1 :
名無し三等兵:
モンゴル帝国が2度にわたって鎌倉日本に大敗した元寇を軍事的に考察しましょう。
2 :
名無し三等兵:2011/11/01(火) 16:54:27.39 ID:???
文永の役では
@新機軸の撹乱兵器てつはう等に見る技術力の差
A編成・統率力の差
(日本:御家人達が各家ごとに散らばった編成、指揮系統確立せず
元:指揮系統の確立した組織的な編成)
が勝敗を分けたんだっけか
結局は神風だけど
3 :
名無し三等兵:2011/11/02(水) 14:02:04.21 ID:???
北条時宗っていうクソドラマみたいなストーリーだな
4 :
名無し三等兵:2011/11/03(木) 02:39:52.36 ID:???
>>2 アホの60年代の思想学者みたいなこと言ってないでまともな史料読みなさい。
大まかには上陸初日に準備の整わない日本側とやりあったにもかかわらず、モンゴル側の損害多数、日が経つにつれて不利になるのは明白だから元軍指揮官の判断で即日撤退。
という流れ。
実際この時応戦に出たのは地元九州の武士だけで、本州からの主力は全く関わっていない。台風はこの時は無い。
個人的には即日撤退した歴戦の指揮官の判断は評価できると考えている。高麗は立場もあってか撤退に強行に反対したんだけどな。
5 :
名無し三等兵:2011/11/05(土) 11:39:09.52 ID:???
当時の帆船で朝鮮半島から九州まで何日くらい
かかったのですかね
6 :
名無し三等兵:2011/11/06(日) 19:49:33.70 ID:C0trWQtr
文永役は、威力偵察なので占領地確保の有無は、
作戦目的とは特段関係無い。
抵抗が極端に少なければ占拠しただろうけど。
7 :
名無し三等兵:2011/11/07(月) 01:47:07.01 ID:5kCCa9oY
まーた始まったw
8 :
名無し三等兵:2011/11/07(月) 03:41:32.23 ID:???
威力偵察も棄民も全くのデタラメというソース
「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ。今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。
爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。朕、不庭の国を征するに、
爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、
米三、四千石を載すべきを造れ」
(高麗史・巻102・列伝15・李蔵用・1268年5月29日条)
9 :
名無し三等兵:2011/11/08(火) 22:23:42.62 ID:???
文永は少なくとも大宰府ぐらいは落として交渉、停戦、地元勢力も引き込んだ戦力補強後に再戦、と移るつもりだったんだろうなぁ。
その手法は大陸ではともかく日本相手では全く通じなかったと思うのだが…
しかもよりにもよって鎌倉時代。グラつきはじめていたとはいえ、日本全国の武士を動員、支援できる体制が固まっていたわけで、たとえ数倍が上陸していても勝てたとは思えない。
弘安が棄民というか反対勢力弱体化のためという説は中国史の他の例を見ても近い例があり、朝鮮戦争の人民志願軍などと通じるものを感じている。
これはまだ検証の余地があるなように思うな。
南宋の兵隊だから北周りでない危険な直行ルートを取らせたというのもあながち間違いではないと思う。
10 :
名無し三等兵:2011/11/09(水) 03:37:09.87 ID:4K1uMU9P
十万の旧南宋兵が高麗国内を通過したら、
成り行きによっちゃ、そのまま居座りかねないからな。
早めに征旅につかせるに限る。
11 :
名無し三等兵:2011/11/09(水) 10:13:38.29 ID:???
>>9 同意!
幕府が領地問題でグラつき始めていたからこそ、逆に守護や御家人は
領地没収を恐れて、文字通り一所懸命で戦ったろうしな。
12 :
名無し三等兵:2011/11/09(水) 11:59:33.70 ID:72HvtMqY
>>9 でも、問題はその反抗勢力弱体化説唱える奴の大半が
そっから「元は全然本気じゃなかった!」とか「全部フビライの狙い通り!武士プギャー」って話を飛躍させまくってる点なんだよね。
まあ日本の中世史関係者は軍事に疎い奴ばっかだからしゃーないが。
なら、朝鮮戦争の中国軍はあの米軍相手に手抜くようなマヌケだったんかいと。
13 :
9:2011/11/09(水) 13:40:54.27 ID:???
まぁねぇ。
大規模な軍事作戦の評価ってのは時々の政治的背景も考慮しないといけないのに、それがわからないと話にならない。
元は本気じゃなかった、なんていうやつはゲームのやりすぎかなにかだろうな。
とりあえず元としては、政治的観点からは本国の安定第一と考えていた面は否めないと思う。
軍事的勝利のみを目指して、南宋兵みたいな爆弾勢力を本国に置いて信頼の置ける主力を日本向けに動員したら、例え勝ったとしても本国が危ないだろうw
このあたりは政治と軍事のバランスを見て現実問題としての全力を注いだらああいう作戦になった、というあたりでみておいてよいかなと。
机上の編制では、これで勝てる!と思ったとしてもおかしくないほど集めたわけだし。
しかし弘安でこそホントの意味での事前偵察と作戦への反映をすべきだったんじゃないかと思うw
現地に着いたら想定外の石塁で奇襲上陸不能になってました。どうしましょう。
というのはあまりにも杜撰すぎるわな。この点ばかりは手抜きと見られてもしょうがない気がする。
14 :
名無し三等兵:2011/11/09(水) 15:51:34.96 ID:???
まあ、防塁の上から戦闘のプロ集団が上陸時を狙って片っ端から
射殺してくる時点で、精鋭集めようが歴戦の名将に任せようが無理ゲー臭いけどなw
15 :
名無し三等兵:2011/11/09(水) 21:20:10.47 ID:UQl0A2E7
なんで石塁のあるところに上陸しようとしたのかねぇ。
瀬戸内に入り込むか、山陰沿岸目指せば、上陸は容易なのになぁ。
16 :
9:2011/11/09(水) 22:16:55.39 ID:???
一部が長門に上陸したという説もあるけども、やはり基本的には大宰府を落とすことが最優先目標だったために博多付近への上陸にこだわったんだろうなぁ。
あんな長期間待てるぐらいならどこへでも行けた訳だが。
流れを見ると、江南軍と合流して一気に強襲すれば石塁でも突破できると読んでいたのだろうけども。
そもそも全体の連携不足で江南軍の到着が遅れたりと、大兵力による戦略的奇襲の価値が全く無くなっていたのが痛い。
初手の段階で全軍全力で攻撃可能であればあるいはと思わなくも無い。
時間をかけすぎて、攻撃場所を選んだり、戦力を集中できるという、攻撃側最大のポテンシャルを自ら失ったことは明らかな失策だな。
弘安の役にははるばる関東の武者まで参加できているような状況では、勝機は全く無かったわな…
純軍事的に考えると、江南軍を朝鮮〜壱岐対馬まで来させてから準備、軍勢を整えることは出来なかったんだろうかね。
港湾施設の問題もあるかもしれんが、洋上待機できるような食料資材に余裕があるならそのぐらい出来そうなもんだが。
やはりこのあたりは>10の言うような内情があるように思うんだがな。
17 :
名無し三等兵:2011/11/11(金) 18:55:23.02 ID:???
歴史学者様(笑)は元高麗の目標が太宰府だった事にあまりふれない
18 :
名無し三等兵:2011/11/11(金) 20:20:41.52 ID:???
石塁から上陸失敗したから、志賀島から陸伝いで攻めようとしたんだろ。
でも、逆に志賀島に武士が攻め込んできて、元軍は遁走
19 :
9:2011/11/11(金) 22:11:31.32 ID:???
どうも壱岐なんかまで下がって再度陣営を立て直すようなこともやってるみたいだなぁ。
志賀島もあくまでも泊地として確保したかったのかもしれないけど。陸伝いで攻めるにもあの地形じゃどうしようもなさそうだしなぁ…
日本側はそのあたりも含めて読んでいたのかねぇ。
昔からの疑問なんだけど、随分とたくさんの船が、九州にたどり着く前、洋上に点在している状態で台風食らったんじゃないのかね。
出発が遅れたせいでわけもわからず洋上で沈むことになった船がずいぶんといそうだなぁと…
20 :
9:2011/11/11(金) 22:44:23.92 ID:???
全体に三々五々のグダグダになってるが、そもそも最初の作戦計画ってどんなんだったんだろうな?
1・東路軍は1281年5月31日までに壱岐対馬を制圧、休養、停泊地として同地を確保すること。
2・東路軍は続いて、北九州博多付近の沿岸部に上陸を行い、同年6月15日までに停泊地と橋頭堡を確保、持久すること。不可能な場合は壱岐対馬を停泊地とし、江南軍を待つこと。
3・江南軍先遣隊は、先行する東路軍が確保した停泊地に対し、同年6月15日までに到着、九州上陸後は速やかに橋頭堡の維持拡大に努めること。
4・江南軍後続隊は、編成が完了次第、寧波を出航し、増援として北九州に上陸し、大宰府の制圧作戦を行うこと。
5・増援の戦力については、状況に応じ、順次後続部隊を編成派遣し対応すること。又、投降日本人勢力の懐柔、戦力化に努めること。
こんな段取りだろうかな…だとすると1は成功、2でコケて3は遅れるわで以降グダグダという感じではないか。
21 :
名無し三等兵:2011/11/12(土) 02:34:55.22 ID:???
>>15 瀬戸内や山陰沿岸じゃあ上陸は容易でも、陸に上がった後で四方八方から攻められる。
と、なると、やっぱり、大宰府を落として拠点とする攻略法しか選択肢がないような。
22 :
名無し三等兵:2011/11/12(土) 04:42:21.29 ID:z3yRWr2v
瀬戸内の島を占拠して要塞化すればいいだろう。
関門峡の近くで手頃な島はないものか。
23 :
名無し三等兵:2011/11/12(土) 07:44:23.45 ID:???
どうやって無事に瀬戸内まで行けるんだ?
行ったとしても、補給路を自ら遮断するようなもんだぞ?
史実通り、兵糧不足、疫病蔓延、全滅の道を歩むだろうな。
24 :
名無し三等兵:2011/11/12(土) 07:48:07.25 ID:???
救援が期待できるから立てこもるんでしょう?
どうやって救援を依頼するのかと
25 :
名無し三等兵:2011/11/12(土) 08:47:48.49 ID:???
大宰府は古来から大陸との窓口になっていたから、大陸の連中も大宰府までの道行きはわかるだろう。
だがそこから先は殆どわかるまい。
いきなり山陰などに上陸したって右も左もわからぬ土地で右往左往するばかり。
26 :
名無し三等兵:2011/11/12(土) 23:05:57.72 ID:???
そもそも日本に対してはどの程度の認識だったんだろうな。
小さい島国でちょっと兵隊派遣して実力を示せば屈服するだろうとかそんなかんじか?
いくら世界最強の時代だからといって、渡洋攻撃自体がかなり難しいのに、相当見くびらないとこんな計画は出来ないとおもうけどな。
第二回だって何年も経ってるのに、第一回と同じパターンで増援をつけたら行けると考えてたろうけど、
的確な位置に築かれた石塁にしてもそうだが、敵に備えて極めて高度な対抗戦略を立てて実行、それを維持できる国が相手だぞ。
対日戦では国が傾くほど力を注がないとまともな戦いにもならない、とは思いもよらなかったのでは。
しっかし石塁のことって果たして元は情報を得ていなかったんだろうかね。日本は南宋とも経済的なつながりはあったわけでしょ、それとなく情報はもれ伝わってたと思うんだけどなぁ。
27 :
名無し三等兵:2011/11/13(日) 06:48:07.13 ID:???
防塁は過大評価だと思うのは自分だけ?元軍と日本軍が防塁で戦ったのは一日だけ。
で、防塁のない志賀島や鷹島でも、元軍は日本軍に駆逐されてる。
28 :
名無し三等兵:2011/11/13(日) 07:03:59.43 ID:???
元軍の副司令官・劉複亨が負傷したのは鳥飼潟の戦闘で敗走している時、というレスが前にあったがどうなんだろう?
>>
元軍の劉復亨って博多から撤退する日本軍を追撃中に水城付近で少弐景資に射られたとされてるじゃん。
でも、少弐氏関連の史料では射られた場所が百道原ってことになってるんだよね。
〔少弐系譜〕
景資、資能三男、初名三郎左衛門、後號豊前守、弘安四年於筑前百路原射殺蒙古大将
〔武藤系圖〕
(景資傳)弘安蒙古出来時、蒙古大将百道原射留ラル
〔筑紫系圖〕
弘安四年蒙古襲来之時、忠功一門、劉相公討捕、身丈七尺乗黒馬
成立したのが元寇の随分後だったり、文永の役と弘安の役を混同してたりで史料としては弱いんだけど、
他の一次史料から日本軍が鳥飼で元軍を撃破した戦闘に少弐景資が加わっていたと考えられるのなら、
話は別だよね。
劉復亨は元軍が鳥飼から撤退中に百道原で追撃する少弐景資によって射られた。
29 :
9:2011/11/13(日) 11:56:32.75 ID:???
うろ覚えだが、倒したのは少弐景資自身じゃなかったとおもうけどな。
配下の武将が上級者の馬を借りて射に出て倒したと読んだ記憶がある。
まぁ部下の手柄は長の手柄なんだろうけども。また資料探してみる。
石塁
まぁ志賀島なんかは限定的な戦場だからどうかわからないけど、石塁の有無に関わらずそもそも待ち構えている状態に上陸するなんてこと自体が無謀だったんだろうな。
30 :
名無し三等兵:2011/11/14(月) 19:15:07.18 ID:???
文永の役は蒙古軍の圧勝
『元史』
巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國
「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
卷一百五十二 列傳第三十九 劉通伝
「十年,遷征東左副都元帥,統軍四萬、戰船九百,征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之」
『高麗史』
巻一百四 列伝十七 金方慶伝「分道而進、所殺過當。倭兵突至衝中軍、長劍交左右。方慶如植不少却、拔一?矢、弱゚大喝、倭辟易而走。之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻。」
31 :
名無し三等兵:2011/11/14(月) 19:34:12.46 ID:???
都合のいいとこだけ引っ張ってくるなよw
上陸戦で有利に戦闘を進めながら、なぜ撤退を決めたのか。
戦術的勝利は得られても戦略的に負けていれば圧勝とは言えない。
そのことを元も理解していたのは記録からも明らか。
ああ、金方慶だけは理解できてなかったようだがw
32 :
名無し三等兵:2011/11/14(月) 19:52:05.38 ID:???
そもそも戦術的に勝利したかすら怪しい
33 :
名無し三等兵:2011/11/14(月) 20:37:35.45 ID:???
日本軍が勝ったという史料を出せよ。
34 :
名無し三等兵:2011/11/14(月) 20:42:34.22 ID:???
日本が勝った史料?
それこそ元史高麗史を読めよw
35 :
名無し三等兵:2011/11/14(月) 20:59:09.91 ID:???
『元史』『高麗史』読めば、蒙古軍の圧勝ぶりがわかるなw
36 :
名無し三等兵:2011/11/14(月) 21:16:29.48 ID:???
本気で言ってるの?それともゲーム脳なの?
蒙古軍が圧勝とか、運動会の玉入れみたいなこと言ってんじゃねぇよw
37 :
名無し三等兵:2011/11/14(月) 21:36:33.84 ID:???
>>36 文永の役は蒙古軍の圧勝。
『元史』
巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國
「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
卷一百五十二 列傳第三十九 劉通伝
「十年,遷征東左副都元帥,統軍四萬、戰船九百,征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之」
38 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 00:01:33.37 ID:???
あほか。話にならん。
39 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 00:05:26.74 ID:???
『高麗史』金方慶伝
倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戦、何以加此。諸軍与戦、及暮乃解。
方慶、謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒不可当。我師雖少、已入敵境。人自為戦、即孟明焚船、准陰背水。請復戦。
忽敦曰、兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍。
欧亨 中流矢、先登舟、遂引兵還。会夜大風雨、戦艦觸岩崖多敗
40 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 01:30:01.29 ID:???
今でも台湾沖航空戦の大本営発表を
一次史料だといって信じちゃうタイプ?
41 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 03:08:18.04 ID:???
特に高麗史を読んで蒙古軍圧勝と読み解くなんてどう考えても困難だと思うけどな。
まさか正面戦闘しか見てないとかじゃないよな。全部読めば、蒙古側が不利を悟って撤退した、という流れが書いてるだろ。
数分の一しかない日本勢相手に決戦に引き込まれてたった一日で継戦力を喪失した蒙古軍のどこが圧勝なんだよ。戦争は何人殺したかじゃないぞ。
金方慶が撤退に反対したことからも判るように、予定に反して帰らざるを得ない状況に追い込まれた事実はどう説明するんだ。
42 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 03:12:32.66 ID:???
たとえば、勝利したとしてその果実を利用できなければ敗北と同じだよなw
勝ったのに利用できないって、敗北より悪いかw
43 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 06:04:01.68 ID:???
危険な夜間の三々五々の退却を選んだというのも、そのタイミングでなければまともに撤退できなかったという判断だったんじゃないか。
偵察にせよ圧勝にせよ予定通りなら朝を待って粛々と牽制しながら引き上げればよいだけの話だとおもうんだがな。
こういう話は、行間が読めないというか、文字だけ追って圧勝だと一人納得する人間には判らないかな。
44 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 11:09:00.30 ID:???
上記の史料では日本軍に勝ったという戦闘場所が書いてないよな。対馬、壱岐、松浦党との戦闘のことかもしれん。
『元史』洪茶丘伝には戦果を島を抜いたことしか書いてない。
「八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島」
九州で勝利していたら、記述があるはずだと思うが。確かに、10月5日〜19日までの島や松浦党との戦闘は
元軍が圧倒的だった。ようするに文永の役の大半の期間は、元の将兵は戦勝気分を味わっていたはずだ。
しかし、博多湾から上陸してみると、日本軍の主力と衝突し、壊滅はしなかったが、相当な劣勢となった。
だからこそ、戦闘に参加した日本側の武士竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』や福田兼重の申状でも日本軍の勝利が
確認されるのではないか?
福田兼重申状
「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山徒等、令懸落百路原」
日本軍の勝利によって、元軍では『高麗史』金方慶伝に記載されいている戦況の不利ともとれる議論になったのではないか?
「方慶、謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒不可当。我師雖少、已入敵境。人自為戦、即孟明焚船、准陰背水。請復戦。
忽敦曰、兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍。」
ようするに、博多湾から上陸した後の鳥飼潟の戦闘で日本軍が勝利したことを元側は意図的に無視した可能性があるのでは?
でないと、「倭兵大敗、伏屍如麻」の後の記述に、急に戦局の不利ともとれる議論が行われるのは不可解。
」
45 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 11:13:23.35 ID:???
威力偵察だから大成功でしょ
46 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 11:32:24.85 ID:???
47 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 11:33:40.30 ID:???
>>45 168 名無しさん (2010/07/02(金) 18:50:58 ID:26SMAwUoBI)
「文永の役威力偵察説」を唱える連中って、根拠として侵攻に先んじて威力偵察を行うのは
モンゴル軍の常套手段だって言うじゃん。
でも、現実のモンゴル軍は、数年かけて準備した数万人規模の威力偵察を行い、
その数年後に改めて侵攻し直すなんてアホみたいに非効率的な作戦を、常套手段どころか
一度もやったことないわけ。
じゃあ、「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは一体何かっていうと、
モンゴル軍の部隊編成では本隊のおよそ70マイル(約113キロ)先んじて威力偵察部隊が侵攻。
この威力偵察部隊が敵と接触すると、相手が弱ければそのまま撃破し、強ければ偽装退却して
本隊の所まで敵を誘導し、包囲殲滅するってのを常套手段としてたわけ。
要するに「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは戦術レベルの話なの。
日本史研究者って呆れるほど軍事オンチの連中だから、戦術レベルの話である威力偵察を、
文永の役みたいな作戦レベルの話とゴッチャにしてるんだよ。
48 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 11:37:48.06 ID:VDhlpQgb
49 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 12:00:44.49 ID:???
スレの流れ面白いw
軍事オンチが的確に迎撃されて敗走させられてる。この流れも
「威力偵察だから圧勝」
とか言うのかなw
50 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 12:25:48.11 ID:???
というかこの流れ見てやっと理解できたわ。
日本の歴史関連は本書いてるような奴も、ネット上で色々書いてる奴も
軍事的な背景やセオリーも物理的な常識もまるで無視して
史料の単なる意訳のみに目が向いてるから、「文永は威力偵察」だの
「日本に騎馬武者は存在しなかった」だのけったいな説が横行するんだな。
まあそれでも一次史料読んでる手合いは幾分マシっちゃあマシか。
最近(つってももう十年以上だがw)は信野暮の感覚で軍事作戦語るゲーム脳も多いからな。
まあ、こんなんだからフィクションでも日本の戦記モノはお粗末な内容のものが多いのも頷ける。
51 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 13:00:31.09 ID:???
それに、マッカーサーと天皇が並んだ写真は日本人にアメ公への劣等感を植え付ける為にはものすごく効果的だったよな
日本で一番えらい人がマッカーサーの隣では単なるみすぼらしいジジイなんだから
一方でマッカーサーがちょっと天皇褒めたら
「神様仏様マッカーサー様」
つまり、天皇ってのは日本人を簡単に操れるリモコンなんだよ
日本と戦争したきゃ天皇けなせば勝手にファビョってくれる
日本無茶苦茶に叩いても最後に天皇さえ褒めれば簡単にケツ穴まで渡してくれる
そんな弱点をいつまでも後生大事に保っててもしょうがない
とっとと廃止した方がいい
52 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 13:03:02.78 ID:???
誤爆wてつはう乙w
53 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 13:06:48.18 ID:???
・君主は国家を象徴的に具現し国民統合を容易にする。×
⇒天皇陛下が国家を治めているわけではない。○
(天皇の意思に関わらずマッカーサーに勝手に象徴にされただけ)
・君主制は政治家の権力欲を制御する。×
⇒政治家の権力欲を増進させる。 ○
(麻生一族(財閥)なんて皇族と政略結婚してる)
・君主制は外交の連続性を保つ。×
⇒現在の日本は君主制ではない。○
・君主は重要な政治的調整力の役割を果たす。×
⇒ただのお飾りです。○
・君主制は義務をわきまえた官僚の効率よい行政の優れた基盤となる。×
⇒君主制なんて前時代のものであり、例え君主制であったとしても、官僚は腐敗する。○
・君主制下の軍隊は将校団を中心とし自然な団結と忠誠心を保持しやすい。×
⇒誰も天皇陛下個人の為に戦うわけではないので団結や忠誠心なんて皆無。○
・君主は長い歴史と文化的伝統に支えられて国民の情緒と道徳と文化の支柱となる。×
⇒長い期間、平民から税収を搾取し自己保身の為に、都合の良い文化を作り上げた。○
54 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 13:07:46.84 ID:???
なんだ最近はチョンコも軍板にくるようになったんか
55 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 13:39:28.56 ID:???
どっちかっていうと高麗軍だなw
56 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 13:59:58.67 ID:???
ああ、なるほどw
だから大勝利なのかw
だれが上手いこといえとwww
57 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 14:10:23.83 ID:???
死者を祀り神様にするのは、昔は自然な形では存在した。
菅原道真公。崇徳天皇とか。
しかし、明治の現人神の天皇制樹立以降、軽々な人間神化や
人間神社の濫用が始まった。
乃木希典の次は海軍が競うように東郷平八郎の東郷神社とかね。
明治維新以来、古代より受け継がれた日本固有の伝統にない本来無い
仕掛けが 人間の都合で急に突貫工事で次々と工作され、「靖国で会おう」
とお互いに自発的に 言葉を掛け合い「天皇陛下万歳!!!」と突っ込んで
逝くに至る 迄もニワカ教義の国家神道で洗脳し、そのプレハブ細工
みたいな即製で出来上がった屓目にも日本の宗教文化の抽出とも言いよう
もない教えのために重火器の十字砲火の中を塊になって突っ込んでいった
国民一人ひとりの姿やその魂は、どういう道理でもって元のそれぞれの
産土の神の懐に安らかに還っていけるというのか?
ニワカ教義の国家神道によって、どうやって各み魂が救われるというのか?
近代国家以降で、ここまでも伝統ある国の風土や精神文化の根元まで
重機で踏み入って根底からグチャグチャにした国家なんてないだろう。
古来からの産土の神たちの怒りは尋常じゃないね。
58 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 14:12:22.31 ID:???
万世一系なんてインチキ。
都合良く系図書いてるだけ。遺伝子は父親母親半々づつ。
先祖は母親側にも繋がっていく。
桓武天皇の母親は朝鮮人。天皇の先祖は朝鮮人にも繋がっていく。
要は先祖なんて何万何十万もいるってこと。
都合のよい先祖だけ取り上げて、自分は○○の子孫ですってナンセンス。
血なんて一代ごとに2分の1づつになる。何十代も続けば最初の先祖の
血などほとんど入っていないことになる。
要は血筋など馬鹿げたもの。
いずれにしても、天皇制などというバカな制度は即廃止すべきだ。
59 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 14:18:24.31 ID:???
予備戦力が尽きれば勝敗が決するのは戦場の常。
だから攻撃側は十分な余裕を持たないと何も出来ないのよ。
それを見越して蒙古軍は数万もの兵力を上陸させたんだろ。その手法は間違ってない。
しかしその駒を一日であらかた使い切って、圧勝です。
なんてほざくのはゲーム脳の最たるものだな。翌日以降どうするつもりだったんだよ。それこそ船燃やして玉砕か?
威力偵察言ってるやつって、それに乗じて短期間に戦力を集中投入するべき予備兵力はどこにあるのか考えてみろ。
今日はこのぐらいにして数年後にまた来ます。ってそれ、相手を利するだけだからw
歴戦の蒙古軍はそんなバカだったのかよw。
60 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 14:27:37.13 ID:???
天皇カルトとGHQが呼んでいたことだけは
覚えておいたがいい。
その天皇カルトをGHQは利用したがね。
只の人間や、只の人間の家系を尊ぶなど
時代錯誤であり、人が人として、この世に生まれさせられた
意味を否定する、迷信でしかない。
そんなものは、ゴミ箱に捨て去り、
人の心の平安は、別次元に求められるべきであるのは
当然のことだ。
天皇という存在が、近代になって
日本人に与えたものは、
「惨禍」でしか無かった筈だ。
取り巻きは別だろうが、
大多数の日本人にとってはね。
今後は天皇とか不合理な権威を、やたらに持ち上げる社会にしてはならない。
先祖も天から降りた神ではなく、単に覇権者の末裔が権威の御輿化しただけ。
61 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 14:36:28.80 ID:???
実際の国民の本音はここの低能ネトウヨみたいな天皇マンセー
が総意じゃない筈なのに、マスゴミが天皇が被災地逝ったって
だけの事で大変な苦労して頑張ってらっしゃるみたいな報道ひたすら
繰り替えして、ここのネトウヨもどきの連中が「陛下ご夫妻には頭が
下がる。一方菅は・・・」って喚くのがマジでむかつくわw
被災地訪問ごときの何がそんなに重労働なんだってのw アホどもw
同じ被災地回ってる菅はボロクソ叩いてアホかw お前らのやってる
事は池田先生崇めてる草加となんら変わらんぞキチガイどもw
62 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 14:49:21.91 ID:???
うはw
高麗兵ワンサカw
そうかー圧勝いってるやつは高麗兵だったのね。納得。
金方慶も明らかに軍事オンチだったし。
誰か菊池武房殿呼んできてよww
63 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 14:52:40.60 ID:???
日本が未だ抱える歴史教育や政治上の問題点は
@皇国史観、明治に突如出現した捏造宗教・国家神道の未清算
A万世一系という固定化した妄想により歴史のリアリズムの軽視が強化され
日本固有の文化や伝統を破壊
B明治〜昭和政府の国家神道という天壌無窮のゴリ押し教義の強制や
洗脳によって、戦争の道具のように扱われた戦死者、戦病死者、
民間罹災民や死者に対する魂の救済と全国民への洗脳前の精神状態、
つまり素朴な豊葦原瑞穂の国の国民として有していた自然な精神文化
への原状回復
て所です。
これらが解決しないと、日本の未来はありません。
64 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 15:17:38.91 ID:???
威力偵察厨か?荒らしてるのは。話誤魔化そうとしてんじゃねーよ。
スレチだ消えろ。
65 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 15:27:42.07 ID:???
>>63 誰かさんのせいで、一気にクソスレ化したな。政治思想板でも行ってきたらいいのに。
君の気持ち悪い思想なら、みんな構ってくれると思うよ。
66 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 15:31:10.17 ID:???
しっかし、軍事板に元寇を扱うスレがあってよかったわ。
だいぶ勉強になった。
67 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 15:43:56.68 ID:???
だから
西洋の王族の猿真似と明治期の新発明の国家神道スタイルに京都時代までの1000年来の
仏教文化が前提の真言宗の両部神道と天台宗の山王神道だったのを改竄した奇天烈なのを
なんちゃって伝統文化として血税で存続する、文化資産としての価値がネーから
京都時代のスタイルにルネッサンスして戻すなら
天皇制を100%否定するもんじゃないってわけさw
近代天皇制が浅はかで見ちゃいられんということだ!www
68 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 15:56:15.79 ID:???
誰も読んでねえから、違う板行けよ。元寇に関係ねえレスすんな。
69 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 16:03:44.35 ID:???
■リメンバー・ルキタニア
1915年第一次世界大戦中に、イギリス貨客船ルキタニア号が、当時交戦国であったドイツのUボートの攻撃で
撃沈させられ、乗客乗組員1198名死亡、内アメリカ人128名が含まれていた。ここでも「リメンバー・ルキタ
ニア」が米国民に反独感情を燃やす言葉となった。当時モンロー宣言の孤立政策をとっていたアメリカが参戦す
るきっかけになった。ルキタニア号はイギリスの武器や弾薬を搭載し、ドイツの攻撃宣言海域を護衛艦なしにあ
えて航行していたという。しかもドイツは、ルキタニア号向けに攻撃を警告していたという。
■リメンバー・パールハーバー
1941年12月7日、日本海軍が真珠湾を攻撃した。開戦したかった大統領が開戦反対派議員(議員の80%
が対日戦に反対していた)を押さえ込むために過去に習って使った言葉。第二次世界大戦参戦時の言葉。
■リメンバー・トンキンワン
1965年、トンキン湾で米国の駆逐艦が攻撃を受けた(らしい)。大統領はこの攻撃を北ベトナム政府による
攻撃と判断し、これを名目に北爆を開始した。ベトナム戦争北爆開始時の言葉。
■リメンバー・911
2001年9月11日、テロリストに乗っ取られた旅客機が世界貿易センタービル及び国防省に突っ込んだ。こ
のテロ攻撃はアルカイダによるものとしてアフガンへの派兵とイラクへの攻撃を行った。アフガン対テロ戦争及
びイラク戦争開戦時の言葉。
70 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 16:25:33.00 ID:???
あれ?ここって元寇スレだよね?
なんか気持ち悪いのが湧いてるんだけど
71 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 16:31:00.97 ID:???
■リメンバー・ロスアラモス
当時メキシコ領だったテキサス内にあったアラモ砦に、親米派住民支援のため来援したテネシー及びアラバマ
民兵が立て篭もった。メキシコのサンタアナ将軍の軍隊がアラモ砦を攻撃し彼らは全滅した。その報復戦を行
う際にヒューストン将軍が叫んだ言葉。テキサス戦争開戦時の言葉。
■リメンバー・フォートサムター
サウスカロライナ州チャールストンにあった海上砦がサムター砦。1861年、サウスカロライナ州が連邦を
脱退し、続いて南部9州が脱退して南部連合政府を結成した。連邦政府はこれを承認せず、サムター砦からの
退去を拒否した。1861年4月、南軍が強制排除を実施した。これを引き金で南北戦争が勃発した。南北戦
争開戦時の言葉。
■リメンバー・メイン
1899年11月、USSメイン号がハバナで謎の爆沈を起こした。この爆発はスペインのテロ攻撃と米国政
府は判断し、スペインに宣戦布告した。事件自身は未だ霧の中で、メイン号は調査されることなく海没処分さ
れた。その米西戦争開戦時の言葉。
72 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 16:58:04.83 ID:???
>>30〜
>>48で散々に撃破された高麗軍が
恥ずかしいレスを早いとこ流してしまおうと必死になってるんだろ
73 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 17:04:12.88 ID:???
天皇カルトとGHQが呼んでいたことだけは
覚えておいたがいい。
その天皇カルトをGHQは利用したがね。
只の人間や、只の人間の家系を尊ぶなど
時代錯誤であり、人が人として、この世に生まれさせられた
意味を否定する、迷信でしかない。
そんなものは、ゴミ箱に捨て去り、
人の心の平安は、別次元に求められるべきであるのは
当然のことだ。
天皇という存在が、近代になって
日本人に与えたものは、
「惨禍」でしか無かった筈だ。
取り巻きは別だろうが、
大多数の日本人にとってはね。
今後は天皇とか不合理な権威を、やたらに持ち上げる社会にしてはならない。
先祖も天から降りた神ではなく、単に覇権者の末裔が権威の御輿化しただけ。
74 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 17:09:32.92 ID:???
>>72 これで鎌倉幕府軍ディスってるのがチョンかブサヨであることがハッキリしたなw
75 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 17:53:03.93 ID:j7Wm6Zhi
所詮高麗軍はこの程度。
千年経とうが万年経とうが変わりなしw
76 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 18:01:09.85 ID:???
くどくどネチネチと何がしたいんだよ。
77 :
名無し三等兵:2011/11/15(火) 18:52:14.35 ID:???
恥隠しじゃないの?
スレ違いのことを延々書いて。
彼は天皇陛下の御恩寵を受けえぬ立場らから仕方ないんだろうけど。
78 :
名無し三等兵:2011/11/16(水) 12:28:33.26 ID:???
■リメンバー・ルキタニア
1915年第一次世界大戦中に、イギリス貨客船ルキタニア号が、当時交戦国であったドイツのUボートの攻撃で
撃沈させられ、乗客乗組員1198名死亡、内アメリカ人128名が含まれていた。ここでも「リメンバー・ルキタ
ニア」が米国民に反独感情を燃やす言葉となった。当時モンロー宣言の孤立政策をとっていたアメリカが参戦す
るきっかけになった。ルキタニア号はイギリスの武器や弾薬を搭載し、ドイツの攻撃宣言海域を護衛艦なしにあ
えて航行していたという。しかもドイツは、ルキタニア号向けに攻撃を警告していたという。
■リメンバー・パールハーバー
1941年12月7日、日本海軍が真珠湾を攻撃した。開戦したかった大統領が開戦反対派議員(議員の80%
が対日戦に反対していた)を押さえ込むために過去に習って使った言葉。第二次世界大戦参戦時の言葉。
■リメンバー・トンキンワン
1965年、トンキン湾で米国の駆逐艦が攻撃を受けた(らしい)。大統領はこの攻撃を北ベトナム政府による
攻撃と判断し、これを名目に北爆を開始した。ベトナム戦争北爆開始時の言葉。
■リメンバー・911
2001年9月11日、テロリストに乗っ取られた旅客機が世界貿易センタービル及び国防省に突っ込んだ。こ
のテロ攻撃はアルカイダによるものとしてアフガンへの派兵とイラクへの攻撃を行った。アフガン対テロ戦争及
びイラク戦争開戦時の言葉。
79 :
名無し三等兵:2011/11/16(水) 12:28:47.59 ID:???
おちゃめな武烈天皇豆知識
500年9月 妊婦の腹を割いて胎児を見るという行為に及ぶ。
この年以降、人の生爪を剥して山芋を掘らせる、
人を木に登らせ、その木を倒して殺す、
池の樋から人を流して矛で刺殺する、
人を木に登らせて弓で射殺する、
など猟奇性を帯びた愚行を行ったとされる。
また女性を裸にして目の前で馬の交尾を見せて、陰部が濡れた者を殺し、そうでないものを官婢(女奴隷)とするといった異常な行動をしている。
また、天下の飢えを忘れ日夜問わず宮人と酒食に溺れた。
ソース・『日本書紀』
80 :
名無し三等兵:2011/11/16(水) 14:30:41.40 ID:???
戦争は引き際が肝心。
金方慶は文永でも弘安でもそれを理解できず無能無策をさらけ出した。
同じことをここでもやってるやつがいる。
81 :
名無し三等兵:2011/11/16(水) 21:11:56.21 ID:8SZ/5M9J
蒙古は暴風雨で負けましたが、倭猿は津波で死にました(笑)
82 :
名無し三等兵:2011/11/16(水) 22:21:06.02 ID:???
通用しない戦法を無為に繰り返しても無駄だな。
軍板住民は低脳には冷たいぞ。他の板で身を立てなさい。
83 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 00:02:33.91 ID:rEuscfFe
あれか?
こいつは「ノモンハンは実は日本の勝利」とか本気で言っちゃうタイプの人か?
84 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 00:10:46.64 ID:???
今度は日本史板にバカが湧いたみたい
>>83 なわけないじゃん。
むしろWW2日本軍は現地軍のゲリラにぼこられまくった雑魚とか本気で言い出すタイプ。
85 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 00:31:13.58 ID:???
>>44 その件に関して以前、高麗伝のもっと詳しい史料上げてた奴がいたんだが
確か対馬じゃなくて福岡での戦闘を勝利として扱った内容だった気がする。
でも、仮に福岡平野の戦闘が元軍の圧勝だったなら
尚更元軍の行動が不可解なんだよな。
本当に圧勝だったならせめて橋頭堡築いて、暫くは
そこを足掛かりに活動しそうなものだし、威力偵察なら
すぐに第二陣を派遣するはずだし、秀吉の唐入りのような
食糧問題や疫病があったような記述も特にない。(弘安は疫病があったみたいだが)
ましてや、棄民とやらが目的ならむしろワザと強行させるだろ。
86 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 00:36:57.59 ID:???
強いていうなら元軍の副将が射られた事による士気の低下を恐れての撤退か?
87 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 00:45:28.09 ID:BTRc3R55
どっちにしろ、あのままだと元軍の全滅は必至だったんだから
それを見越して早期に撤退を決意した元軍の総大将は個人的にはなかなかの名将だとは思うがね。
88 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 02:11:45.97 ID:???
ただ、日本側も大勝したって訳じゃないんだよな……。戦後処理もうまくいかなかったし……
89 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 02:37:37.50 ID:???
文永は引き際はうまかったと思う。
それにしても蒙古軍がもっと強力で、日本側が片っ端から死んで、どうにかやっと撃退したという流れならかえって土地問題が解決して安定したかも知れないと思うんだがなw
そりゃぁ討ち死には名誉だって恩賞の必要もあるだろうけど、そもそも増えすぎた武士の食い扶持の増やしようが無くて不安定になってた面が大きいんだろうし・・・
90 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 03:36:33.59 ID:???
>>66 2chで勉強になったとか本気か?
どんな板のどんなスレのどのレスでも、基本どこの馬の骨とも知れない人間が書いてる事なんだから
自分で学んだ知識のオマケ位に考えていないと痛い目見るぞ
91 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 03:37:39.98 ID:???
マンネルヘイムもそうだが、未だそれなりの戦力を持っていても戦略的に不利の時に名将は力を発揮すると思う。
そういう意味では忽敦も見事だな。
戦い半ば、前線で勝てる可能性があればあと少しと勝ちに賭けたくなるのは兵も将も同じだろう。
それを抑えて撤退を決断して実施させた手腕は並ではなかったと俺は思う。
92 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 08:59:20.90 ID:???
『蒙古襲来絵詞』や『福田兼重申状』などから戦闘に参加した武士も文永の役は日本側の戦術的勝利って認識なんだよな。
他の少弐景資や大友頼康の書状などからも、元軍に敗退したという認識が全くないことがわかる。
結局、両陣営が勝利を主張してるんだが、元側の強行撤退や『高麗史』記載の司令官の軍議や元軍の進撃が全く進まなかった
という状況から総合的に判断すると、武士側の主張の方が事実に近い気がするんだよな。
『元史』の「官軍整わなかったから、四境の日本人を略奪して帰った」というのも、日本軍との戦闘であまり戦果がなかったから
戦果の水増し目的とも受け取れる。
93 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 10:34:40.29 ID:5q38TVLZ
でもさ、そこから、日本武士最強説はいくらなんでも飛躍しすぎだろ。
94 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 10:37:02.39 ID:???
>>85 金方慶伝の「三郎浦」とはどこかというのがポイントだよな。
金方慶伝「一岐島に至るに、倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う。(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬殺し、船を三郎浦に捨て
道を分ちて、進み、殺す所は過当なり。…」
素直に読めば、壱岐の日本軍が反撃したから、洪茶丘・朴之亮らが船から降りて「三郎浦」に船を捨て壱岐の日本兵に
応戦したということだと思うが。もし、これが壱岐の戦いのことを言っているなら、間違いなく「倭兵大敗、伏屍如麻」
とは壱岐の戦闘のことを言っているということになる。
問題は、これが壱岐の戦闘であるなら、すぐあとの記述に例の忽敦と金方慶との軍議があることと、三浦周行氏著の『鎌倉時代史』で
「三郎浦の三郎は早良にして、同郡沿岸即ち百道原の沿海地区ならんといふ」としているところ。三浦氏によれば、「倭兵大敗、伏屍如麻」
とは、九州上陸後ということになる。
「至一岐島、倭兵陳於岸上、之亨及方慶婿趙卞遂之、倭請降、後来戦、茶丘與之亨卞、
撃殺千余級、捨船三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至中軍、長剣交左右、方慶如植不少却、
抜一?矢、励声大喝、倭辟易而走、之亨忻卞李唐公金天祿申奕等力戦、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、
蒙人雖習戦、何以加此、諸軍與戦、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒
不可當、我師雖少、已入敵境、人自為戦、即孟明焚船淮陰背水也、請復戦、忽敦曰、兵法
小敵之堅、大敵之擒、策披乏乃兵、敵日時之衆、非完計也、不若回軍、復亨中流矢、先
登船、遂引兵還、會夜大風雨、戦艦触岩多敗、?堕水死、到合浦、」
95 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 10:51:15.86 ID:???
>>93 少なくともこのスレじゃ誰もそんな事は言ってない。
>>94 壱岐〜福岡の戦闘を全部ひとまとめにして
「一連の戦闘を総合すればウリ達の大勝利ニダ」って事にしてるとか?w
壱岐の戦闘と福岡の戦闘を別々に詳細に記述してる部分が見つかればいいんだが。
96 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 11:24:59.69 ID:44ICpPEk
教科書では日本軍大苦戦って書かれてるけど、
実際には苦戦したのは最初だけで、
集団戦法とかに適応してからは日本武士団は相当善戦したらしいね。
97 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 11:29:49.70 ID:???
壱岐の平景隆が元軍と戦ったのが「庄ノ三郎城」。『高麗史』の「三郎浦」と関係があるのかどうかだよなぁ。
「三郎浦」が壱岐のことを言っているなら、『高麗史』は意図的に福岡の戦闘の記述をスルーしていたということにもなり、
『元史』洪茶丘の記述に「八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島」と福岡の戦闘に
触れていないことから、『元史』日本伝も福岡の戦闘をスルーして「入其国敗之」と勝利宣言した疑惑が湧いてくる。
98 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 13:13:45.58 ID:???
よく言われる名乗りをあげて一騎打ちはてんで出鱈目な説だけど
だからといって、武士達の戦術が集団戦だったかと言われるとそれも違うような気がする。
日本の武士達は例えるのは難しいけど、戦略レベルだと
大将の指示通りに動くけど、実際の戦場では
今で言えば曹長クラスの武将達が各自で判断して作戦行動してたんじゃないかと思う。
でもこれが非効率だというのは早計な話で、戦力を分散せざるを得ない時なんかはかなり強いんじゃないかな。
99 :
名無し三等兵:2011/11/17(木) 13:28:05.49 ID:???
ここの連中と歴史学者である戦争の日本史「蒙古襲来」の著者の新井と別の事を言ってる
お前らアニメ漫画みたいなもんでそだった脳みそには妄想が調度良いわ
僕の考えたさいきょうのさむらい(笑)の披露会ですか?
職安行け職安
そいつの本読んだことないが、何と書いてあった?
まあバカ田大学卒の研究なんてたかがしれてるだろうけど
なんかまた変なのがいるなぁ。
本の主張なんて人によってバラバラだよ。お前その一冊しか読んでないからわかんないんだろうけど。
60、70年代なんか左巻きの大学教授様が思想中心で「武士は役立たず、全部神風がやった」と好き放題書きなぐって、そのわけのわからん主張も今だ残ってるんだぞ。
一次資料を見て良く考えろ。
他も言ってるが、ここじゃ日本の武士最強なんて誰もいってないからね。元が弱いとも言ってないし。
さて、当時の日本の武士の戦法って、98の言うような側面が強いと思う。
べつに集団戦をやってないわけじゃないが、竹崎みたいに勝手な行動をとるものが多く出たのは、軍功を評価するシステムが家や一族の活躍にあったからだしな。
その評価システムを変えなきゃ純粋な意味での集団戦術への移行は出来ない。しかしべつに日本では必要の無かった時代だし、地形の制約も大きい。
ただ、このあたりの戦闘様式の差は、お互い様にやっかいな相手だったろうと思う。常道、定石が通じないのは両軍とも同じで、日本側のあわてぶりばかりを取り上げても片手落ちだ。
やはり、『高麗史』の「倭兵大敗、伏屍如麻」とは壱岐の戦闘のことを言っているのでは?
そもそも、忽敦と金方慶との軍議も博多上陸後とするのもおかしくないか?
なぜなら、忽敦は「敵が日ごとに増している。(これ以上戦っても)完全な計とは言えない。撤退するしかない」
と言っているが、博多上陸後に行われた戦闘はたった一日のはず。壱岐にいて大宰府に日本軍が集結しているという
情報を伝え聞いた忽敦が、この集結した日本軍と相対することに不安を覚えて、このような発言をしたのでは?
そして、軍議が終わった後の記述が、「劉複亨が流矢にあたる」となっている。つまり、その後も金方慶の主張が通り、
撤退せずに戦闘を継続した。
この「劉複亨が流矢にあたる」という戦闘が博多上陸後のことを言っているのでは?
だからこそ、忽敦などが不安を覚えつつ戦闘を継続してみたものの、不安は的中して
集結していた日本軍が強力だったため、あっさり引いた。
これなら、なぜ元軍があまりにもあっさり引いたのかという疑問も解決する気がするが。
でもそれだと金方慶はそのとき、「船を焼いて背水の陣で戦う」ことを提案したことになるでしょ。
壱岐はたしかに損害から見ると蒙古側も苦戦したとはいえ、そういった局面に立たされたとは思えないんだがな。
日増しに増えている、というのも壱岐対馬、そして博多と増えていっている、という意味にも取れる。
結局、これらは制限ある文章にまとめるときに、あくまである程度、全体の流れを総括してわかりやすく纏めた文章であって、これがここだ、とはっきりと分けていないんではないか。
だから一言一句をあまり突っ込んでも不毛な議論になりかねないとおもう。
>103
金方慶はまず、「千里の県軍、其の蜂当たるべからず」と兵法を引いて、本国から遠くまでやってきた軍はかえって士気が高まるという
自説の補強のために「背水の陣」の覚悟で乾坤一擲の勝負を促したものであって、実際に船を焼こうとするものではないと思う。
『高麗史』の表でも、文永の役での戦場が「壱岐」しか記述がなかったり、どうも高麗側には「壱岐」が文永の役で重き戦場に位置づけられていた
という印象があるんだよなぁ。
『高麗史』巻八十七 表巻第二「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
それに軍議の後に劉複亨が流れ矢に当たるという記述から、軍議の後に戦闘が継続したように思えてならない。
それと「復亨中流矢、先登船、遂引兵還」の「先に船に登る」とはなんのことを言っているんだろうか。
それは負傷したので軍議に参加せずに先に自分の船に下がった、という意味だと思うんだけどな。
諸々が壱岐の軍議だとすると、征東左副都元帥という立場の劉復亨の主張が全く載っていないのが気になる。
>>105 ああ、本当だな。「先登船」の主語は劉複亨しかないなぁ。
『高麗史』の記述法が壱岐から始まって、間がわかりにくいからどこの戦闘か
見当がつけにくいんだよな。
それに軍議の後にいきなり「劉複亨、流矢にあたる」だもんなぁ。
>諸々が壱岐の軍議だとすると、征東左副都元帥という立場の劉復亨の主張が全く載っていないのが気になる。
確かにそれはあるな。洪茶丘は一言も発してないが一応名前は出てるしな。
「捨船三郎浦、分道而進」ここが博多上陸のことをいっているのだろうか。
金方慶伝「一岐島に至るに、倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う。(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬殺し、船を三郎浦に捨て
道を分ちて、進み、殺す所は過当なり。…」
この書き方だと、壱岐で追撃するのに、船を捨て道を分って追撃したと読めるんだよなぁ。結局、どこからが北九州の戦闘のことを
言ってるのかわかりづらい。
そこで八幡愚童訓ですよ!
うーん。
たしかに日本側は壱岐対馬博多を別々に捉えてるし、対馬と壱岐は限定的な戦闘であり、戦局の決定力足り得ないと考えているから眼が向きづらいかもしれんが、
連戦してきた蒙古軍にとって、文永の主戦場は壱岐であって、博多は全体ではおまけぐらいにしか考えていなかったのかもしれないなぁ。
壱岐での苦戦が博多での撤退に繋がったという考えもありうるかもしれん。もしいきなり博多に来て一日戦っただけじゃ以後の戦いの予想なんかつけられないものな。
壱岐で思わぬ抵抗にあった。この時点で軍の意見は2つに割れていた。
そして、次に向かった博多では壱岐よりも更に質と量で勝る敵が迎え撃ってきた。
これはマズいとして、早期に撤退を決めたということか。
確かに流れとしては自然だな。
結局のところ箱崎の出火云々は元軍は関係ないのかな?
改めて時系列を整理してみる必要がありそう
『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶伝
「一岐島に至るに、倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う。(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬殺し、船を三郎浦に捨て
道を分ちて、進み、殺す所は過当なり。倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる。方慶、植つが如く
少しも却かず、一(口高)矢を抜き、励声大喝するに、倭辟易して走る。之亮、忻、卞、李唐公、金天祿、申奕等
力戦し、倭兵大いに敗れ、伏屍すること麻の如し。忽敦曰く、「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。
諸軍、与に戦え」と。暮に及びて、乃ち解く。方慶、忽敦・茶丘に謂いて曰く、「兵法に、「千里の県軍、其の鋒当たる
べからず」とあり。我が師少なしと雖も、復た戦わん」と。忽敦、曰く、「兵法に「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。
疲乏の兵策して、日ごと増すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。
(劉)復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引きて還る。」
「至一岐島、倭兵陳於岸上、之亨及方慶婿趙卞遂之、倭請降、後来戦、茶丘與之亨卞、
撃殺千余級、捨船三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至中軍、長剣交左右、方慶如植不少却、
抜一?矢、励声大喝、倭辟易而走、之亨忻卞李唐公金天祿申奕等力戦、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、
蒙人雖習戦、何以加此、諸軍與戦、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒
不可當、我師雖少、已入敵境、人自為戦、即孟明焚船淮陰背水也、請復戦、忽敦曰、兵法
小敵之堅、大敵之擒、策披乏乃兵、敵日時之衆、非完計也、不若回軍、復亨中流矢、先
登船、遂引兵還、會夜大風雨、戦艦触岩多敗、?堕水死、到合浦、」
見た感じ壱岐の島での戦闘っぽいが、福岡での戦いに関する記述は無いんかな?
>>110 どう見ても日本側が惨敗してるなこれ。
>>111 福岡の部分は後に来たりの部分の後だよ。
劉の件は戦闘中に負傷したから先に船に戻ってたってこと
また例の人の自演か
>>99 お前さ、その新井って奴は「蒙古軍がフランキ砲を使った」
と書いてある江戸時代の文献を無批判に引用してるようなキチガイだぞ
まあ、お前のレベルに合ってる本だとは思うよw
あと八幡蒙古記は神様が出てきて云々以外の記述に関しては
これ以上博多の戦闘に関して詳しく書いた史料はないからね。
そこに確かに名乗りをあげて一騎打ちを挑んでは討ち取られていく武士達が書かれてるから
八幡愚童訓ってのは宗教書で、八幡の神威を示す逸話として蒙古襲来を扱ってるんだぞ
全く信用ならない資料とは言わないが、立場上武士の奮戦をあまり書こうとしないであろうことは
素人目にもわかると思うが。詳しく書いてあるから正しい!という理論についてはお笑いとしか言えんw
>>117 自分にとって都合の悪い史料をそんな風に断じるのは良くないぞ
別の宗教の信者が、さらに別の宗教を貶めることは良くあることさw
>>118 そっちこそ自分にとって都合の良い資料を妄信してるだけなんじゃないの?
元寇に関しては不正確で断片的な資料しか残されていないわけだから、
資料の解釈には慎重にならないといけない
そろそろ流れを整理しようぜ。まず戦前の極東アジアの国際情勢とそれぞれの国内情勢から
鎌倉武士が最強だったとか、逆に鎌倉武士弱すぎ惨敗だったとか、
そういう極端な結論に結び付けたがる人ほど
結論ありきで史料の取捨選択をするという好例
それよりまず、元寇について記述ある史料片っ端からあげてくれ。
一つ一つ吟味しないと時系列も整理できないよ
うぃきからだが大体これでいいだろう。
元朝側資料
* 『元史』
* 『元高麗紀事』
高麗側資料
* 『高麗史』
* 『高麗史節要』
* (『東国通鑑』*江戸時代に朝鮮半島通史として盛んに利用された)
日本側資料
* 『深心院関白記』
* 『吉続記』(吉田経長日記)
* 『勘仲記』(勘解由小路兼仲日記)
* 『調伏異朝怨敵抄』(宗性)
* 『金剛仏子叡尊感身学正記』(叡尊自伝)
* 『一代要記』
* 『蒙古襲来絵詞』
* 『八幡愚童訓』
* 『関東評定衆伝』
* 『鎌倉年代記』
* 『帝王編年記』
* 『師守記』
トン。
んじゃ、百聞は一見に如かずということで
一つ一つ自分で読んでみるわ。
>114
フランキwひどいなww
史料から読み取れるのは南宋軍の回回砲までだろう…個人的には初期の手銃なども持ち込んだのではないかと思ってるけどねw
これか。
「炸裂する火薬兵器、ふりそそぐ毒矢。巨大軍隊モンゴル軍に打ちのめされた日本の武者たちの恐怖の念は、全土を神仏頼りの祈祷列島へと変えていく。幕府はこの危機にいかに対処したのか。合戦死傷者のその後までを追う。」
やな予感がするなww
あとよく言われる「毒矢」というのもたしかに日本側史料にはあるけど、どうも中国軍事史を見てもそれらしいのはないんだよねぇ。本当なのかなぁ。
>>119 信者獲得と勢力拡大の為に、元軍の対馬での蛮行をでっち上げた日蓮上人を誹るのは止めて下さい
■リメンバー・ロスアラモス
当時メキシコ領だったテキサス内にあったアラモ砦に、親米派住民支援のため来援したテネシー及びアラバマ
民兵が立て篭もった。メキシコのサンタアナ将軍の軍隊がアラモ砦を攻撃し彼らは全滅した。その報復戦を行
う際にヒューストン将軍が叫んだ言葉。テキサス戦争開戦時の言葉。
■リメンバー・フォートサムター
サウスカロライナ州チャールストンにあった海上砦がサムター砦。1861年、サウスカロライナ州が連邦を
脱退し、続いて南部9州が脱退して南部連合政府を結成した。連邦政府はこれを承認せず、サムター砦からの
退去を拒否した。1861年4月、南軍が強制排除を実施した。これを引き金で南北戦争が勃発した。南北戦
争開戦時の言葉。
■リメンバー・メイン
1899年11月、USSメイン号がハバナで謎の爆沈を起こした。この爆発はスペインのテロ攻撃と米国政
府は判断し、スペインに宣戦布告した。事件自身は未だ霧の中で、メイン号は調査されることなく海没処分さ
れた。その米西戦争開戦時の言葉。
>>112 >>福岡の部分は後に来たりの部分の後だよ
根拠は?普通に読めば、壱岐に至ると、日本兵は岸上に陳ず。之亮及び方慶の婿趙卞、之を追う。
壱岐の日本人、降伏することを請うも、後で軍勢を挙げて攻めてきて戦う。
としか、読めんぞ。
三郎浦云々ってのが九州上陸後だと言いたいんじゃね?
133 :
名無し三等兵:2011/11/18(金) 19:36:55.30 ID:shaGEKkG
俺の母校の玉川大の元寇関連のページみてこい
お前らの妄想が元軍に大敗する武士みてぇになるからな(笑)
妄想だけで史料も読まずに語ってるんじゃねぇよ中卒
『八幡愚童訓』ってどんだけ信頼性があるんだ?
@元寇の数十年後に書かれた
A作者は石清水八幡の神官で戦闘を見たわけではない
B宗教書で、史書として書いたわけではなく八幡神の尊信の普及を目的として作成
でしょ。どう考えても、信頼に足る史料だとは思えないんだが。
136 :
名無し三等兵:2011/11/18(金) 21:40:59.67 ID:Q1vunkwq
>>135 ちょうど70年代に左翼学者が強制連行でっち上げた本書くようなもんか
正直元寇に関しては資料が断片的過ぎて、八幡愚童訓も一応参考程度にせざるを得ないという現状があるが、大幅に差っ引いて見る必要がある史料ではある。
蒙古、日本の両方の史料で合致する部分を基本にして、それ以外は精査していくべきなんだが、限定した局面の勝った負けたというのは印象によるところも大きいので、結論を出すには難しいというか、合理性に欠けるな。
個人的に、史料として見逃しがたくお勧めするのはやはり「蒙古襲来絵詞」だ。
絵ばかりが注目されるが、本文こそしっかり読んでおかないと絵の後世の錯綜部分や真意が見えないので、ちゃんと読まないと意味を捉えそこなうので注意だね。
公文書ではないし、個人体験ではあるが、二度の元寇に直接参戦して負傷もし、首もあげた竹崎季長の直接監修によるというのは極めて稀で貴重なものだと思う。
季長、晩年の監修ではあるようだが、朱書きによる訂正、たとえば河野道有の家の場面では妻戸の絵の上に朱書きで「道有の家に妻戸はない。絵師の書き間違い」というような当事者しか知りえない生々しさが満載だ。
また晩年ということで精神的にも落ち着いていたのか、改めて自身を誇るためだけに書かせたのではないというのもよくわかる。
全体を見れば、自分の人生を振り返っての、助けてくれた人への感謝にあふれている。私的な体験ではあるが、過度に自分を飾り立てない、かなり実直な史料という印象がある。
とにかく未見の方には精読をお勧めする。
て、なんか書評みたいだな。
元寇をこれから知りたい、調べたいという方もいるかと思うので、参考までに。とにかく言わば読みやすい入門書でもあり、重要史料でもあるので、読んで損はない。
>>137 そんな物を有り難がる奴のレベルが知れますな。
>>138 「蒙古襲来絵詞」を手軽(廉価)で読める本ってあるかな?
ぐぐれよ
図書館の美術コーナーにもあるだろ
142 :
138:2011/11/19(土) 14:27:21.43 ID:???
まぁ、中身まではわからないからね。自分も買って損をした本もあるしw
廉価で、ということなので、一応最初は
日本の美術NO414絵巻蒙古襲来絵詞 太田彩
を薦める。
とりあえずの概要がわかるのと、巻末に全文の釈分が載っているので、便利。
特に、元寇そのものの個人の分析、見解は最小限にしてあって、あくまでも絵詞の分析に主眼がおかれているので、資料性も高いよ。
ただ、図版がモノクロで小さいが多いなど、価格面での限界もある。
興味がわいたら、他に日本の絵巻を集成したような大判ハードカバーのシリーズ(タイトル忘れた)があって、それをじっくり読むと自分だけの発見もあるはず。
高額だが、図書館などにあると思う。
143 :
名無し三等兵:2011/11/20(日) 09:07:56.88 ID:dTgTdxMQ
小舟に乗ってでかい船に夜間奇襲かけてたのは本当みたいだし、
戦術はかなり柔軟だったのは間違いないだろうね。
外人には武士は正々堂々なんて通じないとすぐ学んだんだろう。
平家物語を読んでもわかるが、古くから武士って必ずしも正々堂々となんてしてないんだ。
もっと古い世代は源平の合戦を非難したりもしてるが、あの時代以降のひとつの考えとしては何が何でも勝てばこそだったんだよ。
命乞いで助命される→隙を見て助けてもらった相手を殺害とか、義経の漕ぎ手皆殺しの件とかも有名だしね。
だから蒙古がきたときに、蒙古に対しては別に合戦の礼儀作法などは何も行った形跡は無い。
蒙古側からはたしか、上陸時に頭を下げて日本側を拝んだとか話があったように思うが…
名乗りだってあくまで日本側に対してであるし、少数で駆けるのだって戦功をあせってのことだ(当然戦術的には失策だが礼を果たさんという意味ではない)。
>日本側を拝んだ
意味がよく分からないんだが、どういう事?
ごめんはっきり覚えてないw
壱岐か対馬で上陸時の合戦の前に蒙古軍が三度礼をした、ような記録があったと思う。
日本側の礼?といえば鏑矢が言われるけど、これも基本的には味方への合図の意味が大きかったと思うんだがなぁ。
合戦文化の相違で両軍共々いろいろと面食らったのは確かだろうが、鏑矢も名乗りも相手に意味が通じると思ってやった、なんてことは一切無いと思う。
・君主は国家を象徴的に具現し国民統合を容易にする。×
⇒天皇陛下が国家を治めているわけではない。○
(天皇の意思に関わらずマッカーサーに勝手に象徴にされただけ)
・君主制は政治家の権力欲を制御する。×
⇒政治家の権力欲を増進させる。 ○
(麻生一族(財閥)なんて皇族と政略結婚してる)
・君主制は外交の連続性を保つ。×
⇒現在の日本は君主制ではない。○
・君主は重要な政治的調整力の役割を果たす。×
⇒ただのお飾りです。○
・君主制は義務をわきまえた官僚の効率よい行政の優れた基盤となる。×
⇒君主制なんて前時代のものであり、例え君主制であったとしても、官僚は腐敗する。○
・君主制下の軍隊は将校団を中心とし自然な団結と忠誠心を保持しやすい。×
⇒誰も天皇陛下個人の為に戦うわけではないので団結や忠誠心なんて皆無。○
・君主は長い歴史と文化的伝統に支えられて国民の情緒と道徳と文化の支柱となる。×
⇒長い期間、平民から税収を搾取し自己保身の為に、都合の良い文化を作り上げた。○
>>98 日本の武士は分隊行動できる近代用兵の集団だった(ドヤァ
149 :
名無し三等兵:2011/11/21(月) 20:17:15.80 ID:ZjSOBD8N
博多の町で、主にCQBで戦ったんじゃない?
んで、優秀な日本刀を持って小勢でも積極的に戦える日本勢が圧倒したと。
博多の町で戦闘があれば、町に被害が出たはずでは?
博多の町に被害が出たというのは、当時の文書類などからは確認されない
文永の役はあまりに短期間で終わったため、実体が掴みにくいなよな。
『高麗史』や『元史』、『蒙古襲来絵詞』、『八幡ノ蒙古記』『文書類』を読んでみたけど
戦闘の内容が詳しく書かれているのは『八幡ノ蒙古記』>『蒙古襲来絵詞』>『高麗史』>『文書類』『元史』
かな。
でも、『八幡ノ蒙古記』はあまりにも詳細すぎて、一応当時、箱崎にいた著者だということを勘案しても
どこまでが本当かわからんのだよな。戦闘に参加していない著者がどうして
「山田か若者五六人、蒙古に、おひたてられ、赤坂
をくたりて、のけ兜になりて、にくる処に
蒙古三人、もみにもみてそ、おひかけたる、
されとも、とくにけ延し事、一町あまり
なりしかは、蒙古ちからなく、せめての事
にや、尻をかきあけて、此方へむかひてそ、を
とりける、この時、山田の逃武者とも、口をし」
とか戦闘の細かいところまで知っているのか疑問。
本人たちの裏付けをとったとか?劉復亨を倒すシーンだって
あまりにも軍記物語のような細かい描写になっていて胡散臭さを
感じさせる。
『蒙古襲来絵詞』は竹崎本人が、細かいとこまで絵詞が間違っているところに
注釈をいれるなど、より当時をリアルに描写しようとする姿勢が認められるのだが
『八幡ノ蒙古記』はどうも軍記物語っぽい内容でリアリティーが若干薄い気がする。
実際のところはわからないけど、口伝や聞き書き、ちょっとした書き付けを集成した可能性もあるので、創作と決め付けて考えるのも難しいよ。
現在残っている史料のほうがはるかに少ないわけで、当時は各人が様々な形で記録を残していただろうから、その一端とも言える。
まあ多くは人づての怪しい話なんじゃないかと思うけどね。根拠がなかったかどうかは結論が出ないことだから難しいな。
事実と照らし合わせて、ありえない部分は削れても、それ以外はもうわからないね。
蒙古襲来絵詞も細部は描写の限界はあるが、蒙古軍の船が嵐にあったせいでアンカーケーブルのリールが吹き飛んでしまった船なども描写されていたり面白いな。
当時は高麗軍の軍装も当時は現物かその細部の記録が残っていて、それを基にしているのは間違いないと思う。高麗兵の兜の裾から垂れる謎の紐輪などは創作では思いつかないよ。
個々の史料だけを見て判断するんじゃ無く、複数の史料の記述を見て多角的に判断しないとダメだよな
4万近い軍勢で押し寄せながら、現地守備隊を相手にわずか半日の戦いで継戦能力を喪失。
大宰府攻略どころか橋頭堡の維持すら出来ず、戦闘継続を断念して夜陰に乗じて撤退したという
のは客観的事実。
>>153 ただ、元寇はその史料が少ないんだよなぁ。本来なら、参考史料程度の「八幡ノ蒙古記」に
頼り切っているぐらいだからな
156 :
名無し三等兵:2011/11/25(金) 18:16:10.55 ID:yYH0zV2C
博多湾や玄海灘の海底に遺物が、大量にあるはずなんだがなぁ
157 :
名無し三等兵:2011/11/25(金) 18:16:22.48 ID:yYH0zV2C
博多湾や玄海灘の海底に、遺物が大量にあるはずなんだがなぁ
こないだ何か出てこなかったっけ?
つか過去に探していろいろ出てるんだがな。
銅鑼とかてつはうとか印とか。
結局、どうやったって腐食に弱いものは出ないし、そこが問題なんだな。
鷹島に上陸した後、日本軍が元軍の軍船を相当焼き払ったらしいけど
この見つかったのは台風でやられたやつか日本軍にやられたやつか
どっちだろう?
鷹島に近いし、日本軍にやられた奴じゃないこれ?
>>150 主戦場は博多の西、のちの福岡城のさらに西。
元軍は博多の町に到達できず。
今の赤坂、桜坂近辺は激戦地。
明治あたりまで蒙古の人魂が出ると言われていた場所。
赤坂、桜坂じゃどっちも福岡城周辺だし
>福岡城のさらに西 という記述と矛盾してるよ
そもそも当時福岡城ないけど
主戦場は西新、祖原周辺
から鳥飼、赤坂のあたりまで
いわゆる博多は含まれない
能古島に一旦停泊して上陸したと考えるなら姪浜・百道浜付近から来るのは地図見れば分かるし
取り敢えずの目標であろう大宰府へ向かうのに博多方面へ迂回する必要が無いからな
NHKで発見された元軍艦船の検証の話をやってるが、全滅しても構わない使い捨ての南宋兵を奴隷船まがいの船に乗せて遠征w
こりゃ勝てるわ。勝因は敵失大だな。
167 :
名無し三等兵:2011/12/08(木) 22:03:28.37 ID:n6hLWqLU
弘安の役で日本軍と交戦してたのはもっぱら蒙漢・高麗軍だけどね
南宋兵の江南軍は日本にたどり着いてからほとんど戦闘に参加しないまま台風を迎えてる
台風が来なければ南宋兵が、どれくらい活躍できたのかな。
というか、江南軍は日本に到着して、1か月近く何もしてないよね。
戦闘力でいえば、蒙古兵を多く含む東路軍の方が強そうだけど。
最近知ったんだけど、元寇防塁での戦闘は一回だけだったんだな。
なんか、日本軍が防塁で籠って防ぎながら台風が来たと思ってたから意外だ。
初回の防塁での戦闘以外は全部日本軍から攻めかかってる。
170 :
名無し三等兵:2011/12/19(月) 23:06:59.15 ID:imSsmCbT
定期ほす
■国難は全て関東人が引き起こし、中四国九州が尻ぬぐいさせられている■
@1274年と1281年の蒙古来襲
→鎌倉に幕府
→関東の指導者が、軽率なことに、蒙古からの国書に返書せず、蒙古の使者を
切り捨てるなどして、蒙古を怒らせたため発生。
→中四国九州の御家人が防衛に当たり、神風が吹き、国難を乗り越えた。
A1853年の黒船来航
→江戸に幕府
→関東の指導者が、鎖国を長引かせ、米国を怒らせたため発生。
→中四国九州出身の、元勲(薩長)が日本を救った。
B1945年の日本の敗戦
→東京に首都
→近衛文麿(東京出身)と東條英機(東京出身)という無能な首相が、日本を敗戦に導いた。
→中四国九州(広島と長崎)への原爆投下で降伏。日本の滅亡は回避された。
国難は全て、関東に政治中枢があった時代に発生しているが、「がめつい」と
よく言われる関西人は、保身を最優先させるため、大勢力のくせに貢献しない。
その結果、毎回、中四国九州が犠牲になっている。
>>171 ■関東や関西に首都があると国難を招き、結局は中四国九州が犠牲になる■
歴史上の国難(元寇、黒船来航、太平洋戦争)は、全て、関東人の短気で、
喧嘩早く日本人らしくない性格によって、引き起こされている。
中四国九州では、国防への意識が比較的強いため、それが裏目に出て、
広島(軍都)と長崎(造船所)が、原爆攻撃された。
首相など有力政治家の輩出は、中四国九州に多く、関東や関西に少ない。
つまり関東や関西のような、政治的人材が不毛の地に政治の中枢が
置かれていると、国難を招き、結局最後は、中四国九州が犠牲になるのだ。
関東人や関西人は、普段は偉そうにしているが、いざという時、役に立たない。
首都は、中四国九州のどこかに、一日も早く遷都すべきだ。
歴代首相の人数
北海道 1
東北 4
関東 13
中部 9
関西 6
中国 16
四国 4
九州 9
合計 62
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5237.html
173 :
名無し三等兵:2012/01/12(木) 07:51:29.75 ID:bV6SBVgP
仮想敵国に首都近付けてどうすんだ
ヤマサクラでも蹂躙される想定なんだからあきらめろ
wikiでは赤坂の戦いで菊池武房が百騎ばかりで元軍主力を撃破したとあるけど、
たった百騎で三万以上の元軍を麁原山まで追い落とすなんてありえることなの?
「百騎」とは菊池の手勢のみで、その他の武士団も戦いに参加していたとか?
日本軍の急襲に驚いた元軍がひとまず戦線を後退させたというのも考えられるけど
侍が百騎でその配下の兵は数に入ってないんでしょ
三万以上ってのは元軍の総数で実際その戦いに参加した兵力がどれくらいかも分からないし
赤坂で元軍が戦って後退したのは間違いないが、元軍全軍が赤坂にいたわけではないのだろう。
元軍は赤坂で進軍を止めて、陣を布いている。全軍なら陣を布かず、一気に博多に攻めかかっても
おかしくなかった。
たぶん、上陸した先鋒隊が赤坂で陣を布いたところを菊池に蹴散らされて、上陸中の元軍と麁原で合流したんだろう。
それに赤坂で撃破されたのが元軍全軍なら、追撃する日本軍の前に
麁原で物々しく陣を張って待ち構える元軍の説明もつかなくなるしね。
敗走しながら陣を布くなんてできないからね。つまりは、赤坂で撃破された元軍
以外の元軍が存在した=赤坂で蹴散らされたのは元軍の全軍ではなかったということになる。
日本の記述で『百騎』とあるのは、馬上武士の数だけで、郎党の数は入れてない(明確に数えようがない)
とは言え、槍持ちなど最低でもその三倍は居たのは確実だ。
一方で元軍の場合、平均して20%は補給などの非戦闘要員。
途海兵力だったことを鑑みれば、戦闘員の数はもっと少なかったろう。
179 :
名無し三等兵:2012/02/29(水) 02:07:05.57 ID:J0DtzD39
というか戦闘は各地で行われてたんちゃうん?
180 :
名無し三等兵:2012/03/01(木) 08:26:46.60 ID:DZs6JuId
軍板住人的には棄民説ってどうなん?
個人的には威力偵察説も棄民説も杉山先生の
「偉大なモンゴル帝国がジャップ如きに負けるわけないニダ」
って言い訳にしか見えない。
182 :
名無し三等兵:2012/03/01(木) 12:45:32.72 ID:cwV4cHCZ
どうみても戦略的戦術的に敗北してますがな
日本軍は元軍と違っ一騎打ちしかしなくて集団戦法をやらないし火薬も知らないから弱いという固定観念があるからな(丸きり嘘でもないが)
元軍が負けたのは軍事上以外の理由だと思ってしまうのも自然といえば自然か
てか「神風」という概念だって武士の活躍を認めたくない貴族が生んだ物だし
>>180 敗残兵処理が目的で軍事行動起こすだなんてアホな歴史学者にありがちな戯言だと思ってる。
余剰人員の処理とすれば台風こなくて無事?に敗走して帰還しちゃってたらどうすんだろ
ていうか台風ですら想定内だったってんなら、むしろもう少し時期ずらして来るよな
ただ、国家の鎮護護持に役立たない人員を投棄するって行動自体には合理性があるからなあ。
最近でも中越戦争はケ小平が対立する南方軍閥の力を殺ぐために始めたって論もあるし、
日本でも徳川幕府が出来てすぐのころは浪人対策に苦慮してる。
明治初期の征韓論だってそういう面はあったし。
秀吉の朝鮮征伐とかな
まあそういう例があるからって元寇もそうだと言い切る気は無いが
>>187 世界史板住人なんて基本的に二十年くらい前のトンデモ本とかを
未だに有り難がってるアホばっかだから。
>>188 南宋滅亡〜弘安の役が僅か二年だからねえ。しかも大船団とあれだけの兵糧用意してるし。
南宋を滅ぼしたら余剰戦力の問題が生じたから急遽日本に棄民したと考えるより
南宋の次は日本を攻めるって計画が既に予定にあって
丁度滅ぼしたばかりの南宋の兵力を利用したって考えた方が自然だと思うな。
そもそも棄民説が正しいなら即座にフビライが一度は廃止した部署を復活させてまで
第三次遠征の計画を立て始めたって行動に矛盾が生じる。
世界史板のスレは見てないが
棄民目的の侵略といっても、わざと負け戦をさせて南宋兵を殺すというか、日本を植民地にして南宋人を日本に移すという発想はなかったんだろうか
単純に
獲得した兵力を使って更に土地確保するのに失敗しただけじゃん
占領→そこの兵力で次の土地を占領
彼らに職をあたえ、歩兵とともに出征させ、沈めよう。
そう考えた人間がいても何ら不思議は無い。
もちろん、ソースなど無い。
しかし、状況から考えれば十分にありえる話であろうかと思う(`・ω・´)キリッ
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ <だっておwww
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ / / //
| :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/
| ノ | | | \ / ) /
ヽ / `ー’´ ヽ / /
| | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l バンバン
ヽ -一””””~~``’ー?、 -一”””’ー-、
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
>中統砂の代わりに5倍の価値を持つ至元砂を発行し、インフレを防いだ。
最初に>この兌換禁止は中統砂を暴落させた。
って言ってたよね防げてないじゃんもう完全に事後だよ事後
>ただ同然の万札で本来5万円の中統砂を5千円で買い戻し、さらに儲けた。
>ユダヤ顔負けの凄まじい商人であると思う。
インフレ起こしてデノミしただけで凄まじい商人であるってなにこの人
なんか、結果論からMMRばりに強引に棄民目的に
結びつけてるだけの気がするのは俺がバカだからかな?
ていうか、元って弘安の役で南宋の兵力沢山失ったせいで
割と難儀するようになったんじゃなかったっけ?
ごちゃごちゃ抜かしてないで向こうのスレで反論してみろやネトウヨ
モンゴルが本気なら日本滅んでたな
201 :
名無し三等兵:2012/03/02(金) 00:16:35.49 ID:do6becTp
棄民説が真実ならフビライは南宋兵がクーデター起こしたり
さっさと日本から撤退してあんま死ななかった場合の事とか考えてたのかな?
史実では鎌倉武士が無双してくれたおかげで元軍皆殺しだったけど
こんなワンサイドゲームになるケースなんて稀だし。
>>199 向こうのスレでネトウヨは完全論破されたからな
203 :
名無し三等兵:2012/03/02(金) 08:02:39.04 ID:do6becTp
あと棄民説唱えてる杉山先生はモンゴルを残虐な民族扱いすんなみたいな事言ってるが
仮に棄民説が正しかったとしたら、フビライはわざと兵士と将軍死なせて
ウハウハな思いをしようとした最低の屑野郎って事になるよな
ていうか、敗残兵処理した結果が海防の低下を招いて
倭寇をはじめとする海域の治安悪化に繋がってるんだが
これもフビライの計画通りなのかえ?
>>202 ここがID出ないところで良かったな脳膜炎w
そんなんに巻き込まれて壊滅的被害受けた対馬悲惨だな
国内で難癖つけて処刑しとけよ
虐殺得意だろが
最近上がった物証だと、
>>166のNHKのクローズアップ現代で取り上げてたとおり、元軍の船舶は
侵略目的の兵員輸送船とは思えないくらい、兵員を劣悪な環境に置いていたってのが判明しているが、
日本軍に負けなくても、往復の航海で元南宋の兵員は疫病その他の要因で全滅して、棄民の目的達成には
なったような気がする。
だから
>>201のような心配は不要だったろうな。
後、帰順した兵士の処遇として、戦争で戦死のさせるのと、難癖をつけての処刑するのではどっちがマシかは
考えもの。処刑の場合、情報が行渡るからかえって反乱の芽になる可能性がある。
戦争で死んでくれれば情報も人間も政府以外には禄に入らない。
ソースはNHK(笑)
>>207 劣悪な環境になったのは上陸に失敗して何カ月も海上にとどまる事になったからなんだが
210 :
名無し三等兵:2012/03/02(金) 19:06:49.52 ID:do6becTp
弘安の役はまず東路軍が各地で撃破される(この時点で本土上陸は絶望的)
その後、江南軍が平戸に到着し東路軍と合流し
再び本土への上陸を試みるんだけど
その際に松浦党はじめとする水軍に襲撃されて失敗
結局、鷹島や平戸島周辺の島々に布陣した状態で台風を迎えるわけだが
この時江南軍と東路軍が松浦党に襲われて上陸断念してから
台風がくるまでの間のおよそ1ヶ月くらい何の記録も無いんだよな。
一体日本も元も何してたんだろ?
>>207 最初からそんな劣悪な環境なら尚更指揮官ぶっ殺してクーデターなんて流れになると思うが。
同じ余剰兵力削減目的でも元寇棄民説なんかよりは
秀吉の唐入りは諸大名の軍事力を削減するためだった説のがまだ説得力あるよな。
てか棄民のために大量の船を建造するって金の無駄だろ
消耗させるだけなら陸路でベトナム方面に送りゃいい
>>209 それが船の構造が蚕棚に目一杯人員を詰め込む奴隷船型で、短期航海ならともかく、あれで日本まで海渡った後、陸兵として
交戦せよなんて要求出来そうにない代物だったんだがな。
>>210 水兵としての経験がある兵士が纏まって乗ってれば反乱もいいかもしれんが、航海術を身に付けた兵士が加わらなかったら
ただの洋上集団自殺になるぞ、それ。
敗戦するや否やマッカーサーに取り入り必死に命乞い。
「悪いのは東条らです〜!私は何も悪くありません〜!」と
天皇家の財産目録をちらつかせながらマッカーサーのケツ舐め舐め土下座。
「お助けいただけるんでしたら沖縄は25年でも50年でもいやそれ以上でも
どうぞご自由にお使いください〜!」と文字通りの売国提案。
世紀のクズ、売国奴。
その番組では「大軍を運ばなきゃいけないから」奴隷船の「ような」
寝床を作る必要があったの「かも」しれないとしか言ってないな。
>>213 船の寝台が蚕棚状って当たり前だろ今の客船だってそうだろうが
てか奴隷船には寝台なんてなくて貨物船の床に直寝か最悪ずっと立ちっぱなしだ
航海術を持ってないのは指揮してるモンゴル人のほうなんだが
棄民と言っても南宋兵が全員犬死することを期待してたわけではなく、日本を植民地にしてそこに厄介払いしようと思ってたんじゃないだろうか
それは単なる屯田兵だろ
というか満蒙開拓団みたいな
221 :
名無し三等兵:2012/03/03(土) 00:52:54.13 ID:HybGu2fC
或いはアメリカの西部開拓時代みたいな?
ここにも来てたのか。棄民説。日本史板で散々論破されてるのに
と言うか2つスレがあるがどっちが本スレなんだ
>>195 見てきたけど、棄民説唱えてるのがネトウヨ連呼のおかしなヤツで袋だたきにあってたw
224 :
名無し三等兵:2012/03/05(月) 09:03:34.56 ID:9JhimNLv
>>223 今度は「文永の役は黄金の噂を聞いて攻めたら日本が予想以上にショボくてやる気失せて帰った」なんて珍説唱えてるわw
それマジで言ってるなら頭が心配だな
よっぽど日本軍が弱かったことにしたいのか・・・
侵略し支配下に置いた旧敵国の軍隊を新たな侵略の尖兵として使うなんてのは古今東西どこでもやっていた
事なんだが。
自分らの正規軍は温存できるし旧敵国軍なら使い捨てて損耗しても惜しくないという面があるのはもちろんだ
ろうが、それを「棄民」などと呼ぶのは聞いた事がない。
明らかに、日本がモンゴルの侵略軍に完勝したという歴史的事実を認めたくないイデオロギー的に偏向した自
称「歴史学者」が「モンゴルが本気ではなかった」と主張するためにひねり出した珍妙な説。
それにしても「夜になったから『橋頭堡』放棄して船に戻った説」、「威力偵察説」、そして今度は「棄民説」か。
よくもここまで噴飯物のたわけた話を恥ずかしげも無く展開できるものだ。
しかもそれが「歴史学者」の学説として通用しちまうんだから救いようがないね。
まあ当時の船舶の技術水準で、日本みたいな人口密度の高い国を制圧できるほどの兵力を送るのは無理だよね
人口=そのまま国力となる時代なら尚更ね
渡海→上陸→占領なら古墳時代の日本でもやってるぞ
元が情けないだけ
>>227 杉山の本は図書館でパラパラと斜め読みした程度だけど
威力偵察説を唱えてる時点で軍事の知識はからっきしだと分かるな
威力偵察だったとしても、威力偵察で得られた情報を元に主力が侵攻して勝利できなかったんだから負けは負けだよねと
威力偵察なら敵が弱体なら一気に押し潰すだろ
「元軍は勝ったが威力偵察だから撤退した」
って意味分からん
威力偵察って何だか知らない奴の妄言だな
そもそも威力偵察というのは戦術レベルでやるものであり
文永の役は鎌倉側と戦闘した四万の軍の後ろに更に控えてた軍がいない以上
「威力偵察」という言葉は当てはまらない。
そもそもクドゥンと金包茎の会話からしても、威力偵察をしたわけではないのは明らか。
235 :
名無し三等兵 :2012/03/06(火) 22:26:36.18 ID:???
左巻変更の「歴史学者」がいかに軍事知識皆無かがしれるよなw
本職と軍ヲタを除けば歴史学者に限らず大半の職業の人は軍事の知識無いと思う・・・
それは言い訳にならない
専門家でないにしても「威力偵察」なんて単語を使う前に
その意味を調べることくらいできたはずだよね
まあそれもそうだよな
しかし、戦後日本の「軍事は考えるだけでも悪」という風潮は根強い物があったしな・・・
最低限の軍事的常識すら無い奴に歴史を語る資格などないよ。
上陸し橋頭堡を築いた優勢な軍勢が、夜になったからといって折角築いた橋頭堡を捨てて船に戻る事
など「絶対に無い ! !」
こんなの軍事常識の基礎も基礎、ちょっと考えれば素人だって道理は判る。
それ以前に元や高麗といった相手方の資料を見れば、この辺の真相は一目瞭然に判る筈。
歴史学者を名乗る連中がその程度の事すらしていなかったのか、あるいは知っていながらあえて無視
していたのか。
いずれにしろこいつらに歴史学者を名乗る資格は無い。
歴史家が知るべきなのは戦争の目的や社会への影響であって戦術レベルの軍事知識は不要だろ
軍事知識がないのに軍事面から説明しようとする奴が馬鹿なのであって
おとなしく古文書を見比べたり遺跡を調べてる分には軍事の知識は必要ない
今の軍事知識は不要でも
調べる時代の軍事知識は必要だろ
昔の武器見て頓珍漢なこと言う羽目になるぞ
242 :
名無し三等兵:2012/03/08(木) 16:19:13.31 ID:r7pG94We
日本刀は飾りだった(キリッとかねw
歩兵はいつの時代も装備重量をどう削るか
行軍の負担をどう減らすか頭悩ませてるというのに
244 :
名無し三等兵:2012/03/08(木) 23:32:40.59 ID:aiXOgZPV
軍事知識が不要なんて馬鹿なこと言ってるから元寇や文禄・慶長の役の研究が
悲惨なことになってるんじゃないか。
チンギスハーン時代の1223年に行われたカリカ河の戦いみたいなもんかね
あの時も直後のブルガル攻めに失敗したから撤退してるわけだからね。
何故か威力偵察厨の中にはカルカ河の戦い引き合いにだして
文永の役の撤退は予定通りとか抜かすアホがいるけど。
細かい戦闘の推移なんていわゆる歴史学者の調べる事じゃないし
もちろん武器や城塞を専門にしてるなら別だがほとんどの学者はそうじゃないだろ
戦術と戦略手段と目的の区別がついてないのはダメだが
>>247 歴史学者って歴史を調べることが仕事じゃないの?
戦闘の推移も歴史に含まれると思うけど
含まれないなら誰が担当するんだ?
というより、軍事的な知識が無いと事の真相がわからないような場面で
素人丸出しなてきとーな解釈して珍説抜かすことに問題があるわけでしょ。
>>248 それは軍事史専門の人間がやればよろしい
歴史学者が皆軍事に詳しくなる必要はない
251 :
名無し三等兵 :2012/03/09(金) 23:13:14.98 ID:???
>>250 それなら「歴史学者」は軍事的展開について語るな!!
人間の歴史ってのはイコール戦争の歴史なんだから、「歴史学者」なんてのは存在意義すら
ないことになっちまうな。
>>252 ちょっと軍事板に偏した歴史観かと…アナール学派以降、歴史≒政治史の構造も、民俗・経済・気象などとの学際的研究で変貌してますし
(時代区分・意識での重要性は否定しません、出来ませんが)
元寇と離れた話題ですが
>>253 此処は「元寇スレ」ですからね。
「元寇」=「モンゴル帝国の対日軍事行動」を語るのに最低限の軍事常識すら無くて語れるわけはないし、
それすら無い「歴史学者」は元寇、特に蒙古側の戦略や戦術についてなど決して語るべきではない。
それが無いから「夜になったから船に戻った説」だの「威力偵察説」だの「棄民説」だのといった噴飯物の
妄想説が「歴史学者」の唱える学説として恥ずかしげも無く展開されるんですよ。
本来は軍事史的判断からの突っ込みが入って学説が修正されていくべきだけど
日本ではそれがないのが問題かねえ
256 :
名無し三等兵 :2012/03/10(土) 22:01:43.28 ID:???
>>254 だね
だから左巻きは馬鹿だと言われるんだw
欧米の大学には、軍事学だの戦史だのがちゃんとあるけれど、日本だと防衛大学でしか扱わない。
そして防衛大学で教える軍事史は、どうしても現代の戦争に影響を与えた、近年のものに成らざるを得ない。
よって日本の歴史学者の考察は、戦国時代であっても、戦闘以外も含めた包括的なものになってしまう。
そもそも日本の合戦は、ハンニバルやナポレオンのような、戦術・戦闘にだけ注目していては語れない。
大抵は政治・経済や謀略といった背景が一体となって絡んでくる。
戦前の参謀本部が一応昔の日本の戦史をまとめてたようだが適当だったらしいな
元寇の場合は普通に戦って勝ちましたって感じで
特に戦術的に語る部分は無いからな。
“普通に”ではない。
「こんな時こそ、まずお家が大事」と引きこもった者もいれば、領主が元軍を迎え討ちに出かけた隙に、手薄になったと火事場泥棒に攻め込んだ馬鹿者さえ居た。
そんな足の引っ張り合いをしててよく勝てたと、むしろ誉めて良いくらいだよ。
確かに、帰属意識が家単位で国家意識や民族意識なんて存在しなかった時代に、よく対外戦争に勝てたよなと
鎌倉幕府が九州の御家人達への支配力を強めるのはむしろ元寇終わった後だしな
元が切り崩し・取り込み工作をしてから攻めてきたら危なかった?
武力侵攻よりも政治的な取り込み策をやった方が良かったかもね
中共が台湾にやってるみたいな
>>263 それをやらなかったから元は本気じゃなかった(キリッ
って言う人もたまにいるお。
でも実際取り込むには接点がなさすぎて難しいかな
そもそも国交がなかったみたいだからねぇ
268 :
名無し三等兵:2012/03/16(金) 17:11:26.70 ID:qeg0dP3e
そもそも社会基盤のシステムがあまりに違いすぎて取り込むとかまず無理。
仮に取り込んだとしても名越のクーデターや二月騒動の
時宗の対応の早さ見ると、速攻で鎮圧されて終わりだと思う。
それより、日本史板に自称「ネトウヨニートと違って仕事が忙しい」棄民君が帰ってきたようだw
そういうけど、結局棄民君とやらに反論できずに
レッテル貼りとトンチンカンな論点逸らしするばかりじゃないか
うん、だから向こうのスレでは論点逸らしとレッテル貼りばかりでまるで反論出来てないじゃないか
じゃあ棄民が正しいってことで
ド田舎でやる気無くした説と威力偵察くんはまず船の中でのクドゥンと金包茎のやり取りを
棄民君は弘安の役の後フビライがすぐさま第三次遠征の指示を送り
最晩年まで日本遠征に拘り続けた理由と
弘安の役後に貴重な水軍失ったせいで海防上での治安が悪化した件と
貴重な水軍失ったせいでベトナムのチャンパを海路から攻めるのに失敗して
北ベトナムの陳朝にまで独立される遠因作った件について反論して貰わないとな。
平行してやっても意味無いからオチに留めて必要ならあっちに移動で
275 :
名無し三等兵:2012/03/16(金) 22:01:04.26 ID:UWbq7/C/
う〜む。
このスレを読んでいると、どうやっても
「元軍は新型兵器と完成度の高い布陣と攻撃方法で、古臭い日本の武士を殺戮」
↓
「日本の武士団は蹂躙されて風前の灯」
↓
「そこに台風の時機到来。圧勝だった元軍は全滅し、いきなり日本の勝利となりました。」
という構図は見えてこない。
なぜだ。
どうやったら、上記のような説になるのか。どのように資料を解釈すれば、上記の説が正しいと立証できるのだろうか。
実際は日本の武士団は、元軍相手に善戦しており、手こずった元軍が退却したというのが真実ならば
一体何故に上記のような説が主流とされているのか?
>>275 戦前まで「神風」が信仰されてたからじゃね?
日本側の史料は八幡蒙古記のみを全て真実だとして捉えて
蒙古襲来絵詞や福田文書などは全て恩賞目当てに嘘八百でっち上げたものとして
高麗伝の壱岐や対馬での戦闘記録を九州本土の烏飼潟での戦闘記録として読み
元史での前後の文脈無視して之を破るや四方を略奪して帰るの文字だけを読んで
武士達は当時は名乗りをあげて一騎打ちをしてたと盲目的に信じ込んで
大鎧や日本刀や和弓や当時の馬の知識が一切無い状態で尚且つ
当時の日本は世界的に見て生産力も人口も少なく特産品も何も無い
攻める価値すら湧かない小さなド田舎国家という偏見を持った上で
歴史を解釈すれば何ら問題なく教科書通りの説に行き着くよ。
>>275 何でって、
・防衛戦なので武士に恩賞を用意できなかった当時の幕府
・自分らの祈願のおかげで神風が吹いたということにしたかった朝廷
・そういう神話に弱かった当時の民衆
・とりあえず日本をdisりたかった戦後左翼
のみなさんの提供でお送りしました
279 :
フビライ:2012/03/16(金) 23:30:59.49 ID:???
>267
その接点を求めて使者を送ったら斬り殺されたんだよっ!
だいたい南宋を孤立化させようと、絡め手から攻めたのに、そっちに注力したんじゃ本末転倒だい……かと言って放っといても沽券にかかわるし。
くっそぉ〜何でこう、日本人って空気が読めないかな? 朝貢国の一員になれば、ヨーロッパからアラブにまで跨る世界帝国の一員として、貿易でウハウハだったのに。
280 :
名無し三等兵:2012/03/16(金) 23:36:22.15 ID:CNaz2ZuP
なにもこの手の「日本の軍隊は弱い」って論調に持っていこうとするのは
「元寇」だけに限らないよね。
「文禄・慶長の役」なんて、対して戦局に影響を与えなかった「朝鮮水軍」なんかが
異様なほど持ち上げられているし(教科書にも載ってる)。
特に慶長の役なんて作戦目標を史実の「全羅道・忠清道の明・朝鮮軍の撃滅(達成)」から「朝鮮半島南部の
占領」が目標と捏造してまで、日本側の作戦目標を失敗させたという印象を持たせようとしてる。
結局、慶長の役は秀吉の死によって終焉を迎えたわけだが、教科書なんかでは日本軍が苦戦したから失敗した
みたいなことが書かれているが、実際は1月に蔚山城の戦いで日本軍が大勝してから秀吉の死の8月まで戦闘らしい
戦闘もなく、日本軍の大半が日本本土で帰還し休養して、次の作戦に備えていた。
「日本の軍隊は弱い」って論調をつくりあげるために、無垢な子供たちにこういう洗脳教育を推し進めようとする
歴史学者には本当に怒りしか湧かないよ。
李舜臣を実態以上に持ち上げたのは朝鮮人じゃなくて日本海軍だったりする
陸主海従だった時代に海軍力の重要性を訴えるためだが
「神風」という概念も元々は公家が武士の活躍を認めたくなくて持ち出したものだし、戦前は皇国史観的な文脈で重視されていた
なんか戦前日本を必至で否定してる立場の左翼って一般人以上に戦前の呪縛から逃れられて無い気がするw
>>280 スレチを承知でつっこむが蔚山戦役の後にも三路の戦いとか起こってるぞ
>>281 そりゃ最前線に立ってる人間がいくら頑張っても上に立つボンクラ共のせいで全て台無し
っていう根本的な部分が太平洋戦争中と今のブサヨ政治家が蔓延る世の中とでまるで変わってませんし。
鎌倉幕府の時宗さん達はそんなボンクラ共と違って凄く優秀だったのに。
>>278 弘安の役では実際に台風が来て元軍に損害を与えているし
宗教的権威に対しては武人も一般人と同じかむしろより弱いくらいだったでしょ
台風来るのおせーよ
江南軍の上陸作戦直前に来たんだからタイミングは完璧だろ
江南軍と合流してから台風来るまでのちょっとの間、上陸を試みて失敗してなかったか?
江南軍と東路軍の鷹島上陸作戦成功直後に台風が来たんだから、タイミング的には
遅いよ。
おかげで元軍10万以上の兵士は、台風後にも鷹島にいたんだから。
蒙古襲来絵詞を見てみると、元軍が用意した盾を和弓から放たれた矢が貫通してる。
大陸では盾として有効だったかもれないが、和弓では防げなかったところをみると
やっぱり、通説の「先進的な蒙古軍に圧倒された武士団」というのは有り得ないね。
そんなこと言うとまた誇張ガー捏造ガーって騒ぐバカが湧くよw
293 :
名無し三等兵:2012/03/19(月) 02:17:20.95 ID:ozea0KKR
>>273 今度は人口と国力の相関関係否定し始めましたよ彼。
294 :
名無し三等兵:2012/03/19(月) 22:03:16.66 ID:gYjwv6oF
NHK大河ドラマの北条時宗。あの文永の役・弘安の役の描かれ方はどうなのだろうか?
>>294 まず、戦闘場所からしておかしいよね。
史実の文永では博多の町で戦闘が行われたことなんてなかったけど、なぜか博多の町で
戦闘してるし、左副元帥劉復亨がなぜか博多の町に面した海岸で射倒されてるし。
弘安の役なんて、実際は存在しない石築地で戦闘やっちゃってる上に、史実の志賀島の戦いや
壱岐島の戦い、鷹島の戦いはなかったことになってるし。
296 :
名無し三等兵:2012/03/19(月) 23:17:44.30 ID:ozea0KKR
まあ赤マフラーとか台風にあった元軍助ける鎌倉武士とかに比べりゃ大したミスじゃないさw
あのドラマのてつはうは脅威の威力だったな
全く時代考証も考えられずに製作した適当な演出だったという事?
大河は人間ドラマ優先で考証適当なのはいつもの事
家や職場の近所(福岡市中央区大濠と赤坂・警固)でマンションを建設してると
5〜8m地下から結構な人骨が出てきたんだそうだ。
警察に通報すると、警察と歴史資料館の調査が終わるまで
下手をすると一年以上工事が止まるので、骨に日本酒ぶっかけて手を合わせて
そのまま工事を続けたんだそうな。
元寇の頃のもんかねぇ?
ヤクザの抗争じゃないのか?
元寇の頃の人骨だったのかもね。
法を改正しないと遺跡や事件が闇に葬られる一方だな
俺の土地では中世の石垣(城跡)が見つかって史跡指定されて、
開発もなにも出来なくなったからな。
法満山とその周辺の山持ちです。
305 :
名無し三等兵:2012/03/25(日) 13:16:46.72 ID:2tCfaUdy
ウィキペの元寇の記事もかつてに比べて大分充実してきたな。
一騎打ちはやってなかったということにもちゃんと言及してるし。
でも結局の所、どの史料でも武将側の完全勝利としてる弘安の役は兎も角
文永の役は各史料によって食い違いがあってよくわからんな。
蒙古襲来絵詞、福田文書などをはじめとする実際に参戦した武士当人達の記録
→赤坂および烏飼潟の戦いで特に苦戦もなく元軍を撃破。
日蓮や八幡蒙古記など宗教関連の書物
→武士側の完全敗北。八幡蒙古記はかなり詳細な戦闘経過を書いてる。
高麗史→高麗軍の活躍ぶりを記述。但しメインは対馬と壱岐での戦闘で九州の戦闘には殆ど触れず。
元史→武士達を破るも「官制が整わず矢が尽き」かなり切羽詰まった内容の軍議の末撤退。
>>305 あっという間に矢が尽き制が整わない(統制を失った?)って、大ピンチじゃない?
「いやあ、矢のストック全部海に落としちゃいまして…てへ♪」
なんて愉快な事故でもあったならともかく、そうでないなら
「何でも良いから全員逃げろ!!」クラスの大敗を喫した、あるいはそれに匹敵する
障害にぶち当たったとしか…
そこで威力偵察説の出番ですよ!
威力偵察説でも「制整わず」は不味いんじゃ?
用意した矢(≒予定していた継戦能力)を使い果たしても上陸したかどうかで
部下たちはパニック状態ですじゃ、帰ってできる報告は「日本強すぎ」だけだろうし。
対馬と壱岐で調子こいて虐殺やってたら
矢を使い果たしちゃいました(>ω・)てへぺろ☆
文永の役で蒙古軍が動員した兵は6万5千くらい。適当に弓兵は半分としても3万2500人。
一人10本撃ったら、それだけで30万本を超える矢が消費されるのか。
実質的な戦闘員は蒙漢人が二万五千と高麗人が五千だったはず
矢が一本100グラムとしても、1万本なら1トンの荷物になる。
30万本なら30トン、相当な大荷物だ。しかもググってみたら、モンゴル弓兵は60本くらいの矢を携帯するとのこと。
>>311氏のおっしゃる人数で蒙漢人の半数が弓兵、残りが槍兵とかとしても12500人の弓兵に60本の矢を支給するには、
75トンの矢を準備しておかねばならない。しかもこれが、下手したら1回の戦闘で消費される。
「矢が尽きる」のはむしろ当然かも知れない。
大陸でのモンゴル軍の主力は言わずとしれた弓騎兵だが
どうやって矢を補給していたのか。
騎馬隊の後からついていく家族が現地の資材で作ってたのか?
待て。現代弓道の矢の重さは概ね20〜30グラムだぞ。いくら戦闘用でも
100gは重くないか? と言うことで25グラムで計算すると
>>312の1/3になるから
1回の戦闘で消費する矢の重量は25トン……十二分に多いな。
御免。1/4で18.75トンだ。
船なら重さは大した問題にならなそうだが
携行していた矢だけのことに思えてならない
現代弓道の矢は競技用だからね。
戦国時代の矢は70gくらいあったし、イングランドのロングボウ部隊が
使ってた矢もそれくらいあったのを考えると約60トンの矢が必要だな。
文永の役で元の艦隊は900隻とされてるから一隻辺り66kgの矢を積んでた計算になるな。
仮にこの数字の2〜3倍の数の矢を積んだとしても
船一隻辺り2〜3人増える程度の重量だから十分運べると思うぞ
>>317 逆に考えると侵攻軍は「60トン×補給までの想定戦闘回数」の矢を持参する必要があると。
文永の役でモンゴル軍が戦闘したのは4〜5回で良いのかな?それで矢が尽きた、かつ、輸送力の問題で
「それ以上持って来られなかった」ではないとしたら、蒙古軍は4〜5回の戦闘で日本を征服するか
最低でも現地で矢を作れる程度の橋頭堡を確保できるという見通しでいたのか? ちょっと見通し甘すぎない?
東夷の蛮族と思って舐めていたとしか
威力偵察目的だったんなら尚更、対馬や壱岐で道草食ってる場合じゃねえだろうしなあ。
そもそも本当に一人当たり60本の矢を
「1日の戦闘で」使い果たすなんて事あんのかな?
おそらくそこまでの全力戦闘をやらかしたのは、九州上陸以降のみだろうと思う。
例えば対馬での日本側兵力は百余騎というから、1000人を超えることはないだろう。
それに対して数十万本の矢を消費したとは考えにくい。
だが、そう考えると「持参した矢が少なすぎないか?」という問題はさらに増す。全力戦闘
2〜3回で九州を落とせると考えていたのか?
数会戦で玄界灘周りを落として半島からドシドシ輸送って事で良いんでない?
>>322 当初の元軍の目標は太宰府だったから多分そこまで落として
拠点を確保した後、高麗から随時補給を受ける予定だったんじゃ?
ところで日本人と朝鮮人以外の(歴史を知ってる)人はどう思ってるの?
モンゴル帝国やKAMIKAZEの知名度はバカにできないと思うんだが
ベトナムに観光旅行に行ったとき、ガイドさんから
「日本人はモンゴルに勝つため神の力を借りたが、ベトナム人は人間の力だけでやり遂げた」
と言われたな。
>>325 日本側が実力で勝利したことを理解してる人と
神風神話に騙されてるバカが半分ずつって感じだな。
>>322 正直、赤坂や烏飼潟の戦いですら小競り合いくらいの印象しかないんだよなあ。
そもそもこの一連の九州の戦闘はどっちが勝ったのかすら結局わからないし。
>>328 そうなると「矢が尽きた」という記述自体を疑わねばならないかな。
太宰府まで進軍するつもりで準備したけど、小競り合い3〜4回やったら
撃ち尽くしましたじゃ、あまりにも間抜けだ。
撤退の責任を回避するための嘘かもしれないよね
近代だって弾がなくなったら
「よく戦った撤退や降伏しても仕方ない」
ってことになる慣例があるわけで。
侵略側が撤退して目標達成できて無いんだから元側の負けでしょ?
個々の戦闘を見ても文永では上陸後の進軍を阻まれて、更に上陸後の陣地まで撤退するハメになってる。
2万以上を率いてて3人の元帥のうち一人が負傷する程の敗戦を小競り合いとは言えないんじゃない?
弘安なんかは軍船は夜明けまで夜襲を受けてるし、その後は陸と海から攻められて占領した島を放棄してる。
その後も島に攻め入られては苦戦して放棄したあげく、台風を受けて兵を見捨てて逃げ出してる。
見捨てられた兵も全滅させられてるし、どれも小競り合いとは言えない
>>330 矢は足りていたのに負けたのだとしたら、日本側兵力がよほど多かったのかなぁ
元史では日本側兵力を10万と書いてるが、これまた敗戦の言い訳のために水増しした可能性があるな
文永の役での元軍は、水夫とかを除いた戦闘員が2万強だから、日本側に3倍の6万とか居れば余裕で撃破できたと思うが(兵員の質はほぼ同等として)
確か当時の日本の人口が600万かそこらだったと思うからまあ無理な数字ではないか(近代戦みたいに国民を根こそぎ動員できる体制だったのかは知らんが)
承久の乱での動員兵力はもっと多いみたいだし
元の指揮官は、
「こいつら撃破しても、次の戦闘に耐える物資はない。なら、今戦っても損害を受けるだけ無駄」
と判断したのでは? 船に(物理的には)積んである矢も(戦略的には)尽きたも同然と。
侍と郎党しか動員できないよ
一回目は西国の武士だけだったし
今日本史板のスレみたらパフォーマンスコンクールなる言葉が出てたが
軍事用語でこんな言葉聞いたことないぞよ。
>>332 総大将の少弐の手勢ですら500騎で
他の菊池、白石、福田といった主な将達の手勢が100騎程度
(竹崎に至っては主従僅か5騎)だから1騎=従者含めて5人としても
日本側はどう多めに見積もっても5000〜8000程度にしかならないと思う。
鎌倉に蒙古襲来の報が伝わったのは、元が撤退した後だし。
弘安の時は鎌倉から北条の一門も現地に派遣されてたし
かなり前から元軍が攻めてくる情報を手に入れてたから
それなりの規模(数万程度?)は参戦してると思うけどね。
そりゃ軍事用語じゃないだろ
337 :
素人考え:2012/03/25(日) 23:01:00.21 ID:8VnFh1Sg
鎌倉側が「楽勝!」と感じていたら
次に備えて、水際防御を強化したりしないのでは?
モンゴル側が「矢さえあれば楽勝!」と感じていたら
次回侵略時に増員などしないのでは?
そりゃまあ双方共に被害を出したのは確かだわな。
楽勝で叩きのめした相手が再挑戦してくると言う情報を得たとき
「あいつら相手なら楽勝」と侮るのは間抜けな指揮官。
「惨敗したにも関わらず来る以上、対策を整えてくるはず」と考えて
さらに相手の上を行く対策を整えるのが真面目な指揮官。
一度目が勝てたからって、相当な無能集団じゃない限り次に備えないって事は無いだろう。
警戒して防壁築くのも増援呼ぶのも当然じゃない?
東部ヨーロッパまで脅かした元軍が、相当な痛手を被った〜惨敗したとは
武士団の戦力、個々の戦闘力は相当に高いレベルにあったという事でよろしいか。
さすがに海バリアが無ければ併合されてたと思う
元軍が馬を持ち込めなかったから勝てた
海上輸送力の低さ、山がちな地形あたりが日本の勝因だろう
1241年のバトゥの征西軍が1274年に襲ってきたわけじゃない
陸路でつながってたら文永の役・弘安の役と分かれずにだらだら増援が来て押し切られてた可能性あるな
しかし元寇の頃の海上輸送力を基準に「着上陸侵攻なんて無理だから陸自不要」とか言う人が多くて困ったもんだ
そもそも仮に陸続きなら、日本はもっと大陸風な文化になってたわけで
その場合、武士という職業軍人の階級が生まれたかどうかすら怪しい。
>>348 モンゴルがどういう国か調べるところから初めようか
>>342 馬持ち込んでも機動できるスペースを確保できなければ
死ぬだけだよ
>>349 元王朝の話ですが?もう一度聞きますが元軍って騎兵中心なんですか?
>>351 征服王朝だから一応本国ではモンゴル騎兵が主力かな?
日本に攻めてきた連中は寄せ集めもいいところ
こんな過疎スレで釣りですかw
釣りっぽいね。
全員馬名人な遊牧民騎兵ってどれくらいの数居たの?
356 :
名無し三等兵:2012/03/26(月) 22:00:51.11 ID:yPF3rte0
>>353 日本史板には釣りだかガチだかわかんねえ奴が何人かいるぞw
パフォーマンスコンクールさんは釣りか本気かよくわからん。
彼をはじめ大方は多分釣りじゃなくてガチだと思う。
わざわざ釣り目的で、深夜だの昼過ぎだのにあんな
長文レスを何レスにも渡ってするとか正気の沙汰と思えない。
359 :
素人考え:2012/03/26(月) 22:46:00.22 ID:???
>>339,
>>340 どの
じゃあ何で最初の襲来の前に準備しておかなかったのか?
事前には、国内事情がいろいろあっただろうが、
事後には、次に備える事が出来た訳でありまする。
確かにコンクールさんの文量は物凄いな。
あれだけ書かれても説得力がないから困るけどw
>>359 だって国書無視しただけであんな大軍で攻めてくるとか思わなかったですしお寿司。
実際、一回目の時は対馬から命からがら逃げ延びた
住人たちの報告で初めて元が攻めてきたことを知って
急遽太宰府に徴収かけてるような状況だったからね。
鎌倉に元が攻めてきた知らせが届いたのは元が引き上げた後だったしw
武士側が文永の役で学んだ教訓は、元側の戦術や装備よりも
むしろ、異国警護番役をはじめ有事に備えていち早く
軍を集めて迎え撃つ体制を整えることの重要さだったていう。
そりゃあ外交使節を切り捨てればモンゴルだって怒髪天突くだろう。
攻めて来るのも当たり前。
文永の役前に使者切り捨て?一体何のことですだそりゃ?
弘安の役に関して言えば、使者を斬って挑発してなければ、準備期間を十分取った上で攻めてこられて困ったかもね
そしたら台風の時期も外れるし
そうだね弘安の役はすぐ台風が来て終わったからね。
すぐと言っても台風来るまで2ヶ月近く戦ってるけどな
冬の日本海渡ろうぜー
文永にしろ、弘安にしろ、対馬と壱岐が悲惨な事になったのだけは事実なんだな?
>>366 文永の役での見切りの早さに比べ、弘安の役ではよくぞ2ヶ月も粘ったものだ。
370 :
名無し三等兵:2012/03/27(火) 21:08:59.41 ID:z1sRO9qV
>>357 史料をよく読み込んでるのはいいが、そっから先が独自解釈過ぎるんだよな。
一体「誰かが突撃してる間他は見てるだけ」とかどっからそんな発想出てきたんだか。
「てつはう」は、元寇以後日本の戦場でも導入されたのかな?
調達は輸入に頼るだろうが。
鉄砲伝来まで日本では火薬兵器は使われてないんでね?
俺が知らないだけかも知れんが
応仁の乱や応永の乱の時には、
銅銃は使用されていたはずだが?
石火矢
種子島への鉄砲伝来以前から、手銃などが細々と流入していたらしい。
>>370 不定期に出てきては支離滅裂な自説を並び立ててくれる。
なまじ史料を引用して長レスするから一見正しいことを言ってるかのように錯覚してしまう
377 :
名無し三等兵:2012/03/28(水) 01:12:15.48 ID:HH/KZh0D
というか、武士の戦い方は一部隊だけが突っ込んで
他は証人として全員見てるだけというコンクールパフォーマンスとやらが本当なら
当時の合戦の主流だった楯突戦なんてわざわざする必要が無いんじゃ・・・。
弘安の役は気象を利用した遅延戦術をしてたわけだから神風ではないだろう、本当のところは。
手榴弾的な投擲爆弾兵器が戦国時代に使われたやつでは、石山戦争で本願寺側に付いた
毛利軍の村上水軍が織田信長の水軍を一度は壊滅させた兵器の一つの炮烙火矢が
手榴弾的な爆弾兵器の日本での使用例だけどね。
織田信長軍が大砲付き戦艦を持ってくるまで優位を誇ったが。
>>379 >手榴弾的な爆弾兵器
擲弾みたいなやつか
>>378 そもそも台風くる以前に攻め倦ねて洋上をプカプカしてたんだから
どっちにしろ、敗退は時間の問題だったでしょ。
最近、元寇関連の記事見てると凄いな。
電波飛ばしまくってるブログがいっぱいあるわあるわ。
>>382 比較的新しいところでも電波だったりするの?
>>382 フビライは通交を求めただけなのに日本の対応のせいで戦争になった云々
威力偵察、棄民、フビライは日本なんて眼中無い云々
アジアの人達のおかげで日本は救われた、元軍の実態は寄せ集め云々
などなど色々あるな。
日本の元に対する対応は別に当時の基準では非常識でも何でもない
というか一回攻められるまでは、使者を丁重におもてなしした上で
国にお帰り頂いてるんだからむしろ紳士的なくらい。
威力偵察と棄民と眼中に無い云々は元史や高麗伝読めばそんな発想はまず出てこない。
アジアの人達の反抗云々に関しては
南宋の攻略に手こずったのが二回目の侵攻を遅らせたというならまだわかるが
ベトナムへの侵攻が始まったのは文永どころか弘安より更に後の出来事だし
三別抄なんて殆ど瞬殺レベルの出来事。
元軍は寄せ集め云々というが、そもそも文永での高麗人の比率は低いし
弘安ではその寄せ集めとやらの南宋人とは殆ど戦闘していない。
この手のブログは「一部の史料を恣意的に取り上げたネトウヨが云々」
言うくせに自分達は一次史料を一切提示せずに、勝手な妄想や
軍事音痴な三流大の教授が書いたトンデモ歴史本をソースにしてる奴が殆ど。
実に困ったもんだ。
>>383 俺が最近見た所だと
「文永の役は高麗の国力と軍事力を削るため。そんな事情を無視して日本側視点でしか見ないからネトウヨは困る」
みたいな珍説書いてるサイトを見たわ。
もし本当に高麗の軍事力削るのが目的なら
金包茎が「背水の陣の故事にならって頑張ろうぜ。先陣は俺がやる。」
って言った時点でクドゥンは引き止めずに「どうぞどうぞ。」ってやる筈だよなw
ましてや高麗の王様は日本攻めるのにやる気満々やったやんけとw
ツイッターとかブログとかって電波飛ばす為にあるんじゃん
それ言い出したら2ちゃんはどないなんねんって話だがw
ネトウヨが〜とか言ってるあたりその人らも最初は2chで電波飛ばしてたんじゃね
元寇スレは数年前からコンクールくんと棄民くんが住み着いて電波飛ばしてるよ。
コンクールくんは元々は威力偵察くんだったんだけど
威力偵察説がほぼ否定されたし、文永の役で元軍が予想以上に苦戦してたのが
明らかになったから今度はコンクールパフォーマンスなる珍説で
武士たちが一騎打ちとは違うがやはり稚拙な戦い方をしていたと主張したいようだ。
コンクールさんの説に従うならそんな戦い方をしていた武士たちに
蹴散らされた元軍って何って話だけどね。
コンクールさんによると蹴散らされたのは日本側らしい。ソースは八幡蒙古記。
てことは楽勝過ぎて面白くないから帰ったのかな元軍は
あの史料の珍妙な解釈の仕方は鈴木眞哉に通じるものがあるな。
しかし文永の役において、元軍は「お前本当に日本攻め落とすための軍か?」と
問い詰めたくなるくらい短期間で戦闘能力を失って(原因は保留)撤退したんだろ?
どう整合するんだ?
案1 日本側が信じられないほど稚拙な戦い方をしても撃退できるほど元軍が弱かった
案2 日本征服の為の戦力全部、九州上陸戦で使い切ってしまった。この場合、九州では
一日に百万本の矢を放つような、とんでもない大攻勢が見られたはず。
案3 九州上陸の時点で、日本軍以外の要因によって戦闘力を大きく失っていた。この要因としては
物資が海に沈んでしまった、食糧が腐った、疫病が発生したなどが考えられる。
案4 元が投入した兵力は、これまで考えられてきたものより、かなり小さい。
元側は本当は先に南宋を落してから十分な兵力を持って日本に侵攻したかったのだが、
高麗が元をせかして兵力不足ながら高麗兵中心で侵攻したんじゃなかったっけ?
396 :
名無し三等兵:2012/03/28(水) 22:54:28.66 ID:8L+HTxmo
>>394 案X 元軍の戦い方は広大な後背地を利用した機動戦術がメインだったが
海上から橋頭堡確保→戦線を押し広げるというやり方は不得手だった
というのはどうだ?
単純に日本の国力を読み違えていたんだろ
>>395 文永の役の編成は四万のうち
蒙漢人(詳細は不明だが華北の混成軍ぽい)が二万六千と
高麗軍が九千人で残りが水夫及び非戦闘員って高麗史に書かれてたから
別に高麗人が中心ってわけでもないお。
>>397 四万って数は他の地域への侵攻軍と比べても決して少なくはないけどね。
やっぱり当時の航海水準じゃ継続的な補給活動を期待できなかったのが敗因かねぇ
補給程度じゃどうにもならんだろう
同規模の増援を第三波、第四波、第五波ってどんどん追加していけるくらいじゃないと
>>398 だが「兵4万と船900艘を与える。日本征服の先遣隊として太宰府を落とし、橋頭堡とせよ」と
命じられて、「兵が足りません」などの文句を言わずに、行ってきますと言う度胸有る?
やはり出発時点では日本を侮っていたんじゃないか? 九州まで来た時点で
「俺の聞いてた日本と違う」と気が付いて、この戦力じゃ無理だと撤退を決意したと。
402 :
名無し三等兵:2012/03/29(木) 00:23:06.01 ID:OKpsXoHt
>>398 じゃあ4万で日本征服できるかと言うとできないだろ
問題は他の地域に何万送ったかではなく相手の能力に応じて必要な数を送ったでしょ
対南宋戦では一か所での戦闘で10万(最大で20万越え)とか動員してるし
中央アジアとかロシアみたいな過疎地を征服するならともかく農耕地帯を征服するのに
全軍合わせて四万というのはそんなに多いほうかね
4万で日本全土を占領できるとは思ってなかっただろうが、北九州ぐらいは占領できると思ってたんじゃないだろうか
着上陸戦闘の要領がまるで分かってなかったのか、単にナメてたのか
文永は征服というより小国に対して服属を強いる示威行動のつもりだったんじゃないの?
クドゥンの小堅は云々ってやり取り見てると
やっぱし日本側の兵力を過小評価してた部分はあるんじゃない?
文永の役の前の使者は結局太宰府周辺の情報しか持ち帰れ無かったからね。
示威行為や懲罰目的というとやや語弊があるが、元は当初は九州北部を武力制圧した上で
日本を半ば従属させて有利な交易関係を結ぶつもりだったんじゃない?
407 :
名無し三等兵:2012/03/29(木) 12:44:32.43 ID:rmhWXigM
弘安はまさに防御戦の様相だったしな。
石塁で防御線を張る日本軍と攻撃する元軍とで。
仮に元軍が使った陣天雷(手投げ爆弾兵器)を石塁破壊や防御線を張る
日本軍への手榴弾的な攻撃兵器に使ったり、火砲や銃的な兵器を持ち込んだら
それこそ文永以上にピンチになったはずだ。
もっとも弘安の日本攻撃兵団がモンゴル軍とは言え大半が南宋軍と高麗軍で
モンゴル系は指揮官や将校クラスのわずかなもんだった。
金を滅ぼすでさえ苦戦していた。
>>407 石塁での戦闘というのは具体的にどの程度行われたんだ?
史料ではどうなっている?
>>405 侵攻規模の小ささから見るとそれもありえそうではあるが、元側の記録にある軍議の内容を見る限りはもっと切迫した状況で撤退したようだがなぁ
服属を強いる示威行動なら、「このぐらい暴れとけばもういいだろ」と適当なところで引き上げるだろう
それに結局のところ服属させられなかったんだから、戦略目的の未達成という点では変わらないわけで
むしろ、なまじ日本に衝撃を与えて次の侵攻への備えや動員をさせちゃったんだから文永は完全に失敗だったと思うがなぁ
弘安の役の時の陣容で、文永の時みたいに日本側の備えが十分でない状態で侵攻してたら勝てたかも知れんが
>>407 当時の火薬兵器は威嚇以上のものじゃないだろ
モンゴル軍は投石機を使ってたが、
橋頭堡を築けるか築けないかという状況で
投石機を揚陸して使い物になるかどうか・・・
というか当時の投石機って城にぶつかってから、
現地の資材で作るものだったような
そういやトレバシェット持ち込んで無かったから元は本気じゃなかった説もあるな
>>407 弘安の役の戦闘経過を少しでも知ってるなら
間違ってもそんな認識は持たないと思うがなw
日本軍が石塁に篭ってひたすら陣地死守に専念してたならわかるが
実際には小舟で斬り込んだり壱岐島に突撃したりと
積極的に攻勢をかけてたのが日本軍で、
後退を繰り返して守勢にまわってたのが元軍じゃん
>>407 大半が高麗軍と南宋軍って・・・
高麗軍は東路軍四万のうちの一万人程度に過ぎないし、
南宋軍はほとんど戦闘に参加してないぞ
ちょっと基礎的な勉強からやり直すべきじゃないか?
元軍がちょっと乗り込めば日本はびびってすぐ降伏するってのが元側の設定だったとしか思えん
高麗の言うことを真に受けるから・・・
416 :
名無し三等兵:2012/03/29(木) 23:03:39.50 ID:OKpsXoHt
朝鮮と組むとまける
少なくとも国外窓口の太宰府までは
情報を持っていたはずなのに
なぜ日本を見くびってしまったのか
遊牧民族の生活習慣からみると
日本人は弱兵に見えるのだろうか
単純に武士のようなプロの戦闘集団と戦った経験が無かったからじゃ?
同じようにプロの戦闘集団のマムルークは遥か西だしね。
この国、牧草地が見当たらないからほとんど馬を持っていないに違いないとか
仮に日本武士が弱兵でも元軍は結局は戦術的勝利の積み重ねが戦略的敗北を
覆すことは無いってパターンにはまるとしか思えん
モンゴルはこのやり方で重ねて世界征服直前までいきましたし。おすし
そもそも元史で日本遠征に関連する記述がかなりアバウト
(特に実際の作戦遂行の経緯)な以上、元にとっては
勝っても負けてもどうでもよかった戦いには違いあるまい。
やはり高麗や南宋の勢力削減説が妥当だろう
水軍が壊滅したせいで直後のベトナム遠征が失敗したり
倭寇発生の原因になったりしたわけじゃん。
大陸国家モンゴルに海についてのセンスが致命的に無かっただけかもしれんが
モンゴルの兵は船酔いになってたんじゃ?
>>422 ああ、あの中国王朝史の中でもっとも評価の高いといわれる「元史」ね。
>>422 元史は基本的にアバウトな事しか書いてないでしょうが
仮に日本の軍人が中国もしくは朝鮮半島並の水準
だったとしたら征服可能だったろうか。
彼らの設定では中原より離れるほど野蛮な蛮族なんだろ
日本の政府は非武装で
民間が武装してて
武装した民間に撃退された
使者はどんな目で日本を見たのだろうか
どこの兵隊も武装した百姓だろ
兵役に出て最大数年の兵と
子供のころから訓練してる兵の違いってことかな
431 :
名無し三等兵:2012/03/31(土) 17:30:03.42 ID:I9tqq3Xn
>>429 源平から元冠にかけては家人が歩兵やってる。
一応訓練くらいはやってるよw
>>429 そのへんどうにも勘違いしてる人が多い気がするね
半農半武って言っても別に現代人が想像するような百姓じゃないぞ
一部の没落した家を除いて基本的に武士は地主階級であって地元の名士的存在と考えていい
戦国時代になると一部素性の知れない浪人も動員されるようになったけど
それでも主力はそれなりに身分のある家から主従関係を通じて動員された人達
向こうのスレでパフォーマンスコンクールくんが自画自賛し始めたぞw
見てきたwwww
>>422 「記述がアバウト → 勝っても負けてもどうでもよかった戦い」ってのはどういう論理展開だ ?
2度までも大軍を送り膨大な損害を出しながら、何の利益も無かった戦いが「 勝っても負けてもどうでも
よかった戦い」だってのかよ。
多くを記さないのはそれがまさしく「膨大な損害を出しながら、何の利益も無かった」彼らにとって多くを
語りたくない負け戦だったからだと何故素直に考えられないんだ ?
この論理は初めに「元寇は元にとって勝っても負けてもどうでもよかった戦い」という大前提が有る。
その上で大損害を合理化するため「高麗や南宋の勢力削減の為」という珍説を導入し、それを補強する
「証拠」として「元側の記述がアバウト」なんてどこが証拠なのか意味不明の話まで持ち出すんだな。
>>435 俺の言いたかったことを代弁してくれてありがとう
コンクールくんって本当に書き込む時間が不規則だよな。
文章が特徴的だから一発で本人とわかるし
438 :
名無し三等兵:2012/04/06(金) 16:46:48.77 ID:8lXcaxUS
日本史板のスレ。
なんかわけわからんことになってるな
元寇第一弾の史料不足はどうにもならんからね
何万あれば元は日本征服できたんだ?
日本側の準備が整っていない文永の時点で弘安並の兵力を揃える事ができればとりあえず九州ぐらいは占領できたんじゃないか?
どちらかというと船の数の方が重要な気がする
>>432 主力は訓練された百姓に決まってるだろ
人口ピラミッド考えれば絶対数が圧倒的に足りないのに一体どっから持ってくんだよ
兵士=武士が成り立つわけねーだろ
>>443 中国だと一定の戸数ごとに兵士を出す家を決めて足りない分は傭兵で補ってたりとかしてたし
その時代の兵制によるだろ
>>443 どんだけ常識ないんだよ
でも世間の認識なんてこんなレベルなんだろうな
一昔前は可愛そうなお百姓さんが無理やり戦に駆り出され・・
なんて嘘の歴史観が平気でまかり通っていたからな
3000動員したら地侍2500以上必要になるなw
地侍って畑から採れるの?
戦国期の動員、とくに長期に及ぶものは主従関係によるものだから庶民を動員しようがない
総動員令の発動は稀な上に殆ど実効性が無かった
また江戸時代の具体例として徳川宗春の総動員令発動時を見ると
鷹狩名目での藩内の一時的動員が武士1万、その他1.5万
江戸時代の強固な支配体制+地侍の多くが武士でなくなり農村に帰っていた状態でその比率
また北条は瞬間風速250万石の領国を有していたが
秀吉侵攻に際して老若男女総動員令を発動するも5万人が精一杯だった
448 :
名無し三等兵 :2012/04/09(月) 21:36:17.76 ID:???
>>447 戦国時代の動員目安は、一万石あたり200-250人とされるから妥当な数字だね
足軽が主力になる前の鎌倉期はもっと少ないだろうが
鎌倉時代の武家人口がどのぐらいか知らんが、仮に総人口(600万ぐらい)の数%だとして、
そのうち戦闘に耐えるのが4、5人に1人だとすると、庶民を動員せず武士だけでも全国で数万人ぐらいは動員できる計算になるのか
>>450 武士階級からのみ戦える人員を根こそぎ動員する訳だから、全国の総人口から見れば1%以下だぞ
全国から総動員しても数万じゃ
元・高麗連合軍十数万に征服されかねんな
決戦なら練度や兵站で勝てそうだが
百年戦争するつもりでピストン輸送されたらヤバい気もする
船が沈んでよかったね
もっともそんなことしたらさすがの元も財政破綻しそうだが
454 :
名無し三等兵:2012/04/10(火) 08:40:07.12 ID:7ThBO2Cx
>>453 大陸志向と海洋志向の両立をめざすのと
戦力の逐次投入
よくない
>>452 何回も撃退されて本格的上陸できず
数ヶ月海上をただよってりゃそりゃ台風来る罠
>>452 頼朝の奥州攻め時の兵力は公称28万だぞ。
話半分だろうが、それなら元軍の公称兵力も話半分で考えるべきだろう。
それをいうなら日本側も半分にしないと不公平だろ
半分にしても14万って文脈だろ
そうかごめん
ただ、元寇の時に実際に交戦した日本側の兵力は元側より明らかに少なかっただろうけどね。
特に文永の役なんて、総大将の少弐ですら手勢が500騎(従者含めて2000人前後?)で
竹崎みたいに主従で僅か数人〜十数人みたいなのもいたのを考えると
どう考えても総勢でも1万いかないと思うな。
>>460 少弐だけで5分の一ってことはないだろう
(そんな九州内で圧倒的な動員力だったらもっと領地持ってるはず)
もうちょっと多いが元軍の半数は超えないと見る
462 :
名無し三等兵 :2012/04/11(水) 21:43:20.35 ID:???
少弐氏は豊前筑前肥前三カ国の守護だぞ、そのくらいあって当然。
直轄兵力だけでなく、任国の中小武士団も配下として統括指揮してたんだし。
菊池や白石といった地元の有力者が100騎(従者入れて400人程度?)
だったのを考えても参戦兵力は少なかっただろうね。
464 :
名無し三等兵 :2012/04/13(金) 22:20:18.18 ID:???
従者入れて最大でも10000てところだろうね
異民族との総力戦なんて全く考慮してない軍制だからな
恩賞が土地だから異民族との戦闘は何ら利益にならないし
直接の利益にならないのは異民族との戦闘だからじゃなくて防衛戦だからでしょ
あと防衛戦は恩賞として与えられた土地を守る事につながり消極的利益はある
のと戦死した者の領地を相続したりと反射的利益を受けた者もいただろ
468 :
名無し三等兵:2012/04/15(日) 07:54:58.64 ID:ykDkYzsN
あの当時侵攻軍は存在するだけで病死とかでどんどん消耗してくからな。長期になればなるほど不利だろ。
歴戦の蒙古軍ならそれを理解してるだろ。
海上に長期間居るのがどれだけ大変か分かってなかったんじゃ?
陸上なら敵地に月単位で居ても別にそこまで大変じゃないし
しかし弘安の最後が鷹島に兵10万置き去りにして逃亡ってなんだよ
さすがにひどすぎると帰国後処分されたらしいが
幕府と交渉して撤退させてもらう道はあったのだろうか
472 :
名無し三等兵 :2012/04/15(日) 22:06:26.58 ID:???
あるわきゃないだろJK
大陸の野戦でも、ボロ負けしたら雑兵は置き去りじゃないのかな
同じ感覚で逃げられる人だけさっさと逃げた、とか
いや嵐で船団が壊滅した後江南軍上層部は残った船の中からとくに頑丈そうな船を選んで乗ったり
南宋人ら兵士を下船させモンゴル人ら将校を回収して撤退してるから兵士置き去りは計画的犯行
475 :
名無し三等兵:2012/04/16(月) 01:52:59.51 ID:pOnVMvWW
計画的犯行なら尚更、部下見捨てた将校が罰せられて
逆に自分の部下を無事に連れ帰った将校がお咎め無しだった理由がわかりません。
再提出
>>475 部下見捨てた将校が罰せられたのは皇帝に撤退時の状況(
>>475)がバレてからなんだけど
それまでは部下見捨てた将校もお咎め無しだった
478 :
名無し:2012/04/18(水) 12:58:00.94 ID:???
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■イベント期間:プレイ初期
■対象者:[挟撃戦]サーバー
■イベント内容:毎日ログインするだけで、初心者限定の賞品が貰える。
■賞品内容:ゲーム開始と同時に、一定時間を過ぎると初心者ギフトパックが現れます。
■賞品配布期間:ゲーム開始した後現れます。
■賞品配布場所:ゲーム画面の左上にあるギフトバックで受け取ってください。
※オンライン時のみカウントを行い、ログアウト後は再ログイン時から再開されます。
※詳しくはサイトまで!
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日本人って昔から優秀すぎる。
他の民族なんか旧人に見えるな。
世界の民族の中で一番進化してるんじゃないか?
今の人類より優れた新人類が誕生するとしたら間違いなく日本からだろうな。
スレとの整合性は?
世界最大の帝国を築いたモンゴルでも日本にしてみればこの程度ってこった。
珍ギスもアレクさん?もナポレなんとかも日本の戦国時代に生まれてれば
しょっぱく滅ぼされる戦国大名で終わってただろうよw
日本人が世界と比べて劣ってるのは原始的特長の色濃い体格だけだ。
内陸国の軍隊を海上で迎え撃って撃退しただけなのに
そこまで自画自賛しても…
海岸近くではあるが陸戦が多かったんだけど
元軍得意の馬を多数持って来れなかったのは確からしいが
かといって全くなかったわけでもないようだし
>>479,481はホメゴロシのような気はしますけどね
軍ヲタなら両軍の単純な強弱比較じゃなくて侵攻側の海上輸送力の不足とかそういう分析をするだろ
ベトナムやアフガンがアメリカやソ連より強かったなんて言う奴は居ないだろうし
矢の性能が違うし、接近戦になっても日本刀で大陸のチャチな剣なんかもろとも一刀両断できる。
馬多数持ってきたって山が多いから動きが制限されてモンゴルなんて朝飯前で撃退よ。
矢の性能ってそんなに違うか?
歴史群像かなんかの検証では日本とモンゴルの弓は
互角ないし日本側がやや優勢くらいだったが
矢は大して変わらんだろ。遊牧民にとって弓矢は生活の糧だ
木がない代わりに動物の骨や腱をつかえるから馬鹿にできない
むしろ毒矢は卑怯とかいってた日本の方がぬるい
そもそも元側は毒矢使ってない説があるんだが
弘安の役は防塁と台風のおかげとして文永の役の日本側のどこがそんなに強かったのか分からない
職業軍人である武士と農民兵の練度の違いといっても徒歩戦では練度より物量のが大事だし
騎馬武者がそんな広くもない福岡平野を駆け周り騎射で元軍を撃退したというのはちょっと
>>489 弾薬不足とか指揮が低かったとかそんなんだろ多分
人数比で見れば元側が数倍以上確保してたんだから、もし質が対等でなおかつその戦力が発揮できる状態だったら日本が負けてただろ
>>486 基本的に人力で引くんだから性能自体に大差は無い。
強い弓を引くには大きな腕力が要る。
張力が同じ場合、重い矢は威力が大きいが射程は短く、軽い矢は威力は小さいが射程長くなる。
条件を無視して威力だの射程だの比べたって大した意味は無い。
ただ傾向として張力が同じならはモンゴル式の短弓は速射性に優れ、日本の長弓はより威力のある矢を
射やすいという傾向はあるだろう。
矢→日本の鎧に効かない
刀剣→日本刀を受ければ折れるほど脆い
馬→平地が少なくて展開し辛い。
気候→高温多湿で体が慣れない。
仮に地続きでもこれでモンゴルが日本攻略できると?
>>492 >馬→平地が少なくて展開し辛い。
>気候→高温多湿で体が慣れない。
元は高温多湿で山がちな華南まで征服してる
495 :
名無し三等兵 :2012/04/21(土) 21:17:27.62 ID:???
日本の矢は丈夫な竹を使い、しかも炙って矯めているから、
ただの木製の他国の矢と比べて、個体差が少なく重心のバランスがよく
軽いので、弓とも相俟って結果的に飛距離が長く命中精度にも優れる。
これに幼年期から日々鍛錬してきた武士の腕が加わるから、徴募兵の支那・
高麗兵はもとより、遊牧民の蒙古兵と比べても個人レベルでは優秀だった
のは間違いないね。
遊牧民の弓は動物の骨と皮を使ったコンポジットボウだよ。
和弓と比較してどうだったかは知らんが
>>492 矢→日本の鎧に効かない
それは距離によるでしょ郎党なんかは兜も付けてないのもいるし
刀剣→日本刀を受ければ折れるほど脆い
蒙古襲来絵詞では元兵が実際に使っている武器は弓か槍で
全員が腰に提げてはいるが剣を使ってるシーンはなかったような
馬→平地が少なくて展開し辛い。
それは日本側にも言える事
元側は大草原があるから平地でもっとも力を発揮できる馬の運用方法で、
日本側は山が多い地形で有効な馬の運用方法だったんでしょ
騎射が可能な技量があったのは双方同じなんで、後は得意な地形だったかどうかで比べれば
当然防衛側のが有利なんじゃね?
あと矢が鎧に効くかどうかは、距離もだけど鏃の重さと矢の長さも関係してくる。
499 :
名無し三等兵:2012/04/21(土) 23:10:12.51 ID:Fah1NSHR
ハリネズミみたいになりながら
つっこんでくるからびびったってカキコがあったような気がする
つうか日本側は防衛戦争で防衛に成功したんだから勝ちだろ。
元や高麗は侵略戦争仕掛けて占領どころか有利な条約を締結出来てないんだから大敗だろ。
うん、それはもう知ってる。
このスレのテーマは元はどうやったら日本に勝てたかって話。
>>501 バクチだが高麗の日本海側に艦隊と上陸部隊集めて越前、加賀に大規模上陸し天皇を保護擁立し畿内制圧。
>>501 文永のせいで日本側の動員体制が整えられちゃったんだから、文永をやらずに南宋の降伏を待って弘安の時の陣容で第一撃をやればけっこういけたんじゃないかなぁと
確か文永の時の日本側兵力は数千程度しか居なかったはずだし、こちらが十万以上で石塁も無しなら勝てただろ多分
とはいえ北九州は制圧できてもその後どうするかという問題もあるが
十万もあれば北九州といわず九州全土かそれ以上の地域を制圧できるだろ
当時の九州の人口は80万ぐらいだし
まあそうするとこんどは兵糧の問題が出てくるが
>>505 むしろそれが一番の問題
当時の九州なんて人口過疎地でまともに大軍は展開できない
弘安での元の動員兵力は現地の実情を把握しない暴挙に近い
長細い列島の端から攻めるってのがしんどいな
どれだけ強くてもヘイスティングみたいな決戦一発で終了にはなり得ない
>>506 そのための墾田兵だったんじゃないか?
大陸からの補給もあるはずだし不可能ではないでしょ
>>507 そこは気長に九州から順々に取って行くしかないだろう
対南宋戦だって一度の会戦ですぐけりがついたわけじゃないし
幕府の息のかかった勢力を追っ払ったらすぐに混乱なく、現地の生産力を損ねることなく
統治・徴税できる体勢を整えておく必要がありそうだけど
事前の内応工作とかないよね
言葉も通じない異民族じゃ厳しいな
せめて壱岐対馬の日本人を恭順させて
交渉役にするぐらいの準備が無いと
いうまでもなく実際の守護は抵抗の末玉砕してる
×抵抗の末玉砕
○一蹴されて全滅
まあたかだか数十騎の守備隊を一蹴できないようじゃ
日本侵攻なんて無理な話だな
話せる人間なら高麗側で用意できるだろ
そうでなくとも文章での会話ならできるし
しかし、仮に対馬海峡の制海権が確立したとして、日本全土を制圧するだけの兵力を輸送する船腹を確保できたんだろうか?
高麗史に通訳がいたことが確認できるよ。
日本全土を制圧するだけの艦船をそろえるのは不可能。
弘安の役で艦船の大半を失った後、数千の艦船の建造をフビライは命じたけど
建造を課された地域では反乱・盗賊が跋扈するようになってる。その後はフビライは
建造の命令を出しては、命令を引っ込めることを繰り返してグダグダだった。
弘安の役が全力・最大限の元朝の可能海外派遣数でしょ。弘安で4400艘も用意して
失敗したんだから、日本全土を制圧するほどの艦船を用意できたとは思えない。
北九州さえ取れれば以降兵士の輸送にかかる負担は減るし
後は狭い関門海峡さえ越えれば陸路で攻められるんだからそれほど船の数はいらないでしょ
北九州を取れるほどの
兵士を輸送するだけの船が
用意できなかった
船もそうだが、兵士も用意できたか疑問。
元の敵は日本だけじゃないからねえ。
兵糧も旧南宋にしか頼れない上、旧南宋は盗賊の跋扈など治安が悪化して
さらに重い負担を与えたらどうなるかわからない状況だからね。
船・兵士・兵糧どれをとっても、日本征服に必要な数を揃えるのは難しいだろうね。
モンゴルはまともな事前工作とかしなくて抵抗したら皆殺しって戦術だったからな
逃げ場のない平原では有効だったが山岳地帯や海越えの侵攻ではそれは無いわな
>>517-518 でも元寇で元が準備にかけたのは約1年と短いから
あれが用意できる限界かというとそんな事はないでしょ
それとどれだけの兵と船を用意すれば北九州取れたと思う?
>>520 じゃあ、弘安の役で4400艘の艦船が壊滅した後、フビライは3千艘の建造を命じたものの
民の疲弊や盗賊の蜂起を理由に幾度も、建造命令を引っ込めた事実はどう思う?
それも、フビライの死まで3千艘を建造することは最後までできなかった。
それが元朝の国力の限界だったということだよ。期間が短いとか関係ない。
船だって腐る。
南宋の保有した多くの軍船を腐らせる前に南宋征服後、ただちに対日本戦に転用したのは
利には適っているよ。
>それとどれだけの兵と船を用意すれば北九州取れたと思う?
そんなものはやってみないとわからないとしかいえない。ただ、確実に言えるのが14・15万、4400艘
を動員してあの結果だったことや弘安の役後の建造具合などを勘案すれば、元軍が大宰府を占領するだけの
軍勢と船舶・兵糧を用意するのは不可能だということだけは確かだ。
522 :
名無し三等兵:2012/04/26(木) 17:15:53.90 ID:ayAXZ3oU
>>518 そうなん?
むしろ事前に離間工作を散々仕掛けるのがモンゴルの常套手段って聞いたが。
尤も使者を太宰府に封じ込めて叩き返した鎌倉幕府相手に
離間工作仕掛ける隙は無さそうだけど。
九州の御家人の反乱煽るにしても難しいだろうね。
初期のモンゴルは蛮族丸出しで
抵抗する国をかたっぱしから屠城してたろ
元のころになると丸くなって
諸民族の力を取り込むことができるようになったけど
あいかわらずバリバリの武闘派で
調略が上手い印象はないな
降伏に応じれば寛大な処置を取り抵抗すれば徹底的に潰して見せしめにするのが
元の常套手段だから
>>521 2年かそこらで船が朽ち果てるてのはいくらなんでも早過ぎでしょ
朝鮮が1年ぐらいで900隻の軍船を仕立てたのに中国が3500隻しか用意できないというのも?
中国から直接日本に行かず朝鮮に回航してから攻めれば
東路軍と江南軍の一隻当たりの兵数からして同程度の輸送力の船だとしても1.5倍以上の兵を運べるようだし
(おそらく江南軍の船の方が東路軍の船より輸送力は高い)
>2年かそこらで船が朽ち果てるてのはいくらなんでも早過ぎでしょ
朝鮮が1年ぐらいで900隻の軍船を仕立てたのに中国が3500隻しか用意できないというのも?
持てる船をすべて日本に派遣できる朝鮮と広い海域を押さえ、敵は日本だけではない元朝では比較するのが、
そもそもおかしい。
そして、現実は弘安の役の後、10年かかっても3千艘の建造に元朝は失敗している。
さらに、元朝の敵は日本だけではない。そちらの方面にも艦船を備えなければならなかった。
旧南宋の軍船と元が新たに造った新造艦を合わせて3500艘を動員し、壊滅した後
各地で軍船の建造が開始されたが、その時点ですでに木材が不足していたことが『元史』では
確認できる。
兵士も不足していたことも元史では確認できる。元は第三次日本遠征計画におよんで兵力の不足を
補うために死刑囚を動員することが、議論されていたほどだ。
兵士、艦船をまともにそろえることができなかった元朝が日本を征服するのは無理って話。
まあ、無理だろうけど、たとえ5000艘と20万の軍勢を集めても、弘安の役で戦った主要な御家人は
九州の御家人が大半であった点を考慮すれば、結果は同じだろうけど。
広い領域を支配するのに、「船」を重視した元朝であったが、木材、人員、どれをとっても
3千艘を造るのに
>元朝の敵は日本だけではない。そちらの方面にも艦船を備えなければならなかった。
当時ベトナムの陳朝は元の属国だったからそれほど艦船を備える必要はないでしょ
東南アジアへの遠征も日本遠征に失敗した翌年の1282年のチャンパ侵攻からで
樺太のアイヌも従属してきた現地住民の要請で1264年に攻撃したっきり1284年まで放置してたし
>>527 1281年の時点ではね。だが、その一年後には占城は反旗を翻し、
緬国も敵となっている。また、同年に1万人規模の海賊との戦闘が確認
できるなど、海道が不安定なことも考慮すれば、ますます、1281年の
時点に旧南宋の軍船と新造艦を派遣したのは、元朝の利に適ってるという
ことになる。
前述したように、そもそも、弘安の役で戦った御家人が九州の御家人が大半で
あり日本側に兵力の余裕があった事実と第三次遠征計画の杜撰さ、前線基地の高麗
が極度に疲弊していたことを考慮すれば、どう考えても大宰府占領するだけの軍船や
兵士を揃えるなんて夢のまた夢だよ。
後知恵かもしれんが、元朝+高麗連合軍が日本侵攻を成功させるには
最初の1回で一気に兵力を集中投入して飽和攻撃を行い、橋頭堡を確保するしかないような
ただ、それでも次は庶民レベルの抵抗をしのげるかは怪しいな
>>528 >その一年後には占城は反旗を翻し、緬国も敵となっている。
チャンパは元が武力でもって接収しようとしてきたから抵抗しただけで自ら反旗を翻したわけではないでしょ
ビルマが反抗的なのは最初からの事で今さら問題にする事でもないし
元はビルマを1万の兵を送っただけで屈服させる事に成功してる雲南から攻めたので船も関係ない
>弘安の役で戦った御家人が九州の御家人が大半であり日本側に兵力の余裕があった
兵站能力の低い時代だと一度に投入できる数はかなり限られるから総兵力はあまり意味がないし
そういった条件を無視するなら元側は百万以上の軍がいるわけで
>前線基地の高麗が極度に疲弊していたこと
これはたしかに問題
高麗の復興にどの程度かかるかと事前の備蓄と中国からの補給でどこまで補えるか
>>530 >チャンパは元が武力でもって接収しようとしてきたから抵抗しただけで自ら反旗を翻したわけではないでしょ
きっかけは問題ではないよ。1282年の時点で元は南方と海賊による海防に悩まされていた。
これらの問題が表面化せず、日本侵攻のベストの年が1281年だったということ。
だから、元が第三次日本遠征で準備期間を長くしようが、周囲の状況が厳しくなっていく状況下で
日本遠征が優位になることはないってことだよ。
>兵站能力の低い時代だと一度に投入できる数はかなり限られるから総兵力はあまり意味がないし
そういった条件を無視するなら元側は百万以上の軍がいるわけで
攻撃側と守備側では自ずから兵站能力に差が出る。
実際、弘安の役の際、宇都宮貞綱率いる関東派遣軍が九州に動員されたが
戦場に到着する頃には決着がついていた。つまり、日本側はさらに大軍で
元軍と対抗できたことを物語る。
また、元側にも日本側が人口・兵力数が強大だという認識が存在していた。
元史には日本再征の議論の際、日本が人口が多いこと、日本に上陸すると
日本軍の大軍に包囲され、孤立無援になる危険性が挙げられている。
きっかけは元による東南アジア侵攻なんだから元がアクションを起こさなければ問題は起きないでしょ
守備側といっても関東など遠方からの援軍は攻撃側と同じ兵站の問題があり全軍を動員できるわけではない
元々の兵站能力で元は日本側より勝っている
元の侵攻は奇襲になり初期の戦いは九州の御家人しか参加できない
日本側に九州北部に大軍を常駐させる補給能力はない封建制の性格としても長期の遠征は難しい
九州の御家人が北九州防衛に失敗した場合関門海峡が封鎖され援軍との合流が難しくなる
関門海峡封鎖って元軍は対艦ミサイルでももってるのか
本州と九州は瀬戸内海という極太の補給路でつながってる
>関門海峡封鎖って元軍は対艦ミサイルでももってるのか
壇ノ浦の戦いで源氏は関門海峡は九州側に陣取って平氏の九州逃亡を阻止してる
>本州と九州は瀬戸内海という極太の補給路でつながってる
その瀬戸内海の終着地が関門海峡
豊後に渡る手もあるけどこっちは本州から距離があるのと潮が速いから大量輸送には関門海峡を使いたいところ
なるほど
ただ元の水軍は海戦に強いイメージな皆無だな
史実で侍に切り込まれまくりだったし
そこは陸からの援護に期待するしか
>きっかけは元による東南アジア侵攻なんだから元がアクションを起こさなければ問題は起きないでしょ
順序が逆だよ。朝貢していた占城が反元の立場にたったから、占城に元が攻め込んだんだよ。
元が東南アジアに攻め込んだから占城が反元になったのではない。
よって、元がアクションを起こさなければ問題が起きないわけではない。
>守備側といっても関東など遠方からの援軍は攻撃側と同じ兵站の問題があり全軍を動員できるわけではない
元々の兵站能力で元は日本側より勝っている
また、元が兵站能力では日本側に勝っているという根拠も不明。
弘安の役の戦後、宇都宮貞綱の派遣軍が博多に到着し守備についている以上、日本側の動員力が実際に戦闘を行った兵力数以上
の動員力を発揮できることは証明されている。しかし、元は第三次日本遠征の準備で兵、軍船をそろえることに悉く失敗している。
どちらが優位かはこれだけでも十分理解できる。
>九州の御家人が北九州防衛に失敗した場合関門海峡が封鎖され援軍との合流が難しくなる
何度もいうが、弘安の役で14万以上も動員して海上から身動き取れない状況や第三次日本遠征
計画での兵、軍船をそろえることに失敗している計画の杜撰な元が、大宰府を占領することは不可能だ。
>元がアクションを起こさなければ問題が起きないわけではない。
元への朝貢を拒否しただけで即征伐する必要はない
実際に元はビルマへ送った使節を殺されたがそれでも報復しなかった
>元が兵站能力では日本側に勝っているという根拠も不明。
常識的に考えて当時の日本が東シナ海を越えて十万越えの軍を輸送できるわけない
>日本側の動員力が実際に戦闘を行った兵力数以上の動員力を発揮できることは証明されている。
全国の御家人を合わせていくらいるとかはあまり意味がないと言ってるだけで
元の文でもそれは否定してないんだけど
>第三次日本遠征計画での兵、軍船をそろえることに失敗している
だから東南アジアへの遠征失敗を繰り返したりせずちゃんと準備すれば
元朝の国力的にはいけるんじゃないかって話
消耗戦になったらどう見ても補給線が短い日本有利だろ
史実の元船団は風待ちでスケジュール狂いまくり
無理を押して撤退渡海したら台風喰らって壊滅だからな
まあでも単純に距離からいったらそんな変わらないんだよね
福岡〜釜山・広島200km
福岡〜ソウル・京都500km
福岡〜東京900km
福岡〜大連・福岡〜上海(釜山済州島経由)1000km
>元への朝貢を拒否しただけで即征伐する必要はない
実際に元はビルマへ送った使節を殺されたがそれでも報復しなかった
占城などは日本より前の数十年も前から、元と交渉をもっており、なおかつ
元に朝貢していた。元からの冊封体制の離脱は、始めから冊封体制に組み込まれていない
日本とは比較にならないほど、国の威信を傷つける。占城を差し置いて、日本だけ注視
するなど現実的な話ではあるまい。
>常識的に考えて当時の日本が東シナ海を越えて十万越えの軍を輸送できるわけない
論題は元の日本侵攻の成功の可能性についてなんだから、東シナ海がどうのは全く関係ない。
日本側は守備側なんだから、兵站で有利なのは日本だということ。
>全国の御家人を合わせていくらいるとかはあまり意味がないと言ってるだけで
元の文でもそれは否定してないんだけど
日本の総兵力の話をしているのではない。元軍壊滅直後に北九州に到着した軍勢が、14、15万の
軍勢を足止めにし、壊滅させた九州勢を主とする軍勢のほかにも存在するということは、日本側が
戦闘を行う上で相当の余裕を有していた、ということだよ。
>だから東南アジアへの遠征失敗を繰り返したりせずちゃんと準備すれば
元朝の国力的にはいけるんじゃないかって話
東南アジアの遠征準備が元の負担になったのは元史などで確認できるが、派兵数は
多くない。
例えば、1284年の東南アジアの遠征に際して元が派遣したのは、1万5000の兵と
軍船200艘でしかない。元軍は東南アジアに派遣した軍船は、日本への第一次侵攻
である文永の役の900艘を超えるものはなかった。
その程度の軍船をたとえ、日本遠征にまわしても戦局を挽回できたとは思えない。
たとえば、実際に15万も動員して、主に九州勢相手の軍勢に対して橋頭堡を築けなかった
軍勢が、東南アジアにまわす軍船数百を日本にまわしたところで戦局が挽回できるはずも
あるまい。
542 :
名無し三等兵:2012/04/29(日) 22:54:32.25 ID:yMrLHMlg
フビライは、文永の役当時、ハイドゥ、南宋にはどの程度の兵力を
割いてたんだろう?
>占城を差し置いて、日本だけ注視
占城が朝貢に応じたのはほんの数年前のことだし実際に日本遠征を優先して
占城遠征は帰還した日本遠征軍で行う事になってたでしょ
>論題は元の日本侵攻の成功の可能性についてなんだから、東シナ海がどうのは全く関係ない。
だから元々の兵站能力って言ったじゃん侵攻側の兵站上の不利が緩和されるってだけの話
>日本側が戦闘を行う上で相当の余裕を有していた
日本側が史実以上の兵力を最大で動員できたとしても前線の状況を知って援軍が行くまで
1ヶ月以上のタイムラグが発生するその頃には元は上陸し史実より有利な状況で戦えるようになっている
>実際に15万も動員して、主に九州勢相手の軍勢に対して橋頭堡を築けなかった
じゃあ逆に何万動員したら橋頭堡を築けたと思う?
15万も動員したって言っても台風が来る前にまともに戦ったのは東路軍の4万だけだし
>>543 >占城が朝貢に応じたのはほんの数年前のことだし実際に日本遠征を優先して
占城遠征は帰還した日本遠征軍で行う事になってたでしょ
日本遠征を優先したのではないよ。占城が弘安の役の後に元の冊封体制から離脱
したんだから、東南アジアより先に日本遠征が先ず最初に来たのは当たり前の話。
交渉を数十年も持っていた占城がようやく朝貢しだした矢先、再び冊封体制から離脱
したんだから、朝貢が数年などは関係なく、元の威信を多いに傷つけるものであることに
変わりはない。この点から、もとから冊封体制に組み込まれていなかった日本を優先することは
現実的に考えてありえない。
実際、占城が冊封体制から離脱した際に派遣された軍勢は、日本遠征に使用することを目的に
養われた軍勢だった。ただし、派遣した軍勢の規模は前述したように案外少ない。
>だから元々の兵站能力って言ったじゃん侵攻側の兵站上の不利が緩和されるってだけの話
元々の兵站能力など「元が日本侵攻を成功する可能性があるかどうか」などには全く関係はない。
実際に「日本侵攻した際に兵站能力で優位なのは守備側の日本」ということの方が、「元が日本侵攻を
成功する可能性があるかどうか」の方が考える上でよっぽど重要。
>日本側が史実以上の兵力を最大で動員できたとしても前線の状況を知って援軍が行くまで
1ヶ月以上のタイムラグが発生するその頃には元は上陸し史実より有利な状況で戦えるようになっている
上陸し優位な状況を築けるほどの力量がなかったことを証明するのが弘安の役だよ。
15万も動員して、海上から逃れることができなかった軍隊が「元は上陸し史実より
有利な状況で戦える」状況になどなろうはずもあるまい。
>じゃあ逆に何万動員したら橋頭堡を築けたと思う?
15万も動員したって言っても台風が来る前にまともに戦ったのは東路軍の4万だけだし
まともに戦ったのは確かに東路軍だが、江南軍は到着した途端に台風を受けたのではない。
江南軍が到着したのは7月の上旬であり、台風が来たのは8月1日だ。つまり、日本に来た15万の軍勢は
主に九州勢の武士のみの日本軍相手に1ヶ月近くも身動きがとれなかった。
膠着状態は増強を受け続ける守備側に優位であるにも関わらず、身動きがとれなかったのが元軍だった。
このようなことでは日本征服など不可能に近い。
チャンパが元に反抗したのは元が軍を背景にして占城行省の設置や軍需物資の供出などの
無理な要求をしたからでチャンパから望んで元に仕掛けたわけじゃないんだから
元が無理な要求をしなければいいだけの話でしょ
>元々の兵站能力など「元が日本侵攻を成功する可能性があるかどうか」などには全く関係はない。
そんな馬鹿な兵站能力の優劣は程度問題でしょ
>上陸し優位な状況を築けるほどの力量がなかったことを証明するのが弘安の役だよ。
>15万も動員して、海上から逃れることができなかった
>日本軍相手に1ヶ月近くも身動きがとれなかった。
身動きが取れなかったのは東路軍だけの話
動くも何も江南軍は7月上旬に平戸近海に達しその場で東路軍の合流を待っていたんだから
東路軍が合流してきたのは7月下旬そこから九州本島に上陸しようとした矢先に台風で壊滅した
江南軍はほとんど戦わないまま終わったし
弘安の役は実際には文永の役とほぼ同規模の東路軍を防いだだけ
>>540 ボロ船で釜山に輸送するより、大八車で京都に輸送する方が難易度低い
548 :
横レス:2012/04/30(月) 18:51:23.84 ID:???
>>546 >合流を待っていた
江南軍単独で10万の兵力がありながら上陸できないと判断したから
先遣隊送って平戸で合流と東路軍に伝えてある以上移動できるわけないでしょ
横山光輝の漫画チンギスハーン読んだけど、全然面白くないなぁ
ほかの歴史漫画は面白いのに
>>550 女さらったり放火したり。戦闘も適当だし仕方がない。
チンギスハーンは尊敬できるような人物じゃないしな
まあチンギスは破壊と略奪と女が最大の喜びの人だから
>チャンパが元に反抗したのは元が軍を背景にして占城行省の設置や軍需物資の供出などの
無理な要求をしたからでチャンパから望んで元に仕掛けたわけじゃないんだから
元が無理な要求をしなければいいだけの話でしょ
占城行省の設置や軍食の供給の要求などは高麗など冊封体制に組み込まれた国に元朝が行う
のはよくみられることであって、しなければ良かったというのは結果論でしかない。
そして、この方面がたとえ落ち着いたところで元朝の負担は減るが、だからと言って占城などに
派遣された軍勢の規模などからも、日本遠征は優位にはならない。
>東路軍が合流してきたのは7月下旬そこから九州本島に上陸しようとした矢先に台風で壊滅した
江南軍はほとんど戦わないまま終わったし
根拠不明。壱岐にいた東路軍は7月の始めには江南軍目指して移動しているが、下旬に合流しようはずがない。
なぜなら、文永の役において、壱岐からの平戸近海への襲来にはたった2日しかかかっていないからだ。
つまり、上旬に江南軍に合流しようと移動を開始すれば、上旬中に合流は可能というわけだ。
また、九州本島に上陸しようなどしていない。合流した江南軍と東路軍の動きとして記録にあるのは
元史の平戸島から五龍山(鷹島)に移動した、という記述だけだ。
また、元韃攻日本敗北歌によると白骨山(鷹島)に移動したのは中旬となっている。
つまり、中旬以前には合流していたわけだ。そして、鷹島に移動した元軍は「築土城駐兵対塁」
している。ここに陣地を構築して交戦する構えを見せていたわけだ。
このように平戸近海から身動きがとれなかった元軍が「九州本島」に上陸しようとした、などと
いうのは根拠のない妄想でしかない。実際は、合流して大宰府目指して進撃しようとしたが
対する日本軍の頑強な防御体制の前に立ち往生していた、というのが実情だろう。
そして、対する日本軍の大半は九州の武士で構成されていたにもかかわらず、身動きが取れていない
元軍が日本侵攻を成功させる可能は全くない。実際に元軍の壊滅後に、増援軍が北九州に続々と到着
しているからだ。
当時の船団の移動速度はゆっくりだし900隻の大船団だからすぐに移動を始められない
たとえば朝鮮を出発してから対馬まで付くのに18日もかかったり対馬から壱岐まで5日かかっている
日本側からの妨害がほとんどなくてもこれだけかかっているんだから
東路軍が7月初めに壱岐で日本側からの大規模な襲撃を受けてそこから統制を取り戻し
平戸で江南軍と合流するのに10日以上かかっただろう
>鷹島に移動した元軍は「築土城駐兵対塁」している。ここに陣地を構築して交戦する構えを見せていたわけだ。
侵攻側のそれも大軍を擁する元が小島で守りを固めててもしょうがないし
泊地の守りのために陣を築いたと考えるのが普通でしょ元軍は平戸にも陣を築いている
主力の到来を受けて鷹島を制圧にかかろうかというところで台風が来た
鷹島を制圧したらめざすは九州本土上陸しかない
>>555 >当時の船団の移動速度はゆっくりだし900隻の大船団だからすぐに移動を始められない
たとえば朝鮮を出発してから対馬まで付くのに18日もかかったり対馬から壱岐まで5日かかっている
日本側からの妨害がほとんどなくてもこれだけかかっているんだから
東路軍が7月初めに壱岐で日本側からの大規模な襲撃を受けてそこから統制を取り戻し
平戸で江南軍と合流するのに10日以上かかっただろう
文永で壱岐から平戸方面に2日しかかかっていない。そして、壱岐に日本軍の襲来が
あったから統制をとるのに10日以上も掛かるというのも根拠のない妄想でしかない。
実際、文永の役では戦闘のあったその日に、元軍は博多湾から撤退している。
壱岐で戦闘があったなら、これも同然だ。再びに日本軍の襲来を受ける前に江南軍と
合流しようとするのは元軍の今までの動きからして当然だし、悠長に統制を整えている
暇などあるまい。
元韃攻日本敗北歌では合流した元軍が白骨山(鷹島)に移動したのは中旬となっている。
つまり、合流したのは7月の上旬中〜中旬には合流していたことになる。
そして、合流した元軍が鷹島で行ったのが「大宰府に向けて進撃する」のではなく「築土
城駐兵対塁」することだった。
そもそも、元軍が平戸近海に集結した当初の目論見はなんだったか?
元史にはその理由として、平戸島は日本軍の防備が無く、大船団を停泊させるのに相応しいから
ここから合流して大宰府に攻め入るというのが当初の目論見だった。
ところが、元軍は合流しても、なお進撃するどころか鷹島に「築土城駐兵対塁」して
攻撃どころか、一ヶ月間も日本軍の襲来に備える受身の態勢をとっていた。
膠着状態は、守備側に優位性をもたらす。守備側は常に増強を受ける立場にあるからだ。
元軍にもそのような認識が存在する軍隊だったことは文永の役からも窺われる。
文永の役において総司令官クドゥンは「兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏兵、敵日滋之衆、
非完計也、不若回軍、」と述べている。
日を重ねれば重ねるほど、増援を受ける日本側が優位だから撤退しようと言っている。
元軍は弘安の役においても同じ認識をもっていたはずだ。にもかかわらず、増援が北九州に
向かっているにもかかわらず、鷹島に「築土城駐兵対塁」して、大宰府目指して進撃する姿勢を
最後までみせなかった。
これらの点から実際は、合流して大宰府目指して進撃しようとしてみたものの
対する日本軍の頑強な防御体制の前に立ち往生していた、というのが実情だろう。
台風の後、戦闘の続行を望む張禧に対して、他の将校が部下の兵卒を見捨てて逃亡した
のも元軍の将校が戦意の低い将校たちであったことが窺われる。このことからも立ち往生していた
ということの方が、事実に近いと思われる。
>主力の到来を受けて鷹島を制圧にかかろうかというところで台風が来た
鷹島を制圧したらめざすは九州本土上陸しかない
元史には平戸島で合流したら、大宰府に向けて進撃する手筈であったことがわかる。
そして、元軍が合流して行ったのが、日本軍のいない鷹島に上陸して「築土城駐兵対塁」
することだった。手筈どおりに動いていないどころか、日本側の襲来を警戒するだけで
完全に受身の姿勢しか見せていないところに台風が来たわけだ。
さらに元軍が平戸島に合流して、太宰府に進撃する計画が未遂に終った資料として
元史相威伝がある。相威伝には以下の記載がある。
「七晝夜至竹島,與遼陽省臣兵合.欲先攻太宰府,遲疑不發.八月朔,颶風大作,士卒十喪六七」
要するに遼陽省臣兵(東路軍)と合流し、「大宰府を攻めよう」と欲したもの「遲疑不發」したとある。
「遲疑不發」とは、躊躇して大宰府に向けて進撃できなかったことを意味している。
このことからも555のいうように「鷹島を制圧したらめざすは九州本土上陸しかない」というのは妄想でしかなく
実際は、日本軍の頑強な防御体制の前に立ち往生していうるところに台風に遭遇した、というのにすぎないことがわかる。
長文乙
日本側からの妨害がほとんどなくてもこれだけかかっているって言ってるのに
さらに妨害の少ない文永の役の例を持ってきてもっと早く移動できたはずだってちょっと
博多からの例も元側が攻勢を切り上げたて撤収したんだから早いのは当たり前でしょ
日本軍の頑強な防御体制の前に立ち往生していたというが
鷹島に元軍主力が移動したのは台風が来る前日の事で元軍は実際のとこ実務上は大宰府侵攻へ向けて
東へ進撃しているここまで江南軍はほぼ無傷で日本軍の頑強な防御体制なるものに当たった事はない
おそらく東路軍からの情報で上陸予定箇所を当初の博多からどこに移すかもしくは移さないかなど
を決めていたとこだったんだろ
>日本側からの妨害がほとんどなくてもこれだけかかっているって言ってるのに
さらに妨害の少ない文永の役の例を持ってきてもっと早く移動できたはずだってちょっと
博多からの例も元側が攻勢を切り上げたて撤収したんだから早いのは当たり前でしょ
文永の役で戦闘のあったその日に撤退できた元軍が、壱岐の戦闘では無理ってことはあるまい。
実際、7月上旬〜中旬には合流が確認できるんだから、壱岐からの撤収が早かったのは疑いようの無い
ことだ。
>鷹島に元軍主力が移動したのは台風が来る前日
初耳だな。台風の前日に主力が鷹島に移動した、という資料を教えてくれないか?
元韃攻日本敗北歌では7月の半ば頃に鷹島に移動して「築土城駐兵対塁」 となっているが。
>ここまで江南軍はほぼ無傷で日本軍の頑強な防御体制なるものに当たった事はない
おそらく東路軍からの情報で上陸予定箇所を当初の博多からどこに移すかもしくは移さないかなど
を決めていたとこだったんだろ
実際に戦闘を行ったかどうかなど関係ない。実際、東路軍は博多湾に現れた際、防塁を目の当たりにして
戦闘を行わず博多湾からの上陸を断念して志賀島に上陸している。
東路軍と江南軍が合流したあとも、日本軍の頑強な防御体制を目の当たりにして上陸できないでいたという
ことだ。それを裏付ける資料が元史相威伝の「欲先攻太宰府,遲疑不發」という記載だ。
合流して大宰府を攻めようとしたところ、「遲疑」すなわち躊躇して軍を発することが「不發」
になったのだ。これらのことは1、将校たちの戦意の無さ、2、膠着状態は守備側に有利性をもたらす
ことを元軍が認識している軍隊だったこと、3,合流後、1ヶ月近くも大宰府目指して進撃しなかったこと、などの
状況からも元軍が「遲疑不發」していたことを伺い知ることができる。
561 :
名無し三等兵:2012/05/01(火) 23:30:50.29 ID:kUdvaH/R
フビライがハイドゥを最初にかたづけなかったのは何故なんだろう?
対日本よりよほど、優先順位が高く思えるんだけど。
フビライにとってはほとんど眼中になかったんだろうか?不思議だ。
>>560 >文永の役で戦闘のあったその日に撤退できた元軍が、壱岐の戦闘では無理ってことはあるまい。
それについては3行目に書いてあるでしょ
中旬に移動したと言っている元韃攻日本敗北歌は大舩七千隻とか鷹島で20万人が殺されたとか
基本的なとこからおかしいし「遲疑」は躊躇じゃなくて迷い疑うで単に作戦がまとまらなかったという意味でしょ
江南軍が平戸に着いたのが7月に入ってからそれから連絡を受けて移動したのだから上旬に合流は難しい
膠着状態は守備側に有利性をもたらすと元軍が認識していたならさっさと攻撃すべきで
上下旬に合流したとして1ヶ月近くもなにもしていなかったというのは不自然
なんだ上下旬って上旬な
>>562 >それについては3行目に書いてあるでしょ
これのどこが「 文永の役で戦闘のあったその日に撤退できた元軍が、壱岐の戦闘では
無理ってことはあるまい」の反論になってるのか不明。
>中旬に移動したと言っている元韃攻日本敗北歌は大舩七千隻とか鷹島で20万人が殺されたとか
基本的なとこからおかしいし
数は誇張しているが、大軍船だったことも事実であるし、鷹島で激闘があり、元兵の多くが殺害されたのは事実。
元韃攻日本敗北歌は当時、実際にいた人物が残したものとして貴重であり「おかしい」と一蹴する姿勢には賛同できないな。
また、江南軍が慶元を出航したことが確認できるのが6月の中旬だ。そして、元史には「7昼夜」で平戸島に到着したとある。
つまり、6月の下旬には平戸島に江南軍が到着していた可能性は高い。
そして、6月中旬以前に東路軍に合流を促す先遣隊を派遣したであろうから、6月の下旬以前には
東路軍は「江南軍と平戸島で合流する」という認識を持っていた事は想定できる。よって、上旬に
合流することは十分すぎるほど可能だ。
>「遲疑」は躊躇じゃなくて迷い疑うで単に作戦がまとまらなかったという意味でしょ
作戦目標がまとまらないなどはない。なぜなら、作戦目標は江南軍が出航する前から決まっていたからだ。
すなわち、「平戸島で合流し、大宰府に攻め入る」作戦だ。
しかし、元軍は合流すると「遲疑」した。つまり、当初の作戦に自信を失い、作戦を実行しなかったのだ。
よって、「遲疑」とは「迷い疑うで単に作戦がまとまらなかった」などではなく「躊躇した」という意味で
なんら問題ない。
>膠着状態は守備側に有利性をもたらすと元軍が認識していたならさっさと攻撃すべきで
上下旬に合流したとして1ヶ月近くもなにもしていなかったというのは不自然
そう、不自然だ。そして、その理由を元史にはそのの理由を太宰府を攻めようとした
したものの、「遲疑」すなわち躊躇していた、としている。そして、「八月朔,颶風大作」を受けたのだ。
なんのことはあるまい。合流して攻め上ろうとしたものの、これまでの戦況や日本側の戦意や兵力などを
聞かされた江南軍の将たちが当初の計画に自信を失っており無駄に時間を海上で費やした、にすぎないという
ことだ。
元韃攻日本敗北歌を書いた鄭思肖は遠征に参加していたわけでも
政府から情報の入ってくるような立場でもないでしょ
むしろ反元で有名な人で元韃攻日本敗北歌も政府批判のために書かれただけのもの
>元史には「7昼夜」で平戸島に到着したとある。
先遣隊のことじゃなくて?
あと元史には七月に平戸についたとあるけど
>作戦目標がまとまらないなどはない。なぜなら、作戦目標は江南軍が出航する前から決まっていたからだ。
>すなわち、「平戸島で合流し、大宰府に攻め入る」作戦だ。
そりゃ大雑把過ぎでしょ
大宰府を攻めるにしても博多から上陸して一気に攻めるルートもあれば
博多の防備が固いなら唐津近辺に上陸して陸路東進するとか色々あるんだから
上陸の手順や陽動とか戦術の打ち合わせもあるし
まあなんにしても1ヶ月近くも元軍が無為に過ごしていたと言うのはありえない
>むしろ反元で有名な人で元韃攻日本敗北歌も政府批判のために書かれただけのもの
作者の立場などは実際に生きて帰ってきた元兵から「あい伝わった状況」の伝聞を
記録する上になんの関係もない。
>先遣隊のことじゃなくて?
あと元史には七月に平戸についたとあるけど
元軍の出航で明確に確認ができるのはカラダイというモンゴル人が率いる軍船が
「6月18日に出航した」ということがわかるのみだ。そして、元史には7日を要して平戸島
に到着したとある。つまり、カラダイ率いる軍船は6月末には到着したことは想像に難くない。
そして、元史日本伝にある「7月」に平戸島に到着したという記述の前になんと書いてあるか。
「6月に出航した」と記載してある。正確には6月「中旬」に出航したはずだが記載がない。
つまり、日付に関しては大雑把にしか記載していないことがわかる。よって、6月末に到着しても
しても「7月」と大雑把に記載しても不思議ではあるまい。
>そりゃ大雑把過ぎでしょ
大宰府を攻めるにしても博多から上陸して一気に攻めるルートもあれば
博多の防備が固いなら唐津近辺に上陸して陸路東進するとか色々あるんだから
上陸の手順や陽動とか戦術の打ち合わせもあるし
まあなんにしても1ヶ月近くも元軍が無為に過ごしていたと言うのはありえない
これまでの元軍は悠長に「戦術の打ち合わせもある」などしてこなかったが
平戸島に現れた時だけ悠長に日時を無駄に費やすことなど有り得まい。
文永の役でも博多湾に現れたと同時に上陸している。また、弘安の役でも東路軍は博多湾に
現れたと同時に、上陸する気配をみせた。 なぜなら、膠着状態は、守備側に優位性をもたらすからだ。
敵前で悠長に「戦術の打ち合わせもある」などしていること事態が「遲疑」すなわち躊躇してることを証明している。
繰り返しておこう。
守備側は常に増強を受ける立場にあるからだ。
元軍にもそのような認識が存在する軍隊だったことは文永の役からも窺われる。
文永の役において総司令官クドゥンは「兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏兵、敵日滋之衆、
非完計也、不若回軍、」と述べている。
日を重ねれば重ねるほど、増援を受ける日本側が優位だから撤退しようと言っている。
元軍は弘安の役においても同じ認識をもっていたはずだ。にもかかわらず、増援が北九州に
向かっているにもかかわらず、鷹島に「築土城駐兵対塁」して、大宰府目指して進撃する姿勢を
最後までみせなかった。
これらの点から実際は、合流して大宰府目指して進撃しようとしてみたものの
対する日本軍の頑強な防御体制の前に立ち往生していた、というのが実情だろう。
台風の後、戦闘の続行を望む張禧に対して、他の将校が部下の兵卒を見捨てて逃亡した
のも元軍の将校が戦意の低い将校たちであったことが窺われる。このことからも立ち往生していた
ということの方が、事実に近いと思われる。
これらのことは1、将校たちの戦意の無さ、2、膠着状態は守備側に有利性をもたらす
ことを元軍が認識している軍隊だったこと、3,合流後、1ヶ月近くも大宰府目指して進撃しなかったこと、などの
状況からも元軍が「遲疑不發」していたことを伺い知ることができる。
合流予定の6月15日を過ぎたが江南軍が現れない兵糧も尽きてきたがどうするかと東路軍の軍議が続き
それから十日余り後に金方慶が用意した兵糧は三カ月分で残り一カ月分ある江南軍を待ち合流して
攻めるべきだと言っている
つまり軍議が6月16日以降金方慶の発言が27日以降になり先遣隊が着いたのは28日以降という事になる
東路軍が出港したのは5月3日だからこれは残りの兵糧の話とも符合する
6月18日に出航7日を要して平戸島と以前主張していた壱岐・平戸間2日を合わせると
28日には平戸の主力からの連絡が東路軍に着いてしまい先遣隊の入る期間が無くなってしまう
だが先遣隊が6月18日に出港したと読めばなんの問題もあるまい
>これまでの元軍は悠長に「戦術の打ち合わせもある」などしてこなかった
いくらなんでもそれはないでしょ
てかなんで「もある」まで引用してんの
>文永の役でも博多湾に現れたと同時に上陸している。また、弘安の役でも東路軍は博多湾に
>現れたと同時に、上陸する気配をみせた。
なんで上陸寸前になってから打ち合わせするのさ事前にしてあるに決まってんでしょうが
>敵前で悠長に「戦術の打ち合わせもある」などしていること事態が「遲疑」すなわち躊躇してることを証明している。
なんの作戦も打ち合わせもせずに戦うとか猪武者過ぎる
アドレス載せてメールでやれよ
571 :
名無し三等兵:2012/05/05(土) 23:21:30.92 ID:iYSxmS1y
結局何の話だっけ?
どうすれば元寇が成功したかで
スタートは何万の兵と船がいるかだった
>>569 >6月18日に出航7日を要して平戸島と以前主張していた壱岐・平戸間2日を合わせると
28日には平戸の主力からの連絡が東路軍に着いてしまい先遣隊の入る期間が無くなってしまう
だが先遣隊が6月18日に出港したと読めばなんの問題もあるまい
壱岐に東路軍がいたのが確認できる一番古い日付で7月2日だ。
そして、6月18日に出航したカラダイ率いる軍船は7日の日数を費やして6月末に平戸島に
到着することは可能だ。そして、カラダイが先遣隊だったという記録はない。
「至元十八年六月十八日、従葛剌歹萬戸上船至日本、値悪風船敗」とあり、日本に至って
台風を受けたとのみ記載している。
先遣隊が壱岐に到着したのはいつの頃かは不明だが、6月18日以前に出航したとしても
6月15日以降の第一回軍議の後の10日余り後の次の軍議の後に到着しても不思議ではあるまい。
なぜなら、6月17日に先遣隊が出航しても壱岐に到着しても10日近くはかかる。
よって、軍議の時期と同時期か後に到着してもなんら不思議はない。
さらに当時の船でこれまでの元軍が慶元から平戸島に、さらに壱岐へと向かうのに9日要したとしても
先遣隊がちょうど9日につくとは限らない。
>なんで上陸寸前になってから打ち合わせするのさ事前にしてあるに決まってんでしょうが
なんの作戦も打ち合わせもせずに戦うとか猪武者過ぎる
そう事前にしてあるに決まっている。江南軍は出航する前に日本人に地図を描かせ
平戸島から日本に攻め込むことが有利と判断した。それほど、事前に準備していた
にもかかわらず「欲先攻太宰府,遲疑不發.八月朔,颶風大作」した。
そもそも、資料に「欲先攻太宰府,遲疑不發」と当初の思惑に反して作戦を実行できなかった
ことを明確に書いてあるにも関わらず、「元軍は作戦の打ち合わせをしていたから。動かなかった」
なんて妄想がまかり通るわけがない。議論する以前の問題だ。
で、一体何を揉めてるの?
575 :
名無し三等兵:2012/05/06(日) 18:05:51.48 ID:z5zA7UCe
>>573 28日以降に先遣隊が着いたとしたら26日平戸着の本体から連絡が着くのがほぼ同時になる
>そう事前にしてあるに決まっている。江南軍は出航する前に日本人に地図を描かせ
>平戸島から日本に攻め込むことが有利と判断した。それほど、事前に準備していた
遭難した漁民から詳細な情報を得ていた平戸はすぐ攻略したでしょ
平戸以外の日本の情報は限られているし敵軍の配置などは常に変わるんだから
全ての作戦が事前に決まっているわけもなく現場での作戦の立案変更も必要でしょ
実行もなにもその前文が大宰府を攻めたいじゃだけじゃ作戦とは言えないでしょ
なにを疑って迷っているのかで意味が違ってくる
作戦に対してなら大宰府じゃなくて上陸地点の名が出てくるだろうし
情報に対してだとすればすでに決まっているその先の目標である大宰府が出てきてもおかしくない
>>574 江南軍がほとんど戦わなかった理由
コマンド入力し忘れたんだよ
>>575 >28日以降に先遣隊が着いたとしたら26日平戸着の本体から連絡が着くのがほぼ同時になる
意味不明。なぜ、先遣隊を発して本隊からまた連絡しなければならない?
>実行もなにもその前文が大宰府を攻めたいじゃだけじゃ作戦とは言えないでしょ
なにを疑って迷っているのかで意味が違ってくる
作戦に対してなら大宰府じゃなくて上陸地点の名が出てくるだろうし
情報に対してだとすればすでに決まっているその先の目標である大宰府が出てきてもおかしくない
そもそも、なぜ平戸島で合流したのか。『元史』によると、日本人に描かせた地図から
平戸島が大宰府に近いこと、海で囲まれ軍船を停泊させ合流するのに便利である
ことなどを挙げてここから東路軍と合流して攻め込むと有利、と判断した。
つまり、平戸島から直接大宰府目指して進撃することは地図上ですでに確認済みであったわけだ。
そして、「平戸島が大宰府から近い」と判断したからには、博多湾などには行かずに直接、
平戸島から肥前へと上陸し、大宰府目指して進撃することも当然決まっていたことがわかる。
大宰府に「近い」平戸島に合流して進撃することを決定した背景には、
「上陸地点が決定している」ことを前提にしなければ、成り立つ作戦ではない。
平戸島に来て、手ごろな上陸地点を探し出すなど、「大宰府に近い平戸島から直接
進撃する」当初の作戦を否定するような間抜けなことをするわけがない。
もっと言えば、手ごろな上陸地点が見つからなかったら、これまでの計画はすべて
白紙だ。元軍がそんなに馬鹿な軍隊だったとは思えない。
実際、元軍は文永の役において肥前に上陸済みであり、この辺の地形に関しては把握していた可能性
が高い。文永の役の経験を踏まえて「平戸島から直接、大宰府に進撃する」ことを決定したのだ。
しかし、元軍は「欲先攻太宰府,遲疑不發」して動けなかった。
これらのことは1、将校たちの戦意の無さ、2、膠着状態は守備側に有利性をもたらす
ことを元軍が認識している軍隊だったこと、3,合流後、1ヶ月近くも大宰府目指して進撃
しなかったこと、などの状況からも元軍が合流して直接、大宰府進撃する当初の計画が
挫折し、「遲疑不發」していたことは間違いない。
間違っても「元軍は作戦の打ち合わせをしていたから動かなかった」とはならない。
実際に江南軍がいつ平戸に着くかは分からないから
すでに疲弊している東路軍が先に平戸に着いて占領する事になった場合奪還される恐れがあるし
東路軍は少なくとも7月2日まで壱岐に留まって日本側と戦ってた理由も説明できる
(以前言っていた1日中に移動開始できたという場合)
26日に本隊が平戸に着いているのに先遣隊が着いたのは7月に入ってからという不思議な事に
>つまり、平戸島から直接大宰府目指して進撃することは地図上ですでに確認済みであったわけだ。
>そして、「平戸島が大宰府から近い」と判断したからには、博多湾などには行かずに直接、
>平戸島から肥前へと上陸し、大宰府目指して進撃することも当然決まっていたことがわかる。
それはいくらなんでも早合点でしょその後鷹島に移ってるんだし
>26日に本隊が平戸に着いているのに先遣隊が着いたのは7月に入ってからという不思議な事に
君の意見で始めて成程と思えたよ。
そもそも、資料から「先遣隊を発した」という記録がない。6月下旬に江南軍が平戸島に到着
してから東路軍に合流を促したのかもしれない。
しかし、江南軍が平戸島に到着してから東路軍に合流を促したのか、先遣隊を派遣したのか
どちらにせよ、日数的に7月上旬に合流することは十分可能だ。
>それはいくらなんでも早合点でしょその後鷹島に移ってるんだし
7月中旬に鷹島に移ったのも「大宰府に近い平戸島から直接進撃する」当初の作戦
からは間違っていない。平戸島よりは大宰府に接近しているからだ。
しかし、「大宰府に近い平戸島から直接進撃する」動きを見せれたのも、それは
日本側の防備の無い鷹島までだった、ということだ。
そこで、元軍は武士団が待ち構える本土への上陸戦を行う自信もなく「欲先攻太宰府,遲疑不發」
して動かなかったわけだ。
自覚のない荒らし
なんか話題が有るならどうぞ
>そもそも日本に対してはどの程度の認識だったんだろうな。
黄金の国ジパング
>>580 なんか怒ってる人いるから
最後に一つだけ聞くけどその後元軍はどうするつもりだったと考えてるわけ?
>>584 どうすることもできなかったから、立ち往生していた。そして台風が来た。
何度も言っているし、何度も説明しているが。
そもそも、橋頭堡を築くことに失敗した時点で元軍に勝機はなかったし
ますます、増援が到着する日本側に対して不利な状況になる一方で
ろくに対応策もなかった。それが元軍。それだけのこと。
台風がこなければ、勝算もないから恐らく兵糧が尽きかけた頃にそれを口実に
撤退していただろう。
元軍の将校たちが実際に撤退した後、フビライに嘘をついた事実からも
平気でなんらかの口実をつくって撤退するはず。
十数万の大軍を連れて船で日本に来ただけでろくに戦いもせずに帰るとかまったくナンセンスな話だ
つまり手も足も出なかったからあきらめたというのが
自然な考え方
唐入りみたいに秀吉が死んだわけでもないし
むしろ台風が来るまで、右往左往してる元軍に
鎌倉幕府側が総攻撃を仕掛けなかったのが不思議だなあ。
そんな海軍力なかったんだろ
小船で夜襲ならかなりやってるが
いや、台風来る前から何回か戦闘して元軍を各地で掃討したのは知ってるが
台風が来る前の約1ヶ月間だけ双方に一切の戦闘記録が無いのよ。
小規模な夜襲の記録すら無い。
元軍は攻め倦ねて立ち往生してたんだなってのはわかるが
日本側は何やってたのかなあって。
陸上の防備固めるのに精一杯でそれどころじゃなかったんじゃね?
補給能力を考えるとあり得ない展開ではあるけれど、
台風も来ないまま、あのまま元軍が鷹島にずっと居座り続けたら
双方手詰まりになってたかもしれんね
防衛側としては攻めてこないんなら問題ないんだけど
別に台風で全滅しなくても、相手が食料が尽きて帰るならそれはそれでいいような
ただ船舶が無傷で残るから第3回の侵攻の恐れが増えるが
595 :
名無し三等兵:2012/05/14(月) 00:20:22.19 ID:3oOsbSiw
江南軍と合流するまでは果敢に攻め立ててたから
敵の数が増えたのを見て持久戦に切り替えたのかもね。
元の戦争目的は日本列島の征服で良いんですよね?
だとしたら、弘安の役で元が考えてた征服完了までのシナリオは
どんな物だったのだろう? あの兵数で日本は落ちると考えていたのか
あるいは太宰府あたりまでを確保させて後続を送るつもりだったのか。
主力決戦で叩きのめせばあっさり日本全部が降伏すると踏んでたとしか思えない
高麗でやったように領内を延々略奪してればそのうち服属すると思ったんでね
作戦を立てる元の将軍になって考えてみた。
高麗の先の国なんだから高麗より弱いはず。
もし高麗より強いなら、高麗を攻めて征服してるはずだ。
実際に倭国を見たものの話によれば、弱いものには威張りちらし、
我が方のような強者には媚へつらう高麗人より更に弱々しく、
礼儀正しくいつも他人にペコペコと頭を下げていると聞く。
高麗人もあまりに弱いので、我々はいつでも倒せる彼らを
潰さないでおりますと言っておった。
そんな高麗より弱いペコペコ野郎どもの国なんぞ、
我が元朝の力を示せば高麗と同じく、ひれ伏すであろう。
補給なんぞ、これまでと同じ現地調達の略奪でどうにでもなるわい。
>>599 それなら高麗に「日本征服してこい」と命じれば済むというか
文永の役がそれに近いノリだったのかも。
人類史上最大の国家がそんなノータリンなわけないと思うんだが
ただ今と違って情報量の格段に少ない時代だからなぁ
元は陸路を通じての情報収集は上手かったのかもしれないが、そもそも海を隔てた国と付き合った経験が無いんでね?
深く考えずにイケイケだったから大帝国になったんじゃね
604 :
名無し三等兵:2012/05/15(火) 00:09:17.20 ID:gPyF6n0/
>>596 そこで「端から本気で征服する意図なんて無かった(キリッ」の棄民説ですよ。
>>604 そういえば、棄民説で「何故棄民先に日本を選ぶのか」の説明って聞いたこと無いな。
わざわざ海越えの遠征なんて高コストの戦争しなくても、兵士の死に場なんていくらでもありそうだが。
日本を征するのはじいさんの代からの計画だったから不自然じゃないと思うけど。
旧南宋軍の連中をどうにかするにはちょうどいいポジションだったんじゃないかね。
棄民というよりも、反動勢力の利用ってとこだろう。
じいさんって誰?
609 :
名無し三等兵:2012/05/15(火) 08:00:09.36 ID:gPyF6n0/
>>605 「わざわざ遠くを選ぶからこそ反乱や後腐れの心配なく棄民できる(キリッ」だそうです。
>608 ワロタw
14万の軍隊叩きつければどうとでもなると思うのは別に不自然でも何でもないんじゃないかな
実際、あの時代に10万以上の大軍の侵略に耐えられる国なんて滅多に無いだろ
>>611 モンゴル的には文永の4万でも楽勝予定だったりして
この兵力で撤退せず最後まで戦えと煽り立てた高麗って相当な確信犯w
それこそ、少しはまともな威力偵察をすべきだったんじゃないかと思えてきたよ。
それはそれとして、
>>611氏の「10万以上の大軍の侵略に……」という御意見。
これはもっともだと思う一方で10万を超える遠征軍を、それも海の向こうに送るのは
10万の兵を撃退する以上に困難なことだったのではないだろうか?
14万人の食い物って、一人1日500グラムまでケチっても1日70トン位消費するわけでしょ?
だが考えて見てほしいブリテン島はなんども海を渡ってきた
少数の異民族に征服されたことを
クマニョロン人がケルト人に同化されて
ケルト人がローマ人に征服されて
ローマ帝国衰退後はゲルマン系のアングロ・サクソン人に征服されて
アングロサクソン人はデーン人に征服されて
そのあとにノルマン人に征服された ←現王朝
更にその後アンジューの領主だったヘンリー二世に征服された件。
フランスのカペー家とイングランドのプランタジネット家って
主君と家臣なんだよね名目上は。
ヘイスティングは仕掛けたタイミングが絶妙だわ
万全なら撃退されてただろう
イギリス・フランス間は朝鮮・対馬間ぐらいの距離しかないし
ドーバー海峡は海の防壁とするには狭すぎたんだよ
防壁として考えるなら対馬海峡は絶妙すぎる
侵略するには遠すぎ、交易するなら近い。
イギリス史でのべ20万近い侵略軍を退けたなんて話があったら凄いだろうな
指揮官の名は大大大英雄として子々孫々まで語り継がれ小説化映画化でウハウハですよ
・・・そう言えば鎌倉側の指揮官って誰だっけ
>>613 大軍を維持する苦労は陸路も海路もあんまり変わらないような・・・
むしろ安価に大量の荷物運ぶのは海路の方が有利じゃないか?
古代の大和朝廷や戦国大名は普通に海渡って半島の奥深くまで攻めてるな。
>>621 少弐なんとかって人
>>621 NHKに企画をもちこむんだ
いや小説書け
少弐なんて名前、戦国時代に龍造寺躍進の肥やしになったくらいしか知られてないな
本来はイギリスに限らず、どこの国でも救国の英雄だろうに不憫な扱いだのぉ
>>611 モンゴル軍の各国攻めでの動員数一覧調べてくれるとうれしい
>>626自己レス
鎌倉攻めの新田軍への参加者が急激に膨れ上がったのも
「俺達も石塁作りとかいろいろ頑張ったのに何事だ!」
的な不満が潜在してたのかもね
628 :
名無し三等兵 :2012/05/17(木) 21:19:27.57 ID:???
>>621 少弐経資(豊前筑前肥前壱岐対馬の守護である少弐入道の嫡男)が太宰府で
大将をつとめ、文永当日の前線大将は少弐景資(その弟)。
この少弐景資が敵の副将を射落とし、元軍撤退の大きな要因をつくったから
殊勲甲だと思う。
しかし少弐経資・景資の兄弟対立で後年、霜月騒動で安達泰盛側に付いた
景資は兄経資らに滅ぼされてしまう。
そして戦国期に至り少弐氏自体も滅亡。
これが功績が伝えられてない一因かと思う。
>>624 北条時宗のときのあの扱いを見れば
もれなく、どんなやつでも戦争反対、敵も悪いやつじゃなかったんだの腑抜けにされます
マムルーク朝のスルタン・バイバルスの扱いって西洋ではどうなん?
シリアでは神だろうけど
ブリテン島は侵攻側も大体文化的に近い上に支配階級だけの交代だった
その上に海上交通が発展しており日本海より穏やかな海であるなど
殆ど普段の交通が無い上に全く異文化・異民族の侵攻になる日本海超えは難易度が全然違う
ケルト人とローマ人とか対極見たいなもんじゃん
元寇が成功してたとしても、人口密度からして
民族が入れ替わるような征服が無理で
日本が元に服属を誓うだけになるはずだぞ
だいたい元寇はの兵隊はほとんどが高麗と南宋の出身だろ
こいつらの文化が遠いというならどこが近いんだ
一回目に関してはモンゴル人や金人のが多いぞ。
高麗
難易度なんて言い訳にしか聞こえない。
日本→大陸は成功例があって、大陸→日本は「日本海は難易度が高いから失敗は当然!」
なんて通用しない。
そもそも、文永なんて完全に上陸に成功した上で武士団に追い返されてる。
あ、弘安もそうか。志賀島に上陸を終えた後に、武士団に海上へ叩き出されてんだから。
古代には朝鮮半島南部を領有したことがあるし、秀吉の朝鮮征伐は失敗したとは言え朝鮮半島全土を戦場にしとる
元は北九州沿岸のみでの戦闘で早々と敗れたのはどういう違いなんだろか
防衛側の動員能力の違い?侵攻側が海に慣れてる民族であったか否か?
古代の朝鮮半島をどうやって取ったのかは知らないが、
記録が残っている限りの戦争では、日本と中国の戦いで
「海を越えて攻め込んだ方が勝った」のは、日清戦争で
日本が勝ったくらいじゃない?
古代については攻め取ったというより元々拠点があっての介入って事らしいが
文禄・慶長の役は秀吉が死んで撤退するまで朝鮮南部の橋頭堡は維持し続けれたわけだから
元軍は明らかに実力が足らなかったとしか言わざるを得ない。
橋頭堡すらつくれなかったんだから。
文禄・慶長のときは、日本の東には敵がいなかった
>>642 おいおい、慶長の役のほとんどの期間、朝鮮南部に在番してたのは主に九州勢だけだぜ?
明・朝鮮軍は3倍以上も動員して九州勢が守る倭城で大敗した。
東の家康は豊臣の敵だったのに放置するから
豊臣家の存続を考えるなら秀吉存命中に家康の力削いでおいた方がよかったのだろうな
信長みたいに難癖付けて息子を一人切腹させときゃなあ
>>645 家康最大の難関は
浜松に篭城してれば武田軍がスルーしてくれたはずなのにわざわざ完全に返り討ちにされたことでも
本能寺の時のほうほうの体で帰国でもなく
秀吉晩年に生き残ったことだからね
(つーかならべてみると結構家康失敗してるw)
>>646 あれはどうももともと家康父子の仲が悪くて信長に言われてしょうがなくという形にしたらしい
関ヶ原もリスク犯しすぎだ
小者の寝返りいかんに天下の趨勢賭けるなよ
征夷大将軍になったのに真田幸村に殺されかかった人に今更なにを
そういう人なんだよ
三成の挙兵では予想外に西軍に兵が集まって東軍はかなり苦しかった
そこで数は多くても統制のとれない西軍を一気に崩す策に出る必要があった
実際いざ家康公出陣となると西軍武将はびびって殆どが参戦せず一方的な戦になった
652 :
名無し三等兵:2012/05/21(月) 02:02:05.24 ID:o4cnN3P5
そろそろ元寇の話しようぜ
レベル低いスレだなー。昔の元寇関連のスレはもっと突っ込んだ議論ができてたのに。
少なくとも「元寇は旧南宋兵と高麗兵が大半」とか馬鹿なこという奴はいなかった。
二回目に関しては約7割が南宋兵(まあ実際には殆ど交戦してないが)だからあながち間違いでもない。
但し高麗兵は比率としては一回目で二割、二回目に至っては一割以下だから間違いだな。
>>655 >二回目に関しては約7割が南宋兵
そもそも、この通説が本当かどうかだな。
実は江南軍の構成がどうだったか元史などには記載がない。
旧南宋兵(新附軍)が多くいたことは間違いないと思うが、
江南軍の主将范文虎が「漢軍を1万増やしてほしい」とクビライに進言して
受け入れられているところをみると、江南軍には結構な比率で漢軍がいた
のかもしれない。
それに江南軍には?加歹や葛剌歹といったモンゴル人の将校も確認できるから、
果たして蒙古兵がいなかったと断言できるかは不明。
まぁ、弘安軍の都元帥張禧の軍勢4千に馬70頭しか与えられていなかったから、
江南軍に馬が少なかったことは事実だし、蒙古兵はいたとしても少なそうだけど。
モンゴルも対南宋戦でそれまでの騎兵主体から歩兵主体に切り替えたし馬の数だけじゃ
モンゴル兵の数は分からないような
モンゴル兵の絶対数が限られているのに
いたづらに末端の歩兵として使い潰すなんてことは考えられん
659 :
名無し三等兵 :2012/05/23(水) 21:30:45.56 ID:WqzfWDAa
蒙古兵は将校クラス以上の指揮官と近衛隊だけじゃないか?
主力は、文永では女真+漢などの北支民族、弘安では南宋兵だろう
>>613 >14万人の食い物って、一人1日500グラムまでケチっても1日70トン位消費するわけでしょ?
弘安の役では東路軍だけで6600トンの兵糧積んでたんだよ
大型輸送船を使えるって実際にはかなり有利な条件
>>656 南宋側に寝返っていた蒙古兵が江南軍として范文虎の指揮下に配属された記録はあるんだよね
こんな連中は明らかに戦闘用員として最前線に投入だろ
何名ほど?
663 :
名無し三等兵:2012/05/26(土) 01:20:33.66 ID:a17V0vPx
半分こは後に日本で部下見捨てて逃げたのがバレて処刑されるんだよね
元側は損害を気にせず突っ込めば勝てただろ
当時の日本の総人口は600万前後しかいない動員できる軍は全国合わせて数万程度
元:日本の損害交換比が10:1だったとしても文永・弘安合わせて約20万の元軍は幕府軍に壊滅的打撃を与えられたはず
根回ししてあればな
>>664 無理の無理無理なのだ
20万の軍勢が一気に上陸できるわけではないのと
戦場心理を無視した机上の空論なのだ
>>664 鎌倉幕府は承久の乱で19万人動員してるけど?
>>664 弘安で一気に突っ込めば、それに近い結果になったはずですよね。
なのに現実はそうならなかった。どこかが貴殿の見積もりと異なっていたのかと。
>>664 人口が少ないという事はそれに見合う食糧生産しかないという意味であり
補給の困難から大軍の活動は逆に困難
中国は反対に膨大な人口に対して少ない動員兵力
そのため侵攻側は補給が容易で何度も征服を受ける事に
670 :
名無し三等兵:2012/05/26(土) 12:28:30.48 ID:rIfY5d/7
テスト
>>664 鎌倉時代の日本の人口って世界でも五番目くらいに多かったって統計もあるんだが?
単なる王朝の交代にすぎず、下々の者には関係ないって形じゃないと
仮に日本武士が戦場で雑魚でも占領統治は無理だ
>>667 19万は誇張表現で有名な吾妻鏡の数字だ
武士と郎党だけで戦ってた鎌倉時代に東国だけで19万とかおかしいと気づけよ
>>669 現地調達ならな実際には元軍は船で食料を持ちこんでる
>>673 関ヶ原の合戦の徳川軍と承久の乱の幕府軍ってほぼ同じ移動してるんだけど、
比較すると承久の乱の兵数ってわりと納得できる数字なんだよね
大軍を移動させる時、街道一本だけじゃ無理で軍を分けて複数ルートで進軍させたりするんだけど、
10万の徳川軍が東海道と中仙道の街道2本なのに対し、承久の乱では東海道、中仙道、北陸道の
街道3本じゃん
承久の乱の幕府軍は関ヶ原の徳川軍を上回る兵数だったと考える方が自然
関ヶ原の軍勢は元々会津征伐のために全国から集めた兵力なんだが
本気で鎌倉時代に関東だけで19万もの兵力を集められたと思ってるのか?
>大軍を移動させる時、街道一本だけじゃ無理で軍を分けて複数ルートで進軍させたりするんだけど、
吾妻鏡だと東海道を進んだ軍だけで十万余騎になってんだがな
>10万の徳川軍が東海道と中仙道の街道2本なのに対し、承久の乱では東海道、中仙道、北陸道の
>街道3本じゃん
吾妻鏡によれば徳川軍の使わなかった北陸道を進んだ軍は最も少なく四万余騎だけだ
次からはせめて自分が根拠にしてる吾妻鏡と内容が合うようにしろよ
関ヶ原の東軍+北陸道の4万までおkってことか
吾妻鏡の数字は誇張だと前から言ってるだろうがいい加減にしろ
誇張という根拠ぐらいは欲しいところだな
まぁ誇張があるとは思うが、それだとあくまでも個人的印象でしかない
足軽を大量に動員する桃山時代に会津征伐のために全国から兵力を集めたのに10万にしかなってないのに
鎌倉時代に関東だけで19万もの兵力を集められたとでも?常識で考えろ
人口が増え続けてるって考えは間違ってるよ
増えてるかもしれないし
減ってるかもしれない
少し軌道修正しないか?まず、識者の方に伺いたい。
1 弘安当時、元は14万の人数にものを言わせて一気に上陸なんて方針をとったのか
2 取っていなかった場合、それはどんな理由なのか
3 取っていた場合、その咲くは何故失敗したのか
(弘安の役の結果から見て、元の上陸作戦は失敗したと考えているけど、そもそもこれが間違い?)
>>680 耕地面積が1.5倍に増えてんだから人口も同等かそれ以上に増えてると考えるのが普通
>>681 北条征伐にしても大友や島津ら九州ら全国から動員した結果なんだが
てか関東を所領にしていた北条側の兵力の数字を持ってくるならまだしもなぜ豊臣側の数字を持ってきてんだ?
それのどこが鎌倉幕府が関東だけで19万もの兵力を集められた根拠になるんだよ
14万を一気に上陸なんて現代でも無理だろ
逆に言えば、元軍は二度目の時ですら多くても数万程度の武士団に蹴散らされましたと。
結果だけを見ると14万の兵を投入して戦果はちょっとの奴隷のみ。獲得領土はゼロ。
損害は…参加将兵の90%が戦死または行方不明?
>>683 >足軽を大量に動員する桃山時代に会津征伐のために全国から兵力を集めたのに10万にしかなってない
全国で10万(キリッ って言ってるから馬鹿にしただけですが?
>>688 >全国で10万(キリッ って言ってるから馬鹿にしただけですが?
少なくとも西軍や東北勢の軍がいる事を前提にしてるのは当たり前なのに
全国で10万しか集められなかったと読んでしまう688の頭の悪さに脱帽
関東だけで19万集められる説への反論として
会津征伐のために10万の軍を集めたがそれには全国の大名を動員を動員した結果であり
関東だけで19万もの兵を集めるのは不可能だと言っているのだが688には難しかったか
誤植が酷い
それには全国の大名を動員を動員した結果
それ は全国の大名 を動員した結果
>>687 弘安の役で元軍は奴隷なんて獲得してないから戦果は完全にゼロ
フビライが三度目やろうとしたら家臣から今度負けたら元朝の滅亡につながると
猛反対されたのも当然か
関東一円を支配していた北条が総動員令を発して5万だからな
鎌倉時代に関東から遠征で出せる数はせいぜい2〜3万だろうな
太平記で千早・赤坂城攻めの二十万だの八十万だのと書かれた鎌倉幕府軍も
実際にはそれぞれ二万と八万程度だったんじゃないかって言われてるしね
昨日の平清盛で夜襲しかけたのに延々一騎打ちを始めるとかアホなことやってたけど、
そろそろ「日本には一騎打ち戦法などというものは存在しなかった」ってちゃんとした知識広めないと
ヤバいんじゃないの?
何で誰も王さまは裸だって本当のこと言えないんだ?
「テレビと史実は別」を徹底させる方がいい
それ以前に現存する鎧を元に脚色入れて豪華にするのではなく
現存する鎧より遥かにショボい鎧を大将に着せて「これが史実です(キリッ)」
だなんて真似をするドラマは初めて見たわ。
あんなヨレヨレの鎧じゃ坂東武者の矢はおろか高校の弓道部員の矢すら防げねえよ
とりあえず時代考証担当した奴は一回、春日大社の赤糸威大鎧見せて貰ってこいよ
劇に何求めてんだよ
>>694 結果的に一騎討ちになるのは良いのでは?
少なくとも松明かざして夜討ちに向かうよりは遙かにマシかと。
>>696 鎧に関してはガチで作るとしょぼい役者が動けん
兜を被らず戦っている人が多いのも、役者の顔が見えるようにという他に
兜被ると重いってのがあるのかもね。
>>698 当時は一騎打ちで戦わないといけないとかルールが一切なかったから、集団同士の戦いになるのが
普通でしょ
>>699 もともと大鎧は徒歩で着用する鎧じゃないから
騎乗した状態なら鎧の重さが馬にかかる構造になってるから、しょぼい役者でも問題なく動けるはず
サラブレットに重量かけちゃいかんでしょ
>>702 一騎討ちを禁じたルールもない…よね? そこまで断言されると
有ったんじゃないかと心配になってきた。
705 :
名無し三等兵 :2012/05/28(月) 21:47:56.89 ID:Xi5+ong8
>>702 馬があっても役者には馬を乗りこなす腕がないから無理
>>704 大将同士のガチの一騎打ちは無論無いがその日の開戦前の余興的なものや
少数同士の遭遇戦でたまたまそういう流れになった記録は一応ある
まあどこまで本当かは分からんが
>>71 「北条時宗」の頃はまだそういう装備面の考証もちゃんとやってたんだけどね。
あれ、放送当時は赤マフラーとかいって散々ネタ扱いされてたけど
まだ神風史観が一般的だった時代にちゃんと少弐が元の副将を射たシーンが
あったり弘安の役での奮戦が描かれてたりして意外と勉強してて感心するよ。
当時は無知な実況民が「こんなに武士活躍してねーよ。捏造すんな」ってレスしまくってたが。
まあとはいっても「やあやあ我こそは」はバッチリやりやがったけどなw
それでも00年代の大河ドラマの中じゃ風林火山、葵の次くらいに見れるレベルの内容だわ。
平清盛見てると今年の題材が元寇とか唐入りとか足利義満とか古代史じゃなくてマジで良かったと思う。
清盛はそんなことより竜馬以来のわざと画面を汚くする手法が一番駄目
大河はそういう安い演出使わず王道を行ってこそだろうに
709 :
名無し三等兵:2012/05/29(火) 16:08:31.75 ID:8Xwbi/Tb
元寇については誰がどう考えても不条理なことが堂々とまかり通ってるんだよな。
ベトナムなんて、3000名のモンゴル軍がベトナム国王自ら率いる軍を撃破、1週間以上首都を占領
破壊し尽した上で暑いからって理由で帰国し、その後ベトナムはモンゴルの属国化してるのに
何故か戦いでモンゴル軍に勝ったことになってる。
一方で文永の役とかは、4万名のモンゴル軍が博多も大宰府も占領できないまま、このままじゃ
全滅しちゃうからって理由で撤退し、その後も日本はモンゴルの属国化を拒否し続けたのに
何故か戦いでモンゴル軍に負けたことになってる。
で、比較してベトナムは日本より凄いとか言ってる奴がそこらじゅうにいるんだぜ。
なんだこりゃ。
中世史の学者とか戦いの勝敗を完全にイデオロギーとか好き嫌いで決めてるだろ。
ベトナムが凄いって言われてるのは主に二回目と三回目の侵攻の時の話だと思うの。
この二回に関しては実際にベトコンばりのゲリラ戦で元軍を打ち破ってる。
尤もこの時は弘安の役で武士達に殲滅されたのが原因で十分な兵を送れなかった背景もあるから
どっちにしろ陳朝を持ち上げて武士を貶すのはナンセンス。
>>709-710 あと、チャンパ王国も撃退してる
>>709 >で、比較してベトナムは日本より凄いとか言ってる奴がそこらじゅうにいるんだぜ。
誰?ベトナム人学者とかじゃなくてそんな人いるの?
三回目の遠征では30万も派遣してるぞ>ベトナム
>>711 というか第二次陳朝遠征ってチャンパ王国への
海路からの出兵が失敗して陸路から陳朝を通って進軍しようとした際に
度重なる負担に陳朝がついにブチ切れたのが原因なんだよね。
陳朝て南ベトナムじゃん
>>712 三回目の遠征でも、モンゴル軍の兵力は元側の記録全部足しても10万ちょっとだよ。
>>713 モンゴル軍はもともとチャンパ王国遠征のための兵糧を陳朝に負担させるつもりだった。
陳朝がそれを拒否したから戦争になったんだけど、兵糧負担させるはずの陳朝と戦っちゃえば早々に
兵糧不足に陥るのは当たり前なんだよね。
ゲリラ戦とか関係なく。
ベトナムは日本ではむしろ過小評価されてるだろ
元朝は難攻不落の地だった朝鮮半島を唯一征服した中国王朝でもあって
隔絶した戦力を持っていたけど鎌倉幕府に負けたせいで日本では過小評価されてる
その分元を陸続きなのに破ったベトナムも大したことないと思われてるよ
>714
首都ハノイやで
ベト戦遠くなかりけり
>>716 日本と比較したらベトナムが見劣りするのは当たり前
別に過小評価じゃないよ
719 :
名無し三等兵 :2012/05/29(火) 21:55:25.96 ID:bslm6YYl
>>716 朝鮮半島が難攻不落の地だって?
何の冗談ですか?ww
完全に属国化して領地化する必要がなかったからだろw
>>716 まさかと思うが、難攻不落の難攻とは
「戦う前に跪くから、攻めるところまで行くのが難しい」
ではあるまいな?
武帝「・・・・・」
武帝の滅ぼした衛氏朝鮮はそもそも中国系王朝だしな
おい、何も知らない癖に朝鮮半島バカにすんなよ!
高句麗や新羅は唐帝国にも勝利したことがあるんだぞ!
朝鮮半島がダメダメの原始時代になるのは李氏朝鮮王朝になってからだぞ。
戦勝国となった米軍でさえ朝鮮戦争では北部の山岳地帯で苦杯を舐めることになった
後のベトナム戦争と合わせてアジアアレルギーの原因となり
ひたすら中東諸国ばかりを付け狙う結果に・・・
高句麗は唐帝国に滅ぼされてるだろ
その国土の大部分は唐帝国に占領されたのに何故か新羅が半島統一したことになってるが
元寇からズレ出したぞ
モンゴルと高麗の戦いを見る限り、山だらけの半島の地形は騎兵運用の障害にはならなかった。
大平原の無い日本の地形はモンゴル軍に不向きというのも嘘。
だから弓騎兵である武士が日本の支配階級になれたわけで。
朝鮮戦争でも山がちの朝鮮半島では戦車の運用は
困難だろうと考えてたら北の戦車に突破されまくって
慌てる羽目になった
地勢が絶対的なモンじゃないってことか…
ソ連軍やアメリカ軍を苦しめたアフガンの山岳地帯もモンゴル軍は征服してるし。
最近じゃあアフガンゲリラに対抗するためアメリカ軍も馬に乗って戦ってるらしいじゃん。
騎馬部隊ってむしろ山がちな地形で力を発揮するモノなのかもね。
>>730 歩兵より人間の疲労は少ないし
そもそも馬の祖先は平原だけに生息してたわけでもない罠
車より馬の方が山に強いのかな?
エベレスト攻略した車なんて聞かないからな
木曽馬なんてその名の通り山岳地帯で育てられてた馬だしな
735 :
名無し三等兵 :2012/05/30(水) 21:05:00.59 ID:LK9xuSqr
>>732 道路インフラを馬なら車ほど必要としないってことでしょう
車は整備された道路がなければ使えないし。
帝國陸軍の編成を見ればいいよ
平地戦向き=輓馬牽引野砲・・・・・支那の平原
山地戦向き=駄馬駄載山砲・・・・・南方山岳地・ジャングル
機動戦向き=自動車牽引野砲・・・・・南方道路網整備地(マレーフィリピン)
と使い分けてる。
>>725 「半島は」統一したんじゃないの?
高句麗領の大部分が半島じゃなかっただけで
スレチだが高句麗を朝鮮半島の歴史としてカウントすんのは無理があると思うんだよなあ。
738 :
名無し三等兵:2012/06/05(火) 13:09:24.98 ID:mhcGeSfK
近代史学の一国史観として、北仏パリから展開したフランス国家がヴェルキントリクスとガリアをフランス史に内包したのと同程度に考えて良いのでは
と、種本が「ラングドックの歴史」とモロバレなレスを(笑)
スレ違いを少し軌道修正すると、
中世に半島を統べた「高麗」の国号を軽視し過ぎも、いささか極端かと。
×ヴェルキントリクス
○ヴェルキンゲトリクス
740 :
名無し三等兵:2012/06/05(火) 14:32:48.07 ID:jZW0o2a3
でもモンゴルと異勢力の戦いや侵攻作戦見てると
日本での戦いが一番内容的に大したことないというか
ショボいというか少なくとも武士は日本人が思ってるほど強くなかったと思う。
14万の派兵がショボくて大したことないとな
742 :
名無し三等兵:2012/06/05(火) 15:27:58.78 ID:jZW0o2a3
バイバルス(マムルーク朝)→フレグの家臣キドブカ率いるガチの精鋭騎兵と平原で戦って撃破。その後もモンゴルをシリアに入れさせず
バルバン、ハルジー(デリー・スルタン朝)→アフガニスタンから侵入を企む20万を超えるモンゴル軍を何度も撃破インドにモンゴルを入れず
ジャラールッディーン(ホラズム)→パルワーンの戦いで正規モンゴル軍5万を撃破
チンギス・ハーンの西方遠征でモンゴル軍唯一の敗戦、その後もモンゴルに土をつけ続ける。
豚飼いイヴァイロ(ブルガリア)→キプチャク・ハン国の王族ノガイの正規軍を寄せ集めの兵で撃破
モンゴル軍も何度も破りブルガリア皇帝を殺し皇帝になる
ベトナム→五十万のモンゴル軍を計略で一網打尽にするなど幾度となくゲリラ戦術で壊滅させ
皇太子を捕虜にしたり不敗神話を誇った名将にも土をつける。
日本→士気が低い寄せ集めの雑魚軍(しかも渡海遠征)を苦戦の末なんとか追い払っただけ。
しかも指揮してた武将は全くの無名で本当に征服意図があったのかも疑問。
こうみるとモンゴルの戦線の広げ方はキチガイだなw
>>742 ベトナムやハルジー朝の戦ったモンゴル軍の兵数は両方ともベトナムとインド側の記録で
実際の兵力は一桁少ないよ。
その有名なモンゴル軍の戦いの中でモンゴル軍の兵力が断トツ多いのが弘安の役ってこと自体
どれだけ鎌倉武士が当時の世界で突出した強さだったかわかるな。
モンゴル軍の戦役全部調べても日本より価値ある勝利を収めた国は存在しない。
13世紀はガチで日本最強が同時に世界最強だった時代。
>>742 撃退した国々の実例を集めてくれて乙
いやーそれに比べて朝鮮のショボさが際立ちますな
とでも書けばいい?
>>744 対南宋戦じゃ遠征軍全体じゃなくて一つの戦場だけで10万越えの戦いがなんども起きてるわけだが
747 :
名無し三等兵:2012/06/05(火) 16:28:23.09 ID:jZW0o2a3
>>744 ネトウヨ乙。
士気の低い寄せ集めばっかだった事は反論無いのね。
>>745 そゆこと。
ちょっと調べたら別に日本の例なんて全然凄くないことはすぐわかると思う。
748 :
名無し三等兵:2012/06/05(火) 16:28:50.61 ID:jZW0o2a3
モンゴルたいしたことねーな
>>746 南宋は勝ってないじゃん。
ちなみにモンゴル軍の包囲に5年間も耐えた襄陽・樊城の守備兵とか張世傑と最後までモンゴル軍に抵抗した兵とか
旧南宋軍の精兵ばかり集めたのが弘安の役の江南軍ね。
>>747 だから全部元寇よりしょぼいじゃん。
バイバルスの勝ったキドブカ率いるモンゴル軍だってフレグがモンケ急死で引き返した後に
留守番やらされてた部隊で士気が高くもなければ精鋭騎兵でもないし。
遥かに元寇の元軍の方が精鋭で士気も高かったよ。
>>750 >旧南宋軍の精兵ばかり集めたのが弘安の役の江南軍
それは初耳ソースは?
>>750 軍板に身を置く者とは思えない発言。
同じ南宋兵でも国を守る為の戦いに参戦したのと
被征服軍として嫌々異境の地に赴くのとでは全然士気が違う。
>>752 ソースは元史だよ。
モンゴルが南宋征服した後、真っ先に編成されたのが日本遠征軍。
で、その内容も襄陽・樊城の守備兵とか張世傑指揮下の水軍とか南宋側に寝返っていたモンゴル兵とか、
いわば南宋軍の中でも健闘した兵ばかり。
しかも大半が自ら志願しての参加だから士気も高かったし。
>>752 >>751は口から出任せ言ったと思う。
むしろ実態は役に立たない者達を体よく厄介払いするものだった
>>755 その「役に立たない者達を体よく厄介払いするものだった」ってのが口から出まかせじゃん。
どこの史料にもソース皆無。
もしソースがあるんだら出してみろよ。
>>754 そういえば宋の軍隊って志願制だったんだよな。
何故かウィキペでは練度も士気も低い扱いになってたけどw
原文を見せて貰えると助かる。
>>756 そういや以前、日本史板のスレで元の貨幣経済と塩の値段がどうたら
っていう理由で棄民説を主張してた奴がいたがイマイチよくわからんかった。
>>754 南宋軍の寝返りは呂文煥の間諜で大量に発生してるんだけど
そもそも南宋自体があっさり首都を無血開城して降伏してる
まあ一部の遺臣が王族を担ぎ出してその後も抵抗したが
>>757 元史 世祖五 十年
九月
甲申,襄陽生券軍至大都,詔伯顏諭之,釋其械系,免死罪,聽自立部伍,俾征日本;仍敕樞密院具鎧仗,
人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人?x5167;選可為率領者。
元史 世祖八 十七年
秋七月
戊辰,詔括前願從軍者及張世傑潰軍,使征日本。命範文虎等招集避罪附宋蒙古、回回等軍。
八月庚午朔,
以前所括願從軍者為軍,付茶忽領之征日本。
なんか、どうしても武士達は大したことないということにしないと気が済まない人がいるみたいだな。
むしろ
>>760こそが南宋の残党をわざと使いつぶそうとした証拠じゃね?
征服したばかりの忠誠心低い兵隊を放置するのは厄介だし。
日本はゴミ捨て場か
>>762 被征服民の軍ってのは戦闘で忠誠心示さないと自分の居場所がないから奮闘するんだよ。
だからオスマン帝国とかも被征服民で精鋭部隊編成してる。
そういう心理を一番上手く利用したのは被征服民の軍を使って大帝国築いたモンゴルなわけで。
>>760 大都に招かれた元南宋軍に対して正式な恩赦・贈り物・日本遠征とそのための武具を与えること
蒙古、漢人から率いる者を選ぶことを伝えた
志願兵と元張世傑軍を日本遠征に集める范文虎に罪を許された南宋人蒙古人イスラム教徒らの軍を集めさせた
訳するとこんな感じか
八幡蒙古記の都合悪い記述無視して、元史や高麗史でも
都合いい記述だけ取り上げて他は無視して武士が勝ったとかアホじゃね?
>>755 >>762 所謂「棄民説」か・・・・(大笑)
相手にする価値も無い。
これがいかに荒唐無稽な妄想説かはこのスレを「棄民」で検索かけてみるだけでわかる。
・世界中で負けまくりのモンゴルは糞弱い
・そのモンゴルに戦場でボロ負けした武士は最底辺
・八幡中心に祈祷で追い返しました
>>766 都合悪いも何も、八幡ノ蒙古記って後世の宗教家が書いたインチキ本じゃんw
>>766 八幡ノ蒙古記だと箱崎宮から神様が出てきて元軍撃退したことになってるんだけど、
そんなことが本当にあったと思ってるの?
>>766 明々白々な客観的事実をそのまま認める事すら出来んのだね。
2度にわたってのべ20万近い兵力で侵攻をかけながら、実質何も出来ず (土地の占領はおろか橋頭堡
ひとつ築けていない) 全滅に近い損害を出して逃げ帰る。
まさしく目も当てられない完膚なきまでの大惨敗。
逆に言えばこの戦いは武士側の完全勝利。
日本(武士)側の勝因 (蒙古側の敗因) として地の利やその他の要因を上げて論じようというなら解る。
だが「蒙古側の大惨敗」「武士側の完勝」という客観的事実すら認めようとしないってのは、もう脳の思考
回路が完全にイカレてるとしか思えない。
そりゃ荒唐無稽な白装束の類は嘘だけどだからといって、全部否定するのは暴論すぎる。
史料が少ない以上は具体的な描写がある八幡蒙古記を参照しなきゃ。
そもそも八幡蒙古記以外にもこのスレでしょっちゅう引用される
元史と高麗史では文永の役では元軍が武士を圧倒したとあるし
当の武士達の記録は自分達に都合悪いことは書いてない可能性があるし
その他の当時の知識人の記録でも武士達が敗北したとあるぞ。
それに八幡宮だけでなく各地の神社が
胡散臭い理由で恩賞を求めてたけど、逆に言うならば
文永の役の実際の戦闘では武士達が大敗したからこそ
その後の元軍の撤退に関して「これは神威である」と吹聴しやすかったんじゃないの?
当の元軍の撤退事情なんて日本側は知る由もないし。
元軍が撤退した理由は祈祷を恐れたから
>>772 いや、最近巷では戦術面でも最初から武士が完勝したって俗説が広まってるから。
戦略的にも武士の勝ちと言っていいかわからないけど
(そもそも元軍の意図自体色々な説あるし)それとはまた別問題よ。
>>773 具体的事実を知りうる立場になかった人物の書いた具体的な描写には価値がない
小説にどれだけ具体的な描写があろうと、それは事実じゃないだろ
八幡ノ蒙古記なんて明らかに創作が記されてる文献じゃん
>>775 元軍の意図目的は日本の征服だろ
元側の文献に明記してあるじゃん
こっちは史料に基づいて鎌倉武士の圧勝って言ってるのに、根拠ない妄想で否定してるのどっちだよ?
>>773 「元史」には一言「これを破る」とあるだけだし、
「高麗史」の勝った勝ったという記述は文脈から見て対馬・壱岐などの離島での戦果のように読める
何よりその後の場面ですぐ焚船だの背水の陣だの話し合う進退窮まった状況になってるんだけどな
寺社が好き勝手書いてることについては単に恩賞を与えたくない(新しく土地が得られたわけでもないので与えられない)
幕府と神威を示したい寺社の利害関係が一致しただけじゃないの?
あと「その他の当時の知識人の記録」って何?ウィキ見てみると日本側の資料
「五檀法記」「帝王編年記」「関東評定伝」いずれも日本軍が元軍を破ったと書いてあるそうだが
>>779 元史の「これを敗る」は「唯四境」つまり対馬壱岐のできごとに限定してるだろ。
日本征服のために遠征し、対馬壱岐でしか勝てなかったのなら結局は元軍の完敗じゃん。
781 :
名無し三等兵:2012/06/05(火) 21:16:09.46 ID:vnREoUj3
そもそも、百戦錬磨の猛将やモンゴルの王族や血族が率いたほかの地域と違って
日本を攻めた際の武将は何処の馬の骨かもわからない無名武将ばかり。
これだけで元軍にとって日本遠征がどの程度の重要性だったかがわかる。
>>781 劉復亭も洪茶丘も経歴見ればモンゴル軍内では立派に百戦錬磨の猛将だよ。
それに高麗国王はクビライの娘を妻に娶り、モンゴル帝国の王族としての地位を与えられてる。
モンゴル帝国にとってそれだけ日本遠征は重要だったんだよ。
>>781 そのような武将は勝敗とは別に可能な限り戦死させたくない。
遠征軍編成段階で生還できない可能性がかなりあることを予期してたってことじゃない?
弘安の役だって、最初船で襲撃掛けたら返り討ちにされたから
「昼間はひたすら逃げ回って夜に奇襲掛けようぜ」って作戦になったんでしょ?
軍板の質問スレの過去ログ見たらそう書いてあった。
>>775 戦術面でも完勝だわな。
文永でも蒙古側は橋頭堡ひとつ築けなかったわけだから。
弘安は戦術以前に戦略面でのパーフェクト勝利なので、戦術が出てくる余地もあまり無かった。
>戦略的にも武士の勝ちと言っていいかわからないけど
数千隻・20万近い大兵力が殆ど何も出来ずに壊滅。
世界史的に見ても特筆すべき大勝利だぜ。
>>784 弘安の役では元軍が戦うたびに負けてて九州近海を日本軍から逃げ回るのに精一杯だったんだが
>>785 実際戦ったのは東路軍4万だけじゃねえか
元は何しに来たんだ?
>>787 東路軍4万以外はまともに戦う事すら出来ず海の藻屑。
これほどパーフェクトな勝利は滅多にあるまい。
開戦から台風までにけっこう時間あったのに元軍何やってたの?
戦ってもいないのに武士の手柄に含めるのかよ
>>791 江南軍10余万は台風で船が沈んで逃げられなくなったところを武士に攻撃されて全滅したんだよ
というか、敵戦力を発揮させないって立派な手柄だろ
台風が来る以前にも江南軍に少弐達が戦闘仕掛けてるよ。
決定的な打撃は与えられなかったけど。
何もしなかったんじゃなくてできなかったんでしょ。
日本側は深追いはせずに沿岸の守り固めて、敵が島付近に停留したら
片っ端から総攻撃かけてくる作戦だったんだから。
>>791 >戦ってもいないのに武士の手柄に含めるのかよ
含めるに決まってるじゃないか。
蒙古側は自然障壁によって上陸できなかったわけじゃない。
幕府側の戦略にまんまと嵌り、まともに戦う事すら出来ずに壊滅「させられた」んだぞ。
野戦で相手を殲滅するなんてのは下策。
戦略によって相手に戦すらさせずに殲滅できれば、それが最上の策だ。
蒙古側の大損害に比べれば日本側の損害などゼロに等しい(壱岐・対馬の損害は除く)
世界史的にも殆ど例を見ないほどの戦略的パーフェクト勝利。
三国志演義の孔明の策(もちろんフィクション)がまんまと当たったケースでもこれほどの損害比には
ならんだろう。
江南軍10万は日本に来てから1ヶ月何もせずにぼへーと台風くるの待ってた
海岸線に大規模に築城することによって十数万もの上陸軍を完膚なきまでに封じ込める。
ほとんど類例を見ないような戦略で、世界史的にも特筆すべきものだと思う。
もちろんそれをやるには海流・風向き等から敵の侵攻路を予測してどこに築城するかを決める分析力、築城を可能に
する大規模な動員力と高度な土木技術力が要求される。
当時の日本の国力、技術力の一端がここから窺い知る事が出来るだろう。
それにしても万里の長城の役立たずぶりに比べて、この「海岸長城」の何と素晴らしいことか・・・
これほどの事実が世界史的にあまり注目を浴びていない事の方が不思議。
理由としてはまず、日本人自身が当時から自分達のやった事がどれほど大それた事なのか自覚していなかってのが
あるだろう。
公家や宗教勢力が「神風説」を広めたのに対し、当の幕府側が武士の功績を強調しなかったようだし。
戦功を認めれば恩賞を与えなければならなくなるからな。
あとは、あまりにも完璧な戦略的パーフェクト勝利だったので、日本側に「大敵を撃退して勝利した」という実感が乏し
かったのもあるだろう。
近年においては世界史の見方というのが欧米中心で、アジアにおける歴史的事実が軽視されがちというのがひとつ。
あとは、このスレ見てれば解るとおり日本の歴史学界というのが心底どうしようもないものだって事かな。
元寇の世界史的価値を強調するどころか、いかにその価値を貶めるかに必死になってんだから救いようが無いね。
>>790 考古学の先生によると
http://www.h3.dion.ne.jp/~uwarchae/takasimasite.htm >元軍の壊滅 7月上旬、ようやく平戸島において両軍の集結を終えた元軍は、全軍の再編成を行い、
>一挙に博多湾に侵入すべく7月29日に鷹島沖へ移動を完了。一方、元軍が鷹島に集結中との報告を受けた
>日本軍は、7月27日・28日にかけて軍船による夜襲を敢行し、元軍に多大な損害を与えている。
>このように彼我の緊張が極限まで高まる中、鷹島沖に集結中の元軍に、7月30日夜半から翌閏7月1日に
>かけて、激しい暴風雨が襲いかかり、元軍の船団は次々と海底の藻屑と消えるという予期せぬ結末を迎える。
そういう人が学会から引退して若い人に世代交代していったら
また変わっていくのじゃないだろか。
「予期せぬ結末」じゃないんだけどね。
まあ、元軍にとっては予期せぬ結末だったのかも知れないが、日本側にとっては予想通りの結末だ。
元軍の中にも予期してて台風を逃れた部隊もいるよ。
台風が来るのが1週間遅れてたらたいへんだったな
>>803 2ヶ月間戦況が元軍不利のままだったのに台風が1週間くらい遅れても何かが変わるとは思えない
十数万で攻めてなぜ九州北部を占領できなかったのか
九州北部があれば台風一つで壊滅なんてならないだろうに
船に十数万いようが陸に上がらねば意味が無いし、陸に上がるには小舟に乗り換えて漕ぎ寄せるしか無いわけで
大半が遊兵化してたんだろうな。
元艦隊は伊万里湾にいたんだから陸戦で勝てる見込みあるならそこから九州へ上陸しただろう。
伊万里湾にいながら鷹島中心に船団が犇めき合っていたってのは克Rの戦いの南宋艦隊と同じ状況。
上陸しても勝ち目がないから船団固めて完全に守りに入ってる。
>>808 いや、史料からも遺構からも元艦隊は伊万里湾にいながら上陸できなかった。
蒙古襲来絵詞で台風の後の掃討戦は伊万里湾で行われてるし、鷹島沖の海底からも沈んだ元船が
大量に発見されてる。
結局、元軍は14万もいながら戦闘で日本軍に歯が立たず上陸できなかったとしか考えられない。
>>809 ちゃんと読め
博多湾に侵入すべく7月29日に鷹島沖へ移動
7月上旬から7月29日までは睨み合いが続いたって事か。
弘安の日本軍は基本的には「いのちだいじに」で
チャンスが生まれる度に「ガンガンいこうぜ」でいってたみたいね。
味方を温存しながらコマンドー作戦でジワジワ追い詰めていく方針は
少弐によるものか北条実政によるものなのかはわからないが良い作戦だったね。
>>810 博多湾に突入するのに平戸から鷹島沖に移動する必要がないじゃん
鷹島沖に移動し、尚且つ伊万里湾から上陸もできなかってこと自体、博多湾突入なんて
不可能な状況だったってことだろ
鷹島が平戸より博多に近くて手ごろな島だったんだろ
なんで博多湾突入しようとしてるのに伊万里湾から上陸しなきゃならんのだ
>>796 孔明:船遊び
曹操:矢10万本喪失→提督処刑→艦隊全焼→追撃で関羽のジャーン、ジャーン、ジャーン
そんな「ぼくがかんがえたさいきょうのこうめい」が主役の演義の話されても・・・
三国志演義は700年前から厨二病が存在した事を示す資料
「博多湾に侵入しようとしていた直前に台風が来ました」とかさも元軍に勝算があったかのように
書くから嘘になるんだ
事実に即して「まったく上陸のめどがないまま鷹島沖で途方に暮れてるところに台風が来ました」
って書けばいいのに
実際に鷹島で発掘研究してる先生達とどこの馬の骨とも知れない2chの名無し
どっちが信用できるかなんて考えるまでもない
台風来なければ日本はモンゴル領だったな
>>818 ちゃんと自分の頭で考える習慣ない人は2ch向いてないと思う
考えるってのは信用できるソースがあることが前提で
なんの信憑性もない
>>817の落書きを元に考えるなど無意味だ
>>799かそれに代わるソースを前提にした話ならしてもいいが
>>821 ソースも何も現実問題として元軍が九州近海に到達して2ヶ月間上陸できなかったんだぜ
元軍の実力では上陸なんて不可能だったと考えるのが普通だろ
つーか
>>799ちゃんと読んだか?
「上陸作戦に失敗続きで海上でも武士の襲撃を受け最後は台風で海の藻屑になり残存部隊も壊滅しました」
って史実どおりの事しか言ってないじゃん
>>822 上陸実行したのは朝鮮からきた4万だけで中国からの軍は実行前に台風でやられてんだろうが
>>823 つまみ食いと印象操作ばっかだな
日本軍が攻撃したのは元軍の先鋒に対してのみで移動の完了した29日には襲撃を諦め監視のみ
しかも27日・28日にかけての襲撃も夜襲のみで元軍の先鋒に対してさえ日本側は劣勢だったことがうかがえる
>一挙に博多湾に侵入すべく7月29日に鷹島沖へ移動を完了。一方、元軍が鷹島に集結中との報告を受けた
>日本軍は、7月27日・28日にかけて軍船による夜襲を敢行し、元軍に多大な損害を与えている。
>このように彼我の緊張が極限まで高まる中、鷹島沖に集結中の元軍に、7月30日夜半から翌閏7月1日に
>かけて、激しい暴風雨が襲いかかり、元軍の船団は次々と海底の藻屑と消えるという予期せぬ結末を迎える。
神風伝説の誕生時もこれぐらいのしつこさだったんだろうな
こっちも毎回事実出して反論していくしかない罠
>>824 だったらなぜぐずぐずしてたと思う?
成立のときは反論を許さず押し切るだけで、しつこい論争とかないんじゃね
まだ、そんなこと言ってるよ。
日本が劣勢とかお前ちゃんと一次史料読んだことあんの?
>>825 ぐずぐず?軍の再編を済ませてから止まってたのは7月30日だけだろ
たんに休息か博多湾に侵入のタイミングを合わせていたか台風が近づいて海が荒れ始めていたかだろ
>>827 もし日本軍が優勢だったら敵の増援が続々と到着してるのにこちらから攻勢をかけず
夜襲に限定するわけがない
>>828 夜襲をかけたのは、手柄欲しさに独断行動した一部の奴だぞ。
しかも後で「お前ら勝手なことすんな」ってしっかり怒られてるし。
志賀島の戦闘でも壱岐島の戦闘でも昼間の総攻撃により元軍は敗走している。
>>829 もし日本軍が優勢だったら夜襲をかける事に反対などせず昼間からさっさと攻撃してただろ
その二つの戦はまだ朝鮮からきた軍しかいなかった時の話だ
は?
先鋒に対してさえ劣勢だったとか言うから壱岐や志賀の戦闘をあげ
それらの戦闘の度、元軍はどんどんジリ貧になってるだろと反論したんだが?
予定なら東路軍は江南軍が来る前に、九州に上陸して幕府軍を蹴散らすつもりだったんだろ?
大幅に予定狂うわ「江南軍来るまで一旦引き返そうかどうしよう」
だなんて軍議で話してる時点でメッチャ追い込まれてるやないかいw
それのどこが平戸から鷹島へ移動する元軍の先鋒に対して優勢だった証明になってるんだか
話題すり替えないで日本軍が平戸から鷹島へ移動する元軍の先鋒に対して優勢だったと言うなら
なぜ日本軍は元軍をまともに攻撃しようとせず一部の独断行動した奴らの夜襲なんて形になったのかで反論しろよ
>>830 現実には鷹島沖で台風に遭った元軍もいれば対馬や平戸で台風に遭った元軍もいる
要するに元艦隊は軍の再編なんてやってない
ただ逃げ回ってただけ
陸上と海上では戦力が違いますし
>>834 なんで平戸から敵の根拠地のある東に向けて逃げるんだよどう見ても元軍は攻めてるだろ
対馬にいたのは船団からはぐれたか占領地確保の軍だったんだろ実際鷹島周辺には十万以上の元軍がいたんだから
江南軍には手も足も出てない
>>830 「戦略」を理解できない奴がそういう馬鹿げた事を言う。
日本側は上陸させなければいいわけ。
それだけで元側は損耗してどんどんジリ貧になっていく。
いずれは海の藻屑か、良くて侵略断念して全面撤退するしか無い。
無理やり上陸してきた奴らを蹴散らし、時々夜襲をかけて損耗を加速してやれば十分。
弘安の役は一貫して日本側の全面的優勢、元側の劣勢・ジリ貧に終始している。
最終的に元側は日本の戦略に嵌ったまま、殆ど何も出来ずに壊滅。
日本側が苦戦した事実などどこにもないし、元側が優勢だった事など一度も無い。
あー、ごめん。色々勘違いしてたわ。
東路軍に対してすら不利で夜襲するしかなかったとか言うから
てっきり最初の頃に行われた方のこと言ってるんかと思ったわ。
ごめんごめん。7月28日の夜襲は正式な作戦だわ。
で、6月29日〜7月2日の壱岐の戦闘で敗れた東路軍が
同じ頃に平戸に到着した江南軍と合流完了(勘違いしてるようだがこの時点で江南軍と合流してるぞ)
その後1ヶ月近く睨み合いが続いたのち、太宰府に攻撃をしかける為に鷹島へ移動。
で、鷹島に停泊してる元軍に夜襲をかけたという流れだが。
つまりアンタが言いたいのは、本当に日本側が優勢だったのなら
平戸で合流した東路軍及び江南軍になぜ1ヶ月近く攻撃を仕掛けなかったのか?
そして鷹島に移動した後の元軍に何故昼間ではなく夜襲をかけたのか?
実際は武士達がボロボロだったからそうせざるを得なかったと言いたいのね。
アホくさ。少なくとも軍板に書き込みたいなら半年ROMる事推奨するわ。
むしろ元軍は何故、平戸で合流してから今の長崎辺りから上陸して西から攻めなかったんだろ?
そっち側の武士達の守りは手薄だったはず。
元軍が動かなかった理由はわからんが、幕府軍が動かなかった理由は簡単。
向こうの兵力が増えたので、京都近辺に控えていた
6万の東国武者達を呼び寄せ、彼らの到着を待っていたわけ。
鷹島への夜襲は破れかぶれの攻撃というよりは、これから始まるであろう
総力戦に向けて出鼻を挫いておこうってとこだったんだろうね。
結局、東国勢が九州に辿り着いたかなあ?って辺りで台風が来たわけだが
仮に台風が来なくて、元軍が再び本土への侵攻を開始しても
東国から来た新手により増強された武士団にやっぱり殲滅されるのがオチだっただろうね。
>>841 陸上では鎌倉武士に勝てないからだろ
3500艘もの大艦隊だから海上で船団組んでいれば日本軍も中々手が出せない
だからいつまでたっても海上に留まってるしかない状態
>>841 上陸適地がなかったんじゃね?
大兵力が展開できるような地積もなかっただろうし
山口県沿岸に上陸を試みた部隊も蹴散らされてるし、当時の揚陸戦の水準じゃ現代人の考える以上に上陸適地が少なかったのかも
博多湾が石塁で塞がれてた時点で詰みだったとか
>>840 東路軍には普通に総攻撃で圧勝してる
その後、何度も日本軍と戦ったけどそのたびに負け続けたって元軍も認めてるし
で、台風が来る1っか月以上前には江南軍も到着し始めてたけど日本軍に歯が立たず
鷹島沖で途方に暮れてる時に台風に遭ったって流れだよ
>>841 >>843-844の理由もあるけど、元軍の間で疫病が蔓延していたのも忘れてはいけない。
元側は総攻撃をかけるには彼らの回復も待つ必要があったんだよ。
日本側が攻撃仕掛けなかった理由は
>>842の通りだろうね。
847 :
840:2012/06/08(金) 00:29:21.38 ID:???
>>845 いやいや、俺も東路軍を昼間の戦闘で圧倒したって認識だよ。
>>830のアホがわけわからん理屈で武士達が東路軍に対して
劣勢だったとか抜かすから反論したわけだし。
7月27日以前に江南軍と直接戦闘した記録自体はある?
いや、自分もこの時点で元側が相当ジリ貧だったのは知ってるが
7月27日以前に武士が直接江南軍と戦闘した記録はちょっと記憶に無いんだが。
江南軍も棄民扱いされたり日本が手出しできない最強の軍になったり大変だな
>>848 勘仲記に6月24日に鎮西からの飛脚で江南軍300余艘が対馬到来って記事がある
それから、弘安四年日記抄に6月27日、7月12日、7月21日に合戦の知らせた届いた記事がある
江南軍到着後も戦闘続いてた感じだよ
>>847 アホはお前だ誰も東路軍の話なんぞしとらん
文脈的に先鋒ってのは東路軍の事では無く、東路軍を吸収再編したあとの江南軍のなかでの先鋒だろ
どの道、日本が劣勢だったとかおかしな理屈だわな。
敵の集結が完了する前に攻撃するのは当たり前夜襲しかできなかったのは正面から挑む戦力がなかったから
そもそも上陸地点の選択権は元軍側にあり日本側は北部九州沿岸一帯に戦力を分散させる必要がある
とくに博多近辺の守りは外せない対する元軍はほぼ全軍を自由に動かせる
この状況で鷹島近辺の日本軍だけで元軍にたいして優勢だったなどという事はありえない
>>855 そもそも夜襲しかできなかったとかいう事実ないから
江南軍到着後も普通に正面から戦って日本軍優勢だった
上陸地点選択権あるはずの元軍が伊万里湾にいながら九州には怖くて上陸できなかったの見れば
どれだけ日本軍が優勢だったかわかる
優勢なら武士なんぞ蹴散らしてさっさと上陸したらいい
橋頭堡確保してから増援迎えるのが普通
文禄の役の小西行長見てみろって
加藤清正や黒田長政待って海上でウロウロしてたか?
さっさと上陸したじゃねーか
優勢なら普通そうするよ
まぁ小西の場合はさらにソウルまで行っちゃったけどさ
>>855 確かに日本側はどこから上陸するかわからない元軍に常に警戒しなければならず
一方で対する元側は日本側の布陣を見て自由に上陸地点を選べた。
だが、それにも関わらず東路軍と江南軍が合流した7月上旬から1ヶ月もの間上陸出来なかったわけだ。
これで元側が優勢だったと言う方がどうかしてる。
>>859 日本側が優勢だったというのは同意だが、元軍は上陸地点を選べたんだろうか
北九州沿岸で軍団規模の兵力を上げられる長さの浜があって、かつその後ろにそれだけの兵力が展開できる平地がある場所って博多ぐらいしかない気が
今と違ってヘリもホバークラフトもランプドアのある上陸用舟艇も無いし、港湾設備を占領してそこから陸揚げと言う手も無いし、相当制約があったと思うんだが
ゲームと違って「別の地点から回り込んで上陸しようぜ」というのは無理だからね。
南北朝時代の湊川の合戦では
足利尊氏が新田義貞の後背に上陸すると見せかけ、新田軍を後退させて
楠木軍と新田軍を分断する地点に上陸なんて器用なことをやったけどね
そりゃ波が穏やかで上陸しやすい瀬戸内海だから出来た芸当だ
>>860 そもそも14万の大軍が一か所に一度に上陸できる地点なんて無いし
第二次大戦のハスキー作戦やノルマンディー上陸作戦と作戦規模ほとんど変わらないわけで
先遣隊が博多湾に橋頭保築いた後に後続部隊が順次続くか、複数地点に分散して上陸するしかない
だから、軍の再編やってたから九州に上陸できなかったなんて言い訳はナンセンスなんだよ
橋頭保を築くための部隊が
武士より弱かったのが原因じゃね
>>864 戦車や大砲それらの燃料弾薬を上げる必要もないけどな
博多湾岸だけで30kmあるんだからスペースが足りないなんて事はない
台風を警戒するだけの知性があれば長崎にさっさと上陸してたんかな
むしろ台風待ってたんだと思うよ
そのくらいのきっかけないと退却できないじゃん
331 名前:名無し三等兵:2012/06/09(土) 12:55:00.75 ID:???
文化財テロ発生リスト。補完して行ってくれ。↓
2002/12/28 北海道南茅部町大船の同町埋蔵文化財調査団事務所で火の気の無いところから不審火。
世界最古の漆製品とされる約9000年前の縄文早期初めの漆塗りの装飾品が焼失。
2004/4/1 高知県香美郡内香我美町中西川の有宮神社など五つの神社で相次いで全半焼する火災発生。不審火とみられる。
2006/6/12 世界遺産に登録されている和歌山県かつらぎ町上天野の丹生都比売(にうつひめ)神社境内にある
樹齢約100年の杉の根元に穴が開けられ、中に除草剤がまかれる。
2008/2/11 千葉県船橋市の神明神社で不審火。本殿の内部約85平方メートルを全焼。
2008/4/20 長野県 国宝・善光寺本堂がスプレーで落書きされる。
2008/5/23 大阪府吹田市岸部北4丁目の吉志部(きしべ)神社付近から出火、国指定重要文化財で木造平屋建ての
本殿約240平方メートルが不審火で全焼。(江戸時代初期の慶長15(1610)年に建てられたもの。)
2008/6/3 大阪市法善寺で「水掛け不動」の脇にある石像「制多迦童子」が壊される。岡田日出男容疑者(64)逮捕。
2008/6/18 和歌山県田辺市の熊野古道沿いの石像「牛馬童子」の首が切断される。
2008/6/26 北野天満宮の石像「撫で牛」が破壊される。
2005/1/9 秋田県秋田市の千秋公園(旧久保田城・・・秋田藩佐竹氏の居城)にある八幡秋田神社
(秋田県指定重要文化財)が放火で全焼。
2007/2/25 島根県隠岐の島町の隠岐国分寺の本堂が不審火で全焼。
国指定重要無形民俗文化財の舞楽「隠岐国分寺蓮華会舞」に使われる面(県指定有形民俗文化財)が
9面あったが焼失。また鎌倉時代の制作とされる木製の四天王像も焼失。
>>870-871 大変ですね(棒読み)
とりみき先生の「石上伝説」を再開すべきですね(迫真)
>>815 >>796 >三国志演義の孔明の策(もちろんフィクション)がまんまと当たったケースでもこれほどの損害比には
ならんだろう。
気候を操り(予知して)敵を破ったとかまさに三国志演義の孔明だな
カルピノの記録にあるように
モンゴル弓は平均張力が70kgを越え、「有効」射程距離は300m近くにもなる。
対する和弓は江戸時代以降のものでさえ、精々張力は25kg程度で有効射程距離は60m程度に過ぎない。
日本人非力すぎるな
米俵が60kg
これを普通の農民が運んでるのに
弓は25kgしかないのは不自然だね
879 :
名無し三等兵 :2012/06/10(日) 18:30:09.00 ID:???
サラリーマン化した江戸期武士と、生きるか死ぬかで切磋琢磨してる戦国期の
武士では、体力も技量も比較にならないわ
日本側と元側のどちらのにも、相手の弓がすごかったとかショボかったとかいう記述は無いんだろ?
ならこの点では大差なかったと見るのが自然だと思うが
>>878 それが比較の対象になると本気で思ってるのか?
日本の弓は使い物にならんレベルだな
これは神風吹かなければホロン部してたわ
この人々は何百年経っても何も変らんね
張力25kgなんて現代の大学の弓道部員レベルですら「ちょっと強い弓かな?」程度なんだが。
70kgの弓なら武家に伝わってる弓なんかであったし
現代でも50〜60kgくらいなら普通に引く人いるしね。
>>881 人の腕の筋力で出せる力という意味では同じだよ
日体大の森俊男教授によると和弓のがモンゴル弓より威力は上らしい。
あと、ナショナルジオグラフィックでは和弓はロングボウより威力が上という結果が出てた。
>>884 当時の人間が毎日肉食って図体もでかくなってる現代人と同じ力を出せんのか?
歩兵の装備重量はいつの時代もたいして変わらんという現実があってな
>>887 肉を食べなかったのは江戸時代だけだよ。
鎌倉時代は普通に猪とか鹿の肉食べてたし。
ていうか、コツさえ掴めば和弓は強弓でもそんなに力使わないよ。
そもそも栄養状態云々言い出したら、日本より生産性低かったイングランドとかどないなるねんと。
肉食忌避は平安時代にはもうあったぞ鎌倉に入ってから薄れたが逆に乳製品は食べられなくなった
あと一貫して家畜の肉は忌避され猟で取った肉しか食えなかった
だからなに?
鎌倉武士は現代人より非力に決まってる!
強弓なんて実際に引けるわけない!って言いたいわけ?
和弓は張力20kgを超えると製作難度が急に上がっていくらしいから
一般的な大量生産の和弓がその辺だったってことじゃね?
もちろん、手間と金をかけたそれ以上の強弓は用意していただろう
というか、刀の例を見ても、数が求められた江戸時代より鎌倉時代の方が
それぞれの装備にかける熱意が段違いのような気がするが
そうなん?>20kg以上は製作難易度が急に高くなる
弓は所詮人力で引くもので、張力はそれを引く人間次第でどうとでも変化する。
更に射程にいたっては同じ弓でも放つ矢の重さによっていくらでも変わってくる。
そもそも張力の定義自体が弓の形状・大きさやそれをどの程度引くかによって変わってくるんだから
そんなものでモンゴル弓と和弓の威力の差を云々するなどナンセンス。
>>876 >モンゴル弓は平均張力が70kgを越え、「有効」射程距離は300m近くにもなる。
>対する和弓は江戸時代以降のものでさえ、精々張力は25kg程度で有効射程距離は60m程度に過ぎない。
洋弓でも和弓でも、現代の競技用のもので張力20kgを越すものなどそうは無い。
当時のモンゴル兵がその3〜4倍もの張力の弓を楽々と引いていたなどと本気で思っているのか ?
話だけでいいなら日本にも2人張り、3人張りの強弓なんて話はいくらもある、
源為朝の弓は5人張りとか10人張りとか言われている罠。
そうだね。
モンゴルの弓も現代のナーダムに使うやつが30kg程度だから
栄養状態が今より悪かった昔のモンゴル人が70kgの弓引いてたなんて
明らかに宣教師の誇張表現だよね。
テレビの企画で現代の弓の達人が三十三間堂の通し矢に挑戦しても10本に1本くらいしか成功しない
でも江戸時代には丸1日で13,053本中8,133本なんて記録が残ってるんだよな
現代人の趣味の弓術なんて何の参考にもならん
まあ、通し矢は通し矢の為に弓も矢もチューンナップしてたからね。
ほぼ直射で的に届いてかつスタミナを消費しない程度の弓と
競技用に実戦のものより軽くしてある矢を使った。
>>898 そこで和佐範遠の記録持ってくるとかセコイやっちゃなこいつ
そもそも大平原で矢の雨を降らせるモンゴルと
ガチガチに装備固めた武者達がこれまたガチガチにバリケード固めた中で撃ち合う日本とでは
戦場での弓の使い方が全然違うしな。
文献で日本の方が近距離で撃ち合ってるからって、イコール和弓がショボい事にはならんだろ。
コンポジットボウが強力なのは当たり前だろ
馬上から軽い毒矢を曲射してアウトレンジから毒殺狙うモンゴルの弓と
速射性が信条のロングボウを同列に比較するのも意味分からんし
そもそも和弓もコンポジットボウの一種だろ。
>>876 >対する和弓は江戸時代以降のものでさえ、精々張力は25kg程度で有効射程距離は60m程度に過ぎない。
なんで時代が下ると弓の張力が上がる前提で話してんだよ
>>901 近くで撃つのは近くじゃないと大鎧を抜けないからだろうな
弓はより少ない力で威力のある矢が放てるように進化するからね
これは競技用でも変わらない。なぜなら威力がある方が矢飛びが安定するから
アーチェリーのコンパウンドボウなどはその典型でフルドロー(弓道における会)の時に最大張力よりだいぶ低い張力でリリースできるようになってる
まあ和弓やリカーブボウでは大体引き絞る過程の張力は一次関数のグラフの様になるらしいのだけれども
そういえば文永の役では蒙漢軍26000人、高麗軍8000人ってなってるけど
大陸側の史料でも蒙漢軍が20000だったり15000だったり10000だったりするし
高麗軍も5000だったり10000だったりするし、どれが本当なんだぜ?
909 :
名無し三等兵:2012/06/16(土) 13:57:52.86 ID:raGga3r5
源平スレで論破されたネトウヨのたまり場と聞いて
910 :
名無し三等兵:2012/06/16(土) 15:55:02.91 ID:Y2pqiC0r
文永の役は「緒戦で勝ったけど矢が尽きたからー」で撤退
弘安の役は東路軍はガチ負け
江南軍は半月平戸に居たあと鷹島周辺で1日か2日戦っただけで台風あぼん
モンゴル軍は世界一間抜けだな
結局のところ渡洋侵攻のノウハウが無いに等しかったということに尽きるんだろうな
912 :
名無し三等兵:2012/06/16(土) 17:05:09.83 ID:I4J6p+g0
気の毒に半魚人の言うこと信じたのが間違いなんだよな、大汗も。
たまたま元軍に台風が直撃しただけなのにいい気なもんだ
もし阿剌罕が急死していなかったらり少しでも気圧配置が違っていたら九州は終わってた
大慶油田を戦前に開発してれば日本の勝ちだったとか言ってる厨房と変わらんなw
合流してからも1ヶ月近く九州の先鋒にすら手も足も出なかったのにそりゃねえわ
>>914 運が良かっただけなのを15万もの元軍を破った武士は凄いとか勘違いしてる奴がいるからな
>>915 手も足もって軍の再編に時間がかかっただけで武士とはほとんど戦ってもいないのだが
ほとんど戦って無いのに1月も再編制してたとか・・・
元軍は本当にバカで手際悪いよなあ
こんな情けない軍隊見たことないわ
>>917 2月漂ってた東路軍がボロボロだったせいだろ船内で疫病もはやってたらしいしな
文永の役の元軍 糞弱い日本に負けたかゴミか、物資の見積もりもできないバカ集団か二択
東路軍 ゴミ集団で確定
江南軍 台風が無ければ勝ってた
武士団にやられた東路軍を一旦休ませて
江南軍だけで九州上陸しようとは思わなかったの?
どっから物資の見積もりの話が出て来たんだ
楽勝だったわー
楽勝だったけど矢が尽きたから帰るわー
いやー楽勝だったわー
あれは日本の戦力を読み違えてたんだろうな
ねーねー。
そんなに言い訳するんならどうして江南軍は
東路軍を一度休ませた上で博多湾から総攻撃かけなかったの?
そのために平戸から東に移動してたんだろ頭大丈夫か?
だからなんでその前に1ヶ月も平戸でチンタラしてたんだよ
そりゃ数を増強したかったんだろう
約1ヶ月も居着けば台風直撃しても不運で片付けられない季節だが
それは現代日本人の常識だ
つまり江南軍単独では博多湾に攻め込めないと判断してたわけだ。
いったん分離したら合流するだけでもまた何日もかかるからな
仮に指揮官が直前で死ぬトラブルが起こらずに合流が
当初の予定通り行ってても、博多湾を抜くことができた保障はどこにもないがな。
まあそれはもう誰にも分からないだろうね
今みたいに詳細な地形図があるわけでもないから、博多湾突入が無理としてもそれに代わる上陸地点を探すのは無理だったのかも
東路軍も本当は強かったことにできないのでしょうか
ていうか、東路軍が弱い=モンゴル人や女真人や漢人は弱いってことになるんだがw
>>935 単純に兵力が小さかったからとなぜ思わないのか
>>913辺りから粘ってる子がいるけど
そんなに武士が勝ったことが気に入らないの?
元軍十数万を武士が実力で破ったとかいう主張には同意しかねると言うだけで
別に日本側が勝った事自体には異存はないよ
地理的条件は実力のうちに入らないというなら、アフガンは実力でソ連軍を追い出したわけではないという言い方もできるな
ナム戦もだが
>>938 お前、あの状況で台風来てなかったら本気で侵攻に成功したと思ってるの?
地形と違って台風は常に当てにできるものでもないしどこを通るかなんて毎年違う不確定なんだから
元軍を直撃してくれたのは幸運以外の何物でもないだろ
もし元軍が平戸にそのまま留まってた場合や博多湾に突入後なら壊滅はしてなかったろうしな
じゃあ台風来なかったら勝てたとでも言うの?
てか史実でも台風で船団の全部が壊滅したわけでもないしな
あれだけの大船団だからかなり広範囲に展開してて、台風の直撃を免れた艦も多い
さあどうだったろうね
>>943 とは言ってもあれで少なくとも全軍の三分の二を失ったからな
台風来るまでの1ヶ月間に何も出来てない時点で言い訳にすらならねえよ。
江南軍の1/3+東路軍じゃどう頑張っても勝てなかったってことはその程度の戦力だったってことだろ
東路軍がボロボロだったっていうんなら、志賀島辺りに控えさせといて
江南軍だけでも博多湾襲撃とか出来たんじゃないの?
江南軍+東路軍の1/3だしねさすがにそれじゃ無理でしょ
東路軍は撤退させて江南軍だけで博多湾突入って手もあったと思うんだが、東路軍の残余も加えないと兵力が足りないと判断したんだろうか
防塁で固められた博多湾に固執したのはなんでなんだろう
主力は平戸に居たのに
>>951 大兵力が上陸して展開できるだけのビーチと平野がある場所が北九州には博多しかなかったんだろ
有明海の方に回れば海岸線と平地はあるけど干潟だからなぁ
合流後に何度か鷹島へ上陸しようとしたらその都度妨害されたという話もあるが本当かな?
>>948 >>950 それだけ武士の守りが固かったってことじゃね?
googleマップの地形図見たけど鷹島方面に10万人も上陸して内陸に侵攻するのは難しいんじゃないかなぁ
そんなこと言ってると仮に博多制圧してもその後手詰まりじゃねって話にならんか?
唐津や松浦のあたりはそれなりに開けているがその後筑紫山地で戦う事になるしな
一気に大宰府に行きたいなら海路で博多から攻めるのが早い
>>938 相も変わらず「戦略」が理解できない単純馬鹿。
渡洋軍は上陸を許さずに洋上で殲滅するのがベストなのは軍事戦略の基礎も基礎。
元軍十数万は幕府軍の戦略に嵌って殆ど戦う事も出来ぬまま洋上で壊滅。
目も当てられぬ完膚無きまでの大惨敗。
世界史上でもここまで酷い負け方はそうは無いぜ。
この戦いは幕府=鎌倉武士側の実力による完全勝利なんだよ。
鷹島のあたりは内陸に侵攻する以前に海岸線のあたりも山だらけで十数万の兵力が展開するだけの平地が無いような
近代軍と比較するのが適当か分からんが軍団規模の部隊が行動するには数十km四方の平地が必要だよね
>>957 洋上で殲滅とかどこにそんな水上戦力があるんだよ
だいたい平戸に上陸されてんじゃん
上陸を阻止し続けただけで洋上撃破はしてないわな
台風が来なけりゃ相手の物資が尽きて帰るのを待つことになったんだろうが
現代の対着上陸戦でも洋上撃破は困難って言われてるしなぁ
>>957 何で殲滅する水上戦力が必要なんだよ。
上陸さえ阻止すれば相手は侵攻を諦めて撤退するかそのまま海の藻屑になるしかない。
撤退させれば撃退、海の藻屑に出来れば殲滅、いずれにしろ武士側の勝利。
>だいたい平戸に上陸されてんじゃん
壱岐・対馬同様、平戸は島だからな。
展開出来る防御兵力が限られる「島」を取られるのはやむをえない。
>>960 元軍十数万が洋上で壊滅したのは客観的事実。
上陸を阻止し続ければ早期に撤退しない限り、元軍が「比重に高い確率」で洋上にて壊滅
することはわかっていた。
台風が襲ったのは偶然でもなんでもないよ。
当然に来るべきものが来るべき時に来ただけのこと。
まあどちらにせよそんなタイトな侵攻計画立てた元が悪いという話ではあるんだが
ただ台風の時期を外したとしても、上陸できずにウロウロしてるうちに食料は尽きるわ病人は増えるわで撤退することになったと思うが
江南軍を朝鮮半島に移動させて東路軍と合流してから日本へ向けて出発。
そのまま全軍で一気に侵攻って作戦じゃダメだったんかな?
まず日本軍より強い上陸専用部隊作る必要があった思う
米軍の海兵隊みたいなの
元軍は上陸→撃退を繰り返してるだけじゃないか
博多湾の防備を固められた時点で元の負けは確定してたんだから、南宋が落ちるまで対日侵攻を待って(文永をやらずに)弘安の時の陣容を第一撃とすべきだっただろうな
将軍を見ても百眼のバヤンや極西の神人みたいな
歴史に名を残すレベルの名将が参戦してないからな。
そんな軍勢を台風の力借りてやっとこさ追い払っただけでは
モンゴルに勝った他勢力と比べてショボいと言われても仕方ない。
>>967 元が勝てるとしたら、文永のタイミングで
弘安と同じかそれ以上の兵力を一気に送り込むくらいだね。
でもそれだって、たとえ上陸して鎮西軍を蹴散らし太宰府を占領できても
奪回されないという保障はどこにもない。
幕府軍だって弘安の役で東国の本隊は一切参戦してないし。
あ、ついに江南軍まで見捨てられてしまったw
台風さえなければーなければーって最後のよりどころだったのに
全部雑魚と斬り捨てられたw
いや、再び「元は本気じゃなかったよ」
「日本侵攻なんて大したことなかったよ」説で攻めようとしてるのでは?
また棄民説に戻るのか
973 :
名無し三等兵:2012/06/17(日) 11:05:08.90 ID:bxYW270s
てか今ウィキペ見たら、江南軍主将のアハタイさんは実は渡海してないってあるんだがマジ?
そもそもアハタイなんて存在しない
×アハタイ
○アタハイ
因みに日本語風に名前を読むと「あとうかい」
このスレも武士厨がまた訳の分からん勝利宣言をして終わりか
結局元寇では当時の武士が強いか弱いかあんまりわからんな
東路軍しか物差しがない
文永の役は肝心な部分の詳細不明
江南軍10万は実質残党狩りされに来ただけ
ウヨサヨでしか物事を見れない人なんだろ
武士の強弱よりは元軍のダメさ加減が目立った戦いだからな
そうだねベトナムでも補給無視して深入りしまくったりダメダメだよね
分かってる範囲の経緯をみると水軍衆が活躍してそうだが名前出てこないな
松浦さんとか河野さんとか
6月6日、東路軍が志賀島占領。同日夜、夜明けまで夜襲を受ける
6月8日、陸と海から攻められて敗走
6月9日、防御に徹して対抗するも敗北。壱岐島に後退して江南軍と合流待ち
6月15日を過ぎても江南軍がこないまま軍内に疫病蔓延
6月下旬、江南軍が平戸島に上陸
6月29日、壱岐で東路軍が日本軍の総攻撃を受ける
7月2日、壱岐島放棄し、平戸島へ移り、東路軍は江南軍と合流
7月中旬〜7月27日、平戸島に4千を残し、主力は鷹島へ移動。鷹島に土城を築くなどして上陸に備える
7月27日夜、鷹島の艦隊が夜明けまで夜襲を受ける
7月30日夜から5日間、台風襲来。
閏7月5日、撤退。同日、日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃
閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃。海上でも戦闘があり、元軍残存軍船は日本軍に焼き払われる。
鷹島掃蕩戦で10余万の元軍は壊滅し、日本軍は2、3万の元の兵士を捕らえる。
合流してから動けず仕舞いで台風とかさっさと撤退してれば良かったのに……
渡海侵攻や遠征で怖いのは疫病
近代以前の軍隊は海外遠征なんてしたら疫病でどんどん倒れて行った
戦闘による犠牲よりも疫病による犠牲者が多いのは当たり前の事だった
乾燥したステップをどこまでも進軍できたモンゴル軍の優位はそこにもあり
だから例え陸続きでもジャングルだらけのベトナムではボロ負け
>>985 元寇と違ってモンゴル軍もベトナム軍相手では戦闘で勝ちまくってたんだけどね。
ベトナム戦で問題だったのは陸続き故の兵站の困難さ。
だから兵站についてはわざわざ陸軍とは別に江南から船で兵糧輸送する作戦立てたんだけど、
元寇で3500艘もの艦隊が全滅した直後だったから海軍が弱体化し過ぎていて上手くいかなかった。
ベトナムが助かったのは日本のおかげだよ。
違う違う。
緒戦でのベトナムの撤退自体が一種の焦土作戦だったんだよ。
ちょうど唐入りの時の朝鮮と同じ。
その証拠にベトナムは首都や周辺都市から民衆を事前に避難させてる。
そしてその間に川に仕掛けをして、退路を塞いだ上で白藤江の戦いで元軍を壊滅させている。
実に鮮やかな戦略と戦術だ。
むざむざと対馬を見捨てて、戦略も戦術も何もなく
防塁にこもるばかりで運を天に任せてた武士団とは訳が違う
>>987 全然違わないじゃん。
江南から兵糧輸送に成功していればベトナムの焦土作戦なんて全く無意味。
モンゴル軍は何年でもベトナムに居座ることができるし、そうなれば飢えに苦しむのはベトナム側だろ。
戦闘で勝ちまくってた鎌倉武士と違ってベトナムなんて自力でモンゴル軍に対抗する能力ゼロだったんだし。
>>988 横レススマソ
ベトナムでモンゴル(江南四川や雲南の兵含む)が数年単位で持久って…
屯田兵でも成功させないと無理だよ
温帯から熱帯に攻め込むと風土病がめっちゃきつそう
>>998 無理じゃないよ。
江南地方から兵糧を海路輸送できれば余裕。
元は後に第3次日本侵攻のため再建した艦隊を海運に流用して、江南から大都まで年間300万石以上の
糧料輸送に成功してる。
ベトナム戦は弘安の役の直後で海軍が弱体化してるタイミングだったのが痛かった。
ベトナムは日本様々だよ。
軍板に元寇スレ二つもあったのかよ
>>987 海岸線で普通に元軍を破って撃退した日本の方がよっぽど鮮やかじゃん
アホかお前は
東路軍の上陸を防いだだけで江南軍と戦う前に運良く台風が来ただけ。
江南軍と東路軍が合流して軍を再編成している(しかも疫病を癒してる)間
武士達は1ヶ月も手も足も出せていない体たらく。
これではもし台風が来なかったり、或いは江南軍の指揮官が
直前に死ぬトラブルがなく、合流が当初の予定通りいってたら
間違いなく武士団は踏み潰されていただろう。
これでは実力で打ち破ったとは到底言えないな。
やはり天候と敵のトラブルに救われたと言うべき。
江南軍も日本軍と戦ってた記録大量にあるんだが・・・
ちゃんと合流したのに1ヶ月以上も武士の猛攻で九州上陸阻止されてた
結局、元軍は14万人もいながら武士より弱かっただけ
ソース出せよ
武士の猛攻って鷹島で夜襲したぐらいだろ
逆に言えば夜襲するくらいしか対抗手段無かったんだよね
蒙古だけに
猛攻
なんちて
1001 :
1001:
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