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大神の人:2011/01/30(日) 01:02:05 ID:5tGDaOTP
しまった!
こっち(28)に投下するって言ってたのに、つい前スレに投下してしまった。スマヌ...orz
前スレ要領オーバーじゃなかったのかw
ちょっと特殊なテレパス少女のお話です。
一応二次になるのですけど、元ネタはマイナー過ぎて誰も知らないことと思いますので、あえて明かしません。悲しくなるから。
一応、元ネタを知らずとも読めるように書いているつもりですが、もしも駄目でしたらその旨おっしゃって下されば、以降投下は控えます。
暗闇の中を走り続けていた。
何も見えない、右も左も判らない、暗黒に塗り潰された世界の中を。
そこいら中から浴びせられる、悪意に満ちた囁き声と嘲笑から耳を塞ぎ、私にはただ、逃げ惑うしか術がない。
それはいつものこと。この世に生を受けてからというもの、ずっとずっと変わることのない、私の宿命だった。
やがて逃げることに疲れ、投げやりな気持ちに襲われた私の躰を、闇から這いずり出た無数のいやらしい手が捕まえにかかる。
―一緒に行こう……。
ああ闇が、暗くて冷たい闇の世界が、私を取り込んで、喰らい尽くそうとしている……。
けれどもその時、天空から一条の光が射し込んだ。
とても強くて眩しいけれど、苦痛ではない光。
こんな私の身も、心さえも温かく包んでくれる優しい光。
そう。これは私に残された、唯一の希望の光――。
光の神々しさに打たれ、私は歓喜の涙にむせぶ。
そしてその光に、光をまとって差し伸べられた頼もしい手の平に、懸命になって腕を伸ばした――。
「うぁぎゃあ?!」
伸ばした手が、夕日に輝くフロントガラスにぶつかった。
気がつけば夕暮れの山道。夏の青空は消え去り、翳りゆく世界は、最期のあがきのように赤く燃えている。
指先の微かな痛みと、自分の漏らし出した変てこな悲鳴のせいで、急速に眠りから引き戻された私は、一瞬、状況が判らずぼんやりしてしまった。
何で私、こんな急に眼が覚めたんだろう?
その訳にはすぐに思い当たった。車が急カーブを曲がったから、躰が大きく揺さぶられたんだ。
「あれ……ここどの辺?」
ごしごしと眼を擦りながら私は、隣で呆れ顔を浮かべている運転手――一樹守に呼びかけた。
一樹守。「アトランティス」というオカルト雑誌の編集者。私より二つ年上の、二十一歳の男の子。
守と初めて出逢ったのは一年前。当時私がバイトをしていた、三逗港という寂れた漁港でのことだった。
入社以来、初めての単独取材に意気込み、港の写真を撮りまくっていた彼の第一印象は、
「変な奴」
この一言に尽きた。
閉塞的な田舎町に育った私に取って、余所者で、しかもマスコミ関係者を名乗る彼は、只々胡散臭いだけの異物でしかなかったのだ。
そんな彼と――まさかのちに、夜見島に潜んでいた化け物達を倒すため、協力し合うようになるなんて、その時には思いも寄らなかった。
おまけに、その戦いが終わった後にも交流が続き、こうして一緒にドライブに出かけるほどの仲になるなんて、本当に、未だに信じられないっていうか……。
「脇道に入ったんだ。こっちの方が、早く着くと思って……」
私の物思いをよそに彼は――守は、素っ気なく答えた。
「ふうん……なんだか淋しい道ねぇ」
そう呟いて、守の横顔を盗み見た。
光を照り返す眼鏡のレンズ。燃え立つような夕焼けを浴びて、オレンジ色に染まった横顔。
こうして改めて見直すと、意外に綺麗で整った面差しをしていることに気がつく。
眼鏡の奥の涼しげな眼元に、すっと通った鼻筋。ちょっと唇が分厚いけれど、そのおかげで、彼の全体から漂うクール過ぎな雰囲気が緩和されて、かえって親しみやすく、しかも、そこはかとないセクシーささえもがプラスされているみたい。
へえ。服装も髪型もぱっとしないし、むさ苦しい印象しかなかったけれど、守って、結構――。
と。あんまりまじまじと見過ぎたせいか、守がこちらを見返してきた。
私は取り繕うように、窓の向こうをきょろきょろと眺め廻した。
「郁子、何見てるの?」
守は私に問いかける。
何て答えようかと迷った私の眼の先に、ふと、道に沿って続く緑の中の、赤い点々が飛び込んできた。
とっさに私は、その赤い点々を指さした。
「うん、あの赤い花。さっきからあの花ばかり眼につくの」
風に揺れる赤い花。それが、かたまりとなって点々と続いている。
「あれって、彼岸花かしら?」
「いや。あれは、月下奇人」
「ゲッカキジン?……月下美人じゃなくって?」
守がさらりと言った奇妙な名前を、私は聞きとがめた。
「ああ。月下美人は白い花だろう? あれは違う花なんだ。この辺りにしか生息しない、珍しい植物なんだよ」
守は口元だけで小さく微笑んで説明する。
彼の説明によると、その月下奇人という赤い花は、かつてこの近くにあった、羽生蛇村という小さな山村特有の花、ということだった。
三年前に起こった土砂災害で消滅した羽生蛇村。
その村で大きな災害、または、神隠しなどといった怪異が起こる時のみ花開くと伝えられていた、不思議な植物。
不吉な出来事の予兆のような花。それが、月下奇人なのだという。
「なんか……怖い花なんだね」
守の話を聞き終えた私は、恐々と肩をすくめてしまう。
話の途中、迫ってきた雨雲が急に辺りを暗くしてしまったことも手伝い、心細さが増幅している。
「そんないわくのある花を見て……私達も、神隠しに遭っちゃったりして」
「大丈夫だよ。だってよく見てみな。花は咲いてないだろう? あの赤いのは、全部蕾だ。だから大丈夫」
気弱な台詞を吐く私に、守は励ましの言葉をくれた。
守に大丈夫って言われると、何だか本当に大丈夫な気がしてくるから不思議。
でも少し安心したら、今度は別の不安が膨れあがった。
「ねえ、ところでさ。道……本当にこっちで大丈夫?」
暗くなった上に、とうとう降り出した雨に閉ざされてしまった山道。
おかげで周囲の様子はほとんど判らないのだけど……どうも私には、同じ処をぐるぐる廻り続けているように思えてならなかった。
だいたい、走ってる時間がちょっと長くない? もういい加減、麓の明かりぐらい見えてきたっていい頃なのに。
私がそう考えていた時だった。
――逃がさないよ。
突然、頭の中で響く声。
もはや私の躰の一部と言っていい、憎悪に満ちたその声に合わせるように、黒い空が光って、落ちた。
「ひゃあっ!」
「大丈夫だよ。ただの雷だ」
肩を震わせ悲鳴を上げると、守は片手で私の肩を抱いた。
温かい手の平。タンクトップからはみ出した皮膚に、直接触れている。
「う、うん……でも、結構近くに落ちたみたい」
私の躰は、言いようのない不安でおののいていた。
それは、雷のせいばかりではない。雷よりはむしろ、その雷が連れてやってきたような、不穏な気配。
私は確かに感じていた。
今、ここには誰かが居る。
この湿った暗闇の中、監視するような冷たい眼差しが、私と守を見据えているのだ。
――誰? どこから?
はっきりしたことまでは判らないけれど……この悪意に満ちた感情、その波動だけは、私の躰にひしひしと伝わっている。
私の不安をなだめようとしてくれているのか、守はしきりに私の肩を撫で摩る。
もしかしたら彼も、闇に立ち込める悪意に気づいたのかも知れない。
――気をつけて……。
私は、守の方に身を寄せた。
「い……郁子?」
私が躰を近づけると、守は少し緊張したみたいなかすれ声で私に呼びかけた。
やっぱり、彼も何かを感じていたんだ。
無理もない。こんなに強い、あからさまな悪意を向けられたら……私のように変なちからなんて持ってない、普通の人である守でも、気づいて当然だと思う。
でも大丈夫。どんな敵が現れたって、私達二人が協力すれば、きっとなんとかなるはず。
一年前のあの事件の時だって、二人で乗り切れたんだから。
車を包囲する気配のみに意識を集中させながらも、私は守を励ますように、彼の膝に手を置いた。
守は何かを決意したような気配を発してから、生唾を飲み込んで、車を路肩に寄せ始めた。
いったん車を停めてから、状況を確認しようってことなのかな?
でもそのわりには、ちっとも車のスピードを落さない。
それどころか、逆にどんどんスピードがあがっているみたい。
「守? どうしたの?」
さすがに様子がおかしいと思い、私は尋ねた。
守は引き攣った顔で前方を見つめている。こめかみに汗のしずくを浮かべながら。彼は答えた。
「ブレーキが……利かない!」
滝のような雨の中、車は滑り落ちるように山道を下ってゆく。
フロントガラスのワイパーは全然役に立っていなくて、もうほとんど何も見えない。
そんな中、守は必死になってハンドルを握っている。
不意に開けた視界の、真正面に白い線。道の端に添えられたガードレール。あの向こうにあるのは、地獄へと続く断崖――。
私は悲鳴をあげた。
見ていられなくて、顔を両手で塞ぐ。アスファルトに食い込むタイヤの音が大きく響いて――。
車は、危なくもカーブを曲がりきった。
私はほっと息を吐く。
だけど次の瞬間、突然真正面から対向車が現れた。白く光る二つのヘッドライト――。
「駄目だ! ぶつかるっ!」
守が急ハンドルを切っている。
その瞬間、私は気付いた。
これ、おかしい。何が、とは言えないけれど、何かがおかしい。
迷っている時間はなかった。
私は前方の対向車――正確には、前方から照りつける“白い光”に向かい、思い切り自分の“意思”をぶつけた――。
光の洪水は、あっという間に収束した。
我に帰れば暗い山道。雨の音に閉ざされた闇の中、車は何事も無かったかのように静かに停止していた。さっきまでの喧騒が嘘みたいに。
もちろん、対向車の姿なんて跡形もなく消え失せていた。
「……どういうこと?」
私は呆然と呟いて守の顔を見た。
守は黙って首を左右に振るだけ。彼にも全く訳が判らないってこと。
気分を変えるべく、私は少しだけ車の窓を開けた。
雨の匂いに混じり、切ないような甘い香りが漂っているのを感じる。
道に沿って生えている、月下奇人の花の匂いみたいだ。
その時、雨に紛れて道路を横切る人影を見た。
「きゃっ、守っ! アレ……」
「いっ今の、郁子も見たのか?!」
私はうんうんと頷いた。
道路を横切った人影。それは、素っ裸の女だったのだ。
白い肌を惜しげもなく晒し、長い黒髪をたなびかせて――。
「あの女……」
守は深刻な声で呟き、雨の中、迷うことなく車の外に飛び出していた。私も慌てて後を追う。
「守、待って!」
私は嫌な予感がしていた。
今の女――私はよく知っていた。でもそんな馬鹿なこと……だって、だってあの女が、こんな風に私と守の前に姿を現すなんてことは……。
戸惑っている私をよそに、守は、いつも持ち歩いているL字型のLEDライトをかざし、道に沿って続く森の暗がりを照らしているようだった。
夜見島から帰って以来、守は、どんな時にもライトを手放そうとはしなかった。
アパートの部屋の電気だって、いつでも点けっ放し。繁華街の明るい夜道を歩く時でさえ、胸ポケットに挿したL字ライトは点灯している。
私のバイト先である喫茶店でも、守は「ライト君」と呼ばれ、他のウエイトレスの子達から影で笑われていたけど、私だけは笑う気になれない。
だって、仕方がないのだ。
夜見島で戦っていた時、闇の住人である敵の化け物達を追い払うのに、光は欠かすことのできない、重要な武器だったから。
光源を持つかどうかが生死を分けるほどだった、夜見島でのあの体験――トラウマになって、暗所恐怖症っぽくなってしまうのは、どうしようもないことだと思う。
けれど、守と同じ体験をしてきたはずのこの私は、守のような暗所恐怖症になりはしなかったけど。
むしろ私は、暗い方が心地好かった。
夜見島事件でバイト先の船を失った後、上京して借りたアパートだって、陽当たりはそこそこの場所を選んだ上、部屋には間接照明しか置いていない。
だって、明る過ぎる場所って落ち着かないから。あんまり明る過ぎると、私、ここに居てもいいのかなって、凄く不安な気持ちになる――。
そんなことを考えながら、ライトを振りかざす守の背中をぼんやり眺める。どうやら彼は、暗い森の奥へと続く、小さな道を発見したようだった。
何とはなしに、守の後ろから覗き込む。
見たとたん、異様な威圧感のようなものが迫ってきた。
威圧感? ううん、少し違う。恐怖感、違和感、既視感……そう、既視感が一番近いかも知れない。
初めて来たはずの場所なのに、なぜか、ずっと前から知っているような、おかしな感覚……。
「ねえ、行くの?」
道の先をライトで照らしている守に、不安な気持ちで私は尋ねた。
嫌な予感がますます強くなっていた。できることなら、この道の先へは行きたくない。行ったらきっと、取り返しのつかないことが起こってしまう……。
「ちょっと確かめてみるだけだよ。さっきの女が何だったのか……だって、うやむやにしたままだと、余計に怖いだろ?」
守は、さっきの全裸女性のことがとても気にかかっている様子だった。
それも口で言ってるように、単純に怖いから確かめたい、というだけではなさそうだった。
もっと別の――何だかちょっと、エッチな関心を心の奥底に隠しているような感じ。
なんとなく面白くない気分に陥った私は、守の腕を掴み、道の先へ行くのをやめさせようとした。
「ねえ、やっぱり、やめとこ? 私、こっちに行きたくないの。なんか、嫌な感じがして」
別に嘘はついてない。
嫌な予感は本当にしてるんだから、これは別に、ヤキモチだとか、そういうんじゃない。
必死になって自分の心に言い訳しながら、私は守を見つめた。
「いや……すまないけど、やっぱり確認して置きたい。心配するな。おれ、一人で行ってくるよ。お前は車で待ってるといい。大丈夫、すぐに戻って来るから」
そう言うと、守はさっさと茂みを掻き分け、森の中に入って行こうとした。
何それ!
守一人で裸の女を追いかけて行くなんて……そんなこと、許せる訳ないじゃん!
「守が行くんだったら、私も行くよ! こんな山道で、独りで留守番なんてしたくない!」
勢い込んでそう言うと、守は少し面食らった顔をした。
「そ、そうか? じゃあ、一緒に行こうよ」
そこはかとなく、残念そうなその口ぶり。私はちょっと苛ついた。
「ふん。まあ、行くなら行くでいいんだけどさ……車に鍵かけるぐらいはしといたら? 無用心じゃないの。ほんとにすぐ戻れるかどうかも、判んないんだしさ」
「ああ……まあ、そうかな……」
守は、気のない態度で返事をし、森への道を――裸の女の消えて行った道を気にしつつ、小走りに車の方へ向かった。全く……。
守の背中を見送ってから、空を見あげた。
顔に突き刺さるような雨。真っ黒く垂れ込めた雲は獣のように唸り、雲から雲へと駆け抜ける稲妻が、山道に鋭い光を浴びせかけた。
「空が……笑ってる?」
それは不思議な感覚だった。
雨や雷なんて、ただの自然現象のはず。それなのに私は、そこに、薄ら寒くなるような悪意の波動を感じたのだ。
悪意を込めて、空が笑っている。
しかもその笑いはヒステリックな女のもので、私には、その笑い顔さえもが、はっきりと眼に浮かんだ。
長い黒髪を振り乱し、真っ白な美しい顔を、鬼女のように醜く歪めて笑っている、狂気の表情。
鬼女は、黒い雲の中から、守に向かって白い腕を差し伸べる……。
「……守!」
気づくと私は、守に向かってダッシュをしていた。
考えている暇なんてない。女の悪意は守を標的にしている。助けなきゃ。守を、今居る場所から――。
「守! 危ないっ!」
間一髪で追いついた私は、守のシャツを後ろから引っ張った。守は手前に引っくり返る。
次の瞬間、守の立っていた場所に、雷が落ちていた。
ううん、正確には、守の立っていた場所からは、少しばかりずれていたかも知れない。
雷は、守の立っていた場所の少し前方――つまり、車の屋根の中心を、狙い澄ましたように直撃していたのだ。
――危なかった……。
場所がずれていたとはいえ、あのままあそこに立っていたら、守は間違いなく、落雷と車の炎上に巻き込まれていたと思う。
そう。雷の直撃を受けた車は、私達の眼の前、鮮やかな炎を噴きあげ炎上していた。
落雷と車の炎上を間近に受けた守は、雨でびしゃびしゃの路面にへたり込み、呆然とした面持ちで、燃えてゆく自分の車を見つめるだけだった。
「まあ……そう気を落とさないで」
落雷のショックから立ち直るにつれ、買ったばかりの愛車を失ったという事実に打ちひしがれて、見ちゃいられないくらいに消沈してしまった守に対し、私の慰めの言葉は、虚しいものでしかなかった。
無理もないよなあ。だってまだ、ローン始まったばっかのはずだもん。
ああ、ほんとに可哀想……。
「し、しっかりしなよぉ! 命が助かっただけでも、ありがたいと思わなきゃ!」
我ながら、かなり無茶な励まし方をしてると思う。
でも、それでも守は気を取り直し、よろよろしながらも、自分の力で立ちあがった。
偉い!
そう言って誉めてあげたい気持ちになったけど、そこは堪えて我慢する。だって守ってば、誉めるとすぐに調子に乗るんだもん。
そういったこと、私には大抵判っていた。
小さい頃からそうだったんだ。
昔から私には、人の心を読み取るちから――守に言わせるとそれは、精神感応能力と呼ばれるものらしいけど――そんな、人とは違う、おかしな能力が備わっていたのだ。
物心がつき、少し大きくなってから、私は驚いたものだった。
私が人の心を読めるということについてではない。私以外の人々が、人の心を読むことができないのだという、ごく当たり前の事実に対して、だ。
だから、ある程度成長してからは、私は私のちからを隠すように気をつけた。
それは、さほど難しいことではなかった。
心が読めるとはいっても、それは決して百発百中というものではなく、時おり、相手が頭で考えた言葉が、私の意識にすっと入ってくる、といった程度のものだったから。
相手に対して意識を開けば読める確率はあがるけど、閉ざしてしまえば、余程強い思考でない限りは、完全に聞こえなくなる。
だから普段は意識に蓋さえしておけば、他人の心のざわめきに惑わされることもない。比較的、心安らかに過ごすことができた。
なのにそれが、歳を経るごとに上手く行かなくなっていった。
躰が成長するのに合わせ、ちからまでもが一緒に肥大化していったせいだと思う。
急速に大きくなったちからに私自身が対応しきれず、読みたくもないものをとっさに読んでしまって、それについて感じたことがまた、とっさに態度に出てしまう。
高校にあがってからは本当に酷くて、必死で隠していたにも関わらず、私のちからは、同級生達の間で噂になってしまったほどだった。
だから私は、ずっと孤独だった。
誰かと親しくなるということは、その誰かから、いずれは怖がられ、拒絶されてしまうことを意味していた。
誰だって、自分の胸の内を読まれたくなんかない。私が公言しなくとも、ちからの気配を感じただけで、人々は私の前から去って行く。
そんな人々の中で、唯一の例外が守だった。
去年、夜見島遊園の地底で、化け物に襲われていた守をちからで救い、遊園地の外までちからを使って脱出していた私は、もう隠しても仕方ないと思い、守に対しては、早い段階でちからのことを打ち明けていた。
当然守は怖がって引いたのだけど、逃げるように彼のそばから離れた私を追って、結局は私と一緒に居てくれたのだ。
夜見島ではもちろんのこと、夜見島から戻って来てからも。
彼は上っ面だけでなく、心の底から私のことを信頼し、友達として――ううん、それ以上の気持ちで、私を大事にしてくれていた。
私はそれをよく知っていた。だって、彼の心を読んだから。
間違いはなかった。夜見島事件の時、化け物達に対抗するため、やたらにちからを使った私は、おかげ様で、自分のちからをほぼ完璧に使いこなすことが可能になっていたのだ。
私のちからを知りながら、私と親しくなってくれた、初めての人。
まあ――だからといって付き合いたいだとか、そういうことは、全く考えちゃあいないんだけど。いや、本当に。
まあ、そんなことはさておき。
貴重で大切な「友達」であるところの守と私は、車を失って他に当てもないので、例の森へと続く道を進んで行くことになった。
さっき見た裸の女が幽霊とかの類ではなく、普通の人間であった場合、その後を追って行けば、人里にたどり着ける可能性だってあるのだから、こちらを進んだ方がいいとの判断だった。
私は守に、彼の荷物が入ったスポーツバッグを手渡した。
それは最初に車から出た時、心に浮かんだ予感に従って、私が持ち出していたものだった。当然、私の分の着替えやなんかの入ったトートバッグも、しっかり肩にかけてある。
荷物を手渡された守は、一瞬、なんとも複雑な表情をみせた。
――こんなの持ってきてくれるんだったら、車の方を助けてくれればよかったのに……。
彼の顔には、そんな言葉が書いてある。
ちからを使うまでもない。守って、クールな知性派キャラを気取るわりに、かなり直情的というか……はっきりいって、相当な単純思考の人だった。
自分の感情を隠したりするのが下手くそで、その考えは、ちょっと表情を探れば簡単に判ってしまう。
でも、彼のそんな、単純で判りやすい処が、私には好ましかった。
表も裏もなく、偽りのない、本音の感情をぶつけてくれる正直さ。その清々しさは、私に取って癒しであり、救いでもあった。
世の中にはこんな、自分の気持ちを誤魔化したりせずに、人に対しても、自分に対しても、呆れるくらい馬鹿正直に生きている人も居るんだ。
今までの人生で、たくさんの人の心を読んできて、人の心の澱に触れ、その生臭さに辟易していた私に取って、守の正直さは、人の心に対する絶望や嫌悪感を取り払い、他の人々と真正面から向き合う勇気を蘇らせてくれる、いいきっかけになった。
――自分から壁を作っていたら、誰も近づいてこないし、そうなったら、自らの可能性を閉ざしてしまうことになる。
何かの拍子に、守が私に向けて言った言葉だ。
その言葉に素直に頷けるくらい、私の心は解きほぐされていた。
守という男の子の存在によって――。
舗装された道路を離れ、森の小道を進んで行く私達の足取りは、雨に濡れて重かった。
木々に視界を遮られ、真っ暗闇の中を、守のライトだけを頼りに進んで行く。
濡れた地面も平坦なものではなく、生い茂った草や低木の枝が、足元をすくって行く手を阻む。
ほんの少し歩いただけで、私も守もへとへとになった。あの裸の女、本当に、こんな道を歩いて行ったのかなあ……?
「うわっ?」
急に、私の前を歩いていた守が立ち止まり、屈んで足首から何かをむしり取った。
守がちぎって捨てたそれは、月下奇人の花だった。月下奇人の茎が、足に絡みついていたのだ。
「なんでこんなもんが」
守は、足元の地面をライトで照らす。光の伸びた先を見て、私達は、息を飲んだ。
「月下奇人が……咲いてる」
蒼ざめた顔をして、守が呟いた。
私達の歩みを妨げていた植物は、いつの間にか、全て月下奇人に変わっていたのだ。
見渡す限りの月下奇人――しかもその赤い花々は、一つ残らず花弁を広げていた。
「やだどうしよ……これ咲いちゃったら、私達、神隠しに」
さっきの守の話を思い出し、私は怖ろしくなった。
天変地異の前触れに咲く、なんて言われていた花だけあって、月下奇人は、強烈な妖気のようなものを発散している花だった。
綺麗だけど、おぞましい。
甘ったるい芳香はお酒のようにきつく、不用意に吸い込むと、頭の奥がじんと痺れて、意識が遠退きそうになる。
「……心配するな。花が開く瞬間を見た訳じゃないんだから、セーフだよ」
「ほんと?」
ほんとな訳ない。さっき話した時、守はそんなルールのことは言ってなかったもの。
でも、そんなことを言い返したって仕方がない。守だって怖いはずなのに、こんな風に嘘をつくのは、私を安心させようとしてるからだってことも、ちゃんと判る。
だから私は、守の心情を察し、騙された振りをしておくことにした。
そして私達は、再び歩き始める。
闇の中の月下奇人は、道を進んで行くごとにその数を増やしていった。
「まるで、月下奇人の畑みたい」
そっと呟いた言葉に、守も黙って頷いた。
一面の月下奇人――それは一年前、夜見島で見た赤い海を思い起こさせずにはいられない。
どうしてだかは知らないけれど、異世界と化した夜見島の海は、血のように赤い色に変わっていたのだ。
怖くて不安な気持ち。それが、守の躰からひしひしと伝わって来る。
思い切って私は、守の腕にしがみつき、ぴったりと躰を寄せた。
これは、守の不安を取り除いてあげるため。守の怯えを少しでも和らげたいからしたことであって、決して、邪まな気持ちでしていることではない。
そうよ。だって私達、こういう時にはいつだって助け合う仲間なんだから……。
なぜだかのぼせてくる顔を伏せ、自分の心に言い訳しながら、私は守にひっついて歩き続ける。
そうこうしているうちに、私達の歩く道は、徐々に広く、歩きやすいものになって行った。
月下奇人の群れは道の左右に分かれ、舗装こそされていないまでも、もうどこにでもある、ありきたりな田舎道って感じになっている。
――もう、離れた方がいいのかなあ……?
だけどほら、守はまだ、ちょっと怖がってるじゃない。
だから私は、守の腕を離さないで歩くことにした。別にいいよね。守だって、嫌がってる素振りはないし……。
そうして暫く行くと、道の先が、二手に分かれているのが見えた。
右側の道は細く、緩やかなカーブを描きながら森の向こうへと続いていて、道端には赤い郵便受けが立っている。
左の道は広いけれど、曲がりくねって傾斜していて、先がどうなっているのか判然としなかった。
私は右の郵便受けに走って行き、それにぽんと手を置いた。
「守! 見て、これ……こんなのがあるってことはさ、こっちに民家があるんじゃない? 誰か居るんだよ」
この先にはきっと、例の裸の女の家があるんだ。私は確信していた。
なんとなく嫌な予感はあったけれど、それ以上に、私は彼女のことが気になる。
なぜ彼女はあんな風に、私と守の前に姿を現したのか? いったい、何の目的で?
それに――正直言うと、もう疲れてくたくたなので、これ以上余計に歩きたくはなかった。
それなのに守の奴は、私の提案を快く思ってないみたいだった。
郵便受けが古びてぼろぼろなことを指摘し、この先に家があったとしても、きっともう廃屋になっているなんて言うのだ。
いいじゃん別に、廃屋だって。とにかく屋根さえあってちゃんと休憩できれば、それで……。
「と、とにかく行ってみようよ!」
夜の山道でご休憩――ちょっと変なことを連想してしまった私は、変な妄想を振り切るように、郵便受けの先へ歩いて行った。
さっさと歩く私の後ろを、守も仕方なしについてくる。
道の先は、月下奇人の花がよりいっそう多く咲いていて、道の両端を血の色に染めているようだった。
不吉の象徴である赤い色。
視界の赤が密度を増してゆくごとに、守の様子が、おかしくなり始めていた。
突然立ち止まって頭を左右に振ったり、悲鳴のような声をあげて、私を驚かせたりする。
原因は明らかだった。月下奇人だ。
月下奇人の強い香りには、人の妄想を掻き立てたり、ありもしないものを見せたりする効果があるのだと思う。
天然のドラッグみたいなものだ。
かくいう私も、さっきからその影響下にあるようだった。
感じるのだ。私の隣にぴったりと寄り添い、影のようにつきまとってくる女の躰。
くすくすと笑いながら、そいつは私の耳元で囁く。
――もうすぐ、まもるとセックスできるわね……。
ぞくりとして立ち止まった私の頭上を稲光が走り、辺り一帯を、真っ白に照らし出した。
そして、眼の前に現れたもの――。
「これは……」
そこにあったのは、とても大きな古い洋館だった。
石塀に囲まれた広大な敷地のずっと向こう。雷鳴をバックにそびえ立つそれを見て、私は言った。
「お、お化け屋敷みたいだね……」
私は、以前守に連れてって貰った遊園地で見た、ホラーハウスを思い出していた。
今見ているこれは、あの、廃墟を模したというアトラクションなんかより、ずっと迫力があるように思えた。
だってこれって、どこからどう見ても、本物の廃墟なんだもん。
なので、門扉も壊れて地面で苔むしているから、中に入るのにも何ら苦労はない。
そして――敷地内の果てしなく広い庭は、一面月下奇人で覆い尽くされていた。
「赤い……海」
守はぼんやり呟くと、その、“赤い海”みたいな月下奇人の庭に向かい、ふらふらと歩き始めた。まるで、何かに呼ばれてでもいるかのように……。
「ちょっと、守?」
慌てて呼び止めようとする私を無視して、守は、結構な早足で庭の中を進んで行ってしまう。
そうかと思えば、いきなり途中で立ち止まり、悲鳴をあげてしゃがみ込んでしまった。
「守? どうしたの、しっかりして!」
必死で追いついた私は、呼びかけながら守の肩を揺さぶった。
守は立ちあがり、眼鏡を直しつつ、弱々しく私に返事をする。何とか正気は取り戻せたみたいだけど、顔色が真っ青だ。
「しょうがないなあ、もう。しっかりしてよ!」
こんな時の守には、下手に労わったりするより、むしろ活を入れてやった方がいい。
私はそれを知っていたから、わざときつい口調で言った。
案の定、守は困ったように笑いつつも、その顔色はまともなものに戻っていった。
「判ってるよ。もう大丈夫だ……さあ、行こう」
庭の中央を横切ってお屋敷まで続く煉瓦敷きの小道は、月下奇人に侵蝕されて、ほとんどないのも同然だった。
それでも私達は、律儀に小道をたどって歩いた。
「中に入れるといいけどな」
お屋敷の玄関が近づいてくると、守はそんなことを心配し始めた。
一方、私はといえば――このお屋敷への道を選んだことを、今さらながらに、後悔し始めていた。
こっちに来れば、家が見つかりすぐ休める。その予感が、私の足をこちらに向けさせたのは間違いない。
けれども、それはなぜ? どうして私、そんなことが判ったんだろう?
確かに私って、昔っからそういう勘は働く方だ。きっとそれも、ちからが影響してるんだろうけど。
だけど、あの時私が感じたものは、いつものそれとは違っていた気がする。
私……このお屋敷を、ずっと前から知ってたような気がする……。
「ねえ、中に入っちゃって、大丈夫なのかな?」
玄関の前までたどり着いた時、私は、恐る恐る守に尋ねた。
今ならまだ間に合う。守が、思い直してさえくれたなら。
でも、守の意志はもう固まっているみたいだった。
「構わないだろ。ここ多分……ていうか、絶対に、空き家だし」
そんな見当外れなことを言い、私に向かって笑いかける。
その反面、声が微かに震えているのは、彼も何かを感じているから?
お屋敷の重そうな扉が、守の手によって、ゆっくりと開かれてゆく。
湿気た押入れの中みたいな臭いと、不自然なくらいの冷気が、外に向かって漂い出た。
腕の産毛が逆立つ。守の方を見あげると、彼の首筋にも鳥肌が立っていた。
――本当に、大丈夫なの?
思わず心で呟くと、それに答えるかのように、守は私の手を取った。
そして、私の手を引き、お屋敷に足を踏み入れた。
「……お邪魔しまぁす!」
誰も居ないであろうお屋敷に向かい、守は、やけに元気な声で挨拶をした――。
【つづく】
貼り付けてからざっと読み返してみたら、ヒロインのバイトのこととか「去年戦った夜見島」に対する説明が不足してました。
要するに、郁子は一年前、漁港で漁船の乗務員手伝いのバイトをしていたのですが、
その時、オカルティックな噂の絶えない無人島・夜見島へ取材にやって来た一樹守と出逢いました。
守は、郁子の漁船に頼んで夜見島まで連れて行ってもらったので、それで郁子も一緒に夜見島まで渡航することになりました。
しかしその夜見島は、闇の化け物達が跋扈する怖ろしい異界と成り果てていた――
てな感じの経緯があったのです。
うーん
とりあえず今日はこのへんで。
乙です〜。
羽生蛇村ってことは……「SIREN」シリーズ? 未プレイなんで詳細は知りませんが。
明かりの途絶えたお屋敷の中は、真っ暗でほとんど視界が利かなかった。
夜目が利くのが取り柄の私でも、ここまで暗いとちょっと無理。だけどもそこは、守が手持ちのライトで解決してくれた。
ライトの先にまず見えたのは、玄関扉の真正面にある、二つの階段だった。
ぐるっと湾曲して左右から伸びているそれは、吹き抜けの二階へと続いていた。
二つの階段の繋がった真上には、蜘蛛の巣がいっぱいのでかいシャンデリアがぶらさがっている。要するにここは、お屋敷の玄関ホールってことになるらしい。
「あれが点いたらいいのにな……」
シャンデリアにライトを向けて、残念そうに守は言う。暗いのが気になってるんだろう。
一方、私の方はといえば――どこからか向けられる、得体の知れない視線が気になって、それどころではなかった。
その視線は、明らかに私を見ているものだった。
しかも、この絡みつき具合は、間違いなく男のものだ。
一年前に働いていた漁港のことを思い出す。
パーカーを脱ぎ、タンクトップ一枚になった時とか、周りの漁師達は、こんな視線を私に投げかけたものだった。
剥き出しの二の腕や、胸元や、腰の周りを舐めるようにたどってくる視線が気持ち悪くなり、私は守のそばにすり寄った。
「ねえ守……ここ、誰か居る。視線を感じるの」
守は、ホールの闇に向かって身構えた。ライトを素早く左右に動かし、視界の主を探ろうとしている――。
そうして一緒にホールの片隅まで進んで行ったとき、いきなり眼の前に、銀色の人影が現れた。
「うわあっ?」
守がびっくりして跳び退っている。
よくよく見るとそれは、鉄の西洋ヨロイだったみたいだ。さすが大邸宅だけあって、インテリアも一味違う。
「なあ郁子。誰か居るって、まさかこいつのこと?」
今度は守の視線が痛い。誤魔化すように、ヨロイの後ろの壁に触れた。
カチッという音がして、天井のシャンデリアを始めとする、お屋敷中の照明が点灯されたようだった。
「あ……これ、電気のスイッチだったんだ」
「おぉ助かった! きっと自家発電装置があったんだな」
お屋敷に明かりが灯ったことを、守は素直に喜んでいる。けれど私は、またも不安に苛まれていた。
やっぱり私、このお屋敷のことを知っている気がしてならない。
それにさっきの視線。明かりが点くと同時に掻き消えてしまったけれど、あれっていったい、なんだったの?
そんな不安を押し殺し、大きな壊れた置き時計や、ホールに少し不釣合いな巨大水槽などを、守と一緒に見て廻る。
でもどこか上の空で、自分が何を見て何を喋ったか、あまり覚えていない。
気がつけば、壁際にある暖炉の前、大きな柔らかいソファーに、守と並んで腰かけていた。
躰を休めることができて、ほんの少し気持ちがほぐれる。
――ここに何が居ようと……守が一緒に居るんだし、大丈夫だ、きっと。
置時計が時を刻む静かな音を聞きながら、ソファーにもたれて眼を閉じた。
守が私を見つめている気配を感じる。
そう。そうやってずっと見ていて欲しい。そうすれば私、安心して眠りに就ける。
守がずっと、私のそばに居てくれれば……。
って、私ったら、何考えてんだよ、馬鹿。
そんなこと、無理だって判ってんじゃん。守はいつか、私の元を離れてしまうんだから。
もっと別の、まともな女の子と出逢って恋をしたら、守はもう、私のことなんて……。
切ない気持ちに陥った私の隣で、守は寝息を立て始めたようだった。
なんだ、先に寝ちゃったのかよ。だけど、守の寝息を間近に感じるのは心地いい。心が安らいで、なんだか、私も――。
安らかな眠りが途絶え、意識が急速に蘇った。
瞼を開く。玄関ホールは真っ暗だ。
――あれ……電気は?
守の奴が消したんだろうか? そんな馬鹿なこと。
暗いとこが苦手で、眠る時にも部屋の電気を消さないような守が? そんなことあり得ない。
それともあるいは――電気を消さなきゃ都合の悪いようなことでも、あるっていうんだろうか?
「……守?」
すぐ隣から、守の気配を感じる。
なんだか随分と近い。肩と肩がぴったりとくっつき、荒い息吹きが、首筋の辺りを生温かく嬲る。
――やだ……。
これってあれだ、近づいちゃいけない時の守になってる。
根が生真面目でフェミニストの守は、私に対してだって、いつも、どちらかと言えば紳士的で、二人きりになったって、変なことなんかはしてこない。
けどたまに、本当にごくたまに、彼も自分のコントロールができなくなる時があるみたいで――そんな時、直接手は出してこないものの、こんな風に、やたらと近づいて何かを訴えかけてくることがあった。
……ていうか、本当のことを言えば、守が手を出そうとする前に、私が距離を置いて、させないようにしてただけなんだけど。
守が私に何を求めているのか、私にだって判らない訳じゃない。
でも……やっぱりそれは、駄目なんだ。私じゃ守を受け入れられない。私には、そんな資格がないんだもん。
だから今回も、やっぱり逃げておかないと……。
暗闇の中、位置関係を確認する。ここがソファーで、あっち側に暖炉があるから……ヨロイはあの辺……ってことはつまり、電気のスイッチもあそこ――。
ようし……GO!
心の中でスタートフラッグをあげ、スイッチに向かって駆け出した。不意を衝かれた守は、その場に固まり、後を追って来ることもない。
いい感じ!
明かりがゼロのお屋敷は本当に暗くて、全く何も見えないけれど、私は物にぶつかることもなく、正確に目的地点へ到達した。さて、後はここにあるヨロイの後ろのスイッチを――って、あら?
私はちゃんとヨロイの場所にたどり着いたはずなのに、手を伸ばしても、ヨロイの手応えがない。
あれー、おっかしいなあ。絶対この辺に、あるはずなんだけど……。
突き当たりの壁を手で探る。とにかく、スイッチさえ見つけられれば……。
そうやって、壁に両手をついていた私の背後で、何かの気配が蠢いた。獣じみた息遣い。狂暴な手の平が、私の胸を、後ろから鷲掴む。
「ひっ」
叫び声をあげようとした口は、もう一方の手の平に、素早く封じられた。
そうしておいて、私の躰を自分の方に引き寄せる。
物凄い力だ。私は必死で身をもがき、がっしりとした腕から逃れようとするけど、どう暴れても逃げられない。つねりあげても、爪を立てて引っ掻いても、腕は微動だにしない。
為す術もなく、後ろ向きに抱き寄せられた私は、全く遠慮のない、乱暴な手つきで胸の膨らみを揉みしだかれた。
――守……このぉ!
全く何てことだろう! 守の奴、暗闇に乗じて、まさかここまでするなんて! 洒落になってない、訴訟もんだよこれ。
私が逃げられないのをいいことに、守の行為はますますエスカレートしていた。
今や彼は、半分まくれあがったタンクトップの下に手を差し込み、ブラジャーも無理やりずらして、あろうことか、中のおっぱいを、直で触りまくっていた。
「ん……んんっ!」
耳の辺りに、生温かい息を吹きかけられる。荒れて乱れた欲望丸出しのその息ざしは、あの、基本クールキャラである守のものとも思われない。
おっぱいを触っている手つきも粘っこくて、何だか私は、文字通り食べられてしまいそうな怖ろしささえも感じていた。
――お願いやめて……やだ、怖い!
恐怖心から、もはや動くことも、悲鳴をあげることもできなくなった私を察知したのか、口を塞いでいた手が離れた。
離れた手は、私の下腹部を真っ直ぐに目指す。性急な動作でベルトを外し、デニムのジッパーを開けて、私の、一番大事な部分に突っ込もうとしていた。
「い、いやぁ……」
我ながら情けない、弱々しい声が口から漏れる。デニムの中をまさぐっていた手が一瞬離れ、私の顎を、乱暴に掴んで振り向かせた。
そして次の瞬間、私の唇は、生々しい男の唇に吸いつかれ、強く吸いあげられていた。
「う……ごっ」
それは、キスなんていう生易しいものではなかった。
首を真横に捻じ曲げられ、強い力で唇を押しつけられ、息もできない、苦しくて不快な感触。
力任せに掴まれたおっぱいは痛いし、それに、さっきからお尻の谷間になすりつけられ、ぐりぐりと蠢いている――あれの感触。
――やだ、硬くて、熱い……。
直接的な欲望の塊をお尻の間に押しこまれ、私はめまいを起こしそうになる。肌が熱くなる。唇にむしゃぶりつかれる感触にも翻弄されて、訳が判らなくなった私は、もうこのまま、どうなってしまってもいいような気持ちに陥ってしまう。
このまま守にいいようにされて……最後まで、最後のものまで、奪われて……。
――でも……嫌! やっぱり、こんなの嫌!
唇を分けられ、ぬるぬるの舌で口の中を姦されそうになった私は、その舌から漂う生臭い欲望のにおいを嗅ぎ取り、にわかに我に返った。
いくら相手が守でも――ううん、守だからこそ、こんな風に無理やりされるだなんて、絶対に嫌!
正気に返った私は、短い間に思考を働かせる。
こういう時には……多分、こうやれば!
私は手を後ろに向けて、私のお尻に挟まった守のあれを探り当て、それを、全力で捻りあげた。
守は喉の奥で呻き、私から唇を離す。私を捕まえている腕の力が、少しだけ緩んだ。
今だ!
一瞬のチャンスを逃さずに、私は守の腕から逃げ出し、壁のスイッチに手を伸ばした――。
――大きく躰が傾いて、ソファーから転がり落ちた。
「あ、あぁあ?」
絨毯の上で、わたわたと手足をばたつかせる。
気がつけば、静まり返った玄関ホールだ。
電気は消えてなんていない。私もソファーから移動していない。
守だって――ソファーにふんぞり返ったまま、平和な寝息を立てて爆睡中だった。
ソファーの下から起きあがり、私は、眠りこけてる守の馬鹿面を、ぼんやり見つめた。
「そんな……今のは、夢だったの?」
信じられないことだった。
たった今まで感じてたあの感触が、嵐のようなあの行為が、全部ただの夢だったなんて……。
唇にも躰にも、男の感触が残って燻っているようだ。私は自分の唇に触れる。
下腹部で、ベルトがかちゃりと音を立てた。ベルトは外れていた。下のホックも。
タンクトップの中ではブラジャーがずりあがり、胸の膨らみを押し潰すように締めつけていた。
私は慌ててベルトを直し、タンクトップの下でブラジャーも直し、カップの中に乳房を収めてから、改めて守を見おろした。
のんきな寝顔を晒している守――けれど股間に眼を移せば、何やら大きく膨らんだものが、ジーンズの前を押しあげていた。
かーっと頭に血が昇った私は、無防備な守の頬を、思い切り引っぱたいた。
ずれる眼鏡。ぶたれた勢いのまま、守の躰はソファーの上で横に倒れる。
「……郁子? お前、どこであんなテクニック……」
「なーに寝ぼけてんのよっ! このムッツリスケベ!」
守は躰を起こしたけれど、状況が判ってないらしく、寝ぼけまなこできょろきょろと辺りを見渡している。
「あれ? おれ、眼鏡外したはずなのに……」
そんな馬鹿げたことまで言ってる。私はむかっ腹が立った。
おそらく守は、私にいやらしいことをする夢を見ていたのだと思う。
私はその夢に感応したんだ。
相手が近い場所に居れば居るほど、私の精神感応は強くなるのだ。こんなソファーでぴったりと身を寄せ合って寝入ったら、相手の夢の中身を自分のものとして見てしまうこともあるだろう。
現に以前、似たようなこともあったし――。
とにかく。さっきのあれは、守に違いないんだ。
服が乱れていたのも、守の夢に合わせて、私が自分でしたものに決まっている。
だって他の誰が、私にあんなことをするっていうの? このお屋敷に居るのは、私と守だけのはずなのに……。
もやもやと落ち着かない気持ちに苛まれる私の耳に、何か、奇妙な物音が聞こえた。
「待って。……今、何か聞こえなかった?」
自分が寝ぼけて何かしたのかと、焦りながらしつこく問い詰めてくる守の口に指を押し当て、私は耳をそばだてた。
今度はもっと、はっきり聞こえた。重い扉がきしんで開くような音。
「……二階からだったよな」
今度は守にも聞こえたみたいだ。
「ひょっとして……誰か、居るんじゃないのか?」
私達は顔を見合わせた。
「じゃあ……確かめに行く?」
私が恐々尋ねると、やはり守は、首を縦に振った。
守はウエストポーチを開けて、中から、ライトと一緒にいつも携帯している幅広のナイフを取り出し、ケースから抜いて剥き身の状態で構えている。
これも彼の、夜見島事件の後遺症の一つだった。
暗い処が嫌い、武器になるものを持ち歩いていないと不安。
その他にも、“人魚”や、“人魚を連想させるもの”に対し、異常な拒否感を示す、というのもある。
それは、夜見島で私達がやっつけてきた敵の親玉が、人魚みたいな見た目をしていたせいだった。
「できれば拳銃も欲しい処だけどな」
そう言って、引き攣った笑いを浮かべる守を見ていると、少し気の毒なような、複雑な気持ちになる。
守って、本当は戦いをする人じゃないんだ。
本好きな大人しい、気持ちの優しい人のはずなのに……こんなに無理して、自分を奮い立たせなければ、耐えられないようになってしまって……。
できることなら、私が守の心を癒してあげたいと思う。
癒すやり方だって、本当は知ってる。
でも私には、それができない。
私が彼に全てを許してしまったら、彼はきっと、私のそばから離れて行ってしまうから……。
右手のナイフを握り締め、左手のライトを前方に向けた守は、ぎいぎいとうるさい階段を、ゆっくりと上ってゆく。
私は、守の後ろにぴったり続いた。
階段を上りながら、私の心は不安にざわめく。
このお屋敷に、私達以外の人が居た。
その事実は、私に取ってあまり愉快なものじゃない。
だって……もしそうだとしたら、さっき私に変なことをしたのは、その、得体の知れないお屋敷の住人だったって可能性も出てくるのだから。
私の躰に触ったり、無理やりキスしたあの男が守じゃないなんて……そんなの嫌だ。おぞましくて、耐えられない……。
ううん、あれが守じゃなかったなんて、そんな訳ないよ。
あれは守に間違いない。あの時私が、壁際まで走って行ったのは、ただの私の夢。
あのヨロイが、壁際から消えていたのだって――。
階段の途中で、下の置時計の方に眼をやった。あの置時計の傍に電気のスイッチがあって、その前に、あのヨロイは――。
ない。
私は思わず声を漏らした。
「ヨロイが……消えてる!」
置時計の並びにあったはずのヨロイは、跡形もなく姿を消していた。
私の見ていた夢そのままに。
「なんで? さっきまで、確かにあそこに」
「……きっと、休憩時間に入ったんだよ」
こんな重大事件が起こっているというのに、守のリアクションはそっけなかった。
つまんない冗談をひとこと言ったきり、何事もなかったかのように、先へと進んで行ってしまう。
え……何で?
あったはずのヨロイがなくなってるなんて、かなり凄いことだと思うんだけど。
守の奴、まさか本当に、あれが自分でどっかに行ったなんて思ってる訳?
あり得ないでしょ! どこまでのほほんとしてるのよ!?
それかあるいは……守には、あのヨロイがどうしてなくなったか、きっちり判ってるってことなの?
それって、どういう……?
激しく混乱しながらも、私は二階まで、守にくっついて来てしまった。
守の考え、読んでやりたい気もしたけれど、今はちょっとそんな暇ない。
いくら私だって、ちゃんと人の心を読もうと思ったら、それなりに集中しないと無理だ。
歩きながら、周囲の様子に気を配りながら、お手軽に読めるってことはないのだ。
玄関ホールから続く二階の廊下は、奥に向かって一直線に伸びていた。
廊下の左右にはいくつかの扉が並んでいるけど、扉と扉の間隔はかなり開いていて、それぞれの部屋の広さが伺えるものだった。
壁にくっついた、薄らぼやけた照明しかない廊下の先を、守のライトが白く長く伸びてゆく。
左側の壁の奥についた扉が、素早く閉ざされるのが見えた。
「守、あれ……」
私と守は、おっかなびっくりその部屋に向かって行った。
部屋の前までたどり着くと、守は中に呼びかけながらノックをした。
――何の反応もない。だけど、無人ってこともないはずだ。だって私達二人とも、ここの扉が閉まる処をちゃんと見てるもん。
意を決した守がノブを廻してみれば、扉はあっさりと開いた。
真っ暗な部屋に向かい、守はライトを射し向ける。
そこは、なんとなく女性的な雰囲気の部屋だった。
調度品とか、全体の色合いとかがそんな感じ。部屋の手前に家具はあまりないけど、大きな衝立の向こう側には、鏡台らしきものがちらちら見えている。
元はといえば、豪勢なお屋敷にふさわしい、立派な部屋だったんだろうけど――残念なことに、今その面影は、ほとんどない。もうすっかり荒れ果てて、どこもかしこもぼろぼろだ。
入口から見て真正面の奥には、白いカバーのかかった椅子らしきものと、小さな木のテーブルがあり、テーブルの上には、妙に眼を惹く赤い本が置かれていた。
本好きの守としては、やっぱり本が気になるらしく、木のテーブルに向かって行く。私は守の後に続く。私は本好きって訳じゃないけど、あの本は何となく気になった。なんだか本が可愛らしく見えたのだ。可愛らしいというか――愛しい、あるいは、懐かしい……。
懐かしい? 何それ?
まあとにかく、この感覚の正体は、本の中身を見れば判るに違いない。私は守の背後にくっついて先を進んだ。
そして、一緒にテーブルの前までたどり着いたとき――私達の背後で、入口の扉が閉ざされた。
「おい、郁子やめろよ! ふざけてる場合じゃないだろ」
守は本を手にしたまま、怯えを隠した尖り声で私に文句を言ってくる。私は答えた。
「守……私、ここ」
守は、私がすぐ隣に居ることに、気づいていなかったらしい。ぎょっとなって私を見た後、扉の方に、緊張した眼を向けた。
――ひょっとして……閉じ込められた?
嫌な予感がした。守は扉を確認しようと、ぎくしゃくした足取りで歩き出した。
踏み出した足が、カバーのかかった椅子にぶつかった。
椅子はなぜか、軋みながら動き、被せられていたカバーが、はらりと落ちた。
椅子の全容が現れる。
それは、ただの椅子ではなかった。
ミイラ化した女性を乗せた、車椅子だった。
「これ……ミイラよね」
「ああ。ミイラだな」
茶色っぽく干からびた女性の変死体を前に、私達は、判りきったことを言い合う。
ミイラは白い着物を着ていて、黒くて長い髪の毛を、後ろで一つに束ねていた。
このお屋敷の、奥さんだか娘さんだった人なんだろうか? 車椅子に座ってるってことは、何かの病気だったとか?
「ねえ守……」
守の意見を訊こうとしたけど、彼は、ミイラをライトで攻撃するのに夢中の様子だった。
「何やってんのよ……」
私は守の肩を叩いた。
「そんなことしないでいいのよ。ここにはもう、あの化け物達は居ないんだから」
全く、守の夜見島後遺症にも困ったもんだわ。
怖いものにはとりあえず光を当ててしまう。前に、彼がキッチンのゴキブリに向かって懐中電灯向けていたのを見た時は、思わず本気で病院行くことを勧めてしまった。
それでも最近は、だいぶんましになったと思っていたけれど、やっぱり、こういう突発的な事態が起こると、ついつい癖が出てしまうみたい。
「でも驚いたぁ。こんなとこに、まさかミイラが居るなんて」
私は、ミイラの頬っぺたを突付きながらそう言った。かさかさと干からびた皮膚の感触が薄気味悪い。
けれど、これはやっぱりただのミイラで、蘇って襲ってくることもなさそうなので、とりあえずはほっとした。
……こんな風に思うってことは、私にも、夜見島後遺症が結構残っているのかも。
「しかし……この人がどういった経緯でこんな風になったのかは知らないけれど……少なくとも、このドアを閉めたりはできないよな。やっぱり、他に誰か」
守がそう言いかけた時、その“誰か”の足音が、廊下の方から響いて聞こえた。
それは、ロボットか何かが歩いているような音だった。
ロボット――あるいは、鉄でできたヨロイ、とか。
「ま、守……」
「しっ、静かに」
鉄の足音は、この部屋の前で止まった。私達は、身の縮む思いで扉を見つめる。
そうしてどれくらいの時が経ったのか――。
扉の向こうで、再び音が鳴り出した。
鉄の足音は、来た時と同じく唐突に去って行った。
「はぁー……」
二人同時に溜めていた息を吐いた。よほど緊張していたのか、守はぐったりと床にへたってしまった。
「ねえ守……今のって、ヨロイの足音だったんじゃ?」
「……判らないよ」
守はそう言うけど、他に考えようがない。興奮してそう言い返す私に対して、守は冷静だった。
「あのヨロイの中に、人が入っていたとしたら? 最初に見つけた時、ぼくらはあのヨロイの中身までは確認しなかっただろ?」
まあ、確かに確認はしてないけど……。
それだって、いくらなんでも、あれに人が入っていれば、気配で判りそうなもんだわ。
「とにかく、この部屋を出よう。いくらなんでも、ミイラと一晩一緒に居る訳にもいかないからな」
そこは守の言う通りなので、私達はとりあえず、部屋からの脱出を試みることにした。
外から鍵でもかけられてるんじゃないかと心配したけど、別にそういうことはなく、私達は、無事廊下に出ることができた。
「けど、これからどうするの? 私、やっぱりこのお屋敷に居るの、ヤバいような気がしてきたんだけど」
謎のミイラに、歩くヨロイ。それだけでも充分なのに、ここにはさらに、得体の知れない痴漢男までもが潜んでいるかも知れないのだ。もう、危険度マックスじゃないの。
「……いったんホールに戻って考えよう。外の天気の具合を見て……大丈夫そうであれば、屋敷を出て、それで」
と、守がそこまで言った処で、今出てきたばかりの扉が、微かに開く気配がした。
「あれ? 私、ちゃんと閉めたはずなのに」
私と守は振り返った。
振り返った先には――ミイラが居た。
誰に押されている訳でもないのに、ミイラを乗せた車椅子が、ゆっくりとこちらに向かって来る。
そして、呆気に取られた私達を轢き潰すような勢いで、スピードをあげて突進して来た。
「うわあっ!?」
「きゃああ!」
私達は、慌てて走り出した。今はとにかく逃げるしかない。
走って、走って、物凄い勢いで階段を駆けおりる。
もうちょっとで一階に着こうという時に、守の胸ポケットから、ライトが落ちて床に転がった。
落ちた衝撃でライトは消えてしまう。そこを狙い澄ましたように、お屋敷の照明が、全て消えた。
「てっ、てっ、てっ、停電か!?」
守の声が裏返っている。立て続けに起こる異常現象に、パニックを起こす寸前みたいだ。
これはまずい。なんとか、落ち着かせてあげないと……暗闇の中、私は守の気配を探り、そばに寄ってあげようとする。
その時、守が居るのと反対側の方から、腕が二本伸びてきて、私の躰を捕まえた。
「!」
叫ぼうとした口が、大きな手の平に塞がれる。
まただ。また、暗闇の中で、私は……。
「郁子? い、郁子! どこだ……?」
守の悲痛な声が、徐々に遠ざかってゆく。私の躰が、見知らぬ腕に引きずられているからだ。
腕は、私を壁際のソファーまで連れて行き、音を立てずに、ソファーの上に横たわらせた。
口に宛がわれた手が外れたので、私は守に助けを求めることにした。
「守……た、助けて……」
大声をあげたつもりだったのに、蚊の鳴くような声しか出なかった。駄目、これでは守に届かない。
もう一度声を張りあげようとしたら、顔面に、見知らぬ男の唇を押しつけられた。
「んっ……」
今夜二度目の、嫌な口づけ。嫌なのに……ほんのちょっぴり慣れてしまっている自分が、また嫌だ。
見知らぬ男は、さっきのように私の躰を触りまくるのではなく、私の躰に、自分の躰を乗っけて押しつけてきた。
驚いたことに、彼は全裸だった。
男に全体重を預けられた私は、身動きも取れず、叫ぶことすらできなくなっていた。
男は、私の顔中やたらに舐めたり、唇を這わせたりしてくる一方、腰の辺りをくねくね動かし、私の太腿に、自分のあれを擦りつけているみたいだった。
――嫌……嫌……いやあ……。
このままでは……犯されてしまう!
早く何とかしなければ。初めてのキスばかりではなく、初めての……躰まで、こんな、顔も知らない男に奪われてしまうなんて、絶対に嫌だ!
――顔も知らない?
そういえば私、こいつの顔をまだ見ていない。
男の躰の下、不自由な腕をお尻の方に廻し、ポケットの携帯電話を掴み出す。
せめてこいつの、正体だけでも確かめようと思った。
幸い男は、私の舌を吸い込みながら、デニムの内腿であれを擦るのに夢中だ。今ならきっと、上手くいく――。
そう思った私の認識は、甘かったみたいだ。
携帯を掲げようとしたとたん、私の腕は、男の素早い手の平にがっしり取り押さえられた。
しまった! でも唯一の救いは、私がすでに、携帯を開いていたことだ。
取り落としてしまったものの、開かれた携帯の液晶画面は、ソファーの陰にごくささやかな明かりを灯した。
突然の明かりに驚き、男は怯んで私の上から退いた。
私はソファーから転がり落ち、床を這って男から逃れた。
追って来るかと思ったけれど、男は逆に、ソファーの向こうに駆け出して行く。
結局、顔を見ることはできなかった。見れたのは、跳び退った時に現れた、硬く引き締まった腹筋と、去って行く後ろ頭を覆っていた、白い髪の毛だけ……。
「……っと、ぼんやりしてる場合じゃないわ! 守を助けに行かないと」
私は、守の処へ行く前に、携帯の明かりでそばに置いてあったバッグを探り当て、中からタオルとスプレー式の化粧水を取り出した。
守と顔を合わせる前に、あの男に穢された部分を、綺麗にしておきたかった。
本当は、顔も躰も丹念に洗いあげたい処だけど、今はこれぐらいしかできない。
化粧水で心ゆくまで顔を拭き取った後は、携帯をあちこちにかざして守の居場所を見つけに行く。
広大な玄関ホールを歩き廻り――やっとのことで、床に這いつくばっている守の下半身を発見した。
「守!」
携帯を向けて呼びかけると、守は、引き攣った顔で私の方を振り向いた。
独りぼっちで、よっぽど怖くて心細い思いをしてたんだろうなあ……可哀想に。
携帯を掲げる私を見て、守は我に返ったらしく、自分の携帯をポケットから取り出し、開いて床を探し始めた。
そしてようやくライトを見つけ、軽く振って、点け直した。
守がライトを点けるのを見越したように、シャンデリアに明かりが灯った。
停電が直ったんだ。
「……電気、点いたね」
私は守から微妙に目線を外し、言葉少なにそう言った。
――あれって……何だったのよ……。
私は両腕で自分の躰を抱き、さっきの出来事を思い返した。
私を襲おうとしていた男は、守じゃなかった。
だったら、あれは誰?
ホールの向こう、ヨロイの居た方向に眼を向ける。あのヨロイを動かしたのは、あの白髪の男なんだろうか?
そしてその後、そのヨロイを自ら着て私と守を脅かしたり、ミイラの車椅子を動かして、私達を襲ったりしたの?
それから、私にあんなことを……。
どうしてだろう? 何が目的で、そんなことをしようとするの?
「なあ郁子」
「ひゃあぁっ!?」
突然守に肩を叩かれ、私は、口から心臓が飛び出そうになった。
「あ……驚かせてごめん。あ、あのさ」
「え? な、なに? わ、私なんにもしてないよ!」
変な男に変なことをされた私――私自身、何も悪くはないはずなのに、意味不明な後ろめたさが、私の言動をおかしなものにしていた。
あの男のこと――この際、守に正直に話してしまうべきだろうか?
ううん……。
あの男のことを話すとなれば、私があの男から受けた仕打ちのことも、話さなくてはならなくなる。
私には、それがどうにもためらわれた。
私が見知らぬ男に触られたり、キスされたことを知って、守がどう思うのか……他人に穢された女だって、嫌悪感を持たれちゃうかも判らない。それが何より怖かった。
そんな風に思い悩んで私が口を閉ざしていると、守は不意に、突拍子もないことを言い出した。
「あ、あのさ郁子。さ、さっきの女のことだけど……あれは、違うんだ」
「へ? お、女? 女って何?」
男じゃなくて、女? 守ってば、何をとんちんかんなこと、のたまってんだろう?
守の顔をしげしげと見返すと、彼は、「余計な口を滑らせた」とでも言いたげに顔をしかめ、落ち着きなく私から視線をそらした。
……何なの、この態度は?
まるで、浮気がばれそうになって焦ってる亭主みたいに見えるじゃないの。
こんな態度をされると、自分のことを棚にあげて苛ついちゃう。
「ねえ守。女って、何?」
私は、自分の感情を押し殺し、努めて冷静な口調で尋ねた。
守は、私の静かな物言いに、かえってびびってしまったようで、焦りまくった早口で答えた。
「いやあの……停電の時、例の……山道で見た裸の女が、ここに居たみたいなんだよ」
思いがけない守の発言。
言い訳っぽくも聞こえたけれど、よくよく考えてみれば理に適っているようにも思えた。
あの裸の女――ミイラだのヨロイだの、変な男だのの出現ですっかり忘れていたけれど、私達、元々はあの女を追って、このお屋敷までたどり着いていたはず。
だったら彼女が、ここに居たって不思議はない。
そして、ミイラやヨロイを動かしたり、停電を起こしたりして私達を脅かした――。
でも、だとしたら、あの男は? 裸の女とグルだってこと?
彼と彼女は、私達二人に何をしようとしているのだろう?
「よし……行くぞ」
だしぬけにそう言ったかと思うと、守は決然とした表情を浮かべ、二階への階段をあがろうとしていた。
「ちょ……行くって、どこによ?」
あわ食って守の腕を掴むと、彼は、当たり前のような顔をして言った。
「決まってる。あの女を捜しに行くんだ。なぜ、こそこそ隠れてぼくらをこんな目に合わすのか……とっ捕まえて、徹底的に、小一時間問いつめてやる!」
守から小一時間、ねちねちとした詰問を受ける。
その様を想像すると、自分がされるって訳でもないのに、げんなりと疲れを感じた。
だけど、それにしたって何でいきなり二階なの?
彼女が二階に逃げたっていう確信でもあるのだろうか?
――まもるには判ってるのよ。私達、通じ合っているんだもの。
頭の中で、湿った女の声が響いた。白い裸と、長い黒髪の幻影が脳裏をかすめる。
心臓が、どきりと高鳴った。
守は、あの女の居場所をあらかじめ知っている?
ううん、そんなことあるはずないわ。だって、守が、守に限って、どうして、そんな……。
「私は……どっちかっていうと、一階に居るような気がするかな……」
思わず、口をついて出た台詞。もちろんそんなの、出まかせに過ぎない。
それでも私は、そんな風に言わずにはいられなかった。
守を疑っている訳ではない。それでもなぜか、心がざわついて、自分で自分の抑えが利かない……。
「いや。やっぱり二階を見よう……おそらく、二階の方が部屋数も少ないから、すぐ済むと思うんだ」
守の意志は固いようだった。
複雑な気はしたものの、これ以上反論しても仕方がない。私は渋々頷いた。
すると守は、おもむろにウエストポーチを開け、ボイスレコーダーとデジタルカメラを取り出した。
まずは玄関ホールの写真をいくつか収め、次に、ボイスレコーダーのスイッチを入れて、口元に宛がって喋り出す。
「……現在二十一時〇一分、××山中、廃屋玄関ホール。今から二階の探索を開始」
新米雑誌記者である守は、取材の時にはいつも、こうしてボイスレコーダーに記録を残しているのだった。
夜見島事件の日にも、島へ向かう船の中、守はレコーダーに向かってこんな風に喋っていた。
……もっとも、その時使っていたボイスレコーダーは、直後に起きた津波のどさくさで、海に流され失くしてしまったらしいけど。
今ここでそれを使うってことは、つまり、こんな時に取材モードってこと?
私はちょっと呆れたけれど、反面、少し安心もしていた。
やっぱり守は、いつも通りの守なんだ。
オカルティックな事態に居合わせれば、好奇心を抑えきれずに徹底調査したくなってしまう。
だから別に、意味はないんだと思う。
このお屋敷が、一階より二階の方が部屋数少ないって当然のように言ったことも、別にあらかじめお屋敷のことを知っていての発言って訳ではないし、頑なに二階へ行こうとしてるのも、本当は一階にいる裸の女から、私を引き離そうとしてのことではない。
そして――さっきからなぜか、私が守の心を全く読めなくなっていることだって――何度も試しているっていうのに、まるで、見えない壁に遮られてるかのように上手く行かないのだって――きっと、何かちゃんとした理由があってのことなんだ。
そう、例えばこの、お屋敷中に満ち溢れている異様な妖気とか、そうでなきゃ、私自身の疲れだとか。
そういうことってよくあるもん。全く、人の心を読むちからってのも、当てにならないんだから。
だいたい守の奴に、私のちからを防げるほどの精神力が備わってるとも思えないしね。
そうよ。こんな時だからこそ……私が守を信じてあげなくっちゃ。
「――さて。じゃあそろそろ、二階へ行くか!」
状況を楽しんでいるかのような笑顔を浮かべ、守は階段をあがろうとする。
……と思ったら、不意に足を止め、足元をきょろきょろ見廻し、何かを探し始めた。
「どうしたの、守……」
言いかけた私のスニーカーの踵に、何かがぶつかる。見るとそれは、守が持っていた大振りのナイフだった。
渡してあげようかとも思ったけれど、ふと思い留まり、腰のベルトに挟んで隠した。
――特に意味はなかった。
私と守は、ずっと一緒に行動するんだから、このナイフを私が預かったって、何も悪いことはないはずだもん。
それに、こうして私も武器を隠し持っていれば、万一またあの男に襲われた時に、身を守ることもできるし……。
ナイフを見つけられなかった守は、暖炉の脇に引っかけられた火掻き棒を取り、それを代わりに持っていくことに決めたらしい。
私は先に階段をあがった。守が後から追ってくる。
守にお尻を向けていると、ベルトの後ろ側に挿したナイフのことを気取られないかと、不安になる。
私は、腰の後ろに手を宛がい、タンクトップの裾辺りの不自然な膨らみを隠しながら進んだ。
二階に着くと、まずは例の、ミイラの部屋を調べに行く。
あのミイラの車椅子は、やはり消えていた。
私達は部屋に入り、奥の方まで隈なく調べてみた。
衝立の裏側を覗くと、そっちは元々ベッドルームになってたみたいだったけど、肝心のベッドは壁に立てかけられ、凝った作りの鏡台も、鏡が割れて悲惨な状況になってしまっていた。
当然、誰かが隠れている様子などない。
守はさっきの赤い本が気になっていたらしく、テーブルから拾いあげて、ぱらぱらとめくっていた。
その本は、どうやら日記帳であるらしかった。
守は暫く頁をめくっていたけど、急に呻き声を漏らし、本を投げ捨てた。
「どうしたの?」
開かれた頁を見れば、血の色で真っ赤に染まっている――月下奇人の押し花が、挟まっていたようだ。
「この部屋には何もなさそうだ……行こう」
よほどびっくりしたのか、守はさっさと部屋から出て行ってしまう。
私はちょっと日記帳を振り返った。不思議に心が惹かれる赤いカバー。拾って読んでみようかな――?
「おい郁子、何やってんだよ」
部屋の外から守に呼ばれて、私は日記を諦めた。まあいっか。別に、どうしても読まなきゃいけないって、ものでもないしね。
ミイラの部屋から出ると、お線香の香りが鼻をついた。
どこから――? 匂いをたどると、それはミイラの部屋の隣からしているようだった。
「守、こっち」
吸い寄せられるように扉を開け、私はその部屋に入ってゆく。
そこはおかしな部屋だった。
床も壁も天井も、部屋中のありとあらゆる場所が、ビロードの赤い布に覆われている。
部屋の奥には、同じく赤い布に包まれた円形の台が置かれ、蝋燭の立った二つの燭台と、燭台に挟まれた中央に立つ、長っ細い金属の棒でできた置物が据えられていた。
ぱっと見た感じ、教会とかに飾ってある十字架の類に見えるのだけど……。
「十字架とは、違うね」
ずうっと長い棒の先、守の身長ぐらい高い位置にあるその飾りは、十字架よりももっと複雑な形をしていた。それはちょうど、漢字の「生」を逆さにしたような形だった。
「生」の逆……つまりそれは、「生きない」ってこと? なんて、嫌な連想をしてしまった。
守も怪訝そうな顔で、その飾りを見あげている。
ふと足を動かすと、足の下で、何かがかさこそ音を立てた。
虫か何かだと思ったのか、都会っ子の守は驚いて悲鳴をあげる。
でもそれは虫ではなく、かさかさに干からびてドライフラワー状態の、月下奇人の花だった。
月下奇人は、台の上や周囲の床を埋め尽くしていた。赤い布と同じ色なので、見分けがつかなかったんだ。
干からびた月下奇人は、あの独特の芳香が変質して、お線香のような重たい香りを放っていた。
眼を閉じて吸い込むと、不思議に意識が澄み渡っていくのを感じる。
集中力が増して、ちからが増幅されるような――。
これは……チャンスかも知れない。
私は眼を閉じ、意識のアンテナを大きく広げた。
古くからあると思しきこのお屋敷には、かつての住人が残して行ったと思われる、“心のかけら”がそこかしこに残されている。
もちろんここにも、それはある。
しかもそれは、そういうのの専門ではない私にも読み取れそうな、はっきりしていて判りやすいものだった。
一番強いのは――やっぱ、この台の周りかな。
私は眼を閉ざしたまま、燭台と飾りを立てた台の周りを、ゆっくりと歩いてみる。
まず最初に見えたのは、この台に向かって祈りを捧げているシスターの姿だった。
基督教風のシスター衣装に身を包んだ綺麗な女性。
ただ、そのシスター服は、この部屋に合わせたような赤い色をしている。
暫くすると、そのシスターの姿は薄れ、代わりに、背の高い中年男性が現れた。
台の前にひざまずき、懸命に何かを祈り続けている。
祈りというより、何かを懺悔しているのかも知れない。
それから、その男性の姿は、三人の人影に変わってゆく。
それは、母親と二人の幼い娘のようだった。
私と同年代ぐらいに見える若い母親に、五歳か六歳ぐらいの小さな女の子二人。
娘二人は全く同じ顔をしていて、双子であることがすぐに判った。
双子の女の子、か……。
私は、もう一人の私のことを思い返した。
柳子。ずっと小さい頃に引き離されてしまった、私と同じ顔をした、私の片割れ。
あの子は今、どこでどうしているのだろう……?
――私はいつでも、ここに居るわよ。
長い黒髪をなびかせた、裸の女が耳元で囁く。
……何よあんた。
私はあんたのことなんか知らないよ。
柳子はあんたみたいな女じゃない。
だいたいあんたは、私とちっとも似てないじゃないか。
顔も違う。髪質も違う。それに――あんたのその裸の胸、凄く綺麗じゃないか。
白くてふわふわの、マシュマロみたい。そんな胸なら、男はきっと誰でも喜ぶ。
私の胸もそんなんだったら……守を拒んで、傷つけてまで、隠す必要ないのに。
私が、普通の人間だったら……。
――でも私達、普通の人とは違うもの。
うん、そうなんだ。
だから私は、守に全てをあげられない。
そんなことしちゃったら、私は守の足枷になってしまう。
――だから彼とセックスできないんだ。
できないよ……。
――そうなの。でもね。
白い顔の中の、赤い唇が、裂けたように哂う。
――でも私は……まもるとセックスするわよ。
重たい衝撃が、私の躰を稲妻のように貫いた。
私は立ちすくみ――意識が、広がったり縮んだりする、不思議な感覚に引きずり込まれた。
揺らぎ続ける世界の中で、私は、双子親子と、赤いシスターの会話を微かに聞いた。
「月下奇人の花言葉は、秘めた信仰。神の御許に咲く、常世の花――」
「おい郁子! 何訳判んないこと言ってんだよ!」
一刻の自失状態の間、私はこの奇妙な花言葉を、自分でも口にしていたらしかった。
守はそうとうびびったらしく、私に向かって喧しく何かを言い立てる。
ようやく正気が戻ってくると、私自身、さすがに不安になってきた。
今のイメージは何? 花言葉もそうだけど、それ以上に、今の女の言葉――。
おろおろと取り乱す私の肩を抱き、守は優しくなだめてくれた。
「……まあ、今夜は変な目にばっか遭ってるからさ。調子狂うのも無理ないよ」
私と守は、もう部屋を出ることにした。
【つづく】
>>21 ご明察。
そして、別のゲームのパロディーでもあります。
続きを待つ
しおりがピンクになる日を信じて!
その後、私達は二階の部屋を全部調べてみたけれど、結局何も見つけられなかった。
ただし、全部とはいったものの、廊下右側の一番奥、あの赤い部屋の真向かいにある部屋には入れなかった。部屋を塞ぐ頑丈な扉に鍵がかかっていた上に、四隅に釘が打ち付けられていたからだ。
その「開かずの間」はいったん保留にして、私と守は一階へと戻ることにした。
「ねえ、やっぱり、この屋敷から出ない……?」
二階に何もない以上、ミイラやヨロイ、その他もみんな、一階で待ち受けていることになる。
守にもそれは判っていて、少し弱気になっていたようだったので、私は思い切って言ってみた。
もちろん、守がこれぐらいで諦めてくれるとは思っていなかったけれど。
そして案の定、守はお屋敷から逃げ帰ることなんて、考えてはいなかったのだ。
「最後まで調査しなきゃ。大丈夫。いざとなったら、この火掻き棒で戦うから」
「もう! 変な処で意地っ張りなんだから! そんな攻撃力なさげな武器で、ヨロイとかに勝てる訳ないじゃん!」
「そんなことはないよ。攻撃力の不足は、頭脳とテクニックでカバー出来るもんさ」
守がそんなことを言ったせいで、曲がり角の向こうからヨロイが来てしまった。
予期せぬ出会いに驚いて、私と守は悲鳴をあげた。ヨロイは、剣を振りかざして私達に襲いかかる。
「ま、ま、守っ! ほ、ほら、頭脳とテクニックでなんとかしてっ!」
なんとかできる訳もなく、守は、私の腕を引っ張って、すたこらさっさと逃げ出した。
守と私は走りに走り、玄関の大扉までやって来た。
やっぱりこんな処には居られない。このお屋敷からはもう逃げ出すしかない。守は扉の取っ手を掴んで引っ張る。
「守、もたもたしないで! ヨロイがもうそこまで来てんだから!」
「……駄目だ、開かない!」
何ということだろう。玄関扉の鍵が、知らないうちにかけられていたらしいのだ。
「と、閉じ込められたの?」
「馬鹿な! う、内鍵があるはずだ……って、うわあっ?」
ヨロイが私達の真後ろにまで迫り、剣を頭上に振りあげている。
「郁子、こっちだ!」
脳天を狙って振りおろされた剣を危なっかしく避けてから、守は私の腕を引いて走り出した。
玄関ホールを突っ切って、階段の脇から続く廊下に入ってゆく。
背後からは、ヨロイがけたたましい足音を轟かせている。あんなに重たそうな外見なのに、かなりの俊足だ。駄目、このままじゃ、追いつかれちゃう――。
その時、突き当たりの二股に分かれた廊下の片側に、少し開いた扉が見えた。
まるで誘っているかのような――それでも今は、あそこに隠れる以外にない。
部屋に逃げ込むと、扉を閉め、小さくしゃがんで息を潜めた。
ヨロイの音が部屋に近付き――部屋を素通りして、遠ざかって行った。
音が完全に聞こえなくなるのを確認すると、私達は、ガックリと床に座り込んだ。
「全く、口ばっかなんだから!」
「だ、だってさ、あいつ、実際向かい合ってみると意外と迫力あってさ……」
「言い訳しないの!」
鋭く一喝してやると、守は返す言葉もなくうなだれてしまった。
「それはそうと……この部屋は凄いな」
話を誤魔化したかったのか、部屋を見廻し守は言った。
ここは、書斎だった。
広い室内は、全ての壁が本棚で覆われていて、その本棚には、溢れんばかりの本がぎっしり詰め込まれている。まあ確かに、凄いのは認めざるを得ない。
「図書館みたいね」
興味深げに本を見て廻っている守の後ろで、私はため息をつく。私もちょっと覗いてみたけど、本の大半は外国のものなので、高卒の私の語学力では、内容がさっぱりだった。
本棚をぐるっと一巡した後、守は、部屋の中央に置かれた書き物机の引き出しを開けた。
中には、割と新しい感じのスクラップブックが入っているようだ。守の後ろからそれを覗き込む。
スクラップブックには、新聞や雑誌の切り抜きが、几帳面に貼り付けられていた。
見ていく内に――だんだんと私達の表情は曇ってくる。
切抜きの記事が、夜見島事件に関連したものばかりだったからだ。
新聞の自衛隊ヘリ消失事件の報道に始まり――女性週刊誌による三上脩失踪事件関連の特集、三途港で消息を絶ったと言われている殺人事件の容疑者に関する記事等々。
中には、守が「アトランティス」に掲載した夜見島レポートも、当然入っていた。
さらにその先まで頁をめくると、「アトランティス」の別の記事まで出てきた。
次号予告や読者プレゼント、編集後記等々――私は知っていた。これらがみんな、守が担当して作った記事だということを。
つまり、このスクラップを作った人は、一年前の夜見島事件、そして、その事件の当事者である守を、知っているっていうことだ。
しかも、守が「アトランティス」で担当している仕事のことまで、詳細に調べていたんだ。
「守……」
見る見る顔が蒼ざめてゆく守を見て、私は思わず、彼の躰に寄り添った。
深い意味はなかった。ただ、そばに居て守を安心させてあげたかっただけ。
それなのに守は、表情を固くして私のそばから離れてしまった。
「大丈夫。大丈夫だ……」
ぎこちなく微笑んで守は言った。
心配かけまいとしているんだろうけど、私にはそれが、拒絶の態度に思われて寂しかった。
――もっと私のこと、頼ってくれてもいいのにな……。
それとも、私みたいに変なちからを持ってる女じゃ、心から信頼する訳にはいかないっていうことなんだろうか?
……なんて、暗い考えに浸ってたって、しょうがない。
「そ。だったらもう行こ! いつまでもこんなかび臭い部屋に居たって、しょうがないじゃん!」
半ば自分を励ますように明るい口調で言いながら、私は守の手を引っ張った。
廊下からヨロイの気配が絶えているのを確認してから、私と守は、そっと廊下を歩き始めた。
守は相変わらず元気がない。さっき書斎で見たスクラップのことを、まだ引きずってるのに違いない。
確かに、あのスクラップは守に取って、不気味で不吉な存在に違いないと思う。
このお屋敷に居る何者かの悪意が、自分独りに向けられているように錯覚しているのかも知れない。
でもそれは違う。
お屋敷に巣食う悪意は、私と守、それぞれ平等に向けられているものなんだ。
できればその事実を知らせてあげたい。でもそれはできない。
私がこのお屋敷と関わりがあるのかも知れないだとか、ここで見知らぬ男に二度も犯されそうになっているだとか、そんなこと、守に話せる訳がない。
せめて、不吉な事実から守の気持ちをそらすべく、私は言った。
Aねえ、のど乾いた。
「走り廻ったからのど渇いた。何か飲むもん持ってない?」
唐突な私のわがままに、守は困った顔を見せる。何か持っていたか頭を巡らせてる様子。
私は、悩んでいる守の腕を引っ張った。
「そうだ。ここの台所に何かあるかも! 行ってみようよ」
「ちょっ、ちょ……こ、こんな廃屋にあるものを口にするなんて」
「ものは試しよ! 瓶詰めの物とかならきっと平気だって! こんな大邸宅なんだからさぁ。ひょっとしたら、ワイン倉くらいあるかもしんないじゃん」
とりあえず、飲み物を探すって行為をすることで、少しは気が紛れるんじゃないかと思った。
*そして廊下を歩いているうちに、私達は、観音開きの大扉の前にたどり着いた。
「これはきっと食堂のドアね。てことはこの奥に厨房が……」
私は重そうな扉を両手で押し開けた。守が部屋の中をライトで中を照らす。
暗い部屋の中で、顔を伏せて泣いている女の子の姿があった。
歳は多分、私と同じくらい。長い黒髪を後ろに束ね、白い着物を身に着けている。
彼女の前のテーブルには、生クリームで飾りつけをした手作りケーキを中心に、ささやかだけど丁寧にこしらえられた、美味しそうなご馳走がたくさん並んでいた。
――どうして泣いてるの……?
約束していた相手が来なかったとか、そういうことなんだろうか?
両手で顔を覆い、ただひたすらに泣いている女の子が気の毒で、私は女の子に心で話しかける。
――……さら……い……。
女の子は、私の心の呼びかけに、心の声で答えた。
でもその声は小さく、とても聞き取りづらい。私は、もう一度心で呼びかけた。
女の子は泣くのをやめ、顔をあげてゆっくりとこちらに眼を向けた。黒目がちの大きな瞳。その、漆黒の沼を思わせる虚ろな瞳が私を見据え、赤い唇が動いた。
そして、今度は心の声ではなく、自分の口を使って言葉を発した。
「今さら遅いのよ」
軽いめまいの後、私の意識は現実に帰った。
意識に飛び込んできたイメージは、一瞬のうちに過ぎ去り、何事もなかったかのように消え失せていた。
今のイメージを反芻している私の横で、何も知らない守は、ライトを室内のテーブルに向けている。
ライトがテーブルの中央を照らした時、白いテーブルクロスの上で蠢いていた黒い塊が、ぱっと散った。テーブルに残る食べ物のかけらを漁っていた、ネズミの群れだった。
「うわっ」
「いやぁっ」
私達は、ついつい悲鳴をあげてしまう。
扉の中は、思った通り食堂になっていた。それも、西洋のお城にあるような大食堂。
白いクロスをかけられた縦長のテーブルは、部屋の奥までずっと続いていて、椅子もここから見て取れるだけで、二十脚以上は余裕でありそう。
凄く立派な食堂だったんだろうだけど、今は荒れ果てて見る影もない。
「酷いなこりゃ……」
守は、荒れ果てたテーブルの上をライトでたどった。
ほんとに酷い散らかりよう。
用意されていた食器類や食べ物は、ネズミによってしっちゃかめっちゃかに掻き廻されてるし、かびとか埃で汚れてしまって眼も当てられない。
そして、そんな不潔なテーブルの中央には、ネズミに倒された陶の花瓶と、そこから散らばった、月下奇人の花束があった。守が嫌そうに顔を歪める。
「う……また月下奇人かよ……」
不思議なことに、ここにある月下奇人は、二階の赤い部屋で見たもののように干からびてなくて、瑞々しく水分を含んで例の芳香を発していた。
つまり、この花束はまだ新しい。
つい最近、誰かがここに飾ったばかりなんだ。
「も……もういいよ! 守、行こ!」
こんなに気味の悪い食堂には、入りたくない。
せっかく、あの不気味なスクラップから気をそらすために来たって言うのに、これじゃあ全く意味ないじゃないの。私は心底うんざりしてしまった。
けれど守は、こんなに不潔でいやなムードを漂わせている食堂に平気でずかずかと入って行き、荒れ果てたテーブルのスナップ写真さえも撮影している。
食堂の入口でぽかんと見守っている私に向かい、彼は言った。
「郁子、ちょっとそこで待ってて」
守は食堂の奥に、別の部屋へと続く扉を見つけたようだった。
「はあ? ちょっと何する気なの?」
私は引き留めようとしたけれど、守は「すぐ戻るから」と言い残し、さっさと扉を開けて行ってしまった。
大方、取材でもしようと思っているのだろう。
「……んもう!」
独りぼっちで取り残された私は、腕組みをして守の消えて行った扉を睨んだ。
ほんと、どういうつもりなんだろう。
こんな処に、か弱い女の子を独りきりで残して行くなんて……このお屋敷には危険がいっぱいだってこと、守にだって判りきってるはずなのに。
「しょうがないなあ……こんな場所に独りで居て、また変な奴に襲われたら堪らないわ」
私は、仕方なしに守の後を追った。
食堂内の扉を開けると、その向こうには、また食堂があった。
こっちのテーブルは小さくて、せいぜい、前の大食堂の三分の一程度の大きさしかない。
そして、そんな小食堂の奥には、さらに奥へと続く扉がついていた。そっちはどうやら、厨房に続いているようだ。守は厨房の方に行ったみたいなので、私も向かった。
大食堂に比べると、案外綺麗に片付いている厨房の片隅に、守は立っていた。
こちらに背中を向けていて、私が来たことには気づいていない。
取材に集中しているのか、今は心の状態も無防備で、その断片的な思考が簡単に読めた。
(これも一応、取材活動の一環)
(謎のミイラ。人を襲うヨロイ。そして、夜見島事件についての記事を集めたスクラップ)
(この屋敷には、何か途轍もない秘密が隠されているに違いない)
(こうなったら、とことんまで突きつめて調べてやろう)
守は、恐怖を紛らわす手段として、職業意識を強く持とうと努めているようだった。
(前の夜見島の一件でも思ったのだが、人間、恐怖や絶望が臨界点を超えてしまうと、自分でも思いがけないほどの行動力を発揮するものだ)
(こういうのを、火事場のクソ力と言うのかも知れない)
「ただの逆切れなんじゃない?」
守の心の声に、私はついうっかり口で返事をしてしまった。守はぎょっとして振り返った。
「わ、郁子? 結局来たのかよ」
守は、自分の考えが私に読まれていたことについてはあまり頓着をせず、いつの間にやら私がこの場に居たことについてだけ、驚きを見せた。
本当に不思議な人だと思う。
普通、こんな風に心の中を読まれたら、ほとんどの人は嫌がり、怯える。私のちからのことを知っていたって――ううん、知っていればなおのこと、その反感は強くなるものじゃないかと思う。
なのに守は気にしない。私の前で、心の中の様々な思いを曝け出し、また、その事実を知っていながら、私と普通に接してくれる。しかもそれは、取り立てて努力してのことでもなさそうなのだ。
かつて、私と少しだけ仲良くしてくれていた男の子のことを思い出す。
その人は、今したみたいに、私がうっかり心の内を言い当てたとたん、手のひらを返したように態度が冷たくなり、私を避けるようになったものだ。
どうして守は平気なのだろう。
私に対して無関心な訳ではない。むしろ私に、単なる友達以上の気持ちを持ってくれている。それなのに、そんな私に心の中を勝手に読まれても、恥じ入った気持ちを抱いたりはしない……。
人の心を読める私が、人の心を理解できずに悩んだりするなんて、おかしなことだと自分でも思う。
こうなってみれば、人の心を読む能力なんて本当にちっぽけで、役に立たないちからなんだとよく判る。私は弱い。本当に弱いただの女の子なんだって、心底思い知らされる――。
守と合流した私は、暗い厨房内を見渡した。
「こっちはそんなに荒れてないんだね」
「そうだな。何か飲みものでも探してみる?」
「それはもういい……さっきのあれ見たら、そんな気失せた」
大食堂の惨状を思い返して、私は肩をすくめた。
それより今は、他に気になっていることがあった。私はそのことを守に言った。
「ここ、何か変な音してない?」
「変な音?」
守は耳をそばだてた。
どこかから、小さなベルの音が響いていた。
いったい何の音だろう? 止め忘れた目覚まし時計の音か、はたまた、昔懐かしい黒電話の呼び出し音か。
「これ……電話の音?」
守が言う。そうだ。これは多分電話の音だ。守は怪訝そうな顔をしている。
「何でこんな廃屋に電話が……」
「で、でもどこにあるの? 電話なんて」
二人してあちこち見廻してみる。でも電話なんかどこにもない。
「ないな……あとは」
守の目線が、厨房の奥に鎮座している巨大なステンレス製冷蔵庫に向けられた。
「まさか……この中にはないよな」
そう言いながらも、守は一応、冷蔵庫を開けていた。
開けたとたん、けたたましいベルの音が鳴り響いた。
廃屋にも関わらず、しっかりと稼動していた冷蔵庫の中央。得体の知れないブロック肉がぎっしりつまったその真ん中に、ダイヤル式の黒電話が当たり前のように置いてあったのだ。
鳴り続ける電話を前にして、私と守は絶句する。
「これって出るべきなのかな?」
不意に守は、真顔でそんなことを言った。私はまじまじとその顔を見返した。
「出たいんだったら出てみれば?」
他に言いようもない。私の言葉を聞いて、守は困ったようだった。
「でも……何て言って出たらいいんだろう? おれ、この家の住人でもないのに」
え……そこ?
廃屋の冷蔵庫に仕舞ってあった電話に、誰かがかけてきているという、怖ろしくも異常な事態を前にして、一番の心配事が、電話の応対の仕方だなんて……。
呆れるのを通り越して、なんだか憐れみの心が湧いた。やっぱりそうなんだ。守は本物なんだ。本気で本物の、アレな人――。
「……とりあえず『もしもし』って言ったらいいじゃん。はい」
私は、冷蔵庫から電話を引っ張り出して守に手渡した。
守は電話を抱えて受話器を取り、耳に宛がって、言われた通りの応対をした。
「……もしもし」
守の横で、私も電話に聞き耳を立てた。
電話は繋がっているようだったけど、電話の相手は無言のままでいるようだった。――いや。少し注意して聞いてみると、ほんの微かではあるけれど、息遣いのようなものが聞こえた。息遣いとそして、小さな女の声。
『……ふ……くぅ……ふふっ』
その声に込められた感情は、私にも読み取れなかった。心を読む能力も、電話越しだと通じない。
声の調子から判断しようにも、くぐもったその声は、泣いているようにも笑っているようにも取れるし、ともすれば、本当にただの息遣いに過ぎないようにも聞こえた。
でも、これがもし泣き声であるとしたなら――大食堂の幻覚で見た、泣いている女の子の姿がふと蘇った。
「もしもし?」
相手が何も言葉を発しないので、守はもう一度大きな声で呼びかけていた。
それでも相手は返事をしない。私はふと、電話機の下にぶらさがっている黒くて短い紐を見つけた。黒い紐? ううん、これ、ただの紐じゃない。ぎざぎざした端からたくさんの銅線がはみ出して――私ははっと気づいた。これは……電話機のコードだ!
「守……これ、繋がってない!」
私は守の腕を思い切り掴んで揺さぶった。守は大きく眼を見開いて、ちぎれたコードの端を見つめた。
すると突然、受話器の向こうから、女の笑い声がけたたましく響き出した。
「ぎゃあっ」
守は叫んで電話を床に落とした。落ちた受話器からは、未だ女の笑い声が漏れ聞こえている。
「ま、守……」
「……こんなのただのトリックだ。絶対に何か仕掛けがあるに違いない」
絞り出すような声音で、守は言った。
「でも」
私の声も、みっともなく震えていた。
「ぼくらを怖がらせたいんだよ! 要するに単なる嫌がらせだ。気にすることはない」
冷静さを取り戻そうとするように、守は言い募る。女の笑い声が、さらに大きくなった。
「くそ!」
守は、笑い続ける電話機を冷蔵庫に押し込み、ドアを閉めた。
「馬鹿にしやがって……郁子、もう行こう」
「ん……うん……」
守は私の腕を取り、怒ったように言って歩き出した。ほんとは怒っているというより、怖くて不安なんだろう。
怖くて不安なのは私も同じだった。
だって、こんなものまで用意して私と守を脅かそうとするのは、あまりにも異常なことだ。悪意なんてものじゃない。狂っているとしか思えない。
このお屋敷に潜んでいるのは、ただの気が触れた人なのだろうか? 相手が誰とか関係なしに、ただ迷い込んだハイカーを脅かして楽しみたいだけ?
だったらいいのだけど――あのスクラップのことを考えると、やはりそうだとは思えない。スクラップのこともだけど、私の胸の内で膨らみつつある疑惑。
このお屋敷を見廻るごとに明確になってゆく、異様なまでの既視感。
そう。私はこの場所を、このお屋敷を、知っているような気がする。
ずっとずっと昔に、ここで過ごしたことがあるような気がする――。
貧血を起こしたように、ともすれば気を失ってしまいそうになる私の腕を、守は半ば、強引に引っ張って歩いてゆく。
私はただなされるがままだった。まともにものも考えられない。どうすればいいのだろう? これから私と守はどうなってしまうんだろう?
虚ろな私の背後で、守が叩きつけるように閉ざした、大食堂の扉の音が響いていた。
ひとまずホールへ戻ろうと歩いていると、どこからか悲鳴が聞こえた。呆然と虚ろだった心が、突然の警報で覚醒する。
「守! 今の……」
四つ辻の廊下の中央で、私達は立ちすくむ――また聞こえた。
「女の人の声だよね?」
私は声の聞こえた方角を伺った。悲鳴は、曲がり角のずっと先、玄関ホールとは、正反対の方向から聞こえたようだった。
その方向を指して守の顔を見あげる。守はなぜか、困惑気味に眼を泳がせているだけだった。
「どうしたの守? 早くしないと!」
「うん……そうだよな……」
私に促されてから、守はようやく悲鳴のする方に向かって走り出した。
――どうしたっていうんだろう?
いつもの守なら、こんな場面で今みたいにぐずぐずすることなんてないはずなのに。腕っ節は強くないけど、決して臆病者なんかじゃない。それに、自他共に認めるおせっかいな性格だから、困ってる人は見過ごせない。そんな守が、どうして……?
何を考えてるのか、心を読んでみようか?
でも今、そんな暇はない。それになんだか、読むのが怖い。
急に、知らない人みたいによそよそしく見える守の背中が、なんだか怖い……。
薄暗い廊下を端まで進んでゆくと、突き当りが鉄の扉になっていた。他の部屋の扉と比べると、随分と無骨で頑丈そうな扉。守がノブを廻す。鍵はかかってないみたい。ちょっと身構えてから、守は扉を開けた。
少し生臭い雨のにおいと、強い風が、扉向こうの闇から吹きつけてきた。
「うわ……ここ、裏口だったのか」
守は扉から表に出て、暗闇をライトで切り裂いた。裏口の向こうにあるのは裏庭――けれど今は、暗い雨と風に邪魔され、ほとんど何も見えない。守がライトで照らす先しか……。
頼りない光で判断する限り、裏庭はもうすっかり荒れ果てて、単なる雑草だらけの空き地と化しているようだった。
仕方のないことだと思う。人の絶えたこのお屋敷にはもう、庭の手入れをする人とて居ないんだろうし、もう昔みたいに綺麗なままじゃ……って、ああ違う違う。こんな状態の裏庭を見て、寂しい気持ちになる理由なんてないでしょ?
だって私、このお屋敷とも、お花の咲いていた裏庭とも無関係なんだから。
――随分と、冷たいのね。
そうだよ。私はもう、昔のままの私じゃない。
もう自立した大人になってるんだ。だから独りで生きていける。
誰に頼ることもなく、昔の思い出にすがりつくこともなく――生きて行かなきゃならないの。
そう今は、過ぎ去った過去のことなんかにすがっている時じゃない――。
草ぼうぼうの庭の片隅で、何かが光った。
あれはガラスの壁だ。それがライトを照り返したのに間違いない。私は言った。
「――温室みたいね」
温室の方から、また例の悲鳴があがった。
悲鳴の主は、あの温室に居る。
私と守は、泥を蹴立てて走り出した。ぬかるみに足を取られ、雨で全身ずぶ濡れになりながら、私は守の背中に声をかけた。
「ねえ守。この悲鳴ってやっぱ……あの女の人のかな?」
「さあ……」
もう温室は眼の前だ。私は、思い切って心のわだかまりを吐露することにした。
「あのね……私ね、あの女の人のこと……知ってるような気がするの」
守は私を振り返らず、眼の前の低い立ち木を押し退けて答えた。
「……おれもだよ」
――えっ?
温室の前まで来た。
守は温室の中に呼びかけている。そして、汚れきって曇ったガラスをライトで照らした。
「うぅっ?」
ガラス越しに現れた温室の中身を眼にして、私は呻いた。
温室の中は血まみれだった。
飛び散った血飛沫が、ガラスを赤い色に染めて――なんていう風に見えたのは一瞬のこと。
実際そこにあったのは、ただの月下奇人だった。放置された温室が、月下奇人に侵蝕されてしまったという、ただそれだけのことだった。
月下奇人の温室。
雨の中、私達は言葉もなく立ち尽くす。その時、凄く間近な場所から、また悲鳴が聞こえた。
「あっち!」
今の悲鳴は、温室を挟んだ向こう側からだった。私は急いでそちらに向かう。
一歩遅れて守が追って来るのを、振り切るような勢いで私は走った。
何をこんなに焦っているのか、自分でもよく判らない。でもとにかく、急がなくちゃいけないと思った。守が先に、あの女を見るようなことがあってはならない。もしも守があの女を見てしまったら……きっと守は、魅入られてしまう。あの女に。あの女の、綺麗な乳房に――。
そして私は、悲鳴の源へとたどり着いた。
壊れた温室のガラス戸。
下の方の蝶番が外れ、ぶらさがった状態の扉が、風に煽られ甲高い音を立てて軋む。
「幽霊の、正体見たり枯れ尾花……か」
私に追いついた守が、幅広い肩をすくめて見せた。
彼には判っていたんだ。「悲鳴」の正体が、このガラス戸の軋みであるということが。
いつから判っていたの? それとも最初から知っていたの?
灰色の重たい雲が、私の胸いっぱいに広がってゆく。
でもそれとても、今の私に取っては酷く些細で、どうでもいい事柄だった。
私が何も言わずにただ突っ立っているのを訝って、守は、私が見つめているガラス戸にライトを当てた。
ガラスの照り返す真っ白な光が、私の眼に突き刺さる。
揺れるガラス戸が、風に煽られるまま、ゆっくりとその表面を晒した。
“陏子”
扉一面に殴り書きされた、二つの文字。血のように赤い塗料で書かれているのは、中で咲いてる月下奇人の赤に合わせたのかも知れない。
陏子。陏子。陏子。
きっとほんとは、「郁子」のつもりで書いたのだろう。
だけど違うよ。間違ってるよ。
もう、昔からそうだったよね。あんたがくれる手紙には、私の名前、いつもこの変な字で書いてあるの。まあいいかって、訂正しなかった私も悪いんだろうけどね。
ここにこの名前を書いたのは、やっぱり、あんたなの……?
「行こう」
立ち尽くす私の腕を、守が引っ張った。守の腕に逆らい、私はガラス戸を見つめていた。
「郁子!」
私の腕を引く力が強くなった。私はよろめき、たたらを踏んだ。
「なんでなの……」
小さな声で、それだけ言った。
取り繕ったり、強がりを言う気にもなれない。このままじゃ、守に心配をかけちゃうってことが、判っていても。
「……とにかく、戻ろう」
守の重苦しい声が、酷く遠い場所から聞こえた。
彼に引きずられて屋敷へと戻ってゆく間にも、私の頭の中では、風に煽られ揺らいでいるガラス戸が、そこに書かれた「陏子」の文字が、焼きごてで押されたように刻み込まれ、意識の中で、いつまでもいつまでも不吉な映像の記録となって居座り続けていた――。
「なあ、ここって風呂場あるかな?」
お屋敷の廊下で、守は私に呼びかけた。
ようやくあの光景のショックから気持ちが切り替わる。
「泥まみれになっちゃったし、洗わないと気持ち悪いじゃん」
守は、私のことを気遣っているのだろう。おどけた仕草で、泥水でどろどろになったジーンズの足元をアピールしている。私は少しだけ笑った。言われてみれば、私の躰だって雨でぐしょぐしょ。
「そだね……探してみようか」
私はなけなしの元気さを取り戻し、守の先に立って廊下を歩き始めた。
いつも元気でポジティブで、ちょっとやそっとのことじゃへこたれない強い子。それが私。木船郁子という女の子。
このスタンスは、絶対に変えられない。独りきりで生きていくために――私は、自分の気を強く持っていなければいけないんだ。
「私の勘だとここら辺なんだよねー」
私は廊下の角を曲がり、一番手前にある扉に向かった。守が私の前に立ち、ノブを廻して扉を開けた。
扉の向こう、真正面に見える鏡が、守のライトを反射させる。
トイレを兼ねた洗面所。扉の内側付近についてるスイッチを入れると、大きな丸い電球が、中をぼんやりとした灯りで満たした。
「さてと。ちゃんと水が出るかな……」
さっそく守は、洗面台の蛇口をひねった。白い陶製の洗面台が、血に染まった。
「いやあぁっ!」
びっくりして悲鳴をあげると、守は苦笑いをした。
「落ち着けよ、ただの赤錆だ」
確かにそれは、よく見ると古い水道管の赤錆に過ぎないことが判った。暫く水を流していると、赤錆はすぐに消えて、綺麗な水へと変わっていった。
「郁子、先に使いなよ」
守は私に洗面台を譲ってくれる。ありがたく先に手を洗わせて貰う私の背後で、守は、霞みガラスの引き戸の向こう側にある浴室を調べているようだった。
手を洗い終え、濡れたしずくを振り払いながら、私は守の横から浴室を覗いた。
広々とした浴室は、乾いていて案外清潔そうだった。
細かいタイルの床と壁、大きな白い猫足のバスタブ。さすがに、いずれも古くてひびが入ったり、少し黒ずんでいたりもするけど、私が大掃除してあげる前の守ん家のバスルームなんかより、ずっとまし。
これで、こっちの方もちゃんと水が出てくれればいうことない。もちろん、水でなくお湯が出てくれれば、もう完璧なんだけど……。
「さすがにお湯は出ない、よねぇ……?」
私の台詞を聞いたとたん、守の意識内に、私のシャワーシーンが展開された。映画とかドラマみたいに、足元からカメラがゆっくりとあがっていき、腰、肩、そしてうっとりとお湯に打たれている私の横顔まで舐めていくのだ。
なんてありがちな……でも、とっさの妄想なんてだいたいこんなもの。ここで変に凝った妄想されても、それはそれで引く。
「ものは試しだ」
守がシャワーのコックをひねった。
バスタブが真っ赤に染まった。こっちも赤錆か。さすがにもう驚かないよ。
「うわあぁーっ!!」
守はとんでもない悲鳴をあげて、すっ飛んで逃げて行った。
「いや、赤錆だから……って、どこまで逃げてんのっ!」
守は、洗面所を出て廊下の壁にへばりついていた。私の視線に気づくと、かっこつけて眼鏡を指で押しあげつつ戻って来た。一生壁にへばりついてればよかったのに、と私は思った。
赤錆が流された後、水は綺麗に澄んでゆき、だんだんと温かくなってきた。
「わーい、お湯だぁ」
これだったら、ちゃんと躰を洗うことができる。私は嬉しくなった。
「ね? 先入っていいよね?」
ちょっとわがままを言ってみる。もちろん、守が聞いてくれるのを見越してのこと。だって守って、女の子にこんな態度を取られた方が喜ぶタチだから。
そして、やはり守は、「はいはい」と素直に浴室から退出しようとするのだった。
さて、それでは私は、さっそくシャワーを浴びるために服を脱いで……。
ん? 待てよ。シャワーを浴びるのはいいとして、着替えその他を入れたバッグが、玄関ホールに置きっぱなしだった。
「守ぅ、悪いけど私のバッグ取って来てくんない?」
私は浴室から顔だけを突き出し、洗面所から廊下に出ようとしていた守を呼び止めた。
「タオルと着替え、あれに入ってんのよ。ほら早くぅ。駆け足!」
さすがに守は渋面を浮かべたけれど、大人しく「はい」と返事をして走って行った。
――ちょっとお調子に乗り過ぎちゃったかな。でも、たまにはいいよね。これぐらい……甘えたってさ。
「友達なんだから……これぐらいフランクでもいいんだよね」
独り呟き、私は浴室の引き戸を閉めた。
脱ぎかけたタンクトップの裾を持って、ちょっと考える。守が戻って来るまで、このままでいた方がいいかなあ……?
だけど、勢いよく噴き出しているシャワーのお湯を見ていたら、もう守なんて待ってられない気分になった。いいや、入っちゃえ。バッグは、洗面所に置いて貰えばいいんだもん。私はタンクトップを脱ぎ、泥まみれのデニムを引きおろした。
浴室の壁にある曇った姿見に、私の躰がぼんやりと映し出されていた。ブラとパンツだけの半裸の姿。鏡の前、色々と角度を変えて自分のプロポーションをチェックした。
我ながら、まあまあ見られる躰つきじゃないかと思う。胸もそれなりに出っ張ってるし、ウエストだってきちんとくびれてる。
難を言えば、ちょっとお尻が大き過ぎることかな。このお尻のせいで、着るものには結構苦労させられるのだ。トップスの丈によっては、凄い下半身デブに見えちゃったりもするし。
鏡にお尻を映しながら、綿のパンツをくるりと剥いた。深く切れ込んだ二つの山。守が頭の中で、色々と妄想している私のお尻。
守の妄想する私のお尻は、あくまでただの妄想なので、その時々によって色、形、割れ方なんかがいつも微妙に異なっている。守君、私の本物のお尻は、こんななんですよ。
くすりと笑って正面を向いた。それほど濃くない下の毛が、少し逆立っているのが妙に眼につく。うーん。前から見ても、やっぱり腰の大きさが目立つかなあ……。
こんなことをしながら、私は、最後のものを取り去る時を引き伸ばしていた。
判ってる。これは欺瞞。真実を見たくないがゆえの、ただの現実逃避だ。
現実逃避というものは、いつまでもしていられるものではない。私は覚悟を決め、躰を隠す最後のもの――ブラジャーのホックを後ろ手に外して、胸からむしり取った。
姿見は、私の真実の姿を、余すことなく映し出した。
真ん丸い乳房の膨らみ。茶味がかったピンク色の、ちんまりとした乳首と乳輪。
そして――その乳首と乳輪を取り囲んでいる、醜くておぞましい二つの痣。
人の眼の形をした、赤黒い闇の刻印。
鏡の中から私を見据えるその痣を、私は、険しい眼つきで睨み返す。
これが私の呪われた運命。私が普通の人とは違う、夜見島の化け物に近い存在であることの証。
私が守と結ばれることのできない、これがその理由だった。
全てを脱ぎ捨て丸裸になった私は、鏡から眼を背け、バスタブに入って顔面にシャワーのお湯を浴びせた。
熱いシャワーは、躰についた汚れと共に、私の心の頑なさまでも、融かして流してしまうようだった。
お湯の飛沫の中、私は、張りつめた胸の膨らみを摩りあげ、円を描くように撫で廻した後、荒々しい手つきでぎゅっと掴んだ。
乳房の芯に響く痛み。私は歯を食いしばる。
こうするしかない。ともすれば、守の前に投げ出してしまいたくなるこの躰を鎮め、自分の気持ちを抑え込むために、私は、私自身を痛めつけるしかないのだ。
――現実を見なさいよ。私は醜いでしょ。化け物みたいでしょ。こんな痣のある胸を、守に見せることなんてできないでしょ。
乳房を両手で持ちあげれば、ひしゃげて変形した痣が、よりいっそう醜く歪んで私を嘲笑った。苦しくて、叫び出したい気持ちに陥る。私は頭を抱え、バスタブの底にうずくまった。
心の苦しみに押し潰されそうになった私の頭上で、シャワーのお湯が、急激に温度を上昇させた。
「きゃああぁーーーっ!」
驚くより先に躰が反応し、バスタブの外に転がり出た。シャワーの温度はますます上昇してゆく。
とにかくシャワーを止めようとしたけど、もう熱すぎてシャワーコックにさえ近寄れない。故障してしまったのだろうか?
物凄い熱気に耐え切れず、私は洗面所に逃げ込んだ。
それとほぼ同時に、玄関ホールから悲鳴を聞きつけ、飛んで来た守が扉を開けた。
「どうしたんだっ!?」
「ひゃあああぁっ!?」
「ああっ? ごっ、ごめんっ!」
守は慌てて廊下に戻り、扉を閉めた。
「いきなり開けないでよ馬鹿っ!」
床にしゃがみ込みながら、混乱の極みで私は叫んだ。まだ胸がどきどきしている。顔が熱くて火を吹きそうだ。
「イヤだって……悲鳴が聞こえたから、心配になって……いったい何なんだよ?」
扉の向こう側から、守は声をあげた。
「そ、それがね……シャワーが、いきなり熱湯になっちゃったの」
「ええ? なんだって!?」
守が居るのに、いつまでもこんな格好じゃいられない。私は洗面台の上にある戸棚を開け、バスタオルを取り出して、躰に巻きつけた。
「もう熱くて、シャワーのコックにも近づけないのよ」
「ちょ、ちょっと中に入るぞ」
返事も待たずに、守は中に踏み込んで来た。全く、こんな時にもエロのチャンスを窺おうってんだから……バスタオル巻いといて正解だったわ。
守は、私の裸が見れなくて落胆した様子だったけど、すぐに気を取り直してシャワーを調べに行ってくれた。
でも浴室の戸を開けたとたん、凄まじい熱気に怯んで躰を引いた。やはり駄目なんだろうか。
でも守は、諦めた様子もなく私に言った。
「おれ、ボイラーの方を見てくるよ」
「ボイラー? そんなのどこにあるの?」
「さっき、それっぽいのを見つけたんだ……多分、そっちでなら直せると思う」
守は、後も見ずに廊下に飛び出し、そのまま走り去って行った。
私は、扉の開いた洗面所の出入り口を前に、暫しぼんやりと突っ立ったままでいた。
廊下にひょいっと顔を出す。曲がり角の向こうから、裏口の扉の開く音が聞こえた。ボイラーというのは、裏庭にあるのだろうか?
ふと、出入り口の周辺を見廻したが、バッグが見当たらない。何よ。守ったら、こっち来る時一緒に持って来てくれたんじゃなかったの?
「全く……何しに行ったのよ」
こんな格好で、玄関ホールまで行く気になれない。
ため息一つついて、巻いたバスタオルの胸元を引きあげる。扉を閉め、洗面所の片隅に、膝を抱えて座り込んだ。
――さっき守は、私の裸を全部見ただろうか?
気持ちが落ち着いてくると、そのことが真っ先に気になり出した。
一応、胸は完璧にガードしたつもりだし、もしもあいつが胸の痣を見ていれば、何らかの反応があるはずだけど、それもなかった。だから多分、大丈夫だとは思うけど……。
――でも、どうかしらね? 守は優しいから……気づいてない振りしていただけかも知れない。
うん。その可能性もある。あいつが逃げるようにここから出て行ったのだって、本当は痣を見ていて、怖くなったせいなのかも。ボイラーなんてのは嘘っぱちで、私から、このお屋敷から、独りで逃げ出そうとしていただけなのかも……。
――だとしたら、もうここへは戻って来ないかも知れないわね。
そう……かな。もしそうだとしても……仕方ないよ。私、守に見捨てられても仕方ない。こんな痣のある私なんか、守に捨てられるのは、当たり前のことなんだから……。
――彼に見捨てられてたとしたら、どうする?
どうするって……どうしようもないじゃん。どうもしないよ。守と出逢う前に戻るだけ。独りぼっちで、ただ生きて行くだけ。
――東京で?
そうだねえ……東京へは、守の勧めで出て来ただけだから、守と離れる以上、こだわる理由はないもんねえ。どうしようかな……。
――だったらここで暮らしなさいよ。このお屋敷で、私と二人。昔に戻って……。
昔に……戻って?
取り留めのない思考をやめて、私は立ちあがった。躰に巻きつけていたバスタオルが剥がれて床に落ちたけど、気にしない。振り返って、洗面台の鏡を見た。
そこには私ではない、違う女が映っていた。黒くて長い髪の毛。白い肌。漆黒の瞳に、痣のない綺麗な胸。
私と全く似ていないその女は、驚いて硬直する私に、嘲笑を浴びせる。美しいけど邪悪な笑顔。この顔――私は知っている。一年前の夜見島で、さらには夜見島から戻って以降、私の意識内にたびたび現れて、私を苦しめ続けていた――。
あの山道で姿を現し、このお屋敷に着いてからも私の心の隙間に忍び込み、私を惑わす言葉を投げかけてきた。そう、今も――。
「あんた……あんたは、誰なの!?」
意を決して鏡に叫んだ。鏡の中で、女の口が裂けた。
禍々しい、狂った笑い声が頭の中に響いた。
――私はあんたよ。
女は、笑い声と共に甲高い声を響かせた。私は両手で耳を塞いだ。
「馬鹿なこと言わないでよ! 私は、私はあんたなんかと違う! 私は……あんたじゃない!」
鏡の女の顔から笑いが消え、頭の中の哄笑も消え去った。
女は、物凄い眼で私を睨み据えている。
――私を拒絶するつもりなの? 私の存在を無視して、消し去ってしまおうというの?
こめかみの辺りに、戦慄が走った。全身の産毛が、ちりちりと音を立てて逆立ってゆく。
ちから。凄まじい怒りと、憎悪を孕んで。私の――私の中から。
どうして? 違う。これ、私のちからじゃない。
これは……このちからは、いったい……。
得体の知れない“ちから”が、私の全身を、電撃のように貫いた。
その衝撃に押し潰されて、私の意識は、暗黒の中にすうっと沈んで行った――。
【つづく】
途中、いくつか通し番号振り間違いました。すみません。
早急にピンクのしおりを出せるよう尽力いたします。
文章量多くて更新速いね
こわめの雰囲気もいい感じだし
闇の中にうずくまっていた。
安らぎの世界。私が生まれた世界。私が本来居るべき世界。
そのことを明確に自覚したのは、やはりあの時だったと思う。
夜見島で、守と一緒に巨大人魚を倒した後。赤い津波に飲まれ、元の世界に送り返された直後。
守に呼びかけられて意識を取り戻した私は、守と二人、正常に戻った夜見島で、昇る朝陽を見た。
海原を輝かしく照らしてゆくその光明は、異様な眩しさを感じさせた。
なんとも言えず不快で、不安感を増幅させるその光に耐えかね、私は額に手をかざした。
躰の奥底で、何かがごそりと蠢いた。
暗い、深淵の中からゆっくりと這い出し、表に出ようとしているそれは、妙に生白く、湿った皮膚を持っていた。
たった今まで戦っていた、あの、闇の化け物達と同じように。
――変わってしまう……。
自分の意識がぶれ、霞んで消えてゆくような感覚の中、私は、今の私の消滅を覚悟した。
なぜ、私が他の人とは違う、おかしなちからを持っていたのか。
なぜ、それが、夜見島で化け物達と戦っていくにつれ、どんどん強くなっていったのか。
全ては氷解し、自明の理として納得の行くものに変わっていた。
そして私も変わってしまう。
本物の化け物に。私が夜見島で打ち倒してきたもの達と、同じものに――。
「……おい!」
不意に、肩を掴まれ揺すぶられた。
大きな手の平。力強い指先。私のぶれかけた意識が、自分を取り戻した。
「え……あ、私……」
眼を瞬いて、私の肩を揺すった男の子――守の顔を、見返した。
「大丈夫? だいぶ疲れてるみたいだね」
「うん……平気。ちょっと、ボーっとしちゃって……」
取り繕って笑うと、彼も安堵の微笑みを浮かべた。
朝焼けに照らされた彼の笑顔が、闇の住人である私の眼には、とてつもなく輝かしく、眩しく映った――。
「結局、あんたはそれで、まもるのことを好きになっちゃった訳ね」
闇の片隅から声がした。
膝を抱えて座り込んだまま、私は声のする方に眼をやった。
闇と馴れ合うような生白い肌が蠢き、柔らかそうな指先が、長い黒髪をさらりと掻きあげていた。
「だからあんたは、彼を追って東京へ行った。彼のそばに居るために」
女は、にやにやと笑いながら私に言う。私は力なく首を左右に振った。
「違うわよ。別に、あの時はそんな……私が上京したのはそんな理由じゃないもん。あんただって知ってるでしょう?」
「そうかしら」
女は、にやにや笑いを崩さなかった。
「じゃあ、こういうのは? あんたはあの時、未だ自分の気持ちに気づいてなかっただけなの。他人の心を読んで、他人の恋愛感情を外から覗くことはあっても、自分の心にそれが起こるのは初めてだったから、それが恋愛だと気づかなかった。
だから本当は、もっとずっと前から、彼のことを好きになってたのかも知れないんだよ?
例えばそうね……あの例の鉄塔で、落っこちそうになってた処を助けて貰った時とか。あるいはもっと前、三途港で初めて出逢って話をした時かも」
「あー、ないない。港で逢った時だけは絶対ない。だってあいつ、第一印象、超キモかったじゃん。あんな冴えない身なりして、港の写真撮りまくってさ。船長があいつを夜見島まで乗せて行くって決めた時も、やめりゃいいのにって思ってたぐらいだよ」
「だからあ、それはあんたが、本当の自分の気持ちに気づいてなかっただけなんだってば。考えても見なさいよ。あんた、なんだかんだ言いながらも、彼のことずっと気にかけてたんじゃないの?
夜見島に、異変が起こった後も……だからこそ、彼がお母さんに取り込まれそうになった時、わざわざちからを使ってお母さんの動きを止めてまで、彼を助けたんじゃなかったの?」
「そんなこと……あの状況眼にしたら、普通助けるでしょ? あいつだから助けたって訳じゃないよ、別に」
そうだ。少なくとも私は、あの夜見島に居た時、守を好きになっていた訳じゃなかった――と思う。
そりゃあ確かに、少しは気にかけていた。
最初に起きた津波で海に投げ出され、夜見島に漂着した後、船長や、他に乗ってきた客達よりもまっ先に、守の安否を心配したのは事実だ。
あの時はまだ、私は守と出逢ったばかりで、彼の心、それほど見た訳じゃあなかったけれど――
それでも、僅かな時間に垣間見た彼の気持ちの純粋さ、真っ直ぐさ、それに、口にしたり顔に表している思考と、実際頭の中で考えている思考がほとんど一致しているという、表裏のないその正直さは、
それまで私が見たことのなかった思考パターンで、それだけでも私は、彼の意識を気にせずにはいられなかったのだ。
だけどそれは、まだ恋愛という段階のものではなかったはず。
そうだ。それからもっと後の、あの時だって――。
「木船さん、待って!」
夜見島から救出された後、事情聴取がてら、半ば強制的に収容された病院から早々に退院し、逃げるようにこっそり出て行こうとしていた私を、彼は呼び止めた。
私以上に傷を負い、体力も消耗していた守は、まだ退院の許可がおりなくて、病院から出して貰えないようだった。
「あんた……よく私が退院することが判ったね」
まだ夜明け前だった。当然病室は別々だったし、病院の中で守とはほとんど顔も合わせていなかった。
「ゆうべ担当の看護婦さんに聞いたんだよ。君が、今日退院するって」
守は、病院で借りたパジャマの襟を掻き合わせた。夏の盛りだというのに、海辺にほど近い病院の庭は、風がひんやりとして少しだけ寒かった。
「――迎えの人とか、居ないのか?」
「うん。私独り暮らしだし。親きょうだいとかと、縁が薄いから」
「そうか……」
二日ちょっとの入院の間、守の処には実家のお母さんや、会社の人達なんかがお見舞いに来ていてにぎやかだったけど、私はずっと独りきりで過ごしていた。それは当たり前のことだし、私は別になんとも思っていなかった。私には、独りが普通のことなのだ。
「じゃあ、元気で」
私は守に軽く手を振り、そのまま立ち去ろうとした。
「ま、待てって」
守は私の手首を掴んだ。
(……今度はもう、離さない)
掴んだ手から、彼の強い思考が流れ込んで来た。彼は、私が自分のちからのことを告白した時、思わず手を離してしまったことを、未だに気に病んでいるようだった。
――そんなこと……もう気にしないでいいのに。
彼の手を握り返し、私の思考を送ってみる。けれど、そんなことをしたって彼には通じない。私は振り返り、口で伝えてあげることにした。
「木船さん、さ。こんなこというのは失礼かも知れないけど……君、今後の身の振り方は考えてるの?」
私の言葉を制し、守は唐突にそんなことを言った。
痛い処を衝かれてしまい、私は言葉に詰まった。
「そ、そうだねえ……船がなくなっちゃったからねえ……。ま、別のバイトを探すよ」
「また、港で働くの?」
「うーん……さすがにあんな目に遭って、また同じ場所で働くのはちょっと……でもまあ別に、港以外にも勤め先はあるし。三途は田舎だけど、選り好みさえしなけりゃ、それなりに」
「ねえ、木船さん」
守は私の眼を見つめ、思い切った口調で私に言った。
「どうせ新しいバイトを探すんなら、思い切って東京に出て来ないか? それだったら、おれも少しは力になれると思うし」
「東京に?」
予想外の提案だった。
地元を離れてしまうのか……確かに私は、地元に親しい間柄の人が居る訳じゃなし、生まれ故郷に対する思い入れも特にないから、三途地方から出て行ったって、何の問題もないのだけれど……。
「だけど、いきなり東京っていうのは……日本一の大都会でしょ。人いっぱい居そうじゃない。私、あんまり他人と関わりたくないから」
「だったらなおさら、東京はうってつけの場所だよ。都会の方が、人と人との繋がりが希薄なものだ」
いいことなのかどうか判らないその事実を、守は晴れ晴れと言い放った。「それに」と、彼は付け加える。
「思うんだけどさ、君はもう、あの港からは離れた方がいいよ。港っていうより、あの島から……行って見てはっきりと判ったんだ。やはりあの島は、呪われている」
そっちの方の話は、私にもよく理解できた。
彼の言う通りなのだ。あの島は、夜見島は呪われている。しかもその呪いは、決して私と無関係のものではないはずなのだ。
私のちからは、夜見島と深い繋がりがある。彼もきっと、そのことを薄々感づいていたのだと思う。
未だ守には話していないけれど、私が生まれる前、私を身篭っていたお母さんは、夜見島近郊の海に落ちたことがあるのだ。
〈妊婦、海に入りたれば必ずや災いを宿す〉
昔、夜見島で語られていたという言い伝え。あの島では、海から来たものは、全て「穢れ」とされていたそうだ。
だから私も「穢れ」に他ならない。この土地に居る限り、私は自分が「穢れ」である事実から逃れられない。ならいっそ、思い切ってこの土地から離れてしまったら――。
「まあ、無理にとは言わないけどさ……一応考えてみてよ。おれ、いつでも相談に乗るから」
そう言って守は私の手を離し、胸ポケットに用意してあった自分の名刺を私にくれた。
「本当に、いつでも構わないから連絡して。遠慮はいらないよ。おれ達はもう――戦友なんだから」
「戦友?」
守の言葉を聞き返す。彼は大きく頷いた。
「そうだ。おれ達は命運を共にして戦い、これに勝利し、共に生還した仲間だ。おれはもう――君のことを、同士だと思っているよ」
間に合わせなのか、顔に合ってない窮屈そうな眼鏡のつるをこめかみに食い込ませ、守は清々しく笑った。
折りしもその時夜が明け始め、守の笑顔に、輝かしい光明を添えていた――。
守に貰った名刺の裏側には、彼個人のものと思しき携帯の番号と、メールアドレスがメモ書きしてあった。
町外れにある自分のアパートに戻ってから、私はそれを、半日ぐらい眺めて過ごした。
「同士……か」
多分それは、彼なりの思いやりだったんだと思う。
人と関わらないよう、人を避けて、孤独に過ごしている私に対し、独りぼっちではないのだと、自分という理解者がここに居るのだということを伝えようとして――彼が選んだ呼び名が、あの、堅っ苦しい「同士」だの「戦友」だのといった言葉だったんだ。
「でもそれって、女の子に言う言葉じゃないよ。ずれてんなあ」
畳に寝転び、天井に名刺を掲げて、私は独りでくすくす笑った。
それからすぐに起きあがった。心はもう決まっていた。
――東京に行こう。
それから私は、慌しく荷物の整理を始めた。
要らないものは処分をし、持って行くものは旅行用のキャリーバッグに詰め込んでゆく。
もろもろの準備や手続きが整ったのは、それから一週間ほど経ってからのことだった。
ちっぽけなキャリーバッグと共に列車に乗り込み、流れ行く窓の景色を眺めながら、私は、生まれ故郷へ簡単な別れの言葉を投げ、それから、私の中に定めた一つのルールを胸で呟いた。
それは、人と化け物のちょうど中間点に在る私が、「人間・木船郁子」として、絶対に守らなきゃいけないこと。
私なりの道徳、倫理観が命じる、ささやかな不文律。
――大丈夫。私はきっとこれを守れる。守って、ちゃんとやって行けるわ、たとえ独りぼっちでも……。
眼を閉じて、胸に手を宛がい、心に誓った。
平日の午後、上り列車の車両は人もまばらで、行き交う思考も穏やかに眠たげで、当然のことながら、私の心の小さな誓いになど、気に留める人とてなかった。
東京に着いてからは、まず真っ先に、東京で暮らしているお母さんと連絡を取った。
いったんお母さんのアパートの住所に住民票を移し、そこを基点にして、東京での仕事と新しい住まいを探すつもりだったのだ。
いきなり何の前触れもなく電話をし、東京に来ていることを告げると、お母さんはさすがに驚きを隠せない様子だったけど、わたしの頼みごとを二つ返事で快諾してくれた。
仮の住まいとしてアパートにお邪魔させてくれるのはもちろんのこと、新しくアパートを借りるための資金さえ、都合してくれると言ってくれたのだ。
当時、高校を出てからまだ数ヶ月、貯金なんてものは無きに等しい状態だった私に取って、お母さんの厚意は途轍もなくありがたいものには違いなかった。
だけど私は、お母さんからお金を借りることはしなかった。
東京には、敷金や礼金が不要というのを売りにしたアパートも結構あったから、そういうのを探し当てて初期費用を抑えたのだ。
アルバイトもすぐに見つけた。新しいアパートから自転車で十分程度の場所にある二十四時間喫茶店で、通りを挟んだ向かい側には、雑誌「アトランティス」編集部を擁する「超科学研究社」ビルが見えていた。
こうして、上京して三日足らずで新しい生活の基盤を築いてしまった私に、お母さんは複雑な感情を向けていたようだった。
私と、私の双子の片割れである柳子を、中学生の時に私生児として妊娠、出産したお母さんは、中学校卒業と同時に、周囲の冷たい目線から逃れるように上京していた。
中卒で、なんの伝手もない東京で独り、生きていかなければならなくなったお母さんに、二人の娘を育てるだけの経済力はなく、柳子一人を引き取るだけで手一杯だったと、お母さん自身が、のちに私宛の手紙に書いていた。
なぜ柳子が選ばれ、私が置いていかれたのか、私にはよく判らなかった。
子供時代、周囲の大人達の心から垣間見た限りでは、大した理由らしきものは何一つとしてなさそうな感じだった。強いて挙げるなら、お母さんがどちらかを東京に連れて行こうという時に、私が風邪気味で体調が今ひとつだったというのが、その一番大きな理由かもしれなかった。
十数年ぶりのお母さんとの再会で、その辺りのことがはっきりするかもと少し期待をしたけれど、お母さん自身のその頃の記憶が薄くなっていて、読み取ることはできなくなっていた。
代わりにお母さんの心を占めていたのは、その当時からみて一年ほど前に、突然家出をして以来、行方知れずになっていた柳子の安否についてのみだった。
ずっと貧乏暮らしで、充分なことをしてやれなかったのだから、愛想を尽かされて逃げ出されても仕方ないのだと、涙混じりにこぼすお母さんの心の中には、
このまま私がアパートに居つき、柳子の代わりに一緒に暮らすようになってくれないかと、密かに願う気持ちが見え隠れしていた。
だけど私は、柳子じゃない。
柳子と同じ顔、同じ躰を持ってはいても、私は柳子と違う人間なんだ。
その意思表明という訳ではなかったけれど、私は早々にお母さんのアパートから出て行くことにしたのだった。
今さら、私を置いて行ったお母さんに対して恨み言なんて言う気持ちなんかはないけれど、
それでもやっぱり、私を柳子の身代わりにしたいと願うお母さんの傍には居たくなかったし、
何より、そんなお母さんと長く一緒に居ても、お互いのエゴをぶつけ合って傷つけ合うようになっていくだけなのが眼に見えていた。
そんなことには耐えられない。第一私は、お母さんと依存し合うために東京くんだりまで出て来た訳ではない。
それでも、泣きながら私を引き留めようとするお母さんを振り切って出て行く時には、さすがに心が痛んだ。
「私、たまには逢いに来るから。お母さんも、いつでも私の処に来てくれていいから」
そんな、その場限りの慰めの言葉を残し、私はお母さんのアパートを後にした。
アパートの入口に立って私を見送るお母さんの目線を背中に感じながら、ふと考えた。
あの時――あの病院の前で守が私にかけた言葉も、今私がお母さんにかけた言葉と、同じものだったのではなかったか、と。
たまにはここに来ると言ったけど、私はもう、お母さんのアパートを訪ねる気はなかった。
多分、お母さんだって私のアパートには来ないだろう。
お母さんは私に対して引け目を感じている。私を自分の手元に置いて育てなかったという罪悪感があるから、自分の方から馴れ馴れしく接してくるようなことはないはずだった。
つまり私の言った言葉は、完全にうわべだけのもの。一種の社交辞令みたいなものだったのだ。
デニムのポケットから、守の名刺を取り出した。
『いつでも連絡して。本当に、いつでも構わないから』
よくよく考えてみれば、こんな台詞は、社交辞令の台詞以外の何ものでもない気がしてくる。
だけど、もう東京に出てきちゃった後になってから、そんなことをくよくよ悩んでもしょうがない。私は気持ちを切り替えた。
守の言葉を鵜呑みにして東京に出てきたとはいえ、私は守を直接頼った訳じゃない。全てのことは自分自身で片づけたのだから、守に対して何の負い目もない。だから、もっと堂々としていていいんだ。
堂々と胸を張った私は、アパートに移ったその日の晩から、さっそくアルバイトに出かけた。
バイトのシフトを夜にしたのは、その方が陽の光を見なくても済むからに他ならなかった。
異世界の夜見島から帰還した際、朝陽の光を浴びて私は変容しかけた。その時の恐怖が残っていたから、昼間はあまり表に出たくなかったのだ。
それに、夜型のシフトにした方が、編集者として働く守との遭遇率は高くなりそうな予感もしていた。
別に、どうしても守と逢わなきゃならない理由はなかったけれど、どうせなら、東京で立派にやってる私の姿を見せてやりたいじゃない。
バイト先での守との遭遇は、店に入ってから五日ほど経ってからのことだった。
午前零時を廻り、後一時間足らずでバイトは終わり、という段になって、見覚えのあるノッポのシルエットが、ふらりと店のドアを開けたのだ。
「いらっしゃいませ」
とびっきりの営業スマイルを浮かべて挨拶をすると、守はきょとんとして私を見つめた。
「お客様、お煙草お吸いになられますか?」
「あ……いやあの……すいません、吸いません……」
「ふふっ。じゃあこちらへどうぞ」
守は、私との思わぬ再会に驚きながらも、素直に喜んでくれた。
「ここの店には、今日みたいに仕事が早めに終わった日とか、時々立ち寄るんだ」
ホットミルクとホットサンドの夜食を取りながら、守は言った。
「でもまさか、君がここでバイトを始めるとは思わなかったな。どうしてこの店で?」
「うん、まあ、たまたま……だよ。条件が良かったし……新しく借りたアパートからも近かったから」
そんな私の説明も、彼は額面通りに受け止めて、疑おうとすらしなかった。私の借りたアパートが自分のアパートに近いことを単純に驚き、そして、やっぱり喜んでくれた。
――ちなみに、一応説明しておくけど、確かにバイト先が守の職場と近かったのは作為的なものだったけど、アパートの方は、完全に偶然の産物だった。
もっとも、守が会社の近くに住んでいるのは充分予測し得ることで、その会社の近所でアパートを探せば当然、守の家とご近所さんになる可能性も高そうだなあとは、心の片隅でちょびっとだけ考えはしたけれど。
まあ、何はともあれ、こんな感じで私の東京での新生活は始まったのだった。
守は一日に一回、必ず店に顔を出すようになった。
私が入る前までは、来てもせいぜい週に一度か二度程度だったと、後からマスターに聞いた。
「郁子ちゃんのおかげで熱心な常連さんが増えたわネ」
なぜかオネエ言葉で喋るお髭のマスターは、そう言ってウインクしたものだった。
会社が休みの日には、守は私を外に連れ出そうとよく誘ってきた。
デートの場所は、遊園地や水族館みたいに「いかにも」な場所の場合もあれば、映画やウインドウショッピング、はたまた、駅前のゲーセンで遊んだ後に居酒屋でご飯、なんてのもあった。
「せっかく東京に出て来たってのに、部屋とバイトの往復だけじゃ、もったいないだろ。おれが色々と連れてってやるよ」
そう言って私を連れ廻す守の本心はといえば、彼自身が東京に呼んだ私に対する気遣いや責任感が三割、そして、私と外で遊ぶことにより、夜見島での忌まわしい記憶から逃れたいと思う気持ちが七割ぐらいだった。
夜見島のことを忘れたいんなら、夜見島で一緒だった私のことも避けたくなるものなんじゃないかと思うけど、そこが人の心の複雑な処だった。
つまり、守は夜見島の記憶から逃れたいと願う一方で、夜見島で出遭った様々な怖ろしい出来事を表に吐き出し、自分の中で整理をつけたいという気持ちも抱いていたのだ。
夜見島の思い出を語り合う相手として、島で一緒に居た私は打ってつけという訳だ。
そしてそれこそが、守が私に上京を勧めた真の理由でもあったらしいのだ。
それを知っても、別段私は嫌な気持ちにならなかった。
夜見島での忌まわしい記憶――嫌な思い出がふっと蘇った時、そのことについて話せる相手が居るというのは、私に取っても心強いものだったから。
守と一緒に色んな場所に出かけるのも、普通に楽しかった。
オカルトオタクである彼が、私のために、私に合わせたデートコースを色々と練ってくれるのは嬉しかったし、忙しい合間を縫って、私のために時間を割いてくれるのも、ありがたいことだと思った。
だから私も、守のために何かをしてあげたいと思うようになった。
とは言っても、守のために私ができることなんて高が知れてる。
せいぜい、不規則で不摂生な生活を送っている彼の健康を考えた食事を作りに行ってあげたり、忙しいのを言い訳に、家事を全くしない彼に代わって、掃除や洗濯なんかを片づけてあげたりすることぐらいのものだった。
そんなことは出過ぎた真似かとも思ったけれど、守は寛容に受け入れ、ありがたいとまで言ってくれた。
本当に、私達は上手くやっていたと思う。
私に取って守は、生まれて初めてできた親友だった。
慣れない都会暮らしも、彼がそばに居てくれたから、つらさや寂しさを感じたりはしなかった。
夏が完全に終わる頃、私達は互いを下の名前で呼び合うようになっていたし、秋が深まってゆく頃には、私は守に合鍵の隠し場所を教わって、彼が仕事で居ない時にも、勝手に部屋に出入りできるようになっていた。
朝起きて、自分の家の家事を済ませた後、守の家の家事もしてからバイトに出かけ、店で守に逢い、バイトが終わった帰りに守のアパートに寄り、守のお夜食を作る。守の帰りが早ければ一緒に食べてから帰るけど、遅ければそのまま自宅に帰って眠る。
単調だけど孤独ではない、平穏で安らかな日々。
もしかすると、こういうのが俗に言う「幸せ」ってやつなのかも知れない。
深夜、守のアパートから自分の部屋へと帰る途中、私はそんなことをしみじみと考えたりしていた――。
「なるほどね……そういう付き合いを続けているうちに、あんたは守のことを好きになっていったって訳だ」
女はしたり顔で独り頷いている。私はそれを、鼻で笑った。
「そんなんじゃないってえの。誰がなんと言おうと、あれは純然たる友情だよ。つまり、普通の友達関係」
「そうかしら」
「そうだよ」
私は、眼の前に立っている女を見あげて言った。
「それにさ……あの頃から私、例のあれが起こるようになってたからさ……恋愛どころじゃなくなってたんだもん」
「例のあれって?」
「うん。例の、私の持病……“発作”のことだよ」
最初にそれが起こったのは、十一月の終わり頃。私の誕生日が近づいていた、ある昼下がりのことだった。
その日私は、家から少し離れた場所にあるディスカウント・ストアまで買い物に出かけていた。
ただでさえなんでも安いその店でバーゲンセールをやっていたので、色々と買いだめをしておこうと思ったのだ。
めいっぱい買い込んだ箱ティッシュや洗剤なんかのストック品の類を、自転車の前の籠に入れたり、後ろの荷台にくくりつけたりして、私は意気揚々と帰路についていた。
晩秋の午後は風も冷たく、空気はすでに冬の匂いだった。天気予報では夕方から雨ということで、雲が厚く垂れ込め、辺りは早くも薄暗くなり始めていた。
「こんなことなら、守の洗濯物、部屋の中に干しておけば良かったかなあ……」
頬に冷たいものを感じた気がして、私は空を見あげた。
灰色の雲の向こうから、鈍く光る太陽が透けたのを、見た瞬間だった。
軽いめまいと共に、躰の奥底で何ものかが蠢いた。
目の前が暗くなり、意識がぶれる。人気のない住宅街の路地裏で、私は自転車ごと引っくり返っていた。
――またあれが……。
それは、異世界の夜見島からの帰還直後に私を襲った、あの感覚と同じものだった。
――誰か……。
助けを呼ぼうにも声は出ず、意識のぶれはどんどん酷くなっていった。
――ああ、もう駄目。今度こそ私は、変わってしまうんだ……。
覚悟を決め、そっと眼を閉じようとした、その時だった。
「郁子、どうしたんだ!?」
暗黒に閉ざされそうになっていた意識を切り裂く声が聞こえた。守だった。
「守……どうして? 会社は?」
「今日は取材に出てたんだ。今から会社に戻る処……立てるか?」
守は、自転車と私を助け起こしてくれた。
「本当に……何でもないんだよ。ただの貧血。疲れてたからね」
私は守にそう説明した。余計な心配をかけたくなかったからだ。
それに私自身、あのことを守にどう説明したらいいのか判らなかった。
あれが起こるのは、私の本性が闇の化け物である証でもあるのは明らかだった。胸の痣と同じように――。だから、できることなら守に知られたくない、なんていう打算もちょっぴり働いていた。
――大丈夫。どうってことない。私が自分で気をつけていれば、きっともう、あんな“発作”は起こらない……。
守に送られ自分のアパートに落ち着いた後、私はただ独り、部屋の暗い片隅で膝を抱え、自分自身をなだめ続けていた。
――でも、そんな風に自分を誤魔化し続けるのは、つらいんじゃないの?
心の中から声がした。
――本当の自分から眼を背け、仮初めの眠りを貪り続けたって……いずれは必ず、眼が覚める時は来ちゃうのに。
――あっち側もこっち側も関係ないのに。
――要らない殻を脱ぎ捨ててしまえばいいのに。目覚めてしまえば、もっと、楽に……。
「うるさい……うるさい、うるさいうるさいうるさい!」
心の声から耳を塞ぎ、私は叫んだ。
暗闇の底で、唇を歪めて笑う、女の白い顔が見えていた――。
「考えてみれば……あんたと初めて遭ったのも、あの時が最初だったんだね」
私は眼の前の女に言った。
「私の中で……私とは違う“私”が動き出す時、あんたも必ず現れていた。暗闇の中から私を哂った。あんたは……誰なの?」
「私はあんたなのよ。もう、何度も言ってるじゃないの」
女は膝を折り、私の顔を覗き込んだ。
「私はあんた。あんた自身が否定し、拒絶し続けている本当のあんた。あんたの本質。だから私はなんでも知ってる。あんたの秘密。あんたが守に隠している、あんたの本当の望み……」
「私の……本当の、望み……?」
「そうよ」
女が、いつものいやらしい笑顔を浮かべた。
「そうやって、あんたがそ知らぬ顔を続けようっていうのなら、見せてあげる、実際に。本当のあんたを。あんた自身を。いつもあんたが見せかけだけで繕っている、勝気で明るい女の子とは違う、暗い闇の中で生きるしかない……これがあんたの本質!」
女の額が、私の額に押しつけられた。
自分の境界が曖昧になる感覚。そして、開ける視界。
薄暗い廊下の中央。ぼんやりと立ち尽くしている守の背中。
大食堂で見た、陶の花瓶が眼の前に掲げられる。これ……振りあげているのは、私の腕?
私の腕が、守の後頭部を陶の花瓶で殴りつけている。
ああ、違う。私、私こんなことは……。
気を失って床にくずおれた守の躰を、私は、引きずって浴室まで運び込んだ。
出しっ放しのシャワーの温度は、すでに適温までさがっているようだった。
守、ちゃんと直してくれたんだ……。
私は、ぐんにゃりとした守の躰から素早く衣服を剥ぎ取り、お湯の溜まったバスタブの中に放り込んだ。
あの大柄な守を、赤ん坊のようにたやすく扱うこの力。やっぱり違う。私、こんなに腕力ないよ……。
私はバスタブに浸かった守に背を向け、浴室の片隅にあるカランの水を出し、泥で汚れた守の衣服をじゃぶじゃぶと洗い始めていた。白い湯気の立ち込める浴室に、洗濯をする水音だけが響く。
やがて、天井に溜まった水滴がぽたりぽたりと垂れ落ちるようになった頃、その水滴の一しずくが、守の意識を蘇らせたようだった。
彼は小さく呻き、湯船のお湯を手ですくっているようだ。
「おれ……いつから、風呂入ってたんだ?」
かすれた寝起きの声。天井からのしずくが湯船に落ちる音。
「お風呂の中で寝込むと、風邪ひいちゃうぞ」
私は振り返り、湯気の向こうに居る守に声をかけた。
「……郁子?」
白い湯気の中、守は、眼をしばたかせて私を見ている。湯気で曇っているし、眼鏡も外しているから、ちゃんと見えているのかどうか、微妙な処だけど。
「おれ……どうして」
「ほーんと、大変だったんだから……。まもるがいつまで経っても戻って来ないからさ。廊下に出てみたら、床に倒れてんだもん。躰が冷え切ってたから、温めなきゃって思って……ここまで運んで、お風呂に入れて……」
「そうだったのか……ごめんな」
守は、私に殴られたなんてことは、微塵も思っていないらしい。ああ、全く……どこまでお人よしなの? 少しは私を疑えばいいのに……。
お人よしの守は、私を疑うどころか、私に手間をかけさせたことを申し訳なく思っているようだった。
申し訳なく思う気持ちの中で、私が気絶した守を浴室まで運び、服を脱がせて湯船に浸からせている姿を想像している。
そして、私が守の服を脱がしている様を想像したとたん、彼の思考はぴたりと止まった。ある、重大な事実に気づいたようだった。
「郁子……おれの服を全部脱がせたってことは……つまりその、それは……」
「えー? なあにー?」
洗濯を続けながら、私はのんきな声で言う。
「つまりあの……見た?」
「なーによ。今さら恥ずかしがること、ないじゃん」
私は立ちあがった。
湯気の立ち込める中とはいえ、裸の胸を、こんなに無防備に……我ながらはらはらしたけど、幸い、守には痣が見えていないようだった。
それでも、さすがに私が裸であることには気づいたらしい。眼を真ん丸く見開いて、私の躰のラインを、上下隈なく目線でまさぐる。
「ああこれ? だってこの方が洗濯しやすいんだもん。ほら、服着たままだと、濡れちゃうでしょ?」
私は、守の間近に寄って行った。
――駄目! そんなに寄ったら……いくらなんでも気づかれちゃう。
けれど守は、それでも私の痣に気づくことはなかった。
私の素肌をひたすら眺め廻し、他愛もなく息を荒げているだけだ。
「もー、そんなにまじまじと見ないでよぉ……照れちゃう」
私は両手で胸を覆い、守に背を向けた。つまり、お尻を見せてる訳だ。
胸が隠せてほっとしたけど、今度はお尻に突き刺すような視線を感じる。
守が私のお尻に並々ならぬ関心を抱いているのは、ずっと前から気づいていたことだ。
それはもう、一年前の夜見島の鉄塔をのぼっていた時から。
男にお尻を見られて色々と妄想されるというのは、思春期を迎えた頃から慣れっこにはなっていた。私のお尻はでっかいから、眼についちゃうのも、まあ仕方のないことだ。
そうは言っても……あの、次から次へと湧いて出る化け物達との戦いのさなかに、隙あらば私のお尻に意識を向けてくる守の貪欲さには恐れ入った。その逞しさに私はむしろ感心し、頼もしいとさえ思った。
あんなにもゆとりのない時でさえそんなんだったんだから、今のこの状態で、生のお尻を見せつけたらどうなるか……。
案の定、興奮した彼のあからさまな欲情の思念は、湯船の中から溢れ返り、湯気と一緒に浴室中に充満して、私の意識を圧倒した。
「ま・も・る? うふっ、どうしたの? もしかして……むらむらしてきちゃった?」
「い、郁子……」
守の欲情に引きずり込まれるかのように、私は、守の浸かっているバスタブに、縁から割り込んだ。
しゃがんで腰までお湯に浸かれば、いっぱいに溜まっていたバスタブのお湯が、ざあっと溢れてしぶきをあげる。
温かいお湯の中、温もりを帯びた肌と肌とが、官能的に擦れ合った。
私は、口を開いて喘ぐ守の躰に膝でにじり寄り、開き気味の脚の間に、すっぽりと身を入り込ませた。
私の膝に押され、守の腰は浮きあがる。そして――湯船の上に顔を出したのは、守の……おちんちんの、先っぽだった。
真っ赤で、丸くて、お湯に濡れてぬめぬめと光って……。
私は、お湯の中からぴょこんと飛び出たそれを、うっとりと撫で廻した。
守は低く吐息を漏らす。
ああ、これって、こんな感触なの……? 硬いのに、弾むような弾力もあって……なんか、すごい。
守のおちんちんを、こんな風に触っちゃうなんて……胸がどきどきする。眼の前がぼおっとして、訳も判らなくなる。
「元気になっちゃったね……」
全身が脈打つくらいに興奮しているのに、私の口は、余裕ありげにそんな言葉を吐いていた。
腫れあがったような血の色に染まって見える守の硬いものに指を添え、微笑みすら浮かべているようだ。
「ねえまもる……こういうの知ってる? 私、雑誌で見たんだけど……」
そう言って、私は、守の丸い先端に顔を寄せ――ずっぽりと唇を覆い被せてしまった。
「あ……」
小さく声を漏らしたきり、絶句している守を余所に、私は口いっぱいに突き出て膨らんだ丸いものを頬張り、くちゅくちゅと音を立て、しゃぶり廻した。
歯を立てないようにしながら、舌を使って、丹念に。
さらに。
私はその、先っぽから下の方――海草のように陰毛が揺らめいている根元の方まで、深く咥え込んでしまった。
濡れて温かい。硬くて、脈打っている。
私はそれを唇で締めつけ、舌を、裏側にべったりと押し当てながら、頭を上下に振り動かした。
口の粘膜を使って吸いあげ、押し戻す。表面の皮がずるずる動いてる。何度も何度も繰り返すうちに、それはもの凄く硬さを増して、私の口の中を熱くさせ、いやらしい感触でいっぱいにした。
ああ、凄い、本当に……。
こんなことしているだけで、私はもう……堪らない。
下半身が、丸ごと脈打って、欲しがってしまう。ああ、もう……。
私は、空いた手で自分の乳房を撫でおろし、お湯の中へ――下腹部のそのまた下の、どくどくと疼いている部分を自ら触れようとした――。
その時、守はいきなりお湯から立ちあがった。
お湯が跳ねあがり、口の中から、おちんちんがぷるんと飛び出て空を躍る。
真上に向かって起きあがり、血管を絡みつかせているそれを、守は手で押さえた。
ぽかんと口を半開きにしている私を険しい表情で見おろし、彼は言った。
「君は……誰だ?」
守は、私の淫らな行動に不信感を抱いたのだった。
まだ躰を許し合った仲でもないのに、こんなことをするのはおかしい。つまり、ここに居る私は偽者に違いないと、そういう判断をしたみたい。
それは半分正解で、半分間違っている。だって、確かに守の……おちんちんをこんな風にするやり方、私は全然知らないんだから、これは私がやったことではない。
でも、守にあんな行為をした唇は、そして、そのせいで熱く火照ってしまったこの躰は、間違いなく、私のものに他ならないのだ。
私と守は、言葉もなくじっと見つめ合った。しんと静まり返った浴室に、密やかな水滴の音だけが響いている。
その膠着状態を解いたのは、私の方だった。私の両腕が真っ直ぐに伸びて、守の喉を絞めあげたのだ。
「ぐうっ!」
守は呻き、私の腕を掴んで引き剥がそうとする。
だけど、私の力に抗えず、どんどん首を絞められて、顔の色を変えていった。
こんな馬鹿なことはない。いくら日頃運動不足とはいっても、守は男の子だ。私に力負けするなんてことはあり得ない。
――どうなってんの?
私の戸惑いと焦燥を余所に、守は首を絞められたまま、湯船の底に沈められた。
湯面が激しく波打ち、守の呼気が泡となってごぼごぼ湧き立つ。
必死になってもがく腕が、足が、私を振り払おうとして、痛ましいまでにお湯を掻いている。
でも駄目だった。
守がどれほど私の腕に爪を立てようが、どれほどバスタブの向こう側を蹴飛ばそうが、私の腕も躰もびくともしないのだ。
――駄目ぇ……このままじゃ、守が死んじゃう!
私は心底焦っていた。
早く何とかしなくちゃ。でもどうすればいいの? 私の躰……どうやれば、私の自由に動かせるの!?
パニックに陥りかけた私の躰が、急にがくんと揺らいだ。
衝撃の正体は、バスタブの破壊だった。
守が懸命になって蹴飛ばし続けた結果、バスタブが、ひびの入った処から、割れてしまったようなのだ。
凄い勢いでお湯が溢れ、私の躰は、浴室の床に投げ出された。バスタブの中に居残った守は、激しく咳き込みながら、飲み込んだお湯を吐き出している。
苦しそうな守に背を向けて、私は浴室から走り去った。
背後から、怒鳴る声と共に、何かが派手に引っくり返る物音が聞こえた。
――守!?
心配で駆け戻りたいと思う私の心の中、女が私を制する。
――彼は大丈夫よ。別に、どこも怪我しちゃいないわ。
そんな……でも!
――大丈夫だったら。大人しくしてなさいよ。
心の中の私のあがきもそのままに、私の躰は、全裸のままで玄関ホールまで走り抜け、さらに、玄関ホールの水槽脇にある扉の向こうに入って、廊下の先にある扉の中に飛び込んだ。
荒い息を吐き、扉を背にして座り込んだとたん、またも視界が闇に落ちた。嫌だもう。勘弁してよ……。
「でも、これで判ったんじゃないの?」
光の消滅と入れ替わるようにして現れた女は、暗闇の中心で勝ち誇ったように言った。
「判ったって……何がさ」
「私が、あんたと同じものだっていうことが、よ」
「ふざけないで!」
私は、立ちあがって女を怒鳴りつけた。
「全く、冗談じゃないよ! 私とあんたのどこが一緒だっていうのよ!? 私は守に、あんな……変なことしないし、ましてや殺そうとするなんて、とんでもないことだよ!」
「本当に?」
女は唇に指先を宛がい、くすくすと笑った。
「だけどあんたは、まもるに居なくなって欲しいと願っていたんじゃないの? 今のあんたの苦しみが、まもるにもたらされたものだから……苦しみの元凶であるまもるに、いっそのこと、消えて欲しいって」
「そ、そんなこと……」
私は少し怯む。
確かに、近頃の私は、守が存在していることを、ふと疎ましく思うことがあった。
彼が居なければ。彼と最初から出逢っていなければ。
私は、今みたいに中途半端な状態のまま、苦しみ続けることなんてなかったはずなのに……って。
……ううん。だけどもやっぱり、それは間違ってる。私は考え直した。
いくら私の苦しみの原因に守が関わっているといったって、それを理由に、殺したいとまでは思わない。守はあんなにいい人なのに。守を殺すぐらいなら、いっそのこと、私は私を殺す。その方が、まだましだもん。
「そうなの?……じゃあ、あっちの方は?」
「あっち?」
私が女の言葉を訊き返すと、女はにやりと意味深に笑い、変な仕草をして見せた。
右手を、マイクでも握っているみたいに筒状に構え、舌を突き出し、何かを舐め廻すような真似をしている……。
それが、さっき浴室で守のおちんちんにしていたことの再現だと気づいた時、かっとなった私は、女を突き飛ばしていた。
「やめてよ!」
女は私の足元に転がりながらも、堪えた様子もなく笑った。
「あはは……なによお、そんな怖い顔しちゃって……あっちの方は、あんたが本当に望んでいたことじゃないの。違うとは言わせないわよ」
「違う、違う……」
「違わないわ」
気がつけば、女は私の眼の前に立っている。私の眼を見つめ――それから、傍らの方に目線を動かした。
女につられてそちらを見れば、暗闇の中に灯る、ちいさな明かりが見えた。
フローリングの床に置かれた、小さな間接照明。その向こう側に見えているのは、私の布団。もぞもぞと蠢いている布団の盛りあがりの中から、甲高くかすれた声が聞こえる。
「は……あ……ま、守……守……うぅ」
荒い息遣いを繰り返している布団の中の――私。ああ嫌だ。やめて。あんなもの、見せないで……。
「ちゃんと見なさい。現実から眼を背けないで」
いつの間にか闇の底にへたり込んで、うずくまっていた私の頭を、女は両脇から手で押さえ、布団の方に向けた。布団の中の私は、腰の辺りをもじもじとくねらせ、布団の縁から、片方の足を突き出している。
ふくらはぎから先、すっと伸びた足首に、脱いだパンツが小さくよじれて絡まっている……。
やがて、感極まったような唸り声があがり、布団が中から跳ね除けられた。
ぼんやりと暗い明かりの下に曝け出される、布団の中の私。
寝間着代わりのTシャツを胸の上まで捲くりあげ、両の乳房を、痣を、長く尖がった乳首を丸出しにしている。
時おり、その乳首を自分の指先で捏ね廻し、もう一方の手を、乳首と同じく剥き出しになっている股間に這わせ、忙しなく指を使っていた。くちゅくちゅと粘液の音を鳴らしながら、膣の入口を。そして、ぬらぬらと濡れそぼった指先で、クリトリスの付け根を。
「ああん……うあぁ、あ、まも……うううぅんっ!」
指の動きが、狂暴なくらいに激しさを増し、ちらちらと見えるあそこの濡れ方があからさまになった頃、私はひときわ大きな声をあげ、肩から、腰から、とにかく全身を、びくんびくんと痙攣させ始めた。
そして、意味を成さない呻き声と共に、全ての動作がぴたっと止まり、赤く膨らんだような股間を両手できつく押さえ、布団の外に突き出した両足をぴんと伸ばす。
爪先が、断末魔のように狂おしく床を掻き――足首に絡まっていたパンツが、音もなく床に滑り落ちた――。
「嫌、嫌、嫌ぁ……」
私が一番見たくない、私自身の恥ずかしい姿を見せつけられて、私は見も世もなく叫んだ。
そんな私に対し、女の態度は非情だった。
「ふん。カマトトぶってんじゃないよ」
「だって、しょうがないじゃないのよ!」
女の手を振り払い、私は、暗闇の底に突っ伏した。
「しょうがないじゃない……他にどうしろっていうの? 守に抱かれることのできない私が……守の存在を意識するために……あの発作から逃れるために、あれをする以外、他にどんな方法があるっていうのよ!」
私は顔をあげ、女に向かって叫んだ。
女は珍しく笑いもせずに、無表情な顔で私を見おろした――。
【つづく】
また通し番号間違えました。
面倒なので次回からもう番号振るのやめます。
こちらの保管庫への所蔵を遠慮させて頂くようにすれば、番号はなくとも問題ないかと存じますし。
そもそも、この糞長い文章読んでる方もあまり居ないことと思われますし……。
なんか、色々すみません。
もしかして、反応が鈍いから自虐気味になってるのかな?
こうして声を上げることはないかもしれないけど、ちゃんと毎回楽しみに待ってる人間もいるってことは、
わかってて欲しいかな。名無しは一人が発言すれば30人くらいは居るって言うし。
原典は知らないけど、郁子と守の二人が幸せになれることを個人的には望んでます。
己の内面にきちんと向き合い自己肯定することができるといいですね。
通し番号…難しいとは思いますが、一レス辺りの文章を少なめに計算すれば平気でしょう。
そもそも違ってても気にしない私みたいな人間も居ますけど。
心の余裕が無くて貯めてたのを週末に読む俺とかも居るぜ
ここの元ネタはもしかしてあれかな?とか思う場面にニヤニヤしつつ主人公達の物語を楽しみにしてる
通し番号は好きにすればいいんじゃないかな。番号は通ってるけど中身が違ってるよりは全然マシ
二度目の発作が起きたあの日以来、同様の発作は、たびたび起こって私を苦しめるようになっていた。
それは、何の前触れもなくいきなり起こる上、起こるきっかけにも一貫性がなかったから厄介だった。
必ずしも、最初の時と二回目の時のように、急激に強い光を感じた時にだけ起こるというものでもなかったらしいのだ。
例えば、バイト先でちょっとした揉め事があって、酷いストレスを感じた直後の場合もあったし、アパートの階段で蹴つまずいた拍子に起きたこともあった。
そうかと思えば、守と一緒に遊園地なんかに出かけてはしゃぎ廻ったその晩、子供の知恵熱みたいにして起きたことまであった。
せめて起きるきっかけだけでも判れば対処できるかも知れないのに、なんて思ったこともあったけど、よくよく考えてみれば、肝心の対処法がよく判らないので、どっちにしても無駄だと思い直した。
現状で、発作が起きた時一番確実に立ち直る方法は、守との接触だった。
守の顔を見る。電話なんかで声を聞く。メールのやり取りをする。どれも無理なら、守から貰ったあの名刺を眺める。そのいずれかをすることによって、だいたいの発作は鎮められた。
最初の発作の時、守の呼びかけで立ち直れた経験があったから、それが一種の刷り込みになっているのかも知れなかった。
そんなこともあって、私はそれまで以上に守との接触を心がけるようになっていた。
守からのデートの誘いは絶対断らないようにしたし、守の身の周りの世話も、それまで以上に身を入れてやった。
とにかく、守と一緒にさえ居れば、発作の起こる危険性はかなり小さくできたし、仮に発作が起こっても、守の存在によってすぐさま治めることもできた。
ただ一つ誤算だったのは、そうして私が守にべったりまといつくようになったことで、守の中の私の存在が、必要以上に肥大してしまったことだった。
それまでだって、守は私に対し、単なる友達以上の関心を抱いてくれてはいた。でもそれは守の周囲に、私以外に守の恋愛対象になるような女の子が居なかったから、というだけのことに過ぎなかった。
他に選択の余地がなかったから、ある意味仕方なく、私をガールフレンドにしていた訳だ。
でも、私の方から守に接する機会を増やしたことにより、守の、それまで控え目だった私に対する欲望が、実現し得る可能性の高いものとして認識されて、彼の積極性を上昇させる結果となったんだ。
要するに、脈ありと思われちゃったってこと。
そうなると、守の態度も行動も、それまでとは比べ物にならないくらいに露骨であからさまになった。
守の部屋で、カウチに並んでテレビを見ていれば、すぐ躰に触れてこようとするし、デートの後はやたら長いこと居酒屋に居座り、終電をわざと逃そうとする。
まあ、躰を触られそうになれば、食器を片づけるのを理由にキッチンへ逃げればいいし、終電がなくなったら、カラオケボックスにでも行ってオールをすればいいから、かわすのは簡単なんだけど。
守って、あれこれ考え込んで計画を練るわりに、あと一歩の詰めがいつも甘いし、基本的に気が優しいから、強引に迫ってもこない。
それでもやっぱり、私が彼の思い通りにならないことで、しょげたり傷ついたりするさまを見るのは、少なからず心が痛んだ。
私だけの都合で守に近づいているのに、私だけの都合で、守を拒む。
酷い女だって我ながら思った。身勝手過ぎる。
しかも、そんな私のことを、守は嫌って見捨てようなんてこと、これっぽっちも思わないのだ。
いっそのこと、私を嫌ってくれればいいのに。それで、私みたいに変なちからも発作もない、もっとまともな女の子と付き合ってくれたら……。
――だったら、発作のことを話してしまえばいいのに。
確かにその通りではあった。
変にもってまわったことをせずに、私の事情を正直に打ち明けてさえしまえば、あの守のことだもん、私が闇に囚われないで済むための協力は、多分惜しまない。電話一本入れれば、たとえ会議中であっても、私の処に飛んで助けに来てくれるに違いない。
ひょっとすると、私の発作を完全に治してしまうような方法も、守にだったら見つけ出せるかも知れないのだ。
それができない理由は、やっぱり、私のそういう気味の悪い部分を、守に見せたくないからに他ならなかった。
いくらオカルトオタクの守でも、付き合う女の子には、そんなオカルト要素なんて求めていないはずなんだ。
――むちゃくちゃね、あんた。矛盾してるわよ。
私を責める心の声から耳を塞いだ私は、守の不器用なアタックをはぐらかし、友達とも恋人ともつかない、曖昧な関係を維持し続けた。
そして時は流れ、冬から春へと季節は移り変わった。
厚手のジャンバーが必要なくなり、日によっては、羽織りものさえ必要としないほどに、暖かい陽気が続いていた。
「暫く地獄が続きそうだよ」
夜の九時過ぎ、いつものように昼食とも夕飯ともつかない、よく判らないご飯を食べに喫茶店に来た守は、マスターの作る、ちょっとケチャップ味のきついチキンライスを掻きこみながら、渋面を浮かべて力なくこぼした。
なんでも、「アトランティス」で、ゴールデンウィークに特別増刊号を出すとかで、今月いっぱいは、仕事量が普段の倍になるとのことだった。
「そういうことだから、当分部屋にもあまり帰れないし、この店に顔を出す暇もなくなるかも知れないんだ。郁子はおれに逢えなくて寂しいだろうけど、まあ我慢してくれ」
「あー、はいはい」
この時、事の重大さをあまり理解していなかった私は、自惚れのぼせた守の台詞をあっさりと受け流した。
それまで、どんなに忙しい校了日直前だって、守は夜見島の化け物のように酷い顔をしながらも、一日最低一回は、必ずコーヒーを飲みに訪れたものだったから。
まさかその日を最後に、二つの校了が終わるまでの一ヶ月間、ほとんど顔を見ることすらできなくなるなんて、思ってもみなかったのだ。
「守……まだ仕事なのかなあ……」
最初の一週間が過ぎ、メールも電話も着信していない携帯を見つめて、私は呟いた。
その一週間、私は時々守の部屋の掃除やなんかをしつつ、何事もなく普通に過ごしていた。その間守は、ずっと会社に泊まり込んでいたようだった。
でもその頃は、守との接触が完全に絶たれていた訳ではなかった。ごくごく短い時間だけでも喫茶店にコーヒーを飲みに訪れていたし、メールにも、ちゃんと返事をくれていた。
〈いい機会だから、あんたの部屋の大掃除してもいい?〉
〈お願いします。あ、でも本や雑誌、パンフの類は絶対に捨てないように。あと、パソコン周りにも注意してね。ではよろしく。
( `・ω・´)ゞ〉
そんな簡単なやりとりぐらいなら、できる余裕がまだあった。
けれど、二週間目に入った頃から、それさえも難しくなってしまった。
「一樹ちゃん、今夜も来なかったわネエ……過労で死んじゃったのかしら?」
守が店に顔を出さなくなってから三日目の深夜、ぽつりと呟いたマスターに、私は何も返事ができなかった。
当然部屋にも帰って来ない。部屋の大掃除と言ったって、狭いワンルームのアパートだから、大して手間がかかる訳じゃなし。あっという間に済んでしまったから、守の部屋に行く理由も、もう見つけられない。
だから、久しぶりに守の方からメールが来た時には、心底ほっとした。
それが、着替えがなくなったから会社まで持って来て欲しい、なんていう、些細な用事を頼むものであっても。
メールを貰ってから数十分後、どれも代わり映えのしないチェックのカッターシャツに、Tシャツ、ジーンズ、靴下に下着、タオルなんかを詰め込んだ紙袋を抱え、私の胸は少し弾んでいた。
――あんな奴でも、三日も逢わないと変な感じだもんね。こう、いつも見慣れたものがなくて、落ち着かないっていうかさ。
心の中で、妙に言い訳めいた台詞を繰り返しながら、私は守に教えられた通り、会社の裏の通用口から「アトランティス」編集部に向かった。
初めて訪れた「アトランティス」編集部は、想像していた通りに雑然と散らかっていて、空気が澱んでいた。
その反面、想像していたほどに騒然とはしておらず、昼間だというのに人もまばらで、それでいて、妙に張りつめた、刺々しい雰囲気を醸し出していた。
「あれ、郁子ちゃんじゃん。どうしたの?」
入口のパーテーションの処できょろきょろと守の姿を捜していると、守と同じように喫茶店の常連である男の編集さんが、机から顔をあげて声をかけてきた。
「あ、あの私、着替え持って来るようにって言われて……守、居ますか?」
「ああ、一樹の奴なら今外に出てるんだ、ちょっと待って」
編集さんが、わざわざ仕事の手を止め、ホワイトボードの予定表を調べに行こうとしたので、私は慌てた。
「あー、いいです、いいです! 私、本当にこれ届けに来ただけなんで! すぐ帰りますから!」
私は守の席を教えて貰い、そこに紙袋を置いた。
「守……まだ仕事なのかなあ……」
最初の一週間が過ぎ、メールも電話も着信していない携帯を見つめて、私は呟いた。
その一週間、私は時々守の部屋の掃除やなんかをしつつ、何事もなく普通に過ごしていた。その間守は、ずっと会社に泊まり込んでいたようだった。
でもその頃は、守との接触が完全に絶たれていた訳ではなかった。ごくごく短い時間だけでも喫茶店にコーヒーを飲みに訪れていたし、メールにも、ちゃんと返事をくれていた。
〈いい機会だから、あんたの部屋の大掃除してもいい?〉
〈お願いします。あ、でも本や雑誌、パンフの類は絶対に捨てないように。あと、パソコン周りにも注意してね。ではよろしく。
( `・ω・´)ゞ〉
そんな簡単なやりとりぐらいなら、できる余裕がまだあった。
けれど、二週間目に入った頃から、それさえも難しくなってしまった。
「一樹ちゃん、今夜も来なかったわネエ……過労で死んじゃったのかしら?」
守が店に顔を出さなくなってから三日目の深夜、ぽつりと呟いたマスターに、私は何も返事ができなかった。
当然部屋にも帰って来ない。部屋の大掃除と言ったって、狭いワンルームのアパートだから、大して手間がかかる訳じゃなし。あっという間に済んでしまったから、守の部屋に行く理由も、もう見つけられない。
だから、久しぶりに守の方からメールが来た時には、心底ほっとした。
それが、着替えがなくなったから会社まで持って来て欲しい、なんていう、些細な用事を頼むものであっても。
メールを貰ってから数十分後、どれも代わり映えのしないチェックのカッターシャツに、Tシャツ、ジーンズ、靴下に下着、タオルなんかを詰め込んだ紙袋を抱え、私の胸は少し弾んでいた。
――あんな奴でも、三日も逢わないと変な感じだもんね。こう、いつも見慣れたものがなくて、落ち着かないっていうかさ。
心の中で、妙に言い訳めいた台詞を繰り返しながら、私は守に教えられた通り、会社の裏の通用口から「アトランティス」編集部に向かった。
初めて訪れた「アトランティス」編集部は、想像していた通りに雑然と散らかっていて、空気が澱んでいた。
その反面、想像していたほどに騒然とはしておらず、昼間だというのに人もまばらで、それでいて、妙に張りつめた、刺々しい雰囲気を醸し出していた。
「あれ、郁子ちゃんじゃん。どうしたの?」
入口のパーテーションの処できょろきょろと守の姿を捜していると、守と同じように喫茶店の常連である男の編集さんが、机から顔をあげて声をかけてきた。
「あ、あの私、着替え持って来るようにって言われて……守、居ますか?」
「ああ、一樹の奴なら今外に出てるんだ、ちょっと待って」
編集さんが、わざわざ仕事の手を止め、ホワイトボードの予定表を調べに行こうとしたので、私は慌てた。
「あー、いいです、いいです! 私、本当にこれ届けに来ただけなんで! すぐ帰りますから!」
私は守の席を教えて貰い、そこに紙袋を置いた。
ふーん。これが守の働いてる机かあ……。
そんなことを考えつつ、興味深くその机を見る。机の上に、何やら包装紙に包まれた荷物があり、「郁子へ」と書いたメモ用紙が貼り付けてあった。
「……何これ?」
「さあ……? 君へのプレゼントか何かじゃないの?」
編集さんが、にやにやと笑いながら私を見あげた。
(一樹の奴、やっぱこの子と付き合ってたんだな)
(着替えを届けに来させるなんて、もう夫婦気取りじゃないか)
(同棲してるんだ)(姦ってんだな)(こんな若い子)(この尻)(若造の癖に)
(若いってのはいいな)(羨ましいな)
(なあに、どうせ長く続きゃしない)(仕事と女の両立は難しい)(おれだって昔は)(大変なのはこれから)
(まあ、上手くいけばいいけどな)
編集さんの断片的な思考を、ついついキャッチしてしまう。勝手なこと考えてんなあ、同棲なんて。
まあ、そう誤解されちゃっても、仕方がないかもだけど……。
「一樹に何か伝言があれば、伝えておくけど?」
頭の中で勝手に私を守の同棲相手に認定してしまった編集さんは、人の良さそうな笑みを浮かべて私に言った。
「ああ、いえ、私別に……」
そう言ってさっさと帰ろうと思ったけど、ふと思いついて、彼に告げた。
「じゃあ、守が帰ってきたらこう言っといて下さい。『私を家政婦扱いして部屋に呼ぶのはいいけど、エッチな本ぐらいは片づけてからにしなさいよ』って」
私宛ての包みを抱えて編集部を出る時、例の編集さんが、私のことと、エッチな本のことを、徹底的に問いつめて守を苛めてやろうと考えてるのを知って、私はちょっとうきうきした。
けれど、自宅に向かって自転車を走らせているうちに、だんだんと虚しくなっていった。だって私、結局守に逢えなかったんじゃん。
しかも、部屋に戻って包みを開けてみたら、それは守の汚れた衣類の山だった。
「洗濯物なら、洗濯物って書いておけよ! っていうか、何でこんなもん丁寧にラッピングなんてしてんのよ!?」
私は思わず独りで叫んでいた。
すぐに携帯を取り出し、汚れ物の画像を撮って添付したメールを守に送った。
〈何このパンドラボックス! プレゼントかと思って一瞬期待しちゃったじゃんよ!
( ゚皿゚)バカ!〉
「これは……文句言ってもいい場面だもんね」
でも結局、そのメールに対する返信はなかった。
そして喫茶店にも来ない。よっぽど仕事が忙しいんだろうか?
「それにしたってさ……メールの返事ぐらい書く暇は作れるんじゃないの? こら」
バイトから帰った独りの部屋で、私は、携帯に入った守の画像に向かって呼びかける。
それは去年の秋、お祭に出かけてお神輿を撮った時、たまたま守が一緒に写り込んだもので、私が持っている守の画像といえば、それ一つきりだったのだ。
――こんなことなら、もっとちゃんとした写メを撮っとくんだったな……普通の写真とかも……。
そんなことを考えて、私ははっとする。
嫌だ、私ったら何馬鹿なこと考えてんの。これじゃあまるで……。
私は、自分の頬に両手を宛がい、ぱんぱんと叩いた。
いけない、いけない。気をしっかり持たなくちゃ。私がしっかりしてないと――私は、今の暮らしを続けられなくなる。また昔みたいな、孤独で虚しい生活に、戻らなけりゃならなくなるんだから……。
その次の日も、やっぱり守からのメールはなく、喫茶店にも来なかった。
その次の日も。
またその次の日は日曜で、夕方頃、ようやく一本メールが入った。
着替えを届けたことに対するお礼と、お礼が遅れたことに対するお詫びとが、短くしたためられているだけだった。
他のことについては、何も書かれていない。
編集部で私が伝えた意地悪のことも、ずっと喫茶店に来てないことにも、何一つ触れていなかった。
丸一週間全然喋ってないんだから、もっと何かあるんじゃないの? せめて、今の仕事の状況とかさ。
でも多分、仕事のことなんかメールされたって、私はなんにもリアクションできない。
あーあ、私も、「アトランティス」編集部でバイトしようかなあ……だけど、編集部で私にできる仕事なんてある?
そんなしょうもないことを考えつつ、日々は単調に過ぎて行った。
守からは、相変わらず何の音沙汰もなかった。
朝起きて、まず携帯をチェックする。
自分の家のことをした後、守の部屋に出かけて、大して汚れてもいない部屋を掃除する。バイト中は一時間置きにロッカールームに行って携帯をチェックし、バイトの後、通りの隅に少しの間自転車を停めて、「超科学研究社」のビルを見あげてから帰宅する。
帰りに守の部屋に立ち寄り、窓の戸締りとかガスの元栓なんかをやたらに確認してから、自分のアパートに引きあげる。
そんな生活を、一週間ばかり続けた。
日曜日。何の予定もない休日。私は自堕落に布団に寝そべり、携帯片手にため息をつく。
こんなことなら、今月は日曜にもバイトを入れちゃえば良かったかな? なんて後悔が胸をよぎる。
――ねえ、私達、もう二週間も顔を合わせてないんだよ?
お神輿のおまけについた守の横顔に、心で話しかける。虚しかった。守と出逢う前の、人との付き合いを避けてひっそりと暮らしていた昔より、ずっと深い孤独を感じた。
ぽっかりと穴の開いた心を抱え、私はふらりと外に出た。
行く当てもなく歩いていたら、いつの間にか、「超科学研究社」ビルの前までたどり着いていた。
――何やってんのよ……馬鹿。
自分の行動に呆れ果て、私は自分に毒づいた。
――全くさあ……彼氏に依存してる馬鹿女かよ。こんな処、守に見られたらどうすんの。
私はきびすを返し、もと来た道を戻ろうとした。
その時、視界の端に、懐かしいシルエットが入った。
「……守!」
守は、車道を挟んだ向こう側、私のバイト先の喫茶店から出て来た処だった。
書類ケースを小脇に抱え、こちら側に通じた横断歩道の方ではなく、私の居る場所とは真反対の、駅方面への道を小走りに去って行こうとしている。
「待って、守――」
私は急いで横断歩道を渡ろうとしたけど、ちょうどその時、信号が赤に変わってしまった。
たくさんの車が行き交い、守の姿は見えなくなってしまう。
そして、信号が青になった時、すでに守は去った後だった。
――守……。
守の姿が消えた通りの向こうを見ていると、排気ガスが眼に染みて、涙が湧いた。
涙が出ると、悲しくなった。
私は、溢れ出しそうになる涙を辛うじて飲み込み、がっくりと肩を落として部屋に帰り、そのまま、布団を被って寝てしまった。
休み明けの月曜日、バイトに入ってからも、私は守のことを考え続けていた。
もう月末が近く、テレビやラジオでも、そろそろゴールデンウィークの話題が盛んになっていた。
――そういえば、今回の校了日はいつなんだろう?
通常なら、だいたい月末ぐらいが校了日になるんだけど、今回はゴールデンウィーク増刊号の仕事もあるはずだから、ずれたりするのかな……あ、でも、増刊号と通常発行の号が、同じ校了日とも限らないし……。
そんなことをくよくよ考え込んだ末、ついに私は、禁じ手を使ってしまった。打ち合わせをしに店を訪れた「アトランティス」編集部の人の意識を探り、校了日を調べたのだ。
それで判った最終的な校了日は、二十五日だった。
――二十五日……明日じゃん!
その日私は、マスターに頼んで翌日のバイトを休ませて貰うことにした。
守が、実に三週間ぶりに部屋に戻って来るのだ。バイトなんてしていられない。
翌二十五日の朝、私は起きてすぐに守の部屋へ行き、ご馳走の仕度を始めていた。
いつもの私だったら、こんなことはしない。だって校了日の守って、基本的に死にかけていてへろへろだし、頭も朦朧としているのか、会話すらもままならないから、逢ってもしょうがないんだ。
だから普通は丸一日放って置いて、守が生き返った頃になってからご飯を作りに行ってあげるようにしていた。
でも今回は特別だ。
おそらく守は仕事の間、ほぼ不眠不休の状態で、しかも、まともな食事もしていなかったはずなんだ。
だから私はこの日、躰にいい野菜や、漢方の効能がある調味料や具材なんかをふんだんに使った、中華風のかなり凝ったスープ作りに挑戦しようと思っていた。
他にも色々――消化のいいものを中心に、私は腕によりをかけて料理をこしらえた。
手間のかかるご馳走の数々をあらかた作り終えた頃には、すでにとっぷりと陽は暮れていた。
初めて作るものがほとんどだったから、予定以上に時間を食ってしまった。
でもちょうどいい。今回の校了が終わって守が帰って来るのは、多分深夜、日が変わったぐらいの時間のはず。それは前日、編集部の人の意識から調べて判っていた。
部屋の時計を見ると、九時を少し廻った処。守が帰って来るまでには、まだ間がある。
私はいったん自分の部屋に帰り、シャワーを浴びて、服を着替えた。
ふと思い立ち、テーブルの下の小さなメイクボックスを引っ張り出す。
本当なら外に出かける時以外、メイクなんてしないんだけど――まあいいや、今日は特別。私は下地から丁寧にファンデーションを塗り、アイラインを引き、シャドウを入れて、まつげをビューラーであげた。
手間をかけつつも、厚化粧っぽくならないように注意して。
「だけど……こんなにナチュラルなメイクじゃ、守は気がつかないんだろうなあ……」
そう呟いて、くすっと笑う。別にいいんだもんね。こんなの、完全なる自己満足なんだから。
ついでに、以前デパートで貰っていた試供品の香水をちょっとばかり耳の後ろ側につけ、守の部屋に戻った頃には、もう十一時近くになっていた。
私は、テレビの前のローテーブルに、ご飯や汁物以外の料理をセッティングして、布巾をかけた。
「さてと……」
することがなくなってしまうと、なんだか落ち着かない。テレビをつけてみたけれど、どの番組もつまらなくてうるさく感じ、すぐに消してしまった。
結局部屋の隅っこで膝を抱え、携帯を見つめていた。
――もうすぐ……逢える。
携帯の中の守の顔を、親指でそっと触れた。
なんだか、信じられない気持ちだった。この人と、この携帯の中の人と、もうすぐ直に逢い、語り、テーブルに向かい合ってご飯を食べたりできるだなんて。
午前零時が近づいてくると、私はいよいよ落ち着きがなくなって、立ったり座ったり、窓の外を眺めたり、お鍋の蓋を開けてみたりと、ちょこまかちょこまかうろつき廻った。
玄関ドアの向こうの廊下を歩いて来る足音にはっとして、でもその足音が、部屋の前を素通りし、別の部屋のドアを開けている気配にしょんぼりしたり。
そうこうするうちに時計は零時を廻り、十分が過ぎ、二十分が過ぎた。
まあ、多少時間がずれ込むのは想定内だ。校了の予定はあくまでも理想的に仕事が進んだ場合の予定であって、何がしかの問題が起きた場合には、一時間や二時間ぐらい、押してしまう可能性だってあるんだ。
特に守は、住んでいる場所が会社の近くで、終電の時刻とかを気にしなくてもいいから、他の人の仕事を背負わされてしまうことが、ままあった。
またあるいは、仕事の打ち上げとかで、編集部みんなで飲みに行ってるってパターンもある。そうなった場合、編集部内で最年少の守に、拒否する権利なんてないだろう。傍目から見ている限り、あの職場って案外体育会系のノリみたいだし。
そんなことを考えながら、私は辛抱強く守を待ち続けた。
時計は単調に時を刻み続け、一時を指し、やがて二時になった。
「遅いな……」
仕事でよっぽど酷い問題が起こったのか、または、飲みに連れて行かれた先で、酔い潰れてしまったのか。
私の携帯は、相変わらず静まり返ったまま。別に、前もって約束していた訳でもないんだから、当たり前っちゃあ当たり前なんだけど。
――まさか事故にでも遭った……なんてことは、ないよね?
焦って携帯のニュースサイトを調べてみたけど、それらしい事故や事件のニュースは見当たらなかった。
いっそ、思い切って電話をかけてしまおうかとも考えたけど、やっぱりそれは思い留まった。もしも仕事が長引いてるんだとしたら、邪魔になるだけだし、それに――私に、守の帰る時間を問い質すような権利はない。
――だってこんなの全部、私が勝手にしたことなんだもん……。
冷え切った料理をひと欠けふた欠けつまみ、私はぼんやりとテーブルに頬杖をつく。
そして、時刻はとうとう四時を廻った。
――駄目だこりゃ……今夜はもう、帰って来ない……。
待ちくたびれた私は、カーペットに横たわり、そのまま眠り込んでしまった。
廃品回収車の喧しい声で眼を覚ますと、辺りはすっかり明るくなっていた。陽当たりのいいアパートの部屋は、太陽に蒸されて少し暑いくらいだ。
時計を見ると、もう九時半になっていた。守が帰って来た様子はない。
「どうしちゃったんだろう」
校了日が昨日であったことに、間違いはないはずだった。だって、当事者である編集者の意識から調べたんだから、間違いようがない。
だとすると、考えられるのは、やっぱり仕事上のトラブルだろうか。
私は起きあがり、「超科学研究社」ビルに向かった。
「超科学研究社」ビルに着くと、通用口からこっそりと中に入り、「アトランティス」編集部のあるフロアに向かって、廊下の片隅の、人目につかない物影に隠れた。
眼を閉じ、意識を周囲に巡らせて、近くに居る人の気配を探った。
私の捕捉できる範囲内に、守の意識はなかった。でも、捉えた何人かの意識のうち、一つが「アトランティス」編集長のものだった。迷わず私は、編集長の意識に入り込んだ。
編集長の心の中は、痛々しいまでの疲労と焦り、苛立ちで充満していた。やはり、トラブルが起きていたようだった。
疲労の澱で濁りきった中、様々な懸案が目まぐるしく攪拌されているような編集長の思考は複雑だったし、意識の表面にのぼってくる言葉も、私の知らないものが多過ぎて、理解するのは難しかったけど、
とにかく、「外注」の「プロダクション」との行き違いがあったせいで、「DTPをまるごと」作り直さなければならなくなったとかで、「印刷機を止めて」貰っているような「酷い」状況に陥っているのだということだけは判った。
編集長の意識内から守の情報を探してみると、守は、編集長の中で思っていた以上に大きな存在感を持っているようだった。
(若い)(熱心)(元気がいい・フットワークが軽い)(思慮が浅い)(危なっかしい・頼りない・うっとおしい)(可愛い)(育ててみる価値はある)
編集長の中で、守がおおむね好感の持てる存在として捉えられているのを知って、私は嬉しく思った。そして、今回のトラブルに守の責任はないということも判ってほっとした。
それでもこういう場合、やっぱり一番下っ端である守は、一番こき使われる存在には違いなかった。
一昨日から丸二日近く、守は完全に不眠不休で働き続けていて、どうやらこの後、「差し替えの分」を印刷所まで持って行く作業も、守がすることになりそうだとのことだった。
さらに、他の編集者達の意識からも、守の情報を探った。
(あいつに全部押し付けちまえばいい)
(あのウドの大木)(でくの坊)
(考えようによっちゃ、これもあいつの責任)
(だいたい、あそこの仕事がずさんなのは前々から判りきっていたことだ)
(口先ばかりの若造が)
(役立たずが)
(バイトあがり)(大学も出ていない)
(せいぜい、向こうさんにどやしつけられてくればいい)
(オタクのガキが調子に乗ってるからだ)
(いい気味だ)
私は編集部内に乗り込んで、心の中で守に八つ当たりしている連中を、全員たこ殴りにしてやりたくなった。
あんまりだと思った。同じ編集部で働いている人なら、守が日頃、どれだけがんばって仕事に取り組んでるか、判ってるはずなのに……。
――何さ、ちょっといい大学出てるからっていい気になって! 守は、あんた達が親の金使ってへらへら遊んでたような歳から、働いて苦労してんのよっ!
ぎすぎすした空気に飲まれて思考が過激になってきたので、頭を冷やすべく、私は表に出た。
泣いても笑っても、お昼がタイムリミットということだったから、守が帰る時間もだいたい判った。これ以上ここにいても、私にできることは何もない。
――守……がんばって。
少しの間編集部の窓を見あげた後、心に呟き、私は通用口に背を向けた。
不意に懐かしい気配が迫り、私の足を止めた。
振り返ると、通用口から飛び出してくる守の横顔が見えた。
(タクシー)(間に合うか?)
短い思考の断片を残し、一瞬にして守は走り去った。私が居ることに気づくこともなく。気づく余裕もなく……。
私はどきどきと胸が高鳴り、頭がぼおっとして、暫く動けなかった。
守の姿が消え、その気配すらも消散してから、ようやく私は声をあげたのだった。
「守、がんばって!」
守の部屋に戻り、昨日こしらえたスープの鍋の蓋を開けると、酷い臭いがした。
「嫌だ……もう傷んじゃってる」
具材に魚介類を使っていたから、足が早かったんだと思う。
仕方がないから捨てた。
他のご馳走も、腐ってはいなかったけど、硬くなって不味そうだったから、ほとんど捨ててしまった。
片付けを済ませてから、部屋の隅に座り込んだ。
何気なく眼元を擦ると、落ちたマスカラがべっとりと指についた。
「やだ、私……」
バスルームに行って鏡を覗いたら、アイメイクが崩れて酷いパンダ眼になっていた。
「私ってば、こんな顔で表を出歩いてたんだ……」
メイク落としをしたかったけど、ここにはクレンジングオイルなんてない。濡らしたティッシュで眼の周りを拭き取ってみたけど、隈ができたような黒ずみは、どうしても落としきれなかった。
「もういいや、別に……」
私はまた、部屋の片隅で膝を抱え、眼を閉ざした。
玄関の鍵をがちゃがちゃと開ける音で、私は眼を覚ました。
時計にちらっと眼をやると、三時十五分を少し過ぎた処だった。
「あれ、郁子来てたんだ」
リュックを背負い、大きな紙袋を持った、背の高いシルエット。ぼさぼさの髪。伸び放題の無精髭で、少し黒ずんで見える顔。
三週間ぶりで間近に見る守は、薄汚れ、くたびれ果てて、十歳は老けているように見えた。
守は部屋に荷物を置くと、着替えとタオルを持って、シャワーを浴びに行った。
膝を抱えたまま、バスルームから響いてくるにぎやかな水音に耳を傾けていると、不思議な気持ちになった。今、同じ部屋の中に、守が居る。この三週間の空白が嘘みたいに、のんきにシャワーなんて浴びているんだ……。
十分程度でシャワーを終えた守は、濡れた頭をタオルでごしごし拭いながら、窓際のベッドに腰かけ、コンビニで買ってきた大きいペットボトルのミネラルウォーターを、喉を鳴らしてラッパ飲みした。
「……大変だったみたいね、仕事」
部屋の片隅から声をかけると、守は、気の抜けた笑顔と共に、がっくりと頷いた。
「もうね、死ぬかと思ったね」
それから守は、堰を切ったように色々なことを喋り始めた。
ゆうべ、仕事が全部終わったと思ってほっとした瞬間、ふと眼にした「ゲラ刷り」に重大なミスを発見したこと。「外注」と連絡がつかず、どうしようもないのでこちらで全部直さなければならなくなったこと。
その記事を担当していた先輩が逃げ帰ろうとしていたのを、他の先輩と一緒にすんでの処で捕まえてやったこと。
直しが終わり、印刷所まで出向いた時点でまた誤字を発見し、その場で修正を入れたけれど、それが逆に功を奏して出色の「レイアウト」になったこと。
そんな話を、守は、楽しくてしょうがない冒険譚でもあるかのように、それはもう生き生きと私に語ったのだった。
凄い勢いで、私に口を挟む余地すら与えない守のマシンガントークは、十五分くらいは続いただろうか?
電池切れの瞬間は、何の前触れもなく訪れた。
言葉が途切れたと思ったら、かくんと首が傾いて、そのままずるずるとシーツの上に崩れ落ちた。そして、すぐに深い寝息が聞こえた。
私は守のそばへ行き、横たわった守の躰に布団をかけた。そのまま暫くの間、ベッドの脇にぺたんと座って、守の寝顔を見つめていた。無防備なその表情。中途半端な伸びっ放しの髪の毛。半開きの口の周りは、ぼつぼつと硬そうな生えかけの髭に覆い尽くされていた。
私はその、守のお髭を指で触ってみた。
じょりじょりしていた。
「むぅん……」
守は口元をもごもごと動かし、首を向こうに傾けた。私の眼の前には、同じく生えかけの髭に覆われた頬が向けられる。
私はそこも触った。
やっぱり、じょりじょりしていた。
「へへ」
私はなぜか嬉しくなって笑い、上半身をベッドに乗せて、守のそばに寄り添った。
眼を閉じて感じ取る。守の寝息、匂い、体温、鼓動――。
うん、やっぱりそうなんだな。
守の存在に包まれながら、私はしみじみ自覚した。
私、やっぱりこの人が好きだ。
少しだけ布団を捲り、Tシャツの胸に頬を寄せる。温かい。頬擦りをすると、胸の中がぽかぽかして、幸せな気分が全身に行き渡った。
――私は、この人が好き。守が好き。
心の中で呟いてみた。少し照れ臭い。でも、やっぱり幸せだ。
守の胸の中で、私は薄っすらと瞼を開いた。安らかに眠る守の躰。この上なく愛しいもの。言葉では言い表せないくらいに。本当に好きだ。いつの間にか私は、守を凄く好きになっていた。
――そう……そうなんだ。
――だったら私……。
――守のそばから……離れなくちゃ。
それは、故郷を出る時から、心の中で決めていたことだった。
東京での生活で、もしもあの、一樹守という男の子を好きになってしまったら、私は彼の前から姿を消さなければならない。
それは彼のためであり、何より、私自身のためでもあった。
夜見島からもたらされた呪われた因子――人の視界を盗み見したり、人の心を読んだりできるという私の変なちからは、言うまでもなく、夜見島の化け物達と同じものだ。
化け物に近い、人と化け物の狭間に居る私。この胸にある、醜くて怖ろしい痣がその証拠。
こんな私が人を好きになってしまったら、その相手は、きっと不幸になってしまう。
だって私と深い関係を持つということは、私の呪われた運命を、一緒に背負わされるということだから。
守はまだ若く、自分の夢を持っていて、夢に向かって努力もしている、未来のある人だ。
私は、そんな守の夢を邪魔したくない。
あの輝かしい笑顔を、曇らせたくなんかない。
だから私は、守と一緒になってはいけないんだ。
そうよ。この人が好きなら……この人の足を引っ張るようなことを、してはいけない。
今ならまだ間に合う。私達、まだお互いの気持ちを確かめ合った訳じゃない。今ならまだ、二人共それほど傷つかないで離れられる。
私が急に姿を消せば、守も始めは心配したり、ちょっとは寂しく思うかも知れないけど……それは傷にはならない。時間が過ぎれば、自然に忘れてしまえるだろう。
私の方も、多分……。
だから、私が消えるのは、今、この時しかない。
未練がましく事を先延ばしにしてしまったら、私の想いはもっともっと強くなり、いずれは抑えが利かなくなる。そう。今しかないんだ。
――守……お別れよ。
小さな鼾をかいている守に、心で伝えた。起こしてしまわないよう、そっと躰を離した。
躰を離すと、切なさに胸が苦しくなった。涙がこぼれた。ぽたぽたと床に落ち、暫く止まらなかった。
なんとか涙を押さえ込み、もう一度、守の寝顔を見た。
ふと、キスしてみたいという衝動に駆られた。
――最後なんだし……それぐらい、いいかな?
私は守の唇に、唇を近づけた。
そのまま重ね合わせようとして――やめた。
やっぱりそんなことはしない方がいい。何もないまま別れた方が、きっとすっきり忘れられる。
「じゃあね。ばいばい……」
玄関口で小さく手を振り、私は、守の部屋を後にした。
自分の部屋に帰ると、今後のことを思案した。
とにかくこのアパートは引き払い、喫茶店のバイトも辞めてしまうのは確定として――それからどうするべきか。
守も、あれで一応マスコミ関係の人なんだから、私の生家やお母さんのアパートなんかは、すぐに調べてしまうかも知れない。だからどちらにも近寄らない方が無難だ。
ついでに、東京からも離れてしまうべきだろう。別の地方都市――大阪とか名古屋とか、いっそのこと、九州や北海道まで行っちゃうってのもありかも。どこへ行ったって、何をしたっていいんだ。自由は、お金も何もない私の持っている、ただ一つの財産だ。
とにかくその日は、手荷物だけを簡単にまとめ、早々と休んでしまうことにした。翌早朝、まだ暗いうちにアパートを出て行くつもりだったから。
そしてもう、二度と帰らない。
守にも、バイト先の人々にも別れを告げず、ひっそりと姿を消すんだ。
――この先も……私はこうして、出逢った人達から逃げながら、色んな土地を点々としながら、生きて行くことになるのかな……。
寝入りばなに、そんなことを考えた。少しげんなりした。そんな人生って、なんだか逃亡犯みたいだ。
――でも仕方ない。それがきっと……私の……運命ってやつ……。
暗澹たる思いを胸に抱きながら、私は闇に引き込まれるかのように、眠りに就いた。
そしてその夜半――過去最悪の、最も重たい発作に見舞われたのだった。
真夜中過ぎの住宅街の路地を、よろめきながら私は走った。
Tシャツにハーフパンツの寝間着姿。みっともないなんて言ってる場合じゃなかった。
私はもう、ほとんど変わりかけていた。ほんのちょっとでも気を抜けば……私が私でなくなってしまうことが、私には判っていた。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ! 怖い、怖い、怖い!
理屈じゃなかった。
子供が闇夜を怖れるように、虫を、蛇を、母の不在を怖れるように、私は変わってしまうのが怖かった。
恐慌をきたした頭の中で、必死になって守のことを考えた。それだけが――守だけが、私を光と繋いでくれる、唯一の架け橋だったから。
訳も判らず闇を走り、守のアパートにたどり着いた。
ドアを開け、煌々と明かりの灯った部屋に入る。
何日も不眠不休で働いてきた守は、点けっ放しの明かりの下、まだ深い眠りのさなかに居るようだった。
闇の存在に変わりつつあった私に、部屋の明かりは途轍もなく不快なものに感じられた。耐え切れず、私は明かりを消した。
そして、守のベッドに潜り込んだ。
守の匂いと温かさに包まれると、私の中から湧き起こっていた「闇の衝動」ともいうべきものが、少しずつ鎮まっていくのを感じた。
私は、ほっと胸を撫でおろした。
やっぱり守は、私に取って一番の治療薬だと思った。
横臥した守の背中に腕を廻し、強く抱き締めた。これでいい。こうしていれば、“発作”は完全に治まってくれるはず。
もしも守が眼を覚まして、私のしていることに気がついたって、構わない。もう、どうなったって構わなかった。変わらないで済むのなら、何をされたって、私は――。
そんな私の心が、通じてしまったのだろうか?
守は口の中で何事かを呟くと、腕を伸ばして、枕元の電気スタンドを点けようとした。
その腕を、私は押さえた。まだ光は嫌だった。
また守が、何かを言った。
私の名前を呼んでいたような気がする。さすがに気がついたのか。
だけど守は疲れていて、完全に眼を覚ますことはなかった。
そして、半覚醒状態のまま――守は、私との淫夢を見始めた。
――あ……あぁ?
私を包む闇が、ねっとりとした湿り気を帯びて、肌に絡みついていた。
それは着ている衣服の襟元や、袖口や、裾なんかから、じわじわと這い込んで、私の躰を侵蝕しようとしていた。
闇の正体は、守だった。
守の意識、その中に占める、淫らな情欲の部分だけが突出し、剥き出しになって、私の肉体に向けられていたのだ。
唇を舐め、乳房をやわやわと揉みしだき、お尻をねっちりと撫で廻す。
乳首を執拗に摩擦して転がし、お尻の谷間をくすぐって、お尻の穴の皺の部分を、一本一本丁寧になぞった。
――ああん、いやあ……。
異様な感覚と、強すぎる快楽に、私は激しく身悶えた。
私に触れてくるこの、蕩けるような“何か”は、指でも唇でもない。守の“意思”そのものが形になったもの。それは、守の躰のどの部分よりも、“守そのもの”であるといえた。
そんな“守そのもの”が、私の躰の敏感な部分を、欲望のままに責め立てるのだ。
――ああ、あはあ……あん、あっ、あっ、ああっ!
変幻自在の淫らな“意思”は、私の乳首とお尻の穴をくすぐりながら、私の一番大事な部分、女の、性器の部分にまでその触手を伸ばしつつあった。
割れ目を包む恥毛を掻き分け、すでにしっとりと濡れそぼった陰唇をぬらぬらとまさぐって、その内部にあるさらに敏感なものを目指そうとしていた。
守の“意思”にそんなことをされたら――しかもその間も、唇や乳首やお尻の穴を苛めることを、やめたりはしないのだ。
結局、陰唇を少しこねられただけで、私はいってしまった。触れられている全ての性感帯が直結したような状態になり、それぞれの快感が増幅しあっているので、とても我慢ができなかったのだ。
生まれて初めての絶頂感――そりゃあ今までだって、自分の股間の柔らかい裂け目が引き起こす快感を、全く知らなかった訳ではなかった。
その柔らかな部分を強く押さえたり、枕か何かを挟み込んでぎゅっと太腿に力を込めたりすると、じんわりとした快感が胎内に沁み込んできて、恍惚のため息が漏れてしまうほどになることを、私は子供の頃から知っていた。
けれど、そんな風にして得られる快感は、守によってもたらされたこの、重たく全身に響き渡る絶頂感に比べたら、本当に些細な細波のようなものに過ぎなかったのだ。
――うあぁ……駄目っ、だめえ……っ。
躰の中心部が勝手に律動し、その律動の中から、蕩けるように甘い感覚が湧き起こって広がってゆく。その衝撃に揺さぶられ、内腿が、腰が、躰中ががくがくと震えて、溢れる体液はお尻の谷間をぬらつかせた。
――ああん、躰……融けるぅ……。
甘く激しい快感に揺蕩い、うっとりしている私を、守はなおも責め立てた。
私の全身を這い周り、性感帯を弄り廻していた守の“意思”は、少しずつ寄り集まって大きなひと塊になり、やがて巨大な塔の形をとって、私を圧倒した。
その塔は、夜見島で見た鉄塔なんかとは全然違っていて、もっと頑強で逞しく、少し怖いような、狂暴なまでの生命力に満ち溢れていた。
――ああああ、凄いい……。
その塔の、蔦のように絡みついて浮きあがっている血管を、私の“意思”はたどり、塔のてっぺんに鎮座している、ドーム型に張り出した紅い屋根を目指した。
野太い塔はとても熱く、硬く、どくどくと脈打っていて、まだまだ膨張しつつあるようだった。
“意思”の手足を廻して塔にしがみつき、私は這い登ろうとする。
私の中心部のぬらぬらと蕩けた部分が、灼熱の体温を帯びた塔に擦りつけられ堪らなかった。
――ああっ、擦れて気持ちいい、気持ちいいぃ……。
その摩擦感で、私はまた達した。
達してひくつきながらも、浅ましい仕草で塔の頂点までたどり着いた私は、ドーム状の弾力に富んだ屋根に、“意思”を被せて、丹念に味わった。屋根の上には縦長の裂け目があったので、そこにも“意思”を潜り込ませた。
すると、裂け目の中から透明の、ねっとりとした液体が湧き出して、私の“意思”をどろどろに融かした。
形を失い、淫らな液体と混じり合う私の“意思”は、裂け目の奥の細い管を出たり入ったりしたあげく、突如として奥の方から迫りあがってきた、粘り気のきつい、白濁した守の“意思”と共に、ドームの裂け目から噴き飛ばされて、遥か宇宙の、広い範囲にまで拡散した。
――ああー……私……飛んだ……。
守の“意思”の、凄まじいまでの勢いに呆然としていた私は、気づくとまた、守の塔にしがみついていた。
今度は、塔の柱に私は半ば埋没しかけ、一体化していて、自由に蠢くことができなかった。
そして、そんな身動きのできない私に、守の“意思”の触手が狙いを定めているのを感じた。
――いや……いや、そんなこと!
守の“意思”は、私の中に入り込もうとしていたのだ。
塔の柱に摩擦され、濡れて開ききった陰唇をさらに押し広げ、しこったクリトリスを摘まみ出し、ぬるぬるの粘膜を隈なく舐めたり摩ったりして私を快楽に浸しつつ、中心に開いた一番恥ずかしい穴の中へ、“意思”の尖端を性急に埋没させようとしていた。
畏怖心と、ちょっとした嫌悪感に苛まれた私は、守の“意思”をしりぞけようとするけれど、そんなことができるはずもなかった。やめてと叫んで身悶えすれば、ずるずると這い込む“意思”は、逆にどんどん私の奥深い場所にまで進んで行ってしまう。
結局抗う術もなく、ぎちぎちと軋みながら、私の胎内は、守の“意思”に埋め尽くされた。
――うああぁ……こんな、こんなのってぇ……!
私の中が、守でいっぱいに満たされている。それは物凄いことだった。ぎゅうぎゅうに詰まりながら、守の“意思”が、粘膜の襞を掻き鳴らす。中のおうとつを探って押し、時として、全身に響き渡るほどの快感や、尿意なんかも引き起こす。
しかも守の“意思”が辱めているのは、膣の中ばかりではないのだ。
――いやあん、いくっ、またいっちゃううっ!
膣の中の、私が一番気持ちのいい場所を探り当てた守の“意思”は、そこを盛んに押し込めながら、かちんこちんに勃起して包皮を弾き飛ばし、根元からこんもりと起きあがった私のクリトリスを舐めて、摩って、小刻みに震わせていた。
ああ、こんなことをされて、こんなにも凄い快感が来るなんて、信じられない。クリトリスなんて、直接触ってもただ痛いだけの場所だったはずなのに……。
さらに。そんな悪戯に加え、守の“意思”は、私の他の部分にまで入り込もうとしていた。
口や耳、お尻の穴や、なんと、おしっこの穴にまで。
――ああぁ……もうやめてえ……。
“意思”は不定形のものだから、どんなに無茶な場所にもすんなりと入ってしまい、私に苦痛を与えるようなことはなかった。
けれども私を平気なままにしていてくれる訳じゃない。私を中からくすぐり、揉み、扱き立てて、私自身が知りもしなかった快感を、無理やり掘り起こして私を翻弄するのだ。
私は何度も何度も、自分でも数え切れない回数の絶頂を、守の“意思”によってリピートさせられた。
口の中の“意思”は私の舌を甘く吸いあげ、耳の中の“意思”は淫らな息遣いと囁き声で私をぞわぞわと感じさせ、尿道の中の“意思”は、小刻みな抜き挿しをして鋭い快感で尿道を揺るがし、断続的な勢いのいい失禁を促す。
お尻の中に入った“意思”は、膣の中の“意思”と協力し合い、私の中の、膣壁と腸壁とを擦り合わせるような感じに交互に動かしたので、私はおしっこを漏らしながら、ひいひい言って、躰の奥底から湧きあがる絶頂感の波にのたうった。
そうしているうちに、私の“意思”は、塔の形をした巨大な守の“意思”の内部にめり込んでいき、とうとうすっぽりと飲み込まれてしまう。
守の“意思”の中に入った私の“意思”のまたその中に、守の“意思”が入っているという形になった訳だ。まるで入れ子細工だ。
守の“意思”に躰の外側を包囲された上に、躰の中まで守の“意思”に埋め尽くされた私は、まさしく守と一体だった。
もう、ずっとこのままでもいいと思った。
このまま守に“意思”を食い尽くされて、守の“意思”の一部になったとしても、きっと、それはそれで幸せだと思った。
そう思ったとたん、私の躰の中心部に、どろりと甘ったるい波が起こって、私の“意思”は錐揉みにされた。
上も下も、右も左も判らない、光も闇もない不可思議な世界には、只々淫靡な快楽だけがあった。その世界の、私は、快楽そのものになっていた。
「ひ……くっ……くうぅっ……」
永い永い快楽の刻の終焉は、食い縛った歯の隙間から、堪えきれずに漏れ出た最後の絶頂の声と共に訪れた。
私は、そっと眼を開けた。
“発作”は完全に鳴りを潜めており、私はすっかり元通りに戻っていた。
恐る恐る守の様子を伺ったけど、横向きになって私を抱き枕のように抱え込む守は、未だに眠りこけていて、目覚めた様子は感じられなかった。
彼が寝返り打ったのを潮に、私は静かにベッドを抜け出した。
自分の躰に眼を落とす。多少汗ばんではいたものの、あの、守の“意思”による行為のさなか、しとどに漏らしたと思っていた尿や体液は、片鱗さえも見られなかった。
あの行為は全て意識内で起こったことに過ぎないから、肉体に対し、現実的な影響はなかったのだ。
でも、時間はそれなりに経っていたようで、アパートを出ると、すでに夜が白み始めていた。
朝靄の中、ぐったりと気だるい躰を引きずり、私は家路に就いた。
部屋に戻ると、布団の上に崩れ込んだ。
眼を閉じて、守の“意思”によってもたらされた、様々な感覚を反芻した。
私の中で眠っていた、私自身も知らなかった、快楽の鉱脈――。
妖しい気分が、下腹部を沸々と熱くし始めていた。
Tシャツの上から乳首を爪で掻いてみた。かりかりと。
「う……」
躰の芯がむず痒くなるほどの快感に、思わず呻いた。下腹部の火照りがますます酷くなった。
私は、引きちぎるようにハーフパンツと中の下着を脱ぎ捨てた。
脱ぐ時に、下着のクロッチが糸を引き、太腿の上に粘った汁を振りこぼした。
おりものかと思ったけど、そうではなかった。
さっきの行為を思い出し、私は、性器を濡らしていたのだ。
――私……思い出して、欲情してる……。
そう自覚したとたん、かあっと顔が火照り、全身を熱い血潮が駆け巡った。ぬるぬるし、充血して膨れあがった陰唇を、私は自分の指先で左右に押し広げた。くちゃっ、という音が鳴り、中の粘膜が外気に嬲られる。
「ああ……」
快楽の予感に、私は小さな喘ぎ声を漏らした。
すっかり濡れそぼった私の性器も期待していた。膣の入口が勝手にぱくぱく閉じたり開いたりを繰り返し、クリトリスも、痛いくらいに勃起して、真っ赤になってぴょこんと顔を出しているのが、躰の上からもはっきりと見えていた。
息を忙しなく弾ませながら、私は、紅く尖がって疼いているクリトリスに、指先を宛がった。
凄まじい快感が膣の奥深くにまで染み渡り、私は思わず声を漏らした。
ほんの数回、ぬるぬると淫液に濡れたクリトリスを撫でただけで、私はいってしまった。
「くっ……くうっ!……はあ、はあ……ああ……凄い」
乱れる呼吸を整え、じっとりと汗に濡れた躰で横たわったまま、私は呆然と快楽の余韻に浸った。
だけども暫くすると、私の性器はまた疼き始めた。
――ああ、もっと……もっと欲しい……。
私は再びクリトリスに指を伸ばし、ころころとした肉の芽を愛しむように撫で摩った。
二回目は、さすがにさっきみたいに瞬殺とはいかなかったけれど、クリトリスの裏側の部分を重点的に捏ね廻すような感じでやってみたら、またすぐに絶頂が来た。
――ああん、いい。もっと、もっと……するのぉ……。
二回目の絶頂の波は若干弱かったので、もやもやとした欲情の熱気は引いていかなかった。だからすぐ、続けざまに再開した。
三回目は少し余裕ができたので、もっとゆっくり愉しむことにした。
まず、Tシャツを脱ぎ捨て、両の乳首を念入りに弄くる。
胸の膨らみから脇腹の辺りまですうっと撫でおろし、腰の張り出しから太腿、内腿の柔らかな肌を立てた指先で摩る。そうしてから、おもむろに濡れた割れ目を上下に擦り、クリトリスを震わせて、最も鋭い快楽を貪るのだ。
「ああっ、いい、いい、凄い……何で? 何で……こんなに」
自分で弄くるだけでこんなに気持ちがいいなんて、不条理なことだと思った。本当のセックスでもないのに、ここまで気持ち良くなる必要があるのだろうかと。
――こんなことを、もしも守の指でされたら……。
なんてことを考えたら、瞬く間にいってしまった。
そうして何時間もの間、私は、初めてのオナニーに没頭し続けた。
本当に、クリトリスが擦り切れるんじゃないかというくらいに擦り続けた。
絶頂の回数は、七回目くらいまでは数えていたのだけど、後は忘れてしまった。
度重なる行為に、はみ出た陰唇は、紅く膨れあがって普段の倍ぐらいの厚ぼったさになり、膣の穴からは濁った汁がどろどろと溢れ、お尻の穴を濡らし、シーツに垂れて、布団にまで染み入るほどの大きな濡れ染みを作った。
――猿。
体力の限界が来て、快感の余波を引きずりながら、うとうとと眠りかけた時、冷ややかな声と共に、蔑むような視線が私を見ているのを感じた。
――指がふやけるまでオナニーするなんて、信じらんない。ばっかじゃないの? しかも、あんな男のことを考えながら……。
ぞくりとするような怒りの波動。布団の真横に誰かの気配を感じたけれど――私はもう疲れ果てていた。
――放っといてよ……いいじゃないのよ……私には……守しか……居ないんだから……。
「結局あんたは……守の前から去ることはできなかったんだよね」
感情の篭らない声で、女が言った。
「守と結ばれることはできない。でも、離れることもできない。そのせいで、あんたは……」
膝を抱える私の前に、女は座った。真正面から見据える眼。奇妙な既視感が、胸で疼く。
「あんたを救ってあげたい」
そう呟いた女は、私の背中に腕を廻し、私の躰を抱き寄せていた。か細い腕。ひんやりと冷たい躰。それがなぜだか心地いい。私は眼を閉じた。女は言葉を続けた。
「今の、どっちつかずの中途半端な状態から、あんたを解放してあげたいの……お願い。私を信じて。私と一緒に、ここに居て……ずっと、ずっと……」
「でも……そんなことになったら、私は守に二度と逢えなくなっちゃう」
「諦めなさい。あの男のそばに居たって、仕方がないわ。あの男じゃ、あんたのことを救えないんだから」
「ううん、駄目。やっぱり私は、守と一緒に居たい」
私は、きっぱりと女に答えた。
私を抱き締めていた腕が、躰が、すうっと闇に掻き消えた。
――わからず屋。
女の声と気配が、小さな風と共に去って行った。薄暗い部屋に、私は独り取り残された。
「……っくしゅん!」
そういえば、私は裸のままだった。着替えを入れたバッグは玄関ホールに置いたままだ。参ったなあ……。
そう思って辺りをきょろきょろ見廻すと、入口扉のすぐそばに、見覚えのあるバッグが置いてあった。私のトートバッグだ。
「こんな処に……何で?」
いつの間にここに運び込まれたのだろう? 誰の手で?
まあとにかく、今ここにこれがあるのはありがたい。私は中から着替えを出して、素早く身に着けた。
一息ついてから、改めて室内を見渡した。
ぼんやりと淡い電灯の暖かい光に包まれた部屋は、どことなく懐かしい雰囲気を醸し出していた。
それは、この部屋の至る処に転がっている、おもちゃ達のせいだった。
ぬいぐるみに積み木、投げ輪、おおままごとセット。
奇妙なことに、それらは全て、二つずつ揃えられていた。
全く同じものが二つずつ。
すぐそばの小さなタンスの上に並んだ、二体のアンティークドールを眺めた。
なんて可愛らしいんだろう。
二つのお人形は全く同じ形、同じ顔をしていたけれど、服の色だけ違っていた。一つはピンクで、もう一つはオレンジ。私は、オレンジの方のお人形を抱きあげた。
古びた布の匂いと共に、切ないような感情が溢れ出して、私の胸を熱くする。私はお人形に頬擦りをした。夢見心地で、そっと呟いた。
「柳子……」
――えっ?
今私は、何を言ったの?
腕の中のお人形を見つめた。柔らかな微笑みを浮かべているお人形は、何も答えない。
なんとなく怖くなり、私はお人形を元に戻した。他のおもちゃも眺めつつ、部屋の奥へと進んでゆく。
どうやら、部屋は二間が一続きになっているようで、奥の方には、カーテンで仕切られた続きの間の入口が見えていた。私はカーテンを引いた。
真っ暗な部屋の中に、二人の小さな女の子が居た。
「ひっ?」
私は驚き、思わず後ずさってしまう。
二人並んだ女の子達は、おそらく五歳前後ぐらいだろうか? 髪をおかっぱに切り揃え、お揃いのワンピースを着て、それぞれ椅子に腰かけていた。突然の闖入者である私を前にして、驚いた様子は全くない。
「あ、あの、ごめんなさい急に。私は、その……」
一応私は、女の子達に謝っておいた。
こんな夜更けに、こんな廃屋同然のお屋敷に、こんな小さな女の子が二人、なぜ居るのかは判らない。このお屋敷の住人なのか、はたまた、私や守と同じように、迷い込んだだけなのか……。
でもとにかく、彼女達を怖がらせて、泣かせちゃったりすることは避けたかった。子供に泣かれるの、苦手なんだ。
幸いなことに、女の子達は二人共妙に肝が据わっていて、独りで焦っている私のことも、穏やかな笑みを湛えて静かに見つめているだけだった。本当に、随分と落ち着いている。
いったい何を考えているのか――私は彼女達の心を読むべく、様子を伺った――。
【つづく】
一応まだ番号付けていますが、結局間違いました。
4辺りで同じ内容を続けて投下しています。全く持って申し訳ございません。
そして昨日弱音を吐いたことに対しても、お詫びさせて頂きます。
うざいレスをしたにもかかわらず、お気遣いく頂いたことには誠に感謝しております。本当にありがとう。
けして、反応がないことでへこんだ訳ではないのです。
これだけ連日大量投下しているというのに、ちっとも終わる気配のないことに自らくたびれていただけです。
スレを占拠しているようで、非常に心苦しいです。
私用により更新は一週間ばかり途絶えますが、ここまでやったら一応全部落とすつもりです。
今しばらくお待ち下さい。
乙
肉付けしていくうちに際限なく膨らんでいくのはよくあること……と思う
だから言いたいことを短く纏められてる人は尊敬する
大丈夫、迸る熱いパトスを書き殴ってくれればいいさ
ほしゅるべし
あ、あら?
彼女達の意識は、全く判らなかった。
意識が、ない? ううん、意識どころか……。
私はそろそろと女の子達に近寄り、その、ふっくらとした頬に触れてみた。
硬く乾いた感触だった。はっとして手を引き、呟いた。
「これ……人形じゃないの」
続きの間に居たのは、精巧に作られた少女人形だったのだ。暗がりに座らされた状態では、生きている人間と見分けがつかないくらい、本当によくできた人形。
私はふと思い立ち、二体の人形を、椅子ごと、手前の明かりの灯った部屋に出してみた。電灯の下に並べてもう一度見直す。
明かりの下に置くと、さすがに質感の不自然さが眼についた。このお人形は、髪の毛も衣服も全て紙粘土で作られていたから、特にその辺りに違和感があるのだ。
けれどもそれは、あらかじめこれが人形であると知った上で、まじまじと凝視して初めて気がつく程度の違和感だったから、何も知らない人がいきなりこれを見れば、さっきの私と同じように、本物の女の子と見紛うことは請け合いだ。
守だってこれを見たら、きっと驚くに違いない。
そうだ、守。
守のことを思い出し、急に心配が頭をもたげた。
守、あの後どうしただろう? 本当に、怪我やなんかをしていないのかな? それに――私がした諸々のことを、どう思っているのかも気になる。
「とにかく様子を見に行かないと」
私は、おもちゃの部屋を後にした。
部屋を出て、廊下を抜けて玄関ホールに出ると、ホールのずっと向こうに人影が見えた。
前屈みでソファーに腰かけ、頭を抱えている守だった。
「守!」
私は守に駆け寄った。
「守、こんなとこに居たんだ……随分捜しちゃった」
「郁子……」
守は、ソファーから立ちあがって私を迎える。私がそばまで行くと、私を頭のてっぺんから足の先まで、しげしげと見廻した。
「なあに? そんな、変な顔しちゃって」
私は少し笑って見せた。守はきょとんとした顔をして、私の着ている服を見つめているのだ。
「郁子、その服……まだ持ってたんだ」
守は、微かな笑みを浮かべて、私の服を指さした。
私が今着ているのは一年前、守と初めて逢った時に着ていた、あの衣装だった。肩口や首周りが白いフリルで縁取られ、黄色地に茶色の柄模様がプリントされた、長めの丈のタンクトップ。それと、裾に折り返しのついたブルーのデニム。
川で濡れるかも知れないから着替えを持って来るようにと言われ、私が持って来たのが、この二つのアイテムだった。
守と出逢ってからちょうど一年目の記念日に、初めて出逢った時と同じ服を、身に着けたいと思ったからだ。
「そりゃあ、私は貧乏なフリーターだもん。まだ着られる服を、そう簡単には捨てられないって」
そう言って私は笑った。
「満面の笑みで言うことじゃないだろそれ」
守は苦笑している。でも、この服に対して嫌な気持ちは持っていないみたい。私はほっとしていた。
私達が出逢って丸一年ということは、あの、悪夢のような夜見島事件からも、すでに一年が経過しているのだ。
二人の出逢いはともかく、あの怖ろしい事件のことに、いつまでも囚われていてはいけない。これから先の長い人生を生き抜くためにも、私達は、あの事件の記憶なんかに負けてはいけないんだ。
この服を持って来たもう一つの理由はそれだった。
あの時の記憶を彷彿とさせるものを眼にしても、動じないでいられるように。少なくとも、守にはそうあって欲しかった。
海とか人魚とか、そして、暗闇なんかに対する恐怖症も、できれば克服して欲しい。事件で負った心の傷を慰め合える私が、いつでも、いつまでもそばに居てあげられるとは、限らないのだから……。
そんなことを考えていたら、突然守は、私にしがみついてきた。
「きゃっ……な、何よ?!」
私は――守に、力いっぱい抱きすくめられていた。
本当にいきなりな守の行動に私は驚き、胸を高鳴らせた。いつもの守なら、こんなことはしない。妄想の中でならともかく、現実の守はもっと理性的で、そして臆病だ。
「郁子……ごめんな」
守は大きな躰を折り曲げて、私の後ろ頭に向かって呟いた。静かな声。それに反し、だらんと垂らした両腕ごと、私をきつく抱き締める腕の力は強い。
めいっぱいの力で抱き締められて、一瞬私は、意識が遠退きそうになる。
守は私と再会できたことで安堵し、感情が昂ぶっているみたいだった。彼は、私を信頼してくれていた。浴室で、あれだけのことをされたというのに、私を信じるその気持ちを、失ったりはしていなかった。
「何なのよもう……」
私は、やっとのことでそれだけを言い、守の背中に手を置いた。よしよしとなだめるように、軽く叩いて、摩った。
(これが、郁子なんだ)
様々な疑念を振り払うような、守の心の声が聞こえた。
私の不審な行動によって揺らいでいた、自分の気持ちを立て直そうとしている。そして、心の中で再確認していた。私への愛情。私のことを、好きだっていう気持ちを……。
「ねえちょっと……苦しいよ」
守の情熱的な想いを全身に浴びせられて、私は息苦しくなっていた。好きな人から、好きだという気持ちを痛いくらいにぶつけられる。あまりにも甘美な苦痛だった。このままじゃ、私の理性が融けて流されてしまう。
温かさにほだされて、崩れ落ちてしまいそう……。
だって、私だって守が好きなの。ほんとだよ。自分でもどうしたらいいのか判らないくらい――私は、守が好きなの。世界中で誰より、一番――。
「ごめんな」
何に対してなのか、もう一度守は謝り、私の後ろ髪に覆われたうなじに、顔を埋めた。
「守。私ね、守に見せたい物があるの」
守が落ち着くのを見計らい、私は口を開いた。
さっきの少女人形を、守に見せてやらなくちゃ。
どうやら守は、浴室で守を襲ったのが私ではない、別人だと信じていたようだったので、私はそれに合わせることにした。
だって、本当のことはとても言えない。
私は独りで浴室を離れ、ボイラーを見に行ったきり戻らない守を捜し廻っていた、ということにした。
「で、色んな部屋を見て廻ってたんだけど……途中で、ちょっと気になる物を見つけたの」
「何?」
「うん。それはまあ、見れば判るから」
そう言って私は、守の腕を引いた。
「ちょ、待ってくれよ」
守は、困り顔で私の手を引っ張り返した。私は振り返って守を見つめる。
守の戸惑いと、雨雲のように漂い集まる疑惑の念が、掴んだ腕から伝わっていた。
(ぼくの行方を捜していたのなら、まず真っ先に、ぼくが一体どこで何をしていたのか? と聞きたくなるのが人情というものではないだろうか?)
(なのに郁子は、その件を一切スルーしている)
(それに――浴室からぼくを捜しに出たと言うが、その時点で郁子のバッグは、まだこのホールに置いてあった筈だ)
(つまり郁子は、素っ裸のままで浴室を出てきたことになる)
(それって少し、不自然じゃないか?)
「郁子」
守は、心の中の疑問の答えを得るために、私と話そうと考えているようだった。私の腕を振り解き、逆に、私の方の腕を取る。
そして――私の腕を見たその眼が、驚愕に見開かれる。
その時になって、私はようやく気がついた。
さっき、浴室で守の首を絞めた時に、私の腕には、守からつけられた無数の引っ掻き傷が残されていたのだということを。
私ははっとなり、守の手を振り払って、腕の引っ掻き傷を手で隠した。守は自分の指先に眼を落とす。守の爪の中には、私の腕を引っ掻いた時の、血糊がこびりついていた。
――しまった……。
私は混乱した。私を見る守の眼から、いつもの温かさが消えていた。
気味の悪そうな――まるで、化け物でも見ているかのような、冷たい眼差し――。
「郁子」
私に呼びかける守から、私は少しずつ後ずさった。そして、全速力で逃げ出した。守はすぐさま追って来る。追いつかれそうになるすんでの処で、私は水槽脇の扉に滑り込み、こちらから内鍵をかけてしまった。
「くそ……何なんだよ!」
扉の向こう側から、守の苛立った声と、腹立ちまぎれに扉を蹴飛ばしている物音が響く。でも、扉が頑丈なので蹴破られる心配はなさそうだ。
守の発する怒りの声と、悪感情の波動から耳を塞ぎ、私は走ってその場を離れた。
廊下を進み、さっきのおもちゃの部屋まで戻ってから、扉を背にしてくたくたと床に座り込んだ。
部屋の中央には、さっき私が並べて置いた、二人の少女人形が大人しく椅子に腰かけている。
――何やってんのよ……。
心の中から、私を馬鹿にしきった声が聞こえた。
――嘘をつくならつくで、もっとちゃんと徹底しないと。あんたって、本当に下手だよねえ、そういうの。
ふん。正直者だって言って欲しいわね。
私は鼻を鳴らす。嘘なんて、もっと上手くつこうと思えばつけるんだから。ただ、そうしたくないってだけで。
そうだよ。だって私――自分の気持ちにだって、いつも嘘をついている。
守のことが好きで好きで仕方がない癖して、いつでも素っ気ない素振りをしてる――。
“発作”のせいで守のそばから離れられなかった私は、その後も、それまでと変わらない生活を続けた。
あの夜のこと――守は何も気づいていなかった。
“意思”による私との行為は、ただの夢だと自分の中で片づけてしまったようだった。
ただ、点けっ放しであったはずの部屋の明かりが、勝手に消えていたことだけを不思議がっていたけれど、それも、帰り際に私が消したのだと言ったら、すんなり納得していた。
私もまた、何食わぬ顔をして守に接した。喫茶店で。守の部屋で。私との関係の進展を望み、あれやこれやとちょっかいを出してくる守を、あっさりかわしてはぐらかしながら。
でも、そんな私の取り澄ました上っ面も、自室で独りきりになった瞬間、脆くも崩れ去ってしまうのが常だった。
あの夜に守の“意思”から開発された私の性感。それから間もなく覚えてしまったオナニー。
それは私を虜にしていた。
した後になってから羞恥心と罪悪感に囚われ、「もう、明日からはこんなことしない」と心に誓うのに、結局私はオナニーをやめられない。
威力を最大にしたシャワーのお湯を当てたり、テーブルの角に擦りつけたり、様々なやり方で、淫らな行為に耽ってしまう。
頭の中では、あの夜の、守の“意思”にされたいやらしいことを反芻していた。
私の“おかず”は、それだけで充分過ぎるほどだった。
この数ヶ月間、私はあれで、いく度の絶頂を迎えたのか、どれだけの量の愛液を漏らしたのか、もう、想像するのも怖ろしいくらいだった。
恥ずかしいオナニーの癖は次第にエスカレートしてゆき、自分でも歯止めの利かない領域にまで達するのに、そう時間はかからなかった。
あれは確か、今からひと月半ばかり前のことだっただろうか?
そろそろ梅雨に入ろうかという六月の半ば。その日は、ずっとぐずついて機嫌の悪かった空が、お久しぶりの太陽を覗かせ、初夏の清々しさで町中を明るく輝かせていた。
「今週は、今日を逃したらもう洗濯はできないな」
私はいつもより早めに起き出して、自分の分の洗濯物を片づけた後、守の部屋に直行した。
その日守は、早朝から取材に出かけていて部屋には居なかったけれど、洗濯機を開けると、中の洗濯物は特盛状態になっていた。
これは一回じゃ終わんないや。そう思った私は、最初に、洗い物をより分ける作業から開始した。
とは言っても、色落ちしやすそうなものと、そうでないものを分けるぐらいのものだったけど。
とにかく今日一日で、溜まりに溜まった洗濯物に加え、布団干しまでやらなきゃならないのだから、もたもたしていられないと思った。
洗濯機を廻しながらベッドに乗っかり、布団カバーやシーツをきびきびと引っぺがした。
枕カバーを外した時、ふっと守の匂いが鼻を衝いた。
それで私はスイッチが入ってしまった。あの夜の記憶が怒涛のように蘇って、私の裂け目をめらめらと燃えあがらせてしまったのだ。
――だ、駄目。こんな時に……こんな処で……。
どきどきと脈打つ部分を手で押さえ、私は必死に衝動を抑え込もうとした。
でも駄目だった。
その日は珍しく、短いスカートなんて穿いていたのも、良くなかった。
――ちょっとだけ……ちょっとだけ……ね?
どうしようもないほどに高まった欲求を、手早く解消してしまうつもりで、私はスカートの裾に手を挿し入れた。すでに下着のクロッチは、漏らした愛液でぐっしょりと濡れて、割れ目の形に沿って張りついていた。
私は、濡れた下着の上から、ぬるぬるの部分を擦った。
「ああ……あ」
守のベッドの上で、私は脚をM字に開き、下着越しのオナニーをした。私の居る位置からは、壁際に置いたテレビの黒い画面が見えていて、そこに、私自身のはしたない姿が映って見えていた。
スカートを捲くりあげ、手を股間に宛がい、一心不乱にあそこを擦り続けている私の姿が。
「ああん……やだぁ」
いやらしくてみっともない自分の姿に、私は奇妙に欲情して、感じてしまった。オナニーしている自分の姿を、擦り立てる指の動きを眺めながら、私は、いってしまった。濡れた性器の膨らみをぎゅっと手で握り締め、激しく肩で息をした。かつてないほどの自己嫌悪に苛まれた。
私は、守の部屋でとうとうこんな……。
でも、これでなんとか躰は鎮まった。これで、洗濯の続きをできる……。
そう思ったのは、一時のことだった。
余韻に浸りながらベッドに突っ伏した私は、そこに、より強い守の匂いを嗅ぎ取ってしまった。
さらにいけないことに、ベッドには、守の思念のかけらまでが残されていたのだ。
ゆうべ、守が自分を慰めた時の、快楽の残滓が。守はその妄想の中、このベッドの上で、激しく私を犯していた。
着ているものを引きちぎり、無理やり、レイプをしていたのだった。
「ああっ、守……駄目……そんなこと、やめてえっ!」
守の妄想に似せて、私は、着ている服を全て脱ぎ捨てた。本当は破り捨ててしまいたかったけど、さすがにそれは思い留まった。
そして、剥がしたシーツに頭からすっぽりと包まった。そうすると、守に抱かれているような気分になれた。
シーツにこびりついた快楽の残滓から、消えかけの思念のかけらを読み取りながら、私は自分の躰をまさぐった。
守は妄想の中で、生意気なことばかり言う私の口に自分のペニスを押し込み、髪の毛を掴んで前後に揺さぶっていた。私は自分の口の中に二本の指を突っ込んで、ずぼずぼと出し挿れしてみた。
それから守は、泣き叫ぶ私の太腿を大きく左右に押し広げて、私の膣口を、紅く反り返ったペニスで突き破った。
「ああーっ! 痛い! 守……痛いよおっ!」
守の妄想通りの言葉を吐きながら、私は、現実の膣口にも指を突き立てようとした。でもそれはできなかった。今までにもオナニーの最中、膣の感じが物足りなくなって、指やなんかを挿れてみようと試したことはあったけど、成功したことは一度もなかった。
痛過ぎるのだ。指一本すらも這入らない。こんなことで、本当におちんちんを挿れたり、ここから赤ちゃんを産むことなんかができるのかと、不思議に思うほど。
仕方がないのでいつものように、膣口をぐりぐりと揉みながら、クリトリスを擦って快感を得るだけにした。
でも、頭の中では、守にめちゃくちゃに犯されていた。胸を掴まれ、がんがんと腰を押しつけられながら、頭を左右に振り立てて許しを請うのだ。
「あああ、許して……守、痛いのぉ……もう、許して下さいいっ!」
私は解剖されたカエルのようにがに股になって、女の臓物の全てを曝け出し、惨めったらしく泣き喚きながら、股間をひくつかせた。
――痛いなんて言って……こんなに濡らしてるんじゃねえかよ。
守の思念が、私を言葉で責め立てる。ああ、そんな……。
守は私の膣の中に、ゆっくりと大きく出し挿れしながら、その、勃起したおちんちんに絡みついた私の愛液を見せつけて、私のいやらしい欲望を、これでもかってくらいに自覚させた。
――おれに犯されて、感じてるんだろう? 言ってみろよ。ちんぽ挿れられて、気持ちいいって。
背筋を、ぞくぞくするような戦慄が駆け抜ける。屈辱感が、性器の快楽をよりいっそう強くさせてしまう。
でも本当は違うんだ。これ、本当は守の思念なんかじゃない。このシーツには、そこまではっきりとした思念なんかは残っていないもの。これは、欲情に煮え立った私の頭が作り出した、ただの妄想だ。
それでも私は、激しく腰をくねらせ、足先をばたつかせて、妄想の中、守の思念から辱められる快感にむせび泣いた。
「ああんん……いい……守に、犯されて……ちんぽ、挿れられて……あそこ、気持ちいいよおおっ……」
妄想の守に命じられた通りの恥ずかしい台詞を発したとたん、性器の快感が渦を巻いて高まった。どろりとした甘い恍惚に全身を包まれた後――奥の方から、絞り込まれるような律動が起こり、私は、性の頂点を極めてしまった。
「あ、あ、あぅ……うあぁああぁあっ……うぅう……」
獣じみた叫びをあげ、躰中を感電したようにびくんびくんと震わせて、私は、寄せては返す絶頂感の波の中を、ただひたすらに耽溺して漂った。
永い永い快楽の波が引いていき、シーツの中から這い出た私は、泳いだ後のように全身濡れネズミになっていた。守のシーツも私の汗で湿ってしまった。
特に、下半身の当たっていた周辺は、私が無意識の内に陰唇を擦りつけてしまっていたせいか、べとべとの染みに汚れて、そこだけ部分洗いしなければならなくなるほどだった。
そしてその日を境に、私は、守の部屋でするオナニーにも嵌まっていってしまうこととなった。
校了が近くなると、守は会社に泊まり込むことが多くなり、アパートの部屋は空けがちになる。
それをいいことに、私は、守の家の家事をするというのをお題目に、部屋にあがり込んでは洗う前のシーツに包まり、独りの快楽に耽ってしまうのだった。シーツの残り香や、思念のかけらをおかずにして……。
ベッド以外の場所でも、私はした。ほんの数時間前に、守と並んでテレビを見ていたカウチの上で。外の廊下に面した流し台の角で。
一番興奮したのは玄関ドアの前でした時だった。
その日は、お夜食を作って守の帰りを待っていた。
例によって、帰ると言った時間を何十分もオーバーしていたので、私は、玄関前に膝を抱えて待ち受けてやることにした。
――もしここで、私が裸で待っていたら、守はどんな顔するのかな。
退屈紛れにそんなことを考えたせいで、変な気持ちになってしまった。
私は膝を開き、穿いていたデニムの上から、股の部分を擦り始めた。
――ああ、駄目……物足りない。
守の部屋でのオナニーに慣れつつあった私は、少し大胆になっていた。デニムのジッパーを外し、手を中に挿し込んで、下着の中を直に弄るばかりか、シャツを捲くってブラジャーの中の乳首までも悪戯し出してしまう。
このアパートには夜型の住人が多いらしく、夜中であっても、ドアの向こうには結構人が行き来するので、その気配に私の胸はどきどきして、すっかりのぼせあがってしまった。
――ああ、見て……私、こんな処でオナニーしてるの……。
興奮が最高潮にまで高まった私は、その場で着ているものを脱ぎ捨て、本当に素っ裸になってしまった。熱を持った膣の穴から溢れ出る汁が、お尻の穴を伝って床に垂れそうになるのを指ですくいあげ、クリトリスに塗り込めながら、快感の絶頂が訪れる時を待ち侘びた。
「ああ……もうすぐよ……守、私……もうすぐ……」
オルガスムスの予兆を感じ、私は、仰け反りながら守の名を呼んだ。
その時、玄関のドアノブに鍵が入り、向こうから廻されるのが見えた。絶頂の痙攣はすでに始まっていた。どくんどくんとひくつく性器を片手で押さえながら私は、脱いだ衣服を掻き集め、玄関真横にあるバスルームに飛び込んだ。
守が中に入って来るのと、私がバスルームのドアを閉めるのは、ほとんど同時だった。
「帰ったぞう」
守は靴を脱ぎ、私が入ったバスルームのドアをノックした。
「郁子、トイレ?」
「……そうよ、うるさいわね!」
膣口が、蕩けるように蠢動し続けている只中、声の震えを必死に抑えて私は返事をした。当然、裸のままだった。全身から汗が噴き出し、頭の中が真っ白になっていた。
それなのに、追いつめられたような性器の快楽は、どくどくと脈打ちながら引き続いて、早く服を着なければと焦る気持ちに反し、なかなか鎮まってくれなかった。
そんなことがあって、死ぬかと思うくらいに胆を冷やしたというのに、私のオナニー癖は全然治まってくれなかった。
自分で自分が嫌になり、もういっそのこと、風俗ででもバイトしてしまおうかと一瞬考えたりもしたけれど、この胸の痣がある限り、そんな仕事は無理だってすぐに思い直した。
ただ一つ良かったことは、オナニーを覚えたあの日以来、“発作”が一度も起きていないということだった。
もしかすると、オナニーの最中に、守のことを強く意識するのが作用しているのかも知れない。でも、実際の処は謎だった。これはたまたまで、オナニーと“発作”には何の関連性もないのかも判らないのだ。
オナニーし続けていれば、守から離れても大丈夫なんだろうか? でも、駄目だったらと思うと怖い。それに――もう今さら、守のそばを離れる気にもなれない。
私は心の奥底で思い悩みながら、日々を単調に繰り返して行った。
そんなある日のことだった。
夕暮れ時、いつものように私は喫茶店にバイトに出かけ、ウエイトレスの制服に着替えてホールに出た。
出たとたん、カウンターの席に守を見つけた。
この日守は珍しく、「アトランティス」の先輩編集者さん二人を伴っていた。というより、他の二人に挟まれて、両脇からぐりぐりといびり廻されている様子だった。
「いらっしゃい――どうしたの? また、守がヘマをやらかしたんですか?」
「郁子っ、おっ、お前まで!……どうしてこの店の連中は、みんなしておんなじことを言うんだよ!」
どうやら、マスターや他のウエイトレスの子にも同じ台詞を言われてたみたい。
「そうなんだよぉ、郁子ちゃん、聞いてくれるぅ?」
守をいびっている先輩さんの一人が守を指差し、身を乗り出した。
「この馬鹿よぉ、生意気にも車買ったんだと。馬鹿の癖に」
「車?」
寝耳に水の一言だった。私は、眼を丸くして守を見つめた。
「しかも新車なんだってよ。夏のボーナス頭金にしてさぁ」
そう言って、先輩さんは守の頬っぺたをつねって引っ張る。もう一人の先輩さんも苦い顔だ。
「全くなあ……こっちは子供の幼稚園の入園費用に四苦八苦で、車どころか小遣いも切り詰められてるっていうのに……
独りもんだからって、贅沢して見せびらかしてんじゃねえよ、このタコ!」
彼は守の後ろ頭をぺちんと叩いた。
両サイドからの攻撃を受けているにも関わらず、守は満面の笑みを浮かべていて、堪えている様子はまるでなかった。
「今度の日曜日に納車なんだ。郁子も見に来いよ」
「はあ……だけど、なんでまた急に車なんて?」
私は心底不思議だった。交通の便の発達した東京では、マイカーなんて必要ないというのが守の持論だったはずだ。確かに、車検費用だの、保険や税金だのに加え、この辺りじゃ駐車場代も馬鹿にならないから、車を持つメリットなんてあまりない。
守はオカルトマニアだけど、カーマニアではない訳だし……。
「郁子ちゃん、気をつけた方がいいよ。多分こいつ、君をどっかに連れてくために車買ったっぽいから」
「えーっ?」
先輩さんの一人の言葉に、私は声をあげてしまった。
「そうそう。どうせこいつのことだ。ドライブと称して、どっかの人気のない山とかに連れて行ってさ……人目がないのをいいことに、森の中であんなことやこんなことを」
「……しません、そんなこと」
守は、膨れっ面で先輩さんを睨みつけている。
うーん、どうなんだろう? その時、表に出ていた意識からは、守の本心までは読み取れなかった。
だけど後になってから、守はやっぱり私をドライブに誘ってきたのだった。
「あの人達の言うことなんか、気にしてないよな? 信頼してくれるよな? おれのこと」
すがるような眼で頼み込んでくる彼の放つ意識は、妖しくピンクがかった情欲の色を湛えていた。
下心があるのは丸判りだった。
ほいほいついて行ったら、何をされるか判ったもんじゃない。
でも。それでも。
そんなことには全く気がつかない振りをして、私は守の誘いを承諾してしまった。
なぜそうしてしまったのか――それは、私自身にもよく判らなかった。
守とのどっちつかずの関係。それを望んだのは確かに私。でも――そんな関係を保つことに疲れ果てていたのもまた、抗いようのない事実に違いなかった。
もしかすると、私は守との関係に決着がつくことを、自ら望んでいたのかも知れなかった。
たとえそれが、修復不可能な破綻であったとしても……今のぬるま湯みたいな状態をきりもなく続けるよりは、ましなのかも知れない、と……。
――叶わぬ想いを抱き続けているのは、つらいんでしょうね、きっと。
また、心の中から声が聞こえる。いつになく優しげな声だ。
――あんたが助かる方法は、一つしかないわ。ここで私と一緒に暮らすの。
優しい声は、またもやその話を蒸し返す。私はため息をついた。
ここで暮らすったって……どこの誰だかも判んない奴なんかと、こんな山奥で暮らしたくなんかない。
……どこの誰だか、判んない?
本当に、そうなんだろうか?
今までに聞いた、心の声を思い返した。心の声――私の心の暗黒に巣食っている闇の化身であるあの女。彼女はいつも言っていた。「私はあんた」だって。
あいつは私。もう一人の――私?
「まさか」
口の中で呟いて、部屋の片隅に眼をやった。タンスの上に座っているアンティークドール。オレンジのドレスを着ている方を抱きあげ、そのドレスの、大きな襟を裏返してみた。
そこには、臙脂色の糸で縫い取りがしてあった。
「リュウコ」――と。
「あ……あぁあああああああぁ!」
私は人形を取り落とし、悲鳴をあげながら頭を抱え、床に座り込んだ。
あまりのショックに気絶しそう――でも、そんなショックに耐えながら、私は人形を拾いあげ、その顔に眼を据えた。
「あ……あんた……だったの?」
磁器で作られた白い顔に向かって言う。ガラス製の瞳の中には、湾曲した私の顔が映っている。その顔が、ぐにゃりと歪んで別の顔になった。
――そうよ。やっと思い出してくれたのね。私のこと。私と、このお屋敷で過ごした時のこと……。
ガラス玉の中で、彼女は笑っていた。狂気を孕んだ笑い声をあげながら……。
彼女の――柳子の哄笑に包まれる私の脳裏には、失われた記憶が完全に蘇りつつあった。
かつて、このお屋敷で過ごした日々の記憶が。
十四年前の――お母さんと、双子の片割れである柳子と三人で過ごした、ただ一度きりの夏の記憶が――。
【つづく】
短く纏める能力のない無能の分際で生意気にも御スレに投下してしまい、本当に申し訳ございません。
その人と初めて出逢ったのは、私が五つの頃だったと思う。
その、背の高い中年男性が普通のおじさんではないことは、まだちびっ子だった私の眼にも明らかだった。身のこなしも話し方も凄く洗練されていて、まるでテレビに出てくる人のようだと思った。
その、「ただものではないおじさん」とお祖母ちゃんとの会話の中身は、幼い私の頭ではほとんど理解はできなかった。ただ、その話が私についてのものであることだけは、おぼろげに感じ取れた。
なので、私はまず、お祖母ちゃんの心の中を探ってみた。
お祖母ちゃんの心の中には、「余所者」であるおじさんに対する不信感で満ち溢れていた。
(大学の研究のためと言ったって、こんな小さい子を)(怪しい)
(倫子は承諾してるって? でも、未だ若いあの子なんか、騙そうと思えば簡単に)(怪しい)
(けど確かに、この子の変な処は少し気にかかる)(このまま放って置いてもいいものか)(ご近所の眼)(不安)
(ああそれでも、こんなどこの馬の骨とも知れない)(怪しい)
どうやらおじさんは、私のことをどこかに連れて行って調べようとしているらしかった。そこで今度は、おじさんの心の中を探った。
おじさんの意識の表層にのぼってくる言葉は、あまりにも難解な、私の聞いたこともないようなものがほとんどだった。私は困惑し、心のもっと深い場所にある感情なんかも読み取ろうとして、意識を集中させた。
そのとたん、おじさんの心に忍び込んでいた私の意識が、見えない壁に弾き飛ばされた。初めての経験に驚いて、私は声をあげてしまった。
隣に座っていたお祖母ちゃんが私に何かを言ったと思うけれど、何を言ったのか、今はもう思い出せない。
その代わり、その時聞いたおじさんの心の呼びかけだけは、今でもはっきりと思い出せる。
――今、おじさんの心を読んだね?
――やっぱり君は、精神感応の力を持っていたんだね。
私の心に、心の声で語りかけると、おじさんは嬉しそうな微笑を浮かべたのだ――。
それから後、記憶はこのお屋敷の前まで飛んでしまう。
ここまで、私は車で連れて来られた。
それがおじさんの運転する車だったかそうでなかったか、覚えていない。
数時間にも渡るドライブで、私はずっと眠っていたような気もする。
とにかく、当時は今よりずっと小綺麗な、まるで絵本に出てくるお城のような佇まいを見せていたこのお屋敷の前で、私はお母さんと、そして、私と全く同じ顔をした柳子という女の子に、物心ついてから初めて逢ったのだった。
互いに生き写しの相手と見つめ合っている私と柳子に、先生は言った。
「心の中でお話してごらん」
私と柳子は顔を見合わせた。先にやったのは、私の方だった。
――おはなし、できるの?
柳子は一瞬、怯んだ顔を見せたけど、すぐに心の声で返事をした。
――うん……できるよ。
お屋敷で過ごした三ヶ月ほどの期間、私はずっと柳子と一緒だった。
お母さんとももちろん一緒だったけど、柳子と一緒の時間の方が、ずっとずっと長かった。
柳子と私は、日中のほとんどを、先生と「研究」をして過ごしていたからだ。
先生――つまり、私を屋敷に招き、私に対し、生まれて初めて“心の声”による呼びかけをしたあの「おじさん」は、人の心を研究しているのだと、私と柳子に話した。
それも、一般的な心理学とか、そういうのじゃない。もっと特殊な、現代科学によっても解明しきれていない心のちから――いわゆる、“超能力”と呼ばれているものの研究だったのだ。
私と柳子は、先生の手によって、それぞれが持ち合わせていたその“超能力”なる未知のちからを、徹底的に調査された。
調査とは言っても、先生は決して私達に苦痛を与えたり、実験動物のようなむごい目に合わせたりはしなかった。お母さん共々、普通の「客人」として、丁重なもてなしをしてくれていた。
その証拠の一つが、この子供部屋に集められたおもちゃの数々だった。
あの当時、田舎のお祖母ちゃんの元で育てられていた私はともかく、中卒のお母さんと柳子は、都会の片隅で寄る辺もなく、かなりの困窮状態に置かれていていたようだった。
柳子は、小さな子供が買い与えられて然るべきおもちゃの類を、ほとんど持っていないと言った。
お母さんが買ってやらないというのではない。柳子が自ら拒絶していたのだ。当然のことだった。私と同じく、物心ついた時から人の心を読める柳子が、お母さんの苦労を誰よりも理解し得るあの子が、お母さんに無理なおねだりなんて、できるはずがないんだ。
私と柳子が先生にそれを話したのか、あるいは、どこかで先生が小耳に挟んだのかは定かじゃないけど、
とにかく、このお屋敷にある日突然おもちゃを満載したトラックがやって来て、私達の寝室として与えられていたこの部屋を、夢のようなおもちゃの国に変えてしまったのだった。
その時の情景と嬉しさは、こうして眼を閉じると今もはっきりと思い出せる。
私と柳子は手を取り合って喜び、部屋中をはしゃいで駆け廻った。
その日は二人共終日テンションMAXで、ESPカードによる読心術の訓練にも身が入らず、先生の手による深層催眠も全く効かず、あげくの果てに、夜になると揃って熱まで出してしまった。
そんな風に、研究を遅らせてまで先生が私達姉妹に良くしてくれた理由は、先生のごく個人的な思いによるもののようだった。
先生は、遠い土地に奥さんと小さな子供が居たのだけど、その家族達とは絶縁状態になっていて、もう何年も逢っていなかったのだった。
先生に取って、私達親子三人の面倒を見て、甲斐甲斐しく尽くすことは、自分の家族にしてやれなかったことの代償、ある意味、罪滅ぼしみたいなものでもあったのだ。
私はそれを、先生の心の中から読み取って知っていた。そして一度、訊ねてみたこともあった。
先生は、心の中でそんなにも愛しく思っている自分の子供に、なぜ逢ってやらないのか、と。
先生は私の頭に手を置いて、寂しそうに笑って答えた。
「私はね、もうあの子に逢う資格がないんだ。裏切ってしまったからね……あの子と、あの子の母親を」
そう語った先生の心象風景は複雑で、そこにある感情は、幼い私の理解し難いものだった。
そして、他人である私が、あんまり深く踏み込んではいけない領域のような気もした。だから私は、それ以上先生の家族について問い質したりするのはやめた。
その代わり、私は先生の研究に、それまで以上に熱心に協力するよう努めた。
心に寂しさを秘めて、私達に良くしてくれる先生のために、私ができることはそれだけだと思ったからだ。
柳子も私と同じ気持ちだった。あの研究の期間、私と柳子はそれぞれの見聞する知識はもちろんのこと、その感情までをも共有していたから、それは当然のことだった。
私と柳子は、このお屋敷の中ではずっと一心同体だった。
まれに別々の場所に引き離されることがあっても、私には柳子が、柳子には私が、その時どこで何をしているのか、手に取るように理解することができていた。
それは夏が終わり、私と柳子が、それぞれの家に帰って行った後になっても変わりはなかった。
――柳子……いま、なにしてるの?
田舎の家に戻り、夜になって床に就いてから、私は心で柳子に呼びかけた。
私の家と、柳子とお母さんの東京のアパートは、途方もない距離でもって隔てられていたけれど、私と柳子に取って、その程度の隔たりは問題ではなかった。
先生の下で生まれ持ったちからを強化させ、その操り方や、制御の仕方さえも学んでいた、私達に取っては――。
――郁子? あのねえ、いまねえ、テレビみてるよ。
――郁子はなにしてんの?
――わたしはねえ、もうねるところ。おふとんにねてるよ。テレビ、なにやってるの?
――うんとねえ、いつみさんのショーバイ・ショーバイ。
――いいなあ。こっちいなかだからやってないよ、それ。
――じゃあ、いっしょにみよ。わたしのめでみれるでしょ?
普通、幻視のちからは距離を置き過ぎると通じなくなってしまうものだったけど、私と柳子二人の間だけに限っては、その限りではないようだった。
それなりの集中力は必要とするものの、お互いが協力して波長を一致させさえすれば、それぞれが見ている視界、聞いている音などを、難なく送受信させることができた。
眠りに就けば、夢の中で実際に逢うこともできた。
まだ、離れて間もないお屋敷の中。おもちゃでいっぱいのお部屋の中で、私と柳子は仲良く、そして楽しく遊んだ。
夢の中で、私は柳子にこう言った。
「ねえ、わたしたち、いつもこうやっていっしょにあそぼうね」
「ゆめだけじゃなくて、いつかまた、ほんとうにおやしきにいこうね。ふたりでいっしょに」
だけど私は、自らの意思で交わしたこの約束を、自ら破ってしまった。忘れてしまったのだ。
あの後――お屋敷から戻って間もなく、お祖母ちゃんが体調を崩して入院したため、私は三途から少し離れた町に居る、親類の家に預けられることになった。
小学校も、その町の学校へ行くことになった。
知らない町、知らない子ばかりが居る学校、そして、それまでほとんど面識のなかった、よそよそしい親戚の人達。
新しい環境に馴染むため、私は必死に戦った。そう。まさしくあれは、戦い以外の何ものでもなかった。
私の出生の事情に対して、まだいくらかでも同情的だったお祖母ちゃんとは違い、新しい家の人達は、私に対する好奇と侮蔑の視線をあからさまにして、隠そうとさえしていなかったからだ。
特に、もうすっかり大きくなって、私のお母さんと変わらない年頃になっていた息子達ときたら――まだほんの子どもである私に対し、考えられないような卑猥な妄想をぶつけてきたり、時として、私のお母さんのことを、直接口に出して揶揄してくることさえあった。
そんな彼らに対抗するために、私は言葉の鎧を着なければならなかった。
「ふん、何さ! 私が厄介者なら、あんたはスネカジリじゃないの! いったい何年浪人すれば気が済むんだよ!」
「結局、あんたは十四歳で初体験済ませたお母さんが羨ましくて、ひがんでるだけなんでしょ? 童貞丸出しで恥ずかしいよ? そういう思考」
気が強くて口の悪い跳ねっ返り。
そんな私のキャラクターは、きっとあの時代に作られたものだ。
さらに、私の戦いは家だけでは終わらなかった。
いいや、むしろ家の外――学校の方が――家で受けるような、もろもろの悪意の波動や言葉による暴力に加え、物理的な暴力までが加わる分、厄介だった。
今にして思うと、私の方にも確かに非はあったのかも知れない。
彼らの放つ悪意をまともに相手にし続けた結果、彼らの心を常に把握していないと不安になり、やたらに心を読んだあげくに、彼らの、心の中の独白と口に出して喋ったことの区別がつかなくなってしまい、
心の中の言葉に対して言い返したりしてしまったりして、そんなことじゃあ、気味悪がられるのも仕方がない。
それに加えて、この胸の痣。
化け物。化け物。化け物。
家が変わっても、学校が変わっても、私につきまとって離れなかったこの呼び名。
地縁血縁、みんながみんな親類縁者のような片田舎。どこへ行ったって、どこからか噂は潜り込んで、私の周囲に蔓延してしまう。
そんな、沼の底の澱のように、陰鬱に湿った悪意との戦いの中、私は中学生になり、高校生になり、そしていつの間にやら、しがない高卒のフリーターとなっていた。
このお屋敷のことも、お屋敷で柳子と過ごした日々のことも、全て忘れ去って――。
「だけど……どうして?」
このお屋敷の記憶をほとんど回復した今、私の心には、ある疑問が湧いていた。
それは――。
A柳子のことについてだ。
柳子はお母さんと一緒に東京に帰った後も、私の心にたびたび働きかけてくれた。
私とは違い、柳子は小学校にあがってからも周囲と上手く折り合っていて、私のような悲惨なイジメに逢っている様子はなかった。
――郁子、あのね、今日学校の友達とね……。
――それで、その子がオーディションを受けたいってお母さんに言ったら……。
――でも田中君は三組の女子の方が好きだから……。
柳子はいつも、学校であったことを楽しそうに私に話した。
もちろん、波長が合えば感情すらも共有できる私達のこと、柳子にだって、私の置かれている過酷な状況が判らなかったはずはないと思う。
なのに柳子は、私を気遣う素振りなど見せず、自分のことだけ一方的に喋り続けた。
今にして思えば、柳子は柳子で大変だったに違いない。
他人のことに比較的無関心な都会の暮らしとはいえ、お母さんの異様な若さは周囲の眼を引いていたに違いないし、きっと色々と噂もされたことだろう。
それに、お屋敷に居た頃は気にかけたことすらなかったけれど、当時、お母さん一人だけの稼ぎが頼りであった柳子の家は、常に極度の貧困状態だったのだ。
子供というのは残酷だから、みすぼらしい身なりをしていたりして、ちょっとでも悪目立ちのする異分子が自分達の輪の中に居れば、すぐ馬鹿にして囃し立てる。
そんな中、イジメのターゲットにならないために、柳子はどれほど神経をすり減らしながら生活していたことだろう。
柳子に取っては、私だけが心を許して何でも話すことのできる、本当の「心の友」だったに違いない。
でも哀しいかな、まだ精神の幼かった私には、そんな柳子の事情を鑑みるゆとりなんてなかったのだ。
柳子の、若干ヒステリックなまでのお喋りの異常さにも気づかず、柳子の心が私から離れてしまったのだと、自分の友達の自慢話ばかりする嫌な子に変わってしまったのだと、勝手な被害妄想に陥ってしまった。
でも実際、変わってしまったのは、私の方だったんだ。
柳子の“自慢話”を聞かされるのが嫌になった私は、柳子の呼びかけを段々と無視するようになっていた。
――郁子、もう寝てるの?
――ううん、まだ意識があるよね? 聞こえてるんでしょ?
――ねえ郁子、どうしてお返事してくれないの?
――郁子……。
柳子の哀しげな声は、日に日に小さく遠くなり、チューニングのずれたラジオみたいな酷い雑音が混じるようになっていった。
私が心を閉ざしたせいだった……多分。
そして、ある晩を境に、柳子の声は全く聞こえなくなってしまった。
私の方から呼びかけようとしても駄目だった。遠く離れた東京に居る柳子の意識を、私はすでに、自力で捕捉することができなくなっていた。当然、二人で同じ夢を見ることなど、もはや不可能なことだった。
こうして、私と柳子の心の絆は途絶えてしまったのだった。
それから十年余りの間、私は柳子との思い出を、記憶の奥底に封印したまま、忘れ去っていた。
柳子のことは、「生き別れになっている双子の片割れ」として、時おり名前や存在を思い出すだけだった。本当に、自分でも呆れるくらい、綺麗さっぱり忘れ去っていた。柳子の感触――あの子の意識の感触、匂い、そういったもの全部を。
そして――長い年月を経て柳子のことを明白に思い出した今、私には、とても気になることが一つあった。
それは、あの闇の中の女のこと。
東京で初めての“発作”に見舞われた後、私の心に現れたあの女。
守への恋慕に悶え苦しむ私を、哂って蔑んだあの女。
そして多分……数時間前の山道で、初めて実体を現した、あの女。
あの女の意識や思考が読み取れたことは、今まで一度たりともない。
けれど……どこかしら似ている気がするのだ。意識の持つ雰囲気。その感触や、匂いのようなもの。
もしやあれは……柳子では?
「柳子……」
私はタンスの上に人形を戻した。
眼を閉じて、意識のアンテナを広げて周囲の気配を受信しにかかる。
あの裸の女が柳子であるにしろ違うにしろ、このお屋敷に居る限りは、その意識を捕捉できるはずだ――私の、“幻視”のちからで。
思えばもっと早い段階――そう、最初にこのお屋敷にたどり着いた時点で、私はこれをするべきだったのかも知れない。
それができなかったのは、守がそばに居たからだ。
守に対しては、失われたということにしている、私のおかしなちから。守の居る前で、こんな風に眼を閉じて集中して見せる訳にはいかなかったのだ。
それに、私自身の心の中に潜む、妙なわだかまりもあった。
闇の化け物と同じ不吉なちから――それを使う度に、私はより化け物に近づいてしまいそうで、不安な気持ちになる。もっとも、あるいはそれも、あの女が私に刷り込んでいた“暗示”だったのかも判らないけど……。
広げた意識のアンテナは、すぐに、近い場所に居る誰かの意識をキャッチした。
その視界の持ち主は、玄関ホールに居た。玄関ホールとこっちのフロアを繋ぐ、あの水槽脇の扉をじっと眺めている。
これは……守? でも何かがおかしい。
そのまま視ていると、その視界の主は、手に持った長くて幅広の――大きな剣で、水槽脇の扉を叩き壊し始めた。銀色の籠手に包まれたその腕……。
これは……あのヨロイじゃないの!
ヨロイはあっという間に扉をぶち破り、廊下を突き進んで……この部屋を目指していた!
こいつ……私の視界を視て、私の居場所を把握してる?
「あああ……どうしよう……!」
焦りまくった私は、部屋中を見廻し――重たそうなカーテンで仕切られた奥の間へ、身を隠すことにした。最初に、二体の等身大少女人形とご対面したあの部屋だ。
カーテンをめくり、明かりのない真っ暗闇の中に飛び込むと、そこには二つの小さな天蓋つきお姫様ベッドが置いてある。私と柳子のために先生が用意してくれたベッドだけど、今は懐かしんでいる暇もない。
「ここがあの部屋だとしたら……ここいら辺りに、確か扉が……」
べたべたと壁に手をつき、目当ての扉を発見する。それとほぼ同時に、ヨロイが手前の部屋に侵入して来る気配がした。私は、眼の前の扉を開けて廊下に出た。
廊下に出ると、すぐ左側に玄関ホールへの扉が見えた。ヨロイに叩き壊された扉は、上の蝶番だけでぶらんと垂れさがっている状態になっている。私はそこから玄関ホールに戻る。
玄関ホールに、守の姿はなかった。どこに消えてしまったのだろう?
まさか……あのヨロイに?
不吉な想像が胸を重くしたけど、私はすぐにそれを打ち消す。ううん、きっとそうではない。この近くで守がヨロイに襲われたなら、私がそれに気がつかないはずない。
「どこか違う場所に行ったのよ……それで、ヨロイとは行き違いになった……」
私は独り呟き、ヨロイの気配を探ってみた。
ヨロイはまださっきの部屋に居て、私のことを捜しあぐねている様子だった。
今の内に――と、今度は守の気配を捜してみる。
守の気配は、にわかには見つけることができなかった。あいつ、余程離れた場所に行ってしまったのだろうか? お屋敷の外とかに? まさかね。
意識を巡らせているさなか、唐突に、真っ暗で動きのない視界を発見した。
だいぶ離れた位置に居るらしく、若干不明瞭な感じの視界だった。守のものではなさそうな感じのこの視界……ひょっとすると、これがあの女の?
私がその視界に意識を集中させようとした時、おもちゃの部屋を諦めたヨロイが、廊下に出てこちらに向かって来るのを感じた。
私はそそくさとその場を離れ、ホールの右階段の脇にある廊下に入って行った。書斎の前を通り過ぎ、そのまま真っ直ぐに進んで行くと、廊下は間もなく行き止まりになってしまった。
……いや、違う。
ここは行き止まりなんかじゃなかったはず。十四年前、柳子と二人、お屋敷中を駆け廻って鬼ごっこや隠れんぼをした時の記憶を思い返す。この、一見柱にしか見えない、彫刻の施された木の板は、本当は扉だったはずだ――。
木の板を少し強めに押すと、呆気ないまでに軽い手応えと共に、奥に向かってそれは開いた。隠された扉の向こう側に、私はそっと滑り込んだ。
その部屋は、がらんとだだっ広く寂しげで、蒼白い光に包まれていた。
光の源は、部屋の一面を覆うガラスの壁の外から射し込む、月の明かりだった。
いつの間にやら、雨はあがっていたんだ。
綺麗な満月だった。ガラスに向かい、私はぼんやりとお月様を見あげた。
部屋の中央に眼を移せば、古ぼけた黒いグランドピアノが、月の光を浴びて鈍く輝いていた。
ここはピアノホール。私と柳子が、このお屋敷で一番好きだった場所。横に長いピアノの椅子に腰かける。あの頃、こうしてここに柳子と並んで座り、二人でピアノをおもちゃにして遊んだんだ。
――柳子……あんた今、どこに居るの?
心の中で呟いて、私は鍵盤の蓋に手をかけた。鍵はかかっていない。蓋は、音もなく開いて白い鍵盤を晒した。
開いた鍵盤の片隅に、仄白い小さな布が、塊となってたぐまっているのが見えた。
何だろう? 布の塊を手に取って広げる。
それは、簡素な形のスリップドレスのようだった。
薄いシースルーの生地で作られているので、下に何か着ないと透け透けになってしまうに違いない。こんなものが、どうしてここに?
「あの女も……せめてこれぐらいは着ればいいのに。真っ裸なんて、あまりに露骨過ぎるじゃん」
もっともこんなのを着たら着たで、やらしさはかえって倍増してしまうのかも知れないけど。でも多分、守の奴なら大喜びするに違いない。
……守。
そうだ、守は今、どこに居るんだろう?
もう一度、意識を巡らせ彼の気配を捜してみた。
今度は、思いがけないくらいにあっさりと見つかった。どこかの暗い廊下を真っ直ぐに歩き、扉を開けて、玄関ホールに入っている。彼の視界は、ずっと離れた真正面に、ヨロイに壊された水槽脇の扉を捉えていた。守、こっちに向かって来てる――。
私は椅子から立ちあがり、ピアノホールの出口に向かう。
このピアノホールには、私が入って来た隠し扉の他に、二つの扉があった。一つは水槽脇の扉から続く廊下へと繋がり、もう一つは、このピアノホールと隣接した、応接室へと繋がっていたはずだ。
私は――廊下に繋がっている方の扉を目指した。特に意味はない。こっちの扉の方が間近にあったというだけのことだ。
扉を開けると、長い廊下がずっと一直線に続いていた。あまりにも長いので、先の方は闇に沈んで見通せないほど。
その闇の中から、硬い足音が近づいて来る。
ブリキのロボットみたいに無骨な響き。あの、ヨロイの具足が立てている音。
「やば……」
私はピアノホールに逆戻りした。逃げなくちゃ。さっきの隠し扉に向かって――。
いや待って。そういえばさっき、守は玄関ホールからこっちのフロアに向かって来ていたはず。だとしたら――同じ廊下を歩いているヨロイと遭遇してしまう確率は高い。放っといたら、危ないんじゃないの?
「わ、わ、わ、どうしよ、どうしよ?」
私はピアノホールの中をあたふたしながらうろつき廻った挙句、やっぱ一刻も早く守と合流しなければと思い立ち、応接間への扉を開いた。
開けた途端、応接間の廊下側の扉から侵入して来たヨロイと鉢合わせてしまった。
「きゃああああーっ!」
驚きのあまり、私は悲鳴をあげて床にへたり込んだ。
またピアノホールにUターンして逃げれば済む話なんだけど、それができない。情けないことに、腰を抜かしてしまったのだ。
ぎゃあぎゃあ喚いて怯えるばかりの私に向かい、ゆっくりと落ち着き払った足取りで、ヨロイが迫って来る――。
「こいつ!」
懐かしい声と共に、ヨロイはよろめき、やかましい音を立てて前のめりに倒れ込んだ。
顔をあげれば、そこには守が立っている。私の悲鳴を聞きつけて、この応接間まで飛んで助けに来てくれた、勇敢な雄々しいその姿――。
守はすぐさまヨロイを押さえ込もうとしたけれど、ヨロイの動きは素早かった。あっという間に起きあがり、剣を振り廻して守に襲いかかって圧倒する。見る見る内に、守はぼろぼろの傷だらけにされてしまう。
守はどこで見つけたのか、シャワーを浴びるまで私が隠し持っていたはずのナイフを再び入手していて、それでなんとか対抗しようとしていたけれど、ヨロイの勢いには為す術もない。
こいつ……本気で守を殺す気なんだ!
容赦のないヨロイの攻勢に、守はとうとう床に倒されてしまった。
いけない! このままじゃ……!
私は硬く眼を閉じ、胸の前で手を組んだ。
こうなったら……一か八かの賭けに出るしかない。私はヨロイの意識を捉え、そこに、私の“意思”をぶつけた――。
一瞬のめまいを乗り越え、私の意識は、ヨロイの中に飛んでいた。
今の私の視界には、床に倒れ、両腕で自分の身を庇っている守の姿がいっぱいに映っている。
――やった。成功だ。
一年前。夜見島へ向かう漁船が大波で転覆し、私は海中に放り出された。
赤い海を揺蕩っていた私は、海の底に潜んでいた、得体の知れない化け物に襲われ、取り込まれそうになった。
私は死の恐怖におののきながらも、何とかして窮地を逃れようとして、化け物に向かい、今みたいに自分の“意思”を――“ちから”を放った。
それが私の新しいちから――のちに守が、“感応視”と呼んだ能力の、初めての発露だった。
感応視――それをするにはまず、目標とする相手の意識を“幻視”で捉えなければならない。
それから、幻視で自分のもののように把握される相手の意識に、自分の“意思”を送り込むのだ。上手く行けば、相手の意識は私と完全に同調し、意のままに動かせるようになる。
今、ヨロイに対してそうしているように……。
ヨロイの意識を乗っ取った私は、そのままヨロイを応接間の外に誘導した。廊下をひたすら歩かせて、この場所から引き離すのだ。ずっと、ずっと遠くまで。
「……まだよ……もう少し……あいつを引き離してから……」
守が、クエスチョンマークでいっぱいの思考を私に向けているのを感じたので、私は眼を閉じたままで返事をしておいた。
やがて、ヨロイの気配はすっかり遠退き、私の集中力にも限界が来た。
「はあ、はっ、ち、ちょっと、限界、かも」
床に手をつき、私は大きく息を吐いた。ちょっとした距離を走り抜いたような疲れが、全身を重たくしていた。
夜見島事件以来、実に一年ぶりに使った“感応視”は、やっぱり骨身に応えた。辛うじて成功したから良かったけれど、今度また同じことをやれと言われても、できる自信がない。
やっぱり私のちからはもう、夜見島に居た時ほどには強くない。
そんなことを考えながら顔をあげると、守と眼が合った。
その眼には、小さな怯えが見て取れる。一年前、私が初めて自分のちからを明かした時と、同じように。
「郁子……君は」
蒼ざめた彼は、かすれた声で、それだけを言ったのだった。
【つづく】
とにもかくにも、命拾いをしたことにほっと胸を撫でおろした守は、ヨロイが戻って来た場合に備えるつもりなのか、廊下側の入口に鍵をかけた上に、応接間の椅子やらテーブルやらで扉を塞いでバリケードを築き始めた。
「これで暫くは持ち堪えるだろう」
作業を終えると振り返り、ソファーに座ってぼんやりしていた私の顔を見ながら、その場にどっかりとあぐらを掻いた。
「……」
「……」
気まずい沈黙が続く。
お互い、言いたいこと、聞きたいことはたくさんあるはずなのに、いざとなると言葉が出てこない。
無意味に時間だけが過ぎてゆく――。
「……あのさ」
先に口を利いたのは、私の方だった。
「私……そっちに行ってもいい?」
「え?」
守が怪訝そうに聞き返す。私は、守から微妙に目線を外して言葉を続けた。
「なんか、いっぱい怪我しちゃってるじゃん? 手当てとか、した方がいいのかなぁって……嫌だったら無理にとは言わないけど」
守は、ヨロイから受けた傷でボロ雑巾みたいな見た目になっていた。痛々しくて……可哀想で、ちょっと黙って見ていられなかったのだ。
けれど……守は何も返事をしてくれなかった。
息が詰まるようなよそよそしい、困惑しきった感情だけが、悪い空気のように彼の胸から漂い出ていた。
ああ、やっぱり……。守の拒絶に耐え切れなくなった私は、躰をねじって守に背を向けた。
そしてポケットを探り、ハンカチと小さなポーチを出した。
「これ、よかったら使って。絆創膏とか、中に入ってるから……」
私は後ろを向いたまま身を屈め、絨毯の上、ハンカチとポーチを守の方に滑らせた。
「郁子……」
守は立ちあがり、私の方に寄って来る。隣に座り、私の顔を覗き込もうとした。
「やめてよ!」
私はソファーから立ちあがって、バリケードの前まで逃げて叫んだ。
「……何で、私を助けたの?」
バリケードに向かって、私は呟いた。
「だって守、私のこと疑ってんでしょう? さっきホールで私の腕掴んだ時……守の心、私への不信感でいっぱいだったよ」
振り向きざまに、大きな声でそう言った。もう、違うのに。ほんとは私、こんなことを言いたいんじゃない。話さなきゃならないことはたくさんあるんだ。
このお屋敷のこと、柳子のこと、それに――今までずっと隠し続けてきた、私の本当のことも――。
思いとは裏腹な言葉を吐く私に、守はいやに視線を浴びせつつ、いやに冷静な口調で、こう言った。
「郁子……おれの心を読んだのか」
しまった――とっさに口を押さえたけれど、もう遅い。思いがけず、私は私の「本当のこと」の一端を、守にばらしてしまっていた。
「そうよ」
こうなったら仕方がない。私は自虐的な笑い顔を浮かべて頷いた。
「そう私……守の心を読んだの」
みっともなく声が震えてしまう。
震える声で、私は告白した。私が、自分のちからを失ってなんていなかったこと。
夜見島に行くまでは不安定だったちからのコントロールも、夜見島で要領を覚えたおかげで、今はずっと上手くできるようになっていること。
そして――この一年の間、守の心だって、私は読み続けていたのだということも……。
私の告白を聞いた後、守の心は、黒い雨雲が垂れ込めたような状態になっていた。
(読まれているのか?)(こんな感情も)
うん、ごめん。また読んじゃった。私の意識のアンテナ、さっきからやけに感度がいい。最初お屋敷に来た時の、麻痺して役に立たなくなったような感じが嘘みたいに……。
「じゃあ郁子……郁子は今日、おれが君をドライブに誘った理由も、全部承知で着いて来た……ってこと?」
守は、出し抜けに変な処を突っ込んで来た。な、何なのいきなり。そんなこと、急に訊かれても……。
守は暫く私の様子を見守った後、ソファーから身を乗り出して、私に呼びかけた。
「なあ郁子。こっちに来なよ。少し落ち着いて話をしよう。おれ、君に訊きたいことがあるんだ」
「……訊きたいことって、何?」
バリケードの方を向いたまま、私は答えた。
守はいったん腰をあげてこちらへ来そうな素振りを見せたけど、思い直したのか、ソファーに腰を据え直して、私に言った。
「郁子はさ……この屋敷に来るの、初めてじゃないんじゃないか?」
「どういうこと?」
わたしはちらっとだけ振り向いた。ソファーの肘掛けにもたれ、守は続けた。
「おれさ、お前に逃げられた後、屋敷の外にテラスを見つけたんだ」
「テラス?」
「ああ、デッキチェアーが並んでて、藤棚があった。そこの藤棚でな、見つけたんだよ。失くしたはずのおれのナイフと……藤棚の支柱に刻み込まれた、小さな子供のたけくらべの跡。
そこには名前も彫ってあったんだ。「イクコ」って名前と……それから、「リュウコ」って名前が……」
「守それ……本当なの?」
私は守を振り返り、深刻な口調で問い質した。私の勢いに圧倒されたのか、守は肩をすくめておずおずと頷いた。
「私もそれ見たい! ねえ、テラスって、どこにあるの?」
「落ち着けよ。今は止めた方がいい。またあのヨロイと鉢合わせでもしたら、どうするんだ?」
「いいから教えてよ! テラスって……あ、もしかしたら」
私には心当たりがあった。藤棚のあるテラス……あそこへは確か、ああ行って、ああ行けば……。
こうしちゃいられない。
柳子との思い出。たけくらべの跡。そうだ、だんだんと思い出してきた。私はあそこに行かなくちゃ。あそこに行って、あれを、取り戻すの――。
私は、守が腰かけているソファーの脇をすり抜け、ピアノホール側の扉に向かった。
「待てったら!」
守が行く手を阻もうと腕を伸ばしたけど、私はそれを振り払った。
やっぱりこれは、私の問題なんだ。守はただ巻き込まれただけ。これ以上迷惑をかけたくない。守を――これ以上危険な目に、遭わせたくない……。
「いいから! 守はここに居て! 私……私達をこんな目に合わせた犯人、判ったかも知れない!」
それだけを言い残すと、私は勢いよく扉を開けて応接間を出た。
ピアノホールに入って、隠し扉の方から廊下に出た時、不意に、眼の前がすうっと暗くなった。貧血を起こしたようなこの感覚――まさか、例の“発作”? こんな時に? めまいと共に膝をついた。
けれどもこれは、いつもの“発作”とはちょっと様子が違っていた。あの“発作”にはつきものである、意識のぶれる感覚がないのだ。
その代わりに、やたらと躰が重たく感じる。
ああ……沈む……私の意識が……何かに押されて……。
茜空に、山へ帰るカラスの声が響いていた。
涼しい風が、木組みのテラスを吹き抜ける。
夏の終わり、そして、秋の訪れを感じさせる爽やかな夕暮れ。私は藤の葉陰に立ち、藤棚の支柱の前でぴんと背筋を伸ばす柳子と、柳子の頭に物差しを宛がって背丈を測るお母さんの姿を見つめていた。
「ほらね、やっぱりあんたも伸びてるよ」
お母さんは、柳子の背丈の位置を物差しで指し示した。その高さは、さっき測った私の背丈と、全く同じだった。
「あーあ。ぜったいわたしのほうがのびてるとおもったのになあ」
腕組みをしてそう言うと、お母さんと柳子は柔らかく笑った。
「じゃあお母さん、厨房の方を手伝って来るからね。あんたたちは、ここで仲良く遊んでなさいね」
藤棚の支柱に、柳子の背丈を釘で刻んだ後、お母さんはテラスから去って行った。
柳子と私は藤棚の下、その背中を黙って見送った。
お母さんの姿が見えなくなると、私達はどちらからともなく顔を見合わせた。
柳子は、寂しさと悲しさ、そして、諦めの入り混じった、複雑な感情をその顔に表していた。
おそらくは、私も同じような顔をしていたことと思う。
ここへ来てもうすぐ三ヶ月。お屋敷との、別れの時が迫っていた。
お屋敷との別れ――それはすなわち、私と柳子との別れも意味していた。私達は、無言のままおでことおでこをくっつけた。心さえも共有しているような私達。もう、言葉なんかはなくったって、こうするだけで話ができた。
――郁子、あれは?
おでこを通じて、柳子は私に呼びかけた。脳裏に浮かぶ、黒い扉のイメージ。
それは、先生から決して近づいてはならないと言い含められていた、「開かずの間」の映像だった。
『屋敷のどの部屋でも自由に入って構わないが、二階の奥の黒い扉の部屋にだけは、入っちゃ駄目だよ。あそこは実験室なんだ。危ない薬品なんかもあるからね』
先生の言いつけを、私達はずっと守って過ごしてきた。先生が本気で私達を心配してそういったのであろうことも、理解できたからだ。
だけど私達は、この三ヶ月に渡るちからの訓練の結果、先生の予想を上廻るほどのちからをつけていた。もう、つき過ぎているくらいだった。
私達は、先生もあずかり知らぬうちに、先生の、理性的な言いつけの裏側にある、心の深い部分にまで足を踏み入れ、そこにあるものを読み取ってしまっていたのだ。
先生の心の深い場所には、あの「開かずの間」の真実が隠されていた。見えたのだ。彼が「開かずの間」について語る時、黒い扉や、中にあると思しき実験室の無機的なイメージと被さって必ず現れる、謎の光景。
それは――真っ赤な花に覆われて、赤い空気に包まれた、不思議な楽園の風景だった。
その楽園が何であるのか、先生の心からは読み取ることができなかった。
ただ、その風景が現れるたびに、先生の心には、無意識的な畏怖の念と、さらには、当時の私達には到底理解のできなかったもの――妖しい、官能的な気分との綯い交ぜになった感情が、ぼんやりと浮かんで見えたのだった。
その、未知なる妖しげな感情は、赤い楽園の美しさとも相まって、私達の胸をざわめかせた。私達は、その楽園をこの眼で見たいと願うようになった。
計画は、秘密裏に進めなければならなかった。先生にも、お母さんにもばれないよう、慎重に。私達は急がなかった。気を長くもって機会を窺い続けていた。どうせ、必ずしも達成しなきゃならない目標ってこともなし。
単調な山の暮らしの中の、ほんの退屈しのぎのようなものだったから。
だけど、その期日がもうすぐそこにまで迫っているとなれば、さすがの私達もそう悠長に構えてはいられなくなった。
ここに居る間に目的を果たさなければ、今度はいつここに来られるのか判らないのだ。それに、こんな風に何かの目的に思いを巡らせていることは、やがて訪れる別れから気を逸らしてくれるので、私達に取って都合が良かった。
ここ数日の間、私と柳子は、いつものようにお屋敷中を駆け廻って遊んでいる振りを装い、お屋敷のあちらこちらを調べて廻っていた。お屋敷で働く使用人達の意識にも探りを入れた。
そして、ついに私達は見つけていたのだった。あの「開かずの間」を封じている鍵の所在を。
でも、鍵の在りかを見つけたからといって、即座に行動を開始する訳にもいかなかった。鍵は、先生自身が上着の内ポケットに入れて、いつも持ち歩いていたのだ。私達にはどうにも手の出しようがなかった。
――郁子、どうすればいいとおもう?
弱々しく私に問いかける柳子に対し、私は自信満々だった。
――だいじょうぶだよ、柳子。ちゃんとてはあるんだから。
実際、私には考えがあった。
鍵の持ち主である先生は、毎日毎日計ったようにきっちりと同じスケジュールで行動していた。
朝六時に起きて、朝食を取り午前中は私達と研究。お昼を食べた後、私達のお昼寝の間に事務仕事を片づけて、午後二時から夕方の四時ぐらいまでまた研究。
その後、六時の夕飯まではテラスに出て夕涼みをしたり、ピアノホールにピアノを弾きに行ったりして自由に過ごす。
夕飯が済むとすぐ二階の「開かずの間」に篭り、おそらくはその日の研究の成果をまとめたり、他の研究なんかもして、日が変わるぐらいの時間になってからやっと下へおりて来て、入浴。就寝。
このスケジュールの中で、先生の躰から鍵が離れるのは、お風呂の時と寝ている間だけだろう。
――それじゃあ、そのどっちかのときにかぎをぬすむの?
柳子の心の問いかけに、私は小さく頷いた。
私の考えはこうだった――今夜、私達は夜なべして、お母さんが眠った後、なおかつ先生が入浴をしにおりて来る前を見計らって浴室に向かう。
どちらか一方が脱衣場の洗面台の下の物入れに身を潜め、先生が来て服を脱ぐのを待つ。先生がシャワーを浴び始めたら、上着の内ポケットから鍵を取り出して浴室の外に脱出し、二人合流して、そのまま「開かずの間」へ直行する――。
まあ、五歳児の思いついた計画としちゃあ、まあまあの線だったんじゃないだろうか?
そうとなったら、すぐに行動を開始しなければならない。
私達はテラスからお屋敷内に戻り、浴室の洗面台下の物入れに仕舞ってある洗剤のストックなどを、こっそりと隣のランドリールームに移動させた。中に隠れる余地を作らなくてはいけないからだ。
中を空にした物入れには、私達のちっちゃい躰がぎりぎり入る程度の広さはあるようだった。
――でも、どっちがここにかくれるの?
どっちでもおなじようなものだったけど、ここは、発案者である私が入ることにしておいた。
同じ躰と同じ心を持っているとはいえ、育ちの違いからか、私と柳子にはちょっとしたキャラクターの違いがあった。やんちゃで聞かん気な私に比べると、柳子はちょっとだけ女の子らしくておしとやかだったのだ。
そして、私達は夜を待った。
隣の部屋で寝ているお母さんの意識が完全に眠りに落ちているのを“幻視”で確認し、私達は部屋を抜け出した。
私は浴室の洗面台下に隠れ、柳子は――夜のランドリールームは怖いので、浴室から廊下を挟んだ向かい側にある、バーカウンターやビリヤード台などの置いてある部屋に隠れていることにした。そこは、テラスと繋がっている部屋でもあった。
それぞれの場所に身を潜め、どきどきわくわくしながら待っていると、間もなく先生がやって来た。
服を脱ぎ、浴室に入ってシャワーの音が響き出すのを待ってから、私は物入れの中からそっと抜け出し、脱衣籠の中にきちんと折り畳まれた上着を探って、目当てのものを見つけ出した。
――やったあ!
でもまだまだ油断はできない。先生の様子を霞みガラス越しに伺いながら、私は注意深く身を屈めて浴室の出口の扉を開け、音をさせないようにそれを閉めなければならないのだ。
なんとかその条件も達成すると、すでに幻視で成り行きを知っていた柳子が、隠れていた部屋の扉を開けて待っていた。私は柳子の元へと突っ走り、彼女と共に部屋に入って扉を閉めた。
私達は歓声をあげ、手を取り合って跳ね廻った。
部屋は、壁が分厚く音を通さないから、ちょっとぐらい騒いだって外に漏れる心配はなかった。
でも、だからといって、いつまでもはしゃいでいたって仕方がない。
「ぼやぼやしてられないよ、はやくうえにいこう」
「うん」
私の言葉に柳子は頷き、私達は、手に手を取って廊下へ戻ろうとした。
突然、屋敷中にけたたましい警報が鳴り始めたのは、まさにその時だった。
私達二人は口から心臓が飛び出し、腰を抜かしておしっこを勢い良く噴射しそうになるほど驚いて、部屋に逆戻りした。
「い、郁子、どうしよう? これ、わたしたちのせいなの?」
「わ、わかんないよぉ、そんなの」
慌てふためく私達は、何の考えもなしにテラスへ逃げ込んだ。
その後に私がしたことは、私自身にもよく判らない、理解のし難いことだった。
今考えるに、鍵を盗んだことがばれないようにしなければならない、という保身の気持ち、そして、せっかく手に入れた鍵を手放したくないという、欲の気持ちがそうさせたのだということなんだろうか?
とにかく私は、今すぐテラスに鍵を隠さねばならないと考えたのだった。
月明かりの下、夕刻たけくらべをした藤棚の支柱の根元、床板の隙間に鍵をねじ込み、その上から、ちぎった藤の葉っぱもねじ入れた。
それから、私のしていることをぼんやりと眺めていた柳子と共に、テラスの片隅でしゃがみ込んで震えていた。暫く後になってから、お母さんが見つけに来てくれるまで――。
後から聞いた話によると、警報の出処は「開かずの間」であったということだった。
なんでも、火を扱う実験をしていたとかで、開かずの間に熱が篭り、火災報知器が反応してしまったらしいのだ。
神秘的な赤い楽園を擁していたはずの「開かずの間」に、火災報知器なんかが設置されていたという事実は、私と柳子を驚かせ、そして、妙に白けさせてしまった。
「開かずの間」なんてもったいぶった呼び方をしたって、所詮はただのお屋敷の一室に過ぎないのだということを、思い知らされてしまったのだ。
私達は二人共、「開かずの間」に対する興味をにわかに失い、意識の隅っこに追いやってしまった。
先生が、「開かずの間」の鍵を失くしてしまって困っている様子を見せても、知らん顔を決め込んだ。真実を明かして怒られるのが嫌だったからだ。
もっとも、鍵を失くした後にも先生は「開かずの間」に出入りはしていたようだったので、きっとスペアキーがどこかにあったのだと思う。
程なくして、私達がお屋敷から引きあげる日がやってきたので、そのごたごたのせいで、鍵のことなど完全に忘れ去ってしまった。私と柳子、そしてお母さんも、大泣きに泣いて、泣き疲れて眠った状態で車に乗せられ、それぞれの住まいに送り届けられた。
「懐かしい思い出だね」
闇の中にぽっかりと浮かんでいる私達親子の寝姿を、膝を抱えて見ていた私に、あの女が背後から呼びかけてきた。
「この時のこと、今でも覚えてるわ……眼が覚めたらお母さんだけで、あんたが居ないのよ。寂しかったぁ……」
「あんたはまだいいでしょ。お母さんは一緒なんだから。私なんて独りぼっちよ。寂しいなんてもんじゃなかったよ」
「……うん。そうなんだろうね、きっと」
私は、静かに頷く彼女を振り返った。
「やっぱりあんた、柳子だったのかよ」
「今さら気づいたのかよ」
私とまるで似ていない女は、それでも、柳子そのものとしか言いようのない気配を発しながら、薄っすらと微笑んだ。
「遅いよ。私、ずっと言ってたじゃん。『私はあんた』だって、もう随分前から」
「判る訳ないでしょ! だってあんたのその顔!」
柳子の顔を、私は指さした。ぽってりと肉感的な唇。濡れたように輝いている黒目がちな瞳。私と一つも似た処のないその顔。その代わり――あの人魚に瓜二つの……。
「整形した……って訳じゃあないんだよね? どうして顔が違ってるの?」
「目覚めたからよ」
私の問いに、当たり前のような口調で柳子は答えた。
「ひとたび目覚めれば、お母さんと同じ顔に変わるの……躰もね。光の下では生きていけない躰に変わってしまうわ。あんただってそう。あんたは私と同じなんだから、目覚めさえすれば、あんただって、私のように」
「何言ってんの? 目覚めるだの、顔が変わるだのって……いったい何の冗談よ?」
「本当は判っているはずよ、あんたにだって」
柳子の黒い瞳が、私を見据えた。
暗闇の中を、一条の光が走った。
蒼白い月明かりの中に、細長い守のシルエットが見えた。落ち着きなく周囲を見廻して、何かを――多分私を、捜している。
「まもる……」
私は守に呼びかけた。守は、ぎょっとした顔で振り返った。私が背後に居たことに、まるで気づいていなかったらしい。私は、ゆっくりとした足取りで守に近づいて行った。
ピアノホールの冷たい床を踏み締める私の足は、いつの間にか素足になっていた。着ているものも違う。素肌に白いスリップドレス……ピアノの鍵盤の上で見つけた、あのいやらしい透け透けシースルーだ。
裸同然の私の姿を、守の眼は、食い入るように見つめている。彼の熱い視線が、私の裂け目をも熱くする……。
「まもる……好きよ」
私は守の前に立つと、腕を伸ばし、守の肩に置いた。誘うように唇を濡らし、上目遣いでじっと見あげた。薄闇の中、守の躰から、焔立つような情欲のオーラが噴き出しているのが見えた。守は、喉仏を上下動させて生唾を飲み込むと、私に向かってこう言った。
「君は……柳子だろ」
私が、眼つきを鋭くして守を睨みつけると、彼は表情を硬くして私から身を引いた。私は声をあげて笑った。
「やっぱりそうか……!」
憎々しげに呟く守を見据え、私は馬鹿笑いを続ける。大口を開けて――一瞬、自分の口が裂けたような錯覚を起こす。
そんな私の顔を見た守は、素っ頓狂な悲鳴をあげ、背筋を伸ばして跳びあがった。私はもっともっと笑った。逆上した守は、蒼白な顔でナイフを構えると、私の胸に突き立てた。私は死んだ。
気づくと私は、またあの暗闇の中に居た。
眼の前には裸の柳子。私は、柳子に食ってかかった。
「あんた……勝手なことしないでよ!」
「勝手なこと?」
小首を傾げ、物憂げな仕草で柳子は返す。私は言った。
「そうよ! あんた……私の躰を、勝手に使ったじゃない!」
今、ピアノホールで守を笑い、彼の怒りを買って刺されたのは、私の躰を乗っ取った柳子だったんだ。
「これが目的だったのね? 最初から……守に私を殺させるつもりで、あんたは……!」
「落ち着いてよ。そんな訳ないじゃん」
「じゃあ何で……!」
「落ち着いてってば。あんたは刺されてなんかいないの。直前に、私が瞬間移動させたから」
「しゅ、瞬間移動!?」
突拍子もない言葉が出てきた。こいつ、何言っちゃってんだろう? 瞬間移動だなんて……SFじゃないっつうの。
……つってもまあ、そんなこと、テレパシー能力なんてのを持ってる私の言うことじゃ、ないかもだけど。
でもどっちにしても、瞬間移動だなんて馬鹿な話はないよ。私にそんな便利なちからは備わってないんだし、だったら柳子にも、そんなもんがあるはずは……。
「私にそんなちからがあるのが、信じられない? でもあんただって、人の心を読む以上のちから、使ったことあるでしょう? さっきもやってたじゃない。ヨロイさんの意識を乗っ取って操った……」
「あ、あれは! 心を読むちからの、延長みたいなもんだからさ……瞬間移動なんかとは違うよ」
「ううん、違わない。瞬間移動って、要は飛ばした意識の元へ躰を運ぶってだけの行為なんだもの。基本的には、離れた場所に居る人の意識を探ることと、そんなに違いはないの……
もちろん、先生に言わせれば、『使用される脳の領域は桁違い』ってことだから、それなりに大きなちからは必要としているんだろうけど」
「せ、先生だって? まさか……」
私は胸がどきっとした。まさか、この廃屋同然のお屋敷に、先生が居るっていうの?
玄関ホールで、二度に渡って私を犯そうとした男のことを思い出す。あの男、あいつの正体はヨロイじゃないかと、心のどこかで私は決めてかかっていたのだけれど――。
「先生はもう居ないわよ。忘れちゃったの? 先生の言葉、昔あんたも一緒に聞いていたはずなのに」
「え、ああ……」
十四年前の言葉なのか……はっきり言って、全然覚えちゃいない。
でも、確かに。
確かに私、柳子と一緒にちからの使い方を色々と習って――その中には、人の心を読んだりすること以外の、別の能力を発揮する方法もあったような気がする。ちからだけでものを動かすだとか、ちからを使って、離れた場所に自分を移動させるだとか……。
でもそれは、いずれも全く成功していなかったはずだ。「理論上は可能であるはず」という先生の主張を実証できなくて、申し訳なく思った気持ちは、なんとなく胸に残っている。
柳子は、先生の理論を実証できるようになっていたというの?
「そうよ」
私の心の声に、柳子は深く頷いた。
「一年前……このお屋敷に舞い戻った私は、ここで不思議なちからを浴びた……」
「不思議なちから?」
「私にもよくは判らない。それはある時突然、『開かずの間』から噴き出してきたものだった」
「開かずの間……柳子は、あそこに入ったの?」
「ええ」
柳子の瞳が、真っ直ぐに私を見据える。
「私が来た時、あそこは完全に封印されていたけれど……あそこから噴き出たちからのおかげで、私はあそこに入れるようになった。
他にも、色々なことができるようになったのよ。『開かずの間』に隠された楽園――そこに開いた、『ちからの大穴』のおかげで」
「ちからの、大穴……」
私は、痴呆のように柳子の台詞を繰り返した。
「だけどね、『ちからの大穴』から新しいちからを得たのは、私だけじゃないのよ。郁子、あんただって……その恩恵を受けているはず。もう気づいてるでしょう? 新しいちから。あんたの深い場所から引きずり出された、本当のちから……」
不意に、私達を取り囲む闇が深さを増した。
柳子の声が――その存在が、私の前から遠ざかってゆく。
「ま、待って柳子! いったい何なの!? 私の本当のちからって……」
柳子を呼び止めようとして伸ばした腕が、眼の前の壁に打ち当たった。
「あ、痛!」
そこは、ピアノホール前の廊下だった。
とっさに私は、自分の躰を見おろす。守に刺された痕は――やはりない。それ以前に、私の格好はあのシースルーじゃない、元から着ていた自前の衣服に戻っていた。
どうなってんの、これ?
まあそんなことより、今はとにかく、守の処に戻ろう。柳子のこと、そして、私とお屋敷との関わりについても、ちゃんと話しておかないと。
私はピアノホールの扉を開けた。
「守!」
ガラスの前に立ち尽くしていた守は、私の姿を見て一瞬眼を剥いたけど、私が元の「私」であることをすぐに理解し、ほっと胸を撫でおろした。その手には、さっきまで私を乗っ取った柳子が着ていた、シースルーのスリップドレスが握られていた。
「……柳子がここへ来たのね?」
ドレスと守の顔を見比べて、私は言った。さっき、守は柳子の名前を口にしていた。テラスのたけくらべ跡を見て、「柳子」という存在がここに居ることを、何となく感づいたのかも知れない。
けれども、私の見解は少々浅かったみたいだ。
守はそれどころじゃない、もっと深い事情までも、把握していたようだった。
「話しておきたいことがある」と言った私に対し、彼はこう言ったのだ。
「うん。おれも郁子に聞かなきゃいけないと思ってたんだ。君が……柳子やお母さんと一緒に、ここで過ごした時のことを」
「守、どうしてそれを?」
眼を丸くした私に、守は、さっきの応接間のチェストから見つけたという、写真と手紙を見せてくれた。
写真は、このお屋敷で撮影された五歳の時の私と柳子。手紙の方は、このお屋敷から帰った後に、お母さんが先生に宛てて書いた、お礼状のようなものだった。
写真の私達の顔は、釘か何かで滅茶苦茶に引っ掻かれているし、手紙は黄ばんで染みだらけだったけど、どちらもその内容が辛うじて理解できる感じだった。
「郁子はこの屋敷のこと……覚えてなかったの?」
守は、当然の問いかけを私にする。私は頷いた。
「ほんと変な話なんだけどね。私、さっき子供部屋を見つけるまで、ここに柳子と居たこと、完全に忘れてたんだ」
「子供部屋?」
「そこに、柳子とお揃いで貰ったお人形があったの。それを見たら、いきなりワーッと記憶が甦ってきたっていうか」
「まあ、忘れるのも無理ないかもな。まだ小学校にもあがってない、うんと小さい時の話なんだから」
守は、私の言葉をすんなりと信じてくれた。やっぱり守は素直だ。そして、優しい。
「そう……だよね」
守にそう答える私の心は、複雑だった――。
ホール中央のピアノの前で、私は暫くの間、守に対してお屋敷の思い出を語った。
もちろん、柳子のことも。守は、私の長くて取り留めのない思い出話に、時々相槌を交えながら、辛抱強く付き合い続けてくれた。
「柳子……私のこと、怒ってるんだ」
ひとしきり喋り尽くした後、私はぽつりと呟いていた。
「私が、柳子を忘れたから。この屋敷でのことも忘れて、柳子とお母さんを、見捨てたから」
「それは違うよ」
強い口調で守は言った。
「要するに、お互いの環境の変化に伴って、精神が同調しにくくなってしまったってことなんだろ? そんなの郁子だけのせいなんかじゃない。
だいいち、そんな十数年も昔のことを未だに根に持って、こんな陰険な復讐をしてくるなんて……こう言っちゃなんだけど、今の柳子はマトモじゃない」
守はあくまで、私の味方をしていてくれる。浴室のこともあるせいか、柳子に対しては、怒りと畏れの気持ちがほとんどのようだ。
「十数年前……そうなんだよね。何で今なんだろ? これまで何もしなかったのに、今になって何で?」
それは、さっき独りでいた時にも、ちょっと疑問に思っていたことだった。
この十数年もの間、柳子は、私に対して自分からコミュニケーションを取って来るということが、まるでなかった。ちからによる心の交信はもちろんのこと、電話や手紙といった、ごく普通の手段でも、だ。
それに関しては、私の方だって同様だったのだから、偉そうなこと言えやしないのだけど――とにかく、そんな柳子がここへ来てこんな風に私に執着し出すだなんて、あまりにも唐突過ぎる。
……あ、そうだ。
そういえば柳子は、私の心の中で、こんなことを喋ってはいなかったか?
〈一年前……このお屋敷に舞い戻った私は、ここで不思議なちからを浴びた……〉
一年前。柳子はここを、一年前に訪れた。そしておそらくは、それ以来ずっとここに居たのではないだろうか? でも、それはなぜ? なぜ柳子は、こんな人里離れた山の中で、引き篭もりなんてやってなければならなかったの?
〈ひとたび目覚めれば、お母さんと同じ顔に変わる……〉
〈光の下では生きていけない躰に変わってしまうわ……目覚めさえすれば〉
柳子の言葉を思い出し、私は、躰の芯が冷たくなるのを感じた。
柳子は、目覚めたんだ。
私が起こしたのと同じ、“発作”によって――柳子は元の顔を失い、躰もきっと、闇の住人のものに変化してしまった……。
もしそうであったなら――ああ、何てこと。柳子はそれで、どれほど苦しんだことだろう! 顔が変わってしまったから、お母さんの元を離れざるを得なくなり、光に弱い躰になってしまったために、まともな生活は送れなくなったんだ。
こんな場所で隠遁生活なんかを始めたのは、きっとそのせい……。
いやいや、そんなのはただの推測でしかない。
そんな馬鹿なこと……そうではない理由があるのかも知れないじゃない。いや、むしろあって欲しい。
それが、私に対する強い恨みだとか、そういうのでもいいから……。
その時、ふっと脳裏の暗がりに浮かんだものがあった。
「日記……」
あの、ミイラの部屋で始めに見つけた、赤い日記帳。
今にして思えば、あの日記に感じた奇妙な“愛しさ”や“懐かしさ”みたいな感情は、私の、柳子に対する感情、そのものだった。
私には判る。あの子多分、ここに居る間、日記をつけていたに違いないんだ。私は守の顔を見あげ、真剣な口調で言い放った。
「ミイラの部屋へ戻ろう! あそこにあった日記……多分あれで、何か判ると思う」
廊下へ出て二階へ向かおうとした私達の前に、急にまたあのヨロイが現れた。
「きゃあっ!」
「うっ? ま、またか……!」
ヨロイは剣を振るう。私達はそれをすんでの処で避け、床に転がった。
「このヨロイ……きっとこいつも、柳子が動かしているんだ!」
「りゅ、柳子が?」
「念動力……つまり、念の力で自由に物を動かせる力だよ!」
守は、双子の姉妹である私と柳子との能力に、違いがあるのだと考えたらしかった。
私が精神感応で、柳子が念動力っていう風に、違いがあるのだと。
実際の処、私と柳子のちからは同じなはずなんだけど――でも判らない。柳子の奴、ひょっとすると例の「大穴のちから」とやらによって、念動力も使えるようになっていたのかも知れないんだ。
ただ、このヨロイを柳子が動かしてるっていうのには、ちょっと頷けない部分がある。
だって私、さっきこいつの意識を乗っ取ったんだもん。だったら「中の人」だってちゃんと居るはずだ。
「郁子! 例の感応視で何とか出来ないか?」
守は、ヨロイの攻撃を防ぐために、私のちからを頼ってきた。感応視が効くんなら、中には人が居るんだって考えには及ばないみたい。無理ないけど。こんな、生きるか死ぬかの状況じゃあ、深い考察なんかできないし。
「む、無理だよぉ……こんなに剣を振り廻されてたら、集中するヒマも……ひいっ!」
剣の切っ先が、私のデニムの腰のをかすめた。
痛い! 腰の部分を薄く切り裂かれた私は、悲鳴をあげて座り込んでしまう。
私が攻撃を受けたのを見て、闘志に火がついたらしき守は、ヨロイの胴体に蹴りを入れた。鉄の防具は派手な音を鳴らしたけど、効いている様子はまるでない。よろいはじりじりと私に寄って来る。
そして――。
「ひっ? い、いやあぁああ!」
「い、郁子ぉっ!」
ヨロイはいきなり剣を捨て、私の躰を高々と抱えあげたのだ。
「やっ! お、降ろしなさいよ! 降ろしてぇっ!」
私は手足をばたつかせるけど、ヨロイからはどうやっても逃れることができなかった。
その時、ブレーカーが落ちたように、視界が暗転した。
もう……何度目だよ、このパターン……。
さすがにうんざりした私は、闇の中に柳子の気配を探した。けれども柳子は見つからない。……あら珍しい。
ふと見ると、闇の亀裂の向こう側に、薄暗い廊下が見えた。
「郁子……郁子!」
私を見失った守が、痛々しいまでに慌てふためいて私を捜している。
ああ、守……。私は守のそばへ行きたかった。こんな暗闇の中なんかじゃなくて、守のそばにいて、その温かさに触れていたかった。
そうよ。私、暗いのなんて嫌。闇の住人になんて、なりたくない……。
「そう思っていたのが、君だけだと思っているのか?」
聞き覚えのない男の声を聞き、私は思わず、叫び出してしまうほどに驚いた。
声のした方を振り返る。そこに居たのは――あの、ヨロイだった。
「あ……あんたは、どうして……?」
驚くのを通り越し、呆気に取られてしまった。この場所に――この、私の心の世界に、柳子以外の存在が立ち入れるなんて。
私がそのことを口にすると、ヨロイは、微かに笑うような気配を見せた。
「そっか……君は勘違いしてたんだな。この場所が、君自身の心の中だと思い込んでいた訳だ」
ヨロイは、がしゃんと肩を揺すった。
私は、ぽかんと口を開けてヨロイの立ち姿を見続けていた。ヨロイがこうして口を利くというのも驚きだったけど、その声や口調にも驚きを隠せなかった。思いのほか若々しく、普通っぽい感じだったからだ。
多分、私や守と歳もそう変わらない、そこいらに居る普通のお兄ちゃんって感じなのだ。
「私の……心の中じゃないって言うの?……っていうか、そんなことを言うあんた、あんたって……」
混乱の極みの中で、私はヨロイに向かって声を震わせた。ヨロイの中の人が結構“普通”だって判ると、なんだか無性に腹も立ってきた。だって、だってこいつって、お屋敷に来た最初の頃に、私を……。
「この、レイプマン!」
私はヨロイに掴みかかろうとしたけれど、ヨロイはたやすく私の腕を捻りあげた。
「やれやれ。柳子と違って気が強いんだなあ……」
「『柳子』って、呼び捨て?……あんた、あの子のなんなのさ?!」
まさか柳子の奴、こんなのと付き合ってんの?
「まあ、そんなことどうだっていいじゃん。それよりも、君のことだ」
ヨロイは、掴んでいた私の手首を放した。
「……何よ?」
「君が今居る場所が、本当はどこなのか教えてやるよ」
ヨロイは、私をそばに置いてあった椅子に座らせた。
こんな処に、椅子? そう訝しんでいると、ヨロイは私の背後に廻って、その椅子を押し始めた。これ……ただの椅子じゃない。車椅子だ。
ヨロイの押す車椅子は、闇の中をゆっくりと進み、やがて、デコレーションケーキみたいに綺麗な彫刻で彩られた、鏡台の前にたどり着いた。
鏡台は、三面鏡になっていて、今は閉ざされた状態だった。
「いいか? あんまり驚かないでくれよ?」
ヨロイは鏡の蓋に手をかけ、私を振り返った。
「頼むから……大声とか出さないでくれ。……苦手なんだよ。女の悲鳴」
ヨロイは鏡を開いて見せた。
鏡の中に居たのは――ミイラだった。白い着物を着て、髪を後ろに束ねた――あの、車椅子のミイラ。
鏡の中のミイラは、唇の削げてなくなった口を開き、けたたましいサイレンじみた悲鳴をあげた――。
深いしじまの中で、私はぼんやりと膝を抱えて座っていた。
「大声出すなって言ったのに……」
ヨロイがため息をつく気配がする。
「君の声を聞きつけて……ほら、あいつが」
闇の向こうから、守の声。
「郁子ぉーっ! どこに居る?! 頼む、返事をしてくれーっ!」
「心配してたわよ、彼。あんたの声を聞いたとたん、私なんかおっ放り出して飛んでった」
柳子の声だ。私は、はっとして顔をあげた。
「柳子……」
柳子と入れ替わり、ヨロイがどこぞへ去ろうとしているのが見えた。
「行くの?」
柳子は、ヨロイの背中に声をかけた。
「ああ……もうおれに用はないだろ。郁子はもう君と一つだ。君は望みを叶えたんだから」
「確かに、私にあなたを止める権利はないけど、でも……」
柳子は、ヨロイの行く末を案じている様子だった。その心には、恋愛につきものの生臭さや執着心はなかったけれど、意外に深い情のようなものは感じられた。本気で彼のことを思いやっているんだ。旅先で、短い間だけ道連れになった人と、別れる時のように。
「へえ、心配してくれるんだ? 優しいな。でも大丈夫だよ。今まで生きてこられたんだから、これからだって、きっと……」
気休めだけの台詞と共に、ヨロイは軽く手を振った。
これから彼が赴くのは、戦場だ。なぜだか私には、そう思えてならなかった。
「ああ、あとこのヨロイ……「開かずの間」の隣の部屋に置いて行くから。別にいいよな? 玄関ホールに戻さないでも」
「うん。別に構わないけど……」
「良かった。組み立てて設置するの面倒だからな、これ。じゃあ」
いやに生活感のある言葉を残し、ヨロイは姿を消した。
「『ちからの大穴』を通って来たのよ、あの人」
ヨロイの消えた闇を眺めたまま、独り言のように柳子は言った。
「『大穴』が開いてからというもの、ただでさえ不安定だったここは、ますます歪みが酷くなって……別の世界と繋がりやすくなってしまったようなの」
彼は、別の世界の人ってことなんだろうか? でも、別の世界って? あの、化け物だらけの夜見島みたいな世界とか?
だけどまあ、そんなこと、今はどうでも良かった。
「言いたいことがあるようね?」
柳子は腕組みをして、例の物憂げな調子で私に呼びかけた。その仕草。なめらかな肢体に、しっとりと濡れた瞳。つややかな黒髪。
私の眼で見ているこれら全てが、すでに失われているものだなんて、にわかには信じられない。でもそれは、紛ごうことなき事実なんだ。私は言った。
「まさかあんたが……このお屋敷で、ミイラになっていたなんてね」
柳子は多分、このお屋敷に着いた時点で、すでに死んでいたんだ。
死んだ柳子の魂が、なぜ未だに、ミイラ化した肉体に留まり続けているのか、その理由は判らない。それも例の「ちからの大穴」のせいなのか、あるいは、屋敷の周辺に群生している、月下奇人の放つ妖気のせいなのか。
とにかく、生ける屍と化した柳子は、このお屋敷に居ながらにして、遠く離れた私の心に自らの意識を送り飛ばし、一年に渡り、私に訴え続けていたんだ。二人一緒になること。私を闇に目覚めさせ、このお屋敷に招いて、昔のように仲良く一緒に暮らそうと……。
「郁子」
柳子は私の手を取り、私の躰を抱き寄せた。
「郁子だけは……判ってくれるよね? 私がもう、こうするしかないんだってこと。そして郁子、あんたも」
すり寄せられた柳子の頬に、熱いものが伝っている。柳子は泣いていた。
「郁子だって、やがては目覚めてしまうから……そうしたらもう、元の世界には帰れなくなるのよ。元の光の世界からは、受け入れて貰えなくなるの。そう……まもるからも」
「……うん」
返事をする声が潤んでいた。いつの間にやら、私も泣いていたようだった。
「郁子がまもるのことを好きで、まもるから離れたくなくて……光の側に踏み止まっていたこと、私は知ってるよ。そのことで、郁子自身が、とても苦しんでいたことも」
柳子の腕が、私の背中を労わり撫ぜる。
「本当は、諦めなければいけないんだって判っていながらも……だってあの人、暗闇を憎んでいるんだもんね。暗闇は私達の本性なのに……それを受け入れて貰えない以上、あんたの恋は絶望的。残酷な話だよね。でも、私は違うよ。私だけは、郁子の味方だよ。本当の意味で……」
「柳子……」
私は、柳子の背中に腕を廻した。
「柳子の躰はミイラになっちゃってるけど……私の躰も使えるんだよね? 心を、意識を行き来させられるから」
「うん。でも誤解しないでね。私、郁子の躰を自分のものにしたくて、こんなこと言ってるんじゃないんだよ? ただ郁子と、昔みたいに仲良しに戻りたくて……私達の、失われた時間を、取り戻したくて……」
「判ってるよ」
柳子の背中を撫でて、私は小さく笑った。そう、私にだって判ってる。柳子の心には、私を利用しようなんて気持ち、さらさらないんだってこと。この子はただ、私のことを心底思いやってくれているだけ。
私を、希望のない生活と、男に対する浅ましい未練から、救い出そうとしてくれているだけ……。
静かに抱き合っている私達の闇に、か細い光が射し込んだ。部屋の扉――私達の居る、ミイラの部屋の扉が開いて、守が入って来ようとしていた。私の名前を呼びながら――。
――守……!
ついつい声をあげて返事をしそうになった私を、柳子が遮った。守は、私と柳子が今居る場所――つまり、柳子のミイラに向かって、真っ直ぐに歩いて来た。
軽く緊張しつつ見守っていると、守は私、いやもとい、ミイラの膝の上から、赤いものを取りあげた。
それは、例の日記帳だった。守は、眉間に皺を寄せた険しい表情で頁をめくり始めた。
――行きましょう。
私の手を取り、柳子は心で促した。
――彼が私の日記を読んでくれれば、話は早いわ。私達は、下に行って待って居ればいい。それで、彼が日記を読み終わっておりて来たら……一緒に、お別れを言いましょう。
柳子の躰が、私に寄り添う。一瞬の暗転。
気がつけば、私はピアノホールの床に横たわっていた。今度こそちゃんとした自分の躰。
ただし、身に着けているものが、あの白いシースルードレスになっていた。
「やだ」
乳首やお臍、それに、下の毛までが丸見えになった自分の格好が恥ずかしくて、私はもじもじと股間を手で隠した。
しかしこんなに透け透けで、よくもまあ胸の痣が守に気づかれなかったもんだと感心したけど、よくよく見れば、このシースルードレスの胸の部分には、手の込んだレース刺繍の複雑な模様が入っていて、痣のある辺りを上手いことカバーしてくれていたのだった。
はあ、なるほどね……。
――胸の痣がよほど気になるのね。
心の中から、柳子の声が聞こえる。
――痣なんて……消そうと思えば簡単に消せるのよ。やり方さえ判れば……私だって、ずっと消してたし。
「えっ、マジで?!」
思わず私は、馬鹿でかい声をあげてしまった。この胸の痣が消せるっていうなら、そんなに嬉しいことはない。その方法を是非知りたい。
――うん、本当に簡単だよ。ただし、闇に目覚めていることが前提になるけど。
柳子のその一言によって、私の希望は、穴の開いた風船のように、しおしおと萎んで消えてしまった。なんだい、それじゃあ意味ないっつうの。
残念がる私に、柳子の意識が、複雑な感情を向けているのを感じた。
今の“闇に目覚めていない”状態のままで、痣を消したいと願うというのは、すなわち、私の心が、守を完全には諦めきれていないことに、他ならないからだ。躰を共有している柳子に対して、気持ちを誤魔化すことなんかできやしない。
――まあ、別にいいわ。あんたの気持ちがまだ揺らいでいるっていうなら……私から、あの人にきっぱりと言っておいてあげるから。
闇の中から伸びてきた柳子の両手が、私の眼を塞ぐ。視界が闇に落ちると共に、私の意識も閉ざされた――。
【つづく】
月明かりの中に、ピアノのメロディーが流れていた。
少しノスタルジックで、寂しげな旋律。
どこかで聞き覚えのあるその曲は、私の指先によって奏でられていた。音の記憶だけを頼りにたどっているから、処々危なっかしくて、ぎこちない。
そんなピアノに誘われるようにして、守がやって来た。
扉を開けっ放しにしておいたのだから、玄関ホールからもよく聞こえたことだろう。守は、何気ない足取りで私の方へと近づいた。
「それ、何て曲?」
歩きながら守は訊いてきた。その眼は、黄色いタンクトップを着ている私の全身に、注意深く向けられていた。私が郁子か、それとも柳子か、確認しようとしているのか。
「さあ……小さい頃ここでお母さんが弾いてたのを、覚えてただけだから」
鍵盤に指を滑らせながら、私は答えた。横顔に、守の視線を強く感じた。
「柳子の日記を読んだのね?」
黙って突っ立っている守に向かい、私は言った。
「読んだ」
「可哀想だよね。柳子」
守は何も答えない。
「可哀想だと思わないの?」
私はピアノを弾くのを止めた。守の不遜な態度に怒りが込みあげ、鍵盤を力任せに叩いた。
「やっぱりわかってくれないんだね。そうだよね。あんたも所詮は他人だもの」
私は守の無表情な顔を見あげた。
「でも……私は違う。私達は血の繋がった双子の姉妹。かけがえのない、二人きりの……」
そう。私達は、二人きりの同胞なんだ。お互いにお互いだけしか、頼れる者は居ないんだ。見放す訳にはいかない。もう、忘れ去る訳には……。
そして私は、再びピアノを奏で始めた。
「私ね、ここで、柳子と暮らすことにしたんだ」
じっと動かない守に向かい、私は横顔で話しかけた。
「今まで一緒に居られなかった分……これからは、ずっとずっと一緒。絶対離れたりしない」
守の返事はない。暫くピアノの音だけが続いた。
「帰って」
のっそりと無言で居続ける守がいい加減うっとおしくなり、私は冷たく言い放った。
「聞こえないの? 私、もうここに居るって決めたんだから。あなたは一人で帰ればいい」
「……それが郁子の希望なら」
ようやく返ってきた、守のまともな返事。微かに漂う緊張感。守は続ける。
「だけど……ちゃんと郁子の言葉としてそれを聞くまで、ぼくは帰る訳にはいかないよ……柳子」
私の指先が、鍵盤の上で凍りついた。
「そう。今の君は柳子だ。そして郁子は……」
守の腕が伸び、私のこめかみを、指で突付く。
「この中に……君と交代して、今は眠らされているんだろう」
「……何言ってんの?」
「始めからおかしいと気付くべきだったんだ。君と郁子は、必ず別々に現れる。絶対同時に現れない理由。それは、同じ躰を二人で共有していたからなんだ」
守は、柳子の日記を読んで、全てを解明してしまっていた。
私の躰を使う柳子が、上手く誤魔化そうと躍起になっていたけれど、もう無駄だった。
守は、柳子の本体が車椅子のミイラであることも、肉体が死に絶えた柳子が、意識だけの存在となって私に呼びかけていたことも、その独自の理論で解き明かしていたようだった。
「姉妹は一緒に居るべきなのよ」
全てがばれたので、柳子はぶっちゃけトークをしてしまうことにしたらしかった。
「それを望むことは罪? 私、なんにも悪いことしてないよ……」
「郁子もそれを望んでいるんなら……な」
守はあくまでも冷静だ。
「これからどうするつもりなんだ? そうやって郁子の肉体を乗っ取って、朽ち果てるまでここで隠遁生活を続けるつもりか?
あるいは……郁子に成り済まして新しく人生をやり直そうとでもいうのか? 自分が生き続けるために、郁子を犠牲にして君は」
「違う!」
「何が違うんだ!」
「違うのよ……」
柳子はふらりと立ちあがった。顔をあげ、守の強張った頬をなぞる。
「まもる」
柳子は爪先立ちになって背伸びをして、守の顔を、凄い至近距離で見つめた。
「あなたはいい人だわ。私、本当は判ってた。郁子はきっと……あなたと一緒に居るのが、一番幸せなんだって」
「じゃあどうして……?!」
守は柳子の手を掴んで問い質した。
「郁子はね……駄目なのよ」
柳子は、力なく微笑んだ。
「郁子はあなたと一緒にはなれないの。拒絶しているのよ、あなたのこと……
他の、世間の人達に対するのと、同じようにね。だから私が一緒に居てあげないと」
「嘘だ!」
「本当よ」
柳子は守を真っ直ぐ見つめた。守の真剣な眼差しを真正面から受け止め――私の胸まで、なんだか苦しくなってしまう。
「私の言葉が信じられないのなら……直接本人に聞いてみればいいわ」
本人って、私? え、ええっ?
驚く間もなく、私の視ている視界が、ぐるんと反転する。
唐突に意識が浮上して、私の視界はゆっくりと元に戻った。
まず最初に見えたのは、心配そうに私の顔を覗き込む守の眼鏡。
「……郁子か?」
私が、本当に柳子から私に戻ったのか、判別できなくて不安なんだろう。
「守……? 私……」
まだぼんやりとしながらも、私は、私がちゃんと私であることを守に告げようとした。
でもその時、私の腰の辺りで、守の指先の蠢きを感じた。反射的に躰が強張る。私、守に抱きかかえられていたんだ。
「あ、ご、ごめん」
別に謝らなくったっていいのに、守は律儀にそう言って、私の躰からおずおずと離れた。
私も、何となく面映くて彼に背を向けてしまう。
「郁子。すぐにこの屋敷を出よう」
私の背中に、気を取り直したような、守の声がかかった。
「もう雨はあがってる。じきに夜も明けるはずだ。行こう。もう、ここには居ない方がいい」
守は性急に私の腕を掴んだ。私が私である内に、とっととお屋敷からおさらばしてしまう腹みたい。そんなことしたら……柳子はどうなんのよ。私は、守の手を振り払った。
今こそ私は、はっきりと守に告げなくてはいけない。
守との別れ。私が守のそばには居られない、守にふさわしくない女なんだってことを……。
「郁子?」
「守……ごめん」
私は守の方を向いた。そのどこか頼りない、戸惑いがちな顔を見ていると、不覚にも涙がこぼれてしまった。
「全部……柳子の言った通りなの」
私は泣き顔を隠し、守に背を向けた。
「ここに来て……昔のことを思い出して……柳子と話をして……はっきり判ったんだ。私は、守のそばに居ちゃいけないんだって」
「郁子!」
守が、私の肩を掴もうとしている気配。私は叫んだ。
「近寄らないで!」
私は守の方を向き、じりじりと後退して、ピアノホールの出口に向かった。
「もう私に関わらないで……私のことなんて忘れて、もっと他の、まともな女の子と付き合って。
その方が、あなたに取って幸せだから」
「そんな……何を言って……」
「私は化け物なのおっ!」
抑えきれない感情が爆発したとたん、頭上で、ぱん、ぱん! と鋭い破壊音が響いた。
無作為的なちからの発露。
発せられたちからが物理的な作用を及ぼし、天井のシャンデリアに当たって、破裂させたのだ。
これ――もしかすると、柳子の言っていた、私のもう一つのちから?
薄闇の中を、月の光に輝くガラスの破片が降り注ぐ様は、場違いなくらいに綺麗だった。
破片に妨げられて、守が動きを止められている間に、私はピアノホールの外に向かった。
「お願い……もう行って! 私のことは……放って置いて。お願いよ……私……」
廊下に出ると、私は泣きながら走り出した。涙が、後から後から溢れ出して、嗚咽が止まらない。
――守、守、守……!
玄関ホールに着くと、右階段の手すりに掴まって、とうとう泣き崩れてしまった。
だって……だって私、守にさよならを言ってしまった。完全に、終わらせてしまったんだ。
もう元には戻れないんだ。
もう二度と……守とデートをしたり、喫茶店でお喋りしたり、ご飯を作って食べさせてあげたり……できないんだ……。
手すりにしがみついてくずおれ、わんわん声をあげて泣いている私の背後に、何かの気配が迫っていた。
誰? ヨロイはもう居ないはずだし、守にしては方角が違う――。
涙と鼻水まみれの顔をあげて見ると、それは、車椅子のミイラ、すなわち柳子の本体だった。
暖炉脇の扉の方から、車椅子の車輪を軋ませつつ、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「り、柳子なの?」
車椅子の柳子は、膝にあの赤い日記帳を乗せ、さらにその上に、赤茶けた小さな金属片のようなものを乗せていた。
その金属片を見て、私は息を飲んだ。
それは、十四年前のあの日、私がテラスに隠したまま放置した、あの、「開かずの間」の鍵だったのだ。
「柳子……あんた、これをわざわざ?」
――さっき……ちょっとね。あんたが持ってた、まもるのナイフを使って掘り返したの。
柳子の声は、私の心の中ではなく、ミイラ化した彼女自身の中から聞こえていた。
今までのように、本体と私の躰とを股にかけた状態ではなく、完全に私からは分離し、自分の躰に戻っているらしい。
――郁子。あんたはこの鍵を使って、「開かずの間」へ行きなさい。
柳子の心の声が、私に命じた。
――「開かずの間」へ行って……待ってるといいよ。私が確かめてあげるから。
「確かめてあげるって? どういうことよ?」
――だから、彼の……まもるの気持ちを、よ。
そんで、後からまもるも「開かずの間」に行かせるから。
そこで、あんたもちゃんと自分の気持ちを告白するといいわ。
……はあ?
私は、柳子の言ってる意味が理解できず、眼を大きく見開いて、干からびきったミイラづらを見つめた。
「告白って……つうか何なの? その、中坊の子が友達経由で告る時のような段取りは? なんで私がそんなこと……」
――そうしないと、どうにもならないからじゃないの。
郁子ってば、全然まもるのこと諦めきれてないんだもん。
そんなあやふやなままじゃ、困るのよ、こっちも。きちんとけじめをつけて貰わないと。
それも……そう、かも知れない。
私、こうして自分の方から一方的に別れを告げて逃げちゃったけど、これじゃあきっと、守も納得してくれないだろうし。
それに私自身だって、守に対して胸の内をはっきりと明かした上で振られた方が、きっとすっぱり諦められる。
というか、そうせざるを得ないよう自分を追い込まないと、この想いを断ち切ることなんて、できやしないようにも思う。
「そうね……判ったわ。私、やってみる。私の気持ちと一緒に、私の真実を明かすことにする。守の前で……」
そう言って私は、自分の胸に手を宛がった。うん。やっぱり、真実から逃げ続けていては駄目だ。
私のため、柳子のため、そして、守のためにだって――。
――そうそう。その意気よ。
柳子のミイラが、微かに揺れている気がした。こいつ……頷いてるのかな? ひょっとして。
頬に残る涙を拭い、決意を胸に、私は階段をあがった。
――しっかりね!
階下の柳子が、応援の気持ちを私に投げかける。判ってるわよ。見事に玉砕してきてやるから、きっちり視てなさい。
二階まであがって、真っ直ぐの廊下を進む。奥までの道のりが、なんだかやけに長く感じる。
それでもなんとか「開かずの間」の前にたどり着くと、柳子から貰った鍵を、鍵穴に挿し入れた。
……って、ちょい待ち。鍵が開くのはいいとして、この、四隅に打ちつけられた釘はどうすんのよ?
――心配しないで。その釘はダミーよ。本当は壁には刺さってないの。
柳子の声が、親切に教えてくれる。
ダミーだって? 試しにノブを廻してみると、黒い扉は、意外なほどの軽さで、呆気なく開いた。私は呆れた。
――ダミーっていうか、その扉を封印した女の子が、きちんと釘を打てなかったみたいなのね。釘が、ちゃんと壁まで届いてなかったのよ。
女の子?
この扉を本当の「開かずの間」にしていたのは、女の子だったっていうの?
その女の子っていうのは、どんないきさつでここに来て、どんないきさつで、この扉を封印したんだろうか?
今まさに解放されたばかりの「開かずの間」は、意外なほどに狭く、そして殺風景な部屋だった。
本当に、なんもない。明かりは天井にぽつんと灯った裸電球のみ。
壁紙や絨毯なんかの内装もなく、剥き出しのコンクリートで覆われた部屋の片隅に、壊れたテレビだとか、
なんだかよく判らないがらくたなんかが、積みあげられているだけだった。
そんな……これだけ?
慌てて室内を見廻すと、入口から見て右の方の壁に、鉄の扉を見つけた。
金庫の扉のように頑丈そうだけれど、少しだけ開いている。私は、扉の向こうをそっと覗いた。
その扉の向こう側には、出てすぐ左右に伸びた、細い通路が続いているようだった。
左の方から、嗅ぎ覚えのある切ない芳香が漂ってきた。
月下奇人の甘い香り。私は、誘われるかのように、そちらへ足を進めて行った。
暗い通路は、少し行くと鉄格子の扉によって先を阻まれた。
けれど、試しに錆びた扉の端を押してみると、鍵などがかかっている様子もなく、簡単に開いた。
さらに先を進むと、そこは手前の通路よりはいくらか広い、横長の空間になっていた。
こちらはコンクリではなく、石で作られた壁に覆われているようで、妙な音の反響の仕方といい、なんだか洞窟にでも入ったようだった。
そして不思議なことに、花がないにもかかわらず、月下奇人の香りがますます強くなっていた。
この花の香りは、どこから来ているのだろう……?
姿の見えない月下奇人を求め、私は部屋の奥へと進み――やがて、部屋の片隅の床に開いた、丸い穴を見つけたのだった。
丸い穴……これが、「ちからの大穴」?
大穴、と呼ぶには、あまりにも小さいその穴は、人一人がやっと潜れるくらいの大きさ、
せいぜい、街中で見かけるマンホール程度の大きさしかないものだった。
穴の縁には、下へおりて行くためのはしごが埋め込まれているけど、穴の底がどこまで続いているのかは、ここからでは見当もつかない。
けれども、月下奇人の芳香の源がこの穴であることは、疑いようもなかった。
十四年前に、先生の意識の中から垣間見た、妖しい楽園の有様が脳裏に浮かんだ。
あれはきっと、この下にあるんだ。
私に迷いはなかった。私は、穴に頭を突っ込んで、そのまま、穴の中に身を投げた。
真っ暗な穴の中を、私は果てしなく墜落して行った――。
赤い海の中で、私は眼を覚ました。
私の肉体を取り囲む、赤、赤、赤。赤い世界に包まれた私は、ゆっくりと身を起こした。
あれから、どれだけの時間が過ぎたのだろうか?
「不思議の国のアリス」よろしく、考えもなしに穴の中に身を投じ、たどり着いた楽園で、私は少し眠っていたようだった。
一応、腕や足をそっと動かしてみたものの、どこも怪我なんてしていない。
赤く霞んだ高い天井を仰ぎ見ても、自分がどこから落ちてきたのかさえ判らないほどだというのに。
そして、周囲に目線を巡らせれば、見渡す限りの月下奇人の園だった。
一年前に、夜見島の地底で見た赤い海を髣髴とさせる赤い風景。
あの時とよく似た赤い空気に包まれていたけれど、あの時と決定的に違うのは、赤い空気が妖しい花の香りを含んでいること。
甘く、芳しく、脳髄を蕩かしてしまうような、官能的な気分を煽る香りが、私の意識を恍惚とさせる……。
不意に、押し寄せる花の香りが、大好きなあのひとの匂いを運んできた。
守……。
私の胸はにわかに逸る。守には逢いたい。この月下奇人の楽園で――彼の腕に抱き締められたら、どんなにか……。
ああ、でも。私は自らの乳房を両手に掴んだ。
私の望んでいるようなこと、守にはきっとして貰えないんだ。
それなのに私は、ここでこうして、守を待っていなくちゃいけないんだ。
守のため。私のため。柳子のため。それぞれの気持ち、想いに対して、決着をつけるために。
私は顔をあげ、楽園の果てしなく高い天井と、岩壁に張りつくようにしてこの場所まで続いている、螺旋状の鉄階段とに眼をやった。
あの階段の有様までが、あの夜見島の地底に続いていたものとそっくりなのは、偶然ではないように思われた。
ここは、私や守の意識にリンクしているんだ。だから私達の記憶にあるあの場所に似せた形を取っている。
そんなことができるのも、きっとこの場所が、特別であることの証なんだ。
だからこそ、一度死んだはずの柳子を呼び寄せもしたのだろう。
そして、柳子と同じく、この場所との関わりが深い私のことも一緒に引き寄せた――。
そんなことを考えながら鉄階段を見あげていると、やがて、その階段を踏み締めながら下におりてくる背の高い人影が、赤い靄の中から姿を現し始めた。
守だった。
柳子がどうやって、どんな言葉で彼を導いたのかは判らないけど、彼は「開かずの間」に入った私を追って、この地底の楽園へとたどり着いたのだった。
「……守」
階段をおり、黒っぽい岩壁を背にして立ち尽くした守は、険しい顔をして私を見つめていた。
その真っ直ぐな、曇りのない瞳。この眼で見つめられる時、私はいつも自信を失う。
私の中の暗闇を見透かされてしまいそうで、落ち着かない気持ちになる。
それでも、こんな風に目線を落として誤魔化してばかりもいられない。私は、守の強い目線を見返した。
「ねえ……見て?」
守の眼の前で、私はタンクトップを脱ぎ始めた。
タンクトップを地面に落とし、ブラジャーも思い切りよく外して、赤い花の中に放り投げた。
「郁……!」
私の乳房を眼の力でもぎ取ろうとするかのような守の前で、私はさっと腕を掻き合わせた。
覚悟を決めたつもりだったのに、いざとなると、やはり怖い。
――駄目だよ。ちゃんと、見せなくちゃ。
私は自分に言い聞かせ、今一度、守の眼を見た。
守の眼の中には、私の尋常ではない態度への戸惑いと、早く私のおっぱいを見たいと渇望する気持ちとが、ごちゃごちゃに混じり合っているようだった。
こんな彼だけど、実際に私のおっぱい見たら、どんな反応をするのかな?
きっと、さぞかしびっくりして、悲鳴の一つもあげるかも知れない。
そんな想像をしたら、ちょっとだけ緊張が緩んで、勇気が出た。私は掻き合わせていた腕を、開き、守の前に乳房を晒した。
「見て。お願い……私を見て」
私の乳房に眼をやる守のこの表情を、この心の動き方を、私は決して忘れることはないだろう。
まず始めに、私の生の乳房を眼にしたのだという深い喜びと感動があった。
次に、乳房全体の形や乳首の格好なんかをいやに理性的な眼で分析し、
それとほとんど同時に、胸の痣を、人間の眼の形そのものの痣に気がついて、
死に絶えそうなほどの驚愕に襲われ、その意識が、真っ青な恐怖の色に覆われてしまった。
一秒にも満たない、一瞬間のできごとだった。
「これが、本当の私なの……」
いやにしわがれた、老婆のような声がどこかで喋っていた。
それは私の声だった。
叫び出しそうになるのを堪え、酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせている守に向かい、私の唇は、独りでに語り始めていた。
「私と柳子には、生まれた時からこの痣があった。最初は小さな痣だった。
それこそ、乳首と見分けがつかないくらいの。
でも成長するにつれてどんどん大きくなって……あのちからと、比例するみたいに」
私は眼を伏せ、痣に触れながら、ぽつりぽつりと痣のことを話した。
守の思考は、ほとんど停止してしまっているようだった。痣に目線を向けたまま、私の話も聞いているのかいないのか。
「小学校の頃はまだブラしてなかったから。着替えの時にクラスの子に見付かって、軽くイジメられた。
私、生まれも特殊だったし、変な力もあったからさ。これが無くたって、遅かれ早かれイジメられたろうとは思うけど」
話す必要のないことまでうっかりと漏らしてしまい、私は唇を噛んだ。
守は相変わらず何も喋らない。その目線もまた、私の痣に留めたままで微動だにしない。
守に見られているのがつらくなり、私は再び胸元を手で隠し、顔を落とした。
「なんで私にこんなのがあるのか、私にだって判んない。
きっと私が普通の人とは違う化け物だから……なんだよね。怖いよね。ほんと、気持ち悪い。……だけど」
私は守を見た。守は眉間に深い皺を寄せた、怖れを含んだ表情を浮かべて私を見ていた。硬い、拒絶を感じさせるような表情。
もう駄目だ――そう思った瞬間、私の眼から、涙が溢れた。
私が、私を取り繕う為にいつも被っていた上っ面、
「口が悪くて気の強い、勝気でしっかり者の女の子」っていう偽りの仮面が、涙と一緒にぼろぼろと剥がれ落ちてゆく。
ただの弱くてちっぽけな私に戻った私は、涙でぐしゃぐしゃの、
おそらくは眼も当てられないほどに酷いことになっているであろう顔を守に向けて、言葉を継いだ。
「……だけどこれが、本当の私! 今まで守に隠してきた、本当の私の姿なの……。
これがあったから私、守の気持ちをはぐらかしてきた。本当は、知ってたのに。
だって……無理じゃん? こんなんなんだもん、私。
こんなんなのに……無理だよ私……私は守に好かれる資格なんてない。私……」
「郁子……」
泣いている私と眼が合うと、守はようやく口を開いた。そして、のろのろとした足取りで私に近づこうとした。
何をしようというんだろう。泣いている私を、慰めでもするつもりなのか。
「来ないで!」
私は胸を両腕で庇い、首を左右に振り立てて後ずさった。
私の鋭い声に守は一瞬立ち止まりかけたけど、またすぐに足を進めた。
「なんでよ……駄目だよ……私には守に好かれる資格なんてないのに……。守を……好きになる資格なんてないのに!」
私の眼の奥から、強い「何か」が噴き出して、守に向かって行った。
私のちからが突風を起こし、守の躰を後ろに吹き飛ばした。
守は鉄階段の足元、剥き出しの岩に打ち当たって引っくり返った。
「っ痛……」
守は軽く頭を振りながら、すぐに起きあがった。落としてしまったのか、
その顔から眼鏡が消えている上に、額の生え際から赤黒いものが垂れ落ちていた。
頭に怪我をしている……。
「守……」
私は彼の名を呼びながら、少しだけ後ろにさがった。
怪我した守は心配だったけれど、おでこから血をしたたらせながら、蒼白な顔をして、ものも言わずにこちらへ向かって来る守が、少しだけ怖かったんだ。
けれども守は、自分の怪我に気がつかないのか、大して気にする様子もなく、痛がっている素振りも見せず、ただひたすらに私の元へと歩き続けた。
守の歩みを止めようとして、私は声を張りあげた。
「来ないで!」
「いやだ」
「駄目……」
「駄目じゃない!」
「や……」
私の拒絶に構わずに、守はどんどん私に近づいて来る。そしてついに、彼は私の眼の前にまで来てしまった。
「郁子」
眉毛に溜まった血を指先で拭い、守は私に呼びかけた。
胸を隠している私の、裸の肩を両手で掴み、それから、俯いて引いた私の顎に指をかけて、顔を上向かせた。
「郁子……」
避ける間もなかった。守は、身を屈めて私の顔に迫り、無理やり唇を奪った。
生温かい弾力と共に、眼も眩むような強い衝撃が私の脳を焼き、全身を稲妻のように駆け抜けた。
初めてのキス――その柔らかな優しい感触と熱に浮かされ、意識が遠退きそうになるけれど、理性の限りを尽くし、私は守を押し返そうとした。
けど無駄だった。
守は私の抵抗をものともせずに、唇全体をきつく吸ったり、下唇をそっとしゃぶったりしたあげく、口の中に舌まで挿し入れてしまった。
べったりと隙間なく被せられた唇の中で、守の舌は、私の舌に絡みついて翻弄した。ああ駄目。こんな、こんな風にされたら私……。
私は腰から力が抜けてしまい、守を上に乗せたまま、月下奇人の中に仰向けに倒れ込んでしまった。
「郁子」
守の呼びかけで気づいた時には、私は、仰向けに横たわった私の両脇の地面に腕をついた守に、真上から見おろされていた。
私は、影になった守の顔を見あげた。すでに涙は止まり、頬の上で筋になって乾いているのを感じた。
真っ赤な靄と化している空気を背負い、守は言った。
「郁子……おれは郁子が好きだ。郁子を、抱きたい」
その一言で、時は止まった。
私の意識の中、私自身にすらも把握し切れないほど多くの強い感情が起こり、胸を焼いた。
耳鳴りと共に、意識が遠い処へ飛んで行ってしまいそうになる……。
それを堪え、私は努めて冷静に、守を諫めるための言葉を言おうとした。
守は今、色々と異常な状況に混乱していて、まともな判断力を失っている。
そうでなけりゃ、私の真実の姿を見てなお、あんな、あんなことを、言ってくれる訳がないんだ。
守がこの世で最も嫌悪している、闇の化け物であるこの私を……抱きたいだなんて。
――落ち着いて守。私は人間じゃないの。こんな私を抱いたりしたら、あとできっと後悔するよ……。
頭の中でまとめた台詞は、口から出て行くことはなかった。守の唇によって、封じられてしまったからだ。
(もう、何も言う必要はない)
唇を通じて、守の思考が伝わってきた。それは、言葉よりも遥かに鮮烈で、何ものにも換え難い説得力があった。
それは守の意志だった。
単なる恋愛感情とか情欲なんていう領域を超えた、それは、守独自の正義ですらあった。
(郁子が今まで一人きりで抱え込んできた苦しみを分けて貰うのに――言葉だけでは駄目なんだ)
(ぼくが郁子を本気で愛しているという証拠を、示さなければ)
唇の中の吐息が熱い。
彼の熱気が、私の全てを融かしてしまう。
自ら為す術もなく、私は、守のキスに唇を、舌を、顎を委ねてしまった――。
長く続いたキスが、いつ終わっていたのか私には判らなかった。
ぼんやりと赤く霞んだ世界の中で、私は、胸の上で組んだ手を外され、痣のある乳房を剥き出しにされた。
守は、私の裸の胸を、暫し無言で見据えていたけれど、突然、強い意思を躰から発しながら、胸の頂点に吸いついた。
「あっ……!」
小さな叫びと共に、私の肩が跳ねあがった。次いで、開いた唇から吐息が漏れた。
驚きもしたけれど、吸われた乳首から信じられないくらいの快感が湧き起こり、
それが……腰から下にぞわりぞわりと這いおりて、私の性器全体を激しく脈打たせてしまったのだ。
「あ……は……」
本当に……凄い。
強く、ちゅうっと音を鳴らしながら吸いつく守の唇が、私の乳首を絞めあげて。
舌先が、乳首の先っぽをちろちろと舐めて。
堪らない快感と、乳房の芯にまで響くむず痒さに、私は、荒くなる呼吸を堪えきれず、
大きく乳房を上下させながら、微かな喘ぎ声まで漏らし始めていた。
すると、守は窄めた唇を開き、私の乳房を、乳房の膨らみ全体を、熱の篭った口の中に含み、柔らかく歯を立てて食んだ。
「あぁん、や……め」
堪らなくなった私は、守の肩に手を置いて、彼の躰を引き離そうとした。
でも、私としては抗っているつもりだったけれど、本当は、もっとして欲しいと、心の奥底で願っていたかも知れない。
だって、恥ずかしく思う気持ちと同じぐらいに、どうしようもない、身悶えしてしまうほどの快感も、確かにあったから。
そんな私の中の葛藤に応えるかのように、守は、口いっぱいに含んだおっぱいを、より強い力で吸いあげて、膨らんだお肉に歯を立てた。
「ああんっ! やめて守! い……たい……」
噛まれた部分に鋭い痛みが走ったので、私は躰を仰け反らせて声をあげた。
守の腕が私の腰に絡んで、逃げかけた躰をがっしりと捕まえ、
そして今度は一転して、乳房をついばむかのように、小刻みなキスの雨を降らせた。
「守……守……まも……」
守に取り押さえられ、これでもかというくらいにおっぱいにキスをされ、もう訳が判らなくなった私は、うわ言みたいに守の名前だけを呼び続けた。
やがて守は、おっぱいを苛めることにも飽きたのか、私の鳩尾の上に顔を乗せて、乳首が長く勃起した私の乳房を、下から仰いで眺めた。
「やだ……そんな見ないでよお……」
「恥ずかしい?」
「ん……ていうか……だって……」
おっぱいそんな風に見られたら、当然痣だってよく見えちゃう訳で……。
(気にすることなんて、ないのに)
口ごもる私の意識に、守の心の声が入った。守は躰を起こし、私の顔を覗き込んで笑った。
「恥ずかしがることないじゃん。思ってたより全然綺麗なおっぱいだよ……郁子って、もっと貧乳だとばっかし思ってたのに」
「えぇ? 何それ! ひっどい!」
「だって郁子、おれにちっともおっぱい見せてくれないからさ」
「当たり前じゃん! どこの世界に意味もなくホイホイおっぱい見せる女が居んのよっ!」
私が言い返すと、守は私の乳首を摘まんで、きゅっと捻った。
「あはぁっ……あっ、きゃ……」
とっさに甲高い声を漏らしてしまう。
守は私の顔を見つめたまま、乳首をくりくりと摘まんだり、乳首のてっぺんを指先でとんとんとノックしたりして、敏感な部分を意地悪く玩んだ。
「感じる?」
「あぁっ……ば、ばかぁっ……あんっ、あ、あ、あ」
もう眼も開けていられない。私は首を傾けて、赤い花の中に顔を埋め、乳首から流れ込む快感だけに浸りきった。
ふとその快感が途絶え、守の躰が私から離れた。
薄く瞼を開くと、息を荒げ、顔を赤銅色に染めた守が、膝立ちになって、着ている服を脱ぎ捨てようとしている処だった。
「守……」
「そんなに見んなよ、えっち」
私の目線に気がつくと、守はぶっきらぼうな口調で、照れ臭そうに呟いた。
「ばっ……な、何よっ! 人のは散々見といてさ……」
「それはそれだよ……ていうか、そんなにおれのちんちん見たい?」
「うん。見たい」
私がそんなこと言うなんて予想だにしていなかったんだろう。守は明らかに面食らい、まごまごと口ごもってしまう。
そんな守の表情の変化がおかしくて、私はちょっとだけ笑った。
それが悔しかったのか、守は若干むっとした顔になり、居直ったように堂々とした態度で私の方に躰を向けた。
「そーかよ。じゃあ今見せてやっからな。よーく見とけよな!」
じっ、という音と共に、守のジーンズのファスナーがおりた。
前の開いたジーンズの中から異様に膨らんだトランクス、そのトランクスがずりさがって――
守の、赤黒く、大きく、長くなったものが、ずるりと這い出て天を衝いた。
「ひゃっ」
思っていた以上に――生々しい。ちょっと正視に堪えなかったので、私は手で顔を隠してしまった。
「なんだよ。なんで眼ぇ隠してんの? 郁子が見たいって言ったんじゃん」
「いや、でもやっぱ……ごめんなさい」
「ごめんなさいってなんだよ。ちゃんと見ろよほら」
「いやー! やめてー! 顔に近づけるのやめてー!」
鼻先で、でっかいものをぶるんぶるんと振り廻された私は、居たたまれなくなって守に背を向けた。
妙に興奮している守は、はあはあと息を弾ませながら、私の背中を見おろしているようだった。
「郁子……」
裸になった守は、私の背中に寄り添って寝そべり、うなじの方から囁いてきた。
「もうしないからさ……こっち向いてよ」
私は何も返事をしなかった。後ろを向いて、両手で顔を隠したまま、じっとしていた。
恥ずかしかったのもあったけど、それ以上に、守を少しじらしてやりたいと思ったからだ。
こんな風にじらしてやったら、守がどういう行動に出るのか――知りたかった。
「ねえ郁子……頼むよ。機嫌直して」
守は優しい声を出し、私をなだめようと躍起になっているようだった。
(まいったな……)
困惑の言葉を胸の内で呟きながら、私の肩を背後から撫で摩り、耳たぶや首筋に、触れるか触れないかというぐらいの、柔らかなキスをする。
そんなことをされると、私はぞくぞくと感じてしまう。
見えない後ろの方から、守に愛撫をされている――ああ、吐息がくすぐったい。汗ばんだ指先が、私の肌を嬲るように――。
頭がぼおっとのぼせてしまった私は、独りでに自らの股間の方へと手を這いおろしていた。
分厚いデニムの上から、熱くなっている部分を撫ぜてみた。
やっぱり――凄く敏感になっているそこは、それだけの刺激にも反応を示し、蕩けるように気持ちが良くなってしまった。
あああ、もう駄目……。
「郁子……?」
私の不自然な動作に気づいた守が、背後から私の下半身に眼を向けていた。
守の見ている前で、私はデニムのホックを外し、腰に張りついていた青い布地を、勢いよくずりとおろしてしまった。
「あ……」
デニムが剥がれ、下に穿いていた下着までもが半分お尻から剥けてしまい、中途半端に現れた私のお尻を見て、守が絶句している。
「守だけ脱ぐの、不公平かなって思ったから……」
彼に背中を向けたままで私は言い、躰を折り曲げて、脱いだデニムを月下奇人の中に放り投げた。
潰れた花弁から滲み出た赤い芳香が、頭の芯にまで響いて躰をじんと痺れさせた。その花の香りにそそのかされるように、守の躰が動き出した。
「郁子!」
ぎこちなく呼びかけてくる声と共に、乱暴な指先が私のお尻を捕らえ、
お尻の山にこびりついていた下着を、ほとんど引きちぎるような勢いで取り去って、私を素っ裸にしてしまう。
それから、私の躰を軽々と引っくり返して仰向けに寝かせ、真上から覆い被さるようにして、裸の私と相対した。
「郁子、すごい……綺麗、だ……」
守は、初めて習った外国語を話す時のように、たどたどしくも一所懸命な口調で、そう言った。
彼の眼は、私の全身を上から下まで余すことなく捉え、記録し尽くそうとしているかのようだった。
余りにも真剣なその眼差しに、裸の私は少なからぬ心細さを覚える。
でもそれでいて、守の眼から、私の裸を隠したいとは思わなかった。
それどころか、むしろ私は、守に見られることで、恍惚とした性の悦びに浸っていた。守の視線に、私は酔い痴れていた。
――ああ……見て……私を全部……全部……。
私の望み通り、守は私の躰をしっかりと見据え、胸の膨らみから脇腹、腰の膨らみと、丹念に味わうように指先を滑らせた。
「あ、あぁ……こ、こそばい……」
私は身をよじり、か細い声でそう言った。
本当にこそばゆい訳ではなかった。守の指先は、一種異様なちからを帯びていた。
自分で触るのとはまるで違う、強い快感を、私の肌に伝えずにはいられなかった。
指というより、淫らな触手のようなのだ。一本一本が独立した意思を持ち、私の肉体を、快楽地獄に突き堕とす――。
「くすぐったい?……じゃあ、これは?」
何を思ったのか、守は私の腰を捕まえて頭をさげ、脇腹から乳房の横の辺りまでを、一息に舐めあげた。
「あああぁっ」
ぬろん、と濡れた快感が、肌の特に柔らかい、敏感な部分を、容赦なく駆け抜けた。
腰が跳ねる。勝手にひくつく。
躰の――膣の、深い部分が、軽い収縮運動を起こしているのを感じた。
脇腹を舐められただけで、私は軽い絶頂を迎えてしまっていた。
「郁子……?」
頼りなく、だからこそなかなか引いて行かない快感の余韻に瞼を落とす私の耳に、守のかすれた声が届いた。
気だるい気分で眼を開ければ、守は真剣そのものの表情で、私の――半開きになっている膝の奥、
快感の只中を漂っている女の部分を、じっと見つめているのだった。
「へ? あ……あぁっ!」
快感よりも恥ずかしさが先に立ち、私はそそくさと両手を股間に差し入れ、股間を隠した。
手で触れた私の裂け目は、とんでもなく大量の体液に濡れそぼっている。
嫌だ、こんな風になってるのも、ばれちゃったのかな……?
どきどきしながら股間を押さえる私の腰に腕を伸ばした守は、私の腰を上に向かせてから、性器を隠す私の両手を、静かに外してしまった。
「あぁ……」
完全に、見られた。
隠したくても、両腕共に躰の脇に押さえつけられてしまい、どうにもならなかった。
私の、直接触れられた訳でもないのにあっけなく達してしまい、恥ずかしい汁を垂れ流してべとべとになっている女の部分が、
守の視界をいっぱいに満たしているのが感じられた。
「郁……」
守は、私のじゅくじゅくと濡れて充血しきった性器を前にして、今まで聞いたこともない低い声を漏らし、獣のような唸り声をあげた。
彼の内部で膨れあがる欲望の昂ぶりが、痛いくらいに私の膣の奥を――子宮を、苛んだ。
――ああ……また、いくっ……。
狂暴なまでの守の欲情の思念と、容赦のない鋭い視線によって、またしても私は、達してしまった。
ああ、本当にもう……私の入口、快感の痙攣を起こして独りでにぱくぱく、閉じたり開いたりを繰り返してる……。
ぬるぬるがお尻の穴にまで伝わって……お尻の穴も、一緒にもごもご蠢いちゃって……。
その時、突然守の意識内で桃色の閃光が破裂したかと思うと、守の顔が私の太腿にすっぽりと埋まっていた。
守は私の濡れた股間に口を押し当てて、私の、その、大事な部分を、舐めようとしていた。
「あっやだ……駄目っ! だめぇ……」
快感というよりは、得体の知れない衝撃に襲われて、私は叫んだ。
守の唇が、舌が、私のこんなにいやらしい、汚れた部分を、なんの躊躇もなく舐め廻している……私は硬く眼を閉じた。
守にこんな風にされること――自分で慰める時に、私はそんな妄想をしてみたこともあった。
クリトリスを撫であげながら……指とかでなく、柔らかい舌でここを刺激されたら、どんな感じがするのだろうって。
しかもそれが、守の舌だったら……。
そんなことを考えると、私はいつも、呆気なくいってしまうのが常だった。
逆に言うと、時間がなくて早く済ませてしまいたい時には、その妄想をするのがいっとう手っ取り早かった。
だってほんとに、それだけで、ものの数秒でいけた時もあったぐらいだから。
それほどまでに私を興奮させ続け、密かな憧れですらあったこの行為を実際にされての感想は――
なんだかもう、興奮の度合いが強過ぎてよく判らなかった。
確かに、快感は途方もないものだった。
守の舌が膣の入口に触れたとたん、私の内腿はびくびくと痙攣し、膣の奥から、子宮がせり出してしまいそうな強いわななきも起こっていた。
多分、いったのだと思う。
けれどもそれは、余りにも突飛なことだった。躰はしっかりと快感を覚えたのだけど、それに脳がついていけてない感じなのだ。
(ああ、なんかすげえ……)
一方、私のものを舐めている守は、私の性器の柔らかくぬめった感触や、
その、淫らな味や匂いにまで耽溺し、自らの興奮の度合いを高めている様子だった。
膣周りの粘膜を舐め廻す舌の蠢きもいっそう激しく、私の蜜を湧き立たせることで、私の感覚を支配している優越感にも浸っている様子が伺えた。
なんだか……ずるい。
私は舐められている部分に全力で意識を集中させた。
そもそもこんな風に、自分の状況を客観的に把握しようとしているのがきっといけないんだ。
何もかも忘れて、守のことと、守にされていることだけを、心に浮かべてさえいれば……。
「やっ、はっ、あ……はあぅっ……く」
気持ちの焦りとは裏腹に、勝手に煮え立っている私の躰は激しくうねり、喉からは、堪えきれない声が漏れ出ていた。
舐められている部分からは汁が噴き出し、全身は汗に濡れ、その湿り気が、月下奇人の花の匂いをいっそう強くしているようだ。
そしてまた、じわんと膣口がふやけたような浮遊感が起こり、私の躰が、堪らない快感のるつぼに引き込まれようとしている。
ああ、いく……また、また……。
その時、守の鼻先が、ずっと置き去りにされていたクリトリスの先っちょを、軽く押した。
「あ……ふう……んっ」
鋭い快感が、脳天にまで突き抜けた。
ああっ……これ……これが、欲しかったのおぉ……。
悦びの声は、言葉にならずに、動物的な呻き声となって私の唇から出て行った。ああ……やっぱり、クリトリス、凄い……。
私がクリトリスから得た快感の凄さに気がついたのか、守は一転してクリトリスを責め出した。
ぴょこんと硬く勃起して飛び出した突起を唇で覆い、強い力で吸い立てたのだ。
「あ、あ、あ!」
クリトリスから、今までの人生で一度だって感じたことのない、物凄い快感が襲ってきた。
守の唇に、吸われるなんて……
撫でるのでも、押し潰すのでも、突付くのでもない、
全く未知のその感覚と共に、私の根元からは大きな快感が掘り起こされ、私の意識ごと、守の唇によって吸い尽くされてしまいそうだった。
あああ……いく……いく……気持ちいいのが、止まらないよおぉ……。
あり得ないくらいの快感の奔流の中で、感極まった私は、守の頭を太腿で挟んで、締めあげていたようだった。
私のクリトリスを吸い続けていた守は、息がつまって苦しくなったのか、
物凄い力で私の太腿を押し退けたかと思うと、赤黒く染まった汗びっしょりの顔をあげた。
「ぶはぁっ!」
「あ……ごめ……苦しかっ、た……?」
潜水でもしてきたみたいな守を見あげ、一応私は声をかけた。まだクリトリスがじんじんと疼いていた。
「平気」
守はしゃがれた声でそう言うと、私の唇にキスをした。守の舌は、しょっぱいような、生臭いような、なんとも言えない味がした。
「うえ……変な味がする……」
「郁子の味だよ」
唇をてからせて、守は笑った。何そのキモい言い廻し。私もつい、つられて笑ってしまった。
【つづく】
ROMするおいらは待ちきれなくて投下がくるとすぐ乙しちゃうの
この調子だとこのスレすぐに埋まるな
まあいいことだけども
それから私達は、どちらからともなく抱き合った。
ぴったりと躰を重ね合わせ、守の体温を全身に感じ取る。幸せだった。この一年間の懊悩が、嘘みたいだと思った。
守は私の痣を気にせず、私にここまでのことをしてくれたんだ。
だからこそ、私もまた、痣のことなんて忘れて全てを曝け出し、守に身を委ねることができた。
もう、私達の間には何の障害もなかった。後はもう、流れのままに――。
「郁子……いい?」
上から私を抱き締めている守が、私の耳元に囁きかけた。
私は、守の肩にぎゅっとしがみついて、頷いた。
守は私を片腕に抱いたまま、傍らで花に埋もれた自分のジーンズを引き寄せた。
躰を起こし、ポケットの中から何かを取り出そうとごそごそやっている。
何かと思えば、ポケットから出てきたのは、透明の包みに入った変な円形のゴム輪だった。
多分、コンドームだと思う。
――いよいよなんだ……。
包みからコンドームを取り出して自分のものに取りつけようとしている守の姿を見ていると、まるで注射を待っているような緊張感に躰が強張った。
(段取り悪くて、萎えちゃったのかな?)
コンドームの装着を終えた守は、見当違いな心配を胸に私の顔を覗き込んだ。
こんな時、どう振舞えばいいのか、私には判らない。私は両手で顔を覆った。
「どうしたの?」
守が私を気遣っている。私は黙って首を振り、膝を立てて足を少し広げた。守を拒んでいる訳じゃないって、知らせてあげるために。
(郁子……緊張してるんだな)
守の心に、そんな言葉がぽっかりと浮かんだ。
「郁子……」
守は花の上に腕をつき、私の開いた脚の間に割り込んだ。やっぱりちょっと、怖い。
「そおっと、ね?」
私は顔を覆った手をずらし、ちらっと守を見あげてお願いした。私が初めてであることなんて、とっくにばれちゃってるだろうから、今さら格好つけたってしょうがない。
「……大丈夫だよ」
守はあくまでも優しい。私は少しだけほっとする。でもやっぱり、怖いことには変わりない。
守の躰が密着し、私の入口にみっしりしたものが宛がわれるのを感じると、その恐怖は、より確かなものとなって私をおびやかした。
「あ……」
声が漏れ、入口の粘膜が、微かに震える。
(焦るな)(少しずつ少しずつ)
自分自身に言い含めている、守の心の声。守の太くて重たいものが、私の中にゆっくりと埋没してゆく――。
ある程度まで進んだ処で、守は深く息を吐き、私のもっと奥深い場所にまで、彼自身を突き挿れようと力を入れた。
えっ? ちょっと、こ、これ以上は……。
「うぅ……ちょっ、ちょっときつい……かも」
呻くようにそう言うと、守は動きを止めた。あそこをどくんどくんと脈打たせ、息を弾ませながらも、私を気遣ってくれていた。
「ご、ごめん……」
「んーん、大、丈……夫」
私は顔を覆っていた手を外した。そのまま両手を守の腕に添えて、眼を閉じた。
「大丈夫、だから……ね?」
私はもう、覚悟を決めていた。どんなに痛くされたって……この先、どんなことが待ち受けていたって、私は耐えて見せるんだ。
守を……受け入れて見せるんだ。
「判った。じゃあ……いくぞ」
守は震える声で言い、腰を据え直した。
丸く、さっきよりもいっそう膨れあがった感じがするもので、私の入口をめいっぱいに広げ、ぴっちりと嵌め込んでから、私の腰を両腕に抱いた。
私は、守の背中に腕を廻した。
触れ合った肌が、吐息が熱い。私は眼を閉じ、守を抱き締める腕に力を篭めた。
守の躰が重くなり、股の間に、引き裂かれるような痛みが迫った。
「うっ……くうぅっ……!」
食い縛る歯が、ぎりりと音を立てる。痛い、痛い、痛い!
焼け棒杭を捻じ込まれたように膣口は熱く、鋭い痛みにも全く容赦がない。
それでも私は、この痛みに耐えなくてはならない。守を――光を受け入れて、一つになるために。
光の世界で、守と一緒に生きて行くために――。
やがて激しい痛みの中で、私の躰の深い部分が、重たい衝撃に貫かれた。
私は声をあげた。守もまた、私と同時に声をあげていた。
守の声は多分、私の処女を手に入れたことへの歓喜、そして、性の快感から生じた声だと思う。
私の方には、性の快感はほとんどない。残念なことだけど、感じているのは痛みばかりだった。
実際、きちんと這入っているのかどうかさえ、定かではない。
不安なので、私は訊ねてみることにした。
「はぁ、はぁ……は、入った、の?」
息が弾んで、声が上ずる。守は私の首筋に顔を埋めたまま、自らの快感にじっと浸っているようだったけど、やがて首筋に向かい、かすれた声で答えてくれた。
「……入った」
守が暫くじっとしていてくれたので、私は、守が「入った」というその場所に、意識を集中してみることにした。
二人共に静止しているせいか、今はそれほど激しい痛みはない。
けれども、どくどくと脈打ちながら私の膣を広げっぱなしにさせている守のものがもたらす違和感には、どうにも慣れることが難しかった。
引き攣れて、はばったい。オナニーする時に想像していたのとは、大違い。
でも不思議なことに、それでこの行為が嫌になったり、幻滅するなんていうことには、繋がらなかった。
だって、この感覚こそが、私と守の結ばれた証なんだ。
守と躰を繋ぎ合わせる幸せ。私を満たすこの幸せがあるからこそ、つらい仕打ちにも耐えられる。
躰の痛みにも、重さにも。だってこれは、全て守がくれたものだから。
例えようのない愛しさが、私の胸に満ちた。私は守の背を撫ぜた。
「守……」
「郁子……」
守の顔が、間近に私を見ていた。吐息が触れ合うほど近く。私の瞼が重たくなる。私達は、そのままキスをした。
「郁子……痛い?」
私の胎内の守は、欲望をみなぎらせて激しく淫らに脈動しているというのに、守の理性はあくまで紳士的に、私を気遣う態度を崩さない。
もちろんそれは嬉しいし、今の私にはありがたいことでもあったけれど、ちょっとばかし憎らしい気がしないでもなかった。
随分、余裕あるんだなあ、って。
「うん平気……ちょっとだけ、きついけど」
私も、初めてなりに余裕ぶって、そんなことを言ってみた。
そしたら急に、守に初めてをあげたんだって実感が強く湧いてきて――感極まって、泣いてしまった。
「そ、そんなに痛い?!」
私の涙を見た守がびっくりして、焦っていた。中断した方がいいのかな、なんてことまで考えている。
中断されるのは嫌だったので、私は左右に首を振り、守にしっかとしがみついた。
「違うの」
守の胸元に頬をすり寄せ、私は呟いた。
「違うの……私……わたし……」
後は言葉にならず、ただただ涙に暮れた。
この一年間の様々な想い、そして、さらにはもっと昔に至る、嫌だったことやつらかったこと、寂しかった記憶なんかが蘇っては、流れて行った。
これは、全てを洗い流す涙だった。虚しい過去を消し去り、新しい私に生まれ変わるための……。
私の涙で胸を濡らされる守にも、何かが伝わったみたいで、彼は突然、私を強く抱き締めた。
私は、泣きながら守に訊いた。
「守……私、私達、本当に……これ、夢じゃないんだよね?」
「ああ……本当だよ。おれ達は、本当に……」
答える守の声も、少し潤んで揺れていた。
守は私の髪の毛に口づけ――それから、ゆっくりと躰を揺すり、私の中の彼自身を、動かし始めた。
「あぁ……うあぁ……」
私は躰を硬くしながらも、守の動きを受け入れるべく、下半身に力を入れた。
守は気持ち良さそうに呻き、腰の動きも大きく、激しいものになっていった。
「はっ、はっ、はあっ、いっ、郁子っ……郁子おっ!」
「あっ、ああっ、まも……くあっ、や、ああ……あああっ」
全身を揺さ振られる度に、私の喉からは動物的な呻き声が漏れ出た。
引き裂かれた入口を扱かれる鈍痛と、狭い胎内を太いおちんちんで掻き分けられ、中の粘膜を抉られる、物凄い感覚。
そこにはかつて、守の夢の中で、“意思”を通じて行った淫戯で知ったような、蕩ける快感はなかった。
でもその代わり、圧倒的なまでの迫力と、現実的な感動があった。
それは、生身の肉体でのみ実現できる、本物の手応えだった。
それは何よりも確かなものだった。
私と守が、他の何ものでもない、ただの男と女、人間の、牡と牝のひとつがいとして……本来するべきことを行っている。
それは、私と守の絆の強さに対する、大きな自信となり得た。
私の胎内を抉り続ける守は、全身を汗だくに、花の照り返しばかりではない、赤く染まった躰から凄まじい熱気を発しながら、
腰から下を滑稽なまでに素早く振り立てて、私の膣壁に勃起したものを擦りつけることに夢中だった。
(もう少し、セーブしないと)
意識の中には、思い出したように私への気遣いの言葉が浮かぶけど、彼自身の情熱と、性器に起こる快感が、そんな自制心を取り払ってしまうようだった。
――守……そんなに私が……いいんだ……。
なんて、自惚れた思考が私の心に浮かぶ。
でもきっと、私はそれほど間違ってもいないはず。
守が、私の中で気持ちよくなって我を忘れてしまっているのは、疑いようもない事実なんだから。
そっと眼を開けて、守の様子を伺ってみた。
半眼になった守の瞳は、快楽に澱んで何も見てはいないように見えた。
半開きの唇からは熱い吐息と、唸るような微かな声を漏れ出させ、
時おり、私の中の小さな痙攣や、大きく出し挿れするさなかに、膣壁のざらっとした部分に敏感な部分を甘く擦られ、
堪らない心地好さから苦しげに歪んでしまう表情が、ぞくぞくするほど可愛くて、私の躰を、姦されている膣の中を、熱くさせた。
「ああ……あっ、ああ……守……守うっ!」
躰の芯がぼおっと熱を帯びる感覚に、私も堪らなくなり、もう眼を開けてもいられなくなった。
胸が苦しくて、どうにもならなくなった私は、守の頭を抱え込んで、胸にぎゅっと抱き締めた。
守の頭から立ち昇る熱気――彼の匂い、そして、乳房を鼻先や唇にくすぐられる感触――。
守との触れ合いにむせ返る私の内部で、変化が起こりつつあった。
守に突き捲くられて、鈍痛を通り越し、ふやけきって麻痺したように感覚を失いつつあった膣の奥底で、むらむらもやもやとした気配が生じ始めていた。
捉えどころのないそれは、守の腰が私の恥骨に打ち当たり、裂け目の頂点にあるクリトリスを刺激する度に、確実なものとなっていった。
それは、性の快感だった。
守のおちんちんで胎内を抉られることが、ついに、私の躰に快感を引き起こすようになったのだ。
嬉しく思う反面、混乱もした。
本当にこれが、セックスの悦びなの? きっとそうに違いないけど……でもこんな、私、これが初めてなのに……。
「守ぅ……ああん、あぁ……なんか、変だよぉ……」
私はそうとしか言えなかった。初めてなのに感じてる、なんてことが守にばれたら、何て思われるか……。
それに、私はもう、自分の受けている感覚を冷静に説明できる状態にはなかった。だってもう、本当に、気持ちが良くて……。
私の中、守の熱い肉で、ぐちゅぐちゅされて……扱かれて……。
ああっ、凄い、当たってる。奥の、気持ちのいい場所に、私の、ああ、そこ、凄い、駄目、駄目……っ!
「あー、郁子……もうだめだ……あー、もう、やばい……」
私の奥から、鈍い快楽の塊が押し寄せて、守のものをきつく食い締めながら痙攣を起こし始めた刹那、私の胸に顔を押しつけていた守が、ぶるぶると肩を震わせた。
大きな快楽の予兆に固まっていた私の膣の中、ひときわ大きく膨らんだ守のものが、
断末魔のあがきのような彼自身の凄まじい腰使いによって、私の中を縦横無尽に暴れ廻り、
膣の内部からぐぼぐぼと体液を掻き出して溢れさせ、熱く熟しきった私の胎内に、鋭い一撃を与えた。
「うぅ……郁、子……っ」
守の呻き声。私の中の硬いもの、びくっ、びくっ、とのたくって……
膣の奥、先っぽの大きい丸い部分が、ふわっと膨らんで……
何か温かいものが溢れて、私の深い部分に打ち当たる。断続的に。それが、止め処もなく続いた。
「はあっ……」
守が、私の腰にしがみついて胸の中で呻くのと同時に、私の中に起こった不可解な感覚が、私に大きなため息をつかせていた。
不可解な感覚――それは、本来私に判るはずもない、守の絶頂の感覚だった。
おちんちんの根っこの深い部分から、鋭い快感と共に欲望のたぎりが押し出され、
尿道を通って、温かい肉襞のうねりの中に吸い込まれてゆく……
ふにゃふにゃと柔らかく根元に絡む陰唇や、周辺を覆った柔毛の濡れた感触や、膣の粘膜の、ぬめりながら、ぶつぶつと隆起した複雑な感触まで……
私の中で、精液の限りを出し尽くす守の、背筋が痺れて全身の力が抜けてしまうような陶酔が、
まるで、自分自身で感じているもののように、明確に捉えられていた。
きっと、私のちからの為したことだった。
守と肉で交わった私の意識が、守の快感に、独りでに感応してしまったんだ。
守と同じ感覚を共有したくて――守と、一つになりたくて。
――ああ……守が、守がこんなに……。
守の快感を知ると同時に、私自身の快感も膨れあがった。
守に、引きずられるかのように。
意識が白い閃光に焼かれ、何も見えず、何も聞こえなくなった。
感じられるのは、私自身の快楽のみ。
それは、一定のリズムを取って私の全身を痙攣させ、大きく、狂おしく収縮させた。
「あぁ、はあぁぁ……あぁあ……あぁ、ああぁ……」
波打つような、何かの鳴き声みたいな声が、どこかで響いていた。
サイレンの響きにも似たそれは、私の絶頂の叫びだった。
切ない叫び――それを発する私の躰は、膣の深い場所を穿つ守の躰をしっかり抱き留め、
足先をぴんと伸ばして、全身を覆う快楽の大波に浸りきっていた。
ああ……こんなに凄いこと……凄い悦びが、この世の中にあるなんて……。
永く引き続く恍惚境の中で、私は上に乗っかった守ごと大きく躰を揺さぶって、躰の深い場所から押し寄せる甘美な快楽の波に耐え続けた。
それは、本当にきりもなく、いつまでもいつまでも続いた。
やがて、精も根も尽き果てて、このまま私は死んでしまうのじゃないか、と危ぶみ始めた頃、
ようやっと快楽の波は弱まり始め、私は絶頂の痙攣地獄から、ゆるゆると開放されることになった。
「あぁ……あぁ……あぁ……」
汗にまみれた手足を花の中に投げ出し、私は喘ぎ混じりの荒い呼吸を繰り返した。
私の胸の中、同じように荒い息遣いをしている守のその吐息が、私の乳首を微妙にくすぐっていたけれど、もうそれは、欲情の刺激にはならなかった。
穏やかな、守に対する愛情を催すことしか。
赤い花に包まれた楽園は、甘い香りを放ち、静かな安らぎに満ちていた。
この世界に居るのは、私と守だけ。
二人だけの楽園。月下奇人と、互いの息吹き。鼓動、滴る体液と、汗と、熱と――。
赤い靄の中に、ひときわ赤い、小さな光の軌跡を眼にした気がした。
その軌跡は、不思議な懐かしさを私の心に落とした。
何なのかは判らない。別にどうでも良かった。
私の胸で微睡む、守の頭に頬を寄せた。
彼の毛先に顎を嬲られながら――私の意識も、安らかな微睡みの中に、ゆっくりと落ちていった――。
暗闇の中を、私は彷徨い歩いていた。
私は独りきり。こんな馬鹿なことはない。
あの子――あの子はいったい、どこへ消えたの?
「柳子、ねえ、返事をしてよ!」
さっきから私は、姿の見えない柳子を捜し歩いていたのだった。
私に「開かずの間」の鍵を渡し、楽園への道を開かせた柳子の意識。
そしてそれっきり、私の肉体から離れて、本体であるミイラの躰に戻って行ってしまった。
それでも、こうして二人の意識の接点であるこの、「共有する深層意識の暗闇の世界」に来れば、また逢って話ができると思っていたのに……。
私は暗闇を巡りつつ、時々立ち止まり、“幻視”を使って遠い場所まで意識のアンテナを広げ、柳子の存在を捜した。
「もう済んだの?」
暗闇の片隅で、ぽつんと小さな声がした。
「柳子?」
私は振り向いた。けれども柳子の姿は見えなかった。
「柳子、そこに居るの? 姿を見せてよ」
「郁子」
暗闇の向こうから、柳子の声だけが響く。
「一応……さ。私は遠慮して、視ないようにしてたんだ。あんた達のが……始まってからは。
ほんとだよ? いくら双子だって、プライバシーは大事にしたいもんね」
「あ……うん」
柳子は、私に気を使ってくれていたらしい。
「それで? どうだったの、初エッチは? ちゃんと上手くやれた?」
「え……うん、まあ……それなりに」
うーん、何と答えたらいいのか。柳子相手とはいえ、気恥ずかしくて、返事に困ってしまう。
「ふうん……それなりに、ねえ」
「何よ? 何か文句あんの?」
「別にそんなこと言ってないじゃん。郁子さ、そうやってすぐ喧嘩腰になる癖、直したほうがいいよ。
そんなんじゃあ、彼にもすぐ愛想を尽かされちゃうよ?」
柳子のその言葉は、私をからかったり責めたりするようなものではなかった。
本気で、私と守の行く末を案じている口調に聞こえた。だから私は、大人しく頷いた。
「おめでとう……って言うべきだよね。やっぱり」
柳子の声は、寂しげだった。
「本当はね、無理だと思ってたんだよ。私もあんたと同じ考えだったの。
まもるは暗闇を嫌っていたし、私達みたいな化け物のことも、憎んでいると思ったから。
だから、あんたが胸の痣を見せてもなお、彼の気持ちが変わらないなんて……。
はあ。後悔してるんだ。
こんなことなら、あんたとまもる、さっさと引き離しちゃえばよかった」
言っている内容に反した、寂しげながらもさばさばとした口調。それは柳子の優しさだった。
胸に沁み入る優しさだった。
「郁子ったら。馬鹿ね、泣いたりして。膜が破けたぐらい、どうってことないでしょうに」
「柳子……何で声だけなの? こっちに来てよ……」
柳子の声は優しいけれど、全く姿の見えないのが不安だった。
私は涙を拭いながら、柳子の声のする方に向かおうとした。
「駄目よ。あんたはもう、こっち側には来ないんでしょ。いつまでも私に頼らないで。
涙を拭いて欲しいなら、まもるに頼みなさいよ。まもるに――」
柳子の声が遠退いた。その気配も……私は叫んだ。
「柳子! これでお別れじゃないでしょう? 私達――またこうして逢えるでしょう?!」
短い眠りが途絶え、私は裸のまま、月下奇人の赤い褥に身を横たえ、地下洞穴の果ての見えない天井を見あげていた。
私の隣では守が、私と同じ姿、同じ姿勢で、同じように天を仰いで横たわっていた。
「……中二の頃、クラスでイジメがあったんだ」
守は上を向いたまま、独り言のように語り始めていた。
昔々の七年前。守が救い損なった、可哀想な女の子の物語。
その女の子は、胸に痣があるのを理由に、苛められていたんだそうだ。
私と同じようにクラスで孤立し、私と同じように、みんなから「化け物」と呼ばれた。
当時から正義感が強く、行動力もあった守は、彼女に対するイジメを撲滅するために、独りで戦ったらしい。
学校で彼女が孤立しないよう、積極的に話しかけたり、学校行事の時、どこのグループにも入れて貰えない彼女を、自分のグループに混ぜてあげたりしたのだった。
「ねえ守」
私は寝返りをうち、うつ伏せになって半身を起こした。
「守って、その子のことが好きだったの?」
そこまで入れ込むってことは、単なる正義感だけじゃないんだろう。きっと、可愛い子だったんだろうな。
けれど、そんな私の勘繰りに、守は照れたりしなかった。それどころか、暗い顔をして、俯いてしまった。
「……いや。それは、違うんだ」
守は、彼女のことを恋愛対象としては見ていなかった。純粋にイジメが憎くて、自分のクラスからそれを消し去りたいと願っていただけだった。
でも、そんな風に守に構われ続けた彼女の気持ちは、どうだったんだろう?
いつも自分を庇い、イジメから救おうと力を尽くしてくれる、背の高い、笑顔の優しい男の子。
ずっと孤独だった彼女の眼に、守は、白馬に乗った王子様のように映っていたのではないだろうか?
その後、守の努力の甲斐あって、彼女は学校で明るい表情を見せるようになっていったという。
でも多分それは、イジメが鳴りを潜めたからなんていう、単純なことではなかったはずだ。
守がいつもそばに居てくれているという心強さが、嬉しさが、彼女の日常を輝かせたのに違いない。
守と一緒にこの一年を過ごしてきた、私がそうだったように――。
でも結局、まだ中二の小僧で、彼女のことを別に好きでもなかった守は、彼女の王子様にはなれなかった。
彼女に対する思いやりの足りなさ、もっと言えば、愛情もない癖に彼女の心に深く踏み込んだ無神経さが、彼女をかえって深く傷つけてしまうことになったのだった。
その傷は、想像を絶するほどの、深くて無残なものだった。
何しろ、彼女を死の縁にまで追いやるほどの絶望を与えたのだから。
彼女は――守の心が自分に向いていなかったことを知った彼女は、自殺未遂をしていたのだった。
守の冷たさを責める言葉を、遺書にしたためて。
全てを語り終えた後、守は仰向けになったまま、両手で顔を覆っていた。
私はそんな守の頭を撫ぜて、髪の毛を指でくしけずった。
私には、守が気の毒に思えた。
確かに、守のしたことは、彼女を自殺未遂にまで追い込んだ原因の一つにはなっているかも知れないけれど、その責任の全てが守にある訳ではないと思った。
守なりに、良かれと思ってしていたことなんだし――第一、守だって、こんなに傷ついているんだ。
七年も経った今でも、彼女の件がトラウマとして守を苛んでいることが、私にはよく判っていた。
傷ついた守は、彼女を助けようとしていたことまで否定してしまっていた。
彼女をイジメから救おうとしていたのは欺瞞に過ぎなかった、彼女のことなど本気で考えない、独りよがりの自己満足だったのだと、自分の行動を卑下したのだ。
「軽蔑する?」
顔から手を外した守は、自嘲の笑みを浮かべて私に問いかけた。私は黙ってかぶりを振った。
過去の深い傷を私に告白してくれた彼。
気の毒だと同情もしたし、慰めてあげたい気にもなる。
でもその一方で、私には、この件を私に告白したタイミングが気になった。
私とこうなってから、こんな話をし出したっていうのは――。
「つまり……こういうこと? 守は、彼女を救うことが出来なかったから、代わりに私を……
彼女と同じように痣があって、彼女と同じように独りぼっちの私を救いたかった。
だから私を……こういう風にしてくれたの……?」
「いや、それは違う!」
守はいきなり大声を出して飛び起きた。びっくりしている私の方に向き直り、守は続けた。
「おれはさ、ただ……後悔したくなかっただけなんだ。おれは、諦めたくなかったんだよ……郁子のこと」
そう語る守の心の中には、様々な想いが錯綜しているようだった。
様々な後悔――彼女を傷つけてしまったのは仕方がないとしても、その後に、彼女に対して何もできなかった自分の弱さ。
自分が傷つけた彼女と、向き合うことを避けてしまった怠慢さ。
それは守の自尊心を、深い処から傷つけていた。守は言った。
「かつてのおれは、彼女とのコミュニケーションを中途半端なまま諦めてしまった。
おれはそのことで、ずっと苦しんできたんだ。もう二度と、同じ過ちは繰り返したくなかった。
もう二度と……お互いに誤解しあったまま、関係を断ち切られてしまうようなことは……」
そういうことだったのか。
確かにさっきまでのいきさつを思い返せば、守の考えはよく理解できた。
なるほど、だから守は、柳子の言いなりになって、私をお屋敷に置いて帰る訳にはいかなかったんだ。
そんなことをしたら、また、「コミュニケーションを中途半端なまま諦め」てしまうことになるから。
中二の時とは違い、私との場合は恋愛感情もあったから、なおさらおめおめと引きさがる訳にはいかなかったんだろう。
彼自身の、トラウマを克服するためにも……。
「でもさ……」
と、私は口を挟んだ。
「私は、守にそんな風に想ってもらえてすごい嬉しい。
けど守は……本当に、いいの? わ、私なんかで、さ……。私、普通の女の子じゃないんだよ?
人の心を読む能力を持ってるなんて。気持ち悪いでしょう……?」
これは一番肝心な処だ。
胸の痣は一応クリアできたみたいだけれど、私のちからのこと、守は本当に許せるのだろうか?
ううん、許せるはずがない。意識の表層では理解を示していたって、私にも読み取れない深層心理では、きっと嫌がって、気味悪がってるに決まってる……。
「そんなことないよ」
「嘘!」
即答する守に向かい、今度は私が大きい声を出した。
「守だって本当は、嫌なんじゃないの?! 嫌だったから……夜見島で、私が最初にちからのことを言った時、手を離したんでしょう?!」
守は言葉を詰まらせ、押し黙った。
「隠さなくたっていいよ。誰だって、自分の心を読まれるのなんて嫌に決まってるし。
そんなちからを持ってる奴を避けたいって思うの、当たり前なんだから……」
しかも私ときたら、“幻視”なんてちからを使って、人の視界を盗み見することまでできちゃうんだから。
そう考えたら、なんだか惨めな気持ちになった。私は寝返りを打ち、守から背を向けた。お尻に守の視線を感じた。
守は、小さく咳払いをして、語り出した。
今度はまた随分と突飛でおかしな話だった。三年前の、守が「アトランティス」の正社員になる前、まだバイトだった頃の話。
遺跡の取材で雑用をしていた守は、遺跡に入ろうとしていた矢先、先に立ち入ろうとした部外者の男性を引き留めようとしたけれど、
その男性が、守の尊敬する有名な民俗学者の先生だったので、思わず肩を掴んだ手を離してしまったと言うのだ。
なんだそりゃ。
私は躰を起こして、守の前に正座をした。
「それってつまり、どういうこと?」
その民俗学の先生と私が一緒って言いたいんだろうか? でも何が? どこが?
「いや、だからね」
守は人差し指を立て、先生みたいに説明を始めた。
「つまり……そういうことなんだよ」
何がそういうことよ。私はきれて怒鳴った。
「説明になってないじゃん! 全然判んないよ! その先生の話が、私と何の関係があるのよ?!」
「ええとその、要するに、だ」
守の声が、気まずそうにだんだん小さくなってくる。余程言いづらいことなの?
「あの時……郁子が夜見島で、特殊能力について話してくれた時、おれ、思っちゃったんだよね……
その、かっこいい……ってさ」
かっこいい?
意味判んないんだけど……。
仕方がないから、私は私の忌むべきちからを使い、守の意識を垣間見た。
そこから判断する限り、その“かっこいい”ってのは要するに、
守が過去に読んだ本とか漫画とか、観た映画とか、ドラマとか、アニメとか、そういうもののイメージに起因しているようだった。
つまり守は、「超能力少女」という私のキャラに、「萌え」ていた訳だったのだ。
「……何それ? 守は私のこと、アニメのヒロインか何かみたいに思って見てたってこと?!」
「いや、そこまで腐った眼で見てた訳では……でもまあ、近いものはあるかな……」
「あんたって人はほんと……馬っ鹿じゃないの?! この、オタク編集者!」
本当に――馬鹿馬鹿しくて、めまいを起こしそうになる。守ってやっぱり、本物の馬鹿だったんだなあ……。
この一年間の私の苦しみは、いったい何だったのだろう。
そんなことなら、私は彼のために、自分のちからを思い切りアピールして見せれば良かったのだろうか?
そんな馬鹿な……なんだか、彼を好きになったことまで、馬鹿げたことに思えてしまう。
「だってさ……思っちゃったんだから、しょうがないじゃないか」
私の切れっぷりにしょげて肩を落とした守は、言い訳がましい上目遣いで私を見た。
「何がいけないっていうんだよ。
だいたい超能力なんて、もろにオタク心をくすぐるアビリティーを取得してる人間に対して、憧れや畏怖の念を抱くなと言う方が無理ってもんだ。
そこは理解してくれよ。そういった個性を持って生まれてしまった者の宿命だと思って、諦めてくれ」
「個性?」
思いもよらない台詞が出てきた。それも、ごく当たり前のことみたいに。守は言った。
「そう、個性。そして、木船郁子という女の子を構成するひとつの要素だ。
郁子は生まれ持った超能力のせいで、これまでに色々つらい思いをしてきたのかも知れない。
だけど、そういったマイナスの部分とかも全部ひっくるめて、今の郁子があるんだと思う。
そして、そんな郁子のことを、おれは……」
「守……」
守の言葉は、私の胸に深く食い込んでいた。
闇のちから――それに伴う過去も含めて、守は、私を好きでいてくれるというのだろうか。
「そうだ。超能力だけじゃない。これだって」
「あんっ」
突然守の手が伸びて、私の胸に触れた。乳輪を取り囲む、方錐形の痣を指先でたどる。
「郁子はさ……これが気になってたから、今まで彼氏作んなかったんだろ? そのおかげでおれは、郁子の初めての相手になれたんだ。だから……」
「だ、だから?」
「だから、えっと……これは、あってよかったものなんだよ」
「あ……あぁんっ」
今度は顔を突きつけて、乳首にちゅっと吸いついてきた。私は仰け反ってしまう。何よ、真面目な話してるのに。
情けなくて私は……泣けてきてしまった。
守はこの痣があっても、私のおっぱいにキスしてくれた。私の変なちからのことも、怖がらないで、むしろ萌えポイントだと捉えてくれた。
何もかもひっくるめて、私のことを好きだと言ってくれた。
こんなに凄い、奇跡のような人が、他にいるだろうか?
もう、彼しかいないと思った。私にはもう、彼だけしか……。
この人と出逢えて、本当に良かった。この人を好きになって――好きになって貰えて、本当に
良かった。
私、きっと、守と出逢うために生まれてきたんだ。そのためだけに私、この世界に居るんだ。
私は今、本気でそう思っていた。
誰に笑われたっていい。どんなに馬鹿にされたって。だって、私のそばには守が居るんだから。
守さえそばに居てくれたなら、私はどんなことにも耐えられる。何だって――できる。
「郁子? どうかした?」
深い喜びに浸っている私に、怪訝そうな声で守が訊ねてきた。あまりの幸せに、私は本気で涙を流し始めていたのだった。
「何でもない」
私はそう言って、指先で目じりを拭った。
「何でもないことないだろ? 言えよ。おれ達の間で、今さら隠し事なんて」
守の思いやりが胸に伝わってくる。ああ、やっぱり守は、私を愛してくれている。
こんなことぐらいで、こんなに心配してくれるなんて。
「ほんとに何でもないったら……守が変なことするから、ちょっと変な感じになっちゃっただけ」
「変なことって……これ?」
「あんっ、やぁん……」
守はまたも私の乳首に吸いついた。今度は、吸いついた乳首を、舌先を素早く動かし、上下に弾いた。
「あはぁあ……」
こんなことされたら……また気持ちがよくなっちゃう。
私は熱い吐息を漏らし、仰向けに倒れてしまった。
倒れた私の躰を追って、守が上から覆い被さってきた。私は、守の頭を抱え込んだ。
「ま……守ぅ……」
(こりゃあ……二回戦開始か?)
守はもう、その気になっているようだった。
私のおっぱいを吸いながら、両手をお尻に廻し、ねちっこく撫で廻している。
躰の割りに明らかに大き過ぎる、私自身はいまいち好きじゃない、私のお尻。
こんな私のお尻も、守は魅力的な美しいものとして見てくれている。
だけど……守ってば、私を四つん這いにさせて、後ろからしたいだなんて。
恥ずかしいよ。でもそれって、どんな感じがするものなのかしら?
――盛りあがってるとこ、悪いんだけど。
出し抜けに、柳子の声が私の意識に飛び込んできた。
私の躰が硬直した。柳子の声に、なんだか切迫した気配を感じたのだ。
「柳子が、何か言ってる」
私の態度の変化を訝っている守の下からすり抜け、立ちあがって意識を集中させた。
「どうしたんだ?」
「しっ!……待って。……何? いったい何をそんなに……」
私は胸の前で手を組み、柳子の声に耳を傾けた。
焦りを帯びた柳子の声の入りがいやに悪くて、こうでもしないとちゃんと聞き取れそうになかったからだ。
これは、この場所のこの特別な気配のせいなんだろうか……?
――とにかく早く上まで来て。大変なことになってるのよ……お屋敷が火事になってるの。
か、火事?
――あんたがシャワーを浴びてた時に、脅かすために私がボイラーの温度をあげたじゃない?
あれのせいで、ボイラーが壊れて爆発したみたいなの。
地下洞窟の出口は、お屋敷にしかないのよ。急がないと……あんた達、そこから出られなくなっちゃう……。
「ええっ?! そんな……」
冗談じゃない。私は守を振り返った。
「守、大変! 急がないと……ここから出られなくなっちゃうって!」
「ええっ?!……なんだって?!」
【つづく】
乙です〜。
話が穏当な方にまとまりそうで、チキンな私などはひと安心です。
ついでというのも何ですが、私も粗品を投下させていただきます。
※以前、このスレ投下した『夫婦神善哉』と、ロリバスレにて連載中の『俺のババァがこんなに可愛いはずがないッ!』のクロスSS(ただしIF番外編)です。
※属性的には、狐娘&百虫姫様(プラスおまけでロリババァ)with巫女衣裳。
※元の作品を知らなくても意味は通じるようにしたつもりですが、多少は情報不足かもしれません。さらに、微量のネタバレっぽいモノもありますが、あくまで「外伝」──「もしかしたらこんな未来があるかも」くらいにお考えください。
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『解放の日 〜イイ日、旅立ち?〜』(前篇)
在来線の鈍行列車を乗り継ぎ、さらにトドメに、1時間に1回しかないボンネットバスに乗ること30分。
ようやくその4人は目的の場所にまでやって来ていた。
「──青月(せいげつ)、そろそろ終点のようじゃぞ」
煌めく銀色の髪と菫色の瞳を持つ美女が、隣りに座る男性に注意を促す。
女性の方は、ミスコンどころかミスユニバースでも優勝できそうなくらい整った顔立ちと均整のとれた見事なプロポーションなのに対して、男性の方は平平凡凡とした容姿をしている。
「ふわぁ〜あ、やっと着いたか〜」
「あ、これ、車内で伸びをするでないわ。ホレ、お主の鞄とジャケットじゃ」
とは言え、文句を言いながらも、モノグサそうな男の世話を嬉々として焼いている美女の姿を見れば、大概の人間は「割れ鍋にとじ蓋」とか「蓼食う虫」とかいう言葉を思い浮かべるだろう。
それはそれで桃色のATフィールドっぽい何か(別名・だだ甘空間)が形成されているため、ちょっかい出す馬鹿はめったにいないだろう。
「ほら、アナタ、そろそろ降りる準備をしませんと」
「ぬ! ま、待て、もうちょっとで、この雷狼竜めを……って、ギャー! 雷撃くらった!!」
「あらあら」
2メートル近い身の丈とそれに見合った筋肉質な身体を持つ巨漢が、掌中の小さな携帯ゲーム機に夢中になっている光景はある意味微笑ましいとも言えるが、傍らにいる彼の妻らしき女性は微笑みつつ、呆れているようだ。
こちらの女性もまた、すぐ前の席の美女に負けず劣らずの端麗な容姿をしていた。
巨漢の傍らにいるとあまり目立たないが、170センチを軽く超える程度の長身と、日本人離れしたグラマラスなボディは、単独なら非常に人目を引くことだろう。
とくに、豊かなその胸部(彼らの妹分の女子高生いわく「オッパイっぽいナニか」)は、決して貧しくはない乳房を持つ銀髪の麗人をして羨ましがらせるほど。
もっとも、顔の表情や全体の雰囲気は、「包容力のある優しい大人の女性」という印象なので、「色気」より「母性」を感じる人の方が多いだろうが(事実、彼女は何人かの子を産み育てた経験がある)。
「はいはい、勇矢殿も落ち着いてくだされ。仕事が終われば、青月めにゲームのお供させますゆえ」
「む、それは助かる」
「はぁ……ま、それくらいならいいッスよ。勇矢の旦那、HR5でしたっけ? 俺が手伝えば緊急クエくらい楽勝っス」
意気消沈する巨漢を銀髪の美女がなだめ、相方の男性が承知したおかげで、ようやくその場は収まった。
「……で、アンタら、いい加減、降りてくれんか? ここが終点なんやけど」
騒ぎの収拾をみはからったようなパスの老運転手の言葉に、慌てて4人の男女は、バスを降りる。
「誠に、あいすみませぬ」
「すみません、ウチの人がご迷惑を」
美人ふたりに頭を下げられた運転手は、気を悪くした風もなく笑って手を振り、折り返し駅の方へとバスを走らせて行った。
「「「…………」」」
「──で、その東原神社へは、どう行けばいいんスか?」
微妙に気まずい沈黙が落ちかけた瞬間、「青月」と呼ばれた青年が絶妙なタイミングで話題を提供する。
「う、うむ。そうだな。えーと確か、この辺の道を真北に……って、おや? おかしいのぅ」
巨漢が頭をかきながら、以前此処に来た時の記憶を掘り返そうとするが、どう見ても目の前の道は東西方向に敷設されていて北へは行けそうにない。
「アナタ、わたくしたちがこの村に来たのは、もう30年以上前の話ですから……」
なるほど、そんなにも時が経てば、道路が大きく変更されていてもおかしくはない。
しかし、「30年以上前?」 目の前の巨漢もその妻らしき女性も、20代後半かせいぜい30歳程度にしか見えないのだが……。
「神様のライフスパンで話しせんでくださいよ」
やれやれと肩をすくめる青年。
そう、目の前の男女は、一見したところごく普通の(まぁ、少々ガタイが良すぎたり、美人過ぎたりするが)夫婦に見えるが、実のところ人間ではない。
まがりなりにも、この豊葦原の瑞穂の国を守護する八百万の神々の一柱、御祇弓丈夫尊と御祇永智蟲媛命だったりするのだ(ちなみに、普段は三上勇矢、紫苑という人間名を名乗っている)。
神格という点では、古事記や日本書紀に記載された有名人、いや「有名神」にいささか見劣りするが、こと「現在の人間界で自由に活動できる神」というくくりで見るなら、このふたり──もとい一組は、かなりの強さを誇っている。
しかも、先ほどから青年の傍らに寄り添う銀髪の美女も、純粋な人間ではなく、複数の尾をもつ妖狐の生まれ変わりだったりするわけだが。
集った4人中3人が人外とは、なんという濃いメンツ!
いかに現在の社会でMH(ミスティックハンター)が公認の職となり、人間以外の知的生命体(神や魔物含む)の存在が認められているとは言え、希少なケースであることは間違いなかろう。
閑話休題。
「しゃあないなぁ。希ちゃんに電話でもしてみるか。えーと、ケータイは……」
「青月よ。こんな辺鄙な場所で携帯電話が通じるとお思いかえ?」
自らのパートナー・葛城葉子に指摘されてポケットから取り出したケータイ片手に凍りつく青年。言われてみれば確かに、ケータイのアンテナは一本も立っていない。
無論、このメンバーなら、霊視するなりダウジングするなりすれば、目的地の場所に辿りつくことも不可能ではないが、さすがにソレはあまりにマヌケ過ぎる。
「辺りに人もいないし、どうしたもんか」と、青年──阿倍野橋月が悩む前に救いの手がもたらされた。
「あぁ、もう来てはった。皆さ〜ん!!」
道路を少し東にたどった方から、おっとりした少女の声が聞こえてくる。
一同がそちらに目をやれば、道路に直角に接するように獣道と見まがう細い道が設けられていて、そこから紅白の巫女装束姿の女の子がトテトテと駆けてくるところだった。
年のころは13、4歳──おおよそ中学生くらいだろうか。膝近くまで伸ばした艶やかな黒髪を、水引きでひとつにまとめた由緒正しい巫女さんスタイルだ。
今時の中学生の標準と比べるとやや小柄で、化粧気も皆無だが、見た目に反して大人びた落ち着いた雰囲気が感じられるのは、この歳で巫女をしている経験故か。
「本日は、遠いところを、よぅお越しくださいました」
ペコリと頭を下げる様子も自然で様になっている。
「うむっ、出迎え御苦労。ちょうど神社にどう行けばわからず、少々困っておったところだ」
(いや、勇矢さん、威張って言うトコじゃないから、そこ)
青月は呆れたものの、「ま、こういう人、いや神サンだしなぁ」ととうに諦めている。
もっとも、青月や葉子は、人外に知り合いがズバ抜けて多いために感覚が若干麻痺しているが、本来の神の在り方からすると、勇矢の態度ですら、実にフランクで寛大とも言えるのだ。
まぁ、これは勇矢が元人間から昇神した身であることも関連しているのだろうが。
とは言え、今回の「仕事」に夫婦神・御祇弓丈夫尊と御祇永智蟲媛命の力を借りられることは望外の幸運だった。
そう、青月と葉子は前述の通りMH(ミスティックハンター)──「既知外現象防止家」を生業としている。MHの業務の大半は、前世紀末から活性化した霊的現象への対処や、人に仇為す妖怪・魔物の退治だが、今回は少々勝手が違った。
以前、ちょっとした縁で知り合った少女(?)、東原希からの依頼によって、「封印された祟り神」をわざわざ起こそうと言うのだから……。
* * *
「それにしても、希さん、よくご決心されましたね」
神社への道すがら、葉子が余所行き(と言うか仕事中用)の口調で、希に話しかける。
「い〜え〜。もともと事の発端は、身内のしでかした不始末ですさかい」
「って言っても、好きな男が出来て駆け落ちしただけだろ? それを不始末って言いきるのは、あんまりじゃねーかな」
青月が、憤慨したように言うが、希はゆるゆると首を横に振った。
「確かに、人同士の感覚ではそうかもしれまへんなぁ。けど、ウチの家には、その神様を祀るいう使命があったんです。
さらに言ぅたら、姉は既に巫女としてその神に仕えとった身、つまり「就職」としとったワケです。阿倍野橋さん、たとえば公務員が突然仕事放り出して、休職届も辞表も出さんと旅に出たら、普通は非難されるんとちゃいます?」
「それは……まぁ」
なるほど。そう考えると確かに、その方法の是非はともかく、罰せられても致し方ない状況であるのかもしれない。
「だからって、本人以外を罰するってのはなぁ」
彼が一番引っかかっているのはソレらしい。
「縁座という概念は現代日本でこそ廃れたが、世界的に見ればさほど珍しいわけではないぞえ」
「そうですね。人間界はともかく、少なくとも神界ではポピュラーな法理ですよ」
聡明なふたりの年長女性、葉子と紫苑がそう言ってたしなめる。
青月とて、まだ若いがそれなり以上の場数を踏んだA級MHだ。「人」の道理が必ずしも「人外」に通用するはずがないことは十分理解しているのだが、感情面で素直に納得できる程、大人でもないのだろう。
「ふふふ、ウチのために憤ってくれはるんはうれしいけど、過ぎたコトやさかい、もぅエエんです……」
ほんの少しだけ翳りのある笑顔を希が浮かべているのは、過去の記憶に想いを馳せているからか。
勘のいい読者ならもうおわかりかもしれないが、問題の「封印された祟り神」こそが、かつてはこの東原神社の祭神だったのだ。
祟り神といえど、神は神。きちんと祀られていれば、とてりたてて災害を起こすようなコトはなかったのだが……。
問題は、ここの「神」がいささか短気で気まぐれな性格だったことだろう。
希と共にこの幼い頃から巫女として「神」に仕えていた彼女の姉は、中学を卒業するや否や幼馴染の少年と駆け落ちし、何処かの土地へ逃亡してしまったのだ。
怒った祟り神は、自らの力の範囲外に逃げた姉ではなく、その妹たる希にある「呪い」をかけた。
もし、祟り神の従者の下級神が、主による八当たりめいたとばっちりに同情し、呪いの効力をねじ曲げてくれなければ、希の命は13歳の誕生日に失われるはずだったのだ。
その後も色々問題を起こした祟り神は、地上に顕現する神と魔に対する見回りを職務とする夫婦の武神──勇矢と紫苑によって、罰として封印されることとなった、というワケだ。
そして、神界における土地神の引き継ぎその他諸々の手続き(例の従属神が後釜になった)が無事に済み、一度は閉社していた東原神社を再開するにあたり、くだんの「封印中の祟り神」の処遇が問題となったワケだ。
「狭いところですけど、楽にしといてください」
本殿から少し離れた位置に立てられた社務所──というか希たちが寝起きしている生活空間に案内された青月たちは、畳敷きの居間に通され、「儀式」の前の最後の打ち合わせをする。
「……っと、段取りは以上の通りです。紫苑さん、意見をお聞かせ願えますか?」
すでにあらかじめ手順は相談してあったが、葉子が術師としての大先輩たる紫苑に、現場に着いたうえでの判断を尋ねる。
「そうですね。大筋では問題ありませんが、完全に封を解く前──七分ほどの段階でも、かの者なら強引に弾き飛ばすことは可能でしょう。そうなった時の対処を、もう少し具体的に詰めておいた方がよいかもしれません」
相手と直接対峙してその力の程を知る紫苑の指摘は有難かった。
なお、解封儀式に参加するのは、「人」である青月、葉子、希の3名のみだ(正確には葉子は半人半妖とも言うべき存在だが、大きなくくりでは人の内に入る)。勇矢と紫苑は、あくまで非常事態が発生した時の保険である。
解封の結果、3人の手に負えない状況になった場合は、ふたり(二柱?)が速やかに「祟り神」を手持ちの勾玉に封じて神界へ送還し、そこで然るべき裁きを受けさせることになるだろう。
そして、神界の掟に照らし合わせれば、禁固刑とも言うべきこれまでの封印とは段違いに重い罰に処せられることはほぼ間違いない。
心優しい(青月に言わせるとお人好し過ぎる)希は、そうなることに心を痛め、言うならば「執行猶予の保護観察処分」で済むように、何とか「祟り神」を説得するつもりなのだ。
幸い、勇矢達の役割は西部劇の保安官的な側面もあるので、「現場での柔軟な対応」としてその程度の融通は利かせられる……あくまで、「祟り神」が大人しくすると誓うことが条件だが。
「そう言えば……希ちゃん、アイツは来てないのか?」
一通り話が済んだところで、湯呑のお茶で喉を潤した青月が思い出したように辺りを見回した。
「タカぼ…じゃなくて、たかゆきさんには、買い物に行ってもろてるんです。そろそろ戻ってくるとは思うんですけど……」
少しだけ心配そうになった希の表情を見て、葉子はニヤリと微笑み、からかいモードに入る。
「あれれ、希ちゃん。「彼」のこと、そう呼んでるんですか? 前は「まだまだ子供だから、タカ坊で十分」だなんて言ってのに」
「あ、いえ、その……」
「へぇ。男の立場から言わせてもらうと、やっぱり好きな女性(ひと)に子供扱いされるのって、意外に凹むモンだぜ」
自らの恋人(2歳年上)にチラと目をやりながら、至極真面目な顔を作った青月もそんな言葉を漏らす。
無論、ふたりしてこの純情可憐な巫女さんをからかっているのだ。
──もっとも、単純に生きた年齢だけ言えば、転生前の記憶を持っている葉子はともかく、20代始めの青月の三倍近い歳月を、このロリっ子は積み重ねているのだが。
当時12歳だった東原希にかけられた呪いとは、「13歳になると死ぬ」というものだった。それを憐れんだ従属神が、彼女に「12歳から歳をとらない」という第二の呪いを付加したのだ。
ちなみに、希の呪いに関して言うと、前者は紫苑が祟り神封印の際に解き、後者は紆余曲折の末、一昨年青月達が解くことになったため、今の希は、「普通に生きて、成長し、そして年老いて死ぬ」ことができる。
その意味では、青月なぞはまさに「青二才」だから敬語で話すべきなのだろうが……
彼の気安い口調と希の礼儀正しく控えめな性格、そして希の実年齢をしばらく知らなかったという事実により、「希ちゃん」「阿倍野橋さん」という呼び方が定着してしまい、結局それで通している。
「ただいま〜」
タイミングがいいのか悪いのか、ちょうどその噂の人物が帰宅したようだ。
「あ、皆さんもういらしてたんですね。遠いところからワザワザすんません」
玄関に並んだ4人分の靴を見て予測していたのか、18、9歳の少年は、ごく自然な感じで頭を下げたのだが、そこには、なにやら微妙な空気が漂っていた。
「どースかね、旦那。あの落ち着きぶりは?」
「むぅ……アレは、間違いなく経験後だな」
「実年齢はともかく、あのふたりの外見じゃと、限りなく背徳的なイメージがあるのぅ」
「あらあら……。でも、葉子ちゃん。昔は13、4歳でひと回り以上上の殿方に嫁ぐ子も少なくなかったじゃないですか」
客4人が顔を寄せてヒソヒソ囁き合い、その横で自らの想い人が「はぅ〜」と真っ赤になっている様を見て、帰宅したばかりの少年──瀬戸孝之は首を傾げるのだった。
-後篇に続く-
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前篇はココまで。人外っぽさが余り出なくて申し訳ないです。後篇は、そのぶん、触角・甲殻や狐耳&尻尾などと巫女装束のコラボがある予定なので、ご勘弁。ちょいエロもあるよ!
ちなみに、葉子さんは、身内だけだと古風な姫言葉風になるのですが、仕事時やよそゆきはキチンと普通の現代っぽい話し方をします(読み分けづらかったらすみません)。
大慌てで服を着た私達は、錆びた鉄階段をのぼり始めた。
二段抜かしで駆けあがり――といきたい処だったけど、生憎そうもいかなかった。
あんまり派手に動くと、その、お股の辺りが痛くてどうにもならなかったのだ。
「郁子、大丈夫か!?」
「う、うん、ごめん。早く動けなくって……」
内股でひょこひょことしか歩けない私は、思い切り足手まといになってしまっていた。
「よし、こうしよう」
私の醜態を見兼ねた守に、私の躰は抱えあげられ、横抱きにされた。いわゆる、お姫様抱っこというのをされたのだった。
「ちょ、まも……うわぁ!」
なっ、なんか、凄いんですけど!
私を軽々と抱きあげてしまう、守の意外な腕力にも驚いたけど、この姿勢って……高い処でされると不安定な感じがしてかなり怖い。
しかも守ってば、そうして私を抱いたまま、手すりもない階段を猛ダッシュし始めたのだから堪らない。
「しっかり掴まってろよ!」
言われるまでもなかった。て言うか、ここで振り落とされたらお屋敷の火事を見るまでもなく死んでしまう。何しろ凄い高さなんだ。
全く不思議なことだった。
私、この楽園に来る時には、「開かずの間」のマンホールみたいな穴を飛び降りて、傷一つなく底までたどり着いていたんだから。
いったいこれは、どういう仕掛けなの?
これもお屋敷の、ひいてはここに咲き乱れている、月下奇人の魔力のようなものなんだろうか?
とにかく、そうこうしている内に鉄階段は途切れ、後は岩の足場から続く、長いはしごをのぼらなければならなくなった。
「慌てるなよ。ゆっくりでいいから、ここは慎重に行こう」
もうお姫様抱っこを続ける訳にもいかないので、私をおろして守は言った。
そして、私の先に立ってはしごをのぼり始めた。こういう感じって、なんだか懐かしい。
夜見島の鉄塔の頂点を、二人で目指してた時のことを思い出す。
あの緊張感とか、怖くて不安な気持ちの中で、互いの存在を心の支えに頑張った、あの懸命さとか――。
はしごの張りついた岩壁は、のぼって行く内に、細長い縦穴へと変化していくようだった。
湿り気を帯びた自然の岩肌が、次第に人工的な、人の手で掘りさげられたような形状になっていく。
「守……なんか、すでに焦げ臭くない?」
縦穴が、コンクリ造りに変わった辺りで、私はそれに気がついた。嫌な臭い。それに、なんだかちょっと眼も痛い。
私より上に居る守も、いち早く異変を察して不安な気持ちを増大させていた。
(まずいな……もしもすでに火が二階にまで廻っていたら……脱出が困難になってしまうぞ)
「開かずの間」のマンホール出口にまでたどり着くと、守の不安は、半分ばかり的中していた。
未だ、火の手が廻っている気配こそないものの、すでに真っ黒な煙が充満していて、右も左も判らないような状態になっていたのだ。
「ごほっ……ひどい煙!」
「……あんまり煙を吸うと、一酸化炭素中毒になってしまう! なるべく息を止めて、躰を低くして進むんだ!」
私達は地面に這いつくばり、ほとんど手探りで通路を通って、部屋を出た。そのまま廊下を進み、玄関ホールの階段を目指してゆく。
(ホールに降りられれば、出口はすぐ眼の前だ!)
肩を抱いて庇ってくれる守の、力強い思考が私を励ます。私は手で口を塞ぎ、酷い煙に涙ぐみながらも、守にすがって先を急ぐ。
吹き抜けの玄関ホールにたどり着くと、黒い世界から一転して、オレンジ色の火炎地獄が待っていた。
凄まじい熱と、光。強い炎は生き物のように玄関ホールをのたくり、狂暴な熱風を巻き起こしながら、朽ちたお屋敷を焼き尽くしてしまおうとしていた。
階段を見ると、こちらから見て右の方は完全に火に巻かれており、左の方も、辛うじて段が見えてはいるものの、右と同じ状態になるのは、もう時間の問題だった。
それでも――。
「……行くしかない! 覚悟はいいか?!」
煤と汗で黒光りした守の顔が、私の顔を覗き込む。
「平気よ。守と一緒なら」
私に迷いはなかった。守と一緒なら、私はどこへだって行ける。何も怖くはない。
私達は見つめ合った。そして、短いキスをした。短いけれど、万感の想いが篭った、かけがえのないキスだった。
それは私達の絆の証。私を暖かい世界と繋いでくれる、守という名の救いそのものだった。
燃え落ちる寸前の階段を、私達は一気に駆けおりた。
くるぶしが、尋常じゃなく熱いというか、痛かったけど、命がかかっているとなれば、人間大抵のことには耐えられるもんだ。
それに、タンクトップからむき出しの肩は、守の腕が庇ってくれたし。
私達がおりたとたん、階段は轟音を立てて崩れ落ちてしまった。両方とも。
周囲の壁も、床も、天井のシャンデリアも、お屋敷の何もかもが炎に包まれて、無残に崩壊しつつあった。
私と柳子の思い出のお屋敷は、紅蓮の炎に包まれて、今、消えてなくなろうとしていた。
もう二度と、元には戻れないだろう。だけど今は、感傷に浸っている場合じゃなかった。
「……あっちだ!」
守が、鋭い破裂音の響いた方向を指さす。
そこにあったのは例の巨大水槽で、熱で壊れたガラスの中からは結構な量の水が溢れ、炎の中に、私達が通れる程度の通り道を切り拓いてくれていた。
その通り道は、上手い具合に玄関扉の前まで続いていた。私達は扉に駆け寄った。
それなのに、扉は開かなかった。まだ施錠されたままだったんだ。
私達は焦った。
周りは完全に火の海で、他にもう逃げられる場所はない。
この扉が開かなければ、私達は、ここで焼け死ぬしかないんだ。
ここまで来てそんなのってない。この扉一枚隔てた向こうには、平和の世界が待っているというのに。
「くそっ、くそっ!」
守は狂ったように扉に向かって体当たりを続けていた。私もそれに習った。
けれども、観音開きの大扉はやたらに頑丈で、この程度の打撃ではびくともしないようだった。
(くそ! もう、これまでか……!)
疲労困憊した守が、絶望的な思考と共に、扉に身をすりつけて呻いていた。私もその場にくずおれた。本当に――本当に、もう、駄目なの?
その時、お屋敷の燃える音に混じり、微かな車輪の音が聞こえた。
私と守は振り返った。
紅蓮の炎の中から黒いシルエットが現れた。私は、呆然と呟いた。
「……柳……子?」
間違いなくそれは、柳子を乗せた車椅子だった。火災のあおりを受けて、火だるまの痛ましい姿に成り果てた、私の片割れだった。
――危ないから、そこどいて!
車椅子の柳子は、全身から火炎を噴きあげながら、途轍もないスピードで玄関扉に向かっていた。心の中で、私は叫んだ。
――柳子、馬鹿! そんなことしたら、あんたの躰……!
一陣の風となった柳子に、私の言葉は届いたのかどうか……
とにかく、私と守が硬直して見守る前で、柳子は車椅子ごと扉に激突した。
柳子の躰は砕け散り――車椅子の破片と共に、四方に飛び散った。
「柳子……!」
突風の中、私はほとんど悲鳴じみた声で、柳子の名を叫んでいた。
柳子、柳子の、意識! 私は未だどこかに居るはずの、柳子の意識を捉えて、引き寄せようとした。
そうよ。ミイラ化した本体がなくったって、柳子は私の肉体の中でその意識を保っていられるはずなんだ。
それなのに、意識を集中させようとした私の腕を、守が無理やり引っ張った。
柳子の特攻によって打ち破られ、開かれた扉の外へと、私を連れ出そうとしているのだった。
「柳……!」
守に引きずられるようにして表に出たとたん、お屋敷の屋根が崩壊した。
入口は、落ちた柱に塞がれてしまった、もう後戻りはできない。そんな……それじゃあ、柳子は?
「あああ……柳子、りゅうこおおおっ!!」
せめて、柳子のかけらだけでも連れて行きたかった。
闇に囚われながらも、私と一緒に居たいと言った柳子。どうにかして、あの子の望みを叶えたかった。
だって、私だって、柳子と一緒に居たいから。
どんな形でもいい、私の躰に、二人分の意識を共有させるしかないというなら、それだって別に構わない。
炎に包まれたお屋敷を、柳子を、諦めきれない私の腕を、守が引っ張って走り出した。
守は、一刻でも早くお屋敷から離れようとしているようだった。
夜露に濡れた月下奇人の、萎れかけた花弁を蹴立て、私達はひたすら走り続けた。
そして――。
この世のものとも思えないような爆音が轟き、真っ白な閃光が、私達の背中を焼いた。
爆風は私達二人の躰を、木っ端のように舞いあげた。地べたに叩きつけられる衝撃に、私の意識が暗転しかける――。
――郁子!
守の強い思考が、私の意識を明晰にさせた。私の手をしっかりと握る、力強い指先の感触。
――もう二度と離さない。
温かい光を伴った、彼の心。絡んだ指の間から、じんじん沁みて、私の胸を熱くする。私は眼を開けた。
「守……」
「郁子、大丈夫か?」
肌のあちこちがぼろぼろに焼け焦げ、煤で真っ黒く染まった守が、私の無事を確かめようと顔を覗き込んでいた。
「お屋敷は……?」
私はお屋敷の方を見た。小さく萎んだ月下奇人の花々の向こう、炎と黒煙を噴きあげるお屋敷は、すでに元の形をなくし、黒い瓦礫の塊になっていた。
灰塵に帰そうとしているお屋敷の中から、微かな声が聞こえた。
――郁子……郁子……郁子。
それは柳子の声だった。
――郁子、私ね、もう一度郁子と逢えて、嬉しかったよ。
お話できて、昔のことも思い出して貰えて、嬉しかった。
郁子がまもるへの想いを遂げる手助けもできて、私……。
喋り続ける柳子の声は、少しずつ小さく、遠くなっていた。
「柳子……」
柳子の声を、気配を、その心の息吹きを手繰ろうと、私は燃えるお屋敷へ向かおうとした。
「よせよ郁子! 危ないぞ!」
守に背後から肩を掴まれ、私は地面に膝をついた。もう柳子の声は聞こえない。私は、お屋敷を仰いだ。
そして、私は見た。
お屋敷の炎の中からゆっくりと星空にのぼってゆく、小さな赤い光の玉。
それは柳子の魂だった。
赤い色をしているのは、きっとその魂が、月下奇人の花に宿っていたからだ。なぜか私には、そう思えてならなかった。
赤い柳子の魂は、夜明けの色に変わり始めている空を、暫しの間踊るように漂っていたけど、
やがて、火災の熱気から逃れ、山の空気に融け込もうとするかのように、すうっと薄らいでしまった。
「ああ……消える……柳子が……柳子の魂が……」
そんなの、駄目!
私は背筋を伸ばし、ちからの限りを尽くして、柳子の魂を捉えようとした。
行かないで! 私、一緒に居るから! 今まで独りにさせてた分を、全力で取り戻すから!
だから、これからも、私と一緒に――。
私の必死の思いが伝わったのか、限界を超えて開ききった私の意識のアンテナの先に、柳子の意識の断片が引っかかった。
お屋敷同様、すでに形を失いつつある、柳子のかけら。
そこにあったのは、古ぼけた思い出のワンシーン。
色とりどりの綺麗な花が咲き乱れるお屋敷の庭で、子犬のように転げまわって遊んでいる、五歳の私と、柳子の姿だった。
輝かしい子供時代の記憶を最期に、柳子の意識は掻き消えた。
「ああっ……消えた! 柳子が、柳子が消えちゃったよぉ……」
ラジオのスイッチを消されたように。私の心の中が、急にひっそりと静まり返った。
この一年の間、気づかぬうちに繋がっていた、柳子の意識との糸が、完全に途絶えたせいだと判った。
私は、月下奇人の上に泣き伏した。
濡れた花はすっかり貧相に萎れ果て、あの狂おしい芳香も弱くなってしまい、もう麻薬のように脳髄を痺れさせるようなことはなかった。
甘い香りはむしろ優しく、火傷を負った肌や、柳子を喪い、傷ついた心を癒すかのように、私をゆったりと包み込んでくれた――。
白々と夜が明けていた。
あれから――柳子を喪ってから私は、守の膝にすがって泣き続け、涙が枯れても泣き続け、
躰中の水分を搾り出してかさかさになってから、守に助け起こされて、お屋敷から離れようという彼に、ようやっと頷いた。
大きなお屋敷はまだまだ燃え尽きる気配もなく、黒い煙と共に炎上中で、月下奇人の庭を歩く私達の躰にも、風に乗った煤がばんばんこびりついた。
――もうこの服、いよいよ駄目になったかなあ……。
守との出逢いの思い出が詰まった、黄色いタンクトップを見おろした。
こんな時、こんなどうでもいいことを思い煩ってしまう自分のちっぽけさがおかしくて、私は乾いた笑いを浮かべた。
倒れて苔むした門扉をまたいでお屋敷の敷地を出れば、白い朝靄に包まれた森は静かで、
山鳩の低い鳴き声と、梢が時おり風にそよぐ音だけが、ひっそりとした静寂を、より深めているようだった。
守は私の前を、濡れた柔らかい草を掻き分けながら、ゆっくりと歩いていた。
足場が悪くて歩き難いので、そうやることで、私のために道を作ってくれているらしい。
私としては正直な処、もっとこう、ぴたっとくっついて、手を繋ぐなり、腕を組むなりして歩きたい気持ちだったけど……
まあこうやって、私のために先を進む守の背中を見ながら歩くのだって、悪くはない。
「――郁子」
幅広い背中を私に見せたままで、守が喋りかけてきた。
「そういえばさ、お前のアパート……契約の更新って、いつだっけ?」
「アパートの更新? 来年の夏だよ。二年契約だから」
「そうか……おれんとこは、この春に更新したばっかだから、次は再来年なんだ」
「はあ」
なんだか、やけに所帯じみた会話だなあ。
守のやつ、日常的な話をすることで、私の気持ちを柳子のことから引き離そうとしてるのかしら?
柳子がもう完全に消えてしまったのだということ。私の中で、
その事実はまだ受け入れがたいものだった。
十四年前に三ヶ月ほど過ごしただけの、双子の片割れ。
考えてみれば、赤の他人と変わらないくらいに遠い存在だったけど、あの子のこと、私は私なりに、いつでも気にかけていたんだ。
心で話ができなくなった後だって。
夜見島に居た時だって、時々ふっとあの子のことを思い出したりしていた。
夜見島の闇の化け物達の影に怯えながら、私がこんな目に遭っている今、あの子はどうしてるのかなって。
私みたいな、つらい目に遭ったりしてないのかなって、なぜだか妙に心配してた。
あの時は、まさか柳子が死んでしまっていたなんて、考えてさえいなかった。
しかもその後、あのお屋敷に独りで戻って、あんな風に……。
「――なあ郁子、聞いてる?」
柳子のことに気持ちが傾きかけていた私を、守は振り返った。私は、間に合わせの笑顔で取り繕った。
「あ、うん、えっと……」
守は呆れた顔でため息をつき、眼の前の立ち木に手をついて、私に向き直った。
「聞いてなかったな? 当ててみようか、柳子のこと考えてただろ」
「えっ……もしかして、守も人の心、読めるようになった?」
「ああ。お前の心限定だけどね」
守は、取り済ました顔で立ち木を押し退け、その先の道をまた歩き始めた。
そこを越えれば、後は車道まで一直線だ。
大きな障害物らしきものももうないし、守も余裕綽々で、ポッケに手なんか突っ込んじゃってる。
「それで、さっきの話だけど」
守は話を再開させた。
「郁子の今のアパートってさ、陽当たりあんまり良くないじゃないか。通りからちょっと入った場所にあるから、夜とか結構物騒だし」
「えー、そーお? 別に気にしたことないけど」
「気にしろよ! 一応、女の子なんだから……まあとにかくさ、そろそろお前も、もうちょっとましな処に住んだ方がいいんじゃないかって言ってんの」
「えー……」
私のアパート、そんなにしょぼいかしら?
まあ確かに、なんだかんだで築二十年は経ってそうだし、陽は全くと言っていいほど当たんないし、
キッチンは小さいし、バストイレ一緒だし、天井に人の顔の形をした染みがあったりもするけど……。
「でもねえ……引っ越すのだって只じゃないし。だいたい、引っ越す場所の当てがある訳でもないのに」
「当てなら……ないこともないんじゃないか?」
ずんずんと歩きながら、守は言った。
「例えばさ、おれのアパートだったら……あの喫茶店にも今以上に通いやすくなるし、大きな通りに面しているから、路地裏のお前ん家よりは危なくない」
「守のアパート、ねえ……。確かに悪くはないと思うけど、うちと比べると、家賃がちょっとお高いでしょ。それに……」
「……それに?」
「守のアパートに、空き部屋なんてないじゃん」
「郁子」
守は、足を止めて私を振り返った。
「お前ってさあ、なんて言うか、むらがあるよな。たまに不思議に思うよ。お前の頭ん中って、いったいどういう仕組みになってる訳?」
「なっ、何よお」
いきなり、苛立った口調で私を責め始めた守に、私は軽くたじろぎつつも、負けじと睨み返して迎え撃った。
「私のどこにむらがあるっていうのよ!?」
「たまに、びっくりするくらいに鈍感になるじゃないか。テレパスの癖にさ。それでとんちんかんなことを言う。
なあ……今の話の流れで、どうしてそんな答えが返ってくるのさ?
何でおれが、お前をおれのアパートの空き部屋に引っ越しさせようなんて言うと思うんだ?」
「な、何でって言われても……」
自分がそう言ったんじゃん。自分のアパートに引っ越ししろって。
でも確かに、そうできたらいいだろうなあとは思う。
守の部屋のすぐ近くに住んで、いつも近くに彼の存在を感じて。
それに、その方が、彼の家のことをするのだって、ずっと楽になる。
もう守とは……他人じゃないから、これからは、お互いの部屋に行き来する機会も増えるだろうし、お泊りをしたりなんてことも、多くなるかも知れないし……。
「何にやけてんだよ?」
「べべ、別ににやけてないもん」
怪訝そうな守の目線に気づき、私は慌てて表情を引き締めた。
(はっきり言わないと駄目か)
守の思考が意識に入る。困惑した、恥ずかしげな感情と一緒に。私は首を傾げた。守……私に何を伝えようとしているの?
私がじっと見つめていると、守は小さく咳払いをした。
そして、両手をポッケに突っ込み、落ち着きなく辺りを見廻しうろつき廻る。
頭上を飛び去る小鳥のはばたきを聞きながら、私は、守の言葉を大人しく待った。
「――あのさ」
「――あのさ」
期せずして、守の切り出した言葉と、待ちきれずに私の発した言葉とが被さった。
「あ、郁子、何?」
「ううん……守が先に、言って」
私達は、再び押し黙ってしまう。
「――あの、郁子、さ」
「うん?」
「お前今、おれの心、読めるか?」
「へえ? いやまあ……読もうと思えば読めるけど」
「よし、じゃあ読め」
そう言うと、守は私の眼の前に立って、眼を閉じた。
私は、硬い表情で眼を瞑る守を前にして、何も言えずにただ立ち尽くした。
人から心を読め、なんて言いつけられるなんて、生まれて初めてのことだ。なんだか気が引ける。
「どうだ? 読んだか?」
眼を閉じたまま、眉間に皺を寄せて、守が言う。私は、「ううん」とかぶりを振った。
「何で読まないんだよ」
守は眼を開けた。
「だってそんな……改めて『読め!』とか言われると、逆にやりづらくって」
「じゃあ、どうすれば読みやすい?」
怒ったような仏頂面で言い募る守に、私は少し困惑した。
「別に、普通に頭に言葉を思い浮かべてくれれば……」
「言葉だけ?」
「うん。強い感情は伝わってくることもあるし、映像とかも、イメージがはっきりしていれば視えることがあるけど、一番確実なのは、言葉」
「言葉、か」
守はなぜか嬉しそうに言った。言葉が一番確実っていう私の言いようが、活字好きな守の気分を良くしたようだった。
「そうだよな。言葉なんだ。大事なことは、言葉でなくちゃ伝わらない。自分自身の言葉じゃなけりゃ……」
「守?」
守は、急に自分の世界に入ってしまった。そうかと思うと、いきなり私の両肩を掴んだ。
「郁子!」
「はっ、はいっ」
「おれは……お前のことが好きだ」
「はい……」
「だ、だから、その……」
見つめ合う私達の距離が、だんだんと狭まってゆく。守は身を屈め、私は背伸びをする。私達の唇が、重なった。
守の唇が、私の唇を、音を立てて吸いあげる。唇を唇で揉んで、舌で舐めて、その舌を、口の中に挿れて、私の舌をすくいあげて、自分の口の中に導く。熱を帯びた唇は唾液にまみれ、揉み合う隙間から流れ出た二人分の唾液は、私達の頬をぬるぬるにした。
「あ……む」
ぴちゃぴちゃと舌で唾液を掻き混ぜる合間に、私の声も桃色に濡れて、森の木陰にいやらしく響いた。
ああ、キスって、なんてエッチで気持ちがいいんだろう……。
「ん……んっ!」
やがて、永いキスの間、ずっと背伸びのし通しだった私のふくらはぎがぶるぶると震え出し、疲れと恍惚に耐えかねて、ぐらりと傾いだ。
後ろに引っくり返りそうになった私の腰を、守が抱き留めた。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
口の周りをべたべたと濡らしたまま、私達は言葉を交わした。
守の眼は、輝きながら、あることを訴えかけていた。私の眼もきっと、物欲しそうに潤んでいるに違いない。
守は私の腰を抱き寄せ、私の首筋に、唇を這わせた。
森を包む朝靄は、少しずつ晴れ始めていた。木漏れ陽が、輝く筋となって、緑の地面にぽつぽつと突き刺さっていた。もう空はすっかり明るい。
それなのに……私達ってば、こんなこと……。
「ま、守、こんな場所で、こんなこと」
柔らかい草むらの中に崩れ込み、タンクトップをまくりあげておっぱいを揉みしだく守の背中を抱いて、私はためらいの言葉を漏らした。
「だ、駄目……もう明るいのに……早く、帰らないと……んっ!」
守の舌が、乳首を、乳輪ごとぞろりと舐めあげたので、私は眼を開けていられなくなった。
守はおっぱいをべろべろと舐めながら、デニムの腰を、お尻をゆっくりとなぞり、丸く撫であげてから、前のホックに指をかけた。
下着と一緒に、デニムをずりおろされて。ああ、人気のない早朝の森の中とはいえ、屋外で、こんな格好に……。
「い、郁子……おれ……おれ!」
草の中、胸の上でタンクトップをたくしあげ、デニムと下着を膝下までずりさげた私の姿に欲情した守は、
鼻息荒くジーンズのホックを外し、せかせかと前を開けて、勃起したおちんちんを掴み出した。
赤黒く染まり、幹に蔦のような血管を絡みつかせたおちんちんを、私は凝視してしまう。
ああ、本当に……しちゃうの?
守は自分のジーンズを膝までさげると、私のまとまった両足を高く持ちあげ、ぷくぷくっと合わさったまんまの私の割れ目に、おちんちんを突き立てようとした。
「あっ、ああん……無理よう、このまんまじゃ」
「いや……できる。こうやれば」
守は、私の両足を押しあげながら、腿の間に挟まっている私の割れ目を、片方の手の指先で器用に割り開いた。
粘ったお汁ですでにぐっしょり濡れそぼってる小陰唇を、ぐにゅぐにゅと揉みながら掻き分けたかと思えば、割れた下の方にある私の入口に一直線。
ああっ、やだ、きついきつい……。
「ううっ、きっ、きつっ!」
青いデニムの脚の向こうで、守も呻いていた。
閉じて窄まっている粘膜の穴が、守のどくどくと脈打つ硬いものに割り挿られ、みっしりと、軋む感じで、切なく疼いている部分を満たしていった。
ああっ。
私……私はもう、痛くなかった。
こんな、閉じた両脚を守の肩に担ぎあげられ、くわっ、と大きく開いた感じのおちんちんの先っぽを押し込められて、じゅぶじゅぶと抜き挿しされても……
あの、引き裂かれるような痛みはまるで感じず、むしろ、中の入口付近のお肉を激しく擦りあげられることが、
もどかしく歯痒いような快感を産んで、どうにも堪らない気分に陥った。
「あああ……はああ、あうっ、あっ、あぁう」
「ううっ、い、郁……」
私達の声は、もう意味のある言葉にはならない。
膝立ちになった守に脚を高く抱えられ、腰を浮かせてほとんど逆さまになりながら姦されている私の、
黄色いタンクトップの下からまろび出たおっぱいは、守に揺す振られるごとに、
ぷりんぷりんと弾んでいるのがなんとも滑稽で、自分の眼からも淫靡に見えた。
私を真上から見おろす姿勢を取った守の眼もまた、私のおっぱいの動きに釘付けになっているようだった。
脛の内側にかかる吐息は激しく、膣の中のおちんちんも、膨らみ方が物凄く、太さも増したみたい。
そんなになったものでずこずこされて……私の奥はどんどん濡れてしまい、熱く粘り、泡立つ音を鳴らしながら、
繋がった部分から溢れ出し、お尻の谷間から内腿までをも、淫らにぬめらせた。
この、濡れながら擦れる感覚……ああ、堪らない……。
「郁子っ、も、もう……出そうだよ……」
守は赤黒く顔をてからせ、長い距離を走りつめたような苦しげな表情をして、息も絶え絶えにそう言った。
そのことは、私にも判っていた。
だって伝わるもん。触れ合った下半身の肌や、派手に体液を撒き散らしながら、出たり這入ったりするおちんちんの、びくびくわななく強張りから……
切羽詰まった、必死の、狂おしい激情と切なさとが、奔流となって私の膣の深い処に注ぎ込まれているんだもん。
ああ守、そんなに激しくしないで。私の中、揺さ振らないで。そんなにされたら私、私……。
「いいよ……出して……」
守と私自身、二人分の快楽に意識を行き来させていた私は、霞んでぼやけた眼を微かにあげて、守に言った。
「でっ、でも……そんなことをしたら……中にっ……!」
「……いいの」
私は、守の肩に預けていた両脚を、ずるずると引きおろしていった。
動きを止めた守自身をぬぽんと抜いて、穴からたらたらと蜜を振りこぼしながら、私は草の上に足をつき、デニムの片方を足先から抜いて、後ろ向きになった。
「い、郁子……」
「守、して」
私は草むらで四つん這いになり、お尻を高く掲げて、守の前に差し出した。判っていたからだ。
守が、私のお尻を見ながら、したがってるって。
肩越しに振り返って仰ぎ見ている私の前で、守は息を弾ませ、白濁した体液にぬめるおちんちんを物凄く震わせて、
丸く膨らんだ先っぽの裂け目から、透明な水飴みたいなお汁を駄々漏れにしたたらせながら、私の突き出たお尻を見つめた。
興奮しきって怖いくらいの、それでいて、乳を欲しがる子供みたいに、頼りなくも懸命な眼差し――。
守は眉間に皺を寄せて私のお尻を両手に掴むと、揺れながら虚空を指し示しているおちんちんの先を、
ぬるぬるしたお尻の谷間に擦りつけ、お尻の穴も含めた割れ目全体をおちんちんで嬲った後に、私の、割れきってどろどろと融け崩れた陰唇の内部に突き立てて、ずぷぷっ……とめり込む感じで中に潜った。
守が、私の胎内へと還って来たんだ。
「ああっ、守ぅ……出して、早く、いっぱいにしてえ」
「ま、待ってろ、もうすぐ……もうすぐだから」
短いインターバルでさがった温度と湿度は、すぐにぶり返された。
守の逞しい幹は、泥沼みたいになった私の粘膜内部で、しゃくりあげるようにひくつきながら体積と重みを増してゆき、
膨れて、凶器じみた硬さになって、私の中を抉り廻した。
背後からこんな風に姦られちゃうのは、変な気分だった。
動物がつるむみたいな格好で、お尻から下だけを守に任せ、自由に、好き放題にされる感覚。
お尻に圧しかかる振動と重さに上半身ががくがくと揺れるにつれ、頭の中が、意識までが朦朧としてくる。
姦されている膣の快感だけに支配され、私の意識、私の全てを、持って行かれてしまう……。
ずっ、ずっ、と忙しなく出這入りしている守のものは、私の中身をひしゃげさせ、引きずりあげて、ぎゅうっと押し込める。
その度ごとに、じゅぽん、じゅぽんと変な音をさせる結合部分は泡を噴き、勝手に閉じたり開いたりを繰り返す入口のずっと奥、
私の中の、ひときわずきずき疼く部分は切なくて、居ても立ってもいられないくらいにむず痒くなった。
どうしようもない衝動に駆られた私は、お尻に力を込めて穴を締めたり緩めたりしながら、
お尻自体も廻すようにくねらせて、守のおちんちんを、中の襞々に隈なく擦りつけた。
「う、う、い、郁子……いく、い……」
私の名前を呼んでいるのか、それとも、絶頂の時を告げようとしているのか。
腰から下をがくがくと揺らして震える守は、私のお尻の肉を強く掴んで狂おしい声をあげた。
顎を反らし、腰がぐっと打ちつけられて――大きく膨れあがっていたものが、お腹の底で、身震いしながら弾ける気配を感じた。
そして、胎内の、多分、子宮の入口と思しき場所に、熱した液体が打ちかかり、じんわりと染み入って、満ち溢れるのも――。
「ああ、あ、あ……くうぅ……っ」
お腹の中を守の温かい精液でいっぱいにされるのは、堪らない快感だった。
押し寄せる欲情の迸りに圧倒されて、私の方も強制的に絶頂の高みに押しあげられてしまう。
私は動物的な声を漏らしつつ、草の中に突っ伏して、深く身を沈めた。
恍惚とした余韻の中で私は、背後で何かが落ちるような物音を聞いた。
「何か、落ちた?」
私は顔を傾け、守の方を見返って尋ねた。
守は膝立ちのまま、私の突きあがったお尻に両手を乗せてぼおっとしていたけれど、私の呼びかけで我に返ったようだった。
音には気づいてなかったみたい。
けれど、私の言葉に思い当たることがあったらしく、慌てた面持ちで、ずりおろしたジーンズのポケットを検め出した。
「……ない、ないぞ! くそっ、どこに落としたんだ?」
私から躰を離した守は、周囲の草の上を見渡した後、下着ごとジーンズを脱いでしまい、それを逆さまにして振って一所懸命に落し物を捜した。
その落し物が何なのかも判らないまま、私も一緒になって草の中をきょろきょろと見廻して捜してあげた。
ちょっと離れた場所に生えたぺんぺん草の根元に、小さな鍵を見つけた。
「守、落としたのってこれ?」
それは、アパートの部屋の鍵のようだった。守や、私の部屋のものと同じような形。
鍵には革製の黄色いキーホルダーがついていて、よく見ると、〈IKUKO〉という文字の刻印が入っているのが読み取れた。
「これ……」
〈IKUKO〉って、やっぱ〈郁子〉のこと……だよね?
「ああそれだ。よかった」
守は私が指先にぶらさげた鍵を見て、ほっと顔をほころばせた。
私は守に返そうと思って、鍵を差し出した。
なのに守は、その私の手を両手で握り締めながら、押し返した。
「いや。それは、お前が持っていてくれ。……っていうか、お前にあげたくて持って来てたんだよ、元々」
「これを、私に?」
「そうだ」
守は、鍵を握り込んだ私の手を握る両手に、力を入れた。汗ばんだその両手の平から、守の想いが怒涛のように流れ込んできた。
――ずっと傍に、居て欲しい。
この期に及んで私は、守の意図していたことに、ようやく気がついたのだった。
守が私に言おうとしていたこと。
それは、この私と一緒に暮らしたいって、自分のアパートに来て欲しいんだって、そういうつもりで、最初から……
こんな、部屋の合鍵に、私の名前入りのキーホルダーまで用意して……。
「守……」
「郁子、おれは……」
私の心に、守の意思はすでにばっちり伝わっていた。守にだってきっと、それは判っているはずだった。
それでも守は、私に自分の意思を告げようとしていた。自分の口で、自分の言葉で、彼は私に伝えようとしてくれているんだ。
だから私も、守の言葉をじっと待った。
ちからを使って読んだ思考なんかじゃなく、守の口から、直にその言葉を聞きたかったから。
守は、たった一言の告白をするのに、随分と逡巡しているようだった。あの、口の達者な守が。
私とは両想いだって判っていても、一緒に暮らしたいって告げるのには、そういう感情なんかとは、また別の勇気を必要とするものだからだろう。
お互いの生活を変えてしまうものだし、同棲なんかを始めればその先の道――つまりその、結婚、なんてものも、視野に入ってくるような気もするし。
だからこそ、守はかなり緊張しているのだし、守の言葉を待つ私だって緊張しているんだ。
でも、そんな風に二人で緊張しちゃうのって、少なくとも、私に取ってはとても嬉しいことには違いない。
だってそれは、それだけ二人の気持ちが真剣だってことなんだもん。
「郁子……」
「守……」
潤んだ視線が絡み合う。私達は手を取り合ったまま、ついついキスを始めてしまった。うん、もう! これじゃあきりがないよ……。
と、その時、遠くから車のエンジン音が響いてきた。
私達は、はたとキスを止め、耳をそばだてた。
それは、聞き違いなんかじゃなかった。もうすぐ近くに迫った車道を走る、長距離の大型トラックが走っている音だった。
「車……」
守はすっくと立ちあがった。
「郁子、車だぞ! 早く行って捕まえよう! でないと、次はいつ車に出合えることか……
麓まで徒歩で行軍するなんて、お前も嫌だろう?」
「え、でも……これの話は」
私は、部屋の合鍵を振って見せた。
「そんなのあとあと! とにかく今はあのトラックを捕まえて、家に帰って寝て、起きて……話はそれからだ!」
守は勢いよく走り出した。さっき脱ぎ捨てた、ジーンズと下着を置いて。
「ちょっ、ちょっ、ちょっ! あんた、待ちなさいよ!」
私は大急ぎでデニムを穿き、ジーンズと下着を引っ掴んで、守の後を追った。
すっかり明るさを増した森の木立ちの中を、私と守は走り抜けた。
まくれあがったタンクトップを直しつつ、私は考えていた。
さっきの話の続き、もしかすると、このまんまうやむやにされちゃうのかも知れないって。
それでも私はなし崩しのまま、守の部屋に居ついてしまうのだろうし、
そのまんま、やっぱりなし崩しのまま、プロポーズもなしに結婚しちゃうのかも知れないと思った。
だけど私は、諦めるつもりなんてない。
だってこれから、まだまだ時間はたっぷりあるんだもん。
昨晩、多くの呪縛から解き放たれて、自由になれた私。私には今、新たな人生の目標が生まれていた。
守と、ずっとずっと一緒に居ること。
そしてもう一つ。それは守の口から、はっきりとした決意の言葉を聞くことだった。
だって、ただ躰の関係ができたってだけじゃ、満足なんてできないもん。
私は、もっともっと、守と深ーい関係になるの。
一生そばにくっついて、決して離れないの……。
こんな私のこと、柳子は笑うだろうか?
――ううん。
心の中でかぶりを振った。柳子だって、きっと天国で応援してくれるはず。私には確信があった。
いつの日か、私が天に召される時が来て、あの世で柳子と再び逢えたなら。
今度こそ二人で、色んな話がしたいと思う。
今度はあんな暗闇の中なんかじゃなく、今私と守が居るような、明るい、清々しい場所で。
子供の頃、一緒に遊んだあの庭のように、綺麗な場所で。
だから、その時が来る日まで、私は守との間に、沢山のいい思い出を作っておかなくちゃ。その思い出の数々を、柳子へのお土産にするんだ。
それがきっと柳子のためであり、他ならぬ、私自身のためにもなると思う。
私はもう光に怯んだりはしない。闇に足を取られたって、蹴散らして光に向かう。
守と助け合って、真っ当に生きて行く――。
「守! 待ちなってばもう……そんなフルチンじゃあ、トラックだって逃げちゃうでしょうが!」
車道に飛び出した私は、いち早く車道に出てトラックの前に仁王立ちしている守に向かい、掴んだジーンズを振り廻した。
ジーンズと一緒に、しっかりと握り込んでいた合鍵が、夏の朝陽を浴びて、きらりと輝いた。
【終】
投下終了いたしました。
以前の投下で申し上げたとおり、こちらのスレのまとめにこのSSは入れないで下さい。
なにぶん量が多いゆえ、まとめる方が大変だと思われますので。
それでは失礼いたします。
長々とお邪魔しまして、本当に申し訳ございませんでした。
乙でした
>月下奇人
完結乙!GJな青春物語でした
いやあ、このスレらしいバカな男だw
完結させられる人ってステキ。
完結乙です。読み応えあるなぁ。
積んでた「シレン5」をプレイしてたら、狐っ娘のおコンとコハルが想像以上に萌えるでゴザる。
「侍or渡世人×恩返しの狐っ娘」的なSSはどこかにないものか。
奇異太郎延期か
てか予測変換に奇異太郎ってあるのな
173 :
ほしゅ:2011/04/09(土) 04:23:48.24 ID:gREQpJfs
#保守代わりに、某所で展開した吸血鬼ネタを投下してみるでゴザル
高校卒業記念に、バイト代注ぎ込んで出かけたヨーロッパ旅行。3泊4日のツアー行とは言え初めて生で体験する外国は、費やした代金以上の感動と興奮を俺に与えてくれた。
そんなワケで、ちょっとばかし注意力散漫になってたんだろうなぁ。
観光に行った先の古城で、「生RPGっぽいな〜!」とはしゃいでたせいか、気がつけばツアーの一行とハグレて迷子状態。
慌てて人影を求めて城内をウロついてたら……何やら隠し部屋っぽいものの入り口を見つけちまったんだ。
「うわ、マジ!?」とビビったものの、ここで見なかったフリして入らないって選択はねぇよな?
、そーっと足を踏み入れてみたところ、3メートル四方くらいの部屋の中央に、棺桶みたいな四角い箱が鎮座していた。と言うか、それ以外には、いくつかの書物と羊皮紙らしい巻物以外、ロクに家具さえない殺風景な部屋だ。
で。
棺桶の上に置かれていた銀製のキャストパズルっぽいものを見たら、ついパズルマニアの血が騒いで、10分ばかりかけて何とか解いてみたんだけど……。
突然、眩しい銀色の光とともに棺桶がひとりでに開いて、中から人(?)が現れたワケだ。
「ククク……人間よ、礼を言うぞ。よくぞあの古の封印を壊してくれた。
我が名はメルクリアス。かつて「銀の魔王」とも呼ばれし偉大なる真祖の王なり!」
──はぁ、そーすか。
漫画とかゲームで見たことあるけど、真祖って、たしか吸血鬼の上級のヤツだよな。
「ほほぅ、よく知っておるな。いかにも。ふぅむ……少しだけ興が湧いた。
我は是より再び闇の世界に覇を唱えるべく動くが、その前にひとつだけ汝の望みを叶えてやろう。
なに、我を復活させてくれた心ばかりの謝礼だ」
うーん……そのお願いって、何でもいいの?
「──断っておくが、「世界」だとか「願い事を百に増やす」などと言う愚昧なことは申すなよ?」
いや、せっかくの好意に対して、そんな恩を仇で返すような真似はしませんけどね。
とりあえず、俺の好きな願い事をひとつだけ叶えてくれると解してOK?
「無論、我に出来る事に限られるがな。しかし、この銀の魔王に出来ぬことのほうが少ない。さぁ、汝のその卑小なる願いを口にするがよい。即座に叶えてみせよう!」
えーっと……じゃあ、言うよ。
174 :
ほしゅ:2011/04/09(土) 04:24:20.45 ID:gREQpJfs
『(ゴニョゴニョゴニョ)お嫁さんをもらって、一緒に暮らしたい』
前半部はさすがに恥ずかし過ぎたので小声になったが、一応「魔王」には伝わったみたいだ。。
「ふむ、妻が欲しいのか。ククク……安い願いだ。
まぁ、汝ら人間は、短き生にしがみつき、懸命に産み殖える生き物だからな。
よかろう! 汝の理想とする女の姿を思い浮かべるがいい。
それにもっとも近き者を我が魔力にて召喚し、即座に汝を心から愛するように仕向けてやろう」
自称・銀の魔王が、なにやらラテン語っぽい呪文を唱えている。
このテのオカルトには素人の俺にも、たちまちこの隠し部屋に、気配というか波動のようなモノが満ちていくのがわかった。
「ほう、魔力を感知できるのか。かの封印を解いたことといい、なかなかなよい素質を持っているな。汝が望むなら、我が配下に加えて鍛えてやってもよいぞ?」
自称「魔王」がほんの少しだけ感心したような声を漏らした……のだが。
──ポムッ!
軽い破裂音とともに、集まっていたはずの魔力とやらが、いきなり消失してしまう。
「ぬなっ!? なんだ一体……コレはどうしたことだ??」
爆発に驚いたのか、「彼女」は床に倒れてペタンと横座りの姿勢になる。
「いったい何が? ウッ……」
苦しそうに頭を押さえてフラつく「彼女」に、俺は慌てて駆け寄り、身体を支えた。
一体どうしたんだ? 久しぶりだったから、魔法に失敗したとか?
「そうではない。呪文の詠唱も、魔力の集束にも問題はなかった。
それなのに、汝の理想の相手を捜すべく、国中をくまなく探査するはずの魔力が、なぜか我の元にいきなり戻ってバックファイアを起こしたのだ!」
──えーと……何となく、理由がわかったような気がする。
うん、確かに魔法は成功してるみたいですヨ?
「?? どういうコトだ?」
175 :
ほしゅ:2011/04/09(土) 04:25:11.10 ID:gREQpJfs
その……さっきさ、願い事を言う時言い淀んだ部分、実は「君みたいに可愛い娘を」って小声で言ってたんだ。
「はぁ!? 何を愚かなことを。この逞しく威厳に溢れた魔王たる我の、どこを指して可愛いなぞと……」
そう「銀の鈴を振るような可憐な声」で言いかけて、銀髪の少女はピキンと硬直した。
ギギィ〜と関節の軋む音がしそうなぎこちない動きで自らの身体を見下ろし、ペタペタと胸や喉に手を当ててまさぐり、挙句に、はしたなくもスカートの裾をめくり上げて何事かを確かめている。
「ば、バカな! なぜ、この我が女に……小娘の姿になっておるのだーーーーッ!?」
腰までたなびく銀色の髪を振り乱し、16歳くらいの可憐な少女の姿をした自称「魔王」ちゃんの絶叫が、狭い石壁の部屋に響いたのだった、まる。
* * *
あとでわかったんだけど、今の「彼女」──メルクリアスの姿って、「彼」を命と引き換えに斃した、ヴァンパイアハンターの少女のものらしい。
古城の屋根裏部屋から見つかった手記には、彼女に同行していたハンター仲間が、灰化した「彼」を聖女たる彼女の遺骸内に封じることで、少しでも復活の時を遅らせ、また力を削ごうと考えた……と記されていた。
──て言うか、さっきから散々俺と会話してたんだから、声で即座に気づこうよ。
まぁ、それはさておき。
俺の願い事は「君みたいに可愛いお嫁さんをもらって、一緒に暮らしたい」。そして、理想と言われて思い浮かべたのは、当然目の前の「彼女」だ。
「……つまり、不本意ながら、我は汝の嫁にならねばならぬということか」
いかにも「わたくし、不機嫌でしてよ!」と言わんばかりのふてくされた声でこぼしながら、彼だった彼女、魔王メルクリアスは、俺の方をニラむ。
いやぁ、さすがに元は男だったとは思わなかったからなー。
「フザケるな! 仮に我が元々女だったとしても、我は真祖、吸血鬼なのだぞ?
そんな人外の者と、汝は添い遂げるつもりだったのか!?」
うーん、そこまで考えてなかったけど……でも、まぁ、そういうことになるかな。
だって、「魔王」って言う割に、君は案外いい人みたいだったし。
「なッ……!?」
綺麗で可愛い容姿も声も、ちょっと古風で尊大な態度も、そのクセ、シャレがわかる性格も、俺的好みにド・ストライクなんだよね。
「にゃ……にゃにを言って……」
あはは、噛んでるね。そういう、ちょっと打たれ弱いところも、好きだよ。
──ボッ!(真っ赤)
176 :
ほしゅ:2011/04/09(土) 04:25:55.99 ID:gREQpJfs
「ば、バカモノぉ〜! 我をからかうでない!」
3割の怒りと7割の照れで真っ赤になってるメルクリアスが、俺の胸をその小さな手でポカポカと叩く。
いかに少女の姿になって半減したとは言え、その強大な「力」は未だ健在。本気で叩かれたら、俺の肋骨なんて簡単に折れるはずなんだが、そうならないってコトは、キチンと自制してくれてるという事なんだろう。
うん、やっぱりメルはいい子だな。
「か、勝手に愛称を付けるな! 頭を撫でるなぁ〜!!」
なんてわめきつつ、それでも俺の手で撫で撫でされると、この娘さん、「ホワ〜ン」と夢見心地な目付きになっているワケですが。あ〜、萌えるなぁ。
「──ッ! か、勘違いするなよ! 我は、決して汝のその優しさに惚れたワケではない!
あくまで、我自身の放った魔力によって、汝を愛することを強制されているだけなのじゃからな!」
え〜〜、そんなぁ。
まぁ、いいや。それならそれで、これからゆっくり親交を深めて、本気でらぶらぶになって行けばいいワケだし。
「ふ、フンッ! できるものなら、やってみせるがよい。
──まぁ、確かに我は、我にできることなら、汝の願いをひとつ叶えると約束した。魔王の誇りにかけても、その願い事は叶えてやらねばなるまい。
元より、不老不死たる我にとって人間の一生なぞ泡沫の如きもの。たかだか50年程度、寄り道にもならぬからな!」
……と、あくまで素直でない愛らしい魔王メルを引き連れて、俺は帰国した。
周囲には、「現地で知り合って深い仲になった恋人で、俺が大学を卒業したら結婚する予定の婚約者だ」と説明してある。
正直、穴だらけのムチャぶりだと思うんだが、コレも魔王様の魔法の影響か、俺の家族も含め「へーへーへー」と、驚くほどアッサリ納得してくれた。
むしろ、母さんなんかは「男兄弟(俺&弟)ばかりのウチに、素敵な義娘が出来た!」と喜々として、メルをネコっ可愛いがりしている。
まぁ、メルの方もすごく猫かぶりが巧くて、俺以外の奴の目がある時は完璧に「元は高貴な家柄の出身だが、現在は天涯孤独なお嬢様」そのものな言動をとってるからな。
可愛い物好きな母さんならずとも、その上品な愛くるしさに魅了されるのはわからなくもない。
それでも、家に来た当初は、隔意と言うか壁のようなものも見受けられたんだが……遠慮と言うものを知らない母さんの世話焼きに根負けしたのか、徐々に堅さや距離感がなくなっていった。
最近では、むしろ母さんとは大の仲良しで、俺が大学行ってるあいだに、母さんの指導で「花嫁修業」に励んでいるらしい。
父さんは父さんで、そんな義理の娘(予定)にダダ甘なダメ父状態。小学4年生の弟も「メルお姉ちゃん」と懐いているし、今じゃ立派なウチの家族だ。
177 :
ほしゅ:2011/04/09(土) 04:26:14.25 ID:gREQpJfs
そうそう、元々がデイライトウォーカーで吸血鬼でありながら日光を克服していたメルクリアスだけど、人間の娘の身体と融合したせいか、流水やニンニクも平気になったらしい。
むしろ、初めて口にしたガーリックの風味に魅せられて、近頃は様々なニンニク料理に凝っているくらいだ。
今日のデート先のランチでも、喜々としてペペロンチーノ頼んでるし。
一応、うら若い乙女なんだから、外であんまりニンニク臭いのはどーかと思うぞ?
「ちょ……デリカシーがありませんわよ! そんなにニンニク臭い娘が嫌なら、ほっといてくださる?」
拗ねるな拗ねるな。ホレ、こっち向け。
「んンッ……」
──ちゅぱ……クチュ……
「……ぷはぁ! もぅっ、キスするなとは言いませんが、周囲の目をお考えなさい!」
そのワリに、俺が肩を抱き寄せた時点で、上向いて目を閉じてくれたワケだが。
「! ば、バカッ! 知りませんわ!!」
耳まで赤くなりながら、プイと顔をそむける様子が愛しい。
はいはい、俺が悪ぅござんした。
今日は、明日のプールに行くための水着、買いに来たんだろ。そろそろ行こうぜ。
「そうね。貴方のセンスにはさほど期待しておりませんけど……。せっかくの機会ですから、わたくしに似合う水着を選ぶ栄誉を与えて差し上げますわ!」
あ〜、了解。誠心誠意、選ばせてもらいますとも。
俺だって、お前さんと初めて行くプールには、凄く期待してんだからな。
「……は、恥ずかしいセリフ禁止です!」
* * *
178 :
ほしゅ:2011/04/09(土) 04:26:35.97 ID:gREQpJfs
「ふーん、パパとママって、むかしからラブラブだったんだねー」
ああ、まぁな。
「!! あ、あなた! 何てこと子供に話してますの!?」
何って……俺とお前の馴れ染め&熱々な日々の思い出?
「うん。ふたりのむかしのしゃしんも見せてもらったの〜。パパ、わかーい。ママ、かわいー!」
「ぅ……うわぁーーーーん! だめぇ、ミライちゃん、そんなママを見ないでぇーーーー!」
ま、色々あったものの、4年後、俺達は無事に結婚。可愛い娘に恵まれて、さらに今、妻のお腹にはふたり目(今度は男の子らしい)がいるところだ。
ちなみに、どうやらメルは、少なくとも肉体的にはダンピール(半吸血鬼)的な状態になってるらしく、ここ数年間で復活した当時より多少は体格その他も成長したのだ(それでもまだ18歳くらいにしか見えないが)。
当然、成人女性として月経もあるし、ヤることヤって膣内で出せば、こんな風に孕む。
実のところ、娘が生まれる直前に、一度だけ聞いてみたことがある。
こんなこと──元は真祖の男性でありながら女性化し、人間の妻になった挙句、身ごもるハメになって、あの城でヘンな仏心を出したことを後悔してないか、と。
その時のメルは、長年つきあってきた俺でさえ見とれるような綺麗な笑顔で、俺にひと言こう言ったんだ。
「愚か者め。我が後悔しているように見えるか? そなたの目は節穴か?」
……いや、全然ひと言じゃなかったな。
しかしまぁ、彼女が真意は、ちゃんと理解できた。
「我々真祖は、本来は闇に住み、永劫の闇を抱えて孤高に生きていかねばならならぬ存在。
それを……このような陽の当たる場所に引きずりだして、温もりと優しさを教えたそなたの負債(つみ)は、人間如きが一生かけても償いきれぬと、深く心に刻んでおくのじゃな!」
おぉ、こわいこわい。
オッケー、しかと承りましたよ。
さしあたり、その負債(かり)とやらは、今晩娘を寝かしつけたら、ベッドの中で奉仕(サービス)することで、少しずつ分割返済させてもらうことにするか!
「ば、バカぁ!(……でも、だいすき♪)」
-END-
179 :
ほしゅ:2011/04/09(土) 04:29:56.48 ID:gREQpJfs
#以上。タイトルは『愛しのツンデレ魔王様』。
実は、エピローグ部の前に、かつての魔王メルクリアスの「自称・許嫁」の魔女が尋ねて来たり、同じく真祖の従妹が「お兄様、貴方は堕落しました」と指差しに来たりする展開も考えてたり。
これは…男の娘…なんだろうか…
>>179 なんてこった
メル可愛いよメル
続編、っていうか関連作があるなら読みたい
>>179 人外スキーかつTS者のわたくしめにとってまことすばらしいSSでございますGJ
外伝とか経緯とかキボンヌ
GJ
ツンデレかわいいよ
男の吸血鬼が女体化するという話は『バンパイアドール・ギルナザン』を連想するなあ。
あれもなかなかよかった(コメディ的な意味で)
『人外娘とその伴侶たち』という連作短編を構想中。
以下のシチュで考えてるんだけど、さてどれから書き始めるべきか。
(……部はキャラのおおよそのイメージ。あくまでおおよそだけど)
1.どじっこ貧乳年上マーメイドと体育会系熱血少年
一族の掟で陸に伴侶を見つけに来た外見20歳くらいの一見美人な
お姉さん(ただし胸はない)が行き倒れていたのを、バスケ部員の
高校生が発見。さんごは、日向家に居候することに。
・蓮沼さんご……菱沼聖子+朝比奈みくる
・日向陽一郎……長谷川昴
2.セレブちっくなマミーと型破りな教授
考古学部の変人教授として名高い主人公は、古代エジプトで埋葬
された王妃のミイラを調査していた……はずなのに、なぜかエキ
ゾチックなおっとり美女と同居することに。
・イルステリシュ……水瀬秋子+鷺ノ宮紗綾
・漆原孝司……漆原教授の若い頃
3.良妻賢母なサキュバスと二流ラノベ作家
一流とは言い難いがとりあえずギリギリ食っていけるくらいには稼
げる駆け出し作家の主人公。彼の夢の中に夢魔がやって来るが、お
人好しで世話焼きな彼女は、不精な主人公の身を心配し、ついには
押しかけ同棲することに。
・ユリーシア……琴乃宮雪+クリステラVマリー
・神無月優伍……滝沢司
4.巨乳ロリババァな座敷童と生真面目文学青年
3の数年後のお話。優伍が経営する(と言っても管理人はユリ)ア
パートに、大学に通うために入居した主人公には秘密があった。
彼には座敷童が憑いていたのだ!
・紗智子……野井原緋鞠+端深空
・片岡公輝……井上心葉
5.ツンデレツインテ雪女と獣医学生
16歳の誕生日に、先祖返りで雪女として覚醒してしまったヒロイン。
やさぐれる彼女に手を差し伸べたのは、冴えない大学生。家出して
行き場のない彼女を部屋に置いてくれるが……。
・秋元いぶき……近衛素奈緒+竹内麻巳
・二階堂琢也……槙原耕介
書きたい順に書けばいいんじゃないかな?
狐耳巫女も追加してくださいお願いします
こうしてネタを並べられると、
型にはまっちゃうってあるんだなぁ
188 :
184:2011/04/19(火) 01:02:14.45 ID:M+N8CAyW
すみません、五ネタ並べた者っす。先週末に書くつもりだったんですが、風邪でダウンしてそれどころじゃない状態でした。
こんなときに、優しく(多少ツンデレ混じりにでも)看護してくれる人外伴侶がいればなぁ。でも、風邪の時の雪女だけは勘弁な!
今週末に物語の拠点となりそうな3あたりから書いて投下するつもりです。
>186さん
残念! 狐巫女は自分の別作品のキャラとカブってるんで……(夫婦神とかのあの人)
189 :
184:2011/04/24(日) 19:22:43.47 ID:HWQ3VuXN
#約束のブツを投下させていただきます。
『はこいりッ!? -純情淫魔さん奮戦記-』(前編)
「何だ、ココは……」
気が付いたら俺は、見覚えのない……というか、あるはずのない場所に寝転がっていた。
「天蓋付きのキングサイズベッドとは、また面妖な」
20代男性の平均ないしそれをやや下回る程度の年収しか持たない、俺みたいな庶民とは、生涯無縁の代物だ。
服装は、普段着にしているスウェットの上下だったが、念のため身体をパタパタと触ってみたところ、薄皮一枚隔てたような微妙な違和感がある。
試しに、思い切りギュッと頬をつねってみたが、触られているいるという「触感」はあっても、「痛み」は感じなかった。
「ふむ……明晰夢、というヤツかな」
一応、物書き──といっても「あまり売れてないラノベ作家」というヤツだが──のハシクレとして、その程度のムダ知識はある。
「まぁ、夢なら仕方ないが……アラサー独身男とロココ調の家具の取り合わせって誰得?」
ベッドにせよ、タンスにせよ、サイドテーブルにせよ……偏見かもしれんが、こういう姫様ちっくな雰囲気の調度が許されるのは、日本じゃローティーンからせいぜい20代半ばまでの女性限定だぞ?
加えて、ベッドカバーやクッションその他の色が、真っピンク! 今時、ラブホでも、こんなベタ色使いをしているトコは稀だろう。そのクセ、レースのヒラヒラがたっぷりとあっては、一体全体、どういうコンセプトなのか疑いたくなる。
断言しよう。断じて、俺のシュミじゃない!
「あ、あのぉ〜、お気に召しませんでしたか?」
だから、背後から、申し訳なさそうな女性の声がかけられても、俺はさほど驚かなかった。
振り返ると、ソコには……女神がいた!
面と向かって最初に目を引くのは、陽の光を蜂蜜に溶かし込んだような、見事な黄金色の髪だろう。腰ところか太腿のあたりまである艶やかなその金髪を、無造作に流しているのでパッと見、後光が差しているようにさえ思える。
そして、その金色と見事なコントラストを為している、ミルク色の柔らかそうな肌と、深海を思わせる深い紺碧色の瞳。
それらみっつの色彩を持つにふさわしい、繊細で整った美貌の持ち主でもあるのだが、ほんの少しだけ垂れ気味な大きな瞳が、美人にありがちな近寄り難さを緩和している。
背は高からず低からず……いや、今時の日本人女性の平均と比べると、ちと低めかな? 150センチちょっと言ったところか。年齢は推定18〜20歳くらい。
ただし、プロポーションはグンバツ(死語)。特に、白いゆったりした夜着(ネグリジェ)を着てる今の状態でも、推定Fカップのその見事な胸はハッキリ視認できる。
ちょっと困ったような表情でもぢもぢしながら、手にしたアンチョコらしきものを確認している様子も、すンごく萌えるし。
──率直に言おう。すごく好みだ! それも未だかつて見た事のある女性の中でもダントツに!!
「結婚しよう。ふたりで幸せな家庭を築くんだ!」
……だから、思わず目の前のその女性の両手を握りしめ、そんな戯言を口走った俺を、男(とくに25歳超えてシングルな輩)なら、誰も責められないと思うんだ、うん。
「えっと…はい。……じゃなくて! い、いえ、嫌というワケではないのですけど、あのですね」
いくら夢の中とは言え(いや、欲望が素直に出る夢だからか?)、直球というよりむしろビーンボールに近い発言をカマしてしまった俺に対して、けれど彼女も慌てつつ、満更でもなさそうな反応を返してくれた。
おかげで、「いきなりプロポーズ」というどこぞの万年煩悩少年みたいな真似をやらかしてしまった俺の方が、逆に落ち着くことができた。
「オーケー、お嬢さん、お互い、ちょーっとクールになろう。ホラ、深呼吸して」
「は、はい……」
──スーーーーーッ…………ハーーーーーーッ
いい歳した男女が、向かい合って真面目な顔で深呼吸している様子は、傍から見たら笑い事以外の何ものでもないだろうが、当事者同士は結構真剣なのだ。
「ふぅ。さて、落ち着いたところで、この状況を説明してもらえるか?」
「はい、わかりました。実は……」
「あ、ごめん、その前に自己紹介くらいは済ませておこう。俺は、神無月優伍(かんなづき・ゆうご)。「十月勇(とつきゆう)」のペンネームで物書きもやってる」
「あ、はい、存じております。わたしは、ユリーシア。ユリーシア・イナンナ・フェレースと申します。一応、フェレース一族の末席に身を連ねているハイサッキュバスです」
そう名乗りながら、彼女は背中というか肩口から黒っぽい翼を出す。
ふむ。サッキュバス……いわゆる女淫魔、か。頭にハイの字がついてるってことは、それなりに高等ってことかな?
「あのぅ、お疑いにならないのですか?」
「? ユリーシアさん、俺を騙したの?」
「い、いえ、そんなことはありません。ただ、現代日本の、社会人の方が、こんなに簡単に信じてくださるとは思わなかったものですから……」
それは暗に、「いい歳して夢見がち青年乙w」と言う意味だろうか?
「ち、違います、ちがいます!」
はは……冗談だって。
「うーん、敢えて言うと、学生時代の知人に、普通でないヒトが結構いたから、かなぁ」
人狼な先輩とか、蜘蛛女な先輩とか、龍神の生まれ変わりの後輩とか、魔法少女やってる後輩とか、絵に描いたようなマッドドクターな恩師とか……。
だから、今更「サッキュバス」って言われても、「あ、やっぱり、いるんだ」くらいの感慨しか持たないのも、無理はないと思う。
「そ、そうですか……(そう言えば、この方、姫様と同じ学園の出身でしたっけ)」
面食らったような、納得したような、微妙な顔つきになるユリーシアさん。
「で、そのサッキュバスが、わざわざ男の夢の中のまで出張って来たってことは、ナニをしよう、ってことかな?」
「はぅ!? そのぅ……えーっと…………はい」
「淫魔」と言うからには、ソチラに関しては百戦錬磨だろうに、どうにも反応が初々しいな。
まさか、と思いつつも、一応、念のために聞いてみる。
「もしかして……こういうこと、初めて?」
ボボッ、と真っ赤になった彼女の顔が、何よりも雄弁にその答えを物語っていた。
***
「わたくし、一族の落ちこぼれなんです」
ベッドに並んで(ただし、人ひとりぶんくらいの間隔をあけて)腰を下ろしたところで、彼女が自らの事情を話し始める。
フェレース家と言えば、魔界でサッキュバスを束ねる名門──伯爵家の家柄であること。
ユリーシアさん自身は分家の出ではあるが、現在の本家の当主とは「はとこ」にあたり、比較的血筋はよいこと。
にも関わらず、魔法も体術もてんでだめ、サッキュバスの本領とも言える魅了関係も、内気な性格が災いしてかイマイチ……いや、イマサンであること。
「普通のサッキュバスと違って、わたくしたちハイサッキュバスにとっては、殿方の、その…「精」は、生きていくうえで必須というワケではありません。
そもそも「精」──生命力にしても、別段、え…えっちなことをしないと吸い取れないワケでもありませんし。
けれど、一人前の成人と認められるためには、殿方の精を「女」として胎内に摂取することが条件となっているんです」
ある意味、淫魔の通過儀礼ってことか。
「ふむ。一応聞いておきたいんだが、君とその…コトに及んで、精を吸い取られたとして、俺の側には、どんなデメリットがあるのかな?」
穏やかに俺がそう尋ねると、俯いていたユリーシアさんが、ハッと顔を上げた。
「え!? も、もしかして……協力していただけるんですか??」
「まぁ、よほどのデメリット──たとえば生死にかかわるとか、寿命が縮まるとかがない限り、そのつもりだけど、どう?」
「それは、大丈夫です! 確かに、生命力を失ったことで、一時的に身体が疲労したような状態にはなると思いまけど、もし神無月さんが体調を崩されても、わたくしがお世話させていただきますから」
って言われてもなぁ。どうやらこのお嬢さん、かなりいいトコの箱入り娘っぽいし(しかも、魔界出身!)、家事はおろか雑用すら満足にできるかアヤしいトコロだが……。
だが、これだけ御膳(じょうきょう)が整ってるのに、据え膳食わないのは男がすたる!
しかも、ルックスと言い、雰囲気と言い、この娘は、俺の好みにド真ん中ストライクコースなのだ。
幸い、締め切りは一昨日で、次の仕事までは多少余裕がある。最悪、一週間くらい寝込むことになっても、問題はないだろう……たぶん。
何より、飼い主が遊んでくれるのを待つ仔犬みたいな目付きをしたこのお嬢さんに「NO!」と言うのは、限りなく難しい。て言うか、俺には無理だ。
「そ、それじゃあ……」
「うん。ふつつかものだけど、ドゾヨロシク」
「に゛ゃっ!? 神無月さん、ソレ、わたくしの台詞ですよ〜」
などという軽いじゃれあいをして、緊張感をほぐす。
「あ、そうだ。ところで、この部屋って、ユリーシアさんの趣味?」
「いえ、そのぅ……ちょっと違います。あのぅ……コレを参考にしました」
「?」
彼女が手にもっていたアンチョコらしきものの正体は、薄い文庫本だった……て言うか、コレ、俺が書いた「黒百合のストレンジャー」じゃねーか!?
真っ当なラノベ一本で食っていくのは、俺のレベルでは難しい。で、ときどきジュヴナイルポルノの雑誌の仕事とかも別名義で請け負うんだが、その連作短編が6本溜まったんで、こないだ単行本化されたのだ。
「え、えっと、神無月さんのご趣味は、こういうのではないか、と思いまして」
「う、う゛ーーむ゛」
いや、こりゃあくまでフィクションだから。
確かに、毎回エロいメに遭いつつバージンだけは守り通すヒロインの怪盗が、最終回で、ライバルにして密かに想いを通じあっていた若き警部に抱かれるシーンは、こういう感じの部屋の描写を入れたけどさぁ。
「その、お気に召さないようでしたら、変えましょうか? それくらいなら、わたくしの魔力でも十分可能ですし……」
「むぅ……手間かけて申し訳ないけど、そうしてもらえると助かる」
「は、はい。では……」
一瞬、目の前が真っ暗になったかと思うと、次の瞬間、俺はどこか懐かしい雰囲気のする和室の畳に座っていた。
「いかがでしょうか? 神無月さんが抱いておられる「一番落ち着く場所」のイメージをお借りしたのですけど」
目の前の座卓の向かいにいるユリーシアさんは、いつの間にか藍色の浴衣に着替えていた。
金髪碧眼のいかにも外人(むしろ人外?)な彼女だけど、意外にもその格好は似合っていた。
慣れた手つきで急須からお茶を入れ、コトンと俺の目の前に置いてくれる。
「うん、コッチの方が十倍いいな」
予想以上に美味いお茶をすすりながら、ココが夢の中であることも忘れて、リラックスする俺。
「聞いてもよろしいですか? 此処は……」
「ああ、俺の母方の祖父母の家のイメージだな。もっとも、高校の頃にふたりとも亡くなって、家も売りに出されたから、正確とは言えないかもしれないけど」
でも、ここが俺にとって一番落ち着く場所だというのに異論はない。
じぃちゃんもばぁちゃんも凄くいい人で、俺の「作家になりたい」という夢を応援してくれた。もし、ふたりの励ましがなければ、今みたく物書きのハシクレになってなかったかもしれない。
それだけに、夏休みなど長期休暇の度に遊びに行ってた「この家」が売り払われた時はショックだったしなぁ。
「とても、大切な場所なんですね。あの……そんな場所で、わたくしなんかと、その……イタすことになってもよろしいのまでしょうか?」
「ああ。て言うか、むしろだからこそ、ココがいい」
俺は、湯呑を座卓に置くと、まっすぐに彼女の目を見た。
「あらかじめ言っておくと、俺は一応初めてじゃない……と言っても、まぁ、いわゆる風俗に行ったことがあるだけで、残念ながら恋人の類いとシたことはないんだけどな」
高校時代に恋人らしき女の子はいたけどキス止まりで、卒業したら自然消滅しちまったからなぁ。
「は、はい」
「で、だ。さっきも言った通り、俺にとってキミはすごく好ましいタイプなんだよ。だから、今晩ひと晩だけでもいい。どうせなら、俺と──そのぅ恋人同士になったつもりで、エッチしてもらえないかな?」
言いながら、どんどん顔が熱く赤くなってくるのがわかる。くそぅ、これこそ、普通女の子側が言うべき台詞だろーが。これだから素人童貞は……。
けれど、ユリーシアさんは、「キモ〜い」とかそういう軽蔑した目ではなく、むしろ感動したような面持ちで俺を見つめている。
「い、いいんですか、わたくしなんかで……」
「あぁ、キミがいい。恋人をこの家に連れて来て、じいちゃん達に紹介するのが、俺の密かな夢だったから」
間髪を入れずにそう答えると、彼女はいっそう瞳を潤ませ、正座のまま見事な挙措でススッと下がり、そのまま三つ指ついて深々と頭を下げる。
「それでは、不束者ではありますが、宜しくお願い致します」
うん、やっぱり女の子が言うと映えるよな。
「ああ、こちらこそ、よろしく、ね」
かくして、一夜限りの恋人──その長い夜が始まったのだった。
-後編につづく-
#以上。エロいシーンは次回に持ち越しです(所詮私なので、エロ度とかは、あまり期待しないでください)
#ちなみに、本作は別の場所(と言うかブログ)に投下した「九死に一生、淫魔に転生」の10数年後の話でもあります。姫様とは無論メルヴィナのこと。蛇足ながら、一応注釈を。
#蛇足その2
ユリーシアのビジュアルイメージは、184に挙げたのとは多少ズレますが、
「瑠璃色の雪」の瑠璃ないし某「ランス」シリーズのリズナ・ランフビットあたりを想像してください。
コンセプトは「金髪きょにぅだけど和服が似合う」です。
乙
これは期待が持てる
WKTK
ちくしょーもう全裸だってのにー
wktk
YAT安心!宇宙旅行のマロンみたいな獣人のヒロインと
人間の男の子が恋人同士というステキな設定の子供向けアニメを観た夢を見た
良い子のみんなに人間以外の女の子と結ばれる幸せを広めてほしいと思った
現実には深夜アニメでもない限り人間以外のヒロインってなかなかないだろうけど
デジモンクロスウォーズだと、半獣の女の子キャラも何体かいる。
今度放送する分には、アマゾネス風のムチムチ姉さんデジモンが出るし。
続きまだあああああああああああああああああああああああ
※194の淫魔さんとのお話の続きです。
『はこいりッ!? -純情淫魔さん奮戦記-』(後編)
座敷の隣りには、用意周到(?)に枕ふたつ並べた布団が用意されていた。
もじもじする彼女の手を引いて、隣室に移動する。
「やっぱり、恥ずかしい?」
「うぅっ………実は、その……はい」
布団に横たわったユリーシアは、顔を真っ赤にして泣きそうな目で俺を見ている。
この、今時珍しい程の純情ガールが名門サッキュバスの血縁だと言うのだから、世の中はわからんもんだ。
「あっ!」
浴衣の胸元に手を伸ばしたところで、一瞬それを押し止めようとする素振りを見せるユリーシア。
「いや、少しずつでも馴らさないと」
「あ、す、すみません。そう、ですよね」
懸命に恥ずかしさを堪えながら、生まれたての仔馬みたくプルプル震えているけなげな彼女に様子が愛しくて、俺は精一杯優しい声音で語りかけながら、彼女の蜂蜜色の髪をゆっくり撫でる。
「大丈夫。乱暴にはしないって約束するから。俺を信じて」
「! はいっ……」
なぜかトロンとした顔つきになって、俺の手に身を委ねるユリーシア。
そんな彼女のいぢらしさに、俺の中の興奮と愛しさがどんどんかきたてられていく。
肌蹴た着物の胸元からこぼれるふたつの膨らみに、ソッと手を伸ばす。
「んくっ……!」
指先がその柔らかな弾力を確かめるのとほぼ同時に、ユリーシアが呻きを漏らす。
「ごめん、もしかして強過ぎたか?」
「いえ、そうじゃなくて……」
言葉を濁されたが、おおよその意図はわかった。どうやら、感じてくれてるらしい。
「えと……神無月さんのお好きなようになさってください」
て言われてもなぁ。いくら淫魔だからって、さすがに初めての子に手荒な真似をするのは気が引けるし。
「それに……神無月さんになら、わたくし、何をされても……」
!!
いや、だから、君みたいな可愛い娘がソレを言うのは反則だって!
そんなことを、つい先刻会ったばかりとは言え、一目ぼれした女性に言われて、奮い立たない男がいるだろうか? いや、いまい(反語)。
「ユリーシアっ!」
だから、堪え切れずにガバチョと抱きしめてしまった俺を責められる筋合いはないはずだ、たぶん。
「あっ!?」
俺の激しさに一瞬怯えたような声を漏らしたユリーシアだが、抱きしめる腕に込めた俺の想いに気づいたのか、すぐにリラックスした表情を取り戻してくれる。
彼女が落ち着いた頃合いを見計らって、俺は再度胸元の攻略に着手した。
掌の触感に続けて、彼女の豊満なその乳房を、じっくりねぶるようなに観賞する。
「あ、あの……あまり見ないで、くださいぃ」
「いや、そんなこと言われても、思わず目を奪われちゃうって、こんだけ綺麗なんだから」
「ふぇっ!?」
固まるユリーシアを尻目に、触覚・視覚に続いて、味覚でもその素晴らしさを堪能しようと、俺は彼女の胸元に口づけた。
「ひぁンっ! ほ、褒めていただけるのは嬉しい、ですけど……ああン」
困惑しつつも、その喘ぎに満更でもないという悦びの色を聞きつけた俺は、本格的に畳みかけることにした。
舌先で彼女の先端の突起に触れる。
「ぁ……」
唇で挟みこんだ乳首を転がし、その適度な堅さを確かめる。
「はぅんッ!」
感じてくれるだろうと予想はしていたが、そこまで激しい反応は意外だった。
次はいくぶんやんわりと舌で舐め……軽く、本当に僅かにだけ力を入れて歯で甘噛みする。
「ちょ……あぁぁん……!」
どうやら、ユリーシアは胸が弱いらしい。
そんなマル秘情報をゲットしてしまっては、俺としても利用せずにはいられない。
俺は、右掌をユリーシアの左の乳房に覆いかぶせて、その瑞々しい張りと弾力を確かめつつ、舌と唇を駆使して反対側の乳首を攻めることに全力を尽くした。
「ん……は、ぁ……胸が…胸の奥が……疼いてきます……」
ユリーシアもフッきれたのか、あるいは本格的に身体に火がついたのか、俺の頭を胸に押し付けるような体勢で抱きしめる。
「あっ、あっ、あっ……ひぁンッ!」
やがて、薄桃色の小さな果実を俺が堪能し尽くす頃には、ユリーシアは軽く達してしまったようで、トロンとした目に幸福そうな光を湛えて甘い溜め息を漏らしていた。
「大丈夫か?」
「──え? あ!? は、はい!」
どうやらしばし忘我の状態にいたらしい。未熟な俺の愛撫で、そこまで感じてもらえたなら光栄の極みだな。
「大丈夫なら、続けようと思うけど……」
どうする? 視線で問いかけると、彼女はコクンと恥ずかしそうに頷いた。
浴衣の帯を解いて、ソコを目の当たりにした時、思わず俺は「うわぁ」と感嘆の声を漏らすところだったが、何とか喉の奥でそれを阻止する。
浴衣の下に下着を着けていないために、そこには、まばゆい程に白く神々しいユリーシアの裸身があった。
まがりなりにも淫「魔」であるはずの女性にその形容はどうかとも思うけど、藍色の浴衣の地とのコントラストで、その白さがいっそう引き立っており、思わず目を奪われる。
「そ、そんなじっと見つめないでくださぁい」
「す、すまん」
ちょっと泣きべそ気味な彼女の言葉に、反射的に謝りながらも、視線をソコ──彼女の女性器から外せない。
朱鷺色──ベイビーピンクってのは、こういう色のことを言うんだろうなぁ。
あまりに初々しく、無垢な色をしたソコに、俺なんかが触れていいのか躊躇われるが、それでも「ままよ」と決意を固めて底に手を伸ばす。
うわ……この感触をどう形容していいのかわからん。作家のハシクレとしては失格かもしれんが、この指先にまとわりつく柔らかさと心地よさを上手に形容できたら、それだけで賞のひとつやふたつは取れそうだ。夢中で2本の指を蠢かせる。
「はぁ、はぁ……やは、ん……」
時折、弱弱しい制止の言葉は混じるものの、彼女も感じてくれているのは確かなようだ。
本来は、もう少し時間をかけてほぐすべきなのだろうが、すでに彼女のそこもトロトロに出来あがっているし、何より俺の下半身が結構ヤバい。
手早くトランクスを脱ぎ捨てて、膨張しきった自分のモノを彼女のソコにあてがい、まだ入れずにヌルヌルとした滑りの上にこすりつけて楽しむ。
「か、神無月さん……わた、くし……も、もぅ……」
切なげな色を瞳に浮かべて懇願する彼女がたまらなく愛しい。
「じゃあ、ユリーシア。一緒に気持ちよくなろう」
──ズブズブッ……
これまでの前戯で襞の奥まで濡れそぼっていたせいか、呆気ないほどスムーズに、ユリーシアの秘裂は俺の逸物を受け入れる。
サッキュバスに処女膜はないのか、あるいは何らかの理由ですでに破られていたのか、いずれにせよ途中に抵抗感もなく、彼女の胎内の奥に俺の分身はヌルリと飲み込まれていった。
「っ!! ああぁぁぁぁっ……! ひぅンッ……!!」
それでも、敏感な彼女の身体には、かなりの刺激をもたらしたらしい。
顔を真っ赤にして息を荒げ、目じりから涙を零しつつ視線も定まらず、だらしなく口を開いて口の端からわずかによだれを垂らした様子は、さすがに「純真無垢」とは言い難いが、それでも俺には愛らしく見えた。
「あぁ……かたい……それに……おっきぃ……。と、殿方のモノって、こんなにスゴいんですね」
褒めてくれるのは有難いが、俺のは標準だと思うぞー。まぁ、そんだけ感じてくれてると思うと俺としても嬉しいけど。
「じゃあ、本格的に動くよ?」
断わりを入れてから、ゆっくりとピストン運動を開始する。
予想してた通り、彼女のソコはいわゆる名器というヤツで、本来の俺ならさしてモたないはずなんだが、ココは俺の夢の世界だ。
強く意思さえ持てば、多少のムチャは効くはず……!
その考えは正解だったようで、じゅぶじゅぶと彼女胎内を掻きまわしながらも、俺にはまだ多少の精神的余裕があった。
時折、深く付き込むことで、彼女の深奥部──いわゆる子宮口を俺のモノの先端が叩いていることもわかる。
「ふ…あ……ああン! く……ひ、っ……はぁああ……」
対称的に、ユリーシアの方は余裕がなさそうだ。目をキュッとつぶりながら首をのけぞらせ、その挙句、意味不明の言葉を漏らすことしかできていない。
まぁ、初エッチの女性ともなれば、そういうものだろう。
優しい笑みを浮かべつつも、俺は手加減せずに、腰を前後に揺すり続けた。
「……っ、あ……!! あぁ……また……イク……イッちゃいますぅぅぅーーーッ!」
程なくユリーシアは、俺の下で心底幸せそうな表情を浮かべながら……未踏の高みへとのぼりつめたのだった。
#力尽きたので、ピロートークとエピローグは次の機会に。
乙
<彼女の追想>
人間はもとより、天界の住人でさえ誤解されている方が多いのですけれど、わたくしたちサッキュバスは(ハイ種だけでなくレッサーも含めて)、決して「殿方の精を四六時中求めるだけの痴女」ではありません。
──いえ、確かに満月の夜などは、レッサー種の方は繁殖期の動物にも似た疼きをその身に抱えられるとは聞いていますけど、それ以外はごく普通に会話や文化活動、あるいは戦闘行動なども可能なのです。
こう言ってはなんですが、一部の血の気の多い獣人族や鬼魔族の方々に比べれば、魔族の中でも比較的理性的で、温和な種族と言えるかもしれません。
喜怒哀楽は元より、親子夫婦間の情愛だってあります──無論、それが人間や神族のそれとまったく同じものか、と問われれば無条件に肯定はできませんが。
神無月さんにも説明したとおり、わたくしたちハイサッキュバスに至っては、吸精行為すら生きていくうえで必須ではありません。
とは言え、吸収した精気をダイレクトに魔力に変換できるのがサッキュバス族の特性ですから、そうした方が強くなれるのも確かですが。
それなのに、サッキュバスの成人儀礼として「人間の男性との性行為を通じての吸精」があるのは……「それが伝統だから」と言うのが、一番わかりやすい理由でしょうか。
日本人の方にわかりやすく言うなら、そうですね……成人式、と言うよりはむしろ高校の卒業式あるいは卒業試験って感じですね。
その例えで言うなら、この歳になっても男性から吸精行為をした経験のないわたくしなどは、20歳過ぎても留年して高校に居座っているようなものでしょうか。
無論、分家とは言え名門の端に連なる者としては大変な不名誉です。
故に、ごく一部の理解ある縁者を除いてわたくしに対する風当たりは強く、まさに針のむしろめとも言うべき状態でした。
幸い、人間界への留学経験がある本家のメルヴィナ様とリアリィ様、そしてお二方の御母堂である伯爵様は、わたくしの小娘じみた感傷にも理解を示してくださいました。
とはいえ、わたくしがこのような心境に至ったのは、かの御方達からいただいた書物が元凶なのですから、ある意味、卵と鶏の論議のような気がしないでもありませんが……。
ええ、そうなのです。
本、とくに読み物好きなわたくしは、現在も頻繁に人間界に出かけられることの多いお二方から、現在アチラで流行っている小説や「漫画」と称する絵物語の類いを貸していただく機会が多々ありました。
魔界(コチラ)にはない文化の数々、とくに少女向けのそれらにすっかり魅せられたわたくしは、いつしか「初めては好きな殿方と結ばれたい」と言う、サッキュバスとしてはかなり異端な感慨を抱くようになっていたのです。
もっとも、わたくしがいくら夢想家だとは言え、普段は魔界に住む身で人間の殿方と情熱的な恋に落ちるだなんて、都合のよいハプニングがありうると思うほど、浮世離れはしておりません。
けれど──ある時、リアリィ様から戴いたとある本、お二方の人間界での学友であられた方が書かれた一連の小説に、わたくしはすっかり入れ込んでしまいました。
そしてその熱は、いつしか物語自体だけでなく、それを書く方への興味にまで拡大してしまっていたのです。
この素敵なお話を書いているのは、どんな方なのだろう?
どういう暮らし、どういう人生を歩んできて、このような優しい物語を書くようになられたのだろう?
著者の方と比較的親しかったというリアリィ様から、その方──神無月優伍様のお話を聞く機会もあって、わたくしの頭の中で、神無月様の存在が、少しずつ大きくなっていきました。
いい歳して小娘のような恋煩いに捕らわれたわたくしを案じた伯爵様は、魔王様とかけあって、人間界への短期滞在を許される「人材交流会」のメンバーに、わたくしをねじ込んでくださいました。
「えぇか、ユリちゃん。好きな男が出来たら、その胸に思い切って飛び込んでみるのも、女の甲斐性ってヤツやで。ふぁぃとや!」
そんな暖かい激励の言葉までくださいました(メルヴィナ様は、「ママはおもしろがってるだけよ」なんて呆れられていましたが)。
100日近くにわたる講習(人間としての常識や基礎知識を身に着けるものです)の後、いよいよわたくしは他のメンバー共々人間界に降り立ち……。
三日間ほど遠巻きに観察した後、神無月様が、予想していた通りのお優しい方であったことを確信したわたくしは、ついに今晩意を決して、かの方の夢の中にお邪魔したのです……。
* * *
「あ〜、つまり……ユリーシアはストーカーだった、と」
結局、夢の中では抜かずの3連チャンでやりっぱなしで、さらに明け方目が覚めた時に、同じ布団の中に彼女の姿があると知った瞬間、自制しきれずに再び今度は現実で励んだ結果、当然俺の精力は見事にempty状態、そのままダウンとあいなった。
ユリーシアによると、彼女も経験が浅い(て言うか初めて)だけに、生身での吸精の加減が上手くいかず、思ったより大量に吸い取ってしまったらしい。
もっとも、昨夜の約束通りユリーシアが、布団から出るのも億劫な状態の俺を、甲斐甲斐しく世話してくれているため、別段後悔はしてないけどな!
で、布団から半身を起して、彼女が作ってくれたおじや(予想に反して味は悪くない……てか美味い!)を「ふーふー&あ〜ん」して食べさせてもらった後、彼女からの懺悔というか打ち明け話を聞かされた俺の第一声が上のものだったわけだ。
「か、神無月さん、ヒドいです〜」
さすがに温厚なユリーシアも怒ったのか、拳でポカポカ叩かれた。
「や、ごめんごめん。冗談だって。むしろ、単なる偶然じゃなく、俺を初体験の相手に選んでくれたことを光栄に思うよ」
即座に謝罪したのでユリーシアの機嫌も直り、今は何となくイチャイチャと言うかまったりしてるんだけど……。
「えーっと……」
「あ、あの!」
いかん、カチ合っちまったな。
「じゃ、じゃあ、ユリーシアから」
「い、いえ、神無月さんこそ」
あー、やっぱしこうなったか。ま、それならお言葉に甘えて。
「えっと、さ。さっき聞いた話だと、そのぅ「人材交流会」とやらで、しばらく人間界(こっち)にいるんだよね? 住む場所とかは、もう決まってるのかな?」
無論、俺が言外ににじませた意味を、彼女はしっかり読みとってくれた。
「えっ……その、まだです。これからステイ先を探すつもりでした」
そう言いつつ、伏し目がちにした視線をチラチラとこちらに投げかけてくる。
はは、飼い主に「撫でて撫でて」と期待する仔犬みたいで、わかりやすいなぁ。
一瞬、トボけてみようかと言う悪戯心が頭をもたげたが、自粛しておく。そんなにコトしたら、彼女、マジ泣きしそうだし。
「だったら、ユリーシアさえ良かったら、ここで俺と一緒に住まないか? 少々ボロいが、君の分の部屋くらいあるしな」
俺は、木造築30年で猫の額ほどの広さとは言え、一応二階建ての一軒家を借りて住んでいる。もっとも、一階は居間と台所とトイレ、二階も部屋が和室と洋室がひとつずつあるだけの、下手なマンションより貧相な住まいだけどな。
二階の部屋の和室を寝室、洋室の方を物置にしてるが、洋室は整理したら空けられるだろう。
「はいっ、ぜひお願いします!」
パァッと大輪の花がほころぶような笑顔を見せるユリーシア。
……うん、まぁ、思いがけない美女とのアバンチュール(?)に浮かれて、馬鹿な事をしてるという自覚は、俺にもある。
彼女はどうやら俺のことを気に入ってくれたみたいだし、俺もその点は同様だが、ちゃんとした恋人同士になるには流石に障害が多すぎるだろう。
仮に種族の差とやらを気合いで乗り越えたとしても、彼女いわく「人間界へは短期滞在」らしい。森鴎外の「舞姫」よろしく別れなければいけない事は今から明白なのだ。
「ステイ先を探す」と言ってたくらいだから、滞在期間が1週間未満ってことはないだろうが、1ヵ月か、それとも1年か。あるいは、一般的な留学と同様3〜4年か。
いずれにしても、遠からず「別れ」が来ることは目に見えているのだ。
「「それでも……たとえ一時でもいいから、君と共に歩みたい」……ですよね?」
「うっ! 『七彩城物語』も読んでたのか」
自分の著作から登場人物のクサい台詞を目の前で引用されると言うのは、たまらなくこっ恥ずかしい体験であるということを、俺はたったリアルで理解したよ!
「読んだ時はいまひとつピンときませんでしたけど……今なら、あのアルバート少年の気持ちが理解できます」
俺の身体に負担をかけないよう、膝まづいてそっと首に抱きついてくるユリーシア。
しなやかで暖かな体の感触と、ほのかに鼻をくすぐる女らしい香りが、俺の中の頑迷な部分をたちまち壊してしまう。
「──ああ、あんなことを書いた俺も、今初めて実感したよ」
認めよう。そもそも俺は彼女にひと目で心を奪われたじゃないか。なのに、いまさら変な意地を張ってもしょうがないだろう。
どちらからともなく唇を重ねる俺達。
このキスが、「美人で愛らしく淑やかな淫魔」という矛盾した魅力を兼ね備えた彼女との、同居……いや「同棲」契約締結の証となったのだった。
-ひとまずFin-
209 :
はこいりの人:2011/05/07(土) 22:07:47.03 ID:0DZOpJL+
#以上。難産なわりにイマイチなデキで申し訳ない。前回のエロシーンで、イマイチ盛り上がれなかったのが敗因でしょうか。
#とりあえず、当面は、他の方のすばらしい作品で、この白けた雰囲気の打破を期待します。
<オマケ>
「ところで、短期滞在って具体的にどれくらいなんだ?」
「そうですね、コチラの暦で言うところの……おおよそ30年くらい、でしょうか」
「ぜ、ぜんっぜん、短期じゃねぇ!!」
不覚。羽さえ出さなければ人間ソックリの外見に油断して、人間との寿命、ひいては時間感覚の違いに思い至らなかったぜ。
「戸籍や住民票も登録しましたから、婚姻届もちゃんと受理してもらえますよ?」
……まぁ、30年あれば余裕で子育てもできるから、いいんだけど、な。
GJです。
30年後も今と変わらぬ姿で怪しまれるユリーシアさんを幻視したり。
_、_
( ,_ノ` ) n
 ̄ \ ( E) グッジョブ!!
フ /ヽ ヽ_//
とりあえずGJ!
さぁ続きを書く作業に戻るんだ
エロパロ板で忍法帳に何の意味があるんだろうな
まあ2chだし
深く考えても意味は無いと思う
保守
NINJA
#保守代わりにネタ投下。以前某所に投下して流れたモノの加筆修正版ですが。
#元々は「大神の恩返し」を書くような犬好きの私ですが、この板の25-529氏の「猫が恩返し」に触発されて、「主人に懐く犬っぽい猫もいいかも」と思い、書き始めた作品。
#ただし、背景設定などは特にそちらを借りているワケではありません(むしろ、私の他の作品と共通の世界観の話です)。
『「にゃん?」〜恋猫曜日〜』
たとえば、たとえばもし、だ。
長年可愛がっていた飼い猫が、ある日姿が見えなくなったかと思うと、3日程したら玄関にいきなり自分と同年代の可愛い娘が現れたとしたら?
その娘が自称「飼い猫の転生した姿」で、美人なだけでなく、ちょっと天然気味だけど性格もよくて、さらに家事もそれなり以上にこなせたら?
なおかつ、自分のことを「大好き♪」と慕ってくれていたら?
まぁ、「それなんてエロゲ、もしくはラノベ?」なんてシチュエーション、普通はあるワケないんだけどさ。
でも、仮にあったとしたら……大部分の若い男は諸手を挙げて歓迎するんじゃないかね。
ああ、俺も健全な男子高校生で、彼女いない歴=年齢の寂しいシングルメンだ。
そんな美味しい状況に遭った以上、「キタコレ!!」って小躍りして喜びたかったさ。
「うにゅ? れんたろー、調子悪い?」
「あ〜、いや、そんなコトないぞ。元気げんき」
心配げに顔を覗き込んでくるコイツ──珠希(たまき)を安心させるように笑ってみせる。
「なら、いい。元気がいちばん」
ニコッと、俺なんかとは比べ物にならない可憐で無垢な笑顔を向けてくれる珠希。すごく癒されるんだが……。
「今日は、ママさんに習って、たまご焼きときんぴらを作った。自信作」
「お、美味そうなだな。さっそく戴こうか」
食卓について、珠希と差し向かいで朝飯を食べる。
正直、すごく美味い。この家に現れた、いや「帰って来た」頃(って言っても、たかだか半月程前だが)は、ロクに米を炊くことも出来なかったことを思うと長足の進歩だ。
コレだけ優秀な教え子なのだ。お袋が、上機嫌でコイツに家事その他を仕込むのもわからないでもない。
「母さん、義娘と並んで台所に立つのが夢だったのよ〜」という台詞はあえて聞こえないフリをしておく。
容姿端麗・純真無垢・春風駘蕩……と、褒め言葉を連発しても決して大げさでない美少女が、自分に懐いてくれてるんだ。俺だって素直に喜びたいのは山々なんだが……。
「ふに? れんたろー、急がないと、学校に遅れる」
「おっと、そうだな」
慌ててメシをかき込みながら、目の前の珠希の顔をソッと盗み見る。
色白で滑らかな肌。日本人には希少だが見事な銀色の髪。小作りで整った顔立ち。華奢な体つきと、対称的にその存在を主張する胸。
(くそぅ……何べん見ても、俺のツボにクリティカルヒットだぜ)
それなのに俺が、いま一歩踏み出せないのは、コイツが元猫だからって理由じゃない。
──我が家の飼い猫だったタマの性別は、(去勢してたとは言え)れっきとした牡、つまり男だったからだ!
「にゃん?」
時間がないながらも、せっかく珠希が作ってくれた朝飯なので残さずしっかり平らげる。
「旨かったぞ」という礼とともに珠希の頭をポンポンと撫で、飼い猫時代と同じく嬉しそうに目を細める珠希の様子にホワンと和みかけ……たが、登校時間の件を思い出して、慌てて珠希の手を引いて家を出る。
「れんたろー、早く早く!」
玄関出た途端に逆に俺が引っ張られてるが。
「ちょ、ちょっと待て、飯食ったばかりだから……おぇっぷ」
「れんたろー、なんじゃく者。そんなコトではせいきまつを生き残れない」
いや、もうとっくに21世紀になってるから。てか、オマエの中の世紀末はどんだけ物騒な世界なんだ……。
「かくのひにつつまれ、おぶつがヒャッハー」
「北斗●拳」かよ! そんなんなったら、俺みたいなモブは、どの道モヒカンに瞬殺されちまうって。
「大丈夫。れんたろーは死なない、珠希が守るから」
……どうも、誰か(つーか犯人の目星はついてる)のせいで、珠希は急速にダメな知識を吸収しつつある気がしないではないな。
「ふにゃ……れんたろー、迷惑?」
「普通は女の子を護るのが男の役目だろ?」とか「だが、(そもそもコイツは)元男(オス)だ!」とか、いろいろな葛藤が脳内を駆け巡ったんだが……。
「……ばーか、んなコトあるわけないだろ。いつもありがとな」
──こんな極上の美少女に不安げに小首をかしげられて、そのままにしとくなんて真似、ヘタレな俺に出来るワケがないのだった。
さて、もう少し詳しく事情とやらを話そうか……断じて、上機嫌で俺の右腕にヘバリ着いてきた珠希の柔らかくボリューム豊かなナニカの感触に意識がいかないよう、気を逸らそうとしているからじゃないからな!
事の発端は、3月も残すとこあと数日という時期になった今年の春休み。
10年来の我が家の愛猫であるタマが、姿をくらませたのだ。
一日目は、別段とりたてて心配しなかった。これまでも、それくらい家から離れていることは多々あったからな。
二日目は、少し心配になって夕方から近所の公園や猫の溜まり場を見て回ったりした。
三日目は、これはただごとではないと確信し、本格的にタマの捜索にとりかかった。幸いにして長期休み中で、かつ高校進学を控えた俺は、とくにやらなければならない急務もなかったからな。
わざわざ知人の手まで借りてのタマ捜索は、しかしはかばかしい成果を得られず、俺は随分落ち込むハメになった。
手を借りた知人のひとりが漏らした「そう言えば、猫の寿命って10年くらいらしいな」という言葉も、グサリと俺の心に刺さった(迂闊な発言者は、他の知人ふたりがボコしてくれたが)。
「象の墓場」じゃないけど、やっぱり動物って自分の死期がわかったりするんだろうか?
いや、しかしタマに限って言えば、ここ最近だって、とても人間換算で55歳オーバーとは思えぬほど元気だし、あいかわらず機敏に動いてたんだけどなぁ。
身体能力もそうだけど、タマはとても頭がいい。普通は犬でよくやる「取ってこい」とか「お手」、「伏せ」なんかも簡単に覚えたし、ドア開け、窓開けなんてお手の物。
(「あおずけ」だけは、それに従った時のタマの目があまりに切なそうだったので、二度とやってない)
俺がテレビゲームしてる横で、飽きもせずかといって邪魔もせず画面を眺め続けてたくらいだから、子猫のような好奇心と、老猫ならではの落ち着きを両立させている稀有な例と言っていいだろう。
無論、世の中に絶対はない。ないが、およそ交通事故とかのアクシデントに遭うようなイメージは皆無だ。
事故でなく故意、たとえば誘拐とか? うーーむ、確かにアビシニアン系にしてはかなり珍しい銀に近い色合いをしてるが、どのみち純血種じゃないし去勢もされてるから、「商品」としての価値は皆無だと思うんだが。
余談だが、去勢手術については、俺に無断で親父が受けさせやがったのだ。あとで知った俺と大ゲンカになったが、文字通り後の祭りだ。うぅ……すまん、タマよ。
──ピンポーン!
そしてタマ失踪から4日目の朝。くしくも4月1日、すなわちエイプリルフールの日の早朝に、我が大滝家のチャイムを鳴らす存在があった。
「ふわ〜〜ぃ」
今日もタマの行方を捜す気満々で、早起きしてパソコンで尋ね猫のポスターまで作ってた俺は、なにげなくドアを開け(あとで考えれば不用心だ。先に覗き穴から確認するべきだった)て来客を見て、即座に硬直するハメになる。
なんとなれば。
そこには白一色の着物──俗に言う白無垢を着て、ご丁寧にも綿帽子まで被った妙齢の女の子が、古風な唐草模様の風呂敷に包んだ大荷物を背負って、玄関のドアの前に立っていたのだから。
「ただいま、れんたろー」
無垢なる白に包まれた美少女の第一声は、可憐な見かけから予想したよりは幾分低めのハスキーボイスだったが、十分に涼やかで甘く、聞く者を心地良い気分に……。
って、待て待て。
いま、この子、「ただいま」とか言わなかったか? しかも、俺の名前付きで。
年頃の女の子の顔をジロジロ見るのは少々無作法かとも思ったが、しかしパッと見た感じでは俺にまったく見覚えがないのだ。
マンガとかでありがちな話だと、彼女は小さい頃に一緒に遊んだ幼馴染で、相手の方がどこかに引っ越して長い間離れ離れになっていたけど、偶然(あるいは意図的に)この町に戻って来た……ってのが、セオリーだ。
もっとも、俺に関して言えば、同年代の幼馴染は思いつく限り全員近所に住んでるし、そのほとんどと腐れ縁として現在も付き合いがある。
あるいは小学生の時のクラスメイトで転校していった子とか?
とは言え、その年代の男の子のご多分にもれず、俺も当時仲良くしていた女友達なんて(ごく少数の例外を除き)いないからなぁ。とうぜん、甘酸っぱくも懐かしい思い出なんてヤツとは無縁だ。
……自分で言ってて、無性に悲しくなってきたぞ。
以上のような論理展開に従って、その時の俺は、極めてオーソドックスかつ芸のない質問を、眼前の少女に投げかけざるを得なかった。
「えっと……どちらさま?」
「タマ」
──は?
いや、確かにウチのタマは現在絶賛行方不明中ですがね。
「だから、タマ。この家で十年間れんたろーと一緒に暮らしてきた、タマ」
俺の間抜けな反応にいら立ったのか、目の前の少女──自称「タマ」は、荷物を下ろして腰をかがめると、いきなり俺の脇腹に顔をこすりつけて来た。
「わわっ! なんばしょっとですかい!?」
思わず父さん譲りの似非方言が出る。
って、待てよ。このポーズ、もしかしてタマがいつも喉を「撫でれ」とおねだりするときの……。
「ほ、ホントにタマなのか!? いや、しかし……」
信憑度0から半信半疑、いや3信7疑くらいになった俺は、とりあえず詳しい事情を聞くべく、「タマ」を名乗る女の子を、家にあげることにしたのだった。
「タマ」は、俺に続いて家に入ると、玄関の脇に目立たないように置かれた雑巾で足を拭こうとしかけて、自分が裸足じゃない(白い草履を履いていた)コトに気づいたらしく、ちょっと戸惑っている。
(やっぱり、タマなのか?)
タマは綺麗好きで、猫にしては珍しく風呂にも嫌がらずに入ったし、外から戻って来たときは必ず雑巾で足を拭いてから家の中に上がるのを習慣にしてた。
それを知ってるのは、ウチの家族を除けば、それこそ本人(本猫?)くらいだろう。
ちょっと手間取ったものの無事に草履を脱いだ少女は、おっかなびっくり床に足袋を履いた足を載せ、けげんそうな顔をしている。
「どうした?」
「これが、人間が床をふむときの感しょく……ちょっとふしぎ」
──ヤバい。マジなのかもしれん。
「あら、廉太郎くん、その娘さんは? もしかして、ガールフレンド?」
幸か不幸か、お袋はすでに起き、呑気に台所で朝飯の支度をしているところだった。
……いや、朝っぱらから花嫁御寮姿の女の子を目にして、ほとんど動じてないのはある意味スゴいけどさ。ちっとは疑問を抱けよ!
ところが。
「にゃあ……ママさ〜ん!!」
これまでおとなしかった少女(自称・タマ)が、台所から現れた母さんの胸に飛び込んだのだ!!
「あらあら……もしかして、タマちゃん?」
見知らぬ(はずの)女の子に突然抱きつかれても、慌てることなく「よしよし」と優しく抱きしめるお袋。て言うか、普通に正体見破ってる!?
「なんで、いきなり分かるんだよ……」
「うーん、なんとなく、かしら」
だってタマちゃんはもうひとりの我が子みたいものだし、とニッコリ微笑むお袋には諸手をあげて降参するしかない。
確かに、生まれて間もなく捨てられていたタマを拾って来たのは、幼稚園の頃の俺だが、そのタマを成人、いや成猫に育てあげたのはお袋にほかならない。
いっしょに過ごしてきた時間は、学校に通ってた俺よりずっと長いし、勘(霊感?)の鋭いお袋は、ときどきタマと会話してるみたいに意思疎通できてたし。
「しっかし……お袋の目から見ても、やっぱりその娘、タマなのか?」
跳びついた時に被っていた綿帽子が脱げた少女は、北欧系さながらの見事な銀髪だったが、頭頂部近くの髪が左右にピョコンと尖っていて、猫の耳に見えないこともない。
「れんたろー、うたがい深い」
「そうねぇ、廉太郎くん、お兄ちゃんなんだから、弟分を信じなくてどうするの?」
──いや、そのりくつはおかしい。
飼猫がいきなり人間になってたり、そこは百歩譲ったとしても「牡のはずがなんで女の子になってるの?」とか「なんで花嫁衣装なの?」とかツッコミどころ満載だろーが!
「言われてみれば……確かにそうね」
ふぅ、万年能天気なおふくろも、ようやっと気づいてくれたか。
「女の子になったんだから、弟分じゃなくて妹分よね」
そっちかよ!?
「なんだ〜? 朝っぱらんらエラく騒がしいじゃないか」
ああ、ただでさえ収拾つかないのに、また厄介な人間が……。
「あ、パパさん」
ノソノソと居間に現れた親父の姿を見て、ポツリとタマ(の化けた?娘)が呟いたんだが、当の親父は雷にでも撃たれたみたいに硬直している。
「パ、パ…………ソコの君、もう一度呼んでみてくれないか!?」
「?? パパ、さん?」
「おぉ、なんたる心洗われる響きなんだ! 君のような愛らしい娘さんにパパと呼ばれるとは、もはや我が生涯に一片の悔いなし!!」
──クソ親父、お前もか。いや、期待はしてなかったけどさ。
「……で、この娘さんは誰なんだ? お前の許婚か、廉太郎?」
右手を天にかざすあのポーズでしばし浸っていたクソ親父は、我に返った途端、俺に向かってそんなコトを言ってきやがった。
「あのなぁ……バカ言うなよ。俺はまだ高校生になったばかりだぜ?」
「ふむ。しかし、江戸時代の男子の元服は普通15歳だ。お前の歳でも立派な一人前だぞ」
「今は平成だっつーの」
ところが、親父の言葉を聞いたタマが、ピクンと身じろぎして俺の方にジーッと熱い視線を投げかけてきた。
「いいなずけ……つまり、れんたろーの嫁?」
「そうね、正確には「近い将来にお嫁さんになる人」かしら」
お袋がタマの言葉を微修正すると、タマはちょこんと首を傾げた。
「──だったら、タマは、れんたろーのいいなずけ」
ハァ!? 一体、どうしてそんな結論に行きつくんだよ??
「そもそも、今までスルーしてたけど、お前さんが本当にタマだとして、どうしてそんな姿になってるんだ?」
「そうね、タマちゃん。母さんもソコのところは興味があるわ」
俺に続いてお袋もそうフォローしてくれたことで、タマはようやく事情を説明してくれる気になったようだ。
「タマが人間になったのは、猫仙人のおかげ」
……さて、またしてもトンデモワードが飛び出しましたよ、奥さん。
「仙人」なんて言うだけでも十分アヤしいのに、頭に「猫」の一字なんてついたら、怪しささらに倍率ドン! だ。
とは言え、今はコイツの言葉にしかこのハプニングの手がかりはない。とりあえず、一通りタマの話を聞いてみることにした。
「はじまりは、タマのしっぽが割れたこと」
はァ??
「なるほど。「十年生きた猫は尻尾がふたつに分かれて猫又になる」と言う言い伝えがあるからな」
胡乱な顔つきをしている俺と対照的に、腕組みしてウンウンとうなづいている親父。
くそぅ、まがりなりにも物書きだけあって、くだらない雑学知識はいっぱい持ってやがるな。
──ちなみに、親父の職業は自称「推理作家」だったりする。
この場合、自称というのは「本がロクに出ないから自称w」なのではなく、「ミステリーはもとよりSFや歴史物、ドラマの脚本、さらに最近はラノベに至るまで節操無く書いてるから」だ。
有名作家というにはほど遠いものの、一応、親子3人+猫一匹が何不自由なく暮らしていける程度の収入は得ているのだから、その点は感謝するべきなのだろう。
閑話休題。
親父の話によれば、「化け猫」が生まれた時から「猫の姿をした妖怪」なのに対して、「猫又」は年経た猫が「成る」モノらしい。
「パパさん、正解。だから、タマ、この近くの親分さんのトコに相談に行ったら、猫仙人を紹介された」
幾分舌足らず気味なタマの言葉を意訳整理するとこうだ。
・猫仙人は、年齢1000歳を超え、すでに猫又を通り越して神仙の域に達した存在。
・猫仙人には、紹介者のツテがないと会えない。
・猫又化をはじめとする猫のその筋の相談に応じてくれる。ただし、要報酬。
・タマが相談に行くと、いくつかの質問をされたので、タマは正直に答えた。
・その結果、タマは人間の少女に生まれ変わり、この家に戻ってきた。
──たいたいこんなトコロだろうか。
「おおよその経過はわかったけど……どんなこと聞かれたんだ?」
「えっと……最初に、人間の姿になりたいかどうかをきかれた」
それにどう答えたのかは、今のタマの姿を見れば一目瞭然だろう。
「次に、「家族の中で、誰が一番好きか?」ってきかれたから、れんたろーって答えた」
う! 正体がタマだとわかっていても、これだけの美少女に「好き」とか言われると、結構照れるな。
「あ〜、背後で「あらあら」と微笑んでいるお袋と、「パパはダメなのか〜!?」と嘆いているクソ親父は無視していいぞ、タマ」
「?? わかった。
そのとき、れんたろーのこともいろいろ教えろと言われた」
むぅ……タマがどんな風に答えたのか、すごく気になるぞ。
「そんなにたくさんは話してない。16歳のオスで、やさしくて、あったかくて、頼りになる人間だって答えただけ」
うわ、タマさん、無表情に近いのにそのセリフの最後に「ニコッ」と微笑むのは反則ですよ!!
「最後に、れんたろーのそばにいるために人間として暮らす修行をするかどうかきかれて、うんって答えた」
なるほど。この3日間は、その修行とやらに費やしていたのか。
ようやく合点がいった俺がウンウンと頷いていると、タマは首をフルフルと横に振る。
「3日じゃない。ひと月」
──は?
「人間の姿には、その日のうちになれたけど、人間としての知識とか習慣はいっちょういっせきでは身につかない」
そりゃまぁ、そうだろうな。
いくらタマの頭がよくて、俺ん家の家族として暮らしていたからって、言葉の問題とかもあるだろうし……。
「? 人間の言葉は前からわかってたよ?」
いぃッ!? マジですか??
「マジ。文字も、難しい漢字以外は読める」
なんてこった、「足し算ができる犬」どころの騒ぎじゃねーぞ。
「あら、廉太郎くんは知らなかったの? 母さん、タマちゃんとよくお話ししてたじゃない」
アレはてっきりデムパなお袋の特技か思いこみだと思ってたぜ。
「ウンウン、昔話でも猫又の類いは頭がいいってコトになってるからな」
したり顔で言うなよ、親父! いい歳して、なんでそんなに頭が柔軟なんだよ。
けど……だから、俺がゲームやってる時に飽きもしないで画面覗きこんでたのか。
「ん。だから、れんたろーの好みが「おしとやかでオッパイが大きい子」だってのも知ってる」
ぐわ……なぜソレを!? って、そうかギャルゲーとかやってる時の攻略順でバレたのか。
「それと本棚の裏の……」
わーわーわー! それ以上言わんでイイ!
うぅ……いくら元愛猫とはいえ、同い年くらいの女の子(にしか見えない存在)に、お宝本の趣味まで把握されてるのは、ちと凹むなぁ。
「そ、それで、どうして修行日数が1ヵ月なんてコトになるんだ?」
強引に話題を元に戻す。
「よくは知らない。猫仙人は"せーしんとときのへや"とか言ってた」
──ド●ゴンボ○ルかい!? てか、猫仙人って、カ●ン様かよ!
要は時間の進み方が普通とは違う空間ってコトだよな。
「ん。そこでひと月、勉強してた」
かの猫仙人いわく、ローティーン程度の女の子としての常識と、中学生3年生程度の学力は、なんとか詰め込めたらしい。
まぁ、そのヘンを1から教えなくて済むのは助かるけどな。
「ところで、タマ。猫仙人に色々してもらった以上、なにがしかの"代償"が必要になったのだろう?」
親父の言葉に、俺はハッと目を見開き、タマの目を凝視する。
そう言えば、確かに「猫仙人は報酬をとる」とか言ってたよな!?
「ん、パパさんの言うとおり。でも、だいじょぶ。もう支払い済み」
タマはそう言うものの、俺達としてはやはりその「代償」の中味が気になる。
「ねぇ、タマちゃん、何を仙人さんに渡したのか、教えてもらえないかしら?」
お袋が優しく尋ねると、元から隠すつもりもなかったのか、タマはあっさり答えた。
「猫としてのタマの存在」
へ?
「猫又は、ホントは人の姿にも猫の姿にもなれる。でも、タマはその猫になる力を、猫仙人に渡してきた」
えーっと……ソレって結構重大なコトじゃないか?
「別に、いい。タマは、人としてれんたろーの傍にいたかったから」
う……だから、平静っぽい顔つきながら、微かに頬を染めたその表情は反則だって!
親父とお袋もニヤニヤしながらコッチ見んな!
「あ……そーだ」
俺の葛藤も知らぬげに、タマはパンと掌を胸の前で打ち合わせると、それまでの横座りからキチンと正座し直すと、三つ指つきつつ俺に向かって深々と頭を下げる。
「──ふつつかものですが、よろしくおねがいします」
そしてその瞬間、俺の人生に退路がなくなり、両親公認の俺の許婚が誕生したのだった。
#とりあえず、今回はココまで。ただ、エロが出てくるのはえらく先なので、続きを投下してようものか悩むところなのですが……。
ワッフルワッフル
>226
#ぅぅ、その反応だけでもありがたいです。
#とりあえず、キリのいいトコロまで投下します。
その後、皆でタマが持って来た(正確には、猫仙人とやらに持たされた)風呂敷包みの中味を確認したところ、おそるべき事態が発覚した。
着替えの服と下着類。これはまぁ、いいだろう。
しかし、その次に広げられた書類は……戸籍謄本!?
「あら、コレがタマちゃんの人間としての戸籍なのかしら?」
「そうみたいだな。しかもコレを見ろ」
親父の指差す先には、「伊藤珠希(いとうたまき)」とある。タマだから「珠希」か。安直だなぁ。
「ふに……ダメ?」
あ、いや、ダメってことはない。むしろ、可愛らしい響きだと思うぞ。
「♪」
「あ〜、イチャイチャするのは構わんが、ワシが言いたいのはソコじゃない。ホレ、珠希ちゃんの父母の氏名の項目を見てみろ。
えーと、「父・伊藤元治、母・伊藤真理」って、コレは!?
「? どーしたの、れんたろー?」
「タマちゃん、元治さんはね、パパから見て従兄にあたる人なの」
北海道の伊藤おじさんには、親戚の集まりとかで俺も何度か会ったことがある。
──もっとも、去年飛行機事故で亡くなったんだけどな。
「ふむ……どうやら、伊藤夫妻亡きあと、その娘が俺達大滝家に引き取られたって体裁みたいだな。しかも、伊藤夫妻の実子じゃなく、身寄りのない娘を養女にしたってコトらしい」
うわぁ、なんたるご都合主義。
でも、元治おじさんには子供がいなかったのは確かだ。「亡くなる寸前に引きとった」って言えば、親戚と面識がないことの言い訳もたつのか。
にしても、「仙人」って割には俗っぽいコトにも気が回るんだなぁ。
「猫仙人の家、えあこんもぱそこんもげーむもあった。ねっとは光けーぶる。趣味はえふぴーえすとえむえむおーだって言ってた」
なに、そのハイテク&ゲーオタ臭は!?
「わはは、最近の仙人は、ネトゲ厨なのか。ワシと話が合いそうだな」
あ〜そーでしょうよ、この不良オタ中年!
さらに、俺が通う4月から通うことになっている恒聖高校の、女子制服と生徒手帳も入っていたんだが、国家機関のデータベースすらいじれるのなら、もはや驚くには値しないだろう。
「これで、れんたろーと同じ学校に通える♪」
俺にペトッと寄り添って嬉しそうに俺を見上げてくる美少女の愛らしさに、俺の理性はノックダウン寸前だ。
「あ、あぁ、そうだな。一緒に行こうな」
「にゃん♪」
こら、そこのバカ親! いつの間にかハンディカム取り出して俺達のコト、撮ってるんぢゃねぇ!!
「あら、残念。せっかくの我が子の成長記録なのに」
「成長じゃなく、「性」長かもしれんがな、ガハハ!」
黙れ、セクハラ下品親父!!
* * *
ともあれ、こうした経緯で、タマ改め珠希は、再び俺の家で今度は俺と同い年の少女として暮らすことになり、あまつさえ俺と同じ高校に通うことになったワケだ、まる。
「?? れんたろー、せんせー、来たよ」
おっと、回想してる間に、いつの間にか教室に着いてたらしい。
「みんなおはよ〜! 休んでる子はいないよね? いたら返事してー」
教師に入って来た我がクラスの担任──小杉真紗美教諭(国語担当・24歳・独身&恋人なし)が、いつもの如くまるで小学生に話しかけるような口調で、出欠確認する。
──シーーーン……
「うん、全員出席と」
……相変わらずシュールな光景だ。コレがウケを取るためのギャグとか言うなら、まだわからないでもないが、この人、正真正銘マジだからな。
家が近所で、物心ついた頃からの知り合いだなんて、ある種の腐れ縁的関係にある俺は、そのことをよ〜く知っている。
「今朝の伝達事項はとくになーし! それじゃあ、みんな、今日も一日頑張ってねー!」
能天気な声をあげると、小杉先生は元気よく教室を出て行った。
「……おかげで、ウチのクラスのHRって、いっつも時間が余るんだよな」
「ふにゅ? まさみセンセは、いい人」
まぁ、善か悪かで二分すれば、前者であることは間違いないけどな。
あのアバウトさで、いつか身を滅ぼすのではないかと、他人事ながら一応弟分的立場の身として、時々心配になるんだよ。
「ハッハッハッ大丈夫だろ。真紗姉が「後悔」なんて高度な感情を持つ日が来るなんて、オレには想像できん」
その言葉、そのままソックリお前に返してやるよ、哲朗。
「まぁ、そう褒めるな。ハハハ」
……いや、全然褒めてないんですけど。
この「どこからどう切っても体育会系脳筋馬鹿」丸だしの男は、山下哲朗。
一応、コイツも日本語の定義的に「幼馴染」の範疇に入らなくもない。そんな関係の友人だ。
小杉先生が「大雑把(アバウト)」なら、哲朗(こいつ)は「考えなし(ノーシンキング)」を地でいく男だ。
フォローする者の身にもなってほしいが……まぁ、無理だな。そんな高等技術、一生かかってもコイツが習得するとは思えない。
「おはよう、てつろ」
ウチの両親を「ママさん」「パパさん」と呼ぶ珠希にとって、コイツは俺以外に名前を呼ぶ数少ない人間のひとりだ。
さっきも言った通り、俺達──俺と哲郎と小杉先生ことマサねぇ、そしてココにいないもうひとりは幼馴染で、小さい頃から、互いの家をよく行き来してた。
当然、ウチに遊びに来た時は、タマだった頃の珠希とも頻繁に顔を合わせており、自然と(あくまで猫と人間という範疇だが)仲良くなっている。
──ちなみに、その3人は、ウチの家族以外で唯一珠希が元タマであることを知っている。嘘が苦手な珠希があとでボロを出すとマズいので、下手に隠し事するよりはと、家に呼んで真相を説明しておいたのだ。
まぁ、この「牡猫が美少女になった」という非常識事態をどこまで信じてくれたかは、本人達のみぞ知るだが、表立っては3人とも了解して、いろいろフォローや協力をしてくれることになった。
「グッドモーニング、珠希ちゃん! あいかーらず可愛いな!」
「てつろも、すごく元気。元気なのは、いいこと」
「うむ、俺サマから元気を取ったら何も残んねーからな!」
「──それ、自分で言っちゃうのかよ……」
はぁ……ま、哲朗らしい、っちゃらしいが。
「お、なんだなんだぁ? いくら頭脳労働担当だからって、朝っぱらシケた顔してると、嫁さんが悲しむぞ!」
「余計なお世話だ!」とか「まだ嫁ぢゃねー!」とか言い返したいのは山々だが、俺としても珠希をショゲさせるのは本意じゃない。
「こちとら一般人なんだ。お前さんみたく筋肉神「のみ」に愛されたセントマッスルと比べんな」
と言い返すにとどめたんだが……。
「おぉ! やっぱり俺の筋肉美は、神の祝福を受けていたのか! 廉太郎、その神さんを祀るには、何したらいいんだ? プロテインでも供えるのか??」
しまった。自分に都合よく勘違いしてやがる。
──もっとも、ナルシス一歩手前(もしくは半歩踏み越えかけ)のマッスルフェチ野郎に、うっかり「筋肉」のことを話題にした俺が間違いだったのかもしれんが
「……皮肉や諧謔って、受け取る側にも一定の知的レベルがいるんだなぁ」
ガックリ肩を落とす俺を、ワケがわかってなさそうな珠希が、それでもポンポンと肩を叩いて慰めてくれたのは、ちょっと泣けた。
まぁ、そんなクソくだらない雑談を交わしてるうちにチャイムが鳴り、今日も授業(おつとめ)が始まったワケだ。
大学にまで行けば多少は違うのかもしれないが、この国では小中高と学校に於ける授業風景なんて、合計12年間ロクに変わり映えしないのがお約束だ。
俺達学生の側からすると、ありていに言って「つまらない」。
無論、中には「古典文学が好きで古文の時間が待ち遠しい」とか「科学者になるのが夢で理科の時間がおもしろくて仕方ない」などというケースもないワケではないだろう。かく言う俺も、歴史や地理の時間は結構好きだし。
しかし、それを踏まえても大半の授業ってヤツはやっぱり退屈だと言うのが、ほとんどの学生の本音だろう。
エスケープは論外としても、高校生ともなれば、教師の目を盗んで、居眠りや内職、早勉、メル打ちなどで時間を潰す人間は少なくないし、俺みたく一応板書だけは書き写しているものの、授業内容の大半は右から左という人間は、さらに多い。
ところが。
「みゅう……」
教師の授業内容に可愛らしい耳(ちゃんと人間のソレだぞ、念のため)を熱心に傾けつつ、懸命にノートを取っている珠希のような存在を間近で見せつけられると、テキトーに授業を聞き流すのは、自分が汚れた人間になったような気がして、どうにも居心地が悪い。
結果的に、俺もそれなりに真面目に授業を受けるハメになってるのは、良かったんだか悪かったんだか……。
「かーーーっ! さすが彼女持ちは言うコトが違うねぇ」
ようやっと午前中の授業が終わり、一緒に昼飯を食うべく、俺達は弁当を持って中庭のカフェテラスへと向かっているトコロだ。
「意味がわからん。それより、哲朗、お前さんこそ授業中に大いびきかいて寝るのはやめれ。英語の高梨先生が泣きそうになってたぞ」
俺達みたくつきあいの長い人間から見れば、コイツは「頭はアレだが気のいい大男」なんだが、190センチ100キロオーバーの全身マッチョな角刈り男をよく知らない奴らが見ると、世紀末覇王の如き威圧感を感じるらしい。
今年から教師になったばかりで、いかにも気が弱そうな高梨女史なんか、注意するどころか声をかけるのさえ、多大な勇気を要する行為なんだろう。
それなのに、「あの……山下くん、起きて……」と言う女史の声なぞ一向に気にも止めずに、コイツはグースカ寝てやがったのだ。教師の面目丸潰れな高梨先生が涙目になったのも無理はない。
「おぅ、ことりちゃんを泣かしちまったのか。そりゃまた悪いことをしたな」
高梨ことり、23歳。身長152センチとやや小柄だが、某アキバ系アイドルのひとりと似たルックスと、推定Dカップの胸、そしていかにも良家のお嬢さん的なか弱い系のオーラで、男子生徒の大半からはアイドル的な人気がある。
え、俺? 俺は別に……。ルックスは、珠希やマサねぇやアイツの方が上だし、ああいったお上品過ぎる女性はイマイチ好みじゃないしな。
「先生のこともあるが、お前さんの成績の方が俺は心配だよ」
言うまでもないと思うが、体育以外のコイツの成績は限りなく低空飛行している。中学までと違って、高校からは成績次第では留年とかもあるんだがなぁ。
「てつろ、授業中にねるの、よくない」
珠希にまでたしなめられて、流石に哲朗もバツが悪くなったようだ。
「いや、俺ぁ、どうも英語の長文読んでると、すぐに眠くなんだよ……お前ら、よく平気だなぁ」
「まぁ、気持ちはわからんでもないが……慣れだ慣れ。さもないと、下手すりゃ試験の最中に寝ちまって白紙のまま、ってコトも考えられるぞ?」
「さすがにそりゃ勘弁だな。とは言っても、こればっかりは、中学3年間で半分習慣になっちまったからなあ」
「んなコトだから、定期試験のたびに俺とか小杉先生に泣きつくことになるんだよ。
て言うか、今年は担任なんだから、小杉先生には頼れねーぞ? 依怙贔屓になっちまうし」
「ゲゲッ!」
どうやら気づいてなかったらしい。
「だから、せめて授業中は起きてノートくらい取れって」
「ぐぬぅ……それが出来りゃあ、そうしてるわい!
にしても、自称頭脳派の廉太郎はともかく、珠希ちゃんはよく辛抱できるな。これまで学校の授業なんて受けたことないんだろ?」
あ、ソレは俺もちょっと気になってた。
俺と哲朗の視線を受けて、珍しく珠希がモジモジしている。
「にゃあ……だって珠希、知らないことだらけだから。れんたろーといっしょに進級するためにも、お勉強、がんばらないと……」
け、健気だ! そして、ちょっぴり頬を赤らめてるのが、めっさかわえぇ〜。
人目があることも忘れて、思わずモフモフしようと手を伸ばしかけた俺だったが……。
「やぁ〜ん、タマちゃん、らぶりーですわ〜!」
目の前で、隣りのクラスに所属する、もうひとりの幼馴染にかっさらわれた。
珠希に背後から抱きついて頬摺りしている黒髪美人の名前は、武ノ内まりや。哲朗と同じく幼稚園時代からの友人かつ同級生で、当然タマ=珠希とも面識はあるし、俺では教えられない「女の子のアレコレ」的な面では世話になっている。
──まぁ、コイツから教わるというのも、ソレはソレで複雑な気もするが。
「ふみぃ……まりや、はなして〜」
「コラコラ、そんな羨ましいコト、おにーさんは許しませんよ!」
「あら、フィアンセの廉太郎ならともかく、あなたの許可は必要ありませんよ、マッチョダルマ」
そう言いながらも、本人も苦しがっているようなのでアッサリ離れる。その辺の絶妙な距離感の見極めは、流石まりやならではだ。
左を腰にやりながら、腰まである艶やかな黒髪をサラリと右手で掻き上げる仕草は、コイツが元演劇部である事をさっ引いても芝居気たっぷりで、そのクセおそろしく様になっている。
あ、今も廊下を歩く男子生徒が数人、見惚れて顔を赤らめている。まだ入学一週間目だから、コイツの正体知らんのだろうなぁ。
「誰がマッチョダルマだ、誰が!」
哲朗にしては珍しく、レスポンスが早いが……。
「もちろん、あなたです」
「てつろ、まっちょだるま?」
「まぁ、知り合いで該当しそうなのはコイツしかいないな」
俺達3人に即答されてあえなく撃沈する。
「まぁ、そんなコトはさて置き……」
「さておくな〜!」と言う声はアッサリ無視して、ちょうどカフェテラス前まで来てたので、空席を探す。
「まりやも一緒に昼飯食うつもりだろ? この時間で4人分まとめて座れるとこがあるかね?」
カフェテラスは、当然ながら昼飯時の人気スポットなので、少し出遅れ気味な今日なんかマズいんだが。
「ご心配なく、私が先に確保しておきましたから……。そこの動く蛋白質塊も、床でいぢけてないで、さっさとお昼を摂らないと、ご自慢の上腕二頭筋と僧帽筋が衰えますよ?」
「なにっ!? ソイツは、マズいな。廉太郎、さっさと飯食おうぜ!」
その如才なさと言い、哲朗の扱いと言い、流石まりやだな。
俺達4人はいずれも家から弁当持参なので、まりやが確保した席に着いたら、即食べることができる。
とは言え、一応飲み物は必要だろうと、俺は給湯器から熱いお茶を4人分確保してくることにした。
トレイに4人分のお茶を載せて戻ると、友だち甲斐のない哲朗がガツガツ食べ始めているのは、まぁいつものコトだ。
「あら、タマちゃん、このコロッケ、もしかしなくてもお手製かしら?」
「うん、カニクリーム。れんたろー、このあいだ作ったら、よろこんでくれたから」
「あらら〜、恋するお嫁さん候補は、けなげですねぇ」
「でも、ママさんの足もとにもおよばない……。まりやの肉まきごぼうもおいしそう」
「うふふ……そりゃあ、乙女歴は私の方がずっと上ですもの。まだまだタマちゃんに負けるワケにはいきませんわ」
美少女ふたりがお弁当を広げて仲睦まじくプチ品評会している様子は、傍目には微笑ましいんだが……。
これで、このふたりが、元男と男の娘ってのは、ある意味詐欺だよなぁ。
武ノ内毬哉。日舞の家元・武ノ内家の跡取りで、そちら方面での評判も高い御令嬢……ではなく御子息。
ただし、幼い頃から、服装・外見・声・立ち居振る舞いから性格に至るまでほぼ完全に女の子で、学校にも女子制服での通学が認められている。
一応、クラスで自己紹介した時は、男であることをカミングアウトしたらしいが、本人の意識も周囲の扱いも、ほぼ完全に女生徒へのソレだ。着替えも女子更衣室でして、誰も咎めないらしいし。
「なんで、俺の周囲には、こういう濃いメンツが集まるのかねぇ」
いいヤツであることは確かなんだが……と、コッソリ溜息をついてしまう俺だった。
「ところで、皆さんは、どのクラブに入るか、もう決めましたか?」
学校生活のささやかな楽しみである昼飯を、ある者はガツガツと、ある者はパクパクと、いずれも健啖な食欲を見せて平らげ、ひと息入れてるところで、俺達3人の顔を見回してまりやが尋ねてきた。
「クラブ……部活かぁ。その辺はあんまり考えてなかったなぁ」
と言うか、色々あってそれどころではなかった、という方が正解だろう。
珠希の方に視線を投げると、わかっているのかいないのか、きょとんとした顔で俺を見つめ返し、すぐに「ホニャッ」とした笑顔を向けてくる。
激しく癒される反応だが、ここでかいぐりモードに突入すると、おそらく昼休みが丸々潰れると思うので、我慢我慢。
「哲朗は、運動部ならよりどりみどりだろ? どうするんだ?」
「うむ。しかし、俺の神聖なる筋肉を特定のクラブのみに捧げてよいものか、悩むところだ……」
脳味噌に行くべき栄養素や経験値の9割方が首から下にフィードバックされたんじゃないかと思う哲朗の運動能力は、身内の贔屓目を除いても、およそ人間離れしているからな。たいていの競技や球技も優秀な成績を叩きだすし。
「空手部や柔道部などには、いきませんの?」
まりやがそう聞いたのは、哲朗の実家が古流武術の宗家だと知ってるからだろうが、哲朗はあっさり首を横に振った。。
「うんにゃ。入学式の翌日に行ってみたんだけどな」
肩をすくめる哲朗の様子からして、おそらくは期待外れだったのだろう。
──こんな人類の規格外を相手にさせられた先輩諸氏に、俺は心底同情するが。
なにせ、中1の時に道で後ろから外車に3メートル程跳ね飛ばされたにも関わらず、アスファルトの上からケロッとした顔で起き上がってきたからなぁ。
本人いわく、「受け身さえとれば、この程度の衝撃、問題ない」って言ってたけど……背後から跳ねられて無傷とか、どんだけ〜。
そのタフさを別にしても、純粋なパワーとスピード自体も桁外れだ。それだけでも脅威なのに、まがりなりも一つの流派の跡取りとして、小さい頃から仕込まれてるし。
武道以外の球技なんかでも、コイツのパワー&スピード&スタミナは遺憾なく発揮される。まぁ、「バカ」だから時々ルールを忘れるのがネックだが、そこは「バカ」だから仕方ない。
「……何やら、ひどく「バカ」にされたような気がするんだが」
珍しく鋭いな、哲朗。
「安心しろ。事実を端的に述べただけで、誹謗中傷は一切してないから」
「む、ならばよし!」
ウムウムと腕組みして頷いてる哲朗と肩をすくめる俺を、まりやはアルカイックな微笑を湛えて見守り、一方珠希は困ったような顔をしている。
やっぱり珠希はやさしいなぁ。
「珠希は、何かしたいこととかないのか?」
「ふみ? うーーん、「やきぅ」とか「さっかー」には、ちょっときょうみはあるけど……」
コイツが言ってるのは、間違いなく観戦じゃなく実地の方だよな?
生憎、ウチの学校には女子野球部も女子サッカー部もないからなぁ。無論、マネージャーにして他の男の着たモン洗濯させるのは論外だ。
「だったら、れんたろーといっしょの部がいい!」
そう言ってくれるのは有難い限りだが……。
「その運動能力を活かさないのは、もったいない気もするな」
元猫・現人(猫又)という経歴のおかげか、珠希もまた運動能力全般がハンパじゃなくいいんだよな。
「あら、でしたら、廉太郎が何か運動部に入ればよろしいのではありませんか?」
よしてくれ。俺は、このグループでは頭脳労働担当って決まってるだろ。まぁ、悪知恵関係では、まりやに勝てる気がしねーけど。
「ヒドい! 偏見ですわ。わたくしは、こんなにも素直で純粋ですのに……」
よよよ、と泣き真似をするまりや。
「確かに、「自分に」素直で、「おもしろい事に」純粋だわな」
「……ストレスを溜めないことが、美容の秘訣ですのよ?」
その分、周囲にしわ寄せがイッてる気もするけどな!
と、いつものようにオチがついたトコロで、まりやが少しだけ声色を改めて、俺達に問いかける。
「──わたくしと廉太郎の見解の相違はさておき、もし皆さんが特に入る部活を決めてらっしゃらないようでしたら、わたくしの設立する予定の同好会に入っていただけません?」
?
「同好会って……お前、演劇部はどうするんだ?」
中学時代のまりやは、看板女優兼脚本家として、それまで無名だったウチの学校の演劇部を、市のコンクールで優勝させた手腕の持ち主だ。
当然、高校でも演劇部に入るとばかり思ってたんだが……。
「それが……現在、恒聖高校には演劇部は存在しませんの。なんでも昨年度末、あまりに幽霊部員が多いうえ、残った部員も真面目に活動してなかったために、廃部になったそうですわ」
明度100%を絵に描いたようなまりやも、流石に少し沈んだ声になっている。
「そりゃまた災難だったな、まりや」
「まりや、ふぁいと!」
俺と珠希が慰めるが、まりやは微笑って、首を振る。
「いえ、確かに残念ではありましたけど、コレもよい機会かと思うのです。
舞台に立つことは好きですけど、わたくし、それ意外にも以前から温めてきました腹案がありますの」
「へ? 同好会って、演劇のじゃねーのか?」
哲朗が口にした疑問は、俺も同感だった。てっきり、無くなった演劇部の代わりを作るとばかり……。
「違いますわ。第一、演劇サークルを立ち上げ、3人が協力してくださるとしても合計4人。これでは普通の劇の上演は難しいでしょう?」
まぁ、そう言われれば、確かに。
劇については素人だからあまり詳しいことはわからんが、上演時に照明と音楽がひとりずつ必要として、残るふたりで俳優をすることになる。
俳優ひとりふたりの舞台も中にはあるんだろうけど、役者の少なさは確実に足枷になるだろうしな。
「わたくしが考えていますのは……端的に言えば「応援部」でしょうか?」
「えーと、応援団つーかチアリーディング部は、すでにあるみたいだが。それとも、学ラン着て太鼓叩くアレの方か?」
確かに、哲朗ならそういう格好がいかにも様になるだろーが…。
「はなのおーえんだん?」
──誰だ、純真無垢な珠希に、あんなオゲレツ漫画読ませた奴は!? いや、ウチの親父以外にありえねーけど。
「? まんがじゃなくて、びでおだったよ?」
映画版かよ!? 漫画以上にニッチだな。まぁ、平成版の方ならB級バイオレンスアクションと言えないこともないが……。
いずれにしても、帰ったら親父に3回転半捻りでバカルン超特急をキメることを決意しつつ、俺はまりやに続きを促す。
「いえ、言い方が悪かったでしょうか。もっとわかりやすく表現するなら……そうですね、さしづめ「お助け部」とでも言うべきクラブですわ」
まりやの説明したサークルの主旨は、要するに「人手が足りなくて困っている部活を臨時でサポートする」というものらしい。
「要は人材派遣会社みたいなモンか?」
「的確なたとえですけど……その言い方は夢がありませんわ」
と、まりやはムクれたものの、「だいたいあってる」というコトなんだろう。
「筋肉男とタマちゃんが所属してくだされば、男女とも運動部へのサポートは完璧でしょう? 芸事関係はわたくしが、それ以外の文化部関係は廉太郎が担当すれば、十分機能すると思うのですけど」
その布陣だと、俺はオマケのいらない子に聞こえるんだが……。
「いえいえ。むしろ、ある意味万能ユニットとして貴方の活躍に期待してますのよ?」
要するに器用貧乏ってコトね、ハイハイ。
結局、俺達3人は、まりやの思惑に乗ってみることにした。
なんだかんだ言って、中学時代は、それぞれ別個の部活──まりやは演劇部、俺は電脳部、哲朗は帰宅部?──に属してたから、一緒に行動する機会は限られてたからな。
それに、このふたり相手なら、珠希の件で俺もヘンに気を使わずに済むし。
「それじゃあ、同好会成立のための手続きは、わたくしお任せください。放課後までに書類を書いて、生徒会に提出しておきますわ」
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#とりあえずは、ここまでが第1章。ちなみに、珠希(タマ)の外見イメージは「迷い猫オーバーラン」の希だったり。あの子は絶対猫の化身だと思ってたのになぁ。
エロは第何章くらいですか(*´Д`)ハァハァ
ヒロインが可愛いっぽいから期待してるけどさすがにちょっと状況説明が長すぎだと思う
エロシーンまで行けるのか?
238 :
235:2011/05/26(木) 01:39:17.16 ID:hWm9FSNx
>236、237
あ〜申し訳ない。おそらく未遂じゃないHは4章目くらい。まぁ、元々「エロシーンのあるラノベ」のつもりで書き始めたんで・・・。この程度でも長過ぎると言うのでしたら、投下はあきらめます。
>>238 別にいいんじゃないか?
いろんな意見があるのは当然だし
続きまってるぜ
つい先日PSPで発売された「AKIBA'sTRIP」ってゲームに出てくる陰妖子(カゲヤシ)と呼ばれる人に似た種族が、
・日光に弱く ・吸血し ・コウモリを操る
というまさに吸血鬼なんだけど、ココってそういうゲーム由来のSS投下すんのOK?
ヒロイン(世間知らずの正統派ヒロイン)とか、その親友(ゆるふわ系おっとりさん)とかが、そのカゲヤシの穏健派
(人間と共存したい連中)なんで、彼女らとチュッチュするような話書きたいんだけど、流石にエロパロスレはないんで……。
いいんじゃない
一応二次創作と書いておけば
243 :
241:2011/06/06(月) 21:24:52.94 ID:QD3CoYjZ
ごめん、挫折しました。
別の所で同原作の一般作SS書いてて、ソレのアフターストーリー的なエロ外伝をココに書くつもりだったんだけど、
なにせ反応薄すぎて……70000本クラスのゲームは、やはりマイナー過ぎたか。
他の作家さん、カムカム!
ま、そういうこともあるさ
忍法帳の関係で次スレが立てられん。
できる人、頼ム
247 :
245:2011/06/17(金) 11:43:42.27 ID:B1zX/ttN
スレ立て乙です!
さっそく埋め用に1本。ちなみにどこかのマンガで見たような設定なのは「仕様」です。
『ルキア先生の憂鬱』
英雄とも呼ばれた今は亡き大魔法使いロカを父に持つ少年ルカくん。幼い日に見た父のように偉大な魔法使いになろうと、ウェールズの隠れ里にある魔法学校で懸命に学び、スキップしまくりで11歳で魔法学校卒業となったのですが……。
最後の卒業課題として出されたのが、「日本の中学校で1年間先生をすること」。
はたして、彼は無事に卒業課題をクリアーできるのでしょうか?
──というわけで、やって来ました関東某県にある"間寺刈(まじかる)学園"。
ルカはここの女子中等部で教鞭をとることになっていたのですが、赴任早々……というか赴任してくる日の朝にポカをして、魔法を使っているところを教え子(予定)のふたりの女生徒に見られてしまいます。
どんより落ち込んだルカを迎えた学園長は、歓迎の意を述べつつも、先刻の魔法バレについて咎めます。
目撃した女生徒は学園長の孫とそのルームメイトだったのが不幸中の幸い。ふたりに口止めして魔法のことが広まることは阻止できたのですが……。
「しかし、何もお咎めなし、というわけにはいかんのぅ」
「はい……(うぅ、魔法バレって、確か小動物にされて半年間魔法界のために無料奉仕、だよね?)」
「時に、ルカくん。キミはイタチとキツネとウサギ、どれが好きかね?」
「(来たっ!)あのぅ、それじゃあ、できればキツネで……」
「ほほぅ、なかなかマニアックじゃな。ホレッ!」
──ポンッ
学園長の魔法が杖から放たれた瞬間、お子様には似合わぬスーツに身を包んだルカの姿は煙に包まれ……煙が晴れたときにはそこには狐耳&狐尻尾のついたミニスカ和服姿のルカ少年、もとい少女が立っていました。
「ホッホッホッ、可愛いキツネっ娘の一丁できあがりじゃ。我ながら上手くいったわい」
「あ、あの〜、学園長、これは?」
「うむ。知っての通り、魔法バレは本来小動物化の末、1年の無料奉仕じゃ。しかし、今回の件はそこまでするほどのことではないでな。戒めのため少しだけケモノの要素をお主に付加したわけじゃ」
「それは何となくわかりますけど……でも、なんで女の子なんですか?」
「バッカモン!! ケモノ耳と言えば美少女か美女と相場が決まってるじゃろーが!」
なんだか訳がわからないものの、「萌」について力説する学園長の迫力に負けてうなずくルカくん。
「は、はぁ、そういうものですか」
「なあに、心配するな。この学園を去る時には、キチンと元の姿に戻してやるわい」
「で、でも、こんな姿でみんなの前に出るのは……」
「ああ、それも心配ない。この木の葉を頭に載せて、バック転してみなさい」
「ええっ、そんなの無理ですよ!」
12歳の少年としては、結構運動能力は高めのルカですが、いきなりバク宙ができるほどではありません。
「いいから、ホレ、やってみそ」
妙にカル〜い、学園長の言葉に従い、渋々渡された葉っぱを頭上に載せて、トンボをきるルカ。バク転、難なくできちゃいました!
──ドロン!
「うわっ、なんですか、これ!?」
煙の中から現れたのは……やっぱりルカくんです。
ただし、三角のキツネ耳とフサフサしたしっぽはなくなっており、着物ではなく半袖ブラウスにエンジ色のブレザーと同色のミニスカートという格好──ありていに言うと、女子中等部の制服姿でした。
「おお、よう似合っておるぞ」
「え? ええっ!?」
「ははは、日本ではキツネは人間に"化ける"という伝承があってな。お主もキツネ娘のはしくれになった以上、そのように人間に擬態する能力が使えるわけじゃ」
「あ、それは聞いたことがあります。けど、なんで制服なんでしょーか?」
「ああ、それは周囲の環境からしてもっとも違和感のない姿に擬態したのじゃゅろう」
なるほど、その理屈には一応納得がいきます。
「ふむ、ちょうどよいか。ルカくん……いや、その姿で男の名前は変じゃな。よし、これから当分はルキアと名乗りなさい」
「は、はぁ……なんか、死神だったりクイズの学校にいたりしそうですが」
いろいろあり過ぎて頭がテンパり状態のルカくん改めルキアちゃんは、力なく答えます。
「後者はキミも似たようなもんじゃろう? ともかく、ルキアちゃん、キミは当面3月まで、女子中等部の英語の教育実習生と働くと同時に、授業をする時以外は2−Aに転校生として編入してもらう」
「ええっ、そんなの無茶ですよ! 第一、ボク、まだ11歳になったばかりですし」
「(その12歳で教壇に立とうとしとったぢゃろーが)その点は心配ない。自分の体をよく見てみなさい。何か違和感を感じないかね?」
「違和感って言われても……女の子になってるし、スカートはいてるから違和感ありまくりですよォ〜。あれ、でも、なんだかちょっと背が高くなったような?」
「うむ。それにホレ」
──ツンツン……ポニョン!
「キャッ、何するんですか、学園長先生!」
思わずつつかれた胸を押さえて後ずさるルキアちゃん。
「(ほぅ、自然と女の子らしい仕草が身についとるようじゃな)見たところ身長は155センチ前後、バストの方もBの70といった感じじゃろう。それなら中学2年生の女の子として問題ないと思うがの」
「ふえっ!? 5センチも身長伸びちゃったんだー」
「いや、悩むべきところはそこじゃないだろう!」とツッコミたいところをあえて自重する学園長。
「でも生徒と先生の兼任なんてできるんですか?」
「大丈夫じゃ。我が学園には"準教師"という制度があっての。特定の分野に特に秀でている生徒は、その教科に関してのみ"講師"として教師に準じる立場で教壇に立つことできるのじゃ。講師として教えている科目については、自動的に単位修得できることになっておる」
似たようなことを大学過程で行っている学校はあるが、中学生でそれは普通ないだろう。
「無論、君が受け持つ英語以外の教科では、他の一般生徒同様に授業を受けてもらうので、そのつもりでな」
「そ、そんなのでいーんですか?」
「ま、とりあえず3月までの話じゃ。それまでで無事に先生をしていけるとわかれば、4月からは正規の教員として取り立てよう。それに、日本にまだ慣れておらぬキミにとっても、ちょうどよい研修期間じゃと思うがの」
「……と、まぁ、おおよそそういった事情があっての。ほのか、アスミちゃん、ルキアちゃんの学園生活を助けてやってもらえんかね?」
孫とそのルームメイトを呼び出した学園長は、ルカ──ルキア・オータムリーフのフォローを、ふたりに依頼します。
ただし、魔法の事は極力簡単に説明し、またルカくんが魔法で女の子の姿になったのではなく、元々女の子だったのが魔法で男の子の格好をしていたかのようにあえて誤解させるような言い回しを使用して。
「いいですよ。困ったときはお互い様ですし」
「ウチも構へんで〜」
そのため、ふたりは「ちょっと訳あり(実は魔女っ子?)な転校生の世話」を頼まれたと思い込み、快く引き受けます。
「じゃあ、改めて自己紹介するわね。あたしは、神室坂明日美。アスミって呼んでね」
「ウチは、穂村焔乃香。ほのかでエエよ」
「る、ル…キア・オータムリーフです。よろしくお願いしますぅ」
ルキアちゃんは、ふたりのクラスメイトがいい人そうなのでホッとすると同時に、なんだか騙しているようで(実際にそう誘導したのは学園長ですが)、ちょっと申し訳ない気分になっているようです。
<オマケ>
「そうそう、ルキアちゃん。魔法を使うときは変化の術が解けて耳と尻尾が出るので、注意せんといかんぞ。
それと、キミの先生としてまた魔法使い見習としての行動は、逐次監視させてもらうからの。もし、そこで不適切もしくは不注意な行動をとるようなら、キミの「キツネっ娘ポイント」が溜まる仕組みになっておる。現在はとりあえず50じゃが、これが100になると……」
「ひゃ、100になると?」
「本体が完全にキツネ(妖狐)になる。まぁ、その状態でも人間に化けることはできるから当面問題はないが。逆に0になったら、完全な人間の姿に戻してあげるので、頑張るようにな」
「は、はいっ、がんばります!」
──バタン!
ふぅ……行ったか。ところで、気づいておらんのじゃろうのぅ。
首尾よく春に正規教員になれればよいが、もし準教師のままじゃと、「1年間先生をした」とみなすには、今から大体高等部を卒業するくらいまでこの学園にいる必要がある計算じゃということに。
まあ、ワシとしては半人半妖獣耳の可愛い魔女っ娘が、それだけ長く学園に留まってくれるのは嬉しい限りじゃが(ニヤソ)。
ネギツネとかあったなそういえば…