>>18 嘘つくなよ
正規軍だぁ?
10万は元が南宋制圧後にもてあましていた南宋の老兵でしかもまともな武装せず
屯田目的で農具を大量に携行してきた
その農具は沈没した引き揚げ船からかなり多く発見されてるじゃないかよ
それにどっかのスレに書いてあったが、日本は対馬、壱岐で惨敗して占領されて
結局、暴風雨で船が沈没したんだろ
火砲もないのに当時の日本の武装レベルでそんなに大型船は沈められんよな
それにそんな大勝したなら捕虜がほとんどいないってどういうわけよ
しかも高級指揮官は一人も捕えていないじゃん
これもどっかのスレに書いてあったが、ヴェトナムは元の遠征司令官や王族の指
揮官や多数の兵を捕虜にしたっていうじゃないか
捕虜を約2万得たうちの蒙古人・漢人・高麗人の捕虜は処刑し南人(南宋)人は生かして
御家人に分配した。元側の記録でも生きて帰れたのは10人に1〜2人に過ぎなかったと記されている。
指揮官・幹部は頑丈な船で逃げのびて生きて帰れたようだが、遠征失敗と咎められ責任をとらされて処罰されたという。
嘘ばっかり
日本側が捕虜にできたのは鷹島という江ノ島ほどの小さな島に暴風雨により難破
し避難していた者達で
島の面積や暴風雨により糧食を失ったところから見て到底、万単位の人間がいら
れるはずがない
元史卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本
「五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びてこれに乗り、士卒十余万を山下に棄つ。
衆議して張百戸なる者を推して主師となし、これを号して張総管といい、その約束を聴く。
方に木を伐りて舟を作り還らんと欲す。七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、
そのために虜去せらる。九日、八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍は唐人たりといい、
殺さずしてこれを奴とす。」
元韃攻日本敗北歌
「二十万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る船がなく、倭人のためにことごとく殺される。」
自分が都合のいいところだけ抜粋するなよ
敵の甲冑や武器など物証が引き揚げ品以外ほとんどない
物証なしに文献に全く批判せずに鵜呑みにするのは愚の証明
応永の外寇で宗氏が朝鮮軍に反撃したなどは後世に創作されたことであり
実際には朝鮮軍が倭寇をある程度征伐した後、対馬各地に柵を作り兵糧攻めにし
た
対馬が朝鮮から直接受けたり、交易による利益で得て食糧を頼っていることを知
っていたからだ
宗貞盛は案の定、根を上げ朝鮮軍に「(元寇時のよう
に)且つ曰く、七月の間、恒に風変あり、大軍宜しく久しく留るべからず」と泣
き付いたのが史実。元寇時に暴風雨により元軍が撃退されたことを示している
これを記した文献は応永の外寇によって事実上(若干の例外を除き、特に対馬の
)前期倭寇に終止符をうったことで信頼できる
前期倭寇の最も有力な頭領で宗氏より実力のあった対馬の早田氏は朝鮮にへつら
い朝鮮との交易に専念することになった
>>23 おまえって本当に何も知らないんだな
元寇でボロ負けした元軍の遺品なんて沢山残ってるぞ
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/23(月) 16:59:25
時代背景を考慮しないとな。
元寇を現代版で解釈すると
総合国力では
国連多国籍軍VSフセインのイラク
位の差があったわけで
ただ当時の日本は今のイラクより地政学的優先度が低い辺境で
海で囲まれた島であるという点が違うのみだろう。
>>24 ほとんど海から引き上げたやつばっかじゃん
まじになってるとこは笑えるw
>>26 700年前の革鎧や弓が海底で原形留めてるわけないだろ
>>27 だからそれが何体分あるんだぁ?数万点か?
上陸戦で舟が失われたらほとんどの敵兵は普通戦場で捕われるはずだけどな
しかし日本側が捕虜にしたといわれるところや戦利品のほとんどは戦場から遠い
鷹島じゃないか
難破した舟の一部乗員が鷹島に上陸し避難しただけの話だろ
他は沖合の海中に沈没したか辛うじて渡海して戻れたかだろう
ベトナムは戦闘に勝って戦場で敵の司令官始め敵兵の多くを捕虜にしてるがな
>>28 お前、勘違いしてるぞ。
弘安の役の上陸戦でなんか舟は失われていない。
元軍は上陸戦で日本軍にボロ負けして敗走。
それから2ヶ月間、追撃する日本軍にひたすら負け続けて鷹島にたどり着いたわけ。
だから日本軍と元軍の最後の戦場は鷹島。
あと、ベトナムが日本より多くの敵兵を捕虜にしたなどという事実はない。
>>29 笑える新説登場ってかw
元軍主力が弘安の役で上陸戦を戦ったのは博多湾入り口の志賀島ですがw
これは概説本の殆んどに記載されておりますが、何かw
それに鷹島は初期に松浦党があっという間に敗北壊滅して元軍に制圧されており
ますんですがねぇw
鷹島で最後の戦い?
難破して武器も戦意も失って、しかも屯田目的で粗末な武器と農具と種籾持って
ただけの旧南宋の老兵をパクっただけの話じゃねぇかwww
>>30 だから、その上陸戦を戦った志賀島の戦いで元軍は日本軍にボロ負け。
2ヶ月間逃げ回って最後の戦場の鷹島で全滅した。
そりゃ、セコイ言いようだなw
だいたい日本が3度目の遠征を受けなかった最大の理由は蒙古本隊を含めた元軍
がベトナムに3度目の遠征で大損害を受けたからだ
その時遠征してきた元軍は日本遠征を遥かにしのぐ数十万
しかしチャン・フンダオらベトナム軍に惨敗し元の王族の司令官を始め多くの捕
虜を出したためなんですよ〜ww
だいたい上陸、上陸と簡単に言うが
現代戦のように上陸用舟艇やその母艦があったわけではない
海港なしに上陸できる兵力は極めて限定されるし、そのための小舟の準備や兵の
移動にもかなりの時間がかかる
実際、壱岐に上陸した敵軍は誇張のある日本側史料でも400程度
それでも壱岐は元軍に容易に制圧された
別の日本側史料によれば日本兵の遺体が数百遺棄されていたという
つまり元軍は数的劣勢であっても日本軍に勝てるということだ
日本側は少弍氏、龍造寺氏、宗氏、松浦党など高名な者が討たれている
文永の役では戦いはたった1日で後は暴風雨のため撤収したから上陸した兵力は
かなり限られるだろう
高麗の副将が重傷を負ったというが、それが戦闘によるものか上陸の際の事故に
よるものか判断し兼ねる
が、もし戦闘によるものなら重傷者を整然と船に戻せたということは日本側が勝
利していないということだ
戦場で勝利し制圧できたなら、特に上陸戦においては敗軍の負傷者の多くは勝者
の手に落ちるはずである
特に重傷者はそうであろう
つまるところ日本軍が正規戦で勝利したというのは妄想の産物以外にないのであ
る
>>30 元が3度目の日本遠征よりもベトナム遠征を選んだのは、ベトナムの方が日本よりも
遥かに弱いから。
史料に書かれたベトナム遠征の数字は、日本遠征よりも遥かに少ない人数。
ベトナム軍に惨敗し元の王族の司令官を始め多くの捕虜を出したなどという話も単なるデマ。
元の王族はベトナム軍蹴散らして、無事帰還している。
それから、ベトナムが元軍に勝ったという物証は?
>>34 バッカじゃねぇの
日本だけの文献だけが正しいってか
大笑い
日本なんか東南アジアより農耕も金属器製造もはるかに遅い後進国なのに出世したなあ
弘安の役では元軍は夜襲を恐れ上陸せずに博多湾に停泊し本格的な地上戦は避けていた。
しかし長期の停泊によって疫病が流行り出し士気は低下していた。
そんなこんなでまごまごしているうちに台風がやってきて止めをさされた。
まともに戦っても勝ち目は見えず、退却すればフビライの厳罰が待っている。
そんな状況が遠征軍の首脳の判断を鈍らせたのかもしれない。
>>36 お前はほんと餓鬼かよ
ハノイの歴史博物館行ってこい!
ベトナム軍が干潮になった時に元の軍船を座礁させるため打ち込んだ杭まで残っ
とるわ
・チャン・フンダオの戦歴
1257年ウリャン・ハタイ率いるモンゴル軍を破り、大損害を与え撃退
1284年フビライの息子トゴン、将軍ウマル率いるモンゴル軍をヴァンキェップの
戦いで大破
この敗北に怒ったフビライは第3回日本遠征用に準備していた軍船全てを投入さ
せ、1287年陸路から騎兵、水路から水軍を投入し侵攻したが、白藤江で先の戦法
で次々座礁させた軍船を攻撃し、将軍ウマルを始め多くの捕虜を得、大勝した
彼はその後「兵書要略」「万刧尊秘伝書」で元軍を破った兵法書として著した
>>38 1257年ウリャン・ハタイ率いる3000人のモンゴル軍に首都を破壊される。
その後、ベトナムにはダルガチが配備され、モンゴル帝国の属国に。
1284年、チャンパー攻撃のついでに侵攻したモンゴル軍にまたもや首都を制圧される。
聖宗の弟の昭国王陳益稷など陳朝の有力者が大量にモンゴル軍に投降。
1287年にベトナムが白藤江で勝った元の水軍は僅か500艘程。
何故なら、元の海軍はその前の弘安の役で3500艘の江南艦隊が壊滅するという大損害を
受けていたからな。
つまり、ベトナムが助かったのは日本の御蔭だ。
>>41 ベトナムは占城攻撃の侵攻ルートだったからな
>>39 バーカ、ベトナムが元の属国になんかなってないだろ
太宗が聖宗に譲位してから朝貢しただけだろ(古代日本を考えろよアホ、冊封さ
れた国はみんな属国かよバカな奴め)
それにウリャン・ハタイは2日でハノイから退却を余儀なくされてるだろうが
対馬、壱岐、鷹島で惨敗制圧されてることは棚上げか
松浦党は壊滅状態じゃないかよ
まったく、文永の時は博多湾内で戦ったのはわずか1日
モンゴル兵なんかわずかな監視役を除けばいないし
だいたい馬は海港に横付けしたわけでもないのにどうやって下船したり、小舟に乗り移るんだよw
馬が縄ばしご降りたとかw
普通、馬は自分の背丈以上の深さのある海を怖がるはずだがなw
ノーガキはいいから火砲やビザンツの火炎放射器、チャン・フンダオみたいに干
潮時座礁させるような仕掛け以外に数多い大船を沈める戦法とやらお聞かせ願い
たいなぁwww
暴風雨以外にねwww
小舟で奇襲したところで歯でカジっても沈まんと思いますがぁwww
本末転倒なこと言ってるじゃねぇよww、ベトナムが第3回日本遠征を阻止してくれたんだろ
高麗は6回の遠征でようやく制圧下に入った
とても本格侵攻と思えぬ文永を除けば後5回の遠征も耐えられるんかねぇw
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/26(木) 00:00:15
>>43 モンゴルのダルガチがベトナム国内に配備されてる状態はあきらかに属国だろ
ダルガチの意味知らないじゃないか
東南アジア方面の統括を任されるだろう担当は雲南にいたはず
しかしそれも南宋、大理国征服後のことである
遠征軍が敗れて退却したのにダルガチだけいるのは奇異なことだな
具体的なダルガチの名を出してみろよ
>>47 陸路が遮断されてる所には文官であるダルガチは配置されないと見ていい
>>47 ベトナムに赴任したダルガチは、
中統3年、訥刺丁
至元5年、忽籠海牙
至元6年、張庭珍
至元9年、葉式揑
至元10年、李元
至元12年、合撤児海牙
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/26(木) 15:02:38
モンゴル軍が鉄砲で射殺されて終わり
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/26(木) 20:49:02
どう考えても日本は東南アジアなんかと比べて、食糧資源が乏しいので現地調達付加。
補給が無理で元軍全滅。
>>47さん、気にするなよ
>>45はここのジャンルの鎌倉なんとかとかいうくだらないスレで
ウリャンハタイが3000の兵だけ率いてきた来たとかトンデモ言ってる奴だからよ
ウリャンハタイはモンケ・ハン配下でフビライとともに大将軍と知られていた
それがたった3000の兵指揮するためにわざわざ出てくるわけないのにな
後に南宋で苦戦しフビライに救出され兵が激減したときでさえ数千いたのにさ
まさかと思うが奴は安南志略をもとに物言ってだろ
安南志略の著者は元のトゴンに降伏した陳朝の王族陳鍵の幕閣であった黎
陳朝の反撃で陳鍵が戦死しトゴンと共に元へ逃亡
その後、漢陽に住んで元の立場から安南志略を著した
従って正当な史書である大越史記(全書)とはかなり違う記述になっている
とにかくヴェトナムにはウリャンハタイやトゴンのような名のある将帥が
指揮する正規軍が侵攻してきて
日本にはたいした戦闘経験もない指揮官に僧侶や流民を強制的に捕まえ
武装した者や南宋の老兵を指揮した烏合の集団が一応攻めてきただけなのさ
モンケ・ハーンのもとで行なわれた南宋侵攻の際のウリアンハダイ部隊の構成は、
騎兵3000人と蛮ポ1万人。
元史卷一百二十一
「憲宗遣使諭旨,約明年正月會軍長沙,乃率四王騎兵三千,蠻、ポ萬人,破山寨,辟老蒼關,徇宋内地。」
蛮ポというのはモンゴルの東南アジア進出にともない帰順した現地のタイ系民族で、
ベトナム遠征には参加していない。
ウリアンハダイがベトナム戦に投入できたのは残りの騎兵3000人だけね。
この時期、東南アジアに展開していたモンゴル軍の兵力なんてそんなもの。
それから注目は、南宋に攻め込む際にウリアンハダイがベトナムを通り道として
利用してること。
ベトナムはモンゴルの属国だから、領内を通過することに何の問題もないのね。
ちなみにモンケ・ハーンの南宋侵攻の時、文永の役の副司令官を務めた劉複亨はモンケ・ハーン直属の武将として
最大の激戦だった釣魚城攻防戦に参加し、手柄を立てている。
元史卷一百五十二
「憲宗西征,複亨攝萬戸,統東平軍馬攻釣魚山苦竹寨,有功,師還,兼コ州軍民總管。」
>53
>52
の言う通り3000だけじゃなかったわけじゃないか
誤魔化しは酷いだろう