'(x) -> Ey [buy'(y)(x) & |y|=n & book'(y)]]] -NQ- combien' [Ey [|y|=n & book'(y) & Ax[student'(x) -> buy'(y)(x)]]] つまり、DSSはRQとNQの違いをAとEのスコープの広狭として、RQ: wh>A>E、 NQ: wh>E>Aと考えている、ということですにゃ。こさかなとしては「これでいいのか にゃ...」と思うのですけどにゃ。 cardinalityは、個体から写像された値として、そのような関数cardinality functionはNumberPにあるとしていますにゃ。NumPの論理構造は 次のようなものですたにゃ。 de livres: Ly.|y|=n & book(y) これを含む二つの論理構造に、どのようにcont.とdiscont.の統語構造が写像されるかが ポイントとなる、ということですけど、NQの読みでは仕上がり表示が二つの統語構造で 同じになるですけど、組み上げ方は違うですたにゃ。ポイントは AとEの広狭をどう出すかですたにゃ。とりあえず、全称量化子はVPの上のところに 固定ですにゃ。 discont.の場合は、combienのextractionによってVP内に残ったfree vbl.をVPへの E closureを使って縛らせますにゃ。Diesingにしたがって、free type shiftを認めない で、Eとして個体タイプeのvbl.と<<e,t>,t>の量化子の二つしか認めないからということ ですたにゃが、もしVP内に<<e,t>,t>のtypeのEがでちゃうと、type <e, <e,t>>のVに とってまずいことになるということで、この場合にはvbl.のoptionしかないのですにゃ。 一方、cont.のほうは、QRを使うんだそうですにゃ。IPとVPへの付加があって Aとの広狭を出すんだそうですにゃが、fn.に中間痕跡をtype shiftしてスコープの 広狭の現象を導くという研究への言及があるので、まあ似たようなことをしようってこと 見たいですにゃ。この辺はムニャムニャって感じだったんですにゃが、ともかくやりたい ことは、「|y|=n & book(y)」をVPかIPにくっつけて、その中のvbl.を束縛するEと、Aとの 相対的な広狭を決める、ということのようですにゃ。QRつってのにpied-pipingの時だけ これが許されるのはナンデ?と思いましたけど、まあ、中間痕跡の扱い、 と考えるということなんでしょうにゃ。 カオモジせんせはこないだ深夜までカラオケされたとのことですにゃが、 あちきは連日呑み会ですにゃ。今日もですにゃ。ふー
152 :
(´∀`) :02/07/19 02:11
DSSのfn4ではcontinuous combienの場合、一致はoptionalなのかobligatory なのかを言ってないですにゃー。optionalで、一致があるときだけRQ可という ことなら、Obenauerの観察どおりなんだけどにゃ。 一致自体はcombienではにゃく、NP側の素性との関係にゃから、NPがpied-pipe されなければ一致は起きないということ自体は当然かもにゃ。 (移動なしでも素性一致は起きる、というAgreeの考え方だと、顕在的な 移動の有無と一致の形態的顕在化を連動させることになるにゃ) で、この一致はNPがどっかのSpec,Agrを経由した場合に起きるとしといて a la Diesingで VPの内・外でquantificationのdomainを違えるとするにゃ。 VP内がいうところのe closureの領域でNQに対応するにゃ。問題のNPがVPの 外側で解釈される時だけ、RQが出る、とにゃ。 一致を起こすAgrがVPの外側にあればいちおうきれいな分析がでてくるにゃ。 Spec,Agrに残った(わざわざ残した)中間痕跡がある以上、そこでの解釈が 強要され、一致→RQということになるからにゃ。 まぁ、split VPをとると、small vではにゃくlarge VPをe closureのdomainとする 必要があり、これはphase = CP, vP でそれぞれがこのquantification domain になる(interpretation by phase)と考えたい俺としては困るんだけどにゃー。 で、ヤパーリ疑問なのはcontinuous combienでどうしてNQが出るかなんだけどにゃ。 上でこさかなしゃんが言ってるみたいにc'est X que ... の分裂文としての 分析も可能ということと関係するかにゃ。この場合focusのXは元位置(らしきもの) にreconstruction可能だから(it is pix of himself that John likes e)、 これが起きた場合にはNQ読みってことなのかにゃ。 てゆーか、そもそも埋め込み文構造におけるtree-splittingがよく分からんにゃ。 [IP1 ... [VP1 ... [CP [IP2 ... [VP2 ... ]]]]] でVP2はnuclear scope、IP2はrestriction、でVP1はまたnuclear scope、 なんかにゃ?もしそうにゃら、分裂文のfocus Xはその位置でnuclear scopeって ことになるにゃが、なんかヘンなのにゃ。
データは、まだ知りたいこと(これから知りたくなること)に十分供給されているとは 言えにゃいでしょうけど、すごく面白いフカサの話に連れてきてもらいましたのにゃ。 ご指摘のように、DSS fn4にcontinuous conbienの一致のoptionalityに触れてない ですにゃが、それはおいといて、改めて一致と解釈の関係を整理してみますにゃ。 ="est-ce que" interrogative= 一致有 cont. RQ, NQ(?) disc. -- 一致無 cont. ?(NQ?) disc. NQ =simplex interrogative >148= 一致有 cont. RQ disc. ? 一致無 cont. RQ, NQ disc. ? すると >で、ヤパーリ疑問なのはcontinuous combienでどうしてNQが出るか もそうすけど、あっしには、148でカオモジせんせがおしえてくださったデータの 「一致がなくてRQ」が俄然気になってくるのですにゃ。 >Spec,Agrに残った(わざわざ残した)中間痕跡がある以上、そこでの解釈が強要され ということになると、一層そうですにゃ。
>「一致がなくてRQ」が俄然気になってくる たぶん、 how many pictures did you see? があいまいなのと同じ理由だと思うにゃ。 つまり一致がない場合、combien de chaisesの可能な解釈位置は Spec,CPと元のObj位置の二つに一つ、de chaisesのreconstructionの有無 により、それぞれNQ/RQが出てきますにゃ。 一致があれば、第三の位置としてVPの外側のSpec,Agrがあり、Obj位置で の解釈なら一致なしのよりコストの低い派生でもいいのだから、経済性に よってここでの解釈(RQ)が強要される、ということにゃ、たぶんにゃ。 個人的にはRQ=レースクイーンなんだけどにゃー(w
なるほど...(最近こればっか) ところで、RQ=レースクイーンとすると、NQ=ヌー○クィーン? 失礼しました...
NQはRQもどきのナンチャッテクイーンですにゃ。 今時のお下劣NQに比べて昔のRQは品がありましたにゃー(遠い目 ……板違いスンマソ
Obenauer(おぷのえ?おべなわ?)とちらっと覗いてみますたにゃ。 そしたら、beaucoup, un peuとde Nがdiscontinuousなのが 許される動詞のクラスと、許されない動詞のクラスがある、という 観察がありますたね。そのうちのできないクラスはapprecier, impresser などだと。で、できるクラスに関しては、beaucoup, un peuを動詞修飾語に した時にeventの複数生起の解釈と、動作の程度の解釈があるのに対し、 できないクラスは動作の程度の解釈しかない、という一般化を示しますた(と思う)。 一方、このような違いがあるにも関わらず、combienのようなのについては どちらのクラスでもdiscontinuousが可能、ということらしい。 で、そうだとしたら、「一致があってNQがあるのはナゼ?」というのについて、 VPの上にcombienを複数生起解釈の副詞を許す位置があって、縁起物だからSpec,AgrOP の中間痕跡をつかわなきゃにゃ...とかしようと思ったら副詞の位置があるもんで、 combienはスポッ!とそこに入っちゃって、de Nとは独立のものと見なされて、 副詞の疑問文になって、その時にNQの解釈がでちゃう。だから複数生起解釈の副詞を 許さない動詞のクラスでは、NQがでなくて、カオモジせんせの152の予測どおりに なる、という白昼夢を見ましたにゃ...もちろんこの時は"NQ"と言ってるのは回数なので、 deux fois"twice"という答え方になるはずですから、ま、ちょっと違うかにゃ...
158 :
(´∀`) :02/07/20 14:12
にゃるほど……(w 文頭のcombien de livresが誤って再分析され、combienはevent副詞の位置に 戻され、de livresはObj位置に戻される、っていうことでいいのかにゃ。 how often did you see a dog / how many dogs did you see が同じような意味になる場合も確かにあるんだろうからにゃ。 いつもNQ読みと複数event読みが等価ではにゃいにしても、にゃ。 ふと思い出したにゃが、Fiengo-Mayだったか(古っ!)、 who did you tell [ stories about t ] みたいな一見NPからの抜き出しに見えるのが、そうではなく who did you tell stories [ about t ] みたいに、誰について(のこととして)お話をしたのか、になってる、とか 言ってたと思うにゃ。 combien ... V de livres も V combien [ de livres ]かと思ったにゃが、 そもそも V de livres みたいな言い方はなさそうだしにゃ、スンマソ
>にゃるほど……(w ウフ! (゚д゚)ウマー 暑くて脳みそが耳から出てきそうで、カオモジせんせへの次が浮かびません。 (゚A゚;)アツー あげたら、しばらく逝ってまっス!
160 :
K-Rod :02/07/24 15:47
ちょっと遅めのレスですが、参考までに。 Dobrovie-Sorin 1992.The Syntax of Romanianと Heycock 1995.Asymmetries in reconstruction.LI 26 にも関連した話がありましたにゃ。 (1)Combien de personnes Marie a-t-elle decide d'engager? は英語のcounterpartと同じく、ambiguousな解釈が可能であり、 (2)?Combien Marie a-t-elle decide d'engager de personnes? (3)Combien Marie a-t-elle decide d'en engagaer? の場合にはmanyがnarrow scopeを取る解釈しかないということだそうにゃ。 今日も暑いですにゃ。てか、GGスレにも人が来ててよかったのにゃ。
161 :
K-Rod :02/07/24 15:52
しまったにゃ。 ambiguousってのはこういうことにゃ。 How many people did Mary decide to hire? a.(many>decide) What is the number of n, such that there are n many people x, such that Mary decided to hire x b.(decide>many) What is the number n, such that Mary decided to hire n many people
にゃるほど... 逝ってましたしたけど、ちょっとだけ戻ってきましたにゃ。 160の例で、discontinuous combienが'?'になってて、 en-cliticizationでperfectになる、ってちょっと気になりますにゃ。 control structureというbiclausalな構造も気になりますにゃ。 もしかして、faire+infinitiveでも同じような対比が見られるけど、 monoclausalでは、そんなこたあない、ということがあつたりして。 いやいや、まずはK-Rodしゃんが挙げてくだすった文献をよむべし、 ですにゃね と、言い捨てて、また逝ってきまっス!
あぼーん
164 :
(´∀`) :02/07/26 10:36
160でも同じ問題が再出するのにゃ つまりnarrow scooeを出す派生(2)があるのに、less economicalっぽい (1)にもnarrow scopeがあるのはどーしてか、とfoxファンかも知れにゃい k-rodしゃんにネタフリしてみるテストにゃ ひょっとするとフランス語でwh移動自体がoptionalだということと同質の、 実は大した問題ではないのかもしれにゃいけどにゃー
>ひょっとするとフランス語でwh移動自体がoptionalだということと同質の、 >実は大した問題ではないのかもしれにゃいけどにゃー それは、whが移動する場合と、移動しない場合は、numerationが別の 独立した派生、ってことっすか? といいながら、実は私はderivational economyがよくわかってない、と 告白しつつ、あげますにゃ
166 :
(´∀`) :02/07/29 23:03
まあそうなんだけどにゃ、numerationの違いは諸刃の剣で、むしろ上の議論をブチ 壊しにする危険もありますにゃ。 たとえばagreementが起きる場合と起きない場合では、明らかにAgrの素性構成が 異なるはずであり、別numerationということになる、すると両者は最初から競合 しない派生であり、どちらかがよりコストが高いなんてことが言えなくなるからにゃー。
にゃるほど・・・ (w すると、discontinuous combienが文頭に立つ場合の二つの読みも Agrの素性が独立の派生を」もたらしてしまう、という可能性も あるということですね。 と、疑問がdiscontinuousの場合でもこんなことがあるんでしょうかね でも、ちょとトリビアルぽでおもしろくなー、って感じですにゃね。
ああ、いっぱい書き間違い...鬱 discontinuous combien -> continuous combien 派生を」 -> 派生を 二つめのdiscontinuousはそのままでいいですにゃ スマソですにゃ
169 :
K-Rod :02/07/30 16:12
>164 ネタフリありがとうございますにゃ。 うーん、正直よく分かりませんのにゃ。 de personnesをreconstructしていろいろいじくってみたい ところにゃが、上述の顔文字先生以上のことはとても言えそうに ないにゃ。てか、私の思い付くようなことはすでに言われてますにゃ。 想像力が欠如してますのにゃ、あたしゃ。 てか、Fox流に言わせてもらって(藁 (1)に関してですにゃが、Scope economyから、Scope-shiftによって 違う意味が出てくるので、narrow scopeが出てくるってことでよかとですか? でも、今、話題になってる問題にはうまく答えられませんにゃ。
170 :
K-Rod :02/07/30 16:27
ところで、昨今の私の発言&再来週の私のネタ(顔文字先生がご存知かと)を 見てたら、確かにFoxファンって感じがしますのにゃ。たぶん、これは最近Foxを 読み漁ってたせいにゃ。 てか、代名詞をやろうーBindingをやらねばーBindingがLFでの問題という 経験的証拠がホスィーInterfaceをやらねばーFoxがいっぱいめっかった って順を追ってるせいだと思いますにゃ。 もっといろいろ論文読まねば、と思ったりするにゃが、なかなかはかどり ませんのにゃ。やらなきゃいけないことが多すぎにゃ。 そういや、私は誰のファンかにゃー? 顔文字先生!?
171 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/07/30 19:05
「東京特許許可局は東京にある」の真偽を問うことは、できるんでしょうか。
>171 「東京特許許可局」という名前をもつ要素が「東京にある」という 集合には含まれない、とか、名前も集合として扱えば、 「東京特許許可局」という集合と「東京にある」という集合の intersectionが空集合、つー答えが与えられますにゃ。 でも、正直、「東京特許許可局」みたいな作り物の名前についての 詳しい扱いはよく知りませんにゃ。 うーん、これは■の老師に聞くべき問題ですな 老師、見てますかー 今日は過労で倒れて、病院に自分を担ぎこんで、点滴うってもらって きたんですにゃ。こんな日に2ch見てる私って・・・
俺も点滴ファンですにゃ、だいたい毎年1回は救急車のお世話になってますにゃー(w
174 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/07/31 06:30
「東京タワーは東京にある」は真。 「東京ディズニーランドは東京にある」は偽。 「東京」がたまたま名前の一部になっているだけで 必ずしも東京にあるということにはならないのでは? だから、こさかな氏が言ったように名前も集合とし て扱うのが自然だと思います。
>173 そうなんですか! 昨日ははじめてだったんでビクーリしましたにゃ。 でも、看護婦さんが血圧はかるときに股に私の腕はさむもんで 地獄なんだか天国なんだかわからなかったですにゃー(w >174 名前の一部になってる現実に存在する個体の扱いって、 どうなるんでしょうにゃー いっぺん述語の形になおすんでしょうかにゃ。 すると、語形成のことがこのあたりにも絡んできそうな気がします にゃけど、アイデアがありましたらばしばしカキコしてくださいにゃ
176 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/07/31 10:31
>171 「現在のフランス王は禿げである。」と同じように分析されると 思われ。
というか、真偽性を問われて、すぐに「集合」を持ち出すのは、 形式意味論を勉強した人の悪いくせだと思う。
というか、「名前も集合として扱う」というのは、そもそも どういうこと?「東京特許許可局」を普通名詞として扱うと いうこと?それとも、固有名詞全体を普通名詞と同じように 扱うということ?
>176-177 もすこし説明キボンヌ。 形式意味論はFregeの問題設定とか、分析とかを引き継いでいるもの なので、「現在の...」についても扱っているものと考えて下にゃ。 で、集合論的な扱いは、これも含む設問に対する一つの明示的な 理論であることも考慮に入れてお答えいただけると有り難い。 頼みますたにゃ!
179訂正 「Frege」->「Frege、Russellなどの論理学者」 >178 うん、無限の集合族のintersectionが唯一の元をもつsingleton setと するんですにゃが、こうすると名詞を一般に集合の集合と考えることが できて、そもそもそうしたいのは、名詞を量化子の一つとしたいからで なんでこんなことするかというと、統語構造を論理構造からそれほど ずれていないもの、とみたいからですにゃ。 この伝統の最大の貢献者はもちろん紋太牛ですにゃが、そもそも russellがこのようなスタンスをとっていたのですにゃ。自然言語は 論理言語に比較すると不完全だ、としたFregeと対照的に、ですにゃ。 余計なこと書き過ぎましたにゃ。あとは任せましたにゃ、176さん。
>179 普通に意味論を勉強している人が、「東京特許許可局は東京に ある。」という文の真偽を問えるか、と尋ねられたら、これは 有名な「現在のフランス王は禿げである。」という文と同様に 実在しない対象を“指示”する定記述句ないしは固有名詞を主 語にもつ文についての真偽の扱いを問題にしているのだ、と解 釈すると思う。 従って、171の問いを尋ねられたら、とりあえず、 (1)「東京特許許可局」が定記述句なのか、固有名なのか。 (2) 定記述句(固有名)は、そもそも、どのような意味論的 分析を受けるべきと考えるのか。 (3) 特に、実在しない対象を“指し示す”定記述句(固有名) を主語とする文はどのように扱われるべきなのか。(ラッ セル的に偽とするのか、ストローソン的に真偽は問えない、 とするのか。) の順に説明をしていくと思う。集合うんぬんの話は、すると したら(私はしないほうがいいと思うのだが)、その後に行う べき、…と思う。
>180 171のような問いに対して、いきなり、固有名の外延を個体でなく、 モンタギューのPTQ流に、個体の集合の集合として扱おうとするのは、 百害あって一利なし。 の無用の複雑さをもたらすだけのように思える。
176さん、176さんがよい、とお考えの説明をよろしくお願いしますにゃ それから、181さんの説明はまだ十分難しいので、もっと易しく お願いしますにゃ。そもそも、171さんのような問いは全くの 素人は発しないと思いますにゃ。間違いだったらすまそですが、 自作自演の香りがしますにゃ。そうじゃなかったら、こさかな相手の 話はおやめになり、意味論に興味を持つ方に資するような形で お願いしますにゃ。 それからK-rodしゃん、 ごしんぱいありがとうございましたにゃ。
>183 すみません、こさかなさま個人に咬みつこうという気持ちは 毛頭ないのですが・・・。まず、171の問いに対する私がよい と思う説明は、181に書いたとおりに、とりあえず(1),(2),(3) の順に議論をしていくべきということです。 で、181が難しいとのことですが・・・、うーん、言語学の意 味論では"On denoting"とか"On referring"とかは、最重要 基本文献ではないんでしょうか。確かに、言語学の形式意味論 の教科書では、定記述句の話は、割と後のページに出てくる のかもしれませんけど・・・、それにしても、指示対象を持た ない定記述句の話をぬきにして、フレーゲ、ラッセルについて 語れるんでしょうか。 ちなみに、171の投稿は、176によるものではありません。171 さんの質問意図については皆目わかりませんが、たとえば、意 味論の授業で、指示対象をもたない定記述句を含む文について の応用問題として出されたのではないかと想像してみました。
言語学学徒です。 春から形式意味論を学んでいます。 「東京特許許可局は東京にあるか」は昔平成教育委員会で実際に出た問題です。 そのときの答えは「×」でした。 ビートたけしが「そんなのないんだから×にきまっている」といっていたのが子供心に不思議でした。 形式意味論を初めて学んでみて、このことを思い出してみました。 ラッセルやフレーゲを読んでいますが、ここなら何かヒントが得られるかも、と思って尋ねてみました。
意味論てのは言語内在的な領域であって記号と記号との関係を考察するもの、 記号とその外在物である参照物(レフェラン)との関係は語用論の領域でないの?
記号とその外在物であるreferentとの関係こそが意味論の領域です。 語用論は、記号の使用についての研究。
まあ、ソシュールの流れをくむ立場からいえば、意味論は、むしろ、 記号と記号の関係を考察する研究として捉えられるのかもしれませんが、 フレーゲやラッセルの流れをくむ立場からいえば、意味論は188のように 定義されます。
190 :
176 (≠171) :02/07/31 16:19
>186 非常にいい着眼点であるように思います。わかりやすく言えば、 その問題に「×」と答えるべきだというのが、ラッセル的立場、 一方、そもそも存在しないものの場所について尋ねるのは、問 題としておかしいから、「○」ではもちろんないが、「×」で さえもないというのがストローソン的立場。
>184 すみません、こさかなさま個人に咬みつこうという気持ちは すみません、こちらも176様を責めるつもりはありませんでした。 意味スレが情報的に面白くなればそれでいいと思って書きました。 ただ、個人的見解としては、 >184 指示対象を持たない定記述句の話 は、集合論を用いないと逆に直観的に理解しにくい話になるのでは、 という危惧を常にもってます。まったく初めての人には集合論だけでは なく確定記述というのも難しいでしょう。171さんは少し意味論の backgroundがおありのようだから、確定記述の論理表記の実例なども いいんでしょう? それから、171さんと176さんはdisjointな指示物でしたね。 お詫びします。176のせんせにはもっとがんがんいっていただいたら ありがたいです。 さっき、二本めの点滴をうちました。何か、私も点滴ファンになりそう ですにゃ>かおもじせんせ 看護婦さんに内容物を聞いたら、「いろんな栄養とかむにゃむにゃ」 とかいってて不満が残りましたが、ともかく効くっつーのに感動。 しばらく徐行です。176のせんせ、よろしくお願いしまっす!
>191 まあそう言われてみれば、入門では、一般名辞の外延は個体 の集合であると言ってしまう方が直感的にはわかりやすいか もしれないし、そうすると、一般名辞を含むところの定記述 句の意味構造の話をするのに、集合の話を省いてすることは かえってわかりにくくするかもしれませんね。 ちなみに、私は、一般名辞の外延は、個体から真理値への関数 であると説明した方が、少なくとも“認知的”にはより自然で はないかと考えているのですが。(まあ、「集合」と「関数」 はどちらがわかりやすいか微妙ですけど) ただ、まあ集合の話に咬みつかせていただいたのは、意味論に とって、集合とは、(そのほとんどが)数学的なモデル化の道 具にすぎないのに、そこにばかり話がいくのは、本質からそれ た専門家の寄り道にすぎないのではないかと思ったからです。 どうもお体をお大事に。>こさかなさま
>>189 フレーゲやラッセルはその意味では言語論的転回以前の思考ってことか。
ド素人の横レス…… 「東京特許許可局」が実在しないものらしいということを理解するのに小一時間 かかってしまったにゃ(w 上でフラハゲの例も出されてるにゃが、まず確定記述がreferentialに用いられているのか、attributiveなのかで大きく分かれるのではないかにゃ。前者の場合、固有名詞と 本質は同じにゃから、たまたま話者が人の名前を間違ったのと同じで、真理値は 持ちうると考えられないかにゃ。山田のことを田中という名前だと思い込んで、 「田中ってかっこいいよねー」といった場合、話者が田中という名前で指示する 対象(=山田)に照らし合わせれば真偽が決まるにゃ。「東京〜」もフラ王も同様、 その確定記述で指示されている対象の属性次第にゃ。 一方、attributiveの場合は、その記述内容が唯一的に当てはまるものが存在する、と いう前提の元に、その対象を探すわけにゃが、その存在が前提となるのは可能世界の 一つに過ぎないのであって、「東京〜」なるものが存在する世界は確かにあるわけ にゃ(例えば話者の想像世界)。ただそれが現実世界においては実像を結ばず、 ましてや現実世界の東京にも存在せず、まさにこの意味で「偽」、とまあ、 トーシロの俺ならラッセルとたけちゃんにメロンパン一個にゃ。(チョムがラッセル ファンだというのとはなんの関係もないにゃ) 「サンタ・クロースは存在しない」とかありますたにゃ。 「一番長い文は存在しない」とかもにゃ。「一番長い文というのは〜」と、 「というの」を挿入したほうが落ち着きがいいにゃが、これは可能世界間の 写像が意図されているシルシなのかにゃ? にゃ、邪魔しますたにゃ。では続きをどうぞにゃ
Prof.176、ありがとうございます。医者先生によると過労らしいので ちょっとユクーリいかせていただきます。 ところで、Fregeの原則に照らし合わせると、一般名辞自体を、 命題としてではなく、真偽値を問えるものとすると、真偽値というもの の、かなり影響の大きい拡張になる気がします。 教えてくんで申し訳ありませんが、このあたりもう少し説明して いただけるとうれすいです (ペコリ
現在のフランス王とかロンドレス/ロンドンとか、 オースティンに解釈させれば、 真偽が問題となるconstativeな「命題」ではなくて 適・不適が問題になるpeformativeな文例と見做されるのではないかな。 やっぱり分析哲学は語用論の領域に半ば足を踏み入れてしまってるよ。
すみません、書きやすい順にレスさせていただきます。 >189 「言語論的転換」という思想的動きについては色々と解釈があると 思いますが、フレーゲに始まる思想的な転換を意味するというのが 代表的な解釈であると思ってました。(手元に哲学辞典がないの であまり自信はありません。) >196 というか、逆に、現代の哲学的・言語学的語用論は、分析哲学の流れ から生まれたというべきだと思います。 >195 すみません、私はProf.でもありませんし、説明というほどたいした こともかけないのですが・・・、一般名辞の外延を個体から真偽値 (truth valueの訳語は真理値よりこちらの方がよさそうですね) への関数であると考えるというのは、ごく基本的な話で、例えば、 「犬」の外延を、与えられた個体に対して、それが犬であったら、 真の値を返し、それが犬でなかったら偽の値を返す“関数”として 考えるというごくシンプルなことです。これは、「犬」の外延を 犬の集合とすることと、文への意味論的貢献という点からは、 たぶん(というか、たぶん全く)差はありません。 ただ、これが“認知的”に望ましいというのは、“「犬」という語 の意味を知っている”という認知的概念の定義を、ここから自然に 引き出すことができるからです。 つまり、「犬」という語の意味を知っているということは、 与えられた個体について、それが犬かどうかを判別できる 能力を持つことである、と定義できると思いますが、 この定義は、「犬」の意味を個体から真偽値への関数とみなす 考え方としっくりいく、ということです。 とここまで書いたのですが、よく考えれば、外延と内包を区別 して、内包が認知的な語の意味と考えれば、「犬」という語の 外延を犬の集合としても何の問題もありませんね。失礼しました。
176さん、まとめていただいてありがとうございます。 そろそろ固定ハンドルをおもちになってもよろしいのでは? >この定義は、「犬」の意味を個体から真偽値への関数とみなす >考え方としっくりいく、ということです。 >とここまで書いたのですが、よく考えれば、外延と内包を区別 >して、内包が認知的な語の意味と考えれば、「犬」という語の >外延を犬の集合としても何の問題もありませんね Frege自身、Sinn(意味)とBedeutung(指示)の関係は、意味が指示を決定する、 としてるんじゃなかったでしたっけ?176さんがおっしゃってるのは、 個体を固定し、あるモデルで各関数ごとにその個体に指示物を割り当てる というアイデアですよね?これは最近の論理学で用いられている考え方で、 実は詳しく知らないのですけど、Fregeの考え方を形式的に表現したものでは ないかと思っています。 176さんは意味論の数理的扱いがお嫌い?確かに、形式的なものを入門から 習い、それがなぜそのような表現を与えられたのかを考えない人には、 176さんの考え方は凄く「非形式的」で新奇に映るかもしれないのですが、 実際には、様々なinsightを、うまく表現しようと辿り着いたものが 現在の形式意味論のベースになっている場合が多いと思うのです。 どうも、分析哲学の訓練をうけられたっぽい176さんにはこの点、同意して いただけるのでは?と思いますが、違ってたらご教示いただけると幸いです。 ところで、Jackendoffの論文の中で、Verkuylに「形式意味論を、 extentionalityの部分を括弧にくくって、明示的な、便利な道具だと 思えばいいのにゃ」と言われた、とか言ってた気がするのですが、 集合論のそもそもの成立の契機を考えると、Verkuylがゆうよりも、 もっと'認知的'なものだと考えていいような気がするのです。 おっと、文体が素になってしまた(w
>>197 >「言語論的転換」という思想的動きについては色々と解釈があると
>思いますが、フレーゲに始まる思想的な転換を意味するというのが
>代表的な解釈であると思ってました。
「言語論的転回」(the linguistic turn)は二通りに使用されてる風に見える。
一つは、日常言語学派、語用論系の意味で。アングロサクソンに多し。
論理実証主義、分析哲学など。
もう一つは、記号論、意味論系で、ソシュール流に指向対象を排して
能記と所記の言語内事実のみ思考する。「テクストの外にはなにもない」(デリダ)
フランス現代思想に多し。現象学、解釈学、構造主義、ポスト構造主義など。
元々はリチャード・ローティーの命名で前者の意味だったが、
近年は後者の意味で使用されることが多い。特に社会学や歴史学などでは。
フレーゲやラッセルは実体論を脱してないって点では、
後者の意味での言語論的転回以前ってことになるか。
どっちにしろ、片方の意味しか知らないのはいかんよ。
cf.
http://mentai.2ch.net/philo/kako/958/958350687.html
カオモジせんせ >前者の場合、固有名詞と 本質は同じにゃから、たまたま話者が人の >名前を間違ったのと同じで、真理値は持ちうると考えられないかにゃ 名前を間違った場合の、命題の真理値、というのはなんとなく そそられるテーマ、とちょっと思ってみるテストですにゃ。 一般的なアプローチでは、外延性の原理によって名前を置き換えて 真、とするのでしょうけど、よく考えるとどうなんですかにゃ。 くれぷきぇ、がしてそうぽですけどにゃ。 老師は今いづこ・・・
>198 すみません、まだ2ちゃんねるで固定ハンドルを持つ勇気は ありません。_0_ 「個体に指示物を割り当てる」の部分がわからないのですが、 それ以外は、おっしゃるとおりで、私の書いていることは、 ほとんど、フレーゲに由来する現代論理学の基礎的なアイデア (「意味が指示を決定する」など)を自分なりの言葉でまとめ てみただけです。 「意味論の数理的扱いがお嫌い?」というご質問ですが、 はい、嫌いといえば嫌いですけど・・・そうですね、数理的 に表現した方が簡潔である場合は、もちろんいいんですが、 言語学では、不必要に数理的な形式化がなされる傾向がある という気がしますんで。物理学などとは違って、言語学では、 数理化は、必ずしも、優れた表現形式ではないような気がし ます。 で、数理的な形式化が望ましい場合でも、数理的モデル化の 背景にある哲学的アイデアがわかっていないと、モデルの意 味が見失われるということがあると思うので(ここらへんも 物理学の数理化と少し違うように思うのですが)、私は、数 理的モデルによる説明は、不必要であれば、避ける方が、望 ましいような気がしています。 Verkuylですか、確か、名前も論文も読みにくいということを 思い出します…。 そうですね、集合論の起源はともかく、集合論の使用が説明上、 有益であれば、何の文句のつけようもありません。 >199 説明ありがとうございます。でも、「言語論的展開」は私が持 ち出した言葉じゃありませんよ。
>>194 ご指摘のように、「東京特許許可局」文を定記述句のreferential use/
attributive use(指示的使用/帰属的使用)という観点から考えるのも
確かに面白そうです。
例えば、定記述句「東京特許許可局」が指示的に使用されている状況
としては、次のような状況が思い浮かびます。ある人が特許の申請を
するために東京都内にある公的機関(特許庁のある部局?)に通って
いるのだが、その人は自分が通っている機関の名前が「東京特許許可
局」であると信じ込んでいたような場合です。このような状況におい
て、その人物が「東京特許許可局は東京にある。」と発言した場合は、
「東京特許許可局」という定記述句によって、彼は、自分が通ってい
る機関のことを指示しているものと考えられます。もしそうだとする
と、彼の「東京特許許可局は東京にある。」という発言は真であると
いうことになります。
一方、帰属的用法についていえば、この話の発端である、「平成
教育委員会」というクイズ番組で、「東京特許許可局は東京にあ
るか。」という問いがなされた時、「東京特許許可局」は帰属的
な用法をされているものと考えられます。ですから、定記述句の
帰属的用法がラッセル的分析をうけるのであれば、この問いに対
する正しい答えは、×で問題がないわけですね。
最後に、指示的用法と帰属的用法の中間であるようなケースも 考えられます。例えば、ある人が東京で特許の申請を受け付け てくれる公的機関の名前が「東京特許許可局」であると勘違い しているような場合です。この人が「東京特許許可局は東京に ある。」と言った場合、彼は「東京特許許可局」という定記述 句によって「東京で特許の申請を受け付けてくれる公的機関」 のことを指し示しているから、別の仕方で同定される指示対象 が念頭にある、という意味では、“指示的用法”であるという ことになるのですが、「東京で特許の申請を受け付けてくれる 公的機関」は帰属的に対象を同定するわけですから、この意味 においては、“帰属的用法”であるということになります。 (あっ、そうだ。東京に特許の申請を受け付ける機関は、ひとつ だけ存在するということを議論の前提にしてください。本当は どうだか知りませんが。) で、結論としては、 「定記述句の指示的用法と帰属的用法の区別は、綺麗に定記述句の 用法を二分するものではない」 ということを言いたかったのでした。
>「定記述句の指示的用法と帰属的用法の区別は、綺麗に定記述句の > 用法を二分するものではない」 お説ごもっともですにゃ。attributiveが定義上referentialの補集合というわけでない とすれば当然ですがにゃ。ちょっと言い方を変えてある表現が指示的に用いられる 上での(つまりこの議論は最初から語用論の範囲ですにゃが)条件として、 指示対象が話し手にとってidentifiabilityを持つかどうかが考えられ、その有無で 二分することはできるにゃ。203の「「東京特許許可局」という定記述句によって 「東京で特許の申請を受け付けてくれる公的機関」のことを指し示している」場合 も、もし話し手がその機関をidentifyできる状況であれば指示的、そうでなければ 帰属的と強引に二分することも考えられないのかにゃ? まあこんなこと言い出すと 話し手以外にも、誰にとってidentifiableなのか、とか、話し手にはidentifiableだと 聞き手には分かっていると話し手は想定していると聞き手は理解している……とか という無限地獄が待ちかまえているんだけどにゃー。
>無限地獄 相互知識の理論を考えるときに、行く手にぱっくり口を開けて 待っている地獄ですね 「談話管理理論」という理論では、有限回の手続きで、この無限地獄を 断ち切ることができると聞いたことがあるんですが、 相互知識理論も談話管理理論もよく知らないのでカキニゲッ!
>>204 顔文字さま、うまく話を引っ張ってくださって、嬉しいです。
顔文字さまのおっしゃるとおり、定記述句が指示的か帰属的か
判断する基準は、定記述句内の記述以外の仕方で、対象を同定
できるかどうかと考えるのが一般的だと思います。すなわち、
定記述句の記述のみによって対象が同定されるのあれば、それは、
帰属的用法であり、一方、定記述句以外の仕方によっても(直接
指示的に、または他の記述によって)、対象が同定されるので
あれば、それは、指示的用法であると考えるのが普通です。
しかしながら、この基準が必ずしも正しくないと考えられるケースが
あります。私は、定記述句の帰属的用法/指示的用法の区別につ
いて最初に論じたドネランの有名な例文(s)を例として、これを説明をし
てみたいと思います。
(s)スミス氏を殺した犯人はきちがいだ。
我々は、次のような状況を設定します。誰にでも好かれている善良な
スミス氏が何者かによって無残にも殺害されました。その後、新聞
社に(「2ちゃんねる」でもいいんですけどリアルすぎるので)、スミ
ス氏殺害の犯人を名乗る人物から、内容が支離滅裂の手紙が送られ
てきました。新聞社はあえてその手紙を新聞に掲載して、その内容は
世間に広く知られることになりました。世間の人々は、スミス氏
を殺した人間こそが、新聞社に手紙を書いて送りつけたのだと信
じています。この場合、世間の人にとって、「スミス氏を殺した犯人」
という定記述句で指示される対象は、「新聞に支離滅裂な記事を書いて
送りつけた人物」という定記述句によっても同定されるわけです。
(続き) さて、ジョンソン氏は、スミス氏をよく知る友人であり、気が狂った人物でない 限り、スミス氏のような善良な人物は殺せないと考えて、(s)と主張したとします。 一方、ライト氏は、スミス氏についてはよく知らないが、新聞に掲載された支離滅 裂な手紙の内容を読んで、(s)と主張したとします。この場合、前者のジョンソン氏 の発話は、「スミス氏を殺した犯人は、誰かは知らないが、誰であれ、きちがいだ。」 と言い換えられる典型的な帰属的用法であると解釈することができます。しかし、 後者のライト氏の発話においては、「スミス氏を殺した人物」という定記述句は、 むしろ、支離滅裂な文章を書いて新聞社に送りつけた人物のことを指すのに用い られているものと、すなわち、定記述句の指示的用法であるものと解釈すること ができます。実際、ライト氏の主張は、「スミス氏を殺した犯人は、誰であれ、き ちがいだ。」というよりも、「スミス氏を殺した犯人は、同時に、支離滅裂な文章 を書いて新聞社に送りつけた人物でもある限りにおいて、きちがいだ。」と言い 換えられるでしょう。 すると、ジョンソン氏にとっても、ライト氏にとっても、「スミス氏を殺した 犯人」が、「新聞社に支離滅裂な手紙を書いて送りつけた人間」という別の 定記述句によって同定できるということには違いはないのに、 ジョンソン氏の(s)の発話における定記述句「スミス氏を殺した犯人」が 帰属的用法として捉えられるのに対して、ライト氏の(s)の発話における 定記述句「スミス氏を殺した犯人」は指示的用法として捉えられることになります。
(続き) さて、ジョンソン氏の発話の解釈とライト氏の発話の解釈を区別するものは何でしょうか。 それは、(s)のような主張を正当化する理由の違いに他なりません。すなわち、ジョンソン 氏にとっては、定記述句に含まれている「スミス氏を殺した」という属性こそが、 その属性をもっている人物が「きちがいである」と主張することの理由なのですが、 ライト氏にとっては、「スミス氏を殺した」という属性ではなくて、「支離滅裂な手 紙を書いた」という属性こそが、この属性をもっている人物が「きちがいである」と 主張することの理由になっているのです。 結論としては、定記述句の帰属的用法/指示的用法の区別は、定記述句の指示対象 が、別の仕方によっても同定されるか否かということだけではなく、定記述句の中の 記述内容が、文全体が主張する事柄において重要かどうかということにも深く関係 しているということが言えるように思います。(おわり)
209 :
(´∀`) :02/08/03 07:10
ヘタレばっかりのどこぞのアホスレと違ってここは気持ちがいいですにゃー >こさかなしゃん 176センセ、 208のおわりのところの結論には同意にゃ。にゃが、 >後者のライト氏の発話においては、「スミス氏を殺した人物」という定記述句は、 >むしろ、支離滅裂な文章を書いて新聞社に送りつけた人物のことを指すのに用い >られているものと、すなわち、定記述句の指示的用法であるものと解釈すること >ができます の部分は俺自身、よく理解できないのにゃ。上の同定可能性という点についていうと、 この場合、ライト氏にとってもジョンソン氏同様、「スミス氏を殺した人物」の指示 対象は同定不可能なままにゃ。ただ、ライト氏の信念世界ないし情報ファイルの中で 「スミス氏を殺した人物」=「新聞に記事を送りつけた人物」という結びつきが 行われている点が違っているにゃが、このような付加情報があるというだけでこの 確定記述を指示的と分類してよいものかどうか、俺としては少しだけ慎重になります にゃー。 例えば、スミス氏を殺した犯人が自称「キャットキラー」と名乗っているとする、 この場合「スミス氏を殺した犯人」はキャットキラーなる人物を「指す」からといって referentialなのか、と問われるとやはり困ってしまうのにゃ。これは固有名詞も、 その指示対象が同定されないまま使われていればattributiveだということでも あるにゃが(それが誰かは分からないが〜という名前の人)、このような見方は どうなんだろにゃ。俺がどこかで考え過ぎて混乱しているんだと思うにゃが、 誰かうまく解説してくれるとありがたいのにゃ。
あそこは、もう停戦つーことなんですかにゃー 虚無好きせんせとBOBせんせの偉大さを再確認してしまったのみ ですたにゃー
>>209 何かたくさん書いて疲れたので、ちょっとボールを投げ返させてください。
^^;)
では、定記述句の指示対象を“同定”できるというのは、どういう場合
を言うのでしょうか。その指示対象の名前を知ることが必要なのでしょ
うか。それとも、その指示対象が直接的に知覚されることが必要なので
しょうか。その指示対象に関して、どのくらいの知識を持っていれば、
“同定”したことになるのでしょうか。例えば、「スミス氏を殺した犯
人」の場合は、この犯人が警察に身柄を確保されたというニュースを知っ
た(だが名前も顔写真もまだ公表されていない)時点において、この犯
人を“同定”したことになるのでしょうか。それとも名前が公表されて
から(あるいは顔写真が公表されてから)、初めて同定したことになる
でしょうか。(確かに、日常的な言語使用では、「犯人」が同定される
というのは、「犯人」の名前がわかるぐらいに「犯人」についての知識
が得られる、ということを意味するだろうと思いますが)
私は、定記述句に含まれている記述によらないで、どのような仕方であ
れ、唯一的に対象を限定できれば、それが対象を(広い意味で)“同定”
することになると思います。ですから、先の例では、ジョンソン氏にお
いてもライト氏においても、「スミス氏を殺した犯人」は、「新聞社に
支離滅裂な手紙を書いて送った人物」という記述によって“同定”され
ると言ってもいいのではないかと思います。
投げかえされるボールを眺めながら横スレすまそです... ものの「固有名」と「定記述」の関係がわかんなくなってきました... というか、176せんせの説明はよくわかったんですが、だからこそ 一層、名前を間違えているだけで他は合ってる命題 (だから話している本人は「真」と信じてる)の中での「固有名」の 地位、ってどうなるのかな、っていう疑問が際立ってきたような気が。 176せんせが前に挙げてらした、特許付与機関の場合とか。 >では、定記述句の指示対象を“同定”できるというのは、 >どういう場合 を言うのでしょうか 記述によって唯一性、同一性を決定する手続きについてはどんどん 明らかにしていただいた気がするんで、むしろ問題は、「適切性」 というようなことなのかにゃ、とか。ドネランの例に関しては、 ジョンソンと、ライト(に代表される大衆)に存在が仮定される 推論規則に違いがあり、その適用に違いがあるのに唯一性が保証され、 同等の言明が異なったあり方で導かれても、それらは論理式で かけるようなもの(次の項に書きます)ですが、「適切性」に 関しては、こう書けないような。これって、176せんせが言ってた ストローソン的な側面なのかにゃ。 すません、極めて厨房ですた。
厨房レス、ちょっと続けますにゃ。 176せんせにしかられるかもしれませんにゃが、記号化して 同定の部分に焦点をあてながら、論点を探ってみますにゃ。 「き」の字ははばかられるので、「ま」で置き換えますにゃ。 (s)ス氏を殺した犯人はまちがいだ 未確定だけど特定の個体をu, vとし、「xは殺人犯だ」をM(x)、 「xはまちがいだ」をm(x)としますにゃ。sには次のような同定が 含まれ (s') u=v uとvをそれぞれ特徴づけようとすれば (s") M(u)&m(v)&(u=v) になりますにゃ。 ジョンソンはAxy[M(x)&m(y)&(x=y)]という推論規則を もっており、これによって (1) Axy[M(x)&m(y)&(x=y)], M(u)かつm(v)、 よってM(u)&m(v)&(u=v) という推論を行う、ということですに。 これに対して、ライト(を含む大衆)は新聞によって与えられた 情報N(w)「未確定特定人物wは、新聞に支離滅裂な記事を書いて送り つけた人物Nである」に基づいて、推論を行いますにゃが、 Ax[N(x)->m(x)]とAxy[N(x)&M(y)&(x=y)]という推論規則をもっており、 これに基づいて次のような推論を行うのですに。 (2) (i)Ax[N(x)->M(x)], (ii)Axy[N(x)&m(y)&(x=y)], N(w), M(u)かつm(v)、 (i)から、(ii)のN(x)を置換して、Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] よってM(u)&m(v)&(u=v) 記号化したものを見ると(しないものを見ても同じなんですにゃが) 1と2は、同定に関わる規則として別の規則を用いて同じ命題に辿り着く、 ということがわかりますが、次の二点が言えると思いますにゃ。 (3)a. 個々人の用いる規則の適切性は別に保証しなければならない b. 上述の規則以外の規則で勝手に別の同定を更に進めることを 禁じない これらは語用論でしかるべく規定する、という事になるのかにゃ、 と思ってみたりして。
こさかなせんせい、レス有難うございます。ちょっと、論理式の意味の確認 をしながら、少しずつ話を進めさせてください。 >ジョンソンはAxy[M(x)&m(y)&(x=y)]という推論規則を >もっており、 Axy[M(x)&m(y)&(x=y)]の意味がよくわかりませんでした。 これは下の >Ax[N(x)->m(x)] にならって、Ax[M(x)->m(y)]ということとして、すなわち、「どんな殺人 犯もすべてまちがいだ。」という意味で解釈してよろしいんでしょうか。
>211 何かたくさん書いて疲れたので お疲れさまです。すごく勉強になってます。 でも、無理しないでくださいね。ゆくーりいきましょう!
あ、215を書いてから214を読みますたにゃ。 >>Ax[N(x)->m(x)] >にならって、Ax[M(x)->m(y)]ということとして、すなわち、 >「どんな殺人犯もすべてまちがいだ。」という意味で解釈して ここではある個体と、それとは別のある個体の同定という側面を 際立たせるための表記だったのですが、制限句を用いて、 「属性Aをもつあらゆるuと属性Bをもつあらゆるvについて、u=v」と いってもいいです。含意関係を用いたとすると、ある個体をとりあげ、 その個体に成立する二つの属性の間の関係になるので、表現しようと していることが若干異なります。含意関係の方、全称量化なので、 束縛された変項を一括して置換するならば個体で置き換えていいので、 試みに個体aで置き換えると、 M(a)->m(a) で、これを読むと、「aが殺人者ならば、aはまちがいだ」になるで しょう。これは、まあどうにか組み込めるんでしょうけど、未確定の 個体間の同定判断とは関係のないものです。 一方、大衆の推論規則をAx[N(x)->m(x)] としたのは、176せんせの 文の該当部分を同定判断として(私が)読まなかったからで、 「支離滅裂なaは、まちがいだ」という属性間の含意関係と読んだ、 それを表現したものです。 あ、それからこの機会に、213(3)に、 「ジョンソンのu,vと大衆のu,vが同一であることを保証するものは 何もない」ということを付け加えさせてくだしゃい。これって 要点だつたかも。
あー、まちがーてしまた! >一方、大衆の推論規則をAx[N(x)->m(x)] としたのは Ax[N(x)->M(x)]、でした。で、「xが支離滅裂なら、殺人者だ」と 読むです。す る と...これに関しては同定判断としてるんでした っけ。すませーん。また間違いあるかもしれないんで、あとで まとめて書き直しますにゃ。
>こさかなせんせい すみません。212のレスを見落としていました。^^;) >ものの「固有名」と「定記述」の関係がわかんなくなってきました... >というか、176せんせの説明はよくわかったんですが、だからこそ >一層、名前を間違えているだけで他は合ってる命題 >(だから話している本人は「真」と信じてる)の中での「固有名」の >地位、ってどうなるのかな、っていう疑問が際立ってきたような気が。 >176せんせが前に挙げてらした、特許付与機関の場合とか。 固有名に関しては、クリプキの説に従って、最初の命名行為があって、そこ からコミュニケーションの連鎖が続くことによって、名前と対象の結びつき が保障されると考えるのがいいように思っています。そうすると、「名前が 間違って他が合っている」というのは、名前だけが途中で間違って伝えら れたということになるのだと思います。 >記述によって唯一性、同一性を決定する手続きについてはどんどん >明らかにしていただいた気がするんで、むしろ問題は、「適切性」 >というようなことなのかにゃ、とか。ドネランの例に関しては、 >ジョンソンと、ライト(に代表される大衆)に存在が仮定される >推論規則に違いがあり、その適用に違いがあるのに唯一性が保証され、 >同等の言明が異なったあり方で導かれても、それらは論理式で >かけるようなもの(次の項に書きます)ですが、「適切性」に >関しては、こう書けないような。これって、176せんせが言ってた >ストローソン的な側面なのかにゃ。 「適切性」ですか! 私は、ちょうど「関連性」とか「主張可能性条件」という 言葉を考えていました。定記述句が帰属的用法であるか、それとも指示的用法で あるかは、命題の内容だけではなくて、その命題を主張しようと思った理由に、 実は、深く関係しているということを私の前のレスでは示そうと思ったつもりです。 こさかな先生のおっしゃる「適切性」について、もっと説明していただければ幸いです。
>ここではある個体と、それとは別のある個体の同定という側面を >際立たせるための表記だったのですが、制限句を用いて、 >「属性Aをもつあらゆるuと属性Bをもつあらゆるvについて、u=v」と >いってもいいです。 ということは、Auv[M(u), m(v)][u=v] ということでしょうか。 通常の述語論理だと、Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] は、 「世界にはMとmという属性を持つひとつの個体しか存在しない」という 意味になってしまうと思うのですが…。
ゆくーりいかせていただきますにゃ >通常の述語論理だと、Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] は、 >「世界にはMとmという属性を持つひとつの個体しか存在しない」 >という 意味になってしまうと思うのですが… おそらくラセールの式を念頭においてのコメントだと思いますが、 その読みはcardinalityにも関係があるのですべてを全称量化で 束縛するのではなく、 E!xAy[M(x)&m(y)&(x=y)] のようにして「かっきりひとつ」を表す演算子E!を使うと思いますにゃ
Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] の読みですが、日本語に直すと、 「世界中のどの個体の対x,yをとっても、xはMという属性を 有し、yはmという属性を有し、かつ、xとyは同一である。」 ということになりますが、世界中のどの二つの個体をとっても その二つが同一であるということは、世界にはたったひとつの 個体しかないということを意味する…ように思います。
176せんせ、 >219 u, vは変項と取らず、個体定項ととってください。 「固有名」自体が目下の問題なので、ちょっとややこしい話ですが... >221 次のような例を考えてみましょう。「学生は誰も怠惰である」を Ax[S(x)->L(x)]のような式で表すことは、まあ受け入れていただける でしょうか。ここで、変項xは世界を構成する個体の全てを変域と しますが、このことは個体が全て学生で、また、全て怠惰であること を主張するものではありません(もしそうだとすると、束縛関係を 書き表わすためのalphabetical variationという作業が無意味に なります)。むしろ、「S->L」という主張が成立しているかどうかを 検査するために取り上げうる要素でしょう。 問題の式に戻ると、M(x)&m(y)&(x=y)を満たすある要素と、それとは 異なる(問題にする述語が再帰的関係ならば同じでもよい)要素に関して あまねく上述の主張が成立していればよいのであって、それが成立しな い個体の存在を否定するものではありません。
>「属性Aをもつあらゆるuと属性Bをもつあらゆるvについて、u=v」と >いってもいいです。 あ、この「制限句」の話のところが問題だったかも... 一旦この話は忘れて下さい。個体定項の話なので... 私が混乱してたか...「同定」のところを強調しようとしたのですが 変なことしてた...
224 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/08/04 20:23
10月から矢田部さまの授業を聞いてみよう。
>次のような例を考えてみましょう。「学生は誰も怠惰である」を >Ax[S(x)->L(x)]のような式で表すことは、まあ受け入れていただける >でしょうか。ここで、変項xは世界を構成する個体の全てを変域と >しますが、このことは個体が全て学生で、また、全て怠惰であること >を主張するものではありません 当たり前です。条件節が普遍量化されているんですから。 一方、Ax[S(x)&L(x)]のように、連言節が普遍量化されたら、その意味は、 「世界上のすべての個体は、学生であり、かつ怠惰である」となることは 受け入れていただけるでしょうか。 >問題の式に戻ると、M(x)&m(y)&(x=y)を満たすある要素と、それとは >異なる(問題にする述語が再帰的関係ならば同じでもよい)要素に関して >あまねく上述の主張が成立していればよいのであって、それが成立しな >い個体の存在を否定するものではありません 私は、Axy[M(x)&m(y)&(x=y)]を通常の述語論理の論理式であると 解釈し、Aを普遍量化子と解釈していたのですが、違うのでしょうか?
225の名前欄を間違えてしまいました…。^^;) 誤:47 正:176
>一方、Ax[S(x)&L(x)]のように、連言節が普遍量化されたら、 >その意味は、「世界上のすべての個体は、学生であり、かつ怠惰で >ある」となることは受け入れていただけるでしょうか。 受け入れますが、何故この話がでてくるのでしょうか。 Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] が先験的に真である式ではないことは受け入れますか。 受け入れたとして、ここから Ax[M(x)&m(x)] を導くのは「妥当な推論ではない」ということは受け入れますか。 今度は176せんせに説明を求めたいのですが、 Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] と Ax[M(x)&m(x)] を同一視しておられるようですが、なぜですか。 まさか、 Axy[M(x)&m(y)] とも同じ、なんて言わないですよね。 176さんが個体変項と個体定項の区別がうまくできていない ように見えたので、先に書いたような書き方をしたのですが。 それから、 >当たり前です。条件節が普遍量化されているんですから というのを見ると、個体変項と関数変項の区別もおできにならない ようなのですが、誤解でしょうか。揚げ足取りのようですが、 条件接続詞は普遍量化の作用域内にはありますが、量化されているのは あくまで個体変項であって「->」ではありません。 また、なぜそれが「当たり前」なのかよくわかりませんので、 説明していただけませんか。 あるいは、176せんせが、ご自身の文でいわんとした推論関係に 関して、正しいと思われるものを挙げていただく方が早いかも しれません。
>176せんせい Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] と Ax[M(x)&m(x)] を同一視していらっしゃるようですが、なぜですか。 上から下を導くのは妥当な推論とは言えないと思いますが。 それから、私は176せんせいは形式論理もわかると思って論理式で 書きましたが、レスをみると個体変項と個体定項、個体変項と述語変項、 個体に対する量化と述語に対する量化の区別が実践的な部分で できないのかな、と思って先のようなレスをつけました。 176せんせいの答え方は常に「普通・・・だ」としか言わないので この疑念は未だぬぐい去れません。 てっとり早いのは、形式化が重要だと同意していただき、 176さんに該当部分に論理式をつけていただいて、比較することだと 思います。よしんば私の形式化がまずくても、よい形式化を得て、 先の話に行けると思いますんで。 よろすく。
あ、書き込み失敗だと思って、重複した内容のものを書いてしまい ました。失礼
すみません、少々、私、熱くなってしまったようですね。>こさかなせんせい というわけで、ちょっと冷静になって、お互いの見解の相違について、 整理させていただきたいと思います。 > Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] >が先験的に真である式ではないことは受け入れますか。 恒真ではなく真でも偽でもありうる式であることは受け入れます。 >受け入れたとして、ここから > Ax[M(x)&m(x)] >を導くのは「妥当な推論ではない」ということは受け入れますか。 受け入れます。 >今度は176せんせに説明を求めたいのですが、 > Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] >と > Ax[M(x)&m(x)] >を同一視しておられるようですが、なぜですか。 しておりません。前者には、世界には個体がひとつしかない というentailmentがありますが、後者にはないからです。 >まさか、 > Axy[M(x)&m(y)] >とも同じ、なんて言わないですよね。 もちろん、Axy[M(x)&m(y)&(x=y)]とは違いますが、Ax[M(x)&m(x)]とは どちらも「あらゆる個体はMとmという属性をもつ」という同じ真理条件を もつように思われます。 どうやら、こさかなせんせいと私の見解の相違は、とりあえず、 次の論理式の解釈の相違にあるような気がします。 Axy[x=y] 私は、上の論理式は、「世界には個体がひとつしかない」ことを 意味するものと考えるのですが、こさかなせんせいは、この点に ついては如何お考えでしょうか。
230にひとつ訂正があります。 >>Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] >>が先験的に真である式ではないことは受け入れますか。 >>受け入れたとして、ここから >> Ax[M(x)&m(x)] >>を導くのは「妥当な推論ではない」ということは受け入れますか。 >受け入れます。 と書いたのですが、Axy[M(x)&m(y)&(x=y)]は、Ax[M(x)&m(x)]を 論理的に含意するような気が…。
225のレスのちょっと追加的説明です。 「条件節(連言節)が普遍量化されている」は、 「個体変項を含むところの二つの一項述語が、条件的(連言的)論理的 結合子に結び付けられてできる開放文が、その個体変項に関して普遍量 化されている」と解釈しておくれなんまし。
>どうやら、こさかなせんせいと私の見解の相違は、とりあえず、 >次の論理式の解釈の相違にあるような気がします。 >Axy[x=y] >私は、上の論理式は、「世界には個体がひとつしかない」ことを >意味するものと考えるのですが 私も留保条件付きで同意します。それは、普通仮定されることだとは 思いますが、「同一物は二つとない」という前提を仮定し、 外延性の原理を単純な形で採用する、というものです。しかし、この 前提を採用することは、問題としていた文脈では適切ではなかった のではないでしょうか。もっとも、親切な書き方で行けば、可能世界 の指標をつけるべきだったのかもしれません。 ここで、私は自分で誤解してた部分について告白したいと思います。 176さんがおっしゃっていたAの使い方について、世界の全ての個体が ある属性を持つ、ということを認めていませんでしたが、これは誤り でした。「世界は一つ」という素朴な直観にひきずられていたせい です。ただ、これは176さんが言っていたように連言だけに成り立つ ことではなく、一つの述語でもいいのですね。ところで、こう告白し た上で、付け加えたいのは、世界を構成する個体の全てが、AxM(x)で 主張されているように、ある属性を担うものとして提示されていて、 問題にしている文脈では構わない、ということです。これは、「世界」 というか対象領域を「犯人とおぼしき個体群」に制限されるからです。 完全な合意に達したとは言えないかもしれませんが、では、176さんが これらを確認して進めたい話とは何でしょうか?
>>233 すみません、「留保条件」の部分のところが本当にわからなくて、教えていただき
たいのですが、
そもそも、「同一物は二つとない」というのは、矛盾律のように、あらゆる論理体系に
において、ほとんど絶対的な前提なのではないでしょうか。逆に言えば、「同一物が二
つ以上ある」という論理体系は、どのような論理体系なのでしょうか。
あと、「外延性の原理を単純な形で採用する」とは、どういうことなのでしょうか?
すなわち、「外延性の原理」は、採用することもしないこともできるし、単純な形で
も複雑な形でも採用できるような原理なのでしょうか。(これについては、本当に
無知なものでわからないのです。)
最後に、「この前提を採用することは問題の文脈において適切ではなかった」
とのことですが、「問題の文脈」とは、どのあたりのことを指しておられるの
でしょうか。
>完全な合意に達したとは言えないかもしれませんが、では、176さんが
>これらを確認して進めたい話とは何でしょうか?
すみません、とりあえず、私が219(および221)で書いた下の記述の妥当性について
議論したかったのですが…。
>通常の述語論理だと、Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] は、
>「世界にはMとmという属性を持つひとつの個体しか存在しない」という
>意味になってしまうと思うのですが…。
正直いって、176さんに対して、どこまでを前提として想定して いいのかわかりません。ひとつだけお答えして、後は話の中で 必要な時に答えることにしましょう。 通常、論理学の入門で用いられる命題論理、述語論理は、 初等数論の範囲などを扱うには極めて明確なのですが、我々が 住んでいる世界、我々が考えることなどを扱うには粗すぎる体系と いってよいでしょう(これらの体系に対し、例えば、矛盾律を絶対的な ものとしない体系があります)。 これらの体系では、外延性の原理を単純な形で採用してよく、 おなじ外延をもつ名前は置換可能です(このことは前に触れました)。 しかし、この単純な形、例えば分析的に真な同定関係などに用い られる形は、我々の知識の拡大の様式である総合判断などにはそのまま では適用できません。これについては「明けの明星」を「宵の明星」に 情報価値をかえずに置き換えることができない、という例をあげれば 十分でしょう。このあたりの事情は、176さんがすでに御存じのことを 繰り返しているだけだと思いますけど、一応。 粗い体系、を粗くなくしようとすれば、可能世界、または、 指示スペースなどの装置が必要になってきて、それらにまたがる 同一性は問題で、フラハゲなどの問題もこれらに関わるでしょう。 ラッセルは、それでもなお、というか、様相論理には否定的だった 時代背景などがあって、述語論理のみでその問題を扱おうとしていた のではないかと思います(詳しい事情は知りません)。プリンキピアで 用いられた述語論理の体系にとって、外延性の原理を単純な形で 採用するのは初等数論の基礎付けという目的から言えば当然でしたで しょうが、あらゆる対象についてそうではない、ということはいう までもないでしょう。 それで、234の最後の部分とも関わりますが、176さんは「同定」という のをどのような意味で使っていたのでしょうか。妥当性の議論は それと相対的にしかできない、と思うのですが。 もっとも、176さんが述語論理の構造自体の議論をしたいのなら話は 別です。
235かきながら、私、自分がなに屋なのかわかんなくなってきちゃった っす。ちなみに自称、意味論・文法論屋です。言語哲学は素人なので 普通に入門から学ぶ人が、何を「標準」として学ぶのかは 知らねえっす。機会があったら誰か教えてー。
>235 すみません、突っ込み半分、純粋に教えてほしい半分なのですが…。 >こさかな先生 >いってよいでしょう(これらの体系に対し、例えば、矛盾律を絶対的な >ものとしない体系があります)。 これは純粋に教えていただきたいのですが、排中律を絶対なものとしない 体系ならばわかるのですが、矛盾律を絶対なものとしない体系とは、どの ようなものなのでしょうか。(これは本当に後学のために知りたいので、 具体的な参考文献を教えてくださるだけで結構です。) > しかし、この単純な形、例えば分析的に真な同定関係などに用い >られる形は、我々の知識の拡大の様式である総合判断などにはそのまま >では適用できません。これについては「明けの明星」を「宵の明星」に >情報価値をかえずに置き換えることができない、という例をあげれば >十分でしょう。 「外延性の原理」については、その後、googleで検索して定義を確認いた しました。(手元に意味論関係の本がなかったもので、^^;))で、「外延性の 原理」の定義は、「文(命題)中の概念語を、それと同じ外延をもつ概念語 と入れ替えても、文(命題)の外延である真偽値は変わらない」でいいです よね。ですから、 (a) 明けの明星=宵の明星。 という文の「宵の明星」を同じ外延(指示対象)をもつ「明けの明星」 に置き換えてできる文 (b) 明けの明星=明けの明星。 の真偽値は、(a)と変わることはありませんから、「外延性の原理」は 成立するのですが・・・。(もちろん、(a)と(b)の意味(Sinn, sense) は変わりますし、「太郎は明けの明星が宵の明星だと信じている。」などの 内包的な文脈においては、「外延性の原理」が成立しないのですが。) 「同定」の定義については、また後ほど。
>>235 追伸です。
234の下記の部分は、とりあえず、述語論理の論理式Axy[M(x)&m(y)&(x=y)]
の真理条件的解釈のみを問題にしているとお考えください。
>すみません、とりあえず、私が219(および221)で書いた下の記述の妥当性について
>議論したかったのですが…。
>
>>通常の述語論理だと、Axy[M(x)&m(y)&(x=y)] は、
>>「世界にはMとmという属性を持つひとつの個体しか存在しない」という
>>意味になってしまうと思うのですが…。
>排中律を絶対なものとしない体系ならばわかるのですが、 -(A & -A): exclusion of contradiction -A v --A : by de Morgan's law -A v A: law of excluded middle Q.E.D. >Axy[M(x)&m(y)&(x=y)]は、Ax[M(x)&m(x)]を論理的に含意するような気が… 記号論理の記法を使わなくてもいいですから、導いてみて下さい。 ただしきっと世界に依存する証明方法しか使えないので「論理的に」または 「構文論的に」は証明できないと思いますが。 形式化に対する私の立場は、直観(理論を使わずに到達した認識)を形式化によって 見やすくし、また、隠れた前提を明らかにするために用いる、というものです。 ですから、ここまで私が用いていた形式化は、176さんの話をすすめるために 「同定」に「=」をあて、それから何が明らかになって、何が捉えきれず 言語の領域をこえて規定しなくてはいけないのかが明らかになる、と思った からです。これによって、私が頼っていた世界に対する素朴な先入観が 明らかになって表現の修正の必要性が出たりしましたが、本質的なことは、 176さんが「同定」といっていた過程がどのようなものか、例えば、 分析的に真なのか、単にその存在を規定せざるを得ないのか、などです。 あくまで、176さんが「同定」をどう表現しようとし(それを私が誤読をし) それとの関係で形式化がどうだったか、ということ以外ここでは意味がない と思います。 それを、問題との関連性を無視してあっちこちから定義などをひっぱってきても、 「なぜそうしようとしたのか」を考えなければ無意味です。 意味あることならユクーリ、マターリいきたいのですが、無意味なことは 遠慮させていただき、これにてお暇をいただきとうございます。
>こさかな先生 > -(A & -A): exclusion of contradiction > -A v --A : by de Morgan's law > -A v A: law of excluded middle > Q.E.D. 矛盾律と排中律は、ド・モルガンの法則によってお互いを 論理的に導出できるから、完全に同一視できるということでしょうか。 私は、矛盾律と排中律は、似ているが区別すべきものと思っていました ので、あのように書かせていただきました。これについては、 これから勉強させていただきます。_0_ >>Axy[M(x)&m(y)&(x=y)]は、Ax[M(x)&m(x)]を論理的に含意するような気が… >記号論理の記法を使わなくてもいいですから、導いてみて下さい。 >ただしきっと世界に依存する証明方法しか使えないので「論理的に」 >または 「構文論的に」は証明できないと思いますが。 正直申しまして、論理的な証明の手法については、私はほとんど勉強を さぼってきましたので「出来ません」。私は、前者の式が真であるという 世界においては、後者の式も必ず真であるという単純な直観から「論理的 に含意」する、と書きました。従って、私が証明(のようなもの)をすると したら、どうしても世界との対応に頼って説明になると思います。世界に 依存するならばできるが、構文論的にはできない“証明”についても これから(かなり将来のことになると思いますが)勉強してみたいと 思っています。 どうも、こさかな先生には、ここしばらく、そもそも定記述句の話から離れて、 細かな定義の話とか、論理形式の意味解釈についてばかり質問させていただき、 本当に恐縮しております。ただ、私は、こさかな先生が記号化による議論を持ち 出されてきた213の内容があまり理解できなかったので、先生が213に書かれた 内容を理解しようとして、質問させていただいたつもりですが、どうも、 最初の論点から離れすぎてしまったようですね。ここで、話を戻して、 そもそもの定記述句についての議論について戻すのが、本来ならば、望ましい のでしょうが、私も、どう議論を戻せばよいのかわからなくなってしまいました。(定記述句は、私が持ち出してきた話題ですから、私の方に論点を整理する義務があると思って おります。)という訳でして、先生をここまで議論に引きずりこんで きて本当に申し訳ないのですが、やはり、ここは、一度、この話題についての 議論は打ち切る方が、先生の貴重な御時間を費やさないためにも、むしろ、よいように 思いましたので、定記述句についての話題については、中断したいと思います。 実を申しますと、私は、212で先生が言及された「適切性」という概念について、 もっとお聞きしたかったのですが、それについては、また、いつか、 先生のお考えを聞かせていただければ幸いです。 私は、言語学板は、ちょくちょく覗かせていただきますので、またいつか、 先生に、私めのお相手をしていただければ、と思っています。(「もうこりごり」と おっしゃらないでくださいね。) 長々と、私のような者のお相手をしていただき、先生には本当に感謝しております。 では。 ------- 176
>176さん まあ、またいつかバトルしましょう。 元気であれば、はじめにつっかかってらしたときから がっぷり組んでバトルをしたかったのですが、 なにぶん、先週はじめに倒れてから仕事もやすんでるもので。 いらいらした書き方になってしまって申し訳ないと思います。 きっと気に障ることをたくさん言ってしまったと思いますが、 コメントしないでいるのだけは嫌だったので、ご理解ください。 今は持久力がありません。 ちょくちょくのぞくだけでなく、またネタふりなどもしてみてください。 '176'というコメント番号がいかにして固有名になるか、という こともおもしろいネタかもしれませんね。ではまた。
242 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/08/08 23:52
>>224 教科書はSemantics in Generative Grammarです。(◎へ◎)
Semantic Interpretation in Generative Grammarじゃあないのね。 (まあ、言語学では古典を教科書では使わんか。)
>243 ジャケンダフ板でSemantic Interpretation in Generative Grammarを 後輩に薦めると・・・というお話がありますたね。あげ
ご無沙汰しております。指示問題でずいぶん盛り上がっていたようですね。
最近,An Essay on Contraction(Fuhrmann,A.) をぱらぱら見ていて思ったんですが, あることを知るというこはどういうことなんだと。 Leviの同一性の定義は,T*P=T-¬P+P と定義されていて, つまり,人がある命題Pを認識するとは,その命題Pに矛盾する命題を 破棄して,命題Pを認識するということです。これはTruth Mentenance System(TMS)にも通じているのですが。 それで,ある命題を新たな知識として認識するということですが,「知っている」を 様相論理で単純に表現すると,□P (Pを知っている) です。 知識がアプリオリ云々の議論は,デカルト,ライプニッツ,カント,... と,今なお現在に至るまで哲学の大問題で,ここでは深入りしませんが, そういうことはさて置いて,この□Pでは,知識であることは示していても, 知識獲得の動的な側面が記述されていません。 知識が,証明された命題か公理か固有公理のいずれかであるとして, 知識を獲得する過程はどうなっているのかと考えると, T*P を□Pと解釈すると,知ることとは T,P├ であるのでしょうか。 但し知識の状態はもともと T,¬P├ かT,P├ かT├ の3通りがあり得るわけで, Pではないと思う,Pなんて知っておる,Pとは何ぞやという認識状態 に対応すると思うわけです。 言語学的な関心からすると,命題Pの指示が充足された場合,これをP'とすると, P'に対する解釈として認識するわけですが,これが,TMS的に上記認識状態に 対してどう対応するのかということが問題というわけです。 認識状態として上記の3つの他に T,¬P,P├ という認識状態も認めて しまおうというのもあって,これは古典論理的には矛盾してしまうのですが, 矛盾を解消する機能を導入して,整合性を動的に保つためのシステムというのが あります。ちなみに,この精神状態はPなのかどうか確信はないのですが,と いった感じでしょうか。 久しぶりのネタふりにならないようなネタでした。
すいません。Truth Maintenance System です。
ああ、老師、老師、老師! おひさしゅうございますう! 私はしばらく過労&諸々の病気でダウンしておったのですが、 老師のお声を拝聴して、元気がもりかえしましたです! >言語学的な関心からすると,命題Pの指示が充足された場合, >これをP'とすると, P'に対する解釈として認識するわけですが, >これが,TMS的に上記認識状態に 対してどう対応するのかということ 今、自宅からつないでいるもんで正確に言えないのですが、 サールのcommunicative intensionをbelieve, knowという演算子を使い、 かつ、様相論理のシステムのように多重なものをどう定義するか (演算子のreductionをどのように認めるか)で 説明的理論を構築しようとするものがKuroda氏のL&Pの論文で ありました。これは猿の論文のあるpassageを形式化して、いくつかの 体系の中で意味をなし得る、というものだったと思うのですが、 最近の知識状態の理論とどう絡むか、ということを考えると おもしろいかもしれませんね。職場でその論文をさがしてみて、 再度かきこしたいと思います。 いずれにせよ、老師、おひさしう! 176さんも、おいで!老師にご紹介してさしあげたいので。
こさかな先生 どうもご無沙汰しております。 発話行為の形式化では,なおさら認識と信念,共通知識の 扱いは大変そうです。ご指摘の論文は知りませんです。 談話=データベース=知識=共通信念 みたいな捉え方では, 発話行為へのコミットは重要な問題です。 知識状態の理論は,少し前まで論理系の人工知能研究の主流でした。 Default推論とか,非単調推論とか...,形式知,暗黙知等々。 AIということばは,ずいぶんと薄らいでしまいましたが, 言語学的には,文法の知識がアプリオリかどうかというメタな議論にも 関連するかもしれませんね。
老師、 248でふれた論文は Kuroda, S.-Y. 1986. A Formal Theory of Speech Act, L&P 9: 495-524. Kuroda, S.-Y. 1989. An Explanatory Theory of Communicative Intentions, L&P 12: 655-681. でした。なんか知ったかこいて、嘘かいてしまったような... 読み直して、ちゃんと理解したらカキコしますです。 近年、石崎雅人・伝康晴『談話と対話』(言語と計算3)という入門書も出ているの でちゃんと勉強しなきゃなー、と思いつつ、Truth Maintenance Systemも 知らない有り様です。 老師におねだりしつつ、マタリとやれればな、と思いますです。 ところで、ちょっとつなげてみます。「知る」ということについて >つまり,人がある命題Pを認識するとは,その命題Pに矛盾する命題を >破棄して,命題Pを認識するということです このあとの部分をよーく読んで理解してから書くべきなんでしょうが、 とりあえず思い付いたことを発作的に。 「知る」ということの動的な側面に目を向けると、確かに老師が 書いて下さったようなことが本質的だと、私も思います。ここで前から 思ってたことなんですが、「知る」ということが成立するために、 あらかじめ存在する、新たに導入される命題と矛盾するような命題というのは 空であってもいいのでしょうかねー 老師が書いてた「Pとは何ぞや」という知識状態が、「知る」という状態の 入り口なのか、それともそれとは全く関係がない時の状態なのか、ということで 違ってくるかも知れませんが、Pなんてそもそもなかったぜ、という状態が 老師の三つ目のものになるか、またはあらたな、四つ目のものになるのか。 いずれにせよ全くPは存在していなかったとして、まったくの思い付き程度 なのですが、「知る」ということをある心の中の計算とすると、 全然経験的な議論が伴っていないのですが、「知る」という心の計算では、 あらかじめ何も存在しないところに「知る」という計算の発動時にダミーの 命題を導入して、そこで矛盾を敢て引き起こして、所与の命題を導入する、 ということがあってもいいような気がします。 ああ、これってすげー厨房くさいですが・・・
T├ の場合は,実は「Pではない」ではなく,その存在すら知らないのです。 というか,「知らないことも知らない」のです。 これを単純に翻訳すると,¬□¬□P になってしまうんですね。これは通常, ◇□P と同値になってしまうので,これを防ぐ手立てが欲しいところです。 また,「Pではない」 だと,Pを認識し,かつPを否定していることになってしまいます。 ここら辺は,「知っている」の定義と逆に,「知らない」の定義を考えると,「認識する」 ことの理解に繋がるかもしれません。または,述語論理にして分析すると興味深い かもしれません。 P(x) を知らないとは,P(x)なのか¬P(x)なのか分からないという場合と, x 自体の存在が不明な場合があり得えます。 ちょっと,特殊な例では, If she supports Bill, he admires Suzie. では,she=Suzie ですが,解析中の状態では,supports(?,Bill) の状態が あり得るわけです。 そのとき,supports(?,Bill)は,真でも偽でもない未定義な状態というか, 真偽値的に不安定な状態にあるわけです。 また,違う例では,UFOを目撃した。といったら, それを聞いた人は UFO(x) をどう解釈するのかということもあるでしょう。 こうなると,◇∃x( UFO(x) ) のようになるのかとか,いろいろ話が広がるわけです。
ストローソンのラッセル批判を考慮してください。
老師、 >¬□¬□P になってしまうんですね。これは通常,◇□P と同値になってしまうので 様相論理のNEG raisingではそうにゃるんでしょうけど、動的なモデルでシンプルに それが引き継がれてしまうんでしょうかにゃ。述語論理の¬∀¬∀も動的モデルでは そのまま∃∀というわけにはいかなそう・・・とか、適当なこと思ってますにゃ。 これは存在量化を動的な過程の中で個体の導入とみなして、なんすけど、 動的モデルでは導入の仕方が違えば等価にならない、ということにはならないんです かにゃ。空想でものを言ってるだけで申し訳ないんですにゃが、だとすると老師が >これを防ぐ手立てが欲しいところです は自動的に導かれる気がしましたにゃ。 >P(x) を知らないとは,P(x)なのか¬P(x)なのか分からないという場合と, >x 自体の存在が不明な場合があり得えます にゃるほど・・・ぼんやりとは想像したりしますたけど、このようにはっきり 表現が与えられると新たな課題だにゃ、と感じます。「知る」という語の 語彙的意味、ということと、概ねどの言語でも「知る」によって指し示される 過程ということの差に自覚的になる必要も前に増してでてくるんでしょうけど、 後者に関心を限った場合、老師がおっしゃったような心的過程の表し分けは さらにどのような原始概念で特徴付けられるのか、ということはそそられますにゃ。 大きすぎる問題なのかもしれないですけどにゃ。 >252 >ストローソンのラッセル批判を考慮してください 不勉強で全然知らないですにゃ。よろしかったら説明キボンですにゃ。
素人質問で申し訳ないんですが、 モダリティの表現って、どのようなものなのでしょうか? 語の意味とか、文の意味とか。 なんだか、質問したいことが言えてない。 例えば、 may1 [ x, possibility 50% ] xの可能性50%。 かもしれない(馬鹿(私)) or 馬鹿(私、かもしれない) 私は馬鹿かもしれない。 なんだか、ますます遠ざかったんですが、要するにモダリティ表現全般を、 限られた材料で説明できないかな、と。それも、いくつかの言語を。 あー、やっぱりわけわからん
こちらで勝手に問題を抜き出して答えてみます。 >モダリティの表現って、どのようなものなのでしょうか? いわゆる日本語学とかいわれるグループでモダリティと呼ぶもの についてはわかりません。もとの用法を離れて自由な使われ方を しているみたいですので。 英語では助動詞の意味的性質のことで、根源的法性としての 能力、許可など、認識的法性としての可能性などが挙げられると 思います。また、助動詞の意味に深く関係を持っているような 副詞の性質についても使う事があるとおもいます。 >要するにモダリティ表現全般を、 限られた材料で説明できないかな 可能世界、世界観の接近可能性、存在量化、普遍量化というような 原始概念に基づいて説明する試みは行われていると思います。 でも、私見ですが、可能性が多いvs.少ないというような ものは原始概念として説明できることが少ないと思います。
>>255 どうもありがとうございました。門外のことなんで、ゆっくり理解していこうかと思います。
ってゆーか、今読んでる入門書の中に可能世界とか書いてあった。
形式意味論の章が面倒っぽかったので読み飛ばしていた。
◇馬鹿(私)
257 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/09/15 06:45
意味論スレですよね。形式意味論だけが意味論ではないと思いますし、 モダリティーの話のついでに。 Talmyはモダリティーについて独自の面白い分析をしてるんだけど、 あれは日本語とか他の言語ではあてはまるのかな?
257さん、 もちろん、「意味論」の話ならなんでもいいとおもいますぜ。 1さんが「形式意味論の...」とはじめたのでなんか形式意味論つながり が多くなってますが、そもそも1さんの質問もとうの昔に 忘れられてるし... informalな議論をマターリやるほうがそれがしは好きなんですが、 贅言を費やすより形式化した方が一発で表現できる場合はそちらも つかいたい、という気持ちです。Len Talmyは不勉強で... もしよろしければ英語の法要素の扱い、紹介してください(ぺこーり Palmerを読み返して、modalとmodalityのちゃんとした定義も いずれ書いていきたいでちゅ 老師へ、私の力不足で「知る」の方は発展させられませんでした。 すまそーん。
>>252 これか。
http://www3.justnet.ne.jp/~e00859/REGIM131.HTM 固有名詞や確定記述を主語とした日常の文について、その指示対象が存在するということは、意味論的な前提でなく、語用論的前提であると主張する哲学者(P.ストローソン)もいる。
例: 「1920年代にノーベル文学賞を受けたあの日本人小説家は自殺した。」
B∃x(Fx∧∀y(Fy⊃(x=y))∧Sx)
↑「次のようなxがある。すなわち、xはF(1060年代にノーベル文学賞を受賞した日本人小説家)であり、いかなるyもFであればxと同一であり、しかもそのxはSである(=自殺した)」
P.ストローソンは、確定記述の該当する人物がいないので、真でも偽でもないと考える。これに対し、B.ラッセルは、この文は「無意味」とは考えられず、無意味でないなら真か偽のどちらかであると考える。
ありがとございます。でもこれだとがいしゅつのはずなんだけど。
ごめんにゃい、説明っぱしょってますた。
>>181 、およびそれに続くコメントで、「東京特許許可局は東京にある」が
真か偽か、ということに関して176はんが言ってること、っつーことで
ガイシュツですた。
「知る」ということはどういうことか、ということに関して、
微妙に名前と、その外延の同定ということが関わってきたから
どなたかが「ストロウソンを」と言ったようなんですが、
ガイシュツ部分と、調べて下さった部分(本質的に同じ事だと思いますが)
をぶつけてみると、真意が計りかねるところがあったもんで、
きっとそれ以外のふか〜い意味があるにちがいない、と想像していたのです。
説明不足の上の発言は、こんなことを思いながら発してしまった、
公共性に欠けるものでした。日光にいって猿と一緒に反省してきます。
いま思えば、名前とその指示物の同定の問題は、老師がふってくだすった
「知る」の問題ともリンクして興味深い問題だったのですが、こさかなの
力不足で引っ張れませんでした。こちらも反省し、これからがんばりまっす。
176しゃーん、カムビャーク!
263 :
ゝ゜)っ 〜〜< :02/09/15 20:10
>255 ちょっとレスの順番があべこべになってしまいましたが、 ゲーデルがお母さんにしたアドバイス「最初は小説を読むように 読んで下さい。それから、注意して読み返して下さい」とか、 老師に教えてもらった集合論の本に書いてあった「式がでてきたら ゆくーり読むようにしてください」がフォーマルなものを 読むこつかもしれません。 恩師によく言われたのですが、「論旨に必要な以上に形式的なものを だして読者をひかせてはならない」ということ、私自身まもっている 自身がないのですが、骨子に関係なさそうな形式化はpedantiqueな だけです。そう思って衒学的なとこにはばってんをつけながら 読む気になれば気が楽ではないでしょうか。 ただし人間、自分が理解できない部分にはたいしたことは書いてない と思ってしまいがちなので注意が必要ですが。
ストローソンの批判が正しければ、 ラッセル流の理論は意味論でないものを意味論として論じてることになるな。 ってことで、語用論スレッド希望。
>264 そういえばないですね。誰かたてないかなー
266 :
(´∀`) :02/09/19 22:42
乱入するにゃ。意味論的前提か語用論的前提か、をどう区別するのかも難しいにゃが、 そういう対比ではにゃく、前提か主張かの違い、と考えたらだめなのかにゃ。 これこれが唯一的に存在する&そのこれこれは〜、ってな具合に唯一的存在自体も 主張の一部と見れば、当然この命題は偽になる、とかにゃ。的はずれにゃらすんまそ。
267 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/09/20 19:04
>>266 的外れです。
>唯一的存在自体も 主張の一部と見れば
その「主張」についても「前提」が生じるわけで、
それでは無限後退を招くだけです。
268 :
(´∀`) :02/09/20 20:39
その前提がずっと確定記述に関わるものの繰り返しにゃら、そうですにゃ。 しかしたとえばThe dog died.がthere exists a uniquely identifiable dogという 主張を含む、と考えれば確定記述の前提の問題は解消されてると思うにゃが。 もちょっと解説おながいしますにゃ。
わたすもおねがいするですにゃ。 今日もよっぱらいですにゃ。 267さん、よろすく。
>>268 そもそも
>>259 の引くストローソンは「確定記述の該当する人物がいない」場合を問題にしてる。
分析哲学の有名な例文――「現在のフランス王は禿だ」。
この文が「現在のフランス王が唯一的に存在する」って主張を含むことになるの?
さらにその「現在のフランス王が唯一的に存在する」自体を例文としても、
何かフィクション(小説)の中では「現在のフランス王」が存在するかもしれない
(“there exists 〜”のthereとはどこかによって真とも偽ともなる)。
つまりそれはやはり語用論的前提に属す問題となるでしょ。
>>267 >的外れです。
たぶん的外れです。
>その「主張」についても「前提」が生じるわけで、
>それでは無限後退を招くだけです。
唯一的存在を主張する文に対しては、どのような前提が必要されるというの
でしょうか。(半分質問、半分反語)
>>271 主張:Aは唯一的に存在する。
前提:Aとは何を指すか
>>271 >分析哲学の有名な例文――「現在のフランス王は禿だ」。
>この文が「現在のフランス王が唯一的に存在する」って主張を含むことになるの?
ラッセルは、だいたい、そのように考えているわけですね。
>さらにその「現在のフランス王が唯一的に存在する」自体を例文としても、
>何かフィクション(小説)の中では「現在のフランス王」が存在するかもしれない
>(“there exists 〜”のthereとはどこかによって真とも偽ともなる)。
>つまりそれはやはり語用論的前提に属す問題となるでしょ。
なぜ「つまり」なのかがわかりませんが、ストローソンは、問題の文において、
フランス王が唯一的に存在するというのは、この文の発話において前提されて
いることであると考えているわけですね。
で、あなたは、何が言いたいのですか?
>>272 でしたら、「Aとは何を指すか」という前提は、どのような無限後退を生じさせ、
また、もし無限後退を生じさせるのなら、それはどのような問題を生じさせるの
でしょうか。(267=272と仮定しての質問)
276 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/09/21 16:07
>>273 あなたが何にひっかかってるのかどうもよくわかりませんが……。
語用論と意味論とで範疇が異なることはおわかりなんですよね?
例を挙げれば、クリプキが提出した「London/Londresのパズル」に対しては
発話の状況(語用論的前提)を考慮しないで
意味論的値が同一か否か(命題の真偽)を問題にしても始まらないでしょ?
277 :
(´∀`) :02/09/21 17:15
話しがこんがらがってるにゃ……
俺がいいたかったことは単純で、ほぼ
>>273 の
>ラッセルは、だいたい、そのように考えている
で言い尽くされてるけどにゃ。それが成り立たなければ命題が偽になるというにゃら、
それは命題の一部なのであって前提ではないだろう、ということにゃ。
それから前提が語用論的なものか意味論的なものか、の違いが命題が真理値を持つか
どうかに対応する、ってのもよく分からん話しにゃ。語用論的前提が満たされていな
ければ、発話として不適切なものになるだけで命題としての真理値を奪うことには
ならないと思うんだけどにゃ。
>>270 >“there exists 〜”のthereとはどこかによって真とも偽ともなる
there自体は虚辞にゃからどこも指さないんだけどにゃ、言いたいことは分かるにゃ。
つまり「どこか」とはin the relevant universe of discourseということで、そういう
談話世界が話者・聴者によって共有されているというのが語用論的前提にゃ。で、
そんな世界がなければ聴者は( ゚Д゚)ハァ?となるだけで、これは命題に真理値がないから
ではなく聴者に真理値を確かめる術がないということではないですかにゃ。
たとえば「太郎が退院したよ」ー「太郎って誰?」てな場合にも、「太郎が退院した」
という命題には真理値がないってことでいいのかにゃ?
>>276 「命題の真偽」が「発話の状況」に依存することの例として、わざわざ
クリプキのパズルを持ち出す必要があるのでしょうか?
>>277 >前提が語用論的なものか意味論的なものか、の違いが命題が真理値を持つか
>どうかに対応する
え、どこからそんなテーゼが出てきたの?
語用論って真偽ではなく適不適に関するもののはずだよね。
だから、
>それが成り立たなければ命題が偽になるというにゃら
と仮定するのもなんかヘン。命題の真偽とは別問題、関係無かっぺ。
280 :
(´∀`) :02/09/21 17:50
>>279 >どこからそんなテーゼが出てきたの?
259の引用の
>……語用論的前提であると主張する哲学者(P.ストローソン)
>P.ストローソンは……真でも偽でもないと考える
ですにゃ。259自体がどこかヘンなのかにゃ。
>>それが成り立たなければ命題が偽になるというにゃら
>と仮定するのもなんかヘン。
仮定ではなくラッセルの解釈ですにゃ。だからラッセルは前提ではなく主張と
いいたかったのではないか、と。
>命題の真偽とは別問題、関係無かっぺ
語用論的前提ならそのはずだ、と俺も言ってるわけですがにゃ。
あのお、話を戻すようで悪いのですが、意味論的前提と語用論的前提の違い って、何でしたっけ。どなたか定義していただけると有難いのですが。
>>277 >それが成り立たなければ命題が偽になるというにゃら、
>それは命題の一部なのであって前提ではないだろう、ということにゃ。
三段論法:
大前提「人間はみな死ぬ」
小前提「ソクラテスは人間である」
結論「ソクラテスは死ぬ」
この最後の命題「ソクラテスは死ぬ」について見た場合、
「人間はみな死ぬ」「ソクラテスは人間である」までもが
「命題の一部なのであって前提ではない」のですか?
それはちょっと……
>>278 いま問題なのは「固有名詞や確定記述を主語とした日常の文」(
>>259 )でしょ。
『名指しと必然性』で固有名詞や確定記述を論じたクリプキが参照されるのは
当然な気がしますけど。
284 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/09/21 18:08
>>282 三段論法の「前提」は premise、「フラ禿げ」文において問題にされる「前提」は
presupposition。訳語は同じでも、意味するところは、ぜんぜん違う。
>>283 けど、この議論の文脈では、特に「クリプキのパズル」を持ち出してくる必
要はないのでは?
286 :
(´∀`) :02/09/21 18:15
>>282 「前提」違いと思われ。三段論法のはむしろ含意(entailment)の関係かにゃ。
ソクラテスが死んでもソクラテスが人間であることは言えないですからにゃ。
にゃはは……かぶった
わー、ちょっと見てない間にイパーイかきこみが。 全部ちゃんと読んでないですが、282さんのところにちょっと コメント。横レスぎみかもしれませんにゃが... 「そんなのしってるわい!」って言われるのを承知で書きますが、 「前提」と日本語で言うときに、対応する英語の用語には "premise"と"pressuposition"の二個がありますよね。一応、今のところの 大きな流れで問題になっているのは"presupposition"ですね。一応この区別を 頭の片隅におきながらいくと、三段論法のひとつ、モドゥス・ポネンスが 妥当な推論であるためには、282さんが大前提、小前提が結論を分析的に 考えた場合に結論に含まれているようなものでなければなりませんにゃ。 結論を分析的に言うと、 「人間であるソクラテスは、皆死ぬという人間の一である」 で、この意味で、premiseは全て構成要素となっており、そうでなければ 妥当な推論とは言えないですにゃ。 "presupposition"という場合、結論に含まれる要素命題が真である、 という仮定なので、命題の一部といおうと思えばいえますにゃ。 ただし、これは論理的に妥当な推論で導かれた結論で、この結論自体は 経験的基盤ははじめにはもっていなかったわけですにゃ。 これを、結論と同じ命題を推論なしに、経験的に真だと確かめたとか、 真だと主張する場合、その命題を分析して得られる要素命題は presuppositionである、とは言えますが、三段論法を使ってないので premiseではない、と言ってかまわないと思いますにゃ。 ちょっとくどかったですにゃ。すまそです。
うー、すでにいろんな方が答えてらしたあとにかぶってしまって はすかしー。ご容赦を。 >281 意味論的前提と語用論的前提の違い ちゃんとした定義ではないのですが、 meaning - truth conditional semantics = pragmatics という関係を参考にするといいかにゃーって思ってみたり見なかったり
>>288 >含意と前提を分けて述べる
のがフツーにゃが。P entails Q にゃらQが真でもそこからPの真理値に
ついてはなにも導出できないですにゃ。
一方、Q presupposes PにゃらQの真偽にかかわらずPは真にゃ。
>>291 >一方、Q presupposes PにゃらQの真偽にかかわらずPは真にゃ。
!?
勝手に、ちょっとだけ無限後退の話にもどります。
無限後退がおこるような場合の一般的ひな形は
F(x) & x=F(x)
だと思います。その代表はラッセルの逆理で、また、(ちょっと自信ないです
が)antecedent contained deletionで問題になるantecedent-containmentも
この形です。相互知識に関しての無限後退もこのように形式化されるはず
です。
たぶん、一般に無限後退というとき、上述のひな形をイメージすると
思うので、もし「どこそこに無限後退がある」というときにはこのひな形が
普通想定されるものとして、ある種の無限後退をこの形式に従わない、新たな
型のものだと主張する場合、ちょっと説明する親切心が必要になりますね。
>>267 さんが、「前提」に関して無限後退がある、と指摘する点について
考えてみると、それ以上の説明がないことから、まあ普通みんなが想定する
もんだよ、という種のものだ、ということなのでしょう。
しかし、ではどのようなものなのでしょう。例えば、
1 ソクラテスが食あたりになった
では、
2 ソクラテスが存在する
を前提とする、とよしんば言ったとしても、あえていうと、
私には、ここには無限後退のパタンは見い出せるとは思えません。
想像するに、「無限後退」ということで表現したかったのは、
「ソクラテスは人間だ」とか、「人間はほ乳類だ」とかいったクラス概念の
包摂関係のことではないかと思いますが、まあ、これにしても、通常
無限後退を防止するのに苦心するような事態はおこらず、どこかで
うち止めになる話でしょう。実際の意図はどのあたりに
あったのかは定かではありませんが...
ところで、 どこかに丸い三角形がある という、ハのない文と その三角形は丸い というハがある文では、前提との絡みは変わってくるんでしょうかねー
>>295 たぶん、変わってくると思います。一般にpresuppositionは、topicality
にsensitiveな現象であると思いますし、実際、Strawsonも、そのことに
ついて言及していたように思います。
297 :
(´∀`) :02/09/21 21:07
以前にrestricted Q/nonrestricted Qの話しをした時に、restriction = 前提 ということが出てきたにゃ。every unicorn dies young で Ax(x=unicorn)(x dies young) にゃらunicornの存在は前提であり、 Ax( unicorn(x) → x dies young)にゃら違う、ってな具合にゃ。 後者の場合、unicornが実在しなくても命題としては真ですがにゃ。 ところで生成的にはこのrestrictive clauseかnuclear scopeかの違いは統語構造上の 違いに他ならないですにゃ。たとえばRCはIP、NSはVP、みたいににゃ(Deising)。 もし「ハ」が前提、「ガ」が非前提であれば、そのまま「ハ」はIPレベル、「ガ」は VPレベルの要素ってなことになって面白いですにゃ ……と、無理やりsyntaxに話しをもっていく罠ゃ
(Diesing)
>297 にゃるほど・・・(久振
>296 たぶん、一般的に理解されている概念としての「トピック」とか 「主題」は、談話進行上のgiven informationと深いかかわりがある から、ということになるんでしょうね。Strawsonが言及している、 というのは勉強になりますた >297-298 もしハが目的語かつcontrastiveでin situだとすると、mapping hypothesisから予測されるのはnuclear scopeへの写像、となって、 存在前提は必要ない、ということになりますよね・・・ とかいって、データにふれずに空想してみますたが、 面白そうですばい
>>297 >unicornが実在しなくても命題としては真
ああ、ラッセルとは異なる見方に立つのね。ナルホド。
>>294 その「ソクラテスが存在する」のソクラテスってナニ?――となりませんか。
結局、固有名は確定記述の束に還元しきれない(クリプキが『名指しと必然性』)。
>>292 勘違いしてますにゃ。
>Q presupposes PにゃらQの真偽にかかわらずPは真
は前提の論理定義、
>unicornが実在しなくても命題としては真
はnonrestricted quantification(非前提読み)による全称命題の解釈、
この二つは独立した別個の問題にゃ。
>294 無限後退はまねかない、という話がしたいんでしょうか。 それともそれ以外の話がしたいんでしょうか。 「ソクラテスってナニ?」に答えたあと、その答えAに対して 「Aってナニ?」と問い続けることが可能だ、というわけでしょうか。 そして確定記述に依存しないregid designatorの理論は この問題を引き起こさないと。そういう話なんですか? もう少し詳しく説明してくれないとわからんです。 詳細な説明をよろすく。
あ、カオモジせんせ、あさはやいっすねー
>>297 Diesingはstage-level predicateではspatio-temporal argumentがSpec, IP位置にリンクされるから、
主語はSpec, VPに規定生成すると論じていましたが、主語は結局、Spec, IPにあがるのですが、spatio-temporal
argumentはどうなってしまうんですか?
307 :
>^ ) ------< <> :02/09/23 21:41
age
308 :
(´∀`) :02/09/24 08:09
ちなみに307は私ではありません。
あぼーん
311 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/09/29 10:05
de dicto vs. de re reading rise!
312 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/09/29 10:16
What is de se reading?
de se = of itself? なんて適当なこと言ってないで、どっかからさがしてきま〜す
>de se = of itself これはあってるにゃん。 内包的同一性との関係についても調べてホスィにゃん
de seを調べてみますた。わかりませんですた。 かおもじせんせの「内包的同一性」との関係もわかりませんですた。 僕はへたれっす・・・
Oshimaさんという方の2000年の論文のabstractをひらって ながめていたら 太郎-iは[自分-iが優秀だと]思っている という文で、仮に太郎が「あっしはメンデルだ」としんじきっていたときに、 この文が真となるような読みでの「自分」の解釈がde se解釈、とありますた。 で、この解釈は「自分」がlogophoricに使われている時のde dicto解釈の subcaseとしてますたが、なんとなく、内包文脈できわだつ、 指示のありようっつー感じはつかめたのですが、そもそも元は どんなところで使われていることばなのか、また、はっきりした 意味はわかんなかったっす。やっぱり私はへたれ・・・
資料がないので、適当に考えてみました。 Bill believes that he is the President of U.S.A. この文で、he=Billの読みが、de se readingとか。 でも、これじゃあ、たぶんde re readingの一種にすぎないから、わざわざ 特別な読みとするほどのものでもないかなあ。
>>317 詳しいことは忘れましたが、おっしゃる通り
de se は de re の一種だと思います。です
から、人によっては de se そのものを認め
ない人もいるようです。
316によると、de se解釈は「de dicto解釈のsubcase」とありますが、 317&318によると、de seは「de re readingの一種」とありますね。 どっちが正しい?
320 :
(´∀`) :02/10/02 19:18
de dicto vs. ( de re vs. de se ) ではないのかにゃ。 > 太郎-iは[自分-iが優秀だと]思っている >という文で、仮に太郎が「あっしはメンデルだ」としんじきっていたときに、 >この文が真となるような読みでの「自分」の解釈がde se解釈 分かったようで分からにゃい書き方してるにゃー、その人。 察するに、太郎が「メンデルは偉い」と思っていて、実は自分がメンデルに他 ならないことを太郎自身が自覚していればde se、そうでなければde re、 と言いたいのではないかにゃ。 メーテルは999にゃ、関係ないけどにゃ
321 :
(´∀`) :02/10/02 19:21
obligatory control PROがde se読みしかない、というのを最近、HornsteinやLandau が取り上げてるにゃ。 1) The unfortunate expects to get a medal. 2) The unfortunate expects that he will get a medal. 記憶を失った負傷兵が、自分のこととは知らずに「この英雄は勲章もんだ」と思っている時、 2)は言えても1)は言えんにゃ。この例自体は大昔にCLSかなんかで誰かが出してたにゃ もう一つ有名な例が、レイコフが出した夢の中で別人になった自分が元の自分にキスをする という話しで、I dreamt that I was B.B. and that I kissed me. というようなケースにゃ。 BBが誰のことか分かる人は若くないにゃ(w 昔クイズ番組で、「CCといえばクラウディア・カルディナーレ、ではBBといえば?」 と訊かれ、「ボボ・ブラジル!」と答えた人がいたそうにゃ……(;´Д`)
322 :
19(312) :02/10/02 19:36
The unfortunate expects PRO to get a medal.のPROが de se readingで The unfortunate believes that PRO getting a medal would be boring.のPROはnon de se readingだそうです。 (Hornstein 1999)
B.B.=B.B.King?
メーテル・スペース、もといメンタル・スペースの議論などに でてた(とおもう)次のような場合も、de se r.に なるのかな? よど号犯が、ドラマでよど号犯に扮した役者がうまく 平壌に辿り着いたのを見て よど号犯らは自分たちがたたえられると思った という場合の「自分」の解釈。英語では The criminals expected PRO to be praised. はいえるですかにゃ・・・
>>323 こさかなしゃん、若いにゃ……
(BBは女優にゃ、BBキングやボボ・ブラジルにはキスされたくないにゃ……)
326 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/10/03 01:59
ブリジット・ジョーンズの日記
327 :
(´∀`) :02/10/03 02:13
>>324 その場合はde se/de reとは話しが違うのかも知れにゃいが、
The criminals expected themselves to be praised.
となりそうな予感にゃ。正解たのむにゃ。
関連するかも知れんにゃが、
Who wants to leave? - John wants to leave.
Who does John want to leave? - John wants himself/*PRO to leave.
ってのもあるにゃ。あと、
John enjoys singing/ John enjoys his singing
の違いとかにゃ。
またまた脱線にゃが、よど号乗っ取りグループの中には俺の高校時代の先輩が
混ざってたらしいにゃ……(;´Д`)
328 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/10/03 04:03
>I dreamt that I was B.B. and that I kissed me. レイコフが使っていたけど、そもそもこれはMcCawleyが 言い出した例のハズなんだが、誰か文献分かる人いる? 俺の高校の先輩にはオウムの実行犯がいたような気が。。。
えーと、えーと、まだde seの定義をしることができるような文献に 出会ってないんで、ここまでの話から想像してみると、 de se readingとは 1. ある節の代用子、照応子(名前も?)が、その節の命題を信念内容として持つ 人と同一の指標が与えられている 2. 代用子、照応子が指す人は信念内容を持つ人と、現実世界に照らして 同一かどうかは問題にしない っつー感じのものでしょうか。 de seとして問題になるのは、2.のうちの現実に照らして同一でない場合で、 Obligatory Controlを同一名詞句削除変換的な考え方をして X, YをX≠Yであるような名前とし、 [[X] expect [[Y] VP] → [[X] expect [[e] VP] という、非同一性のもとでの削除が起こっているようなバヤイ、ということ になるかにゃーと想像しますた。ただ、これまで挙がっているHornsteinの話では 現実に照らした同一性は特に問題ではなくて、OCにnon de se readingが不可能、 ということが重要、ってことですよね。 なんか自信はないす。修正おたのみもうします(ぺこり
330 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/10/03 11:10
>>329 1はわかるのですが、2がよくわかりません。二つの指示表現に同一の指標が
与えられているのに、その指示する対象が現実世界において異なるということ
がありうるのでしょうか。
>19(312)さん、 >The unfortunate believes that PRO getting a medal >would be boring.のPROはnon de se readingだそうです。 non de se readingのみ可能、ということっすか?それとも de seとnon de seの両方が可能ってことっすか? >327、328 こわい先輩をおもちで・・・
>330 いや、そこがまさに今 de se readingということでとりあげてる ことっすよん。 McCawley-Lakoff文(?) >I dreamt that I was B.B. and that I kissed me. で、「私」は現実世界でBB(BB弾?)ではないわけで、それが夢の中という 内包文脈で「私=BB」とされているときに、"I kissed me"の "BB"が夢を見ている人と同一指示になっていて"I"が使われている、ってことだと おもうっす。 同じ文の"me"の方はde re readingになるはずっす。
BB=ブリジット・バルドーにスーパーひとしくん人形!
むかしワインの本で「50年もののワインとはB.B.である」というのが あって???だったっすけど、今意味がわかったっす。
今まで読ませてもらった部分を参考にして、de re解釈、de dicto解釈、 de se解釈の違いについて適当にまとめてみました。 "X believe(s) that ...A..."のような信念文において、その信念内容を 表す文に含まれる指示表現Aが、de re解釈、de dicto解釈、de se解釈を 持つのは、それぞれ、以下のような場合である。 de re解釈: Aの指示対象のみがXの信念内容の構成要素となっている場合 de dicto解釈: Aの指示対象だけではなく、Aの表現内容もXの信念内容の構成要素である場合 de se解釈: Aの指示対象が信念の主体Xと同一であり、その同一であることもXの信念内容 の構成要素である場合 もし、上記の定義が正しいとすると、de se解釈は、信念内容の中に信念主体 との同一性も含まれているという点において、やはりde dicto解釈に近いと いうべきなのですかね。
336 :
(´∀`) :02/10/03 19:47
>>333 正解!(BBは「ベベ」と読むにゃ)
>>331 そこが問題ですにゃ。Hornstein読む限り、nonobligatory control にはde seはない、
とは言ってないようにゃが。
どうも人によって用語が一致してないフシもあるにゃが、次のような記述もあるにゃ。
... the mechanism of variable binding does not distinguish de se from de re interpretations.
Thus both (7a) ... and (7b) ... contain at LF the abstract in (7c) ... yet (7b) supports a
de re reading, whereas (7a) doe s not
(7) a. John hopes to win.
b. Everyonei hopes that hei will win.
c. Lx, x hopes that x will win
(I. Landau, Elements of Control)
ここでも(7b)にはde seもあるのかどうか、はっきりせんにゃ。あるはずだと思うけどにゃ。
>>335 >その同一であることもXの信念内容
これだけだと I want PRO/myself to win の区別がつかんにゃ。「内包的同一性」という
言い方が適切かどうか分からんけどにゃ、myselfの場合には距離をおいて自分を見ている
のに対し、PROにはそれがない、というビミョーな違いが重要なのだと思うんだけどにゃー
337 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/10/04 11:34
>>336 >これだけだと I want PRO/myself to win の区別がつかんにゃ。
ということは、二つの文は、PRO/myselfの不可視性/可視性の違いだけではなく、
意味構造自体が違うということになるのでしょうか。
>「内包的同一性」という言い方が適切かどうか分からんけどにゃ、myselfの場合
>には距離をおいて自分を見ているのに対し、PROにはそれがない、というビミョー
>な違いが重要なのだと思うんだけどにゃー
日本語の「私は勝ちたいと思っている。」と「私は自分が勝ちたいと思っている。」
と同じぐらいの違いと考えていいんですかね。そのような「ビミョーな違い」でし
たら、再帰代名詞の可視性の違いがもたらす“語用論的効果”の違いとして説明す
るというのも有望だと思うのですが。
>335 なんとなく、わかりやすくまとまってる気がするっす。信念内容の主体と、 信念内容に含まれるある名前が同一であることも信念を構成する、というのが (ホントかどうかはわかんないけど)de se readingのポイントっしょね。 de re/de dictoは内包文脈で問題にされる解釈ですけど、一応、先行詞との 関係というのは考えてないわけですよねー そんで、かおもじせんせの例で、現実世界ではたとえ本人でも、テレビの画面などで 見たその人自身が本人と同一でないという信念がある時、内包的命題を補文とする 構文中で、補文の代名子か照応子の解釈としてはde se readingが不可能だ、という ことですよね
>336 >b. Everyonei hopes that hei will win. universally quantified contextも内包文脈の一つのはずですので、 それとhopeという内包文脈をつくるものが一緒になっているので 注意しないといけないと思うっす。内包補文をとってない Everyonei knows that hei is an idiot. のようなので束縛変項解釈がある(たぶんあると思うすけど大丈夫すか?) ようなのを考えても同じことになるはずっす。 確かに普遍量化子に束縛された変項としての解釈では、heの位置もふくめて らむにゃabstractionした表示を与えていいんでしょうけど、 といっていいのでしょうけど、その場合、普通de re解釈がある、って いうんでしたっけ?束縛されていない、個体の誰かを指示しているときはhe de re解釈だと思ったっすけど、どうなんでしょ。こう考えると、Landauが OCのPROにde re解釈はない、というのはすごく理解しやすいんすけど でも、束縛変項解釈にde re(とde se)はあるけど、非コントロール子の解釈には de seはあるけど、de reはない、っつーわけですよね。de seもわかんないすけど de reもわかんなくなってきたっす。
僕も便乗してみました。 ☆ チン 〃 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ ___\(\・∀・) <昨日のみ屋にいったらサツがいた \_/⊂ ⊂_ ) \_____________ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | | .奄美うこん. |/ ごめんなさい・・・
341 :
(´∀`) :02/10/05 00:54
なんだか、頭が混乱してきました。山籠りしてきまっす
343 :
(´∀`) :02/10/12 16:27
にゃんだか流れが止まってしまいますたにゃ ハードディスク引っかき回してたらこんなのが出てきたにゃん Message 1: summary of 'de se' responses Date: Mon, 26 Apr 1999 09:36:41 -0500 From: Ana Perez-Leroux Subject: summary of 'de se' responses Dear linguists, In reference to my query on Hornstein's usage of the term 'de se', in his article in Linguistic Inquiry early this year, I received responses from: (中略) - ---------- "De se" is supposed to mean that the statement's truth value depends upon the speaker only (I think). (これは違うような気がするにゃ) - ---------- Read Higginbotham's paper in the Control volume for a long discussion of 'de se' readings. N (←たぶんHornsteinにゃ) - --------- The use of the term 'de se' appears in a classic paper by Lewis [no reference was provided], referring to a contrast with 'de re' readings. Its integration in the semantics literature is mainly due to Chierchia's work [no reference provided],and has had interesting implications for temporal semantics. 結局要領を得んけどにゃ
てすと
345 :
K-Rod :02/10/30 15:05
こさかなしゃん、戻ってきたら教えてにゃ。 倉庫行き防止のためカキコしとくにゃり。
346 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/10/31 00:03
メタファーに関して卒論書きたいよ・・・ でも、「現代英語にみるメタファー」じゃありきたりかな?
347 :
K-Rod :02/10/31 02:20
>>346 別にいいんじゃないですかにゃー。
ただ対象を絞り込むことの方が大事だと思いますにゃ。
Lakoff辺りの研究に乗っかるぐらいだったら、日本語の
メタファーなんかやった方がいいんじゃないですかにゃ。
我々は母語話者なんにゃからにゃ。
まず「メタファーとは何か?」ということを考えてみては
どうですかにゃ?言語なんて下手したらみんな比喩みたいなもの、
なんて発言をそういやどっかで顔文字先生がガイシュツされてたような。
348 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/10/31 10:42
>Lakoff辺りの研究に乗っかるぐらいだったら、日本語の >メタファーなんかやった方がいいんじゃないですかにゃ。 >我々は母語話者なんにゃからにゃ。 素朴な突っ込みなのだが・・・ 日本語の母語話者の皆さまがChomsky辺りの研究に乗っかって、日本語の統 語論の研究をしているのだから、別に、「Lakoff辺りの研究」に乗っかって、 日本語のメタファーの研究をしてもいいのでは?
349 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/10/31 11:31
>>346 「ありきたり」であるところではなくて、むしろ、広すぎるところに問題が
あるような。でも、修論ならともかく、卒論ならそんな感じのタイトルでも
いいのかもね。
350 :
K-Rod :02/10/31 14:15
>>348 別にフレームワークは使ってもいいにゃが、Women fireの本などで既に
やってるような、overだとか同族目的語なんかの例を増やしただけで
「はい、分析」ってのじゃなければいいって意味にゃ。
やっぱ、分析対象を絞り込むのが大事だと思いますにゃ。
もう、時間はないにゃり。頑張って早くターゲットを決めるにゃ!
>>K-Rodさん おかしな話し方ですが(ごめんなさい!)、相当な識者ですか? 私はまだ、3回生なので時間は大丈夫だと思いまーす。 ありがとうございました。
352 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/11/01 00:41
メタファーの研究に関しては、必読文献として、瀬戸賢一の「認識のレトリック」 佐藤信夫の「レトリック認識」「レトリック感覚」が必読となると思われます。 メタファーの研究に際して注意すべきことですが、英語と日本語のメタファーの 差異を記述することが一番平易で近道かもわかりませんが、そんなことはレイコフ (1980)でくどいほど強調されているわけです。レイコフは(1999)で 全く立場を変えています。そこらへんを読み取った上でテーマを絞り込むと 良いと思います。またGradyの素因数分解的メタファーやフォコニエ、ターナー などのメタファー研究も参考になると思われますので、狭い意味でレイコフのみに 集中しないよう心がけていると面白い論文が書けるかもしれません。 これはいつも学生に言っていることですので、ご参考にしてください。
353 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/11/01 22:19
>>352 さん
ありがとうございます。
瀬戸賢一氏、佐藤信夫氏の「レトリック感覚」は読みました。
Gradyや、フォコニエ、ターナーさんらのことは初耳です。
勉強しまーす
>345 K-Rodしゃん、よびかけてもらってありがとごじゃいますたにゃ。 完全復帰とは言えないですが連休でもどりますたにゃ。 山ごもりの間に飯田隆先生の 言語哲学大全IV 勁草書房 を入手しましたにゃ。何か、言語学的な形式意味論にかなり啓発された、 というような書かれ方をされてますにゃ。言語学者としてはどう答える べきなのでしょうかにゃー しばらくde re、de dicto及びde seのことを調べたりしてたのですにゃが、 Quineの批判するアリストテレス的本性主義との絡みがかなりありそうなの ですにゃ。こさかなが声を大にしていいたいのは、たとえ言語学的に意味の ある誤解の仕方をしていても、それがそもそも哲学的にどんな意味をもって いたのかを無視してはならない、ということですにゃ。de reとde dictoは 内包文脈との相関でclose upはされたものの、元はと言えばある物自体が 持つ性質がそれ本来が持っていたものか、ということですにゃ。様相概念が 詳しく分析されたときには、性質の帰属に関する必然性、可能性が固有の ものか、発言に閉じた形でのものか、ということか、ということが問題に されたのですにゃ。Higginbothamの御大は信頼できる哲学者だと思いますが、 統語論へのrelevanceを考えるときにこのことを忘れてはならないと思います にゃ。今はまとまりのないまま、これしか言えませんにゃ。
もうひとことだけ。 例えばHigginbothamがDavidsonのeventの取り扱いを取り上げると、 本来はconjunctive sillogismで存在量化されたeを一つ消すような 推論は妥当で、それによって副詞を消去することによって 真理値が変わらないというような議論だったのが、eventを項として 扱うと言う部分だけが取り上げられて、Devidsonian Programの他の 側面を無視して"Devidsonian event argument"と言ってしまうところが 今の研究状況にはあると思うにゃ。確かに顔文字先生が挙げられたコント ロールに関する例はコントロールの理論が必ず扱わなければならない 論点だとは思いますにゃが、Lewisらが本来言っていた議論と絡むのか 慎重になる必要があると思いますにゃ。それとは独立に 人間の本性に絡む議論を展開できる可能性があるという意味でそれを 切り捨ててはならないとおもいますにゃが、元々の意図を離れて自由に 使うと、少なくとも言語哲学者の不信はまねくことになりますにゃ。
パワーアップして復活ですにゃ とりあえずお帰りなのにゃ
顔文字せんせ、ただいまですにゃ。 でもまたすぐ山ゴモリだとおもいますにゃ・・・
358 :
K-Rod :02/11/06 01:41
こさかなしゃん、おかえりですにゃ。 「山篭もり」ってなんですかにゃ? もしかしてPC使えないよーな国に留学(もしくは仕事)されてる んですかにゃ? こさかなしゃんの正体は、どっかの大学の若手講師かと思ってますたにゃが。
K-Rodしゃん、ありがとですにゃ。 ご推測のとおりですにゃ・・・でもぜんぜんいい仕事してにゃいので そのうち業績不振で不渡りを出しそうですにゃ。おはずかしい・・・ 「山篭り」は、一連の言語哲学的概念に関する勉強不足を恥じ入り、 修行にでかける、ということで、けして山奥でfieldworkしている わけではにゃいです・・・未だよくわかんにゃいんで、もう一度 修行の旅に出かけてきますにゃ・・・またたびはネコの好物。
360 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/11/07 12:58
適当なスレが見つからなかったのでここで質問させてください。 「否定」というのは現実世界のどこにも存在しないのですが (例えば、人間以外の動物で否定という観念を駆使、計算して いるとは考えにくい)、どうやって生まれてきた観念だと考え られているのでしょうか?否定というのを子供はどのくらいの 段階で学ぶのでしょうか?漠然とした質問で申し訳ありません。
361 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/11/07 15:14
>>360 「否定」という概念を理解するには、やはり、論理学における「否定」概念
から出発するのがいいように思います。論理学においては、「否定」辞は、
名詞や動詞のように世界の中に存在するものを指すのに用いられる語では
なくて、何らかの文と結びついて新たに別の文を作り出すという関数と
して捉えられます。すなわち、Sを任意の文、nを否定辞とすると、Sに
nが結びついてできるn(S)という文は、Sが真である時には偽になり、
Sが偽である時には真になる文として定義されるわけです。従って、「否定」
は、文と文との接続詞である「かつ」とか「または」と同じように「真理
関数」の一つとして捉えられることになります。
いずれにせよ、「否定」という概念が経験的に得られる概念ではなく、
基本的に論理的な概念であるということは、ある程度、哲学において
共通の認識であるように思います。
>361 私の理解もおおむねお書きになった通りなのですピコが、 「否定」という概念が経験的に得られるものでなくア・プリオリーな ものだという部分について、哲学でも、また言語学でも、必ずしも 共通の認識じゃないピコかもしれません。他の論理接続詞&、→に ついてもそうみたいですピコ。私としてはア・プリオリーだと思い ますけど。 というのは、概念の獲得、ということではなく、単に認知のしるしを 観察したとすると、子供の場合、まず個体の識別が行われ、次に 個体の存在を認知しているしるしを見つけると思います。で次は多分 個体の非存在を認知しているしるしを見つけると思うのですが、 非存在という概念を持っているということは、何らかの形で「否定」も 含んでいなければなりません。認知言語学ならば具体的な「非存在」と いう概念から「否定」が抽出される、とかいうかもしれませんし、 概念意味論ならア・プリオリーにあった概念が別の概念の操作のさいに 具現化されたとするかもしれません。ささいな点ではありますが、 empiricism etreme、rationalism extremeというのは現在は なさそうですピコ。 ところで、犬は数の概念は持たないようですが、非存在の概念は 持つようです(小平せんせのエセーにあったと思う)。ある犬の 3匹の子犬のう1匹だけ隠しても気付かない。しかし3匹全員を かくすと悲しい声をあげながら捜しまわったとか。非存在は存在を 前提とする場合が現実には多いと思いますが、そのような場合について は動物も非存在という概念をもち、そこに否定が含まれているのでは ないでしょうか。ただしそれ以上分析はされず、否定という概念を 論理計算で駆使する、ということはもちろんないと思いますけどピコ。 旅に出る前に入院かもしれないですピコ。検査の結果待ちですピコ。
363 :
K-Rod :02/11/08 00:43
むにゃむにゃ。 こさかなしゃん、体は資本ですにゃ。大事にしてくれのにゃ。 修行にしろ、入院にしろ、また戻ってきてにゃ。 修行の成果見せてくださいのにゃ。 私も修行が必要にゃが、必要な分野がありすぎのにゃり。(>_<) 最近、忙しくて首も回らないにゃあ。
K-Rodしゃん、ご心配ありがとですにゃ。 仕事のし過ぎには気を付けてくださいにゃ。 先日の話へのつけたりですにゃ。 点、線という概念は幾何学の原始概念にゃが、現実には広さを持たない点、 幅を持たない線、というものは存在し得ず、現実の点、線を用いて演繹すると 幾何学の定理とは常にずれた帰結が得らるにゃ。でも、ぐだぐだ考えずに 理想化された点、線に相当する概念はア・プリオリーに人間の頭の中に あると思って何の問題もないと考える人は多いし、私もそう信じてますにゃ。 でも、フッサール(髪がなくてもふっさーる、なんつって)先生は 『ヨーロッパ諸学の危機』の中で、幾何学的概念の点、線は実在する点、線から 帰納されたものと考えなければならない、とおっしゃってるにゃ。 学史的にはこのことがどういうことなのか、不勉強でしらんのにゃが、 フッサール先生は「否定」についても実在から帰納するとおっしゃるのかにゃん・・・
関係ないかもしれないけど、否定辞って幼児の言語には かなり早い時期からでてくるにょろよ。英語みたいな S(not)VO語順の言語でも幼児はNoSVOという語順で言うことが おおいにょろ。これがVP-internalの証拠になるんでないか 何て言われていたけど。 notなどの範疇を獲得することと、概念形成は別ものなのでしょうか。 範疇を獲得すれば概念も副産物的に生まれるのでしょうか。 それとも概念が先?なんだかわかりません。 前にどこかのすれで書いたけど、whenの方がwhereよりかなり遅くに 習得される。これはtenseという範疇の獲得と関係しているのかにょろ。 それとも、時間と言う概念の問題? コサカナさんお大事に。あっしは体の頑丈なのだけがとりえです。
>関係ないかもしれないけど、否定辞って幼児の言語には >かなり早い時期からでてくるにょろよ。 そうなんですピコか(やっぱり「ピコ」は使いにくい)! 否定辞の喪失についてはどうなんですにゃかね。「早く獲得されたものほど 遅く喪失される」というJakobsonの一般化(っていうのかにゃ)が統語論でも 成り立つ、っていうのを聞いたことありますにゃが、音韻論からのアナロジーで 行くと、獲得/喪失に関して心と器質の両面があるように思いますにゃ。 時制などより早く否定辞が獲得されるとして、ここから時制辞よりも遅く 否定辞が喪失された場合、概念に喪失順序というものがあるのか、 こさかなとしては疑問ですにゃ。理由は聞かれるとわかんにゃいですけど、 喪失と言う側面から考えた場合、時間の概念は喪失したけど否定の概念は 残った、というのは想像しにくいように思いますにゃ。するとかかりしゃんの >範疇を獲得すれば概念も副産物的に生まれるのでしょうか。 >それとも概念が先? というのは、概念があり、範疇の獲得/喪失は器質的な成長/退行といえるのか にゃーと、想像します。失文法は回復することも多々あることを考えると、 ますますそう思いますにゃ。まあ、想像の域を越えませんので、言語の喪失に 詳しい方、どなたかおながいしますにゃ。 それから、ご心配いただいてありがとございますた、>かかりしゃん。
367 :
名無し象は鼻がウナギだ! :02/12/11 01:24
寝たふりもなくあげるのは心苦しいドスが、あげ
368 :
デフォルトの名無しさん :03/01/07 06:59
こさかな先生の復活を願ってあげ
369 :
凡才数学者 :03/01/11 02:01
はじめて書き込ませていただきます。専門がロジックというわけではないですけど 分析、言語哲学関係の本を何冊か読みました。飯田さんの本はなぜか出るたびに すぐ買って読んでいました。今回のはまるで言語学の本みたいでちょっと驚いています。 で、ちょっと言語学の専門家の方に質問なんですが、Davidson流の意味論というものの評価は そちらの分野ではどうなのでしょうか。私は数学屋のせいかむしろMontague流のほうが わかりやすい(といってもちょっと眺めただけですが)。特に気になるのはDavidson流で 命題的態度などをまともに扱えるのかどうか? それができないのならば1階の述語論理だけで済むといってもなあ? P.S.僕は(も?)猫が大好きですにゃあ(^=^)
370 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/01/11 02:27
>>369 私は、正直言って、Davidson流の真理条件的意味論とMontague流の
真理条件的意味論のどこが違うのかよくわかりません(絶対的な真偽を
問うのか、モデルに相対的な真偽を問うのかの違い?)。たぶん、
多くの言語学者も両者の違いについては、よく理解していない人が
ほとんどではないかと思います。ただ、言語学の意味論では、
Davidsonの名前は、出来事意味論との関連において言及
されることが多いように思います。
全体的には、Montague流に何に対しても内包論理を使って、いわば力ずくで
分析しようとするよりも、Davidson流にストイックに1階の述語論理だけ
で解決する方が、何かしら望ましい方向のように思えます。(Davidsonには、
命題的態度を扱った論文もあるのですが、ちょっと煙に巻くような
解決策なので、どう評価していいのかわかりません。)
あんまり参考にならないレスですね・・・
371 :
凡才数学者 :03/01/11 03:16
日本語訳のある”そう言うことについて”ですか? それは一応読みました。 複文を単に二つに分けるというものだったように思います。 それで真理条件はどうなるのかなと思いました。ANDで くっつけてしまうと明らかに不適切な分析になるし。 今、飯田さんが衝撃を受けたというDavidson流意味論の本 "Knowledge of Meaning" by Larson&Segal を見ていたのですが、Secondary Predicateを使うところが あるようです。かなり後ろのほうで、ぜんぜん読んでないのでどういう 脈絡で出てくるのかわかりませんが、Event,States,and Timesという 章なのです。 ところでMontague意味論の本でおすすめのものはありますか? 僕が持っているのは白井さんの本と赤間世紀さんの本です。 白井さんのはともかく、赤間さんのは簡潔すぎて読みにくい ような気がします。 しかし、二ヶ月くらい本業がおろそかになってるなあ・・・
>>371 >日本語訳のある”そう言うことについて”ですか?
そうです。"On Saying that"です。
でも、これって日本語に訳せないタイトルですねえ。
>ANDでくっつけてしまうと明らかに不適切な分析になるし。
そうですね。デイヴィドソンに従えば、
John said that Bill killed Mary. の意味は、
Bill killed Mary. John said that. と二つの文に言い換えられるけど、
前者の命題は、言及(mention)されたものにすぎないので、
両者をandで結びつけられないですからね。
>ところでMontague意味論の本でおすすめのものはありますか?
モンタギュー意味論の入門者と言えば、Dowty, Wall, and Petersの
Introduction to Montague Semanticsが定番だと思います。最近は、
他にも、色々と自然言語の形式意味論の入門書があると思いますけど、
一昔前は、これさえあれば(かつ、これしかない)、という本でした。
柴田武ほか『ことばの意味 辞書に書いてないこと』が平凡社ライブラリーに入りましたね。 旧弊だと見られるかもしれんが、あれこそ意味論って気がするな。
>>373 それを言うなら、むしろ、森田良行『基礎日本語辞典』の方が“意味論”と
呼ばれるにふさわしい本であると思うのだが。
>>374 どちらも同時期に、相前後してよく似た試みをなしたものだろ。
どっちが「ふさわしい」とかって笑止。
GENERIC BOOKって読む価値ありますか?
377 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/01/20 22:08
>>376 漏れは(生成スレにも少し書いたけど)Kratzerの
Stage-Level and Individual-Level Predicatesしか
読んだことはないのだけれど、少なくとも執筆者の豪華な顔ぶれ
を見る限り、読む価値は十分あると言えるのではないでしょうか。
どうしても(形式)意味論と統語論の関係がよく分からないんですが。。。 統語に反映されない意味の違いってあると思うんですよ。意味論の 側からするとこれは違いが表示できなければならないけど、統語論の側 からすると、まぁ、ぶっちゃけどうでもいい。広い意味でのdecomposition というのが統語でも大事なわけでだけど、どこまでdecomposeするのかが 問題になりますが、その際に意味的な単位性みたいなのはありますよね。 あー書いていてますますわかんねー。
379 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/01/21 10:30
>>378 > どうしても(形式)意味論と統語論の関係がよく分からないんですが。。。
> 統語に反映されない意味の違いってあると思うんですよ。
統語に反映されない意味の違いは当然あるでしょう。
ただ現在のほとんどの形式意味論はフレーゲを端緒とする
構成性の原理を採る理論がほとんどなので、
その意味において統語部門で形成される構造に対応する形で
意味解釈を行っている、という訳なんです。
それは別に統語に反映されないような意味が重要でないということを
意図していないことはおわかりいただけると思います。
単に興味・関心の焦点が違うだけです。
> 広い意味でのdecomposition
> というのが統語でも大事なわけでだけど、どこまでdecomposeするのかが
> 問題になりますが、その際に意味的な単位性みたいなのはありますよね。
形式意味論でdecompositionを使う意味論は稀です。
decompositionは語彙意味論で使われるのではないでしょうか。
形式意味論では逆にdirect analysisと呼ばれるものも少なくありません。
意味論へのインプットは私たちが直接知覚できるものであるという主張の下に、
表面上に、つまり音の連鎖なり語の配列なりに現れた通り、
かつそれだけを使って構成的に意味を導き出していくというアプローチです。
有名どころだとPauline Jakobsonのvariable free semanticsがあります。
繰り返しになりますが、現在のほとんどの形式意味論は
構成的に意味を導き出していくことを目的としているので、
その目的に必要であると見なされる程度までのdecompositionはやりますが、
語彙意味論で見られるように、どんな基本的な意味的要素(単位)があれば
意味が記述できるか、という問題にはあまり興味がないのです。
379のせんせ、形式意味論をやってる人はふつー、自律統語論(ないし 意味論)の考え方に対してはどう思っているのにゃ 生成文法をやってる者としては、統語構造は表面上目に見えるよりはるかに 精緻にゃから「音の連鎖なり語の配列なりに現れた通り」以上の情報が統語 構造から意味解釈部門に入力されており、またこれによって規定されるような 意味の研究は結局は統語論に含まれることになる、むしろ統語構造からは引き 出せないようなどんなものがどのように加わることで、LF以降の意味表示が 得られるのか、を形式意味論に明らかにして貰いたいとも思うんだけど、 どんなもんにゃろか。
381 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/01/21 12:30
別スレでは添削ありがとうございました。 未だ学生です、年は食ってますが(汗。 僕の周りでは統語操作で導き出せる意味上の区別は統語論で扱おう という流れがあるような気がします。 その中でも当然主要な問題はスコープということになるんですが、 じゃあスコープの問題に関して全部統語論をやっている人に任せて しまおうという気持ちはない。 とりわけスコープのインターアクションに伴う含意・推論などの 意味論的な部分はやはり意味論をやっている人間が責任を持つ、 という具合に分業できていると思います。 ちなみに僕はもう少し言語哲学よりの問題、命題態度や記述、 前提などをやっているのでインターフェースはあまり詳しくないです。 いろいろ書くこと悩んでこれだけしか書けませんでした、すいません。
レスありがとにゃ。 >含意・推論などの意味論的な部分 適当な例かどうかわからんにゃが、例えばquantifierがmonotone increasingがdecreasingかで 統語的振る舞いが異なるという指摘が昔からあるにゃ。もし統語操作自体がこの区別にsensitive だとしたら、この区別もsyntactic in natureでなければならないことになるにゃ。あまり ありそうな話しではないんだけどにゃ。
383 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/01/31 01:57
意味論初心者です。 Heim and Kratzer (1998)なんかに出てくるんですが、bound variableと E-typeとを区別するメリットというか、区別しなければならない理由という のは何なんでしょうか? それと、再帰代名詞でもE-typeの例って作れますよね。 Every murderer who found a victim's parent insulted himself,and every murderer who found a victim's friend did [e], too. なんて駄目でしょうか?
そりゃ普通のsloppy identity by bound anaphoraにゃろ? 再帰代名詞でもstrict identity可能という観察もあるにゃ、 関係ないけどにゃ
385 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/01/31 08:22
>>383 その質問の答えが書いてあったはずだが、、、(汗)
そういうわけで、もう一度Heim and Kratzerを丁寧に
読んだ方がいいと思うぞ。
386 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/01/31 12:51
Every farmar who has an donkey will beat it. のitは、一種のbound varibleとして分析したいけど、 I have a girlfriend. She is very cute. のsheは、どう考えてもbound variableとは分析できないから、 ・・・という答えではいけないの?
387 :
K-Rod@無知 :03/02/01 14:41
>>384 等位接続詞の場合には原則sloppy、従属接続詞の場合にはstrict/sloppy両方の読み可
(ただし、strictの方が出やすい)という観察ですかにゃ?
この辺syntaxで綺麗に切れそうな気がしますにゃが。
388 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/02/01 14:46
1: Intel セレ論 (273) 2: 意味論 (387)
389 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/02/24 12:40
こんにちは。こさかなです。 あげるだけでかえっていきます・・・すんまそ 超おそレスですが >368さん、ありがとうございます・・・
こさかなさんだ。おひさしぶり。あっしも風邪から 復帰しました。
>>389 低脳で、こさかなせんせの話に全然ついていけない、へたれですが、
重要な議論をしてそうだというぐらいことはわかるつもりでつ。(ニガw
ともかく、この板で重要な人材であることには誰も異論がないと思うので、
何卒、この板を見放さないで下さいでつ。
>>390 生成スレでレスしようと思ってましたが、PCが調子悪くて、今となってし
まいましたでつ。ともかく復帰なさっていただけたので安心しましたでつ。
お体の調子が良くなられたようで、よかったでつ。
こさかなしゃん、元気でなにより。 かかり先生も復帰おめでとうございます。 疲れたので寝ます、、、、 またここに訪問します。
かかりしゃん、391しゃん、K-Rodしゃん、ほんとうにありがとうでつ(感涙 かかりしゃんも、炭疽菌じゃなくてよかーたでつね。 ごぶさたの間に、以前□の老師から紹介があった外史先生の本をよんでて、 可付番の無限集合のベキ集合のcardinalityがもとの集合のより大きいという のを証明する対角線論法がはじめて理解できたっす。あいかわらずへたって まつ。 >369, 370 以前、□の老師が「知る」の論理形式に「□」を充ててましたが、あれは Davidsonianな扱いだったのでしょうか・・・そういえば戸田山さんという 方の入門書で、有名なKnight-Knave Puzzleに関して、「Pと言う」という 「あ、こりは二階だな」と思ったのを、biconditionalを使って、一階論理で 扱っている(p.60)のを見てビクーリしました(つまり、私はDavidsonian Semanticsというのがよくわかっていない)。 B&EのLPLでも、高階論理でないと扱えない、といいながら、 Generalized Quantifierの一部を組み込んで一階論理を拡張していました (つまり私は入門書しか読んでいない)。 かなりおそレスなのでつが・・・ またいつか来ます。
(^^)
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
397 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/05/16 22:02
無学にしてageるのみです。 このスレ勉強になります。
ひさしぶりにお邪魔して、間違ってスレたてて、こっぱずかですた。 笑ってお許しくだしゃい。 削除依頼を出したスレに書いたものですにゃが、もう一度書いときますにゃ。 がいしゅつのような気もしますが、見てみたらどこにあるかわからなかったのでとりあえず。そのときも答えはなかったとおもいますにゃ。 (あれはintentional operatorについてだったかにゃ?) ------ とりあえず、寝たふりというか質問。 cap notationってなんなんでしょう? 勉強してみましたが、よくわかりませんですた。こんなやつです(Barwise&Cooper, Generalized Quantifiers and Natural Languageを読んでたらでてきますた) Qx^[ψx] ^は初めのxの上にある ------- らむにゃをつかうと、集合を一項関数にして、かつその穴を塞いで外延(集合)を与えるから、類推すると、一項関数にしたけど外延は個体、ってのかなとかんがえますたが、多分違うだろうにゃあ・・・
自己レスですが >398 > Qx^[ψx] ^は初めのxの上にある "cap notation"ではなく、B&Cは"cap symbol"と呼んでますた。失礼。 読み返したら、 informalには{x|ψx}、我々のformal notationではx^[ψx] とかいてありますた。つまり、ψxという性質を満たすものの集合、ということで||ψx||と同じ?ようです。論文はすみからすみまで読みます(反省
400 :
K-Rod@無知 :03/05/20 01:27
こさかなしゃんお帰りですにゃ。 最近、私も忙しくてお疲れモードですのにゃ。 自分の才能不足を痛感する今日この頃。 とりあえずあげ
あぼーん
>400 K-Rodしゃん、ただいまですにゃ。ありがとにゃ。 それから桐板ゲットおめでとですにゃ。 疲労には気をつけたほうがいいですにゃ。先日、電車で帰宅途中、後ろ の人がバターンと突然たおれますたにゃ。疲れたら休むのですにゃ。私 は疲れるとアドレナリンが出て仕事がはかどるので、勘違いしてやりす ぎたらオーバーワークになってしまいましたにゃ。
そういえば、以前、言語を論理形式で表現するのに、高階論理で表現す るか、Davidson流に一階論理で表現するか、ではどちらがいいか、とい うような話で、数学屋さんが高階論理の方がしっくりくるとおっしゃっ てますたにゃ。これと関係するかわかんないですにゃが、数年前にでた Verkuylの本を読んでたら、英語のprogressiveの分析にかかる動詞の aspectual classに関して、Parsonsのneo-Davidsonian event semanticsでの分析(アリストテレス流に三種類)をけちょんけちょんに いってますたにゃ。で、そのParsonsはDowty, Bennet-Parteeの Interval Semantics(Vendler's classをとる)での分析をけちょんけ ちょんにいってましたにゃ。Verkuylは結局、自分がやるようにVPの aspectualityとIPのaspectualityはこの順で構成的に決定され、名詞の 量とも相互作用を起こすので、タイプ付き高階論理で扱うべきだ、と 言ってますたにゃ。そこでは、Parsonsが状態に仮定するHold(e)と、事 態に仮定するCul(e)はその間の交替現象を説明せず、ただstipulateす るのみであり、かつ、Davidsonが自覚していた問題(&で結ばれた要素か ら、そのうちの一つを取り去る推論は妥当)にむきあってない、と却下 してたのですにゃ。 あいさつだけではなにかと思ってなぐり書きしてしまいすた。陳謝。 だれか後につづいてくれればいいですにゃー
お、こさかなしゃん、お久にゃ〜
ああ〜、顔文字しぇんしぇー、お久でございますにゃ。
なんとなく、前から意味論スレで話題になってて
>>378-382 でも議論された
統語論と意味論、形式意味論ないし論理学の関係について蒸し返してみます
にゃ。
生成文法は心/脳科学で、統語論の構成要素、構成原理、計算内容
に関する主張は、心/脳に関するある一定の実在性主張になっているはず
ですにゃ。生成文法で意味論に関して主張する場合も同様のはずですにゃ。
一方、形式意味論ではこういった実在性主張ということは必ずしも研究の
行程に含まれていないようですにゃ。中にはBerwise&CooperのGQ理論の
ように、論理学の、自然言語だけに見られる性質について興味ある分野と
して囲いこもうとする研究もある(と偉そうに言えるだけ論理学のことは
しらにゃいのですが・・・)けど、形式意味論一般に言えることではないと
思いますにゃ。確か以前、かかりしゃんが、チョム先生も最近は形式意味論
に肯定的、とおっしゃってたと思いますにゃが、ずっとチョム先生が形式
意味論に対して与えていた評価は「記述の道具」というものだったと思います
にゃ。それは、形式意味論が言語という自然現象に対して実在性主張をおこ
なうのではなく、例えば島の現象などについて数学的還元主義をとっていた
からだと思いますにゃ。統語論と意味論の関係を考える場合、このスタンスの
差を認識しておくことは意味のないことではないという白昼夢をみますた。
と来たところで、『学術月報』4月号に甘利せんせと言う方(この名前、
どっかで見た気がする・・・)が「脳の数理」というアーチクルを書いて
らっさいますにゃ。まだ読んでないですにゃが、何か関係しそうなことが
書いてあったら、カキコしますにゃ。もうお読みの方はカキコしてくださ
ってもいいのよ。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
むう、意味論はどこまでいっても記述、とは俺の持論でもあるのにゃが…… ヽ(´ー`)ノ ←オテアゲ
ぬぬぬ?それは「音韻論はどこまでいっても記述」とパラレル、もしくは 「音声学はどこまでいっても記述」とパラレルなご意見でしょうかにゃ? (「統語論は」と書きかけてやめますた) ところで「脳の数理」では、脳内での心の出現がシナプスの発火vs.非発火と した上でも、心の出現の背後の数理をさぐる試みはまだ全くといっていいほど の状態、もちろんコネクショニズムのようにモデルを作って高次脳機能の シミュレーションを行って現象と突き合わせる、ということは行われていても 高次脳機能自体の背後にある数理は全く手つかずとのこと。最近いろいろな アプローチがしかけられているとのことですが、甘利せんせは一つの可能な アプローチを示してますたにゃ。それは複数のシナプス間の発火の確率、また はある範囲のシナプス群での発火率を、シナプス自体の発火とそれらの間の 相互干渉、また時間上のずれなどを位相論的に攻めていこう、いうものだそう ですにゃ。三次元のリーマン空間ととらえられるそうなのですが、ここで お手上げになりますた。 いずれにせよ、生成文法の背後にある数理をとらえる数学が未だないこと、 顔文字せんせが「あの先生」というあの先生が、コネクショニズムのアプロ ーチでは言語のようなシンボル形式を扱い得ないということなどを考え あわせると、数学にとって今でも未開拓分野なのかにゃー、と漠然と思い ますた。 すると、数学的装置を備えて言語の意味に取り組もうとする形式意味論は、 数学自体をやらなければ面白い証明は組めない、というボールを投げてみます にゃん。
こさかなしゃん、しばらく休んでるうちに新らしい変化球を会得したにゃ(w ちょっと俺には打ち返せにゃい魔球にゃが、言語学の範囲内にとどまっていたのでは、どれも記述である ことは間違いないですにゃ。だからといって、性急にニューロンの発火とかに結びつけても、それは 記述のレベルを移し替えただけで、やっぱりそれはなぜ、という問題がでてくるにゃ。 形式意味論に限らないにゃが、言語が科学を可能にする抽象的思考の道具である以上、その言語を科学 するある種メタ科学としての言語学には、どうしても自己撞着に似た部分があると思うにゃ。
>新しい変化球 (後で自分が)消える魔球を投げないように気をつけますにゃ(w たしかに性急に言語の問題を脳の構造の問題に置き換えるのは、観察 と記述の対象をかえ、それだけではなく、言語の研究課題を見えにくくする 弊害もあると思いますにゃ。Erdos Paulの言葉だったか、彼が誰かの言葉を 引用したのか忘れますたが、数論が扱う興味深い事実は、公理的方法を用いる ようになるはるかに昔に観察されていたそうですにゃ。生成文法の復活を チョム先生のLSLTの1955年としても、構造主義言語学までの観察の蓄積を さらに爆発的に蓄積をすすめて48年、今も興味深い観察を蓄積しています ですよね? ああ、なんだか自分で書いていてよくわかんにゃくなりますたが、 結局、還元主義は自分が不可能であることを自覚するほかにゃいのであり、 それを無理に通そうとするのは怪しい科学崇拝とそう違わない。面白い記述 的一般化の追求が生成文法家の嗜好で、より深い記述的一般化が現れたときに 前にあった一般化にたいして説明理論になるのかにゃー、というのが こさかなの思い込みですにゃ。統語論もどこまでいっても記述理論、自然現象 で自然現象を記述して自己撞着上等、ですにゃ。やや暴言気味ですかにゃ? いつものように顔文字せんせの胸を借りて乱取り稽古をつけていただいて ますにゃが、近く、ここまでの議論に基づいて統語論と意味論の関係について 戻ってみたいですにゃ。 関係ないですが、あやや最高、ですにゃ!
412 :
K-Rod@無知 :03/05/28 01:21
こさかなしゃん、いらっしゃいますかにゃ? 生成スレで、かかり先生のUliしゃん論文の話題が出たついでに。その 共著者と思われるPaul Elbourneしゃんの論文って読まれてますかにゃ? LIの2002がたぶん生成スレで話題になってるやつで、聞きたいのはNLS2001 の方なんですがにゃ。 もしElbourneしゃんの主張が正しいとして、E-typeがDefinite Articleだとしたら、 意味論的にQuantificationってどうやって扱うんですかにゃ? つまり、意味論的にbound variableがquantificationを受けるようなメカってのは あったりするんですかにゃ?っていう単純至極素朴極まりない質問ですにゃ。 ちょっとご教授願いたいにゃ。もちろん、他の意味論者の意見も大歓迎ですのにゃ。 よろしくおながしますのにゃ。(_ _) 最近、芸能界にとんと疎くてあややとみきてぃの区別もつかないにゃ。 まだ若いのににゃ。
K-Rodしゃん、まだいますにゃが、ちょっと勉強しないと答えられない ですにゃ。 definite articleには ∃x(Px&∀y(Py→y=x)) のようなラッセル流の一意解釈の論理式が当てられると思いますにゃ。 論理式ではbound variableもpronounも全てxなりyなりのvariableをお いて、quantifierのscopeにあれば、どちらも論理学的にはbound variableですにゃ。 意味論をこういう意味でなく、LFからの入力が直接mapされた段階で どうするか、とか、mapping自体のアルゴリズムをどう考えるか、と なると、どこかでカンニングしてこないといけませんにゃ・・・ どなたかが答えて下さるといいにゃが・・・ あややはごごていぃのCMでしか知らないのですにゃ、実は。 はじめて「萌え!」という語を発してしまったのですにゃ。 みきてぃ、って誰ですにゃ?
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
415 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/05/28 23:08
これもdat落ちしたらもったいないですぅー
>>412 >つまり、意味論的にbound variableがquantificationを受けるようなメカってのは
>あったりするんですかにゃ?
ていうか、量化されないbound variableなんて、あったりするんですか?
417 :
K-Rod@祈・遊撃手部門1位 :03/05/29 00:46
>>413 こさかなしゃんのまたの到来をお待ちしてますにゃ、と他力本願。
みきてぃってのは藤本美貴(漢字あってるにゃ?)の愛称だったはずにゃ。
あのつんく軍団は誰が誰か本当に分からにゃい。モー娘。も顔と名前一致するのが
もう5人もいるかどうか。この前まで後藤真希が脱退したことすら知らなかった。
K-Rodしゃん、祈りが通じるといいですね! ちょっとこの間のを修正しますにゃ。 Definite Art+NPならいいんでしょうけどNPなしなら λP∃x(Px&∀y(Py→y=x)) ですかにゃ。ちょっとささいですにゃが・・・またはGQでやるのも あるかもしれないですにゃが。 Natural Language Semanticsは借りにいかにゃいといけないですにゃが、 なまけずがむばってみますにゃー あちきには、つんく軍団はみんな小学生に見えますにゃ。金9時の Boogee-Woogeeのうしろで踊っているミニスカのねえちゃん達の方が よっぽどいいのは、80'sの亡霊に取り憑かれているからでしょうかにゃー
419 :
K-Rod@無知 :03/05/30 01:12
お、こさかなしゃんが相手してくださるんですかにゃ。 よろしくおながいしますのにゃ。私もNLS読んどきますにゃ。WCCFLの方は 読んだんだけどにゃ。(短いしにゃ) あたしゃ、高校生とか年下にはあまり興味ないのにゃ。仕事でお腹イパーイだしにゃ。 昔から年上と付き合うことが多かった。 ちなみに中学時代はK文字せんせと同じく森高ファンにゃった。(遠い目
当時、俺が研究会サボって名古屋まで森高見に行ったことは内緒なのにゃw
421 :
こさかな@蒙昧 :03/05/30 09:53
K-Rodしゃん、WCCFLのは同19の"E-type Pronouns as Definite Articles"で よろしゅうおますにゃ?NLSを盗りに行く前に、こちらから読んで見ますにゃ。移動時間に読んでみますにゃ。もちろんKratzer&Heimもたずさえて いきますにゃ。 Mais, cet article semble un peu difficileなのにゃ・・・Je vais essayer lire avec patience extrordinaireしますにゃ。 かつて、森高にかにばさみされるのを人生の目標とした時期がありますたにゃ (遠い目
訂正 ...essayer "le" lire...ですた。
あぼーん
424 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/05/30 23:46
認知文法や認知系で出てくる図の意味がさっぱりわかりません。 何を意味しているのか意味不明です。 あんな図を書くのにどんなメリットがあるのですか? 教えて下さい。
425 :
K-Rod@無知 :03/05/31 00:23
>>420 にゃはw...
名古屋までって気合たっぷりですにゃあ。
>>421 よろしゅうおますにゃ。
>>424 認知スレで聞いた方がいいんじゃないんですかにゃ?
ちなみにreference point辺りは、図があったほうがイメージしやすいから
じゃないですかにゃ。深い意味もあると思われるにゃが、「図を入れないと
論文を書いた気がしない」という話は聞いたことありますにゃ。
まあ、冗談なんだろけどにゃ。
FillmoreとかCroftは図を描かないことも多いみたいですにゃ。
あぼーん
Elbourne、読みますた。骨子を描写してみますにゃ。過不足は修正してくだ しゃいにゃ>K-Rodしゃん 主張は、 ・これまで記述的に"E-type pronoun"として区別されていたものは "the+NP"のNPを削除したものにゃ ・"the+φ"は"late insertion/distributed morphology"の理論によって pronounとして発音されるにゃ(||the||=||it/she/he||) →以上より、"E-type"にゃるpronounを仮定せずにすむ理論ができたにゃ! 「E-typeは『常に』definite descriptionに置き換えられる」という観察から E-typeを"the+α"と分析したCooper-Kratzer&Heimより、「"E-type"これ即ち theにゃり」としたElbourneの理論は単純直接で強いものになっていますにゃ。 とはいえ、意味論-統語論的なempirical caverageは先行研究と同じ、主要な 駆動力になっているのがPostal1964の「pronounこれdeterminerにゃり」とい う仮説(この論文って、ElbourneがreferしてるPerlmutter1967の中で 「articleはsegmentalizationという変換規則でNPのfeatureを具現したもの」 という説として紹介されていたものでしたかにゃー記憶が定かでないです にゃ)のみで、theがpronounとして実現するというところの議論がほぼない (本来にゃらこれが中核的議論として存在すべき、とあちきは思いますたが 意味論-統語論の議論がほとんど)のはちょっと納得いかなかったですにゃが、 NLS, LIではこのあたりも十分議論されてるですかにゃー またはWCCFLの会場 でははなされてたりして。多分かかりしゃんはその場できいてらしたと推察 されますにゃが、お時間あったらこちらにもお立ち寄り下さいですにゃ。 ところで、K-Rodしゃんが意味論スレでネタふりしてくだしゃった、という ことはElbourneの帰結そのものより、途中ででてきたCooper-K&Hの表示や、 Chierchiaの表示との関連が面白そう、ということかにゃ?と思いますたが その辺り、そういうことでっしゃろにゃろか?(長くなっちゃった、スマソ)
Elbourneを読んだらK-Rodしゃんの
>>412 の意図が何となくわかったにゃん。ほどき直すと
「あるquantifierにbindされたvariableが、in-situで別のquantification
をうける可能性は論理学のメカの中にあるか」
ということかにゃ?もしそうだとすると、一つの可能性はdefinite articleの
論理構造として上にあげたものにquantifierが含まれているので、
λP.∃x(Px&∀y(Py→y=x))(||pro||={c} under assignment g)
のような感じ(適当っす)で、definite articleの中の∀に束縛されている
にゃが、見かけ上、別の∀に束縛されているように見える、ということは
あり得るかもしれないですにゃ。しかし、これは本末転倒で、variableと
思っていたものが実はdefinite descriptionだ、という場合におこること
にゃから、そもそも問題にしているものをbound variableとはいえない。
こういう話になりますかにゃー
K-rod先生、ありがとうございます。 杉本浩司『認知意味論2』を読んだのですが、概説書ってわかりにくいですね。
逃走派先生に倣って・・・というわけではないですにゃが、sageていきます にゃー いつかは逃走派先生のようになりたいなー Cooperの分析をK&H semanticsで書いたものを振り返ってみますにゃ。 Elbourneは the [np[n R<7,<e,et>] [np pro<1,e>]] って書いてましたが、Rのtypeは<7,<e,<e,t>>>がもとでしたにゃ。 "7"はreferential indexで、K&H semanticsではf(index)=denotationと していたので、詳しくはK&Hを。Rはtype<e>の要素をとって<e,t>を出す relational variableで、もう一個<e>を入れるとIPまたはSのtype<t>が でますにゃ。Rのindexからの写像は文脈にあるDcとDのproduct、すなわち、 ロバ文ならproが先行詞からdenotationを受け取って次のようになり、 y1 is a donkey which x beats Dc×Dは{<john, a donkey>, <tom, a donkey>...> という感じのtype <t>の表現になってて、theによって順序対の中から 適切なものが選ばれる、って感じかなあ、とおもますた
431 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/02 10:14
何度もすみません。 言語を関数として捉えて抽象化することに何の意義があるのですか? 人間はそういう思考をしているのですか?
あぼーん
433 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/02 11:19
434 :
K-Rod@無知 :03/06/02 11:28
Zepのライブ版ってのはノーマルのやつと迫力ちゃいますね。 車に乗りながらかけてみたいですにゃ。てか、生成スレで言うことか、、 >424しゃん、認知で良書って言われてるのが 認知言語学の基礎 研究社 河上誓作編著 他 認知言語学原理 ひつじ書房 山梨正明 認知言語学 東京大学出版 大堀俊夫 あたりかにゃ? これと実際の論文(cognitive linguisticsとかlanguageに載ってるやつとか) で有名なのを2,3本読んでも分からなければ、認知そのものが分からにゃいのでは? と疑ってみたらいいかもしれんにゃ。
435 :
K-Rod@無知 :03/06/02 11:40
こさかなしゃん、詳細なレスありがとごじゃますのにゃ。 Paulしゃんの理論の妥当性を疑う声が意味論畑の方であるのにゃろか? あるとしたらどんな反論があるのか?ということが知りたかったのにゃ。 私、個人は代名詞の解釈にみょーに興味があったりするのにゃ。 Binding Conditionというのは意味に関わるところが大きいので、純粋な syntactic operationというのがどこまで関わるか?という境界線はなかなか ひけにゃいかもしれんにゃが、昨今のCondition Aがanywhere conditionか?だとか Condition Cはeverywhere conditionか?LFか?などといった議論が私を引き込んで 仕方がにゃいのでにゃ。(ちょっとしたideaがあって、これをMA Thesisのネタにしたい と思ってますにゃ) そんな私がE-typeの話を読んだ時にDefinite解釈でなんとかならんのやろか?なんて 疑問を持った時ににゃ、Paulしゃんがずばりそのことを言っていたのでキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!! って感じになったのでにゃ。
436 :
K-Rod@無知 :03/06/02 11:48
NLSのはWCCFLのんとそんなに大差ないですにゃ。WCCFLは簡略版といったところかにゃ? ただVP-deletionとかTomiokaしゃんの話だとかデータは多めですがにゃ。 E-typeなしでやれるにゃら、代名詞の意味解釈はdefiniteかvariableかということに なるんでしょうかにゃ?そういうことができるのにゃら、その2つを分けるのはsyntaxの仕事、 それ以降はsemanticsで。という議論が立てられそうにゃ。
437 :
K-Rod@無知 :03/06/02 11:54
ところでChierchiaはNP構造に関して[NP[N'[N NP]]]にゃんて構造を 立てたりしてますにゃが、これは意味論的にはありな構造なんですかにゃ? 統語的にはありえない構造してると思われるんですがにゃ。 theをpronounとして出す、というのはDMのlate insertionというか派生の後で 形態部門を設けるということかにゃ。Case featureがcheckされていなければ、 形態部門でNPを挿入するということでしょうか。Caseがcheckされていれば、後は Φ-featureの指定次第でいろんなpronounに変わる、というストーリー。 ちょっと出かけますにゃ。また来ますにゃ。
あぼーん
439 :
こさかな@蒙昧 :03/06/02 18:13
>>431 >言語を関数として捉えて抽象化することに何の意義があるのですか?
あんまり答えられそうにないけど、レスつけてみますにゃ。
三行目は無視しますにゃ。(哲学板での質問をお勧めしますにゃ)
ところで、まずは「関数(f)」より広い関係である「関係(R)」に拡張して
話をすすめますにゃ。ここで、fとRは数学的に定義された概念としますにゃ。
「言語をRとみなす」というのがまずどこから出た話かわからないですにゃが、これを無理やり「言語の中のRを抽出する」と読み替えますにゃ。
抽出した残りも捨てないことにしますにゃ。この時のメリットは、数学での
Rに関する知見を利用することができて、二度手間にならない、ということが
あげられますにゃ。別のメリットは、Rとして当然予測される性質をはずれる
性質が、Rを言語の中にうめこんだときに見い出される、ということです
にゃ。「解けない問題」が出て来たとき、悲観的になる人もいますにゃが、
トリビヤルでない問題は言語学のみならず、数学にとっても面白いですにゃ。
質問を「言語をからくりと読み替えて云々」という読み替え方も
できるかもしれませんにゃ。これには工学的方面からきっと面白い答えが
かえってくると思いますにゃ。
440 :
こさかな@蒙昧 :03/06/02 18:37
>>435-437 K-Rodしゃん、
こちらもレスありがとなのですにゃ(ぺこり
Paulしゃんの理論に対する意味論側の評価、というのが言えるほど
意味論に深入りしてないのでわかりませんにゃが、本人が書いている
通り、「E-type分析の跡継ぎ(だったかにゃ)」だろうから、特に
proもconもないんではないですかにゃ。
むしろPaulしゃんの分析は、NP-deletionした後でpronounとして
realizeされる、ということは、deletionがphonologyのものではない、
でもHead(D)とのSpec-Head Agreementのもとでのdeletionではない
ようなので、syntacticなものでもない(もしかして、最近の研究
ではできることがしめされてるのかも(冷や汗)とすると、一体
どうなっているんだろう、というところが、Syntax-Phonology Interfaceに関わる問題として取りざたされかねないのではないかにゃ、と思っておりました。へたすると、the NPがそっくりのこってる
よん、といううまみが消え、Cooper-K&Hとほぼ同じことをやらざるを
得なくなりはしないかと。
でもPaulしゃんがどうなろうと、K-Rodしゃんの議論はmake sense
するのではなかろうかと、よく知りもせず言ってみますにゃ。その
時は、真の競合相手はChierchiaとCooper-K&Hになるのかにゃー
むにゃむにゃ。
ところで、Chierchiaの"NP-shell"みたいなのは、誰か統語論で独立に
存在を仮定している人がいると聞いたことがありますにゃが。タイプ
理論ではeを項としてeという値を出す<e,e>、関数としては
個体から個体への写像と考えて問題はないのではないですかにゃ。
E-languageだし。
では、こさかなもおでかけですにゃ。
ところで、
>>435 のeverywhere conditionって、なんですかにゃ?
不勉強なもんで・・・ぽりぽり
音韻論のelsewhere conditionみたいなもんですかにゃ?
関係ないですにゃが『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで
交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎』は題名にそそられて
買いますたが、最近読んだ本の中でつまんない本のナンバー5に
入りますにゃ!
442 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/02 22:08
K-rod先生、こさかな先生、ありがとうございました。 まずは推薦書読んでみます。 こさかな先生の説明を読ませてもらい、ますます言語学の目的がわからなくなりました。 ただの知的遊戯になってしまっているのですか?
あぼーん
>>442 あ、言語学の目的をたずねてたのでつか・・・
私見ですが、はっきりいって「知的遊戯」です!しかし、
「ただの」じゃありやせんぜー
茨の道をはだかで、血みどろになってくぐりぬけていく、
しかしやめられないという・・・
442さんに引き続きなのですにゃが、認知言語学の意味論に興味が あるのですかにゃ?K-Rodしゃんのあげてくだしゃった本なんかを 読んでると、きっとG.Lakoffにであうにゃ。G.Lakoffはかつて Natural Logicをadovocateしてて、自然言語に基盤をおかない論理は いらんっ!ってゆうてますたにゃ。でもそういうことが言える背景に は、論理学や科学思想に対する深い造詣があるのにゃ。J.D.McCawley せんせも生成意味論といえばcause-to-dieが出てくるぐらいの方です たが、Everything that Linguists have always wanted to know about logic*(*but were ashamed to ask)という本が書けるぐらい 論理学者としても一流ですたのにゃ(notationがかなりidiolectalです にゃが) 形式主義はパズル遊びに興じているだけにしか見えない、という こともきっとあるでしょうにゃが、442しゃんの追求したい「言語学」 を決してはなさないことにゃ!
446 :
K-Rod@無知 :03/06/03 00:04
>>441 生成スレで返事しといたのにゃ。>こさかなしゃん
ChierchiaのはNP-shellが前提にゃったのか。
それでもおかしいような気はするんですがにゃ。
>>442 「先生」は辞めてね。
それと、それらは本心からの推薦ではにゃい、ということも気に留めて
おいてにゃー。できたら生成においでってのが本音にゃ。
数学やんなきゃ、と思っては休み、前の書き込み、やばかったな(汗 と思いながらも、白いわにがあらわれたり、逃げたりしますたにゃが、ここや おはよー!スレやプログラミング板で心配、激励くださったdefault nameの 方々のお気持ちに感激しつつ、我が身の無力を顧みず、意味論スレ使いきる までがんばりますにゃ! ところで ・de se ・統語論と意味論の関係 とか未だ棚上げの状態ですにゃが、別のねたふりしますにゃ。 □の老師、もどってこないかにゃー ちょっと前に、言語学概論の講義をオファーされて、その準備をしている時、 音韻論やって、統語論やって、じゃあ意味論・・・って時に、命題論理と 述語論理を整理してますた。で、ふと自分がよく理解してなかったことに 気付いたことがありますた。ある論理式がトートロジーであることを 証明するときに、ゲンツェン-フィッチ流の自然演繹で仮定を導入してから 消去していくか、証明論の入門書でよく見るようにinitial sequentに もっていくか、それとも等値変換でTに変換するか、というのは、 基本的に同じものと考えていいのかどうか、ということです。たぶん、 いいと思うんですけど、確信がもてないのですにゃ・・・ ヒルベルトの命題論理の公理系っていうのは公理三つと等値変換一つ ですべてのトートロジーを導く、ってものだと思うんですけど、これって 等値変換でやってくやつですよね・・・あたまがうにゃうにゃです。 言語学の論理学本では、等値変形での導出も証明というし、自然演繹での 導出も証明というから、自然演繹でやるとき、めんどくさそうなのは あらかじめ等値変換しといてV標準形とかにしてから自然演繹をはじめたり、 等値変換やってるうちにTVPとかって形になってTになっちゃってたりするん だけど、これって大丈夫なんだろうか。442さんの質問考えてる時にふと おもいました。
こんにちは。 いろいろと親切に答えて頂いてありがとうございました。2chは人格がおかしく なりそうなところだと思っていましたが、このスレは非常にまともですね。 生成文法は抽象的になりすぎて意味不明になっていると聞いたのですが、 K-rodさんは、生成文法をされているんですか。 こさかな先生、LakoffのMetaphors We live byは読みました。 まだ学部生です。これからがんばります。でも研究者としてやっていく自信なんて ないので、その道には進まないと思います。
450 :
こさかな@認知意味論者 :03/06/05 12:15
442さん、 研究者の道をすすまないそうですが、シリアスな遊戯として いろいろここで遊んで行ってください。 Lakoff&JohnsonのMethahors We Live Byを読まれたそうですが、 どう感じましたか?Lakoffはカテゴリー論や意味の真理条件説を 批判していたはずですが、どう思いましたか? 卒論を書くには、K-Rodしゃんがあげていた本を読まれると よいと思いますが(こさかなはそのいずれもよんでにゃいですが・・・) もしかすると、442さんはMetaphors We Live Byを読んで感銘を 受けたかもしれません。なんか感じるところがあったら書いてくだしゃいにゃ 追伸:かつて、認知意味論をMorice Merlau-Pontyの現象学と結び付けて 考えようとか、Husserlの実証主義批判と結び付けようとかいう動きが あったやに記憶しておりますにゃが、今はどうなっているんですかにゃー
Metaphors We Live By を読む前に、瀬戸賢一『メタファー思考』を読みました。 Metaphors We live By には、メトニミーやシネクドキについては書かれていなかった と思います。そういう意味で、瀬戸氏の方が体系的だと思いました。感想はこれぐらい です。 僕は英語力と知能と記憶力がヤバイので、カテゴリー論、意味の心理条件説なんてこと はさっぱりわかりません。もう一度読んでみるべきですかねぇ・・・ ただ、感銘までは受けませんでした。なんか鬼の首を取ったように客観主義(ですか?) を批判していたようですが、本当に以前の哲学者や言語学者は気づいていなかったのかな? とか思いました。 稚拙な意見ですが、こんなところです。後10年ぐらいしたら、学問的に感想が述べられる と思います。
442しゃん、レスありがとですた。 「なんか鬼の首を取ったような」はよかったにゃー 山梨先生もそんなところがある、といったら暴言かにゃ? ところで、某せんせのはなしでは、アメリカで出版されている 『アリストテレス60分でわかるにゃ!』みたいな本を読んですら、 Lakoffのゆってることはほんとかにゃ?って思うと言う話を 聞いたことがあるにゃ。Languageの書評で、Langendoenだったか、 Lakoffが数学的概念もメタファーで組織される、と書いた本を 「んなことあるかい!」って批判してたにゃ。よく引かれるWittgensteinの family resembranceも極度に単純化されている気がするにゃ。というのは 先日「つまらない本」と書いてしまった本を読んでいると、ヴィト先生も かなり偶像化されている部分があるんだにゃーと改めて思いますたので。 「稚拙」とかいわないで、にゃ!こさかなはもっと稚拙なことばっかいって ますにゃ。 ところでメルロポンティのつづりは完全にめちゃくちゃですた。 ただしくはMaurice Merleau-Pontyですた。猛省しますにゃ。
そういえば、瀬戸先生はグループμをひいてましたかにゃ? レイコフのメタファーは普通シネクドキと分類されているものも メタファーひとくくり、という批判はよくみられたと記憶してますにゃ
454 :
K-Rod@無知 :03/06/07 15:16
>生成文法は抽象的になりすぎて意味不明になっていると聞いたのですが これのどこが批判なのか意味不明ですにゃ。 認知やってて1つ気をつけてほしいことは、鬼の首を取ったみたいに生成批判から 理論を始めることが多いですにゃが、何一つまともな批判はないということは覚えて おいた方がいいと思いますにゃ。拝聴に値する批判は生成スレの虚無しゃんの方が してると思いますにゃ。 認知は前提知識がなくても分かるから、なんていい加減な理由で始める人が極めて多い 分野ですにゃが、ちゃんと地道にやってる方もいらっしゃるのでこれから批判に耐えうるか じっくり見ていきたい、と思ってますにゃ。 でもとりあえず、「Aの時はBである。ただし、Aでなくてもいいこともある」なんて仮説が 理論になり得るのかどうかというのは私が常々抱いている疑問です。 「平行線とはどこまでいっても交わらない2つの直線のことである。ただし、交わってもよい」 なんてのは理論になるのかしらん?
455 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/08 10:02
>Aの時はBである。ただし、Aでなくてもいいこともある 平行線は交わらない。ただし、平行線でなくとも交わらないこともある。 何がおかしい。? 「ただし、Bでなくてもいいこともある」の間違いか?
>>454 >でもとりあえず、「Aの時はBである。ただし、Aでなくてもいいこともある」
>なんて仮説が
>理論になり得るのかどうかというのは私が常々抱いている疑問です。
まあ「Aの時はBである。ただし、Bでなくてもいいこともある」と書きたかった
んだろうけど、ceteris paribusを知らんのかな。
457 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/08 17:09
意味論って、この程度のヤツがやってるのか?
あぼーん
>>454 この人は、理論的命題は、どんな場合でも例外を許すべきでないと
考えてるのかな?
一方、「平行線とはどこまでいっても交わらない2つの直線のことである。」
は、経験的命題ではなく「平行線」の定義であるから、例外を許さないのは
当り前なんだけどね。
>>456 ceteris paribus=「他の事例を挙げる」?
ご説明キボンヌ。中世論理学とかは学んでないもんで・・・よろすく(ぺこり
ところで、「Aの時はBである」は、Aが生じている時は必ずBが生じている、
B → A
という読みもないかにゃ?この読みの場合はBでなければなりませぬにゃ
(B偽で全体が真だとしても、ですにゃ)
>>459 第一近似としての観察の一般化は反駁が許されても、経験的主張としての
理論的命題は、それがもたらす予測群に事実と異なることがあっては
なりませぬにゃ。あったときは、理論自体の改築が必要となるにゃ。
まあ、「反駁可能性(refutability)」のことですにゃが、改めて
言うまでもないとは思いますにゃが・・・
461 :
こさかな@蒙昧 :03/06/09 07:32
>>B→A A→Bですた。すまそ
462 :
こさかな@蒙昧 :03/06/09 07:47
>>459 それから、「平行線」については、言葉のあややだとおもいますにゃが、
「定義」ではないですにゃ。ユークリッド幾何学の対象の平たん性を
保証する「公理」ですにゃ。もしいうなら、「平行線が交わる」ような
公理で平行線公理を置き換えても、公理系に矛盾は生じないことは
非ユークリッド幾何学のいうところのものですにゃ。
あぼーん
464 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/09 08:17
>>460 ところで、「Aの時はBである」は、Aが生じている時は必ずBが生じている、
A → B
という読みもないかにゃ?この読みの場合はBでなければなりませぬにゃ
意味不明。「読みも」って、ほかにどんな読みがあるのさ?
あぼーん
466 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/09 08:38
ceteris paribus=「他の事例を挙げる」? その意味と、上の文脈から想像がつかないとはよほどの○○○
467 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/09 09:26
>>460 この読みの場合はBでなければなりませぬにゃ
(B偽で全体が真だとしても、ですにゃ)
A?
あんた、論理学を知ってるの?
468 :
K-Rod@無知 :03/06/09 09:28
>>455 突っ込みありがとにゃ。その通りにゃ。すまにゃい。
>>459 「反例があっても、その理論自体にはたいして痛くも痒くもない」
的な発言をして叩かれたことのある俺がそんなこたあ言わないにゃ。
>>462 その通りにゃ。私の例が悪かったですにゃ。
469 :
K-Rod@無知 :03/06/09 09:37
「別に破ってもいい」規則を立てて何かを説明できるのか、もしくは 新事実の発見につながるのか?というのがそもそもの疑問にゃ。 例えば、ECPか何かで「痕跡は適正に束縛されなきゃいけないけど、 別に束縛されなくてもいい」みたいな定義をされると( ゚Д゚)ハァ? みたいな感じにはならないですかにゃ? ここで念頭に置いてたのはにゃ、例えば「あるAという形式を持つ構文は Bという意味を生み出す。しかしAという形式から生み出されたCというBとは 全く関連がないと思われるものもAというプロトタイプから派生したものである。 さらに-BのようなBと反対の意味を持つものもAというプロトタイプから派生した ものである」これで構文Aを中心にした意味ネットワークができあがって見事に 説明がなされました! というのがいったいどのような概念的・経験的利点があるのか?と素朴に疑問に 思ったわけですにゃ。 博学な方いらっしゃいましたら、レスきぼんぬにゃ。(_ _) 最後に俺は意外(?)と認知に悪意はないということも言っときますにゃ。
470 :
K-Rod@訂正 :03/06/09 10:14
>>468 読み返して、自分の意図を忘れてしまいましたにゃ。
「平行線」の例がすぐに続いていたのでややこしいですにゃが、
「A→Bという条件Aを仮定する。しかしAの時でもCやDのようなことがある。
その時にはAという条件をいじっても(時には反対になっても)かまわない」
みたいなことを言いたかったのにゃ。(前レス参照)
つまりにゃ、(俺が)分かりやすいのでECPの例を出したにゃが、「痕跡は
適正に束縛されなければならない」というのがECPの定義。でも、「束縛されてなく
てもECP」みたいな( ゚Д゚)ハァ?な話のことですにゃ。
本当に逝ってきます。
471 :
K-Rod@訂正 :03/06/09 10:16
さらに訂正。
念のためにゃが、
>>470 みたいなECPの定義はにゃいので、あしからず。
あぼーん
473 :
K-Rod@痴呆 :03/06/09 10:33
書いてて自分の頭がおかしくなったにゃ。仕事も手につかにゃい、、、 「A→B」という定義を作る。もちろん、反例も出てくるが、それらは Bというプロトタイプから派生したものであり「A→B」という仮説は やっぱり正しい。 ってだけのことにゃろか。 もういいっす。また戻ってきまつ。
474 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/09 10:40
>>461 459じゃないけど、公理や定理ってのは命題の形をしているもので、
>平行線とはどこまでいっても交わらない2つの直線のことである
というような概念の定義が公理なわけない。
「任意の点を通る任意の直線の平行線が唯一つ存在する」
とかそういうのが平行線公理。平行線の存在を規定する公理ですな。
(もちろん、幾何学の話としては平行線を別に定義して、
その上で「平行線は交わらない」というのを公理にしてもいいだろうけど、
実際の数学での定義を問題にしているわけではない)
あぼーん
>>460 ceteris paribusは、普通の英和辞典にも載っているラテン語で、
「他の事情が同じであれば」という意味。要するに、条件的命題において、
その前件として明示的に述べられている条件のほかに、デフォルトの諸条件の
成立が前提されていることを示す言葉。
要するに、「AならばB、だが、notBであってもよい」と読める変な条件文が
現れたら、Aに先行する条件Cが暗に存在しているものと考えて、「Cという
条件のもとでは、AならばB、だが、Cという条件が成立しない場合は、
AであってもnotBでありうる」という解釈を試みるべきではないかということ。
あぼーん
>>462 474さんのレスと内容が重なるけど。
>それから、「平行線」については、言葉のあややだとおもいますにゃが、
>「定義」ではないですにゃ。ユークリッド幾何学の対象の平たん性を
>保証する「公理」ですにゃ。
「平行線とはどこまでいっても交わらない2つの直線のことである。」のように
「Aとは・・・のことである。」という形式の命題は、どう見ても「A」の
定義でしょ。もっとも、もし「平行線」という概念が、「どこまでいっても
交わらない」とは別の属性によって定義されるなら、「平行線はどこまで
いっても交わらない。」という命題は、平行線の公理になるかもしれませんけどね。
でも、ネット大辞林には、「平行線」の意味は、「同一平面上の二直線が交わら
ないこと」と説明されている。他にどうやって「平行線」という概念を定義
するの?
>>469 結局、認知言語学で用いられるプロトタイプなどの諸概念は、観察された
現象は包摂できる(ようにみえる)かもしれないけど、どんな現象が生起して、
どんな現象が生起しないかという予測を許さないから駄目だって、ということ?
けど、そもそも、認知言語学は、自然言語の、法則に従う自然現象的な側面よりも
人間の自由な心的能力によって生じる側面に注目しているんじゃないの?
それなら、認知言語学の説明は、反証可能な科学的説明ではないから駄目だという
批判はお門違いだと思うけど。
あぼーん
なにげに盛り上がってるにゃ、こっち
>>480 すると認知言語学とゆーのは、デカルト的二元論をいまだに信奉している研究パラダイムというわけかにゃ。
以前から、どうして認知の連中は言語を特別扱いしたがるのか疑問にゃったが、根底には相変わらず人間言語
だけは別格、という思い込みないし思い上がりがあるようだにゃ。
で、480しゃんの言い方だと「言語には自然現象的な側面もある」ということはいちおー認めている
ようにゃが、するとそういった側面を研究することを否定する必要もないと思うにゃが、どうかにゃ?
認知が生成のナニを批判したいのか、どこに対立点があるのか、実はサッパリ分からんですにゃ。
自分で勝手に生成の歪んだイメージを膨らませてキャンキャン吠えてるドンキホーテ状態の認知論者には
笑えますにゃw
>>460 >理論的命題は、それがもたらす予測群に事実と異なることがあっては
>なりませぬにゃ。あったときは、理論自体の改築が必要となるにゃ。
このあたりは、生成スレ4の最後のほうでも話題になったにゃが、Popper流のnaive falsificationismと
Lakatos流のsophisticated falsificationismは区別せんといかんですにゃ。むしろ後者が支持されることが
多く、それによれば「反例は反証に非ず」「仮説は仮説によってのみ反証し得る」なのにゃ。
>>482 私は、このスレでは、生成に対しては何も批判していないんですが・・・
>すると認知言語学とゆーのは、デカルト的二元論をいまだに信奉している研究パラダイムというわけかにゃ。
すみません。言語に関して「デカルト二元論」の立場に立つとは、どういう
ことを言うのでしょうか。人間的現象において、精神の領域と身体の領域を厳密に
区別した上で、言語は、もっぱら前者の領域(もしくは後者の領域)に属すると
考える立場のことでしょうか。
あと、人間の心的現象の中で、文法というものを、経験的に習得されるもの
ではなく、生得的に決定されるものとして「特別扱い」しているのは、むしろ、
生成文法の方にも思えるのですが、その点はどうなのでしょうか。
>>482 sophisticated falsificationismについてのご指摘、ありがとうございますた
にゃ。そういえば前述の『世上に名高い...』は、顔文字先生は読まれました
かにゃ?PopperとLakatosの師弟関係についての若干の記述がありますたにゃ
どちらかといえばLinguistic Warsに似たような本ですたにゃ。
>>477 さん
説明ありがとございますにゃ(ぺこり 勉強になりますた。
羅和辞典はあったけど、英和辞典はない環境で書いたもので・・・
しかし、そうだとすると、どこにdefaultの条件が存在する余地が
あったのですかにゃ
>>456 さん
>>479 私にも迂闊な点が多々あってすみませんですたにゃ。しかし
ネット大辞林の「同一平面上の」云々は平行線公理が採用されて初めて定義
される「平面」を「平行線」の定義に組みこんでいるにゃー
485 :
K-Rod@痴呆 :03/06/10 00:00
>>483 人間の視覚能力にゃら、二足歩行能力にゃら他の能力に関しては生得的な
能力を仮定しているのにも関わらず、人間という生物種に特化した特殊能力の
言語能力だけは学習だけで身につけるという態度は、むしろ言語だけを特別視して
いる立場だということだと思いますにゃ。
生成文法はむしろ、学習という視点から特化された扱いを受けてきた言語能力を
特別扱いしないようにした立場と言えると思うのにゃ。
ま、雑魚(私ですよ)のレスはこの辺で!
486 :
477(=456) :03/06/10 00:12
>>484 >どこにdefaultの条件が存在する余地があったのですかにゃ
>>456 さん
むしろ、経験的な条件的命題には、常に、明示されていない前提的な条件
が存在する余地があると考えるべきじゃないんですか?
487 :
480=(477=456) :03/06/10 00:23
>>486 でも、視覚や歩行は、身体的な能力であるのに対して、言語は、心的能力
でしょ。で、心的なものの中にも、少なからず生得的なものがあるというのは、
確かだろうけれど、身体的なものに比べれば、やはり、経験的に得られる
割合が多いのではないかと。だから、言語の文法はもっぱら生得的に決定される
という主張は、やはり、心的なものの領域において、言語を特別視する
ことになるのではないかと。
>人間の心的現象の中で、文法というものを、経験的に習得されるもの >ではなく、生得的に決定されるものとして「特別扱い」しているのは、むしろ、 >生成文法の方にも思える >言語の文法はもっぱら生得的に決定されるという主張 あのにゃ、言語生得説は経験が有効に作用するためにはあらかじめ与えられているハードウェアが必要だ という遺伝環境相関論であって、経験不要論ではないのにゃ。認知の連中がでっちあげた似非生得説を そのまま信じてはいけないのにゃ。 有名なところではHubelとWieselの視覚の研究があるにゃが、あらかじめハードウェアが組み込まれている からこそ、外界からの刺激に反応して脳神経細胞のネットワークが形成されたりされなかったりするのにゃ。 なんにもないところにいきなり刺激だけ与えても無駄なのにゃ。 で、生得説に反対するということは、言語には生得的な要因は一切ないということになるにゃが、 480しゃんは >心的なものの中にも、少なからず生得的なものがあるというのは、確かだろうけれど と言ってるのだから、生得説支持ということになるにゃ。 >身体的なものに比べれば、やはり、経験的に得られる割合が多いのではないか 割合の問題ではなく、経験に先行するものがあるのか、ないのか、の問題なのにゃ。 まあ、このあたりに二元論の名残が見られるのにゃが、どうして身体と精神は別物だと言えるのか、その 根拠は何にゃ? 両者に対して同じアプローチを採るべきだというのが生成の、というか現代科学の立場 のはずにゃ。 以前に生成スレでも扱ったにゃが、心・身を一元論的・統合的に見るということは、心も体と同じく単純な 機械論で扱えるということではなく、精神にも物体にも理解できる部分とまだできない難題の部分が等しく 含まれている、だから先ずはその扱いやすい部分から始めるしかない、という謙虚さから出発しているのにゃ。
489 :
意味研究者 :03/06/10 12:02
認知言語学をデカルト的二元論に還元しようとする学派もいるのかもしれません が、それはいわゆる「認知言語学」とはかなり隔たりがあるように感じます。 認知言語学とよばれている言語学が生成文法の理屈で批判対象とするのは、 この「あらかじめ与えられている」ハードウエアの仮定です。Lakoff(1999) やTomasello(2003)のような研究にも言及されるとおり、動物と人間の思考を 区別し、その根拠として言語能力を掲げることは間違いであるという主張が 認知言語学のいわゆる大筋の考え方です。では、言語にはいっさい生得的な 要因はないのかということを認めるのかというとそうではありません。 usage-based model、使用依拠モデルなどとも訳されますが、このような 経験的なデータからスキーマを抽出して、規範を獲得していく能力と 人間固有の文化学習能力という二つは生得的な能力と大いに関連します。 外界からの刺激に反応して脳神経細胞のネットワークが形成されたりされなかったりする、 なんにもないところにいきなり刺激だけ与えても無駄、という主張ですが、 別段認知言語学はこの考え方を捨てません。人間特有の学習能力に重きを置くか、 人間に他の動物とは違うハードウエアを仮定するかで、学派が分かれるだけ と感じられます(Jackendoff2002)。それから、「普遍性」を認めない のがいわゆる「認知言語学」だというのは偏見でしょうね。 「普遍性」を見出すために、「特殊な事例」「従来の言語学が排除してきた ような言語現象」も取り入れてより包括的な傾向分析とパターンを 記述することに意味を見出すのが認知言語学でしょう。 それに分析手段の違いが絡み、ラネカー流もあれば、タルミ−流もあり、 数ある言語分析手段のうちどれがより統括的かで、理論としての 整合性が決まるだけでしょう。それからモジュラリティーを信奉する 言語学がいまだに残存しているのならば、それは批判の対象でしょうね。 言語知識のそれぞれに明快な区分などないことは、昨今の議論でも自明です から。
あぼーん
あぼーん
493 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/10 21:17
>>489 > 言語知識のそれぞれに明快な区分などないことは、昨今の議論でも自明です
> から。
昨今の議論に疎い厨房の漏れにもわかるように、ちょびっと具体的に思ってることを
ご披露くだされー。そしてそれがモジュラリティをいまだに信奉することが間違ってる
ということを示す理屈の道筋だけでもー。
494 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/10 22:12
>動物と人間の思考を区別し、その根拠として言語能力を掲げることは間違いであるという主張が >認知言語学のいわゆる大筋の考え方 言語と思考は別物、両者の間に密な関係があるということと、両者に区別はないということはまったく 違う話しなのに、それをごっちゃにしているにゃ。同じ致命的な思い違いを言語モジュールや言語内 モジュール、または能力と運用の区別についてもやらかしているのが認知ブンポーの悲惨なとこにゃ。 いわんや、言語決定論的誤謬はむしろ認知の得意技のはずにゃ。 で、認知ブンポーでは人間とミミズの思考は同じなのかにゃw >経験的なデータからスキーマを抽出して、規範を獲得していく能力と人間固有の文化学習能力という二つ 「規範」や「文化」以外の、もっと基本的抽象的普遍的特性が文法にはある、という論点から目を背けては いかんですにゃ。学習や類推が一切関係ないのではなく、それらだけでは不十分というのが出発点にゃから、 学習で説明できる皮相的部分(それはすでに言語能力を前提にしてしまっているという罠ゃ)だけあれこれ していても埒はあかんのにゃ。ひとつ具体的に頼むにゃ。カビのはえたような事例で恐縮にゃが、 Who did you like before you talked to? はいいのに *Who interested you before you talked to? は具合が悪いのはなぜで、それを子供はどうやって経験的に学習するのか、どーぞにゃ。
>人間特有の学習能力に重きを置くか、人間に他の動物とは違うハードウエアを仮定するかで、 >学派が分かれるだけと感じられます 違うにゃ。「人間特有の学習能力」は宙に浮かんでいるのではなく、「人間特有のハードウェア」に 依拠して生まれる機能にゃ。前者に注視することは必然的に後者を想定することであり、両者を対立させる のはおかしいですにゃ。 >「普遍性」を認めないのがいわゆる「認知言語学」だというのは偏見でしょうね これまで認知ブンポーが明らかにした人間の言語や認知の普遍性としてどのようなものがあるのか、 あげてみてちょ。 >モジュラリティーを信奉する言語学がいまだに残存しているのならば、それは批判の対象でしょうね。 >言語知識のそれぞれに明快な区分などないことは、昨今の議論でも自明ですから。 こっちは言語内モジュールのことにゃが、例えば統語と意味に区別がないなどと考えてる言語学があると したらそれは嘲笑の対象だろうにゃ。その「昨今の議論」とやらを俺も拝聴したいもんにゃ。 Linguistics admires Chomsky. が統語的におかしいのか、意味的におかしいのか、不明です、などと 言ってるのが認知かにゃw たとえばfocusやwh疑問という同じ意味機能に対して、各個別文法は異なった統語構造や音声解釈を あてているにゃ。 1) *Who did you read a book that wrote? 2) あなたは誰が書いた本を読んだの。 同じwh疑問でありながら、英語と日本語は随分違った統語的ストラテジーをとっており、それが時には 文法性の差(意味ではなく構造の問題)をもたらすにゃ。こういった一番基本的な観察さえ無視しておき ながら、 >「特殊な事例」「従来の言語学が排除してきたような言語現象」も取り入れてより包括的な傾向分析と >パターンを記述する は到底ムリポにゃ。
497 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/06/11 11:31
>>488 仰ってる意味を理解するための質問ですが、その意味での生得的でない人間の能力って例えば何でしょう?
車を運転する能力は生得的ですか?
あぼーん
>>497 ごめん、おれがわるかった。
もうここで論理学のことは書かないから、497さんも別のスレで
やってくれ。ハッキリ言ってスレ違いです。
ついでに切り番ゲットしとく。もう数学のことも論理学のことも 書かないよ。おれが悪かった。
ぐがうしぐあ!! こさかなしゃんが夏も近いというのに冬眠に入ってしまわれるんではないかと 密かに危惧。いやなんだか、ちょっと聞きたくなってというか、漏れはetの、 <et,t>のetのet,tのet,tのet,tのet,etがどうのこうのとeteteteteeteteteteで 頭がぐちゃぐちゃになりつつあってぐひょひょーとなりつつあるハイムクラッチャー的な どひょひょのタイプ主義者になりそうなんだけど、そこんとこ、どうなんでしょうか? 意味論生粋原理主義的立場からすると、アレなの?あのよくありがちないかれポンチ的 「なにやってんだか、こいつはー!」的なオーソドックスを外したおどけ者って感じ なんでしょうか?マジ本気マジで、このまま、こういった路線で続けていいものかどうか わかっていないんでしゅ。(ちなみにPTQは読んだつもりだけどわかっていましぇん)
あぐしっ!! ようするに、タイプドリブンなセマンティクスってのは、世間的には、どんな ふうに映ってるのかというのをちょっとききたかったにょろにゃだべしよー。 いや、なに、べつに、世間の流れにむりくり合わせるって卑屈になるつもりは ないんだけどにょろにゃだべしよーだけどにー。読みにくくてすみません。あうあうあー!
>>499 私は497が初めての書き込みでしたが、貴方は誰でしょうか?いきなり謝られて困惑しています。
>別のスレでやってくれ。ハッキリ言ってスレ違いです。
480辺りからしか読んでいなかったので、てっきりスレの中で必然性をもって生得性の話題に
なっているのかと思い質問をしてしまいました。質問は引っ込めます。申し訳ありませんでした。
505 :
意味研究者 :03/06/12 02:04
>言語と思考は別物、両者の間に密な関係があるということと、両者に区別はないということはまったく >違う話し この根拠は何ですか?さらに貴兄のおっしゃる「認知ぶんぽー」は人間とミミズの 思考の研究は行われていません。こちらはレイコフらの人工知能研究のほうの領分ですね。 彼らは言語決定論的誤謬という批判に関しては何も答えないでしょう。 >基本的抽象的普遍的特性が文法にはある この主張によって認知言語学を視野に入れた言語学が出した成果は、名詞や動詞の 抽象的意味やそのプロトタイプ意味論、文法化のメカニズムと、全言語共通の「主語」のプロトタイプ などですね、法則性を捉えることはやっているわけだ。類型論的に普遍性と例外を説明する ことを良しとするわけですから。ちなみにこの論点をないがしろにするような 言語学者はいないでしょうね。 >Who did you like before you talked to? >はいいのに?*Who interested you before you talked to? そちらの分析をまずご掲示ください。 >子供はどうやって経験的に学習するのか その問いは、文の生成をどう処理していくのかという経験的なパラミターの設定 まで含めるのですか? >違うにゃ。「人間特有の学習能力」は宙に浮かんでいるのではなく、「人間特有のハードウェア」に 依拠して生まれる機能にゃ。前者に注視することは必然的に後者を想定することであり、両者を対立させる のはおかしいですにゃ。 そうでしょうね。対立点ではなく、共通の主張の説明の仕方の問題でしょう。認知派は いろいろうるさく言うでしょうが。 >昨今の議論 当然、学会にはご出席なさっているのでしょう? それからどうも「意味」についての見解が貴兄の行われている観察と、認知言語学の 考え方と違うようですね。まず「意味」について定義してみてください。 例としては、形式と意味とは相関的で、概念化の仕方が日本語と英語で違うように感じられても、 事象構造の捉え方に共通性があることなどの特徴から、言語表現の概念基盤を探り、 文法と意味の関係を探っていく意味論が認知文法でしょう。
506 :
こさかな@蒙昧 :03/06/12 09:54
>>501-502 逃走派せんせ〜、書き込みありがとうございましたっす!統語論にも統語範疇があって、意味論にもそれと対応関係にある意味範
疇があるのはそんなに問題ないと思いますけど、逃走派せんせ〜もそう
考えてらっさると思いますよー
で、意味範疇をタイプにするか、ジャッケンドフ流の概念範疇にする
かというところは、その装置を使って何をするかにかかってるとおもう
すから、タイプを使うこと自体は問題ないとおもうすよー
そういえば、□老師とのファーストコンタクトはこのタイプを巡って
だったですよー(遠い目 わたしはラッセルのタイプ理論そのものだと
思ってたすけど、□老師によると、一定の手続きで命題の構成が完了す
るようにしてるものだっておっしゃってましたよー
もう御存じだと思いますけど、タイプ理論の話をちょっとさせていた
だきま〜す。あとで間違ってると気付いたら直しにきます〜
タイプと、Categorial GrammarのCategoryは、前者が意味範疇、後者
が統語範疇、と言う違いはあるすけど、本質的には同じだと思うす。
というのは、範疇自体が句構造規則が果たす構造構築操作も担っている
点す。あと、原始表現と、その組み合わせによる関数表現からなるとこ
ろも同じす。
GamutのII:79をカンニングしながら書くと
タイプの集合Tは次のもの以外を含まない最小の集合である:
1. e, t∈T 2. x, y∈T ⇒ <x, y>
これは「意味範疇=タイプ」の「統語規則」っすよー 命題のタイプが
t、個体のタイプがe、という以外は、pre-terminal nodeとrootの間を
うまくつなぐように関数表現を作ればいいすよー でもタイプシフトと
かタイプ上昇とか、これをマジに扱おうとするといろいろな規約が必要
になってくるようでやんすよー
ところで、タイプは結局、集合表現に対応させないと解釈が得られな
いすけど、概念範疇ならそれ自体が意味、いやもとい、意味構造即概念
構造だし、entityからelaborateしていくって考え方も好きなので、個
人的には概念範疇のほうがすきっすよー Foundations of L.はまだ読
んでないんすけど〜
>>504 顔文字せんせ〜 誘導ありがとうございますた〜
ではしばらく冬眠に逝ってまっす
私は、生成派でも認知言語学派でもないのですが・・・
>>505 >当然、学会にはご出席なさっているのでしょう?
すみませんが、この点については、そういう答えで逃げないでくださいよ。「言語
知識のそれぞれに明快な区分などないことは、昨今の議論でも自明ですから」と
いう主張に対しては、カオモジせんせだけではなく、493さんも私も関心を持って
いるんだから、この点について、もうちょっと具体的な議論をしてくれないと、
意味研究者さんのおっしゃることには誰も耳を傾けなくなると思いますよ。
実際、自明とされているところにこそ、興味深い論点が隠れていることが
多いんだから・・・。
誘導した意味がないにゃんw >この根拠は何ですか? 思考の伴わない言語、言語の伴わない思考があるということ、また言語表現に写像できない思考がある ということ、さらには上であげたように同じ思考に対して個別文法は異なる言語表現を充当していると いうことにゃ。で、個別文法と思考を一対一対応させてなんとか言語=思考と強弁しようとすると、 言語相対論なり決定論に堕落するという罠ゃ。 >認知言語学を視野に入れた言語学が出した成果は、名詞や動詞の >抽象的意味やそのプロトタイプ意味論、文法化のメカニズムと、全言語共通の「主語」のプロトタイプ >などですね、 名詞や動詞など品詞の区別を持たない言語もあるらしいから、その成果とやらは普遍性とは関係なさそう だにゃ。(対して生成では語彙範疇は原始単位ではないにゃ。)いわんや、プロトタイプ論は完全に個別 言語なり文化のレベルでしか語れにゃい、違うかにゃ? 一方「主語」に関してはいまだに日本語に主語はないと主張する立場も根強くあるからにゃ、むしろ 認知が「全言語共通の主語のプロトタイプ」などという考え方を出しているのなら大歓迎にゃ。たとえば 以前から問題になっている、「太郎に英語が話せる」の主語は何で、その根拠は何か、認知ブンポーの 分析を披露してもらえんかにゃ? ついでにアイスランド語なんかのoblique subjectの扱いもご教示 願うとありがたいですにゃ。
>そちらの分析をまずご掲示ください。 詳細は省くにゃが、(i)寄生空所構文の派生にはwh疑問文や関係節、難易文などの派生に関わるのと同種の 演算子移動が関与し、(ii)生じた寄生空所は変項の一種としてふるまい、A束縛を受けられない(この場合 特に真性空所によって束縛されてはならない)という制約を受ける、というあたりかにゃ。でここで 出てきた概念に相当するような抽象的知識を、どうやってすべての子供が経験だけから汎用学習能力によって 到達するのか、甚だ疑問だというわけにゃ。ではそちらの分析をどうぞ、にゃ。 >学会にはご出席なさっているのでしょう 「言語知識のそれぞれに明快な区分などない」と決議した学会など知らんけどにゃ。学会名をあげるにゃ。 たとえそういう学会があるにしても、一学会内部でのみ採用されている見解をして「自明」だとどうして 言えるのにゃ。その学会だけ絶対に誤りを犯さないという保証があるにゃ? 特定の思潮に偏った学会の 内部にこもるのではなく、もっと視野を広げたほうがいいにゃ。 たとえば進化生物学や進化心理学の世界では自然選択説が大勢を占めているにゃが、これとて全く実証されて いない仮説に過ぎないのにゃ。その一方で、進化生物学者の中にはUG仮説を受け入れた上でその起源と 進化を考えようとする人もいるにゃが、それでも自然選択もUGも「自明」だなどと考えてるおめでたい人は 生成にも進化生物学にもいないのにゃ。 そしてもし「学会が」ではなく、学会での「発表者が」そういう主張をしているだけというにゃら、 それこそなぜそれだけで「自明」と言えるのか小一時間……にゃ。 で、Linguistics admires Chomsky は意味的におかしいのか、統語的におかしいのか、それとも一概には 決めつけられない、といって逃げるのか、どっちかにゃ。
>まず「意味」について定義してみてください。 それは無理難題だにゃ。「意味」の意味を包括的に定義できた人はおらんにゃ。それぞれの理論が意味の 異なる側面に注視しているのにゃ。例えば生成の場合、文の意味はその成分の意味と構造関係から 決定される命題内容ということになるだろうにゃ。 >概念化の仕方が日本語と英語で違うように感じられても、 >事象構造の捉え方に共通性があることなどの特徴から、 概念化は日本語や英語が行うのではなく、それを話す人が行う操作にゃ。ここにも言語決定論的誤謬が 見られるにゃ。その概念をどういう形で言語化するか、という問題ではないのかにゃ。 「事象構造」とは具体的に何のことにゃ? 言語レベルなのか概念レベルなのか、だけどにゃ。 その共通性というのには俺も興味あるからもう少し話してもらいたいにゃ。 >言語表現の概念基盤を探り その概念基盤さえ与えられれば言語表現が得られるというような恐ろしく短絡的な発想を認知ブンポーは しているのではないかにゃ。まるで空を飛ぶことをイメージしさえすれば勝手に翼が生えてくる、とでも 言わんばかりのにゃ。すでに翼が生えているからこそそれを使って飛ぶことができるのと同様、ある概念を 言語化するには、言語能力がすでに存在していなければならないのにゃ。そこに遡及して議論しているのが 生成、それを全部棚上げにして皮相的な結果論だけを弄しているのが認知、とさえ映るがどうかにゃ。 >文法と意味の関係を探っていく意味論が認知文法でしょう だとすると文法と意味は独立しているというのが前提になり、先に「自明」だといったこととは辻褄があわん ことになるにゃ。
Zep の3枚組は聞かはりましたか?想像してたよりも 音質が良かったんで、聞きやすかったですわ。 う〜ん、またまた生成 vs 認知の話でっか。言語研究 をはじめる際に、最初から認知ではじめた奴はアカンで。 ラネカー読んでも、その背後にあって前提となってる言 語学の遺産を理解してへんからなー。 かおもじせんせも、わかっててイジワルで書いてはん ねんけど、そのへんもわからへんのんやろなー。 ちなみに、言語形式についてはラネカー自身が、「認 知文法は言語形式については、それを直接の研究対象と はしない」て明言してるやんか。あくまでも言語使用の 背後にある認識様態をできるだけ明示的に示そうという ことですがな。 そやから、あれは、実は、言語学ではないんやなー。 わかっとるんかなー、そこの「自称認知言語学者」たち。 なにー、わからん?ほな、この構えにスキがあったら、 どっからでもかかってこんかい!くっさー、いやらしー、 えげつなー。
>>506 > タイプの集合Tは次のもの以外を含まない最小の集合である:
> 1. e, t∈T 2. x, y∈T ⇒ <x, y>
最大の集合ですね。最小だと当然、空集合になります。
514 :
かかりちゃん :03/06/12 13:39
>>513 > タイプの集合Tは次のもの以外を含まない最小の集合である:
は、 the smallest set T such that:
かなんかの訳でしょ。 1.と2.に示されているものは(他のものと違って)
集合Tのmemberになるわけにょろから、空集合にはならないにょろ。
1.と2.で指定されている以外のものはTには存在しないということにょろ。
>>513 Gamutにゆーてくれ。てゆうか、あんた集合論よく知らんのにゃろ?
ついでですが、
<x, y> は <x, y>∈T
ですた。まずこーゆーとこつっこんでくれ。
あ、かかりしゃん、ありがとございますた。かぶってしまいますた。
>>514-515 要するに、タイプの集合Tは、次の条件を満たす集合ということですよねえ。
1. Tはeとtを含む。
(e, t∈T)
2. Tがxとyを含むなら、その順序対<x, t>もTに含まれる。
(x, y∈T ⇒ <x, y>∈T)
3. Tは、上の二つの条件によって含まれるもの以外のものを含まない。
で、以上の三つの条件に付け加えて、集合Tに最大とか最小とかという条件を課す
必要はあるのでしょうか。「次のもの以外を含まない」という条件と「最小」
という条件がかぶっているという気もするんですけど・・・。
ちなみに、
>>500 を書かれたのは、こさかな先生御本人でいらっしゃいますか?
あぼーん
>>514 >1.と2.に示されているものは(他のものと違って)
>集合Tのmemberになるわけにょろから
それだったら、「次の1, 2を満たすような最小の集合」になる。
「X以外を含まない」というのは「Xに該当するものは全て含むが、
それ以外は一切含まない」というのとは意味が違うよ。
「次のもの以外を含まない最小の集合」だったら空集合に決まってるよ。
だって空集合は実際に「次のもの以外」を含んでないじゃない?
何も含んでないんだから。で、最小でしょ。
>>515 >Gamutにゆーてくれ。
悪いけどちょっとその本持ってないんで、該当する原文を書いてくれないか、
「次の1, 2を満たすような最小の集合」か「次のもの以外を含まない最大の集合」
じゃないの?
>あんた集合論よく知らんのにゃろ
なんで喧嘩腰なんだよ・・・
しかし、集合論に詳しいとかそれ以前の問題ですよ?
>>519 513さんの書くことは、すごくよくわかるんですんけど・・・
>「次のもの以外を含まない最小の集合」だったら空集合に決まってるよ。
例えば、「a以外の要素を含まない最小の集合」と言ったら、直感的には
空集合よりも、むしろ、{a}という集合を指すものと解釈するのが普通なのでは?
つまり、単に「a以外の要素を含まない」という表現が与えられたら、そこでは「aは含む」と
いうことが“含意”されているものと解釈する方が自然だと思います。
もっとも、「この集合は、aという要素も含まないし、さらには
a以外の要素も含まない、すなわち、空集合である。」とも言える。
つまり、「…以外を含まない」という表現が持つ「…は含む」という含意
はcancelableだから、下記の部分は、その通りだと思います。
>「X以外を含まない」というのは「Xに該当するものは全て含むが、
>それ以外は一切含まない」というのとは意味が違うよ。
>>517 480さん、おっしゃる通りです。論理式などのwffを定義するときに
普通使われるやり方を念頭においてしまいながら、Gamutを訳したので
余剰的な「最小の」を入れてしまいますた。そいで、「・・・以外を
含まない(という)最小の・・・」の括弧の部分が落ちてしまったものと
読んでいただけるとありがたいす(日本語の同格節で、「という」は
落ちてもいいから)。で、480さんの1をbasic step、2をrecursive step、
3を1、2で定義されるもの以外のものを-wffとする、とすると、Tは
結局無限集合になります。「可算集合」かな?まあ、わかんねーや。
480さん、だいぶん勉強させていただきますた。
499-500は私です。497さん、誤って撃ってしまいました。ごめんなさい。
それでは約束通り冬眠に入るとします・・・
>>512 >この構えにスキがあったら、どっからでもかかってこんかい!くっさー、いやらしー、えげつなー。
岡八郎ネタは坊やしゃんが喜ぶのにゃw
ブートの粗い音に馴れた耳にはオフィ盤は上品すぎていけませんにゃー
FredしゃんはDVDはもう見たのかにゃ。これこそ空前絶後にゃ。
悪評にゃった79年Knebworthも音と映像がよければ結構楽しめるにゃ。
Mighty arms of Achilles hold the heavens from the earth 〜 ドッドコドッドコドッドコ〜
いまさら何にゃが、おもろそうなBBSハケーン
http://6216.teacup.com/skgpsg/bbs?
523 :
こさかな@蒙昧 :03/06/23 00:03
暑いので冬眠から抜けてきますた。ついでにあげときます。 最近、 Rock, Blues断ちしてるのに、JazzのCD買いにいっても Zepのコーナーがついつい気になるのは生成総合スレと意味論スレでの はなしのせいにちまいない。おととい、チューブアンプを見にいって Jazzにあうやつを探してたですが、Fendarの12万のアンプ大音量で Lemmon Songをひいてきますた。意味論と全然関係ないすね。
The Lemon Song、元歌はHowling WolfのKilling Floorですにゃ。 Squeeze my lemon till the juice runs down my leg〜なのにゃ。 こさかなしゃんはJazz派かにゃ。昔、rockとjazzの融合を一時crossoverと 呼んでいた時期があって、weak crossover! と喜んでいたのにゃ。 そういや、その後 fusionという呼び方に代わったにゃがこっちも言語学用語という罠ゃ
Allan Holdsworthがよく使うシンタックスも新手の罠ゃ? (綴りはSynthe-Axeですたが) >The Lemon Song、元歌はHowling WolfのKilling Floorですにゃ。 あ、知りませんですた。今度CD屋でさがしてみますにゃ! ('lemon'の綴り大間違いでこっぱずかですた) でもBluesの香りがぜんぜんしない曲ですよね〜 If the sun refused to shine〜 でもlemonって、ナニの隠語なんすか?と考えるとシーナ&ロケッツの 「レモンティー」って英語的にちゃんとしたメタファーなんすね・・・
あちきは、少年時代にfusionブームがあった世代ですにゃ。たどって いったらかつてcrossoverと呼ばれていた、と知りますた。生成文法を習って crossoverが出てきた時には、カオモジせんせとは逆の喜び方をしますた・・・ jazz rockっていうのもありませんでした? 十代の頃はprogressive rockと fusionは何が違うんだろう?と考えて夜も眠れないときがありますた・・・ 何とか言う人のSurfin' with the Alienというアルバムが出たときは、 「これはhard rockか?fusionか?」と悩みますたが、ライトハンドとタッピング たっぷりのアルバムだったので、いっしょけんめに練習しますたにゃ。 最近、Who Loves You: A Tribute to Jaco Pastriusというのを買って、久々に 「ギターれんしゅしよ!」とか思って(ジャコパスはbasistですがあこがれ です)artificial harmonicsの練習とかしてます。でもこのアルバム、 ジミヘンのThird Stone from the Sunからはじまるんすよー で、ギターの練習をする時にmodeとcodeの関係を最近考えるようになって、 Jazz Standardの練習をしているんですけど、しみじみ「論理学だなー」 と思って、無理矢理意味論スレと関係付けて長駄文を終わりますにゃ いつかJackendoff and Lerdahlの本が読めるぐらい楽理に通じたらいいにゃー でもWho Loves Youって、everyone who loves youって意味すかにゃー、 って、これってありなんすか?フランス語ではあるみたいすけど・・・
雑談につきあわせて悪いですにゃ(ぺこり もう廃盤になってると思うにゃが、「ツェッペリン・クラシックス」というCDがあるにゃ。 ZEPの曲の元歌集なのにゃが、これ聴くとZEPが(Pageが)いかに剽窃、いやいや無断借用+ アレンジの名手にゃったかよく分かるにゃ。ある意味、ZEP神話の真実を暴く衝撃のアルバムなのにゃ。 >If the sun refused to shine〜 にゃ? これはA面最後のThank Youですにゃ。 プログレといえば、俺の中高生時代はFloydにゃらELPにゃらYESにゃらの全盛期にゃった。 かつて洋楽板にフロイドのスレを立てたのにゃが、そこで俺とやり合っていたのが逃走派しゃんだと 後に判明するというドラマもありますたにゃー(遠い目 音楽能力と言語能力が進化論的にも関係が深いらしいことはよく語られるにゃが、John Castiの Would-Be Worlds(邦訳:複雑系による科学革命)という本の中で、生成文法と西洋音楽の構造の 話題が出てくるにゃ。 >Who Loves Youって、everyone who loves youって意味すかにゃー、 Who dares wins という言い方がありますにゃ
こちらこそおつきあいいただきありがとございますにゃ(ぺこり >にゃ? これはA面最後のThank Youですにゃ。 あぐっ!そうです!あの縁起物解放弦を生かしたD>D/C>Em7sus4の 響きの美しいはじまりの曲は'Thank You'ですた!はずかすい・・・ 'The Lemon Song'は?codeの半音移行clicheからE7で終わるブルーズイな 曲ですね・・・デカルトが誤謬の2つの源泉とした「知ったかぶり」と 「早とちり」を両方やってしまいますた(欝 >ドラマ はwitnessしますた。言語学板史上にのこる名場面ですた・・・
>Who dares wins という言い方がありますにゃ ありがとうございますた。フランス語の方はどうも古語的だそうなんです にゃが、手元の辞書では次のような例がでてますた。 Tout vient `a point [`a qui sait attendre]. (All come in oppotunity to [(everyone) who(m) knows to wait].) (カオモジせんせにはいらにゃいと思いますが、他に見る人がいたときの ために英語をつけますた。あってるかはわかりません)
>John CastiのWould-Be Worlds(邦訳:複雑系による科学革命)という本の中 >で、生成文法と西洋音楽の構造の話題が出てくるにゃ。 その本は知りませんですた。機会を見て読んでみますにゃ。 最近かじりはじめたジャズ理論を見ると、目から鱗なことがよくあります。 音楽教育をちゃんと受けた人にとってはなんでもなかったり、「ちごてる」と いうことがあるかもしれませんが、ちょっと書いてみます。 ハ長調、とかいうときのcodeとscaleは教会音楽が元になってるとのこと ですが、codal movementの推進力になるdominant motion(V7 > I)って universalっすよね。それって、V7がふくんでいる七度によって引き起こされる不協和音がtonicからみて一度+二度とすると、それが一度+三度をもつ IとかIM7によって解消される。多分、どんな「個別音楽」でもdominant motionによる「解消感」って重要で、それが理由かはわかんないすけど、 日本音階のpenta-tonicでも沖縄音階でもtonicから見て(長短)三度と五度は はずしてないすよね。するとdominant motionとそれに関連するIII, Vは 普遍部分で、ジャズで多用されるII-Vというdominant motionのdivision (たとえばEm7-5 > A7 > Dmなど)、ロックなどで使われるIV-Vのdivisionは 習得の際に選択される素性、しかもII-VのIIとIV-VのIVはsubstituion codeの 関係にあるので、minimalな選択肢対立が見かけ上大きな曲想の違いとなって 具現化される。ところでこれって言語でいえばsyntaxになるのか、semantics になるのか、悩むところですが、うーん、生成文法だなー、とかなり厨な書き込みでした。
531 :
(´∀`) :03/06/26 13:08
詳しいですにゃ、こさかなしゃん キャスティの本にもそのようなことが書いてあるにゃ。一部そのまま引用すると…… 「言語であれ何であれすべての現象は一組の規則が働いた結果だという大胆な主張に対して、チョムスキーは 一つの証拠を提供したのである。」 「...ほとんどすべての伝統的な西洋音楽の根底には少数の規則があるということが分かった。こうした規則に は、12の基礎半音の着想や、長音階と短音階および五度音階の考えが含まれている。初めの音を変えたり、音 の列を逆にしたり鏡映ししたりして音の配列を変えることにより、1400年から1900年の間に作られたどんな 音楽作品でも、事実上、その根底にある構造を探ることができる。」 と述べた後に、その構造を打ち破る新しい作曲法としてシェーンベルクの現代音楽が取り上げられているにゃ。 かつてチョムスキーがインタビューで科学や芸術には遺伝的に決定された精神構造ゆえに限界がある、しかし シェーンベルク以降の現代音楽はそれを超えるもののようであり、自分には受け入れられないものだ、と述べて いたことが思い出されますにゃ。
あぼーん
test
キャスティの本、ますます面白そうですにゃ。 ちょうど、引用にあったような話、scaleを理解しようとした時に 'tetra code'というのが出て来て、そのintervalごとの組み合わせで 基本的なscaleができる、ということときっと関係があるんでしょう。 四つの音からなるtetra codeはMajor系とMinor系があって, intervalをH(alf)とW(hole)で表すと =Major= (1)W(2)W(3)H(4) (1)W(2)W(3)W(4) =Minor= (1)W(2)H(3)W(4) (1)H(2)W(3)W(4) これをオクターブになるように半音(h)か全音(w)で繋ぐと 長調、短調の音をどれからはじめるかscaleの調整が構成されますにゃ。気付くのはWWWとWHWはsymmetricで、WWHとHWWはmirror-imageに なっていますにゃ。 長調の各コードと対応するスケールをtetra-codeで表すと IM7: WWH+w+WWH(ionian) IIm7: WHW+w+WHW(dorian) IIIm7: HWW+w+HWW(phrigyan) IVM7: WWW+h+WWH(lydian) V7: WWH+w+WHW(mixo-lydian) VIm7: WHW+w+HWW(aeorian) VIIm7-5: HWW+h+WWW(locrian) ここでlydianとlocrian、ionianとphrygian、mixo-lydianとaeorianがmirror-imageになってますにゃ。 意外だと思ったのは、mixo-lydianがMajor系tetra codeと Minor系tetra codeを全音で繋いだものだということ、 長音の最も足るもののように思えるionianが下降では(intervalと いう観点では)Minor系のphrygian(これは上昇では不思議な響きを 持ちますにゃ)つまり上昇か下降かというdirectionality、または 上に重ねるというdirectionalityが重要なようですにゃ
(つづき) すると上昇を[+dir]、下降を[-dir]とすると、長調の各コードに 対応するscaleは [+dir] [-dir] ionian phrigian aeorian mixo-lydian lydian locrian dorian となり、教会音階に含まれないsymmetricな音階として HWW+w+WWH WWH+w+HWW というのが考えられ(名前は分かりませんにゃ)、それに クロマチックとホールトーンスケールもsymmetricなものと してくわえられますにゃ。 蛇足ですが、aeorian(natural minor)があまり整理されていないもの として、後部tetra codeをハンガリー短のものにかえたのが Yngwee様が好むharmonic minorになりますにゃ。 tetra code, directionalityといった少数のfactorの 組み合わせから調性の決定、codalな流れなどが決定されてるって 不思議です。もうちょっと勉強したらJackendoffの音楽の生成文法の ことがわかるようになるにゃろか。 調子に乗って、いろいろ書いてしまいました。厨房です。 > かつてチョムスキーが チョムスキーがそう言ってるんですか・・・実際、同僚にギターの 現代音楽をすすめられて聴きましたが、落としどころがどこなのか わからなくて理解できませんですた。きっと12音階技法はそこで 伝統的調性を破壊してあらたな秩序を探しているとは思うのですが・・ でもプログレとかの変拍子とかscale outとかwhole toneでのソロが 気持ちいいのはなんでだろうー
こさかなしゃん、すごいにゃ( ゚д゚)ポカーン また近いうちに意味論話しに来ますにゃ。sage
K-Rodしゃん、ありがとございますた でも9割5分はったりですにゃ... キャスティーの本、さがしにいったら在庫なし、という(T T) そろそろ意味論の寝た振りしなきゃ、と思いつつsage 最近、DRTのこと、くわず嫌いだったということが判明しますた。 Intra-Sentensialなco-referenceについてのDRTに、ちょっと興味。 □老師がかいてるあたりをよみなおして見ますにゃ。 E-typeともきっと関係するとおもいますので、そのときは K-Rodしゃん、よろすくお願いしますにゃん まずHeimのFile Change Semanticsの論文でもよもかにゃー (完全な消防です)
うあー、暑くて数式とか論理式とか出てくる論文読んでると意識がとおのくー と、実は数学が苦手なことを告白ってしまいながらsage そういえば、「告白(こく)る」って意味が特定化されて、「愛の告白」にしか つかわないのかなー すると上の使い方はまちがってますねー きょーびの大学生は「告白る」を頻発してるみたいだけど A:おい、おまえ○子ちゃんに告白ったって、マジかよ? B:うん、告白った って、おまえ「うん○食ったのかよー」ってつっこみたくなりますね。 下品ネタですまそです。それから最近「石る」という言葉も習いました。 英語の直訳だそうです。
エレベーターの中で「あ、屁をした!」という香具師がいたので全員遠巻きにしたが、実はそいつは 開閉スイッチの「閉」を押した、と言ったらしい、というのがありますたにゃ(イマイチにゃ) 「石る」って何にゃ?
カオモジせんせ、関西アクセントでですか?想像したらじわじわ効きますた。 「石る」はクスリをやってラリッてる"be stoned"の直訳らすいのですが、 多分どっかのクラブとかのスラング?(一般的だったら一寸こわい・・・) 直訳つながりで、そういえば昨日楽器屋をうろついていたら、「王様」復活 したんですか?新しいCDをひっさげて来○って書いてありますたが・・・ カオモジせんせはああいうのは嫌いだろうなー
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
GGG5スレでH,C&Fの話や、BrameのAlgebraic Syntaxの話がでてきて、 チョー刺激的なのです。関連する話かわかりませんが、こちらでも ネタ降りしてみようと思います。 例えば、時間に関する言語表現に関して、もちろん統語構造あり、 意味構造あり、形態論的対象あり、です。が、その意味解釈に関して モデル理論的な立場をとると、時に関する一定の形式的特性を定めるとき、 "density"を必ず入れて、real numbersからなるlinear orderd set Rと homomorphisticなものが仮定されることがあります。たしかに時間に対する naive viewにあったものだとは思いますが、一方、言語を見ると、連続性をも つ時間と、非連続の時間が同一視されて(少なくとも表面上は)扱われるよう な現象があります。例えばすぐに浮かぶのは、継続する事態と、反復される 事態を表す形式が同一である、ということです(確かJackendoffの何かの 論文でFinnishにはiterative専用の形式があるそうですが、ちょっとこういう のはしばらく無視します)。 これは、言語には連続と離散の区別を無視する部門があるということを 意味するのでしょうか?それとも、C-Iというのは外部体系だからこのような ことが許されるのでしょうか?はたまた、人間が持つfacultyは全てdiscrete infinityで特徴付けられるのであり、continuousなものをcontinuousなもので 認識する、というのは幻視であり、例えば連続的な時間のモデルを仮定する 意味論は「単に誤り」なのでしょうか。
ついでに。 最近、LinkのPlural vs. Massの扱いを応用した論文を読む機会が多くて、 Linkよまなきゃー、と思いつつ読んでないんすけど、応用論文の方を読んだ ところでは、Linkのアプローチではpluralをまず演算によってindividual扱いに し(i-sum)、mass termをindividual扱いできるようにします。predicateに distributiveなものとそうでないものがあり、distributiveなものの場合には i-sumからi-partを取り出す関数が適用され、plural individuals扱いになる。i-partを取り出すときにはi-sumから取り出される他のi-partとの組み合 わせに様々なものがあるので、i-part相互と関数適用のパタンを整理すると upper semi-latticeになる(孫引きなので間違いいぱーいかもしれませんが、そのときはご指摘よろしく)。 で。確かに人間言語の解釈において、plural vs. massという区別はあるのは同意できるのですが、人間のC-I、または「まとまり」や「ばらばら」を 認識する領域ではそんなことを行っているのでしょうか。むしろ、「ばらばら」が先にあって、時々その「ばらばら」の隙間を無視する、というほうが いいような気がします。勘ですが。 あー、あんまりネタ振りになってない気がする。
ところで。 Michael Brameで検索したですが、あんましよくわかんなかーたす。 "Recursive Categorial Grammar"という語でもかかんなかった。 (やたらシェークスピアっていうのがかかった) でも、講義の補助資料で"production","recognition"、あと何だっけ? は見ますた。全然ちがうんだろうけど、ベクトルをみたら橋本文法を 思い出していましますた。steedmanのreferencesを見ても1979年の Base Generated Syntaxというのまでしかない。やっぱLinguistic Analysis 見るしかないかな?関係ないけど、Brameって、結構おとこまえね。
なんか誘導されたので、記念パピコにゃ。教会旋法について書けばいいのかにゃ? 以前わたしも、対称性の破れにからめたドミナント解釈を書いたことがあったけど、 平均律という「人工言語」の世界のお話ということで、その筋のひとに一蹴されたにゃ。 じっさい、平均律に基づいて民族音階の普遍性を語るのはかなり無謀。 音階の起源はやはり音程の数比にもとづくものと思われ、生成規則は、 1.ある音から、完全8度をつくることができる。(比1:2) 2.ある音から、完全5度をつくることができる。(比2:3)という数理的なものに還元されるにゃ。 ここから、ド→ソ→レ→ラ→ミの順でpenta tonicが生成されると考えるのが自然にゃ。 (よく知られていることだが、これを繰り返すうちに歪みが生じてくる) 逆に、生成された平均律12音階から説明しようとすると、これ(たとえばpenta tonic)は4音と7音を欠いているとか、 上のようにintervalのパターンから秩序づけるという話になるけど、ここにも言語学と同じような「説明」の競合が現れていると思われるにゃ。
あ、虚無好きせんせ、おひさしうございます! どちらからの誘導なのでしょう、ちょっと見てみたい気が・・・ >1.ある音から、完全8度をつくることができる。(比1:2) >2.ある音から、完全5度をつくることができる。(比2:3)という >数理的なものに還元されるにゃ。 >ここから、ド→ソ→レ→ラ→ミの順でpenta tonicが生成されると考えるのが >自然にゃ。 にゃるほど・・・これを逆に行った五度進行の連続、いわゆるcircle of 5th でドに戻るまで続けるとオクターブに含まれる半音階が網羅される、 これが虚無好きせんせのいう「歪み」でしょうか・・・ ところで、ドから完全五度ずつあげたものをミまでいって、そこでやめる、 (シ→ラ♭までいかない)というのは何故?というのは聞いてもいい 質問でしょうか・・・それは"natural place"だからでしょうか?
ぶにゃぶにゃ。詳述するとはげしくスレ違いになるが、 シが生成されにくいのは、シと半音上のドの関係が243:256という極端な「不響」音程になるからではないかにゃ。 こういった自然音階に生じるムラ(歪み)を数学的にならしたものが(最終的には)「平均律」という人工音階であるが、 歴史は浅いものの、人工普遍言語とちがって非常に成功しているといえるにゃ。(その筋のひとにとっては、真正な音楽ではないらしいけど) わたしなどは、「うなりを生じない」純正の完全5度をきくと、迫力のなさに萎えるんだけど、 (っつーか、倍音のいちぶとなって聞こえないほどにゃ。) 現代的商業音楽を聴いて育った人間は、ほぼ「人工音階」の国の住人なんではないかにゃ。 ポイントは (1)和声の「協和」の物理的本質をさぐると、振動数の単純な比である。 このことは、聴覚認知が、相異なる振動数の共鳴において、 単純な整数比を快く感じるように先天的にエンコードされている可能性があるともいえる。 (2)とはいうものの、現実的には、自由な転調や、ジャズの複雑なテンションを可能にする平均律 (半音が2の12乗根の等比数列、減5度が√2)がひろく受け入れられている、 これは音楽認知が基礎的なレベルで後天的な刺激により大きくかわるということであり、 このギャップはなんなのか、わたしには言語学との関連で、とるにたりない問題とは思えないけどにゃ。 まあ、また相手にしてちょ。にゃ。
>546 circle of 5th はcycle of 5thですたー またやっちまったー すまそー 虚無せんせ、ありがとございますた! >シが生成されにくいのは、シと半音上のドの関係が243:256と >いう極端な「不響」音程になるからではないかにゃ。 にゃるほどー こでは短2度の不協和音ですね。で、これをオクターブ あげるとキモチイー短9度のテンションノートになる。 (関係ないでつがピアノで短2度の和音をひくと濁るが、ギターでひくと それほどでもない、と聞いたことがあるでつ。ふしぎふしぎ。) >これは音楽認知が基礎的なレベルで後天的な刺激により大きく >かわるということであり、このギャップはなんなのか、わたしには >言語学との関連で、とるにたりない問題とは思えないけどにゃ。 にゃるほどー。しかしJackendoffは逆に、訓練された耳には、 曲を曲たらしめている普遍的なパタンが判断されると言ってたような。 ぺんたの1、5以外は不完全協和であり、どうも理屈はわからないですが、 不協和音も密集和音でこそ不協和音であり、分散和音ではせいぜい不完全 協和の範囲にぎりぎりおさまるんでは、とか思ったりします。 でも「ジャズはわけわかんないから嫌い」って人もいるし、私が現代音楽 嫌いなのもそのレベルかもしれませんし、言語学との関連で、興味津々でつ。 音程の比は倍音しか知らなかったでつが、「半音が・・・」とか 興味ぶかいでつ!
>にゃるほどー こでは短2度の不協和音ですね 平均律12音階上の不協音程の話と、自然音階の生成における「快くない」音程の話を ごたまぜにしてないかにゃ。 それぞれの民族音階のintervalの直観を、平均律のほうから推測してはいけないのにゃ。 まあ。心理板のほうで、しょうしょう音階の意味論について語ったので、もう少し続けるかにゃ。 平均律の生成規則は、単純に、F(n+1)=F(n)×<2の12乗根>(F(a)は音名aの周波数、音名は整数)の数列であり、 ここから自然音階を模した音階を擬似的に抽出しているというのが現状。 「訓練された耳」のひとにとっては、平均律というのは通俗的な科学読み物のようなものであり、 真正な音楽を表現するものではない、というぐらいに思っておいたほうがいいにゃ。 たとえば、人工言語では文学は不可能、みたいなもんですかにゃ。 わたしは完全に平均律の世界の住人なので、そのような異言語を話すひとたちのことはわからんにゃ。 カラオケにいって、適当にピッチを-2とか+3とかにして平気なひとは、たいがい平均律の世界の人間ではないかにゃ。
ここまでくれば、平均律と人工言語の対比がかなり明確になるにゃ。 音階上の音というのは、たんに物理音の表象ではなく、 語や音素などの言語学単位と同じく構造的な「価値」をもっており、それは心的実在である(とりあえず)。 平均律は、自然音階とは独立した起源(生成規則)をもっており、たかだか200年の歴史しかない(たぶん)。 さてそれにもかかわらず<(調性tonal)音楽>の生得的「規則」を探ることが可能であるとするならば、 そもそも「心的表象」の構造の、直観による分析を通じて生得的な構造を探る作業があてにならないことを意味しないのかにゃ。 たとえば長音階のレとラを抜けば、擬似的な沖縄音階になる。 そのかわりにレとラを半音下げれば、擬似的なアラビア音階になるにゃ。 さてここで、レとラのふるまいについて、3値のパラメタを想定すれば、3つの音階が統一的に記述できるにゃ。 はたしてこれは、本質的な「説明」となっているのだろうかにゃ? このような記述がかりに「説明」とよばれようと、チョム理論の皮相さを連想させるに十分だとわたしには思えるにゃ。 ここは生成批判スレではないんだけどにゃ。 (ちなみに、ホンモノのアラビア音階は、中立3度を含む複雑なもの)
2回にわけたら、うっかりあげてしまったにゃ。
>>547 生成の遺伝・環境相関論の立場と相性がいいにゃ
>>550 なにをもって
>本質的な「説明」
とするかが問題にゃが、パラメタ設定もある段階での暫定的説明であって次の段階では説明されるべき
記述になる(すでになっている?)のは言うまでもないのにゃ。
生得スレの続き頼むにゃ。
>>549 >平均律12音階上の不協音程の話と、自然音階の生成における「快くない」
>音程の話をごたまぜにしてないかにゃ。
あ、おっしゃる通りでつ。ごたまぜにしないで、もう一度読み直してみまつ。
というか、平均律はcounter-intuitiveなので、今一度、同僚のところで
平均律の楽曲を聞いてきて、体で感じてきまつ。確かに一部はキモチいいの
でつが・・・
554 :
こさかな@蒙昧 :03/07/29 12:20
特にネタはありませぬが、agée
あぼーん
生得スレにちょっといってきますた。改めて、こちらへのカキコに 対して虚無せんせ、ありがとございますた(ぺこり それからカオモジせんせ、虚無せんせにこちらを紹介していただき ありがとございますた(ぺこり 平均律と自然律への理解が足りなかったようで、勉強中でつ。 (十二音階技法を、単に無調性としか認識してませんですた) で、十二音階技法をネットで検索してたら 「ピアノ協奏曲第一番」(キース・エマーソン) というのをハケーン!キモチイー! カオモジせんせ、この曲もしかして御存じでした?
特に第三楽章の出だしがかつてのタルカスを彷彿とさせるパワフルさで(・∀・)イイ! 勝手に選ばせてもらうとELPのベスト3は、Barbarian、Tarkus、Toccataなのにゃ
今日、『音楽理論の基礎』という本を買ってきて読んでます。
平均律のことをすんごく勘違いしてますた・・・おそらく、今、私たちが
ちゃんと調律したギターで弾いてたら平均律なんですよね・・・
自然律(純正調やピタゴラス音階、民族音階がこちらですよね?)
勉強して出直してきまっす!(というか、あんまりやると道を踏み外しそう)
平均律でも嫌な「うなり」は自然律での嫌な「うなり」と
にていて、それに対する制約が脳に内在していれば、平均律の「基音」
(という表現がふさわしいか、わかりませんけど)がどんな周波数であれ
(かつては、1858年に制定されたA=435Hzが採用されていたのが、今、日本
では440Hz(NHKの時報ってこれでしたっけ?)、または演奏家は442とか
使っている、と本で読みますた)ある一定のインターバルでのうなりが
嫌だ、ということが生成文法とのからみでは重要かなあ、とか思いますた。
これは虚無せんせ
>>547 の(1)に関係するっすかなー しかし
>このことは、聴覚認知が、相異なる振動数の共鳴において、単純な
>整数比を快く感じるように先天的にエンコードされている可能性が
>あるともいえる
にはちょっと?でつ。これは「何も感じない」でいいんでないでしょうか。
むしろ「心地よさ」はある特定の調性でのケーデンスで不快な
「うなり」が解消される、というところが領域固有性と関係がありそうな。
すると(2)がはたして真の設問となりうるでしょーか。
>>557 やはりごぞんじでしたか!足では弾いてないすよね?
レコード屋でさがしてみまつ!
相変わらず意味論と関係あるんだかないんだかわかんないネタでゴメソす。 「ピアノ協奏曲第一」が入ったアルバムはみつんなかった(ちっ でもEL&Pの1stと"Brain Salad Surgery"を入手。Toccataを聞いた後に UKを聴くとすごく調性を感じるのと、無性にFrank Zappaが聴きたくなる。 何故かTake a Pebbleを聴くと後期ヤードバーズを思い出す。 時代的にはどんな関係だったっけ。 しかし山に登って叫びたい。 Toccata、すきじゃー!
Piano Concerto No.1は Works Volume 1 という2枚組に入ってるにゃ
ライブ盤のWorks Live(最初は1枚組として出たにゃが後ほど2枚組完全版として再発)にも
第三楽章だけ収録されてるにゃ。この、フルオーケストラを引き連れた北米ツアーで大赤字を
出し、以降ELPは失速の一途にゃった……
ちなみにBarbarianの原曲はBela BartokのAllegro Barbaro、ToccataはGinasteraの1st Piano Concerto
第四楽章ということらしいですにゃ、どっちも知らんけどにゃ(どてっ)
あと、Tarkusは最近、国府弘子というジャズピアニストが取り上げたことで話題になったですにゃ、
こっちも知らんけどにゃ(どてとてっ)
http://jazzfusion.com/live2000/kokubulive2000.htm 絵馬損が甲子園で日本刀振り回していた頃、俺はまだ中学生にゃった……(遠い目
"Reworks"とゆーのはあったんですけど、お目当てのほうはなかったっす(ちっ 別のレコード屋でさがしてみまつ。 >国府弘子というジャズピアニスト あ、ジャズとつながった・・・そういえば、なんとなく昨日の妄想から ヤードバーズのLittle Gamesを聞いてます。一番好きなのは'think about it' ですが、ずっとメロディ、リフは無調性かなー、とかおもってましたけど、 そうでもないですね。おっと、カオモジせんせの前でZep前夜のthe yardbirds の話をするなんて、なんて度胸のある私。
昔どこかで読んで、出典が思い出せない話で純正律に関係がある話。 ある音を基音として、αHzとする。その振動数の整数倍を倍音列と言うが、 倍音列のうち、αHzと2αHz、3αHzと6αHz、5αHzと10αHz、7αHzと14αHz... というように、二倍の振動数の関係にあるものがオクターブの関係にあるが、 そこに素数が絡んでいる、という話だったような・・・ なんの話だったんだろう。ご存じの方がいたらご教授ください。 純正律のオクターブと素数 ひまわりの種の配列とフィボナッチ数列 自然における調和と還元不可能な数学的構造 (自然物としての調和である言語と・・・) あうあうあうあうあうー
関係あるかどうか知らんけどにゃ、例のCastiの本から引用するにゃ。 音の隔たりに関する研究によって、驚くべき事実が発見された。ある数だけ音が離れていると、ほかの場合 よりも人間の耳に音がより快く響くのである。特に、ほとんどの西洋音楽が基本としている調和のとれた 間隔は、七音半からなる。そこでたとえば、音1から始めて半音七つ数えると音8に達する。そこから半音を 七つ数えると音3にくる。こうした方法で数え続けると、1,8,3,10,5,12,7,2,9,4, 11,6という音列を生じる。これを見ると分かるように、始めたのと同じ音に戻る前に、12の音のどれも がこの音列に一度ずつ現れている。ここで音6から半音を七つ先へ進めれば出発点の音1に戻ることになる。 この12の音の列は、それぞれ隣の音と七半音ずつ離れており、五度圏と呼ばれている。 同書には(当然のように)Lシステムも取り上げられているわけだけどにゃ。 ところでELPにはブートをオフィ化したようなThen & Now というCDがあって、オケなしピアノ一本だけの 第三楽章が収録されてるにゃ。あと伝説の74年カルジャム(ブラックモアがアンプを炎上させてた時)での Toccata(曲の途中で爆音が起きて中断)とか、おそらくライブとして最高の出来のFrom the Beginning、 ライブ初収録のTime & Place、など、このアルバムは隠れた名盤ですにゃ。 ……と、ELPネタをふると逃走派しゃんが出てきそうなヨカーンw
隊長!Then & Nowにおいて、Toccataが爆破によって中断されたことを 確認しますた! Nowの方のPiano Concerto No.1、ようやく辿り着きますた・・・ キモチイー!カオモジせんせ、ありがとうございますた!
∧_∧ ∧_∧ ピュ.ー ( ・3・) ( ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕 = ◎――――――◎ 山崎渉&ぼるじょあ
(゜Д゜)ハァ? 564の引用って、つっこむ価値あんのかにゃ。むにゃむにゃ。 だって互いに素である任意の自然数のペアをもってくれば、そんな数列すぐできるにゃん。11と5でも 1,6,11,5,10,4,9,3,8,2,7,1で循環するにゃ。 半音の成立を前提にして5度(7半音)を説明しても意味ないのにゃ。これはアマチュア語源学者もよくやる「後付け」。 へんてこな数列をみて、すぐに<真理>をみた気分になるのは、ただの数秘論にゃ。 倍音と素数の関連については、よくわかんないけど、 たとえば2倍音(オクターヴ関係)の系列をみると、倍音列の2,4,8,16...番目に現れるにゃ。 3倍音(1:3=基音と1オクターヴ上の<ソ>の関係)については、 それじしんの2倍音列が観察され、<ソ>は3,6,12,24...番目に現れるにゃ。 また3倍音の3倍音(1:9は、3オクターヴ上の<レ>)の系列も観察されるにゃ。 (よけいなことだけど、2番目の倍音は2倍音、3番目は3倍音であるから、 倍音に序数(に1加えた数)をふっていけばそれが基音の何倍のfrequencyを持つかを表すことに注意)
ここで、倍音列nのfrequencyを考えてみると、nがもし素数であるとすれば、 新しい倍音列の最初の項であるという予想がたつにゃ。 Cを基音とする倍音列をみると、 ド(基音)、ド(2)、ソ(3)、ド(4)、ミ(5)、ソ(6)、シb(7)、ド(8)、 レ(9)、ミ(10)、ファ#(11)、ソ(12)、ソ#(13)、シb(14)、シ(15)、ド(16)…となるにゃ。 これをみると、すくなくとも素数の位置には新しい音名が現れているにゃ。 また9番目と15番目については、素因数分解をすれば、それがどの倍音系列に属するかわかるのにゃ。 そゆことじゃないの?なんだかよくわかんなかったかにゃ。 ややこしいわりにはこれが<驚くべき事実>とは思えないにゃ。降参にゃ。
>558 「訓練された耳」には倍音を個別に聞き分ける能力があること、 倍音が整数比であること、倍音列が音階や和音を連想させる配列になっていることなどから、 (倍音列7番目までを同時に押さえれば、7thのvoicingとしては非常によい) わたしは、生得的とまではいわないにせよ、整数比は基礎的な音楽認知上の制約をなすものであり、 音色(倍音構成)、和声、音階を統一する原理がありそうな気がする。がにゃ。 整数比をぶちこわしてirrationalな「平均律」が成立してるともいえるんじゃないのかにゃ?それがナゾ。 これが「真の設問」でないというのは、「経験的問題」ではないってことかにゃ? それとも恣意的でナンセンスな二分化が問題のなかに含まれていて、擬似的な問題になっているということかにゃ。 とりあえず、音階の成立の問題と、dominant motionによる「解決」の問題は別にしたほうがいいにゃ。 前者の問題がより根本的だと思うにゃあ。
>>568 虚無せんせ、ありがとございますた(ぺこり
新しい音名が現れている、そういうことでつね。で、素数はもっと続くけど
音名は基音を含む12個の素数でつきちゃうから、あんまり「素数」と
タッグを組んで、とゆーのでもないすね。
そもそも
>>530 , 534-535あたりって、ずーじゃ理論を勉強して数週間目
(とちょっと弁明)に書いたもので、記憶力悪いもんで、スケールを
覚えるのにインターバルを記号化して「mirror image」とか書き込んで
記憶の助けにしてたものなんすけど、思わず音楽理論を勉強する良い機会に
なりますた。今日、『音楽理論の基礎』とゆー本をやっと読み終わったでつ
けど、虚無せんせが言ってたように、調性音楽が成立してからまだ二世紀半
ほどしか経ってないんでつね。で調性音楽は平均律を前提としてて、
バッハの1722年「平均律クラヴィーア曲集」が調性を平行移動できることを
実際にしめしたもの(受け売りっすけど)。しかもそれからちょうど200年後
に、ワーグナーに端緒をみる無調性技法をシェーンベルクが提示して、それ
までの調性楽典の限界を乗り越える(再び受け売り)。クラシック聞かない
もので、この辺りの事情を初めて知ったのでつが、
>>547 で虚無せんせが
>これは音楽認知が基礎的なレベルで後天的な刺激により大きくかわると
>いうことであり、このギャップはなんなのか、わたしには言語学との
>関連で、とるにたりない問題とは思えないけどにゃ。
をやっと理解したかもしれませぬ(まだかもしれませぬ)
無調性音楽をcounter-intuitiveだと信じ込んでますたが、考えてみれば
Frank Zappaや、聞きはじめてまだ間もないEL&Pの曲でも無調性のもの、
かなーり好きでつ。で、クラシックのかなり調性がハッキリしたものは、
耳に障らないので、music facultyの知識に適ってるのかにゃー、とか
思ってますたが、その成立から250年ほど、しかも調性理論には無理が
あるとして生まれたものがそんなに耳に障らないとすると・・・にゃるほど。
(調性理論がより強固に支持されていくなら、内在知識のモデルとして
妥当だ、と考えてますたが・・・)
>569 >とりあえず、音階の成立の問題と、dominant motionによる「解決」の >問題は別にしたほうがいいにゃ。前者の問題がより根本的だと思うにゃあ。 自分が(たぶん)平均律の世界の人間だと分かった所で、frequencyのどれを 基音にしても、そこから2の12乗根の比で平均律の音階を組み立てられる とすると、今度は逆に自然律への興味が失われてしまいますた (自分が手にする楽器がギターで、しかも基本になる音がずれてても 普通に弾いてる(音痴なだけ?))。というのは、音階の成立の問題は 人間の音楽認知に関する内在知識の問題にとって、それほど重要ではない のではないかと。虚無せんせがおっしゃるのは、自然律において、特定の 数学的にきれいな比がうなりを生じない音の関係で、これは脳に快適な 関係として書き込まれている、ということっすよね。しかし、これは人間の 耳だけでなく、物理的にうなりがない、とは言えないっすか? 「真の問題ではない」と言ったのは、平均律が許容される時点ですでに 自然律と平均律の違いは「人間音楽」(?)にとっては、日本語の/r/を 舌先の一回の弾きか、トリルかというような違いであって、虚無せんせが たてられた(1)の設問へは否定的回答、そして(1)を前提とする(2)の 設問は設問のステータスを失う、と思いますた。でもわかんなくなって きちゃいますたー、ふえーん。前者の方が根本的な気もするし・・・
キャスティ先生の『複雑系による科学革命』を探していたところ、 それはみつかんなかったのですが、『ゲーデルの世界』(ヴェルナー・ デパウリとの共著、原題Godel: A Life of Logic)という本を見つけますた。 その本に次のような箇所がありますた。 p.158 「興味深いことに、ゲーデル自身は、この進化論の見解が気に入っていた ようである。あなたの定理は真の機械知性の発展をはばんでそびえ立つ 障壁なのですか、と聞かれたとき、ゲーデルは次のような反応を示した。 ・・・定理を証明する機械が存在する(そのうえ経験的に発見できる) 可能性は残っています。その機械は、実際のところ、数学的直観という 点では、[人間精神に]匹敵するものなのです。しかし、そうであると 証明することはできませんし、有限の整数論に関して正しい定理だけを 生み出すと証明することもできません (中略)したがって、ゲーデルの指示は、脳を組み立てることではなく、 脳を育てることなのだ!」 この話は、ボトムアップ型、トップダウン型の認知理論が共に一定の ところで限界に達する、という話のあとにでてきたのですが、だからと いってどうしたらよいと言うのでしょーね。
(⌒V⌒) │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。 ⊂| |つ (_)(_) 山崎パン
574 :
(´∀`) :03/08/21 06:06
pied-piping age
せっかく(´∀`)せんせがあげてくれましたにゃが、下がって しまいましたので、あげますにゃ まだ読んでないんですにゃが、Syntax Vol.6 No.1に'Anaphoric R-Expressions as Bound Variable'というアーチクルがありましたにゃが、K-Rodしゃんが 前に言っていたE-type pronou as Definite NP説と関係ありませんかにゃ? (読んでからカキコしる!ですにゃが・・・)
576 :
K-Rod@無知 :03/08/29 00:31
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | | 探さないで下さい。 | | | /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /_____ / /~ ̄ ̄ヽ /ヽ__// / _i_T___l / / / / | ・ ・ モミ / / / / 〈 / し ヽ 〉.9) / / / / | Д | / / / / |__(⊃⌒*⌒⊂) / / / / /__ノ''''ヽ__) / / / / ________ / / / / /
577 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/08/29 00:31
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | | 探さないで下さい。 | | | /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /_____ / /~ ̄ ̄ヽ /ヽ__// / _i_T___l / / / / | ・ ・ モミ / / / / 〈 / し ヽ 〉.9) / / / / | Д | / / / / |__(⊃⌒*⌒⊂) / / / / /__ノ''''ヽ__) / / / / ________ / / / / /
今日は雨模様かにゃ。ちなみに上のAAは私の作ではないにゃ。
おもしろいけどにゃ。(片岡AAにゃ?)
>>575 知らないですにゃ。また近いうちに読んでみまつ。
夏ももう終わりにゃのやろか。
逝ってきます。
>音階の成立の問題は >人間の音楽認知に関する内在知識の問題にとって、それほど重要ではないのではないかと。 じつは単純な相対主義にもっていければ、たいして悩む必要はないのにゃ。 (もともと「必要」なんてないんだけど) だけどそうなると、「平均律」は7乗根の等比列だろうと、13乗根だろうと、なんでもいいことになってしまうにゃ。 わたしの予想では、おそらくはそうなってはいない。 もし12乗根が、なんらかの必然性があるとすれば、完全4度や、完全5度をよく近似するとかの理由があるかもしれないにゃ。 中国音階、アラビア音階においても、12の数字がでてくるし、 かなり複雑なアラビア音階においても、5度はかなり「純正な」響きがするとみられる。(セントにして±2) >日本語の/r/を舌先の一回の弾きか、トリルかというような違いであって、 音声学とのからみであれば、母音のフォルマント周波数との比較のほうが適切ではあるが、 さて注意しなければならないことは、「音階」を問題にするときにすでに、 (1)オクターヴ関係をもつ複数の音は、同じ構造内(音階での)価値をもつ、すなわち (2)1オクターヴの内部での「位置」だけに注目すればよいということを、暗黙のうちに前提としてしまってるのではないかにゃ。 つまり知らず知らずのうちに、単純な連続スカラー量である振動数をオクターヴ関係に「分割」しており、 可聴領域のなかに、かたまりのごとく絶対的・非循環的な「ド」「レ」「ミ」…が分布しているという可能性を排除してはいないかにゃ。 「音階」がすでに1:2の比を基調としているのであれば、わたしは単純な相対主義をとるのは躊躇するにゃ。
虚無せんせ、
>(2)1オクターヴの内部での「位置」だけに注目すればよいということを、
>暗黙のうちに前提としてしまってるのではないかにゃ。
>「音階」がすでに1:2の比を基調としているのであれば、
おっしゃるとおりですにゃ・・・虚無せんせが
>>545 でいってた「歪み」
(あの時点で私ははなはだしく誤解してましたにゃ・・・)が自然律に
よる五度進行を繰り返すと生ずる、ということは、1:2の比を縛りとしない
音階の生成において「五度」というものが一定の価値をもつ、言い換えれば
「五度」というものの価値付けが一オクターブのなかでの相対的価値で
ある必然性がまったくないことを示すに十分ですにゃー
>「平均律」は7乗根の等比列だろうと、13乗根だろうと、なんでもいい
>ことになってしまうにゃ。わたしの予想では、おそらくはそうなっては
>いない
もまったく同意で、されば私がとっていた素朴相対論は、hidden assumption
として相対論とは相容れないものを採用してましたにゃ。
いま前のところを読み返すと、しみじみ私の誤解が多くて、虚無せんせの
話がじわじわわかってきてる(とおもう)。無理解ゆえの失礼をお許し
ください。
で心機一転考えてみると、虚無せんせの言う音階の生成は、音楽史と
考えれば言語進化論、個人における出現と考えれば言語獲得に並び比する
ことができると思いますにゃが、ここで改めて、「生得的な」音階、言い
換えれば音階の原初的状態である五度、およびその連続適用から
生成され、並べかえられたペンタトニックの、その個々の音階と一度との
比と、平均律(人工言語)の関係をもう少しご教示おながいしますにゃ(ぺこり
こちらのスレではちらりとだけ触れられてましたが、音楽の意味論、
というのは、ある音階の「指示物」とも関係ありますかにゃ?
気が向いたらおながいします。
思いつきを書きますニャ。 五度上昇を繰り替えしたものを、(平均率の)1オクターブにおさまる形に するということは、一回の上昇に対応して1オクターブ下げる、という ことになりますにゃ(虚無せんせがいったとおり)。定式化すると (別にしなくてもいいすけど) n(音階)= x Hz・(n ・2/3)・(n ・1/2)= x Hz・nの二乗 ・1/3 ここには「nオクターブ下降」が使われていますニャ。 五度上昇の関係(A)の他に、オクターブ上昇の関係(B)も生得的なものとして (きれいな整数比であることから「人間音楽」の、他に還元不可能な ものとは言えないとしても)、上昇が可能だから下降も可能、は自明では ないとおもいますニャ(でないと五度下降からヨナ抜きのヨ=Fがでる) ふと思ったのは、二つの可能性ですにゃ。ひとつは、上昇の関係だけで、 その繰り返しから、ヨナ及び黒鍵の音をはずした音階が構成可能だと いう可能性、もう一つは、オクターブの関係は五度の関係より「単純」 だから、五度に比べて方向性という点で縛りが少ない、という可能性。 もし後者がよりもっともらしいとしたら、少なくともオクターブの関係 だけは確保できないにゃろーか。もっとも、そこから、オクターブ内での 相対的価値としての五度、というところへはワンステップには逝けません にゃが・・・
>>578 K-Rodしゃん、時間があったらみてくだしゃい、にゃ。でも、あんまし
関係にゃいかもしれなくて、あっても周辺的に関連するのみかもしれません
にゃが・・・
扱われている言語はSan Lukas Quiavini Zapotecというメキシコの言語で、
Lasnik1991で触れられているタイ語と同じように、R-expressionや代名詞が
束縛されているように見える現象があるのだそうですにゃ。でもこれは
*[He]i looked at [Mike]i.
*[Mike]i likes [he]i.
にゃから、(従来いわれていたように)BC BおよびBC Cがこの言語では
違反可能、ということではない、というのが著者のLeeの主張ですにゃ。
勉強不足なもので、理論的にこれが現在の研究状況でどういう価値を
もつのかわかりませんにゃが、何となく面白いと思った現象を挙げますニャ。
それはQPが主語と目的語になってる場合ですニャ。reflexive readingでは
*B-gufty cho'nn ra bxuuhahz cho'nn ra bxuuhahz
(PERF-kill three PL priest three PL priest)
のように許されない。type mismatchがない
場合にはらむにゃ演算子を媒介として、一つの名前の指示が与えられる:
||kill onself||:=[Lx.Lx.x kill x](Mike)=1
しかし上の例はtype mismatchと考え、<e,<e,t>>のB-guftyの位置にタイプが
<<e,t>,t>のQPがこれないので、LFでQRが起こり、根がtype-shiftで
<e,t>になって、QPのタイプの値としてtを出す。残った痕跡のタイプは
eだけど、その指示はそれぞれ独立になる、とのことですにゃ。
関係ないですけど、火星大接近を見のがしてしまいましたニャ・・・
すみません、訂正します
>>581 >n(音階)= x Hz・(n ・2/3)・(n ・1/2)= x Hz・nの二乗 ・1/3
はだいぶ栃苦ってましたニャ。順番に考えると、ドCとラGの比は2:3だから、
Gをx(Hz)として
x:G=2:3
で
2G=3x
G=3/2x
GはCからはじまるオクターブにおさまっているので下げる必要はないニャ。
次のレDは
D=3/2G=9/4x
これは次のオクターブに入っているので、pentaの構成に一オクターブ下げる
必要がある初めての音ニャ。だからさらに
D(within the same auctave)=9/4x・1/2=9/8x ...(1)
数学弱いもんで
>>549 >平均律の生成規則は、単純に、F(n+1)=F(n)×<2の12乗根>
>(F(a)は音名aの周波数、音名は整数)
に比せられるような一般項の式はわかんにゃいです。
(1)のような行き方が正しいか調べるために虚無せんせが示して
くだしゃった
>>547 >シと半音上のドの関係が243:256
を検証のための経験領域としますにゃ(これって自然律での関係でしたよね?)
シBは五度進行の五番目にでてくる音なので2オクターブ下げる必要が
あって
B(within the same auctave)=246/32x・1/4=123/64x ...(2)
(2)と一オクターブ上のCの比は
B:C=123/64:2=123:128=246:256
ああっ、「243:256」と若干ずれるるるる
えーとにゃ… 短2度の/シ/と/ド/の比は、3オクターヴ上の/ド/と、 5個うえの完全5度を比較すればいいので、あんまり上げたり下げたりしないで、 (3/2)の5乗:2の3乗すなわち、3の5乗:2の8乗を計算してにゃ。 >音階の原初的状態である五度、およびその連続適用から生成され 連続適用による生成モデルは、とりあえず「うまく記述できる」ていどのモデルのひとつであって、 実際の音楽史において4度や2度が直接あらわれた可能性を排除するものではないにゃ。 pentatonic 内部で可能な音程は、単純なものから並べていくと、 1:2 8度(オクターヴ) 2:3 5度 3:4 4度 4:5 ≒長3度(じつは64:81) 8:9 長2度 というぐあい。やや「単純でない」短3(6)度を除けば、だいたい単純な整数比で表現できること、 また不協音程とされる長2度が、ここでは長短3度よりかなり<単純>なことがわかるにゃ。 >ある音階の「指示物」 音楽を分析すると、言語学上の概念的相関者にしばしばでくわすことに注意が必要。 (もし和声進行にまでたちいるなら、おそらくそこに<文法>のアナロジーがみつかるにゃ) 音階の構成音と、音素との比定は、そのいみでは正当なのであり、 <項>の同一性より<構造>が先行するという点ではいわゆる構造主義とも矛盾しないにゃ。 さて、わたしは実在論的には「構成主義」をとっているので、(指示物そのものには言及しないで) 音階の<意味>は音階の構成的記述であるとみているが、 それは名辞の<意味>が、 名辞の<指示物>の集合そのものから規定されるという循環は(いっぱんに)さけるべきなのと同様、 音階は、ドやレやミの集合ではなく、そのいみは生成規則から説き起こされねばならない、ということでもあるにゃ。 ややこしくなるので、またあと。にゃ。
虚無せんせ、ありがとございますたニャ m(_ _)m >さて、わたしは実在論的には「構成主義」をとっているので これはフレーゲ流に、音楽的統一体(言語や論理で命題にあたる)への意味の 寄与、という<意味>の捉え方をする、ということですかニャ? 命題にあたるものとしての楽曲の一節への寄与、という点においてのみある音 <項>の「価値」が決まる(調性で考えると、いくつかの音がなければ調性が 特定できず、「価値」が決定できない。 逆に十二音技法ではこれをはずすために、一定の統一体で十二音全てを使い切 らなければならない)。 しかし(というべきかニャ)、和声進行に行くまでもなく、ここに言語学と の概念上の等価物としての文法、あるいはシンタクスが顔をのぞかせているの ではないかにゃー、という考えがずっと頭から離れませんニャ。ジャッケンド フ流にwell-formedness ruleと言ってもいいかもしれませんですけどニャ。 ペンタトニック、あるいはさらに自然律での12音階の生成に関する記述的に 妥当な理論、ということで、前に虚無せんせがおっしゃった生成則を捉えて、 競合する理論のうちの一つ、と見ればよいのでしょうけど、立場をそこにさだ めて、さらにハーモニーやメロディーの適格性を考えるときに、まじめにおし すすめた全体で見たときの生成された構成要素を、私はずーっと非常にスタ ティックだニャー、と思っていたのですニャ。 >構造主義とも矛盾しないにゃ というところで一旦はなっとくしかけたりもするのですニャが、まだすっきり しないのですニャー 一旦シラブルを作っておいて、リシラビフィケーションをかけるようなものか ニャ、とか思ったりもするのですが・・・ で、競合し得る記述理論として、はじめからオクターブの中でのwff ruleを 考えたり、V-Iや、IV-Iのアーメン解消などの基礎パタンを考えたりしてしま うのですが、平均律を前提しまっているという罠ゃ >ややこしくなるので、またあと。にゃ。 おまちしてますニャ(ワクワク
586 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/09/14 01:11
ryousure age
音楽的構成体、というものに、言語や論理における意味論からのアナロジーを あてはめたらどうなるニャロ、とおもっていますたニャが、ふと、「音韻論の 意味論とは?」という問いを発するのと同じように、無意味な問いかニャ、と 一瞬おもいますた。 が、ここで音楽的構成体の意味論、ということから音韻論の意味論、という ふうに逆照射すると何が言えて、どこからがムダになるか、ということを考え て見るのもおもしろいかニャー。 前に個別言語の子音について、音素と異音の関係にあるものが、音楽に おけるある音名にたいする周波数のずれ(基本となる音からの関係によって あまりずれは許されないわけで、実際にはややピントのずれた喩えだった かもしれませんニャ)か、と言ったときに、虚無せんせが、まあ、たとえと しては母音のフォルマントのほうが近いだろう、と行ってたわけです。 ここであらためて音韻論の意味論というものを考えてみると、少なくとも 「指示物」のようなものはあるわけですニャ:ある特定の母音に対応する ある範囲のフォルマント(素朴な指示の理論に立ったとして)。こう考え ると、特定の母音は、固有名のようなものと考えられるわけですニャ。
続いて、では命題に対応するようなものとは?となると、考えても精々 次のような特性関数どまりかニャー: LambdaVφ:φ=1 iff Vが「胃」に対応する母音/i/, 0 otherwise. というのは、音韻論では、それ独自で何らかの感情を喚起したり、という ことは「一応ない」からですニャ。(いや、詩学的観点からは...)結局、 特性関数などをもちだすまでもなく、音韻論の単位は、それによって構成され るものは言語の他のコンポーネントの入力となるのであり(語など)、 そう言った質的に異なる上位構成要素は適格または不適格、ということは あれ、それ独自に(ジャッケンドフ流に考えれば)概念構造に対応物は見ら れない、というのが無難なところでしょうニャー めぐりめぐって、一方音楽についてはそういうわけではない、と思います ニャ。音の集まりからなるパッセージは、単なる適格性を超える、ということ は明らかですにゃ。 ここから即座に導かれることかどうかわかりませんにゃが、次のような 観察を述べることができるかも、ですニャ: 言語は二重分節という性質を持つ。しかし、 音楽は二重分節に相当する性質を持たない。各断片がある特定の意味で 同等の地位を持つ断片だと言える。 虚無せんせー、お元気ですか?
あんまり期待されると書けにゃい… >音楽的統一体(言語や論理で命題にあたる)への意味の寄与、 とは、いわゆる文脈原理への読みがあると思うけど、 まず、音楽(体)を記号操作へ置換もしくは還元したばあい、命題相当のものが存在するかという問題があるにゃ… もういちど音素のたとえを持ち出すと、そこに文法に類似した連結規則・制約が見出されたとして、 さらに<音価>が文脈依存的な性格をもっていたとするにゃ。(ここがいわゆる構造主義的といわれた部分) だがしかし、音韻論における物理心理的な構造概念と、意味論的な構造とは、たしかにずいぶん断絶があるように思われるにゃ。 だがしかしagain!!(矛盾するようではあるが)ここでハナシが終わるとおもしろくにゃい。
ここは核心的なぶぶんになるが、 慎重に<心的意味>を取り除いた自然言語の形式的モデルは、音楽の形式モデルとアナロガスである可能性はいぜんとしてあるにゃ。 ハナシを急ぐと、文法相当の規則をもち、階層性をもつ記号体系は、たまたま<指示物>を欠いているだけで、 言語となりうる候補のひとつであったかもしれない。(個人的には、もし「使用=意味」説をとらないならば、客観的指示の充足は、言語であることの決定的条件ではない) 音楽には<循環性>という、自然言語の無限連鎖とは異なるいみでの無限性をもってはいるが、 (ゆえに、音楽における<文>は、自然言語と比較して非常に恣意的になる)ここから強引にハナシをつづけると、 (和声の三範疇を、T,S,Dと表すと) T-D-Tの終止形は、ダブルドミナントをもちいると、ドミナント内部のドミナントという形式になり、 ここに和声進行において、「埋め込み」構造を定義することができる。[TP T-[DP D-T]-T]みたいなかんじにゃ。(←もちろん無限に埋め込み可能) さらに、もはや電波ではあるが、このような任意の(命題の候補となりうる)構造に2価の排他的な価を付与することができれば、 フレーズの「命題化」が、完全に形式的に可能になるにゃ。わたしはそれ(その価)は、ほんとうに排他的であるなら、major / minorでもいいんじゃないかと思うにゃ。 さっきの三範疇は長短共通の概念であるから、範疇の区分とは独立に、いずれかの価を付与することができるにゃ。 なにがいいたいかというと、音楽命題における<否定>が定義できるんではないかにゃーと思ったのにゃー。 まー、あんまりマジにうけとらんでちょ。にゃ。
591 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/09/18 23:09
音楽が命題を持つなら、それはどうやって真偽値を持つの?
>文法相当の規則をもち、階層性をもつ記号体系は、たまたま<指示物>を欠いているだけで、 >言語となりうる候補のひとつであったかもしれない | ∧∧ |(´・ω・`) そ〜〜 |o ヾ |―u' (・∀・)ココダケイイ!!  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | | | | ミ |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
593 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/09/19 03:08
言語となりえ現実に言語となったものが言語と呼ばれ、 なりえなかったもののひとつが音楽と呼ばれている。
>593 けだし名言。でも「なりえなかったもののひとつ」を 「単に選ばれなかったもののひとつ」ってしたいところですニャ。
虚無せんせ>589-590 ありがとございましたニャッ!期待してますニャが期待してません ので、お気楽におながいしますのニャ。でも楽しみにしてますニャ (わけわかんニャい) >なにがいいたいかというと、音楽命題における<否定>が定義できる >んではないかにゃーと思ったのにゃー。 電波モードのスコープ内とのことですにゃが、(・∀・)イイ!ですニャ。 というか、虚無せんせが言ってたように、メトドロジカルに <心的意味>を取り去って得られた形式的等価物としての言語と 音楽に、形式的部分としてポラリテーが残っていたとしてもいいはずで、例えばminorに必ずしも言語的否定の意味の等価物がなくても いいはずニャ。ふむふむ。 で、ちょっと妄想ムード。 音楽体肯定: [T-D-T] 音楽体否定:NEG[T-D-T] NEG Opは、major scaleの3、6度(ナチュラル・マイナーでは更に7度も) に変更を加える、ということで、 NEG =def ♭(3,6) とか。 よく読んで、またカキコしますニャ。
おぉ、意味が通じてるにゃ…。またくるにゃ。 (´∀`)のセンセもちょっと待ってちょ。あっちは誤解が誤解をよぶ展開となってるのにゃ。
虚無虚無せんせの「マイナー=否定」説の枝議論っす。 アナロジーがもたらす危険性も意識しつつ、でもアナロジーによって はじめてきづく面白い点というのもあり得る、ということもあるので、 あえて別の側面から「マイナー=否定」説を見てみようと思いますニャ。 その前の予備的考察から始めますニャ。使うアナロジーは「チョメチョメを 法とする合同関係」ですニャ。例えば 1≡8(mod 7) の、ですニャ。明らかに、転調関係は、音階をすべて半音ずつずらす 緩やかな同一性関係ニャ。これをたとえば嬰トのアイオニアと ハのアイオニアでやると G# ionian≡ C ionian (mod half int.) ですニャ。 「法による合同関係」がもたらすものは、1.すべての音階を、法の間隔で あらわれる緩やかに同一なものとして分類する、2. そして合同関係に あるものには、同一の排列規則、展開規則などの形式規則の適用が可能 ということを、ま、改めて確認するだけでしかないかもしれませんニャが。
これを念頭において考えると、マイナーとメジャーにもこれと同じことを やろうとしてるニャ?とお気付きになると思いますが、その通りです。 565でマイナーを、メジャーにNEG Operatorを前接させたものとし、さらに NEGの定義を「3、6半音下げ」としましたニャ。しかし、形式的音楽記法での 構文論で演算子の存在というのが悪い、ということはないにしろ、これは 演算子というもののやや危険すぎる拡張、と言えないこともない。というのは 推論、に相当する音楽的計算において、音階の一部に変更を加える、という 目的、それ以外に効用はなさそうですニャ。というわけで「3、6度に限定した半音間隔を法とする合同関係」というグルーピングのほうがありかニャ? と思ってみるテスト。 一方、今度は言語に振り返ってみて、意味論無しでは、否定演算子を 使った推論、というのはたいした重要性がないかもしれニャい。しかし、 形式的特性として否定極性表現を認可したりする。肯定でも、極性表現を 認可する。そして肯定-否定というのは、極性表現の認可をいうことを のぞいては、同一の規則の適用を受け付ける、という合同関係として、 虚無虚無せんせの音楽と言語とにおける否定のパラレリズムが捉えられる、 ニャ。夢のつづきですニャ。 今度は「意味が通じてないにゃ・・・」といわれニャいかとドキドキ ですニャ(ドキドキ
こさかなしゃんと虚無しゃんの話、さぱーりですにゃ・・(´・ω・`) こさかなしゃん、ElbouneしゃんのアンチE-type分析なんですけどにゃ。 彼の分析自体、嫌いではないのですにゃが、NP-delがいつでもどこでも okよん♪って立場はにゃ、ちとsyntaciticな視点だと困るのですにゃ。 特に英語はantecedentがあるからといって、好き勝手にNP-delできない言語 ですのにゃ。 e.g. A:I love Mary. B:I love her too. /*I love too. この辺、やぱーり再考が必要なんでしょうかにゃ? semanticな視点から行くとどんなんなんでしょうかにゃ?Syntaciticにはありえない操作も 意味操作ではok!ってことはあるのかしらん?あるとしたらどんな場合でどんな理由があるのか? なんてことも教えてもらえると嬉しいですにゃ。syntacticな視点で行くとついつい統語派生された 結果を意味部門で解釈してねん♪と押し付けがましくなってしまうわけですにゃが。
600 :
こさかな@耄碌 :03/09/30 16:28
K-Rodしゃん、こんちはですニャ。 意味論者、として何かをいうにはあまりにもお粗末(GB+FOL)な資質しか ないのですニャが、揚げて叩かれつつ、何か益するところがあればと願うとこ ろですニャ。 意味論的方向としては、proはすべてvblに置換し、A) clause boundaryを 超えてたら新しくoperatorを補うニャりして、ともかくop-vblの関係に持ち込 む。後のことは後で考える。またはB) DRSニャりFileニャりを使って、ともか くoperator freeなlogical formを考える。いろんなところを談話のせいに する。・・・という接近方法をとるのではないかと思いますニャ。表層の formativeとの結び付けは一定のアルゴリズムを考えるニャろーけど、 ontological claimを行うわけではなく、もちろん、copyのどれを活かし、 どれをPFで見えなくするか、一定の素性群を一定の条件下でPFでどう実現 するか、ということは考えニャい、と思いますニャ。 これは単に私の勉強不足だと思いますニャが、当該現象をE-typeとしても、 definite descriptionとしても、自然言語は論理構造を不完全にしか表現 していない、が、その不完全さをどう埋めるか、についてplausibleな 解は意味論の側からは提出されていないし、methodological limitとして 提出され得ない、と思いますニャ。 ・・・という訳で、「叩いて〜(はーと」ですニャ。 追伸:「head-lastならばempty pro+IHRが存在」というgeneralizationを θ付与の方向性から捉え直す、ってありませんでしたっけ?これをθ付与の 方向性を軸に「head-firstならば"E-type"が存在+*empty pro」って家無い かニャ、IHRと"E-type"をともに持つ言語はニャい、って完全電波モードの 思いつき。
こさかなしゃん、おばんでがす。 にゃるほどにゃ、論理構造的にはいけそうなのに、「すんまへん、言語構造制約の せいでそいつはちと産出できまへん!」なんてのを明らかにしていければ方向性と してはおもしろいんでしょうにゃ。 >「head-lastならばempty pro+IHRが存在」というgeneralizationを >θ付与の方向性から捉え直す、ってありませんでしたっけ? 不勉強なので知らにゃいですにゃ、すまんですにゃ。 でも中国語やイタリア語でもempty proいけますし、non-configurational langauage (by Ken Hale)にゃら全てpro drop可能みたいですし、その仮説はちと変にゃのではにゃいかと。 E-type分析だとNishigauchiしゃんが挙げてた日本語donkey sentenceも説明せんといかんですにゃ。 e.g. どの本-i を買っても メアリーは必ず e-i/それ-iを 読んだ 最近、就職のことを考えると不安ですにゃ。就職先あるうちに決めといた方がいいかも、と 考えてる今日この頃。好きというだけでアカポス取れるわけでもないですしにゃ。自分の力を 見切る勇気も必要な気がするにゃ。_| ̄|○
602 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/10/01 01:28
なにいってるんだ、がんばれ! おまえには、アカポスしかないんだ!
あぼーん
K-Rodしゃん、おはよー! 言語構造に対して、論理構造は、「あ、こういう解釈がある」とか 「あ、あーゆー解釈がある」とか言うのを全て抱きとめてあげられるぐらい 包容力をもった体系として設定されているし、不十分ならすぐに拡張される のニャ。チョムせんせがE-languageというのはこうゆーことニャと思うけど、 こうゆう体系には原理的に「不可能」はないニャ。矛盾律とかあるニャ! とかいっても「それはカミの視座〜」とかいってA¬Aを受け入れる体系も すぐ作れるニャ。これに対して、LFとか、その先のC-I体系がどうなってるか は経験的問題にゃけど、サパーリというのが現状ニャ。だから論理学者がいう logical formと、生成文法でよく定義されたLogical Formの区別には注意して syntaxやってたら、「そういうlfがあると言われているけど、それは幻想」 ということもありうるとおもうニャ。 >その仮説はちと変にゃのではにゃいかと。 あ、やっぱり? ところで、pro-drop parameterとempty proはべつものでなかった かにゃ?pro-dropの方はINFLの形態的な豊かさとの連関がsuspectされて いるのに対して、empty proは必ずしもそうではないから、中国語は head-firstでも、empty pronounは持つけどpro-drop言語には数えないの ではなかったかニャ?うろおぼえですけどニャ。 K-Rodしゃん、なんか元気ないですニャ・・・元気だしてニャ。 厳しい世界だから、気軽に過大な褒め言葉はかけられニャいけど、 少なくとも私よりは生成文法のことよくわかってると思うニャ。 内的、外的な要因で何か決めなければならない時は、来るときは来るし、 来ないときは来ない。そのことを思い悩んでもそれは変え様がニャい わけニャから、その瞬間まではしたいことするしか、後悔しない道はないんで ニャいかニャー、と、読んでないjournalが積み重なって後悔しきりの 私がちょっと偉そうですたニャ、すまんニャ。
うみゃ。眠いですにゃ。 >pro-dropの方はINFLの形態的な豊かさとの連関がsuspectされて >いるのに対して、empty proは必ずしもそうではないから、中国語は >head-firstでも、empty pronounは持つけどpro-drop言語には数えないの >ではなかったかニャ? はっきりとしたことは言えませんにゃが(自信にゃいし)、理論が決めることだと 思いますにゃ。INFLの形態的な豊かさがpro-dropで中国語はempty pronounだと言うと 中国語とイタリア語などとの相関関係はゼロということになりますし、もしかしたら 中国語とイタリア語のnullなNPは同じ理論で扱える可能性ももちろんある。 前者の意見についてはrecoverbilityなどという話でChomsky 1981でも扱われてた有名な 話ですにゃ。個人的には後者の意見がサポートできればおもしろいのでは?という若造的 考え方。 竹内結子の三都物語のポスター(・∀・)イイ!! ( ゚д゚)ポカーンって感じになりますた・・(´・ω・`) あのポスター、ホスィ。
あぼーん
ぶにゃ。眠い。 >形式的音楽記法での構文論で演算子の存在というのが悪い、 とはどういうことかにゃ。 楽曲の実質的連鎖として、演算子相当のものを含むのはいかがなものかということかにゃ。 べつにかまわないと思うけどにゃ…(´・ω・`) 自然言語においても、「機能語」のうち演算子相当の機能をもつ形態素と、いちおう指示内容をもつとされる「実詞」の区別は、 (形態素レベルでは)相対的・浮動的なものにすぎない、そんなもんではないですかにゃ。 (余談だけど、おなじみDNAの塩基配列にも、アミノ酸を<指示>せず翻訳終了のマーカとなるコードがあるにゃ) なんだかこの(音楽命題の)ハナシはおもしろいんだけど、へたすると、いかに音楽を自然言語に翻訳可能な「暗号」とするか、みたいなレベルになっちゃうにゃ。 わたしは、自然言語から慎重に<心的意味(表象)>を除去していけば、産出規則、連結規則・階層・(非)対称性・置換など、 幾何学的とさえいえる数理的構造にいきつくと思うにゃ。 ここのところが、生得スレで、わたしがチョムスキーが言語学的はんちゅうの抽象に十分積極的でなかったと考えた部分であり、 それら(はんちゅう)が「便宜的なもの」というだけでは十分ではないのにゃ。 それらは、もし言語であったかもしれないしなかったかもしれない構造をとらえようとするならば、純粋形式的に与えられねばならない。 (わたしが回避しようとしている「説明」とは、最初から全体を有機的に分解し、再び組み上げるさいに「さりげ」にその有機的性格を挿入するというもの、 これは「文」の構造を説明するさいごく一般的に行われていることであるが、あえてわたしはこれを解析上の詐術、またはジサクジエンとよぶにゃ。)
それでも(´∀`)のセンセのように、音楽を言語の可能的候補として、言語といわば対等な構造とみなすことに同意するならば、 じつは、それだけいっそう、自然言語の純粋形式としての構造解析は正当化されるのにゃ。 なぜならば、音楽と自然言語に「共通分母」があるとすれば、それは「意味抜き」された形式的構造でしかありえないし、 じじつその構造は、音楽においてはすでに数理的なものとしてしか記述されえないからにゃ。 で、このハナシがわかりにくいのは、いっぱんに受け入れられている「言語学的範疇」の破棄を示唆し、 かわって非常に抽象的な数学的概念の体系におきかえるところにあると思うんだけど、 まず音楽と言語を通底するような、客観構造の記述は、まずは素朴ないみでの<意味>をもたないことに注意。 (いわゆる「意味抜き」は、論理学のシンタクスではごくごく日常的に行われていることであるし、) (たとえば、 時制についても、われわれは時制の構成の非対称性を観察するのみであり、時間表象といかに結びつくかについてはここではかかわらにゃい) 整数-4が世界のなかに<指示物>をもたないとしても、その理由は負数が不自然で人工的な観念であるという理由ではなく、 もっぱら数学が現実世界の表象に無関心なためにゃ。(だから、正数4が、現実世界のなかの4の集合を指示するといういいかたは正しくない) それとおなじく、言語と音楽を<ともに記述できる>する構造もまた、純粋形式としての記号操作であり、世界表象に関心がないのにゃ。 音楽の構造分析においては、<指示物>がないだけにかえって特徴的にその純粋形式性が捕捉しやすくなってるのではないかにゃ。
さて、ハナシをもどすと、 音階を与えられるとき、すでにモードも与えられてしまうのかという、やややっかいな問題をいままで見過ごしてたけど、 じつは音階を形式的に構成された<項>の素朴な集合とみなすと、たとえば長調と平行する自然短調(Aeolian)は,平均律では「おなじ集合」になってしまうにゃ。 ちょっとここんとこが気になってにゃ… なんかちょっとむかし、バッハのハ短調の曲をたまたま調性記号(フラット3個)無視してひいたところ、 完全に楽曲として成立していてあらためて驚いたにゃ。対位法のけっこう複雑なやつだったから。 だけど、楽曲を機能和声の連鎖としてとらえれば、たいがいの楽曲で長短は矛盾なく2項対立になると思うにゃ。ま、とりあえず。
いろいろ問題のある表現もあるにゃ… >言語と音楽を<ともに記述できる>する構造もまた世界表象に関心がないのにゃ 「言語と音楽を<ともに記述できる>する構造」はいわば中立的な構造であり、 じっさい自然言語が現実世界の表象にふさわしくデザインされているとすれば、それを的確に描出するだろう、 と予想されるにゃ。ではまたにゃ。
K-Rodしゃん、おそレスすまそニャ。 >個人的には後者の意見がサポートできればおもしろいのでは? Hojiせんせがよく引用するアインシュタインの「センス・データを ミニマルな道具で説明するという科学の醍醐味」ということでは、 まったくはげしくK-Rodしゃんに同意ですニャ。しかしその前に、 これまたHojiせんせがよく強調する、センス・データをきっちり記述する ことも大事で、そしてさらに、その記述の中に空代名詞とpro脱落という、 まったく独立としていると考えられた二つの現象にリンクが見い出せる、 ということを示す徴候があるか、ということも大事だと思うニャ。 確かに理論が決める、ということも激しく同意なのニャが、 現在の理論(私にはムズすぎニャ・・・)は、そういった徴候を見つける のですニャろか。K-Rodしゃん、どうニャんですニャろ?
虚無虚無せんせ、 >楽曲の実質的連鎖として、演算子相当のものを含むのはいかがなものかという >ことかにゃ。 >べつにかまわないと思うけどにゃ…(´・ω・`) いえいえ、もっとたわいもないことで、「演算子」という言葉の意味をそこ まで拡張していいのか、ということですたニャ。でも、これは私の単なる 早合点で、虚無せんせがあげたDNAの翻訳終了の指令、または私が思い付く例 では「こっからはEUCで表示せよ」とかの、記号列の解釈に関する指令なども 「演算子」でいいわけですよね。五線譜の調号も「演算子」と言えるニャろし。 あとのところは難しいので、よく読んでからまた書きますニャ。
総入歯、もとい、そういえば、今日、野本せんせのフレーゲの生涯と思想の 本を買ったのですニャ!すごくおもしろそー そしたら、虚無せんせがチョム批判として >607 書いてるようなことが出てきたのですにゃ。フレーゲのアリストテレス、 ライプニッツと連なってきた論理学を批判したのの一つが、被説明項 となるべき「範疇」が、「普遍範疇」として先験的に与えられ、それによって 演繹体系の中にニョロニョロ〜っともぐり込まされていたこと。そして それはブールのクラス算につらなる原理的問題で、フレーゲがもたらした 関数的表現こそがそういった問題へ切り込むものであったということ。 ・・・といっても、その点に関する虚無虚無せんせの生成批判が当たっている とは思わないし、いやそもそも、虚無せんせのカキコを理解してるかも自信 ないですニャが・・・
確信犯ですれちがいすまそにゃが >竹内結子の三都物語のポスター 血眼でさがしてるにゃけど、にゃいよー、K-Rodしゃーん。
やっぱ、虚無虚無せんせは音楽の教育をちゃんと受けた方らにゃ! >バッハのハ短調の曲をたまたま調性記号(フラット3個)無視してひいた >ところ、完全に楽曲として成立していて 私が想像力の及ぶ「ドナドナを長調でやる」とは次元がちがうけど、 にゃるほどにゃー 虚無せんせが気ににゃる、といったことで気ににゃること ・自然律が一オクターブ12個に区切られていることは恣意的というには 疑義が生ずること(相対主義原理主義では行ききれにゃい、ということ) ・自然律で、例えばC IonianとA Aeorianの構成音からなる集合は同等で ある(のに機能的に異なること?)<-なんか虚無せんせの設問にしては トリビヤルすぎなので多分誤解してる なんかまとまりないですにゃが、おやすみなしゃーい、むにゃむにゃ
えーとにゃ… 音階の定義を、これこれの周波数の離散的な分布を与える、(その分布は人間の聴覚認知のなんらかの要請にこたえる) というのがいままでのやりかたにゃ。 ところが、形式主義を徹すると、音階の各音の価値はすべて均質になってしまうが、じっさいには、すくなくとも心理的にはそうはなってないにゃ。 音列の認知は、こういう言い方が正しいかどうかわからないけど、スケールとモードの二重格子のようになっており、 モードのほうは各音に心理的<質>あるいは<重み>の差異を与え、けっか旋律の<終止感>や<期待感>の根拠となっているように思われる。 <終止感>については文化相対的なものであり、 たとえばPhrygianを基体としたフリギア終止などは、現在ではすたれてしまっているが、 だからといって、均質な音列を差別化・個性化して、たとえば1個の主音(終止音)をみいだすように、ヒトの音楽認知が与えられている可能性はあるにゃ。 さて、機能和声のもつ<終止感>や<期待感>が、すでに音階(の認知)のなかに潜在的に実現されてしまっているとすれば、 それを機能として形式的に拾いだすか、あるいは無用の心理主義として完全に無視しなければならない。 (以下では、うなり現象などの比較に用いた2つの音といういみでの和声と、「文法性」をもった機能和声を混同しないように注意>わたしもにゃー) たとえば、natural minorに「導音」が欠けているために、harmonic minorが構成されたわけであり、ことは単純ではないにゃ。
まず、これでは和声機能が論理的に先行するのか、音階から和声が構成されるのかわけわかんなくなってくるにゃ。 本格的な機能和声をもつ音楽は、人類の音楽全般からすると「まれ」であるが、やはり和声を論理的に先行させるわけにはいかないにゃあ。 ひとつの仮定として、 ある音程をA、その半音下をfAとすると、A-fAの接続は、fAが導音となって原初的終止A-fA-A(「ドシド」)を生じる「べきだ」とかなんとか、 そういうad hocな規則群を考えることも可能であるが、 いままで考えてきた、周波数の単純整数比の音階構成とどういう関係になるのか不明にゃ。 すくなくとも音階を与える数理的な関数から、「音」の個別機能までは導出できないにゃ。ヒントはないわけではないがにゃー。 この件に関しては、減5度の関係にある音a,bは、互いに対称になる(ファ>シの音程=シ>ファの音程)ことから、 これがドミナント機能の本質ではないかと、すなわち対称性はくずれる方向にいくのにゃ!、と一昨年あたりあるスレで提言したところ、 それは平均律の世界のおとぎ話として一蹴されたにゃ。難しい…。 ちなみに、ドミナント機能を短7度に求めるような発言をこさかな先生がしていた気がするけど、ちがったかにゃ?(マチガッタラスマソ)それはあんまり正しくにゃい。 古典和声でもルートははずしてもいいにゃ。 なぜ減5度上(下)のドミナント7thが代理として用いられるのか、それは「ファ」と「シ」を共有してるからにゃ。(皮相な説明、だけど実用的)
>>竹内結子の三都物語のポスター >血眼でさがしてるにゃけど、にゃいよー、K-Rodしゃーん。 JR西日本で貼ってるポスターなのにゃ。 こさかなしゃんは関東の人?じゃ、KLSか言語学会で関西に来られた 時にチェックされるといいですにゃ。 疲れたので寝まつ、、、( ´D`)ノ
虚無虚無せんせの話、私にとっては核心に迫ってるのニャー 616の「虚無せんせの注意」は非常に重要で、私はかつてこれを混同 (という言い方は不正確で、単に無知だったのニャが)、ゆえに >ドミナント機能を短7度に求めるような発言をこさかな先生がしていた気が >するけど 네, 맞습니다. これは「二音によるうなり」と「機能的和声」を、後者を 前者から導ける、と思ってたからですニャ。 ずっと、音階の生成を「DM(distributed morphologyではない)から ペンタトニックへ、さらに12音階へ」とこだわっていた私に、虚無せんせは 「和声の機能が音階の生成に先行するのではない」と音階生成の論理的 先行性と、それに関する知覚上、そしてその背後にある音響上かつ/または 数理上の基盤について述べられ、私は納得。 で、私は「では、和声機能の起源は?」という疑問を実は心に持っていたの ですニャが、ここに至って「音階」と「機能的和声」両者が議論の俎上にのる ことになり、役者が揃った、という気がしますにゃ。 それからついに!こちらでは初めて「ドミナント・モーションの『対称性の 破れ』解釈」の説明がでたのですニャ!いよいよクライマックス!? と胡麻かすのはやめて、ちゃんと読んで理解してまた書きますニャ。
K-Rodしゃん、ありがとニャ。学会より会議での出張が先になるかもですニャ。 拝みにいきますにゃ。 疲れまつたが、仕事してきまつ、、、(´・ω・`)
久しぶりに乱入するにゃ
>>608 >「意味抜き」された形式的構造
これに注目するのが構造主義生物学であり、生成文法であって、機能主義生物学(ないし言語学)と
対峙しているというわけですにゃー。意味や機能に関係なく同じ構造、デザインが自然世界に繰り返し
現れるとしたら、それは構造原理によってしか説明できない、という、にゃ。
>>611 ミニマリストでいうontological minimalismとゆーのは、通常の理論の経済性にゃらオッカムの剃刀にゃら
とは別の次元ですからにゃ。たとえ経験的には支持されなくても、記述力は低下しても、純概念的に
いらなさそうなものはいらない(はずだ)として、狭義の言語能力をどれだけminimalにできるのか、を
問うているのにゃ(反論必至)。
>>613 >被説明項となるべき「範疇」が、「普遍範疇」として先験的に与えられ
虚無しゃんが何を「範疇」と呼んでいるかにゃが、たとえばNやらVやらの語彙範疇は今の生成では
普遍範疇ではないにゃ。例えばそれらも統語計算の産出物という立場(DM)からすればにゃ。
で、607で
>最初から全体を有機的に分解し、再び組み上げるさいに「さりげ」にその有機的性格を挿入するというもの、
>これは「文」の構造を説明するさいごく一般的に行われていることであるが、あえてわたしはこれを解析上の
>詐術、またはジサクジエンとよぶにゃ。
とあるにゃが、これと同じようなことが言語進化の過程で起こったと考えられるにゃ。つまりひとまとりの
文としての性質しかもたなかった原始的メッセージ(鳥の鳴き声など)を分析し、各成分を抽出し(それらは
最初からあったのではなく、意図性をもって切り出した、ちょうど自然を分節するように)それを再配列
して新しい文を作る、といった感じににゃ。
邪魔したにゃ、では続きをどーぞ、にゃ。
顔文字せんせ、こんちはですニャ。
>>621 の二個目
「反論必至」は、ヤパーリ私に向けられたものなのでしょうニャ・・・
バリヤーズからミニマリストへの流れを眼の端に見てきたものとして、
「存在論的極小主義」と「方法論的極小主義」の区別は「概念的」なもの
ではなく、歴史が決めるもののような気がしますニャ。それは
proper governmentのdisjunctive definitionを解消しようという様々な提案
が、提案された当初は「説明の経済性」とでもいうべきものだったのが、
多分今生き残っている、と評価が与えられそうなものは、いま「純概念的に」
存在論的極小主義に何らかの形でコミットしている、というものだろうから
ですにゃ。では、現在、「純概念的に」存在論的極小主義に適う、と
言える提案が行えるか、というと、すごく疑問ですニャ。
うーん、うまく言えないですニャが、言語設計に関する仮定は、それを
極小限へと向かわせるものであろうことは疑いがないですニャが、
そういう営みの存在論に入るか、入らないかを決めるtranscendentalな
基準はない、と思うのですにゃ。これは、Whitehead-Russellが『プリンキ
ピア』で膨らませまくった存在論を、"On Denoting"で「ぷしゅー」と萎
ませて、ところが'90年代以降、プラトン主義的存在論がある意味で再評価
の動きがある、というのと対比させても、または、生成文法が、単純な
還元主義をとらないことを考えても、「あれは今思えば存在論的極小主義
だった」ということが後で評価されるようなものではないかニャー、と
思いますニャ。で、提案時点での、決定的な存在論的極小主義というのは
原理的にあり得ない、あったとしても思い込み、と思うのですニャが
(再反論必至)
あ、ぐだぐだかきますたが、結局、研究者の審美眼が重要かニャ、と 言うことですニャ。「理論が決める」といっても、存在論極小主義に 適う分析の決定手続きはないし、多分、pro脱落と空代名詞を統一的に 扱える理論があったら、無から何かを生み出すようなものではなく、 今手持ちのものは全部そろっているけれども皆きづかなかったような、 ビクーリなものになるはずですにゃ。Bourbaki派生成文法、みたいな、 ですニャ。
一言だけにゃ。 アフォ学生の印象から言えば、Minimalist Programというのは、「壊すため」の 言語研究プログラムだと思うのにゃ。概念的に必要なものだけに言語能力というのを とりあえず搾り出してしまうという方法論を取ることで、本当に言語能力だけに限られた ものがどんなものかを探り当てるのが目標だと思うのにゃ。 にゃからとりあえず純粋にconceptualに必要なものだけで理論の枠組みを作ってみるのが 必要だと思うのにゃが、誰か最近やってるのかにゃ?・・(´・ω・`) economyって、流行ってないにゃ。
K-Rodしゃん、こんちは。 >にゃからとりあえず純粋にconceptualに必要なものだけで理論の枠組みを作っ >てみるのが必要だと思うのにゃが 自分の思考方法にだんだん不安が・・・ "conceptual"って一体なんなんでしょうかニャ・・・それがないと 言語研究が始められない、という音と意味は「概念的に必要」で いいわけですニャ?いや、こちらはvirtually necessaryなのかニャ? (言語研究を無意味にしない最小限の要請、ということで、概念的に 必要なものかは別にして) あ、厨房モードです。すまそニャ。
昨日は、東京ドームに生超人と生サップを見に逝ったにゃ。 それはどうでもよくて、「導音」を含まないドミナントコードの一群をすっかり失念してましたにゃ。 またいずれ。
虚無せんせ、それはうらやますい・・・ニュースで聞いてちょっと気になって いたのですが、いろんな薬とドリエルで朦朧として、結果は知らずじまい。 「導音」を含まないナチュラル・マイナーが、整備されていないのである、 ということを楽典で読むのですが、無理矢理それでやってしまうやんちゃ 坊主は多いと思いますニャが、まあ、彼等は無視されるべきなのでしょうが、 >ドミナントコードの一群 をおもいだされますよーに。ゆっくりでかまいませんので。 ところで、ジャズギターでは、物理的な限界(ゆび)の関係でルートを 外して、それがいい味だしてんなー、と思ってたのですが、クラシックで そもそもあるのですニャー なんか廚まくってて、物理的限界かにゃー (あたま)。広いビジョンの中で虚無せんせの話が理解できニャい・・・ べんきょしよ。
ただしい態度ではニャいと思いますニャが、脱線つづきします。 連休にあやしい多国籍料理屋でワインなんぞ飲みながら野本せんせの 『フレーゲ入門』を適当に読み上げたのですが、ふと、なんとなく 嫌いだったデイヴィッドソンにそこから興味が向いて行ったのですニャ。 で、Cambridge Univ. PressのContemporary Philosophy in Focusと いうシリーズのKirk Ludwig(ed.) Donald Davidsonを気のむいたとこだけ 読みかじってます。でも、やっぱりevent semanticsって、なんかすかーん。 特に(Davidsonのせいじゃないんだろうけど) Mary hit John. を ∃e(Agent(M,e)&Hit(e)&Patient(J,e)) というの、すかーん。当初のevent semanticsで無視された動詞の 項の数が、こうするととらえられる(そして他にもメリットがある) というのですニャが、こういうlfが待っているとすると、syntaxからの 出力はどういうアルゴリズムを辿ってそこにたどりつくのか不信に思うニャ。 といいつつ、やや惹かれる自分を見いだす・・・ (私のDavidson嫌いはT.Parsons嫌いに由来する気がする)
俺は昨日は実況スレに張りついていたにゃが、そこで次々に画像うpして神扱いされてたのは ひょっとして虚無しゃんかにゃ?! さて、特にPRO/proの区別に限った話しではないけれども、たとえばimplicit argumentをPRO としたりparasitic gapをproとしたりと、最初思われていたほど両者の分布は明快に制限されて おらず、ご都合主義的に正体の分からない空範疇をテキトーにPROだのproだの呼ぶ分析が横行 する現状において、この区別をprimitiveなものとして維持するメリットはあるのか、と思う次第 ですにゃ。むしろ空範疇は原則1種類、それが出現する環境によって異なる意味的振る舞いも するが、それはsyntaxとゆーか、faculty of language in the narrow senseの知ったことでは なかろー、と思うわけですにゃ。 もし方法論的極小主義が、たとえばGB時代に立てられた(サブ)モジュールを出発点として、 そのいずれが余剰的で破棄可能なのか、という見方によって推進されるとして、存在論的極小 主義はゼロ、何もない、を出発点として、どれだけは必要とせざるを得ないか、どこに言語の 不完全性があるか、という正反対のベクトルを持つ接近法だとも思うのにゃ。 モジュラリティ(この場合は言語内部のI-modularity)はない、領域固有性もない、というのが null hypothesis、それでどうしてもうまく行かないことが明らかになって初めて、それら古典的 生成言語観が正当化されるだろう、という話しかにゃ。
チョムの言い方を借りると、言語に固有だというのは、それ以上深い説明が不可能ということで
あり、ミニマリストの期待値(あまりに過度な)は、そんなものはない、zero、nothing(wと
いうことですにゃ。かりに結果として固有性を認めるにしても、最初からそうだったわけではない、
進化論的には、もともと別の機能を果たしていたものが人間言語においては意味と音声を繋ぐ
システムとして転用されただけなのだから、という具合に、進化の問題を常に見据えてこその
minimalist thesisだと思うのにゃが、この一番面白い部分にはなかなか気づかないという罠ゃ。。。
見過ごしていたにゃが
>>619 の「ドミナント・モーションの『対称性の破れ』解釈」というのに、
興味津々なのにゃ。
虚無しゃん、羨ましいですにゃ(´ー`) 個人的にはボタ対バンナの試合に激しく興味ありだったんですがにゃ。 バンナが棄権、しかもボタは反則負け・・(´・ω・`) 個人的にはアーツが勝ったのが嬉しいんですがにゃ、ミルコが撤退したのが残念、、 てかスレ関係の話で。 >むしろ空範疇は原則1種類、それが出現する環境によって異なる意味的振る舞いも >するが、それはsyntaxとゆーか、faculty of language in the narrow senseの知ったことでは >なかろー、と思うわけですにゃ。 禿上がるほどに胴衣ですにゃ。syntaxがやる仕事は「そこに何かあるけど、音声化されない」ということを 保証してやるだけだと思いますのにゃ。これ以上は言わないですがにゃ。 event semanticsすかーんに一票!ですにゃ。
顔文字せんせ、 >正反対のベクトルを持つ接近法 にゃるほど・・・私は納得して禿げ上がりますた。
>>631 それは大阪ドームのK-1、虚無しゃんが行ったのは東京ドームの新日プロレス、
といちおー突っ込んでおくにゃ
禿げ禿げ(´・ω・‘)ショボーン
虚無せんせに、読めば読むほど、ついていけなくなってるのですニャ。 そこで敢えて的外れ覚悟で。 ある音Aとその半音下fAが与えられた時、A-fA-AでfAは導音になる、という 話に関連して。和声進行の話になるのですニャが、ふと、五度下降の代用と なる半音下降とともに、半音進行的な和声進行としてpassing diminishを おもいだしますた。ここで、ドミナントセブンスの基音を外すと、 diminish codeになりませんでしたっけ?例えば、G7の基音を外しつつ Cへ動かすと、基音なしのDMでもあるわけですが、このときのG7は passing diminishとも解釈できないすか?で、ふたたび不協和音から 協和音への解消としてDMを考えてしまっているという罠ゃ これは転回形がすべて同じ機能をもつ和音と言えるデミニッシュを 近傍和声へ動かすことで対称性を破る(あってますか?)という 虚無虚無せんせ説とは競合すらしないへたれ理論ですニャが・・・
>633 さいきん、洗髪時の抜け毛が気になりまつ (ここでショボーンとしたHusserlの写真(記事とは関係ありません、の コメント入りで)を挿入) ところで、昔は、音に現れない要素の性質が様々であることが言語研究に とって重要、と聞いて感動しましたにゃが、音に現れないものはにゃろーな 統語論では同一とするのが極小主義的存在論、と聞いて、しばらく言葉を 失うぐらい感動。言語学徒としてはさびすぃ部分もありますが、いやいや、 それでも残る不完全性と、ある器官の突然の転用ということに想い馳せれば さびすぃことはいっこもニャいニャ・・・
_, ._
( ゚ Д゚) ガシャ
( つ O. __
と_)_) (__()、;.o:。
>>633 間違いを訂正に来たら、もう突っ込まれてしまつた(;つД`)
わしゃ、天然ボォケですのにゃ・・(´・ω・`)
>禿げ禿げ(´・ω・‘)ショボーン
いや、そのそういうつもりでは、、、(゚д゚)マズー
すみません_| ̄|○
内容がないのでsageときまつ。
「導音」なきドミナントって、コード表記だとF on G とか、Dm7/G とかいうやつにゃ。 サブドミナント の根音に「属音」(ソ)をもってくるもので、popsでよく使うやつ。あまりにも身近で、うっかり言及しなかったにゃ。 起源はよくわからないけど、20世紀になって、総体的に商業音楽が和声機能をあいまいにする方向に発展するなかで、 「導音」の機能は、従来的ないみでは、かなりいいかげんになってきてるといえるにゃ。 ひょっとしたら、自然短調については音階のほうをいじって「導音」を導入したのに対し、 pentatonicについては、(「民俗音楽」として古典和声の世界に受容されたさい)和声構造を変えることによって、終止形cadence を実現したのかもしれな い。 すると、ラ(S)―ラ(D)―ド(T)のほかに、ド(S)―ド(D)―ド(T)なんて終止もあるわけで、「導音」(シ)の立場なし。 スマソ、ちょっと今日はこれまで。 (´∀`)のセンセは、コード進行くらいはわかるのかにゃ。それによって、説明もちがってくるのにゃ。 ちなみに、携帯のビデオで試合の撮影してみたけど、ズームがないとダメにゃ。超人のジミヘン奏法のパフォーマンスmoe
虚無せんせ、ありがとうございました(ぺこぺこ >「導音」なきドミナントって、コード表記だとF on G とか、 >Dm7/G とかいうやつにゃ upper-structured triad、ってやつでしょうか。前にとんでもない勘違いを してはずかしかった'Thank You'もupper-structured triadで根音が動いていく 進行になってますね、ニャ。逆に、根音を固定して、半音ずつ和音が動いていく というのも商業音楽ではよく使われてる。それが「属音」という観点で、 音楽史上虚無せんせがいうような位置づけにあるとは知りませんでしたニャ・・・ なんかこのところ、完全に虚無せんせにおんぶにだっこ、ですまそんです。
>>637 グレコ買うとついてきた成毛滋のテープ聞いた程度にゃw
完全自己流でPageやBlackmoreを器用にコピーしてたつもりにゃが、自分で弾いてるコードやスケールが
何という名なのかはサパーリですたにゃ(今はギターは全然触ってにゃい)
ま、俺の場合ギターも言語学も似たようなもんにゃ、なんにゃもんにゃ
ホーガンの蝶野への斧爆弾はソオーと触る程度だったにゃ
そんなに蝶野の首は悪いのかと思ってたら、案の定負傷欠場になりますた(;つД`)
なるもしげるっ!中学生の時に深夜番組でイングベーのコピー講座を やってるのききますた・・・ 横レスすまそですた。
Davidson、って、いまひとつよくわかんにゃい・・・ "radical interpretation"ってなんだべ?Tarskiのconvention Tの擁護、って なんだべ?causal eventはmental movementを含むphysical actionが本質的、 ってなんだべ?それで、言語学にとってどんな貢献をするんだべ? 前に、高階論理で扱うか、すべてを完全性の証明手続きがすでにあたえられて いる一階論理であつかうか、という話がここででてたけど、私は挫折です。 ←へたれ決定 Knowledge of Meaning、かっとくんだったにゃー
642 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/10/24 11:07
ありゃ、こさかなしゃん、巣に戻ってきましたね。
あ、めっかってしまいますた。 ところで、DavidsonianのKim先生という重要人物がいるようなのですが、 この分野では韓国の研究者の貢献が大きいのかにゃ? (どんな研究なのかは、探しているのですがみつからにゃい)
>>369 さんからもう、かなりの時間がすぎているのですね・・・
ずっと気になっていたのですが、
>>370 さんの
>私は、正直言って、Davidson流の真理条件的意味論とMontague流の
>真理条件的意味論のどこが違うのかよくわかりません(絶対的な真偽を
>問うのか、モデルに相対的な真偽を問うのかの違い?
について、飯田先生のIVの4.4にもろ書いてありました。我々が
望むような意味を与えるためには、相対的なモデルを経由するという
ことは全く無駄で、直観に合うような意味を与えるためには「意図
されたモデル」だけを考えなければならない。しかし「意図された
モデル」が何かを知るためにはすでに問題となる表現の意味を
知っていなければならない、というようなこと。
モデル理論的意味論には、ずっと何かひっかかるものがあったの
ですが、上のところを読んだら、つかえがとれたような気がしました。
その一方で、タルスキ-デイビッドソン流の真理の定義は全然
わからないんですよね・・・
哲学板に、言語哲学大全を精読するスレをハケーン 修行してきまつ。
648 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/11/07 22:41
漏れは知ってた 即日、この板のどっかのスレに書き込んだが 反響は1レスぐらいしかなかった
>648氏 そうだんたんですか。見ていればもっと早く知っていたと思いますが、 ショックは今ほど大きくはなかったかもしれません (まじでDavidsonを勉強しようかなー、と思ったのがDavidsonが鬼籍に 入られたあと)
650 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/11/08 23:55
不定期コピペ キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!! キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!! キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!! キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!! ☆全国同時投票オフ☆ あなたも一票を投じて、投票率UP&政治に参加してみませんか? 決行日:11月9日(日) 時間:午後2時10分くらいをめどに集合、午後2時22分投票開始 場所:各投票所 目印:うまい棒 2時22分に一斉に投票所に行き、一票を投じましょう。 うまい棒を持参して、公道と投票所の境目で うまい棒を食べ始める。 2ちゃんねらーの目印をつけてもよいかも。 目立ちたくない人も、2時22分頃に投票所にいけば 近所の隠れ2ちゃんねらー同士をこっそり見れるかも? 尚、投票率を上げるためだけの企画。 記入内容に関しては、当人の自由にします。 組織票等の呼びかけに応じるのも、当人の自由です。
すみマセン。ねたありマセンが、あげマス(ぎゃぼ
652 :
le petit poisson :03/11/13 21:58
Desole. C'etait ma faute. Je vais essayer de le montrer encore...
またハンドル変えたのかにゃ、こさかなしゃん 実は俺はこさかなしゃんの昔のAAが好きで、いろいろ集めさせてもらったのにゃ(衝撃の告白にゃ?。 ゝ゜)っ ---< ゝ゜)っ 〜〜< ゝ゜)っ ++++< ゝ^ )っ ---< ゝ^ )っ 〜〜< ゝ^ )っ++++< ゝ* )っ ---< ゝ* )っ 〜〜< ゝ* )っ++++< こっちでもまた頼むにゃん。 ……しかし虚無しゃん見ないにゃー
きゃー、恥ずかしいけど光栄デス、カオモジせんせ?。 ちょこちょこ変えるのは2chanの仁義に反するのかもしれマセンが、 今はなんとなく、韓国語関係のスレで書いた時に「こさかな」の 韓国語版にしたので、意味論ではフランス語にしてみただけなのデス。 (たぶんすぐ飽きる) が、フランス語について書く訳ではないのデスガ・・・ フランス語といえば、Combienのextractionとその解釈についての 話題はもうだいぶ昔デスネ・・・ちょっと前にFrancophoneの人と 毎日会っていた時があったのですが、かつての話題の解釈、 聞いときゃよかったナー
ちなみに・・・
限定的量化解釈(RQ)と非限定的量化解釈(NQ)の区別と統語的派生の関係
>>116 からデス。
656 :
424=442 :03/11/23 21:19
大分前に、認知言語学について質問したアホです。 Talmy, Bolinger, Dowtyなどの論文を少し読みました。どこまで理解している かわかりませんが、現象に関しては面白いなーと思うところが幾つもありました。 ところでChomskyの本を理解できなくても良いので、密かに読もうかなと思っています。 1. Syntactic Structures 1957 2. Aspects of the Theory of Sytax 1965 3. "On Wh-movement." Formal Syntax 1977 4. Lectures on Government and Binding 1981 5. Barriers 1986 6. The Minimalist Program 1995 最低限、読まないといけないのはこれぐらいでしょうか? 今すぐに理解できなくても良いので、徐々に読んでいこうかと思います。学校の 先生に聞いても、笑われると思いましたのでここで質問させて下さい。
>>656 どれもけっこう専門性が高いのでビギナーが一人で読むにはあまり向いてないかもにゃ。
むしろ、
On Nature and Language (2002)
Knowledge of Language (1986)
あたりで概念的な部分から始めたほうがいいと思うにゃ。あと
Chomsky for Beginners (Maher and Groves) というのがあって、けっこう(・∀・)イイ!
Chomsky for Beginners、私も けっこう(・∀・)イイ! とおもいマシタ。 チョムせんせの二種類の仕事のどちらもわかりやすかったデス。 マーハせんせ、ありがとう!ってかんじデシタ。
あ・・・ カオモジせんせ、Maher and Grovesは"Chomsky for Beginners"ではなく "Introducing Chomsky"デハ? 似たようなシリーズがイパーイあるので私も混乱してマシタが・・・
中身は同じで、Introducingが米版、Beginnersが英版ですにゃ。 違う本だと思って両方注文した俺は ガ━━(゚Д゚;)━━ン! にゃw
そうだったんデスカー!教えていただいてヨカッタ・・・(きっといつか同じ轍をふんでた デショウ) 確かに、奥付に"Previously published in the UK and Australia in 1996 under the title Chomsky for Beginners"とありマシタ。
662 :
424=442 :03/11/27 18:58
Introducing ChomskyとOn Nature and Language を注文しました。 取り敢えず、これ読んでみます。 ありがとうございました。
663 :
424=442 :03/11/29 21:03
Introducing Chomsky、マンガ調で読む気失せました・・・
664 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/11/30 19:25
>>643 Kim先生の専門はDavidsonのmetaphysicsとかaction-theoryです。学部と
MAがDartmouth(たぶん)でPh.DはPrincetonで取った人だったと思います。
今はBrownのProfessorです。高等教育から教育生活まで一貫してアメリカで
行っている方なので、韓国の研究者とは呼べないかもしれません。また、上記
の分野で彼に続く韓国人の研究者や(英文の)論文を見たことがないので、韓国
ではアングロサクソンスタイルの哲学はあまり盛んではないのかもしれません。
ただ、金先生個人については、上記の分野やPhilosophy of Mindにおいて、
ブレイクスルーを為したとは言えませんがその展開への貢献は決して小さくは
ないと思います。
>>664 さん、ありがとうございマシタ。
そのKim先生はKim Jaegwon先生ですね。経歴を拝見すると、
Korea War以降に永住権を取られたKorean-Americanの方かなあー
>韓国ではアングロサクソンスタイルの哲学はあまり盛んでは
>ないのかもしれません
僕も漠然とですがそんな印象を持ってました。今年韓国へ行った時に
ソシュール関係の言語哲学書(by Kim Sungdo)の新刊はありましたが、デビッドソンの
関係のものはみつけられませんでした。形式意味論とか、DRTは
盛んなんですけどネ。もしかすると言語学の関心からDavidsonian
Programmeに接近していく研究者がいるか、これからでてくるかも
しれないデスネ。
まったくこれから勉強という感じなのですが、使役という言語表現
との関係で、actionやcausationに興味がありマス。きっとKim先生の
概説的なものから入るだろうナ、とおもってマス。
福井・辻子せんせ訳の『生成文法の企て』(岩波書店)を買いマシター 前半が約20年前のGenerative Enterpriseの訳、後半があらたにチョムせんせに インタビューした「二十一世紀の言語学」デシター 424さん、Introducing...に萎えちゃったんだったら、こちらはいかがデスカ? まだちょっとしか読んでませんが、印象に残った言葉デスー ・「あと、痕跡を導入してしまったのは、私のミスだったと思います」p.280 ガビーン! ・「数学は何に関してもそんなに大した力は持っていませんよ。」 「物理学では力を発揮していますが(中略)あるものがあまりに複雑に なってきたら、物理学はそれを他の分野に委ねてしまうんですよ。」 p.326 ここだけ抜き出すと誤解があるかもしれマセンが、これは「言語学における ガリレオ・ニュートン流思考法」というところにでていて、私には非常に 興味深かったデス。 このあと、言語の数理的研究はどうしてもweak generative capacityに 関するものになってしまい、言語学には関係ない、とチョムせんせは いうのですが、福井せんせ?がstrong g.c.に関して興味深い数学的研究が ある、といいマス。しかし、チョムせんせはそれでも、問題が少しでも 複雑になってしまうと数学は役にたたない、と言ってマシタ。私見デスが、 論理学も同様に役にたたないのかもしれマセン(論理学が数学の下位領域 とすれば当然デスガ)しばらくあてもなく考え込んでしまいマシタ。
667 :
424=442 :03/12/03 01:14
こさかな先生、こんな私めに代替本まで提示して下さってありがとうございます。 実は、上であんなこと書きながら、ちょっとずつ読んでいます。誰がどういうこと言ったか はわかりやすく書いてあるので、それを知っておくだけでも、というかそれを知るには、 良いなあ、とか思っています。 日本語で書かれた生成文法の本は少し読みましたので、英語で書かれたものを読みたい なあ、などと思った次第です。どうもありがとうございました。
amazonでポチッと1-clickしてしまったにゃw
おじゃましまんにゃーん。(めっちゃローカルネタ) こさかなしゃん、ちょっと教えてくんスマソなんですけどにゃ。 von Heusingerが例えば"The Reference of Indefintites"なんかで 言ってるんですけどにゃ、Skolem functionをsyntacticな部分では 用いることはできないので、epsilon operatorを使った方がattractiveだ なんてことを言ってるんですが、Skolem functionってsyntaxに組み込めにゃい ものなんでしょうかにゃ?(DP内にFPがあるよーなやつ) ああ、そうかそれともepsilonだと解釈の際にchoice functionを使用するので algorithmとしてはすっきりするけど、Skolem functionだと解釈の度に定義しなきゃ いけないので複雑になるってだけのことなのかな? すんません、言い出した手前もっかい読み直しまつ。頭がおかしくなってるかもしれんしにゃ。 424=442しゃん: 初級者向けのノームしゃんの本にゃら、Language and Problems of Knowledgeっていう 講演会をまとめたやつも分かりやすくて読み物としてはいいかもですにゃ。 Kim先生って多すぎ(-.-;)フルネームで言われないと誰か分かんねえヴぇ。
K-Rodしゃん、こんばんにゃーん。 分かる所から切り取って書いていきますので適当に使ってクダサイ。 まえにSkolem化について書いたことがありますが、多分適当だったので 忘れてクダサイ(陳謝) 私の理解では、Skolem functionとchoice functionは同じもので、 そしてそれは、集合論における選択公理を採用した場合に、全ての集合について 元をただ一つ選び出すような関数、というもの、で選択公理とは直観的には そのような関数が存在するという命題(だったハズ)。選択公理の妥当性は controvercialだけど、それを仮定すると便利、とのこと。 Skolem function(choice function)は次のようなもの。全称量化子と存在量化子を持つ wffで、かつ全称量化子が広い作用域を取る時、存在量化子とそれに束縛された 変項は、全称量化子に束縛された変項に対応する個体に置き換えることができる ため、消去することができる(Skolem化)。そのかわり、全称量化子に束縛された変項と 個体の関係を明示する関数が導入され、その関数をSkolem function、 あるいはchoice functionと言う訳デス。
(つづきデス) 具体的には ∀x∃yR(x,y) -> ∃f∀xR(x,f(x)) がSkolem化で、それによって導入されるのがSkolem functionデス。 選択公理を採用すると、一定の論理構造をSkolem化する手続きは存在しマス。 ですから >Skolem functionだと解釈の度に定義しなきゃいけないので複雑になるってだけのことなのかな? は、(1)もしそうだとしても、このことはchoice functionにもあてはまる (2)解釈の度に、といっても等価関係に基づいて取り出す関数なので 計算の複雑さに関与するとは思えない と思いマス。特に、論理構造をC-I体系に属するものとすると、狭義統語論の 複雑さの概念が適用されるとは考えにくいと思いマス。(計算論での複雑さは 関係するかもしれません、この辺自信ありマセン) epsilon operatorというのは、不勉強でしりマセンが、文脈から判断すると、 統語論にあって、C-I写像後のSkolem化された論理式に対応するものカナ? と想像しマス(definite articleに対応するiota operatorから想像して) するとSkolem functionでもchoice functionでも統語論で生起することは 考えにくく、definite articleが統語論で生起し得るように、epsilon op.が 統語論で生起する、ということなのかナ?と想像しマス。 K-Rodしゃんが挙げた論文は読んだことないデスが、functional interpretation (relational interpretation)に関するものデスカ?f.i.に関するもので、 統語的要素としてepsilon op.を導入する、ということは、Skolem化された 構造とは被定義項:定義の関係になるので、決定アルゴリズムは極めて 明示的になりマスネ。ただし、そのようなoperatorが存在するかは 経験的問題でしょうケド。このあたりは妄想デスので無視してクダサイ。
こさかなしゃん、ありがとですにゃ。
このスレはモノホン意味論研究者がけっこうromってるので、生成スレ並みに
うかつな発言ができない所ですのでいいプレッシャーでもありますにゃ。
Skolem functionはsetとsetのrelationを取り出すfunctionみたいですね。
Linguistics and PhilosophyのWinter (1997)に詳細な定義が載ってまつ。
SK=def λf[∀g(∀x){g(x)≠O->(g(x)((f(g))(x)))}]
どうもアルゴリズム的にはChoice Functionと同じ作用を果たしそうですね。
それで
>>671 はその通りで、epsilonとiotaのoperatorはsyntaxにあって、
これをLFでchoice functionを通して解釈する、と。
ちなみにHeusingerしゃんはdefinite NPもepsilonで分析されてますにゃ。
言いだしっぺは実はHilbert & Bernays (1939)みたいですにゃが、epsilonを
使うことでE-typeやDRTよりも説明力が上がるみたいですにゃ。
ここで詳細な分析を書くととんでもない量になるので、詳しくは
Pronouns:Representation and Grammarにある"Reference and Representation of
Pronouns"に論じられてますにゃ、と逃げておきますにゃ。
K-Rodしゃん、 >言いだしっぺは実はHilbert & Bernays (1939)みたいですにゃが Hilbert & Bernays(1939)って、Grundlagen der Mathematik. Bd II? ドイツ語ダー、ガビーン!
意味論と関係ないんデスガ・・・ The Smithsの"This Charming Man"が発売されてから、この12月10日で 丸20年じゃないデスカー! すれちがいゴメンナサイ。
(O´〜`)<まだ服貧乏か?男になったか?指輪は返したか?
I still haven't got a stitch to wear. It's really gruesome that someone handsome like me should care Thnak you!
ネタふりでもないですが、The Smithsつながりで。 "Accept Yourself"という曲があるのですが、そこに Anything is hard to find.・・・* というフレーズが出てきマス。確か、英語の否定対極表現ANYはhardにも 認可されるんじゃなかったかと思いマスが、しかしANYは主語の位置には 出て来れないのではないかと思いマス。しかしunaccusativeの場合は 表層の主語の位置に Any ship didn't sink. みたいに言えるのか、事実関係もよく覚えていないのですが、存在のbeでは There isn't any problem. はいいデスが、 *Any problem isn't. じゃありマセンカ?すると、*の"anything"は否定極性表現ではなく、 全称量化の解釈になる、とすべきデショウカ?
難スィ……かにゃ 一つ思いついたのにゃが、昔、CCR(古っ)の唄で Someday never comes とかゆーのがあって、「いつか分かる日が来る、 って言うけれど、その「いつか」なんて来ないのさ」みたいな感じだったと思うのにゃ。 もし、Do anything you like. みたいなのに続いていたとしたら「なんでもなんてゆーけれど、それがかえって見つからない」 みたいになるんではないにゃろか(ひねり杉にゃ?) 類例(?)かどうか分からんにゃが、No mistake is hard to find. には「見つけにくい間違いはない」の他、「間違いが 全然ない、なんてことは滅多にお目にかからない」という解釈も可能だと思うにゃ。no のscopeがNP内に限定される場合 にゃが、no mistake が「括弧付き」のように解釈されている点で 「anything」is hard to find と似てるにゃろか??? (かなりいい加減だから信用してはいけないのにゃ)
カオモジせんせ、レスありがとございマス。面白そうなので信用しマス。 No mistake is hard to fine. の"no"がNP内に限定されている解釈で「no mistake、なんて」はありそうでネ。それと クリーデンスクリアウォーターリヴァイヴァル(省略しないと一行 使っちゃいマスネ)の Someday never comes. の"someday"、日本語にするとどちらも括弧付きか、「・・・、なんて」に なること、これってde dictoの読みに対応する、ってことデスネ。 そういえば、CCRのフレーズのような (日本人が言う)「いつか」と「おばけ」にはあったことがない ってゆってた知り合いがいマシタ・・・ To examine every instance is impossible(, given an infinite set). 「全ての例にあたる、なんてことは不可能だ」ってなりそうナ気がし、 もしそうだとすると、これも"every"は明かに様相文脈の中にあるわけデスが、 そういえば、全部様相文脈ダー
にゃはは、CCRをスペルアウトできるとは、こさかなしゃんも古いにゃ(ドテ すると大抵の場合で同様の曖昧性があることになるにゃん。 Many guests will be difficult to please. (気むずかしい客が多い or 客が多いと歓待困難) block too many possibilities (可能性を排除し杉 or 可能性が多杉ることを排除) こういうのはやっぱり否定極性表現と共起すると出やすいにゃ? allow too many possibilities だと(可能性を許し杉 or 可能性が多杉ることを許す) と、あんまり違いがピンとこないのにゃが、やっぱり曖昧にゃ?
でもCCRを「CCB」とまちがえそうになる世代なのデス(クゥッ >すると大抵の場合で同様の曖昧性があることになるにゃん 私もこの点が気になりマシタ。notとeveryが出ているような場合、 全否定、部分否定と「de dicto読み」があることになるわけデスが、 To examine every instance is impossible.はきっと「部分的に可能」という のになり、違いがビミョーになりそうデスネ。そうすると、作用域の広狭、 といわれていた問題の部分集合はこの問題にからみそうなのデスが、 気になってきマシタ・・・ ところで、最初の例Anything is hard to find.は、サビの出だしのところ なのですが、ご示唆の通り「なんでも、なんて」って感じかもしれないすネ。 またはこれは、If any, truth is hard to find.みたいなfree choiceカナー ところで、 >こういうのはやっぱり否定極性表現と共起すると出やすいにゃ? Some kind of woman never have a penny when she goes out. のような例で、"a penny"が否定対極表現にならない時がde dicto、 (札束は持ち歩く(どんな女性ダー))のようなことデスカ? と余韻を持たせておわりマス(ぺこり
あ、自分でゆってたことですが、"a penny"をde dictoというのは変ですネ。撤回デス。 ところで >Many guests will be difficult to please. (気むずかしい客が多い or 客が多いと歓待困難) >block too many possibilities (可能性を排除し杉 or 可能性が多杉ることを排除) 両方の後者は、「客が多いと」ではずばり、「可能性が多杉ることを」は「多杉の場合」と 条件法のようになってマセンカ?いや、なんか私、様相性、ってのにひっぱられているん デショウカ・・・関係ないですが、日本語では *多いの客は困る cf.客は、多いと困る(少なすぎても困るけど) デスが、韓国語では「多いの客」っていうそうデス(manh-un salam.tul)。この時に topic markerをともなっているか、nominativeかでカオモジせんせのいう解釈の 違いがでたら条件との関係がでてきそうな。 様相性、というだけではANYに関しては何にも関係ないかナー、という気がしてたのデスが・・・
書いたところで「多くの客」ってのがあるのを忘れてマシタ。 多くの客は喜ばせにくい 多くの客が喜ばせにくい ただ、「多くの」だと「大部分の」というproportionalな意味が優位デスネ・・・ で、どちらも気難し屋さんばっかりのような。
なんか切れの悪い、年寄のしょんべんみたいで、GGスレのAdamasしゃんのように ドトーのように書けないのが悲しい・・・ 「多くの客」の替わりに「大勢の客」にしたらいいデスネ。 大勢の客は喜ばせにくい many>difficult, difficult>many 大勢の客が喜ばせにくい many>difficult, *difficult>many という例と判断デスが、ハの時はカオモジせんせの例に対応していて、しかも、 既知の「すべて」と否定の広狭の現象に対応するような気がしマス。 ジョンは、すべての愛人ハ愛せない(でも目的語の位置ではevery>notはむずかしい?) ジョンは、すべての愛人ガ愛せない 整理してみマス。 主語にANYが生起する例があるが、 a.これは極性表現のANYか、もしそうならば否定が認可?あるいはそれ以外の極性認可環境? そしてこれはTough構文に限定されるのか?b.極性表現が使われているものの、その性質は 現れておらず、「引用」のようになっているのか?それとも作用域の広狭の現象の特殊例か? こさかな個人としては、Tough Sentenseの主語位置が特殊な環境になってたら面白いナ、 と思うのデスけど・・・
Hoeksema2000に主語位置にANYが現れている例がありマシタ。 A doctor who knew anything about acupuncture was not available. 言及されているUribe-Echebarria1993によると、 *A doctor who knew anything about acupuncture was not intelleigent. のように述語に制限があるが、stage vs. individualという区別ではなく、 A good solution to any of these problems does not exist. のようにindividual-level predicateでもよいとのコト。へー。
( ´・∀・`)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー anyが埋め込まれずにいきなり主語として出てきた場合 Any solution to these problems does not exist. だとなんか悪そうなのにゃが、anyがnotをc-commandするか否かがcrucialなんにゃろか?
会話をさえぎってすみません。 遅くなりましたが、K-rod先生、Language and Problems of Knowledgeの紹介 ありがとうございました。読んでみたいと思います。 僕も話題についていけるようになりたいにゃ。(せめて語尾だけでも)
>anyがnotをc-commandするか否かがcrucialなんにゃろか? そうだと面白いデスネ。なんか、代名詞と、それと同一指示の名詞の関係に似デル・・・ その流れではさらにAnything is hard to find.は別扱いになりますネ。 (歌詞の訳はたしか「何も見つかりっこないさ」だったと思いマス。正しい訳だとすると、 「何も見つかりナンテしないさ」にパラフレーズできると思いマスが、日本語のこの文について [[Wh+MO+[t]-i...]NANTE-i...Neg]というカのdislocationのようなことを妄想しマシタ)
689 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/12/09 19:07
ここ2日間、こさかなしゃんドトーモードになってますね。いいぞ、こさかなしゃん!でも、Adamasしゃんにはほど遠いですが。これからもマターリとお願いしまつ。
689しゃん、ありがとデス。マターリいきマス。(引き出しがすくなくて、 マターリも不安) 日本語の極性表現でちょっと考えてみマス。日本語にANYのような 「強い極性表現」はなさそで、シカやWhモのような「ちょー弱い極性表現」 の研究が集中的になりがちですが、中程度の極性表現もありマス。 「そんなに」もソンナニ弱くないNPIデス(むしろ強い?)。 *私は今月パチスロでソンナニ稼いだ(平叙肯定) 私は今月パチスロでソンナニ稼がなかった(否定) パチスロでソンナニ稼いだの?(疑問) ソンナニ稼ぐと、店の人に目えつけられるよ(条件) ナンデなのかはわかりマセンが、「そんな」「それくらいの」ではNPIに ならないので、主語位置に置く時には埋め込まないといけないデス。 で、置いてみます。 [一人でソンナニ脱税した]人が/は捕まらなかった こさかな判断では、「*」デス。目的語位置に置くと 国税局は[一人でソンナニ脱税した]人を捕まえなかった こさかな判断では若干いいようナ・・・で、 [一人でソンナニ脱税した]人はアフォじゃない/(逆に)捕まりにくい 同程度にいいようナ・・・
こさかなしゃん、冴えてるにゃん♪ > [一人でソンナニ脱税した]人が/は捕まらなかった > こさかな判断では、「*」デス。目的語位置に置くと > 国税局は[一人でソンナニ脱税した]人を捕まえなかった > こさかな判断では若干いいようナ・・・で、 > [一人でソンナニ脱税した]人はアフォじゃない/(逆に)捕まりにくい > 同程度にいいようナ・・・ 同様に [一人でソンナニ脱税した]人が/は捕まらなかったこと と「こと」を補ってもよくなると思うにゃ。 で、思い出すのがMITのHiraiwaがやってたような、条件法になるとV-to-C raisingが起きるのでスコープ関係が 変わるという分析にゃ。 みんなが来なかった (all > not only) みんなが来なかったこと (ambiguous) つまり [一人でソンナニ脱税した]人が/は捕まらなかったこと がいいのも、「捕まらなかった」がCまで上昇し、その位置から主語をc-commandするからだ、という 話しにもっていければ (゚д゚)ウマー
東大のK沢さんのところで、ヒギンボタムをはじめとして何人か大物を呼ぶらしいですね。 COE関連らしいですが。
>[一人でソンナニ脱税した]人が/は捕まらなかったこと >がいいのも、「捕まらなかった」がCまで上昇し、その位置から主語をc-commandするからだ、 にゃるホドー するってーと、Hiraiwaしゃんの議論も、NPI認可の話がそちらに向かった場合も、 Head Mvtが解釈に寄与スル、つまりPFでの移動ではにゃく、narrow syntaxでの移動ダー とゆー話もできるよーになる、デスカ!Ueyamaせんせのカのない疑問文の議論も そちらの方向をさしてるものデショウし、Head Mvtが目立たない言語の日本語でこういう 話が組み立てられるのはエキサイティングですー
カット除去中しゃん
>>692 情報、感謝デス。灯台のHPを見てみマス。
自己レスですガ・・・ V2言語では狭義統語論で主要部の転位がなく、 膠着言語では狭義統語論で主要部の転位がある って、禅問答みたいデス。意味ないのでsage(いつもsageやナイカ!)
すれちがい、くどいようですが、今日で"This charming Man"20th Anniversary! ひとり祭りダー ♪Will nature make a man of me yet?
>>697 の数学板のデフォールト名さんからの紹介、ROMってる形式意味論の
せんせ方、よろしくデス。前にカキコましたNon-Classical Logicの入門書の
著者Priestが来年日本に来る、という話もありマシタ。
pied-piping age (after(´∀`)sense )
700げとズサ━━━━⊂(゚∀゚⊂⌒`つ≡≡≡━━━━ !!!!!
701 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/12/11 10:27
演習問題を解かなくちゃいけないんだけど わかんないのでおしえてほしいです。 ここに問題書いたら解いてもらえますか?
基本的に宿題は自分でやれ、というのがこの板のスタンスだが 自分でやってみて、どのあたりが分からないのかというのを、きちんと書けば 丁寧に説明してくれる人もいるかも知れない
>>702 とりあえず書いてミタラ?701氏のいうように、きちんと書けば、きっと親切な人が
ヒントなりくれるカモ。ちなみに私は親切だけど解けない自信がありマス(きっぱり
スミマセン・・・701氏と702氏をあべこべに書いてしまいマシタ。許してくだサイ。
とりあえず自分でやってみます。 簡単な樹形図まではなんとかわかったんだけど λ式?がわかんないんです。また来ます。
またきてね>701しゃん
709 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/12/18 11:53
何となく参考書みたいの買ってきて、論理学でも学ぼうと思ったんですけど。 記号が出てきた瞬間にわからなくなりますた。 だれかたすけて
711 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/12/18 12:19
>>710 哲学板のほうは違うんですか?
わかりました、そっちで質問してみたいと思います。
有り難うございました。
>>708 しゃん
『思想』の10月号、買いマシタ?『大全』スレを読んでたら読みたくなりマシタ・・・
>>711 哲学板のほうはまともにロジックの知識のある人がほとんどいないので、たぶん混乱
するだけだと思います(オレ論理学を勝手に構築してる人がいたりして、危険ですら
あります)。
数学板のほうが、まとものレスがつく可能性が高いです。
>>712 『思想』、買いました。フレーゲの論理主義を λ-calculus や intuitionistic type theory
をもとに再解釈しなおす、という試みが紹介されてて、すげーおもしろかったですよ。
708しゃん
>>713 しまった・・・機が熟したら図書館で借りヨウ。
ふと、今週言語学のことを考えた時間を計算してみマシタ。 なんとたった5時間(含2ちゃん時間)・・・ やばいので、今日感じた言語学的なことを記しておこウ。 ・708しゃんのカキコを読んで 「危険でありスラする」は可能だろうカ? ・同僚の発話を聞いて 「すんの」「やんの」等(古典語の「せざんめり」とか) では、動詞以外にもこの現象は見られるだろうか? 樽の、春の、丸の>*たんの、*はんの、*まんの、ポルノ>*ポンノ どっちも意味論じゃナイー(ムキー
別に生成意味論するわけではないのですが、論文読んでると、生成意味論の樹形図 がやたらとでてきます。 生成意味論がわかる入門書も教えて頂けないでしょうか?
言語学板トリヴィア: 生成意味論は…… 意味理論ではなく統語理論である。
_,,..-─20─‐- .、.._. ,. ‐''" _,,..-─19─‐-.、.._. ``'‐.、 ,.‐´ ‐''"´ _,,..-─18─‐- .、.._.``'‐.、`‐.、 ヽ ,.‐´ ‐'',"_,..-─17─‐- .、.._.``'‐.、` / ヽ,.‐´ ‐''"´_.-─16─‐- .、.._.``'‐.、`/ ヽ,.‐´ ‐''~_,,.-─15─‐- .、.._. ``'‐./ ヽ,.‐´ ‐''_,,.-─14─‐- .、.._.``'..,,/ ヽ,.‐´ ''._,,.-─13─‐- .、.._.``'.,/ ヽ,.‐ ''"._.-─12─‐- .、.._.``'/ ヽ,.‐''"_,,-─11─‐- .、.._.`,/ ヽ,.‐''"_,,.--10--‐-.、.._.`/ ヽ,.‐''_,,....--9---.、..._. '/ ヽ,.‐'_,,...--8--.、.._.`'./ ヽ,.'_,....,--7--.、.._.`/ ヽ,_,.._..,,-6-..、.._.`/ ヽ,._,...,,-5-..、.._'/ ヽ,.,,...-4-.、.._/ ヽ,..,.-3-,、_/ ヽ,..-2-、./ ヽ∧_∧ ミ ⊂ヽ(・∀・ ) ヘェーヘェーヘェーヘェーヘェ . ∩ヽ,, ⊂_ノヽ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`` 、  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄``、 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\|| | 20 | |.. ,> ._ .\_______/..|..| .| ヽ__________ノ i ヽ._____________.ノ
自作自演スマソ
では確認のVTRデス、なーんてネ。
だから英語学事典では、統語論のところに書いてあるんですね。
Generative Semantics というのは俗称であり、正しくは Semantic Syntax である。
何ヘエ?
80ヘェを超えますた!
概念意味論と生成意味論って何が違うの?
生成意味論は標準理論の「変換は意味を変えない」というテーゼを強い形で 採用し、ある文の解釈を全て表示している基底構造から、音韻部門への出力 となる表層構造を統語的変換規則で導出する理論デス。 これに対して概念意味論は、「意味構造とは概念構造である」というテーゼを 下敷きに、統語構造とは独立した概念構造が、統語構造と対応規則で結ばれる とする理論デス。統語構造は生成的な部門であるが、概念構造も自律的に 生成的な部門であるとシマス。 それからあんまり関係ないことデスガ、生成意味論と概念意味論の間に 直接的な発展・継承の関係はありません。それどころか、俗流解釈では、 生成意味論の立場を決定的に突崩したのは、概念意味論を構築したJackendoffの 解釈意味論である、といわれていマス。しかしこれはGoldsmithらが指摘して いるように生成意味論が採用されなくなったのは多分にイデオロギー的なもの によるのであり、このことはカオモジせんせも説いてやまないところデス。 付け加えると、生成意味論ではRossのperformative analysisの遂行動詞や、 R.Lakoffのように社会方言的変異を導く情報のようなものまで基底構造に 盛り込まれマシタが、概念意味論では、概念構造において文の意味論、語用論 といった違いはないとしている点で生成意味論に似ているように一見すると 思えるカモ。しかし意味論、語用論といった区分も理論によるものであると すると、生成意味論と概念意味論は上述のような理論的相違があるわけで、 単純に同じことをやっている、とは言えマセン。 さらに付け加えると、概念構造は言語の解釈だけではなく、音楽や視覚の 解釈も担当していると言う点で生成意味論よりも多くのものを盛り込んで いるわけで、さらにそこに見られる一般則としてpreference rule systemを 仮定しているわけで(純口調
では生成意味論の直接の子孫とは、といえば、形式意味論がそうだと見られるかも しれマセン。Handbook of Semantic ThoeryでParteeの手になるIntroductionで 「形式意味論は生成意味論と哲学的意味論を親とする」とあったような 気がしマス(うろおぼえでスミマセン)。Dowtyが哲学からは von Wrightなど、言語学からはMcCawleyの理論を取り入れて語彙分解を考えて いたように生成意味論の関心を一部引き継いだと言えるかもしれませんが、 生成意味論のラジカルなテーゼは全く引き継がれていマセン。このことに よって、形式意味論を生成理論に含めず、記述のためだけの営みと見て 差しつかえないならば、生成意味論の子孫とは言えないことになりマス。
>>727 形式意味論というのは、私の印象だと Church や Carnap らによる内包論理研究の直系の
子孫、という気がします。Partee の言う「哲学的意味論」というのがそれなんでしょうが。
もっと遡れば、内包論理の直接の先祖は Frege の意味理論ですし、モデル論的観点は
Tarski (さらに遡れば Loewenheim や Skolem) から受け継がれた、ということになるのかな。
…ごめんなさい、独り言でした。
708しゃん、 技術をみると、私の印象も708しゃんの印象とさほど変わりありマセン。 というか、内包論理も、Fregeも、たぶんこういったら違うとFregeなら いうでしょうけどブール算も、形式意味論の先祖だと思いマス。 そして、テクノロジーが数学の直系の子孫である、と言えるのなら、それと同じ 意味で直系の子孫であると言えると思いマス。 すると、もともとご先祖様達は形式的なのに何故に「形式意味論」か? という疑問がでてくるのですが、それはやはり、言語学的意味論の一分派と してあるからなのデショウし、またそういった境界策定は便宜的なものなの だろう、と思いマス。そして高階論理、多値論理、量子論理、などなど の非古典論理が直系の子孫で、それはやはり形式意味論、とは名乗らず、 「論理学」の名を冠するのではないかと思いマス。マア、そんなに意味の あることを話しているわけではない、ということを自覚しながら書いてマスが、 どれだけcommensurableであっても、「形式意味論」と「論理学」は 現在のところ一応別れている、と思いマス。
730 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/12/26 22:20
『思想』って『現代思想』のことですか? よんでみたいので。
732 :
名無し象は鼻がウナギだ! :03/12/27 03:45
ケイコ先生(ワセダの)、ハァハァ
>>731 バックナンバーもないらしく、近くの書店にもやはりなかった・・・
後悔後を絶たず。
後悔後を絶たずっで初めて聞いた。 一瞬間違いかと思ったw
735 :
名無し象は鼻がウナギだ! :04/01/01 18:22
年賀状は来ないのに、Donald Davidson の本は届きました
736 :
名無し象は鼻がウナギだ! :04/01/02 03:22
年賀上一つもこなかった。 一つも出してないが。
あけおめデス。ワタクシも年賀状はきマセンでしたが lsltがとどきマシタ。まっきっきダヨー お正月は父上のこんぴゅーたーの設定でおわったデスー ワタクシはマカーなのに、しばらくウインドーザー だったデスー 拷問デシター 後は東北で魚系ラーメンたんほーツアーでしたー Descarte's Natural Phylosophyって本持ってったのに 4ページでぐーすかぴーデシター 生成文法総合スレはもりあがってマスねー
738 :
Adamas :04/01/06 07:22
すみませぇ〜ん!お邪魔いたしまスルゥ〜。 生成スレのAdamasという者ですが、 生成スレでカキコできなくなってしまいマシタ。 どなかたか、器用なカタ、 申し訳ありましぇんが生成スレの新スレ立ててくだしゃ〜い。 よろしくお願いござりマスルゥ〜 m(_ _)m
739 :
名無し象は鼻がウナギだ! :04/01/15 03:34
∃z(¬R(x,y,z)→(¬P(x,y)∧Q(x,z))) ってどうやって求めるんですか? 初め(頭)に全称記号がないからわからないです
739しゃん、 >求める っていうのは式を真にするvalue assignmentを、ってことデスカ?
741 :
名無し象は鼻がウナギだ! :04/01/16 01:18
>>740 ホント基礎ですいません
まだ勉強したばかりでvalue assignmentの意味が分からないのですが
この式を節集合に直したいのです。
∃z(¬R(x,y,z)→(¬P(x,y)∧Q(x,z)))
=∀x(¬R(x,f(x),g(x))→(¬P(x,f(x))∧Q(x,g(x)))
になるらしいのですが
なぜ全称記号がでてきていて、
なぜyまでがスコーレム関数になっているのかが解りません。
>741
すみませんが「節集合」というのが何なのか知りマセン。多分、こういう課題が出されると
いうことは数理論理学か情報工学を専攻とする学生の論理学の授業だと思うので、しばらく
待ってここでROMのせんせがたから回答が得られなければ
>>710 さんが教えて下さった数学板の
数理論理学基礎スレへゆかれることをお勧めシマス。
とお断りした上で、想像でものを言いマス。多分、課題は全称量化子だけを前接させている
述語論理式が充足不可能である(真にする付値がひとつもない)ということを判別するのに
便利な式を求める、ということではないかと思いマス。全称量化子と存在量化子を含む式を
スコーレム化するのはその過程でのことではないデショウカ。
すると、式をエルブラン・ベースの要素だけから成り立つ式で置き換える、ということが
課題ではないか、と思いマス。エルブラン・ベースは関数記号、定数記号だけを項と
する述語論理式で、スコーレム化された上の式については
B={R(c,f(c),g(c)), P(c,f(c)), Q(c,g(c))}
デス。(こう考えると、変項xが残っていることが今度は不可解になりマス)
任意の式が矛盾式か(また帰謬法によって恒真式か)を有限時間内に判定することは
常に可能であることが知られているので、さらに、その式が充足不可能である(=矛盾式である)
ということを簡単に知りたいわけデス。この場合、付置(value assignment)ということが
すでに講義で導入されていなければならないはずですノデ(そもそもスコーレム化も説明
できにゃいハズ)、確認してみてクダサイ。
こさかなさんと虚無さんの音楽のやりとりをみて激しく興味を持ちました。 ど素人がお二人の議論の足下に辿り着くための教科書を教えていただけませんか? 日本語が望ましいでつ。 当方物理で学部卒の編集者なので、ど素人というのは比喩ではなく。
743しゃん、私もど素人なので恐縮デス。お役に立つかわかりマセンが、私の側については カンニングしたりしたのに使ったものをお知らせしマス。元はと言えばジャズ理論の 本を眺めていた時に、ノートの半音と全音の並びが数学的関係である「対称性」 「推移性」としてはどんなものか、というものをメモしていったのが始まりデシタ。 たぶん物理出身の方には特におどろくこともない暇つぶしではないデショウカ。 その後、虚無せんせの話についていくために仲芳樹『音楽理論の基礎』を読みながら やってマシタ。あとでクラシックのちゃんとしたレッスンを受けた同僚と話していた 時に、音響的な知識はクラシックをやっている人にとってはほぼ常識的なことだと 知り、愕然としマシタ。平均律に関することは楽典ならばどのようなものでも 簡単に触れているのではナイカと想像シマス。おそろしいことに、最初私は 平均律を「無調性音楽」だと勘違いしていマシタ。ちょっと音楽に詳しいひとには バレバレだったと思いマス。 民族音階の発生についての本はちょっとよくわかりマセン。虚無せんせの オリジナルな考えがだいぶあるのではナイカとおもいマス。 音楽に関する人間の内在知識については以前から関心がありマシタが、その きっかけはLerdahl and JackendoffのA Generative Theory of Tonal Music (MIT Press)の存在デス。認知心理学で音楽を扱っている人にも基本文献だと 聞きマシタ。Ray JackendoffのConsciousness and the Computational Mindなど にも音楽の生成文法が解説されていマス。同じ著者によるPatterns in the Mindには Happy Birthdayを逆から演奏した、なづけて'Yadthrib Yppah'は人間にとって 許せない音楽ダ、という話がのってマス。
743です。こさかなしゃん返答恐縮デス(この文体やってみたかった)。 んと、音楽のほうはむしろわかるです。音楽のほうから意味論に辿り着いたです。 知りたいのは、この意味論スレに独学でついていくための意味論のほうの参考書です。 古い本で恐縮ですが、エピステーメー叢書・細川周平『音楽の記号論』から言語学に興味を持って、 意味論てのが重要そうなのでひとまずそこに出てるムカジョフスキーを読もうとしつつ、その後は 生成文法に向かおうか、その前にルーマン社会学を囓ろうかと迷っていたところ、このスレ&生成文法スレを発見、 生成のほうは、スレに歴史がありすぎて追うのが辛そうなのでひとまずこっちを読み始めたところ、 編集者なので、校正してるときに、語の入れ替えとか読点の位置とかもろもろいじってたりするので、 意味論のことはまったくわからないけれど、操作してることは似ているにゃあ〜と思って眺めていたら、 音楽の話になって、音楽の意味とかの話に向かいつつあるところで興奮してしまいますた。
743しゃん あー、とんちんかんな答えをしてしまいマシタ。それからなるべく 日本語で、でしたネ。ラジャー、ちょっと待ってくだサイ。 音楽の方はいける口、っていうのは頼もしいデスネ。気が向いたら かきこをお願いシマス。 追伸: ところで、「のだめ」口調をやってみたい、という人、ワタクシ 以外にはじめておみかけしマシタ。こうして「のだめ」口調が 2ちゃんにひろがることを、実は密かにねらっているノデス (ふふふふふ
747 :
(´∀`) :04/01/16 21:38
ふにゃふにゃ、ここはほんとに心が癒されるにゃん>こさかなしゃん 「のだめ」口調ってなーんにゃ? 「〜です」→「〜DEATH」ってのは洋楽板で使うけどにゃw 良スレ期待age
カオモジせんせ、 「のだめ」は講談社コミックスキス「のだめカンタービレ」w の主人公で、こさかなはのだめのくちまねをしているのデス。 と説明するとちょっとハズカシイ・・・
749 :
名無し象は鼻がウナギだ! :04/01/16 23:19
>>742 こさかなさん
yahooから論理学を検索して跳んできたので
専門外の板だとは知りませんでした。
誘導どうもありがとうございます。
こさかなさんがのだめ口調だったとは、不覚にも気づきませんでした。逝ってキマツ… それでは、お詫びのしるしに、 気持ちよかったデス……♥ はうん〜
ここの変な口調はのだめ口調だったのデスね!!? 許しまセン!!(←むしろミルヒー口調かも)
はぎゃっ 「許しまセン!!」 に深いイミはないですよぉ〜〜。 それしか思いつかなかったのデス☆
>>748 じぇねれーしょんぎゃっぷをツーカンする今日この頃にゃ
いろんな意味でにゃ
俺が読んでた大島弓子とか山岸凉子とかはどーしてんだろにゃ(遠い目
こさかなしゃんって、癒し系キャラ!?? ちなみにここの話、ワケ・ワカラン♪にゃ。
アクセス禁止及び職場のサーバのダウンでレスがおくれてすみマセン。
708しゃん、
>>750 お久しぶりデス。708しゃんものだめ口調デスネ?サ
通りすがりしゃん、
>>752-753 ぴぎゃー、ミルヒーをご存じなんて、こさかなよりディープな読み手デスカ?
そちらがミルヒーなら、こさかなはモジャミよ!千秋さまはわたさないわ!むきー
カオモジせんせ、K-Rodしゃん、見逃してくだサイ・・・
743しゃん、数日のあいだ寝食を忘れ、風呂にも入らず考えマシタが(ウソ)、 あまりいい考えは浮かびませんデシタ。読んでつまらなかった本はありますケド。 (ギロー『意味論』とか)一応暫定案を書きマス。 もう読まれたかもしれまセンが、 ・池上嘉彦『意味論』(大修館) は一応意味論を一通り見渡せマス。でもこのことは意味論をする感触を掴むということを 意味しまセン。個人的には、標準とは外れているかもしれまセンが、形態論をやると 意味論とはどんな営為ナノカ、言語理論上どう位置づけられるカを掴みやすいのデハ、 と思いマス。 音韻論よりの接近としては、一般向けの本デスが ・窪園晴夫『新語はこうして作られる』(岩波) 統語論よりの接近としては ・影山太郎『文法と語形成』(ひつじ) 語形成の概説としては ・なみ(「立立」の字)木崇康『語形成』(大修館) を挙げてみマス。それから、形態論といえばソシュールですが、ムカジョフスキー (ロシア・フォルマリズムの人デスカ?)とか、社会学、とおっしゃるところを 見ると、もうお読みになったカモ。
(なんか語論・形態論ぽいタイトルの本ばっかだな、と言ってみるテスト)
>>756 >・池上嘉彦『意味論』(大修館)
ラジャ。こさかなしゃんありがとです。まずはこれをがんばって読むです。
挙げていただいているのは、ちょと言語学/意味論入門ぽい選択なんでしょうか。
ともあれ、わかんなくなったらまたやってきます。
ムカジョフスキしゃんはチェコの構造美学、のようです。
「意味論的身ぶり」てのが出てきます。
このスレにというかこの板に関係ありそうなので読んだことがあるのは、
カラブレーゼ『芸術という言語』くらいでつ。
>>758 お役にたったかわかりまセンが、読んでみてくだサイ。
>ムカジョフスキしゃんはチェコの構造美学、のようです。
がーん!無識を晒してしまいマシタ。プラーグ学派の人なんデスネ。
なんか、最近、じわじわと生成意味論に興味がでてキター というか、もとはというとKatz and Postalの疑問文の分析について 若干の歴史的な関心があって、Katz-Postal Hypothesisがおかれた 状況ってどんなんだったんダロー、てなくらいデシタが、 GGスレのカオモジせんせの話を読んでタラもっと関心が強く なってきマシター と思ってたら、今日、An Integrater Theory of Linguistic Description(used)がキター!
・・・というワケで(どゆわけ?)だれかLakoffとRossについて 語ってくれまセンカ?
あうー、生成意味論について語りたいのだが、なにぶん知識が決定的に不足。 ある本では、Postal, McCawley, Ross, Lakoffの誰のアイディアが出発点か、という ことについて、それぞれが他の人のアイディアだ、といっていたと伝えているのだが、 多分みんなで議論しているうちに方向が定まってきたのかなー、と思う。なかでも やはりMcCawley, Postalが重要な位置を占めていたのかな、と思います。 McCawley先生は、ラデイカルであろうと中庸であろうと、語彙内部の構造内部の一般性を 掘り起こしていくことが重要だ、と言っていました。(それに対して近年の研究はそれに 十分つきすすんでいない、とも言っていました) あうー、やっぱり知識が決定的に欠落。しばらく修行にでかけてきます。
performative analysisがすごい気になるんですが。。。
Meaning Postulatesって何じゃらほい? 教えてちょ!
766 :
名無し象は鼻がウナギだ! :04/01/30 23:56
形式意味論を本格的に勉強するには国内ではどこの院がおすすめでしょうか?
>>765 じゃないけど
Meaning Postulatesと生成意味論って宿敵?
Meaning postulatesが意味記述?どゆことー?
769 :
名無し象は鼻がウナギだ! :04/01/31 04:09
下げちまったよ よってage
<performative analysis> Rossの分析で、遂行動詞を表層に現れる主節を支配する位置に基底では存在するものと仮定、表層では変換規則によって削除されるとするもの。例えば John thinks that the sandcastle was built by Debbie and {myself/yourself/*themselves}. の照応関係の成否は I TELL YOU THAT ... という遂行動詞を含む上位の節を基底で仮定することで説明される。 日本語については寺村氏が話者の内的状態を描写する形容詞の生起の可否を補文でのそれと平行させる試みとしてこの分析を採用していている、デス。 <meaning postulate> 直観的には正しいと思われる推論だが、推論としては論理的に正しくなくて、その正しくなさがpremiseを補うことでちゃんとした推論にできるとき、補われるpremiseを ゆう。Berwise&Ecthemendyの例が分かりやすいので引用。Cxを「xは四角である」、SSxyを「xとyは同じ形である」という述語記号とし、さらにAを全称記号と約束する。いま、ある定項cをとって Ax(Cx->SSxc) |- Cc という推論を考える。日常言語に置き換えると「すべてのxについて、xは四角であるならばxとcは同じ形である、というpremiseから、cは四角である、というconsequenceを得る」 という推論だが、この推論は正しくない。正しくするには Ax(SSxx) というpremiseを補い Ax(Cx->SSxc), Ax(SSxx) |- Cc とすればよい。このときに補われたpremiseがmeaning postulateである、デス。有名なのはFillmoreのbachelar=unmarrier manという分析だとおもうけど、話者の語に関する知識で、論理式にしたときに必要なpremiseを一般にmeaning postulateといってるみたい。 ここから多分語彙分解と関係するようなんだけど、忘れた。もとはRudolf Carnapがいい始めたらしい。これもちょっとうろ覚え。
>>770 横レス失礼します。
>この推論は正しくない。正しくするには
> Ax(SSxx)
>というpremiseを補い
> Ax(Cx->SSxc), Ax(SSxx) |- Cc
>とすればよい。
これが良く分かりません。
というか、後者の推論も正しくないのでは?
例えばCが常にFalseでSSが常にTrueの場合、
推論の左辺はTrue、右辺はFlaseになると思うんですが…
Cが常にFalseというのはCxであるようなxがひとつもないという場合だから 右辺CcはFalseというより、無意味になるんじゃないのか?
訂正
771のすべての「->」を「<->」で置き換えてくだサイ。
これの従って日常言語で「ならば」としているところも
適当に読み変えてクダサイ。
陳謝。
>>771 しゃん
おっしゃる通りデス。
>>772 しゃん
もう少し語ってクダサイ。
774 :
名無し象は鼻がウナギだ! :04/01/31 14:57
>>773 漏れも、
>>771 の意味がよくわかりませぬ。そもそも、一項述語C
や二項述語SS)が常にTrue/Falseだというのは、どういう意味なんでしょうか。
漏れも、
>>772 にあるように、すべての個体(の対)に関してTrue/Falseである
という意味なのかなあ、と解釈したのですが。。。
>>772 任意のxにたいしてCxがFalseですから、Ccも単にFalseです。
言い換えれば、「Cxであるようなxがひとつもない」にもかかわらず
推論によりCcが導かれてしまう(ので推論がおかしい)ということです。
>>773 なるほど、わかりました。
>>774 曖昧ですみません。常にTrue/Falseという表現については
774さんが解釈された通りの意味です。
その上でまだ、意味のわからない個所があるでしょうか?
>>775 なるほど。例えば、三角形しか存在しないような(かつAx(SSxx)という
meaning postulateがある)世界だと、
その世界に関して定項cが何を指したとしても、その世界については、
Ax(Cx->SSxc), Ax(SSxx) |- Cc
という推論は成り立たない、ということでいいのですか。
>>772 はちと勘違いなので無視の方向で
> Ax(Cx->SSxc) |- Cc
要素{a, b, c, ... }がある。
全てのxについて、CxならばSSxcのとき
(つまり{a, b, c, ... }の中で「四角い」やつが全て「cと同じ形」であるとき)
Ccである(つまり、cは「四角い」)。
この推論を成立するためには、どんなmeaning postulateを補えばいいか、
ということですな
この場合、補うべきは
xとyが同じ形で、かつxが四角ければ、yも四角い
AxAy( ( SSxy . Cx ) -> Cy )
みたいな式なのかな
私にはそもそもAx(SSxx)の意味するところがいまいちワカランのですが…
>>777 >私にはそもそもAx(SSxx)の意味するところがいまいちワカランのですが…
横レスですけど、
「あらゆる図形はそれ自身と同じ形である」という直感的には恒真で
あるが、論理的にも恒真ではない命題(「同じ形である」という言葉の
意味によって恒真になる命題だから)が、論理的にも恒真になる
ように要請されるmeaning postulateなのでは。
誤: あるが、論理的に も 恒真ではない命題 正: あるが、論理的に は 恒真ではない命題
>>778 それはよいとして、
なぜAx(Cx->SSxc) |- Ccを成立させるためのmeaning postulateとして
そのAx(SSxx)がでてくるのかがようワカランかったが
>>773 の訂正
> 771のすべての「->」を「<->」で置き換えてくだサイ。
を読み込むと
Ax(Cx<->SSxc) . Ax(SSxx) |- Cc
{a, b, c, ... }の全ての要素について、xが四角ければxはcと同じ形であり
xがcと同じ形ならばxは四角い、というとき
かつ、全てのxについて、xとxが同じ形であるとき
cとcは同じ形であるので、cは四角い、ということか。
すると Ax(SSxc->Cx).Ax(SSxx) |- Cc でもおk? (cと同じ形であるものが全て「四角い」ならば、 (そしてcがcと同じ形ならば) cは「四角い」)
>>776 こさかなさんが書き間違えたことによって生まれた推論
Ax(Cx->SSxc), Ax(SSxx) |- Cc
は形式的に間違えているということです。
推論が間違えているということは、
左辺が真であるのに右辺が偽であるような場合があるということですが、
それが例えば、
四角形が存在せず、どの二つの個体も同じ形をしている世界の場合だ
という事です。
その場合、cが何であっても、左辺は真右辺は偽となります。
>>780 の後半-781
OK、そのとおりだと思います。
>>781 >>782 要するに、任意の一項述語P、二項述語R、定項cに関して、次の推論が
成り立つということでいいんですか、せんせいがた?
cとRという関係にあるものが全てPという属性を持っており、また、
全てのxについて、xがx自身とRという関係を持っているならば、
cはRという属性を持っている。
test
失礼。プロクシ規制で書き込めなかったもので・・・ 議論が生産的でうれしい・・・ ところで、Fillmoreの論文集Form and Meaning in Language vol.1 Papers on Semantic Roles(2003, CSLI)を買ってたのを 忘れていました。もうご存知の方が多いと思いますが、 The Case for Caseという重要な論文が収められている他、 ここでの議論に関連しそうな語彙意味論の論文も収められています。 最近、昔の論文にアクセスしやすくする論文集が出ているのは ありがたいことです。できれば生成意味論、特にRossの論文を 集めた本が出るとありがたいのですが。(ドイツの本で、 生成意味論の重要な論文を集めた本を神田の古書店で見つけた ことがありますが、ドイツ語が読めないもので買いませんでした。 今、後悔してます)
774さん
>>784 関係、属性、ということがissueになっているので、少し正確を
期した方がいいかもしれません。二項述語もこの場合属性関数で
あって、属性関数としては「単に」二要素の順序対の集合であり、
その順序対集合の中に関係を読みとってしまうわけですが、
述語論理で妥当な推論としては再帰性という関係をはっきり
させる必要があるわけです。この点に気をつけてよめば、
おっしゃるとおりでいいんじゃないかと思います。
>>784 最後の行の
> cはRという属性を持っている。
は、「cはPという属性を持っている。」じゃない?
せんせいがた、レスありがとうございます。
>>787 用語等に不正確な部分がありましたら、ご指摘いただければ有り難いです。
あと、一項述語だけでなく、二項述語も「属性関数」になるのですか。
>>788 ご指摘の通りです。
後は、大丈夫ですか。
> 後は、大丈夫ですか。 もう一点だけ訂正しておけば あっしは「せんせいがた」ではないです。 多分、あなたと同程度か、それ以下の知識しかないでつよ
>あと、一項述語だけでなく、二項述語も「属性関数」になるのですか。 わたくちもこの部分でスタックしマスタ。 もう少しふえんをば。。。
792 :
名無し象は鼻がウナギだ! :04/02/01 08:53
生成スレでCroftの話が出てきていて、その中にmodificationという関数? が設定されているとのことですが、形式意味論でこれにあたる関数って ありますか? a red hatだとa hat which is redという分析hat(x)&red(x)しかないので しょうか?昔、授業を受けた時に疑問だったんですが。勘違いだったら、 すんません。
>>792 まず、modificationという関数(?)って、どんなものか教えて。
adnominal vs. predicativeのことをいいたいのでは?
774さん、791さん まずは既知の「関数」の意味から確認すると、 ある値を入れて、入れた値に対して出る値が一義的であるような「関係」を言う。入力多対出力一でもいいが、一に複数の出力が対応するのは関数の定義に外れる。 例えば、 fx=y で、domain{a,b}, range{c,d}とすると fa=c, fb=d でつくされるならfは関数。このとき<a,c>, <b,d>と表しても良い。これに対して、 fa=c, fa=d というようなfは関数とは言わない。このようなものに対応する順序対の集合{<a,c>,<a,d>}は単に「関係」という。ただしこのときの「関係」は推移性、対称性などの「関係」ではないので注意が必要と思われます。 なんかアク禁つづきで、ままならぬー つづきはまたこんど。
書けるうちに。 属性関数はある値を入れて、出力が0/Fか1/Tになるもの。直観的には ある要素がある属性の集合の要素かどうかということで、その要素は いくつの要素からなる順序対であってもよく、単一の要素の場合は トリビヤルな特殊例です。例として二項述語を考えると、その 属性の集合を <a,b> とすると、属性関数は <<a,b>,1>, <<b,a>,0> または Pab=1, Pba=0 です
ままならぬー! (『海猿』より)
はっ!せっかくの勢いをとめてしまいました・・・しばらくおとなしくしてます。
というか、完全にふえんしたのか>私 なんか忘れている気が・・・
800 :
名無し象は鼻がウナギだ! :04/02/02 17:37
ぼちぼちageとくよ
>>796 こさかなせんせ、どうも有難うございます。
要するに、「属性関数」=「真理関数」と理解して宜しいのですね。
今まで、「属性関数」は、個体の属性を表すための特別な真理関数
であって、一項述語に限られるものと思っていました。
でもまー言い方だよなー 普通は一項述語=属性、二項述語=関係って考えるよ
1さんが2001年7月23日にこのスレを立ててから、かれこれ 2年半。間もなくこのスレも使い切られつつあります。 もし1さんがご覧であればひとこといただきたいところです。 で、ぶっちゃけ、意味論スレを続けるか、続けるとすれば どんな感じがいいか、残った容量を使ってぶちまけてみやがれ。 追伸:774さん、802さん、どーもですー
1さんは、ぶっちゃけ、形式意味論に興味を失い、他の分野へ行っちゃったと思う。まー言語学自体をやめちゃってる可能性もある。この可能性のほうが大きいと思う。 といってみるテスト
>>804 にゃるほどw でもそうだったらちょっと悲しいね・・・
次のスレ、とりあえず立てときますね。ではみなさん、次のスレで。
Alors, a la prochaine! Nacungey poca! See you, mates!
つぎのスレがドトーになりますように・・・
もう書けないのかテスト
まだ書けますたw
808しゃん、誘導感謝デス。あ、まだかけますたw
お、まだ書けるにょろ。
03, 03:03ねらいー、と思ったら午後だよね
おらおら、勿体ないから最後まで使い切ったれや
813だ
814よ
815かしら
816だじょ
817だもん
818かも?
818にゃん
まだまだいくぞ〜
結婚してください! 820だー
ずれちゃったー そんなら823だー
今度はあってる・・・とほほの823
おらおら〜900までいったら〜
819は俺ではないからにゃ 812-817は俺だけどにゃw
819, 821-824は私デシタw
ドテッ
>>827 すると、私とケコーンしたのは誰デショウ?
あと1KBくらい書けるみたいですね。
よーし、あと1kbで900までいくじょ〜
831
まだいける? 832
をらをら833だ!
834でちゅ
をろをろ835・・・
836!
八百参拾七
============================= 糸冬 ===============================
うそだぴょ〜ん
840!
841...
842?
*843
%844
?845(in the intended reading)