皇帝の圧力は宗教問題のみに向けられていたのではなく、当然身分制議会の特権にも及んだ
1627年5月、「新ボヘミア・ラント法」が発せられたが、これによってボヘミア王の世襲制が定められた
それまで、身分制議会はボヘミア王の選挙権乃至は承認権を持ち、従ってフェルディナントのボヘミア王位を拒否して
ファルツ伯フリードリヒ5世を選挙したように、ハプスブルク家以外の人物の選挙によって、あるいは即位の不承認によって、
議会は彼らの特権を擁護することができた
更に身分制議会において議題提出権は国王のみに保留され、かつ議題の中で議会が承認権を持つのは租税賦課のみに
限られ、しかもその場合、不正な条件を付加すること、新たな特権を要求することは許されなかった
また、身分制議会が事前に協議して一致した投票に出ることが禁止され、従来は王権の代弁者であると同時にラントの
代表者という二重の性格をもっていたラントの高級官吏は、今後国王のみに義務を負い、その任命権は国王に独占された
その他、司法、行政、議会でチェコ語のみを用いた慣習が廃され、チェコ語とともにドイツ語をも用いること等、
ハプスブルク家の王権強化のための諸規定が定められた
これは、明らかにボヘミアにおけるハプスブルクの絶対主義的権力の確立を意図したものであった
そんだけ
1628年1月、帝国副宰相ペーター・ハインリヒ・フォン・シュトラーレンドルフが皇帝、皇太子フェルディナント3世、
宰相ヨハン・ウルリッヒ・フォン・エッゲンベルク侯に提出し裁可された建白書には、次のように定められていた
クリスティアン4世は、先に承認した和平条件の他に、シュレスヴィッヒ公領を皇帝の自由な処分に委ねること
下部ザクセン行政管区の諸侯で、裁判手続きに関し、1625年、1626年に発せられた皇帝の警告状に違反した者は
その所領を没収されるべきこと
ハンザ諸都市は「彼らの最初のハンザ」すなわち同盟締結文書を皇帝に提出し、その合法か否かの判定を受けるべきこと
而して今後は如何なる帝国議会出席身分も、皇帝の承認を得ずに武力を持ち、あるいは同盟すべからずこと
宗教問題の決定は、1627年10月にミュールハウゼンで開催された選帝侯会議での要求通りに取り扱わされるべきこと
バルト海、北海における海軍力の建設が直ちに着手されるべきこと
皇帝位はハプスブルク家の世襲制とすべきこと等
そしてこの建白書は、皇帝権がかつての権力にまで、カトリックがかつての盛んな様にまで強化されるべきであることが
強調されている
こうしてヴァレンシュタインの軍事的成功によって皇帝はその目的を達成するかに見えた
デンマーク王クリスティアン4世と北ドイツ諸侯を撃破した後の1628年及び1629年は、皇帝の勢力が絶頂に
達した時期でもあった
当時北ヨーロッパ最強の君主の一人に数えられていたデンマーク王は再起できる余力はなく、ドイツ帝国内部にも単独で
皇帝に対抗できる諸侯は存在しなかった
まさにフェルディナント2世は、「カール5世以来並ぶ者なき権力を持ち、その権力は時と手腕を以てするならば、蘇った
統一ドイツ帝国の基礎たりうる」ものだった
そんだけ
自らの資金と手腕で軍隊を組織し、新しい軍税制度によってそれを維持し戦うことにより、皇帝の絶対主義政策の
軍事的支柱としての役割を果たしたヴァレンシュタインは、徴収した軍税や戦利品、占領地からの収益等を得たが、更に
皇帝からの報酬として1628年3月にメックレンブルク領と大公の称号を与えられた
勿論この間における両者の協調関係には、全く摩擦がなかったわけではなかった
単なる軍人、皇帝の軍事的支柱の域を越えて自らの政治的構想を持つヴァレンシュタインは、皇帝の軍事的絶対主義権力を
肯定していたが、一方で皇帝の政策を全面的に是認してそれを軍事面より推進したのではなかった
皇帝がドイツにおける領邦諸侯権力の制限すなわち皇帝権力の強化政策を推進するに際して、同じハプスブルク家の
支配するスペインと同盟しようとし、ネーデルラントと抗争中のスペインもそれを要望していたのに対して、
ヴァレンシュタインはスペインの利害に左右されるそのような同盟関係を必ずしも賛成しなかったし、また宗派的紛争を
避けて皇帝権力の強化のみを追求していた彼は、紛争の種を播く「回復勅令」の発布に反対していた
しかしながら、両者は互いにその本質的要求を満足していたから、こういった見解の対立がそのまま両者の決裂に
つながったわけではなかった
1630年8月にヴァレンシュタインは総司令官を罷免されたが、これは皇帝自身の意志ではなく、領邦諸侯からの圧力の
結果だった
既に1627年10月のミュールハウゼン選帝侯会議でヴァレンシュタインは、連隊長による軍税横領、軍隊の略奪行為、
軍隊の募集、集合、検閲の費用に充てるべき軍税の要求、リガ軍の宿営に対する干渉等が列挙されて、帝国の法の侵害を
理由に非難されている
皇帝は監査局の設置を要求されたが、ついで翌年彼のメックレンブルク公叙任の17日後、マインツ選帝侯は、皇帝軍が
ヴァレンシュタインの指揮下にある限り皇太子の皇帝選挙は保証できないという選帝侯一同の署名になる宣言文を皇帝に
突きつけている
それは、ヴァレンシュタインが皇帝の諸侯権力の制限と皇帝権力の強化政策の強力な軍事的推進者であるとともに、
彼が皇帝以上にその政策の強力な主張者であったからだった
そんだけ
この選帝侯の威嚇は一旦は無視された
ヴァレンシュタインを手放すことは皇帝にとって大きな痛手であり、例えスペインからの援助があったとしても、
10万の私兵に等しい軍勢を擁する彼を罷免した損失を補完することは不可能だった
このため、皇帝はヴァレンシュタインの兵力を削減する措置によってその場を凌ごうとしたが、選帝侯たちはその後も
ヴァレンシュタインの罷免を画策し、1630年6月、レーゲンスドルフ選帝侯会議で、かつての要求と威嚇をより声高に
繰り返した
しかもリガの指導的立場にあったバイエルン公マクシミリアン1世は水面下でフランスと結び、事と次第によっては
反皇帝的行動をとることも辞さない態度を示したため、皇帝も遂にヴァレンシュタインの罷免を決心した
1630年8月、ヴァレンシュタインはその職を去り、皇帝軍はその兵力を削減されてリガ軍の司令官ティリーの指揮下に
入り、巨大な兵力と皇帝の政策の強力な推進者であった総司令官を失って皇帝の政策は選帝侯の反撃によって頓挫したの
だった
ヴァレンシュタインの罷免後、スウェーデン軍グスタフ・アドルフの乱入によって戦況は引っくり返った
1632年1月、皇帝は再びヴァレンシュタインを起用する羽目になったが、この第二次総司令官期における皇帝と
ヴァレンシュタインの関係はかつてとは大きく様相を事にしていた
第一次総司令官期の両者の関係は、多少の対立はあっても両者はほぼ協調を維持しており、その破綻も両者の対立ではなく
選帝侯の圧力の結果によるものだった
しかし、今度は就任後僅か2年後の1634年1月に罷免令が発せられ、更にその1ヶ月後には謀反の疑いにより
ヴァレンシュタインは刺殺されている
皇帝とヴァレンシュタインの関係が円滑を欠き、対立が表面化したのは、1632年11月のリュッツェン戦後である
この戦闘自体はヴァレンシュタインの戦術的敗北に終わったが、スウェーデン軍は国王を喪って攻勢が頓挫しており、
必ずしも皇帝のヴァレンシュタインに対する信頼を失わせるものではなかった
しかし、その後のヴァレンシュタインの行動は皇帝の命令に対する不服従が目立つようになり、作戦もかつての精彩を欠き、
軍事的失敗が続く
そんだけ
1633年1月、スウェーデン及びザクセン・ヴァイマール連合軍のバイエルンに対する攻勢に脅かされたマクシミリアン
から救援を要請された時も、僅かな兵力を送って糊塗したに過ぎず、同年秋にレーゲンスブルクが連合軍に包囲され、
皇帝から速やかな救援を求められたにもかかわらず、彼は部下のヨハン・フォン・アルドリンガーを向かわせる旨を
返事したのみで、それすらも実行しなかった
その後彼は自らレーゲンスブルクに赴いているが、しかし既に時機を逸し、同市が陥落した後のことだった
更に同年秋にアルドリンガーがバイエルンで作戦した際に、戦禍によって疲弊していた地域に宿営し、農民の暴動を
引き起こしたことはマクシミリアンの怒りと恨みを買い、ヴァレンシュタイン自身も同年12月に皇帝世襲領に対する
軍税の軽減を求めた皇帝の命令を拒絶していた
しかし、何よりも皇帝とヴァレンシュタインの対立を決定的にしたのは、ヴァレンシュタインが行った和平交渉だった
リュッツェン戦の数ヶ月後、少なくとも1633年4月24日以前にヴァレンシュタインはザクセンの将軍
ハンス・ゲオルク・フォン・アルニムを通じてザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクと和平条件の検討を重ねていた
そんだけ
これは通敵や皇帝への反逆といったものではなく、和議成立とともにザクセン軍、更にはブランデンブルク軍を彼の
指揮下に統合してスウェーデンに当たることを目的としており、従って皇帝もそれ自体に対しては反対ではなく、ただ
ヴァレンシュタインが皇帝の承認を得ずに独断で和議を画策していることに不満を抱いたにとどまっていた
しかし、後にヴァレンシュタインが和平の条件として帝国の秩序を1618年以前に戻すことを認めるような態度を
示したため、皇帝の不満は不信へと変化していく
この和平交渉は、結局スウェーデンからの離反を認めないゲオルクの反対で成功しなかったが、その後7月以後に
ヴァレンシュタインは再びアルニムと和平交渉に入った
今度はヴァレンシュタインは「宗教並びに政治的平和」が再び「正しい秩序の下に」すなわち戦前の状態の上に礎かれる
べきことを確言した
更にアルニムは、ヴァレンシュタインがスウェーデンとも和平を結び、もし皇帝がこれを認めない場合には皇帝とも
決裂することを期待したが、ヴァレンシュタインがスウェーデン及びフランス、スペインを帝国から駆逐することが最優先で
あることを言明したため、交渉は再び決裂した
そんだけ
一方でヴァレンシュタインは1633年5月中旬にスウェーデンの将軍ハインリヒ・マティアス・トゥルンと和平交渉に
応じ、カトリックとプロテスタントの同権、権利を侵害された者の権利回復、「かつての自由と正義」の再建をその条件と
して提示している
この交渉もスウェーデンの宰相アクセル・ウクセンシェルナがその実行の担保として、皇帝及びリガと対立してでも
スウェーデンと同盟することを求めたために破れたが、ヴァレンシュタインはザクセンとも和平交渉に応じ、必ずしも
スウェーデンとの和平をも辞さない態度を取り続けた
7月に入ると、ボヘミアの追放貴族の指導的立場にあり、1633年におけるボヘミアの反皇帝農民運動の煽動者だった
ウィルヘルム・キンスキーの仲介でフランスの将軍マッセナ・ド・パ・フーキエールと和平交渉を行い、しかもその条件の
中には、ヴァレンシュタインが皇帝から離反する代償として彼をボヘミア王とする条項が含まれていたと言われている
ヴァレンシュタインが和平交渉に際してボヘミア王位を狙っているという噂は、既にザクセンとの最初の和平交渉の時から
撒かれていた
6月6日、ハイデルスドルフでヴァレンシュタインからザクセンに提出されたと言われている和平条件にはその一項があり、
それが皇帝の手に渡ってヴァレンシュタインへの疑心を深めたが、その和平条件書はヴァレンシュタインの政敵の偽作で、
従ってボヘミア王云々は悪意ある噂に過ぎなかった
ヴァレンシュタインがボヘミア王位を現実に考えるようになったのはこのフランスとの和平交渉においてである
そんだけ
247 :
背信:03/12/27 17:00 ID:???
フランスとの交渉は1634年に入っていよいよ具体化し、彼の謀反は、例えそれが秘密裏に行われていようとも
もはや疑うべくもなかった
一方で敵と和平交渉を独断で進めつつ、それと符合するかのように作戦にかつての鋭さを欠いたヴァレンシュタインに
対する皇帝の疑念は既に1633年6月頃から深まりつつあった
それに拍車をかけるように、ヴァレンシュタインとの年来の対立者バイエルン公マクシミリアンはヴァレンシュタインを
罷免して軍の指揮を皇太子フェルディナント3世に替えることを勧め、スペインもそれに賛成した
その後の事態の推移は皇帝の疑念をより確かなものとし、1633年12月末、皇帝はヴァレンシュタインの罷免を決意、
1634年1月24日には罷免状を発し、翌月25日には竜騎兵連隊を派して殺害した
罷免を決意してから最後の行動に出るまでの2ヶ月間は、罷免の方法、すなわち単なる解任か処刑かの決定と、
ヴァレンシュタイン隷下の指揮官への離反工作に費やされた
そんだけ
248 :
棄:03/12/27 17:01 ID:???
皇帝とヴァレンシュタインの対立の最も根源的な原因は、ヴァレンシュタインの傭兵隊長の本質にあった
ヴァレンシュタインにとって皇帝が故なく彼を罷免したことは雇用主として許し難い契約違反であり、皇帝への不信を
抱かせ、傭兵隊長の契約において雇用主と同等であるという信念と自らの利益を最優先に追求する本能が露骨に顕現した
更に彼の個人的な事情の変化が、軍事的勝利を積み重ねて利益を獲得してきた従来のスタイルへの自信を喪失させていた
リュッツェンにおいて彼は痛風を病み、以後彼はその苦痛に悩まされていた
リュッツェン戦後の彼の軍事行動には、正確な状況判断、慎重緻密な計画と果断な実行という彼本来の特徴が見られない
それは和平交渉への考慮の結果というよりむしろ、戦況に対する判断の誤りと逸機の結果だった
自らの心身の衰えから自己の能力への信頼を喪失したヴァレンシュタインには、自らの利益を確保するために、敵との
和平と皇帝への反逆以外に道は残されていなかった
ヴァレンシュタインは刺殺された時になお4万5000の兵力を統率していたが、実際には彼が頼みにしていた部下は
彼から離反して皇帝に加担し、彼の失脚と殺害に助力していた
ヴァレンシュタインの部下はそれぞれが一個の傭兵隊長であり、ヴァレンシュタインが極めて苛酷な人物として将兵から
怖れられ憎まれていたにもかかわらず、彼らがヴァレンシュタインに従ったのは利得に対する期待に他ならなかった
そんだけ
軍隊をヴァレンシュタインと結合していたものは、何よりも物質的な絆だった
彼らは募兵と兵の武装のために高額の立替を行い、彼から将官への昇任を期待していたし、将校や兵士は彼個人の中に
戦功の報賞と莫大な戦利品に対する保証を見ていた
しかし、リュッツェン戦後の彼の将兵に対する態度には常軌を逸するものがあった
リュッツェンの敗戦直後に、彼は怒りと恥辱の代償を求めて将校13名と兵士5名に怯懦と裏切りの罪を着せ、部下の
制止を振り切って処刑してしまい、恐怖による規律の強化を狙った彼の決定は、逆に忠誠と尊敬を失う結果になった
更にヴァレンシュタイン自身が軍事能力に衰えを見せ、かつ皇帝に対する反逆を企図しているという疑惑は、彼に従うこと
の可否を疑わせるようになっていた
しかもヴァレンシュタインの軍隊はもはや彼の個人的能力によって維持されているのではなく、主に皇帝世襲領からの
軍税によって維持されて実質的に「皇帝軍」となりつつあり、もはやヴァレンシュタインを必要とはしていなかった
従って、彼と運命をともにして博打を打つよりも、皇帝の提供する離反の報酬に与り、将来における地位を確保するほうが
部下たちにとってより確実で賢い選択だった
そんだけ
ヴァレンシュタインの和平交渉が活発化し、謀反の疑いが濃厚になりつつあった1633年8月、マルケス・グラーナ侯が
2個連隊を率いてウィーンに走り、宮廷軍事委員会の一員となった
その後も高級将校の離反が相次ぎ、アルドリンガーもマクシミリアンと皇帝に接近しつつあった
6月6日のハイデルスドルフでの和平交渉の条件書をマクシミリアンに送ったのもアルドリンガーだった
1633年12月、皇帝がヴァレンシュタイン罷免を決心して以降、彼の部下への離反工作はより積極的に推進された
1634年1月にはアルドリンガーとマティアス・フォン・ガラスがヴァレンシュタイン失脚のために動いている
2月上旬に、ヴァレンシュタインが自らボヘミア王となり、ルイ13世をドイツ王としてザクセン、バイエルン、マインツ、
トリエルの選帝侯領の分割を画策しているとの流言を撒いて将兵の動揺を誘ったのはオッターヴィオ・ピッコロミーニだった
ヴァレンシュタインへの最終的措置が進められつつあった2月20日、ヴァレンシュタインはピルゼンでの2回目の集会に
おいて、連隊長たちに対して自分と行動をともにすることをを要求したが、皇帝に反しない限りという条件が付加されていた
にもかかわらず、中には署名を拒否する者もいた
結局、最後まで彼に従ったのはアダム・トルシュカとクリスティアン・イーロウの2名だけだった
小傭兵隊長である連隊長たちは自分たちの傭兵隊長の本質に従ってヴァレンシュタインを見捨てたのだった
そんだけ
こうして第二次総司令官期におけるヴァレンシュタインの皇帝への反逆は、彼の軍事能力の衰えという個人的事情に
由来する傭兵隊長的な本質の露呈だったが、皮肉にも実質的に彼が創始した軍税制度は皇帝軍に兵力維持の可能性を与え、
更に三十年戦争後、オーストリア皇帝に常備傭兵軍を維持させる財政的前提となる役割を演じた
本来軍税は戦時の財政的需要に対する臨時租税であり恒久的な租税ではなかったが、その徴収が可能になったのは、強力な
軍事力によって身分制議会の勢力が抑圧された結果だった
三十年戦争後、臨時租税としての軍税が廃止されたかわりに、常備軍の維持に要する費用が租税として徴収されることに
なり、その徴収も軍税のように軍隊によることなく皇帝や議会の直属行政機関に担任させ、また週や月のように短期的徴収を
行わず、長期的かつ定期的に一定額を徴収し、恒久的な租税にしたのだった
常備兵力の増大強化のためには国庫収入の増加が不可欠の前提で、従って富国強兵政策として国庫収入の増大を目的とした
重商政策とともに、農民の担税力を増大させるため、農民保護政策がとられていく
常備傭兵軍隊増強を意図した絶対主義的富国強兵政策としての農民保護政策はドイツ諸領邦についても同様で、やがて
マリア・テレジアやヨゼフ2世によって採用されるべき啓蒙専制君主的農民保護政策は、オーストリア継承戦争、七年戦争後
の軍事力の再建強化を意図した富国強兵政策に他ならないのだが、絶対主義完成期の常備傭兵制についてはまた別の話
そんだけ
252 :
251:03/12/27 17:08 ID:???
おしまい
お、おまえさんは午前中からひたすら張り続けてたのか・・・
そんだけ氏乙です!
そんだけ氏おつかれさまでした。
講義みられて良かったです
おお!これが噂の集中講義!
律儀なそんだけ氏に乾杯!!!
某スレでそんだけ氏降臨の情報を聞き、ようやく探し当てました。
txtに保存して、ゆっくりと読ませていただきます。
そんだけ氏、ご講義お疲れさまでしたm(_ _)m
久方ぶりのそんだけ氏降臨!
陣形と戦術スレ以来ですか
過去スレご存知の方は情報をカキコしませんか
「ヨーロッパの剣」かな?
260 :
258:03/12/30 02:04 ID:???
2年ぐらい前だが
ヨーロッパの剣、戦争論、陣形と戦術。
それ以降は、わからないな。すまぬ。
あれ? 正確なスレ名忘れたけど、今年の夏頃にそんだけ氏が降臨したスレって落ちた?
昨日までは有ったはずなんだけどなぁ。
そのスレで、ここの事を知ったんだけど
ごめん、見落としてた。
まだ残残ってたね。
と言う事で、「日本と世界の歴史的な戦争を語りましょう」スレにもそんだけ氏は降臨してるよ。
あと土方氏の朝鮮戦争講義も勉強になるよ
でもあのスレは中断したしおまけにこのスレで最初からやり直してるからな・・・・。
>>263 どの辺りを修正・加筆したか比べるのがいいかと・・・
いつまでもあのスレを引き合いに出してはあのスレの
>>1の立場がないだろ。
氏が最初からやり直したのはそういった気配りもあったと思われ。
読み比べといっても小説じゃないんだからあのスレはこのまま忘却の底に沈めるが吉。
うっ・・・「日本と世界の・・・」
鯖が落ちる前までROMしてたスレだ
なんてこったい
月に一回はそれらしきスレを探していたのに・・・
ありがとうございます
しかし、そんだけ氏とは何者なんでしょう
有名な方なんだろうか
一応保守しておきましょうか。
もう一度
保守
274 :
名無し三等兵:04/02/05 00:55 ID:BnqguTZY
温故知新
保守して置きます。指輪の第三部上映間もなくですね。今週の土曜日か。
熊人を見るのが楽しみです。
276 :
名無し三等兵:04/02/14 12:39 ID:vxmjYd5C
そんだけ死ね
講義終わっちゃったのか。残念。
278 :
名無し三等兵:04/03/04 23:23 ID:coBqmJcE
豆
保守
包囲されている都市の城壁上に投石機が据え付けられているのは面白かったかも。
ゴンドールはビザンツのような帝国に思って居たのですが、投石機を見ると
トレビュシェットを使っていた。中世欧州では使用されていたそうですが。
一方、ゴンドールの兵士の鎧と兜を見るとマクシミリアンやばら戦争の時代より
ずっと以前で十字軍の時代の兜よりも前のように思える。
保守
ほしゅ
uii
age
そんだけ氏をひたすらに待ちつづける保守
287 :
名無し三等兵:04/05/05 22:33 ID:q7sGABKT
age
$300しないんなら、購入して読んでみるか。