兵士を置き去りにしてさっさと帰っちゃうんだもんなぁ〜、月刊プレイボーイ誌では
熱狂妄想と形容していたけれど。
406 :
system:01/10/31 23:13 ID:txk3kAHJ
んー、このころにフランスの唯我独尊主義、中国主義は確立されていたんでしょうか。
あ、あげちった、ごめんなさい(^^;
>>405 熱狂情念だろ?、安いよ安いよぉ〜歴史エジプト産が時価4000円!。sage
409 :
海の人:01/11/01 12:46 ID:7RfXwfA2
>404
> 四千円の歴史はナポレオンと彼の兵士たちを見守ってくれていただろうが、
誤打鍵と判ってはいながら大笑いしてしまいました。
確かに自ら歴史を作りつつある/作り出せる人間にとっては、歴史なんて
4千円で一山いくらな鑑賞の対象でしかないのかもしれませんなぁ。
どうせ4千円出すなら塩野さんの「ローマ人の物語」買った方がいいと思う
けど:-p
たかが誤字で大はしゃぎだな。
もうちっとレベルの高いレスつければ?
411 :
408:01/11/01 20:15 ID:BAEeP+jM
悪意は有りません、スマソ。
イギリスの地中海支配は、今度は西地中海だけでなく東地中海にまで及んだ
イギリス艦隊はミノルカを奪回しマルタを封鎖した
1799年、戦争はヨーロッパ全域で全面的に再開された
2月にはオーストリア・ロシア連合軍がライン呼びイタリアで攻勢をとった
カール大公指揮するオーストリア軍がライン方面から、
スヴォローフ指揮するロシア軍がイタリア方面からフランス軍に逐次圧迫をかけ、
8月にはジェノワ一帯を除くイタリア全土を陥れた
しかし、8月末にオランダに上陸したイギリス・ロシア連合軍は敗退した
スイスのマッセナ麾下のフランス軍は、北方のチューリヒ方面からコルサルコフの、
南方サンゴタルド峠からスヴォローフの指揮するロシア軍に挟撃されたが、
大胆な各個撃破によってこれを破り、ロシア軍の進撃を一時喰い止めた
歴史家チュールはこれを評して次のように著した
「チューリヒの勝利はマッセナの不朽の名誉である
これ以上に危険な立場から我が国フランスを救った者は他に一人もいない」
しかし、それにもかかわらずフランス軍は国境まで押し下げられ、
そこで戦線は膠着することになる
時期が前後するが、ナポレオン率いるエジプト遠征軍(陸兵3万8000、
水兵1万6000)は、1798年6月13日にマルタ島占領、ここに兵3000を残し、
7月1日にはアレクサンドリアを占領、カイロに向けて進撃を開始した
7月21日にピラミッドの戦でマムルーク騎兵を撃破、7月24日にカイロに入城
8月1日、アブキール湾海戦の敗北によって遠征軍は完全に孤立したが、
ナポレオンはまだ諦めなかった
1799年3月にシリアに侵攻、3月7日にヤッファのトルコ軍要塞を奪取し、
3月19日にはアッコン要塞を包囲した
しかし、イギリス地中海艦隊から陸海の支援を受けたアッコンは2ヶ月間持ち堪え、
結局ナポレオンは攻囲を解いてカイロに後退した
7月25日、アブキールに上陸したトルコ軍を撃破することはできたが、
この頃には遠征軍中にペストが蔓延し、将兵の士気は低下しつつあった
捕虜交換の際にイギリス軍からフランスの新聞を見せられてイタリア失陥を知った
ナポレオンは、急遽帰国を決意した
1799年8月23日、彼は幕僚と500の護衛兵、学者を連れて4隻の船で
アレクサンドリアを出港した
後事を託されたクレベールは、ナポレオンの出港後はじめてそのことを知ることになる
クレベールは翌年に暗殺され、かわってムヌーに率いられた遠征軍は、
イギリス・トルコ連合軍に圧迫され、1801年3月8日、
ついにイギリス軍がエジプトに上陸、3月19日にはアレクサンドリアを占領した
9月1日、フランス軍は全面降伏し、エジプトから追い出されてフランスに
強制帰還を余儀なくされることになる
ペストに罹患した病兵は全員見捨てられ、誰一人帰国できなかった
一方、ナポレオンは10月9日にフレジェストに上陸、10月16日にパリに帰還した
11月9日にはクーデターにより総裁政府を顛覆、軍を背景に新たに執政政府をつくり、
第一執政となって独裁権力を握った
ナポレオンはただちにオーストリアとイギリスに講和を申し込んだが、
勿論これは両国の承知するところではなく、ナポレオンとてこれを予期した上での
ことだった
そんだけ
結果論ながら、1799年のイギリスの失策は、前年の成果を拡大すべく地中海艦隊を
更に増強してこの方面の作戦を更に強化することを怠ったことだった
確かにイギリス地中海艦隊は地中海で圧倒的優位を取り戻したが、
エジプトのフランス軍を孤立させ、そのシリア侵攻作戦を妨害し、マルタを封鎖したが、
地中海に絶対的な不動の地位を築くという仕事を完璧に遂行したとは言い難い
これはナポレオンのフランス帰還を阻止できなかったことのみを指している訳ではない
イギリス地中海艦隊は、マルタを奪取し、エーゲ海でロシア艦隊と協同して
ナポリを支援し、エジプトのフランス軍の存在すら消し去るだけの力を有しながら、
その詰めを先延ばしにしてしまった
優勢を確保しただけで満足し、また本国近海を重視するあまり、
地中海艦隊の有力な戦闘艦艇を次々に抽出し、結果として好機を逸したのだった
当時まだマハンの説くところの「制海権」なる概念は存在していなかった
ヨーロッパ史上はじめてそれを実現する力を持つに至ったイギリス海軍でさえ、
それは例外ではなかった
結局、ロシアと連合したオランダ侵攻は完全な失敗に終わり、
イギリスはどの方面でも決定的な戦果を得られないまま終わった
地中海を重視しなかったツケはすぐ現れた
マルタはいまだ陥落せず、にもかかわらず戦闘艦を次々と地中海から引き抜いていく
1800年、イギリスに不信を抱くイタリア諸国をはじめ加盟国が次々に離反し、
第2次対フランス同盟は瓦解した
フランスに敵対するのは、イギリス、オーストリア、バイエルンの三国のみとなった
一方、執政ナポレオンはライン方面からバイエルンを経てウィーンを直撃する方針を
とろうとしたが、ライン方面の司令官モローの抵抗でこれを断念、
やむなくアルプスの険を越えて北イタリアに向かう作戦をとった
5月8日、ナポレオン率いるフランス軍はパリを進発し、ジェノワで
マセナのイタリア方面軍を包囲するマセナ指揮下のオーストリア軍の裏をかいて、
吹雪の中アルプスのサン・ベルナール峠を越えて6月2日にミラノに入城、
解放者として迎えられた
後方を遮断することを恐れたオーストリア軍は東に移動し、
6月14日にマレンゴで両軍は交戦に及んだ
この戦闘の勝利でナポレオンは政治的に有利な立場を確保することになる
ライン方面軍も12月3日にホーエンリンデンでオーストリア軍を撃破し、
ウィーンへ進撃を開始した
そんだけ
一方イギリスは、1800年9月、ほぼ2年にわたって封鎖していたマルタを陥れた
こうしてジブラルタル、ミノルカ、マルタの三拠点を得て名実ともに地中海の支配者と
なったイギリスは、エジプトのフランス軍撃滅のために遠征軍を編成し、
主力は地中海経由、一部は喜望峰を廻り紅海経由でエジプトに送り込んだ
地中海方面の状況が好転したのに反し、北海、バルチック海の雲行きは
怪しくなっていた
12月に北欧諸国はデンマーク船に対するイギリスの拿捕事件に憤慨し、
武装中立同盟を結んだ
その目的とするところは、イギリス船舶をバルチック海の自由貿易から
締め出すことにあった
イギリス海軍にとってバルチック海の閉鎖は致命的だった
当時の艦船建造の資材は全てスカンジナヴィア半島産の木材であったからだった
しかも、中立国による海上での自由貿易の原則を認めることは、
イギリスの対フランス封鎖の価値を著しく減じることになる
イギリスは武装中立同盟への対抗行動をとらざるを得なくなった
1801年2月9日、ウィーンを脅かされたオーストリアはフランスとの間に
リュネヴィル平和条約を結んだ
こうして、再びイギリスだけが取り残された
しかも、イギリスは武装中立同盟諸国とも一色触発の危機にあった
2月、イギリスは躊躇することなく大艦隊をバルチック海に送り込んだ
武装中立同盟は、イギリスと海で争うことが何を意味するかを知ることになった
イギリス艦隊は4月2日にコペンハーゲンでデンマーク艦隊を血祭りに上げ、
この一戦で武装中立同盟はあっという間に消滅した
9月1日にはイギリスのエジプト遠征軍が2年間に及ぶフランスのエジプト占領に
終止符を打ち、戦争は急速に終結に向かって動き出した
イギリスでは主戦派のピット内閣が倒れ、10月には両国は講和交渉を開始した
そんだけ
ここまでこじれにこじれた戦争で、こうも慌ただしく講和が決まったのには
それなりの理由があった
イギリスでは産業革命が進行中で、この革命によって生み出された大量の工業生産品の
市場には是非とも大陸が必要だった
そのためにはイギリスととめどのない戦いをいつまでも続けていく訳にはいかなかった
フランスを最終的に撃破するためには、海上の封鎖だけでは足りず、
大陸に強力な連合国を持たねばならない
しかしオーストリアは脱落し、恐らく呆れるほどの年月をかけねばフランスを
打ち負かすことは出来なくなってしまった
主戦を唱え続けたピットが退けられたのは、まさしくイギリスの台所事情だった
平和への希望はフランスも切実だった
イギリスを最終的に屈伏させるにはイギリス本土に対する侵攻しかなかったが、
彼我の海軍力を考えれば不可能だったし、通商破壊戦は幾らか望みはあるものの、
それもイギリス艦隊の前ではそれこそ気が狂うほどの時間が必要で、
しかもその成果は限られている
そもそもフランスがヨーロッパでイギリスと戦ったのは、
インドを巡ってイギリス海軍とやり合っても勝ち目がなかったからだった
インドへの陸上ルートを押さえるべく、幾らかの望みをかけて行われたエジプト遠征も、
約2年で完全な失敗に終わった
イギリスがあまねく海上を制している限り、イギリスに勝利する手段は皆無だった
それには何よりもフランス海軍を増強することだった
そのためにフランスは時間を欲した
いつまでもイギリスと戦っている限り、コペンハーゲンでデンマーク艦隊が
何もしないうちに殲滅されたように、艦隊の増強など思いも寄らなかった
危険な艦隊、それが例えヨーロッパのどの国のものであろうと、
イギリス海軍はこれを破壊するのに躊躇しないだろうし、
事実それを行えるだけの力があった
バルチック海、北海から地中海に至るまで、海上はイギリスの完全な支配下にあった
双方の腹の中がこうだったから、平和が長続きする訳がなかった
事実、「アミアンの平和」は僅か1年2ヶ月で潰れた
「アミアンの平和」は、平和というより実質的には「休戦期間」だった
フランスは艦隊の整備にもっと時間が欲しかっただろう
しかし、イギリスの工業製品に対して大陸市場の開放を渋ったフランスに対し、
イギリスが長く我慢できなかったのも当然だった
第2次フランス革命戦争(ナポレオン戦争)である
そんだけ
言うまでもないことだが、ナポレオン戦争における初期の焦点は、
フランスのイギリス本土侵攻作戦だった
それは1804年1月には行われる予定だった
既にフランス陸軍15万、艦艇2300が海峡を押し渡るべく集結していた
この(第1次)イギリス侵攻計画は、ブレスト艦隊でアイルランドに2万を上陸させ、
イギリス軍を牽制するとともに、ツーロン艦隊とロシュフォール艦隊で海峡を制圧し、
その掩護の下でブローニュに集結している主力をイングランド南岸に上陸させる
というものだった
だが、第1次計画はフランス海軍の艦船準備が順調に進まず、
ツーロン艦隊の1月出撃予定は7月に延期、更にツーロン艦隊司令官トレヴィーユの
死去で再延期され、後任にヴィルヌーヴが着任した
ここでナポレオンは計画を変更した
アイルランド上陸を放棄し、ツーロン・ロシュフォール艦隊をアイルランド海域に進出
させてイギリス艦隊を牽制し、ブレスト艦隊で侵攻軍を掩護させるというものだった
たまたま1804年12月にスペインがフランス陣営に参加し、スペイン艦隊を作戦に
投入できるようになった
しかし、準備に時間を浪費して時機を逸することを恐れたナポレオンは、
単純に牽制の方向をアイルランドではなく西インド諸島へ変更するだけにとどめた
すなわち、ツーロン・ロシュフォール艦隊は西インド諸島のイギリス植民地を攻撃して
イギリス艦隊を牽制、機を見て帰航、スペインのフェロル港の被封鎖艦隊を救出、
ついで北進してロシュフォールに至り、海峡のイギリス艦隊を牽制する
この間にブレスト艦隊はブーローニュの侵攻軍を掩護上陸させる
この第2次計画に基づき、1805年1月、ツーロン・ロシュフォール艦隊は
イギリス艦隊の封鎖線を突破して西インド諸島へ向かった
ところがツーロン艦隊だけは途中暴風雨によって損傷を受け、かつ地中海を封鎖する
ネルソン指揮下のイギリス地中海艦隊の追撃を恐れてツーロンに引き返してしまった
そうこうするうちに、不ペイン艦隊の戦争準備が完了し、ツーロン艦隊の修理と
新造艦の艤装も進んでいたため、更に計画を変更、今度はフランス・スペイン連合艦隊で
イギリス本土侵攻作戦の必成を期することになる
第3計画では、ツーロン艦隊はカディス艦隊を、ブレスト艦隊はフェロル艦隊を併せて
西インド諸島マルチニック島東の集合点に進出し、そこで先行のロシュフォール艦隊と
合流する
イギリス艦隊をこの海域に牽制したならば、全艦隊で帰航、ブーローニュに至り、
侵攻軍を掩護してイギリス本土に上陸させる
すなわち今度の計画では、フランス・スペインの全艦隊に、牽制と上陸掩護の二つの
任務を付与していた
1805年3月30日、ツーロン艦隊はネルソンの目を掠めて出港、途中予定通り
スペインのカディス艦隊を併せ、5月14日にはマルチニック島東方の集合点に到着した
ところがブレスト艦隊はイギリス艦隊の封鎖のために出港できず、
またしても計画は頓挫した
そこでナポレオンは、西インド諸島に集結している艦隊を引き返させて
スペインのフェロル艦隊を併せ、更に北上してブレスト艦隊と合流した後に
ブーローニュに移動するべくヴィルヌーヴに命じた
こうして西インド諸島のフランス・スペイン艦隊は6月9日に帰航の途につき、
7月22日にはフェロルに入港した
そんだけ
417 :
レース:01/11/03 20:16 ID:gf5V96j4
一方、前述だがこの時期のイギリス海軍の作戦目的は三つあった
第一にフランスの本土侵攻の防止
第二にこれがためのフランス及びその同盟国の艦隊根拠地の封鎖監視
第三に通商破壊戦だったが、これらは戦争に負けないことが目的で、
これだけでは戦争に勝利することは出来ない
そこで、イギリスは大陸に同盟国をつくることに外交努力を傾け、1805年4月に
ロシアと同盟し、ついでスウェーデンとオーストリアを加え、第3次対フランス同盟を
成立させた
この同盟成立の時点で、フランスの2年にわたるイギリス侵攻作戦企図は一つの重大な
転機に立たされたといっても過言ではない
換言すればイギリス外交の輝かしい勝利だった
フランスのイギリス侵攻と、イギリスの対フランス同盟結成の競争に、
イギリスは辛くも勝利を収めた
そもそもこのイギリス・ロシア同盟ですら、マルタの領有を巡る激しい駆け引きが
あって、決して坦々としたものではなかった
しかしピットはこれを何とかまとめ上げて先手を取ったのだった
フランスは対フランス同盟が成立した時点で戦争方針の大転換を迫られた
海峡を越えた彼方に精鋭を送り込み得るのは大陸が安全な場合に限る
いったん海を越えた大軍を緊急に大陸に呼び戻すということは、
そう容易なことではなかった
イギリスの海上戦力をほぼ完璧に破壊したビーチヘッド沖海戦の時でさえ、
ルイ14世はイギリス本土侵攻を躊躇した
ましてや今回のように、イギリス艦隊を某方面に牽制し、その隙に乗じて侵攻するが
如きの情けない計画では、海峡はすぐイギリス軍に奪い返される
そうなればいよいよ侵攻軍は孤立することになる
また、イギリスに軍を送った留守に、オーストリア・ロシア連合軍がフランス本国に侵攻する危険も無視できなかった
例え侵攻軍がイギリスで勝利しても、本国が危うくなれば意味がなかった
つまり、イギリス艦隊が健在である以上、侵攻軍の運命はかつてのエジプト遠征軍の
運命と同じだった
身も蓋もなく言えば、ナポレオンのイギリス本土侵攻作戦はその前提からして
無理があったと言わざるを得ない
例え6時間の空白があったとしても何の意味もないということを
ナポレオンは承知していた筈だった
そんだけ
以後も戦争は続いた
1805年のナポレオンは、大規模な機動作戦によるウルムの完勝、それに続く追撃戦、
そして最後にアウステルリッツの三帝会戦でロシア・オーストリア連合軍を大敗させ、
オーストリアを即時降伏させるという見事な戦績を示した
ナポレオンが皇帝となって最初の華々しい勝利だった
だが、それらの勝利は完全でも決定的でもなかった
何故なら、ナポレオンは2年以上の時間を費やして準備したイギリス本土侵攻作戦を
中止したからだった
この戦争の目的は、一にかかってイギリスとの決勝にあった
そして、ナポレオンはそれを放棄せざるを得なかった
極論すれば、ブーローニュの丘に集結していた大兵団を反転させた瞬間、
フランスは既に戦争に敗れていた
例えウルムやアウステルリッツで歴史的な大勝利を収めても、この戦略上の失点、
すなわちイギリスを降伏させる最良の機会を永久に失ってしまったことを補えた訳では
なかった
そんだけ
ナポレオンが直接または間接に関与した主要な戦闘について下記に示す
17930217 ツーロン(マルグラーヴ要塞) 対イギリス ○
17951005 ヴァンデミエール 騎兵300砲40対パリ暴徒3万 ○
17960412 モントノット 4.2万対オーストリア・サルディニア9万 各個撃破・中央突破 ○
17960510 ロッジ 0.6万対オーストリア0.7万 中央突破 ○
17960802 カスチグリオン 3万対オーストリア4.8万 一翼包囲 ○
17960904 パッサノ 3万対オーストリア5.5万 背面攻撃 ○
17961115〜17 アルコール 3万対オーストリア5万 反転攻撃 ○
17970114 リヴォリ 2.5万対オーストリア3万 中央突破 ○
17970203 マントヴァ要塞攻囲(8ヶ月) 2.5万対4.3万 ○
17980721 ピラミッド 2.5万対マムルーク騎兵1万 方陣 ○
17990307 ヤッファ 2.5万対トルコ守備隊 ○
17990319〜0510 アッコン攻囲 2.5万対トルコ守備隊 ×
17990725 アブキール 2.5万対トルコ1.2万 両翼包囲 ○
18000614 マレンゴ 3万対オーストリア4.5万 後退・包囲攻撃 ○
そんだけ
18051016〜17 ウルム 12万対3万 迂回包囲 ○
18051202 アウステルリッツ 7.5万対オーストリア・ロシア8.5万 一翼誘致中央突破 ○
18061014 イエナ 6万対プロイセン6万 側面攻撃 ○
18061014 アウエルステット 3万対プロイセン5万 防勢から攻勢転移 勝
18070208 アイラウ 6.7万対ロシア・プロイセン7.6万 中央・両翼攻撃 △
18070614 フリードランド 8.7万対ロシア5万 一翼・中央攻撃 ○
18081201 ソモシェラ 10万対スペインゲリラ 中央突破 ○
18090419 アーベンス 7.5万対オーストリア3.5万 包囲 ○
18090422 エッグミュール 10万対オーストリア10万 背面奇襲、防勢から攻勢転移 ○
18090521〜22 アスペルン 10万対オーストリア10万 陣地攻撃 ×
18090705〜06 ワグラム 18万対オーストリア13.5万 一翼・中央攻撃 ○
18120816〜17 スモレンスク 14万対ロシア12万 迂回包囲 ○
18120905〜07 ボロジノ 13.1万対ロシア12.7万 陣地攻撃 ○
18130502 リュッツエン 8.5万対ロシア・プロイセン15万 陣地防御 ○
18130622 バウツェン 10万対ロシア・プロイセン11万 両翼・中央攻撃、両翼包囲後中央突破 ○
18130826〜27 ドレスデン 12万対ロシア・プロイセン15万 中央・右翼攻撃 ○
18130826 カッツバッハ 8万対プロイセン8万 被包囲 ×
18130829〜30 クルム 4万対ロシア・プロイセン 被包囲 ×
18131016〜19 ライプツィヒ 17万対プロイセン・ロシア等31万 内線防御 ×
18131030 ハナウ 4万対バイエルン5万 一翼攻撃 ○
そんだけ
18140129 ブリエンヌ 1.6万対プロイセン3.2万 背面攻撃 ○
18140201 ラ・ロティエール 4万対プロイセン・オーストリア12.5万 後退 ×
18140210 シャンポーベル 3万対プロイセン0.4万 側面攻撃 ○
18140211 モンミラーユ 1.5万対ロシア3万 挟撃 ○
18140214 ヴォーシャン 4万対プロイセン5万 正面攻撃 ○
18140218 モントロー 2万対オーストリア7万 側面攻撃 ○
18140307 クラオンヌ 2万対ロシア2.5万 背面攻撃 ○
18140309〜11 ラン 4万対プロイセン10万 被包囲 ×
18140313〜14 ランス 0.8万対ロシア1.5万 正面攻撃 ○
18140320 アルシー 3万対オーストリア10万 撤退 ×
18140326 サン・ヂジュー 1.2万対オーストリア1万 正面攻撃 ○
18140325〜26 フェール・シャンプ・ノアーズ 2万対プロイセン・ロシア10万 被包囲 ×
18140330 パリ 4万対連合軍10万以上 降伏
18150614 シャール・ロア 6万対プロイセン3万 正面攻撃 ○
18150616 リニー 6万対プロイセン5.8万 中央突破 ○
18150616 カートル・プラ 2万対イギリス3.6万 陣地攻撃 ×
18150618 ワーテルロー 7.2万対プロイセン・イギリス9.8万 陣地攻撃 ×
凡例
1 時期、名称、兵力比、フランス軍の基本的な戦術行動、勝敗の順に記述
2 17990319〜0510は1799年3月19日から5月10日までを意味する
3 兵力比は複数の資料で異なるため、一例として記述
4 ○:勝利 △:引分 ×:敗北
大勝、辛勝等は基準が曖昧なため敢えて区別しなかった
5 海戦については割愛
そんだけ
「余は64もの戦闘を戦ったが、最初に知っていた以上のことを何一つ学ばなかった」
とナポレオンは後にセント・ヘレナで述懐した
確かにナポレオンの戦術には一貫した特徴が見られる
戦力集中、突破、各個撃破である
これらの要件を達成できなかったとき、すなわち準備した敵を正面から攻撃した場合、
例えナポレオン率いる「大陸軍」でさえ勝利するためには多くの出血を覚悟しなければ
ならなかった
だが、これらは決してナポレオンの独創ではなかった
これらの新戦術は、かつてのマウリッツの斉射戦術、フリードリヒ2世の斜行戦術と
同様、決して革新的なものではなく、むしろ従来の伝統的な戦術に新たなパターンを
追加しただけだった
既にヨーロッパの多くの軍事理論家たちによって、理論としては完成していた
ナポレオンはこれを研究し尽くし、実践に移したに過ぎなかった
彼は言う「実施こそ全てだ」
彼を軍事的天才と呼ぶならば、まさしくこの戦術を数学的正確さをもって実施し得た
ところにあった
例えば、ナポレオンの軍勢の驚異的な行軍速度を支えていたのは、兵士の健脚や
随伴する兵站段列の削減のみにあった訳ではない
それは主に、18世紀末に完成の域に達した軍用地図と、それに基づいて整備された
高度な軍事道路網があったからに他ならない
これらの条件が存在していたからこそ、ナポレオンは兵士に乾物のみを食糧として
与えてその歩みを早めさせることができたのだった
ただし、ナポレオンのみがヨーロッパの他の国々に先駆けてこの新しい戦術を
行い得たのは、彼のみの功績ではなかった
それは、この兵士の負担に大きく依存する新しい戦術に耐え得る高度な戦術遂行能力を
発揮できる軍隊が他にいなかったためだった
ただフランス軍のみはそれが可能だった
1792年以来絶え間なく戦い抜いてきたフランス軍はまさしく古参兵の集団だった
前述したように、例え出自が熱狂的なだけで訓練も補給も不十分な徴募兵だろうが、
凄まじい大量損耗を引き起こす当時の戦争を生き抜いてきた以上、彼が高度な軍事的経験
と能力を備えていることは間違いなかった
フランスのヨーロッパ随一の人的資源がこれを可能にした
1792〜1815年にフランス軍の戦死者は100万(うち75パーセントは
1805年以降)に及んだが、それでも1790〜1816年のフランスの人口増加率は、
1740〜1790年のそれよりも高い数字を示していたのだ
そして、この精鋭があればこそナポレオンは高度を戦術を遂行することができた
ナポレオンは軍を率いたが、少なくとも軍を育てた訳ではなかった
1797年にナポレオンがイタリアに殴り込んだとき、彼の率いる軍勢は
既に鍛え抜かれた精兵だったのだ
経験を積んだ古参兵の集団、それを裏付ける圧倒的な量的優勢こそがナポレオンの
戦術的な勝利の最大の要因だった
もっとも、この精鋭の枯渇をナポレオンの敗因ととらえることはできない
戦争が長く続けば損耗によって兵の練度が下がるのは何もフランスに限った話では
なく、フランスの敵国ですら事情は同じだからだ
そんだけ
余りに有名で引用すら恥ずかしいが、クラウゼヴィッツはその著書「戦争論」の中で、
戦略の要訣を「兵力の集中的掌握使用によって敵の主力を殲滅し、物質的にも精神的にも、
敵の戦闘力を徹底的に撲滅した上で、勝者はその欲する条件を敗者に承認させ、
戦争を行った政治目的を達成するまで決して追及の手を緩めず、場合によっては
敵国の全国土を占領しても、勝利の完成に邁進しなければならぬ」と説いた
「戦争論」の帰結するところは征服的な殲滅戦略にあった
「戦争論」が戦争理論として後世に有名なのもそのためだが、クラウゼヴィッツをして
「戦争論」を著せしめた動機こそ、彼自身が従軍したナポレオン戦争の経験に他ならない
ナポレオンはフランス革命によって生まれた士気の高い国民的軍隊を率いる
不世出の名将として登場し、消極戦略で戦う旧時代の軍隊のもつあらゆる束縛と制約から
解放された新時代の戦略として殲滅戦略を考案し見事に実行したのだ、
と言わるようになる
殲滅戦略を決戦主義、総力戦、無制限戦争等の言葉に言い換えてもいいだろう
言わんとすることは一点、ナポレオンによって殲滅戦略の時代が始まったのだ、と
違う
旧時代の軍隊は何も好きこのんで消極戦略を戦った訳ではなかった
単純に殲滅戦略を実行するに足る戦争資源がなかったから、巧妙に忍耐強く消耗戦を
戦い抜いていたのだ
フランス国民軍の誕生は、16世紀のフランドル方面軍以来規模の増加の一途を辿る
軍隊の弾き出した解答の一つに他ならない
そうして空前の戦力集中を達成したフランス陸軍は、ヨーロッパ史上はじめて
殲滅戦略を行うことのできるに足るだけの資格を手に入れたのだ
革命で国家意識に目覚めた士気の高い国民兵でなければならない理由はどこにもない
国民徴兵の最大にして最強の利点は、安く、手早く、大量に徴募できるという点に
あった
士気はあくまで国民兵という兵士を構成する要素の一つに過ぎず、
決して決定的なものでもなかった
換言すれば、大量に手早く揃えられればそれが自国民だろうが外国人だろうが
ナポレオンは拘らなかった筈である
ナポレオンはマルモンへの書簡で次のように語っている
「人々は余をもって他人より天才ありと言うが、余は敵と戦わんがため、
余の兵力が十分なりと信じたことは一度もない
余は余の手元に集め得る凡るものを呼び集めたのだ」
しかし、ナポレオンは次のようにも語っている
「余は7割以上の成功の見込みがなければ戦わなかった」
これ程端的にナポレオンが恵まれていたことを示す言葉はない
七年戦争を徹底した消耗戦略で戦い抜いたフリードリヒが同じような原則を
守ろうとしたならば、弱小なプロイセンが戦争する機会は恐らく一度もなかった
そんだけ
クラウゼヴィッツは、自ら戦争に従事しつつ、その戦争について学び、ナポレオン戦争
の画期的意義を理解し、この時代の戦争理論を究め、更に各時代の特殊性に鑑みた
戦争理論を通じて普遍的なものを明らかにする戦争の哲学的原則を確立しようとした
彼は戦争についての歴史的概観を試みた後、この点について次のように論じている
「如何なる時代も、それぞれ独特の戦争理論をもっていた訳である
例え早晩その理論を哲学的原則に照らして修正する必要が生じるにしても、
各時代がそれぞれ特殊な理論を有していたということは認められねばならない」
「要するに如何なる時代の出来事も、その時代に鑑みて判断されねばならないのである」
「このように、それぞれの時代の戦争指導がいずれも、その時代の国家及び軍の特殊な
事情によって制約されているにせよ、しかもかかる戦争指導とても幾許かの普遍的な
もの、或いはむしろ究めて普遍的なものを含んでいるに違いない
そして戦争理論が何よりもまず論究の対象とするところのものは、
まさにこの普遍的なものに外ならないのである」
しかしながら「戦争論」はその前提が殲滅戦略にある以上、戦争の普遍的な哲学的考察
をなし得たものとは言い難い
この本はあくまでも殲滅戦略を行うに足りるだけの資源を備え、
それが可能な集中的戦力を達成しうる戦力を有する国を対象としたものであり、
あまねく全ての戦争を対象としている訳ではなかった
クラウゼヴィッツが戦った戦争は、少なくとも規模の点において、ヨーロッパ史上
例を見ない全く別の次元の戦争だったのだ
勿論、このような意見は言いがかりも甚だしいかもしれない
広く知られているように「戦争論」は未完の戦争理論である
彼自身も戦乱の時代の軍人として天寿を全うできるとは考えていなかった
彼の死後、夫人によって発見された「戦争論」の原稿を密封した包みには、
次のような文が付記されていた
「この著作が私の死によって中断された場合には、この原稿は確固たる形態を備えるに
至らない概念の集積とのみ呼ばれるべきに留まる
それは果てしなき誤りの概念に陥いる懼れを含んでいる」
「戦争論」をドイツ哲学の書として考えるなららば、ヘーゲルがイデアを論じて国家を説き、マルクスが生産を通じて階級を説いているように、クラウゼヴィッツは暴力を通じて戦争を説いたと言える
その対象こそ違っているが、いずれも論理の必然性を取り扱うにあたって、特に顕著に共通している点は、極端性があることである
ヘーゲルは極端な保守主義者であり、マルクスは極端な革命主義者だった
クラウゼヴィッツも極端な戦争主義者だった
ヘーゲルは歴史により、マルクスは経済により、クラウゼヴィッツは戦争により、
いずれも後世に極端な主義を残したと言えるかもしれない
そんだけ
結局、ナポレオンは殲滅戦略によって勝利し、(一部で言われるように)スペインと
ロシアの巧妙な消耗戦略によって敗北した訳ではなかった
勿論、再建されたプロイセン軍に敗れ去った訳でもなかった
確かに、ライプツィヒにおける同盟軍の勝利は、プロイセン軍によるところは
大きかった
当時のイギリスの論説には次のように書かれている
「ナポレオンに反抗した最初の例をドイツに与えたのは誰か?
プロイセンである?
リュッツェンとバウツェンの戦闘に勝ったのは誰か?
プロイセンである
ハイナウの勝利者は誰か?
プロイセンである
グローズベーレンにおいて、カッツバッハとデネウィッツにおいて、クルムにおいて、
ワンテンブルグにおいて、またメッケルンとライプツィヒにおいて勝った者は誰か?
プロイセンである」
しかしながら、実際のところフランスが敗北したのは、クラウゼヴィッツも指摘する
ように、フランスの圧倒的な兵力優勢が崩壊したことにあった
「以前には野猪さながらに敵を攻撃したナポレオンにしても、兵力関係が不利に転じた
1813年の8月乃至9月には、恰も籠の中の鳥のように右往左往するだけで、
同盟軍のうち一軍をも徹底的に撃破することが出来なかった
そして10月日向野へ威力が不均衡の極に達すると、パルテ、エステル及びプライセの
三河に挟まれたライプチヒ付近の窮屈な地域に陣して、恰も部屋の隅で背を壁にもたせて
いるかのような体勢で同盟軍を待ち受けたのである」
自国の防備を固め、敵国の要衝を包囲し、なおかつ更に空前の規模の戦力を
投入することの出来る程巨大なフランス陸軍は、単純にそれを上回る規模の軍隊を
敵に回して敗北したに過ぎなかったのだ
そんだけ
これらヨーロッパの陸海軍の爆発的な膨張によって新たな関門が立ちはだかった
ヨーロッパ諸国はその関門を突破するのに数十年を要した
これ程の規模の地上兵力と海上兵力を編成できたのは、経済的な財源、政治的手段、
技術力を徹底的に開発したからだった
ところが、これらの総合的な資源開発が限界に達したしまった
フランス「大陸軍」のイタリア征服とドイツ征服に貢献した組織と物資補給システムも、
スペインとロシアに投入されたこれより大きな兵力ではうまくいかなかった
ナポレオン好みの規模より更に大規模な兵力が有効な作戦展開を実行するとなれば、
電信、鉄道、後装式小銃が必要だった
あるいはネルソン規模の戦列艦の優位に戦場で挑戦するには、鉄で被覆された
装甲蒸気艦が必要だった
ヨーロッパがこれらを手に入れたということは、ヨーロッパの支配を免れてきた民族を
屈服させる手段を手に入れいたことを意味した
1841年2月、装甲蒸気艦「ネメシス」は、第1次アヘン戦争中の広東に向かう途中、
旋回砲座に搭載された32ポンド砲2門で、軍用ジャンク9隻、要塞5基、
陸軍駐屯地2カ所、岸壁の砲台1基をたった1日で破壊した
1853年、ロシアの装甲艦はシノプでトルコ艦隊を破壊し、これがヨーロッパの
オスマン・トルコ進出の足がかりになった
1863年、イギリス艦隊は台風をおして鹿児島の町を包囲し、全ての船と町の大半を
破壊した
同時にフランス、オランダ、アメリカ、イギリス各国の連合艦隊は下関海峡の近代的な
砲列を封じ込めた
かくして日本近海から西洋の艦船を締め出そうとする徳川幕府の遅すぎた努力も
大失敗に終わった
ちょうど同じ頃のアメリカの平原とアフリカの内陸部では、現地の部族や民族の抵抗が、
白人の速射火器によって瞬く間に無惨に押し潰されていた
ヨーロッパはいよいよ世界の頂点に立つことになった
ヨーロッパ諸国は、地上と海上で互いに果てしない血みどろの戦いに明け暮れたことの
利子を最後に受け取ることができた
ヨーロッパは、史上最初の惑星的規模の覇権をまんまと手中に収めたのだ
ジョミニは次のように語った
「世にも幸福なのは、最初の衝突で有り余る程の榴弾砲、1分間に30発の発射速度を
備えた多数の後装銃、人の高さに反跳して的を外さぬ多数の火砲、そして最後に
素晴らしく改良された噴進砲を所有している人たちである
世界平和の伝道と鉄道の独占支配とに、それらは何と美しい道具立てであることか」
そんだけ
427 :
426:01/11/04 17:00 ID:ThpjQSO4
終わります
延々と脱線と寄り道と迂回を繰り返した挙げ句にこのオチか!と思われるでしょうが
お許し下さい
本来ならこの2割程度で収めるつもりでしたが、あれもこれもと思ううちに
冗長な駄文を重ねてしまいました
クラウゼヴィッツに関する部分は、スレの名前にもあるんで一応触れておかねばと
思って書きました
あくまでも私見であり、しかも戦争論はまだまだ勉強中の段階などで、そのお積もりで
それでは度々ながら1氏はじめ読んでくださった方々に御礼申し上げます
どうも有り難う御座いました
朋友よ、見てくれているだろうか?
約束は果たした
そんだけ
428 :
_:01/11/04 19:18 ID:Yf54jK1b
そんだけ様、お疲れ様でした。素晴らしい講義です。
火力と軍隊の発展を順序だって知ることが出来て嬉しいっす。
ところでナポレオン戦争編では具体的な戦争描写を
わざと避けていたと思うのですが、もしよろしければ
有名会戦(三帝会戦とか)の戦闘推移を描いて欲しいなぁ
なんて、ちと思いました。よろしければですが・・・・・
429 :
象太郎:01/11/04 19:30 ID:V9/U2XjM
堪能させていただきました
再三の無理にお答えいただきありがとう御座いましたm(__)m
此方の方もサボっている某スレにそろそろ決着をつけようと思います
本当にありがとう、朋友よ!!
430 :
426:01/11/04 21:21 ID:z8MnaPG9
>>428 ご指摘の通り敢えて避けました
私は前装滑腔銃の火器戦術は16世紀までにほぼ完成の域に
達したというのが私の認識です
それ故、各戦闘を書いても通り一遍の表現にしかならず、
冗長な描写がだらだらと続いてしまうと思ったからです
また、私は1805年の時点で既に戦争の帰趨は決していたと考えているため、
その後の戦争の経過を書いてもこれまた冗長になってしまうのではないかと
思い、割愛させていただきました
それに、ナポレオンを中心とする戦史は数多くありますので、
ナポレオン以外に焦点を当てようとも考えていました
もっとも、これは成功しませんでしたが・・・・
というわけでご勘弁を
>>429 いえいえ、こちらこそ貴官が読んでくれていると信じてここまでやってこれました
貴官の奮闘を祈念いたします
朋友よ
ありがとうございました。
前スレは見ていませんが
本当に勉強になりました。
どうもお疲れさまでした、ここ1ヶ月の書き込みは量、密度ともに大変なご苦労だった事と思います。
特に海戦の発達とイギリス・フランスの基本戦略との繋がり、そこから現在にいたるキリスト教圏の世界
支配へ至る下りは圧巻でした。
見ていますとも・・・・ >そんだけ氏
私めを朋友などとお呼びいただけるとは勿体ない…
このスレッドの講義を見るのが楽しみで、ネットに繋ぐ――そんな日々が終わってしまう
と思うと、感無量でもあり少し寂しくもあります。
…ともあれ、本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。
>バキャベッリ氏 スレ立て、そしてご案内、感謝いたします。
そしてそのほかの皆様、軍事板の同志にも感謝を。
・・・・祝砲、二十一発!!! 総員、抜刀! 回廊儀礼!! ウラー!
434 :
system:01/11/05 15:20 ID:i5qw672v
ありがとうございました。私が知らない、そして関心を持っていなかった時代の話ですが、
こうして読ませていただくと、学ぶべきものが多くあるように思います。逸話や単体の兵器
には興味がないのですが、軍事体系として見せていただくと、また、違う興味が湧いて
きました。良い勉強をさせていただきました。重ねて、有り難うございました。
435 :
_:01/11/05 18:49 ID:1CKzDa3i
第一次世界大戦の欧州での塹壕戦は
ナポレオン戦争の物量作戦+砲撃戦に
毛が生えた程度の発展しかないのだろうか。
436 :
かおる:01/11/06 00:19 ID:5n5HXREa
ご苦労様でした。私としては、戦争論の勉強よりも孫子兵法の実践をお薦めする。
近代戦は戦争論にのっとって行なわれたと思われがちだが、アジアの名将は、孫子
に従い西洋の力による蹂躙を跳ね除けたのです。ともすれば、我々も西洋的な情報
分析に終始しがちであり、不毛な枝葉の論争に無駄に力を投入したりする物ですが、
孫子は力という言葉をほとんど使わないのです。
このログは、大事な教科書として保存させていただきます。
437 :
名無し三等兵:01/11/06 00:43 ID:uEu5/oFV
>>436 そんだけ氏は「戦争論は正しくない、少なくとも普遍的ではない」って言ってるんだよ。
この板はコテハンにも戦争論マンセーやナポレオンマンセーが多いから、
ソフトに表現してるけれども。
マキャベリについてもそうだったけど、多分この人は軍事思想にこだわらず、
事実だけをを淡々と組み立てて帰納的に戦史をとらえてるんだと思う。
それに、マキャベリやクラウゼヴィッツやジョミニを読んでる人間が
孫子を読んでないと思うか?
きっと勉強中ってのも謙遜だぞ。
438 :
437:01/11/06 00:46 ID:uEu5/oFV
× ソフトに表現してるけれども。
○ ソフトに表現しているんだろうけれども。
訂正訂正、他人の思考を断定しちゃいけないよな。すまん。
そんなことより、孫子兵法の講義を熱烈希望。
439 :
かおる:01/11/06 16:41 ID:1l9KlVN+
>それに、マキャベリやクラウゼヴィッツやジョミニを読んでる人間が
孫子を読んでないと思うか?
勿論その通りでしょう。様々な理論を勉強し様々な情報にふれ、自分の考え方
において判断を下す事が大切であると思います。その点はそんだけ氏のコラムを
読んでも、そこにさりげなく織り込まれた彼の主張を抽出し、自らの考え方や世
間にある様々な考え方と比較すると言う意味合いにおいても、その通りでしょう。
しかし、わたしは、有無を言わさぬ情報量の投入と、エネルギッシュな突進に
戦争論のその物を感じたので、孫子を薦めた次第です。
いかなる論理と言えど、実践をともない効力を実証する事に意味合いがあり、
特に戦争に関する論理などは、そうです。理論を肌身で感じ、実際の生き方に役
立てることが、学生学者の到達点であると思うのです。
440 :
名無し三等兵:01/11/06 17:39 ID:xATrdXSB
あの、私
クラウゼヴィッツを読破するのに四苦八苦してるんですけど・・・
何だ、結局「文章量が多過ぎる」って文句言ってるだけか・・・・
442 :
名無し三等兵:01/11/06 19:50 ID:kFhJIsFI
ああ、何事も終わりはあるものか(詠嘆)。印刷して読み直します。
私はクラウゼヴィッツと並行読みしていました。そのせいでおもしろく
感じることも多くありました。
そんだけ氏に感謝します。
とうとう表示不能が近づいて参りました、孫子の兵法をお望みの方は、
消えない内に別スレの作成をお奨めします。出来れば早めに移転の書き込み
をした方が宜しいかと。
444 :
名無し三等兵:01/11/06 21:58 ID:8uPPDiz5
容量オーバーは十分承知で一言『そんだけ』氏に感謝申し上げます。
今回のスレで歴史と軍事が確実にリンクさせる事が出来大収穫でした。
ぜひ次回があれば要塞編で日露戦争の旅順、それを踏まえておきながらの
WW1の消耗戦、マジノライン、シンガの小マジノ等の近代要塞
また、航空機の台頭、電撃戦、機動部隊、機甲師団等、ご教授頂きたい
事が多々あります。
どうもありがとうございました。
445 :
かおる:01/11/06 23:53 ID:2Tv0VeV4
>441
それは、そんだけ氏への侮辱である。私は、文章の表現は、その人の個性であると
思っているが、それをそのまま理解するのには難しい場合もあるとも思っている。
表現方法に批判を加えたものではない。
446 :
名無し三等兵:01/11/09 23:58 ID:eRReSArU
453 :
名無し三等兵:01/11/10 00:09 ID:5I89be5D
1 名前:read.cgi ver5.27 (01/10/27)投稿日:2001/04/12(木) 15:11
このスレッド大きすぎます。
たいへんご苦労様だが、インデックスがスレにとどめを刺してしまった
まだ500も逝ってないのに・・・・
カチューシャで見てたんで迂闊ダターヨ。
スマソ・・・・。