戦争論

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1バキャベッリ
「ヨーロッパの剣は…」
 http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=army&key=995475623&ls=50

1 名前:read.cgi ver4.23 (2001/8/19)投稿日:2001/04/12(木) 15:11
 このスレッド大きすぎます。(1)


と言う事で、「ヨーロッパの剣は…」がアクセス不能に成りました。ここにパート2を発足いたします、
前の板と同様にお使い下さい。ヨーロッパに限らず中世の戦闘行為に付いてなら、何でも結構です。日本
でも、中国でも、或いはファンタジーであろうとも結構です。ただし良識を持って書いてね特に某研さん!。
排斥する気はないけど、同じ様な事を結論も無いままダラダラ書くのはNGだよ。
2名無し三等兵:2001/08/19(日) 21:50
タイトル名で「この駄スレがぁ・・・!」って言っちゃうとこだっだよ(w
建設的な議論を期待します。
3名無し三等兵:2001/08/19(日) 21:52
>>1
某研究者に希望的観測を持ってはイケません。

===========クソスレ終了=============
4名無し三等兵:2001/08/19(日) 21:55
台風に「今度の日曜日は上陸しないでくれ」と言うが如し。
5バキャベッリ:2001/08/19(日) 22:11
>>2
まず名前で「この駄スレがぁ・・・!」と言って頂きたい。
>>3
まあ2chにおいては最初の内は否建設的な意見が付く物であるが今後かつての様な
隆盛を期待するのは可能であろうか?ともあれたったの3つで終わるのもトピ主と
しては悲しいものがあるが
>>4
…と言う訳で半分は冗談ですよ、いや期待かな?。
6名無し三等兵:2001/08/19(日) 22:15
トピ言うな!
7名無し三等兵:2001/08/19(日) 22:22
何だそりゃ?
8名無し三等兵:2001/08/19(日) 22:24
ある程度ネタ絞らんと誰も喰いつかんと思うが
9名無し三等兵:2001/08/19(日) 22:30
 では中世の城や要塞についてはどうだ?、中国の影響を受けながら、日本の城は何故
築山の様な形に進化したのか?。
10名無し三等兵:2001/08/19(日) 22:33
つーか某研の集客力で持ってるのでは?
11バキャベッリ:2001/08/19(日) 22:37
>>10
いえ、そんだけ氏の人徳です。因みに私自身は某研さんも結構好きです。
12名無し三等兵:2001/08/19(日) 22:44
あの人、名無しに戻った元コテハンだろ
看板にされるのは好かんのじゃないか
13名無し三等兵:2001/08/19(日) 22:46
コテハンは叩かれ易いからな、正規軍よりゲリラ戦か…。
14名無し三等兵:2001/08/19(日) 22:50
>>9
日本の城は中国の影響をほとんど受けていないはず
中国の城は、都市を城壁で囲んだもので
異民族がいない日本では、民衆を守る必要がないから
このタイプの城は発達しなかった。
15名無し三等兵:2001/08/19(日) 22:53
>>9
中国や、欧州の一部では戦争に負ければ、兵士も民衆も一蓮托生で
ジェノサイドされたから城壁都市になったのでしょう。
16名無し三等兵:2001/08/19(日) 23:02
>>15
大陸の都市はすべて城壁を持っているのに
日本は近世まで、町を守る城壁がはったつしなかったのは
結局大陸に比べると平和だったんでしょうね。

堺、小田原城、豊臣大阪城あたりが嚆矢なのかな。
17名無し三等兵:2001/08/19(日) 23:15
1 地方封建領主たちには城壁を建造できるだけの経済力や政治力がなかった
 統一政権にとっては、戦術的要塞より政経の中枢となる拠点としての城が必要だった
2 ステップ系異民族の直接的な脅威がなかった
 大陸でステップ系異民族の継続的な脅威に晒されていた地方は城塞都市が発達していた
3 市街地をまるごと城壁や堀で囲んだ事例は少ないが、
  市街地内に砦となる寺社等を建設して複数の陣地による縦深防御地域とし、
  河川を引き込んで陣地線とした城下町は珍しくなかった
4 複数の城や砦の連携により攻勢限界点を引き出す消耗戦略は洋の東西を問わず
  一般的な防御戦略だった
18名無し三等兵:2001/08/19(日) 23:52
そもそも日本の戦で大規模な攻城戦は殆ど無かったはず、ましてや攻城兵器の出番はさらに無かった。
落城の多くが内通等の内部要因だったから、本格的な籠城の準備は必要無かったんだろうね。
19名無し三等兵:2001/08/20(月) 00:00
城塞都市って、戦略的に焦土戦術を行うために作ったものだと
思ってたけど、ちがうの?
20名無し三等兵:2001/08/20(月) 00:14
じゃあ何の為に壁で囲むんだ?
21名無し三等兵:2001/08/20(月) 00:40
遊牧民族と農耕民族は土地に対する価値観が違う
遊牧民族にとって土地は奪うものであり、
農耕民族にとって土地は支配し経営するものだった

遊牧民族にとって農耕民族は略奪すべき資源以上のものではなかった
農耕民族にとって遊牧民族は自然災害と同じで、賄賂や調略等で損害を抑え、
最悪の事態に備えて動産を略奪から防ぐための高い城壁を築いた
幸いなことに土地に拘らない遊牧民族は大抵の場合攻城戦に備える伝統がなかった

一度城壁が築かれると城壁を崩すテクニックも進歩し、車の両輪のように
攻城戦の技術が進歩することになった
2221:2001/08/20(月) 00:43
訂正
× 遊牧民族にとって土地は奪うものであり
○ 遊牧民族にとって土地は何の価値もなく

追加
調略と交渉は攻城戦において最も効果的なテクニックだった
これは古今東西の攻城戦において共通の認識だった
23B17G:2001/08/20(月) 00:48
>>18殿
えーと秀ちゃんがやった、鳥取の干殺し、三木の干殺し、
高松城の水攻め、小田原攻めなんかは大規模攻城戦ではないでしょうか?
攻め方が普通とちゃうけど(藁。
きっと竹中の半ちゃんや黒田の官すけが、史記あたりから拾ってきて
いらん事いっぱい教えこんだに違いない。
24名無し三等兵:2001/08/20(月) 00:50
>>23
家康の大阪城攻略も
25名無し三等兵:2001/08/20(月) 00:53
>>15
攻撃側が力攻を回避したかったのは日本も西欧も中国も同じ
日本だけ攻城戦が少ないとするのは無理がある
2625:2001/08/20(月) 00:54
>>15ではなく>>18でした
すいません
27名無し三等兵:2001/08/20(月) 00:55
 それでも攻城兵器は無いんだよね、もう戦国末期で銃火器が既に存在しているし、
大砲さえ有ったから必要無かったろうけれど。つまり諸外国が「攻城兵器」→「大砲」
と発達して行ったのに、日本の場合いきなり「大砲」にいってしまった。
 そもそも大規模な包囲戦ってヨーロッパでは紀元前のローマ帝国の時代からやってる
位だし、要塞の建造もその攻略も日本は結構遅れていた。
28名無し三等兵:2001/08/20(月) 00:59
>>27
遅れていたというより、そこまでする必要性が薄かったと考えるが如何?

あ、でも一緒か
29名無し三等兵:2001/08/20(月) 01:09
 けれど一端「種子島」を受け入れるとそこから一気に発達していった、一般に言われている
日本の城って実は結構戦国末期に成ってから完成してるでしょ?、元々そこに有ったにしても
改築されているし。
 っで、実はヨーロッパの城は城壁が高くて狭い為、大砲が発達して行くと役に立たなくなって
削られたりしている。でもって広く低くした上に大砲を備えたりした。その点日本のしろはいきなり
砲撃戦を想定した作りになっていて、特に加藤清正辺りの建築した城は山を盛って石で固めた様な
作りだから、上に大砲を備えやすい。場合に依っては何段かに分けて砲台を作っているし。っでその
山の上に物見櫓として天守閣が造られた。
30名無し三等兵:2001/08/20(月) 01:17
>>27
大規模な攻城兵器は無い の誤り。
『見た目の派手な』攻城兵器はあまり無いが、
バトリングラム(衝角器)などの類はいくらでも存在する。

また、朝鮮型の山城(山の地形を活かした要塞)は、
日本の歴史上かなり初期から存在する。
「お殿様が住んでいるような城」は、松永久秀以降の事。
外国とは、スタート時期が違うので遅いも早いも論ずるのは意味が無い。
31バキャベリ:2001/08/20(月) 01:19
しかし上杉謙信が10万人も動員して小田原城を落とせないとは……。
32名無し三等兵:2001/08/20(月) 01:26
>>31
だって秋から冬の短期間にパート軍隊で戦うんだもん。
信長以降の、プロ集団で戦ってるわけじゃないしー。
10万たって、全員が戦闘員じゃないしー。
どっちかというと「関東管領は漏れだよ」って、示威行動しに行っただけ。
…謙信の自慰行為とも言えるな。
33名無し三等兵:2001/08/20(月) 01:27
籠城戦のおはなし
朝鮮出兵で包囲を経験した、あの加藤清正が築いた熊本城は、当時の籠城戦術の集大成と言うべき大城塞であった。
しかし大砲や後装銃が当たり前になった明治以降の攻城戦では、目標になるだけの厄介者であった。
そこで政府守備隊は自ら城に火を放った。西郷は「しもうた」と呟いたと伝えられる。
後に残るのは曲がり角だらけの石垣と壕で、侵入する薩摩軍を陰から狙い撃ちである。
そのまま時間を稼いで敵を釘付けにし、本隊兵力を分散させるのが籠城戦の目的であるが、救援の見込みあっての話である。
かの楠木正成による千早籠城戦にしても、救援の見込みがなければ、硫黄島その他の無意味な消耗でしかない。
34名無し三等兵:2001/08/20(月) 01:31
>>29
概ね同意だが、鉄砲の戦術的能力が城塞の発達に直接影響を及ぼしたとは考えにくい
大量動員を可能にする点を除けば弓矢と能力的には大差ないからだ

また、基本的に砲を高い位置に据えた垂直型の構造を持つ要塞は役に立たない
西洋でも同様に高い位置に砲を据えた要塞が一時期建造されたが、
それは主に海上からの攻撃を想定した沿岸要塞で、
地上からの攻撃を想定した要塞では出来るだけ低い位置に
据えられていた五稜郭スタイルの水平型要塞となるのではないか

て、これは日本に城塞都市が発達しなかった理由とは余り関係ないな
35名無し三等兵:2001/08/20(月) 10:07
小林よしのりの?

あれはよかった。
36フェチ:2001/08/20(月) 16:25
うーん、銘スレの予感。
37名無し三等兵:2001/08/20(月) 17:31
平城京は、そのモデルになった唐の長安京と違って城壁がないわけだから、日本には
城壁が必要ではない、何らかの理由があったのだろうか?
38名無し三等兵:2001/08/20(月) 17:41
>>37
その代わり山城の国と名付けて、城壁の替わりにしている(藁
言霊万歳
39名無し三等兵:2001/08/20(月) 17:48
外国の都城って、戦争の時に住民を逃がさず戦闘員として動員する為の
ものじゃないのかなあ。戦争は土地の争奪と同時に自国民(民族)が
入植する為にする訳だから、追い払われた側が負けで、都城が築かれ国
民全部を囲い込む必要があったと思う。
日本は支配権をめぐる戦争だから支配者の城でよかったのではないだろ
うか。
平安時代の東北地方で都城?が築かれたのが例外ぐらいでは(うろ覚え
なので間違いかもしれません)
4037:2001/08/20(月) 17:50
>38
げえ、それマジ?(大驚愕)
41名無し三等兵:2001/08/20(月) 18:19
アメリカはそのうち戦争するのかな?
42名無し三等兵:2001/08/20(月) 18:37
 ふと思ったのだが、○キャベリなら「君主論」だろ、クラウゼビッツが「戦争論」
だったはず。もっとも自己申告でバカと名乗ってる以上とやかくは言えんか。
43::**。**:::2001/08/20(月) 18:39
スルと思われる!!! 米国株価がもう少し下がり、大統領支持率が、
もう少し下がったらネ(^^/
44名無し三等兵:2001/08/20(月) 23:02
いったい何の話だ?、特に>>41はここに書き込む意味が分からない。
45名無し三等兵:2001/08/20(月) 23:14
>>42
○キャベリなら「戦術論」ではないのか?
どちらにしろ野暮かな

       ||
     Λ||Λ
    ( / ⌒ヽ
     | |   |
     ∪ / ノ
      | ||
      ∪∪
漏れ逝ってきます
46山を造る:2001/08/21(火) 20:41
 極言すれば、城塞の様々な付加価値を取り除き純粋に戦闘的な城塞として定義する
条件は、地形を加工することにより敵の機動発揮の制限と我の防護手段の提供という
二つの目的を達成することにあった
 有史以前から、人々は外敵の脅威に対する生命と財産の保全、物資の集積地、
政経の中枢、出撃拠点の提供、交通の要衝の確保、地域の防衛等、戦略戦術を問わず
様々な目的を達成するために様々な形態の要塞や城塞都市を連綿と建造し、その際に
山頂に籠り、丘を盛り、川を引き込み、堀を切り、壕を掘り、崖を削り、障害物を置き、
落穴を準備し、城壁を築き、櫓を構え、通路を屈曲させ、銃眼を穿ち、その他様々な
施設を建造したが、それらの努力は全てこの二点の一方または両方を追求することに
帰結していた

 投射兵器に頼ることは、量的に劣勢な守備隊が戦力を温存し、同時に攻撃軍の
戦力を消耗させる最も現実的かつ効果的な方法だった
 キルゾーンを準備して攻撃部隊の突入を防ぐと同時に投射兵器の射程内に拘束しつつ、
遮蔽物に守られた守備兵が防御射撃を行って損害を累積させて後退を強要し、
可能ならば追撃することが守備隊にとって最も望ましい戦況の推移だった


そんだけ
47武装都市:2001/08/21(火) 20:43
 要塞や砦を建設することはそれ程困難ではなかった
 例えば、直径100メートルの小高い丘陵を加工して周囲に幅10メートル、
深さ3メートルの壕を巡らせ、周囲を杭で防護した小規模な砦を建設する場合、
掘開土量は約5000立米となり、100名の作業員が1日10時間作業するならば、
壕を掘るのに17日、その土を盛って丘を補強するのに3日、約1メートル間隔で
合計約320本植杭するならば、伐採と加工に3日、植杭に2日が必要であり、
その他補強作業を含めても1ヶ月程度の作業期間で可能であり、切迫した状況では
更に工事日数を短縮することができた
 このような小さな砦でも500〜1000名の守備兵を収容することができ、
軍事物資を集積すれば侵略者にとって無視できない存在となったし、更にこのような
砦を複数建設して連携させれば縦深防御地帯を構成することも可能だった

 勿論、十字軍以後に建造された石造の城塞都市や要塞の建造は手間がかかったが、
それでも余程巨大な城塞を除けば大抵の場合建築期間は5年以下ですみ、更に定期的に
改築と増築を繰り返すことにより強度を増していった
 都市の防衛施設を改築し増築することは費用がかかったが、軍事的な抑止力に
なるだけでなく通商にも好影響を及ぼしたため一種の投資と考えられていたし、
封建領主は自らの威信のために熱心に要塞を強化しようとしていた


そんだけ
 城塞が単独で戦術的に勝利する好運に恵まれることは希だった
 大抵の場合、救援軍が来るまで持ち堪えることができるか否かが守備隊の任務の
成否を左右した
 そして、救援軍は常に都合良く助けに来てくれるとは限らなかったし、
どれだけ強力な大要塞も決して不落ではなかった

 中世ヨーロッパにおいては、常に助けに来る保証のない救援軍と巨大な1個の要塞に
依存するだけでなく、複数の防衛拠点によるネットワークを構築し、一部の地域を犠牲に
してでも時間を捻出し、敵の兵站の限界点を引き出し、最終的に撤退を余儀なくさせ、
その後野戦軍を繰り出して領土を回復する戦略が一般的だった
 一部の流血を伴う例外を除けば、各城塞はあらかじめ定められた防御予定日数を
防戦すればその後は無用の損害を回避するため出来るだけ有利な条件で開城しようとし、
そのような行いが名誉を傷つけることはなかった

 交渉の余地が残されている以上、この防衛戦略は当時の攻城戦のバランスが防衛側に
あったことを考えれば優れたシステムであり、百年戦争初期の野戦におけるフランス軍の
一連の敗北はこの動きを一層加速させることになった
 要塞化された町を中核としてその周辺に防塞化された村落や教会を配置し、
更に町同士が防衛、備蓄した軍需物資の融通、情報交換を密接に協力し合い、また
封建領主と連携することにより、点の防御ではなく面の防御に依存するこの戦略は、
百年戦争中期における戦闘の一般的なスタイルとなった


そんだけ
49襲撃者:2001/08/21(火) 20:46
 攻城戦の基本的なテクニックは、恐らく最初の城塞が登場したのとほぼ同時期に
確立していた
 最初に本格的な攻城部隊を編成し、攻城戦術を体系化したのはアッシリアだった
 アッシリアの軍隊が保有する投石機、弩砲、装甲された梯子、破城槌、攻城塔といった
仕寄道具の大半の原型となる攻城兵器群は、計算された土工技術と共に周辺の城塞都市を
圧して大帝国を建設する一因となった
 その後、ヒッタイト、マケドニア、ローマ等の世界帝国はいずれも攻城戦のテクニック
を修得し洗練していったが、共通していたのは防御側が常に戦術的に優位に立っていた
ことだった
 いかに強力な城塞も陥落させることは不可能ではなかったが、それを可能にするには
膨大な時間と帝国が傾きかねない労力と経済力が必要だった

 中世ヨーロッパも例外ではなく、攻めるにしても守るにしても軍事資源の中の
無視できない大きな部分が攻城戦に費やされた
 相変わらず防御側の優位は強大だった
 攻撃側の最大の武器は、攻城兵器でも土工技術でもなく、まさしく忍耐にあり、
自軍が空腹と疫病に悩まされる前に防衛側が飢えて降伏することを当てにして
待つことだった

 交渉が完全に決裂したり大規模な攻城戦に必要な時間を短縮する必要に迫られた場合、
両者にとって最も不幸な事態、つまり本格的な戦闘が行われることになった
 そして、そのような最悪の事態においてはどのような兵器でも多少の関心を向けずには
いられなかった


そんだけ
50あの壁を越えろ:2001/08/21(火) 20:47
 城塞の戦術的優位を保証する最大の施設は高く築かれた城壁だった
 城壁は攻撃側の機動発揮の制限と防護の提供という二つの要素を満たし、
他の施設は基本的に城壁を補完し城壁の戦術的な効果を向上させるための存在だった
 故に、攻城戦における攻撃側の焦点は、いかに城壁を破壊または無力化して
城壁の内部に攻撃部隊を送り込むかにかかっていた
 城壁で最も脆弱である筈の城門はしかし、守備隊の戦力が集中し、塔や様々な施設で
防衛されていたため常に弱点となる訳ではなかったし、それどころか、最も強靱な
防御施設の一つでもあった
 このため、大抵の場合攻撃目標は防御側の兵力が比較的手薄な城壁に向けられる
ことになった

 城壁を克服するため様々な手法が試みられた
 古代の世界帝国が好んだ傾斜路の構築は確実な方法だったが、膨大な時間と労力が
必要とされたし、それだけの土量を簡単に調達して迅速に運搬できる訳ではなく、
また無数に存在する城塞全てに試みる訳にはいかなかったため現実的ではなく
ほとんど顧みられなかった
 攻城塔は機動性が劣悪で、城壁を囲む壕を克服できなかったし、例え壕を埋め立てても
転圧されていない盛土の軟弱な地盤は攻城塔を支えきれなかった
 坑道を掘り進めて城壁の土台部分を破壊する方法は、後に火薬の普及による
爆破作業との併用により一層効果をあげるようになった
 しかし、土圧から坑道を支える補強工事と排水作業を行わなければならなかったため
技術的な困難がつきまとい常に成功するとは限らなかったし、水壕に対しては事実上
不可能だった
 結局、最も現実的で単純極まりない方法は、城壁を物理的に破壊することだった


そんだけ
51矢を放つ鉄の瓶:2001/08/21(火) 20:49
 中国の錬金術の副産物である火薬を使用した武器、即ち火器の最初のものが
ヨーロッパでいつ出現したかは明らかではないが、少なくとも1320年代には
珍しいものではなかった
 初期の大砲は大型の矢または弾丸を撃ち出すもので、投射物や砲の強度の関係から
装填する火薬の量が少なく、全く効果を期待できない代物だった

 敵の隊列や要塞に弾丸や矢を投射するための兵器は既に存在しており、
大砲は新兵器として現れたのではなく、その列に加わった新参者の一つに過ぎなかった
 大砲は費用が高くつくにも関わらず急速に普及したが、それはその効果が優れていた
訳ではなかった
 実際には、それまで大工の占有していた大型兵器のシェアに参入しようとした
金属職人たちの努力の結果だった

1382年のヘント反乱軍の勝利と敗北は、火器が野戦に投入された初期の頃において、
火器の戦術的な可能性を示唆すると同時にその限界も明らかにした
 それは、大砲が戦局に影響を及ぼす事実上唯一の効果はパニックを引き起こす
可能性があること、そして、フランス軍のようなプロの軍隊に対しては全く効果がない
ということだった


そんだけ
52その巨大な道具:2001/08/21(火) 20:50
 大砲の攻城戦への投入は、野戦とは状況が違っていた
 低い発射速度は長い期間続けられる攻城戦では余り問題とならなかったし、
鈍重な機動性も一度据え付けてしまえば無視することが出来た
 少なくとも、大砲は攻城戦に活用するために必要な努力を傾けるだけの価値があると
認められたのだった
 それでも、14世紀を通じて十分な量の揃わない大砲は目立った効果を上げることは
なかった
 それは主に経済上、兵站上の理由で、戦術や技術上の問題ではなかった
 材料が木材で、大工の木工技術で作られる投石機と違い、大砲は金属職人の特別な工場
で作られ、弾丸とともにその後戦場へ輸送しなければならなかった
 そして、砲は重く、陸上を素速く輸送するためにはとんでもないコストがかかった
 また、金属製の砲は修理が困難で、戦場では事実上不可能だった
 とどめに、推進剤として高価な火薬を大量に必要とした
 これらの困難は決して克服できないものではなかったが、指揮官が
解決しなければならない新しい課題となった
 結果、攻城砲が威力を発揮できるよう大口径化し、また十分な量が投入されるように
なるのは、火薬の値段が下落し始めた14世紀の最後の10年間になってからだった


そんだけ
53他の砲より大きな砲:2001/08/21(火) 20:51
他の砲より大きな砲

 火薬と砲の値段が下がり入手しやすくなったことは、砲の需要を劇的に増大させ、
軍隊はより大口径の砲を要求するようになった
 1375年のサン・ソーヴール攻城戦でフランス軍が投入した最大の攻城砲は
約100ポンドの石弾を発射し、1377年のオドルイク攻城戦でブルゴーニュの
フィリップ豪胆公は約200ポンドの石弾を発射する砲を投入した
 これは、この時代の最大級の砲だったが、それ以上の砲が製造されなかった理由は
技術的なものではなく単にコストがかかったからだった

 ほぼ一世代後の1408年、軍事理論家クリスティーヌ・ド・ピザンは
300〜500ポンドの弾を発射する攻城砲を提唱したが、現実は既に彼女の勧告を
超える大口径攻城砲が続々と製造されていた
 1409年にブルゴーニュ公はそれぞれ700ポンドと900ポンドの石弾を
実際に発射可能な射石砲を購入したし、様々に命名された奇怪な巨砲群は攻城戦の
戦場にその姿を現していた
 その中には現存する最大口径の射石砲である「プムハルト・フォン・シュタイル」
も含まれていた
 「プムハルト」が実際に射撃を行ったとする記録はないが、口径が約80センチで
約1500ポンドの石弾を発射できるとされていた

 このような巨大な射石砲が出現した理由は、当時の火薬を扱う技術的限界にあった
 当時の技術者と砲手は暴発を恐れて安全係数を高く見込んでいたために
装填する火薬の量が少なく、低初速の石弾に十分な運動量を与える最良の方法は
口径を大きくすることだった

 もっとも、このような巨大な射石砲だけでなく、射石砲を支援するより小口径で
ある程度の機動性をもたせた攻城砲も大量に生産されていた
 攻城戦では時間と手間がかかる再装填作業を行う射石砲の操作員を防護する
必要があった
 防御側は火砲の射撃を集中して作業を妨害し、あわよくば砲自体を破壊しようとした
 彼らは木製の大楯で防護されてはいたが、より効果的な対処方法は、攻撃側も城壁の
上にいる防御側の火砲へ射撃を集中することだった
 この新しい攻城機械群は、攻城戦を従来の方法より遙かに短期間で終結させる
可能性を示すことになる

 1412年、ブルージュ市攻城戦においてフランス軍は従来の攻城兵器が
全く効果がないを見て、「ドゥレ・グリード」という鍛鉄製の射石砲を投入した
 全長約5メートル、口径25インチ、750ポンドの石弾を発射するこの怪物は、
2日間にわたり約20数発の石弾を発射して二つの塔を貫通し、塔一つの土台を破壊した
更に城壁を貫通し、または飛び越えた石弾は市街地を転げ回り、多数の家屋を破壊した
 守備隊はその後間もなく講和条件を協定して降伏した


そんだけ
54砲と火薬樽と弾丸:2001/08/21(火) 20:52
 15世紀初めの重攻城砲への依存は、そのまま従来の攻城戦のスタイルを
ひっくり返した訳ではなかった
 確かにブルージュで「グリード」の果たした役割は決定的だったが、
それは砲撃の心理的効果が物理的な威力に劣らず強力であることを証明しただけだった
 1415年から行われたイングランド軍の北フランス侵攻において、イングランド軍
は多数の攻城砲を投入し、更に日を追う毎に増強していった
 半年は必要と見積もられていたアルフルールは僅か5週間で降伏し、カレーは更に
短期間で陥落した
 しかし、ルーアンは、住民が鼠を食べて飢えを凌ぐに至ってようやく開城するまで
半年近く持ちこたえた
 ファレーズは散漫な砲撃を受けて1ヶ月で降伏したが、降伏を拒否した守備隊は
更に1ヶ月半にわたる激しい砲撃を受けながら城郭の一角で頑張り続けた
 ドゥルーは1ヶ月で降伏したが、続くモーは7ヶ月近く持ちこたえた

 攻城砲は、指揮官に強固に防護された城塞を降伏させるのにかかる日数を短縮すると
約束した
 一つの市を包囲することは大量の人員と装備を長期間拘束することを意味し、
野戦軍の行動を著しく制約したから、城壁の前に立つ時間が短縮できれば政治的にも
金銭的にも十分見返りがあった
 攻城砲は常に短期間での決着を達成した訳ではなかったが、うまくいく場合もあった
 これはひとえに最も微妙な心理的効果にかかっていた
 砲が投石機に勝る唯一の点は、投石機より大きな弾丸を発射することだった
 砲は投石機より早く城壁を壊し、包囲された市の内部に損害を引き起こすことが
出来たが、最大の貢献は守備隊にこれ以上の抵抗が無意味だと納得させ、進んで講和する
気にさせることだった

 攻城戦で大砲が新たな役割は、百年戦争の最終段階で生じることになる


そんだけ
55バキャ:2001/08/21(火) 22:05
ワーイ!そんだけ氏が来てくれた、パチパチパチ。、けれどここもその
内に「このスレッド大きすぎます」って成るのが決定したな。その時は
また新しくすれば良いか。
56名無し三等兵:2001/08/21(火) 22:14
もうそろそろ、シャルル8世とイタリア式要塞が登場するかな
わくわく
57名無し三等兵:2001/08/21(火) 23:52
後詰戦についても、もう少し知りたいナリ
58魔女には降伏しない:2001/08/22(水) 00:10
 15世紀の中頃まで、イングランドは攻城砲戦力でフランスを凌駕し、その優位によってフランス北部と西部で支配権を確立していた
 フランスは、イングランドを占領地から叩き出すべく、イングランドを圧倒する攻城放列を編成しようと試みることになった
 フランス軍の戦略目的は、持てる戦力の大部分をイングランドの要塞の数を
減らすことに集中することだった
 軍隊の出撃基地であると同時に占領地を支配する拠点である要塞がなければ、
イングランド軍は占領地での支配力を維持できなかった

 1430年代末以降、フランス国王は直属の「王の軍隊」の創設に力を注ぎ、
1441年末には1万5000の兵力を擁するに至った
 その中にジャン・ビュローとガスパール・ビュローの強大が組織した砲兵隊があった
この動きは、それまで各戦役ごとに掻き集められていた砲兵が、統制された人員と
編成と兵站組織を備えた常設の「国王砲兵隊」へと改編されたことを意味した
 王が望む如何なる場所、如何なる時においても攻城砲と支援火器を大量かつ安定的に
供給できることを意味した

 ノルマンディー(1449〜1450年)とギエンヌ(1451〜1535年)の
一連の戦役は、フランス軍の軍事改革の成果を証明することになった
 ノルマンディーで、王は同時に4個軍団を投入した
 4軍は「王の軍隊」の部隊を中核とし、それぞれ砲兵隊を随伴していた

 それは、ビュロー兄弟の功績は大きかったが、彼らのみに帰するものではなかった
 国王に個人的な忠誠を誓った新しい種類の兵士たちの、彼らを募った徴募官の、
新しく組織された兵站官僚の、そしてその他大勢の改革を担った人々の功績だったし、
大砲の製造業者の功績でもあった
 少なくとも、ヒステリックな聖女の功績でないことだけは間違いなかった


そんだけ
59クルヴェリン:2001/08/22(水) 00:12
 百年戦争末期、イングランド軍のフランス駐留部隊は救援軍の望みのない状況で
フランス軍の砲撃に直面するより降伏を選択した
 1449年、ノルマンディーの実質的な首都であるルーアンではイングランド軍は
抵抗せざるを得なかった
 しかし、僅か3日間の砲撃の後に市民がイングランド軍に対して蜂起し、大司教が
市民全員の赦免を条件に講和を結ぶことになった

 イングランド軍は、沿岸部の都市と港湾を保持するため南イングランドに貯蔵していた
軍需物資の大半をフランスに送り込んだ
 1449年にアルフルールが陥落すると、攻城戦でフランス軍に抵抗できないと
悟ったイングランド軍はサー・トーマス・キリール公の指揮下に部隊を結集し、
フランス軍に決戦を挑んだ

 1450年、フォルミニーにおいて、イングランド軍はアジャンクールと同様の陣形を
とり、長弓射手が植杭障害の後方に展開した
 フランス軍は、直接イングランド陣を攻撃せず、2門の木製の大楯で防護された軽砲で
イングランド軍の側面から縦射を加え続けた
 この射撃に耐えきれなかったイングランド軍は陣地を捨てて出撃し、砲を捕獲する
ことに成功した
 イングランド軍が砲を引いて陣地に戻る準備をしていた時、フランス軍の装甲槍騎兵が
両側面から同時に乱れた隊列に伝統的な逆襲をかけた
 多くのイングランド兵が殺されるか捕虜となり、キリール公も捕虜となった
 この戦闘の結果、イングランドのノルマンディーにおける野戦能力は完全に喪失させ、
ノルマンディーのイングランド占領地は深刻な危機に見舞われることになった
 イングランド軍による穏やかな支配の日常は凄まじい戦闘の日々へと変わった
 1450年、バイユーが2週間にわたる砲撃の末に降伏、カーンは17日間の砲撃で
講和に同意し、最後の拠点であるシェルブールは僅か数日の砲撃の後に降伏することになる

 1450年8月12日、30年近いノルマンディーでのイングランドの支配は終わった


そんだけ
60ガスコーニュの背信者:2001/08/22(水) 00:14
 ノルマンディー攻略後、フランス軍はノルマンディーが奪われる前からイングランドが
統治していた南方の地域へ兵を進めた
イングランド軍がフランス進出の拠点としていたベルジュラックは1450年10月に
フランス軍の手によって陥落した
 別のフランス軍は1450年から1451年の冬ににかけてボルドーを包囲した
 イングランド軍は数次にわたって救援軍を送り込んだが結局フランス軍の攻囲陣を
破ることが出来ず、1451年6月、ボルドーは市民を虐殺と略奪から守るために
講和条件に調印し、ジャン・ビュローが新しいボルドー市長に任命された
 その2ヶ月後、バイヨンヌが陥落、フランスにおけるイングランド領はカレーを
残すのみとなった

 しかし、300年にわたるイングランドの統治は簡単に忘れられるものではなかった
 ボルドーはイングランド諸島とのワイン貿易で繁栄していたし、ガスコーニュの住民は
フランス王より海の向こうのイングランド王に好意を抱いていた

 1452年10月、イングランドのヘンリー6世は、大陸にイングランドの橋頭堡を
築く最後の試みとして老サー・ジョン・トルボット指揮下の遠征軍を派遣した
 ガスコーニュ人を主力とする彼の部隊はどの町でも解放者として歓迎された
 住民はフランス軍の駐屯部隊に対して反乱を起こし、古い支配者の帰還を祝った
 ボルドー市民もトルボットの部隊を喜んで迎え入れた

 フランス王シャルル7世は再びガスコーニュを取り戻すべく遠征軍を編成し、
1453年春、ボルドーへの進入路を確保すべく一連の攻城戦を開始することになる
 その軍勢の中にはボルドーから追われたジャン・ビュローが砲兵隊指揮官として
参加していた


そんだけ
61丸太壁:2001/08/22(水) 00:15
 1453年7月、トルボットはフランス軍に包囲されたカスチヨンを救援すべく
軍の先頭に立ってボルドーを出撃した
 彼のイングランドとガスコーニュの兵士からなる軍は、進撃の途上でフランスの
小規模な分遣隊と遭遇してこれを敗走させたが、この部隊がフランス軍主力の宿営地に
逃げ帰ったのを見たトルボット軍の間に、フランス軍が宿営地を破壊して逃走しようと
しているとの噂が広まった
 この手の噂は軍隊では常に希望的観測から生まれるものだが、トルボットはこの
誤った情報を信じ、フランス軍の宿営地を襲撃した
 そこは、攻城戦の当然の処置として敵の救援軍に備えて塹壕と土と丸太材の胸壁で
要塞化されていた
 トルボットは砲兵を随伴しておらず、先遣部隊しか率いていなかった
 フランス軍は町の城壁を叩くために準備していた全ての火砲の向きを逆にし
突撃破砕射撃を行った
 この射撃は完全な斜射となり、重い弾丸はトルボット軍の兵士の横列を何列も貫いて
凄まじい損害を与えた
 トルボットは混乱した部隊を再編成しようとしたが、死傷者の数が上昇するに連れて
混乱は潰走に変わった
 翌日老人の体の破片が発見され、2日後カスチヨンは降伏した


そんだけ
62破壊する、完全に破壊する:2001/08/22(水) 00:16
 カスチヨンの戦はボルドーの運命を決めたが、息の根を止めた訳ではなかった
 多くの町が抵抗を続けた
 しかし、ガスコーニュの人々はシャルル7世の復讐を恐れないわけにはいかなくなった
 カディヤックは攻城砲の砲撃に7日間耐えた後に無条件降伏したが、
シャルル7世は守備隊指揮官の処刑を命じた
 それは、一切の抵抗を認めないとするフランスの脅迫だった

 ボルドーは、外周の支城全てが陥落したにもかかわらず、3000のイングランド兵に
守られて防備を固めていた
 1453年8月、フランスの攻城砲の最初の一弾がボルドーの城壁に着弾した
 10月に入ると講和交渉が始められ、その間も交渉を有利に進めるためにフランスの
攻城放列が城壁を間断なく砕き始めた
 しかし、孤立無援の状況にあってなおボルドーは10月末まで持ちこたえた
 ジャン・ビュローは日頃から砲撃でボルドーを廃墟にすると公言して憚らなかったが、
結局、ボルドーを降伏させたのは飢餓と将来への絶望、そしてフランス軍で蔓延の兆候を
見せていた疫病だった
 ボルドーは自治権を失い、重い賠償金と課役を科せられたが大量報復は免れることが
できた


そんだけ
63我らの砲は何をしていたのか:2001/08/22(水) 00:19
 百年戦争末期の一連の戦闘で、結果的にイングランド軍の対応は失敗に終わったが
少なくとも砲兵の価値を否定していたわけではなかった
 実際、1420年代にノルマンディーを攻略した際、イングランドはフランスに
砲兵の威力について教育していたのである
 イングランド支配下の諸都市が砲撃に対して何の準備も行っていなかった訳では
なかった
 彼らは大砲を出来るだけ多く掻き集めようとしていたし、城壁の砲撃に無力な箇所を
補強し、増設する工事は繰り返し行われていた
 守備隊は城壁の上に火砲を展開して防御射撃を行い、実際に少なくない損害を
フランス軍に与え、その中にはフランス貴族も含まれていた
 ジャン・ビュローはボルドーを砕くと豪語していたが、ボルドーは3ヶ月持ちこたえた
 フォルミニーでイングランドの陣地を縦射した砲が僅か2門しかなかったという
事実は、フランスの火砲が機動性に欠けていたことを示唆している

 フランス軍の勝利に火砲が大きな役割を担っていたことは間違いなかった
 しかし、結局、イングランド軍を駆逐しフランス軍に勝利をもたらした原因は
よく言われている優れた技術的進歩、例えば青銅製鋳造砲身の実用化等にある訳では
なかった
 それは行政上、兵站上の努力の結果だった
 いかに戦場に火力を集中するかという命題にフランス軍は一つの解答を導き出し、
そして実行したのだった
 様々な困難と敗戦の屈辱を克服して作り上げられたフランス砲兵隊は、
紛れもなく百年戦争が生み出した優れた戦争機械の一つであった
 フランスの砲は百年戦争をフランスの最終的な勝利とし、従来の戦術で
照らし合わせれば驚くべき速度で失われた町を奪い返し、フランスの覇権の
原動力となった

 しかし、火砲の大量運用と集中を見事に成し遂げた軍隊は既に存在していた
 1453年、キリスト教圏最強の要塞、すなわち世界最強の要塞とキリスト教徒の誰もが
信じて疑わなかったコンスタンティノープルが、憎むべき異教徒の砲弾によって打ち砕かれた
のだった


そんだけ
64バキャベッリ:2001/08/22(水) 01:30
 何だかな〜戦争でも商売でも、逆境の時に地道な体質改善をした者が次代の勝者
と成る訳か。騎兵突撃に固執したフランスがイギリスの長弓兵に破れ、そのイギリス
がフランスの野戦砲兵に破れ、再びナポレオンの後期にフランスはイギリス及び連合
軍に破れ……。奢る勝者は旧式の戦法に固執して体質の改竄を怠ると共に、その奢り
故に敵を増やして半ば自滅的に敗北する。
 次の次代に台頭したプロシャが、やがてWWTやWWUで没落して行くように……。
そして戦後のバブルに溺れた日本が、没落して地道にIT改革をしたアメリカが復活
した様に。人間の歴史って結構踏もうな繰り返しが多いな。
65バキャベッリ:2001/08/22(水) 01:32
 失礼「踏もうな」→「不毛な」、しかし不況のせいで柄にもなくブルー入ってしまった。
66名無し三等兵:2001/08/22(水) 07:17
給料遅配は当たり前、傭兵隊長や貴族が勝手に戦線離脱するフランス軍が勝利して
きちんと組織され、モラルも平均以上だったイングランド軍が敗北するのは
微妙に納得いかないこともある。
67名無し三等兵:2001/08/23(木) 13:28
防腐剤投下
68名無し三等兵:2001/08/23(木) 19:36
「あ、キチガイだ」(ひろゆきちゃん!見ちゃダメ!)
69アッラーの確かな剣:2001/08/23(木) 20:14
 トゥルクメン部民族の戦術、つまりステップ系弓騎兵の伝統的な戦術に頼って支配地を
拡大してきたオスマン朝トルコは、従来の機動力に依存し野戦を避けて襲撃を繰り返す
戦争のスタイルに限界があることを認めざるを得なくなっていた
 敵の野戦軍に対する直接的なアプローチの欠如と拡大した占領地の経営能力の不備
という理由から、14世紀中期以降、オスマン朝の軍隊はカピクル軍団と呼ばれる常備軍
を中核とした軍隊へと改編しつつあった
 異教徒に改宗を迫らぬままに陣営に編入するオスマン朝のスタイルは保守的なムスリム
からの全面的な同意を得られなかったこともあってオスマン朝の軍隊はキリスト教徒の
影響を強く反映されることになり、15世紀中期にはある程度の完成を見ることになった

 オスマン朝の野戦戦術は基本的に当時のヨーロッパと同様の防御戦術だった
 塹壕と障害物で構成された野戦陣地を編成し、障害物の後方には合成弓を持った
弓兵に掩護された砲兵放列が並び、その後方に陣地守備部隊として合成弓と白兵戦用の
半月刀と楯を装備した歩兵部隊が属領歩兵、近衛歩兵の順に展開し、矛槍兵が彼らを
支援していた
 陣地の直後には司令部と段列が置かれ、近衛重騎兵が陣地側背を防護していた
 更にその両側に属領重騎兵が配置され、全軍の前衛として伝統的な軽弓騎兵が
遊弋していた
 軽弓騎兵が敵軍を陣地前面まで誘引し、その後弓兵が戦闘展開阻止射撃を行う
 弓兵は短い射撃の後すぐ陣内に後退することになっていたが、突撃破砕射撃が
最大の効果を上げるためには弓兵の犠牲はやむを得ないとされていた
 弓兵が後退すると陣地守備部隊と砲兵による突撃破砕射撃を開始、続いて属領重騎兵
による機動打撃が発起し、可能ならば敵を包囲した

 ヨーロッパの防御戦術との相違点は、陣地守備部隊の中に近接戦闘兵科である槍兵が
不在であることだった
 その代替手段として機動打撃を担う属領重騎兵の戦術的な役割は極めて大きかった
 ヨーロッパ圏に勇名を馳せた近衛歩兵イエニチェリといえども重要性においては
属領重騎兵には及ばず、属領重騎兵こそ野戦における決戦兵科だった
 後に合成弓が次第に銃へと取って代わられることになるが、防御戦術としては
同時期のヨーロッパの戦術に遜色なく、むしろ徹底的な火力戦の追求という点においては
優越していた

 コンスタンティノープルを奪い西方世界を征服するために生まれたと伝説が語る
国の新しい軍団は、以後ヨーロッパ社会に対するイスラム最大の挑戦者となる


そんだけ
70名無し三等兵:2001/08/23(木) 22:18
良スレあげ
71名無し三等兵:2001/08/23(木) 22:48
「コンスタンティノープルを奪い西方世界を征服」ウルバンの巨砲age
72コックさん、おかわり:2001/08/23(木) 23:42
 スルタンの近衛軍団であるカピクル軍団は、騎兵、歩兵、工兵、砲兵で編成されていた
 騎兵はいわばスルタン直属の警護隊であり、予備騎兵戦力として真に決定的な戦況で
投入された
 近衛軍団の中核をなしていたのはイエニチェリと呼ばれる歩兵部隊で、オスマン朝と
対峙するキリスト教徒にとって最大の脅威であった

 戦陣においてスルタンのために料理し、スルタンと食事を共にする権利を示す鍋を旗印
とするイエニチェリが編成されたのは1326年とされているが、実際に編成されたのは
1361年のエディネル占領後と言われている
 イエニチェリは「新部隊」または「新しい兵士」の意味だが、最初のイエニチェリは
訓練と経験を積んだ戦争捕虜で、その後も元キリスト教徒の改宗者から徴募された
 当初は戦争捕虜が十分な人的資源となったが、やがて数を揃えるため州に対して
徴税の一環として徴兵されることになった
 これはイスラムの法に反するものだったが、息子の将来の為に役人に贈賄して
連れて行って貰うよう工作する親も珍しくなかった
 彼らの身分は奴隷であったが、オスマン朝では宰相も将軍もスルタンの後継者を
産む女性も奴隷であったため、そう悲観するものではなかったとも言われている

 イエニチェリは連隊毎に編成され、最終的に連隊数は101に達したが、
連隊の編制は一定ではなく、兵力も100〜3000名と格差が大きかった
 連隊のうち34個はセメト隊と呼ばれる最精鋭部隊で、兵力も2000名以上と
大きく、戦闘における実戦部隊の中核となった
 メフメット2世がコンスタンティノープルに殴りかかろうとしていた時の
イエニチェリは1万2000の兵力を擁していた

 イエニチェリの武装は合成弓が主だったが、初期の頃には投石器、弩、投槍が
少数ながら含まれていた
 キリスト教圏におけるイエニチェリの代名詞である半月刀は、混戦や攻城戦でしか
使用されなかった
彼らは基本的に火力戦闘部隊であり、野戦においては突撃破砕射撃を主たる任務と
していた

 1440〜1443年のハンガリーとの戦闘の頃から手銃が採用されはじめ、
更に1485〜1491年のマムルーク朝との戦闘の敗北を契機に火器保有率が格段に
向上し、16世紀に入るとイエニチェリの大半がアルケブスを装備するようになる


そんだけ
73名無し三等兵:2001/08/23(木) 23:56
イエニチェリの火力が強力な理由は、専門の砲兵段列を保有していたことage
74悪魔の業:2001/08/24(金) 01:16
 オスマン朝軍の特徴の一つに、当初から近衛軍団に砲兵と工兵を編成していたことが
あげられる
 ヨーロッパにおいては戦争準備段階において傭兵や各都市の技術者を掻き集めるのが
一般的で、フランスが砲兵と工兵を統合して常備軍化を果たしたのは百年戦争末期
になってからだった

 オスマン朝の砲兵の最初の実戦がいつかは明らかではないが、少なくとも1420年代
には攻城戦に砲を使用することは一般的となっており、1440年代には野戦用の
比較的軽い砲もかなり普及していた
 バルカン諸国はオスマン朝の砲と火薬の重要な供給源となった
 その素性から伝統的に攻城兵器の経験の乏しいオスマン朝軍は、明らかにこの新しい
兵器に多大な期待を抱いていた
 砲と火薬の輸入だけでなく製造業者を掻き集めるために非常な努力が傾注された
 イスラムに改宗することは最初から雇用条件から除外されていた
 キリスト教徒であろうと封土が与えられ、潤沢な開発資金が与えられていた
 トランシルヴァニアから招かれたウルバンもその中の一人だった

 豊富な鉱物資源と潤沢な資金、優れた人材に支えられ、オスマン朝は短期間で質量共に
ヨーロッパを凌ぐ重砲の製造国となった
 その一例として、砲兵は攻城戦の現場に工場施設を構築し、現地で砲身と砲弾を
鋳造した
 このような荒技はビュロー兄弟ですら思いも寄らぬことであった
 その中には、射程1マイル、砲弾重量1200〜1500ポンド、1日10発という
高発射速度を誇るウルバンの怪物攻城砲も含まれていた
 また、火薬を分量毎に梱包し、確実に転圧することにより高い精度を達成した
 厳密な分類法によって製造された良質な火薬は発射煙が白く、不純物が多く発射煙が
黒いのが当たり前のヨーロッパ人を驚かせた
 いまだ職人芸の域を脱しきれていないヨーロッパに対し、オスマン・トルコの砲は
工業製品としての洗練度で勝っていた

 トルコ人は程なく砲兵戦術においても熟練するようになった
 彼らは距離を測定するための発火弾を使用した夜間射撃、十字火網の構成、突撃に
先立つ弾幕による突撃支援射撃、挙げ句の果てには種類の違う砲による同時弾着射撃まで
こなした
 これは、最初の射撃号令の後は砲の指揮官の裁量による各個射撃が当たり前で、
夜間は射撃しないヨーロッパ砲兵には想像を絶するものであった

 少なくとも、15世紀の時点でオスマン・トルコの砲はヨーロッパの砲を
圧倒していた


そんだけ
75おい、雨降ってきたぞ:2001/08/24(金) 01:18
 オスマン朝の工兵戦術は、主にイスラム伝統の攻城土木技術を継承し発展させていた
 ヨーロッパでは一般的な手法であり後にウォーバンが体系化した幾何学的に地形を
加工する築城編成と対照的に、天然地形の障害度を最大限に利用する手法を確立していた

 一般にオスマン朝の工兵作業、特に敵前工兵作業はヨーロッパより時間当たりの
単位作業量が大きかった
 工兵隊指揮官は全軍の工程管理と品質管理に責任を有し、工兵隊の仕事はごく専門的な
作業以外は各部隊の築城作業の技術援助であった

 ヨーロッパでは昼間作業が当然であったが、オスマン朝工兵は専ら夜間隠密作業を
旨としていた
 ヨーロッパ人は、払暁とともにトルコ人の攻城塹壕が城壁の真下まで延びているのを
見てしばしば驚愕した

 塹壕は戦線後方の遮蔽物から延ばされ、排水の利便性のためヨーロッパのものより
深く広く、崩落防止用の補強工事が施され、射撃用の足場となる犬走が準備されていた
 主戦闘陣地の塹壕は縦深の確保のため必ず2線構築され、その後方に超過射撃が
可能なように天然または人工の丘が準備され、砲兵の放列が展開していた


そんだけ
76名無し三等兵:2001/08/24(金) 01:46
某研来ないな、氏んだか?
77名無し三等兵:2001/08/24(金) 02:26
常備軍って、ローマ時代は常備軍ですよね。百年戦争のフランスは封建軍ですよね?

常備軍はいつ失われて、いつヨーロッパにおいて復活したんでしょうか?
78名無し三等兵:2001/08/24(金) 06:47
>>77
共和制ローマ時代では、市民が義務で行う軍務が主流
この場合、ローマとしてみれば常にある程度の兵力を確保できるが
個人レベルで見ると常備軍とは言えない。
帝政になると、職業軍人が主流となる+非ローマ市民の補助兵

共和制ローマタイプに近い軍がヨーロッパで復活したのは
フランス革命戦争以後となる。
79名無し三等兵:2001/08/24(金) 21:54
>>75
オスプレイ・メンアットアームズですね
あの本は、ちょっと翻訳がひどいような気もします。


トルコネタを一つ

18世紀においても、オスマントルコ帝国はイスラム世界での大国であり
東方ではその威信は衰えていなかった。
オスマントルコ帝国が衰退したのは、西方世界の圧力によるものが大きい。
とくに、ロシアの圧力は大きかった
プルート戦役では、何とか南下を押しとどめたものの
第1次ロシア・トルコ戦争では敗北し、クリミア半島の宗主権を失った。
80名無し三等兵:2001/08/24(金) 22:29
某研召喚age

騎兵の両手槍
騎兵の両手槍
騎兵の両手槍
騎兵の両手槍
騎兵の両手槍
8175:2001/08/24(金) 22:29
>>79
恐縮です
手近にいい資料がなかったんでつい易きに流れてしまいました
イスタンブールについては改めて資料漁って出直します
82名無し三等兵:2001/08/24(金) 22:32
スパルタってかっこいい。
うまれて死ぬまで戦士。
北朝鮮とは全然ちがう美しさ、美学がある。
一時期は古代ギリシャを統治していたこともあった。
83名無し三等兵:2001/08/24(金) 22:34
>>81
あれくらいしか、いい資料が無いんですよね
戦略戦術兵器辞典もなかなかいいんですが、体系的に学ぶには
やや偏っているし・・・
84名無し三等兵:2001/08/24(金) 23:16
 ローマにせよスパルタにせよ、大量の奴隷によって支えられていた訳だが、そんなに沢山
抱え込んで反乱が怖くないのかな?。スパルタカスとか万単位で蜂起してるし、ひょっとして
奴隷と言っても待遇はそれなりだったのだろうか?、くだんのトルコみたいに(自己完結)。
85名無し三等兵:2001/08/24(金) 23:24
>>84
ローマが拡張していた共和制時代では、奴隷は固定された階級ではなく
結構流動性があり、数代で解放奴隷になれることが多かった
医者や教師などの高スキルを持つ奴隷は、高価だったため
各種サービスも優先して受けられたようだ。
そのため、奴隷の内部でも階層があり、団結することはなく
奴隷が根本的に社会不安の種になることはそれ程なかった。

スパルタはよくわからん。
86名無し三等兵:2001/08/24(金) 23:35
しかし共和制ローマが、あまりにも奴隷を得てしまったため
ローマ軍の背骨であるイタリア中産階級が没落してしまった。

ローマ軍の本質は、自分で装備を調えることができ、主人が兵役中でも
家族が生きていけるだけの資産を持った中産農民階級が主力であることだった。
この中産階級は、兵士として最良の素質を持っていた。

大規模農業家(上流階級)にとって、奴隷は安価な労働力であり
彼らによって中流農業階級は駆逐されることになった。

共和制ローマでは、財産の少ない階級は兵役につくことがなかったが
中産階級の没落により、兵役に付ける階級を下に拡大する事になった
それは社会不安を招く結果になることであり、ローマ軍は変質をよぎ無くされることになる。
87名無し三等兵:2001/08/25(土) 00:36
またしても中産階級の没落=正規歩兵軍の崩壊か……
88名無し三等兵:2001/08/25(土) 07:46
揚げだ挙げ!
89名無し三等兵:2001/08/25(土) 19:48
ヨーロッパの剣の方はアクセス出来たり出来なかったりで訳わからん。
90傭兵:01/08/26 22:35 ID:EbvAYMeo
 >>46-58前後より

 百年戦争の際の攻城戦に付いて質問です。
 敵の要塞を落とし、自分の要塞網に組み込んで縦深を確保する。というのが、
 主目的ということでした。

  しかし、 敵と自らの間に焦土地帯を設けて、
  中間地帯での軍事行動を不可能にすることで、
  もって防御を固めるとする目的はなかったでしょうか?

  又、要塞化された修道院、教会などは、百年戦争期間中、
  英仏双方にとり、軍事目標だったのでしょうか?
  それとも、聖域として、戦争に巻き込むのは、極力回避されたのでしょうか?
  世俗領主が一円的に地域を支配していたのか?どうなのかという議論に
  繋がるかもしれませんが、宜しく御願いします。


  >>89 サーバーが混雑する時間帯を避けて、読むと良いと思います。
  リンクを張っておきましょうか?
  どなたもカキコされないので、必要ないかと思ってたのですが。。。
 
91都市:01/08/26 22:43 ID:OZnC9jfQ
 コンスタンティノープルの防御施設は縦深約100〜120メートル、
2重の城壁とその外側に掘開された堀で構成されていた
 外城壁は幅約3メートル、内城壁は幅約5メートル、堀は幅約20メートル、
深さ約7〜8メートルだった
 城壁には100メートルあたり平均5基の塔が建設されており、
これは城壁に取りついた敵兵に対して少なくとも5基の塔から阻止射撃できることを
意味していた
 陸側の城壁の総延長は約12キロ、都市内の道路網の発達により陣内機動が容易
であり、陣内戦においても防御の核となる建造物に富み、非戦闘員による後方支援
が期待でき、靱強な防御戦闘が可能だった
 ただし、非戦闘員を巻き込む陣内戦はそのまま防御組織の崩壊を意味していたため、
城壁失陥後の戦闘は陣内への敵の浸透をどれだけ制限できるかにかかっていた

 守備隊の勢力は総数約7000、うち弩兵約5000で一部に手銃が含まれ、
残る約2000は装甲歩兵だった
 その他、徴集された都市住民による補助兵が存在していたが、大半が訓練未熟で
直接的な戦闘力は期待されていなかった
 火力密度は戦闘正面20メートルあたり弩または手銃8挺で、これはフス派の車両要塞
の約半分だったが、当時の攻城戦の基準値(20メートルあたり1挺)と、城壁の強度を
勘案すれば極めて強力だった
 守備隊は約10数門の比較的小型の砲があったと伝えられているが、目立った働きは
認められていない
 トルコ砲兵に対して余りに劣勢だったこと、城壁上に据置するには外城壁の強度が
不足していたことが守備隊に砲の使用を最後まで躊躇わせていた


そんだけ
92名無し三等兵:01/08/26 23:05 ID:OZnC9jfQ
>90
平時から緩衝地帯となる焦土地域を設けるということかな?
それでは平時の通商や遠征の後方支援地域を放棄、
その土地の資源と経営を諦めることに繋がらないだろうか?

教会を防御施設として使用できるか否かは封建領主と教会の調整如何にかかっている
教会が軍隊に協力的であれば防御施設として積極的に使用できただろうし、
そのような事態では教会を巡る争奪戦が展開された

もっとも、村落地帯の教会は主に住民に対する防護手段の提供が主だった
百年戦争当時は群盗や未雇用の傭兵、武装難民等が横行していたし、
小規模な部隊による略奪が横行していた
これは近傍に封建領主の城塞がない村落の場合、正規軍よりも深刻だった
正規軍の軍事行動ならばともかく、それらの襲撃から農民の生命、
財産を守る手っ取り早い方法は村落を防塞化することだったが、
どこの村も公共施設にそれだけ費用をかけれるほど富裕だったわけではない
結局、既存の施設の中で最も堅固でかつ村民を収容できるだけの余裕のある
条件を満たす建造物として教会は打ってつけであり、教会を補強することにより
少なくとも村民と動産のための防護手段は確保できるからだ
93名無し三等兵:01/08/26 23:08 ID:4GXVoBlg
>>92
バイキングの襲撃に、教会に立てこもった話はあるね。
94名無し三等兵:01/08/26 23:34 ID:7Neh2LmE
>>90
敵の襲来→周辺地域の放棄と近隣の城塞への避難(物資・農民)→
篭城戦→味方の救援→ (゚д゚)ウマー

って感じなのでは。
9590:01/08/27 01:17 ID:suBjPD0Y
 >>92 早速の詳しいレス有難う御座います。

 >>94 城塞網による縦深防御や、城塞と地域との関係については
    おっしゃるように理解しています。

 攻城戦と騎行(略奪行)の関連については、どうでしょうか?
 この時代の軍隊の補給線は、どんなものかということと、
 騎行を戦略に組み込んでいたかということに、おおまかにわかれると思うのですが。

 補給は、鉛、火薬などの貴重物資、弓手などの人員などは除いて、
 現地調達だったのでしょうか?

 又、ルーアンやオルレアンなど、セーヌ河の要衝が
 攻城戦の目標となっていましたが、イングランドの領土は
 河川を防衛するための城塞網により支えられていたのでしょうか?
 
9690=95:01/08/27 04:17 ID:suBjPD0Y
 読み返してみて、取り留めのなさに恐縮です。
 
 質問を整理しますので、よろしく御願いします。

 イングランドの大陸での軍事行動についてですが、
●攻城戦と略奪行は、戦略上、有機的に関連付けられていたのかという点。

●英国本土から、大陸に補給されていたのは、どんな物資、人員だったかという点。
 #ガスコーニュ、アキテーヌからの補給もあったとは思うのですが
 #イングランドから運ばれなければならないものもあったとは思うのですが。

●ノルマンディー領において、交通の動脈は河川だったのか
 と、軍隊の河川交通による移動などはあったのかという点

 多岐にわたるのですが、城塞網と補給という点から
 まとめられるかとも思います。よろしく御願いします。
 
97林檎:01/08/27 20:50 ID:Cyg8AP0g
 オスマン・トルコの作戦準備は1452年から始まった
 トルコ軍はボスフォロス海峡にルメーリ・ヒサーリ城を建設、後方兵站拠点とする
とともに、攻城戦のための後方連絡線を設定して道路の整備と補修を開始した
 また、現在のドルマバフチェ宮殿の近くに攻城砲を鋳造するための工場が建設され、
技術者や資材が続々と集結した

 トルコ軍が攻城戦に大小69門の攻城砲を投入していた
 攻城砲兵は15個中隊に編成され、内訳は9個重砲兵中隊、5個軽砲兵中隊、
1個独立砲兵中隊だった
 重砲中隊は重砲1門、軽砲4門、軽砲中隊は軽砲4門、独立砲兵中隊は重砲1門と
軽砲3門を備えていた
 重砲はそれぞれ各城門前に展開し、軽砲が重砲を掩護していた
 また、1個重砲兵中隊が金角湾ごしに市街地を砲撃した
 独立砲兵中隊は、スルタンの天幕の前で聖ロマヌス門に砲口を向けていた
 独立砲兵中隊は、戦闘中に砲身が破裂し工場で再鋳造されて復帰した重砲1門が
増強され、その後3門目の重砲と数門の軽砲を増強されることになる
 加熱による砲身の損傷を防ぐため、重砲は1200〜1500ポンドの石弾を
1日約10発、軽砲は約250ポンドの石弾を1日約50〜60発射撃し、
約40日間で計19320発、総投射弾量は3230トンに達した

 砲撃は、砕かれた城壁の資材が山となって攻撃部隊の進入のための足場となることを
計算して、城壁の上部に照準をつけて行われた
 砲撃戦が展開されている中、歩兵は遮蔽物の陰から攻城壕を掘開し、最終的に城壁に
面して2本の平行塹が構築された
 また、壕の随所に攻城資材の集積拠点と工兵が待機する作業拠点が築かれ、梯子と
堀を埋めるための丸太や土嚢が大量に準備された
 これらの築城作業は守備隊から欺瞞するため主に夜間に行われた

 最初の砲撃から1週間後、最初の突破口が聖ロマヌス門とエグリ門に開き、
続いて歩兵の夜襲が行われたが、内壁の破壊が十分でなかったために守備隊の防御射撃に
阻まれて失敗に終わった
 広正面にわたって砲兵火力を分散し、どこかに突破口が開いた箇所に突撃部隊を集中
して奇襲的に城壁を突破するという初期の作戦方針に誤りがあったと考えたトルコ軍は、
奇襲を捨てて砲兵火力の集中による強襲へと方針を変更した
 主攻正面を聖ロマヌス門に定め、3個重砲兵中隊の射撃陣地を変換させるとともに、
金角湾ごしに砲撃していた重砲が引き抜かれて独立重砲兵中隊に加えられた
 合計6門の重砲とそれを支援する軽砲の砲撃は約3週間続き、5月29日夜、1門の
重砲が隠密に人力で牽引されて修復作業中の城壁の前に進入して砲身の加熱を無視して
連続射撃を行い、応急的に修復された城壁とバリケートを吹き飛ばした
 この重砲の最後の1発が、突撃隊形を整えていたイエニチェリへの突撃の合図となり、
この突撃がコンスタンティノープル攻城戦で行われた最後の突撃となった


そんだけ
98名無し三等兵:01/08/27 21:21 ID:Cyg8AP0g
>96
中世の戦争は主として消耗戦で、「決戦」を追求して敵軍を撃破するよりむしろ
敵の資源を枯渇させることが戦争目的となった
これは攻城戦が重視された結果であるし、略奪も敵の資源を奪うことを目的として
行われている

ただし、攻城戦と略奪が常に連携していた訳ではない
略奪のみで長期間にわたる攻城戦の兵站を賄えるわけではないし、
略奪による戦利品を当てにして軍事行動を行うことはできない
例えば、騎兵の馬は1日あたり約10キロの飼料が必要とされ、そのうち半分は
穀物である必要があった
現地調達に頼る野戦軍は必ず破綻する
1338年から行われたイングランドの北仏出兵は、1万2000頭の軍馬が
動員されたが、戦利品が少なく馬の維持費を埋め合わせることができなかったため、
戦闘に勝利したもののイングランドは財政破綻寸前まで追いつめられた

確かに攻城戦の事前行動として敵性地域に対する略奪を行い、敵の備蓄物資を
奪うことはあったかも知れないが、略奪が行われたからと言って必ず攻城戦が
生起するわけではない
1314年のバノックバーン以後、スコットランド軍はイングランド北部諸州に
対して軽騎兵による大規模な略奪行を行ったが、攻城戦は行われなかった


基本的にイングランド占領地で得られる物資で間に合っただろうが、
長弓射手等を大量に調達するのは無理だったため、ウェールズの長弓射手が
大量に大陸に輸送されている
また、攻城戦や大規模な軍事行動のために大量の物資が必要となった場合、
占領地での収益や大陸の市場で賄いきれなかった場合、イングランド沿岸部の
物資集積拠点から備蓄物資が輸送されている


河川は重要な交通手段だが、基本的に川沿いの都市を結ぶ交通網であり、
そのような都市が戦闘の焦点となる攻城戦以外では余り役に立たない
また、大規模な軍隊全てを一挙に輸送できるだけの船舶を調達することも難しい

確かに河川沿いの都市にとって河川は生命線であり、百年戦争末期のパリも
フランス軍に河川を押さえられたために物資が枯渇して開城に到る一因と
なったが、軍隊の移動を河川に全面的に依存した事例は殆ど無い
軍隊の移動手段としての河川は確かに軽視できない存在だが、基本的に補助手段
に過ぎないと考える
9996:01/08/28 02:52 ID:7AaiiSKQ
丁寧なレス有難う御座いました。

 大砲の移動に手間がかかるとの話がでてきたので、もしやと思い
 伺いましたが、牛馬による牽引が主だったのですね。納得した次第です。

 今後も、至らぬ質問をするかもしれせんが、よろしく御願いします。
 
100名無し三等兵:01/08/28 02:54 ID:lgne3zYE
100
101三八歩兵銃:01/08/28 04:45 ID:OwUYE4rw
お袋のお父さんは中国で機関銃で頭を飛ばされてしにました。
親父のお父さんも南方の島でトーチカから戦車の火炎放射機に三八銃で戦って
焼き殺されたそうです。おかげで、自分にはおじいちゃんと
呼べる人がいませんでした。戦争は二度と繰り返すべきではない。
102荷車:01/08/28 19:50 ID:p3eB55MM
 オスマン・トルコの巨大攻城砲の群がコンスタンティノープルを吹き飛ばしている頃、
フランスの砲も進むべき道を模索していた
 英仏百年戦争の終結はこれまで投機的とされていた技術的挑戦を可能にさせていた
 実際のところ、百年戦争はやや古めかしいが手堅い技術を使って戦われていたのだ
 その枷が外れたことにより、過去数十年にわたって芽吹いていた技術的変化が
一気に顕在化することになった
 ブルゴーニュとの新たな戦争は技術的変化の妨げにはならず、むしろその動きを
推進することになる

 技術的革新の最大のものは、砲車の実用化だった
 従来の砲が、雑多な車両に乗せて戦場まで運搬し、射撃位置に砲架を作り、
そこに砲身を卸下して初めて射撃できた
 オスマン・トルコが際限ない大口径化を目指したのと対照的に、ヨーロッパの砲兵は
小口径化して機動性の向上に力を注いでいたこともあり、軽くて運搬しやすく、
かつ車両上から射撃できる程頑丈な砲車のもたらす利益は計り知れなかった
 この新型砲車の実用化により、ヨーロッパの砲兵は野戦において積極的な攻撃機動が
可能となったのである
 例えば、1475年、ノイスの戦においてブルゴーニュ軍の機動砲兵は皇帝軍の目前を
敵前強行渡河することができ、その後皇帝軍の宿営地を砲撃し、多大な損害を与えた
 このような戦術行動は、従来の鈍重な砲ではとても真似できないことだった

 ブルゴーニュ戦争で両軍が自軍の砲兵の増強に力を注ぎ込んだ
 ブルゴーニュのシャルル豪胆公は、フランスの攻城放列の威力がノルマンディーで
証明されると、ブルゴーニュの豊富な資源と北部工業都市群を総動員し、フランス砲兵に
劣らぬ攻城砲兵隊を編成しようとし、それはある程度成功していた
 ブルゴーニュの砲兵隊は、1466年にはそれまで17回の攻城戦に耐え抜いていた
ディナンを僅か1週間で陥落されることができるまでになっていた

 しかし、結局ブルゴーニュ戦争でフランスの優勢を決したのはフランスの砲兵隊では
なかった


そんだけ
103長い槍:01/08/28 22:12 ID:IIZzdCns
 14世紀には既に、スイス傭兵は山地や森林地帯といった錯雑地形において威力を
発揮する強力な矛槍兵部隊として名声を得ていた
 しかし、1422年のアルベドの戦においてミラノの騎兵に危うく敗北しかけた
ことにより、個人の技量に頼る矛槍を捨てて槍を主力装備とする全面的な改革へと
踏み切ることになった
 1444年のザンクト・ヤーコプの戦は、スイス槍兵戦術の試金石となった
 王太子ルイ(後のルイ11世)率いる4万のフランス・アルマニャック軍に対し、
スイス槍兵1500はは敵前渡河の上に自ら野外決戦を挑んだ
 スイス槍兵は数次にわたるフランス装甲槍騎兵の突撃を破砕し、最終的に消耗して
数時間後に全滅したが、アルマニャック軍は4000名に及び死者とその倍近い負傷者
を出した
 しかも、彼らはそれを優勢なフランス砲兵と精鋭で鳴るジャノヴァ弩兵の一方的な
射撃の下でやってのけたのだった

 この戦闘は、スイス槍兵戦術がいかに破壊的な威力を秘めているかを証明した最初の
事例となった
 スイス槍兵は当時最強と謳われたフランス装甲槍騎兵の突撃を跳ね返し、多くの
騎兵を殺傷した
 実際、ザンクト・ヤーコプのスイス槍兵の多くは白兵戦ではなく砲撃によって死んだ
のである

 この戦闘の反省から、スイス槍兵隊は弩または手銃を備えた散兵と軽砲、
可能ならば騎兵を伴うようになるが、主力兵科は常に槍兵で構成されていた

 スイス槍兵戦術は、スイス連邦がブルゴーニュ戦争に巻き込まれた時、その軍事的名声
を確立した
 隊列を緊密に維持したまま砲火の下を平然と突撃する槍兵の密集陣に、騎兵戦力と
火力に優れたブルゴーニュ軍をグランソンとミュルタンで打ち破り、ついに1477年、
ナンシーでフランス最大の封建領主ヴァロア家の当主シャルル豪胆公を殺害して
ヨーロッパの政治地図を根本から塗り変えることになる

 この時期のフランスとブルゴーニュの軍事改革は、砲だけでなく手銃にもかなりの重点
を置いていた
 ブルゴーニュの歩兵は、対抗するフランスの歩兵と同じく、槍兵、弩兵、手銃兵で
構成されていた
 部隊の火器の保有率を高める努力がなされていたのは明らかだった
 しかし、この新型で強力である筈の軍隊が槍を持った軽装備のスイス兵に完全に
粉砕されると、各国は一転して槍兵への関心を強めることになった
 最も熱心だったのはフランスで、財政を傾けてスイス槍兵を独占しようとした
 将来多大な恩恵をもたらす筈だったフランスの努力は放棄された


そんだけ
104バキャベッリ:01/08/29 21:29 ID:bOtu.QG.
 スイス鎗兵大活躍!、けどそうすると例の命題が気になりますね。騎士貴族階級で無く、
農民や奴隷階級でも無く、中産階級の社会的力が集団戦の団結力を支えると言う。
 一般的には農業に向かず当時ろくな産業が無かったから、一種の輸出産業として傭兵が
発展したと言われていますが、当時のスイスの社会状況はどんなだったのでしょう?。
105報告です。:01/08/29 22:18 ID:33HJ/27w
英語とウェールズ語表記のサイトです。

 エドワードT世がウェールズに造った城について詳しく書かれています。
 エドワードT世は、長弓の大量投入を始めたかたであり、
 築城にも多大な関心をよせ、ウェールズに城塞網を作りました。
 そこで、こちらにでてきた話とも多少は関連があるかと思い、載せる次第です。

http://www.castlewales.com/home.html
106槍兵として死ぬこと:01/08/29 22:21 ID:CE6A0JcM
 スイス槍兵の成功はスイスの社会の特異な条件が大きな原因となっていた
 槍兵として戦闘に加わるには特別な心理状態が必要不可欠だった
 個人の安全はひとえに隊列の堅固さにかかっていた
 スイス人が一方的な攻撃を受けても簡単に隊列を崩さなかったことは、
スイス人の危険に対する感覚が個人的なものではなく、集団的なものとして発達している
ことを示唆している
 スイス槍兵の隊列は、その完全性を失うことなしに損耗に耐えなければならなかった
 当時、戦場におけるスイス人の特殊性を際立たせていたものは、スイス人が
個人としての安全を考慮することなく首尾一貫して集団として行動をとることを
可能にした「異常な」心理状態だった
 15世紀には軍事訓練が事実上生活の一部となっており、槍の訓練は思春期前の少年
から熟年層まで課せられる必須の教練となっていた

 スイス人は、都市市民出身者の横列と地方出身者の横列を交互に並ばせていた
 市民の横列では兵士はギルド毎に集められ、地方出身者の横列は村落毎に集められた
 これは、家族を意味することもあった
 横列の指揮官は選挙で選ばれ、2〜4列の横列を指揮する中隊長級の指揮官は
 市会が任命した

 スイス人にはまた、自分の村や市、州に対する愛着とともに、貴族、特に
ハプスブルク家に対する消えることのない憎悪と軽蔑を抱いていおり、これも
スイス槍兵の異常性の一因となっていた

 軍隊の道徳的秩序はその軍隊の属する社会の秩序を反映している
 それはスイス槍兵も例外ではなかった
 しかし、当時の中世ヨーロッパの軍隊と違っていたところは、その基調となる
秩序が、中世ヨーロッパの封建社会の秩序ではなく、原始的で、比較的民主的で、
小規模で、農業的な社会の秩序だった

 部隊の物理的完全性は、捕虜をとったり略奪にかまけたり負傷者の世話をするような
ことで損なわれてはならなかった
 略奪は、攻撃される危険性がないと保証されて指揮官が許可するまでは禁止された
 略奪品は略奪した個人ではなく隊列の全員に平等に分配された
 身代金でさえ、地域社会のものとして処理された
 このことは、中世ヨーロッパの戦争の一般的なパターンと対照的に、スイス槍兵の
密集陣と相対した兵士は他のどんな敵と戦う時よりも殺される確率が高かったことを
意味していた
 これは、中世ヨーロッパの人々がスイス人に恐怖と畏敬の念を抱かせる原因となり、
同時にスイス人の関与した戦闘が常に高い死傷者数を生み出した原因となった


そんだけ
107要塞王国:01/08/29 23:20 ID:lUt4LlVE
 15世紀末期、大砲はもう一つの戦場で決定的な役割を演じることになる
 カスティリャ軍は、数世紀にわたる紛争に決着をつけるべく、イスラム教徒の
グラナダ王国に対して最終的な戦争を挑んだ
 そして、この戦争は「大砲による征服」となった

 13世紀になって、キリスト教徒はコルドバ、ムラカ、セビリャを手中にしたが、
そこから先はキリスト教徒の進軍は行き詰まった
 13世紀中期、グラナダ王国は半島唯一のイスラム教国家となっていた
 イスラム教徒は改宗することもキリスト教徒の圧力に押されてひたすら南へと
追い立てられることも認めず、この国家に結集した
 結果、この国はそれまで半島全域を支配していたムスリムのエネルギーが
圧縮することになる
 グラナダを支配したナルス朝は、マグリブ、カイロ、新興のオスマン・トルコと
良好な外交関係を樹立し、国内外の資源を動員してスペイン南東海岸地域の起伏に富む
地形に要塞地帯を建設した

 しかし、アラゴンとカスティリャの婚姻同盟がこの要塞国家を破壊することになる


そんだけ
108最後のレコンキスタ:01/08/29 23:22 ID:lUt4LlVE
 スペインでの大砲の最初の砲撃は、イスラム教徒ではなくキリスト教徒に向けて
行われた
 1470年代、ポルトガルの大規模な侵入により生起した内乱で大砲が使用されて
いたが、ほとんど効果をあげられなかった
 しかし、グラナダで予定された戦争では、砲兵隊の充実に多大な努力が払われた
 カスティリャ軍は、イスラム教徒との決戦に備えて2万程度から5万に増強されたが、
砲兵隊の増強はその比ではなかった
 1477年、カスティリャ軍にはマエストロと呼ばれる熟練した砲兵指揮官は
4名しかいなかったが、1485年には91名に増加していた

 北ヨーロッパと違い、スペインでの戦争は文化的、宗教的に深刻に異なる陣営同士で
戦われた
 このことは、キリスト教徒の侵攻に対し、イスラム教徒は手に入れられる限りの
資源を総動員して抵抗することを意味する
 敗北はすなわち地域社会、文化、宗教が抹殺されることなのだった

 カスティリャの征服行で、攻城砲の放列を見て無血降伏した例は皆無ではなかったが、
抵抗は長く激しかった
 グラナダ王国は住民と食糧補給を守るために密度の高い要塞地帯を建設し、そのための
努力を精力的に実行していた
 ただ一つナルス朝の指導者たちが予見できなかったことは、火薬兵器が彼らの
周到な防衛戦略を戦術的に破壊してしまうことだった


そんだけ
109名無し三等兵:01/08/30 01:50 ID:Fh.5RWUY
最近佐藤憲一の『双頭の鷲』を読んだのだが、
そんだけ氏のおかげでモードアングレの雰囲気がよく分かって楽しく読めた。
(主人公はデュ・ゲクランなのです)
多謝。
110バキャベッリ:01/08/30 01:55 ID:r1v22bLI
 にゃるほど!スイス鎗兵の編成、指揮系統、特に現場の指揮官の選出って、古代ローマの
百人隊にくりそ。しかしそれだけで銃火器にもかなり対抗出来てしまうとは……。
111名無し三等兵:01/08/30 13:47 ID:2yG4EeyM
小火器は、それまでの弩や合成弓に比べると扱いづらく、射程が長いとも言えず
補給や整備も大変なわけですが、なぜ弩や合成弓を駆逐できたのでしょう?
112小火器への道:01/08/30 19:40 ID:YiL/micU
>111
 イングランドの長弓射手のような弓兵は、数を揃えるためには恐ろしく
労力がかかった
 弩や銃が数週間程度で学ぶことができ、戦場で必要とされる練度に達する
ために必要な訓練量も少なかった
 戦場で働ける弓兵を育てるためには、子供の頃から訓練しなければならず、
しかも不断の修練を必要としていた
 このことが、イングランドの長弓射手が戦場であれ程猛威を振るったにも関わらず、
長弓がヨーロッパ全体に普及しなかった理由だった

 未経験の人間をいかに大量かつ短期間で兵士に仕上げることが出来るかという点で、
弩は銃に劣ってはいなかった
 銃のかわりに同数の弩があれば、恐らく戦場で同じだけの仕事をしたと思われる
 初期の銃は弩の一種と見なされており、弩と同じように使用されていた
 ただし、銃は弩に比べて射手同士の間隔を狭くすることができ、それだけ高い密度の
弾幕を構成することが可能だった
 このため銃兵の部隊の必要とする地積は、同数の弩兵の部隊が必要とする地積よりも
小さく、それだけ部隊を緊密にまとめることができ、戦場における戦力集中が容易だった
 これは、当時の投射兵器の有効射程が50〜100メートル程度であることを考えると
決して軽視できない利点だった

 弩は当時の銃に比べて構造が単純で生産コストが低いわけではなかった
 弓には靱性に富む鉄板が必要だったし、人力では引けなくなった弦を引くための
精巧な装置も必要だった
 要求される工作精度は銃とそれ程変わらなかった
 銃は、鉄の単一の板から鍛造することができ、鉄のようなありふれた材料と、
鍛接のような通常レベルの技術しか必要としなかったため、出来上がった銃も
弩と比べてもそれ程高価ではなかった
 また、矢は専門の職人の手によらなければならなかったが、鋳造製の鉛の弾丸は
前線の兵士が単純な道具を使って簡単に作ることが出来た


そんだけ
113捕虜は作るな:01/08/30 20:40 ID:eHT7NP1o
 キリスト教徒の作戦計画は砲兵を中核としたものだった
 1485年、カスティリャ軍の出兵の際、砲兵隊のためだけに1500の車両を
必要としていた
 キリスト教徒軍はフランス式の遠征スタイルを踏襲し、外縁部の要塞を制圧しながら
ロンダに向けて進軍した
 ロンダの城塞は難攻不落と考えられており、北アフリカの部隊が駐留していた
 キリスト教徒軍はロンダに空前の砲撃を浴びせた
 射石砲が城壁を砕き、それを修理しようとした者は軽砲に打ち倒された
 やがて焼夷弾が市の中心部に大火災を引き起こし、さらに水の補給が絶たれたこと
によってロンダは僅か2週間で降伏した

 1487年、マラガの攻囲戦でキリスト教徒の大砲は更に目覚ましい働きをした
 グラナダ軍はもとから堅固だったこの町に更に大砲を増強して一層強化していた
 マラガを巡る戦闘は、まず砲の射撃陣地となる場所を確保するための白兵戦で始まった
 「敵を捕虜にしようと試みる者が一人もいなかった」ため、この前哨戦は凄惨な
鏖殺戦で有名になった
 キリスト教徒軍は足場を確保すると、攻城用の砦を建設して砲座を据え、
その後は短射程の固定砲同士の決戦が始まった
 イスラム教徒は砲術でキリスト教徒に劣らぬことを証明した
 量で勝るキリスト教徒軍の砲兵は、マラガの要塞砲を撃滅することができす、
両軍に夥しい死傷者が出た
 しかし、より深刻な問題が明らかとなりつつあった
 砲兵の補給が底をつきはじめたのだった


そんだけ
 より多くの重砲と、特に火薬が要求された
 バレンシア、バルセロナ、シチリア、はてはポルトガルまで要請が出され、
それらの地から送られた補給品がキリスト教徒軍の宿営地に集積された
 艦隊の艦砲が撤去され、攻城砲の放列に加わった
 廃墟となって久しいアルジェシラスの町の古戦場から、1343年にアルフォンソ1世
がこの町を征服したときに打ち出されて地面に転がっていた投石機用の石弾が回収された

 これ程力を尽くしてもなおマラガは降伏せず、イスラム教徒は死に物狂いに
なりつつあった
 市内の配給は底をつき、市民の飼っているペットや野良犬、通りの鼠を常食する
ようになったが、士気は低下するどころか逆に狂気の淵に片足を突っ込みつつあった
 一方、万策尽きたキリスト教徒軍はついに宗教に頼りだした
 宿営地の売春婦が追放され、博打が禁止され、昼夜を分かたず全軍が一丸となって
礼拝や勤行にいそしむようになった
 しかし、こんなに努力したにもかかわらず疫病がキリスト教徒軍に蔓延し、
それはやがて市内にも拡がり、戦闘に一段と緊迫度を加えた

 最終的に決着をつけたのは、キリスト教徒軍の坑道作戦だった
 塔の一つの下まで掘り進めていた坑道の中で大量の火薬を爆発させたのだった
 爆発で生じた混乱の中でキリスト教徒軍は塔を占領した
 これがマラガの市民の心理的打撃となり、彼らはもう降伏すべきではないかと
考えるようになった
 市民は守備隊の反対を押し切ってキリスト教徒軍と交渉を行い、ついにマラガは
開城した
 不当なほど莫大な身代金を支払えなかった大半の市民が奴隷にされた


そんだけ
115フランスの攻城砲:01/08/31 01:09 ID:EMr6rv.c
 15世紀における火器の戦術的使用は、銃の野戦での用法を探すより、
攻城戦での利用に集中していた
 フス派は無視できない例外だったが、彼らでさえ小火器より中小口径砲に
力を注いだ
 フス派の編み出した車両要塞は模倣されたが、それは堅固な宿営地を作り出すための
手段に過ぎなかった
 車両要塞は、野戦で問題とされた火器を使用する際の困難、つまり再装填する間に
どうやって敵の攻撃から防護手段を提供するかという問題を解決したが、この方法が
うまくいったのは敵が砲をろくに持っていない時に限られた

 最も広範囲にわたる砲術の発展はフランスで起こった
 イングランドに占領された土地を奪い返したいというフランス王の願望が
火器の運命を決めてしまった
 ブルゴーニュ戦争の頃には、城壁を一撃で破壊するための超大口径砲は、機動性に優れ、
発射速度の大きい攻城砲の放列に完全に置き換えられた
 これらの砲は以前の超大口径砲より射程も威力は劣ったが、陣地変換により迅速な
火力集中が可能だったため、組み合わされた時の効果はそれを補って余りあった

 このスタイルがうまくいくためには、並はずれた管理能力、兵站や輸送の細々とした
計画、特に実際の攻城戦の間、砲を適切な射撃位置に据えることが必要だった
 距離は弩兵にとって敵だったが、攻城砲でも同様だった
 空気抵抗の影響によって、弾丸に威力を与えるために必要な速度が奪われてしまうし、
精度が落ちてしまうからだった

 城壁を破るには、一連の砲弾を標的に性格に命中させることが必要だった
 一つ一つの砲弾が城壁の石組構造を少しずつ削っていき、最終的に崩壊させるのである
 巨砲が一撃で城壁を砕こうとした従来の一般的なやり方と違って、フランス人は
整然とした手順に頼った
 攻撃している城壁に守備隊が近づくのを防ぎ、修理させないことが一層重要となり、
そのために城壁破壊に任ずる砲を軽砲で支援した
 フランス人の編み出した攻城戦のスタイルは、火器の技術的進化を決めることになった


そんだけ
116火薬の世紀:01/08/31 01:10 ID:EMr6rv.c
 最も大きな技術的変化が起こったのは、百年戦争が終わった時期だった
 高品質の鋳造青銅製砲身、鉄製の砲弾、軽量で頑丈な砲車、精度を増した火薬粒の
分級法といったもの全てがブルゴーニュ戦争で本領を発揮した
 政治的駆け引きの応酬のためにブルゴーニュはフランス軍との直接衝突ではなく、
スイス人と衝突する羽目になった
 結果、ブルゴーニュは敗北したが、これは砲が槍に敗北したことを意味した
 火器でのブルゴーニュの優位は疑いなかったが、ブルゴーニュが3度立て続けに
壊滅的な敗北を喫したという事実は、当時の軍事関係者に、火器は攻城戦にこそ
向いている兵器であり、野戦に放り込むべきではないと確信させるにいたった

 ブルゴーニュの凋落の結果、フランスはヨーロッパ随一の火器技術の大家となった
 しかし、ブルゴーニュ領ネーデルランドがハプスブルク家のものとなり、フランスに
匹敵し、いくつかの面では凌駕していた技術的才能と兵器製造能力がハプスブルク家の
ものとなった
 グラナダ戦争でスペインの砲兵隊は、技術専門家の来援と軍需品の無償贈与の形で
フランスとハプスブルクの帝国から巨大な便益を得た
 キリスト教徒の火器技術がイスラム教徒の火器技術を圧倒していた訳ではなかったが、
幾つかの点で僅かな技術的優位が認められた
 南東スペインの起伏に富む山道を通って輸送できる程に機動性が高く、守備隊が
対応できない速度で城壁を破壊できる強力な大砲は、イベリア半島に置いて最後の牙城を
守り抜こうと固く決意していたイスラム教徒から最後の勝利をもぎ取った

 15世紀中頃、アルケブスが登場した
 後に戦場で猛威を振るうことになるこの兵器はしかし、15世紀が終わるまでほとんど
顧みられなかった
 アルケブスは弩の一種と捉えられ、弩と同じ役目が与えられた
 当時の指揮官たちはアルケブスを純粋に攻城戦の防御兵器ととらえ、アルケブスは
その役割を十分に果たした
 野戦でわざわざアルケブスを使う必要はなかった
 誰も戦術的実験が可能になるほどの数のアルケブスを揃えられなかったし、
揃えようともしなかった
 そんなものより強力な兵器が彼らの目の前に転がっていた
 槍は、戦術的な可能性が見えたとき、アルケブスより強い印象を与えた
 一度、槍が指揮官たちの想像力を捉えると、誰も小火器の開発と生産を進めようとは
しなくなった
 15世紀において、恐るべき威力をもつ武装兵力を揃えようとした時、重視すべきは
砲、槍、騎兵だった


そんだけ
117串刺し:01/09/01 23:35 ID:kGr/xSTk
 当時の小火器は非常に短い距離でしか効果を発揮しなかったため、離れた敵に損害を
与え、敵の隊列を乱してそれ以上の作戦行動を不可能にする手段としては、
常に大砲のほうが好まれた
 大砲もそもそも不正確だったが、それでもその欠点を最小限にとどめ、敵の横隊に
対する効果を最大にするような要領で配置することが出来た
 重く丸い砲弾は、小火器の弾丸ほど簡単に空気抵抗に反応しなかった
 例え距離があっても、丸い塊の砲弾は地面に跳弾し、敵部隊の密集した隊列を貫通する
のに十分な運動エネルギーを持っていた
 当時の一般的な野砲の口径は3〜5インチで、初速はそれ程変わらなかったが、
数回命中したり跳ね返ったりして飛程の終端の1000メートル付近まで致命的な威力を
保つと期待することができた

 密集した部隊に直面した砲手は、可能な限り隊列の対角線に沿って射撃しようとした
 そうすることにより、大砲はもたらしうる最大の損害を与えることが出来た
 現代の砲兵と違い、炸薬の入っていない塊の砲弾を使う当時の砲兵は、
砲弾を高い弾道で打ち上げたりはしなかった
 砲弾が急角度で地面に落下してきて、何の損害も与えずに地面にめり込んでしまう
からだった

 砲手は弾道の大部分、特に重要な最初と2番目の跳ね返りを人間の身長よりも低く
おさえようとした
 そうすれば、砲弾の通路に存在する者は全て殺されるか重傷を負った
 殺戮のトンネルの深さは主に砲弾の質量によって変わった

 砲の不正確さは戦場での有効性に殆ど影響を与えなかった
 弾丸が水平方向にそれたとしても、隊列の中の狙った箇所とは違う場所に殺戮の
トンネルができるだけだったからだ


そんだけ
118鉄球:01/09/01 23:37 ID:kGr/xSTk
 攻城戦では、事態はある程度ゆっくりと展開したため、発射速度が重視されることは
滅多になかった
 19世紀になってさえ、攻城砲は1時間に12発以上撃つことは要求されなかった
 17世紀における平均的な攻城砲の発射速度である1時間に9発とそれ程変わらない
 むしろ、攻城砲の砲手は砲弾の撃ちすぎによる砲身の加熱に気を配っていた
 17世紀の攻城砲は、40発射撃する毎に1時間は砲撃を中止して砲身を冷却していた
 ヴォーバンは、砲1門につき1日100発を超えないようにすべきだと提案していた
 18世紀にはもっと控えめになり、オーストリアでは1日60〜80発とされていた
 青銅製砲も鉄製砲も射撃による砲身の摩耗と損耗は免れなかった
 前者は600発、後者は1000発で退役した
 どれ程命知らずの砲手でさえ、可能な限り早い速度で射撃を続けることは出来なかった

 16世紀の攻城術は15世紀の火器の改良にようやく追いつき、少しずつ優位を
獲得するプロセスを獲得した
 ヴォーバンは強化された城壁を砲撃によって破壊する技術を体系化した
 まず城壁の破壊する区域を決め、そこに1本の水平線に沿って一連の穴を開ける
 目標とする水平線は十分高い場所を選定し、砲撃によって崩れ落ちる砕石や建材が
攻城砲を狙って待機している守備隊の突撃部隊の出撃を阻む必要があった
 全ての場所に穴を開け終わると、砲撃を水平線の両端から上へ移し、上方へ短い間隔で
並ぶ一連の穴を開けて城壁のその部分を周囲の構造から切り離す
 この結果、内部にある砕石と土が石積みを楚世側に押し出させて崩れ落ち、
突破口を開いた


そんだけ
119土を掘るということ:01/09/01 23:38 ID:kGr/xSTk
 ヴォーバンは、攻城砲の射撃位置を城壁から250〜500メートルと考えていた
 また、「400メートル以上でも300メートル以下でもいけない」とも言った
 しかし、実際の攻城戦では、城壁の破壊は攻城砲が城壁から200〜250メートル
の位置に展開して行われていた
 理由は簡単だった
 ヴォーバンの推奨する距離では、城壁を破るのに必要な砲弾はどんなに楽観的に
見積もっても5000〜6000発は必要だったからだ

 攻城砲を使っての攻城戦は、大抵の場合、防御側の砲火が攻城砲の放列を粉砕できる
危険地帯の中で行われた
 この結果、近世初期の攻城技術は土工工事の一種だった
 攻撃側は一連のジグザグの塹壕を掘って少しずつ接近しながら、大砲を据えるのに
適した場所を探した
 工事の大部分は作業員を隠し、意図を秘匿するために夜間に行われた
 塹壕の全ての場所を、柵や土を詰めた籠、土嚢を使って防御砲火から防護する必要が
あった
 城壁までの距離が300メートルを切ると、作業員と砲兵は旋条マスケットの脅威に
晒され始めた
 防御側の狙撃兵は、旋条マスケットがその真価を発揮した数少ない活動分野の
一つだった
 これらの作業を、彼らは全て人力で行ったのだ
 人力による継続的な土工作業量は、どれ程好条件でも1時間あたり0.3〜0.4立米
に過ぎないのだ

 炸薬を充填していない砲弾が城壁に僅かな突破口を開くために夥しい量を必要としていたということは、敵にゆっくりと近づくために計画された塹壕掘りに何故それ程多くの
努力が傾けられたかを明らかにする
 城壁に1メートル接近するたびに、最終的に突破に必要な砲弾と火薬は大幅に
減ったのだ


そんだけ
120壁を壊すということ:01/09/01 23:38 ID:kGr/xSTk
 どのような攻城戦でも、防御陣地を直接射撃するための砲座の建設が必要になった
 これらの砲は城壁を破るための主放列とは違い、防御側の放列に直接砲火を向け、
前進する塹壕部隊への脅威を阻止しようとした
 攻撃側は主に二つの任務に従事した
 砲撃によって防御側の活動を抑え、城壁を破ろうと務める一方で、同時に攻撃側の
放列の位置を少しでも近づけるために塹壕を掘り進めることである
 前進陣地が確保されたならば、指揮官は城壁破壊までの時程をある程度計算できる
ようになった
 4門の24ポンド攻城砲が城壁から400メートルの位置に展開し、ヴォーバンの
薦める5000〜6000発の砲弾を1日100発の速度で射撃すると仮定した場合、
12万〜14万4000ポンドの砲弾と6万〜7万2千ポンドの火薬、そして
12〜15日の砲撃期間が必要となった

 この間に、第2第3の塹壕と前進放列が準備され、突破口への突撃準備が整えられた
 16〜17世紀の攻城戦は、以前の攻城戦が40〜60日かかったことを考えれば
それ程長くはなかった
 しかし、攻城戦のために投じられた労力そのものの量は火薬兵器の成熟に伴って
かなり増加することになった


そんだけ
121講習生:01/09/02 00:54 ID:ayyUBSm.
そんだけ氏の講義スレと化してるな。
いや、勉強になるからいいんだけど。
未来兵器無しの某研氏もここに来て欲しいのは俺だけか?
122最前席の学生:01/09/02 05:49 ID:z.Vu75kI
>121
前期の講義がそれで台無しになったのを知らないのか?
君は退出し給え。
123名無し三等兵:01/09/02 18:26 ID:SruAlXjc
 彼の空想癖はそれ成りに面白いけれど、頑固で自説を曲げないからね。それ以上に一方的で、
結論の出ない妄想の連続が非難を浴びている様だけれど。

やはり資料を基に戦史の事実を解明すると言う行為は想像力を元に近未来戦を考察するタイプの彼には困難であろうか?
124滑腔火器の時代:01/09/02 19:31 ID:lNoBY5ZQ
 14世紀から19世紀初期にかけて、火器と火薬に多くの技術的変化が起こった
 しかし、その大部分は生産コストを下げ、生産量を増し、信頼性を高めるために
費やされた
 弾道学的性能にはささいな変化を生んだだけだった
 16世紀初期から19世紀中期頃までの砲術には一貫性が存在した
 銃隊の戦術、野戦砲の運用、攻城砲の運用は数世代を通じて学んだ慣行のパターンを
代表するものであった

 この時期の火器の技術の進歩は、それまでの道具の性能を飛躍的に引き上げたり、
新しい便利な道具を生み出さなかった
 平均的な兵士が自分の火器を使いこなすために必要な技能のレベルはかなり一定
していたし、平均的な技能を持った兵士が自分の火器を使って達成すると期待できる
成果もほぼ一定していた
 火器自体の技術的改良は、火器が押しつける問題と限界に対して即効性のある
解決を提供しなかった
 指揮官たちは、部隊のために新しい作戦行動を考案することに大いに創意を発揮したが、
火器の限界を乗り越えるための満足のいく方法はほとんど見出さなかった
 15世紀は火器にとって実験の時代だった
 16世紀中期頃に達すると、火器の設計は一種の「閉塞」または「成熟」状態に達し、
これが以後約300年続くようになる


そんだけ
125system:01/09/02 22:34 ID:eyGG.3gw
おっと、うかつな事にこのスレッドを見逃していました。昔の戦争の事はよく知らないので
大変勉強になります。そのままではないにせよ、ある程度現代に反映できることも多い
ですね。
126二番目の壁:01/09/02 23:39 ID:5pJFZN8I
 1494年から始まったイタリア戦争において、フランス軍の攻城砲は装備の整った
攻城軍に空前の優位を与えた
 しかし、攻城砲の生み出した優位は常の如く短命だった
 たいして費用のかからない土累を建設することによって既存の城壁を改修できることが
すぐに明らかになった
 こうした安価な改修によって城壁は事実上二重壁になり、例え砲弾がそこを破っても
攻撃部隊がそこから突撃するのは中世の城壁に比べてはるかに困難になった
 支柱を構築することなく、薄い土層を積み重ねて壁を支える内部の土累壁
「レティラータ」は、1500年にピサで試みられ、フランス・フィレンツェ連合軍の
攻撃を跳ね返すのに成功した
 1509年、パドヴァでヴェネチアの防衛軍が同様の手段を試み、ヴェネチアの独立を
保つことに成功した
 同様の方法は16世紀を通じて他の多くの地方で用いられた
 フランスの砲兵は決して無敵ではなかった


そんだけ
127算数の問題:01/09/02 23:39 ID:5pJFZN8I
 ピサの人たちの試みは即席のものだったが、決してその場の思いつきではなかった
 フランスの攻城砲がノルマンディーとギエンヌで軍事的勝利を積み重ねていた頃、
既に要塞設計のための多くの技術的革新が生まれ始めていた

 1485年、イタリアの建築家レオン・バッティスタ・アルベルティは、その著作の
中で、城壁を低めにし、傾斜をつけて砲撃で破壊されやすい垂直で平らな面を
極力小さくし、突角部を突き出させて側射によって壁面を防護することが必要だと
提唱していた

 アルベルティのアイデアが完全に実現された要塞は一般的に「イタリア式築城術」と
呼ばれている
 「イタリア式築城術」の要塞が初めて砲火の洗礼を受けた時期は明らかではないが、
1521年以降、短期間で勝利を収める攻城戦は滅多になかった
 多角形の稜堡は、傾斜した壁から突き出して遮蔽及び砲座として役立つように設計
されたもので、1450年頃から少しずつ姿を現しはじめ、1540年頃には完全に実現
された
 稜堡のシステムは、壕、ラヴランと呼ばれる独立した砦、人工の傾斜面等の増設部を
伴い、攻撃側の砲を重要な中心部に近づけさせないようにしていた
 この方法は、個々の砲弾の弾着範囲を大きくすることによって、砲撃の効力を劇的に
減退させた
 効果があるのは狭い標的面積に対する集中砲撃だけだった
 滑腔砲特有の不正確さのせいで、距離がその威力に対する十分な防御となった

 幾何学的な築城の理論は教養のある上級階級の人々の関心事となり、数学に基づく
設計の練習問題となるにつれて、近世初期における要塞の建設関係の理論は
16世紀と17世紀を通じて途切れることなく洗練され発展することになる
 しかし、このような洗練が要塞全体の防御能力を著しく引き上げることはなかった


そんだけ
128名無し三等兵:01/09/02 23:48 ID:MEjakuEU
>125
「そんだけ」氏をはじめ皆がsageでマターリとやっているというのに(藁
129270 ◆AigTgxYE :01/09/03 01:36 ID:v7vRyHSs
すべて保存して丁寧に読了したいと思います。十数年ぶりに戦史教官に指導されているようです
130名無し三等兵:01/09/03 01:47 ID:OkUkiwkA
この辺の戦史について述べられている書籍って探しても
なかなか手に入りづらいような感がします。
諸氏の興味あるレスに期待してます。
131名無し三等兵:01/09/03 05:14 ID:UR6aCaps
馬上槍試合をテーマにした映画が米でヒットしとるそうで日本でも10月に
封切られるそうです。最も劇中で登場人物がクイーンとか歌いだす映画な
様で余り考証は期待できない様です(w
132大躍進:01/09/04 19:35 ID:uVVwu0Tk
 15世紀に大砲が発達した結果、ヨーロッパの戦争の古くからの、そして変わることの
なかった特色、つまり定位的防御によって攻撃を長引かせることが成立しなくなった
 だが、火器が改良を経るにつれて、要塞の設計と建設は火器の進歩と釣り合いをとる
ように変化しはじめた
 完全に発展したイタリア式築城術は革命や躍進ではなかったが、現実には一つの
反応過程の頂点であり、成功することによって攻城戦に関して以前の状態が復活した
 中世で真実であったことが再び真実となり、攻撃側の砲が優位を保った短い期間の後で、
防衛側は砲に奪われていた特権、百年戦争後期まで慣例となっていた特権を再び主張し、
実際に奪い返した
 攻城戦に費やされる日数は再び中世の平均値であった3ヶ月程度へと復した

 イタリア式築城術は成功を収め、地球上でヨーロッパ人が足跡を残した多くの場所に
普及した
 しかしそれがもたらしたものは、古い釣り合いを回復することであって、
新しい革命を導入することではなかった

 しかし、この復権には限界があった
 海戦は艦載砲の発達によって根本的に変化した
 大砲を舷側に装備したため「縦陣」が採用されるようになった
 何らかの理由で新しい要塞が建設されなかった地域では、16世紀の改良火薬を
支配することができた幾つかの強国が空前の覇権を達成した
 いわゆる、ムガール、オスマン・トルコ、ロシアの諸帝国といった火薬帝国である
 これらのケースで火薬は間違いなく革命的な動因となった
 しかし、ヨーロッパの陸戦においては、大砲に対する反応は基本的に保守的なもので
あった


そんだけ
133暗器:01/09/04 21:18 ID:5XLypc2M
 16世紀中頃まで、装甲槍騎兵は依然として戦場の一角を占め続けていた
 イタリアにおけるフランスとスペインの一連の戦役の幾つかで、中世さながらの
伝統的な戦術によって騎兵が戦闘の帰趨を決したことは誰にも否定できなかった
 しかし、16世紀後半には装甲槍騎兵は消滅してしまった
 それは、ゆっくりとではなく、突如として起こった

 消滅の原因は、アルケブスやマスケットが普及したことではなかった
 騎兵はそれらの小火器が充満する戦場で、自らが強力な兵科であることを証明していた
 14世紀以来の歩兵戦術の変換は主として装甲槍騎兵が戦場で占めていた戦術上の
優位を引きずり下ろす役目を果たした
 火器はその動きに貢献したが、それは全体の変化のほんの一部分に過ぎなかった
 1550年の時点で、火器は装甲槍騎兵を不要の存在とする程に有効だとは立証されて
いなかった

 しかし、一つの火器つまりホイールロック・ピストルは、装甲槍騎兵を戦場から
追い払うのに重要な役割を演じた
 ピストル騎兵は、殺傷力で伝統的な装甲槍騎兵に勝る一方、機動力で互角である
ことが出来た
 伝統的な装甲槍騎兵は、歩兵に対しては幾つかの戦術的なスタンスをとることができ、
それは野戦で騎兵が以前占めていた優位の幾つかの面をなお保持することに役立った
 しかし、ピストル騎兵と対峙した時、装甲槍騎兵は無視できない差し迫った致命的な
脅威に直面した
 自らのスタイルを貫き通すことは死を意味した

 ホイールロックのシステムは高い技術を要求したが、ホイールロックそのものは
16世紀半ばにはむしろ古い発明だった
 16世紀初期には既にその機構と制作法に関する概念は確立していた
 しかし、従来のより簡単な点火方式と異なり、ホイールロックは労働集約的、
技術集約的だった
 特別な修練を積んだ熟練した技術者と特別な設備なしには作れなかった
 製造者に対するこの厳しい要求が、この新しい銃が急速に普及することを妨げる
大きな要因となった

 ホイールロックはまた、一つの偏見に直面した
 つまり、くすぶる火縄を必要としない銃は、簡単に隠して持ち運びできるという訳で
あった
 1517年、パプスブルク家はその領土において「いつでも発射できる自動点火式銃」
の生産と所有を禁止し、同様な法的禁止はイタリアでも実施された
 実際、この偏見は至極真っ当なものであった
 ホイールロック式の銃、特にピストルは追い剥ぎや強盗の間に広く行き渡っていた
のである


そんだけ
134ガン・マン:01/09/04 21:20 ID:5XLypc2M
 生産が増えるにつれてこの出自の呪われた新兵器の値段は下がっていった
 16世紀後半には、その精巧な機構を考えれば驚くほど安く売られていた
 1590年代には、マスケットと同等またはそれより安く手に入るようになっていた

 手柄を立てたいピストル兵にとって、ピストルが1挺だけでは役に立たなかった
 2挺か3挺持つのが普通であり、6挺持つ場合も珍しくなかった
 しかし、弾丸と火薬の値段を加えても、馬と鎧の値段に比べれば問題にはならなかった
 普通の歩兵でも購入できなくはなかっただろうが、そうしたところで火縄点火式の銃
より整備に手間と費用がかかり、それに見合うものは何もなかった
 火縄式点火で不都合なことはほとんどなかったため、それを捨てる理由もほとんど
なかった
 一方、騎兵にとって燃えている火縄がないことは重要な利点だった
 ホイールロック式のアルケブスやマスケットはあるにはあったが、ホイールロックを
備えた小火器の中で群を抜いて広く用いられたのはピストルで、主に騎兵に供給された
 ホイールロック・ピストル一式の値段は、騎兵が購入する必要のある他の装備の値段に
比べれば僅かであったし、装甲槍騎兵のように大柄で頑健でそれ故高価な馬を必要と
しなかった(従ってより安い馬を使うことが出来た)ため、ピストルを購入することは
十分元の取れる買い物だった

 ホイールロック・ピストルは小さいながら無視できない利益を提供した
 ピストル騎兵は3挺、時には6挺持つことが出来た
 普通。ピストル騎兵はゆっくりとしたトロットで進みながら、標的の至近距離まで
接近することが出来た
 アルケブス兵も馬に乗ることができたし、時にはそうしたが、ピストル騎兵はそれと
違って射撃の直前に停止することも馬から降りることも鐙を踏ん張って立つことも
必要なかった
 終始動きながら射撃することが出来た
 そればかりでなく、騎乗したアルケブス兵が一発しか射てなかったのに対し、
ピストル騎兵は再装填するために引き下がるまでに、携行したピストルの数だけ
射撃することができた
 勿論動いている馬上から標的に命中させるのは容易ではなかったが、それでも
騎銃タイプのアルケブスを操るよりもずっと容易だった
 ピストルは手綱を操りながら片手で使うことが出来たからである


そんだけ
135バキャベッリ:01/09/04 21:33 ID:sE.HuRyo
 そう言えばホイールロックの発達無くして、戦艦の発達も無かったと聞いております。
腐食を防ぐために、或いは滑りを良くする為に油の塗られた、木とロープそして大量の火薬。
艦載砲を増やし大量の火縄を揃える事は、それだけロシアン・ルーレットに込められた弾丸を
増やす事となり、敵を攻撃する以前に自爆する危険を増やす訳ですから。
136半回転:01/09/05 02:14 ID:Y22x8gyQ
 勿論、ピストルの低い命中精度は大きな欠点だった
 フランスの軍事理論家フランソワ・ド・ヌーは、ピストルが有効なのは3歩以内、
約5メートル以内と述べた
 ピストル騎兵は自分の兵器の能力を最大限に利用する戦術を採った
 彼らは射撃する前に10メートル以内、可能ならば5メートル以内に接近しようとした
 それでも標的を外すことは有り得たが、命中すれば極めて致命的な損害を与えることが
出来た

 ホイールロック式の銃が戦場に大量に出回り始めたのは1540年代になってから
だった
 1543年、シュチュールワイゼンベルクがトルコ軍に降伏した時、戦利品の中に
ホイールロック式の銃が含まれていた
 1546年のシュマルカルデン戦争の際、ホイールロック・ピストルが皇帝軍騎兵の
標準装備となっていた
 フランスには、1544年にドイツ人部隊を通じて導入された
 このドイツ人部隊には1000名以上のピストル騎兵が含まれていた
 彼らは独特の黒い鎧にちなんで「黒騎兵」と呼ばれた

 1557年のサン=カンタンの戦においてフランス軍は皇帝軍のピストル騎兵と
騎乗アルケブス兵に包囲され、大敗北を喫した
 フランス王アンリ2世は、従来の装甲槍騎兵6000名を補完するために軽騎兵
3000名で軽騎兵連隊を編成していたが、この中にピストルを所持した騎兵は少数しか
含まれていなかった
 アンリ2世はこの敗北をピストル騎兵の不備だと考えた
 結果、1558年にはフランス軍の保有するピストル騎兵は8000を数えたが、
その一部はその後グラヴリンで皇帝軍の複合射撃によって壊滅した

 過去、戦場での騎兵の行動様式は、如何なる場合でも衝撃力により歩兵の隊列を
崩そうとすることだった
 16世紀後半、突撃戦術はアンリ4世のもとで再び流行した
 ただし、騎槍でなくピストルとサーベルによってだったが
1587年のクートラと1590年のイヴリーで、フランス軍はピストル騎兵による
突撃戦術を行い、伝統的な装甲槍騎兵とピストル騎兵を使っていたカトリック同盟軍と
戦ったが、ほとんど効果を上げられなかった
 その後、フランスはもう一度ピストル騎兵を効果的な突撃兵器とすることに努力した
 この努力は歪んだ形で一つの結論を見た


そんだけ
137槍が折れた:01/09/05 02:15 ID:Y22x8gyQ
 ピストル騎兵が歩兵の隊列に対してピストルを使用する場合、カラコールまたは
リマソンという精緻な戦術機動が用いられた
 ピストル騎兵の横列が射程距離内に進入し、左右どちらかに転回して歩兵の横列の中に
ピストルを射ち込み、その後後退して再装填するのだった
 カラコール戦術が大きな成功を収めたことは一度もなかった
 当時でさえ殆どの人が否定的な意見を述べた
 最も好意的な意見でさえ、「訓練には最適」だった
 敵の銃兵の目前5メートル以内まで突っ込み、そこで向きを変え、ピストルを射撃する
ことが出来る程度胸のある騎兵などまずいなかった
 そうでなくても、歩兵の持つ銃は騎兵のピストルより明らかに有利だった
 結果、ピストル騎兵は敵の横列にそれ程接近しないうちに、つまり自分の火器がその
威力を十分に発揮する前にピストルを発射して後退しなければならなかったのである

 ピストル騎兵が歩兵に対して全く無力であったことは事実だが、ピストル騎兵が
装甲槍騎兵を圧倒したことも無視できない事実だった
 ラ・ヌーはその著作の中で、ピストル騎兵1個大隊は同規模の装甲槍騎兵1個大隊を
打ち負かすだろうと述べた
 スペイン人とイタリア人はこの意見を疑いなく認めた
 フランス人は最後まで抵抗したが、それでも渋々ながら認めざるを得なかった
 ラ・ヌーはその理由をこう述べている
 「何故なら、ピストル騎兵は槍が届く前にピストルを射つとすぐに向きを変えるからだ
 双方が引き下がるまで延々と戦い続けるようなやり方はもうしないからだ」
 ピストルを捨て、剣を抜いて戦うスタイルはピストル騎兵の好みところではなかった

 装甲槍騎兵は、回避することも走って逃げることも突撃で打ち破ることも出来ない
兵士が戦場に出現した時、もはや生き延びることができなかった


そんだけ
 ピストルの引き起こしたもう一つの変化は、歩兵戦術に関わるものだった
 装甲槍騎兵の消滅とともに、かつて下馬騎兵が歩兵に与えていた防御における掩護も
また消滅してしまった
 もっと重要なことは、装甲槍騎兵の突撃という脅威もまた減ったことだった
 16世紀前半では、槍は全ての歩兵にとって最も重要な防御兵器だった
 装甲槍騎兵による攻撃の脅威が存在する限り、槍対銃の比率を比較的高く保つことが
必要だった
 ラ・ヌーは、700〜800の装甲槍騎兵は、1万8000のアルケブス兵を相手に
しても勝つと主張したが、もし歩兵のうち3分の1が槍兵だった場合、勝者は歩兵だろう
と述べた
 歩兵に対する脅威の性格が変化してくると、歩兵の隊列は槍に頼ることが少なくなり、
火器に一層依存することができるようになった
 銃対槍の比率が増大しはじめた
 この動きははじめは非公式なものだったが、やがて正規の編制でも変化が認められる
ようになった
 騎兵はより軽装になり、ピストルで武装することがスタンダードとなった
 もはや最も保守的な騎兵でも飛道具を忌諱できるような状況ではなかった
 そして、更に歩兵の火器への依存を加速させた

 この混乱に近い動きを引き起こしたのは小火器の改良によるものではなかった
 変化したのは技術ではなく状況だった
 確かに後にグスタフ・アドルフの騎兵は突撃戦術を限定的に復活させ、一見槍の減少に
歯止めをかけたように見えた
 しかし、いったん発生した変化はその動きを止めたわけではなかった
 ホイールロック・ピストルがスイッチを押してしまっていたのだ


そんだけ
139長弓と砲:01/09/05 21:37 ID:yj6LCaDs
 中世から近世にかけての軍事に関する最初の変化は14世紀に起こった
 それは、それまで攻城戦で重要な役割を演じていた歩兵が、野戦においても重要性を
増大させたことだった
 この変化は新しい技術の導入なしに起こった
 槍、弩、長弓、矛槍といった古い兵器が組織化され、効果的な方法で戦場に投入された
 常に歩兵は攻撃的な行動ができないという制約がつきまとっていたが、イングランドは
野戦における勝利のマニュアルをスコットランドで確立し、大陸でフランス相手に
実証した
 しかし、最も重要な点は、要塞の戦略的意義に何の変化もなかったことだった
 軍隊は野戦で勝利を勝ち取ることが出来たかもしれないが、なおも攻城戦を行う必要が
あり、攻城戦の正否こそが全ての戦争の戦略的状況を支配していた

 要塞の重要性が変わらなかったため、火薬の役割は攻城戦への寄与することだった
 高価な硝石という経済的制約から解き放たれると、火薬の潜在能力は投射兵器を劇的に
改善し、それによって戦争を変化させた
 15世紀前半に行われたイングランドの北仏侵攻でこの新技術を利用したが、
息を吹き返したフランスがそれを凌駕する攻城砲群を編成すると、イングランドは
同じ方法で大陸から叩き出された

 15世紀半ばの段階で、大砲は要塞の価値を著しく減じることになった
 要塞に頼って攻撃軍に時間と金を浪費させることは出来なくなっていた
野戦で攻撃軍に立ち向かうことが、以前より魅力的な選択になった
 結果、火器は野戦における装甲槍騎兵の重要性を明確にすることになった

 無論、大砲は野戦でもある程度の働きを示したが、やはり鈍重で不利な面は
否めなかった
 攻城戦では取るに足らないとされた幾つかの特徴が野戦における大砲の使用の妨げと
なった

 15世紀から16世紀初頭にかけて野戦はかつてないほど盛んになり、要塞に頼る
伝統的な戦略に固執した国、例えばグラナダ王国は絶望的な負け戦を戦うことになった


そんだけ
140槍と要塞:01/09/05 21:39 ID:yj6LCaDs
 15世紀後半、スイスは歩兵軍を新しく再生させた
 14世紀後半、フランドル諸都市の敗北により槍は姿を消したように思われた
 しかし、1422年にアルベドでスイス軍がミラノ騎兵に戦術的敗北を喫した後に
槍を大量に採用した時、それが間違っていたことが判明した
 1476年と1477年にブルゴーニュ軍を撃破してシャルル豪胆公を殺した
スイス槍兵は、ヨーロッパの政治史の進路を大きく変化させた
 この勝利は、槍という単純な武器を装備した歩兵の有用性を際立たせた
 フランスは、将来の戦争の際にスイス槍兵を雇用することを選択し、ハプスブルク家は
ドイツ傭兵(ランツクネヒト)の中にスイス槍兵を模倣した部隊を編成した
 槍はいかなる技術革新にも縁のないもので、戦場で槍を効果的に使用できるかどうかは
ひとえに徴募、訓練。規律にかかっており、その点でスイス槍兵はヨーロッパ列強陸軍の
規範となるものだった
 一度スイス人が槍を使って何が出来るかを証明すると、他の国はやむを得ず同様の
軍隊を編成することを試みるようになった
 大抵の場合、この試みは一定の分野、つまり防御戦術においてしかうまくいかなかった
が、それでもやめる訳にはいかなかった
 何故なら、槍はヨーロッパで最も進んだ火力を備えた軍隊を叩き潰していたのだ

 槍の普及と殆ど同時に、砲撃に耐える新しい要塞がイタリアの建築家の図面上に
現れはじめていた
 実際には、既に幾つかの都市は進歩的な建築家の助力なしに砲撃に耐えられる様々な
方法を試行錯誤していた
 火薬に関する技術的変化及び火器そのものに起こった技術的変化は、短期間ながら
攻城戦における大砲の優位を生み出すのに貢献したが、大砲の支配は始まったときと殆ど
同じぐらい突然に終わってしまった
 攻城戦に費やされる期間は過去の攻城戦とほぼ同じ長さに戻った
 攻城戦は再び優れた防衛戦略、敵を長期間拘束することの出来る戦略となった


そんだけ
141アルケブス:01/09/05 21:40 ID:yj6LCaDs
 攻城砲に関する技術的変化は、小火器の出現を可能にした
 これらの小火器は十分に安価となり、戦場でありふれた兵器になれるだけの威力を
持っていた
 15世紀にドイツの鉄砲鍛冶が発明したアルケブスは、17世紀末まで標準的な
軍用兵器となった
 アルケブスの後継者と目されるフリントロック・マスケットは、戦術的にはアルケブス
と全く等価だった
 このように長期間存続したことは、アルケブスが以前の銃より優れた革命的な新兵器
だったことを意味するものではなかった
 これらの銃は、もともと攻囲された市の城壁を守るために市民兵が好んで用いたので
あり、野戦に採用されるのはもっと遅く、野戦に採用されるのはもっと後になってからで
あり、しかもその運用は全く保守的な状況の下でなされたのだ

 1503年のチョリニョーラ以来、野戦での小火器戦術は攻城戦での小火器の用法を
そのまま用いていた
 アルケブス兵は自分を守ることが出来る野戦築城を、後に槍兵の防護を必要とした
 アルケブスは槍と同じく防御兵器として有効で、短距離で大きな損害を与えることが
できた
 しかし、命中精度が低いこと、発射速度が低いこと、殺傷距離が限られていることで、
能力に厳しい限界があった
 重い「スペイン式」マスケットは、射撃による致死距離をほんの少し延ばしただけで、
アルケブスに対して命中精度は変わらず、発射速度もやや劣った
 大抵の場合、大きい銃から得られる利点は余分な重さと扱いにくさのもたらす問題と
殆ど引き合わなかった
 17世紀になって小型軽量化されたマスケットは、「スペイン式」マスケットには
似ても似つかず、むしろアルケブスとほぼ同一だった


そんだけ
142ホイールロック・ピストル:01/09/05 21:41 ID:yj6LCaDs
 小火器を防護するため、隊列の内側に配置するという戦術的状況に限定されることなく
小火器の能力を利用するという課題に対する解答の一つとして、ホイールロック・ピストル
が登場した
 この比較的非力な兵器は、近距離での威力と滑腔火器につきものの命中精度の低さを
克服するために必要な機動性、つまり標的から数メートルしか離れていない場所から
ぶっ放す可能性を保証した
 比較的軽装備のピストル騎兵が装備するピストルは、騎槍に依存する伝統的な
装甲槍騎兵にとって致命的な脅威となった
 装甲槍騎兵は槍とアルケブスで構成された歩兵の防御能力に敗北していたものの、
ピストル騎兵の登場以前にはこれらの兵科の間には一種の平衡状態が存在していた
 装甲槍騎兵が戦場の一角に留まり続けているという事実が歩兵戦術の進化を抑制し、
歩兵は、槍と銃が互いに支援し補強し合う巨大で鈍重な方陣を引きずり続けなければ
ならなかったのである
 16世紀中期以降、ピストル騎兵が戦場に蔓延しはじめると、装甲槍騎兵は殆ど壊滅に
瀕した
 装甲槍騎兵が衰微すると、歩兵が戦場での勝利を謳歌することになった
 ピストル騎兵のカラコール戦術は、歩兵の隊列を崩すのに全く効果がなかったのだ

 一度装甲槍騎兵の脅威が除かれると、槍は以前ほど必要とはされなくなり、槍と銃の
比率も変化しはじめた
 16世紀後半、兵科の比率を変え、訓練を積んだ隊列変換の様々な方法を試し、
一斉射撃で銃弾を浴びせる時の様々なやり方を試すといった実験の時期は訪れた
 兵士を訓練して実行させる隊列変換の焦点は、純粋に防御的な作戦行動から、
様々な戦術的条件下で敵に対抗する各兵科の兵士の数を最適にするような隊列へと
変化した

 フランスのアンリ4世はこれらの改革を最初に試み、グスタフ・アドルフがその改革を
模倣し、かつ拡大した
 騎兵の突撃戦術が限定的ながら復活すると、槍の減少が喰い止められ、新たな平衡が
成立した
 しかし、騎兵は戦場で以前ほど決定的な役割を果たすことはなかった
 歩兵はなおも槍の訓練を続けていたが、やがて槍を捨てて銃剣を装備するようになった
 もしグスタフ・アドルフの騎兵がかつて装甲槍騎兵の猛威を取り戻していたら、
槍は消滅しなかっただろう


そんだけ
143防御防御更に防御:01/09/05 21:43 ID:yj6LCaDs
 16世紀に起こった戦術上の変化の結果は、戦略でも戦術でも防御の可能性を高め、
攻撃の可能性を低下させたことだった
 野戦戦術は、槍と小火器が補強し合う防御への偏重が支配した
 槍は歩兵部隊の攻防のバランスを防御有利へと強く傾けた
 スイス槍兵は唯一の例外だったが、それでもビコッカ以後攻撃戦術は試みられることは
なかった
 イングランドの長弓戦術と同じく、投射兵科は常に主として防御的役割を演じ、弓が
アルケブスに変わっても、この防御偏重を強めたに過ぎなかった
 槍は装甲槍騎兵に対して強力な対抗兵器となったが、ホイールロック・ピストルの
登場により騎兵が歩兵に効果的に対抗できなくなると、遂に戦場から消滅した

 この時点で、敵の隊列を崩して勝利をもぎ取ることは最早不可能になった
 戦場での如何なる行動も、常に高い代価を要求されるようになった
 成功は、「槍と槍のどつき合い」のように高い死傷率を伴いながら、少しずつ勝ち取る
ほかはなかった
 新しい要塞が攻城戦を中世へと戻し、再び防御戦略の選択を賢明なものとした一方、
槍とアルケブスは戦術に強力な防御偏重を発生させ、戦闘で攻撃が勝利を収めることを
一層困難にしたのだ

 勇敢な指揮官や大胆で放胆な攻撃の許される時代ではなかった
 1553年のマルチアノで、フランス=シエナ軍とハプスブルク軍は140メートル
以下の距離で塹壕陣地を築き、攻撃も後退もせずに2週間対峙した
 両軍とも、攻撃するにしても後退するにしても、それを合図に敵がより強固な位置から
攻撃してくることを認識していた
 この結果。膠着状態が続いたが、フランス軍の補給が底をつきはじめた
 フランス軍は大胆にも昼間の後退を試みたが、それは潰走に変わり、フランス軍
1万2000のうち3分の1以上を失った
 この戦闘は、16世紀の指揮官がどれ程強く防御戦術に執着していたかを示唆している


そんだけ
144兵隊さんがいっぱい:01/09/06 22:10
 30年戦争において、戦場での兵力は中世のレベルから殆ど変化していなかった
 しかしながら、その背景となる常備兵力は劇的な変化を示していた
 兵力増加の先鞭をつけたスペインは、1550年代に15万だったが、1630年代に
30万の大台に達した
 立場上スペインに対抗せざるを得なかったオランダは1590年代は2万程度だったが、
1630年代に5万、17世紀後半には10〜11万に達した
 1600年代には僅か1万5千のスウェーデン陸軍は、1630年代には18万に
膨れ上がり、戦争が終わった1650年代に5万に低下したが、その後再び急激に上昇を
続け、1700年頃には10万に及んだ
 イングランドは17世紀初期には2〜3万だったが、17世紀末には7万〜8万5千に
達した
 フランスは1610年代まで1万〜1万5千のレベルに留まっていたものの、ヨーロッパ
有数の豊富な人的資源に物を言わせ、30年戦争に積極的に関与した1640年代前後には
12万5千、オランダ戦争(1672〜1678年)には25万、アウクスブルク同盟戦争で34万に達し、平時においても14万を維持することになった

 16世紀以降の戦略面でも戦術面でも度を超えた防御への依存は、軍隊が大規模化する
要因の一つとなった
 16世紀の指揮官は、敵に対抗する唯一の手段として自分達の兵力を大幅に拡大した
 戦術レベルにおいては、兵力が大きければ大きいほど攻撃側が防御側を打ち負かす
可能性が高くなった
 一方、巨大化した攻撃兵力に対して防衛側の対抗する手段も一つしかなかった
 兵力を増やして攻撃軍に対抗できるよう努めることだった
 もっとも、常に兵站上の制限がつきまとっていた
 この限界を無視したグスタフ・アドルフの軍隊は被服と糧食の不足により自壊の一歩
手前まで追い込まれ、「襤褸を纏ったスウェーデン人」は、北欧で伝説として語り継がれる
ことになった

 戦闘における死傷率の増大も軍隊の成長を促す一因となった
 気違いじみた至短射程での斉射の応酬で知られるチェレゾーレの戦(1544年)の
死亡率は28%に達していた
 人道的考慮は全く顧みられなかったが、それでも戦闘に勝利したとしてもその代償は
余りに高くついた
 大量の訓練された兵員を供給し、戦闘の損耗を速やかに補充できるようにするためには、
平時から大規模の常備軍を維持する必要があった


そんだけ
145兵士という職業:01/09/06 22:12
 槍と銃は、それまで兵士としての資質に欠けると判断されていた人間に、兵役に就く
選択肢を提供した
 かつてイングランド軍に長弓射手として雇用されるためには青春をドブに捨てる覚悟が
必要だった
 しかし、16世紀以降、戦争に備える軍隊は戦闘に必要な技能を全く持ち合わせていない
多くの人々を徴募しようとした
 一方で、兵役に就くことは長期間の「職業」になった
 徴募担当者は、兵士として確かな経歴を持つ人々を採用したがった
 兵役のための技能の必要性が低下する一方、他の資質の必要性が上昇していた
 その資質とは、兵役の経験、部隊の中で暮らしていける能力、兵営生活のもたらす苦痛、
残酷、疎外に耐えられることだった
 ある部隊を除隊した人間が他の部隊に勤め口を見つけることは簡単だった
 彼が、兵士に要求される種類の生活に耐えられることを証明しているからだった

 マウリッツ以来の複雑な部隊運動の重視も、軍隊を巨大化させる一因となった
 戦闘隊列の複雑で緻密な運動は、絶え間ない規律と訓練を必要とした
 これは、平時においても巨大な常備軍を維持し続けなければならないことを意味した

 傭兵は経済上の制約がなければ最も望ましい兵士だった
 脱走の問題は傭兵に限ったことではなかった
 もっとも、脱走は当時の軍隊にとって予測可能である程度許容できる「損耗」だった
 当時の国民兵は国家より自分の生まれ育った地域への愛着が強く、むしろ傭兵より脱走の
機会を窺っていたのだ
 傭兵は、適正な支払いを受けるならば国民兵よりずっと信頼することが出来た
 戦場においては傭兵部隊は常に国民兵部隊より賞賛され、指揮官は外国人の兵力より確実
な兵力は存在しないと信じていたし、それは事実だった
国民兵の利点は、手っ取り早く大量に徴募できる点以外に有り得なかった
 グスタフ・アドルフもフリードリヒ2世も、傭兵がいなければ戦うことはおろか
戦争を始めることすら出来なかっただろう

 火器は軍隊を誰でも入りやすくしたと同時に、一度入ればそれ以外の職業に就く可能性を
著しく減じさせることになった

 しかし、軍隊を巨大化させるボタンを直接押したのは要塞だった


そんだけ
146リバイアサン:01/09/06 22:14
 総兵力の狂ったような増加、そして実際の野戦軍と総兵力の食い違いは、16世紀末に
始まった極めて多数の要塞建設に原因があった
 オランダ独立戦争では、大規模な野戦が廃れて攻城戦が主体になるにつれ、地域を支配
するために要塞化された場所が増加した
 主に多数のスペインの砦に守備隊を配置するために、空前の規模で軍事要員が吸い上げ
られた
 素麻植員の対ネーデルランド政策では、人員と資材が反乱軍へ流れるのを取り締まり、
信用できない都市住民を監視する砦の役をさせるため、要塞が重視された
 オランダの抵抗を粉砕するためには、地域全体に圧倒的に優勢な兵力を戦略的に展開
する他ないとスペインは信じていた
 会戦は出来る限り回避すべきだった
 これは消耗戦略であり、オランダ独立戦争はまさにそうなった
 それはまた、大規模な、半永久的な軍事態勢を必要とする戦略であり、スペインにとって
供給と支援が大きな重荷となった

 要塞の守備隊の規模は変わらなかったが、人員を配置しなければならない要塞の数は
増加した
 16世紀後半から17世紀にかけて軍隊に変化が見られたのは、戦争の戦略構想が変化し、要塞による領土支配により大きい信頼を置くようになったからだった

 最初にスペイン陸軍が膨張した
 それは脅威の反応を引き起こした
 ひとたびスペインが規模を拡大する道へ突き進むと、スペインの敵は何とかしてその方策
に対抗せざるを得ず、結局のところ、増大した規模に追いつくよう全力を尽くす以外に
なかったのだ

 そして、17世紀が進むにつれて大規模な軍隊の制度はそれ自体の重量によって潰れ
はじめ、やがて一般徴兵制度が開始されることになるのだが、それはまた別の話


誤字脱字、間違い等多数散見されます、ご容赦を
おしまい
147146:01/09/06 22:17
× 誤字脱字、間違い等多数散見されます、ご容赦を
○ 誤字脱字、てにをはの間違い等多数散見されます、ご容赦を

回線切って首吊ります
148146:01/09/06 22:22
首吊る前に一言
私の駄文を読んで頂いた方へ
我慢して読んで頂いて有り難う御座います
また、このスレを立てられた1氏と
きっかけをくれた我が朋友に感謝します


そんだけ
149バキャ:01/09/06 23:54
どうもお疲れさまでした。
150象太郎:01/09/07 00:23
前スレの572と623でリクエストさせていただきました
本当にありがとうございましたm(__)m
長期の連載お疲れ様でした>朋友よ
151名無し三等兵:01/09/07 05:27
 ええっ!?
 終わっちゃうの?

 もっと続けてくれぇ。
152system:01/09/07 08:43
私ももちろんですが、古い戦争大好きな娘もプリントアウトして、持ち歩いて
読んでます。とてもわかりやすく、ポイントを突いた記事でありがたいです。
153講習生:01/09/07 21:28
もっと聞かせてくれ
スミッコでじっとしてるから!
154146:01/09/08 01:11
>>149
「ヨーロッパの剣」スレで書き残した部分を書かせて頂きました
どうも有り難う御座いました

>>150
嗚呼、あのレスも貴方でしたか
朋友のリクエストとあればナポレオンまで行かねばなりますまい
取り敢えずマターリとネタ集めて、いずれ書かせて頂きます
それが何時になるのか自分にも解りませんが頑張らせて頂きます
朋友よ

>>151 >>153
すいません、後半読んでいただければわかると思いますが、ちと煮詰まって壊れ気味でした
攻城戦関係で行こうと思ってたんですが、話が横道に逸れまくってるし・・・・
最後まで読んで頂き、有り難う御座いました

>>152
すいません、お手数でしょうが娘さんにお見せする時は添削をお願いします
特に、初歩的な変換ミスには致命的に酷いものがあります
ちゃんと推敲すれば良かったのですが


それではいずれ再び電波が命令するその時まで・・・・
そんだけ
155象太郎:01/09/08 03:06
>154
戦線復帰を心よりお待ち申し上げますm(__)m
朋友よ
156名無し三等兵:01/09/08 10:17
 有難う御座いました。

 戦史というと、すぐ社会の話になりがちで、
 なかなか良いものがなかったので、ここの連載の視点は勉強になりました。
157sdkfz172:01/09/08 10:31
『戦争とは、善と悪との対決ではない。悪と極悪の対決なのだ』
158名無し三等兵:01/09/08 18:15

>154
 ナポレオン時代の戦争論に期待。
 いっそ、専用サイトを立ち上げてしまってはどうでしょうか。
159名無し三等兵:01/09/09 14:47 ID:TCwqU4Ec
そんだけ先生、来期の講義も絶対受講しますんで気が向いたら
またお願いしますね!

こういう兵器戦術の進化を系統立てて読めるのって貴重ですから、
ほんと、勉強になりました。
160名無し三等兵:01/09/11 22:15 ID:Q3WlS3ko
SAGE
161元東洋史学生:01/09/11 22:20 ID:/auT6quE
亀甲船スレの185です。シナ近世(16Cから18C頃)の戦闘に関しては余り触れられていないようなので、
僭越ながら解説を試みたいと思います。皆さんからの訂正や補足、質疑もお願いします。
一から語るとトンでもなく長くなるので、とりあえず手短に纏めますね。
あとは対話を通じて発展させるということで(ヘタレでゴメン)。

シナにおいて、金属製の筒から火薬の力で弾丸を飛ばす「銅銃」は14世紀に現れました。
西洋でいう「手銃」(ハンドガン)に相当します。(「もののけ姫」でエボシ御前が使っていたようなヤツね。)
威嚇効果はともかくとして、殺傷力はそれほどでもなかったようです。

16世紀中葉、日本とほぼ時を同じくして、明にも種子島型の小銃、「鳥銃」が渡来します。
が、その武器としての威力は広く認められたものの、精巧な銃身を鍛造するのに不可欠な木炭の不足がとりわけネックとなり、
軍隊に十分普及するには到りませんでした。そこで、17世紀になっても、三眼銃などの旧式手銃も数的には鳥銃と同程度、
用いられていたことが、当時の朝廷の記録から伺えます。

シナに於いて鳥銃がなかなか普及しなかったのには外にも幾つもの理由が考えられますが、
口径が小さく工作も稚拙で、あまり威力が無かったこと、この時代の主戦場である、気候酷烈な遼東地方では、
「風に弱い」という欠点が大きなリスクになったこと、等が挙げられると思います。
162名無し三等兵:01/09/11 22:21 ID:wj9Pjszo
こら、学生、間が悪かったなあ・・・
TVみろ
163元東洋史学生:01/09/11 22:31 ID:b2eJxBfA
新しい武器の到来を背景にして、新たな戦術マニュアル本の出版も相次ぎました。
16世紀後半の将軍・戚継光は豊富な実戦経験に基づき、鳥銃を他の旧式銃に優先して配備すべしと
主張しました。
また決して多くはない鳥銃を有効に用いるため、『紀効新書』や『練兵実紀』で詳細なマニュアルを作り、
早撃ちや無統制な射撃を戒め、また銃手と槍などの他の兵種が補完し合うことを説いています。
1700年ごろ、趙士禎は『神器譜』を著し、やはり戚継光同様、火力によって北方民族を押えることを考えました。

だが彼らの時代、鳥銃の使い方はまだどちらかといえば精密な狙撃に重点が置かれており、
同時代のヨーロッパの様に装備を統一した「銃隊」を編制し、「連続した一斉射撃」によって敵を圧倒しようと
いうような運用思想は、あまり見られません。すなわち小銃は、まだまだ軍の主兵たりえませんでした。
164元東洋史学生:01/09/11 22:47 ID:c0uL9RL.
わあ、ごめんなさい。どうせネタかと思ったよ。
暫く自粛します。
165名無し三等兵:01/09/11 23:46 ID:R93xz39c
何が? なぜ自粛? 思考停止するようなことがあったか?
古の諭吉くんにならって、続行を希望。
166バキャベッリ:01/09/12 03:56 ID:m95Ag.Zo
 アメリカで11機の航空機がハイジャックされ、内2機が世界貿易センターの双子ビルに突入、
110mのタワーが爆発炎上の末に倒壊。別の一機はペンタゴンのヘリポートに突入し、駐機中の
ヘリと共に爆破炎上。貿易センタービルのテロでは機内に150人の人間が乗っていたが、生存は
絶望視されている、それとは別にビル倒壊の際に内部の人間数百人が飛び降りた(落ちた?)のが
目撃されたとの情報もある。死傷者は数千人にのぼる模様、アメリカ国内の全空港に航空機に離陸
禁止が通達され、株式市場や大リーグ等多数の機関が活動を停止。NY、ワシントン共に混乱に陥り、
ホワイトハウスもテロの目標と見られて居るため、ブッシュ大統領は専用機上にて事態収束の支持
を下している。
167バキャベッリ:01/09/12 04:02 ID:m95Ag.Zo
失礼、110階建て高さ442・8メートルでした。こんな物が2本燃えながら折れたとは……。
168元東洋史学生:01/09/12 20:04 ID:Iv/OAvvU
再開します。早速訂正ですが、「1700年ごろ」は「1600年ごろ」の間違いね。

 17世紀初頭、明に戦いを挑んだ新興の清(女真・満洲)は、当初火器を殆ど有しませんでしたが、
弓矢・刀槍による突撃戦のみで度々明軍を打ち破りました。明軍は戚継光や趙士禎の教えに従い、
主に戦車(荷車に盾と砲を備え付けたような代物)に隠れて火力を恃み戦いました。しかし、
数量的に乏しい鳥銃と、数は多いが威力が無い旧式手銃では、射撃のみで清軍を退けることは出来ませんでした。

 清軍の主力である満洲八旗兵は、火器の操作は漢軍八旗及び緑営(漢人の傭兵)に任せきりにしており、
自身が積極的に小銃や大砲を扱おうとした形跡はあまりありません。だが、1690年の烏蘭布通(ウラン・ブトゥン)
の戦いで、大量の小銃を有するガルダンのジュンガル軍に大敗したことが全てを変えました。

 康煕帝は満州八旗の中にも大々的に小銃装備を取り入れ、かつ集中的に運用して一斉射撃を浴びせる
訓練を行いました。あるいは誰かイエズス会宣教師から、マウリッツやグスタフ=アドルフの戦法のことを
聞いていたのではないかと伺わせます。装備が整い、訓練が行き届いた1696年、帝は漠北に親征を行い、
昭莫多(ジョーン・モド)の戦いで火力によってガルダン軍を粉砕しました。
169バキャベッリ:01/09/13 01:10 ID:b9s9BzV2
 早速質問!、秀吉による朝鮮出兵が影響を与えた可能性は有るのでしょうか?。当時の日本は世界的
に見てもかなり大量の火縄銃を運用していた以上、朝鮮出兵でも当然使用いていたと思うのですが。
170元東洋史学生:01/09/13 21:10 ID:HjoszxJg
 秀吉の朝鮮出兵の際は、小銃では日本軍有利、大砲では明・朝鮮連合軍が有利。これが定説ですね。

 確かに、日本軍の操る種子島の猛威に悩まされた朝鮮では、自らも「鳥銃」の製法と使用法を
習得すべく、様々な試みを行っています(この辺りは宇田川武久氏の「東アジア兵器交流史の研究」
という著作に詳しいです)。投降した日本人に「鳥銃」の製作を行わせたり、明から戚継光の著作を
輸入して戦術を研究したりしています。

 しかし、肝心の鳥銃がなかなか量産化できず、充分な成果は上げ得なかったようです。
銃隊を編成して訓練を行わせようとしたが鳥銃がないため、止む無く旧式手銃を用いて訓練を
している、などという報告が散見されます。

 実際にどの程度の数が量産され、軍隊に配備されたかについては正確な記録がないため
残念ながら判りませんが、同時代の日本に遠く及ばないレベルであったことだけは確かでしょう。

 その一つの傍証として、1618年の「サルフ会戦」の例を挙げておきます。この戦いは
遼東地方における明・清両軍の抗争のターニングポイントとなった重要なものですが、
朝鮮軍は明の援軍として1万の兵と5000の火器を派遣しています。

 「5000だったら多いじゃん」と思われるかもしれませんが、この会戦の模様を描いた
「清太祖実録」という記録の絵図を見ると、朝鮮軍が持っている銃の半分程度は旧式の
三眼銃なのですね。強力な鳥銃がなかなか軍隊に行き渡らなかった、一つの証左にはなる
のではないでしょうか。

 ちなみに、この会戦に参加して精強な満州騎兵の突撃を喰らったある朝鮮兵は、以下のような
手記を残しています。
「賊騎斉突し来ること勢風雨のようである。砲や銃は一発放った後に次を装填する暇も無く、
賊騎はもう陣中に突入している。」
「夕陽下にただ矢を射ること雨の如く、鉄馬の進退するを見るのみ。恍惚として形容の辞も無い。」

 参考として、1618年からの三年間で明が製造した鳥銃は約6500丁。三眼銃その他の
旧式手銃は約2万2000丁という記録が残っています。
171元東洋史学生:01/09/13 21:24 ID:HjoszxJg
 おっと、ごめんなさい。今読み返して気付いたのですが、>169は別に朝鮮の
事情のみについて質問されたわけではなかったのですね。

 明に対する影響も、無論大きなものがありました。先にあげた「神器譜」自体が、
「倭軍」の鳥銃に対抗する為の強力な小銃導入を唱えて書かれた書物です。
西洋やトルコの小銃を命中率・殺傷力で鳥銃を凌ぐ優れものとして紹介しています。

 しかし、日本軍との戦いの経験が満州軍との戦いに有意義に生かされたかというと・・・・・・
朝鮮の場合同様、かなり疑問です。先述の通り新型銃の導入どころか鳥銃の普及もままならず、
旧式手銃で精強な満州騎兵に立ち向かうことを余儀なくされているのですから。
172バキャベッリ:01/09/13 22:15 ID:5i46ADD2
 返信有り難うございました、そう言えばアジアに付いては余り語られる事が少なく、
詳しい方が来て下さって助かりますね。一昨日はご愁傷さまでしたが……まああんな
事は滅多に無いでしょうから(有ったら困るが)。
 しかし、鎖国していた日本は仕方が無いにせよ、大陸でも火器の発展が遅れたのは
不思議な事です。逆に日本って、有効性さえ認められると、方向転換が早いですね。
種子島に限らず、明治維新などの政治関係まで。っで行く所までいってしまう。
173名無し三等兵:01/09/13 22:41 ID:1dGFrneE
大陸で大砲の発達が遅れたのは、技術の独占のためではないでしょうか
ヨーロッパでは鋳鉄大砲はイギリス、青銅砲はドイツ・ミラノのように
各国が技術を磨き、技術交流も多くありました
技術を育成しなかったスペインなどは、優れた大砲を作ることができず、軍事面で遅れを取りました。

それに対し中国大陸では官が技術を独占し、又競い合うライバル国が無く
そのため発達が遅れたのではないかと思います。
174元東洋史学生:01/09/13 23:42 ID:kScW/JFE
>173
はい、制度面から見るとまさにその通りだと思います。
シナや朝鮮は太古から文官優位のお国柄ですから、第一線で戦う将軍たちの
意見など、朝廷では殆ど歯牙にもかけていなかった形跡があります。

それどころか、李舜臣の例のように、有能な将軍ほど疎まれ足を引っ張られる
傾向さえある。明の場合も、寧遠城という所で新型の大砲を駆使し、
満州軍を撃退した袁崇換という将軍を粛清したりしています。

一方、ヨーロッパの君主たちや本朝の戦国大名たちはほぼ例外なく前線指揮官でもあります。
つまり、「鉄砲は雨の日には威力が激減するがやりようもある」
「最大射程と有効射程は違う」「大砲を運用するには途方もない手間ヒマが必要だ」
といったさじ加減を、君主自身が判っていたのですね。

満州族の皇帝は乾隆帝まで皆文武両道で、刀槍・騎射の術は無論のこと、
鉄砲の撃ち方まで熟練していました。織田信長と同じですね。

これでは、年中紫禁城の奥深く引篭もって青白い顔をしている漢人の皇帝など、
敵わなかったはずですよ。
175名無し三等兵:01/09/14 00:05 ID:1ocxm0gQ
>174
中国で王朝が弱体化するときは、有能な将軍が地方で軍閥を作り
中央に反逆するのがおきまりのコースです。
漢初・晋の諸王反乱、安録山などの節度使の反乱などなど
これを防ぐため宋代では不効率な枢密院などを作り武官を抑圧したため金の台頭を招いています。

中国では常に、内部の反乱が北方民族の侵入を招いていました
そのため当最高の軍事技術である大砲技術の分散を嫌ったのでしょう。
あまりにも秘密にしたため、土木堡の変などの敗北を招いていますが、それもデメリットの1つでしょう。
176名無し三等兵:01/09/16 13:25 ID:tjOyNr/c
今の中国は第二の天安門事件のようなものがあったら
一枚岩でいられるのでしょうか?
177元東洋史学生:01/09/17 20:22 ID:ONyF6vS2
漢文の素養がある方には、「練兵実記」「紀効新書」を一読してみることをお薦めします。
生々しくて、結構面白いですよ。(大体1560−1585年ごろに成立した書物です。)

 砲手対敵の次第に照依し、牌を随いて倶に濠岸の高土の上に立ち、令の如く打ち放つ。
 空なる者は復た装し、飽く者は続けて放つ。放つ者方に装せんとせば、装せし者又放つ。
 此くの如くんば即ち終日と雖ども砲を放つこと乏しからず、必ず放つこと盡きる無し。

 凡そ鳥銃は賊に遇いても早く放つを許さず、一遍に盡く放つを許さず。
 賊近きに至る毎に銃装及ばずんば、往往にして衆人の性命を誤らん。

 弓箭・火器に至るが若し、皆長兵也。力の百歩に至るべき者、五十歩にして後に発し、
 力の五十歩に至るべき者は二十五歩にして後に発す。此れ亦長兵短用の法なり。

 其れ火器は猶ほ誤事を為す。或いは天に向い打ち、或いは平らに前に向い放銃し、
 頭は已に走路を回顧す。或いは鉛子を入るるを忘れ、或いは鉛子を下してしかる後薬を入れ、
 或いは装し畢りて其の火縄を滅し、或いは其の薬線湿り、或いは其の薬を自ら焚ず。
 十銃の中、僅かに四五銃の発し出る有り、四五の中、僅かに一中有ること為し難し、
 此れ愚劣を百敗の中に益すなり。百勝の際、一一面として熟試を見、之を知る也。難きかな。
178154:01/09/18 22:24 ID:kG0Wyopw
そろそろ始めていいですか?
179名無し三等兵:01/09/18 22:46 ID:gPVQ3dy.
>154
バンバン始めてくだされ!
180元東洋史学生:01/09/18 23:44 ID:FZc252Gg
>154
どうぞ。こっちはそんなに書くことがないので(笑
181名無し三等兵:01/09/18 23:47 ID:L9xYMuaI
お帰りなさい
182名無し三等兵:01/09/19 00:21 ID:hl95b5s6
sageつつ期待。
183銃の戦場:01/09/19 01:43 ID:do5mwJkA
それではお言葉に甘えて

 16世紀中期以降、装甲槍騎兵の消滅をきっかけに野戦において様々な変化が起こった
 対騎兵兵器として確立していた槍兵が減少して銃兵の比率が増大することにより、
白兵戦より射撃戦が重視されるようになった
 戦場の主役となりつつあった銃兵は他の専門兵科を完全に駆逐してしまった
 最初に退場したのはブロードソーズマンと呼ばれる両手剣を持った歩兵で、続いて矛槍兵が姿を消した
 両者は下馬騎兵には及ばないが槍兵や銃兵に比べれば装備の優良な装甲歩兵で、
槍兵に喰い止められた装甲槍騎兵への決定的な打撃力を担う他にも、
槍兵の隊列が崩れた時や隊列が組めない状況で威力を発揮し、
また槍兵の隊列同士の叩き合いの膠着状態を打破するために投入されることもあった
 大抵の場合、歩兵部隊の2割程度はこれらの装甲歩兵で占められていが、1515年以降は記録には
ほとんど登場しなくなった
勿論、近接戦闘の機会が完全に消滅したわけではなかった
 しかし、大抵の常識的な指揮官は、限定的な状況でしか使用できない近接戦闘兵科を揃えるより、
その金で銃兵を雇うほうを選択したのだった

 銃兵を中核とした部隊を編成し、いかに銃兵の戦力を効果的に発揮するかが新たな課題となった
 騎兵の突撃戦術の脅威が減少したことにより巨大な箱型陣形を維持する必要がなくなり、
16世紀後半以降、横長の梯隊スタイルの陣形が普及した
 槍兵の小さいブロックの周囲に銃兵のブロックを配置し、戦況に応じて銃兵のブロックを
様々に並び替えて火力を集中し、近接戦の脅威が迫れば槍兵のブロックが展開して銃兵を包み込んで
防護した

 これらの変化に応じて各国で様々な試行錯誤が行われた
 誰もが火力を重視するようになっていたが、いかにして火力を効果的に集中するか、いかにして
敵軍を撃破するかについては誰も明確な解答を持っていなかったのだ
 最初に解答を出したのはオランダのナッサウ伯マウリッツだった


そんだけ
184沈黙公の息子:01/09/19 01:45 ID:do5mwJkA
 野戦において装甲槍騎兵の消滅が及ぼした最大の影響は、一撃で決着をつける決定的な打撃力を
有する兵科が完全に消滅したことだった
 装甲槍騎兵の簒奪者であるピストル騎兵はこの任務に対しては絶望的に無力だった
 銃兵と槍兵という防御兵科が野戦軍の主力となり、防御至上主義への信仰とあいまって敵軍に対する
いかなるアプローチも高い代償を要求することになった
 野戦において勝利するためには、過去の指揮官ならば軍事行動を断念するほどの夥しい死傷者を
覚悟しなければならなかった

 マウリッツは、銃兵の発射速度を上げることによってこの状況を打破しようとした
 それは、銃兵の発射速度を上げることによって、絶え間ない斉射によって敵軍に出血を強要し、
更に無防備な銃兵に騎兵や槍兵が接近しないようにすることだった
 数列の銃兵の横列を組み、第1列が斉射した後に後退して装填し、その間に後列が前進して同じ動作を
繰り返すいわゆる「長篠」スタイルである
 これで射撃が途切れることなく、敵の銃兵の射撃を妨害し、また敵を寄せつけない筈であった
 この斉射戦術は、マウリッツの従兄ヴィルヘルム・ルードヴィヒがマウリッツに宛てた1594年の
手紙で始めて登場した
 この手紙は、ヴィルヘルム・ルードヴィヒは6列の銃兵の横列を図示し、6列が入れ替わりながら
射撃すれば連続射撃が実施できるとマウリッツに提案していた
 従兄の提案を受けたマウリッツの最初の実験では、満足できる発射速度を達成するには20列が
必要だったが、創意と工夫によって10列にまで減らすことができた

 斉射戦術を満足に行うために、銃兵は射撃し、後ろに下がり、装填し、再び射撃位置まで走り寄って
射撃するという動作を繰り返すという動作が要求されるようになった
 しかも、これらの動作を敵の射撃を浴びつつ横列単位で迅速にかつ整然と行う必要があった
 兵士各人に、一層の勇気と熟練と規律が要求されることになったのである
 解決策は一つ、すなわち時間の許す限り反復訓練を徹底的に重ねることだった
 マウリッツは統制を容易にするために将校11名と兵250名からなる中隊を将校12名と兵120名
に改編し、兵2000名からなる連隊を解隊して580名の大隊へと再編制し、兵士たちに教練を施した
 いわゆる「オランダ式教練」である
 教練は作戦行動中の部隊においても要求され、オランダ軍は、宿営間においても教練を繰り返すことで
有名になった


そんだけ
185回れ右戦法:01/09/19 01:46 ID:do5mwJkA
 オランダ式教練は、短期間で諸外国に普及した
 オランダ式教練をマニュアル化した「マッチロック、マスケット、槍の武器教練」は1607年に
出版されたが、間もなく英語、ドイツ語、フランス語、デンマーク語に翻訳されたが、
それより以前に各国に伝わっていた
 オランダ軍に雇用されていた外国人傭兵、特にイングランド、スコットランド、ドイツ、フランス出身
の傭兵たちがノウハウを自国に持ち帰ったためだった
 また、オランダの友好国は一斉にオランダ人の専門家が招聘していた

 もっとも、斉射戦術の欠陥を指摘する者も少なからず存在していた
 それは銃兵の時間当たりの投射弾量が変わらないことに起因していた
 斉射戦術は絶え間ない斉射の連続により銃兵が近接戦闘に巻き込まれる危険を減少させることができる
が、特に銃兵同士の射撃戦では兵士に余計な負担を強いるだけでそれ程効果的でないとするものだっだ
 フランスのオレリ卿は、確かにマウリッツの斉射戦術は従来の射撃戦術に比べて格段の発射速度を
達成したが、10分の1の弾量では弾幕を構成するには足らず、精緻な斉射戦術に頼るよりも銃兵全てで
最初の斉射をしたほうがよいと述べた
 この意見は、当時の小火器の命中精度を考えれば至極当然と言えた

 実際、マウリッツの斉射戦術はネーデルランドでは期待外れだった
 1597年のテュルンハウトと1600年のニーウボールトでは、オランダ軍はスペイン軍を撃退した
ものの、火力の応酬の結果、斉射戦術が戦術的勝利をもたらしたとは言えなかった
 斉射戦術がその真価を発揮するのは、グスタフ・アドルフを待たねばならなかった


そんだけ
186百獣の王:01/09/19 22:11 ID:z4/mwh02
 30年戦争の1630年6月、グスタフ・アドルフと彼の軍隊が新教徒の同胞を救うと称して
北ドイツのペーネビュンデに上陸した
 当時、スウェーデンはロシア、ポーランド、デンマークとバルト海の覇権を賭けて抗争の最中にあり、
ドイツ侵攻もこのための戦略構想の一環だったが、「北からやって来た金色の獅子が鷲を打ち倒して
世界を襲う不幸に終止符を打つ」と語ったパラケルススの予言の体現者として新教徒たちの
希望の象徴となった
 旧教徒の盟主であるハプスブルク家は黒い鷲を紋章とし、スウェーデン王家は獅子をその紋章に描いていたのだ
 グスタフがドイツの上陸した日、スウェーデンの獅子とハプスブルクの鷲の形をした雲が相争う
光景が現出したとする流説が伝説の端緒となり、啓蒙時代に英雄伝説はほぼ完成の域に達した
 現代でも彼を超人的な天才、近代戦の創始者、国民軍の発明者と崇拝されている
 彼を「三兵戦術」という名の諸兵種連合戦術思想の最初の実践者と讃え、
そして従来のの軍人と戦術から一線を画したと断言することは魅力的かもしれない

 グスタフ・アドルフの軍事改革は、マウリッツの発展というよりむしろ、ドイツで提案されていた
マウリッツスタイルの改良版の模倣だった
 1620年から1621年にかけて婚姻のためにドイツを訪問したグスタフは、
そこでドイツの軍事体系のノウハウを貪欲に吸収し、それをスウェーデンに持ち帰った

 マウリッツの斉射戦術の限界は、銃兵と槍兵が基本的に防御兵科であることから脱却できなかったこと
にあった
 当時の防御至上主義に対する強固な信仰の下では、一定の場所にとどまり続けて延々と射撃戦を演じる
限り、単位時間あたりの投射弾量に変化のない斉射戦術が著しい効果を上げる余地はなかった
 隊列全てが整然と連携して射撃を行う斉射戦術は、銃兵の小グループがそれぞれ独立的に斉射を
繰り返す従来の射撃戦術と比べて圧倒的な優位に立っていた訳はなかった
 実際のところ、敵軍を打ち破るために必要とされる時間も弾量も損害もたいして変わらなかったのだ

 決定的な打撃を加えることによって敵を撃破するために、スウェーデン軍は斉射戦術を攻撃的に用いた
 1620年代にはスウェーデン軍は6列で連続射撃が出来るようになっていた
 これは、重いスペイン式マスケットが消滅したことや、紙製薬筒の採用等の装填動作の
簡略化によるところもあったろうが、最大の理由は絶え間ない教練と演習の繰り返しによるものだった
 スウェーデン銃兵は、第1列が10歩前進してから射撃し、後退することなくそこで停止して装填し、
その間に第2列が第1列の前方に前進し、同じやり方で射撃することを繰り返した
 この戦術は、マウリッツの斉射戦術に比べて更に兵士に訓練と規律を要求することになった

 漸進斉射戦術によって、スウェーデン軍の戦闘隊列は常に敵に向かって前進し、
「死ぬか勝利を得るまで決して後退しない」ことを可能にした


そんだけ
187マスケット・ローラ:01/09/19 22:12 ID:z4/mwh02
 スウェーデン軍の常備編制部隊の最大単位は連隊で、標準的な連隊は総数150名の中隊8個で
編制されていたが、1628年以降12個中隊や16個中隊編制の大型連隊も存在していた
 中隊の内訳は将校16名、銃兵72名、槍兵54名、中隊本部要員8名だった

 常備編制の連隊と中隊に対し、戦時には旅団と大隊が編成された
 大隊は4個中隊編制で銃兵288名、槍兵216名を有していた
 大隊の基本となる隊形は槍兵と銃兵の2個梯隊で構成されていた
 槍兵のブロック(36名横隊×6列)の後方50歩の位置に銃兵のブロック(32×6)を配置し、
状況に応じて槍兵ブロックの左右一方または両方に展開して射撃を行った
 更に、大隊予備として比較的小型の銃兵ブロック(8×6)2個を配していた

 旅団は基本的に即応編成部隊で、作戦に応じて3〜4個大隊を集成して編成された
 旅団の基本隊形は、攻撃正面に対して3個の槍兵のブロックを三角形の楔型に配置し、
楔の中央と両側面に銃兵のブロックが展開するもので、更に予備の銃兵と槍兵が後方に待機していた

 常に前進し続ける歩兵を掩護するため、スウェーデン軍は野戦砲兵を増強して砲火力の増大に努めた
 砲の口径は24ポンド、12ポンド、8ポンドの3種類に統一され、特に旅団には3ポンド砲が
直協支援のために配備されていた
 1597年のテュルンハウトの際のオランダ軍の砲は4門、1600年のニーウボールトでも8門に
過ぎなかった
 ところが、スウェーデン軍は1630年のドイツ遠征に80門を準備していた

 敵の隊列を打ち崩す役割を歩兵が担うようになったため、敵の歩兵と正面切って戦う必要性の薄れた
スウェーデン騎兵は絶望的に効果のないカラコールに固執する理由が無くなり、サーベルによる肉薄突撃
が復活した
 もっとも、騎兵が戦闘に決着をつける可能性は永久に失われたままだったため、
騎兵の出番は追撃戦や遭遇戦に限られるようになり、野戦においては歩兵や砲兵の十分な支援なくして
軽々しく突撃するようなことはなかった
 騎兵が突撃を許されたのは、隊列が完全に崩れ切って組織的な反撃の心配がない敵へトドメを刺す場合、
そして何より戦果を見込める場合に限られるようになっていた
 勿論、騎兵の勇壮でそれ故に自殺的な正面攻撃の例が皆無となった訳ではなかったが、
それは騎兵を磨り潰しても採算に見合うだけの事情がある場合に限られていた


そんだけ
188あの軍旗を奪え:01/09/19 22:13 ID:z4/mwh02
 1631年9月、ブライテンフェルトにおいてスウェーデン軍はグスタフ・アドルフの改革の成果を
まざまざと見せつけることになった
 歴戦の傭兵隊長である「甲冑の聖者」ティリー伯に率いられた歩兵2万2000、騎兵1万の皇帝軍は、
正面50名、縦30名の槍兵を中核とするテルシオを構成し、砲27門の掩護下に防備を固めていた
 一方、スウェーデン軍とザクセン軍の新教徒同盟軍は、歩兵2万8000、騎兵1万3000、
重砲51門で、スウェーデン軍の各旅団には3ポンド砲4門が配備されていた
 左翼に布陣していたザクセン軍は伝統的なテルシオで戦おうとしていたが、
スウェーデン軍は6列の横列を組み、側面に騎兵が展開していた
 最初に崩れたのはザクセン軍で、最初の1時間で皇帝軍の火力の前に壊乱、そのまま潰走した
 しかし、スウェーデン軍は優勢な砲火力によって皇帝軍の隊列にかなりの損害を与えていた
 ザクセン軍の逃走を知ったスウェーデン軍は左翼を軸に隊列を旋回させるため、漸進斉射戦術による
攻撃前進を開始した
 1時間後に皇帝軍は総崩れを起こし、兵力の3分の2と砲全てを喪い、奪われた120流の軍旗は
スウェーデンに送られてストックホルムのリッダルホルム教会の飾り付けに使われることになった

 確かにグスタフ・アドルフの漸進斉射戦術は、野戦において敵軍を迅速に撃破する可能性を示した
 しかし、それは敵に対して火力で優越している場合に限られたし、
当時の防御偏重主義を引っくり返した訳ではなかった
 互角以上の火力を有する敵に対峙した時、また火力で劣勢でも堅固な野戦築城物に周到に防護された
敵を攻撃する時、地形のもたらす防御上の利益を自ら放棄する漸進斉射戦術はただの自殺攻撃になる
危険があった

 1632年9月、スウェーデン軍6万はニュンベルクにおいて
旧教徒の切り札アドルフ・フォン・ヴァレンシュタイン指揮下の皇帝軍宿営地に対して攻撃を仕掛けた
 この攻撃は奇襲効果を狙って行われたが、既に皇帝軍が情報を得ていたために強襲となり、
皇帝軍の野戦陣地に阻止されたスウェーデン軍は半数の兵を喪って後退した


そんだけ
189戦争実業家:01/09/19 22:13 ID:z4/mwh02
 ヴァレンシュタインの皇帝軍は、早くも1632年11月のリュッツェンの戦において
横列の数を減らして斉射効果を改善し、砲兵戦力も増強していた
皇帝軍2万は街道沿いに野戦陣地を占領してスウェーデン軍を迎撃した
 スウェーデン軍2万2000の最初の攻撃は右翼で限定的にしか成功せず、
左翼では優勢な皇帝軍砲兵の側射により攻撃が頓挫し、中央ではヴァレンシュタインの直接指揮による
逆襲で逆に押し戻された
 敵陣地に喰い込んだ左翼を肩部として中央の突破を企図したグスタフは、
護衛部隊と共に予備隊の攻撃開始線へと進出したが、
皇帝軍騎兵に捕捉され混戦の中で押し包まれて犬のように撃ち殺された
 一説によれば、重度の近視のグスタフは皇帝軍の隊列を友軍と誤認して不用意に接近してしまい、
敵と気づいた時にはもはや手遅れだったという

 王冠を戴く身でありながら一介の勇敢な戦士のような死を遂げた「北方の獅子王」は本望だったかも
知れないが、それに関係なく血みどろの戦闘はより凄惨に進展していった
 スウェーデン軍は最高指揮官の戦死にも動揺せず、むしろ戦意を高揚させて猛烈な突撃を開始し、
両軍で王の死骸を巡る壮絶な争奪戦が展開されたといわれるが、恐らく真相はそうではなかった
 激情にまかせた無秩序な攻撃はグスタフ・アドルフが彼の軍隊に要求していたものではなかった
 スウェーデン軍の本領は、如何なる状況においても機械のように精密に動くことだった

 両軍は皇帝軍の陣地線上で攻撃と逆襲の応酬を繰り返す大出血戦を演じ、
最終的に皇帝軍が日没とともに整然と撤退したことによって戦闘は終わった
 スウェーデン軍は、王を失ったことよりむしろ余りの損害の多さ故に追撃を断念した

 これ以後スウェーデン軍は守勢にまわり、1634年9月にネルトリンゲンで壊滅的な敗北を喫し、
三十年戦争における主導的な立場を失うことになった
 以後、ヴィストック(1636年)、第2次ブライテンフェルト(1642年)、ヤンコウ(1645年)
の戦闘でスウェーデン軍は勝利を収めたが、既に三十年戦争における「スウェーデンの時代」は
終わっていた
 1635年10月、フランス・スウェーデン条約が締結され、フランスの本格的な介入が始まる
 「フランスの時代」の開幕であった


そんだけ
190名無し三等兵:01/09/19 23:17 ID:afTDSqeQ
ヤター!!
講義再会感謝sage
191ロズウェル@星の変人:01/09/19 23:56 ID:0BOgEGsY
>>189さん
自前の海軍も作ろうとしてたみたいです、ヴァレンシュタイン…。
で、こいつの徴兵方法もなかなかで
罪人をひっ捕まえて「罪状チャラ」
多重債務者をひっ捕まえて「借金チャラ」とそれぞれささやき
たちまち大規模な傭兵軍を編成しましたとさ。
192ロズウェル@星の変人移民変:01/09/20 00:00 ID:vva3gkow
「ヨーロッパの剣は…」からの移民レスです。

ちょっと関係ないが、甲冑が廃れた理由における
自分の意見についてです…。

甲冑が廃れた理由について、よく言われるのは
「甲冑が、銃弾による攻撃を防げなくなり、無用の長物となった」
といわれています。
が、純粋に技術的な点から見ると、この説は少々疑問です。
というのも、当時の銃で、当時の甲冑を試し撃ちしたところ
ついに一発も貫通できなかったというデータがあります。
「西洋騎士道事典」という書にそうありました。
まあ、着弾によるダメージも馬鹿になりませんが。
また、ルネサンス期において、甲冑が簡素化されたのは
下記のため、というよりむしろ戦闘形態が中世よりより複雑になり
よりいっそう複雑な動作が求められた結果
甲冑が「合理化」された結果ではないかと思います。
というより、中世のプレートアーマーが重厚長大すぎたのです。
手足をメインで狙うことなど、実際ありえそうでないですし。

で、主題の「廃れた理由」ですが
これは、「コストパフォーマンス」の問題ではないかと。
中世において、主戦力といえば、生涯を鍛錬にささげた騎士でしたが
近世では、安酒いっぱいでつってきたような、あぶれものの集団でした。
そんな連中に、高価なプレートアーマーを着せるのは、
あまりにも馬鹿らしいことです。
後、戦術形態が、「少数精鋭」から「物量主義」に変わったのもあります。
この「物量主義」の発想は、ほかでもないオスマン=トルコの影響です。
中央集権の発達で、大量の軍隊を動員できるようになりました。
しかし、人間は権力でどうにでもできても、装備はそうはいきません。
いくら有効だといっても、万単位の兵隊に、プレートを着せたら
たちまち財政がパンクしてしまいます。
おまけに、兵隊といったらあぶれもの同然の連中ですから
逝っても痛くともありません。

で、そういうと、「人命が尊重され、財政も豊かな(当時に比べてです)
近代国家なら、重装甲兵が復活するのか?」という質問が出そうですが
誤解を恐れず言えば「イエス」です。
「重装甲兵が復活って、お前頭おかしいんじゃねえか?」といわれそうですが
実際、もう復活しつつあります。
アメリカ軍では、兵士の生存率を高めるため
ボディアーマーの開発に力を注いでいます。
主な目的は、兵士を砲弾の破片(兵士の最大の死傷理由)だとか。

改良が進めば、本当に中世さながらの重装甲兵が登場するかもしれません。
193189:01/09/20 00:16 ID:iRBtsiqQ
>191
仰る通りです
しかし、別にヴァレンシュタインに限った話ではないし、
もっとえげつないやり方もあったようです
それについてもいずれ書かせて貰おうと思ってます

>192
板金製の完全被甲鎧を着用したヨーロッパの装甲槍騎兵は
かなり特殊な兵科です
私は「重厚長大」だったのではなく、
装甲槍騎兵の任務を果たすために必要だったと考えています

それと、火器戦術の発達によって死傷率は跳ね上がりましたが
死んでも痛くもない訳ではなかったと思います
これについても後日書く予定です
194名無し三等兵:01/09/20 00:22 ID:BADaNgM.
>>192
取り敢えず過去レスと前スレ全部読んだほうがいいぞ・・・・
195system:01/09/20 07:33 ID:yM6pswKI
「そんだけ」シリーズ再開ありがとうございます。またプリントして
娘にも読ませます。今後も楽しみにしています。
196ロズウェル@星の変人移民変:01/09/20 10:34 ID:RDdQDFpg
>>194さん
もしや外出?
まあ、このスレはひいきさせてもらいますんで、また〜りと、
読まさせてもらいます。
197歩け歩け:01/09/20 21:21 ID:59qXgsYY
 十七世紀のヨーロッパに巨大な災厄を引き起こした三十年戦争は、
実際は軍事的には後進地域で行われた戦争だった
 当時の軍事技術の変容、主に火器への依存、要塞建築、軍隊の規模の劇的な変化が
最も顕著に認められたのはスペイン、フランスとそれらの敵手たちであり、
つまりはハプスブルク家とその周辺領域であった
 ドイツにおいてはイタリア式築城術による新型要塞は余り普及していなかった
 1540年代から1550年代にかけて皇帝と新教徒の臣下が対立した際に城壁の新築工事を
計画した町もあったが、その後半世紀に渡って平和が続いたため新規の軍事工事は殆ど行われず、
また必要ともされなかった

 17世紀に入って神聖ローマ帝国内の宗教対立が再燃すると、再び事態が動き始めた
 まず新教徒側が要塞を新築し始め、すぐに旧教徒側もこれに倣った
 以前から守りを怠らずにいた大都市は防衛施設を最新式に改め、
新興の大都市も最新式の要塞の建設を始めた
 だが、1618年にプラハの王城で皇帝の代官が窓から掘に投げ込まれたのを引き金に
三十年戦争が勃発するまで、大半の町は防衛上の危険にまるで無関心だった
 三十年戦争が始まってからも当初は比較的局地的な紛争ですんでいたし、
1630年代までは平和裡に投手が交代した町が殆どであった
 ドイツにおいて本格的な稜堡を備えた要塞は数えるほどしかなく、
それが三十年戦争であれほど野戦が繰り返された理由だった
 三十年戦争中の遠征が1000キロ単位で行われ、複雑な機動を展開して敵に戦闘を強要したり、
兵站基盤の脆弱な地域、端的に言えば食糧のない地域に敵を退却させたり追い込もうとしたのも、
堅固な要塞拠点が少なかったからに他ならなかった
 グスタフ・アドルフ指揮下のスウェーデン軍は1631〜1632年に1600キロ進軍し、
4つの大きな戦闘に従事していた

 ドイツをはじめとする地域で、イタリア式築城術はなかなか普及しなかった
 理由の一つは想定される脅威に対して費用がかかりすぎたことだったが、
中にはイタリア式築城術に対する理解の不足による地域もあった
 イングランドは、百年戦争で大陸から叩き出されて以来、少なくとも陸戦技術については
ヨーロッパで最も後進的な地域の一つとなっていた


そんだけ
198くろがねの城塞:01/09/20 21:23 ID:59qXgsYY
 ローマ教会からの離反を決意したイングランドは、教会領を没収することにより
莫大な財源を手に入れることができた
 しかし一方で、新教国となったイングランドは、フランス及びハプスブルク家と冷戦状態に
陥ることになった
 大陸からの侵攻を警戒して、ヘンリー8世は1539年にイングランド東部と南部、
フランスにあるイングランドの前哨拠点の防衛を強化する詳細な計画を立案した
 海岸線沿いに28の要塞が新築され、古い要塞は殆ど撤去された
 ところが国王は、要塞群の建設を外国人の築城技術者家ではなくイングランドの職人に任せたため、
起工した時点で既に時代遅れの代物となっていた
 新しい要塞はどれも同心円状の背の高い城壁と塔で構成され、
銃眼をやたらにたくさん切り込んでいたのが自慢だった
 中でもサンドゲイト要塞は砲60門、銃65挺分の銃眼を備え、
ダウンズ要塞に至っては126門の砲が全周を睥睨していた
 これらの円形要塞のシルエットはイタリア式築城術の要塞に比べて凶悪で強力な印象を与えたし、
その要塞砲の攻撃力は凄まじかったろうが、防御力に関しては絶望的に脆弱だった
 内部が空洞の城壁と塔は重砲の砲撃には耐えられなかったし、
円形の防御構造物は攻城壕に対してはひとたまりもなかった

 だが、ヘンリー8世とイングランド人たちは、これが最善だと信じて疑わなかった
 1541年、あるポルトガル人工兵がギニアの要塞をいくつかイタリア式築城術によって
改築しようとしたが、国王は「自分の仕事を理解していない阿呆」といってあっさり馘首してしまった
 しかし、1545年にフランス軍がソーレント水道に侵犯を繰り返し、
イングランド自慢の円形要塞群があっさりと取り壊されていく様にショックを受けた国王は、
鋭角の稜堡を備えたイタリア式築城術の要塞が必要だとようやく認めざるを得なくなった
 アイマス、ポーツマスをはじめとする戦略上の要衝が、大慌てで大金をつぎ込んで要塞化された
 既に旧教会領のもたらす収益など要塞建設のために必要な経費を捻出する足しにもならなかった
 ところが、1588年に再びフランス軍がイングランドを襲撃した時、
これらの要塞は品質管理が不十分で防御力が不足していることが判明した
 これらを改築し、増築し、拡張するために改めて資金が捻出されなければならなかった
 イングランドの要塞は常に後手に回り、そして常に不十分だった
 エリザベス女王は、最後には「町を要塞化するのは金の無駄」と開き直った


そんだけ
 実際、戦争の脅威がなければ要塞建設など金と労力の無駄だった
 統治者も、大抵の場合、危機が迫った時に初めて新しい要塞建設を許可した
 要塞建設が決断されたということは、戦争が目前に迫っていることを意味した
 イングランドでは、内乱直前の1642年の時点で近代的な要塞は、ベリック、ハル、ポーツマス、
プリマス等、数えるほどしかなく、全て沿岸部に集中していた
 だが、内乱の戦闘は大半が内陸部で行われることになった
 内乱が始まると、オクスフォード、ロンドンをはじめとする主要都市、
あるいは戦略上の要衝に位置する拠点は本格的な要塞工事が施工された
 戦略上優先順位の低い町では、方型の稜堡が周囲を点々と取り囲んだ
 ニューアーク、ブリストル、レディング等のように塁壁を備えていた町はむしろ例外だった
 このように堅固な築城物に防護された町を攻略するためには、大陸スタイルの大がかりな攻城戦を
始めるほかなかった

 ニューアークに立て籠もった国王軍守備隊は、シェルフォード、ビーヴァ城、サゲイトン、
ウィヴァトン・ホール、レノルに配置された方形稜堡を備えた外郭陣地に展開し、
1645〜1646年にかけて行われた議会軍1万5000の攻囲を跳ね返した
 とはいえ、イングランド内乱中の軍事拠点の大半は、時代遅れの城壁に守られるというよりむしろ
閉じこめられていたため、攻城砲の砲撃にはひとたまりもなかった
 確かに、1645年までに攻城戦で降伏した要塞はそれ程多くなかったが、
それは要塞の堅固さ故ではなく、強力な遊撃隊による機動作戦が攻城砲段列の移動を封止したからに
他ならなかった

 博打に出た例が皆無だったわけではなかった
 1644年、攻城砲を強行輸送しようと試みた議会軍は、その結果ロスウィシアルにおいて
攻城重砲40門を国王軍に鹵獲されてしまった
 結果、大抵の場合、町を奪取するためには準備砲撃無しの強襲に頼ることになった
 議会軍が攻城砲を望むままに運用できるようになるには、1645年6月のネイズビーでの勝利を
待たなければならなかった


そんだけ
200石塔の森:01/09/20 21:26 ID:59qXgsYY
 1640年代のアイルランドは、まさに新旧の戦術の差を歴然と示した
 12世紀まで、アイルランドで石造建築物は皆無だった
 だか、その後まもなく普及しはじめ、特に1430年に政府が5メートル以上の塔を建造した人間に
助成金を出すと定めたことにより加速した
 1500年にはリメリック州だけでも城塞は400を数え、
アイルランドはまさに城塞が林立する地域となった
 1210年から1250年にかけて建設されたトリム要塞のような大型のものは、
城壁の厚さ3メートル、高さ12メートルに達し、同時期に建設されたドロイーダ城も
トリムに匹敵する規模の城壁を備えていた
 しかし、このような高く薄い城壁は砲撃に対して抵抗できなかった
 ドロイーダ城は1641〜1642年のアイルランドによる3ヶ月の攻囲に持ちこたえたが、
1649年にオリヴァー・クロムウェルは3000の守備隊に守られたこの城を
攻城砲12門と野砲12門の砲撃で陥落させた
 だが、クロムウェル軍はアルスターではこれほどの戦果をあげられなかった
 1603年以来大挙して住みついたスコットランドとイングランドの移民が、
入植地防衛のために近代的な要塞を建設していたからである

 アイルランドの貴族はエリザベス女王時代にスコットランド貴族を真似てこの地に石造の
「タワー・ハウス」を建設していた
 エンニスキレン城をはじめ、当時の城塞の殆どはスコットランドの石工職人の手によるものであった
 しかし、ジェイムズ6世の時代になると比較的近代的な稜堡、壕、砲座を備えた
要塞が造られるようになっていた
 エンニスキレンの「タワー・ハウス」(正確にはその残骸)は塁壁で囲まれ、
入植地のロンドンデリは塁壁で囲まれたうえに、全周1キロに及ぶ城壁を備え、
壕と重砲40門で防護されていた
 チャールマント、ヒルズバラ等の比較的新しい入植地の防衛には比較的小型の要塞が建設された
 だが、入植者たちはこれらの近代的な要塞を守るための火器を十分に準備していなかった
 1641年のアルスターの反乱では、近代的な要塞の大半が防衛側の人員と火器の不足が原因で陥落し、
持ち堪えたのは比較的大きな入植地だけだった


そんだけ
201無駄無駄無駄ァ!:01/09/20 21:27 ID:59qXgsYY
 アイルランド反乱軍の砦は1650年代にはあらかた破壊されることになった
 だが、戦略拠点には新たにかなりの数の要塞が四角形の稜堡を備えるイタリア式築城術の設計によって
建設された
 1668年、イングランド政府はキンセイルの港を要塞化することを決定した
 キンセイルは、1601〜1602年のスペイン軍の上陸侵攻の、
1649年には国王軍の侵入の橋頭堡となったからである
 1670年代に完成したキンセイルのチャールズ・フォートは、
6基の巨大な稜堡と大勢の守備隊が駐屯できる宿泊施設を備えた
イタリア式築城術スタイルの大型要塞だった
 しかし、イングランド政府からアイルランドの要塞群の実状視察を命ぜられた
トマス・フィリップスという古参の工兵が1686年に提出した報告書は、
まさに絶望的な内容だった

 アイルランドは要塞が多すぎる割に、攻城戦に満足に耐えられる強度を備えているものは一つもない、
とフィリップスは報告した
 チャールズ・フォートですら例外ではなかった
 チャールズ・フォートは良くできてはいるものの建設位置が不適切で、高い所に立つと丸見えで、
完成させるためには更に多大な資金が必要だとされた
 フィリップスは、これらの要塞を全て改装することは無駄であり、
強力な軍隊が駐屯でき、大規模な攻城戦に持ち堪えられる巨大な要塞6基を建造するべきだと提唱した
 だか、1689〜1690年に再び反乱が起こった時、新しい巨大要塞は一つとして完成しておらず、
チャールズ・フォートすら一撃で陥落してしまった
 アイルランドとスコットランドに完璧な「イタリア式築城術」が登場するのは
18世紀を待たねばならなかった
 18世紀になってやっと、反乱や侵入に反撃できる規模の軍隊を駐屯させておける、
そして攻撃部隊の出撃拠点となり得る大型要塞が建設されるようになる


そんだけ
 イギリス諸島は、要塞と攻城戦に大きな変化が無く、緩慢に、しかも遅れて変化していった地域だった
 これは当然、野戦にも影響を与えた

 ろくな要塞の無かったアイルランドが最後進地域であったことはいうまでもなかった
 もっとも、アイルランドは中世の頃からずっと最後進地域だったのだが
 14世紀までのアイルランドは、まさに「奪うほどの価値のある町はない」状態だった
 だが、15世紀になってアイルランドの首長たちが石造の城に住むようになると、
戦闘の対象、つまり攻撃して奪うべきものと守るべきものが増加した
 アイルランドの首長たちは、主にスコットランド出身の傭兵を雇用して隣接する首長を攻撃したり、
イングランドの定期的な侵略を迎え撃ったりした
 しかしこの時点でも、火器はまだ殆ど使用されていなかった
 アイルランドで火器が使用された最初の記録は、1480年代になってからであった
 とはいえ、山がちで沼地の多い地形では、内陸部で攻城砲を展開することは不可能に近かった

 かくして、戦争は襲撃による略奪と虐殺に終始することになった
 イングランド軍は反乱鎮圧の名目の下、公然とテロリズムに手を染め、
戦利品を求めて血の池を泳ぎ回った
 アイルランドと同盟関係にあった侵入軍にも同じように残忍な扱いが待っていた
 1508年にスメリックでイングランド軍に降伏したイタリアとスペインの援軍400名は
情け容赦なく全員が虐殺され、1516年に嵐で漂着した無敵艦隊から下船したスペイン兵3000名も
同じ運命に遭った
 イングランド人は、火器という手段で圧倒的な優位に立っていることをいいことに、
アイルランドで残虐行為を重ねた


そんだけ
203敵の胃袋を攻撃せよ:01/09/20 21:31 ID:59qXgsYY
 これをきっかけに、アイルランドの指導者たちも火器を受け入れる覚悟を決めた
 ティロン伯ヒュー・オニールは、攻城砲こそ入手できなかったが、1580年代にはイングランド人と
スペイン人の指揮官を雇用し、アイルランド兵1万に銃の使用法を訓練させた
 また、イングランドとスコットランドで火器と弾薬を大量に購入し、アイルランドでも脱走兵や将校に
賄賂を効かせて横流しさせた
 エリザベス女王に対する反乱に立ち上がった直後の1595年、ティロン指揮下のアイルランド軍は、
クロンティブレットでイングランド軍を撃破した
 1598年にはイエロー・フォードで再び勝利を収め、この年の暮れにはダブリン近郊を襲撃した

 イングランド軍の新任の司令官マウントジョイ伯チャールズ・ブラントは、
オランダ戦争で経験した辛抱強い消耗戦略を展開した
 まず最初に、彼は戦闘を避けた
 イングランド軍が敗北する恐れがあったからだった
 かわりに、十分な食糧備蓄の備えた自給自足の小要塞を、アルスター中部を包囲するように
張り巡らせた
 これらの要塞を出撃拠点として襲撃部隊を出撃させ、ティロンの軍勢を支えていた食糧の供給源を
組織的に潰しにかかった
 1601年に入るとスペインの遠征軍3500がキンセイルに到着したため、マウントジョイは
南に後退したが、この遠征軍もイングランドの要塞を陥とすことは出来なかった
 1602年初頭にスペイン軍が降伏し、ティロンの野戦軍はキンセイルへ進出しようとしたが
戦闘に敗れ、1603年に降伏した
 これは画期的な勝利だった
 アイルランド全島に対するイングランドの支配権は不動のものとなり、
その後300年余り続くことになる


そんだけ
204皮の焦げる匂いがします:01/09/20 21:32 ID:59qXgsYY
 イングランドは、アイルランドの戦闘でようやく大陸スタイルの戦争を実行してみせた
 しかし、大陸で行われていた戦争には遙かに遅れていたことは否めなかった
 中でも、野砲はかなり後になるまで殆ど使われなかった
 確かに少数の野砲が戦闘で使用されたが、三十年戦争でグスタフ・アドルフやヴァレンシュタインが
運用した野戦砲兵放列に比べればまるで比較にならなかった

 この遅れは単なる認識不足や努力不足によるものではなかった
 イングランドも、軽量で機動性の高い皮革砲の開発を試みていた
 金属製の薄い砲身を鋳造しこれをロープで束ねて丈夫な皮革の皮覆で包む技術は、
1622年にチューリヒで完成していた
 皮革砲は1627年にはスウェーデンで製造されるようになり、
程なくスウェーデン軍では数は少ないもののよく見かけられるようになり、
これが他国の軍隊にも普及した

 実際には皮革砲は全く実用不能な品だった
 ロープと皮革の被覆は熱伝導が悪く、すぐに砲身が加熱して発射不能となってしまうのだった
 当のスウェーデン軍では1630年にはもう使われなくなっていた
 スコットランド軍はダンバー(1650年)とウースター(1651年)で
スコットランド盟約軍が使用したが全く役に立たず、イングランド軍に鹵獲されていた
 この皮革砲は、名誉革命後の1689年にもう一度日の目を見た
 ダンディ子爵ジョン・グレイアム・オブ・クレイヴァハウス率いるジャコバイト反乱軍を
迎撃するため、イングランド政府は兵器庫から皮革砲を引き出してキリンクランキの戦に投入した
 しかし、皮革砲の殆どは3斉射目で暴発してしまい、ジャコバイト反乱軍の突撃を喰い止めることは
できなかった


そんだけ
205首を落とさないと死なない:01/09/20 21:33 ID:59qXgsYY
 もっとも、当時使用されていたどのような火器をもってしても「ボニー・ダンディ」と
「ハイランド・チャージ」を阻止できたかどうかは疑わしい
 高地地方の氏族軍団(クランズマン)は、敵を倒して煙幕を張るために銃を1回だけ斉射すると、
銃を捨てて楔形陣形に組み替え、左手にくくりつけた小楯と剣または矛槍だけを手に絶叫しながら
無秩序に突進した
 ひとたび高地地方の兵士が攻撃前進を開始したならば、
もはや阻止することも逃げることもかなわなかった
 「遠距離から発砲すれば、恐らくやられてしまうだろう
 次の弾を装填する時間がないからである」
 「装具など誰も身につけていない」ので、「退却すれば、歩兵は死ぬものと諦めざるを得ない」
からだった
 かくして、17世紀から18世紀前半まで、火器戦術の粋を集めた装備と訓練を誇る軍隊が、
昔ながらの武器だけで武装した時代遅れの氏族軍団の何も考えてないような突撃によって
あえなく撃破されるという遭遇戦が幾度となく続いた
 1644〜1645年にモントロウズ侯とアリステア・マッコラがティパミュアからキルサイスまでの
一連の戦闘で、1689年に「ボニー・ダンディ」がキリクランキで、
1745年と1746年に「プリンス・チャーリ」がプレストンパンズとフォルカークで
「ハイランド・チャージ」は最新式の軍隊を打ち破った

 「ハイランド・チャージ」が始めて阻止されたのは、1746年のカロドンの戦だった
 これは、この時ハノーヴァ王家軍がかなりの数の野砲を装備していたこと、
兵力で圧倒的に優勢だったことが理由だった
 「ハイランド・チャージ」は1759年のエイブラハム高地の戦で再び成功を収め、
イギリスはフランスからカナダを奪うことが出来た

 氏族軍団の戦士たちは、勇敢で大胆で闇雲な突撃を行ったわけではなかった
 ビコッカのスイス槍兵のように野戦陣地で待ち構える火力戦部隊に真っ向から突っ込めば、
間違いなく粉砕されていただろう
 確かに基本的な要因は速度と決断と勇気だった
 しかし、地形を巧みに利用して隠掩蔽下で戦闘展開を行い、突撃開始の最後の瞬間まで企図を秘匿し、
何より決して敵の準備する時期と場所での戦闘を避け、自らの望む機会を忍耐強くそして注意深く
待ち続けたことも無視できない要因だった
 彼らのような種類の戦士たちは、中世から近世、近代にかけてヨーロッパの火力戦術が練り上げた
軍隊とは全く違った進化を遂げた武装兵力だった
 乱暴で無規律、他人には理解できない独自の規範を信じ、法とルールを守らず、迷信を畏れ、
原始的で粗野で純朴だったが、彼らはそれでもしばしばヨーロッパの精鋭軍を打ち破った
 彼らは、後に猟兵や軽歩兵と呼ばれることになる兵士たちの原型だった


そんだけ
206205:01/09/20 21:35 ID:59qXgsYY
脱線しまくり・・・・
すんません
207モグラの戦争:01/09/21 19:46 ID:h8sOmKYU
 イギリスにおいては、火器の引き起こした戦略・戦術上の変化は緩慢ながら確実に浸透した
 しかし、他のヨーロッパの辺境地域においてはまだ時間がかかった
 1656年、スウェーデンがロシアと戦うことになった時、フィンランドに派遣された
スウェーデン軍歩兵1万は、冬季の国境防衛のためにスキー技術を修得しなければならず、
漸進斉射戦術の訓練と教練に充てる時間など無かった

 ハンガリーでは1560年以降の1世紀間でユニークな国境戦のスタイルが定着した
 ここでの戦争の最大の焦点は野戦でも攻城戦でもなく牛と捕虜であった
 ハンガリー国境では捕虜の請け戻しはビッグ・ビジネスで、
請け戻し金が作戦経費をはるかに上回る巨額の収益をもたらすことも珍しくなかった

 ヨーロッパの東の辺境でも違った種類の戦争が戦われていた
 17世紀初頭のポーランド軍は、騎兵と歩兵の比率が10対1という文字通りの騎兵軍であった
 ドイツのバルト海への進出は1525年にチュートン騎士団が解体したことでほぼ鎮静化したが、
ほぼ同時期の1526年にハンガリー軍がモハッチでオスマン・トルコに敗退したことにより
タタール人とトルコ人の脅威が深刻化した
 ポーランド軍は、これら南のステップ系騎兵に対抗するために、歩兵や砲兵でなく騎兵を強化し、
攻城戦ではなく野戦に勝てる軍事力を作り上げるのに専念したのだった
 ポーランド騎兵は、1605年のキルヒホルムと1610年のクルシノで侵入してきた
スウェーデン軍をステップ騎兵の戦術で立ち向かい、これを撃退してその威力を証明した
 しかし、1621年にスウェーデン軍が再び侵入してきた時、
ポーランド国内の「イタリア式築城術」の要塞といえばダンツィヒ等のバルト海沿岸部の港湾都市を
除けば数えるほどしかなく、結果、ポーランド国内はスウェーデンの攻城軍によって
蹂躙されることになった
 ポーランドの軍事関係者たちはこれに激昂し、スウェーデン軍を非難する書物まで出版した
 攻城壕を掘り進めるスウェーデン兵を「墓掘り人」と呼び、侵入軍の「騎士道にもとる欺瞞」を
あげつらい、スウェーデン軍の入念な攻囲作戦を「モグラの仕業」と呼んで嘲笑した
 それはともかく、ポーランドは視察団がネーデルランドに派遣し、
この「欺瞞」に満ちた「モグラ」の戦術についての知識とノウハウを得ようとした

 三十年戦争に乱入したグスラフ・アドルフと彼の軍勢がドイツに殴り込んだ頃には
既にポーランド軍は火器部隊を中核とした軍隊への再編を概ね達成していた
 最も増強されたのは銃兵部隊で、彼らは大半がポーランド人だったにもかかわらず
何故か「外人部隊」と呼ばれていた
 フランスやスペイン、オランダの火器操典がポーランド語に翻訳されて出版され、
スウェーデンに倣って火砲の規格が定められた
 火器製造計画が立案され、王立兵器廠に保管されていた砲は、1637年には222門だったが
1639年には320門になっていた
 国境地帯全域を網羅する軍用地図が制作され、将来の戦争の作戦展開図の他、
戦略上の緊要地形となり得る地点も指摘されていた
 だが、ポーランドの支配層である貴族たちが王権を強化するような政策にことごとく抵抗したため、
将来実りをもたらすであろう試みは進捗しなかった
 外国人傭兵を雇うことも、農奴を徴募することも、国王の直轄都市を要塞化することも実現しなかった
 結果、1655年にスウェーデン軍が侵入してきた時、ポーランド国王軍の備えはおろか、
ワルシャワの要塞も旧式なままで、ヨーロッパでも歴戦の軍隊の圧倒的な火力には抵抗できなかった
 ポーランドの指揮官たちは政府に火器と火器を操る兵員を投入するよう要求し続けたが、
その望みは叶えられなかった
 ワルシャワは、あろうことかスウェーデン騎兵の急襲であっという間に陥落した


そんだけ
208ヨーロッパの極東:01/09/21 19:49 ID:h8sOmKYU
 ロシアもまた、ヨーロッパの軍事的後進国の地位に甘んじていた
 砲は15世紀以来使われていたが、銃兵を含む歩兵は重視されていなかった
 17世紀になっても、ロシア軍の基本的な関心は依然としてステップ系騎兵に向けられていた
 事態が変化し始めたのは、長期間の攻城戦でしか落とせない新型要塞が
建設されるようになってからだった

 スモレンスクは、1595年から1602年にかけて1億5000万個の煉瓦と62万個の化粧石、
荷車100万台分の砂を使って建設された
 町を守る城壁は厚さ平均5メートル、高さは最大で19メートル、総延長6.5キロに達した
 ロシアは早くも1550年には歩兵を中核とした常備軍の創設を考え、
士族出身の兵士3000名による銃兵隊を編成した
 銃兵隊は1600年には2万、1632年には3万4000に増加したが、
これらの一部は警察任務や国境警備に充てられていた
 1632〜1634年のスモレンスク戦争では、ロシアの野戦軍の半分は外国人傭兵による
外国人連隊で構成され、オランダ式教練の訓練を受けていた
 ロシアは1630年から1634年にかけてドイツ人を中核とした外国人連隊を10個編制し、
1万7400の兵士に銃を装備させ、砲兵の掩護をつけた
 戦争が終わると外国人連隊は解散されたが、1650年代に復活した
 1663年の時点でロシア軍には6万の外国人傭兵がおり、1681年には8万に増加した
 傭兵に支給された火器はオランダ人が運営するトゥーラの兵器工廠で生産され、
クレムリン宮殿をはじめ各所にフリントロック小銃と砲が集積された
 モスクワ大公国の南国境沿いでは、「ベルゴロド・ライン」と呼ばれる防御壁を復旧拡大する
大工事がフランス人とオランダ人の監督下で進められた
 1653年までに、この防衛戦は稜堡が点々と連なりながら森林とステップ地帯の国境線を
800キロに渡って横切っていた
 そこはまさしく、ヨーロッパとアジアの軍事境界線だった


そんだけ
209お日様の時代:01/09/21 22:19 ID:yNZWApFs
 17世紀前半の対独包囲戦争(三十年戦争)及び教会分裂(宗教改革)が終息すると、
17世紀後半には、イギリスにおいてクロムウェルのピューリタン独裁(清教徒革命)に続く
オランダ総督オレンジ公ウィリアムの英国王即位(名誉革命)によって議会政治の確立を見た
 一方、大陸では二世紀に及ぶハプスブルク家とヴァロア・ブルボン両家の対立抗争を経て
ルイ14世が絶対王政を確立、ヨーロッパを圧する巨大な軍隊を編成して領土獲得戦争を
仕掛けようとしていた

マザラン枢機卿の死によってルイ14世がようやく国政の実権を掌握した1661年の時点で、
フランス軍の総兵力は約7万だった
 ヨーロッパ列強において軍拡競争が繰り広げられた当時のヨーロッパにおいて、
フランスだけが無関心でいられる訳がなかった
 1800万というヨーロッパ有数の人的資源、強力な産業基盤と豊富な資源を背景に、
フランスの軍隊はルイの領土拡張計画を引き金に爆発的に拡大することになった
 軍隊の規模は特に1666年から増大を始め、1667年にフランドル戦争が勃発した際には
12万5000、オランダ戦争が勃発した1672年に17万6000、終結した1678年には
28万に達した
 ルイは彼の精力的な大臣が整備したヨーロッパ随一の軍隊を見て大いに喜び、
「戦争は王に許された権利のみならず課せられた正義である」とある意味凄いことを言って
周囲を呆れさせた


そんだけ
210名無し三等兵:01/09/21 23:18 ID:nehN7zPc
 脱線もまた面白い。
 それにしても、すごい文章量……。
211ミ,,゚Д゚彡:01/09/22 01:29 ID:mrEZcVaQ
前スレからテキストに纏めたら203kになったよ。
かなり読み応えがある。
212名無し三等兵:01/09/22 21:00 ID:UWQJa/2Q
ageは王ににみ許された権利である
213何事も官僚主義的に:01/09/22 21:46 ID:xbxPOxeI
 ルイ14世の軍制、特に兵力の増大と編制、訓練、装備の統一等の改革は、
主としてリシュリュー枢機卿、ル・テリエ、ルーヴォア、ヴォーバン等の手で行われた
市民的管理の発展だった
 それは、小規模で半独立的な部隊の集合体から、中央の権威の下に統制された
大規模な近代的軍隊への変革であった

 リシュリューはルイの即位する以前の1642年に既に没していたが、
国王の権力を強化するために貴族身分の占有していた国政に市民身分を参入させ、
この政策は軍隊にも及んだ
 彼は主に市民身分からなる「軍監督官」を創設し、各野戦軍に1名ずつ配置した
 軍監督官は、部隊の支払い、装備及び軍需品の管理に携わる経理官たちを統制し、
軍管理官たちを統括するために軍事大臣の職を定めた
 これは、後にル・テリエ、ルーヴォア父子の軍制改革の下地となった

 特に息子のルーヴォアは、1680年に軍事大臣の下に五つの軍政局を開設し、
軍事に関するあらゆる書類をこれらの局を通すことにより軍事大臣の軍への権能を強化した
 司令官たちのいかなる報告や要求もこれらの局に対して送られ、
全ての命令がこれらの局から発せられた
 こうして軍事大臣は国王の軍事的な決心に関する全てを与る唯一の助言者となった


そんだけ
214私が指揮官:01/09/22 21:47 ID:xbxPOxeI
 フランス軍はただ単に兵士の頭数が膨張した訳ではなかった
 ルイ14世は、かくあるべしと望む軍隊を自らの望むままに動かすことを望んでいた
 まず最初に手がけたのは軍隊を国王の完全な掌握下に置くことだった

 フランス常備軍は「王軍」と呼ばれていたが、ほとんど軍隊自身によって管理されており、
国王と中央政府の統制は僅かしかなかった
 各兵科毎に司令官が存在し、彼らがそれぞれに王軍を支配していた
 各兵科の司令官はそれぞれ将校の任命権を握っており、これが司令官たちの支配力の源泉だった

 歩兵の中隊は、はじめはそれぞれの指揮官の下で事実上独立していたが、
やがて陸軍大佐に指揮された連隊にそれらを編制することにより、戦術的な単位として
整合されるようになっていた
 そして、この連隊長は全て歩兵司令官によって任命されていた
 騎兵の場合も中隊の伝統を守って16世紀までは国王の意志に余り統御されず、
17世紀に至るまで連隊に編制されることに抵抗していた
 砲兵は例外に近い存在で、砲兵団長が実権を握っていたが、兵士というよりむしろ技術者として
扱われており、平時において確たる編制部隊が存在せず、作戦毎に各駐屯地の砲兵が掻き集められて
集成砲兵隊が編成された
 このような(ルイにとって)「無秩序」な状態はルイにとって満足できる状況とはほど遠かった
 ルイは、自分の所有物であるべき軍隊が自分の意のままにならず、しかも彼の目にはいかにも
「無秩序」に映ったことに我慢がならなかった
 この一点において彼は当時及び過去の数多の国王たちと一線を画していた
 言うまでもないことだが、ルイ14世は絶対専制君主だったのだ

 ルイがまず最初に手がけたのは、自国の武装勢力を直接支配することだった
 陸軍最大の実力者である歩兵司令官のポストを廃止して自ら職権を担うとともに、
その他の指令官職の権能を縮小させ、真に重要な権限を自ら握るよう軍令を整備した
 これ以後、フランス国王が将校の任命権を占有することになった
 フランスには、王軍の他にも各市が抱える伝統的な市民軍が存在していた
 有力都市の多くは自費で賄った「市軍」を保有し、中央から半独立した行政官の指揮下にあった
 ルイは行政官に任期制を採用して行政官職を循環させるとともに、
行政区の予算を削減することによって市軍を王軍の隷下に組み込んでいった
 こうして、2年間でルイは陸軍を国王の中心的権威へ統合化を果たすことになる

 財政と軍を掌握したルイは、「自分の軍隊」を質量ともに強化することに取りかかることになる


そんだけ
215お勉強の時間:01/09/22 21:49 ID:xbxPOxeI
 将兵の増員は必然的に軍隊全体の質の低下を招くことになった
 ルーヴォアは、将兵に規律と秩序、国王への忠誠心を求めた
 規模を増大するだけでなく軍隊をより効率的な戦争機械へと変容させようとした
 当時のフランス軍の弊害は、将校の軍隊召集とその組織の権能に関する封建的伝統にあった
 将校は架空の名簿を作成して実際に召集した兵員以上の数を国王に報告し、
給料の差額を着服することが当然と考えられており、検閲の際には日雇いの偽兵に装備を持たせて
兵員数を補っていた
 この古き良き日々の伝統はルーヴォアの軍制改革により終わりを告げた
 検閲官を派遣して調査するのみならず将校の行状についても検察させ、
行政官や地方の有力者に重い罰金刑が科せられ将校は軍から追放された

 ルーヴォアは、将校に情け容赦なく能力の査定を要求した
 軍事的な知識と部隊指揮能力が検閲され、能力に不足あると判断された者は昇進に影響し、
最悪の場合は退役を命ぜられた
 将校はまた部隊の訓練を監督するよう求められたが、これはルーヴォアがそう命じたからだけでは
なかった
 まことに迷惑な話だが、国王は部隊の訓練を抜き打ちで視察することが大好きだった


そんだけ
216もっと兵隊を:01/09/22 21:50 ID:xbxPOxeI
 僅か十数年で4倍の兵力を整えるために軍事大臣ルーヴォアのとった方法は、
封建的伝統を持った民兵を徴募し常備軍として編成することだった
 これは傭兵を軽視していたことを意味していた訳ではなかった
 フランス軍は伝統的にスイス人とドイツ人で構成された傭兵を保有していた
 傭兵は特に歩兵隊に多く、1677年の時点で歩兵隊23万のうち約5万を傭兵が占めていた

 1688年、ルーヴォアは民兵選出制度を導入した
 これは、後に徴兵制度と呼ばれるシステムの実質的な第一歩だった
 20歳から40歳の未婚男子からなる最初の民兵2万5000が徴募され、
30個の州民兵連隊に常備兵力として編入された
 アウグスブルク同盟戦争が勃発した1689年以降、陸軍は爆発的に膨張して
1694年には遂に45万に達したが、2年後には約29万に削減されている
 民兵連隊は警備任務以外の軍事的価値が疑わしく、正規兵や傭兵ほど規律正しくなく、
略奪に走る傾向があったためだった
 1701年にスペイン継承戦争が勃発すると陸軍は再び膨張を始め、
この年に5万5千の民兵が召集された
 初期の民兵の任務は故郷の地方における警備だったが、この戦争では前線の正規連隊への補充兵の
供給源となった
 徴募されてそのまま正規連隊に編入されるようになるまでに時間はかからなかった
 徴募下士官は銃を持って歩ける者ならば誰彼構わず採用しようとしたがまだ十分でなかった
 最終的に26万の民兵が召集され、その多くが戦地に送り込まれることになった
 ルイの治世の最後の10年間の常備兵力は40万に達した

 フランスは大規模な国民動員制度を構築した
 この民兵選出制度は、後世に言われるような実験的国民兵制度などという可愛らしい代物ではなかった


そんだけ
217兵隊を入れる箱:01/09/22 21:51 ID:xbxPOxeI
 当時の国家の軍事支出と軍事資源の比率は、攻撃でなく防衛に重点を置いていた
 どれほど大規模な野戦軍を擁する国であっても、要塞、重要度の低い戦域、首都周辺などに
配置されていた兵力が野戦軍を上回っていたのが普通だった
 前線の野戦軍を作戦展開するのにどれほど経費がかかったとしても、
最新の要塞を建設し防衛する費用のほうが常に高くついた
 これは、フランスとて同様だった

 守備隊や、重要度の低い「第二戦線」に貼り付けられていた兵力は、常に過小評価されやすい
 例えば、三十年戦争の渦中の1632年にドイツで戦われた野戦軍同士の大会戦、ライン、
ニュンベルク(アルテ・ヴェステ)、リュッツェンはどの戦史も必ず言及している
 ところが残念なことに、この3つの戦闘は、いずれも三十年戦争の勝敗を決定づけるものではなかった
 戦争はそれから16年も続いたのである
 その上、野戦軍の兵力より、別の任務についていた兵力の方がはるかに多かった
 リュッツェンの戦があった1632年11月、グスタフ・アドルフは18万3000のスウェーデン軍
をヨーロッパに展開していた
 しかし、そのうち6万2000は北ドイツ一帯に建設された98カ所の要塞に配置されており、
3万4000はスウェーデン、フィンランド、バルト海沿岸に張りつけられ、
6万6000は神聖ローマ帝国内で独立した地域軍として作戦を展開していた
 従って、グスタフ・アドルフがリュッツェンで戦死した時、指揮していた兵力は2万2000に
過ぎなかった

 皇帝軍の兵力も大差なかった
 リュッツェンで相まみえた兵力が2万、他の場所で作戦行動中の兵力が4万、要塞には4万3000の
兵力が展開していた
 戦争が終結した1648年の時点でも、スウェーデン軍は傭兵を主力とする野戦軍4万の他に3万の
守備隊がドイツ各地の127カ所の要塞に張りつけられており、スウェーデンの同盟国の軍隊も
95の町や要塞の守備についていた

 スペインのフランドル方面軍も事情は同じだった
 南部ネーデルランド防衛に配置されていた兵力の半数は、通常は要塞に駐屯していた
 例えば、1639年にフランドル方面軍が維持していた要塞は208カ所で、駐屯している兵力は
ダンケルクの1000名から「悲惨の極致」と呼ばれたヘント近郊の堤防上の小砦の10名まで様々
だった
 これらの要塞駐屯兵力はあわせて3万4000に及んだが、この時のフランドル方面軍の総兵力は
記録上でも7万7000に過ぎなかった
 無論、守備隊は防衛目的だけに配置されていたわけではない
 局地的な反乱や世情不安などの芽を早いうちに摘みとるなど、地域支配の意味もあった

 対するオランダ軍もこれと大差なかった
 オランダ軍の大半は要塞に配置されており、その数は守っている町の人口を上回ることもあった
 隣接する両軍の要塞同士が絶えず衝突するという戦闘が、オランダ独立戦争で最もよく見かける
 軍事行動だったといっても過言ではなかった


そんだけ
218ダーティ・ビジネス:01/09/22 21:52 ID:xbxPOxeI
 フランスの将軍ブレズ・ド・モンクルは、当時の戦争について「格闘、遭遇戦、小競り合い、
待ち伏せの繰り返し、たまに戦闘、小規模な攻囲、白兵戦、城壁への梯子攻め、町への略奪と奇襲」
があったに過ぎないと言った
 これはいささか誇張に過ぎた
 三十年戦争にフランスが介入した時期には、野戦や大規模な攻城戦もかなりあった
 だが、正規軍が野戦軍に合流するために各州から引き上げると、残留した要塞の守備隊と非正規軍が
地域の戦争の主導権を握ったのは事実だった

 半世紀後のイングランド内乱の軍事的特徴もこれに酷似していた
 常に正規軍同士の会戦が注目されているが、地方軍による局地的な作戦行動の数と重要性は、
常識をはるかに超えたものがあった
 1642年から1646年にかけて、イングランドとウェールズの大半の州では、敵対する要塞同士が
苛烈で泥まみれの戦いに明け暮れた
 各地の指揮官は、自分の補給線を守り、敵の補給源を破壊することに懸命になった
 内乱の前半では、ウェールズとの国境に接する諸州など敵の脅威の小さい地域の拠点では
かなり小さくても周囲一円の広大な領域を押さえておくことが出来た
 守備隊の駐屯するこのような要塞の役割は、大掛かりな戦略・戦術上の構想に基づいたものではなく、
むしろ地域の安全を守るためであった、と従来は考えられていた
 単純に、地元から資金を引き出すために駐留していたというわけである
 実際には、こうした守備隊の累積効果は無視できないほど大きかった
 議会軍が1642年にエッジヒルで敗れたのは、ヘリフォードとノーサンプトンとコヴェントリに
守備要員を放出しなければならなかったからだった
 国王軍が1645年にネイズビーで敗れたのは、国王が2週間前に占領したレスターの守備に
1500の兵を残留させた上、周辺の拠点(例えば4000の守備隊が駐屯していたニューアークなど)
からの増援を認めなかったからだった
 国王派の要塞の数は1645年夏にはイングランドとウェールズで80カ所となり、議会派の要塞も
ほぼ同数にのぼった
 当時内乱の動員されていた両軍の総動員兵力数の半分以上がこれらの要塞に釘付けにされていたのだ
 近世ヨーロッパ各地でおこった戦争の典型は、野戦や長期間の攻城戦と並んで、局地的で小規模な戦い
でもあった
 それは、せいぜい数百人程度の兵力が結集し、戦闘で強引に決着をつけることなく
略奪や破壊、砲火などの「汚い戦い」を蓄積して敵にダメージを与えるための戦いだった


そんだけ
219廃城:01/09/23 15:49 ID:s6.0aujk
 野戦軍同士の野戦または攻城戦などの「正規戦」に劣らず「不正規戦」も重要だったこの錯綜した
戦争にトドメを刺す唯一の方法は、これを支えている要塞拠点群を破壊してしまうことだった
真っ先にこれを実行したのは、この要塞防衛戦略の先駆者ともいえるフランスだった
 アンリ4世は、宗教戦争が終結して辺境諸州の平和が回復した1593年以降、
幾つかの要塞を取り壊した
 1630年代になると、ユグノーと貴族の度重なる反乱を鎮圧したリシュリューは、南部の100余りの要塞のほとんどを破壊した

 この政策の有効性は歴然としていたので、これに倣う地域が続出した
 イングランド内乱中には、戦争が終わらないうちから両軍とも軍事行動が終息した地域の拠点を
次々と破壊し、兵士を野戦軍にまわそうとしていた
 シュロップシァでは、1645年5月に18基あった要塞(国王派14、議会派4)は、10月には11基(国王派3、議会派8)になり、1647年には僅か2基しか残っていなかった
 残った要塞も明け渡され、防衛用施設は取り壊された
 内乱終結後、イングランド内陸部でも多くの要塞が取り壊された
 残された要塞群の大半は沿岸部にあり、いずれも強力な防衛拠点だったが、
配置されていた兵員は少なかった

 1670年代のバルト海域では、多すぎる要塞がいかに危険な代物であるかが証明した
 スウェーデンが30年戦争で獲得したドイツの領土は自然の国境を持たなかった
 スウェーデンと周辺国との区別がつかなかったため、境界標を立てねばならない場所も少なくなかった
 このように人為的な国境線に囲まれたスウェーデン領の安全を維持するため、
要塞を延々と連ねることが最善の戦略であると誰もが考えた
 ところがその後、多数の要塞の維持経費が切り詰められるようになった
 1670年代にスウェーデン領フェルデン公国とブレーメン公国の防衛戦が崩壊したのは、
多すぎる要塞と少なすぎる守備兵力が原因だった
 スウェーデンの20の要塞の大半は孤立し、包囲され、食糧が切れた
 1680年代のはこれらの要塞は放棄され、取り壊されることになった


そんだけ
220戦争技師:01/09/23 15:50 ID:s6.0aujk
 もっとも、ルイ14世治世下のフランス中央部で実施された徹底的な非武装政策に比べれば
これらの例はささやかなものだった
 1648〜1653年のフロンドの乱とフランドル戦争が終わると、ルイ14世と彼のスタッフたちは、
兵員を配置しなければならない要塞が膨大な数にのぼっていることに不安を感じるようになった
 内陸部の要塞が防衛している地域は、かつては重要な戦略拠点だったとはいえ、
今では何の危険もない場所だった
 一方、国境地帯の要塞が防衛する地域は、ピレネー条約(1659年)とエクス・ラ・シャペル条約
(1668年)でフランスが獲得し、敵国の領域に深く喰い込んだ危険な場所だった
 オランダ戦争の最中の1673年初頭、ヴォーバンはフランスの要塞の合理化案を提出した
 「このように敵と味方の要塞が入り乱れている現在の状況に私は全く満足しない
 1カ所で済むところを3カ所守らなければならなくなる」
 ヴォーバンが打ち出した理想の構想は、彼自身によって「プレ・カレ(四角形の平野、または決闘場)」
と命名された

 フランスの周辺国にとって傍迷惑なことに、ヴォーバンはフランスの国境が直線になるように領土を
獲得し、そこを要塞化すべきだと彼の主君に訴え続けた
 それが征服、交換、条約、何であれ手段は問わなかった
 こうしてフランスの工兵が新築または改築した要塞は133基にのぼった
 これによって敵のフランスへの侵入地点を閉ざし、フランス軍の周辺諸国への侵入がやりやすくなった
 ヴォーバンの設計し建設した要塞が巨大な規模になった理由はここにあった
 これらの要塞群は、防衛だけでなく攻撃作戦の展開を可能にするだけの兵力と物資を抱えられるように
設計されていたからである

 反面、「プレ・カレ」プランは必然的にフランス内部諸州を実質的な非武装地帯にしてしまった
 パリをはじめ、フランス内陸部にあった600以上の要塞が取り壊され、または故意に放置された
 1670年にはパリの防衛施設が撤去された
 後にヴォーバンが指摘しているように、要塞を10減らせば国王の野戦軍に3万の兵力を増強できた

 ルイ14世の軍隊を膨張させた原因は、ルヴォアの才覚と尽力につきるものではなく、
ヴォーバンの戦略構想の成果でもあった
 ルヴォアがより多くの兵士の動員に成功したとすれば、ヴォーバンのプランはより多くの兵力を
防衛から野戦軍の作戦行動へと移すことを可能にしたのだった


そんだけ
221長い目で見てやってください:01/09/23 20:31 ID:RUgeuMxQ
 近世ヨーロッパにおいて、相互に関連する3つの大きな軍事上の変化が起こった
 火器戦術、新しい要塞技術、軍隊の兵員の増加である
 この3つの要素により戦争は変容したが、それはヨーロッパの激戦区に比べて周辺地域では遅く、
しかもその影響は限られたものであった
 フランス革命以前のヨーロッパでは、殲滅戦略ではなく消耗戦略で大半は決着がついた
小さな勝利を忍耐強く積み重ね、敵の経済基盤を徐々に浸食していく戦略である
 例外がなかったわけではなかった
 1547〜1548年のシュマルカルデン戦争、1557年のオスティア戦争、
1600年のサルッツォ戦争は野戦軍の侵攻により短期間でケリがついた
 だが、これらの戦争がすぐに終結したのは、新たに参戦した大国の軍勢が、既に孤立していた
小国の軍隊を攻めたからだった
 近世の戦争の大半は、いずれも独立した複数の作戦と交戦を連ねた長期戦であった
 イタリア戦争は、1572年から1607年まで続き、1621〜1929年に再燃した
 ネーデルランドの「八十年戦争(オランダ独立戦争)」は1572年から1607年まで続き、
1621年から1647年に再び戦火が上がった
 17世紀から18世紀前半にかけても、「戦争」はいつ果てることなく延々と長い期間を戦われた
 三十年戦争は1618年から1648年まで、フランスとスペインの一連の軍事抗争は、1629年
から1659年まで、大北方戦争は1700年から1721年まで、スペイン継承戦争は1701年から
1713年まで続いた
 これら17世紀以降の戦争と16世紀以前の戦争に違いがあるとすれば、
それは軍隊の規模が大きくなり、費用がかさむようになったことだった
 戦争が長期化した主な原因は、この軍隊の規模とコストの膨張にあったといっても過言ではなかった
 指揮官たちは速やかな勝利を収めようと考えていたが、どのような戦略を立て、どのような戦術を考えても、膨らみ続ける軍隊と、それに応じた資金、装備、食糧が手に入らないというジレンマに突き当たって挫折せざるを得なかった

 戦争は、いかに戦争に必要な資源、つまり人とモノをいかに確保するかによって、武力対決の行方が
左右されるようになっていった


そんだけ
222名無し三等兵:01/09/24 02:25 ID:77IuUoe2
そんだけ教授の講義大感謝祭sage
さあ、そろそろアノ大王さまの足音が聞こえてきそうです。ワクワク
223頭数を揃える:01/09/24 20:39 ID:JvneatcY
 人の問題は解決しやすかった
 どの国家も、兵士を掻き集めるにはそれほど苦労しなかった
 例えば、1701年から1713年の間に、65万の兵士がルイ14世の軍隊に入隊した
 そのうちの一部は、本人の意志に反して強制的に入隊させられた実質的な徴募兵だった
 しかし、大多数はフランス人だろうが外国人だろうが志願兵、つまり端的に言えば傭兵で
占められていた
 もっとも、志願兵の募集事情は時節によって左右された
 入隊に際して各人に与えられた報奨金の額は、農業労働力の季節需要と食料価格の変動に応じて
上下したが、これはこの二つが新兵募集に影響したからだっや
 食料価格が比較的安かった1706年には報奨金は50リーヴルだったが、
食糧が不足していた1707年には30リーヴルに下がった
 この年の12月、マルセイユのオペラ座の楽団員全員が「餓死寸前」なのを理由に入隊した
 1708〜1709年になると、前年にフランス軍がアウデナーデルで大敗北を喫していたにも
かかわらず、新兵は20リーヴルで集まった
 まさしく、国民の不幸は軍隊の幸福であり、国家にとって救済だった
 当時最悪の冬と言われた1710年には、報奨金なしで兵士を徴発できた
 パンの価格が高騰し、飢えに苦しむ貧民層に軍隊は命を繋ぐ最後の藁を提供したからだった

 新兵の供給源は、山間部、都市、そして当の紛争地帯の3つに分類できた
 牧畜に従事する山間部の村落は伝統的に軍隊の苗床で、とりわけ17世紀にはそれが顕著だった
 都市部出身の兵士も多く、フランス軍を構成する兵士の35〜40パーセントは都市住民で占められ、
特にパリ出身者が主体になっていた
 もっとも、パリで徴発された兵士のうち、パリ生まれの者は15パーセント程度であり、
残りの大半は地方からの移住者で、首都で生活を維持できなかった人たちだった

 人々が自分の意志で軍隊に入隊しようとした動機は様々だったろうが、
生活の困窮と貧困が最大の動機であったことは動かしがたい事実だった
 社会が雇用機会を提供してくれないときに、軍隊がそれを提供したから軍隊を選んだ人間は大勢いた
 村を捨て町で暮らしを立てようとしたがうまくいかなかった者、親の商売や職業を継げなかったか
継ごうとしなかった者、不景気で失業した者、天才か人為によって作物を荒らされた者、
このような人たちは、世間では仕事も賃金もなかなか手に入らず、進軍中の兵士によって略奪されたり、
重税のために破産する危険が高い
 これに比べれば、現金で支払われる入隊報奨金や被服、それに今後約束される金と略奪品は魅力的な
選択肢だった


そんだけ
224官品一族:01/09/24 20:41 ID:JvneatcY
 志願兵の中には、やむにやまれぬ事情以外の個人的な動機で入隊した者もいた
 単純に、世界を見たい、大義のために戦いたい、教育の一環として軍事的経験を積みたい、
と望んだだけの者もいた
 1626年から1633年にかけてスコットランド人連隊を率いてドイツに従軍した
ロバート・モンロによれば、自分の連隊の兵士が三十年戦争に出征したのは、
高名な指揮官(ロバート・モンロ)のもと、冒険と軍事的経験を積みたかったからだった
 彼自身は、スコットランド国王の妹でベーメンに嫁いだ王妃エリザベス・スチュアートのため
だったという
 もっとも、モンロの兵士たちが従軍したのは別の理由からだった
 彼らの氏族(クラン)の族長がそう命じたからで、兵士たちのほとんどがマッカイを名乗っていた
 1631年にハミルトン侯ジェイムズの指揮でスウェーデン軍に加わったスコットランド兵士の多くは
ハミルトンと名乗っていた

 フランスでも事情は同じだった
 ルイ14世の軍隊が40万に達しても、自分の私的な家臣団を抱える将校による新兵徴募が志願兵確保
に重要な役割を果たしていた
 連隊の指揮権を引き継いだ連隊長たちは、血縁者や近隣の知己を隊の将校として雇い入れ、
少なくとも1740年代までは出来る限り自分の臣下を入隊させるようにしていた
 このように、軍隊の軍務に「封建的義務」が加われば、部隊の結束は一層強まることになる
 こうした募兵方法が行われなくなると、別の方法が主流になった
 それは、専門職として軍隊への入隊を希望する人間が増えてきたことだった
 これは、特に目新しいことではなかった
 中世においては、騎士でも傭兵でも親や兄の跡を継いで戦士となった例は多い
 しかし、各国の常備軍がこぞって膨張しはじめると、こうした「軍人一家」は一層多くなっていった


そんだけ
225軍隊に入って外国に行こう:01/09/24 20:42 ID:JvneatcY
 とはいえ、戦争が長期化すると個々の志願兵だけでは軍隊を維持できなくなるため、
兵士の調達には3つの方法が採用されていた
 第一は、ヨーロッパの他の地方で部隊を丸ごと徴発し、はるか遠くに派遣することだった
 第二は、捕虜を自軍に組み込むことだった
 第三は、この二つの方法がうまくいかなかった場合、地元の住民をその意志に反して無理矢理徴集することだった
 最もよく行われたのは第一の方法だった
 中でも、スペインのハプスブルク家は、兵力をある場所で徴発し別の地域に派兵するという兵力の
国外移住システムを好んだ
 スペイン国内で徴発された部隊は、まずスペイン領イタリア(ナポリ、シチリア、ロンバルディア)に
送られ、そこで基礎訓練を終えるとネーデルランドかドイツ、または地中海のガレー艦隊に配属された
 スペインのフランドル方面軍の兵士の50パーセント以上は、駐留地フランドル以外で徴発されていた
 逆に、ネーデルランドで徴発された兵士は、主にスペイン本国に送られていた

 フランス軍は、同盟国や良好な関係にある国が徴発した兵士を連隊丸ごと購入した
 リシュリューは、フランス人だけの兵力で大規模な戦争を戦うのは不可能に近いと述べ、外国人兵士が
50パーセントを占める軍隊でよいと考えていた
 ルイ13世とルイ14世の軍隊は、その20パーセント程度が外国で徴発されることになっていた
 伝統的なドイツ人連隊とスイス人連隊の他、1635年から1664年までに2万5000の
アイルランド兵がフランス軍に従軍した
 ルイ15世の軍隊も、20パーセントは外国人兵だった

 オランダも、軍隊の実戦兵力を強化するために外国人に頼った
 17世紀を通じて、そしてその後もオランダ軍にはフランス、イングランド、ドイツ、スコットランド
の旅団が存在していた

 これらの国はスウェーデン軍にも兵力を供給していた
 1626年から1632年にかけて2万5000のスコットランド兵が「新教徒を救う」ために
北海を渡り、スウェーデン軍に合流した
 スウェーデン軍は報酬が高いことで有名で、他にもイングランド人とドイツ人の連隊が存在し、
事実上グスタフ・アドルフの野戦軍の中核はこれら外国人兵で占められていた


そんだけ
226死刑囚:01/09/24 20:43 ID:JvneatcY
 こうした「志願兵」のなかには、拘束されて入隊した者もいた
 処刑を免れるために、兵役による実質的な国外追放に応じた犯罪者たちだった
 1605年、国境地帯の盗賊グレイアム一家の犯罪に業を煮やしたスコットランド政府は、
グレイアムを名乗る一族郎党150人をネーデルランドの戦争に派兵するとする判決を下し、
あわよくば戦地で死んでくれることを願った
 1627年、デンマークのスパイニ卿は連隊の徴発許可を与えられたが、この際、
「ジプシー、乞食、浮浪者、路上徘徊者、失業者」を強制的に入隊させる権利を与えられていた
 入隊を拒む者は、輸送準備が整うまで投獄された

 前述のロバート・モンロも自分の連隊に囚人を何人か入隊させていた
 彼らは厳重な監視の下、リースの輸送船に連行され、「二度と王国に帰還しないこと、
帰還すれば死刑に処す」と誓約させられた
 基本的な条件は、入隊すれば犯罪は全て大赦とするが、大赦を受けた者は永久に国外移住することが
条件だった

とはいえ、軍隊が本当に欲しがっていたのはこのような志願兵たちではなかった


そんだけ
227忠良な市民兵:01/09/25 00:45 ID:amWDCKUU
 自国民から徴発された兵(それが志願だろうが法による強制的な徴発だろうが)こそが最良の兵士だと
最初に主張しそして実践した人間は16世紀のニッコロ・マキャベリだった
 「戦術論」は、国家の主権者たる者の資格を説いた「君主論」、国家の自主独立の理由を説いた
「政略論」と並んでマキャベリ3部作の一つである
 「戦術論」の中で、マキャベリは国家を維持するために必要な軍備を語り、
戦術上の積極的な改正について著述し、結果、彼はフランス革命がもたらした軍事上の変化である
一般徴兵制度を予見した近代戦争の予言者として後世に知られることになる

 彼は1499年にフォルリとイモラの領主カテリーナ・スフォルツァ伯夫人に対して傭兵契約の
継続交渉を行ったが、この任務の失敗が彼が傭兵に対してトラウマに近い不信を抱く最初の経験となった
 彼はその著作の中でこう述べている
 「傭兵はほんの一握りの報酬が目当てで、他に何の動機も何の感情もない」
 「金の力だけでは傭兵に忠誠を期待できない」
 彼は、国家こそが最高の価値であり、そのために全てを犠牲にし死ぬことを望む人々のみが
抵抗しがたい強力な軍隊を構成することができると主張し、そのために一般徴兵による歩兵軍こそが
必要だと説いた
 彼は当時戦場で猛威を振るいはじめていた火器に対しても冷淡だった
 火器特に大砲が技術家や技師の専門的な仕事であることが理由だった
 彼は、戦争には国家のあらゆる力が必要であり、特に指揮官の能力と兵の勇気こそが最も決定的な要素
であるが故に、火器を認めはするが重視すべきでないと考えたのだった

 マキャベリの軍事思想の中核をなしていた一般徴兵による歩兵軍の推奨は、
彼の信仰するローマ軍が徴集された歩兵軍を中核としていたことが理由だった
 事実、彼の一連の軍事的著作の内容はローマの軍事制度の解説書といっても過言ではなかった
 彼の意図するところは、16世紀にローマ軍を蘇らせることにあった

 マキャベリの理想はともかく、傭兵への報酬で財政の逼迫していたフィレンツェ共和政府にとって、
トスカナの人的資源を利用して廉価で精強な軍隊を作り上げるという彼の主張は歓迎された
 1506年、彼は自ら18歳から30歳までの全ての男子に兵役の義務を課した法案を起草し、
その施行にあたっても、国中を飛び回って将兵を選び、訓練を監督した
 1509年のピサの攻城戦で市民軍が傭兵軍の支援を行った際はその兵站業務を一手に引き受けた
 彼自身は異論があるかもしれないが、間違いなく人生における絶頂の瞬間だった


そんだけ
228報酬目当ての傭兵:01/09/25 00:46 ID:amWDCKUU
 マキャベリの描く戦闘の推移は、中央に歩兵、側面に騎兵と散兵を配置し、
砲兵の一斉射撃の後に騎兵と散兵が戦闘に入り、機を見て中央の歩兵部隊が突進するというものであった
 主力部隊とも言える歩兵部隊は3個横隊で編成されており、これも彼が崇拝するローマのレギオンを
範としていた
 決戦兵力である歩兵部隊は、片手槍と楯を持つ第1線の密集隊形の後方に、
片手剣と楯を備え比較的散開した第2線を配し、その後方に更に散開した第3線を配置していた
 この3線配置こそが戦力に縦深性と靱強性を与えることが出来ると彼は主張していた
 彼は高らかに謳い上げている
 「何という大殺戮! 何と大勢の負傷者! 敵は潰走を始める!
  見よ! 彼らは左右に逃げ惑う!
  戦闘は終わった! 我らは輝かしい勝利を得たのだ!」
 最後の一文を除けば描写は正確だった

 彼は、軍事改革の具体的なマニュアルとして、科学的思考に基づく戦略の示唆、あらゆる状況に応じて
採るべき戦術、将兵に要求される資質、訓練と教育の要領、指揮の心得等、自らの軍事理論に従って様々
な提言を行った
 しかし、弩兵、銃兵等の投射兵科への無理解、突撃兵器である装甲槍騎兵と防御兵器である槍兵の軽視、
野戦陣地に対する認識不足、戦力の集中に対する誤解、砲兵と要塞への無知、何より一般徴兵された
市民兵に対するロマンチックに彩られた妄想に近い期待は、大量の流血とフィレンツェの失陥をもたらし、
そして彼自身の政治生命にトドメを刺すことになる

 1512年、メディチ家復権を要求してフィレンツェに迫る皇帝軍に対し、
フィレンツェ市民軍はこれをプラトーの街道上で迎撃した
 しかしフィレンツェ軍は皇帝軍砲兵の最初の斉射で混乱し、潰走の途中で4000名以上が虐殺され、
メディチ家は勝利者としてフィレンツェに凱旋した
 彼は、中産階級が市民軍に参加せず、貧民や貧農からなる訓練未熟で愛国心に欠ける雑兵であったこと
が敗因であるとし、幾度も逆境から盛り返したローマを引き合いに出してフィレンツェ共和政府指導層の
鼓舞に努めたが、他に食う手立てがある人間が微々たる報酬で好きこのんで兵士になる訳がなかった
 現実世界と脳内世界のギャップに失望したマキャベリは、以後その活動範囲を紙の上にとどめることに
なった

 「金の力だけでは国家を防衛することが出来ないばかりでなく、かえって敵の好餌として狙われる」
 「戦争の決め手となるのは金の力でなく精兵であると主張する
  金の力では精兵を集めることは出来ないが、精兵をもってすれば黄金を手に入れることなど簡単至極
 だからである」
 彼は、当時の軍隊を「烏合の衆」とみなしてきた
 「徹頭徹尾、見事なくらい無規律」で、「将軍の采配」や「作戦計画」は中世の戦争にはうまく
当てはまらないと信じていた
 彼は間違っていた
 実際には、新しい要塞が築かれ、指揮官たちは兵士を増やし、訓練を強化し、作戦期間を延長し、
時には数年も続く巧妙な消耗戦略を立て、機動戦と小競り合い、延々と続く包囲戦を戦っていたのだ

 彼は一般徴兵された忠良な兵士たちこそ国防の中核と信じた
 彼の予言は18世紀に現実のものとなったかに見えた
 しかし実際のところ、それを成し遂げたのは兵士たちの忠誠心などではなかった
 全くもって金の問題だった


そんだけ
229227〜228:01/09/25 00:49 ID:amWDCKUU
上記2レスはスレを立てられた1氏への感謝の意味で追加させて戴きました
230経験者優遇:01/09/25 18:10 ID:YQ8dBtuY
 軍隊が喉から手が出るほど欲しがっていたのは、名誉欲にとりつかれた人間や囚人ではなく、
既に武器の扱いに習熟し、プロフェッショナルな兵士になっている古参兵だった
 このような古参兵は、機会があれば軍隊から軍隊を高賃金で渡り歩いた
 サー・ロジャー・ウィリアムズやウィリアムズ・ガラード、ハンフリー・バリック等の
熟練した戦闘指揮官は、イングランド国内だけでなくネーデルランドでスペイン軍とオランダ軍両方に
従軍した経験があった
 フェリペ2世に仕え、当時最強の指揮官と言われたフリアン・ロメロは、1545〜1546年と
1547〜1551年にイングランドの占領軍の一員として1000名のスペイン人傭兵を指揮して
スコットランドでも戦った

 1590年代には、スペインのフランドル方面軍、フランスのカトリック同盟軍、
それにハンガリーの皇帝軍が良質な古参兵を求めて熾烈な争奪戦を繰り広げ、
軍籍を移す意向を見せた人物には高額の報奨金が提示された
 ヨーロッパの大半に戦火が拡大した1640年代にも同様の事態が再現された
 ヨーロッパ大陸にいたイングランドやスコットランド、アイルランドの兵士たちは、
帰国して国内の内乱に参加するようしきりに誘いをかけられた
 将校や完璧な訓練を受けた下士官、兵卒がどれくらい帰国したかはっきりとは解らないが、
内乱期の両軍が大陸の戦術をすぐに取り入れたところから見て、恐らく大勢いたに違いない

 エドマンド・ラドロウの手記によると、当時どの軍も古参兵を渇望していたことが窺える
 後に議会軍で大佐にまで昇進したラドロウは、内乱が勃発したとき17歳で、
軍事的知識は何一つ無かった
 そこで法学院の学友たちと共に「軍隊の経験が豊富で、私たちに武器の使い方を教えてくれる人」を
捜したが誰もいなかった
 1642年9月、ラドロウの連隊は敵が進軍してくるという噂で完全なパニックに陥ったが、
「ある老齢の兵士」が編制替えしてくれてようやく鎮まった
 翌月のエッジヒルの戦で、ラドロウの連隊は味方の騎兵に砲を発射してしまった
 大惨事が避けられたのは、不慣れな砲手が砲の狙いを外し、火薬の量を間違えたからだった


そんだけ
231歴戦:01/09/25 18:11 ID:YQ8dBtuY
 古参兵が求められたのは当然だった
 モントロウズ侯ジェイムズ・グレイアム指揮下のスコットランド人とアイルランド人からなる
小軍勢は、1644年8月にスコットランドに上陸、それから12ヶ月の間に王国をほぼ一周する
3000キロを走破し、その間に6つの野戦(ティパミュア、アバディーン、インヴァロッキ、
オルデーン、アファード、キルサイス)に従事し、スコットランド政府の兵力をあらかた
粉砕してしまった

 兵力数と装備ではるかに優勢な敵を次々に打ち破ったモントロウズ軍の勝利が何故なのか、
当のスコットランドも理解できなかった
 アファードの戦の直後に、あるスコットランド兵は「この5度目の戦いで、この世で最低の兵からなる
1個中隊の前に我らを屈服せしめるのが神の望み給うところとは意外千万」と記した
 またもう一人は、「主よ、愚劣でとるに足らない敵に我が軍のかくもの連敗、これで5度目を
数えたのは何故か、お教えください」と綴った

 だが敵は、「最低」でも「愚劣」でも「とるに足らな」くもなかった
 モントロウズ指揮下の兵力はせいぜい3000かそれ以下に過ぎなかったが、
その3分の2は1641〜1642年にアルスターで戦った古参兵で、
中にはスペインのフランドル方面軍に従軍した経験を持つものもいた
 これらの古参兵は、ネーデルランドのアイルランド人連隊の中からスペインの許可を得て
特別に徴集編成され、ダンケルクで借り上げたフリゲート艦2隻でスコットランドに
送り込まれたのだった
 気の毒なスコットランド軍を打ち破った敵は、実は並外れた精鋭だったのだ


そんだけ
232最後の切り札:01/09/25 18:13 ID:YQ8dBtuY
 古参兵を雇い入れることがいかに有利かは誰の目にも明らかだった
 スチュアート朝期のイギリスのように1世代のあいだ戦争を経験していなかった国となれば
ますますそうだった
 実際、訓練を積んだ兵士の需要は極めて大きかったから、敗軍の兵士や捕虜が
敵軍にそのまま徴用されるのが当たり前になった
 議会軍がネイズビーで大勝した後、捕虜になった大勢の国王軍兵士は、
フランス国王やスペイン国王の代理人によって直ちに徴発された
 しかし、それを上回る数の国王軍兵士が勝利したニュー・モデル軍に合流したのだった

 このようなやり方は三十年戦争中のドイツでも日常化していた
 戦争捕虜は、宗教や政治的な立場の違いなどお構いなく、丸ごと敵軍の兵力に加わるよう説得された
 このため、個々の部隊に占める古参兵の割合が驚くほど高くなることもあった
 とは言え、昨日の敵に今日は護衛になるよう勧めることは明らかに危険もあった
 「ドイツでは誰もが鵜呑みにしている危険な格言があり、当地の軍人たちも易々とこれに順じている
 それは、『主人が誰であろうと忠義であれ』という格言である」
 同じ国の出身者からなる軍勢同士では戦いたがらなかったこともあった

 このような格言に潜む危険を回避するため、近世ヨーロッパ諸国は徴兵制によって
その国の国民だけからなる軍勢を、例え少数でも編成しようとした
 この場合の常套手段は、犯罪者か失業者を徴募することだった
 前述のスコットランドのように、海外に派兵しなければならない時にはこの方法が採用されることが
多かった

 イングランドでは、1588年から1595年にかけて4万の兵力が海外派兵を目的に徴発され、
1624年から1627年にはネーデルランド、スペイン、フランスへの遠征用に5万の兵力が
徴募された
 そのうちのかなりの部分は、指定された割当人員を差し出すよう政府から命令を受けた地方行政官が、
本人の意志に反して入隊させた「好ましからざる人物」だった
 スコットランドでは1640年に盟約派がイングランドに対する作戦用に2個連隊を徴発したが、
その兵士たちは新兵徴発将校に「各教区の牧師が引き渡した姦通者、不義を働いた者、窃盗犯、殺人者、
大酒呑み、安息日を破った者たち」ばかりだった
 こうした方法で十分でないときは、政府は各地の民兵(国内における防衛任務のみを目的に徴発された
部隊)の一部を徴発することもあった
 フランスのルイ14世、スペインのフェリペ4世、イングランドのチャールズ1世は、
いずれもこれを命じたが、国内の不満があまりにも大きく、あくまでも最後の手段として、
それも短期間に限ってのみ採用されたに過ぎなかった


そんだけ
233獅子王の兵隊になるということ:01/09/25 18:14 ID:YQ8dBtuY
 近世ヨーロッパにおいて存在した唯一の恒常的な兵役義務制度といえば、カール9世と
グスラフ・アドルフの治世にスウェーデンの首都周辺部とフィンランドに導入された
「インデルニンクスヴェルク」と呼ばれる地域割当制度である
 最初に国民皆兵制計画が立案されたのは1600年代のことで、15歳以上の全ての男子が名簿に
登録された
 そして、1620年以降、公定の割当率が定められた
 1教区あたり男子の有資格者のうち1割の兵士を出し、教区がその兵士の扶養、装備、食費を負担する
というものだった
 もっとも、社会集団の違いによって徴発されやすい人とそうでない人がいる状況には変わりなかった
 兵士を選ぶ教区集会に欠席すると自動的に徴兵された
 貴族や聖職者、鉱夫、武器職人、寡婦の一人息子は除外された
 かくして、当然のごとくスウェーデン兵の大半が農民となった
 政府は毎年必要な新兵の総数を割り出し、地方の教区に割当人数を振り分けた
 1627年に1万3500、1628年に1万1000、1629年に8000、
1630年に9000で、それ程多くないと言えるかもしれないが、
恐るべきは当時のスウェーデンが推定総人口150万程度の小国であることだった
 特に、僻地の小共同体に兵役義務制度が及ぼした長期的な影響は壊滅的だった
 入隊は事実上死刑宣告に等しかった
 不具になって帰還した少数の好運な者を除けば大抵はその年のうちに死亡し、
終戦まで生き延びた者は殆どいなかった


そんだけ
 スウェーデン北部のビュグデオという教区は1621年から1639年までの間に
ポーランドとドイツに出征するために230人の若者を送り出したが、
そのうち215人は出征地で死亡し、5人は不具となって帰還した
 残った10名は1639年になっても兵役についたままで、恐らく9年後の終戦まで生き延びた者は
1人もいなかったに違いない
 このような一方方向の人口移転が続けば、スウェーデンの人口に壊滅的な打撃を与えても不思議でも
何でもなかった
 ビュグデオの成人男子人口は1621年から1639年までに40パーセント減少した
 10代の若者が徴集されるようになると、徴集兵の平均年齢が低下していった
 1639年のビュグデオの徴集兵のうち半数は15歳で、2人を除く全員が18歳未満だった
 1640年までにビュグデオでは女性の世帯主が7倍に増加し、働き手の成人男子は既に徴集兵リスト
に名を連ねており、そうでなければ重度の障害のために兵役につけないかのどちらかだった
 そして、忘れてはならないのが、ビュグデオの例は特別でも何でもないことだった

 マンパワーの枯渇は無論1640年で収まったわけではなかった
 1642年に7000名が、1646年に6600名、1648年に7100名の
スウェーデンの若者がドイツや他の地方に派兵された

 スウェーデンのインデルニンクスヴェルク制度はカール11世の時代に見直され、
その後は国内防衛力としてかなりの能力を発揮したが、依然として国外遠征ではその限界を露呈した
 デンマークも1627年に恒常的な徴兵制を導入したが、これは防衛兵力に目的を限定していた


そんだけ
235誰も帰ってこなかった:01/09/25 18:16 ID:YQ8dBtuY
 外国での作戦に従軍するために派兵された兵力の場合、かなりの割合が二度と帰還しなかった
 アイルランド戦争で武勲をあげたエリザベス女王の指揮官マウントジョイ卿は、
1601年に捕虜になったアイルランドの反乱軍兵士が外国の軍隊に入隊することを許可した
ことについて詰問されたとき、「一度このような旅路に出向くとなれば、この国の者どもの4分の3以上
は二度と帰らぬこと周知の筈」と弁明した
 脱走を含むあらゆる原因によって生じた損耗率は年平均20パーセント以下だったが、
作戦行動中の死傷者がとてつもない数に達することもあった

 1644年のマーストン・ムアの戦では国王軍の20パーセント、約4000名がその日に死んだ
 この数字には負傷者及びその後の戦傷死者は含まれていない
 しかし、この数字もルイ14世の戦争の水準に比べればささやかなものだった
 1709年のマルプラケでは、勝利した連合軍ですら兵力の25パーセントを喪い、
戦死者は2万4000に達した

 攻城戦もこれに劣らず兵の損失は大きかった
 1628年のシュトラールズント封鎖中、前述のマッカイのスコットランド人連隊は6週間にわたって
攻撃側の砲火を浴びながら任務に就いており、この間に連隊兵士2500名のうち500名が戦死し、
300名が負傷した
 攻撃側の損失も時には甚大なものになった
 当時、「大都市は軍隊の墓場」と言われたが、それは大勢の兵士が都市の周囲に掘った攻城壕の中で
死んだからだった
 1569年にサン・ジャン・ダンジェリ要塞の指揮官は、長い包囲の末に降伏するにあたって、
自分が降伏の時期を引き延ばしたおかげで、1万を超える敵兵が城壁の下で死んだ筈だと自負した
 これは誇張かもしれないが、恐るべき数字を弾き出した例は珍しくなかった

 イングランドのリチャード1世は1628年にラ・ロシュル救援のために派遣したが、
6月にポーツマスを出航した7833名の兵士のうち、409名は上陸した直後に死亡、
100名が塹壕で死亡、120名が赤痢で死亡、そして失敗に終わったフランス軍の攻城陣地への襲撃と
最後の退却で3895名が死亡した
 最後に、320名が行方不明となり、恐らくほとんどは脱走兵だった
 結局、10月に帰還したこの作戦の生存者は2989名、作戦開始時の兵力の38パーセントだった


そんだけ
236逃げるにはいい日:01/09/25 18:17 ID:YQ8dBtuY
 海外遠征軍から脱走を試みることは容易ではなかったが、給料も食糧も与えられずに塹壕の中で
数週間を過ごすと、古参兵といえども逃げ出すためにどんな危険も厭わなかった
 1622年のスペインのフランドル方面軍によるベルヘン・オプ・ゾームの攻囲作戦では、
町の周囲に露営していた2万6000のうち40パーセントが喪われたが、そのうち少なくとも
2500は包囲されている町に逃げ込んだ

 任務が余りに過酷になると、時と場所によってはほぼ全軍が空中分解することも無いわけではなかった
 北アフリカのオラン要塞の守備隊は、1608年から1619年までに4000名以上のスペイン兵が
自発的に脱走を図った
要塞を守り続けるよりも、投降してムスリムの捕虜になりアルジェで十分な食糧と快適な環境を
与えられることを選択したのだった
 スペイン軍の脱走率は、倍によっては更に跳ね上がることもあった
 1576年6月、フランドル方面軍は6万の兵力を有していたが、11月には1万1000に激減した
 1630年代には、脱走による兵力喪失が7パーセントに達する部隊もあった

 フランス軍も事情は大差なかった
 1635年に南部ネーデルランドに展開していたフランス軍兵力は書類上は2万6500だったが、
10月の実数は1万程度だった
 1636年、公式には1万4000と報告されていたシャンパーニュ方面軍は、
6月には実数6000まで減少していた
 戦争が長引くにつれ、事態は悪化の一途をたどった
 編制定数120のフランス軍歩兵中隊の平均実質兵力は、1637年には50、
1747年には21だった


そんだけ
237敵前逃亡は許しません:01/09/25 18:18 ID:YQ8dBtuY
 建前と実際の兵力数にこれほど大きな開きが出る以上、ある時点における自軍の正確な兵力数を
政府や指揮官が正確に把握できたはずがなかった
 1635年に出された指令は、歩兵6万、騎兵9000の前線兵力を確保するため、
歩兵13万4000、騎兵2万1000の徴発を命じた
 スペインとの戦争期間を通じて、1万2000の兵力を前線に送り込むため、
2万の新兵を徴発しなければならなかった
 入隊時の消失率は40パーセントに達する、という前提があったからだった
 もっとも、この数字は運営上の仮定に過ぎなかったが

 問題の最終的な解決策は、脱走兵とその幇助者に厳格な罰則を科す以外になかった
 1684年から1714年までに、軍隊からの逃亡者1万6500が捕縛され、マルセイユに送られた
 この期間にフランス海軍のガレー艦に乗船させられた囚人の漕ぎ手の約半数は、
これらの脱走兵で占められていた
 かくして、ルイ14世の治世になってようやく脱走率は下降線をたどるようになる

 もっとも、近世ヨーロッパ諸国は古代ローマ帝国ほど過酷な手段に訴えたことはなかった
 ローマ軍では脱走した場合に捕らえやすいように、入隊にあたって新兵は焼き印を押されていたのだ


そんだけ
238兵隊になって本当に良かった:01/09/25 18:19 ID:YQ8dBtuY
 兵士たちに金儲けの機会を与えてやれば、それだけでも脱走を減らす有効な方法になった
 略奪品と戦利品は、全ての兵士が享受すべき合法的な報酬と考えられていた
 略奪のやり方はいろいろあったが、最も手っ取り早い方法は、殺す、拷問する、
家や財産を破壊すると脅して民間人から金品を巻き上げることだった
 進軍経路にあった村落は最も手軽な餌食だった
 一つに戦争の間に何度も繰り返し略奪された村もあった
 少人数の分遣隊でもかなりの稼ぎを手にすることもあった
 商用で旅の途上にある商人も格好の標的だった

 このように孤立した無防備に近い民間人を犠牲にして略奪品を手に入れる場合、
兵士は危険を冒さず稼ぐことが出来た
 しかし、戦闘に勝った場合には、危険もさることながら報酬ははるかに大きかった
 1回の戦闘で戦闘で数千の捕虜が出ることもあり、捕虜をとった兵士はその所持品を全て自分のものに
することが出来たし、捕虜の請戻し金は捕らえた兵士と指揮官の間で一定の比率で山分けされることに
なっていた
 敵の町を陥落させた場合はさらに大きな獲物を手に入れるチャンスがあった
 攻囲軍が砲を据えるまで降伏に応じなかった町は、略奪されても合法であるとされた
 実際にはこのような事態が起きて町が陥落した時には、住民は権利と財産を没収され、
生命まで奪われたから、入城した兵士はみな王侯貴族になれた
 例えば、1576年11月にアントウェルペン攻略し、半年後にイタリアに帰還したスペイン軍兵士は、
2600トンの略奪品を携えて帰ってきた
 しかもこれとは別に、捕虜の請戻し金で得た莫大な金額を為替手形で母国に送金していた
 クロムウェルの鉄騎隊が1650年9月のダンパーの戦から1年後のダンディ攻略までに稼いだ
戦利品は、60隻の新造艦の艤装を賄えたほどであった

 もっとも、このような好運は滅多に起こらなかった
 遠征とは、数ヶ月に及ぶ長い機動作戦の後、攻城戦が冬場まで持ち越され、
長い交渉の末に開城にこぎつけるのが普通で、疲れ切って意気の上がらない攻囲軍の兵士が得られる
金品などほとんどなかった
 戦争で金持ちになった兵士が一人いれば、けがと不治の病以外に何も身につかなかった兵士が
50人はいるとまで言われていた


そんだけ
239浪人者とは甘く見たな(ニヤリ:01/09/25 18:21 ID:YQ8dBtuY
 長期に及ぶ敗北続きの遠征では、雪崩のような大脱走と反乱によっていとも簡単に全軍が解体しても
おかしくなかった
 作戦中の部隊の全員または一部が上層部に対して謀反を企てることは珍しくなかった
 スペインのフランドル方面軍などは、1572年から1609年までの間に未遂も含め
大小45回の反乱事件が発生した
 これらの反乱は、1573年のハールレム、1576年のジーリクゼーのように攻囲していた町が
寛大すぎる条件で降伏した直後に起こることが多かった
 しかし、長期にわたって動員され、しかも国外で作戦行動中、またはその予定の部隊では、
スペイン軍ならずともたびたび騒動が起こった
 イタリア戦争に従軍したフランス軍のスイス人とドイツ人の傭兵、16世紀末にアイルランドと
ネーデルランドに出征したイングランド軍、1630年代から1640年代にかけてドイツで戦った
スウェーデン軍、内乱を戦い抜き、さらに1647〜1649年にアイルランドでさらに任務を続行する
よう強要されたニュー・モデル軍、1650年代にスペインに派兵されたオーストリア軍は、
いずれも度重なる兵士の反乱と不服従に悩まされ、一時的に戦闘能力を失い、不満が解消された後は
部隊から大量の転属者を出して終わるのが常であった

 近世の軍隊とは、ありとあらゆる手段で新兵を掻き集め、損耗率が高く、しかも部隊は頻繁に
移動したため、いかなる編制であれ部隊としての一体感や団結は脆いものだった
 ある部隊が消滅すると、生き残りは別の部隊に編入された
 かくして作り出された軍隊は、「ノアの箱船の軍隊」で「人間の博覧会」の観を呈した
 あらゆる出身地から来た志願兵、重犯罪人、多国籍旅団、地元の民兵、封臣、家臣、郎党、
食い詰めた失業者などが混ざり合っていたのだ

 だからといって、このようなコスモポリタンな状態を否定的に判断することは間違っている
 雑多な人種と階層を掻き集めた烏合の部隊であっても、このようにして編成された部隊は
古参兵の集団である以上、高度な軍事的経験と能力を持ち合わせていた
 兵士の出身地が様々である以上、命令伝達に困難をきたすだろうが、問題はその程度に過ぎなかった
 古参兵として合流した兵士の能力を疑うことなどあり得る筈がなかった


そんだけ
240お金がない:01/09/25 18:22 ID:YQ8dBtuY
 もっとも、どのような方法で徴発されようと、兵士に手当を支払い、扶養し、
装備を整えてやらなければならないことに変わりはなかった
 確かにこの問題は、近世に限られたことではない
 しかし、16世紀から17世紀には、いくつもの要因が重なって事情はとりわけ深刻だった
 第一には、各軍の兵士と兵器の量が膨らんだだけでなく、それぞれ単価も上昇したことがあげられる
 その上、当時の指揮官たちが常用した消耗戦略のせいで、それまで以上に長期にわたる資金調達が
必要になった
 イタリアの政治理論家ジョヴァンニ・ボテロが述べるように、
 「戦争は出来る限り延長され、その目的は打ちのめすことではなく疲れさせること、
撃破するのではなく疲弊させることにある」からだった
 戦争は、軍事力だけでなく財政力を計る試金石となった
 戦争は一種の経済行為になり、浪漫もへったくれもなく金のある者が勝つようになった
 スペインの外交武官ドン・ベルナルディード・デ・メンドーサは、
その著書の中で当時の戦争の原則を身も蓋もなく示した
 「最後の銀貨を持つ者が勝利する」

 もっとも、最後の銀貨がどこにでも転がっているわけではなかった
 現代、政府は国家予算総額に占める国防支出の割合があるレベルに達すると必ず批判に晒される
 例えば、アメリカでは29パーセント、フランスでは17パーセント、イスラエルでは41パーセント、
我が国では1パーセントである
 ところが当時の軍事支出はこれらの例をはるかに上回っていた
 ルイ14世は75パーセントを、ピョートル大帝は85パーセントを戦争の大鍋に放り込んでいた
 1650年代のイギリスの場合、あろうことか国家歳出の90パーセントが陸海軍費に
あてられていた
 しかしこれでもまだ足らなかった
 ニュー・モデル軍の給与は未払いのままで、海軍に対しても陸軍とほぼ同額の債務があり、
納税者は不満を訴え、政府はいつも資金不足に悩まされていた
 「とにかく足りないのは金であり、これが我々の仕事をいつも頓挫させる」
 そのうえこれらの国々の主要都市は新型の稜堡を備えた要塞を建設し、維持し、防備を固めるのに
同じ位巨額の資金をつぎ込まなければならなかった


そんだけ
241ローン・レンジャー:01/09/25 18:24 ID:YQ8dBtuY
 もっとも、ルイ14世のフランス、ピョートル大帝のロシア、クロムウェルのイギリスは、
ある共通の性格を持つ国家だった
 第一に、これらの国々は周辺国から嫌われ、孤立していたため、戦費を賄うために外国からの借入金を
調達することが不可能ではないにしろ容易ではなかった
 第二に、にもかかわらず各国とも、大規模な常備軍を数年間継続し提示できる十分な国力と資源が
国内に整っていた
 政府が思いのままに使える国内収入がそれ程多くないところでは、他の手段に頼らざるを得なかった
 テューダー朝期のイングランドは、1538年から1552年までにフランスとスコットランドとの
戦争に大金を費やし、枢密院の計算によれば総額で350万ポンドに達し、大半は1542〜1550年
に支出された
 これは年平均して約45万ポンドの出費だったが、問題は国王の収入が年20万ポンド程度に過ぎない
ことだった
 たちまち巨額の赤字が膨らんだ
 不足分の一部は、ヘンリ8世がローマ教会と決裂した後に没収した教会領を売却して穴埋めした
 資産価値80万ポンド相当の修道院領(没収した教会領の3分の2にあたる)が1547年までに
売却された
 また、一部は新税や強制借上金、没収金で賄った
 それでもなお、外国の金融市場への利払いのために、巨額の資金を調達しなければならなかった
 1552年までに利子の未払い分は50万ポンドに達し、その債務は1578年にようやく完済された


そんだけ
242王様、ツケがたまってます:01/09/25 18:24 ID:YQ8dBtuY
 ハプスブルク家も、資産を売却して戦費を賄わなければならなかったが、
収入源は棚ぼたの教会領ではなく、新大陸アメリカの財宝だった
 カール5世は、メキシコとペルーから定期的に金銀の船荷が届いたおかげで、空前ともいえる巨額な
借入金を西ヨーロッパ各地の金融センターから何とか調達できた
 1520年から1532年にかけて、カール5世は540万ドゥカート(英貨で約100万ポンド)、
年平均で41万4000ドゥカートを借金した
 1552年から1556年までフランスとトルコと戦争していたときには960万ドゥカート、
年平均200万ドゥカートを借金した
 債務額だけでなく債務経費も膨らみ、1520年代には年平均18パーセントだった債務の利払率は、
1550年代には49パーセントに達した
 これらの負債は全て将来の収入で返済していかなくてはならなかった
 かくして、息子のフェリペ2世が1556年7月に即位したとき、スペインの1561年までの
歳入費全てが借入金の返済と利払いにあてるために抵当に入れられていることが判明した
 そこで、フェリペ2世は1557年6月に「破産布告」を発し、これら高利の短期債務を
利率5パーセントの償還可能な長期の年金に一方的に切り替えた
 さらにフランスとの戦争のために3年間巨額の借金を続けた直後の1560年、
フェリペ2世はもう一度同じ手を使った
 フェリペ2世に続く歴代のスペイン国王は、1575年、1596年、1607年、1627年、
1647年、1653年にも同じ戦術を繰り返した
 自分の資金を押収された銀行家たちは、国王の背信行為に当然怒り狂った
 彼らは破産布告が発布されてからしばらくは、スペイン国王に対する資金貸与を拒否した
 しかし、銀行家の抵抗は常に国王に押し切られた
 新規の貸与金が先払いされるまで現在の負債の利子は一切支払わないという、国王の単純で強引な
方策が功を奏したからだった
 このようにいい加減で無茶苦茶な方法を繰り返したおかげで、スペイン政府は長期借入金債務を
1556年の600万ドゥカートから、1世紀後には1億8000万ドゥカートにまで増やすことが
出来たのである

 これはしかし、戦争に勝つためには危なっかしいやり方だった
 スペイン国王が当座であれ破産したことで、スペイン軍の作戦はしばしば頓挫せざるを得なかった
 1575年に支払いが停止されたとき、フェリペ2世は優勢に進めていたフランドル方面軍の
対オランダ反乱鎮圧作戦を続けられなくなり、その後9ヶ月間、給料未払いの兵士たちの反乱が
起こったため、ネーデルランドにおけるスペイン国王の支配力は機能しなかった
 1627年の破産も同じように、ネーデルランドに軍事的な麻痺状態を引き起こし、スヘルトヘンボス、
ヴェーゼル、そしてスペイン軍が占領していたウェストファリア地方の諸都市をみすみすオランダ軍に
奪われる結果になった
 これに対して、オランダ人は新しい資金調達システムを既に考案しており、結局これがオランダを
救うことになった


そんだけ
243低い土地の金庫番たち:01/09/25 18:29 ID:YQ8dBtuY
 オランダ諸州は16世紀前半、将来の税収を担保に返済を保証した戦時債務に対して連帯責任を
負うようになった
 利払いと最終的な償還に公的な保証を与えたのである
 オランダ人は高利率を提示した上、担保も安全だったので、内外の投資家から膨大な資金が流れ込んだ
 17世紀になると、オランダの利率は1600年の10パーセントから1655年の4パーセントへと
段階的に下がっていったが、それでもオランダは公開市場で必要に応じて幾らでも戦費を調達することが
出来た
 オランダで最も豊かな州であったホラント州は、1630年代の税収額は、
年に1100万フローリンと見込まれており、これに対して戦費は約1200万フローリン、
利子債務が700万フローリンに達した
 従って、年間の赤字額は800万フローリン前後にのぼったことになる
 この不足分を埋め合わせるための借入金は、スペインとの長い戦争が終わった後の1652年には、
1億3200万フローリンを計上していた
 この債務の大半はまもなく返済されたが、投資家はこの償還を歓迎しなかった
 オランダが決定した元金の一部返済を喜ぶどころか、逆に、これほど安心で簡単だった利子配当を
今後何に振り向けたらよいか途方に暮れたのだった
 オランダが最終的な勝利を収めたのは、実際にはマウリッツの新戦術などでなく、この「財政革命」に
よることだった

 この成功は、1690年代にはイギリスで早速模倣された
 おかげでウィリアム3世とその同盟国は、資源力で抜きんでていたルイ14世のフランスに対抗できた
 ウィリアムの跡を継いだアン女王の時代になると、イギリス政府は1702年から1713年の
ルイ14世との戦争に9360万ポンドを費やしたが、このうち31パーセントは借入金で
賄われたのだった


そんだけ
244つけ払いの戦争:01/09/25 22:11 ID:BxKbR/bk
 もっとも、これはまだ先の話だった
 16〜17世紀の大半のヨーロッパ諸国の政府は、軍隊規模の膨張と物価の高騰が引き起こした問題に
おいそれと対処できなかった
 結果、兵士個人に手当を支給するという昔ながらのやり方は次第に廃れ、
一種の委任方式がとられるようになった
 つまり、各国政府は自分の手に負えなくなった兵力編成を、個人の請負業者や企業家に金を払って
委ねたのだった

 16世紀末頃のヨーロッパ諸国の中には、海外派兵部隊を中心に兵員調達と物資補給を請負業者に頼る
例も見られた
 だが、このシステムが全盛を極めたのは三十年戦争だった
 一人または複数の将軍と契約し、兵員の調達に従事していた軍事企業家がヨーロッパ中にいた
 彼らは財源や人員の乏しい政府に代わって完全装備の連隊や旅団を組織し、ヴァレンシュタインや
ザクセン・ワイマール公ベルンハルトほどになると、一国の全戦力までをも編成した
 軍事企業家になるための資格は経済力だった
 軍事的手腕は必須の条件ではなかった
 マンスフェルト伯エルンストやドド・フォン・クニュプハウゼンのような軍事企業家は、
敗戦につぐ敗戦を重ねながら、ただ組織運営能力だけで自軍を統括しおおせた

 しかし、軍事企業家は事業を成功させるために富が必要だった
 ヴァレンシュタインは、1621年から1628年の間に600万ターレルを皇帝のために
立て替えていたし、ザクセン・ワイマール公ベルンハルトの1637年の個人資産は45万ターレルと
見積られていた
 皇帝軍の指揮官ヘンリク・ホルクは、無一文の身から1627年に故国のデンマークに
5万ターレルの所領を購入できるまでの金持ちになっていた
 スウェーデンの将軍ケーニヒスマルクは、一兵卒から身を起こし、1663年に死んだときには
200万ターレル掃討の資産を遺した

 実際、こうした企業家の貸付金が無尽蔵だった訳ではなかった
 兵士への支払いをいつまでも自分の資金で払い続ける訳にはいかなかった
 実は、兵士に十分な給料をはずんでいた訳でもなかった
 三十年戦争に従事した兵士たちの受け取る給料は、農業労働者の水準と同程度だった
 違いは、請負業者が徴発した軍隊は複雑な軍事財政システムによって維持されていたことだった
 このシステムは、ネーデルランドで戦ったスペインとオランダの将軍たちが考案したもので、
個人資産で先払いした金額を、政府がローンを組んで支払い続けるものだった
 このシステムに絶対必要な条件は、国庫から十分でないにせよ定期的に現金が送り続けられる
ことだった
 この金が兵士たちに直接支払われた訳ではなかった
 政府は、ただ戦争起業家たちの個人債権を継続させ、彼らが先払いしていた兵士への支払額を
返済すればよかった


そんだけ
245244:01/09/25 22:14 ID:BxKbR/bk
ナポレオンへの伏線張る積もりで兵站関係書き始めて収拾がつかなくなってます
すいません
あの大王はもう少し先になりそうです
246バキャ:01/09/25 22:45 ID:q.rpZKNo
>>229
 これは恐れいります、まいど長文の書き込みご苦労様です。今日はとりわけ多いですね、
どうもお疲れさまでした。しかしスウェーデンの1市町村の情報まで何処からもって来られた
のでしょう?、そんだけ氏って詳しすぎ。
247おさむらいを雇うだ:01/09/27 21:07 ID:TeBdHPQs
 兵士が直接金を受け取ることのないこのシステムが、下士官と兵卒が飢えて死ぬことを意味している
訳ではなかった
 実際には別の手段でそれなりの生計を手にしていた
 確かに、略奪を繰り返すだけでは荒廃が進むだけであった
 軍隊が地域にすがって生きるためには、地域からの資源搾取を組織的に管理する必要があった

 最も単純な方法は、「焼討金」と呼ばれるものであった
 軍隊が要求した事実上の賠償金を厳禁または物資で差し出さなければ、火を放つ、略奪すると
地元の人間を脅迫する
 町や村は、軍隊の要求に応えるかわりに、今後その軍隊の味方にあたるいかなる軍勢からも
同様の要求がなされないことを保証した保護証書を受け取った
 また、戦闘状態が断続的あるいは恒常的に続いている場所では、敵対する両軍の要塞に定期的に
「焼討金」を支払わなければならない村もあった
 ここまで来ると、一種の軍税制(駐留している領域一帯の住民全員から軍が恒常的に徴収する税)
と言えた

 パルマやヴァレンシュタインのように有能で冷酷な指揮官になると、食糧、衣料、宿泊施設、
軍需品から輸送手段まで、部隊に必要なあらゆる物資補給にこの「軍税」を利用し、
部隊の書記と地元の行政担当者との間で、提供される物資と業務について細かな段取りと数量が
取り決められた
 また、ネーデルランドやドイツ中部のように始終軍隊がやってくる地域では、
予想される進軍経路上の住民が、必要な物資をあらかじめ備蓄しておく「事前警告制」を
導入するようになった
 軍と地域の担当者との事前協議だけでは必要な食糧が確保できそうにない場合、戦争の圏外の商人に
協力を求めることもあった
 オランダやドイツで行われた戦争では、スイスから牛を、イングランドから織布を買いつけた
将軍もいた
 ヴァレンシュタインは、ベーメンの自分の所領から物資の定期納入を制度化していた
 これらの方策は是が非でも必要だった
 フランスのミシェル・ル・テリエが言うように、「兵士に暮らしを約束すれば、国王に勝利を約束する」
からだった
 1640年代になると、軍の管理担当者は兵士の賃金の3分の2を現物支給と考えるようになった


そんだけ
248返品不可:01/09/27 21:08 ID:TeBdHPQs
 こうして、少なくとも軍隊の食糧と装備と衣服を確保することは出来た
 だが、それだけでは無論十分ではなかった
 第一に、自己資金で砲を揃えられる請負業者はほとんどいなかった
 政府は、他の物資に関しては企業家に全面的に頼っても、国防上の理由や莫大な経費に配慮して、
自国が保有する野砲と攻城砲だけは確保しておくべきだと考えていた
 フランドル方面軍では、砲1門に80頭の荷馬、馬夫、荷車の一団が必要だった
 請負業者たちのほうも、作戦の総経費を5割増にしてしまうような砲段列を更に用意するほどの
余裕はなかった

 軍事管理委任システムの第二の限界は、請負業者の支給した装備のほとんどが要求を満たしていない
ことだった
 これは、ある意味では仕方のないことだった
 例えば、3万人の戦闘員を擁する部隊であれば、編成の時点で単純に考えても衣服3万着、靴6万足、
兜3万個、剣3万振、それに適切な数量の銃、槍、甲冑、弾薬、その他諸々を用意しなければ
ならなかった
 特に自衛官なら誰でも知っているように、今日の兵站将校でもこれらの装備品目が一つ残らず
不良品もなく完全な状態で支給されると確約できはしない
 とはいえ、近世の軍隊の支給品にはとんでもない粗悪品も少なくなかった
 1594年から1603年にかけてアイルランドでティロン伯軍と戦ったイングランド軍は、
補給物資の不備で常に大惨事になりかねない状況を抱えていた
 1599年、エセックス伯は、イングランドから送られる増援の兵士は必ず自分の装備を携行してくる
よう主張した
 「当地(アイルランド)では、兵士より先に武器が傷んでしまう
 先頃送られてきた装備品は既にほとんど使い物にならず、新規の兵力に支給するわけにはいかない」
 当時のエセックスはとりわけ苦境に陥っていた
 エセックスがアイルランドに到着したのは、1598年8月にイングランド軍がイエロー・フォードで
敗北した直後で、敗勢を挽回するためにエリザベス女王が4000から1万8000に増強されたばかり
だったからだ
 アイルランドには軍需品を供給する能力がなかったため、エセックスの兵士たちに必要な物資は全て
イングランドから船で運ばねばならなかった
 1598年から1601年までに、大規模な武装輸送船団が14回派遣された
 マウントジョイが、1601〜1602年にかけてアルスターとキンセイルで
ティロンとスペインの援軍に勝ったのは、優秀な補給によるところも大きかった


そんだけ
 軍事における効率性とは、いやしくもそれが効率的であるためには、休みなく維持する努力を払わねば
ならない
 1590年代のイングランド軍が抱えていた補給問題の本質は、アイルランドで勃発した戦争に
対応する用意が出来ていなかったことだった
 30年近く平和だったため、経済の戦時動員体制を整え終わるのに時間がかかった
 ところが、1603年に戦争に勝利し、1604年にスペインと講和すると、
あれだけ苦労して築き上げた戦時兵站組織も崩壊するに任せられた
 1640年代に再び戦争が始まったとき、出回っていた軍需品では足りず、
または必要な品が手に入らない事態が再発した
 内乱期にアイルランドで指揮官を務めたブログヒル卿ロジャー・ボイルは、
自分の部隊が敗北しかけたのは支給された銃弾が手持ちの銃の口径より大き過ぎたせいだと弁明した
 「兵士たちはやむを得ず銃弾を削るか切断しなければならなかった
 この作業は時間がかかった
 銃弾はまっすぐ飛ばず、まず命中しなかった
 その上、こういった作業でしばしば射撃が中断されたため、敵は我々の士気が低下したものと思い込み、
かえって調子づかせてしまったのがまずかった」

 ボイルが苦戦した原因は、装備していた銃の出所が様々で、規格が統一されていなかったことにあった
 地元の業者から入手したもの、敵から鹵獲したもの、イングランドから送られてきたものなどが混在し、
更に出所が同じでも規格がまちまちだった
 だが、根本的な問題は、それまで長年戦争がなかったために、内乱勃発当時、イギリス全国で武器が
慢性的に不足していたことだった
 1642年9月、シュリューズベリから出陣したチャールズ1世の軍隊は、
 武器といえば「干し草用の三ツ叉かその類の農具だけ、棍棒しか持っていない者も大勢いた」うえ、
全軍を見ても「槍兵で鎧をつけた者は一人もおらず、(自衛用の)剣を持つ銃兵もほとんどいな」かった
 国王軍の装備は、国王派の自治体の治安官によって支えられた
 彼らは、各教区に補完されていた弾薬や武器、甲冑(前世紀のものもあった)を、
オクスフォードの軍需省に輸送するよう命ぜられた
 しかし、1643年夏にはこの備蓄も底をつき、大陸の請負業者に頼らざるを得なくなった
 だが、このやり方が得策とは限らなかった
 1644年にフランスからウェイマに届いた1000挺の銃は、口径だけで60〜80種類に
及んでいた

 値切って不良品を掴まされたイングランドはともかく、信頼できる武器製造業者に注文した武器は、
大抵は高品質のものが多かった
 また、戦争が一定規模で持続するようになると、国内産の物資に対する不満もほとんど出なくなった
 確かに、装備がすぐ消耗してしまうと苦情を言い立てる指揮官もいたが、
国王軍も議会軍も戦闘を続けられるだけの軍需品は常に確保できるようになっていた
かなりの量の安定した需要が生まれれば、それに応じて武器の製造と流通も改善されたのである


そんだけ
250体を服に合わせる:01/09/27 21:10 ID:TeBdHPQs
 軍隊の衣服の供給も、これと全く同じ経過をたどった
 イングランド内乱中、当初は両軍とも民間人からの現物供与を受け入れる積もりでいた
 食糧、宿泊施設、衣服は直接軍隊に納入または提供され、地元の司令官はこれに受領書を発行した
 しかし、このやり方で同じ色の同じ服を全軍はおろか連隊全員に支給することもできなかった
 第一に、揃いの制服を着るべきだという考えはまだ浸透していなかった
 第二に、作戦開始時に同色同型の服を着ていた兵士たちが、最後までそれを着ていなかったから
といって文句を言うわけにはいかなかった
 上着や半ズボンはすぐ駄目になってしまうからだった

 兵士たちは、着つぶしたり駄目になった衣服の替えを適当に手に入れていた
 戦死した戦友から、民間人から(買うか略奪するか)、時には敵兵から
 チャールズ2世のスコットランド人近衛騎兵連隊は、1651年に「全員同色の上着を着用すること」
が望ましいと指示されていた
 ところが、敵のイングランド軍の替えの制服を積載した輸送船が突風で航路を外れて拿捕されると、
スコットランド兵は喜んでその服に着替えた

 当時の大陸の諸国も似たようなものだった
 ルイ14世の意を受けたルーヴォアは、軍隊用の衣服についての規定を通達し、3種類のサイズと
サイズ毎の数量(Mが2分の1、LとSが4分の1)を指定した
 だが、色については一言も触れていなかった
 スウェーデン軍も1620年代に制服を中央兵站部から支給する計画を立てたが、
この計画が実行されたとする証拠はない
 従って、指揮官が友軍と敵軍の兵士を識別する唯一の方法といえば、味方全員に同色の識別標
(飾り帯、リボン、羽根飾りが一般的)をつけさせることだった
 ハプスブルク家の兵士は、スペイン、オーストリアを問わず赤い記章をつけた
 スウェーデンの兵士は黄色、フランスは青、オランダと1640年代のイングランド議会軍は
オレンジ色だった


そんだけ
251お揃いの服を着て:01/09/27 21:11 ID:TeBdHPQs
 一説によると、全軍揃いの軍服を着用した最初の例はクロムウェルのニュー・モデル軍だと
言われている
 1645年以降、全員が赤いトップ・コートを着たのだという
 しかし、そういう試みは確かにあったものの、実現はまず不可能だったろう
 作戦が進行すれば、兵士は当然傷んだ衣服を出来る限り交換しようとしたに違いない
 ダンパーの戦(1650年)とウースターの戦(1651年)において、ニュー・モデル軍は
依然として識別標を必要としていた
 1655年、クロムウェルに謁見したスウェーデン大使は護国卿の衛兵について本国に報告している
 「彼らは皆若くなかなかの美男子揃いだが、揃いの服を着ていなかった
 惜しむらくは、それぞれがそれぞれの色を服を着ており、大抵は灰色であった」

 とはいえ、事情は変わりつつあった
 皇帝軍の大元帥ガラス伯は、1645年にオーストリアの服屋に兵士600名分の軍服を注文したが、
その際に見本として素材のサンプルをつけ、色も淡灰色と指定した
 同時にガラス伯は火薬入れと薬包用ベルトのサンプルも渡し、地元業者に一括製造を依頼している

 1620年代のスウェーデンやオーストリア、あるいは1660年代のイングランドやフランスの
ように常備連隊が編成されると、軍服の必要性が認められるようになった
 軍服の場合も、恒常的な需要が予測できてはじめて、規格の揃った信頼できる供給が
確保できるようになる


そんだけ
252病院に行こう:01/09/27 21:12 ID:TeBdHPQs
 常備軍の設立は他にも様々な制度を生み出した
 これらの先鞭をつけたのはヨーロッパ最初の大規模な恒常兵力であるスペインのフランドル方面軍
(1567年から1706年まで休むことなく動員されていた)だった
 フランドル方面軍は、ブラバントのメレヘンに最初の恒常的な軍病院を建設した
 アルバ公は、1567年にネーデルランドに到着した直後、メレヘンにスペイン軍の傷病兵のための
病院を建てたが、1年後に取り壊され、1572年に戦争が始まってからもこれにかわる病院は
造られなかった
 1574年、1575年、1576年のスペイン軍兵士の反乱において、兵士たちの最大の不満は
「兵士が病気になっても手当てしてくれるところがないので、大勢の兵士が(戦争中に)苦しみながら
死んだ
 医療介護さえあれば大半は回復したはずである」という点にあった
メレヘンに最終的に49名の医療スタッフと病床数330の常設病院が建設されたのは
1585年のことである
 この病院は一種の総合病院で、梅毒やマラリアのような疾病だけでなく、精神障害、戦闘神経症、
戦闘時の負傷まで、兵士のあらゆる傷病の治療に効果を上げた
 勿論、スペイン軍は慈善的な動機だけで病院を開設したわけではなかった
 費用対効果の面からみても、そうせざるを得ない事情があった
 スペインでは交代要員を訓練して派遣するより、負傷した古参兵をネーデルランドで治療する方が
ずっと安上がりだったからである
 「訓練を受けており、治療を済ませて帰ってきた兵士2000名のほうが、
新兵6000名よりよほど値打ちがある」
 特に、病院の経費の一部を兵士たちに負担させたのが大きかった
 兵士の月給のほんの一部を差し引き、さらに不敬罪に問われた将兵に科せられた罰金も
病院経費に充てられた

 一方、フランドル方面軍が実施した福祉事業には純粋に慈善的誠意だけが動機だったと
思われるものもあった
 障害を負った兵士を収容する施設が設立されたのはその一例だった
 また、従軍中に戦死した兵士全員の遺言書を管理執行する一種の公認受託所を設置し、
恒常的な従軍牧師制度を導入した
 作戦中に捕虜になるか戦死した兵士の遺族、特に寡婦や孤児に対して未払賃金を全額支払い、
時にはその上に年金を支給した

 他の国もやがてこれに倣うようになった
 フランスでは1670年に廃兵院が創設され、イギリスでは1681年にダブリン、
1684年にロンドンに軍病院が設けられた
 これらは全て、スペインの先例に倣ったものである


そんだけ
253バキャベッリ:01/09/27 22:08 ID:QceR.jbk
 なるほど、野戦病院の起源は「効率」ですか。私見ですが、加えて「負傷して
戦闘に耐えなくなった兵士の、社会復帰」も有るのではないでしょうか?。一連の
投稿から判断するに、深刻な労働力不足も起きた様ですが。
254隊長、食い物がありません!:01/09/27 23:38 ID:ILZzEVMo
 もっとも、衣服や武器、医療施設等を軍隊に提供するという課題はいわば一過性のものに過ぎない
 深刻な問題が生じるのは年に数える程度で、毎日のことではなかった
 これに対して、食糧と寝場所の提供は比較にならない重要な課題だった
 第一に、パンはあらゆる兵士に必要であり、大抵の軍隊では1日当たりの割り当てを1.5ポンドと
計算していた
 これに加えて肉またはチーズ、魚を1ポンド、ビール6パイントまたはワイン3パイントと定めていた
 しかし、この基準を実現するには大変な努力と工夫が必要だった
 3000名の守備隊が配備された要塞は、彼らが守る町の人工を上回ることも珍しくなかったし、
3万の野戦軍となれば当時最大の都市以上に食糧が必要だったろう
 これだけの規模の部隊を養うためには1日4万5000ポンドのパンを作らねばならず、
それには10万ポンドを超える小麦粉を毎日焼かねばならない
 3万ポンドの肉を供給するためには毎日1500頭の羊か150頭の牛を屠殺しなければならなかった
 作戦中でない軍隊であれば、広い地域に住む民間人に頼りながら宿営できたので、
特定の町や村にかかる補給所要はある程度予想できるため、ある限度内に収まった
 部隊が既に予想されている経路に沿って進軍するならば、
前もって適切な食料を準備しておくこともできた
 「スペイン街道」は、1576年から1620年までロンバルディアからネーデルランドに至る
軍用路として知られ、近世の戦略機動の頂点を示すものである
 一度の数千の兵力が、ミラノからブリュッセルに至る700マイルを、
ほとんど消耗することなく5〜7週間で移動することが出来た
 これは旅程が定型化され、軍需品倉庫が点々と設置されていたからだった
 車両での輸送に耐えられる路盤の街道がある場合は、かなりの量の食糧と軍用行李を一緒に運ぶことが
出来た
 だがこれも、言うは易く行うは難しで、3万の軍勢のために1週間分の小麦粉とそれを焼く
パン焼きかまど、かまど用の薪を輸送するとなると250両の荷車と同じ数の動物が必要だった
 必要な物を一時に1カ所で調達するなど不可能に近かった


そんだけ
255おやつは1週間分まで:01/09/27 23:39 ID:ILZzEVMo
 この難題を切り抜ける方策は幾つかあった
 一つは、海岸線や航行可能な河川の近くで作戦を展開することだった
 そうすれば大量の食糧を水運を使って供給できた
 このスタイルを忠実に実践したのがクロムウェルのアイルランド征服(1649年)と
スコットランド征服(1450年)だった
 だが、この作戦もある地点まで来ると水辺から離れた領域に敵軍を追い詰めなくてはならなくなった
 クロムウェルと、スコットランドでクロムウェルの後を引き継いだジョージ・モンクは、兵士各人に
1週間分のパンとビスケットを持たせ、さらに補給用のチーズと予備のビスケットを荷馬
(スコットランドの高地地方には荷馬車の通行できる道路はなかった)の補給隊に運ばせて
この問題を解決した
 かくして、イングランド軍は戦略拠点に置かれた補給倉庫が幾つかあるだけで、
比較的長い距離を迅速に移動でき、当初の戦闘能力をほぼ完全に維持したのだった
 3000のモンク軍は、1654年の3ヶ月の遠征で、地図もない高地地方を
1600キロにわたって走破し、行き届いた補給システムに支えられて高地地方一帯を
かつてないほど完璧に鎮圧した
 アイルランドとスコットランドはチーズとビスケットによって征服された


そんだけ
256ハングリー・ロード:01/09/27 23:41 ID:ILZzEVMo
 もっとも、クロムウェルの鉄騎隊ほど専門化された軍隊は滅多になかった
 近世の軍隊は補給基地を離れると破滅の道を歩むことになった
 補給の問題は、単純に多すぎる兵士が狭すぎる地域にいるために生じることもあった
 1590年代のカトリック連盟とスペインの同盟軍がアンリ4世のフランス軍とパリの支配権を巡って
争ったとき、カトリック・スペイン軍はパリ南西のウールポワを1万の兵力で占領し、
そこを食糧の策源地にしようとした
 ウールポワ一帯のの推定人口は8万程度だったため、これは全く不可能だった
 周辺の村々は軍勢の流入を喰い止めるために軍税を払い、あるいは自衛のために用心棒を雇い、
砦を建設して防備を固めたが、もっと安上がりで安全なのは逃げ出すことであり、
実際にこれが一番多かった
 食糧補給の途絶えた軍隊は、仕方なくこの地域を出ていく以外なかった
 そうしなければ餓死するからである

 軍隊が既に略奪された地域を横断する場合、当然ながら補給事情は極端に悪化した
 リシュリューは、その著作の中で述べた「歴史書をひもとけば、敵の攻撃より食糧と規律の欠如が
原因で滅びた軍隊のほうがはるかに多いことがわかる」という表現通りの事態が実際に起こった

 1637年にエルベ河中流のトルガワからポメラニアに退却したスウェーデン軍は兵力の大半を喪った
 名将テュランヌ指揮下のフランス軍は、1643年にトゥットリンゲンで敗れてライン河に退却する際、
1万6000の兵力の3分の2を喪った
 ガラス伯指揮下の皇帝軍は、1644年にホルシュタインからベーメンに引き揚げるとき、
1万8000の兵力の9割を喪った
 全ては兵士に食糧を与えられなかった指揮官の無策にあった


そんだけ
257暖かい夜:01/09/27 23:42 ID:ILZzEVMo
 もちろん、移動中の軍隊は兵員だけでなかった
 第一に馬がいた
 その数は中世よりは少なかったが、砲兵、騎兵、将校、輸送用荷車に馬は必要だった
 大規模な野戦軍では2万頭の家畜を携えることも珍しくなく、これが消費する飼料だけでも
毎日90トンのまぐさが必要だった
 輸送用の荷馬車(兵員1万5000で500両程度)には馬車引き軍夫がいるし、
馬には馬丁が必要だった
 さらに兵士たちにも、従軍酒保商人や小間使いがいた
 これらの小間使いが女性が多く、軍隊内で売春、選択、小売り、裁縫、障害者の介護等、
様々なサービスの役割を果たしていた
 これらをひっくるめた軍属は、時には兵員総数と同数または上回ることもあった

 兵員数の増加に加えてこのように軍属の数も膨らんだため、軍隊の宿泊はますます困難を極めた
 要塞に駐屯している場合、宿泊はそれ程深刻ではなかった
 彼らは要塞の中で寝起きするか、地元の民家に宿泊することが普通だったからである
 事前に決められた経路を移動する部隊の場合、一度に移動する兵士と軍属の数がそれほど多くなければ、
沿線の民家か宿屋に投宿することもあった
 しかし、例えば3万の遠征軍であれば、1日に約20キロ進軍するのが普通で、このような場合には
屋根のある場所で宿泊することはまず不可能だった
 やむを得ず彼らは野営することになる
進軍にあたって、いざというときのために天幕を軍用行李に入れていく軍隊もあったが、
大半はそんな用意はしていなかった
 そこで、彼らは「仮兵舎(ハット)」と呼ばれた簡易小屋を作らされた
 これは天幕より暖かく長持ちした
 近世の露営地の絵を見ると、天幕と仮兵舎が共存していたことがわかる

 しかし、兵士たちには簡易小屋など作る暇のない夜もあった
 そういう夜は、停止した地点で全員が戦闘隊形のまま眠った
 1632年のブライテンフェルト前夜のスウェーデン軍や、1632年のリュッツェン直後の
皇帝軍はまさにそうだった

 宿泊の問題の最終的な解決は、軍隊が作戦展開中は十分な天幕を携行し、要塞に特別な兵舎を建て、
冬季はそこの兵士を収容することだった
 南部ネーデルランドでは、1609年以降、守備隊の駐屯するほとんどの町に兵士8名を収容する
石と木製のバラックが一斉に建てられた
 こうして、フランドル方面軍の少なくとも一部は、民間人とは隔離された自主的な兵士の共同体として
生活するようになった
 この新しい試みは、瞬く間に他の西ヨーロッパ諸国に普及していった


そんだけ
258海の世紀:01/09/27 23:44 ID:ILZzEVMo
 かくして、フランドル方面軍は最終的には補給に起因する諸問題を全て一応は解決してみせた
 17世紀後半になると、フランドル方面軍の兵站部は一度に数百万個のパンを納入する契約に応じた
業者の努力の結果、兵舎に駐屯しているか作戦行動中かを問わず、
兵士全員に1日おきに3ポンドのパンを支給できるようになっていた
 イングランド産の雉で仕立てた出来合いの服が定期的に輸入され、兵士たちに支給された
 武器弾薬の供給も安定化した
 切れらの支払いは全て陸軍主計総監部が期日通りに行った
 かつて軍隊が対応に腐心していた兵士たちの大反乱もこうして防止することが出来るようになっていた

 しかしこの頃になると、フランドル方面軍は外国の援助なしでは有効な作戦を展開できず、
支配している領土を守ることも出来ない弱体兵力と見なされるようになっていた
 フランス、オーストリア、ブランデンブルク、オランダ、そして(少し遅れて)イギリスの軍隊は、
数の上でも兵站組織の面でもずっと優越していた
 とはいえ、これらの国の軍隊がどれほど洗練されたにせよ、完全な勝利を勝ち取るには十分でなかった
 ルイ14世の治世の後期には、ブレンハイム、トリノ、アウデナーテル、ドゥナンといった
華々しい大戦闘が幾つもあった
 だが、これらの戦闘のどれも戦争を終結させ平和をもたらすことはなかった
 どれ程兵力を増強しても、当時の限られた軍事戦略では戦争に訴えた国家の政治的な目標を
達成することは依然として出来なかった
 昔と変わらず、大戦争は決定力を持たなかった
 近世ヨーロッパ諸国は、大規模な軍隊を養う手段は発見したものの、それを使って勝利するやり方を
見つけられずにいた

 16世紀以降、ヨーロッパ列強間の戦争が、ヨーロッパ大陸だけでなく海上や海外でも繰り広げられる
ようになったのは、一つにはこれが原因だった
 列強は、陸戦が手詰まりになればなる程、海軍力によってケリをつけようと張り合った
 オランダ独立戦争は、このような展開の端緒となった
 戦争の第一期(1572〜1609年)には海戦はまだ少なかったが、
1621年に武力対立が再燃すると、スペイン宮廷では、オランダの最大の強みは
海上軍事力にあるとする指摘が出るようになり、スペインは陸軍よりも海軍に経費を割くべきだと
主張されるようになった
 結果、「無敵艦隊」の経費は3倍に跳ね上がった
 フェリペ4世のスペイン政府は、1620年代を通じてネーデルランドの陸上兵力を防衛力程度に抑え、
海上でオランダに対して優位に立とうと懸命になった

 他の国が黙って見ている訳がなかった
 グスタフ・アドルフも1620年代に海軍に莫大な予算をつぎ込んだ
 処女公開中にストックホルム港で沈没したスウェーデン海軍の「ヴァサ」は、
全長64メートル、排水量1300トン、4層甲板、艦砲64門の超大型戦闘艦であり、
スウェーデンの海軍がいかに強力で優れた装備をもつようになっていたかを示唆している

 フランス海軍もリシュリューの時代に拡大を始め、ジャン・バティスト・コルベールの指導下
(1661〜1683年)で 恐らく西ヨーロッパ最強の艦隊へと成長した
 1650年代以降、ヨーロッパの戦争が制海権を巡る争いに拡大しなかったことはほとんどない
 その争いは、非ヨーロッパ文化圏での勢力と影響力を求める競争にまで発展した
 かくして、ヨーロッパの戦争は、ヨーロッパの海、更には世界の海にもその刻印を残すことになる


そんだけ
259258:01/09/27 23:49 ID:ILZzEVMo
こんな「引き」ですけど、海戦については書きません、ご了承下さい
やっと本筋に戻れる・・・・
260258:01/09/28 00:01 ID:pw.XKvM6
>>253
どうやら当時は年金を支給して終わり、という感じだったようです
ただし、廃兵院に入った者は簡単な手作業に従事して院の運営の足しにしていたようです

近世軍隊の慈善福祉政策についてはイギリスやフランスで幾つか研究されてるみたいですが、
大学でもなければちょっと手に入らないでしょう
いや、私は素人の横好きなもんですから詳細はちょっと歯が立たないです、すいません
外国語が出来る人が羨ましい・・・・
261system:01/09/28 08:16 ID:Alt0Ez3U
このあたりの話は全然知らないんですよね。適当にそこらの本読んでても
出てこないんです。面白いです。
262Ultima ratio regis:01/09/28 23:04 ID:qQwfjpC6
 1740年12月16日、北ドイツの一弱小国プロイセンが、オーストリアの王位継承問題に乗じ、
何の警告もなく全軍をもってシュレージエンに侵入した
 プロシアはオーストリアのマリア・テレジアに使者を送り、彼女の夫フランツ公のドイツ皇帝への選挙
に一票を投じる見返りに、平和裡にシュレージエンを譲ることと200万マルクの支払いを要求していた
 しかし、これが容れられぬことを予期してか、使節がウィーンに到着する前にプロイセン軍は国境線を
侵犯していた
 プロイセン軍は部隊を南北に二分してシュレージエンに侵入した
 右翼軍は老将軍シュウエリンが指揮しており、左翼軍は即位間もない新王が自ら率いていた
 プロイセン軍は僅か2ヶ月でシュレージエンを制圧、1741年1月3日にはプロイセン軍は
シュレージエンの中心地ブレスラウに無血入場し、実力に訴えてその領有をオーストリアに迫った

 当然ヨーロッパ諸国はこの暴挙に呆れかえった
 マリア・テレジアがこのようなふざけた要求を呑むわけがなかった
 ヨーロッパ諸国の同情はマリア・テレジアに集まった
 彼女の父親カルル6世は先王が新王を殺害しようとしたときその助命に奔走しており、
いわば新王にとって彼女はいわば命の恩人の娘であった
 その彼女の即位直後に強盗を働いたプロイセンの行動は、神のごとき善意と寛容をもってしても
理解できなかった
 しかし、呆れられた本当の理由は、プロイセンの悪辣さではなくその無謀にあった
 人口250万の小国が人口1100万の大国オーストリアに真正面から喧嘩を売ったからだった

 この騒動を引き起こした馬鹿者の名は、フリードリヒ2世といった


そんだけ
263名無し三等兵:01/09/29 03:06 ID:wXU0Z0vw
来た来た来た来た〜>馬鹿者♪

良質講義に感謝感激なれどsage
ぬう。元スレの「ヨーロッパの剣は…」を立ててくれた>1氏、およびこのスレのバキャベッリ氏、
そして「そんだけ」氏は、徳をつんで聖者にでもなるおつもりですか?

許します。いえ、なってください。お願いします。
264262:01/09/29 09:16 ID:rQ.CEFG.
>>263
すいません、誇張や過剰な表現は避けようと心がけてたんですが、
ちょっと筆が滑ってしまいました
今後気をつけます
265兵隊王:01/09/29 09:17 ID:rQ.CEFG.
 本来、プロイセンは武力でなく外交によって国を立ててきた
 ベルリンに首都を持つホーエンツォレルン家のプロイセンは、17世紀に急速に勢力を伸ばした
 三十年戦争の際、新教国でありながら、この国は皇帝とスウェーデンの間を巧妙に立ち回り、
双方の軍隊に荒らされて領土は荒廃したものの、双方に恩を売ったおかげでウェストファリア会議で
その損害を上回る新しい領土を手に入れ、オーストリアについでドイツで2番目に大きな国になった
 17世紀後半、大選帝侯フリードリヒ・ウィルヘルムはフランスと秘密協定を結び、フランスが
シュトラスブルクを占領した際、ドイツ諸侯に対して調略を行って反フランス同盟の切り崩しを行った
 続くフリードリヒ1世は、スペイン継承戦争でオーストリアと結び最初のプロイセン王となった
 しかし、プロイセンの勃興は外交の成功のみならず、内政における絶対主義体制の確立にもあった
 大選帝侯はベルリンを中心に中央集権の官僚制度を組織し、ユンカーの政治権力を奪い、
ドイツではじめて常備軍を編成した
 続くフリードリヒ1世は、ポツダム宮殿でヴェルサイユを模倣した宮廷生活を送り、
国外の哲学者を招いてアカデミーを開くなど、(取り敢えず上辺だけは)強国としての勢威を誇示した

 ホーエンツォレルン家には、子は親に似ないという伝統があった
 1713年に即位したフリードリヒ・ヴィルヘルムは非常な倹約家で、
芸術や文化には何の関心も払わなかった
 彼は、即位すると父が惑溺し手塩にかけ宮殿のフランス風庭園を更地にして練兵場をしてしまった
 当時のプロイセンは、土地は砂地が多く、人口は200万を超えた程度、国力はオーストリアは勿論、
隣国のザクセンにも及ばなかった
 フリードリヒ・ヴィルヘルムにとってプロイセンの国家戦略は、貧しい国力を注ぎ込んで強力な軍隊を
編成し、そのために集中的で効率的な官僚制度を作り上げることだった
 彼の理想は、即応性の高い防衛軍を練り上げることになった

 フリードリヒ・ヴィルヘルムは、軍隊を重視したというよりむしろ軍隊を愛した
 彼は3万8000の常備軍を8万に増強するため、徴兵区制度(カントン制)を設けて兵力を
補おうとした
 だが、経済への影響を考慮して徴兵区制度は年2ヶ月程度の拘束期間しか持たず、
あくまでプロイセン軍の基幹兵力は志願兵(傭兵)であった
 有事ならばこれで問題なかったが、フリードリヒ・ヴィルヘルムの理想は即応性の高いいつでも戦える
軍隊、すなわち平時においても十分な兵力を擁した常備軍であったため、このような不徹底な徴兵制では
彼の要求には応えられなかった
 兵員不足を補うため、プロイセン軍の兵員徴募は一種の犯罪行為となった
 徴募係下士官は、国内だけでなくドイツ一帯を歩き回り、頑健な若者を誘拐した
 居酒屋は格好の目標であり、日曜日の教会も襲撃された

 このように暴力で集められた軍隊を維持する方法は暴力以外になかった
 プロイセン軍は、過酷な訓練と規律でヨーロッパ中で有名になった
 フリードリヒ・ヴィルヘルムは軍隊を盆栽のように慈しみ、その治世でただの一度も戦闘を
経験しなかったが、脱走兵は3万を数えた
 プロイセン陸軍に根強かった脱走問題の原因は、軍のこの構造にあった


そんだけ
266これより行進間の動作を演練する:01/09/29 09:19 ID:rQ.CEFG.
 プロイセン軍の精強さは、当時どこ国でもそうだったがいかに正確に教練を行えるかにあった
 ただし、やや常軌を逸していた
 各人の間隔は物理的に最小限に定められていた
 整列した兵の右肩は右側の兵の左肩の後ろにあった
 これは、弾幕の密度を上げるには妥当なものだったが、行進中は注意深く腕を振らねば無秩序な
殴り合いが発生することになった

 行進隊形から戦闘隊形への移行を迅速に行うために試行錯誤が繰り返された
 通常、戦闘展開のためには縦列から横列に変換しなければならない
 このため、最低でも2回方向転換(「縦隊右《左》に進め」、「左《右》向け止まれ」)を
行わなければならない
 しかし、これは敵に対して無防備な側面を晒して延々と行進しなければならいことを意味した
 このため、敵との十分な離隔距離を確保したり、先行した前衛の掩護下に主力が展開するといった
様々な手続きを踏まねばならず、全戦力による迅速な戦力発揮は難しかった

 プロイセン軍は迅速な戦闘展開を可能にするため、横列を積み重ねた縦隊行進隊形を形成して機動し、
各横列毎に方向転換(「右《左》に向きを変え進め」、「左《右》向け止まれ」)を行って戦闘展開を
実施した
 もっとも、この展開要領では各横列の移動距離が違うため、整然と隊列を維持することは困難だった
 これを克服する唯一の方法は、兵士の教練の練度を可能な限り向上させることだった
 最終的には、各兵士が斜行進、つまり斜め方向に前進する(「半ば右《左》むけ前へ進め」
「半ば左《右》向け前へ進め」)ことまでこなした
 万単位の兵員が弾雨の中を整然と隊列を維持したまま斜行進を行う様は感動的な光景だったに違いない
 プロイセン歩兵は、こと基本教練の練度に関する限り、人間のなし得る絶頂にあった


そんだけ
267弾は的を選ばない:01/09/29 09:20 ID:rQ.CEFG.
 プロイセン歩兵はまた速射能力でも知られていた
 一つには絶え間ない反復演練の成果で、装填と射撃動作は行進中でも可能だった
 銃も速射能力を上げるよう改良された
 込矢は従来の木製から鉄製に変更されて迅速な装填動作が可能になり、1分間に平均3発まで
発射速度は向上した
 しかし、この改良の結果、銃口が重くなって銃全体のバランスが崩れ、命中精度は更に低下した

 当時、「フランスの銃が1発撃つ間にプロイセンの銃は7発撃つ」とまで言われたが、
一方でギベールはプロイセン軍が「音が人を殺すかのように」発射速度を上げることに
夢中になっていると嘲った
事実、後のホトウジッツの戦(1742年)で、プロイセン軍は小銃弾約65万発を消費し、
この戦闘でオーストリア兵2500が戦死し、同じくらいの数が負傷した
これは、銃剣や砲撃で殺された者も含めて、死者一人当たり平均260発が必要だったことを
意味していた

 しかしながら、この手のデータは決して銃の戦術的能力の欠陥を意味しているものではない
 いわゆる黒色火薬の時代の大部分を通じて、少なくともヨーロッパでは、個々の狙撃兵として
選定された標的に命中させることは、一般の兵士には全く期待されていなかったのである


そんだけ
268名無し三等兵:01/09/29 11:47 ID:YCjr/5Ew
>267
>死者一人当たり平均260発が必要だったことを

今でもそれに近いか、もっとムダは多いかも。銃というのは、特殊な狙撃兵をのぞいては
弾幕を張るために使う物なんでしょうね。
269敵に回しても味方にしても厄介:01/09/29 17:45 ID:DGtrd5XU
 フリードリヒ2世が父親から受け継いだ最も価値ある遺産は軍隊だった
 「兵隊王」の軍隊の存在意義はあくまで戦略的な抑止力にあり、自ら強力な軍隊を築き上げながら、
守銭奴が金を使い惜しみするように極力戦争を避けた
 しかし、「哲人王」はその軍隊を惜しげもなく侵略戦争に投入した
 第1次シュレージエン戦争である

 プロイセン軍の存在がフリードリヒにシュレージエン侵攻を決意させた最大の理由だったことは
間違いなかったが、フリードリヒは軍隊のみに頼っていたわけではなかった
 何しろ、彼はプロイセン伝統の打算に満ちた外交戦略のの後継者であり、その忠実な実践者であった

 1741年4月10日、プロイセン軍2万はモルヴィッツにおいてオーストリア軍2万と交戦、
この戦闘がプロイセン軍の最初の本格的な野戦となった
 緒戦でプロイセン騎兵は優勢なオーストリア騎兵に撃破され、プロイセン歩兵の隊列の周囲を
オーストリア騎兵が走り回った
 フリードリヒは護衛とともに一時戦場を離脱せねばならなかった
 最終的にプロイセン軍が勝利したのは、最高指揮官が指揮を放棄したにもかかわらず最後まで
崩れなかったプロイセン歩兵の力によるものだった
 プロイセン歩兵はほとんど独力でオーストリア歩兵を撃ち崩し、オーストリア騎兵の突撃を跳ね返し、
最後には突撃でオーストリア軍を撃破した

 フリードリヒはこの戦闘の結果を無駄にしなかった
 ただちにイギリスの仲介でオーストリアと講和交渉を開始するとともに、
6月4日にフランスと秘密裡に結んでシュレージエン領有承認の見返りにフランスの保護する
バイエルン選侯帝の皇帝即位支持を約束し、ユーリヒ・ベルク地方の対仏請求権を放棄した
 9月にはフランス軍とヴァヴァリア軍がオーストリアに侵入、ウィーンを脅かしはじめた
 マリア・テレジアは追い詰められた
 彼女の唯一の味方であるイギリスは、援助金を送るのみで援軍は送らなかった
 10月9日、ついにプロイセンはオーストリアとクライン−シュネレンドルフ秘密協定を結び、
下部シュレージエンとブレスラウの割譲を承認させた
 彼は、ヨーロッパ列強のパワーバランスを弄んでみせたのだった

 プロイセンの行動は国際信義を完全に無視したもので、後世まで非難の的になった
 フリードリヒも気にかけていたらしく、その著作の中で何度も弁明に努めている
 しかしながら、実際のところ彼はそんなことは全く気にしていないことをその行動で証明してみせた
 1742年2月、プロイセン軍はメーレンに侵攻、今度は上部シュレージエンを制圧、
5月17日、ホトウジッツでオーストリア軍を撃破した
 対仏包囲戦の最中のオーストリアに、プロイセンの犯罪を押しとどめる余力はなかった
 さらに、フランスが不利と見るやフランスと攻守同盟を結んでボヘミアに侵攻、
1744〜1745年にかけて一連の会戦の末にオーストリア軍を撃破し、オーストリアの
対仏包囲網を突き崩した(第2次シュレージエン戦争)
 プロイセンの凄まじさは、プロイセンの勝利に勢いを得たフランスが攻勢に出ようと一切構わず
オーストリアと単独で講和したことだった
 こうして、プロイセンはシュレージエンの領有とヨーロッパ随一の極悪人の名を不動のものとし、
10年間の平和を得た
 オーストリアが、フリードリヒが火をつけた騒動を鎮めるには更に3年を要した


そんだけ
270君たちは脇役です:01/09/29 19:47 ID:SdH9u11c
 第1次、第2次シュレージエン戦争の一連の戦闘はプロイセン軍に様々な課題を与えた
 プロイセン騎兵は常に全軍の2割以上を占めていたが、常にオーストリア騎兵に翻弄され、
その弱体ぶりを露呈した
 このため、フリードリヒは騎兵を堅固な戦術単位として集団的に運用し、
斥候や偵察等の軽騎兵としての任務を放棄した
 また、騎兵独力の戦闘を回避して常に歩兵部隊の掩護下でのみ行動を許し、
その戦術上の役割をあくまで歩兵部隊の支援に留めた
 このため、例え戦闘に勝利したとしても、プロイセン騎兵は敗走する敵を徹底的に追撃することは
なかった

 フリードリヒは砲兵を重視しなかったことで知られているが、これは重視できなかったとするのが
実相だった
 読書家で勉強家の彼が当時のフランスの最新砲兵戦術理論を知らぬわけがなかったが、
当時のプロイセンの国力で列強と砲兵整備で競争して勝てる望みはなかった
 オーストリア軍はプロイセン歩兵の神業に近い戦闘展開に対抗すべく砲兵隊の整備に奔走していたが、
1768年、フリードリヒが述べているように、「砲兵の新しい流行はプロイセンの国家財政にとって
まさしく底無しの地獄」だった
 このため、彼は指揮官たちに砲兵に依存することなく戦闘を行うよう強要しなければならなかった
 彼の軍事的著作に見られる砲兵に対する否定的見解は、彼の著作の大半が彼の将兵たちのみを読者に
想定していたからに他ならない
 プロイセン砲兵は、当時の砲兵戦術理論が提唱していた砲兵単独の戦闘展開前準備射撃や攻撃準備射撃
を禁じられ、その任務を歩兵の突撃支援射撃のみに限定されることになる


そんだけ
271ひたすら前進せよ:01/09/29 19:48 ID:SdH9u11c
 フリードリヒの手がけた戦術上の改革の特徴は、弱点を補強することではなく、
強点をさらに助長させることだった
 彼の編み出した「斜行戦術」は、概念そのものは古代ギリシアのテーバイのエパミノンダスの戦術以来
知られていたもので、端的に言えば敵の開放された翼側に戦力を集中し、敵隊列の組織的戦闘力を
崩壊させることだった
 これは、ひたすら火力を蓄積して最終的に敵戦力が消耗するまでひたすら殴り合いを続ける従来の戦術
とは一線を画するものであった
 前衛部隊が敵の隊列を拘束し、斜行部隊が次々に前衛部隊の後方から敵の翼に向かって接近して展開し、
局地的な戦力優勢を作為して敵の側面に圧力を加え、最終的に崩壊させるというものであった
 敵から見ると、前衛部隊の背後から新手が次々に斜め前方に向かって機動するためにこう命名された
 この戦術は、理論的には斜行部隊が撃退されても前衛部隊の掩護下に整然と後退できるだけの縦深性も
備えていた
 しかし、これ程有効な戦術をこれまで誰も実行しなかった最大の理由は、この戦術が机上の空論に
近いことにあった

 まず、翼側が常に開放されているわけではなかった
 当時の戦闘は側面を防護するため延々と数キロにわたって横列を展開することも珍しくなく、
大抵は第一線の後方100〜200メートルの位置に予備の隊列が展開していた
 また、翼側が堅固な地形に依託され、迂回の余地のないよう地形が障害化されていることもあった
 更に、攻撃の支涛となる前衛部隊が確実に敵を拘束する必要があった
 前衛部隊が過早に攻撃して撃退された場合は戦線全体が崩壊する危険があり、また消極的な戦闘に
終始したならば斜行部隊は敵の主力と対峙することを余儀なくされる可能性があった

 実際、斜行戦術に対抗する手段は幾つかあった
 布陣位置を適切に選定して斜行部隊の展開の余地をなくすことは最も簡単で確実な方法だった
 こうすれば、戦闘は正面きっての消耗戦になり、これは量的劣勢にあるプロイセン軍にとって
歓迎できる状況ではなかった
 様々な事情によりそのような場所に布陣できなかった場合でも対処する方法はあった
 一つには、十分な総予備を準備して斜行部隊に対処し、そこに第2戦線を形成することだった
 また、総力を持って前衛部隊を撃破できれば、逆に前衛部隊を圧迫しつつ全隊列を斜行部隊に
正対するように方向転換することもできた
 これは決して困難なことではなかった
 斜行戦術には必ず戦力が分離する危険な瞬間が存在していたからだ

 フリードリヒもこの戦術の弱点は承知していた
 この弱点を克服するため、フリードリヒはプロイセン歩兵の高い練度に頼った
 すなわち、敵に対処の暇を与えないために、斜行部隊が迅速に展開して可能な限り短時間で敵の翼を
直撃することだった
 このため、フリードリヒは機動間の射撃すら禁じ、ひたすら銃剣突撃に訴えるよう指揮官たちに
要求した
 この射撃戦よりも銃剣突撃を重視する速攻主義は七千戦争初期において甚大な損害を招き、
やがて再び射撃戦が重視されるようになる
実際のところ、この戦術の成否は一にプロイセン歩兵の戦術能力如何にかかっていた


そんだけ
272三人娘同盟:01/09/30 23:07 ID:ivxtfD8I
 オーストリア継承戦争後のオーストリアの外交方針は、プロイセンを孤立させ、包囲することに
向けられていた
 そのために、200年来の仇敵であるフランスと手を結ぶことも厭わず、
外交努力の末に1756年5月に防禦同盟を締結した
 またバルカン方面への進出を宿願とするロシアと1746年2月に攻守同盟を結んでおり、
これにスウェーデン、ザクセンを加えてプロイセンを包囲する態勢を示した
 ヨーロッパの三大国の包囲網に対し、1756年1月、プロイセンはイギリスと
ウェストミンスター協約を結び、イギリスのハノーヴァー防衛を約束した
 ハノーヴァーで編成されたイギリス軍は、七年戦争でプロイセン唯一の同盟軍となる
 しかし、「常に警戒せよ」が口癖のフリードリヒにとり、状況は絶望的だった
 彼の錯誤は、イギリスへの接近がフランスに与えた衝撃を十分認識していなかったこと、
イギリスがロシア宮廷に対して行った札束外交を過大に評価していたことだった
 シュレージエンを併呑したとはいえ、人口400万に過ぎないプロイセンは
三大国のどの一国よりも貧弱であった
 あろうことか、プロイセンはお家芸であるはずの外交戦において敗北してしまったのだ

 唯一の救いは、オーストリアとフランスの条約が防禦同盟であることだった
 しかし、この条約も1757年春には攻撃同盟へ変更される予定になっていた
 そしてそれは、ヨーロッパの三大国の未曾有の大軍がプロイセンを蹂躙することを意味していた

 結局、フリードリヒの選択肢は彼の軍隊にしかなかった
 1756年6月上旬、オーストリアとロシアが国境地域に軍隊を集結しているとの情報を得た
フリードリヒは全軍に動員令を下令した
 彼は8月末にマリア・テレジアに対して平和を表明する手紙を送っていたが、
またもや返事を待たずに軍を率いて国境線を越えた
 七年戦争(第3次シレージエン戦争)の始まりである


そんだけ
273奇襲:01/09/30 23:08 ID:ivxtfD8I
 フリードリヒの戦争計画の基本方針は、まずザクセンを攻略して策源とし、シュレージエンを
防衛することだった
 フリードリヒは兵を四軍に分け、ロシア、スウェーデン両国境とシュレージエンにそれぞれ展開させ、
自ら6万2000を率いて1756年8月29日にザクセンに侵入した
 ザクセン軍の全戦力は2万で、さらにメーレンにはオーストリア軍3万2000が集結していた
 プロイセン軍は、ザクセン軍をドレスデンとピルナの各要塞で包囲し、1756年10月1日、
自ら2万8000を率いてロボジッツにおいてオーストリア軍3万2000を撃破した
 10月16日、ザクセン軍はプロイセンに降伏、降兵1万7000はそのままプロイセン軍に編入されたが、大半はその年のうちに脱走した

 オーストリアは、プロイセンの先制攻撃を巧みに利用して国際関係を時刻に有利に展開させた
 オーストリアの全ての同盟軍が一斉にプロイセン国境に向けて進軍を開始した
 ライン下流地方から、フランス軍10万がハノーヴァーに向けて進軍し、ポンメルンの併合を
望んでいたスウェーデンが同地に侵入、ロシア軍も国境を越えた
 敵側諸国の総兵力は40万を超え、一方、プロイセン軍は13万5000に過ぎなかった

 冬営が終わると、プロイセン軍は行動を開始した
 主敵であるオーストリア軍を撃破してシュレージエンへの直接的な脅威を排除するためだった
 1757年5月6日、4方向からプラハに迫るプロイセン軍6万4000に対し、
カルル公指揮下のオーストリア軍は巧妙な後退戦を行ってプラハに集結した
 カルルは1万5000をプラハにとどめ、6万の兵を率いて市の東方の高地に布陣しプロイセン軍を
迎撃した
 フリードリヒはオーストリア軍を平地に誘出し、斜行戦術によってその側翼を撃破しようと試みたが、
オーストリア軍陣地は両肩部を錯雑地形に依託していたため正面攻撃を余儀なくされた
激戦の末にオーストリア軍はプラハへ後退したが、シュヴェーリン元帥以下1万5千を喪った
 この損害の大部分は、銃剣突撃をかけたプロイセン歩兵に対してオーストリア軍が行った
突撃破砕射撃によるものだった


そんだけ
274蹉跌:01/09/30 23:09 ID:ivxtfD8I
 プラハ戦の後、フリードリヒはオーストリア軍の大部分が南方に後退したものと考えて即日プラハに
軍使を送り降伏を要求したが、籠城したカルル指揮下4万のオーストリア軍はこれを拒否した
 このためプロイセン軍はプラハを包囲して糧食の尽きるのを待ったが、ダウン指揮下の救援軍が迫るに
及んでベーフェルン麾下2万を分派し、これを迎撃しようとした
 救援軍は一度は後退したが、その後次第に増援を加えて兵力6万に達し、6月中旬には再びプラハに
向かって進撃を開始した
 ここにおいてフリードリヒは決戦を決心し、6月18日、全軍を率いてプラハ東方約40キロのコリン
で優勢なオーストリア軍と対峙した
 プロイセン軍は斜行戦術によりオーストリア軍の側翼を攻撃しようとしたが、オーストリア軍は
プロイセン前衛部隊を押し潰しながら斜行部隊に正対するように方向転換し、結果プロイセン軍は
不十分な態勢での正面攻撃を強要されることになった
 結果、ただでさえ劣勢なプロイセン軍はオーストリア軍の圧倒的に優勢な火力に粉砕された
 プロイセン軍の損害は1万3000、対するオーストリア軍は僅か900を喪ったに過ぎなかった
 フリードリヒの内戦作戦は破綻しつつあった


そんだけ
275侵食:01/09/30 23:09 ID:ivxtfD8I
 コリンの敗北により、緒戦の勝利によって一挙に戦争を終結しようと期していたフリードリヒの
戦争計画は完全に破綻した
 特に、コリンで一線級の主力部隊を喪失したことにより戦力が著しく低下したプロイセン軍は、
プラハの攻囲を解き、3万5000を弟のアウグスト・ウィルヘルムに預けてイーゼル河方面から、
フリードリヒ自身は残余を率いてエルベ河から後退し、ベーメン北部で全軍の再編成を図った
 しかし、アウグスト軍はオーストリア軍に捕捉されて大損害を受け、7月下旬にザクセンのバウツェン
地区に後退、フリードリヒもザクセンへ後退を余儀なくされた
 東ではロシア軍約6万が東プロイセンへ向けて進軍を開始し、スウェーデン軍1万が北方海岸に
上陸してポンメルンに侵入、西ではフランス軍がライン河畔に集結していた10万のうち3万を
ザクセンに進出させ、主力7万は5月下旬にウェストファーレンに入り、更にハノーヴァーへ進んでいた

 唯一の同盟国イギリスのカンバーラント公率いるハノーヴァー軍4万8000は、
7月下旬にウェーゼル河沿いのクレフェルトでフランス軍主力と会敵したが、
敗れてデンマーク国境方面に退却、ウェストファーレン及びハノーヴァー地方はフランス軍の手に落ちた
 これに対してフリードリヒは、8月中旬にツィッタウのオーストリア軍主力に対して決戦を
挑もうとしたが、敵陣が予想以上に堅固であったためその企図を放棄し、方向を転じてフランス軍及び
帝国諸侯連合軍に矛先を向けた

 敵軍の侵攻の危険に晒されている全ての州で根こそぎ動員が行われ、掻き集めた民兵をコリン戦で
消耗した連隊に加えてポンメルンを窺うスウェーデン軍に対抗させた
 東プロイセンにおいてロシア軍に対処していたレーワルト元帥麾下の2万8000は、
8月30日、イェーゲルスドルフにおいてロシア軍10万に跳ね飛ばされて4500を喪った
 しかし、ロシアの国内事情によりロシア軍は勝利したにもかかわらず後退したため、
かろうじて東プロイセンの占領だけは免れることになった
 レーワルト軍は12月にポンメルンにおいてスウェーデン軍を撃退することになる

 オーストリア軍に対して事はそれ程うまくは運ばなかった
 ベーフェルン指揮下の4万5000は後退してラウジッツ及びシュレージェンにおいて
防衛戦を展開しようとしたが、シュワイトニッツの要塞を失い、
11月22日にはブレスラウにおいて撃破されてベーフェルン自身も捕虜となった
 後の戦史が内線作戦の好例として絶賛することになる作戦は既に誰が見ても崩壊していた


そんだけ
276恐慌:01/09/30 23:10 ID:ivxtfD8I
 この絶望的な状況の中、フリードリヒはフランス軍に向かって前進を続けた
 それは彼の鋼鉄の意志などではなく、むしろ前進する以外にするべきことがなかったからだった
 フリードリヒは8月末にバウツェンを発し、ドレスデン、グリマを経由して9月10日にナウムブルク
においてザーレ河を渡った
 その数日前にカンバーラント公はフランス軍に降伏、ハノーヴァー軍は抑留され、ただでさえ悪い状況
を更に悪化させた
 追い打ちをかけるようにフランス軍2万5000がエルフルト方面に進出、
9月中旬に帝国諸侯連合軍2万5000と合流を果たした

 11月4日、プロイセン軍2万はフランス・諸侯連合軍4万とミュンヘルンで対峙したが、
敵陣が堅く斜行戦術が通用しないと判断したため攻撃を中止し、ライプツィヒ西35キロのロスバハに
後退した
 翌5日、これを追尾したフランス・諸侯連合軍は、プロイセン軍左翼を衝こうとして迂回中のところをプロイセン軍の3方向からの伏撃により壊滅、損害は3万に達した
 プロイセン軍の損害は500に過ぎなかった
 しかし、実際には四周の脅威のうちの一つを撃退したに過ぎなかった
 ロスバハ戦後、姉へ送った手紙でフリードリヒは「取り敢えず我が国の汚名だけは雪がれた」と記した
 プロイセンが「いまだ真の幸福ではない」状況にあることに変化はなかった

 後世、フリードリヒがロスバハの勝利を間髪入れずオーストリア軍への攻撃に利用したことが
大いに賞賛された
 しかし、実際にはそうする以外にプロイセンにとるべき道はなかった
 フリードリヒにはもはや戦術的勝利を積み重ねる以外に選択肢はなかったのだ
 いつ態勢を整えた敵が自分を叩き潰すかという圧倒的な恐怖がプロイセン軍の足を動かしていた


そんだけ
277火消し:01/09/30 23:12 ID:ivxtfD8I
 11月13日、早くもフリードリヒはライプツィヒを出発、トルガワ、グローセンハイン、バウツェン、
ゲールリッツを経て28日にカッツバハに達した
 シュレージェン方面から後退してきた残存部隊を吸収して3万5000となったプロイセン軍は、
ブレスラウ南方に陣を構えたオーストリア軍6万5000に殴りかかろうとしていた
 12月3日、集合した威風堂々たる体躯の将軍たちに対して中肉中背で猫背の王がやや目線を上げて
与えた訓示は、決戦前夜の決意の表明とするには余りに悲壮過ぎることで有名になった
 ノイマルクトに進出したプロイセン軍と既にヴァイストリッツ西方に布陣していた
オーストリア軍との間に、5日、ロイテンにおいて遭遇戦が発生した

 この戦闘で、プロイセン歩兵は従来の銃剣突撃でなく射撃線を形成して高い速射能力をいかした
徹底した火力戦を行い、これが斜行戦術が成功した鍵となった
 オーストリア軍は死傷者1万、捕虜1万2000の損害を受けて潰走、これに対しプロイセン軍の
損害は6000だった
 敗れたオーストリア軍はブレスラウに集結して退却し、プロイセン軍は19日にブレスラウ、
28日にリークニッツを回復した
 プロイセン軍はフランス軍、帝国諸侯連合軍、オーストリア軍の主力を相次いで撃破した
 しかしながら、これらの勝利はいまだ全戦局を決定するものではなく、ようやく戦力的な均衡を
取り戻したに過ぎなかった


そんだけ
278西東西:01/10/01 21:35 ID:RdVjrJ/I
 1758年1月、ロシア軍はケーニヒスベルグを占領、東プロイセンをロシアに編入し、
ヴァイクセル河畔で冬営に入った
 ザクセンには帝国諸侯連合軍が進出し、ポンメルン及びマルク地方ではスウェーデン軍が
侵攻の機会を窺っており、シュレージエンに対しては再編成したオーストリア軍が集結していた
 対するプロイセン軍は、ザクセンに対して王弟ハインリヒ率いる2万を、
ポンメルンに対してドーナ軍2万を当たらせ、フリードリヒは5万5千をもって
オーストリア軍に蚕食されていたシュレージエンへ進んだ

 プロイセン軍は4月10日にシュワイトニッツ要塞を奪回、その後5月28日にオルミュッツを
包囲した
 フリードリヒの作戦方針は、同地でオーストリア軍主力を誘致し、戦闘を挑んでこれを撃破し、
その後、軍を返して東プロイセンのロシア軍に当たるというものであった
 しかし、ダウン率いるオーストリア軍は会戦を避けてプロイセン軍を逆包囲する態勢を示したため、
フリードリヒは戦闘を断念、7月1日にオルミュッツの包囲を解いてランデスフートへ後退した
 ここでフリードリヒは軍の一部をシュレージエン防衛に残置し、自らはドーナ軍と合流して
8月25日にツォルンドルフにおいてロシア軍に決戦を挑んだ
 プロイセン軍の兵力は3万6000、対するロシア軍の兵力は4万4000だった
 25日0300頃、プロイセン軍はロシア軍の北方でオーデル河を隠密渡河し、ロシア軍の右翼を
包囲しようとした
 この攻撃は、渡河の秘匿を保持できなかったために完全な奇襲とはならず、
ロシア軍は何とか方向変換してプロイセン軍に正対したが、プロイセン軍は
ロシア軍の準備の未完に乗じて右翼に大損害を与えた
 プロイセン軍は引き続きロシア軍左翼を攻撃しようとしたが、疲労と弾薬不足(迅速な機動のために
段列を随伴していなかった)により攻撃は失敗した
 プロイセン軍は後退するロシア軍を27日まで追撃し、ロシア軍は兵力の3分の1を喪ったが、
プロイセン軍の損害も3分の1に及んだ

 この戦闘の後、ロシア軍はヴァイクセル河の線に退き、そこで兵力の再編成に入った
 フリードリヒは再び4万を率いて9月1日にグローセンハインに進出、ダウンのオーストリア軍に
決戦を挑んだが、オーストリア軍7万8000はホーホキルヒに退き、陣地を占領してプロイセン軍と
対峙した
 10月14日、プロイセン軍は斜行戦術をもってオーストリア軍陣地を攻撃したが
オーストリア軍は斜行部隊を陣地線で喰い止め、逆に有力な予備隊をもって斜行部隊を逆包囲した
 文字通り挟撃された斜行部隊は、隊列の前列と後列の兵が互いに背を向けあって射撃したが、
遂に優勢な敵に揉み潰された
 斜行部隊の潰走はプロイセン全軍に波及し、やがて全軍が敗走した
 プロイセン軍は兵力の3分の1を喪った
オーストリア軍も損害が7000に達していたため敢えて追撃せず、年末にはベーメンに後退した


そんだけ
279被害妄想:01/10/01 21:36 ID:RdVjrJ/I
 オーストリアはホーホキルヒの勝利に歓喜し、この戦争を三十年戦争に続く宗教戦争と思いこんでいた
ローマ教皇クレメンス13世はダウンに祝福の手紙を送った
 一方、フリードリヒは敗軍をまとめてシュレージエンに進出、1758年12月20日にドレスデンで
冬営に入った
 ホーホキルヒ戦以降、フリードリヒは「余はいつでも戦争を終わらせることが出来る」と言って
首飾りの中の毒薬を見せびらかすようになり、周囲を辟易させることになる
 1740年のお気楽な侵略者は、不眠と消化不良に悩まされるようになっていた
 1759年8月、破滅の足音はスキップしながら近づいてきた

 1759年のプロイセン軍の戦略上最大のEEI(情報主要素、我にとって最も重要度の高い敵の情報)
は、オーストリア軍とロシア軍が合流するか否かだった
 オーストリア、ロシア両軍に比べれば、スウェーデン軍や帝国諸侯連合軍はさしあたって脅威は低く、
フランス軍はブラウンシュヴァイク公軍に撃退され、積極的な攻勢に出る兆候はなかった
 オーストリア軍がロシア軍と合流するためにオーデル河へ進出したならばこれを撃破するため、
フリードリヒはシュレージエンの南西国境のランデスフートに軍を集結させた
 しかし、ダウンのオーストリア軍8万はシュレージエンを通過せず、
7月6日、ゲールリッツ南方のマルクリッサに陣地を占領した
 フリードリヒは4万4000を率いてオーストリア軍陣地南方に移動し、7月末にオーストリア軍と
対峙した
 オーストリア軍はロシア軍の接近を待ち、プロイセン軍はひたすらオーストリア軍が攻撃してくるのを
待ち構えた

8月初め、ソルティコフ率いるロシア軍7万が遂にオーデル河を渡った
フリードリヒは、これを迎撃するためドーナ指揮下の2万8000を派遣したが、ドーナは優勢な敵との会戦を回避したためフリードリヒの不興を買って更迭され、後任に若く積極果敢なヴェデルが任命された
8月23日、カイにおいて積極果敢なヴェデルは3倍のロシア軍に積極果敢に決戦を挑み、7000の兵を喪って潰走した
フリードリヒは、自ら軍の一部を率いてヴェデル軍を収容しなければならなかった

足音はスキップから全力疾走に移った


そんだけ
280壊滅:01/10/02 20:54 ID:WfXrruDo
 オーストリア軍は、カイでのプロイセン分遣隊の敗北後もマルクリッサを動かず、
 ただ、1759年8月3日にクネルスドルフに進出したロシア軍に増援のために、
ラウドン指揮下の2万を派遣し、8月5日には合流を果たした
 ロシア・オーストリア軍は同地に野戦陣地を構築し、兵力は8万に達した
 これに対し、プロイセン軍は増援部隊を吸収しながらオーデル河左岸のキュストリン地方に進出、
敵軍の退路を遮断するためにレープスに7000を残し、フリードリヒ率いる4万3000は
8月11日にオーデル河を渡河、12日早朝、ロシア・オーストリア軍陣地を攻撃した
 プロイセン軍は斜行戦術によって左翼のロシア軍を撃破しようと戦闘展開を開始、
これに対してロシア軍コサック騎兵は陣前出撃を行い、展開中のプロイセン軍と戦闘に入った

 12日1130頃、ようやく射撃位置に前進したプロイセン砲兵が敵陣に射撃を開始、
30分後にプロイセン歩兵の隊列が一斉に攻撃前進を開始した
 この攻撃によって左翼のロシア軍は陣地を捨てて後退したため、プロイセン軍は確保した陣地を軸に
敵を圧迫すべく突撃を開始したが、それまで散発的な射撃を行ってきた陣地中央のロシア軍と
右翼のオーストリア軍陣地が全力による突撃破砕射撃を発揚、プロイセン軍中央及び左翼の
攻撃前進を完全に阻止した
 フリードリヒは、兵士を鼓舞するために自ら軍旗を握って陣頭に立ち、攻撃を再興しようとしたが、
乗馬は2度にわたって倒れ、フリードリヒ自身も一弾が胸に命中して煙草入れを潰して中に入っていた
かぎ煙草でシャツを汚し、ついには単身コサック騎兵に包囲された
 もしプロイセン騎兵の決死隊がフリードリヒを救い出さなかったならば、彼は毒を仰ぐ暇もなく
殺されていただろう

 結局、16世紀以来ずっと戦場を支配してきた法則が勝利を収めた
 18世紀に至っても、堅固な陣地に依る徹底した防御は果断で積極的な攻撃を完全に粉砕したのだった
 戦場はいまだ勇気も大胆も存在することを許さなかった
 最高水準の練度と高度に洗練された戦術もそれを覆すことは出来なかった


そんだけ
281延命処置:01/10/02 20:55 ID:WfXrruDo
 プロイセン軍は完全に攻撃衝力を失い、夕暮れとともに確保した陣地も捨てて後退に移った
 兵20000と全ての野砲を喪い、連隊長級の高級指揮官の大半が死傷していた
 プロイセン全軍の組織的戦闘力が瓦解したと悟ったフリードリヒは、残存部隊の指揮をフィンクに委ね、
弟のハインリヒを全軍の最高指揮官に任命し、王位継承者を甥に譲り、自らは部隊の後退を掩護するため
壊滅した連隊の兵を集成した後衛部隊を指揮してオーデル河左岸に陣地を占領し、ここで敵の追撃を
待ち構えた
 明らかにフリードリヒは玉砕する覚悟だったが待てど暮らせど敵の追撃はなく、
結局、気の抜けたフリードリヒは2日後に後衛部隊をまとめてベルリンに帰還した

 オーストリア・ロシア両軍は、プロイセン軍を追撃することもベルリンに向けて進撃することも
しなかった
 クネルスドルフでの1万6000の損害による再編成もあったが、最大の理由は政治的な配慮だった
 オーストリアのシュレージエン回復と、ロシアの東プロイセン領有を戦略目的とすることで
両国は手打ちしており、プロイセンの完全占領は国際政治の勢力均衡の点からも好ましくなかった
 もう一つの大国フランスも同じ考えで、オーストリアへの援助金を減額し、オーストリアはフランスが
平和に傾くのを思いとどまらせるために外交努力を行わなければならなかった
 結局のところ、この戦争は「国家の戦争」ではなく「王室の戦争」だった
 フリードリヒは、後にこの軍事的空白を「ブランデルブルク家の奇跡」と呼んだ


そんだけ
282バキャベッリ:01/10/02 22:42 ID:QtyovoDw
ウーン、どうもグスタフ=アドルフとフリードリッヒって性格にだぶる所が有る様な木がする。
フリードリッヒの方がかわいげを感じるけど。
283281:01/10/03 00:36 ID:2PYIB.QU
>282
それはもしかしたら私の思い入れの差かもしれません
うう・・・・、戦争の経過は5レス位で終わらそうと思ってたのに
284札束と羊羹:01/10/03 00:38 ID:2PYIB.QU
 1759年8月中旬、ベルリンのフリードリヒは各地の守備隊から兵力を抽出し、
3万3000の軍を編成して、南方に退いたロシア軍を追撃するための準備を整えた
 しかし、オーストリア(ダウン)軍はロシアとの協定を破り、シュレージエンでなく手薄になった
ザクセンに進撃した
 また、帝国諸侯連合軍がライプツィヒとヴェルテンベルクに進出、9月4日にはドレスデンを失い、
ザクセン防衛の任にあったハインリヒ軍はトルガワに後退、ザクセン全域を失う恐れが出てきた
 フリードリヒはロシア軍追撃を諦め、ハインリヒ軍の一部を編合してザクセン解囲を企図した
 作戦の基本方針は、まずフインク軍を派遣してオーストリア軍の背後に進出させ、
しかる後に主力を率いてオーストリア軍に決戦を挑み、これを撃破することにより
ザクセンを確保をするというものだった
 しかし、フィンク軍はドレスデン南方の南マクセンにおいてオーストリア軍と帝国諸侯連合軍に
包囲されて11月21日に降伏、フリードリヒの作戦は根底からひっくり返った
 プロイセン軍はオーストリア軍と対峙したまま冬営に入り、フリードリヒは痛風を病んで
3週間病床に入った

 この間にも外交戦は進展していた
 フリードリヒはイギリスと図って講和会議の開催を目論んだ
 しかし、当時イギリスは北米と海上でフランスを圧倒していたためドイツで戦争が継続されることを望んでおり、カンフル注射のようにプロイセンに軍資金を注ぎ込んでいた
 しかしながら、イギリス国内に厭戦の気運が高まりだし、フランスもやる気を失せたように観測されたため、列強に和平協議をはたらきかけ始めた
 フリードリヒはまた、オーストリア南部国境を脅かすためにトルコと結ぼうとしたが、
これはさすがにイギリスが反対した

 海外でイギリスに連敗中のフランスは、財政上の理由から戦争から手を引きたがっていたが、
マリア・テレジアへの義理もあって全面講和に踏み切れず、イギリス及びハノーヴァーと
単独講和を企図する動きを示すようになった

 ロシアは兵力の消耗が半端でなく、加えてオーストリア軍との連携が不十分なこともあり、
政府内で戦争遂行に疑問の声が出てきた
 特に、オーストリア軍が協定を破ってザクセンに進出した時などは、怒り狂ったソルティコフが
全軍を率いて帰国しかけた
 フリードリヒはこの機会にロシアに接近し、単独講和かあわよくば同盟を結ぼうとしたが、
ドレスデン方面でのプロイセン軍の敗北が伝わったためロシアは再び態度を硬化させてしまった

 なお、言うまでもないがオーストリアはシュレージエン回復以外の一切の妥協を許さなかった


そんだけ
285夜討:01/10/03 00:39 ID:2PYIB.QU
 1760年に入り、フリードリヒは再び11万の軍を編成した
 自らは6万を率いてドレスデンを占領しているオーストリア(ダウン)軍7万2000と対峙し、
ハインリヒ軍3万5000はザーガン地区でロシア軍に備え、スウェーデン軍に対しては
シュトゥッテルハイム軍6500が配置された
 また、フーケー軍1万5000をシュレージエン防衛に当たらせたが、6月23日、ランデスフートに
おいてラウドン率いる優勢なオーストリア軍に蹂躙されて全滅、フーケーも負傷して捕虜になった
 これを受けたフリードリヒは、マイセンの帝国諸侯連合軍への手当に1万2000、
ドレスデンへの対処に1万2000を残し、主力3万6000を率いてシュレージエン防衛のため
8月12日にリーグニッツに進出、3個軍からなるオーストリア軍9万と対峙した
 プロイセン軍は南方からオーストリア軍を包囲しようと試みたが、逆に優勢な敵に3方向から
包囲される危険に晒されることになった
 14日夜、フリードリヒは1万4000を率いてリーグニッツ北東でオーストリア(ラウドン)軍を
夜襲、銃剣突撃によりこれを撃破した
 プロイセン軍の損害3300、オーストリア軍の損害は9000に及んだ
 この戦闘によってオーストリア軍は3軍のうち1軍が戦闘力を失い、プロイセン軍包囲を断念して
後退した

 戦闘後、フリードリヒはハインリヒ軍と合流し、1万2000を分派してロシア軍に当たらせ、
自らは主力を率いて山岳地帯に入り込んだオーストリア(ダウン)軍と対峙した


そんだけ
286バキャベッリ:01/10/03 21:43 ID:27Bkk/jo
 なるほど、フリードリッヒ大王ってナポレオン並みに各個撃破戦術を駆使してますな。
辺り一面の国を敵に回してしまう辺りもですが。
287沼地:01/10/03 22:35 ID:Pvyxq3t.
 ロシア軍はオーストリア軍の一部と合流し、オーデル河右岸ではクロッセン方面へ、
左岸ではベルリンへ向かって進撃を開始した
 オーストリア軽騎兵からなる偵察部隊がベルリンに侵入、10月9日から12日まで
略奪を欲しいままにした
 フリードリヒがシュレージエンから軍を返したため、本格的な戦闘を望まなかったロシア軍は
ヴァイクセル河まで後退したが、それまでに各地で略奪を行い、特にポンメルンは大きな損害を受けた
 ロシア軍後退を知ったフリードリヒはグーデンで軍を停止させ、その後ザクセンへ進んだ

 ザクセンでは帝国諸侯連合軍がトルガワとヴィッテンベルクに進出していたが、
プロイセン(フリードリヒ)軍の前進によりライプツィヒとヘミニッツに後退した
 大流血の決戦を厭わぬフリードリヒの行動により、プロイセン軍は戦争の主導権を握っていた
 しかし、これまた流血に頓着しないオーストリア(ダウン)軍5万がプロイセン軍を追尾し、
トルガワ西方に進出した

 オーストリア軍は高地に陣地を占領し、左翼をエルベ河の沼沢地に、右翼をトルガワの森林地帯に
依託して戦闘正面を局限し、北上するプロイセン軍を待ち受けた
 これに対し、フリードリヒはプロイセン軍4万1000のうち1万5000をツィーテンに任せ、
この軍を前衛部隊として正面からオーストリア軍を拘束させ、自ら斜行部隊2万5千を直率し、
トルガワの森を迂回して北方から払暁とともにオーストリア軍の背後を衝こうとした
 プロイセン軍は兵力で劣勢だったが、砲はオーストリア軍275門に対して300門とやや優勢だった
 11月3日に行われたこの戦闘は、7年戦争の全期間を通じて最大の激戦の一つに数えられることに
なった

 11月の寒気のために迂回機動は予想外の時間を費やし、午後になってようやく戦端が開かれた
 ツィーテン軍は錯雑した地形の関係から歩兵攻撃を断念して砲撃のみを加え、
その間にフリードリヒは北方からオーストリア軍陣地に強襲をかけたが、
速やかに陣地変換を終えたオーストリア軍の防御火力により喰い止められた
 しかし、この戦闘でダウンが負傷して夕刻戦列を離脱したため、オーストリア軍は夕闇の中
エルベ河を渡河して東方へ整然と後退した
 結局、敵を撃退したという点でプロイセン軍が勝利したことになったが、オーストリア軍が
1万6000を喪ったのに対し、プロイセン軍もまた1万7000の損害を出し、
フリードリヒ自身も銃撃によって軽傷を負った
 この損害の原因は、消極的な戦闘に終始した前衛部隊の敵拘束の不徹底によるものだった

 後退するオーストリア軍はベーメンで踏み止まったため、ザクセンへの脅威が完全に取り除かれた
訳ではなかった
 プロイセン軍はオーストリア軍に備えてライプツィヒで冬営、同地で越年した
 帝国諸侯連合軍はクランケンに移動、シュレージエンのオーストリア(ラウドン)軍もベーメンに移動、
スウェーデン軍はベーネ河を渡って後退した


そんだけ
288堅城:01/10/03 22:36 ID:Pvyxq3t.
 1761年はプロイセン軍にとって完全に守勢の年となった
 王弟ハインリヒは開戦前から要塞に頼る防衛戦略を主張し、攻勢によって主導を得ようとする
フリードリヒとしばしば衝突していたが、この年は頑なに防御に徹することになった
 オーストリア(ダウン)軍と帝国諸侯連合軍はベーメンに留まっていたが、
プロイセン(ハインリヒ)軍がこれと対峙してザクセンへの侵食を防ぎ続けており、
ザクセンはなおもプロイセン軍のための重要な策源として機能し続けた
しかし、情勢は緩やかに悪化していた
 ブンツェルヴィッツは、オーストリア・ロシア軍13万の1ヶ月の攻囲に持ちこたえたが、
 10月1日にシュヴァイツニッツが、12月にコーペルクが陥落し、オーストリア軍、ロシア軍、
スウェーデン軍は、来るべき侵攻作戦のためにプロイセン国内に確保した拠点に兵と物資を集中していた

 この状況を打破するためにフリードリヒは再びトルコとタタール族に交渉を求めた
 1761年11月にはタタール族が同盟締結と兵力の援助を提議してきた
 フリードリヒは、この兵力をもってハンガリーでオーストリア軍を牽制させ、
さらにトルコ軍と協力してロシア国境を脅かすことを目論んだ
 イギリスはジョージ2世の死去(1760年10月)とともにトルコと急速に親密化し、
1761年10月には通商条約を結んでいたため、この計画はかなりの実現性があったが、
トルコはオーストリアと不戦協定を結んでおり、またタタール族参戦もロシア国内の政変のために
実現を見ることはなかった

 一方、この頃イギリスはジョージ3世の即位と共に急速に平和へと傾き初め、
主戦論を唱えるピットが辞職、プロイセンは唯一の同盟国を失い軍資金の援助を絶たれた


そんだけ
289終幕:01/10/04 21:33 ID:TxvlbqUU
 年が明けて1762年1月5日、ロシア女帝エリザヴェータが酒と色に溺れまくった末に頓死した
 エリザヴェータのフリードリヒへの私怨が、ロシアがプロイセンに敵対した最大の理由だったが、
新帝ピョートル3世は皇太子時代からフリードリヒの熱烈な崇拝者で、両国は急速に接近することになる

 即位とともにピョートルは、国内の反対を押し切ってあろうことかオーストリア軍とともに
作戦中の軍を帰還させ、一切の領土的要求を含まず5月にはプロイセンと講和条約を締結し、
6月には攻守同盟まで結んでしまった
 この同盟にはスウェーデンまで加わったため、プロイセンは東プロイセンとポンメルンを完全に回復し、
さらにロシア軍の支援を得ることになった
 この結果、トルコとタタールの強力は失われたが、そんなものは今や些細なことだった

 東の脅威が消滅したフリードリヒは、軍を再編してザクセンにハインリヒの6万を配し、
自らは10万の兵力を集中させてシュレージエンの完全回復を企図した
 6月30日にはロシア軍2万が来援し、フリードリヒ指揮下の野戦軍は7万5000に達した
 早くも7月1日、フリードリヒは奪われたシュヴァイツニッツへと軍を進めた
 対するオーストリア(ダウン)軍は、一部を占領地の防衛に当たらせ、主力4万9000が
シュヴァイツニッツ南方のブルケルスドルフに陣地を占領した
 フリードリヒは軍の一部(ヴィート)をオーストリア軍陣地の背後に迂回させ、
自ら主力を率いて敵陣を挟撃しようとした
 この支軍は意図を秘匿するため夜間行軍に徹したが、オーストリア軍はこれを探知して
シュヴァイツニッツの西方に移動して新たな陣地を構えた
 その後もフリードリヒは部隊を送り込んで背後攪乱を繰り返したが思うように成果は上がらず、
両軍は延々と探り合いのような機動戦を繰り広げた挙げ句、フリードリヒは全力を集中した正面攻撃に
頼らざるを得なくなった
 ピョートル3世が皇后の手によって弑逆され、7月21日にロシア軍はポーランドへ帰還の途について
いたが、プロイセン軍はその日にオーストリア軍に対して作戦を開始した
 プロイセン軍はまずオーストリア軍とシュヴァイツニッツの連絡線を遮断してオーストリア軍を誘い、
8月4日未明、ブルケルスドルフでオーストリア軍を攻撃した
 夕刻、オーストリア軍は3000を喪って後退、プロイセン軍の損害も1600に及んだ

 シュヴァイツニッツのオーストリア軍守備隊は眼鏡に抵抗を続けたが10月10日に降伏、
グラッツ伯領を除くシュレージエン全域がプロイセンの手に落ちた
 10月29日にはハインリヒ軍がフライベルグでザクセン方面のオーストリア軍を撃破、
新編のフェルディナント軍がハノーヴァーでフランス軍をライン河の西に押し戻した
 この結果、兵力的に劣勢に陥った帝国諸侯連合軍は行動を封じられ、バイエルンが単独講和の交渉を
始めたのを契機に連合軍は崩壊した
 フランスが最初に手を上げた
 11月3日にイギリスと講和の仮協定を締結、フランスはドイツにおける軍事行動を停止し、
続いてドイツ帝国議会もプロイセンとの中立協定を結んだ
 最大の被害者であるオーストリアのマリア・テレジアはなおも頑強に戦争を主張したが、
協約の期限が満了したトルコが10万の軍を国境に集結させるに及び、
遂に1763年2月15日、平和条約に調印した
 戦争は終わった


そんだけ
290速射兵器:01/10/04 21:34 ID:TxvlbqUU
 フリードリヒの戦争目的は、国益というよりは王朝の利害にあった
 戦略目的も敵の撲滅ではなく敵の消耗にあった
 フリードリヒは、敵を壊滅させ、または敵に自分の意志を強要するだけの資源を持っていなかった
 フリードリヒの軍隊の規模も編成も、過去の軍隊とたいして変わらなかった
 七年戦争開戦時の陸軍の総兵力は15万で、この数字は1786年に20万に増加したにとどまった
 そして、17世紀のヨーロッパ諸国の軍隊と同じく、プロイセン兵の3分の1は外国人だった
 フリードリヒは無数の戦闘を指揮したが、そこに投入された戦力は4万を超えることは滅多になかった
 しかも、戦闘に勝った時でさえ兵員の最大40パーセントが死傷した
 兵の損失がこれ程酷かった原因の一つは、火器の改良が進んだことだった
 プロイセン軍の小火器の性能向上の至上目標は、依然として精度と射程ではなく発射速度を上げること
だった
 銃を軽量化し、全長を短くし、鉄製の込矢や銃身の口径に比して極端に小さい弾丸等の小手先の改良を
繰り返し、教練を更に強化した結果、マウリッツの時代に10列の銃兵が投射した弾量を
フリードリヒの兵士は3列で達成した
 射程や精度は顧みられないどころではなく、射撃速度のためには当然のように犠牲になった
 当時のどこの軍隊でもそうだったが、プロイセン軍の教練に「狙え」という号令は存在せず、
兵士はただ銃を水平に構えて真正面に向けて発砲することのみを要求された
 プロイセンの銃には照星がなかった


そんだけ
291モノの戦争:01/10/04 21:35 ID:TxvlbqUU
 このように短射程で火力を集中し、多数の損害を覚悟しなければならなくなると、軍事物資の補給を
従来の軍隊よりずっと円滑に進めなくてはならない
 フリードリヒはこの面で大きな成果を上げた
 ポツダムのスプリトゲルバーとダウムの兵器廠では、1740年代に年間1万5000挺の銃を生産し、
プロイセンの火薬の生産も1746年の44万8000ポンドから1756年には56万ポンドに
増産された
 兵站部は2年先の軍需品まで契約しており、フリードリヒは「軍は必要なものに事欠いたことはない
仮に銃4万挺と軍馬2万頭を使用する作戦を遂行することになっても大丈夫だ」と胸を張った
 糧食も大事に備蓄されていた
 ベルリンとブレスラウの軍需品倉庫だけでも、1776年には6万の兵を2年間養えるだけの
穀物と小麦粉が保管されていた
 軍専属の仕立屋が納入する規格を統一した新しい軍服が、毎年全ての連隊に支給された


そんだけ
292節約が趣味です:01/10/04 21:36 ID:TxvlbqUU
 もっとも、これにかかるコストは国を麻痺させる程だった
 戦争は余りに多くの人命を消費しすぎた
 7年戦争開戦時、プロイセン軍の規模はヨーロッパで第4以か5位で、国民一人当たりでは
第1次を誇った
 しかし、プロイセンの人口はヨーロッパで第13位に過ぎなかった
 プロイセンの若者の4分の1は軍隊に徴兵された
 そして、七年戦争では18万の兵士が死んだ
 この数字に負傷、捕虜、脱走を加えれば、プロイセン軍は数回は全滅したに等しかった
 開戦時のプロイセン軍の兵士で、終戦まで生き残っていた者は僅かに15人に1人であり、
これは三十年戦争でグスタフ・アドルフのスウェーデンが蒙った人的損耗をも上回っていた

 財政の面でも、軍事費は支えきれないほどの高額に達した
 プロイセンの収入の90パーセントが戦費に費やされた
 これだけつぎ込めば20万の軍隊を維持できたが、ひたすら倹約に努めた結果だった
 貨幣は悪鋳され、軍税や強奪で手当たり次第に搾り取った
 傷病兵に対する介護にはビタ一文割かれなかった
 将校は結婚を禁じられた
 フリードリヒには軍人寡婦に年金を払う余裕がなかった


そんだけ
293かおる:01/10/05 01:09 ID:cfrlM8A6
 フリードリッヒの時代のマスケット銃が小口径化と時間毎の弾量を大にする方向に
進化していたのには興味深いものがあります。
 近現代の歩兵ライフルも、自動化が進むと小口径化が進み、歩兵一人にいかに多弾量
を携帯させ、射撃時のコントロールを容易にするかと言う方向に進化して行きました。
 大2次大戦時、ナチスドイツが7.92mmの自動小銃を実用化した後、NATOは7.62
mmに口径を統一、ベトナムでアメリカは5.56mmのM16小銃を使用し、後に他国
もそれに習い、その後4mm台の口径の研究も進んでいる次第。
 そうした流れは、歩兵が複雑化して行く戦場に適応して行く過程で明確化された物
であり近接戦闘が、今も昔も彼らに課せられた過酷な任務である事を指しているように
思える。
 フリードリッヒは、いかなる過程でそうした洞察を得たのであろうか、興味は尽きない。
294名無し三等兵:01/10/05 04:23 ID:ILoID1zQ
そんだけ氏&そのほかの論客氏にもに敬礼後祝砲二十一発sage
さて・・・
講義を読み進めると、次第に『数』だけが恐ろしいほど戦争の中心になっていくのが
ひしひしと伝わってきます・・・
薄ら寒い感触を覚えつつ、新たな講義&論客参加を期待しつつROMらせていただきます。
295名無し三等兵:01/10/06 00:19 ID:mrOWal32
ゆっくりでもいいから続けてほしい。
このスレのために当然sage。
296伝統芸能:01/10/06 00:40 ID:DarbNcRY
 プロイセン全軍が何度も皆殺しに遭うような目に会いながらもなお戦争に勝利できた第一の要因は、
兵の精強さでも斜行戦術の素晴らしさでもフリードリヒの鋼鉄の意志でもなく、
主に補給面での改善にあった
 おかげでプロイセン軍は、プロイセンの領土から余る遠くに出ていかない場合に限られたが、
比較的迅速かつ秩序正しく移動できるようになった
 また、兵士の軍規を過剰に強化したことで、フリードリヒは敵の鼻先で奇襲をかけることもできた
 他の国の軍隊であれば兵士が大混乱に陥る戦術展開ですら成し遂げた
 だがそれでも、決定的な勝利を得るには十分でなかった
 フリードリヒが戦争で獲得した唯一の収穫は、1741年のシュレージエンだけだった
 この後、フリードリヒは徹底した消耗戦略によって戦争を戦い抜き、勝利した
 フリードリヒは国際政治上の現秩序を維持することなど全く気にかけていなかったが、
軍事的には現秩序を死守する徹底した保守主義者だった

 1775年にフリードリヒは次のように記した
 「野心を抱く者は次のことを考慮すべきである
 今日、軍備と軍規はヨーロッパのどこでも均一であり、同盟は常に交戦国間の兵力の均衡を生み出す
 従って、現下で揺るぎない優位にある君主といえども、そこから期待し得るのは、
戦勝を重ねることによって国境の小都市を獲得し、あるいはささやかな領土を獲得するに留まる
 例えそれが戦争に投じた出費の利息すら払えないような領土であり、作戦で死亡した市民の数にも
及ばぬ人口を持つに過ぎない領土であろうとも」
 これ程格調高くなくとも、近世の政治家たちは誰もがフリードリヒに同意しただろう
 プロイセンもその敵国も、17世紀のヨーロッパ諸国とさほど違わなかった
 それは、依然として強固な階層秩序を保った社会であった
 貴族は富と権力をその手に握り、軍隊も当然この社会の現状を反映していた
 フリードリヒの将校たちは、ルイ15世の将校たちと同じく全員あるいはほぼ全員が貴族だった
 下士官と兵卒は例外なく庶民であり、その半数近くが外国人だった
 戦争捕虜から挑発された外国人もいた
 更に、18世紀の政府が頼った戦費の財源も、フェリペ2世の時代と大差なかった
 軍隊が利用する道路も輸送手段も、ヨーロッパのどこであれ、1750年代が1550年代より
素晴らしく改善されていた訳でもなかった


そんだけ
297夜盗の戦術:01/10/06 00:41 ID:DarbNcRY
 とはいえ、フリードリヒが死んだ1776年ともなると、近世ヨーロッパの軍事システムは明らかに
変化しつつあった
 第一に、正規軍に新しい編制が見られるようになった
 それは軽装備の歩兵と騎兵だった
 軽歩兵が最初に注目されたのは、プロイセン国王フリードリヒがオーストリアのハプスブルグ家に
騙討をかけた1740〜1741年のことであった
 この時、トルコとの軍事境界線にあたるハンガリーとクロアティアの2万の古参兵が援軍に動員され、
プロイセン軍の上部シュレージエンへの侵攻を喰い止めたのである
 軍服など滅多に着用しないこの軽装備の「散兵」を、あるイギリス人は偏見に満ちた表現で
次のように評した
 「(彼らは)乱暴で無規律、軍法に対して徹底して不服従を貫く
彼らがハプスブルク家に尽くすのは、彼ら特有の宗教上の偏向と習慣、教育のためである
原始的な粗野と純朴が彼らの特徴であり、今日の軍隊の有給の傭兵(志願兵)を鼓舞する精神とは
全く異質のものである」

 彼らは1737〜1739年にはトルコ軍を撃退した実績があったのだが、
それでもヨーロッパで最も完成された軍隊を打ち負かしたことは、
他の国の軍事指導者たちの関心を集めないわけにはいかなかった
サヴォイアはフランスの攻撃から山岳地帯の国を守るため、1742〜1743年にアルプス山脈に
大量の非正規軍を動員した
 ハンガリーでの従軍経験のあるサクス元帥は、1743年にフランス軍に軽歩兵を導入した
 七年戦争が終わると、軍事思想家たちは戦争の戦訓と功績をまとめたが、
軽装兵力とその戦術を積極的に評価する意見もあった
 この「小さな戦い」を論じた書籍は、1750年から1780年までにヨーロッパで
50冊ほど出版されたが、いずれも「軽装兵力」の採用を推奨していた

 1755年、イギリスはアメリカに正規軍を出兵し、フランスとフランスと同盟したインディアンの軍勢と戦うことになったが、この時「小さな戦い」の変則的な戦術を部分的に採用した
 ある将校は現地で戦う兵士を次のように評した
 「必要な教練は、武器の使用法を完璧に熟練、すなわち、素速く装填し、射撃するのみである
軍規に関してはただ一つ、フランス人とインディアンに攻撃されたなら、
銃弾が発射されている場所全てに突撃せよ」

 勿論、全ての専門家が軽装兵力の必要性を全面的に信じたわけではなかった
 1757年、オーストリアの軽騎兵はプロイセン領の深奥部に襲撃をかけ、一時はベルリンを陥れた
 ところが、フリードリヒはそんな経験をした後でも軽装兵力を採用しようとはしなかった
 むしろフリードリヒは、戦場に全力を注ぎ込むほうを選択した
 また、大金をつぎ込んで訓練した歩兵隊が万が一にも脱走することを極度に警戒した
 宿営地の周囲にフェンスを張って兵士たちの上着と靴を没収し、進軍の際は夜間を避け、森を通過しないようにし、斥候が司令部の前方を200メートル以上離れることすら禁じた
 散兵の組織的な小競り合いの戦術を、逃亡を黙認するに等しいとみなしていたのだ
 もっとも、これには全兵力を完全な統制下に置いて戦場に投入するフリードリヒの戦術スタイルも
起因していたのだろう
 しかし、この解釈は間違っていた
 軽歩兵と軽騎兵は既に定着していた


そんだけ
298手札:01/10/06 04:24 ID:ZVxB8yqg
 オーストリア継承戦争(1740〜1748年)では、もう一つの新しい変化が生じた
 大規模な軍隊を、師団というそれだけで完結した部隊に分けて編制したことだった
 1760年代に出版されたピエール・ド・ブルセは、彼の著書「山岳戦の原則」で、
理想的な軍隊は3個梯隊で構成されるべきで、それぞれが1日あるいはそれ以下の進軍距離に相当する
間隔に離れて展開し、全軍が集結し攻撃する地点を敵に悟られないようにするべきだと主張した
 このスタイルは、フランス・スペイン軍がサヴォイアに遠征したときにかなりの成果を上げ、
ブルセはこの遠征に兵站参謀将校として従軍していた
 ところがフランス陸軍指導部は強行に抵抗し、フランス軍が陸軍編制の基本単位として
師団を採用するのは1787〜1788年になってからだった
 これによって、1万2000の歩兵、騎兵、砲兵、工兵と本部要員が
一人の指揮官と幕僚スタッフのもとに編制されるようになったのである

 だが、野戦軍の師団編制はうまくいかず、フランス軍でも1796年まで普及しなかった
 大軍を分散し、移動と展開を相互に調整し、再び迅速に集結させるのに必要な道路と地図が
思うように手に入らなかったからだった
 七年戦争の時も、各国の軍隊は地図がないため進軍に苦労し、地形がわからず負け戦を余儀なくされた
 ヨーロッパの道路網が全て調査され、将軍たちが地形を知識として使えるようになったのは、
1780年代になってからだった
 この時代に進められたオーストリア・ハプスブルク家の全領土を網羅したヨゼフィーネ測量調査、
カッシーニによるフランスの大掛かりな地勢測量がこれに貢献した
 1790年代には、地図に等高線が引かれるようになり、指揮官は地図を広げて作戦を立案することが
できるようになった
 標高が正確にわかる地図が軍隊に与える恩恵は計り知れなかった

 これらの地形資料のおかげで道路網は以前とは見違えるほど各地に拡大し、
計画的かつ定期的に維持整備されるようになった
 これまで道路がなかった場所に戦略機動路が欲しいとなれば、工兵隊がすぐに道路を敷設した
 イギリス軍が18世紀半ばにスコットランドに構築した道路は、全長1500キロに及んだ
 大陸では、必要な軍需品を集積地から軍の倉庫に迅速に輸送するため、
専用の運河建設計画も立案された


そんだけ
299いい仕事しました:01/10/06 22:18 ID:UzSJ4Op6
 18世紀後半には、この様な戦争技術の変化に加えてはじめて完全な機動性を備えた野砲が開発された
 ルイ14世の時代の野砲は、必要に応じて野戦にも攻城戦にもどちらにでも使えるよう、
両方の状況での使用を想定して鋳造されていた
従って、太郎の火薬を装填しても耐えられるよう、砲身は比較的長く厚く設計されていた
 ところが、ルイ15世の時代になると、攻城戦には不向きだが野戦で強力な威力を発揮する
砲身が短く軽量の砲の開発が始まった

 フランス軍の砲は、ジャン・パティスト・グリボヴァルの積極的な指導のもとで口径と備品が一律に
統一され、部品を相互に交換することも可能になった
 これは、規格が均一で精密、耐久性に非常に優れた金属加工品の大量生産を成し遂げた工場の
実力のなせる業だった
 並行してフランス軍の砲鋳造工は精度を上げ、大砲の有効射撃に必要な火薬の量を
50パーセント減らせることを実証した
 これで発射の衝撃が小さくなり、砲身の太さを大幅に薄くすることができた
 フランス軍の4ポンド野砲の重量は、1750年代から1760年代の間に1300ポンドから
僅か600ポンドまで軽量化された

 砲が戦場に現れて以来、砲と砲架の軽量化は技術者たちの至上目標の一つだったが、
この改良は画期的だった
 この重量ならば馬3頭で楽に運べることができ、扱う兵員も8名ですんだ
 機動性が向上した当時の軍隊や師団の作戦にも十分ついていけることになった


そんだけ
300頭数だけ:01/10/06 22:19 ID:UzSJ4Op6
 軽装備の兵力と小競り合いの戦術、師団の導入による機動的な戦略、迅速に移動できる強力な野砲の
登場とともに、兵力の変化が訪れた
 先鞭をつけたのはフランスだった
 フランス革命直前の1789年のフランス国王軍の兵力は15万だった
 1793年にはフランス軍の書類上の兵力は64万5000になり、
「国民総動員」の兵力は恐らくその2倍を数えた
 そして、1794年にはフランス共和国軍の総兵力は、少なくとも建前のうえでは116万9000に
達した
 勿論、常のことだが現実は予測を下回っていた
 新兵の損耗率は極めて高く、従って1794年に実際に軍務についていた者は73万程度と
見積もられている

 しかも共和国軍の新兵たちは、かつての国王軍よりずっと粗末な装備しか与えられていなかった
 例えば、当初は兵士全員に同じ軍服を着用させるのは不可能だった
 1793〜1794年の各地の地方軍は、「『フランス軍服のブルー』にそっくりな素材でできた上着と
ズボン」を着用するよう命じるしかなかった
 また、「教練に割ける時間が僅かしかないことを考慮すれば、適切な武器はこれしかない」という
理由で新兵の訓練用装備として槍を復活させたところもあった
 実際のところ、この時期にフランス軍が採り入れた「師団」編制も、純粋に戦略的・戦術的要求から
ではなかった
 編制上の師団が採用されたのは、1793年の「国民総動員」以降の軍隊が極めて扱いにくくなった
ためであった
 例えば、1794年春に31万に膨れ上がったフランス北部方面軍のような大軍勢では、
師団に分割しなければ作戦展開などできなかったのだ


そんだけ
301レジオン・ドヌール:01/10/06 22:20 ID:UzSJ4Op6
 この様な一時的な不都合は、かつては予測として想像されただけだった
 というのも、73万もの軍隊を徴発し、装備を与え、維持しようとした国は、ましてやりおおせた国は
ヨーロッパで一つもなかったからである
 1792年から1815年の間にフランス軍に従軍した兵士は、累計で300万に達した
 これを擁した支配者は、無敵の集中的戦力を手中にしたと言えた
 1805年、17万6000のフランス軍は、286門の野砲を備え、200キロにわたる前線を
維持しながらドイツを横断した
 1812年、60万のナポレオン麾下のフランス軍「大陸軍」は、1146門の野砲とともに、
400キロの前線を形成しつつロシアに侵攻した

 こうして遂に「イタリア式築城術」で固められた要塞拠点を突破できる大軍が出現した
 フランス軍は、稜堡で要塞化された拠点を攻略する困難を克服できた訳ではない
 1810年のポルトガルのトレス・ヴェドラス要塞の攻防のように、堅固に防護された要塞は
大軍の前でも持ちこたえることができた
しかし、この時代のフランス軍は、敵の戦略拠点を包囲し、自らの要衝の防備を固めたうえで、
更に指揮官が空前の規模の戦力を戦場に投入できるほど、それほど巨大な軍隊だったのである
 これは、ヨーロッパ史上例のない、全く別の次元の戦争だった
 ナポレオンの軍隊は、7年戦争や30年戦争、いやオランダ独立戦争の時代の軍隊と
そっくり同じ戦術で戦った
 だが、ナポレオンの時代までに、戦争の規模は一変していた


そんだけ
302301:01/10/07 11:15 ID:/RejcucI
やっぱり近世以来の海戦について触らないままナポレオンの戦争を書くってのは
自分の能力ではちと無理でした
という訳でちょっと寄り道します
すんません
303ヨーロッパの釣り堀:01/10/07 11:16 ID:/RejcucI
 近世ヨーロッパでは、植民地と交易、つまりは制海権が大陸における勢力バランスを決定した
 帆船の時代における「制海権」とは、ある国家(またはその同盟国)と当該地域とを隔てた海を横断て
兵力や交易物資を輸送する能力、あるいは、その国家(またはその同盟国)の敵が同様のことを行うのを
阻止する能力、という程度の意味しかなかった
 制海権とは、あらゆる領域で海軍が完全な支配力を握ること、と定義した提督や政治家は
近世ヨーロッパには存在しなかった
 例えば、マハンが1890年に「海上権力史論」で提示した有名な定義、すなわち「海上に及ぼす
威圧的な力、それをもって敵の旗艦を追い払い、出現したときはただ逃亡する姿を認めるのみ」
という事実が制海権であるとは、誰一人同意しなかっただろう
 それはごく単純に、近世にはそれを実現できるだけの海軍力を持つ国家は一つもなかったからだった
 マハンは海軍理論家で、かつてジョミニが陸戦について提示したような必勝戦略の「普遍的法則」を、
海戦について発見し定型化しようとしたに過ぎなかった
 そもそもマハンは専門的な訓練を受けた歴史家ではなかった

 マハンは次のように述べている
 「歴史叙述とは、『中心概念のまわりに副次的な断片を美しく並べてみせる』ものでなくてはならない
 言い換えれば、『手間をかけて』探求するほどの『証拠としての価値が実際にない』事実もある、
ということである
 すなわち、『学者は確実性を求めすぎると、決断力を失いかねない』訳であり、
『事実とは兵隊と同じように総動員をかけ』、『主役』に服従すべきものなのである」

 ここで特筆すべきは、「海上権力史論」では、砲や帆、艦船の設計について一言も論じられていない
ことである
それも当然で、マハンには、これらの技術的変化が戦略の普遍原則が応用できなくなる場合があるとは
信じられなかったのである

 しかし、マハンはそれまでの同業者が気付かなかった重要な論点について言及した
 1490年代の「地理上の大発見」時代から、鉄道が急速に普及する1840年代までの時期は、
制海権の黄金時代だった、という指摘である
 この時期は、戦略上重要な海域を支配しているか否かが、ヨーロッパのみならず非ヨーロッパ世界における勢力バランスを決定した時代だった
 この時期に、ヨーロッパは近代を通じて世界の大洋の大部分に覇権を唱えるきっかけを掴んだ
 火器がその中核を占めた
ヨーロッパは海上で容赦なく火器を使用し、海上の敵手たちを次々に薙ぎ倒した
 まずアメリカで、次にアフリカと南アジアを横切り、最後には日本と中国へ


そんだけ
304海の人:01/10/07 20:29 ID:TQ7SwQVo
>303
 寄り道とは言いながら急所を突かれる論述で、本当に読むのが楽しみです。

 海上への戦力の投射という点で、人間はローマ共和国末期から帝政ローマ
初期の高度な「戦争論」を失って後、実に1700年もかけて、ようやく点としての
港湾と、そこから広がる行動領域としての制海権という概念にたどり着くことが
できたのか、と、その失われた知識を取り戻すまでの道程の果てしない長さと
試行錯誤の繰り返しには本当に言葉を失ってしまいますです。

 マハンの「海上権力史論」が、マキャベッリの「政治論」、クラウゼウィッツの
「戦争論」などと並んで幾星霜にも耐えうる書籍として残ったのは、実はこれら
2書も方針としている、同時代の具体的な技術や事物を用いなかったと言うこと
が大きいのかもしれないと思うこともあります。

 これからも楽しみにしていますです:-)
305極東の戦艦:01/10/07 20:34 ID:f3Xg5g6s
 皮肉にも、火器を最初に開発し発展させたのは中国人だった
 日常生活で火の細工に長けた中国人は主に火薬を祭事用に使用したが、
軍事用に全く転用しなかった訳ではなかった
 少なくとも1281年の日本侵攻において爆発物が戦闘に使用され、
14世紀には金属製の砲身を備えた砲が開発され、艦船に搭載された
 これ程早くから海上で砲が使用されたのは別に驚くべきことではなかった
 砲は中国の伝統的な海上戦闘のやり方にうってつけだったからだ
 遅くとも8世紀以降、中国の大型戦闘艦は接近戦や舷側斬込よりも発射体を使って距離をとって戦う
戦術をとるようになり、弩砲と投石機を備えた軍用ジャンクが宋代の艦艇の基本装備となっていた

 1350年代の明朝の朱元璋の艦隊には艦砲が搭載されていた
 北京中国人民革命軍軍事博物館に展示されている射石砲には、「水軍左衛」用に1372年に
鋳造されたことを示す銘と、「四二」と読める刻印が見える
 当時既に、艦載砲はごく日常的に製造されていたのだ
 15世紀初頭になると、中国の大型戦闘艦は各種の火器50門と弾丸1000発を搭載することを
義務づけられていた

 ムスリムの提督鄭和の指揮のもと、インド洋に出帆した第7次遠征艦隊に搭載されていた装備も
恐らくこれと同じようなものだったろう
 この遠征艦隊ははるかモガディシュとアデンまで赴き、セイロンを攻略した
1520年代の明の戦艦にも砲は搭載されており、1522年にはその艦砲のおかげでポルトガルの
小艦隊は図イ門(トンマン)沖の海戦に敗北した
 乗船していたヨーロッパ人たちは中国人の手に落ち、獄に繋がれたうえに最後には処刑された

 もっとも、中国人自身、中国製の砲がヨーロッパ製よりはるかに質が悪いことを自覚していた
 「フランク人は実に巧みに銃砲を操るが、それにひきかえ、中国人は自分の指はおろか腕まで
吹き飛ばしてしまう」


そんだけ
306パイレーツ:01/10/07 20:36 ID:f3Xg5g6s
 勿論、火器を持っていることと、それを巧く使いこなすことは全く別の問題である
 1550年代、明政府は、中国沿岸一帯を蹂躙していた「倭寇」に対して砲はほとんど威力を
発揮し得ない、という最終的な結論に達した
 1564年に出版された海戦の指南書によれば、海賊は海上の戦闘で敗れたためしはなく、
むしろ三つの条件が揃ったときに撃退できた
 第一に、海賊内の日本人と中国人を分断させるような策略が練られていること
 第二に、日本国内にいる海賊の支援者に外交的な圧力がかけられること
 第三に、中国にある海賊の地上拠点に徹底的な攻撃を仕掛けること
 しかも、この第三の条件さえ、火器を使用しなくとも実行できた
 そもそも、明の指揮官たちは、陸戦であれ海戦であれ、銃と砲を信頼していなかった
 同一規格の口径で発砲できないうえ、発砲した途端にすぐ暴発してしまうことが多過ぎたのだった
 砲撃に耐えられる装備でジャンクを補強しても、いたずらに船が扱いにくくなるばかりであった
 艦砲は不正確でお話にならない、というのもよく聞く言い分だった
 そして彼らは昔ながらの方法で倭寇を撃退した
 敵をはるかに上回る大量の軍勢を、弓と槍と剣で武装させて結集したのだった
 中国の軍用ジャンクはその後も多少の砲を搭載していたが、それは地上兵員用の軽量のものだけだった
 中国艦艇の主要装備は、1629年代になっても依然として火船であった


そんだけ
307舟筒:01/10/08 12:18 ID:ZG9hW/wQ
 このように、艦載砲は中国の海軍の伝統にうまく適合しなかったため、
中国人はこれを悠然と退けてしまった
 これに対し、ヨーロッパの海戦の一般的なやり方は衝角攻撃と接舷斬込だったが、
海軍に火器を導入した
 だが、これが実を上げるまでには長い時間がかかった
 1338年にポーツマスでイングランド艦「クリストファー」を捕獲したフランスの戦利品目録には
鉄製の砲3門と銃1挺が記されているが、これが海戦で実際に使用された証拠はない
 恐らく、陸兵用の装備だったのだろう
 海上で砲が使用されたことを伝える信頼できる記録は1360年代からだが、そこに記されているのは
どうみても撃沈用兵器ではなく、地上兵員用兵器だった
 1362年、スンドの海戦でリューベックの3隻の船がデンマーク艦隊の攻撃を撃退できたのは、
6発の「ドンデルブス(喇叭銃)」が功を奏したからだった
 そのうち1発がデンマークの指揮官に命中して死亡させたのだ
 少なくとも、1380年代以前の船上の火器は、「ギリシア火」の発射台だった可能性が高い
 当時の艦砲は、せいぜい軽量の後装砲程度だった
 もし、当時の城壁防御用程度の中口径砲を据え付けたとしても、発射の反動と衝撃で間違いなく
大惨事になっただろう


そんだけ
308奴隷船:01/10/08 12:21 ID:ZG9hW/wQ
 もっとも、大西洋を帆走する帆船は、当時のヨーロッパの戦闘艦の主役ではなかった
 9世紀以降、主役の座に輝いていたのは地中海のガレー船だった
 ガレーはオールのせいで側面が脆弱で、舷側でなく正面攻撃をせざるを得ず、また舷側に砲を一列に
並べることもあり得なかった
 だが、艦首と艦尾に砲を装備することは簡単だった
 15世紀半ばになると、地中海のキリスト教徒のガレーは、敵の船や要塞を攻撃するために
1ないし2門程度の小型後装砲を艦尾の甲板(プープデッキ)に搭載するようになっていた
 1445年、ブルゴーニュ公がトルコ軍を撃退するために派遣したガレーには鋳鉄製の大口径射石砲が
搭載されていた
 この砲は、艦がダニューブ河下流で作戦中に実際に射撃を行った
 この「それぞれのガレーの船尾に据えた2門の大砲」は、同じ尾栓式の設計(後装砲)で
弩に劣らぬ早さで発射できたと言われていたが、オーヴァーヒートをおこして最初に2門の砲身が破裂し、
続いて2門が砲架ごと吹き飛んだ

 しかし、それから1世紀もたつと地中海の軍用ガレーは通常青銅製の60ポンド砲1門と
16ポンド砲2門を搭載し、船首楼と船尾楼に小口径砲15門を装備することが当たり前になっており
ガレーの火力は著しく向上した
 ヴェネツィアの海軍博物館に保管されている16世紀の60ポンド砲は口径が175ミリで、
当時の発射記録を見ると、射距離640メートルまでは極めて命中精度は高く、最大射程は3キロに
及んだらしい
 船体のバランスをうまく調整して、中心線に沿って配置された砲も検討された
 砲弾の装填が容易なように、マスト方向にスライドする橇の上に砲を据え、
発射の反動を吸収する仕組みだった

 夏の地中海はほとんど風もなく凪いでいるので、ガレーのようなオールを装備した戦闘艦は
どのような船に対しても優位に立つことができた
 16世紀と17世紀を通じて、地中海の帆船は重装備のガレーに常に撃沈され、拿捕された
 バルト海では18世紀になってもオールつきの戦闘艦が使用されていた
 スウェーデンやフィンランドの海岸線の岩礁は、帆船の航行が難しかったからである
 1719〜1921年にロシア軍はオールつきの大型戦闘艦でスウェーデン沿岸を襲撃し、
1790年代のスウェーデンは大量の砲を搭載したガレーを動員してロシア艦隊を撃破した


そんだけ
309初陣:01/10/08 20:19 ID:5i9xxhZ.
 16世紀の地中海で、海上を暴れ回る恐竜とも形容されるガレーを脅かしたのは、
丸っこい帆船ではなくガレアス船だった
 1520年代、ヴェネツィア共和国は、商船隊に対する海賊行為が激増したため、
防御力を強化する目的で幾つかの型の戦闘艦を試作した
 発見された古代の文書を手がかりに、ローマ帝国滅亡以来はじめて「五漕式ガレー」が
建造されたのは1529年のことであった
 この船は、全長74メートル、全幅11メートルで、木造船としては最大級のものだったが、
扱いにくくて軍事作戦には向いていなかった
 1540年頃、最初のガレアスがヴェネツィア海軍工廠で竣工した
 全長50メートル(当時の標準型ガレーは40メートル)、全幅は9メートルで、
オールと帆の両方で航行し、ガレーよりはるかに重装備だった
 ガレアスの標準装備は、艦首と艦尾にそれぞれ艦砲8門、両舷に陸戦用の中口径火器を
それぞれ7門以上搭載していた

 1571年10月7日、トルコ艦隊はヴェネツィアの6隻のガレアスを商船と誤認して襲撃し、
この戦闘がガレアスの実戦デビューとなった
 この勘違いの代償は高くついた
 ヴェネツィアの新型ガレアスによって撃沈されたトルコのガレーは70隻に達した
 戦闘は僅か4時間で終わった
 その理由は、ヴェネツィア艦隊に乗り込んでいたスペイン軍歩兵の力もあったが、決定的だったのは
ガレアスが火力でガレーを圧倒的に凌駕していたことだった
 ヴェレツィア艦隊の砲1815門に対しトルコ艦隊は750門に過ぎず、
トルコ艦隊は最後には砲に必要な弾薬すら底をついた
 それでもトルコ艦隊はすぐには諦めなかった
 トルコ艦隊の敗北が明らかになってからも、いっこうに戦闘をやめないイェニチェリの一団がいた
 彼らは弾が尽きると手当たり次第に物を投げはじめ、最後にはオレンジやレモンを投げつけだした
 とうとう、戦闘の怒声に混じってあちこちで笑い声が聞こえた
 しかし、戦闘が終わるともう笑い事ではなくなっていた
 破壊され、撃沈された船の残骸が8マイルに渡ってひろがり、マスト、オール、折れた木材とともに
数え切れぬ死体が海面を覆い、その血で海は赤く染まっていた
 そして海戦後、ヴェネツィアの十人委員会の緊急指令によって水兵の経験を積んだトルコ軍古参兵は
全員虐殺され、それ以外の捕虜は全員強制労働を科せられた
 これは、明らかにトルコ海軍の人的資源の根絶を狙ったものだった
 トルコ艦隊の損失は200隻のガレーと兵士4万に及んだ
 そのうえ、この敗戦に刺激されたギリシアとアルバニアが蜂起したため、
しばらくトルコのバルカン半島支配は混乱に陥った
 レパント海戦は、16世紀の「歴史を決めた戦い」の一つに数えられた


そんだけ
 ところが7ヶ月たつとトルコはレパントの損失を完全に回復し、ヨーロッパに再び大艦隊を送り込んだ
 何故なら、地中海一帯には造船を生業としている人たちが大勢存在していたからだった
 この手の人たちはガレーの造船術に習熟しており、自分の造船所を持ち、恐らくは資材の蓄えも十分に
あったのだろう
 また、シノプとイスタンブールのトルコ海軍廠には予備艦が備えられていたのだろう
 だが、新造ガレーの大半はスルタン勅営造艦廠で建造されたものだった
 レパントの敗報が伝えられると、勅営造艦廠は直ちに大量のガレー建造計画に着手し、
更にヴェネツィアの「新型艦」を模倣することも不可能ではなかった
 1572年4月には、200隻のガレーと5隻のガレアスが出撃準備を整えていた
 しかし、竣工した艦に兵員を配置するのはそれ程簡単ではなかった
 ガレーには1隻に約150名の漕ぎ手が必要だったが、レパントでの兵員喪失は余りに大きく、
オスマン・トルコ帝国といえども代替要員を確保するのは容易ではなかった
 徴兵では足りず、キリスト教徒の捕虜も大半がレパントで解放されていたため、
1572年のトルコ艦隊は漕ぎ手の大部分を囚人で賄わなければならなかった

 ガレーのアキレス腱は、まさに必要な乗員が多すぎることだった
 さらに乗船している戦闘員をあわせると、各艦の総兵員は400名に達しただろう
 従って、レパントで激突した400隻のガレーには約16万の兵員が乗船していたことになる
 レパントが16世紀のヨーロッパ最大の戦役となったのはこのためだった
 当時はガレー1隻分に及ばない村が星の数ほどあった
 「全員が配置につくと、船首から船尾まで」人の頭しか見えない」
 これだけ大勢の兵員に十分な食料と飲料を、一度に数週間あまりもずっと補給し続けられる
訳がなかった
 ガレーは戦術的な機動力は抜群だったが、長期間海上にとどまれるようにはできていなかったのだ


そんだけ
311もっと大きな砲を:01/10/09 00:03 ID:5omrXAQ.
 この状況を緩慢ながら打破したのは、1450年代から1650年代にかけて登場した重装備の帆船
だった
 最初に、15世紀にフランス、イングランド、ポルトガルの港湾、ハンザ同盟都市で、
商船が目立って大型化し、島も帆の形状を改善し、船体の設計を工夫したため、
それに見合うほど乗員を増やさずにすんだ
 次に、船に弩または銃を装備しておけば、守備要員が比較的少数ですむこともわかってきた
 ここまで来れば、大型艦に重砲が搭載されるのも時間の問題だった
 はじめに装備されたのは、比較的小型で鋳鉄製の4ポンド後装砲だった
 これを2〜3発発射すれば敵の斬込を喰い止めるだけの威力を発揮した
 前もって次弾を準備しておけるので、艦首と艦尾の巨大な櫓か甲板に据えた複数の砲を、
僅かの砲員でかなり高い速度で発射できた
 しかし、1500年頃に発生した二つの技術的な発明が海戦の性格を一変させた
 一つは、青銅製の前装砲で、装填に時間と手間がかかり、しかも船上ではなおさらだったが、
砲を一つの鋳型で鋳造するため強度が高くなったことは欠点を補って余りあった
 後装砲では4ポンド以上の砲弾を装填すると砲身が破裂するか尾栓が吹き飛んでしまうことが
多かったが、前装砲では60ポンド以上の鉄の砲弾を発射できた
 船の肋材を貫通する砲弾を発射できるのは、この砲に他ならない
 だがこの新型砲は、重すぎて櫓や甲板上に据えるには危険すぎた
 もっと下に搭載しなければならなかった

 こうして登場したのが、大型艦の舷側に切り込みを入れ、蝶番で開閉する砲門だった
 一説には、1500年頃にブルターニュのブレスト港で考案され、急速にヨーロッパの大西洋全域に
ひろまったという
 こうして、船の舷側全面に数段重ねで砲を搭載することができるようになった


そんだけ
312大戦艦たちの系譜:01/10/09 00:04 ID:5omrXAQ.
 もっとも、前装砲の舷側配置の威力がすぐに理解されたわけではなかった
 ヘンリ8世は、1509年以降、フランスとスコットランドが建造した艦船に対抗して大型艦数隻を
建造または購入した
 そのうちの1隻「アンリ・グラーチェ・ア・デュ」は、重砲43門(このうち最大の射石砲は
口径12インチ、砲身長6メートルに達した)と軽砲141門を搭載し、砲装の全重量は100トンを
超えていた
 だが、これらの火器の大半は、斬込をかける敵に向けて櫓から下方向に向けて発射するように
配置されており、敵艦を撃沈するために水線ぎりぎりに発射していたわけではなかった

 「グレート・ハリー」は大型で鈍重であったため扱いにくく、軍事作戦には向かなかった
 この艦は1553年に火災で焼失するまで現役にあったが、1540年に「減量」のために大改装を
行った

 1611年に進水した「メアリ・ローズ」は、600トンの船体に78門の砲を搭載した
やはり扱いにくい艦だったが、1545年にワイト島に侵入したフランス艦隊を阻止するために
ソーレント水道を帆走していた時に突然転覆し、乗員もろとも沈没した
 荒れた海では砲門を閉じておかねばならないことをまだ誰も理解していなかったのだ

 スコットランドの「グレート・マイケル」は国王ジェイムズ4世の肝いりで1511年に建造されたが、
作戦に投入するには経費がかかりすぎた
 建造費はジェイムズの歳入の半分に達し、年間予算の10パーセントが乗員の賃金に消えたからである
 結局、「グレート・マイケル」は1514年に「グラン・ネフ・デコス」の船名でフランスに売却され、
ブレスト港で朽ち果てるまで放置された


そんだけ
313312:01/10/09 00:16 ID:5omrXAQ.
しまった、寄り道するにしても道のりが遠すぎる・・・・
おまけにまさか海に詳しいコテハンさんが見てるとは・・・・
海のことは殆ど門外漢なのに偉そうにマハンなんか持ち出すんじゃなかったです

艦船の部位の名称は詳しくないので不正確かもしれませんがご容赦を
間違いや、より適切な名称があれば遠慮なく指摘して下さい
314ぼろ舟:01/10/09 22:05 ID:AccRXN9M
 1538年以降、ヘンリ8世は2度目の大規模な軍事拡張路線を展開した
 教会領没収によって得た収益をつぎ込み、建造し、または購入した艦は、やや小型で船楼を少なくし、
船体の中心にそって火器を増強したものだった
 ヘンリ8世が死ぬ1547年までにイングランド海軍は排水量総計1万トンに達する53隻の重装備艦
を保有するまでになっており、これ程の隻数の艦隊はその後1世紀にわたって存在しなかった程だった
 とはいえ、これ程の大艦隊をイングランドが維持できる代物ではなかった
 教会領を売却して得た収入が使い尽くされると、たちまち大艦隊は衰退していった
 イングランド艦隊は1555年には30隻になり、400トン以上の大型艦は12隻から3隻に
減少していた

 だがその後、皮肉な転機が訪れた
 1555年9月、イングランドの女王夫君であったスペインのフェリペは、
じきじきに枢密院を訪れ、次のように指摘した
 「イングランドの国防は、侵略に対していつでも国土防衛の備えがある海軍に依る
 従って艦船はいつでも出航できる態勢にあり、のみならず直ちに戦闘に投入できる状態にあることが
 ふさわしい」
 この提言に従って、イングランド海軍に新型艦が加わり、そして1588年、その大半が建造を
発案した当の本人と戦うための作戦に投入されることになったのである

 これらの艦は大型で耐久性に優れ、事実長持ちした
 「エリザベス・ジョナス」(1558年に「フィリップ」という艦名で起工されたが、
同年のエリザベス女王即位後に改名され、1559年に進水)は900トンで64門の砲を搭載していた
 フィリップとメアリの時代に建造され、1557年に進水した「ライオン」は600トン、60門で、
その後1582年、1609年、1640年、1658年に改装を施され、サミュエル・ピープスの時代
(1660〜1688年の王政復古期)になっても就役していた
 エリザベス女王の時代に艦船の建造は更に進み、1588年には800トン以上のがレオン3隻、
500トン以上のガレオン11隻を保有するまでになっていた
 1588年の英仏海峡の戦闘では、近代的な戦闘艦で編成された正真正銘の艦隊と、
ばらばらの寄せ集めの化石化した海軍の過去の遺物が対峙した

 この海戦でイングランド艦隊は新型艦を結集した、とするのは全然大間違いである
 この戦闘で最も旧式の部類に属する艦たちはイングランド海軍のものだった
 これに対し、最新鋭の戦闘艦はポルトガルとカスティーリャの6隻のガレオン戦隊で、
普段は日の沈むところのない帝国の海域の治安維持にあたっていた精鋭だった


そんだけ
315最強と無敵は違う:01/10/09 22:06 ID:AccRXN9M
 これは当然だった
 16世紀のイベリア半島諸国の採用した海軍戦略は、イングランドとは全く異質のものだった
 水深の深い港が多く、作戦海域が比較的狭い北海や英仏海峡に面した国々は、大型で鈍重で扱いにくい
重武装艦を防衛的に運用することができた
 これに対して、ポルトガルとスペインに必要な艦は、露骨に敵意を示す地域の海を越え、
遠洋へと帆走し、そこで交易を行い、みだりに敵対行動をとる他国の船を撃退するものでなくては
ならなかった
 いわば、高度に多彩な能力を高い次元で兼ね備えた艦船が求められていたのだ
 だが、コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマの時代の「カラベル」にかわって、
目的の明確な外洋航海用の軍艦「ガレオン」が登場するのはしばらく後のことである
 嘴状の船首、低い甲板、喫水の浅い設計、また「ガレオン」という名称からも、
この新型艦がガレーやガレアスから多くを継承していることがわかる
 ガレオンがポルトガル、スペイン、イタリアで出現するようになるのは1520年代のことだが、
この段階では標準型は250トン(大型ガレーとほぼ同等)に過ぎなかった
 排水量が増加するのは1550年以降で、1580年代にはイベリア諸国のガレオンは
400〜500トンが普通になった

 ところが、この精鋭戦隊は、1588年7月にイングランド艦隊と戦った時、全く勝てなかった
 「無敵艦隊」の他の艦と違ってどうにか無事にスペインに帰還できたものの、
イングランド艦にはほとんど何の損害も与えることが出来なかった


そんだけ
316ブロードサイド:01/10/09 22:07 ID:AccRXN9M
 スペイン「無敵艦隊」の敗因はいくつかあげられている
 第一に、スペイン艦隊は拠点から離れ、慣れない海で作戦していたのに対し、イングランドはいつでも
地元で交代や補給が可能で、しかも艦が建造に当たって想定された環境そのもので戦うことができた
 第二に、イングランド艦は旧式だったが建材がよかった
 当時の海軍局は、「水漏穴が何を意味するのか誰も知らない」と胸を張った(もっともこれは
愛国心過剰による誇張だろう)
 第三に、1588年までにイングランドの大型艦は細長く、多くの帆を備え、乗員が少ないガレオンに
改装されていたため、帆走速度が速くなり、火器も以前より多く搭載できた
 イングランドの34隻の大型艦の総排水量は1万2000トン、乗員総数6225名、
艦砲総計676門であった
 当時の人々も、イングランド艦隊が勝てたのは速度と火力で敵を上回っていたからだと
口を揃えている
 イングランド艦隊に従軍していたサー・アーサー・ゴーガスの語るところでは、
イングランド艦はスペイン艦隊の隙間を縦横に走り抜け、「敵が1発のところを2発発射した
 我が軍は敵に劣らぬ優れた砲を持ち、威力で勝っていた」
 捕虜になったスペイン軍のドン・ディエゴ・ピメンテル大佐もこれを認めている
 取り調べに当たったオランダ人に対し、「我々が1回しかできない時間で、
4回も5回もタック(上手回しで方向変換)する」イングランド艦の能力に驚いたと語った
 こうしてイングランド艦はスペイン艦に接近し、砲の攻撃力を最大限に、
しかも間隔をおかずに発揮することができた


そんだけ
317316:01/10/09 22:08 ID:AccRXN9M
sage忘れ
すいません
318砲甲板:01/10/10 01:12 ID:XOwET/pc
 現代も、スペインの敗北に関する以上のような説明が定説となっている
 しかし、これで完璧という訳ではなかった
 ポルトガルとカスティーリャのガレオンは、交戦距離を保った砲撃戦術をかなり前から知っており、
これを実践して成功したことも珍しくなかった
 1500年、ポルトガル国王がインド航海に出発するペドロ・アルヴァレス・カブラルに渡した注意書
には次のような指示がある
 ムスリムの船と遭遇したならば、「避けられるなら接近しないようにせよ
 こちらの砲だけで敵の帆を降ろさせるようにせよ
 (そうすれば)戦闘はつつがなく進むだろうし、こちらの人員の損失も少なくすむだろう」
 1502年にインド航海に出たヴァスコ・ダ・ガマの艦隊は、マラバール海岸沖でムスリムの艦隊を
激戦の末に撃破したが、その際、「1隻をもう1隻の後方に縦列に並べて」帆走し、
立て続けに砲撃を繰り返した
 砲手は、「用意しておいた火薬袋を次々と砲に詰めなおし、砲弾は目にも止まらぬ早さで装填した
 これを目一杯やり続けたので、砲弾の装填が極めて迅速に行えた」
 この戦法は、1557年になっても使われていた
 イングランドの海賊ウィリアム・タワースンの艦隊はギニア沖でポルトガルの小艦隊と遭遇したが、
ポルトガル艦隊はすぐさま縦列隊形を組んで片舷斉射を繰り返して海賊を蹴散らした

 ところが、1588年のフェリペ2世の艦隊はこの戦法を使わなかった
 近年の沈没した無敵艦隊の残骸の海底調査によると、かなりの量の砲弾が艦内で発見された
 調査対象となった艦はいずれも激しい交戦に参加したと思われる艦だった
 これは、これらの艦が死に物狂いの戦闘の挙げ句、かなりの予備砲弾を積んだまま沈没したことを
示している
 残骸からは大量の9ポンド砲弾が発見された
 スペインに帰還した艦についての記録でも、帰港した艦から大量の火薬と砲弾が陸揚げされている
 スペインの記録によると、22門搭載の「トリニダート・デ・エスカーラ」は、
8月2日に35発発射し、8月4日には21発、8月8日のグレイヴラインズの激戦で38発であった
 20門搭載の「サンタ・バルバラ」は、7月31日に22発、8月1日に28発、8月2日に47発
発射している
 アンダルシアの「サン・フランシスコ」は、海戦全期間で242発の砲弾を発射し、主砲2門は
それぞれ10発と12発だった
 つまり、砲1門が1日に2発以上射撃することはまれで、中には1発も射撃しない日があった
 スペイン艦隊は艦砲1門につき砲弾50発を搭載することになっていたが、これらの数字は
搭載弾数に遠く及ばない


そんだけ
319下は海、周りに砲弾:01/10/10 01:14 ID:XOwET/pc
 スペイン艦隊総司令官メディーナ・シドニア公は、全ての砲を常に装填しておくように
指示していたので、戦闘が始まれば最初の斉射はすぐに出来ただろう
 最初の砲撃は、火縄棹をもった砲手が砲側に一人ずついればそれでよかった
 至近距離で砲撃し、直後に衝角攻撃戦法をとるガレーでは、まさしくこのやり方でうまくいった
 こういう場合はすぐに再装填する時間も必要もなかったし、そのような操作手順も訓練として
存在していなかった
 ところが英仏海峡のイングランド艦は、卑怯にもスペイン艦が衝角で激突することも
接舷して斬り込むことも許さなかった
 こうなると、当然スペイン艦は初弾を斉射した後に第二弾を装填しようと躍起になった
 軽量の後装砲ならば何の支障もなかったろう
 しかし、大型で重い前装砲を海上で装填しなおすには二つに一つしかなかった
 艦内に砲を運び込み必要な操作を艦内で行うか、そうでなければ砲口を海上に突き出したまま
艦外で装填するかである
 当時の資料では、スペイン艦隊が装備していた大口径砲のほとんどは、ポルトガルのガレオンを除いて
二輪の砲架に搭載されていた
 砲架についている砲脚は非常に長く、これを引き戻して装填するのは至難の業だったに違いない
 砲架だけで搭載されている甲板と同じくらい幅のあるものもあった
 一方、艦外で装填するためには、海上で装填器を熱い砲身にまたがせ、清掃と装填作業を無防備なまま
危険な場所で行わなければならない
 これは試したところで、まずうまくいかなかっただろう
 無敵艦隊の艦砲は、敵に対して至近距離からの連続射撃はほとんど不可能だった
 だが、これがイングランド艦隊を打ち破る唯一の途だった


そんだけ
320早撃ちライミー:01/10/10 01:16 ID:XOwET/pc
 イングランド艦はこの苦労をしなくてすんだ
 イングランド艦は、少なくとも50年前から扱いやすい四輪砲架に砲を搭載していたからだった
 「メアリ・ローズ」は1545年に沈没した際、この砲架を搭載していた
 1580年にスペイン人とイタリア人の侵入者がスメリックに築いた砦を砲撃するために出撃した
戦隊も四輪砲架を搭載していた
 この戦闘では揚陸された艦砲2門による砲撃で籠城側はたちまち降伏し、虐殺された

 四輪砲架は新兵器ではなかったが、二輪砲架に比べて決定的に有利だったことは当のイングランド人も
気付いていた
 1633年頃に出版された「水兵事典」(サー・ヘンリ・メインウェアリング)によると、
 「我々が海上で使っている砲の砲架は地上用より遙かに優れている
 だが、スペイン人やヴェネツィア人などは、我々が地上用に使用している砲架を船上で使う」
 イングランド式の四輪砲架では砲口を砲門から突き出すことができ、不便な砲脚や大きな車輪もない
 従って、発射後、砲員は複合滑車で砲を引き入れ、艦内で装填し、再び射撃位置まで押し戻す
一連の操作を行うための十分なスペースを確保できた
 四輪砲架は、砲を旋回させて目標を照準するにも適していた
 こうして戦闘中も休み無く片舷連続斉射を行うことができ、イングランド艦の優秀な帆走能力に
よって射撃距離を確保することができた

 とはいえ、艦内で装填することに危険がなかった訳ではなかった
 発射後の火薬の残滓が燻っていれば、詰め込まれた新しい火薬が過早発火する危険を
砲手は覚悟しなければならなかったし、実際にそのような事故は皆無ではなかった
 このため、1620年代まではイングランド海軍においても艦内装填は正規の操作手順ではなかった


そんだけ
321名無し三等兵:01/10/10 02:29 ID:muxh4fhY
最近、このスレの講義が楽しみです。
昔にかじっただけの資料をまた引っ張り出したりして、読ませて頂いております。
ごゆるりと、マターリと続けて頂ければ幸いです。
322威厳溢れる我らが海軍:01/10/10 20:22 ID:RcgcZzqg
 1588年の海戦を契機に、単縦陣と遠距離砲戦がヨーロッパの標準的な艦隊戦術となったと
されているが、これは厳密には間違っている
 第一に、どちらの戦術も1世紀も前からインド洋で使われていた
 1500年にポルトガル王がカブラルに的確なアドバイスを与えているところを見ると、
1500年当時ですら最新の戦術でなかった可能性は極めて高い
 第二に、ヨーロッパではイングランドの勝利の教訓はなかなか生かされなかった
 イタリア人エウジェニオ・ジュンティリーニが1592年に著した教範では、依然として
「遠距離から敵を砲撃するのが海軍の目的ではない、主要な目標は衝角攻撃と舷側斬込である」
と記されている
 イングランドでさえ艦の設計がすぐに変化した訳ではなかった
 舷側砲を多数搭載しつつ重心上昇を抑えるための「甲板の低い」ガレオンは決して歓迎されて
いなかった
 イングランド海軍の中にも、(舷側斬込の足場となる)艦首と艦尾の櫓を撤去することに反対する者も
少なくなかった
 「女王陛下の荘厳な軍艦」がただの商船に見えてしまうというのがその理由だった
 このようなしぶとい保守主義のせいで、1588年当時の大型主力艦の多くは30年後になっても
第一線で現役であり続け、中には90年たっても動員されることになった

 勿論、無敵艦隊との戦闘の記憶が全く忘れ去られた訳ではなかった
 1618年、イングランド海軍局委員会は下記のような通達を出している
 「経験が教えるように、今の海戦では舷側斬込は滅多に生起しない
 むしろ大口径砲によって敵艦のマストと帆桁を破壊し、船体構造を破壊し、甲板を掃射し、
水線下に穴を開ける
 これに鑑み、陛下の海軍の優位を維持すべく、各艦が耐えられる重量の砲を配置することに
留意せねばならない」


そんだけ
323大っきいお船:01/10/10 20:24 ID:RcgcZzqg
 もっとも、提言が聞き入れられたことを示す証拠はない
 むしろ逆で、この通達は海軍を支配する伝統への弱々しい反抗だったのだろう
 イングランド海軍は、相変わらず兵装過大でそれ故鈍重な巨大艦を支持し続けた

 ジェイムズ1世時代の海軍の作戦は全て無惨な失敗に終わった
 鈍重で扱いにくいイングランドの主力艦は、イングランド海軍の浴槽である英仏海峡とアイルランド海
を一歩でも出ると、まともな作戦行動はできなかった
 1625年のカディス遠征を指揮したウィンブルドン卿は、「(船体の限界を超えて)砲を積み過ぎた
大型艦、特に旧式大型艦は、攻撃戦でなく国内の防衛戦に向いていることがわかった」と皮肉を言った
 ウィンブルドンの旗艦「アン・ロイヤル」は、「アーク・ロイヤル」と並んで1588年の海戦で
イングランド艦隊の旗艦を努めた艦であったが、「スペイン近海で波にもまれ、危険な状態になった」
ので、やむを得ず「砲をほぼ全部格納した」
 「我々(艦隊)全員の結論は、小型で強靱な造りの湾曲のない艦が、このような航海に適していると
いうことである」

 それでも、イングランド政府と海軍は現場の悲鳴を無視した
 1627年と1628年にラ・ロシェル救援に向かったイングランド艦隊は、
航海に耐えられなかったため任務を果たせなかった
チャールズ1世の艦隊は、本来はスペイン船舶が支障無く英仏海峡を通過するために
スペインの援助金で編成されるはずだったが、やはり大きすぎる旧式艦を抱えていたため
海峡の外では全く役立たずだった

 1637年にステュアート王家の旗艦として進水した「ソヴリン・オブ・ザ・シーズ」(1500トン)
は、かつての無敵艦隊のガレオン以上に作戦行動に向かず、総重量153トンに及ぶ搭載砲104門は、
その後、砲数を削減しなければならなかった


そんだけ
324一列に並んで:01/10/10 22:57 ID:UAvDA9GE
 長大な航続力によって長期間にわたる作戦が可能な航洋艦隊を最初に編成したのはオランダだった
 スペインとの独立戦争中、オランダ海軍の戦略目的は三つあった
 第一に、オランダ商船のための海上護衛戦
 第二に、スペイン私掠船の根拠地となっているダンケルクをはじめとする南部ネーデルランドの諸港湾
の封鎖
 第三に、スペインが北海に送り込んでいた輸送船団に対する通商破壊戦
 第一と第二の任務には、高速で航洋性が高く、居住性に優れた(定位置に数ヶ月遊弋する必要が
あるため)艦が必要だったが、第三に任務は、輸送船団を護衛するスペイン艦と正面切って
砲火を交えるために強力な攻防力を備えた艦が必要だった

 1600年以降、オランダのホーンで300トンの新型艦8隻が建造された
 これらの艦は全幅に対して全長が長く、低甲板低喫水で、やがてフリゲートと呼ばれるようになり、
オランダ艦隊の主力艦となった
 1621年の時点でオランダ海軍は500トン以上の艦を9隻保有していたが、1629年までに全て
段階的に廃艦処分された
 大小40門の砲を搭載した300トンのフリゲートがオランダ海軍の標準的な主力艦になっていった
 これより重装備の艦は、「アエミリア」(56門艦)等の数隻のみだった
 1639年10月、オランダ海軍はこの比較的小型の高速艦に火船の支援を加え、
ケント沖のダウンズ投錨地で、隻数ではるかに優勢なスペイン艦隊を撃破した

 この戦闘で、はじめて単縦陣による砲撃がヨーロッパ近海で行われた
 オランダ艦隊の指揮官マールテン・ハルペルツゾーン・トロンプ提督は、自分のフリゲート戦隊を
スペイン艦の間隙をぬって帆走させた
 戦場には、両軍だけでなくチャールズ1世が派遣したイングランド艦隊も居合わせていた
 イングランド艦はが双方を引き離そうとしたが無駄だった
 53隻のスペイン艦のうち40隻が撃沈された

 この勝利をオランダの近隣諸国は看過しなかった
 しかし、対策を講じる暇もなくイングランドでは内乱が始まり、新造艦の建造が7年間中断されて
しまった
 しかし、7年の中断の後に建造された新造艦は、かつての悪名高き「ソヴリン・オブ・ザ・シース」
のような大型艦とは全く異質のものだった
 エリザベス時代のガレオンの全長と全幅の比率は2.5:1、チャールズ1世の時代には3:1
だったが、1647年に建造された艦は3.5:1になっており、実質的にはフリゲートだった
 1649年にはイングランド政府はこの新型艦を77隻建造するように命じた

 こうして、157隻の艦船を擁するようになったイングランド艦隊は、ようやく戦闘に当たっては
単縦陣をとるように明示されることになった
 1653年3月29日、イングランドの各提督が連名でサインした「適切な戦闘隊形のための指針」は、
「戦闘状態に入ったことを指揮官が認めたならば、各戦隊は速やかに最も近い敵と交戦するために
最適な位置を占位しなければならない
 そのために、戦隊の各艦は戦隊旗艦とともに単縦陣を維持しなければならない」と定めていた


そんだけ
325名無し三等兵:01/10/11 12:25 ID:V2Ajw6CE
いっつも拝読させていただいてて不思議に思ってるん
ですけど、この戦史はそんだけ氏が書き下ろされた物
なのでしょうか?
326名無し三等兵:01/10/11 19:25 ID:UR.4tIzQ
>>325
 まさか、
 沢山の本や資料をネタにしてます、すいません
 私は下手の横好きで歴史の専門的な教育を受けた訳ではないですし、
もともと前スレは自分の楽しみのために軽い気持ちで始めたものですから
1氏の御厚意がなければ前スレでやめてたでしょう
 ここまで逝くとは思ってませんでしたので、
今まで買い漁ってきた本を大慌てで引っ張り出してます
 この時、イングランドはオランダと交戦状態にあり、両国の艦隊が二匹の蛇が絡み合い
殴り合うような海戦が展開されていた
 この戦争はイングランドの勝利に終わり、1654年に両国間で講和が交わされたが、
イングランドは対オランダ戦用に膨れ上がった陸海軍を削減するか、それとも別の戦略に利用するかの
選択を迫られることになった
 いくつかの議論の末、イングランドは後者を選んだ
 1655年には38隻の艦隊が西インド諸島に派遣され、スペインに宣戦布告した
1656年には別の同規模の艦隊が地中海とスペイン近海に展開した
 更に、約50隻の艦隊がイングランド沿岸を常時防衛していた

 イングランド艦隊は、恐らくヨーロッパ史上最初の外洋艦隊、すなわち、根拠地を持ち
遠隔地で作戦可能な艦隊となった
 その理由として、平時から兵員や軍需物資を絶え間なく供給したイングランド海軍の兵站組織、
税収と商人から膨大な資金を吸い寄せたイングランドの財源、内乱を戦い抜いて戦闘経験を積んだ
熟練した兵員等があげられる
 しかし、イングランド海軍が西インド洋諸島と地中海に恒常的な根拠地を維持できた決定的な要因は
艦船の設計にあった
 長距離を長期間にわたって有効に作戦を展開可能な艦船は、フリゲート以外になかったからだった


そんだけ
328大艦巨砲:01/10/11 19:27 ID:UR.4tIzQ
 しかし、海軍の専門家の中にも、100門近い砲を搭載した時代遅れの大型重装艦、
フリゲート登場前のかつてのイングランド主力艦を廃棄することに賛同できない者は存在していた
 1656年、サー・ジョージ・エイスキュ提督は、大型戦闘艦はいずれ本来の地位を回復するだろうと
述べていた
 「何故なら、(大型艦は)フリゲートより強靱だからである
 フリゲートに比べて、搭載砲の発射の衝撃と敵の砲撃による衝撃によく耐える筈だ
 それに、海上の要塞の如く堅牢で高くそびえ立っているから、フリゲートのように
易々と舷側から斬り込まれることもない」

 この意見は正しかった
 再びイングランドとオランダの間で戦争が避けられなくなった1659年以降、
両国は大型艦の建艦競争を展開した
 オランダ艦隊は1653年の時点で40門以上搭載した艦は2隻に過ぎなかったが、
20年後のデ・ロイテルの時代には62隻に及んだ
 イングランド艦隊は、1656年以前にはこのような重装艦を16隻保有していたが、
1672年の時点で74隻、1689年には100隻を超えた

 このような大型重装艦の砲戦能力は恐るべきものだった
1673年のケイクドゥイン海戦において、オランダ戦列艦隊の搭載砲の総計は4233門に及んだ
 ほんの1世紀前、1571年にレパントで戦ったヴェネツィア艦隊は1815門、
1588年のイングランド艦隊は678門、スペイン無敵艦隊でも2431門に過ぎなかったのだ


そんだけ
329名無し三等兵:01/10/11 19:35 ID:7hrgpzHk
>>328
これだけの大砲を揃えるのは、高価な青銅砲では不可能でしょうね
やはりイングランドの安価な鋳鉄砲が無ければ不可能だったのでは無いでしょうか?
330名無し三等兵:01/10/11 19:50 ID:jHepcRvg
>>325
つーか、一人でゼロから原資料を収集してこのペースでここまで書き下ろせるんなら、
本を出せるどころのレベルじゃないんじゃないか?
ネタありだとしても凄いと思うぞ。
331バキャベッリ:01/10/11 21:07 ID:vfA7WfPI
>>330
同感、私なんぞ相づち代わりに時折書き込むだけっす。
332328:01/10/12 02:21 ID:Vh0yI8M6
>>329
 私は当時の艦載砲は耐蝕性の高い青銅製が大半だったという認識でしたので、
あまり深くは考えてませんでした
 手持ちの資料を調べてみたのですが、イングランド艦の搭載砲が青銅製か鉄製かを
判断する証拠は見つけられませんでした
 しかし鋳鉄製の野砲も存在しているので、単に私が調べきれなかっただけかも
しれません

 当時最高の材質を誇っていたのはドイツ製の鋼で、イングランド製はあまり良質でないとされていたため、
イングランドは余裕があれば常にドイツ製の鎧等を輸入していました
 しかしこれはあくまで鍛造の場合で、鋳造の場合とは違うかもしれません

 また、16世紀半ばの時点で鋳鉄砲の値段は青銅砲の10分の1程度でしたが、
砲身の材質は依然として青銅が主流でした
 これは主に強度上の理由で、艦内装填を常用していたイングランド艦が
鋳鉄砲を採用したとは思えません
 しかしこれも私の憶測であり、「イングランド海軍の艦載砲は青銅製だった」
とする根拠にはなりません

 という訳で現時点では何ともお答えできません
 この件についてはもう少し勉強して何かわかったら報告します
 答えになってなくて申し訳ありません
333名無し三等兵:01/10/12 02:22 ID:ZX68FgD6
このコラム形式がおもしろいんですよ。
ダニガン先生「第二次大戦あんな話こんな話」(文春文庫)みたいに、本にして欲しいくらいです
334大きくなったり小さくなったり:01/10/12 02:23 ID:Vh0yI8M6
 一方、フランスは別の道を選んだ
 1660年にルイ14世の「海に浮かぶ要塞」計画と呼ばれる艦隊整備計画で建造された艦は、
最大のもので砲100門、三層甲板だったが、大半はより軽量の74門、二層構造だった
 1680年代になると、フランス艦隊は戦列艦93隻を含む221隻の戦闘艦を保有し、ダンケルク、
ブレスト、ロシュフォールを根拠地としてイングランドとオランダの艦隊を脅かすまでになっていた
 フランス海軍は1688年のウィリアム3世のイングランド王即位を阻止できなかったが、
翌年には英仏海峡の制海権を握り、ジェイムズ2世とその軍勢をイングランドに上陸させてみせた
 更に1690年7月1日、フランス艦隊はビーチ・ヘッド沖でイングランド・オランダ連合軍の
主力艦隊を撃破した
 もっとも、これらのフランス艦隊の一連の勝利も決定的なものではなかった
 ジェイムズ2世は1690年7月12日にボイン河で敗北したし、
イングランド海軍はビーチ・ヘッドで敗北してからも依然として有力な艦隊を保有していた
 ビーチ・ヘッドで敗れたトリングトン提督は次のように語った
 「兵はみなフランス軍の侵略を恐れていたが、私の考えは違う
我が国に現存する艦隊を保有している限り、フランスはあえてことを構えようとしない」

 北ヨーロッパ近海で海軍の作戦を手詰まりにさせた究極の手段は、まさしくこの「現存する艦隊」
だった
 100隻の艦隊で長期にわたる作戦を実行しても、敵海軍を完全に粉砕することは不可能だった
 同じくビーチ・ヘッドの敗軍の将であるサー・クラウデズリ・シャヴル提督によれば、
 「海上では、艦隊の規模がほぼ互角であるとき、敵を撃退できれば大成功と言わねばならない
 一方が打ち負かされる頃にはもう一方も大抵疲れ切っているからである」

 1692年のラ・オーグ海戦でのフランス艦隊の敗北も同じく決定的ではなかった
 フランス艦隊は、この海戦後は根拠地に引き込んだままになったが、
それはヴォーバンをはじめとする大臣たちが、艦隊を棚上げしておけば貴重な財源を節約できると
ルイ14世を説得したからだった
 そのかわり数カ所の海軍基地に大規模な要塞が建設され、私掠船の実戦的な出撃拠点に生まれ変わった
 「通商破壊」には、32ポンド砲を装備した快速のフリゲートが最適だったので、
フランス海軍はフリゲートに全面的に頼ることになった
 「海に浮かぶ要塞」戦略から「移動する要塞」戦略への転換だった
 この決断は成果をあげた
 1689年から1697年までにフランスが拿捕した敵国の艦船は大小4000隻に及んだ
 その上、フランスからアメリカとアジアの植民地に至る航路を、単艦のフリゲートを使って
ライバルたちより巧妙に哨戒し、守ることができた
 それは、1650年頃のイングランドの海軍提督たちが気付いたように、
フリゲートは戦列艦には手の届かない遠隔地まで航行できたからだった

 ヨーロッパの他の海軍国も、フランスの戦略の正しさを理解した
 フランス海軍が艦隊による作戦を放棄して、敵の商船への襲撃を優先する方針を選ぶと、
フランスの敵国は戦列艦を必要としなくなり、むしろフリゲートの必要性が高まった
 イギリス海軍は、1660〜1688年に90門以上の砲を搭載した戦列艦を24隻建造したが、
1689〜1697年にはこの手の戦列艦は僅か3隻しか建造されなかった
 しかし、海軍の総艦艇数はこの間に飛躍的に増加し、173隻(6930門)から
323隻(9912門)になっていた

 戦列艦は最終的に極東でも作戦できるようになるが、それは帆の量を大幅に増やしたからだった
 1653年に改修された「ソヴリン・オブ・ザ・シーズ」は、排水量2072トン、100門搭載で
帆は5513ヤードだったが、同程度の1840年代の戦列艦の帆は1万3000ヤードになっていた


そんだけ
335魚花 うるふ:01/10/12 07:13 ID:jS7GmL3k
>332のそんだけ氏

私の手持ちの本『大砲と帆船』によると艦載砲に鋳鉄砲が使われ始めたのは、16世紀
後半からのようです。要塞砲と並んで青銅砲より多少重量が大きくても、取り回しに
左程苦労しなかったのがその理由のようです。(当然コストが最重要の問題ですが)

それから、16世紀のイングランドの鋳鉄砲はドイツやフランドルのものと並んで
評価が高かったようです。この頃の大砲師は鋳造で燐や硫黄がもたらす問題点を
経験的に知っていたようで、硫黄分のが少なく、燐の含有量の多い鉄鉱石を用い、
鋳込みの際には複数回に分けて鋳込む事によって強度を増す事に成功したようです。

16世紀も終わりになるとスウェーデンが、外国から技術を導入し、国内の豊富な
天然資源を利用する事によって、ヨーロッパの大砲市場でそれなりの地位を得た
そうです。その後17世紀に、軽量の鋳鉄野砲の製造に成功しました。

それからお聞きしたいのですが、チェイサーなんかに使われた小口径のカノン砲は
かなり後々まで青銅砲だったみたいですが、どうなんでしょうか?
(ホーンブローワーが元ネタです)
336名無し三等兵:01/10/12 07:23 ID:d8qlPgSY
337system:01/10/12 08:20 ID:dvK1UM0o
このコラム、軍事研究誌にでも投稿なさってはいかが?

2チャンの著作権(ってあったかな)とややこしいかな?
338334:01/10/12 18:04 ID:10RlbdZs
>335
御教授感謝します
「大砲と帆船−ヨーロッパの世界制覇と技術革新」は、
「帝国の道具」と並んで私が今探している本の中で
最優先攻撃目標の一つです
当方、結局いまだに発見できず諦めてましたのでとても羨ましい
貴重な情報有り難う御座いました
やっぱり今度注文します

「ホーンブローワー」シリーズは読んだことはないですが、
今度、暇を作って読もうと思います
追撃砲のような小口径砲の中には真鍮製もあり、
19世紀まで使われてたようです

白状しますと、私は海のことは陸ほど詳しくないんです
いや、決して陸も詳しいって胸張れる訳じゃないんですけど

>337
すいません、そういうのはパスです
前述したように自分の快楽と自分を朋友のためにやってるようなものですし、
専門的な教育受けた訳でもないので・・・・
339335:01/10/12 18:08 ID:10RlbdZs
すいません
× 自分を朋友のために
○ 自分を朋友呼んでくれたある人のために

うう・・・・、相変わらず間違ってばっかり
340339:01/10/12 18:26 ID:10RlbdZs
名前欄、「335」でなく「338」でした
もう駄目だ・・・・
 16世紀末から1世紀に渡って、ヨーロッパの海軍は熾烈で果てしない戦いを繰り広げた
 この競争から生まれた艦隊は、量的にも質的にも本国から遠く離れた海域で戦略目的を達成する能力を
備えていた
 1688年には、新型の戦列艦がカリブ海、インド洋、太平洋に展開して戦略的に優位に立とうと
競い合っていた
 勿論、これらの最果ての海を航海したヨーロッパ人は彼らが最初ではなかった
 アメリカでは、コロンブスの時代には早くもヨーロッパ人が制海権を握ったが、
それはアメリカの先住民がヨーロッパ人に対抗できる戦闘艦を保有していなかったからだった
 1521年、コルテスはテスココ湖で武装兵を乗せたカヌーに遭遇したが、
カヌーより大きな船(「ブリガンティン」と命名された)に火器を搭載すれば十分だった
 コルテスは数時間で湖を奪い、湖上の首都ティチティトランを征服した

 もっとも、アステカ帝国の財宝を他のヨーロッパ人から守っていくのはこれ程簡単ではなかった
 16世紀を通じて、スペインとカリブ海を航行する船団は、ガレオンの戦隊で護衛する必要があった
 1565〜1566年には、スペインから遠征艦隊を繰り出してフロリダからフランス人入植者を
追い出さねばならなかった

 フランシス・ドレイクが1570年代から1580年代にかけてアメリカ近海で頻繁に行った海賊行為
は、地元の戦力ではとても対抗できない脅威だった
 交易と海上護衛の総責任者であるメディーナ・シドニア公は、1588年10月25日、
イングランドの海賊行為に対抗するためには、カリブ海全域の防衛を強化するよりイングランドにある
海賊の拠点に大規模な攻撃をかけるほうが有効で安上がりだとフェリペ2世に進言した
 シドニア公は、別に自ら艦隊を率いて拠点攻撃の指揮をとりたいと考えていた訳ではなかったが
彼の戦略上の洞察は紛れもなく正しかった
 シゴニア公の予想通り、無敵艦隊の敗北以後、スペイン領アメリカの艦隊と要塞をどれ程強化しても、
侵入者を撃退することはできなかった


そんだけ
342魚花 うるふ:01/10/12 22:00 ID:348fNI0I
335の訂正を致します。(うろ覚えの記憶を頼りに書いたので間違いが多々ありました)

16世紀中に実用的な鋳鉄砲を生産できたのは、イギリスのみだそうです。
王国の財政的破綻により、自国の資源のみで大砲を鋳造するハメになりましたが、
見事実用に耐えうる鋳鉄砲の製造に成功したそうです。(ヘンリー8世の御世)

その後オランダ、スウェーデン、ドイツが鋳鉄砲の製造に乗り出しましたが
それは17世紀になってからのことで、品質も当初はイギリスのものに比べ
ひどく劣っていたとの事です。

鋳鉄砲が艦載砲の主流となったのは17世紀半ば以降の事で、17世紀初頭には
イギリスでさえ、艦載砲は鋳鉄砲から青銅砲に置き換えるべきであるという
意見があったとの記述がありました。

(間違えスマソ。朝は調べる時間がないので記憶に頼りがちになってしまいます)

>そんだけ氏

あなたの連載は、軍事板で最も楽しみなものの一つです。今後とも健筆を振るわれる
事を切に願っています。(他の皆さんもそうだと思います)

(『大砲と帆船』は、この時代の軍事技術史を扱っている蔵書2冊のうちの一冊なの
ですが、近所の本屋で何となく手にとって、何となく買ったものです。この手の本は
初版を逃すと中々手に入らなくなるものなのですね…でもそういう時に限って金欠…)
 無敵艦隊の敗北は、スペインとポルトガルがアジアに有していた植民地の防衛にも
大きな影響を及ぼした
 第一に、無敵艦隊のイングランド遠征が、スペインが蓄えていた財源、将来の帝国発展のために
必要とされていた資金を食い潰した
 アチェへの攻略作戦とモンバサの要塞建設計画が中止された
 公式の理由は、イングランド遠征へ全力を傾けるためとされていたが、
実際には、将来を担保にしなければ無敵艦隊を動かすだけの十分な資金が捻出できなかったためだった

 第二に、資金と艦隊の損失によりアジアにおけるスペインの作戦が十分に行えなくなったため、
1590年代になってインド洋にオランダ船が、続いてイングランド船が出没するようになったこと
だった
 ポルトガル領インドは新たな脅威に直面することになった
 これ以降、ゴアの副王が本国へ送る報告書には、「ヨーロッパから来た敵国」の仕業と脅威が
文面を埋めることになる

 ポルトガル領インドは、本質的に領土拡大のための橋頭堡ではなく、交易網の重点であったため
とりわけ攻撃の標的となった
 ポルトガルの植民地経営の関心は、資源の獲得や生産よりも流通に、支配権の確立ではなく
友好的な取引相手の獲得にあった
 初代総督フランシスコ・デ・アルメイダは、植民地の統治にあたって現地人を徴発したり、
土地の諸侯を取り込むような真似をせず、自分の手勢しか用いなかった
 ゴア、マラッカ、ディウ、ホルムズ等の拠点を獲得してからも、ポルトガルの植民地運営の第一目標は
依然として航路の確保にあった

 この任務は、ポルトガルがやってくるまではそれ程困難ではなかった
 1502年にヴァスコ・ダ・ガマがインドの藩主カリカットのサムリの艦隊を敗った時、
ポルトガル艦隊の18隻は全て小型で、ガマの旗艦でさえ16門しか搭載していなかった
 20年後、ポルトガルは60隻の艦隊と要塞6基を持つようになっていたが、それでも艦砲と要塞砲の
装備する砲の総数は1073門に過ぎなかった
 しかも、沿岸交易の支配を使命としていたポルトガル艦は排水量に比して軽装備で、搭載する砲も
大半が小口径だった
 一説によると、3ポンド砲より大型の砲を一切装備していなかったという

 その上、これらの砲は常に有効に働いた訳ではなかった
 1510年、副王アルフォンソ・デ・アルブケルケの率いる艦隊がスマトラの大型商船と
マラッカ海峡で遭遇戦になった時、ポルトガル艦隊は全艦で大型商船を包囲し相手めがけて砲撃を始めた
 しかし、スマトラ船は全く動じる気配もなく航行を続けた
 そこでポルトガル艦隊は相手のマストに砲弾を撃ち込み、ようやくスマトラ船は帆を降ろした
 しかし、スマトラ船は甲板が高く、オランダ艦は接舷斬込をかける訳にもいかなかった
 ポルトガル艦の砲撃はスマトラ船に全く損害を与えられなかった
 スマトラ船は船体に厚板を4枚重ねていたが、ポルトガル艦はアルブケルケの旗艦(400トン)の
主砲でさえ2枚以上貫通できなかった
 結局2昼夜にわたる無益な砲撃を繰り返した挙げ句、アルブケルケは舵を狙うことにした
 これでようやくスマトラ船は降伏した


そんだけ
 このようなやり方が許されたのは、現地の船舶がいずれも火器を装備していなかったからだった
 だが、アジアの船が火器を搭載するようになるとポルトガルの航路支配は脅威に晒されるようになった

 最初の挑戦者は、紅海からたまに艦隊を派遣してくるエジプトのオスマン帝国だった
 1508年、帆船6隻と大型ガレー6隻からなる艦隊が、スエズからチャワルに進み、
そこでグジャラートの艦と合流してポルトガルの戦隊を撃破した
 しかし、1509年、ポルトガル海軍はインド近海の戦闘艦艇全て(19隻)を投入し、
停泊していたエジプト艦隊の大半を撃沈した
 オスマン帝国は、「ムスリムの商船に危害を加えるポルトガルの海賊」を駆逐しようとしたが
ほとんどうまくいかなかった
 1538年に派遣されたエジプト艦隊は、紅海の入口にあたるアデンを攻略したが、
ディウ沖の海戦で壊滅した
 2回目の1552年の艦隊は、ペルシア湾の入口マスカットを攻略したが、
その後ヨーロッパ人の定期的な襲撃に晒され、遂に撤退を余儀なくされた
 3回目の1559年のときは、ペルシア湾から出ることもできなかった
 遠征艦隊はバハレーン島攻略に失敗し、艦隊の指揮官はポルトガルに莫大な賠償金を払って
祖国への帰還を許して貰わねばならなかった

 しかし、この頃になるとヨーロッパ人の侵入者がアジア近海で引き起こした混乱は、
他の手段である程度抑えられるようになっていた
 西アジアでは、インド洋に接するイスラム帝国群、サファヴィー朝、オスマン朝、ムガル帝国が安定し、
1550年代にはポルトガル領インドに挑戦する力を有する政府が成立していた
 東アジアでは、インドネシアのイスラム諸国、特にアチェーが、そう簡単には撃沈されない大型艦を
建造できるようになっていた

 紅海では1560年代に激しい遭遇線が頻発し、1570年代になるとポルトガルのガレオンと、
トルコ製の砲とトルコ兵で武装したアチェーの船がシンガポール沖で戦闘を繰り広げた
 これらの一連の戦闘は大抵ヨーロッパ人が勝利したが、膨大な経費が浪費された
 1562年と1565年に撃沈されたアチェーの大型武装商船は、ポルトガルの大型ガレオンを
道連れにしていた
 これを教訓に、ポルトガルはムスリムの船がスマトラとエジプトを結んで直接取り引きすることを
やむを得ず認めることになった

 同時に、カリカットを根拠地として低喫水の小型艦が展開をはじめた
 ポルトガル人が「マラバールの海賊」と呼び、ムスリム年代記では「イスラム自由戦士」と呼ばれた
小型艦の群は、オールと帆で進み、束になって行動し、地中海のガレーのように中心線に配置した火器を
使って凪で進めずにいる商船を襲撃した
 ムガル帝国のスラート港は、17世紀にマラバールの戦隊をポルトガルの襲撃に対する防衛のために
雇い入れた
 18世紀になっても、この「海賊」はイギリス東インド会社の商船「ダービ」を拿捕してみせる
ことになる


そんだけ
345素人同然:01/10/13 23:53 ID:zU5Ai3wc
 ポルトガルの世界帝国衰退の原因は手を広げすぎたからだった
 特に、1570年以降、モザンビークとセイロンを手に入れようとしたことが大きな原因となった
 と言われているが、アルメイダやアルブケルケたちの戦略とは一線を画するこうした方針は、
ポルトガルの交易衰退の致命傷になった訳ではなく、むしろ16世紀以前から進行していた貿易独占の
喪失に対する一つの反応に過ぎなかった
 領土征服戦略に変換した原因はムスリムの復興であって、その逆ではなかった
 もっとも、1600年前後にモザンビークとセイロンに夥しい資金が注ぎ込まれたおかげで、
イングランドとオランダがインド洋に進出しやすくなったことは間違いない
 ポルトガルはただ、セイロンを征服し、イスラム諸国を抑えつけ、
同時にヨーロッパの敵国を撃退するだけの兵員も艦艇も火器も持っていなかっただけに過ぎなかった
 インドのポルトガル商人は、リスボンの政府に征服行を思いとどまるよう何度も訴えた
 しかし、宣教師たちは、キリスト教に改宗させ救済すべき魂が異教徒の手にあるという事実に
我慢ならなかったのだ

 従って、イングランドとオランダがアジアに進出したことは、既に傾きかけていたポルトガルの勢力を
ほんの一押ししたに過ぎなかった
 1590年代、オランダは65隻の船でアジアへの航海を15回行い、イングランドも1回行った
 しかし、より一層切実になったのは、1602年にオランダ連合東インド会社が設立されてからだった
 オランダ連合東インド会社が送り込んだ最初の艦隊は14隻で編成され、うち9隻は400トン以上の
大型艦だった
 1603年に送られたステファン・ファン・デル・ハーケン指揮下の第2次艦隊は数こそ10隻と
少なかったが、いずれもヨーロッパの海での戦いを想定して建造された重装艦だった
 ファン・デル・ハーケンの旗艦「ドレドレヒト」(900トン)は、24ポンド砲6門、
8ないし9ポンド砲18門を搭載していた
 この艦隊に与えられた作戦方針は、ポルトガルを倒すためにアジアの同盟者を見つけることと、
ポルトガルの交易を出来る限り破壊することだった
 1605年に派遣されたコルネリス・マテリーフ指揮下の艦隊に至っては、
ポルトガルの占有地を最優先で破壊せよという至上命令を受けていた
 東インド会社の交易に支障が出ることも覚悟の上だった

 かくして、東インド会社は1619年までに大量の資金をつぎ込んで13カ所に要塞と商館を建設し、
アジアに246隻の船を送り出した
 ポルトガルの交易は見事なまでに壊滅した
 1602年から1619年までにリスボンからインドに出帆した船のうち、
無事目的地にたどり着いたのは79隻に過ぎなかった
 帰還した船は更に少なかった
 大型艦でも大口径砲は僅かしか装備していなかったうえ、砲手の練度も不十分だったからである


そんだけ
346狼はモーと鳴く:01/10/14 03:49 ID:xRdOl0U2
 もっとも、ポルトガルがオランダの前に為す術もなく崩れ落ちた訳ではなかった
 オランダは、1649年代までポルトガルの地上拠点にはほとんど手を出せずにいた
 モザンビーク、マラッカ、ゴアへの攻撃(特に、ゴアには9回も封鎖をかけた)は、
いずれも失敗に終わった
 1650年代になって、オランダはようやくセイロン沿岸のポルトガルの拠点を幾つか攻略したものの
内陸部のキャンディ王国はどうしても征服できなかった
 オランダは大兵力を投入してキャンディ王国を攻撃したが、このためにオランダ連合東インド会社の
年間赤字は、1660年代の20万フローリンから1673〜1674年には73万1000フローリン
に跳ね上がった
 1676年、オランダは1659年以来キャンディ王国から奪ってきた占領地を、
講和を条件に全て変換した

 更に、オランダ艦が常に無敵だった訳ではなかった
 1603〜1610年までにアジアに送り込まれたオランダ艦のうち9隻が戦闘で喪われた

 イングランドも同様だった
 イングランドはポルトガルとスペインの拠点を孤立させることは成功したが、
中立地帯でポルトガルと遭遇戦になっても常に勝てた訳ではなかった
 1612年12月23日、トマス・ベスト指揮下の2隻のイングランド艦とポルトガル艦4隻が
スラート沖で戦った時、イングランド艦隊は確かに戦術的には勝利した

 ベストの回想によると、イングランド艦は敵に向かってまっすぐに舵を取り、
「お互い行ったり来たりして、奴らの土手っ腹にドカンと撃ち込んでやった
 みんな一度も砲を撃ったことはなかったが、目の前にいたから外す訳がなかった」
 イングランド艦は総計600発以上発射した
 対するポルトガル艦は、応射もしないまま退却していった
 まるで「女の軍隊だ・・・・この目で見なかったら、奴らの卑怯さ、臆病さ加減が信じられなかっただろう」

 ポルトガルの記録によれば、この戦闘は次のように推移した
 低喫水のイングランドの小型艦が支障なく航行していたのにつられて、ポルトガルの3隻のガレオンが
浅瀬におびき出された
 ガレオンが浅瀬に乗り上げて動けなくなった時を狙って、イングランド艦は接近包囲してきた
のだった

 双方の主張の食い違いはともかく、イングランド艦隊の損害は皆無だった
 にもかかわらず、イングランドの勝利は決して完璧ではなく、決して決定的でもなかった
 イングランド艦隊の砲撃でポルトガルのガレオンは1隻も沈まなかったうえ、
その海域のポルトガル艦を駆逐できたわけでもなかったからだった
 ポルトガル艦はその後もこの海域に出没し、イングランドがしくじるのをずっと待っていた
 結局、1613年1月になって痺れを切らしたイングランドの船団は積み荷を満載できぬまま
インドネシアに出帆した


そんだけ
 ポルトガルのインドでおかした間違いは、無敵艦隊がおかした間違いと本質的には同じだった
 ガレーに乗っている感覚で、まず予告の一斉射撃をした後、接近して舷側から斬り込もうと
したのだった
 しかし、ベストの誇張と偏見に満ちたポルトガル艦への侮蔑を鵜呑みにはできない
 ヨーロッパを一歩出れば、予告の一斉射撃(シューティング・オブ・ワン・ピース)だけで非武装商船
の大抵は降伏させることができた
 エリザベス女王の私掠船、17世紀にカリブ海を荒らし回ったバッカニアの海賊たちは、
いずれも砲を1〜2門程度しか備えていなかった
 彼らの商売にはこれで十分だったのだ

 インド洋でも、ヨーロッパの他の国の艦船がその海域にいない限り事情は同じだった
 1612年4月7〜22日、インド洋に展開していたイングランド艦6隻がアラビア半島沖に集結し、
インドから航行中の15隻のムスリム船を次々にシージャックした
 最後に乗っ取ったのは、ムガル帝国の皇太后が所有していた1000トン、全長52メートル、
全幅17メートルの超大型艦「ラミーヒー」だった
 「ラミーヒー」は最初は投錨するのを嫌がったが、警告の砲撃3発で降伏した
 他の船は1発も砲撃せずに降伏した
 イングランド人は、「取れるだけの船を手に入れたからには、これで何をするかは言わずもがな」と
拿捕した船を付近の係留地に運び、手当たり次第に略奪した
 「ラミーヒー」は、結局4000ポンドで請け戻された
 あからさまな海賊行為とも呼べるだろうが、これがイギリス東インド会社の主要な事業の一つだった

 しかし、これで話は終わらなかった
 「ラミーヒー」の所有者はムガル帝国の皇太后であり、その息子はスラートの宗主だった
 間もなく、皇帝は奪われた積み荷が全て変換されるまでイングランドがスラートで交易することを禁じ、
東インド会社はすぐに折れた
 ところが、1613年、「ラミーヒー」は今度はポルトガル人によってまたシージャックされた
 怒り狂った皇帝は、遂にポルトガル領インドに宣戦し、軍を派遣して帝国領内のポルトガルの拠点を
攻撃した
 紛争は2年間続き、最後にはポルトガルが不正所得を返還して終わった

 1636年にも、スラートのイングランド商館がムガル帝国の官憲に押さえられ、商館員が投獄され、
拷問すると脅迫された事件が起こった
 これは、イングランド船(実は東インド会社のものではなかった)が、アラビア海でスラートの商船を
略奪したのが原因だった
 補償金が全額返済された後、商館員はようやく解放された


そんだけ
348許可証を発行します:01/10/14 22:40 ID:hnX8FzLb
 結局、ヨーロッパ諸国が軍事力を常駐させない限り、現地の支配者は認可や投獄という手段によって
ヨーロッパの艦砲に対抗できた
 「ラミーヒー」は15門の砲を搭載し、乗員も銃を携帯していたが、それは軽量で貫通力の低い
後装砲だった
 インドには30〜40門を装備した大型艦もあるにはあったが、それらの武装は
戦闘を目的に搭載されたものではなく、主に偉容を見せつけるためのデコレーションだった
 インド西部の船は厚板を固定するためにロープと木釘を使うため、砲弾の直撃に耐え、
あるいは搭載した大口径砲の発射の反動を吸収するだけの強度がなかった
 新型艦や新しい武装に資金をつぎ込むより、ヨーロッパ人に保護金を払ったほうが
安上がりで現実的だった
 もしアジアの諸侯がヨーロッパ式の艦隊を揃えたとしても、商船と積み荷の被害を防ぐことは
出来なかっただろう


そんだけ
349火を吹く亀:01/10/14 22:41 ID:hnX8FzLb
 日本は、1590年代の朝鮮侵攻の失敗を契機にこのシステムを採用した
 当時、豊臣秀吉は日本の統一を完了したばかりで、挑戦へ侵入するためには海上を支配しなくては
ならないことを十分承知していた
 そこで援軍にポルトガルのガレオンを雇おうとしたがうまくいかず、やむを得ず自分の艦隊を
700隻に増強した
 朝鮮海軍が、洋上撃破と水際撃破を狙ってくるだろうと予想したからだった
 ところが、日本軍が釜山に上陸したとき、挑戦の船は1隻も現れなかった
 日本軍は意気揚々と北上し、20日後の1592年5月2日には漢城(ソウル)に上陸した
 しかし、朝鮮海軍が手を拱いていた訳ではなかった
 5月から6月にかけて李舜臣の率いる艦隊は一連の作戦を行い、日本の戦隊をいくつか撃破した
 日本海軍の損害は72隻に達した
 そして、7月2日の決定的な戦闘で李舜臣の艦隊は日本の主力艦隊を閑山(ハンサン)沖で撃破し、
翌日には日本から送り込まれた援軍も打ち破った

 朝鮮海軍の連勝の理由は大きく二つ考えられる
 第一に、1560年代に中国人(皮肉にも九州、中国地方の諸大名も)が倭寇を鎮圧したため、
経験を積んだ日本人の水兵が大量に姿を消してしまい、次の世代が育っていなかったことだった
 朝鮮侵攻に従軍した艦隊の乗員の大半は、九州と四国の諸大名がしぶしぶ提供した徴集兵だった

 第二に、朝鮮海軍が「亀甲船」の名称で有名な重装甲ガレーを使用したことだった
 この艦は全長33メートル、全幅8メートルで、全体が六角形の薄い鉄板で覆われており、
接舷斬込を防ぐようになっていた
 左右舷側にそれぞれ12基の砲門と22基の銃眼、艦首尾にそれぞれ4基の砲門を装備していた
 亀甲船の火器装備数は日本艦をはるかに凌ぎ、一説にはその比率は40対1だった
 この様な重装戦闘艦を整備し得た理由は、長期間航海できる航洋力を無視して攻防力に重点を置いた
設計のおかげだった


そんだけ
350倭城の下で:01/10/14 22:42 ID:hnX8FzLb
 日本軍の指揮官もすぐ事態を把握した
 なにしろ、船体を鉄で装甲化するアイデアは日本人も知らない訳ではなかった
 織田信長は1578年に瀬戸内海での封鎖作戦に「鉄の船」を使ってみせた
 これは、普通の大型艦を鉄板で覆ったものだった
 秀吉は、1592年に全国の諸大名に鉄板を供出するよう命じた
 明らかに亀甲艦戦隊に匹敵する艦隊を建造するつもりだった
 もっとも、これは実現しなかった
 このような鈍重鈍足で不安定な艦をわざわざ建造しても、
国内から釜山まで無事に航行できるわけがないと誰もが気付いたからだった
 結局、現地部隊のとった応急処置のほうが現実的だった
 釜山では生き残った艦が大慌てで重砲を積み、港の要塞の下でひしめき合っていた
 現地部隊は、亀甲船の強みはその装甲ではなく、その火力にあると看破していた
 これには李舜臣も手が出せなかった

 1593年から1597年まで、戦局は膠着状態に入った
 だがその後、日本艦隊はまたしても制海権を握るのに失敗した
 1597年7月の海戦には勝ったものの、その後日本艦隊は李舜臣に速い潮流の中におびき出されて
壊滅した
 戦争はそれから1年間続いたが、海上に援軍のない日本軍は釜山の拠点から一歩も進軍できずにいた
 1598年8月、遠征軍に帰還命令が下った
 李舜臣は侵入者をもう一度撃滅しようとしたが、今度は日本艦隊も重火力を装備していた
 亀甲船は日本艦隊に大損害を与えたが、李舜臣は乱戦の最中に戦死した


そんだけ
351赤い旅券:01/10/15 19:44 ID:GsqGjazQ
 朝鮮の戦争が終結し、豊臣秀吉が死に、徳川幕府が成立すると、
日本だけでなく日本近海にも平和が訪れた
 倭寇が再び現れることもなく、日本では新しい型式の海上交易事業が発展した
 300トン級の大型非武装商船が各地で建造され、船主である日本商人は、
ヨーロッパ人の水先案内人と(しばしば)ヨーロッパ人の船乗りにこれらの船を委ね、
1600年代になると東南アジアの19カ所の目的地に向かって送り出した
 この大型船は年1回以上出帆し、「朱印船」と呼ばれた
 征夷大将軍の「朱印状」のあるパスポートだけが身を守る手段だった
 朱印船は艦砲を一切装備していなかった
 1531年以降、アジアに送り込まれたポルトガル船には砲の搭載が法律で義務づけ
られていたにも関わらず、日本の商船は将軍の命令で一切の武装が禁止されていた
 徳川家は、ムガル帝国皇帝と同じく、大掛かりな武装を施した新型戦闘艦に
大枚をはたくよりも、非武装の日本商船の安全な航行をヨーロッパ人に認めさせるほうが
はるかに安上がりで現実的だと考えたのだ

 もし海上で攻撃を受けた場合、ヨーロッパ人の日本市場への参入を禁じることで
報復すればよかった
 朱印船自体は鎖国とともに海外交易をやめてしまうが、それまで朱印船貿易は
うまくいった
 1610年、オランダとスペインの海戦の真っ最中だったマニラに1隻の朱印船が
到着した
 すると戦闘が一時中止され、日本の中立船は両国の艦隊が睨み合うその中を悠然と
帆走していった

 ごくまれにヨーロッパの船(ほぼ例外なくオランダ船)が朱印船を攻撃したり
略奪したりすると、乗っていた日本人は決して自力で阻止しようとはせず、長崎に戻って
長崎奉行に事の顛末を報告した
 報告が来るや、長崎にあったオランダ商品とオランダ船が例外なく全て差し押さえられ、
嫌疑について調査され、賠償が申し渡され、罰が執行された
 朱印船は重火器で武装していなかったが、極めて有効な法的救済措置で保護されていた
 利益の大きい日本との取引に参加したいと願うならば、将軍の朱印状を不可侵なものと
尊重せざるをえなかった


そんだけ
352チャレンジャー:01/10/16 19:21 ID:2maC/ynS
 ムガル帝国や日本は海上を支配しようという露骨な意図を持たなかった
 もしそうであれば、戦闘艦隊を整備せざるを得なかった
 しかし、一方でそういう野心を抱いたアジアの国々も少なくなかった
 カリカットのヒンドゥー教領主と配下の「マラバールの海賊」以外でも、
自らヨーロッパ人に挑戦し、これを打ち負かそうとした王や領主たちは存在した
 16世紀のアチューのスルタン・ウッディーン・ムダは、
「ベッドで寝返りをうつときも、どうすれば(ポルトガル人による)マラッカの破壊を
封じることが出来るかが頭を離れなかった」人物で、1568年にマラッカに攻撃を
仕掛けた
 1573年と1575年にはその息子が襲撃してきた
 1625年には。スルタン・イスカンダル・ムダは「世界の恐怖」と命名された
2000トンの旗艦を率いて上陸作戦を行った
 この超大型艦は他の艦とともに鹵獲されたが、その余りの大きさに、
ポルトガル人はこれを陳列用に本国に送り届けた

 間もなく、オマーンがヨーロッパに挑戦してきた
 今度はアチェーよりはうまく立ち回った
 オマーンのスルタン・イブン・サイーフは、1650年にマスカットに建設された
ポルトガルの要塞を奪い、マスカット港の埠頭に避難していたガレオンを手中にし、
自分の艦隊の中核に据えた
 スラートとボンベイの造船所に新造艦が発注され、1696年には、オマーン艦隊は
74門艦1隻、60門艦2隻のフリゲートをはじめ、大型艦24隻に達した
 オマーンはこの艦隊でモンバサのフォート・ジーザスを降伏させた
 20年後には短期間ながらバハレーンを占領したこともある

 インド西部のマラータ王国もヨーロッパ式の戦闘艦を建造しようとしたが、
それほどうまくはいかなかった
 マラータのシヴァージーは、1650年代に300人ほどのポルトガル人難民の
力を借りて20隻の艦隊を編成した
 ところが、1659年にこれらのポルトガル人が脱走してしまい、マラータ海軍は
崩壊した


そんだけ
353睨むだけで敵を殺す:01/10/16 22:16 ID:Muw++BSQ
 もっとも、このような例など中国の海賊鄭成功に比べれば全然お話にならなかった
 鄭成功(ヨーロッパ人は彼をコクシンガ《国姓爺》と呼んだ)は、平戸のオランダ商館
近くで育った
 父親は平戸の商館で通詞を勤めており、1620年代にはオランダ軍に加わって
海賊としても活動を始めた
 彼は、中国のジャンクに重砲が搭載できるよう甲板を補強し、機動性を上げるために
帆の形状を改良するなどヨーロッパ式の改装を施した
 1644年、明朝が清によって崩壊したのち、鄭成功は福建沿岸一帯に強力な陸海軍を
編成し、明朝の後継者の復位に全力を注いだ
 1620年代の鄭氏はジャンク3隻と100名ほどの海賊を従えていたに過ぎなかった
が、1655年の鄭成功の戦力は、艦艇2000隻、兵10万を数え(恐らく誇張だが、
大兵力であったことは確かだろう)、模造品、戦利品、購入したものを問わず
掻き集めたヨーロッパ式の火器を使いこなした

 この強大な兵力を支えた資金は、交易から得たものであった
 1650年代までに鄭氏は東南アジアに巨大な交易ネットワークを構築し、
オランダ人もその勢力に警戒感を抱くほどだった
 1654年、バタヴィアのオランダ人総督は本国に、「東洋の海で、彼(鄭成功)は
我々の顔に唾を吐きかけることができる唯一の男である」と報告し、翌年には
「彼は当地で我々の体に突き刺さった棘である」とも記した

 これは誇張ではなかった
 1655年、鄭成功は、オランダの交易を脅威とみなす、とオランダ人に通告した
 「バタヴィア、台湾、マラッカは切り離せない単一の市場をなしており、
 私はその一帯の支配者である
 その地位を貴公たちが脅かすことを私は許さない」
 1657年、鄭成功は長崎に47隻のジャンクを送ったが、
その積み荷は同年にオランダ船8隻が積んできた量の2倍以上はあった


そんだけ
354バキャベッリ:01/10/16 23:00 ID:0RZ3SaZB
 鄭成功とは大した人物だったのですね、伝統的に中国の軍艦は大河での運用が主で、
航海能力に劣る物が多く、外洋での戦闘には向かないと思っていたのですが、オランダ
とタメを張る程の力が有ったとは。
355kyu:01/10/16 23:14 ID:XDgn9sAG
竜骨がない船は、外洋航海に向かないけど、ジャンクは底板を強化して
外洋航海に適用させたと思った。
356バキャ:01/10/16 23:38 ID:0RZ3SaZB
 サンキューです、中世の船なんて「大航海時代」位しか馴染みが無いもんで。
あれに出てくる「フリゲート」や「亀甲船」なんかも、その実体は始めて知りま
した。特に「亀甲船」、ゲームでは丈夫で高い戦闘力が有るけれど、ガレーの
一種のくせに何故か外洋での長期航海も出来てしまう理不尽な最強船!、あと
「フリゲート」も妙に強いこと強いこと。
357いや:01/10/17 01:18 ID:WviqOBBC
>356
亀甲船じゃなくて鉄甲船じゃないのか?2のスペシャルシップだろ?
ガレーなのでその後は弱点をつけられて遠洋航海に不向きになったよ。
358お前のものは俺のもの:01/10/17 20:05 ID:3HyupPM7
 だが、鄭成功の通商帝国には決定的な弱点があった
 福建沿岸とその沖合の島々を失えば、鄭氏の船団は輸出品である中国産の奢侈品の
入手経路を絶たれるばかりか、艦隊と兵員を維持するための中国の物資も
供給できなくなるのだった
 1656〜1658年、鄭成功の軍団は中国東南部を解放(実際には蹂躙)しながら
長江に向けて進軍を続けた
 しかし、1659年の南京攻略は大失敗に終わり、一方、清軍は福建海岸に向かって
怒濤の如く前進しつつあった
清は1世紀前に倭寇鎮圧に使われたのと同じ手を最後に選択した
 海上で倒すことの出来ない敵の地上拠点を圧倒的な兵力で叩き潰す戦略である

 それでも鄭成功の財源は枯渇しなかった
 1616年初頭、鄭成功は自軍の司令部を台湾に移転することを決断したのだった
 しかしこのとき台湾は急速にヨーロッパ人の支配下に入りつつあった
 スペインは1626年から1642年の間に台北に拠点を築き、
オランダは1624年以降、台南のゼーランディア要塞の周囲に入植地を建設していた
 オランダが奨励した移民策のおかげで、ここでは大陸出身の中国人5万が労働に
従事しており、1660年には台湾はオランダの海外入植地のなかでも屈指の豊かな地域
になっていた
 ところが、この入植地の外郭は2基の小要塞で防護されているに過ぎなかった
 1661年4月、鄭成功は台湾に大兵力を投入し、入植地のオランダ人に降伏勧告を
行った
 オランダがここで交易を行えるのは明の許可があるからに他ならず、
そして今、自分がその認可を取り消した、というのが鄭成功の通告だった

 オランダ人がこのような気の狂った理屈を認める訳がなかった
 かくしてゼーランディア要塞は封鎖され、9ヶ月間の攻囲の後に降伏した
 この攻囲で鄭成功はヨーロッパの砲28門を投入していた
 その中で最大のものは36ポンド砲と30ポンド飽で、オランダ人の改宗ムスリムが
指揮していた

 こうして台湾は「帝国の一省」として明の支配下に編入された
 続いて、フィリピンのスペイン総督のもとに朝貢を要求する使節が派遣された
 勿論、同時に南方への侵攻準備も進められていた
 マニラには600程の兵しかおらず、フィリピン群島の他の島々の駐留兵力もその程度だったため、総督はパニックに陥り、南のミンダナオ島の兵力の全軍抽出とマニラ周辺に在住する中国人全員の虐殺を命じた
 だが最後にマニラは生き延びた
 1662年7月、鄭成功が37歳で死亡した

 それから20年間、鄭成功の息子鄭経は絶望的な抵抗を続けた
 台湾は福建ではなかったからだった
 台湾は、大陸の清に対する戦争を支える補給物資も十分な人口も造船施設も乏しかった
 一方、清は次第に自らの艦隊を整備しはじめ、時にはオランダの力を借りながら
鄭氏の軍に挑戦してくるようになった
 1681年に鄭経が死亡、1683年には澎湖列島を失って海軍が壊滅し、
ついに台湾は降伏した
 それから150年、中国近海は従来通り中華帝国支配体系に組み込まれることになる

 こうして、17世紀末に世界の海で均衡状態が確立した
 アメリカ、アフリカ、アジア周辺の海はヨーロッパ人が支配するが、
東アジアはその圏外に置く、という秩序である
 この秩序が破られるのは、産業革命とインド征服によって膨大な資源が産み出れる
19世紀を待たねばならなかった
 この資源の力が東アジアの「門戸」を力ずくで蹴り破って「開放」することになる
のだが、これはまた別の話


そんだけ
359厄災の予兆または警告:01/10/18 00:13 ID:CHMTgxNN
 ヨーロッパ人は、1650年頃までに、アメリカ大陸、シベリア、サハラ砂漠以南の
アフリカ沿岸の一部、東南アジアの島嶼部で軍事的な勝利を収めた
 中央アメリカでは、少数のスペイン人の集団がそれまで世界の5分の1を超える人口を
抱えた二つの大帝国を崩壊させてしまった
 これらの土地の人々は軍事的な技術も戦術もおよそ異なっていたが、
ヨーロッパ人の侵入に際して、全く同じ一つの経験を共有した
 彼らが出会ったヨーロッパ人は皆例外なく戦い方が汚く、
さらに困ったことには殺すために戦うことだった
 ニュー・イングランドのナラガンセット族は、植民者の戦い方に強い憤りを感じた
 ナラガンセット族のある誇り高い戦士は、イングランド陸軍の大佐に
「人を余りに残忍に、余りに大勢殺し過ぎる」と文句をつけ、
その大佐は、「お前たちの戦い方では7年戦っても7人も殺せないだろう」と応じた
 植民地総督ロジャー・ウィリアムズも「(アメリカ・インディアンの戦争は)
ヨーロッパ人の残虐な戦争よりはるかに流血が少なく、破壊もしない」ことを認めている
 もっとも、これは戦争に対する文化の違いもあった
 アメリカの先住民社会では、戦闘に生き延びてもその後の宗教儀式で玩具にように
殺されることもあった
 アステカ帝国の「花戦争」は、戦闘での戦死者は殆どいなかったが、
それは捕虜全員が人身御供になるよう命じられたからだった

 同じ頃、地球の反対側ではインドネシアの諸民族が、全てを破壊し尽くしてしまう
ヨーロッパ人の凄惨な戦いぶりに同じようにおののいていた
 ジャワの人々は、「出来ることなら戦いたくない一心」だった
 彼らの言い分は、「自分たちの富は全て奴隷に依存している
 だから、奴隷を殺されてしまうと物乞いをしなければいけなくなる」


そんだけ
360黄金海岸:01/10/18 00:14 ID:CHMTgxNN
 この性格は、アメリカとサハラ以南のアフリカにも共通する特徴だった
 これらの地域の戦争は、敵を皆殺しにするのではなく、奴隷にするために行われた
 1788年にギニアを訪れたイングランド人の記録によると、ある種族の首領は
「戦いの目的はただ奴隷を得ることにある
 奴隷がなくてはヨーロッパの商品は手に入らない
 そして、奴隷を得るためには、それを求めて戦わねばならない」
と認めている
 彼らの戦争とは労働力を得るためのものであって、土地を支配するものではなかった
 領土でなく人を確保するためのものだった
 この手の発言は、ヨーロッパ人が植民地を獲得するための宗教的・人道的な掩護射撃を
植民者たちに与えた
 「異教徒はこのような不正行為を働く
 故に、キリスト教徒が異教徒を殺しても許される」
 異教徒とは周辺諸国全てに当てはまった
 結果、キリスト教徒は増えなかったが、不信心者は確実に減ることになる

 勿論、例外は存在する
 アルゴンキン族のようなアメリカ・インディアンの一部の部族は、
捕虜を手の込んだ儀式によって拷問にかけて殺した
 19世紀のズールー人は敵を無差別に殺した
 フィリピン群島のルソン島中部のイゴロット族は、つい最近まで奴隷よりも
人間の頭を集めるほうを好んだ
 ヨーロッパ人も時には捕虜を奴隷にした
 1650年代にイングランド軍の捕虜となったスコットランド兵は終身奴隷を宣告された
 行き先はイングランド国内の場合もたまにあったが、大抵はバルバドス行きだった
 ウースターの戦での勝利を祝ってクロムウェルのもとに派遣された議会派の代表は、
クロムウェルから「贈り物」として馬1頭とスコットランド人2人を与えられた
 だがこれらのスコットランド人は反逆者とみなされ、それに応じた扱いを受けたに
過ぎない
 ヨーロッパ世界の戦争は、上記の非ヨーロッパ世界のように、奴隷を確保することが
戦争目的であったことは一度もなかった


そんだけ
361360:01/10/18 00:18 ID:CHMTgxNN
ちょっとインドを巡る戦争について書きます
これがないとナポレオン戦争が片手落ちになるもんで
ああ、迷走しっぱなし・・・・
362海の人:01/10/18 07:55 ID:vjbGFmcX
>361
 うひゃひゃ、海の人は日本史専攻だったんで世界史の素養があんまりないんですが
たいていの「歴史家」さん達は突っ込まれるのがイヤで自分の担当と決めた領域から
出てこない印象がありますけど(だからこそ、塩野さんあたりが「歴史家」に嫉妬から
誹謗中傷されるのだと思いますが)本当に歴史を語ろうとすれば、それこそウェブの
ように、あれこれの相関を語らなくてはいけないのは自明ですもんね。
 リニアではない広がりのある歴史を、今後も楽しみにしてますです:-)
363天翔ける三つ首の蛇:01/10/18 21:05 ID:JJE4bNZ9
 これらの地域に共通するもう一つの特徴は、その居住形態にあった
 インカやアステカは別として、大抵の文明には城塞都市がなかった
 当然、征服の初期段階はいとも簡単に進んだ
 現地人たちには逃げ込む防衛拠点がなかったからだった
 だが、征服は兎も角、統治するのは難しかった
 1675年、ニュー・イングランドに上陸したインクリーズ・マザーは、
 「どの沼地も彼らにとっては城塞だった
 彼らは、我々がどこにいるか常にわかっている
 ところが我々は、彼らがどこにいるのか皆目わからない」と嘆いた
 事実、太鼓を打ち鳴らし軍旗をはためかせながら勇ましく進軍していった入植者の軍が、
攻撃目標であるアメリカ・インディアンの村落にやってきてみると、
そこはもぬけの殻だった、ということは数え切れぬほどあった
 アメリカ・インディアンたちは、1カ所に留まって対戦すればヨーロッパ人が
有利になるということをよく理解していたのだった

 最初の戦闘で壊滅し多くの犠牲者を出して以来、アメリカ・インディアンたちは
ヨーロッパ人との正面決戦を避けようと細心の注意を払った
 ヨーロッパ人はこれに憤慨したが、会戦に持ち込まれれば
確実にアメリカ・インディアンの負けだったからだ
 「彼らは宣戦せずに敵対行動に出る
 平地に出てきて我々に戦闘開始の合図をしようともしない」
 アメリカ・インディアンを倒すには、彼らと同じように小規模な遊撃戦を展開する以外
にないことを、ヨーロッパ人は少しずつ理解するようになった
 1675年にニュー・イングランドで起こったアメリカ・インディアンたちの一斉蜂起
(フィリップ王戦争と呼ばれる)がようやく鎮圧できたのは、
ベンジャミン・チャーチ大尉の助言に従って、植民地軍が小部隊に分割され、
火器の他に斧とナイフと犬を携え、縦列や横列ではなく散会隊形をとる戦法に
切り替えてからのことだった

 ところが、ニュー・イングランドのアメリカ・インディアンたちもすぐに教訓を学んだ
 1640年以降、彼らはフランス人やイングランド人、オランダ人から火器を
手に入れるようになった
 そしてそれを見事に使いこなした
 その上、フィリップ戦争中にナラガンセット族が退避した「大湿原」は、
城壁と稜堡を備えたヨーロッパ式の要塞の背後にあり、
その要塞はそれまでに70名の入植者の命を奪っていた
 「赤いインディアン」が最後に劣勢になったのは、技術で遅れをとった訳ではなく
ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病によって人口が減少したからに他ならない
 この間、ヨーロッパ人の人口は移民によって容赦なく増え続けていたのだ


そんだけ
364夢と希望に溢れた大陸へ:01/10/18 21:05 ID:JJE4bNZ9
 一方、南アメリカではヨーロッパ人はもっと迅速に勝利を収めた
 アステカ族とインカ族が支配する巨大で集権化された帝国は、スペイン人たちの攻撃に
よって類を見ないほどあっという間に決定的に崩壊した
 アステカ帝国は、1519年から1521年の間に、エルナン・コルテスが指揮する
たかが500名程度のスペイン人と14門の砲、たった16頭の馬によって
 インカ帝国は、1531年から1533年の間に、フランシスコ・ピサロが指揮する
僅か168名のヨーロッパ人と4門の砲、67頭の馬によって
 もっとも、これらの戦力は、初期の植民地征服戦争の基準からすれば
凄まじい戦力集中だった
 組織の整った中央集権政府を持たない地域では、20名、50名、せいぜい100名の
騎兵がいれば、大抵の場合ヨーロッパ人の支配を確立することが出来た
 この戦力でもインディオを殺害し奴隷にし、インディオの財産を略奪し破壊できた
 もっとも、メキシコ北方辺境の「大草原」の諸民族は、火器は知らなかったが
当時既に馬を保有しており、スペイン人は彼らを倒すために重要な輸送路沿いや
攻撃されやすい入植地に小要塞を建設しなければならなかった

 一方、南のチリでは要塞よりテロが好まれた
 ベルナルド・デ・バルガス・マチューカ大尉が1599年に著した
「インディアスの兵力と事情」は、史上最初の遊撃戦マニュアルだった
 マチューカは、上下の階級制がある戦術部隊、直線型の隊形、要塞や野戦陣地等
ヨーロッパの戦争のスタイルは全て役に立たないと断言した
 かわりに彼がアメリカ大陸向きとして推奨するのは、敵地に深く潜入し、
2年間ずっと偵察と破壊活動を続ける特殊部隊の創設だった
 マチューカは他人に頼ることで人生を送ってきた男だったが、
この本の中で優れた指揮官について熱弁を振るっている
 指揮官は伏撃や奇襲のやり方だけでなく、生き延びるための穀物の植えかた、
熱帯性疾病の治療の方法も熟知しているという
 チリの植民地周辺地域では、地元の方法を採用したために統治は順調に進み、
当時のイエズス会士の言葉を借りれば、「(戦争は)人間狩りとかわらない」ものに
なった
 入植者は、反抗する先住民たちをマスチフ犬とナイフを使って狩りたてたのだった


そんだけ
365レネゲイド:01/10/19 22:49 ID:9SvxaNoQ
 シベリア、東南アジア、サハラ以南のアフリカでも似たような状況だった
 ヨーロッパ人は火器を使いこなせたおかげで決定的な優位に立っていた
 1580年代にウラル山脈を越えてシベリアに入ったコサックは、火器と要塞を併用して東に進出し、毛皮を求めて1630年代には太平洋に到達した
 コサックがこれ程短期間で東進できたのは、組織的な抵抗に遭わなかったこともあった
 当時のシベリアの人口は恐らく20万を下回っていた

 ブラック・アフリカはこの点で全く事情が違っていた
 1590〜1591年、オスマン帝国式の訓練を受けたモロッコの銃兵は、
サハラ砂漠を横断してソンガイ帝国を攻撃したが、ソンガイ帝国軍の断固たる抵抗に
行く手を阻まれた
 1660年代にコンゴ王国を侵略したポルトガルは、ヨーロッパの銃で武装した軍隊に
反撃された
 この軍勢には29名のヨーロッパ系ムスリムが加勢していたという
 これは別に驚くにはあたらない
 16世紀初め頃から、歴代のコンゴ王はポルトガル人の私的な軍事顧問から助言を
受けていたからだった
 しかしそれでも侵略軍は勝った
 1591年、トレディビの戦でソンガイ帝国が、1665年、アンブイラの戦で
コンゴ王国がそれぞれ滅亡した


そんだけ
366マン・ハンティング:01/10/19 22:50 ID:9SvxaNoQ
 しかしながら、アフリカへのヨーロッパ進出を火器のなせる業として片づけるのは
正しくない
 機関銃が登場するまで、ヨーロッパの火器は戦闘に勝利するには有効だったかも
しれないが、戦争に勝てたことは殆ど無かった
 ヨーロッパ人は、19世紀まではアフリカ沿岸の多数の要塞に閉じこもっていたに
過ぎなかった
 ポルトガルは東アフリカのザンジベ河上流を支配しようとしたが、試みは常に失敗に
終わった
 ポルトガルの銃兵の小集団が数少ない要塞拠点からたまたま迷い出てきても、
細身の投槍を持った原住民が襲えば大抵打ち負かすことができた
 スワヒリ沿岸のムスリム君主たちに至っては、いつでも火器と弾薬をトルコ人から
入手することができた
 モンバサのスルタンは、1631年にフォート・ジーザスを降伏させた
 この要塞は堅固な珊瑚礁の上に建設され、稜堡を完備し、長い間モンバサの町を
見下ろしていたのだった

 西アフリカでは、地元の支配者の中にヨーロッパ人さえ驚くほど大量の火器を
保有できる者もいた
 これは特に、1650年代以降、オランダ人が銃と奴隷を物々交換するようになった
ことが大きかった
 黄金海岸では、1658年7月からの3年間で8000挺の銃が送られ、
奴隷1人につき銃12挺で交換された
 それから1世紀たつと、送られる銃の数は年に40万挺にのぼり、
奴隷1人につき銃4〜5挺で交換されていた
 ところが、この様にヨーロッパの技術が流入しても、アサンテ王国のような
少数の例外を除けばほとんどの地域ではアフリカの軍事技術は何も変わらなかった
 1861年になって、ナイジェリアでヨルバ族の戦争を観戦したあるイギリス将校の
体験談によると、戦闘の際の部族の戦士たちは、とりあえず
「散開隊形に拡がり、それから弾薬が尽きるまで小競り合いを繰り返す
 弾薬がなくなると補充しに戻ってくる」
「数千発も撃っているのに、死者は一桁どまり、怪我人も十人単位だ」
 実際、植民地化される前の東アフリカでは、兵力不足のため戦争は殆ど儀礼化していた

 このような戦術では、高度に訓練されたヨーロッパの軍隊に対してはとうてい
歯が立たなかったに違いない
 だが、ブラック・アフリカはヨーロッパ人と対決するために銃を輸入した訳では
なかった
 あくまで奴隷を求めて戦ったのであり、土地を自分のものにするためではなかった
 しかも、健康で商品になる奴隷を捕らえるのが目的の戦争に、
滑腔銃の斉射戦術が不向きだったことは明らかだった
 滑腔銃特有の低い命中率では、殺すのではなく、確実に負傷させるためだけに
使うわけにはいかなかった
 その上、鉛の銃弾による銃創は鉛が変形して傷口を拡げてしまい、
鉛毒によって壊疽を誘発して死に至ることも少なくなかった

 18世紀になると、鉛の銃弾のかわりに石礫を使うことでこの問題は取り敢えず
解決できた
 18世紀に銃の輸入が劇的に増加したのは恐らくこれが原因だった
 だが、これでヨーロッパの火器戦術が戦争に採用されることにはならなかった
 そもそも、火器という代物自体がアフリカの戦争に馴染まない性質のものだったのだ


そんだけ
367kyu:01/10/20 20:13 ID:Oh1Bqj4C
>>334
>「帝国の道具」
前スレの94ですが、国会図書館webで検索してみたところ、「帝国の道具」は検索できませんでした
そこで、色々他の条件で探したところ

帝国の手先 ヨーロッパ膨張と技術  D.R.ヘッドリク‖著  原田勝正‖〔ほか〕訳
出版地 :東京
出版者 :日本経済評論社
出版年月:1989.8
資料形態:284p  22cm  3296円
原書名 :The tools of empire.

おそらくこれが、和訳本だと思います
ttp://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_result_book.cgi/3aa10fb094e900103b49?aid=02nifty0011&kywd=%C4%EB%B9%F1%A4%CE%BC%EA%C0%E8&ti=&ol=&au=&pb=&pby=&pbrg=2&isbn=&age=&idx=2&gu=&st=&srch=11&s1=za&dp=&kywdflag=0
368334:01/10/20 21:47 ID:k5nkBUgv
その通りです、ご指摘有り難うございます
書名間違えてお手数かけました

うう、ちゃんと確認してから書き込めば良かったです
369幾千年の年月を:01/10/20 21:48 ID:k5nkBUgv
 インドネシア群島でもこれと全く同じ状況だった
 アチェーのスルタン・イスカンダル・ムダがトルコとヨーロッパから入手した砲は、
1620年には2000門に達していた
 だが、それでどうなったかと言うと、別にどうにもならなかった
 これらの砲はポルトガルとの戦争で全く役に立たず、1629年のマラッカ攻囲で
あらかた失われてしまった
 実際のところ、火器よりも900頭の戦象のほうが余程役に立った
 1629年以降、生き残った砲は儀礼用にとっておかれたに過ぎなかった
 城壁に守られた都市や要塞が比較的少なかったことが、このように伝統的な戦術が
近代的な戦術に勝った理由の一つだった

 このような領域では、攻城戦は当然のことながら未知の体験だった
 そこでの戦争は奴隷や貢ぎ物を手に入れるためのものであって、
領土を併合したり新しい戦略拠点を獲得するためのものではなかった
 故に、強力な攻撃に対する最善の防御は、さっさと降伏するか、取り敢えず逃げるかの
どちらかだった
 繁栄を謳歌していた港湾都市マラッカに1511年にポルトガルの分遣艦隊が
攻めてきたとき、スルタンと守備隊はしばらく抵抗してみたが、取り敢えず内陸に
1日程度の「ピクニック」に出かけることにした
 彼らの記録によると、「(ポルトガル人たちは)ただこの町を略奪しに来ただけで、
ことがすめば立ち去り、略奪品を持って出帆するつもりだ」と考えていたのだった
 ところが予想に反して、ポルトガルはマラッカに強力な要塞を築いた
 「ア・フォモサ(壮大)」と呼ばれることになるその要塞は、
例によって歴代のスルタンが葬られている聖なる丘から石を集めてきて、
町の大モスクの瓦礫の上に建設された
 完成したポルトガル領マラッカの城壁は全長2キロに達し、10回の攻囲に耐えた

 特に、前述の1629年の攻囲は歴史に残る大攻勢だった
 イスカンダル・ムダは2万の兵を率い、236隻の小舟で港を封鎖し、
攻城砲でマラッカを包囲した
 アイェー軍はマラッカの周囲に見事な攻城陣地線を構築し、
「ローマ人でもこれ程強靱な陣地をこれ程速く造ることはできないだろう」と
ポルトガル人が記録に残した程だった
 だがそれでもイスカンダル・ムダは勝てなかった
 それどころか、結局1万9000の兵と将軍2名、船と砲の大半を喪った

 一方、同じ1629年に、マタラムのスルタンがバタヴィアのオランダの要塞に、
イスカンダル・ムダに劣らぬ大攻勢をかけている
 スルタンが正しく認識していた通り、この要塞は「ジャワの脚に刺さった棘」であり、
「(ここで)引き抜いておかないと、全身が危険な状態になりかねない」からだった
 マタラム軍は、マラッカを包囲したアチェー軍のように、ヨーロッパ式の攻城築城を
やってみせた
 しかし、オランダの入植地を守る要塞の巨大な掘と城壁と稜堡はびくともしなかった


そんだけ
370支踏:01/10/20 21:50 ID:k5nkBUgv
 ヨーロッパ人は東南アジアに他にも多くの要塞を建設した
 「香料諸島」(テルナール、ティドーレ、アンボイナ等)とフィリピン群島の無数の
小要塞群、台湾のゼーランディア要塞、マカオのモンテ要塞、アユタヤ、バンテン、
ペグーの城塞商館等である
 スペインとポルトガルは日本の長崎にも要塞化された港湾都市を築こうとしたが、
徳川幕府は稜堡の建設を認めなかった

 マニラは、マラッカとバタヴィアに匹敵する強力な要塞を備えていた
 1560年代にスペイン人が訪れる直前に、ボルネオとモルッカ諸島のムスリム領主に
よってフィリピンに要塞建設が行われたが、これは木造だった
 スペイン支配時代以前のフィリピンに存在した石造建築物は、
ミンドロ島のプルエト・ガレーラ近くにあった小要塞一つだけだった
 だが、この要塞も、マニラの巨大な竹造砦柵も、スペインの砲撃には耐えられなかった
 しかもスペイン人は、1576年から1650年にかけてムスリムが築いた砦柵の跡に
巨大な要塞を建設し、この要塞はその後2世紀にわたってあらゆる攻撃を跳ね返した
 マニラのサンディエゴ要塞自体はセブのサン・ペドロ要塞程度で、
格別大きなものではなかったが、稜堡が点々と並ぶ厚さ3メートルの巨大な城壁に
つながっていた
 この城壁は、スペインが領有する市街を取り囲み、東アジア最良の天然港湾を見下ろす
ことになった
 もっとも、この「イントラスロム(城壁都市)」については賛否両論が存在する
 一般にはヨーロッパの要塞に引けを取らない強靱な要塞とされているが、
当時でもそれ程感動しなかった人もいた
 1588年、マニラに滞在したあるスペイン高官は、現在建設中の要塞は
「金と時間の浪費」だと国王に報告した
 「何故なら、時代遅れの円形の堡塁を建てた」からだった
 また、1591年に「イントラスロム」の司令官は、建築家がヨーロッパで設計した
ため、現地の防衛施設は「建築家の助言も計画もなしに建設されており、まるで的外れだ」
と文句をつけた
 だが、1650年に完成した城壁は彼らの言い分より堅固だったことは間違いない

 これに刺激されて、または脅威を感じてヨーロッパのスタイルを採り入れる
地元の支配者もいた
 バンテン、パティ、ジャバラ、スラバヤは16世紀には煉瓦か石造の城壁を
備えるようになった
 スラウェシ島南部のマカッサールのスルタンは、17世紀半ばに首都の周囲に
煉瓦の城壁と3基の方形堡を建設した
 だが、彼らの努力は無駄だった
 東アジアの遠隔地交易の要点は、全てヨーロッパ人の手に握られたままだった
 インド以東の交易の要衝であるマラッカとバタヴィア
 太平洋を横断してアメリカにつながる拠点であるマニラ
 この3カ所は間もなく現地人と中国人の人口が膨張したが、
依然としてヨーロッパ人(国籍は時々変わったが)の支配下におかれ続けた
 ヨーロッパ人は、この三代拠点を領有することで得た富をもとに、
東南アジア一帯の主要港にあまねく揺るぎない影響力を行使し、
いかなる国にも有効な武力行使を許さなかった
 しかも、この三大拠点は東南アジアから資金を引き出し、
機会があれがいつでも支配圏を拡大するには最高の立地条件を備えていた
 こうして、泥塗れの長靴をはいたヨーロッパ人の足をインド、ペルシア、レヴァントの
沃野に突っ込む準備ができた


そんだけ
371370:01/10/20 21:51 ID:k5nkBUgv
明日から仕事で1週間程書き込めません
あしからず
372リトル愚礼@敗残騎兵隊:01/10/21 00:46 ID:1kl2PlFV
おお、そんだけ氏殿…
実に勉強になります。
自分のレスなんか、恥ずかしくて。

後、昔「騎兵が好き」なるスレを立てたのですが
激戦???の末壊滅したようです。
こちらに合流、再編成させてもらえませんでしょうか?
373バキャベッリ:01/10/21 17:32 ID:M+aiSb5i
「騎兵が好き。」ですか?見てましたよ、html化されて無いんで過去ログが見れないのが残念。
374名無し三等兵:01/10/23 08:47 ID:RSYVgai/
防腐剤投下
375名無し三等兵:01/10/24 20:32 ID:1ZhadLiT
防腐剤投下
376考える者ではなく、馬を駆る者:01/10/25 20:01 ID:i8RosukY
 ヨーロッパの軍事的な挑戦に対するイスラム世界の対応でも、奴隷は重要な要因だった
 ムスリムの戦争でも、奴隷は重要な役割を果たしていた
 9世紀初頭、北アフリカ、スペイン、エジプトのイスラム諸国は国防兵力として
奴隷兵士を使うようになり、以降、奴隷兵士はイスラム世界に急速に普及していった
 これらの奴隷兵士の大半は成人してから誘拐されたり徴発された訳ではなく、
子供のうちにリクルートされ、ムスリム支配者の家でムスリムの子供たちとともに
育てられた
 従って、彼らは軍事技術だけでなくイスラムの生活習慣も身につけていた

 主にクリミアで徴発されたエジプトのマムルーク、バルカン半島で徴発された
オスマン・トルコのイェニチェリはエリート奴隷兵士として有名だが、
イスラム世界独特の軍事システムの中で奴隷兵士は不可欠の要素だった
 インドネシアのイスラム諸国にも奴隷兵士はいた
 17世紀初頭のアチェーのスルタンは、幼少の頃から実戦を経験させて訓練した外国人
の専属奴隷を500名抱えていた
 インドのイスラム諸国はそれ程奴隷兵士に頼ってはいなかったが、
15世紀から16世紀にかけて、デカンのスルタンは奴隷のかわりにオスマン・トルコと
ペルシアから外国人傭兵を大量に雇い入れていた
 ポルトガルの史料ではこれらの傭兵は「白人」と記録されているが、
これは地元のインド人に比べて彼らの膚が白いからで、
別にヨーロッパ人だった訳ではなかった

 このような事情により、イスラム世界の戦争には一貫する明瞭な特徴が見られた
 どこの国であれ、軍隊の中核をなす兵士は地域との結びつきを持たず、
奉職する政府の意志を実現することのみに専念し、伝統に忠実な戦いを実行した
 明らかに、戦略や戦術の積極的な革新を許容するシステムではなかった


そんだけ
 確かに、オスマン・トルコはヨーロッパの軍事技術を見事なまでに素早く、
そして完全にとりいれ、自分のものにしたように見えた
 トルコ人は、小銃、野砲、攻城砲をすぐに見習い、ヨーロッパを上回る部分すら
認められた
 ヨーロッパスタイルの攻城戦での攻撃・防御戦術も、
1520年代からは確実に実行できるようになっていた
 それから1世紀半にわたって、オスマン・トルコはヨーロッパの差し向けた大軍勢と
互角以上に渡り合った
 しかし、ヨーロッパにとって最も危険な隣人は、三つの点で明らかにヨーロッパ諸国に
立ち後れていた

 第一に、ヨーロッパ諸国が砲の機動性を高め、量を増やすことによって柔軟な火力の
集中を達成することに専念していたのに対し、オスマン帝国は砲を可能な限り巨大化
しようとしたことだった
 その理由は、オスマン帝国が余剰を産み出すだけの工業製品の大量生産と備蓄が思うに
まかせなかったためだったのかもしれない
 トドメの決定打を数発発射する巨砲を幾つか装備するほうが、
小型の砲を大量に揃えるよりも簡単だと考えたのかもしれない
 だが、理由は何であれ、これは失敗だった
 1683年、ウィーンの城壁の外でキリスト教徒軍はオスマン・トルコ軍に大勝したが、
それはトルコ軍が重攻城砲を全てウィーンに向けていたため、
ウィーン救援軍が野砲をすばやく展開してウィーンの森から急襲射を浴びせてきた時、
砲の機動的な展開が間に合わなかったためだった

 しかし、もう一つの敗因、オスマン・トルコがヨーロッパ諸国に立ち後れた
第二の要素であり、ウィーンを目前にしたトルコ軍最大の敗因は、
攻城軍の宿営地に陣地を構築しなかったことにあった
 当時のヨーロッパの攻城築城では、2種類の築城作業を行うのが常識になっていた
 一つは攻囲している要塞を攻撃するための攻撃築城、もう一つはこの攻撃築城の周囲に
構築され、救援軍が攻囲陣を破壊しようとする試みを封じるための野戦築城である
 1683年のトルコ軍がこの基本的な作業を怠ったのは、
指揮官の宰相カラ・ムスタファが不注意なだけだったかもしれない
 だが、少なくともトルコ人がヨーロッパの戦争技術の完全な模倣とその改良に失敗した
ことだけは間違いなかった

 トルコ人は、攻城戦の複雑な戦術を完全にマスターできなかったのと同様、
野戦で縦列を厚く、横列を薄くする銃兵の隊形も最後まで変えられなかった
 装甲槍騎兵の消滅を契機に火力を最大限発揮できるよう薄く横長へと変化した
ヨーロッパスタイルの隊形と対照的に、火力の発揮よりも隊形の縦深性によって生じる
防御力を重視するスタイルに固執したのだった
 18世紀末になっても、トルコ軍は「(200年前の)スレイマン大帝の時代と」
そっくりに戦う、と長い間敵対関係にあったオーストリア人は記している

 ヨーロッパ人が戦争の技術に磨きをかけるにつれて、イスラム世界の軍隊は
いよいよ劣勢に立つことになった
 そして最後には、1798年のピラミッドの戦でのナポレオンの勝利をきっかけに、
レヴァント全域がヨーロッパの餌食になることになる


そんだけ
378いい鉄使ってます:01/10/25 20:03 ID:i8RosukY
 だが、オスマン・トルコが軍事的に後れをとった第三の要素が存在していた
 それは、冶金技術の遅れだった
 当時、イスラムの軍勢から奪った戦利品の武器や甲冑は、
ヨーロッパでは使い物にならないと言われていた
 1571年のレパントの海戦の後、ヴェネツィア海軍だけでも大小225門の青銅製の
火器を鹵獲したが、それらは全て溶解された上、再び新しい砲に鋳造し直された
 ヴェネツィアの十人委員会によると、その理由は「金属の質が極めて劣悪」だったから
とされている
 オスマン・トルコの艦砲は靱性に欠けているため脆く、安全で確実な使用に適さないと
いう訳だった

 もっとも、僅かな技術上の遅れなどトルコ人たちはたいして気にしていなかっただろう
 トルコ海軍が地中海を支配できたのは、指揮官が優秀だったからでも、
軍制が優れていたからでもなかった
 トルコ海軍が優位に立てたのは、資源と資金でヨーロッパを凌駕していたからに
他ならなかった
 オスマン・トルコは、敵であるヨーロッパ諸国に比べて動員できる兵員、艦船、装備
いずれをとっても上回っており、しかもこれらを唯一の最高司令部が統括していた
 100隻ほどのガレーしか持っていなかったキリスト教徒に対し、
トルコ海軍は250隻の艦隊を派遣できた
 個々の武器の些細な欠陥など問題にならなかったのだろう


そんだけ
379割物注意:01/10/25 20:04 ID:i8RosukY
 インドでも、これと同じ技術上の遅れが見られた
 インド亜大陸北部では1440年頃から、デカン高原では1470年頃から砲が
使用されていた
 ところが18世紀末でも、ヨーロッパ人たちは、これらの「カントリー・ガン」
(とヨーロッパ人は呼んでいた)は、全く使いものにならないと見なしていた
 1552年、ポルトガル領インド政庁が防衛用の砲の総計を計算したとき、
「(敵である)ムーア人たちの銃砲は我々の艦船には全く役に立たないので
計算に入れなかった
 ただし、鋳潰せばもう少し良質の銃砲が鋳造できる」と記した
 地元の支配者は大量の火器を保有しているが、鋳造の要領が悪く(18世紀になっても、
一部の火器は細長い鉄板を金属のワイヤーやベルトで繋いで造られていた)、
維持補修が不十分で、しかも重過ぎて動かせなかった
 インドの砲は、1780年代になっても300年前のヨーロッパの砲と同じくらい
図体ばかり大きく、砲架等の装備が粗末で操作性が低かった
 親英派のアウドの太守が保有していた大量の真鍮製火器について1777年に
イギリス政府に提出された報告書によると、そのうち9割が使用に適さないとされていた
 理由は、金属疲労もしくは砲架の腐食だった
 ウェリントン公サー・アーサー・ウェルズリは、1790年代にマイソールの
ティプー・スルタンから鹵獲した砲全てを廃棄するよう命じた

 小火器も「カントリー・ガン」と同様に、大部分は使いものにならなかった
 すぐに摩耗し交換がきかないこと、規格が不統一なので銃弾が銃の口径に合わない場合
が多いこと、ヨーロッパの銃に比べて有効射程が短いこと等が理由だった


そんだけ
380剽客:01/10/25 20:05 ID:i8RosukY
 とはいえ、ヨーロッパ人も18世紀以前は常に自信満々だった訳ではなかった
 アジアはアメリカのようにはいかなかった
 アジアにおけるヨーロッパ人の対抗勢力は少なくとも火器と鋼鉄製の剣で
武装しており、棍棒や黒曜石のナイフではなかった
 ピサロがインカ帝国を滅ぼした時のように168名の兵士と67頭の馬で
ムガル帝国を倒すことなど、単純に不可能だった
 ムガル帝国は100万を超える軍を擁し、しかも多くの兵が銃で武装していた
 その上、ムガル帝国皇帝をはじめとするインドの支配者たちは、
たいてい外国人の軍事顧問を抱えていた
 最初はトルコ人から、後にはヨーロッパ人からも
 16世紀を通じて、「レネゲイド(イスラム教に改宗した元キリスト教徒)」は
かなりの数に上った
 1499年、2人のポルトガル人がヴァスコ・ダ・ガマの艦隊から脱走して高待遇を
約束した地元の支配者に身を寄せた
 1503年、ミラノの砲鋳造技術者2人がカリカットに、
1505年、4人のヴェネツィア人がマラバールに
 17世紀になって東南アジアに互いに対立するヨーロッパ人の集団が
やってくるようになると、ヨーロッパの武器とそれを扱う技術者や専門家は
洪水の如く流入するようになった
 鹵獲されたり没収される火器もあった
 だが大半は、危うくなった友好関係をつなぎ止めるために贈り物として
贈られたものだった
 1663年、オランダ東インド会社はカーナティックの太守の出陣のために
青銅製の野砲を貸与した
 マラバール海岸のポルトガル人は、地元の有力者に定期的に砲と弾薬と砲手を
贈呈していた
 これに対して、インドで働いたヨーロッパ人の軍事技術者は、一人でやってきて、
個人として雇用された
 1658年、バタヴィアのオランダ評議会のメンバーだったウィレム・フェルステヘン
は本国へ帰還する途上にあったが、ムガル皇帝の後継者候補の一人であるダーラー皇子に
仕えることになった
 そこには既に200人ほどのヨーロッパ人とトルコ人が奉職していた


そんだけ
381苦情、返品には応じられません:01/10/25 20:06 ID:i8RosukY
 にも関わらず、ダーラーはどの戦闘にも一度も勝てなかった
 最後にはライバルのアウラングセーブに捕らえられ、処刑された
 アウラングセーブは帝位につき、ダーラーが抱えていた外国人軍事顧問団たちも
アウラングセーブに仕えることになった
 しかしそのアウラングセーブも、軍事顧問団から直接的な利益を引き出せた訳では
なかった

 第一に、東南アジアの場合と同様に、野砲と銃の斉射戦術が地元の戦争の慣例に
馴染まなかった
 フェルステヘンと共にダーラーに雇われ、後にアウラングセーブに仕えた
イタリア人ニッコロ・マヌッチは、1658年のダーラーとアウラングセーブの
手勢の戦闘を観察し、次のように述べている
 「両軍は、ヨーロッパで見られるような配置できちんと整列していなかった
 両軍が接近し、ちょうど松林の木立のような案配だった
 その後も私は多くの戦場に居合わせたが、常に同じ光景を見た
 戦っているのは最前列に近い兵士だけである
 後ろのほうの兵士は一応抜き身の剣を振りかざしているが、
ムガル人はただ『バクーシュ、バク−シュ』、インド人は『マール、マール』
(どちらも『殺せ、殺せ』の意)と叫ぶだけで何もしない
 前列が前進すると後列もその後に従う
 そして、前列が後退すると、他の連中は一目散に逃げ出す
 これがヒンドゥスタンのやり方である」

 インドの軍隊は巨大な大軍だったが、本質的には依然として英雄的な戦士の集合体に
過ぎなかった
 戦士の望みは1回の戦闘で多くの敵と戦って勝利することで、
速やかにそれが実現できなければ戦士たちの集団としての戦闘力は
たちまち解体してしまった

 ヨーロッパの戦術をムガル帝国軍に採用されなかった第二の理由は、
インドにいたヨーロッパ人たちがヨーロッパの戦術を実際に使わなかったことだった
 17世紀初頭、ポルトガル国王は植民地軍にヨーロッパ式の組織と軍紀を導入しようと
したがうまくいかなかった
 また、ポルトガルは海外兵力に供給する装備の質を向上させようとしたが、
これもうまくいかなかった
 単純に、予備の火器や弾薬が手に入らなかったためだった
 歴代の総督はそれを現地で製造しようとしたが、ポルトガル領インドの役人は
リスボンの政府に本国から軍需物資を至急送るよう、ほとんど毎年のように
嘆願しなければならなかった
 東洋での交易を目的とするオランダ、イングランドなどの各国の東インド会社も
大量の火器を送っていた
 しかし、それらの品質は決して高くなかった
 これらの火器は「トレード・ガン」と呼ばれる特殊な部類のもので、
ヨーロッパの市場で要求される基準をはるかに下回っており、
その後もずっと改善されることはなかった


そんだけ
382死んだ指がマダガスカルを:01/10/25 20:08 ID:i8RosukY
 このように、ヨーロッパの野戦のテクニックが近世インドであえて模倣されなかった
のにはそれなりの理由があった
 だが、攻城戦の場合はいささか事情が違った
 一度ヨーロッパ人を敵に回せば、ヨーロッパの攻城戦における攻撃と防御の技術を
嫌でも見せつけられることになるからだった

 1571年、アーマドナガルのスルタンはポルトガル領チャウルを攻囲した時、
攻囲軍の兵力は14万、ポルトガルの守備隊の兵力は僅か1100だった
 この時、別のムスリムの支配者たちがポルトガル領インドの前哨拠点を次々に
襲撃していたため、守備隊の運命は絶望的だった
 要塞は600メートル×450メートル程度の規模しかなく、
城壁と稜堡は備えていたものの急場しのぎの代物で、砲の数も少なかった
 攻囲軍は次々に要塞の施設を奪取し、6ヶ月後には最後の全面攻撃を敢行した
 しかし、この攻撃は撃退されてしまった
 そして、守備隊の逆襲の後、守備隊は敵の砲全てを鹵獲するか火門を塞いだ
 こうして攻城戦は終わった

 チャウルが救われた理由の一つは、攻囲軍が要塞と海を完全に遮断できなかったこと
だった
 このためポルトガルの艦隊はいつでも陸上への補給と増援が可能で、
同時に攻囲軍に断続的な艦砲射撃を行った
 しかも、ポルトガルの銃はインドの銃より高性能で、倍近い重量の銃弾を使用しながら、
その有効射程も倍近くあった


そんだけ
383行商人:01/10/25 20:09 ID:i8RosukY
 アフリカやアジアでもそうだが、インドでもヨーロッパの防衛拠点が
現地の軍勢によって陥落した例は極めて少なかった
 だが、1600年以降、他のヨーロッパの軍勢にはいとも簡単に落とされた
 セイロンとマラバール海岸にあったポルトガルの要塞は、何人もの現地の支配者による
無数の攻撃を全て撃退した
 ところが、これらの要塞は1638年から1663年までにオランダの手によって
一つ残らず降伏した
 オランダ人は、こうして手に入れた要塞にさらに大規模な強化工事を施した
 セイロンの城壁は、厚さ最大30メートルに達する12基の稜堡を備え、
総延長は2キロ近くに達した
 コロンボの要塞は稜堡を8基、ナーガパッティナムは12基で、
いずれもヨーロッパの要塞に劣らぬ強度を備えていた
 これらの要塞は、ヨーロッパ式の大規模な攻囲にも十分に持ち堪えられる規模だった

 このように有無を言わさぬ実例が目の前にあったのに、インドやセイロンの支配者たち
は「イタリア式築城術」を試そうともしなかった
 だが、昔からインドに存在する要塞は極めて大規模で、近世の攻城砲の砲撃にも
耐えられるだけの強度を備えていた
 14世紀にデカン高原のグルバルカの城壁は厚さが17メートルあり、
1530年から1574年にかけて築城されたプラーナ・キラーの城壁も同程度だった
 1564年から1574年にかけて改修されたアグラの城壁は、
表面に切り揃えられた赤砂岩のブロックを並べ、外壁と内壁の間に砂と砕石が
詰められていた
 これらの城壁に稜堡がなかったのは、これほどの規模ならば必要なかったからだった
 近世インドにおける攻城戦の勝敗を決めたのは、砲撃ではなく封鎖と坑道だった
 18世紀末になっても、ヨーロッパ人はこれらの要塞を砲撃で落とすことは
できなかった
 勿論、ヨーロッパ大陸の本格的な攻囲軍ならばこれらの要塞は苦もなく
落とされただろうが、あらゆる面で十分とはいえない植民地軍にとって
これらの要塞はまさしく難攻不落だった

 もっとも、18世紀末まで大抵の場合ヨーロッパ人は砲撃してみようともしなかった
 ヴァスコ・ダ・ガマの航海以来、ヨーロッパ人は世界制覇のために七つの海に
乗り出した訳ではなく、アジアにやって来たのもそもそも交易するためであって、
征服するためではなかった
 ヨーロッパ人が軍事に資金をつぎ込んだ目的も、乗り気でない取引相手に
圧力をかけるか、競争相手のヨーロッパ人の攻撃から身を守るために過ぎなかった
 そうでなければ、軍事支出だけで交易の利益を全て飲み込んでしまっただろう


そんだけ
384いつでもどこでも誰とでも:01/10/25 20:10 ID:i8RosukY
 だが、オランダ人だけは例外だった
 オランダはヨーロッパで戦争を戦い続けていたので、敵であるスペインと
ポルトガルの海外拠点に直接狙いを定めていた
 敵の交易を奪い、敵を打倒しようとしたのである
 従って、オランダには莫大な軍事費がどうしても必要だった
 1613年の公式報告によれば、オランダ連合東インド会社の設立以前にアジアで
交易に従事していた様々なオランダ商人団体ですら、各航海の経費の30パーセント以上
を戦闘への備えにあてていた
 1602年にオランダ連合東インド会社が成立すると、この比率は年平均で
50〜60パーセント、時には70パーセントに及んだ
 オランダは1605年から1612年にかけてモルッカ諸島の主な島に要塞を築いた
が、それに費やされた費用は、会社設立の資本総額の3分の1に相当する額になった
 アジアのオランダ人は、力なくして利得られず、戦わずして交易はできないと
固く信じていた
 1614年、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン総督が東インド会社理事宛に送った
書簡には次のように記されている
 「諸兄には、アジアにおいて交易を遂行し維持するにあたっては、
諸兄ご自身の武器をもってこれに保護と支援を供すべきこと、
並びにこれらの武器は交易から得られる利益をもって運用すべきことを
ご承知いただきたい
 交易は戦争なくして維持できず、戦争は交易なくして維持しえぬものであります」

 17世紀に極東で活動していたイギリス人の中には、イギリス東インド会社も
オランダのやり方に倣うべきだと考えた人もいた
 1670年代にスラートに滞在したイギリス東インド会社付の医師ジョン・フライア
は、オランダ人は「兵員、富、船のいずれをとっても、ヨーロッパにおいてと
同じくらいバタヴィアでも強大」であると考え、次のように主張した
 「(オランダの戦略は)我が国の東インド会社とは異なる原則に基づいている
 我が国の東インド会社は将来の利潤ではなく、現在の利益追求を主眼としているが、
オランダ東インド会社は要塞を建て、兵士を養うのに莫大な資金をつぎ込んで、
将来の利益を確保しようとする
 我々の戦略は競売を開催し、債務を削減することを目指し、次の世代がこれまで通り
豊かになるよう努力はするが、そのための手段までは用意していない」


そんだけ
385国の仇をインドで:01/10/25 20:11 ID:i8RosukY
 この比較は間違っていた
 イギリス人は、最初に失敗を重ねてからは交易相手を限定し、ゴールコンダ、
カーナティック、ベンガル等のインドでも比較的弱体な小国で、
ヨーロッパの競争相手が喰い込んでいないところを選んだ
 イギリス東インド会社の理事会も、法外な軍事支出をせずにすんだことを自負していた
 「あらゆる戦争は我が国の利益に反するばかりか、国制にも反する
 従って、戦争に対する嫌悪の念を諸君に繰り返し喚起したい」
 「我々の仕事は交易であって、戦争ではない」

 1750年になっても、東インド会社の理事会は現場の役人が
「商人団の仲買人や代理人であることを忘れ、軍事植民地のように思い込んでいる」
ふしがあると叱責していた
 1759年、マドラスの総督が主張していた戦略構想は、「仮にこの要塞建設計画を
認めたならば、我々の資金の半分は石の城壁に埋もれてしまう」として却下された

 しかし、この頃になると理事会は深刻なジレンマに陥っていた
 インドでフランス人の姿を見かけるようになっていた
 1674年にマドラスに近いポンディシェリで、
1686年にはカルカッタ上流のシャンデルナゴルで
 1719年、フランスの「インド会社」が再編されてからは、
インドにおけるフランスのこれらのささやかな足場は、
突如としてフランスのインド領拡大のための橋頭堡へと変貌した
 ヨーロッパでイギリスとフランスの戦争が勃発すれば、
双方の植民地にまで飛び火することは避けられない事態になったにも関わらず、
イギリス東インド会社の理事会は戦略を変更する必要があることを認識できずにいた
 オーストリア継承戦争が勃発した1740年になっても、
インド駐留のイギリス軍兵士は2000名程度に過ぎず、
インド各地に散在する老朽化しろくな防御施設もない要塞にばらばらに配置されていた
 1746年、フランス軍がマドラスを攻撃してきたとき、セント・ジョージ要塞に
配置されていた砲200門に対して砲兵はたった100名しかおらず、
砲兵隊長はフランス軍が接近してくるのを見た途端に心臓発作で死んでしまい、
要塞は陥落した
 その年のうちに、勢いづいたフランス軍はアディヤール河岸においてイギリスと
同盟していた現地の優勢な軍隊をヨーロッパの伝統的な戦術によって撃破した
 300人のヨーロッパ兵と700名の現地兵からなるフランス軍は、
3列の横隊に並んで間断なく斉射を続けながら1万の敵に向かって前進したのだった


そんだけ
386シパーヒー:01/10/25 20:12 ID:i8RosukY
 アディヤール河の戦闘は、インドの戦史における転換点だった
 確かに、ヨーロッパ人の兵士を軍隊の中核に据え、これにヨーロッパ式の訓練を受けた
大量のインド兵を加えた兵力はこれが最初だった訳ではなかった
 アジアに進出したヨーロッパ諸国は、ポルトガルを手始めに、圧倒的な量的劣勢を、
インドネシアのアンボン人、フィリピンのパンパンガ族のようなアジアの「好戦的種族」
を軍に編入することで埋め合わせようとしてきた
 また、地元生まれでキリスト教の改宗した者(父親がヨーロッパ人であることが多い)
を使うこともあった
 ただし、こうした兵士たちは補助兵力として従軍したのであって、
主力部隊として使われたことはなかった
 彼らはその土地の伝統的な武器を使い、伝統的な戦法で戦ったのだった

 ところがフランス人は、現地の兵士たちにヨーロッパの武器とヨーロッパの征服を与え、
ヨーロッパ式の戦い方を訓練した
 1751年以降は、現地人部隊にヨーロッパ人の将校をつけるようになった
 同じ年に、ポンディシェリのフランス人総督は、本国の上司に次のように報告した
 「インドのこの一帯から莫大な収入を得るべく、それによって例えフランスが
ヨーロッパから孤立しても、この地を維持できるような立場となるべく
全力を傾けております」

 ライバルのイギリス人もこれには十分脅威を感じていた
 1751年、ソーンダース総督は本国に次のように書き送った
 「フランス人は広大な版図を所有するにいたり、我が国の領土の境界に彼らの旗を掲げ、
我々の居住地への度重なる圧迫はついに食糧と生活物資の供給を絶つまでになっています
 これに鑑みて、フランスの進出によって我々の生活が戦時より平時にかえって悪化する
ことのないよう、彼らの意図を挫折させることが肝要であると考えます
 従って、我々の力の及ぶ限り、彼らに対抗せねばなりません」


そんだけ
387全て金の問題です:01/10/25 20:13 ID:i8RosukY
 この競争を制するにあたって、イギリスは決定的に有利な立場にあった
 インド現地でのイギリスの財源が豊かだったことである
 それが意味するところは、1750年の時点でイギリスのアジア交易の弾き出す利益が
フランスの約4倍に及んでいた、という事実だけではなかった
 1680年代以降、マドラスのイギリス東インド会社の代理人は、インド人と
ヨーロッパ人の商人や役人から相当な額の預金を現金で預かるようになっていた
 通常、この金は為替手形でロンドンに送金されたが、戦争が起こりそうな情勢になり、
実際に勃発した場合には、この預金が軍事支出を賄う有効な資金源になった
 マドラスとの交易と人口が拡大するにつれて、預金として蓄積される資本も
増え続けていた

 1750年代になると、イギリス東インド会社はこの資金を利用しフランスに倣って
独自の「セポイ」の大隊や中隊、更には連隊を編制した
 イギリス東インド会社軍は、1758年にはセポイの2個大隊を持ち、
1759年には5個大隊、1765年には10個大隊(約9000名)を
抱えるようになっていた
 こうしてイギリス東インド会社は兵力を増強し、従来のものよりも新型で高品質の
フリントロック銃や野砲をヨーロッパから輸入し、ライバルのフランスに対抗できる
ようになった
 その上、インドの地元の小国を攻撃した場合でも、これで多少の戦果が期待できるよう
になったのだった

 1757年のベンガルでの戦争は、セポイ部隊の最初の試金石となった
 全盛期のムガル帝国は(いくら何でもこの数字は誇張だろうが)400万の軍隊を
動員できると豪語していたが、1707年のアウラングセーブの死後、
帝国辺境の地方代官の中には帝国から離反して自分の国を建てる者もあった
 こうした小国の軍事力でも、現地のヨーロッパ人に比べれば圧倒的に強大だった
 従って、1757年にロバート・クライヴの指揮するセポイとイギリス兵で
編成された部隊をベンガルに出兵するという決断は、無謀と言われても仕方がなかった
 確かにベンガルの新しい太守シラージュ・ウッダウラはカルカッタを攻略し、
交易認可料の増額を要求するなど、以前からイギリス東インド会社を徴発していた
 だが、クライヴの手勢は2000のセポイと900のイギリス兵に過ぎなかったのに
対して、太守ウッダウラはその10倍の軍を有し、しかもフランス人の軍事顧問を
抱えていたのだった


そんだけ
388全て金で解決します:01/10/25 20:13 ID:i8RosukY
 しかし、クライヴはプラッシーで勝った
 ベンガル太守ウッダウラは処刑され、後任にはイギリス人の選んだ太守が据えられた
 その後数年間の紛争と交渉を重ねた結果、1765年にムガル帝国皇帝とベンガルの
新太守は、ビバール、オリッサ、ベンガルの三州の租税徴収権を最終的に
イギリス東インド会社に認めた
 これは、当時のどれほど楽観的な予測をも遙かに上回る法外な富をもたらした
 イギリス東インド会社に正規に入ってくる「徴収経費を差し引いた土地税と関税の
純収入額」は、1757年にはゼロであったのに、1761〜1764年には
年200万ポンド、1766〜1769年には年750万ポンドに跳ね上がった
 これらの数字がいかに恐るべきかは、1753〜1760年のイギリス東インド会社の
全支出総計が250万ポンドに過ぎなかったことだった
 全て銀で支払われたこの資金を使えば、巨大な要塞を建設し、
巨大な軍隊を編成することも不可能ではなかった
 この軍隊を使えば、デカン高原とマイソールだけでなく、インド亜大陸のあらゆる地域
に積極的な軍事介入ができた
 1765〜1771年にかけて100万ポンドを費やして建設された
要塞フォート・ウィリアムは、野戦軍の難攻不落の出撃拠点として
ヨーロッパ人のインドでの軍事戦略を一変させてしまった
 1782年までにイギリスはインドに11万5000の兵力(うち90パーセントは
セポイ)を抱えるようになり、プラッシーの戦で10対1だった戦力比を、
例えばマイソール程度の国家に対しては2対1まで縮めてしまった
 アメリカのヨーロッパ領土に匹敵する規模の版図をインドにもつという
イギリスの展望は、ここでついに可能性ではなく、現実のものとなった


そんだけ
389名無し三等兵:01/10/26 20:02 ID:DT1xLzdp
390名無し三等兵:01/10/26 21:10 ID:7ZTldxUH
>>389
これは、ヤメロと言ってるのか?
391バキャベッリ:01/10/27 03:17 ID:Xrq/E6Rj
唯の宣伝では?
392抵抗:01/10/27 18:32 ID:6uennlc1
 インドの太守たちも、いわば最後の土壇場になってようやくヨーロッパの戦争の流儀を
とりいれた
 そして、イギリス人の行く手を阻むほどの成果を上げた
 マラータ同盟は、100を超えるヨーロッパの専門家(主にフランス人)の指導で、
優秀な青銅砲を鋳造した
 ウェリントン公サー・アーサー・ウェルズリも、この砲を「我が軍の砲に匹敵している」
と評したほどだった
 新型の野砲がヨーロッパ人の指導でマラータのセポイに装備された
 その量はイギリス軍よりも多く、イギリス軍が1個大隊につき野砲2門だったのに対し、
マラータの大隊は5門を装備していた
 ウェリントンは、1803年のアセーの戦で勝利できたのは運が良かったと
述懐している
 「あの戦いはインド最大の激戦だった」
 2年後にラスワリでマラータに辛勝した直後、レイク将軍は、
「最強の敵と戦う際にとるべき戦法で攻撃する覚悟でいなかったならばきっと負けていた」
と語った
 この二つの戦闘に参加したソーン少佐は、彼の著書「備忘録」の中でヨーロッパ人に
警鐘を鳴らしている
 「ヨーロッパの戦術とフランス式の軍紀がインドの好戦的な部族を大きく変えた
 しかも彼らは狂乱と紙一重の勇猛を備え、人数は莫大だ
 これらが重なって、彼らとの戦いは類を見ぬまでに血腥いものになった」

 だが、最後はヨーロッパで戦い抜いてきた経験がものを言った
 マラータは見事な野砲を持っていたかもしれないが、1800年代になっても
適切な配置要領を修得しきれずにいた
 敗戦を重ねた末に、砲を全て奪われてしまったのだった
 ラスワリで71門、アセーで98門、アグラで164門
 また。マラータはセポイの訓練にヨーロッパ人やヨーロッパ人とアジア人の混血の将校
を導入したものの、彼らは戦闘の前に賄賂で言い含められ、
下士官と兵卒だけに戦わせることになった
 インドはヨーロッパの戦争のスタイルをしぶしぶ採用してはみたが、創意に欠け、
そして遅すぎたのだった


そんだけ
393シー・パワー:01/10/27 18:33 ID:6uennlc1
 理由がどうであれ、イギリス人がインドの軍事資源を一度支配下に収めてしまうと、
ヨーロッパでのイギリスの一層の台頭に決定的な役割を果たすことになった

 その動きはフランス陸軍がヨーロッパで絶対的な戦力集中を成し遂げるのと
ほぼ並行して起こった
17世紀後半に見られたイギリス、フランス、オランダ三国の海軍の均衡状態は、
18世紀後半になってイギリスが先行し、残り二国が遅れをとったために崩壊した
 1789年にヨーロッパ諸国の海軍が保有する戦列艦は総計440隻だったが、
そのほぼ3分の1の153隻はイギリス海軍の艦であり、
しかもイギリス海軍は規格を統一した大量生産による鋼鉄製艦砲を全戦列艦に
搭載していた
 そして20年にわたって海上戦が繰り返された後の1801年になると、
イギリス海軍は243隻の戦列艦を中核に1000隻を超える戦闘艦を保有するに至り、
総排水量は86万1000トン、全兵員定数は14万2000名に達した
 これもまた、世界中のあらゆる海に投入できる無敵の戦力集中と呼べる代物だった
 この圧倒的な戦力を擁した無敵の地位があればイギリスは世界の海を支配できただろうし、
事実支配したのだった
 イギリスは、インドの資源の支配権をその手に握ろうとし、そして握りしめることに
よって、ヨーロッパで最大級の敵、後には極東の最大級の敵に立ち向かう手段を
手に入れたのだった


そんだけ
394カレーを食べにインドまで:01/10/28 21:18 ID:aCEWV814
 インドを巡る戦いはまた、インドに至る航路を巡る戦いでもあった
 アメリカ独立戦争において、フランスは七年戦争でインドの植民地を失ったことの
復讐を果たしたかに見えた
 しかし、アメリカでの勝利は決して完全でも決定的でもなかった
 第一に、スペイン艦隊と連合して行ったジブラルタル要塞の攻略に失敗したことだった
 地中海を名実ともにフランスの釣堀とするためには西地中海の玄関口である
ジブラルタルの奪取が是が非でも必要であり、これはルイ14世晩年の悲願でもあった
 第二に、インドを奪い返す試みが頓挫してしまったことだった
 既に、ケープタウン、マダガスカル、モーリシャス、セイロンはフランスの手中に
あった
 インドに至る経路上の要点は全てフランスの占領下にあった
 ところが、アメリカ独立戦争の和平交渉でケープタウンとセイロンをオランダに返還し、
結果、イギリスをインドから蹴り出そうとするフランスのタイムテーブルは
大幅に遅れることになった

 北アメリカに新興の独立国が生まれたことにより、英仏の世界戦略の重点はおのずと
東アジアに向けられることになった
 当時、東アジアに至る経路は二つあり、海路ケープタウンを廻るか、または地中海から
アラビアを経由するしかなかった
 ジブラルタルとケープタウン、セイロンはそれぞれヨーロッパからインドへ至る
海上経路上の要点であり、すなわち東洋の覇権を握るために絶対必要な要衝であった


そんだけ
395やることは一緒:01/10/28 21:19 ID:aCEWV814
 (第1次)フランス革命戦争におけるフランスの戦略目的もまさしくこれだった
 王政であれ共和制であれ、フランスの考えることは変わらなかった
 第一に、オランダを支配することによってケープタウンとセイロンを奪回して
インドへの海上ルートを管制すること、第二に、エジプトとシリアを押さえ、
地中海方面からインドへ至る経路の掌握、これがための地中海のイギリス勢力の駆逐、
換言すれば、アメリカ独立戦争でついに遂げられなかった戦争目的の完全なる達成に
あった

 この戦争の発端は、フランス革命に対するオーストリアとプロイセンの干渉であって、
英仏両国の直接対決ではなかった
 だが、フランス共和国はかつてのフランス王国と同じようにオランダに対して
露骨な圧力をかけたため、イギリスの主宰による対フランス同盟が結成されることになる

 1792年8月11日、プロイセン軍がフランス東北国境に集結、
16日には国境を突破した
 8月20日、国境の要衝ロンウィが包囲され3日後に降伏、
プロイセン軍は滑り込むように首都に迫り、9月2日にはパリ防衛の要衝ヴェルダンが
陥落した
 9月20日、フランス軍はケラーマンの指揮の下でヴァルミーの丘に陣地を占領し、
ついに両軍が激突した
 ここで奇跡が起こった
 訓練の不十分な徴募兵の集団であるフランス革命軍がヨーロッパでも指折りの
精鋭であるプロイセン軍を破って勝利を収めたのだった
 まさに革命精神の勝利だった、と言いたいところだがそうではなかった
 ヴァルミーの戦は、実を言えば単なる砲撃戦に過ぎなかった
 革命精神に燃える国民兵たちがやったことといえば、ケラーマンと一緒になって先に
帽子を引っかけた剣を振り回しながら「国民万歳!」と叫び続けたことぐらいで、
実際に砲を操作していたのは旧国王軍の将兵だった
  準備された陣地への正面攻撃を嫌ったプロイセン軍は突撃を行わず、
 砲撃は終日続いたが、夕刻になって戦場を豪雨が襲い、両軍はそのままの位置で寝た
 翌日、プロイセン軍は停戦協定を結んだ後、雨の中を整然と後退していった

 後に、この戦闘は国民徴募兵が職業軍人を打ち破った記念碑的な事件として喧伝された
 革命によって新生した国民による国民軍の誕生
 プロイセン軍中にいたゲーテは後に感動をもってこう記した
 「この日より世界史の新しい時代が始まる」
 残念ながら勘違いしていた


そんだけ
396名無し三等兵:01/10/29 00:51 ID:340MiL2L
最近、このスレの講義が楽しみでネットに繋いでおります。
なるほど・・・
そんだけ氏が、海のほうへと寄り道してくださった理由が、ようやく見えてきました。
なるほど・・・ 小生、全く目からいろんなものが落ちる次第であります。
そろそろ、大王に続きあの人物の足音がしてきましたね。
これからも楽しみにさせて頂きます。大感謝。
 追  ・・・ゲーテの勘違い・・・ たいへん楽しく、苦笑させて頂きました。
397プロパガンダ:01/10/29 21:54 ID:ZI3azzC9
 ヴァルミーでの勝利の後、戦局は一時フランスに好転した
 ヴァルミー戦から1792年10月末までの間に、ニース、サヴォア、ライン左岸は
フランス軍の手に落ち、11月6日にはジュマップでオーストリア軍を撃破して
ベルギーをも併合した
 フランス国民公会はこの勝利に狂喜した
 破綻した経済を併合による収奪で救済するという現実的利害のほかに、
ジロンド派の主張していた「国民の十字軍」の必然の帰結でもあったからだった
 この、宣伝戦から現実の侵略戦への転換に対するヨーロッパ諸国の回答が、
対フランス同盟の結成だった
 最初、イギリスは革命に好意的だった
 だが、フランスのベルギー併合とオランダへの圧迫、すなわちイギリス領インドの危機
が顕在化したことによって、両国の関係は瞬間的に発火点に達した
 国交断絶は既成事実となり、フランスは1793年2月1日にイギリスとフランスに
宣戦布告、3月にはスペイン、ローマ法王、ナポリ、トスカナ、ヴェネツィアと断交した
 戦争はかくして全面化し、革命フランスがたのみとするのは自力のみとなった
 しかも、国内は内乱に引き裂かれていた

 1792年末の時点で、熱狂的な義勇兵を掻き集めた「だけ」のフランス軍の兵力は
40万に達していたが、1793年2月には実数で23万を割っていた
 理由はいくつか考えられる
 不十分な訓練と補給、それによる戦闘での大量損耗、義勇兵の作戦時以外の帰宅を法律
で認めたこと(兵力の急速な膨張に兵站組織が追随できなかったことによる)等である
 2月20日の「三十万募兵」は、軍の量的な復活を狙ったものだったが、
期待通りにはいかなかった
 国民の支持が十分ではなく、特に都市部よりも真っ先に徴兵されるであろう
農村部の反抗は激しかった
 事実、この無理な募兵がヴァンデ反乱のきっかけとなった

 フランス軍のもう一つの組織的な欠陥は、異なった編制と軍紀をもつ正規軍と
義勇兵大隊の併存だった
 正規軍は大半が旧国王軍の出自であったため、プロフェッショナルな存在でありながら
反革命的とみなされていたため、士気は低下していた
 一方、義勇兵は熱病に冒されたかの如く士気だけは高かったが、
規律などあったものではなく、訓練は不十分で経験も浅く、戦闘では熱狂的に突撃し
一発でも反撃されると熱狂的に壊乱した
 実際、義勇兵は戦闘よりも略奪に熱心だった
 デユポワ・クランセはサン・ジェストの支持を得て軍制改革を試みた
 正規軍1個大隊と義勇兵2個大隊を編合して軽旅団を編成する「アマルガム」法である
 正規軍が経験と訓練を、義勇兵が革命的情熱と祖国愛を互いに与え合うだろう
というのがその理由だった
 この改革は、ジオンド派の反対を押し切って「三十万募兵」の直後に可決されたが、
春の戦闘再開には間に合わなかった


そんだけ
398そりゃもう雲霞の如く:01/10/29 21:56 ID:ZI3azzC9
 量的劣勢を押し切って1793年2月16日にオランダに進撃したフランス軍2万は、
3月18日、ネールヴィンデンでオーストリア軍に撃破されて退却した
 続いてベルギー、ライン左岸も失陥し、フランスは1792年に勝ち取った全てを
失った
 3月にはヴァンデで反乱が勃発し、鎮圧のために北部方面軍から正規軍2個師団を
抽出しなければならなかった
 ウィリアム3世が枕を濡らす程に渇望していたツーロンは、ヴァンテ反乱に際してイギリス、スペインの連合艦隊によって占領されている
 これは、実に最初にして最後の占領となった

 フランス革命政府は公安委員会が独裁権力を握り、緊急手段を次々にとって
国家の危急に対処しようとし、遂に8月23日、「国民総動員」が発布された
 理由は単純なものだった
 2500万というヨーロッパ最大の人的資源(イギリスとオーストリアを合わせた
よりも大きい)を使わない手はなかった
 「国民総動員」により、9月には既にフランス軍の兵力は実数で73万に達し、
数字は更に上昇を続けた(細部は前述なので割愛)

 ここまで兵力が膨れ上がれば勝つのは困難ではなかった
 訓練の不足を補うべく、必然的に新しい戦術が生まれた
 それは、射撃や戦闘展開を考えず、密集銃剣突撃に全てを賭ける戦術だった
 このような自殺的な戦術でも十分効果があった
 対する同盟軍の総兵力は各戦線を全て合わせても40万程度だったのだ

 事実、1793年の秋以降、フランス軍は同盟軍の侵攻を喰い止めることに成功する
 10月9日、リヨンが陥落して連邦主義者の鎮圧はほぼ決定的となり、
ヴァンデも年末にはほぼ鎮圧された
 イギリス軍に包囲されていたダンケルクはオンスコート(9月6〜8日)の勝利に
よって解放され、10月16日には北部方面軍がワッチェでオーストリア軍を撃退した
 10月には南部方面軍がサヴォアを占領、12月にはライン方面軍がランダウを解囲した
 イギリス軍の橋頭堡となっていたツーロンは12月19日に奪回された
 こうして、春以来の失地は年末には全て回復された


そんだけ
399名無し三等兵:01/10/29 23:34 ID:RKA/RbEX
前スレから読んでて恐ろしいことに気付いた。
この人、「軍事革命と日本の防衛」スレで2☆0氏や8☆式氏や6☆式氏なんかの
強力コテハンたちが引き合いに出してる近世近代戦史についてのコメントを
一つ一つ潰していってる。
何故彼らは反論しないんだろう?
相手にしてないのか?
それとも見てないだけか?
400海の人:01/10/30 00:25 ID:n1YDM5Ns
>397
>一発でも反撃されると熱狂的に壊乱した

 アメリカ独立戦争のミニットマン達を思い出して笑ってしまいました(笑)
401利害:01/10/30 21:06 ID:qzOn3Vth
 一方、同盟軍は分裂しかかっていた
 ポーランドで反乱が起こり、オーストリア軍に対してあまり好意的とは言えなかった
プロイセン軍が一部をポーランドとの国境に分派してしまった
 これに呼応してフランス軍21万が北部戦線全域にわたって攻勢に出た
 1794年5月18日にツールコワンで同盟軍を撃破、6月26日シャルルロワ占領、
6月26日にはフルーリュスで対仏大同盟軍司令官ザクセン・コーブルク公を捕虜にした
 フランス軍は夏までにフランドル地方を奪回、年末から翌年に欠けてオランダ全土を
蹂躙した
 南西のピレネーでもフランス軍がカタロニアに侵入し、アルプスではイタリア侵攻の
ための軍が集結していた
 大西洋でもヴィヤレ・ジョワイニーズ率いるフランス艦隊がウーサン沖でイギリス艦隊
を撃破し、アメリカ産の小麦を満載した輸送船団がブレストに入港した
 しかし、一連の輝かしい勝利にも関わらず、フランス軍の台所もまた苦しかった
 貧弱な兵站の問題は相変わらず解決されてはいなかったし、
戦闘では必ず大量の死傷者を記録し、不定期な俸給は脱走兵を増加させた
加えて国内はテロと粛清の応酬による政治的不安定と経済的混乱は破壊的だった
 1794年末には遂に兵の損耗数が徴兵数を上回り、以後、フランス軍の兵力は
下降線をたどることになる
 こうして、1794年末から双方に講和気運が動き出した
 1795年4月、フランスはバーセルでプロイセンと講和を結んだ
 オーストリアとロシアがポーランドを併合することを恐れていたプロイセンは、
自らも軍を東に進めてこれに参加するためにフランスとの平和を望んでいた
 5月にはオランダ、7月にはスペインが講和によって対フランス同盟から
脱落したばかりか、革命政府と攻守同盟を結ぶことを強要されたため、
北海から大西洋を経て地中海に至る一連の根拠地がフランスの手に落ちた
 インド洋の海上航路がフランスの掌握下に入ることを恐れたイギリスは、
オランダ領のケープタウンとセイロン島ツリンコマリ港を保障占領した
また、ミノルカ島のかわりにコルシカ島を確保し、かつスペインに備えて
リスボンの要塞工事に着手し、駐留艦隊を増援した
 6月末にはイギリスはキベロン湾にフランス王党派軍を上陸させたが、
これは失敗に終わった
 フランスも全面講和に失敗して依然として二強のイギリスとオーストリアを
敵に回しているばかりか、国内経済はますます逼迫していた


そんだけ
402祖国が亡ぼされたときに生まれた:01/10/30 21:07 ID:qzOn3Vth
 1796年、フランス軍はついに実数41万まで減少した
 補給はもう絶対と言ってもよいほど解決不可能だった
 この年、フランス軍はオーストリアに対して攻勢に出た
 イギリス本土への攻撃は不可能であるので、これは当然だった
 攻勢作戦には3個軍団が投入された
 ジュルダンの率いるサンブル・ムーズ軍、モローのライン・モーゼル軍、
そしてナポレオンのイタリア遠征軍
 作戦はライン・モーゼル軍がライン上流からドナウに進み、
サンブル・ムーズ軍と合流してウィーンに迫るというもので、
イタリア遠征軍は主攻撃正面の攻勢を支援すべくイタリア半島のオーストリア軍への
牽制と拘束に任じられていた
 しかし、27歳の司令官は支作戦に甘んじなかった
 彼はイタリアを主戦場に仕立てようと企て、困ったことにそれだけの才能があった
 3月に国境を進発したイタリア遠征軍は、4月にサヴォイを降し、5月にミラノ入城、
続いてマントヴァ要塞を囲み、数次にわたってオーストリアの増援軍と戦うことになる

 7月、スペインがイギリスに対して宣戦布告した
 このため、コルシカを根拠地とし、リヨン湾を行動してツーロンを封鎖していた
イギリス地中海艦隊はいきなり敵中に孤立してしまった
 イギリス艦隊は年末までに撤退を余儀なくされ、営々と築き上げてきた地中海の地盤を
一瞬で失った

 まさしくイギリスはついてなかった
 オランダを奪われたためにシェルト河、ライン河の良港をフランスに献上したばかりか、
スペインが敵に回ったために地中海から追い出され、
イタリアのオーストリア軍は粉砕され、支援していたヴァンデの反乱も
キベロン湾に上陸した反革命軍も鎮圧された
 そればかりではなかった
 イギリス地中海艦隊の撤退に乗じてフランス海軍ツーロン駐留艦隊は通商破壊戦を
開始し、ブレスト駐留艦隊はアイルランド沿岸に出没するようになった
 もう一つおまけに、ツーロン艦隊は、かつてイギリス軍がツーロン撤退の際に破壊を
怠ったフランス艦で編成されていた


そんだけ
403手本を示すのはこの私なのだ:01/10/31 21:08 ID:Xe32zKxf
 1796年2月、マントヴァ要塞が陥落した
 イタリア遠征軍は、法王領、ナポリをはじめイタリアの諸小国を降し、
ついでヴェネツィアを席巻してイタリア全土を掌握した
 これ程短期間にイタリアが陥落したのには理由があった
 過去1世紀にわたって、サヴィオやオーストリアの勢力を支えていた原動力は、
地中海のイギリス海上勢力だった
 ナポレオンがイタリアに殴り込んだ年は、まさしくイギリスがウィリアム3世以来
はじめて地中海から完全に放り出された年だった
 イギリス地中海艦隊の支援で何とかフランスに対抗できていたイタリアの
小都市国家群や、イタリアで作戦中のオーストリア軍の態勢が著しく悪化するのは
目に見えていた
 ナポレオンがイタリアで活動した時期は、まさにこのような時だった
 だからこそナポレオンはオーストリア軍に勝ち、イタリア諸邦を蹂躙することが出来た
 イタリアで作戦するフランス軍にとって、1796年ほど恵まれた年はなかった

 ライン戦線においてもフランス軍がオーストリア軍を圧迫していた
 しかし、ナポレオンは牽制という本来の任務を逸脱してライン・モーゼル軍と
サンブル・ムーズ軍を出し抜いてウィーンを衝くべく軍を返して北イタリアに移動した
 3月末、オーストリアはフランスと休戦、10月にはカンポフォルミオで講和条約を
結んだ
 フランスの敵はイギリス一国となり、対フランス同盟のかわりに対イギリス同盟が
形成されることになる

 だが、ヨーロッパ全てを敵に回してもイギリス海軍は屈服しなかった
 2月にセント・ヴィンセント岬沖でイギリス艦隊はフランス・スペイン艦隊を撃破、
10月にはカンパーダウン沖でオランダ主力艦隊が壊滅した
 イギリスを屈服させるには通商破壊戦によるかイギリス本土上陸しかない
 そして、経済が破綻しかかっていたフランスは迅速な勝利を望んでいた
 フランス軍5万がはイギリス本土上陸の機を窺って北方海岸に集結した

 1798年3月、前年本国に帰還していたナポレオンは政府の命を受けてオランダと
北フランスの海岸を視察し、イギリス本土上陸は不可能と報告した
 彼は直接侵攻を諦めるかわりに、インドへの経路を遮断すべくエジプト侵攻作戦を
提案した
 彼はプルタルコスの愛読者だったのだ


そんだけ
404獅子の如く海を渡る:01/10/31 21:09 ID:Xe32zKxf
 一方、イギリスはツーロンに集結しつつあるフランス艦隊の意図をはかりかねていた
 ナポリか、リスボンか、それとも長駆アイルランドを衝くのか
 この時のイギリス海軍の決断こそまさしく博打だった
 本国近海の防衛を放棄し、敵地地中海に強大な戦闘艦隊を派遣したのだった
 1798年5月、リスボンのイギリス大西洋艦隊はネルソン提督指揮する主力をもって
ツーロンを取り囲んだ
 その直前の5月19日、フランス艦隊はイギリス海軍の目をかすめて出港した
 イギリス艦隊はこれを追尾し、8月1日、アプキール湾でついにフランス艦隊を撃滅、
2年ぶりにイギリスは地中海を取り戻した

 後に、ナポレオンが軍を率いてエジプトに無事上陸できたのは全くの僥倖であり、
天佑であるとされているが、ナポレオン本人も周囲もこれが冒険だとは
夢にも思わなかったことは間違いない
それ程の危険を伴うのであれば、ナポレオンは数百人もの学者、技師、芸術家を
帯同しなかっただろう
 戦いというより探検と呼ぶほうが相応しいこの遠征は、ナポレオンが地中海を
フランスの釣り堀だと信じていた端的な証拠だった
 1796年に地中海から追い出されて以降、イギリスは翌年のセント・ヴィンセントと
カンパーダウンで勝利したものの、依然としてフランス軍の本土侵攻を恐れていた
 これは、ツーロンに集結したフランス艦隊の目的地の一つとして、
アイルランドを挙げていたことからも了解できる
 ナポレオンはただ多数の輸送船を随伴していく不利があったから
ネルソンの目をかすめて出港したに過ぎなかった
 1798年8月1日まで、地中海はまさしくフランスの海だったのだ

 イギリスの地中海復帰がどれほど恐るべき結果をもたらしたかは、
それまで孤立していたイギリスが第2次対フランス同盟を結成したことでも明らかだった
 この同盟には、フランスのエジプト遠征で脅かされたトルコとロシア、更にはナポリ、
オーストリア、ポルトガルその他中欧諸国の多くが参加した
 もうナポレオンがエジプトで何をやろうがどうでもよかった
 四千円の歴史はナポレオンと彼の兵士たちを見守ってくれていただろうが、
ヨーロッパでは誰も彼らを見ちゃいなかった


そんだけ
405バキャベッリ:01/10/31 21:59 ID:y31EAHHw
 兵士を置き去りにしてさっさと帰っちゃうんだもんなぁ〜、月刊プレイボーイ誌では
熱狂妄想と形容していたけれど。
406system:01/10/31 23:13 ID:txk3kAHJ
んー、このころにフランスの唯我独尊主義、中国主義は確立されていたんでしょうか。
407system:01/10/31 23:13 ID:txk3kAHJ
あ、あげちった、ごめんなさい(^^;
408名無し三等兵:01/11/01 12:38 ID:Wh5YV/Aw
>>405
熱狂情念だろ?、安いよ安いよぉ〜歴史エジプト産が時価4000円!。sage
409海の人:01/11/01 12:46 ID:7RfXwfA2
>404
> 四千円の歴史はナポレオンと彼の兵士たちを見守ってくれていただろうが、

 誤打鍵と判ってはいながら大笑いしてしまいました。
 確かに自ら歴史を作りつつある/作り出せる人間にとっては、歴史なんて
4千円で一山いくらな鑑賞の対象でしかないのかもしれませんなぁ。

 どうせ4千円出すなら塩野さんの「ローマ人の物語」買った方がいいと思う
けど:-p
410名無し三等兵:01/11/01 18:01 ID:tAhvJU1b
たかが誤字で大はしゃぎだな。
もうちっとレベルの高いレスつければ?
411408:01/11/01 20:15 ID:BAEeP+jM
悪意は有りません、スマソ。
412自分の場所を探す:01/11/01 22:10 ID:q6s1pcxk
 イギリスの地中海支配は、今度は西地中海だけでなく東地中海にまで及んだ
 イギリス艦隊はミノルカを奪回しマルタを封鎖した
 1799年、戦争はヨーロッパ全域で全面的に再開された
 2月にはオーストリア・ロシア連合軍がライン呼びイタリアで攻勢をとった
 カール大公指揮するオーストリア軍がライン方面から、
スヴォローフ指揮するロシア軍がイタリア方面からフランス軍に逐次圧迫をかけ、
8月にはジェノワ一帯を除くイタリア全土を陥れた
 しかし、8月末にオランダに上陸したイギリス・ロシア連合軍は敗退した
 スイスのマッセナ麾下のフランス軍は、北方のチューリヒ方面からコルサルコフの、
南方サンゴタルド峠からスヴォローフの指揮するロシア軍に挟撃されたが、
大胆な各個撃破によってこれを破り、ロシア軍の進撃を一時喰い止めた
 歴史家チュールはこれを評して次のように著した
 「チューリヒの勝利はマッセナの不朽の名誉である
 これ以上に危険な立場から我が国フランスを救った者は他に一人もいない」
 しかし、それにもかかわらずフランス軍は国境まで押し下げられ、
そこで戦線は膠着することになる

 時期が前後するが、ナポレオン率いるエジプト遠征軍(陸兵3万8000、
水兵1万6000)は、1798年6月13日にマルタ島占領、ここに兵3000を残し、
7月1日にはアレクサンドリアを占領、カイロに向けて進撃を開始した
 7月21日にピラミッドの戦でマムルーク騎兵を撃破、7月24日にカイロに入城
 8月1日、アブキール湾海戦の敗北によって遠征軍は完全に孤立したが、
ナポレオンはまだ諦めなかった
 1799年3月にシリアに侵攻、3月7日にヤッファのトルコ軍要塞を奪取し、
3月19日にはアッコン要塞を包囲した
 しかし、イギリス地中海艦隊から陸海の支援を受けたアッコンは2ヶ月間持ち堪え、
結局ナポレオンは攻囲を解いてカイロに後退した
 7月25日、アブキールに上陸したトルコ軍を撃破することはできたが、
この頃には遠征軍中にペストが蔓延し、将兵の士気は低下しつつあった

 捕虜交換の際にイギリス軍からフランスの新聞を見せられてイタリア失陥を知った
ナポレオンは、急遽帰国を決意した
 1799年8月23日、彼は幕僚と500の護衛兵、学者を連れて4隻の船で
アレクサンドリアを出港した
 後事を託されたクレベールは、ナポレオンの出港後はじめてそのことを知ることになる
 クレベールは翌年に暗殺され、かわってムヌーに率いられた遠征軍は、
イギリス・トルコ連合軍に圧迫され、1801年3月8日、
ついにイギリス軍がエジプトに上陸、3月19日にはアレクサンドリアを占領した
 9月1日、フランス軍は全面降伏し、エジプトから追い出されてフランスに
強制帰還を余儀なくされることになる
 ペストに罹患した病兵は全員見捨てられ、誰一人帰国できなかった

 一方、ナポレオンは10月9日にフレジェストに上陸、10月16日にパリに帰還した
 11月9日にはクーデターにより総裁政府を顛覆、軍を背景に新たに執政政府をつくり、
第一執政となって独裁権力を握った
 ナポレオンはただちにオーストリアとイギリスに講和を申し込んだが、
勿論これは両国の承知するところではなく、ナポレオンとてこれを予期した上での
ことだった


そんだけ
413私は権力を手に入れる:01/11/01 22:12 ID:q6s1pcxk
 結果論ながら、1799年のイギリスの失策は、前年の成果を拡大すべく地中海艦隊を
更に増強してこの方面の作戦を更に強化することを怠ったことだった
確かにイギリス地中海艦隊は地中海で圧倒的優位を取り戻したが、
 エジプトのフランス軍を孤立させ、そのシリア侵攻作戦を妨害し、マルタを封鎖したが、
地中海に絶対的な不動の地位を築くという仕事を完璧に遂行したとは言い難い
 これはナポレオンのフランス帰還を阻止できなかったことのみを指している訳ではない
 イギリス地中海艦隊は、マルタを奪取し、エーゲ海でロシア艦隊と協同して
ナポリを支援し、エジプトのフランス軍の存在すら消し去るだけの力を有しながら、
その詰めを先延ばしにしてしまった
 優勢を確保しただけで満足し、また本国近海を重視するあまり、
地中海艦隊の有力な戦闘艦艇を次々に抽出し、結果として好機を逸したのだった
 当時まだマハンの説くところの「制海権」なる概念は存在していなかった
 ヨーロッパ史上はじめてそれを実現する力を持つに至ったイギリス海軍でさえ、
それは例外ではなかった

 結局、ロシアと連合したオランダ侵攻は完全な失敗に終わり、
イギリスはどの方面でも決定的な戦果を得られないまま終わった
 地中海を重視しなかったツケはすぐ現れた
 マルタはいまだ陥落せず、にもかかわらず戦闘艦を次々と地中海から引き抜いていく
 1800年、イギリスに不信を抱くイタリア諸国をはじめ加盟国が次々に離反し、
第2次対フランス同盟は瓦解した
 フランスに敵対するのは、イギリス、オーストリア、バイエルンの三国のみとなった

 一方、執政ナポレオンはライン方面からバイエルンを経てウィーンを直撃する方針を
とろうとしたが、ライン方面の司令官モローの抵抗でこれを断念、
やむなくアルプスの険を越えて北イタリアに向かう作戦をとった
 5月8日、ナポレオン率いるフランス軍はパリを進発し、ジェノワで
マセナのイタリア方面軍を包囲するマセナ指揮下のオーストリア軍の裏をかいて、
吹雪の中アルプスのサン・ベルナール峠を越えて6月2日にミラノに入城、
解放者として迎えられた
 後方を遮断することを恐れたオーストリア軍は東に移動し、
6月14日にマレンゴで両軍は交戦に及んだ
 この戦闘の勝利でナポレオンは政治的に有利な立場を確保することになる
 ライン方面軍も12月3日にホーエンリンデンでオーストリア軍を撃破し、
ウィーンへ進撃を開始した


そんだけ
414成功の秘訣:01/11/02 20:04 ID:ltn8BzxO
 一方イギリスは、1800年9月、ほぼ2年にわたって封鎖していたマルタを陥れた
 こうしてジブラルタル、ミノルカ、マルタの三拠点を得て名実ともに地中海の支配者と
なったイギリスは、エジプトのフランス軍撃滅のために遠征軍を編成し、
主力は地中海経由、一部は喜望峰を廻り紅海経由でエジプトに送り込んだ
 地中海方面の状況が好転したのに反し、北海、バルチック海の雲行きは
怪しくなっていた
 12月に北欧諸国はデンマーク船に対するイギリスの拿捕事件に憤慨し、
武装中立同盟を結んだ
 その目的とするところは、イギリス船舶をバルチック海の自由貿易から
締め出すことにあった
 イギリス海軍にとってバルチック海の閉鎖は致命的だった
 当時の艦船建造の資材は全てスカンジナヴィア半島産の木材であったからだった
 しかも、中立国による海上での自由貿易の原則を認めることは、
イギリスの対フランス封鎖の価値を著しく減じることになる
 イギリスは武装中立同盟への対抗行動をとらざるを得なくなった

 1801年2月9日、ウィーンを脅かされたオーストリアはフランスとの間に
リュネヴィル平和条約を結んだ
 こうして、再びイギリスだけが取り残された
 しかも、イギリスは武装中立同盟諸国とも一色触発の危機にあった
 2月、イギリスは躊躇することなく大艦隊をバルチック海に送り込んだ
 武装中立同盟は、イギリスと海で争うことが何を意味するかを知ることになった
 イギリス艦隊は4月2日にコペンハーゲンでデンマーク艦隊を血祭りに上げ、
この一戦で武装中立同盟はあっという間に消滅した
 9月1日にはイギリスのエジプト遠征軍が2年間に及ぶフランスのエジプト占領に
終止符を打ち、戦争は急速に終結に向かって動き出した
 イギリスでは主戦派のピット内閣が倒れ、10月には両国は講和交渉を開始した


そんだけ
415対立は永久に続く:01/11/02 20:05 ID:ltn8BzxO
 ここまでこじれにこじれた戦争で、こうも慌ただしく講和が決まったのには
それなりの理由があった
 イギリスでは産業革命が進行中で、この革命によって生み出された大量の工業生産品の
市場には是非とも大陸が必要だった
 そのためにはイギリスととめどのない戦いをいつまでも続けていく訳にはいかなかった
 フランスを最終的に撃破するためには、海上の封鎖だけでは足りず、
大陸に強力な連合国を持たねばならない
 しかしオーストリアは脱落し、恐らく呆れるほどの年月をかけねばフランスを
打ち負かすことは出来なくなってしまった
 主戦を唱え続けたピットが退けられたのは、まさしくイギリスの台所事情だった

 平和への希望はフランスも切実だった
 イギリスを最終的に屈伏させるにはイギリス本土に対する侵攻しかなかったが、
彼我の海軍力を考えれば不可能だったし、通商破壊戦は幾らか望みはあるものの、
それもイギリス艦隊の前ではそれこそ気が狂うほどの時間が必要で、
しかもその成果は限られている
 そもそもフランスがヨーロッパでイギリスと戦ったのは、
インドを巡ってイギリス海軍とやり合っても勝ち目がなかったからだった
 インドへの陸上ルートを押さえるべく、幾らかの望みをかけて行われたエジプト遠征も、
約2年で完全な失敗に終わった
 イギリスがあまねく海上を制している限り、イギリスに勝利する手段は皆無だった
 それには何よりもフランス海軍を増強することだった
 そのためにフランスは時間を欲した
 いつまでもイギリスと戦っている限り、コペンハーゲンでデンマーク艦隊が
何もしないうちに殲滅されたように、艦隊の増強など思いも寄らなかった
 危険な艦隊、それが例えヨーロッパのどの国のものであろうと、
イギリス海軍はこれを破壊するのに躊躇しないだろうし、
事実それを行えるだけの力があった
 バルチック海、北海から地中海に至るまで、海上はイギリスの完全な支配下にあった

 双方の腹の中がこうだったから、平和が長続きする訳がなかった
 事実、「アミアンの平和」は僅か1年2ヶ月で潰れた
 「アミアンの平和」は、平和というより実質的には「休戦期間」だった
 フランスは艦隊の整備にもっと時間が欲しかっただろう
 しかし、イギリスの工業製品に対して大陸市場の開放を渋ったフランスに対し、
イギリスが長く我慢できなかったのも当然だった
 第2次フランス革命戦争(ナポレオン戦争)である


そんだけ
416イギリスへ行こう:01/11/03 20:15 ID:gf5V96j4
 言うまでもないことだが、ナポレオン戦争における初期の焦点は、
フランスのイギリス本土侵攻作戦だった
 それは1804年1月には行われる予定だった
 既にフランス陸軍15万、艦艇2300が海峡を押し渡るべく集結していた
 この(第1次)イギリス侵攻計画は、ブレスト艦隊でアイルランドに2万を上陸させ、
イギリス軍を牽制するとともに、ツーロン艦隊とロシュフォール艦隊で海峡を制圧し、
その掩護の下でブローニュに集結している主力をイングランド南岸に上陸させる
というものだった
 だが、第1次計画はフランス海軍の艦船準備が順調に進まず、
ツーロン艦隊の1月出撃予定は7月に延期、更にツーロン艦隊司令官トレヴィーユの
死去で再延期され、後任にヴィルヌーヴが着任した

 ここでナポレオンは計画を変更した
 アイルランド上陸を放棄し、ツーロン・ロシュフォール艦隊をアイルランド海域に進出
させてイギリス艦隊を牽制し、ブレスト艦隊で侵攻軍を掩護させるというものだった
たまたま1804年12月にスペインがフランス陣営に参加し、スペイン艦隊を作戦に
投入できるようになった
 しかし、準備に時間を浪費して時機を逸することを恐れたナポレオンは、
単純に牽制の方向をアイルランドではなく西インド諸島へ変更するだけにとどめた
 すなわち、ツーロン・ロシュフォール艦隊は西インド諸島のイギリス植民地を攻撃して
イギリス艦隊を牽制、機を見て帰航、スペインのフェロル港の被封鎖艦隊を救出、
ついで北進してロシュフォールに至り、海峡のイギリス艦隊を牽制する
 この間にブレスト艦隊はブーローニュの侵攻軍を掩護上陸させる

 この第2次計画に基づき、1805年1月、ツーロン・ロシュフォール艦隊は
イギリス艦隊の封鎖線を突破して西インド諸島へ向かった
 ところがツーロン艦隊だけは途中暴風雨によって損傷を受け、かつ地中海を封鎖する
ネルソン指揮下のイギリス地中海艦隊の追撃を恐れてツーロンに引き返してしまった

 そうこうするうちに、不ペイン艦隊の戦争準備が完了し、ツーロン艦隊の修理と
新造艦の艤装も進んでいたため、更に計画を変更、今度はフランス・スペイン連合艦隊で
イギリス本土侵攻作戦の必成を期することになる
 第3計画では、ツーロン艦隊はカディス艦隊を、ブレスト艦隊はフェロル艦隊を併せて
西インド諸島マルチニック島東の集合点に進出し、そこで先行のロシュフォール艦隊と
合流する
 イギリス艦隊をこの海域に牽制したならば、全艦隊で帰航、ブーローニュに至り、
侵攻軍を掩護してイギリス本土に上陸させる
 すなわち今度の計画では、フランス・スペインの全艦隊に、牽制と上陸掩護の二つの
任務を付与していた

 1805年3月30日、ツーロン艦隊はネルソンの目を掠めて出港、途中予定通り
スペインのカディス艦隊を併せ、5月14日にはマルチニック島東方の集合点に到着した
 ところがブレスト艦隊はイギリス艦隊の封鎖のために出港できず、
またしても計画は頓挫した
 そこでナポレオンは、西インド諸島に集結している艦隊を引き返させて
スペインのフェロル艦隊を併せ、更に北上してブレスト艦隊と合流した後に
ブーローニュに移動するべくヴィルヌーヴに命じた
 こうして西インド諸島のフランス・スペイン艦隊は6月9日に帰航の途につき、
7月22日にはフェロルに入港した


そんだけ
417レース:01/11/03 20:16 ID:gf5V96j4
 一方、前述だがこの時期のイギリス海軍の作戦目的は三つあった
 第一にフランスの本土侵攻の防止
 第二にこれがためのフランス及びその同盟国の艦隊根拠地の封鎖監視
 第三に通商破壊戦だったが、これらは戦争に負けないことが目的で、
これだけでは戦争に勝利することは出来ない
 そこで、イギリスは大陸に同盟国をつくることに外交努力を傾け、1805年4月に
ロシアと同盟し、ついでスウェーデンとオーストリアを加え、第3次対フランス同盟を
成立させた

 この同盟成立の時点で、フランスの2年にわたるイギリス侵攻作戦企図は一つの重大な
転機に立たされたといっても過言ではない
 換言すればイギリス外交の輝かしい勝利だった
 フランスのイギリス侵攻と、イギリスの対フランス同盟結成の競争に、
イギリスは辛くも勝利を収めた
 そもそもこのイギリス・ロシア同盟ですら、マルタの領有を巡る激しい駆け引きが
あって、決して坦々としたものではなかった
 しかしピットはこれを何とかまとめ上げて先手を取ったのだった

 フランスは対フランス同盟が成立した時点で戦争方針の大転換を迫られた
 海峡を越えた彼方に精鋭を送り込み得るのは大陸が安全な場合に限る
 いったん海を越えた大軍を緊急に大陸に呼び戻すということは、
そう容易なことではなかった
 イギリスの海上戦力をほぼ完璧に破壊したビーチヘッド沖海戦の時でさえ、
ルイ14世はイギリス本土侵攻を躊躇した
 ましてや今回のように、イギリス艦隊を某方面に牽制し、その隙に乗じて侵攻するが
如きの情けない計画では、海峡はすぐイギリス軍に奪い返される
 そうなればいよいよ侵攻軍は孤立することになる
 また、イギリスに軍を送った留守に、オーストリア・ロシア連合軍がフランス本国に侵攻する危険も無視できなかった
 例え侵攻軍がイギリスで勝利しても、本国が危うくなれば意味がなかった
 つまり、イギリス艦隊が健在である以上、侵攻軍の運命はかつてのエジプト遠征軍の
運命と同じだった
 身も蓋もなく言えば、ナポレオンのイギリス本土侵攻作戦はその前提からして
無理があったと言わざるを得ない
 例え6時間の空白があったとしても何の意味もないということを
ナポレオンは承知していた筈だった


そんだけ
418貴様は既に(以下略):01/11/04 00:47 ID:E8iXfHYF
 以後も戦争は続いた
 1805年のナポレオンは、大規模な機動作戦によるウルムの完勝、それに続く追撃戦、
そして最後にアウステルリッツの三帝会戦でロシア・オーストリア連合軍を大敗させ、
オーストリアを即時降伏させるという見事な戦績を示した
 ナポレオンが皇帝となって最初の華々しい勝利だった
 だが、それらの勝利は完全でも決定的でもなかった
 何故なら、ナポレオンは2年以上の時間を費やして準備したイギリス本土侵攻作戦を
中止したからだった
 この戦争の目的は、一にかかってイギリスとの決勝にあった
 そして、ナポレオンはそれを放棄せざるを得なかった
 極論すれば、ブーローニュの丘に集結していた大兵団を反転させた瞬間、
フランスは既に戦争に敗れていた
 例えウルムやアウステルリッツで歴史的な大勝利を収めても、この戦略上の失点、
すなわちイギリスを降伏させる最良の機会を永久に失ってしまったことを補えた訳では
なかった


そんだけ
419第1次フランス革命戦争:01/11/04 00:48 ID:E8iXfHYF
 ナポレオンが直接または間接に関与した主要な戦闘について下記に示す

17930217 ツーロン(マルグラーヴ要塞) 対イギリス ○
17951005 ヴァンデミエール 騎兵300砲40対パリ暴徒3万 ○
17960412 モントノット 4.2万対オーストリア・サルディニア9万 各個撃破・中央突破 ○
17960510 ロッジ 0.6万対オーストリア0.7万 中央突破 ○
17960802 カスチグリオン 3万対オーストリア4.8万 一翼包囲 ○
17960904 パッサノ 3万対オーストリア5.5万 背面攻撃 ○
17961115〜17 アルコール 3万対オーストリア5万 反転攻撃 ○
17970114 リヴォリ 2.5万対オーストリア3万 中央突破 ○
17970203 マントヴァ要塞攻囲(8ヶ月) 2.5万対4.3万 ○
17980721 ピラミッド 2.5万対マムルーク騎兵1万 方陣 ○
17990307 ヤッファ 2.5万対トルコ守備隊 ○
17990319〜0510 アッコン攻囲 2.5万対トルコ守備隊 ×
17990725 アブキール 2.5万対トルコ1.2万 両翼包囲 ○
18000614 マレンゴ 3万対オーストリア4.5万 後退・包囲攻撃 ○


そんだけ
18051016〜17 ウルム 12万対3万 迂回包囲 ○
18051202 アウステルリッツ 7.5万対オーストリア・ロシア8.5万 一翼誘致中央突破 ○
18061014 イエナ 6万対プロイセン6万 側面攻撃 ○
18061014 アウエルステット 3万対プロイセン5万 防勢から攻勢転移 勝
18070208 アイラウ 6.7万対ロシア・プロイセン7.6万 中央・両翼攻撃 △
18070614 フリードランド 8.7万対ロシア5万 一翼・中央攻撃 ○
18081201 ソモシェラ 10万対スペインゲリラ 中央突破 ○
18090419 アーベンス 7.5万対オーストリア3.5万 包囲 ○
18090422 エッグミュール 10万対オーストリア10万 背面奇襲、防勢から攻勢転移 ○
18090521〜22 アスペルン 10万対オーストリア10万 陣地攻撃 ×
18090705〜06 ワグラム 18万対オーストリア13.5万 一翼・中央攻撃 ○
18120816〜17 スモレンスク 14万対ロシア12万 迂回包囲 ○
18120905〜07 ボロジノ 13.1万対ロシア12.7万 陣地攻撃 ○
18130502 リュッツエン 8.5万対ロシア・プロイセン15万 陣地防御 ○
18130622 バウツェン 10万対ロシア・プロイセン11万 両翼・中央攻撃、両翼包囲後中央突破 ○
18130826〜27 ドレスデン 12万対ロシア・プロイセン15万 中央・右翼攻撃 ○
18130826 カッツバッハ 8万対プロイセン8万 被包囲 ×
18130829〜30 クルム 4万対ロシア・プロイセン 被包囲 ×
18131016〜19 ライプツィヒ 17万対プロイセン・ロシア等31万 内線防御 ×
18131030 ハナウ 4万対バイエルン5万 一翼攻撃 ○


そんだけ
18140129 ブリエンヌ 1.6万対プロイセン3.2万 背面攻撃 ○
18140201 ラ・ロティエール 4万対プロイセン・オーストリア12.5万 後退 ×
18140210 シャンポーベル 3万対プロイセン0.4万 側面攻撃 ○
18140211 モンミラーユ 1.5万対ロシア3万 挟撃 ○
18140214 ヴォーシャン 4万対プロイセン5万 正面攻撃 ○
18140218 モントロー 2万対オーストリア7万 側面攻撃 ○
18140307 クラオンヌ 2万対ロシア2.5万 背面攻撃 ○
18140309〜11 ラン 4万対プロイセン10万 被包囲 ×
18140313〜14 ランス 0.8万対ロシア1.5万 正面攻撃 ○
18140320 アルシー 3万対オーストリア10万 撤退 ×
18140326 サン・ヂジュー 1.2万対オーストリア1万 正面攻撃 ○
18140325〜26 フェール・シャンプ・ノアーズ 2万対プロイセン・ロシア10万 被包囲 ×
18140330 パリ 4万対連合軍10万以上 降伏
18150614 シャール・ロア 6万対プロイセン3万 正面攻撃 ○
18150616 リニー 6万対プロイセン5.8万 中央突破 ○
18150616 カートル・プラ 2万対イギリス3.6万 陣地攻撃 ×
18150618 ワーテルロー 7.2万対プロイセン・イギリス9.8万 陣地攻撃 ×

凡例
1 時期、名称、兵力比、フランス軍の基本的な戦術行動、勝敗の順に記述
2 17990319〜0510は1799年3月19日から5月10日までを意味する
3 兵力比は複数の資料で異なるため、一例として記述
4 ○:勝利 △:引分 ×:敗北
  大勝、辛勝等は基準が曖昧なため敢えて区別しなかった
5 海戦については割愛


そんだけ
 「余は64もの戦闘を戦ったが、最初に知っていた以上のことを何一つ学ばなかった」
とナポレオンは後にセント・ヘレナで述懐した
 確かにナポレオンの戦術には一貫した特徴が見られる
 戦力集中、突破、各個撃破である
 これらの要件を達成できなかったとき、すなわち準備した敵を正面から攻撃した場合、
例えナポレオン率いる「大陸軍」でさえ勝利するためには多くの出血を覚悟しなければ
ならなかった
 だが、これらは決してナポレオンの独創ではなかった

 これらの新戦術は、かつてのマウリッツの斉射戦術、フリードリヒ2世の斜行戦術と
同様、決して革新的なものではなく、むしろ従来の伝統的な戦術に新たなパターンを
追加しただけだった
 既にヨーロッパの多くの軍事理論家たちによって、理論としては完成していた
 ナポレオンはこれを研究し尽くし、実践に移したに過ぎなかった
 彼は言う「実施こそ全てだ」
 彼を軍事的天才と呼ぶならば、まさしくこの戦術を数学的正確さをもって実施し得た
ところにあった

 例えば、ナポレオンの軍勢の驚異的な行軍速度を支えていたのは、兵士の健脚や
随伴する兵站段列の削減のみにあった訳ではない
 それは主に、18世紀末に完成の域に達した軍用地図と、それに基づいて整備された
高度な軍事道路網があったからに他ならない
 これらの条件が存在していたからこそ、ナポレオンは兵士に乾物のみを食糧として
与えてその歩みを早めさせることができたのだった

 ただし、ナポレオンのみがヨーロッパの他の国々に先駆けてこの新しい戦術を
行い得たのは、彼のみの功績ではなかった
 それは、この兵士の負担に大きく依存する新しい戦術に耐え得る高度な戦術遂行能力を
発揮できる軍隊が他にいなかったためだった
 ただフランス軍のみはそれが可能だった
 1792年以来絶え間なく戦い抜いてきたフランス軍はまさしく古参兵の集団だった
 前述したように、例え出自が熱狂的なだけで訓練も補給も不十分な徴募兵だろうが、
凄まじい大量損耗を引き起こす当時の戦争を生き抜いてきた以上、彼が高度な軍事的経験
と能力を備えていることは間違いなかった
 フランスのヨーロッパ随一の人的資源がこれを可能にした
 1792〜1815年にフランス軍の戦死者は100万(うち75パーセントは
1805年以降)に及んだが、それでも1790〜1816年のフランスの人口増加率は、
1740〜1790年のそれよりも高い数字を示していたのだ

 そして、この精鋭があればこそナポレオンは高度を戦術を遂行することができた
 ナポレオンは軍を率いたが、少なくとも軍を育てた訳ではなかった
 1797年にナポレオンがイタリアに殴り込んだとき、彼の率いる軍勢は
既に鍛え抜かれた精兵だったのだ
 経験を積んだ古参兵の集団、それを裏付ける圧倒的な量的優勢こそがナポレオンの
戦術的な勝利の最大の要因だった

 もっとも、この精鋭の枯渇をナポレオンの敗因ととらえることはできない
 戦争が長く続けば損耗によって兵の練度が下がるのは何もフランスに限った話では
なく、フランスの敵国ですら事情は同じだからだ


そんだけ
423十万の屍を乗り越えて:01/11/04 16:43 ID:ThpjQSO4
 余りに有名で引用すら恥ずかしいが、クラウゼヴィッツはその著書「戦争論」の中で、
戦略の要訣を「兵力の集中的掌握使用によって敵の主力を殲滅し、物質的にも精神的にも、
敵の戦闘力を徹底的に撲滅した上で、勝者はその欲する条件を敗者に承認させ、
戦争を行った政治目的を達成するまで決して追及の手を緩めず、場合によっては
敵国の全国土を占領しても、勝利の完成に邁進しなければならぬ」と説いた
 「戦争論」の帰結するところは征服的な殲滅戦略にあった
 「戦争論」が戦争理論として後世に有名なのもそのためだが、クラウゼヴィッツをして
「戦争論」を著せしめた動機こそ、彼自身が従軍したナポレオン戦争の経験に他ならない

 ナポレオンはフランス革命によって生まれた士気の高い国民的軍隊を率いる
不世出の名将として登場し、消極戦略で戦う旧時代の軍隊のもつあらゆる束縛と制約から
解放された新時代の戦略として殲滅戦略を考案し見事に実行したのだ、
と言わるようになる
 殲滅戦略を決戦主義、総力戦、無制限戦争等の言葉に言い換えてもいいだろう
 言わんとすることは一点、ナポレオンによって殲滅戦略の時代が始まったのだ、と

 違う

 旧時代の軍隊は何も好きこのんで消極戦略を戦った訳ではなかった
 単純に殲滅戦略を実行するに足る戦争資源がなかったから、巧妙に忍耐強く消耗戦を
戦い抜いていたのだ
 フランス国民軍の誕生は、16世紀のフランドル方面軍以来規模の増加の一途を辿る
軍隊の弾き出した解答の一つに他ならない
 そうして空前の戦力集中を達成したフランス陸軍は、ヨーロッパ史上はじめて
殲滅戦略を行うことのできるに足るだけの資格を手に入れたのだ
 革命で国家意識に目覚めた士気の高い国民兵でなければならない理由はどこにもない
 国民徴兵の最大にして最強の利点は、安く、手早く、大量に徴募できるという点に
あった
 士気はあくまで国民兵という兵士を構成する要素の一つに過ぎず、
決して決定的なものでもなかった
 換言すれば、大量に手早く揃えられればそれが自国民だろうが外国人だろうが
ナポレオンは拘らなかった筈である

 ナポレオンはマルモンへの書簡で次のように語っている
 「人々は余をもって他人より天才ありと言うが、余は敵と戦わんがため、
 余の兵力が十分なりと信じたことは一度もない
  余は余の手元に集め得る凡るものを呼び集めたのだ」
 しかし、ナポレオンは次のようにも語っている
 「余は7割以上の成功の見込みがなければ戦わなかった」
 これ程端的にナポレオンが恵まれていたことを示す言葉はない
 七年戦争を徹底した消耗戦略で戦い抜いたフリードリヒが同じような原則を
守ろうとしたならば、弱小なプロイセンが戦争する機会は恐らく一度もなかった


そんだけ
424法典編纂者:01/11/04 16:44 ID:ThpjQSO4
 クラウゼヴィッツは、自ら戦争に従事しつつ、その戦争について学び、ナポレオン戦争
の画期的意義を理解し、この時代の戦争理論を究め、更に各時代の特殊性に鑑みた
戦争理論を通じて普遍的なものを明らかにする戦争の哲学的原則を確立しようとした
 彼は戦争についての歴史的概観を試みた後、この点について次のように論じている
 「如何なる時代も、それぞれ独特の戦争理論をもっていた訳である
 例え早晩その理論を哲学的原則に照らして修正する必要が生じるにしても、
 各時代がそれぞれ特殊な理論を有していたということは認められねばならない」
 「要するに如何なる時代の出来事も、その時代に鑑みて判断されねばならないのである」
 「このように、それぞれの時代の戦争指導がいずれも、その時代の国家及び軍の特殊な
 事情によって制約されているにせよ、しかもかかる戦争指導とても幾許かの普遍的な
 もの、或いはむしろ究めて普遍的なものを含んでいるに違いない
  そして戦争理論が何よりもまず論究の対象とするところのものは、
 まさにこの普遍的なものに外ならないのである」

 しかしながら「戦争論」はその前提が殲滅戦略にある以上、戦争の普遍的な哲学的考察
をなし得たものとは言い難い
 この本はあくまでも殲滅戦略を行うに足りるだけの資源を備え、
それが可能な集中的戦力を達成しうる戦力を有する国を対象としたものであり、
あまねく全ての戦争を対象としている訳ではなかった
 クラウゼヴィッツが戦った戦争は、少なくとも規模の点において、ヨーロッパ史上
例を見ない全く別の次元の戦争だったのだ

 勿論、このような意見は言いがかりも甚だしいかもしれない
広く知られているように「戦争論」は未完の戦争理論である
 彼自身も戦乱の時代の軍人として天寿を全うできるとは考えていなかった
 彼の死後、夫人によって発見された「戦争論」の原稿を密封した包みには、
次のような文が付記されていた
 「この著作が私の死によって中断された場合には、この原稿は確固たる形態を備えるに
 至らない概念の集積とのみ呼ばれるべきに留まる
  それは果てしなき誤りの概念に陥いる懼れを含んでいる」

 「戦争論」をドイツ哲学の書として考えるなららば、ヘーゲルがイデアを論じて国家を説き、マルクスが生産を通じて階級を説いているように、クラウゼヴィッツは暴力を通じて戦争を説いたと言える
 その対象こそ違っているが、いずれも論理の必然性を取り扱うにあたって、特に顕著に共通している点は、極端性があることである
 ヘーゲルは極端な保守主義者であり、マルクスは極端な革命主義者だった
 クラウゼヴィッツも極端な戦争主義者だった
 ヘーゲルは歴史により、マルクスは経済により、クラウゼヴィッツは戦争により、
いずれも後世に極端な主義を残したと言えるかもしれない


そんだけ
 結局、ナポレオンは殲滅戦略によって勝利し、(一部で言われるように)スペインと
ロシアの巧妙な消耗戦略によって敗北した訳ではなかった
 勿論、再建されたプロイセン軍に敗れ去った訳でもなかった
 確かに、ライプツィヒにおける同盟軍の勝利は、プロイセン軍によるところは
大きかった
 当時のイギリスの論説には次のように書かれている
 「ナポレオンに反抗した最初の例をドイツに与えたのは誰か?
  プロイセンである?
  リュッツェンとバウツェンの戦闘に勝ったのは誰か?
  プロイセンである
  ハイナウの勝利者は誰か?
  プロイセンである
  グローズベーレンにおいて、カッツバッハとデネウィッツにおいて、クルムにおいて、
 ワンテンブルグにおいて、またメッケルンとライプツィヒにおいて勝った者は誰か?
  プロイセンである」

 しかしながら、実際のところフランスが敗北したのは、クラウゼヴィッツも指摘する
ように、フランスの圧倒的な兵力優勢が崩壊したことにあった
 「以前には野猪さながらに敵を攻撃したナポレオンにしても、兵力関係が不利に転じた
1813年の8月乃至9月には、恰も籠の中の鳥のように右往左往するだけで、
同盟軍のうち一軍をも徹底的に撃破することが出来なかった
 そして10月日向野へ威力が不均衡の極に達すると、パルテ、エステル及びプライセの
三河に挟まれたライプチヒ付近の窮屈な地域に陣して、恰も部屋の隅で背を壁にもたせて
いるかのような体勢で同盟軍を待ち受けたのである」
 自国の防備を固め、敵国の要衝を包囲し、なおかつ更に空前の規模の戦力を
投入することの出来る程巨大なフランス陸軍は、単純にそれを上回る規模の軍隊を
敵に回して敗北したに過ぎなかったのだ


そんだけ
 これらヨーロッパの陸海軍の爆発的な膨張によって新たな関門が立ちはだかった
 ヨーロッパ諸国はその関門を突破するのに数十年を要した
 これ程の規模の地上兵力と海上兵力を編成できたのは、経済的な財源、政治的手段、
技術力を徹底的に開発したからだった
 ところが、これらの総合的な資源開発が限界に達したしまった
 フランス「大陸軍」のイタリア征服とドイツ征服に貢献した組織と物資補給システムも、
スペインとロシアに投入されたこれより大きな兵力ではうまくいかなかった
 ナポレオン好みの規模より更に大規模な兵力が有効な作戦展開を実行するとなれば、
電信、鉄道、後装式小銃が必要だった
 あるいはネルソン規模の戦列艦の優位に戦場で挑戦するには、鉄で被覆された
装甲蒸気艦が必要だった
 ヨーロッパがこれらを手に入れたということは、ヨーロッパの支配を免れてきた民族を
屈服させる手段を手に入れいたことを意味した

 1841年2月、装甲蒸気艦「ネメシス」は、第1次アヘン戦争中の広東に向かう途中、
旋回砲座に搭載された32ポンド砲2門で、軍用ジャンク9隻、要塞5基、
陸軍駐屯地2カ所、岸壁の砲台1基をたった1日で破壊した
 1853年、ロシアの装甲艦はシノプでトルコ艦隊を破壊し、これがヨーロッパの
オスマン・トルコ進出の足がかりになった
 1863年、イギリス艦隊は台風をおして鹿児島の町を包囲し、全ての船と町の大半を
破壊した
 同時にフランス、オランダ、アメリカ、イギリス各国の連合艦隊は下関海峡の近代的な
砲列を封じ込めた
 かくして日本近海から西洋の艦船を締め出そうとする徳川幕府の遅すぎた努力も
大失敗に終わった
 ちょうど同じ頃のアメリカの平原とアフリカの内陸部では、現地の部族や民族の抵抗が、
白人の速射火器によって瞬く間に無惨に押し潰されていた

 ヨーロッパはいよいよ世界の頂点に立つことになった
 ヨーロッパ諸国は、地上と海上で互いに果てしない血みどろの戦いに明け暮れたことの
利子を最後に受け取ることができた
 ヨーロッパは、史上最初の惑星的規模の覇権をまんまと手中に収めたのだ

 ジョミニは次のように語った
 「世にも幸福なのは、最初の衝突で有り余る程の榴弾砲、1分間に30発の発射速度を
備えた多数の後装銃、人の高さに反跳して的を外さぬ多数の火砲、そして最後に
素晴らしく改良された噴進砲を所有している人たちである
 世界平和の伝道と鉄道の独占支配とに、それらは何と美しい道具立てであることか」


そんだけ
427426:01/11/04 17:00 ID:ThpjQSO4
終わります
延々と脱線と寄り道と迂回を繰り返した挙げ句にこのオチか!と思われるでしょうが
お許し下さい
本来ならこの2割程度で収めるつもりでしたが、あれもこれもと思ううちに
冗長な駄文を重ねてしまいました

クラウゼヴィッツに関する部分は、スレの名前にもあるんで一応触れておかねばと
思って書きました
あくまでも私見であり、しかも戦争論はまだまだ勉強中の段階などで、そのお積もりで

それでは度々ながら1氏はじめ読んでくださった方々に御礼申し上げます
どうも有り難う御座いました

朋友よ、見てくれているだろうか?
約束は果たした


そんだけ
428_:01/11/04 19:18 ID:Yf54jK1b
そんだけ様、お疲れ様でした。素晴らしい講義です。
火力と軍隊の発展を順序だって知ることが出来て嬉しいっす。

ところでナポレオン戦争編では具体的な戦争描写を
わざと避けていたと思うのですが、もしよろしければ
有名会戦(三帝会戦とか)の戦闘推移を描いて欲しいなぁ
なんて、ちと思いました。よろしければですが・・・・・
429象太郎:01/11/04 19:30 ID:V9/U2XjM
堪能させていただきました
再三の無理にお答えいただきありがとう御座いましたm(__)m
此方の方もサボっている某スレにそろそろ決着をつけようと思います
本当にありがとう、朋友よ!!
430426:01/11/04 21:21 ID:z8MnaPG9
>>428
ご指摘の通り敢えて避けました
私は前装滑腔銃の火器戦術は16世紀までにほぼ完成の域に
達したというのが私の認識です
それ故、各戦闘を書いても通り一遍の表現にしかならず、
冗長な描写がだらだらと続いてしまうと思ったからです
また、私は1805年の時点で既に戦争の帰趨は決していたと考えているため、
その後の戦争の経過を書いてもこれまた冗長になってしまうのではないかと
思い、割愛させていただきました

それに、ナポレオンを中心とする戦史は数多くありますので、
ナポレオン以外に焦点を当てようとも考えていました
もっとも、これは成功しませんでしたが・・・・

というわけでご勘弁を

>>429
いえいえ、こちらこそ貴官が読んでくれていると信じてここまでやってこれました
貴官の奮闘を祈念いたします
朋友よ
431名無しROM太郎:01/11/05 00:23 ID:lO6DV9Yh
ありがとうございました。
前スレは見ていませんが
本当に勉強になりました。
432バキャベッリ:01/11/05 00:46 ID:GKS5DgCc
 どうもお疲れさまでした、ここ1ヶ月の書き込みは量、密度ともに大変なご苦労だった事と思います。
特に海戦の発達とイギリス・フランスの基本戦略との繋がり、そこから現在にいたるキリスト教圏の世界
支配へ至る下りは圧巻でした。
433虚弱会社員:01/11/05 02:11 ID:vMc7sDKh
見ていますとも・・・・ >そんだけ氏

私めを朋友などとお呼びいただけるとは勿体ない…
このスレッドの講義を見るのが楽しみで、ネットに繋ぐ――そんな日々が終わってしまう
と思うと、感無量でもあり少し寂しくもあります。
…ともあれ、本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。

>バキャベッリ氏   スレ立て、そしてご案内、感謝いたします。
            そしてそのほかの皆様、軍事板の同志にも感謝を。

・・・・祝砲、二十一発!!! 総員、抜刀! 回廊儀礼!! ウラー!
434system:01/11/05 15:20 ID:i5qw672v
ありがとうございました。私が知らない、そして関心を持っていなかった時代の話ですが、
こうして読ませていただくと、学ぶべきものが多くあるように思います。逸話や単体の兵器
には興味がないのですが、軍事体系として見せていただくと、また、違う興味が湧いて
きました。良い勉強をさせていただきました。重ねて、有り難うございました。
435_:01/11/05 18:49 ID:1CKzDa3i
第一次世界大戦の欧州での塹壕戦は
ナポレオン戦争の物量作戦+砲撃戦に
毛が生えた程度の発展しかないのだろうか。
436かおる:01/11/06 00:19 ID:5n5HXREa
ご苦労様でした。私としては、戦争論の勉強よりも孫子兵法の実践をお薦めする。
近代戦は戦争論にのっとって行なわれたと思われがちだが、アジアの名将は、孫子
に従い西洋の力による蹂躙を跳ね除けたのです。ともすれば、我々も西洋的な情報
分析に終始しがちであり、不毛な枝葉の論争に無駄に力を投入したりする物ですが、
孫子は力という言葉をほとんど使わないのです。
このログは、大事な教科書として保存させていただきます。
437名無し三等兵:01/11/06 00:43 ID:uEu5/oFV
>>436
そんだけ氏は「戦争論は正しくない、少なくとも普遍的ではない」って言ってるんだよ。
この板はコテハンにも戦争論マンセーやナポレオンマンセーが多いから、
ソフトに表現してるけれども。
マキャベリについてもそうだったけど、多分この人は軍事思想にこだわらず、
事実だけをを淡々と組み立てて帰納的に戦史をとらえてるんだと思う。

それに、マキャベリやクラウゼヴィッツやジョミニを読んでる人間が
孫子を読んでないと思うか?
きっと勉強中ってのも謙遜だぞ。
438437:01/11/06 00:46 ID:uEu5/oFV
× ソフトに表現してるけれども。
○ ソフトに表現しているんだろうけれども。

訂正訂正、他人の思考を断定しちゃいけないよな。すまん。

そんなことより、孫子兵法の講義を熱烈希望。
439かおる:01/11/06 16:41 ID:1l9KlVN+
>それに、マキャベリやクラウゼヴィッツやジョミニを読んでる人間が
 孫子を読んでないと思うか?
 勿論その通りでしょう。様々な理論を勉強し様々な情報にふれ、自分の考え方
において判断を下す事が大切であると思います。その点はそんだけ氏のコラムを
読んでも、そこにさりげなく織り込まれた彼の主張を抽出し、自らの考え方や世
間にある様々な考え方と比較すると言う意味合いにおいても、その通りでしょう。
 しかし、わたしは、有無を言わさぬ情報量の投入と、エネルギッシュな突進に
戦争論のその物を感じたので、孫子を薦めた次第です。
 いかなる論理と言えど、実践をともない効力を実証する事に意味合いがあり、
特に戦争に関する論理などは、そうです。理論を肌身で感じ、実際の生き方に役
立てることが、学生学者の到達点であると思うのです。
440名無し三等兵:01/11/06 17:39 ID:xATrdXSB
あの、私
クラウゼヴィッツを読破するのに四苦八苦してるんですけど・・・
441名無し三等兵:01/11/06 19:05 ID:Xi8rcZXv
何だ、結局「文章量が多過ぎる」って文句言ってるだけか・・・・
442名無し三等兵:01/11/06 19:50 ID:kFhJIsFI
ああ、何事も終わりはあるものか(詠嘆)。印刷して読み直します。
私はクラウゼヴィッツと並行読みしていました。そのせいでおもしろく
感じることも多くありました。

そんだけ氏に感謝します。
443バキャベッリ:01/11/06 21:23 ID:m4X7uzjS
 とうとう表示不能が近づいて参りました、孫子の兵法をお望みの方は、
消えない内に別スレの作成をお奨めします。出来れば早めに移転の書き込み
をした方が宜しいかと。
444名無し三等兵:01/11/06 21:58 ID:8uPPDiz5
容量オーバーは十分承知で一言『そんだけ』氏に感謝申し上げます。

今回のスレで歴史と軍事が確実にリンクさせる事が出来大収穫でした。

ぜひ次回があれば要塞編で日露戦争の旅順、それを踏まえておきながらの
WW1の消耗戦、マジノライン、シンガの小マジノ等の近代要塞
また、航空機の台頭、電撃戦、機動部隊、機甲師団等、ご教授頂きたい
事が多々あります。

どうもありがとうございました。
445かおる:01/11/06 23:53 ID:2Tv0VeV4
>441
それは、そんだけ氏への侮辱である。私は、文章の表現は、その人の個性であると
思っているが、それをそのまま理解するのには難しい場合もあるとも思っている。
表現方法に批判を加えたものではない。
446名無し三等兵:01/11/09 23:58 ID:eRReSArU
山を造る >>46
武装都市 >>47
君の町は奪われることになっている >>48
襲撃者 >>49
あの壁を越えろ >>50
矢を放つ鉄の瓶 >>51
その巨大な道具 >>52
他の砲より大きな砲 >>53
砲と火薬樽と弾丸 >>54
魔女には降伏しない >>68
クルヴェリン >>59
ガスコーニュの背信者 >>60
丸太壁 >>61
破壊する、完全に破壊する >>62
我らの砲は何をしていたのか >>63
アッラーの確かな剣 >>69
コックさん、おかわり >>72
悪魔の業 >>74
おい、雨降ってきたぞ >>75
都市 >>91
林檎 >>97
荷車 >>102
長い槍 >>103
槍兵として死ぬこと >>106
要塞王国 >>107
最後のレコンキスタ >>108
小火器への道 >>112
捕虜は作るな >>113
神様お願い、あの人たちを皆殺しにして >>114
フランスの攻城砲 >>115
447インデックス2:01/11/10 00:00 ID:9nCVABwY
火薬の世紀 >>116
串刺し >>117
鉄球 >>118
土を掘るということ >>119
壁を壊すということ >>120
滑腔火器の時代 >>124
二番目の壁 >>126
算数の問題 >>127
大躍進 >>132
暗器 >>133
ガン・マン >>134
半回転 >>136
槍が折れた >>137
国を廃墟に変え、墓を市街で一杯にするために >>138
長弓と砲 >>139
槍と要塞 >>140
アルケブス >>141
ホイールロック・ピストル >>142
防御防御更に防御 >>143
兵隊さんがいっぱい >>144
兵士という職業 >>145
リバイアサン >>146
銃の戦場 >>183
沈黙公の息子 >>184
回れ右戦法 >>185
百獣の王 >>186
マスケット・ローラ >>187
あの軍旗を奪え >>188
戦争実業家 >>189
歩け歩け >>197
448インデックス3:01/11/10 00:01 ID:9nCVABwY
くろがねの要塞 >>198
照準がずれてます、修正できません >>199
石塔の森 >>200
無駄無駄無駄ァ! >>201
殺害し略奪し焼き尽くす、やりたい放題 >>202
敵の胃袋を攻撃せよ >>203
皮の焦げる匂いがします >>204
首を落とさないと死なない >>205
モグラの戦争 >>207
ヨーロッパの極東 >>208
お日様の時代 >>209
何事も官僚主義的に >>213
私が指揮官 >>214
お勉強の時間 >>215
もっと兵隊を >>216
兵隊を入れる箱 >>217
ダーティ・ビジネス >>218
廃墟 >>219
戦争技師 >>220
長い目で見てやって下さい >>221
頭数を揃える >>223
官品一族 >>224
軍隊に入って外国に行こう >>225
死刑囚 >>226
忠良な市民兵 >>227
報酬目当ての傭兵 >>228
経験者優遇 >>230
歴戦 >>231
最後の切り札 >>232
獅子王の兵隊になるということ >>233
449インデックス4:01/11/10 00:01 ID:9nCVABwY
獅子王に兵隊をとられるということ >>234
誰も帰ってこなかった >>235
逃げるにはいい日 >>236
敵前逃亡は許しません >>237
兵隊になって本当に良かった >>238
浪人者とは甘く見たな(ニヤリ >>239
お金がない >>240
ローン・レンジャー >>241
王様、ツケがたまってます >>242
低い土地の金庫番たち >>243
つけ払いの戦争 >>244
おさむらいを雇うだ >>247
返品不可 >>248
余っていたのは(自称)優秀な将軍だけ >>249
体を服に合わせる >>250
お揃いの服を着て >>251
病院に行こう >>252
隊長、食い物がありません! >>254
おやつは1週間分まで >>255
ハングリー・ロード >>256
暖かい夜 >>257
海の世紀 >>258
Ultima ratio regis >>262
兵隊王 >>265
これより行進間の動作を演練する >>266
弾は的を選ばない >>267
敵に回しても味方にしても厄介 >>269
君たちは脇役です >>270
ひたすら前進せよ >>271
三人娘同盟 >>272
450インデックス5:01/11/10 00:02 ID:9nCVABwY
奇襲 >>273
蹉跌 >>274
浸食 >>275
恐慌 >>276
火消し >>277
西東西 >>278
被害妄想 >>279
壊滅 >>280
延命処置 >>281
札束と羊羹 >>284
夜討 >>285
沼地 >>287
堅城 >>288
終幕 >>289
速射兵器 >>290
モノの戦争 >>291
節約が趣味です >>292
伝統芸能 >>296
夜盗の戦術 >>297
手札 >>298
いい仕事しました >>299
頭数だけ >>300
レジオン・ドヌール >>301
ヨーロッパの釣り堀 >>303
極東の戦艦 >>305
パイレーツ >>306
舟筒 >>307
奴隷船 >>308
初陣 >>309
このフネでは奴らに勝てん・・・・ >>310
451インデックス6:01/11/10 00:04 ID:9nCVABwY
もっと大きな砲を >>311
大戦艦たちの系譜 >>312
ぼろ舟 >>314
最強と無敵は違う >>315
ブロードサイド >>316
砲甲板 >>318
下は海、周りに砲弾 >>319
早撃ちライミー >>320
威厳溢れる我らが海軍 >>322
大っきいお船 >>323
一列に並んで >>324
火より生まれ火を喰らい火を放つ小さな竜 >>327
大艦巨砲 >>328
大きくなったり小さくなったり >>334
八つの頭を殺しても真ん中の頭は死なない
牛のように草を貪り、骨は青銅、肋骨は鉄の如く >>343
嵐の夜に雷と共に空を飛ぶ狼の群 >>344
素人同然 >>345
狼はモーと鳴く >>346
財産を作るためマダガスカルまで行く >>347
許可証を発行します >>348
火を吹く亀 >>349
倭城の下で >>350
赤い旅券 >>351
チャレンジャー >>352
睨むだけで敵を殺す >>353
お前のものは俺のもの >>358
厄災の予兆または警告 >>359
黄金海岸 >>360
天翔ける三つ首の蛇 >>363
夢と希望に溢れた大陸へ >>364
レネゲイド >>365
マン・ハンティング >>366
幾千年の年月を >>369
支踏 >>370
考える者ではなく、馬を駆る者 >>376
大きな大砲と小さな大砲、どちらか一つを差し上げましょう >>377
いい鉄使ってます >>378
割物注意 >>379
剽客 >>380
452インデックス7:01/11/10 00:04 ID:9nCVABwY
苦情、返品には応じられません >>381
死んだ指がマダカスカルを >>382
行商人 >>383
いつでもどこでも誰とでも >>384
国の仇をインドで >>385
シバーヒー >>386
全て金の問題です >>387
全て金で解決します >>388
抵抗 >>392
シー・パワー >>393
カレーを食べにインドまで >>394
やることは一緒 >>395
プロパガンダ >>397
そりゃもう雲霞の如く >>398
利害 >>401
祖国が亡ぼされたときに生まれた >>402
手本を示すのはこの私なのだ >>403
獅子の如く海を渡る >>404
自分の場所を探す >>412
私は権力を手に入れる >>413
成功の秘訣 >>414
対立は永久に続く >>415
イギリスへ行こう >>416
レース >>417
貴様は既に(以下略) >>418
第1次フランス革命戦争 >>419
第2次フランス革命戦争(〜1813年) >>420
第2次フランス革命戦争(1814年〜) >>421
私が8万の兵を率いたならばそれは16万の軍隊を意味する >>422
十万の屍を乗り越えて >>423
法典編纂者 >>424
ラインは独逸の河なり、されど独逸の境界にはあらず >>425
爪の鋭きこと剣を欺き牙は狼の如く死して両目を閉じず >>426
453名無し三等兵:01/11/10 00:09 ID:5I89be5D
1 名前:read.cgi ver5.27 (01/10/27)投稿日:2001/04/12(木) 15:11
このスレッド大きすぎます。

たいへんご苦労様だが、インデックスがスレにとどめを刺してしまった
まだ500も逝ってないのに・・・・
454446-452
カチューシャで見てたんで迂闊ダターヨ。
スマソ・・・・。